全く話題にすら上らない藩について語ろう!

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1日本@名無史さん
湯長谷藩とか伯太藩とか生実藩とか・・・
2日本@名無史さん:02/01/31 00:21
>>1
例にあげている3藩はそれぞれどこにあるんすか?
3日本@名無史さん:02/01/31 00:28
ははははは。確かに存在すら知らない藩だ。
松山藩。出羽の。
4日本@名無史さん:02/01/31 00:30
肥前は負け組
5日本@名無史さん:02/01/31 00:33
梁川松前藩
6   :02/01/31 00:42
湯長谷・・・陸奥内藤家1万5千石。
伯太・・・和泉渡辺家1万3千5百石。
生実・・・下総森川家1万石。

ともに、譜代衆です。
7名無しピーポ君:02/01/31 01:57
西洋フードシステムズの傘下にあるらしい。
http://www.han.ne.jp/
8日本@名無史さん:02/01/31 04:02
じゃあ飯山藩についても語ってくれませんか?
9日本@名無史さん :02/01/31 04:35
>>7
土佐藩っていう飲み屋もあるよ。こちらは西洋フードかどうかわからんけど。
10日本@名無史さん:02/01/31 04:39
>>1
251以上出て来るよ。
地方で絞ればいいのでは。
11日本@名無史さん:02/01/31 04:58
私の実家がある古河市は、かつては古河藩十六万国の城下町。もっとも
お城は堤防工事のために明治期に壊されちゃったけどね。
では、問題
1 現在の何県でしょう?
2 旧国名ではどこの国でしょう?
3 そもそも「古河」は、なんと読むでしょう?
12日本@名無史さん:02/01/31 07:38
>11
1 茨城
2 上総
3 こが(ふるかわってのは何?)
1377資産:02/01/31 08:55
関宿藩
終戦大臣・鈴木貫太郎が出身だ

古河はフルカワ家を中心とする企業集団
第一勧銀系グループの有力メンバー
古河電工が有力企業として有名です
朝日生命も古河グループだったとおもう
茨城のコガ市とは関係ありません
1411:02/01/31 10:01
>12
おしい。1と3は正解。
2は、上総ではなく、下総です。
なお、13さんの言うように、企業の古河電工は古河市とは関係ありません。
15日本@名無史さん:02/01/31 10:31
大泉藩
16日本@名無史さん:02/01/31 13:24
チョン州藩
17日本@名無史さん:02/01/31 15:19
長瀞藩
米津田盛
18日本@名無史さん:02/01/31 18:05
鹿島藩(佐賀だよー)
正月にいったら、家とお墓が崩れてた・・・。
19日本@名無史さん:02/01/31 19:46
浅尾藩
20日本@名無史さん :02/01/31 19:47
蒙古藩
21日本@名無史さん:02/01/31 20:43
棚倉藩
22日本@名無史さん:02/01/31 23:41
だいたい、1〜5万石程度の藩なんて・・・(藁

播州赤穂藩だって、例の事件がなけりゃ、話題になったことか
23日本@名無史さん:02/02/01 00:15
私の地元福山藩はどうですか?
いちおう阿部正弘がいるけど
24 :02/02/01 00:18
五島藩
25日本@名無史さん:02/02/01 00:23
1 「ヲイ!幕末の生実藩のクレイジー度について大いに語ろうじゃないか!!」
一同「シーーーン」
1 「・・・・・・・」 
26日本@名無史さん:02/02/01 05:43
>>13
関宿藩って、初期「なんでも鑑定団」の鑑定士の長老
「いけませんの上のいけません」って言ってたおじい
の出身地でしょ。
27日本@名無史さん:02/02/01 21:37
>26
あのおじいちゃんは関宿藩ではどんな役職だったの?
28厚木市民:02/02/01 22:07
俺、江戸時代に地元を治めてた殿様は誰なのか知らん(w
29日本@名無史さん:02/02/01 22:12
飫肥藩・ケノービ
30日本@名無史さん :02/02/01 22:37
関宿は千葉では珍しく○○解放運動が盛んなとこだね。
31日本@名無史さん:02/02/01 23:06
>>24
藩主の叔父が富江にて3000石で分家したお家騒動はそこそこ有名では?
32日本@名無史さん:02/02/01 23:45
>>26
それは上総の大多喜藩だよ、あの人の家は豪商で邸宅は重要文化財に指定されてるよ。
3326:02/02/02 01:27
>>32
失礼仕った。
拙者大多喜藩についても無知ゆえ御教授願いたし。
34世界@名無史さん:02/02/02 01:37
>>32
殿様に多額の金を貸し付けてたようだね。
どうせ大半は踏み倒されたんだろうけど。
その代わり沢山の拝領物を貰ったらしい。
35日本@名無史さん:02/02/02 01:47


福知山藩・綾部藩・山家藩・園部藩について語ってください
36日本@名無史さん:02/02/02 01:53
こらこら神奈川の皆さん、荻野山中藩と、六浦藩を忘れていませんか?。
もっと時代を遡るならば甘縄藩も。
37日本@名無史さん:02/02/02 01:57
>>35
福知山藩だけぼんやり覚えてる、鳥羽伏見でなんか大失敗
をしでかしたとこ。
38日本@名無史さん:02/02/02 08:07
>36
え!六浦藩てどんな藩よ
どのあたりに殿様住んでたの?
39現役SE:02/02/02 08:48
>>32
江戸時代のはじめ頃は安房の里見氏への防衛線としてそれなりに重要視され有力大名が配置されてましたが
里見氏あぼーん後はどうでもよくなってます。

有名なのはスペイン人のドン・ロドリゴ一行がメキシコからフィリピンだったかの途中で
船が難破して外房の大多喜藩領に漂着し大多喜藩主に保護されたので
彼が色々(大多喜城は非常壮麗な城で〜とか藩主は手厚いもてなしを〜)書き残していますな。

今はコンクリの復興天守がある他には現存遺構は井戸と門が残ってますな。
40日本@名無史さん:02/02/02 09:10
上総請西藩(林家・1万石)
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kantou/jozai.html
http://www.chiba.mmd.ntt-east.co.jp/nov97/nov_d1.html
http://village.infoweb.ne.jp/~ksatake/pjosai.html

最後の藩主である忠崇がいなかったら、郷土史ぐらいにしか
残らなかったような小藩

最近こういう本が出て、知名度が若干アップした?
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/pocketpc/wsea.cgi?W-NIPS=9974005094&RCODE=OB26%2FO06
41日本@名無史さん:02/02/02 09:27
>40
林君、すごいね〜
幕軍の「高杉晋作」でしょうか??
しかし何で?

この藩(と言うか藩主)については語れるね
あんた藩士の子孫?
42現役SE:02/02/02 09:30
色々特色のある殿様ですな。
江戸時代の大名で無位無官だった藩主って彼だけではないかな?
幕末の混乱と戊辰参戦の影響で結局叙任されなかったらしい。
43日本@名無史さん:02/02/02 09:42
>42
けれど長生きした「最後の殿様」だったとか
44日本@名無史さん:02/02/02 09:57
萩藩36万9,000石の支藩長府藩5万石のさらに支藩清末藩1万石はまったくのマイナー藩。
主家である萩藩が幕末にやった数々の暴挙の煽りを受けて
幕府の討伐の対象にされた不幸の藩。
45日本@名無史さん:02/02/02 10:18
>44
それを言ったら吉川藩なんて関ヶ原後で毛利家の存続に奔走したのに
「裏切り者」として毛利藩からのいじめにあい、藩としても認められなかった
維新後、藩に昇格だし
と言っても話題には上る藩でした
46日本@名無史さん:02/02/02 10:42
それら全てまとめて大メジャー藩の長州藩が出来上がります。
47日本@名無史さん:02/02/02 10:44
>38
今の横浜市金沢区内に存在。米倉家1万石だー!。武田氏の旧臣の家柄。
金沢区六浦に陣屋跡(の碑)があったと思うよ。
なぜか米倉家菩提寺は秦野市に存在。

28>
まさに荻野山中藩だよ。荻野に陣屋跡の碑が有ったけど
新道が出来て移動させられちゃったね。
ちなみに小田原の大久保家の分家。確か吉宗の時に加増されて
立藩したんじゃなかったかな?。
幕末に攘夷派の藩士が、陣屋を焼き討ちする事件が起きてる。
48日本@名無史さん:02/02/02 10:59
大多喜藩って桑名藩に移るまでは、本多忠勝が封ぜられてたよね。
現在地の大多喜城の場所に築城したのも忠勝でしょ?。
49>:02/02/02 11:40
明治になってから立藩した犬山なんか
すぐ廃藩置県をむかえたから
藩としての事跡はほとんどないのでは?
50日本@名無史さん:02/02/02 12:04
犬山藩と言えば個人持ちの最後の天守閣犬山城を持つ成瀬家か?
何か市と揉めてるってテレビでやってたね
51日本@名無史さん:02/02/02 12:19
>50
それはもう解決した。
当主は高齢なのか娘が応対していたような。
今の犬山市長は暴れん坊だな。
52日本@名無史さん:02/02/02 12:29
>51
どう解決したの?
日曜の昼のテレビでやってたね
城のそばに家老筋の成瀬さんが住んでた。
53日本@名無史さん:02/02/02 12:36
犬山藩成瀬氏は尾張徳川の家老職の家だから
藩としては毛利の吉川家と似たような感じ。
5440:02/02/02 12:49
>>41
>あんた藩士の子孫?

まったくの赤の他人だよ
最近本屋で立ち読みして、その生き様に感動しただけ
特に、商人や神主など、職を転々というのが、元藩主とは
思えない

それにしても、「脱藩大名」という響きがカッコイイよね〜
55日本@名無史さん:02/02/02 12:53
成瀬家に限らず、御三家の付家老は、殆ど立藩してない?。
紀州の田辺藩水野家とか、水戸の中山家とか。
ドサクサ紛れに、9000石内外の寄合旗本も駆け込み立藩してるよね。
田原本藩平野氏とか、朽木氏とか生駒氏、山名氏等々。
傑作なのは浜名湖辺に領地があった大沢基寿。
干拓不能の湖面まで田地として検地し、1万石で立藩。
明治維新後に虚偽申告がバレて、爵位を剥奪されて士族に
格下げされた人。
5636:02/02/02 13:25
>47
情報サンクス!
今度逝ってみます
しっかし地味な藩だなぁ譜代とはいえ
57日本@名無史さん:02/02/02 16:19
大多喜藩は最後の藩主の跡取は、理研の所長になった大河内正敏だったな。
理研コンツェルンを作った時、「さすが智恵伊豆の血筋」と称えられた
と理研の本に載っていたようないなかったような。
58日本@名無史さん:02/02/02 16:36
肥前の小城藩
佐賀藩の支藩だっていうことと、光圀と呑み友達だった
藩主がということしか知らない
59訂正ね:02/02/02 16:40
×藩主がということ
○藩主がいたということ
60日本@名無史さん:02/02/02 16:43
小城羊羹
61日本@名無史さん:02/02/02 17:05
上総の飯野藩。
戊辰戦争時、会津松平家と同族であるため向背が危ぶまれた。
二十名が脱藩して林忠崇軍に参加したが、
重臣二名が責めを負って自決しなんとか乗り切った。
それほど有名じゃない小藩でも犠牲者が出て大変だったんだなぁ。
62日本@名無史さん:02/02/02 19:33
二本松藩の丹羽家は、織田家譜代の重臣という家柄であることから、
10万石ながらも国持ち大名格だったそうだが、まったくもって地味な
家柄で、歴史の表舞台に出てくることなんてなかった模様
63日本@名無史さん:02/02/02 19:41
飯野藩 保科家。会津藩祖の保科正之の養子先の家柄だね。
藩祖は保科正貞?だっけ。「葵三代」にも出てきたね。
ガイシュツだが、請西藩の脱藩藩主の林忠崇は昭和9年だか10年頃まで生存。
最後は娘の借りていたアパートで息を引き取ったらしい。
当時、新聞で「最後の藩主が亡くなった」などと話題になったらしい。
暴れん坊に相応しく、最後まで破天荒だったんだね。
64なんだかトホホな話です:02/02/02 20:02
最後の大名は林忠崇ではなく、近江大溝藩主だった分部光謙だ!
とはいえ、正式に大名だったのは4日間だけだったそうだが・・・・

http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kinki/oomizo.html
65    :02/02/02 20:08
たった四日って、ひでえな。
66日本@名無史さん:02/02/02 20:51
>64
なるほど、大名制度のもと最後に大名になり、そのまま
大名経験者(ただし4日)としても最後まで生き残ったと言うことですな。
昭和の時代に大名が生きてタンだね
67現役SE:02/02/02 21:00
>>64
でも明冶になってからでしょ藩主になったのは?
幕府から任命された訳でもないしな〜。
やぱーし、江戸時代でないと大名とは呼びたくないわな。
68    :02/02/02 21:24
>>67とすると、明治維新後に立藩された「琉球藩」も大名とは認めがたい?
69日本@名無史さん:02/02/02 21:27
喜連川藩は五千石しかないから交替寄合のでかいやつより小さい。
小名と呼んであげたらどうだろう。
70日本@名無史さん:02/02/02 22:40
琉球は藩かー
一応王国と呼んであげたい
71日本@名無史さん:02/02/02 22:43
>69
家柄はナンバー1だからバランスがいいね。
72現役SE:02/02/02 22:44
>>68
厳密にいうとあそこは日本じゃなかったし
幕藩体制で言う所の藩ではないでしょ。
せいぜいが琉球藩王だな、俺的には。
73日本@名無史さん:02/02/02 22:59
騎西藩(別名「私市」)って知ってる?藩主は大久保忠職。
74日本@名無史さん:02/02/02 23:22
でも喜連川の今の当主は徳川から養子にはいってて、女系でもないよね
75日本@名無史さん:02/02/03 01:13
>74
その後に足利分家の宮原氏から養子が入ってるよ。
76>:02/02/03 01:17
喜連川って、官位は従何位でしたっけ。あと、江戸城内の詰め席は?
大広間のようなところか、逆に柳間か、どちらかのような気がする。
77日本@名無史さん:02/02/03 01:21
○×新田藩。
一番情けない。参勤の義務はあったの?
78新田純一藩:02/02/03 01:24
一応、幕府の許可のもとに創設された藩だから参勤義務もあったのでは?
ただ、完全に本藩の丸ががえという感じで、「感じわるいね〜〜」(浜崎かゆみ)

