関ヶ原で西軍が勝利した場合−慶長十二年前期版−

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660無名武将@お腹せっぷく:02/06/22 00:08
あげええ
661無名武将@お腹せっぷく:02/06/23 12:36
                       }k
                       ノ;'l{
                     _ノ;人'、
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Il"^ヾ、,rーir;======i、ーy'-;ーkー┐,}イ_,レ´i~,;k'_~メv^-チ_ツゝく,ノ~v^j,´)、_}ゝク-ヽヽノiス´ヽ^{、
;;|,-r‐'y';_rllr======V´)、_}ーv'´ヽil~シ'_ノ`i~,k'_~T"v~「^j,´)、_}ーv'ケ^‐スj〜シ'_ノ`iへヽ}v'ケ^〜v、
I;l; _i; ,.t`i、;ll;r======k^〜v__ゝ;く,i|k'_~T"v~「^j,´)、_}~ス、く,ノ_,ク~-{`y´K´ナv^ーヌ_{ソ\ヽく,ノ~i´ナ,、
iIネ, Y,k';:i-;ll;r=====,=i、ノ~i´_{ `y;:.l|jント、~i_イ^j_Y~i´ゝ‐`メ_ヌ~i´K´y'ト-ナv^ーヽ~‐`ー^‐゛゛'゛'';"‐'~
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662前田利政@隠居中 ◆MaedaH7. :02/06/23 21:14
>>661
大儀。
663無名武将@お腹せっぷく:02/06/23 21:30
>>663 まさしく
664無名武将@お腹せっぷく:02/06/24 21:04
つづきは?
665無名武将@お腹せっぷく:02/06/24 22:11
   ,.、,、,..,、、.,、,、、..,_       /i
   ;'`;、、:、. .:、:, :,.: ::`゙:.:゙:`''':,'.´ -‐i
   '、;: ...: ,:. :.、.∩.. .:: _;.;;.∩‐'゙  ̄  ̄
    `"゙' ''`゙ //゙`´´   | |
        //Λ_Λ | |
        | |( ´Д`)// <おはようございます
        \      |
          |   /
         /   /
     __  |   |  __
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     ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
     ||  || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
        .||              ||
666無名武将@お腹せっぷく:02/06/24 22:56
666げっと!
いくぞ〜、1,2,3,慶長12年〜
       みんなで踊ろうよ!!
       ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        /⌒\  /⌒\
      ((    ; 三    ,,))
        ヽ   (  /    ミ
         キ   .メ   ./
  /⌒\   乂      ノ    /⌒\
((( ^人^ )   (・∀・ )   (((・∀・  )
  )  (⌒)))   )   (⌒))) ノ  つ つ ))
 (_ノ⌒ ̄   ((__)⌒ ̄ (((⌒ノ⌒(_
667無名武将@お腹せっぷく:02/06/30 11:44
あとちょっとだって!!
668無名武将@お腹せっぷく:02/06/30 18:29
蜂須賀〜
669無名武将@お腹せっぷく:02/07/01 18:43
おーーーーーーーーーーーーーーい
670無名武将@お腹せっぷく:02/07/02 19:42
最後は?
671無名武将@お腹せっぷく:02/07/04 13:01
閉めようよ
672蜂須賀蓬庵 ◆dOgOu8gA :02/07/04 21:06
HDD壊れたんで、ちと手間取ってました、すんません。

さて、老中内で多数派を確保した真田信幸は朝廷工作を再開したが、
朝廷は豊臣政権内の対立を危惧し、なかなか色よい返事を出さなかった。
状況が膠着していたある日、幸村が信幸を訪ねた。

