薩摩島津氏の出自を真面目に論じるスレ

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1日本@名無史さん
島津氏は、明治時代には以仁王の遺子の末裔と称していたらしいですけど、本当の所はどうなんですかね?
(アズマ厨房の荒らしレスお断り!)
2日本@名無史さん:01/12/03 20:56
本当の所はチョン
3日本@名無史さん:01/12/03 20:57
源右大将頼朝遺児
41:01/12/03 21:01
>>3
信憑性あるんですかね?
渡来人の秦氏の流れをくんでいるという説が有力なのでは?
5日本@名無史さん:01/12/03 21:17
源頼朝と丹後の局(比企能員の妹)との間に出来た子を
近衛家に預けたとされています。
丹後の局が惟宗広言と結婚したために惟宗広言の養子となり
惟宗忠久を名乗り島津庄に下向したとされてます。
6日本@名無史さん:01/12/03 21:28
弓月君・・・百足・・・忠久
7日本@名無史さん:01/12/03 21:35
>1
その、以仁王の末裔という説面白い。出典キボーン
8 :01/12/03 22:43
>>5
それって頼朝と忠久の年齢差からいって、作り話とか言われてなかったっけ?
9日本@名無史さん:01/12/03 23:03
>>8
年齢差調べてみたよ

頼朝が生まれたのが 久安3年(1147)
忠久が生まれたのが 治承3年(1179)

年齢差が32歳

全然不自然じゃないと思うよ
10日本@名無史さん:01/12/03 23:10
>>9
 でもさ、頼朝が伊豆で挙兵したのが1180年なんだよ。
近衛家に預けるというのが無理がある。
11日本@名無史さん:01/12/03 23:14
>>10
なるほど、そういう意味か。
それじゃ近衛家に預けたのがいつなのかが問題だね
赤ん坊の時なのか幼児の時なのか
1210 :01/12/03 23:31
 それと「近衛家」というのも無理がありすぎる。
頼朝と同時代の人というと近衛基実・基通だが、親子揃って平清盛の娘を娶ってる。
基通にいたっては後白河院と男色関係にあったのも有名。
 基通は頼朝追討の院宣を出した責任をとって摂政を辞任させられ、
変わって九条兼実が就任。頼朝はむしろこの九条家と親密。
 近衛家は頼朝(幕府)と対立関係だよ。ここに頼朝の落胤がいたとは思えない。
13日本@名無史さん:01/12/03 23:37
>>7
「鎌倉・室町時代人名事典」(新人物往来社)の「島津忠久」の頁に、

幕末、以仁王の遺子説も出たが誤り。

と書いてあった。
14日本@名無史さん:01/12/03 23:55
頼朝説は島津が捏造した偽史。
忠久の墓石まで動かす念の入れようはちょとコワイ。
歴史捏造は島津のお家芸で、
その才覚は維新後の皇国史観に結実した。
15日本@名無史さん:01/12/03 23:59
もしかしたら忠久は近衛家の血すじなんじゃないのかな?
何かの理由があって近衛家から惟宗家へ養子に出されたと考えられないかな?

後に忠久は近衛家の猶子になってるという事も考え合わせるとあながち荒唐無稽ではないかも。
16日本@名無史さん:01/12/04 00:31
一般の系図では
惟宗基言ー広言ー忠久
ただし実は「忠○(忘れた)」の子という。井原今朝男説
17日本@名無史さん:01/12/04 00:31
>>15
 「後に忠久は近衛家の猶子になってるという」これ自体が頼朝落胤説とセットでの
島津家の自己申告であり、裏付けはないと思うが。

 参考までに近衛家は基実が初代であり、彼は1166年に死去(享年24歳)。
その長男、基通が1160年生まれ。基通の長男の家実が1179年生まれ。
可能性としては基通かその弟の粟田口忠良(1165年生まれ)しかないと思うが。

 やっぱり島津は近衛家領荘園の下司職の出身と考えるのが自然だと思う。
18日本@名無史さん:01/12/04 07:13
>近衛家領荘園の下司職

それが惟宗氏を名乗ってた人物だが、ほんとに京都在住の実在の人物の惟宗広言の子だったのかどうかは
まったくわからない。
19名無しさん@1周年:01/12/04 11:13
養子は捏造だろ…

ちなみに惟宗氏の起源
 平安京への遷都は,秦氏の基盤への遷都であり,その財政力によって建設されたとの説もある。883年(元慶7),秦氏は惟宗)これむね)朝臣に改姓されたが,なお各地方には,惟宗とならび秦姓のものも多く,ともに在庁官人,郡司として多く名をとどめている。

宇佐八幡宮→大隈八幡宮の神主は惟宗氏
▼「正八幡宮」を名乗る大隅八幡宮
鹿児島社である。いまでは「鹿児島」と言えば、旧薩摩国に属し桜島に西から対峙する鹿児島市を中心に考えがちだ。しかし秦氏が住んだ鹿児島社あたり(もと日向国曽於郡、次に大隅国曽於郡、さらに桑原郡、現姶良郡隼人町)こそ「鹿児島」だったのである。
「カゴ」とは、天香具山の「カグ」と同じであり「カル」(金、銅)である。霧島山にも宇佐・稲積山にも銅は出ない。ただ、香春岳のみである。「島」とは高島と同じで山と言っていいが、地域でもよいだろう。ヤクザの言う「シマ」もこれを受ける。
大隅八幡宮は、もと隼人の聖地・石体宮(しゃくたいぐう)に発する。神仏習合ならぬ「神々習合」である。大隅国隼人の地主神に、新住民・秦氏の八幡神信仰が架上されたのだ。平安末期の記録には、その神官は辛島氏出自の漆島・酒井氏とある。
なお、秦氏は大隅から薩摩国にも移住した。西方の旧国府があった川内市に新田社という八幡宮がある。現主祭神をニニギ命とするが、その神官・惟宗(これむね)氏とは秦氏である。この社は「亀山」にある。
20日本@名無史さん:01/12/04 12:51
惟宗忠久・忠季兄弟って、中原親能の猶子ではなかったっけ?
21 :01/12/04 22:14
なんか、このスレいいね(チュッ!
22歴史の勉強:01/12/04 22:17
へ〜、島津忠久の生年が1179年。
そうすると、頼朝の奥州合戦の時、忠久はガキなのに、恩賞をもらったことに?
頼朝公のご子息ならではか。
しかし、よく北条の世を生き抜いたものだ、と感心する。

やっぱ、捏造でしょ。
23日本@名無史さん:01/12/04 22:30
秦氏つーことは長曽我部と親戚かよ
24日本@名無史さん:01/12/05 00:18
シマヅはね、ちょんなの ワカル
25日本@名無史さん:01/12/05 20:38
元首相の羽田務も秦氏の出と聞いたことがある。
26名無しさん:01/12/05 21:54
19さん,

感心しました。
大変失礼ですが,
何か参考にされた本があったのならお教えいただけませんか?
27日本@名無史さん:01/12/05 22:18
というか島津の出自はどうあれ
もう歴史の功績だけで十分
島津そのものが名家
28名無しさん@1周年:01/12/07 09:59
>>26
amazon.co.jpにあったやつを載せとくね

日本にあった朝鮮王国―謎の「秦王国」と古代信仰
大和 岩雄 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/456002233X/mansonge-22/249-2413409-9180311

古代朝鮮と倭族―神話解読と現地踏査 中公新書〈1085〉
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/412101085X/mansonge-22/250-5128313-3242659
鳥越 憲三郎 (著)
29(株)目栄:01/12/07 10:51
これも藤原氏の血を引く名族。
藤原氏多すぎるぞ!ゴルァ!!
30日本@名無史さん:01/12/08 14:53
>>22
比企能員の乱に連座して忠久の所領は一時没収されてますね
31日本@名無史さん:01/12/08 16:37
>90
そうそう忠久は中原ではなく比企氏の「ひき」により勢力を伸ばしたんだよ。
32日本@名無史さん:01/12/08 19:48
皇室とかなり近い家ですよね。
香淳皇后の母は島津公爵家の出身で久光の孫。
つまり、現天皇は島津久光の曾孫でもあるのだ。
33日本@名無史さん:01/12/09 03:18
それに実は徳川将軍家とも近い家ですね
11代将軍 徳川家斉の正室 広大院 近衛寔子の父は八代目薩摩藩主島津重豪
13代将軍 徳川家定の正室 天璋院 島津篤子の父は島津忠剛、養父が島津斉彬
34日本@名無史さん:01/12/09 03:21
昭和天皇→清宮貴子→[島津家]島津久永
35日本@名無史さん:01/12/09 03:26
薩摩について語るなら 反薩摩スレを執拗に立てまくるアズマの
追放にも協力的なのでござろうな?
36日本@名無史さん:01/12/09 03:29
>>35
久しぶりにまともなスレなのですから、「ア○マ」の言葉はなるべく書かない方がよさそうに思いますが
37日本@名無史さん:01/12/09 03:45
>>36
臭い物に蓋ではイカン

アズマを一致団結して追い出すことこそが肝要

そんなに難しいことかな?
38日本@名無史さん:01/12/09 03:48
昭和天皇の皇女である清宮貴子内親王が島津家へ嫁いだことにより、
島津家はアズマの手から再び護られたと思います。
39日本@名無史さん:01/12/09 03:56
かつては征西府を執拗に攻撃した逆賊・島津のくせに。
40日本@名無史さん:01/12/15 23:31
>>17 島津は近衛家領荘園の下司職の出身と考えるのが自然だと思う。
島津荘に下向し土着化した下司から地頭に転化したものでしょう。
41日本@名無史さん:01/12/15 23:59
>島津荘に下向し土着化した下司から地頭に転化したものでしょう。

