江戸時代の海外貿易のナゾ??

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1でじま
江戸時代前はスペインなど色々日本に影響を及ぼしていたのに
江戸時代に入り貿易相手としてオランダと清のみになったのは
なぜだろう?キリスト関係ならオランダもやばくねぇ?
2日本@名無史さん:02/09/17 16:58
>>1
スペインはカソリック
オランダは、主にプロテスタント
そのぐらい勉強しなかった?
3日本@名無史さん:02/09/17 16:59
ポルトガルが布教しすぎたの
オランダが商売だけに絞ったから?
43:02/09/17 17:00
なんか文章、めちゃくちゃになった。
5でじま:02/09/17 17:03
カトリックとプロテスタントの厳密な違いってなんですか?
6日本@名無史さん:02/09/17 17:46
そんなの常識だから自分で調べよう。
7名無的発言者:02/09/17 18:59
っていうか日本人から見たらオランダって宗教と貿易は切り離す
さっぱりした香具師等と思うかもしれんが、
他のヨーロッパ人から見たら拝金基地街ですよ。
「さまよえるオランダ人」のように糞野郎扱い。
8日本@名無史さん:02/09/17 19:02
>>7
だから、なんだっつんだよ、ボケ。
9日本@名無史さん:02/09/17 19:46
>>6
常識なの?
10日本@名無史さん:02/09/17 19:53
カトリック・・・・・勧誘がしつこい
プロテスタント・・・そうでもない
11北方領土@名無史さん:02/09/17 20:11
18世紀末にオロシャが日本に来た時通商が成立しなかったのは、
キリスト教が問題であったわけじゃなく、
日本の事情として通商の必要がなかったから(輸入品目の毛皮は需要がない)。
そして「ウチらは長いこと蘭中朝琉以外とは交流してないから今後も」みたいな。
12日本@名無史さん:02/09/17 20:12
三浦安針と、家康がお友達になったのがはじまりだな
13日本@名無史さん:02/09/18 02:19
イギリスとオランダがスペインとポルトガルの悪口を言ったらしいよ。
三浦さんはイギリスな人なのでスペインを弁護する気ゼロ。
外交顧問っぽい扱いになったんで英国と和蘭がいいよってアドバイスを。
でもイギリスは毛製品でやばいくらいの損を出しちゃったので撤退。

英国はその後スペインの無敵艦隊を破り大英帝国として発展します。
その後フランス皇帝ナポレオンと揉めたり。オランダがフランスに
ついてたときイギリスは世界中でオランダの拠点を強襲しました。
長崎も例外でなく商館長とか人質に取られて散々。
守備定員200名くらいなんだけど当事の幕府は予算削減で軍備に
金をかけてなかったので事務員3名しかいなかったそうです。

幕末に鍋島を守備役につけたことで佐賀藩が妙に軍備に突出
する結果となり幕末の動乱時に・・・
14日本@名無史さん:02/09/18 03:08
カトリックはまだ政教分離ができてなかった。(今でもっつー話もあるが)
プロテスタントは当時すでに政教分離。
15日本@名無史さん:02/09/18 03:12
政教分離はよくわからんが
オランダには極東までいって布教しようという物好きはいなかった。
ポルトガルだのスペインだのは、フランシスコ会だのイエズス会だのが
セットでもれなくついてくるからウザッたいんじゃないの?
16山野野衾 ◆NDQJtGoM :02/09/18 08:06
>13
その後スペインの無敵艦隊を破り>アダムスらの漂着は1600年、無敵艦隊の敗
北は1588年では。因みに無敵艦隊は2年で再建され、1600年頃まで制海権
を握っていた。
長崎で人質云々は「フェートン号事件」ですね。イギリスは撤退から50年程して
再度開港する事を求めましたが、オランダが英国王とポルトガル王女の結婚を幕府
に伝えた為許されませんでした。
ポルトガルからはこの時英国にインドの拠点が引き渡され、英国人の茶好きの遠因
に。そしてアヘン戦争へと・・・。
17日本@名無史さん:02/09/18 08:26
オランダは日本との貿易で巨額の利益を得ていたそうです。
特に日本の銅が大きな利益をもらしたそうです。
日本は金銀は国の血肉であるとして金銀の輸出を禁じ銅をかわりに輸出したそうですが、
日本の銅は良質で当時のノルウェー銅とシェア1.2を争うほど重要な輸出品目だったそうです。
1817:02/09/18 08:30
ペリー来航の時に彼の艦隊が琉球から江戸に向かう時に
その情報を得たオランダ人は大慌てで対策を取るように幕府に警告したとか、
オランダとしては日本が鎖国している方が好都合で開国されては困るというわけです。
日本の鎖国やオランダ以外の欧米国家との交流がなかったのは、むしろオランダの策謀だったようです。

