秀吉は何故家康を潰さなかったか。

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1日本@名無史さん
清盛も頼朝を生かしておいたから仇となった。
やばそうな奴は潰すに限る。これ教訓。
2日本@名無史さん:02/10/06 00:48
ではみんなで>>1を潰そう。
3日本@名無史さん:02/10/06 00:51
>>2
と言っても、君はほんとうに1をつぶせるのか。........

そう、秀吉も同じだったのさ。言うはやすし、行うはかたし。
4日本@名無史さん:02/10/06 00:52
豊臣秀長は、徳川家康の危険性を予見していて、秀吉にも
進言していたが、秀吉は無視したようだ。
5日本@名無史さん:02/10/06 01:10
>>1 秀吉は歴史を知らなかったので、どんな恐ろしい事になるか予期
出来なかったんじゃと言ってみるテスト。
後は、実子が生まれる前に和睦しちゃって、潰そうとした時にはでかく
なりすぎてたんじゃ?と言ってみるテスト。
6日本@名無史さん:02/10/06 01:25
小牧・長久手の戦いにまけたから。
7日本@名無史さん:02/10/06 01:31
>>5
ファイナル・アンサーは?
8日本@名無史さん:02/10/06 02:28
sage
9日本@名無史さん:02/10/06 04:01
何故家康は島津や毛利を潰しておかなかったのか?
10日本@名無史さん:02/10/06 04:31
家康が巧かったからだろうね。
小牧長久手戦から豊臣政権下での地位確立までの手腕は綱渡りもの。
信雄を利用しての秀吉との駆け引き、戦闘には勝ったが大局的には必ずしも
勝ったとは言い難い小牧長久手戦の戦後処理の手際は、秀吉の天下で如何に自身の
地位を優位に保全するかっていう一点にしぼった行動とすれば、見事というほかなく。
豊臣政権下に組み込まれた後も、外様大大名の保護者的立場を上手に確立して、
「潰せない」存在になるよう行動し続けたわけだし。
秀吉をもってしても家康を従属させるのが精一杯で、家康も全身全霊をかけて
家を守った、まさに狸と狐の高等な化かしあいというか。

島津も巧みだったから、家康は潰せなかったというところじゃない?
毛利は、、、お情けのような‥‥。本家潰して吉川残す、吉川がごねれば
吉川もろとも潰すのは、家康の胸先三寸のような気がするし。

豊臣政権下の徳川、関ヶ原後の島津、幕末の薩藩、日露戦争の小村外交、
これらは見事なもんだねえ。。。って司馬の受け売りだ、こりゃ。
11日本@名無史さん:02/10/06 07:56
信長の親友だったから一目置いていたんじゃないかと言ってみる
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13日本@名無史さん:02/10/06 08:08
>>11
なんで信長はあんなに家康を厚遇したんだろうね?
14日本@名無史さん:02/10/06 08:24
信長在世中の松平は三河一国をあげて織田の家畜だったからね
信長の外交感覚は19世紀の西欧と通じるものがある、という人もいるけど、
一国をあげての家畜状態というのはこの手の外交の理想に近い
15日本@名無史さん:02/10/06 08:33
つぶすだけが能ではない
家康を生かす事で秀吉が生前得られたメリットも相当の物だ
豊臣家が秀吉の死後つぶれた一事実だけを持って
徳川を生かしたという一事実を評価するのはいかがなものか
16日本@名無史さん:02/10/06 08:54
>>14
家畜ではないな。信玄に攻められてピンチに陥ったとき
援軍を出さないと武田に寝返ると対等的な態度に出ているし。
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18日本@名無史さん:02/10/06 09:02
>>15
秀吉は情けを信じすぎた。自分が信長の情けで出世したものだから
当然だとも言えるが。一方、家康は幼少期からの人質経験から、もっと
シビアな人生観を培った。
19日本@名無史さん:02/10/06 09:04
秀吉より家康の方が大器だったということだ。
20日本@名無史さん:02/10/06 09:09
いってみれば信長も秀吉も家康に利用されていたということだ。
歴史は正直だ。さすが太平250年の礎を築いた現人神、東照大権現!!
21日本@名無史さん:02/10/06 09:09
>>10
島津はそうじゃなかったみたい。
義久の時勢と立場を読めない行動と地理的条件が重なっただけみたいだよ。

参考スレ
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22日本@名無史さん:02/10/06 09:12
>>19 >>20
それはちとね・・・
家康とて神ではない、自分が70くんだりまで生きるような保証はなかったし、
秀吉が先に死ぬという保証もなかった。
家康が天下取れた、最大の原因は秀吉より長生きしたからだ。
23日本@名無史さん:02/10/06 09:22
>>22
家康の失敗は信玄との三方ヶ原での敗戦のみ。それ以後、信玄を師と
仰いで武田のやり方に学んだ。信長は部下に討たれた時点で、もはや
名将ではない。家康は決して家臣に裏切られることはなかったから。
秀吉は、秀次、利休の切腹、朝鮮出兵で暗君に堕しますた。
家康は必然的に天下を取ったと言える。
24日本@名無史さん:02/10/06 09:24
>>23
家康を裏切った家臣の名前なんてすぐに挙げられるだろー
と言ってみる。
25日本@名無史さん:02/10/06 09:27
>>24
それは誰?
26日本@名無史さん:02/10/06 09:32
たとえば・・裏切り者で有名な奥平親子

武田に裏切ったと思えば信玄没後徳川に寝返り、
長篠合戦の発端を作った

信玄相手じゃ造反されても仕方ないか・・
27日本@名無史さん:02/10/06 09:33
>>25
石川、戸田、本多
28日本@名無史さん:02/10/06 09:37
秀吉は信長あっての秀吉だったが、家康は信長がいなくても覇を唱えて
いただろう。信玄にもう少し寿命があれば信長はあぼーんで、家康は武田家
ナンバー2になっていたかもしれない。
2922:02/10/06 09:37
>>23
あんた、人の話し聞いてないな。
家康が天下を取れたのは
秀吉が先に死になおかつ家康が長生きしたという偶然があったからだろ。
もし家康より秀吉の方が長生きしても家康が天下取るのは「必然」なの?
当時の医学水準は低く、人生50年はむしろ、願望だったそうだが。
秀吉も当時として長命の62まで生きたんだが。
30日本@名無史さん:02/10/06 09:40
>>28
買い被りすぎ・・・
31日本@名無史さん:02/10/06 09:42
>>28
でも信玄だったら家康を潰したかもしれない。
32日本@名無史さん:02/10/06 09:50
たしか家康自身が自分が天下を取れたのは運だと言ってたはずなんだが。
33日本@名無史さん:02/10/06 09:56
>>29
長生きだけが理由じゃないな。家康は誰よりも天下を望んでいた。
本能寺の変後、すぐに武田の旧領を抑えたくらいだから。秀吉に
信長の弔い合戦を奪われたが。
家康は豊臣政権を奪った僭主だと思われがちだが、織田信雄を立てた家康
の方が筋が通っていた。秀吉も三宝師を担いだが、結局織田政権を簒奪した
ではないか。家康は信長の同盟者であって家臣ではなかった。秀吉は家臣だった。
家康の方が天下取りの資格十分だった。豊臣政権は元々そうしたひずみがあったのだ。
34日本@名無史さん:02/10/06 10:45
>>33
下克上の時代に信長の家臣じゃないから天下取りの資格があるなんて浅知恵
35日本@名無史さん :02/10/06 10:57
>>31
信玄存命のころは家康なんてほとんど眼中になかったのでは?
三方が原の戦ぶりから見ても信玄から見れば家康なんてマイナーな地方豪族
程度だったような。
36日本@名無史さん:02/10/06 11:30
>>34
ならば豊臣を滅ぼした家康も正統と言える。
37日本@名無史さん:02/10/06 11:31
>>35
信玄が三河武士の戦い振りを賞賛したのを知らないのか。
38日本@名無史さん:02/10/06 11:38
つまるところ秀吉は家康の協力なしには天下が取れなかった
ので潰せなかったのだ。
39日本@名無史さん:02/10/06 11:47
家康を本格的に朝鮮出兵に引きずり出せれば、かなり勢力をそぐことができ、
つぶすことができたのでは。
40日本@名無史さん:02/10/06 11:50
>>39
何故引きずり出せなかったのだろうか?
41日本@名無史さん:02/10/06 12:00
家康はイエスマンじゃないから。
42日本@名無史さん:02/10/06 12:02
>>41
NOといっても誅せられないほど力を蓄えていたのだ。
43日本@名無史さん:02/10/06 12:08
豊臣政権の性格からいって家康を潰すのは利益に反するから。
家康は伊達と上杉への備え。
逆を言えば伊達と上杉が家康への備え。
さらに言えば家康は毛利への備えでもある。

