////日本漁民史////

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1日本@名無史さん
ないので立ててみました。

まあ、海彦山彦のころから日本の漁師はガムバってます。
オレのじいちゃん○○灘で漁師やってたという人、まったり書き込んで下さい。
港、潮の流れ、などなどどの時代の事でも好き勝手にどうぞ!
2日本@名無史さん:01/12/06 01:11
面白そうだよね。
「さかなくん」って知ってる?
あいつ漁師やったらいいのに。
3日本@名無史さん:01/12/06 12:33
なんで富山でこんぶ消費が盛んなの。
江戸時代に蝦夷地からの廻船のルートでもあったのか?
4日本@名無史さん:01/12/06 14:10
鯨組の子孫の方いらっしゃる?
武勇伝を聞きたい。
5日本@名無史さん:01/12/06 15:20
俺が産まれたのが瀬戸内の漁村。
船上生活者がいなくなったころかな。
そのころまでは子どもを長期の漁に連れて行くので、町に寮があって、学校の先生が勉強させてあげてと頼みにいってたようだ。
漁師には読み書きができればじゅうぶんだと追い払われる毎日だったようだ。
6陸かっぱ:01/12/06 21:42
>>5
オレは関東なんで初耳です。
船上生活者というのは、船が住居なんですか?
その船にはどこか決まった港があったんですか?
7日本@名無史さん:01/12/06 22:42
>>5
漂泊民のことですか?
俺も関東の農村なのでそういう人は
あんまりご縁がありませんでした。
詳しい話聞きたいです。
8日本@名無史さん:01/12/06 23:28
民俗学って漁民を取り上げることが多いよね。
アチックミューゼアム出身の歴史家も,そろって漁村史やっていたし。
95:01/12/06 23:41
僕の父は、中学校の教師だったので、本人の希望で初赴任地がその漁港だったようです。
赴任して間もなく、なにやら物音がするので校舎の裏に行ってみると、複数の中学生が校長先生の頭を下駄で殴っていたそうです。
「おまえ、ワシにがんつけたじゃろうが(ぼくをにらんだでしょう)」
その前日、父は網元の家に行ったのをみてた中学生達は、急いで逃げ出したそうです。

子どもの親たちは、そんな子どもを元気があって頼もしいという認識です。(今でも)

自転車泥棒をした親を警察に呼び出したら、「そんなことで呼び出すな」と警察が怒鳴られることもあるようです。

暴走族の活動が、極めて活発な地域ですが、その親たちはさほど「不良」視していないように思います。

勝手な想像ですが、そのバイクに乗って荒らし回る少年達の先祖は、小舟に乗って海賊をしてたことでしょう。
中央に対する根本的には従属しない意識が根強いことを感じます。
古くは藤原純友、村上武吉が中央に反旗を翻しました。
仁義なき戦いでも有名ですが、ここの地域は山口組にも従属してないようです。
野球では、巨人ファンは地域コミュニティから排除されるところもあるほど反巨人色が強いとこでもあります。

このへんは、天皇&中央政権と漁民の長年の関係を物語ってるように思います。
漁民が天皇グループと仲が悪いと言うより、対抗意識が強いと言えるのではないかと思います。
10日本@名無史さん:01/12/06 23:54
農民も漁民も隣接して生活してるのだから
農民と漁民の対立の歴史も存在してるんではないかな。
スンゴク興味の湧くスレだね。
そういえば日蓮も勝浦の漁民だった。
体制への反発心もあるかもね。
まっ、網野系に流されず、イデオロギーに捕らわれないスレになって欲しいな。
111です:01/12/07 11:56
レスがまったくなかったらどうしようかと内心ビビっていたのですが、興味深い話をいろいろありがとうございます。

私の曾祖父の一人は漁に出たまま嵐に巻き込まれて帰って来なかったという人物です。
漁民の話なら何でも聞かせて下さい。
12日本@名無史さん:01/12/07 20:58
近代の漁業史だと,山口和雄や羽原又吉(ゆうきち)を読むといいよ。
13日本@名無史さん:01/12/07 21:08
>>3
大丈夫か? 北前船って聞いたことあっか?
14日本@名無史さん:01/12/07 21:24
士農工商だと
農の部類に入るんでしょうな?
15日本@名無史さん:01/12/07 21:39
「農工商」という身分は実際にはなくて、みんな百姓でっせ。
なんか上のほうで網野系に流されずと言ってるおっさんがいるが、
身分的には区分はないっしょ。

