1 :
日本@名無史さん:
上杉鷹山が最高の殿様。
2 :
日本@名無史さん:02/01/12 17:15
|::::::::::/ |:::::::::|
|:::::::::/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ===/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ|:::::::::|
|::::::=ロ -=・=- |, | -=・=- ロ=::::::|
|::::::::/ヽ /ノ ヽ /ヽ::::::::|
|:::::/ `─── / ` ─── 丶:::|
|:::ノ (●_●) |::|
3 :
日本@名無史さん:02/01/12 17:38
「大広間詰め」と「柳間詰め」ってどう待遇が違うの?
4 :
日本@名無史さん:02/01/12 17:47
5 :
日本@名無史さん:02/01/12 18:02
違うな。榊原政岑が最高。
6 :
日本@名無史さん:02/01/12 18:13
>5
酒気腹色夫の大夫じゃないか。
7 :
日本@名無史さん:02/01/13 00:32
二本松藩あげ
8 :
日本@名無史さん:02/01/13 00:35
江戸時代最低の殿様は、松平忠直でOK?
9 :
日本@名無史さん:02/01/13 00:40
>>8 本当に最低だったのか?
そういう人物を見直すところに価値があるのでは?
10 :
日本@名無史さん:02/01/13 00:45
外様大名の中で一番官位の高い大名はだれ?
11 :
日本@名無史さん:02/01/13 00:47
12 :
日本@名無史さん:02/01/13 00:51
島津は「薩摩殿」、伊達は「陸奥殿」って呼ばれてたのかな?
両家とも松平姓を賜ってたし。
13 :
日本@名無史さん:02/01/13 00:53
>11
やっぱそうか、
じゃあ、譜代大名の中で一番官位の高い大名はだれ?
14 :
日本@名無史さん:02/01/13 00:56
>13
井伊家でしょ。
15 :
日本@名無史さん:02/01/13 00:58
井伊家は極官が正四位上で、掃部頭。
16 :
日本@名無史さん:02/01/13 00:59
江戸時代の江戸地図を見れば、松平さんばっかし、徳川家松平家
から嫁をむかえた家は全て松平様。
伊達も島津も、地図上では松平殿になってる。家紋でどこの人かを
見分けたんだろうね。
大河ドラマ「元禄りょうらん」では
広島浅野家の殿様は
「松平安芸守」
って名乗ってたね。
18 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:05
つうことは、島津氏は「松平薩摩守」ってなるんだな。
19 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:06
やっぱ、そうか
じゃあ、大名の中で名門中の名門の大名家は?
20 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:07
外様の有力大名も大方、徳川の縁戚なんでしょ?
徳川の血筋の入っていない大名っているんですか?
21 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:07
22 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:10
外様の大大名のほとんどは松平だね。
仙台伊達、安芸浅野、薩摩島津、肥後細川、長州毛利、佐賀鍋島、備前池田....
23 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:11
24 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:11
家斉の子供の押し付けは酷かった。
1〜2万石で分家というわけには逝かないとはいえね。
25 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:12
毛利・浅野・池田は知ってたけど
島津、細川も血縁なんですか?
26 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:12
>21
佐竹は相馬を通じてバリバリの松平系です。
27 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:12
>22
いや、細川は松平姓は賜ってなかったはず。
28 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:13
血縁じゃなくても松平を給うことはあったよ。
29 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:17
>>27 でも、俺んちに江戸の古地図ってのがあるんだけど、
肥後細川家の上屋敷に松平越中守(肥後)と書かれてあるんだけど。
30 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:17
>28
逆に血縁が使わないこともあった。
松平秀康は関ヶ原後にも羽柴姓で正宗に書状を送っている。
何考えてたんだ?
31 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:39
最高の老中は田沼意次
会津松平家は江戸城内では徳川を名乗ったそうです。
33 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:40
34 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:42
>32
本当ですか、ソース希望。
35 :
日本@名無史さん:02/01/13 01:43
いくらなんでも徳川は名乗れないんじゃないか?
32です。調べてみたら勘違いでした。
でも結城秀康は徳川を名乗っていた可能性があるそうです。
37 :
日本@名無史さん:02/01/16 12:16
あげ
38 :
日本@名無史さん:02/01/16 12:44
越前松平は”制外の家”なんでしょ
39 :
日本@名無史さん:02/01/16 13:03
>>30 大坂の陣後ならともかく
関ヶ原後なら
ごく普通のことです。
40 :
日本@名無史さん:02/01/17 01:24
伊達騒動について、詳細キボンヌ
41 :
日本@名無史さん:02/01/17 18:42
あげ
42 :
日本@名無史さん:02/01/18 11:31
43 :
日本@名無史さん:02/01/18 11:48
伊達綱村
44 :
外様大名石高ベスト3:02/01/18 17:11
1位・・・加賀藩(前田家) 103万石
2位・・・鹿児島藩(島津家)78万石
3位・・・仙台藩(伊達家)62万石
45 :
日本@名無史さん:02/01/18 17:12
でも、「表高」と「実高」って違うらしいね。
46 :
日本@名無史さん:02/01/18 17:17
でも家の格式は「表高」で決まるし。
47 :
日本@名無史さん:02/01/18 17:27
島津家は、表高は78万石だけど実際には30万石にも満たなかったとか。かなりの借金を抱える貧乏藩だったんだけど、調所という家臣のお陰で裕福な藩になった。
48 :
リットン調査団:02/01/18 18:49
49 :
日本@名無史さん:02/01/18 18:56
陸奥白河藩主・松平越中守定永、武蔵忍藩主・阿部鋏丸正権、伊勢桑名藩主・松平下総守
忠尭の3国国替えに関する考察
51 :
御国司(おんこくし):02/01/19 19:59
秋田藩主 佐竹右京大夫
仙台藩主 松平陸奥守
米沢藩主 上杉弾正大弼
加賀藩主 松平加賀守
津藩主 藤堂和泉守
徳島藩主 松平飛騨守
土佐藩主 松平土佐守
肥後藩主 細川越中守
薩摩藩主 松平大隈守
肥前藩主 鍋島加賀守
対馬藩主 宗対馬守
福岡藩主 松平美濃守
長州藩主 松平甲斐守
広島藩主 松平安芸守
岡山藩主 松平備前守
鳥取藩主 松平信濃守
津山藩主 松平三河守
肥後藩主 松平越中守
歌舞伎の先代萩を観ろ
史実とはかなり違うが。
原田甲斐(仁木弾正)が悪者とは限らないという
評価がでてきたのは
山本周五郎 の”樅の木は残った”のおかげだろうね。
53 :
日本@名無史さん:02/01/19 20:23
54 :
日本@名無史さん:02/01/19 20:44
>>47うん。まあ調所と言う家臣が
借金を踏み倒したんだわな。金出してた商人は気の毒。
歳入増のために密貿易をやりまくったね。
56 :
日本@名無史さん:02/01/21 02:37
>>50はなにが言いたいのだ
三方国替えといえば川越松平、長岡牧野、庄内酒井の国替え未遂はどうよ
そうそう佐竹が一番!
59 :
日本@名無史さん:02/01/23 22:20
あげ
60 :
日本@名無史さん:02/01/30 17:16
良すれ揚げ
61 :
日本@名無史さん:02/01/30 18:09
やっぱ、林忠崇でしょう!!
なんせ、昭和の初めまで生きていらした方だから。
63 :
日本@名無史さん:02/01/31 01:39
鳥取藩は支藩も松平を名乗ってたんだって
戊辰戦争を最も壮絶に戦った一人でもあります。
一文字大名
林肥後守。幕末、旗本より大名に取り立てられた。一万石。富津に陣屋。
正月には将軍家より兎の吸い物を賜る由緒ある歴々。家康を助けたとか。
幕末遊撃隊の伊庭八郎等と共に各地を転戦。
蛍大名なんてのも。
67 :
日本@名無史さん:02/02/02 03:21
池田って2つ似たような大きさの藩が2つあるけど、格式はどうなの?
68 :
日本@名無史さん:02/02/02 08:47
>>67 鳥取藩(池田光仲流)の方が上でしょう。
葵紋の使用を許されていたし。
69 :
日本@名無史さん:02/02/02 08:49
でも、岡山藩(池田光政流)の方が本家なんだよな。
70 :
日本@名無史さん:02/02/02 15:18
大名の格式って、どこで判断するものですか?
当時から幕府が決めてたのか、現代の視点で考えるのか。
石高なのか、朝廷から与えられる官位なのか。
石高と官位に相関関係はあるのか。
譜代や外様、血筋も関係があるのか。
仮に江戸城に全国の全大名が集結して大きな座敷に座ったら、
どういう並びになるんでしょうか?
よく新聞で、北朝鮮でのイベントの並び方で序列第何位とか書いてますが、
それを江戸大名でやるとどうなるのか、興味があります。
大名の格式ねぇ。石高、官位、千代田城内の詰める席、いろいろな要素が絡んできて
なかなか難しい問題がありますが、だいたい、官位と城内の詰席は一致する傾向にあったようです。
一番高いのは 御三家 御三卿 なとの大廊下詰
次ぎが、井伊、酒井、水戸松平、保科松平、奥平松平、久松松平などの溜間詰
次ぎが老中。
次ぎが大広間詰の国持大名たち
次ぎが帝鑑間詰の譜代大名
次ぎが雁間詰の小大名
柳間詰の大名。
>71さん、ありがとうございます。
外様の国持大名などは石高は大きくても、格式としては親藩や一部譜代の下におかれていたのですね。
御三家御三卿は将軍の跡を継ぐ可能性もあるから格式ではトップと。
なんとなく様子がつかめました。
73 :
日本@名無史さん:02/02/02 22:40
あと、「国主」「国主格」「城主」「領主」なんてランク付けもあるらしい。
74 :
日本@名無史さん:02/02/03 00:03
加賀の前田家(松平加賀守)は、大廊下(下の部屋)詰だったような。
当初からでなく途中で大廊下詰が増員されたんだったような気もしま
すが。
75 :
日本@名無史さん:02/02/03 00:07
5位以下の将軍拝謁で、格式・服装の色・座席順序を
記載した史書があったら教えて。
76 :
日本@名無史さん:02/02/03 00:08
葵の紋を許されていた鳥取藩も大廊下詰だったような
とすると、大広間詰の大名は、
☆☆☆大廊下上ノ間☆☆☆
尾張藩 徳川大納言
紀伊藩 徳川大納言
水戸藩 徳川中納言
田安家 徳川右衛門督
一橋家 徳川民部卿
清水家 徳川式部卿
大廊下下ノ間
加賀藩 前田加賀守
薩摩藩 島津薩摩守
仙台藩 伊達陸奥守
福井藩 松平越前守
鳥取藩 池田因幡守
ということになり、
ちなみにその次の御溜ノ間詰御同格
☆☆☆常溜☆☆☆
高松藩 松平讃岐守
彦根藩 井伊掃部頭
会津藩 松平肥後守
☆☆☆飛溜☆☆☆
姫路藩 酒井雅楽頭
松山藩 松平伊予守
桑名藩 松平越中守
☆☆☆溜詰格(時期によっては帝鑑間席のこともありうる)☆☆☆
荘内藩 酒井左衛門尉
小浜藩 酒井若狭守
高田藩 榊原式部大輔
忍 藩 松平下総守
岡崎藩 本多美濃守
佐倉藩 堀田備後守
吉田藩 松平伊豆守
西尾藩 松平和泉守
長岡藩 牧野備前守
小倉藩 小笠原右京大夫
あげ
79 :
日本@名無史さん:02/02/03 01:16
常溜と飛溜ってどうちがうの?
80 :
日本@名無史さん:02/02/03 01:16
>>77 御三卿は将軍家御家族扱いなので、将軍の右横に三人並んで
控えてました。
形式上、常溜は、当主がいつも詰めた。ところが、飛溜の場合、ある当主が
詰めたら、次の代の当主は帝鑑間席、という具合に、飛び飛びに、当主がつめたということで、「飛溜」
という命名がされたということです、もっとも、幕府後期になると飛溜も、
常溜同様、代代詰めていた。あまり差はないようでしたね。
むしろ、当主の人物如何によって、あるいは、老中として行政手腕を発揮した
者が、引退後、とくに選抜されて、溜間に列席となる、溜詰格に興味ありんこ。
情報きぼん。
82 :
日本@名無史さん:02/02/03 02:03
江戸大名の婚姻関係について教えてください。
だいたい同格の家と結婚していたのですか
やはり勝手に結婚するのは禁じられていたのですか
83 :
日本@名無史さん:02/02/03 03:31
将軍家斉の時代には、家斉に子供がわんさかいたから、主に国持大名のところに
結構嫁いでいった。
萩藩では池田家とか、鍋島家、あとは公家(五摂家)とか。
84 :
日本@名無史さん:02/02/03 23:55
浅野と伊達は絶縁
85 :
日本法制史@名無しさん:02/02/04 00:54
なんで浅野と伊達の仲が悪いの? 浅野と上杉ならばまだわかるが。
86 :
日本@名無史さん:02/02/04 03:37
そういや、忠臣蔵で朝廷の饗応役に赤穂の浅野と伊達が選ばれたっけ。
伊達支藩の一関田村家の江戸屋敷で、浅野内匠頭が切腹したんだよね〜。
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
87 :
日本@名無史さん:02/02/04 09:37
建部内匠守の情報を。
88 :
日本@名無史さん:02/02/04 13:16
>>86 一関藩って譜代に準じる扱いを幕府から受けていたようです。
89 :
日本@名無史さん:02/02/04 14:02
>>84 それは伊達政宗と浅野長吉のことだと思うけど、
その後も仲が悪かったの?
90 :
日本@名無しさん:02/02/04 14:10
大聖寺新田藩の前田利政が大和柳本藩織田大和守に斬りつけ、死亡事件。
以後、織田家と前田家は不仲になる。
91 :
日本@名無しさん:02/02/04 14:13
柳沢美濃守吉保の系統を受ける大和郡山藩と
牧野備後守成貞の系統を受ける常陸笠間藩って
仲が悪かったのですか。
92 :
日本@名無史さん:02/02/04 15:04
>>89 絶交をして398年後の1994年10月3日、
伊達・浅野の現両当主が歩み寄り、
政宗が秀吉より拝領した茶室・観瀾亭にて
茶会を行い、和解をされました。
93 :
日本@名無史さん:02/02/04 15:08
>89
浅野長吉って誰ですか?
幸長か長晟の兄弟?広島藩のお殿様ですか?
教えてちゃんでスミマセン。
政宗って蒲生氏郷と仲悪そうだけど他にもいたのかぁ。
94 :
日本@名無史さん:02/02/04 21:17
95 :
日本@名無史さん:02/02/04 21:19
>>93,94
>浅野長吉って誰ですか?
>浅野長政の前の名前>長吉
別スレでも同じ展開を見たような…
96 :
日本@名無史さん:02/02/05 11:03
浅野長吉から長政に改名したのは、
常陸配流されて隠居した後だったとおもったけど。
97 :
日本@名無史さん:02/02/05 20:44
知名度
赤穂藩>>>>>>>>>>>>>>>>>広島藩
嫌いなんだよ
足軽出身は
99 :
日本@名無史さん:02/02/06 06:28
嫌い
卑賤は嫌い
101 :
日本@名無史さん:02/02/07 00:40
大河葵三代で、すまけい扮する政宗公は、やたら朝廷の動きに詳しかったね。
実際、公家衆に諜報手段を持っていたのか。
102 :
日本@名無史さん:02/02/07 00:55
江戸大名の仲、不仲は、婚姻関係に現れている。
103 :
日本@名無史さん:02/02/17 17:14
たとえば?
104 :
日本@名無史さん:02/02/17 17:17
徳川吉宗は伊達家との婚姻関係を結ぶ一方、
徳川宗春は上杉家との婚姻関係を結んだ。
105 :
日本@名無史さん:02/02/22 21:19
それだけじゃわからんちん
106 :
日本@名無史さん:02/02/23 18:05
伊達ってなんだかんだ言っても、やっぱり影響のある大名なんだねー。
107 :
日本@名無史さん:02/02/23 18:10
最後の仙台藩主
松 平 陸 奥 守 慶 邦 あげ
108 :
日本@名無史さん:02/02/25 09:28
109 :
日本@名無史さん:02/02/25 11:09
越後矢板藩の井伊家は分家ですが、じつは彦根井伊家よりも、血筋からいうと主筋にあたっていた。
ということは最近知りました。ええと、そこで、次に、
越後高田→信濃松代→出羽庄内の酒井左衛門尉系の家と、
上野厩橋→播磨姫路の酒井雅楽頭系の家と、若狭小浜の酒井若狭守系の家って、
どれが主筋ですか。
次に、
武蔵忍→陸奥白河の阿部豊後守系の家と、丹後田辺→備後福山の阿部伊勢守系の家
ってどっちが本家でしたっけ。
そして、豊前中津の松平(奥平)家と、備後福山→伊勢桑名→武蔵忍の奥平家はどっちが。
伊予松山の久松松平伊予守家と伊勢桑名の久松松平越中守系の家って、どっちが。
110 :
日本@名無史さん:02/02/25 13:27
もし戦国時代に生まれていたら猛将と謳われたであろう殿様を教えてくれ
111 :
日本@名無史さん:02/02/25 13:29
幕末の山内陽動ですかね。
112 :
日本@名無史さん:02/02/25 13:31
前田の殿はやはり江戸時代を通じてぼんくら続きだったのでしょうか?
113 :
日本@名無史さん:02/02/25 14:16
長幼の序でいえば、彦根は弟の系統だけど、本家だよ。
べつに主君ではないから主筋とは言わない。
酒井は左衛門尉の方が兄の系統と言われている。
小浜の酒井家は、雅楽頭流の分家。
114 :
日本@名無史さん:02/02/25 14:28
115 :
日本@名無史さん:02/02/25 14:33
116 :
日本@名無史さん:02/02/25 14:36
中津の奥平は松平ではないよ。
その家が本家。
奥平流松平は別家。
117 :
日本@名無史さん:02/02/25 14:51
久松松平の本家は松山。
阿部は伊勢守が本家。
118 :
日本@名無史さん:02/02/25 15:38
中津奥平って松平を名乗らせて貰えなかったの?
119 :
日本@名無史さん:02/02/25 15:43
>115
本のコレクションで著名。
120 :
日本@名無史さん:02/02/25 17:15
前田綱紀って四代目では?
121 :
日本@名無史さん:02/02/27 21:20
浅野光晟って正室腹だから次男なのに家督継いだの?
でもお兄ちゃんに土地分けてあげたり息子を養子にあげたりしていて
時宗時輔兄弟みたいなドロドロはなさそうだな〜。
光晟って広島では好かれてる殿様っぽいけど名君だから?
私的には子供が皆正室腹ってところが珍しくていい人そうだ。
広島の人いたら教えてください〜
122 :
日本@名無史さん:02/03/02 06:59
最後の廣島藩主・浅野長勲はかなり長生きしたらしい。
長勲は相馬の後見人で
相馬騒動のおりには錦織たちと対立してますね。
124 :
日本@名無史さん:02/03/02 20:39
浅野長勲の回顧談って本になってんの?
125 :
日本@名無史さん:02/03/02 21:01
>>120 江戸時代の大名としては4代目だけれど前田家は利家を藩祖として初代として
数えるから5代目。
徳川時代の古地図をみると、現在の永田町周辺はほとんど大名屋敷だったんですね。
今残っていたら、重要文化財になっただろうに?
何か惜しいですね。
127 :
日本@名無史さん:02/03/06 23:53
釈迦に説法かも知れないけど、「紀尾井町」ってのは、尾張藩邸・紀州藩邸
彦根(井伊)藩邸があったことに因んで付けられたそうです。
128 :
日本@名無史さん:02/03/07 17:41
鍋島騒動について教えれ
129 :
日本@名無史さん:02/03/07 18:24
越後騒動について教えれ
130 :
日本@名無史さん:02/03/07 23:58
鍋島騒動・・・
鍋島光茂が池田光政の嫡子綱政に自分の娘をもらってくれないか打診
していたのに光政が綱政の正妻に丹羽光重の娘を迎えてしまった事件
鍋島騒動・・・
竜造寺家の猫がたたる話。
132 :
日本@名無史さん:02/03/08 12:47
加賀騒動について教えれ
133 :
日本@名無史さん:02/03/08 13:45
御家騒動で有名なのは、仙台藩の伊達騒動だね。
134 :
日本@名無史さん:02/03/08 13:50
仙石騒動について教えれ
135 :
日本@名無史さん:02/03/08 14:05
>>134 戦国板に仙石秀久のスレッドを立てて、長宗我部ヲタに荒らされること。
136 :
日本@名無史さん:02/03/08 17:13
仙石騒動を裁いたのは、当時名奉行としてしられた寺社奉行・脇坂淡路守安董である。
仙石左京は、老中首座松平周防守康任の娘を実子の正室に貰っていたため、将軍は、
松平周防守を担当から外し、老中水野越前守忠邦に調査を命じ、寺社奉行脇坂が担当した。
137 :
日本@名無史さん:02/03/08 17:18
>>132 利家の浮気にまつが切れて家出をした話。
138 :
日本@名無史さん:02/03/08 18:24
阿波騒動について教えれ
>132
加賀騒動
蛇責めの刑
ドラマで映像化したらエグイだろうな。
大河ではまあ無理か
>>139 ちなみに、もう一方の主役の一人は、まつが生んだ次男利政の系統・・・
141 :
日本@名無史さん:02/03/15 10:58
前田土佐守直射
142 :
日本@名無史さん:02/03/16 01:30
その様なことよりも壱よ、ちとお耳を拝借。すれと縁無きことなれども。
この度、拙者が江戸城に出城した折のことで御座る。松の廊下。
何か騒がしきことあり、一向に前に進めず。
何事かと思い見ゆれば赤穂藩主浅野内匠頭、吉良上野介に斬り付け候。
最早、阿呆奴がと。馬鹿奴がと。
そなたたち、刃傷事件ごときで松の廊下を占拠するとは一体何事か。
刃傷事件なり、刃傷事件。
何やら家老や御家人も打ち出で、一城総出で物見遊山で御座るか、まことに目出度きことなり。
「吉良上野介覚悟!」などと叫びしは正視に耐えず。
そなたたち、介錯し申し上げるから切腹せよと。
そも松の廊下とは本来閑散としているべき物なり。
擦れ違う隣国藩主との目だけで気まずき礼、
次の参勤交代は拙者か否か、その様な雰囲気こそ松の廊下の真髄。
火事と喧嘩と江戸の花は引っ込んでおれ。
して、漸く通れたと胸をなでおろし奉りし折、どこぞの芋侍が「殿中で御座る」とのたまいし。
そこでまたしても我が怒髪天を衝くが如きに候。
この時勢殿中などすでに過去の遺物なり。
したり顔して何が「殿中で御座る」か。恥を知れ恥を。
そなたは本当に殿中で御座ると叫びたいのかと問いたい。問い詰めたい。半刻弱ほど問い詰めたい。
ただ単にどさくさに紛れて歴史に残る言葉を言いたいだけなのではないかと。
江戸城中の先達である拙者に言わせれば、斯様な如き事態の適切な判断はやはり、
討ち入り。
これなり。
雪の降る吉良邸に陣太鼓を鳴らし討ち入り。これでござる。
して、見事仇を討ち果たし凱旋。これぞ武士道。
されどこれは切腹を覚悟の上でやらねばならぬ諸刃の刃。
未熟者には百年早いわ。
まあ壱の如き若輩者には、昼行灯で敵の目を欺くが関の山なり。
>139
蛇責め TV化するとして どの女優に受けさせると
萌えかな。
今回の利家とまつ に松嶋菜々子の蛇責め は もちろん ありません。
145 :
日本@名無史さん:02/03/21 16:02
本題に戻せよ
146 :
日本@名無史さん:02/03/21 16:17
「忠臣蔵」に登場する「伊達左京亮」ってどこの大名?
宇和島の分家 伊予吉田藩
元禄事件のころの藩主は 伊達村豊
と思われ
脱線ついでもうしわけないが
蛇責めは本当にあったの?
148 :
日本@名無史さん:02/03/21 19:35
お家騒動を知りたかったら、海音寺潮五郎の『列藩騒動録』を読めい!
文庫本になってるぞい!
149 :
日本@名無史さん:02/03/26 00:51
どこの出版社?
