関ヶ原から大阪の陣までの豊徳両家の関係

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1日本@名無史さん
豊臣家は、関ヶ原以降も関白になる可能性を秘めており、大阪の陣で滅びるまでは豊臣・徳川の二重政権だったという説がありますが、どうなんですかね?
2日本@名無史さん:01/12/03 21:12
言ってる意味がわかりません。
3日本@名無史さん:01/12/03 21:21
あんたの説だろ!
4日本@名無史さん:01/12/03 22:37
>>3
「再現・日本史」第1号に出てたよ。
5日本@名無史さん:01/12/03 22:42
秀頼は関が原の戦勝祝いを家康に上座から言ったからなあ。
61:01/12/03 23:47
一般には、1600年に徳川家康の執奏によって、九条兼隆が関白に就任したことで秀頼の将来の関白就任の道が絶たれたということになってますが、実は>>1のような説があるということです。勿論、この説は自説ではありません。
7日本@名無史さん:01/12/04 00:24
秀吉は小牧長久手以後そのつもりだった。
豊臣関白、徳川将軍体制。大統領と首相ってか。
だから家康に源姓その他将軍就任に必要な身分を認め始めている。
8日本@名無史さん:01/12/04 00:49
死の淵にある秀吉が家康に
劉備みたいに「その器がなかったら君がとってかわれ」
と言ってたとしたらどうなったんだろ?
なんもなかったかな。狸には通用せんか。
9日本@名無史さん:01/12/12 15:51
>>8
「なんでワシらを差し置いて狸なんぞに!」と逆ギレした豊臣恩顧の諸大名が豊臣家に反乱起こす。
10日本@名無史さん:01/12/14 01:51
>>6
九条兼孝です。
11日本@名無史さん :01/12/21 20:27
>>1
笠谷和比古氏の説です。氏の『関ヶ原合戦』(講談社メチエ)や
『関ヶ原合戦四百年の謎』(新人物往来社)に書かれています。
12日本@名無史さん:01/12/21 20:58
>>1
井沢元彦がすでに笠谷説に食いついてるぞ(藁
13日本@名無史さん :01/12/23 16:14
>>12
どこでですか? 教えてください。
14:01/12/26 21:54
棚からぼた餅じゃ〜ないんですかネ!?
15名無史さん:01/12/28 01:27
どういう意味やねん?(w
16ななし:01/12/28 01:37
二重政権説が成り立つのは慶長10年の秀忠将軍襲職
までと思われ。
17日本名無史さん:01/12/28 02:17
慶長10年から始まる江戸城の大改修工事に、
豊臣秀頼の直属家臣が「普請奉行」として関与することが二重政権説の大きな根拠らしいよ。
18日本@名無史さん:01/12/28 02:37
秀吉としては次の天下人が家康だということはわかっていたと思う。
だから、なんとか上級貴族として、秀頼を逃そうと考えたのではないかな。
自分が信長の息子たちをどう扱ったかを考えれば、凄い恐怖だったに違いない。
19日本@名無史さん:01/12/28 09:29
>>1
家康公が将軍になるまでが豊臣政権ではないのか?
もっとも幕府成立以前も、豊臣政権の首班は家康公だったがな。
それ以後には豊臣に国政をみる力量無し。
国政の決定機関である5大老も、徳川が独立し、前田は代替わりで力量低下、
残りの3家は引責辞任では、この時点で崩壊だな。
豊臣家も単なる貴族か大名に自動降格。
自称「豊臣政権」は存在していたとしてもいいが、それを政権と呼べるだろうか?
20ななしさん:01/12/28 15:00
>>19
関ヶ原合戦後の領地配置を見ると、彦根以西は徳川にとって全部外様大名。
しかも、そのほとんどが豊臣系大名だ。これが秀頼の軍事的基盤になっている。
2119:01/12/28 23:37
>>20
自称「豊臣政権」の自称「戦力」ですね。
で、その「戦力」が「豊臣政権」の命令でどれだけ動いたのかな?
豊臣家に義理を感じていても、「現実の命令」を優先させていたと記憶しているが。
ま、例外(福島なんか)もいたことはいたのも知ってるが、その末路がどうなったか、
みんなわかっていると思うけど。
22日本@名無史さん:01/12/28 23:41
今谷明も、>>1説に噛みついてますな。
23日本@名無史さん:01/12/28 23:45
今谷氏によれば、関ヶ原の合戦は家康にとって不本意な戦いであったという。
家康は、あくまで自家のみの力でこの戦いに臨もうとしたんだけど、徳川軍の主力を率いていた秀忠がご存じのように、遅参したために、福島・黒田ら豊臣系大名に頼らざるを得なくなり、結果、彼らを優遇せざるを得なくなったと。
24日本@名無史さん :01/12/28 23:55
>>23
それは笠谷氏の説でしょう。
笠谷氏の『関ヶ原合戦』で始めて提唱されたものですよ。
25日本@名無史さん:01/12/29 00:06
>>21
加藤清正、浅野幸長、福島正則の三人衆が健在のうちは、
家康は大坂に手出しはできなかったのです。
残りの豊臣系大名は、この三人の旗振りで動きますからね。
26日本@名無史さん:01/12/29 00:09
>24
いや、今谷氏の本に書いてあります。
でも、今谷氏は>>1説には批判的ですが。
27日本@名無史さん:01/12/29 00:14
>>26
その二つの議論は、そもそも矛盾でしょう。
28日本@名無史さん:01/12/29 01:03
まぁ、中世を背負って立つのは今谷だね。
29日本@名無史さん:01/12/29 01:12
>>12
教えてください?
30日本@名無史さん:01/12/29 01:17
>>28
間違った説を背負われても迷惑千万・・(w
31日本@名無史さん:01/12/29 04:27
>>28
この時代は中世ではなくて、近世。
32日本@名無史さん:01/12/29 04:54
>>30
ワラタ
33日本@名無史さん:01/12/29 05:51
28はホント物知らんなw
34日本@名無史さん:01/12/29 09:00
結局は小牧・長久手で家康に勝てなかったことが致命的になってしまった。
結局、信長(彼の場合息子まで一緒に死んじゃった)も秀吉も息子に恵まれなかった。
これが家康との違い。それに家康徳川政権の基盤を盤石にしてから、あの世に逝った。
やはり、家康は信長、秀吉より一枚上手だったってことかな?
35日本@名無史さん:01/12/29 09:37

今谷先生マンセー、一生突いて行きます。
36 :01/12/29 10:03
突くんだ・・・
37名無しさん脚:01/12/29 10:05
家康がさっさと死んでいて淀君がドキュソでなければ、豊臣家の扱いも変わっていたと思うよ。
豊臣家は、親藩格扱いで存続とか。
38日本@名無史さん:01/12/29 15:52
家康が死んだら、どうなる。
かたや成長著しい秀頼と、かたや天下分け目の関ヶ原合戦で大チョンボをした秀忠だ。
西国にひしめいている豊臣大名は、はたしてどちらにつくか?!
ここが大坂の陣を考えるポイントだということを、
笠谷和比古が『関ヶ原合戦四百年の謎』の中で書いている。
39日本@名無史さん:01/12/29 23:03
>>38
う〜ん、確かに三成無きこのとき、豊臣恩顧(っていうか盲信)の正則や清正を
ひきつけたのは家康のカリスマ性だろうし・・・(豊臣を守りたい一心?)
秀忠と秀頼のどちらを選ぶかというと・・・
でも・・・どうなんだろ?
40日本@名無史さん:01/12/31 02:34
>>38
関ヶ原で敗れた毛利と島津の動向も問題となるだろう。
41日本@名無史さん:01/12/31 02:46
淀君も、最終的には哀れな末路を遂げたよなぁ・・・しみじみ
42日本@名無史さん:01/12/31 02:54
そういえば、昔井沢掲示板で例の笠谷説をまるで自分が考えた論であるかの如く吹聴してた奴いたっけ(w
43日本@名無史さん:01/12/31 03:06
アレは、最終的には篭城攻めで食い物が無くなる迄兵数を増やし
、その数に物を言わせて食い物に飢えたところに米を配給する。
いきなり胃の腑の中に流し込むと反動で死ぬ・・・。
篭城攻めの最大の戦略は、そこにあるといっても過言ではない。
それと、関ヶ原の合戦以降、東軍が勝利してから征夷大将軍にな
った家康はその後10年ほどで没した・・・。
フッ・・・・・・・・
44日本@名無史さん:01/12/31 03:54
>>43は、バカですか
45名無史さん:01/12/31 05:30
>>41
どういう意味やねん?w
46日本@名無史さん :01/12/31 05:47
>>40
それを言うんだったら、上杉や佐竹も問題となるし、
加賀の前田、越後の堀も秀頼側につく可能性が高いと思われ・・
47日本@名無史さん:01/12/31 13:18
>>46
更に、宇喜多秀家ふっか〜つ!
他にも続々と旧西軍で改易されたり殺されなかった大名が復活するだろうね。
しかも!和を乱す大元の三成は既になく、結構豊臣方も充実すると思うが。
どう思います?
48日本@名無史さん:01/12/31 16:49

なんか、徳川大包囲網が形成されてきた感じ・・w
49名無史さん:01/12/31 21:44
徳川方どうした?! 応戦するんだ!
徳川幕府が二代で滅びてしまうぞ(藁)
50日本@名無史さん :02/01/01 07:36

新年、一番乗り!
51日本@名無史さん:02/01/01 23:03
徳川勢、声なしか・・・
総崩れ?w
52日本@名無史さん:02/01/01 23:36
佐幕ヲタはあくまで幕末に興味があって、関が原にはあまり関心がないんだよ。
53日本@名無史さん:02/01/02 00:14
>52

このレスの前半では、ずいぶん威勢がよかったが・・・
54日本@名無史さん:02/01/02 06:24
今谷殿につき従っていた家来どもは、どうした?
これも枕をならべて討ち死にか・・w
55日本@名無史さん:02/01/02 06:42
秀吉死後の豊臣家と幕末の徳川家は似てるからな。
一族の末路は全然違うが。
56日本@名無史さん:02/01/02 07:43
>55
話の流れが理解できているの?
いま、秀頼と秀忠との関係を議論しているところだよ。
57日本@名無史さん:02/01/02 11:43
>>56
いや、そんなに固い事言わなくても(w

でも、関ヶ原のすぐ後に家康が死んでたら、大阪の陣自体が無かった
可能性もあるのでは?家康というカリスマがいたからこそ突っ走ってた
かんじがするのだが。
秀忠の征夷大将軍は変わらんかも知れんけど、豊臣家はその上の地位
(関白かも知れんけど姓同様に新しい役職というか位が創設されたかも)
になったかも。
58日本@名無史さん:02/01/02 12:33
if妄想から更に都合のいい設定だけ抜粋されて
「どうだまいったか!」って威張られてもなあ(藁
59日本@名無史さん:02/01/02 13:44
q
60日本@名無史さん:02/01/02 13:55
>>58
別に威張ってないけどなぁ(藁
まぁ、そんなイヤミ言わんと色々妄想出して楽しんだらいいんじゃない?
61日本@名無史さん:02/01/02 16:38

この「妄想」は家康自身が抱いていた可能性が高いのだ。
それだから、この問題は単なる荒唐無稽ではすまないということだ。
62砂漠ヲタ:02/01/02 20:37
よし、砂漠で一石。
関が原の後狸が身罷るとしよう
石高は徳川の方が多い。
譜代も徳川が多い(豊臣方の三成派=行政官僚は改易か徳川方についている)。
京都も徳川が押さえている。
秀忠側近団は戦術能力はないが戦略能力はある。
(家康死後のいやらしさ)
以上の点で豊臣方は尻つぼみとする。
63                      :02/01/02 20:39
 家康の狙いは、小早川の篭絡にあったのでないだろうか。小規模の陣の移動を
策していただけだろう。小早川の陣の近くまでいけば、まずはこれを戦わず下す
ことができる。大垣と西の連絡をたつことにあったのと思う。秀忠軍の
到着を待たずに決戦を仕掛けるつもりはなかったと思う。京極の大津城が陥落す
ると、西軍が勢いづくので、これをとどめるための防御的作戦だった。西軍が
決戦を挑んでくるとは家康の計算外のことだった。西軍が出撃したのも、秀忠軍
が不着である今こそ、チャンスであると考えたからだと思う。秀忠軍がちゃんと
到着していたとしたら、西軍は、関が原に出撃しなかったと思う。家康の作戦は
中入りではなかったと思う。決戦を考えて、敵をおびき出したというのでもなか
ったと思う。毛利軍が突入していたら家康もあぶなかったろう。自軍の主力が
いないのである。勝てば官軍で、なんでもいいように書かれるのである。西軍
の俊敏な動きをほめるべきであろう。総大将さえいればーー。三成は総大将では
なかった。
64日本@名無史さん:02/01/02 20:54
>>62

