932 :
しったかぶり:02/11/12 22:35
続き(次は工藤氏のこと)譲り状1
元亨三年工藤貞行譲状 (1322年)(大部分がひらがなです)
ゆづりわたす、常陸の國田村、陸奥国伊具の庄金原の保のうち、
片山の村の御代官職、ならびに鎌倉西御門の地事、右所々、娘かいず御前に、
譲り渡す所也、他の妨げあるべからず、もし自然(万一)の事あらば、母の
計らいたるべし、子なくば、妹どもの中に譲るべし、仍状如件
元亨三年十一月三日右衛門尉貞行(花押))
こちらは確実に南部氏と婚姻した工藤貞行の譲り状です。
この年1322年は「津軽大乱」の年ですが、この時貞行は黒石政所職として、
田舎郡・山邊郡あたりを 支配していたらしい。(小井田幸哉)
娘しかなくて嫡女かいず御前に譲り状をしたためたらしい。この加伊寿御前が信政
の妻となるわけです。この時十歳未満だと思われますがこんなに早く譲り状を書いた
物でしょうか? 一寸不思議です。又津軽の地が出てこないのも不思議です。
(でも鎌倉にも土地を持っている。)
933 :
しったかぶり:02/11/13 19:43
続き(工藤貞行譲り状2)1334年
建武元年工藤貞行譲状
(端裏書)「かいす御せんか分ゆつり状」
譲渡 女子加伊寿御前分
一所 津軽山邊郡二想志郷内 下方為大光寺合戦勲功
所々拝領貞行也
一所 田舎郡上冬居郷拾分参
右所譲与同加伊寿御前也、御下知并置文等者、預置于女房 数子
母
許、自然有違目之時者、任彼證文等、可明申子継、但向後右
出来男子者、改此譲、可配分之状如件、
建武元年八月廿一日 貞行(花押)
二通目の貞行の譲り状です。前の物から12年後です。
工藤貞行が顕家方として活躍したことがわかります。この内容からは
加伊寿御前(数子)が結婚しているかどうか分かりません。又男子がこの後できたら
改めると書いています。
934 :
しったかぶり:02/11/14 21:25
すみませんが 続き5
建武二年正月二十六日北畠顕家下文 1337年
(端裏書)めやの郷御下文案
御判
可令早工藤中務右衛門尉
貞行領知、津軽鼻和郡目
谷郷(工藤右衛門尉/貞祐法師跡)外濱野尻郷
等事、
右為勲功賞所被宛行也、早守
先例、可被其沙汰之状、所仰如件、
建武二年正月二十六日
目谷(現在の東、西目屋村)野尻郷(青森市大字野尻)を持寄城合戦
の功として貰っております。この後数年で貞行は亡くなったかと思われます。
(師行と共に石津で戦死との説もあり。だとすれば1338年)
この後、しれん尼(貞行夫人)の譲り状が4年後でてきます。
一人で占有して申し訳ないです。今しばらくおつきあい下さい。
935 :
日本@名無史さん:02/11/15 15:25
鎌倉期から明治維新時まで同じ地域を領していたのは、島津家と南部家だけらしいね。
領地が南端と北端だからかな?
でも南部家は重直公卒去のおりは無嗣の為、所領没収になっている。
でもすぐに重信公が家督を継承し、所領を直房公と分割して立藩しているよね。
間違ってたらゴメン!!
