文献に書いてあるじゃん。
架空だと主張するなら、別の文献なり、考古なり何らかの根拠が必要じゃないの?
945 :
日本@名無史さん:04/06/26 20:15
別に実在で問題ないでしょう。
崇神=神武説は、古墳時代の開始を下げてたからからありえる
わけで、繰り上がっている今では成り立たない。
東征も伊都国&瀬戸内その他諸々連合の畿内制圧のこととすると
わざわざ「虚構」と主張するまでの必然性ってないと思う。
ただ、なんで橿原なのかというとこがネックではあるが。
946 :
日本@名無史さん:04/06/27 01:04
>>944 その文献の内容がいい加減だから問題になってるんだろ。
文献があればその内容を一から十まで信じるやつは歴史にかかわらない方が良い。
947 :
日本@名無史さん:04/06/27 08:57
神武后媛蹈鞴五十鈴媛は大物主の神妻であり、フリーセックスの時代でもさすがに
三輪神社には不倫相手である神武の社はない。神武の聖婚がないと困るのは綏靖
ことカミヌナカワミミであるが、見るからにローカルカラー豊かなお名前で西頚城・
糸魚川方面のお方であろう。日向と上越を不倫で結ぶがかろうじて聖婚の風を呈
するものの古事記などではこれを大物主の娘のイスケヨリヒメとし、神武は一夜の
共寝を楽しんだとある。不倫なんて無粋な概念のなかった時代のことでこうした話
が堂々と語られていたのであろう。全国の首長が三輪山に集まったときなどは実際
乱交パーティーに近いものであったのかもしれない。その当時の系譜というものは
姫の属する生家の女系であったのかもしれない。
948 :
日本@名無史さん:04/06/27 10:48
神武は日向に家庭を残したまま、出雲系の名前のタギシミミと名のる子と共に
大和に入り、三輪山の神妻と結婚、このタギシミミが腹違いの兄弟とされるカミ
ヌナカワミミの度胸試しで虐殺されるという展開で、現代的に言うと悲劇のようで
もあるが、結果的には多くの国々を結び付けているので接着剤として機能して
いる。戦闘等のアクションが多いのは難波から紀伊、大和なのでこの辺を中心
とし、各地との関係ができた頃のお話のようでもある。
小道具として鏡、矛はあるが銅鐸は出ていない。ヌナカワを西
頚城・糸魚川とすると程近い乗鞍山麓の神岡に鉛などを取った鉱山があり、前
方後円墳等の古墳が多く、八咫鏡も出土しているらしい。白山を越えると越前
でありその先は近江へと続き、北に向かって川下の富山方面にも古代遺跡は
多く、南に向かっては尾張に通じ、東には諏訪大社、更には長野の善光寺など
の中心となっている。裏を返せば神岡を中心とするヌナカワ勢が日向迄影響力
を及ぼした時代のことかもしれない。
>>946 >文献があればその内容を一から十まで信じるやつは歴史にかかわらない方が良い。
そうだな。
そして伝承があっても一から十まで否定するやつも歴史にかかわらない方が良いな。
950 :
日本@名無史さん:04/06/27 21:01
やはり第10代の崇神天皇が初代ではないのか?「ハツクニシラススメラミコト」
という称号が「初めて国をお治めになった天皇」という意味だからね。神武から
開化までの9代のうち、6人は名が日本(ヤマト)・大日本(オオヤマト)・稚日本
(ワカヤマト)で始まっている。日本と書いてヤマトと読むのは、日本という国号
が出来た飛鳥時代以降なので、それより遥か昔の、しかも9代までの天皇の中だ
けに日本(ヤマト)・大日本(オオヤマト)・稚日本(ワカヤマト)で始まる名がある
のも変だ。崇神天皇も含め、それ以降の天皇の名にはそのような例は皆無で、ま
た名が「〜尊(命)」(ミコト)という形になっている天皇も、蘇我氏によって暗殺
された第32代崇峻天皇を最後に全くなくなっている。
951 :
日本@名無史さん:04/06/28 06:41
ヒノモト(日本)という大和とは起源が異なる言葉の実在を想定する必要も
あろうかと。
953 :
日本@名無史さん:04/06/30 00:30
>>949 1から10まで否定してる人間なんているの?
