1 :
日本@名無史さん :
02/05/25 21:02 金 <中略> 「奈良」という言葉が朝鮮語の「国」という意味だということも知らなければ、東大寺の 大仏が君中公麻呂という、百済からの渡来人である国骨富の孫が造ったものだということも知ら なかったわけです。いって歩いているうちに、奈良の町のたたずまいが朝鮮そっくりだということに 気づいた。 司馬 そうですね。 金 <中略> 大和の高市郡、というと飛鳥、すなわち、大和朝廷のあったところですが、そこには 奈良時代末期まで「帰化人が八,九割もいた」と書いてあるんです。『続日本紀』 それは日本全国いたるところ同じことがいえるんですよ。たとえば、鳥居竜蔵さん(考古学、 人類学者)などの説です。武蔵だったここには、八世紀に入ってきた高句麗の人々によって建て られた高麗神社(埼玉県入間郡日高町)その神主は今でも高麗氏です。現在五十九代目ですが しかも分社が武蔵だけで百三十以上あるんですよ。 司馬 そんなにあるんですか。 金 日本でもっともポピュラーな神社は京都の稲荷大社を本社とする稲荷神社と、九州の宇佐八 幡宮を本社とする八幡神社ですが、これもはじめは皆新羅人といわれる秦氏族がその 祖神を祀ったものなんです。そもそも日本の神宮・神社ということ自体、新羅の「神宮」(シングン) や赫居世(ヒョク コ セ)の「居世」――社を昔は社(こそ)ともいった――という尊称からきてるの ですよ。 <中略> 日本人というのはほとんど全部、朝鮮半島から渡来したもので、高句麗、 百済、新羅、伽耶と、遺跡によって系統づけてみることもできる。 司馬 ありうる話だし、壮大な解釈ですね。
2 :
日本@名無史さん :02/05/25 21:03
金 八世紀の奈良時代に『古事記』 『日本書紀』ができますが、『古事記』は朝鮮に対する反撥 というか、蔑視感はあまりないんです。僕に言わせると、『古事記』 は新羅人によって書かれた ものです。一方、『日本書紀』はどちらかというと、新羅を敵視し、蛮国視するわけです。 これは百済人によって書かれた。百済が滅びてからも数十万人が日本に来ているのですが、 中には鬼室集斯などのように、すぐに文部大臣のような重臣として迎えられる。すでに滅びてな くなった百済人達からすると、そのときはもう日本が最後の領土なんですね。そういう意識で、 かれらはこんどはその百済を属国視することになった。 司馬 移民の流れですが、どうして反対方向のは全然なかったのでしょうか。 金 それが少ないんですね。これは後の非常に悲劇的な日本人の移民の例ですが、<中略>
司馬タンに何か言ってあげて(゚Д゚#)
司馬氏は相づちうってるだけじゃん。
どこをどう読んだら【司馬絶賛】と解釈できるの?
6 :
日本@名無史さん :02/05/25 22:15
司馬 私は、自虐的にものを言うのは、あまり好きではないんです。「日本はダメな国です」と いうよりは、日本の自慢をしたいぐらいなんです。ところが、今日、ソウルからわざわざ来られた 高先生、鮮干先生という二人のすばらしい隣国の知識人を相手にするのに、日本側としては、 私と森さん、それに両国の「ちょうつがい」のような存在の金達寿先生の三人だけ。 私なんかが、朝鮮の形成に重要だった朝鮮人を百人挙げることができるかどうか・・・・・・。 そういうものが、韓国を論じるんですからね。韓国の文化、言語に通じ、しかも、文明として 自他をとらえうる、優れた感受性の人が、日本にもっといるべきだと、情けなく思いました。 日本の現在の文化というものは、五千年の文化と独立国家を維持してきた隣国、韓国に対して 、なんと貧困であるかが、この座談会をはじめる前に気づいて、茫然たる思いでした。 金 奈良時代は、日本が古代国家として独立するために必要なこととして、朝鮮を 敵視し蔑視しなければならなかったということがあったんだと思うんです。そして、明治以後は、 別の意味で、それがまた行われた。 司馬 古代史に関する問題も、単純な古代の問題ではなく、現代史の問題でもあるんですね。 金 そう、その通り。ほとんど日本と朝鮮との関係においては古代史とは現代史ということです なぜなら、日本人の朝鮮や朝鮮人に対する意識は、そこから作られはじめてきているからです。 渡来人が日本の文化を作り上げ、日本の天皇家の中枢部分を構成したということが、<中略>