逆だろ。地頭になって下向して子孫が土着したんじゃん。
42日本@名無史さん:01/12/16 00:05
「島津」という苗字の地は播磨だよね。
播磨の近衛家領の下司が薩摩に下向して地頭になった。
43日本@名無史さん:01/12/16 00:07
今でも島津って聞くと女でも武力高そうだよな
44日本@名無史さん:01/12/16 01:27
島津初代は京都か鎌倉に居住していた。
下向は比企氏の乱に連座してから。
比企氏と一緒に没落したことが、出生の神話を逆に作り上げたともいえる。
45日本@名無史さん:01/12/19 23:27
>>44
 てことは、母親が比企氏というのは確実なのかな。
だったら、頼朝の落胤じゃなくて、頼家の落胤てことにすればまだ信憑性あったのにね。
46日本@名無史さん:01/12/20 23:59
大友もまた頼朝ご落胤説だったけど、こっちの方はどうよ?
47日本@名無史さん:01/12/21 23:34
>>46
 大友は秀郷流藤原氏ではなかったけ?
48日本@名無史さん:01/12/22 00:42
本当は九州のただの豪族
49日本@名無史さん:01/12/22 00:51
要するにみんな源氏の落胤になりたかったのね
八田知家しかり
50日本@名無史さん:01/12/23 01:30
頼朝は種付けマシン?
51日本@名無史さん:01/12/23 21:19
>>45
私は別の可能性を考えている。
源頼朝は暗殺直前、朝廷工作を行っていた。
担当者の中に比企氏もいたのだが、島津が近衛の関係者なら、彼もスタッフだった可能性がある。
比企氏が島津を取り立てたのも、これに関係しているのではないか?
結局、源頼朝は工作に失敗し、比企氏もろとも北条氏ら鎌倉御家人に消されるのだが、
となると、島津は工作失敗の責任の一端に関係していた?とか考えてみたりする。
52終了:01/12/23 23:08
対馬(つしま)→逆から読んでシマヅ(島津)
53日本@名無史さん:01/12/24 09:43
\
54日本@名無史さん:02/01/04 00:24
島津は朝鮮系です。
55日本@名無史さん:02/01/04 00:30
>>54
アズマ新井満子発見!!
56日本@名無史さん:02/01/04 00:33
今でも氏神は稲荷神だとはっきり言ってるんだから、秦氏系ってのは信憑性があるな。
尚古集成館で簡単に手に入る資料にも明記されている。
57日本@名無史さん:02/01/10 22:37
大友は、中原氏の出。
58日本@名無史さん:02/01/11 11:07
>>42
島津は九州の島津庄が苗字の地では?
59日本@名無史さん:02/01/14 11:49
さまぁ〜ず→島津
60(^▽^)ローン:02/01/17 20:19
Hやりすぎ(レイパー)の大友そーりんを戦う前に戦闘不能にする能力。
恐ろしい。「戦わずして勝つ」が出来るのか?
61日本@名無史さん:02/01/18 01:28
俺は別に幕末論争はどうでもいいけど、家系に関しては島津の方に歩があると思う。
徳川(松平)の祖、徳阿弥は突如湧いて出とる(w
まあ清和源氏の流れが云々の為の涙ぐましい努力は認めるが・・・
62日本@名無史さん:02/01/18 11:21
>61
比較してどうこうという話ではないよ。
どちらもでたらめということだ。
63日本@名無史さん:02/01/18 11:32
犬っころ
64日本@名無史さん:02/01/18 11:43
>>62
そう?
鎌倉時代まで確実に遡れる大名なんて稀じゃん。
65日本@名無史さん:02/01/18 11:43
徳川、島津、大友、みんな家系捏造が大好きだね。
66日本@名無史さん:02/01/18 12:00
頼朝の頃鎌倉にいたなら御落胤説もうなずける
67日本@名無史さん:02/01/18 14:24
 ↑
 ?
68日本@名無史さん:02/01/19 00:46
>64
稀と言うほどではないのでは。少ないけどね。上杉・伊達‥‥
69日本@名無史さん:02/01/19 02:15
島津はチョンとか言ってるヤツラは
朝鮮の役で李瞬臣を討ち取った事はどう思ってんのかね?
70日本@名無史さん:02/01/19 13:27
71日本@名無史さん:02/01/19 18:02
>>69
戦国時代は同じ民族同士殺しあってましたが、何か?
72日本@名無史さん:02/01/19 18:12
李瞬臣って誰よ(藁
73日本@名無史さん:02/01/20 10:32
島津が秦氏の出自だとしてそれがチョンと言うなら
いつの時代に日本列島に来たらチョンじゃなくなるんだ?
弥生人は半島から列島に来たんだろ?
74日本@名無史さん:02/01/20 18:25
>>71
だから意味無いじゃん!て話。

>>72
誰でしょう?(藁
75日本@名無史さん:02/01/21 03:15
瞬きされてもなあ
舜は五帝の一人
76(^▽^)ローン:02/01/21 17:08
島津氏の発祥の地は、現・都城市です。
某百科事典に書いてありました。
77日本@名無史さん:02/01/21 17:24
島津氏は鹿児島県出水郡野田町発祥です。
(初代から5代までの墓もある)
78日本@名無史さん:02/01/21 17:32
島津を名乗る以前にチョンだったという話やろ
79日本@名無史さん:02/01/21 17:39
偉い人物には必ずチョンと言い張るおまえがチョン。
78へ
8078:02/01/21 17:48
はあ?なにゆうとるんや?
ま、ワシにも島津の血いが流れとるさかい、ある意味ではチョンかも
しれまへんわなあ(藁
81日本@名無史さん:02/01/21 17:52
島津庄の中心は、現在の宮崎県都城市にあります。
82日本@名無史さん:02/01/21 17:54
いや、出水です。もともとは出水が発祥地です!

80は無視。80=ちょん
83日本@名無史さん:02/01/21 17:56
島津氏の発祥地なんて関係ないだろ。
秦氏の発祥地が問題なんじゃないの?
84日本@名無史さん:02/01/21 17:56
都城は出水の後の根拠地です!
初代から5代までの墓があるのがそれを根拠づけるものである!
85日本@名無史さん:02/01/21 17:58
秦氏なんぞは知らん。そんな遠くまでさかのぼる方がどうかしている
と私は考える。
86日本@名無史さん:02/01/21 18:01
島津氏発祥地=鹿児島県出水郡説
根拠が正論であり、物的証拠が揃っている。
完璧な説であり、このスレは終了!
87日本@名無史さん:02/01/21 18:02
遠かろうがなんだろうが秦氏があってこそ島津氏は存在しているわけで
島津氏の出自をさぐるということは秦氏の由緒をさぐることに
他ならないはず。
突然、ポコっと島津氏が湧いてきたわけではあるまい。
88日本@名無史さん:02/01/21 18:07
出水は島津庄じゃないよ。
89日本@名無史さん:02/01/21 18:09
>>84
偽の墓です。
90日本@名無史さん:02/01/21 18:12
秦氏のまえに惟宗氏は?
91日本@名無史さん:02/01/21 21:08
墓なんざ何時でも移せるだろ?
イタイ奴がいるな。
92日本@名無史さん:02/01/21 21:26
>>87
島津氏が惟宗氏の出であると証明されたわけでもないし
惟宗氏が秦氏の出であると証明されているわけでもないのに
決め付けはやめよう。
また秦氏が朝鮮系渡来人の出であるという証明もされていないのに
チョンと決め付けはやめよう
秦氏は始皇帝の末裔という伝説もあるのに
93日本@名無史さん:02/01/21 22:11
>>92
朝鮮より渡来した秦氏の一部が惟宗氏となり、その一部が島津氏となったことは
現在では通説であり、強力な異論も出されていないはず。
通説が間違いだというのなら、それ相応の説得力のある説を、異を唱える側が
出すべき。
94日本@名無史さん:02/01/22 12:53
>>92
少なくとも島津の始祖は惟宗忠久であることは事実だけど。
95日本@名無史さん:02/01/22 23:34
>>91
惟宗忠久=島津忠久が惟宗広言の実子なのか血のつながりの無い猶子なのかということが
ここでの問題なわけで、島津忠久が惟宗姓を名乗っていたのは問題なのではないでしょう。
96日本@名無史さん:02/01/23 11:32
猶子というのは俗説にすぎない。
97日本@名無史さん:02/01/23 19:15
伊集院家とは何ナノ?
98日本@名無史さん:02/01/23 22:00
>>97
島津家の分家
99日本@名無史さん:02/01/23 22:11
参考スレ

九州島津氏以外の島津氏について

http://mentai.2ch.net/history/kako/977/977946336.html
100歴史の勉強:02/01/23 23:52
高校の時にもらった歴史資料に、
奥州合戦(1190)の時に惟宗忠久が頼朝からもらった所領安堵状が載ってたが、
あれも島津氏の捏造なのか?
101日本@名無史さん:02/01/24 11:03
>100
誰が捏造だっていってるの?
102歴史の勉強:02/01/24 23:24
いや、高校生向けの資料に載ってるぐらいだから、
逆に信憑性が高いと思う。
ただ、その安堵状が本物なら、島津忠久=頼朝落胤説は有り得ないと思う。

だいたい、頼朝直系なんて、その後の実力者がまっ先に殺害しそうな系統を
北条氏や足利氏が生かしておくはずがない。
吉見氏だって、範頼の末裔だから生き残ったんだろう。
103日本@名無史さん:02/01/25 11:43
>102
その資料このあいだ国立博物館で見た。
今も特別展開催中だと思う。
島津家の『歴代亀鑑』とかいうやつだ。
ほかにも秀吉、信長、明治天皇などの自筆の資料もあった。
104歴史の勉強:02/01/25 22:19
島津氏はいろいろ捏造資料を作ってる家だからねえ。
もっとも、ご当主が作ったんじゃなく、その家臣が作ったんだろうけど。
足利義教の弟(義昭)殺害の功績で琉球支配権を認められたとか言ってるし。
琉球関係は特に胡散臭いよね。
図書館で沖縄の歴史を読んで思った。

頼朝以来の御家人として最後まで残った大名の一つですけど、
島津氏は本宗家があまり知名度なかったので偽造資料を作り得たのでしょう。
たとえば南部氏だったら、絶対に出自をごまかせないもんね(あれ武田庶流だから)。
伊達氏なんかは奥州藤原氏の末裔とか大ボラぶっこいてるし
(これを独眼竜政宗でも放送したNHKは責任取れ!)。

まあ昔はそういう出自が大きくモノ言ったわけですから、
真偽は明白なので、大目に見ましょう。
105歴史学専攻@野田出身:02/01/26 00:56
>86
 出水郡野田町にあるのは感応寺。これはその近くに木牟礼城というのがあって、
それとセットで1194年にできたのね。そもそもは、鎌倉幕府成立のときに島津が
鹿児島に送り込まれたんだけど、当時は大隈などにいた土豪の方が力が強かった
から、鹿児島の中心部まで征服することができなくて、しかたなく県境の野田に
城を作った。だんだんと鹿児島を征服してはいくんだけど、5代までは野田の城
を拠点とした。だから感応寺には5代までの墓がある。6代からは鹿児島に移っ
た。ちなみに1、2代は本当の墓は鎌倉にあって、感応寺は分骨。3、4、5代
は本当。あと、この感応寺ってのは中国から帰ったばかりだった栄西が日本で最
初に建てた禅寺(といわれている)。

島津はそもそも宮崎県都城市にあった島津庄を本拠地とした源氏派の土豪。対抗
する他の土豪をぶっ倒すために、禅宗やら八幡信仰やらといった当時のトレンド
を取り込んで源氏の権威を借りたってのが、大体のところ。チョンかどうかは知
らん。
106歴史学専攻@野田出身:02/01/26 01:06
あっ、大隈じゃなくて大隅ね。
107日本@名無史さん:02/01/26 01:29
都城だか出水だか知らんが、そんなことはどっちでもいい。
要するに島津庄に下向して島津氏になったんだろ。
ここで問題になってるのはその前、スレにもある「出自」
で、結論としては、摂関家侍・皇嘉門院家人、惟宗忠久が初代ってことでいいんだろ。
検非違使までなった御家人が土豪であるわけがない。
108原口泉:02/01/26 02:10
出自はどうでもいい。
戦国時代以降のアンチ中央政権魂こそ、島津の真骨頂だ。
だから明治まで残ったし、明治維新の活躍があったのだ。
109日本@名無史さん:02/01/26 03:40
戦国以前否定しちゃうの? そんなの可哀相じゃん。
みんな頑張って生きてきたんだよ。
彼らがいたからその後があるんだよ。
忠久・忠義・久経・忠宗‥‥、みんなよく頑張ったよ。
110日本@名無史さん:02/01/26 05:30
>>107
君は本当に馬鹿だなぁ。
相模の小勢力の御家人が取り立てられて
地方に下向なんてごろごろしてる。
111日本@名無史さん:02/01/26 06:03
>>110
文盲ですか?
112歴史の勉強:02/01/26 22:32
島津氏の名字は島津ノ庄の地頭だったからじゃないの?
島津ノ庄が日向〜大隅〜薩摩にまたある大庄園だったから、
その三国の守護に任じられたんじゃなかったっけ?

