1 :
日本@名無史さん:
前からの疑問なんですけどナゼなんだろう?
あんなに権力があれば出来たろうに・・・
そうすれば家康に天下を取られなかったかもしれないし。
歴史詳しい人、教えて下さい。
足利義昭との養子縁組を拒否されて源氏姓を名乗れなかったから。
以上 終了
3 :
日本@名無史さん:02/07/25 18:04
マジでそれだけ?
源氏姓名乗れなかったら将軍になれないの?
秀吉は信長に追放された義昭にも恩賞など与えたというし
なんか説得力ないんやけど。
4 :
日本@名無史さん:02/07/25 18:10
お か ざ り だ か ら
5 :
日本@名無史さん:02/07/25 18:27
納得できる答えをお持ちの方はレスください。
6 :
日本@名無史さん:02/07/25 18:28
出自があやすぃから。
7 :
日本@名無史さん:02/07/25 18:42
関白という将軍より難しい存在をクリアしてるだけに
義昭に断られただけで諦めるのは何か納得できかねますね
別に足利でなくても源氏はいたし、徳川も捏造してるから
無理だったという事ではなかったように思います
勝手な推測ですが、将軍になろうと準備していたら関白にもしかしたら
なれるかもしれない?と解って一度断られて本当だったら次ぎの一手を
考慮中に話が舞い込み将軍の話はほったらかして、関白になったとか
8 :
日本@名無史さん:02/07/25 18:47
ん〜・・・関白ってそんなに難しいんですか?
幕府が出来て徳川政権みたいな政策をしていたら
豊臣の時代はつずいていたのかな?
9 :
日本@名無史さん:02/07/25 19:01
幕府開く事よりも、朝鮮を制圧する方に関心が傾いた。
10 :
日本@名無史さん:02/07/25 19:57
小牧・長久手で家康を倒せなかったことが
朝廷に征夷の失敗と見なされたって聞いたことあるけど
どうなの?
11 :
日本@名無史さん:02/07/25 20:16
何処で聞いた?
「噂の真相」
13 :
日本@名無史さん:02/07/25 20:34
ブブカ
14 :
日本@名無史さん:02/07/25 20:38
東スポ
15 :
日本@名無史さん:02/07/25 20:41
関白でかよったからじゃないの?
律令上は将軍より上なんだからさ。(令外の官だけど)
16 :
【^▽^】胃病ジョーカー土佐守:02/07/25 20:44
秀吉には是非 大坂幕府を開いて欲しかった。
何故か関白も兼務(w
17 :
日本@名無史さん:02/07/25 20:45
>>14 今日の一面、「サンデーサイレンス重体」だったね
18 :
日本@名無史さん:02/07/25 21:10
なんで、幕府を開かなきゃならないんだ?
20 :
【^▽^】胃病ジョーカー土佐守:02/07/25 21:13
幕府を開かないのであれば、大政を天子様に返上し、
関白職も将軍職も廃止すべし。
つまり王政復古。
21 :
日本@名無史さん:02/07/25 21:14
22 :
【^▽^】胃病ジョーカー土佐守:02/07/25 21:16
秀吉や家康のような成り上がり者が「天下人」など許せん!
24 :
日本@名無史さん:02/07/25 21:50
>>21 じゃ、なんで北条攻めや朝鮮出兵で全国の大名は秀吉に従ったのかね?
幕府は武士の棟梁である源氏の血筋の者しか開けません。
わたし源氏系統だから開けます。
26 :
日本@名無史さん:02/07/25 22:13
>>26 いいよ。
でも武家の人でしょうね?水呑○姓出の右大臣なんて嫌だよ(W
>>25
漏れはせいぎ指導員でいい。
29 :
日本@名無史さん:02/07/25 22:40
朝廷と一体の関白だったからこそ対外攻撃がスムーズにできたといえる。
将軍では所詮対外的呼称で物議を醸しだす。
30 :
日本@名無史さん:02/07/25 22:51
>>29 だね。
征夷大将軍は外交権がある役職かどうかはっきりしない。
幕末で幕府のアキレス腱になったのもまさにここ。
31 :
日本@名無史さん:02/07/25 22:57
1588年まで、足利義昭が現職の将軍。
秀吉が義昭から将軍位を剥奪できる正当な理由が全くなく、
そのための工作であった養子縁組も断られたからね。
信長ですら義昭の将軍位を剥奪することはできなかった。
義昭の息子の義尋を人質にしていた信長でさえ、ね。
ちなみに秀吉は平氏を自称してそれで官位も受けているから、
血筋の問題は特になかっただろう。
>>27 いや〜 農家なんだよ 漏れは違うがな
紀宮様とケコーンするよ
それでもダメ?
33 :
日本@名無史さん:02/07/25 23:07
そんな体系的理屈からなのかな〜?
「即物的現実派」が秀吉のイメージなのだけど。
幕府でも外交が出来ない訳じゃないでしょう?
34 :
日本@名無史さん:02/07/25 23:20
>>33 幕府に外交権が無いなんて理屈は幕末まではどこにも出てこないよ。
北条にしろ足利にしろ徳川にしろ外交を実質的に所掌してるじゃん。
そもそも外交権なんて概念、いつごろ成立したんだ?
35 :
日本@名無史さん:02/07/25 23:26
そもそも江戸幕府に幕末までこれといった外交がなかったのじゃ?
>31
信長に朝廷が勧めた三職には、将軍も含まれていたのでは?
37 :
日本@名無史さん:02/07/25 23:38
江戸期では簡単に将軍の呼称をいじった白石の後ろには近衛がいる。
幕府単体では無理。
38 :
日本@名無史さん:02/07/25 23:43
1逝ってよし!!
足利義昭が官職を譲らなかったのと、小牧・長久手で征夷に失敗したから
40 :
日本@名無史さん:02/07/26 00:13
いまだに征夷大将軍は源氏しかなれなかったと言ってる夏厨萎え。
天皇が認めなかったらしいぞ、やっぱり農民の出身とういことで。
公家も反対したらしい。
42 :
日本@名無史さん:02/07/26 00:23
>>41 関白は農民の出身でもなれるのか?
公家が反対した?自分らの最高位
太政大臣には反対せんのか?
説得力無いな。
43 :
日本@名無史さん:02/07/26 00:25
太政大臣と関白はどう違うのれすか
44 :
日本@名無史さん:02/07/26 00:26
45 :
日本@名無史さん:02/07/26 00:27
「先々代、先代のが悲惨な終焉だったので、
「不吉である」と考えたから。」
なんてのはどうかしら?
46 :
日本@名無史さん:02/07/26 00:30
将軍の権威が地に落ちてたら
誰だってなろうなんておもワンだろ
47 :
日本@名無史さん:02/07/26 00:32
太政大臣になった武士は平清盛と足利義満だけ死後の名誉職としては
他にもいたかもしれないが、
関白は秀吉が初というより、関白ができて藤原北家の摂関氏以外にいたのか?
当時秀吉が関白就任は、ものすごい画期的な出来事で非服従の武士に
与えた影響はかなりあったと思える
しかし、将軍だったら幼少でもなれるが関白はさすがにある程度の年令でないと
なれないから豊臣の世襲できなかったのが、その後に影響与えた事は事実でしょう
秀頼も秀吉が死んだ時は中納言だったが、さすがに5才で関白は無理だった
48 :
日本@名無史さん:02/07/26 00:32
>>45 それは朝廷が秀吉に右大臣に任じようとして断った例ですな。
右大臣は信長が殺されたから縁起悪いんで、左大臣がいいYOと言ったら
朝廷側は揉めちゃって、近衛家と二条家の関白相論になっちゃって
結果、どさくさに紛れて近衛前久の融子となって関白になってしまいましたとさ。
49 :
日本@名無史さん:02/07/26 00:36
所詮天皇の権威を利用してたに過ぎないな
て、いうか下克上の常識だろう。古い権威を利用して新しい政権を作るのは、信長しかり、秀吉しかり、家康しかり、曹操しかり。
臣下の者が国を治めるには朕の認可が必要ぞえ。
朕の許しなく日本国を治めた者はいないぞえ。
中世以降は単なるかざり。ある意味溥儀と大差ない。
朕は武力以上の力を持っておるぞえ。
54 :
日本@名無史さん:02/07/26 03:58
戦国時代は室町幕府が存在していたにもかかわらず、各地の武士は天下めぐって争ってたんだろ。
当時としては、幕府を開けば豊臣政権が安定するなんて思いもよらなかったんじゃないの?
「幕府=中央集権統一国家」って図式は、江戸時代をくぐり抜けた現代だから出てくる発想であって・・・
55 :
日本@名無史さん :02/07/26 10:45
鎌倉幕府以降の征夷大将軍は坂東にその拠点があることが暗黙の了解になっていた
節がある。明確な規定はないけどね。源氏、足利氏ともにその拠点を関東に置いていた。
秀吉は家康を関東に封じ込め内心シメシメと思ったんだろが最終的に家康が将軍宣下を
受ける際の有力な根拠になった。
本来、幕府とは陸奥征伐のための軍事司令官の幕営を指すことからその拠点は関東に置かねばならない
。
ってのはどう?
56 :
日本@名無史さん:02/07/26 10:48
端的に,幕府をつくる必要がなかったからでは?
57 :
日本@名無史さん:02/07/26 10:54
シメシメ
豊臣天皇
実効支配してるんだから、いいんじゃない
源氏じゃないなんてのは、ヘタレ司馬遼のハリセン講談だよ
60 :
日本@名無史さん:02/07/26 21:54
幕府ってなんかオサムライぽいよね
62 :
日本@名無史さん:02/07/26 22:04
63 :
【^▽^】胃病ジョーカー土佐守:02/07/26 22:05
俺が総統になるのがベスト。
足利も信長も秀吉も家康も糞。
あなた最近あっちこっちで評判悪いね
65 :
日本@名無史さん:02/07/26 22:11
ほんとだよ。「ようどうはくそ。」
北海道中学2年の歴史大好きな女です☆彡
秀吉が幕府を開けなかった理由知ってますよ〜。
えっと、幕府を開けるのは源氏の子孫にあたるものなのです。
だから平氏の子孫に当たる豊臣家は幕府を開けなかったそうです。
なので、秀吉は関白などの仕事をしていたんですよ〜。
67 :
日本@名無史さん:02/07/26 22:20
つーか、関白に比べれば征夷大将軍の地位なんてどうでも良し。
68 :
日本@名無史さん:02/07/26 22:20
餌(領地)で魚(義昭)を釣って養子にしてもらおうと企んでいたが
断られてたね。
>>66 へえー、あんた北海道ですか?
夏休みいつから?いま数学何やってる?どうしてネカマやってるの?
つまんないネタは時代劇板でどうぞ
71 :
【^▽^】胃病ジョーカー土佐守:02/07/26 22:21
天子=王道
織田・豊臣・徳川=覇道
我輩=民道
72 :
【 ´,_ゝ`】禁酒ショッカー阿波守:02/07/26 22:22
>71
ジョーカー=尿道
73 :
日本@名無史さん:02/07/26 22:22
74 :
【^▽^】胃病ジョーカー土佐守:02/07/26 22:24
>72
ショッカー=外道
国道、水道、
おいおいこのコテハン共なんとかしろ。
77 :
日本@名無史さん:02/07/26 22:34
関白は世襲にできるよ。
だってすぐに秀次にゆずっちゃったじゃん。
78 :
【^▽^】胃病ジョーカー土佐守:02/07/26 22:41
上方の人には、私のような東京・横浜の田舎者に礼儀を
教えて頂きたいものです。
79 :
日本@名無史さん:02/07/26 22:42
80 :
日本@名無史さん:02/07/26 22:43
武家関白という新たな試みは良いと思う。
また官位によって家格の序列が判るというのも
徳川がまんまパクってるし。
ジョーカーは消えろ
82 :
【^▽^】胃病ジョーカー土佐守:02/07/26 22:44
>79
俺のひいじいさんが高知県出身。
私は関八洲のドアズマ者です。
83 :
日本@名無史さん:02/07/26 22:56
豊臣という新姓を下賜されたことを過小評価したらいけんわな。これはある意味
血の総入れ替えみたいなもんで、素性も知れない土民から、今後はいかなる
官職につくことも可能な超名族への転生を意味するわな。
もともと実力で武士の頂点に立ってたんだから、そんじゃ関白んなって公家の
頂点も兼ねちまえ、と秀吉が思っても不思議じゃないし、事実そうしたわな。
その地位の前では、将軍なんざ「武」しか統括できない半端仕事だわな。
だから将軍にならなかったし幕府も開かなかった、それだけの話だわな。
ただ秀吉にも一時期、将軍を目指したフシはある、これは書いとかにゃいけんわな。
84 :
日本@名無史さん:02/07/26 23:00
秀吉はとりあえず成り上がれれば何でも良かったんだろうが
確かにそうだ、結局源平藤橘路線に戻っちゃたけど
彼と角さんの偉大さはそこだなワールドクラスだなw
豊臣秀吉と木下藤吉郎って兄弟でしょ?
86 :
日本@名無史さん:02/07/26 23:02
87 :
日本@名無史さん:02/07/26 23:03
……リア消?
88 :
日本@名無史さん:02/07/26 23:06
誰か私にエッチなこと教えて?
90 :
日本@名無史さん:02/07/26 23:09
なんで陽子無知無能はこの板にいるの?
>>89 偽者はやめて!
そんなことをすると、わたしの不幸を全部、あげるよ
>>90 結構本気なんじゃないか、と、他のスレ見てると思っちゃうよ。
94 :
【^▽^】胃病ジョーカー土佐守:02/07/26 23:11
>89
私が貴女(??)に教えていただきたい(w
>>92 って事は85はお前なんだな?
つかトリップでも使えよ。
日本史板で雑談かよ!!!
>>92 つかトリップって何?
マジわかんないから教えてくだはい
誰か私をトリップさせて〜
名前の後に#を入れて、好きな数字、アルファベットを半角で入れろ。
例えばこれは、名無し@#test
と入れた。
解ったか?
豊臣秀吉と木下藤吉郎って兄弟でしょ?
とかぬかした馬鹿。
100 :
日本@名無史さん:02/07/26 23:21
誰が本物の陽子?なんてことはどうでもいいから豊臣幕府の話してけれ
101 :
◆Mai/kN1Y :02/07/26 23:24
夏休みだからしょうがないなぁ
ばーか♯の前に陽子って入れろや
103 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/26 23:29
入った?
104 :
【 ´,_ゝ`】禁酒ショッカー阿波守:02/07/26 23:30
豊臣幕府が出来たら、大老は蜂須賀小六だよね!
105 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/26 23:31
幕府ってだれでも作れるの?
106 :
日本@名無史さん:02/07/26 23:33
うん
107 :
【 ´,_ゝ`】禁酒ショッカー阿波守:02/07/26 23:33
>105
味噌と小麦粉(薄力粉)があれば誰にでも作れます。
ん〜
陽子@御側用人にお伺いを立てねばな
109 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/26 23:36
>>107 嘘つき!
それは食べ物のレシピでしょ?
幕府っていうのは近藤勇とか新撰組の人みたいな人達が悪者をやつける
役所のことです。
いくら無知識なわたしでもそれぐらいは知ってます
五奉行・五大老で官僚機構は成立するとおもっていたんだろう。
だいたい朝鮮出兵の時から、ちょっとボケかけていたという気もするので
当初から幕府を作る気がなかったんじゃないか?
……ほれみろ。
こいつ真性じゃねぇか。
112 :
【 ´,_ゝ`】禁酒ショッカー阿波守:02/07/26 23:37
>109
役所ォ?!
113 :
【^▽^】胃病ジョーカー土佐守:02/07/26 23:38
近藤局長を悪者呼ばわりする109は生き晒しに処す!
114 :
【 ´,_ゝ`】禁酒ショッカー阿波守:02/07/26 23:39
115 :
【 ´,_ゝ`】禁酒ショッカー阿波守:02/07/26 23:39
>113
つうか貴様は日本語読めないのか?
116 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/26 23:40
>>113 違うよ。近藤勇とか水戸のご隠居とかが悪い人達をやつけるんだよ。
それぐらいの理屈わかんない?プッ
あんまり社会とか勉強してなかったなー
ああ、夏休み!
118 :
【^▽^】胃病ジョーカー土佐守:02/07/26 23:41
ホントだ、スマソ>109
119 :
日本@名無史さん:02/07/26 23:42
おい、豊臣幕府の話は…
120 :
【 ´,_ゝ`】禁酒ショッカー阿波守:02/07/26 23:44
>116
◆こどものためのれきしこうざ【わるいひとってだぁれ?】
わるいひとちたちは、「とさはん」とって、いまのこうちけんにすんでいました。
そのなかでも、いぬいたいすけ・かたおかけんきち・たにたてきのさんにんは
「ごくあくさんにんしゅう」として、みんなからとってもきらわれていました。
<おわり>
121 :
日本@名無史さん:02/07/26 23:45
陽子には死相が出ておる
122 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/26 23:48
>>120 ひらがなしか書けないの?
てか、悪者ってけっこう、代官系とか多くない?
あと、おかっぴきとかも結構、ワル多いよね?
やっぱ幕府がしっかりしなきゃだめだよ。
でも大岡越前の助とか、けっこう幕府長官としては良かったみたいだよ
123 :
【 ´,_ゝ`】禁酒ショッカー阿波守:02/07/26 23:50
>122
つうか貴様、ネタキャラだな。
124 :
日本@名無史さん:02/07/26 23:50
陽子=同人女
125 :
【 ´,_ゝ`】禁酒ショッカー阿波守:02/07/26 23:58
大老は蜂須賀小六で山内一豊は口取り。
126 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/27 00:02
長官は大岡越前の助か、水戸のご隠居がいいね♪
いい人ぽっいしね。
あと、副長官は鞍馬天狗とか、森野石松とか喧嘩強そうでいいんじゃない?
127 :
日本@名無史さん:02/07/27 00:03
ぷ
悪人の代表は越後屋だろ
129 :
日本@名無史さん:02/07/27 00:05
あ、こっちだった(ぷ
130 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/27 00:06
131 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守:02/07/27 00:07
ショッカー、貴様は蜂須賀小六と共に阿波に来た泥棒か?
132 :
オナニーを知った中二:02/07/27 00:09
最近憶えたてオナニーを暇さえあればやってます。
みんな僕のことを猿とよびます
こんな僕も関白になれますか?
133 :
日本@名無史さん:02/07/27 00:17
>>132 いや、自分では気づいてないかもしれないが
君はすでに立派に関白の仲間入りをしてるよ
135 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/27 00:22
>>132 関白じゃなくてタンパクだったりして…プッ
136 :
日本@名無史さん:02/07/27 00:23
陽子はもうオナニーデビューしたの?
陽子って寂しいんだな・・
139 :
日本@名無史さん:02/07/27 00:30
陽子=新井満子
140 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/27 00:32
もうそのコテハンも終わりだね
人間6年下天のうちをくらぶれば夢幻の如く成り
142 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/27 00:44
>>141 誤字ハケ―ン。下天→天下。日本語は正しく使おうね♪
もしかして、陽子は小学生か?
俺は軍事奉行より陽子ちゃんの方が明るくて遊べるから好きだな
もちょっと気の利いたのがあるといいんだけどね
所詮時代劇ネタじゃいつまでも待たないだろう
147 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/27 00:51
>>143 失礼ですね。がまりなりにも中学は卒業してますけど何か?
ネタであってくれと祈るよ……。
可哀想な奴……。
露と落ち露と消へにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢
150 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/27 00:55
>>149 いきなり俳句とか言わないでちゃんと普通の言葉でしゃべれば?
151 :
日本@名無史さん:02/07/27 00:56
陽子のスリーサイズは?
152 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/27 00:58
78、56、82
人を欺かんとして時に無垢を演じる者は
往々にして純粋な者と誤解され不幸に至る
モンテスキュー
ごめん愚鈍だった↑
155 :
日本@名無史さん:02/07/27 01:01
本当に凝った消防ネタだな、時世の句は短歌だろ。
つーかレスのびてるんで覗いたら・・・
156 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/27 01:03
柿食えば鐘が鳴る鳴る法隆寺
松尾バショウ
わたしだって、これぐらいの俳句は知ってるよ
辞世 の方が一般的なような
158 :
日本@名無史さん:02/07/27 01:14
鐘が鳴るなりです。
素で間違えただろ?
ええと
もう陽子晒しスレでいいんですか?
160 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/27 01:25
>>159 陽子の後ろ、何て読むの?「しゃ」「にし」と゛っち?
161 :
日本@名無史さん:02/07/27 01:26
>>156 芭蕉は狙って書いたネタだろうけど、鳴る鳴る は本当にそうだと
思っていた節があるな。
今ごろ、恥かしさで死にかけてるんじゃないか?
162 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/27 01:32
>>161 ぜんぜんはずくないんだけど…
てか、学校でそう習ったしね。どっちでもいいんじゃないの?
意味いっしょだし
>160
さらし
In article
>>162, 陽子 ◆vGiOKgRo //162 wrote:
>
>>161 > ぜんぜんはずくないんだけど…
> てか、学校でそう習ったしね。どっちでもいいんじゃないの?
尋常小学校でそうならったのですか;)
> 意味いっしょだし
165 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/27 01:42
>>164 てか、そんな変な名前の学校じゃなかったし…
一応、これでも学大の付属小だったんですけど
In article
>>165, 陽子 ◆vGiOKgRo //165 wrote:
>
>>164 > てか、そんな変な名前の学校じゃなかったし…
> 一応、これでも学大の付属小だったんですけど
おもしろいと思っているのかな?
167 :
日本@名無史さん:02/07/27 01:54
>>142 そうだよね!下天って何て読むんだろうね?
カテンかなあ?シモアマかなあ? まさか、ゲテンじゃないよねえ!
あははは・・・・陽子さんは賢いなぁ、感心、感心。
168 :
日本@名無史さん:02/07/27 01:56
169 :
日本@名無史さん:02/07/27 02:41
洋子ムネちっちぇーな
170 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/27 02:43
>>169 洋子じゃなくて陽子だからね。
ムネは昔から貧乳です(藁
171 :
日本@名無史さん:02/07/27 02:46
洋子レス早いな
172 :
陽子 ◆vGiOKgRo :02/07/27 02:50
だから洋子じゃないって…
173 :
日本@名無史さん:02/07/27 02:53
で、貧乳洋子はいったいいくつなんだ?
174 :
日本@名無史さん :02/07/27 02:54
洋子って野島?
175 :
日本@名無史さん:02/07/27 03:45
思わずワロタよ。
どうせなら、凄いトリップ付けて欲しかった。
でも、
>>147が、2chっぽくて萎え。
176 :
日本@名無史さん:02/07/27 09:15
しかし、陽子って相当のドキュソ(死語...)やなぁ。
ヒッキーか?
スレ名見て書き込もうと思ったけど、途中から雑談スレになってて‥‥‥。
とりあえず、
>>1が云ってる「豊臣幕府を作っておけば家康に天下を獲られなかったかもしれない」
というのはどう思います?
最終的に結果は同じだったとは思うけど、家康は関白に対抗するのに征夷大将軍という名目を
存分に活用したし、徳川の天下獲りにもう少し時間がかかって‥‥‥そのあいだに家康の寿命が
尽きていたらあるいは違う展開になっていたかも。
178 :
日本@名無史さん:02/08/13 20:05
豊臣幕府が出来ていたら家康は関白になってた
…わけないか。
179 :
日本@名無史さん:02/08/13 20:42
武士出身じゃないから幕府という方向を目指さなかった、
という考え方はありかな。幕府を立てることも目指したという説もあるけど。
義昭の養子になろうとしたという話は信頼できるの?
180 :
日本@名無史さん:02/08/13 21:52
1代限りの使い捨てカメラだから
181 :
日本@名無史さん:02/08/13 23:33
しかし、たとえ豊臣家の幕府が成立していたとしても、その後の展開として
(1)徳川家康が豊臣家康と改名し3代将軍になり、以後、4代将軍豊臣秀忠、5代将軍家光と家康の子孫が将軍位を継承。
(2)徳川家が執権なり管領なりの地位で幕府の実権を掌握。その後将軍家豊臣はただのお飾りに。その後子孫が永らえるのか、それとも3代あたりまでに一族皆謎の死を遂げ、宮将軍でも位につけましょかあ、となるのか。
(3)徳川家康が天皇家を懐柔し、「朝敵豊臣将軍家を討伐せよ」との綸旨をもらい、クーデターを起こし、将軍となる。
といった豊臣にとって暗い末路しか浮かばないですが。
ただし、
>>177さんの言うように家康の天寿が早めに尽きてしまうようなことがあれば、(1)から(3)、いずれのストーリーも大きな狂いが生ずるのは確か。
182 :
ちゅう太郎:02/08/13 23:42
あの・・・、過去レス読みましたが源氏の血筋しか将軍になれなかったっていう
のは事実ということで良いのでしょうか?
183 :
日本@名無史さん:02/08/13 23:51
平氏を名乗る織田信長に征夷大将軍の官職の打診が来たという話を聞いたことがあるけど、それはどう考えるの?
184 :
日本@名無史さん:02/08/14 00:21
小牧長久手の戦いで家康信雄連合軍に勝てなかったので、
征夷大将軍の可能性はなくなりました。
圧倒的な軍事力があってこその征夷大将軍。
残りは関白か太政大臣になるわけで、なぜ関白を選んだのかわかりません。
令外官だから?
185 :
真奈美 ◆depebJ8Q :02/08/14 12:13
石田三成がカスだったからでしょ?
186 :
日本@名無史さん:02/08/14 13:05
足利尊氏が鎌倉幕府を倒し、室町幕府をたてたとき、
「源氏である足利一門が平氏である北条一門から天下を取り戻すのだ」
という理屈で、自分の行動を正当化したのが始まりではないか。
徳川氏は源氏を名乗ることによって室町幕府の正当な後継者であることを印象づけようとしたのだと思われる。
歴史的には源氏でなければ征夷大将軍になれないという事実はないはずだ。
187 :
日本@名無史さん:02/08/14 13:15
信長も秀吉も幕府なんてドーデもいいし、無くても日本を支配できると踏んでたが、
家康は頼朝オタだったので幕府を作りたかっただけ。
188 :
日本@名無史さん:02/08/14 13:30
>>187 「吾妻鏡」をしこしこ読んでたって話は聞くね。
でも、ヲタというより、自分の政権へはむかう者を無くしていくための
理論武装のための支柱としたということでは。
「お前ら、俺みたいな流れ者の子孫ですら、天下が取れたんだぜ。みんな
どんどんチャレンジだ!」というわけにはいかないから、
「いやー、これまではあまり言わなかったけど、俺って源氏の子孫だったん
だぜ。いやー、驚いたよ。うん、だから、俺が天下を取れたのも血統がめちゃ
良かったおかげだったわけだ。お前ら、間違ってもマネなんかするなよ。怪我
すんぞ。」とか言っとかなきゃいけなかったわけだ。
189 :
日本@名無史さん:02/08/14 15:37
190 :
日本@名無史さん:02/08/14 15:40
構わないのが吉だと思うが。
191 :
日本@名無史さん:02/08/14 18:08
ぼくも、
将軍でも関白でもどっちでもよかったから、に一票。
将軍義昭がぐだぐだ言うから、釜茹でにしようと、湯を沸かして
たら関白になれそうだったから、ほいほいとそっちに行った。
江戸幕府の長期政権を知ってるから将軍の方が。。。って思うけど
当時はどっちでもよかったのでは?
192 :
日本@名無史さん:02/08/14 18:30
193 :
日本@名無史さん:02/08/14 18:59
結局
>>83の香川さんの見解がもっとも妥当だと思う。
想像でしかないが、当時の「将軍」なんて「暗殺」されたり
「追放」されたりといった忌まわしいイメージがつきまとっていた
と思うし、将軍を超える官位を賜った以上、あえて将軍職にこだわる
必要はない。
それに「豊臣幕府」を開いたからといって幕府が2代で滅亡しない
という保証になった訳でもあるまい。
194 :
日本@名無史さん:02/08/14 20:28
結局,豊臣がだめだったのは,幕府云々じゃなくて,足元を固めず,朝鮮に行った
ことと,極端に少ない親族のためじゃない(多くて駄目なこともあるが)?
徳川だって4代,7代が幼少でもやっていけたのは,幕府の存在だけが要因ではない
でしょう。
195 :
日本@名無史さん:02/08/14 20:29
武家の覇者が「幕府」を開く時、それは新政権を朝廷から分離したい場合だと思う。
頼朝は、いわば武家の手で関東独立国をうち建てたかった。
尊氏は、各地で勢力を確立した武士達が、朝廷に接近し過ぎない様に管理するため「幕府」を京に置いた。
家康も、朝廷と付かず離れずの政策をとった。
秀吉の場合、単独で「武家の棟梁」たり得なかっただけじゃないか?
196 :
日本@名無史さん:02/08/14 20:29
せめて秀次を生かしておけば。。。
秀次ってけっこう子だくさんだったね。もったいない。
197 :
日本@名無史さん:02/08/14 20:40
せめて,秀頼が生まれなければ…
余談になるかもしれないが・・・
秀吉は、一発屋で終る可能性を、内心で予見・覚悟してたかも知れない。
もともと農民だから、自分一代がそこまで登れば満足だろ。
だが、家康はちがう。ただでさえ、代々の家系を存続し盛り立てて行く義務感を持っている。
だから貪欲。武家とは、そんなものだ。
秀吉には、すこし甘さがある。
199 :
日本@名無史さん:02/08/14 21:02
>>195 室町幕府に関してはかなり苦しいと思うが。
むしろ朝廷に接近しているのが室町幕府だからね。
195では幕府自体については上手く避けてるけど・・・。
200 :
195 198:02/08/14 21:03
秀吉には無いだろ、統治システムに対する構想が。
全国の大名をどう統制して行くか、政権内の諸役をどうするかなど。
肝心なのは、そんな地味な部分だよ。
たとえ「幕府」を名乗っても、一人幕府にしかならないよ、きっと。
徳川幕府の官僚機構や、幕藩体制の確立を見てみろ、すげーシステムだ。
これでこそ、全国は治まる。これしかない。家康しかない。
201 :
日本@名無史さん:02/08/14 21:08
>>200 そういうのを秀長に一任していたからなぁ……。
202 :
日本@名無史さん:02/08/14 21:13
>>201 それでもどうかなあ。要は譜代が少ないよね。しかも,対立してるしね。
秀吉には魅力はあるが,豊臣家には…。だろうし。
203 :
195 198:02/08/14 21:13
>>199 確かに室町幕府は、朝廷の力を最大限に利用している。
だが、政権を朝廷外に持ち出したからこそ、
「建武の親政」に失望した武士のバックアップを得られたのも事実だ。
要は、「幕府」というモノが、どんな人々に担がれているかという事だ。
全国の武士にとって、朝廷は偉いけども雲の上の存在、
幕府は自分達武士が担ぐ「お宝」と思っていた事だろう。
204 :
195 198:02/08/14 21:14
203は、199へのレス。
205 :
日本@名無史さん:02/08/14 21:15
>>202 そりゃちょっと秀長の評価が低すぎると思うぞ。
文治派と武断派の対立はどこにでも存在する。徳川家にもあったぞ。
それが表面化するかしないかが問題であって。
>>205 結構秀長は評価してるよ。それでも,使えるこまが少なかったのではない
かと。
207 :
195 198:02/08/14 21:23
203で言っているのは、室町幕府のことね。
「朝廷は偉いけども・・・」というのは、中世人の感情。
208 :
日本@名無史さん:02/08/14 21:47
室町時代には「朝廷は偉いけども・・・」なんていう感情は無いだろ。
完全に室町幕府に抑えられてたし
>>208 誰からも無視されるほどなら、残らなかったろうよ。
室町も、戦国も、徳川の世も。
人々が「偉い」と思ってるからこそ、将軍宣下をもらったりするんだろ。
210 :
日本@名無史さん:02/08/14 22:14
足利幕府も尊氏・義詮の時代は有力守護の派閥争いが絶えませんでしたしね。
高師直兄弟・仁木義長・細川清氏(義詮管領)・畠山国清(関東管領?)・斯波義将(実際は親父)など…
徳川も初期に本多対大久保や土井など秀忠側近衆×本多正純などあったし…
というか江戸時代全般にわたって派閥争いはあったし…(田沼×定信、紀伊×尾張など)
209追伸(長くなるよ)
江戸時代になると、ほとんど無視状態になるな。
それは、幕府があえて持ち上げなかった為。
その頃は、もう武家政権も朝廷の力が必要なくなるんだよ。
「朝廷の力」とは、いわゆる権威とか、具体的に持っていた官職の任命権など。
戦国の頃までは、残ってたと思うよ、天皇の宗教的神聖なども。
そんな中世的な心理を打ち破ったのが、下克上の世。
これは、権力層だけの実体験じゃないぞ。
足軽でも鉄砲さえ持てば、陰から大将を討ち取れる。
名馬も甲冑も供揃えもいらない、支給された鉄砲の方が威力がある。
そんな現実を目の当たりにすれば、家柄が全てで無いことは、万民に知れ渡る。
家柄より、武器の優劣、数、それを可能にする経済力。
それを早期に理解したのが信長、拡大したのが秀吉だろうな。
212 :
日本@名無史さん:02/08/14 22:25
>>208 室町幕府は朝廷なんて気にしてないな。
それ以前に自分のところがヤヴァ過ぎて。
地方の有力者の方が朝廷を気にしてる。
力なき室町幕府よりは威光がある。
213 :
日本@名無史さん:02/08/14 23:39
徳川幕府の統治システムは、
三河・駿府以来の譜代家臣団に、旧武田家家臣を組み込んで組織されたもの。
もともと徳川家は、個人のカリスマよりも組織力で力をつけてきた大名だ。
家康は、極端にいえば、将軍がいなくなっても徳川家(?)による支配が揺るがない体制をつくろうとしていた。
その点、譜代の家臣をもたない秀吉は、そんな発想はもちえなかったのでは?