7 :
日本@名無史さん :02/05/25 22:24
朝鮮人の自画自賛はもううんざり。 こういう事はハン板の連中に任せておけば? あいつらスペシャリストだし。
フ〜ン、お客さんを適当に持ち上げて、相手の舌を滑らかにする。 司馬氏の毎度の手だよ、相手の言う事に合わせての受け答えは。 対談であって論争じゃないからね。
9 :
日本@名無史さん :02/05/25 22:52
司馬が絶賛していた訳ではなく、当時の社会環境はあまりにも 韓国朝鮮人に差別的だったので、歴史的な事実に関係なく日本 社会を啓蒙する意味で金氏のトンでも説を容認していたのが実情 です。しかし其の事が日本のみならずかの国々に誤った歴史認識を 植え付けた責任は大きいと言わざるを得ない。 司馬氏に限らず戦後歴史家の善意から出た嘘は、たんなる歴史 を通り越して最近ではさまざまな政治問題になった理由の一つでもある。
10 :
日本@名無史さん :02/05/25 23:18
彼らは古代朝鮮に倭人がいたことを何故認めないのか? 考古学的にも文献的にも証拠はあるんですが。 百済は確かに日本の文化に重大な影響を与えたけれど、 『日本文化を作った』は言い過ぎでしょ?
11 :
日本@名無史さん :02/05/25 23:19
>>10 >倭人がいた
倭人がいて一定の勢力をもっていたです。
12 :
日本@名無史さん :02/05/25 23:22
任那日本府と何故いっちゃいけないのか? 前方後円墳から見て、大和朝廷に臣属していてもおかしくないのに。 日本書紀は全部嘘だとか訳わからねえ。
>>10 >彼らは古代朝鮮に倭人がいたことを何故認めないのか?
認めてないの?
14 :
名無しの歩き方@お腹いっぱい。 :02/05/25 23:23
>>10 百済が日本に影響を与えたって言うより、
百済から渡って来た中国の文化が日本に影響を与えたと言う方が正しい。
15 :
日本@名無史さん :02/05/25 23:27
>13 思うに、現在の考古学的状況から言って、日本書紀って正しいんじゃないか? 百済の人間が来て書いたんだから真実に近いと思うんだけどね。 なんで認めないかね。
16 :
日本@名無史さん :02/05/25 23:35
任那は国じゃないとか倭宰は日本府じゃないとか、単なるレトリックだ。
17 :
日本@名無史さん :02/05/26 04:16
金 「いわれ」のない差別とか優越感はありえない、と言いましたが、そのいわれの一つに 歴史教育の問題があると思います。僕は、全部では十二冊を予定している『日本の中の朝鮮 文化』というのを十二,三年前から書き続けていまして、小説を書く人間が、一方で古代史に 踏みこんでいるわけですが、僕は、小学校のころからずっと、歴史の勉強は嫌いでした。 僕は朝鮮から日本に来て、東京の小学校に入りました。僕は乱暴者で、「やーい朝鮮人」と いうやつは、片っ端からぶん殴ったものです。五年生になると国史というものを習います。そこに 神功皇后の"三韓征伐"が出てくる。そうしたら今度は「やーい三韓征伐だ」とやられるわけです。 以来、歴史の勉強は嫌いになった。それから日大専門部では、山田孝雄の『古事記』『日本書 紀』の講義を聴講する破目になったわけです。これがまた、神がかっているんだなあ・・・・・・・。 司馬 悪いコースですな。 金 ここで問題にしたいのは、歴史の教科書です。日本で国定教科書ができたのは、明治維新 後数十年たった十九〇三年ですが、以来、一九四五年まで、神功皇后の"三韓征伐"が続きます これがいまだに、日本人に強烈な印象を植えつけている。朝鮮人は、劣等だ、未開だと言うような ・・・・・・・。 森 "三韓征伐"というのは、言葉は変わっているけれども、いまの教科書にも、残っています。 しかも、「四世紀の後半に、大和朝廷が朝鮮半島に鉄を求めて進出した。そして任那という植民 地を作っていた」などと、実年代を入れてきています。これは、今年の一番新しい教科書です。 かつて漠然とした説話化、神話化したものを教えていたよりも、もっと明確な歴史的事実として 教えている。 高 われわれのほうでいえば、神功皇后、任那日本府などは、韓国史の教科書には、もちろん 出ていません。事実として全く考えられないことだし、記録にもないことですから。 たとえば、われわれの教科書には、漢の四郡の楽浪、帯方はきちんと入れてあります。別に 中国に親密感を持っているから、教えるわけではない。記録もあり、遺物もある。事実とされてい るから教科書に入れているんです。