150 :
日本@名無史さん:02/03/26 11:17
講談社文庫
でもそのくらい検索しろよ
前田家のお家騒動は、ほとんどが加賀八家とからんでいる・・・
152 :
日本@名無史さん:02/03/26 23:38
加賀八家って?
154 :
日本@名無史さん:02/03/28 12:10
>152
本多、奥村(本家)、奥村(分家)、長、前田(利政系)、前田(長種系)、村井、横山
の八家
155 :
日本@名無史さん:02/03/28 21:04
>154
村井って、大河で的場がやってるやつの子孫?
"浦野事件”・・・長家
”加賀騒動”・・・前田(利政)系
”奥村数馬事件”・・・奥村(本・分)家
”本多政均暗殺事件”・・・本多
・・・すべてではありませんが、こんなもんです。
あと、”村井”は確かに的場の子孫の家です。
157 :
日本@名無史さん:02/03/28 22:55
薩摩藩の近思録くずれについて教えれ
158 :
日本@名無史さん:02/03/29 11:23
ちなみに本多家は陪臣最高の5万石。
人吉(藩)も、結構騒動あるよネェ〜
160 :
日本@名無史さん:02/03/30 21:14
相馬中村藩では、廃藩置県後に相馬家が旧領内の農民から農地を買い上げて
旧臣に分与したらしい。
161 :
日本@名無史さん:02/04/05 21:33
人吉藩では、藩主が家老に鉄砲で射殺されたらしいですね。
詳細教えれ。
162 :
日本@名無史さん:02/04/05 21:34
阪神ワッショイ!!
\\ 阪神ワッショイ!! //
+ + \\ 阪神ワッショイ!!/+
+
+ ⌒*⌒ ⌒*⌒ ⌒*⌒
( ´∀`∩(´∀`∩)( ´∀`)
+ (( (つ ノ(つ 丿(つ つ +
ヽ ( ノ ( ヽノ ) ) )
(_)し' し(_) (_)_)
そういえば V9監督の 川上の出身地は 人吉だね。
川上さんの先祖は武士?
165 :
日本@名無史さん:02/04/07 22:32
幕府高家衆について詳細キボンヌ
長家って浦野事件の後、能登から追い出されて
加賀と越中に所領を移されたらしいね。
在地領主から家老となった長家は前田家から見れば
鬱陶しい存在だったんだろうな。
167 :
日本@名無史さん:02/04/13 18:33
ウンナンの内村も人吉だろ
168 :
日本@名無史さん:02/04/13 19:10
DT浜田に「クソ田舎や」って言われてたな
169 :
日本@名無史さん:02/04/13 21:19
>>165高家についてですが…高家は元々、戦国時代や室町時代(なかには鎌倉時代にまで源流をたどれる名門もあります)
から存在した源氏などの名門の系です。御承知のとおり江戸時代の儀礼儀典担当の幕府の
役職を指すのですが、名門の家柄であることは事実です。
高家には、高家全体の世話役にある高家肝煎や非役である表高家がありまして、
表高家は、年始・歳暮・五節句に登城し拝賀するのみであって日常的な職務はなかっ
たのです。
徳川幕府の職務の高家は、秀忠の時代に室町将軍の縁故である石橋・吉良・品川
家の三家を登用したに始まりまして、綱吉治世に十六家、家斉治世に三十一家、幕
末には二百家だったそうです。幕末であれば、相当数が表高家であったと考えられ
る。
高家は、幕府の儀礼典礼を司るのが職務で、具体的には朝廷への使節、勅使・院
使の接待、伊勢・日光への代参、宮中の作法を司ることなどであった。
もともと、家柄が高く、朝廷に接する機会も多いことなどから、禄高はせいぜい
五千石が最高であったが官位は四位中将まで進むことができた。
四位中将といえば、井伊・会津クラスの官位でその上は、将軍は別格として御三
家御三卿、前田家しかないほどの高位である。
また、特定の大名家の「昵近衆」として儀式作法の顧問報酬を受けることがあり、
結構な実入りがあったといわれる。
このように高家は、禁裏公家に対する儀式を預かり武家にして公家にも似た一種
独特の家であったのである。ちなみに同じ掌典職である奏者番は、専ら武家に関す
る儀式を預かる点で高家と相違している。
高家一覧表(文政5(1822)年文政武鑑より) 名 前 官 位 禄 高
高 家 大沢右京大夫基之 従四位上侍従(高家肝煎) 3550石
戸田備後守氏倚 従四位上侍従(高家肝煎) 2000石
中条河内守信義 従四位上侍従(高家肝煎) 1000石
宮原弾状大弼義周 従四位下侍従 1140石
織田豊後守信順 従四位下侍従 700石
畠山飛騨守義宣 従五位下侍従 3100石
上杉中務大輔義長 従五位下侍従 1496石
由良播磨守貞陰 従五位下侍従 1000石
今川刑部大輔義用 従五位下侍従 1000石
横瀬駿河守貞征 従五位下侍従 1000石
前田信濃守長粲 従五位下侍従 1000石
大沢修理大夫基休 従五位下侍従 600石
武田左京大夫信典 従五位下侍従 500俵
表高家 畠山左衛門基利 5000石
織田主殿信味 2700石
織田大膳長孺 2000石
六角頼母 2000石
日野岩丸 1530石
京極采女高正 1500石
吉良中務義房 1425石
長沢大蔵資言 1400石
前田繁之助長晧 1400石
大友左京義智 1000石
土岐■之助 700石
有馬繁丸 500石
品川内記 300石
---------
170 :
日本@名無史さん:02/04/16 20:44
六角もいたのか
171 :
日本@名無史さん:02/04/17 14:13
でもこの六角は佐々木流ではなく公家六条流だよ。
172 :
日本@名無史さん:02/04/17 15:23
由良や横瀬ってそんな名門だっけ?
173 :
日本@名無史さん:02/04/17 16:53
自称新田氏族
実際横山党
174 :
日本@名無史さん:02/04/17 20:16
175 :
日本@名無史さん:02/04/18 11:34
横山党出身の横瀬が、主家岩松を乗っ取り、由良を名乗ったもの。
176 :
日本@名無史さん:02/04/18 11:51
足利一族は、
宮原弾状大弼義周
畠山飛騨守義宣
今川刑部大輔義用
畠山左衛門基利
吉良中務義房
品川内記
の六家か・・・多いのか少ないのかわからんな。
177 :
日本@名無史さん:02/04/18 12:22
上杉もそうじゃない?
喜連川という大名は無関係みたいなの?
179 :
日本@名無史さん:02/04/18 15:39
喜連川は古河公方の子孫。
高家って実際どのくらいの袖の下を頂戴できたの?
182 :
日本@名無史さん:02/04/24 09:57
>177
高家の上杉って、能登畠山の出身らしいね。
183 :
日本@名無史さん:02/04/24 11:36
>182
能登畠山出身で、上杉謙信の養子になった上条政繁の子孫。
実家と養子先の名字を子孫がそれぞれ名乗った。
能登畠山って、上杉に滅ぼされたの?
185 :
日本@名無史さん:02/04/28 08:48
>184
ていうか、内紛のあげく自滅したってかんじ。
186 :
日本@名無史さん:02/04/30 23:03
徳島藩蜂須賀家は、養子ばっかで小六の血筋が絶えた。
187 :
日本@名無史さん:02/05/01 00:26
逆だよ。血筋が絶えたから養子ばかり。
189 :
日本@名無史さん:02/05/01 00:41
アホ徳川が養子を押し付けまくったからな。
190 :
日本@名無史さん:02/05/01 02:44
それも逆。
取り潰しを防ぐため等の理由で、将軍家からの養子を願った。
二代、忠英。五代、綱矩あたりに何人か分家してるようなので、
もし子孫が残っていれば・・・
192 :
日本@名無史さん:02/05/01 21:42
たしか、分家もその後本家の養子になり、絶えているはず。
193 :
日本@名無史さん:02/05/01 21:46
水戸徳川の養子作戦もなかなか壮絶。
>>186-191 将軍家からの養子殿様に対して、家老以下蜂須賀生えぬき家臣たちは
心底、殿様にとしての敬意を払ったのかな?
195 :
日本@名無史さん:02/05/05 00:03
殿様の血筋なんて家臣はどうでもよかったみたいだよ、大抵のケースでは。
血筋じゃなくて、お家大事だから。
197 :
日本@名無史さん:02/05/05 00:05
江戸大名で血筋が初代から連綿と続いてる家なんて少ないだろ。
198 :
日本@名無史さん:02/05/05 00:06
少ないというほどでもないと思うが?
>199
ヴァカだろ。
201 :
日本@名無史さん:02/05/05 00:12
有名な米沢藩の名君・上杉鷹山だって高鍋藩秋月家からの養子だし。
202 :
日本@名無史さん:02/05/05 00:25
でも上杉鷹山は上杉景勝の子孫だよ、女系繋がりで。
203 :
日本@名無史さん:02/05/05 00:29
前田・伊達・毛利・島津等々、初代の血統を守っている家だって
結構あるじゃん。「とっても少ない」というほど少なくはないだろ?
204 :
日本@名無史さん:02/05/05 00:33
熊本藩の場合は、直系は治年で絶え、分家の宇土藩から藩主を迎えた。
205 :
日本@名無史さん:02/05/05 00:35
御三家の場合は、水戸藩のみが初代の血筋を守っている。
206 :
日本@名無史さん:02/05/05 00:36
>>204 そういうのは一応「血筋が初代から連綿と続いてる家」の範疇に
入れてもいいんじゃないの?分家といっても男系を辿って細川忠興に
辿りつく家なんだから。
207 :
日本@名無史さん:02/05/05 00:38
>206
つうと、紀州藩も一応初代から続いてるか。
208 :
日本@名無史さん:02/05/05 00:41
>>207 そう考えてよいのではないかと思う。
それをダメだといってしまうと天皇家すら代々続いては
いない家ということになってしまう。
209 :
日本@名無史さん:02/05/05 00:47
養子とる場合は、大抵母系でつながってる所から貰うんですか?
210 :
日本@名無史さん:02/05/05 00:49
いや、そういうケースはむしろ少ないのではないかな。
211 :
日本@名無史さん:02/05/05 01:40
けっこう断絶しているみたいですよ。
徳川四天王の本多忠勝系統も分家のうち2つは潰れているし、
美濃守本家も、徳川中期にはすでに水戸藩から養子をいれている。
蜂須賀も全然血統の関係ないところからいれているし、
真田家、久松越中家、越智松平家、池田家、阿部豊後守家、など
血統の脈絡がいまひとつ不明瞭なところから養子を迎えているケース多数。
213 :
日本@名無史さん:02/05/06 12:22
age
214 :
日本@名無史さん:02/05/12 07:53
蜂須賀家なんて養子ばっかで藩主はロボット同然だったらしいね。
215 :
日本@名無史さん:02/05/12 09:32
蜂須賀ドロボット
216 :
日本@名無史さん:02/05/12 09:42
なのに明治天皇から血は争えんのうと言われたのか。撃つ
217 :
日本@名無史さん:02/05/12 15:26
218 :
伊達遠江守家中:02/05/16 06:01
>216
明治天皇、「太閤記」の読みすぎ。(笑)
219 :
日本@名無史さん:02/05/20 12:00
伊達は一応、政宗の血脈が続いたようですな。
220 :
日本@名無史さん:02/05/20 12:23
上杉鷹山はたしか蜂須賀からの養子だったと思うのだけど、
すでに彼の代の蜂須賀家は養子だったのかな?
>220
蜂須賀じゃない。高鍋の秋月家だよ。
222 :
日本@名無史さん:02/05/20 13:31
江戸初期〜幕末まで血がつながっているところORいないところ
ってどこですか
223 :
日本@名無史さん:02/05/20 14:00
224 :
日本@名無史さん:02/05/20 14:03
土佐の山内家も途中で血筋は切れてる?
>>224 一応つながってる。
傍流から養子を入れた。
一豊の弟康豊の子孫の家臣になった系統から本家へ
入った。
226 :
【^▽^】七夕まつ〜り:02/06/07 17:47
伊達って四国にもいるのれすね。
227 :
日本@名無史さん:02/06/07 17:58
仙台伊達は維新後に宇和島から養子入れてるだろ。
228 :
日本@名無史さん:02/06/07 18:34
>227
確か慶邦の実子がその後を継いだはず。
>226
その為宇和島に東日本の「しし踊り」(鹿の扮装をした者達が舞う)が伝わ
りました。島根の神楽が福井にもあったりと、場違いな文化は江戸期の大名
達の配置替えによって生じた例もあるようです。
230 :
伊達遠江守家中:02/06/08 13:00
>227
宇和島から宗敦が来たのは、維新後というか戊辰東北戦争直前です。
その前には、一関田村家から養子に来て将軍家茂から一字拝領した茂村がい
ますが、彼が病死したので宗敦が新たに迎えられたのです。
茂村が養子になった時点では実子は生まれておらず、この時は実子が当時2
歳と幼少過ぎたので、繋ぎとして一族から養子を迎えたのでしょう。
終戦処理で養父慶邦と一緒に謹慎して、慶邦実子宗基(2歳)が当主になっ
ています。
もし徳川家の大政奉還が数年遅れていたら、多分一字拝領で喜宗、喜村とか
いう名前になっていたのでしょうね。
231 :
秋田 愛季:02/06/08 14:46
江戸時代の秋田の佐藤氏について教えてください。
資料があったらそれも教えてください。
232 :
日本@名無史さん:02/06/08 14:48
26 :無名武将@お腹せっぷく :02/06/07 00:51
督姫の息子暗殺は俗に「藩主連続変死事件」として知られます。
岡山藩主と姫路藩主という兄弟にあたる大藩の藩主が連続して
急死したので。
毒饅頭事件。督姫は先妻の息子である池田利隆(播磨藩主)が
大嫌い。どうしても実子の忠継(岡山藩主)に夫のすべての領地
を継がせようと、大坂の陣から凱旋した利隆を岡山城へ招き
毒饅頭を利隆に食べさせようとします。しかし様子が変なこ
とに気づいた忠継がそれに気づいて兄の饅頭を食べて死去。
督姫は忠継が死んだことにショックをうけて自分でも毒饅頭
を食べて死去。
↑
これって本当?
233 :
日本@名無史さん:02/06/08 17:00
>>176,177
そいつら婚姻繰り返して、
実際には同族だよ。
こいつらと柳沢が癒着して元禄事件を引き起こしたのだ。
234 :
日本@名無史さん:02/06/08 17:11
洲本城代稲田氏について教えて!
他にも万石以上の大身陪臣ってどれだけいるの?
この際だから、全部教えてほすぃ。
235 :
日本@名無史さん:02/06/08 17:27
>>232 毒饅頭の真偽はともかくとして、
岡山(姫路)少将家と鳥取(岡山)相模守家は犬猿の仲。
原因は督姫(徳川)の血を引いてるか否かによる。
ところで、
井伊と永井の代々兄弟の仲ってどゆことですか??
236 :
日本@名無史さん:02/06/08 17:28
下間池田氏ってなんで池田を名乗ってるの??
237 :
日本@名無史さん:02/06/08 17:38
>>236 池田輝政の姉が下間頼龍に嫁いで出来た子の子孫だから。
238 :
日本@名無史さん:02/06/08 18:06
>>234 万石以上陪臣ランキング(官位付)きぼん。
239 :
日本@名無史さん:02/06/08 20:06
相馬大作事件について教えて。
240 :
日本@名無史さん:02/06/08 20:21
こういうのは検索すれば一発なんだけど
241 :
日本@名無史さん:02/06/08 21:14
>>239 http://www.city.ninohe.iwate.jp/kankouka/ninohe/daisaku.html 其{そ}の方儀、津軽越中守{えっちゅうのかみ}家筋の儀は、
古来南部家臣下の節目の有之{これあり}候ところ、当越中の守代に至り、
家路は勿論官位共に結構に相成り、猶この上昇進のこれあるべき趣き故、
南部大膳太夫{だいぜんだいふ}(三十六代利敬{としたか})承るに及び、
越中守儀南部家同様に相成るべしと、右の儀を残念に存じ候ところ、
気鬱{きうつ}の上発病死去致{いたし}候由承るに及び、
殊に、当大膳太夫(三十七代利用{としもち})其頃は無官に有之候に付、
越中守より遙か末座に相成り候間、旁々{かたがた}以て心外に存じ、
其方仕官の身分には無之{これなく}候へども、
父祖の為には累代の主人に付、右鬱憤{うっぷん}を晴らすべしと、
関良助外2名へも申し勧{すす}め、越中守帰城の道筋に待ち受け、
右遺恨{いこん}を申し述べ、同人屈服の上隠居致し候はば格別、
さも無之{これなき}に於ては、鉄砲を伏せ置き打留め候積り、
其方一己{いっこ}の存念より右企て致し、
羽州秋田白沢宿{しゅく}まで罷{まかり}り候ところ、
越中守には通行の道を替え帰城致し候故、本意を遂げず候へども、
右企ての趣{おもむき}、露顕{ろけん}致すべしと、
妻子その外召し連れ出奔{しゅっぽん}致し候始末、
公儀を恐れざるの仕方不届{ふとどき}至極に付、
青山下野守{しもつけのかみ}殿の御指図により獄門申しつく。
242 :
日本@名無史さん:02/06/08 21:32
243 :
日本@名無史さん:02/06/08 21:42
順 区分け 扱い 代表的領主、家
0 溜りの間詰め 老中溜り (溜詰)大老、老中(御次)御留守居、所司代、大阪城代
1 大廊下詰め 将軍縁家、式台刀持ち上がり (上の部屋)御三家、御三卿
(下の部屋)加賀前田、越前松平、薩摩島津*、美作越前松平
2 大広間詰め 外様四位以上 国持ち十八家、連枝、準国持ち五家、柳川立花*、二本松丹羽*
3 帝鑑間詰め 無役の譜代大身 @譜代城主10万石、一門9家(小幡奥平松平、今治久松松平など)
A交代寄合(久能・榊原越中守、新城・菅沼新八郎、西郡・竹谷松平主水ほか)
B小身でも特別な家(田原三宅、飯野保科、上の山藤井松平、尼崎桜井松平ほか)
C諸侯扱いの旗本(久能榊原越中守ほか)
4 柳間詰め 5位外様、寄合 @4位(大広間)になる前の無官の4位家=大廊下末御杉戸際
A中大名
B交代寄合、四州家、高家
5 雁間(がん)詰め 譜代城主、半役人 @高家、御詰衆(雁間の別称)
A帝鑑間にない譜代大名、嫡子、旗本
B大阪城代、駿府城代
6 菊間縁頬詰め 無城半役人 @役にない譜代大名、旗本
A*
7 菊間詰め 役にない譜代 @役にない譜代大名、旗本
A詰間には含めず
244 :
日本@名無史さん:02/06/08 21:46
順 区分け 代表的領主、家
1 称徳川 御三家、御三卿、御三家の嫡子(次子は松平)
2 称松平 越前流8家、会津、浜田(越智)、尾張流1家、紀伊流1家、水戸流4家
十四松平(深溝、五井、松井、大河内、大給、
大須賀−廃絶、形原、桜井、鷹司、竹脇、竹谷、能美、藤井、依田)
奥平流2家、久松流4家、柳沢家
3 外様国主称松平11家 加賀前田(羽柴)、仙台伊達、薩摩島津、福岡黒田、安芸浅野
長門毛利、佐賀鍋島、因幡池田、備前池田、阿波蜂須賀、土佐山内
4 外様城主称松平5家 富山前田、大聖寺前田、浅野分家、池田分家2
5 ほか称松平 池田大隅守家七千石
245 :
日本@名無史さん:02/06/08 22:48
>>243 これって、言わば現代における会社の配席表なのね(笑)
しかも、ほとんど絶対昇格は望めない、シビアな世界。。。。
246 :
日本@名無史さん:02/06/08 23:10
松平なんて名乗らせるから史料を読むときに歴史初心者はつらい。
誰か見分け方教えてください。
247 :
日本@名無史さん:02/06/13 01:08
加賀藩臣松平氏ってなんで松平が前田に仕えてんの??
248 :
日本@名無史さん:02/06/13 13:38
>>247 なんで仕えちゃおかしいと思うの?
松平もいろいろだよ。
249 :
日本@名無史さん:02/06/13 16:37
>5 ほか称松平 池田大隅守家七千石
これは旗本だね
名前 禄高 役職 住所
紀伊中納言治宝 555000石 紀伊藩主 麹町5丁目
松平越前守治好 300000石 福井藩主 常磐橋之内
松平周防守康任 060400石 浜田藩主(石見国) 大名小路
九鬼和泉守隆国 036000石 三田藩主(摂津国) 霞ヶ関
稲垣信濃守長続 030000石 鳥羽藩主(志摩国) 麹町6丁目
丹波式部少輔氏昭 010000石 三草藩主(播磨国) 山下御門内
平岡美濃守頼長 005000石 側衆 神田橋外
林肥後守忠英 003000石 側衆 鍛冶橋御門内
水上帯刀正想 003000石 寄合衆 表二番町
前田熊次郎矩貫 002500石 寄合衆 本郷からかさ谷
島田玄蕃利長 002500石 小納戸衆 湯島妻恋坂
岡部栄次郎豊矩 002000石 使番衆 四谷信濃殿町
前田繁之助長皓 001400石 表高家衆 御茶水御掘端
久松忠次郎定安 001200石 持筒頭 小川町一ツ橋通
神保八郎長孝 001100石 進物番 小川町一ツ橋通
溝口孫左衛門勝興 001000石 先手弓頭 麹町3丁目谷
神保喜内長光 000900石 寄合衆 小川町神保小路
織田主計頭信由 000700石 高家衆肝煎 麻布市兵衛町
川村外記顕政 000600石 小普請 小日向龍慶橋
藤川甚兵衛安登 000543石 大番 三番町
溝口十太夫応勝 000500俵 小普請 本所鐘堂前長崎町
小林権太夫正集 000450石 蔵奉行 表六番町
平賀信濃守貞愛 000400俵 大坂町奉行 昌平橋内駿河台
矢橋熊之助良全 000400俵 小納戸頭取衆 市ヶ谷左内坂上
南條権三郎隆篤 000400石 二丸留守居 三番町
小林佐次兵衛正守 000400石 小普請 市ヶ谷土取場
三浦五郎三郎兼纓 000350石 新番組頭 新道二番町
川崎平右衛門定安 000150俵 代官(甲斐) 神田佐柄木町
岩村石之助長理 000150俵 小普請 小石川馬場中程
川村清兵衛脩富 000050俵 細工所頭 桜田御用屋敷
251 :
日本@名無史さん:02/06/15 20:47
大名家の婚姻関係について教えてください。
>>251 具体的にどこの、あるいはどんな事が知りたいのか書きなさい
253 :
日本@名無史さん:02/06/15 20:53
どこでもいいのですが、たとえば国持ち18家の婚姻関係ってどうな
ってたんでしょう。江戸時代は外様大名同士の談合を嫌って大藩どう
しは姻戚にならなかったと聞いたんですが本当ですか。
254 :
日本@名無史さん:02/06/16 14:13
>>235 両池田藩の仲は悪くないよ。かなりいいと思う。
どちらかが幕府に抗議したり行動を起こす時には連名して幕府に訴
えてるし。だいたい幕末だって、鳥取藩が本藩である岡山藩の意向に
従ったはず。
255 :
日本@名無史さん:02/06/16 18:40
万石以上陪臣ランキング(官位付)きぼん
256 :
日本@名無史さん:02/06/16 18:41
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257 :
日本@名無史さん:02/06/16 22:08
肥前の鍋島直正は密貿易らしきことをやって儲けたみたいだけど、
何を輸出して儲けたのか教えてくれ。
258 :
日本@名無史さん:02/06/16 22:22
伊万里焼では?