936 :
しったかぶり:02/11/15 20:35
すみませんが 続き6
訂正 先の建武二年は1335年の間違いです。
興国四年尼しれん譲状 1342年
(包み紙) 信光 あましれんより娘加伊寿御前への譲状
時に興国四年六月廿日、加伊寿御前ハ信光の母也
譲り渡す
黒石の所領の事
貞行の譲りに、いづれの所領も後家一期の程はしりて
後には女子共に相計らいて譲るべしと候、黒石はいづれの女子共の中にも
もちぬべからんに譲るべしと候、同じ子供と申しながら、志あるによて
嫡女南部殿の女房加伊寿御前に、永代を限りて譲る、子々孫々に至るまで、
他の妨げあるべからず、但し石名坂(黒石市)をば福寿御前に永代を限りて
譲る、心ざしあるによって、妹福寿御前に譲るなり,見放ち給うべからず、
いづれの妹御前をも、計らいとして、みさはつり給うべし、これは後家しれんが
自筆なり、余の譲りありと言うとも、もちいべからず、依って譲り状件の如し、
興国四年六月廿日 尼しれん (花押)
原文は大半がひらがな。貞行の後家しれん尼から加伊寿御前に黒石に所領を譲り渡す、
といっております。この年は根城が曽我氏に囲まれていた年ですが、黒石は無事だったの
でしょうか?南部殿は信政です。
申し訳ありません。もう少しおつきあい下さい。
937 :
しったかぶり:02/11/16 20:48
すみませんが 続き7
又訂正、興国4年は1343年でした。
翌年、又譲り状を書いています。
興国五年尼しれん譲状 1344年
(包紙)
「信光 幼名力寿丸
興国五年二月十三日 あましれんより譲状」
(端裏書)「力寿丸」
譲渡す力寿丸
津軽田舎の郡黒石の郷、同じき政所職の事
右所は、故工藤右衛門尉貞行重代の所領たる間、しれん彼後家として、
相伝知行今に相違なし、其の子細譲り状に見えたり、しれん一期の後は、
嫡孫力寿丸に、この所を譲り与うる也、余の子孫等違乱あるべからず、
但し此の所のうち、女子五人に少しずつ一期の間譲る也、譲り証文にあり、
これを違うべからず、いずれも自筆也、自筆にてなからんをば、用いべからず
依って譲り状件の如し、
興国五年二月十三日 しれん(花押)
*一期=一生 全文は殆どはひらがなです。
この半年の間に、男子が誕生したか、加伊寿御前が母にお願いした
ものでしょうか?政光はまだ産まれてないのでしょうか?
この翌年、信政は吉野へ発って帰ってきませんでした。
どうでしょうか?工藤氏との婚姻がはっきりしている文書類を揚げてきましたが
一番先の話は八戸の工藤氏と黒石の工藤氏がごっっちゃになってるのが分かるかと
思いますが 長い間、おつきあい下さいましてありがとうございました。
優良スレにつき保全です!
939 :
日本@名無史さん:02/11/22 02:35
で、南部氏の糠部定着の過程というのは、
総括すれば、非常に暴力的なものであったと言えるのでしょうか?
940 :
日本@名無史さん:02/11/22 11:26
>939
意味不明ですね。
941 :
しったかぶり:02/11/22 21:07
>939さんへ
工藤氏がその気になったら、反「南部」で結束して南部氏を
倒せるチャンスはあったと思うんです。、たとえば、工藤氏の
誰かが足利氏と渡りをつけて 北朝側になって曽我氏らと共に南部氏を
攻めるとか、又どこかで裏切って南部を討つとかですが、工藤氏がその
ような動きをした記録は今のところ私は知りません。
1341年の曽我氏の根城包囲の時などは工藤氏が反南部で動いたら
根城は落城してたと思います。
このことは次の二つの内どちらかだと思います。
1,工藤氏をはじめとする反南部一族を徹底的に滅ぼした。
2,割と緩やかに対応したため、それほど恨みを買わなかった。
1のケースだと非常に暴力的だったといえるかもしれません。
どっちだったんでしょうか?
手前味噌ですが私は2の方だと思います。そうでなければその後工藤氏の誰かが
いつかどこかで裏切ったと思いますし、武力で君臨しても長続きしなかったんじゃな
いでしょうか?
942 :
日本@名無史さん:02/11/29 21:52
西部のカウボーイ暴力団のように南部氏は移住してきたのかも?
943 :
日本@名無史さん:02/11/30 19:22
三日月が丸くなるまでだったのが
東京から2時間56分よ。あっという間だね
944 :
日本@名無史さん:02/12/01 19:50
今日のご長寿早押しクイズは南部より
945 :
日本@名無史さん:02/12/04 19:02
南部入部以前、うら寂しい下北半島を誰が支配していたの?