島津氏は、たしか比企氏の子孫なんだよね。
島津忠久のお母さんが比企氏(能員の妹)で、彼女が惟宗氏と結婚して。
そのせいで、守護職没収、日向と大隅の島津ノ庄の地頭も停止。
薩摩のだけ残されたんだったか?
大隅あたりは北条氏が守護になってるから。

頼朝に派遣されて後に大勢力になった家っていうと、少弐氏と大友氏もそうね。
まあ、鎌倉時代なんてそんなもんです。
東北の大名も、頼朝もしくは北条氏に所領を与えられて、後世強大化した家が多い。
南部も伊達も芦名も、みんなそうだね。
113日本@名無史さん:02/01/26 22:34
>>108
つまりミイラとりがミイラになったということですな(藁
114日本@名無史さん:02/01/26 22:41
>>113
ん?意味不明だが?誤爆は?
115日本@名無史さん:02/01/27 22:19
あんまり関係の無い話だけど、去年鎌倉のバイト先で島津家の後裔の
お嬢様と知り合いになったんだけど、その時に
「頼朝が側室に生ませた子が北条政子にばれるのが怖かったから、
九州まで落ち延びさせてそれが島津の始まりって聞いたことがあるなぁ」
って、ぼそって言ったらすんげえ切れて、「そんなんちゃうわ!」って
怒ってたのを思い出した。w
116JJ:02/01/30 13:19
宮崎の都城に島津庄があったことはわしも知っとったが、
何故にそこから鹿児島の出水に移ったのだろうか?
とにかく初代から5代までの墓のある方が発祥地だとわしは声を大にして
言いたいぞ!
 たぶん、わしの推測だが、戦国時代に都城では周りの豪族にやられそうに
なったから、出水の豪族方に逃げるような形で落ち延びたと考えるんだがな。
あるいは出水にははっきりとだれも勢力をにぎっている豪族がいなかったとか・・・
たぶんにそうだと考えるが、だれか異論あるかね?

117日本@名無史さん:02/01/31 11:59
>116
だからそれは偽の墓。
118日本@名無史さん:02/02/04 06:48
京都の島津製作所と薩摩島津家との関係です。

丸に十の字”の社章は,創業者である島津源蔵が,島津家の家紋を商標として定めたことに由来します。
島津源蔵の祖先は、井上惣兵衛尉茂一といい、1500年代後半に播州に住んでいました。
薩摩の島津義弘公が、京都の伏見から帰国の途上に、豊臣秀吉公から新たに拝領した
播州姫路の領地に立ち寄った際、 惣兵衛は、領地の検分などに誠心誠意お世話をしました。
その誠意に対する感謝の印として、義弘公から“島津の姓”と“丸に十の字(くつわ)の家紋”
を贈られたと伝えられています。

以上、島津製作所HP企業沿革より
119日本@名無史さん:02/02/04 07:57
>>115
鎌倉の源頼朝の墓は島津家が管理してるんだよな。
120日本@名無史さん:02/02/04 21:40
近衛家と島津家の関係はいつまで続いたの?
島津家はもともと近衛家の荘園・島津荘の下司でしょう。
鎌倉時代以後も、ひょっとして近衛家に年貢とか
上納していたのですか?
121歴史の勉強:02/02/04 22:53
島津ノ庄のばあい、いつ「一円領」になったか非常に難しいんじゃない?
あれは今の鹿児島全県+宮崎県南部も含む異常に広大な庄園だったし、
内部でも「郡司」なんかが割拠してたから。
どうかなあ、北条氏が島津ノ庄の地頭になってるから、
次第に所有権が武家に移行していったのでは?
122日本@名無史さん:02/02/05 02:06
いちおう南北朝期には預所・給主による年貢請負体制。
室町・戦国期には本家・領家職とも実体ほとんどなし。
123日本@名無史さん:02/02/05 16:37
>112

>島津氏は、たしか比企氏の子孫なんだよね。
>島津忠久のお母さんが比企氏(能員の妹)で、彼女が惟宗氏と結婚して。

忠久の母親が比企ということが問題ではなくて、
父親は誰かって事が、ここでの論争ではないんか?
124日本@名無史さん:02/02/07 21:31
薩摩の荘園に「院」の付くのが多いのはなぜでしょうか?
125パルムの僧院:02/02/07 22:32
被差別部落と関係あるのでは?<院
126日本@名無史さん:02/02/07 23:05

島津家の当主は、沖縄の人に殴られたりはしないのでしょうか?

沖縄旅行にでも行ったら、半殺しでしょうね?
127日本@名無史さん:02/02/08 00:08
忠久の実父は惟宗忠康。
128日本@名無史さん:02/02/08 11:20
>>124
院政の院だよね。
129日本@名無史さん:02/02/08 11:21
皇室の荘園だから。
130日本@名無史さん:02/02/08 21:08
今の当主は大工の娘由羅の血を引いているのですか。
131日本@名無史さん:02/02/08 23:25
引いてるんでねえの?今の皇室の当主も大工の娘の子孫だね。
132日本@名無史さん:02/02/08 23:29
島津斉彬系の子孫はいないの?
133日本@名無史さん:02/02/13 18:25
男子はいない。
134日本@名無史さん:02/02/13 22:01
チョソの首魁の血は絶え単価?
135日本@名無史さん:02/02/19 21:34
>>115
それは比企氏の娘とのご落胤説というやつです。
正確に言うと、北条正子が放った追っ手が迫ったとき、にわか雨が振って娘を隠したとか、
出産時と同時に日が照っているのに雨が降り出したとか、そんな話がついてきます。
それ以来島津氏の慶事には雨が欠かせないそうですけど、それって雨男のいいわけでしょう。
 ちなみに島津氏は比企氏の乱に連座して大隈、日向の守護の座を北条氏に奪われています。
出水への移転はこれに起因していると見てはいかがでしょうか。
136日本@名無史さん:02/02/21 22:30
救済あげ
137日本@名無史さん:02/02/22 00:33
忠久が比企氏の娘の子だとすると惟宗広言と比企氏の娘のロマンスはどう推理する?
惟宗氏は近衛氏の家司として薩摩の荘園に下向していたんだろ?
常識的に関東の比企氏の娘と出会いは難しいんじゃないの?
それに幕府要人の比企氏の娘と有力貴族の家司ではつり合わないような感じしないか?
やっぱり比企氏の娘の連れ子(忠久)は再婚相手である惟宗広言の養子になったと考える
方が自然な気がするよ。
138日本@名無史さん:02/02/22 01:00
摂関家家司が荘園現地に下向するかよ。
一生のうち一回ぐらいあったかもしれんが(まずないだろうな)
惟宗広言は中央貴族だぞ。当時は国司でさえ赴任したかどうか怪しい。
比企尼が頼朝の乳母やってたのは京都。長女は二条天皇に仕え
丹後内侍と称し、広言と通じて忠久を生んだ。
139日本@名無史さん:02/02/22 01:05
そう頼朝自身が京育ちだから、その乳母一族が京にいるのは、むしろ当然。
比企尼は頼朝が伊豆に流されたとき、それを追って武蔵の所領に戻ったのではなかったか?
140日本@名無史さん:02/02/22 01:24
それは後のはなし。
丹後内侍も関東に下って安達盛長に嫁し範頼室などを生んでいる。
141日本@名無史さん:02/02/22 01:29
だから広言は養父で忠久の実父は惟宗忠康だってば。
142日本@名無史さん:02/02/22 01:37
>141
あ、そうだった。スマソ
143日本@名無史さん:02/02/22 03:59
この一族の者ですが
出自なんて知らないです。
というかあんまし一族会合みたいなのに
参加してないし興味ないです正直なとこ。
144日本@名無史さん:02/02/22 22:32
俺んち薩州島津の子孫とかいってるけどホラだな。
145日本@名無史さん:02/02/23 12:25
惟宗忠康? 誰それ? どこで何やってた人? 広言みたいな中央貴族じゃないわけ?
146日本@名無史さん:02/02/23 15:31
惟宗氏の末裔とされる大名って他にも
宗氏、神保氏など、惟宗氏って地味だけどかなり栄えていた一族のようだな
147日本@名無史さん:02/03/03 00:08
神保氏も惟宗氏なの?
148津守:02/03/03 07:53
島津忠久は、大阪の住吉大社の境内で誕生。
149日本@名無史さん:02/03/12 21:30
惟宗氏って秦氏の出といわれてるが
秦氏って一説には431年エフェソス公会議で異端とされ破れたネストリウス派のキリススト教徒(景教徒)= 秦氏
秦氏とは、古代ヤダヤの血を引くネストリウス派のキリスト教徒といわれている。
島津に馬鹿殿なしといわれるように、奇跡的に優秀な血筋は
ユダヤ系の血筋が影響しているのかも知れません
150日本@名無史さん:02/03/12 21:35
だから島津氏の家紋は十文字なのか?
それでは惟宗氏の家紋は?
151日本@名無史さん:02/03/17 16:06
members.tripod.co.jp/jinbou/jinbo/syutuji.htm

>神保氏の他に薩摩の島津氏も惟宗氏の末裔である。
>また土佐の長曾我部氏は秦氏の末裔である。
152日本@名無史さん:02/03/17 16:20
>>149
そんなこと言ったら秦の始皇帝までユダヤになっちゃう
秦氏は大ぼらふきのただのチョソ
そして島津はその末裔
153日本@名無史さん:02/03/17 22:07
>>152
秦の始皇帝は白人だったという説は知っているが
154日本@名無史さん:02/03/17 22:49
秦氏の日本人に占める割合とかわかります?
あと関係スレとか。
155日本@名無史さん:02/03/17 23:29
始皇帝は碧眼(青い眼)をしていたし、白色人種とみて間違いなさそう
156日本@名無史さん:02/03/18 06:49
碧眼なんて中央アジアにはめずらしくない。
秦も西方だし。
だからといって白色人種ではない。
157歴史の勉強:02/03/18 09:55
真面目なスレだったはずが、いつの間にかカルトになってないか?
158日本@名無史さん:02/03/18 11:15
結論
島津氏は朝鮮人起源だった。
159日本@名無史さん:02/03/18 17:05
149晒しage
160日本@名無史さん:02/03/18 20:14
つまるところ

・朝鮮人
・薩摩の土民

のどちらかということですか?
頼朝の御落胤というのはシャレで。
161日本@名無史さん:02/03/18 20:27
もともと九州の在庁官人だろう。惟宗氏は朝廷の実務官人だが、九州には多い姓。
162日本@名無史さん:02/03/18 21:13
俺はずっと惟宗氏は平家だって聞いていたが・・・
違うのか?
163日本@名無史さん:02/03/18 21:14
ゴメン、惟宗氏は平氏だって聞いていたがの間違い・・・
164日本@名無史さん:02/03/18 21:29
秦氏は朝鮮半島から渡ってきた渡来人かも知れないが朝鮮族ではないことは確かなようだ。
日本人の中には多くの白色人種の血統が混じっている
碧眼の天皇も出現している。
165日本@名無史さん:02/03/18 21:31
>>164
碧眼の天皇って誰?

