全く話題にすら上らない藩について語ろう!

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519日本@名無史さん:02/09/21 18:00
>>509
林忠崇は会津にも函館にも行ってないぞ。
忠崇は伊庭や人見の遊撃隊に加盟し、東海道の譜代諸藩を説得しながら
箱根まで移動するが小田原・長州・鳥取・津・岡山の五藩から攻められ敗戦、撤退。
その後奥州まで転戦するが、反論を降服に決定した仙台藩に勧められて
輪王寺宮能久法親王と共に仙台で降服している。
520519:02/09/21 18:02
無論、請西藩士も一緒に降服している。
函館までいったのは人見と伊庭。
521日本@名無史さん:02/09/21 20:14
26万石もあるのにまったく世間から注目
してもらえない徳島阿波藩、唯一の自慢の
阿波踊りも今や高円寺名物へ、悲惨。
522日本@名無史さん:02/09/21 20:20
遠江 大沢家、偽一万石
523日本@名無史さん:02/09/22 00:29
>>521
蜂須賀茂アキ侯は明治天皇からお召しがあったとき
天皇が中座された際に葉巻入れから2〜3本ポケットに入れたら
戻られた天皇が葉巻入れを覗いて
「先祖は争えぬのう」とのお言葉を賜ったそうです。
血筋から言うと蜂須賀家は養子相続を繰り返してて
侯の直接の先祖は徳川家斉将軍なんですが。
524>:02/09/22 00:36
>521
維新後の稲田騒動
淡路の人間は蜂須賀がキライだったのであろう
一説に淡路島が徳島ではなく兵庫県になったのは
この住民感情を配慮したと言われる。
525?1/4?3?μ?O?P:02/09/22 06:41
>>521
心の中では”自慢”してたろうけど・・・
実際はむしろ”疎まれて”たみたい。
何しろ、”阿波踊り”期間は”禁足令”(武家)みたいなもんが出てたらしいし、
そのせいで”お家断絶”となった(つまり、阿波踊りを踊っただけで)
家もあったくらい。
526日本@名無史さん:02/09/22 09:20
武士の生命は殿様に奉るべきものだから
ふぐを食って死ぬと、家名断絶だよ
527伊達遠江守家中:02/09/22 10:51
>524
蜂須賀家と稲田家は元々盟友として同格だったのに、維新後に当主が華族−
士族、家臣が士族・卒族−卒族・平民と大差がついてしまうために駆け込み
立藩しようとした稲田家を蜂須賀家が弾圧しようとしたので発生した。
しかも、幕末においては何かと出遅れがちな本藩に比べて時流に応じて活躍
して藩の名誉を保ったと言う自負もあり、御三家付家老や吉川家のようにな
りたい、またなって当然と言う思いもあったのだろう。
結局、目的を達せられないまま稲田家臣団は北海道へ移住し、蜂須賀家側も
責任を取る意味で淡路を兵庫県に移され、さらに一時高知県に合併されると
いう憂き目に遭った。
528日本@名無史さん:02/09/22 10:56
石高21万石の大藩有馬藩だろう。話題に上んねーなー、この藩は。
529伊達遠江守家中:02/09/22 23:57
支藩は比較的語られない、って言うか本藩に含められちゃうからなぁ。
黒石(津軽)・八戸(南部)・清末(毛利)・秋月(黒田)など。
530日本@名無史さん:02/09/22 23:59
>529
あと、伊予吉田(藁
531MARCO@考古:02/09/23 00:30
有馬と言えばもとは摂津国有馬郡地域出身・・。
主家ではなく家臣の庶流ですが、元文部大臣有馬朗人氏の先祖も有馬出身の有馬氏一族。
藩主有馬豊氏が久留米に行く前、福知山の前、横須賀に居たとき有馬郡から従っていったという。
(有馬則頼・豊氏親子はそれまでの分郡守護有馬家と違い、播磨淡河または三木出身(いづれも旧美嚢郡)といってますが・・。)
そして・・有馬郡の三田藩九鬼3万6千石も・・あまり話題に上らないないですね。
九鬼水軍から山奥におしやられちゃったからかな・・?
文部小輔にして帝室博物館総長九鬼隆一・・は家臣の出身。
明治8年の政変後も官界にのこり、恩師福沢からも「藩閥の出身でなし、保身のためにはしかたなかろう・・。」と皮肉られた。
あと「化学」という言葉を初めて使った蘭学者川本幸民もこの藩出身。
兵庫県庁裏手の公園相楽園は、この藩出身で神戸財界で君臨、神戸市長にもなった小寺謙吉の邸宅跡。
殿さまは・・?
(相当早くから洋式軍隊の編成をはじめ、蘭学や英学を奨励。維新後はさっさと神戸に出て貿易事業や神戸女学院やその他教育事業をしたそうだ・・。)
維新期はトップではないけれどそれなりに中堅処の人材を輩出していますが・・。
江戸期を通じてぱっとしていないといえば、していない。
532日本@名無史さん:02/09/23 00:32
何故、真木和泉の話題が出てこないのだ???
533 :02/09/23 01:02
>>527
それって、江戸初期(以前)の話では!?>盟友関係

