解決黒頭巾さんに質問

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さて、神代文字について、その起源または原型を大雑把に分類してみますと、
だいたい下記のようになります。

@インド系文字
A漢字の古字体(金文、篆書体など)
B漢字系文字(契丹文字、女真文字、西夏文字など)
C漢字変形文字(陰陽道など呪符に使われる文字)
Dモンゴル文字が変形したもの
Eかな文字が変形したもの
Fハングルの変形したもの
G沖縄の縄文字を図形化したもの
H絵文字
Iその他

まあ、あくまでも私個人の考えですが。
953日本@名無史さん:03/06/23 19:10
古史古伝って全て19世紀初頭に写本されたものだろう。記紀にしてもしかり。
だから神代文字といっても江戸時代の学者が読めるレベルだから19世紀初頭まで
旧かな使いに統一されていなかったと考える方が自然では??
954日本@名無史さん:03/06/23 19:16
京都御所は聖徳大使のパトロンだった元、秦河勝邸で沼地だった京都を開墾し平安京も
建設したのは秦氏って本当ですか?
書紀はそれまで書かれた古神道の文書と比較して2割2分しか整合しないから
残りの78%は偽書(原田常治)といってたが明治の廃仏毀釈の際国家神道にあわない古神道
の文章が焼かれたがその時平安京は794年に桓武天皇(神武天皇モデル)が作った事で
統一したが、実は平安京を作ったのは秦氏かもしれないとのこと。
ちなみに秦河勝が建立した神社はかずおおく広隆寺など有名。下加茂神社と松尾大社は3社まとめて
「秦氏三所明神」。全国の八幡神社、稲荷神社、山岳神社 も確立させている。

>>953
う〜む、そう切り返されると・・・
>>954
平安京の建設には秦氏も関わっていたことは事実ですが。
賀茂氏は秦氏の一族ですし。
ちなみに薩摩の島津氏も秦氏の一族である惟宗(これむね)氏の出身です。
>>954
明治の廃仏毀釈の時に、それまで寺院で保管、管理していた神社の由来書が
仏教の教典とまちがえられて燃やされた事例はかなりあるようですね。
(たとえば、関東や東北地方に伝わっていた第六天信仰とか)

まあ原田常治氏も神社の由来について記紀と比較するまえに
まだ当時は伝えられていた(=現在は伝えられていない)神社の由来について
その記録を残してくれたのであれば、もっと評価されたはずですけどね。
958日本@名無史さん:03/06/23 22:56
950です。

なるほど、一口に梵字といっても、その出所はたくさんあると。

では第六天の事が出たついでに質問。

本能寺の変についてどう思われますかな?
959日本@名無史さん:03/06/23 23:54
『K.OKADAワールド』は、非常に格式の高いカスターリエンです。2ちゃんねる等のメンバーにおいて
一般的な感受性の乏しい下界の凡人の皆様のような瓦礫、社会でもまれ下界の凡人に迎合しすぎた
ため大切な自分の感受性を摩滅させてしまったような瓦礫になりすまった皆様、作曲も演奏も出来ない
のに音楽を生活の糧にしているような卑しい音楽業界人をはじめとして、楽器の演奏も作曲も出来ない
のに音楽評論家のいうたわごとの集積のような知識でもって私の音楽が感知出来るなどと、とんでも
ない勘違いをしている皆様は、全員退室、音楽を真摯に見つめ直すなどの作業をすませて出直して
らっしゃい(笑)。音楽を皆様方瓦礫の聴衆が選べるだけだなど、とんでもない考え違いで、逆に、音楽が
聴衆を選ぶのです。お問い合わせは、メールでどうぞ。(岡田克彦)
960日本@名無史さん:03/06/23 23:55