魚を売る行為は「商」だし、加工するのは「工」でもあるし、
同一世帯がそれらを一度にやることもあり得た。
16日本@名無史さん:01/12/07 21:56
江戸時代に関西の漁民が東へ西へと移住し、各地に鯨・鰹・鰯などの
漁法を伝えたといわれていますね
その足跡は東北から九州と日本の端から端にくまなく残されています
17日本@名無史さん:01/12/07 22:00
瀬戸内だけど、一つの村の中でも漁民と農民はほとんど交流はないよ。
婚姻も少ないのでは?
18日本@名無史さん:01/12/07 22:08
関西の漁民は山内丸山の縄文人に鯨・鰹・鰯の漁法を伝えたんだね。ズワーイ。
19日本@名無史さん:01/12/08 00:47
房総の漁法は南紀熊野あたりから伊豆と伝わったものだったのでしょ。
刺し網漁だっけか?
20日本@名無史さん:01/12/08 02:36
茨城の鹿島には紀伊から鯨を追ってやってきた人々の
子孫が今でもいますよ。
21日本@名無史さん:01/12/08 03:43
鯨組で巨万の富を得た深なんとかって人は士身分だよ
22日本@名無史さん:01/12/08 08:00
あの福本和夫も,転向後「日本ルネサンス史論」ってのを書いて,
捕鯨業に高い評価を与えていたなー。
23日本@名無史さん:01/12/08 09:09
宮本常一も忘れちゃいかんのでは?
『忘れられた日本人』所収の「梶田富五郎翁」なんかは
魚を追って対馬に村を開いた人々の末裔の話だよ。
でも漁業権なんかは昔どうなっていたんだろう?
ポッときて魚をとっていくということができたんだろうか?
海外に出た人もいるんだろうし、インド洋まで進出している
という話もあったなぁ。
会わせて佐野眞一のルポを併読するのがよいかと。
24日本@名無史さん:01/12/08 10:03
>>19
安房勝浦とかには、紀伊の勝浦の人たちが来たんですよね。
他にも元地名を分家として受け継いだ関東の土地はありますか?
25日本@名無史さん:01/12/09 17:16
すんません、鯨組について教えて下さい。
26日本@名無史さん:01/12/09 17:50
太地の捕鯨というのは、戦乱が収まって無職になった武士が
始めたものらしいです
何艘もの船で取り囲み、網と銛を使って鯨を捕らえる漁法は
紀伊藩が水軍の訓練をしているのではないかと幕府から
疑われるほど勇壮なものだったらしいです
27日本@名無史さん:01/12/09 18:50
>>24
江戸には紀伊の地名が多いと聞いたが
28日本@名無史さん:01/12/09 21:27
>>24
勝浦、白浜、須原・・・・
29日本@名無史さん:01/12/09 21:54
随分マイナーな話題っすね
一応日本史板の癌となっているアズマへの規制の一環として
ローカルルールの制定をしようと思っているのですが
同意していただけますか?
30日本@名無史さん:01/12/11 14:04
今でも漁民の世界は網元を中心にした社会構成になってるんですか?
31日本@名無史さん:01/12/11 14:45
今は漁協じゃない?
32日本@名無史さん:01/12/11 15:25
>>29
キミの頭がマイナーと思われ。

中公新書の『中世の風景』(上)では,石井進が,いきなり冒頭から
川の民・海の民をテーマにネタふりをしてますな.激おもしろ.
33日本@名無史さん:01/12/11 19:18
鯨組で巨万の富を築いたのは”深沢儀太夫勝清”だな。
34 :01/12/11 22:17
自分は漁師ですが、>>31の通りです。
>>5
はっきりいって、行政の作ったシステムはうざいですなあ。
地元の役所の水産課に反発(理不尽で時代のコンセプトに合わないことを言うんだよね)しています。血ですかねえ?爺さんは戦時中は近衛兵だったんですけどねえ。


