1 :
【^▽^】←はアフォ:
細川勝元 VS 山名宗全
斯波・畠山など有力守護大名を巻き込んだ争乱について
語りましょう。
>>1 応仁の乱はつまらないからダメ。
ちなみに戦国板に参考になるスレがあったが、
dat落ちしてなおかつまだ制式化されてない中途半端な状態で閲覧できないな。
3 :
日本@名無史さん:02/07/21 12:09
◆東軍
細川勝元
足利義政
畠山政長
斯波義敏
京極持清
赤松政則
富樫政親
◆西軍
山名持豊(宗全)
足利義視
畠山義就
斯波義廉
六角高頼
大内政弘
土岐成頼
一色義直
4 :
日本@名無史さん:02/07/21 14:26
畠山義就は最強だろ
やっぱり足利義政だろ
戦乱の真っ只中でどんちゃん騒ぎ これ最強
6 :
日本@名無史さん:02/07/21 14:33
一条兼良さんの邸宅が焼けてしまいました。
文庫「桃華坊」も灰燼に帰しました。
ヒドイ話ですね。
ここはひどい京の都ですね
8 :
【 ^▽^】つーかー:02/07/21 15:58
朝倉さんが大変なことをしてくれました。とりあえず寺社領だろうが
貴族領だろうが横領です。つーか管理してる地元勢力が所有でいいじゃん
ってことで。幕府内で分裂してるから双方から役職とか官位斡旋されるし。
漁夫の利を取りまくりなり。おかげで一乗谷は繁栄したよ。
公卿とかは”死ね”とか日記に書いてるし、本当に死んだら”死んでよかった。”
とかさらにムチャクチャ言われたりしてるけど。
9 :
日本@名無史さん:02/07/21 16:28
結局この争乱で一番得した奴は誰よ?
10 :
日本@名無史さん:02/07/21 17:14
なんかいつのまにか幕府の印持ってた大内とか
成り上がりの朝倉とかいろいろありそうだが・・・
日野富子は両軍に融資して大儲けって説があった。
11 :
日本@名無史さん:02/07/21 17:17
つーか、何で斯波家では義敏がいるのに、わざわざ渋川から
養子をもらったんだろ?
12 :
日本@名無史さん:02/07/21 17:31
13 :
【^▽^ 】:02/07/22 03:37
大内って最後の辺で配下の毛利とか尼子が見限って戦線離脱
したのに逆転勝利(別働隊の陶が後背ついて混乱したところを突撃)
したんだよね・・・。
14 :
日本@名無史さん:02/07/22 03:38
畠山バカ兄弟マンセー
15 :
日本@名無史さん:02/07/22 03:39
>>3 そう簡単な図式ではない。
ちょっと専門書を読んだだけで分かることなのに。
義視が東軍になったり、東西の武将が入れ替わったりと、混乱を極めたのが応仁文明の大乱。
それと、西軍に担がれた南朝の子孫が抜けてる。
17 :
日本@名無史さん:02/07/22 12:44
骨皮道賢あげ
18 :
日本@名無史さん:02/07/23 16:02
戦争を何年もするもんじゃないってことだ。
19 :
日本@名無史さん :02/07/23 16:08
ルー大柴あげ
20 :
日本@名無史さん:02/07/23 16:13
あの応仁の乱、細川の方が早く兵が参集したのにぐずぐずして攻めなかった
から長引いたんだよねえ?やはり、山名宗全は舅だったからためらったのかな?
それとも、単に怖気づいただけ?
21 :
日本@名無史さん:02/07/23 17:05
三戦板とか戦国板とかどこにあるの?
23 :
日本@名無史さん:02/07/23 17:18
趣味のところにあるよ。実況chや受験・学校の下。
25 :
【 ´,_ゝ`】禁酒ショッカー阿波守:02/07/23 18:47
三戦板は糞スレが多いが、中には結構良い感じのレスがあったりするので
結構馬鹿に出来ない。。
26 :
ifって言っちゃうと拒否反応が・・・:02/07/24 00:21
応永の乱でifしたら面白くない?
禅秀方が義嗣でなく義持を取り込んでたら(つか義嗣を無視しとけばよい
禅秀方が勝っていたのか?勝ってたろうなあ
鎌倉公方は史実より早く滅亡
常陸では佐竹の嫡流が山入氏になって源姓佐竹氏が存続し
その後の疲弊がなくなるかわりに庶子家の統制が緩くなったり
管領家は犬懸上杉が嫡流、上総での武田氏勃興は・・・?
関東の戦国時代は早く来るのか、遅くなるのか
そして北条氏の興らなかった関東は近世に栄華を築けるのか
27 :
日本@名無史さん:02/07/24 00:25
大内はどーするよ?
28 :
日本@名無史さん:02/07/24 00:39
関東以外はさっぱり分からないっす
てゆうか関東も怪しい
29 :
日本@名無史さん:02/07/24 00:47
>>13 それって応仁の乱じゃなくって義興の上洛ん時の話とちゃうの?
違ったらスマン。
30 :
日本@名無史さん:02/07/24 06:50
>>13、>>29
確か、昔の大河ドラマ”毛利元就”でやっていたような・・・
たしか、1500年代じゃなかったけ。
31 :
日本@名無史さん:02/07/24 14:44
「鬼吉川が動いた!」てナレーションに萌えた
32 :
日本@名無史さん:02/07/24 17:47
応仁の乱で鉄砲が使用されたという説は学会でも認められてきているね。
鋳銅製の銃なら存在したみたいだよ
ほとんど使い物にならなかったらしいけど
命中率が低かったらしいね。鉄砲の時は
威力にも驚いてるけど命中率の方が
脅威的だったらしい。飛ぶ鳥を落とす
ということから鳥銃と呼ばれたとか。
35 :
日本@名無史さん:02/07/25 15:59
細川勝元=野村萬斎
山名宗全=萬屋錦之介
だっけ?大河の出演者だけど
あと、実際の山名宗全って本当に強かったの?
旗頭って感じで兵を集めるのには、なかなかの力量を発揮したけど
室町御所を結構奪還されてるので・・・強いかは微妙。
細川も維持できてないが。
37 :
日本@名無史さん:02/07/26 17:33
嘉吉の乱最大の功労者
38 :
日本@名無史さん:02/07/26 17:42
細川=名門で、山名=成り上がり。
嘉吉の乱で、赤松ぶっ潰した山名。
39 :
畠山戻ってくるか!?:02/07/27 15:43
赤松の所領を山名が受け継いだから結局、幕府にとってなんの解決にも
なってなかった。
まぁ基本的に近隣の連中でカタをつけさせるってのが基本。
応仁もなんか将軍ってなんの意向も発揮してないし・・・。
山名のいいなりか細川の傀儡かの違いしか。
40 :
日本@名無史さん:02/07/27 15:52
この乱当時の鉄砲の配備率ってどのレベルだったのだろう。
1467年 応仁の乱勃発
1543年 鉄砲伝来
42 :
日本@名無史さん:02/07/27 16:40
>41
馬鹿かお前。
>>32とその後のレスを読め。
43 :
日本@名無史さん:02/07/27 18:08
鉄砲に近いものは、琉球(沖縄)の三山時代の抗争の時に使われてたらしいね。
俺も詳しくは知らないけど、明あたりからちょこちょこ入ってきたって話聞いた。
>>42 まぁ、「鉄砲」といっても、この頃のは鉄筒で造られたものじゃないから「鉄砲」とは言えないかも・・・。
45 :
日本@名無史さん:02/07/28 13:46
火砲って言えよ。火薬を使った兵器は元寇以来流入してる。
ただ役に立たなかっただけだ。
命中率が高く実用レベルになった種子島銃以前は、石火矢
とかそういう類の特殊な用途の限られる武器だった。
主に焼き討ち用だな。
46 :
日本@名無史さん:02/07/28 15:09
47 :
日本@名無史さん:02/07/29 14:50
よく燃えるようになー。燃えると明るいから
夜襲にもってこい。迷惑極まりないが。
48 :
日本@名無史さん:02/07/30 14:39
焼いたら賠償しないといけないので・・あんまり有意義な兵器ではなかった。
東大寺を焼いた松永とか法外な再建資金を要求されてる。値切ってる
松永もなんだが・・・
49 :
日本@名無史さん:02/07/30 16:07
結局畠山政長は何がしたかったの?
50 :
日本@名無史さん:02/08/01 14:07
復権でしょ。
51 :
日本@名無史さん:02/08/01 14:30
火砲が応仁の乱で投入されたのは常識。
52 :
日本@名無史さん:02/08/01 19:26
石火矢だけどな。京都の人、大迷惑。燃えるやんか・・・。
53 :
日本@名無史さん:02/08/02 15:02
焼き討ちしちゃダメだよね。御所の修理とか大変。
寺院系は寄付とか勧進名目とかで賠償。
54 :
人の世ムナシ1467:02/08/03 13:14
トップが死んでも戦争は終わらない。利害でやってるくせに
みんな長期帯陣で損をしている。戦争ってむなしいな。
お互いに相続絡みの同族が関わっているので
妥協とか和議が成立しません。本当は将軍家が仲介や裁定するのが
筋なんだけどね。
しかし、11年もよく続いたなあ。細川・山名という当事者が死亡しても
戦争継続する意味ってあったのか。
57 :
日本@名無史さん:02/08/06 17:41
なまじ均衡してたので・・・どっちも損害を恐れて無理をしなかった。
足軽とかは、どっちにでもついて稼いだそうだし。
どっちの勢力にも資金融資して儲けた層もいたそうだ。日野富子が
有名だが、軍事物資供給で死の商人やってた寺社やそれと結んだ商人
の存在も軽視できない。
堺や近江の資本拡大もこの戦乱が招いた面が大きい。それぞれの
物資補給拠点として急激に発展している。
58 :
日本@名無史さん:02/08/06 19:50
>>55 >>トップが死んでも戦争は終わらない。
応仁の乱は、トップの勢力争いに、地方の武士達の鬱憤が便乗したものです。
小領主レベルでは、相続争いとか、隣りとの境界争いを整理する為に参戦する、
なんて事もあったでしょう。
だから、戦争は根が深くてコワイ。
59 :
日本@名無史さん:02/08/06 19:52
うえ、
>>54の間違いだ。
60 :
日本@名無史さん:02/08/07 17:50
物流は大規模になったそうだ。軍需だね。
61 :
日本@名無史さん:02/08/08 11:56
消費してるだけだから既存勢力は、皆没落していき
下克上の風潮が加速した。
どっちが正当化なんて下にとっては、どうでもいいことやもん。
63 :
日本@名無史さん:02/08/10 15:30
なんか権威が曖昧になってたわけだ。
そりゃ将軍が管領によってどうこうなったり
有力者しだいで将軍が変わったりしたりすれば・・・
64 :
日本@名無史さん:02/08/10 19:36
オイオイ、あの無茶苦茶な兵数は誰も気にならんんか?
65 :
日本@名無史さん:02/08/11 00:59
大内政弘あげ
66 :
日本@名無史さん:02/08/11 17:23
万単位で兵力上洛させんなよ・・・
67 :
日本@名無史さん:02/08/12 14:35
あげ
68 :
日本@名無史さん:02/08/14 12:55
兵力がでかくなるとかえって
動けません。
69 :
日本@名無史さん:02/08/14 19:26
>>68 兵制が稚拙なんで、数の論理は成立しないかも・・・
市街戦だしね
ある意味、経済の持久力戦だったんじゃないの
兵を在京させておける国力が無くなったほうが負け
70 :
日本@名無史さん:02/08/15 01:52
双方100万とか10万とか無茶苦茶な数字だと思うが...
71 :
日本@名無史さん:02/08/15 16:07
5万とか7万じゃなかったっけ。
それでも多過ぎるけど・・・。命令系統がバラバラで
強制権がないからズルズル帯陣。
72 :
日本@名無史さん:02/08/17 15:56
あんまり利益になっていない。消費ばかりだ…。
73 :
日本@名無史さん:02/08/22 15:48
戦争だからね。総力戦になればなるほど収支が合わなくなる。
74 :
日本@名無史さん:02/08/23 15:19
沖縄から来た鉄砲みたいな奴って
「ヒュー」だか「ヒャー」とか言うやつだべ
現在のロケットランチャーみたいな感じだが、ただの威嚇用。
75 :
日本@名無史さん:02/08/24 18:02
石火矢ってそんなもんやで。ロケット花火やな。
76 :
市街地でそんなの使ったら大迷惑。:02/08/25 17:43
当たるとよく燃えたりするのも
あったようだよ。
77 :
日本@名無史さん:02/08/25 21:01
「この前の戦争(応仁の乱)でほとんどの家宝が焼けた」と近衛文麿が
ボヤいていますた
78 :
日本@名無史さん:02/08/26 17:55
この前の戦争の
この前が古い・・・
なんか司馬が上野彰義隊の編で
パクッたネタでもある。近衛が
初出
あいまいにされがちな勝敗だけど、一応東軍(細川方)勝利でOK?
80 :
日本@名無史さん:02/08/27 12:32
>>79 何をもって勝ちとするんですか?
当初の目的であった義視の擁立という意味では、東軍は当初の目的を達成できなかった。
しかしながら、当初の名目など何ら意味を持たず、管領家や守護家の相続争いという意味なら、
決着はついていない。
細川家と山名家の争いとするなら、細川家の勝ちっぽい。
将軍と富子の争いなら富子の勝ち。
当初は西軍(義尚)VS東軍(義視)
途中か西軍(義視)VS東軍(義尚)
ら
だから、名分の点では、曲折はあったものの、東軍の「勝利」だと思うんだけど。
あと、西軍の主力だった大内なんかも、「賊軍」の汚名を拭うために、(今や東軍となった)
富子・義尚以下の重要人物にたいして、莫大な献金をおこなっているわけだし。
まあ、確かに本当の意味での決着には遠かったかもしれんけど。
82 :
日本@名無史さん:02/08/27 12:48
勝者は日野富子
83 :
日本@名無史さん:02/08/27 12:51
>>80 義視は途中で西軍に移ったと思ったが。
それに、大内あたりっていちおう詫び入れなかったっけ?
84 :
日本@名無史さん:02/08/27 12:55
>>83 だから『当初の』目的って書いてるじゃん。
それに、大内は退陣にあたって幕府(富子)から相当の支度金を送られている。
85 :
日本@名無史さん:02/08/27 13:01
途中で目的が変わったんだろ。だから東軍の勝ち。
当初の目的なんて何の意味も無い。
86 :
日本@名無史さん:02/08/27 13:02
>>85 んじゃ、変更後の目的に意味があったとでも?
87 :
日本@名無史さん:02/08/27 13:06
勝ち負けの話をしとるんだが。
88 :
日本@名無史さん:02/08/27 13:14
>>87 意味のないものを達成しても勝ちとはいえないと言ってるんだが。
89 :
日本@名無史さん:02/08/27 13:27
なにいってんの?意味があろうが無かろうが、
義尚を担ぎ上げて名分を達成したんだから東軍の勝ちじゃん。
何で意味が無いのかよく分からんが。
90 :
日本@名無史さん:02/08/27 13:31
>>89 東軍は、西軍の当初の目的をまんまと達成させられちゃった。
91 :
日本@名無史さん:02/08/27 13:32
>>89 達成した目的が何の効力も発しなかったからね。
92 :
日本@名無史さん:02/08/27 13:35
東軍は西軍の嫡子擁立と言う大義名分を奪い取り、
西軍は賊軍となってわびを入れる羽目になった。
西軍惨敗、残念無念。
93 :
日本@名無史さん:02/08/27 13:36
畠山義就が消え去ったわけでなし、
朝倉孝景や大内政弘、斯波義廉が力を失ったわけでなし、
畠山政長、斯波義敏、武田信賢の勢力が増大したわけでなし。
94 :
日本@名無史さん:02/08/27 13:47
義尚擁立とか義視擁立とか、大義名分なき戦といわれる応仁の乱の勝敗を
大義名分の達成で決めるというところが厨房。
95 :
日本@名無史さん:02/08/27 13:56
畠山義就は管領職を奪われ畠山の主流は畠山政長へと移る。
東軍の朝倉は斯波義廉から越前を奪い、大内はわびを入れた。
山名も勢力を失った。
>義尚擁立とか義視擁立とか、大義名分なき戦といわれる応仁の乱の勝敗を
>大義名分の達成で決めるというところが厨房。
はぁ?じゃあ何で決めるんだ?っていうか、大義名分だけじゃなく実も得てるんだが。
あんたが厨房。
96 :
日本@名無史さん:02/08/27 14:03
勝者:富子
敗者:義政
97 :
日本@名無史さん:02/08/27 15:40
当人が勝ったと思えば勝ちだ。
98 :
日本@名無史さん:02/08/27 16:18
じゃあ俺の勝ち。
99 :
日本@名無史さん:02/08/30 03:48
大内と朝倉が洛内以外でも活躍しすぎ。畿内の連中が下克上されてるうちに
いいとこ取りだ・・・。
朝倉って後の浅井・朝倉の朝倉氏?
101 :
日本@名無史さん:02/08/30 08:56
そう。朝倉は西軍方の越前守護代だったけど、越前守護職を条件に東軍に寝返った。
102 :
日本@名無史さん:02/08/30 14:59
典型的な成り上がり大名。荘園の横領常習者で公卿の日記には
当時の朝倉当主が死んでよろこばぬ者無しって書かれているほど。
でも地元勢力にとっては貴族とかに取り分引かれるより朝倉の
庇護下のほうが利権的にありがたかったらしい。
近隣に対しても土岐氏や斯波氏の内乱で亡命を受け入れたり
浅井を援助したりしてる。斎藤や六角からはその分嫌われるが。
103 :
日本@名無史さん:02/09/04 15:55
朝倉って斯波氏の家来だっけ・・・
そだよ。
105 :
日本@名無史さん:02/09/05 17:27
管領家ってみんなこの大乱の頃に
没落していったんだよ。
下克上を促進させたってのはそういうこと。
家督をめぐって同士討ちやってたから
その家来にとっては権威というより担ぐ駒に
なってきたわけ。
106 :
日本@名無史さん:02/09/06 16:48
信長も斯波氏の家来だよ。織田宗家が上手い具合に斯波氏ごと自滅したので
直で下克上には、なんなかった。
107 :
日本@名無史さん:02/09/06 23:23
斯波にとどめさしたの信長じゃん。
守護代家を滅ぼしたのも信長じゃん。
ええ加減なこと言うな。
108 :
日本@名無史さん:02/09/07 02:08
織田だったような。信長は家臣の家臣だよ。
織田が斯波ごと織田を倒したので織田がその織田を
倒したんだよ。
109 :
日本@名無史さん:02/09/07 02:11
朝倉義景は名君だった
後世の印象が悪いのは
信長、秀吉、家康と
司馬さんのせいです
誤解しないであげてくれ
110 :
日本@名無史さん:02/09/07 02:13
108さん
わけわからんけど、あっているっぽい。
111 :
日本@名無史さん:02/09/07 02:16
112 :
日本@名無史さん:02/09/07 02:57
>>108 ちがう。斯波を滅ぼしたのは信長。清洲の織田信友が斯波義統を殺す→息子の義銀が
信長のもとに逃げる。信長、義銀を担ぐ。→信友あぼーん→信長、義銀を追放。斯波、終了〜。
あってんじゃん。織田が斯波をやっちゃってその織田を織田が倒して
上司の織田を追放してタナボタで権力者に。
114 :
日本@名無史さん:02/09/07 04:56
守護代三奉行の信長パパは直接斯波氏を滅ぼしてないんじゃないの?
115 :
日本@名無史さん:02/09/07 06:44
やったのは信長パパじゃなくって信長だね。
信長の上司が殺したんだよ。タナボタで最高権力者に。
117 :
日本@名無史さん:02/09/08 15:44
>>102 朝倉は浅井に肩入れしたんじゃなくて浅井を牽制してたんじゃないか?
無論ある時期までだけど
118 :
日本@名無史さん :02/09/08 18:40
119 :
日本@名無史さん:02/09/08 18:41
120 :
日本@名無史さん:02/09/08 19:05
>>116 清洲の織田信友が斯波義統を殺害、織田信長が義統の子義銀を追放。
斯波をつぶしたのは信長だよ。
121 :
日本@名無史さん:02/09/08 19:17
やはり、この戦いで焼き討ちには石火矢が有効だということが証明されたな。
この乱の日本史おいて意味は、やはり火砲だ。
122 :
日本@名無史さん:02/09/08 20:42
伊勢宗瑞(北条早雲)って足利義視の家臣だったの?