259 :
日本@名無史さん:02/06/17 23:21
外様大藩で目3回以上の婚姻を結んでいるところ
前田&浅野
池田&毛利
260 :
日本@名無史さん:02/06/21 21:07
age
261 :
日本@名無史さん:02/06/21 22:51
福岡藩はあまり話題にならないね。
262 :
日本@名無史さん:02/06/22 20:32
age
263 :
日本@名無史さん:02/06/23 19:56
5.0 本多安房
3.0 横山山城
3.3 長九左
1.1 前田対馬
1.7 村井飛騨
1.7 山崎長門
1.2 富田甲斐
1.2 岡島備中
1.1 神尾主殿
1.3 篠原出羽
1.5 青山豊後
1.7 奥村河内
1.0 浅井左馬
1.0 前田美作
1.0 神谷式部
1.0 松平伯耆
264 :
松平新太郎光政@江戸ナンバーワン名君:02/06/23 20:50
ナンバーワン大名は自分だな。
265 :
松平新太郎光政@江戸ナンバーワン名君:02/06/24 11:47
>>263 前田家は102万石もあるのにケチだな。うち(岡山池田家)の家老たち
の場合
伊木遠江 3.3万石
池田出羽 3.2万石
池田伊賀 2.7万石
森寺美作 2.5万石
片桐長門 2.7万石
森寺対馬 2.7万石
これは岡山藩31万石余りのみじゃ。鳥取藩にも何人か万石以上がいたぞ。
266 :
伊達遠江守家中:02/06/24 12:26
>265
それだけで表高の三分の一超えちゃってるんですけど・・・・。
267 :
松平新太郎光政@江戸ナンバーワン名君:02/06/24 12:46
それはウチの藩の成立事情にあるんだな。
ウチはもともと52万石だった。播磨姫路は52万石といっても
オモテダカはもっとあったし。それが父上が早死にしたために
わしが幼君だったために鳥取32万石に減封されてしまったのじゃ。
だが家臣たちはもともとの封土を与えたのぢゃ。
268 :
日本@名無史さん:02/06/24 15:43
age
269 :
日本@名無史さん:02/06/24 22:53
270 :
日本@名無史さん:02/06/26 12:19
あげ
271 :
伊達遠江守家中:02/06/26 12:37
>269
仙台伊達は、家臣団全体への知行高は大体表高に等しいよ。
概ね6(家臣知行):4(蔵入)くらいと思ってください。
272 :
日本@名無史さん:02/06/26 16:14
仙台に殿なし、会津に家老なし。
273 :
日本@名無史さん:02/06/26 17:13
鳥取に20世紀なし。
274 :
日本@名無史さん:02/06/26 18:16
正室の息子と側室の息子ではどちらが家督相続の優先権がありますか?
実母の立場にかかわらず、生まれが先の殿様の長男坊に相続権があるというのでしょうか?
江戸時代のルール、原則を教えてくださいませ。
275 :
日本@名無史さん:02/06/26 18:46
徳川譜代の酒井家は、雅楽頭家(姫路藩)と左衛門尉家(鶴岡藩)がありますが(分家
除く)、鶴岡藩酒井家からは歴代一人しか老中出てません。
なぜなんでしょうか?
>>274 当然、正室腹の子に優先権があります
なんとなれば、正室は主人(殿様)の配偶者ですが
側室というのは使用人=召使並だからです
側室腹で長男に生まれている場合は庶長子ですが
弟でも正室腹がいたらアウトです。弟が死んだりして
庶長子が家督を継ぐ場合でも、父の正室を嫡母として
待遇する必要があります
277 :
日本@名無史さん:02/06/26 19:52
スレ違いだけど。
日本は大らかなもんだよ。
孔子の直系・孔徳成の自伝読んだら・・・
父の正室には子がなかったので彼が嗣子となったのだが、
毎日高慢な「母」(父の正室)に拝謁しなければならず、
しかも実の母を奴隷のように扱わなければならなかった。
レス、ありがとう。
幕府に側室の男子を相続人として、届け出た後に正室が男子を産んだ場合は
どうなりますか?
こういうケースって結構あり得るとおもうんですけど。
じゅうぶん有り得るとは思いますが、
正室腹の子供がいれば、先の側室腹の子供は
病気ということにして、総領除きを
願い出るのだろうと思います
280 :
日本@名無史さん:02/06/27 00:29
「じゅうぶん」はあり得ないんじゃないかな。
幕府の場合、正室・側室を問わず、数え三十歳でお褥は遠慮になったはず。
高齢出産は不具者を生む最大の原因だからね。
大名家でもそうした措置は当然取られたことだろうと思う。
281 :
日本@名無史さん:02/06/27 14:33
だから?
282 :
日本@名無史さん:02/06/28 00:18
あげ
>>275 信康殺しを逆恨みされてたから
徳川君たらネンチャックだなー
284 :
日本@名無史さん:02/07/01 01:03
age
285 :
松平新太郎光政:02/07/01 01:29
正室が二人いた場合はどうなの?先妻と後妻の息子って
どっちが後継になるの?
うちのお父さんの場合先妻(正室)の子だったんだけど、
おじいさんと離婚後、後妻(徳川氏の娘)と
結婚したんだけど。他大名たちは、家康の孫の叔父が継ぐ
って予想したらしいけど暗に反してお父さん姫路42万石
叔父さん38万石をつぐことになったよ。
286 :
日本@名無史さん:02/07/01 03:51
首相になった近衛文麿は近衛篤麿の先妻(正室)の子
父の跡を継いで公爵になりました。
音楽家の近衛秀麿は後妻(これも正室。先妻の妹)の子
287 :
日本@名無史さん:02/07/01 18:32
gea
288 :
日本@名無史さん:02/07/11 20:47
age
289 :
日本@名無史さん:02/07/22 20:26
age
290 :
日本@名無史さん:02/07/24 16:14
水戸藩連枝の高松藩は何故あんなに禄高が高いのか?
光圀の同母兄だからっしょ
292 :
日本@名無史さん:02/07/25 16:31
sage
sage
294 :
日本@名無史さん:02/07/26 15:48
age
295 :
日本@名無史さん:02/07/26 20:01
≫274
鎌倉時代になりますが、時宗と時輔の例があるでしょう。(スレ違いスマソ
296 :
日本@名無史さん:02/07/28 17:51
>>295 274は江戸時代の原則的ルールを聞いてるんだと思われ・・・
297 :
日本@名無史さん:02/07/28 19:36
13代家定からへんきをうけた藩主っているの?
>297
たしか5年くらいは在職しているから、その間に元服している国持クラスは
当然アリかと
逆に「定」の字を代々使っていたので、あわてて変更も(笑)<今治藩主etc
299 :
日本@名無史さん:02/07/28 20:14
4代家綱と11代家斉のへんきをうけた大名はかなり多そうだ。
300 :
日本@名無史さん:02/07/28 20:55
山県第二事件!
301 :
日本@名無史さん:02/08/02 12:54
>>298 いた。
松江藩の最後の藩主・松平定安。
302 :
日本@名無史さん:02/08/11 18:44
参勤交代という制度は、日本史上、最高の制度だったと思う。
まず、国内の交通の便を良くしたということ。
そして、大名に力を蓄えさせず、200年以上も平和を維持したということ。
徳川家光は、支配者としては、世界最高レベルじゃないかな。
>>302 支配者として世界最高なのは、昭和天皇だよ。
家光なんてカス
304 :
日本@名無史さん:02/08/11 19:08
305 :
日本@名無史さん:02/08/11 20:35
>304
久松系は代々「定」の字が付くでしょ?
306 :
日本@名無史さん:02/08/11 20:38
「綱」と「斉」が多くて、「宣」「継」は少ない。
慶喜の一字もらった大名は皆無でしょう。
307 :
日本@名無史さん:02/08/15 20:56
>>306 就任後ほとんどすぐに大政奉還してるんだからそうでしょうね。やると言わ
れても、落ち目の天下人?(まもなく朝敵)からわざわざ一字拝領する物好きは
いないでしょう。
(いやまて、旗本を捜したらひょっとしたら一人ぐらいいるかも?)
309 :
伊達遠江守家中:02/08/16 04:15
>308
松平喜徳(松平容保の養子)は違うのだろうか? 詳しい方ご意見キボンヌ。
310 :
日本@名無史さん:02/08/16 07:07
>309
おまえうざい。
311 :
伊達遠江守家中:02/08/16 14:04
>310
伊達以外の江戸大名にも興味があるのか?
でも、その前に大年寺山墓地の周りをもう少し綺麗にしてやれよ。DQNなおっ
さんが車止めて仕事サボって居眠りしてるぞ。
市長としてはどう思ってるんだよ、蛆井。
おっと、艮櫓が建てられなかったことの方がショックか?(藁
312 :
日本@名無史さん:02/08/16 14:05
>311
おまえうざい。
313 :
日本@名無史さん:02/08/16 14:09
金沢イボンヌ
314 :
日本@名無史さん:02/08/16 17:05
3回以上ある婚姻関係
加賀前田家&安芸浅野家
備前池田家&防長毛利家
これに詳しい人、詳細を教えてください。
315 :
日本@名無史さん:02/08/23 01:29
あげ
317 :
日本@名無史さん:02/08/24 01:50
>>314 浅野光晟(前田利常女)浅野吉長(前田綱紀女)浅野宗恒(前田吉徳女)
前田家には浅野家からの嫁はなし
備前池田家&毛利家は毛利吉元(池田綱政女)だけ。
318 :
日本@名無史さん:02/08/28 20:53
age
319 :
日本@名無史さん:02/09/06 23:45
20:07 北の国から2002遺言後編 倉本聰脚本 杉田成道監督
[役]黒板五郎…田中邦衛黒板純…吉岡秀隆 笠松蛍…中嶋朋子
高村結…内田有紀 宮前雪子…竹下景子
ほか地井武男 岩城滉一 岸谷五朗 原田美枝子
唐十郎 杉浦直樹 柳葉敏郎 ガッツ石松
布施博 高橋昌也 清水まゆみ 中島ひろ子
西村成忠 平賀雅臣 春海四方 山崎銀之丞
320 :
日本@名無史さん:02/09/22 10:53
age
321 :
日本@名無史さん:02/09/23 20:20
>>308 広島の浅野長勲さんなんかは、維新前は茂勲だったけど、維新後は祖先の一字をつけた名前に変更してるしな。こんな大名、他にも多いだろ?
322 :
日本@名無史さん:02/09/23 20:26
>321
鍋島斉正→直正
毛利慶親→敬親・・・・は、返上じゃなくて剥奪。
323 :
日本@名無史さん:02/09/23 20:28
松平喜徳は慶喜から一字を貰ってます。
咸臨丸の軍艦奉行・木村喜毅も慶喜から一字貰ったのかな?
324 :
日本@名無史さん:02/09/23 20:30
>>321 外様の国持大名はほとんど該当する。
例外は徳川家との血縁関係が濃厚な人たち。
加賀の前田斉泰・慶寧(家斉の婿と孫)
備前岡山の池田茂政(慶喜の実弟)
因州鳥取の池田慶徳(慶喜の実兄)
阿波徳島の蜂須賀茂アキ(家斉の孫)
325 :
日本@名無史さん:02/09/23 20:34
幕末に「朝敵」になった国持大名も変えないよね。
仙台の伊達慶邦
米沢の上杉茂憲
326 :
日本@名無史さん:02/09/23 22:14
>>297 遅レスだが、もう一人いた。
長州藩世子毛利定広。のちに剥奪されて元徳に改名している。
>>304-305 桑名松平家は一字拝領の家格ではない。
定敬の先代定猷は「定」の字を遠慮して「猷」と改名している。
この時期、他の久松系大名は「勝○」に改名した者が多い。
327 :
日本@名無史さん:02/09/23 22:27
一字拝領の制度って多分、家光の頃に出来たんでしょうか?
328 :
日本@名無史さん:02/09/23 22:31
宇和島伊達家は代々「宗○」となるけど、吉宗が将軍の時の藩主は「村○」と
名乗る。
329 :
日本@名無史さん:02/09/23 22:51
>>327 秀忠時代から松平の姓とともに与えられています。
330 :
日本@名無史さん:02/09/23 22:54
そういえば、佐竹家は国持なのに何で一字拝領受けないんだろう?
331 :
日本@名無史さん:02/09/23 22:58
>>327 備前岡山の茂政は池田支藩からの養子・池田章政に家督を譲って逃げたね。
332 :
日本@名無史さん:02/09/23 22:59
>>330 多分、源氏の名門なので「義」の通字を大事にしたのでは?
足利一門の細川家が松平姓を受けなかったのも同様と思われます。
333 :
日本@名無史さん:02/09/23 23:02
>332
それを言えば、島津や毛利だって(松平よりは)名門のはずでは?
>>330>>333 大名間に微妙な格差をつけて支配するということも考えられます。
土佐の山内氏は松平姓は受けているけど、一字拝領は受けていませんね。
335 :
日本@名無史さん:02/09/23 23:20
「国主格」は一字拝領はなかったようですね。
336 :
日本@名無史さん:02/09/24 00:25
>>328 あれは吉宗の名を憚ってなの?
漏れは単に本家の偏諱を受けたものだと思ってたけど。
337 :
日本@名無史さん:02/09/24 00:48
>>336 吉宗の名を憚ったので、代わりに本家から一字もらったのでは?
338 :
日本@名無史さん :02/09/24 08:46
伊達家にとって「吉宗」という名の将軍は、いちばん出てもらいたくなかった名前なんだろうな。
先祖代々の名前を変えなくちゃいけないんだから。
339 :
日本@名無史さん:02/09/25 20:05
藤堂家も一字拝領がなかったね。山内や藤堂家は関ヶ原以来、外様の割には、家康にかなり肩入れしているから、家康の方でも「譜代」と「外様」も中間的な存在としてみていたのかな。だから秀忠も「一字拝領」をやらなかったんじゃないかな。
340 :
名無しのゴンベ@縷縷:02/09/25 20:10
加賀藩・前田家は四代目の光高から廃藩までずぅ〜っと一字拝領してるよね
341 :
日本@名無史さん:02/09/27 08:39
>340
前田慶寧は明治後も改名しなかったんだ?
342 :
日本@名無史さん:02/09/27 12:35
細川家は江戸時代に松平姓をもらってないね。
343 :
日本@名無史さん:02/09/27 18:21
>342
今谷の本によれば、細川家が断ったそうです。
344 :
日本@名無史さん:02/09/27 18:22
柳沢家の松平姓は、吉保・吉里の二代限り?
345 :
日本@名無史さん:02/09/27 18:29
346 :
日本@名無史さん:02/09/27 18:35
>345
家康が細川忠興に松平姓を下賜しようとした時、
「徳川ならばお願いなさるべきか。松平は源氏の名字にてもなく、羽柴と同意なり」
といってはねつけたそうな。
347 :
日本@名無史さん:02/09/27 18:38
>346
でも羽柴姓は受けてたよね。
理屈にあわん。
本当は貰える身分ではなかったんじゃない?
>>345 徳川や松平より、細川の方が源氏としては名家だと思っていたからかと思われ。
それなら、何で羽柴はもらっているのか?についてはわかり申さず。
349 :
日本@名無史さん:02/09/28 10:25
細川幽斎父子は、信長のとき領地名の「長岡」に改姓している。
これは将軍足利義昭との絶縁を天下に表明するためだったのだろう。
だから、長岡から羽柴への改姓は比較的抵抗がなかった。
家康の時代に松平を辞退したのは、細川姓に復帰する好機と思ったからでは?
350 :
日本@名無史さん:02/09/28 11:25
細川本家(京兆家)は、信長・秀吉の頃はまだ健在だった。
京兆家が絶えたので、幽斎の系統が本流となり細川姓を復活させたのだろう。
351 :
日本@名無史さん:02/09/28 11:28
>>341 前田慶寧は家斉将軍の孫。一時は13代将軍候補にもあがった人です。
外様大名でも将軍家と濃い血縁関係にあった人は改名していません。
352 :
日本@名無史さん:02/09/28 23:38
偏諱や松平姓以外にも、徳川家は様々な形で、細かく大名の格付けを行っているようだね。
そのいい例が「大名行列」。例えば乗物や打物、傘なんかにも、細々とした規定があったみたいだね。
乗物だと、腰板、打揚、引戸、腰網代、鋲打とか、色々あるようだけど、詳しいことを知ってる人っている?
353 :
日本@名無史さん:02/09/29 00:23
10万石以上の大名は、参勤交代の帰国の際に上使を派遣されることになってる
そうです。
354 :
日本@名無史さん:02/09/29 03:11
江戸末期の混乱期といえど、なぜ蝦夷地の外様弱小大名である
松前崇広が老中にまでなれたのでしょうか?
355 :
日本@名無史さん:02/09/29 17:09
細川家も名門だが、小笠原家や京極家も江戸大名では屈指の名門だろう。
356 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守@司牡丹:02/09/29 17:15
土佐の小笠原唯八や郷士で勤王党員の小笠原某は小笠原家と関係あるのですか?
357 :
日本@名無史さん:02/09/29 17:20
>354
人材難だったからでは?
358 :
日本@名無史さん:02/09/29 18:29
外様といえば播州竜野の脇坂家や陸奥下手渡の立花家からも幕閣が出ている。
359 :
日本@名無史さん:02/09/29 18:37
>>354 358
「願い譜代」という制度があったと記憶している。つまり外様でも、この制度を利用すれば「準譜代」の扱いとなるので、幕閣の一員として政治に参加できる。
その制度の詳細については、只今、調査中。ただ幕府の政治の原則として、大藩の外様大名に、この扱いはなかったはず。
もっとも嫁さんや養子を押し付けることで、親戚化政策をしていたということもあるだろうけど。
360 :
日本@名無史さん:02/09/29 18:40
361 :
日本@名無史さん:02/09/29 20:13
前田と丹羽は仲悪いのか・・・
今年の「二本松の菊人形」で、「利家とまつ」をやるらしいけど、
い い の か ?
362 :
日本@名無史さん:02/09/29 20:53
>>359じゃないが、いいの教えてくれてありがとう
363 :
日本@名無史さん:02/09/29 21:01
>355
京極高次の正室は浅井長政の次女・初なんで、三女を娶った秀忠とは義兄弟の間柄。
高次の跡を継いだ忠高は、秀忠の娘を娶って出雲松江26万石の大名となったが、跡継ぎ
ないままま没したので、松江は召し上げられた。
その後、忠高の甥の高和が播磨竜野に6万石を与えられ、さらに讃岐丸亀に移封。
もし、忠高に跡継ぎがあったら代々将軍の一字を与えられたことだろう。
364 :
日本@名無史さん:02/09/29 21:20
>355
小笠原家は、小笠原長時は武田信玄に敗れて各地流浪の末会津で殺害される。
その息子貞慶が家康に仕え、貞慶の息子・秀政は、家康の長男・信康の娘を娶って
信濃飯田城主となるが、秀政は嫡男忠脩とともに大坂夏の陣で戦没した。
365 :
日本@名無史さん:02/09/29 21:27
小笠原家の家督は秀政の次男・忠真が継ぎ、のちに家光により豊前小倉15万石を
賜る。
秀政の三男・忠知は、豊後杵築4万石を与えられ大名となった。この家からは幕末の
老中格・長行が出ている。
戦死した忠脩の遺児・長次も播磨竜野に六万石を与えられ大名となった。
366 :
日本@名無史さん:02/09/30 00:00
余談で悪いんだけど、東京の本郷に「壱岐坂」という場所がある。ここに小笠原家の江戸屋敷があったそうだ。
367 :
日本@名無史さん:02/09/30 06:59
あと長時とは別系統の小笠原家もあり、こっちは勝山藩主となります。
368 :
日本@名無史さん:02/09/30 07:01
ちなみに、盛岡藩南部家は小笠原と同族であり、請西藩林家は小笠原の庶流。
369 :
日本@名無史さん:02/09/30 07:59
江戸大名の名門といえば上杉家もある。
綱憲以降は吉良の血統なので、紛れもない室町以来の名家だな。
370 :
日本@名無史さん:02/09/30 09:06
佐竹や島津も名門じゃないのか、鎌倉以来の地頭職や守護職の地位を保ってきたのだし。
371 :
日本@名無史さん:02/09/30 09:30
土佐の唯八さんは阿波小笠原家の系統では?
372 :
日本@名無史さん:02/09/30 20:58
あと、弘前藩・会津藩・萩藩などにも小笠原いるね。
373 :
日本@名無史さん:02/09/30 21:06
小笠原氏は一族が多い。幕臣だけでもかなりいるはず。
鎌倉以来といえば、肥後人吉相良2万2千石はどうかな?
お家騒動、藩主の暗殺など話題も豊富…。
>>368 そういえば戦国時代の小笠原の本城は林城だな
376 :
日本@名無史さん:02/10/03 22:27
変な名前の大名
豊前中津藩主・奥平昌鹿(まさか)
377 :
日本@名無史さん:02/10/03 22:36
米津田盛(たもり)という大名もいた。
378 :
日本@名無史さん:02/10/03 22:44
津藩主・藤堂高郎(たかほら)
きっとホラばかり吹いてたんでしょう(w
379 :
日本@名無史さん:02/10/03 23:35
>>360 しかし仙台伊達家が実高98.5万石で、近江にまで飛び地で領地を持っていたのは
初めて知った。そんな家柄が戊辰戦争でバカやって、分家の宇和島と爵位は同じだもんな。
情けねー。それに仙台人の「時代を見る目のなさ」は今も相変わらずだしな。
380 :
日本@名無史さん:02/10/04 07:26
>>379 分家(宇和島)が侯爵、本家(仙台)が伯爵。
381 :
日本@名無史さん:02/10/04 11:09
>>378 >津藩主・藤堂高郎(たかほら)
間違い。
藤堂高朗(たかゆき)
382 :
日本@名無史さん:02/10/04 11:17
383 :
日本@名無史さん :02/10/04 13:45
>>380 間違いの指摘、ありがとね。分家より下だと、ますます、情けねーな
384 :
日本@名無史さん:02/10/04 18:48
>381
高朗は「たかあき」だろう。
息子の「朗徹」は「あきゆき」だから。
385 :
日本@名無史さん:02/10/04 20:07
美作勝山藩の「三浦家」も鎌倉以来の名門?
386 :
伊達遠江守家中:02/10/05 03:48
>>383 越前松平家モナー
本家美作津山10万石→子爵
分家越前福井32万石→侯爵
分家出雲松江18万6000石→伯爵
分家上野前橋17万石→伯爵
分家播磨明石8万石→子爵
各分家のまた分家たち→子爵
あ、そうそう。
宇和島系伊達家は自分の方が本家だと思ってるから、明治時代の爵位は宇和島寄りの
視点で見れば問題ないかも。(藁
それから、仙台系伊達家が伯爵なのは戊辰役後の伊達家が28万石(ただし、表高62万
石ではなく実高98万石に対して)に減らされた時の表高18万石に対する草高で爵位を決
められてしまったからだったりする。
18万石なら先に挙げた松江・前橋の松平家や米沢上杉家とほぼ同じくらいでしょ?
387 :
日本@名無史さん:02/10/06 11:22
譜代の松平氏には、通字に「康」や「忠」を使う家が多い。
また、信州松本の松平(戸田)氏は「光」の字を使っている。
これらは、家康〜家光からの一時拝領と考えてよいのだろうか?
388 :
日本@名無史さん:02/10/06 11:30
↑「一時」は「一字」のまちがい。
389 :
日本@名無史さん:02/10/06 13:45
>>387 家康の家臣だった者の「康」の字は一字拝領かと思ってたが、
系図を見ると「康」と「忠」は松平一族に多いので、微妙だな。
この時期は主君の名と重なっても、問題なかったのだろうか?
390 :
日本@名無史さん:02/10/06 14:07
ぐふっ
391 :
日本@名無史さん:02/10/06 15:23
松平一族以外にも江戸初期の譜代大名には「家」「康」「忠」を使ってる家が多い。
全部拝領の字とは思えないので、既得権みたいなものだったのかな。
392 :
日本@名無史さん:02/10/06 22:53
>>385 美作勝山の三浦氏
(1)戦国期に滅亡した「前」三浦氏
(2)家光の小姓からとりたてられた「後」三浦氏
2つあるらしい・・・・
前田家と浅野家は親戚ですか?
394 :
日本@名無史さん:02/10/06 23:18
>>386 伊達家の件、いろいろとありがとさんです。確かに宇和島伊達家は政宗の長男が継いでるから「本家」だという意識は強いのかもしれないっすね。
396 :
日本@名無史さん:02/10/06 23:23
松平加賀守慶寧
最後の加賀藩主
397 :
日本@名無史さん:02/10/07 02:26
398 :
【 ´,_ゝ`】ショッカー ◆PHpTNOBY9E :02/10/07 13:45
小倉藩主の小笠原忠真や鶴岡藩主の酒井忠勝などは秀忠から一字拝領してますね。
399 :
日本@名無史さん:02/10/07 16:18
長岡の牧野忠成もそう。
大岡氏は松平広忠から貰ってる。
>>386 最初は仙台・宇和島両家とも伯爵。後に宇和島家がショウ爵して侯爵になった。
>>394 宇和島家は徳川の取立て大名だから継ぐってのはちょっとおかしいかも。
揚げ足取りっぽくてすまそ。
401 :
日本@名無史さん :02/10/08 00:00
登城日じゃない日は何してたんですか?