947 :
しったかぶり:02/12/04 22:43
>945さん
安藤氏でしょう。
安藤氏も其の出自が未だにはっきりしませんが鎌倉時代の中頃には津軽半島、
外が濱、下北半島の北半分を支配してたようです。
でも詳しいことは、闇の中です。
1456年蛎崎蔵人の乱を八戸南部氏が制圧してから南部氏支配下に入った模様
です。(それまでは、南部氏も完全支配出来なかったようです。)
うらさびしいのはその後の歴史ですが、鎌倉、室町時代は金、馬、海産物、
北方との貿易などで、豊かな土地だったと思われます。
いだっこ検索したら面白かったよ、わらた。
949 :
日本@名無史さん:02/12/05 00:10
>>947 「風雲児たち」にも載ってますね。その辺り
>>949 「風雲児たち」って漫画ですか、どんなふうに描いてあったの?
951 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:14
『風雲児たち』では、蛎崎氏が、下北半島の蛎崎を支配していた安東氏の被官ということになっている。
952 :
日本@名無史さん:02/12/05 17:19
『風雲児たち』では、北陸の武田氏だった蔵人が、
はじめ南部氏の家臣になったけど、後から安東氏に寝返って、
安東氏といっしょに蝦夷地に逃げたことになっている。
で、コシャマイン鎮圧後、権力を握って蛎崎氏を継いだことになっている。
953 :
日本@名無史さん:02/12/08 01:51
北部王家の子孫が残っていたら観光になったのに・・・
順法寺の跡は現在どこにあるのか?
954 :
日本@名無史さん:02/12/09 14:48
観光なんて言葉は良いが・・・見世物かよ
955 :
日本@名無史さん:02/12/09 14:51
956 :
日本@名無史さん:02/12/09 14:53
957 :
日本@名無史さん:02/12/10 17:29
日テレまた年末「時空警察」やるみたい。
家康は二度死ぬってテレビ冊子の項目にある。
よ〜し、張り切って見る。
958 :
日本@名無史さん:02/12/12 15:11
南部には隠れキリシタンいたのですか?
959 :
日本@名無史さん:02/12/13 16:34
>>958いたみたいですね
元和年間に長崎五郎右衛門(=カルバリヨ神父)が福原(後藤寿庵の領地・水沢市)を拠点に
数回盛岡宣教をしたと伝わる。
南部利直は幕命により寛永元(1624)年からキリシタン弾圧を始めた。
11月5日 ヂェゴ巳右衛門 斬首。トマ弁左衛門 毘沙門渕水牢で凍死。
12月18日 マチアス某他1名 毘沙門渕水牢で凍死。マグダレナ 斬首。
マグダレナという50代の女性は腹這いに4回斬られたが転宗を拒んだため
斬首のうえ首を
>>913で出た虎の檻に投げ込んだとあります。
しかし虎はマグダレナの死骸に後ずさりして食べようとはしませんでした。(パジェス「日本切支丹宗門史」)
関西や関東で弾圧が厳しくなると多くは奥州へ逃れ、鉱山に潜み信仰を守り続けたようです。
(「山法」という不文律があって罪人も山にいる限りは見逃された)
しかし隠れキリシタンに「山法」は認められず大ヶ生金山(都南村)・大葛金山(盛岡市)
に藩の探索が何度か及んでます。
960 :
しったかぶり:02/12/14 20:02
金の発掘の関係の本読んでると隠れキリシタンがでてくるんですよ。
隠れキリシタンと鉱山の関係がよく分からなかったんですが、(キリシタンは
どうしてそういう技術をもっていたのかな?とかですが)
「山法」というものがあったんですね。何となく納得しました。
961 :
しったかぶり:02/12/17 21:12
さて、又少しおつきあい願います。
北畠顕家下
花押(顕家)
下糠部郡
可分早 南部六郎政長領知 当郡七戸結城七郎左衛衛門尉跡事
右人為勲功賞所宛行也 早守先例可被其沙汰之状所仰如件
建武二年三月十日 (1335年)
政長に、勲功の賞として結城七郎左衛門尉跡の七戸を与える、との
顕家からの下文です。
それからいろいろあって、1350年政長死亡の一週間前くらいといわれて
いる、「政長譲り状」です。二通あって一通は八戸、もう一通は七戸です。
(端裏書き)三郎譲状
譲 渡
陸奥国糠部郡内
八戸
右彼ところハ、くんこうのしやうたるあひた 政長知行せしむるを
信光に譲あたふる物なり 彼譲状をまほりてはいりょうすへし
正平五年 八月十五日
前遠江守源政長 花押
孫の信光にゆずっています。
962 :
子孫ですが:02/12/18 11:57
>>148 多分、ご先祖のことと思われ。でも、あんなことしてた覚えはない。
ものの本によると「慶長5年に滅亡した」とあるけど、平成の世でもちゃっかり
多産系で生き残ってるYO!