企業が、脱税の為にトンネル会社を設立するという幹事。
79日本@名無史さん:02/02/03 01:25
>>40
その人の子孫(現当主)は安田海上のお偉いさんだよ。
昔、テレビで紹介されてた。
80結城直基:02/02/03 01:28
>>79 テレビで紹介で思い出したけれども、なんでも鑑定団と、べつの番組で、
どこかの団地住まいの前橋藩主末裔が出演していた。
81従四位下:02/02/03 01:31
糸魚川藩もあまり噂されないね。
82日本@名無史さん:02/02/03 10:07
64の紹介してるサイト重宝しそう。サンクス!
83日本@名無史さん:02/02/03 21:09
大阪って藩あったの?
84日本@名無史さん:02/02/03 21:15
>83
岸和田藩は有名だね。あと北条の狭山とか。
85日本@名無史さん:02/02/03 21:21
今更だけど1の目の付け所いいね。
86日本@名無史さん:02/02/03 21:28
>85
確かにこのスレで請西藩の林藩主等には興味持った
調べてみたい
87日本@名無史さん:02/02/03 22:34
天童藩は知っているか?
信長の子孫が飛ばされて立藩。
88日本@名無史さん:02/02/03 22:52
89日本@名無史さん:02/02/03 23:01
>88

どうして水俣は、熊本藩の支藩になってないのだろう。
秋田藩内の角館などの支城は、支藩とは違うのか?
90日本@名無史さん:02/02/03 23:12
それは立藩する時に幕府から公認してもらうかどうかによる。
支藩のメリット本家が取りつぶされても家が存続する。
デメリット本家の領地を分割して立藩するのが殆どなので本家の石高が下がり、家格も落とされる場合がある。
支藩が断絶すると領地は幕府に没収され、本家にはなにも戻らない。
どちらかというとデメリットの方が多く考えられたみたいで、支藩をたてるのを大名家は嫌がった。
9190:02/02/03 23:19
追加
幕府から公認してもらう支藩より藩内で知行地を支給すれば、藩の石高は変わらないし、家が断絶しても幕府に没収されない。
本家に跡取りがいなくても養子を迎えやすい。(幕府の許可が下りやすい)
92日本@名無史さん:02/02/03 23:23
元殿様首相の分家 谷田部藩。どうだ話題にも上らないでしょ?。
93氷○き○し:02/02/03 23:33
♪谷田部ったら、谷田部〜
94日本@名無史さん:02/02/04 03:52
林忠崇、宇喜多秀家に似てる気がする
負ける→個人としては長生き、とか
ちょっと興味がわいたよ
95日本@名無史さん:02/02/04 07:24
林忠崇って以外とブームおこしそうな人材だね
96日本@名無史さん:02/02/04 08:39
97日本@名無史さん:02/02/04 08:57
越後の与板藩は井伊家の分家筋だが、わずか2万石の小藩だった
廃藩置県で与板県が成立したが、なんでこんな所に県ができたのかが不思議

>>81
越後は小藩が乱立しているから、話題にならないな
なるのといえば長岡藩ぐらいか?
98日本@名無史さん:02/02/04 09:14
沼津藩
99日本@名無史さん:02/02/04 11:08
小藩じゃないけど、高松藩てのも話題にならない藩だな
初代藩主が光圀の兄だったり、栗林公園を作ったり、あとは
「幕末の高松藩スレ」がすぐに沈んでしまったり…
それぐらいしか知らないなあ
100 :02/02/04 12:44
>>95
「江戸大名について語るスレッド」では、一足早くブームが訪れていた模様

62 名前:     投稿日:02/01/31 00:47
やっぱ、林忠崇でしょう!!

なんせ、昭和の初めまで生きていらした方だから。

64 名前:>62 投稿日:02/01/31 08:30
戊辰戦争を最も壮絶に戦った一人でもあります。
一文字大名

65 名前:>64 投稿日:02/01/31 13:43
林肥後守。幕末、旗本より大名に取り立てられた。一万石。富津に陣屋。
正月には将軍家より兎の吸い物を賜る由緒ある歴々。家康を助けたとか。
幕末遊撃隊の伊庭八郎等と共に各地を転戦。
101日本@名無史さん:02/02/04 16:15
谷村藩
102日本@名無史さん:02/02/04 16:16
>>97
>なんでこんな所に県ができたのかが不思議
廃藩置県になった当初は全ての藩がとりあえずそのまま県になったと思う。
103日本@名無史さん:02/02/04 16:17
掛川藩ってしっちょる?
104日本@名無史さん:02/02/04 16:36
与板県は柏崎・椎谷・高田・清崎の各県と併合して、柏崎県に
なってるね、ってダメだ、高田藩以外はまったく知らない藩だ〜
105 :02/02/04 16:53
備中松山藩。
山田方谷がらみでもうすぐブームが来ると思ってるけど。
10697:02/02/04 16:59
>>102
確かにご指摘の通りです
なんか勘違いしてたみたいで、ゴメンナサイ

天領だった所や飛び地だったところはどのように
処理されたんですかね?
107102:02/02/04 17:30
>106
皇室公家関連の領地や天領、旗本知行地は維新の直後に府県になっていますね。
これらは当然いくつかまとめてひとつの県となったケースが多いです。
飛び地はそのまま継承されたのではないでしょうか。短い期間ですし。
108日本@名無史さん:02/02/04 17:46
財政破綻で自分から廃藩置県を明治政府に懇願した丸亀藩。
109日本@名無史さん:02/02/04 20:26
肥前の東蓮寺藩
福岡藩の支藩だったが、宗藩に男子がいなかったために、
四代目が宗藩を継ぐことになり、自然消滅
110109:02/02/04 20:27
肥前じゃなくて筑前ね、間違っちゃった
111日本@名無史さん:02/02/04 23:23
しっかしさすが三百諸侯だね
112日本@名無史さん:02/02/04 23:40
牧野藩知ってる人いるか?
113日本@名無しさん:02/02/04 23:41
長岡侯牧野備前守
笠間侯牧野備後守
信濃の牧野因幡守
これらのこと
114日本@名無しさん :02/02/05 01:05
>> 1
生実藩の居城、小弓城の跡地は現巨人軍:高橋由伸の実家。
昔、彼の家で遊んでいた時、庭に城跡の石碑がありました。
高橋家は約13万平米の土地を所有している(していた?)と
言われていますが、調べたところ生実藩の藩主が「高橋」姓
だった事は無く、関連の詳細は不明ですが。
115日本@名無史さん:02/02/05 07:30
>114
なるほど生実藩も出て来るんだね
高橋との関係知りたい

つーかあなた知り合い?
116日本@名無史さん:02/02/05 10:24
近江の膳所藩
家康の天下普請第1号として、藤堂高虎が縄張りを行い築城されたが、
藩としてはまったく話題にならない
117日本@名無史さん:02/02/05 10:44
膳所藩は明治3年に全国に先駆けて廃城したんだよ。本丸から石垣まで売り払って
1200両だったとか。理由は城が近代戦に不向きかつ水城で維持費がかさむから。
118日本@名無史さん:02/02/05 11:12
なるほど、膳所藩は最初と最後が少し話題になるだけなのね
しかも城の話題だけで、人の話題は何にもないのね
119日本@名無史さん:02/02/05 11:24
滋賀県1の進学校膳所高校はたしか膳所藩の藩校から始まっています。
あとこの地域は年貢が安かったみたいですね。
120日本@名無史さん:02/02/05 16:15
滋賀県に20年以上住んでるけど、知らんかった
「全く話題にも上らない藩」でも、探せば話題はあるもんだ
121日本@名無史さん:02/02/05 20:02
>>117
膳所城の楼門は近くの神社に移転し、本丸跡は公園として整備され、
二の丸跡は浄水場となっています

そのすぐ隣には漁港がありますが、これも膳所城の船着場跡だったり
するのでしょうか?
(膳所漁港はブルギル釣りの名所として有名です)
122日本@名無史さん:02/02/05 20:10
関東の方々へ膳所(ぜぜ)と読みます、琵琶糊畔の町です。
123日本@名無史さん:02/02/05 20:58
膳所には木曾義仲や松尾芭蕉の墓もあるね。
124元アングラー:02/02/06 08:42
>>121
バスじゃなくてギルなのね
今はあまり釣れなくなったんだ
125日本@名無史さん:02/02/06 15:35
同じ近江の大溝藩はどうよ。
廃藩置県の1ヶ月前に自発的に廃藩したという以外に何ぞ話題ある?
126日本@名無史さん:02/02/06 15:41
>>64で「最後の大名」分部光謙の話題が出ているよ
127歴史のあと知恵さん:02/02/06 16:07
朝日新聞の社説に登場した大分県の豊後 臼杵藩。
128日本@名無史さん:02/02/06 16:39
って、どんな記事だったのさ
それを教えてくれないと、話題にならないじゃないか
129日本@名無史さん:02/02/06 17:50
紀州徳川家の分家西条藩
130 :02/02/06 21:07
>>129
んでもって、吉井藩はもう一つの分家。
131日本@名無史さん:02/02/06 23:18
>101
>103
やっぱり話題にも上がらないね〜
スレのとおりじゃん!!
132日本@名無史さん:02/02/07 00:48
臼杵藩の記事って何?
133日本@名無史さん:02/02/07 01:05
1に出ている湯長谷藩は列藩同盟に加わり、
小藩ながら藩主以下陣屋を守って善戦したらしい。
134日本@名無史さん:02/02/07 01:31
城下鰈(しろしたカレイ)で有名な、城とは、
どこの藩?
135日本@名無史さん:02/02/07 09:12
>>129>>130
その藩って、どこの国にあったの?
初めて聞いたよ、そんな名前
136日本@名無史さん:02/02/07 12:30
西条藩は伊予(愛媛県)
吉井藩は上野(群馬県)

吉井藩は分家ではなく分家扱い
初代(旗本)は徳川家光の妻鷹司孝子の弟
徳川忠長の遺児ともいわれる
三代目のときに大名に列せられる
137日本@名無史さん :02/02/07 13:58
吉井藩はかつて僕が行ってた高校があるところ。
陣屋跡に門だけがしょぼく残っているYO。
138日本@名無史さん:02/02/07 14:05
伊勢にも西条藩があった。
隣の神戸藩とあまりにも近かったために
移封されたらしいが。
実際、現在でも神戸町と西条町は隣接している。
139日本@名無史さん:02/02/07 14:26
>137
定府大名だからねぇ。
140日本@名無史さん:02/02/07 14:34
>>134
日出藩
141日本@名無史さん:02/02/07 20:35
勝山藩という名前の藩はいくつかあったみたいだけど、
どこも話題にならないのね
142便利なサイトです:02/02/07 20:37
143日本@名無史さん:02/02/07 22:05
藩には必ず城下町があったのですか?
144日本@名無史さん:02/02/07 22:28
>>134
日出藩は有名だよ。(九州では)
秀吉の奥さんのおねの一族木下家の所領だろ。
145日本@名無史さん:02/02/07 23:34
>138 神戸を「かんべ」と読める人がどれだけいるだろうか?

既出だったらすみません(このスレいちおう全部読んだ)
松下加兵衛(之綱)・竹中半兵衛の子孫が立てた藩ってどこでしたっけ?
丹羽家もそうだけど藩祖のみが有名な藩ってのモナー
146日本@名無史さん:02/02/07 23:42
福本藩(池田家)

超微小大名。でも松平の姓を名乗っていました。
147日本@名無史さん:02/02/08 09:13
>144
木下家って江戸時代になっても
豊臣朝臣を名乗ってたと最近知ってびっくり。
148日本@名無史さん:02/02/08 09:25
「万石騒動」で知られるのみの屋代藩(館山).
1万石の小藩でおきた百姓一揆の不始末で改易.
149144ですが:02/02/08 10:04
>>147
え〜!本当ですか。
知らなかった。
徳川幕府がよく許しましたね。
150日本@名無史さん:02/02/08 12:28
諏訪藩だす
151日本@名無史さん:02/02/08 15:32
西大平藩

三河岡崎の東隣にあった小藩。1万石。
初代は大岡忠相。

奥殿藩

三河岡崎の北隣にあった小藩。1万6千石
幕末に松平乗謨(大給ゆずる 漢字忘れた)、
永井尚志などを輩出(かな?)

