後村上天皇ってどうよ?

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1
みんな護良や懐良ばかり注目するけど、
後村上天皇も実は甲冑を着て戦っていた。
たしかどっかの戦で撤退する時、甲冑を見たら矢が二本
突き刺さっていたとか。
古代以降、こんな戦闘の経験をした天皇もいないだろう。
ちなみに後村上天皇は書道も上手かったらしい。
2日本@名無史さん:02/06/07 02:23
2ゲト。
3日本@名無史さん:02/06/07 08:29
後醍醐と違って、個人的な人となりがあまり知られてないね。
性格的にはどんな人だったのかな?
4日本@名無史さん:02/06/07 11:56
親父がアレだと息子が苦労するという典型的なパターンですな。
5日本@名無史さん:02/06/07 11:59
母親もアレだしね。
6ぴか:02/06/07 14:23
どぅーーーーーーーーーん!
7a:02/06/07 16:13
>3
さいとうたかをの漫画では、楠木正行が出征する時
涙を流して「武運を祈る」みたいなこと言ってたね。
後醍醐のブチキレぶりからすれば、かなり温厚だったんじゃない?
8日本@名無史さん:02/06/07 20:38
畏れ多くも山奥で天皇を自称し、国体を汚そうとした国賊。
9ぴっぴー:02/06/07 20:40
>>8
・・・・とは言っても、皇族であることには間違いないしね・・・
国賊とまでは、ちと。
10日本@名無史さん:02/06/07 20:43
北畠親房の女を中宮にしてたが
なんとその中宮が某公家と駆け落ちして連れ戻されたそうな。

その際、逃亡を手引きした農民たちを
親房が斬首している。

と聞いた。
11日本@名無史さん:02/06/07 21:25
たしかに天皇が自ら戦闘に加わったのは神武以来。
12日本@名無史さん:02/06/09 19:23
>11
指揮能力はどん位だったんだろう?
一応、東北で北畠顕家の戦い振りを見てるはずだから、
それなりにあったとは思うんだけど。
13日本@名無史さん:02/06/23 13:09
父親のせいで苦労した人。
14日本@名無史さん:02/07/08 20:14
中宮に駆け落ちされるってことは、どういう人物なんだろ?
15日本@名無史さん:02/07/08 22:09
>>14
あてにおおどか(太平記)
16日本@名無史さん:02/07/08 22:23
後村上天皇っていつ生まれたの?なんかはっきりしない部分も多い気がする。
あと長慶は本当に後村上さんの子供なの?
17日本@名無史さん:02/07/09 21:45
>>16
山奥に住んでる人は謎が多いね。
18日本@名無史さん:02/07/13 05:25
>16
嘉暦三年

まあ、足利方の事情もあるけれど
何はともあれ、正平一統とかしてるし
いいんじゃないかと思う。
後醍醐よりある意味名君だったりして。
後醍醐の資質はむしろ長慶が継いでるような気がするが如何。
後亀山は後村上っぽいね。
印象論なんで突っ込まないでね。
19日本@名無史さん:02/07/26 06:21
>>18
村上天皇との共通点は?
20大陸浪人:02/07/26 09:48
長慶天皇の御陵は大東亜戦争の最中に造られた、
日本で二番目に新しい御陵であるぞ。
21日本@名無史さん:02/07/26 10:05
>>19
醍醐の後。

醍醐天皇の次:村上天皇
後題号天皇の次:後村上天皇

後醍醐帝は自分の諡と息子の諡を自ら決定。
史上唯一の例だそうですね。
天皇親政を行った醍醐天皇の再来という立場を印象づけることが
狙いのようです。
22日本@名無史さん:02/07/26 15:12
>>21
醍醐天皇と村上天皇の間に朱雀天皇って人がいたような・・・・・。
23日本@名無史さん:02/07/26 15:46
>>22
朱雀の系統は後に続いてないから
村上にしたんじゃないでしょうか。
24日本@名無史さん:02/07/26 16:09
>>22
ご指摘ありがとうございます。

60代 醍醐  61代 朱雀  62代 村上
ですね。

継承の順番でなく、真に醍醐天皇の政治を引き継ぐ後継者
というイメージで、幼くして即位してまだ年若い内に半ば
無理やり譲位させられている朱雀より、同じ醍醐帝の息子
であり、天皇中心の善政をおこなった村上の名を選んだと
いうことなのでしょうね。
25日本@名無史さん:02/07/26 16:30
醍醐、村上の両帝は「延喜・天暦の治」と称される親政をなさったけど、
間の朱雀帝はその治世に「承平・天慶の乱」がおこってますしね。
戦乱という事なら、この時期に後朱雀ってのは洒落にならんでしょうし。
何よりも第69代に後朱雀天皇が既にいらっしゃいますから、
醍醐→朱雀→村上
の順番通り
後醍醐→後朱雀→後村上
ってのは物理的に無理な話ですわな。