九州住まいで、爺さんが備前日生の出身だが、戦前はスマトラ・ボルネオに進出して漁をしていた人がいたとのこと。
35日本@名無史さん:01/12/12 11:24
>>34
近衛兵を出したとなると、それなりの家でしょう。水産課の小役人風情なぞをマトモに相手にしてやる気がしなのでは。
36日本@名無史さん:01/12/12 17:04
瀬戸内の船上生活者の方々はその後、漁業から離れてしまったのですか。
代替わりと共に、近畿圏などの産業系に就職していったとかでしょうか。
37日本@名無史さん:01/12/12 18:41
瀬戸内の漁村は、若い人はあまり残ってないよ。
でも漁村の人達は金持ちも多い。
遊びの船と漁業の船とジェットスキーを持ってる人も珍しくない。

しかし、盆正月の里帰りはまめだね。
38日本@名無史さん:01/12/13 03:20
>>37
それは普通の家に外車と国産車とバイクがあるっつう感じでしょうか。

若い人がいないのは、21世紀半ばまでに瀬戸内の漁村が衰退しそうで悲しいですな。
39日本@名無史さん:01/12/13 19:43
飢饉が起こったとき,漁村はどういう状況だったんでしょうかね。
40日本@名無史さん:01/12/14 05:32
逆に農村が豊作でも、不漁続きで魚飢饉ということもあったのでしょうか。
41 :01/12/14 16:49
34です。
>>35さん、技官や大学の研究者とは親しくしています。
>>38さん、潰れるのもやむなし。自分は若いんですけどね。今のところ、農水省の政策は戦略としては成功している。零細漁業者を残すことについてですが・・・。
>>39さん、戦後の食糧危機のときは魚ばっかり食べてビタミン不足の症状を呈していたとのこと。
>>40さん、ありえます。現在、うちの地区は魚飢饉。
昔は製塩業や海運業、水先案内、水軍、海賊、港湾荷役に進出していると思われる。
42日本@名無史さん:01/12/14 17:00
漁民は農民とは異なり、土地に縛られる必要がなく、魚がいなくなれば
移動するという生活ができていたでしょう
漁業権という考え方が生まれてきたのは、おそらくは江戸時代に入って
からのことではないかと思いますが、それでも海が自由な領域だという
考え方もあったのではないでしょうか
43日本@名無史さん:01/12/14 18:43
>>42
非常に面白い問題ですね。やはり船を繋ぐ港がそれなりにないと、移動漁労はきついのではないかと思います。
江戸以前でも港の使用権をめぐって、かなり海洋の自由は制限されていたのではないかと思うのですが。

34さん、現在の港の使用は、各地の漁協ごとに使える場所が決められたりしているのでしょうか。
4442:01/12/14 21:55
船の材質が漁村の土地利用のあり方を変えた、という話を聞いたことが
あります
船が木製だった頃には乾燥させる必要から陸上に引き上げていたのが
PP(強化プラスチック)製になってからはその必要がなくなったために
砂浜が潰されるようになったという話です

この話を参考にすると、漁民が移動する先で必要だったのは船を繋いで
おける港なのではなく、船を引き上げることができる砂浜だったのでは?
と考えることができると思います
船は砂浜に引き上げておき、人は砂浜に立てた小屋に住み込むというの
が基本的な生活スタイルだったのではないでしょうか
45日本@名無史さん:01/12/14 22:33
住宅の構造が、船をひっくり返したものと似ていると言ったのはバックミンスターフラー
もちろん竜骨のある船のことだけど
4643:01/12/15 03:38
>>44
それだと確かに移動しながら生活を続けられますね。
とすると、日本の沿岸部の相当広範囲にわたって、漁民文化圏の交流が行われていた可能性があります。陸上の長門国、武蔵国と言った行政単位のように、いわば海の国といった感じで漁民を一体にとらえられるなら夢があります。