間違ってたらスマソ。
152日本@名無史さん:02/02/08 16:09
http://www.nifty.ne.jp/forum/fsiro/hp/fsiro_db/han/0063.htm
豊後高田藩(越前高田とは違う。
超マイナーで
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html(江戸三百藩HTML
http://www.interq.or.jp/tokyo/toshizo/bakusin/syohanmeibo.html(幕末諸藩の戦歴
にも載っていない。
 自分の先祖がここの殿様の妾の子供だったらしいので、その存在のなさは寂しい。
途中でつぶれたりなんたりしているのかなあ・・・。
153日本@名無史さん:02/02/08 16:19
「珍名藩いらっしゃ〜い」
大和櫛羅藩とか、出雲母里藩とか、下総生実藩とかは、
話題にならないだけあって、読めないよ〜
154日本@名無史さん:02/02/08 16:30
>>152
豊後高田藩の竹中家については、ここが詳しいよ
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n453.htm
155152:02/02/08 16:38
ごめん。その竹中さんの(多分)後に入った高田さんがうちの御先祖だわ。
156日本@名無史さん:02/02/08 17:19
高田なんて苗字の大名いたの?
157日本@名無史さん:02/02/08 18:20
>154 ありがとうございました 半兵衛重治の直接の子孫ではないのですね
長崎奉行を務めたってことは、譜代大名になるのかしら?

松下家についてももし何か情報があればお願いします
158日本@名無史さん:02/02/08 19:26
木下藤吉郎時代の秀吉が最初に仕えたというだけの
理由で大名にまでなった松本氏のこと?

http://www.interq.or.jp/pluto/minstrel/Rekishi/DramaticBlood/contents/matsushita.html
159日本@名無史さん:02/02/08 19:57
>>152
竹中家の後なら松平(能見)家ですか?
そのあと松平家は豊後杵築に移り、高田藩はなくなります。
160日本@名無史さん:02/02/08 20:51
相模荻野山中藩一万石小田原藩の支藩。大久保家(ガイシュツ
幕末官軍に恭順したが幕府に寝返り再び官軍に恭順。
よく殿様切腹させられなかったね。

161日本@名無史さん:02/02/08 20:55
武蔵金沢藩一万二千石
(六浦藩)
米倉家
江戸湾警備が任務
162日本@名無史さん:02/02/08 20:59
160、161ガイシュツスマソ
163日本@名無史さん:02/02/08 21:05
織田家子孫
羽前天童藩
大和芝村藩
丹波柏原藩
大和柳本藩
164日本@名無史さん:02/02/08 21:25
いい湯だな、あは藩
165152:02/02/08 22:15
>>159 これでは一応城主高田氏となっている。少し不安・・・。
http://www.nifty.ne.jp/forum/fsiro/hp/fsiro_db/siro/044-011-01.htm
うちの御先祖は藩じゃなくなった後に城主となったんだろうな。
166日本@名無史さん:02/02/08 22:16
>19
京都見廻組?蒔田だっけ?
167152:02/02/08 22:19
皆様方、御迷惑をおかけしてすいませんでした。
168【^▽^】ジョーカー:02/02/08 22:31
武蔵国金沢六浦(神奈川県横浜市金沢区六浦)の米倉家は甲州出自
だっけ?
169日本@名無史さん:02/02/08 23:23
藩じゃなくなったあと城主になった?そりゃすごい(藁
170日本@名無史さん :02/02/09 00:29
西大平藩
現在の愛知県岡崎市大平町

大岡越前が住んでました
徳川家から土地を賜り 隠居してたそうです
(もちろん、江戸で活躍した後)
お屋敷跡は現在、小学校です

大型バスをとめる駐車場が確保できないので
観光地になってません
岡崎市としてはもったいない歴史的財産だと思います
171170:02/02/09 00:35
ごめん!うそついちゃった!
正確には岡崎に来たことないんだ
今後、気をつけます


西大平藩


大岡家

加増 1万石  
譜代 菊間 陣屋




ご存知、大岡越前〜忠相は吉宗政権下で、江戸町奉行を19年の長きにわたって勤め、さらに寺社奉行、奏者番となって、吉宗の政治を助けた。その長年の功で、6千石ほどであった家禄に4千石あまりを加増されて、万石に達して大名となり、三河西大平に立藩した。
この時、忠相72歳。75歳で亡くなっているので、大名としては3年あまりで、忠相本人は西大平には一度も足を踏み入れることはなかった。
太平の元禄の世で、いわゆる君側の近臣でない現場の官僚が、大名に取りたてられたのは大変異例とも考えられ、忠相に対する吉宗の信任が伺われる。

以降の藩主も西大平藩は基本的に定府だったようである。

172日本@名無史さん:02/02/09 00:37
田中藩って知ってる?
173日本@名無史さん:02/02/09 11:21
六浦藩米倉家甲州出身とおもわれ。
譜代大名で家紋が武田氏にそくーーり

174日本@名無史さん:02/02/09 11:26
羽前米沢新田藩一万石:上杉米沢藩分家
岩代下手渡藩一万石:立花家
陸奥黒石藩一万石:津軽家

よく小藩で頑張った感動した!
175日本@名無史さん:02/02/09 11:59
>>174
小藩だっただけで頑張ってはいないだろ
176日本@名無しさん:02/02/09 15:00
世田谷藩(東京都世田谷区)綱吉の小姓 喜多見の居城。
177これ以外は知りません:02/02/09 15:55
常陸の麻生藩
慶長16年(1661)に新庄直頼・直定父子が、鷹狩禁止区域(おそらくは
将軍家の鷹場)で鷹狩をしているところを発見され、将軍に報告されたの
で、退散したという記録が残されている
178日本@名無史さん:02/02/09 15:57
米沢藩
179日本@名無史さん:02/02/09 16:02
米沢藩って上杉家のことか?
180現役SE:02/02/09 16:07
下総小見川藩内田家一万石、内田伊勢守正容が彫物大名として一部で有名。
若い頃にぐれていて背中に刺青を入れたそうな。
その後内田家に末期養子に入って刺青大名となった。
181日本@名無史さん:02/02/09 20:15
上総小久保藩一万石;田沼家
 同一宮藩一万石:加納家
大和郡山藩一万石:柳沢家
182日本@名無史さん:02/02/12 23:44
話題に上らなくなったのでage
183日本@名無史さん :02/02/13 00:01
>>176
世田谷藩てのは今の世田谷区のうちどれぐらいの範囲を領してたのでしょうか?
今の世田谷区長・大場さんは代官の末裔ですよね。
あと、あっちの方にある城山公園は元吉良氏のものだったはずですが。
184日本@名無しさん:02/02/13 00:02
酒井家は、庄内藩、姫路藩、小浜藩の三つが代表的なのに、なぜか小浜藩だけ以外にマイナーだね。
185日本@名無史さん:02/02/13 00:34
>>184
酒井忠勝(大老になった方ね)の家ですな。
186  :02/02/13 00:38
>大和郡山藩一万石:柳沢家
15万石じゃないんだ
187日本@名無しさん:02/02/13 00:39
>>183 喜多見氏の世田谷藩は、徳川綱吉の小姓だった喜多見殿が立藩しまして、
(なお、世田谷藩は側用人喜多見が綱吉の逆鱗に触れて改易となり、わずか一台で
また天領にもどりました)
1万石でしたから、現在の世田谷区の広さよりも狭かったと思われます。
名称からして喜多見駅周辺であることは疑いないと思います。おそらく、
世田谷区の数分の一程度の広さだとおもわれ。なお、城はありません。
陣屋だったとおもいます。1万石というから、現代で言えば喜多見駅前の
雑居ビルを建設する事すら出来ない小身分なはずですな。
188日本@名無史さん:02/02/13 00:58
山形藩も違う意味でトホホじゃない?
最上57万石が幕末には水野五万石になってる。
57万石の城を5万石で維持するのってたいへんじゃない?
189【^▽^】関東侍ジョーカー:02/02/13 01:00
私の故郷 武蔵国橘樹郡鶴見村(神奈川県横浜市鶴見区)は
天領かな?徳川将軍家に仕えた主治医の領地だったとも
聞いたことがありますが。
190日本@名無史さん:02/02/13 01:57
168>
六浦藩米倉家は、武田家遺臣の家柄です。信玄時代の受領名「丹後守」。
大名になってからも、代々丹後守です。
有名なエピソード、三増合戦の折"鉄砲に撃たれ傷養生に水に溶いた馬糞"を
飲んだ米倉惣次郎とは、ここのご先祖です。

189>
基本的に、武蔵南部・相模は、江戸初期まで、大名領以外は殆ど天領。
関東郡代の支配を受けていた。
慶安〜元禄以降、徐々に旗本領へ移行。あなたの言ってる主治医の領地と
言うのもこれ以降の事と思われます。
ちなみに私は、相模国大住郡南金目村(神奈川県平塚市南金目)出身
ですが、天領〜小田原藩領〜旗本領(3人の旗本領に分割)と変遷して
います。
191日本@名無史さん:02/02/13 02:08
>>181
>>186の通り15万石でしょう、大和郡山藩は。代々帝鑑間詰で四品の名門。
1万石は越後の支藩。
加納家は久堅、久徴が若年寄を務めている。久周のときは松平定信の片腕として活躍、
3000石の加増を受けている。
田沼家の意正は若年寄、のち側用人となり十三代将軍家定の養育係となっている。
また意尊は若年寄となって、筑波勢鎮圧のときは将軍目代として諸藩兵を率い活躍。
出頭人大名をなめては逝けません。
192米倉丹後守涼子:02/02/13 03:06
六浦に城はあったの?
193日本@名無史さん:02/02/14 00:45
請西藩も出頭人大名だったりするよね。
194日本@名無しさん:02/02/15 22:35
高崎藩七万石(群馬)大河内松平家(徳川家光老中・松平伊豆守信綱後裔)
高崎五万石騒動が有名、達磨も。家老は深井家と堤家。
あと小泉内閣の官房長の福田氏の地元。他は何があったかな・・・。

195日本@名無史さん:02/02/15 22:41
>>184
小浜酒井家って、長曽我部盛親の弟が家老をやってたような…
196日本@名無史さん:02/02/16 08:59
彫塑壁家老か。いいねえ
197日本@名無史さん:02/02/16 11:14
備中足守藩
緒方洪庵がここの出身だという以外で、なんか話題はないですか?
198日本@名無史さん:02/02/16 11:58
鹿児島藩&佐土原藩
外人が藩主。
199日本@名無史さん:02/02/16 12:14
>198
おまえ何人?
200日本@名無史さん:02/02/16 12:50
200!!^^
201日本@名無史さん:02/02/16 13:10
>>199
ひとり
202日本@名無史さん:02/02/16 18:54
>>201
ワラタ
203日本@名無史さん:02/02/16 23:37
上野前橋藩松平家十七万石、川越藩と親戚だよね。
うちは川越藩の家臣の子孫らしい…
204 :02/02/16 23:59
北河内あたりに藩ってあったんですかね?いちおう地元が枚方と言う所
なんですが?
20552こ:02/02/17 00:23
河内は狭山に一件あったと思う。関西の方はよく知らんがいまベッドタウン化しているのですか。
攝津の場合だと、高槻にも一件あったね。
206日本@名無史さん:02/02/17 00:23
青山藩は有名?
207日本@名無史さん:02/02/17 00:25
狭山の北条は、有名。
208日本@名無史さん:02/02/17 00:27
>>197
秀吉の親戚が殿様やってたことがある
209 :02/02/17 00:44
 >>205さん 狭山は南河内なんですよね、北河内の人間からしたらちょっと
親近感の沸かない地域ではありますね、高槻の方が近いですし
210日本@名無史さん:02/02/17 09:14
>>197
白樺派の歌人木下利玄の父親が、足守藩最後の藩主だったはず
211日本@名無史さん:02/02/17 09:24
>>204
枚方を含む京都から大坂にかけての地域は天領だったんじゃない?
212日本@名無史さん:02/02/17 10:12
河内の藩
狭山藩(北条家)は狭山市
丹南藩(高木家)は美原町
西代藩(本多家)は富田林市
高安藩(牧野家)は八尾市
大井藩(渡辺家)は藤井寺市

枚方や交野には藩はなかったね。
213日本@名無史さん:02/02/17 18:16
どの藩も話題になってないぞ、河内の藩
214日本@名無史さん:02/02/17 19:48
沼津藩なんかは?
215日本@名無史さん:02/02/17 23:38
現在の大阪府の藩
摂津国
麻田藩(青木家)豊中市
尼崎藩(桜井松平家) 兵庫県尼崎市
大坂藩(奥平松平家) 大阪市中央区
三田藩(九鬼家) 兵庫県三田市
高槻藩(永井家) 高槻市
中島藩(稲葉家) 大阪市西淀川区