あと、オランダ人は厳密には出島から出てはいけないわけではなく、年に一回、代表者が江戸に呼ばれ。
ヨーロッパの国情をいろいろ話したそうです。
もちろん、それはオランダ人によって都合よく歪められた話しだったとは思います。
19山野野衾 ◆NDQJtGoM :02/09/18 15:29
日本産の銅の方が60:59くらいの割合でスウェーデン銅よりも安かった為、
ヨーロッパまで運んでも採算が合った。
>18
オーストリア継承戦争の事は戦争の具体的な様子まで知られていましたが、ど
うもフランス革命については単なる下克上として伝えられていた様です。
因みにナポレオンは江戸でも人気があり、ジンギスカンや秀吉以上の偉業を為
し遂げたと言われていました。
20日本@名無史さん:02/09/18 16:10
>>7
オランダの独立運動の主体が,商工業者たちだったことを思い出せ.
オラニエ家は17世紀の後半になって台頭して民主政治を潰した僭主だ.
21日本@名無史さん:02/09/18 16:30
オランダが共和国として独立を確立したのは1609年で,その後も
長官派(デウィット)と総督派(オラニエ家)の対立などがあり
宣教師を送ったりしている余裕はないでしょう.
かりに余裕があったとしても,17世紀の前半に全オランダの政治を指導していた
オランダ州長官長官デウィットは,法律家だが,数学や哲学など
人文主義的な近代教養の持ち主でスピノザなどと親交があった人物だ.
宗教と関わるとすれば,布教活動ではなく,宗教的寛容を説いてまわる立場だろう.
22日本@名無史さん:02/10/07 20:05
>19
ナポレオンはちょと違うんじゃあ?母国を占領したし。フェートン号事件も起きなかった
ろうに。出島の商館員にとって疫病神だったんじゃあないの?
23洋剣40本切り:02/10/11 19:00
オランダ人自身は問題起こしてないよな・・・。

林子平大活躍の唐人反乱鎮圧とか
面白い逸話もなし。
24日本@名無史さん:02/10/12 21:58
林子平の馬吊(マーチャオ)カード

http://www.asamiyo.jp/his4.html
25日本@名無史さん:02/10/17 15:59
出島に初めて蒸気船が来航したのっていつごろなんだろうか、
気になりません?
26_:02/10/17 16:03
>>537
落ち着け!
27日本@名無史さん:02/10/17 16:10
ま、オランダは布教をしないで貿易だけだと約束し、
スペインやポルトガルは布教後植民地化を企てていると家康にチクッたわけだ。
カルヴァン派のオランダは商工業利益獲得が神の意思との宗派だからね。

ペリー来航は、琉球来航以前からオランダ情報(カピタン風説書ですね)で、
1年位前には幕府は知っていた模様。
オランダ国王は、開国を進める親書を幕府に出したが、
取り上げられなかった。

高杉曰く、
「攘夷はどこの国でもやっている。アメリカもイギリスに攘夷して独立した。
日本も、まず攘夷して、後に、諸外国と渡り合うべし」
2825:02/10/17 18:09
おれはすげえ気になる!
ぐぐってもわかんないし。
みんなは気にならないの?