まあ、その中でたまに藤原純友みたいなのが暴れ出して大事になるんですが。
47日本@名無史さん:01/12/15 11:09
日本〜韓国〜山東半島〜江南〜福建に至る沿岸の民が大きな文化圏を共有していたとしたら面白い。
48日本@名無史さん:01/12/15 11:27
倭寇文化圏ですか?確かに面白そうですね
49日本@名無史さん:01/12/15 12:55
無理すれば、縄文までさかのぼりますね。
50日本@名無史さん:01/12/15 12:57
178年、鮮ビ族の壇石カイが倭人を連れ去っていったと言うけど
それほど日本の漁民のレベルは高かったのだろう。
51日本@名無史さん:01/12/15 13:17
しかし、気になるのだが・・。
昔の人も釣りをしていたと思うのだが、
釣り糸は何糸だったんだろう。江戸時代あたりは凧糸(木綿かな)
ってことで、いいのかな。
昔の魚は、どんな糸でもつれてたのか・・・。
52日本@名無史さん:01/12/15 13:29
漁民って今でいう乞食みたいなもんなのかな。
53日本@名無史さん:01/12/15 15:00
>52
魚も鰹節も海苔も食うな
54日本@名無史さん:01/12/15 15:01
実際 サンマで喧嘩してる日本と韓国の漁師達って、もとは同じ民族だと思う。
55日本@名無史さん:01/12/15 23:37
まあまあ,真面目に漁民史語りましょうや。
「日本残酷物語」は読んだ?
56日本@名無史さん:01/12/16 03:20
> 住宅の構造が、船をひっくり返したものと似ている

南洋の家の構造は特にそうですよね
57日本@名無史さん:01/12/16 11:30
瀬戸内の海賊はどの時期まで元気だったんですか?
58日本@名無史さん:01/12/16 11:42
最後の水軍村上武吉は、秀吉に負けた。
59日本@名無史さん:01/12/16 13:23
北陸には海賊はいなかったの?
60日本@名無史さん:01/12/17 01:45
もちろんいたでしょ。
輪島水軍とか、若狭にも。
61日本@名無史さん:01/12/17 02:31
結局、通行権だよね。
62日本@名無史さん:01/12/17 02:33
要するに乞食だよね。
63日本@名無史さん:01/12/17 02:55
僕の先祖は、加賀で網本をしていた。
ところが明治維新の頃に…

まずい。
これ以上書くと、詳しい人に一族を特定されてしまうから、止めておきます。
ま、歴史の隅っこに、ちょっと書いてある程度。
64日本@名無史さん:01/12/17 02:57
千葉の漁師は和歌山漁師の末裔。
65日本@名無史さん:01/12/17 03:09
>>和歌山漁師は誰の末裔?
66日本@名無史さん:01/12/17 03:47
紀州はおりじなるだんべ。
67日本@名無史さん:01/12/17 03:49
和歌山の子分ですね房総は。
6839:01/12/18 00:31
>>41
海草ではビタミンを補えないんですかね,,,,。
69日本@名無史さん:01/12/18 09:11
>>59
堅田の門徒で山陰地方への布教を行っていた渡那部藤七という人物が
丹後の海賊と戦って片目を失明したという記録があります

また、秀吉が鳥取城を攻めた際に、毛利配下の瀬戸内水軍が日本海に
回って補給を行ったとも言われていますが、これは山陰地方に水軍の
根拠地があったからこそ可能な作戦だったのでしょう
70:01/12/18 09:40
日蓮も漁民の出身だと聞いたけど
ああいうエキセントリックな性格は農民からは
生まれないんでしょうかね。
71もうしわけありませんが・・:01/12/18 11:20
素人の質問で申し訳ないですが、江戸時代、漁民は主にどのような
税を払っていたのでしょうか?純粋な漁民なら米を作ってないので
年貢ではないでしょうし。何かの形で金納だったのでしょうか?
それとも物納?
72日本@名無史さん:01/12/20 11:15
江戸時代も後半は相当貨幣経済が進んでましたからね。
地方によって色々でしょうが。

網元が農村部の大地主に当るんでしょうか。
73金納だったと思います:01/12/20 19:33
>>71
明和元(1764)年の「南部藩勘定規定」には鮭塩引は銭15文、鰤・鱒は
銭6文、新鱈棒鱈は銭7文、塩鰹は銭5文、鰹節は銭1文などとあります
(いずれも一本あたりにかかる税金です)

ちなみに、当時の東北地方で作られていた鰹節はカツオ1尾を六つ切り
にしたものでしたので、カツオ1尾では6文となり、カツオを塩漬けにした
塩鰹の5文より少し高い金額です
74【^▽^】縄文太郎ジョーカー:01/12/20 19:55
家船を応援致します。
75もうしわけありませんが・・:01/12/20 22:49
>>73さんありがとうございます。自分でもネットで検索してみたところ、
船役永、浦運上、干鰯運上、五十集運上などの税があったようです。
まあ安易にネットで調べ検索しただけなので詳しくは分からないのですが・・
でもやっぱり金納っぽいですね。
76日本@名無史さん:01/12/21 12:08
現代では勿論、金納ですよね。