信幸「よう来た、左衛門佐。」
幸村「お久しぶりです、兄上。」
信幸「して、今宵は何用じゃ。」
幸村「将軍任官の件に御座います、朝廷が色よい返事を出さぬは京都所司代が原因かと。」
信幸「さようか。板倉のやつのしわざか・・・」
幸村「あと一つ、兄上に秀頼候名代を勤めていただこうかと・・・・」
   「秀頼候は政事に興味なく、兄上が秀頼候名代に就けば天下の権は兄上の手に帰しましょう。」
信幸「しかし策はあるのか。」
幸村「前田殿に話は通してあります。利常殿は利政殿と違い御家大事な御方。
    幕政において前田家を老中首座に置く事を条件に与力いたすそうに御座います。」
信幸「手回しがよいのう。父上を見る思いじゃ。」
幸村「万事おまかせいただけますか?」
信幸「頼むぞ、幸村。」

真田幸村は諸侯に裏工作をすすめ、信幸を秀頼の名代に置くことに成功した。
名代は職制の外に置かれ(老中職からは外れた。)、かつての執権に匹敵する強大な権限をもっていた。
信幸は伏見に入ると、京都所司代の頭越しに朝廷に圧力をかけて、明年吉日に勅使を下向させる約束を取り付けた。
元和7年正月
日吉丸は元服し秀成と名乗り、武田家より正室を向かえることとなった。
同時に朝廷は秀成に対し、内大臣・右近衛大将に任じた。
諸侯は秀頼・秀成親子に年始の挨拶をする為、大坂に集まっていた。

<大坂城・千畳敷>
秀頼「皆の者、大儀である。」
   「わしは秀成に家督を譲り伏見にて隠居する。これより後は老中の下、豊臣に忠節を尽くしていただきたい。」
一同「(平伏して)ははあ。」
信幸「・・・・・・・・」

・・・・秀頼の隠居により信幸の権力基盤は一夜にして崩壊した。
その後、信幸は援明軍総大将に任じられ敵将である片倉重長をして、
「真田日本一の兵なり、古よりの物語にもこれなき由。」と言わしめる戦功を上げる。
彼は明の地で戦死したが、彼は死ぬまで真田者であったと「真田家文書」は伝えている。
674糸工:02/07/05 18:16
おつかれさまでした。
さりげない援明オチ、ナイスです
675豊国通鑑追記 ◆cqVjPaCQ :02/07/06 02:29
官僚独裁を恐れる幕府はあらゆる職制を複数制とし、
権力と責任の分散を図った。
これが後に日本人気質と揶揄される基と成っていく。

只、一つだけ暗黙の律令に例外が置かれた。
国難や未曾有の危機に対し臨時に置かれる宰相の位。
すなわち大老職である。

泰平の幕府250年の歴史の中で大老が置かれた例はわずかしかなかったが、
いずれも劣らぬ清廉さと英明さを兼ね備えた名宰相ばかりである。
国を支えうる大老の器を輩出出来たのは、
石田家と蜂須賀家のみだったと歴史は伝えている…。

         増田家所蔵 豊国通鑑追記
676店主:02/07/06 11:44
久々にのぞき申した。少し読み申したが蜂須賀殿
御苦労に御座った。
677吉川広家 ◆qTcKK2Zs :02/07/06 12:33
後に長門・周防36万石の太守として毛利家より独立した吉川家。
萩城の改築を何度か老中に申し入れ、確約をもらう。
改築を開始して3日後、幕府より法度破りとして改築の即時停止を命じられる。
10日後、大坂城千畳敷にて詮議を受ける。
そこには、かつて争った旗本大名の顔が並び、広家は、それが罠であったことを知る。
豊臣幕府最初の取り潰し大名は、吉川家36万石であった。
後、吉川家の家名は残され、長門にて9999石を与えられる。
秀頼の死後、それを追うように秀就が病死。
幕府は、毛利家の家督相続に3度まで口出しをし、嫡男の単独相続を認めなかった。
幕府が倒れた250年後、毛利一族は、12家の独立大名となっており、
本家の安芸毛利家の石高は42万石であった。
維新の折の幕府最初の戦闘・広島の合戦では、
毛利家の軍勢27000は統一行動が取れず、死傷者300と微小な被害ありながら敗北した。
錦の御旗、最新の銃器を理由に挙げる者もいるが、敗因の最大のものは、指揮系統の乱れであった。
秀就の遺言には、
「豊臣家は毛利家の兄である。何があろうと、豊臣家に忠義を尽くすのが、
毛利家の進む道である。豊臣家に弓を引く者は、我が子孫ではない。」
といった一文が含まれていた。
678元兵庫 ◆VciK.AsQ :02/07/07 18:46
蜂須賀様 ご苦労でございました。
679蜂須賀のご隠居:02/07/09 15:54
最後はあまり突っ込んだ書き込みをしてないので、(HDD壊れたせいもあるけど・・・)
みなさんそれぞれに想像してください。
真田殿は最後まで諦めないというカキコがあったので、
少々登場していただきました。