>>213 やっぱり組織は「人」ですか。
小身者からなる官僚制の方が、安全だろうと、
おのずと徳川家を盛り立てるだろうと。
215 :
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216 :
日本@名無史さん:02/08/15 00:11
>>214 そうそう。
その証拠に徳川幕府は、
前田家、伊達家などの有力大名にも幕府内での職階を与えず、
外様はあくまで外様として扱った。
外様のなかで多少優遇した程度だ。
一方秀吉は、徳川・前田・上杉・毛利などの旧敵の大大名を大老として遇している。
217 :
日本@名無史さん:02/08/15 00:14
>>216 逆だろうね。
秀吉の行動を見たから、家康はそう遇したんだよ。
置かれている状況も立場も違うから、それのみを見て語るのはどうかな。
218 :
日本@名無史さん:02/08/15 00:19
秀吉は成り上がりゆえに譜代の家臣が少なかったし,親族も少なかった。
使える家臣は長浜以降の家臣だし,多くの家臣はかつての同輩。
でも、家康が天下を取った頃は、大名の面子も戦国の頃から大分変わっていたからねぇ。
戦国生き残りの武闘派ヤクザのような連中よりも、苦労知らずのボンボン相手にする方が楽だったろうということは想像に難くない。
そんな大名の操縦法も先に秀吉が手本を示していたし。
家康が、もし天下を統一した頃の秀吉の立場だとしたら、秀吉と同じことが出来たとは俺には思えないな。
220 :
日本@名無史さん:02/08/15 00:47
秀吉が朝鮮なんか侵略したから未だに日本人は朝鮮人に叩かれるんだ。
秀吉は大馬鹿野郎だ!
221 :
日本@名無史さん:02/08/15 01:01
朝鮮併合やWWUがなかったら叩かれないでしょ。 朝鮮出兵を理由に。
世界中で殺し合い奪い合いやってたじゃん。
222 :
日本@名無史さん:02/08/15 01:10
むしろ、中国からの侵略の方が多い
なぜそっちのほうは見向きもしない
223 :
日本@名無史さん:02/08/15 01:14
そうでしょ。
モンゴルもひどかったらしいよ、朝鮮半島侵略
224 :
日本@名無史さん:02/08/15 01:15
朝鮮人なんて殺しておけばいんだよ
225 :
日本@名無史さん:02/08/15 01:19
>>222 日本は負けたから
中国勝ったから
勝ったやつに補償を求めるなどもってのほか
226 :
日本@名無史さん:02/08/15 01:20
関東大震災の時朝鮮人て井戸に毒入れたんだろ?
↑それは、デマ。
当時は朝鮮人の他に、虐殺を止めに入った人など多くの日本人も犠牲になった。
229 :
日本@名無史さん:02/08/15 05:26
>>223 今の半島人はほとんどモンゴル人
だってブサイクだろ
230 :
日本@名無史さん:02/08/15 08:18
かわいい子おおいじゃん
日本人より
ユンソナとかジョンアーとか
231 :
日本@名無史さん:02/08/15 13:06
>>211 信長の下克上精神は「長篠の戦い」に現れてる。
武田は旧兵制からなる騎馬隊、それを足軽中心の鉄砲隊で撃破した。
全国に「これからは、鉄砲の時代ですよ! 私はその威力を信じます。
私の合理性を信じて付いて来なさい!」と言っている気がする。
同時に、鎌倉以来の名族を足軽隊で討ち取る、というパフォーマンスで
下克上精神を象徴したかったのかな。
232 :
日本@名無史さん:02/08/15 13:08
幕府作ったら、なにか変わったか?
233 :
日本@名無史さん:02/08/15 13:26
>>232 幕府の内容によるな。
何を持って、「幕府」と言うのだ?
征夷大将軍になれば、それで幕府成立か?
(言葉としては、幕府は征夷大将軍の本陣の事だが)
オレが思うに、
幕府を開くとは、新政権を公的な物として(正式に)立ち上げると言う事だ。
豊臣家はその中心であるけども、新政権はもはやその私物ではない、
幕府は公儀であって、征夷大将軍も1ポストに過ぎない。
ある意味、個人の会社を株式会社にするのと似ているな。
「公的な物」に昇格する通過儀礼が、朝廷による将軍宣下であり、
「天皇のご沙汰を頂く」という事が、また公である品質表示みたいなものだ。
234 :
日本@名無史さん:02/08/15 13:31
>>233 天皇(実質的には関白)を頂点とする、朝廷じゃだめなの?
朝廷も公儀だよ。
235 :
日本@名無史さん:02/08/15 13:36
>新政権を公的な物として(正式に)立ち上げると言う事だ。
公的なもの、とは何ぞや。
別に天皇は頼朝に「幕府を開け」と公式に命じたわけでは無いと思うが。
236 :
日本@名無史さん:02/08/15 13:38
民主主義とは違うけど、日本の政権というのは、被支配者の上にフア〜ンと浮かんでいるような物。
大名だけが被支配者じゃなくて、その又者とか、地侍・土豪とか、大商人・大百姓たち、
彼らが大枠で納得するような形でないと安定しない。
それが「公」、倫理観の話じゃないよ。世論の支持が要るということ。
朝廷は、平安末期いらい、その機能を果たしてないんだ。
だから、代理を立てる慣習が出来た、つまり幕府だ。
>>235 頼朝は、日本政府から関東をもぎ取ったんだよ。
武士の、武士による、武士のための幕府。
頼朝が総大将だが、中身は関東の武士達のクーデター。
それまで、武士達は受領に頭を押え付けられていたからね。
領地の登記業務みたいな権限が国司(受領)にあって、機嫌を損ねると、所有権を認めてもらえない。
一旦そうなると、他の武士やら親類やらに、寄ってたかって奪い取られるだろうね。
そこで幕府の登場。その領地に関する権限を幕府が受け持ったんだ。
関東御分国、平家没管領などの名前で、朝廷より国司権限をあたえられた。
幕府の成立は、そんな感じだよ。武士にとっては、土地を保証(本領安堵)して欲しかっただけだ。
その代償として、武力の動員に応じる(奉公)。
朝廷は、いくら奉公しても、当てにならない。源義朝、平忠盛がいい見本だ。
いわさそんなことはわかっている。
でも、国司権限というなら、当時で言えば、藤原氏も持っていた。
秀衡に至っては、陸奥守と鎮守府将軍だからな。
では、なぜ藤原幕府じゃないんだ?
地方政権と言う意味では頼朝と変わらんと思うが。
239 :
日本@名無史さん:02/08/15 14:53
ていうかさ、征夷大将軍になれなきゃ幕府は開けないわけよ。
その点でだめだったんだよ。征夷大将軍は源氏の血をひいてないとだめなんだよ。
引いてなかったから開けなかったんだよ。そうゆう事。
240 :
日本@名無史さん:02/08/15 14:54
>>239 秀吉が藤原家の血をひいていたとおっしゃるか?
241 :
日本@名無史さん:02/08/15 14:55
ひいてないっちゅーの
>>238 藤原氏のそれは、全国的なものに発展しなかっただけさ。
東北限定を決め込んでたら、全国の武士を見方に付けられない。
頼朝は、頼って来るものを拒まなかった、器が大きいのさ。
243 :
日本@名無史さん:02/08/15 15:04
ところで名称は、大坂幕府になったのか、
それとも伏見幕府になったのか?
豊臣家の本拠地は大坂なんだろうけど、
政治を行う場所はやっぱり伏見?
244 :
日本@名無史さん:02/08/15 15:06
いわさ、頼朝政権を公式には地方政権と解釈しているから、そう言ったんだよ。
ちなみに俺の「幕府」の定義は
武家を中心とした全国規模の組織化された一定の政権であり、そのトップは朝廷より公式に役職や官位を任命されたもの。
といった感じかな。
豊臣政権が幕府とは言えないのは、組織をもっていなかったため。
最近では5大老とか5奉行制度も存在が怪しいしな。
なお、トップの役職は征夷大将軍でなくてもいいと思っている。
実際、頼朝は数年後征夷大将軍を辞任しているからね。
>>244 まさに権力の中枢。朝廷も意のままに動かせる。
でも聚楽幕府は何かパッとしないなぁ。
247 :
日本@名無史さん:02/08/15 15:14
>>245 組織がなかった?
即座には納得できないな?
組織が無かったのになんで戦乱を勝ち残れたの?
秀吉の才覚だけ?
248 :
日本@名無史さん:02/08/15 15:22
>>246 聚楽第が当時の京のどの町にあったのかは知らないが、
その町の名前がついたんじゃないか?
室町に屋敷を構えたから室町幕府の例にならって。
249 :
日本@名無史さん:02/08/15 15:30
関白は征夷大将軍より上と見たならば、幕府など作っても無意味。
組織らしい組織は無いと思うぞ。
織田信長もね。
当時の大名達は家来というより、同僚に近い。
また三成らも秀吉の個人的な秘書官のようなもの。
例えて言えば、幕府の組織を今でいえば総理と内閣とすれば、秀吉のそれは
自民党最大派閥程度のようなもんと思われる。
議員として言えば、故竹下も橋龍も1回当選の代議士も「同格」だかんな。
豊臣政権の職制ってどんなものだったのだろう。
関白(太閤)、五大老五奉行くらいしか聞かないんだけど。
252 :
日本@名無史さん:02/08/15 15:39
>>250 それは、徳川も同じ。
幕府開闢と同時に強固な組織ができたわけではない。
何代にもわたって作り上げられた組織だよ。
秀吉が亡くなった時点の徳川家の組織と豊臣家の組織が
それほど違っていたとは考えられない。
確かに徳川幕府の初期は強固ではないが、一応の組織はあったと思われる。
もともと、幕府の組織は徳川(松平)家がまだ三河の大地主程度の組織を元に作られているから。
それが体制が固まると同時に強固な組織になったに過ぎない。
秀吉の場合にはそういう組織らしいものが見当たらない。
だから、○○部門はだれそれ、とかいう資料が出てこない。
>>245 >>実際、頼朝は数年後征夷大将軍を辞任しているからね。
初期には、前の内大臣家政所として、いろいろ御家人に命令を出してるね。
政所とは摂関家にもあったもので家政機関に過ぎないと思うのだが、
公的権限の権原としてはちょっと変だな。
自分の領地を分与した形をとってるのかな?
関東御分国とはそういう意味か?
>>250 251
内政の組織などは、まだ必要ないんじゃない?
地方については、それぞれの大名が勝手にやっているわけだし、
民政に関しては、戦争を早く終わらせる事がまず先決。
いわば、戒厳令下の状態であって、
平時の政府機関云々より駐留軍の指揮官で専決。
256 :
日本@名無史さん:02/08/15 20:42
>>245 官職、特に高官職を短期間で辞任するのは当時の慣例みたいなもの。
当時の官職と言うのは、その人がどのくらいまで上り詰められるか
という極位が重要で、現在どの官職かと言うのはあまり重要ではない。
職権の分離がはっきりできていない時代だから、前太政大臣という
肩書きであれば、太政大臣と同程度の発言力はあった。
257 :
日本@名無史さん:02/08/15 21:15
>>245 >>256 頼朝は征夷大将軍を辞任していないとういう説も有力なんじゃないの?
下文が「将軍家政所下」から「前右大将政所下」に戻るのは、
征夷大将軍に就任し、左記の名義としたが、四位相当の官位である左記名義より、
三位相当の右記の前職名を使う方がよかろうと戻した。
頼朝が「征夷大将軍」であるのは誰もが知るところであるから、見栄えのいい前職名を使ったというのは納得がいくような。
258 :
日本@名無史さん:02/08/15 21:19
現役高官だと宮廷行事が煩雑だから即辞任が普通では?
259 :
日本@名無史さん:02/08/15 21:30
>>258 征夷大将軍って、そんなにいっぱい宮廷行事に出ないといけない官職かな?
260 :
日本@名無史さん:02/08/15 22:49
根拠もなにもないけど・・
秀吉はヨーロッパの絶対王政を夢見てたというのはなしか?
261 :
yoyoi:02/08/15 23:14
幕府は源氏でないと開けない。足利氏も源氏でライバルの新田義貞も源氏だ。徳川家康(松平氏)は系図をいじった疑惑が
残るが一応源氏ということになっている。従って秀吉や信長が源氏ではないので幕府は開けなかったらしい。
ただ征夷大将軍は源氏以外の人もなっているので紛らわしい。
262 :
日本@名無史さん:02/08/15 23:22
>254
政所とは摂関家にもあったもので家政機関に過ぎないと思うのだが、
公的権限の権原としてはちょっと変だな。
当時3位以上に序せられると、政所を持つ資格を公的に認められる。
頼朝は1190年に従2位・右大将に任ぜられているから、この時点で頼朝の
持つ組織は公的な組織になったといえる(国会議員の公設秘書みたいなもんか)。
そこで、鎌倉幕府成立を1190年とする見解もある。
>256
当時の官職と言うのは、その人がどのくらいまで上り詰められるか
という極位が重要で、現在どの官職かと言うのはあまり重要ではない。
頼朝の場合には一概にそうも言えないと思うが。
確かに藤原道長のように実際の権力を持っていた人ならそうかも知れんが、
頼朝はさほど朝廷で権限があったとは言えない。
会社で言えば、取締役どころか関東支店長のようなもん。
そのため、征夷大将軍という肩書きはそれなりに持っている必要はあったのでは?
右大将は即辞任したが、これはむしろ後白河に対するあてつけの要素が大きい。
>257
頼朝は征夷大将軍を辞任していないとういう説も有力なんじゃないの?
俺的には辞任をしていたと思う。
辞任の理由は当時盟友だった九条兼実との手切れの証という説が有力。
ま、それはおいておくとして、次ぎの頼家の将軍宣下は頼朝の死後3年経過後の1203年。
もし頼朝が辞任していなかったとすれば、即将軍宣下はされていたと思われるため。
263 :
日本@名無史さん:02/08/15 23:29
>>262 >もし頼朝が辞任していなかったとすれば、即将軍宣下はされていたと思われるため
ここの根拠が良くわからないけど?もうちょっとくわしく説明して欲しいね?
>従って秀吉や信長が源氏ではないので幕府は開けなかったらしい。
俺はこの見解(通説?)にやや疑問を持っている。
確かに当時では征夷大将軍は源氏のみという故事先例が確立していたが、その気になればなんとでもなったと思われ。
足利義昭には養子になることをけられているが、いくらでも源氏の末裔はいたと思うし(山名とか吉良とか)。
実際彼は本来藤原氏の中のもっとも格が高い5摂家しかなれない関白になっちゃたんだしさ。
>>264 俺も同意。
後出しの意見っぽいよね。
信長なんかは、幕府という体制に全く興味が無かっただけと見るけど。
266 :
日本@名無史さん:02/08/15 23:35
信長は平氏です
秀吉は変人です
俺は学者では無いから、あくまで与太話&推測だけど…
もともと頼朝の征夷大将軍は当時公家で盟友だった九条兼実の尽力によるもの。
で、その後頼朝は九条兼実と手を切り、その政敵である土御門通親と手をくんだ。
そのときにいわば、征夷大将軍を辞任することで、兼実と手を切ることを明確にしたと思われる。
しかし、土御門通親は頼朝−兼実ラインを断ち切ることで、兼実を失脚させ、頼朝も事実上「失脚」させることに成功した。
その後土御門通親は後鳥羽天皇の外戚としてものすごい権力を握る。
だから、朝廷への官位をもはや頼朝に渡すつもりは無かったのだろう。
だから、頼家が1199年に家督相続しても、征夷大将軍を与え無かったと思われる。
頼家が征夷大将軍になれるのは、通親死後の1203年。
通親の死後、兼実の息子良経や慈円など九条一族が復活していることと無関係ではないだろう。
でも、この頃には頼家には幕府でなんの力も無くなっていた。
268 :
日本@名無史さん:02/08/16 00:58
家康が幕府を開いたのは、
まだ豊臣家が影響力をもっていたため、徳川家の天下に不安を感じていたからでは。
「正統な支配者はこっちだぞ」と世間に知らしめるための、いわばパフォーマンス。
秀吉には自分の地位を脅かすようなライバルはいなかったため、幕府を開く必要はなかった。
室町幕府が存在していたにもかかわらず100年以上戦乱を繰り返してきた当時の武士たちにとって、
「幕府=天下統一」という図式は成り立つはずがなかった。
269 :
日本@名無史さん:02/08/16 01:04
秀吉はうっかり平家を名乗ったとかいう説なかったっけ。
仕方なく「藤原」姓を得て、「豊臣」姓を下賜されたとか。。?
間違ってたらスマソ
270 :
日本@名無史さん:02/08/16 01:07
で、別に源氏じゃなければ将軍になれないなんて歴史的事実はないんだけど、
家康の目的が「支配権の正統性を主張すること」だったので、
「鎌倉幕府・室町幕府の正式な継承者」ということにしたかったんだね。
そのために徳川家を源氏の子孫にしてしまった。
公家に上に君臨する関白に勝る正当化の方法はこれ以外にない。
271 :
日本@名無史さん:02/08/16 01:21
源氏の将軍が三代で途絶えた後、藤原氏あたりから将軍を選んでた。
初期の信長は藤原氏を主張していたんだが、上洛のあたりから
平氏に変えた。
272 :
日本@名無史さん:02/08/16 01:35
>>271 九条頼経は源氏の血を引いてる。頼朝から見て姪の子供。
273 :
日本@名無史さん:02/08/16 01:38
調べてみたら源氏じゃない将軍っていっぱいいたよ。
坂上田村麻呂、文室綿麻呂
藤原頼経、藤原頼嗣、宗尊親王、惟康親王、久明親王、守邦親王
護良親王、成良親王
274 :
日本@名無史さん:02/08/16 01:43
カワイイ陽子たんが現れるスレはここですか?
源氏武士政権思想は鎌倉以降でしょ。
鎌倉に源氏なき後の将軍とか・・・
歴史の基本的な事だからみんな勉強してね。
276 :
日本@名無史さん:02/08/16 01:59
>>273 大伴弟麻呂の場合は単なる尊称で官職ではないのでしょうか?
277 :
日本@名無史さん:02/08/16 02:06
護良親王の場合の「征夷大将軍」の「夷」って、イコール鎌倉幕府というか得宗家だよね。
皮肉なことに。
ところでMSのIMEで「護良」が一発で変換できるんだね。MSって「南朝派」?(w
278 :
日本@名無史さん:02/08/16 02:07
>>273 藤原頼経以降は武士の政権が出来上がってるねぇ。。
279 :
日本@名無史さん:02/08/16 10:49
>護良親王の場合の「征夷大将軍」の「夷」って、イコール鎌倉幕府というか得宗家だよね。
皮肉なことに。
親王が征夷大将軍になったのは、鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐が京都に戻ってから。
彼の就任は当時功績1番でめきめき力をつけてきた足利尊氏への牽制のため。
280 :
日本@名無史さん:02/08/16 11:07
>>277 「もりよし」なら変換できるけど「もりなが」だと変換できないね。
281 :
日本@名無史さん:02/08/16 11:09
森永…
変換できるぞ。
282 :
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283 :
日本@名無史さん:02/08/16 11:18
征夷大将軍は源氏でなければなれない。秀吉は足利義昭の養子になって源氏姓をもらおうとしたが
断られる。そこで人身最高位の関白になり、天皇を崇拝することで、自身の卑しい身分を相殺し、
天下を統治しようとした。ちなみに関白も限られた身分の者しかなれないが、近衛家の養子になること
でその問題を解決。関白に就任後即、近衛家の姓を捨て、豊臣の姓をもらい、自身の身分を貴族とした。
秀吉が幕府を開けなかったのは、自身の卑しい身分と、卑しい身分から這い上がった、秀吉を妬む旧貴族
が主要因であったと思われる。
284 :
日本@名無史さん:02/08/16 11:32
>>283 >近衛家の養子になる
近衛家だったか?
今出川(菊亭)家じゃなかったか?
それに、源氏しかなれないなんて慣例なんか、簡単に覆すことも可能だったんじゃないか?
だって、朝廷は以前信長に対して『任官自在』と言っていたし、太政大臣の打診もしていた。
285 :
日本@名無史さん:02/08/16 11:33
>卑しい身分から這い上がった、秀吉を妬む旧貴族が主要因であったと思われる。
じゃ、五摂家筆頭、つまりもっとも公家で格の高い近衛家が養子にしたのはなぜ?
286 :
日本@名無史さん:02/08/16 11:34
俺も源氏説って微妙だと思うんだよなー。
過去の慣例により、って言うけど、そもそも慣例と呼べるほど幕府無いし。
287 :
日本@名無史さん:02/08/16 11:36
>秀吉を妬む旧貴族
旧貴族ってどういう人たちよ?
288 :
日本@名無史さん:02/08/16 11:43
>>283 征夷大将軍より関白の方が、妬まれると思うが?
禿同。
会社で言えば、秀吉はアルバイトの学生みたいなもん。
征夷大将軍といういわば「支店長」格にもどうかと思うが、
関白という「代表取締役社長」になったら、ぶっとぶぞ。
あ、天皇は「代表権の無い会長」ね。
290 :
日本@名無史さん:02/08/16 11:54
源氏しか将軍になれないから義昭の養子になろうとしたんじゃなくて、
義昭が将軍職をまだ握ってたから、「正当な後継者」となることで
将軍に就こうとしただけでしょう。
秀吉が関白となってからも3年間、義昭は将軍のままでしたし。
(さすがにあきらめて出家しましたが)
291 :
日本@名無史さん:02/08/16 11:57
今川家で育ち、後に吾妻鏡を出版させたりした家康がたまたま征夷大将軍に憧れてただけで、
他の武将たちにとっては征夷大将軍なんてそれほど価値なかったんじゃないか?
292 :
日本@名無史さん:02/08/16 11:58
>>289 征夷大将軍は、取締役・事業部長クラスかな?
それも、会社の売上の95%くらいを稼いでいる事業部の。
293 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:15
>それほど価値なかったんじゃないか?
価値がないなら戦国の騒乱の半分はなくても良かったことに
なると思うけどね。
例え有名無実の足利将軍でも権威がある存在だからこそ
あれほどの政争があったのだろう。
まして自ら最高の実力者となったならば・・・
294 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:16
これは俺の仮説であるが、秀吉が幕府を開かなかったのは、三成の建作が大きいのでは?
というのは「幕府」となると、侍所などで武官にも一定の権力を与えなくてはならない。
候補としては、黒田孝高、加藤清正といったところか。
しかし、明らかに秀吉−三成ラインは武官を排除する方向を指向している。
そこで、「関白」という地位を得ることで、「幕府」とは異なった武家政権を目指そうとしたのでは?
295 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:18
トンデモ?
トンデモ?
296 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:18
>>293 征夷大将軍に価値があったのか、足利家、およびその支配システムに価値があったのかは難しいところ。
297 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:18
>武官を排除する方向を指向している。
身内の武官を排除するなんてのは、家康も最後はやってただろ。
将軍だからといって幕府を開く義務があるわけでも、
ましてその組織構成まで規定されていたわけでも全然ない。
秀吉はむしろ全国の有力大名を排除できなかったから
政権の寿命を縮めたわけだけど。
298 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:19
>>294 その当時は三成はまだそこまでの政治力は無かったでしょう。
299 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:19
黒田はともかく、清正が遠ざけられていたってのはどの辺りから……。
300 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:21
>>296 支配システムに組み込まれるのは嫌なのに
将軍を担いだ男がいるのをお忘れか。
かの男をしてすら将軍の価値は知っていたわけだが。
301 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:22
旧貴族=身分だけが唯一の武器、っていう意味です。確か近衛家なはず。間違っていたら
すいません。貴族<皇族>っていうのはしたたかで、武家の中でも勝った方の人間につく。そして
勝つ人間がわからないうちはどちらにも口を出さない。秀吉は当時の天下人で、権威を得るために
貴族になろうとした。だから、貴族たちを丁重にもてなした。貴族なんてのは優雅に暮らせれば、
誰が天下人でもかまわないから、その点では、秀吉と思惑が一致してたから、源平藤橘にくわえて、
豊臣の姓を新たに作って秀吉を貴族にした。それに当時の迷信で「源平が交互に天下を取る」っていうの
があったらしいから、「平氏」を名乗っていた信長の次は源氏が天下を取る、という迷信を信じて秀吉は
源氏姓を求めた。貴族は先例、迷信を尊重する人種だし、人の心を上手に使って出世してきた秀吉は
その辺の事情も考慮したんじゃないかな。
302 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:25
だからなぜ「旧」?
公家と皇家の区別もついとらんし……。
303 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:31
秀吉はもともと武家じゃないから、武門の棟梁たる将軍職に興味がなかったんじゃないか?
304 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:36
>>300 だからそれは足利家の価値かもしれないでしょう。
現にかの男は任官自在にも関わらず、将軍にはならなかった。
305 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:36
旧貴族とは「昔貴族だったけど、今は貴族ではない」と言う意味ではなく、
祖先伝来の貴族と言う意味。公家と皇族の定義づけなんてそんなに意味のあるもの
ではないし。秀吉は皇族からも養子を取っているが、それも自分の身分を高めるためだろ。
確か後陽成の弟だと思うが。
306 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:39
>>299 朝鮮の役が終わった頃から遠ざけられた。
307 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:40
303>>、官位なんて所詮統治するための道具だろ。秀吉にとっては征夷大将軍
より、関白のほうが都合がよいと思ったから、秀吉は関白を選んだに過ぎない。
308 :
日本@名無史さん:02/08/16 12:51
朝廷による支配より、ご恩と奉公を基礎にした武士の支配の
原則の方が強力な気がする。武家の棟梁=征夷大将軍な訳だから、
将軍になった方がいいんじゃないかな?、と思うんだけど。
どの辺はどうなの?
309 :
日本@名無史さん:02/08/16 13:00
>>305 説明もなしに自分の造語で書かれても読むほうは戸惑う。
>>293, 296,300,304
俺は将軍になろうと思った家康のほうが特殊だったんではないかと考えたんだよ。
>>300のいう価値なんかは「利用価値」であって、自らその地位につきたいというものではないよね。
少年時代を今川家で過ごした家康は「将軍」にあこがれる前提があるけど、
他の人にとっては、なりたいと思う地位だったのかが疑問。
311 :
日本@名無史さん:02/08/16 14:07
>>260 >>根拠もなにもないけど・・
>>秀吉はヨーロッパの絶対王政を夢見てたというのはなしか?
それを言うなら、信長だろう。
一国一城として、信長の任じた者が一国を治める。
ヨーロッパの絶対王政の流れと似てるな。
さしずめ、ローマ教皇と聖職者が天皇と公家衆、封建諸侯が大名。
これと並行して、重商主義と常備軍(国王近衛軍)で富国強兵の道へ・・・。
これは、信長の思想や業績にもあると思うよ。
ヨーロッパの政治的流れを勉強していたと思われ・・・。
312 :
日本@名無史さん:02/08/16 14:43
>>280 最近は「もりよし」と読まれていたというのが定説なんだろ?
313 :
日本@名無史さん:02/08/16 14:45
>>310 そもそも今川家にいれば将軍にあこがれるってのが
無茶苦茶だと思うが。
義元は憧れてなんてなかっただろうよ。
314 :
日本@名無史さん:02/08/16 14:45
>>311 >一国一城として、信長の任じた者が一国を治める。
これを絶対王政とは言わないと思うが。
315 :
日本@名無史さん:02/08/16 15:28
信長を征夷大将軍に補任しようという動きはあったが、
秀吉を征夷大将軍に補任しようという動きは朝廷に存在したの?
朝廷から見た場合、信長は征夷大将軍でもよいが、
秀吉には認められない、という見方があったとかはないのかな。
源氏や平氏は天皇の血を引くけど、藤原氏は違うんだよね。
その点から信長や秀吉の改姓問題を見るってのは無意味なのかな。
316 :
伊達遠江守家中:02/08/16 15:35
>314
>>一国一城として、信長の任じた者が一国を治める。
>これを絶対王政とは言わないと思うが。
一国を治めるが、それは領地として与えるのではなく仮に預けるもので、彼(信
長に任じられた者)の俸給は領地でなく(例えば)蔵米として与えるのだとした
ら? また、居城も城主としてでなく、城代として預けられているとしたら?
こうなると、彼は絶対王政下の県知事と相似していると思われ。
317 :
日本@名無史さん:02/08/16 15:42
>>316 そのように説明していただければ納得です。信長の政策の肝は
「公地公民」的に人と土地を切り離していくところにあるような。
でも、それはヨーロッパの絶対王政の影響というより、古代の理想的
律令制の「イメージ」への回帰では。信長が目指したのは_自分を_
頂点とした律令国家ではないのかな。
318 :
日本@名無史さん:02/08/16 15:49
あのですね。
超基礎知識ですが
一般に皇胤の復権という事象は長屋王事変に始まり
史上何十回、何百回繰り返されてきました。
院に寵愛された伊勢平氏、
清和源氏の東国武士団棟梁としての地位の確立、
直方流平氏を名乗った北条氏の独裁など
時代が降るにつれて皇親勢力が強化されていったのは確かです。
319 :
日本@名無史さん:02/08/16 15:51
しかし橘氏の凋落、長屋王失脚、天武系から天智系への乗り換え、
伴善男の応天門変への関与疑惑、
宇多上皇の菅原道真留任のとりなしの摂関家による拒否、、、、
ありとあらゆる古代史の局面で皇親勢力が藤原氏・摂関家との政治闘争に
敗れてきたのも紛れも無い事実です。
320 :
日本@名無史さん:02/08/16 15:57
源氏というと殿上人を筆頭とする公家のことを通常指し
村上源氏や嵯峨源氏が有名でした。
村上源氏は頼道、教道の代に殿上に大挙進出し一世を風靡しましたが
そこまでが限界でした。
もちろん大織冠鎌足の直系という摂関家の神格を脅かすことを出来なかった。
同じ源氏と申せども八幡太郎はおそろしやと京の市井で囁かれたのは
その源姓を名乗る家の中で
最近ではヤクザ稼業を生業とする一家がある、気をつけろ、目を合わすんじゃないぞ、
という京都で殺人誘拐を専門とする新興勢力のアブナイ人達がいるぞ、
という警告であったわけです。
321 :
日本@名無史さん:02/08/16 16:07
つまり清和源氏が貴種として東国の連中に奉られたところで
それ未開の坂東ならではのそれ相応のレベルのものです。
もう一方の武家の棟梁であった平泉の奥州藤原氏も
田原藤太の子孫を称していましたが
京の摂関家とは同じ藤原のお家だなど、とは
本心思っていませんでした。
藤原が僭越だとして藤井だとか名乗っています。
それほど阿弥陀峰の鎌足公の慰霊は京に限らず
日本全国で恐れ奉られていたのです。
元寇、建武の頃に鎌倉北条得宗家が関西へ初めて勢力を伸ばすまで
東国勢力は西国へはノータッチでしたし、
西国では摂関家の地位は断突の一位でした。
322 :
日本@名無史さん:02/08/16 16:16
歴代足利将軍の母親を見ると初代尊氏の上杉氏(勧修院流藤原氏)に始まり
そのほとんどが藤原氏です。藤原氏を名主として仰ぐ荘園としては
土佐中村(一条氏)や島津領薩摩大隅など西国にはたくさんありました。
この日本史上の巨族が開祖鎌足以来おそらく初めて経済的危機に見舞われたのが
信長の指出検地、秀吉の太閤検地の実施でしょう。
323 :
日本@名無史さん:02/08/16 16:20
>>321 阿弥陀峰?
>元寇、建武の頃に鎌倉北条得宗家が関西へ初めて勢力を伸ばすまで
>東国勢力は西国へはノータッチでしたし、
鎌倉初期の東国武士の旧平家領への進出はどう捉えるのでしょう?
324 :
日本@名無史さん:02/08/16 16:32
頼朝が決して将軍として追慕されることが無く
右近衛大将として東国に諸将に記憶されたのがなによりの証拠です。
画期的な政治を開始していろんなことをした、と頼朝について歴史教科書で書かれていますが
実際頼朝が成し遂げたことで彼独自の発想と呼べるものはほとんどない。
総追捕使をいうなら平正盛、忠盛の存在自体が総追捕使でした。
守護地頭の設置も平氏の知行国制度のほうが徹底していた。
富士川以西で頼朝に呼応する動きがほとんどなかったのは
院=平氏勢力の威圧がどれほど三河遠江駿河に浸透していたかをあらわしています。
幕府というのは右近衛大将の居所=幕営を指す漢語で
鎌倉に限らず京で右近衛大将の居所には平安期つねに使われていました。
325 :
日本@名無史さん:02/08/16 16:33
>>316 信長は家臣の異動はやってるけど、ちゃんと「領地」として
与えてるよ。妄想はやめましょう。
例えば柴田勝家に「重要なことは信長に相談せよ」とは言っているが、
基本的に幅広い職権を与えている。
信長のやり方を突き詰めていくと、徳川幕府の譜代や親藩のあり方に
近いと思うがね。
まあ外様に相当する連中が生き残れたとは思わないが。
地方分権志向があったとは言えると思うね。
326 :
日本@名無史さん:02/08/16 16:36
>>324 >幕府というのは右近衛大将の居所
左近衛大将の居所は?