18 :
日本@名無史さん :02/05/26 04:16
司馬 確かに、『日本書紀』には、"三韓征伐"のもとになった記述はありますけれども、四世紀 後半から五世紀にかけて、日本が朝鮮を軍事的にも政治的にも支配していたというような証拠は ほとんどありませんな。それが、今の日本の教科書には歴史的事実として出ている。そこが問題 でしょう。かつて神功皇后の時代に、朝鮮は日本に臣従していたから、そういう状態にもういちど 戻してもいいというようなことを、江戸時代の終わりごろに言い出す人が出て、西郷隆盛の征韓論 に影響を与えています。 金 ええ、だから、そういう古代の問題というものも、きっちりと整理しておく必要がある。
19 :
日本@名無史さん :02/05/26 08:21
ていうかどちらも古代に関しては シナ文明の周辺文明だろ
20 :
日本@名無史さん :02/05/27 09:34
司馬age
21 :
日本@名無史さん :02/05/27 14:57
司馬って進歩的w ドキュソ向けの駄文書き散らしてただけじゃないんだね〜
22 :
日本@名無史さん :02/05/27 15:11
___ (_- O-,_) |ニニ| ● ー`∀´ノ /( ) | ̄ ̄| ̄ ̄| ̄/ ヽ| ̄ ̄| ̄ ̄| ̄ ̄| ̄ ̄| ̄ ̄| ̄  ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄|~~ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | 彡 | | ● ,,_ | \ 彡ウザイモナー.| \ ● ∧ ∧| \ _,, 〇 ,,_ ∧_∧<`∀´> \ ヽ三三ミノ (´д`;⊂~~~~っ|\. \ (`ハ´ )8 ⊂ ⊂ ) ヽ、_ニ/ ⊂ヽ三ノ .)§ ) )、ヽ ||三| | ⌒ (_)(_) (__(__)、、- ) ノ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜( ノ λ -〜 人 / ヽ 。゜ -〜 λ ヽ 从 ( 。゚ ) ヽ 〈 乂 〜‐ ノ ) 〜‐ < ∠ ノ -〜 人
23 :
日本@名無史さん :02/05/28 07:32
司馬は売国奴 所詮大阪人
>>24 コヴァがこれに懲りて歴史の勉強をしてくれればいいが・・・
26 :
日本@名無史さん :02/06/03 03:46
コヴァがこれに懲りて日本国は朝鮮人が作ったと認めればいいが・・・
27 :
日本@名無史さん :02/06/03 05:53
司馬は、在日が集まったときの講演で 私は朝鮮が嫌いだみたいなことを冒頭でズバリ言ってた。 個々の人々は好きなんですが、という逃げの言葉とともにね。 講演録にあったから探してみよっと。
28 :
日本@名無史さん :02/06/17 07:17
29 :
日本@名無史さん :02/06/26 03:06
>27 ソースうpしる。
30 :
日本@名無史さん :02/06/26 03:11
日本人の起源は、シベリア経由と南方人がほとんどで 朝鮮半島経由は2割にも満たないってエヌエチケーの 特集で言ってますた。
31 :
日本@名無史さん :02/06/26 04:57
「街道をゆく」今読んでまふ
32 :
朱雀 ◆OtUfBSUc :02/06/26 08:08
1.金達寿氏が死去 「玄海灘」などの作家 97.05.26 産経新聞sankei.co.jp
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9705/html/0526side31.html 「玄海灘」や「日本の中の朝鮮文化」などの作品で知られる作家の金達寿(キム・タルス)氏が(97
年5月)24日午後6時46分、肝不全のため東京都中野区の中野共立病院で死去した。77
歳。朝鮮半島の慶尚南道昌原郡出身。自宅は中野区中野5-52-15-1007、葬儀・告別式は26