26日本@名無史さん:02/07/26 20:20
本人の顔が見たい
親の顔は見飽きたよ
27日本@名無史さん:02/08/11 03:58
>>25
そのまえにちゃんと後宇多天皇がいらっしゃいますよ
28日本@名無史さん:02/08/21 08:56
さいしょの後ってだれよ?
29日本@名無史さん:02/08/21 16:32
後一条でしょ。
藤原道長の外孫。
道長が、
この世をば我が世ととぞ思ふ望月の
かけたることもなしと思へば
の歌を詠んだときの天皇。
30日本@名無史さん:02/08/21 21:00
肖像、あるにはあるんだけど
インターネットでどこにあるか検索しても分からん。

容貌はかなり太め。
「親王時代や正平一統の際には甲冑を身にまとって戦陣を駆け巡った天子」
というイメージとはかなり違う。
いかにもおっとりとした感じ。
31日本@名無史さん:02/08/21 21:06
自分がしってるのは
座って手をかざしている直衣姿の肖像。

昔見た少年向け歴史ものの挿絵では
鳳輦に甲冑姿で乗っていた。
32日本@名無史さん:02/08/29 02:00
そもそも、村上天皇って、そんなに良い政治をしたのか??
33北畠:02/08/29 04:33
後村上天皇は、大阪市住吉区の住吉大社の宮司の津守氏の館の住之江殿を
約10年間御座所としていたことはあまり知られていませんね。
現在、同地は、史跡・住吉行宮跡として整備されています。
次の長慶天皇は、この住吉行宮で即位したそうです。
また後村上天皇は、住吉三寺の一つの荘厳浄土寺で津守氏の後援のもとに
後醍醐天皇の大法要をしたらしく、大きな石碑が荘厳浄土寺にあります。
34日本@名無史さん:02/08/29 05:44
>>22

>醍醐天皇と村上天皇の間に朱雀天皇って人がいたような・・

朱雀院のときは、藤原忠平が摂政・関白になっているので、
摂関・院政を廃して天皇親政を行うという後醍醐の理想と合わなかったのでしょう。
延喜・天暦の治と言っても単に摂関が居なかっただけで、見るべき事蹟は無いのだけどね。

35日本@名無史さん:02/09/04 12:17
むしろ、宇多院+菅公のタッグの方が事績は上ですな。
36北陸高校氏ね:02/09/04 16:06
ごむらかみ天皇 は ごみです いってください
37日本@名無史さん:02/09/07 11:42
>>33
住吉まで進出できたってのがすごいね。
あそこって吉野みたいな山奥じゃないし、
港があるからけっこう栄えてたとこだったんじゃない。
攻め込まれても維持できるようなとことは思えないんだけど。
このころの戦況はどうだったのかな。
38日本@名無史さん:02/09/07 12:23
>>37
南朝も吉野の山奥に逼塞していただけでなく、北朝の弱体化にともない、
移動していた。住吉大社宮司の津守氏は南北朝当初から南朝方だったとのこと。
住吉大社の住吉神は海神だから、住吉神を奉じる瀬戸内の一族のネットワークが
南朝の連絡網として、とても重要だったらしい。
39日本@名無史さん:02/09/11 23:41
>>38
なるほど
40(^0^):02/09/13 00:59
津守氏は最高だよ
41ちょっといいですか:02/09/13 01:01
私は、非キリスト教徒であります。

心と宗教版で、キリシタンたちが、江戸時代、京都市民は天皇を
知らなかったとか、とんでもないバカなことを言って困っております。
誰か、論破してくれませんか?

なぜ教会に反日がはびこったのかその3

ここです。みなさんでバカなキリスト狂徒を笑ってください。
42日本@名無史さん:02/09/29 01:40
>>41
江戸時代の庶民は、天皇どころかアマテラスからのおよその神話まで知ってたよ。