『K.OKADAワールド』は、非常に格式の高いカスターリエンです。2ちゃんねる等のメンバーにおいて
一般的な感受性の乏しい下界の凡人の皆様のような瓦礫、社会でもまれ下界の凡人に迎合しすぎた
ため大切な自分の感受性を摩滅させてしまったような瓦礫になりすまった皆様、作曲も演奏も出来ない
のに音楽を生活の糧にしているような卑しい音楽業界人をはじめとして、楽器の演奏も作曲も出来ない
のに音楽評論家のいうたわごとの集積のような知識でもって私の音楽が感知出来るなどと、とんでも
ない勘違いをしている皆様は、全員退室、音楽を真摯に見つめ直すなどの作業をすませて出直して
らっしゃい(笑)。音楽を皆様方瓦礫の聴衆が選べるだけだなど、とんでもない考え違いで、逆に、音楽が
聴衆を選ぶのです。お問い合わせは、メールでどうぞ。(岡田克彦)
961日本@名無史さん:03/06/23 23:57


『K.OKADAワールド』は、非常に格式の高いカスターリエンです。2ちゃんねる等のメンバーにおいて
一般的な感受性の乏しい下界の凡人の皆様のような瓦礫、社会でもまれ下界の凡人に迎合しすぎた
ため大切な自分の感受性を摩滅させてしまったような瓦礫になりすまった皆様、作曲も演奏も出来ない
のに音楽を生活の糧にしているような卑しい音楽業界人をはじめとして、楽器の演奏も作曲も出来ない
のに音楽評論家のいうたわごとの集積のような知識でもって私の音楽が感知出来るなどと、とんでも
ない勘違いをしている皆様は、全員退室、音楽を真摯に見つめ直すなどの作業をすませて出直して
らっしゃい(笑)。音楽を皆様方瓦礫の聴衆が選べるだけだなど、とんでもない考え違いで、逆に、音楽が
聴衆を選ぶのです。お問い合わせは、メールでどうぞ。(岡田克彦)
962日本@名無史さん:03/06/24 00:28
どうち手高句麗語は日本語に似てますか?
963日本@名無史さん:03/06/24 00:31
>>962
高句麗・百済はツングース系なのに対して
新羅はモンゴル・スキタイ系だから(by豊田有恒)
964日本@名無史さん:03/06/24 00:32
なんでこんな所にヲカーがいるんだよ(w
965あああ:03/06/24 00:33

僕のホームページです。
http://www.hl-homes.com/
画像掲示板を設置して、拾い物貼ってます。
ちょっと重いですが、激エロコレクションを公開してるので
来てね。

966日本@名無史さん:03/06/24 00:39
>>965
ブラクラ
967日本@名無史さん:03/06/24 00:42
ぬるぽ
968日本@名無史さん:03/06/24 01:45
学べ香りの特命少女というラジオ番組の構成台本手がけていますが
学べサンに聞きたい事ありますか?
969スレたて屋:03/06/24 02:26
僕が作った掲示板恐ろしいほど見てくれる人が増えています。
970日本@名無史さん:03/06/24 04:44
それは岡田克彦先生のご威光(七光り)でございはょう。
971日本@名無史さん:03/06/24 05:23
>>968
明治天皇が大室寅之祐になったかどうか聞いたら?
972日本@名無史さん:03/06/24 05:25
>>968
鹿島さんのちんぽのでかさを特命調査しる!!
973日本@名無史さん:03/06/24 05:28
>>969
厨房板にスレッド立ったね、おめでとう西都くん(嘲笑
974日本@名無史さん:03/06/24 05:35
「地家逝つてよし(昭和八年五月八日 朝日新聞)」

容疑者地家安政(以下壱)「弐ちやんぬる(東亰府赤羽)」なるヰンタネツト掲示板(假想會合場)に
古今未曾有のくそスレツド(話し場)建てり。
壱は定職にもつかず毎日(まひにち)/\上掲示板にくだらぬ書き込みをつゞけ、
周圍の人間の嘲笑(ちよふしよふ)を買ふもあきたらず、 つひに自分で建てり。
しかし壱では役不足、結局(けつきよく)嘲笑の書き込みすらされず「ダツト逝き」さるるが、
その直前に情けなくも自分で自分を勵ませり。
またこの時わざと人の目にさらさるるやうに「あげ」と呼ばる邪法を用ゐる。