123 :
日本@名無史さん:02/09/09 01:57
>>122 よくわからんが伊勢貞親の親戚だったから、どうのこうのって
聞いたことある
124 :
日本@名無史さん:02/09/09 10:56
>122
足利義視の近臣に伊勢新九郎という人物がおり、
最近ではこの人物が後の宗瑞と言われています。
125 :
日本@名無史さん:02/09/09 13:05
西軍の越前守護代って甲斐氏で、朝倉じゃないんだが……
126 :
日本@名無史さん:02/09/09 17:26
>>125 それは朝倉が東軍に寝返ったからじゃん。
128 :
日本@名無史さん:02/09/09 20:29
甲斐常治あげ
129 :
日本@名無史さん:02/09/10 15:22
若狭武田氏は、まだ健在だったのだなぁ・・・
130 :
日本@名無史さん:02/09/10 17:51
その後もしばらく健在だよね。
朝廷への受納金がらみで国人一揆に殺されるヤシが出るけど。
131 :
日本@名無史さん:02/09/11 12:07
畠山義就ファソ集まれーーーーーーー
132 :
日本@名無史さん:02/09/11 12:38
畠山は、ウンコ。
133 :
日本@名無史さん:02/09/11 13:07
畠山って臭そうだな。
畑には肥溜め、山にはくさき。
134 :
遊佐ミモリー:02/09/11 15:38
名門中の名門ですよ。あと武田信玄の肖像画は
本当は畠山らしいです。
135 :
日本@名無史さん:02/09/11 17:07
みんな政長派か?
136 :
日本@名無史さん:02/09/11 17:15
おまえら・・なんでそんなに畠山に詳しいんだ?
137 :
日本@名無史さん:02/09/11 17:43
源姓畠山>>>>>平姓畠山
138 :
【^o^】笑顔のショッカー:02/09/11 19:33
^o^
139 :
日本@名無史さん:02/09/12 11:20
応仁の乱ファン≒畠山ファン?
140 :
日本@名無史さん:02/09/12 16:59
141 :
日本@名無史さん:02/09/12 17:31
みーんな集まれ義就ファン
畠山と遊佐はセットで。
143 :
日本@名無史さん:02/09/13 17:01
遊佐って各地の畠山に守護代でいるけどみんな忠誠心薄いよな
主君を蔑ろにしてるやつばっかり
144 :
日本@名無史さん:02/09/13 18:37
畠山自体が分裂して同士討ちしてっから
145 :
日本@名無史さん:02/09/13 18:48
畠山義継萌え
146 :
日本@名無史さん:02/09/13 21:52
政長あぼーん。
147 :
日本@名無史さん :02/09/14 00:22
ないがしろってよむのでいいでつか?
デムパなもので漢字が分らん。
148 :
日本@名無史さん:02/09/14 01:55
そう。
ちなみに昔、AVで浅倉舞ってのがいたな。
浅井+朝倉だな、うん。
149 :
日本@名無史さん:02/09/14 14:38
それは違うと思う。応仁の乱じゃないし。
150 :
日本@名無史さん:02/09/14 15:22
義就マンセー
151 :
日本@名無史さん:02/09/14 16:10
>145
それは二本松畠山だろが!
152 :
日本@名無史さん:02/09/15 17:23
三管領って没落一直線やなぁ。
>>151 二本松畠山って畠山氏の一族じゃネーノ?
154 :
日本@名無史さん:02/09/15 18:36
155 :
日本@名無史さん:02/09/15 18:40
ちょっと関係ないけど、畠山重忠の男系子孫って完全に絶えちゃったの?
156 :
世界@名無史さん:02/09/17 04:54
どっかの大名が子孫を名乗ってなかったっけ
じゃないの?
じゃなければ、重忠未亡人を再婚させて畠山家を名乗らせないでしょ。
例えば三浦家などは宝治合戦で滅んだが、庶系の佐原氏を三浦氏として名乗らせているもん。
158 :
日本@名無史さん:02/09/17 08:25
ちなみに重忠未亡人は、北条義時の妹。
159 :
日本@名無史さん:02/09/17 08:28
家系図からいうと、二本松畠山が嫡流なのかな?
160 :
日本@名無史さん:02/09/17 09:07
嫡流のようですね。
奥州四探題のひとつで、観応の擾乱で直義に味方して没落。
161 :
世界@名無史さん:02/09/17 11:57
随分とマニアックな没落の仕方だな・・・
162 :
日本@名無史さん:02/09/17 12:07
>160
尊氏派じゃなかったっけ?
直義派は吉良貞家。
163 :
日本@名無史さん:02/09/17 12:42
>>155 事実かどうかはともかくとして、子孫と言う家が残っているよ。
因みに苗字は変わっている。
164 :
日本@名無史さん:02/09/17 12:57
165 :
日本@名無史さん:02/09/17 17:14
なんで応仁の乱は人気ないんだ?おもろいのに。
166 :
日本@名無史さん:02/09/17 17:15
>165
あまりにも敵味方が入り乱れてるからじゃない?
167 :
日本@名無史さん:02/09/17 17:34
畠山氏を再興するために足利義純と結婚したのは
重忠未亡人説と重忠の娘説があるらしいね。
重忠未亡人って再婚した時いくつやねん(w
168 :
日本@名無史さん:02/09/18 01:55
そのころは夫人のほうが相続権とか
重要だったとか
169 :
名無史さん:02/09/20 13:15
ぬ
170 :
日本@名無史さん:02/09/20 14:47
相続権は大きいからね。
171 :
味方についたら方式で下克上:02/09/21 15:47
どっちについても
問題なしって戦乱は長引くよねぇ・・・
戦場となった都は大迷惑どころではなく
足軽の登場により大変なことに
なってしまいました。
公卿とか文句とか抗議はしてるけど効果なし。
それどころか朝倉のように押領などを平気でするように・・・
しかも権力者の都合でそれが見逃されというか追認してる
カタチに。
172 :
日本@名無史さん:02/09/23 13:27
どっちも攻めた方が被害大きくなるの分かってるから
睨み合い。
173 :
日本@名無史さん:02/09/25 18:35
朝倉が名門になった漁夫の利大乱
北陸はねー。でも六角も大活躍したんだぜ。将軍がいちいち逃げ込んで
くらから。で将軍に構い過ぎてると朝倉が北近江の勢力に支援して・・・
175 :
日本@名無史さん:02/09/28 14:11
六角はやばくなったらとりあえず甲賀へ逃げます。ほとぼりが
さめるとまた戻ってくるの繰り返し。
でも信長はずっと領地にしちゃったんで甲斐まで逃亡。
武田の滅亡の時、寺焼き討ちの原因になったヤツだな。
信忠許すまじ!!!
ひょっとして本能寺の変って六角関わってる?
178 :
日本@名無史さん:02/10/02 14:05
つーか今現在上に上がってるスレ全部【^▽^】の奴じゃネーか
_∀^】( ゚дゝ゚)ノ【^▽⊇゚) (゚゚)ヽ(゚゚)!
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▽⊇゚) (゚゚)ヽ(゚゚)! ^】( ゚дゝ゚)ノ【^▽ノ (
゚⊇゚) (゚゚)ヽ(゚_∀゚)!
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_∀
そういうことは【^▽^】←コイツ嫌い とかでやレよにゃ
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(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
180 名前:日本@名無史さん :02/10/02 14:10
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゚⊇゚) (゚゚)ヽ(゚_∀゚)!
_∀゚)! ^】( ゚дゝ゚)ノ【^▽ノ ( ゚⊇゚) (゚゚)ヽ(゚
185 :
日本@名無史さん:02/10/02 22:32
平氏の畠山って続いてるんだね。
重忠−重保−重国−江戸重長・・・
>>33 超遅レスでスマソ。
種子島が絶対認めないだろうな。
187 :
日本@名無史さん:02/10/05 02:47
照準とかつけるような代物じゃなくて
火薬で脅かす類の兵器だから。
鳥銃以降だね。銃器は。
江戸ってのは佐竹義重への嫌がらせのために存在してたのかと思ったら由緒ある家だったんですな。
189 :
日本@名無史さん:02/10/05 09:21
常陸の江戸氏って
>>185の子孫?
那珂氏と関係があったような。
190 :
日本@名無史さん:02/10/05 14:13
>>185の子孫は武蔵の江戸氏で、常陸の江戸氏とは関係ないみたいです。
常陸の江戸氏は那珂氏の一族ですよ。
>>188 嫌な存在意義だな。
191 :
日本@名無史さん:02/10/06 02:32
那珂氏って平氏だっけ?
192 :
日本@名無史さん:02/10/06 10:14
193 :
日本@名無史さん:02/10/06 17:00
>>192 なるほど。大掾の同族かと思っとりました。どうもさんくす。
195 :
日本@名無史さん:02/10/11 12:55
関東の豪族ってなにげに名門多いね。
196 :
日本@名無史さん:02/10/11 13:32
例えば?
197 :
日本@名無史さん:02/10/11 14:07
てか、カンム平氏とせいわ源氏縁の地だから当然だベさ
198 :
日本@名無史さん:02/10/11 14:12
佐竹は天才
と、いってみるテスト
199 :
日本@名無史さん:02/10/11 14:14
江戸は粘着
と、いってみる罠
200 :
日本@名無史さん:02/10/11 18:25
太田道潅って応仁ぐらいだっけか
201 :
日本@名無史さん:02/10/11 19:07
茶々丸時代。早雲とか。
202 :
日本@名無史さん:02/10/11 23:48
茶々丸時代はすでにあぼーんしてなかった?
203 :
日本@名無史さん:02/10/13 15:51
道灌って自分が殺れる時、”当方滅亡!!”って言った人でしょ。
管領職を蔑ろにした専横者か忠臣か微妙なところだね。
204 :
日本@名無史さん:02/10/13 17:44
蔑ろにしたことなんてあるの?っていうか、扇谷の家来だよな。
205 :
日本@名無史さん:02/10/14 17:11
関東管領上杉以上の権勢を誇ったとか。主君越しに采配してりゃなー。
206 :
日本@名無史さん:02/10/15 01:44
離間の策やろか・・・
207 :
日本@名無史さん:02/10/16 12:13
>206 毛利の逸話にそんなんあったね。わりとメジャーな策略なんやろか。
効果があるから多用される。家臣を疑うようじゃだめだって説も。
208 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守@司牡丹:02/10/16 12:16
江戸っ子の誇り太田道灌!
209 :
日本@名無史さん:02/10/16 12:58
>208
ばあか。
210 :
日本@名無史さん:02/10/16 14:50
太田道灌ってマイナーだから知らないんじゃないかな・・・
局地的には有名なんだけど。
212 :
日本@名無史さん:02/10/17 16:42
>208
同感
213 :
日本@名無史さん:02/10/17 16:46
でも関東地方でしか知らないかも。あんまり時代劇とかにならない時代だからしょうがない面もあるが。
214 :
日本@名無史さん:02/10/17 18:58
>>171 >公卿とか文句とか抗議はしてるけど効果なし。
>それどころか朝倉のように押領などを平気でするように・・・
>しかも権力者の都合でそれが見逃されというか追認してるカタチに。
特に、学者・一条兼良が足軽にブチ切れていたね。
書物が多数焼かれるわ、弟の家が散々な目に遭うわ。
「足かるという者、長く停止せらるべきこと・・・・」
火事場泥棒の元祖かな?
>>166 そのうち、両軍総大将が死んで本当の目的が何だったのか
わからなくなるハメになった(w
215 :
日本@名無史さん:02/10/18 01:18
戦国初期の関東はグチャグチャし過ぎで分かり辛いな
216 :
日本@名無史さん:02/10/18 11:27
>212
太田道灌だから「同感」か・・・?
>216
逝ってよし。
218 :
タモリも注目:02/10/18 17:49
茶々丸って元服前だからこんな名前なんやろか
いい年こいた、おっさんだろ。
220 :
日本@名無史さん:02/10/19 03:20
嫌われ者で、元服させてもらえなかったそうな。
221 :
日本@名無史さん:02/10/20 15:34
ひょっとしたら公方になれっかなって思ってたかも。
普通出家するからね。
222 :
日本@名無史さん:02/10/20 16:58
元服していないとは言いきれない。
ただ茶々丸側の史料が残っていないだけ。
223 :
日本@名無史さん:02/10/20 18:01
親父殺したあと元服したんだろうな。
224 :
日本@名無史さん:02/10/21 14:17
誰も元服名で呼ばなかっただけ。
225 :
日本@名無史さん:02/10/21 16:25
そうか、誰も呼んでくれなかったのか・・・(藁
226 :
日本@名無史さん:02/10/22 11:11
茶々丸って御所を追われてから死ぬまでの七年間だっけ?
何してたんだろう。
死んだときは甲斐にいたらしいけど、どこで死んだの?
>>220 後世(北条氏あたり)の捏造の可能性が高いでしょう
茶々丸を担いで潤童子を殺した勢力があったのですから
それなりの人望はあったのでしょう
少なくとも御所の中では、潤童子よりも茶々丸のほうが
人望があったと考えてよいのではないかと思います
>>223 さすがに、親は殺していません
政知さんは病死だったはず
ありゃ、書き込み押しちゃった
続き
元服できなかった可能性が大きいでしょう
烏帽子親のなり手が居ないでしょう
正嫡の潤童子を殺してますから
中央(幕府)の要職も、関東の有力者も
火中の栗を拾うようなことはしないと思います
堀越公方の後援である今川家にしても
自身がそれ所じゃないでしょうし
229 :
日本@名無史さん:02/10/23 15:34
今川って最終的に北条と組んでるからなぁ・・・。っていうか早雲って
今川家の意向でどんどん関東を侵食。
230 :
日本@名無史さん:02/10/23 15:38
当時の日記では、
「どうして、この乱がこんなにもなってしまったのか
いくら理由を考えてもわからない」
と、ありますた。
東の幕府に西の幕府。
たわいもない原因だったのか、
それとも、
時代が大変革のきっかけを求めたのか。
ともあれ、日本史のキーポイント。
日本史はここから始まるとも言う。
231 :
日本@名無史さん:02/10/23 15:40
どっちも引けなくなったんだろうな・・・。
しゃれになんない兵力を揃えたんで負けたらヤバイってことに。
232 :
日本@名無史さん:02/10/23 17:17
>228
潤童子は正嫡ではありません。
234 :
日本@名無史さん:02/10/24 11:11
>233
潤童子は正嫡ではありません。
235 :
日本@名無史さん:02/10/24 22:27
>>228です
ソースがないのではっきりと断言できないのですが
堀越公方政知は同腹の子、兄の清晃を室町将軍にして
弟の潤童子を関東公方に据える計画だったようです
(このあたりは東幕府の細川政元と協調しているようです)
講談社の『日本の歴史』13巻では、そういう扱いをしています
(ソースは明示されていませんが)
前後の関係から考えても、この説はかなり説得力があります
潤童子が嫡子でなかったというソースがあったらご紹介ください
236 :
日本@名無史さん:02/10/25 12:44
>235
「ないこと」を証明することはできません。
「あること」を証明しなければならないのです。
嫡子であるということが証明できない以上、
潤童子は嫡子ではないのです。
……それはどうだろ。
両方の断定が出来ない以上、証拠不十分がいいとこじゃないか?
239 :
日本@名無史さん:02/10/26 19:01
茶々丸にやっぱ
みんな興味あるんだね・・・
240 :
日本@名無史さん:02/10/27 16:55
名前からして胡散臭いからね。。。
241 :
ザクロ星人:02/10/28 21:47
あげ
242 :
日本@名無史さん:02/10/29 16:54
足利家って妙に逸話の多い連中だな
243 :
日本@名無史さん:02/10/29 17:07
「日本の歴史(講談社)」に、「足利一門に広く精神病がまき散らされた〜」
に、同意の表現があった。
「まき散らされた」ってのは不適切な表現かなって電話したら、
次回から訂正すると快諾してくれた。
本当に訂正するのだろうか?
244 :
日本@名無史さん:02/10/29 17:21
>>236 不存在の証明はなるほどできないが、
誰の子かと言う証明は、不存在の証明には当たりません。
Aの子であるという明確な証明ができないからと言って、
それが即Bの子であるという証明にはなりません。
馬鹿につける薬はないな。
245 :
日本@名無史さん:02/10/31 17:39
日野勝光age
246 :
日本@名無史さん:02/11/01 15:11
日野家って足利将軍家にお嫁さんに行く
ことで影響力を・・・
247 :
日本@名無史さん:02/11/01 15:19
畠山義就最高!!
248 :
日本@名無史さん:02/11/01 16:22
>>244 >Aの子であるという明確な証明ができないからと言って、
>それが即Bの子であるという証明にはなりません。
何いいたいんだろ?
茶々丸も潤童子も、政知の子であることを誰も問題にしていないと思うけど。
236は「嫡子かどうかの証明」を問題にしているわけで、
「子かどうかの証明」を問題にしているわけではない。と思う。
249 :
日本@名無史さん:02/11/01 16:38
250 :
日本@名無史さん:02/11/01 16:46
君が引きたまえ。私が命令する。
251 :
日本@名無史さん:02/11/01 17:36
引く引かないの話ではなく、どちらが正しいかの話だ。
252 :
日本@名無史さん:02/11/01 17:43
神がいるという証拠を出せませんが、無いという証拠もないからといって証拠不十分ですか?
死後の世界が無いという証拠が無かったら証拠不十分ですか?
ユリゲラーの超能力を全て否定する証拠がなかったら証拠不十分ですか?
札幌のあるコンタクティーは自分は地球から三百万光年離れたサモンコール星に
数百回、行っていると主張してますが否定する証拠がなかったら証拠不十分ですか?
世間では証拠不十分なんてのは「無い」のと同じで何も認められないんですよ。
何か偉大な研究や発見をしてもそれを証明するだけの証拠が無いとなんの価値もありません。
>>228です
論点は潤童子の嫡庶であって
実子で有るか無いかではないのです
潤童子が嫡子であったと思ってますし
歴史は潤童子を嫡子として認識して
動いていたと思っています
ただ、足利系図などの資料に潤童子が
出てこないのも事実ですし
潤童子=嫡子を証明するものを持っていません
でも、
>>236の考え方を取れば
吉野ヶ里遺跡も、ただ地層に穴が開いていたのを
見つけただけで、実際そこに建物や村落が
存在したことを直接証明していない
だから『そこには古代の集落など無かった』
といっている様に読めます
(たとえとして適切かどうか自分でも疑問ですが)
255 :
日本@名無史さん:02/11/01 18:14
>254
例えは不適切ですね。
潤童子が嫡子であることを証明するひとつの方法としては、
その他の兄弟が嫡子で無いことを証明すればいいのではないですか?
256 :
日本@名無史さん:02/11/01 18:16
>>254 >歴史は潤童子を嫡子として認識して
>動いていた
そう主張する根拠はなんですか?
257 :
日本@名無史さん:02/11/01 18:24
258 :
日本@名無史さん:02/11/01 18:40
>>257 おかしくないよ。
死後の世界とか霊魂の存在なんて証明できない以上ありえないよ。「証拠不十分」ではなく「無い」の。
あと世間では物事を有ると証明できないと何の価値もないの。
「証拠不十分」=「無い」という価値しかないの。
259 :
日本@名無史さん:02/11/01 18:40
260 :
日本@名無史さん:02/11/01 19:33
おにぎりは握る前からおにぎりではないと。
なるほど一理アル。握られてからがおにぎりなのだな。
何かスレ違いくさいな。
>>252 やっぱそれは変だぞ。
嫡子であるという証拠がない=嫡子でない、なら、
庶子であるという証拠がない=庶子でない、ということにならないか。
双方証明する手段がないじゃないか。
262 :
日本@名無史さん:02/11/02 07:45
>>261 そのへんはケースバイケースだろう。
史学の場合はある程度、推測も認められるんだろうね。
しかし、社会では裁判で無罪になった人を「無罪だという証拠も無い」といって有罪扱いにするのは認められてないんだよ。
それと「ある」という事を証明するのは簡単だが
「ない」という事を証明するのは、とてつもなく難しいんだよね。
例えば宇宙に地球以外に生命がいるか?という命題で
「ある」と主張する側は地球外のどこかから一匹の生命を見つけてくれば証明できるが、
「ない」と主張する側は全宇宙をくまなく探して一匹の生命もいない事を確認しないと「ない」と証明できないんだよ。
>>256 まさしく『{擦れ違い』な話にしてしまって
申し訳ない
政知の室の内、確認できるのは後の将軍義尚と
潤童子の母親とされる円満院だけだとう事
円満院の出自がはっきりしていること
円満院との子を将軍候補として京都に送っていること
政知病死後も御所にいたこと
これらのことから、円満院が正室であったことが
類推されます
正室の子の内、御所に残った潤童子が正嫡であると
考えるのが自然でしょう
政知の子として確認されているのは四人いますが
茶々丸と潤童子以外は正嫡候補から外れます
残る茶々丸ですが
堀越公方の親派である今川家から討たれていますし、
上杉、武田氏などの周囲の勢力もその非を咎めていない
ことから、周囲から後継者として見られていなかった
これは、茶々丸が茶々丸という仮名しか伝わっていないことからも
元服できなかった、もしくは元服を正式に認知されなかった
つまり、周囲から認知されていなかった
ということが伺えます
さらに、政知は生前より、潤童子を御所に置いていたのに対し
茶々丸は北条に置いています
これらのことから
茶々丸を正嫡と考えるのは無理があるように思えます
もし、政知が嫡子を決めずに病死したとしても
御所に残った潤童子が後継、円満院が後見という
システムが自然発生します
他にも、細川氏の動き、上杉氏の対応などありますが
これはという決定打が無いのも事実です
特に、足利系図に潤童子が記載されていないのは
痛い所です
>>262 それはわかってるよ(藁
だからそういう例を持ち出した252が変なんじゃないか。
>>252 法学部では通用するけど
史学部じゃ意味無いな
けど法学部のほうが偏差値が高いのも
事実だな
267 :
日本@名無史さん:02/11/03 16:25
法学部ってなんか偉そうだよね。史学部ってダメ人間で役に立たないって
思ってそう。
268 :
日本@名無史さん:02/11/03 23:03
だな
269 :
日本@名無史さん:02/11/04 00:55
法学部が偉そうなんじゃない。しがくぶがだめすぎるだけ。
しがくぶってIMEの変換の候補に入ってないし(藁
270 :
日本@名無史さん:02/11/04 14:21
話題が・・・なんか寂しくなってます
マイクロソフトと252には
今後、史学部に対する認識を
改めていただくということで
271 :
日本@名無史さん:02/11/05 03:24
っていうかさ、死学部ってあるの?