日午前9時から杉並区梅里、堀ノ内斎場で。喪主は長男、章明(ジャンミョン)氏。昨年夏ごろ
から体調を崩し、今年1月17日から入院していた。昭和5年、10歳で来日。新聞記者を
経て、21年から日本語で朝鮮事情を紹介する雑誌「民主朝鮮」の創刊、編集に携わった。24
年に長編小説「後裔(こうえい)の街」を刊行、本格的な作家活動を開始。朝鮮人差別を直
視し、古代から日朝関係を探った作品が高い評価を受けた。
33 :
朱雀 ◆OtUfBSUc :02/06/26 08:08
2.涙を胸に 金達寿氏天国に召される
http://www.butaman.ne.jp/~jklys/PLUS-ONE/sinsou/ikiru/kimdars.html 「玄界灘」で作家としての地位を確立した金達寿(キムダルス)の死が報じられた。日本
政府に翻弄された彼の生涯は怨念と涙に曇ったままであった。笑顔の中にある寂しさと哀
しさは、一個人の歴史ではなく、朝鮮民族全ての象徴として刻まれている。 05/26 (鈴)
キムダルスの生涯: キムダルスは朝鮮半島南部、慶尚南道で、地区一番の小作人を抱え
る大地主の家で生を受けたが、6歳の時、日本政府の指示により全ての財産が没収され、
その耕地には日本人移住者が移り住んだ。同時に両親は強制労働者として徴用され、日本
へ送られていったのである。(本人の記録には徴用とは書かず、働きに行ったとだけ書か
れている)残された6歳の少年は親戚へ預けられたが、その家は貧しくて苛められる日々
を送った。再び逢う事もなく、36才で両親は死亡。病気になり医者にもかかる事なく死
んでしまった。何の病気かも知れされて来なかった。キムダルスは哀れみを込めて言う「何
の病気かも判らずに死んでしまった。情けない死に方だよ......」10才の時両親の遺骨を探
しに来日。しかし生涯見つける事は出来ず、故郷には遺体のない墓が建てられている。10
才のキムダルスは差別と貧困の中で作業員や工員をしながら、日大芸術学部を卒業。1941年、神奈川新聞社の記者を皮切りに文筆活動へ入る。(略)
歴史の罪と言ってしまえばそれ迄の事。しかし歴史は人間がつくりあげていく。次の世代
の若者が、過去日本が何をしてきたか?の真実を知らないと、また二人、三人目のキムダ
ルスを生み出してしまうだろう。日本が好き勝手に利用した朝鮮半島には、まだ多くの日
本人老人が取り残されている。日本政府はそうした同胞ですら見捨てて来た。救う意思が
ないのだ。
34 :
日本@名無史さん :02/06/26 08:09
3.歴史を失ったものにとって祖国は切実な問題だ−金達寿 追悼特集−
http://www.asc-net.or.jp/saenulee/mz/edition4.html 金達寿(キム・タルス) は1920年生まれ、五歳の時、地主だった父、そして次兄が亡くなり、
十歳で長兄と渡日、波乱の人生が始まる。77歳で(1997年5月)亡くなるまで、彼の脳裏
に焼き付いた一枚の現象がある。故郷の静かな農村のポプラ並木道。いつまでもずうっと
彼を待ち続けて、温かく迎えてくれた祖母の姿がある。その祖母とともに暮らすことがで
きなかった罪の意識が、童心の金達寿をかきたててきた。
4.崔孝先著 『海峡に立つ人』 金達寿の文学と生涯
http://hihyosya.co.jp/books/ISBN4-8265-0262-1.html 在日一世として18才で日本に渡り、戦前・戦中の「朝鮮人差別」社会の中で、ひたすら
日本語による文学を通して「在日朝鮮」の姿をありのままに表現することを目指し、希有
な文学的才能を持続した金達寿。彼の文学と生涯を、初めて系統的かつ緻密に跡付けた労
作。また、李恢成、つかこうへい、伊集院静、鷺沢萌、柳美里など現代の「在日朝鮮・韓
国人文学」の作家論を付す。
36 :
朱雀 ◆OtUfBSUc :02/06/26 08:12
5.金達寿の略歴
http://www.asc-net.or.jp/saenulee/mz/edition5.html 1919年 慶尚南道昌原郡に、父・柄奎、母・孫福南の三男として生まれる。
1925年 5歳、父母、日本へ渡航する。次男・良寿と達寿は祖母とともに昌原に残る。
この年、父・柄奎と次男・良寿死亡。
1930年 10歳、兄・声寿が達寿を迎えに帰郷。兄とともに渡日。