大大名の連衡の上に成り立っていた豊臣政権にとって家康も
必要な駒だったんですよ。
44日本@名無史さん:02/10/06 12:31
>>43
連衡というより家康は他を圧倒していた。単独で対抗できる大名は
いなかった。家康を牽制するには諸侯が団結しなければならなかった。
250万石は与えすぎた。
45日本@名無史さん:02/10/06 12:31
豊臣の政権は人材が無く秀吉個人の能力で
成立していた。
46日本@名無史さん:02/10/06 12:52
秀長か秀次が生きてれば家康の天下は無かったな
47日本@名無史さん:02/10/06 12:56
秀長はそうかも、秀次はそうかな。
48日本@名無史さん:02/10/06 13:09
>3
言うはやすし、行うはきよし。
49日本@名無史さん:02/10/06 13:12
言うはやすし、ボケるはきよしのマチガイでない。(わ
50日本@名無史さん:02/10/06 13:31
>>39
それは違うな。
秀吉は朝鮮出兵をうまくいくと確信していた。
朝鮮出兵の目的は豊臣に近い者たちに朝鮮・中国に大封地を与えること。
家康に参加されたら、家康にも朝鮮・中国の新領土を与えなければいけないので不利。
51日本@名無史さん:02/10/06 13:45
しかし、褒美を与えるのがいやで連れて行かなかったという話ではないだろう。
敵対する可能性の兵力から動員できるのなら、できるだけ動員するのが原則だ
と思うが。
褒美のことなんて後で考えればいいわけだし。かえって統治コストの高い海外
領土を与えた方が足かせになっていいかも。
52日本@名無史さん:02/10/06 13:54
>>51
だったら、アイヌを侵略して蝦夷地一帯を与えたほうが
良かったかもね。
あの時代にも、日本から樺太・シベリアに渡った人は
いたそうな。
53  :02/10/06 15:17
最終的には、家康の能力+運なんだけど。
>>33 家康が信長の家臣ではなかったっていうのは前から疑問でしょうがない
んだ。特別待遇には見えるが、徳川家の元の奥平家と、家康の立場って織田家中
で似てたと思わない?
今川から信長に切り替えるとき、清州城まで行かされてるんだよ。
清州同盟なんて江戸期に成立した諸本にあるだけで、あれ、本当に対等かい?
家康は織田軍団筆頭の、最初の軍団長だった、と言う方が自然に見えるんだけどな。
もちろん、家康が幕府を開いちゃったから証拠は出てこないだろうけど。
54  :02/10/06 15:25
>>18 秀吉は情けなんか信じられなかったから、死の床で悩み苦しんで、見苦しいような
遺書だの誓紙だの書いたり、書かせたりしたんじゃないの。
自分が信長の子を殺したり、利用してポイ捨てしたのを一番知ってたのは秀吉なんだから。

やっぱり潰したかったけど潰せなかっただけなんだろうな。
55日本@名無史さん:02/10/06 15:35
(朝鮮の役に関しては)秀吉としては、家康を朝鮮出兵に出すと
また武功を重ねて他の将の信頼を得てしまうのを恐れたからでしょう。
56日本@名無史さん:02/10/06 15:40
秀吉は中華帝国の創設者になるつもりだったんだよう
中華帝国からすれば日本列島のそのまた関東地方なんて
辺境中の辺境だ
57日本@名無史さん:02/10/06 18:48
>>53
姉川や越前侵攻やら信長の手伝い戦に当主の家康本人が借り出されてたり
後年信長の命令で本妻嫡子を殺してたりとても対等の同盟関係とは思えないな
58日本@名無史さん:02/10/06 18:52
>>55
秀吉は行ってほしかったんだが、家康がうまいこと海を渡らずにすました
という状況だと思うが。
59日本@名無史さん:02/10/06 19:23
家康は、信長や秀吉の失敗から学んだ部分が大きいと思う。
60日本@名無史さん:02/10/06 19:36
>>50
西洋のキリシタン文書によると、秀吉はまずキリシタン大名を九州に集め、次に
朝鮮征服後、キリシタンの所領を没収し、替わりに朝鮮の地を与え、日本国内の
キリシタンは撲滅しようとしていたそうだ。
朝鮮出兵では小西行長らキリシタン大名を先鋒隊として送り込んだのもそのため。
秀吉は第二陣として、家康を始め、伊達、上杉ら東国大名を率いて自ら渡海する
予定だった。しかし、水軍の劣勢、九州での騒動、母の病などで延期している内に
期を逸した。
61 :02/10/06 19:38
秀吉は前田利家の力に期待していた、と言ってみるテスト
62日本@名無史さん:02/10/06 20:50
大明征伐で、家康が総大将だったら2年で北京は陥落しただろう。
真の総大将不在だったため、この戦は失敗だったのだ。
そうしたら、新王朝を樹立して、秀吉を
支配下に入れられてしまう。

ほか、前田利家か、秀吉自信が指揮をとらねば、
結局、この戦は失敗に帰すのは必然である。
63日本@名無史さん:02/10/06 20:53
>>60
ってことはさ、
大雑把に言えばイエズス会宣教師ってのは侵略の先導者と考えてもいいわけだから、
「朝鮮・中国国境または満州にまで入って蒙古線で西洋の侵略から日本を防衛する」
という、のちのちになって出てくる防衛論と重なってくるわけだよね。

考えてみれば白村江のときも似たようなことがあったわけで(あの時は西洋ではなく中国の転覆政権への恐怖だけど)、
日本と朝鮮半島の間には抗いがたい地理的宿命があるのかな、と思うね。
日本の外圧的緊張のエネルギーは常に半島に向かって反射する。
64日本@名無史さん:02/10/06 21:12
>>54
秀吉は信長に仕えていたわけで、織田家ではない。
家康も同じこと。
65日本@名無史さん:02/10/07 00:06
>>36
だから?
豊臣を滅ぼしたことで家康を非難する根拠なんかもともとないよ。
たんなる感情的好悪に過ぎん
66日本@名無史さん:02/10/07 00:12
まぁ、家康は天下を盗んだ訳だが?
67日本@名無史さん:02/10/07 04:10
>>62
すると、元朝以来の源氏政権が中国に樹立されていたわけだ。(w
68日本@名無史さん:02/10/07 07:57
>>58
違うと思うよ。
そもそも朝鮮出兵が九州の武将が多い点でも、秀吉は朝鮮を九州の延長としか見てないというのがわかる。
実際、家康に限らず東日本の武将は政宗を除いて、あまり参加させられてないんだが。
佐竹も最上もせいぜい名護屋城までしか行ってない。
69日本@名無史さん:02/10/07 09:31
>>68
しかし、実際家康も九州名護屋城までは進駐してますよね。
70日本@名無史さん:02/10/07 09:43
秀吉は、家康が天下取りをすると思ってなかったからでしょう。

家康にそういう野心があったとしても、制度を整えて、誓紙を取って
外堀を埋めておけば、暴走はしないと踏んだのでは?あと、豊臣に
対する家臣や大名の忠義を信用していたはず。

小牧・長久手以降、家康は秀吉に律儀に忠誠を尽くしていますしね。
71日本@名無史さん:02/10/07 09:54
>>50
昔も今も中国に勝てるわけないのにやはり秀吉ってイタイな。
72日本@名無史さん:02/10/07 09:59
>>53
姉川の布陣をどう見る
73日本@名無史さん:02/10/07 11:37
潰せなかったにしても、なんで関東250万石なんていう、
あとあと禍根になるに決まってる莫大な領地を与えてしまったのか。
74日本@名無史さん:02/10/07 12:19
別に家康の代が終ったら減封でしょ
75日本@名無史さん:02/10/07 12:23
>>73
やはり、上杉・伊達への牽制には必要という判断ということじゃ。
76日本@名無史さん:02/10/07 12:48
秀吉が死んでから豊臣家潰すのに20年近くかかってる。
家康がもう何年早死にしてたら、豊臣家は天下は無くても
細々と残っていたと思う。
77日本@名無史さん:02/10/07 12:52
>>70
制度や誓詞が、軍事力の前にどれほど非力なものかを一番知っていたのが、
百姓から関白になった秀吉だと思われ......
78日本@名無史さん:02/10/07 12:59
 潰したかったけど潰せなかった。
 って事は、つぶすぞ!ってなった時、家康が抵抗した時に
秀吉(天下)VS家康(個人)にはならんと思ったんでしょうな。
秀吉(天下)VS家康(秀吉の天下に不服な者たち)と
なって、関が原状態になってしまったのでは?
79日本@名無史さん:02/10/07 13:03
250万石はあくまでも概算であってそんなに価値ある土地では
ないと秀吉は考えていた。事実家康はそれが決まった時は「ゲゲッ」
っと言ったという。それよりも家康を潰す大儀名分を見つけられず
に迷っている内に秀吉の興味が日本支配から朝鮮と秀頼に移って
しまったから。要するに「家康を潰さなかった」というよりは
「潰すのを忘れてしまった」といったところでしょう。
80日本@名無史さん:02/10/07 13:04
今のアメリカだって中国やロシアには勝てるが、
勝てるからといって潰さないのと同じじゃんか。
81日本@名無史さん:02/10/07 13:12
 何で関東封入にしたのかね?取り敢えずは本拠の三河を
取り上げたかったんだろうけど。
 いっその事越前辺りにしてたら良かったのに
82日本@名無史さん:02/10/07 13:30
>>81
地縁や血縁でがんじがらめ、しかも三河での地元勢力の派閥抗争(とくに岡崎と浜松)
にうんざりしていた家康が秀吉に自ら願い出た、と言う可能性もあったりして。
83日本@名無史さん:02/10/07 13:37
関東に移る前の三河時代はどれくらいの石高だったの?
100万石ぐらいかな?
84日本@名無史さん:02/10/07 13:39
>>82
!!まさかそれのお礼として秀吉に臣下の礼では!!??
85日本@名無史さん:02/10/07 13:41
当時の関東は未開の地だったそうな。江戸なんかも小さな漁村であって、
後年のような100万都市ではなかった。
豊かな東海地方を取り上げ、辺境の蛮地である関東に徳川家を追いやるのは
豊臣政権にとって当然と言える。
逆に領地は少なくても、京に近く土地も肥えている越前に仮想的である徳川家を置けるわけがない。
86日本@名無史さん:02/10/07 13:46
強敵は敬遠して遠くに配置するのがいいか、
近くに置いてきっちり監視するのがいいか、どっちだろね。
あまり遠すぎると、こっちからも征伐しにくいという罠だし。
87日本@名無史さん:02/10/07 13:46
 田舎だったかもしれないけど関東って言えば北条の本拠でしょ?
 オバカな北条氏政の代わりに老獪な家康が君臨するって状況
はカナリ怖いと思うんだが。
 関が原の東軍西軍の分布見ると、関東に置いたのは失敗だと
感じるなぁ〜。
88日本@名無史さん:02/10/07 14:13
>当時の関東は未開の地だったそうな。江戸なんかも小さな漁村であって、
最近では「小さな漁村」という考えは否定されてるんじゃない。
交通・産業の要地としてある程度繁栄していたということらしいが。
だいたい浅草寺のような大寺院が「漁村」に成立しないのでは。
89日本@名無史さん:02/10/07 14:21
>>88
浅草寺は家康入城の前からあんな大寺院だったの?
90日本@名無史さん:02/10/07 14:34
>>89
例えば、
>鎌倉時代にあっては源頼朝が深く帰依し、八幡宮の造営に浅草から大工
>を召したことが『吾妻鏡』に記されているのは、浅草寺が当時相当な伽藍
>を構えていた証である
91日本@名無史さん:02/10/07 14:45
 そもそも小田原征伐後の秀吉政権って何で
変に安定してたの?
 家康が蜂起してたらすぐに戦乱状態に後戻りしてたんでは?
92日本@名無史さん:02/10/07 14:57
秀吉は東より西に興味があったってことじゃないのかな。
小牧長久手の戦いにしても、もう少し粘ってりゃ家康完敗だったろうし...
93日本@名無史さん:02/10/07 15:01
小牧長久手戦の後、秀吉が家康を残したのはまだ北条がいたから。
なんと言っても北条の嫁は家康の娘。
94日本@名無史さん:02/10/07 15:42
小田原の陣で家康が寝返りこいて
豊臣VS北条、徳川になってたら
結構な事になってたのではないだろうか?
伊達なんかは北条側につきそうだし、半ば脅迫
されてノコノコ出てきた奥州諸大名の中にも離反者は
でるだろうし、あと織田信雄も北条側になびきそうだ。