揚げ足取りじゃありません。
知らないので教えて欲しいだけです。
327 :
日本@名無史さん:02/08/16 16:51
一地域ある場合は一国を包括的に支配してしまうという概念が
応仁以降初めて一円支配として日本史上に登場したという見方には私は反対です。
尊氏、義詮の頃にはすでに藤氏一揆や花一揆といった勢力結集が見られました。
また山陽山陰に所領を固めた六分の一殿山名氏や
堺、四国を領国化した細川氏、
中世博多支配に執着した大内氏などは
中世山城、近世の平城城郭の原点と呼べるような
点と線を結び付ける強力な地域支配を展開しています。
一般に九州三人衆が
右近衛大将頼朝公の御遺志をついで
前三国、後三国、奥三国の支配を行ったというのは
足利尊氏の筑紫落ち以来、長門探題直冬、九州探題一色氏ら
次々と足利一門が下向してくるのに対して
対抗して打ち出された政治概念であり
それが事実であったという確証はどこにもありません。
328 :
日本@名無史さん:02/08/16 17:04
阿弥陀峰は秀吉の墓所で
鎌足は多々峰でしたね。
左近衛大将の居所については当方存じ上げておりません。
あしからず。
西国における平家没官領が膨大であったのは確かですが、
それを決済する機関が古代西国支配を受け継ぎ大宰府で行われたのも事実です。
鎌倉がどの程度介入していたかは再度検証しなければなりません。
蒲冠者範頼も天野遠景も共に逃げ帰るように短期間で鎮西を去っています。
両者とも鎮西諸人からリコールされたのです。
両人のあとを受けた大宰少弐武藤氏はもともと平家に仕えていました。
清盛、池大納言が大弐を歴任した平家の大地盤であった西国九州を管轄する
太宰府における事実上の現地行政官のトップでした。
329 :
日本@名無史さん:02/08/16 18:02
幕府を開くときはその地で次のことを御門の前で宣誓をしなければいけません。
「宣誓私は天子様より征夷大将軍の職をいただき末永く大日本帝国を防衛維持管理することを誓います。」
これを言うのをためらったので関白になりました。
330 :
日本@名無史さん:02/08/16 18:11
征夷大将軍手のはヨーロッパで言えばカイザーみたいなもの
その伝説は古代の蛮族討伐軍の歴史的な威光により支配。
日本では役職が伝説になり。
ヨーロッパでは人物名が称号になった。
しかし両者とも神の代弁者による任命が必要なところがおもしろーい。
331 :
日本@名無史さん:02/08/16 18:23
>しかし両者とも神の代弁者による任命が必要なところがおもしろーい。
西の方のルーツは「元老院とローマ市民の名において」じゃないの?
332 :
日本@名無史さん:02/08/16 18:25
そうかまちがった。でもなんとなく似てるよね。
333 :
日本@名無史さん:02/08/16 18:27
>>329 義昭の養子になろうとして断られた話はどうする?
334 :
日本@名無史さん:02/08/16 18:34
カールマルテルにしろシャルルマーニュしろ全キリスト教勢力を代表して
イスラム勢力と戦うことは稀だった。
というかほとんどなかった。
カールマルテルは生涯百度会戦してうち一度だけピレネー山脈を越えてきた
ムーア人イスラム勢力と戦っている。そのたった一度のイスラム勢力との会戦
=ツールポワチエが彼の武勲を象徴させる名前になってしまった。
(イスラム勢力に”鉄槌”を下した者=マルテル)
実際にはカールマルテルにしろ復活西ローマ皇帝シャルルマーニュにしろ
その生涯のほとんどを南仏の旧ローマ人支配勢力の掃討戦に費やしているのだ。
この点がまつろわぬ者=蝦夷との戦いに使ったエネルギーよりも
むしろ京、東海、鎌倉での身内との血みどろの政治抗争に終始した頼義、義家、頼朝ら
血に塗られた源氏の政治習性と似通っている。
335 :
日本@名無史さん:02/08/16 21:09
シャルル・マーニュにとってどうかは知らないけど、頼義、義家、頼朝にとって
奥州は正に宿願の地なんじゃないの?
336 :
日本@名無史さん:02/08/16 21:44
八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の三兄弟は
お世辞にも仲が良くなかったようです。
特に足柄峠の美談とは裏腹に新羅三郎と義家は陰湿な勢力争いを生涯繰り広げたようです。
晩年の義家の失脚も弟の黒い影がちらほらします。
新羅三郎の子孫は甲斐源氏として着実に東国に定着していますが
義家の子のほうは義国、義親のいずれが嫡流なのか
今もって判然としません。
鎌倉将軍家、室町将軍家それぞれが嫡流を名乗っておりますが
義親は朝敵として隠岐で追討の悲惨な末路をたどり
義国は藤姓足利氏のもとで寄生生活を送っていました。
337 :
日本@名無史さん:02/08/16 21:47
それに蝦夷にしても
後三年の役の頃では
ぞれぞれの部族集団が柵に立て篭もってたたかうといった古代的な展開ではなく
むしろ中世的な家格争い、権力抗争といった複雑な様相を呈していました。
清原氏の内訌に半ば強引にいちゃもんをつけて介入したのが義家です。
前九年については頼義、義家父子はたしかに苦労したようで
見方によっては清原氏に成果をさらわれたようなものです。
しかし貴種が俘囚相手に正義の戦いをしていたという清和源氏の言い分は眉唾です。
安部氏が俘囚の出身というなら
清和源氏も秀郷流藤原氏も桓武平氏も工藤氏も中央権門から見たら似たようなものです。
338 :
日本@名無史さん:02/08/16 21:48
北家藤原氏(秀郷流藤原氏)、
南家藤原氏(工藤流)、
皇胤(清和源氏、桓武平氏)
といった北関東、南関東、東海地方に割拠した部族集団は
ほとんどが地方豪族が中央権門につながる末端受領貴族の系譜を
譲り受けたと言われています。
例えば(子)源満仲は(父)経基王より年上でした。
ということは明らかに河内の土豪が東国西海で武名を馳せた
中央権門につながる経基王に名簿を差し出し
なおかつその家名を名乗らせてもらったというところが実状のようです。
系図上では藤原純友も関白基経の甥になりますが
これも伊予に地盤を置く海上勢力の家の出身の一大の波乱児が
摂関家につながる良範に養子入りしたらしい。
339 :
日本@名無史さん:02/08/16 22:11
頼朝は奥州藤原氏の平泉の御館政治を真似て
鎌倉で1985年に政所を設置したといわれています。
つまり平将門以来東国人が念願としていた現地人による東国一帯の支配というのは
頼朝のオリジナルアイデアではないのです。
あくまで頼朝は、奥州藤原氏、越後の城氏、(地域的に
東国といえませんが)北陸の利仁将軍後裔を名乗る富樫氏
それぞれが覇を唱えていたなかの一勢力です。
奥州総討ち入りは頼朝の鎌倉と奥州藤原氏の平泉の戦いであって私闘です。
軍中天子の命を聞かず、将軍の命を奉ずという頼朝ブレーン大庭景能の言葉は
中央の命を待つこと無く鎌倉を出征していった様子がわかります。
頼義、義家、頼朝の念願の地が東北だとするなら
それは東海関東東北に割拠した全ての武族に機会均等に開かれた”武家の棟梁”の地位への
熾烈なレースを経たものであったわけです。
<<1 それは、秀吉が農民出身で平氏や源氏の血が流れてなかったから
征夷大将軍になれなかったんだよ。
341 :
日本@名無史さん:02/08/16 22:43
>>340 今更阿呆なレスすなボケ
秀吉は平氏を自称して官位を受けてるよ。
将軍になれるなれないは別の話だ。
343 :
日本@名無史さん:02/08/16 22:46
>>341-342 仕方ないだろ、400年以上前の人なんだから。
当時の学問水準を考慮しなきゃ。
345 :
日本@名無史さん:02/08/16 23:01
>>338 >摂関家につながる良範に養子入りしたらしい。
それなら正統でしょう。
346 :
日本@名無史さん:02/08/16 23:11
347 :
日本@名無史さん:02/08/17 00:19
征夷大将軍が首班の武家政権を幕府と呼ぶのは
江戸時代のエライ学者さんが、将軍の前線基地の名称を当てたのが始め。
豊臣時代以前に幕府なんて呼ばれていないわけ、頼朝も時政も大江弘元も
尊氏も幕府なんて一言も言ってない。豊臣政権が続けば何らかの名称を、
エライ学者さんが考えるかもしれませんが… 短命に終ったのが残念。
348 :
日本@名無史さん:02/08/17 00:36
>>347 吾妻鏡(鎌倉時代成立)にも多数の幕府という言葉が登場するけど。
349 :
日本@名無史さん:02/08/17 00:49
柳営鎌倉にあるべきや、他所にあるべきやの建武式目冒頭の諮問のように
幕府は古代から中世、近世全般に使われた政治用語でしょう。
持氏の遺児成氏が鎌倉を放棄して古河に移り住んだあとも
地元の住民は報国寺近辺の朽ち果てた田畑を”御所”と尊称した、という記述が
”鎌倉街道”の中にあります。
地元の百姓商人から見たら”御所”でも”公方様”でもどちらでも良かったのでしょう。
本来公方は天皇、朝廷を指す言葉ですが基氏以来の関東管領職に使われていました。
関東管領職はかわりに鎌倉公方の執事上杉氏を指して使われるようになりました。、
350 :
日本@名無史さん:02/08/17 00:53
頼朝は右近衛大将、右幕下と呼ばれることが多いので
幕府というのは強烈に頼朝を意識した言葉だと思います。
351 :
日本@名無史さん:02/08/17 01:16
>>348 幕府の名称は古代中国からある。
でもそれを武家政権の名称にあてたのは江戸時代から。
それにしても秀吉は、なんらかの将軍職についてた?たとえば、近衛大将とか。
352 :
日本@名無史さん:02/08/17 01:16
俺は347ではないが、「幕府」という言葉自体は存在していた。
ただ、鎌倉時代や室町時代の「幕府」という言葉の意味は「将軍の住む館」と言う意味で
いまでいえば「皇居」という意味。
この将軍というのは実際には右大将をさす。
よって、鎌倉時代では1190年の頼朝が右大将就任時から頼朝の館を「幕府」というようになった。
江戸時代の学者の話は幕府をいわゆる「政権の一形態」として定義した観念。
つまり武家を棟梁とする全国規模の組織をもった政権を「幕府」と定義し、歴史学的にはこちらが定着している。
「幕府を開いた」なんて使い方はこちらだろう。
もっとも、鎌倉時代や室町時代でも、政治の中心地として「幕府」という言葉は使っていたかも。
いまでも、内閣総理大臣以下の組織である内閣を「官邸」とか言うもんな。
「官邸」(総理)と党が対立しているとか。
>>352に同意。
当然吾妻鏡に出てくる「幕府」も文脈的に将軍の居館=そこで政務が行われる場所を指している。
354 :
日本@名無史さん:02/08/17 04:48
ってことは事実上たいした違いはないんじゃ
355 :
日本@名無史さん:02/08/17 12:11
>>350さんが言いたいことってこの文章だけだと判然としないなあ。
もうちょっと詳しく説明してくれないですか。
356 :
日本@名無史さん:02/08/17 12:17
源頼朝が征夷大将軍になったのはエミシの地で義経を打つ為に
必要な称号だったからでは、そしてその後、事故?で頼朝がすぐに
死亡する事によりエミシ征伐がまたもや伝説になった。
357 :
日本@名無史さん:02/08/17 12:24
幕府って戦場で弓に撃たれないために将軍の指揮指令用のテントみたいなもんだろ。
不思議な政治形態ではあるな。
358 :
日本@名無史さん:02/08/17 12:31
幕府は今で言えば防衛庁と警視庁かな。省ではなく庁であるところが征夷大将軍が当初
あくまで臨時の役職だったのがいつのまにか変質してる。
ローマ市民やカエサルより傭兵ゲルマン人の方が強くなったのに似てるね。
359 :
日本@名無史さん:02/08/17 12:31
>>356 頼朝は大々的に奥州征伐を行って、奥州藤原氏を滅ぼしている。
1989年のこと。
頼朝の逝去は1999年。そういう意味では頼朝は満足して逝ったのでは。
360 :
日本@名無史さん:02/08/17 12:33
>>359 すまん。
1989(誤) > 1189(正)
1199(誤) > 1199(正)
361 :
日本@名無史さん:02/08/17 12:39
>>357 鎌倉における「幕府」の語源を
(1)将軍の出陣中の陣幕
(2)近衛大将の居館
のうち、(2)の方が妥当という流れでスレが続いているように思う。
まず、ログを読もう。
362 :
日本@名無史さん:02/08/17 12:39
頼朝はわりと短期間で征夷大将軍職を辞しているでしょ
実に古代的な権威主義を重んじる男だよ
娘大姫の入内のほうが重要な課題だったのでは?
自身も長男も次男も全員北条一族に葬り去られたと考えたほうがいいね。
363 :
日本@名無史さん:02/08/17 12:54
奥州藤原氏についてだがあいつらは倭人じゃないだろ。
これは中国についてもいえるのだが漢字が地名、人名に使われているから
なぜか同じ民族だとおもってしまう。頼朝は文字通り征夷大将軍だった
わけだ。
364 :
日本@名無史さん:02/08/17 14:45
>実に古代的な権威主義を重んじる男だよ
一概にそうも言えないと思うが。
もしそうなら京都で幕府を開こうとしたり(現実に出来るかどうかは別だが)、後白河をこきおろしたりしまい。
ただ、自分の娘を天皇のお妃に、って言われて舞い上がってしまうところはやはり公家の血を引いていたんだな、とは思う。
365 :
コギャルとHな出会い:02/08/17 14:49
366 :
日本@名無史さん:02/08/17 14:53
>>362 頼朝も藤原氏、清盛と同様の旧来の天皇外戚工作を行おうとしていたよね。
367 :
chinnko ◆o7a3IgfY :02/08/17 15:03
r
368 :
日本@名無史さん:02/08/17 22:00
age
369 :
(貴様らの)元彦:02/08/18 01:42
既に55が答えを出してるだろが
『鎌倉幕府以降の征夷大将軍は坂東にその拠点があることが
暗黙の了解になっていた節がある。
源氏、足利氏ともにその拠点を関東に置いていた。
秀吉は家康を関東に封じ込め内心シメシメと思ったんだろが
最終的に家康が将軍宣下を受ける際の有力な根拠になった。
本来、幕府とは陸奥征伐のための軍事司令官の幕営を指すことから
その拠点は関東に置かねばならない』
小牧・長久手の合戦で東海道の家康に負けた秀吉は
(少なくともその時点では)関東進出に失敗したと受け取られた。
そのため征夷大将軍就任の資格を欠いたと評されてしまった。
それが原因。
織田信長が朝廷から将軍就任を要請された時、
『関東(甲斐=山梨県)を討ったから将軍就任の資格ができた』という
理由を朝廷から言われた。
このことは裏返せば、将軍就任の前提条件に関東経営が含まれていた、
ということになる。
370 :
日本@名無史さん:02/08/18 01:50
>>369 >織田信長が朝廷から将軍就任を要請された時、
>『関東(甲斐=山梨県)を討ったから将軍就任の資格ができた』という
>理由を朝廷から言われた。
この論拠は?ソースはどこでしょうか?
371 :
日本@名無史さん:02/08/18 01:52
>>369 鎌倉公方は基氏の息子氏満(祖父)から満兼(父)、持氏(子)と
爺さんから孫まで三代に渡って何度も何度も
京都の将軍家を追討しようとして兵を挙げて
執事の上杉家に止められていますが。
これでも足利将軍家が関東を治めたといえるのでしょうか?
>>370 本能寺の変当時の武家伝奏・勧修寺晴豊の日記
『日々記(通称『天正十年夏記』)』がソースです。
>>371 >>これでも足利将軍家が関東を治めたといえるのでしょうか?
少なくとも初代尊氏が将軍に就任した時期については
言えるのはないでしょうか?
ここで問題になっているのは将軍就任の条件ですよね?
尊氏が将軍になったとき、関東は尊氏の長男・義詮が
治めていたわけですから、やはり少なくとも
将軍就任時には関東を治めていたと解釈できるのは
ないでしょうか?
373 :
日本@名無史さん:02/08/18 02:06
>>369 なにがなんでも「受領は倒るる所に土をつかむ」ばりの坂東土着の気概を見せたのは
むしろ桓武平氏(平良文流、平良正流、平直方流)ですね。
鎌倉北条氏の一族郎党870人の最期など見事なものです。
鎌倉の地をもう一度踏もうと果たせず
近江の番場で無念の自刃を遂げた六波羅探題北条仲時一行434人の死にも
いざ鎌倉、一所懸命の鎌倉武士の気概を感じます。
清和源氏はどちらかというと
頼朝親子にしろ、京足利将軍家にしろ鎌倉はどちらかというと鬼門で
行動科学的に「やっぱり京のほうがいいや」という御公家さん的な本音がちらちら覗えるのですが?
374 :
>>373:02/08/18 02:13
その話は秀吉の幕府不開闢と
どんな関係があるのだい?
375 :
日本@名無史さん:02/08/18 02:20
>>369 源義仲は将軍になったけど、征夷なんてやってもないし
やろうともしてないよね?
義仲以降は征夷は関係なくなってるんじゃない?
376 :
日本@名無史さん:02/08/18 02:37
>>374 今川氏の軍師として駿河、伊豆、相模、遠江、三河と転戦していた頃の伊勢新九郎盛時は
足利茶々丸(11代将軍義澄の兄、12代将軍義晴の伯父、義晴は義輝、義昭兄弟の父)を
伊豆堀越で虐殺しています。かわりに自分が堀越に入り伊豆の攻略を進めます。
そして新九郎盛時自身が妹北山殿の兄君という今川氏客分の地位を捨て
興国寺城(沼津)、韮山城を根城に伊豆の支配者としての地位を強化し
次第に今川家から独立を画策しはじめます。
小田原戦役における主戦論者としては
後北条4代氏政、八王子城主氏照の兄弟が槍玉に挙げられることが多いのですが、
どうやら後北条氏の創業時の時からすでに
関東支配、鎌倉執権北条氏の継承を政治信念として確立させているようなのです。
377 :
日本@名無史さん:02/08/18 02:39
>>374 こうしてみると別に氏政、氏照兄弟でなくとも小田原篭城は歴史上起こるべくして起こったし
小田原側に秀吉なにするものぞの気概は当然あっておかしくない。
佐々成政の厳冬のアルプス越え(富山から浜松まで反秀吉包囲網を継続するように
家康を説得しにいった)が正常な政治思考だとするなら
小田原北条氏の関東独立の政治理念もなんら別段おかしくない。
ただ我々が勝利者の歴史を読まされて小田原評定を否定的にとらえているだけです。
小田原北条氏は支配哲学を打ち出す上で明らかに鎌倉執権北条氏を念頭に置いています。
鶴岡八幡宮の大々的な修復もそうですし
伊豆韮山から次第に相模武蔵へ本拠を移していったこともその証拠でしょう。
378 :
日本@名無史さん:02/08/18 02:40
>>371 >本能寺の変当時の武家伝奏・勧修寺晴豊の日記
>『日々記(通称『天正十年夏記』)』がソースです。
この5月4日の部分は先の4月25日の部分の誠仁親王の「関白・
太政大臣・征夷大将軍のいずれでも良い」という言葉に反するので
晴豊個人の発言ではないかという説の強い部分ですよね。
「関東打ちなさったんですから、征夷大将軍にでもなっていただく
のがいいかと思って参上したんですよ。」なんてのは世間話程度には
いいでしょうけど、上の意思はあくまでも「三職推任」でしょう。
379 :
日本@名無史さん:02/08/18 03:01
井沢史観は東国の定義を明確にせずに議論をすすめるところがあります。
まず東国というのが地理的にどこからはじまるのか?
これは定義など歴史を愛する者にとってそれぞれなので
一概に答などあるものではないのですが
まあそれを考えるプロセスが楽しいのですね。
人によっては京の逢坂の関の東つまり近江坂本から東海が始まっているという。
あるいは関西と関東言葉の分かれ目が名古屋あたりだから尾張だろう、と。
いやいや天竜川の東と西では物の考え方も食べ物もまったく違ってくる、という人もいる。
歴史的には駿河今川氏はつねに京足利将軍家と鎌倉公方の政争の渦に巻き込まれてきました。
伊豆と甲斐は室町期は関東に組み込まれ、俗に関東十カ国と総称されてきました。
とすると甲斐武田氏は関東勢力であるし
興国寺城の取合いで富士川をたびたび越えて伊豆を侵した今川家も
微妙に関東には関係してくる。
380 :
日本@名無史さん:02/08/18 03:07
381 :
日本@名無史さん:02/08/18 03:10
元亀、天正の頃は武田家という巨大な存在がありました。
武田が滅ぶと徳川家康が海道一の弓取りといわれました。
しかしこの頃東国一のお家はどこかといわれたら
やはり北条家は250万石の威信にかけても
東海の徳川家にも東北の伊達家になどその座を譲れなかったでしょう。
せいぜい徳川は100〜130万石、伊達も100万石程度のはずです。
なにより鎌倉北条家発祥の地韮山と武家の都鎌倉、
そして兵は関東に限るとのちに近藤勇に言わしめた武相の風土、
これをもってして猿関白秀吉など一蹴してやるわ、の気骨が生まれてきても
決して盲信だとかパラノイアの類ではないと思います
長くなりましたが源氏=関東基盤説はそうとれる歴史的事実、根拠は多数ありますが
同時に平氏=関東基盤説を裏付ける歴史的事実もまた多数あります。
わたしは平氏=関東基盤説のほうに賛成します。
後北条遺臣の家系で歴史に名を残した家々はたくさんあります。
樺太探検の間宮林蔵や反射炉で知られる伊豆韮山代官の江川太郎左衛門。
現在の南関東の主要都市が後北条氏の城を結んだ支城体制をそのまま発展したものです。
(江戸、世田谷、八王子(横山)、玉縄(鎌倉)、河越、小田原)
それらの点を結ぶ線として発達した伝馬制の街道も不思議と現在の根幹道路や主要鉄道と一致します。
小田原北条氏の話はやめろよ
キチガイが…
話題がズレ過ぎなんだよ
それから木曽義仲の話してるやつも氏ね
タイトルよく読めよ
幕府に関する話題なんだから幕府開いた将軍じゃねえと
比較にならねえだろ?
うすらバカが
>>315 存在したも何も、朝廷からそういう話があったのを秀吉は蹴っている。
なぜ蹴ったのかは知らないけれど。
384 :
日本@名無史さん:02/08/18 07:45
> それから木曽義仲の話してるやつも氏ね
木曽って将軍になってない?
385 :
日本@名無史さん:02/08/18 07:52
なぜ頼朝は、日本を支配する根拠として征夷大将軍になったのでしょう?
関白なり摂政なり太政大臣なりに制度を捻じ曲げて就任し、
平安貴族を皆殺しにしたのち、武士たちに国司の位を授ければよかったのでは。
386 :
日本@名無史さん:02/08/18 08:41
>>382 征夷大将軍になるということと、幕府を開くということは別の話なの?
それは知らなかったなぁ〜
秀吉は長野県庁に幕府を開こうとしています。
無理でしょうケド。
388 :
日本@名無史さん:02/08/18 09:49
秀吉は将軍にはなれなかったでしょう
武家出身じゃないんですから
390 :
日本@名無史さん:02/08/18 10:49
391 :
日本@名無史さん:02/08/18 11:00
信長も秀吉も、その気になれば足利義昭を強制的に罷免させて
将軍になるぐらいのことはできたのだろうが、結局やっていない。
信長は将軍への任官を薦められても、なりはしなかった。
秀吉にいたっては義昭の養子になろうとして断られたので諦めたなんて
話になるぐらいだ。
やはり「大義」に欠ける個人的な政争と受け取られては正当性を欠くと
考えたからではないだろうか。
392 :
日本@名無史さん:02/08/18 12:48
>>385 そこまでの勢力は頼朝にはない。
また頼朝を担ぎ上げる東国武士はそんなこと望んでいない。
393 :
日本@名無史さん:02/08/18 12:48
>>388 朝廷が秀吉に将軍職を薦めたという話が事実かどうか。
その話が事実でなければ、考えられると思う。
たぶん朝廷は、秀吉が武士出身じゃないから
将軍補任には乗り気じゃなかったと思うんだけどね。
394 :
日本@名無史さん:02/08/18 13:00
秀吉は
顔がサルだから
サル将軍を世に出すのは
朝廷も恥ずかしかったのでは?
でも、サル関白ができたけど…
395 :
日本@名無史さん:02/08/18 13:01
関白の方が手っ取り早かっただけだろ
396 :
日本@名無史さん:02/08/18 13:04
>>393 公家出身でもない秀吉を関白にするほうがむしろ乗り気にならないと思うが。
397 :
日本@名無史さん:02/08/18 13:49
しかし全国の武家からサル、猿、猿面冠者と蔑まれていた男だから
武家の面目にかけても秀吉は将軍にさせたくなかっただろう
創業一代目で将軍というのも前代未聞だしな。
398 :
私見@歴史:02/08/18 14:07
詳しくは知らないから次のような大胆な仮説立ててみました。
将門による東国独立国家の樹立を頼朝は幕府という形で実現。
しかし、源家将軍が絶えると承久の乱という形で朝廷が幕府解体を試みた。
これはまだ、朝廷に征夷大将軍という役職が朝廷の下部組織という認識が
あったからではないか?
結局、鎌倉幕府は朝廷の後継争いに介入しすぎて、滅亡しているから。
その後を、源氏政権の復興という形で継いだ足利も、朝廷を抑えると
いう名目で、京から動けなかった。
(鎌倉公方というものが実在はしたが、)
朝廷には、摂政・関白を朝廷のかわりに政治をする者という考えがあり、
征夷大将軍は軍隊の統括者という認識しかなかったとしてみたらどうだろうか?
清盛も太政大臣という役職で、朝廷に取り込まれ、武家政権の確立が
できなかったし、信長も関白・太政大臣という役職を朝廷から打診されて
断ったから本能寺で暗殺されたとかいう仮説を出してみたり
(信長への三職推任も義昭が将軍職を罷免されていないから無理なので
三職に将軍が入っていたとは考えられないし、本能寺の黒幕が朝廷だとしたらの話だが)
秀吉に与えられた「豊臣」っていう姓にしてもなんとなく昔の「臣・連」の臣を
とって「豊かな臣」っていうことで、朝廷の中へ取り込むための政策だと言ったら
すごい無理があるんだろうか?
他の方々どう思われますか?
大胆すぎる仮説かも知れないですが
399 :
日本@名無史さん:02/08/18 14:29
>>363 >>奥州藤原氏についてだがあいつらは倭人じゃないだろ。
ミイラのDNA鑑定では、どちらかと言えば東北人一般より、
都人に近かった様です。
400 :
日本@名無史さん:02/08/18 14:40
>>385 頼朝にそんな力はありません。
全国の武士が、全て幕府の配下(御家人)に入っていたとも?
「幕府」成立といえば、武士全体を支配する権限でもあるように思う人が多い。
そんな状況は、鎌倉・室町の時代に徐々に進められて行く事ですよ。
完成は、秀吉の「兵農分離」だろう。
地侍層は、非武装化されるか、大名の配下に入るかのどちらかになった。
401 :
日本@名無史さん:02/08/18 14:47
>>363 奥州藤原氏は鎮守府将軍藤原秀郷直系という名乗りを周囲にも認めさせていたようです。
奥州藤原氏亡きあとは小山氏が秀郷流藤原氏の嫡流とされていたようです。
大仏建立の寄進を勧請するために東国を行脚していた西行法師(俗名佐藤教清)も
下野那須奥州に多く住む秀郷流藤原氏の縁戚ということで
ロビー活動に従事していたという事情もあるようです。
鎌倉の頼朝が西行法師を大倉幕府の邸宅へ西行法師を招いて
藤原秀郷の家系に伝わる武芸を是非披露して欲しいと懇願しています。
402 :
日本@名無史さん:02/08/18 14:56
>>398 それより、なぜ最後まで朝廷が無くならなかったか、という事の方が本質を突いていると思われ・・・
幕末に日本を開国しにやって来た使節が、この国はミカドがトップなのか、タイクーンがトップと悩んだのも解るような。
403 :
日本@名無史さん:02/08/18 15:21
>>363 現代人の我々が「鎌倉武士」とか「鎌倉ぶり」といった言葉から連想する東国の武家文化のうち
武術、武芸といった分野は秀郷流藤原氏の独壇場だったようです。
相撲、流鏑馬、笠懸、犬追物、陣立て、、、、、、
こうした秀郷将軍が創始したといわれる様々な軍事関連の申し伝えは代々末裔に伝えられてきました。
特に相撲については秀郷流藤原氏は多くの力士を輩出し都まで奉納試合に出かけています。
藤原秀郷の家系が京の北面の武士として多く使えていたのも
こういった武芸のお家という全国区の評判によるところが大きい。
404 :
日本@名無史さん:02/08/18 15:25
>>363 那須与一や佐藤兄弟など義経の配下で縦横の武芸を披露して西国武士をあっといわせたのも
こうした秀郷流藤原氏の家系が得意とする射芸、騎馬戦の奥義を
大勢の面前で披露した真骨頂のものでしょう。
斎藤別当実盛などは平家の公達から坂東武者について問われて
「親も討たれよ、子も討たれよ、屍を越えて進むのが坂東武者」と
その実情を教えて恐怖戦慄させていますし、
藤姓足利氏出身の足利又太郎忠綱は平家物語の「頼政謀反・宇治合戦」の段で
対岸から雨あられと飛んでくる矢ぶすまをものともせずに
兜を傾け馬いかだを組んで激流を押し渡っていく勇壮な場面が描かれています。
これなど豪勇な坂東武者の気概を都の公達武者に見せ付けた小気味のいい場面です。
秀郷流藤原氏としては他には
筑前大宰府に勢力を張った少弐氏や江戸時代の土佐藩主首藤山内家などが挙げられます。
西行法師の縁戚の佐藤公清から始まったとされる家系としては肥前の龍造寺家が有名です。
奥州藤原氏初代清原清衝については
母の再婚先の家から独立したときに実父藤原経清の姓を名乗り直したようです。
405 :
日本@名無史さん:02/08/18 15:49
頼朝は鎮守府将軍陸奥守の奥州藤原氏を征討するのに引け目を感じていたようです。
そのために征夷大将軍の官職は必要だったようです。
このような今日は方角が悪いからあっちにいかないというような方違え的な、
まるで、あっちより泊のついた肩書き官職をもっていれば自分の考えていることが正当化されるだろう、
というような実に古代的な発想を持った人は日本史にはよくいます。
筑前肥前の少弐氏を追討するのに朝廷に多額の金品を贈呈して大宰大弐の官職を襲名した大内義隆。
部下に惟任日向守とか羽柴筑前守とかまったく関係のない土地の受領名を名乗らせて
九州平定の気炎を上げていた織田信長。
406 :
日本@名無史さん:02/08/18 16:16
407 :
日本@名無史さん:02/08/18 16:44
>>404 那須氏が秀郷流というのは初めて聞くけど。これってどっかのコピペ?
408 :
日本@名無史さん:02/08/18 21:07
創業一代目で太政大臣というのも前代未聞だな
平清盛が御白河のご落胤という売り込みで太政大臣を勝ち取ったといえ
もともと平氏というれっきとした皇胤だしな
>>390 『多聞院日記』に秀吉が四位大将兼将軍を断ったという記事があるそうな。
410 :
日本@名無史さん:02/08/19 01:08
\\jetu
412 :
日本@名無史さん:02/08/19 01:31
413 :
日本@名無史さん:02/08/19 01:34
414 :
日本@名無史さん:02/08/19 01:51
>>412 須藤の須の字を残したんでないの?
北関東、東北のあのあたりは佐藤、工藤、武藤といった苗字が多いから
同じ須藤の中でも差別化を図って那の須藤という名乗りにしたとか
素人の推測に過ぎないが
415 :
日本@名無史さん:02/08/19 01:58
>>412 那須氏が下野那須を拠点とする武士団であるとすれば、
412さんの説は排除される。というのは「那須」の地名は
少なくとも7世紀まで遡ることのできるものだから。
416 :
日本@名無史さん:02/08/19 01:59
ごめん。412でなく414だった。陳謝。
417 :
日本@名無史さん:02/08/19 09:05
とにかく足利幕府衰弱説は根拠に乏しいな
それいったらもともと足利幕府なんて諸勢力の連合政権だから
鞆の津にいた義昭を奉ずる勢力は結局信長暗殺に成功しているんだから
安国寺の坊主もおおかたの事情を知っていたんだろう
こういう状況で己の政治力を上に見せる切り札として(任命者ではなく実質指名者として)の
将軍任官が秀吉に降ることは有り得なかっただろう
418 :
日本@名無史さん:02/08/19 10:04
>>417 この「実質指名者」というのは誰をさしているのですか?