とにかく、蜂須賀家初代・家正及び、二代・忠英による
初期門閥制の解体・直仕置体制により、稲田氏を淡路城代に配し
かと言って、藩直属の洲本仕置を置き”一応”藩が淡路を仕切る
体制を整えた・・・
・・・・しかも、天保期には淡路の海防役を”かって”に稲田家に
まかせ、そのせいで家臣が”六倍”にも増えてしまった等・・・

はっきり言って、”いじめ”です。
534伊達遠江守家中:02/09/23 01:11
>530
それを言っちゃぁ、おしめえよ。(泣藁
幕末は、本家と今ひとつ息が合わず佐幕的な傾向が強かったようです。
立藩時のいきさつから言えば、近くの本家より遠くの総本家って感じ?(藁

>533
あぁ、言葉足らず。大名蜂須賀家成立時の頃のお話です。
何でも、独立領主になれるところをあえて留まったという話だそうですが。
535533:02/09/23 06:31
>>534
それはそれはどうも。

でも、なぁ〜んかそれって今で言う”在○”さん達と一緒のような。
536日本@名無史さん:02/09/23 07:17
>>507
讃岐・・・高松藩と丸亀藩と多度津藩、三藩あわせても総石高が18万石か・・・。
これじゃ何もできんという罠。
537日本@名無史さん:02/10/05 17:09
538日本@名無史さん:02/10/05 17:10
讃岐うどん食いたい。
539日本@名無史さん :02/10/07 19:20
先日、棚倉城にいってきました。
「畑俊六終焉の地」という碑があって笑いました。
540日本@名無史さん:02/10/07 19:30
阿波・蜂須賀

しょうじき何もないが
「鳴門秘帳」で安らかに眠れ
541日本@名無史さん:02/10/09 15:16
豊前岡藩・中川家。
賤ヶ岳で戦死した中川清秀の子孫。
542日本@名無史さん:02/10/10 01:13
有馬といえば地元から江戸藩邸に勧請した水天宮が有名
年1回だか月1回だか江戸庶民の参詣も許して大人気
有馬の大名行列はなぜか犬を連れていて
これも庶民には人気だったらしいです
543>529:02/10/10 09:10
維新後だが
秋月の乱
544日本@名無史さん:02/10/11 00:11
有馬は豊臣時代にも秀吉の仮装宴会で「湯文読み」の格好して来て自分の所の温泉を宣伝してたっていうし
観光大名なのか?
545日本@名無史さん:02/10/26 12:05
546日本@名無史さん:02/11/03 11:03
あげ
547日本@名無史さん:02/11/03 14:14
安房船形藩、信濃川成島藩。ある意味、不遇な藩だ。
548日本@名無史さん:02/11/03 18:12
>>547
川成島の本郷泰固は13代家定、船形の平岡道弘は14代家茂の側近で、
ともに旗本から大名となり、若年寄に就任した。

