関白と将軍どっちが偉いん

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1太閤
葵3代では秀忠が関白をよびつけ、下座に座らせてたけど
やっぱりそうなん?
時代は江戸以降なら
2日本@名無史さん:02/03/12 04:01
令下の官同士だから比べようがない
3日本@名無史さん:02/03/12 04:04
単発質問スレ立てるなよ、ちゃんと質問専用があるやろ
4日本@名無史さん:02/03/12 23:51
どっちが偉い?
結論求む?
5日本@名無史さん:02/03/13 17:17
単純に将軍と比べると行っても、上レスにある通り令外の官だから
征夷大将軍VS関白では比較にならない。
秀忠は極官が内大臣だったと記憶。
その時の関白が、右大臣以上なら関白の方が偉い(権力など抜き。単純に官位で)。
6日本@名無史さん:02/03/13 17:34
>>1
>時代は江戸以降なら

将軍の方が偉い(つおい)

------------------------ 終 了 -------------------------------
7日本@名無史さん:02/03/13 17:39
>>5
秀忠の極官は太政大臣.ただし、将軍辞任後.
このころ武家の官位は員外扱いなので公卿補任には載ってはいないが.
8日本@名無史さん:02/03/13 18:13
将軍家の任官も公卿補任には載ってないのか?
徳川宗家以外の武家のは将軍の家臣になるから載らなくても良いが。
将軍家は載ってるんじゃないの?知らんけど。
9日本@名無史さん:02/03/13 18:14
載らない
10日本@名無史さん:02/03/13 18:32
いっぺん見てみろよ、公卿補任.
11日本@名無史さん:02/03/13 20:14
足利義満以降、慣習上将軍家が摂関家を凌いでいるが、官位制ではあくまで関白が上。
近世以前「殿下」の敬称が許されたのは皇后・皇太子・摂関であり、将軍には殿下の称
号は許されていない(外交文書で相手国側から「大君殿下」と敬称されたのは、あるい
みで徳川将軍が摂関を凌いでいた事実によるか?)。
徳川将軍家も公家の世界では摂関家の下、精華家相当の家格とされていたが、実際には
関白の方が下座に着く。時の関白を扈従させた足利義満以来の「公方」権威が伝統的に
引き継がれるためか?
実際、徳川将軍の正室には摂関家の姫が多いのも、摂関家が徳川将軍家を同格あるいは
それ以上と見ていた証拠かも。
ちなみに近世以前の親王は摂関家(正確には大臣)より格下の扱いだった。足利義満以
降の歴代将軍は大臣に任官するのが慣例であったから、それだけで将軍は親王よりも上
席ということになる。
12日本@名無史さん:02/03/13 20:47
>ちなみに近世以前の親王は摂関家(正確には大臣)より格下の扱いだった
だから源兼明(醍醐天皇の皇子)が左大臣だったのに、親王宣下をされて
左大臣を辞任させられた事を恨みに思ったんですね。
当時の感覚では左大臣>親王だったと言うことなんでしょうね。
13日本@名無史さん:02/03/13 22:57
大臣と親王の席次の差は延喜式に出てくるyo
14日本@名無史さん:02/03/13 23:04
>>1
そんな事知ってどうするの?
15日本@名無史さん:02/03/13 23:06
偉いのは土地、軍事力持った将軍だろ?
関白でも秀吉ならわからんが、、
16日本@名無史さん:02/03/13 23:11
どちらが偉いかは時代が決めること。
平安以降の官制では関白の方が圧倒的に上。
本来、征夷大将軍は蝦夷討伐のための一将軍にすぎなかったから。(左右近衛大将よりも下だった)。
やがて武士の時代の到来で源頼朝が征夷大将軍になってからは武士の棟梁として君臨した。
しかし豊臣秀吉は源氏の子孫でないことを理由に関白になりその地位を復活させ自分がその職についた。
つまりその時代その時代に力(軍事力、権威)を持ったものによって役職の重要性はどんなものにでもひん曲げられてしまう。
だから比較するのは大変難しい。