166日本@名無史さん:02/03/18 21:57
というか、渡来人の大半が白人???
167日本@名無史さん:02/03/18 22:17
>>164
仮に碧眼の天皇がいたとしても、それが白人の血統の根拠になるのか?
ただの遺伝子か何かの異常だろ。

168日本@名無史さん:02/03/18 22:31
遺伝子の異常で碧眼になる症状を持った病気てありますか?
あるとしたら人口比何パーセントの割合でしょうか?
少なくとも私の周りを見渡せば碧眼を持つ人間は白人だけです。
169世界@名無史さん:02/03/18 23:10
知らん。だが、小学校のときに金髪で目の青いやつがいたぞ。
両親祖父母ともに日本人で、本人の顔つきも日本人だったが。
みんな、病気だって陰でうわさしてた。
で、その天皇って誰?多くの白色人種の血統って言うくらいだから、
碧眼の人物はほかにもたくさんいると思うが、ちょっとあげてみて。
170日本@名無史さん:02/03/19 01:31
171日本@名無史さん:02/03/19 02:15
>162
それはたぶん宗氏のことだろ。
宗つながりで平宗盛の子孫と称している。
実際は惟宗氏。
172日本@名無史さん:02/03/19 14:19
島津は朝鮮からやってきたのか。
なんとなく納得した。
173日本@名無史さん:02/03/21 05:36
かつあげ。
174嵯峨源氏蒲池子孫:02/03/21 16:14
そんなに島津に嫉妬しても、諸君達百姓には無縁の世界では。
世が世なら我々の顔も見る事もできない。
17555:02/03/21 16:24
世が世なら?
フィリピンの富豪は我々の想像を絶するものらしいが、
彼らがどんなに金持ってても、僕らには何の影響力もないと思うけどね。
薩摩半島で親戚同士殺し合いに明け暮れてた島津さんもそんなもんじゃない?
たかが田舎の一大名にそんなでかい面されてもねえ。
176日本@名無史さん:02/03/21 16:40
しかも、戦国以降の島津氏は庶流だし
177日本@名無史さん:02/03/21 17:04
本家はどうなったの?
178嵯峨源氏蒲池子孫:02/03/21 18:09
呑百姓のジェラシー程醜いものはないよ。
179日本@名無史さん:02/03/21 18:17
自分は頼朝の子孫だと思ってたので
朝鮮という事がわかっただけでも勉強になったよ。
180日本@名無史さん:02/03/21 19:40
>>179
それはどうかな?
島津氏が惟宗氏の出自かどうかわからないし、惟宗氏が秦氏の出自かもわからない
秦氏が朝鮮族の渡来人かどうかも定かではない。
ずべて「こうではないか」といった後の世の推理の仮説に過ぎないのだ
だから頼朝の落胤が本当かも知れないし
近衛氏の出であるかも知れない
秦氏は太秦(ローマ)からやって来た白人の子孫かも知れない
これだけ古い歴史では何が真実か本当のところは分からないとしか言えないと思う
181日本@名無史さん:02/03/21 19:46
>>180
いや>>179はたんなる島津嫌いの粘着くんだからマトモに相手しないほうがいいと思われ
182日本@名無史さん:02/03/21 19:49
確かなのは島津氏の母系は比企氏の出というところだろう
183嵯峨源氏蒲池子孫:02/03/21 19:52
百姓達の嫉妬に乾杯!
184179:02/03/21 20:09
>180
そうですね。ただ白人というのは信じがたいけど。
185日本@名無史さん:02/03/21 21:07
始皇帝が青い眼をしていたというのは有名だし
始皇帝と同じ一族の出であるのが渡来人秦氏とすると
白人の末裔である可能性は否定できないと思うが
186日本@名無史さん:02/03/21 22:26
>>185
青い眼=白人か?(藁
いかんいかん、思わずつられてしまった。
187日本@名無史さん:02/03/22 00:01
>島津氏が惟宗氏の出自かどうかわからないし、惟宗氏が秦氏の>出自かもわからない
>秦氏が朝鮮族の渡来人かどうかも定かではない。

定かだよ。
188  おれ:02/03/23 15:28
薩摩揚げ
189蒲池総領家:02/03/23 21:54
君達のような百姓は土でもこねてろ
190日本@名無史さん:02/03/23 22:56
うぜーな。
蒲池ってなんだよ。
191日本@名無史さん:02/03/24 21:26
>>190
松田聖子です。
192日本@名無史さん:02/03/24 22:21
>>190
坂井泉です。
193日本@名無史さん:02/03/24 22:25
>>190

負けないで♪
194日本@名無史さん:02/03/25 00:18
坂井泉?
195日本@名無史さん:02/03/25 00:37
ZARDのボーカルだっけ?
196蒲池の正体:02/03/25 12:47
元々の出自は全く不明。一説には海賊という。松浦氏の一族の山代源三松浦圓なる者を
を養子に迎えた事を奇貨として以後源氏を騙る。同様な手口で宇都宮も騙る。
また、一字名を全く名乗って無い事から当時源氏を騙っていたかも疑わしい。
無論、松浦家にも宇都宮家にも蒲池如きを一族と記した記録は無い。

下って戦国時代。初め筑後の諸豪族の一つとして大友家の家臣となるも、
竜造寺、大友と節度無く主家を変える。
大友家衰退後は再び竜造寺に寝返るも、隆信は全く信用せず此れを成敗。
また武士として潔さも持ち合わせず、自然最期は一族悉く斬首獄門の憂き目に。

只一人残された徳子なる女がいた。
この女が大友一族の古庄家庶流の朽網家の側室となる。
以下、江戸時代は鍋島家の陪臣(竜造寺家に捨扶持貰う)となって其卑しき血脈は
絶えることなく、明治以降は卒族。

以上。
最近蒲池サイトの管理人が荒らししてますので注意。
197日本@名無史さん:02/03/25 14:36
だから、蒲池なんか興味ねーよ。
どうせ子孫が宣伝してるんだろ?
198日本@名無史さん:02/03/25 17:41
>>196
コピペありがとう。どうせなら、朽網家の側室じゃなくて
妾にしたほうがいいと思うんだが。
199日本@名無史さん:02/03/25 19:00
その名門朽網家も今じゃ蒲池の庶流にされている。
蒲池は憧れの大友の一門になりたくて嘘ばっかりご苦労。
200   :02/03/25 19:02
200ゲットーーーーーーーーーーーーーーーーー
201日本@名無史さん:02/03/25 23:30
下記のスレに鹿児島人を馬鹿にする輩がいます。

http://life.2ch.net/test/read.cgi/psy/1013959252/

202(株)雷印食品:02/03/27 00:45
(^▽^)ローンさん等がおっしゃっていた
「島津氏発祥の地は現・都城市」に賛成!!
他のところが発祥地とおっしゃる馬鹿はあぼーん以下!!
たいていの辞書でもそう書いてあります。
203 :02/03/27 14:40
薩摩揚げ
                                   
204日本@名無史さん:02/03/28 02:07
>202
発祥地とはどういうことですか。
そこに島津という地名があるということですか。
それとも初代がそこで生まれたということですか。
あるいはもっと別のことですか。
205日本@名無史さん:02/03/28 03:09
>>204
島津家の初代が生まれたのは
大阪の住吉大社境内。
206日本@名無史さん:02/03/28 07:03
若狭氏の出自は?
207日本@名無史さん:02/03/28 10:02
発祥地が都城だったり住吉だったりしたところで、出自は朝鮮。
ここは苗字の発祥地などではなく、出自を語るスレ。
摩り替えはやめれ。
208日本@名無史さん:02/03/28 11:44
秦が朝鮮出身だって言う根拠って何?
209日本@名無史さん:02/03/28 12:39
秦氏が朝鮮半島から来た渡来氏族だというのは通説だろ。
違うというのなら、通説とは異なる見解なのだから、
その根拠をこそ言うべき。
210日本@名無史さん:02/03/29 11:43
違うとか言ってるんじゃなくってさ、自称始皇帝の子孫なのに、
何で朝鮮出身ってのが通説になってるのかがよく分からんわけよ。
古代関係の本とか読んでても、秦の出自って結構さらっと流され
ちゃってること多いし。なんか、朝鮮特有の習慣とか持ってたりしたわけ?
211日本@名無史さん:02/03/29 11:54
>>208
「古代氏族系譜集成」に採録されている秦氏系図を見れば一目瞭然じゃないか。
212日本@名無史さん:02/03/30 03:41
応神天皇十四年。是の歳、弓月君百済より来帰す。
213日本@名無史さん:02/03/30 05:29
一応、学界の通説としては、秦氏が始皇帝の子孫というのは史実でなく
ほんとは朝鮮系で“あろう”と推測されているってことであって、
建前上はべつに始皇帝の子孫ってことで問題ない。
まあ通説っていっても、新羅系説と加羅系説が対立しているし、
大陸系で問題ないという反論もあるようなので、要するにそういう説もあるってことだ。
214日本@名無史さん:02/03/30 15:25
島津忠久は惟宗広言の実子であったことは
間違いないらしい。問題は惟宗氏の出自が
諸説あってはっきりしないことだと思うが
秦氏族というのは間違いないのかな・・・
215日本@名無史さん:02/03/31 00:59
>島津忠久は惟宗広言の実子であったことは
>間違いないらしい。問題は惟宗氏の出自が
>諸説あってはっきりしないこと

逆だよ。広言の実子かどうかは不明。近年忠康(だっけ)の子という
説も出されている。過去レスを見よ。
惟宗氏が秦姓なのは明か。
元慶七年十二月廿五日、
左京人従五位下行下野権介秦宿祢永原・従五位下守大判事兼行明法博士秦公直宗、
山城国葛野郡人外従五位下行音博士秦忌寸永宗、右京人主計大允正六位上秦忌寸越雄、
左京人右衛門少志秦公直本等、男女十九人に、姓惟宗朝臣を賜ふ。
216 :02/04/01 13:17
薩摩揚げ
217嵯峨源氏蒲池子孫:02/04/01 19:22
君達卑しい百姓の嫉妬はすごいね。
218日本@名無史さん:02/04/01 19:58
>>67->>70
219日本@名無史さん:02/04/01 20:17
>>211
古代氏族系譜集成の秦氏の系図書いてみてください
220てすと:02/04/01 21:10
秦始皇帝──故亥皇帝──孝武皇帝──功満王──融通王──真徳王──普洞王──秦酒公──┐
                                           │
┌──────────────────────────────────────────┘