最後にこのスレに関わった全ての皆さんに冶部殿になりかわって御礼申し上げます。
680無名武将@お腹せっぷく:02/07/09 23:01
さあまだ始末記だしてないのは誰だ

681遼東王伊達政宗:02/07/10 12:34
皆様方の締めを踏まえて、作り直してみました。
-----------------
日本より大陸に渡り中華帝国の宰相にまで上り詰めた伊達政宗の物語は後世の人々の夢想を限りなくかきたてる。
しかし彼自身がどういう想いを抱きながら大陸の土となったかを知る者はいない。

遼東王・丞相伊達政宗は皇帝ホンタイジ、皇兄ダイシャン親王と共に新興帝国・清の発展に尽くした。
日本の豊臣中央集権体制の確立を横目で睨みつつ、渡海組にくすぶる日本侵攻論を押さえながらの政権運営は彼にいかほどの辛苦を強いたか想像にあまりある。
彼の困難の頂点は、徐南王に封じられていた鍋島直次らが南明と呼応して挙兵、日本より援明軍まで迎えての激戦となった「靖南の役」であったろう。

清は荊州方面より南明軍、徐州方面より反乱軍と日本南遣軍、そして幽州方面より朝鮮軍と日本北遣軍を迎える形となり、一時は帝都すら危うくなるほどの危機に陥った。
この窮地を救ったのはドルゴン率いる満州八旗の精鋭と渡海組の総指揮を執った伊達成実、そして若くしてその先鋒大将を務めた片倉重長だった。
ドルゴン軍は北平郊外の会戦において朝鮮軍を粉砕、余勢を駆って日本軍を包囲すると独断で講和に持ち込み撤退させることに成功した。
成実軍は徐南において反乱軍を殲滅、先鋒大将の重長は自ら乱戦の中で片腕を失う重傷を負いながら日本軍を撃破、総大将真田信幸を討ち取る武勲を挙げた。
重長はこの戦いにおける日本軍の勇戦敢闘を激賞し、「真田日本一の兵なり、古よりの物語にもこれなき由」と皇帝ホンタイジに上奏している。信幸の遺体は最高の儀礼をもって荼毘に付され、後に日本側に引き渡された。
役の最後にダイシャン親王率いる禁衛軍が南明軍を破り、戦役は終わった。

戦役の後、清と南明は日本も交えて台湾にて条約を結び、敵対関係に終止符を打った。
これを見届けるようにして政宗は卒した。遺言として、日本に残してきた嫡子秀宗に家督を相続させること、遺骨のうち半分を故郷米沢に埋葬することを指示している。
日本との間で若干の交渉が為された後、秀宗は米沢周辺にささやかな所領を貰って父の菩提を弔うこととなった。伊達家は分家され、中国における伊達家は成実が相続するという形で決着した。

後に日本が維新の生みの苦しみに身悶えしているころ、清もその命運が尽きた。
西欧連合軍の手で帝都が陥落した時、その郊外にて最後まで抵抗し玉砕した部隊の指揮を取った若者を伊達靖成といった。成実の子孫である。