>石高は徳川の方が多い。
大名単独ならね。でも1対1じゃないし・・・

>豊臣方の三成派=行政官僚は改易か徳川方についている
味方についてる大名のうち、家康の「豊家は守る」って言葉を信じて
着いて来てた大名はどう動くかだな。関ヶ原ではあくまでも豊家のため
と言っての戦いだった訳だしね
改易大名にしても資金さえあれば参戦するよ
65日本@名無史さん:02/01/02 22:01
>62
徳川が京都を手中におさめているというのはツボだ。
これは笠谷が『関ヶ原合戦と近世の国制』という本の中で強調している。
66日本@名無史さん:02/01/02 22:34
>>63
なんで、いつのまに関ヶ原合戦の話になってまうん?w
67砂漠ヲタ:02/01/02 22:52
次ぎいくぞ(漏れはホントは福島ヲタなんだが)。
設定は関が原の後に狸が身罷るってことでな。

みなの衆、池田氏の扱いが少ないぞこやつは信長公の譜代の系列ぞ。
また蜂須賀氏の扱いも少ないのう。
心情論からすれば池田=織田家、蜂須賀=豊家ラインをもコントロールしたことも重要じゃないか。
しかしなあ、結城秀康に勇気があればよかったのに。
(もう少し暴走してくれれば、世間相場ほどにな)
結局徳川家臣団は対外的に一枚岩だったのじゃ。
68日本@名無史さん:02/01/03 01:05
>67
結城秀康もツボだ。
こやつは徳川勢力中の最大の危険分子だ。
家康が大坂に手出しをできなかった要因の一つが結城秀康の存在だと言われている。
まして家康が死んで秀忠の代ともなれば、結城秀康の存在はいよいよ危険なものとなるだろう。
69日本@名無史さん:02/01/03 01:11
>>68
はげどー!!
オレも秀康こそキーマンと思う。
70日本@名無史さん:02/01/03 01:15
彦根に井伊家が置かれたのも、秀康を警戒するためという説もあるしね。
71日本@名無史さん:02/01/03 02:07
結城秀康の子である松平忠直も危険だと思う。
72日本@名無史さん:02/01/03 20:29
>>70
あと、石田の残党の警戒ね。

>>71
そいつも、はげどー
でも、確かに手柄上げて褒美があれではムクレルのも当然かもね。
73砂漠ヲタ:02/01/03 20:31
3回目いくぞ(漏れはホントは福島ヲタなんだが)。
設定は関が原の後に狸が身罷るってことでな。

今回のキーはどのように豊臣家を煽るか(煽りは皆さんがお得意?)。
それと家康側近団から秀忠側近団への政権譲渡。
対豊臣家へは京都政権を抑え天海、羅山、崇伝、板倉等がるので史実どうりに進むだろうが
がだ、政権譲渡は元官房長官の本多親子と新官房長官大久保一門が巧く舵取りできるかだ。
(こう考えると正史は公家(豊臣)、大御所(家康)、将軍(秀忠)の三重政権だったのかい)
これは置いといて、漏れは秀康と本多親子、大久保一門の関係が詳しくないので妄想すると。
本多派(とりあえず重農主義派)は失脚大久保一門のさばる(忠燐は秀忠の家老)。
その後秀康を止める奴はいないので秀頼をとりなし公家(高家)にしようとする。
また徳川政権は重商主義(長安のさばる)に、これは秀忠は武功派でないために対外様大名への対応でもある。
加藤、福島らは公家なんかとんでもないと秀康へ逆ねじ食らわせたりする(相変わらず秀頼は将軍へ伺候しない)。
もう一回関が原がおきる。
東軍秀忠(徳川譜代)。西軍秀康(徳川外様)。
あとは皆さんにおまかせ。
74日本@名無史さん:02/01/03 20:36
福島(張飛)
清正(関羽)とかぶってみえるのは俺だけか。
75日本@名無史さん:02/01/03 20:39
何をいまさら
76日本@名無史さん:02/01/03 21:37
>>73
その関ヶ原で明らかに東軍につく旧東軍と旧西軍はどの大名?

>>74
オレもオレも〜♪
77砂漠ヲタ:02/01/03 22:55
>>76
あくまでも妄想だからね。
東軍秀忠(徳川譜代)。西軍秀康(徳川外様)。
東軍秀忠(徳川大久保派+旧東軍、前田、南部、上杉)
西軍秀康(徳川旧四天王+伊達、津軽、堀、島津)
区分けは地勢的なバランスと
急激な新旧交代は徳川家臣団でもあのころはよかった的なものが出るんじゃないかなとね。
どっちが勝利しても徳川政権とゆうことで・・・
以上妄想終了!!
>>74
福島も張飛も正史だとバカじゃないからね(W
7876:02/01/03 23:26
>>77
>あくまでも妄想だからね
OKですよ♪

これって、秀康が外様っていうところが哀しいね・・・
前田に上杉・・・これが地勢的なバランスって訳ですか?
確かに、このとき既に「まつ」は江戸にいるし景勝は一度負けを認めたら
裏切りできない性格のように思えるし、頷けるような・・・
それにしても、東軍の中の旧東軍って、市松と虎之助も含むの?
これはどうかな〜?だって三成亡き今2人にとって1番大事なのは豊臣
では?それとも、この頃になると、2人共多少世渡りがウマくなってるのかな?

でも、、徳川四天王が敵対するっていうのは大胆かつ新鮮な発想だね。
理由は理解できるよ。ようするに豊臣政権の武断派VS文治派が徳川
家中でも起こるってことだね、家康というカリスマを失ったために。
ただ、直政はウラで秀忠とつながってそうに思わない?(w

それと、伊達が西軍っていうところも芸がこまかい!(w
さもありなん、ってかんじだよ。

ねー、これで終わり?もっと妄想しようよー
79日本@名無史さん:02/01/03 23:29

東軍秀忠:徳川軍(徳川旗本+徳川譜代大名+徳川一門大名)
      +旧東軍外様大名(伊達、最上、南部、津軽etc.)+豊臣系大名(藤堂、黒田、細川、京極)

西軍秀頼:豊臣軍(豊臣直轄軍+豊臣系大名(加藤、浅野、福島、蜂須賀、田中、堀、堀尾、中村、森etc.))
      +旧西軍外様大名(島津、毛利、上杉、佐竹etc.)+旧西軍改易大名(大坂の陣のときの大坂方)

不明:前田、蒲生、池田、結城秀康
8076:02/01/03 23:59
>>79
うんうん、それもなかなか!
でも、細川と京極が東軍なのは何故?どちらかと言うと西軍のように
思うんだけどな〜。
黒田もおとなしく東軍にいるかな?長政は命を助けられた恩を忘れちゃう訳?
あと、堀と上杉が同軍?・・・どうかなぁ・・・
前田としてはつらいね。母親を取るか恩を取るか・・・
それと、加藤ってどっち?両方共?
81日本@名無史さん:02/01/04 00:03
>>79
 池田・蒲生は家康の実の娘の嫁ぎ先だから、東軍だと思われる。
82日本@名無史さん:02/01/04 00:12
細川家も三河発祥だから、なんとなく東軍。
8376:02/01/04 00:19
>>81
そっか。輝政はティムポ大名だったよな

>>82
細川はワカランな〜!得体が知れんな。
でもガラシャ関係で豊臣と決別したりして(w
84日本@名無史さん:02/01/04 00:55
ここで自衛隊の一個団体が登場。
東軍が総崩れとなる。
8576:02/01/04 01:05
>>84
あえてツッコミは避けときますよ。
86日本@名無史さん:02/01/04 04:08
>81
池田、蒲生は家康存命ならば東軍。家康が死んだらわからんw
地理的位置から蒲生は東軍、池田は西軍に属することになると思われ。
87日本@名無史さん:02/01/04 04:34

結城秀康は将軍の座をねらって、秀頼と取り引きをするかもねw
88日本@名無史さん:02/01/04 19:38
前田はけっきょく局外中立にならざるをえないだろう
細川はえたいが知れない・・・?(w
89日本@名無史さん :02/01/04 19:43
>>88
興元が家督を継いで、忠興は浪人ってとこか。
90日本@名無史さん :02/01/04 20:01
>89
細川は読めない。だから長続きする・・(w
91日本@名無史さん:02/01/04 20:03
上杉は、石高落とされても、人は多いから戦力としては頼りになるな。
越後通って、兵数増やしてゴーゴゴー。
92日本@名無史さん:02/01/04 20:05
>>90
2者択一の場合、細川は常に勝者を選択。京極は常に敗者を選択。
最後の最後に当たりだったが・・・
93日本@名無史さん:02/01/04 20:21
>>91
同感!
上杉鷹山の時代でも5千人もの家臣を抱えていたというのだから、
雑兵まで含めると、この時代の兵力は相当なものだと思う。
94日本@名無史さん:02/01/04 20:39
徳川のほうには、なんかええ材料はないのか?w
95日本@名無史さん:02/01/04 23:51
>>94
どうみても秀頼のほうが優勢だな。だいたい徳川方は大阪の夏冬の陣で孤立した
大阪城を落とすのにも手こずったのだろう。
加藤・福島らの豊臣大名うえに毛利・島津・上杉が豊臣方に回れば勝負は明白だ。
96砂漠ヲタ:02/01/04 23:56
インターミッション・・・

『桐一葉』ってご存知でしょうか。
坪内逍遥ねまあ御題しては日本史板のこのスレには相応しくないが、戦国してるのでってことで。
これで描かれたのは『一葉落ちて天下の秋を知る』って親爺のいきかただが、
家康ってやつはこの秀頼の守役をしっかり押えていた(史実でも)。
ッテ事でこの、片桐且元の動きが秀頼の今後を左右してたりもする。
>>78
(76氏)
この設定は家康が大阪城で論功賞を行ったあとてんぷら食って死去ってことで。(W
このため上杉、佐竹は時間的に旧領で健在。その他は史実ママ。
井伊は松平忠吉の後見人。
徳川武功派といえる四天王は家康死去のため恨みを秀忠に(徳川宗家)へ持ってく。
また津軽、南部は犬猿再発。伊達、上杉はこの時点では交戦中。
黒田、細川も犬猿再発。
今日はここまで・・・。
97日本@名無史さん:02/01/05 13:56
>>96
大阪冬の陣の時だけで10万集めたんだから諸大名がある程度味方
してくれたら戦力的には豊臣方がうわまわる可能性があるしね。
98日本@名無史さん:02/01/05 14:07
↑96×→95○
99砂漠ヲタ:02/01/05 21:52
>>79
加藤は家康(養女)の婿殿
片桐の甥は大久保忠隣の婿殿
蜂須賀至鎮は家康(孫娘)の婿殿
浅野は最初から家康派
前田は細川と縁戚(失脚した宇喜多秀家も)
森は地盤が信濃国(BYユーザロック)なので東軍(中立)
津軽、鍋島、毛利(領国削封後)は二枚舌外交
上杉は伊達次第で中立もありうる(関が原時点では両者痛み分けだったし)

秀頼は家康の婿殿。
100日本@名無史さん:02/01/06 00:49
>199
それらも家康がおけばこそ有効に働くのではないかしら。
家康が死んじゃったらボロ切れ同然でしょう。
秀忠ではダメだと思う。だれも秀忠にはついていかない。結城秀康だって危ない。

秀頼の豊臣政権が復活した可能性は非常に高かったと思う。非常にきわどかったのだろうね。
家康が3年早く死んでおれば、豊臣政権の復活は充分にあったと思う。
101日本@名無史さん:02/01/06 00:55
↑ 199X→99○
10276:02/01/06 04:01
>>99
それはどうかな〜。
戦国時代に縁戚は当てにならないのはご存知のハズ・・・
織田信長と浅井長政しかり、徳川と北条しかり、その他いっぱい。
それなら、加藤清正と浅野長政は豊臣家の親戚でもあるのですから。
100さんのおっしゃる通り、家康というカリスマあっての東軍と思われ。
秀忠も後々は評価も上がってきますが、このときは関ヶ原の遅参という
失態が目立って且つ武功もないし、東軍総大将にはまだまだ無理が
あったと思います。

面白いからもっと続けましょうよ!
103日本@名無史さん:02/01/06 05:31

「妄想」をやればやるほど、家康は心安らかには寝れなくなったことだろう。
104日本@名無史さん:02/01/06 10:36
慶長11年(1606)に家康が死んだ場合、
@豊臣方から積極的に行動しない場合、
 そのまま秀忠で決まりだろう。
A豊臣方から徳川討伐の軍を起こさねば豊臣政権復活はありえない。結局は軍を
 起こすことになるだろう。
B諸大名は徳川・豊臣の戦の動静を見てから動くのが大部分でしょう。人の心はわからないもの。
C豊臣方にある程度厳しい見方をすればD以下だろう。
D浪人を徴募。人材・兵力を強化。
E紀州の浅野に伊勢の藤堂を牽制させつつ、豊臣軍が京都を占拠。宇治・勢田の線で
 関東との交通を遮断。
E越前より結城秀康が彦根城を攻める。前田は中立であろうから背後の心配は無い。
F毛利・福島が中国筋で挙兵。大阪をつこうとする播磨の池田と対峙。
G九州では加藤、島津、田中吉政が挙兵。博多の黒田を攻める。
H四国は山内、蜂須賀が様子見の中立となる。加藤嘉明が毛利・福島と連合して、大阪に
 向かおうとする。
I後は不確定要素が強いのでわからん。D〜Hの情勢次第で大部分の(外様大名の)
 帰趨が決まる。
J伊達政宗が関が原の時のように、徳川につかなければ東北で伊達・松平忠輝・上杉・佐竹の
 同盟もありえたかも。ここで徳川に味方したらもはや、天下取りの目は無いことを
 政宗がどこまで理解するかだな。
K結城秀康(越前)と松平忠輝(越後)が反秀忠で挙兵すれば、中間の加賀100万石も
 たたざるをえないだろう。
L伊達政宗は一つのキーだね。
M問題はこれらの潜在的な反徳川勢力をどうやって結集させるかだね。それが難しい。
105日本@名無史さん:02/01/06 11:04
>104
なかなか面白い。
でも結城秀康ってそこまで徳川家にたいして反感持ってたのだろうか?
106日本@名無史さん:02/01/06 11:32
>105
実は1606年にしたのも秀康が生きているから。
息子の代ではこうはいかないだろう。