1931年 11歳東京・品川の大井尋常夜学校に通い、初めて日本語を学ぶが、6年生に
なった年に退学。
その間、納豆売り、屑拾いなどで家計を助ける。
退学後は東京中を転々として、電球染色工場、風呂釜のカマ焚きなどを経験する。
1936年 16歳、早稲田大学の講義録をとり、独学。張斗植と知り合い、雑誌『雄叫び』
を作る。
1939年 19歳、日本大学専門部芸術科入学。日本人らと同人誌『新生作家』を始める。
1940年 20歳、短編「位置」を『芸術科』に発表。
1941年 21歳、『文芸首都』同人となり、金史良と出会う。
12月、兄・声寿、金史良ら、神奈川県特高に検挙される。
1942年 22歳、神奈川新聞社に就職。短編「塵芥」発表 1943年 23歳、神奈川新聞社を退社。ソウルに行き、京城日報社に入社。 1944年 24歳、ソウルから脱出するように日本に戻り、再び神奈川新聞社に入社。 張斗植らと同人誌『鶏林』を始める。ソウルでの体験をもとに「後裔の街」を書く。 1945年 25歳、6月、神奈川新聞社退社。8・15解放と同時に朝連結成に参加。12月、 長男・章明誕生 1946年 26歳、朝連の援助で雑誌『民主朝鮮』創刊。短編、論評などの執筆活動を盛ん に行う。 1949年 29歳、東京朝鮮高校の日本語講師となるが、米軍、日本政府の弾圧で学校は閉鎖 1968年 48歳、金嬉老裁判の特別弁護人となり、静岡地方裁判所に以後、4年間通う。 1970年 50歳、日本の中の朝鮮遺跡紀行に本格的に取り組む。 「朝鮮遺跡の旅」を『思想の科学』に連載開始。後に『日本の中の朝鮮文化』と して刊行される
38 :
朱雀 ◆OtUfBSUc :02/06/26 08:22
6.北朝鮮賛美から急に転向、釈明は行わず
http://member.nifty.ne.jp/~monju/c11.html この北朝鮮の一夜にして路線を変えるような体質は、なにも北朝鮮だけの話ではない。今
年1月、野党総裁であった金泳三氏が一夜にして与党と合同、韓国民がアッと驚いた3党
統合はつい最近の出来事だ。また、かつて北朝鮮を賞賛していた在日作家の金達寿氏が数
年前ソウルを訪問してから、北から南に路線変更したのは在日社会では有名な話であるが、
しかしいまだに60年代書いた北朝鮮賞賛を内容とした本を訂正もせず、平然と作家活動
をしている。 この路線変更、客観的情勢の変化によって変更したと自己正当化する点と、
絶対に過去の言動に対して謝罪しない点で、共通している。 ひとつの政権が変われば、
前の政権を継承するより否定することが韓国史では一般的だ。朴政権の否定の上に全政権
が成立し、全政権の否定の上に盧政権が成立した。高麗王朝が滅び、朝鮮王朝が成立する
と、千年以上続いた仏教を完全に否定して儒教一色となる。陶磁器の色彩も青磁から徐々
に白磁になったのではなく、急に青から白になっている。人はこれを称して「断絶文化」
と呼ぶ。このような環境で生き抜いてきた韓国人、北朝鮮の路線変更で驚く人はいないだ
ろうが、結果的に韓国人は政府を信用しなくなっている。
39 :
朱雀 ◆OtUfBSUc :02/06/26 08:23
40 :
朱雀 ◆OtUfBSUc :02/06/26 08:24
8.金達寿の生涯は? 1920(T09)年 韓国の地主の家に生まれる。 1926(S02)年 日本政府の指示により財産が没収され、日本人が移住してきた。 韓国併合は1910(M43)年、朝鮮総督府の土地調査事業は1912〜18年だから、 財産の没収は「総督府」とは全く関係が無い。 1926(S02)年 徴用により”両親”が日本に強制労働に出かける。 → その後、死亡する。 1919〜22年と、1925〜38年は”渡航制限”していた時期である。国民 徴用令が朝鮮に適用されるのは1944年9月からのわずかな期間だけである。 1930(S06)年 長兄とともに日本に渡る。 父母も、彼と兄も日本が朝鮮人に対し「渡航制限」をしている期間に、渡日 している。正規の手続きを踏んだのだろうか?、 父母が渡日した26年は、在日朝鮮人は15万人ほど、年間1万5千人が渡日 していた。1930年でも、在日は30万人、年間2万2千人程の増加だった。 疑問−父母の骨を探すために渡日、しかし解らなかった? a) 10歳の子供が異国(日本)に渡り、父母の遺骨を探せるだろうか? b) 総合的に見れば、父母+長兄が渡日、幼かった3男(金達寿)は朝鮮に残された。 c) 父母、次男が死亡、2人だけ残される事になり、長兄が日本から迎えに来たと考える のが自然である。