国許からの書類の決裁?
江戸でつくった妾とちちくりあってます
403 :
日本@名無史さん:02/10/12 23:26
三田村鳶魚の本に旧広島藩主の浅野長勲の話が載ってるね。飯を食うにも、うまいのまずいのも言えず、風呂も熱いのぬるいのもはっきり言えず、なかなか窮屈な暮らしだと書いてあったけど、他の殿さんも同じようなもんかな。
404 :
日本@名無史さん :02/10/13 00:21
>>403 担当(?)の家臣が責任を取らされるから でしたっけ?
・・・って何日前の書き込みだ(w
405 :
日本@名無史さん:02/10/13 01:01
>>403 妾と寝る時も隣の部屋に老女がいて
翌朝妾に前夜の様子を問い質すとかワロタ
武士の官位は定員外だから決定権は老中が持ってた
ってわけで賄賂を贈りまくった大名もいたらしい
4位と5位だったかな、将軍の前で屋外で傘を差せるか差せないか
雨に濡れるさまを恨みの歌に詠んで贈った大名もいたそうだよ
406 :
日本@名無史さん:02/10/13 21:35
雨の話で思い出したけど、江戸府内で御三家の行列に出会くわした時は、どしゃぶりの雨でも駕篭から降りて挨拶しに行かなくちゃいけないから、こそこそと横丁に自分の行列をかくしてやり過ごしたとか。大名の生活も大変だな。
407 :
日本@名無史さん:02/10/14 09:17
水野忠邦は老中になりたいために、唐津から浜松に移って老中になったという話があるけれど、「この藩に来れば、絶対老中になれる!」っていう場所は他にどこがあるんだろう。たぶん江戸との距離が関係してくると思うけど、知ってる人いる?
408 :
日本@名無史さん:02/10/14 09:37
老中就任者が多くて、比較的転封が多い土地といえば川越、岩槻、忍などか?
409 :
伊達遠江守家中:02/10/15 16:59
>>407 唐津は、「長崎警備に加わらねばならないから」という理由で老中になれないのだそうな。
>408が挙げている以外では、掛川、古河、佐倉、館林、宇都宮、高崎、浜田なども老中を
出しているが、中には転封が少ないところもあります。
小倉は、幕末に家督前の小笠原長行が老中になっているけど、本来はあまり老中を出さ
ない場所のようです。
410 :
日本@名無史さん:02/10/15 18:53
>>409 幕末の老中小笠原長行は唐津藩世子ですよ。
本家の小倉藩からは一度も幕閣は出ていません(支藩の小倉新田藩からはあり)。
ただ文化年間、小笠原忠固が溜詰に昇格しようとして失敗したことはあります。
411 :
日本@名無史さん:02/10/15 19:40
>410
長行は老中「格」じゃなかったっけ?
412 :
日本@名無史さん:02/10/15 19:43
>>411 はじめは老中「格」、その後正式の老中になっています。
最終的には老中兼外国事務総裁です。
413 :
日本@名無史さん:02/10/15 22:41
414 :
伊達遠江守家中:02/10/16 02:03
>>410 あ、唐津だったのか。すると、水野の後が小笠原だっけか?
そんな中世子の身分で慣例を破って老中に迎えられたと言うのは、よほど能力が期待され
ていたかよほど当時の譜代大名は人材不足だったのだろうか。
小倉は(自称)九州探題なので老中を出せない、という説があるようだけど本当かね?
415 :
日本@名無史さん:02/10/16 18:13
>>414 たしか外様の鍋島家も、長崎防衛の任があるために、方角(火消し)や幕府の土木関連の工事、勅使の饗応役といった「カネのかかるお役目」はいくらか免除されてたような話を聞いたことがあるな。
416 :
日本@名無史さん:02/10/16 20:23
っていうか、鍋島や佐竹とかって江戸・幕末を通じて、
存在感ないな〜。
417 :
日本@名無史さん:02/10/16 20:29
>416
佐竹曙山を知らぬのか?
418 :
日本@名無史さん:02/10/16 21:16
鍋島は幕末期せっせと軍備増強。維新の頃には日本最強になってた。
戊辰戦争も佐賀藩のアームストロング砲がなければどちらが勝ったかわからん。
明治の藩閥政権で薩長土に肥が加わったのもじっと黙って軍備拡張した賜物。
先に朝廷側についたり数多くの兵隊出したりした広島尾張越前はトンビに油揚。
419 :
日本@名無史さん:02/10/16 22:40
>>417 秋田蘭画のパトロンとも言える存在ね。高橋克彦の説によると、実は彼やその後継者、親族(阿波藩)などが蔦屋重三郎を庇護し、写楽を生み出したと言ってるね。
>>418 司馬遼太郎に言わせると「日本最強」ではなく、「東洋最強」ということになってるね(揚げ足取りでスマソ)。でも幕末の肥前鍋島の追い上げ方は見事。
あと可哀想なのは水戸藩。ここも幕末は「親朝廷派」的だったけど、内ゲバで人材がいなくなって、新政府に人材を輩出できなかったもんな。
420 :
日本@名無史さん:02/10/16 22:45
421 :
日本@名無史さん:02/10/16 22:46
>>419 維新戦争の最中も内ゲバしてたとか・・・。
422 :
日本@名無史さん:02/10/16 23:16
佐竹曙山は風流大名として知られていたけど、そのお陰で、秋田藩はすさまじい貧乏藩に落ちぶれたとか。同じように趣味人で藩の財政を大赤字にさせた殿さんに、松江の松平治郷(不昧)がいるね。島津も重豪のおかげで大貧乏藩になってしまったね。
423 :
日本@名無史さん:02/10/16 23:22
>422
松平不昧の父・松平宗衍も相当の変わり者だったらしい。
424 :
日本@名無史さん:02/10/17 00:26
>しかし仙台伊達家が実高98.5万石で、近江にまで飛び地で領地を持っていたのは
初めて知った。そんな家柄が戊辰戦争でバカやって、分家の宇和島と爵位は同じだもんな。
情けねー。それに仙台人の「時代を見る目のなさ」は今も相変わらずだしな。
霞ヶ浦の傍にも領地を持っていたよ。当時の輸送の中心は水運だから、それを考慮して。
近江は京都に近いから押さえておいたのだろう。
戊辰戦争で賊軍になったのは、時代を見る目のなさもあったろうけど会津への義理と、輪王宮が逃げてきちゃったからね。
宮町の仙岳寺(東照宮の傍)に滞在していたよ。
425 :
日本@名無史さん:02/10/17 01:00
でもさー、今日になってみると
幕末のころ時代を見る目があろうがなかろうが
関係ないな。
426 :
日本@名無史さん:02/10/17 01:07
爵位が同じどころかすぐ逆転されたよ。
宇和島は維新の功績で侯爵に上がったから。
427 :
日本@名無史さん:02/10/17 03:27
>>425 て、いうかさ。もし政宗みたいな目先の利く人物が戊辰戦争の頃にいたとしたら、関ヶ原の時のように、幕府と朝廷の間をうまく立ち回っていたような気がするんだけどね。
薩摩や長州のように、京都や江戸での情報収集やそれに基づいた外交戦略を積極的に行わなかった結果、そうなっちゃったという気がするんだけどね。もっとも江戸300年の流れの中で、
「戦国時代のように、君主が勝手にあれこれできない」という政治機構ができあがってしまっては、政宗のような人物がいたとしても、どうしようもなかったかもしれないけど。
428 :
日本@名無史さん:02/10/18 09:02
>>427 上杉鷹山も藩の改革をしようとして、家老団から「主君押し込め」にされようとしたとか。。
429 :
日本@名無史さん:02/10/18 11:23
>424
近江の領地は京大坂の賄分だと思う。
430 :
日本@名無史さん:02/10/18 11:44
431 :
?u´?{???1/4?3?j?3?n:02/10/20 21:21
>>423 侍女で肌がきれいな女だと、花の彫り物をして、それを酒の肴にしげしげと悦にいっていたとか…。
432 :
日本@名無史さん:02/10/30 22:35
筑前黒田家の官名は代々「筑前守」かと思っていたが、実際はそうでもない。
中期の当主までは「筑前守」が多いのだが、後期以降の当主の名はばらばらで、
備前守→美濃守→下野守といった具合である。
加賀前田家の嫡子が「松平筑前守」なので、名乗れなかったのだろうか?
433 :
日本@名無史さん:02/10/30 22:49
国持大名の場合、わりと領国の名と受領名が一致していることが多いが、
中にはそのあたりに無頓着というか規則性のない家もある。
備前池田家など、歴代の官名がばらばらの上、「備前守」が全くいない。
まぁ、受領名にもランクがある訳で・・・。
435 :
日本@名無史さん:02/10/31 10:41
436 :
日本@名無史さん:02/10/31 13:15
池田家は途中で入れ替わったときに、家臣も含めて入れ替わったのだろうか?
藩主だけ入れ替わったのだろうか?
437 :
日本@名無史さん:02/10/31 13:39
>436
ネタだよね?
438 :
日本@名無史さん:02/10/31 13:42
武士層と農民層の引き離しも国替えの狙いの一つだから、
武士相互と国替えだろう。
町人もついてきていいという話も聞くことはあるが。
439 :
日本@名無史さん:02/11/01 01:10
話は変わりますが、大名の中でいちばん貧乏したのは、どこなんですか。
薩摩は島津重豪という殿さんのお陰で、とんでもない借金を背負い込んだという話を聞いたことがあるのですが。
440 :
日本@名無史さん:02/11/01 20:50
441 :
日本@名無史さん:02/11/08 20:57
維新後、外様大名は将軍の偏諱を捨てて藩祖の一字を用いたが、
なぜか肥後細川家は京兆家の「元」の字も藤孝、忠興の一字も用いず、
幕末の藩主斉護の一字を通字として使用している。
442 :
日本@名無史さん:02/11/08 22:15
443 :
日本@名無史さん:02/11/08 22:21
ならば、藤孝の「孝」や忠興の「興」の方がよかったのでは?
444 :
日本@名無史さん:02/11/08 22:35
ガラっ八でどうでっしゃろ。
445 :
日本@名無史さん:02/11/09 17:55
結局、細川京兆家はどうなったんですか?
446 :
日本@名無史さん:02/11/09 22:46
藤孝は和泉半国守護家の出ですが、子の忠興は同族の輝経の養子になってます。
今の細川旧侯爵家は、どの系統の継承者ということになってるんでしょう。
京兆家ってことはないですよね。
忠興、興元、興秋と興の字がついてるけど、これって細川の通字?
>>446 系譜上は、初代義季から六代・頼長に連なってるみたいだから
多分、和泉半国守護家の上守護家になるものと思われ。
>>447 分家筋の谷田部の方(幽斎二男系)で継承されてるみたい。
449 :
日本@名無史さん:02/11/10 11:53
室町幕府滅亡で長岡姓に改姓したり、秀吉から羽柴姓を拝領したりして、
忠興が細川輝経の家を継いだことはウヤムヤにされたのだろうか?
450 :
日本@名無史さん:02/11/11 12:34
>>445 京兆家の子孫は三春秋田家に代々仕えました。
451 :
日本@名無史さん:02/11/11 14:46
そもそも忠興が輝経の養子になったというのは事実なの?
その割に輝経への仕打ちは冷たいと思うけど。
452 :
日本@名無史さん:02/11/11 21:56
>>451 養嗣っていうか名跡継承だろ??
細川の宗家を継ぐということ
453 :
日本@名無史さん:02/11/11 22:11
忠隆の子孫はどうなったの
454 :
日本@名無史さん:02/11/11 22:19
隆元と隆一郎でしょ。
455 :
日本@名無史さん:02/11/12 10:54
456 :
日本@名無史さん:02/11/13 18:16
穴山梅雪の重臣だった、有泉氏は、穴山氏廃絶の後、
その名跡を継いだ武田信吉に仕えました。
その信吉の死後、穴山家臣衆は水戸家に仕えたんでしょうか?
457 :
日本@名無史さん:02/11/13 18:29
跡部家は水戸徳川家に仕えた。
すなわち水戸天狗党の首領・武田耕雲斎。
458 :
日本@名無史さん:02/11/17 11:58
廃絶後、幕臣になった大名家は多いが、他の大名の家臣になった家は多いの?
459 :
日本@名無史さん:02/11/23 11:37
あげ
460 :
日本@名無史さん:02/11/27 19:46
改易になった大名で切腹した人は意外と少ない、
461 :
日本@名無史さん:02/11/28 11:27
>460
改易=死罪
じゃないよ。
462 :
日本@名無史さん:02/11/29 12:57
切腹じゃなく斬首された大名はいたねぇ。
463 :
日本@名無史さん:02/11/29 13:08
dare?
464 :
日本@名無史さん:02/11/29 13:13
hora amakusa no ran no atonisa
tashika Shigemasa Matsukura??
465 :
ウルトラマンコスモス:02/11/29 13:13
表面的な大人しさ(偽善)に騙されるな!
A型の特徴
●とにかく気が小さい(二言目には「世間」)
●ストレスを溜め込んでは、キレて関係ない人間を巻き添えにして暴れまくる(小心者のくせに短気)
●自尊心が異常に強く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようとする(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず、実際にはたいてい、内面的・実質的に負けている)
●他人の忠告を受け入れない、反省できない、学習能力がない(自分の筋を無理にでも通そうとするため)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者に対してはへりくだり、弱いものに対してはいじめる)
●あら探しだけは名人級(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため、性格がうっとうしい(根暗)●一人では何もできない、女は連れションが大好き(群れでしか行動できないヘタレ)
●多数派(注・日本では)であることをいいことに、少数派を馬鹿にする、排斥する
●異質、異文化を排斥する(差別主義者)
●集団いじめのパイオニア&天才
●悪口、陰口が大好き(性格極悪)
●他人からどう見られているか、体裁をいつも気にしている(「世間体命」)
●DV夫が多い(特にB型やAB型の女に対して、世間体を気にするあまり)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度も言う、知障)
●頑固で融通(応用)が利かず、表面上意気投合しているようで、腹の中は各自バラバラ(しかも考えていることは驚くほど幼稚)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自分は常に自己抑制しているもんだから、自由に見える人間に嫉妬し、徒党を組んで猛烈に足を引っ張ろうとする(ねたみが人一倍強い)
●おまけに執念深くしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(冷酷)
●要するに女々しい、あるいは女の腐ったみたいなやつが多い
466 :
日本@名無史さん:02/11/29 14:15
コピペ(・A・)イクナイ!!
467 :
日本@名無史さん:02/12/07 22:42
下がりすぎ
468 :
日本@名無史さん:02/12/16 06:11
ここはかなりの良スレだと思うのだが・・・
下がってるのが残念だ
∴揚げ
469 :
日本@名無史さん:02/12/23 18:32
>>418-419 司馬遼太郎の鍋島直正の評価がわかる本が読みたいのですが。
出典を教えていただけませんか?
470 :
日本@名無史さん:02/12/23 18:35
久米邦武の「鍋島直正公伝」が定番では?
471 :
日本@名無史さん:02/12/23 19:49
472 :
日本@名無史さん:02/12/23 20:19
>460
島原の乱の責任をとらされて斬首された島原藩主・松倉勝家。
473 :
日本@名無史さん:02/12/27 07:47
有馬晴信って斬首じゃなかった?
474 :
日本@名無史さん:02/12/27 10:29
有馬晴信は岡本大八事件に巻き込まれて斬首。
はじめは切腹だったんだけど、切支丹は自殺は出来ないってことで斬首となった。
475 :
日本@名無史さん:02/12/28 21:59
岡山藩最後の藩主・池田章政は相良家の出身だけど、相良家って池田家から
養子に入ってるから、一応血は繋がってるのか。
もっとも章政以降はしらんけど。
476 :
日本@名無史さん:02/12/28 22:07
池田宗政→相良長寛→頼徳→頼之→池田章政
477 :
日本@名無史さん:02/12/29 14:35
ちなみに池田茂政(章政の養父・水戸斉昭の息子)の実子は分家して男爵となった。
478 :
日本@名無史さん:03/01/01 20:42
国主クラスの大名で藩祖の血統が廃藩まで続いた家はどこがある?
479 :
日本@名無史さん:03/01/01 20:44
島津家
毛利家
伊達家
山内家
浅野家
細川家
480 :
日本@名無史さん:03/01/01 21:25
481 :
日本@名無史さん:03/01/01 21:31
佐竹家も池田家とよく似たパターン。
佐竹家最後の藩主義尭は相馬家からの養子だけど、相馬家は何代かの前の藩主が
佐竹から養子を迎えてるので、一応血は繋がってる。
482 :
日本@名無史さん:03/01/01 23:40
どうして大和高取藩植村家の通字は将軍家と同じ「家」なの?
無礼千万だとおもうんですけど・・・
483 :
日本@名無史さん:03/01/01 23:42
先祖の植村某は、一応清康殺害犯人と広忠殺害犯人の両方を斬っているからね。
家康の父と祖父のをとっているわけだ。
484 :
日本@名無史さん:03/01/02 00:04
なるほど
485 :
日本@名無史さん:03/01/02 02:47
>483
あやしいね。陰謀のにおいがするね。
両方の事件は何年経っているんだろう。
486 :
日本@名無史さん:03/01/02 06:52
黒田家は完全に血が絶えてます
487 :
日本@名無史さん:03/01/02 10:03
アキヅキも絶えてるの?
488 :
日本@名無史さん:03/01/02 19:56
秋月黒田家も江戸中期に本藩重臣の野村家から養子が入っている。
489 :
日本@名無史さん:03/01/02 20:00
でも女系ではつながってるでしょう。
490 :
日本@名無史さん:03/01/02 20:24
黒田は女系でもつながってない。
491 :
日本@名無史さん:03/01/02 22:36
中川久清はチワワに似てる。
肖像画が。
492 :
日本@名無史さん:03/01/03 00:42
国持では、蜂須賀家も血筋は絶えている。
493 :
日本@名無史さん:03/01/03 00:42
494 :
日本@名無史さん:03/01/03 00:47
<<492 明治までは蜂須賀家は続いていたと思いますが、
どこで絶えたのですか。大正、昭和については知らない
ので教えて。
495 :
日本@名無史さん:03/01/03 00:49
>494
絶えたのは家じゃなくて、血の繋がりです。
496 :
日本@名無史さん:03/01/03 00:49
>494
江戸時代に絶えています。
重喜以降は他家からの養子です。
将軍家からも入っていますし。
497 :
日本@名無史さん:03/01/03 00:51
黒田家では家老の黒田某が明治に男爵になってるけど、あれは黒田の一族じゃないの?
山内は藩祖の血統は続いていない。
一豊の弟康豊の血統。
499 :
日本@名無史さん:03/01/03 02:21
黒田アーサーは?
500 :
日本@名無史さん:03/01/03 02:36
本名、田中光正。
501 :
日本@名無史さん:03/01/03 03:46
じゃあ一度も養子がはいらなかった
もしくは藩祖の血が繋がっている大名は?
503 :
日本@名無史さん:03/01/03 09:49
柳澤家って従四位下侍従にまでなれたのか。
知らんかった。
505 :
日本@名無史さん:03/01/03 13:10
>504
柳沢家は15万石の城持大名だからね。
506 :
日本@名無史さん:03/01/03 13:17
>>501 純血主義の典型は加賀前田家と薩摩島津家。
分家からの相続も含めたら、大抵の外様大藩は実系でつながってます。
血統が赤の他人になったのは、黒田と蜂須賀くらいでしょう。
因州池田も19世紀に徳川一門の血になってますね。
508 :
日本@名無史さん:03/01/03 14:38
因州池田は分家は両方とも藩祖の血筋なのにね。
江戸末期の養子押し付け政策の犠牲者(?)と思われる。
509 :
日本@名無史さん:03/01/03 14:42
好んで将軍家から養子を貰う家もあった。
例えば津山松平家。
510 :
日本@名無史さん:03/01/03 14:55
鷹司松平家なんて藩祖系と紀州系が両立しちゃったよね。
511 :
日本@名無史さん:03/01/03 16:50
将軍家から養子を貰えば、将軍家と縁続きということになり、家格もあがる。
津山松平家は、将軍家から養子を貰って石高が10万石となった。
512 :
日本@名無史さん:03/01/03 19:14
吉井松平は明治になってなぜ吉井と改姓したのか?
本来ならば鷹司と改姓するべき。
じつは駿河大納言の系統なので鷹司とは改姓できなかった。
513 :
日本@名無史さん:03/01/04 01:19
>>512 明治の時点では、本当の先祖が忠長かどうかなんて現在と同じく
判断材料が無かったはず。
また、本当に忠長系だったら、家光は江戸に呼ばなかったと思われ。
514 :
日本@名無史さん:03/01/04 02:28
515 :
日本@名無史さん:03/01/04 02:35
尾張徳川家も系図を見てみると、血が絶えている。
516 :
日本@名無史さん:03/01/04 06:21
良スレにつき「まんこ」
517 :
日本@名無史さん:03/01/04 10:27
518 :
日本@名無史さん:03/01/04 14:53
519 :
日本@名無史さん:03/01/05 18:18
やっぱり初代将軍・徳川家康には誰にもかなわない。
520 :
日本@名無史さん:03/01/06 10:37
江戸三百藩の中で、一番石高の少ない城持大名って知ってる?
521 :
日本@名無史さん:03/01/06 12:46
>>520 苗木藩主の遠山氏。1万石(端数は忘れた)。
陪臣では、紀州藩家老で伊勢国田丸城主の久野氏1万石。
522 :
日本@名無史さん:03/01/06 13:50
苗木遠山氏は10,021石。
鎌倉時代に地頭に補されて以来の名門だからだろうが、
1万石格で城持ちを許されたのは例外中の例外。
分家の明智遠山氏の分家から遠山金四郎が出ている。
523 :
日本@名無史さん:03/01/06 16:03
大沢基寿 一万とび一石(偽り)
もう大沢はそっとしておいてやろうよ・・・
525 :
日本@名無史さん:03/01/06 21:03
逆に一番石高の大きい陣屋の大名は蓮池藩7万3千石。
でも支藩だから仕方ないね。
526 :
日本@名無史さん:03/01/07 00:00
蓮池は52,600石だよ。
小城が73,200石。
どっちも佐賀の支藩だけどね。
でも支藩だから陣屋ってことにはならないのでは。
尾張藩の成瀬(犬山)とか、家老でも城持ちだし。
あと、福江も12,500石で城だね。
527 :
日本@名無史さん:03/01/07 02:28
久野や成瀬は城持ちではなく城代を世襲したんだろ
528 :
日本@名無史さん:03/01/07 11:13
成瀬は城代というより城主。
529 :
日本@名無史さん:03/01/07 12:21
久野も城主。
世襲城代は鳥取藩米子城代荒尾氏や徳島藩洲本城代稲田氏など。。。
530 :
日本@名無史さん:03/01/07 18:32
秋田藩の支城の横手城と大館城は世襲城代だよね。
城代は御殿の上座に座ったのだろうか?やはり遠慮したのだろうか?
531 :
日本@名無史さん:03/01/08 11:29
質問。
時代劇では将軍を上様って言って、大名の家臣は大名を殿様って言ってますよね。
あれって本当ですか?大名の家臣は将軍を何て言ってたんですか?
532 :
日本@名無史さん:03/01/08 12:36
公方・公儀
533 :
日本@名無史さん:03/01/10 02:33
和歌山県の県名が旧藩名なのはなぜ?
幕末期、紀州和歌山藩は佐幕派の立場を取っていたので、和歌山県とはならないはずだけど、
同じ御三家でも尾張名古屋藩は勤王派に近い立場を取っていたが、名古屋県とはなっていない。
何で?
534 :
日本@名無史さん:03/01/10 10:39
>533
県名と佐幕かどうか関係無い。
というか一般質問スレに言ってくれ。
基本的に知識が多数不足していると思われます。
文章に突込みどころ満載です。
(^^)
536 :
日本@名無史さん :03/01/11 23:33
万石以上の陪臣とそれと同じくらいの独立大名ではどちらが裕福だったのですか?
