494 :
日本@名無史さん:
宮崎県の西都原古墳、国内最古級の前方後円墳と確認
宮崎県西都市の西都原古墳群にある前方後円墳が、宮崎大学の調査で18日までに、国内最古級と確認された。
築造は3世紀中ごろから後半とみられ、畿内で同じ型式の古墳築造が始まったのとほぼ同時期。大和政権の
影響下に古墳が広まったとする説に一石を投じ、古墳の成立を研究する上で貴重な発見となりそうだ。
確認されたのは、「西都原81号墳」。後円部の長さが約33メートル、前方部が約19メートル。前方部が短く
ばちの形に開いた「纒向型前方後円墳」で、本格的な前方後円墳の前に造られたとされる。南九州では最古という。
後円部の墳丘付近から土器数点が出土。その特徴から築造時期が判明した。
発掘に当たった同大の柳沢一男教授は「大和政権は全国各地の有力者が連合して誕生したとみられ、南九州
の勢力が大和政権の一角を担っていた可能性がある」と話している。
纒向型古墳は3世紀初めごろから奈良県の纒向遺跡で築造され、本格的な前方後円墳の起源とする説がある。
〔共同〕 (18:29)
ttp://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20050518STXKD053118052005.html
495 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 10:30:24
>>494 専門家は学問的な裏付けがないと迂闊なことは言えないが、
オレみたいな素人としては神武東征伝と関わり合いがあるのかなあ、と想像してみる。
496 :
tociguri:2005/05/24(火) 10:58:39
百済の武寧王の棺は日本特産のコウヤマキという木材で作られていたそうだ
が、倭人の証拠ではないか?何故、日本製の棺おけが必要なのだろうか?
497 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 18:56:34
マジ?
499 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 11:49:55
武寧王は日本に帰化できればよかったのに
【「昌寧松硯洞7号墳のクスノキ木棺は日本産」】(前半)
慶尚南道昌寧郡の松硯洞古墳群の中で 6世紀初め頃に築造された第7号墳の「秣桶型(丸太型)木棺」
を作るのに利用されたクスノキは朝鮮半島自生樹木である可能性はほとんどなく、日本列島から入って
来た可能性が大きいことが分かった。
同時期に築造された公州の武寧王陵から出土した王と王妃の木棺も、日本列島だけに自生する金松と
判明したことがあり、5〜6世紀の朝鮮半島と日本列島の間の緊密な交流が、改めて考古学的遺物で裏
付けられた。
松硯洞古墳群発掘調査機関である国立昌原文化財研究所の依頼で、7号墳出土の秣桶型木棺の分析
などに力を注いでいる木材組織学専攻の慶北大の朴サンジン教授(65)は、「漢字で予樟木と表記される
クスノキは亜熱帯樹木で、現在朝鮮半島では済州島以外に南海岸の極一部の地域でだけ自生している」
と15日語った。代わりにクスノキが現在集中自生する場所としては、朝鮮半島周辺では中国中国南部と日本
列島が代表的なものとして挙げられている。
朴教授は、「松硯洞古墳群が築造された三国時代当時に気候がどうだったかによって、クスノキが朝鮮
半島にも自生していた可能性がないではない」としながらも、「当時の植生は現在とあまり変化がないと
いうのが一般的見解であり、したがって松硯洞の木棺の材料であるクスノキが朝鮮半島の生産品である
可能性はゼロに近い」と語った。<中略>
502 :
501:2005/06/25(土) 03:04:05
したがって、この松硯洞の木棺の材木は、当時の歴史的情況から見て中国南部地域と日本列島の2ヵ所
のいずれかである可能性はほとんど確かと思われ、中でも武寧王陵の木棺や昌寧一帯に位置した伽耶
諸国と倭国の緊密な関係を考慮すると、日本列島から持ちこんだ可能性がより大きいと考えられている。