そして、お伊勢参りとかも盛んだった。
43日本@名無史さん:02/10/09 21:21
天皇の神話時代からの万世一系を知っているからこそ庶民も伊勢へ行ってたんでそ
44日本@名無史さん:02/10/23 03:55
なんか日本は他と比べて、江戸時代の頃の識字率もかなり高いようですね。
天皇のことや日本の歴史のことについても、庶民が知らないわけなかった。
45日本@名無史さん:02/10/23 04:27
そう言えば、道誉ってどうよってスレがあったな。
46日本@名無史さん:02/11/09 15:27
村上天皇はどうよ?
47日本@名無史さん:02/11/09 16:14
すッげー奴
48日本@名無史さん:02/11/09 16:30
最初は護良・宗良・懐良のように戦場に出される
予定だったが(実際に出されたが)、
後継ぎにするはずだった世良親王が死んだため
呼び戻されて皇太子→即位になったようだ。
49日本@名無史さん:02/11/16 17:48
世良親王が天皇になっていたら、後村上と付けられることはなかっただろう。
50日本@名無史さん:02/11/29 16:35
即位前から後村上と決められていたという珍しい例なんだよね。
即位前から決定してた例って他にあったっけ?
51日本@名無史さん:02/11/29 17:05
>50
即位前どころか即位後でも生前に決定してたのは他には後醍醐くらいだろ。
52日本@名無史さん:02/11/29 18:14
後村上天皇の兄である恒良親王は北陸で即位してなかったっけ?
たしか1340年頃に「白鹿」とかって元号を使っていたはず。
53日本@名無史さん:02/12/10 18:31
恒良親王は、たしかに即位していて、それが正統なはず。

ただし、後醍醐のいつもの手のひら返しで、あとから無効にされた。
54日本@名無史さん:02/12/11 13:58
>>52
日本酒みたい
55日本@名無史さん:02/12/22 23:22
>>53
後醍醐は偽の三種の神器をばらまき過ぎ
56日本@名無史さん:03/01/04 06:40
後醍醐天皇がいくつ偽神器を作ったか知ってる?
57山崎渉:03/01/11 17:00
(^^)
58日本@名無史さん:03/01/12 22:14
偽神器はたしか5つだったか?

だまされたやつも5人・・・
59日本@名無史さん:03/01/12 22:28
偽神器の5つってそれぞれ誰がもってたの?
60日本@名無史さん:03/01/12 22:29
力道山はロス近郊で30分1本勝負のドサ回りをしてただけなのに
毎晩東スポから電話取材を受けて大法螺吹き続けたあげく
ルー・テーズに勝って世界チャンピオンになったことになっちまって
帰国してベルトはどうしたと聞かれて預けてあるとか何とか
下谷のトロフィー屋に頼んでチャンピオンベルトを作ってもらって
NWAに5万ドル払って(実際はグレート東郷に騙されてそのうち
4万ドルは東郷に着服されて)米国外でのみ通用する選手権として
インターナショナル・ヘビー級なるものを作ってもらって
何とか格好をつけたのが日本プロレス史上に燦然と輝く
インターナショナル選手権のルーツだわな
昭和の後醍醐・力道山
61日本@名無史さん:03/01/12 22:42
北畠親房の指導に素直に従い、文字通り「延喜・天暦の治」の世に戻そうとした
穏やかな人柄だった。お父さんの後醍醐天皇は天皇親政というより天皇独裁を
目指した過激派だったから、後村上天皇は混乱した時代の収拾者として適任。
62日本@名無史さん:03/01/12 23:08
>>59
北朝にとられそうになるたびに新しく偽造したが、その北朝も何度もとりかえされてる。
恩賞めあてで命がけでとりかえしてきた者に対してまさか「それは偽造品じゃ」ともいえないから、
南朝方には似せ神器がふえる一方で、後醍醐天皇崩御の後、似せ神器であることは隠して
名宝ということで功績ある皇族に分け与えた。ところが数世代たつと、そんなことも忘れられ
「後醍醐天皇から皇位を継承した皇族の子孫である証拠」と考えられるようになった。
これが全国に後南朝の子孫と称する「自称○○天皇」が大量発生した原因のひとつ。
ちなみに現在の皇室にある神器もこの中の似せ神器のひとつ。
本物は吉野の山奥に隠されている可能性もないではないが、まず行き先不明というのが妥当。
もし本物である可能性にわずかでも賭けるなら天正六年に滅亡するまで
浪岡北畠氏が奉護していた神器がそれかな?その後いろんな経緯があって江戸時代には
伊達氏領内にあった。今でも、その神器はとある小さな神社に祭られてるが、まあこの伝承は
江戸時代の偽書のたぐいであろう。期待しないように。
63かりていも:03/01/12 23:25
ちなみに、
大阪府の観心寺に鎮まっておられます。
密教彫刻の最高傑作といわれる「国宝 如意輪観音」の背景の山の中です。
64日本@名無史さん:03/01/13 01:31
>>62
つまり現在の皇室の三種の神器はニセモノなのね。
65山崎渉:03/01/16 08:49
(^^)
66日本@名無史さん:03/01/17 03:47
>>64
それはそうだけど、もともと、本物は千数百年前に朽ちてるよ
67日本@名無史さん:03/01/18 13:59
千数百年前??? あんた何いってんの(w
68日本@名無史さん:03/01/18 15:53
hetananihongo
69日本@名無史さん:03/01/19 22:22
何いってんの手何移転の、壇ノ浦かでてんのうさん幼い船から海飛び込んで神器
天のムラクモの剣海の中ダッタンジャ・・ちがうかなーーー
70ドデスカデン:03/01/19 22:53
後村上天皇様は、義満所業にお怒りに也、両党送立は反故、後村上天皇時代も反故
おまけに義満は、天皇の位に息子を着けようとした愚か者、1代の栄華が末代まで
永久に、(まるで今の政治家の様)と勘違い、皇統(北朝)は守られましたが、時
の権力者の思い違いは、一時なりきん成り上がり、こんな恐ろしい事は語砂利ません
あっ、足利は源氏の棟梁どした。かんにんなー。今の政治家2世・3世様、は・はー
ーーーーー、何でか分からんけど尾豪いんですね。後村上天皇・後村上天皇・小倉宮
親王・尊義王・自天皇・忠義王ーーーーー熊沢王どうですか。
71日本@名無史さん:03/01/30 06:02
後朱雀天皇の親政がよかった‥
72日本@名無史さん:03/01/30 09:29
偽神器で即位した天皇には何の権威もないでしょ.