長崎経験者の幕臣、ペリー艦隊を見ていわく
「あんなもの毎年来てますよ」
こんなシーン。あったのかな
29日本@名無史さん:02/10/17 18:13
当時アメリカ海軍と癒着してた業者ってどこだっけ?
ペリーんとこの船の石炭を納入してたとこ。なんつー名前だったかな?
よそより高値で売ってたんだっけ?
30日本@名無史さん:02/10/17 18:17
欧州のナポレオン戦争中、日本との貿易はどうなってたの?
31日本@名無史さん:02/10/17 18:39
幕末に密貿易してお取り潰しになった藩もあったね
32日本@名無史さん:02/10/17 22:06
>>30
通常通り貿易してたみたい。オランダは被害少なかったし。

赤蝦夷風説考(不定期刊な新聞ダイジェストのようなものか)ではフランス革命に関する記述も出てきますよん
3332:02/10/17 22:10
間違えた!赤蝦夷風説考じゃない!

27さんのおっしゃるカピタン風説書が正解でした。逝ってきます・・・・
34日本@名無史さん:02/10/31 23:24
>>25
えっ、スンビン号(観光丸)以前にはきてなかったと記憶してるけど。

35日本@名無史さん:02/11/01 00:28
>30,32
 ナポレオンの活躍は、オランダにも大きな被害(影響)を与えています。オランダは
フランスに一時併合されました(出島にだけオランダ国旗が翻っていた)。
 さらに、イギリスが、オランダがアジアで押さえていた地域を攻撃しました。フェー
トン号事件もこの動きと関係します。
 オランダは自国の船を調達することができず、中立国アメリカの船を雇って、出島に
来ていた時期もあります。また、1799年、オランダ東インド会社は、国営になりました。
36日本@名無史さん:02/11/02 21:49
>25
商船一隻と軍艦四隻とでは迫力がちがうだろ。
3725:02/11/04 16:24
>34,36
検索かけても、初めて日本に来航した蒸気船がなんなのかはわかりませんでした。
1844年のオランダの国書で蒸気船が発明されたから気を付けろといっているのは
わかりましたけど。
 
38日本@名無史さん:02/11/04 16:57
>>37
江戸時代の洋船は、塗料にタールを使っているのが多かったから総称として
「黒船」って言われていたそうだよ。

1846年、つまりペリーの黒船の7年前に同じくアメリカの東インド艦隊司令
長官が自ら軍艦2隻引き連れて浦賀に来たけど、通商は失敗した。

で、1853年蒸気船サスケハナ号、ミシシッピー号でやってきたのが次の司令
長官ペリー。

やっぱり蒸気船は、ペリーが最初だと思う。
39日本@名無史さん:02/11/04 17:37
世界史的な観点で見たら、17世紀に入って、スペイン、ポルトガルの
勢力が衰えて、新興国オランダが発展してきて東アジアから
スペイン、ポルトガルを締め出したんだろ。
俺が思うに日本がカトリック両国を締め出したというより
両国がオランダに妨害されて日本に来れなくなったという
点もあるんじゃないかと。
40日本@名無史さん:02/11/04 17:47
>>39
両面あるだろうね。
スペイン・ポルトガルが衰えてきたのも事実。
オランダがカトリックに領土的野心ありと密告したのも事実。
それを幕府が危惧して、締め出したのも事実。
プロテスタントは貿易のみでOKと言ってたからね。
イギリスは、競争に失敗し、大損して撤退したようだ。

しかし、最初のオランダ船は、東南アジア周りだとイスパニアにやられるから
って、太平洋周りでボロボロになってたどり着いた話もあるが。
41日本@名無史さん:02/11/04 18:08
江戸中期から公然とアイヌ介在にして、ロシアと交易していたらしいね。
42日本@名無史さん:02/11/04 19:29
>41
ロシアが進出してくる前は清朝と交易してた。

アイヌ経由で北方から中国製品が入ってくることを
幕府は不思議に思ってた。
で、そのうち蛮族に中国が制圧されて幕府はにわかに
緊張状態に。そんな折、北海道でシャクシャインの乱が発生。
背後に清朝が控えていることを懸念して、単なる反乱でなく
清朝の日本攻略の一環かもと疑った幕府は乱を徹底的に弾圧。
実際にはそんな背景は全く無かったわけだが、
幕府首脳はまだ戦国を戦い抜いた者の子や孫の代。
意思決定の遅れが国を滅ぼすことを親に直に教わった人たちだった。
幕末に見られるような対外関係に対する悠長さは全く無かった。
4334:02/11/04 21:29
>>36
長崎に最初にきた蒸気船という意味でしたが。蘭学者たちは外輪船の存在は
書物で知っていたから大して驚かなかっただろうけど、もし黒船がスクリュー
艦ならばどんなにおどろいたことか。当時のアメリカ海軍の懐の寒さが悔やま
れる。