@秀康は、人質に出されたり、将軍になれなかったりと色々不遇である。
A養家の豊臣では、官位をもらったり、名字くれたり、聚楽第行幸の共をしたりと
 色々大切にしてもらっている。
B家康が生きていればともかく、秀忠の代になれば気持ちの振幅は大きいだろう。
C秀康は、秀忠、秀頼が仲たがいした場合、まず、調停に動くこととなるだろう。
 そして調停が失敗した場合、自分が生き残れば家康の血も残ると判断し、大阪に
 味方した可能性は高いだろう。



D但し、実は一番可能性が高いのは、秀康が義弟の秀頼を説得して、徳川に臣従させる
 ことだとは思う。
107 ◆b3R9mZpM :02/01/06 11:35
test
10876:02/01/06 14:47
>>106
うんうん!秀康の動向は確かに最も気になる!
でも・・・

>@秀康は、人質に出されたり、将軍になれなかったりと色々不遇である。
 →しかし、家康の実子だったりする

>A養家の豊臣では、官位をもらったり、名字くれたり、聚楽第行幸の共をしたりと
> 色々大切にしてもらっている。
 →しかし、秀吉に実子ができたら速攻で結城家に養子に出された。当時の結城家は
  家格は良いがすっげー小領主

>B家康が生きていればともかく、秀忠の代になれば気持ちの振幅は大きいだろう。
 →しかし、血を分けた実の弟。秀頼は所詮他人。

だったりするし。
109日本@名無史さん :02/01/06 15:12
関が原以降の関白就任の仮定してみたら、こんなのどうでしょ?

小早川秀秋(1600〜1602)
結城秀康(1602〜1607)
八条宮(1607〜?)
九条忠栄(秀忠の義理の孫)



豊臣秀頼
110104:02/01/06 15:21
>108
ま、豊臣ファンなのでどうしても秀頼よりになってしまうな。記述が。
108のA、Bの指摘は、106を書いているうちから自覚してたりもする。w

ただ、家康が、可能性として104のようなことを考えたのは、否定できないだろう。

逆をいえば大阪の陣は、結城秀康や加藤清正、浅野幸長が生きていれば秀頼の勝つ可能性も
高くなると家康が考え、起きなかった可能性はある。
111日本@名無史さん:02/01/06 16:53

家康が死んでしまったとき、
秀頼と秀忠のどちらが天下を取るかというのには、実は戦争は必要ない。
全国の大名たちのうちで大阪に参勤する大名と、江戸に参勤する大名との数と勢力で決まることなのだ。
戦争はその次の段階のことだ。
その状態をまずいと考えた側が仕掛けることなのだ。
112日本@名無史さん:02/01/06 17:16
>>106 D
その可能性はないと思う。秀頼と家康の二条城会見だって、あれは対等の礼儀であって、
秀頼が家康に臣従したというのではないというのが最近の説だ。
むしろ秀頼の方が家康より上座にいたということらしい。
113日本@名無史さん:02/01/06 18:11
>112
だから架空の話としてさ。

@家康が死んだ。

A秀忠が秀頼(又は淀殿)の江戸参勤か国替えを要求。

B戦になった場合、頼れるのは、加藤、福島、浅野くらい。こりゃ戦は不利となった時に
 秀康は秀忠、秀康に組せず、仲介の労をとるだろうということ。それが秀康の立場としては
 一番精神的に楽であり、現実的である。

Cそしてこの場合、「仲介の労をとる」とは秀頼の臣従のこと。

D二条城の会見の後、(臣従していない秀頼を危険視して)大阪の陣が起きたことを
 考えて欲しい。
11476:02/01/06 18:31
>>112
>あれは対等の礼儀であって

対等ってことが、淀殿にとっては既に負けてることになる。
ようするに、現代でいうと上司が部下の自宅に呼びつけられた
ようなものでしょ?
一応部下側は「お招きする」という形をとってるけど。

まぁ、オヤジ(秀吉)も天皇を自宅(聚楽第)に呼びつけてるし、
ドッコイドッコイかな?
115日本@名無史さん:02/01/06 22:37
>114
秀頼が二条城で家康と対面したとき、秀頼が上座で、家康が下座であったということらしい。

天皇や将軍が家臣の邸宅に行くのは、しばしばあることで、呼ばれたから負けだというのは変な議論だ。
116日本@名無史さん:02/01/06 22:51
>>113 B
加藤、浅野、福島が秀頼につくのは確実だ。そして加藤・浅野・福島が
旗幟を鮮明にすれば、豊臣系大名のほとんとが彼らと行動を同じくすることになる。
それは関ヶ原合戦のときの小山評定の状況を考えれば簡単にわかることだ。

毛利は明治維新のときに至るまで、関ヶ原合戦の復讐を考えていたぐらいだから、秀頼が
徳川打倒の兵を挙げれば、すぐに同盟することだろう。島津もそれに続くと思う。
11776:02/01/06 22:59
>>115
いや、負けって言うのは、のこのこ出かけるところが立場が上の人間にとっては
屈辱ではないかと。
そりゃ家康としては、同行してきた清正の手前(まだまだ協力してもらわんとイカンから)
自分は下座に座るでしょう。パフォーマンスとして。気持ちは別として。

>天皇や将軍が家臣の邸宅に行くのは、しばしばあること
それも承知。だから「オヤジ(秀吉)も天皇を自宅(聚楽第)に呼びつけてる」って
書いたんだけどね。秀吉の場合は明らかに権力誇示のために天皇を呼びつけ
てるって思う。ただ、江戸時代とかで綱吉が吉保の屋敷によく行ったというけど
個人的感情だと思うけど。
11876:02/01/06 23:01
>>116
毛利も島津も、復習に時間かかり過ぎだね(w
まぁ、きっちり復讐してるけどさ。
119日本@名無史さん:02/01/06 23:03
>>115
天皇が家臣の屋敷に行くことを「行幸」といい、将軍が家臣の屋敷に行くことを
「御成り」という。ともに家臣はこれを無上の光栄とし、名誉とするのだ。
12076:02/01/06 23:12
>>119
そう。だから秀吉はその名誉が欲しくて呼びつけたって事。
ようするに「箔付け」ですね。

日本国中見渡して天皇ただ1人を除いてTOPになったのだから、
締めとして、行幸してもらって「天皇もオレの言いなり」って示したかった
んだろうね。関白の職は天皇から授かるんだし、天皇だけは立てなければ
ならない。でも自分の方が権力は上だって世間に示したい・・・
それが「行幸」って形になったんだと思う。
121日本@名無史さん:02/01/06 23:13
>118
毛利家には代々にわたって、正月の元日に奇妙な秘密の儀式があったということだ。

藩主:すでに用意は整うたか?
家老:残念ながら、いましばしの御辛抱を
藩主:さようか。さらに時節の到来を待つこととしよう・・

これを関ヶ原のあと、明治維新のときまで毎年続けていたんだって。
122日本@名無史さん:02/01/06 23:16
>>121
司馬遼ですか?
12376:02/01/06 23:16
>>121
はいはい、聞いたことあります!
でも、維新の直前には家老は何て言ったんだろうね?
ちょっと興味あり。
多分、その頃には単なる儀式になってて、同じセリフだったと思うけどね。
124日本@名無史さん:02/01/06 23:24
>120
秀吉は自分の権力のことを、天皇の「御剣」を預かってとか、
「叡慮」(天皇の意志)に基づいて行使するという言い方を
世間に向かってしている。
つまり自分は天皇から、権力を委任されて天下を治めるのだという言い方をしている。
聚楽第への「行幸」は、この天皇からの委任ということを形で示そうとしたものだ。
12576:02/01/06 23:39
>>124
だから、自分の権力の正当性は天皇制が基本だから、表向き
天皇だけは立てたんでしょう。思惑は別として、表向きは。
126日本@名無史さん:02/01/06 23:43

家康が秀頼を二条城に招いたのも、徳川・豊臣の和睦の姿を天下に示そうとしたのであって、
秀頼に臣従を求めたものではない。
だから、秀頼にわざわざ上座を譲って敬意を表しているわけだ。
12776:02/01/06 23:58
>>126
それなら何故家康の方から大阪城に行かないの?
本当に和睦目的なら形の上では家康にとって豊臣は主家なんだし、
そっちの方が自然では?
大阪城に反徳川がいて危ないから?ホントに和睦目的なら会わなくても
良い方法で解決するでしょ?それをわざわざ呼ぶっていうのはどうも・・・

あ、言っておきますが、無理にこじつけて反論してる訳じゃないですよ。
ホントにそう思うし、皆さんのお話を聞きたいだけなんで。
ちょっと、周りでここまで話できる人間がいないので、楽しいので・・・
128日本@名無史さん:02/01/07 00:20
>127
淀君なら言ったでしょうね。秀頼を呼びつけるとは無礼千万!
和睦をしたいのなら家康こそ、大阪城に出向いてきて挨拶しなさいって。
目に見えるようだねw
でも加藤清正や福島正則あたりが必死で説得したのだろうね。家康を怒らせて戦争ともなれば、
豊臣家滅亡の危機に瀕すると言ってね。たぶん・・・
129日本@名無史さん:02/01/07 00:25
なんかいくら豊臣に好条件を想定しても淀殿ひとりでブチ壊しになりそう。
130日本@名無史さん:02/01/07 00:27
浅井家を再興して実家に返してしまえ。
13176:02/01/07 00:27
>>128
まぁ、そのあたりはよくドラマで描かれているシーンですな。
だから、家康が伏見(だったっけ?)にデンと構えて、秀頼が
わざわざ会いに行く・・・これじゃどちらが主人なのか・・・
状況から見て、豊臣側が「じゃあ秀頼君が訪問してあげよう」
ってことは無さそうだし、どう見ても呼びつけられてる・・・
失礼ですな。
13276:02/01/07 00:31
>>129
淀殿には、
1.徳川の大政奉還(ちょっと違うか?ようするに将軍職を辞めろと)
2.秀頼の関白就任
3.徳川の完全服従
これ以外は何も認められなかったでしょう。
133129:02/01/07 01:06
>>132
 いや家康・秀頼の会見に限らず、関ヶ原後の話題全体で。
家康が早く死ぬとか、加藤・浅野らが豊臣を裏切らないとかいう条件を想定しても、
淀殿が秀頼の側にいて口出しする限り、何もかも無駄に思える。
 
134日本@名無史さん:02/01/07 04:33
>133
秀忠とこにも似たもの姉妹がおるではないかw
いっそのこと、淀殿とお江の方との差しの勝負で決着をつけるかwww・・
135日本@名無史さん:02/01/07 04:56
>>131
伏見城ではなくて二条城というあたりも要注意点かもね。
家康はデンとかまえてではなく、庭まで出て秀頼を迎えたということだ。
これも目上の人間に対する作法なのだけれども、家康はみんなの見ている前で
何のためらいもなくやっている。
136日本@名無史さん:02/01/07 05:02
京都での会見は何をしゃべったか分る人いる?
秀頼は清正の助言で、何も口にせず、会見はすぐに切り上げたって聞くが。

清正 幸長 正則の3人がいたからまだ太閤も少なからず浮かばれるだろうな。
清正や幸長が死んでなければ、例え家康が大坂攻めを起こした所で
史実のようにはなってないだろうな。
137日本@名無史さん:02/01/07 06:14
>135
秀頼を上座にすえたり、家康が庭まで出迎えたりと、
家康と徳川は、秀頼と豊臣家より地位が下ですよと、
わざわざ天下に宣伝しているようなものだなw
二条城会見って、いったい何だったのだ・・・
138日本@名無史さん:02/01/07 06:46
秀頼に加藤、福島がつくのは分かるんだが浅野は秀頼につくかな?
ねねの意向で徳川につきそう…
加藤・福島も中立になると思う。
ねねは秀頼は秀頼の子というより淀の子という認識の方が強かったし
加藤・福島・浅野には徳川につけと言うと思う
しかし秀頼に刃向かえずやむなく中立をとると思うんだがどうか?
139138:02/01/07 06:48
ねねは秀頼は秀吉の子というより淀の子の間違い
140日本@名無史さん:02/01/07 06:50
ねねって結局どっちなの?
尾張派の元締め 豊臣家一代限り論者
実は秀吉の遺志に忠実で三成派だった