17日本@名無史さん:02/03/13 23:36
そもそも、関白の席次にしても無理やり上げたんではなかったかと。
例えば内大臣で関白になったような場合、太政大臣・左大臣・右大臣の次になる
はずだったのを嫌って、「関白が常に最上座」というように変えたとかいう話は
ありませんでしたっけ。

であれば、少なくとも5のようにはならないのでは。
18歴史の勉強:02/03/13 23:42
秀吉は例外中の例外(五摂家じゃないのに関白になったし)だけど、
このばあい、将軍=公方のほうが偉いんじゃないかなあ?
関白・摂政はあくまで天皇の下にいるもんだから。
つまり、お公家さんにとって一番偉い役職なわけでしょ。

それに対し、将軍は「武家の統領」って感じの職業で、
実際の征夷大将軍という官位より、実態が尊重されるべきでしょう。
鎌倉幕府の将軍は、実際には将軍に就任していなくても、
「鎌倉殿」として権威を持っていました。
官位の有無は絶対ではありませんでした。
だから安達泰盛が「公方」を使い始めた。
つまり、公家と武家は別個の価値集団であると。
武家と公家を、もし比較するなら(足利時代以降)、
実力ある集団のボスである将軍のほうが偉いと考えられたんじゃないでしょうか?
事実上「日本国王」だったわけだし。
19日本@名無史さん:02/03/14 00:09
>>17
それは、藤原兼家ね。
天皇から一座の宣旨を取り付けた。
取り付けたといっても、一条天皇は7歳だったから摂政である自分で出したんだけど。
20日本@名無史さん:02/03/14 00:12
徳川将軍家も公家の世界では摂関家の下、精華家相当の家格とされていたが、実際には
関白の方が下座に着く。
>>
てことは、大河ドラマの秀忠が上座は合ってるわけね。
ほんなら、家光上洛の時、関白と挨拶する場合は家光が上座なわけやね
21スペルマン:02/03/14 00:16
22日本@名無史さん:02/03/14 00:44
age
23日本@名無史さん:02/03/14 03:04
age
24日本@名無史さん:02/03/14 07:34
ケースバイケース、それが全て
25日本@名無史さん:02/03/14 10:20
お〜い!みんなー。1は江戸以降って限定してるだろ。
江戸幕府以降の話をしなさい。
26最高指導者:02/03/14 12:47
関白より偉い将軍なんて
少将より偉い「カダフィ大佐」の大佐みたいなもので、
それが軍事力で制度化されただけ。
27日本@名無史さん:02/03/14 13:03
>>26
「ヒゲの伍長」とか。あ、違うね。
28日本@名無史さん:02/03/14 13:36
関白や将軍ではないけど。

右大臣の信長が一番偉い。
29日本@名無史さん:02/03/14 13:42
「日本には総理大臣より偉い人間が20人いる」by渡辺美智雄
30日本@名無史さん:02/03/14 13:47
偉いて言うか実際対面した時、どっちが上座にすわるか
を教えたれ
31日本@名無史さん:02/03/14 14:20
>>26
質問。カダフィ大佐って陸軍大佐?
実は長官としてのCOLONELとか。
32日本@名無史さん:02/03/14 17:09
カーネル・サンダースみたいな愛称だろ。
33日本@名無史さん:02/03/14 17:26
>>13
延喜式には出てこないはず。
三公と親王ではずっと席次の争いがあった。それを、禁中並公家諸法度で三公の下親王と定めた。藤原不比等が右大臣のときに舎人親王の上座に座ったとかいう故事を持ってきて。
有名な、「天子諸芸能のこと第一御学問也」というのも、禁秘抄に基づくとこじつけている。
34日本@名無史さん:02/03/14 17:26
彼は陸軍大佐
35日本@名無史さん:02/03/14 21:08
宮中では基本的に関白の方が将軍より上座。二条城に関白が出向いたときは将軍が上座になることもあるということ。
どこでも絶対的に将軍が上座ということではなかったみたい。着任がどちらが先かということでどちらが上座にすわる
ということもあったようだよ。
例えば、流浪の戦国貴族・関白太政大臣近衛前久なんて、現任関白のまま上杉謙信や浜松時代の徳川家康の元に奇寓し
ていたことがあったが、たぶん、城内では従五位クラスの謙信や家康の方が上座に着座していたようだ。ホント、ケー
スバイケースやね。