壱には不敬罪、治安維持法違反の容疑(やうぎ)も掛けられ宮内府、特警察からの追及もさるる見込み。
壱の毋親は「息子の不始末を悲しく思ふも壱は潔く死ぬべし」と話せり。

社説:
今囘(こんかひ)の壱のやうなばかやらふを人は「えた非人」と云つてばかにせり。
このやうなことに陷ればもはや生きていく價値はなし。もはや滿州人・朝鮮人との比較にもならず。
>>958
織田家の後継者問題

が大きな要因であった事は間違いなく断言できますが、
これについては織田信長の息子だけでなく、甥の織田信澄も織田家の後継者候補だと
言う点まで視野を広げてみると、なぜ明智光秀が織田信長・織田信忠を討ったのか、
その背景が浮かんできます。
明智光秀は織田信長の正室の斉藤氏とはいとこであり、
また織田信澄の義父として織田家とは二重の閨閥関係を持っておりました。
織田信澄の父は、かつて織田信長に対して擁立された織田信行であり、
その擁立者の一人には柴田勝家もおりました。
また光秀の娘は柴田勝家の養子、柴田勝豊に嫁いでおり、
織田家家臣団とは閨閥関係を築いておりました。
さらに最近になって発見された「肥後安国寺文書」に記された
明智光秀の側室とされる原仙仁の娘ですが、
どうも豊臣秀吉の一族の杉原氏の可能性が指摘されており、
となると、豊臣秀吉と明智光秀の間にも婚姻関係が存在していた事になります。

それを裏付けるかのように、山崎の合戦後、秀吉の配下に光秀の孫や
光秀配下の武将の一族が少なからず豊臣家に仕えています。
もっとも原仙仁という人物については、今のところ正体不明でしかなく、
同じ美濃土岐氏の本家筋の「原氏」かとも推察できますし、
また原仙仁ではなく「源仙仁(みなもとののぶひと)」というのが本名で
あった可能性もあり、朝廷の関係者であったかもしれません。

ただ、仙仁(のぶひと)という名前からすると、
もしかしたら皇族出身者ではないかという可能性もありえます。
さて、本能寺の変については朝廷が黒幕だったという説が有力視されていますが
実は朝廷は天正十年時点で、次期皇太子を巡って派閥争いが発生しており、
この状況に対して織田信長が誠仁親王の五男(のちの興意法親王)を
織田信長の猶子とすることでなんとか決着させた(?)ものの、そのことが
誠仁親王の即位を早めようとする公家衆と、
誠仁親王の長男(のちの後陽成天皇)を次期皇太子として擁立する公家衆に
分かれてしまい、この混乱で正親町天皇から誠仁親王の譲位はまたもや
撤回せざるをえなくなり、その事態の打開として、正親町天皇、誠仁親王らと
織田信長の双方から「三職推任」問題が改めて持ち出されたと推測できます。
ここで>>975での織田家の後継者問題について戻りますと、
織田家でもやはり内部対立は起きていたらしく「お湯殿記」等では
織田信長と嫡男、織田信忠との間で不和が起きており、その和解(?)が
天正九年(1581)七月に、正親町天皇が勅使を派遣して行われたことが記されています。

わざわざ正親町天皇が勅使を派遣してまで和解を斡旋する事自体、対立状況が深刻だったことが
窺がえますが、この対立状況の背景には急激に拡大しつつあった織田家の支配地域の
統治方法やキリシタン政策などについて、織田信長は天正8年ごろから政策転換を行っており、
一方で従来の政策を続けようとする織田信忠らと政策面で対立する事態が発生したのではないかと
思われます。これを裏付けるように、キリスト教宣教師側の記録では信忠に対しては好意的に
記しているのに対して、織田信長に対しては次第に批判的になり、しまいには本能寺の変で信長が殺害されると
「天罰が下った」とまで酷評(罵倒)しています。
天正九年(1581)ごろの織田家では「信長派」と「信忠派」に分裂しており、
その派閥について大雑把に分類してみると

