島津義弘について教えて!!!

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401無名武将@お腹せっぷく
ない。終了。
402無名武将@お腹せっぷく:02/09/05 21:32
397 名前:390 :02/09/05 19:21
>>395

豊臣家に大きな借りを感じている。
これは大名側からの観点だろう?
なんでそれが豊臣家が大名を改易するのに関係するんだ?

俺は貴方の考え方を誤解していた。それは認めるよ。
豊臣家が大名を許す。
豊臣家の観点からすれば大名家への貸しなわけだ。
それが大きければ改易、小さければ許す、と貴方が主張していると
思ってた。
豊臣の観点からすれば、征伐した相手を助けてやった。
貸しは島津>大友。
だから貴方の考えがよくわからないと思っていた。
しかし、それは間違いだった、と。

(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)


398 名前:無名武将@お腹せっぷく :02/09/05 19:35
>>397
「許した」と簡単に言うが、一寸の領土も削り取らなければ完璧に許したと言えるだろうがね。
だいたい大名側の視点の借りの大きさと豊臣側の視点の貸しの大きさはそれほど相違は無いだろう
大友家は滅亡寸前だった→それを豊臣の軍勢が血を流して救ってやった
これは大友家の視点でも借りは大きいし、豊臣家の視点でも貸しがあると思えるだろう
島津家の場合はまったく違う。
そもそも島津家が豊臣家に征伐されなければならないような悪い事やったのかね?
こんな事言っても詮無いことなんだけどさ(藁

403385:02/09/06 08:16
少しばかり私の言いたい事と話題がずれたので発言する。

私が言いたいのは世間では
島津義久 先見の明がある、賢い、老かいで、時勢を読むのが得意、政治力あり
島津義弘 義理堅く戦に強いが政治力や時勢を読む力に欠ける

と判断されているが、それって違うんじゃないか?
って事だ。

まず、世間では島津義久が秀吉死後に時勢を豊臣衰退、徳川反映と読み、
徳川に接近し徳川派として、関ヶ原でも徳川方につくようにした。とかいうふうに思われてるけど。
第一に義久は「徳川派」などではない「独自路線・中立主義」であって関ヶ原でも不参加を主張しただけだ。
第二に>>383氏の書き込みにもある通り、独自路線は秀吉が死んでから打ち出されたものではなく、
秀吉存命中から主張していたものであって、秀吉死後に巧みに時勢を読んで路線変更したわけではない。
ただ、秀吉が死に島津家の義久派(独自路線)が勢力を増し、義弘派が減退したというだけの話しだと思う。
しかも、秀吉存命中の独自路線や抵抗はかなり愚かしいもので、それこそ改易の原因になりかねないものだった。
それを救ったのが義弘・伊集院らの親豊臣路線であったと思うのだ。
勿論、義弘にも秀吉死後にも親豊臣派的な行動を取るなどの愚を犯してはいるが、
少なくとも、秀吉存命中の島津は
義弘・伊集院=賢い
義久=愚かしい
の状態であったと思われる。
404379:02/09/06 08:43
>>403
>>395氏の世間に評価に対する異議に大筋で同意。
あと、補足させてもらうのであれば、
義久の政治的立場は時勢を読んだ結果ではなく、大名としての
在り方から来る制約の結果、あるいは妥協の産物だと思われる。
細川幽斎仕置き後の文禄二年八月二十八日付の三成家臣安宅秀安から
島津義弘宛の書状では、
「義久が家臣に対して弱腰であることを家臣の方でも知っているので、
今度のように主人に一度も申し入れることなく知行を山分けし、その上、
知行や代官職を好き勝手に入れ替えて取ったりするのです」
と、義久の統率に対する批判を述べている。
家臣団の統率ということに関しては、信長が確立した独裁権を引き継ぐ
豊臣政権と島津では大きな違いがあり、それを国元の家臣は
理解していなかったと思われる。
そして、多分に担がれた大名としての性格を有していた義久の立場では、
大名権力の強化して中央政権と強く結びついて奉公を果たす、という
親豊臣路線は取れなかったと考えられる。
それに対して、上洛して島津の窓口を務めることが多かった義弘や
伊集院らは中央政権としての豊臣政権の在り方と島津の存続の危険性を
理解して、親豊臣路線という立場を取ったと思われる。
405379:02/09/06 08:53
義久の独自路線についてさらに付け加えれば、義久は家康の
将軍就任後の慶長九年二月二十二日、同年年末と上洛の要請を
受けているが、結局慶長十六年正月二十一日に没するまで、
ついに上洛せずに過ごしている。
これらのことから考えると、義久が終始一貫して中央政権から
距離を置いていることがわかる。
その代わりに、徳川政権下では忠恒が参勤を務めている。
従って、義久自身はその立場と本人の中央政権への理解不足などから
終始一貫して独自路線をとり続け、それを豊臣政権下では義弘が、
徳川政権下では忠恒が窓口となって補っていたと考えられる。
従って、義久が時勢に対して先見の明を持ち、機敏に対応したという
評価には私も同意できない。
406379:02/09/06 09:03
>404 >405の間の書き落としについて補足