44日本@名無史さん:02/11/05 01:15
蒸気船マニアのペリーが存在しなければアメリカ海軍の蒸気船普及はもうちっと遅くなったかな?
そうするとアメリカより先にロシアやイギリスが通商を申し込みに来たりして。
45日本@名無史さん:02/11/05 21:47
密貿易
46日本@名無史さん:02/11/05 23:10
>>40
オランダ・イギリスなどの新教国は北極目指していたからな。北西・北東航路
の探検というやつ。ウィリアム・アダムスが参加していた船団の場合は当初
は喜望峰越えの予定だったのをドレーク艦隊の乗組員だったアダムスたち
が抗弁してマゼラン海峡越えのほうが早く東洋にたどり着くとかいって半ば強
引に決めたんだそうな。結果は船は進まない、マゼラン海峡で越冬する羽目に
なる、食料求めに原住民の村襲って返り討ちに遭う、スペイン船に一隻拿捕さ
れる、本国に逃げ帰る船も出てくる、嵐に遭うといった散々な目に遭うんだが。



47日本@名無史さん:02/11/05 23:23
幕府の外交を担当してたのは誰なんだ
通訳の数も限られてる時代だし
そいつの匙加減でどうにでもなりそうだな
案外オランダから個人的に賄賂もらってただけの話だったりして
48日本@名無史さん:02/11/06 02:55
オランダから警告が来たときは水野忠邦がカムバックして組閣してた時期だっけ?
このときはもう辞めた後だっけ?
水野が1回辞めさせられたけどアレがなければもうちょっと幕府は長持ちしたかな・・・?
49日本@名無史さん:02/11/06 15:47
>48
復帰後だよ。まともに意見できる人間を自分たちで弾圧したせいでろくに対処でき
ず病を理由にやめた。次に老中首座になったのが阿部正弘。
50日本@名無史さん:02/11/06 17:07
水野はだめだよ。
水野の改革を続けていたら、余計幕府は早く崩壊したんじゃないかな。

安部の方が買えるんでないかい。
51日本@名無史さん:02/11/06 18:55
>>50
でも、結局は阿部正弘の開明的な意見収集が朝廷の政治介入を招いたからなぁ。
日本全体にとっては画期的だったが幕府そのものにとってはあだになった
52日本@名無史さん:02/11/06 19:46
>>51
外様の態度がでかくなったのも、阿部の頃からかい?
53日本@名無史さん:02/11/06 19:54
>>52
島津斉彬と阿部正弘は仲がよかったし、外様どころか下々にまで意見陳述させているね。
その後、井伊直弼の反動政治があるけど。
54日本@名無史さん:02/11/07 00:54
まぁ水野はダメだけど、積極的に対処しようとしてた点でちょろっとだけ評価出来るかな、と。
水野に重用された連中の中に幕末に外務官僚その他に辣腕を振るった連中も何人かいた訳だし。
功:3、罪:7くらいでしょうかね。
老中、若年寄と言った大名クラスの中にはあまりめぼしい人材はいない気がするね。
5525:02/11/09 00:54
蒸気船の謎は解けそうにありませんな。
オランダではあまり使われなかったのだろうか。
ペリーは蒸気船マニアなのか?
56日本@名無史さん:02/11/09 01:20
オランダは対日貿易独占と引き換えに
屈辱的外交を強いられた。
 毎年オランダ商館は将軍詣でを強いられ
 江戸城で踊らされたり、いい見世物にされた。
 
屈辱に耐えても、対日貿易独占に利益は計り知れなかった。
当時の日本は世界最大の金、銀、銅の産出国で、
銅は世界の産出量の1/3は日本産。

戦争に明け暮れているヨーロッパでは大量の大砲を必要とし、
日本産の銅でオランダは莫大な利益を上げていた。
57日本@名無史さん:02/11/09 01:26
>>55
ぺりーは蒸気船派だったと何かで読んだ。
外洋では帆船の方が速くて(外輪が抵抗となるから)帆船に曳航されて来た。
58日本@名無史さん:02/11/09 01:27
>>56
それは屈辱ではなくプレゼンテーションだろ。
59日本@名無史さん:02/11/09 01:36
>>47
長崎奉行だろ。長崎奉行はおいしい役職で
倍率が高いときいたことがある。