>>33
八省院での着座規定だよ。あるよ。大臣が親王の上座になっている。

江戸時代の話だと、光格天皇の父・典仁親王が大臣の下座に着座するのは忍びないといって、
無理矢理太上天皇号を贈ろうとして問題になったことがあったよね。
36日本@名無史さん:02/03/14 21:23
秀吉関白就任時には、官制上は、まだ足利義昭が征夷大将軍兼権大納言として在任し
たままであった。天正16年まで将軍在任。だから関白秀吉のの最初の2年間は将軍
と併存したことになっている。この時の関白は、もちろんのこと将軍を凌駕する
ものであったことは言うまでもない。
371:02/03/14 21:32
>>36
江戸時代ってのが読めないの?
まず国語の勉強してから来な。
38日本@名無史さん:02/03/14 21:47
>>31
リビアの最高階級は「大佐」じゃなかったかな?
あちらの国では、将官はいない。・・・と思うたぶん。
軍事板にでも逝ってちょ。
39日本@名無史さん:02/03/14 22:07
>>1
なんでお前の規定に縛られなきゃならないんだよ。
アフォか?すっこんどれ。
40日本@名無史さん:02/03/14 22:28
>>38
カダフィがクーデターで政権を奪取したが
諸外国が非合法政権と認定して元首と認めなかった。
なので今でもクーデター前の地位で呼んでるだけ。

関係ないのでsage
41日本@名無史さん:02/03/14 23:19
人様にモノ聞いといてふざけた態度の1は放置しろ!
42日本@名無史さん:02/03/14 23:29
宮中では基本的に関白の方が将軍より上座。
二条城に関白が出向いたときは将軍が上座になることもあるということ
>>
例えば、二条城で秀忠が関白の上座について
宮中では、逆に関白の下座につくのか?

43日本@名無史さん:02/03/14 23:36
並び位置も身分の順に上座側から並んでいるの?
44日本@名無史さん:02/03/14 23:47
実際、将軍と関白が対面したのは
家康、秀忠、家光?家茂?慶喜?ぐらいか
このときの記録ないの?
45日本@名無史さん:02/03/15 00:04
>>42 確かにそういうことはあり得るんじゃないかな。公式的な天皇出御の
場では宮中の席次主席はあくまで関白でしょう。将軍よりいくら関白の方が
若くても公式の場ではこの序列は崩せなかったのでは?
ただし、明正帝の即位後、太政大臣に任官した後の前将軍秀忠は、宮中でも
太政大臣として関白より上座に座った可能性があったかもしれませんね。何
せ現天皇の外祖父でしたからね。しかし、その時も、将軍家光の宮中での公
式の席次は関白より下座だったでしょうね。
二条城での席次は、将軍がたびたび関白を二条城まで呼びつけていることから
も、将軍の方が上座にあったと思われます。
しかし、三代家光以降、一四代家茂まで将軍が直接上洛することはなくなった
から、結局、将軍と関白が直接公式に対面するのは、関白の江戸下向の際に江
戸城内でということになるから、将軍の方がずっと上座になるんじゃないかな。
もっとも前職(太閤)ならともかく、現任の関白がわざわざ江戸ま下向する機
会なんてどのくらいあったんでしょうかねぇ?。