漏れは文学部史学科しか聞いたことがない。
272 :
日本@名無史さん:02/11/05 17:37
ないのか・・・。
進路相談で史学やりたいと言ったら・・そんなんやっても就職先ねーぞ
って言われた。
273 :
日本@名無史さん:02/11/05 20:56
>272
その教師は、圧倒的に正しい!!
274 :
日本@名無史さん:02/11/06 01:15
地方の歴史資料館の館員とかに就けないのか?
勿論、給料は安いだろうが好きなことで食っていけるんだから幸せだぞ
275 :
日本@名無史さん:02/11/06 01:18
求人数が少なそうだ。少なくても学生より多いということはあるまい。
276 :
日本@名無史さん:02/11/06 12:00
就職したいなら専門学校へ逝け
277 :
山野野衾 ◆W7NDQJtGoM :02/11/06 12:28
>274
競争率が100倍。
278 :
日本@名無史さん:02/11/06 14:00
この時代けっこう名将いるよな。畠山義就、吉川経基、神保長誠
斎藤妙椿とか。ほかに知ったる?
朝倉孝景とか?
>>279 そうだ朝倉孝景忘れてた。ほかにもマイナー名将いたら
教えれ
朝倉って公家からボロカス言われてるんだよなぁ・・・荘園押領すっから
朝倉
どじばっか、やってるからだろ
看護婦の恥
283 :
巨人戦のせいで深夜に:02/11/10 16:49
人気はあるらしいよ。
284 :
日本@名無史さん:02/11/10 18:08
尾崎ってデブだよな。あ、これ禁句?
応仁の乱って勝者いないよね・・・
286 :
日本@名無史さん:02/11/11 17:12
↑朝倉、畠山政長
赤松もじゃない?
288 :
日本@名無史さん:02/11/12 14:40
え?
289 :
日本@名無史さん:02/11/12 15:22
総大将が不遇なだけ。下克上を促進。
備前と播磨と美作の守護職取り返したじゃん逆賊赤松。
291 :
日本@名無史さん:02/11/13 01:17
でもすぐ浦上に下克上される罠
切ないやねー。
でもそこがいいって言うか。
というかそれを言ったら畠山も……。
子供の頃、三管領に畠山が入ってるって知って驚いたものよ(詠嘆
293 :
日本@名無史さん:02/11/13 11:51
畠山政長ってなんか哀れだよな。
294 :
日本@名無史さん:02/11/13 22:31
政長の子孫は高家として残ったみたいだけど、
義就の子孫は?
295 :
日本@名無史さん:02/11/15 14:06
期待あげ
絶望さげ
畠山って摂津とかにも
298 :
日本@名無史さん:02/11/17 13:29
重忠は、ナタのような重量級の幅広刀を愛用してたという。
299 :
日本@名無史さん:02/11/17 18:05
300 :
日本@名無史さん:02/11/17 22:02
っていうか、源平〜南北朝って刀がでかかったらしいねぇ。
301 :
日本@名無史さん:02/11/19 15:21
ナタのような分厚いブロードソードみたいなのもあったらしいな。
だが結局、ただでさえ重いので今のような切れ味重視になったとか。
302 :
昔ログインに安藤造詣と・・・:02/11/22 13:01
武将フィギアは熱いぜ!!!
303 :
日本@名無史さん:02/11/24 12:39
だな
304 :
日本@名無史さん:02/11/24 21:15
応仁の乱ってのはごちゃごちゃして分かりにくいが、畠山義就ってのは格好いいな。
あの時代では最も男らしい名将だと思うね。いままで歴史小説などで彼のことを主人公に
した作品もないようだが、もっと評価されていいよね。
305 :
日本@名無史さん:02/11/24 22:45
306 :
日本@名無史さん:02/11/25 00:47
畠山義就の名前の読み方って、本当は「よしひろ」ではないかと言われはじめている。
307 :
日本@名無史さん:02/11/25 13:08
>306
なんで?
308 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:30
>>307 昔の人名の読み方は、たいていは史料上に現れる誤字(書き間違え)から判断される。
例えば、護良親王はかつては「もりなが」と読むとされていたが、「護義」と書き間違えられている例が複数あることから、「もりよし」が正しいと言われるようになった。
309 :
日本@名無史さん:02/11/25 14:32
よしなりの方がカコイイけどな
310 :
日本@名無史さん:02/11/25 16:46
>>308 そんな一般論は知ってるよ。
何で「よしひろ」らしいの?
と聞いています。
311 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:16
足利義材って殆どの本は「よしき」って読んでるけど本当に材=き?
一字もらった北畠材親などはどう読むんだろう
312 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:31
>>311 材親の読みは「きちか」で間違いないらしいです。
313 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:35
>>310 うちの大学の教授から酒席で聞いただけだから詳しいことは知らないけど、「義寛」とか「義弘」などと書き間違えたものがあるらしい。
314 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:52
>313
ふーん。ありがとう。
でもその出典もわかれば教えてね。
315 :
日本@名無史さん:02/11/25 17:59
斯波義将は「よしゆき」
斯波義寛は「よしとう」
斯波義良は「よしすけ」
斯波家って変わった読み方多いね。
すると織田良信とか織田良頼は「すけのぶ」とか「すけより」になるのか。
316 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:03
江戸時代の大名の名前ってみんな読みにくいけど、実際簡単に読ませない
ためにわざとそうしてたらしい。難しい読みほど、有難いみたいな考え
があったんだと。儒教とやらの教えなのかな
317 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:06
もともと公家から移ってきたもの。
儒教とは関係ないんでは?
318 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:16
吉良義央も昔は「よしなか」と読ませるのが一般的だったが、「義久」と書かれたものがみつかったため、「よしひさ」が正しいと言われるようになった。
319 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:22
そんなへんてこりんな読み方してて、当時の人間もちゃんと読めてたんだろうか?
親類縁者ならともかく、縁もゆかりもない人間だったら・・・。
320 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:24
普通上野介って呼んでたらしいよ。
321 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:34
「枝」の字がつく名前もたまにいるけど
「えだ」以外の読み方があったのだろうか?
322 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:37
全然関係ないんだが、三枝って「三(さ)枝(えぐさ)」?
それとも「三(さえ)枝(ぐさ)」?
323 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:40
枝がグサだと思うよ。草系っぽい。
324 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:42
「さえぶさ」って聞いたこともあるよ
325 :
日本@名無史さん:02/11/25 18:45
えだぐさ→えぐさ?
326 :
日本@名無史さん:02/11/25 19:18
伏見宮貞成親王の読み方は?
327 :
日本@名無史さん:02/11/26 20:56
いらっしゃ〜い!(^^)/
サンシやな。それ。
329 :
日本@名無史さん:02/11/27 01:52
330 :
日本@名無史さん:02/11/27 09:01
伏見宮貞成親王はさだふさと読むらしいよ。横井清「室町時代の一皇族の生涯」
講談社学術文庫にそう書いてあった。
大学の授業で「さだふさ」と読めて言われましたな。
義将は「よしゆき」。
テストの時「しばよしまさって誰だっけー」とか叫んでる奴がいてワラタ。
332 :
日本@名無史さん:02/11/29 17:23
畠山義就のいいところを言いなさい!
↓
333 :
日本@名無史さん:02/11/29 18:33
戦上手
47歳まで童貞
335 :
日本@名無史さん:02/12/04 22:12
細川政元が好きさ。
336 :
日本@名無史さん:02/12/04 23:42
>>281 親元日記。
そーいや堀越公方家で常陸の小田んトコ養子にいったヤツいなかった?
337 :
日本@名無史さん:02/12/05 12:50
細川政元、管領でありながら修験道にはまり、山伏の格好をして奇行三昧。
最後は風呂場で殺されたのかな?名門細川管領家は彼で実質上滅亡。
338 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:14
政元の養子の中では澄元より高国の方が
管領家に近い血筋なんだね。
┌─頼之
│
├─頼有─(五代略)─藤孝<幽斎>
│
細川頼春┼─頼元┬─満元──持之──勝元──政元
│ │
│ └─満国──持春──教春──政春──高国
│
└─満之──満久──持常──成之──義春──澄元
339 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:29
>>336 小田政治だっけ?
でもあれ本当じゃないだろ。
340 :
日本@名無史さん:02/12/05 18:33
341 :
日本@名無史さん:02/12/05 19:09
和泉守護ってことは、幽斎と近い家系なの?
343 :
日本@名無史さん:02/12/06 15:37
山名を大切にしていれば乱は起こらなかったのでは・・・
344 :
日本@名無史さん:02/12/06 17:06
なんで九条家の澄之が養子候補になったんだ?
阿波守護澄元、和泉守護高国は細川ファミリーだから分かるけど。
345 :
日本@名無史さん:02/12/07 01:37
かわいかったから
346 :
日本@名無史さん:02/12/07 01:55
だめな理由だな...。
347 :
日本@名無史さん:02/12/07 05:03
何だよ、ここも人名読み方スレか。バカばっか。
348 :
日本@名無史さん:02/12/07 18:13
そうでもない
349 :
日本@名無史さん:02/12/19 18:50
age
350 :
日本@名無史さん:02/12/19 18:57
351 :
日本@名無史さん:02/12/19 19:56
初めて足軽軍団を組織した細川対馬守はエライ。
352 :
日本@名無史さん:02/12/20 17:32
仏像盗んだりします
353 :
日本@名無史さん:02/12/29 22:09
だな
354 :
日本@名無史さん:03/01/05 17:47
>>337 >細川政元、管領でありながら...奇行三昧。
>...名門細川管領家は彼で実質上滅亡。
鎌倉幕府の実質的最後執権の得宗家高時を想起させるねえ。但し、政元までで
実質上滅亡したのは細川管領家でなくて、京兆家ね。
355 :
日本@名無史さん:03/01/05 18:07
現近衛家当主の近衛忠輝は細川護熙の弟。細川政元の養子の澄之が九条家出身であるように細川家と摂関家とは縁が深い
356 :
日本@名無史さん:03/01/05 23:44
>354
>実質上滅亡したのは細川管領家でなくて、京兆家ね。
???
357 :
日本@名無史さん:03/01/06 01:15
管領家=京兆家。
ってか事実上の滅亡は晴元の代とおもわれ。
358 :
日本@名無史さん:03/01/06 23:09
>>355 鎌倉期の執権北条家と関東申次の西園寺家のような関係ってこと?
北条家と西園寺家とは、養子縁組なんてのはなかったと思うが。
>>337 >風呂場で殺された
政元謀殺の犯人は、家臣の薬師寺某だったっけ?謀殺原因は何だったのか?
(^^)
(^^)
362 :
日本@名無史さん:03/01/19 16:24
>>315 斯波義銀(よしかね)もいたっけ。
斯波氏って、細川氏と違い将軍の偏倚をしなかったようだね、なぜか。
363 :
日本@名無史さん:03/01/19 22:11
細川=家臣
斯波=一門
斯波の祖家氏は足利家の家督を継ぐはずだった。ってことで斯波は格が高い。
一門意識が強く管領になる際も、管領は家来の就く役職である、として
就任を渋ったといわれている。
364 :
日本@名無史さん:03/01/19 22:20
あほんだら、何ほざいとんじゃ
ようようよう、抜かせ抜かせ!
365 :
日本@名無史さん:03/01/19 22:32
↑ある芝居の台詞の抜書きで、板違いです。失礼しました。
366 :
日本@名無史さん:03/01/22 23:14
>>363 ふ−ん、足利氏にも徳川のように、一門と譜代の差別があったのですか。
斯波氏のほかには、どの氏が一門待遇だったのですか。
367 :
日本@名無史さん:03/01/22 23:22
吉良、石橋、渋川の3氏が一門だったはず。
368 :
日本@名無史さん:03/01/23 00:07
あんま明確な区別はなかったでしょ。
あんたは近いから一門、あんたは別れて結構経つから家来ってな感じで。
斯波は代々「義」の字を与えられてタンとちゃうの?
369 :
日本@名無史さん:03/01/26 13:31
>>15 乱の端緒の畠山家の相続争いを唆したのも、義政じゃなかったっけ。
370 :
日本@名無史さん:03/01/26 13:57
>>294 畠山氏の内訌は、応仁乱収束後も収まらず、政長/義就の次代の尚順/基家に引き継がれ、
1493年には尚順派に肩入れした十代将軍義植の没落を引き起こしました。(明応の変)
371 :
日本@名無史さん:03/01/26 14:20
>>359 >政元謀殺の犯人は...
京兆家内衆の香西元長・薬師寺長忠です。原因は、上原氏・香西氏・薬師寺氏・内藤氏ら
京兆家内衆間の勢力争いと思われます。しかし、その年(1507年)の内に、擁立した細川澄之共々、
細川高国に殺されました。
372 :
日本@名無史さん:03/01/26 16:50
373 :
日本@名無史さん:03/01/26 17:37
374 :
日本@名無史さん:03/01/27 03:11
畠山持国は優柔不断な性格といわれ、後継者をさっさと決めなかったので
後の内紛のもととなった
375 :
日本@名無史さん:03/01/30 16:49
粘着兄弟
376 :
日本@名無史さん:03/02/06 15:27
ハァハァ
377 :
日本@名無史さん:03/02/06 19:38
応仁の乱さえ無ければ、散逸しないで拝めた貴重な文物が、
もっとたくさんあったろうに・・・。
378 :
日本@名無史さん:03/02/07 01:05
>>294 >政長の子孫は高家として残ったみたい...
大河の「独眼流政宗」で、政宗の仇敵役の畠山義継も政長の系統ですか。
379 :
日本@名無史さん:03/02/07 09:41
畠山義継はもっと前に分家した家系だよ。
南北朝期に畠山高国が奥州探題に任じられて、陸奥に下向。
この高国の弟の貞国の子孫が河内の畠山。
380 :
日本@名無史さん:03/02/07 11:29
江戸時代の高家畠山氏は
能登畠山と管領畠山の2系統あります。
能登畠山は謙信の養子だった上条政繁の系統。
ちなみに、二本松の系統では、幕末に陪臣ですが二本松大炊が出ています。
これは畠山義継の子孫です。
381 :
日本@名無史さん:03/02/08 08:19
>>380 >能登畠山は謙信の養子だった上条政繁の系統...
って、上条氏は、越後長尾氏の主家筋の山内上杉氏の分家じゃなかったか。
畠山氏とは、血縁のはずがないが。
政繁の実家が能登畠山ってことでしょ?
上条政繁は能登畠山から上条氏に養子に入ったんですよ。
384 :
日本@名無史さん:03/02/08 12:48
上条政繁=畠山義春
385 :
日本@名無史さん:03/02/15 11:12
>>383 家臣の内輪もめで衰退中だった能登畠山氏への謙信の政略だったって事ですね。
それにしても能登畠山氏といい河内畠山氏といい、家臣の権力争いで没落するとは
当主に統率力のない家柄だったんですね。畠山氏の内訌といえば、必ず名のでてくる
遊佐氏って、いったいどこの血筋なんだろ。”ゆさ”って、日本語くさくない語だが。
386 :
日本@名無史さん:03/02/15 20:43
387 :
日本@名無史さん:03/02/19 00:09
389 :
日本@名無史さん:03/03/02 01:19
>>343 >山名を大切にしていれば乱は起こらなかった...
幕府高官諸家の内輪もめ頻発と適切な処断を放棄した義政が元凶でしょう。鎌倉幕府の
北条家の歴代執権の統治能力との差は、どこからなのかなあ。
織田の家臣に遊佐教光ってのがいたんだよコレが。
河内からながれてきたとのことですがつながりは不明。
391 :
日本@名無史さん:03/03/16 01:44
age
392 :
日本@名無史さん:03/03/18 23:43
「武功夜話拾遺」によると、吉乃の兄である生駒八右衛門の妻の姉が遊佐教光の奥さん。高国系畠山の残党じゃないか?
393 :
日本@名無史さん:03/04/03 00:23
>>392 生駒氏ってのは、もともとは河内からの移住者だったかな。
394 :
日本@名無史さん:03/04/04 13:16
大和国平群郡生駒邑
395 :
日本@名無史さん:03/04/11 15:04
商売もやってたらしいな
396 :
日本@名無史さん:03/04/11 23:41
>>392 「武功夜話」なんて信じちゃいけませんぜ旦那
397 :
日本@名無史さん:03/04/12 01:12
>396
「武功夜話拾遺」も知らん奴がいらんこと言うな。
ま、史料的価値は「武功夜話」以上に低い代物だがなー。
個人的には偽書というより虚飾の著しい代物と考えている。
参考するに当たっても、相当の事実考証が必須。
398 :
日本@名無史さん:03/04/12 02:07
>>397 「武功夜話拾遺」も「武功夜話」も出所は同じ前野家文書だろうが。
あんたの考えは違うようだが俺は偽書だと確信している
偽書以下だね。
偽書でも歴史学的に意義があれば辞典類に立項される。
これはそれすらされない。
>>399 > 偽書以下だね。
偽書以下と判断する根拠は?
401 :
打通の会かいいん:03/04/12 09:59
>偽書以下と判断する根拠は?
>偽書でも歴史学的に意義があれば辞典類に立項される。
>これはそれすらされない。
402 :
日本@名無史さん:03/04/12 16:03
ま、前野家がどんな目線であの時代を観てたか解かる分だけ
価値はあると思うがな
403 :
日本@名無史さん:03/04/12 19:21
>>402 いつ頃成立したもんだと思ってるの?
そりゃほんとに江戸時代の前野家の人間が書いたのならそうかもしれんがね
404 :
日本@名無史さん:03/04/12 22:33
>>403 関ヶ原以降〜30年ぐらいだろ。内容の信憑性はともかく
前野一族数名の織豊時代のよもやま話をまとめた物らしいからな。
ま、これが近年に創作された偽書と固く信じて疑わない人間には
何言っても無駄だろうがな
405 :
日本@名無史さん:03/04/12 22:48
>>404 あんたにも何言っても無駄みたいだね。
固く信じちゃってるようだからね。
406 :
日本@名無史さん:03/04/12 22:50
どっちもどっち
原本見れないから確かめ様がないので、武功夜話を参考史料として挙げるのは止めよう
407 :
日本@名無史さん:03/04/12 22:57
>>406 というか
これだけ疑惑が高まっているのに原本の公開を拒否してるのはおかしいとは思わないか?
408 :
日本@名無史さん:03/04/12 23:34
てか、応仁の乱と関係ないわけだが
409 :
日本@名無史さん:03/04/13 12:30
>>405 そうは言っても、
武功夜話>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>>>>公衆便所の落書き>>>>>伊達遠江守家中の思い込みカキコ
なのだが(w
410 :
日本@名無史さん:03/04/13 12:48
なんだ、武功夜話信じてる香具師がまだいたのか
>>410 もちろん、
一次資料>>>>>>>>二次資料>>>>>>>>>>>>>>武功夜話
という前提なのだが(w
412 :
日本@名無史さん:03/04/15 16:38
応仁文明の乱でいい味出してるマイナーな人物を紹介しなさい!