└意美秦公──忍秦公──丹照秦公──河秦公──国勝秦公─┐
                            │
┌───────────────────────────┘

└【秦】川勝─┬能俊
221てすと:02/04/01 21:13
↑古代氏族系譜集成じゃないよ。一度コピペしてみたかったの。ごめん。
222日本@名無史さん:02/04/01 22:42
ところで秦氏は河勝以前の系譜については
どこまで確実に溯れるのだろう?
223日本@名無史さん:02/04/02 00:10
途中の歴代の名前が確実かどうかは別として
功満王・融通王(弓月君)父子まではいけるだろう。
子孫の連中の申請によれば功満は始皇帝11or12世孫。
224日本@名無史さん:02/04/02 03:35
古代氏族系譜集成ってなに?誰がいつ作ったの?
225嵯峨源氏蒲池子孫:02/04/03 00:07
だから百姓の君には関係無い雲の上のことなの。
226日本@名無史さん:02/04/03 05:10
蒲池 キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
227日本@名無史さん:02/04/04 16:43
だけど蒲池は謀反して処刑されたんだろ?
228日本@名無史さん:02/04/06 22:41
蒲池は九州戦国スレにも立ち入り禁止だからって、
全く関係ないところに侵入するなど言語道断。
それならいっそのことアズマスレに行けばよいのに。
それとも、もしかしてあの方々ですか?
佐幕派に都合の悪いスレッドにばかり登場して、
中身のない罵倒ばかりを重ねている手口がそっくりです。

秦氏云々より、島津初代の出生に興味あり。
「出生時にお天気雨が降って狐が2回声高く鳴いた、住吉神社の神の使いだった」
とか言う話は本当なの?なんかファンタジーっぽいよ。
229日本@名無史さん:02/04/13 11:43
本当のわけねえだろ。神の使いなんて。
230日本@名無史さん:02/04/13 12:41
>>224
幕末〜明治の系図蒐集家鈴木真年の残した系図集のうち
古代氏族に関わる部分を元に系図研究家の宝賀寿男が各種文献と照合して
昭和50年代に出版した自費出版本です。
国会図書館や都立中央図書館で閲覧できますが・・

過去ログにもいくつか言及してあるものが有りますね。
231民族覇:02/04/13 17:44
そうだな。島津氏の系譜は島津氏が後世,惟宗氏の系図を知ってから
作成された疑いがあるとの説があり、出自は全く不明らしい。
232日本@名無史さん:02/04/14 04:53
秦氏は秦の始皇帝の末裔をなのる渡来系氏族で、『日本書紀』によれば、応神天皇十四年、始皇帝の子孫である弓月君が百二十県の百姓を率いて来朝したという。
絹・綿・糸などの生産に従事する多くの部民を従え、山背国葛野郡に本拠を置いて強大な経済力を築いた。
233日本@名無史さん:02/04/14 05:06
>>231
じゃあヤパーリ頼朝のご落胤だったんだろう。
じゃなけりゃ薩摩・大隅・日向・播磨・越前・若狭などの守護や地頭になんて
なれないよな。
鎌倉幕府のエライさんの後押しがあったんだよ
234大下等:02/04/14 07:04
島津は在日同胞ニダ!

ところでチョパーリは滅ぼさるべきニダ!
235日本@名無史さん:02/04/14 10:48
惟宗氏にしろ源氏にしろ元をたどればみな渡来人だからな
236日本@名無史さん:02/04/14 10:51
秦氏、蘇我氏、物部氏は同じ頃渡来してきて日本に強大な勢力を築いているが
この頃は日本ブームだったのかな?
237嵯峨源氏蒲池子孫:02/04/14 19:36
お百姓の諸君!!! 九州の雄たる我が蒲池家について多いに語ってくれ。
238日本@名無史さん:02/04/14 21:54
島津は在日なのか・・・・。
239日本@名無史さん:02/04/14 22:03
↑バカ?ってまさか本気じゃないよな(w
240日本@名無史さん:02/04/15 17:34
(・∀・) 蒲池カエレ!
241蒲池総領家:02/04/15 17:56
この呑百姓が、そこに直れ!!!
手打ちじゃ。
242日本@名無史さん:02/04/15 18:12
忠良の弟って誰か知らない?
243日本@名無史さん:02/04/15 18:56
忠良ちゅうのは貴久の父ちゃんだっけ?
伊作家から貴久を本家に押し込んだ人だよね
244日本@名無史さん:02/04/15 19:37
押し込んだんだけど、追い出されちゃったんだよね〜。
245蒲池総領家:02/04/15 20:17
↑豚百姓が偉そうに!!
百姓は百姓らしく土でもこねてればいいものを。
いい時代になったのー。
246日本@名無史さん:02/04/15 20:21
かまかまちんちんかまちんちん♪♪
247日本@名無史さん:02/04/16 07:11
山田かまちうるさい
248日本@名無史さん:02/04/16 13:16
かまかまちんちん(・∀・) かまちんちん♪♪
249蒲池総領家:02/04/16 21:00
貴様ら百姓供程ウザイものはない。
豚と同様搾られることしか能力のないし。
戦場では雑兵。討っても手柄にもならない。
そんな貴様等も繁殖能力と嫉妬深さは多いにある。
困ったもんだ。


250日本@名無史さん:02/04/16 21:08
そんなこというなよぉ〜
卑賤の輩同士、仲良くしようぜぃ?
251嵯峨源氏蒲池子孫:02/04/16 23:05
その嫉妬は貴様等豚百姓の泣き声か?
252武州百姓:02/04/16 23:33
またまたぁ〜蒲池ちゃんたらぁ〜
オラんちな、嫁さ来んくて人手が足らんのよぉ。
蒲池ちゃん、田植えば手伝ってくれへんかいなぁ?
253日本@名無史さん:02/04/17 00:00
百姓は卑賤なの?しらんかった。
それと戦国後期以前で島津家は日本史でどのぐらい活躍したのかなあ。
254日本@名無史さん:02/04/17 00:06
すごく活躍したYO!
でも蒲池サマほどじゃないYO!
255日本@名無史さん:02/04/17 00:22
新田義貞を金ヶ崎城に攻めた軍勢に加わっている
256日本@名無史さん:02/04/17 20:49
色々と島津忠久について調べてみたら
やっぱり不思議な人物だよ
忠久が島津荘の下司職に補任された時はわずか6歳。
忠久が地頭職に任じられたのが7歳。
忠久が薩摩大隅日向の守護職に補任されたのが8歳。
奥州藤原氏を討つために忠久が先鋒総督として参戦したのが10歳。
257日本@名無史さん:02/04/17 20:58
薩摩のいろは歌ってイイ!!

いにしへの教へを聞きても唱えてもわが行ひにせずはかひなし

礼するは人にするかは人をまた下ぐるは人を下ぐるものかは
258日本@名無史さん:02/04/18 12:39
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1006786927/l50

蒲池って、ここで馬鹿にされてる人?
259蒲池:02/04/18 13:15
↑それは豚百姓が勝手に言ってるにすぎない。
貴様も踊り狂うか?
260武州百姓:02/04/18 13:52
蒲池キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
261日本@名無史さん:02/04/24 22:10
>>228
秦氏は稲荷信仰を日本に持ち込んだ氏族として知られている。
それを踏まえて、島津忠久の出生神話を考えてみよう。
1.「源頼朝と比企氏の娘との子?」
    源氏直系という主張(これは立証も否定もできない)
    比企氏との関係(これは比企氏没落に連座したことで真実と分かる)
2.「にわか雨・お天気雨が降り、狐が鳴く」
    稲荷信仰に完全に準拠(秦氏との関係を強く印象させる)
 島津忠久は近衛氏の被官としての領地の他に、
 北陸沿いに点在する地を所有していた。
 これも北陸沿いに足跡の見える秦氏との関係をうかがわせる。
 もちろん住吉神社と近衛家の関係も深い。
3.近衛家との関係。
    島津荘は近衛家の持つ最大の荘園で、
    現在の鹿児島県と宮崎県の過半を占めていた。
    (普通考えられる荘園の10倍から100倍の規模があった。)
    理由もなく、近衛家がこの役職を任せたとは考えにくい。

近衛家は、真偽は別として、彼を源頼朝の庶子として手駒に使おうとした、と
考えるのは単なる願望だろうか。

島津忠久は近衛家と比企氏を仲介することで、
朝廷と鎌倉との外交の一部を担っていた。
東大に島津家史料が寄付されてるけど、
源氏三代横死前後の対朝廷交渉史料があれば良いのに。
彼らの横死の原因は「朝廷寄りの政策」とされているが、
北条の検閲によって現存史料が少ない。
島津忠久の出生問題よりも、むしろこちらのほうが日本史的には重要だと思う。
262日本@名無史さん:02/04/27 21:49
263日本@名無史さん:02/04/28 08:05
>最大の荘園で、現在の鹿児島県と宮崎県の過半を占めていた。
>(普通考えられる荘園の10倍から100倍の規模があった。)

寄郡について勉強しましょう。
    
>北条の検閲によって現存史料が少ない。

現存する膨大な史料を見てから物を言いましょう。
264日本@名無史さん:02/04/29 21:58
>>256 >>261
確かに島津忠久は優遇され過ぎているように感じる。
幼い頃から各地の荘園の地頭や守護に任じられたり
わずか10歳で奥州藤原氏攻めの先鋒総督として参戦したりと
幕府に優遇され過ぎているのは何かミステリーを感じますね。
幼児の能力を幕府が認めて重責を与えたというわけがないので
やはり彼の血筋にその秘密があるのだろう。
今のところほぼ確実なのは彼が比企氏の血を引いているということだが
比企氏の血を引いているからといって、はたしてこれほど優遇されるものだろうか?
もし比企氏の血筋だけが理由でこれほどの優遇が当然なのだとしら日本中は比企氏の出
の守護・地頭で埋まってしまいそうだ。
忠久は頼朝の御落胤というのは嘘だとされているが、その根拠は何だったのだろうか?
江戸時代に疑問視されたようだが、何故疑問視されてしまったのか知っている方はいないでしょうか?
どうも私は忠久がこれほどの優遇を受けたのは頼朝の子とした方が自然な気がするのです
265日本@名無史さん:02/04/29 23:01
>>264 わずか10歳で奥州藤原氏攻めの先鋒総督として参戦したりと

そもそもその年齢正しいの?
年齢を詐称してる可能性も考えたほうがいい。
そうすれば別に不自然ではない。
何ヶ所も守護に任じられたのは島津氏だけではないし。
266日本@名無史さん:02/04/29 23:38
>>265
う〜ん。年齢詐称というのは考えにくいんじゃないですか?
現代のアイドルじゃあるまいし(w
267265:02/04/29 23:49
>>266
仮に1179年生まれが正しいとしてもおかしい。
このとき頼朝はまだ伊豆で流人。翌年に旗揚げしてる。
政子とはもう結婚してただろうけど、当時の北条と比企なら
比企のほうが実力があるんじゃないか? 隠す必要性がない。
あと頼朝の落胤説とセットになってるのが近衛家に預けられた
という話だけど、近衛家は親子二代で平清盛の娘と結婚してる。
近衛基通は後白河院の寵童。頼朝の子供が預けられる家としては
不自然。
268242:02/04/30 02:06
>>243
そです。忠良は貴久の父です。
で、忠良の弟っていうのは、長徳軒といって、薩摩から関東に流れて
今川・北条に寄食したそうなんですけど、どのような経緯で関東に流
れたのかが知りたかったんですよ。どなたか御存知でない?