またオランダ通事、唐通事は当然世襲だ。
通訳のレベルはかなり高かった。何しろ、家業だから
もの心ついたころからオランダ語、中国語をたたきこまれてる。
だから完璧な語学力を有している。
60日本@名無史さん:02/11/09 04:03
ペリーはアメリカ海軍の蒸気船の父だそうな。
ついでにかなりの軍政家で日本に来たの以外にも
海軍の改革(とまでは行かないけど)とか色々やったみたいです。
あとペリーの兄貴もかなりの有名人。
アフリカ沿岸だかどっかで海賊狩りかなんかをやってたはず。と、思った。
日本来航で名を挙げるまでは弟よりも兄の方が有名だったらしい。
61日本@名無史さん:02/11/09 21:40
>>59
オランダのほうは「通詞」と書くんだよ。語学力に関してはだいたい階級に応じて
差があったようで、上達するに従って昇級していったわけです。上の階級になると
通詞の仕事のほかに蘭書の翻訳やオランダ語文法の研究書(のちの西欧語研究に大
きな影響を与えた)書いたりする人もいるわけで、こういう人々のおかげで日本は
すばやく文明開化をする事が出来たわけですな。
62世界@名無史さん:02/11/09 22:03
オランダはね他とは違うの。わりきってるというか..

さまよえるオランダ人..とかああいう見られ方ね。
63日本@名無史さん:02/11/09 22:56
オランダは、一時期でしたが、世界一の産業国家でした。
すぐイギリスにつぶされたけど・・・。
64日本@名無史さん:02/11/17 23:54
>>63
ちゃんと説明してくれ。

65日本@名無史さん:02/11/18 11:35
>>64
オランダは、漁業・造船業・海運業の他に、南部からの新教徒の亡命により
毛織物工業をうけつぎ、アムステルダムはヨーロッパの商業・金融の中心と
なった。
連邦制・仲介貿易の大商人の利権確保システムが、成長の限界を規定。
イギリスに産業面で生産性が抜かれる。
さらに、17世紀に、世界貿易の主導権を握ったオランダに対し、
イギリスは3度の戦争を挑み、覇権をイギリスの物とした。

こんなんでいいかな?
6663:02/11/19 17:31
>>64
なるほど。つまり国内での製造業の発展をおろそかにしてたのがあだとなったと。
じゃあ18世紀産業革命で工業生産力が伸びたイギリスにはもう太刀打ちできん
わな。
6763:02/11/19 17:36
>>65の間違いだった。
68日本@名無史さん:02/11/20 10:42
>>66
そうですね。イギリスの海外からの富の収奪と海軍力はオランダを圧倒し、
産業革命前の17世紀後半にはオランダを叩いています。
69日本@名無史さん:02/11/20 21:08
ちょっと発展段階説すぎやしねー?
70日本@名無史さん:02/11/20 22:18
事実だろ。
71日本@名無史さん:02/11/20 23:56
おらんだは「べイラントの自由」の言葉どうりに国としての一体感が他国に比べて
小さいからなー。17世紀のおらんだが国として成立しえたのは強力な経済力を持
った商人(regent)たちが直に政治にかかわり、そして彼らの意見を上手く政策に反映させた
政治家の存在があったのだが、軍事一切を握る州総督オラニエ公とは決して一枚岩ではなかった。
1609年のスペインとの12年間停戦協定はオラニエ公側の意向を無視したかたちでなされたため、
停戦中に州議会派と州総督派との間で抗争が起こり、州総督のクーデタによる政権奪取と粛清
で終わるのだが、そのごも小さな内紛が起こっていたんだよ。第1次英蘭戦争のとき(1652)は州総督
が空位になっていて、国内の軍事の指揮権の所在がはっきり定まっていない状態をイギリスに漬け込まれた
わけです。しかし1672年にウィレム3世が総督になると危機を打開しフランスの侵略を挫き、イギリスとは
王と対立していた議会と手を組みかの名誉革命を成功させ自ら王位について一応オランダの政情も落ち着き
繁栄を取り戻すのですが、ウィレム3世死後は各州議会の協調不安定が続き、勢いがなくなり1795年共和国
制が解体します。
72日本@名無史さん:02/11/21 11:49
それは、オレンジ公ウィリアムスのことかな。
確かにオランダから来て、王になってるね。
実権はなかったようだけど。