537 :
日本@名無史さん:03/01/12 00:04
又者と御大名を一緒にするな!
538 :
日本@名無史さん:03/01/12 18:43
>>536 ケースバイケースでしょ。陪臣・大名に限らず、
同じ石高の大名同士でもいろいろあるし。
陪臣では、紀州付家老の水野氏(新宮藩)が木材産地なので裕福とか。
また、肥前藩の諫早氏は表高2万数千石だが、実高はもっと多かったらしい。
もう一つ裕福な陪臣家がどこかにあったそうだけど、あいにく知らない。
加賀藩の長ではないかとおもうけど。
(^^)
540 :
日本@名無史さん:03/01/16 21:24
541 :
日本@名無史さん:03/01/19 15:09
あげ
542 :
戦略家脂肪@最近、体重増えまくり・・・:03/01/19 16:40
直弼は、日米修好通商条約が締結された翌日、違勅条約締結の責任を捉えて、老中堀田
正睦(備中守・下総佐倉藩主)を、また朝廷軽視の責めにより同松平忠固(伊賀守・信濃
上田藩主)の登城を差しとめ、ついで一片の命令書を以って罷免し、かわって、隠居し
ていた元老中太田入道道醇(資始。備後守・前遠江掛川藩主)、元老中松平乗全(和泉守
・三河西尾藩主)、元老中間部詮勝(下総守・越前鯖江藩)を再任した。
三名はいずれも老中経験者であったことから、留任の老中久世広周(大和守・下総関宿
藩主)、内藤信親(紀伊守・越後村上藩主)、脇坂安宅(淡路守・播磨竜野藩主)の上席と
され、太田が海防掛、松平が勝手掛、間部が朝廷対策を担当することになったのであ
る。一方、大廊下下之御部屋席の松平慶永(越前守・越前福井藩主)、松平(池田)慶徳
(相模守・因州鳥取藩主)、松平(蜂須賀)斉裕(阿波守・阿波徳島藩主)、松平(結城)慶
憲(兵部大輔・播磨明石藩主)、松平(結城)慶倫(三河守・美作津山藩主)は談合し、
一橋家当主一橋慶喜を将軍に推挙すべく、慶永が登城すべきことを決定し、慶永は、
前水戸藩主徳川斉昭、尾張藩主徳川慶勝、水戸藩主徳川慶篤とともに登城し、違勅、
ならびに将軍後継について大老・老中らに面詰すべく、決定したのである。
一方、直弼、太田、間部、松平、脇坂らは、御用部屋で談合し、斉昭らの登城に対して
の対抗策を談合し、怒らせる議論は直弼に任せ、収拾は老獪な太田と間部、脇坂が
担当するということで一致したのである。
543 :
日本@名無史さん:03/01/19 17:00
544 :
日本@名無史さん:03/01/30 00:26
545 :
日本@名無史さん:03/02/08 00:18
川田久保松平家って、1万石だけど正式な諸侯だったのかな。
546 :
日本@名無史さん:03/02/08 04:51
さてどうなんでしょう。
2代しか続いていませんが、従四位下ですから
10万石格くらいの厚遇は受けてますね。
でも、所領はなかったんでしょう。
1万石は尾張藩から給された御蔵米のようです。
川田久保屋敷というのも四ッ谷にあったみたいですし。
江戸将軍家の御三卿のような扱いじゃなかったんでしょうか。
本家に居候しながら一家を構えているのを掛り人と言ったようですが
川柳に「人魂のいぢけて飛ぶは掛り人」なんてのがあります。
547 :
日本@名無史さん:03/02/08 12:05
なにを持って「正式な諸侯」というか問題だけど、「徳川諸家家譜」なんか
見ると川田久保家は一応譜代大名と同様の扱いは受けることになったらしい。
でも、546さんが書いてるように、譜代大名にしては従四位下とやたら高い官
位が与えられていたり、どちらかというと御三家部屋済みの扱いだったよう
な気がする。結論として、川田久保家を諸侯と言うにはちょっと無理がある
と思う。
548 :
日本@名無史さん:03/02/09 13:17
もちろんそれだけではないけど、官位もあり、万石以上で、
江戸城で詰める部屋があれば正式な諸侯でいいんでは?
万石なくても喜連川は諸侯に列する。
550 :
日本@名無史さん:03/02/09 23:32
★江戸大名の血筋について
1:養子を一度も迎えたことがない家
大和郡山藩柳沢家
2:兄弟や一族(支藩など)から養子を迎えて男系を繋いだ家
仙台藩伊達家 薩摩藩島津家 長州毛利家
3:他家から養子を迎えたけど、その家の何代か前に同家から
養子を送っているので一応男系で繋がってる家
伊予宇和島伊達家 岡山藩池田家 秋田藩佐竹家
4:女系で繋がってる家
中村藩相馬家 米沢藩上杉家
5:完全に血筋が絶えた家
尾張藩徳川家 福岡藩黒田家 徳島藩蜂須賀家
551 :
日本@名無史さん:03/02/09 23:37
あぱ
552 :
日本@名無史さん:03/02/11 21:27
>>550 5でも尾張徳川→竹腰のように他家で血統が残っている場合があるね。
じゃあ蜂須賀小六や黒田官兵衛の子孫はいないのか
554 :
日本@名無史さん:03/02/14 22:31
555 :
日本@名無史さん:03/02/15 22:21
今日本屋で童謡の意味とか書いてある本よんだんだけどさ、
「あんたがたどこさ」の歌のモデルが人吉藩の御家騒動だってほんと?
藩主が毒殺されたり鉄砲で撃たれたりって・・・
556 :
日本@名無史さん:03/02/16 15:03
557 :
日本@名無史さん:03/02/16 15:35
555で紹介しているHPで、相良頼完は「公卿鷲尾大納言隆熙の子」という
ことだけれど、別の資料で「日向高鍋藩主秋月種美の三男」つまり先代相良晃長
の兄(上杉鷹山の弟)となっています。
公家が武家に養子を出すケースは考えにくいので(鷹司松平は例外)、後者の
方が正しいように見えるのですが、詳しい人おしえてください。
558 :
日本@名無史さん:03/02/16 17:44
8代藩主頼央が射殺され相良家断絶の危機に際し、
高鍋藩秋月家から晃長を迎えて跡目としたのだが、
将軍御目見の前に晃長が死んでしまったため、
急遽鷲尾大納言家から頼完を迎えて相続させた。
その際頼完の方が晃長より年長だったため、
幕府への届は晃長の相続をなかったことにし、
頼完を9代藩主とした。
2代藩主頼寛の妻が鷲尾氏で、
以後8代までその子孫が相良家を継いだという縁がある。
559 :
日本@名無史さん:03/02/16 18:15
相良直美
ウッシッツ
560 :
日本@名無史さん:03/02/16 18:29
>>556 HPなんか論拠にするなよ。また懲りてませんか? 伊達君(w
561 :
日本@名無史さん:03/02/16 23:24
556=560=伊達?
562 :
日本@名無史さん:03/02/19 01:05
江戸時代の老中首座について誰か語ってくれ
老中なら史料があるが、歴代の老中首座についての史料がなくて
いつ誰が老中首座であったかがよくわからん
563 :
日本@名無史さん:03/02/19 14:53
564 :
日本@名無史さん:03/02/19 14:58
老中首座は最古参に限らず石高とかの関係でも決まった
老中が交代しなくても老中首座が交代した例として
安政二年に阿部正弘が老中首座を堀田正睦に譲るという例がある
565 :
日本@名無史さん:03/02/19 15:57
老中首座は他の老中とは勤務時間や輪番など違っていたのでしょうか
566 :
日本@名無史さん:03/02/19 17:21
うろ覚えですが、
老中首座とは基本的に勤続が一番長い老中が自動的になります。
老中の取りまとめ程度の意味で、とくに役職というわけではなかったと思います。
567 :
日本@名無史さん:03/02/27 18:36
蓮池薫さんって上杉勝道(米沢新田藩最後の藩主)に似てるよね。
568 :
日本@名無史さん:03/03/08 09:18
なんで老中首座一覧表ってないの?
研究者は、ある時期の老中首座をどうやって特定してるの?
569 :
日本@名無史さん:03/03/08 10:22
>1:養子を一度も迎えたことがない家
>大和郡山藩柳沢家
精力だけは絶倫なんですな。
田沼意次って加増のときにどうやって家臣を新規採用したのかな。
親藩と違って直参旗本から引き抜くわけにもいかないだろうし。
571 :
日本@名無史さん:03/03/08 14:39
572 :
日本@名無史さん:03/03/09 17:17
今日たまたま行った図書館に江戸明治東京地図集成というのがあったんで
川田久保屋敷の位置を確認してみたら、今の新宿区河田町とはちょっと違って
若松町4〜5番地あたり、東京女子医大病院とその北側の住宅地の辺だった。
大名屋敷と言っても別邸だし、周囲の旗本屋敷よりは大きいという程度。
そこに住んで切米1万石、何の仕事もないんだろうから優雅なもんだけど、
ある意味辛い。門跡寺院に入れられた皇族や摂家の次男のようなもんでしょ。
本家に後継ぎが絶えたときのスペアというか。何事もなければ用なし。
江戸城への登城や将軍への拝謁はできたようだけど、周囲の見る目もどうせ
尾張の厄介者くらいだろうから、あまり居心地はよくなかったかもね。
573 :
日本@名無史さん:03/03/09 17:48
>>572 川田久保家について、気になっていたので情報THANKSです。
>江戸城への登城や将軍への拝謁はできたようだけど
それは確かでしょうか?蔵米支給の別家でも拝謁したとなれば、川田久保家も
一応は諸侯なのですね。
仕事は本藩の代理ぐらいはあったのではないでしょうか?少なくとも幕末の
諸支藩はそういう役割をしていますよね。
574 :
日本@名無史さん:03/03/09 22:21
572だけど、確証はありません。
従四位なら拝謁くらいできたんじゃないのって意味です。
575 :
日本史名無し:03/03/09 22:42
≫568
老中首座一覧表はあります。…美和信夫『江戸幕府職制の基礎的研究』348ページ
576 :
日本@名無史さん:03/03/09 22:42
すごいね。
577 :
日本@名無史さん:03/03/11 01:08
>>575 新人物往来社の「日本史総覧」にも、そういう一覧表がほしいね。
578 :
日本@名無史さん:03/03/15 18:31
あげ
579 :
日本@名無史さん:03/03/18 07:06
>>567 へぇ・・・そんな藩があったんだ。肖像画を見てみたい。
と書きつつ保守age
580 :
日本@名無史さん:03/03/30 22:25
保守age
581 :
日本@名無史さん:03/04/02 17:57
将軍に名前を剥奪された大名親子
毛利慶親→敬親
毛利定広→元徳
582 :
日本@名無史さん:03/04/02 18:07
日本は明治維新ですべての藩が版籍奉還したのだが、どっか山の中の藩が
「うちは日本国には参加しましぇん」とカバチたれて、何らかの事情で
それが通ってしまってたら、リヒテンやモナコみたいな「極小国」が
出来たんだろうな。
下手打ってたら、欧米にとっての侵略の口実となりかねんが、
うまいこと近代日本と共存共栄していたら、それはそれで
面白いことになったかも。
583 :
日本@名無史さん:03/04/02 19:42
>>583 に同意
統一戦争を挑まれて 武力併合されるだけじゃん
585 :
日本@名無史さん:03/04/14 13:51
だれか池田綱政の70人の子供(養子も含む)
を全員知ってたらおせーてくらさい。
586 :
日本@名無史さん:03/04/14 14:54
綱政は千姫の孫
587 :
日本@名無史さん:03/04/14 16:00
>>582 サルディーニャ王がイタリアを統一したときのように
京都に島津久光を国王とする日本王国が出来て
御所が京都市国として独立してたら・・・
(^^)
589 :
日本@名無史さん:03/04/18 03:04
>585
ごめん、一人もあったことがない。
591 :
日本@名無史さん:03/04/19 14:48
>>573 徳川諸家家譜が近所の図書館にあったから見たけど
川田久保家の当主は将軍御目見の時に松平姓を賜る
間もなく従五位下但馬守に叙任、従四位下まで昇任
これだと譜代大名のようだが
徳川三百諸藩大名辞典には川田久保家は出てこない
たとえ新田藩主の江戸定府で知行は親藩が代行する部屋住み同然の身でも
形式だけでも知行地(所領)があれば大名と見なされる
やはり知行地がないのは致命的で尾張の厄介者
尾張藩8代藩主を出してるからスペアの役割だろう
なお、屋敷は河田ヶ窪とも呼んだようで広さ7,700坪
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
593 :
日本@名無史さん:03/04/30 23:15
594 :
日本@名無史さん:03/05/12 00:45
幕末の所謂「四賢候」についてなんですが
本などを見ていたら、まちまちなので詳しい方教えて下さい。
松平慶永、島津斉彬、山内豊信、伊達宗城、鍋島閑叟
(島津久光が入っている場合も)
実際にその当時四賢候と呼ばれたのは誰と誰なんでしょうか?
単に時期によって違ったということなんでしょうか?
(島津斉彬が亡くなったので久光が入ったとか・・・)
あぼーん
あぼーん
598 :
日本@名無史さん:03/05/12 09:41
徳川慶喜、松平慶永、島津斉彬、伊達宗城。あと、徳川斉昭も名君。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
603 :
今泉五郎左衛門:03/05/12 14:54
島津斉彬だろ
604 :
日本@名無史さん:03/05/22 00:21
このあぼーんの嵐は何があったの?
606 :
日本@名無史さん:03/05/22 01:44
>>595 幕末に参与会議のメンバーとなった一橋(徳川)慶喜、松平春嶽、伊達宗城、
山内容堂、島津久光の中から慶喜を除いた4人を四賢公と呼ぶのが一般的
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
608 :
日本@名無史さん:03/05/22 19:29
609 :
日本@名無史さん:03/05/22 22:14
久光って堅公かなぁ?典型的なバカ殿って感じなのだが・・・。
610 :
日本@名無史さん:03/05/22 23:13
島津久光って文久の改革を行った人でしょ?
そこそこ能力はあったんじゃないか?
シバさんは、兄の斉彬が人間なら、弟の久光は泥人形だと書いてた。
>>606 ありがとうございます。という事は島津斉彬、
鍋島閑叟は普通は四賢公には含まないんですね。
>>609 山内容堂も(私的には)あまり賢公ってイメージはしないです。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
613 :
日本@名無史さん:03/05/28 18:54
614 :
日本@名無史さん:03/06/03 00:48
615 :
日本@名無史さん:03/06/03 23:04
歴史に詳しい方が多そうなのでマジレス希望。どなたかこの長年の素朴な疑問にお教えを。
Q どうして越前守が越前国の知事ではなく江戸町奉行をしていたり、肥後守が会津藩知事(勤務先は京都守護職)だったりするのでしょう???
616 :
日本@名無史さん:03/06/03 23:07
平安時代までは、まだ国府があったので、その国の知事だったんだよね。
違う?
その後の事だよね 615さん
617 :
日本@名無史さん:03/06/03 23:07
↑失礼。ちょうどいい質問すれあったからそちらで訊いてみることにしますm( _ _ )m
618 :
日本@名無史さん:03/06/04 16:37
田安家の系統で続いている家って現在もあるの?
そうなの>> 616さん 江戸時代の「〜ノ守」とかいう肩書きが不思議で不思議で。
形骸化するにしてもそこまでするもんかなとか思って。ご存知でしたら教えてください。
621 :
日本@名無史さん:03/06/18 21:08
622 :
日本@名無史さん:03/06/19 01:26
>>615>>620 はじめは任国に赴いていた国司は、そのうち自身は行かずに家臣などに代行させるようになりました。
これを「○任」といいます。
同様に、そのうち官職そのものが形骸化し、身分としてのいわば格のみを意味するようになったものです。
足利幕府でも守護代、又代といったものが出てくるのと同様ですね。
さあ、歴史の教科書を見て、「○任」の中に文字を入れよう。
623 :
ピース ◆V3KZpKd3B. :03/06/19 02:05
何故政宗はトイレに引き篭もってたんだろう、疑問。
気が向いたら明治期の爵位書き込みます。岡崎城の
やつです。おやすみなさい
624 :
日本@名無史さん:03/06/22 04:00
>622
ようにん
626 :
日本@名無史さん:03/07/05 02:51
井伊直孝は幕閣の重鎮であるが俺の持っている辞典(角川日本史辞典)では
大老・老中には入っていなかった。彼の位置付けはどうなるのだろうか。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
628 :
日本@名無史さん:03/07/15 11:58
こりゃえ〜ど
629 :
日本@名無史さん:03/07/18 19:31
630 :
日本@名無史さん:03/07/19 23:12
age
631 :
日本@名無史さん:03/07/26 00:54
632 :
日本@名無史さん:03/07/26 02:00
老中は溜間詰め大名から選任されることが多かったから
家柄・石高とも溜間詰め大名では筆頭格の井伊家当主の意見は
たとえ本人が何の役職に就いていなくても幕閣に影響を持ちえたのでは
633 :
日本@名無史さん:03/07/26 03:19
634 :
日本@名無史さん:03/07/30 23:49
(^^)
636 :
日本@名無史さん:03/08/05 22:04
637 :
日本@名無史さん:03/08/05 22:20
大名家格制については
松尾美恵子 「大名の殿席と家格」(『徳川林政史研究所研究紀要』昭和55年度)を見ればよいと思うが。
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
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iiiiiiiiiiiiiiii|, |iii|
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iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii 》━━━━《 |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ 》 / ̄ ̄\ 《 |iiiiiiii|
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641 :
日本@名無史さん:03/08/10 23:18
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
643 :
日本@名無史さん:03/08/15 23:32
644 :
日本@名無史さん:03/08/21 10:35
645 :
日本@名無史さん:03/08/29 01:06
幕末に大名になった平岡丹波守道弘
について詳しい方はいますか?
大名事典に出てないこともあり
「幻の大名」ともいわれる人物です。
大名になったことは確かなようですが…
647 :
日本@名無史さん:03/08/29 01:38
前どこかのスレで出てたけど。
結局大名になったと証明できなかったと思う。
648 :
日本@名無史さん:03/08/29 01:42
9000石の当主は、やっぱりあと1000石欲しい!
と思ったのでせうか。
649 :
日本@名無史さん:03/09/04 20:46
参勤交代しなくていいんでしょ?
9000石だと。
650 :
日本@名無史さん:03/09/04 21:07
>>646-647 『三百藩藩主人名事典』(新人物往来社)には
安房船形藩1万石平岡家当主として出ています。
651 :
日本@名無史さん:03/09/04 23:41
平岡が大名になったってのは地元のDQN史家が言ってるだけじゃないの?
5千石の旗本に5千石の足高が付いてただけでしょ
交代寄合でもないから単なる徳川家の家臣
維新で徳川家が駿河70万石の大名になったら知行地を立ち退くのは当たり前
独立した諸侯であれば、あるいは交代寄合であれば
維新の際に国替えや減封はあっても取りつぶしはない
自ら自爆した請西1万石林家は別だがw
652 :
日本@名無史さん:03/09/09 12:33
>651
> 自ら自爆した
馬から落ちて落馬した
毒で毒殺された
刀で斬られて斬殺された
653 :
日本@名無史さん:03/09/09 19:15
>>651 維新政府は慶応4年1月、幕領と旗本領の接収を宣言し
慶応4年閏4月21日の政体書の公布とともに府藩県三治制をしいている。
『三百藩藩主人名事典』は同年7月に領地を奉還したとしているが
もし旗本なら、この時点で領地は維新政府に接収されているので、領地を奉還することはできない。
府藩県三治制開始段階では大名であったと見るべきではないだろうか。
654 :
日本@名無史さん:03/09/09 19:31
>>651 側衆から大名になる例はよくあるので(幕末近くなら林氏や本郷氏など)、
平岡道弘が若年寄の任命に際して諸侯に列したとしてもおかしくない。
ただ、当時の幕府は財政難だったので、平岡に新規に与える領地がなく、
足高五千石、領地五千石という立場で立藩したのではないだろうか?
万石未満の大名として5千石の喜連川氏もいるので、ありえないことではない。
655 :
日本@名無史さん:03/09/09 19:35
旗本身分のまま任命された最初の若年寄は永井尚志とされている。
永井より先に若年寄になった平岡がそう言われないのは、
やはり身分上、諸侯の扱いを受けていたからだろう。
656 :
日本@名無史さん:03/09/09 19:39
>>654 平岡が若年寄に就任するのは文久2年8月
このとき5000石の知行に足高5000石となるが
『三百藩藩主人名事典』は
元治元年9月に若年寄として精勤したとして5000石を加えられて1万石の大名となった、としているので
ご指摘のような形ではない。
657 :
日本@名無史さん:03/09/10 12:30
>>656 その『三百藩藩主人名事典』は何を根拠にしているんだろうか?
658 :
日本@名無史さん:03/09/10 12:37
>>655 >旗本身分のまま任命された最初の若年寄は永井尚志とされている。
それは足高の分を貰っていないという意味では?
659 :
日本@名無史さん:03/09/10 16:09
>>657 参考文献としては『続徳川実紀』・『柳営補任』・『千葉県安房郡誌』・『鋸南町史』があげられている。
660 :
日本@名無史さん:03/09/10 19:18
『続徳川実紀』や『柳営補任』が記しているのなら、間違いなかろう。
661 :
日本@名無史さん:03/09/10 19:22
叙爵内規によれば
「一新前諸侯たりし者」は子爵に叙されるはずだが
662 :
日本@名無史さん:03/09/10 19:36
>>660 『続徳川実紀』は元治元年6月朔日から慶応元年5月15日の記事を欠くので
元治元年9月に加増があったかどうかはわからない。。
『柳営補任』は手元にないので確認できない。
>>661 平岡が子爵に叙せられなかったのかどうかは知らないが
もしそうだとしても
領地を奉還するくらいだから
爵位をも受けなかったのかもしれないし
こういうスタンドプレーを快く思わなかった維新政府が
平岡をリストから外したのかもしれない。
664 :
日本@名無史さん:03/09/10 19:56
林忠崇も一新前の諸侯だが、明治元年に除封されて子爵にはなっていない。
男爵になれたのは、旧臣の熱心な運動があったからと聞く。
自発的に領地を奉還した平岡は静岡藩士になったから、華族にはなれなかった。
665 :
日本@名無史さん:03/09/15 12:11
平岡は幕府若年寄から静岡藩中老を経て大参事になっている。
666 :
日本@名無史さん:03/09/15 13:31
平岡が諸侯に列せられた史料はないということだね。
柳営補任だろ?
668 :
日本@名無史さん:03/09/15 14:36
ところで、
1万石以上が大名と言われるようになったのは
いつ頃からですか?
669 :
日本@名無史さん:03/09/15 14:41
江戸時代初期の武家諸法度が出た頃からではないでしょうか?