両方説があるんだが・・・俺はどっちの意見も鵜呑みにせず半々だと
思うようにしてるんだが。
141日本@名無史さん:02/01/07 07:05

ねねは、秀頼―家康の二条城会見のときに、わざわざ秀頼に会うために出向いてきている。
秀頼の成長したありさまを見て、どんなにか喜んだことだろう。
142138:02/01/07 07:06
尾張派の元締め 豊臣家一代限り論者がよくいわれてますね
143日本@名無史さん:02/01/07 07:11
>142
根拠なしに言われているにすぎないだろう・・
144日本@名無史さん:02/01/07 07:27
test
145日本@名無史さん:02/01/07 07:33
>>138
小山の評定のとき、福島正則は、家康が秀頼に危害を加えないという条件で
家康に味方したのでしょう。
146日本@名無史さん:02/01/07 11:39
淀君が物分りのいい人だったら豊臣家は滅亡しなかったのだろうか?
147日本@名無史さん:02/01/07 11:50
>>146
それはない。家康はもともと滅ぼすつもりだった。
148日本@名無史さん:02/01/07 12:58
>>147
その根拠は?
149日本@名無史さん:02/01/07 22:07
>147
家康は、徳川と豊臣との共存共栄を願っていたと笠谷和比古の『関ヶ原合戦』には書かれている。
むつかしいところだろうなぁ・・
もっとも加藤清正・浅野幸長・福島正則の三人が健在のうちは、豊臣を滅ぼそうと思っても
うかつには動けなかっただろうけれどもね。
150日本@名無史さん:02/01/07 22:27
大阪の陣が無い場合。
最良の場合
減封後高家(公家だし)として江戸在住。
最悪の場合
高野山へ行き浅野あたりの使者に詰め腹を切らされる。
だろうな。
151日本@名無史さん:02/01/07 23:02
>150
加藤、福島、浅野が健在のときは、家康でも大阪には手出しはできないのだ。
まして家康が死んで、秀忠の代となったら、徳川の幕府自体がもつかどうか危ういものだ。
関ヶ原で失態を演じた秀忠は、武将たちの間では笑い物だ。誰が秀忠についていくというのだ。
結城秀康も松平忠直も、江戸の秀忠への参勤をボイコットしているではないか!
152日本@名無史さん:02/01/07 23:05
>151
だから何?
153日本@名無史さん:02/01/07 23:12

150は根拠を示す必要があるだろうな・・
154日本@名無史さん:02/01/07 23:16

153は根拠を示す必要がある根拠を示す必要があるだろうな・・
155日本@名無史さん:02/01/07 23:20
>152
秀頼と秀忠では勝負は明白だということだ。
156日本@名無史さん:02/01/07 23:23
>155
秀忠の圧倒的な勝ちということね。
157日本@名無史さん:02/01/07 23:26
>156
天下の笑い物ということでは・・w
158日本@名無史さん:02/01/08 00:28
test
159日本@名無史さん:02/01/08 00:40
>157
秀頼さんには負けますが・・藁
160日本@名無史さん:02/01/08 01:12

くだらない漫才はやめろ。
それよりも加藤清正と浅野幸長は、なんであんなに都合良く死んじまったのかね。
二条城で毒饅頭を喰わされたのか、それとも刺客が送り込まれたのか。
誰か知っている人がいたら、教えてくれ。
16176:02/01/08 02:02
>>160
>それとも刺客が送り込まれたのか。
やはり、あずみの仕業か?(w ←これ判る?
冗談はさておき、同じ頃に真田真幸も亡くなったんじゃなかったっけ?
あまりにも、あまりにも都合良過ぎ。だから、かえって偶然のようにも
思えるんだけど・・・
人間、ウマクいくときは偶然が重なるもの。その偶然が重なった
からこそ、家康は決心したとも考えられる。
162日本@名無史さん:02/01/08 02:09
>>160
浅野幸長の死は清正より2年ぐらい後じゃなかった?
同じ毒饅頭食わされたにしては時期が違い過ぎる(w
163日本@名無史さん:02/01/08 04:06
>162
じわじわと効いてくることだってあるだろう・・
164日本@名無史さん:02/01/08 11:23
二条城の会見が慶長16年(1611)の3月で、清正はそれから熊本に帰国して
6月に死んでいる。やはり毒殺じゃないのか・・・
浅野幸長のほうは、確かにそれから二年後のことだけれども、まだ38才の若さだ。
これも不自然のような気がする。
165日本@名無史さん:02/01/09 03:43

証拠が無いからなんとも言えないだろうけれども、状況的には確かに怪しい。
秀頼にとっては決定的に痛手だし、家康にとってはもっとも面倒な二人がいなくなったわけだから。
残るは福島正則だけれど、正則ひとりではもうどうしようもないからね。
家康が大坂討伐を決意したのは、浅野幸長が死去した慶長18年8月より遠くない時期だと思う。
166日本@名無史さん:02/01/09 16:22
家康に「大坂攻め」の大義名分を与えた豊臣家のタワケ武将
加藤清正や浅野幸長が生きていても、いなくても、大義名分がなければ
家康といえども「大坂攻め」はできなかった
それほど、古今東西、戦には「大義名分」が必要である
戦いを仕掛ける側にとっては、常に正義の戦いでなければならない
嫡子信康をいとも簡単に切り捨てた家康にとって、豊臣家の使僚たちはタワケに見えたことであろう
167日本@名無史さん:02/01/09 22:48
150(元砂漠ヲタ【心情は豊臣派】)です。
1606年に家康死去って流れに担っているのでそれでコメント。
1605年秀忠将軍就任。関が原での東、西軍の削、加封終了。
その後の廃絶大名家を見てゆくと豊臣家がこの時点で壱万国クラスに戦略的削封をすれば
高家として生き残れたと思う(思いたい)。
つまり関が原で西軍は恩顧を豊臣家に返している。
       東軍は抜き差しならない国替えをさせられている
分かりやすい例は福島正則と毛利の関係と九州の大名。
毛利は旧領回復したいが、福島正則が納めているので踏み潰すか共闘後転封してもらうしかない。
また九州は黒田VS細川。加藤(東軍)と島津(西軍)など幕府側からの揺さぶる
ネタには困らない。
やはり、関が原直後か大阪の陣中に家康が死去しない限り秀頼はアボーンかなー。
168日本@名無史さん:02/01/09 23:18
>>166
大坂攻めの大義名分って何じゃ?
16976:02/01/10 01:38
>>168
家康を呪い殺そうとしたから?
んでもって、豊臣栄えろと祈ったと?
鐘に彫った字で?
マジでそんなことだけで戦を仕掛けたの?
それとも、もっとハッキリした大義名分があったの?
オレは「国家安康」の件しか知らないけど・・・
170日本@名無史さん:02/01/10 05:12
戦争に大義名分が必要だというのはわかるけど、
「国家安康」が大義名分になるの・・・?
171日本@名無史さん:02/01/10 20:10
>166
なんかようわからん不思議な御託宣やな??w
172日本@名無史さん:02/01/10 22:29
大阪の陣の開戦理由は【言いがかり】理屈じゃありません
「国家安康」はイスラムの人へコーランをこーまんというが如し。
家康も家光の代に豊家の対応を任せればこう悪く言われないのに。
その他転封の件(これも言いがかり)等あり。
173日本@名無史さん:02/01/10 23:13
>>172
???
174名無しんぼ:02/01/10 23:14
 「国家安康」の言いがかり、大坂冬の陣、その後の内堀埋め、
大坂夏の陣、国松の処刑等々。これら一連の豊臣つぶしの行動
は徳川家康の人生最大の汚点だと思う。理屈では理解できるの
だが、心情的にどうもついてゆけない。
175日本@名無史さん:02/01/10 23:27
>>174
秀吉の信長の子孫に対する仕打ちはどうよ。
176日本@名無史さん:02/01/11 02:45
>175
秀吉は、織田信雄は追放したけれども、織田家正統の織田秀信(例の三法師のことだ)はたいせつに保護して
岐阜城主に取り立てている。岐阜中納言とよばれた人だ。
秀信もそれを恩義に感じているから、関ヶ原合戦のときも西軍の最前線に立って、
東軍の総攻撃を一手に引き受けたほどだ。まあ、それが仇となって滅んでしまったのだけれど・・

家康が豊臣一族にやった仕打ちとは、えらい違いだ!
177日本@名無史さん:02/01/11 02:53
>176
織田秀信が西軍前線として戦ったのは、関ヶ原合戦の前哨戦となった岐阜合戦のとき。
178 :02/01/11 02:56
>>169
「国家安康」の件はたんなる挑発に過ぎないよ。
主たる理由は豊家が不当に浪人や武具兵糧を集めていて、
謀反を企んでいるというもの。

あ、もっと直接的な理由として、
片桐兄弟を大坂城から追放したことを挙げていたかもしれない。
うろ覚えスマソ
179日本@名無史さん:02/01/11 03:33
>178
徳川が戦争を仕掛けてきそうな情勢になったから浪人や武器を集めたんだよ。
180日本@名無史さん:02/01/11 08:32
>>178
片桐兄弟の追放も、彼らが豊臣討伐を画策する徳川に内通している疑惑からのことで、
それも理由にはならないだろう。
徳川が戦争を仕掛けようとしている理由や大義名分って、いったい何だ?!
181日本@名無史さん:02/01/11 09:46
>>176
かつての主家を乗っ取って
主家の後継者秀信を家臣に組み込んだだけじゃん。
信長の「信」の上に秀吉の「秀」とは・・・。

家康が豊臣一族にやった仕打ちより、はるかにたちが悪い!
182日本@名無史さん:02/01/11 09:53
秀吉は織田家の姫にかたっぱしから手をつけたらしいぞ・・・
183日本@名無史さん:02/01/11 10:25
>>183
ちがうよ。
信秀をさかさまにしたんだよ。
184日本@名無史さん:02/01/11 10:29
>>183
ぷっ(w
185日本@名無史さん:02/01/11 10:34
>>181
不審船のって本当の国へ帰っていいよ。
186日本@名無史さん:02/01/11 10:39
家康も秀頼を1大名に残す度量を示せば、スーパーマン並なのに。
あそこまですることで晩節汚しまくってるよな。
187日本@名無史さん:02/01/11 11:09
>>185
オマエガナ〜
188日本@名無史さん:02/01/11 11:20
>>186
相手にその気がなければ家康がどんなに頑張っても無理でしょう。
晩節を汚すといえば秀吉の朝鮮出兵のほうが・・・。
189日本@名無史さん:02/01/11 11:32
秀頼をいじめ殺し
秀吉の墓を暴いて遺骨をばらまくなんて鬼畜の仕業だよな。
そこまでして豊臣の威信を地に落とさなければ、徳川の未来が
不安だったのかと小一時間問い詰めたい。(w
190日本@名無史さん:02/01/11 11:33
おきまりの答えが返ってくるかな?(w
191日本@名無史さん:02/01/11 11:44
>>190
何を期待してるわけ?
192178:02/01/11 14:31
>>181
片桐且元は家康が命じた秀頼の後見役であり、徳川家に諮らず勝手にこれを
追放することは、徳川家との関係を損なう行為である。
加えて、大坂城では多くの不逞浪人の輩を集めて、戦の準備をしている。
ということで、戦争の大義名分としては十分では。

家康が豊家を滅ぼそうとしたのは、老い先短い家康が、
自分の死後のことをおそれてなりふりかまわぬ手を打ったということでしょう。
真田幸村や後藤又兵衛が「家康が死ねば空気が変わるだろう」とか言ってるけど、
そういう不安定感が当時の社会に共有されていたんだろうね。おそらく。
なんといっても秀吉の死を間近に見ていたわけだし、家康がそういう不安感を持ってもなんの不思議もない。

ただ、家康も豊家を滅ぼすことに関して、平然としていたわけでもないらしい。
慶長の終わり頃、家康は・・・忘れたけどなんか御家安全とか
仏の加護をとかそういう意味の四字熟語を毎日数百も数千も紙に書き続けていたらしい。
豊国廟を壊したのも、そういう病的な不安感の裏返しなのかもしれない。

個人的には、豊家が滅びたのは、あれでよかったんだと思うけどね。
いかにも「栄華の夢」という感じがして。
193日本@名無史さん:02/01/11 23:02
>>192
例の南無阿弥陀仏を南無阿弥家康って書いちゃったやつね。違ったっけ。

『仮にも婿殿だったんだし』後藤隊長風に。
194日本@名無史さん:02/01/11 23:15
秀康や秀忠はともかく、年とって出来た御三家の3人
および、竹千代なんかは可愛くて仕方なかったという事でしょうか。

家康は京都での秀頼との会見後、慌しく、豊家を滅ぼそうとして動き出しているよね。
秀頼が暗君なら、そう慌てる必要もないと思えるんだがどうだろう。
家康が秀頼に義直や頼宣を引き合わせる際のやり取りが・・なんともね。
「こせがれどもを宜しくお願い申す。」
「心得て候」
京都での会見前後の市中での秀頼の人気が凄かったのも、家康を焦らせた因だろうね。
源氏と平家の歴史が頭をよぎったのかもしれない。
195日本@名無史さん:02/01/11 23:19
>>193
多分、それで良かった筈>南無阿弥陀家康

後藤隊長って、3/30に会える人?(w
より正確には『孫の婿殿』だけどね
196日本@名無史さん:02/01/11 23:40
>>194
>「こせがれどもを宜しくお願い申す。」
>「心得て候」

このやりとりの史料的な出典ってどこ?
197日本@名無史さん:02/01/11 23:46
>>196
司馬遼「城塞」です。
198日本@名無史さん:02/01/11 23:53