413 :
日本@名無史さん:03/04/15 16:51
414 :
日本@名無しさん:03/04/15 18:39
>>413 その名は初耳だな。
西軍に擁立された小倉宮王子のこと?
415 :
日本@名無史さん:03/04/15 22:58
そうらしいよ
416 :
日本@名無史さん:03/04/16 16:50
京極持清
417 :
日本@名無史さん:03/04/16 22:02
>>412 一向一揆に殺された富樫政親なんてどう?
>>392 レスさんくす。
>>412 浦上則宗あたりも渋いかも。
>>417 政親滅亡後、越前金津の溝江氏の元に逃れてた富樫泰俊は天正の一向一揆のときに溝江もろとも滅亡。
余談だけど現当主の溝江さんと富樫氏現当主の娘がケコーンしてるらすい。
(^^)
421 :
日本@名無史さん:03/04/18 01:53
茶々丸時代
>>418 そのころ(今もだけど)実家はその辺の浄土真宗の寺院。
先祖も一揆に参加してたみたい。
けど、信長が来た時、越前では3万人の磔、かまゆでの大虐殺。
先祖は越後まで逃げて、ほとぼりが冷めた頃にもどってきたそうな。
へたれ・・・。
423 :
日本@名無史さん:03/04/18 13:20
もの凄い人生だな、、、
だが、あの時代の北陸で下々が生きていくには
そうするしかなかったのかもな
>>422 詳しいですね。富樫氏については郷土史では以下のようになってるようです。
溝江氏・・・越前平定後再興するも改易→彦根藩に出仕(存続
富樫氏・・・泰俊の子が金津を脱出→後藤に改姓(存続
>>424 いや、そちらのほうが詳しそう。
越前金津たりは、興福寺、春日大社の荘園(春日神社の分社がたくさんある)で、
うちの先祖ももともとは卜部姓で、荘官として赴任してきたけど、
半済令やらなにやらで、とっとと坊主に転身したみたい。
でも先祖伝来の文書見てもどれくらいの地位の「荘官」だったのかわかんないんだよね。
京都、奈良の卜部姓の家系とどうつながるのかもわかんないし。
この辺り、詳しい人間いないかなあ。
ちなみに父方の先祖は、能登半島に落ち延びた後醍醐天皇の子孫との伝承が。
(やっぱ浄土真宗の寺)
確かに、南北朝時代、その辺の豪族、富来氏は南朝方なんだよね。
どう考えても怪しいんだけど、反論する材料もない。
親戚一同、それをしんじてんだけど、でもそれ以上の知識は親戚一同誰もない…。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
427 :
日本@名無史さん:03/04/25 00:36
この時代好きなのであげ
金津周辺だと堀江・細呂木・深町・溝江氏あと東大寺領の桑原氏なんかが古いよね。
関係ないかも知れないケド、堀江の史料当たったら河口庄のが出て来たので参考までに。
「寺門条々聞書 越前国河口庄条々事守護代請文」応永21(1414)年
本庄郷 公文 堀江石見入道 代官 五位 細呂宜郷 公文 堀江帯刀 代官 森上洛
政所 朝倉 代官 笠松 政所 上方 堀江石見入道
荒居郷 公文 原入道依為新補譜 上洛 下方 帯刀
政所 堀江三郎左衛門 上云 溝江郷 公文 守護代甲斐帯刀
政所 甲斐濃州入道押而持之
代官 富田ト云者上洛
新庄郷 公文 甲斐帯刀 正円 上洛 新郷 公文 織田主計 代平方上洛
政所 同人 政所 同人
関郷 公文 知足院 代国畑上洛 玉見郷 公文 甲斐持之 富田上洛
政所 島田弥三郎 政所 島田弥三郎
大口郷 公文 政所 朝倉阿波賀 兵庫郷 公文 多門院 応嶋与五郎
真鍋上洛 政所 小泉上洛
興福寺が河口庄10箇所の横領を守護に訴えたものです。
429 :
日本@名無史さん:03/05/05 19:07
あげ
430 :
日本@名無史さん:03/05/16 23:00
>>425 >能登半島に落ち延びた後醍醐天皇の子孫
後醍醐天皇の皇子が、能登に隠棲した事実はありません。守護家が畠山氏の国に
逃げてくるわけがないでしょう。
431 :
日本@名無しさん:03/05/23 00:48
蓮如と一休あげ
432 :
日本@名無史さん:03/05/23 01:10
新撰字鏡のオリジナルは燃えずに残って欲しかった。
あと類聚名義抄も
>>430 南朝方の中院氏が能登国司だったはず。
それと425がいうように確かに富来氏は南朝方。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
435 :
日本@名無史さん:03/05/29 21:22
436 :
日本@名無史さん:03/06/12 21:29
.
mL( ^∇^ )グッチャー!
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
441 :
日本@名無史さん:03/07/18 23:13
442 :
日本@名無史さん:03/07/20 01:04
護良親王っていうのは「もりよし」?それても「もりなが」って読むの?
443 :
日本@名無史さん:03/07/20 01:39
むかしは「もりなが」といわれていたけど
現在は「もりよし」が正しいとされる。
「良」を「なが」とよむ根拠がないそうだ。
444 :
日本@名無史さん:03/07/24 01:35
【^∇^】ジョーカーage
445 :
日本@名無史さん:03/07/30 21:54
446 :
日本@名無史さん:03/07/31 02:30
(^^)
448 :
日本@名無史さん:03/08/05 22:31
449 :
日本@名無史さん:03/08/06 01:35
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
..iiiiiiiiiiiii》| ::: |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiiii|, |iii|
..iiiiiiiiiiiiiiiiii, ( ● ● ) .|iiii|
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii 》━━━━《 |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ 》 / ̄ ̄\ 《 |iiiiiiii|
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453 :
日本@名無史さん:03/08/12 01:25
454 :
日本@名無史さん:03/08/15 02:13
【^∇^】ジーモン@キングスバーグage
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
456 :
日本@名無史さん:03/08/16 00:20
457 :
日本@名無史さん:03/08/20 20:24
458 :
日本@名無史さん:03/08/27 15:43
459 :
コギャルとカリスマH:03/08/27 15:47
460 :
日本@名無史さん:03/09/03 22:29
461 :
日本@名無史さん:03/09/04 13:48
斯波義統は、義敏の系統なの?それとも義廉の系統?
462 :
日本@名無史さん:03/09/04 17:53
>461
義敏
斯波スレ落ちちゃったからねー。
ところで日本で初めて眼鏡をかけたのは義政だってさ。愛用のものとされる眼鏡が残ってるとのこと。
やべっトリビアだなこりゃ。
464 :
日本@名無史さん:03/09/12 01:45
465 :
日本@名無史さん:03/09/18 01:52
466 :
日本@名無史さん:03/09/26 01:24
467 :
日本@名無史さん:03/09/26 18:50
大内義隆じゃなかったのか・・・
キタ━━━(^▽^)━( ^▽)━( ^)━( ;)━(^ )━(▽^ )━(^▽^)━━━シナイヨ!!!!!
469 :
日本@名無史さん:03/10/05 08:25
梨華ちゃん
470 :
日本@名無史さん:03/10/15 20:23
471 :
日本@名無史さん:03/11/06 20:14
472 :
日本@名無史さん:03/11/07 01:15
唐揚大王スレ認定記念age
473 :
日本@名無史さん:03/11/08 01:37
>>442-445 「護良」の「良」の字を「ヨシ」とよむ他の漢字と間違えた文書とかが出てきたからじゃない?
歴史上の人物の名前の読み方なんて大体こんな感じで決定する。
474 :
日本@名無史さん:03/11/08 01:39
475 :
日本@名無史さん:03/11/19 21:53
花の乱で義政を演じた市川團十郎はこの役を何度か断ったらしいね。
気持ちはわかる…が、見事な義政ぶりだった。
476 :
日本@名無史さん:03/11/22 19:01
今度は話を変えて応仁の乱交パーティー
について教えてください。
478 :
日本@名無史さん:03/11/22 19:32
479 :
日本@名無史さん:03/11/22 19:38
>>474 讀み方。
義敏 よしとし
義良 よしなが
義逵 よしみち
義統 よしのり
義銀 よしかね
なほ、織田信長の曾祖父と推定される織田良信も、義良の偏諱を受けたものと考へれば、讀みは「ながのぶ」だらう。
480 :
日本@名無史さん:03/11/23 17:46
良を「なが」と読むなんて、この前死んだ良子の影響じゃないの?
>479
現代擬古文だな。「受けた」の箇所は「受けたる」だろ。「推定される」も「推定さる」じゃねえ?
まーどーでもいーことだが。
482 :
日本@名無史さん:03/11/23 18:53
>>481 現代口語を正假名遣ひで書いただけですが何か?
>482
やはりどーでもいーのだが、現代口語「風」だろ。一部文語が混じってるじゃん。
484 :
日本@名無史さん:03/11/23 23:15
485 :
日本@名無史さん:03/11/23 23:25
応仁の乱の話をしろよ。
似非古文なんざどうでもいい
>>483-486 うわ。まったくもってどーでもいー話題が続くなあ。
「推定される」は現代文語だ。詳しい説明は要らんと思う。
それにしても、「推定される」を『文語にすると』「推定さるる」ですか。
どうして481で「推定さる」としているのかぐらい察してくれ。意味していることは君と一緒だ。
490 :
日本@名無史さん:03/11/24 17:22
491 :
日本@名無史さん:03/11/24 17:25
ところで、應仁の亂以後の畠山氏(特に義就系)の系圖についてなのだが、足利一門の有力守護の一族にしては、判然としない部分が多すぎると思はないか?
そういや、高屋城の築城年代とか誰がいつ城主だったのかとかかなりあやふやだな。
既に有力守護とは言い難いし、戦乱で何がなんやらだし、
しかも子孫は断絶(だよな?)。
このあたりが理由なのでは。
494 :
日本@名無史さん:03/11/24 19:16
>>492 基家と尚順の講和以後の河内は半国守護と言うべきなのか?
半国守護だね。
尚順→稙長→長経→政国
基家→義英→義堯→在氏
その後も1523年、義英・稙長が半分づつ。
1538年、在氏・政国で半分づつ。
その後、稙長が守護になった後、晴煕と政国で半分づつ。
政国の死後に高政が一国守護。
イミナに一貫性がないから混乱するな
ヘンキ受けたりしてるんだろうが
なんかそのスレ見てると、畠山が哀れに見えてくるんだが……。
応仁の乱では大活躍なんだぞ、ちくしょう……(涙
499 :
日本@名無史さん:03/12/10 19:53
>>495 河内畠山の半国守護って、史料上で確認できる?
俺、それを以前探したんだけど、なかなか見つからなくて・・・。
500 :
日本@名無史さん:03/12/10 20:35
はっきり言って、入り乱れすぎ。まさにこれこそ「乱」。
最終的には日野富子の願いが叶い、自分の子供を天皇にできたんだから、
西軍の勝ちでは?
501 :
日本@名無史さん:03/12/12 00:19
公方と内裏の区別もつかんのか!
503 :
日本@名無史さん:03/12/14 19:23
公方と御所はおなじことです。
応仁の乱はドイツ30年戦争を思い出しますね。
最初は大義があったのに、参戦した諸勢力はそれぞれの思惑で戦ってるし、
国土が疲弊し、国内の分裂状態を招く所とか。
板違いすまん。
505 :
日本@名無史さん:03/12/18 01:50
506 :
日本@名無史さん:04/01/15 10:59
507 :
日本@名無史さん:04/01/20 00:44
大内政弘再び上洛
508 :
日本@名無史さん:04/01/20 02:07
>>504 でも、その後もハプスブルク家はオーストリア地方を中心に勢力を維持したし、まして足利家みたいに当主が各地を流浪したりなんて事はないよ。
むしろ結果はまるで正反対とも言える。
応仁の乱……国土疲弊、国内分裂を招いたが、織豊・徳川という室町幕府よりも強い政権の誕生に繋がった。
30年戦争……国土疲弊、国内分裂を招き、それがそのまま19世紀まで続いた。
とはいえ、
>>508さん指摘の通りハプスブルクは強いままだったし、「下克上」はほとんど見られなかった。
あと、最近ドイツ史の方では、30年戦争後の神聖ローマは「分裂・事実上の崩壊状態」だったわけではない、という意見の方が主流らしい。
つうか、もともと領邦国家だしな。
守護大名と大して変わりはない
511 :
日本@名無史さん:04/01/25 02:41
>>509 確かに、神聖ローマが事実上崩壊したのは、むしろオーストリア継承戦争だったのかも知れない。
この戦争で、ホーエンツォレルン家(プロイセン)>>>ハプスブルク家が決定的になった。
それに、ハプスブルク家のほうも、皇帝としてドイツを統一する気があるのなら、マリア・テレジアの相続に際して、ドイツ国内の有力諸侯(バイエルンとかザクセンとか)から婿をとるのが筋のはず。
それをせずに、ロレーヌ公(のちトスカナ大公に転封)などを婿にしたことで、ハプスブルク家にドイツを統一する意思がないことも明確になった。
513 :
日本@名無史さん:04/01/25 03:41
>>512 自分が話について行けなくなると「スレ違い」か。藁
>>511 スペイン継承戦争のときには、まだ多少ドイツに未練があったのかも。
ブルボン家のスペイン王家継承を認める代わりに、南ネーデルラントとルクセンブルクを取得しているし。
516 :
日本@名無史さん:04/01/25 17:31
age
517 :
日本@名無史さん:04/01/25 19:58
まあ、ハプスブルク家がドイツ統一を放棄したからこそ、外交革命(ハプスブルク家とブルボン家の同盟)が成立し得たとも言えるが。
518 :
張本人は・・・:04/01/26 16:43
,' ,//7::i!::::|! !i ! ,// 〃〃// / /テ // / ,イ i ,! ! i!
! /::://::,イ!::::! ,i| l !ィ-┼─'- .、 _ /ソ /イ .,イ ,' ! ‖ ! ‖|
i ヾ:.イ ':::,.'.!┬', ',ニ!i ,i !  ̄ ``'´ ,ヘ ,.'r/ ///./ ,! i | i!
! ! ヶ- ' |! i ! i ィ.! ! i ,.rュェ ニ、 :、 ' く__/ ,.ソ / 〃 ,' i ilヘ
. i | ‖! || |! i、 ! |! ,l ,ハ'´ム‐'´:::::iトミヽ メ-、! / i i|! イ ト::::ヽ
. ! ! i | ! ‖l| .ト ‖ i! ! {::::::::::::/ ヽメ、/ 7 l | l! ヽ:::ヽ
| | | l i ‖|| i ゝ|! l| l {. ` ー ' ァ三ヽ 从/7' ∧!,':ト、 ヽ:::>
l | | | | | .!| | !‖ li ! ` 、 ,!_ ./' ´:,イi! ,.イ 〈_ ,イ::〉7::i ヽ `
! ! | | | !. !i /.i! ,ト!| `ー ' `ヽ.r 〔::::,ノ ,ケ7/ ,イ !l:|ヘヾ! 丶
. | l l | l l |」く. | | iト、 ,.... ,. i ´ ,イ// /‖ !.i 冫‐-、 ヽ
. | l l ! | _,.!, ヘ、.ヽ:! ,! | ヽ, ! `ヾァ `ー 、/,ノ/ ,イ ! レ' `‐、 \
| l. l,!/ _,. `-┴┴ !、. \ ´ _,. ィ /7! ./‖ ! , ' / ヽ
!.l ,/,. ‐'´ ヾ‖!ト __,. - ‐ 'i´ i'´/ ,イ! .|| , ' 身 , 'ト、
,'/ ト|!i‖|! | il ‖| ,イィ/ ,〃! . i/ 隠 , ' ヽ ヽ
/ ヾ|!| l! ! l|! | |/'´/ /7 |/ し / `、
おまいら、そゆことは世界史板でやれ。
比較対照に「応仁の乱」を持ってきてない511・515・517は板違いだボケ。
504・508・509を見習え。
520 :
日本@名無史さん:04/01/26 23:17
521 :
日本@名無史さん:04/01/27 03:11
>520
中の人なんてどうでもいいんだよ。
このスレ的に508の内容はハプスブルク家と足利家について比較法で述べていることから問題は無い。
しかし511は何ら「応仁の乱」及びその関連事項について述べておらず、「スレ違い」な内容になっていることは事実。
512が「スレ違い」としているのは当たり前。
おれもハプスブルク家ネタそのものは好きなんだが、それだけについて論じるのはスレ違いだろ。
そゆこっちゃねえ。
といいつつも、考えてみれば私のレスが呼び水になったのか。スマソ。
しかしあれだな、神聖ローマのあの体制が「崩壊したわけじゃない」という理論が成り立つなら、
室町幕府もちゃんとした支配体制であった、別に弱くはなかった、とも言えるのかな。
大名の合議制であったり、将軍の権力を三管領四職が裏付ける形だったりしたわけだけど、
義満〜義政期に幕府の命令が諸国に行き渡っていたのは事実。
524 :
日本@名無史さん:04/01/27 19:28
但し、日本の場合は足利家が軍事的には完全に無力になってしまったから、それに取って代わるより強力な政権(織豊政権や江戸幕府)が成立した。
しかし、ドイツの場合は、ハプスブルク家が中途半端に勢力を維持したから、近代になるまでドイツ全土を統一する勢力が現れなかった。
しかも、結局ドイツ連邦内でもハプスブルク家の支配地域(オーストリア、スロヴェニア、チェコなど)が統一ドイツに統合されないまま現代まで残ってしまっ
525 :
日本@名無史さん:04/01/27 20:19
カール5世がスペインにかぶれたのが、ハプスブルク家のドイツ軽視の始まり。
その点は、海外に所領を持たなかった足利家は幸運だった。
526 :
日本@名無史さん:04/01/27 20:23
>>523 神聖ローマ帝国におけるオーストリア継承戦争と、室町幕府における明応の政変が似ているかも。
ただ、
>>511のいうオーストリア継承戦争以前に、すでにポーランド継承戦争の段階で崩壊の序章は始まっているのかも。
527 :
日本@名無史さん:04/01/28 03:28
>>523 >義満〜義政期に幕府の命令が諸国に行き渡っていたのは事実。
関東は…?
しまった、思わず自分の望む結論を……
>>528 関東の秩序は再考に値するんじゃなかろうか。
例えば、永享の乱時を除いて京都と同じ年号を用いている、とか、
鎌倉公方は将軍から一字を拝領している、とか。
単に、関東一円を鎌倉公方に任せる、という「室町幕府の秩序」だった、と解釈できるかも知れない。
530 :
日本@名無史さん:04/01/28 18:16
>>527 室町幕府との比較で書いているのだから、荒らしじゃないだろ。
531 :
日本@名無史さん:04/01/29 04:05
>>530 ぜんぜん比較になってないよ。
猫はニャンとなくから、ワンとなく犬とは違う。
こんなのは比較とはいわない。
おまえのはこの類でしかない。
532 :
日本@名無史さん:04/01/29 23:15
>>531 それはお前が話しについて行けないから、何を比較しているのかよくわからないだけだろ。
いい加減に粘着やめろ。この低脳DQN
>531
おまえぐらいに読解力が無い奴がなんで日本史板にいるのか不思議だ。
比較考証学とか知らんのか?
日本史板に、歴史事件・背景について世界史と比較考証してはならないって決まりは無いはずだが。
つか、史学ってのは外国の例と比較することは普通なんだがな。
政権の内容や実態を研究する場合、必ず比較対象を持ってくるわけだが。
それにハプスブルク家ネタが嫌なら自分が何か意見出せよ。スレの流れが二つあったって別にいいじゃん。
まあ粘着野郎のキミにはできないみたいだけど
>>531
534 :
日本@名無史さん:04/01/30 03:59
>>533 >比較考証学
ご大層なこと言う割に全然内容が伴ってないよ(藁
自分の書きこみをよ〜く読んでみろよ。
海外領土を持たないから足利家と海外領土を持つハプスブルク家の何をどう比較してるの?
ただ並べて「比較」した気になってるだけだろ。
535 :
日本@名無史さん:04/01/30 12:47
たしかにそうだな
ハプスブルク家を語りたかっただけなんだろ
536 :
日本@名無史さん:04/02/01 02:51
537 :
日本@名無史さん:04/02/01 03:23
悔しかったみたいだね
>>537 釣りのつもりかも知れないけど、周りから見たら荒らしと変わらないから、いい加減にやめなよ。
539 :
日本@名無史さん:04/02/01 04:37
悔しかったみたいだね
540 :
日本@名無史さん:04/02/01 04:44
応仁・文明の乱は、学校では細川勝元VS山名宗全を中心にしか教えてくれないけど、実情は南北朝の問題も絡んでて面白いんだよね
日本中を巻き込んだ壮絶な夫婦げんかという見方もある。
542 :
日本@名無史さん:04/02/02 01:50
>>541 それはむしろ源頼朝と北条政子のほうが・・・。
543 :
日本@名無史さん:04/02/02 01:53
544 :
日本@名無史さん:04/02/02 02:16
>>543 政子が頼朝の愛人邸を焼き討ちしたのは有名。
たしか焼き討ち失敗したんだよね。
頼朝もなにげに手強いな
546 :
日本@名無史さん:04/02/02 03:08
頼朝は命の恩人とも言える北条家の政子に頭が上がらんはずだが・・・
また話題がずれてキタ━━(゚∀゚)━━!!!!