教えてください。
419 :
日本@名無史さん:02/08/19 10:15
信長も秀吉も、将軍は断ったってことかね。
やはり
朝廷「とにかく将軍にでも落ち着いてくれ〜」
信長・秀吉「義昭どうするっちゅうねんしかし!」
420 :
日本@名無史さん:02/08/19 10:55
一地方領主の駿河今川氏の家督を巡ってでさえ
京と鎌倉の政治力学が激突して何年間も跡継ぎが決まらない状態がありました。
そして今川氏重臣内で鎌倉公方側、足利将軍家側の二手に別れて骨肉の争いが続いていました。
何十人、何百人、何千人の思惑、愛憎、慾、恨み、憎しみが交錯してぶつかり合い
それが昂じて本格的な政争になり血で血を争う毒殺、襲撃、戦を繰り返してるのですよ。
箱根別当も駿東勢力も西相勢力もそれぞれの立場から
箱根の山を揺らさんばかりの剣戟の音をつくりながら激突していたのです。
今でこそ杉やひのきの針葉樹林と広葉樹林が混在した鬱蒼とした森林が覆いつくす箱根ですが
それらは50年前頃の人口植林で
中世の当時は箱根全土がすすきが原で戦場にはもってこいの所でした。
箱根湯本も竹之下も仙石原も元箱根も箱根村も三島側の山麓も
そこで傷つき倒れ息絶えていった将士たちの血をさんざん吸っているのです。
そういう歴史を知らないで年間1000万人もの観光客が箱根を訪れ
芦ノ湖を見て伊豆の温泉につかりまた自分の仕事へ帰っていくのです。
室町時代こういう政争が甲斐でも信濃でも上野でも奥羽でも鎌倉でも京都でもどこでもありました。
実質指名者というのはそういう政治力学を作り出す全ての参加者のことを意味したかったのです。
当時武家は政治力学の上で断突の力を持っていました。
公家が関白職だの太政大臣職だのほいほいとくれてやっても
武家の中には猿将軍を意地にかけても阻止してやるの思いを持っていた勢力は多かったでしょう。
421 :
日本@名無史さん:02/08/19 12:45
このスレで『秀吉は源氏じゃなかったから』とか、
『武家じゃなかったから』とか
言っているヤシをノコギリ引きにしたい。
422 :
日本@名無史さん:02/08/19 12:47
なぜ?
423 :
日本@名無史さん:02/08/19 13:09
>>421は自分が納得できない意見を
鼻から認めない性格らしいな。
案外くだらないと思えるところに
真実が隠されているかもしれないというのに・・・。
424 :
日本@名無史さん:02/08/19 13:18
425 :
日本@名無史さん:02/08/19 13:20
『くだらない』とかじゃなく、
つじつまが合わないだろ。
論理的な思考ができないヤシが多いな。
パンがないならケーキって.......
426 :
日本@名無史さん:02/08/19 13:24
それなら、「間違ってること」を明快に、論理的に説明してあげたらいいよ。
427 :
日本@名無史さん:02/08/19 13:29
428 :
日本@名無史さん:02/08/19 13:32
・関白太政大臣と征夷大将軍は秀吉の当時、
どちらが格上で、どちらが入手難だったのか?
どちらが日本を統治する上で有利だったのか?
・秀吉は本当はどちらを欲したのか?
・朝廷は秀吉に関白の地位を与えたことで政治的に
勝ったのか、負けたのか?
教えてください。おながいします。
429 :
没個性化されたレス↓:02/08/19 13:33
犯罪を犯す前に日本に帰化する習性は、犯罪心理学的に興味深い。
人口比率で約0.5%に過ぎない在日韓国人(朝鮮人)が、刑務所の囚人の比率で3割を占める。
また、凶悪犯罪(強盗・殺人・強姦等)の約半数以上が韓国・朝鮮系の人間による犯行である(強姦は7割強)。
●織原城二 @ルーシー・ブラックマンレイプ殺人事件、
催眠導入剤を混入した飲み物を飲ませて意識を失わせた上、
クロロホルムを吸引させながら多数の白人女性を強姦。
大量の白人女性凌辱ビデオ。
元在日朝鮮人。女性をナンパするのに都合がいいため日本国籍を取得。
家族は本人以外全員朝鮮籍で、被害者に謝罪すらしていない
●麻原彰晃 @オウム真理教
父親が朝鮮籍。オウムの幹部には在日が多数
●宅間守 @大阪池田小学校児童8人殺害事件
朝鮮人部落出身の密港在日
●東慎一郎(酒鬼薔薇聖斗)@酒鬼薔薇聖斗事件(土師淳君首切り事件)
元在日
●林真須美 @和歌山毒物カレー事件
元在日、帰化人
●関根元 @埼玉の愛犬家連続殺害事件
犬の薬殺用の猛毒・硝酸ストリキニーネ入りカプセルを飲ませて殺害
浦和地裁の須田マサル(賢の又が忠)裁判長は21日、求刑通り死刑を言い渡した。
「いずれも身勝手な理由で、次々と虫けらを殺すように毒殺などを実行した。
世上まれに見る重大凶悪事犯」と断じた。
●金原加代子 @遺伝子情報スパイ
●金允植 @韓国人の強姦魔
日本で主婦を連続強姦 被害者数100人以上
夫が出勤した後の民家を狙って空き巣に入り、
妻らに見つかると強姦を繰り返した。
●「宮本昇一」こと在日韓国人の李 昇一 @韓国人の強姦魔
「ガキの使い」語り140人強姦、テレビ局関係者を名乗り、芸能人の名をエサに女子高生を乱暴した。
逮捕後の李の発言。
「無理やりにでも若い女性とセックスするのが生きがいでした。」
430 :
日本@名無史さん:02/08/19 13:39
そこに関白があったから。
431 :
日本@名無史さん:02/08/19 13:46
>>425 君がどこが気にくわないのか、君が説明しなければ、
過去ログ読もうと何しようと誰にもわからんだろ。
431が425に喋りかける意味が解らないんだが・・・・・・・
433 :
日本@名無史さん:02/08/19 13:51
>>431 「パンがなければケーキ」って、ちゃんと書いてるじゃん。
434 :
日本@名無史さん:02/08/19 13:56
しかし俺も
>>425の説明がほしいと思っていたりする。
435 :
日本@名無史さん:02/08/19 13:59
アントワネットはどうしてケーキを食べるんだろう?
貧しくてパンがかえなかったんだと思います。
436 :
日本@名無史さん:02/08/19 14:02
437 :
日本@名無史さん:02/08/19 14:08
438 :
日本@名無史さん:02/08/19 14:14
関白=ソ連邦大統領ゴルバチョフ
征夷大将軍=ロシア共和国大統領エリツィン
439 :
日本@名無史さん:02/08/19 14:15
公史をいっくら紐解いても答は出てこないよ。
それは勝者権力者によって書かれた歴史。
せめて郷土史をやらやなければ。
郷土史やったからといってわからないものはわからない。
なので色々な人の書いた本を読んだり、歴史資料館や市役所を訪ねる。
男性の言い分も女性のトンデモな見方も参考にする。
日本人だけでなくガイジンと話す。これって大事。
そしてああ、あの時はそういう事情もあったんだな、とか微かに見えてくるものもある。
440 :
日本@名無史さん:02/08/19 14:16
441 :
日本@名無史さん:02/08/19 14:20
>>439 勝者、権力者がこの問題をどう考えたかが重要。
442 :
日本@名無史さん:02/08/19 14:20
違うよ。お茶が苦かったからだよ。
443 :
日本@名無史さん:02/08/19 14:34
だいたい、義昭に養子を断られたとしても
他にも源氏はいくらでもいたはず。
理由にならん!
444 :
日本@名無史さん:02/08/19 14:40
>>441 ただしその場合の勝者、権力者というのは
慶長、元和の時点では徳川家だったという単独視点になりがちなんだが
実は同時代の明→清、高麗→李氏朝鮮という移り変わりの中で考える視点をとってみた。
わたしは日本の中で再度国号が代わったという派。
これは網野史観なのだが。
つまり中国人があれは明という国がやったことです。
私たち清は預り知らぬことです。
貴方達は運が悪かったですね。
みたいなどっから見ても同じ中国人なのに面と向かってこういう言い訳をされる。
そのような大変革が中国本土でも朝鮮半島でも起きていた。
ならば日本でも同質の変革が起きていたと考えて何か都合が悪いだろうか?
わたしは日本という国体から関東という国体に代わったのだと考える。
国体概念=State of Unionなので物理的国土ではない。
国号とも似ていて違う。
国のあり方、指導理念みたいなのを規定する政治家の意思をも超越した政治学上の概念。
倭=日本という暴れん坊がいました。
ほんと見てられませんでした。
アチャー唐入りとか喚いているキチガイ猿がいましたね。
でもご安心を
聖人の国に少しでも近づくように
聖堂を建て学校をつくって教学を普及させますから。
それでミソギを済ませたのだろう。
>>441 網野史観は面白いんだけど、どうだろうか。
国号(ここでは「国体概念」か)の変化に目をつけるのはおみしろいと思うけど、
秀吉とは関係ないから、下げ。
446 :
日本@名無史さん:02/08/19 15:20
それに室町時代を将軍家を頂点とするヒエラルキーとする考え方も疑問だ。
尊氏が御敵となった方から頂戴した尊治という御名を栄誉としてそのまま残したように
武家方が白旗だけでつねに戦ったわけではない。
錦旗もかついだ。
錦旗がまさか裏切らないように傀儡にすりかえたが両統鼎立などという懐柔策もとった。
将軍家は北朝を奉じたが南朝にも降服した。
つまり足利幕府自体が王朝政治を取り込み、
同時に利用価値があるぶんリスクもあることを百も承知で
王朝政治からもとりこまれていたと考えられる。
したがって室町政権というのは武家方、公家のツートップだったと思われる。
徳川家康、秀忠、家光の葵三代はもっと王朝に対して攻撃的だ。
忍ばずの池と東叡山を琵琶湖と比叡山になぞらえ東照大権現と称したところなど
内裏を造営して八国に国司を派遣した新皇を称した平将門的ともいえる。
皇室を厳しく監視したところは
幼少の摂家親王将軍が成人すれば容赦無く京都に送り返していた鎌倉北条氏にも準じている。
後北条氏が膨張期に古河公方や世田谷蒔田吉良氏をとりこんだように
武家の名家をことごとく高家としてとりこんだ。
徳川家にはもう朝廷や京都は実務レベルでは要らない。
関東独自でいくというような開き直りが見られる。
武家に見放された猿には朝廷権威しか頼るところがなかったのではないだろうか?
三河物語にも葉隠にも赤ら顔とか猿とか差別用語が記載されまくりの関白は
どうみても諸国武家から尊敬されていたとは思えない。
1615年の大阪城での遺児の虐殺されぶりも
(大阪入城の大名1人もなし真田と明石全登と長曾我部はいずれも浪人)
諸大名からみれば同情のかけらもなかったように見受けられる。
447 :
日本@名無史さん:02/08/19 15:30
>>446 徳川の息のかかった書物の内容で『諸国武家』の思いを断定していいものか?
448 :
日本@名無史さん:02/08/19 15:45
>>446 秀吉個人、もしくは豊臣家が諸国武家から「尊敬されていない」ことの根拠を
三河物語や葉隠の記述や、大阪の陣への徳川方参陣にもとめるのはいささか不適当であるとおもう。
「尊敬」以前の問題として「御家の大事」があるわけだから、徳川をないがしろに
するようなことはできるわけがない。(豊臣を過剰に貶めることはあっても)
そもそも将軍は諸国の武士の総意をもって議すものではない。
あくまでも朝廷が下すもの。(朝廷との交渉・圧力はあるにせよ)
室町政権が武家公家によるツートップ、という見方には同意しますが。
449 :
日本@名無史さん:02/08/19 15:59
徳川に関が原で味方して、とりあえず勝ち馬に乗ったものの
その後の苛烈な外様取り潰しローラー作戦で、
『してやられた!』と思った武家は数知れず。
450 :
日本@名無史さん:02/08/19 16:22
羽柴誠三秀吉が総理になって幕府を開けばいいろう。
452 :
日本@名無史さん:02/08/19 16:28
・関白太政大臣と征夷大将軍は秀吉の当時、
どちらが格上で、どちらが入手難だったのか?
どちらが日本を統治する上で有利だったのか?
・秀吉は本当はどちらを欲したのか?
・朝廷は秀吉に関白の地位を与えたことで政治的に
勝ったのか、負けたのか?
教えてください。おながいします。
453 :
日本@名無史さん:02/08/19 17:35
秀吉は足利義昭に断られたから将軍になれなかったんだろう。という俗説に対する
答えは「日本史よろず問い合わせ処 其ノ七」で出てる。
以下コピペ。
>276 名前:271 投稿日:02/08/07 20:06
>秀吉が義昭の猶子(すいません用語間違いでした)なろうとしたという事実はなかった
>という可能性が高いです。
>というのも、この猶子問題の初出が林羅山(徳川幕府の儒者)の「豊臣秀吉譜」という
>書だからです。
>つまり徳川幕府としては武家政権の正統を、「鎌倉幕府-室町幕府-徳川幕府」だと
>思わせたい意図があったのではないでしょうか。征夷大将軍になったものが武家の
>統領だと。
>「多聞院日記」には秀吉に対して将軍職を与えたいとの勅定があったが秀吉が断った
>という記事があります。こちらは同時代史料ですので、より信憑性が高いと思われます。
>秀吉は将軍職に就くよりも公家社会の官位を極める事で、朝廷の権威を利用したいと
>の考えがあったのかもしれません。
454 :
日本@名無史さん:02/08/19 18:42
将軍なんて、古っる〜〜、100年も有名無実だった政体に魅力感じないね。
それより朝廷見なよ、日本の権威の源泉だぜ、こっちのが上等。キマリ。関白だよねやっぱ。
ということだったような気がします。俺も。
455 :
日本@名無史さん:02/08/19 18:59
お公家さんのいうことばっかしは当てになんないよー
いた場所にいても見て見ぬふり平気で出来る人種だからさー
あと日記の自己弁護がすごい
456 :
日本@名無史さん:02/08/19 19:03
457 :
日本@名無史さん:02/08/19 20:07
秀吉は、やはり信長の影響があり、将軍職にはつかなかった。
信長は、朝廷や室町幕府の衰退を目の当たりにし、
最終的には自身が頂点となる
全く新しい政治体制の確立を目指していたようだが、
その過程で非業の死を遂げてる。
秀吉は、信長の失敗を参考に、
朝廷の最高職である関白に就いた。
権力的には、既に手中に収めている段階で、
全く新しい価値観を造ろうとしつつあった信長とは違い、
既存の価値観の中で権威を持つことで、
従来の価値観と新しい価値観の間で妥協をしたのではないか?
その場合、権威的には、
前時代の衰退が世間の記憶に新しい「将軍」より、
ある意味忘れられた存在ではあったが、人身最高位とされる「関白」のほうが、
都合がよかった。
家康は、秀吉の死後、関白職を権力の象徴とする豊臣政権の衰退により、
イメージの悪い関白職より、将軍職を選んだ。
また、関白職を公家に返すことで、ある程度、公家の協力も得ようとした。
それと、秀吉が関白になることで、相対的に上がった公家の権威を落とすという
目的もあった。
ってなところでどうでしょう?
458 :
日本@名無史さん:02/08/19 20:30
とにかく事実上の空名とはいえ、その時点で足利義昭がなお現任の将軍職に
あったということが最大の理由ではないのかな?。関白も将軍も令外官であ
って厳密には制度上とは言い難いのかもしれないけれど、慣例上将軍よりも
上席の官職で、かつ政務を主宰する正当性を有する官職として関白、さらに
太政大臣兼務というところに落ち着いたのではないかな?
関白就任前、秀吉は正二位内大臣で、位階官職とも従三位権大納言兼征夷大
将軍の足利義昭より文句無く上位。しかしながら政務主宰の正当性としては
「征夷大将軍」職に比して決定的ではない。単なる上席というところに落ち
着いてしまう。そこで内大臣という官職よりも、古代以来政務の総覧者とし
てより決定的な権威と権能を有する「関白」というところに落ち着いたのだ
と思う。
家康の将軍就任は、自らを源氏の正統と位置づけ鎌倉・室町幕府の正統的な
継承者として位置づけるため。もともと家康は信長・秀吉より政治手法が保
守的であり、伝統的武家政権としても幕府開幕志向であったと考えられる節
もある。秀吉関白政権が相対的に天皇・公家の地位・発言力を高めてしまっ
たため、家康は天皇・公家統制に躍起にならざるを得なかったのではないか。
あと、家康将軍就任時には空名ながら「豊臣関白家」はまだ健在。家康・秀
忠はたてまえ上はまだ豊臣家の臣下筋。家康=将軍、秀頼=関白という図式
を敢えて想定可能しておきながらの将軍就任という線も考えられる(もちろ
ん、本心であろうはずがないが、豊臣恩顧の外様大名懐柔のための方便とし
ては十分想定可能な図式ではある)。
459 :
日本@名無史さん:02/08/19 21:44
やれやれ信長革命家論か
聞き飽きたな
どうみても室町的権威頼み一筋だった男が「まったく新しい性質の」政権を、、、、?
堺屋もどいつも若者に悪い影響を与えたもんだ
460 :
日本@名無史さん:02/08/19 21:46
どう見ても室町の権威を利用しただけだけどな。
>>457は信長のところを除外したら正論だと思う。
信長が室町的権威頼み一筋だったかどうかは、
時期によって違うと思うのでわからないが、
信長政権はまだその具体的な姿が現れないうちに
崩壊してしまったため、論ずるには難しい。
462 :
日本@名無史さん:02/08/19 22:51
信長待望論者ってさあサッカーファンと相通ずるもんがあるよね
メジャーリーガーのように言葉の通じない異郷で頑張ってこそ
異文化交流であるし日本人の誇りなのさ
日本語話す日本人ばっかの日本で新しい政治始めただの信長教始めても
お山の大将ってかただの空威張りじゃん
信長何したよ?
鋼鉄船に金属製の当世具足、襟銭令、楽市楽座、関所撤廃?
それってアステカ国王もそのくらいはやっとると思うがな。
安土城天守が信長崇拝とか言ってるんなら
理論的にメキシコ皇帝崇拝を頂点と仰ぐメキシコ半島の民間土俗信仰は
現在ではすでにローマカトリック教会公認ですけど。
スペイン人が鉄製鎧や馬具をガチャガチャ音をさせて歩いたら驚いた時期は
世界中どこの文化地域でもそりゃおこりました。
日本の場合は信長の兵隊だけでなく
信玄も龍造寺も毛利も伊達もみーーんな鉄砲何千丁も揃えてました
16世紀当時の日本は世界一の鉄砲数を揃えていた国家ですよ
せめてレオンチェフの産業連関表とまでもいかなくても
文化比較論、通貨論、貿易収支論、国家論くらいの基礎事実を踏まえてから
信長ヲタの思想演説をやって欲しいね。
有無、良スレ認定
464 :
日本@名無史さん:02/08/19 22:55
>>462 文化比較論、通貨論、貿易収支論、国家論
を考えられるほど
信長の政治制度というものは整備されていない。
死んでしまったからわからん永遠の闇だ。
もしかすると信長も統一したら規制の制度と変わらん統治体制を引いたかもしれん。
465 :
日本@名無史さん:02/08/19 23:00
>日本語話す日本人ばっかの日本で新しい政治始めただの信長教始めても
>お山の大将ってかただの空威張りじゃん
あほだ
466 :
日本@名無史さん:02/08/19 23:03
簡単に言うと小牧長久手の戦いで家康に負けてしまったため、
武力では事実上の全国統一ができなかった。
その為、武家の棟梁である征夷大将軍には就けず、
関白(天皇の代理)として天皇の名の下と言うの大義名分
を得てに全国を統一したのである。
468 :
日本@名無史さん:02/08/19 23:25
朝廷の思惑としては、「なんでもいいから官職について、
日本の政治を安定させて欲しい」というのがあって、
信長も秀吉も武士であるから、朝廷がまず最初に打診したのは当然ながら
征夷大将軍。
しかし一方で、足利義昭という現職の将軍が鞆幕府を開いていて、
本人が辞職するという形の上でその後を継ぐのであれば正当性を
主張できるけれども、義昭不在のままこれを罷免して後を継ぐとなると、
その正当性にケチがつく。場合によっては、義昭を担いで反抗する
勢力が出てこないとも限らない。義昭自身が将軍職に固執しているし、
信長なり秀吉が、九州や関東の勢力と対立する状況になった場合に、
義昭を担がれると面倒である。
だから、信長も秀吉も征夷大将軍にはならなかった。
469 :
日本@名無史さん:02/08/19 23:28
それは秀吉であって信長が征夷大将軍になりたいと工作したというのを
信頼おける史料で見たことなどないが。
470 :
日本@名無史さん:02/08/20 00:20
>>462 信長のやったことが、世界の潮流であり、
国内でもそういう大名がいたとしても、
それを国内の中央で行ったことに意味があると思うのだが?
田舎でチマチマやっても歴史的インパクトは、どうなのだろう?
大体、信長がたいしたことないって言ったら、
日本史で主題になるような人物は全然いなくなる。
あんたに言いたい。「で、どうしたいんだ?」
あっ、俺、釣られてる?
471 :
日本@名無史さん:02/08/20 00:22
>>468 将軍のもっていた権威より天皇の持っていた権威のほうが通用すると考えたのではないだろうか。
468氏の言うように、当時は足利義昭が将軍位に就いていたから、義昭を廃して秀吉が将軍に就任しても、
義昭(もしくはその縁者)を担ぎ出してくる奴らが出てくるとも限らない。
応仁の乱以後は将軍が畿内の権力状況によってころころと担がれたり放り出されたりして、
将軍位につく者が、即ち天下を治める者だとは当時は思わなかったのではないだろうか。
関白であれば有名無実化した権威であり、そのためその正当性が他の力によって左右されることはない。
落ち目の将軍位より、それよりましな朝廷の官位を持ち出したというほど
簡単だとは思わないんだけどね。
472 :
日本@名無史さん:02/08/20 04:15
>>470 信長って、特別に歴史に残るようなこと、別にしてないだろ。
穿って言えば、三好長慶のように中央で権勢を振るったものの、
それだけっていう男。
厳密に「歴史的に」言えば、そうなってしまうよね。
>大体、信長がたいしたことないって言ったら、
>日本史で主題になるような人物は全然いなくなる。
それは信長=最も優れているという前提から出発した意味のない議論。
信長も含めて、調べて興味深い人物、魅力的な人物はいくらでもいるやろ。
だから歴史やってるんだけどさ。
まあ信長マンセーオタはすっこんでろってこった。
秀吉が関白になることをよく思わなかった公家だっていたと思うんだけどどうなんでしょ?
秀次に譲った時点で当時は関白職は豊臣家の世襲と思われたわけでしょ。
五摂家には関白にそれほど執着がなかったのかな?
474 :
日本@名無史さん:02/08/20 08:41
>>472 信長マンセーオタ?
お前がアンチ信長オタなだけと見るが……。
信玄厨かなぁ。
>>473 いただろうね。
ただ、それを止められる者はいなかっただろうけれども……。
475 :
日本@名無史さん:02/08/20 09:48
将軍になるのに大義名分なんか必要ねぇだろ。
源氏姓つけりゃ道端のウンコでも将軍になれるぜ。
476 :
日本@名無史さん:02/08/20 11:11
信長に日本列島大改造計画があったとして、ある程度は後継者の手によって行われたと思う。
→ 太閤検地、刀狩り、兵農分離、百姓請け制度
477 :
日本@名無史さん:02/08/20 12:31
472は、自分が日本史上、最強の人物になるそうです。
478 :
日本@名無史さん:02/08/20 13:12
479 :
日本@名無史さん:02/08/20 13:30
兵農分離?( ´,_ゝ`)プッ
軍勢の半分が農民の兵農分離ねえ。
検地って何かスゴイ?
まあ秀吉のやったことには非常に改革的なものも多いんだが、
それを信長に遡らせるのは無理がありまくりだな。
480 :
日本@名無史さん:02/08/20 13:35
481 :
日本@名無史さん:02/08/20 13:39
>>479 検地ってすごいと思うぞ。隠し財産が次から次からみつかって、
おまえは改易じゃー、とか。
あー、背筋が寒くなる。ある意味東京地検より強力。
482 :
日本@名無史さん:02/08/20 13:41
>>481 東京地検ちゅーか、マルサね。
全国民一斉農地査察。
483 :
日本@名無史さん:02/08/20 14:36
検地は別に秀吉が初じゃないし。
信玄厨かと思いきや、秀吉厨だったのか。
この板では結構珍しいな。保護保護。
484 :
日本@名無史さん:02/08/20 14:38
485 :
日本@名無史さん:02/08/20 14:57
>>483 その「なんとか厨」ってのやめないか。知性のかけらも感じられないし。
486 :
日本@名無史さん:02/08/20 15:12
漏れは真田厨ですが、何か?
487 :
日本@名無史さん:02/08/20 16:28
他の検地と秀吉の検地を同じに考えているあたりよっぽどものを知らないのだろう。
太閤検地、刀狩り、兵農分離、百姓請け制度 実施された時期こそちがえ、
同じ指向性をもったものだと言いたかった。
どれも、戦国期に断片的に行われた事だとは思う。
ようは、中世の終りだな。武士が武士らしさを削がれて行く事だと思う。
「一所懸命」である「在地領主」という姿が、武士の発生からの基本だったろ。
流れとしては、正しい事だと思うが。
489 :
日本@名無史さん:02/08/20 22:06
>>488 武士の在地性は豊臣政権ではまだ否定されていない。
武士が在地性領主から政治と軍事の官僚へと編成されていくのは
江戸時代の各藩内で徐々に行われている。
最終的に大きな枠組みでの在地領主制を否定されたのは版籍奉還と廃藩置県。
豊臣政権の太閤検地は生産量の把握と鎌倉以来の各勢力の混在した領有権状況の整理が目的。
このとき否定されたのは律令時代からの古い領有権と荘園主と寺社勢力
490 :
日本@名無史さん:02/08/21 01:14
秀吉の検地とてザル検地だったんだけどね。
まあ
>>487のように洗脳されちゃってる人は可哀想だね。
秀吉が思い切ってるなとか思うのはさ、例えば座の廃止。
信長って「楽市楽座」とか言って座を廃止したように思われてるけど、
実は一つの座も潰してない。特定城下を楽市という経済特区に指定した
という、それだけの政策がなんだか誤解されてるんだよね。
でまあ秀吉も当初は畿内の座に対して安堵状を出してるんだけど、
それが一転、廃止することにしたんだよね。
信長はそんな素振り見せてないし、秀吉も当初は安堵したことからすると、
座の廃止っていうのは、まったくの秀吉オリジナル。
何百年も続いたものを、バッサリ切り捨ててしまった。
こういうとこって、秀吉の凄さだよね。
ねえ、幕府=征夷大将軍なの?
そこん所詳しい人なんか教えて。
492 :
日本@名無史さん:02/08/21 02:24
493 :
日本@名無史さん:02/08/21 10:09
>>490 税務調査がザルなのは今も同じ。
完璧な資産把握などできるものではない。
しかしながら、全国統一の度量衡、測量法、測量時期で行われた検地としては日本史上初めてで、
制度もこれまでになく正確だったというのが、一般的に言われていることなんだけど。
座の廃止については、
秀吉が信長に仕える前に雑貨の行商などで生計を立てていたころ、新参の素人商人である秀吉が
座から締め出されたり、嫌がらせを受けたりしてなかなか商売をやらせてもらえなかった
経験に基づくものだね。
494 :
日本@名無史さん:02/08/21 11:41
>>493 雑貨の行商ってのはどの辺に根拠が?
脇道レスですまんが。
495 :
日本@名無史さん:02/08/21 11:45
496 :
日本@名無史さん:02/08/21 14:03
ここはいつから文学板に(以下略
497 :
日本@名無史さん:02/08/21 14:11
762 名前:天下御免 投稿日:2002/08/21(水) 13:15 ID:0rda0twW
このスレの諸君達、俺は君達を応援してるよ
世の中仕事だけが人生じゃない
無職というのは、自由人なのですよ
俺、この前、大阪城に遊びに行った時
ホームレスのおじさんと市職員が立ち退きの件で
揉めてるところに遭遇した。
そのホームレスのおじさんが言った言葉
「ワシは豊臣秀吉に仕えてるサムライじゃ、
立ち退け言うんやったら太閤殿下の書状持って来い!!」
市職員もたじたじで、おじさんは輝いて見えました
自由人=何者にも囚われない風流の人……
旗本退屈男や前田慶次のように欲の無い人達だよ
無職板より転載…
498 :
日本@名無史さん:02/08/21 18:49
>>497 旗本退屈男や前田慶次のように金持った無職ならいいけどさぁ…。
499 :
日本@名無史さん:02/08/21 18:51
官職返上の信長も無職でケテーイですか。
>499
位だけ残ってたんだっけ?
501 :
日本@名無史さん:02/08/21 22:51
>しかしながら、全国統一の度量衡、測量法、測量時期で行われた検地としては日本史上初めてで、
>制度もこれまでになく正確だったというのが、一般的に言われていることなんだけど。
まあ「一般的には」、ね。言いたいことは山ほどあるが・・・
とりあえず秀吉の業績のひとつではあるわな。
別に秀吉の業績にケチをつけたい人間ではないんだけどさ。
>座の廃止については、
>秀吉が信長に仕える前に雑貨の行商などで生計を立てていたころ、新参の素人商人である秀吉が
>座から締め出されたり、嫌がらせを受けたりしてなかなか商売をやらせてもらえなかった
>経験に基づくものだね。
なんだか胡散臭い話だねえ・・・
「経験に基づくものだね」なんて言われても・・・
尾張中村を飛び出して遠江の松下家に仕官したことは恐らく確実なんだけどさ。
502 :
日本@名無史さん:02/08/21 23:08
無 色 と 自 由 業 は 別 物
503 :
日本@名無史さん:02/08/21 23:10
>497
漏れはリストラされたんだが…
鬱氏
504 :
日本@名無史さん:02/08/21 23:17
>>501 山ほどの言いたいことを全て教えてください。
おながいします。
505 :
日本@名無史さん:02/09/06 09:17
A
506 :
日本@名無史さん:02/09/06 09:24
信長の遺言に創るなとあったから。
ナワキャナイッテ
つまんねー。
508 :
日本@名無史さん:02/09/06 10:20
ほんとだね、
びっくりするほどつまんない。
509 :
日本@名無史さん:02/09/06 14:26
>>501 ところで太閤検地のどこがザルなの?
山ほどなくてもいいから教えてくださいね。
やる気がなかっただけだろ。
あいつには気合がなかったんだ。
本気じゃなかったんだ。
>>501は現在必死にぐぐる中です。
しばらくお待ち下さい。
512 :
日本@名無史さん:02/09/06 16:53
501、早く答えろ!
513 :
>>1 おしえたる:02/09/07 07:43
猿はな、天下獲る前から朝鮮(明)出兵を年頭においていたわけよ。
それでな、東国に関しては殆ど無関心。(猿の頭の中では東国とは甲斐より東)
そんでもって妥協しまくって大俸をもつ大名をいっぱい残したのよ。
こいつらは秀吉に削られはすれ一片の地も貰ってないから恩はないのよ。
猿は卑しいからな、譜代の家臣がいないのよ。これ痛いね。
だからな、さっきの大名達と戦うと負ける可能性があるわけよ。
特に小牧で家康にはあのままつづいてたら負けてた可能性があるのよ。
天下獲ったらやっつければいいかと思うだろ?でも猿の頭の中には明しかないのよ
更に、天下獲るまでに多くの大名に義理があって(特に家康)難しいわけ。
結局な、武力より猿個人の政治力で天下維持してたのよ。なのに明しか頭にない。
514 :
>>1 おしえたる:02/09/07 07:56
忘れといたがな、猿の家の重臣はな外様大名なのよ。譜代の家臣はいないのよ。
これって猿政権の危うさの現れだろうよ。
↑関ヶ原でなみーんな裏切ったのはこの為さ。逆にいえばその程度の
権力構造だから外様(元はみんな敵猿に大名にしてもらった奴はいないよ)
にたよるしかないわな。
こんな感じだよ。
毛利、上杉、徳川、伊達、長曾我部、島津、 ←豊臣に貸しこそあれ恩など無いといっても過言
か?
オンナスキーのわりに子供の数がな…
516 :
日本@名無史さん:02/09/07 19:01
感動しました。分りやすかったです
>>475 征夷大将軍の条件は源氏の他に、平・藤・橘なのど系統もあるが。
518 :
日本@名無史さん:02/09/12 15:58
519 :
日本@名無史さん:02/09/12 23:03
どうやってもあの局面で大局的に家康が秀吉に勝つことは考えられんだろ
秀吉は農民の生まれでしょ?