46日本@名無史さん:02/03/15 00:13
家康、秀忠、家光の徳川全盛期は宮中でも関白より
上座の気がする。
47日本@名無史さん:02/03/15 00:22
『公卿補任』は官職順の記載だからやはり関白(現任)が筆頭だよね。あれ
がほとんど宮中での「公式な」席次を反映してるんじゃない?
家康とか秀忠も右大臣とか内大臣のところに出てくるから、当然公卿補任記
載上は3番目とか4番目。
48日本@名無史さん:02/03/15 00:24
>>46
感情的にはまさにその通りだろうね。なんとなくその方が理解しやすい。
491:02/03/15 00:37
>>39
氏ね
50本物の1:02/03/15 00:52
49の1>>
1を語るなって
51正真正銘本物の1:02/03/15 01:23
50の本物の1>>
1を騙るなって
52マジレスはやめてね:02/03/15 01:58
ムネヲの妄想
ムネヲ(大臣)>> 高円宮(親王)
53日本@名無史さん:02/03/15 02:05
実際は高円宮に一蹴されたけどな
54日本@名無史さん:02/03/15 16:37
age
55mm:02/03/15 17:25
SAGE
56日本@名無史さん:02/03/16 01:42
将軍かな
57日本@名無史さん:02/03/16 21:28
ヒエラルヒー上、権威では関白。権力では征夷大将軍。

偉い、のは関白かな。
58日本@名無史さん:02/03/16 21:50
では関白と征夷大将軍を兼任したつわものはいるでしょうか?
59日本@名無史さん:02/03/16 21:52
>>57
1588年まで征夷大将軍だった足利義昭
=権力で信長、秀吉に劣る。

関白・豊臣秀吉=権威でも権力でも将軍を上回る。

平安時代の藤原氏=権威でも権力でも将軍を上回る。

ん〜一面的過ぎるよ、キミィ。
60日本@名無史さん:02/03/16 22:10
>>59
秀吉の場合は平家ということになってたので将軍にならなかった。
平安時代には征夷大将軍=武家の棟梁という認識が薄い。
足利幕府は1568年まで。
見方が一面的過ぎますよ。。
61日本@名無史さん:02/03/16 22:15
>>60
秀吉は義昭の養子になろうとして断られたから将軍に
なれなかったんですよ。
時代が違えば見方も違う。平安時代も上げるのが一面的ですか?
足利幕府が1568年まで? 新説ですか?
『公卿補任』の1588年の所まで義昭が征夷大将軍ですが・・・・
役職としての征夷大将軍が如何なものか知るには大事なことですよ。
見方が新しすぎますよ。。
62日本@名無史さん:02/03/16 22:22
>>60-61
>>1を良く読め。
63日本@名無史さん:02/03/16 22:24
摂政・関白は五摂家しかなれないのがルール。
秀吉・秀次は特例。
>1がいうTVのシーンは嘘、たとえ呼びつけたとしても
官位の高い者が上座に座る。
64日本@名無史さん:02/03/16 22:32
>>1
有り得ません。呼びつけて丁寧に出迎えて下座から脅迫するんです。
65日本@名無史さん:02/03/16 22:32
>>63
確かに時代考証がおかしかったね。
将軍宣下の時は、勅使でさえも将軍の上座に座るからね。
66日本@名無史さん:02/03/16 22:37
>足利幕府は1568年まで。