関ヶ原の合戦後においても、義久は一貫して上洛を拒否し、
義久の家臣(富隈衆)も上洛を主張する忠恒を留めようと
している。義久自身も忠恒上洛に反対したらしく、
忠恒は次のように訴えている。
「昨日、誓詞の草案をお目にかけたとき、何事も気に入らず、
上京することは忠孝に欠ける行いだという仰せを受け、
驚き、嘆息しております」
関ヶ原後に上洛をここまで頑なに拒否するということから考えて、
義久は中央政権の命の重さや性格についての理解が欠けていたとも
考えられる。
結局、忠恒が富隈衆などの反対を押し切って上洛している。
407無名武将@お腹せっぷく:02/09/06 12:52
島津義久が驚異的な政治力を持ってるわけでなく、
日本最南端という位置と頑固な対応がたまたま征服者の事情などもあって効を制しただけなのね。
まあ、徳川の場合は島津の強兵ぶりを警戒したというのもあるだろうけど。
島津義久はそういう難しい計算はしてなかったと思われ。
408無名武将@お腹せっぷく:02/09/06 13:45
なんかフロイスによると秀吉兵糧切れでピンチだったとか まあ宣教師は秀吉の事悪く書いてるけど
409無名武将@お腹せっぷく:02/09/06 14:12
>>408
確かにありえない話しだね(w)
>>408
フロイスは自分の気に入らない人物はボロカスに書くからね。
これだから宣教師は。。。。
411無名武将@お腹せっぷく:02/09/06 23:08
島津義久と島津義弘の豊臣政権への対応の違いは真田家の関ヶ原の際に
東軍と西軍に分かれたのと同じ考え方が根底にあるのでは?
どちらが勝っても島津家は残るというような
412379:02/09/07 02:52
>>411
それは考えられない。
>>404-406で具体例を挙げて述べたように、義久は豊臣政権、徳川政権と
一貫して中央政権から距離を置いている。
その距離の置き方も、太閤検地や朝鮮出兵消極的(軍役の人数、補給など)、
関ヶ原後の講和交渉で家康起請文提出後の上洛要請にも消極的、と
改易の危険性を孕むものであった。
前者は御恩(知行安堵・新恩給与)−奉公(軍役・賦役の履行)という
武家の契約関係を危うくするものであり、後者にいたっては講和の否定
と取られかねない行為である。
どちらが勝っても島津は残るというよりは、義久だけであれば島津家は
改易されていた可能性が大きいと思われる。
413379:02/09/07 03:11
>>412補足
さらに付け加えるのであれば、関ヶ原の合戦において真田信幸は
秀忠勢に属して、父方の城である戸石城を攻撃・後略している。
義久は関ヶ原の合戦において徳川のために積極的な行動を
起こしていない。
従って、政治的判断でどちらが勝っても家が残るようにした、
という考えには賛成できない。
414無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 03:19
三国志みたく人口みたいなのがあって。
またその人口が分かれていて、
商業2000人、工業5000人、農業30000人、浪人300人、
(シムシティーみたいだけど)にわかれていて
太閤立志伝みたいに人心掌握度があってそれによって仕事の能率が変わるとか、
税率を設定できてそれで人口変動。
そして兵はどの階層からどれだけとりたてるときめられる。
またいままでは金100とか小さな単位でしか開発できなかったけどこんどは上限なしにして
弱小大名でも十分開発できたり。徴兵した土地によって地形の得手、不得手や、
兵種の得手、不得手、が武将の値に加算されたり減ったりするのは。
そして産業奨励ができて、例えば鉄砲なら雑賀の鉄砲衆から人材を引き抜いてきてその産業を発展させる。
また商業なら商業人口が一定になったら町ができて常駐商人ができるとか。
もっと全国的に動きを見れるようにしてほしい。

415無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 03:20
それは、意外な言葉だった。この俺が軍師候補に?一瞬、戯れかと
思ったが、張宝様は戯れ言を好んで言う様なお人ではない。
だが、何故、この俺が?正直言って、戦術や陣形の考案等は、人並みに
出来ると思う。だが、あくまでも人並みなのだ。とても軍師の器等では
無い。きっと、他に適任者がいるはずなのだ。

しかし、俺は、ここで重要な事実に気が付いたのだ。
黄巾軍で、知力のトップはこの俺だったのだ。これはある意味衝撃的
事実だった。確かに、黄巾にも優秀な将は多い。周倉や、程遠志の様な
猛将もいる。だが、そういう人材を、自由自在に操る事の出来る「知将」
が存在しないのだ。だが、俺はもちろん軍師の器では無い。
だが、「しかし」だ。黄巾の中で、俺が1番可能性があるというのなら、
引き受けるしか無いのだ。これから、優秀な人材は増えてくるはずだ。
それまでの「繋ぎ」と考えれば、「軍師」の肩書きもそれ程、重荷では
なくなった。何より、張宝様の期待に答えねば。

俺は、知識を増すための猛勉強を開始した。市場で「易経」も買って
読破した。約2年後、俺の知力は70を超えていた。
そして、俺は、若干19歳で黄巾軍の軍師に任命されたのであった。


416無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 03:22
諸葛亮(大仏?)

         / ̄ ̄ ̄\
        (______)
         |      |  
     ,,――┴―──┴──‐、
    /               \
   |   _________  .|
   |  l´             `l  |
   | l´              `l |
   | |  ,-―‐-、   ,-――-、 | |
  (^Y | '___,;;   /___ ` .| Y^)   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   `川| `ー`'´‐',;  l::`‐`'´‐´   | リ/  < 天下三分の計です!
   川リ!        |:::      !川ヾ   \_____
   川リ|      、_|:::l      |ハリヾ
   リリリ |   ┏     ┓    |' リリリ
   リリ ヘ   ┃ ─── ┃   /  リリ
   リリ  ヘ  ┛  ー― ┗  イ   リ
      ,| ヘ____リリ____/ |、
    /( \      リ     / )\
        `ー――リ――‐'´


417無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 07:59
>>411
スレ違いではあるが、そもそも真田の「真田二分の計」自体史実ではないんだが、
真田昌幸、信繁、信幸が密談して、どちらが勝っても生き残れるように分かれたという話しは小説の中の話し。
実際は何の連絡もなく自然に別れただけ。まあ昌幸の頭の中では計算されてたかもしれないけど。
418無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 08:07
>実際は何の連絡もなく自然に別れただけ。