この系統の子孫が後藤島津氏だそうです。
スレ違いかと思いますが、適当なスレが無かったんで失礼。
269日本@名無史さん:02/04/30 03:20
>>264
坂東平氏政権の神輿にすぎない頼朝にそんな権力は無いと思う。
270日本@名無史さん:02/05/01 00:21
島津忠久は生年不詳。没年は1227(嘉禄3.6.18)。
1185(文治1)年、島津荘下司職を得た。
271日本@名無史さん:02/05/01 00:30
>>270
ソースは?
島津忠久で検索して調べてみて幾つか見てみたがすべて生年は1179年になっているけど
272嵯峨源氏蒲池子孫:02/05/01 01:41
豚百姓達よ!!尽きないのーー。
273日本@名無史さん:02/05/01 02:17
>>271
 島津忠久の1179年生のソースが江戸時代に島津家が作成した系図のみ
だったと思うけど。他の客観的な史料はない。だから生年不詳のほうが
正確だとは思う。ただどうしても生年を書くなら唯一の証言を
採用するしかない。だから1179年と書いてあるのが多い。
 しかしやっぱり1179年生で比企氏を母に持つ頼朝の子が、頼朝の庶子に
されるのは無理がある。それが本当なら確実に跡継ぎのはず。
 この当時は正室・側室の区別が厳密ではないだろうし、妻達の地位は実家の
力次第。比企と北条だったら比企の方が強いでしょ。
274日本@名無史さん:02/05/01 12:21
島津忠久が鎌倉幕府に重用されていたのは
惟宗氏(秦氏)が西日本に大きな力を持っていたからだろうと推測する
京を本拠に秦氏が根を張っていたが、この頃になると島津忠久が守護や地頭になった
越前・若狭・播磨・伊勢なども実質惟宗氏の支配地だったのではないだろうかと推測する
鎌倉幕府はそれを追認したということなんじゃないだろうか?
鎌倉幕府は関東に力を持っている武士団の集まりであるので西日本に力は及ばず在地勢力として
大きな力を持っていた惟宗氏を幕府に取り込むために有力御家人の比企氏の娘を娶らせ、生まれた子供(島津忠久)に
鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠が烏帽子親となりその娘を室としたのではないだろうか
また近衛氏と惟宗氏は鎌倉幕府の関係なく親密な関係だったのではないだろうか
その縁から近衛氏の荘園を島津忠久が任されるようになったという推測はどうだろうか?
275嵯峨源氏蒲池子孫:02/05/01 12:26
おーい、卑しい百姓の子孫の者達よ。
島津に収める今年の年貢は大丈夫かな?
家畜のくせに主人の出自に口だすなや。

276日本@名無史さん:02/05/04 00:11
せめて士族でなくては歴史を語る資格はない。
277日本@名無史さん:02/05/04 00:46
卒族の蒲池<<<<百姓
お百姓さんは国の宝です。
278日本@名無史さん:02/05/04 01:34
>>273
頼朝は政子が怖かったんだよ、きっと
279日本@名無史さん:02/05/04 16:35
近衛と惟宗が単に親密だっただけなら、近衛家は忠久に島津荘は任せないと思う。
もう一つ要素があるような気がする。
彼の生年が正しいのなら、それはやはり血統だろう。
生年が正しくないとしても、武力云々をあてにしたとは考えられない。
なぜなら比企氏の乱では、紙一枚で大隅・日向の守護職を奪われ、出水に逼塞しているから。
鎌倉初期の島津氏は、近衛家と比企氏との間で成長した廷臣型の家だった。
280日本@名無史さん:02/05/05 15:50
頼朝にもっとも信頼されていた畠山重忠の娘と結婚して、
畠山重忠が烏帽子親になっているということからも
島津忠久への鎌倉幕府(頼朝)からの期待の大きさが伺える
やはりただものではないよな
281日本@名無史さん:02/05/05 21:04
島津氏の家伝以外で頼朝落胤説を裏付ける資料ってあるの?
282日本@名無史さん:02/05/11 13:07
状況証拠では島津忠久は頼朝の子と思われる
283日本@名無史さん:02/05/14 01:23
どこがや?
284日本@名無史さん:02/05/25 01:11
285日本@名無史さん:02/05/26 04:23
>>282
すると島津忠久と大友能直は兄弟になるの?
偽落胤同士らしいけれど。
286日本@名無史さん:02/05/26 18:13
島津は惟宗氏
大友は中原氏
287日本@名無史さん:02/05/26 18:15
島津は出水武士団の祖先です。
これだけは間違いありません。
288日本@名無史さん:02/05/26 18:18
厳密に言うと、血筋と家系は違うからね。
大友初代の能直は、血筋では古庄だが、家系では中原だろう。
古庄の子として生まれて中原の養子になってるからね。
289日本@名無史さん:02/05/26 18:27
鎌倉武士団が薩摩に入ってきたところでわが最強の隼人族が
「あーそうですか」と簡単に受け入れるような人種ではないわ!!!
とくに戦国時代は下克上である。
 島津氏が鎌倉武士団の末裔であるとしても、その血は戦国時代においては
血は薄い。
 薩摩出水人の血が戦国時代爆発した結果が今の島津氏の元となったのである。
290(^o^):02/05/26 19:24
島津氏は最高だよ
291日本@名無史さん:02/05/27 14:09
でたな。また大友まんせーか。
292日本@名無史さん:02/05/27 14:31
島津氏は百姓を徹底的に搾取したから、わしはゆるさん。
だいたい奴は関東人だ。
この一点からしても許さん。
293ジーモン三等兵@バルムべック:02/05/27 14:43
>292
それをいえば毛利氏も関東出自になるよ。
あと、土佐の長曾我部氏は信濃、
豊後の大友氏は相模。
294日本@名無史さん:02/05/27 15:00
本宗家の勝久は今の鹿児島市を本拠地にして、
伊作(吹上町)の忠良と北薩の実久との間を行ったり来たりしていたって言うけど、
この本宗家ってのが大元なんじゃないの?
295日本@名無史さん:02/06/15 23:49
大元とは?
296日本@名無史さん:02/06/15 23:54
292はあらしなので無視してください
297日本@名無史さん:02/06/15 23:56
ダサツマハケーン
298日本@名無史さん:02/06/15 23:58
ださすぎ
299日本@名無史さん:02/06/16 01:40
>>292
島津氏は京都人だと思うが。
300日本@名無史さん:02/06/16 01:55
一言でいうと、乃木さんって上司にはしたくない人です。
301プラトーン:02/06/16 01:56
家系図は無視してほんとのところは九州の豪族じゃない?
302日本@名無史さん:02/06/16 02:07
>>301
それは無理あるんじゃないか。島津氏は、あちこちの守護に任命されている。

中央(京都・関東)の人間と考えるのが自然。
303日本@名無史さん:02/06/26 09:32
ふむ
304日本@名無史さん:02/06/26 10:03
>>300
さすが、アズマ厨。頭悪!
乃木が薩摩人だと思っていやがる
305日本@名無史さん:02/06/26 10:39
300はスレ違いじゃないのか? 
306日本@名無史さん:02/06/26 19:14
>鎌倉武士団が薩摩に入ってきたところでわが最強の隼人族が
>「あーそうですか」と簡単に受け入れるような人種ではないわ!!!
>とくに戦国時代は下克上である。
そーなんだけど、負けたあとはめっちゃ従順になるよね(笑
ウチは蒲生家の分家なんだけど、結局は明治になるまできっちり島津家に仕えたよ(笑
307日本@名無史さん:02/06/28 03:45
>>306
遠い親戚ハケーン
308日本@名無史さん:02/06/29 06:07
>307
遠い親戚ハケーン
309日本@名無史さん:02/07/01 22:45
age
310日本@名無史さん:02/07/01 23:25
┌──────────────────────────────────────────
│:::::;::::          ヽ       ノ  │
│:::::::::             ̄-   - ̄ .  │
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│::::::           ミミミミミミミ   ミミミミミ│
│::::    ───〓──────〓〓─────〓
│ ── ̄ ̄     │/ ̄●\ /  │〆 ̄●ヽ  │
│ヽ        ⌒⌒\ヽ───ノ /│ │───> .│
│ヽ          〆   ̄ ̄ ̄ ̄ │ │ \──/
│ \.                   │  │     │         / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
│ │  ..                     │    │        /
│ .│  . .            ─/     ヽ    /      <   ハウスチョン狩りコーン
│  │            /   \⌒\  ノ\ . /        \
│\/ヽ          /             \. /          \
│   │\     │  │ <── ̄ ̄ ̄──). /            ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
│   │ ヽ    │  \  \++++++/ /
│   .│       \     \────/  /
│   /   \          (────ノ  /
│  /│    \                . /\
│ / │      \      <──── /│\
│ノ  │        \           / │ \
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│   │             ̄ ̄ ̄ ̄    │    ̄\──
──────────────────────────────────────────
311日本@名無史さん:02/07/01 23:28
真面目な話だが、なんか俺的には薩摩藩の大名島津氏って優れた名君が多かった感じが・・
逆に歴代島津氏の中でとても暗愚でバカだった人っているの?
312日本@名無史さん:02/07/01 23:35
>>311
島津氏の藩主ごとに、どの様に優れていたかをまとめてくれると嬉しいのだが。
313日本@名無史さん:02/07/01 23:41
馬鹿がいたら潰れていたかもしれんほど
徳川から虐められてたな 薩摩藩
馬鹿がいないというより家臣が有能
なのがおおかったというのもあるよ
314日本@名無史さん:02/07/01 23:52
島津に馬鹿殿無しっていうのは全国に知れた有名な話。
315日本@名無史さん:02/07/02 03:29
徳川の御三家みたいな感じなものが戦国時代前からあって、本家を守り立てて
いたりするからなぁ。それに家臣団との血縁もあったりで結束力は硬かった。
このへん徳川にとってみれば脅威に映っていたのは間違いないと思う。

暗君、ではないけど島津家の危機はやっぱりあって、12代忠昌〜15代勝久
あたりが丁度その時期になるんだけれども(病弱だったらしい)、伊作島津家の
日新公こと忠良その子貴久が養子になったりしてなんとか守ってる。
貴久の子供が義久・義弘・歳久・家久で、このあたりから島津家の基盤はますます
堅くなっていくんじゃないかな。