いや、いつの間にか話題がすり替わっているのは、ある意味応仁の乱スレらしい(藁
頑張れ、畠山義就!
549 :
日本@名無史さん:04/02/02 18:08
550 :
日本@名無史さん:04/02/03 02:40
>549
よしなつ?
よしか?
畠山っつったら徳本入道だろ
552 :
日本@名無史さん:04/02/03 14:44
楠木・和田一族など南朝方の武将は出てこないの?
553 :
日本@名無史さん:04/02/03 19:16
>>550 「よしなつ」です。
「よしか」なんて重箱読みはしません。
554 :
日本@名無史さん:04/02/03 19:16
555 :
日本@名無史さん:04/02/03 21:07
>>554 その和田じゃなくて、楠木と同族の(楠党の)和田。南朝の武将になってたはず。
(ちなみに楠木はもともと熊野神職和田氏の出という説あり)
にぎた、か
だから
>>555の「楠木と同族の」は間違い。
ま、南朝方の武将だから応仁文明の乱にも登場するかなと思って。
559 :
日本@名無史さん:04/02/06 00:22
>>526 だとすると、細川政元暗殺が七年戦争に当たり、細川高国敗死がバイエルン継承戦争に当たると言ったところか?
蒸し返すなっつーの。
561 :
日本@名無史さん:04/02/06 01:09
後南朝って応仁文明の乱に関わってたよね?「自天王」とか
563 :
日本@名無史さん:04/02/06 01:41
564 :
日本@名無史さん:04/02/06 04:19
>>559 応仁の乱(or明応の政変)以後の足利将軍家は、ハプスブルク家よりも、春秋・戦国時代の周王室に似ていると思う。
実権を失っても権威だけは保持している点とか、末期には2つに分裂している点など。
565 :
日本@名無史さん:04/02/06 04:22
566 :
日本@名無史さん:04/02/06 13:47
567 :
日本@名無史さん:04/02/07 00:15
>>566 自分が一番粘着だってことにいい加減気付けよ。w
あ、ごめん。
粘着相手にあげちゃった。失礼・・・。
570 :
日本@名無史さん:04/02/07 03:25
>>569 後亀山帝─小倉宮実仁親王─尊義王┬尊秀王(自天王)
└忠義王
宮内庁の公式見解では、赤松政則郎党による自天王・忠義王兄弟の暗殺によって、後南朝は断絶したことになっている。
応仁の乱の入門書を教えてください。
mL( ^∇^ )グッチャー!
574 :
日本@名無史さん:04/03/19 23:06
575 :
日本@名無史さん:04/04/07 23:21
大内政弘新年度上洛上げ
576 :
日本@名無史さん:04/04/07 23:28
この前の戦争のスレですね。
577 :
日本@名無しさん:04/04/08 10:36
578 :
日本@名無史さん:04/04/23 02:12
>>344 澄之の母と将軍義澄の母が姉妹同士ということが影響していると思う。
579 :
日本@名無史さん:04/04/23 02:53
>>576-577 京都人の常識
「こないだの大戦」と言ったら、応仁・文明の乱を指す。
「こないだの震災」と言ったら、慶長伏見地震(1596年)を指す。
580 :
日本@名無史さん:04/04/25 01:14
581 :
日本@名無史さん:04/04/25 14:44
応仁の乱によって皇居はどうなったの?
582 :
日本@名無史さん:04/04/25 18:14
583 :
日本@名無史さん:04/04/25 18:17
584 :
日本@名無史さん:04/04/25 21:00
>>581 後土御門天皇と後花園上皇は室町御所に移され、東軍の旗とされた。
室町御所が仮の皇居として定められた。
586 :
日本@名無史さん:04/05/04 14:26
587 :
日本@名無史さん:04/05/09 00:44
>>579 それ・・・京都人の常識に見せかけたヨソ者の皮肉だって。
言葉の知識じたいが間違ってるから京都人は言わないらしい。
関西出身の知人(奈良と大阪のハーフ)が言ってたことを一字一句再現したものです。
京都の人に直接確認したことはないので、間違ってたらごめんなさい。
590 :
日本@名無史さん:04/05/18 04:47
591 :
日本@名無史さん:04/05/24 18:59
和田塚って駅が江ノ電にあるね。
592 :
日本@名無史さん:04/06/13 16:22
焼き討ちするなよみたいな
593 :
日本@名無史さん:04/06/13 17:52
応仁の乱は幕府の脆弱な基盤の裏返しのような内乱だった。
あいつぐ徳政令の乱発による経済の大混乱は、そうした脆弱な基盤をもろに直撃した
幕府破綻の一歩だった。
594 :
日本@名無史さん:04/06/13 18:23
応仁の乱は、あくまで守護大名達の私闘。
将軍家は直接関係ない。
将軍家ということに関して言えば、明応の政変のほうが影響が大きい。
明応については確かにそうだが
応仁が将軍家に無関係というのは…( ゚Д゚)ハァ?
596 :
日本@名無史さん:04/06/22 14:13
大内政弘のおかげ
597 :
日本@名無史さん:04/07/17 00:09
誰か応仁の乱と関ヶ原を比較・検討してよ。
598 :
日本@名無史さん:04/07/17 03:43
>>595 無関係は表現が悪かった。
東西両軍が勝手に将軍家の一族を担いだだけで、応仁の乱によって足利将軍の存在自体が脅かされたわけではない、と言いたかった。
>>597 応仁の乱は、年号が応仁。関ヶ原は、年号が慶長。
応仁の乱は、前哨戦・上御霊者社。関ヶ原は、前哨戦・杭瀬川。
応仁の乱は、畠山政長が原因。関ヶ原は、上杉景勝が原因。
応仁の乱は、町が焼けた。関ヶ原は、野原でやった。
応仁の乱は、O型。関ヶ原は、AB型。
600 :
日本@名無史さん:04/07/17 12:37
実は年号はすぐに文明に変わるが。藁
>>598 >東西両軍が勝手に将軍家の一族を担いだだけで、応仁の乱によって足利将軍の存在自体が脅かされたわけではない、と言いたかった。
将軍自体は標的になってないものの、時期将軍の座を巡って将軍の意などそっちのけで好き勝手やってますが。
602 :
日本@名無史さん:04/07/20 20:52
>>601 応仁の乱の時点で、室町将軍の制度そのものを廃止しようとした大名って、いたのか?
聞いたことないな。
まあ、いないだろうな。
細川・斯波・畠山および足利一門大名は将軍家あっての存在だし。
外様の大大名、大内もそこまで考えてはいまい。
可能性としては、せいぜい宗全入道くらいだが、将軍家をなくそうとは
考えていないはず
605 :
日本@名無史さん :04/07/21 10:46
斯波義廉って限りなく存在薄いけど、
応仁の乱時点では少年? 甲斐、織田、朝倉あたりにかつがれていただけ?
そして早世? 後嗣はなし?
甲斐、朝倉にかつがれていただけ。一応、管領にはなったが。
607 :
日本@名無史さん:04/08/19 22:03
でも、応仁の乱の前から斯波は終わっている。
越前では、守護(斯波)と守護代(甲斐)が合戦に及ぶなんていう前代未聞のことまで起こっているし。藁
608 :
日本@名無史さん:04/09/07 09:05
age
609 :
日本@名無史さん:04/09/20 19:11:50
age
610 :
日本@名無史さん:04/09/25 21:06:44
>>607 その戦争で負けた斯波義敏に将軍の怒りが爆発したから
義廉が来たんだっけ。
で、山名宗全に担がれるに至った。
とはいえ、応仁の頃の斯波氏では、
西軍側の義廉がわが圧倒的で、
東軍に付いた義敏は圧倒的に劣勢。
細川勝元が、西軍側の家臣の引き抜き工作をやって、
ようやく勢力拮抗となった。
このとき西軍から東軍に移ったのが、
朝倉孝景(敏景)と織田敏広だっけ。
畠山のほうも、東軍側は勝元の支援なしには
充分な戦いが難しそうだし、
やっぱり、勝元による、三管家(のライバル)弱体化だったんでは?
むしろ赤松氏について語るべき時が来たように思う
俺の友人が骨皮道賢を「こっぴどうけん」と読んでいたのを思い出す
615 :
日本@名無史さん:04/10/09 15:34:27
コッピパン
細川総勢 8万 山名総勢 4万
京極持清 1万 大内政弘 2万
畠山政長 5千 斯波義廉 1万
武田信賢 3千 畠山総勢 1万
斯波義敏 5百 土岐成頼 8千
赤松政則 5百 六角高頼・一色義直 各5千
これ関東とか陸奥・九州はなにしてたん?
足利成氏が八屋形(結城・千葉・佐竹・那須・宇都宮+2)と10万騎率いて上洛しますた
みたいな燃え萌えな転換にならなかったのが残念でならない。
関東は関東でもめてたから。
足利成氏が十万騎率いて上洛して古河から去ったら、上杉大喜び。堀越政知も大喜び。
九州では大友とか少弐あたりが大内領に攻め込んで足引っ張ってた筈。
東北はどうだい?
北陸は?
622 :
日本@名無史さん:04/11/04 13:18:38
age
623 :
日本@名無史さん:04/11/14 11:19:06
、、、、
ミ・д・ミ<ほっしゅ
""""
624 :
日本@名無史さん:04/12/01 15:31:52
保守
625 :
日本@名無史さん:04/12/18 19:14:57
age
626 :
日本@名無史さん:04/12/21 00:52:13
>>2のスレのタイトルわかる?
>>26 鎌倉公方は持仲で存続するっしょ。
>庶子家の統制が緩くなったり
・・・江戸氏の水戸進出がなくなったり
>上総での武田氏勃興は・・・
・・・当然なかったことに。安房の里見も存在が消滅。
犬懸上杉は武蔵・上総に加えて山内上杉の伊豆・越後・上野の守護にもなるかもねん?
627 :
日本@名無史さん:05/01/02 17:57:23
意味不明
628 :
日本@名無史さん:05/01/02 19:03:19
>>617 東北と関東・九州は既に中央の統制下から離れて既に戦国乱世状態。
斎藤妙椿age
632 :
日本@名無史さん:05/01/04 02:06:21
河野通春、最強!
634 :
日本@名無史さん:05/01/08 09:59:50
はたけやま〜は金持ちだ〜
635 :
日本@名無史さん:05/01/11 00:33:56
>>627 鎌倉公方は、持氏の弟持仲が叔父満隆の猶子になっていて、禅秀に担がれていたから、そのまま存続する。
佐竹氏は山入佐竹が嫡流になる代りに庶子家の統率も緩くなるかもしれないが、禅秀に加担して水戸を没収された大掾が水戸を失わずに済むから、江戸氏の水戸進出がなくなる。
上総武田氏は成氏の与党として上総に入部したから、持氏が倒れれば上総は元の通り犬懸上杉氏の分国のまま。安房の里見氏も結城合戦頃の入部だから、持氏系の公方家が倒れていれば入部もない。
>>633 >>2の三戦板のスレも探してきてください。
636 :
日本@名無史さん:05/01/26 13:18:25
焼き討ちage
________∩_∩
/ ノ ヽ ( ノ⊂ ̄))) ̄⊃
/|ヽ (_ノ ._ ̄ 0'ヽ 0'
/ |ノ .) (_) ヽ i ( むしゃむしゃして食った。
∋ノ | /――、__ ./(∩∩) 草なら何でもよかった。
/ /| ヽ__ノ | / ./ 今は反芻している。
| ( | ( ’’’ | ( /
|__ヽ.L_ヽ Lヽ_ヽ
''" ""''"" "'''''" ""''"" ''" ""''"" ''" ""''"" ''" ""''"" "'''.
応仁豆腐
639 :
日本@名無史さん:05/02/15 02:10:53
保守
640 :
日本@名無史さん:05/02/15 18:09:43
応仁に参加してたら自分しんでたな
642 :
日本@名無史さん:05/02/27 10:35:35
age
643 :
日本@名無史さん:05/03/16 17:25:16
ageage
忘れてはならない。
∧,,∧
(;`・ω・) 。・゚・⌒) あなたががチャーハンを作る時、
/ o━ヽニニフ))
しー-J
∧,,∧
。・゚・。 (;`・ω・))) チャーハンもまたあなたを作っていることを。
。・゚゚。.━ヽニニフ))
/゚・.7
645 :
日本@名無史さん:2005/04/03(日) 09:39:26
保守
646 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 23:59:19
応仁の乱で最後に得したのは、細川政元だな。
いや、むしろ大内政弘だな。
648 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 00:16:05
大内政弘は領土を確かに安堵されただけでは?
細川政元は、応仁の乱の後で畠山政長を討ち、将軍を交代させて
専制権力を握ったから、得したといえなくもないわな
最終的には畠山義就かな
650 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 09:02:16
山城の国一揆で追い出されましたけど、ありえない
651 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 23:49:13
日野富子もな。金貸しで大もうけ。
最終的には後土御門院かな
653 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 09:06:27
はあ?
最終的には骨皮道賢かもしれんぞ?
655 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 08:51:28
いやいや。
ふつうに考えて朝倉英林だろ。
657 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 09:46:38
最後に得をしたのは、都が焼けて借金が帳消しになった名も無き市井の人(多分)
658 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 09:07:46
日野富子やな。自分の息子を将軍にできたし
むしろ、蓮如だな。
660 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 23:37:26
嘘
赤松政則と言える
足利義材だろ。普通に考えれば
663 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 14:06:53
ドナルド・キーンが書いた足利義政の伝記読んだが、義政凄いな。
応仁の乱で将軍の御殿に隣接する相国寺の争奪戦が起こり、相国寺が炎上し、
その火煙が御殿を覆ってもいつもと変わらぬ風情で酒宴に興じるとは。
はかなくも
なお収まれと
思ふかな
かく乱れたる
世をばいとはで
664 :
日本@名無史さん:2005/04/16(土) 09:00:07
名前を挙げるだけか。理由も書け
まじですか?Σ(´Д`;)!!
今おならしたとこなのに.∵(´Д⊂)∴
666 :
日本@名無史さん:2005/04/20(水) 08:52:52
おう
667 :
日本@名無史さん:2005/04/20(水) 17:57:33
義澄だな
堀越の次男坊で出家の身なのに将軍になれたんだから
しかしそれは応仁の乱の直の影響なのか?
669 :
日本@名無史さん:2005/04/21(木) 18:19:21
義尚死後の混乱の中で政元に担ぎ出されたんだから直の影響と言えなくもないかもしれない
いや、言えないだろ。
>【^▽^】応仁の乱について語る【^▽^】
↑笑いながら語るのか?ココは。
そうです
ちなみに、左側が山名宗全で右側が細川勝元な。
674 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 01:54:40
ジョーカー(ジーモン)どこいった?
応仁の乱について詳しく勉強できる本ありませんかね?
特に畠山義就について知りたいのですが
デアゴスチーニから、週刊畠山氏が出るのを待つしかないね
677 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 00:09:46
得したのは、日野富子と細川政元だろうな。
山城国人衆かな
679 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 12:55:45
保守
保守国人衆
骨皮道賢
貴乃花親方、兄について語る!!
, --==‐〜--へ__,,,,--- 、
/;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ
ノ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ,/;;;;;;;;;;;;;|
|;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノハ;;;;;;;;;;;;;;;;;;|
|;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノノ \:::;::;;;|
|;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;彳 ヽ;;;;ル
|;;;;;;;;;;;;;;イ6:::. / \ |シ
);;;;;;;;|:::::::::: (●) (●) |ゝ ピザでも食ってろデブ
ヒi_,|::::::::::::::::: \___/ |
,,, -/ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ
―'| \ \ |\_
683 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 01:14:21
おいおい
684 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 19:44:37
保守
686 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 21:15:07
age
687 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 19:20:20
sage
688 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 22:47:16
689 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 05:27:34
どうしてそんな伝説ができたんだろ
690 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 20:23:42
>>689 コピペだが。ソースは妖怪系サイト↓
の清麻呂が人身御供の悪弊を止めさせた話は「史記」の
翻案です。例えば細川勝元が蝦蟇だったなどという逸話
がありますが(やはり江戸時代の怪談集である「玉箒木」
にある話)、この話も中国の「冷斎夜話」の翻案で、原典
は無論中国人(楊セン)の逸話になっています。このよう
に史上の人物の逸話には創作が伝承化しているものがあ
りますので、注意が必要です。ただし、これらの中国典
拠がある日本の人物と結び付けられるには、そこになに
691 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 20:29:52
age
692 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 19:25:41
693 :
日本@名無史さん:2005/08/07(日) 19:10:47
細川勝元の嫡子の政元って、母親が山名宗全の娘ってことで応仁の乱中は廃嫡されていたんだよな。
もし細川と山名が講和せずに、政元が廃嫡されたままだったら、のちの明応の政変も起こらなかったわけだ。
山名宗全の養女が勝元の正室だったのは確かだが
政元の母ではないんじゃないの?
695 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 01:13:28
>>694 細川と山名の講和条件が政元を細川京兆家の家督にすることだから、山名の娘でOKじゃないのかな。
そして、この直後に勝之(政元の代わりに勝元の養子になっていた)が出家してるし。
とりあえず政元の母のソースが見つからんな…
697 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 22:07:10
今度「尊卑分脈」で確認してみるよ。
698 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 23:12:32
てゆうか政元はどうして澄之や澄元を養子にしたの?
京兆家との血縁の近さなら文句ナシに跡継ぎは高国に決まりじゃないの?
699 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 23:17:00
きっと澄之も澄元も可愛かったんだよ
上杉謙信だってそう。
北条氏秀は宿敵の息子のはずなのに「あの人と寝たい」と言う歌がはやるほどの容貌を見て気に入ると養子にして
結果跡取り抗争がおきてるじゃん。
700 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 23:29:07
>>699 上杉謙信が後北条から養子を迎えたのは、越相同盟を結ぶ際の人質という側面が強いよ。
高国は養子じゃないだろ
702 :
698:2005/08/19(金) 22:36:30
>>701 そんなこと言うまでもなく常識じゃない?
703 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 22:44:55
え?養子だろ。
言うまでもなく常識じゃん。
704 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 22:55:11
応仁の乱の時に、映画もののけ姫に出てきた「石火矢衆」みたいな
指火式火砲や爆雷を専門に扱う特殊部隊って本当にいたんですか?
705 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 00:59:56
高国は自称「政元の養子」ね。
で、尊卑分脈まだ〜?