本来幕府を開くには朝廷に認められないといけないわけ。
徳川も位の高い武士だし。
だから秀吉は関白にしかなれなかったのさ。
多分・・・・
関白のほうが偉いって感じはするがな。本来なら貴族しかなれん位
だろ。将軍なんて所詮地位の低い武士階級の棟梁にすぎん罠。
522 :
もうなんでもありだ。:02/09/12 23:35
スレはリセット。振り出しに戻った。どんな厨房・生房発言もウェルカムさ。
523 :
川^∀^):02/09/12 23:37
>>521 そうそう。
そもそも武士は貴族の番犬だしな
524 :
日本@名無史さん:02/09/13 00:56
将軍=源姓支持者じゃないよ
秀吉(豊家)に将軍への望みがあったなら
秀次(三好→小笠原→源姓)がなれたはず
てことで秀吉は初めから将軍職を望んでいなかったが正解じゃないか?
ここは微笑ましいスレじゃの。
526 :
ちょっといいですか:02/09/13 01:01
私は、非キリスト教徒であります。
心と宗教版で、キリシタンたちが、江戸時代、京都市民は天皇を
知らなかったとか、とんでもないバカなことを言って困っております。
誰か、論破してくれませんか?
なぜ教会に反日がはびこったのかその3
ここです。みなさんでバカなキリスト狂徒を笑ってください。
527 :
日本@名無史さん:02/09/13 01:22
>1
何度も過去スレに答え書いてあるよ
関白秀吉ー将軍家康の、つまり大統領ー首相
の大統領制みたいなのを目指してたの、秀吉は。
で、家康に源姓許したの。
528 :
従一位准三宮内覧前太政大臣:02/09/13 02:05
家康が源氏を名乗ったのは、信長の生前だったはず。
信長生前に松平から徳川に変わったときに、先祖は新田義貞の子孫の僧で旧姓が得川とかいったような・・・
万里小路かどこかの公家に系図でっち上げの世話になったと聞いた。
徳川に改姓したときに、源氏を名乗って朝廷から官位をもらっている。
529 :
日本@名無史さん:02/09/13 02:10
このスレってえんえんループしてるだけだよね。
530 :
日本@名無史さん:02/09/13 02:14
>>528 気にするな。527はどうせ、歴史雑誌好き、夜更かし好きの厨房だろう。
531 :
日本@名無史さん:02/09/13 02:17
>>529 まあ、そう言わず遊ばしてやれよ。大リーグのためにはジュニア養成リーグも必要だからな。
532 :
従一位准三宮内覧前太政大臣:02/09/13 02:17
家康は、駿府で人質していたときに今川家の参謀の雪斉和尚に学問を仕込まれており、愛読書は吾妻鏡で頼朝が好きだったらしい。
あの時代の武将で学者をブレーンにしていたのは彼ぐらい。
533 :
日本@名無史さん:02/09/13 02:31
>>528 いやいや、初期にも冒称していたが
間もなく藤原となり、
再び源氏となったのは
秀吉に臣従した天正14年頃から
信長は天皇をも取り込もうと、安上城に天皇行幸用に御座所を建てたのでは・・・
だから、信長は自分が天皇と同格か、それよりもう一段高い「神!」になると言う野望があったのか
城内に自身を祭った「総見社」も建てた。よって、征夷大将軍とか関白には興味が無かった。
自分がこの世で1番であればいいと考えていたんだろうな・・・とにかく既成事実(先例)を
ぶち壊すことで新しい世が生まれる・と
535 :
日本@名無史さん:02/09/13 04:50
>>534 清涼殿と同じ配置の遺構が安土城の本丸にあったってやつか。
この前の歴史で見る日本でやってた。
536 :
日本@名無史さん:02/09/13 15:03
>>534 清涼殿の天皇を天守閣から見下ろすというのは
「最高のカイカーン」ってことになる予定だったわけだ。
537 :
日本@名無史さん:02/09/13 22:43
安土清涼殿説も特別な見方を持ち出して騒ぐこともないんじゃないの?
摂関政治なんて藤原氏長者が幼少の帝を母もろとも軟禁していたようなもの。
正直「清涼殿ダセえー鳳凰堂凄すぎ」などと思って少年時代をすごされた天皇も多かったはず。
「波の下にも都のさぶらう」と分別のつかない天皇を道連れに入水心中した一家などどうなるのでしょう?
鎌倉北条氏などまだ年端のゆかない親王将軍の言動、取り巻きの動きまで逐一監視し
成人するとただちに京に送り返していました。
それどころか皇室内の皇位継承順位にまで干渉し
持妙院統、大覚寺等の両統分裂を画策しました。
そこまでの強権を信長秀吉が発動できたかどうか?
まったく新しい政治ってどこがどういうふうにまったく新しくなのでしょう?
538 :
日本@名無史さん:02/09/13 22:45
あるコンセプトを持ち出してベクトル方向や座標軸を設定していって
歴史上の人物なり事件、歴史事実をプロットしていく。
それに当てはまらない事実、異分子を見つけ出して狂喜乱舞して
新説なり政治概念、経済論を発展させるのもいいけど
織豊時代については戦後の日本学者文人経済評論家は浮かれすぎだとおもう。
それまでの対外貿易、貨幣流通浸透度合、インフレ率上昇、社会進展、農業技術改良、
どれをとっても世界各国通津浦々の民度発展度と比べても特別に遅くも無く早くも無く
(徐々にかは急激にかは学者の見方なりによって違うだろうが)
いずれにしろ確実に進歩してきている。
、
秀吉は尊氏の猿真似、信長は六代将軍義教の焼き直し
家康は西国から遠く離れた関東に基盤を置き
頼朝、鎌倉北条氏、後北条氏にならい
武家政治から朝廷権威、南都北嶺の影響力を完全に切り離したと
考えた方がよいのではないでしょうか?
539 :
日本@名無史さん:02/09/13 22:55
1 7六歩(77) ( 0:02/00:00:02)
2 3四歩(33) ( 0:03/00:00:03)
3 2六歩(27) ( 0:05/00:00:07)
4 8四歩(83) ( 0:02/00:00:05)
5 7八金(69) ( 0:04/00:00:11)
6 4四歩(43) ( 0:03/00:00:08)
7 2五歩(26) ( 0:03/00:00:14)
8 3三角(22) ( 0:02/00:00:10)
9 3八銀(39) ( 0:02/00:00:16)
10 3二飛(82) ( 0:12/00:00:22)
11 4六歩(47) ( 0:02/00:00:18)
12 4二銀(31) ( 0:01/00:00:23)
13 4七銀(38) ( 0:02/00:00:20)
14 4三銀(42) ( 0:02/00:00:25)
15 5六銀(47) ( 0:02/00:00:22)
16 3五歩(34) ( 0:17/00:00:42)
17 4五歩(46) ( 0:02/00:00:24)
18 3六歩(35) ( 0:05/00:00:47)
19 3六歩(37) ( 0:06/00:00:30)
20 1五角(33) ( 0:07/00:00:54)
21 6九玉(59) ( 0:02/00:00:32)
22 3六飛(32) ( 0:01/00:00:55)
23 3八金(49) ( 0:11/00:00:43)
24 4六飛(36) ( 0:15/00:01:10)
25 1六歩(17) ( 0:06/00:00:49)
26 4九飛成(46) ( 0:03/00:01:13)
27 6八玉(69) ( 0:04/00:00:53)
28 5九角成(15) ( 0:06/00:01:19)
29 投了 ( 0:04/00
540 :
日本@名無史さん:02/09/13 22:56
>>537 >安土清涼殿説も特別な見方を持ち出して騒ぐこともないんじゃないの?
騒いでいるのは君だ。
541 :
日本@名無史さん:02/09/14 00:03
わたしが社会科学のあり方とりわけ政治学、経済学、歴史学の分野において
つねづね思うのは学者文人政治学者経済学者たちのその取り組み方についてです。
パラメーターなりベクトル量設定を行い用語設定や概念定義を行い
さらにパラダイム転換なり逆転の発想を持つこと自体大いに奨励されるべきことでしょう。
ただし問題があります。
いわゆるリビジョニスト=見直し論者の跋扈を許してしまうという点。
この点は至極重大な問題だと考えています。
というのはいわゆる一部のリビジョニスト=見直し論者のなかには
いたずらに言葉をもてあそび学会や文壇でのみ成立しうるような架空設定に没頭し
本筋からどんどん離れていっても気にしないというタイプがかなり見受けられる。
542 :
日本@名無史さん:02/09/14 00:04
秀吉はなぜ将軍にならなかったのか?
これについても見直し論者的見方の中には
信長革命家=秀吉尊王論者がかなり多いとおもいます。
それから論法として消去法が多く見受けられる。
信長はあれもこれも断って自分的には○○になりたかったんだけど、、、
秀吉は××には興味がなかった。だから△△になった。
これも贅沢な悩みというか本当にそんな余裕があったのでしょうか?
もしくれてやれるもんならいくらでも朝廷は官位なり官職の宣下を行ったはずです。
543 :
日本@名無史さん:02/09/14 00:14
>>542 何が言いたいんだ。わかりやすく言ってくれ。
544 :
日本@名無史さん:02/09/14 00:33
リビジョニストというのは自分の論じたい、取り上げたい論点を重点的に増幅するけれども
ほかの論点を意図的に排除する傾向が見られます。
j経済学者だからって経済だけの話に終始していいとは決して思いません。
経済の話だけしているとバランス感覚が薄れて政治オンチ、歴史事実に基づかない机上の空論になってしまう。
武家の棟梁たる地位にふさわしいステータスというのが何か、と考えるときには
官位、官職、その職務職能の歴史的意義及び変遷、
令下の官、地域性、勢力基盤、財力、組織構造
さまざまな観点にたって総合的に考慮しなければならない。
545 :
日本@名無史さん:02/09/14 00:34
源義家とその不肖の子義親を京での政争から追い落とした平正盛の極位は従四位下。
その子平忠盛は検非違使、左衛門大尉。播磨守、伊勢守、備前守を歴任。
刑部卿を授けられついに内昇殿を果たします。
その子清盛は平治の乱に勝利し晴れて太政大臣に上り詰め娘徳子の入内を果たします。
ではなにが平氏三代の推進力だったかというと
これはそれぞれのジャンルごとの論拠によります。
経済的な見方をするならば日宋貿易で巨額の財を築き上げた平氏の圧倒的な財力。
政治組織論的には奥州をのぞく全国組織の勢力を徹底させたこと。
知行国制度と目代派遣、諜報組織による強力支配構造。
政治学的総合的には院と結びついた新興武家勢力の摂関家清和源氏連合に対する勝利。
というような論点をその後の武家政権それぞれに当てはめると一概に断定的には言えない
難しい論点がたくさんでてきます。それを資料や分析によって解明していく作業が日本史なのだとおもいます。
右近衛大将、検非違使長官、鎮守府将軍、日本国総追捕使、征夷大将軍、大宰大弐、左右大臣、
大納言、中納言、大国受領、、、、
ほんとうにいろいろあって難しい論点です。
秀吉がどういう青写真を描いていたかわかりませんが、
小牧・長久手以降、家康を抜きにした政治が成り立たないことを
熟知していたと思います。
だから、秀吉は死後は政権を家康に渡すかわり、
豊臣家を存続させてもらうことだけを考えていたのではないでしょうか。
547 :
日本@名無史さん:02/09/14 00:43
>>546 > 秀吉は死後は政権を家康に渡す
と思い至った根拠は?
煽りじゃなくいんだけど純粋にそこまで考えたソースみして欲しい
548 :
日本@名無史さん:02/09/14 00:55
>武家の棟梁たる地位
信長や秀吉はそんなもん目指してねえよ。
549 :
日本@名無史さん:02/09/14 00:57
>摂関政治なんて藤原氏長者が幼少の帝を母もろとも軟禁していたようなもの。
いまどき政所政治・里内裏政治を信じてるヴァカ発見
550 :
日本@名無史さん:02/09/14 02:57
>>532 ( ´,_ゝ`)プッ
ソースもなく断定口調で語ってる人間がやたらと多いのは
仕様ですか?
>>545 >知行国制度と目代派遣
は? 以前からある制度で平氏にかぎんないじゃん
>院と結びついた新興武家勢力の摂関家清和源氏連合に対する勝利
院:平家vs摂家:源氏ってか。古くさい図式的理解だねえ。
>検非違使長官
何それ? 初めて聞いたよ。
>ほんとうにいろいろあって難しい論点です。
ほんとうに誰かさんみたいな無知がいて、
スムーズに議論進めるのって難しいよ。
信長が天皇を利用したあげく蹴り落として天下取りを進めたから、
秀吉もそのやり方を踏襲しただけだろ。天皇に頭を下げて将軍に「してもらう」
つもりがなかった。
家康は元々考え方が違うから、抵抗なく征夷大将軍になったんじゃないか?
それが天下を治めるのに一番てっとり早かったから。
すまんが、関白にしてもらうには、天皇に頭を下げる必要はなかったのか?
と、マジレスするヤツ。
554 :
日本@名無史さん:02/09/14 13:45
秀吉までは(ギリギリ)足利将軍がいたからかも
(晩年御伽衆。ちなみに義昭さんへの養子入り断られたらしい。
関白、太政大臣って工作要りそう。公家=かぶっちゃう へとか。
将軍のほうが安そう。この点も家康公好み??)
555 :
日本@名無史さん:02/09/14 14:09
秀吉は若くして天下を取ってしまったから、後先のことを考えなかった。
家康は晩年ギリギリで天下を取ったから、自分の死後のことを考えざるをえなかった。
556 :
日本@名無史さん:02/09/14 14:43
意外だけど、信長も秀吉も天皇には結構な敬意を払っていたりするんだよね
まぁ上辺だけのものなのかもしれないが
557 :
日本@名無史さん:02/09/14 16:18
>>554 猶子の件とかこのスレで散々ガイシュツ。
読みましょう。
558 :
日本@名無史さん:02/09/14 17:19
通りすがりの素人ですが、結局のところ、
秀吉が征夷大将軍より関白を選んだということでよろしいのでしょうか。
559 :
日本@名無史さん:02/09/14 17:37
554 :日本@名無史さん :02/09/14 13:45
>猶子の件とかこのスレで散々ガイシュツ。
これは失敬。でも、本旨は「足利将軍がいたから」
(義昭さんを廃してまで将軍に拘らなかったが、
皆を納得させる為、上位に就く必要もあった。
将軍職は、鎌倉・室町では、武家統率の他、まだ元気だった
朝廷の干渉を避けるため必然だったと思うが、
徳川では安価で空席だったからかな?
現に太閤さんはならずに天下を治めたし・・。
太閤さんなら「どうせ買うなら高価なヤツ《??》」
あと、自分の大物ぶりを示す上でも部下から取上げるような
カッコ悪いことできんと思う。)
>>547 名将言行録に、秀吉が臨終に当たって朝鮮出兵を後悔しているくだり
がありました。朝鮮の復讐を恐れた秀吉は、この事態を収拾できるのは
江戸内府(=家康)だけである。なまじ忠義面した奴が、秀頼を旗印に
家康に刃向かった場合、豊臣家は滅びる、と遺言した,。
(原文は難しくて読めない漢字もあるので大体の訳です。。。)
名将言行録がどの程度信頼できる資料なのか分かりません。
秀吉が、清洲会議以降の織田家の運命を思い出して、
こういう考えに行き着いたとしても、不自然ではないと思いました。
561 :
日本@名無史さん:02/09/14 20:33
562 :
日本@名無史さん:02/09/14 21:49
>>559 ごちゃごちゃ言わんとさっさと過去ログ読んできーや。
563 :
日本@名無史さん:02/09/15 00:05
>ごちゃごちゃ言わんとさっさと過去ログ読んできーや。
読んでみた。”ガイシュツ”とは、
・猶子の件・・2,31等
・足利将軍がいたから・・31,458,468,471,391等
・関白のほうが偉い(=高価?)・・396,458,521等
とかのこと?
でも、522=「スレはリセット。厨房・生房発言もウェルカム」
531=そう言わず遊ばしてやれよ。・・ジュニア養成リーグ」・・とも書かれてるYO
(あと、漏れみたいのを釣りたくなければ、やっぱ結論を最後に持ってこなきゃ・・
>>378、383=「関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれでも良い」と言われ、
「秀吉が征夷大将軍より関白を選んだ」
>>561、558 あたり?
そんで足りなきゃ 漏れのケツ=
>>559 も食い込ませ・・)
564 :
日本@名無史さん:02/09/15 00:12
>>563 ああもう。
何をグチャグチャと…。
君は新手の荒らしかね?
565 :
日本@名無史さん:02/09/15 00:16
義昭の養子になろうと失敗して関白の座を狙ったと思われます
>>558
566 :
日本@名無史さん:02/09/15 00:28
>>565 なんでこうも1・2日のうちにガイシュツねたばっかりなんだ。
それじゃ一つ聞くが、
>義昭の養子になろうと失敗して…
のソースは?
>>義昭の養子になろうと失敗して…
>のソースは?
ガイシュツ
ところで、当時は本当に関白の方が将軍より偉かったの?
当時の五家の当主は将軍から偏諱を受けてるようだし、将軍から追放されて逐電
した近衛前久の例もあるし。(「武命に違う」でしたっけ、理由は。)
官位は名目上高くとも、実質的には関白の方が格下の気がしますが。
570 :
日本@名無史さん:02/09/15 02:16
>>569 そんなこと言い出すと、将軍追放を実行した細川政元は将軍より偉いコトに
なっちゃうぞ。
格式の高さと実力をごっちゃにしてはいけない。
571 :
日本@名無史さん:02/09/15 02:44
位としては関白が臣下最高の地位 でも実力はナシってことで
572 :
日本@名無史さん:02/09/15 02:48
>570
単純に実力という訳でもないけど、例えば代々偏諱を受けるなんていうのは、
明らかに格下だということでしょう。
それに、追放にしても単に力ずくでというわけでもない。「勅勘を解く」と
いうような形で公式に赦免されるまでは戻れなかったんだから、家臣が実力で
追放するというのとは訳が違うんではないかと思いますが。
573 :
日本@名無史さん:02/09/15 03:35
やっぱり農民出よくても足軽の家系では武士の棟梁を名乗るのは辛かったのでしょうね
574 :
日本@名無史さん:02/09/15 05:29
>>573 こういうフリを受けたときには
「農民出が公家の極官である関白になるのはもっと辛くない?」
という突っ込みで返します。
これはガイシュツ事項なのでマニュアル化されてまーす。(w
このスレもだんだん伝統芸能の世界に入ってきたね。
「型と反復練習」が重要だぜ(w
575 :
日本@名無史さん:02/09/15 06:12
>>572 最初
>>569を読んだ時に厨なmesだと思ってしまったので、
>>570みたいなおちゃらけを
書いてしまいました。すいません。
>>572を読んで私も気になったので考えてみました。
確かに足利将軍家の格式は高いものでした。それは三代義満の先例があったからです。
義満は事実上「治天」として君臨し、公武政治を主宰しました。
その時期(出家後)、義満はことごとく上皇に準じた礼式を用いていて、公家社会でもその
ように扱われています。義満は天皇・上皇と並ぶ格式を手に入れたのです。
そういう先例があるので、その後も足利将軍の格は摂関より高いものだったかもしれませ
ん。
しかし足利将軍家が実質的に消滅し、新たな人物に官位を与える必要が出てきたこの時
期、足利家と切り離された征夷大将軍の格はどうだったのかというと…。
そうか、例の三職推任でも征夷大将軍、関白、太政大臣の三つなのだから、織豊期には
少なくとも征夷大将軍は関白と並ぶ格だったようですね。
それなのに秀吉が征夷大将軍になろうとしなかった(その形跡がない)のは、趣味の問題
もあるでしょうか。
秀吉は関白太政大臣であるというのを嬉々として書状などにも書いてますし、そういう官位
の高さをひけらかすのが好きだったようです。
逆に信長には余りそういう面が見られませんね。右大将になったりしても”利用”している様
子がありません。
576 :
私見@歴史:02/09/16 11:23
398です。
私が述べたかった官位の役割をその当時の朝廷並びに武家がどう
考えていたのか?という問題に戻っているようなので発言します。
398で言いたかったのは、関白・太政大臣という役職が朝廷に、
変わって貿易を担うことが可能だったのではということです。
理由として以下の二点を考えます。
理由@清盛は日宋貿易を行っている。
理由A義満は征夷大将軍でありながら、日明貿易を行っているが
死後義持が日明貿易を解消している。
朝廷お墨付きの貿易の権利が太政大臣に託されていたのではないかと
考えてみるのですが、鎌倉幕府や義満以降の室町幕府が、公式的に
海外との貿易をしていたという事実はなかったように、思うのですが。
ただし、徳川幕府は長崎で中国・オランダとの貿易を行って、
いますが、どういう政策で私の仮説と異なるように、貿易権を
手にしたのかはわかりませんが。
ここからは、少し大胆ですが天皇位を簒奪もしくは抹消して
しまおうとした義満・信長が朝廷によって暗殺されたという
結論に達してしまってもおかしくはないかと考えます。
このような考えが天皇家や藤原摂関家にあり、秀吉を武家の
棟梁でなく、摂関家の一員として朝廷側に取り込んだと、
考えるのですが、…
577 :
酔鯨ジーモン安房守:02/09/16 11:28
俺は藤原氏・清和源氏に囚われず、関白と征夷大将軍・右大臣を
兼務する。それを倅に譲ったら太政大臣じゃ。
正に公武に君臨する覇王。
578 :
私見@歴史:02/09/16 11:29
576続き
上記の理由により、少し大胆ですが天皇位を簒奪もしくは抹消して
しまおうとした義満・信長が朝廷によって暗殺されたという
結論に達してしまってもおかしくはないかと考えます。
このような考えが天皇家や藤原摂関家にあり、秀吉を武家の
棟梁でなく、摂関家の一員として朝廷側に取り込んだと、
考えるのですが、…
579 :
日本@名無史さん:02/09/16 18:15
>>576 正直言うと何を仰りたいのかよくわかりません。
貿易に関して言うと”朝廷に変わって担う”も何もなくって、単にそれを
行いうる人物がそれを行ったというだけだと思います。
鎌倉時代にも朝廷・幕府に関わらずさんざん私貿易は行われています。
「朝貢貿易」の事を言っているのでしたら日宋貿易は朝貢ではありません
し、義満が朝貢による日明貿易を行うのは将軍を辞した後の事です。
また義持の次の義教は朝貢による日明貿易を再開しました。この際の礼式
等は義満の事例に従っています。この再開された日明貿易は貿易を行う主
体が細川氏->大内氏と移りながらも16世紀まで続きます。
貿易の話の後、私見@歴史さんがどうして「義満・信長の暗殺」へ話が飛
躍してしまうのか不思議です。
ちなみに私は両者が暗殺されたとは考えていません。
また秀吉の関白就任は摂関家内の後継争いに秀吉が強引に割り込んだ所か
ら始まっていますので、朝廷なり摂関家なりの策謀?のようなものがある
とは思えません。
秀吉は農民の出ですが、金を払って藤原氏の養子にしてもらった。
しかし、所詮は養子なので、幕府は不可だったんじゃないの?
581 :
日本@名無史さん:02/09/16 19:41
つーか、何で秀吉は自分の母親を人質にしたり、妹を側室にいれたりと家康にビビッていたのでしょうか?北条と結んで家康を討つことも可能だったのでは?
582 :
日本@名無史さん:02/09/16 21:13
513と514を読めば?
583 :
日本@名無史さん:02/09/16 21:14
三連休=DQNが多い やっと納得。
584 :
日本@名無史さん:02/09/16 21:31
>581
家康に人質をだしたのは、北条征伐の後だYO
585 :
私見@歴史:02/09/16 21:42
>>579 説明不足ですみません。
単に私は、織豊期までの朝廷の考えとして征夷大将軍を武力蜂起などを
抑えるためだけの朝廷の出先機関としてしか認識していなかった。
逆に関白・太政大臣は天皇に代わって天皇の公務を行うものとして、
認識されていたのではないかと考えているんです。
そのため、その政治資金を作り出す公的貿易の権利を、得ることが出来た
のではないか。その点で農民の出である秀吉の政治資金集めという思惑と
朝廷の取り込み策がいい意味か悪い意味か分かりませんが一致し、
秀吉は征夷大将軍でなく、関白・太政大臣として政治を行ったのではと私は
言いたかったのです。
義満が日明貿易を始めた時期と太政大臣に就任した時期のことをご存知
でしたら、お教え願いたいのですが、室町期はあまり存じませんので。
また、後半の義満・信長暗殺については単なる推察なのですが、こうした
貿易権だけでなく、それ以上の何か思惑を義満・信長両者が持ち合わせて
いたので、信長の場合は旧来の形式を重んじていた光秀を朝廷側がそその
かして、「本能寺」を起こしたのではと考え、義満・信長ともに朝廷に
より暗殺されたという話が飛躍しすぎてしまいました。
586 :
日本@名無史さん:02/09/16 21:50
幕府が日本を統治するってのは、法制的には変則でしょ。
関白の方が、正当な統治者じゃないのかな。
それに、幕府は基本的には武士の代表者としての側面が強い。
戦国時代は農民の力も伸び、そこも統治の対象として無視できなくなっている。
武士の代表よりも、日本の諸階級を統治する朝廷の最高官位を得る方が、
適当という考え方も別におかしくないのでは?
587 :
日本@名無史さん:02/09/16 21:54
中国の皇帝にさえなれば…日本の天皇や幕府など………
588 :
日本@名無史さん:02/09/16 23:39
>>585 確かに本来征夷大将軍は東北の蝦夷を討伐するのが目的の役職でした。
しかし木曾義仲以来、本来の意味で任命されたことはありません。
その後は鎌倉〜室町へかけて実際に将軍位についた人間の実力によって役割
が変化していき、その後はそれが先例として尊ばれるようになりました。
ですから、室町時代の公家たちは「本来の役目」がどうのとかは気にしてい
ないと思います。
そもそも関白というのも本来の律令にはないものです。しかし藤原基経の時、
特別に「関白」という新しい役を作り任じられて以来、先例として代々続く事
になりました。
また摂政にしても太政大臣にしても本来は皇族以外はなれないものでしたが、
藤原氏が次々と新しい先例を作っていきました。
このように朝廷の役職というのは結構融通無碍なものです。本来の役割から外
れても先例として定着してしまえば、問題なくなります。
なお義満が明との朝貢貿易を始めたのは、将軍を辞しさらに太政大臣を辞した
後の事です。つまり無官の状態で明から日本国王に任ぜられたのでした。
ちなみに義満は「日本国王」の称号を国内では使用しませんでした。あくまで
も交易のための方便だったのだろうと私は思っています。
>太政大臣にしても本来は皇族以外はなれないものでしたが、
本来って、令制以前の話だろ。
令制じゃ、むしろ臣下がなるのが本来。
590 :
日本@名無史さん:02/09/17 12:49
>>589 恵美押勝や道鏡の事を言っているのでしたら、例外的な事例と認識されていると思い
ます。
先例として定着したのは藤原良房以降ではないでしょうか。
常置されているわけではないので一見人臣ばかりに見えますが。
それにしても「令制じゃ、むしろ臣下がなるのが本来」というのは初めて聞いた話です。
良房以前にそのような認識があったということですか?どなたかこのようなことを唱え
ている研究者がいらっしゃるのでしたら、ぜひ教えてください。
591 :
日本@名無史さん:02/09/18 00:09
スレと外れてしまいますが・・・
幕府を開いて将軍が事実上の支配者になる軍事政権が
長く続いた国って日本以外にあるの?(鎌倉時代から江戸まで)
秀吉が関白になっても中身は軍事政権
>>590 逆に訊きたいよ。令制において皇族が太政大臣するってソース。
もしかして令制って淨御原以前も入れてるのか?
593 :
日本@名無史さん:02/09/18 04:52
>591
中国の宋朝なんかは軍閥の建てた政権といわれるね。
考えてみれば唐だって明だって軍事貴族だったり盗賊あがりだったりしたのが
武力で王朝を作ったわけだから軍事政権かな。近代以前の体制に軍事政権も
何もないんじゃないか。
日本の武家だって現在でいうところの軍人ではなく領主でもあるわけだからなあ。
594 :
日本@名無史さん:02/09/18 19:47
>>592 別に「令制において皇族が太政大臣する」などとは書いていないのですが…。
質問にも答えて頂けないし…。うーん。
まあいいでしょう。
浄御原令をご存じですから当然お手元に太政大臣リストはお持ちですね(ネット
上にもいくつかありますし)。それを見ればおわかりでしょう。
たしかに養老令を見ても令義解を見ても「皇族に限る」というような事は書いてま
せん(もちろん人臣がなる、とも書いてありません)。
しかし実際にリストを見ると(ほとんどの時期は誰も任官されていませんが)藤原
良房以前は皇族しか任命されていないですね(例の2人は除きます)。
死後に贈官のケースは随分ありますが、これと現役時に任じられるのを一緒には
できないと思われます。数々の有力な人臣公卿が没後に贈官されているにも関
わらず、生前の任官が良房以前にはなかったというのは、皇族以外の任官例が
なかったからと考えられるでしょう。
そして良房以降、それ迄とは打って変わって任官されない事は減り、藤原氏を中
心に太政大臣が常置されることが多くなります。
随分回りくどくなりましたが、「令制じゃ、むしろ臣下がなるのが本来」ではないこと
を説明しました。
もちろん私も何か間違っている可能性はあります。
ですからそろそろ
>>589さんの論拠なりソースなりを教えて貰えますか?
595 :
日本@名無史さん:02/09/18 22:18
要するに
出世のため必死に働きすぎて源氏姓を名乗るのを忘れてた
って事でいいんじゃねーの
596 :
日本@名無史さん:02/09/18 22:21
幕府の権威を否定して、さらに上を野望む者が
同じ幕府を開くわけないだろう
597 :
日本@名無史さん:02/09/18 22:24
>596
>野望む
なんて読むの?
599 :
日本@名無史さん:02/09/19 00:41
>>598 「強敵」と書いて「とも」と読ませる系じゃねーの?ポエマーだな
秀吉は実際将軍になるために足利義昭に養子にしてくれと頼むのだが
断られてしまい結局関白になった
601 :
日本@名無史さん:02/09/19 00:49
プッ
602 :
日本@名無史さん:02/09/19 01:22
え〜ここはひたすらループするスレですか?
603 :
日本@名無史さん:02/09/19 04:05
>>600 せめてログ読むくらいの智恵があればなあ。
604 :
日本@名無史さん:02/09/19 04:45
足利義昭は1588年まで現職の将軍でした。
と蒸し返してみるテスト。
605 :
日本@名無史さん:02/09/19 11:12
確か足利義昭に対して信長は平氏を名乗っていたことがあるような気がするのですが。
606 :
日本@名無史さん:02/09/19 11:15
信長は執権になりたかったんだよ。
607 :
日本@名無史さん:02/09/19 11:21
>>606 副将軍蹴ってるんだから、せめて太政大臣とかにしとけよ。
608 :
日本@名無史さん:02/09/21 13:20
使える一族が少なくて幕府にはなり得なかったのでは?
609 :
日本@名無史さん:02/09/22 01:30
>>594 >藤原良房以前は皇族しか任命されていないですね
まじかよ? 初めて聞いたよ。
是非ソースを教えてくれ。
610 :
日本@名無史さん:02/09/22 01:55
>>609 「公卿補任」をご覧下さい。
重ねてお断りしておきますが、恵美押勝や道鏡は例外としますし、死後贈官も対象外です。
611 :
日本@名無史さん:02/09/22 02:04
>死後贈官も対象外です。
もちろんだよ。さあ、教えてくれ。
大宝令以降、『公卿補任』の何年の条に
皇族が太政大臣に任ぜられてるのか。
612 :
日本@名無史さん:02/09/22 02:11
>>594 横レス
あなたの話は
「令制だから」って根拠にはならないと思うけど。
大化の改新以降、天皇を中心として権力を集中してきているんだから
制度に関係なく皇室に近いものが高い官位を得ているって事なんでは
そして良房の時代くらいになっても天皇と縁戚という関係が権力の源泉になっているから
「制度が」ってことにはならないと思うが。
613 :
日本@名無史さん:02/09/22 02:39
>>610 おい、まだかよ。
ま、無理もない罠。
大宝令以降、皇族で太政大臣になった奴なんていねえからな。
もう、俺寝るから。一生探しといてくれ。
614 :
日本@名無史さん:02/09/22 02:50
>>613 …あんたも勝手だなあ。こちらの質問には何日も答えなかったのに。
太政大臣の件はミスった。すまん。大宝以降じゃ誰(皇族も人臣も)も太政大臣に
なってないや。
どちらにしても私の考えは揺るぎませんが。
ところでいつになったら「令制じゃ、むしろ臣下がなるのが本来」だとの根拠を説明
してもらえるのでしょう?
また数日間かけてお考えですか?
>>594 いえ別に私は「令制だから皇族がなる」と主張しているわけではないのですが。単に
先例的にそうだったんじゃないかと。
615 :
日本@名無史さん:02/09/22 03:05
関白って藤氏長者じゃないとなれないってなにかで読んだけど、秀吉も藤氏長者になったの?
>>615 当時の摂関家である二条・近衛のうちの、近衛前久の猶子になって関白になってる
が、藤氏長者かどうかは疑問
豊臣姓を作ったのは藤氏長者になってないからでは?と思ってるんだけどどーかな?
ていうか
天正12年 五位近衛少将(兼見卿記)
13年 正二位内大臣(国史学)
と昇進して、朝廷が右大臣に任官しようとしたら、秀吉が信長の凶例で拒否して
左大臣を望んだ時に、二条・近衛両家で起こった「関白相論」をどう考えてるんだろ?