あり得ないことは言わないように。
>>946 1から10まで否定してる人間なんているの?
あり得ないことは言わないように。
>>954 否定してるやつはいないだろ、全てが事実であると信じ込んでるやつは多いが。
>全てが事実であると信じ込んでるやつは多いが。
そんな奴はいないってのw
957 :
日本@名無史さん:04/06/30 14:09
>>956 そういうトンデモ本は世にあふれてるよ。
たとえば?
959 :
日本@名無史さん:04/06/30 16:34
割り込むけど、こういうのってどうよ。
(1)邪馬台国成立時代には既にカムサっていた倭国スメラミコト:
カミヤマトイワレヒコ
カミヌナカワミミ
(2)邪馬台国時代に倭国高天原において倭国統治権が認められずヒミコに属する
大卒であったもの。(但し地域的祭祀権のあるもの)
シキツヒコ
オオヤマトヒコ(大倭ってやつだな)
ミマツヒコ
オオヤマトヒコ
(3)上記であって地域的行政権のみをもち、祭祀権のないもの。
オオヤマトネコヒコ
オオヤマトネコヒコ
ワカヤマトネコヒコ
この時代倭国の元首、首長はヒミコであったが、その没後崇神がその地位を継承し、
祭祀権は男女の専門シャーマンに委譲するという抜本的行政改革を断行。
960 :
日本@名無史さん:04/06/30 16:44
ミマツLoyal Portってのが東西を結ぶ椿井大塚山付近にあり、元葛城にいた
尾張系の首長で后も尾張出身。ところが狗奴国の乱を起こし、更に、崇神朝に
タケハニヤスの乱に巻き込まれるが、この地方はなかなかしぶとく、後に息長
タラシ姫を輩出する。だからやや個性的な名前になっている。
962 :
日本@名無史さん:04/07/01 05:48
正しくはカムヤマトイワレヒコ、カムヌナカワミミだが、こうして並べると後者の叙述の
内容が少ないものの名前上は東西均衡である。カムの意味は人代の始祖の感じで
ある。説話構成は非対称であり大和以西の説話が十分であるのに日本海、東日本が
少ない。これはイザナミ神話でカバーされているというバランス感覚か。或いは前者の
連れ子、(出雲の)タギシミミ誅殺に銅鐸抹殺の歴史など裏の意味があるのか。全体的
に見ると日向と上越(やや奥まるが青銅器原料に不可欠な神岡高山付近飛騨一の宮
近辺に古墳多し)は国土の両端の要所である。飛騨一ノ宮の重要性が二面スクナの
伝承などで打ち消されるのは銅鐸粛清の影響と考えた方がいいのかもしれない。銅鐸
が矛鏡にと転換する時代において神話が作られたために必然的に発生する対象性の
破れとしておこう。
963 :
日本@名無史さん:04/07/01 05:59
欠史8代という形で記紀はハツクニシラス時期をヒミコ(朝貢)時代とするか、崇神と
するかわれわれの判断に委ねられた感じがする。それは中華主義という環境にどう
対処するかという意味から実に巧妙な建国神話といえるのではないか。現在われわれ
にはそこまでの国際感覚はない。
964 :
日本@名無史さん:04/07/01 07:47
対称性分析を進めるとシキツヒコ、ミマツヒコは、セーヌ川、テームズ川、モスクワ川
等同様、磯城港大王(初瀬川)、帝室港大王(木津川)という二つの内陸流通地点の
大王で、鏡で言えば椿井大塚山、黒塚の被葬者辺りが該当しようか。前者より後者
の方が広域の名前を持つのは後者は地理的に東日本全域を治める大王であり、纒向
建設においては筆頭株主である東海の王そのものであったからであろう。銅鐸、前方
後方墳を矛鏡、前方後円墳が取って代わることによってカグツチが象徴するように多く