41 :
朱雀 ◆OtUfBSUc :02/06/26 10:41
金達寿家の没落過程 著作より 私の家というのは李朝時代は地方官であったから、どうせこれもまたロクな手段で取得し たものではなかったであろうが、日韓併合までは「50里(日本の5里)四方他人の地を 踏まず」とかいわれた地主であった。 それが数度にわたった土地調査によってだんだんと削りとられ、そのたびに、バカな話で あるが、住んでいる家の地形が悪いからこういうことになるというので引っ越しをしたり、 「風水」(墓の位置の占い師)を引き連れて先祖の墓を掘り返しては移したりしているう ちに、いつのまにか小地主の一つになってしまっていた。そのうえ、それまでは特権的な 旧官人で、自身働くことはもちろん、農業経営のことは何も知らなかったから、没落はな おも続いて祖父の代から父の代となり、1919年私が生まれたころには、これはもう完 全に没落しかけていた。 そして、私がはじめて目にした日本人というのは、家へくる高利貸であった。彼は家の者 や村の人々からはトクと呼ばれていたのを覚えているが、彼は、いつも二重まわしを羽織 って猟銃を手にしていた。私はいまも、このトクさんの顔と姿とを目の底に残している。 というのは、彼が訪れてくるたびに、必ず家では騒動がおこったからである。 収穫を終えたばかりの籾俵が、半狂乱のようになって引き止める祖母の手を払いのけてそ のままどこへともなく積み出され、そのあとからは、きまってこれまた父と母とは夫婦喧 嘩をした。私は、自分の一家の主体的なそれはすべてタナに上げていうわけではないが、 私の一家はこのトクさんが訪れてくるたびに音を立てて崩れていったようであった。あげ くは家をたたんで、日本への流浪であった」( 金達寿『朝鮮−民族・歴史・文化−』 ) Yahoo掲示板:韓国在住の日本人part2 メッセージ:106 投稿者: bosintang 2001・02・01
42 :
朱雀 ◆OtUfBSUc :02/06/26 10:52
>数度にわたった土地調査によってだんだんと削りとられ 土地調査事業では、「数度にわたり、だんだん削り取る」と 言う事は無かったと思われる。
日本史を知り尽くしていた司馬遼は、 史上に現れる朝鮮人の「たかだかとしたプライド」のことを 機会あるごとによく書いていたよ。 ちょっと司馬よめばわかるべ。
韓国人が真の愛国心を手に入れるのは反日という虚像がなくなった時だろう、 とも書いている。エッセイはあまり数がないが面白い事を沢山書いているね。
45 :
日本@名無史さん :02/07/10 06:17
>日本人というのはほとんど全部、朝鮮半島から渡来したもので、高句麗、 >百済、新羅、伽耶と、遺跡によって系統づけてみることもできる。 gm遺伝子も違えば、頭指数、鼻指数も違うだろ。一重瞼の出現率も。 電波なオヤジだ。
46 :
日本@名無史さん :02/07/10 06:31
こと自民族の文化となると、これを絶対化してしまい、いわば戦前の皇国史観と かわらなくなる。かれは日本文化については容赦なく相対化するが、こと朝鮮文化 となると、それを相対化したり解析したりすることはこばんでしまう。人類の文明 というものは古代も今もさかんな交流によって成立してきたということを、知的に もかれはわかっているはずだと思うのだが、こと朝鮮文化になると、目の前が 真っ暗になってしまう。 (司馬遼太郎「日韓・ソウルの友情」)
朝鮮半島の形って、アレみたいです。 アレっていうのは表現難しいけど、敢えて言うならコンドームの先っぽのチョイト突き出た精液溜める所。 アジア大陸から絞り出される何かが半島に溜まっている状態。 そもそもこの半島がなかったら、絞り出される「何か」が地勢(政)学的にも半島に溜まることもなかったろうに。 日本列島をユーラシア地図から更に離れてみると太平洋に飛び出して点々としている精液のようですな。 前者が不満が溜まった抑圧感なのに対し後者はノー天気な成就感が漂う構図を持っている。 冗談はさておき、朝鮮半島(または韓国)としては脅威の中国・北朝鮮と国境を接し、うまく折り合いを付けてやっていかなければならない。 日本に対してはいくらでも罵詈雑言を浴びせられる。そういう位置にある。 大きな家の「離れ棟」に間借りしている「タナ子」さんは、その反対隣の1軒家が憎いのだろう。