682無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 12:35
>>681
おまえも懲りない奴だなあ
683無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 22:05
>>681
お疲れ様。他の方々どうですかな?
684無名武将@お腹せっぷく:02/07/10 22:17
孔明のように幼君によく仕え政治にすぐれた手腕を発揮し
後世に大人気となる
いきなり謀反人扱いかい・・・あまりに酷いので釘うちかねて。
------------------------------------------------
戦前より英雄と称えられた伊達政宗だが、万民に好かれているかと
言われるとそうでもない。特に九州四国での彼の人気は最悪である。

靖南の役での謀反人とされた鍋島直次。しかし昨今の資料を調べると
どうやらこの謀反は政宗に踊らされたものだったというのが現在の主
流になっている。そもそも直次自体に謀反を起こす能力も気概も無か
ったらしい。渡海組の一人として日本侵攻論の強硬派の急先鋒である
彼は政宗にとって頭の痛い問題だった。その為政宗は明の一部の官僚
を抱き込み、一計を案じる。清王に直次が疎まれているという風聞を
流し、彼が治める徐南に明から頼まれもしないのに莫大な貢物が送ら
れ、多くの事業への援助が行われたのである。結果明との関係を危惧
した皇帝ホンタイジは(政宗の助言も当然手伝って)直次に詰問状を
叩きつける。ことあるごとに詰問に苛まれ、風聞に心を痛めた直次は
泣く泣く兵を揚げざるをえなかったのだ。そしてこの討伐に政宗は同
じ日本侵攻論を掲げていた津軽、秋田、有馬、相馬らを向ける。共倒
れを狙っているのは明白だが、皇帝じきじきの勅命に逆らう戦力は無
く、彼らは同士討ちをやらざるを得なかった。ここまでは政宗の計算
通りに運んだといっていい。
ところがここで明の一部が日本の動きに乗って大軍を差し向けてきた
為予想外の大戦争になってしまった。不幸なのは先鋒の津軽軍たちで
真田軍を中心とした大軍に襲われ相馬義胤、秋田実季が討ち死に(戦
後子が認められず事実上消滅した)し、津軽信牧も両足を失い散々に
蹴散らされた。しかもその間援軍はなかったのである。明らかな見殺
しだった。
後、戦線の延びきった日本軍は片倉重長率いる大軍に補給路を絶たれ
敗北する。戦後片倉は英雄として称えられたが、先鋒軍は微々たる俸
禄のみを与えられるのみに止まり、ここに日本侵攻派は急速に力を失
っていったのだった。
日本では太平洋戦争などで戦神としても称えられた政宗。しかし九州
では「冷酷で手段を選ばぬ男」として今日も彼は嫌われている。清が
倒れた際、どさくさにまぎれて旧秋田や鍋島の一族が伊達の子孫を皆
殺しにし、反逆者として彼らは粛清された。しかし、彼らはこちらで
は英雄扱いされている。
686無名武将@お腹せっぷく:02/07/11 20:29
  