の粛清が行われた中にあってミマツヒコを残さざるを得なかったことは筆頭株主の強み
であろう。ミマツヒコの次にタラシ(帯)の名がつく孝安、その次は孝霊、その娘がモモソ
ヒメ(ヒミコ)となっているが、タラシを金印の紫綬(1尺1丈)とするとミマツヒコにマワシ
ならぬタラシが回っていない。しかし一連の孝グループのトップである。この辺も面白い。
何かありそうだ。孝とは崇神より年配であるが同じ世代のひとなのか。この孝の時代は
尾張に始まって吉備で終わる。箸墓古墳の建設が始まり完工するころであろうか。設計
は神武と共に来たであろう筑後集団、土木は尾張が地元民を率いて行い、仕上げは
吉備の特殊器台ってなもんだろう。この頃の系譜は野球殿堂のようなもので血脈とは
無縁と見たい。ヒミコはおそらくは神武にくっついてきた火の国の巫女であろう。大和は
国の甲子園。又暑い8月が来るね。
965 :
日本@名無史さん:04/07/01 08:06
箸墓は結果的にはヒミコの寿墳に見えるが、設計時は神武の時代であり、日向から
越-毛野に延びる地域の統合の象徴であり、その当時農業生産力が抜群に延びて
いた近畿の中心に置かれたもので、ヒミコはその司祭者であった。国の統合が固ま
ったのは銅鐸の粛清というリストラの終わった頃であり、その反動が祟りという形で
全国に吹き荒れ始めた頃であった。崇神が祟りを収め、垂仁、景行、仲哀でそれを
維持していくということで三輪王朝の時代は終り、次には三韓の独立運動に共振さ
せられる神功時代へと時は移る。
966 :
日本@名無史さん:04/07/01 11:22
だから、文献を否定するならそれ相応のほかの文献、考古からの
証拠が必要だろ。
それがないじゃん。
968 :
日本@名無史さん:04/07/05 08:55
昨晩放映TBS世界ウルルン滞在記
http://www.ururun.com/で青木さやかが 中国四川省西端の福宝国家森林公園原始林の中の標高約900メートル洞窟
や岩陰を住居として暮らす『岩居人』と呼ばれる人々にホームステイ。室屋の
奥の家族の聖なる部屋に保管される黒漆塗り舟形木棺は結婚記念に贈与を
受け、寿齢記念により更に高級なものを贈与され、古くなったものは若い者に
譲るとのこと。
969 :
日本@名無史さん:04/07/05 08:56
お父さんの黄清海さん(52)、お母さんの陳明学さん(53)、おばあちゃんの
周永懐さん(84)、出稼ぎ中の息子の嫁・葉建容さん(28)、孫娘の玉蘭ちゃん
(6)と4世代が一緒 に暮らしおり、孫娘のト蘭ちゃんは自分の体と同じ位の
大きさのリュックサックを背負って、毎日、片道1.5時間の山のふもとの学校へ
通うが、ト蘭 ちゃんは、とても秀才なので学校への入学は6歳からなのに5歳
で入学が許されたとか。
970 :
日本@名無史さん:04/07/05 08:56
玉蘭ちゃん(6)はさやかに向かい「君は大学教授くらいは勉強した? 31才なん
ていうけど本当は32才位までに成ってるんじゃない?判らなきゃ無視して宿題
手伝わなくてもいいんだよ」といい、さやかは「疲れた」とこぼしていた。家族
から離れて生活しているさやかに皆がその不幸に憐憫の涙をしていた。
日本の民謡を歌ってといわれてさやかは「ドラエモン」をうたった。刈干切歌等
が期待されていたのだろう。
971 :
日本@名無史さん:04/07/05 21:27
日本書紀の現代語訳を読んでいたら神武が屋根瓦を焼いていたように書いてあるが