48 :
日本@名無史さん :02/07/26 15:03
>>47 マレー半島も形が似ている。
しかし、ゴムなしw
49 :
日本@名無史さん :02/07/26 15:11
昔「日本の中の朝鮮文化」を読んだときからの疑問なのですが 「神道」「神社」の起源も朝鮮なのでしょうか。 朝鮮にはそれを証明する鳥居などの遺跡があるのでしょうか。
>>49 神道は日本発以外のなにものでもない。
その本は間違いだね。
51 :
日本@名無史さん :02/07/26 15:31
>>46 こんな本音を隠して、1みたいなおべっかを言う司馬の人間性を疑うよ。
52 :
日本@名無史さん :02/07/26 16:14
日本の神道の原型は中国の道教らしいぞ。 鳥居はタイの北部の少数民族の村の入り口に そっくりなものがあって驚いた。もともと漢民族以外の 中国の少数民族だったらしい。
53 :
日本@名無史さん :02/07/26 16:43
つまりこの国は朝鮮だと言うことだ。 日本などと言う国号は間違いである。 直ちに返上すべきだ。
54 :
日本@名無史さん :02/07/26 16:47
誰かチミは。
55 :
エスパー伊藤 :02/07/27 22:39
まっ、日本人でよかった。 顔は思いっきり朝鮮顔だが・・ まっ、いいか・・ もう寝よ(-_-)
56 :
日本@名無史さん :02/07/28 09:40
八幡とかはもしかすると朝鮮起源かもしれませんけれど そもそも何処起源とかいうのがあまり意味がないですよね
57 :
日本@名無史さん :02/07/29 03:24
「起源」の意味が分かってますか?
58 :
日本@名無史さん :02/07/29 04:56
ていうか、朝鮮人というのは、戦前の日本統治がなければ、日本人より、中国人に遙にそっくりだと思うぞ。 中国人と朝鮮人のみわけがつくのは日本が統治したときに流入した文化とかのおかげじゃないか。
59 :
日本@名無史さん :02/07/29 05:12
それは日本人の目でみればそうなるが(類似点と相違点) 中国人の目でみれば日本人とカンコク人は似てるだろう どちらもシナの周辺文化なんだから似るのがあたりまえだ
60 :
日本@名無史さん :02/07/29 10:56
金達寿は日本の文化を何でも、朝鮮と結び付けようとする傾向がある。 根拠も名前が似てるとかが多いし。 司馬は中公新書から出てる(題名忘れた)陳瞬臣、金との対談本で 「ハングルはモンゴルから教えてもらった」とか「朝鮮には料理というものが無い」 とか結構、朝鮮に対して厳しい指摘をしてるよ。
61 :
日本@名無史さん :02/07/29 13:13
中国文明の通り道にすぎない朝鮮が何でこんな偉そうなんですか? 朝鮮への西洋文明は、結構日本経由で伝わりましたが、 日本人はそんなこと何とも思ってないのに。
62 :
日本@名無史さん :02/07/29 14:16
かなり昔の本だけど、「そうだったのか!」と思う部分と 「ホントカナー」と思う部分があった。 筆者の熱情がトバシ過ぎてったのか。 今では手に入らない……と思っていたら 先日から講談社学術文庫で復刊され始めた。 とりあえず読んでみるのは知的興奮があるかも。 中央公論社の対談本もときどき古本屋にでています。
63 :
日本@名無史さん :02/07/30 07:24
