933 :
日本@名無史さん:03/04/25 23:06
こうきち
934 :
日本@名無史さん:03/04/26 02:23
935 :
日本@名無史さん:03/04/26 19:13
936 :
日本@名無史さん:03/04/27 12:04
>>934 高麗時代に作った版木ですった大般若経ですね。
経典は、当時の印刷技術などからすると貴重品でしたから、
日本史的にも価値があると思います。
般若経は、奈良時代から日本で盛んに写経されています。
ただ、事件の真偽は闇の中ですね。証拠がない限り韓国を疑えないし、
韓国は植民地時代の関係でに文化財には敏感とそのサイトにもありますね。
>>936 印刷技術の点で価値があるということですね。
わかりました。
938 :
日本@名無史さん:03/04/28 08:45
数え年の解釈で各サイト意見が分かれているのですが、
当時の基準に合わせるということで行くと、
織田信長、真田幸村、上杉謙信の3人とも享年49でいいのでしょうか?
939 :
日本@名無史さん:03/04/28 11:16
>>937 違います。たくさん刷ってないはずだから貴重品だろうと言う意味です。
940 :
日本@名無史さん:03/04/28 11:29
織田信長・1543〜82年
真田幸村・1567〜15年
上杉謙信・1530〜78年
誕生日を無視すると、3人とも、数えで享年49歳ですかね。
数え年は生まれた年(日)が1歳ですね。
942 :
日本@名無史さん:03/04/28 19:57
桓武天皇の母は高野新笠という名前ですが、
その父は和乙継(やまとのおとつぐ)という
名前ですよね。そこで質問。
新笠は別に養女にいったわけじゃないのに、
どうして氏(うじ)を変えたのですか?
>>943 高野新笠 ?‐789(延暦8)
光仁天皇の夫人。桓武天皇・早良親王らの母。もと和(やまと)新笠という。
父は百済系氏族の和乙継,母は土師(はじ)真妹。土師氏のうち毛受(もず)腹
にあたる家系で,のちに山背国の居地により大枝朝臣と改姓する。
諸王だったころの白壁王(光仁天皇)との間に733年(天平5)能登内親王,
737年桓武天皇,さらに750年ごろ早良親王をもうけた。
光仁天皇の即位により夫人となり,高野朝臣と改姓するが781年(天応1)娘,
夫をあいついで失う。桓武の即位で皇太夫人となるが,785年(延暦4)に末子
早良親王が藤原種継暗殺事件に連座し淡路流配の途に憤死するという事件に
あう。789年に没し翌年山背国乙訓郡の大枝山陵に葬られた。百済系の出身で
あることが桓武天皇に大きな影響を与えたと思われる。
どう?
947 :
日本@名無史さん:03/04/29 10:12
あげ
948 :
日本@名無史さん:03/04/29 15:28
祖父の代から散々煮え湯を飲まされているのに、
家康はなぜ桜井松平に寛容だったのか教えて下さい
949 :
日本@名無史さん:03/04/29 21:34
寛容さは、家康の大きな武器です。
寛容は、一族の安定をもたらします。
950 :
日本@名無史さん:03/05/03 15:22
今、『柳生一族の陰謀』見てるんだけど、根来衆って何ですか?
ついさっき村が焼き払われましたが。部落みたいなもんでしょうか?
951 :
日本@名無史さん:03/05/03 15:30
>>950 紀州国(現和歌山県)を根城にしていた国人衆でおま。
戦国時代末期に活躍。
根来寺を中心として結束し、勢力としては小さい物の
強力な鉄砲隊を持ち、織田信長ですら恐れていたといふ。
最後は豊臣秀吉によって徹底的につぶされた。
細かいトコ誰かフォローよろしう
952 :
日本@名無史さん:03/05/03 15:40
>>951 ってことは戦闘集団つーか戦闘部族ってことで? サイヤ人みたいなもん?