二条城会見では、
秀頼が上座で、家康が下座であった。これは見落とされてはならないことだ
199山田顕義:02/01/11 23:56
まじ?
200日本@名無史さん:02/01/12 00:13
200ゲット!
201日本@名無史さん:02/01/12 00:16
>199
この点を見落としているから
秀頼は一大名に転落したなんて、トンチンカンなことを言い続けてきたわけだ
202日本@名無史さん:02/01/12 00:16
> まじ?
と、言い残し、山田顕義は斬首された。
享年36。
桜散る春の出来事であった。
20376:02/01/12 02:52
>>198
いや、それはこのスレでは199さん以外の方々は全員百も承知では?(藁
ただ、これって家康の自作自演っぽくも感じる訳です。つまり、
「私は今も変わらず豊家の忠実な家臣ですよ〜。間違ってもあなたに
危害は加えないですよ〜。ちゃんと見てます?清正さん?」てな具合で。
ところで、大義名分の件はやはり判らんな〜
片桐且元を追放して家康の面目を潰したからとかの意見や、浪人を
集めて徳川に謀反を起こそうとしたからとかの意見もありますが、
いずれも家臣が主君に対して言う事ではないと思います。
とすると・・・大義名分は
1.主君が自分を殺そうと計画してるから先制攻撃をした。つまり正当防衛
2.確かに豊家は主君だけど、現在こちらは征夷大将軍で天皇から正式に
  幕府を開いて政を行う許可を得ている。その幕府を認めない豊家は
  天皇に楯突いている事になる。よって成敗!
まぁ、2は飛躍し過ぎかも知れないけどね(藁
204日本@名無史さん:02/01/12 03:13
上座ってどの程度の上座だったわけ?
205日本@名無史さん:02/01/12 04:37
>204
天皇さんや、天皇の勅使がすわる最上席
206日本@名無史さん:02/01/12 05:27
>>198
賓客を招いたときはとりあえず上座に、これ礼儀。
その程度のこと。
207日本@名無史さん:02/01/12 05:47
>206
上座の人を、下座の人が臣従させたというの?w

上座の人が一介の大名で、下座の人がそれより偉いというの?w
208日本@名無史さん:02/01/12 05:53
二条城の会見のとき、家康は庭まで出て秀頼を迎えたと言われているね。
庭まで出て挨拶するというのは、自分より上位の人に対してする礼儀作法だから
これも問題となるところだろうね・・
209名無史さん :02/01/12 08:32
家康の方が秀頼に臣従したということ?
これまでの歴史は、いったいどうなるの・・・・
210日本@名無史さん:02/01/12 11:00
>>208
庭から出入りさせられたのね(w
211日本@名無史さん:02/01/12 11:33
>207
会見当時の二人の官位はどうよ。
212日本@名無史さん:02/01/12 14:17
>211
官位は家康が上だな。
家康 従一位右大臣 前将軍
秀頼 正二位右大臣
213日本@名無史さん:02/01/12 16:28
二条城で秀頼は家康に下座で平伏していました。
ソースは葵〜徳川三代〜
214日本@名無史さん:02/01/12 16:51
>212
官位は家康が上なのに、秀頼が上座というのはどういうこと?
215日本@名無史さん:02/01/12 20:49
>214
だから秀頼が招待客だから。
別に秀頼が上段で家康が下段で平伏してわけじゃなし。
216日本@名無史さん:02/01/12 22:44
>>76
片桐の件は面子の問題ではないと思う。
建前上でも五大老、五奉行制は家康側近団に受け継がれたわけだし、秀頼は君主で
あっても指揮権は発動されていない。指揮権はあくまでも家康や片桐にあるわけで
これを城から追い出したということは>>203での1から2へつながるわけです
家康側から見れば指揮権は自分にありこれに逆らうものは三成と同じに成敗と。
217日本@名無史さん:02/01/12 23:01

二条城の会見では、家康と秀頼と、いったいどっちが上座にすわっていたの?
218日本@名無史さん:02/01/12 23:08
>>217
>>198を見よ!!
219日本@名無史さん:02/01/12 23:11
>>218
ソースは?
220日本@名無史さん:02/01/12 23:24
葵 徳川三代
221日本@名無史さん:02/01/12 23:36
どうだろ二条城は当時の家康の京での根拠地に秀頼を上洛させたわけだから
秀頼は家康にとってお客さん(位を抜きにしても)であるから上座にお迎え
した。ここで秀頼が臣下の礼を採っていても、下座へ迎えたらそれこそ家康は
天下の笑いものになってしまう。
222日本@名無史さん:02/01/12 23:48
俺も、二条城会見の上座・下座がどうなのかは重要と思う。
「関ヶ原から大阪の陣までの豊徳両家の関係」を決めるポイントになると思う。
223日本@名無史さん:02/01/12 23:50
いったい、どっちが上座にすわっていのだ〜っ? 教えろ!!
224日本@名無史さん:02/01/12 23:55
杯の話は史実なの?
225日本@名無史さん:02/01/12 23:57
ドラえもんに頼め!>223
226日本@名無史さん:02/01/12 23:57
>223
家康だと思う人はA
秀頼だと思う人はB
さぁ、どっちだ?!w
227日本@名無史さん:02/01/12 23:59
どっちが上座でもいいから、ソースを出して。
228日本@名無史さん:02/01/12 23:59
>225
"どこでもドア"かw
229日本@名無史さん:02/01/13 00:13
>>220
NHKの大河ドラマなんてアテにするやつがバカだw
230日本@名無史さん:02/01/13 00:16
228
いや日本史ファンがあれば泣いて喜ぶ、引き出し”タイムマシーン”。
231日本@名無史さん:02/01/13 00:29
>230
もってこい!
232日本@名無史さん:02/01/13 00:43
漫画日本の歴史では
東西に座って西が家康・北政所 東が秀頼・清正となっていたが。
233日本@名無史さん:02/01/13 00:59
>232
対等なのか?!
東の方が上座なのか?!
234日本@名無史さん:02/01/13 01:02
233
部屋の造りによる。
235日本@名無史さん:02/01/13 01:10
出入り口に近いほうが下座だよね。
236日本@名無史さん:02/01/13 01:23
いまの二条城の二の丸御殿のつくりから言うと、
北ないし東に上段の間があるように思います。
237日本@名無史さん:02/01/13 03:16
>198
その上座、下座に関するソースはなに?
238日本@名無史さん:02/01/13 10:10
葵 徳川三代
239日本@名無史さん:02/01/13 13:13
>>216
大阪城に五大老がいたの?
240日本@名無史さん:02/01/13 15:28
>237
「当代記」という二条城会見の記録です。笠谷和比古氏の『関ヶ原合戦』の中に引用されています。
それによると上座、下座の関係は次のようになるらしいです。
1.秀頼が招き入れられたときは、
  秀頼が上座、家康が下座であった。秀頼には「お成りの間」という最上席が与えられた。
2.次いで家康は、秀頼に対して「対等の礼」をとりたいと思うと提案した。
3.そうしたところ秀頼はそれを辞退して、「お成りの間」の座を家康にわたし、
  自分が下座にまわって家康に礼をした。

だいたいこのようなことらしいです。
最後の礼は「臣従の礼」ではなくて、舅に対する婿の「謙譲の礼」ということです。以上。
241日本@名無史さん:02/01/13 15:43
関が原以降も大坂城には名目的な大老、奉行がいたの?
242日本@名無史さん:02/01/13 17:24
>>240
なして舅?
なして婿?
243日本@名無史さん:02/01/13 18:28
確かに、一般的な舅と婿ではないわな。
舅の親父と、孫娘の婿と言わないと。
244日本@名無史さん:02/01/13 21:21
関ヶ原合戦後の大阪城での和睦のとき、
淀殿が秀頼に、家康のことを今後は父同然と思うようにと言ったことがあるが、
そこらを指してのことではないかな。
245日本@名無史さん:02/01/13 21:50
がいしゅつだけれど、
千姫が秀頼の子供を産んでいたらどうなったんだろう?
246名前ピーレN:02/01/13 22:03
こどもはいたぞ男女ひとりづつ
247名無し象は鼻がウナギだ!:02/01/13 22:20
そりゃ妾の子だな。
248日本@名無史さん:02/01/14 06:06
秀頼の地位というのは微妙だな。 一大名というのとも違うようだが・・・
249日本@名無史さん:02/01/14 07:49
ああ、秀頼〜!
250日本@名無史さん:02/01/14 09:43
>>240
って事はそうしてへりくだった秀頼に家康は危惧を覚えたんでしょうか?
へりくだらなかったとしても、まずい結果になっていたであろうし
結局、二条城の会見で秀頼が家康に目を付けられずに済む方法って
なかったのだろうか。
251日本@名無史さん:02/01/14 13:47
>250
秀頼がへりくだっことに家康は、いったんはとても満足したでしょうね。
でもまた、じっくり考え込むと、そのへりくだった秀頼に器量の大きさと、
不気味さを感じることになったのでしょう。
ここまでくると、もう人間の心理のあやの話になってしまってわからないですね。w
252日本@名無史さん:02/01/14 14:23
豊臣側とすれば時間稼ぎをして、家康があの世に入ってしまうのを待ってればいいわけだ
だからへりくだりもすれば、いい子ぶったりもする
清正あたりの策と説得じゃないかね
しかし家康もバカじゃないから、その底意がどうしても見えてしまう
まあお互い、どうしようもないってとこじゃないだろうかね
253日本@名無史さん:02/01/14 18:57
>239
五大老制は崩壊して家康のみがのこったのであのようなカキコをした訳です。
周知のごとく五大老は
前田→中立から親徳川へ
上杉→減封から親徳川へ
毛利→減封によるヒッキー
宇喜多→削封
五奉行、中老は記入するにあらずで、あのままの状態でも徳川家は鎌倉幕府に
おける北条家執権状態かなと思ってね。
254日本@名無史さん:02/01/14 19:01
大久保忠隣を改易したあたりから徳川側は急に強硬的になるよね。
255日本@名無史さん:02/01/14 20:16
大久保忠隣は実質粛清一号かな。
松平からの譜代中の譜代。
家康から秀忠へ政権(後見人)の中枢となる。
当然秀忠の側近団は煙たい。でもって忠隣は西国大名とも親しかったからね。
譜代、親藩の綱紀粛正の晒しAGEになった。外様にもね。
とばっちり食ったのが里見家。
この時期には家康も更年期障害になってたのかな。
256日本@名無史さん:02/01/15 16:11

・・・・・・・・
257名無史さん:02/01/15 19:16
・・・・・・・・・・・・・・
258日本@名無史さん :02/01/15 20:05
なんか反応はないのかw
259日本@名無史さん:02/01/16 04:34
よーし、では『再現日本史』第一号(創刊号)からの出題だ。
関ヶ原合戦後に論功行賞があったが、
そのとき諸大名に領地を給与した人間(給与の主体)は誰だ?!
260日本@名無史さん:02/01/16 05:38

 家康ではないというのか?
261日本@名無史さん:02/01/16 12:43
またもや秀頼か・・・ そんなんアリ?
262日本@名無史さん:02/01/17 02:46
なして? 家康はどうしとったというのだ・・
263      :02/01/17 06:27
たしかに関ヶ原合戦のあと、大阪城で和睦の会をやったとき、
淀君と秀頼のほうが上座で、家康が下座だったわな・・
しかし領地の給与が秀頼からというのは、どうしてそう言えるのだ
264名無史さん:02/01/17 19:35
根拠は?w
265      :02/01/18 01:20
なんかこのサイト、ひらくのが重くないか?!
266     :02/01/18 01:27
つまるところ関ヶ原合戦の理解を根本からやり直さないかぎり
この問題はわからんと思う
秀忠の遅参をどう評価するかだな
267日本@名無史さん:02/01/18 02:07
>>265

同士ハケ―ン
2、3日前から急に重くなった ほかの板はすんなり開くのに
不思議だ・・・日本史敗者の怨念がこもってるのでは?
268     :02/01/18 03:30
>267
秀忠の祟りか?!  ここのスレではボロクソだからな(藁
269日本@名無史さん:02/01/18 04:14
秀忠の部隊が徳川主力であったとなると、関ヶ原で家康の周りにいた徳川軍というのは
ザコばかりということになってしまう。
そうすると家康の東軍が勝利しても、
徳川が天下をとったということにはならんだろう・・
270日本@名無史さん:02/01/18 04:18
秀忠が戦国の1番、甘くおいしい所を享受してる訳だから非難がくるのもやむを得ないんじゃ。
271日本@名無史さん:02/01/18 06:37
>269
いや、実際そうだといってるのだ。
そのため家康は戦後、豊臣系大名に莫大な加増をしたわけ。
272日本@名無史さん:02/01/18 06:41
豊臣系大名に莫大な加増をしたとは思わないけどなぁ
莫大な加増をしたのは秀康 義直 など自分の血縁ばかりのような
273日本@名無史さん:02/01/18 07:05
>272
加増率でいえばそうだろうけどあれが大盤振る舞いでないというかね。
加藤清正、黒田長政、福島正則、細川忠興、田中吉政、加藤嘉明、堀尾忠氏
中村一栄、池田輝政、藤堂高虎、山内一豊、生駒一正、浅野幸長、蒲生秀行
最上義光、前田利長…みな、もとの石高と加増後の石高を比べてみい。
274日本@名無史さん:02/01/18 07:17
>>273
皆戦功あるじゃん
関ヶ原で徳川軍は何もしてない
福島隊に紛れて鉄砲打ちかけて、後は物見。
態勢が決まってから西軍を追い立てただけ。

秀康や義直は何か功があったか?
これこそ大盤振る舞い 蒲生や池田は縁戚だし
上記大名で維新まで残った大名は幾つあるやら
275日本@名無史さん:02/01/18 07:36
>>274
やはり大盤振る舞いだと思う。
恩賞に不満があったら豊臣方に戻っていただろう。
しかし結果的には遠国に移封されたり、後に取り潰されたりした訳
だから騙されたとも言えると思う。
276日本@名無史さん:02/01/18 07:42
あ、義直じゃなくて忠吉だった。
277日本@名無史さん:02/01/18 09:18
軍功に応じて恩賞を!
これは武家社会の大鉄則だ。
豊臣武将も、徳川一門も、譜代も、旗本も、すべてこの原則で加増されている。

嘘だと思うなら、例外を挙げてみるがよい!
278日本@名無史さん:02/01/18 09:38
>>277
松平忠直。

279日本@名無史さん:02/01/18 12:30
>>277
松平忠輝はどうよ?