どちらにつくかで親子で大喧嘩をしたという話を聞いたことがあるんですが
これも創作なのかな?
>>418
「犬伏の別れ」ね。
有名な逸話ではあるが、史実かと聞かれると自信がない。
日本史板の質問スレで聞くとわかるかも。
いずれにせよスレ違い。
まあ、大ゲンカしたにしろ、自然決別したにしろ、
ドラマに見られるような真田二分の計や密談の話しが
嘘だったというのは変わらんね。
そもそも両天秤かけるというのが政治的判断としては下策。
本当に政治的な判断や進退が巧みなら、家中一丸となって勝ち馬に
乗り続けるものだと思われ。
藤堂高虎や鍋島直茂の方が真田などより余程世渡りが上手い。
島津スレに戻れ。
423無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 15:04
>>421
鍋島は西軍についたはずだが
>>423
その後東軍に鞍替えして柳川(立花)攻めて本領安堵。
当時の人間の行動基準が、理詰めの物でなく
現代人より多分に義理人情などが入り込んでいるので
むつかしいだわさ
最初から勝ち馬についたのが藤堂高虎。
上手に馬を乗り換えたのが鍋島直茂。
鍋島の場合は秀吉に誼を通じたのが早かったことも評価できる。
>>425
家が存続するかどうかの瀬戸際の政治的判断は打算だろ。
島津の場合は家の存続のために歳久を犠牲にしてるわけだし。
428無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 15:52
>>427
島津オタには悪いが、
実は歳久はほかの兄弟との仲はわるい方だったんだが。
>>278
 話を戻すようで悪いんだが、三成が自ら島津の陣に救援を求めにきたってのは本当?
 たとえピンチだったにせよ大将自身赴くなんて危険極まりないことをするだろうか?
>>429
三成の使者だよ。
>>428

歳久の自害について義久のこんな書状が残ってる。
「今度晴蓑(歳久)進退のことは、御朱印差下、幽斎老拙者同前、
去十六日拝領致し訖。
さて兄弟之列堪え難きといへども、上意により、外には勘気を顕さず、
内には悲涙に沈み候。」
(兄弟の間で自害を命じるなど耐え難いことだが、上意なので外見は平気な
顔を保ち、心中では悲しみの涙に沈んでいる。)

また、宮之城に立てこもった歳久の遺臣達にも歳久の孫の袈裟菊、歳久の妻、
袈裟菊の母から家臣に至るまで面倒を見るという起請文を書き、袈裟菊の助命を
幽斎に申し出て幽斎も誓詞を書いている。

こういう事例を見る限り、義久にとって苦しい決断だったと思われる。
仲がどれくらい良かったか悪かったかはわからないがね。

その反面、佐土原城を差し出して単独での投降をを計った家久を島津側が
謀殺したという説もある。(原昭午 「兵農分離と幕藩制」)
一般的ではないが。

いずれにせよ、兄弟仲とは別に家の存続のために打算による政治判断が
行われることは珍しくもなかったと思われる。
>>429 >>430
小早川寝返りの後、まず三成は八十島助左衛門を島津豊久の陣に使わし、
前線に出るように命じた。
豊久は「委細心得候」と返事をしたが動かなかったため、重ねて八十島を派遣。
しかし、馬上から口上を述べたため、島津の家臣が討ち取ろうと詰め寄ったため、
八十島は駆け戻り、代わりに三成が単騎で訪れ、
「敵勢相掛け候間、跡へ押し寄せられ候へ」と命じたが、豊久は
「今日の儀は、面々切りに手柄次第に相働くべく候、御方も其通り御心得あるべし」
と要請を断り、三成は「近比能くござあるべし」といって力無く帰陣した。
(「山田晏斎覚書」『惟新公関原御合戦記』などに記述あり)
433無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 17:56
ここはこの板の知識人が集まるスレだな
>>431
歳久の件は弟殺しは体面が悪いから、外聞をはばかってのポーズの可能性もあるね。
それと家久謀殺説も豊臣側が家久の武勇を恐れて殺したうんぬんよりは信じやすいね。病死だとは思うけど。

>>432
少なくとも三成自身が現れたの小早川裏切り後だし、
生き残りのために仕方あるまい。
もっとも、口ぶりからしてすでに島津も戦闘で動けなかったかもしれないし。
435無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 20:01
>>434
三成は小早川が裏切ったあとも勝つ気でいたんだろうか?
436無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 20:18
さもしい欲望のために兄を殺した長曽我部に見習わせてやりたい言葉だ。真意であればだけど。
>>434
>外聞をはばかってのポーズの可能性もあるね。
確かにその可能性は否定できない。
家中の統率や宮之城に籠もる歳久の遺臣の対応にも影響することだし、
もし遺臣の反抗が広がるようでは中央の受けが悪くなり、島津自体が
危うくなる可能性もある。
ただ、その場合もやはり政治的判断が優先されたというわけで、
いずれにせよ家の存続のためには個人的感情に囚われない対応が
必要だということだと思われる。

家久に関しては、謀殺説の真偽は兎も角、
家久が義久降伏以前に人質を出して佐土原の居城を明け渡し、
秀長について上方に上って自分に似合いの扶持を受けたいと
申し出たこと、そして、それによって秀吉から佐土原を安堵された
ことについて義久は容認できなかったようで、
天正十五年五月二十六日付の書状で上記の家久の処遇が秀吉から
義久に伝えられたが、同日付の義久から家久宛ての書状に
「是非公界を背かれず候様、能々分別肝要に候」という文言が見える。
この場合の”公界”は島津の置目(きまり)を指すと考えられており、
義久の行動が島津の家の規律を乱すものだと義久が認識していたと
思われる。
>>435
最後の瞬間まで出来るだけのことをするのが将帥の務めだと
思っていたと思われ。
その場で自害せずに、再起を考えて落ち延びた。
負けを潔く認めて腹を切るような思想はなかったと思われ。

>>436
個人的感情と政治的ポーズが入り交じっていたのかも。
そうだったとしてどれくらいの比率だったかはわからないが。
439無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 20:29
>>437
最後の方で「義久」と「家久」書き間違えてるね。
440437:02/09/07 20:32
>>437訂正
>天正十五年五月二十六日付の書状で上記の家久の処遇が秀吉から
>義久に伝えられたが