707 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 13:48:33
708 :
706:2005/08/20(土) 14:08:47
う、漏れかよ…_| ̄|○
仕方ない、暑い中図書館逝ってくるか…
709 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 19:25:44
どうせなら系図纂要と寛政重修諸家譜も見てこい。
710 :
706:2005/08/20(土) 19:58:41
寛政諸家譜はもろちん調べますた
系図纂要も探したけどなかったよ…(´・ω・`)
で、まあ今居酒屋から携帯で打ってるんだがちょいと辛いなw
とりあえず一杯やってから帰って報告しまつノシ
711 :
706:2005/08/20(土) 21:42:54
ほろ酔い気分で帰ってきますたノシ
で、結論ですが……
尊卑分脈、寛政重修諸家譜ともに・・・・・・
細川政元 母:記載なし _| ̄|○
つうか宗全の娘(ホントは養女だが)だったらかなり重要事項なはずなので
書いてあっても良さそうなもんだけど、何も書いてないということはやっぱ違うのかも。
ただ、何とも確定できず……
で、それだけじゃあんまりなのでいろいろ調べますた。
山川出版社の「日本史広辞典」と講談社「戦国全史」では
母を山名持豊の女としていましたが典拠が書いてないのであてにならず……
他の人名辞典類では、みんな母は書いてません。
仕方ないので後鑑と大日本史料(この時代はまだ空きが多いが…)の関連しそうな
年次記事を漁ってみました
712 :
706:2005/08/20(土) 21:50:16
>>693の勝之が嫡子だったとか、廃嫡されたとかの記事は見つかりませんでしたが
文明五年の勝元死亡時の関連記事に、この年もしくは次の都市に勝之が出家して
後に紫衣を受けたの云々はありました。
ちょっと臭いのは文明六年の細川・山名和睦時の宴会(四月三日)の前に勝元が
その母とともに山名邸へ返礼に赴いた云々の記事が東寺執行日記にあること。
母が山名の出身だから随行したとも考えられますが、勝元自体がまだ幼少(数え9歳)
なので単につきそっただけなのかも……文面上はそのお母上が山名出身とは思えない
ほどよそよそしい書き方に見えるので、後者のような気もするなぁ。
713 :
706:2005/08/20(土) 21:59:29
そもそも山名氏女が勝元といつ婚儀に及んだのか…はよくわかりませんが
少なくとも享徳三年(1454)に宗全が将軍義政の勘気を蒙って攻められそうに
なったとき、それを止めたのが勝元で、その理由が「山名の婿だから」と嘉吉記に
あるので、それ以前ちゅうことになります。以来12年(以上)ずっと子供が生まれなくて
文正元年(1466)になって突然政元が生まれたっつーのも若干不自然さを感じなくもない。
嫁入り時にはいくつくらいだったんだろうか…
政元以前に子がないというのは単に男子がいなかっただけで娘は産んでた
可能性もなくはないけど…赤松政則に嫁いだめし殿(洞松院)は本によって政元の
姉だったり妹だったりするけどどっちなのだろう(そして母は誰なのか…)。
この辺にヒントがあるのかもしれません。ただ嫁いだのは確か明応の政変(1493)前後
だったので年齢を考えると妹の方がつじつまがあいそうな気も…
そんなとこでした。後は他の人に頼むよ(・∀・)ウヒョ
714 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 09:06:13
716 :
日本@名無史さん:2005/09/02(金) 01:21:57
717 :
706:2005/09/03(土) 07:15:50
dクス子。
う〜ん、主な系図類では確認できずってことか……
718 :
日本@名無史さん:2005/09/09(金) 00:05:14
当方、将軍家御一家吉良・石橋・渋川氏について研究している一介の好史家です。
1456年、斯波義敏が重臣甲斐常治の非違を幕府に訴えた際、
将軍義政が吉良・石橋・渋川の3氏に審理させたところ、
3氏は伊勢貞親(妾が常治の妹)に遠慮して、常治に有利な答申をしたため、
義敏が敗訴した、と小川信先生の『細川勝元と山名宗全』に書いてありました。
原典を確認したいのですが、今となっては小川先生に聞くことも叶わず。
この時代の史料でこの手のことが掛かれてそうなのは何か、どなたかご存知ありませんか?
『蔭涼軒日録』とかでしょうか。。
とりあえず後鑑
720 :
718 :2005/09/19(月) 01:51:53
721 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 02:34:35
うはwww
朝倉大活躍www
朝倉初期〜中期は名将多い。
でも、戦国時代になると義景タンのせい?で冷遇されっぱなし。
寂しいね…。
朝倉は「孝景」がたくさんいすぎ。
支那支那支那支那支那支那支那支那支西亜露西亜 樺
那支那支那支那支那支那支那支那支亜露西亜露 樺太
支那支那支那支那支那支那支那支那露西亜露 カエセ
那支那支那支那支那支那支那支那露西亜露西 北 カエセ
支那支那支那支那支那支那支露西亜露西亜 海道 カエセ
那支那支那支那支那支那支那支露西亜露 北道北海
支那支那支那支那支那支那支那西 亜 海北海
那支那支那支那支那支那支北朝 道
支那支那 支那支那支那北鮮 州
那支 那支那支那朝鮮北 本州
支 朝鮮北 ______ 州本
支 鮮北朝鮮 ( ウリナラマンセー! ) 本州
那 支 北朝鮮韓 |/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 島 本州
支那支那支 南韓国 竹 .本州
那支 <丶`∀´> 本 本州本
支 韓国韓 本州本州本 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
那支 大韓民 州本州本州( ゚∀゚ )< さいたま〜〜〜!
支那 韓国 島 本州本州本州 本州 \__________
那支 九州 四那 本
支那支 島九州九 四 島
那支那 九州
支那 州九
那支那 島
支那 島
那支
支 島
沖 島
台 縄
そもそもなんで義尚のあとに義材を将軍につけたりするんだ……?
他にいなかったから
726 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 04:41:58
富公が気に入ったから
727 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 12:11:05
|π・´)ノ ))
つ
記念アキコ!
要するに細川政元の母が山名氏である可能性は低い、と
729 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 21:44:52
【^∇^】
730 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 23:05:23
保守
731 :
日本@名無史さん:2005/11/17(木) 23:14:40
age
732 :
日本@名無史さん:2005/12/03(土) 23:00:01
age
733 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 19:03:34
age
734 :
日本@名無史さん:2005/12/29(木) 22:35:31
まじですか?Σ(´Д`;)!!
今おならしたとこなのに.∵(´Д⊂)∴
735 :
日本@名無史さん:2006/01/07(土) 16:46:44
>>724-726 義尚の次にいきなり義澄が将軍になる可能性はなかったのかな?
義澄って一応義政の猶子だし。
>735
義澄の父政知は妾腹で、義材の父義視は嫡腹だから。
737 :
日本@名無史さん:2006/01/08(日) 03:42:38
義政の猶子でもそうなのか。
でも政知って義視より年上だよね?
738 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 20:36:30
長幼の順では、政知って義勝や義政よりも年上?
嫡庶の別と長幼は関係ないだろう?
政知の政は義政の偏諱だろ。
それは途中で還俗してるからでないの
742 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 01:46:54
確かに室町以降だと偏諱を与える相手が本人より年下とはかぎらないからな。
足利 義勝 長男 永享六年(1434年)生
足利 義政 次男 永享八年(1436年)生
足利 義視 三男 永享十一年(1439年)生
足利 政知 四男 永享七年(1435年)生
これいかに。
744 :
日本@名無史さん:2006/01/12(木) 13:27:58
織田信長の子信雄(嫡腹)と信孝(妾腹)の場合も、信孝が先に出生したのに
三男になってるよ
>>744 だが、その2人は同い年。というか数日しか離れていない。母の身分が低かったため
信長への報告が遅れて三男になったと言われている。
>>743の場合、年単位で違うから同列には語れんだろ
やっぱり有力外戚の日野家のプッシュがあったんでしょう。
足利義稙の母は日野富子の妹だし。
747 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 04:50:25
日野家ってホントしぶといな。
義教からはあんなにウザがられたのに、結局義教の後継者の義勝・義政は母方が
日野家だし。義政・義視・義尚も正室が日野家。
でもさすがに義澄の将軍就任後は見る影がないね。
>>736 義勝・義政・義視の母日野重子は義教の正室ではないよ。
748 :
日本@名無史さん:2006/01/14(土) 22:32:40
てか堀越公方になったのはどうして政知なの?
嫡腹なら義視のほうがよくない?
だから嫡腹ではないと(ry
750 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:10:09
どっちも嫡腹でないなら、義勝の次は長幼の順で政知でよかったのでは?
751 :
日本@名無史さん:2006/01/15(日) 22:34:29
妾腹は妾腹なりに母親の家柄がモノを言うんだよ。
義教の正室と重子は姉妹だから、準・嫡腹ってところ?
753 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 07:57:17
義教の正室って日野家だっけ?
yes
義満、義持、義教、義政、義尚、義澄みーんな日野家が入ってます
755 :
日本@名無史さん:2006/01/17(火) 00:39:43
そうだったね。
義教はあんだけ日野家を嫌ってながら結局正室は日野家から迎えたんだね。
756 :
日本@名無史さん:2006/01/20(金) 06:42:18
義稙が日野家じゃないのは何故?
富子の後ろ盾で将軍になったようなもんなのに。
757 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 13:35:34
てか義稙って正室いるの?
実子はいないみたいだけど。
758 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 13:20:49
で、政知の生母ってどういう人?
759 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 21:33:00
母親が日野家の将軍は何人?
それは調べたが分からなかったのか?
調べる手がかりが欲しいのか?
他人に全部調べさせて自分はなにもしたくないのか、どれだ?
761 :
増厨:2006/02/01(水) 21:52:28
義稙の正室は大内の娘じゃなかった?
762 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 23:02:13
義栄も大内?
763 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:21:15
764 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 13:55:26
765 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 14:45:09
766 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 15:13:55
ネットでいくらでも調べられるだろカス
767 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 16:11:40
てめーらは下痢でも食ってろ!!!!!!!!!!!!!!!
教えたら負けかなと思ってる
769 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 00:00:52
770 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 00:04:19
>>769 風説流布はデマはネットの常識。
思いたった事を考えカキコするわけだし、世の中が2ちゃんねる通りにも動かない。
というかネットの情報信じられないならここで聞くなよ。
772 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 18:53:16
>>771 ここは日本史の専門家(院生・研究者)とかが結構見ているみたいだから試しに
聞いてみたんだよ。
まあ確かに論文を書くときには、ネットだけがソースの情報は使えないけどさ。
773 :
キム:2006/02/08(水) 01:08:52
『東山入道殿御息室町殿、去々年九月十二日、為治罰六角・・・』
これって後鑑の?
774 :
ぽい:2006/02/08(水) 01:09:24
『東山入道殿御息室町殿、去々年九月十二日、為治罰六角・・・』
これって後鑑の?
775 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 01:01:41
776 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 22:59:29
義尚の六角征伐の話っぽいが?
777 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 23:11:28
大内は将軍のパシリにされすぎ
しゃーねーべ、パシリにされてアヘアヘ喜んでるマゾ大名なんだから
780 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:50:13
六角もいい勝負だと思う。
781 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:01:52
義稙の室は阿波細川氏ではなかったかな。
782 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:03:26
>>728 家永先生は、まさもとの母は持豊女って言うてはる。
783 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:05:17
>>743 家永先生は、まさともは義政と同い年って言うてはる。
ところで義視は義政の同母弟ですか?
784 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 02:20:14
家永ってw
786 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 01:25:04
787 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 01:45:32
なんでみんなは乱ちゃんのことばっかり書くの?
ミキちゃんとかスーちゃんのことはなんで書かないの?
788 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 02:40:32
つまんねえぞおっさん
家永先生が言うてはったら真実なんか…
典拠が無いと真偽が判明せんわけだが
790 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 12:14:43
根拠なしに主張されているとは考えにくいから。
おまいは民主党かいw
いくら偉い先生でも知らんことは適当に書くこともある
とにかく典拠がないことには話にならん。
792 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 22:11:33
家永先生って2人いるよ。
793 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 19:42:45
>>787 乱ってのはなんだか分からないが、あとの2つは安藤と村主か?
>>793 完全に板違いだが、
>>787のオッサンが若者をとまどわせているので解説しよう。
「キャンディーズ」っていう女性3人組のアイドル・グループがいたんだよ。
そのうちの一人が伊藤蘭。
彼女らの最盛期は1970年代後半〜1980年代始めころだったかな。
795 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 01:23:57
>>794 キャンディーズっていうグループ名は知ってたけど、メンバーの個人名までは
知らなかったです。(当方20代半ば)
因みにミキとスーってのは誰なんですか?
安藤美姫とビビアン・スーです。
797 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 16:40:11
>>794 wikipedia見て、あとの2人が藤村美樹と田中好子というのは分かったが
田中好子は何故「スー」なの?
798 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 17:13:17
好の中国語読みがスーだから
799 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 01:44:06
なんでキャンデェズの話になってんだよw
三魔「わたしたち、普通の女の子に戻ります」
802 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 20:20:49
>>798 「好」のチャイ語読みは「ハオ」では?
「ニーハオ」とかいうじゃん。
803 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 00:33:40
>>801 おいおい、イマちゃんはともかく、アリちゃん、カラちゃんにそれは無理だと思ふぞ。
804 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 03:58:09
赤松有馬と日野烏丸だね。
805 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 03:58:42
806 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 01:53:02
807 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 14:33:35
伊藤蘭が広末と草薙のドラマに出てた。
パトラッシュ、疲れたろう。
僕も疲れたんだ…
,.-─-、
/ /_wゝ-∠l
ヾ___ノ,. - >
/|/(ヽY__ノミ
.{ rイ ノ
何だかとても眠いんぶべら
パーン l>‐∠l
,.-─-、∩/,. - >
//。wv、ゝヾヽY__ノミ
ヾ__Д(☆ ミ⊃ ヽ
/∨ (ヽ
809 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 17:16:14
藤村美樹って最近テレビに出てる?
810 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 21:38:23
ここだけ室町時代スレがなくなっちゃったんですが・・・。
まだあったよ
812 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 01:12:13
復活したんだよ。
813 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 12:23:56
「大日本史料」は政元の母山名氏って書いてるね。
山名が後南朝をひっぱりこめたのは、後南朝は神器強奪の件で反赤松になっていたただろうから、敵の敵は味方ということだろうか。
815 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 07:26:58
将軍も皇胤も殺して、ヒドいね赤松。他の村上源氏(北畠・名和・千種・中院 等)と大違い。
やぱ系図詐称か?
子孫は旗本かな?
>>815 子孫は旗本多数。
一族の有馬は久留米21万石の大名。
818 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 23:40:39
819 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 23:41:33
820 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 23:47:40
>>817 競馬の有馬記念で有名な有馬頼寧伯爵(第1次近衛内閣の農相でもある)はその子孫だね。
でもって国民新党の亀井久興氏の母方の祖父でもある。
821 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 00:50:51
小寺は確か黒田家の家臣になったはず。
822 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 20:15:30
家臣じゃなくてあくまで客将扱いだろ。
823 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 23:28:27
女に応仁の乱の話ばかりしたら電話に出なくなった。
時々薬子の変の話でも挟めばよかったかな?
825 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 20:08:25
相手によるだろ。そんなの。
どんなに面白い話でも興味がない奴にとっては苦痛なだけ。
826 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 20:55:52
827 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 21:02:13
斉藤妙椿て小説に取り上げられてもいいのに影薄いね。
有馬伯爵の子息、有馬頼義氏は有名な「兵隊やくざ」シリーズ(勝新太郎氏酒宴。違った、主煙だ。おっとっと、主演)
の原作、「兵隊やくざ」「続兵隊やくざ」を書かれマスター。
829 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 16:27:43
畠山政長は廃嫡されたくせにしつこいねん
831 :
公方:2006/05/07(日) 01:01:08
守護職どもの力を削ごうと御家騒動等画策したら、幕府そのものが弱体化しちまったい
〇Ooo (-o-;)
後から考えてみたら、あいつらの殆んどは族臣だから、あいつら滅んだら本家のオイラが困るつ〜の!
832 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 12:04:29
上司にしたい歴史上の英雄 第1位は足利義政に決定いたしました。 オメデトウ!!!
833 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 23:33:21
834 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 00:38:41
ふーmm
835 :
定ちゃん ◆zBqvONP/YE :2006/06/18(日) 18:49:18
ジーモン【^∇^】ジョーカーさん。体調いかが?でちか?
836 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:54:25
応仁の乱を大河ドラマにしろ!
義就を主人公にしてな
837 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 22:10:21
>>836 タイトルは「応仁大乱〜この前の戦争〜」
838 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 02:23:56
839 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 13:54:14
続編はドキュメンタリー風で「慶長伏見地震〜この前の震災〜」
840 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 21:54:32
京都の人って本当にこの前って感覚なの?
慶長伏見地震はほんとに「この前」の大地震だったんじゃないかな。
「応仁の乱」がこの前の戦争というのは嘘。その後何回も市街戦があった。
市街が広範に焼けた「この前の戦争」は蛤御門の変。なお、第2次大戦の空
襲はあったことはあったがごくわずか。
842 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 01:11:53
江戸時代の寛文年間にも京都で被害が出た地震があったような。
843 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 16:34:18
阪神大震災は?
京都一応震度5だったけど。
>>843 慶長伏見に比べればかなり小規模(京都ではね)。
845 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 21:47:17
阪神のときの京都では震度5強?それとも震度5弱?
元々関西は体感地震が少ない
847 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 21:06:43
>>846 だから関西で大地震は絶対にないというような変な神話が生まれたの?
関西人が関東に来ると、地震にみんなが驚かないことに驚くそうだ
ねんねんねもこちぃ〜 zzzZZ ・・・
〃
( ´・π・)
c(,_U_U /////////////////
850 :
日本@名無史さん:2006/08/09(水) 13:01:28
なに?
851 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 21:46:39
age
定はキモAA貼るなって世界史板でも注意されたばっかりだろ。氏ね。
|;;;;;;;;;;;;:;;;;;;;;;;;;; | )
〔i_二八二二二i〕 ) 誰ぞ、ネタを投入してくれぬか!!!
{ r' ⌒-、ノ ,r‐l| ) (※応仁の前世代の話だけど、よければネタ提供してくださいな)
,-l l ‐=・=´;;l;;;;;;ト, ノ_
ヽl l ', ,_ ! ,'ノノ ⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒
ハ. l r'"__゙,,` l|
. / lヽ ノ ´'ー'´,ハ___ , -‐ 'フ ̄ヽ
_,<´ l ヽ,,,,二,,,/ トへ / / | 足利義教と共に苦難を乗り越えてゆくスレB
, --,.─ヶ┴‐,‐‐--‐'´ / /_ノ |
ttp://p2.chbox.jp/read.php?host=academy4.2ch.net&bbs=history&key=1154227935&ls=all / フ´ /彡'´ /
/ / \ 、 /
// \ー--=―┬‐' ビシッ!
| 丶 \/ ,| |
6代将軍・足利 義教
854 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 09:02:03
天下統一か戦国史で応仁の乱シナリオ作ってけろー
両軍共に京都へ結集していた応仁の乱は、
天下統一のシステムではゲーム化できんだろ。
京都だけ城の数を激増させたら対処できるかな?
856 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 20:23:20
天下統一だけでなく「現存する全ての趣味レーションゲームで実現不可能」でしょ。
でも、応仁の世界観・システムの完全再現なんてもともと望んでないし、
それこそ実現不可能な難問なんだから別に天下統一で十分。
というか、今ある選択肢の中ではベストでしょ。
京都終結できなくても細川、山名、斯波、土岐なんて戦国ゲーではマイナー大名をいじれるだけでも
ゲーとしての価値はある。正直信玄とか信長とかは食傷気味。
応仁の乱について書かれた小説ってなあい?
大河「花の乱」のころ、小説も出てた希ガス
860 :
日本@名無史さん:2006/10/23(月) 17:47:26
>>858 日野富子を書いた小説は結構あるが合戦がないとダメってんならお勧めしかねるわ。
862 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 03:17:36
>>858 大日本史料の第8編を頭から読んでいくのはどう?
864 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 06:19:23
37:定ちゃん◆u/PWq663t2 11/18(土) 06:14 [ 【^∇^】 ]
ジーモン【^∇^】ジョーカーさん ..
もう、2chを見て居られないのでしょうか?
日本史板で、初めて定ちゃんにレスしてくれた
ジーモン【^∇^】ジョーカーさん
定ちゃんのトレードマークのAAをいつも可愛いと言ってくださった
ジーモン【^∇^】ジョーカーさん
もう、2chを見て居られないのでしょうか?
〃
(*´・π・)
( つ )) つ )) 【^∇^】
865 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 10:59:03
>>816 具体的なことは
>>813じゃないから判らないけど、『大日本史料』の書き方的に、
その人物の系譜関係や出生以来の経歴はその人物が死んだ日のところに一緒に
まとめて載せていることが多い。
866 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 04:29:41
>>858 どうせ読むなら、概説書か研究論文を読めよ。
867 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 02:54:25
>>861 でも日野富子に焦点を当てる奴って大半はフェミニストだよな。
かつて悪女とされていたがゆえの反動でもあるわけだが、フェミニストの
人達って、日野富子を持ち上げる一方でその仇役である今参局を悪と決めつける
傾向があるらしい。
そしてさらに今参局=悪という図式から、乳母制度そのものが悪という発想に
飛躍する。
868 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 08:19:20
応仁の乱の主役は誰になるの?
大内政弘
後土御門院
\ ||ー――-、,,__,,,,――|l/
/:/l::|:::::::‐=・=ヾ' ;;''=・=‐.ll . _,,;-‐''"~
⌒‐-,,,,_ /:/ヽl|:::::::::::'´ | ::::::::::llリ/ヽ
ヽ/ ヽ. l|:::::::, ' ! :::,'l||:::::::::::::ヽ
く:::::::::` |:::''´ _,,, 'ー、r' ::::,'||::::::::::::::::::ヽ 6代将軍・足利 義教
ヽ:::::::::|::::::::l´ャ―-―ァ'l::,l,___/..