「信長派」・・・織田信長、織田信澄、織田信雄
「信忠派」・・・織田信忠、織田信孝、

となります。
さて、明智光秀は「信長派」に属していたようですが、
それがなぜ両「派閥の長」である織田信長、織田信忠を討ったのか、
>>976でのべたように、織田家の正統であり、明智光秀の義理の息子である織田信澄の存在と、
この両派閥の対立を利用して、織田信忠に代わって織田家の家督を虎視眈々と狙っていた
織田信孝の存在があります。
織田信孝は甲斐の武田氏の攻略について事実上の指揮者であったことは
山村文書などから判明していますが、この甲斐攻略は織田信長の命により
天正九年末に、兄の織田信忠に譲らされていますが、
これは信長の五男の織田勝長(=勝は武田勝頼の後継者を意味します)を
甲斐の領主とするための準備だったと推測できます。
織田信孝はその後、それまで明智光秀が担当していた四国の長宗我部氏の攻略に
関わりますが、それまで明智光秀が作り上げてきた(というより辛うじて維持させていた)
織田と長宗我部の関係を完全に破棄する路線に転じたことで、長宗我部氏もまた強硬路線に転じ、
それまで対立していた毛利氏と足利義昭を通じて和解し、
さらに紀伊の雑賀衆、根来衆、顕如を教主とする紀伊の一向宗勢力、高野山などとも連携し、
紀伊、中国、四国の反織田連合を成立させることになりました。
この反織田連合に対して、織田信孝は配下となった三好氏が擁立した
「平島公方」足利義助を征夷大将軍として擁立し、
一方で明智光秀配下の、教如を教主として仰ぐ堅田衆を動員して
足利義昭、もしくは顕如を筆頭とする反織田連合の権威に対抗しようとしました。

ところがこれが信長が行っていた本願寺対策を覆し、ひいては本能寺の変を誘発する
一因ともなります。

信長はそれまで顕如派と教如派に分裂した本願寺勢力をさらに弱体化させるため、
本願寺のなかでも特別な地位にあった興正寺を、本願寺派の正統として扱い、
それによって織田家は興正寺の大檀越として本願寺派内で強い発言権を獲得することに成功しました。
ところが織田信孝がとった行動は、信長の本願寺対策を根本から否定するだけでなく、
勅命に従った顕如派などの存在を否定することにもつながり、
また将軍家につながる人物の擁立や廃嫡された門主の権威に依存する事は
「権威」の意味が低下・有名無実化を招くことにつながります。

一方で、当時はまだ正親町天皇が在位していたものの、
実際には誠仁親王が事実上の「天皇」として世間から見られており、
天皇家ですら二極状態になっておりました。

天皇家も、将軍家も、本願寺も、そして織田家も、政権内部での分立状態を引き起こしている・・・

本能寺の変の直前の政局は、こんな混沌とした状態だったわけです。
ところが、織田家の中には、そういった状況を打破することの出来る
統率力と軍事力を持った集団がいくつも存在していました。

その集団の統率者だったのが明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家などだったわけです。

そのなかで、いちばんはじめに動いたのが明智光秀であり、
最終的に勝利を得たのが羽柴秀吉ですが、
秀吉による権威の統一は、明智光秀によってそのきっかけが作られたものであり、
豊臣秀吉は織田信長の継承者でもあると同時に、明智光秀の継承者でもあると言えます。

「織田が搗き、明智がこねし天下餅、羽柴が丸めて食うは徳川」・・・・・・お粗末。
987日本@名無史さん:03/06/24 23:44
950でつ。
鹿島さん、長文ご苦労様でつ。

>信長の五男の織田勝長(=勝は武田勝頼の後継者を意味します)を
>甲斐の領主とするための準備だったと推測できます。

以前、信長の神格化構想は武田勝頼の後継者という意味もあります、
って書いていますたけど、矛盾してまへんか?
>>987
説明不足だったですね。すみません。

諏訪一帯では第六天の別名は「ミシヤグチサマ(御師屋口様)」とも呼ばれまして、
本来はミシャグチ神という名前です。
記紀では出雲から諏訪に隠遁したタケミナカヅチノミコトに対して
諏訪の支配権を与えた神様とされています。
武田勝頼の母は諏訪神社の神主である諏訪氏ですから、
タケミナカヅチノミコトの子孫ということになり、諏訪神四郎とも名乗ってます。