天正十五年五月二十六日付の書状で上記の家久の処遇が秀吉から
義弘に伝えられたが
441437:02/09/07 20:34
>>439
指摘感謝。申し訳ない。

>義久の行動が島津の家の規律を乱すものだと義久が認識していたと
>思われる。

家久の行動が島津の家の規律を乱すものだと義久が認識していたと
思われる。
442無名武将@お腹せっぷく:02/09/07 21:45
なんか上のほうでもいろいろと論じられてるようだが、石田の島津への支援要請は
午前11時ごろだよ。
>>442
断言はできないのでは?
この三成の支援要請が小早川裏切り後だったという話しは最近の切の二番備え説のキモだし、
彼らとて何らかのソースを持っているのだろう。

それと、三成自らの支援要請が裏切り後って事だったのだろう。
それ以前は自分たちが唯一の左翼の予備であった事から作戦上、自重してたとも考えられる。
444無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 06:22
>>442
>石田の島津への支援要請は午前11時ごろだよ。
その説の根拠を希望。
>>442-444
二番備え説と軽い支援要請が11時頃だったというのは両立するのでは?
島津家の記録では小早川の裏切りの前に部下を軍議のため、
石田の陣に派遣しようとした矢先に小早川が裏切ったとある。
つまり、島津は自分たちが小勢であるので小早川・脇坂らが戦闘に参加しようとしてから参加しようと考えてたのだと思われ。
三成自らの要請は少なくとも裏切り後だ。

なお、島津義弘の兵は実際は数百程度(多くとも八百くらい)で簡単に戦闘参加できない状態だったと言われる。
>>445
成る程、そう考えると筋が通るね。
447無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 08:39
このスレ読んで思ったのは
島津義久ってそんなに無能だったのかな?
ということだ。
448無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 08:46
>>447
無能ではなかったが、豊臣⇒徳川への流れに影響を及ぼすほどではなかった
449無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 10:25
>>447
本人の資質とは別に長く続いた家故のしがらみなどもあったと思われ。

信長や秀吉と違い、義久が独裁権を行使できたわけではないことも
考慮する必要がある。
家臣の反対を押し切って何かを行えるほど独裁権を確立できていたので
あれば、領内の仕置に幽斎や三成の手を借りる必要など無かっただろう。
450無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 12:59
豊臣秀吉への降伏は義久のほとんどの家臣の反対を押し切って独断で行ったって聞いたけど
違うのかな?
451無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 13:32
>>450
その説の根拠を希望。

天正十五年五月八日の義久降伏以前、四月十七日の日向根白坂の合戦後に
島津家久、伊集院忠棟は降伏済み。
出水城主島津忠辰も四月二十七日に秀吉が薩摩出水に至った後に降伏。
(島津忠辰は薩州家で義久の婿)

「樺山紹剣自記」によれば、義久は秀吉が泰平寺に着陣した(五月三日)
ことを聞いた際、
「今は別の才覚これ無し。向かう敵に懸け合わせ一命を極むべし」
(今はもう考えることもない。向かってくる敵と合戦し、死に花を
咲かせよう)と述べたが、重臣達が、
「天下殿江御礼御申し候て然るべく候」(秀吉に降伏するべきである)
と説得した、とある。
「勝部兵右衛門聞書」によれば、先に降伏した伊集院忠棟も日向から
薩摩に帰っており、義久の供をして泰平寺に出頭している。
伊集院の説得も義久の降伏に大きな役割を果たしたと考えられる。
あと>>404で挙げた通り、義久の家臣統率には外部から弱腰との
批判が出ている。
ついでに言えば、この時点でまだ義弘は降伏していない
(五月十九日秀長の陣に出頭)。
以上の点から考えると、独裁権を持ち、家臣を厳しく
統率できていたとは考えにくい。
452無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 15:00
なんだか>>451さんの知識量は凄いね。
次々と島津オタのドリームを壊してくれる。
史学科の島津の研究を専攻してた人なんだろうか?
私も史学科出だけど、とても太刀打ちできない・・・
453451:02/09/08 15:31
>>452
とんでもない。
あたしゃ一次資料なんぞ見たこともない単なるDQNです。
近世大名としての島津家に関しては、東大の史料編纂所に
所蔵されている『島津家文書』を始めとして『薩藩旧記雑録』など
という包括的な編年史料が残っているため、色々と研究されてまして、
あたしゃそれを摘み読みさせてもらってるだけです。

しかも、本屋でたまたまネタ元になりそうな本を見つけてたので、
これ幸いと無断で内容を引用させて頂いたDQNです。

興味のある方は、
『島津義弘の賭け』 山本博文 中公文庫 2001
ISBN4-12-203909-6
(『島津義弘の賭け―――秀吉と薩摩武士の格闘』 山本博文
 1997 読売新聞社刊 を文庫化したもの)
をお読み下さい。主なネタ元です。
著者は『島津家文書』の整理と目録作成を行った方であり、
大名権力による伝統的体制の改革という観点から島津家を
扱っているので、政治向きの話に興味があるならお勧めです。

では、ネタばらしをしたので消えます。 
454無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 19:56
>なお、島津義弘の兵は実際は数百程度(多くとも八百くらい)で簡単に戦闘参加できない状態だったと言われる。

にゃるほど。
455無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 20:44
197年4月(城内)
袁術「朕を滅ぼそうと曹操、劉備、呂布、孫策が攻めてこようとしておる
紀霊、お主は汝南太守として遊軍となり曹操に備えよ」
紀霊「はは」