そうした推定は、この7号墳のすぐ隣にある6号墳に対する昨年の調査の結果、石を積んで作った玄室の
壁面全体が朱で塗られていたという点からも、有力に裏付けされている。
道教神学で永遠不滅の仙薬として特に愛用された朱砂(硫化水銀)で玄室壁面を染めるこうした手法は、
古墳時代の日本列島の古墳の埋葬風習として典型的に確認されている。
一方、今年も松硯洞古墳群に対する調査を続けている国立昌原文化財研究所は、長さ3.4m×幅1.2m×
高さ 40cmほどと測定されたこの丸太木棺を、来週中に玄室から搬出して昌原の研究所に移し、保存処理
に入る予定だ。
池ビョンモク所長は、「保存処理施設を既に昨年中に用意しておいた」と語った。
▽ソース:聯合ニュース(韓国語)(2005/06/15 09:28)
http://www.yonhapnews.co.kr/news/20050615/030000000020050615092849K8.html ※文中の「硯」は、本当は石へんではなく山へん。
>>502 そうした推定は、この7号墳のすぐ隣にある6号墳に対する昨年の調査の結果、石を積んで作った玄室の
壁面全体が朱で塗られていたという点からも、有力に裏付けされている。
道教神学で永遠不滅の仙薬として特に愛用された朱砂(硫化水銀)で玄室壁面を染めるこうした手法は、
古墳時代の日本列島の古墳の埋葬風習として典型的に確認されている。
>>124
*武寧王陵(宗山里古墳群)
ttp://inoues.net/korea/buneiou.html 玄室内には木棺が置かれ、その材質となった木材は細胞の分析結果から、日本の近畿地方南部に
しか見られない「コウヤマキ」であることが確認され、武寧王時代の百済と日本の関係、また、武寧王
自身の出自などを巡って論争が巻き起こった。
墓から、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、銅鏡、陶磁器など約3000
点近い遺物が出土したが、驚くべきことに百済製の土器は1点も出土していない。すべてが中国の
南朝からの舶来品であって、この王朝がいかに中国南朝に傾斜していたかを物語っている。
「日本書紀」の雄略天皇5年の条に、「百済の武寧王は、筑紫の各羅(かから)島で生まれたので
島君(せまきし)と言う。」という記事があり、武烈紀にも同様の記事があり、「武寧王の諱(いみな)は
斯麻王と言う。」とある。「三国史記」にも武寧王の名は斯摩となっている。島で生まれたから、斯麻王
という名前が付けられたという。各羅島は、現在の松浦半島の突端にある呼子島の真北にある
加唐島(かからじま)のこととされている。これは一体何であろうか?
武寧王の陵墓が発見されたことで、これらの記事の正しさが立証されたが、では斯麻王すなわち
武寧王は日本人なのか? どうして佐賀県で産まれたのか?
『木棺中央部に大量の貴重な水銀朱』1月12日発表
竪穴式石室に敷き詰められていた朱(赤色の顔料)のうち、被葬者が安置された木棺中央部だけに貴重な
「水銀朱」を大量に使い(厚さ4、5cm)、石室内のほかの部分の顔料はベンガラ(酸化鉄)を用い、
使い分けをしていたことが分かった。
このような使い分けは、弥生中期末の北部九州地方が国内最大の出土例としてある。吉備地方(岡山県
南部)の弥生末期の墳丘墓でも水銀朱を木棺内に厚く敷き詰めた例があることから、初期大和政権が
西日本各地の葬礼様式を取り入れていたことを裏付ける発見といえそう。
朱は死者の再生祈願の呪術(じゅじゅつ)としてまかれるとされる。
ベンガラは鉄分を含む土を焼けば簡単に作れるが、水銀朱は原料の「辰砂」の産地が限られ、製法も
複雑なことから貴重で、これほど大量に使われた例はまれという。
魏志倭人伝は、水銀朱について「その山は丹(辰砂)あり」と倭国の特産物とし、卑弥呼が正始四年
(243年)に魏に献上したと記載。邪馬台国時代に大量に使われていた可能性が高い。
畿内にも「大和水銀鉱床群」があり、邪馬台国が大和にあったとすると入手は容易で、魏志倭人伝の
記述と一致するとの指摘もある。
ttp://www2.begin.or.jp/sakura/kurotuka3.htm