で、どうも信長が「第六天=ミシャグチ神」を称したのは、
諏訪の支配権をタケミナカヅチノミコトの子孫から取り戻した、
という意味が含まれているのではないか、と思いますが・・・
(続きです)
織田勝長には源三郎と言う名前もありますが、
これは武田家の祖先である「源義光(新羅三郎)」を指す名前なのではないかと・・・
あと、武田勝頼から織田信長のもとへ返された時、すでに一児の父になっているんですが、
この勝長の妻というのは武田一族出身で、勝頼の養女だったのではないかと・・・
ともかく、武田勝頼の持っていた

@神(の子孫)としての側面・・・・・・織田信長
A武田家の継承者としての側面・・・・・・織田勝長

と、親子でそれぞれの側面を分割したのではないかと思いますが・・・
991誘導:03/06/25 15:32
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1047627900/l50
もうすぐ1000になるのでこちらへ書いてくれませんか???
992日本@名無史さん:03/06/25 15:49
鹿島さんよ。百済の建国神話と神武建国神話は重なるとおっしゃられていたが
本当に百済国は300年も続いたの??
王の代数が50代とかってデンパクサイと思わない?
それとも百済の歴史を日本の歴史にうつしかえたのか??
>>992
>百済の建国神話と神武建国神話は重なるとおっしゃられていたが
熊が登場するところはたしかに重なると言えば重なりますが。

>本当に百済国は300年も続いたの??
百済が滅亡したのは西暦660年ですので、高句麗の楽浪、帯方占拠(313年)と
百済の建国・成立は無関係とは考えられないので、
少なくとも300年の歴史はあるはずです。
>王の代数が50代とかってデンパクサイと思わない?
水増ししている事は確かですね。ただ、古事記や日本書紀同様に
追加分の元ネタは、だいたい推測できますが・・・

>百済の歴史を日本の歴史にうつしかえたのか??
三国史記や三国遺事に記載された内容(とくに百済に関する記載)は、
編纂当時、百済の記録について、高麗国内にはほとんど残っていなかったのでは
ないかと考えられており、そうなると、百済について、少なからず記録を残している
古事記や日本書紀から引用された可能性も否定できません。
995日本@名無史さん:03/06/25 20:00
鹿島さん、新井氏のデムパ説についてなにか言ってやってくだちい。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1047627900/365
>>995
なにか
というのは冗談ですが、1684年、康熙帝の命によって、明の皇族の子孫は
@安徽省の鳳陽
A湖南省の長沙
B北京郊外の明陵
C南京郊外の孝陵
に移住させられており、とくに@とCにいた明の皇族の子孫は、
太平天国の乱を避けて湖南省の長沙や首都北京に逃れております。

しかし、どうやったらボルネオなんかに移住できるんでしょうかね?
997訂正

×どうやったらボルネオなんかに
○八旗兵の監視下にあった明の皇族の子孫は、どうやったらボルネオなんかに
999岡田克彦:03/06/25 21:24
“音楽は聴衆を撰びます。
クロードやぼくの音楽に撰ばれないような
下界のGKはとっとと出て行って下さい。
さようなら〜〜〜〜〜(笑)”
・・・・・K.OKADA・・・・・

さようなら〜〜〜さようなら〜〜さようなら〜〜さようなら〜〜

〜〜〜〜さようなら〜〜〜〜〜さようなら〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

〜〜〜〜〜〜〜〜〜さようなら〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
1000岡田克彦:03/06/25 21:25

“音楽は聴衆を撰びます。
クロードやぼくの音楽に撰ばれないような
下界のGKはとっとと出て行って下さい。
さようなら〜〜〜〜〜(笑)”
・・・・・K.OKADA・・・・・

さようなら〜〜〜さようなら〜〜さようなら〜〜さようなら〜〜

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