が気になって眠れそうもない・・・・
67日本@名無史さん:02/03/16 22:38
>>66
永遠に眠れ
68考える名無しさん:02/03/16 22:45
>>65
だって、将軍宣下の時は、手続きが終わるまで将軍ですらないのだから
69日本@名無史さん:02/03/16 23:03
>>68
徳川(源、足利)宗家を相続していれば事実上武家の棟梁だろ?
70日本@名無史さん:02/03/16 23:15
明治維新後島津久光は左大臣になったが、
徳川慶喜は内大臣(辞官)なので
もし対面してたら、島津が上座かよ??
71日本@名無史さん:02/03/16 23:59
やっぱり、葵3代がまちがってるんか
秀忠が関白を呼びつけ、上段から言葉も家来に使うような
命令口調で関白がびびりまくってたぞ
72日本@名無史さん:02/03/16 23:59
そりゃそうだろ?
勅使として下向した黒田清隆にさえ久光親子は平伏したんだから。
73日本@名無史さん:02/03/17 01:05
>63
>官位の高い者が上座に座る。

関白の席次自体がこれの例外だという話が、前の方に出ていたはずだが?
(関白より官位の高い者が同席している場合でも、関白が上座に座ると
いうことになっていた。)

それはともかく、娘の入内に関白の扈従を要求し、「上皇でさえ遠慮す
るのが常なのに、女御にすぎない和子に関白の扈従など前例がない」
と渋るのを強引におしきったりと、当時はかなり強硬に出てますから、
関白を下座に据えたりというのも「あるかも知れんな」という感じは
ありますね。
74日本@名無史さん:02/03/17 01:22
仮に秀吉が関白で太政大臣で、家康を将軍にさせ(幕府は開かせない)
状況なら、この時の力関係(太閤でも)では圧倒的に秀吉が上だろ
75日本@名無史さん:02/03/17 01:28
>>1
偉いん?というのは知能指数の事ですか?
76日本@名無史さん:02/03/17 01:41
 結局のところ摂関も将軍も時の権力者達の都合により、新しく設置されたり、
意味が変わったりした役職なのだから、どっちが偉いかもその時々の都合に
よるとしか言いようがないのでは。
77日本@名無史さん:02/03/17 01:43
>>35
現任の関白のまま「在国」したのは近衛前久だけだよね。
>>73
>上皇でさえ遠慮
院の御幸には関白はついていかないのか?
78日本@名無史さん:02/03/17 01:51
>>摂関も将軍も時の権力者達の都合により、新しく設置されたり
違うだろ!
>>現任の関白のまま「在国」したのは
在国って何?都にいたんじゃないの。
7976:02/03/17 01:58
>>
8076:02/03/17 02:03
すみません。間違って何も書かずに送信してしまいました。

>>78
 新しく設置された……関白
  意味が変わった……摂政・将軍

のつもりで書いたのだけど。関白の語源は前漢の宣帝の即位のときの言葉だったかな。
でも役職ではないはず。摂政は意味が変わったというより、
非皇族でも就任できるようになった、というほうが良いのかも知れないけど。
81日本@名無史さん:02/03/17 02:32
駄スレだけど面白い
類似命題
50万石の官位は4位の少将で大大名  と
100石で官位は大納言の羽林家の公家は どちらが偉いか?
8273:02/03/17 02:34
>77
> 院の御幸には関白はついていかないのか?

実際についていくのかどうかは知りませんが、とりあえず徳川和子入内の
ときには、そういう理由で一旦は拒絶しようとしたとか。
(結局は押し切られたようですが。)
83日本@名無史さん:02/03/17 02:59
ここは江戸以降て言ってるだろ
84日本@名無史さん:02/03/17 03:05
どちらが偉いか、と言うから分かりにくくなるので、
とりあえず、席次に限定してみてはどうでしょうか。