953 :
日本@名無史さん:03/05/03 17:27
>>950 >>951 じゃ、少し細かく。
根来寺の僧兵集団。教団組織では行人衆をいう。
その行動はとくに戦国時代に活発で,鉄砲を使用したことで知られる。
戦国諸侯は〈金銭を以て彼らをやとい入れ〉,その数は〈つねに二万余人〉
が準備されていた。
文明期(1469‐87)に和泉へ進出をはじめ,細川・三好と争い,永禄年間(1558‐70)
には泉南を支配した。
粉河寺や高野山と領有権をめぐる争いをくり返して寺領拡大を図った。
集団の指揮者は旗頭,大将とよばれ,泉職坊快厳,杉坊照算,岩室坊勢誉などが知られる。
彼らは泉南,紀北の土豪と関係が深く,土豪たちで行人衆になったり,
寺領代官を務めたり,寺坊持ちとなる者が多く,そのことが寺領拡大をいっそう
容易にした。
和泉・紀北は一向一揆勢力が強いが,表面的にはこれと争うことはなく共存した。
しかし石山本願寺一揆では,情勢により織田方へつき,門徒の本願寺参詣を妨害
するなどのけん制策をとっている。
小牧・長久手の戦で徳川家康と盟約を結び豊臣秀吉の背後をついたが,1585年(天正13)
豊臣秀吉の紀州征伐によって全山焼失し平定された。
よくわかりました
さんくすこ!
955 :
日本@名無史さん:03/05/03 23:23
どういたしま○こ!
名古屋城は誰が建てたの?どうして金の鯱がいるの??
957 :
日本@名無史さん:03/05/05 12:21
>>956 1521年(大永1)今川氏豊が現名古屋城二の丸付近に城を築き,那古野
(なごや)城と呼ばれ,その後,織田信秀・信長の居城となったが,
信長が尾張支配の拠点を清須(清洲)城に移すに及んで,一時廃城となった。
関ヶ原の戦後,徳川家康は福島正則を改易し,尾張に第4子松平忠吉を
封じたが,1607年(慶長12)忠吉は急逝,かわって第9子徳川義直をその後継とした。
しかし清洲は狭隘(きようあい)で水害の危険が多く,新たに交通の要地
でまた要害の地でもあった那古野が選ばれた。
大坂の豊臣氏への備え,東海道の鎮護として,10年豊臣家恩顧の西国諸
大名を動員して〈天下普請〉が興され,石垣,天守,本丸御殿と作事が
行われた。このとき加藤清正は天守台石垣を担当,作事奉行に小堀遠州(政一),
大工棟梁に中井正清,その下に安土城天守を手がけた地元熱田の大工岡部又兵衛らが配された。
鯱はなぜでしょうね?
アイヌでは海の神の一位が鯱です。それが関連??
>957
ありがとうございます。おみゃーさんいいひとだなも。
いつもひとに聞かれて困っていたんです。
しゃっちーのこともしりたいな。
なんで金なんだろう...
質素なイメージの徳川家なんだけど...
金きらきんなのは安土城天守を手掛けた熱田の大工さんの意見?
家康様は名古屋城にお泊まりしたことあるの??
名古屋城にお姫さまはいたの??
教えてちゃんですが、よろしくおながいします。
959 :
日本@名無史さん:03/05/05 14:35
>>958 金鯱は実在するシャチ(鯨目イルカ科の哺乳類)とは関係のない想像上の動物で、
飛鳥時代に中国から伝わり、当時の寺院や宮殿などを飾りました。その原形は、
中国において海中に棲み雨を降らせるとされている鴟尾(しび)や、インドに
おいて鰐(わに)と竜の合体した想像上の動物である魔伽羅(まから)をかた
どったものではないかと言われています。日本では、当初は火事の際に水を吹く
という言い伝えから火除けのまじないとして、後には権力の象徴として造られました。
http://www.nagoyajo.naka.nagoya.jp/question/q1.html ↑
「名古屋城。何でも質問箱」サイトです。
鯱の金の代金は現在価格で2億〜3億だそうです。
まだ、桃山時代の豪華絢爛キンピカ文化が残ってた時代ではないでしょうか。
豊臣への対抗上も、豪華さで負けられない物を狙ったと思われます。
日光東照宮もキンキラですよね。
お姫様は代々いたと思います。
家康は、はっきりしませんが泊まったと予測します。
家光は泊まってます。
名古屋の方ですか?
愛知県県史編纂室や、名古屋市史編纂室に膨大な資料・史料があると思います。
質問すれば、教えてくれたり、本を教えてくれると思います。
960 :
日本@名無史さん:03/05/05 22:23
>>957 重箱のスミをつっつく様だけど、
>関ヶ原の戦後,徳川家康は福島正則を改易し,尾張に第4子松平忠吉を
「改易」ではなく「転封」では?