 
95日本@名無史さん:02/10/07 15:57
面白そうなシチュエーションだが結局は経済、貿易の中枢を押さえて且つそれらの使い方を熟知している秀吉の勝利は固いところかもしれない。
問題は平定するのにかかる年月だけ。
96日本@名無史さん:02/10/07 17:15
だな
97日本@名無史さん:02/10/07 17:45
家康が250万石もっていようが、
秀吉の死後も豊臣家の組織がしっかりしていれば、
家康が天下を取れるということはなかったと思う。

家康をどうするかより、内部分裂しないだけの組織を作れなかったことが
豊臣家の滅亡の原因だろう。
98日本@名無史さん:02/10/07 18:38
それは、秀吉もカワイそうだな。
天皇を中心とした、戦国大名の連盟としての豊臣政権は
戦国時代をすばやく終わらせたが、同時に
貨幣経済を地方までに浸透させるタイムテーブルには
間に合わなかった。
宿命としか言いようがないよ。

秀吉や家康と違って、頭で判っていても
時代の変革についていけない大名が多い中では
太閤検地も、農村の武装解除や武士団から大名への再編成
が達成させられただけでも効果は大きかったとしなければ

これから徳川家光、家綱までは下の人の頑固さの前に政権の舵取りは
大変だったと思うよ。

99日本@名無史さん:02/10/07 19:02
>>97
秀吉に子種がなかったんだから仕方ない。
秀頼だって、本当の子かどうか疑わしい。淀君の不倫の噂があったそうだ。
秀次切腹がなければ、家康の天下はなかったわけだし、秀吉は甘すぎたかも
しれないが、そこそこうまくやった方だ。
100日本@名無史さん:02/10/07 19:09
100ゲッツ!
101日本@名無史さん:02/10/07 20:37
>>53
信玄がもう少し長生きしてたら家康は武田に靡いていたかもしれない。
それだけ当時の信長はピンチだった。家康に対して強圧的になったのは
(信康を切腹させたのは)武田が滅んだ後だよ。それまでは家康も流動的だった。
102日本@名無史さん:02/10/07 20:55
>>54
秀吉が信じられなかったのは家康だけだ。何故なら家康に情けをかけた
という自信がなかったからだ。辺境の関八州を250万石にしたのは家康自信
の力量であって秀吉も脅威に感じたことだろう。
103日本@名無史さん:02/10/07 21:15
>>93-95
家康は秀吉を利用して北条を滅ぼしたと言える。
104日本@名無史さん:02/10/07 21:24
>>97
豊臣の直轄地はなんと200万石だよ!(最も主要な金山や貿易都市も直轄したが)
徳川幕府の天領が400万石であってみれば、豊臣政権が如何に手ぬるかったか分かる。
105日本@名無史さん:02/10/07 21:39
関ヶ原後の外様大名の総石高は1000万石以上ですが何か?
106日本@名無史さん:02/10/07 21:42
無知なので質問・…
 >104
 >徳川幕府の天領400万石…

 幕府開設期(家康・秀忠政権)から400万石も領していたんですか?
10797:02/10/07 21:43
>>104
でもさ、別に家康は経済力だけで天下を取ったわけじゃないでしょ。
豊臣の直臣とも言うべき加藤・福島・浅野・石田・増田などが
険悪で割れてたのに便乗したのだから。
五大老なんて権限のあいまいな地位作ったのも失敗だと思うけど。

たぶん家康がいなくても豊臣政権はすぐ崩壊したと思うよ。
ただ家康みたいな飛び抜けた経済力を持った大名がいなくて、
勢力の拮抗する大名がいくつもある場合は、戦国時代に逆戻りした
可能性もあるだろうから、家康をつぶさなかったのはある意味
秀吉の最大の功績かもしれないと思うけど。
108日本@名無史さん:02/10/07 21:45
>>105
一国一城令や武家諸法度などの法整備、家康死後の参勤交代など
諸侯の力を奪う政策に抜かりなかったのが大違い。
109日本@名無史さん:02/10/07 21:57
>>106
400万石は17世紀末(五代綱吉から)の数字だが幕府開設期も
300万は下らなかっただろうし、親藩や譜代を合わせれば外様1000万石
の上に君臨することも容易だろう。
110日本@名無史さん:02/10/07 22:09
朝鮮から兵を引かせることができたのは家康だけ。5奉行風情では他の大名を押さえられなかった。
豊臣政権下で大臣の位を与えられていたのも家康だけ(内大臣)。豊臣政権(天皇の権威を利用した関白政権)において、天皇に奏請できる大臣位を彼にのみ許したというのは、家康にリリーフさせる意志を表明したも同然である

要するに、死を目前にした秀吉は、秀頼成長までの間、家康にリリーフさせざるを得ないことを心得ていた。だから、その保証として家康の孫の千姫を秀頼の嫁にほしがった。
石田三成が暴走したのと、千姫が子を産まなかったのが秀吉の計画が失敗した原因。
111日本@名無史さん:02/10/07 22:22
信長が群雄割拠の中で、天下統一っていう中央集権的な概念を導入し、
秀吉がそれを組織化して、家康が完成したってことだろ?

しかし秀吉は、家康を滅ぼそうと思ってたのか?
意外と晩年は、
「何代か経て、徳川家が豊臣家(豊臣政権)の宰相となってくれたら理想的」
って思ってたのでは?
下克上のすぐ後では、夢物語?
112日本@名無史さん:02/10/08 02:07
>>111
一応秀吉は必死で頼んだけど、願望でしかなかっただろうな。

それを見ていた家康以下徳川家は政権は子飼いの譜代で占め、外様大名は潜在的な敵として抑圧に走っている。
113日本@名無史さん:02/10/08 02:29
>>110
三成の暴走か、、感情的に考えるとそう言っちゃうのはかわいそうだの、、
114日本@名無史さん:02/10/08 04:55
>>110
武断派の責任はどーなのよ?
115日本@名無史さん:02/10/08 05:13
だね
116 :02/10/08 06:43
でも、少なくとも秀頼が淀殿を人質に差し出せなくとも、
自らが”頭を下げ”てれば結果は違ってたかも!?
117日本@名無史さん:02/10/08 06:51
いやそれはない
二条城の会見のあと口実設けて大坂攻めする時点から
家康は豊臣家を滅ぼす事 即ち秀頼とその子国松を殺す為だけに動いた
118日本@名無史さん:02/10/08 07:13
>>117
いや、それはない。
家康は豊臣が徳川配下の一大名として収まってくれれば、それで満足したというのが
こんにちの支配的な意見だよ。
というか、豊臣が徹底的な融和策に出てれは家康もゴリ押しに豊臣を潰す事はできなかったんだよね。
119日本@名無史さん:02/10/08 07:39
>こんにちの支配的な意見だよ。
説得力ナッシング
120日本@名無史さん:02/10/08 08:01
>>104
まず、豊臣の直轄の石高は正確には220万石+金山・銀山や港だ。
それに家康の江戸期初期の直轄地は200万石程度で豊臣と変わらないよ。
豊臣も徳川も譜代や親藩・一族や外様のカウントの仕方が微妙でそのへんを対等にして比べないとダメ。

豊臣には親藩や譜代(というか家臣)がいなかったのではなく、居たのだけど徳川と比べて結束力が弱かったんだよね。
例えば豊臣の一族や親藩は秀長と姉の子供やおねの実家から出た一族、他に養子の宇喜多や加藤清正は従兄弟で福島はまた従兄弟だったり浅野も親戚で結構いる。
他に家臣は秀吉の初期からの家来や友達、奉行衆、黒田、蜂須賀、池田、脇坂、小西、前田、仙石、長束などいっぱいいる。
そういう親戚や秀吉の家来たちと秀吉の直轄220万石を合わせると江戸期の徳川家の総石高八百万石とそう変わらない。

なんていうか豊臣期の豊臣の直轄値220万石と徳川家康の総領地250万石を比較して徳川の方が力を持ってたというのは比較の仕方がおかしいんだよな。
というか理論的には家康も豊臣に臣従している以上、形の上では日本の二千万石は全て豊臣領なんだけどね。