常識問題として現代語「わわらけ(土器)」と訳するのが正しいと思うんだけどなー。
ひらがわらというのは皿、なべ類だろう。神武の集団の性格はタケハニヤスと似ていた
のではなかろうか。
972 :
日本@名無史さん:04/07/05 21:41
で、
結局、架空って証拠はあるのか。
率直に言って漏れはすごく忙しい。一度書き込んでも丸々一週間は書き込めない。議論にも参加できず、心苦しく思っている。
書きっ放しになるのはご容赦願いたい。
さて、神武帝の時代だが、初期天皇の陵墓は、紛れも無く古墳であって、弥生墳丘墓には分類されない。
つまり古墳時代ということだ。
比定の真偽の問題もあるが、初期天皇の陵墓とされるものが、ことごとく初期古墳の特徴を備えている、即ち丘や山、坂といった、自然の隆起を利用していることを考えれば、大筋では信じて差し支えないだろう。これは考古学と文献の一致の一例。
また、主に九州に分布していた舶載鏡が、後に近畿に分布が移っていること、それに伴って近畿の銅鐸が姿を消していることは、神武東征を髣髴とさせる。これもその例。
時代は下るが、纏向遺跡の外来系土器の大半が東海地方、とりわけ愛知県の物だという事実は、ヤマトタケルの東征を思わせる。
これもそう。
このように、記紀の記述の大筋は、考古学によって裏付けることができる。
>>さて、神武帝の時代だが、初期天皇の陵墓は、紛れも無く古墳であって、弥生墳丘墓には分類されない。
>つまり古墳時代ということだ。
そんなこと言っている考古学者はいない。
マキムクの年代が上がって崇神以前の天皇の存在については否定しにくいとは思うが、
マキムク石塚等の「マキムク型前方後円墳」に当てればいいわけで、欠史8代の
今の指定陵を古墳という奴はいない。
>比定の真偽の問題もあるが、初期天皇の陵墓とされるものが、ことごとく初期古墳の特徴を備えている、即ち丘や山、坂といった、自然の隆起を利用していることを考えれば、大筋では信じて差し支えないだろう。これは考古学と文献の一致の一例。
>また、主に九州に分布していた舶載鏡が、後に近畿に分布が移っていること、それに伴って近畿の銅鐸が姿を消していることは、神武東征を髣髴とさせる。これもその例。
>時代は下るが、纏向遺跡の外来系土器の大半が東海地方、とりわけ愛知県の物だという事実は、ヤマトタケルの東征を思わせる。
>これもそう。
>このように、記紀の記述の大筋は、考古学によって裏付けることができる。
若い学者ではもうあまりいないが、邪馬台国は在地政権であり、これが成長し、
北九州の政権を倒し、大和政権となったという説もまだ根強い。
白石、都出など大御所はほとんどこの説。
柳刃包丁ふりまわす!ハイ!
(( <`Д´> <`Д´>
(/ /) (/ /) ))
< ̄< < ̄<
ウリナラ強盗隊!
ウリナラ強盗隊!
_<Д´ > _<Д´ >
ヘ| |\ ヘ| |\
< <
ちなみに銅鐸は、特殊器台に変化したという説もある。
これを唱えているのはまともな考古学者だが。
977 :
日本@名無史さん:04/07/05 22:39
皇族でも国粋主義者でもないのに、なんで神武天皇を実在とすることが
必要なのか?
いや、だから何で文献に記述がある人を架空にしちゃうの?
証拠があるなら言ってくれよ。
979 :
日本@名無史さん:04/07/05 23:07
>>978 その前に、文献に記述があればなんで実在になるのかを証明してくれ。
文献に記載されていて、他の資料や考古学で否定する証拠がなきゃ、
実在の可能性が強いんじゃないの?