漁協から天引きですか?
77 :01/12/21 18:29
2ヶ月連続労働の上に年の瀬で無茶苦茶忙しい34です。
おかげで髭もそれません。アフガンの北部同盟兵のような顔つきになりました。

>>76さん、金納ですよ。
自分のところは自営業者と同じ要領です。
>>43さん、指定の範囲内に繋留ですね。
>>68さん、補えないことも無いですけど、採れない地域だと厳しいですね。
78日本@名無史さん:01/12/21 18:49
知らなかったことが多いなぁ。
ためになるわ。
79日本@名無史さん:01/12/23 01:32
大日本水産会って今も強い組織ですか?
80金納だったと思います:01/12/24 16:40
地域によっては物納だった例もあります

薩摩藩が薩南諸島の島々に鰹節の貢納を課していたのですが、鰹節を
生産していなかった島に対しても農産物を鰹節に交換して貢納すること
を命じていました

これには薩南諸島ではカツオ以外の水産物には期待できなかったことと
鰹節が清との交易の主要品目だったことという理由があったようです
(薩摩藩は鰹節の生産・交易に厳しく統制を加えていました)
81エノキ:01/12/24 16:40
 山田。
82日本@名無史さん:01/12/24 17:11
明治以前の日本のすべての漁法を考えたのは紀州人である。
っていうの聞いたことある。
8371:01/12/24 19:10
「金納だったと思います」さん色々ありがとうござい。本当に
漁民について知らないことがおおいです。
84日本@名無史さん:01/12/24 19:10
>>83
ローカルルール投票よろしく!
85日本@名無史さん:01/12/25 06:29
江戸時代以前は、漁が暇な時期には運送、港の普請、(海賊?)等をしていたんでしょうか?

或いは、半農半漁の村が多かったのかな。
86日本@名無史さん:01/12/28 15:09
>>82
そりゃ、いくらなんでも言い過ぎだ
87名無し:01/12/29 01:21
そういえばヘミングウェイが
「一度紀州の漁師と勝負をしてみたい」
といったという話を聞いたことがあるけど
がせねたっぽいね
88日本@名無史さん:01/12/29 02:56
屁ミングウェイの分際で、紀州の漁師に勝つ気とは・・・。
89日本@名無史さん:01/12/29 07:28
いったい何の勝負をするつもりだよ、ヘミングウェイと紀州漁民
白くて大きな鯨でも捕りに行くのかよ
90日本@名無史さん:01/12/30 21:00
三陸はどうよ?
91日本@名無史さん:01/12/31 11:38
マグロ漁船の女なんているんかいな?
もし事実ならマグロの漁師は人間の
屑。後は海に棄てるらしいからな。
92日本@名無史さん:02/01/01 15:17
出漁中に正月を迎えたら、漁師のみなさんはどうするんですか。

正月くらいは漁に出ないものなのでしょうか。
93日本@名無史さん:02/01/01 16:38
>>60 もちろんいたでしょ。輪島水軍とか...
初めて聞いたが、輪島市には舟泊まりできる港がないが、根拠地は何港?
94日本@名無史さん:02/01/01 16:50
『信長の野望 嵐世紀』には諸勢力として輪島水軍というの
が出てくるらしい
(やったことないので、詳細はわからん)

http://www5b.biglobe.ne.jp/~pakaran/suigunn.htm
95日本@名無史さん:02/01/01 17:30
>>94
信長の野望ってゲームのこと???。織田軍が日本海側で海戦をした史実は無いはずだが。
9694:02/01/02 14:39
信長以外の大名を選んで遊べるのを知らないの?
北陸地方では朝倉や畠山、上杉なども選べるよ
(昔のでは本願寺は加賀の大名として登場していた)
97日本@名無史さん:02/01/03 16:28
>>95
信長は越前と越中を領していたんだし、日本海側の水軍と争う
こともあったんじゃない?
(一向宗に与する水軍もいたかもしれないんだし)