(市場)
紀霊「曹操に備えよとか言われても二万の兵と俺1人しか汝南にいねえし
何もできるわけ無いだろあの猿・・・なんか民が話しかけてきたぞ」
張ガイ「貴公は紀霊殿ではありませんか私は張ガイと申します」
〜紀霊と張ガイは意気投合し長くまで話し合いました〜
(兵舎)
紀霊「もうすぐ曹操が攻めてくるからな俺のために気合いれろよ雑兵ども」
周倉「貴公は紀霊殿では?私は周倉と申します」
紀霊「何所かで聞いたセリフだな、まあこれからも宜しく」

197年5月
(自宅)
紀霊「今月もやることねぇし張ガイと周倉の顔でも見に行くか」
(飯店)
紀霊「よお張ガイ武芸について話しでもしないか?」
張ガイ「紀霊殿はそのような事に興味があるのですか」

紀霊「周倉武芸について話しでもしようぜ」
周倉「おお!興味がありますな」

行動力の余りで略奪をするが失敗する

456無名武将@お腹せっぷく:02/09/08 21:00
>>454
兵が数百あれば参加できると思うが。
457無名武将@お腹せっぷく:02/09/13 22:34
保守
革新
459無名武将@お腹せっぷく:02/09/15 00:20
蒼天禄の義弘公の顔グラ、あれは酷いと思わない?
さいとうたかおの脇役キャラの顔だろ?
どうせならゴルゴ13の顔にした方が迫力あって良かったのに
460無名武将@お腹せっぷく:02/09/15 22:16
義弘と直接関係ないのですが。
鹿児島に秀頼の墓ってのがありますよネ。秀頼の鹿児島伝説です。
大阪夏の陣で秀頼が大阪城を脱出し、島津に匿われたというあの話です。
秀頼は、最後大阪城の山里曲輪に篭りました。死体は爆発の為確認できず。
ただ、大阪城に秘密の抜け穴というのが見つからず、
単なる伝説にすぎなかったという事で終わってるんじゃなかったですかね。
でも、今年の正月番組でやつていた、義経や光秀のトンデモ説より
現実味あるのではと、思います。
どなたか調べた人いません。



461無名武将@お腹せっぷく:02/09/15 22:33
>>460
ああ、俺の実家の近くだったらしいよ、鹿児島市谷山ってとこ。
たしかに秀頼伝説あるんだけど、な。
それによると、秀頼は薩摩流遇後、飲んだくれになって
女遊びに興じたらしいぜ・・・

まぁ、聖人君子でなかったってところが逆に信憑性はあるわな(笑)
    ちなみに信じちゃいないぞ、俺は。
462460:02/09/15 22:56
>>461
そう、その話です。飲み食いしても金を払わなかったそうです(笑
私も本気で信じてませんけど、この話面白いし。
第一なんで鹿児島にそんな伝説かあるのか、不思議じゃありません?
463無名武将@お腹せっぷく:02/09/15 22:57
反徳川だから。
464460:02/09/15 23:08
>>463
カタルシス。
それで、墓まで作った?
ま、そういうのもアリで面白いですね。いや、マジで。
465無名武将@お腹せっぷく:02/09/16 00:06
後れ馳せながら漏れも島津奔る上下読んだ感動した。それからというもの池宮氏の本を読むようになった。にげろ家康はイマイチ。
池宮はDQN。
『四十七人の刺客』で終わっていれば良かった。
特に経済関係の考察が駄目駄目。
思いこみも激しいし。
>>460
>でも、今年の正月番組でやつていた、義経や光秀のトンデモ説より
>現実味あるのではと、思います。

同種だよ。英雄不死伝説という奴だ。秀頼が英雄かどうかは知らないがね。
真田にも西郷にも同様の話はあるんじゃなかったかな?

秀家を匿っていたから秀頼も……という願望なんだろうが、関ヶ原後と
大坂の陣後では落ち武者詮議の厳しさや幕府の姿勢が違うから、
秀頼生存説はトンデモだと思う。
井沢元彦によれば、英雄生存説は怨霊鎮魂の一種らしいが、そういう解釈は
まだ一般的ではないわな。
468無名武将@お腹せっぷく:02/09/16 09:46
しかし大阪びいきの地域の伝説ならそういう意味(単なる願望)で信用できないだろうが
薩摩で伝説が残っているというのは、特に豊臣びいきの地域だけに信憑性があるよな
薩摩には秀頼の子孫を名乗っている人もいるはずですよね、たしか?
469無名武将@お腹せっぷく:02/09/16 09:49
特に豊臣びいきの地域だけに→特に豊臣びいきの地域ではないだけに

の間違いでした
470無名武将@お腹せっぷく:02/09/16 09:52
>>467
まあ秀頼生存説よりは光秀生存説の方が可能性あるだろ。
それと、義経生存説に関しては
単なる「義経は衣川で死んでいなかった」と「義経はチンギスハーンになった」というのが
あまりにも落差がありすぎるからであって、
前者の方は幾分、可能性はあるんだけどな。
>>468
子孫を名乗っていることなんて何の信憑性も持たんよ。
系図を信じれば源平藤橘の子孫だらけということになる。

薩摩にもあんたみたいな人間が多かったんだろうよ。
もっとも、非業に死んだ人間に何かを感じる、というのは
えびす(水死体)信仰を始め、日本中にあるらしいから、
実は生きていた「伝説」を生む余地も日本中にあったのかも知れん。
赤穂浪士に関する伝説も各地に残っているし、人間は
信じたいものを信じたいように信じる生き物なのさ。
寺坂吉右衛門で調べてみな。墓があちこちにあるから。

>>470
うーん、あまり興味がないんでどっちが可能性があるかはわからない。
義経生存説のうち、前者は義経北行説だったかな?
まあ、誰それが生きていた……という伝説は多いが、あまり歴史の
流れには関係ないので興味は薄い。
生きていたにせよ、政治的には死んでるわけだし。
それに、生き延びていたなら光秀にせよ、秀頼にせよ、身内を
犠牲にしておめおめと生き延びたろくでなしということに
なるような気もするな。死ぬべき時に死ぬのも武士だろ。
秀頼は生き延びようとするくらいならさっさと徳川に屈服していれば
良かったと思うよ。個人的にはね。
>>464
墓を作るくらいはなんてことはない。