280日本@名無史さん:02/01/18 15:40
277
説明が悪かった。
関ヶ原合戦の論功行賞について論じたい。関ヶ原合戦の意味を明らかにするためにだ。
(それ以外は、混乱をさけるために、また別に論じよう)
281日本@名無史さん:02/01/18 17:12
>277
結城秀康、池田輝政、浅野幸長は?
282日本@名無史さん:02/01/18 17:15
石高倍増といっても東海地方の豊臣系大名が
山陰や九州で倍増になっても素直に評価してよいものかどうか?
283名無史さん:02/01/18 21:31
>282
それは一理あると思う。
しかし価値観は、われわれではなく、彼らに即してのものだ。
かれらは東海地方の10万石より、山陰の一国まるごとのほうを素直に喜ぶことだろう。
284日本@名無史さん :02/01/18 22:29
>281
結城秀康は、会津の抑えの貢献だ。上杉と佐竹を完全に封じ込めて、家康の背後の憂いをなくして、対石田戦争に専念させた貢献は多大だ。徳川勢力では一番の軍功だろう。
松平忠吉のような攻撃の軍功もあるけれど、防御の軍功もあるということだ。

池田と浅野も関ヶ原では戦っていないけれど、南宮山の勢力の参戦を阻止した軍功は大きい。
南宮山の勢力が参戦した場合、関ヶ原東端がふさがってしまい、東軍は袋のねずみ状態になってしまうからな。
それに池田は、関ヶ原合戦に先立つ岐阜合戦で、岐阜城本丸一番乗りの手柄を立てている。浅野もそれに続いている。


285日本@名無史さん:02/01/19 00:53
>>283
彼らが望んだのではなく徳川の強権のもとに決められたのでは?
江戸への要衝東海道筋を徳川譜代で固めるってことで。
286日本@名無史さん:02/01/19 00:54

このサイト、また一時的に開かなくなったけれども大丈夫だろうか?
287日本@名無史さん:02/01/19 01:00
カキコも苦しい。もうダメか・・・  無念だ!w 
288日本@名無史さん:02/01/19 01:02
もう慣れたよw
こんなんじゃ余計人いなくなるな。
289日本@名無史さん:02/01/19 02:43
>285
東海道を徳川譜代で固めたいという意向は、明白だと思う。
しかし領地配分は、徳川の強権決定ではない。
軍功第一の福島正則から始めて、順々に恩賞領国の案を示して受諾したものから決定していくという方式らしい。
福島の場合、安芸・備後二国で、しかも西軍総帥毛利氏の本城である広島城が徳川からの提示案だ。
ところが、これでも正則は不足を言い立てるのではないかと家康、本多・井伊らは心配していたということだ。
290日本@名無史さん:02/01/19 04:43
277
例外はあるだろうか? あれば教えてほしい。
291日本@名無史さん:02/01/19 04:48
>>290
277は説明不足だったと言ってるぞ。
292日本@名無史さん:02/01/19 05:18
>277, 280
例外はあるだろうか? あれば教えてほしい。コレデイイカ
293日本@名無史さん:02/01/19 11:56
>>292
例外を挙げてみるがよいと言ってる人に例外を聞いてどうする。
294日本@名無史さん:02/01/19 15:08
>293
292=277+280
295日本@名無史さん:02/01/19 16:57

ボケ漫才はやめろ! 手間のかかるやつらだ(藁
296日本@名無史さん:02/01/19 18:20
体重だけなら秀頼の圧勝
297日本@名無史さん:02/01/19 18:37
>296
結構微妙じゃないか?
298日本@名無史さん:02/01/19 18:52
>>297
じゃ淀君だったら圧勝だろ!!
着物重そうだし。
299日本@名無史さん:02/01/19 20:55
関が原の論功行賞模範解答?
豊臣系大名の加増および遠隔地に転封。
福島、山内、加藤等。
佐竹、上杉、毛利等。
交通の要所における譜代、親藩の転封。
井伊、本多、結城秀康等。
池田、藤堂、浅野等。
政治的解決による柵封
伊達、鍋島、前田等
(佐竹、上杉、伊達に関しては柵封の時期が他の大名と後になっている。)
論功行賞の奉行は井伊、本多、板倉等徳川方家臣団が行ったようです。

>>277
反論ね(w
軍功なし
本多正純。大久保長安。仙石秀久。

300日本@名無史さん:02/01/19 23:16
>299他
関ヶ原合戦のあと、豊臣系大名を僻遠の地に転封した。これ家康の深謀遠慮とよく言うだろう。
しかし最近、これに疑問を投げかける説が出てきている。
つまり「僻遠」といったとき、どこを基準にして「僻遠」なのかということだ。
江戸と広島と、当時の政治地理感覚からしたとき、
いったいどちらが「僻遠」なのかという問題だ。
30176:02/01/20 02:02
>>300
オレが勝手に思うに、あの配置っていうのは家康からすると一種の
テストの意味があったのでは?特に福島正則に対してだけど、
1.東海道からはずす
2.江戸より大阪・京都(つまり豊臣)の方が距離的に近い
3.ごっつい加増
これって、わざと徳川に楯突くチャンスを与えたように見えちゃう。
だから、僻遠っていうのとはまた違う意味もあるような・・・
302日本@名無史さん:02/01/20 02:20
ごっつい加増って認識がどうも理解できない
清洲24万石→安芸49万石
小山での回れ右発言、 関ヶ原での1万7千の宇喜多軍の食いとめ。
少ないくらいだと思うがな。

303日本@名無史さん:02/01/20 02:51

家康・秀忠時代は、政治の中心はやはり京都だな
江戸にシフトするのは、1630年代以降のことだろう
304日本@名無史さん:02/01/20 03:05
>299
別に揚げ足取りのつもりはないが、277の例外というのはこの程度しか見当たらないのではないだろうか。
つまり、関ヶ原の論功行賞というのは「軍功に応じて恩賞を」という原則に、かなり忠実に行われていることになる。

家康の恣意とか、徳川の強権決定とかの要素は少ないという結論になるだろう。

305日本@名無史さん:02/01/20 03:25
>>304
>家康の恣意とか、徳川の強権決定とかの要素は少ないという結論になるだろう。
 
ないない。
戦なんて恣意の塊だよ。家康が天下を豊臣から簒奪しようと動いたのは明白
関ヶ原以前から、いかに豊臣擁護派を怒らして戦争にもちこんでって
思考に思考を考えて動いてきた。小山の陣だけみてもそう。
その家康が戦後処理も考えないわけがない。
いかに徳川家に有利になるか考えて処理したのは明白
でないと、その後の大坂の陣はなんだったの?ってなるよ。
誰が見ても関ヶ原戦後処理は恣意と強権決定の塊

306日本@名無史さん:02/01/20 04:10
>305
きめつけの議論をやっても意味がない。
277の例外を示してくれれば何の問題もないことだ。
説得力のある277の例外が示されれば、277はいつでも撤回するだろう
307日本@名無史さん:02/01/20 06:53
>>306
松平忠吉は?
尾張65万石 福島より功は上ですか?
ちなみに305は決め付けではなく歴史的事実でしょ。
308日本@名無史さん:02/01/20 08:49
>307
福島正則は安芸・備後の二ヶ国と、西軍総大将毛利氏の本城である広島城をもらっているので、
東軍の中では一番の軍功と評価されていることになるでしょう。

「きめつけ」というのは正しいか間違っているかではなくて、
証拠を示さずに、結論だけを断定する議論のタイプのことです。
(と言うと、この定義そのものが「きめつけ」だと押し返してくる人がいますが、
証拠が必要だというのは、正しい議論のためには致し方ないことでしようね)
309日本@名無史さん:02/01/20 21:09
まあ、証拠やソースなしでよかったら何でも言えるからな。
歴史小説家というのは考えてみれば気楽な商売だ。
自分で勝手に何でも作り上げて、好きに論を立てればよいわけだからw

310日本@名無史さん:02/01/21 00:09
忠吉・・忍城10万石→尾張62万石 
福島・・清洲24万石→安芸49万石
両者が関ヶ原前後どういう功があったかはもう言わなくてもご存知でしょう。
くどい?(w

311日本@名無史さん:02/01/21 00:45
>310
松平忠吉の時代の尾張藩領は、いちおう52万石とされているのだけれども・・
ただ、当時の大名たちは石高ももちろん大事だが、国を丸ごと領地にしているかとか、
国をいくつ領地として抱えているかということにも、かなりこだわるところがある。

松平忠吉は島津勢を激しく追撃し、個人的にも島津の侍大将を一騎打ちで仕留めるという武勲をたてているから、
この論功行賞には誰も文句はつけられないと思うけど。
312日本@名無史さん:02/01/21 00:57
いや277の例外を上げただけ。
すぐ取り下げると言いながら固執して中々取り下げないね。
これでも説得力ないかな?

仮に尾張62万石と安芸・備後49万石が同等の価値があるとして
正則の小山での発言の重み、岐阜城落城の手柄
関ヶ原での西軍主力宇喜多隊の引きつけ
と忠吉の逃げる島津を追っての手負いの武勲が同等と言えるのだろうか?
313日本@名無史さん:02/01/21 04:23
>312
松平忠吉時代の尾張藩領は62万石ではなくて52万石とされているのだが・・
恩賞の格としては、繰り返しになるけれど、
安芸・備後二ヶ国と西軍総大将毛利氏り本城である広島城をもらった福島正則の方が第一位と評価されていると考えられる。
松平忠吉の尾張一国はそれより低いとしなければならない。
この時の恩賞は、石高基準ではなく、国単位に給付されていることも忘れられてはならないだろう。
もう一つ蛇足ながらつけ加えておくと、福島正則に対する恩賞をめぐっては、実はこれでも正則が不足を言い立てるのではないかと
家康たちが心配していたという事実もあったということだ。
つまり312が指摘されていることは、リアリティーがあったということになる。

もっとも正則はといえば、この恩賞案を提示されると、ニコニコ顔で一発受諾したので
家康たちも、ほっと安堵したということだったらしい。
314日本@名無史さん:02/01/21 05:28
>>313
ネットで調べました
尾張領は確かに52万石でしたね

ただ話の趣旨が少しずれてきているようなので
277の例外という点です。
軍功に応じて恩賞と言う事ですが
1番手柄の正則に1番の恩賞があった。
では忠吉は正則ほどの加増ではないにしても
武蔵忍10万→52万石に見合う活躍があったのかということです。
家康の実子ゆえの特別考慮があったと考えるのは自然ではないですか?
これは277で言われてる例外に該当しますよね
島津追撃戦で怪我をしたから妥当だと言う意見もありますが
織田有楽も関ヶ原戦で横山喜内を討ち取る際、怪我を負っています
ちなみに有楽は摂津2万石→大和内3万2千石です。



315日本@名無史さん:02/01/22 02:31
>277
松平忠吉の部隊は島津隊を追撃して、ほぼこれを壊滅に追い込んでいるでしょう。
島津隊も逃げてばかりでなく、烏頭坂では反転反撃して、両者の間で激闘が展開されています。
大将島津義弘は討ち漏らしたけれど、副将島津豊久の首級を挙げてもいます。
そして忠吉個人の一騎打ちの手柄でしょう。
武勲としては申し分ないと思いますが。

松平忠吉の場合には、たしかに、特別な要素もあるのは事実です。
それは単なる一人の武将ではなく、東軍徳川隊を代表する先鋒武将としての役割です。
松平忠吉隊の布陣している位置は、東軍先鋒群の中央を占めていますが、この位置は本来的には
忠吉ではなくて、徳川秀忠が徳川主力軍3万を率いて陣取る場所であると考えられます。
つまり忠吉は、遅参した秀忠に代わって、徳川隊を代表する先鋒武将として配置されているわけです。
忠吉隊、そしてこれを補佐する井伊隊は、東軍における徳川隊の威信を発揚するという任務を帯びているということです。
忠吉の軍功には、このような観点も考慮されなければならないでしょう。
そしてこれが忠吉ではなくて秀忠だったら、50万石ぐらいではすまなかったと思いますよ。





316日本@名無史さん:02/01/22 02:36

277X → 314○
317日本@名無史さん:02/01/22 02:43
>>315
結局徳川っていう強権の恩恵を受けたって事でしょう。
318日本@名無史さん:02/01/22 03:01
>317

319日本@名無史さん:02/01/22 03:08
他にも
結城秀康 下総10万石→越前75万石
伊達政宗 陸奥58万石→陸奥60万石 

この差はなんなんだ?