暗君なし、というのは逆に”船頭多くして船山に登る”みたいな事態も引き起こし
てて朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなんかで苦労してたりするかも。
316日本@名無史さん:02/07/08 06:23
「明らかな馬鹿」は、いないような気がします。
でも勝久の時期に本宗家から、薩州島津家との闘争の末、
伊作島津家に継承されたと見るべきでしょう。
この時期に、伊東氏に領地を奪われた新納(「にいろ」と読む、島津分家)家が
家老として参加し、都城を圧迫された北郷(「ほんごう」と読む、島津分家、
後の都城島津家)氏も配下に入ります。
(もっとも、こちらの一族は明治まで本家の干渉を排除しつづけます。)
征服された蒲生・菱刈・肝属の各勢力も含め、この時期の統合が
後の爆発的な膨張の原動力となったようです。

それにしても、古い歴史を持つことは確かなようです。
源頼朝の御落胤説を採れば清和源氏直系となります。
さもなくば秦・惟宗・島津と続く家系図を採用するしかありません。ならば
「秦の始皇帝と除福伝説」(秦氏=除福は俗説にすぎないというのが実は一般的)
「稲荷信仰と稲作伝播」(こちらは真実と思います。伏見稲荷は秦氏の神社だから)
のあたりから書き始めなければならないでしょう。

「島津雨」って、悪天候の戦場での景気付けかと思ったら、狐関連だったんですね。
317_____________________:02/07/11 20:41
越後にも島津の子孫がいて上杉氏に仕えてたよ〜ん
318日本@名無史さん:02/07/14 00:19
その系図を知りたい
319日本@名無史さん:02/07/14 00:32
>>24

  カ エ レ!
320日本@名無史さん:02/07/14 00:33
>>27

功績は功績でいいけど、
このスレは君が興味の無い
出自を真面目に論じる趣旨です。
321日本@名無史さん:02/07/14 00:36
>>317
江戸時代(後期だったような気がする)に
島津のお姫様が上杉に嫁いだって話を聞いた事がある。
それのこと?
322日本@名無史さん:02/07/14 03:25
>>317
武田信玄に追われた信濃の島津氏のことか?
323pt:02/07/14 04:44
平家の末裔って話なかったけ?
324日本@名無史さん:02/07/14 10:05
>平家の末裔
それは初耳。
平家の落人が数多く薩摩大隅に移り住んだという話は残ってるけど。
325日本@名無史さん:02/07/16 10:37
日本史板らしい学術的なスレ発見age
326日本@名無史さん:02/07/18 23:49
すいません 東北島津氏のこと誰か知りませんか
327日本@名無史さん:02/07/26 01:16
そんなのもいたのか・・・。
328日本@名無史さん:02/07/26 01:19
惟宗忠久は頼朝の家臣だから平家出身というのはどうかなー
329日本@名無史さん:02/07/26 01:33
平氏じゃなくって平家か?御冗談を。
330日本@名無史さん:02/07/26 01:55
河内源氏と秦氏は関係あるのですか?
331日本@名無史さん:02/07/27 03:43
satsumaage
332日本@名無史さん:02/08/11 18:26
だからチョンなの。ワカル?
333日本@名無史さん:02/08/17 14:32
age
334日本@名無史さん:02/08/31 20:51
新井満子はどこに消えた?
335日本@名無史さん:02/08/31 21:00
懐かしいスレがあがってきた。
336日本@名無史さん:02/09/12 09:07
さつまあげ
337日本@名無史さん:02/09/15 22:35
>>322
その通り!!
338大隅の人:02/09/21 20:26
 鹿児島の戦国時代で良く日新公(島津忠良かな)の事よく出てくるけど。あの人は何代目
とかいうんじゃないんですよね。貴久とか、義弘の親父ですよね。
 本家をようするに乗っとっつた。だからそののちの子孫は、当然あがめる。
島津氏は700年連綿と続いているというけど、ほんとうは切れているんだと思う。
 勝久の直系の子孫が50石位の薩摩藩士として江戸時代もあっつて、本家に伝承する物を
藩主近辺がシツコク取り上げようとした事を何かで読んだことがある。当時もきにしていたんでしょうね。
 ようするに南の果ての鹿児島でも下克上があつたという事。
しかし連綿と続いたほうが形がいいから、養子の形とつているんでしょうね。
339日本@名無史さん:02/09/21 20:39
 鹿児島の言語や風俗が日本の他地域と著しく異なっていると
感じることがあった。
 考えてみるに、ここ鹿児島という土地には、弥生人に追われて
南下してきた原日本人が中心に住み着いた。それに坊津に上陸した
中国人の血が混ざっている。
 他地域と違う言語・風俗が存在するのは当然だ。
 800年前に現在の鹿児島に清和天皇の子孫である島津氏が来た。
 薩摩人が勇猛だって?NOだ。関ケ原の敵陣突破?NOだ。勇敢じゃない。
徳川氏も清和天皇の末裔だから、顔を立ててくれただけの話だ。
 自分が住んでる鹿児島を語る時、維新だの、島津だの、どうでもいい事ばかり。
 自分たち、鹿児島人にはほかにアイデンティティがあるじゃないか?
会津と仲悪いなんて、島津がやったこと。朝鮮出兵も沖縄もね。
迷惑な話だ。
 鹿児島人と同じ「原日本人の血」が流れる人たちがいる。
 彼らは自分たちのルーツを大切にしている。岩手のアテルイだ。
俺たち鹿児島は、熊襲を大切にしよう。経済だって、おのずと道は開けるさ。
340日本@名無史さん:02/09/21 22:39
>清和天皇の子孫である島津氏
>徳川氏も清和天皇の末裔だから
( ´,_ゝ`)プッ
341日本@名無史さん:02/09/21 22:58
>>339
あの〜。島津氏は源氏じゃなくて唯宗氏(秦氏)なんですが。
342大隅の人:02/09/21 23:15
当時の富の源泉の最たる物は米でしょうね。
ただ現在の様な灌漑用水設備作る技術も不足してるから山と平野の境当たりに田圃が
多かつた。(どつかで読んだおぼえ、湧き水がある所とかも)
 鹿児島地方では大口、都城などの盆地平野が古くからの米生産地だつたんじゃない。
だから島津し発祥地が宮崎県都城市の神柱神社にあるんじゃない。
その後勢力拡大していっつて西隣の宮之城、大口伊佐盆地に進出した。

343日本@名無史さん:02/09/21 23:21
>>341
血縁的にはどうかわかりませんが。源平藤橘では源を江戸時代はいつている。
みなもとのあそん    あ、そうといいたいが。スマン
344日本@名無史さん:02/09/22 00:35
>>343
源頼朝の御烙印説は間違いなく嘘。島津氏がこのような嘘をついた
ことから、唯宗氏説も島津氏の嘘で薩摩の土豪出身はないか?とい
う疑いがもたれているが、唯宗氏説はおそらく正しいと思う。

というのも、島津氏は薩摩以外の守護職も持っていて、これは島津氏
は鎌倉幕府の有力者だということ、すなわち京都か関東の(豪族)出身
だというのは明らか。ということで島津氏を惟宗氏とする(当初の)自己
申告を信用するのが一番自然な考えだと思う。
345日本@名無史さん:02/09/22 01:09
「唯」宗だってよ ( ´,_ゝ`)プッ
346日本@名無史さん:02/09/22 01:12
>>345
細かいこと気にするにゃ

「惟宗氏」漢字登録しておこう。
347343:02/09/22 02:47
>>344
鎌倉系の御家人が地方に下向して来て荘園を自分達のものにしていっつたでしょうかね。
薩摩以外の守護職もつてたのはどこですか?惟宗忠久は地頭職はあちこちもってたのは何か読んだ覚えがあるが。
 江戸時代、格好つけたかっつたんでしょうね。で「源朝臣松平○○」
徳川から「松平」もらつて、つかわせられてんですよね。名誉か屈辱か。外様はつらかった(泣き)
348日本@名無史さん:02/09/22 03:00
島津氏が鎌倉幕府の支配下に入っただけではないか。
徳川家康が関ヶ原の戦いで勝ったから全国を支配下に置いたように。
349日本@名無史さん:02/09/22 11:49
>>347
島津氏は、若狭の守護職もってた。

>>348
島津氏が地方下向の御家人なのは間違いないと思う。
350日本@名無史さん:02/09/22 14:56
島津の出自は朝鮮です。
351日本@名無史さん:02/10/05 17:09
352日本@名無史さん:02/10/09 15:54
やっぱ朝鮮で確定でいいか。
353日本@名無史さん:02/10/10 03:51
ノーベル賞あげ。

>>118
へー。別に島津家の出の人ではないんですね。
354 :02/10/10 08:19
社長は島津家の流れの人なの?
355日本@名無史さん:02/10/10 08:39
>354
違うというとろーがー

島津の殿様は
島津交通だ!
356日本@名無史さん:02/10/10 11:24
>>354
>>118を見れ
357日本@名無史さん:02/10/10 11:34
なんだよ、島津製作所って島津さんが起こした会社
じゃないのかよ。
ったく家紋まで使って紛らわしい。
島津さんも下々に家紋使わせてやるのやめれ。
お人よしにも程がある。
358日本@名無史さん:02/10/10 15:10
4日位死んでたスレあウゴイテル。
しかし、丸の十の字の使用を義弘さんが許したていう書付あるのかな
 どうでもいいとは思うが。やはり
上場会社がいつているんだから古文書位ないとね?
359鹿児島県知事の須賀です:02/10/10 15:18
>>355
本社は島津興業、島津交通は子会社(タクシー)、建設、ゴルフ場、色々持つテル
↓ホームページ

http://www.minc.ne.jp/shimadzu/
360日本@名無史さん:02/10/10 16:27
http://www.sanbou.net/retsuden/sa/simazu.htm
このページに、薩摩島津氏との関係が書いてあるよ。
361鹿児島人:02/10/10 23:58
>>360
それは知ってました。
 昔ほ、封建時代の褒美では、必ず書付等が無いと、身分の低い者は処罰されると
おもうんだがね
 私の知つている島津の家門(分家ね)なんか轡十文字のデザイン少し変えているもんね。
明治の時代の、巧い宣伝で、職種もアカデミックだつたから、本家本元の島津さん
も五月蝿く言わずとおもうんだがね。商標登録してないでしょうからね。
三菱と三菱鉛筆みたいに(あれぜんぜん別資本系統)
>>256>>264
頼朝落胤の帳尻併せの為に生年を書き換えたってことのが自然
忠久・忠季兄弟は範頼室の異父兄なんだから生年は頼朝に近いはず

各地の守護に着けたのも有力な武家(武士団)じゃなかったから
有力な武家(武士団)は極少数の例外を除いて出世してない
363日本@名無史さん:02/10/12 00:37
http://money.2ch.net/test/read.cgi/eco/1031469940/