豊臣政権では、1万石未満でも城をもってたのがいました。
補足します。
兵庫県氷上郡山南町には主郭部が総石垣造りの立派な山城跡
があります。岩尾城。
天守台に付櫓台まで付いています。
その城は桃山時代に佐野栄有という3750石の領主が築いた
らしいです。
五奉行の前田玄以が近くの八上城にいたので、その家臣として
立派な城を持てたのかもしれませんが。
671 :
日本@名無史さん:03/09/15 19:25
戦国初期に各地に割拠していた小豪族などは、
みんな城主みたいなもんでしょ。
実際は砦に毛が生えた程度だったろうけど、
後の官僚的大名に比べれば、一国一城の主としての気概は
はるかに勝っていただろうな。
672 :
日本@名無史さん:03/09/16 01:20
>>669 最初大名というのは10万石くらいが目安だったらしい。
673 :
日本@名無史さん:03/09/16 05:49
大名小名という言葉があるが、
確かに、5〜6万石だと小名という感じがするね。
674 :
日本@名無史さん:03/09/16 06:58
小名って、呼ばれる側は嫌な気分だったろうな。
675 :
日本@名無史さん:03/09/16 16:32
美濃苗木遠山家はまさしく中世豪族の生き残り
1万石だけど城持ちだよ
遠山金四郎を出した幕臣の遠山家はここの分家
676 :
日本@名無史さん:03/09/17 18:53
>>666-667 『柳営補任』巻一若年寄には
同(元治元:引用者注)年九月廿八日常々出精相勤候ニ付一萬石高ニ御加増被成下
とある。
平岡は元治元年九月に大名となったということで確定。
677 :
日本@名無史さん:03/09/18 01:56
へえぇ
678 :
日本@名無史さん:03/09/21 17:40
武蔵国諸藩
川越 松平(松井) 8.0
岩槻 大岡 2.3
忍 松平(奥平) 10.0
岡部 安部 2.0
六浦(金沢) 米倉 1.2
679 :
日本@名無史さん:03/09/21 17:51
上野国諸藩
前橋 松平(越前) 17.0
高崎 松平(長沢・大河内) 8.2
館林 秋元 6.0
沼田 土岐 3.5
安中 板倉 3.0
伊勢崎 酒井 2.0
小幡 松平(奥平) 2.0
吉井 松平(鷹司) 1.0
七日市 前田 1.0
下田島 岩松(新田) 0.012
680 :
日本@名無史さん:03/09/21 18:42
681 :
日本@名無史さん:03/09/21 20:26
680のような野暮な人がいるスレはここでつか
学問というのはある意味野暮なものです
683 :
日本@名無史さん:03/09/21 20:34
684 :
日本@名無史さん:03/09/22 00:06
680は小普請組
685 :
日本@名無史さん:03/09/26 10:45
686 :
日本@名無史さん:03/09/27 11:43
イ`。
687 :
日本@名無史さん:03/10/06 21:51
688 :
日本@名無史さん:03/10/15 20:24
689 :
日本@名無史さん:03/10/21 08:02
なんつーかあれだよな
幕府が成立するまで文字通り命張って
血と汗流して頑張ってきた譜代連中(とその子孫)って報われてないよな
親戚の酒井は別としても井伊なんて蛍大名だし、
本多(平八郎系)とか榊原とか大久保とか鳥居とか……
石高小さいのは方針としてしょうがないけど(ちょっとこれも納得できんが)
要職にもあんまりついてないし、領地は辺境だし、潰された奴もいるし……
>>689 武功型家臣の切り捨て政策の犠牲になったとも言われてるね
他の大名家でも似たような事がよく起こってるし
彼らにとっては時代の変換期に当たったのが不幸と言えるかも
691 :
日本@名無史さん:03/10/21 09:50
>689
でも榊原は姫路15万石を領してたし(後に越後高田に左遷)結構優遇されてた
と思う。
本多家は跡継ぎに恵まれなかった。
692 :
日本@名無史さん:03/10/21 12:22
まぁ建国時の功臣が政情が安定したら潰されるのは
世のならいっつーか……せいぜい煮られない様に気をつけましょうなぁ
693 :
日本@名無史さん:03/10/21 13:11
なにやったかよくわかんない有馬家とかが優遇されてるのを見ると譜代はかわいそうだ
694 :
日本@名無史さん:03/10/21 17:55
鳥居家は忠政の代には22万石。
その子忠恒が没して無嗣断絶になるところを
父祖の旧功によって3万石の大名として存続
その後忠則は家臣の不祥事から閉門を命じられて自害するが
1万石に減封されて存続、最終的には3万石に復する。
本多家は忠勝の代は10万石、その子忠政の代に15万石となる。
忠孝が12歳で没して断絶するところを、5万石の大名として存続を許されている。
大久保家は忠隣の代に本多正信と対立して改易されるが、その後大名に復し
忠朝の代には11万3千石となっている。
大名の石高は10万石のところにひとつのラインがあるが
これらの家はいずれも10万石を超えていたし、
その後の減封は無嗣断絶となるところを存続が認められたという事情によるのであって
決して冷遇されているわけではないと思う。
大久保家なんかは改易前の6万5千石がその後11万3千石になるわけだし。
伊奈やら高力やらはつぶれてしまったね。
696 :
日本@名無史さん:03/10/21 18:30
>>695 高力家はともかく
伊奈家は寛政4年まで関東郡代を世襲します。
これは関東の幕領25万石前後を支配する要職ですよ。
697 :
日本@名無史さん:03/10/21 21:42
>>694 徳川家を日本1200万石の主に持っていったわりには、ってことでしょ。
外様は何十万石も貰ってるのいるし、豊臣時代は大大名がゴロゴロしてたし。
まあ、それをやっちゃうと徳川幕府も早期に崩壊する危険があるわけだがw
698 :
日本@名無史さん:03/10/21 22:18
>>697 豊臣政権下では、外様大名と徳川家は同格だったわけで
このような外様と徳川の本来の家臣である譜代とでは
格の点で差がついて当然だと思うが。
そうか?
>>698 徳川は五大老筆頭。
しかも秀吉と直接対決して少なくとも負けていないことはかなりの箔になる。
外様大名と同格だったわけじゃない。
それに、譜代と外様で外様のほうが格が上とは言えないんじゃあ・・・
幕府の要職に就くことができ、幕政に関与できるのは譜代だし。
701 :
日本@名無史さん:03/10/21 23:22
>>700 五大老という制度ができるのは豊臣政権末期のことです。
大名の家格は、江戸城中での席次、官位などいろいろな要素で決まります。
幕府の要職につくことは、家格決定の上では大きな要素ではありません。
そもそも家格じゃなくてもっと領地をやれよって話だったのでは?
豊臣時代の子飼い武将も2,30万石もらってたし
703 :
日本@名無史さん:03/10/22 00:16
>>702 関ヶ原の戦いで秀忠が遅参したために
家康は豊臣系大名を主力として戦わざるを得ず
したがって戦後の論功行賞でも外様を優遇せざるを得なかった。
その後豊臣系大名を取りつぶしにかかるが
いったん決まった序列はなかなか変えられない。
それゆえ譜代の加増は難しかったのだと思うが。
>>701 特別な外様以外は別に譜代より上ではない。
それに、要職につけば江戸城内詰めの間による家格では上となる。
まあ、外様が上とは言えないと言いたいだけだから別にかまわない。
たしかに豊臣政権は政治機構の整備が遅れ、それが崩壊の一因にもなったが、家康は従一位内大臣で孫が秀頼の妻。
かなりの別格ととらえるのが適当。
705 :
日本@名無史さん:03/10/22 02:30
いろんな経緯で最終的に
外様の大藩
譜代の小藩
になったんだろうけど、一方では
権限のあるものには石高を与えず
石高のあるものには権限を与えない
というのは家康・秀忠・家光あたりの中では意識されていたのでは?
いちばん石高があるやつが権力をふりまわして関が原へ突入したからなw
707 :
日本@名無史さん:03/11/05 23:44
708 :
日本@名無史さん:03/11/18 14:14
本多家(平八郎)って結局改易?四天王つぶれたのってここだけか?
つか、戦国あたりで大物出しといて江戸期であぼーんされた大名家の一覧って
どっかないですか?
知りたい。
709 :
日本@名無史さん:03/11/18 14:28
>>708 刈谷で復活してます
最終的には岡崎。
松平の発祥の地なんで本多はお似合い
710 :
日本@名無史さん:03/11/18 14:32
>>708 何か勘違いしてませんか?
本多忠勝家は
大多喜→桑名→姫路→郡山→福島→姫路→村上→刈谷→古河→浜田→岡崎と転封し
岡崎藩主として明治維新を迎えます。
711 :
日本@名無史さん:03/11/18 14:42
>>709 刈谷で復活、という書き方はどうかと思う。
忠孝は宝永6年9月13日に12歳で没し
嗣子がなかったので、同月21日に一族の忠良が5万石に減封のうえ村上藩を継いでいる。
忠良が刈谷に転封になるのは、翌宝永7年5月のことだ。
712 :
日本@名無史さん:03/11/18 22:33
713 :
日本@名無史さん:03/11/19 14:33
>>24 > 家斉の子供の押し付けは酷かった。
> 1〜2万石で分家というわけには逝かないとはいえね。
詳しく希望
714 :
日本@名無史さん:03/11/19 19:15
>713
一番の被害者は尾張藩。
715 :
日本@名無史さん:03/12/06 12:48
716 :
日本@名無史さん:03/12/13 01:23
井伊氏と永井氏はなんで仲が良いNO?
井がつくから
718 :
日本@名無史さん:03/12/19 18:44
大沢基寿age
すんません、佐竹の美女狩りって本当なんですか?
あぼーん
721 :
日本@名無史さん:04/01/10 16:45
722 :
日本@名無史さん:04/01/11 01:08
安室の可愛いさって、回したくなる可愛さだね。
安室も回されて悦ぶんだろうな。
723 :
日本@名無史さん:04/01/11 01:19
k
724 :
日本@名無史さん:04/01/11 19:32
外様大名→一度減封で石高1万切って旗本に→なんかの功績で加増大名に返り咲き
こういう場合、やっぱり譜代大名になるんでしょうか?
旗本って譜代扱いでしょ?出身問わずに。
725 :
日本@名無史さん:04/01/11 20:33
>>724 譜代です
朽木なんかそうだね
旗本として幕政に功績を立てて加増だから
726 :
日本@名無史さん:04/01/12 01:29
ラッキーだな
727 :
日本@名無史さん:04/01/12 15:59
藤堂家って世渡り上手だよなぁ。
えなり
728 :
日本@名無史さん:04/01/24 02:05
729 :
日本@名無史さん:04/02/06 11:10
730 :
日本@名無史さん:04/02/22 12:37
久々にあげ
731 :
日本@名無史さん:04/03/13 13:18
実質的な石高は万石以下なのに格を与えられて諸侯扱いされてた家って
松前、宗、喜連川、新田だけ?
>86
長矩の庭先切腹は芸州本家からクレームがついて
これをうけた仙台は田村を義絶した時期がある。
733 :
日本@名無史さん:04/03/13 15:30
734 :
日本@名無史さん:04/03/13 16:39
松前は海産物が豊富で万石以上の格、文化年間より正式に3万石
宗は筑前国宗像郡や肥前にも領地を持ってて3万8千石(10万石格)
新田ってのは岩松のことだろうが交代寄合で諸侯扱いはされてない
万石以下の諸侯は喜連川5千石(10万石格)だけ
735 :
日本@名無史さん:04/03/13 16:43
新田(岩松)は徳川に系図売った関係上将軍家のご先祖になるから10万石扱いと聞いたことがあるけど
岩松は新田の南朝への功績、宗は朝鮮との外交の功績、ついでに松浦は天皇家の生母の外戚で有ることが受爵にあたり考慮されている。
737 :
日本@名無史さん:04/03/13 19:26
>>735 >10万石扱いと聞いたことがあるけど
対馬の宗氏は武鑑では10万石格で扱われているが
岩松氏はそういう扱いを受けていない。
その話、どこで聞いたの?
>>736 >受爵にあたり考慮されている。
これは明治になってからのことだろ。
新田は10万石格ではないよ。前述の喜連川と混同しちゃったのでは。
659の記載はミスですた。スマソ
741 :
日本@名無史さん:04/03/22 07:29
幕末以前の會津藩のことを色々しりたいんだけど、
あんまり本とか出てないね。
會津っていったら保科正之か幕末って感じで・・・
742 :
日本@名無史さん:04/03/22 12:40
永井家って誰の時の老中だったけかなー・・・うーん
743 :
日本@名無史さん:04/03/22 18:15
なんとなく大名って大小問わず領地がまとまってあるものだと思ってたけど
結構まだら模様みたいに飛び地しかない大名家ってあったのね。
行政大変だったんじゃないだろうか?人の出入りの管理とかも。
もしニホンが明治期に一つの国にならず大名ごとに独立してても
そういう家は守りにくいからあっさり滅びそうだ。
744 :
日本@名無史さん:04/03/22 18:56
当時の諸侯と交代寄合って、後世の人がイメージするような明確なステータスの
格差って感じていたのかな。参勤交代も老中支配も同じだし。
745 :
日本@名無史さん:04/03/22 21:09
交代寄合という制度自体が「俺も諸侯並だ」という
デモンストレーションの参勤交代に始まったものだからね
武鑑では元禄になるまで表れてこないけど
それまでもしつこく参勤交代してた
要は徳川政権の枠から洩れた地方の小豪族のことだから
交代寄合表御礼衆20家は石高も高く隔年で参勤交代してて
言うなれば大名ならぬ小名だわな
特に最上と山名は屋形号の使用も許されてたし
しかし交代寄合衆14家は石高も低く参勤は5年に1度で
さすがに自分も諸侯並とは思ってなかったろ
幕末に交代寄合衆に加えられた長沢松平に至っては講武所の教授で
ずっと江戸にいたから参勤交代もしてない
旗本ってのは交代寄り合い以外はずっと国許にいるものなの?
みんな江戸に住んでるイメージがあったんだけど。
747 :
日本@名無史さん:04/03/25 00:19
旗本は原則定府だよ。交代寄合は参勤する。
748 :
日本@名無史さん:04/03/28 04:21
いくつか疑問が
1、廊下詰めの大名は本当に廊下に座らされてたんですか?吹きさらしで板敷きの。
部屋じゃないから冬とかつらいと思うのですが・・・いじめ?
2、役料ってのはその職を退いたら没収されるのでしょうか?それとも加増されたまま?
後者だったらそのうち土地がなくなると思うのですが
>>748 >1、廊下詰めの大名は本当に廊下に座らされてたんですか?吹きさらしで板敷きの。
廊下といっても畳敷きだよ。
>2、役料ってのはその職を退いたら没収されるのでしょうか?それとも加増されたまま?
役料はあくまで役料。在職中のみ支給。加増ではないよ。
吉宗が定めた足高も同じこと。加増じゃないよ。
750 :
日本@名無史さん:04/03/28 19:27
でも通り道でしょ?廊下って。
「ちょっとすいませんよ」とかいって通っていく人たち(トイレ行きたい人とか
その先の部屋に用事がある人とか茶坊主とか)がいっぱいいるわけでしょ?
いたたまれないと思うのだが。格式低くても部屋のほうがいいや。
なんか罰を受けてるみたい>「廊下にたってなさい!」みたいな
出典は覚えてませんけど大廊下と言う名称の部屋だったはずです。
なんでそんな変な名前を付けたのかは不明。
役料、足高は原則的には返上です。
ただ特に功績が顕著だったりするとそのまま加増される場合もある、
と概説書とかには書いてありますね。
まあ法令はどう在れ人治主義の時代ですから。
交代寄合でも菊池の傍系なんか無高で、
参勤交代も殿様に付いていくくらいですから、自分でも諸侯並だなんて思うわけないですよね。
確か新田の傍系は120石くらいで鷹の絵を書いて食ってたらしいですし。
それでも家老以下家臣団がいるのが笑えます。
>750、751
大廊下という名称の部屋というより、大廊下の脇にある部屋ですね。
いずれにせよ、大廊下は誰でも彼でも通れるようなところじゃない筈なんで、
「ちょっと通りますよ」はないでしょう。
大体、大廊下詰めは三家とか加州家とかだし。
三家に廊下の脇に座っていられたんじゃ、通る方がたまらんでしょうね。一々平伏しなくちゃ
ならないし。
753 :
日本@名無史さん:04/03/29 00:28
交代寄合が諸侯っぽいのはガイシュツだけど、
譜代の定府大名(西大平藩など)って旗本みたいだ。
754 :
日本@名無史さん:04/04/07 03:23
赤穂藩の浅野家は結構裕福だったそうだがマジですか?
755 :
日本@名無史さん:04/04/07 03:37
>>754 お取り潰しの後、大石が藩札を6割で銀と引き換えてるよね
普通なら紙屑になるところで大石の偉さを強調するエピソードだけど
藩庫に現銀があることや大阪で銀を集めるだけの資力があることが前提だわな
塩の専売による利益がそれだけ大きかったってことでしょ
756 :
日本@名無史さん:04/04/09 19:12
その大廊下ですが上野吉井2万石の鷹司右衛門督信平が将軍家外戚として大廊下
定席格として大廊下と大広間の飛席だった加賀前田、因州池田よりも上座にあったというのは本当ですか。
757 :
日本@名無史さん:04/04/09 19:55
>>756 本当です。
石高は少ないが、家格は高い。
将軍家外戚で、しかも五摂家の鷹司の分家ですから。
758 :
日本@名無史さん:04/04/09 20:01
上野吉井は「松平左衛門督」だろ。
759 :
日本@名無史さん:04/04/09 20:18
>>756 吉井鷹司松平家が大名になるのは
信平の2代後の信清の時代。
信平・信正の時代は7000石。
>>758 吉井鷹司松平家は左兵衛督を称することが多い。
なお信平は承応3年12月に従四位下左近衛権少将となっている。
760 :
日本@名無史さん:04/04/09 21:18
五摂家という家格を重んじたということですな。
しかし、江戸嬢の詰間が、御三家と同じで、連枝や外様大藩よりも上というのはすごい。2万石では
経済的に極貧であったとしても。
吉井鷹司松平家の官位も代々高いの?
762 :
日本@名無史さん:04/04/09 21:50
信清以降は従四位下侍従。
763 :
日本@名無史さん:04/04/09 22:03
となると老中などと同じかな?
764 :
日本@名無史さん:04/04/09 22:05
吉井は1万石だよ
大廊下上段の間に御三家・御三卿と共に詰めた
正月は将軍に諸大名が御礼の挨拶をするが
元日はまず御座の間にて御三卿とその部屋住が御礼(家族の扱い)
次いで白書院で御三家とその部屋住・隠居及び吉井が御礼
吉井は紀州連枝でもあるので親戚の扱いを受けたと思われる
それから将軍は大広間に移動し国持大名21家+喜連川の御礼を受けた
765 :
日本@名無史さん:04/04/10 00:06
>>763 多くの場合、初任が従四位下侍従だから
老中を出す家より格上。
766 :
日本@名無史さん:04/04/10 00:09
雁間席と帝鑑間席の違いは石高によるのですか?
侍従止まりなら、連枝扱いでも宍戸と同じですね。
768 :
日本@名無史さん:04/04/10 04:22
>766
石高の層は重なっていたでしょ。
>767
宍戸松平は他の連枝と扱いで差をつけられているね。
769 :
日本@名無史さん:04/04/10 04:29
吉川晃司は毛利元就の子孫
770 :
日本@名無史さん:04/04/10 05:15
東芝病院の宮崎有加さん、かわいい。
>754
真壁から転封後、必要もないのに自前で城をたてる
山鹿素行にかぶれて標準以上の軍備をもつ
このために財政圧迫。しわよせは厳しい税率となって領民へ。
元禄事件で改易になって領民たちはお祝い騒ぎ。
772 :
日本@名無史さん:04/04/10 12:22
なるほど。財政担当の次席家老大野がいかにやりくりしても限度があったということですな。
773 :
日本@名無史さん:04/04/10 14:18
>>767 宍戸藩主の松平家は侍従になってないのでは。従五位下大炊頭や主税頭などで
官位の兼帯なしでは。
774 :
日本@名無史さん:04/04/10 14:49
>>773 従五位下という指摘は正しいが
>官位の兼帯なし
これは意味がよくわからない。
>>774 ○○守「兼」侍従(とか)少将ってのがないってことでしょ。
単なる大炊頭とか主税頭とか。
松平肥後守兼中将(会津)とか松平(島津)修理大夫兼中将とかが兼帯ってことでは?
連枝で侍従レベルは府中、守山と吉井?
777 :
日本@名無史さん:04/04/10 18:24
>>775 従五位下の侍従とか少将とかはあり得ない。
778 :
日本@名無史さん:04/04/10 18:37
高家は五位で侍従
779 :
日本@名無史さん:04/04/10 18:40
780 :
日本@名無史さん:04/04/10 18:41
781 :
日本@名無史さん:04/04/10 18:42
ところが五位のときに侍従をもらえるのだ。
そのあと四位に昇進する。
782 :
日本@名無史さん:04/04/10 19:00
>>781 例えば『徳川実紀』の寛文十二年十二月二十八日条には
高家大沢兵部大輔基将養子七之助基恒従四位下侍従に叙任し右京亮と称し
とあって、初任が従四位下侍従だが。
なお同じ日に織田信武は従四位下に叙任しているが
これも初任、ただし侍従にはなっていない。
783 :
日本@名無史さん:04/04/10 20:02
大名から高家に話がシフトしつつあるニダ
>>784 ならば兼帯とはどういう状況を言うのか?
786 :
日本@名無史さん:04/04/10 20:46
男女関係がマンネリ化してきた時期のことを言うのではないですか?
つまらん。
気になったので
『柳営補任』と『寛政譜』で高家の初任を調べました。
大半が従五位下侍従でした。
789 :
日本@名無史さん:04/04/10 22:55
宍戸は連枝なのに五位どまりですよね。
なぜだかわかる方おられます?
五位と四位侍従じゃかなり違いますよね
790 :
日本@名無史さん:04/04/10 23:09
>789
なぜかはよくわからない。だけど宍戸は他の連枝と違うのは、
他家は若い時に立藩しているが、宍戸藩祖松平頼雄は一旦水戸藩内で
数千石クラスで分家し、後に50歳すぎて初めて諸侯に列している。
即レスありがとうございます。
792 :
日本@名無史さん:04/04/10 23:58
>>788 高家の中でも肝煎とそれ以外では扱いが違うのでは?
793 :
日本@名無史さん:04/04/11 01:14
宍戸の頼雄は将軍への御目見得が52歳で遅すぎ。そして翌年大名にしてもらえた。
正室ナシなのは厄介時代が半世紀もあったからなのか、父頼房を見習ったからなのか?
子供もなく、折角の藩も養子(甥)が継いだ。
>>792 高家の中には高家肝煎を出す家があって官途がそれ以外の家と違うということでしょうか?
高家肝煎は単に高家(奥高家)から進むのでは?
一応『柳営補任』に出ている歴代高家肝煎35人を調べてみました。
吉良義央の初任は従四位下侍従でしたが、それ以外の34人は初任侍従従五位下でした。
高家の中には確かに元禄以前までは初任従四位下、侍従従四位下が見受けられます。
でも全体からするとそんなに多くないようです。
ちなみに高家肝煎35人を調べてわかった高家の昇進順序はおおよそ以下のようです
{表高家}→奥高家→侍従従五位下→従四位下(つまりこの時の官位官職は従四位下侍従。以下同じ)→
肝煎(従四位下侍従)→従四位上(従四位上侍従)→少将(従四位上少将)→正四位下(正四位下少将)
※{ }は経ない人もいる意味
795 :
日本@名無史さん:04/04/11 18:37
五位の侍従っていたのか。でも後で四位に昇ることを前提とした人事っぽいね。
796 :
日本@名無史さん:04/04/17 10:39
水戸は連枝が多すぎる。結果的には讃岐高松だけあれば、藩祖の血統は
残せたわけだ。
797 :
日本@名無史さん:04/04/17 21:01
連枝の役割は宗家の血統保存だけではない。宗家の部屋住みは、他家へ養子
を送り込むための大切なコマになるが、連枝の部屋住みが加わればさらに
カードがふえる。松平武元や本多忠国のように枢要な藩に世継ぎを送る効果
がある。
尾張・紀州も同様に複数あったけれど、断絶や本家継承で減ってしまった。
水戸は頼房の子がたくさんいて、光圀がなんとなく遠慮して大名にしてもらったから多いんじゃないの?
それにしても、いろんな意味で、光圀のせいで水戸は壊れた感じするよね。財政とか後継ぎの問題とか。
799 :
日本@名無史さん:04/04/19 19:16
いいじゃん。光圀のおかげで侯爵→公爵になったんだし。
800 :
日本@名無史さん:04/04/19 19:24
ま、今となっては公爵も侯爵も関係ないがなw
譜代のナンバー1は石高官位ともに彦根伊井で異論はないでしょうが、
ナンバー2はどこでしょう?
老中などという下賎な職に就任せず、いきなり大老って伊井家だけですよね。
803 :
日本@名無史さん:04/04/19 21:57
酒井雅楽頭も
804 :
日本@名無史さん:04/04/19 22:11
筆頭家老の酒井忠次とか下馬将軍の酒井忠勝とかが筆頭だろ
805 :
日本@名無史さん:04/04/20 00:04
庄内藩酒井左衛門尉家は江戸時代は有力ではあったけれど、筆頭ってほどではない。
806 :
日本@名無史さん:04/04/20 00:13
姫路の雅楽系酒井家は、閣老選出の暁はいきなり老中首座で、
庄内の左衛門系酒井家は、いきなり老中次席だったとか?