鏡が象徴する「正直さ,まっすぐさ」こそ正統性の証しの第一.
「日本ハ神国ナレバ」不正直者をいただくわけには参りませぬ.
73日本@名無史さん:03/02/07 23:33
本物の神器は伊勢と熱田にある方だって話もありますな。
勾玉はどうなのか知らんけど。
74日本@名無史さん:03/02/08 23:43
とりあえず、光厳の即位は認めるべきだ。
75日本@名無史さん:03/02/08 23:53
高御座とばりかかげて橿原の宮の昔もしるき春かな
四つの海浪も治まるしるしとて三つの宝を身にぞ伝ふる
                          後村上院御製
76日本@名無史さん:03/02/09 05:57
>>73
勾玉はモノホンということになってる
77日本@名無史さん:03/02/09 11:48
鏡は伊勢に、剣は熱田に、勾玉は宮中にましますので
ご安心ください。
78日本@名無史さん:03/02/16 03:34
本物は後醍醐がどっかやってしまったはず。
79日本@名無史さん:03/02/17 21:14
>78
どこよ、どこ?本物は。
80日本@名無史さん:03/02/27 23:05
後醍醐は5回くらい偽物をみんな(実の子にまでも‥)に渡してますが、
あの中に実は本物があったらしいとのこと。
81日本@名無史さん:03/03/03 17:57
>>63を見れ
82日本@名無史さん:03/03/15 17:10
後村上ショージ
83マユゲ:03/03/16 01:40
ドゥ〜ン!!
84日本@名無史さん:03/03/19 00:41
後村上と北畠との主従関係ってちょっと萌えない?
幼少のときから自分に仕えてきた顕家の死を乗り越えて
成長してゆく・・・みたいな
85日本@名無史さん:03/03/21 20:28
村上ショージってどうよ?
86日本@名無史さん:03/03/21 22:52
>>84
やっぱ六つや五つの頃から親元を離れて奥州で一緒にいたわけだから
それなりの信頼関係はあっただろうね
87日本@名無史さん:03/03/22 01:34
畏れ多くも山奥で天皇を自称し、国体を汚そうとした国賊。


88日本@名無史さん:03/03/22 01:41
後醍醐、光厳、後醍醐重祚、光明、崇光、後村上、後光厳、後円融、後小松‥‥
これが学問的歴代。
89日本@名無史さん:03/03/23 12:39
どぅーーーーーーーーーん!


90日本@名無史さん:03/03/27 19:47
江戸時代、京都市民は天皇を知らなかった。
91日本@名無史さん:03/03/27 21:29
母親もアレだしね。
92日本@名無史さん:03/03/27 23:19
北畠親房の女を中宮にしてたが
なんとその中宮が某公家と駆け落ちして連れ戻されたそうな。
その際、逃亡を手引きした農民たちを親房が斬首している。

93日本@名無史さん:03/03/29 17:28
すッげーカス!!


94日本@名無史さん:03/03/29 20:16
中宮に駆け落ちされるってことは、どういう人物なんだろ?