193 :金持ち名無しさん、貧乏名無しさん :02/10/11 09:56
んにゃ、京都。
島津=鹿児島と思いがちだけど、所詮、島津はよそ者。
800年前に鎌倉幕府から派遣されてきたんだもん。
源義経、頼朝、徳川家康、島津、いずれも清和天皇の末裔だからね。
関ケ原の戦で島津が中央突破できたのも、遠戚関係にある徳川が、
島津の顔を立てるためさ・・・・島津は勇猛果敢じゃなく、談合上手なだけ。
ちなみに、天皇家は朝鮮系だから、中央から派遣された武士って××天皇の末裔だらけ。
早い話、日本の中世時代は朝鮮系が幅をきかした。
天皇の韓国訪問を神道筋のみならず、政府が反対するのも、日本の歴史を根底から
ひっくり返される恐れがあるからだよ。
一般の鹿児島人は、原日本人熊襲と東シナ海を渡って上陸した中国人の末裔さ。
・・・あと、現天皇の妹が島津家に嫁いでいるのも、お互い天皇家の出だからだよ。
364 :02/10/13 00:56
>>363
島津も徳川も清和源氏とは関係ない。
島津は惟宗氏、徳川は加茂氏
365日本@名無史さん:02/10/13 16:37
>>364
無知発見
徳川は加茂氏とは無関係
家康の曽祖父の代はどこの馬の骨とも知れない乞食坊主
366日本@名無史さん:02/10/13 23:56
>>365
ヴァカ発見。信忠の曾祖父信光は政所執事伊勢氏の被官。
367日本@名無史さん:02/10/14 00:08
>>365
賀茂親氏、在原信重、源泰親の関係が分かってない
無知発見。
368日本@名無史さん:02/10/14 00:13
aho!
369日本@名無史さん:02/10/14 00:14
>>366
ヴァカ発見。その数代前はこじき坊主
370c:02/10/14 00:14
371日本@名無史さん:02/10/14 01:45
こじきの子孫が源氏になれるのか?
日本ふしぎ発見
372日本@名無史さん:02/10/14 01:49
衝撃の事実!
あの徳川家康は乞食の子孫!?
373日本@名無史さん:02/10/14 01:50
信光が乞食坊主だってよ
是非ともソースを示してもらいたいもんだな
でなきゃ責任とって腹きれ
日本人らしく あ、日本人じゃないのか
374日本@名無史さん:02/10/14 02:09
365は徳阿弥のこと言いたかったんだろうね。
でも無知だから家康の曾祖父なんて
トンデモ言っちゃったんだね。
悪気はなかったんだから許してやろうよ。
375日本@名無史さん:02/10/14 02:19
徳川の系図も三河守の任命を得るために整えられたものだからなあ
眉唾モノだろう
376日本@名無史さん:02/10/14 04:38
>>366
ヴァカはおまえだろ
数代の意味分かってるか?(w
377日本@名無史さん:02/10/14 10:41
家康の家系捏造は三河守任命を申請した時、正親町天皇より由緒ある家柄の者にしか
官職を与えられないと断られたことが原因。
すぐに家系図を整えて自分が新田氏につながる源氏の出身であると主張する
捏造とみて間違いないだろう。
378蝿皇子 ◆MLX/At3sMc :02/10/14 13:39
>>180
>>261
秦氏はペルシャ系ではなかったっけ?
たしか服部になったのがその系譜と読んだけど。
これってトンデモ?
私の知り合いの秦さんは、満月のようなお顔の美人でした。
キツネと島津氏の関わりは面白いですね。

379日本@名無史さん:02/10/14 13:41
家康の先祖はアイヌ人だよ
380日本@名無史さん:02/10/15 10:04
家康の三河守任官は藤原でだろ
381日本@名無史さん:02/10/15 10:05
家康は乞食の子孫
382日本@名無史さん:02/10/15 10:11
島津って秦系の惟宗氏じゃなかったっけ?対馬の宗もそうだよ。
383日本@名無史さん:02/10/15 18:29
>>380
勉強不足
三河守任官のために系図を捏造は史実
384日本@名無史さん:02/10/15 22:07
家康の三河守任官は「藤原」で任官されたんだよ
「家康」の姓詐称は藤原→源だと言うておる
どっちが勉強不足なんだか
385日本@名無史さん:02/10/16 11:32
>>367
知ったかぶりで無知をさらけ出すのは控えましょう。
386 :02/10/20 17:01
家康の先祖の徳阿弥は時宗の放浪僧とされているが、
それだけなら、三河の酒井郷の庄屋や、松平郷の庄屋の娘に
子供を孕ませることは出来ないだろう(いやしくも酒井も松平も庄屋だから)。
徳阿弥は放浪僧だったが、氏素性を伝える何かを持っていたと思われる。
だからこそ、酒井と松平の庄屋の娘に子供を孕ませることが出来たわけ。
387日本@名無史さん:02/10/20 17:04
>>386
国人未満の地侍級だから、可能じゃないの?。
388日本@名無史さん:02/10/20 18:04
大方口が達者だったんだろう。で、ド田舎の地侍をたらしこんだと。
389日本@名無史さん:02/10/21 01:35
どちらにせよ現時点では、島津>徳川だろ。
390日本@名無史さん:02/10/24 20:01
>>389
未来永劫に島津>徳川だよ
もう徳川に勝ち目なし
391日本@名無史さん:02/10/25 00:48
でも、華族の数で逝くと徳川>島津
公爵家
 徳川本家、慶喜家、水戸家(侯爵から昇爵)>島津本家、久光家
侯爵
 尾張徳川家、紀州徳川家、越前松平家、
伯爵
 徳川御三卿、その他多数

 島津の分家も若干あるがかなわない。
392日本@名無史さん:02/10/25 04:40
惟宗も賀茂も下級技術官人。
どっちもどっち。
393日本@名無史さん:02/10/25 18:29
だから徳川と賀茂氏は関係ないだろって?
394日本@名無史さん:02/10/31 01:24
狐か、そういや明治帝も后のことを「キツネ」って
言ってたな。ほんと狐顔でやんの。
395日本@名無史さん:02/10/31 06:45
「天狗さん」って呼んでたって聞いたぞ。
396かごんま噂板:02/11/03 05:25
397日本@名無史さん:02/11/03 11:18
 |  ダサツマダサツマをここでしてよろしいでしょうか?
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    /||ミ  V
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398日本@名無史さん:02/11/03 11:18
                \ │ /
                 ◎−◎   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
               ─(∴д∴)< ダサツマ、ダサツマ!
                 \_/   \_________
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                    ∩ ◎−◎  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\∩ ◎−◎\(∴д∴)< ダサツマダサツマダサツマ!
ダサツマ〜〜〜!  >(∴д∴ )|    / \__________
________/ |サイゴー〈 |シマヅ|
              / /\_」 / /\」
               ̄     / /
399日本@名無史さん:02/11/03 11:26
                 \\   ウ オ オ オ ォ ォ ォ ー ! ! ダサツマ覚悟 ー ! !  //
                   \\                                  //
                                       ._                   _
                ドドドドドドドドドドドド!!     |風|               _     |風|
                                     |林|   _           .|風|   |林|
  【圧倒的な東国勢の前にダサツマ敗走する図】         |火|  |風|        .|林|   |火|
                                          |山|   |林|           |火|   |山|
                              _∧ ∧(oノヘ| ̄  .|火|          |山|(oノヘ| ̄
                              (_・ |/(゚∀゚ )|\.   |山| ._∧ ∧(oノヘ|/(∀゚ )|\
                       _∧ .∧(oノヘ   |\Ю__∧ ∧(oノヘ| ̄ (_・ |/(゚∀゚ )|\ ⊂)_|√ヽ
                   (_・ |/(゚∀゚ )\ (  (_・ |/(゚∀゚ )|\   |\Ю ⊂)_|√ヽ~∪ )^)ノ (´⌒(´⌒;;
      ◎−◎;           |\Ю ⊂)_ √ヽ| ||   |\ Ю ⊂) |√ヽ (  ̄ ~∪ )^)ノ( | ( |(´⌒(´⌒;;
     (∴д(∴)         (  ̄ ~∪ )^)ノ '~ ~   (  ̄ ~∪ )^)ノ  .|| || ~( | (´⌒(´⌒'~ (´´
     ⊂_  ⊂)            ||` || ( | ( |(´⌒(´    ||` || ( | ( |  (´⌒(´⌒;;  (´⌒ '~ (´⌒(´⌒;;
        Y 人          '~ ~(´⌒(´⌒;;  (´⌒(´⌒  (´⌒(´⌒  (´⌒(´⌒;;
       (_) J                       (´⌒(´⌒;;

    タ、タスケテデゴワス!!!                       ドドドドドドドドドドドド!!
400日本@名無史さん:02/11/03 11:54
400dasatuma
401:02/11/03 12:08
自称島津氏の事何でも知っている!
と、おしゃる皆様!この一族は過去に戦勝を願い神を崇めてらしゃいましたが、何の神様(何処の神様)を崇めてらしゃるかお答え下さい。
もちろん知ってらしゃいますよね?

ダサツマとおしゃる皆様!

この一族の成して来た事は歴史の流れを大きく変えた功績は称えるに値致すと私は感じます。

敬意を込めて頭を下げたい気持ちでおります。
402日本@名無史さん:02/11/05 14:23
>>401
「諏訪神社」の建御名方命と事代主命の事?
島津家は代々、神社大好きだからね(w

島津家は代々神道信仰だから、氏神さんが多すぎるのだよ
照国神社・鶴嶺神社 ここは島津家の先祖を祭っているからみんな知ってるけど
お稲荷さん(照国神社のラブホ街側の裏手)は
知らない人が多いからいつも参拝する人が皆無に近い。。。
403日本@名無史さん:02/11/05 14:33
秦氏じゃないの?
404402:02/11/05 14:51
>>403
鹿児島で秦氏を御祭神として、祭っている神社は無いですよ

トンでも話で御祭神を秦氏と言われる、東市来町の太秦神社があるらしいですが
宮司もいないし、地元の人間でもあまり知られていませんし、地図にも載っていません
島津家から保護されていたら、少しは大きな神社として残っているはずです
405日本@名無史さん:02/11/06 04:22
稲荷を信仰してるのは
惟宗(=秦姓)である名残だね
406日本@名無史さん:02/11/07 12:25
>>404
惟宗が元々秦だったんじゃないって言いたかっただけ。対馬の宗氏もそうだよね。
407日本@名無史さん:02/11/08 02:02
唐突に神社の話をもちだして何か主張している気になってるアフォが1名。
408日本@名無史さん:02/11/18 00:17
409:02/11/18 01:10
>>402
さすがでございます。
島津氏は諏訪大社の神様、後信濃川も流れている為、水神である龍神をまつる神社でもあります。

同様に熱心に信仰されていたのは武田信玄公で戦勝を願う為此処の大社の信者でもありました。

しかし、熱心さでは島津氏には財力さえも武田氏は及ばなかったのでしょう。
日本各地に諏訪大社ゆかりの神社を広めたのは島津氏のお陰。
私、長野県出身者にとっては島津氏が保護して来たものの方が大きいので感謝せずにはいられません。
410日本@名無史さん:02/11/30 17:49
411日本@名無史さん:02/12/02 22:14
●●様ってのは2ちゃんには無い文化だ、渡来系だろうか
412日本@名無史さん
いや、帰化系だと思う。蛮地からやってきて皇土の臣民になったんだろう。