618 :
日本@名無史さん:02/09/22 14:02
>589
>592
>611
>613
厨 房 必 死 だ な
つーかおまえいいかげんウザイよ。
自分の間違い認められずにアゲ足とりでごまかしか。
619 :
日本@名無史さん:02/09/22 14:05
>>617 スマンが主語が抜けてるんでよくわからん。
どう考えてるんだろ?って誰が?
>>618 ほ〜、私間違ってますか。
どこが間違ってるか教えてもらえませんか。
で、どこが揚げ足取りなんだい。
大宝令前の皇族太政大臣と令後の太政大臣が異質なことぐらい
ちっぽけな辞典にすら書いてある基礎事項だぜ。
官職要解にはこうあるな。
太政大臣
最高の官で、大寶令に、「太政大臣一人/右師範一人。儀形四海。経邦論
道。燮理陰陽。無其人則闕。」とかいてある。
されば、則闕の官とも申して、別に職掌もなく、最も重ぜられたのであるから、
皇太子を任ぜられたばかりである。
奈良朝には、臣下でなつた者は一人もなく、藤原不比等も、薨去の後、太政
大臣を贈られたのである。
彼の惠美押勝ヱミノオシカツが、大師タイシ(太政大臣の改稱)となり、弓削
道鏡ユゲノダウキヤウが、太政大臣禪師となつたのは、君寵によつたのであ
るから、例外というてよろしい。
平安京となりて、藤原良房が、始めて任ぜられてからは、藤原氏の人々が、
打ちつゞいて任ぜられ、後には他家の人も任ぜられたのである。
此職を勤めた人は、待遇も別段ちがうてゐて、薨去の後には、諡を下されたの
である。
不比等を文忠公と申し、良房を忠仁公と申す類で、大鏡、榮華物語などに書い
てある。
>>620 おぃおぃ、良房以前に皇族以外の太政大臣がいねぇのは常識だろ。
どんな事典だよ(ワラ
>>622 あのな、過去ログ見ろよ。大宝令以降の話してるの。
良房以前も以後も皇族太政大臣なんていねえの。
おまえが言ってるのは大友と高市だろ。
それは令制下の太政大臣とは違う、令前の皇太子執政の伝統を引いてるもんなの。
いちいち初心者の横レスに答えさせるなよ。
それとも大宝令以降に皇族太政大臣がいるって言ってるのか。
だったら具体例あげてくれ。
>>621 先日までは、594の言う通りにしてたけどね、
押勝・道鏡を例外とするのは、先入観に毒されている結果。
それだったら良房と基経も例外とすべき。
前の二人を例外として、後の二人を入れるのは
後に藤原北家が連続して摂関を出すようになってからの、作為史観。
押勝・道鏡は紛れもなく太政大臣。良房が人臣初の太政大臣なんてのは
後世の摂家史観による作為。それに毒されてる人間は今でも多いけどね。
しかし最近では専門書レベルでは次第に改められつつある。
>>623 > 押勝・道鏡は紛れもなく太政大臣。良房が人臣初の太政大臣なんてのは
> 後世の摂家史観による作為。それに毒されてる人間は今でも多いけどね。
> しかし最近では専門書レベルでは次第に改められつつある。
ソースキボン
625 :
日本@名無史さん:02/09/24 00:41
なにがソースキボンだバカ
Winnyでロリータレイプのエロpeg堕ちてこねーんだよ
どーしてくれるんだよ!
>>623 > 押勝・道鏡は紛れもなく太政大臣。良房が人臣初の太政大臣なんてのは
> 後世の摂家史観による作為。それに毒されてる人間は今でも多いけどね。
> しかし最近では専門書レベルでは次第に改められつつある。
じゃその専門書名キボン
627 :
日本@名無史さん:02/09/24 01:56
佐藤宗諄の解説だとこうだな。
太政大臣(だじょうだいじん)
(中略)
初見は《日本書紀》天智10年(671)正月条に大友皇子を任じた記事であるが,こ
れは〈百揆を総べ〉〈万機を親くす〉る,いわば摂政にも比すべき国政の総理者で
あり,令制のそれとは異なる存在である。
ついで持統4年(690)7月条には,飛鳥浄御原令官制の実施にともない高市皇子
が任ぜられているが,これは令制の太政大臣に近い形態であるらしい。
奈良時代には藤原仲麻呂がこれを大師と改称し,みずから就任した例や,道鏡
の太政大臣禅師就任などの例もあるが,その職掌が不分明であるためか,名誉
職的な要素が強く,贈官が原則であった。
857年(天安1)2月に藤原良房が人臣最初の太政大臣に任ぜられたのち,884年
(元慶8)5月に光孝天皇はその職掌等について諸道博士等に諮問し,若干の意見
の相違もあったが,基本点では格別に職掌とすべきもののない官という理解が
多数をしめた。
(攻略)
どう見ても
太政大臣は本来皇族だってことは
明らかだな。
>>623 私も書名が知りたいです。それ読んだ方が話が早そうなので。
尻尾巻いて逃げやがったな。
>>588氏の言うとおり
「本来は皇族以外はなれないもの」
に決定。
そろそろ秀吉に話し戻すかい。
それとももう少しいたぶるか(ワラ
632 :
日本@名無史さん:02/09/24 03:09
ソースキボンとか、書籍名を教えろとか言う前に、自分で図書館等で調べなさい。
633 :
日本@名無史さん:02/09/24 06:07
>>632 プッ!!
朝っぱらから吹き出すようなもの読ませるな!
あーあ、俺の朝飯…。
脳 内 に し か な い 本 なんか調べられるわけないだろう。
素直に認めるなり大人しく引っ込んでりゃ終息するのにバカなやつ。
634 :
日本@名無史さん:02/09/24 15:46
秀吉は九条家に養子にいったんじゃなかった?摂政・関白は五摂家しかなれないから、
九条家の養子になって、関白になり、すぐに豊臣の姓をもらったんだよね。
秀吉は単純に貴族になりたかったんだと思う。征夷大将軍にならなかったのは、
武士という形態がいやだったんじゃない?百姓出だから、コンプでさ。
九条じゃなくて近衛だよ。
>>633 632は俺じゃねえぜ。(ちなみに625もおれじゃない)
ま、しかし書いてあることは同感だ。
俺もおヴァカちゃんに親切ご丁寧にご教示してさしあげるほどお人好しでもないんでな。
太政大臣は皇族が本来だってか。一生言ってろ
終息には賛成だ。スレタイとほとんど関係ないからな。
637 :
日本@名無史さん:02/09/25 02:06
>>636 キタ━━━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━━━━!!!
…なんでこいつはこうも予想通りのレスを返してくれるんだろう(ワラ
まあ俺も飽きたから次行くか。ないもの出せっていっててもしょうがないからな。
ほんとにつまんない話はそろそろ終わりにしてくれ。頼む。
かなり飽きた。
639 :
日本@名無史さん:02/09/25 20:57
よし次いこう。
秀吉って公家の政務も行っていたのかな?
似たような立場にあった足利義満は公武両方の政務をみてたらしいけど。
640 :
日本@名無史さん:02/09/26 11:46
御説はどうでもいいから
(ワラ
とか
キター
とか
イマドキやめれ。
確かに歴史板では久しぶりに見たね。天然記念物的。
642 :
日本@名無史さん:02/09/26 12:24
>>640 もう終わった話をずるずると…。
歴史の話ができないなら、邪魔だから帰ってね。
オマエガナ。
645 :
日本@名無史さん:02/09/26 14:16
ふんぬー
646 :
コギャルとH:02/09/26 14:18
>>642 まー、そんなカッカせんと、お茶でも飲んでマターリしーや。
648 :
日本@名無史さん:02/10/01 15:21
649 :
日本@名無史さん:02/10/01 16:37
650 :
日本@名無史さん:02/10/01 16:38
秀吉には無理。京都には一見さんお断りの風習があるからね。
わかった?
651 :
日本@名無史さん:02/10/01 22:47
>>650 何が無理なのかな?
「わかった?」とか言われても何もわからんが。
652 :
日本@名無史さん:02/10/03 00:48
age
653 :
日本@名無史さん:02/10/03 13:50
>>651 わからんか?一度京都で御茶屋遊びをやってみなさい。
体感すればおのずと答えも出ようほどに。
654 :
日本@名無史さん :02/10/03 15:57
征夷大将軍って将軍宣下の時に正二位、右大臣(内大臣)、右近衛大将、淳和・奨学院別当、
源氏長者、左馬寮御監とかの宣旨も受けるでしょ。
秀吉って右近衛大将にはなったの?
656 :
日本@名無史さん:02/10/03 17:16
>>653 将軍は御茶屋に行くのでNGだが、関白は御茶屋に行かないのでOK
ってことですね。よーくわかりました。ありがとうございます。
658 :
日本@名無史さん:02/10/04 11:06
>>654 家茂だけ「参議止まり」なのはどんな事情なんですかね。
だれか詳しい人います。
659 :
日本@名無史さん :02/10/04 11:22
>>658 参議止まりだったの?確認してないけど、内大臣だったんじゃないかな?
将軍世子は大体、大納言でしょ。当時の御三卿筆頭の田安慶頼が将軍後見役を
やめた後に権大納言に叙任されてるから家茂が参議ってことはないと思うよ。
一橋慶喜も中納言だしね。調べてみます。
660 :
日本@名無史さん:02/10/04 11:32
>>659 ごめん。自分の見ていた資料がヘタレでした。
他の資料を見たら、右大臣デシータ。重ねて謝罪。
661 :
日本@名無史さん:02/10/04 11:52
662 :
日本@名無史さん:02/10/04 12:12
663 :
日本@名無史さん:02/10/04 12:16
664 :
日本@名無史さん:02/10/20 00:47
幕府と秀吉の関白政権って根本的にどう違うの?
665 :
日本@名無史さん:02/10/20 01:26
666 :
日本@名無史さん:02/10/20 07:42
何か将軍は源氏しかなれんってレスあったがそうなの?
当時は源平交代思想があって(平氏→源氏→北条(平氏)→足利(源氏)
ほぼ天下を掌握した信長(平氏)の次は源氏でなければならず
信長の真似をして平氏を名乗ってしまった秀吉は将軍をあきらめて
関白になったってのを何かで見たんだが・・・。
667 :
日本@名無史さん:02/10/20 09:10
>>666 有名な将軍が源氏だったという結果論です。
668 :
日本@名無史さん:02/10/31 13:09
秀吉は平氏を名乗ってしまったのではなく、源平藤橘と同格の「豊臣」を作った
ことになっているが
669 :
日本@名無史さん:02/10/31 13:17
関東・東北征圧が征夷大将軍の資格だから、
家康との戦闘で勝てなかった件が関係すると聞いたが。
670 :
日本@名無史さん:02/10/31 13:18
天皇制利用のほうが、公武ともに支配できて、手っ取り早かったんでないかな。
671 :
日本@名無史さん:02/10/31 13:46
当時は名目上、義昭がまだ将軍位にあったから。
672 :
日本@名無史さん:02/10/31 13:56
久々のループ再開。秀幕スレは永遠です。
秀吉は西国人、家康は東国人
西の政権は平清盛のように、公家的な役職につきたがる(関白
東の政権は源頼朝のように、武士的な役職につきたがる(将軍
なーんちゃって。うそ
676 :
日本@名無史さん:02/10/31 14:18
征夷大将軍の条件が東国平定ってのは本当だよ。
677 :
日本@名無史さん:02/10/31 14:51
>>676 それは建前。
信長は東国を平定していたとはいえないが、朝廷から将軍の推任を受けてるし。
≫677
しかし、信長は武田との戦いにも勝ったし、上野国まで支配圏に入れていた。
679 :
日本@名無史さん:02/10/31 15:49
>>678 北条が健在なら「東国を平定」とはいえないんじゃ?
秀吉の時と違って北条は信長によしみを通じてたのは確かだけど。
680 :
日本@名無史さん:02/10/31 15:57
>>677 三冠推戴ね。あれは、朝廷が存亡の危機に瀕しての緊急措置。
681 :
日本@名無史さん:02/10/31 16:43
>>680 そうそう。朝廷の公事にはそういう「緊急措置」的なことがよくあるんだよね。
たから建前だと書いたんだけど。
征夷大将軍はもともと字の通り蝦夷を征討する将軍の意なんだけど、木曾義仲
を「緊急措置」的に任じて以来、どんどん変質してった。「武家の頭領」みたいに
思われるようになるのも頼朝以来だし。
682 :
日本@名無史さん:02/11/19 12:02
三冠推戴
太政大臣=織田信長=太政大臣
関白=織田信忠(嫡男の母は近衛氏)
征夷大将軍=織田(北畠)信雄
>>682 それを準えれば、政治にせよ戦略にせよ
”信長の将来ビジョンの投影・代役者でしかない”
秀吉という存在的には当然のように
太政大臣
になるだろうなぁ、と。
征夷大将軍(=信雄)はいやだろうなぁ、と。
684 :
日本@名無史さん:02/11/19 13:45
>>織田信忠(嫡男の母は近衛氏)
信忠の室は近衛氏なの?
横レススマソ
685 :
日本@名無史さん:02/11/19 15:50
>684
信忠の室は塩川氏のみ確認されています。
因みに嫡男秀信の母親は塩川氏と考えられます。
またまた因みに、摂津塩川氏は直系かどうかは知りませんが、
塩爺のご先祖様らしいようです。
686 :
日本@名無史さん:02/11/19 15:51
687 :
日本@名無史さん:02/11/19 15:58
>三冠推戴
?ヴァカのスクツ?
秀吉は、家康に勝てなかった。
家康は幕下にはなったが、客分的処遇。
ということは、武家の頂点に立てないということになる。
武家の頂点に立たなければ、将軍にはなれないし幕府も開けない。
秀吉にはその資格がない。
しかし、武家の頂点でなくても、武家全体を支配することは出来る。
それが、関白による摂政体制。
関白は公家の位で、形式上は、将軍よりはるかに上。
しかも秀吉は事実上は武家。
つまり、武家関白による武家摂政体制は、将軍による幕府よりも位が高く、
しかも将軍になれなかった秀吉が、家康を抑え込める唯一の方途でもあったということ。
690 :
日本@名無史さん:02/11/19 19:30
秀吉は、源姓が欲しいために足利義昭の養子になろうとしが、義昭に拒否されたために、
将軍に成れなかった。
征夷大将軍は、源姓の武士だけに許される官職だった。
平家は駄目なの?
693 :
日本@名無史さん:02/11/19 20:58
源氏も藤原氏も平氏もすべて征夷大将軍になれます
694 :
日本@名無史さん:02/11/19 21:05
なぜなら古代の母系社会では母胎がどの姓氏出身か?
で門地が決められていたからです
母親が藤原摂関家の天皇の皇子王女たちは源姓を賜る栄誉にさずかりましたが
母親が藤原傍流や他氏族であった天皇の皇子王女たちは平姓だのどうでもよい扱いを受けていました。
695 :
日本@名無史さん:02/11/19 22:55
>>691 あんた、このスレ、仕切っているの?
お偉い、学者さん?
あららら〜、まだいたのかね
>>695 ダメだよ僕ちゃん、はやく
>>689のURLをクリックしなきゃ!!
急いで急いで〜
697 :
日本@名無史さん:02/11/19 23:07
698 :
日本@名無史さん:02/11/19 23:09
>>685 >因みに嫡男秀信の母親は塩川氏と考えられます。
根拠となる資料のようなものが存在するのですか
お教え下さい
699 :
日本@名無史さん:02/11/20 00:47
秀信って、1605年に高野山で死んでるけど、
名家好きの家康は、何で彼を許さなかったの?
>>699 おいおい
織田氏は別に名家じゃないし、織田信長の家系はその織田氏の中でも
下のほうだぞ
701 :
日本@名無史さん:02/11/20 01:28
最近の流行は忌部氏説か?
いずれにしろ傍流の傍流に過ぎんわな。
702 :
日本@名無史さん:02/11/20 13:27
>>690 おっまた出てきたね。この俗説。
過去スレで散々否定されているので読み返す事。
秀吉は農家出身ということはみなさんもごぞんじでせう
しかし、それが応じて幕府をひらかなかった
くわしいことはわたしにどうぞ
704 :
日本@名無史さん:02/11/20 20:15
>>703 >しかし、それが応じて幕府をひらかなかった
>くわしいことはわたしにどうぞ
なんか意味不明な日本語だなあ。
それはともかく、くわしいことはこのスレでどうぞ。
706 :
日本@名無史さん:02/11/21 15:05
>>705 状況としてはそうですね。でもひとつ肝心な事が。
征夷大将軍は、平安後期以降は関東に基盤を置く
源氏か平氏の棟梁がするもの。
秀吉はそのどちらでもない。
家康の松平氏は源氏(新田氏)
チョット訂正。平氏は実績はない。
708 :
【^▽^】美青年ジョーカー:02/11/21 15:09
「幕府」ではなくとも、豊臣政権が19世紀まで存続
していたらば、”勤皇の志士”たちに打倒されたのかな?
709 :
日本@名無史さん:02/11/21 15:15
>>708 豊臣政権が安定していれば、
基本的に武士という階級がなくなっていただろう。
士農工商という身分制度もなかった。
天皇家とは姻戚関係を築き、ヨーロッパの王国のような
民兵組織をつくったであろう。
朝鮮出兵も本音は大名の武力弱体化と欧型帝国主義を狙ったもの。
信長と秀吉は明の中国型貢献主義がヨーロッパ諸国にかなわないと
見抜いていた。自分たちがアジアのスペインを目指していたのだろう。
710 :
【^▽^】美青年ジョーカー:02/11/21 15:18
>征夷大将軍は、平安後期以降は関東に基盤を置く源氏か平氏の棟梁がするもの。
いい加減な事を言うな
712 :
日本@名無史さん:02/11/21 15:26
713 :
【^▽^】美青年ジョーカー:02/11/21 15:28
足利義昭の養子(形式上だけど)になれれば、
秀吉も源氏。
715 :
日本@名無史さん:02/11/21 15:36
>>706 >平安後期以降は関東に基盤を置く源氏か平氏の棟梁がするもの。
平氏の征夷大将軍を教えてください。
もうひとつ、
秀吉は関白になったわけですが、関白はどんな家柄でもなれたんですか?
716 :
日本@名無史さん:02/11/21 15:37
秀吉の側室に古河公方の娘がいるよね。
もうその時点で足利家という存在は秀吉より下でないのかな?
717 :
NHK会長:02/11/21 15:40
718 :
日本@名無史さん:02/11/21 15:53
>>715 716じゃないが
当時の関白は、二条・近衛の両家が摂関家として認められていて、それ以外は不可能でした
朝廷は秀吉を右大臣にと考えていたようですが、秀吉が信長の凶例があるので拒否して
左大臣を望み、これが左大臣以上の公家に波紋を呼び、関白相論を招いてしまい
朝廷の混乱の中、秀吉が近衛前久の猶子となって左右大臣を飛び越え、関白に就任しました
>>718の
>716じゃないが
は706じゃないがに訂正
720 :
日本@名無史さん:02/11/21 16:01
>>718 706に答えてもらわなきゃ意味がないのだが........
722 :
日本@名無史さん:02/11/21 16:10
>>718 秀吉が源氏でないから征夷大将軍に就けなかったというなら、
摂家ではない秀吉がなぜ関白に就けたかを聞いているんでしょう?
結局のところ「秀吉は、源氏じゃないから征夷大将軍になれなかった」
なんてのは、日本史の「に」の字もしらない無知蒙昧のたわごとってことで
医院で内科医?
>>722 >>718を書いといてなんだけど、日々記の三職推任では
太政大臣か関白か、将軍に御推任と書いてあって
晴豊も朝廷側の意向としては将軍になさるべしって書いてあるんだよね
宮将軍の例もあるし、源氏以外でもなれると考えた方が妥当と思う
724 :
日本@名無史さん:02/11/21 16:33
>>723 反論なのか同意なのかよくわからん文章だな.......
>>724 すまん、信長の三職推任の例をだして
源氏を名乗らなければ征夷大将軍にはなれないっていうのは違うのではっと言いたかっただけです
726 :
日本@名無史さん:02/11/21 22:47
またまたまた話がループしてるけど、将軍は源氏以外でもなれるし、関東に
基盤がなくても問題ない。
朝廷にとっては関白の方がはるかに重要だって事を忘れずに。
過去スレで散々、さんざん出た話なのでチョットは読み返せよぉ。うわぁぁん。
727 :
日本@名無史さん:02/11/21 23:44
一番問題なのは
武家政権で源氏でなければ征夷大将軍になれなかったという世間知がけっこうひろまっていることだな。
これの根拠はどこから来たのだろう。
征夷大将軍が源氏でないことを理由に任官を拒まれたソースでもあるんだろうか
728 :
日本@名無史さん:02/11/22 00:05
>>722は低脳ですか?
征夷大将軍になるには源氏でなくてはいけないという伝統(建前)がある --->
詐称であれ、養子であれ、源氏になれば、征夷大将軍になれる --->
足利義昭の養子になろうとして断られたからなれなかった。
摂政関白になるには五摂家(近衛、九条、一条、二条、鷹司)でなくてはいけないという伝統(建前)がある --->
詐称であれ、養子であれ、五摂家になれば、関白になれる --->
近衛前久の養子になって関白就任。
絶対「xxxでなければoooになれない」ということはなく、過去には実際
例外も存在する。
とは言え、伝統・格式の様式美こそが朝廷の基本であり、それを否定することは
「血統に意味なし」ということになり、自分たちを否定し存在意義を失うことになる。
だからこそ、一度定着したパターンを「伝統」として重視するだけのこと。
こんな単純なことが理解できないとは・・・。
>>728 結局「征夷大将軍は源氏でなくてはならない」というルールに一番
とらわれているのは
>>722自身だという罠w
730 :
日本@名無史さん:02/11/22 00:21
>>728 あの力説してて悪いけど、征夷大将軍には藤原氏でもなれるよ
鎌倉幕府の将軍を調べてごらん
>>730 読み間違ってるよ
>>728さんは
> 絶対「xxxでなければoooになれない」ということはなく、過去には実際
> 例外も存在する
と書いているよ!
彼は、むしろ「xxxでなければoooになれない」という絶対のルールなど
存在せず、任命権を持つ朝廷が血統・伝統といったものを重視することによる
慣習だと言っていると思われ。
732 :
日本@名無史さん:02/11/22 00:36
733 :
日本@名無史さん:02/11/22 00:45
>>731 >彼は、むしろ「xxxでなければoooになれない」という絶対のルールなど
>存在せず、任命権を持つ朝廷が血統・伝統といったものを重視することによる
>慣習だと言っていると思われ。
そのソースは何なんだろうか。
たとえ、当時の朝廷がそうだったとしても後世のわれわれがその伝統を認識するためには
何らかの歴史的資料が必要だけど。
734 :
日本@名無史さん:02/11/22 00:46
>>731 いや、だから、伝統も慣習も含めて朝廷側でも源氏にしか任命しないという考え方はなかったと言ってる訳で
それが藤原将軍であり、信長への三職推任であるって事で
735 :
730=734:02/11/22 00:49
ここからは自分の考えなんだけど、秀吉が義昭の養子になろうとし、
前久の猶子になったのは、家格の問題ではないか?と考えてる
736 :
日本@名無史さん:02/11/22 01:08
意気込んで自演までしてたアフォはどうしたヲイ
737 :
日本@名無史さん:02/11/22 10:20
>>731 「例外」にしては源氏以外の将軍は多過ぎないか?
そもそも初代の将軍からして源氏じゃないし。
それに、例外が多数あるなら秀吉も例外扱いさせればよかったわけです。
それに摂家の養子になったのなら、将軍に就任しても誰も文句はないはず。
従一位・関白太政大臣・征夷大将軍・左近衛大将・左馬寮御監・藤原氏長者・淳和奨学両院別当も名乗れたのでは?
738 :
日本@名無史さん:02/11/22 14:11
「例外」があまりにも多すぎるから皆様議論なされているんですよ
739 :
日本@名無史さん:02/11/22 14:13
源氏将軍=説
鎌倉幕府では暗殺された(一説には親子3人とも全員北条氏の毒牙にかかったとも)
源氏将軍が3人いるだけ。
主流は摂家将軍と宮将軍。
建武の世にも護良親王、成良親王の2人の宮将軍が誕生した。
足利将軍家の軍神八幡太郎信仰は
室町15代将軍が「源氏重代の」と称して
「御小袖」をあたかも皇室が3種の神器を取り扱うように敬い、
源義家が神前で元服したと伝えられる石清水八幡宮に深く帰依したことで知られるが、
京の政界で生き延びるにはそうとだけ言っているわけにもいかず、
結局は従来からの南都北嶺の権威に服した。
この点では従来の平安朝廷、平氏政権、頼朝の南都保護政策になんら変らず。
ゆえに室町将軍家は結局は王城の地で旧権威に靡いていったという見方のほうが強い。
室町将軍の生母、正室のほとんどが藤原氏出身であり
藤原摂関家出身の者や宮が代々つとめられた比叡山天台座主の地位も足利氏が占めるようになり、
嫡流をつげない足利一族はどんどん仏門、寺社に送りこまれ去勢されていった。
この状態で足利尊氏の血脈が絶えなかったから良かったもののもし絶えていたら
やはり鎌倉の先例を持ち出して摂家宮将軍再誕生となったのではないだろうか?
740 :
日本@名無史さん:02/11/22 14:16
関東平定=説
鎌倉将軍家は鎌倉大倉のちには鎌倉若宮大路に在したが
建武以降はもっぱら畿内にあった。
その中で強いて関東平定に成功したといえるのは足利尊氏、足利義満、足利義教くらいか?
足利義政になると実弟に箱根を越えさせることも出来なくなる。
反対に室町幕府の全時代を通じて関東独立の野望をもっていた政治集団が多すぎた。
一説には初代基氏までもが京将軍家を呪詛し我とってかわらんとしていたらしい。
これでは将軍任官条件=関東平定=説は成り立たないと考えられる。
741 :
日本@名無史さん:02/11/22 14:34
秀吉が義昭の養子を望んだが断わられたというのは、
俗説にすぎず事実ではありません。
また、秀吉は近衛の養子にもなっていません。
742 :
日本@名無史さん:02/11/22 14:53
>また、秀吉は近衛の養子にもなっていません。
これはほんとっすか?
743 :
日本@名無史さん:02/11/22 16:42
本当です
744 :
日本@名無史さん:02/11/22 16:53
幕府にとらわれすぎなんじゃないかな。
かなり適当だけど、
平安末期〜安土桃山までを区切らず一時代と考えてみるとか。
平安末期が戦国の始まりで、江戸で終わったと。
そしてその時代は、
朝廷、幕府、他それぞれにある程度以上に独立性を持った地方勢力の抗争の歴史と見る。
そして家康によって全国統一され、江戸幕府となる。
江戸幕府と鎌倉・室町幕府は違うものと考えてもいいのではないか。
ただ江戸幕府の存在のため、幕府を中心とした視点に立つ歴史が広まっただけと。
秀吉は幕府を開いても良かったが、開かなくても良かったのではないか。
そして事実秀吉は将軍にもならず幕府も開かず天下の第一人者になった。
幕府や将軍職にあまりこだわる必要はないかと。
いや適当ですけどね。
745 :
日本@名無史さん:02/11/23 00:15
>>743 >また、秀吉は近衛の養子にもなっていません。
「藤原朝臣秀吉」を名乗っている文書が複数あるんだけど、
近衛前久の養子になってないなら、なぜ藤原朝臣を名乗れたのでしょう?
747 :
日本@名無史さん:02/11/23 15:01
秀吉は、関白就任にあたり、近衛前久(龍山)の養子になったのではなく、
「猶子」になったのです。この事実は、『近衛文書』に記されています。
厳密には、養子と猶子では意味合いが異なります。
なぜ幕府を作らなきゃならないんだ?
幕府を作らなければならない、という
>>1の思い込み自体が
間違っている。
権力を把握できれば、政治形態などどうでもよいこと。
幕府だって滅びるときには滅びる。
749 :
日本@名無史さん:02/11/23 15:28
750 :
日本@名無史さん:02/11/23 15:49
751 :
日本@名無史さん:02/11/23 15:53
猶子には家督相続権がなかったはず。
752 :
日本@名無史さん:02/11/23 15:55
猶子というのは名義上の親子関係を結ぶだけです。
たとえば、徳川将軍は浄土宗の知恩院門跡となる皇族を猶子にしていますが、
当然彼らには徳川家の相続権はありません。
形式上、便宜上の親子関係ですね。
753 :
日本@名無史さん:02/11/23 15:59
ゆう‐し【猶子】
#[礼記檀弓上]兄弟の子。甥。姪。
#兄弟・親戚、または他人の子を養って自分の子としたもの。
名義だけのものと世継よつぎとするものとある。
養子ともいう。
平治物語「かの信西と申すは…長門守高階経俊が―なり」
[広辞苑第五版]
754 :
日本@名無史さん:02/11/23 16:05
秀吉が近衛の「養子」だろうと、「猶子」だろうと、
藤原姓を持つ者として認知されたことに変わりはないの
でないかな。その辺どうなの?
755 :
日本@名無史さん:02/11/23 16:12
>>754 おっしゃるとおり、藤原姓を認知してもらうのが目的でしょう。
関白になるためには藤原姓が必要だから「猶子」になっただけで、
近衛家自体を相続するつもりなどなかったはずです。
756 :
日本@名無史さん:02/11/23 16:31
桃山(豊臣)幕府≒江戸(徳川)幕府じゃないの?
このスレに、はじめて書き込みする者です。
スレのあらし、あるいは混乱させる目的ではありません。
秀吉が、関白に任じられた経緯については、
『大日本史料』第十一編之十七、天正13年7月11日条に関係史料が網羅されています。
『近衛文書』も収録されています。
一度、同書をご覧になって、その上で論議されると、大変に有意義だと思います。
758 :
日本@名無史さん:02/11/23 17:08
>>757 あなたが何を主張したいのか、もうちょっと詳しく書いてもらえませんか。
「養子じゃなくて猶子だよ」だけなら、既にこのスレでガイシュツだし。
上記資料を持って何が主張したいのか、それをもうちょっと書いてくれんか
な?
759 :
日本@名無史さん:02/11/23 17:11
>>757 養子になったからといって、家を継ぐってわけじゃないから、
「養子」だろうと「猶子」だろうといいじゃん。
760 :
日本@名無史さん:02/11/23 17:19
秀吉は数ヶ月の間、藤原姓を名乗りますた。が。
すぐに豊臣姓を与えられたため「豊臣秀吉」になりますた。
彼の藤原姓の由来は、近衛家とどっかの家で関白についての争いがあり、
それに秀吉が割り込んで
「近衛家に1万石、○○(どこか忘れた)家に5千石やるから
漏れを関白にしる!!」といって、
近衛家の猶子となって藤原姓を賜り、関白になったのれす。
761 :
日本@名無史さん:02/11/23 17:20
762 :
日本@名無史さん:02/11/23 17:32
>>760 それはわかるんだが、
俺が知りたいのは757が741の書き込みで「何が言いたかったのか」。
それがよくわからん???
763 :
日本@名無史さん:02/11/23 18:52
「猶(なお)子の如し」という意味合いで、仮の親子関係を結んだ子の称。
ある者に官位や入内の資格などを付与するため、有勢者の猶子とすることが行われた。
所得譲与を目的とする養子とは異なるといわれるが、混同されることも多い。
『新修角川日本史辞典』
765 :
日本@名無史さん:02/11/23 19:43
猶子の説明はもう十分じゃない。
猶子
平賀朝雅とかさ・・・
織田も信長のワンマン、豊臣も秀吉のワンマン。
家臣が自分の分をわきまえているだけ、徳川が強い。
769 :
日本@名無史さん:02/11/23 20:04
両人とも型は違えど非常識でキレてるから、突っ走れる部分がある。
でも、長続きはしないでしょ、と・・・。
家臣も親族もついてこれんのだ。
「二人とも適当なとこで引いちゃおうよ。」って事です。
>>762 「俺はその辺の歴史厨房とはちょっと違うヨ」と、とりあえず自分の知識を
ひけらかしてみたかっただけだろう。
スレの流れとしてはピントはずれだがw
>>770 「俺も降りるから、お前も降りろ」と・・・。
>>両人とも型は違えど非常識でキレてるから、突っ走れる部分がある。
>>でも、長続きはしないでしょ、と・・・。
まともな世間つきあいのできる分家の方が評判はいいんよってカンジ。
774 :
日本@名無史さん:02/11/23 20:23
>>771 その結果、彼が自分も「その辺の歴史厨房」に過ぎないと気づいたの
なら、良い経験になったことだろう。(w
平時ならごくつぶしか、犯罪者の一歩手前よ、ふたりとも・・・。
非常時だけ動けばいいんじゃない。
秀吉より信長に幕府作ってほしかった。
キレてて予想もしない行動をとるから、熱狂的な追っかけがついてくる。
一向一揆の鎮圧をしてても、冷静に見れば自分の軍団もあんまり変わらない。
キレてる同士のチキンゲーム。
親族、部下はこっそり密会して、「たまんないよな・・・」って。
779 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:09
>>770 それだと別に「家臣が自分の分をわきまえている」わけじゃないじゃん。
お館さまが家臣の能力を見切っていたじゃけじゃん。
780 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:33
猶子と養子はまったく違う
781 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:33
782 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:34
漢文の素養があれば簡単に分かる
猶子というのは文字どおり”子のごとし”
たとえば歴代中国王朝は朝貢貿易による外交関係で周辺衛星国を束ねたが
これは”猶子”における親子関係を国と国の関係におきかえたようなもの。
中華文明は暗闇だったその国の文化を明るく照らし
皇帝はその国をあたかも子のごとく慈しまれた、ということ。
でも良く考えればわかるがそれは建前に過ぎない。
野蛮な匈奴、チベットの低能、南蛮、倭のばか野郎といった本音が見え隠れする。
摂関家から見た秀吉はまるでそのレベル。
とりあえず摂関家からみたら秀吉に恩を売っておく必要こそあれ
実際に家と関わられてはこまる。
783 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:37
>>782 養子ではどうダメなのかの説明になっていない。
784 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:37
養子というのはその家の跡取りになること。
これは事実上の家の神性、聖性を受け継ぎ領地を治め領民を養う。
藤氏なら藤氏、源家なら源家、有道氏なら有道氏、惟宗氏なら惟宗氏になる。
当然一族の一員として行動する。
古代中世では血筋より家柄のほうが大事だと思われた。
たとえば小早川隆景は土肥実平に始まる武門のお家を継ぎ、
秀吉の甥がさらにそれを継いだ。
この名門は明治になって毛利三郎をもって再興された。
それは小早川が安芸の名門武族であったばかりか、
頼朝創業にはじまる類稀な由緒をもつからだ。
785 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:42
>>784 >養子というのはその家の跡取りになること。
これのソースは?