95日本@名無史さん:03/03/29 22:12
どうもこうもないよ。
961200:03/03/29 22:12
http://www.bunbun.ne.jp/~tk0608/
ロンブーの温泉カミングアウト未放送 コイケエイコはみ出てます。。
97日本@名無史さん:03/03/30 22:03
親父がアレだと息子が苦労するという典型的なパターンですな。
98衣笠宮:03/03/30 22:56
後について調べてみました。

前→
桓武(柏原)-平城(奈良)
桓武(柏原)-嵯峨-仁明(深草)-文徳-清和(水尾)-陽成
桓武(柏原)-嵯峨-仁明(深草)-光孝(小松)-宇多-醍醐-村上
桓武(柏原)-淳和(西)

後→
後鳥羽-土御門-後嵯峨-亀山-後宇多-後醍醐-後村上-後亀山
後柏原-後奈良-正親町-誠仁-後陽成-後水尾-後西

*後光明天皇の前がよくわかりません。
 まさか光明皇后ではないですよね。
99日本@名無史さん:03/03/30 23:02
>>98
光明院っているじゃない。光厳院の弟の。
100日本@名無史さん:03/04/01 02:19
山奥に住んでる人は謎が多いね。

101日本@名無史さん:03/04/07 00:55
なんで光明皇后と同じ名を?
光明天皇って子供いたかな?
102日本@名無史さん:03/04/07 00:57
皇后は仏書より
院号は寺号
子供は周尊
103日本@名無史さん:03/04/07 00:59
周尊親王ってどうなったの?
104日本@名無史さん:03/04/07 01:20
親王じゃない、お坊さん
105ショージ:03/04/07 23:39
どぅーん!
106日本@名無史さん:03/04/13 02:38
南朝って山賊!?
107山崎渉:03/04/17 14:05
(^^)
108日本@名無史さん:03/04/19 17:31
どうして熊沢家に皇位が戻らないの?
109山崎渉:03/04/20 01:49
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
110日本@名無史さん:03/04/27 14:44
天皇いらね
111日本@名無史さん:03/05/03 19:22
村上天皇ってそもそも偉大ではないと思うけど、どう?
112日本@名無史さん:03/05/12 19:07
ぼーっとしていたけど平和を保った偉い人ってことにしてある
113山崎渉:03/05/22 03:27
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
114日本@名無史さん:03/05/25 05:30
そういういみでは、醍醐天皇のときも同じだな。
115山崎渉:03/05/28 10:59
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
116日本@名無史さん:03/05/28 17:22
後醍醐は5回くらい偽物をみんな(実の子にまでも‥)に渡してますが、
あの中に実は本物があったらしい
117日本@名無史さん:03/06/05 21:07
本物は九州で紛失…
118日本@名無史さん:03/06/06 21:42
>>117
昭和初期に北京の瑠璃廠(ルーリーチャン)で見つかり、
今は故宮博物院に収蔵されているとかって話は本当?
119日本@名無史さん:03/06/11 01:00
>>119
そりゃ愛新覚羅溥儀の「感想」だろが。
120日本@名無史さん:03/06/20 02:06
119さん自ツッコミしてる…
121日本@名無史さん:03/07/03 01:12
後醍醐、光厳、後醍醐重祚、光明、崇光、後村上、後光厳、後円融、後小松
122日本@名無史さん:03/07/03 06:52
後村上、長慶、後亀山の3代は歴代からはずすべきです。
北朝こそが真の正統の天皇です。

96代 後醍醐院
97代 光厳院
98代 後醍醐院(重祚)
99代 光明院
100代 崇光院
101代 後光厳院
102代 後円融院
103代 後小松院
104代 称光院
123日本@名無史さん:03/07/12 06:41
重祚はいいけどさ、なんか命名してやってよ。
124日本@名無史さん:03/07/13 00:36
たしか、なんとか徳院というのを上皇が用意したはず
125神皇正統記:03/07/14 21:42
>> 122
私は、単に南朝関連の史跡に囲まれて育ったものです。
血統どうのこうの云々について述べる者ではありません。

たしかに南北朝時代以降、歴史は
「大覚寺統の覇道」よりも
「持明院統の人徳」を選んだ、と言えるかもしれません。

でも、持明院統の限りない平和主義的な王者たちは、
大覚寺統の覇道の勢いがあってはじめて目覚めたのであって、
花園天皇などは後醍醐天皇の優れた面をたたえています。
私は、後醍醐天皇の強固な意志の力と敬虔な信仰心を尊敬しています。
真実、すごい人だったと思います。
妄執などと表現する史学者は、現代社会からながめてみて勝手に
そのように酷評するのです。

神武天皇と彼がいなかったら、明治維新なんてあり得ませんでした。
後村上帝や長慶帝はタカ派でしたが、
後亀山帝は、大国主命や徳川慶喜にもなぞらえられるハト派の英雄だと思います。