961 :
日本@名無史さん:03/05/05 23:50
>>960 957ですが、御指摘ありがとうございました。
そのとおりですね。訂正させていただきます。質問した方にも失礼しました。
↓
関ヶ原の戦後、家康は福島正則を「転封」し、〜
962 :
日本@名無史さん:03/05/06 08:09
>>959 >愛知県県史編纂室や、名古屋市史編纂室
どうして県のほうだけ県が二字続くのですか?
963 :
956の「教えて。」:03/05/06 10:48
>960
「転封」ってどういう意味ですか?
964 :
日本@名無史さん:03/05/06 10:59
>>962 ×名古屋市史編纂室
○名古屋市・市史編纂室
>>963 江戸時代に行われた大名の配置替えのこと。
事典に載ってますよ。
965 :
956の「教えて。」:03/05/07 11:49
>>964 ありがとん。今、海外で辞典がアパートにないのです。(ネットで調べろって煽らないでね。)
966 :
日本@名無史さん:03/05/10 09:54
大久保利通の本を読んでいたら、陽明学というのが出てきました。
本屋に行ってさがしてみたのですがすぐに見つからないので、こちらに
質問させていただきます。
陽明学そのものや、王陽明のことを中心に扱っているサイトがありまし
たら教えてください。
967 :
日本@名無史さん:03/05/10 12:19
>>966 とりあえずgoogleと言うサイトで
「陽明学」あるいは「王陽明」で検索されてみましたか?
968 :
日本@名無史さん:03/05/10 14:19
吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、大久保利通、安岡正篤、岩崎弥太郎、
伊藤忠兵衛、藤田伝三郎、三島由紀夫(晩年)・・・
陽明学って割と多いんだね。大塩くらいしか知らんかった。
969 :
日本@名無史さん:03/05/10 16:07
まあそんなもんです。傭兵として活動していました。
織田家隆盛期には織田方についてた。
971 :
日本@名無史さん:03/05/11 09:27
日本で火葬がはじまったのはいつ頃ですか? 最初に火葬された人は誰ですか?
972 :
日本@名無史さん:03/05/11 12:01
>>971 史料で確認できる最初の火葬については
700年に道照と言う高僧が荼毘に付されたのが最初と書かれています。(『日本書紀』)
但し、発掘などにより、それ以前から火葬のあとが発見されていて、渡来人の間では
700年より以前から火葬がおこなわれていたのではと考えられています。
973 :
日本@名無史さん:03/05/11 12:27
続日本紀?
974 :
日本@名無史さん:03/05/11 12:32
坊主は金と女にだらしないって本当なの?
977 :
日本@名無史さん:03/05/17 15:34
昭和10年にリース・ロスが中国の幣制改革に日本が協力する代りに
満州国を承認するという提案があったのを広田弘毅がけったそうですが、
その辺の経過を詳しく解説した著書を教えてください。
978 :
日本@名無史さん:03/05/17 19:32
正式に満州国承認ではなく、援助の部分的なものを満州が払うのだから、
逆なとらえ方もある。右よりのサイトや本が取り上げてるようす。
当時国民党政府は、経済危機打開のため各国の援助を求め、英国はこれに応じ
ましたが、こと中国となると、日本の頭越しでは、日本から文句がでるので、
日英共同の援助を提案しました。
英国の特使リース・ロスの案は、中国の対外債務の三割ぐらいは、満州分と
想定して、援助の三割は満州分とするが、満州は分離されているので、その分
を満州国から中国に払う形で、満州国を事実上承認させるという、英国らしい
老練なアイデアです。
≪英国の提案に応ぜず≫
外務省は、本省も出先も飛びつきましたが、大蔵省は日本の国際収支が悪いうえ
に、ロシアからの東支鉄道買収にもお金が要るので不可能と言います。
須磨彌吉郎南京総領事は、あきらめきれず、「対支外交に王手がかかっている」
と高橋是清蔵相に直訴しますが、「趣旨はもっともだが、無い袖は振れない」と
断られました。
ttp://www.glocomnet.or.jp/okazaki-inst/hyakuisan45.html
979 :
日本@名無史さん:03/05/18 14:09
長州の品川弥次郎の生涯について書かれた本で、
お手軽に読めるものは何かありますか?
あと20。埋め立ててから移れ。
982 :
日本@名無史さん:
品川弥「二」郎ね。
品川弥二郎関係文書 1〜5
尚友倶楽部品川弥二郎関係文書編纂委員会/ 山川出版社 1993.9
これがあたけど、専門書っぽいね。