やっぱ海軍力の差じゃないのかな。
7371:02/11/21 22:24
>>72
はい。WillemV,Prins van Oranje en stadhouder(蘭),WilliamV,king of England(英)のことです。
彼が残した功績は政治面よりも外交面において強いですね。上にあげたようにフランスの領土拡大路線
を防ごうと(無論オランダを守るためですけど)自ら外交のパイになって西欧諸侯を反仏に仕立て上げた
ということですね。
いちばんの大仕事がイングランド王即位というわけです。
74日本@名無史さん:02/11/24 21:57
おらんだっていつから王政になったのでつか?
75日本@名無史さん:02/11/25 00:38
>>74
ナポレオン没落後のウィーン会議(1815年)によって、オランダはOranje家を世襲の王家とする王国になりました。
ちなみに、このときにオランダ王はルクセンブルク大公を兼ね、さらにオランダ独立戦争の際にはスペイン領に残った南ネーデルラント(スペイン継承戦争後、オーストリア領)も、このときにオランダに併合されました。
その後、南ネーデルラントは1830年にベルギー王国として独立し、ルクセンブルクも1890年にオランダから分離しました。
76日本@名無史さん:02/11/25 00:41
>>16
>イギリスは撤退から50年程して
>再度開港する事を求めましたが、
>オランダが英国王とポルトガル王女の結婚を幕府
>に伝えた為許されませんでした。

チャールズ2世が、ポルトガル王ジョアン4世の娘と結婚したことですか?
77日本@名無史さん:02/11/25 04:35
a
78日本@名無史さん:02/11/25 14:49
>>76
Catherine of Braganza (Catarina) (1638-1705)
a daughter of Joao IV, King of Portugal 1640-1656
Marriage:May/21/1662
79日本@名無史さん:02/12/02 20:40
あげ
80日本@名無史さん:02/12/13 20:53
81nanasi:03/01/04 14:24
浮上
82日本@名無史さん:03/01/05 18:20
徳川家康様がオランダがお好きだったからでしょう。 
83日本@名無史さん:03/01/06 12:32
イギリスが撤退せざるを得ないほどの大損は糸か布か?
なぜ大損したんだろう。価格・質ではオランダに負けないはずなのに。
84日本@名無史さん:03/01/08 12:16
だれか答えてやれ。
85日本@名無史さん:03/01/10 23:07
>>83
単純にイギリスよりもオランダやポルトガルのほうが東アジアの貿易拠点をもっていたために仕入れたい商品が思うように
日本に持ち込めなかった。また東アジアの貿易に詳しい人間が平戸の商館員にいなかった。唯一の頼みの綱である三浦按針
はオランダ商館と兼務していたので対立していた。それでもイギリス側は按針と契約して日本向けの商品を仕入れさせよう
と試みるも航海の失敗が相次ぎ、按針も出向先でマラリアをもらい、そのまま死没。その2年後オランダに勝てないまま撤退。

86日本@名無史さん:03/01/11 12:45
>>85
サンクスです。ありがとうございました。
87山崎渉:03/01/11 16:38
(^^)
88山崎渉:03/01/16 08:53
(^^)
89日本@名無史さん:03/01/22 21:20
90日本@名無史さん:03/02/20 18:35
91日本@名無史さん:03/02/20 19:56
92日本@名無史さん
ゴガギーン
          ドッカン
         m    ドッカン.
  =====) ))         ☆
      ∧_∧ | |         /          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     (   )| |_____    ∧_∧   <  おらっ!出てこい家康           
     「 ⌒ ̄ |   |    ||   (´Д` )    \___________
     |   /  ̄   |    |/    「    \
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