七人の吉右衛門
著者:江下博彦 1999年 叢文社刊 

大正7年福岡県生まれ、医学博士・精神鑑定医である著者が、
寺坂吉右衛門を始めとする数々の「忠臣蔵」の謎と争点を検証した作品。
赤穂四十七士の一人・寺坂吉右衛門 には全国に七つの墓がある。
著者は、七つの墓すべてを回り終えたが、目標とする吉右衛門の
檢証を果たすことはできなかった。
この解明は「あとにつづくを信ず」と書かれている。
数々の文献を集め、検証し、若干の文学的創作を加えるあたりは、
いかにも医学論文を書きなれた医者らしい文章。
忠臣蔵の謎に一歩近づくことは出来た。
討ち入り300年の今年ならではの本。

473無名武将@お腹せっぷく:02/09/16 23:50
>>471
えびすって水死体のことだったのか?
オレは奇形児のことだと思ってたよ

>身内を犠牲にしておめおめと生き延びたろくでなし
あっさり死んでしまったら例えば義経を助けるために文字通り命をかけた弁慶が無駄死にとは思えないですか?
秀頼も光秀も殿様の命を守るために命を投げ出した家臣たちが大勢いる
そんな命なのに自らあっさり死んでしまうことのほうが正しいのかね?


474460:02/09/17 00:10
秀頼伝説についてのご意見 サンクス
光秀の生存説については非常に説得力がありますが
最後に南光坊天海になった で爆死でした

さて皆さんの考察によると 反徳川、親豊臣の風土が この伝説を生んだ
という事ですが ここが納得できないところなんです
関が原の時 島津はどちらかと言えば 親豊臣といった程度
決して豊臣マンセーではありません
しかも関が原戦後 西軍についたにも関わらず 異例の処分無し
これで 親豊臣 反徳川の精神が培われていったとは思えないのですが?

>>472 その墓なら 実家の近くにも在ります

475460:02/09/17 00:36
連続カキコ スマソ
とは言え 江戸期に確かにイジメは受けてますね
濃尾治水工事とか‥
>>473
>そんな命なのに自らあっさり死んでしまうことのほうが正しいのかね?
光秀にせよ、秀頼にせよ、家臣のことを考えるのであれば、まず他に
取るべき道があったはず。
謀反を起こしたり、公儀に弓を引くことを選択した以上は、
死ぬべき時に死ぬのが潔さ。
自分のエゴで事を起こしておいて家臣を弾除けにしておいて
生き残ろうとするのは見苦しい限り。
義経については触れてなかったが、義経についても同様ね。
奴は政治的な感覚が無さ過ぎ。

「えびす」信仰については、記紀神話のヒルコ(蛭子)のことをえびすと
呼んでそちらとの繋がりもあるから奇形児というのもあながち間違いでもないと
思われ。
477471.472.476:02/09/17 04:19
>>474
>さて皆さんの考察によると 反徳川、親豊臣の風土が この伝説を生んだ
>という事ですが ここが納得できないところなんです

少なくとも、俺はそうは主張していないが。

平戸商館長コックスの日記に、
「本日将軍様(秀忠)死したりとの噂しきりなり、また秀頼様は生存し、
大名の彼に加担するもの多しとの風聞あり」
家康は大坂落城の時、城を脱出した落ち武者の詮議を厳しくしたこと、
名だたる将士の遺死はいずれも首が切り取られ、そのため識別は困難だが、
特に秀頼の遺骸だけはついに発見されないので脱走したのではないかと
信じるものが少なくない、等と記している。
秀頼生存説は大坂落城の直後からあった。
薩摩以外にも秀頼生存説は存在してたらしいな。
文献的な裏は取れなかったが、高野山の僧になったなどの違う話も
あったらしい。

これらのことから考えると、「非業に死んだもの」を特別視し
「その人物が生存したと信じる」あるいは話題の中心であるものについて、
地元が関係あるような伝説が生まれる、などの文化は日本中にあり、
その中の一つとして秀頼生存説も位置づけられる。
特別に薩摩が秀頼伝説を生んだとは考えにくい。
ただ、その後幕府の締め付けが厳しかった余所ではあまり大っぴらに語られる
ことなく、肉付けも出来なかったのに対して、薩摩領内は幕府の締め付けが
比較的緩く、独自性を保てたために伝説が生き残り、発展する余地が
あったのではないか、と考えられる。
478無名武将@お腹せっぷく:02/09/17 18:58
>>476
>謀反を起こしたり、公儀に弓を引くことを選択した以上は、
死ぬべき時に死ぬのが潔さ。

三成は公儀に謀反も起こしていないし、公儀に弓を引くようなこともしてないね。

>死ぬべき時に死ぬのが潔さ。
自分のエゴで事を起こしておいて家臣を弾除けにしておいて
生き残ろうとするのは見苦しい限り。

それは単なる貴方の美意識の問題じゃないですか?