家康も親族や家臣に与えた領土を除くと自身の領土は80万石くらいだったそうだしね。
そういう事を考えると実際は豊臣の方が遥かに、力を持っていた、
しかし、豊臣家の親戚や家臣が結束力を失い、次々と家康にひよった上、親族の小早川などまでが豊臣と決別されてしまったわけ。
121日本@名無史さん:02/10/08 08:29
>>120
家康も親族や家臣に与えた領土を除くと自身の領土は80万石くらいだったそうだしね。

あおるわけじゃないけど、素直な疑問。

秀吉の親族や家臣に与えた領土を除くと自身の領土はどれくらいだったのか?
122日本@名無史さん:02/10/08 08:29
羽柴秀勝(実子の方)、秀長、蜂須賀小六、前田利家のうち誰かが生き残ってたらね。
まあ秀吉が家康より長生きするのがベストなんだがな。
一説には豊臣恩顧の武将が家康の都合の良い時に次々死んだのは伊賀者、甲賀者を使った家康の暗殺説(もしくは天海の呪殺とも)とも言われてるけど、
秀吉は忍者や呪術者はあまり使ってなかったみたいだね。
123日本@名無史さん:02/10/08 08:33
>>131
220万石
124日本@名無史さん:02/10/08 08:39
>>123
秀吉が死んでからは家康が豊臣直轄領を諸大名に与えたので大分、減少してたはずだが?
125日本@名無史さん:02/10/08 08:43
>>118
秀吉在世当時、徹底した融和策で徳川を遇したと思うんだが。
その見返りがご存知の史実。

秀頼が大坂城を出ていれば戦にならずとも、
謀殺もしくは変死し豊臣家お家断絶していたに1000ペリカ
126日本@名無史さん:02/10/08 08:48
家康って天下を取るまで凄いシブチンで
井伊直政に15万石、榊原と本多忠勝に10万石というように、あまり家臣に大封、与えなかったしね。
秀吉の部下が大封貰って、次々に豊臣、裏切ったのとは大違いだ。
大封、与えないから返って家臣が独立意識を持たずに家康に忠誠をつくしたのかも。
127日本@名無史さん:02/10/08 08:52
>>125
暗殺とかの可能性までは否定できないね。
しかし、秀頼がどんどん子供を産ませたら全員殺すのは難しいだろう。
千姫が子供を早く産んでれば丸くおさまるかも。
128日本@名無史さん:02/10/08 08:54
なぜ千姫は子供を産まなかったのかな?
129日本@名無史さん:02/10/08 09:05
>>128
まだ、若かったからじゃないのか?
二十歳くらいだと思うが。
130日本@名無史さん:02/10/08 09:10
調べてみたら、大坂の陣の時点で千姫は17歳だよ。
子供いるほうがおかしい。
131日本@名無史さん:02/10/08 09:11
やっぱり血をひいてる(事実かどうかは別にして)と思われる後継者に
恵まれなかったのが豊臣の不運でしょ。関が原当時に秀頼が元服していて
なおかつ戦陣に出馬していれば歴史は変わっていたかも。
あと、豊臣家が関白ではなく将軍職についていれば延命できたかもしれませんね。
最後の足利将軍がさほど粗末に扱われなかったことを見ても、武士にとって将軍は
特別な存在だったと思われます。
132日本@名無史さん:02/10/08 09:36
スレ違いだけど、千姫が必死で助命嘆願して助けた義理の娘(秀頼と側妻の娘)の話しは真実は小説より奇なりで面白い。
千姫は豊臣母子と秀頼の男子の除命も嘆願したんだが、こっちはその場で家康は了承したものの騙されたそうだ。
千姫と東慶寺に尼僧として入れられた秀頼の娘はその後もちょくちょく会ってて千姫にとっても心の支えだったようだな。
それで、東慶寺だけは寺院のさまざまな特権が剥奪される中、優遇され縁切り寺などの特権を保ったという。
千姫の娘が寺の代表者になった頃、江戸城にいたある女が東慶寺に逃げ込んだ時。
幕府の引き渡しの要求を彼女は断固として拒み認められたという逸話は皮肉な話しだ。
133132:02/10/08 09:40
最後の方、書き間違った。

千姫の娘→千姫の義理の娘
の間違い
134日本@名無史さん:02/10/08 13:14
三成の暴走ね...結果を知り、しかも徳川方の資料が豊富な状況ではこう考えざるを得ないのかもね。古田織部の自殺と通じるものがあるな。
135日本@名無史さん:02/10/08 14:14
レス見ててふと思ったんだが、羽柴秀勝が生きてたら
どうなったんかね?本能寺の変後はただの邪魔者だった
だろうけど、関が原、大阪の陣に彼がいたら、それはそれは
強力なカリスマになりえた存在では?
 血筋では淀より格段に上だし、仮にも羽柴の後継者として
信長に貰った子だし。
 
136日本@名無史さん:02/10/08 14:18
豊臣家の行政資料等は、ほとんどが大阪夏の陣で焼失してしまっただろうからなぁ。
徳川家はその後も自分達に都合が悪いことが書いてある野史は徹底的に潰していったというし。
歴史にはありがちだが「死人に口無し」、最後に笑った者が後世の「常識的」な評価を決定するってことだね。
137日本@名無史さん:02/10/08 14:31
>>136
それでも「負けた」のは厳然たる事実だからね。
当然勝者に比べて致命的に劣ってた部分があったのは間違いないでしょ。
138日本@名無史さん:02/10/08 15:04
優秀な資質を持つ者が歴史で常に勝者の側に回るとは限らないのは当然知っておくべき。
徳川体制の確立で一番得をしたのは、東インド会社などを擁するのヨーロッパ諸国だろうな。おかげでアジアの植民地化がスムーズに運んだからな。
139日本@名無史さん:02/10/08 16:13
>>137
どうだろうか。
歴史の殆どは偶然だと思うが...
140日本@名無史さん:02/10/08 17:13
豊臣家は秀吉がいなくなり、徳川家には家康がいた。この差でしょ。
141日本@名無史さん:02/10/08 17:26
豊臣秀長に子供がいなかった。
秀次を処刑したり、朝鮮出兵がやはりまずい。
142 :02/10/08 17:28
秀吉が檻から脱走して女の人に抱きついて離れなかった為
大人20人位でバット等で殴ったり蹴飛ばしたりしたんだけども
ビクともしなかったって言うのを聞いたことあるなー。
最終的には麻酔弾使ってやっととりおさえたらしい。
143日本@名無史さん:02/10/08 19:27
三成は秀吉が織田家から権力を奪ったのと同じ手口で天下を取ろうとしてたと思うぞ。
秀次切腹も、三成が秀吉をそそのかして起きた。豊臣恩顧の大名が分裂したのも、
半島出兵時での和平派・三成への反感から。
それに、三成は関が原に至る過程で家康にうまく扱われた上に、何度も家康暗殺の
チャンスがあり、部下も助言していたのにやろうとしなかった。暗殺したらそれで
終わり、三成が天下を取るチャンスがなくなるからだろう。
それから、三成は東西両軍が形成される過程で、秀頼が成人するまでという条件で
小早川だったかな、毛利一派の重要人物を関白に就かせて自陣営に組み込もうと
していた。しかし、真の狙いは豊臣家から関白職を剥奪することだったに違いない。
144日本@名無史さん:02/10/08 19:35
カリスマが強すぎると後が続かないということもあるかもしれない。
平清盛や源頼朝、武田信玄もその死が大きく影響して氏族が滅んだカリスマ支配の例だ。
逆に強烈なカリスマがいなかった北条得宗家や足利は長く続いてる。家康にカリスマが
無いとは言えないけど秀吉の個性には負けるよね。
145日本@名無史さん:02/10/08 20:00
家康って我慢強いとか、若い頃苦労したとかそんなことばかりで誉められてるけど、別に特殊な例でも何でもないよね。
後世から見れば、それくらいしか誉めるべきところがなかった、言いかえればこれといって取り柄のない人間だったんじゃないかな。
146日本@名無史さん:02/10/08 20:35
>>145
同意。
篤農家。頼朝・信玄仕立て。
天才の長所をまんまパクってるだけの普通の地方豪族でしょ。
「時勢」を別にすれば。
147日本@名無史さん:02/10/08 20:46
徳川の家臣は家に忠誠いだいていて、
豊臣の家臣は秀吉本人に忠誠をいだいてからじゃないかな。
崩壊した理由。
148日本@名無史さん:02/10/08 20:46
頼朝や信玄も天才と言うほどではないと思うが
家康は彼らに比べても平凡なイメージはあるね
ただ平凡からでた非凡というか平凡な人間だからこそあー言うことができたんではないかと
149日本@名無史さん:02/10/08 20:57
家康は何時くらいから天下取りを意識したんだろう?
信長期は、ちょっと考えられないし、
本能寺〜秀吉への臣従までの動きは、天下取りっていうより、
秀吉軍からの防衛&地盤固めっぽい。
臣従してからは、政権内での仕事をそつなくこなしてるイメージ。
150日本@名無史さん:02/10/08 21:05
>>149
現実主義の家康からして、具体的に意識しだしたのは、
物理的に、関ヶ原勝利の後からでは?
151日本@名無史さん:02/10/08 21:06
>>130
>調べてみたら、大坂の陣の時点で千姫は17歳だよ。
>子供いるほうがおかしい。

17歳なら子供がいても十分おかしくないと思われ
152日本@名無史さん:02/10/08 21:11
>>151
千姫の妹の珠姫(前田利常室)が1613年に満14歳で
長女を生んでるから、不可能とはいえないね。
153日本@名無史さん:02/10/08 21:13
同意見。13、14才くらいで子どもがいてもおかしくないだろ。
154日本@名無史さん:02/10/08 21:16
13歳の子供と聞いて、
善からぬ妄想してしまった俺は逝って良しですか?
155日本@名無史さん:02/10/08 21:58
>>143
奇説の類だね。
156日本@名無史さん:02/10/09 00:51
>>154
心配するな。
ここにいろ。
157日本@名無史さん:02/10/09 01:45
>>150

私は、朝鮮出兵の頃からのような気がする。
関東移封のときは、旧北条氏の領地をうまく治めることで頭がいっぱいだったと思う。
実際に、江戸の街づくりや開拓に相当な予算を掛けていた。
朝鮮出兵の九州在陣時に豊臣政権内に築いた人脈が、関ケ原の東軍を形成していった。
そのときには、豊臣政権内で対立があることを知っていたからね。
家康は、思った。
「ひょっとしたら、あいつ(秀吉)が死んだ後はいける(天下人になれる)かも」と。
158日本@名無史さん:02/10/09 01:48
朝鮮出兵っていつ頃だったけ?