幼い頃から誇り高い史跡で遊んで育くまれた史観ですが、
偏狭で曲解だらけの方々には、この史観は安易に否定されたくないですね。
126日本@名無史さん:03/07/14 22:14
>>125
長慶天皇が本当にタカ派だったという史料は、実は存在しないですよ。
楠木正儀や後亀山と対立したので、後からそう理由付けされていますが。
南北和睦後、後亀山は両統迭立が守られなかったことに
不服で京を出て、その後の後南朝の抵抗につながってゆきますが、
長慶の子孫は、逆らいもせず大人しくしています。
これを考えると、本当に慶喜のように身を捨てて平和を選択したのは
長慶のほうに思えます。
本当に、後亀山が和睦派で、長慶が徹底抗戦派だったのか。
後亀山帝は、実は南朝での派閥争いの勝利者というだけであるかもしれません。
長慶を捨てた楠木正儀が、南北和睦のために北朝に下ったという証左もありません。
和睦のためならば、十三年もの間、北朝にい続けるでしょうか。
南朝に戻ったのも、後亀山の代になっていたことよりも、
明らかに細川頼之の失脚のほうが契機にあります。

研究者たちの言っていることが鵜呑みにされ続け常識となっていったり、
あるいは、地元の方々が、郷土の偉人に対する愛情だけで歴史人物の像をつくり、
それへの愛着から他をききいれない風潮は、頑なで柔軟性に欠けます。
自ら関係史料の流れを汲んで、別の見方をすることもありだと思います。
127日本@名無史さん:03/07/14 22:18
>>125
偏狭で曲解だらけの史観ですな。
128日本@名無史さん:03/07/14 22:30
長慶天皇は「ちょうけい」?
三好長慶は「ながよし」?
129日本@名無史さん:03/07/15 07:24
>>123
「隠岐院」が妥当じゃねえの?
130山崎 渉:03/07/15 11:33

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
131日本@名無史さん:03/07/15 18:56
age
132日本@名無史さん:03/07/21 23:49
後醍醐による建武の親政が始まるのだが、後醍醐は自分が
隠岐に流されていたときに光厳が即位していたことを認めない。
その間も自分が天皇だったと言い張る。この時、光厳は太上天皇の位を贈られるが
「天皇だったものではないが特別に」と後醍醐にいわれる。
(この屈辱を約60年後に今度は彼の孫の後亀山天皇が味わうことになる)

なぜこの時、「治天の君」(上皇)や重祚(歴史的に見れば後醍醐はこれが正しいだろう)
しようとしなかったのか私にはよく分からない。宋学の視点で「天皇が国を治める」と
思っていたから上皇にならなかったのはまだ分かるが重祚した人は以前にもいるし
かまわないと思うけど後醍醐にとってそうはいかなかった。

結局これは3種の神器を持っていたものでも天皇ではないということだ。
133日本@名無史さん:03/07/23 19:49
>132
ここは後村上スレだよ。
134米CNN:03/07/23 22:05
>> 126
>> 125
むしろ長慶帝がハト派だった? という見方は新鮮ですね。
135126:03/07/24 21:21
即位の頃からハト派だったとまでは言わないが、
初めにハト派・タカ派ありきというより、先に二人の宮の対立と
それぞれを押す勢力があったように見える。よって態度が一貫しないのでは、と。
136日本@名無史さん:03/08/01 22:28
村上の治世自体が嘘ではないかと
137日本@名無史さん:03/08/01 22:33
>>132
彼は父親から「天皇はおまえ一代かぎり、おまえの子孫に皇位は伝えさせないぞ」と言い渡されていた。
当時としては父親の遺言は絶対だからね。
要するに後醍醐は退位したらそれっきり、治天の君にはなれない立場だった。
だから「退位した」とは絶対に認めたくなかったんだろうね。
138安全地帯:03/08/01 23:02
139山崎 渉:03/08/02 01:02
(^^)
140日本@名無史さん:03/08/09 19:31
村上ショージってどうよ?
141日本@名無史さん:03/08/09 20:00
    ________________________
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142日本@名無史さん:03/08/09 21:51
>>140
日本で一番ウケる
143日本@名無史さん:03/08/09 22:34
どぅーーーーーーーーーん!