>>782風にいうと「養子」とは単に「養い子」であって、惣領であるか否かとは関係ないように思う。
786 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:46
関白にしてもらえるなら、「養子」だろうと「猶子」だろうと
成り上がりの秀吉にはどっちでもいいことだろう。
787 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:48
源氏でなくても将軍にはなれよう。ならなかったのは、なる気がなかったからに違いない。
788 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:48
朝鮮出兵はちゃんと朝廷から綸旨なりもらっていたのでしょうか?
それとも秀吉の私戦だったのでしょうか?
789 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:51
>>788 摂政たる関白の決定は、即ち朝廷の決定であり、私闘ではありえない。
790 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:53
さて本題。
秀吉は”猶子”になったから藤氏か?
これは否であろう。
あるいは、こうともいえる。
田舎の中小企業のオーナーがライオンズクラブに入る意味ではYES。
しかしこの成り金親爺の本籍や出身大学になにも変化が変るわけではない。
そういう意味では実質的にはNO.
791 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:54
関白にも私生活はあろう。
792 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:55
現代にたとえて言うと秀吉はライオンズクラブの威光をかざして
どんな上流階級の同好会にもクラブにも立ち入ることが出来た。
同じように大茶会を催し、茶の名器を収集し、緒大名から金銀をかき集めることができた。
しかし学士会館に立ち入れるからといってその人がその日から旧帝大卒になるわけではないように
天下の名器と呼ばれる茶器を集め、文化サロンを主催したところで
秀吉の出自経歴が変るわけではない。
”藤原”秀吉という名乗りは確かに出来る。
しかしそれは藤原一族になったという意味ではない。
この頃になると気前のよい大名の中には一字書出しどころか
家臣に自分の苗字を名乗らせる者が続出した。
そういう意味では苗字の”価格破壊”が起きていた安土桃山の慣行のなかで考えると
(秀吉の羽柴姓、豊臣姓の緒大名への安売りをみても)
秀吉は藤原の名乗りをワンポイントで認められたというのが真相ではないだろうか.
”秀吉が藤原氏になった”というテーゼは全く否定されてしかるべきであろう。
793 :
日本@名無史さん:02/11/23 21:58
名字(苗字)と氏は全然違うよ。藤原は氏だな。
794 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:00
「猶子」になったんだから「藤氏」だろ。俺が許可する。
795 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:03
>>785 いささか勇み足だった
>>784一行目、二行目は撤回。
斎藤道三の近衛家からの養子、上杉家の北条家からの養子などは
その出自の高さ、実家の政治力にも関わらず家を継いでいない。
まして諸家における養子の数はもっとずっと多かった。
796 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:03
「藤原朝臣」を名乗っているのに藤原氏ではないとは、これいかに?
797 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:07
このスレのテーマは幕府なわけだが、
藤原氏として将軍になって幕府を開いてもよかったわけだが、開かなかった。
798 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:19
そもそも頼朝が征夷大将軍に就いたのは、太政大臣や関白を望むわけにはいかないが、
征夷大将軍でれば朝廷に許諾なしで恩賞を差配できるし、頼朝でも就ける官職であるためじゃないか?
であれば、朝廷の事実上の頂点である関白太政大臣の官職を手中にできるなら、名実共に頂点であって
征夷大将軍を望む必要はないのでは?
799 :
日本@名無史さん:02/11/23 22:48
後に家康が将軍になって幕府を開いたから、武家は幕府を開くのが一番との思い込みが
生じて、秀吉が将軍にならなかったのはなぜか、という疑問がわくだけのこと。
幕府を行政府としたのは頼朝の発明で、それがつぶれたので源氏の尊氏が復興させた
だけのこと。室町幕府がつぶれた当時としては、秀吉にとっては将軍職は選択肢の
一つではあったろうが、絶対的な目標ではなかったろうね。
800 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:06
秀吉の軍事力っていうのは圧倒的だね。日本史上最強の権力者じゃないの。
徳川みたいに関東集中じゃなく日本全国に直轄領があって親族の秀長、秀次も
各100万石の所領があり三成、福島、清正ら子飼いの武将はことごとく有力大名。
家康が倒せたのが奇跡だよ。筆頭大老の地位にしたのが致命傷になったな。
801 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:14
>>800 逆にいくら身内をかためても、徳川のような飛びぬけて強大な外様大名の存在を
許せば安定した統治を保つのは難しいということなのかな?
家康はそれを知っていたから、豊臣を執拗に潰しにかかったのでは?
802 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:15
>798
頼朝は征夷大将軍よりはるかに高位の権大納言も右大将も蹴っ飛ばしているよ。
要するに彼は「本社の役員」より「関東支店長」の方が欲しかったってことでしょ。
「本社の社長」はわからんけど。
>799
武家の棟梁としての「征夷大将軍」という意味はそうは小さくないのでは?
じゃ無かったら、戦国時代大名が「征夷大将軍」を担ぎ上げなかっただろうし。
>800
幕府成立後の徳川家の方が強大だと思うけど、今までの権力者に比べては桁違いに巨大な権力だとは思う。
家康が倒せたのは奇跡というのはそうかも知れないね。
803 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:17
家康を四国に移しておけばよかったかもね。それで瀬戸内の海賊は秀吉がてなづけておく。
そうすりゃ出て来れない。
別に秀吉ファンではないが、頭の体操として。
804 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:19
>>802 権大納言も右大将じゃ、恩賞の差配が自由にできなかったから。
805 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:21
>>803 あまりに不利な条件だったら第二次小牧長久手合戦が勃発したんじゃないの?
806 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:24
>802
秀吉さんは征夷大将軍にはなれたかもしれないが、武家の統領になれたかどうか。
最大の疑問はあきらかに豊臣家の未来にとって脅威となりそうな
徳川をなぜ秀吉は豊臣政権下で最高の地位に置いたのかです。
しろうと考えでは宇喜多あたしを関白にし、前田に執権職的な役目を
負わせたほうが、秀吉の血脈が続いたように思うのですが。
808 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:27
>>806 >秀吉さんは征夷大将軍にはなれたかもしれないが、武家の統領になれたかどうか。
小田原平定以後の秀吉は、武門の棟梁ではないとしたら、一体なに?
809 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:33
戦国大名を領地から引き剥がすというのは
こっちも相当な覚悟が必要。
@こっちも最悪刺される覚悟がないと出来ない荒業。
A他者の旧領を受け取った大名のほうも己の首桶をかついでいくつもりでいかないと。
つまりどっちもどっちだと思う。
Aに関しては佐々成政が一番悲惨な例。
@はどうだろうか?
実は@のパターンで最大の被害にあったのは
ある意味自分の親がやった大番頭の関東移封の仕返しをくらった豊臣秀頼なのでは?
後北条の広大な領土と関東という風土を徳川氏に与えたことが
豊臣政権にとって致命傷になったとしか思えてならない。
810 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:35
>>807 単純に考えれば小牧長久手で敗退して、徳川を潰すには相当の流血を覚悟せねばならず、
それを行うことをためらったのでしょう。二度目の小牧長久手の戦い(関が原)を起こすリスクを
避けたのでしょう。流血を覚悟して徳川を潰してもその後の体制維持できる体力が残るかどうか
自身がなかったのだろう。
それから言えば、家康はよく関が原を避けずに戦ったなー、とその度胸に感心する。
811 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:40
>>809 東海道沿いの旧領より、上方から離れた関東の方が動きやすくなったってことはないだろうか?
812 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:40
相手が三成ならば勝利を確信していたんじゃない。
ひやひやもんになったのは秀忠遅参という大幅な誤算のせいでは。
813 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:41
三成が清正達に頭を下げて仲良くすれば関ヶ原もなかっただろうな。
豊臣が全国にもつ直轄領は維持し徳川の天下もなかったと思う。
814 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:49
>>811 結局遠地かどうかというより気概だね。
道鏡が流された下野薬師寺だ。
左遷されちまった俺はもう駄目だ、
と思うか、
右近衛大将の故地鎌倉を拝領した。武家として最高の栄誉。
よしもうひと踏ん張り、
と思うかどうか?
815 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:51
家康もいやみな奴だけどな。
816 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:56
徳川を倒したのも江戸から遠い長州や薩摩だったしね。
身近に置けば寝首をかかれるし、遠くに置けば陰謀を練る。
結局潰さなきゃ枕を高くして寝れない。
817 :
日本@名無史さん:02/11/23 23:57
秀吉は権威が欲しかったわけで、征夷大将軍だろうが関白だろうが
どっちでも良かっただけのこと。
818 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:02
武家には本当の日本統一は出来ないってことだね。
なんせ戦う相手がいなけりゃ武家の意味ないもんね。
徳川にも外様大名は必要だったわけだな。ところが結局それが命取りになる。
秀吉が目指したのは信長の天下フブだったのかも。
家康は時代を少し戻した感じかな。
819 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:05
>>817 秀頼を差し置いて関白に就任しては、あからさまな謀反に見える。
しかし、征夷大将軍なら関白の許しがなくても武家の差配を自由に行える。
だから征夷大将軍に就いたんだろうな。
ソ連邦の大統領ゴルバチョフをそのままにして、ロシア共和国の大統領に就任して
事実上の実権を奪い取ったエリツィンに似てる。
820 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:07
>>811 歴史で言われていたことと違い
秀吉はじつは毛利家という巨大な存在を煙たがって
遠くに追いやってしまいたい、と考えていた節がある。
小早川隆景に与えられた筑前一国肥前数郡合わせて50万石と言われる大封は
実は毛利本家の九州移封を小早川隆景が身を持って防いだ”毛利3本の矢”の自衛策だったらしい。
で、小早川隆景が俺は九州に追いやられちまった、とその後シュンとしたかというと
彼の武名はますます上がり、毛利家内部での発言力は一層強まり、
さらに豊臣家からも一大名ではなく大老格で扱われた。
つまり筑前にまで落ちてきた。俺はもう何の望みもない、と悲観して
赴任後まもなく発病して数ヶ月して亡くなってしまった菅原道真のような気の毒なタイプと
よーし、太宰大弐だ。文武両道でハッスルしてやるぞ。と思う藤原隆家のような熱血タイプに分かれると思う。
藤原隆家という人は刀伊の入寇ののち京の中央政界に復帰するが、
懲りずにまたもや左遷されて大宰府に舞い戻ってきた。
しかしそれでもめげずに鎮西の政治に打ち込み
子孫は繁栄し九州の諸武家が藤原隆家という名を先祖と仰いだ。
(少なくとも系図上ではそうなっている。)
821 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:12
>>820 単身で流罪にされた道鏡や菅原道真と、家まるごと移封しなおかつ石高もアップした
家康や小早川隆景を比べるのはいかがなものか?
>>810 それだけじゃないと思うな。
浅井叛乱時にシンガリを勤めて、戦死してもおかしくなかった状態で
助けてくれた家康に個人的な好意があったんじゃないかな?
その頃の家康は、今川氏真には礼を尽くし、酷使されても信長を裏切らず
律儀者の評価が高かった。
小牧長久手以後にいくらでも徳川を滅ぼす機会はあったし、自分の母を
人質に出してまでへりくだるのは、自分を低く見せてしまうため、それでなくとも
出自をかつての同僚や名家出身の大名にバカにされている秀吉には得策ではない。
涙を流してまで反対する秀長たちを押し切って、家康にへりくだった秀吉には
家康への敵意は感じられない。
秀次を切腹させるほどに耄碌して猜疑心が強くなった晩年において、あれほど
側近の三成たちが家康を敵視しても、秀吉は家康に対しては警戒はしても
利家と並んで国政を任すほどに信頼していた。
家康の若い頃のイメージが、よっぽど良かったせいだと思う。
823 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:21
道鏡 法王→下野薬師寺別当
道真 右大臣→大宰権帥(員外)
地方の寺の住職や名目だけの左遷ポストですな。
824 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:30
>>822 浅井叛乱時に殿軍を買って出たのは、秀吉を助けたというより
秀吉と同じく信長に忠節を示すためで、秀吉がそれほどの恩義を感じるものでは
なかったんじゃないかな?
825 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:31
826 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:32
>>822 >小牧長久手以後にいくらでも徳川を滅ぼす機会はあったし
どんあ機会がありました?
特に対立したような場面はなかったんじゃないか?
827 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:39
>家康の若い頃のイメージが、よっぽど良かったせいだと思う。
三方が原の戦いで玉砕したのがイメージアップになったのでは?
あれは信長への忠誠心だけでは考えにくい。
実際松永久秀はあそこで裏切っているし。
828 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:40
子飼い武将の分裂が1番の原因。こいつらを一喝できる豊臣一族が秀吉しかいなかったのも失敗。
秀吉自身がその役目を家康に任せたんだから仕方ないな。
829 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:43
>>823は公卿補任や日本史事典の武家官職一覧とか見て
ただ悦に入っている口だとおもうが。
だったら実子義親が朝敵として追討されてしまって
源家累代の戦いを私闘とみなされた源義家はどうよ?
足利尊氏の筑紫落ちは?
左遷どころの話ではなかったんだよこの人達の事情は。
息子が犯罪者だったら親は自分の血が悪いのか、と思うだろ。
壊滅的敗北を味わって自身の追討命令が出ている状況で
目の前に何万もの大軍が現われたら
もうどうでもいいから腹も切りたくなるんではないか?
とくに地方史(東国史、鎮西史)は受領や在庁官人の歴史だ。
国家一種が受験できなくても地方公務員で頑張ったひともいる。
戦前の日本があれだけ西欧列強を相手に頑張れたのも
生活苦、資金難から一高、三高受験をあきらめて師範学校にすすんだ先生達が
日本の教育現場を土台から支えたからという説もある。
受領や在庁官人なんて当時の清涼殿での会議から見れば屑みたいな存在でしょ?
そういう屑みたいな存在がのちの井伊氏や大内氏や小早川氏ですよ。
あなたのいうのは典型的な結果論です。
830 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:49
↑まあ、落ち着け。
831 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:50
>>829 だから、道鏡や道真は左遷じゃなくて流刑なんだって。
832 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:55
>>828 高台院をしたう尾張派と淀殿を奉る近江派に完全に分裂しちゃったのが、
家康につけ入る隙を与えちゃったね。
やはり世継ぎは正妻から生まれないと火種になるね。
833 :
日本@名無史さん:02/11/24 00:56
だから、鎮守府将軍藤原秀郷も右近衛大将源頼朝もみんな配流なんだって。
ち杖ず流死の流刑。
極刑から2番目に重い刑。
平安時代に保元の乱まで停止していたと言われる死刑の次に重い刑。
彼らはみんな左遷じゃなかった。
>>826 家康が危険だと心底感じていて本気でつぶす気なら、別に「対立したような場面」
はいらないでしょ。
女婿の北条氏の不始末を口実にしても良いし、関東移封時に石高を低めにしておいて
移封を渋ったら織田信雄のように領地を取り上げても良い。
朝鮮に送り込んで苦労させるという手もある。
にも関わらず優遇し続けたのには何故?
漏れが秀吉ならあんなに大封をもった部下は、将来予想される
危険を回避するために、無罪でも間違いなく罪に落として粛清するなw
835 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:03
>>833 道鏡や道真は家柄がなかったから、地元の武将達としても使い道がなかったのでは?
836 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:05
>>834 だから、そんな理不尽な処分をしたら戦になるじゃん。
まさか秀吉が負けるとは思わないが、それなりの深傷は受けるでしょう。
837 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:06
菅原道真は土師氏でしょ
大和盆地以来の古代の名族。
大枝氏(大江氏)とどっちが主流かわからんけど
菅原道真が家柄がなかったとは逆立ちしても思えないけど
838 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:08
道鏡の場合は時代背景がちがう。
道真は学者タイプで本人にその気がない。
839 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:08
>>834 他の大名の手前、大大名の一方的な処断は無理と思われるが。
再び戦国時代に戻すだけ。
豊臣政権は独裁政権を樹立する組織が整備されてない。
840 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:09
>>836 だからって危険人物をみすみす放置する?
ましてや優遇したりしないでしょ
漏れも
>>822の言うように、根底には秀吉の家康に対する好意って言うか、
信頼のようなものがあったんだと思う。
841 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:11
道真は決して学者ではないよ。
純然たる政治家だ。
拾われた子。
文人学者。
あとの人はなんとでも言いますよ。
なんとでも記しますよ。
842 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:12
>>837 道真を頂いて反乱軍を旗揚げするほどの家柄ではないと思う。
843 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:13
>ましてや優遇したりしないでしょ
優遇はしていないと思うが。
関東へ移したのは、今までの領地から切り離したかったからであるし、
東海道筋には豊臣の子飼いの大名、背後に蒲生氏郷を配置しているし。
ただ、潰すまでの力が秀吉に無かったんでしょ。
844 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:15
単身流罪となった道真と豊臣政権の大大名である家康は比較できない。
845 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:17
>>840 秀吉も家康を放置したくて放置したわけじゃないでしょう。
大量の血を流してまで家康を潰せなかっただけだよ。
一度小牧長久手で手痛い敗戦をした秀吉が、なかなか臣従の意を示さなかった
家康を信用していると考える方がどうかしているよ。
846 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:18
道真の場合は
律令制復帰衝動が人よりつよかったんだ
ただしそれが政界を泳いで渡るためには非現実的すぎる常識以前の過激思想か?
といえば政敵であり後継者の時平の政策を見ればわかる
なぜなら時平は基本的に道真其の侭といっていい政策を施行している。
のちの院政、平氏政権や後醍醐も
藤原摂関政治から比較すれば
根幹は太政官制度へ回帰している。
律令強化といえばそう解釈できる。
847 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:23
いつの間にか「何故家康を潰さなかったかスレ」になとっるべ。
848 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:25
じゃあ徳川300年萩の御殿様を「江家」と尊称していた萩藩士はどうよ?
「よお征夷大将軍」と罵声を浴びせた高杉晋作はどうよ?
公爵毛利元徳は源氏長者、奨学院別当の血統の家に対して卑屈に感じていたのか?
桂太郎首相は園遊会で毛利公爵の足元に跪き靴紐を結ばれた、と木戸幸一が記している。
大江氏、菅原氏はどっからみても名家であることには変り有りません。
あなたの価値基準をまず説明してください。
849 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:25
>>847 それほどテーマとズレてはいないんじゃない?
850 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:28
>>848 神輿に担いで、戦の旗印になるような家とは自ずと違うでしょう。
851 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:30
そう、九州独立国をつくれるまでの大義が持てないな。
貴種とまで言えない。
852 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:31
>>848 長州藩士や桂太郎の場合は名族「大江氏」に対する尊敬の念というより、
主君である「毛利家」への忠誠心でしょう。
摂関政治の時代にあっては、大江も菅原も名家というほどではありません。
むろん、地方の土豪よりは名家でしょうが。
853 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:37
宮や、天皇家につながり武門の棟梁たる源氏や平氏、藤原北家につながる家であれば
神輿に乗せて旗印にもなろうが、学者の一族を担いで武家の糾合を呼びかけても滑稽でしょう?
854 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:45
>>850 シンボル=御輿をかつぐ=錦旗をかつぐ
総大将=御大将=首領 を幕営、後方陣地、領地内に奉じる
というふたつの動作はこの際別にしなければならないと思われるが
いずれにしろ天朝の錦旗をかついだ新政府軍も鎌倉以来の毛利家の権威は活用した。
毛利公爵家は戦後没落した華族(旧藩主家、元勲、明治大正政府高官)のなかでは
仏陀や孔子に誓っても繁栄している部類にはいると思うが?
毛利家の御曹司はいまだに外務省でも務めているし
林にしろ安部副長官にしろ政界長州閥は
日米安保強化=ミサイル核防衛システム協議の実務担当者としての
与党保守本流の中核にいまだ確固たる地位を保有しているが。
菅原氏が道真以降没落したという話なら分かる
だけど古代いらいの権威であった菅原氏が
なぜ権威がなかった、とあなたが断定されるのか、
まるで納得いく答えを出していない。
あなたのような足立区の月3万の安普請アパートの住人は百万年たっても御輿には乗らないだろうけど。
855 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:48
↑まあ、落ち着け
856 :
747・757:02/11/24 01:50
あらあら、
ちょっと、余所見している間に、とんでもなく路線が変わったようだわね
いったい、どうなっちゃったの
857 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:52
858 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:54
>>854 平安時代から数百年を永らえた後の毛利家の権威と、
平安時代の菅原家を比較するのはどうかと思う。
戦国以降の毛利家の権威は、大江氏の権威ではなく、
毛利元就以降の天下争いに絡んだ毛利家自体の権威だろう。
>なぜ権威がなかった、とあなたが断定されるのか
現に九州の豪族が道真を担ぎ上げていないし、
日本史を通じて最大のブランド一族である天皇家にも北家にも関わりのない家が
旗印になることはなかったし、旗印にしようとする動きもなかった。
歴史が証明している。
859 :
日本@名無史さん:02/11/24 01:56
>>857 それより、おまえは自分が何言いたいのかきちんと説明してみ。
>854
「毛利家の権威」というなら、鎌倉以来でなく戦国以来というべきでしょう。
元就より前の毛利家に、担がれるような「権威」などなかったと思います。
861 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:04
毛利なんかどうでもいいよ。完全すれ違い。早くやめれ。
862 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:06
長州はこれだから、(以下r
863 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:06
菅原道真や道鏡が天下取りの戦に奉じる旗印になりえる名家だと思っているヤシもいるんだな。
名家じゃないからこそ、成り上がり者として嫉妬の対象になったんだろう?
864 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:19
政権の大義名分を得るのに
信長は、最終的に皇帝(天皇)になろうとした模様。
そのため、大名と戦う以外に、旧勢力との争いに時間と力を浪費。
本能寺の要因の一つにもなった。
秀吉は、当時の日本の形式上、天皇以外で一番権威の高い関白に就任。
これにより、朝廷や足利将軍、その他旧勢力の発言力をおさえることに成功。
しかし、外様大名を政権の中枢に据える行政機構と後継者の年齢が問題となる。
家康は、当時の政情を考えると、秀頼がいる以上、関白には就けない。
そのため、征夷大将軍に就任。開幕。
しかし、それが、幕末、薩長が朝廷をかつげる要因になった。
ってなところでしょうか?
>863
菅原道真は、死後は「天皇も祟り殺して地獄に落とす、天神様」になってますね。
平将門は、菅原道真の霊から新皇の位記を受けたと称したんでは。
866 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:27
>>864 下から2行目
>しかし、それが、幕末、薩長が朝廷をかつげる要因になった。
征夷大将軍だろうが、関白だろうが天皇になれない以上、
敵対勢力は天皇を担ぐんじゃないか?
867 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:27
菅原も大江も文章博士の家というブランドでは一致している。
と、こう書くと、菅原=大江=文人学者の家系としかイメージがわかない。
そこで菅原氏出身者の極位だが
道真父菅原是善 従三位参議、
菅原道真 正二位右大臣
これはとてつもない高位といえる。
868 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:28
さらに「菅原氏」の項で辞典をひくと
”中世にも「高辻」、「五条」、「東坊城」、「唐橋」など家に分かれ多くの公卿を出した”
とある。
これが衰退した家、に該当するのだろうか?
さらに
”宇多醍醐両天皇の信任厚く、藤原氏を押さえるために重用された”
宇多天皇、醍醐天皇、お二方はご自分たちは東方の島国に
万世一系の皇統の血筋として生を受けられたわけだが
藤原氏という外戚の権勢に頭を悩まされていた。
この強大な力を押さえるために、重用されたのが菅原氏の道真だということなのだ。
押さえるために、、、、ここの部分だが、
古代の祭祀呪詛社会で家の名前というのがどれほど重いものか、ということを強調したい。
ではここでどうでもいい馬の骨を持ってくるだろうか?
担ぐのが氏素性の定かでない身分賤しき者でよいのだろうか?
それで周囲が納得するだろうか?
869 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:30
>>822 秀吉は家康なんか全然恐れていなかった、という見方が普通ではないの。
家康の方が一枚上手と見るべきか、無能の烙印をおされたとみるかは評価が分かれるがな。
それに秀吉が生前恐れていたのは、毛利だったそうな。
秀吉って何年にも渡って毛利と戦争してたから、かなり警戒していたそうだよ。
だから石川同様、両川を引き抜くか自立させようとしていた、
吉川は九州征伐後、その軍功によって独立させようとしていたそうだが、親子そろって死亡したことにより諦め、
小早川だけ成功したみたいだけどね。
それが皮肉にも、関が原の敗因を作り、豊家滅亡の引き金になるとは皮肉な物だ。
870 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:33
>868
宇多天皇はともかく、醍醐天皇の信任が厚かったとは思えませんがね。
流罪にした本人ですよ?
だからこそ、菅原道真が死後のろい殺したとか、讒言を信じた罰を受けて
地獄で責め苦を受けたとかいう伝説が出てきたのではないですか?
清涼殿への落雷が道真の怨霊によるものという噂がでたとか、落雷以降
醍醐天皇が病気になって死んだという話からしても、とても信じられな
いことですね。←醍醐天皇信任説。
872 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:42
>>866 やろうと思えば、不可能なことはないが、
天皇を担ぐのに、相手が関白と将軍とでは、大分ちがうのでは?
朝廷内において、関白と将軍とでは発言力が大違い。
873 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:44
>>872 将軍とはいっても太政大臣や内大臣にも就いていたんだから、
それほど違いはないと思うよ。
874 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:48
「平将門」には坂東諸国の平氏が神の如く恐れ敬ったご先祖様高望王の尊像が
伯父国香、良兼、良正の軍勢の陣頭に高々と掲げられる場面がある。
これを見て、いままではまるで燎原の火の勢いだった無敵の平将門の将士たちは
まるでいままでが嘘だったかのように力を失い戦意を喪失してしまう。
軍勢の中には将門と一門以下わずかの人数しか高望王の血統を持っていなかったはずだ。
しかしこの高望王の尊象を見た瞬間、一門よりもむしろ郎党下人が怖じけづき
「罰がおそろしい。お許し下さい」と武具を捨て散ってしまい壊滅的敗北を喫してしまう。
この当時は各氏が氏神を厚く信仰し、氏長者を中心に堅い結束を守っていた。
その祭祀の過程がすなわち政治であった時代なのである。
われわれ現代人の感覚では想像しえない古代社会の一面だ。
宇佐八幡が神託と告げれば天皇以下朝廷の誰もが雷に打たれたように
神託に恐れ奉り静まり返る時代だった。
875 :
日本@名無史さん:02/11/24 02:56
藤原氏は東国の鹿島神に由来すると言われる春日大社を深く信仰し
北家の氏長者を中心に朝廷のまつりごとを独占していた。
その藤原氏もひとたび興福寺の僧徒が強訴し春日の神木を担いで京の街へ乱入すれば
全員が固く自邸の門を閉じ一歩足りとも外に出られなかった。
神木に対して不敬があれば一族を永久追放される、という厳しい決まりがあったからだ。
876 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:05
宇多上皇が道真を守り切れず
ついに手放さなければならなかったのは
藤原氏との激しい権力闘争の最終局面の段階。
それほど宇多上皇は道真を愛しておられた。
醍醐帝があとで深くお悔やみになられていたのは
朝廷が後日、太政大臣の号を亡き菅原道真公の霊に贈っていることからも見て取れる。
877 :
日本@名無史さん:02/11/24 03:05
>876
赦免等々は、道真の怨霊を恐れてというのが通説だと思いますが。
まあ、そのかいもなく祟り殺されたわけですが。
衣の残骸のようなものを身にまとった醍醐天皇が、地獄で鬼に鞭打たれていた、
などという説話が伝わっていることからも、当時どういう風に考えられていた
かわかろうというものです。
ほーんと、朝鮮なんか行ってないで
関東再制圧(徳川潰し)すればよかったんだよな。
伊達、上杉、掘、佐竹、真田、浅野、里見・・・
囲んでるし。
子飼いみんな生きてるし。
んで、名跡は結城秀康を「松平秀康」として数十万石で、遺臣収容。
これにて後の反乱分子もぐっと減り。
充分じゃん。
880 :
日本@名無史さん:02/11/24 11:35
>>879 伊達は徳川に付くだろう。
毛利や島津、細川なども「天下取りの目が出てくる」と思えば、謀反するかもしれない。
>>880 秀吉天下統一期(大陸出兵頃)の状況で、伊達が家康につくわけないと
思います。
この時期なら誰が秀吉に逆らえましょうか。
家康の関東再開発、各地築城もまだ途上ですし。
小牧長久手の頃とは状況が違い過ぎだし、伊達を買いかぶりすぎ。
内心はどうか知りませんが、ここでうまいことやって旧領復帰もしくは更な
る大身へ、と利益で考えるほうが伊達政宗らしいかと。
島津は家中の一部がなんかやるかも知んないけど先ず無理。
毛利はむしろ秀吉の手先になるでしょう。
細川論外。
皆、こう考えるでしょうね。
「ここでうまいことやって更なる大身へ」
この論功行賞次第で前田・毛利がさらに肥大化するでしょうが、毛利は元
々天下云々考えてないでしょうね。
天下の下で権力を握ることは考えていても、己がモノに・・・とは考えてい
る風ではないでしょう?輝元時代の行動を通して考えるに。
秀吉的にもなーんかうまいことやって、子飼いに大領地を配るチャンスですし。
三成忍城リベンジなるか?
882 :
日本@名無史さん:02/11/24 14:49
>>881 唐入りのころは、既にポスト秀吉の暗闘が始まっていたんではないでしょうか?
883 :
日本@名無史さん:02/11/24 15:00
秀吉の目指しているのが「大明帝国皇帝」なのならば、
征夷大将軍なんてせこい役職なんかどうでもいいだろ。
884 :
日本@名無史さん:02/11/24 15:19
>>883 >大明帝国皇帝
征服後は、もはや「明朝」ではありえないだろう!
885 :
日本@名無史さん:02/11/24 15:22
確かに正論。
じゃ、「大豊帝国皇帝」くらいかな。
886 :
日本@名無史さん:02/11/24 15:36
>>885 日本人も中原に覇をとなえた民族として中国史に足跡を残したかったなー。
数十年でもかまわないから。
そうすれば、日中戦争の時も大儀面分も立った。
887 :
日本@名無史さん:02/11/24 15:40
日本本土などほっといて、秀吉自ら朝鮮に赴くべきだったね。
888 :
日本@名無史さん:02/11/24 15:49
北京に入城して中国を平定した秀吉の留守をついて、家康が謀反。
北京への動座を嫌う日本の朝廷をそそのかして、秀吉を朝敵に仕立てる。
はしごを外された秀吉は、明朝皇帝を奉じて日本に攻め込む。
889 :
日本@名無史さん:02/11/24 15:52
崇禎末期の明ならともかく
萬暦当時の明は、皇帝自身は駄目人間だったが
まだまだ超大国だぞ。
戦国時代の日本を過大評価しすぎだよ.
山海関あたりで前進を阻まれた挙句
補給路断たれて全滅、加藤清正とかは全員
北京に連行されて「献俘之儀」の見世物にされた末
全員磔刑が落ちだったろうな。
今の天安門前広場に壇を築き
皇帝が頂点に座り、雛壇に上から順に3、9、27、81と
武官が控える。
捕虜を見た皇帝が「連れ去れ」と命ずると
武官たちが段ごとに順に「連れ去れ」と唱え
最後は割れ鐘のような大音声。
多くの日本人捕虜が処刑されたらしいが・・。
>>889 補給が繋がれば勝てたんじゃない?
全土は無理だろうけど、満州部と現・北京ぐらいまでなら。
明はもっと南だし、北のほうでやってる間に鉄砲も大量導入して、
そのうち簡単に奪還するだろうけど。
ただし、明軍に勝てた(占領できた)というだけであって、永続支配は難しそう。
明からの寝返りや現地民族を取り込めるかな?無理じゃないかな?