687紅毛 ◆9HPiLqCc :02/07/12 01:12
悪いけど最期に駄文。三か月間の時間の浪費の決算をさせて下さい。

一七世紀初頭の極東に空前の商業ネットワークを築き上げたヤン商会。世界史上初の近代型多国籍企業
として、多くの歴史家から評価される同商会だが、その世界史上に占める活躍の期間は類を見ないほど
短いものだった。
同商会の最盛期は1606年。ポルトガルのマカオ、スペインのマニラという旧教国の二大拠点
を一度の遠征で陥落させ、極東の海上交通を独占した。この年の同商会の総収益は金貨二十万枚。
日本有数の大貴族として知られる前田家の総税収に匹敵する額である。
しかし、同年、創業者ヤン=ヨーステンが消息不明となったため事態は急を告げる。
巨大なカリスマを失った同商会は、重役による後継者争いを一年以上にわたって繰り広げた揚げ句、
ヤンのいたずら書きとも思える遺言状が発見されたことから全株式を立花家に譲渡するという事態
を招いた。
その後、旧幹部の大半は五隻の船団を編成し帰国の途につくが、船団はインド洋上で嵐に巻き込まれ
難破。二隻が沈没し、一隻が行方不明となる被害に見舞われた。結局二隻の船団が本国にたどり着い
たが、生き残ったのはわずか十八人。彼らは命を懸けた冒険の正当は報酬として一州の年間予算に匹
敵する財産を持った。
かれらのその後の人生は大きく異なる。あるものはそれを北海漁業に投資しさらに富を得た。あるも
のは北海干拓事業に多額の資金を投資し少しの富と多大なる名声を得た。
しかし、とりわけ後世の人々の感動を呼ぶのはカンブ=トゥーという元幹部で、かれは、主人が果た
せなかった夢を実現すべく、船団を率いて遥か北へと旅だった。行き先は日本で船倉には大量のジャ
ガイモが積まれていた。
688紅毛 ◆9HPiLqCc :02/07/12 01:19
その二。長いなあ。すまそ。

なお、彼らの根拠地だった台湾のその後について記す。
委譲後、オランダ勢力はゼーランディア砦以外の台湾をすべて李=立花家にゆだねる。
ルソン占領の翌年にスペインの大艦隊が停泊先の日本より襲来した。
オランダ東インド会社艦隊の応援を得た立花=李軍と激しい戦闘を繰り広げた。
初期のルソン砦を巡る攻防戦で、スペイン上陸軍は、宗茂公以来の伝統を持つ立花軍の野戦陣地を
縦横無尽に利用した戦いの前に一敗地にまみえた。さらに艦隊も上陸作戦中に後背に廻ったオラン
ダ東インド会社艦隊の海上封鎖を受けて身動きがとれない状態に陥った。
しかし、ここで小西家艦隊などを主幹とする日本義勇船団がゼーランディア砦の攻撃を開始したと
の知らせが舞い込んだ。蘭艦隊は封鎖を解除し、急きょ北進。混乱状態のままゼーランディア沖海戦
で小西艦隊と交戦し、全艦隊十五隻のうち実に八隻を失うという大敗北を喫した。

ルソン砦攻防戦で敗北したスペイン軍上陸部隊はこの隙に無事撤退を完了。ミンダナオ島に再上陸
し数回に渡る現地人との交戦、虐殺を経て、ルソンに匹敵する拠点の構築に成功する。

李=立花家はルソンを守り通した。
援明戦争でも、中立的な立場を貫き通し、清に大量のオランダ製火器を販売し、大いにその武略を
助けた。その一方で満州軍十五万に包囲されていた援明日本軍約十万の救出作戦を奇跡的に成功さ
せ大いにその声望を高めた。
その後、李氏台湾は清と南明の和平交渉に尽力したとして、両国から册封をうけ、東洋の海洋国家
として長く歴史に名を留める。ゼーランディア城は一九九九年までオランダ領にとどまる。

ヤン商会の拠点のうち、式根島の唐人津城守備隊百人はスペイン遠征軍に発見され、1606年
のうちに全滅させられていた。三百年を経た今、名前だけが残っており、その奇妙な名前に魅せら
れ多くの歴史研究家がなぞ解きに挑戦している。
択捉島は慢性的な食糧不足から駐留を断念、1610年に蝦夷地南部に移植した。今に残る都市名
「室蘭」はその名残である。

摂津の国にあったヤンの領地二千石はヤンの現地妻の子であるヨハンによって相続される。
この異例とも言える相続劇の影には、豊臣家の重臣でヤンと親交のあった蒲生郷舎公の意向だとも、
身元引受人としてヤン叙爵に尽力し商会のスポンサー役を努めた前田家の意向だとも言われている。
後世に残る八重洲家はその末裔である。