輪島の上時国家・下時国家は代々廻船業や鉱山の経営などを
営んでいたそうだけど、これの前身は水軍だったのでは?
(時国家には多量の古文書が残されていたことで有名だよ)
98日本@名無史さん:02/01/05 21:14
>97
>上輪島の時国家・下時国家は代々廻船業や鉱山の経営などを営んでいた
っていうのは、江戸期以降の事じゃないの。戦国期は畠山氏の家臣がこの地域を掌握しており、
畠山氏は河内の本家も能登の分家も内輪揉め好きで陸戦に明け暮れ、水軍の相手も意味も
なかった。
9997:02/01/06 08:56
「陸戦に明け暮れ、水軍の相手も意味もなかった」とはいっても、
十三湊の発掘調査などからもわかっているように、中世期には
日本海側での交易活動が盛んに行われ、蝦夷地でのアイヌとの
交易や日本海を横断しての大陸との交易も行われていたんだよ

その当時の海が安全に航海できたとは思えないし、その交易に
携わっていたのは海賊的性格を持っていた集団だと考えたほうが
自然なんじゃない?
それが江戸時代に入ってから廻船業などに転身したんではないか
と推測しているんだけど?
100日本@名無史さん:02/01/06 09:20
>>99
そんなとこだろうね。
別に大名家の分裂とは関係ない話。
101日本@名無史さん:02/01/06 15:51
>>93
>輪島市には舟泊まりできる港がない

それって、いつの時代のこと?
現在では輪島港から定期船が出てるけど?
http://www.city.wajima.ishikawa.jp/kankou/sima/sima.html
102日本@名無史さん:02/01/06 16:27
>101
現在の輪島港は、築港じゃないかな。舟泊まりできる港というのは、しけや冬季の日本海の
荒風から外洋船が避難可能な入り江を有する港という意味です。沿岸漁は別にして、近世まで
外洋との交易港は、外洋側では福浦津、内洋側では香島津の2港だったはず。
103101:02/01/08 13:24
http://mapbrowse.gsi.go.jp/cgi-bin/nph-mm.cgi?mesh=5636073&res=0&offset=0&method=l?1,1194

この地図を見る限りでは、輪島港は日本海に突き出した輪島崎の東側に
あるから、「外洋船が避難可能な入り江」だったと思うよ
また、海士町という地名や住吉神社(鳳至山公園の北東には金毘羅社も)
があることから考えて、輪島は古くから開けた港町であったとみて間違い
ないと思うんだけど…

それと、「だったはず」という根拠は?
104101:02/01/08 13:33
ごめん、こっちの「地名・公共施設による検索」で「輪島崎」もしくは
「輪島港」で検索すると、地図が表示されるので、そっちを見てね

http://mapbrowse.gsi.go.jp/mapsearch.html
105日本@名無史さん:02/01/08 20:36
紀伊国屋文左衛門が嵐の中を江戸へと運び、莫大な富を得たことで
有名な紀州ミカンは、紀州藩初代藩主の徳川頼宣が、漁民の漁閑期
や時化の時の副業にと栽培を奨励したことから広まったそうです

以上、海と山の意外な関係でした
106105:02/01/08 20:44
それと、輪島湊は三津七湊の一つに数えられていますので、
中世期にはすでに都市として成立していたみたいですね

http://kaga.nsk.ne.jp/kagajc/35/kitamae/kitamae/furusato.html
107日本@名無史さん:02/01/08 22:16
古来から能登半島(氷見などの越中国所属の半島部も含む)は先進地で、奈良時代以前から外国人の往来があった。
能登半島は東日本の外国人の渡航地として栄え、そこから京都などへのルートもあったわけだ。
現代でこそ、能登半島は「最果て」という感じがし、
加賀、特に金沢の属国のような僻地だが、昔は逆に外国からの入り口であり、輝ける先進地であった。
加賀はちなみに六十六国の最後に制定された僻地であった。

また、能登と佐渡の関係も結構、緊密で古来より越後と佐渡の関係同様に関係が深かった、
確か、佐渡にもツンクーズ系人の渡来話しがあったはず。
108日本@名無史さん
勃海国と交流があったのは富来町の福浦港だよね。
輪島は古墳時代からさまざまな外国人が渡来する窓口だったらしい。