って言うか・・ 日本の戦前氏の研究が偏りすぎていると思う。 まず「悪者、日本ありき」で始まって日本のあら探しばかりです。 素人の私が普通に考えてみてもABCD包囲網なんて日本に「さあ、刀を抜け」と迫る 行為です。今北朝鮮に援助などせず経済ブロックしてしまえば間違いなく戦争を仕 掛けてきます。当時はどの国も帝国主義で侵略を当然としてやっていたわけですか ら、そこの所をふまえて議論も学校教育もして欲しいですよね。 また、日本の国域膨張が教科書で「侵略」と表記されず「進出」と書かれていたこ とについて批判が国の内外から有りました。「日本は侵略したんだ」と。 台湾・朝鮮半島などで日本はどれだけ略奪したか圧政をしたか、そういうこともあ ったでしょうが、公共事業も現地の子女教育もありました。それが侵略コンセプト と言ってしまえばそれまでですが、戦後アジアの国々がいち早く国として独立し、 平和に復興していったことと、ヨーロッパ列強がアフリカその他の地域から吸い取 るだけのやりかただったこと、それらのかつての植民地の国々が今だに国としての 体裁もなく地域紛争をくりかえし、健康・教育などの面で劣悪な状況を考え会わせ ると、はたして日本の戦前政策はヨーロッパ諸国の侵略と同じ言葉を用いて表現し てもよい物か? また、こういう日本弁護の論調は国内では右翼方面でしか声が上がらないことも悲 しいですね。 どんな悪人でも弁護士があてがわれる法学の精神は「善も悪も実は見方(味方)」 という相対価値論にあります。そして、人間の行為の多くは自然不可避的に行われ る部分があるという心理学的事実に基づいている。何も慈悲の恩寵ではない。 そういう意味では東京裁判は報復意図がハッキリと読みとれる。これを人権思想に 明るい左翼系の人々がなぜ問題視しないのか?私は憤りと疑問を感じる。 日本の弁護を一体誰がするのか?右翼だけに任せているからおかしくなるのだ。
64 :
日本@名無史さん :02/08/01 00:54
AGE
65 :
日本@名無史さん :02/08/01 02:13
金達寿って、晩年の方の著作で「渡来人は倭人だった」と書いているそうだが。 何ていう本か知らないか?
66 :
日本@名無史さん :02/08/15 14:44
倭人=大陸南方の海洋民族
67 :
日本@名無史さん :02/08/15 15:31
68 :
日本@名無史さん :02/08/15 15:33
アスカ(飛鳥・明日香)という言葉も、元は朝鮮語。
69 :
日本@名無史さん :02/08/15 18:52
そもそも隣同士なんだから、いろいろ似てて当然だろうが。 当時の朝鮮半島住民とかが渡来人な訳で、別にいまの限りなく敗戦国に近い戦勝国の、 日本をバッシングして支持率上がるような国の人間と同じじゃない。 今みたく、いちいち日本のする事なす事難癖つけるから コリアうぜえ → 半島人うぜえ、となる。 だからこそ、そんな朝鮮人を子孫に持って、てめえら不幸だな。 という論法が成立し、したがって朝鮮人はカスばっか、と自分で自らを貶めている訳だ。
70 :
日本@名無史さん :02/08/20 12:56
>>68 その話はよく聞くが根拠を聞いたことがない。
朝鮮戦争の際、朝鮮総督府海軍志願兵訓練所はどのように使われたか教えてください。もしそれ関係のホームページがあるなら教えてください。
72 :
日本@名無史さん :02/08/20 14:02
司馬は主に北朝鮮系の在日連中と付き合っていた。 本当に政治的立ちまわり、身の処し方が上手いのは司馬のような人間 だと思う。朝鮮と関って政治に取り込まれた作家と比べると…。
73 :
日本@名無史さん :02/08/20 15:44
>>72 そうだね。朝鮮は日清戦争で清国から離れ独立し、日露戦争で親露派が一掃されて
日本に併合される道を選んだ。日本海海戦をあれだけみごとに書き切った司馬が
朝鮮人の本質を知らなかったわけがない。朝鮮人との親交は大阪という土地柄も
あるだろうが、当時としては「街道」の取材の意味もあったのだろう。
「街道」は「日本の中の朝鮮文化」に対するアンチだったと思うよ。
75 :
日本@名無史さん :02/08/22 13:15
76 :
日本@名無史さん :02/08/22 13:27
>日本人というのはほとんど全部、朝鮮半島から渡来したもので、高句麗、 >百済、新羅、伽耶と、遺跡によって系統づけてみることもできる。 明らかにこれはデムパ。 ただし「関西人というのはほとんど全部、朝鮮半島から渡来したもので・・・云々」 と言い換えればこれは真実。 関西人である司馬が自己自身を日本の中の異質な部分として認識できていない以上、 彼が「日本の中の朝鮮」に対してアンチの姿勢を貫くのは不可能だろうね。
78 :
日本@名無史さん :
02/08/31 16:12 >>76 それも電波でしょう。
それを真とするなら関東人もみんな半島の難民を移植させたのが祖。あるいは混血。