漏れ的には秀次事件の時だと思うんだが
秀忠に太閤と関白、戦になる時はどちらにつくや?
と聞かれ太閤につくように言われた頃から
これはひょっとすればひょっとするぞと思ったのでは
159日本@名無史さん:02/10/09 02:33
秀次事件もそうだと思う
(そして秀頼)
利家が秀頼の後見人になった時
これは変だぞ 昔聞いたことがあるぞ
と、家康は気を引き締めたのかも知れない
160日本@名無史さん:02/10/09 04:53

むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴筑前
161日本@名無史さん:02/10/09 06:10
俺が秀吉ならまず徳川家康を隠居させて秀康に徳川家をを継がせるな。
秀康は秀忠の兄だし器量も十分なのだが家康とは仲が悪く秀吉の養子である。
家老として三成を付けて送り出し家康は出家させる。反抗的家臣は粛正
家康の脅威を取り除くには最高の手だと思うがな。
162日本@名無史さん:02/10/09 06:21
>161
そんなごり押しができるなら
他にも手段はあると思われ。
163日本@名無史さん:02/10/09 06:29
>>161
家康が秀康を養子に出す際に、
徳川家の嫡男は秀忠で
秀康が徳川家を継ぐことはない
と言うのを承諾させてから
出したんじゃなかったっけ?
164日本@名無史さん:02/10/09 06:45
家康も勝手やな
疎んじてた秀康を人質に出しといて
その秀康が大坂で乗馬の鍛錬の際、秀康を愚弄して併走しようとした
馬廻りを乗馬のまま刺殺したのを伝え聞いて
「それ、見たかさすが我が血である」って
165黒澤:02/10/09 06:48
ついに出た!
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166日本@名無史さん:02/10/09 19:34
>>164
どの講談がソース?
167日本@名無史さん:02/10/09 19:56
>>163
漏れもそういう記憶がある。
あと、朝日が嫁入りのときにも、もし朝日が子供ができても
秀忠で嫡男ケテーイしてるから、世継ぎにはしないという条件もあったはず。

ところで、朝日の閨に家康が入ったことはあったんでせうか?
168日本@名無史さん:02/10/09 19:59
>>1
結果論やね。
秀吉は、さすがに自分の死後に
天下を家康に乗っ取られるなんて
夢にも思ってなかったのだから。
169日本@名無史さん:02/10/09 20:04
それまでの家康の律儀さと秀吉死後の老獪さは予測不能
911のテロ以上に難しいのでは?
170日本@名無史さん:02/10/09 20:54
そんなことはない。
かなりうまく立ち回って生きてきた奴だぜ。家康は
世渡り上手の罰当たり
171日本@名無史さん:02/10/09 21:10
家康が豊臣家を滅ぼしたのは、江戸幕府(徳川秀忠)と秀頼が接近して、
駿河の家康政権(?)が政治的に孤立しつつあったので、慶長18年以降、
家康側が江戸幕府を牽制するため、豊臣家になんだかんだと言いがかりをつけた、
っていう説(笠谷和比古氏)もあり。
172日本@名無史さん:02/10/09 22:29
常識的には考え難い。莫大な戦費と命を賭ける見返りがあるから戦う罠
173日本@名無史さん:02/10/10 09:39
>>150
同意!
あと家康と三成の立場を入れ替えていたら、家康は何もしなかったんじゃないかな。
174日本@名無史さん:02/10/10 10:20
>>168
>天下を家康に乗っ取られるなんて
>夢にも思ってなかったのだから。

老人ボケでもない限り、家康が豊臣政権にとって危険だと言うことくらい
想像はできたでしょう。
自分の死後に徳川に太刀打ちできる大名がいないことも歴然とした事実だし、
秀頼が幼少で豊臣家に求心力がかけていることも分かっていたはず。
五大老のうち、徳川、上杉、毛利は豊臣に対する忠誠心は期待できないこともわからないはずがない。
175日本@名無史さん:02/10/10 11:54
秀吉は徳川以外の大名を信用しすぎていたのじゃないか。
いざというときは一致団結して徳川を抑えてくれると思いきや……
176日本@名無史さん:02/10/10 11:57
>>175
でも、毛利や上杉、伊達あたりの大大名を信用する理由はないと思うが......
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178日本@名無史さん:02/10/10 12:45
毛利に関しては信用してたのでは?毛利はカナリ厚遇されてるよ
179日本@名無史さん:02/10/10 12:49
>>178
信頼しているから厚遇するとは限らないのでは?
懐柔策としての厚遇もあるからね。
みしかしたら、信頼するというより「輝元に天下人の器量なし」と
侮っていたから徳川への牽制の意味で懐柔していたのではないかと思う。
180日本@名無史さん:02/10/10 17:36
家康は秀吉政権時、忠誠をつくしていた。
秀吉死後、家康に対抗できるのは、利家のみだった。
利家が死に、敵は日本にはいなくなった。
181日本@名無史さん:02/10/10 18:25
秀長が生きてれば?
182日本@名無史さん:02/10/10 18:57
>>181
鶴松が死んで秀頼が生まれるまでの間を乗り切れば何とかなったかもしれないな
183日本@名無史さん:02/10/10 18:59
秀吉死んで1ヶ月後に家康も死んでたらどうなる?
184日本@名無史さん :02/10/10 19:11
秀吉は本能寺の変の時に毛利家には借りがあるからね。
秀吉の天下は毛利家との共同作業だったといえる。
185日本@名無史さん:02/10/10 19:17
毛利家というより小早川隆景
家康の場合は前田家と福島正則がそれにあたるか
186日本@名無史さん:02/10/10 20:12
秀吉は妹の朝日姫を家康の後室にしていたから・・・(死んだけど)
前田家に関しては、もう絶大な信頼を寄せていたよね。何しろ利家の
三女の麻阿を側室(加賀殿)にして、四女の豪と六女の菊を養女にしてた
からね。(菊は夭折したけど;)
187日本@名無史さん:02/10/10 20:48
>>181
秀長は大納言だから内大臣の家康に太閤できず。
ここでも秀吉の甘さがある。弟なのに。せめて右大臣にしておけばよかった。
徳川は同族を御三家や親藩として重用したが。
188日本@名無史さん:02/10/10 22:35
>>187
家康の内大臣任官は文禄五年で秀長死後だよ。
秀長存命中は家康と同じ官位だった
189日本@名無史さん:02/10/10 23:30
秀長の死は、本当に痛い。身内で力になりそうなの彼だけだろ。
秀長が家康くらい長生きしてたらなあ・・・。
利休の死もアイタタタ。
この二人が初期の秀吉政権の両輪だったんだろ?

ところで利休と家康、秀長と家康の関係はどうだったの?
190日本@名無史さん:02/10/11 00:03
秀長が生きてたら、歴史は変わってただろうな。
また、秀長は子供もいなかった。
秀次は無能だが、子供はたくさんいた。
秀吉に秀頼ができてから、冷遇され、一族皆殺しにされた。
豊臣政権崩壊は、利休切腹、秀次処刑、朝鮮出兵、秀頼が幼い。
など自滅に近い。
家康は利家の死後、たなぼた勝利、運がいい。

191日本@名無史さん:02/10/11 00:12
>>120
厨な質問ですが、その小田原征伐後に与えられた関八州の250万石には、当時
関東にいた、家康の子飼いや譜代(あるいはその一族)ではない、他の外様大名
〔常陸の佐竹や下野の宇都宮・安房の里見とか)の領地は含まれているので
しょうか?
少し前に、上野の沼田周辺の真田氏の領地は、家康の徳川家の管轄下に置かれた
というのを見たので…。(もちろん、真田家の信濃側の領地は徳川家の管轄外
ということでしたが)
192日本@名無史さん:02/10/11 00:14
秀長には日本五十余州に号令を掛ける戦功がない
家康と対決すると損害が大きくなり、念願の明国出兵どころではなくなる。
日本国内における権力基盤の強化より対外発展を志向した。

194日本@名無史さん:02/10/11 00:15
 秀長って凄いよね。
 部下の欲しくなった秀吉に急きょ誘われた
 ただの農民が、よくもまぁって感じ。
 秀吉の活躍、成り上がりも凄いけど
 秀長はそれ以上に奇跡的な気がする。
 温厚で諸将に慕われる、腕利きの宰相。
 兄に忠実。それでいて秀吉を諌める事のできる
 唯一の人物。
 こりゃ家康による暗殺だね。これは。

195日本@名無史さん:02/10/11 00:19
家康は豊臣政権の柱石で敵でなく、秀吉死後は豊臣が盟主の座を追放される
196日本@名無史さん:02/10/11 00:22
197日本@名無史さん:02/10/11 00:23
補佐として秀長は適任だが、頭の固い連中は武力しか人を評価しない
198日本@名無史さん:02/10/11 00:24
武力(ぷ
199日本@名無史さん:02/10/11 00:33
恥ずかし、ポッ
200日本@名無史さん:02/10/11 00:45
>>192
それを言ったら、
秀忠には日本五十余州に号令を掛ける戦功がもっとない。