つーか、日本の武将たちは満州の原野を見てどう思ったろうね。
「これじゃ米とれねーよ!こんなとこもらってもなぁ・・・」
「えーと、次の町どこだ?」
「なんかやんなっちゃったなぁ・・・」
こんな感じじゃない?(笑)
>>882 といっても徳川か前田か、という程度じゃない?
んで皆は「もしもの時はどっちつく?」って思ってる程度。
秀次生きてたっけ?
なら伊達も秀次派だろうけど。
伊達の本当にすごいのは時の権力に対しての立ち回りの狡猾さ、だから。
892 :
日本@名無史さん:02/11/24 21:04
日本が中華帝国の影響から微妙に離れて独立を保ち、独自の社会を育てられたのは、
海が隔てる微妙な距離にあり。逆もまた真也。
893 :
日本@名無史さん:02/11/24 21:10
つーか明ってあっさり(3代かかっているからちと言い過ぎか)満州族に併呑されてるくらいへタレなんだが。
894 :
日本@名無史さん:02/11/24 21:36
>>893 しかし、あの大モンゴル帝国の宗主国である大元を打ち破ったのも明だよ。
895 :
日本@名無史さん:02/11/24 21:57
満州族が勝てたのは
北京の崇禎帝の朝廷が
李自成によって覆滅させられたからだよ。
その跡には
南には明朝の皇族政権あり
占領された首都には李自成集団、西には張献忠
国は四分五裂。どれに仕えれば命が助かるものやら分かったもんじゃない。
そんな時に「崇禎帝の仇を討ち、乱から民を救う」なんて言いながら
清軍が南下してくる。
南明政権は腐敗の極み
李自成の「順」は流賊の集合体
張献忠は殺人狂
清軍とて君子の集団じゃないが
「まだまし」と思われても当然だろう。
896 :
日本@名無史さん:02/11/24 21:58
まあ、日本から明を攻めるのであれば、元が日本を攻めたの何倍かの大軍団を、
それも陸軍を出すことになろうな。兵站含みで。俺ならやらない。やるなら寝返り
狙いで明朝に入り込んでスパイ活動から入るね。秀吉・家康の得意技さ。
だけど言葉が通じない。遠い。だから多分成功しないね。だけどスパイ活動だけなら損害は
ワズカだね。成功すればラッキー。そんな感じだぜ。
>>892-896 そんな感じ。
だから
合戦に勝てたり、一時占領はできるかも。
でも永続占領は無理。
と思うです。
じゃあ、大陸出兵がそもそもイミナシであり、
どうせ家臣に配る知行が足りないなら・・・
「関東平野」でしょ。
徳川家康?百万石→結城秀康数十万石
差額がいっぱい出ます。
秀吉くんったらまったく・・・
キミは信長さまとは違うんだよ。
信長様の設計図どおりにそこまで完遂しなくてもいいのに。
898 :
日本@名無史さん:02/11/24 22:42
秀吉には日本統一後の構想がないのよ。出世したいだけの俗物だよ。
走ってるだけ。子がなかったからなあ。哀れ。
899 :
日本@名無史さん:02/11/25 04:37
でもお前より哀れだとは思えないんだよなぁ
900 :
日本@名無史さん:02/11/25 05:32
わき道にそれているようだが、このスレの結論としては
「秀吉は自分を飾る権威が欲しくて朝廷(関白職)を使っただけで、
関白だろうが征夷大将軍だろうがどっちでもよかった。
むしろ、出自の卑しい自分がトップの幕府より、天子の権威を
大名たちへの脅しに利用できる分、関白職のほうが都合がよかった」
ということですか?
901 :
日本@名無史さん:02/11/25 09:51
>>900 >天子の権威を大名たちへの脅しに利用できる
内大臣・征夷大将軍だろうが関白だろうが、天皇の権威には変わりないし
それほど大名の見る目が変わったとは思えないが......
家康との戦争(小牧・長久手)で実質敗退し、
征夷大将軍は貰いにくくなったとも聞くが。
904 :
日本@名無史さん:02/11/25 12:51
少し養子の話に戻りますが、
秀吉は智仁親王を「養子」ではなく、「猶子」にしています。
ですから智仁親王は豊臣智仁ではなく、皇族たる親王なのです。
したがって、秀吉が藤原姓を名乗ることと、猶子になることは別の話です。
養子と猶子は同じだと言う話は論外ですが。
秀吉は、関白就任にあたり、近衛前久(龍山)の養子になったのではなく、
「猶子」になったのです。この事実は、『近衛文書』に記されています。
厳密には、養子と猶子では意味合いが異なります。
秀吉が、関白に任じられた経緯については、
『大日本史料』第十一編之十七、天正13年7月11日条に関係史料が網羅されています。
『近衛文書』も収録されています。
一度、同書をご覧になって、その上で論議されると、大変に有意義だと思います。
906 :
747・757:02/11/25 12:58
747
秀吉は、関白就任にあたり、近衛前久(龍山)の養子になったのではなく、
「猶子」になったのです。この事実は、『近衛文書』に記されています。
厳密には、養子と猶子では意味合いが異なります。
757
秀吉が、関白に任じられた経緯については、
『大日本史料』第十一編之十七、天正13年7月11日条に関係史料が網羅されています。
『近衛文書』も収録されています。
一度、同書をご覧になって、その上で論議されると、大変に有意義だと思います。
907 :
日本@名無史さん:02/11/25 13:03
908 :
日本@名無史さん:02/11/25 13:09
>>905 だーかーらー、秀吉の場合、養子と猶子ではどう違ったんだよ?
909 :
日本@名無史さん:02/11/25 13:52
910 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:01
なにが?
910ではありません
少なくとも。、日本史研究の基本史料である『大日本史料』を読まずして、
歴史学は語れない、ということです。
史料を活用して、歴史研究しないと机上の空論になります。
まさか、『大日本史料』知らないわけはありませんよね
主観・価値観の問題ですが。
『近衛文書』の一部、「秀吉公、(中略)然ハ近衛殿龍山御猶子トナリ」
912 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:20
>>911 で、それを読んだあなたは何を語りたいの?
養子と猶子の違いで、秀吉がどうかわったの?
913 :
906・911:02/11/25 14:22
まさか、『大日本史料』知らないわけはありませんよね
914 :
906・911:02/11/25 14:23
お近くの図書館で『大日本史料』閲覧下さい
915 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:25
>>914 「読まずに語るな!」なら、それでもいいんだけど、
読んだのなら語ってよ。
916 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:37
>>914
新手のアラシか??(w
みんな、「君が何を言いたいのか」と聞いてるんだ。
資料研究が重要だとか、「釈迦に説法」的なことにぐだぐだ粘着する
のはキモイからやめれ。
917 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:38
俺は914ではないが、914の言いたいことは、
>>906の前半=
>>747 >747
>秀吉は、関白就任にあたり、近衛前久(龍山)の養子になったのではなく、
>「猶子」になったのです。この事実は、『近衛文書』に記されています。
>厳密には、養子と猶子では意味合いが異なります。
ということと思うが。914の言いたいことはこれで全部と思うが。
918 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:41
>>917 その言いたいことが、このスレのテーマにどう絡むの?
919 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:42
シラネ。914は一点指摘派な訳だろ。もういいじゃん。
920 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:43
それだけのことで、こんなに大騒ぎするわけ??
だいたい914が最初の書き込みする以前でも、
多くのヤシは近衛家の「猶子」ときちんと区別して書いていた
と思うが。彼の指摘を待たずとも。
921 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:45
くだらん指摘なんてしなくても、
秀吉が藤原北家の家系に名を連ねたいから近衛前久の養子になったと思っているヤシなんて
このスレにはほとんどいないよ。
みんな関白になる近道だからだと思っているよ。
922 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:50
俺、「なぜ秀吉が幕府を開かなかったか」より、
「914がどうしたら周りの人をまともなコミュ
ニケーションができるようになるのか」の方が
重要なテーマな気がしてきたよ。(w
923 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:51
人を >>> 人と 訂正や。スマン。
914は最近やっと「大日本史料」が読めたんだね。
はいはい、よかったね。
国語力上がったね。
もっとがんばれよ。
925 :
日本@名無史さん:02/11/25 16:03
勧修寺晴豊の日記『日々記』を初めて学界に発表された岩澤先生が、
満を持して発表されています。皆さんー、勉強しましょう。
『織豊期研究』第4号 (織豊期研究会、2002年11月)
「三職推任」覚書 ………………………………………… 岩澤 愿彦
926 :
日本@名無史さん:02/11/25 16:41
>>911 >日本史研究の基本史料である『大日本史料』
ぷぷぷ。
927 :
日本@名無史さん:02/11/25 23:10
>>1〜
>>926を要約すると
@武家の棟梁にふさわしい地位というのは
時代背景、文脈、職位、位階、政治力、経済力等々によって異なる。
征隼人持節将軍→大友旅人
鎮守府将軍(陸奥出羽按察使・陸奥守を兼任)→藤原秀郷、平貞盛、源頼義、源義家、足利尊氏、北畠顕家
検非違使→平忠盛
大宰大弐→藤原隆家、平清盛、平頼盛
右近衛大将→源頼朝(1190建久1年権大納言右近衛府大将)
征夷大将軍→古代の将軍たち+鎌倉将軍家、室町将軍家、江戸将軍家
相模守→三浦氏が相模守護+侍所+政所と兼帯、三浦氏没落後は北条時頼、北条高時、、、一般に北条家督
武蔵守(武蔵守護兼帯)→北条長時、赤橋守時、、、一般に北条家督
太政大臣→平清盛、足利義満、豊臣秀吉
右大臣→織田信長
権大納言→源頼朝
関白→豊臣秀吉
928 :
日本@名無史さん:02/11/25 23:11
>>1〜.
>>926の要約(つづき)
A源氏以外の征夷大将軍はたーーーーーくさんいた。
源氏以外の氏族出身でも征夷大将軍に当然就任できる。
B関東平定などしていなくても征夷大将軍には拝命された。
C秀吉は近衛家の「猶子」になったのであって「養子」になったのではない。
「猶子」と「養子」では意味がまったく異なる。
929 :
日本@名無史さん:02/11/25 23:22
>>1〜
>>926の要約(つづき)
D秀吉の勢力基盤は弱すぎる→諸大名に大盤振る舞いし過ぎ+子飼の者が少なすぎる
楽市楽座、対外貿易、都市、諸鉱山の直接支配による商業資本の直接支配などは
細川氏、大内氏、三好氏、武田氏、毛利氏などが
強固な守護支配、地域支配とともに推進してきた政策。
秀吉はそれらの地域政治の果実を吸収しようとして結局のところ失敗した。
E Dへの反論=秀吉ほど強い中央権力を現出させたものは日本史上かつてなかった
貨幣鋳造による信用創造。
太閤検地を実施し公事を年貢に編入した。
ところでサルは刀狩りと海賊禁止令と兵農分離って本当にしたのか?
930 :
日本@名無史さん:02/11/25 23:25
>>1〜
>>926の要約(つづき)
F秀吉は小牧長久手で負けた
秀吉が銭勘定が上手く傭兵に類稀な才能があったのは確か。
ゆえに圧倒的軍事力で押し切る包囲攻城戦を得意とした。
しかし本格的な野戦で徳川四天王(井伊本多榊原酒井)の怖さを知った。
庄屋仕立てと呼ばれる徳川全国支配のモデルとなった三河地域社会の支配構造は
歴代松平氏が蓄積してきた統治スキルの集大成であり
秀吉のような一代ぽっきりの男には踏襲できない。
商業資本に頼ってきた秀吉の動員能力には持久戦では限界があり
伝統社会に基づいた地域軍事力に対する思わぬ脆さを露呈した。
ついでにもしも秀吉が武田信玄と対戦したなら秀吉は木っ端微塵にされる。
これへの反論は絶対にありえない。
八幡大菩薩と諏訪大明神の軍旗を靡かせて怒涛の進軍を行った武田御屋形は
まさに軍神の生まれかわり。
諸人の誰もが認める文字どおり戦国最強。
この世のものとは思えぬ強さ。
この思想を引き継いだ徳川軍制は非常に強固なものであり
当然烏合の衆である秀吉の軍勢などを蹴散らすのは朝飯前である。
930の最期がワラタ
蒲池は嵯峨源氏。西国一の名門だ。
百姓のおまえ等に歴史を語る資格は無い。
おまえ等は何時の時代も逃げ惑うだけ。
933 :
日本@名無史さん:02/11/26 01:18
927〜931は、きっとこのスレを立ち上げた「1」の方でしょう。
ご自身で、結論づけられたようですね。
色々な意見もでると思いますが。それはそれで、良いではありませか。
お世話様でした。私も、少々書き込みさせてもらいました。
間違いました。
927〜930でした。
931は別人だつた。スマソ
935 :
日本@名無史さん:02/11/26 01:26
>ところでサルは刀狩りと海賊禁止令と兵農分離って本当にしたのか?
刀狩:したんじゃない?わしの専門じゃないので誰かよろしく。
海賊禁止令:警固料(海上通行料)の徴収を禁じた。海賊衆は細大の
収入源を失くしたため、各地大名の家臣化を余儀なくされた。
(それ以前は、例えば堺商人は、村上氏に毎年1万貫もの通行料を
払っていたというぐらいで、本当に大きな収入だった)
兵農分離:言葉通りの意味では、していない。せいぜい「士農分離」である。
戦となれば結局なんだかんだで農民が駆り出され、(実際軍の半分近くは
駆り出された連中だった)朝鮮出兵などで各地の田畑が荒れ果てた。
936 :
日本@名無史さん:02/11/26 03:13
たまたま関白の話がうまくいったので、なってしまった。
極官である関白になってしまった後で、征夷大将軍になろうかとか
そんな話にはならんだろ。タイミングの問題じゃん。
>>930の後半でもう台無し。
>ついでにもしも秀吉が武田信玄と対戦したなら秀吉は木っ端微塵にされる。
どっかの城で2年ぐらい囲まれて、
御自慢の騎馬隊で時々突入をするが鉄砲と大砲をさんざに打ち込まれ、
やむなく助命嘆願。
骨と皮になって開城切腹だよ。<信玄
それを見物する秀吉幕下の諸将。
各々美女をはべらせて。
>>927 藤原利仁を加えろ。
芋粥食わせないぞ!
938 :
日本@名無史さん:02/11/26 12:35
>>937さんごめんなさい
>>930は個人的にそう思ってるだけです
それから偉大な名前を忘れていました
藤原利仁将軍。
鎮守府将軍ですね。
数々の武勇伝が伝わっています。
京のお公家さまからはこわーい将軍さまとして知られていたようですね。
今年の大河ドラマは北陸金沢百万石前田家の創業がテーマでした。
前田家は織田家臣ですがそれ以前の北陸の武族の祖といえばやはり利仁将軍ですね
鎌倉中期の三浦氏は相模国守+相模守護+侍所別当、政所執事ともに兼帯していたのでしょうか?
どなたか知っている方教えてください。
それが本当だとするとなにかとてつもない権力なような気がします。
東北の芦名氏や鍋島家中で鍋島忠臣蔵で知られる深堀氏が三浦氏ですね
北条早雲の相模進出の頃までには三浦氏は再び相模守護を称していますね
あと北条家督と北条得宗家は厳密にいうとまったく同じといっていいのでしょうか?
赤橋守時の妹婿(つまり足利義詮の伯父、足利義満の大伯父)であった高氏は
執権殿の妹婿殿であったわけですが鎌倉の太守さま高時からは一御家人として扱われています。
得宗>>>>>執権>一族縁戚
ってことでしょうか?
大伴旅人は字が間違っていました。皇室古代史の一大スキャンダルとも呼べる
大海人皇子の挙兵にあたって大伴吹負は将軍に任ぜられ苦心の末大和を征圧したとあります
この大功によって衰退に向かっていた大伴氏は軍事貴族として再び台頭したようです。
939 :
日本@名無史さん:02/11/26 12:41
それから朝比奈三郎吉秀
(ってこの字でいいのでしょうか?義秀?)
が天下豪勇の士だから木下藤吉郎はその名を逆さにして自分の名とした、とありますが、
室町後期にまでそんなに名が通っていたのは口伝なのでしょうか?
それとも軍記物語や伝奇物語にその名が載っていたのでしょうか?
鎌倉の朝比奈の切りとおしを持ち前の強力で一夜で通したとか凄い逸話が残っていますね。
940 :
日本@名無史さん:02/11/26 13:07
軍記物では源平盛衰記に載ってますね。また吾妻鏡にも登場してますね。
>鎌倉中期の三浦氏は相模国守+相模守護+侍所別当、政所執事ともに兼帯していたのでしょうか?
何にもやっていないよ。
相模国守+相模守護は北条義時が任官して(武蔵は弟時房)、その後得宗のはずだし、
侍所別当は初期には三浦一族の和田義盛だけど、その後は執権が兼任。
政所執事はいわゆる官僚だし。
二階堂氏じゃないかな。
>あと北条家督と北条得宗家は厳密にいうとまったく同じといっていいのでしょうか?
まあ、同じと見ていいんじゃないかな。
時頼以降、執権はいろんな人がなっているけど、実際の権力は得宗家が持ってたし。
尊氏の義兄赤橋守時は飾りに近い。
鎌倉後期は 得宗>内管領(得宗家の家宰)>>>>執権>一族縁戚じゃないのかな。
944 :
日本@名無史さん:02/11/26 16:09
日本史辞典の鎌倉幕府諸役表の「相模守護」の欄に
三浦義澄 官職名 三浦介 在職期間 建久五年(1194年)〜正治二年(1200年)
三浦義村 官職名 平六兵衛尉、左衛門尉、駿河守 在職期間 正治二年(1200年)〜延応一年(1239年)
三浦泰村 官職名 若狭守 在職期間 延応一年(1239年)〜宝治一年(1247年)
侍所、政所兼帯
とあるのです。
「山城守護」の欄には
京都守護兼務
六波羅探題兼務
「武蔵守護」の欄には
国司兼帯
とあります
945 :
日本@名無史さん:02/11/26 16:47
北条義時が相模守で
三浦義村が相模守護というのは別に矛盾しないと思うけど。
946 :
なぜ秀吉は豊臣幕府を作らなかったのか? :02/11/26 16:55
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
鎌倉時代に飛び火したのね
秀吉も、かわいそ・・・
まるで、レスの消化試合の様相になってきたわい
そして着実に1000を目指す!
948 :
五月みどり :02/11/26 17:25
みなさん、お暇ですな
おひまなーら、きてよね、あたし寂しいのー
949 :
日本@名無史さん:02/11/26 17:27
山形浩生
リンクを張らせろとかいうしゃらくせぇメールはよこすなバカ野郎! ケチなんかつけねーから、
どこへでも黙ってさっさと張れ! そういうメールをよこしやがったら、断るからな。いちいち相手
の身元を確認していいの悪いの判断するほど暇じゃねーんだ! そんなけちくさい真似するくら
いなら、最初っから無料でこんなもん公開したりしねーぞ! 世間様におめもじさせられねぇと
思ったら、その時点で引っ込めるわい。
黙って張る分にはなんの文句もつけない。絶賛リンクも結構、「こんなバカがいる」的罵倒嘲笑
リンクも大いに結構。煮るなり焼くなり好きにしやがれ。ファンメールもかねた事後報告もオッケー。
あとおひねりでもくれるってんなら、もらってやるからありがたく思え。いいの悪いの返事も書いて愛
想の一つも振りまこうってなもんだ。
でも、そうでなきゃそんなメール受け取って、読んで、おまけに返事書くだけのコストを、なんでこ
のオレが負担してやんなきゃならんのだ。しかもそういうメールに限って、クソていねいでまわりっくどくて
あいさつと社交辞令ばっかで、いつまでたっても用件がはじまんないで、長ったらしくて官僚的で、
他人に配慮してるようなツラして実は自分のケツをカバーすることしか考えてねーのが見え見え。
どうしても許可がないとリンク張りがリスキーだと思うんなら、明示的に許可がないと法的にリンク
が困難とかいうんなら、そんなとこはリンクしていただかないで結構。黙ってリンクしていいという文章
を読んで、それを理解する能力がないやつ(個人法人を問わず)なんか相手にしてられっか!
丸ごとコピーしたいときも、文章自体を変えないで(変える場合にも変えたところを明示すれば
オッケー)、もとのURLと版権と、転載自由だってのさえ明記すればなーんも文句はつけないので、
これも黙ってやってくれ。
でも山形が死んだらどうなるんだ、という心配性の人のために、遺言もつくっといてやろう。いたれ
りつくせり。親切だろう。どうだ、これでもまだ文句あるか。じゃあな。
950 :
日本@名無史さん:02/11/26 19:01
三浦義村は侍所所司までなってるようですね。
951 :
日本@名無史さん:02/11/27 00:30
ありがとうございました
なるほど所司か。
侍所別当和田義盛はいまでも割と鮮烈に記憶しています。
和田というと今でも安房の漁村ですが朝比奈も安房の地名らしいですね。
原作にわりと忠実だったころの大河ドラマ「草燃える」でも
伊吹剛扮する和田義盛が石橋山で敗れ安房へ逃れる船中で
「それがしを侍所の別当へしていただきたい」と頼朝に直訴していたのを覚えています。
原作者永井路子先生は義村と公卿そして義村と和田義盛の交わり
そしてそれが裏切りに至る悲劇をするどく活写しています。
藤吉郎がその名をとった朝比奈三郎義秀は和田義盛の息子ですね。
952 :
日本@名無史さん:02/11/27 00:58
>>941 >相模国守+相模守護は北条義時が任官して
これってどういう根拠があるんですか?ソースを示してもらえます?
953 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:17
>>952 すまんな。
義時は相模守(国司)だけだな。
守護は三浦義村かもしれん。
もっとも、守護は後世の作られた言葉で当時は無いけどね。
954 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:20
>>951 「草燃える」では当時の人間達が生き残るためには、いかに凄まじい時代だったかをうまく描いていたな。
三浦義村と弟胤義とのかけあいなんてまさにそれ。
戦国時代も同じくらい生きるのに大変な時代だけど「利まつ」見ていると、とても感じられん。
955 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:22
>>もっとも、守護は後世の作られた言葉で当時は無いけどね。
えっ 知らなかった
当時は守護のことをなんと読んでいたのですか?
956 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:25
守護は守護なんじゃないかなあ。
957 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:27
>>955,956
「守護」は正式には「総追捕史」。
頼朝が義経逮捕を理由に、「全国総追捕史」に任命され、いわば各国の守護は頼朝「総追捕史代官」。
958 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:30
>「守護」は正式には「総追捕史」。
受験に出てたナツカシー
959 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:31
侍所発足当初、和田が別当、安達が所司。そして二者が交代で別当・所司
を勤めるという取り決めだったらしい。
これらのポストを分け合ってる姿は、鎌倉幕府スタート時の御家人たちの
緊張感−表面は仲良しクラブでも心の中は不信感で一杯という緊張関係を
感じさせるね。
960 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:35
>>959 「侍所所司」は梶原景時で、安達は関係ないよ。
実際は梶原の方が有能だったらしく、途中で別当梶原、所司和田にひっくり返っている。
梶原滅亡後は和田が取り戻したが。
961 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:35
「草燃える」はたしか義村が仮面ライダー、畠山重忠がウルトラセブンだったような
これに伊吹剛の和田義盛
なんて濃い面々だろう、と思った
ファイト一発より数倍強烈だった
松坂慶子と義時暴れん坊将軍が小屋で逢い引きするところなども妙にどきどきしたりもした
でもあの浜辺であの豪華衣装はやはり松坂慶子のごり押しなのだろうとも思ったりもした
しかし泰時母ってそもそもいったい誰だったの?
962 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:43
>>957 義村の時代にも「守護」という役職名はなかったという主張ですか?
>>960 訂正大感謝!!梶原を安達と書いてしまった。スマソ!!
964 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:56
それから警察権と軍事権の違いもこのスレで尋ねてみたかったことだけど
実際飯の種にするなら警察権、
でもいざってときの政治カードは軍事による世論掌握のような気がする
警察権系の権力は令制下の(といっても令下の官の)検非違使、武家職制の守護のような感じでしょうか?
軍事権系の権力はもろもろの将軍系の官職のような気がする(気がするだけ)
でも大番催促、鎌倉番催促は軍事権だろうし(行政の一部なのか?)
謀反人の追捕などは裁断権にあたるはず
とすると鎌倉時代から守護は行政軍事司法を全て行使する絶対権力になりえたのか?
太平記読むと北条氏は将軍すげ替えするし天皇上皇流すし皇統の順序を指図するし
そろそろ若き天皇が鎌倉にたいして切れると「主上御謀反」といわれるし
北条氏ほど強大な権力も史上かつてなかったような気もしてきます
あと大宰府では誰が執行していたのか 多賀城・平泉後の奥州では?
わたしにはその辺が良く分からないです
965 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:59
なんか、秀吉がどうとか書いてるよりはるかに面白いスレになってきた予感。
966 :
日本@名無史さん:02/11/27 02:02
>>961 で、源実朝は「ウルトラマンタロウ」だったりする。
>>962 いつごろから守護になったかはちょっとわからないけど、「守護」と言葉は「吾妻鏡」の作り出した言葉だって記憶しているけど。
「吾妻鏡」はかなりあとに造られたはずでしょ。
967 :
日本@名無史さん:02/11/27 02:06
>北条氏ほど強大な権力も史上かつてなかったような気もしてきます
一概にそうも言えない。
義時で一応北条の基盤は固まったと言えるが、宝治合戦、霜月騒動がおきているのは
以外に御家人の力が強く、特に宝治合戦はかなり無謀な戦い。
実際には当時は北条氏よりも三浦氏の方が勢力が強かった。
だから時頼はだまし討ちにしている。
足利氏と北条氏でもいわゆるお手兵については戦力の差はほとんどないし。
平家の方が強大なんじゃないのかな。
968 :
日本@名無史さん:02/11/27 02:25
>>966 そう言えば主役は「ウルトラQ」のナレーター。(w
969 :
日本@名無史さん:02/11/27 04:18
>>964 >太平記読むと北条氏は将軍すげ替えするし天皇上皇流すし皇統の順序を指図するし
>そろそろ若き天皇が鎌倉にたいして切れると「主上御謀反」といわれるし
>北条氏ほど強大な権力も史上かつてなかったような気もしてきます
北条氏が史上かつてない絶大な権力を持っていたというより朝廷や将軍が特別大きな権力じゃなかったってだけのような。
北条氏による地方権力については元寇までは西日本を中心に完全じゃないし元寇のときの強化推進策で北条家の守護領域は増えたけど
それが北条氏の基盤を確立する前に崩壊しちゃったし。
970 :
日本@名無史さん:02/11/27 18:40
>>969 北条氏は時頼が巨福呂坂という山内庄経由の武蔵直結軍事道路を完遂したあたりで
そろそろあの強大な三浦と事を構えてももしや勝てるかも、
といった野心が出てきたのかもしれません。
巨福呂坂のあたりの建長寺、円覚寺の北条文化を見るとそう思えてきます。
かつて悲運の将畠山重忠が散った二俣川付近の古鎌倉街道は
上野下野武蔵の国人領主層たちの突き上げと
北条氏武蔵支配のぶつかりあった梅雨前線のようにも見受けられます。
のちに北条氏が悪夢の敗戦に次ぐ敗戦を喫したのがこの鎌倉街道でした。
北条氏にしてみれば武蔵を支配したつもりで支配できてなかった脆さなのでしょう。
「新田などという国人」にいともたやすく鎌倉までの直滑降を許してしまう。
971 :
いまさら1ですけど・・・:02/11/27 19:16
7月に思いつきでカキコした時はまさかここまでのスレになるとは
思わなかった・・・なんか感無量っす。
皆さんここでの話、楽しんでくださいね☆
やっぱ歴史は深いわぁ〜。
part2希望。
まだいけるだろ。
973 :
いまさら1ですけど・・・:02/11/27 20:00
パート2はどう作ったらいいんですか?
作り方教えてください。初心者でごめん。
>>971・973
お疲れさまでした。楽しませて頂きました。
小生、多少のカキコの中で失礼したかもしれません。スマソ、ということで・・・
933のカキコより
927〜930は、きっとこのスレを立ち上げた「1」の方でしょう。
ご自身で、結論づけられたようですね。
色々な意見もでると思いますが。それはそれで、良いではありませか。
お世話様でした。私も、少々書き込みさせてもらいました。
975 :
日本@名無史さん:02/11/27 20:54
>>970 この街道を守りきれなかったのは北条ばかりでなく、
攻守ところを替えて、足利直義も北条高行軍に敗走
することになります。
皮肉なもんで。
鎌倉街道を愛する人は結構多いですねー。
977 :
日本@名無史さん:02/11/28 02:24
鎌倉って武蔵国と相模国の境目ですよね
相武トンネルってのがいまでも朝比奈インターのすぐ脇に走っているし
公卿の日記にあるように大きく鎌倉城としてとらえると外郭は武蔵に入り込んでいる
978 :
日本@名無史さん:02/11/28 02:39
時代は下って幕末の頃には近藤勇や沖田総司は鎌倉古街道を通って
小野路村の小島邸まで出稽古に行ったそうだ。
979 :
日本@名無史さん:02/11/28 02:48
現在の朝比奈インターから釜利谷ジャンクションまでは結構距離があるけど
当時の海岸線はかなり内陸に入り込んでいたらしいので
六浦とか逗子とか京急逗子線のラインの一部が海岸線だったと考えられます。
(鎌倉の一の鳥居も海中だったという説がある)
赤橋守時が激闘の上戦死した大船も名前から漁港軍港だったと言われています。
もし船を使わないで陸路で行くなら巨福呂坂から山之内、そして公田方面に抜けるしかない。
そのあとは広大な武蔵の丘陵地帯が開けてくる。
ですから相模の国に属する三浦半島の丘陵地帯と
俣野万騎が原二俣川などの洪積世台地は
現在よりもっと相対的には距離感があったでしょうね。
北条氏は三浦氏の海に対抗するために必死に武蔵側に触手を延ばしたんだと推測します
980 :
日本@名無史さん:02/11/28 02:57
>>278 近藤さん土方さんの武蔵国日野は武蔵野と呼ばれる広大な平地(関東平野の西限)と
二俣川からさらに北上する鎌倉街道が丘陵地帯を降り切るあたりの接点ですね。
武蔵国の風土よりむしろ甲斐都留郡や八王子(って日野の隣というか現在ではほとんど同地域)に
近いので甲州の質実剛健な気風に近いといわれています。
今年のドラフトで都立日野高校の選手が何十年ぶり(たしか)入団してマスコミで騒いでいましたが
そういえば日野の新選組関連の地名取り消しは市役所がストップしたのですかね?
981 :
日本@名無史さん:02/11/28 03:20
近藤さん土方さんの家は、徳川幕府の政策で農民階級に甘んじた家柄です。
兵農分離というやつ。だから、家自体が武士願望が強かった訳です。
で、幕末になり、旗本連中が京都で使えないと知った幕府は、彼らを起用出来ると気付く。
剣の腕が立って、武士願望が強くて、おまけに幕府に忠義心が厚い。
尊王の志士を片っ端から切って行くような、特攻殺戮集団にぴったし。
瓦解する幕府に最後まで付き合ったのは、譜代の家臣でもなく、武士ですらなく、農民(郷士)だった。
あはれなるかな新撰組!
おーい。
新スレに移行しろや。
新撰組1つ取っても、幕府の本質に絡めて行けると思うよ。
幕府は、武士の統括機関として発生しながら、日本の性格を決定付け続けたと言う事。
平安の時代で止まって、硬直した朝廷とは、対比して考えるべき存在だ。
居残り組は秀吉の話題じゃないやん。
986 :
日本@名無史さん:02/11/28 14:35
秀吉の組織とからめて幕府などの話をしているのですよ
987 :
日本@名無史さん:02/11/28 14:39
じゃ移動しろよ。(w
988 :
日本@名無史さん:02/11/29 01:49
989 :
日本@名無史さん:02/11/29 23:18
もうじきだな。
990 :
日本@名無史さん:02/11/29 23:19
いよいよ。
1000♪
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と〜けたこおりのな〜かに〜♪恐竜がい〜たら〜たまのりし〜こ〜みたいね〜♪
埼玉は全宇宙の中心ですか?
作成時刻 : 2002.11.13 22:33:13
いつからか "埼玉"という単語が私の頭の中で消えないです.
もちろん私は外国に出て見た事がないが, 何か, わからない声が
私の頭の中で "埼玉, 埼玉..."と言うようです.
私は前世に埼玉とどんな連関があったことでしょうか?
最大限早いうちに埼玉を訪問して見たいです.
その所で, 宇宙誕生の秘密が分かることができるかも知れないから.
( )
( ) ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
┗─∩─( ´Д`) < 1000ゲットだ馬鹿!
ヽ\/ \ \__________
\/| ∩ ) |
__ | ヽ/__
\  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
||\ \
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プシィー
; 、 、; , ; 、 、
'⌒`、lili,'⌒`
(`γ') |lili|
冫/" ,..-ー―,lili,―-、
.. / ;;| /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ
| ;;;;ヽ, /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;l / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ;;;;;;`ー';;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;(,,゚Д゚)l < そう、目クジラを立てるな
`、_______,,,....つ--つ \___________
`ー‐---、,,,____ ,.,., ,.,,,ノ
"'''''''''''し'''J
1000げっと
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。