小西の野望、それは政・教・商の三位一体化であったと言われているが、
真実は、後に小西屋の総番頭として名を残した、益田四郎時貞のみに伝えられた。

小西 「帝がうんこするって知ってる?お釈迦様は下痢が止まらなかったんだって。」
四郎 「そんな畏れ多いことを言いますと、罰があたりますよ。」
小西 「罰なんてないんだよ。罪もない子供が、焼き殺されたりするんだ。戦で。
その子に罰が当る理由なんて、ないでしょ。朝鮮で僕、いろいろ悪さしたんだ。
食べ物のために、いろいろ。でも、僕、大大名さ。仏様も、神様もいないんだ。
人なんて、みんな死んじゃうの。だからね、少しでも多くの人に、美味しいもの、
たくさん食べさせてあげたいんだ。ただそれだけ。お金は、使うために増やすの。」
四郎 「・・・」

世界最初の総合商社、小西屋の名は、我々の生活に溶け込んでいる。
小西電鉄、小西化学、小西銀行、小西不動産、小西運送、小西海運、百貨店の小西屋、
薬局のゆきなが、そして小西物産。世界の商船の3分の1が、小西屋の船であった時もある。
牛丼の小西家、定食の小西亭。スーパー小西。
食品の品質と安さで、小西グループは絶対的な信頼を得ている。

小西行長が死の間際、不可解な言葉を残した。
「いけねっ、忘れてた。許してね、御免ね。」

2003年、小西電鉄、清洲・名古屋線の地下鉄工事で、古城の地下深くより、
地下牢のようなものが発見された。
そこには、クルスを手に握った、西洋人と思われるミイラが横たわっていた。
690九鬼嘉隆:02/07/13 00:08
九鬼家は本家守隆と赤穂佑慶の家に分かれた。
本家守隆流はその後、近世大名家の性格を強くし次第に海賊本来の野性味を失った。
ただ、豊臣政権内での官僚大名として存続する。
赤穂九鬼家は初代佑慶以降豊臣政権内で水軍に関する要職を務める。しかし、五代
佑長の時、大坂城にて刃傷沙汰を起こし断絶。
十年を経ずして、その家臣達が起こした騒動は所謂忠臣蔵として語り継がれる。

近世九鬼家の始祖嘉隆は、慶長十二年隠居。その後まもなく死去と伝えられている。
しかし、九鬼家庶流熊野家文書によると、嘉隆は慶長年間に安南に渡海。その後、
墨西哥へ渡海。同地で死去とされている。

史家の判断はこれを否定するのが定説であるが、いかにも嘉隆らしいと思うのは私
だけであろうか。

1982年「近世九鬼家文書についての考察」抜粋。

こんなものでいかがでしょう。九鬼の始末記。練りが足らんね。
最後に、氏家殿、蜂須賀殿。感謝。
691無名武将@お腹せっぷく:02/07/13 00:47
いい感じ
あとひとおし
追記
世界最初の総合商社、ヤン商会の名を挙げる者も少なくない。

小西家は、1700年代に全武装を撤廃した。
軍事は、大谷家、上杉家、真田家、前田家など、関東・北陸諸藩に礼を支払う形で
大平の世を渡り切った。
維新では、奥羽列藩同盟に資金提供をおこないつつ、官軍に船舶を提供した。
小西屋の23代目小西博之が、2000年代に「輪ちゃんねる」という掲示板を運営。
戦国・維新板にて、大自作自演スレ「小西家が天下を取ったら」を楽しんでいる。
腹がよじれるー。
694無名武将@お腹せっぷく:02/07/13 21:33
保全あげ
695無名武将@お腹せっぷく:02/07/14 21:43
保全あげ
696無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 01:55
保全上げ
697無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 02:11
氏家織田島津上杉佐竹蒲生前田舞幸村どした?
698無名武将@お腹せっぷく:02/07/15 19:46
しね
>>698
つまらねー奴
700織田秀信 ◆OH.emODA :02/07/16 15:36
その後、織田秀信は数年所司代として在京するが元々病弱なため激務に体が耐えられず
伏見城下で病に倒れほどなく死去。行年二十七。
以前より養子として入ってた実弟秀則が後を継ぎ二代藩主となる。
秀信死去より三ヶ月後に正室完姫に男子生まれるが生後まもなく完姫も没したため
正室の実家である豊臣家の猶子として大坂城内で育てられる。