秀長は、迫力なさげだが、調整能力は抜群。
「豊臣」の名の付くこの人がトップにいて「まあまあ」といえば、
豊臣家内の内紛も大丈夫なのでは?
家内に内紛がなければ、家康は簡単に動けない。
長生きしてれば、秀頼までの最良のつなぎになった筈。
201日本@名無史さん:02/10/11 00:50
秀長は目だってないだけで戦功ないって言うのはいいすぎだろう。
四国,九州征伐なんかは評価されてないの?
202from d:02/10/11 00:58
秀吉は朝鮮、中国を征服し、そこの王となるつもりだった。
家康を朝鮮出兵に従軍させなかったのは、戦功をあげさせぬため。
豊臣家は中国大陸の大領主となり、家康は、小さい島国の僻地の領主。
豊臣家は大安泰。
妄想が豊臣家を滅ぼした。
203日本@名無史さん :02/10/11 01:06
秀長だって自分が兄貴ならやりたいこと事いっぱいあったと思うよ。
204日本@名無史さん:02/10/11 01:10
秀長は石田、淀君連合に謀殺されたウワサはほんとうだろうか?
だとしたらそれこそ豊臣家は自滅したようなもんだね。
205日本@名無史さん:02/10/11 01:34
案外狂った秀吉が秀長ウザイってんで殺したかもな
206日本@名無史さん:02/10/11 04:20
秀吉が秀長殺すんだったら秀次のように手順ふむだろう
少なからず逡巡してる節が見られるはず
それか義父の竹阿弥のように農民におとせばいい
実弟にも子息がいないっていうのは痛いな
秀長には鶴松のように夭折した子供もいなかったのか?
207日本@名無史さん:02/10/11 06:49
25歳。
去年まで金無し君だったけど、オンラインカジノとパチンコで
二年で350万貯めた。一度やってみなよ。
初回のみだけど、1ドル以上のチップを買えば30ドル(4000円くらい)貰える。
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金なきゃオフラインでゲームすればいいだけ。暇つぶしになる。
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http://www.imperialcasino.com/~1hi5/japanese/
208日本@名無史さん:02/10/11 08:46
>>191
含まれてないよ。

ただ、家康に与えられたのは正確には関八州ではなく、武蔵、相模、上総、下総、上野、伊豆の六ヶ国の240万石だ。
常陸は佐竹、安房は里見、下野は宇都宮、黒田、大田原なとが割拠してた。
あと家康は前記の六ヶ国に加えて他に駿河、近江、伊勢、山城に在京賄い料の10万石を貰ってる。
209日本@名無史さん:02/10/11 09:39
>>206
秀長には娘が一人か二人いたようだ。

摂政関白豊臣秀次 http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1019132536/
  68 :56 :02/04/27 18:03
  >>65
  秀長の娘一人と書いたのだけど、二人の可能性もある。
  というのは秀長の娘には豊臣秀保室と毛利秀元室がいて、
  私はこれを同一人物(つまり再婚した)と考えてるのだが、
  別人説もあるようなので。ちなみに秀保室のほうは「おきく」という
  名のみわかり、秀元室のほうは1609年に22歳でなく無くなったことだけ
  わかってる。どちらも子供はいない。
210日本@名無史さん:02/10/11 10:05
秀長が注目され優秀な補佐役という評価を得たのは
あくまで堺屋の「豊臣秀長」以来なのでは?
それ以前はあまり目立たない豊臣一族の一人程度にしか見られてなかったんじゃないの?
実際、私はあの本が流行るまで彼の事をどうとも思ってなかったな。
秀吉が政治的理由で親族から無理矢理、寄せ集めたお飾りのような人物の中の一人だと思ってた。
211日本@名無史さん:02/10/11 10:13
>>210
秀長の評価というの持った権限の大きさとその登場期間にしては他の秀吉の一族に比べはるかに非難される材料が少なかったためと思われる。
確実に仕事をする人という評価で
逆に言えば大過ない人材すら豊臣一門にはいなかったことの証明。
212日本@名無史さん:02/10/11 10:18
>>201
言い過ぎかもしれないが、当時の命がけの何万人という武将の信頼を
得るには、武田武士団と戦った家康とか、北陸戦線で苛烈な掃討を行
った利家といった「看板」が必要。
例えば、関が原で家康に信頼を置く遠隔地の群小の武将達は親疎の縁
はあっても、この「看板」と「大大名」の実力をよく認識していた。
秀長は「看板」にさせないという、秀吉の配慮から彼は調整役に徹して
行かざるを得ないのでは


213日本@名無史さん:02/10/11 15:25
天下を統一するまでの秀吉には、家康は利用価値がある人物だった。
しかし、家康は使い捨てにはできない厄介な人物だった。
つまり、家康の利用価値は0だったことになる。
結果論だが、秀吉は家康を利用しないで先に潰しておけば良かった。
214日本@名無史さん:02/10/11 15:33
秀長は子供はいない。
養女だと思う。
秀長は大変質素だったらしい。
農民出身だから金を貯めこむ癖があったらしい。
死後金が城からわんさか出てきたらしいよ。
戦国時代も金の世の中なんだな。
215日本@名無史さん:02/10/11 15:46
徳川家康の趣味は薬の調合だそうだ。
運動もよくしていたらしい。
長生きすれば勝てると思ったんだろう。
216日本@名無史さん:02/10/11 16:55
精力増進の為だったりして
217日本@名無史さん:02/10/11 17:35
おまんノ方「殿、がんばってね」
家康「ウン、僕がんばるけんね」
218日本@名無史さん:02/10/11 18:17
>>214
いや違うよ娘は実子だよ。
219日本@名無史さん:02/10/11 18:19
たしか尼さんに手をつけてできた娘らしいぞ。
>>秀長の娘
220日本@名無史さん:02/10/11 18:23
>>214
蓄財の件に関しては善意をもって自らの欲を消し豊臣のためとする見方と守銭奴的な悪意のある見方がある。

>>219
それも違う。

秀長の実の娘のソース
h
ttp://fox.zero.ad.jp/~zap38093/profile.htm
221219:02/10/11 18:42
>>220
そのお藤(?)という女が尼僧だったと、書いてあったんだよ。
別冊歴史読本の「秀吉が愛した女たち」というタイトルの号に
載ってたはず。実名不詳で戒名の一部から仮に「お藤」としてた。
尼寺を訪れた秀長に見初められ、拉致のうえ犯されて、
正気に返った秀長から寺に帰されたが、妊娠が発覚して、
寺にはいづらくなり、結局城に引き取られたという話だったと思う。
222日本@名無史さん:02/10/11 18:52
>>215
家康は若い頃悪性の腫瘍が体にできて 家人(誰だか忘れた)諌められて
「ほっとけ」って行ったんだよね。何時から体の健康考えていたんだろう?
違ったけ?
223日本@名無史さん:02/10/11 20:16
>>221
秀長がそんな悪い事するはずないだろうが。
224日本@名無史さん:02/10/12 02:53
>212
秀長が生きていれば、武断派と奉行派の溝は
あそこまで広がらなかったであろう。
ゆえに、関ヶ原の大将になる必要もない。

秀長って、堺屋の「豊臣秀長」以前から
評価高くなかったっけ?
あの本で改めて見直したのは確かだけれど。
225日本@名無史さん:02/10/12 03:40
単純に実績あるからな。
その秀長は家康潰すべきと主張してたんだっけ?
226日本@名無史さん:02/10/12 04:19
>225
それ主張したら、秀長じゃない・・・気がする。
227日本@名無史さん:02/10/12 08:22
>秀長が生きていれば、武断派と奉行派の溝は
>あそこまで広がらなかったであろう。

そうかな?利家が両派の対立緩和になんら影響力を及ぼしていない
ことを考えると秀長が生きていてもやっぱり意味がないような気がするが。
両者を共闘させられるのは秀吉だけでしょ。

ちゅうか、秀長が生きていると「秀長派」ができる。

228日本@名無史さん:02/10/12 08:30
秀長には子がいた?
229日本@名無史さん:02/10/12 13:01
>>227
そんな事はない。勘ぐりすぎ。
230日本@名無史さん:02/10/12 13:58
秀長が生きてると武断派が圧倒的に強くなってた気がするが。
231日本@名無史さん:02/10/12 13:59
>>227
利家の立場と交渉能力の問題だろう。
前田家は、あくまで豊臣家の外部の人間としての立場であり、
豊臣家の内紛に関しては、発言力は低いのでは?
交渉能力は、秀吉の死後、徳川家の婚姻問題で大阪VS伏見になったとき、
家康にいい様にあしらわれた感じがする。
病気をおして家康と直接交渉するなど、その気概は感嘆するものがあるが、
交渉能力は「?」。あくまで「戦の人」であって政治的な人ではない。

秀長は、どちらかと言えば、政治と実務のひとという感じ。
豊臣家の人間であるだけに、内紛に関しては、発言力あり。
武断派は一緒に戦ってきた仲間であり、
奉行派はこの人が宰相である為、ある意味、直属の部下(三成の仲人でもある)
この人が長生きして「豊臣家&秀頼の為」と言えば、
他の人がいうのと、言われた方の重みが違う。
家康と個人能力を比較すると、見劣りするし、勝てるかどうかはわからんが、
豊臣家をまとめる要となり、対抗することは可能。
232日本@名無史さん:02/10/12 17:38
>>231
利家が婚姻問題で家康にいい様にあしらわれた?
どこが?
利家の側には家康以外の五大老と五奉行、立花、長宗我部、鍋島、佐竹、小早川などの後の関ヶ原西軍派に加え、
加藤清正、加藤よし明、浅野幸長、細川親子などまでが結集したんだけどな。
しかも、結局、家康が折れた形なんだがな。