秀忠が、関白を呼びつけたとき、実際の席次はどうだったのでしょうか。
資料に詳しい人、いない?
85日本@名無史さん:02/03/17 03:09
葵3代では、秀忠が家来並に扱ってたぞ。
あれは本当か?
86日本@名無史さん:02/03/17 05:26
>>78
「在国」…長期の地方滞在
>>81
公家。
確かこんな話があった。
京都所司代が、泉にゅう寺に参拝しようと行列を組んで騎馬に乗って向かっていた。
すると、前に風呂敷をしょった男が歩いていた。その男、所司代の行列なのにどけない。
供の者が退かそうとすると、石山某というお公家さんだった。所司代すぐに謝罪。
すると、その公家に麿も泉にゅう寺に行くところだから一緒に行こうと言われ、仕方なく徒歩で同道。
所司代が、何で供の者を連れずに一人で歩いているのか、と訪ねたら、その公家、貧乏で家来が雇えない、と答えたそうだ。
8757:02/03/17 21:20
>>59
関白と将軍の比較でしょ? 信長は関係なし。
関白秀吉はその通りだと思うけど、例外から一般を導くことはできないのでは?
そもそもスレは、江戸期において、じゃないの?
(ちなみに、60は私ではありません)
88日本@名無史さん:02/03/17 21:39
>>87
江戸期ならション便公方の家重も関白よりえらいのかよ?
89 ◆MAIKOJbU :02/03/17 21:42
将軍も幕末になると尊攘派に弄ばれてるからな。
9057:02/03/17 21:51
>>88
だから、「偉い」のは関白!
9157:02/03/17 21:57
念のため、57の1行目は次の意味。

ヒエラルヒー上&権威では、関白。
権力なら、将軍。
92尋尊:02/03/17 22:05
一条兼良が金のために将軍御台所(中級貴族の出身)
日野富子に源氏物語を講義したあたりから、
また、その息子が土佐の℃田舎の荘園を確保するために
自ら下向したあたりから、摂関家の凋落は著しくなったと
思う。
931:02/03/17 22:07
>>56
氏ね
94日本@名無史さん:02/03/17 22:13
ムネヲが河野外相を満座の委員会で叱責、罵倒し
河野はムネヲに一言も反論できず、その場で謝罪した。
従二位征夷大将軍が関白を叱責するよりひどい。
幕府の奉行か下手をすると与力程度の家来が右大臣を
罵倒するくらいの状況だ。
95日本@名無史さん:02/03/17 22:29
江戸時代なら
家康〜家光>関白
は納得できる。
96日本@名無史さん:02/03/17 22:34
>>94
それをいうなら、元北海道沖縄開発庁長官、元官房副長官がTV中継
もされてる国会証人喚問で30代の議員歴数年の女に
「疑惑の総合商社」と言われるのも
陪臣の薩摩の大久保一蔵に恫喝される幕府最高執政官の老中より酷い。
97日本@名無史さん:02/03/17 22:39
>>96
だな。
幕府の3000石クラスの旗本が、数万石の小大名の家臣に罵倒されている状況か?
98日本@名無史さん:02/03/18 00:12
age
99日本@名無史さん:02/03/18 00:46
ステージの違いがあるでしょ、官職と官位は違うから。
将軍は従一位になれるけど、関白は正一位とかさ。
100日本@名無史さん:02/03/18 00:47
お稲荷さんか?(w
101日本@名無史さん:02/03/18 00:47
あほうめ。正一位はお稲荷さんだ。
102:02/03/18 00:49
>>97
お前つまんね氏ね
100ずざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
103日本@名無史さん:02/03/18 01:29
亭主淡白?
104日本@名無史さん:02/03/18 01:32
正一位=お稲荷さんってまさかマジレスじゃないよな、
105マジレスはやめてね:02/03/18 02:37
>>96
30代の議員歴数年の女は造反有理な組織な人なので、言っても無意味なのでは。
(これを言い出すと中国の文革期なんか 以下略)
106日本@名無史さん:02/03/18 11:45
>>99
奈良時代は生前に正一位になったひともいるが(藤原仲麻呂等)、
平安以降は死後追贈の位階だろ。生前は、従一位まで。
107日本@名無史さん:02/03/19 00:39
>>92
というより、応仁の乱以後荘園を押領されたことにより、と言った方がよい。
108日本@名無史さん:02/03/19 02:40
1
109日本@名無史さん:02/03/20 01:45
関白と将軍て兼ねれるんか?
110日本@名無史さん:02/03/20 01:50
>>109
そんな奴いない。でも、理論的には可能かも。
111日本@名無史さん:02/03/21 01:04
将軍だろ
112日本@名無史さん:02/03/22 01:53
age
113日本@名無史さん:02/03/22 02:06
結論導き出せるわけが無いのでsage
114日本@名無史さん:02/03/24 23:30
age
115日本@名無史さん:02/03/24 23:32
結論ならとっくに出てるだろ。
格が上なのは関白。
征夷大将軍のそもそもの任務を考えればそんなことは当たり前。
116 :02/03/27 15:03
 