河内国 >>212参照

和泉国
大庭寺藩(渡辺家) 堺市
岸和田藩(岡部家) 岸和田市
谷川藩(桑山家) 泉南郡岬町
陶器藩(小出家) 堺市
伯太藩(渡辺家) 和泉市
216日本@名無史さん:02/02/18 00:05
水戸の連枝、守山藩
217日本@名無史さん:02/02/18 00:22
陶器藩…あやしい藩名だ…
小出家って関が原後も豊臣方だったのによく残ったね
218日本@名無史さん:02/02/18 01:24
人吉藩って有名?
殿様が鎌倉時代から変ってなくて兵農分離ができてない藩。
219日本@名無史さん:02/02/18 01:25
マジ??
人吉藩って、殿様も、家臣団も、農民も、鎌倉時代の思考系統から抜け出せないでいたの??
220日本@名無史さん:02/02/18 08:41
それは島津がいつ攻めてくるかわからんから、いつでも
臨戦体制だったんだよ、多分
221219:02/02/18 17:41
なるほどねぇ。
222日本@名無史さん:02/02/18 19:02
222get!!!!!!!!!
223219:02/02/18 19:07
俺が219だよ。
陸の孤島と言われてる田舎でも鎌倉時代の思考系統からは抜け出してたと思うよ。
けど中世色が色々な所で残ってるみたい。
薩摩は何度も攻めてきたよ、隣国だし。
224218=223:02/02/18 19:09
ごめん。読み間違えた、
219じゃなくて218だった。
225日本@名無史さん:02/02/18 21:01
奈良の田原本藩知ってます?
おれ最近まで先祖がこの藩の藩主だった
って知らなかった・・。
226日本@名無史さん:02/02/19 00:27
>>225
賤ヶ岳七本槍で有名な平野さんですか? 
227219 :02/02/19 00:28
>>224 びっくりした。
228日本@名無史さん:02/02/19 01:06
陸奥福島藩。
藩主は板倉。
島原の役で戦死した重昌の家系。
229225:02/02/19 01:27
>>226
あっ、ご存知な方いましたか!
直系ではないのですが名字はその通りです。
230笠岡:02/02/19 01:33
鴨方藩は、岡山藩の支藩で浦上玉堂は藩士でした。
231:02/02/19 01:44
爵位返上した藩主系華族
播磨福本藩(池田家) 安房加知山藩(酒井家) 羽前上ノ山藩(松平家)
近江大溝藩(分部家)三草藩(丹羽家)

他あったかな? 
232日本@名無史さん:02/02/19 07:04
>>35
 福知山藩(京都府)で有名なのは、@稲葉紀道、頭無しサバ事件で鉄砲自殺A松平
忠房統治、後に島原に転封。その関係で福知山と島原は姉妹都市。町の名前や町並み
も似てます。あとは朽木家が代々統治。名前忘れましたけど、蘭学好きな殿様の代に
解体新書作るのに援助したとか、色々書物残したりとか・・・(市内の高校に一部あ
ります)
233日本@名無史さん:02/02/19 08:40
陸奥中村藩では、刑罰の一種として犯罪を犯した者とその縁者を、
「奴婢」として使役するという制度があったそうですが、これに関して
詳しく知っている人はいませんか
(仙台や水戸、対馬などの諸藩でも同様の制度があったそうです)
234日本@名無史さん:02/02/21 21:30
上れ!
235日本史@名無史さん:02/02/24 00:58
熊本細川藩の支藩の宇土藩。日本三大稲荷の一つ、祐徳稲荷のある肥前鹿島藩
、蓮池藩、小城藩。いっぺん来て下さいね。
236 :02/02/24 01:05
俺の祖母の実家は宇土藩士だよ。
237日本史@名無史さん:02/02/24 01:47
宇土藩(市)を売り込みましょう。
238日本@名無史さん:02/02/24 03:48
>>235
日本三大稲荷って伏見、豊川、笠間じゃなかっけ?
239>238:02/02/24 08:17
自称三大稲荷だろ?
全国で数十はあるらしいぜ。
240日本@名無史さん:02/02/24 20:49
こう見ると話題に上る藩てのは大藩だね。
241日本@名無史さん:02/02/25 12:09
>>238
伏見は稲荷の総本山だから、別格らしいですよ
242日本@名無史さん:02/02/25 16:01
能登にも藩はあったのね
http://www1.odn.ne.jp/~notohatakeyama/special/han.html

鳥居家と水野家が転封されて以後はどうなったの?
加賀の前田家が増封されたの?それとも天領になったの?
243日本@名無史さん:02/02/27 05:06
長崎は諫早藩
244日本@名無史さん:02/03/01 17:21
長崎の佐賀藩家老家の諫早藩2万5千石(実質石高10万石、毎年相当お米が
余ってたらしい。)日本の三大家老家と言われていた。
245日本@名無史さん:02/03/01 17:33
加賀前田家の家老の本多家は【藩じゃないが)どこに拠点があったの?
246日本@名無史さん:02/03/02 12:10
http://www.enat.org/~kohboh/naegihan.html

苗木藩(岐阜県恵那市)の廃仏毀釈運動。
小藩にも色々なことがあったんだね。
247日本@名無史さん:02/03/02 16:02
>>245
加賀藩は藩が一括して年貢を徴税していたから無い。
強いて言えば現在の金沢市本多町
248日本@名無史さん:02/03/08 18:53
加賀藩で思い出したけど
大聖寺藩って九谷焼がなければほとんど話題に上ることはないでしょうね
249>:02/03/09 09:58
大聖寺は、さらに分家の
前田妥女 が天童藩主 織田監物を刺した事件で有名
250日本@名無史さん:02/03/09 10:45
大聖寺藩では,正徳二年(1712)に農民の大一揆があり,農民側の圧勝だったそうな.
陽動作戦で狭い谷間に代官の手下を誘いこみ武力的に農民が圧倒的優勢になったところで,
代官を取り囲みすかさず団体交渉して年貢を大幅にまけさせた.事件後も首謀者をかくし
とおし,ただ一人だけが斬首になっただけという.

藩士が書いたらしいアングラ文書「那谷寺通夜物語」にそのいきさつが記されているけれど
興味深いのは,農民の発言(記録者のが「言語道断の悪口」--農民が武士にあびせた罵倒--
として記している)である.一例をあげると

  免しらずめ(年貢をまけない奴め)の太盗人ども,世界にない取倒しめ.今からは
 我々らが心次第に,したいままにするぞや.仕置き(支配者の出方)が悪しくば,
 年貢はせぬぞ.仕置き次第につく我々ぞ.京の王様(つまり天皇)の御百姓になろうと
 ままじゃもの.

支配者を自由に選んでも「ままじゃもの」,したいままにするぞ.なぜなら誰に支配されるか
を決定するのを最終的に決定する権利をもっているのは被治者だからである,そういっている
も同然である.当時としてはきわめてラディカルな政治意識だが,そう驚くにはあたらない.
なぜなら一向一揆による自治体制が百年ちかくつづいた加賀では,もともと農民の政治意識も
高く,どんな政治的支配者を受け入れるかは自分たちの自由裁量だと考える伝統があり,
前述の農民の武士への「悪口」も,そのような伝統をふまえてのものだと思われるからである.
251日本@名無史さん:02/03/09 20:10
>249-250 サンクス
焼きもの以外に全く話題がないわけでもなかったんですね>大聖寺藩
252日本@名無史さん:02/03/10 13:23
天童藩の祖は織田秀雄(織田信長二男・信雄の子)
253日本@名無史さん:02/03/10 14:05
>>245
>>247
>加賀前田家の家老【藩じゃないが】
だと、特徴あるのは長家だろう。元々能登の名家で、前田利家
の家来ではなく与力大名だったのが、信長⇒秀吉の政権移行の
経緯で、結局前田家の家老になってしまった。元々独立の大名
で、しかも領地を信長から直に拝領されたということがある
ため、領地の鹿島郡の半分は前田家から独立性が高かった。
検地の方式まで他の加賀藩とは違った方式だったとのことだ。
結局、鹿島郡の半分は前田家に接収されて、強い独立性は
失ってしまう。(表面的な石高は変わらないが9
254日本@名無史さん:02/03/10 15:26
肥前大村藩。殿様すごい可愛がってた家臣が居て大名行列の時
自分の代わりに駕籠に乗せるわ、その家臣が殺された時執念で
犯人捜して斬首にするわ何だか読んでてすごかった。
255 :02/03/10 22:58
岡田藩
256日本@名無史さん:02/03/11 12:49
幕末の黒羽騒動で有名な黒羽藩って
北関東にありましたけど、
その時の御家騒動がらみで登場する
「お鉱の方」という人がいたと思うんです。
藩主の娘で入り婿後継ぎを迎えた人だったはずですが、
家臣と結託して追い出したというのを大昔読んだ記憶があります。
これって世間の粉飾かもしれませんが、
この姫さまについてご存知の方はレスして頂ければ幸いです。
257日本@名無史さん:02/03/12 23:17
筑後有馬藩ってでかいわりに、なんの逸話も聞いたことない。
戦国時代は、摂津のただの国人だし、幕末にも何の話も聞かない。
あそこまでの大大名になった経緯も棚ぼたみたいなもんだよね。
258日本@名無史さん:02/03/12 23:25
>>257
ほんとに棚ぼただよな。
由良(横瀬)の分家、渡瀬が失脚した時に嫡子がいるにもかかわらず
重臣だった有馬が相続したからね。
それが後に大大名・・
259日本@名無史さん:02/03/13 03:04
秀吉が死んだ後、有馬親子は積極的に徳川に接近してる。
親父の則頼は結構律儀な人という評判だったそうだが、
家康同様、ただの律義者ではなかったんだな。
摂津有馬の小領主から、戦国時代を乗り切って筑後の国主にまでなった
この親子の時勢眼・遊泳術は藤堂高虎にも劣らないよ。
260日本@名無史さん:02/03/13 05:34
ここでも名前が出てこないマイナーな藩てあるんだろうな
261日本@名無史さん:02/03/13 10:27
>>259
久留米有馬ってどんな功績で21万石貰ったの?
262日本@名無史さん:02/03/13 13:35
有馬則頼・豊氏父子は秀吉没後から一貫して家康に従い、
会津征伐・関ヶ原の役・大坂の陣にも従軍して戦功があった。
とくに華々しい活躍があったわけではないが、長年の功労に報いるという事で
元和6年、丹波福知山8万石から大幅加増で筑後久留米21万石に移封された。
まあ、豊氏が家康の養女を娶っていたという事が大きな要因なんだろうな。
263日本@名無史さん:02/03/13 15:28
>262
>豊氏が家康の養女を娶っていたという事

その経緯がしりたい。
264日本@名無史さん:02/03/13 15:40
筑後有馬藩は松江藩と並ぶ相撲のパトロンとして有名だよ。
大勢の関取をお抱えにしていたし、本場所中は回向院から
上屋敷まで結果を知らせる早飛脚が出た。
265日本@名無史さん:02/03/15 04:57
有馬頼寧(政治家)・頼義(推理作家)兄弟の家が筑後有馬藩でしたっけ?
266日本@名無史さん:02/03/15 05:13
>>256
yes
267266:02/03/15 05:21
yesなんて書いたけど、この二人は親子じゃなかった?
268日本@名無史さん:02/03/15 06:07
>>22
>播州赤穂藩だって、例の事件がなけりゃ、話題になったことか
うちの実家のある田村藩の名はその事件のおこぼれ以外に見たことないよ。
269日本@名無史さん:02/03/15 16:53
>267 兄弟だっけ?うろ覚えでスマソ
270269:02/03/15 16:54
兄弟→親子 重ね重ね逝ってきます…
271日本@名無史さん:02/03/18 15:27
頼寧伯爵の子が頼義先生
272日本@名無史さん:02/03/19 02:54
有馬頼寧伯爵って有馬記念の有馬さん?
273日本@名無史さん:02/03/19 06:26
そうです
274日本@名無史さん:02/03/23 11:51
有馬家って確かに実際の功労に比して優遇されすぎだね。
275日本@名無史さん:02/03/23 11:55
摂津の国麻田藩一万石。地元なので調べたけど殆ど資料が無い。
276日本@名無史さん:02/03/23 23:46
>275
青木一重の子孫。
277日本@名無史さん:02/03/24 10:51
大田原藩(外様):下野国大田原 11400石 大田原勝清 柳間詰
戊辰戦争の時会津・旧幕府軍(確か大鳥圭介の伝習隊)の攻撃を受けるも
城の立地条件の良さのおかげでなんとか持ちこたえて撃退。
後に白河口に出兵して527人中14名が戦死、軍功によって賞典5000両。
278日本@名無史さん:02/03/30 15:29
あげたい
279目が怖い:02/03/30 16:17
武蔵国葛飾郷って何藩?
280日本@名無史さん:02/03/30 16:43
>279

くだらない疑問をマルチポストするな

葛飾は「郡」であって「郷」ではない
江戸時代は天領(将軍直轄地)だろう
281目が怖い:02/03/30 16:58
ああ、そかあ。ゴメソ。ゴメソ。
282    :02/03/30 17:00
>>276
ついでに、
天文十二年生まれ。父は青木重直。
秀吉の黄母布衆、以後家康に仕える。
元和元年、一万二千石をもって麻田に住す。
寛永五年没。
283ガイシュツだけど・・・・:02/04/05 15:32
河内国狭山藩北条家一万石

藩祖の氏規は氏政の弟という名門でありながら、この扱い
しかもその三鱗紋の定紋が、正三角形ではなく、二等辺三角形というのが泣かせる
(これは本家にあやかりたいという気持ちと、少し遠慮していることの現れだという)