家康も利家健在のうちは動けなかったろうし、それで死を待ったんだが。
233191:02/10/14 19:43
>>208
亀レスですが、答えていただきどうもです。

>関八州ではなく、武蔵、相模、上総、下総、上野、伊豆の六ヶ国の240万石だ。

↑ということは、後北条氏の旧領がほぼ宛がわれたということですね。
これを見てから調べたのですが(↓)を見ると、
ttp://village.infoweb.ne.jp/~ksatake/fkunu1.html
家康の関東転封前の旧領の三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の太閤検地による
石高の合計が約133.2万石。(※ただし、信濃の北辺は当時上杉領だったり、
他にもそのような例があるかもしれませんので、必ずしも厳密なものではない
ですが)
関東転封後の、武蔵・相模・上総・下総・上野・伊豆の六ヶ国の石高の合計が
約218万石。形式的には約85万石も加増されてることになるので、素人目には
悪い話ではないような気がするのですが、それにしても、秀吉が小牧・長久手で
勝てなかった危険な相手に、約85万石も加増してるなんて以外でした。

って、秀長ネタの時に横レスすみませんでした。
234日本@名無史さん:02/10/14 19:52
>>232
その有利な状況で家康に対して
なんら制裁出来なかった結果からしても、やっぱいい様に
あしらわれたのでは?
235日本@名無史さん:02/10/14 21:50
>>202
ちょっと違うな。秀吉の皇室への尊敬の念は、家康の比ではないよ。

連戦連勝に気をよくした秀吉は、自分ももうじき、海を渡ると言い、
後陽成天皇に対して、北京に移る準備をするように、懇願している。
帝を北京にお移し奉り、その下で号令をかけるつもりだったのよ。

日本国天皇は、秀吉の猶子だった帝の実弟の八条宮がなる
というところまで、話だけは進んでいた。
236日本@名無史さん:02/10/14 22:42
二行目以降の話から一行目の結論を導き出す飛躍。
ぜんぜん流れと関係ない古めのレスに答える飛躍。
237日本@名無史さん:02/10/14 23:03
秀吉は天皇家から正一位を追贈されてるしな
238日本@名無史さん:02/10/14 23:04
>>223
>(※ただし、信濃の北辺は当時上杉領だったり、
>他にもそのような例があるかもしれませんので、必ずしも厳密なものではない
>ですが)

信州上田周辺の真田昌幸の領地は違うのですか?
239日本@名無史さん:02/10/15 01:52
家康が天下取れると思ったのは、豊臣家に跡取がいなくなった時からでしょう。
具体的には秀長死去の時だと思いますが。
その時には豊臣家の家臣団の軋轢も相当だったはずでしょうから。
それも秀吉が死んで、すぐに自分の名前でどんどん令をだしたり、
婚約外交してる位だから、その瞬間天下を取れたと思ったのかも。
豊臣家だって、残してもいいとおもったんじゃないですかね
240日本@名無史さん:02/10/15 19:32
家康は信長が死んでからずっと天下をねらっていたように思う。
なにせ武田や北条という強敵と前線で戦ってきた自負があっただろうから。
主に近畿、北陸の一向一揆が相手だった秀吉とは戦争経験が違う。
小牧・長久手のあとも秀吉に抗戦していたら負けていたというのが
通説だが果たしてそうだろうか。家康の政治力なら伊達や北条と組んで
天下分け目の一大決戦をすることも画策できたように思う。だが家康はそれを
しなかった。だから秀吉に感謝されて莫大な封土をあたえられた。関が原は
必然で家康はその決戦を20年遅らせただけだ。
241日本@名無史さん:02/10/15 19:58
家康は、天下を取るしか道がないとは言えないか?
豊臣政権発足時から、家康は豊臣家の目の上のタンコブ。
大体、250万石って異常だろ。
秀吉は、家康はヘマをすれば、いつでも潰そうと思ってた上での250万石だろうな。
その中でうまく生き残った家康はやっぱりスゴイ。
秀吉の死後、家康以外の五大老も、家康はやっぱり目の上のタンコブ。
豊臣政権が続こうが続くまいが、家康ってのはウザイ。
それが、噴出したのが関ヶ原ともいえるし、家康としても天下を狙うしか生き残れない。

ってのは、どう?
242日本@名無史さん:02/10/15 20:04
>>240
勝負どころを見極められない人間だったら政治力があるとは言われません。
北条に上方まで出て行って戦をする実力はないし、当時の伊達ごときは蘆名との戦いで手いっぱい。
これで秀吉との戦場での決着にこだわる家康だったらとても天下は取れんでしょう
243日本@名無史さん:02/10/16 08:55
>>242
何言ってんの?家康が北条、伊達と組んだら秀吉は危なかったよ。
島津も毛利も上杉も日和見的になるか叛いただろうし。それこそ
関が原以上の決戦となっていただろう。
244日本@名無史さん:02/10/16 09:44
>>243
ではどうしてそれをしなかったの?
245日本@名無史さん:02/10/16 09:50
せんせー、芦名・佐竹・里見を使えば北条とか伊達は全然動けないと思うんですけどー。
246日本@名無史さん:02/10/16 10:46
>245
芦名は伊達に滅ぼされている。
もし、家康が北条、伊達と組んだなら
芦名を滅ぼした伊達は全奥州を席巻し北関東に
なだれこんでくるだろう。
そうすれば、佐竹なんぞ北条と挟み撃ちで滅亡決定。
里見は、ゲリラ戦をチョコチョコしかけてはこようが
大軍を張り付けておけば身動きが取れない。
所詮、小勢だ。
佐竹領を北条と折半した伊達政宗は
たぶん、上杉と不戦協定を結び昨日の友は今日の敵で
北条に決戦を挑んできそうな気はする。
247日本@名無史さん:02/10/16 10:59
やれやれ、徳川・北条・伊達が逆に親豊臣勢に包囲されてたのを知らないとは
248日本@名無史さん:02/10/16 11:47
なんで北条と伊達が家康に付き合ってやらなきゃならないんだよ(w
249日本@名無史さん:02/10/16 12:47
>>246
伊達と蘆名の摺上原合戦は1589年。
家康の秀吉への臣従より大分後です。
全奥州を席巻している間に他が滅ぼされます。
250日本@名無史さん:02/10/16 13:00
小田原の陣の時に行動起こせば北条は味方に出来るわな。
伊達は迷ってたみたいだが、最終的には秀吉に逆らう事
が無謀だと気づいて小田原に参陣してるんだから、徳川
が伊達を味方につけようとするなら、小田原で一旦秀吉を
破らないといけないと思う。
251日本@名無史さん:02/10/16 14:40
>>250
北条だけと組んだとしても秀吉はやばかった。海道一の弓取りが率いる
三河武士と武田の遺臣、坂東武者を制圧した北条軍団。弱い敵に対して
圧倒的な数で城攻めしかすることのできない秀吉と違って、家康は敵より
少ない精鋭で野戦に持ち込み連戦連勝するだろう。上杉も呼応し、優柔不断
な毛利が秀吉の背後をつくだろう。関東に封じられることもなく家康は
三河幕府を開き、北条が外様100万石として残ったかもしれない。
252日本@名無史さん:02/10/16 14:56
>>251
そこまで家康を貶すこともなかろうに……。
253日本@名無史さん:02/10/16 15:23
>>251
上杉が徳川になびくわけないでしょ?
そんなに簡単に鞍替えできる性格だったら
家康が前田家の次に上杉をターゲットにした時
家康に恭順して関が原の戦い自体が起こってないと思うぞ。
254日本@名無史さん:02/10/16 18:07
どうもここで家康を過剰評価してる奴は「家康の政治力」とかゲーム厨のように思えるな。
255日本@名無史さん:02/10/16 18:33
いや、過小評価だろ。
家康は天下を取れる好機を逸したバカだと言いたいんじゃないの(藁
256日本@名無史さん:02/10/16 21:28
もし仮に徳川、北条、伊達連合で秀吉に対抗したとする。
ここでの議論のように伊達は東北を制圧するでしょう。
北条は十分な戦力を保持したまま北関東に進出するでしょう。
徳川は対豊臣の最前線に立って戦い、仮に勝ちを収めたとしても
西国は毛利に押さえられ、畿内は群雄割拠状態に逆戻りでは?
せいぜい徳川の手に入るのは尾張、美濃だけ。
それ以上軍を進めるのは背後に北条が控えている以上危険でしょう。

その状態で東北を押さえた伊達や北条に囲まれ、西からは
毛利の圧力が…

秀吉に臣従するほうが賢明だと思いますけどね。
257日本@名無史さん:02/10/16 22:22
>>256
>秀吉に臣従するほうが賢明だと思いますけどね。
その通り!だから家康は天下が取れた!
258日本@名無史さん:02/10/17 00:17
秀吉・秀長兄弟って
尊氏・直義兄弟に似てない?
259日本@名無史さん:02/10/17 00:31
>258
今は人生選べるから
やっぱり兄弟は仲が良いから
同じ道は歩まないよね
260日本@名無史さん:02/10/17 01:45
>>257
いや、臣従したから天下が取れたは結果論過ぎて話にならんだろ。
261日本@名無史さん:02/10/17 05:53
家康の立場なら天下を取るしか生き延びる道が無い様に思える。

秀頼にどんなに忠誠を尽くしても豊臣にしてみれば徳川は厄介者でしょ?
家康は己の死後の徳川家を按じて、天下よりも徳川家の安泰の為に
天下取りに出たんじゃない?
262日本@名無史さん:02/10/17 07:17
>>261
豊臣家が徳川幕府初期のような苛烈で巧妙な圧制に出て来ればともかく
秀吉時代ぐらいでは家康の地方勢力は揺るがないでしょう。