963 :
しったかぶり:02/12/19 00:00
七戸です。
譲渡
陸奥国糠部郡内
七戸
右彼ところハ くんこうのしやうたるによりて政長知行せしむるあいた
後家に譲所也
但 政光せいしんせは半分はたふへし いま半分をハ一期のち
二人のことものなかに 心さしあらんにたふへし
正平五年 八月十五日
前遠江守源政長 花押
後家は加伊寿御前、せいしんせは=成人せば たふへし=給べし
一期のち=死んだあと 二人のこどものなかに 心さしあらんにたふへし=
志あらんに給べし
微妙に、表現が違いますが、両方とも勲功の賞として貰ったと言っております。
二人の(信光、政光)孫は正確には幾つぐらいだったのでしょうか?
七戸、八戸は御存じのとうりその後も南部氏の(根城南部)領地ですが、
黒石の工藤貞行の知行地はその後どうなったものでしょうか?(信光のものに
なったはずですが)この時、曽我氏に占拠されてたのでしょうか?
でもこの時期幼い孫を残して政長はどんな思いでしたでしょうか?(南部氏が
その後650年もの間続くと思った?)
>962さん
私の同級生に浅沼くんがおりましたが。
964 :
源太が産衣:02/12/19 23:16
浅沼=阿曾沼(アソヌマ)氏の分家筋
阿曾氏は下野の小野寺氏(秀郷流藤原氏)の後裔です。
秀吉の小田原攻めに参考できず(伊達政宗の策略)
奥州仕置で取り潰された。
>>964 阿曾沼って毛利の配下にもいるけど同族なんだよね。
966 :
しったかぶり:02/12/20 22:14
糠部郡闕所事
一戸 工藤四郎左衛門入道跡
同子息左衛門次郎跡 八戸上尻内
八戸 工藤三郎兵衛尉跡
三戸 横溝新五郎入道跡
(
>>929 )とありますが,
この一戸、八戸の給人工藤氏のその後ですが、三郎兵衛は捕まり(
>>931)
八戸給主工藤孫四郎 同孫次郎等名字不見、何様振舞候歟、可被注進候(
>>931)
と顕家が不審に思っている孫四郎、孫次郎と
同子息左衛門次郎跡 八戸上尻内
の工藤左衛門次郎が持寄城陥落の時の「津軽降人交名注進状」(建武元年12月14日付け)
の中にあります。師行勢に追われて津軽方面に逃げて行き曽我氏と共に戦った事がわかります。
(小井田幸哉氏、「八戸根城と南部家文書」)
で、その後八戸はどうなったのでしょうか?有力な工藤氏が八戸から逐われてその後南部氏が
貰ったと言っていいと思いますが。
967 :
962です:02/12/21 16:25
小さいころ母に「ここがご先祖のお城だよん」と、遠野の古城跡に連れて行かれましたなぁ・・・
「南部さんの前は、ここに私たちがいたんだよ〜」って。
>>965 さん
そうなんですか?
知らなかった〜 なんか、楽しいなぁ・・・
結構あちこちに雑草のごとく残ってるもんなんですねぇ
968 :
日本@名無史さん:02/12/21 22:51
>>527 >>796 隠尾城主、南部源左衛門尚吉ですな。
渡辺とも名乗ったそうですが詳細不明。
神保氏に属して、上杉謙信と戦って討死。
祖は南部遠江守宗継の舎弟次郎左衛門宗治で、
足利直義に仕えていたが、直義滅亡後、同地に
住み着いたとのことです。
969 :
しったかぶり:02/12/22 08:29
>962さん 文字どうり しったかぶりです。
以下の文書が遠野保が公式記録に出てくる初出だそうです。
遠野保 建武元年八月三日 北畠顕家国宣 (1334年)
(花押)北畠顕家
阿曽沼下野権守朝綱代朝兼申、
遠野保事、申状如此、子細見状、
所詮下日追却面懸左衛門尉以下輩、
可沙汰付朝兼、使節遅引者可有
其咎也者、依 國宣執達如件、
建武元年八月三日 大蔵権少輔清高奉
南部又二郎殿
阿曽沼朝綱と朝兼は親子
面懸左衛門が不法を行ってるので又二郎に
何とかしろ、と顕家が言っております。
クリスマス保守
971 :
しったかぶり:02/12/24 22:33
>968さん
足利直義の頃、遠江守と言えば、南部政長ですが、
「南部遠江守宗継の舎弟次郎左衛門宗治」は謎の兄弟
といわざる得ないです。根城南部も三戸南部も系図の中には
発見できないのではないでしょうか?