117日本@名無史さん:02/03/27 21:38
そもそも「偉い」の意味は?

ただ、「力がある」のと「偉い」は通常の感覚では別だと
言わざるを得ない。(もちろん、力のない将軍も存在したが)
「偉い」は、(人格について言っているのではないのなら)
地位の上下だと考えるのが自然ではないか。

よって、関白


118日本@名無史さん:02/03/27 21:44
武家のトップが将軍で、公家のトップが関白でしょ。
だから武家と公家の力関係の問題で、時代によると思う。
119日本@名無史さん:02/03/27 22:22
>>118
んじゃ、武家の棟梁にして関白の豊臣秀吉はどうなの?
120日本@名無史さん:02/03/27 22:31
>>119
一番偉いに決まってんじゃん。
121日本@名無史さん:02/03/27 23:23
>>119
偉いんじゃなくて、権力があっただけだろ。
122日本@名無史さん:02/03/27 23:52
江戸時代でも近衛基熙、家熙親子のように
将軍家宣・家継の後ろ盾的な地位に居た例もある。
基熙はこの時厳密には前関白で太政大臣だが家宣治世に
史上初の東国に在していた現職太政大臣。
123日本@名無史さん:02/03/28 00:01
>>122
それは、一寸娘の嫁ぎ先に遊びに行ってただけじゃないか。
124日本@名無史さん:02/03/28 00:08
文久3年に上洛した将軍家茂に対する礼遇が、厳密な上下関係を示している。
内大臣の席次で、関白どころか大臣の末席が用意された。
125日本@名無史さん:02/03/28 00:10
>>123
一寸遊びにで家宣没まで二年も居るのか。
126日本@名無史さん:02/03/28 00:22
太政大臣は特に職掌がないのよね。京都にいなくても、困らないか。
それとも、霊元院との仲たがいが原因か?
127日本@名無史さん:02/03/28 00:31
>>124
よくもまあ、幕府も文句を言わなかったもんだね。
朝廷なんて、幕府から宛がい扶持を貰っているに過ぎないのに。
128日本@名無史さん:02/03/28 00:36
>>127
しょうがないじゃん。内大臣なんだから。もっと長生きして出世しなきゃ。家斉みたいに。
129日本@名無史さん:02/03/28 21:11
>128
内大臣かどうかよりも、実力の問題でしょう。
例えば家康、秀忠の頃であれば、内大臣の将軍であっても末席を用意する
度胸のある奴はいなかったのでは。
いずれにせよ、この手の席次って、内大臣の関白が太政大臣よりも上席に
いるのと同じように、実力者のゴリ押しでどうにでもなるものでしょう?
室町時代だと、関白なんて将軍の家礼みたいですし。偏諱も与えられてい
るし。
130日本@名無史さん:02/03/29 23:40
age
131日本@名無史さん:02/04/23 02:14
kannpaku
132日本@名無史さん
余談ながら、半年に一回くらいの頻度だけど、
「天皇と徳川将軍はどちらが偉いのですか?」
って、何回か会社に電話してくる変な人がいた
なあ。「以前にも同じ電話を……」っていうと
切られちゃうんだけどね。極端な例でおかしい人
だとおもうけど、この種の話は、意外とみんな
疑問に思ってるものなのかな。