逆に言えば、それだけの基盤がある状態で秀吉が死んだから家康は簡単に公儀を自分の元に引き寄せることができたんだろうけど
263日本@名無史さん:02/10/17 07:56
>>262にさんせー。
その成立過程の差異から豊臣政権は後の徳川政権のような
外様に対する強硬策はとりえないわけで。

264日本@名無史さん:02/10/17 10:39
三戦板でやってくれんかあんたら
三戦板がネタスレだらけになるぞ
265日本@名無史さん:02/10/17 12:47
二人はホモ達だったのさ。
266日本@名無史さん:02/10/17 19:52
豊臣滅亡の原因は五奉行を五大老の下に置いたことだ。
徳川の官僚層を構成した譜代や旗本達は、石高は低くても
お上として外様大大名に命令を下すことができた。豊臣の
ご奉行にはそれが出来なかった。
267日本@名無史さん:02/10/17 21:15
NO.2で外様な家康の立場なら>>261な考えも有ったのでは?と思ったのよ。

家康亡き後の徳川家が
成人した秀頼&石田等に「国家安康」みたいな因縁をつけられたら
秀忠ら徳川一門で上手くかわせる人材はいるのだろうか?
どう思います?
268日本@名無史さん:02/10/17 21:28
豊臣政権は構造的に外様の大大名に対して因縁をつけられない。という話では?
269日本@名無史さん:02/10/17 21:31
>>268
鎌倉政権・足利政権も配下の大勢力には因縁付けられなかったな。

鎌倉は北条をコントロールできなかったし、足利も三管領をうまく抑えることが出来なかった。
いずれも大物が死んでから強硬策で抑えようとしたけど、逆に自分があぼーん。
270日本@名無史さん:02/10/17 22:28
むしろ足利は、うまく強攻策で押さえつけたら屋台骨壊してただけだった、なのでは(藁
271日本@名無史さん:02/10/17 22:48
>>267
徳川は謀臣が多いから大丈夫だろ。
天海僧正、金地院崇伝、土井利勝、本多正純。

少なくとも、大阪のアホ臣よりは優れていると思うぞ。
272日本@名無史さん:02/10/17 23:17
なるほど、徳川家は家臣に恵まれてますね。

関白秀頼&五奉行では家康が死んだとしても
徳川には敵わないか・・・
273日本@名無史さん:02/10/18 00:52
>>272
しかも五奉行の結束がてんでばらばらだったからねぇ。

関ヶ原合戦の開始時点では、戦力は西軍の方が若干上で
地形的にも西軍優位だったんだけど・・・・
274日本@名無史さん:02/10/18 08:24
真田幸村と同じく徳川家臣が有能だなんて江戸時代の迷信だろ
豊臣家の崩壊の最大要因はしょぼい田舎の大名じゃなく
主家の適齢の家督相続者の欠如だろ?
まぁ、運が無かっただけ


275日本@名無史さん:02/10/18 09:36
>>274
>主家の適齢の家督相続者の欠如だろ?
信長もそうだったな。

徳川家臣・参謀が有能ぶりを発揮するのは、むしろ江戸幕府樹立後だね。
それまではほとんど目立たなかったし。

>主家の適齢の家督相続者の欠如だろ?
>まぁ、運が無かっただけ
秀吉の対外出征も災いしたな。
276日本@名無史さん:02/10/18 09:48
>>275
徳川幕府の初期も徳川家に豊臣政権のように武功派と官僚派の対立はあったしね。
結局トップの家康が官僚派を優先したのと家康創業時の武功派が家康より先に死んだということが大きい

結局、秀吉が家康をというのはともかく
豊臣家が徳川家を圧倒できなかったのは
秀吉が政権確立をできないうちに死んだの一言につきるね。
277日本@名無史さん:02/10/18 20:16
いや、武功派なんてものは戦争が終わったら
そもそも長期的には存在し得ないって。
2781バカ:02/10/18 20:20
そんなこと言ったら、毛利潰さなかって大政奉還はなんだよ。
結局、1つの時代は終わったと認識すれば?
279日本@名無史さん:02/10/19 00:11
>>274
徳川は名臣に恵まれとる。
 秀忠 → 土井利勝
 家光 → 土井利勝、松平信綱(知恵伊豆)
 家綱 → 松平信綱
 綱吉   柳沢吉保
 家宣   間部アキフサ
 家継   間部アキフサ
 家治   田沼意次
 家定   阿部正弘
 
特に徳川初期は、土井利勝の活躍が目覚しく、
幕府の基礎を築いたのは、まさに土井利勝といっても過言ではない。
280日本@名無史さん:02/10/19 09:17
>>277
そう長期的に存在し得ないんだから、トップが武功派を押さえている間に勢力を失っていくものだ。
ただ豊臣政権にとってはその時間が与えられなかったことと、最終的に武力衝突の可能性が消えていなかったこと
281日本@名無史さん:02/10/19 09:33
そこへ行くと家康は権限委譲をうまくやったよな。

282bloom:02/10/19 09:34
283日本@名無史さん:02/10/19 10:14
>>279

ほ  し  な  ま  さ  ゆ  き  がいないのは何でなんだ!?
284日本@名無史さん:02/10/20 00:37
保科正之が、幕府安泰のためになにをやったのか?
285日本@名無史さん:02/10/20 00:40
>>284
飢饉に苦しむ山形の農民を大虐殺。
286日本@名無史さん:02/10/20 04:36
それは素晴らしい
287日本@名無史さん:02/10/20 05:01
ほんとかよ
288285:02/10/20 15:21
寛永十五年(1638)の出羽白岩の百姓一揆(?)事件

寛永15年9月、酒井長門守の知行地の一つ、出羽国白岩でイナゴが大発生し、
農作物は全滅状態に陥り、飢饉が発生したため、百姓らは年貢の納期の延期を陳情した。
にも関わらず、酒井長門守は強硬に年貢を徴収しようとしたため百姓は反発し、
大騒動に発展した。これに対して幕府は、天領の延沢の代官に騒動鎮圧を命じたが、
鎮圧に失敗したため、保科正之が自ら鎮圧の任を買って出た。
当時、保科正之は出羽20万石を治めており、白岩の百姓等も「肥後守様ならば」と
大いに期待した。そこで保科正之は家臣に命じて白岩の百姓らに使者を送り、
「今、保科肥後守様が山形に帰国しておられるので、代表者を山形に来させよ。
解決に尽力してくれるであろう」と伝えさせた。
その言葉を信じた百姓たちは、喜んでさっそく三十五人の代表者が山形へ向かった。
ところが、山形へついたとたん、彼ら三十五人は捕らえられ、即日、山形城下の河原にて
磔刑にして殺害した。さらに白岩に兵を送り、隠れキリシタンを探すと言う名目で
多数の百姓を捕らえ、彼らを山形へ連れ去った。
(註:その後、彼らは殺害されたとも、非人の身分に落とされたとも言われる)
この、あまりの苛烈な処置に対して、やりすぎではないかと言う声もあったが、
保科正之は「これ公儀のためにもなる事なり、如何」と反論し、叱責したという。

(「千載之松」白岩一揆ノ事)




289日本@名無史さん:02/11/14 11:16
朝鮮出兵をやめて、秀吉対家康となった時、家康側に誰がつくのか?
小牧長久手の時とは情勢が違いますが・・・。
290 :02/11/14 13:45
支配者は自分の死後の事も十分考えなければいけないという教訓ですね。



291金魚:02/11/14 18:31
 家康に2つの転機があった。
1,長久手の戦いの勝利
 これで、生き残れる可能性ができた。依然として、純軍事的には家康は不利のままだ。
しかし、「家康が勝った。」という情報が全国に広まる。その政治的意味は大きい。

2,朝鮮出兵
 秀吉は迷ったと思う。朝鮮出兵か徳川家粛正か。結局は、秀吉の誇大妄想と家康の
必死の要領と駆け引きが、秀吉を朝鮮出兵に向かわせた。
292京都市民:02/11/14 18:32
めんどくさかったんじゃない秀吉さん たぶん
293日本@名無史さん:02/11/15 16:33
朝鮮出兵も十分めんどくせーっしょ(w
294日本@名無史さん:02/11/23 00:47
そういや朝鮮出兵の意義ってさ、領土獲得ではなく、単なる兵士の口減らしだったっていう説があるね。
もう国内は治まり、兵士など数はいらないのに兵糧はどんどん消費する。だったらさらに戦で減らしてしまおうという説。
治まった天下の中で、武断派の不満のはけ口だったとか、それで万が一朝鮮がとれたら
それこそ運がいいっていう話。
295日本@名無史さん:02/11/23 00:56
キリシタン大名をすりつぶす為の出兵って説は?
単に、九州にキリシタン大名が多かったからかもしれないけれど
そのような事があっても不思議じゃないと思う。
296日本@名無史さん:02/11/23 23:28
石高だと家康の所領が関東250万石でそのうち直轄領が100万石。
秀吉が所領日本全国1850万石で直轄領も日本全国220万石となる。
経済力、支配地域でいえば力の差は歴然だったよ。
297巌 ◆22jbnpRock :02/11/29 00:01
>>294
あんまりな間違い
兵士の多くは農民の足軽か、地方領主の武士
戦争させずに開墾、耕作させれば済むだけの話
(ちなみに朝鮮出兵時、家康がこれをやって国力を蓄えた)
298日本@名無史さん:02/12/01 20:20
秀吉は本当に家康をつぶせなかったのか?
秀吉は本当に家康をつぶせなかったのか?
299日本@名無史さん:02/12/01 20:26
   ´   ヾ
   ゛(⌒) ヽ
   ((、´゛))
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   Λ_Λ   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   <;#`Д´> < アイゴー!秀吉の朝鮮侵略には
  ⊂    _つ | 謝罪と賠償を要求するニダ!!!
   | | |   \________
   〈_フ__フ
300日本@名無史さん
300万石get