三鱗紋については、ここを参照
http://www1.sphere.ne.jp/enshoji/kamon1126.htm
284日本@名無史さん:02/04/05 15:43
>283
その子孫が創価学会元会長、北条浩サンだっけ?
285日本@名無史さん:02/04/05 16:54
黒石藩て既出かな?
津軽家の分家で一万石、最後の藩主は津軽承叙(つぐみち)
 式部小輔、従五位下、出雲守(幕末維新家子孫総覧より)
286 :02/04/05 19:01
備中岡田藩、なにかある?
287日本@名無史さん:02/04/05 21:36
高鍋藩。
地味だ・・・
288日本@名無史さん:02/04/05 21:38
高鍋藩の殿は、秋月とかいう聞いたこともない家。
あと秋月藩ってのもあって、ここの殿は黒田なんだよな。
混乱するのう・・・
289>:02/04/05 21:45
高鍋藩秋月
上杉鷹山の実家として
それなりに知られている。
290287:02/04/05 21:47
>289
知らなかった。
すると、上杉謙信以来の上杉家の血筋は絶えてしまったんですね?
291日本@名無史さん:02/04/05 21:49
やっぱり日本は神の国だったぞ!
みてくれ!

http://choco.2ch.net/test/read.cgi/news/1017943007/l50
292>290:02/04/05 22:00
謙信には実子いなかったから、血筋は、はじめから途絶えている。
(もともと、謙信自体、関東管領上杉家の人間じゃないし)
鷹山以前に
寛文の綱勝変死のおりには 吉良義央の子 三郎(綱憲)が養子にはいってる
三郎の母は綱勝の妹だから血筋といえば血筋ではあるな。
293日本@名無史さん:02/04/05 22:10
>>291
オモロイ、ワロタ
294相撲の他:02/04/05 22:11
久留米の有馬では正徳のころの藩主 頼ユキ は数学者として有名
πを計算したりした。
295日本@名無史さん:02/04/06 00:52

「士・農・工・商」はウソですよね?
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1017057324/l50
296>:02/04/06 11:19
>268
>うちの実家のある田村藩の名はその事件のおこぼれ以外に見たことないよ。

伊達政宗正室愛姫の実家筋というのはメジャーじゃないのかな。
三春にいたころは、坂上田村麻呂の末裔を名乗っていたんだから
この点も結構メジャーじゃないかと思う。

長矩を庭先で切腹させて非難されただけしか伝わってないとすると
かわいそうだな。。庭先切腹は幕府役人の支指示に従っただけだし、
297日本@名無史さん:02/04/07 09:56
>>283
そりゃそうがないよ。家康の娘を娶ったのが北条家嫡流の氏直。氏直が小田原攻め
後に高野山に追放され、若くして病死いたから、氏規にお情けで(将軍家の人間の
嫁ぎ先が浪人じゃいくらなんでもということで)1万石あげたんだから。

>>288
秋月家は名門。
秋月藩は、黒田如水の異母弟を祖とする。
298日本@名無史さん:02/04/07 11:13
まったく話題にならないわけではない.江戸時代には貧乏な藩として有名だった.
299日本@名無史さん:02/04/07 11:45
喜連川藩
300日本@名無史さん:02/04/07 13:08
300
301知ってるつもり?:02/04/07 13:46
衣藩ってどうよ?
302日本@名無史さん:02/04/07 14:41
現在の豊田市にあった藩でだね
藩名の表記は「衣」よりも「挙母」の方がメジャーなんじゃないの?
303日本@名無史さん:02/04/07 15:08
>>298
>江戸時代には貧乏な藩として有名だった.

どこの藩のこと?
304日本@名無史さん:02/04/07 15:19
ほとんどの藩がそうだと思われ
305日本@名無史さん:02/04/09 01:57
江戸中期以降
裕福だった藩ってどっかあるか?
306>>305:02/04/09 02:06
例えば、
姫路藩(表15万石、実22万石)
庄内藩(表15万石、実20万石)
長州藩(表37万石、実83万石)
土佐藩(表24万石、実48万石)
307日本@名無史さん:02/04/09 02:08
逆に陸奥棚倉藩などは表が10万石でも、実が85000石で悲劇。
だから、譜代大名たちはここを嫌がったそうですな。
出羽山形 表5万石 実25000石
越後高田、越後村上、陸奥白河、陸奥福島も石高が悪かった。
308日本@名無史さん:02/04/09 04:13
表高は官位、江戸城内の詰所、供揃え、献上品の数など格式に反映するから、
実高以上のものを欲しがる殿様もいたと思う。
309日本@名無史さん:02/04/09 04:53
長州や土佐は金持ちだったんだね。
この財力は倒幕の大きな力になったのかな。。
310日本@名無史さん:02/04/09 07:32
薩摩も幕末期は密輸のおかげで裕福だったんじゃなかったけ?
311日本@名無史さん:02/04/09 15:55
>>310 さとうきびの密輸や独占的販売。
ただし、石高的には表77万石 で実35万石程度(桜島の噴火土のせいで土地は
非常に荒廃していたそうな)。
312日本@名無史さん:02/04/09 15:58
津軽藩の場合だと、4万5000石だったのが、江戸後期には32万石に
なっている。開墾しまくった功績ですね。
313日本@名無史さん:02/04/09 19:32
>311
あと、借金250年賦(天文学的な額となった借金を250年払いで返済して
いくという、無茶な裏技)。
314日本@名無史さん:02/04/10 14:47
>>256
黒羽騒動って実録も編まれてるのだろうか…
お鉱の方なる姫様の名は見たことが、どこかであるが…
315日本@名無史さん:02/04/10 17:05
三河西尾藩ってどうよ。
316西尾○二:02/04/10 17:26
>315
呼んだ?
317日本@名無史さん:02/04/10 17:30
>>316新しい歴史教科書をつくる会頑張ってますか?
318西尾○二:02/04/10 17:31
>317
若い衆に叩かれて難儀してます。
319日本@名無史さん:02/04/10 17:32
藤岡信勝さんにこないだ東大食堂で挨拶しました。かれ元気にしていますか?
320日本@名無史さん:02/04/10 17:37
>319
ここだけの話、奴は好きじゃない。
321日本@名無史さん:02/04/10 17:38
>>小林よしのりは?
322西尾○二:02/04/10 17:38
名前書き忘れた。
>>320は私です。
323西尾○二:02/04/10 17:38
>321
なかなか繊細で気のいい人物なんだが、不幸にもアメリカに対する評価の違いで
叩かれている。
324日本@名無史さん:02/04/10 17:39
>>百地章は?
325西尾○二:02/04/10 17:40
>324
記憶にない。
326日本@名無史さん:02/04/10 17:42
西尾教授の電気通信大学って学食がまずいってききました本当ですか。
327日本@名無史さん:02/04/10 17:46
>326
戦時中に食ってた不味い飯に比べれば、大したこと無い。
328西尾○二:02/04/10 17:46
>327は私。
また書き忘れた!
329日本@名無史さん:02/04/10 17:46
西尾幹二「国を潰してなるものか」読んだんですが、客観性実証性に乏しいですね。
330西尾○二:02/04/10 17:49
>329
歴史は情熱なり!
331松平和泉守乗完:02/04/10 17:49
西尾幹二の教科書って幾ら?
332日本@名無史さん:02/04/10 18:03
>331
「つくる会」の歴史教科書ならあるが、私の作った教科書などない。
333西尾○二:02/04/10 18:03
>332
また書き忘れた!!
334あんたウザ過ぎるぞ:02/04/10 18:11
自作自演をこんな所でするんじゃね〜
335西尾○二:02/04/10 18:14
>334
残念ながら、自作自演じゃないんだなぁ〜、これが(w
336西尾○二:02/04/11 19:18
さて。改めて質問をつのりましょう。
337日本@名無史さん:02/04/12 07:56
つーか、あんた完全にスレ違いなの
338日本@名無史さん:02/04/12 11:36
全国にある内証分家の藩てどういうものがあるの?
339西尾○二:02/04/12 12:05
ブルータスよ、お前もかぁぁ!!!!
340西尾感じ:02/04/12 15:13
西尾教授そんなに怒らないで下さい。心臓に負担が。
341日本@名無史さん:02/04/13 01:32
武蔵久喜藩、出羽長瀞の米津家がほんの1時期陣屋をおいた。
342>:02/04/13 10:35
>299
足利の本流といえるお家が話題にあがらないほどマイナーとは言えないです。
と思いつつ、江戸時代に喜連川の事跡って何かあるかというと、たしかにあまりないか。。
ところで、喜連川は万石に達しないが、”諸侯に列する”扱いでいい?

343日本@名無史さん:02/04/13 10:37
関八州の穢多頭弾左衛門でも、喜連川藩領は支配外でした
344日本@名無史さん:02/04/13 23:39
>>338

 内証分家じゃなきゃダメ? 単に新田藩というだけなら自信を持って
書けるけど、内証分家と限定されちゃうとねえ。新田藩でも、ちゃんと
領地を分けている(本藩の石高も減ってる)所もあるから、簡単に見分け
が付かないよ。
345日本@名無史さん:02/04/13 23:59
佐久間信盛(大河ではオメダが演)の一族が立てた藩ってどうなったの?
346>:02/04/14 01:31
丹波八上藩はどうだ。

豊臣五奉行の前田玄以の子でありながら、徳川時代に1代で断絶。
ほとんど知られていない。。
同じ5奉行の浅野が徳川時代にも大きな力をもっていたのと落差は大きい。
347世界@名無史さん:02/04/14 01:38
>>342
喜連川は諸侯です。唯一石高が万石に達しない諸侯。
五千石ですが、待遇は十万石格でした。
348日本@名無史さん:02/04/14 01:49
上州の吉井藩も面白い存在。
一万石ながら国主格として大広間詰、
後には御三家と並んで大廊下詰となった。
ただし、上の間に御三家が廊下を向いて座すのに対し、
下の間を背に、中奥を向いて座した。
349日本@名無史さん:02/04/14 07:57
>>348
体面を保つのが大変だったろうな。
>>342
縁切寺の東慶寺の寺領を押領しようとして問題になったくらいかな。
350?@:02/04/15 01:01
裕福と言えば、
譜代、及び外様の万石以上の家臣と
1〜2万石程度の大名とでは、実際どちらが裕福だったのだろうか!?
351日本@名無史さん:02/04/15 21:49
家臣、侍女をお手討ちにしたあぼ〜ん藩主の一覧。
結構多いんだな。しかし、ほとんどが謎の死を遂げている。
http://ime.nu/ime.nu/www.raus.de/crashme
352>351:02/04/15 22:16
ブラクラ
353>454:02/04/15 23:45
crashme に名前からして、そうだね。。
こんなことして楽しいのかな
354日本@名無史さん:02/04/16 11:45
>>348
長七郎の子孫と言う伝説あり。
355信濃国高島藩:02/04/16 19:58
餅米の粉を原料とする「氷餅」を、城の一角に設けた
「氷餅部屋」で製造していた
その製造工程は以下の通り

@餅を粉から搗き上げ、箱に練り込む
Aその餅を寒い夜に放置し、凍結させる
B固まった餅を切り分け、鉋で削って形を整える
C紙に包んで、日陰に吊るして乾燥させる

「氷餅]は貴重品かつ滋養食であり、明治維新までは
一般での製造が禁止されていた
この「氷餅」は白い寒天に似ており、指で触れるだけで
崩れるほど脆く、熱湯を注いで重湯にして飲んでいた
現在は特産品として製造され、和菓子の材料としても
利用されている
356日本@名無史さん:02/04/21 19:40
保守あげ
357日本@名無史さん:02/04/21 21:29
越後沢海藩って、知ってる?
358日本@名無史さん:02/04/21 22:27
>>357
知るかヴォケ!
359日本@名無史さん:02/04/26 22:51
氏ね358
360日本@名無史さん:02/04/26 23:05
>>357
沢海藩は面白いな。四代政親の酒乱によって
一族が願い出て除封廃藩というのが。
361日本@名無史さん:02/04/30 20:01
備中蒔田藩はどうかな?
362日本@名無史さん:02/05/04 20:39
’藩’はまだ話題があるからいいよねー。
天領の場合、このスレにも参加できないほど、話題がない。
363日本@名無史さん:02/05/04 21:14
>203
>上野前橋藩松平家十七万石、川越藩と親戚だよね。
>うちは川越藩の家臣の子孫らしい…

遅レスだけど、ちょっと違うぞ。
松平大和守家の初代は、結城秀康の5男直基。養祖父晴朝の隠居領と結城姓
を相続。
その後、松平姓に戻り山形・姫路・日田・白河など(順不同)経由で前橋に。
ただし、前橋城が水害で崩壊したため避難する形で川越に。
そのため、領地が前橋(陣屋を置いた)と川越周辺に二分される形となり、
領地支配は困難を極めた。
そのため、将軍家斉の子供を養子にして庄内藩酒井家との国替えを図るが失
敗。代わりに2万石加増。(17万石に)
幕末、生糸で収入を上げた前橋商人の献金により前橋城を再建し、現在まで
残る川越城本丸御殿を置き土産(幕末に建てた)に前橋復帰。
明治維新のころの川越城主は、別系統の松平周防守家(本姓松井)。
しかし、数年で明治維新となる。
大和守の家臣の中には、維新後川越に戻って住んだ者もいるようである。
川越時代に死亡した大和守家当主の墓は喜多院にありますが、何気に宗派が
違っているのが面白いです。