実質上杉軍を引きつけていた最上は
最上義光 出羽24万石→出羽57万石
これなら納得できる
やはり徳川の御連枝は扱いが別と考えた方が妥当
320日本@名無史さん:02/01/22 03:23

松平忠吉の尾張50万石を過大恩賞だとか、家康の身びいきの強権だなどという声は
当時の武将たちの間ではまったく聞かれないですね
(忠吉の一騎打ちは逃げ首だから手柄にならんと家康に直言した徳川の軍目付はいましたけどね)。
321日本@名無史さん:02/01/22 03:26
口に出したり文書に残すとお家が憂き目にあうからでは?
322日本@名無史さん:02/01/22 03:32
伊達は問題あるところだ。家康はいったんは、50万石の加増状を出しているが、
あとで取り消しになっている。
政宗がまた何か裏でへんな工作をやったのではないかと思うが、誰か事情を知っていたら教えてくれ
323    :02/01/22 03:37
>321
著者不明の関ヶ原本なんて、ちまたに山ほど溢れているけれども・・・・

324日本@名無史さん:02/01/22 03:39
>>323
著者不明なんでしょ。
325日本@名無史さん:02/01/22 03:42
口に出したら加藤や福島みたいになるのでは。
326   :02/01/22 03:44
>319
結城秀康は → 284

284 :日本@名無史さん :02/01/18 22:29
>281
結城秀康は、会津の抑えの貢献だ。上杉と佐竹を完全に封じ込めて、家康の背後の憂いをなくして、対石田戦争に専念させた貢献は多大だ。徳川勢力では一番の軍功だろう。
松平忠吉のような攻撃の軍功もあるけれど、防御の軍功もあるということだ。


327日本@名無史さん:02/01/22 03:45
>326
見てるよ
328   :02/01/22 04:18
伊達の石高はあきらかに異常だ。おかしい
政宗は火事場ドロボーまがいのことをやろうとして見つかったのではないだろうか
あるいは上杉・佐竹との内通の疑惑だろうか

329日本@名無史さん:02/01/22 04:21
徳川だけでなく織田も豊臣も自政権樹立のときは身内に
大領与えてるでしょ。
徳川だけが身内贔屓なしで実力だけであの大領をあたえたって本気で思ってるの?
330 :02/01/22 04:38

家康は関ヶ原合戦の領地配分では、徳川の取り分を随分と遠慮している。
関東、東海そして近江、越前あたりまでだ。日本全体の三分の一ほどだ。

西国は島津、毛利、鍋島あたりを除いて、残りはすべて豊臣の取り分だ。
北陸も、越前を除いて豊臣系だ。
奥羽は、会津の蒲生を除いて、残りはすべて旧族外様大名に配分されている。

家康の恩賞配分に、身びいきだとか、強権発動だとかいう声が出るわけがないだろう。

331日本@名無史さん:02/01/22 05:00
>>330
>日本全体の3分の一

十分じゃん。

これ以上何言っても駄目みたいだ。
332 :02/01/22 05:44
      
333日本@名無史さん  :02/01/22 06:16
それよりも伊達政宗のケースこそ、例外もいいとこだ。
誰か答えられる人間はいないだろうか?
334日本@名無史さん:02/01/22 06:32
おいおいちょっと調べればわかるぜ。
一揆を扇動して他大名家の領地を狙ったという疑いで
2万石のみの加増となった。
もっとも58万石に更に加増したくなかったという徳川の
事情もあるのだが。
335日本@名無史さん:02/01/22 09:19
>>331
みっともない捨てゼリフだこと!!
336日本@名無史さん:02/01/22 14:16
伊達政宗は同じ東軍の南部領で一揆を扇動し、
ドサクサにまぎれて領土を広げようとしたのが訴えられた。
罰せられなかっただけまし。
337日本@名無史さん:02/01/22 14:53
>334,336
感謝!
>335
まあまあ




338日本@名無史さん:02/01/22 15:05
伊達政宗はまさか関ヶ原が一日で終わると思ってなかっただろうからな。
まあ、つくづく運のない人だよね。
339(-_☆):02/01/22 15:34
>>338

 それを言うなら黒坊主こと黒田官兵衛もしかり。
340日本@名無史さん:02/01/22 15:51
運も実力のうちということで。
341日本@名無史さん:02/01/22 18:20
>338
「自業自得」が彼にふさわしい標語でしょう。
あの、なにか事あればワルサをしようとする性分は直らないのでは・・・

まあ、最後までよく無事に生き延びたもんですよ  運がない? とんでもない!!
「悪運が強い」とは、政宗のためにある言葉ではないだろうか
342日本@名無史さん:02/01/22 23:37
政宗を弁護する声は?w
343日本@名無史さん:02/01/22 23:56
秀忠は遅参の罪は問われないのか?
結局、徳川の加増した直轄地を家康からノウノウと相続してるよな?
諸侯が文句言わなかったからこれもオーケーか?(藁
344日本@名無史さん:02/01/23 00:38
>>342
真田幸村の遺児を4,5人も匿ったのはエライ。
345日本@名無史さん:02/01/23 00:40
>>335
そのままあなたに当てはまるよね。
346みえはる:02/01/23 01:05
>>343
秀忠は親父に東軍諸将の前でおもいっきり叱られたんだっけ?
関ヶ原に勝ったとは言え、当時は大阪方の影響もまだまだ強かった。
豊臣家に対しても、政治をするのは将軍家であり、徳川がそれを世襲する
ということを知らしめるために、制御しやすい秀忠はうってつけだったのは
良く言われること。ともあれ、一回の合戦で632万石の再配分の権利を
得た徳川家に各諸将はえへらえへらとしていたに違いない。
347日本@名無史さん:02/01/23 01:33
>346
家康は本当に怒っていたのだ。豊臣武将の手前という要素もあるけれども、
あの秀忠の行動は武将としては最悪だ。
家康の東軍が勝利したからよいようなものの、もし西軍大勝という状況のところへ秀忠が
息せき切って馳せ参じたら、どういうことになる。
秀忠は、昼夜兼行でシャニムニに進行していたから、本隊を置き去りにして、手薄な旗本人数だけを率いて駆けつけていたろう。
西軍がもし勝利していたら、秀忠は西軍勢力に包囲、捕獲されて一巻の終わりになるところだった。
家康が怒ったのは、このことなのだ。
348みえはる:02/01/23 02:12
よく関ヶ原の描写するドラマで家康が「こんなとき倅がおれば!」に
家臣が「秀忠様はまもなく参られましょう」みたいな答え。
家康は「あやつのことではない!信康のことよ!!!」と、一喝する・・・
俺が思うに、秀忠の軍がいたら西軍を数で上回る。が、意外にこれで西軍が
うまいこと消極的に展開して、というか、うまく撤退して戦力温存する
ことになって、違う局面になったかも。そういう意味で秀忠の遅参は
吉だったかもしれない。
349日本@名無史さん:02/01/23 03:38
>>348
深読みしすぎ。
350日本@名無史さん:02/01/23 03:58
秀康だけどうも恵まれてないなあ
秀忠は中山道から忠吉は東海道から。
長幼の順では1番の秀康だけお留守番。
まだ他にも家康には子供がいたみたいだけど。

351日本@名無史さん:02/01/23 05:10
>348
いやここが合戦の妙味というもので、そういうことはあるかも
しかし他方、時間が稼げれば西軍も勢力増強が可能で、毛利本隊の到着、それから
西軍最強の武将立花宗茂の参戦が実現して、これはこれで面白くなるのだ。
352sage:02/01/23 09:23
>>345
捨て台詞と事実の指摘の区別も出来ないアフォ発見!!
353日本@名無史さん:02/01/23 09:31
>350
秀康はしょうがないだろう。彼の領地が下総国結城ということから、どうしても上杉・佐竹に対する
防衛という役割を引き受けざるをえないのだ。しかし秀康だって、対石田戦争に参加したいから、行かせてくれと家康に食い下がる。
家康は、秀康を説得して「お前しか上杉の最強軍団をくい止めることのできる者はおらぬのだ」と言って、なんとか納得させた。
戦後の秀康に対する恩賞は抜群だけれども、それはこのような防衛の軍功と、留守番に甘んじたご褒美という趣旨だ。
実際、みんな守衛より攻撃に廻りたいわけだが、サッカーと同じことで、そんなことになったら戦略が成り立たなくなってしまうだろう。
守衛の地味な役割をどれだけ高く評価してやれるかは、指導者の器量をはかるバロメータだ。
354日本@名無史さん:02/01/23 14:18
そこで佐竹が動けば面白かったのにな〜
355日本@名無史さん:02/01/23 16:09
秀忠遅参兵力温存説ってのは、結果論なんじゃないの?
356日本@名無史さん:02/01/23 19:08
>355
正しく結果論だけど、近年の資料では秀忠は上州〜信濃平定部隊説が有力
その後家康に召還されたが(日時失念のためスマソ)この時点で関が原には
間に合わない(この点が兵力温存説になる?)。
357日本@名無史さん:02/01/23 23:28
>>352
sageの仕方も知らないアフォ発見
よっぽど悔しかったんだね〜お馬鹿さん(藁藁
358日本@名無史さん:02/01/24 00:35
もういい加減352も357もスレと関係ない事は書きこむなよ。

>>352 sageはメール欄に書けばいいんだよ。
359みえはる:02/01/24 01:12
>>351
うんうん、そうそう。
例えば小早川軍がうじうじとしていたのは西軍か陣立てと数で若干優位だった
せいかもしれん。ドイツのメッケルが陣形図を見て西軍の勝ちといったのは
超有名だが、小早川軍が東軍の方が数が多いと見て、いきなり裏切り行動を
したかもしれない。それで東軍が圧勝で終わるかもしれないが、西軍が数で
負けていると判断した場合、総崩れにならないようになんらかの判断が入る
のではと、まさに深い読みをして楽しんでいるのである・・・

為に、ある意味、絶妙なるタイミング
で裏切った
360みえはる:02/01/24 01:15
>為に、ある意味、絶妙なるタイミング
> で裏切った
消し忘れ・・・小早川がうじうじとしていたために、裏切りが
絶妙なタイミングとなったと書こうとしていた。
361日本@名無史さん:02/01/24 13:55
>356
笠谷和彦の『関ヶ原合戦四百年の謎』に、秀忠の徳川兵力温存説の誤りが書かかれている。
362日本@名無史さん  :02/01/24 22:34
秀忠隊を分けたのが勢力温存のためだったら、秀忠は信州で上田城を取り囲んで、のんびりやっておればよいことだ。
少ない供の人数で、息せき切って関ヶ原にやってくることはない。
もし東軍が敗北していたら、秀忠まで西軍に包囲されて討ち取られてしまう危険が非常に高い。
家康も秀忠も討ち取られて、徳川はジ・エンドになってしまう
363日本@名無史さん  :02/01/24 22:52
>359
351なんだけれど、おたくのレスはどういう受け止めになっているの?
364みえはる:02/01/24 23:12
>>363
うーん、ちょっとおっしゃる意味がわかりませんが・・・
勝手に言いますけど、まぁ単純な要素と思われるものが勝敗に左右される
という事で、誰でも思い付きそうな事を自分なりに述べただけなんですがね。
なにか引っかかることでも?
365日本@名無史さん  :02/01/25 01:25
>363
別に深い意味は・・・・  ちょっと絡んでみただけかなw
小早川のうじうじした行動は、西軍の予想外の善戦にあったのではないだろうか
家康抜きの岐阜合戦でも、東軍の圧勝で、あっというまに赤坂まで進撃してきた。
そこにさらに家康の徳川軍が加わったわけだから、東西の正面衝突なら東軍の勝利はまちがいないと
みんな思って、東軍への寝返りの約束や人質提供をやっていた
ところが始まってみたら、石田勢らの西軍が予想外に頑張って、東軍は西軍の陣地を突破できない
そうすると東軍は、西軍の鶴翼の陣形に包囲される形になってしまう
小早川がかりに下山して西軍に攻めかかっても、南宮山の勢力がさらに後ろから襲いかかってきたときには一網打尽になってしまう
これが小早川のためらいの一番大きな原因と思うけれど