前者は一橋派だったため、安政の大獄で領知を没収され旗本に戻り、
後者は維新後、徳川宗家について駿府に下ったため、諸侯の地位を失った。

一方、幕末には旗本から高直しで立藩した本多、蒔田のような家もあるので、
本郷家や平岡家は複雑な気分だったことであろう。
549日本@名無史さん:02/11/03 18:36
>>547
川成島は信濃ではなく駿河だった。訂正します。
550日本@名無史さん:02/11/03 19:29
>548
船形の平岡道弘は諸侯になっていません。
551日本@名無史さん:02/11/03 20:48
一応、平岡家は「藩」と呼ばれています。
ただ、その1万石は足高込みなので、諸侯と呼びがたい面はあります。

しかし、旗本のまま若年寄になったのは永井尚志が最初と言われているので、
やっぱり諸侯でいいのではないでしょうか?
552日本@名無史さん:02/11/09 19:58
成羽藩山崎家も高直りで大名です。
553日本@名無史さん:02/11/10 02:06
>>551
「一新前諸侯たりし者」は請西藩の林家を除いて皆華族に列せられているので
平岡は諸侯ではないでしょう。
554日本@名無史さん:02/11/10 11:48
>>553
平岡丹波守は、少なくとも幕府の中では大名の扱いでよいと思います。
徳川家の駿河移封に際して主家と運命を共にすることを選んだので、
明治以降は諸侯の資格を失ったということでは?

請西の林家は当初士族でしたが、熱心に運動して華族になったそうです。
だから、子爵ではなく一新後に家を立てた者として男爵になっています。
555日本@名無史さん:02/11/10 18:51
age
556日本@名無史さん:02/11/10 20:25
>>554
角川の日本史事典で安房の大名配置を引くと、
平郡勝山(内藤家2万石廃藩の後、酒井家1万2千石)
安房郡館山(里見家11万2千石廃藩の後、稲葉家1万石)
安房郡長尾(本多家4万石)
安房郡北条(屋代家1万石廃藩の後、水野家1万5千石廃藩)
長狭郡東条(西郷家1万石廃藩)
長狭郡花房(西尾家3万5千石)
天羽郡上総百首(松平家1万5千石廃藩)
以上7箇所だけです。
喜連川5千石を唯一の例外として1万石の知行がなければ諸侯とはされませんから、
足高を足して1万石では旗本でしかあり得ません。
557日本@名無史さん:02/11/10 20:51
>>556
足高という点に私もひっかかるのですが、
新人物往来社「日本史総覧」の「各藩変遷表」で安房を調べると、
勝山、館山、東条、長尾、花房、船形、北条の7藩でした。
「船形藩」の記述は以下のとおりです。

船形藩 (安房平郡船形・千葉県館山市)
平岡氏 元治元(1864)〜明治元(1868)
@道弘 元治元・9・28
    領地1千石と足高5千俵加増。1万石となり諸侯に列す
    領地奉還
558日本@名無史さん:02/11/10 21:07
「日本史総覧」の「明治初期中期藩府県沿革および地方官補任表」には
明治元年閏4月現在の藩名を最初にあげていますが、こうあります。

請西藩(上総)→官没収
船方藩→大名不成立(知行所の問題から石高5000石のため)

やはり、一応大名だったものが、維新後その地位を失ったのではないでしょうか?
559日本@名無史さん:02/11/10 21:37
幕末も押し迫った頃で幕府も財政難だったからなあ。
変則的な大名もありうるということだな。
560日本@名無史さん:02/11/11 08:24

近藤勇を老中(格)にして、甲府100万石の空手形
をつかませたくらいだから(w
561日本@名無史さん:02/11/11 14:49
平岡って先祖がたしか小早川秀秋の家老だよね。
562日本@名無史さん:02/11/22 19:46
下手渡藩について語って下さい。
563日本@名無史さん:02/11/25 14:14
立花種次だっけ?
土浦藩はどうですか?
一応土浦城の跡があります。
関東100城に選ばれたようですが。
565日本@名無史さん:02/11/25 16:52
守谷藩というのもあったらしいね。
566日本@名無史さん:02/11/25 17:35
若桜藩
567日本@名無史さん:02/12/03 01:54
568日本@名無史さん
守谷は家康没の翌年に廃藩