364日本@名無史さん:02/05/06 22:51
三田藩士・綾部藩士ってどんな感じですかね?
初代は水軍のノウハウを持っていたでしょうが、二代・三代・四代・・・・と
なってくると完全に陸兵になったんでしょうか?
365日本@名無史さん:02/05/07 01:25
>>364
三田、綾部は知らないけど、豊後森藩久留島家は山奥の領地のほかに、
別府湾の港町を飛び地として領していたので、いにしえの水軍技術の
はしくれ位は残っていたでしょう。
366日本@名無史さん:02/05/08 02:54
「『いき』の構造」の著者・九鬼周造くらいになると
もはや水軍の末裔としての面影はなし
367日本@名無史さん:02/05/08 07:56
>366
マジで末裔なの?
368日本@名無史さん:02/05/08 15:05
御三家に継ぐ名門でしかも国持ちの大藩でありながら全く話題にならない松江藩
369日本@名無史さん:02/05/08 15:47
左甚五郎を召し抱えた松平不昧公は有名 >松江藩

>367 岩波文庫「『いき』の構造」解説にそう書いてあった
ちなみに周造=岡倉天心の隠し子説も
370伊達遠江守家中:02/05/08 21:43
あ、私363だけど、もうひとつお話を。
宮内庁書陵部にある「華族系譜」の越前系松平氏の家譜(『徳川諸家系譜』
として刊行)で気がついたことが一つ。
秀康の子供たちが初代の家(津山・福井・松江・川越=前橋・明石)で、
系図の書き出しが誰かなんだけど、
津山→清和天皇−(中略)−新田義重−(中略)−家康−秀康
福井→(源)秀康
松江→直政(秀康3男)
明石→直良(秀康6男)
だったので、大和守家も秀康か直基(5男)あたりから始まるのかと思って
たら・・・
藤原鎌足−不比等−(中略)−結城朝光−(中略)−晴朝−秀康−直基−
だって。
さすが16歳まで結城五郎八と名乗ってただけのことは。(藁
371北村大膳:02/05/08 21:51
>368
不味公を忘れないでくれ。
それから河内山宗俊にやりこめられるのは松江の殿様
372日本@名無史さん:02/05/08 23:12
勝山
1624 福井藩領・立藩/結城秀康五男松平直基支封3万石
1635 松平直基越前大野に移封/松平直良越前木本より入封3万5千石

大野
1633 松平直政信濃松本に移封
1635 松平直基越前勝山より入封5万石
1644 松平直基出羽山形に移封/松平直良越前勝山より入封5万石

山形
1644 天領・立藩/松平直基越前大野より入封15万石
1667 松平直基播磨姫路に移封/奥平松平忠弘播磨姫路より入封15万石

姫路
1667 榊原政倫越後村上に移封/松平直基出羽山形より入封15万石
1683 松平直矩豊後日田に移封/本多忠国陸奥福島より入封15万石

日田
1683 天領・立藩/松平直矩播磨姫路より入封7万石
1686 松平直矩出羽山形に移封/廃藩・天領

山形
1686 堀田正仲陸奥福島に移封/松平直矩豊後日田より入封10万石
1992 松平直矩陸奥白河に移封/奥平松平忠弘陸奥白河より入封10万石

白河
1692 奥平松平忠弘出羽山形に移封/松平直矩出羽山形より入封15万石
1741 松平明矩播磨姫路に移封/久松松平定賢越後高田より入封11万石

姫路
1741 榊原政永越後高田に移封/松平明矩陸奥白河より入封15万石
1749 松平朝矩上野前橋に移封/酒井忠恭上野前橋より入封15万石

前橋
1749 酒井忠恭播磨姫路に移封/松平朝矩播磨姫路より入封15万石
1767 朝矩武蔵川越に移封/廃藩・天領

川越
1767 松平朝矩上野前橋より入封15万石
1827 松平斉典2万石加増17万石
1867 松平直克上野前橋に移封/松平康秀下野宇都宮より入封8万4百石

前橋
1867 天領・立藩/松平直克武蔵川越より入封17万石
1869 松平直克版籍奉還
1871 廃藩・前橋県
373日本@名無史さん:02/05/08 23:13
1992→1692
374伊達遠江守家中:02/05/08 23:49
>372
日田転封は、越後騒動に連座したから。
375日本@名無史さん:02/05/19 14:49
 
376伊達遠江守家中:02/05/19 16:57
>372
前橋→川越は、川欠けで前橋城が崩れちゃったから。
高浜郭だかの櫓が思い切り川に崩れ落ちて行ったそうです。<「岸辺のアル
バム」かよ(藁
川越→前橋は、開国後製糸業で大儲けした前橋商人が城の再建費用を献金し
てくれたおかげです。
377_____________________:02/05/26 15:10
>>370
多分,それは直基が父の跡を継いで結城氏を継いだという事になってるから。
だけどすぐ松平姓に復姓しちゃったけどね。
378日本@名無史さん:02/06/13 23:57
大和や備中ってマイナーな小藩が多いね。

ところで大戸藩っていう幻の藩のことだれか知ってる? たしか上野国で
一万石、藩主は岡氏。すぐ改易になったみたいなんですけど。
秋田書店の諸藩一覧みたいな本に載ってたんだけど、ほかの本では存在すら
確認できません。
あと備中笠岡藩っていうのも、地元の資料によると一時期存在してたみたい
なんだけど、ほかの本には載ってません。

だれか詳細知りません? ほかにも幻の小藩ってありそうなんですが。
379Hello:02/06/18 21:57
上総の久留里藩って知ってます?
…だぁれも知らないですよね(笑)
新井白石が幼少を過ごした藩なのですけれど・・・・
380日本@名無史さん:02/06/18 22:10
ところで藩って何石から言われるの?
1万石以下でも藩て言ってる所があったよね?
初心者のふとした質問です
381>379:02/06/18 22:31
久留里城は行ったことがあるよ。
小型の復元天守(つーか只の櫓?)があったね。
382日本@名無史さん:02/06/19 09:11
>380
喜連川藩でわ?
383日本@名無史さん:02/06/19 09:52
江戸時代には正式には藩はなく、「家」であって、藩は正式には版籍奉還と廃藩置県
の間にしか存在しなかった、と身もふたもないことを行ってみるテスト。
384日本@名無史さん:02/06/19 18:32
>>364
 山国だけど、九鬼氏の綾部城は河川への舟の乗り入れを考慮した
設計だったようです。『綾部市史』によると、これは元水軍として
の思い入れが作用したらしいとのこと。
 もっとも、綾部藩は地元農民(豪族くずれが多い)の統制に苦しみ、
「陸にあがった河童」と評されています。おかげで年貢は軽かった
ようですが。
385日本@名無史さん:02/06/19 19:34
>>378
大戸藩は『徳川加除封録』に
岡越前守成定、一万石、居邑上野国吾妻郡大戸。
大阪陣で城中に通牒したため除封と記載されているが
『寛政重修諸家譜』にある岡家俊、六千石。
宇喜多秀家の家臣で長子が大阪に内通したため父子供に自刃。
の誤りとされていて大名であったかが不確実。
『群馬県史』でも記載されてるのは旧版。
以上、手元にある『上州の諸藩』(下)上毛新聞社より。


386>385:02/06/19 21:05
つーか、そんな江戸初期なら大名と旗本の区別がはっきりしていなかったんで(区別があったかも疑問)
どちらともいえないと思われ・・・
387日本@名無史さん:02/06/19 21:40
小倉藩 
388日本@名無史さん:02/06/19 21:42
.
389伊達遠江守家中:02/06/20 00:11
>383
で、大名の領地は「領分」、旗本の領地は「知行所」であって、これまた藩
と呼ぶのはおすすめできんぞ、と追い討ちをかけてみるテスト。

>385
それなら、宇喜多騒動で浮田左京亮(坂崎出羽守)や戸川、花房らとともに
出奔して徳川に仕えていたのでしょうね。
390日本@名無史さん:02/06/21 16:11
大庭寺藩
391日本@名無史さん:02/06/21 16:51
三日月藩っ
392日本@名無史さん:02/06/21 17:06
戒重藩
393日本@名無史さん:02/06/21 20:42
外様1位の国力もちながらあまり幕末でめだたなかった。
大河の...○田藩...
394前田斉広:02/06/21 20:45
>393
兼六園作ったぞ!
395日本@名無史さん:02/06/21 20:58
>>387
九州探題(副将軍と同じ虚位)の小笠原家15万石か?
第2次長州征討で、奇兵隊に城を奪われた藩として有名だぞ(泣
たまーに、考証のいい加減な歴史モノ小説・漫画・エッセーで
老中格・小笠原長行(唐津藩世子)居城で高杉晋作が落とした(自焼)と言われる
396日本@名無史さん:02/06/21 21:10
>395
小笠原は戦国時代からへぼかった・・・
397日本@名無史さん:02/06/22 02:01
播磨・三草藩
藩主は代々丹羽氏
398日本@名無史さん:02/06/22 10:41
>>396
でも、小倉藩って小笠原グループの宗家なんでしょ?幕府の役職何かでよく聞くよ
399日本@名無史さん:02/06/22 15:10
伊予小松藩
400日本@名無史さん:02/06/22 17:46
出石藩はどう?仙石騒動で意外と知られてるのかなぁ?
初代東大総長の加藤弘之を、輩出してるんだけど
みんな、知ってる?
401日本@名無史さん:02/06/22 18:12
出石そばうまいよ。
但馬は、江戸時代よりも室町時代の山名氏が有名。
402日本@名無史さん :02/06/22 22:01
日田藩屏史
1594年毛利高政により隈立藩
1601年毛利高政佐伯移封により廃藩。佐伯藩預り。
1616年石川忠総により永山立藩
1633年石川忠総を佐倉に移封、以降幕府直轄となる。
1682年松平直矩が日田藩を立藩。その後天領に。
403日本@名無史さん:02/06/26 01:06
田原本藩
404日本@名無史さん:02/06/26 02:04
田原本藩
江戸時代 交替寄合平野家領
明治元年 平野長裕に5千石を加増 計1万石 立藩し諸侯に列す
明治4年 廃藩 田原本県となる
405日本@名無史さん:02/06/27 06:02
浅尾藩
406世直しサイト:02/06/27 06:11
407日本@名無史さん:02/06/27 16:32
天童藩はどうよ?
織田家の末裔ですが。
408日本@名無史さん:02/06/27 18:27
>>407
将棋で有名すぎるので却下。
409日本@名無史さん:02/06/27 18:30
新発田藩。
溝口家十万石。
410日本@名無史さん:02/06/27 19:18
>>409
幕末に高直しして5万石を10万石にしたDQN
411日本@名無史さん:02/06/27 22:38
座光寺藩

412日本@名無史さん:02/06/27 23:13
播磨・福本藩
413日本@名無史さん:02/06/27 23:17
>>212
西代藩は河内長野市だぞ、と超亀レス。
414日本@名無史さん:02/06/27 23:42
>>386
実際は>>383の言う通りで、藩をまとめた書籍は
明治の藩の規定一万石以上(大名の規定とほぼ同じ)を基準に
藩、大名が明確でない時期でも便宜上、城・陣屋の所在地名で藩として記載。
(俺の挙げた参考書籍にも、ことわり書きがある)
故に、それが明確でない大戸藩は殆ど記載されなくなったみたいだね。

415:02/06/27 23:44
西尾藩6万石
416日本@名無史さん:02/06/28 22:28
横浜藩 21万石
417日本@名無史さん:02/06/28 22:39
みなさん多度津藩は知らんでしょう?
418日本@名無史さん:02/06/28 22:44
京都藩 12万石
419日本@名無史さん:02/06/28 22:50
もうこ藩
子供の様に青かったらしい
420日本@名無史さん:02/06/28 22:58
埼玉藩 17万石
。。。って、おい!
無い藩言うなよ
421 :02/06/28 23:06
館林藩
・・・一応、犬公方の藩です
422日本@名無史さん:02/06/28 23:15
長岡藩も河井継之助がいなければこのスレに十分入る資格があったのだろう。
423日本@名無史さん:02/06/28 23:24
初犯
424日本@名無史さん:02/06/29 01:13
橋谷藩
425日本@名無史さん:02/06/29 01:25
柿岡藩(常陸国)
寛永元年(1624) 稲葉正勝新封 1万石
寛永2年(1625) 稲葉正勝下野国佐野へ移封 廃藩
426日本@名無史さん:02/06/29 01:40
館林は話題に挙がるっしょ。
427日本@名無史さん:02/06/29 03:15
日向の佐土原藩
428日本@名無史さん:02/06/29 09:01
福島藩
429:02/06/29 19:17
同じ尾張の付け家老で、明治に同じように立藩されたのに
成瀬の犬山に比べると
竹腰の今尾藩は話題にならんな。
430日本@名無史さん:02/06/29 21:23
藩名だけってのは無しにしようよ
せめて、1行くらいコメントをつけようよ、と言うわけで

美濃岩村藩
幕末の思想家、佐藤一斎を生む
431日本@名無史さん:02/06/29 21:25
常陸府中藩

手塚良仙の出身藩、手塚治虫の先祖
432日本@名無史さん:02/06/30 02:46
これ最強

竜崎藩(常陸国)

明治4年(1871) 米津正敏上総国大網より入封立藩 1万1千石
同年         廃藩置県 竜崎県となる
同年         新治県に編入
433日本@名無史さん:02/06/30 03:10
白鳥藩