否定する根拠を言えよ。
981 :
日本@名無史さん:04/07/05 23:13
神武天皇の実在は、近代実証史学で証明されているのか?
982 :
日本@名無史さん:04/07/06 06:55
そうした本であってトンデモではない学術的なものってないいような気がする。
実証的なものは難しいにせよ仮説的なものでもあってほしいナー。
983 :
日本@名無史さん:04/07/06 07:13
豊前の石塚山古墳のような東方からの文化への移行は日向などの中部九州が
早いように受け止めている。九州南部の久米などの近畿進出というのも事実だろう。
九州南部が近畿の動乱にインボルブされていくのはありえる。この場合日向方面
から土佐を経由して和歌山を急襲するということもありえよう。瀬戸内を東遷したのは
戦闘部隊ではなくシャーマンのようなものか。熊野方面から入ってくるのは狗奴国であり
神武軍は東西の狗奴国(クニという普通名詞であり、列島原住民系といった意味か)の
連合軍と見たい。土器、朱(水銀)等は東海系狗奴軍、八咫鏡は九州系という風に分け
てみたい。(伊都国に立ち寄って鏡などを貰ってきているのだろう)
984 :
日本@名無史さん:04/07/06 07:50
(1)ニギハヤヒ、徐福等山東半島秦系が馬韓に移住していたものが更に日本に浸透
してきたもので吉野ヶ里、甘木地方にいたものが難波方面に移動。
(2)ニニギ、九州中南部、紀州、伊勢湾の狗奴国、熊野等の列島原住民勢力。
(3)オオクニヌシ、弁韓辰韓、裏日本の安曇海人族。
大和は本来(2)であったものが、(3)の勢力化に入り、その後(1)に占領されるが、(2)の
神武によって復古する。これってどうだ。
985 :
日本@名無史さん:04/07/06 08:14
というか古墳時代というものはこうした構成要素が共存し、絶えず衝突を繰り返していた。
例えば、タケハニヤスなどがそうだ。倭人伝もたまたまその一つの局面をスナップ取り
したものであり、そんなもので全体の風潮を決定できない。全体としては大きなうねりの
中で次第に天皇とか豪族を生み出す社会への移行が始まっていたと見るべきか。
欠史八代の陵墓は古墳じゃないんだろ。じゃ、弥生時代の人だったんだろ
987 :
日本@名無史さん:04/07/07 12:06
そう。陵墓は古墳ではなく弥生墳丘墓とか、方形周溝墓とか。そうしたものの
中にも相当大物らしいのがあるようだ。
988 :
日本@名無史さん:04/07/07 16:27
>984 だけども
(1)ニギハヤヒ、徐福等山東半島秦系が馬韓に移住していたものが更に日本に浸透
してきたもので吉野ヶ里、甘木地方にいたものが難波方面に移動。
この集団が宇佐地方に出た居た頃に
(2)ニニギ、九州中南部、紀州、伊勢湾の狗奴国、熊野等の列島原住民勢力。
上記の集団と合流したか、又は、
(1)は淀川流域で(3)オオクニヌシ、弁韓辰韓、裏日本の安曇海人族と合流して葛城経由
大和を制覇したとでもしないと筑後との地名類似と古墳建設着手に先立つ兵主神
システムの導入がうまく説明できない。(3)については神武によるオオクニヌシ追い落とし
という大義があると考えたいがナー。
なことはない。この時代で考えるなら、吸収では伊都国が圧倒的。
他の候補はないね。
990 :
日本@名無史さん:04/07/07 21:58
考古学的には、伊都国が東遷でも何の問題もないね。
991 :
日本@名無史さん:04/07/07 22:02
伊都国がが衰退し、豊前、豊後、肥後辺りに曙光がさし始める2世紀半ば頃の
倭国の実体を考えている。
してねえよ。
平原以上の遺跡があったら言ってみろよ。
後神武。誤神武。いよいよこのスレも最後か・・・?