807 :
日本@名無史さん:04/04/20 00:25
雅楽頭は溜ノ間詰で左衛門尉は溜詰格だから
雅楽頭>左衛門尉でないの?
ちなみに掃部頭も溜ノ間詰。
808 :
日本@名無史さん:04/04/20 00:32
小浜の酒井讃岐守は定席が雁間席だったんですな?
809 :
日本@名無史さん:04/04/20 00:55
小浜って酒井若狭守(溜詰格)じゃね?
讃岐守は御連枝の高松松平(溜ノ間詰)だから使えないんじゃ?
810 :
日本@名無史さん:04/04/20 01:00
そうなの? 國史大辞典で調べたところ、
江戸中期の老中・酒井忠音 讃岐守、若狭守
と掲載があるし、幕末の藩主の酒井修理大夫忠義は、雁間席となっている。
811 :
日本@名無史さん:04/04/20 01:06
幕末(慶応三年だけど)は酒井若狭守忠氏じゃね?
雁間席については良くしらないスマソ。
812 :
日本@名無史さん:04/04/20 18:23
讃岐守は高松松平の独占使用が認められているものではない。
例えば毛利の支藩清末藩の当主はたいてい讃岐守を名乗っているし
小浜酒井家も忠勝・忠音・忠用・忠進が讃岐守を名乗っている。
なお忠義は天保5年2月に家督を継ぎ、同年3月修理大夫と改めたのち
天保11年若狭守と改め、嘉永3年再び修理大夫と改め、安政4年にまたもや若狭守に改めている。
また忠氏は文久2年に家督を相続して修理大夫から若狭守に改めている。
813 :
日本@名無史さん:04/04/20 19:27
溜詰格って帝鑑ノ間とかに詰めるの?
814 :
日本@名無史さん:04/04/20 19:39
溜詰格大名も溜間につめます。もっとも井伊、保科、讃岐らが上席
であり、溜間格大名は広間の末席に座ってます。
譜代大名では、溜詰>溜詰格>帝鑑間>雁間という序列ですが、
雁間の大名でも溜詰格になるケースもあります。
◆定席が雁間席の大名が、一代限りで溜詰格になった例。
安藤対馬守信正(幕末の前老中)・・岩城平5万石。安藤家の定席は雁間
坂下門外で負傷し、老中を更迭されたが、前官礼遇という形で
溜詰格として久世大和守らに陰でアドバイスを送っていた。
松平伯耆守宗秀(前寺社奉行)・・・宮津7万石。
井伊直弼と一緒になって安政大獄を推進した為、井伊から気に入られ
寺社奉行退任後、溜詰格になっている。したがって、井伊暗殺後、突然溜詰格から雁間詰
に引き摺り下ろされる。
松平刑部大輔信古(前大坂城代)・・・三河吉田7万石
大坂城代を務めた後、京都所司代になるはずだったが、信古は間部詮勝
の実子で、松平家に養子に入った為、朝廷から所司代就任の「ペルソナ・ノン・グラーダ」
。見かねた幕閣が名誉回復の意味も込めて信古を溜詰格としている。
◆
早レスでありがd。
「ペルソナ・ノン・グラーダ」は国際法用語ですね。
大使を任命したときに赴任先の政府に了解をもとめて断られることね。(よほど
のことがなければOKされる)
816 :
日本@名無史さん:04/04/20 20:15
>>814 大坂城代→京都所司代はひとつのコースのようなものですが
信古の前々々任の土屋寅直も大坂城代のあと京都所司代にはならず
再度寺社奉行になっていますね。
彼は徳川斉昭と従兄弟の関係にあり、大坂開港不可を上申するなど
尊攘派に近すぎるのが問題だったのでしょうか。
817 :
日本@名無史さん:04/04/20 20:43
別スレで鳥取藩家老の話が出ていたので、ネットでこんなん調べてみました。
★鳥取藩の着座家(家老を出せる家柄)
米子城代 荒尾 15,000石 のち男爵
倉吉領主 荒尾 12,000石 のち男爵
八橋領主 津田 ? 石
松崎領主 和田 ? 石
黒坂領主 福田 3,500石
船岡領主 乾 2,500石→3,500石
浦富領主 鵜殿 ? 石
だれか「?石」のところわかります?
818 :
日本@名無史さん:04/04/20 20:56
>>816 へえ、大坂城代から寺社奉行にランクダウンですか。そういうケースは
は珍しい! 國史大辞典で調べたところ、元若年寄が寺社奉行になったケースは
いくつかあったみたいでしたが。
820 :
日本@名無史さん:04/04/20 22:56
>817 スレの趣旨の埒外
821 :
日本@名無史さん:04/04/21 00:33
>>816 大坂城代から寺社奉行になったんじゃなくて
井伊直弼が大老になって半年後に罷免され
6年後に寺社奉行として役に就いたわけだが
寺社奉行→井伊大老に睨まれ罷免→寺社奉行(再承)→大坂城代→雁間席
823 :
日本@名無史さん:04/04/21 02:14
>>822 ちゃうちゃう
井伊に罷免されたのは大坂城代
824 :
日本@名無史さん:04/04/23 20:32
他に一代限りの溜詰格大名いますか?
825 :
日本@名無史さん:04/04/23 23:53
826 :
日本@名無史さん:04/04/24 11:56
詰め席って、年代によって変動があるよ。官位も上のほうにあったのはあくまで極官で、全部の当主がそこまで上ったわけじゃないしね。
交代寄合で維新後諸侯扱いになった播磨の池田家、
鳥取池田家の分家扱いされるているようですが、
系図を見ると鳥取岡山両池田家の始祖(各々藩祖の父)の弟が始祖です。
すると普通嫡流である岡山池田家の方の分家のような気がしますがなぜでしょう?
鳥取池田の始祖の同母弟(岡山の異母弟)だからですか?
スレ違いですが誰かご存知ないですか?
828 :
日本@名無史さん:04/04/27 01:24
>>827 書かれた理由の通りでしょう。
ちなみに下間重利系の旗本池田家は、文書上で本家を岡山・鳥取(順番は忘れた)
の両方にしていました。
829 :
日本@名無史さん:04/04/28 00:03
ざっと前レスを読んだ上での質問です。参勤交代がらみです。
質問1
大名の参勤交代は隔年ですよね。そうすると、江戸にいる大名はA組とB組みたいに2グループに固定されていたのでしょうか(半年交代の関東の大名は別として)。
ということになると、大名同士の江戸での付き合いもある程度関係が固定していたのでしょうか。
質問2
いわゆる定府の大名の場合、国元は常に城代家老が政務を仕切っているわけで、江戸時代も長くなると殿様の国元へのコントロールが行き届かなくなり、城代家老の思うがままみたいな問題は起きていたのでしょうか。
そのような実例はありましたか。
質問3
旗本は基本的に定府ですが、天領の代官については世襲の例もあったと思います(例えば、伊豆韮山の江川家)。
このような地方の世襲旗本の場合、江戸に足がかりはあったのでしょうか。例えば江戸に屋敷はあったのでしょうか。
最後の質問は大名に関することではありませんが、このスレを読んで大名や交代寄合の参勤交代を考えると、必然的に出てきた疑問なのです。
詳しい方、どうぞ教えて下さい。
830 :
日本@名無史さん:04/04/28 00:15
>>829 江川家は本所に江戸屋敷があり、英龍も江戸で死んでいます。
まあ英龍は勘定吟味役に出世して江戸詰になりましたけど。
交代寄合では松平太郎左衛門家が江戸屋敷を持っていませんでした。
米良家も人吉藩主に従って参勤したので屋敷はなかったと思います。
旗本の場合は、基本的に役職の世襲という概念はなく(特殊、専門的な職務を行う家を除き)、ただ結果的に(例えば、代々その家の勤めぶりが高く評価されるなどで)数代にわたり同じ地方の役職を務めるというようなことがあったのでしょうかね。
逆に、地方に定住している旗本は基本的に交代寄合だったのでしょうか。
言い換えれば、参勤交代せずずっと国元にい続ける旗本はいなかったということなのでしょうか。
スイマセン。次々と疑問が湧いてくるもので。
832 :
日本@名無史さん:04/05/08 02:25
旗本って、江戸での勤務とは別に、自身の固有の領地がある罠。
しかし、江戸で日々の仕事があるから(仕事がない香具師は別にして)、遠国の領地にはなかなか行けないわけだが、どうしてたのだろうか。
財テクとかにきちんと配慮した旗本の場合、賄用人(まかないようにん=
経理担当の家来)が、知行地の年貢収入や、米の売却、あるいは
知行地の特産物の生産奨励などをして、収支計算を厳格にしていたところもあるみたい。
834 :
日本@名無史さん:04/05/08 11:12
賄用人は、領地にいたってこと?
まあ、江戸近郊なら、行ったり来たりしてたんでしょうが。
835 :
日本@名無史さん:04/05/08 13:13
>>832 水戸徳川をはじめ、定府の大名も同じなんだが。
836 :
日本@名無史さん:04/05/08 19:31
旗本も、領地の百姓から見たら殿様だよな。
837 :
日本@名無史さん:04/05/08 21:48
838 :
日本@名無史さん:04/05/08 21:56
839 :
日本@名無史さん:04/05/08 22:13
勝先生も福沢先生も一応、「殿様」になってます。
840 :
日本@名無史さん:04/05/08 22:31
福沢は殿様とはよばれないだろ。
841 :
日本@名無史さん:04/05/08 23:05
実は、大名も旗本も似たようなもので、どちらも領地を持っているが、
ただ違いは、
大名は、領地にいて江戸に参勤交代するのが普通(例外が定府の大名)
旗本は、江戸にいるのが普通(例外が交代寄合で、領地にいて江戸に参勤交代する)
ということでいいのでつな。
842 :
日本@名無史さん:04/05/08 23:12
石高とか位によって当主の呼び方は色々あるんだよな。
御殿様、殿様、御前、旦那様・・あーめんどい。
843 :
日本@名無史さん:04/05/08 23:34
福沢が幕臣扱いになったとき、家族の者が「殿様」と呼ぼうとした話が
「福翁自伝」に書いてあったと思うが。
844 :
日本@名無史さん:04/05/08 23:37
>>843 福澤氏は殿様などと呼ばれたくなかった。
845 :
日本@名無史さん:04/05/08 23:51
御屋形様(国主)ってのもあります。
夫人の方も奥方様とかお内儀とか奥様とかいろいろ。
八丁堀の旦那は夫人の方だけなぜか一段格上。
847 :
日本@名無史さん:04/05/09 01:41
『ピーナッツの食べ過ぎと、鼻血には明らかな因果関係はありません。』
(昭和大学医学部 耳鼻咽喉科教授 洲崎春海先生)
そもそも鼻の内部は薄い粘膜だけで覆われているので、刺激に弱く、出血が起こりやすい。
引っ掻くなど、外部の刺激や急な血圧の上昇が鼻血の原因となるが、今の所ピーナッツとの因果関係はないと言われている。
848 :
日本@名無史さん:04/05/09 01:59
屋形号は特定の由緒ある家系にしか許されなかった
交代寄合では最上と山名だけが御屋形様
849 :
日本@名無史さん:04/05/10 16:25
んで、喜連川は御所さんだな
850 :
日本@名無史さん:04/05/10 19:47
大藩の支藩には領地を持たない大名もいたりする。
○○新田藩とかね。
雄山閣生活史叢書17「下級武士足軽の生活」(笠間良彦著)によると、
大名以下御目見得以上は殿様・奥様、御目見得以下は旦那様・御新造、ただし町与力の
妻は奥様、八丁堀の七不思議の一つが「奥様あって殿様なし」。
奥様は本来は文字通り表と奥との区別があるお屋敷の夫人の称です。
また幕臣は将軍を旦那様と会話し、大奥でも御台所を旦那様と会話するそうです。
もともとは御目見得以下の妻はお上さんで、御新造は大名嫡子の夫人の称だったものが
次第に下に降りたものらしいです。
853 :
日本@名無史さん:04/05/11 12:42
大名、旗本は殿様と呼ばれるな。
小身の旗本でもな。
御家人は旦那だな。
ところで、大名の家臣はどうなんだろう?
三家の附家老や万石以上の貰ってる加賀八家のような連中は
殿様だろうが、数千石クラスの連中はどうなんだろ?
御前とかか?
854 :
日本@名無史さん:04/05/11 18:50
>>853 蔵米支給でなく、領地があればみんな殿様でしょ。
ところで、加賀の本多氏とか後期の長氏って蔵米じゃなかったっけ?
幕末の柳生藩の縮緬騒動は、定府大名と領地間の意思疎通の困難
が招いた悲劇だな。
鳥取池田家の筆頭家老で幕府から米子城預かりを命じられていた米子荒尾家(15000石)は、
米子町を始め領民から殿様と呼ばれていました。
新日本海新聞社発行「鳥取県大百科事典」より
そうわざわざ書かれているということは、
少なくとも鳥取藩ではその他の家老は殿様と称されなかった考えられます。
12000石で倉吉城を預かる倉吉荒尾家でさえも。
まあ家来は内々では殿様と言ったかもしれませんが。
857 :
日本@名無史さん:04/05/11 20:38
享保期のとある庄屋日記を見ると
仙洞領を管理している幕府代官小堀仁右衛門は
領主ではないにもかかわらず
仙洞領の庄屋から「殿様」と呼ばれています。
ちなみに仙洞(上皇)は「御所様」と呼ばれています。
858 :
日本@名無史さん:04/05/11 20:47
ちなみに公家は夫のことなんてよんでたの?
>>853 旗本はいろいろ。ついてる職業によったらしいよ。
859 :
日本@名無史さん:04/05/11 21:06
城を持っていた片倉家(白石城・伊達家の家老)、成瀬家(犬山城・尾張徳川家の家老)は、事実上の大名だ罠。
実際、成瀬家など御三家の筆頭家老家は、明治維新に際して、諸侯(大名)に取り立てられているしな。
860 :
日本@名無史さん:04/05/11 21:28
>>859 明治以降とは切り離して考えるべき。
近世に関しては
あくまで幕府が大名として認知しているかどうかによる。
861 :
日本@名無史さん:04/05/11 22:03
つまり、陪臣というわけだな。
ところで、吉川家(岩国城)は、そういう意味での大名だったのかい?
幕府は大名と見ていたが、本家の毛利家はあくまで陪臣(つまり毛利家の家老)という立場を崩さなかったという話があるが。
そこら辺は微妙だが
成瀬家なんかの場合は、幕府も大名と認めていないのではないかな。
863 :
日本@名無史さん:04/05/12 00:19
正式な立藩は明治元年でも
吉川は参勤交代してたんだよね
そういう意味では大名
江戸城内では無席だけど
無席の大名って儀式のときは立ち見なんですか?
865 :
日本@名無史さん:04/05/12 00:37
吉川(岩国)は、よく毛利の支藩とか言われるけどもね。
同じく毛利(萩)の支藩と言われる長府、清末、徳山の3藩は、毛利(萩)の分家という位置付けであって、対外的には立派な独立藩だったわけだ。
赤穂浪士の一部も長府毛利の屋敷に預けられたし。
これに対して吉川(岩国)は、事実上幕府から独立大名に近い扱いを受けていたが、建前上はあくまで毛利(萩)の家老だったんだろうね。
吉川がいなけりゃ潰されてたかも知んないのに酷いね。
867 :
日本@名無史さん:04/05/12 01:23
関ヶ原では、吉川の尽力で毛利の戦闘放棄が実現したわけだが、徳川家康が吉川の功労を評価するあまり、防長二州をそのまま吉川にくれてやろうとした。
それでは、もちろん吉川としても大変なことのわけで、根回しの限りを尽くし、毛利の防長二州の安堵を何とか果たすことができた。
しかし、これを機に毛利家は吉川に対して悪い感情を抱くようになった。
このように幕府は吉川を評価しているし、毛利は吉川を警戒するという変な関係になった。
なお、吉川家は明治維新に際してはよく毛利本家を補佐して功績を上げている。
最後まで毛利家に忠誠を尽くしたわけだ。
支藩をたてるには、本家が幕府に推薦する必要があったけど、吉川のことは、代代の毛利当主が推薦しなかった。
幕府は支藩と同じ扱いをしていた。家老ってのは、なんか違う気がするけど・・・。どっちかというと部屋住みって方が近い気がするけど。
>>863
詰め席ってあったんじゃなかった?
>>864 無席というのは一定の控え室がないということだそうです。
おそらくその時々で控え室が違うのでしょう。
まあさすがに毎回変わったとは思いませんが。
870 :
日本@名無史さん:04/05/13 21:24
岩国藩は、江戸時代の大名及び準大名の中で最も特異な存在だったといえる。
871 :
日本@名無史さん:04/05/13 21:47
吉川が参勤交代してたのなら、他の大名の家老もしてた家もあるのでつ
か?
御三家の付家老などはあれだけ大名になりたがってのだから自分から
しそうですけど。
御三家の付家老とか越前家の付家老の本多家とかは、
江戸城に詰所があったので参勤交代していたと思います。
詰所がないとかいてある本も有り、正式ではないのかもしれませんが、
実態として本多家を含めて柳の間(外様小大名の詰席)に詰めたようです。
本多家が華族になるときの理由の一つが柳間詰格です。
875 :
日本@名無史さん:04/05/14 17:55
毛利家の場合は(吉川は!?)さらに、”身内”で参勤交代やってたでしょ!?
『旧事諮問録』に、幕府から毛利家への書付には「其方家来吉川監物」云々と書き、
吉川家への書付には「其方本家毛利大膳大夫」云々と書くことになっていて、
両家から毎回幕府役人に付け届けがあった、という話が載っているね
本多って作左の子孫だったよな。
作左の活躍にしては、何か報われかたがイマイチのような。
華族にしてもらってとんとんかもな。
>876
本家分家の面子の張り合いだな。
吉川としては全くの家臣とされるのはイヤ
毛利としては、一族から家臣への格下げをねらったんかね。
本家分家のしがらみといえば、伊達でもあったよな。
>>877 失敬な。トーホグの蛮族の酋長と同列で語るなよ。
>>877 幕府は幕府でそういう所を付け狙う意味もあって、
>>876のような
ことをしているのよね。毛利吉川は従属関係で一族だけれど別の
家だし。また何ちゃら新田(しんでん)藩の例だと別の家ではない
けれどそれが故の問題も出てくるし。幕府はお互いの面子を立て
ながら内部抗争の種を残しておく。ゴタゴタの公認化、定型化と
いうべきなのかな。こういうのが政治だよね。
880 :
日本@名無史さん:04/05/15 01:00
加賀藩筆頭画廊の本多家は本多正信の子、正純の弟政重が祖だろ。
881 :
日本@名無史さん:04/05/15 01:01
プッ。加賀の本多が作左衛門の子孫だとか知ったかぶりしてる香具師がいるよ。
誰も加賀八家の本多と言ってないが。
872に対する返答だが。
それとも越前家の家老でもないのか?
883 :
日本@名無史さん:04/05/15 02:06
ちょっとちがう。
越前家の家老で明治まで続いたのは、作左衛門の兄の家。
作左衛門の直系は断絶してるはず。
華族になったのも、兄の子孫。
まあ、独立大名になれなかったのは報われかたが薄いかもしれない。
そもそも幕初は結構幕府から諸藩に人を出してたらしく、
本家が陪臣なのに分家が直参というけったいなケースもある。
旗本の長坂家なんかはそうだ。
884 :
日本@名無史さん:04/05/15 02:15
>>879 その甲斐なく長州に天下をとられましたとさw
885 :
日本@名無史さん:04/05/15 02:26
>>871 肥後細川家の筆頭家老で八代城主の松井家は
代替わりのときは将軍へお目見えしてたらしいです。
織田信長に貰った近畿地方の領地(100石とかのレベルですが)
を江戸時代もずっと細川家と関係なく保持していたらしい。
細川家と将軍家に一応は両属みたいな形ですね。
そういや豊臣時代の吉川家は毛利家と同じ大名なんでしょうか、
それとも陪臣なんでしょうか
886 :
日本@名無史さん:04/05/15 02:27
本家が外様大名で、分家が譜代大名で、しかも老中まで出している、というケースもありましたな。
887 :
日本@名無史さん:04/05/15 03:23
>>885 >織田信長に貰った近畿地方の領地(100石とかのレベルですが)
信長では秀吉です。
『寛政譜』によると
文禄の役後、秀吉が松井康之の軍功を賞して石見半国の大名に取り立てると
申し出たのですが、康之は藤孝父子と同列になるのは本意ではないとこれを固辞。
秀吉はその貞節を感じ入り、康之は常に数寄を好むことから、
山城国相楽愛宕両郡内に茶料170石余を与えた。
とあります。
訂正(スンマソン)
信長では秀吉です。×
↓
信長ではなく秀吉です。○
>>883 紀伊徳川家の付家老、安藤氏も本家じゃなかったかな。
分家は諸侯なのに。無念。
安藤はそう。たしか忠長が預けられたのが安藤だよね。
>>883 >>886 分家が幕府に入ってコネ作ったりして出世するとそうなるよね。
話は少し違うが、大岡忠相も忠光も実は分家だったりする。
遠山の金さんの方は分家ですか?
確か一族に大名がいましたよね。
それと長岡の牧野と綱吉の側用人の牧野はどういう関係ですか?
894 :
日本@名無史さん:04/05/15 18:55
>892
忠相の本家ってどの家?
>>894 忠政┬忠俊(後継なし)
├忠行─忠種─忠方─忠英─忠種… (←この次男の家が本家)
├忠世─忠真=忠相… (←忠高の子から、この三男の家を継いだ)
└忠吉┬忠章─忠高┬忠品…
│ ├忠顕
│ ├忠相
│ └忠厚
├吉明…
├忠宗─忠信(後継なし)
└忠房─忠儀─忠利─忠光…(←ぐっと末の家)
>>893 牧野康成┬忠成(越後長岡藩主家祖)
└儀成─成貞(綱吉の側用人)
>>893 同族ではありますが、美濃苗木藩の苗木遠山氏と
金さんの明知遠山氏は、南北朝時代に分かれた
らしいといわれるくらい離れています。
898 :
日本@名無史さん:04/05/15 21:22
>895
おお、すばやい回答サンキュー。
ついでに、本家の禄高もおせーてくれ。
>>898 変動ありますが、忠相の弟忠恒(忠種に入養)の代に1430石余になって寛政期に至ってます。
寛政以降はわかりません。寛政譜しか持ってないので。
901 :
日本@名無史さん:04/05/16 12:58
>900
おおありがと。
なんか、分家の方が小禄になってしまったんか。
ある意味面白い家系だな。
しかし、分家が大名なのに、本家が1430石っていうのも
見栄えがしないな。
902 :
日本@名無史さん:04/05/16 20:46
>>901さんへ
それ逝ったら家康の徳川家だって松平家の分家でしょ。
旗本の松平太郎左衛門家が本来の嫡流らしいですね。
分家の中でも京都で伊勢家に仕えていたのが嫡流らしいです。
そう言えば摂関家も分家の分家の又分家の分家、
ってここは分家をいくつつなげれば良いのでしょう。
兄弟順を無視するとしても南家が本家、そもそも北家の中でも嫡流とはいいがたい。
途中省略しても日野家の方が兄の家系、更に小野宮流の方が嫡流、加えて兼家の家は素直に考えて分家、
道長はそのまた分家(おそらく兄二人が早死にしなければ大臣も無理)。
まあ頼朝も清盛も本当は嫡流じゃないし、出世したから本家面しているだけ。
こんなのはどこでもある話ですね。天皇家だって血統上は嫡流じゃないですし。
>902、903
なるほど、出世したもん勝ちということだな・・。
905 :
日本@名無史さん:04/05/17 02:32
第1の本家:松平郷
第2の本家:岩津
第3の本家:岡崎(徳川)
京都の方は岩津の分家
906 :
日本@名無史さん:04/05/21 22:42
>>741 会津藩は奥羽諸藩の例に漏れず、かなりの貧乏藩だった。
寛延二年には、藩の厳しい取り立てに怒った農民達が大規模な一揆を起こした。
このため藩は年貢を半免せざるを得なかった。
907 :
日本@名無史さん:04/05/21 23:06
この前拝領妻始末を見ますたけど、松平正容って暴君だったのでつか?