藩政を牛耳っていた家老が矢坂平四郎なる無頼浪人に惨殺される。
434日本@名無史さん:02/06/30 04:25
南部藩は既出?
435日本@名無史さん:02/06/30 05:03
大和櫛羅藩
「くじら」と読みます
奈良県御所市の山麓にこの地名が残っています
436:02/06/30 08:51
そんな大藩が話題にのぼらんか?
相馬大作事件
437日本@名無史さん:02/06/30 08:54
讃岐藩。
水戸藩の連枝、藩祖は水戸黄門の兄松平頼重。 
438日本@名無史さん:02/06/30 12:28
牛久藩は出た?
江戸から15里という近所にありながら、
何故か外様の山口家。
山口重正が関が原後に一万石で立藩して以来維新まで転封なし。
関東の藩で転封なし、しかも外様って珍しくない?
439日本@名無史さん:02/06/30 12:33
>438
牛久藩は譜代だぞ。
440日本@名無史さん:02/06/30 12:43
>>439
譜代だったの? そりゃスマソ。
関が原前から徳川方だったんだな。
山口重政って近江かどっかの出で秀吉に見出されたと思ったが。
441日本@名無史さん:02/06/30 13:34
えーと、黒菅藩や海坂藩は出ましたか?
442日本@名無史さん:02/06/30 13:37
久居藩。
津藩藤堂家の支藩。
443日本@名無史さん:02/06/30 15:13
>>441
海坂藩はいいね。藩士のアフターファイブも充実しているようだし。
444日本@名無史さん:02/07/01 00:05
>>433
有名な事件なの? 聞いた事ない藩名だけど。
445>>433:02/07/01 00:16
それ、三匹が切るじゃないか(^。^;;
446日本@名無史さん:02/07/02 09:54
>417(多度津藩)
殿さん、シロがない(w
447日本@名無史さん:02/07/02 13:55
石見国津和野藩

森鴎外が出なかったら、同藩出身者以外だれも知るまい
448>447:02/07/02 21:39
どこまで事実か後世の創作か不明だが津和野については
亀井茲親がプッツン 吉良義央を殺そうとしたというエピソード。
仮名手本忠臣蔵の桃井若狭之介、加古川本蔵のモデルということに
なって結構有名っす、
449津和野:02/07/02 21:45
そういえば、亀井家が入る前の領主って坂崎直盛だね。
例の大阪の陣の千姫救出騒動があってこれも結構しられているような。。
450日本@名無史さん:02/07/02 21:52
赤穂藩(森家)。
理由は推して知るべし。
451>:02/07/02 22:01
丹波山家藩谷家
 天正の頃から明治まで一家で支配だが、すごく地味。
 
452>:02/07/02 22:06
>450
それなら
浅野改易直後に入封、すぐ転封の永井家の赤穂藩
453日本@名無史さん:02/07/02 23:11
浜名湖畔の掘江藩、
明治維新に藩主(大沢某)がセコイ罪で逮捕されたので歴史に残ってしまった。
454日本@名無史さん:02/07/03 00:07
堀江はもともと藩じゃなかったのよ。
大沢家は高家で、3550石しかなかった。
それを維新のドサクサに高直しして1万石、
明治元年に大沢基寿が諸侯に列し立藩した。
翌年この高直しがインチキとバレて除封。
455日本@名無史さん:02/07/03 19:45
大沢さんは根回しが下手。
456日本@名無史さん:02/07/09 15:02
三上藩
457日本@名無史さん:02/07/10 18:17
備中岡田藩ってなにかある? 伊東氏、1万石。特記事項なにもなし。
458日本@名無史さん:02/07/13 08:23
>456

遠藤氏一万石のことなら、若年寄として
幕末史では重要かも
459日本@名無史さん:02/07/16 17:37
岡田藩、飫肥藩の親戚だな。
460日本@名無史さん:02/07/16 17:51
伊達村和領(1695〜1699騒動で断絶)
通称:水沢藩、中津山藩
3万石(中津山、三迫で15千石、江戸御蔵米で15千石)
仙台藩より分知新封。
外様 柳間 陣屋
伊達将監家(子孫は伊達織部家)
伊達村和(1661〜1722/伊達綱村二男)が1695年仙台藩より3万石を分知され成立
1699年、江戸で家臣が幕府従者岡孝常と騒動に及んだ為、根白石に幽居させられ、領地は宗家に返納した。
1719年、許され、世子村詮は柴田川崎に二千石を賜り一門に列した。
461伊達遠江守家中:02/07/16 22:07
>454
浜名湖が「新田開拓予定地」として堂々とカウントしてあったからね。
度胸がいいと言うか、よほど大名になりたかったのだろうな、と言うか。
462日本@名無史さん:02/07/16 22:10
>461
おまえうざい。
463日本@名無史さん:02/07/16 22:33
下総多古(タコ)藩って既出?
松平氏1万2千石。
464伊達遠江守家中:02/07/16 22:57
>462
仙台城スレ以外にも出張か? 蛆井ご苦労だな。(藁
465日本@名無史さん:02/07/16 22:57
タコは9千石しかないんだよな。
別に摂津に知行地3千石もらって大名に列した。
領地が分散してる大名は多いけど
合わせて一本で1万石に達するってのは珍しい。
466日本@名無史さん:02/07/17 00:35
>>449
坂崎出羽守による千姫救出は史実に非ず。
467日本@名無史さん:02/07/17 01:03
嫁にもらえずにキレたって人でしょ?
あれって史実じゃないの?
46811cc:02/07/17 02:43
469日本@名無史さん:02/07/17 03:48
サンクスコ。
言われてみれば姫を救った男にやるなんて現実にはありそうにないよね。
でもメンツを潰されたわりには思い切ったことしたなあとも思う。
470日本@名無史さん:02/07/18 23:11
>>457
岡田藩は新本義民騒動が結構有名だと思うけど。
義民、騒動、一揆を扱った書籍でみた事があるって程度で
詳しい事は覚えて無いんだけどね。
確か、山の利用に関して代表者4人が江戸の殿様に直訴して処刑された
というような奴だったと思う。
471>:02/07/19 01:02
で、津和野に話を戻すと、

亀井コレチカ と 多胡外記 の
仮名手本忠臣蔵そのまんまの話はどこまで史実だろう。
あれをモチーフに津和野銘菓 源氏巻 が売られているんだが。。。
472日本@名無史さん:02/07/19 03:02
備中浅尾藩。陣屋が焼き討ちされますた。
473日本@名無史さん:02/07/19 06:41
浅尾藩は、蒔田君が藩主だよ。
474日本@名無史さん:02/08/03 17:34
475日本@名無史さん:02/08/03 18:46
鹿野藩 
亀井琉球守滋矩がインドびいきで
地名変えまくった。鹿之助の墓もあるよん
476日本@名無史さん:02/08/03 19:53
常陸國松岡藩二万五千石中山家 明治元年立藩
477>:02/08/04 03:14
>473
その蒔田って世田谷吉良の蒔田家とは関係あるの?
478日本@名無史さん:02/08/04 18:23
下館藩はどうかね。
479アイヌ:02/08/04 19:56
蝦夷(北海道)松前藩 

石高争いでは負けない。
一万石挌だぞ。

米が取れないので、幕府に泣きついて
一万石挌ということにしてもらったらしい。


創業の偉君、蠣崎季広。
源太郎の「風雲児たち」によると
北陸で跡目相続争いに敗れて。
逃げて、逃げて、逃げて、最後に
東北の南部氏を頼って行ったら
津軽氏との最前線基地に行かされてもた。
これはたまらんと、津軽海峡渡って北海道へ逃げて、
ついでに現地の人と戦って(だまし打ちもあり)
築いた。そうな。。。

480日本@名無史さん:02/08/06 17:29
あげ
481ベタ藤原 ◆MNjfnp0E :02/08/06 17:40
>>479
 あ「風雲児たち」リイド社で再開してたよ。
 書き下ろしだけど。

 関係無いんでsage
482日本@名無史さん:02/08/06 18:45
477 蒔田君とこ、霞会館の名簿で住所が同じだったら、そうだと思うよ。そこまで、確認してないよ。
483日本@名無史さん:02/08/06 19:56
伊勢崎藩。郷学校が多く藩内につくられ、水戸藩と並ぶほど盛んであった。
484日本@名無史さん:02/08/06 20:05
松前は3万石格以上だよ。松前の地は無高だがな。
幕府が蝦夷地直営に乗り出して文化3年陸奥国梁川に移封3万石。
文政4年元に戻る。
安政2年木古内から乙部までを残して領地召し上げ。代わりに陸奥・出羽で3万石。
元治元年元に戻る。
明治元年陣屋を舘に移す。このとき初めて蝦夷地に石高が敷かれて3万石。
明治4年廃藩。
485アイヌ:02/08/07 23:14
>>481
ご先祖様の一人が松前藩のサラリーマンだったから
どうせ買って読むけど。「風雲児たち」は、松前藩を良く書いてないので気にイラン!!
>>484
一時期『幕府が蝦夷地直営』とは聞いてたけど
松前藩って、その間どうしてたんだろうと思ってた。納得!!
486日本@名無史さん:02/08/17 00:53
487日本@名無史さん:02/09/01 18:04
488日本@名無史さん:02/09/01 19:10
建部丹波守は代々名君です。尼崎をまもった。
489織田と前田:02/09/01 19:24


  上州 七日市藩・・・・

490織田と前田:02/09/01 19:30
491日本@名無史さん:02/09/01 20:26
今治藩の安政あたりの分限帳ないかな〜
情報きぼんぬ
492日本@名無史さん:02/09/02 07:11
>62
二本松少年隊しらんのか?
493日本@名無史さん:02/09/06 23:22


         上州七日市藩 最強!
494日本@名無史さん:02/09/08 01:46
高徳藩・曾我野藩
宇都宮藩の家族が幕末に立藩。本家からの分知ではなく、幕府からの新知のよう。
495日本@名無史さん:02/09/12 23:34
すげぇな、教科書に載らない藩のことを知ってる人がいるなんて。
藩主もビクーリしてると思う。age
496日本@名無史さん:02/09/13 00:26
地方の天領、全部言えんやろ〜。と罵るTEST
497日本@名無史さん:02/09/13 02:21
天領の3大代官所は豊後日田・美濃笠松・飛騨高山
498日本@名無史さん:02/09/13 22:46
「かねはないとうしまのかみ、すそからぼろがさがりふじ」って
どこだっけ? 長野のどっかと記憶していたが…
499日本@名無史さん:02/09/13 23:10
茨城だと笠間藩かな。
水戸→黄門サマ、斉昭、天狗、そして誰もいなくなった
土浦→土屋家
古河→大老土井利勝
結城→水野、戊辰戦争で内戦

と、結構印象に残る藩もあるけど、笠間は小藩でもないのに影が薄い。
せいぜい、薩摩から逐電した人物が伝えた示現流が残っていることぐらい。
500日本@名無史さん:02/09/14 00:57
500
501日本@名無史さん:02/09/14 08:38
福島編。

会津→蒲生・加藤をへて保科(松平)家が支配。
白河→松平定信が有名。幕末に阿部家が棚倉に移封されて天領に。
二本松→丹羽家。二本松少年隊が有名。
相馬中村→相馬野馬追いで有名。
三春→秋田家。戊辰戦争での裏切り行為で知られる。
磐城平→鳥居、内藤、安藤。幕末の老中安藤信正がまあまあ有名。
福島→本多、堀田を経て板倉家が支配。この板倉は島原の乱で戦死した重昌の家系。
守山→水戸家連枝。
棚倉→大名の左遷地として有名。幕末は阿部家が支配。
湯長谷→内藤家、後に遠山と改姓。
和泉→内藤、板倉を経て本多家が支配。

502日本@名無史さん:02/09/14 08:39
×和泉
○泉
503日本@名無史さん:02/09/14 13:07
これだけ書き込みがあっても相手にもされていない山城国淀藩稲葉家って……。
504日本@名無史さん:02/09/16 01:59
淀稲葉家文書は必須です。
505日本@名無史さん:02/09/16 02:12
9代家重の側用人、大岡忠光の岩槻藩
大岡26人衆でも有名
506日本@名無史さん:02/09/16 06:18
日向の佐土原藩は島津一族
507日本@名無史さん:02/09/16 06:55
江戸三百藩HTML便覧
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html
508日本@名無史さん:02/09/16 13:41
津山藩。18万6000石も有りながら全く注目されず。藩祖は森忠政。これも森蘭丸の
末弟の注釈がつかないと全く知られておらず。その後改易、後に復興赤穂藩へ移封。
浅野家よりはるかに在任期間長いのに、赤穂藩といえば浅野家のイメージが定着。
森家かわいそう。
509日本@名無史さん:02/09/16 16:19
<小藩大名の忠節>