144山崎 渉:03/08/15 13:39
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
145日本@名無史さん:03/08/17 01:15
なんで光明皇后と同じ名を?
光明天皇って子供いたかな?
146日本@名無史さん:03/08/28 09:28
>>145
坊主になった皇子が1人いるらしい
147日本@名無史さん:03/08/30 14:04
しょーじじん。。
148日本@名無史さん:03/08/30 14:59
ウェルカム、腕噛む、何処噛むねん!!
149日本@名無史さん:03/09/05 21:05
150丹羽の杏ちゃん:03/09/05 21:14
山崎渉はここにもいるのか・・・
151日本@名無史さん:03/09/06 14:27
>>61
北畠は村上源氏と摂関家がすべてを仕切る摂関政治の復活が信条の究極の「抵抗勢力」。
後醍醐の新政は武士の時代からの逆行は不可能と悟り、臣下に特定の権力者を置かず、公武双方を治められる体制「天皇による院政&幕府」を目指していた。
どちらが現実的かは明白。
>>132
後醍醐の兄・後二条天皇の在位3年での急逝で正統な後継者・邦良親王(後二条嫡男)が小さかったため、
持明院統の花園の即位が繰り上がり、なおかつ大覚寺統が不利にならないように邦良の前に後醍醐を立てた。
従って後醍醐の皇位は中継ぎでしかなかった。
だが、邦良も急死したためその次の皇太子の予定だった持明院統の光厳が繰り上がり、その次は邦良の息子とされたために後醍醐系の即位の芽が潰えた。
このため、後醍醐は倒幕という実力行使以外に自分の子に皇位を継がせる方法がなかった。
ちなみに光厳の皇太子は邦良の息子・康仁親王である。恐らく以後は崇光→康仁の子にまわして両統迭立を守るつもりだったのだろう。

後宇多−後二条−邦良親王−康仁親王(嫡流)

   −後醍醐−後村上(傍流だが実際の流れ) 
152日本@名無史さん:03/09/13 23:47
153日本@名無史さん:03/09/14 01:49
>>151
後二条の在位は7年の誤りです。
154日本@名無史さん:03/09/27 03:26
後醍醐は5回くらい偽物を渡してますが、あの中に実は本物があったらしい
155日本@名無史さん:03/09/27 03:28
↑ソースは?
156日本@名無史さん:03/10/06 21:55
157日本@名無史さん:03/10/06 22:04
正平の一統のとき、南朝は北朝の神器を没収している。
実はそれまで北朝が持っていた神器こそ本物だったのではないか。
つまり、光明院に渡した神器が本物。
158日本@名無史さん:03/10/06 22:47
↑根拠は?
159日本@名無史さん:03/10/08 19:21
梅松論だしょ。
160 :03/10/08 19:24
161日本@名無史さん:03/10/17 23:51
162日本@名無史さん:03/10/19 09:11
>>159
足利系だから即信用は出来ない、勿論尊氏も馬鹿じゃないから花山院に後醍醐を閉じ込めたときに確認はしただろうが。
163日本@名無史さん:03/11/11 04:47
後醍醐による偽三種の神器のせいで、いまつたわってるのはにせものなのがくやしい
164日本@名無史さん:03/12/04 03:39
後醍醐は5回くらい偽物をみんな(実の子にまでも‥)に渡してますが、
あの中に実は本物があったらしい
165日本@名無史さん:03/12/30 23:34
96代 後醍醐院
97代 光厳院
98代 後醍醐院(重祚)
99代 光明院
100代 崇光院
101代 後光厳院
102代 後円融院
103代 後小松院
104代 称光院
166日本@名無史さん:03/12/30 23:37
熊沢天皇の先祖
167「後」がつく天皇:03/12/31 02:53
>>98
50代桓武(柏原)・・・104代後柏原
51代平城(奈良)・・・105代後奈良
52代嵯峨・・・88代後嵯峨
53代淳和(西院)・・・111代後西
54代仁明(深草)・・・89代後深草
[55代文徳・・・102代後花園(後文徳)]
56代清和(水尾)・・・108代後水尾
57代陽成・・・107代後陽成
58代光孝(小松)・・・100代後小松
59代宇多・・・91代後宇多
60代醍醐・・・96代後醍醐
61代朱雀・・・69代後朱雀
62代村上・・・97代後村上
63代冷泉・・・70代後冷泉
64代円融・・・北朝5代後円融
66代一条・・・68代後一条
67代三条・・・71代後三条
168「後」がつく天皇:03/12/31 02:56
>>98
72代白河・・・77代後白河
73代堀河・・・86代後堀河
74代鳥羽・・・82代後鳥羽
78代二条・・・94代後二条
80代高倉・・・後高倉院(守貞親王)<後堀河天皇実父>
83代土御門・・・103代後土御門
90代亀山・・・99代後亀山
92代伏見・・・93代後伏見
95代花園・・・102代後花園(後文徳)
北朝1代光厳・・・北朝4代後光厳
北朝2代光明・・・110代後光明
北朝3代崇光・・・後崇光院(伏見宮貞成親王)<後花園天皇実父>
115代桜町・・・117代後桜町
116代桃園・・・118代後桃園

なお、後花園は、いったん後文徳という名を送られたが、文徳が謚号であることにあとで気付いて、後花園と訂正された。
169日本@名無史さん:03/12/31 03:00
>>122
後村上は、正平一統があるから、歴代に入れてもいいんじゃないの?
あと、後醍醐の重祚に名前をつけるのならば、北朝側で後醍醐の院号として検討されていた「元徳」が良いと思う。
170日本@名無史さん:03/12/31 03:40
171日本@名無史さん:03/12/31 03:44
京都には、「金閣」「銀閣」の他に「銅閣」もあります。