二十数年後、二代藩主織田左中将秀則が岐阜城で病没後
嫡子頼則と秀信の忘れ形見豊臣(織田)秀勝との間で家督騒動が起き岐阜藩は改易の憂き目に会う。
当初太閤秀頼は秀勝に相続させようとしたが老中たちの両成敗の意見に押され取り潰しとなる。
このころはまだ大名改易政策は幕府の大名統制の根幹として続けられていた。
しかし織田家筆頭家老津田昌澄が内外に渡り尽力した結果、武蔵川越5万石として再興する。
再興後は転封を何度か繰り返し五代後にようやく美濃加納13万石として藩祖の地美濃に返り咲く。
また織田秀勝も河内国内に五千石を与えられ高家として子孫は存続した。

維新の折、加納織田藩は新政府軍の進軍に一戦も交えず降伏。戦後身分を保証される。
ただ大坂城開城後摂津国内で蜂起した旧幕臣の諸隊の小隊長の中に
高家織田家の末裔である織田大膳の名があったことは意外と知られてない。
701前田利政@冠紛失:02/07/16 17:28
ではお久しぶりですが皆様にならって。

蜂須賀率いる小大名連合との駆け引きに嫌気がさした利政。
突如高野山へ蟄居をした。後ほど国表に使者をやり、弟・利常に家督を譲った。
豊臣幕府の成立を高野山で見届けた後、嵯峨野に住み、宗悦や宗西と号し本阿弥光悦らと交わり風雅自適の生涯を送る。
嫡子・直之は利常に召され、前田土佐守として幕末まで加賀前田藩を支える重臣の家系となった。

利政は隠居後、一切政治向きの話は直之とはしなかった。しかし晩年、直之に密書を送り、遺訓を残したという。
その内容は今に伝わらないが、幕末、反幕に傾く重臣達の中、唯一の左幕派で、終始豊家への報恩・石田家との連携を主張し続けたことから、
遺訓の中身が推察される。


702舞 兵庫 ◆Lg4BMHgs :02/07/18 06:33
吉野動座より二十数年、日の本が太平の眠りへとつこうとしている年の瀬
吉野賀名生にて八条宮智忠親王(先帝八条天皇の皇子)がお隠れになった。

吉野朝廷はいつしか忘れされられたが、親王の家系は代々賀名生御所として
吉野の民より敬われ近世へと続いていった・・・・・。
時が過ぎ幕末、各地より志士が多く世に出維新の導火線役を担ったが、
中心となったのが、八条宮の後裔である智成王を旗頭に結成された吉野志士
であった。かれらの多くは非業の死を遂げ、報われた人生をおくらなかったが、
その存在が維新の原動力になったのは確かである。
余談ではあるが、吉野志士を世に出した指導者は自らを前野兵庫助となのっていた
という。
703111:02/07/20 22:54
test
704無名武将@お腹せっぷく:02/07/23 19:31
kuso
君は何がしたいのかな?
っていうか、絶対佐竹じゃねえだろ、あいつは。
だれだ・・・。
707無名武将@お腹せっぷく:02/07/26 12:21
とにかくうざいっていう事実はのこるな。
708無名武将@お腹せっぷく:02/07/27 12:59
uu
709無名武将@お腹せっぷく
tenka