ト、::l ` ̄ ̄ .l,l. /\
,,| ヽ|:::::::::::: ̄:::::|/,,,,__ /,、 ./\
 ̄ ̄天 ̄天 ̄| ,、ニttttttttttttt'::::::ヽ、 /.、 .ゝ,/:::::::::::
zzz,、-ヾヽ┴(~ヾ, ''''' , ></ ゝ,ノ/::::::::::::::/
,,」 ヾヽ |l:l:|::ヽ、__,,,、r'" //( ) /::::::::::::::::/::::::
仇敵。鎌倉公方・持氏の乱、関東擾乱(結城合戦)も終結
幼き持氏遺児達も抹殺・・・
彼を阻む敵はほぼ無くなり、一体どこへ向かうのか・・・義教の運命は?
「足利義教と共に苦難を乗り越えるスレ(ディレクターズカット版)」
http://asikagayosinori.web.fc2.com/index.html お暇なら見てみて下さいませ m(_ _)m
宣伝すまなかったです。。。
872 :
日本@名無史さん:2007/03/18(日) 17:06:34
なんやそれ
873 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 23:40:38
、___________
、> .|
>________ .|
 ̄ .|./_ _\ | | ____________
| / ヽ/ ヽ | | /
. | | ・ | ・ | V⌒i | 義政のくせに
_ |.\ 人__ノ 6 | <
\ ̄ ○ / | なまいきだぞ
. \ 厂 \
/ _____/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄, -/へ/\/`- 、
/./ ./o i. \
骨皮道賢
畠山義就
876 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 10:23:43 BE:1596826188-2BP(0)
大河ドラマ『花の乱』で、犬追物など武家らしい風習を好む義尚を義政が「私の
父である義教は武に偏重しすぎた為に身を滅ぼした。その轍を踏むな」という主
旨の言葉で諭していた。しかし自分の身を振り返れと言いたくなったなあ。
細川勝元
878 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 18:59:56
義教死亡時6歳の義政がいっても説得力ナシだな。
しかしドラマ上はそれが近江の陣中で義尚が没する伏線だったとか?
義政が政治関係で何を言っても恐ろしく説得力がない
____ ) 『 光の速さでケツからうんこ出したらどうなるの?』っと、
/⌒ ⌒\ )
/( ●) (●) \ )/⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y丶
/ ::::::⌒(__人__)⌒::::: \
| |r┬-| |
\ `ー'´ /
ノ \
/´ ヽ カ
| l l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l カ タ
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、. タ
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
┌┬┬┐┌┬┬┬┐┌┬┬┬┐┌┬┬┬┐
,. - ''"| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ρ ̄`l
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ノ ̄ ̄
____
/::::::─三三─\ リアルな話すると多分お前の住んでる街が消し飛ぶ
/:::::::: ( ○)三(○)\ 光速でウンコほどの質量(約200〜300グラム)
|::::::::::::::::::::(__人__):::: | ________ の物体が動いたら想像を絶する衝撃波が発生する
\::::::::: |r┬-| ,/ .| | | ましてそれが地表と激突したら地球がヤバイ
ノ:::::::: `ー'´ \ | | | ウンコで地球がヤバイ
882 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 21:18:35
>>845 阪神淡路のときは、彦根も5(でもたぶん5弱)だったから、
それより遙かに震源に近い京都は5強だと思う。
日野勝光
____
/__.))ノヽ
.|ミ.l _ ._ i.)
(^'ミ/.´・ .〈・ リ 日野勝光はわしが育てた
.しi r、_) |
| `ニニ' /
ノ `ー―i
>882
震源周辺から直接的に揺れを伝達する「断層面」が、
阪神間から京都を経て湖西地方まで伸びてたらしく、断層周辺の限られた地区では京都でも6弱だったような気もする。
>876
もともと、義政時代前期には、「将軍専制」型の支配機構で動いていた。
実際に働いてたのは主に将軍側近だったんだろうけどな。
それが、クーデタによって側近衆が一網打尽にされ、
守護大名らが幕政を動かすようになった。
この時点で義政の実権はほとんど消失したと思う。
そういう状況に対する不満、抵抗が応仁の乱へと発展したんだろう、多分。
三ま→伊勢守・蔭涼軒→勝元→富子→義材→政元
義政出番ナスww
888 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:42:06
>>885 向日市や長岡京市のあたりは、死者も出たし6弱あったかもらしいと聞くが、
京都市内ではどうなのだろう?
889 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 16:04:35
西軍で裏切ったのって誰だっけ?朝倉なんとかだっけ?
890 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 16:34:48
日野富子と足利義尚
>>889 山名一族の山名持豊とかいう香具師が義視側に寝返ったらしい。
892 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 09:34:17
今や電車の中で朝日を読んでると馬鹿にされる時代だからな。他の新聞なら大丈夫なのに。
(゚д゚)
894 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 01:42:08
895 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 02:59:01
山名是豊は最初から東軍だったんだっけ?
山名持豊という香具師はなんで東軍に寝返ったの?
空があんまり青かったから
よるなのに
ぼくがみるのは
○○い○○
899 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:32:59
>>896 持豊は最初から最後まで西軍。
そもそも応仁の乱における「西軍」とは、「持豊方」を指すというのが根本的な
定義であるので、持豊が属しているほうが常に西軍。
ただ西軍が擁している将軍親族が途中で義尚から義視に替わっただけ。
900 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 23:52:25
北条早雲はどっち方?
901 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 15:21:31
>>900 北条早雲の姉が東軍今川義忠の正室じゃなかったか?
もっとも応仁の乱勃発時早雲は幼かったとみられているが
902 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 00:57:07
従来は妹で側室だとされていたけど、最近では姉で正室だという説が有力だったはず。
904 :
日本@名無史さん:2008/01/18(金) 20:31:28
もともと同時代に近い史料では例外なく「姉」になっていたが、後世に作られた
早雲享年88歳説に引きずられて、「姉」だと年齢的に合わないことから、
「妹」されるようになった。
近年では早雲の享年は64歳説が主流になってきたので、それにともなって
「姉」説も見直されてきた。
なお側室説も今ではほぼ否定されており、北川殿は義忠の正室と見られている。
905 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 03:26:10
>>905 学会は知らんけど、世間一般では
早雲=素浪人、妹で側室、88歳没と思われてるんじゃね?
907 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 10:45:13
>>906 世間一般ではそんなに細かいことを正確に覚えている人はあまりいません。
908 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 14:27:40
北条早雲と斉藤道三は徒手空拳で成り上がった下克上の典型と思われてる。
909 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 14:33:24
あほ。金とコネだよ。
910 :
愚劣者B:2008/01/21(月) 07:19:12
ところで、当初は「足利義政、義尚、日野富子、山名持豊」対「足利義視、細川勝元」だったのが、乱の中で「足利義視、山名持豊」対「足利義政、義尚、日野富子、細川勝元」に構図がかわったというのは本当か?
911 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 09:38:20
構図が変わったのは本当。
でも足利義政と足利義視は担がれていただけの御輿。
義尚、日野富子はそれに引きずられているだけ。
それを一方がどちらか担げば、もう一方は別の方を担ぐ。
山名一派と細川一派が戦っているという構図は同じ。
将軍後継者争いは名目だけだというのが分かる。
912 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 09:14:21
913 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 10:20:41
>>906 早雲が88歳没だったとすれば、応仁の乱の頃は成人していい年。
妹が今川義忠に嫁いでいるのならば、応仁の乱で何らかの協力をしただろうね。
そんな史料が出てこないのは、早雲が義忠室の弟で幼なかったからだろう。
914 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 10:57:26
足利義政がさっさとどちらかに将軍を譲ってしまえば
応仁の乱は長引かなかっただろう
やる気も無いのにだらだらと将軍を続け
やっと隠居したかと思えば
妻の日野富子と対立して逃げ回っているし
915 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 11:31:58
京都大学の足利建亮教授ら複数執筆のビジュアル本では
京都の戦火は京都全域が焦土となったということではなく
上京の要衝がピンポイントで焼けたに過ぎないと言っている。
上京と比較すると下京の被害は比較的少なかった。
公家の相次ぐ地方脱出や諸国の政情が激変するのを横目で見ながらも
課された戦役を全うせずに武将たちが陣を畳んで帰郷できなかったのは
やはり自分たちが戦い続けなければ領国経営の上での歳入の確保が難しいという
悪循環が彼らを束縛したのではないだろうか?とにかく論功行賞にあずかりたかったのだろう。
916 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 12:12:06
戦争なんぞせんけりゃ、ゼニも掛からんがな。
917 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 08:31:40
将軍の命で始まった戦争でもないのに、論功行賞も何もないだろ。
918 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 17:30:31
東軍に牙旗を賜ったとあるから名目上は東軍は将軍の命で闘っていたんでしょ
919 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 18:54:27
誰か細川さんちの刀の名前とか知らない?
細川と山名の派閥抗争に翻弄されてキレた義政が、
おまえらの争いにオレを巻き込むな、勝手に戦って勝負つけろ、みたいなこと言って投げ出しただけだよな?
ま、かつては手足と頼んでた側近連中全員、細川と山名らに追放されて、
派閥抗争に発展する前からぶち切れてたんだろうけど。
ところで、乱の頃の東軍・西軍の色分けで、
南北朝末期の枠組みに似た組み合わせが見える気がするんだけど。
西軍の代表格である、山名も大内も斯波も、けっこう末期まで南軍だったし。
畠山は忘れた。
921 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 11:36:25
79
922 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 11:37:23
78
923 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 11:37:47
77
924 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 11:38:19
76
925 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 19:13:18
応仁の乱は敵味方が入り乱れて混乱するが、観応の擾乱もかなり複雑な構図だ。
926 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 22:46:54
世界史に例えると百年戦争?
927 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 02:47:01
薔薇戦争
928 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 13:29:54
「東軍」・「西軍」って呼称は、戦っていた当人たちも使用していたものなのでしょうか。
929 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 15:51:35
各々の当事者はみずからを幕府方、相手を幕敵方と見たろう
930 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 15:56:03
>>928 当時からそういう呼称はあった
京都の西陣織などで有名な地名「西陣」は
山名氏率いる西軍が陣を置いていたことの名残
931 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 18:07:06
戦っていた当人たちに東軍西軍の意識があったかどうかを聞いてるんだよ
932 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 20:32:07
乱後に、参加した当事者たちが、応仁の乱について語り合う時も、幕府方って呼称だとややこしいな。
933 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 02:09:34
>>713 まだ見てるかな?後を引き継ぎたい!
色々ぐぐってみたところ、ウィキ情報(他、信頼度未知数のネット情報)だけど、勝元が結婚したのは1447年で、勝元正室死去は1497年だそう。
その辺の史料をあたってみたいと思うんだけど、『嘉吉記』、『応仁後記』、『後鑑』、『釈経歌詠全集』(勝元の和歌が載ってるらしい)、『霊蘭集』(役には立たなさそうだが勝元の医学書?)、などなど。
他に、これは読んどけ、というものはある?あと、当時の貴族の日記とかがあれば知りたい。
934 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 02:10:58
続きです。長くてごめん。
東寺執行日記というのが分からないんだが、『東寺執行日記』として本になってる?
或いは、幕末でいう『孝明天皇紀』の中の「中山忠能日記」、みたいな感じ?
赤松に嫁いだ娘とかも、赤松家側の史料があれば読みたいんだけど、たとえば、小早川家にとっての『小早川家文書』みたいな編纂されているものってないのかな?山名家側からも読み解きたいのだが。
あと、勝元の詠んだ歌(風流人だったって割りにはあまり歌とか知られてないし)が載っている歌集など、上記の他に分かればぜひ教えてください。
935 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 22:24:33
はげ
936 :
706:2008/06/01(日) 19:30:03
一応、まだ読んでますよ。
東寺執行日記はまとまって刊行されてないんじゃないかな。たしか大日本史料で見た気がする。
当時の日記だと「親長卿記」が一番かな。あとはこの時代をカバーしてるのは
「実隆公記」「宣胤卿記」「言国卿記」「御湯殿の上の日記」あたり
武家だと「蜷川親元日記」
あとは寺社絡みの「大乗院寺社雑事記」「多門院日記」…
937 :
日本@名無史さん:2008/06/01(日) 22:22:35
ありがとう。
やっぱり手がかりを掴むのは難しいね。
のんびり調べていくよ。
938 :
日本@名無史さん:2008/06/02(月) 12:53:43
応仁の乱は、はじめ細川勝元、畠山政長、欺波義廉が足利義視を担ぎ、山名宗全、畠山義就、欺波義敏、日野富子が足利義勝を担いでいたが、逆になりますた
939 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 04:42:42
義政が悪い
こりゃまたどう間違ったら「欺波」なんてw
大体義敏が持豊と同じ陣営だったことなんてないでしょ。
義廉は持豊の女婿なんだし。
しかも「足利義勝を担いでいた」ってあんた。。
釣られた私が阿呆なのだという非難を恐れず敢えて突っ込んでみる。
941 :
日本@名無史さん:2008/06/12(木) 10:01:49
義尚は本当に義政の子供なのか?
両畠山は武将としてはそれなりに有能だよな
管領になったり落ち武者になったりジェットコースター人生
山名宗全の娘が細川勝元の嫡子を生んでいれば乱はおこらなかったのかな?
無理じゃね。
肉親でも激しく争ってただろうという感じがする。
どの大名とどの大名が同盟して、どの大名と戦う---
という枠組みは、ある程度の紆余曲折があるにもかかわらず、
南北朝期・観応擾乱期に類似の枠組みへと移っていった。
細川・京極・赤松らのグループと山名・大内らのグループに分裂する傾向は、
むしろ「基礎構造]とさえ言えるんじゃあるまいか?
943 :
日本@名無史さん:2008/06/13(金) 10:08:15
大内VS細川・・・堺と博多の貿易利権
山名VS赤松・・・播磨周辺の守護争い
944 :
706:2008/06/14(土) 07:57:26
吉川弘文館から新刊が出るね。
戦争の日本史、か?
注目度の高い戦国と応仁の乱あたり、一部分を残して刊行中断してたのが、
数ヶ月ぶりに再開するんだっけ。
今月からだったか?
946 :
706:2008/06/15(日) 10:28:49
そう、それ。で今月が応仁。
斯波って、足利幕府筆頭格名柄なのに
細川頼之を追い出した義将と親父・高経の頃が絶頂期か。
応仁の頃には正統断絶したんだよな。。。
細川京兆はなんだかんだで勝ち残ってるよな〜
義教の時代が最大の危機だった?義教が死ななければ・・・
してねーよ。
いや、してた、すまん。
応仁より、だいぶ前だぞ。
嫡流が絶えたあとに、一門衆(分家たち)筆頭から養子入りした子供が、
応仁の頃にはオヤジになってるんだから。
義敏の父親は、親類衆/一門衆の筆頭として、家老格(ってか、二番家老ぐらい?)に位置していた。
949 :
日本@名無史さん:2008/06/19(木) 15:37:00
知れば知るほどわけわかめになってくる戦いだ
>950
各地でくすぶり続けていた、諸々の派閥争いや相続争いの火種に、
義政が油を注いで回った結果として、全国レベルで燃え盛ったって感じじゃね。
義政の心づもりとしては、気に入らない側を叩きつぶして、気に入った側を残したかったんだろうけど、
それぞれ、いずれもが、他の争いと相互乗り入れして連結したから、
火事が巨大化したんだ。
ま。クーデタで手足(主要な側近連中)を失った義政には、
油を注ぐより他に手段がなかったのかもしれんけどな。
いちばん邪魔だったであろう、宗前と勝元を排除できないのが悔しかっただろうとは思うよ。
二人とも、病死だったもんな。
勝元が山名側の各領地から上京してくる兵たちを少なくするために各地に隠密(みたいな?)を放って地元で争いを起こさせた、って説もあるみたいだね。
隠密はともかくとして、
各地の西軍大名に対しては、
一族の有力者(支流)のうちで、不満を持ってそうなヤツをけしかけて
東軍に味方したら守護に任命したると甘言を弄したり、
ツテがある場合は、領内の有力そうな在地領主を誘ったりして、
頻繁に叛乱誘致を推し進めたのは確実だな。
基本的には手紙を送る形だったと思うんだが。
954 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 02:58:28
ありがとう。へぇー。参考になった。
勝元って策士だと言われるが、あまり具体例が知られてないし、私も知らなかったんだけど、そういうところが策士たるゆえんなのかな。
一方の宗全もかなりやり手だよね。養女をあちこちの家(細川・六角・斯波とか)に送り込んだり。
日野富子、勝元の娘、後の今川義元の母とかの例を考えれば、女性も発言力が強かった時代だろうし、さらに後の、夫に殉じたお市の方などとは全く違う感じがする。
この時代の政略結婚は人質とか、娘を利用して摂政になる、みたいな摂関政治というより、婚家操縦(あ、お市は人質というよりこの感じか?)、に近いものがあったのかな?なんて考えてみたりもする。
かなり的外れかな?
勝元による叛乱誘致政策が早期に結果を出したのは越前。
朝倉が、西軍方だった守護の斯波義廉を圧倒して、最終的には自分自身が守護となり、
「下克上第一号」とされるまでに至った。
応仁の乱が終わらない段階で下克上を成立させたのは、朝倉だけだったはずだ。
が、西軍方の守護は最終的に、下克上で消え去っていき、
戦国時代の中盤までには歴史の舞台から消え去っていった。
守護大名から戦国大名に転じた大名のうちで、戦国時代後半まで残ったのは東軍関係者だけだったはず。
あ、違った、六角氏とか、いたか。
総じて、下克上で消えた守護大名には西軍が多く、他の大名に負けて消えたのは東軍が多い気がするが、
東軍の細川や赤松が下克上で消えてるのとか、
西軍の武田や六角などが近隣大名に敗れて消えてるのとか、
例外ってレベルじゃなく多いから、単なる「傾向」って程度だな。
956 :
706:2008/06/30(月) 23:55:46
買ってきた。吉川弘文館のやつ。
パラパラとめくった限りでじっくりは読んでないが以下の記述があった。(262P)
勝元は以前に山名宗全の子豊久を養子にとり嫡子にしていたが文正の政変によって豊久を廃嫡して
出家させた後、細川家庶流伊予宇摩郡分郡守護家である「野州家」細川教春の息子勝之を嫡子に
迎えていた。ところが文正元年十二月二十日に勝元の妻である山名宗全の養女に聡明九郎(政元)
が誕生した。このため勝之に代えて政元を嫡子にすることが和睦条件となった云々
一応、この段落の参照に大乗院寺社雑事記と寛政重修諸家譜が挙げられてる。
大乗院の方は見てないが、寛政諸家譜の方は前に見たんだがそんなこと書いてあったかなぁ…
今週末にでも改めて図書館で調べてきますわ
957 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 08:44:40
寛政重修〜には書いてない、でFA。もう一つの方は分からない。
ついでに『応仁記』だと、勝之は応仁の乱の最中に戦死するんだよね。
仮に、これが本当だとすると、政元以外に後継ぎはいなくなったわけだから政元が家を継がざるをえない状況だったわけで。
まあ、『応仁記』はあくまで物語であって、『平家物語』みたいなものなのかな。
958 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 09:00:36
あと、気になるのが、もう少し後の時代だと、お市の方、黄梅院(武田信玄娘)、千姫とか、実家と婚家の関係が破綻すると少なくとも自分は実家に帰ってる。
例外ってけっこうあるの?あ、武田勝頼正室は帰ってないか。それ位しか分からん。
婚家に残る例がさほど多くなければ、宗全養女が政元の母だったから、という(あくまで)推測が成り立ちそうな気もするが…。
ま、黄梅院は子供は婚家に残したけど…。
959 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 09:21:14
もう一つついでに。
もう1つついでに。
前に、勝元の結婚は1447年と書いたんだけど、どうやら義政の将軍就任と同じ年、という意味で、という感じみたい。
実質的に将軍になったのは1444年、正式に就任したのが1447年だから、1444年説もあるみたいだね。
>>956 楽しみにしてるからね。 健闘を祈る。
960 :
706:2008/07/02(水) 07:53:13
しかしまあそもそも政元の生年月日をここまではっきり書いてあるのも初めて見た。
このあたりの大日本史料(あったっけか?)とか日記類を漁ってみる手もありそうな…
いずれにしろ平日は何もできませんorz
>>948 斯波持種だね。
義教の時代に大覚寺義昭の大和騒乱鎮定に一軍として出兵してますね。
甲斐常治が筆頭家老格じゃなかった?
>961
そうそう、
筆頭の甲斐と、激しい派閥争いを繰り広げてたみたいだね。
だからこそ、義敏が甲斐常治と戦うことになったわけで。
持種にしてみれば、自分の子供を次期当主の座に据えれば
仇敵である甲斐をどうにかできるんじゃないかと、起死回生を狙ったんだろうけど。
963 :
706:2008/07/03(木) 09:57:40
例の本を読んでる最中ですが、勝元と山名養女の婚儀もはっきり
年月日が書いてありました。文安四年(1447)二月二十五日。
参照は建内記、看聞日記。
そういえば昔は看聞御記って言うてた気がするが、最近は日記
と呼ぶのが流行りなんだろうか。後崇光院は天皇じゃないから?