甲斐の南部氏とは関係があるかもしれませんが、根城、三戸
とは別の南部氏のような気がしますが。
>930さん
おっしゃるとうりかもしれません。「多田貞綱」は摂津の出身らしいです。
小井田幸哉氏、「八戸根城と南部家文書」
>>971 舎弟って弟分のことか?ヤクザの世界とは違うか。
>>971 『日本城郭大系7』
隠尾城の項に書いてあるのをそのまま書いたんですが、それによればかの家
の子孫の方が所持していた家譜によるそうです。ですから信憑性はあまりないかと。
974 :
日本@名無史さん:02/12/25 22:05
「多田 貞綱」の「貞」の字は、北条 貞時の偏諱(へんき=目上の者
の名前を一字名前に取り入れて、主従関係をあらわすこと。)かと
思われますね。清和源氏の発祥の地、多田荘は得宗領だったと思われ
るので、多田氏は得宗被官だったと推測されます。どうでしょう?し
ったかぶりさん。
975 :
しったかぶり:02/12/25 23:45
>974さん 多田 貞綱ですがフルネームは
「多田木工助貞綱」(もくのすけ)です。、建武元年四月十三日に顕家が糠部、
特に津軽方面が不穏なので國府から師行の元に送っています。その後津軽に
移動したいるようですが、安藤氏、平賀氏と不和なので國府に呼び戻した
、とあります。
(略)平賀ハ多田ニも不和、結句又安藤五
郎二郎とも不和事出来歟之由、其聞候之間、費召返
候也、(略)
>939の書状にあるように源氏ですね。
詳しくは分かりませんが、顕家が連れて行った幕僚の一人かと思われますが。
共に多賀城に下ってきて、共に石津で戦死したものでしょうか?
得宗被官だったかどうかは、何ともわかりません。
976 :
日本@名無史さん:02/12/28 16:04
977 :
日本@名無史さん:02/12/29 07:24
再放送か、いい小説だけど歴史とはあまり関係ないな。
南部の土地は描かれているよりも、当時はもっと貧しかったと思う。
原作者の浅田次郎氏の娘さんが盛岡市在住で、その縁で盛岡に
度々来るうちに、盛岡が好きになり、彼なりの盛岡賛美小説を書い
たらしいです。
浅田氏が盛岡賛美の小説を
979 :
日本@名無史さん:02/12/30 10:36
>>979 電波作家、何故かNHKには好かれているんだよな。
981 :
しったかぶり:
在地の國人から師行への書状が三通残っています。そのうちの一通。
「八戸根城と南部家文書」から
二月廿六日 沙弥道覚書状 (建武元年)
先度預御状候之条、恐悦存候之處、
又加様承候、悦入候、如仰軍勢入
事なんと候者、可蒙仰候、去年愚孫
彦五郎冠者令参京都候之間、若党
等相付之候畢、雖然承候者かへかへしからす
候とも、少々可令至候、又小鳥二預候処
含寄候御志之至悦存候、勞身にて
候之間、行歩不合期候程ニ、眼前ニこれ
をおき候て自愛備候間、 勞もなをり候
と存候、恐々謹言、
二月廿六日 沙弥道覚
謹上 南部殿
御返事
師行からの書状への返事です。
「さきに受け取った書状でさへ恐悦でしたが、又このような書状
をいただき喜んでおります。軍勢が必要な事があったら仰せのとうり
に致します。
去年、愚孫、彦五郎冠者を京都に送った時に若党をつけてやったので、
人数は少ないですが、緊急の際には八戸へ軍勢を送ります。
小鳥二羽を送ってくださり、喜んでおります。
歩くことも、ままならない身なので眼前におき、楽しんでおります。」
「沙弥道覚」は不明です。鎌倉時代以来の在地の給人だと思われます。
よかったら、正月なのでごゆっくり読んでみて下さい。(W)