こういう拝領妻や家来の妻を召し上げる事は他の大名家でもあった
でしょうけど会津は貧乏藩のくせによく側室を何人も持ちますね。
羨ますい。
>>907 側室を何人も持ったのは、正容の子供が産まれても産まれても育たなかったってのが理由にあるのです。
正容が男子を産んだ側室を次々と家臣に下げ渡したのは、お祐の方(正室格)をはばかった為です。
「拝領妻始末」は実話を元にした話です。最後に舅が藩の討手と闘うあたりはフィクションですが。
>>908さんへ
レスありがとうございます。
もらう方もたまらなかったし、下げ渡される側室も可愛そうでつね。
人間ではなくもの扱いだ。
910 :
日本@名無史さん:04/05/22 00:20
883へ
本多の作左衛門の系統は断絶はしてないよ。危ないときもあったけど。
(寛政譜第11-P259〜P265)
御子孫も取手にいらっしゃるし。
「断絶」なんて言っちゃうと作左さんおっかないよー。
911 :
日本@名無史さん:04/05/22 01:24
松平太郎左衛門家は本家というより旧領を守った家だろ
親氏・泰親の2代で近隣を浸食し3代信光は岩津に進出
庶兄の信広に太郎左衛門の名を継がせ旧領に封じた
近江商人の堤氏が東京に出て次男に西武百貨店三男に西武鉄道を残し
庶長子には近江鉄道を与えたようなものだと思う
912 :
日本@名無史さん:04/06/18 19:08
江戸時代の大名は参勤交代で江戸にいることが義務付けられてる期間に
江戸城に何日かごとに出仕してたと記憶してるんですが
帰国や江戸に来たときの挨拶以外の時は江戸城に何をしに出仕するもんなの?
914 :
日本@名無史さん:04/06/30 21:26
age
915 :
日本@名無史さん:04/07/02 11:02
>日本海沿岸の城下町。 藩主の上屋敷は新宿神楽坂の辺り
どこの都市?
917 :
日本@名無史さん:04/07/06 08:48
ほしゅ。
918 :
日本@名無史さん:04/07/09 17:19
ほっしゅ
>911
>松平太郎左衛門家は本家というより旧領を守った家だろ
徳川将軍家の公式見解では911のようになるんだろうけど、本当のところはわかり
ようがないんではないですかね。
920 :
日本@名無史さん:04/07/30 21:25
譜代、外様の違いを知りたいんですが。
というのは、河出文庫の林フミエ氏の「最後の将軍 徳川慶喜」を読むと、
江戸時代初期の越後国主堀久太郎家、これは外様ですが、
これがいくつかに分解して、それぞれ小さくなった。もちろんいずれも外様であるが。
この中より、一家のみ、譜代となったとあります。
すなわち、椎名?堀家とのことで、奏者番とかをよく勤めたとのことです。
これはどういうことでしょうか。
外様と譜代の定義を改めて復習したいのですが。
921 :
日本@名無史さん:04/07/30 21:40
最近の日経の記事で出てましたが、
松浦静山は、若いころ、勤勉にて、幕府の役に付くことを希望していた。しかし、
それが叶わず、その精力をあの膨大な趣味に充てたとのこと。
外様でも、幕府の役人になれるのか。
また、松前藩の藩主が幕末に老中だか若年寄になったと記憶する。
これは、幕末だからかと思ったけど、そういう訳だけではなかったのか。
(前例があったのか、先例があったのか。=先例が大事でしょうしね〜)
922 :
日本@名無史さん:04/07/30 21:49
>>920 椎谷藩ですね。
椎谷藩堀家が譜代大名なのは、初代直景が旗本だったからです。
外様大名が分知して、子供に万石以下の所領を与えた場合
その子供は旗本になります。
旗本は譜代ですから、ここから加増されて大名となった場合は譜代大名として扱われるのです。
椎谷藩堀家はその一つの例です。
923 :
日本@名無史さん:04/07/30 22:05
ありがとうございます。
すると、どうしても幕府の役人になりたいときは、一旦返上して、
再度復活するとよいんですね。
上杉藩の重定?公が、仮に実行していたら、
息子の鷹山は、きっと寺社奉行とかくらいまでにはなれたかも。
ちょっと、茶化して済みませんでした。ほんとにありがとうございます。
それと、立花氏ですが、関が原戦役後、一旦改易になりますけど、その間
どういう状態だったんでしょうか。
大名として返り咲いていますが、旗本を経由せず、再び大名からスタートだったんでしょうか。
>>922さんではないのですが
立花氏ですが
関ヶ原の合戦で改易となるものの、宗茂が徳川秀忠と懇意だったことから奥州棚倉3万5千石で再興
その後、柳川藩・田中氏の無子断絶により柳川に10万9千石で転封、その後明治維新まで続く
と言う経緯をたどっています。
925 :
日本@名無史さん:04/07/30 22:17
立花宗茂って陸奥棚倉1万石の前は相伴衆になってるから旗本になると
おもうんですが旗本から大名になった場合、譜代になると思うのですが
どうして立花家って譜代じゃないんですか?
926 :
日本@名無史さん:04/07/31 08:35
相伴衆=旗本
ではないから
927 :
日本@名無史さん:04/07/31 12:00
928 :
日本@名無史さん:04/07/31 12:43
慶長期ってのは、まだ制度が固まってない時代だからねえ。
そもそも、江戸時代の身分・格式にかかわる決め事って、必ずしも一貫性がないよ。
だから例外について意味を求めてもしょうがないと思うよ。
930 :
日本@名無史さん:04/08/09 14:42
922さん、ありがとうございました。
椎谷(しいたに)藩ですが、
秀政と直政がいとこで、秀政の娘が直清に嫁いでいるようでした。
なぜか、村松堀が本家のようです。直清系ではなく。
堀家・・・秀重ー久太郎秀政ー・・・・(飯田堀) └女
奥田家・・・監物直政 ┬直清(雅楽助)
├直寄 ・・・(村松堀)
├直重 ・・・(須坂堀)
└直之・・・(椎谷堀)
931 :
たとえば、:04/08/09 14:50
十八国持ち大名
<1>本国持(以下順不同)
加賀前田、薩摩島津、阿波蜂須賀、岡山池田、鳥取池田、
広島浅野、土佐山之内、福岡黒田、長州毛利、対馬宗、
<2>大身国持(順不動)
仙台伊達、熊本細川、秋田佐竹、佐賀鍋島、米沢上杉、久留米有馬、郡山柳沢、
<3> 十八国持ちには入らないが、別格の国持ちとして、
福井松平、松江松平、
<4>準国持ち
宇和島伊達、柳河立花、二本松丹羽
以上。残集柳営秘鑑による。
ほかにも、いろんな格付けありますが。
すんません。うまく系図がかけてませんね。
「女」というのは、秀政の娘です。この兄の系統が飯田堀の元になります。この女性は直清へ嫁ぎます。
また、直清、直寄、直重、直之は兄弟です。
933 :
日本@名無史さん:04/08/12 02:28
あるスレに貼ってあった全体主義ウヨ都市の東京一般人のホンネ
>>218 :名無しの歩き方@お腹いっぱい。 :03/07/21 10:59 ID:JO2+LoZu
>>阪神大震災は笑えた!!
>>死者1000人ごとにカウントしてたのってオレだけ?
>>(よっしゃー2000人突破!よーし次は3000人突破しろーって)
>>でも結局は6000人しか死んでねえんだよね。全然、騒ぐほどじゃないし。
>>阪神大震災は笑えた。まじで
>>ニュースで知って、手を叩いてわらったなぁ。
アメリカ映画とかに出てくるキモイ日本人って東京人がモデルだろうね。
冷酷で残忍、不気味だね。だって、みんなウヨ全体主義に洗脳されてるもん。
キモイ・レストランなんかもよく「......Tokio」とかになっている。
それはお笑いにも表れている。
東京のお笑い→人を傷つけて面白がる(さむぅ〜)
大阪のお笑い→自分があほになって笑ってもらう(大阪人はホントにあほをやって、嫌なことも多いけど)
イスラム教徒と東京人、金なんとか独裁のキムチ臭い国、どれがキモイですか? 世界のみなさん。
934 :
日本@名無史さん:04/08/14 15:50
935 :
日本@名無史さん:04/08/18 15:57
>934
話はそれるが、
日野江藩主有馬康純は、将軍(秀忠)の偏諱ではなく前将軍(家康)の偏諱
をもらってるめずらしい例だね。将軍偏諱よりもステータスは下がるのだろうか。
堀季俊はそれすらも貰えていないね。
>>934 その堀家は加賀で明治を迎えてるよ。石高は時期によって違う。代々減っていっているね。
937 :
日本@名無史さん:04/08/18 20:09
最終300石ぐらいでつか?
>>935 せっかく、興味深い話なんだけど、
僕は、そもそも、偏諱をもらうタイミングについて、よく知らないのでごめん。
大名等の本人が、襲封したときなんかなぁ。襲封後初めて、将軍に会ったときかなぁ。
それと、「前将軍の」ということだけど、秀忠は、前将軍本人に断りもなく、
それを与えることはないと思うので、大御所に事前に伺っているかと思う。
手間がそれだけ掛かっているのだから、ステータスは高いのでは。
>>936 そうなんですか。すると、930氏のあげている堀家とは特に関係ないんですかねぇ。
>>938 幕府も安定してきた家光くらいから、
世嗣が将軍様に初御目見するとき(だいたい5歳〜11歳くらい)に、
時の将軍様の下の一字を拝領して上につける。
下の字はその家に代々伝わる通字が多いが,
事前に老中→取次の旗本→留守居役(御城附御公儀人)ルートで打診がある。
御目見当日は当主とともに登城して、貢物を献上して、
盃事してから、将軍様の一字が書かれた紙をうやうやしく有り難く頂戴して、
世間話のひとつふたつでもして、お辞儀して帰ってくる。
帰宅して、家来なんかと酒盛りして盛り上がる。
名前を貰うってことは擬似親子みたいな関係になるらしいね。
名前は誰でも貰えるってわけではなくて、
決まった家にしか貰えない。
940 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:28
>938
私も詳しくはないけれど、少なくとも「康」の字をプレゼントするのは、
将軍秀忠ではなく、本人じゃないのかな。
>>935 有馬康純
慶長18年生
寛永18承
元禄5没
本当に偏諱なの?
>>941 「寛政譜」に記されるからホントじゃないの?
有馬康純は元和2年駿府で家康に拝謁し「康」の一字を賜っている。
>>935は誤り。
945 :
日本@名無史さん:04/08/25 23:14
あげ
>943
935は間違ってないべ。その元和2年は家康は現職の将軍ではなかった。
947 :
日本@名無史さん:04/08/27 23:17
そもそも、江戸時代の身分・格式にかかわる決め事って、必ずしも一貫性がないよ。
だから例外について意味を求めてもしょうがないと思うよ。
激しく同意します。
が、なんとなく、気になりますね。
江戸城での部屋の割り当ては、幕府による正式なものですから、正式な序列に一番近いですよね。
また、官位の類は、朝廷への口利きですから、これも幕府の正式な意思ですよねぇ。
松平姓をもらったか否かも、やはり、正式な格式の一例でしょうか。
なお、931の「たとえば・・・」ですが、これは正式とはいえないのでは、と思っています。
948 :
日本@名無史さん:04/08/28 00:40
格式がねじれていたり、矛盾がありそうなところを挙げてみる。
(官位)
・布衣(六位相当)の直参旗本>従五位下の御三家または加賀藩家老
→そりゃ旗本の方がえらいでしょうに。
・極官従四位下の越前藩主>極官正四位下の会津藩主
→何で会津の官位が高いのか?
(詰の間)
・通常、帝鑑間は菊間より大身の諸侯が詰めるが、交代寄合の一部もまざっている。
・柳の間は外様が詰めるとされるが、交代寄合も詰める。
・ところで、大広間と溜間ってどっちが上なのだろう?帝鑑間と雁間は?
(松平姓)
・松平姓をなぜか無くしている多古藩主久松家>交代寄合の福本池田家(松平姓)
→池田家の祖は家康の外孫でいわゆる准家門の家系
(御家門の家格)
・万石レベルに達する以前の創立期の糸魚川松平家、鷹司松平家
→あとで諸侯になったが、この頃は御家門の扱いをうけていたのだろうか?
>>947 石高(表高)が抜けていますね。これも幕府が認めた正式なものです。
大名の家格は、石高・官位・詰間、この3つの要素で基本的には決まるものと考えられています。
950 :
日本@名無史さん:04/08/28 22:56
>>949 新田開発で、実質石高が増えることもあると思います。
この場合、申告するんですか。
増えると軍役負担(お手伝い工事)も増えるかもしれないので
申告しないかもしれませんが。
申告して表高が増えるのなら、インセンティブはあるかもしれませんが。
津軽家などは、(南部家との対抗で)表高を増やすことにインセンティブがあったかと思いますが。
951 :
日本@名無史さん:04/08/28 23:01
>>947 >また、官位の類は、朝廷への口利きですから、これも幕府の正式な意思ですよねぇ。
別のスレッドから引っ張ってきましたが、
彦根藩の家老のことのようです。
陪臣のことについて、幕府が口利きすることってあるんでしょうか。
そういえば、伊達騒動での毛利「安芸」とか、
藤沢周平の「「長門守」の陰謀」とか、どういうわけでしょう。
★木俣土佐守って:
土佐守?。これは藩主から幕府へ願い出て、朝廷に口利きしてもうんでしょうか。
でも、土佐藩があるので、こちらの藩主が名乗るのが筋みたいに思ってしまうんですね。
それに、「守」なんて、陪臣が名乗るなんて。どうでしょう。
952 :
日本@名無史さん:04/08/28 23:34
>950
普通は申告なんてしない。無理して表高を上げるのは、水戸や大聖寺など少数。
それどころか、長州藩のように成立当初から実態とかけ離れた石高を申告する
ことがある。
>951
通称と官位は別だよ。伊達安芸は、安芸守ではない。木俣も官位なんてもらって
いないだろう。ただのミドルネームだよ。
正式な官位の場合でも、たとえば勝安房守(勝海舟)なんて、別に安房の国主
じゃないわけで、本物の当地の領主の存在なんて関係ないよ。
953 :
日本@名無史さん:04/08/28 23:39
陪臣で官名を名乗る例なんかいくらでもある。
たとえば、○○典膳とか○○左馬助とか。
ほかに刑部、兵部、民部、式部
時代劇にも出てきそうな名前がいくらである。
いちいち朝廷に口利きなんかしない。
>952
長州も当初は50万石くらいで申告していたが、幕府から認められなかった、
という話を読みましたが。
後、格式だけでも高い石高にしてもらう、というのは、それなりにやって
いたところがあったのではないでしょうか。
>953
内蔵助とか内蔵允とかは官名と同じだけど、「典膳」「主水」などは官名じゃなく、
ただの「官名風の通称」でしかないでしょう。
後、武家の官位は、将軍に与えられた時点から称し始めるものだから、「朝廷への
口利き」とは違うんじゃないでしょうか。朝廷に話を持っていく前から、有効なも
のとして扱われているわけだし。
956 :
日本@名無史さん:04/08/29 00:00
中世以降、官途成りといって有力百姓が所属する惣村の集会で認められて、
官位を勝手に名乗るケースがあった。武家でも主君の許可などで名乗った。
江戸時代になると、勝手に名乗るのが難しくなったためか、伊達安芸のように
「守」をつけずに官名と区別できるケースがほとんどになった。
>>955 官名風の名乗りの一種として、伝:平将門一派謹製の「東百官」というのもありますね。
「刑馬」とか「司書」とか「頼母」とか。
>>957 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
>957
東百官は平将門が…と言われているが、実際使われるようになったのは江戸以降らしいな。
>>948 各々の格式を矛盾させることによって大名間に微妙なバランスを取ることにより統制をするのが
幕府の政策ですので、「それを言っちゃあおしまい」なところもありますが。
>(官位)
> ・布衣(六位相当)の直参旗本>従五位下の御三家または加賀藩家老
> →そりゃ旗本の方がえらいでしょうに。
御三家付け家老と旗本ではどちらが偉いでしょう? 付け家老の成人した嫡子で家老職にある
人は?
まあ、実質的にはおっしゃるとおり旗本の方が偉いという状況なので、付け家老は必死に幕臣
復帰運動(大名昇格運動)をしたんでしょうが。
> ・極官従四位下の越前藩主>極官正四位下の会津藩主
> →何で会津の官位が高いのか?
会津中将は、溜間詰めなので朝廷への使いとかで官位を上昇させる機会が多かったですからね。
家門としては格上とはいえ、単なる大名(しかも途中で形式上の改易を二回も食らってる)の越前家
より官位が上になっても不思議じゃありません。
(続き)
>(詰の間)
> ・通常、帝鑑間は菊間より大身の諸侯が詰めるが、交代寄合の一部もまざっている。
帝鑑間は幕府設立以前よりの譜代の詰め席、雁間菊間は新参官僚の詰め席という了解(内実は
矛盾だらけ)です。帝鑑間詰めの交代寄合は、元帝鑑間詰め大名もしくは大名になり損ねた三河
以来の譜代ですから、詰の間としては成り上がり者の雁菊よりは帝鑑間の方がふさわしいでしょう。
> ・柳の間は外様が詰めるとされるが、交代寄合も詰める。
柳間は、なんかいろいろ詰め込まれてるという印象が。
> ・ところで、大広間と溜間ってどっちが上なのだろう?帝鑑間と雁間は?
形式上は、大広間>溜間 帝鑑間>雁間 ですね。大広間や帝鑑間は表大名(いわゆるお客様)の
間で、溜間や雁間菊間はいわば将軍家の使用人の間ですから。ただ実質は、やっぱり幕政に関わる
機会が多い後者の方が上になっちゃうんでしょうね。吉宗なんかは、「雁間より帝鑑間の方が上なん
だから、雁間にいる本来帝鑑間の大名は元の席に戻れ」と命じてます。
(さらに続き)
>(松平姓)
> ・松平姓をなぜか無くしている多古藩主久松家>交代寄合の福本池田家(松平姓)
> →池田家の祖は家康の外孫でいわゆる准家門の家系
え?無くしてましたっけ?維新後の話じゃなくて? 久松系の大名は全部松平姓だと思ったんだけど。
>(御家門の家格)
> ・万石レベルに達する以前の創立期の糸魚川松平家、鷹司松平家
> →あとで諸侯になったが、この頃は御家門の扱いをうけていたのだろうか?
糸魚川家は直堅が綱吉に初めて御目見得してすぐに廩米1万俵で諸侯になってますが、結局帝鑑間
詰めで家門扱いはしてもらえなかったような。
それに比べると、鷹司の厚遇は異常ですね。信平初御目見得の四年後に松平姓と従四位下少将って、
並の国持ち大名より上じゃないですか。この時まだ廩米4000俵の旗本ですよ。その後さすがに少将はな
いけど、従四位下侍従は当たり前。忠長御落胤説が出るのも無理無いような気がします。
>960-962
まずは訂正とお詫びです。
・たしかに多古藩主は松平姓。江戸時代に久松を名乗るのは、旗本1200石ぐらいですね。
→多古藩関連の唯一の手持ち資料が間違っていました。ぐぐって誤りを自覚。
・たしかに糸魚川藩は一万俵スタートです。
→これは小生の勘違いでした。この場合、諸侯と言えるのでしょうか?
自前の家臣がいる点では新田藩とは違う。領地が無い点では水戸藩・西大平藩
と違うし。諸侯に分類されない川田久保松平家みたいな存在でしょうか。
・附家老と旗本の格付け比較は微妙ですね。
御三家の家老は附家老以外でも従五位下がもらえます。水戸藩の普通の家老である
鈴木石見守(雑賀孫市)のように数千石クラスでも。この場合は、ホントに身分の
ねじれですね。
・鷹司松平家は高家みたいな存在だったのかも。公家を江戸に呼んで高家になった家
が数家あるので、それが一万石になっただけなのかも。
964 :
日本@名無史さん:04/08/29 19:36
鷹司松平家は大広間詰から大廊下上の間詰になってるから
表高1万石でも格は10万石以上
せいぜい2〜3千石の高家なんかとは比較にならないでしょ
男系で摂家の血を引いてる強みだと思うよ
965 :
日本@名無史さん:04/08/29 23:33
鷹司松平家は紀伊連枝と書いてあるのを見かける。確かに紀伊徳川家から1度養子
が来たことがある。
単にそれだけでは連枝とは言えないように思うのだけれど、実際に本藩・連枝の
特別な付き合いがあったのだろうか、婚姻を通して津山松平家の方が余程親しい
のではないか、と少し疑ってみたくなる。
966 :
日本@名無史さん:04/08/30 00:17
津山松平ってのは
徳川慶喜が隠居して田安亀之助が徳川宗家の家督を継いだとき
松平確堂が後見になってるから宗家との結びつきは強そうだね
>963
>諸侯に分類されない川田久保松平家みたいな存在でしょうか。
川田久保家(松平但馬守家)が諸侯に分類されない、とは?
というより、ここでいう「諸侯」とはなんですか?尾張家の連枝として
「万石以上の直臣」の格式で遇されている以上、形式上は他の「万石以上」
の各家と区別する根拠は無いように思いますが。
>965
紀伊頼宣の婿になっていませんでしたっけ?
後、養子をむかえた後は、鷹司系と紀伊系がしばらく迭立していたような。
969 :
日本@名無史さん:04/08/30 02:46
>>967 武鑑や藩翰譜で諸侯として扱われてないでしょ
970 :
日本@名無史さん:04/08/30 20:08
>>969 藩翰譜は元禄14年に起稿され、完成したのは正徳2年のことだが
松平友著が分家独立したのは、正徳元年のことなので
藩翰譜には取り入れられなかったのではなかろうか。
また武鑑はあくまで民間の出版物だし
正徳から元文期あたりだと、まだ形式も固まっていない。
のちには10万石の格式で扱われる喜連川家なんかも
初期の武鑑では高家として扱われていたりするし。
971 :
柴門たまき:04/08/30 20:11
ちんぽ
972 :
日本@名無史さん:04/08/31 13:21
鷹司は家光正室弟
津山は越前嫡家
973 :
日本@名無史さん:04/08/31 14:07
本来は秀忠兄の越前家>秀忠隠し子の会津家
だが、
越前両家で5回も改易されてる。
1忠直
2光長
3光通
4宗昌
5浅五郎
974 :
日本@名無史さん:04/08/31 14:08
越前家の改易→再興は一門払いと中央の言いなりにするためらしいよ
975 :
日本@名無史さん:04/09/01 00:35
>>970 川田久保の松平友著って、大広間つめだったのかな。
ところで、旗本に詰めの間があるのに、資料では喜連川藩は無席ってなっている
のは間違いなのだろうか。
976 :
日本@名無史さん:04/09/01 11:11
>>975 喜連川家は年始御礼に登城するが
他の大名のような参勤交代は義務づけられていない。
したがって詰間は定められいない。
4代昭氏までは大広間中段で年始の御礼を行っていたが
寛文8年昭氏が病気のため、弟氏信が名代として参府したときには
名代ゆえに大広間下段での御礼となり
氏春の代に先規への回復を願い出たが、認められなかった。
このあたりの事情については、専論があったはずだが
題名を思い出せない。スマソ。
977 :
日本@名無史さん:04/09/05 16:43
>976
なるへそ。
参勤交代の義務はないが、定府でもない。
こういうのは、旗本を含めて他になさそうですな。
978 :
日本@名無史さん:04/09/05 22:43
喜連川家は5千石なのに、大名扱いで明治には華族にもなった。
こういうのは、旗本を含めて他になさそうですな。
979 :
日本@名無史さん:04/09/06 00:30
交代寄合では結構あるよ。
山名・生駒・平野・新田岩松
後、忘れちゃいけない。、大沢!
浜名湖の湖面を石高に計上して諸侯になるが、ばれて取り消される。
これこそ本当の水増し。
980 :
日本@名無史さん:04/09/06 09:47
>>979 山名・生駒・平野は明治元年に加増されて大名となっている。
新田岩松は維新後男爵となるが
諸侯年表には記載されていないので
諸侯の扱いは受けていない。
ちなみに喜連川家は復姓後の足利家として記載されている。
981 :
日本@名無史さん:04/09/06 09:53
なお喜連川は山名などのような加増は受けていない。
明治2年の領高は6925石だが
江戸時代の10万石の格式で、華族(子爵)に列せられている。
982 :
次田大三郎:
喜連川は江戸場内では無席ってことですが、登城の際にはどうしていたんですか?