ぜんぜん論理的じゃないですよ

オレとしては処刑場に向かう途中でも柿は毒だから食わなかった三成の方が
論理的な感性をしていると思う
最後の最後まであきらめないのが本来の戦国大名の生き方だろう
479無名武将@お腹せっぷく:02/09/17 19:16
読売新聞社「島津義弘の賭け」山本博文
国書刊行会「秀頼脱出」   前川和彦 はどうよ。
>>478
俺は>>476じゃないが、確かに切腹せずに最期まで
豊臣家を守るために生き延びようとした三成は素晴らしいと思う。
ただ、前のレスにもあるように秀頼が仮に逃げ延びたとして
薩摩で遊びほうけていたとしたらあんまりだと思う。
481476:02/09/17 20:36
>>478
>三成は公儀に謀反も起こしていないし、
>公儀に弓を引くようなこともしてないね。
何でそこで三成が出てくる? あんたの方が非論理的だと思う。

>最後の最後まで諦めない
明確な目的があればな。三成のように。

秀頼の目的は何だ?
家の存続ならとっとと徳川に屈するべきだろ?
屈するより名誉を選んで挙兵したんじゃないのか?
だったら死ぬのが名誉を保つ方法だと思うぞ。
まさか本気で徳川に勝つつもりだったのか?
自分は出馬もせずに? それなら正真正銘の馬鹿だな。
もし、生き延びたのであれば馬鹿かヘタレのどっちかだろう、奴は。

>>479
前者は既出。(現在は文庫版も出てる)
482無名武将@お腹せっぷく:02/09/17 21:32
>>481
ああ、アンタが光秀って書いたのを三成と勘違いしただけだわ
ともかくアンタは非論理的だな
自分の美意識に屁理屈で包んでるだけだろ?
483476:02/09/17 21:46
>>482
だからあんたは論理的=合理的という意味で使っていると思うが、
合理的というのは目的に対して合理的かどうかで判断される。
目的合理性って奴だ。

論理的というのは構文が論理規則に則っているかどうかによって決まる。

もし(1+1=4)であるなら、(1+1=4)である。
()内が何であれ、この文は常に論理的に正しい。トートロジーだからな。
ペアノの自然数の公理には沿っていないがね。

で、秀頼の行動が合理的だったかどうかというのは秀頼の目的と
行動によって判断される。
だから秀頼の目的を考えて、実際の行動と照らし合わせているわけだ。

秀頼が生き延びることが目的なら、プライドも何も捨てて徳川に
屈服すればいい。それで潰されても最大限の努力をしたことになる。
家臣だって死なずにすむ。
徳川に勝って政権を取るつもりなら、余計な金を使わずにもっと
軍備を整えて勝負し、冬の陣の和議にも応じるべきでなかった。
夏の陣でも自身が出撃するべきだったしな。
秀頼の行動は中途半端なんだよ。だから滅んだんだが。

ついでに言えば、あんたは簡単に本来の戦国大名の生き方、というが、
戦国大名にも色々いる。
生き方もそれぞれ。家を残すために必死になる武将もいれば、
大谷刑部のように友情のために命を捨てる武将もいる。
信仰のために日本を捨てた高山右近みたいな大名もいる。
戦国大名として、なんて一括りでは考えられないと俺は思うよ。
484476:02/09/17 22:06
>>483補足
論理的について
例として文の論理性を取り上げたが、もちろん主張全体の論理性というものも
存在する。
その場合は、前提や結論を導く過程に矛盾や飛躍がないかどうかが問題となる。
そっちの意味で「論理的」という言葉を用いていたなら、俺の議論の
どこが論理的でないか、例文を引いた上で論理的に指摘してくれ。

具体例を挙げてくれないと俺はあんたが自分の気に入らない意見に
「非論理的」というレッテルを貼っているようにしか思えないんで、
具体的な指摘をお願いしたい。
485476:02/09/17 22:15
>>483
さらに補足。
秀頼の目的。
名誉を重んじるなら、家が潰れた後、生き残るのは不名誉だと思う。
最後になって目的が生き延びることに変わったのであれば、やはり目的が
首尾一貫してない信念を持たないヘタレということになる。
ついでに言えば、中途半端な行動を取ったんで豊臣家はああいう形で滅んだが、
徳川に屈服しても家を長く保てたかどうかはわからん。
個人的には1万石程度の小大名か、高家扱いの旗本になれば家は続いたと思うが、
あのままの封地では危険視されて家は保てなかった様な気がする。
まあ、それでも家臣の命が大事なら耐えるのも大名だわな。
毛利も上杉も頑張ったんだ。
486無名武将@お腹せっぷく:02/09/17 23:01
いや秀頼公の行動が論理的かどうかをのべたのではなく
アンタの言動が論理的じゃないと言っただけなんですけど・・・。
>光秀にせよ、秀頼にせよ、家臣のことを考えるのであれば、まず他に
取るべき道があったはず。
この文から
>謀反を起こしたり、公儀に弓を引くことを選択した以上は、
死ぬべき時に死ぬのが潔さ。
この結論に至るは飛躍し過ぎだろ(w
死んだからって戦で死んでいった家臣たちが浮かばれるわけもなく、否むしろ
なんの為に死んでいったのか?
それこそ無駄死だろーよ
潔く死ぬなんてのは、トップに立つ人間の論理じゃないんだよね
トカゲの尻尾切りって言葉はあってもトカゲのアタマ切りなんて言葉は無いんだよ
わかるかな?この意味が?
487476:02/09/18 00:15
>>486
しつこい厨房だな。もっと勉強してから出直しな。
>>476さんは、戦国武将はこうだ、とひとくくりに考えすぎなのでは?
だいたい「家」だ名誉だのと言いはじめたのは、江戸時代になってから。
それまでは藤堂高虎をはじめ、主君をいくら変えても平気だったわけだし。
後継ぎも、ころころ変わるし、勝つためには秀吉・家康のように手段を選ばないし。
秀頼に関しては、大坂の陣の頃は腑抜けになっていて、全て家臣におまかせ、
我関せずで通してきたのに、いざ滅亡となったとき
生き恥なんか考えずに、宇喜多秀家のように逃げたかもしれないな、と思うが。
大内義隆など英邁だった君主が堕落した先例もあるし。
489476:02/09/18 04:46
>>486

>いや秀頼公の行動が論理的かどうかをのべたのではなく
>アンタの言動が論理的じゃないと言っただけなんですけど・・・。
>478
>オレとしては処刑場に向かう途中でも柿は毒だから食わなかった三成の方が
>論理的な感性をしていると思う

武将の論理性について述べているのか、俺の論の論理性について述べてるのか
こっちにはよくわからなかったので、両方について立論した。

>この文からこの結論に至るは飛躍し過ぎだろ(w

あんたが勝手にその二つの文を結びつけて考えてるだけ。
「だから」などと前の文を根拠に後の文を俺が述べたか?
「それと」などを使って並列であることを示した方が親切だったとは思うがね。

>潔く死ぬなんてのは、トップに立つ人間の論理じゃないんだよね
>トカゲの尻尾切りって言葉はあってもトカゲのアタマ切りなんて言葉は無いんだよ
>わかるかな?この意味が?