どうでもいいが、この本、振り仮名がひどすぎるな。
編集が糞なんだろうか…こんなんなら振らなきゃいいのに。
後花園天皇の父親である後崇光院の日記だから、
皇族(準・上皇)への敬意を表して、看聞御記と言ってたんだろう。
現在は、個人に対する尊敬語は原則として使用しないって理由でもあるのか、
たとえ天皇や上皇の著作物であっても、「御」を付けないのが原則になってるから、
その流れから、看聞日記と呼ぶようになったんだろう。と思うよ。
965 :
706:2008/07/05(土) 18:19:50
んーまあしかし続群書類従とかには「看聞御記」で収録されてるわけで
本読んで興味持った人が自分で原本調べようと(そんな酔狂な人はそんなにいないかもしれないが)
図書館とかで検索しても「看聞日記」では引っかからなかったりするから
最近の人が勝手に名前を変えちまうのもどうかと思いまして…
966 :
706:2008/07/07(月) 01:15:29
土日2日間潰して図書館でいろいろ調べてきますた。
で結論から言うと…結局よく分からん。
分からん…が、個人的にはやはり政元の母は山名の養女ではないように思う。
一応当たってみた史料・資料は
尊卑分脈、寛政重修諸家譜、後鑑、大日本史料
多聞院日記、蜷川親元日記、斎藤親基日記、御湯殿の上の日記、大乗院寺社雑事記、
言国卿記、十輪院内府記、蔭涼軒日録、後法興院記、碧山日録、親長卿記、
応仁記、応仁別記、応仁略記、細川勝元記
室町幕府守護職家事典、細川勝元と山名宗全、戦争の日本史 応仁文明の乱
あたり。
親元日記とか活字本じゃなくて影印本でびびったw
まあ脱漏記事が多くて結局あんま役に立たなかったんだが。
他にも「ちょうど知りたい時期が抜けてる」って史料が多いね
967 :
706:2008/07/07(月) 01:16:32
では一つ一ついきましょう。
まず勝元と山名養女の結婚は
>>959>>963の通り
文安四年(1447)二月二十五日。『建内記』同日条に
「細川右京大夫勝元<當管/領也>有嫁娶事、是以山名右衛門督入道持豐朝臣<法名宗峯>
猶子<山名故中務大輔熈貴女>、可爲彼妻室之由、山名年來望之、今日終有此儀云々」
とあるので間違いないでしょう。<>内は割注。以下同じ。
次。
>>933に勝元正室の死が1497(明応6)とありますが、実際には正室かどうかは分からない
ものの、政元の母は確かにこの年に亡くなってます。
『親長卿記』明応六年六月廿一日条 「細川政元母卒去」。
『忠冨王記』明応六年六月三十日条 「細川右京兆母死去」。
『大乗院寺社雑事記』明応六年七月二日条 「細川母今日葬礼云々、去月十九日入滅」。
『後法興院記』明応六年六月廿日条 「晩頭京兆母堂死去云々」。
と、すべて「細川政元の母」という表現になっています。
968 :
706:2008/07/07(月) 01:17:53
さて、
>>713の赤松家に嫁いだ政元の姉妹(洞松院)ですが、ほぼ姉で間違いなさそう。
『大乗院寺社雑事記』明応二年三月十五日条
「去十一日細川姉東松院<三十一>毘丘尼也、赤松之女房ニ成之云々、可遣之支度云々…」。
『後法興院記』明応二年三月十六日条
「世上之儀、種々有雜説、細河京兆姉<別腹>比丘尼(左傍:トウセウ院)<年三十三/云々>
近日赤松兵部少輔妻ニ相定云々、京兆依為所縁弥有物云」
1493年の時点で政元は28なので、31にしろ33にしろ姉ということに。
しかも「別腹」とあるのが注目。政元とはどうやら母が違うらしい。
んで、
>>956にはっきり書いてあった政元の誕生日(文正元年(1466)十二月二十日)ですが
上掲史料の当該日条を見ても全く載ってません。
『大乗院〜』には山門と京極入道が合戦に及んだとか書いてあるし。
しかもこの日は『斎藤親基日記』『後法興院記』によれば細川邸から出火して鹿苑院の塔婆
までが焼ける火事が起きているので本当にこの日に政元が生まれたのかどうか…
(産所が細川邸ではなかった可能性も高いけど)。
969 :
706:2008/07/07(月) 01:19:35
ここまでのをいったん整理すると
1447 勝元が山名養女を正室とする
1461?勝元の側室が洞松院を産む
1466 政元誕生、山名豊久出家
となり、もし政元が正室の所産だとすると結婚20年目まで子がないのに
ようやく生まれたということになり不自然ではある。
ここでキーとなるのが、勝元の養子について。
>>956にあるように山名豊久と細川勝之が勝元の養子だったのは間違いなさそうだが
文正の政変の影響やら、和睦の条件に絡むなどは史料からは全く確認できなかった。
まず豊久。
『寛政重修諸家譜』山名
「豊久 或豊氏 七郎
細川右京大夫勝元が養子となる。後勝元男子を儲くるにより豊久をして僧となす。
持豊これを憤り還俗せしむ。」
となっており、文正の政変とは関係なく、政元の誕生によって出家させた模様。
一方の勝之。これが問題でして…
970 :
706:2008/07/07(月) 01:21:17
『尊卑分脈』細川氏
「勝之<六郎/教春ノ長子>
勝元朝臣猶子、文明五六出家、廿六歳、法名宗林、為大徳寺長老、着紫衣」
応仁の乱の和睦条件とやらの話は確認できないが、文明5年6月に出家で26歳とあるから1447年生。
和睦は翌6年の4月3日なのであり得ない話ではないが、むしろ勝元死去(文明5年5月11日)
直後、聡明丸(政元)相続に伴って不要になったからじゃないかとも思える。
ただ
>>695にある和睦の後ではなく、出家は和睦より前の模様(和睦には細川方の代表として
政元と母は出席しているが、勝之は出ていないので)。
いつから養子になったのかも不明。これ以前で養子になってたと思われる記述は
>>957の『応仁記』にある応仁元年十月三日のいわゆる相国寺合戦で「六郎」が登場する。
が、957でも言ってるように軍記物でイマイチ信用できん上に死んだことになってるのでこれは無理。
しかしその4年後の文明四年(1471)には養子(正確には猶子=相続を前提としない養子)に
なっているのは間違いなさげです。
『大乗院寺社雑事記』三月十六日条
「細川養子<野州/息>遁世入道云々、不知子細、就中細川勝元隠居云々、出家歟、
天下無為計略ニ有子細處、且如何、但諸事、近日事ハ風説也」
この頃、山名・細川両雄は密かに和睦を進めようとしていたものの主戦派の反対
でままならぬ事態だったようで変なこともいろいろ起きています。
やはり『大乗院〜』の同五月十四日条によれば、細川父子がともに本鳥(髻)を切るわ、
山名入道が切腹を図るわ「比興管領」「天満所行以ての外也」と書きたい放題ですが。
ここに出てくる細川の「子」ってのは、本鳥を切ってるくらいなので
元服前の政元ではなく、勝之の方でしょう。
『尊卑』で出家したという文明五年の『大乗院〜』七月十五日条では
「細川猶子六郎遁世必定、赤松并畠山兩人可被追御陣由、雜説、中々無是非云々」
とあります。
971 :
706:2008/07/07(月) 01:38:56
連続投稿に引っかかった……話はまだ終わらなかったりします。
文明十二年(1479)十二月三日、細川家守護国の丹波の被官、一宮宮内大輔が
守護代の内藤元貞と対立し、当時14歳の政元を無理矢理拉致して丹波に連れ去る事件が
発生。
以後政元は約100日間も監禁されてしまいました。
その間、京都の細川家では万一のことも考えてすでに出家していた六郎を還俗させて当
主に
しようと画策した模様。以下『大乗院〜』
文明十一年十二月十日条
「四日細川九郎、一宮宮内大夫取之下向丹波了。是去年一宮党二人其外人済々、
為内藤之沙汰切腹了。其訴訟云々。随而細川六郎可取立之由及其沙汰、一家引分了」
文明十一年十二月十七日条
「細川九郎ハ六里奥へ引入、一宮以下与力衆済々在之、京都ニハ安富内藤以下六郎を
引立、成細川了。上意又成下候歟。一家二ニ成条必定々々」
文明十二年二月四日条
「細川事一宮責之、一門各同心。九郎定而可生涯条不能左右、野州息六郎可還俗分一決
旨、
河内辺之沙汰也云々。則丹州辺煙見之云々」
ちなみにここに出てくる「六郎」を『大乗院寺社雑事記索引』も『大日本史料』も
澄元と注していますが、澄元は1489年生であり、あり得ません。
ではこの「野州息六郎」は勝之のことなのか…? 文明5年出家時26歳ならこの時33歳
だが…?
972 :
706:2008/07/07(月) 01:40:15
さて『大乗院寺社雑事記』には「野州息」がまだ出てきます。
約10年後の延徳二年(1490)正月、政元は病気で一時危篤の噂まで出るほどに。
で、二月十二日条「細川可在國云々、隠居用、家徳下野守息之由申之云々如此雑説多之」
雑説と断りながらも下野守息に家督を譲るという噂が。
しかしこれはどうも勝之ではないようで同二月十九日条には
「細川九郎來廿四日可下國云々、野州民部少輔七歳息、可爲家徳之由一定、内者共悉以礼申之」
とあり、この時7歳。六郎澄元の方は前年生まれで2歳だからこれも違う。
ちなみに同二月廿一日条
「細川在國事ハ母儀色々申、仍延引、家得事ハ違例半ニ申付之、其後事ハ不及沙汰云々」
とあり、この件は沙汰やみになった模様。
下野守・民部少輔というのは勝之の父の教春以外には見あたらないのだがこの時7歳の息子はいない模様……所詮雑説は雑説なんだろうか。
973 :
706:2008/07/07(月) 01:41:14
『大乗院寺社雑事記』には他にも面白い雑説が載っている。
9代将軍義煕(義尚)は大酒がたたって長享3年(1489)に鈎の陣でおっ死ぬのだが
後継者の噂がいろいろ書いてあって、先代義政の子として義材・清晃という後の10・11
代将軍になる養子がいるにはいるのだが、その中の一説として
「一説者、細川之母儀ニ東山殿御息在之、則細川之弟也、同腹之若君在之云々」
(長享三年三月晦日条)
なんと義政の隠し子?として細川政元の同母弟がいると。
同じく四月八日条にも
「或細川之母儀ニ蜜通、東山殿御息在之、則細川之舎弟也」とある。
眉唾ではあるもののとにかくそういう噂があったと。
974 :
706:2008/07/07(月) 01:42:32
以上を整理すると
1447 勝元が山名養女を正室とする
1461?勝元の側室が洞松院を産む
1466 政元誕生、山名豊久出家
1467?この頃、勝之はすでに養子
1471 勝元・勝之、髻を切る
1472 勝元死去、政元継ぐ。勝之は出家。
1479 政元丹波に拉致、勝之?還俗計画
1489 政元に同母弟の噂
1497 政元の母、死去
「政元の母」は1466年に政元を産んだ。
そしてそれは1461(1463?)年頃に姉の洞松院を産んだ女性ではない。
そしてその「政元の母」は1489年の時点でかつて政元の弟を産んだという噂が出た。
政元が1466年生だから弟は当然67年以降の生まれということになるが
夫の在世中に密通するのも不自然なので勝元が死んだ1472年以降の
生まれだろう。もし本当ならばだが。ただそういう噂が出る位の
年齢ではあったと思われる。
1447年に勝元と結婚した山名養女が何歳だったかは分からないものの
勝元が1430年生で同じかそれよりやや下と考えると、1472時点では40前後。
まあ出産はまだ可能ではあるが…
こんなところです。今度こそ後は他の人に頼むよ(・∀・)ウヒョ
>>966-974 このクオリティの高さ!本当にお疲れさま。
あなたに惚れそうだ。もしかして国立国会図書館の近くにお住まいですか?だとしたら羨ましい…。
綿密かつ面白い。ぜひ、あなたの研究を出版してほしい。
あとは頼むよ(・∀・)ウヒョ、の前に。
@春林寺殿・桂昌禅尼というのは勝元正室のことなのか?それとも政元母のことか?もしくはそれ以外か(勝元正室と政元母が別人だった場合)?もしくは春林寺殿と桂昌禅尼って別人?同一人物だと思っていたが。
A竜安寺の勝元墓の隣にあるのは、誰の墓?春林寺殿?桂昌禅尼?正室(山名娘)?政元母?それ以外?
B政元母の死亡記事があるのは調べてくれたので分かったけど、勝元正室、春林寺殿、桂昌禅尼他、政元姉の母(←これ重要)の死亡記事はあった?
C「政元の母」はわりと史料に出てくるみたいだけど、他はどう?勝元死後に正室が出家した、とかの記事ってあった?
D当時の結婚形態って、基本嫁入り婚だと思うけど、実際はどうだったんだろう?源頼朝は亀御前(だったっけ?)とは一緒に住んではいなかったよね。織田信長も側室とは同居していないイメージがある。
で、これまた私のお得意のネット情報(ごめんね)だと、足利義政に勝元正室がなにやら楽器を(読めなかった&覚えてない。竹かんむりに竜だったか?それだと、かご、だし違うな)よく聴かせていた、というのを読んだことがある。
出典は書いてなかった。
それも正室が政元母でなかった場合、前提からして崩れるんだけど。〔正室=政元母〕説を採っているサイトだったから。
ただ密通があった場合、夫の死後とは限らないな、と。
そして義政は今参局という年上女性を寵愛したこともあったし。確か応仁の乱の間は義政も勝元邸にいたこともあったんだよね。
なんだか混沌とした文章になってしまった。そんな感じ。
976 :
706:2008/07/08(火) 00:12:14
うん…実は土日の調べで手が回らなかったのが、竜安寺関連方面からのアプローチだったんだよね…
勝元創建で政元が復興、のみならず姉の洞松院が赤松家嫁入り前まで尼として過ごしてた寺だけに
いろいろ情報があると思われ……どなたか京都在住の方いらっしゃいませんかね。
寺の縁起とか墓碑とかにいろいろ情報がありそうな気も。
ちなみに私は都内在住ですが、国会図書館は行ったことありませぬ。地元の区立図書館で間に合わせますた
「春林寺殿」「桂昌禅尼」は勝元正室すなわち山名養女の名ではないかなー。
政元の母はだいたい「京兆母堂」とか「細川母儀」とかで出てきて、そういう名では呼ばれて
ないっぽいのだが(もちろん両者が同一人物である可能性は残しつつ)。
政元の母は死のちょっと前に南都に詣でた時の記事が『大乗院寺社雑事記』に結構出てくるんだが
勝元死後に落飾してるかどうかは分かりません。
確かに応仁の乱の際に義政が細川邸に御成も多かったから当時から密通してた可能性も
なくはないかも。御今の件もあるから年増好みというのも考えないではなかったけど…
ただ「細川之舎弟」とあるから67年以降ってのは動かんと思うけどね(もちろん雑説で
はあるが)。
婚姻形態は公家・皇室はともかく、武家はこの時期は嫁入り婚でしょう。頼朝の頃はまだ通い婚の
風習があったと思うけど。ただ、出産の時には(汚れの忌避のためか?)家臣の邸に出向くことが
例になっていたのかも。御台(富子)が義尚を産んだのも讃州細川家の邸だったし…
977 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 20:01:46
978 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 23:36:51
お任せする
>>977 戦国板との違いは政元生母は誰か、という話がメインになっている、というところだけだし、それも結論に近づいてるから話は続かなくなりそうな…。
でもその政元生母の話が素晴らしすぎるから継続しないのはモッタイナイ気がする。
新スレは日本史板のままのがいい
>>970 文明は1469年からでしょ?(文明五年に26歳なら1448年生)
つまりこうなるのかな
1472年3月16日 勝之が出家するとの風聞あり(『雑事記』)
1472年5月14日 勝元・勝之が髻を切り落とす(『雑事記』)
1473年5月11日 勝元死去
1473年6月 日 勝之出家(『分脈』)
1473年7月15日 勝之が出家せざるをえない状況になる(『雑事記』)
宗全養女の実父煕貴は1441年6月に嘉吉の乱で討たれているので、その誕生は1442年3月以前になるか
しかし、1430年にまで下ると、もそっと早く嫁がされる気もする
宗全が以前より勝元に嫁がせることを望んでいたとなると、1447年にようやく嫁に出せる年頃になったってことでは
あと野州民部少輔七歳息は高国
980 :
706:2008/07/12(土) 07:38:37
そっか、高国のことをころっと忘れてた。年齢も合うから間違いなさそうだね。
年号はすっかり勘違いしてた。スマソ。なぜか文明12年が1479って
いう変な思いこみがありました。
次スレは私もここでいいような気が。戦国時代とはまた別の観点もあるだろうし
981 :
706:2008/07/12(土) 09:41:07
>>980 よく考えたらそれでもまだ計算が合わんな。まあどうでもいいか。
私の勘違いで残り少ないスレを消費するのも何なので無理やり話をつなぐと
この時期って文正だの応仁だのやたら短い年号が多いが
飢饉だ兵革だ不吉だってんで縁起担ぎで改元してるようだけど
本ちゃんの大戦が始まった後の文明はこの時期にしちゃやたら
長く(20年近く)続くのはなぜなんだろう。
もはや改元で験直しするのはあきらめたのか、それとも改元
をせっつく側の武家がそれどころじゃなくなったのか…
982 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 00:25:19
応仁の乱自体無かったかも、っていう研究まであるらしく、無かったんだとしたら割とみんな平和に暮らしてた時代だったからなのかも。
983 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 23:05:00
私も買ってきた。吉川弘文館のやつ。 石田晴男著『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』。
政元母に関しては肝心なところの参考文献が載ってない。
P.262に文明4年の和睦交渉について「しかし、この時の交渉は成立しなかった。それは山名宗全と細川勝元との間で和睦条件となった勝元の嫡子問題が解決できなかったからである。」
って言い切ってるけど、上で書いてくれた『大乗院〜』、『寛政重修〜』に載ってないって事は、もう一つあった 「山名氏」『室町幕府守護職家辞典』下 にあるのか?なさそうか。
984 :
706:2008/07/14(月) 00:32:55
>>983 守護家事典も見たけど載ってなかったよ。山名氏のとこにも細川氏のとこにも。
985 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 18:35:37
やっぱりそうか…。吉川弘文館の本を買ったとき、巨大な、歴史人名辞典、みたいなやつを立ち読みしたんだけど、政元は母山名氏、になってた。ただ、出典は書いてなかった(この話題既出だったかな)。
石田氏にしろ、辞典の編纂者にしろ、言い切っちゃうってのは、確固たる何かがあるのかな。
楳
988 :
日本@名無史さん:2008/07/16(水) 22:05:34
乱ですから乱れなんですよね。戦とは違う.
989 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 03:38:36
義政の政治力がもっと高ければこんな大混乱には陥らなかったってよくいわれるが、
そうすると戦国乱世の元凶も義政ということになりかねないが・・・
そんな偶然だろうか?中世の終盤に起きるべくして起きたことのように思えるが。
6代義教が将軍権力を高めた結果、
軍事力・経済力の裏付けを持たない将軍側近が権力を持ちうるようになった。
ところが、それを確実に支えられるだけの人事システムがなかったから、
阻害されていた大名連中が総掛かりで不満を爆発させたことで、
側近連中が追放され、極めて不安定な力関係になった。
大名間の紛争を解決しうる、現実的な力の保障が欠落してしまったわけ。
義政が、義満や義教なみに優秀な政治家として鍛え上げられていたら話は違ったんだろうが、
凡庸だったから、どうしようもなかった。
そのうちついに、横からの口入に耐えきれなくなって暴発し、
口入を無視しうる唯一の解決策=「勝手に戦争しろ」を発令してしまって終了
とは言えるかもな。
元々室町幕府なんて将軍と有力守護大名の連合政権だったのを
義満なり義教なりの権威で押さえつけてただけだからなぁ…将軍個人の資質で
有力大名との関係も変わってくるわけで
ただ義政のせいばかりじゃないと思うのは、結局トラブルのほとんどの理由が
家督相続争いにあるということで、中世のイエ制度の持つ根本的な欠陥でもあるし
守護の京都滞在という建前も原因の一つだとは思う。
当主が定めた後継者を認めない有力守護代とか被官が別の後継者を立てて争う
パターン自体はどこも同じようなもんだし…
997 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 10:10:05
997
998 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 10:11:09
998
999 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 10:16:09
999
1000 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 10:32:11
1000
1001 :
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