わずか1万石ながらも徳川家への忠誠を貫き、最後の藩主林忠崇
に率いられ、戊辰戦争を会津から五稜郭まで戦い抜いた

請西藩

林忠崇は日本最後の大名として昭和16年に亡くなりました。
510伊達遠江守家中:02/09/16 16:45
>509
幕末に藩士が脱藩する例は枚挙に暇がないが、藩主が脱藩した例は唯一。
511日本@名無史さん:02/09/16 17:45
一文字大名萌え
512日本@名無史さん:02/09/16 17:52
>>503
老中格の藩なのに、鳥羽伏見の戦いの時に、門を閉ざして幕兵を
入れなかったっていう有名な話。
513日本@名無史さん:02/09/16 18:01
淀藩主・稲葉正邦は、二本松藩主・丹羽長富の次男で、幕末の二本松藩主である
丹羽長国の実弟。
514日本@名無史さん :02/09/16 18:06
>>503>>512
それに激怒した会津藩兵が城下町に火を放ち、その結果、城下町は全焼・・・
援軍(?)に駆けつけた大久保利通もその惨状に絶句した話は地元では有名。
515日本@名無史さん:02/09/16 18:10
>>510
桑名藩主は、脱藩って言うのかな・・・。
516日本@名無史さん:02/09/16 18:14
天童藩。(山形県)
織田信長の子、織田信雄の家系。
戊辰戦争で庄内藩を裏切り、攻められたような気がした。
御子孫は現在も天童市在住と聞く。
517日本@名無史さん:02/09/16 19:34
静岡の相良藩。最初で最後の藩主は太平の成り上がり田沼意次。失脚後、相良城
は憎悪の為か徹底的に破壊し尽くされた。
静岡県にはまだまだ短命な小藩が数多いスレの宝庫です。
518女子中高生とHな出会い:02/09/16 19:36
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519日本@名無史さん:02/09/21 18:00
>>509
林忠崇は会津にも函館にも行ってないぞ。
忠崇は伊庭や人見の遊撃隊に加盟し、東海道の譜代諸藩を説得しながら
箱根まで移動するが小田原・長州・鳥取・津・岡山の五藩から攻められ敗戦、撤退。
その後奥州まで転戦するが、反論を降服に決定した仙台藩に勧められて
輪王寺宮能久法親王と共に仙台で降服している。
520519:02/09/21 18:02
無論、請西藩士も一緒に降服している。
函館までいったのは人見と伊庭。
521日本@名無史さん:02/09/21 20:14
26万石もあるのにまったく世間から注目
してもらえない徳島阿波藩、唯一の自慢の
阿波踊りも今や高円寺名物へ、悲惨。
522日本@名無史さん:02/09/21 20:20
遠江 大沢家、偽一万石
523日本@名無史さん:02/09/22 00:29
>>521
蜂須賀茂アキ侯は明治天皇からお召しがあったとき
天皇が中座された際に葉巻入れから2〜3本ポケットに入れたら
戻られた天皇が葉巻入れを覗いて
「先祖は争えぬのう」とのお言葉を賜ったそうです。
血筋から言うと蜂須賀家は養子相続を繰り返してて
侯の直接の先祖は徳川家斉将軍なんですが。
524>:02/09/22 00:36
>521
維新後の稲田騒動
淡路の人間は蜂須賀がキライだったのであろう
一説に淡路島が徳島ではなく兵庫県になったのは
この住民感情を配慮したと言われる。
525?1/4?3?μ?O?P:02/09/22 06:41
>>521
心の中では”自慢”してたろうけど・・・
実際はむしろ”疎まれて”たみたい。
何しろ、”阿波踊り”期間は”禁足令”(武家)みたいなもんが出てたらしいし、
そのせいで”お家断絶”となった(つまり、阿波踊りを踊っただけで)
家もあったくらい。
526日本@名無史さん:02/09/22 09:20
武士の生命は殿様に奉るべきものだから
ふぐを食って死ぬと、家名断絶だよ
527伊達遠江守家中:02/09/22 10:51
>524
蜂須賀家と稲田家は元々盟友として同格だったのに、維新後に当主が華族−
士族、家臣が士族・卒族−卒族・平民と大差がついてしまうために駆け込み
立藩しようとした稲田家を蜂須賀家が弾圧しようとしたので発生した。
しかも、幕末においては何かと出遅れがちな本藩に比べて時流に応じて活躍
して藩の名誉を保ったと言う自負もあり、御三家付家老や吉川家のようにな
りたい、またなって当然と言う思いもあったのだろう。
結局、目的を達せられないまま稲田家臣団は北海道へ移住し、蜂須賀家側も
責任を取る意味で淡路を兵庫県に移され、さらに一時高知県に合併されると
いう憂き目に遭った。
528日本@名無史さん:02/09/22 10:56
石高21万石の大藩有馬藩だろう。話題に上んねーなー、この藩は。
529伊達遠江守家中:02/09/22 23:57
支藩は比較的語られない、って言うか本藩に含められちゃうからなぁ。
黒石(津軽)・八戸(南部)・清末(毛利)・秋月(黒田)など。
530日本@名無史さん:02/09/22 23:59
>529
あと、伊予吉田(藁
531MARCO@考古:02/09/23 00:30
有馬と言えばもとは摂津国有馬郡地域出身・・。
主家ではなく家臣の庶流ですが、元文部大臣有馬朗人氏の先祖も有馬出身の有馬氏一族。
藩主有馬豊氏が久留米に行く前、福知山の前、横須賀に居たとき有馬郡から従っていったという。
(有馬則頼・豊氏親子はそれまでの分郡守護有馬家と違い、播磨淡河または三木出身(いづれも旧美嚢郡)といってますが・・。)
そして・・有馬郡の三田藩九鬼3万6千石も・・あまり話題に上らないないですね。
九鬼水軍から山奥におしやられちゃったからかな・・?
文部小輔にして帝室博物館総長九鬼隆一・・は家臣の出身。
明治8年の政変後も官界にのこり、恩師福沢からも「藩閥の出身でなし、保身のためにはしかたなかろう・・。」と皮肉られた。
あと「化学」という言葉を初めて使った蘭学者川本幸民もこの藩出身。
兵庫県庁裏手の公園相楽園は、この藩出身で神戸財界で君臨、神戸市長にもなった小寺謙吉の邸宅跡。
殿さまは・・?
(相当早くから洋式軍隊の編成をはじめ、蘭学や英学を奨励。維新後はさっさと神戸に出て貿易事業や神戸女学院やその他教育事業をしたそうだ・・。)
維新期はトップではないけれどそれなりに中堅処の人材を輩出していますが・・。
江戸期を通じてぱっとしていないといえば、していない。
532日本@名無史さん:02/09/23 00:32
何故、真木和泉の話題が出てこないのだ???
533 :02/09/23 01:02
>>527
それって、江戸初期(以前)の話では!?>盟友関係

とにかく、蜂須賀家初代・家正及び、二代・忠英による
初期門閥制の解体・直仕置体制により、稲田氏を淡路城代に配し
かと言って、藩直属の洲本仕置を置き”一応”藩が淡路を仕切る
体制を整えた・・・
・・・・しかも、天保期には淡路の海防役を”かって”に稲田家に
まかせ、そのせいで家臣が”六倍”にも増えてしまった等・・・

はっきり言って、”いじめ”です。
534伊達遠江守家中:02/09/23 01:11
>530
それを言っちゃぁ、おしめえよ。(泣藁
幕末は、本家と今ひとつ息が合わず佐幕的な傾向が強かったようです。
立藩時のいきさつから言えば、近くの本家より遠くの総本家って感じ?(藁

>533
あぁ、言葉足らず。大名蜂須賀家成立時の頃のお話です。
何でも、独立領主になれるところをあえて留まったという話だそうですが。
535533:02/09/23 06:31
>>534
それはそれはどうも。

でも、なぁ〜んかそれって今で言う”在○”さん達と一緒のような。
536日本@名無史さん:02/09/23 07:17
>>507
讃岐・・・高松藩と丸亀藩と多度津藩、三藩あわせても総石高が18万石か・・・。
これじゃ何もできんという罠。
537日本@名無史さん:02/10/05 17:09
538日本@名無史さん:02/10/05 17:10
讃岐うどん食いたい。
539日本@名無史さん :02/10/07 19:20
先日、棚倉城にいってきました。
「畑俊六終焉の地」という碑があって笑いました。
540日本@名無史さん:02/10/07 19:30
阿波・蜂須賀

しょうじき何もないが
「鳴門秘帳」で安らかに眠れ
541日本@名無史さん:02/10/09 15:16
豊前岡藩・中川家。
賤ヶ岳で戦死した中川清秀の子孫。
542日本@名無史さん:02/10/10 01:13
有馬といえば地元から江戸藩邸に勧請した水天宮が有名
年1回だか月1回だか江戸庶民の参詣も許して大人気
有馬の大名行列はなぜか犬を連れていて
これも庶民には人気だったらしいです
543>529:02/10/10 09:10
維新後だが
秋月の乱
544日本@名無史さん:02/10/11 00:11
有馬は豊臣時代にも秀吉の仮装宴会で「湯文読み」の格好して来て自分の所の温泉を宣伝してたっていうし
観光大名なのか?
545日本@名無史さん:02/10/26 12:05
546日本@名無史さん:02/11/03 11:03
あげ
547日本@名無史さん:02/11/03 14:14
安房船形藩、信濃川成島藩。ある意味、不遇な藩だ。
548日本@名無史さん:02/11/03 18:12
>>547
川成島の本郷泰固は13代家定、船形の平岡道弘は14代家茂の側近で、
ともに旗本から大名となり、若年寄に就任した。

前者は一橋派だったため、安政の大獄で領知を没収され旗本に戻り、
後者は維新後、徳川宗家について駿府に下ったため、諸侯の地位を失った。

一方、幕末には旗本から高直しで立藩した本多、蒔田のような家もあるので、
本郷家や平岡家は複雑な気分だったことであろう。
549日本@名無史さん:02/11/03 18:36
>>547
川成島は信濃ではなく駿河だった。訂正します。
550日本@名無史さん:02/11/03 19:29
>548
船形の平岡道弘は諸侯になっていません。
551日本@名無史さん:02/11/03 20:48
一応、平岡家は「藩」と呼ばれています。
ただ、その1万石は足高込みなので、諸侯と呼びがたい面はあります。

しかし、旗本のまま若年寄になったのは永井尚志が最初と言われているので、
やっぱり諸侯でいいのではないでしょうか?
552日本@名無史さん:02/11/09 19:58
成羽藩山崎家も高直りで大名です。
553日本@名無史さん:02/11/10 02:06
>>551
「一新前諸侯たりし者」は請西藩の林家を除いて皆華族に列せられているので
平岡は諸侯ではないでしょう。
554日本@名無史さん:02/11/10 11:48
>>553
平岡丹波守は、少なくとも幕府の中では大名の扱いでよいと思います。
徳川家の駿河移封に際して主家と運命を共にすることを選んだので、
明治以降は諸侯の資格を失ったということでは?

請西の林家は当初士族でしたが、熱心に運動して華族になったそうです。
だから、子爵ではなく一新後に家を立てた者として男爵になっています。
555日本@名無史さん:02/11/10 18:51
age
556日本@名無史さん:02/11/10 20:25
>>554
角川の日本史事典で安房の大名配置を引くと、
平郡勝山(内藤家2万石廃藩の後、酒井家1万2千石)
安房郡館山(里見家11万2千石廃藩の後、稲葉家1万石)
安房郡長尾(本多家4万石)
安房郡北条(屋代家1万石廃藩の後、水野家1万5千石廃藩)
長狭郡東条(西郷家1万石廃藩)
長狭郡花房(西尾家3万5千石)
天羽郡上総百首(松平家1万5千石廃藩)
以上7箇所だけです。
喜連川5千石を唯一の例外として1万石の知行がなければ諸侯とはされませんから、
足高を足して1万石では旗本でしかあり得ません。
557日本@名無史さん:02/11/10 20:51
>>556
足高という点に私もひっかかるのですが、
新人物往来社「日本史総覧」の「各藩変遷表」で安房を調べると、
勝山、館山、東条、長尾、花房、船形、北条の7藩でした。
「船形藩」の記述は以下のとおりです。

船形藩 (安房平郡船形・千葉県館山市)
平岡氏 元治元(1864)〜明治元(1868)
@道弘 元治元・9・28
    領地1千石と足高5千俵加増。1万石となり諸侯に列す
    領地奉還
558日本@名無史さん:02/11/10 21:07
「日本史総覧」の「明治初期中期藩府県沿革および地方官補任表」には
明治元年閏4月現在の藩名を最初にあげていますが、こうあります。

請西藩(上総)→官没収
船方藩→大名不成立(知行所の問題から石高5000石のため)

やはり、一応大名だったものが、維新後その地位を失ったのではないでしょうか?
559日本@名無史さん:02/11/10 21:37
幕末も押し迫った頃で幕府も財政難だったからなあ。
変則的な大名もありうるということだな。
560日本@名無史さん:02/11/11 08:24

近藤勇を老中(格)にして、甲府100万石の空手形
をつかませたくらいだから(w
561日本@名無史さん:02/11/11 14:49
平岡って先祖がたしか小早川秀秋の家老だよね。
562日本@名無史さん:02/11/22 19:46
下手渡藩について語って下さい。
563日本@名無史さん:02/11/25 14:14
立花種次だっけ?
土浦藩はどうですか?
一応土浦城の跡があります。
関東100城に選ばれたようですが。
565日本@名無史さん:02/11/25 16:52
守谷藩というのもあったらしいね。
566日本@名無史さん:02/11/25 17:35
若桜藩
567日本@名無史さん:02/12/03 01:54
568日本@名無史さん
守谷は家康没の翌年に廃藩