あんたの考えで行くと、城兵の命を救うために腹を切った別所長治や清水宗治は
どうなるんだ? 単に自分がものを知らないだけだろう。
「今はただ、うらみもあらじ、諸人の、いのちにかはる、我身とおもへば」
部下のために命を捨てるのもトップの資質なんだよ。
あんたには縁がない考え方だろうがね。

それに、武士にとっては「名こそ惜しけれ」という鎌倉時代の伝統もある。
490476:02/09/18 05:05
>>487
人の名前を使うのは勘弁して頂きたい。

>>488
俺宛のレス番号なので返答させてもらう。
>戦国武将はこうだ、とひとくくりに考えすぎなのでは?
戦国大名の行動の多様性については>483で触れているつもりだが、
何処を読んでそう感じたのか教えてもらいたい。
>生き方もそれぞれ。家を残すために必死になる武将もいれば、
>大谷刑部のように友情のために命を捨てる武将もいる。
>信仰のために日本を捨てた高山右近みたいな大名もいる。
>戦国大名として、なんて一括りでは考えられないと俺は思うよ。

>だいたい「家」だ名誉だのと言いはじめたのは、江戸時代になってから。
これは貴方の認識不足だろう。
「名こそ惜しけれ」武士が名誉を重んじるのは鎌倉時代の伝統だよ。
命が最優先という考え方が一般的なら、もっと降伏する武将が多かったろう。

それに「家」は所領の基本だから、養子を迎えて家が無くならないように
したり、家督相続でごたつくわけだ。「家」を重視するのも武家の伝統だよ。

勝つために手段を選ばない場合は確かにある。
だが、武偏や武家の面目のために死ぬ場合だってある。

「浮き世をば今こそ渡れもののふの 名を高松の苔に残して」
清水宗治の辞世の句だ。秀吉に下れば命は助かったが、名を惜しんでそれを拒否し、
城兵のために腹を切った。

「彼等の名誉心は、特別に強烈で、彼等に取っては、名誉がすべてである。」
ザビエルの印象。
491476:02/09/18 05:20
>>489追記
・吉川経家と書状

去る七月十二日、羽築取り詰め候。夜白二百日余り、堅固に相抱へ、
今に於ては兵糧相縮まり候条。一人悴腹に及び、諸人恙なく相助け候。
其の仕合はせ、御一門の名誉たるべく候。恐惶謹言。

さる7月12日に、羽柴筑前守が攻めて来た。それ以来、
昼夜200日以上にわたって城を守って来たが、今はもう兵糧が尽きている。
私一人が腹を切り、全ての城兵を助けることにした。
そうすることによって、吉川家の名誉にもなると思う。

吉川経家の場合は、自分の城でもない鳥取城に援軍として派遣された。
相手の秀吉も山名の家臣である、森下道与、中村春次を自害させ、
経家を助けようとしたが、
経家は「私は山名の人間ではないが、鳥取城の指揮を任され、
派遣された大将である」と言って腹を切った。
「式部少輔一人可替諸士命」という言葉には信長も感じ入ったという話だ。
492476:02/09/18 14:56
・武将の生死について

>478氏は一貫して
「戦国大名は部下を犠牲にしても生き続けるのが本来の生き方」
と主張しているが、この「本来の生き方」という部分は個人的に疑問。
武将の生死は一般論で評価されるべきものではなく、ケースバイケースで
評価されるべきものであると私は考える。

そこで、478氏が主張するように、武将が配下を犠牲にしてでも
生き続けるのが評価できるのはどんな場合なのか考えて見た。

1)その武将の死がある勢力(率いている勢力)の崩壊に直結する場合
2)明確な目的を持ち、その目的に向かって一貫して行動している場合

こういった場合、武将が配下を犠牲にしても生き延びるという行動は
個人的に高く評価できる。
例:金ヶ崎の信長、既出だが関ヶ原後の三成

あと、付け加えるのであれば、3)生き延びた後の武将の行動
も評価の対象となると考えられる。
特に、部下が無駄死にであったかどうかは、
その武将の目的(何のために生き延びたのか)、そして実際の行動
(何を行ったのか)という点から判断されるべきだと私は考える。

そして逆に、武将が配下のために死んでも、私は評価できる場合があると思う。
具体例は>489-491で既出。
493無名武将@お腹せっぷく:02/09/18 19:52
おい、お前ら島津義弘公の話をすれ!
>>476
もういいから消えろ。誰も貴様のオナニーなんざ見たくない。
495476:02/09/18 19:56
>>494
別に貴方のために書き込んだわけじゃない。
嫌なら見なければ良かろう。
もっとも、スレ違いの話題なのは確かだから、こちらからこの話題を
発展させるつもりはないがね。
496無名武将@お腹せっぷく:02/09/18 19:59
>>495
ぐだぐだ言ってないで早く消えろ
497476:02/09/18 20:02
>>496
お前にそんなことを言われる筋合いはない。
498無名武将@お腹せっぷく:02/09/18 20:42
476はオナニーを他人に見せるなんて露出狂かしら・・・
499476:02/09/18 20:48
>>498
もう少し内容のある批判を希望。
以降、特に内容がないと思ったレスはローカルルールに
従って無視させてもらう。

一、荒らしは徹底無視の事。無視しない者も荒らしと見なしたるべし。
500無名武将@お腹せっぷく:02/09/18 20:53
476って常駐してるのかしら・・・