鹿苑寺舎利殿(通称:金閣)
http://saranomiyako.easter.ne.jp/page003.html
慈照寺観音殿(通称:銀閣)
http://saranomiyako.easter.ne.jp/page087.html
大雲院祇園閣(通称:銅閣)
http://saranomiyako.easter.ne.jp/page088.html
172日本@名無史さん:03/12/31 23:39
>>166
あれは偽称。
173日本@名無史さん:04/01/01 22:17
偽神器をいくら作っても、本物は、かなりぼろいだろうし、
錆びもついているから、後から作った偽神器とすぐ見分け
がつくと思うが?(当時は古く見せる技術も現在ほど、
ないだろうし。)
それと後醍醐天皇自身、神器本体を実見したことがあるのか?
174日本@名無史さん:04/01/02 15:49
大阪の住吉大社の宮司の津守氏の館を10年間皇居とした天皇だよね。
175日本@名無史さん:04/01/03 10:18
南朝を正統とする場合でも光厳を認めていいんじゃないか?
南北分裂は光明からとしてみることも可能。
176日本@名無史さん:04/01/03 13:25
後醍醐の花山院幽閉から正平一統までの間は、明らかに北朝側が本物の三種の神器を持っていた可能性が高いと思うのですが?
177日本@名無史さん:04/01/03 18:35
光厳天皇は自分も皇統に加えるべきだと思う。
しかし、現在では誰が天皇の皇統の変更をすることが
出来るのだ?やはり、内閣が閣議で決めるのか?
178日本@名無史さん:04/01/03 18:37
>>177
皇室自らが宣言すればよいのでは?
179日本@名無史さん:04/01/05 13:59
内閣にも宮内庁にもそんな権限ないし、学問上の問題でもないから学者も関係ない。
別に誰が勝手に決めてもいいんじゃない?
ただ、それが一般に流通するかどうかの問題でw
178のいうとおり皇室ではこうやってますといえばそれが一番影響力あるだろうけど
皇室は明治天皇の決定をかえないだろ
180日本@名無史さん:04/01/05 21:04
天皇の皇統を示す、大統譜は法律による公的なものだから
(皇統が公的なものだからこそ、歴代天皇陵や皇族墓を行政機関
で内閣府の外庁の宮内庁が国費で管理されている。)
皇室の一存では皇統を変更することはできない。
皇室会議で発議され内閣が閣議決定、天皇が公布、内閣が
官報で公示が現憲法下で出来る皇統変更だと思う。
皇統が国の管理下でなかったら神武天皇陵など神話の世界の
天皇陵を国費で管理されることは現憲法では許されない。
181日本@名無史さん:04/01/18 22:04
後醍醐による建武の親政が始まるのだが、後醍醐は自分が
隠岐に流されていたときに光厳が即位していたことを認めない。
その間も自分が天皇だったと言い張る。この時、光厳は太上天皇の位を贈られるが
「天皇だったものではないが特別に」と後醍醐にいわれる。
182日本@名無史さん:04/02/01 22:28
まずは光厳天皇の即位を公認するところから始めるべき
183日本@名無史さん:04/02/07 20:30
山奥に住んでる人は謎が多いね。
184日本@名無史さん:04/02/09 01:12
このスレまっとうな意見が多くてつまらないな

185日本@名無史さん:04/02/22 03:59
村上の治世自体がでっちあげの嘘だからなぁ
186日本@名無史さん:04/02/23 19:44
釣り餌が壮大すぎて食いつけるようなデカイ魚がいないようだね
187日本@名無史さん:04/03/13 15:09
甲冑を着て戦った天皇かこいいーー
188日本@名無史さん:04/03/13 15:47
>>178
皇室会議じゃないのか?
189日本@名無史さん:04/03/16 19:23
>>188

179のとおり
190日本@名無史さん:04/03/17 00:16
>>1
>戦で撤退する時、甲冑を見たら矢が二本
>突き刺さっていたとか。
>古代以降、こんな戦闘の経験をした天皇もいないだろう。

つーかそこまで戦場のさなかに入っちゃうのは古代にも滅多にいないだろ
191日本@名無史さん:04/03/17 20:46
カコイイ
192日本@名無史さん:04/03/17 20:47
虎ノ門書房本店の吉岡さん、かわいい
193日本@名無史さん:04/04/10 19:30
吉野の旧御所へ行ってきたが
あんな山奥の民家とは
落ちぶれ果てた様子がありありと目に浮かび
しばし涙
194日本@名無史さん
私も落涙した