366みえはる:02/01/25 01:42
詳しいですね。ところで・・・
小早川が寝返らなかったら、この合戦はもっと長引いた?
西軍はもっと頑張れたのでしょうかね?
367日本@名無史さん:02/01/25 01:48
三成が逆に小早川に砲撃してたらどうなってただろう
368みえはる:02/01/25 02:07
このやろー!で、やっぱり大谷隊に突撃?
実は、>>366 の質問は取り下げを宣言しようとしたが、まあいいか。
だってあまりにも陳腐な質問なんだもんよ。
自分で書いたものの、あとで読んだら、なんだこりゃ?
あいーんな質問にがっくりした。
369みえはる:02/01/25 02:12
ついでに・・・
大鉄砲と呼ばれる長距離砲で打ちこまれたらしいが、この合図がなければ
小早川の裏切りはなかったと推測する人もいる。
370日本@名無史さん  :02/01/25 03:14
>369
NHKの大河ドラマでもやっとたけれど、小早川の本陣に大砲を打ち込むなどクレージーもいいとこだ
ありえないと思うよ。ふつうそんなまねされたら、コノヤロウといって打ち込んだ側に攻撃するのが常識だ
家康の鉄砲の打ち掛けは、空砲みたいなものを小早川の前線に発射したと見るのが自然だ
371日本@名無史さん:02/01/25 03:19
>370
コノヤロウと怒って鉄砲打ち返して、そっち攻めに逝くのが普通だが
金吾は普通じゃなかったって堺屋太一が言ってたよ。
372日本@名無史さん:02/01/25 03:25
なんてたって、ねね様も見放したデンパくんだったからね
373日本@名無史さん  :02/01/25 03:37
金吾がフツーでなくとも、周囲におるやつはマトモだ。平岡とか稲葉とかいうウルサ型の
連中が、自陣に大砲をブチこまれて、ハイハイとそちらになびくわけがなかろうに
374日本@名無史さん:02/01/25 05:01
つーか最初西軍が押してたのを見てるから迷っただけでしょ
375日本@名無史さん  :02/01/25 06:06
そう、小早川隊先鋒の平岡頼勝は、形勢が混沌としてきたために出撃できなくなってしまったのだろう
376みえはる:02/01/26 00:55
いわゆる「聞き鉄砲」というらしいが、家康から小早川への「合図」で
あって、攻撃の発砲ではないという前提では、これが約1kmの所から
発射されたと、この研究者は述べている。実験によると普通の銃では音
さえも聞こえないのだそうです。
377日本@名無史さん  :02/01/26 01:48
小早川隊の最前線に打ちかければよいことであって、そうすれば伝令が本陣に注進するわけだから、
秀秋自身の耳に聞こえずとも何の問題もない
秀秋の本陣に着弾させるなど狂気の沙汰。秀秋を負傷させたら、いったいどうするつもりだw
378日本@名無史さん:02/01/26 02:09
>>375
先鋒って松野道円じゃないの?
379みえはる:02/01/26 02:10
家康にしてみれば、小早川は死んだって構わないでしょう。
向かって来たらぶっ潰すのみ!ってな感じ・・・
とはいえ、東軍は家康の下で強固な関係を結んでいたのは
ここをさかのぼって読めばわかるし・・・
それにひきかえ、西軍の団結力は???だし・・・
380日本@名無史さん:02/01/26 02:48
さすがに秀秋君を殺されたら、元から裏切るつもりいたとしても西軍に流れるでしょう。
例え平岡、稲葉が叱咤しても。全軍が裏切りで意思統一されていたとは思えません。
松野主馬が福島隊の側面を・・・
381日本@名無史さん  :02/01/26 07:51
>378
小早川隊先鋒の旗頭は平岡で、松野はさらに先鋒部隊の中の前線に配属されている。
この先鋒部隊の進撃の采配は、旗頭の平岡がふるうことになる。
382日本@名無史さん  :02/01/27 02:09
>367
三成側が小早川に鉄砲をうちかけたらどうなったろうというのは想定としては当然ありだよね。
でも三成側がやったのでは秀秋を怒らせるだけだろう。これは格上の家康だからこそ効く奥の手だろう。
383日本@名無史さん:02/01/27 02:11
小早川が死んだのって毒殺?

384日本@名無史さん  :02/01/27 05:38
>383
狂い死にですね。三成の怨霊の仕業にまちがいないでしょうw
三成の怨霊といえば、井伊直政の場合もやはりそうだ。
それで井伊家では佐和山を放棄して彦根に城を移したのだ。
385みえはる:02/01/28 00:31
三成の怨念は強そうだ。というか、ああいう裏切りは、なんだかんだ
冷たい視線を浴びるというか、自分でも後ろめたいという感情が
強いだろうなぁ。かんけーない俺でも小早川?ケッとか思うし。
でも、好きになれるような逸話とかはあるかな?
386日本@名無史さん  :02/01/28 06:48
>385
知らないなぁ・・ 誰か知っている?
387日本@名無史さん:02/01/28 06:58
>>384
こわいなー。怨念とか霊魂は信じないけど三成の最後
捕縛→京・堺晒し行脚→斬首→晒し首 を考えるとまんざら嘘とも思えない。
佐和山って今の彦根からするとどっちの方角なんだろうね?
388日本@名無史さん  :02/01/29 03:47
>387
彦根は琵琶湖に面していて、佐和山はその山側。方位的には彦根の南ないし東南方向にあたっている。
389日本@名無史さん:02/01/29 20:11
秀秋以外に裏切って西軍から東軍についた武将って誰がいたっけ?
390日本@名無史さん:02/01/29 20:15
赤座・小川・脇坂・朽木
391名無し:02/01/29 20:54
>>387
彦根市街からすぐ、というか市街の一部という感じだが...。
彦根駅の裏、真東ではなかろうか。
392日本@名無史さん  :02/01/30 14:45
388
スマン! 陳謝訂正
佐和山城は彦根城の東北の方位というのが正しい。
(弁解の弁―武士らしくないけれども)
このあたり琵琶湖の形が急に北向きに変わるので、方角を勘違いしてしまった m(__)m


393日本@名無史さん  :02/01/31 03:33
つまるところ(どこの流れからつまるところかもう分からんが)家康は関ヶ原合戦で何を手に入れたかということだ
今までは、天下を手にいれたと、あたりまえのように言ってきたが、合戦後の論功行賞でも徳川の勢力は関東から東海地方あたりに
とどまっているということだ。日本の三分の一ほどにすぎない。関ヶ原合戦の勝利が豊臣系の諸大名に大きく依存していた以上、どうしようもないことだ。

豊臣系の勢力と領国の数のほうが多いくらいだ。彦根より以西には徳川系の大名領地は存在していない。ほとんど豊臣系一色といった状態だ。
家康は、西国方面については自分で支配しようとするつもりがないということだろう。豊臣系の大名領国は豊臣で支配すればいいという考えだったのだろう。
つまり、近江より以西の西国は、豊臣秀頼の支配する豊臣自治区といった状態だったのだろう。
394日本@名無史さん:02/01/31 03:40
金吾って暗殺じゃないの?
死んだ後、問答無用でお家断絶になってるけど。

尾張の忠吉は死んだ後、断絶にならずに義直が貰い受けてるよね。
395日本@名無史さん  :02/01/31 05:18
>394
松平忠吉の死後は、いちおう断絶なのだけれどもね。忠吉は松平(東条)という家に養子で入って
東条松平家をついでいたので、この家は断絶となるのだ。その点では外様大名の扱いと同じなのだけれどもね。
ただ問題は、その空き領地に徳川勢力を押し込むのが、だんだん露骨になっていくところだろう。
396まあね…:02/01/31 14:45
西軍で、小早川以外で裏切っていた人物
吉川広家、毛利輝元,島津義久、大野治長、長束正家、増田長盛、・・・etc.
西軍の中には、東軍として戦うつもりできたのに西軍に前をふさがれ、しぶしぶ西軍になった軍勢もいる。

金吾は、暗殺されたというよりも戦いののちに、精神錯乱によって、家来の何人かを斬殺してしまい、発狂してしまったために、殺したものだと考えられる。

関が原の戦いは,淀殿VS湖月尼(北政所)の代理戦争であり、北政所は、豊家は、秀吉の時代で終わったと考えている。
秀吉も家康に大阪城の攻め方を生前、丁寧に教えている事実から考えると豊家の滅亡を覚悟していると考えられる。

豊徳両家の関係はすばらしくよいものであったが、淀殿の性格が災いして滅んでしまう運命であった。
秀頼がもう少し賢ければ、違う運命のあったのにね。
397日本@名無史さん:02/02/01 00:23
淀殿VS北政所の代理戦争ってのはちょっと・・・。
398日本@名無史さん:02/02/01 00:25
秀吉が死んで以降、豊徳両家の関係が良かった時期なんてあるのか?
399日本@名無史さん:02/02/01 00:26
結局北政所はなにをやりたかったんだろう
家康を甘く見すぎたのかな
400日本@名無史さん:02/02/01 00:29
>>396
>淀殿VS湖月尼(北政所)の代理戦争であり
もう少し勉強してから発言してね
401日本@名無史さん:02/02/01 00:32
例え徳川の世になったとしても
豊臣家は大和あたりでただの大名として残ってくれればいいと思ってたんじゃない?
家康も北政所に「豊臣家滅ぼすから力かしてくれ」なんて言えないでしょ。
最後の最後まで秀頼の周りから奸臣・淀殿を取り除くため
協力してくれって言ってたと思う。
結局は甘く見すぎたって事なのかな。
402日本@名無史さん:02/02/01 00:34
そういえば、徳川の取り潰し理由って発狂したっての多すぎ。
なぜか、領主層だけが全国で発狂するんだよな。
芸の無い・・・
403日本@名無史さん:02/02/01 00:39
北政所は秀吉の織田家に対する処遇のようなことを想像してたんじゃないかな
404日本@名無史さん:02/02/01 00:46
>>403
早い段階ではそれは不可ではなかったと思うぞ。
ただし、淀がいる限りそれを飲むとは到底思えんが・・・。
織田のは淀がいなかったのが大きいのかも(w
405日本@名無史さん:02/02/01 00:49
どうなんだろうね
いかんせん家康の腹の底が読めなさ過ぎる
406日本@名無史さん:02/02/01 00:52
>>404
家康(とその取り巻き)はその辺も計算ずくだったんじゃないかな。
プライド高くてヒステリックな淀を何気に挑発すれば事は思い通りはこぶってね。
407日本@名無史さん:02/02/01 00:55
>>405
黒かった事は確かだと思うが・・・。
408日本@名無史さん:02/02/01 00:57
でも秀吉が死んでからは家康は楽しくてしょうがなかったと思う
長年おさえられてたものが爆発してるよね
409日本@名無史さん:02/02/01 01:08
>>408
て事はやっぱりそれが家康の本性って事か(w
410日本@名無史さん:02/02/01 01:12
秀吉嫌いな私としては、関が原〜大坂の陣が非常に楽しい♪
411日本@名無史さん:02/02/01 01:14
>>410
ぢつは折れも(w
かといって家康好きにはなれんが・・・。
412日本@名無史さん:02/02/01 01:14
俺は、諸説があるかも知れないが、
家康本人は幼少の頃から得川嫡流を信じていたと思う。
今川義元を討ってくれた信長が、義昭を暗殺してくれた時から、
内心征夷大将軍を具体的に構想する様になったと思う。
武士なら源氏長者になれるかなれないかは、気掛かりの筈。
小牧・長久手の合戦後、決心したと思う。
413412:02/02/01 01:16
いや決戦前だな。
以後健康に最新の神経を払う様になった。
414日本@名無史さん:02/02/01 01:19
>>412
義昭って信長に暗殺されたっけか?
信長より長生きしなかったけか?
415日本@名無史さん:02/02/01 01:19
>>412
藤原を名乗った書状もあるようだ
吉良から系図をもらったのは事実らしい
416日本@名無史さん:02/02/01 01:22
>>412
しかし、松平がそんなこと言い出したのは2代前の清康からだぞ。
家康が生まれるほんの10年ちょっと前くらい。
しかも、父の広忠は伊勢に逃げしていた期間もある。
そんなんきっと地元ですら全然浸透してなかったと思うんだが。
417日本@名無史さん:02/02/01 01:28
>>413
細心だと思うが・・・突っ込まない方がよかったか?
まぁ、ある意味、最新ってのも当たってない訳じゃないし。
418日本@名無史さん:02/02/01 01:30
正直、源平藤橘なんてご都合主義で何でもよかったと思う。
419日本@名無史さん:02/02/01 01:30
別スレより、徳川氏は荒尾氏説と賀茂氏説があるらしい。
420日本@名無史さん:02/02/01 01:33
で、豊家の話題は何処いった?
421日本@名無史さん:02/02/01 01:39
う〜ん動機なんだな。
家康の豊家への裏切りは、単なる思いつきではなく、
家臣一体となって、前もって且つ念密に取り組んだ。
家康の家臣から謀反を考える奴も居なかった。
単なる成り上がりで、其処までできるのかな?
と、ほのかな疑問があるが。
422日本@名無史さん:02/02/01 09:13
>416
新田得川の伝承は松平家にはかなり強く浸透していたようだが・・・
まあ最後は、新田の子孫と、徳川の血統正しい人間とのDNA鑑定で決着をつけるしか方法はなさそうだがw
>421
家康の豊臣家に対する基本的なスタンスは共存共栄だ。
それは関ヶ原合戦のあとの領地配分を見れば一目瞭然。徳川は関東から東海のブロック(これに近江と越前)
豊臣は西国ブロック(これに北陸と信州の一部)と棲み分けがなされている。家康は西国を豊臣の領分として
徳川勢力をいっさい入れていない。一つや二つぐらいの徳川譜代大名を配置することはできたはずなのに、
まったく配置していないのだ。西国は豊臣秀頼に任せ、徳川は東国を支配するという二重政権構想が基本になっている。


423家康:02/02/01 12:02
「長生きするって素敵やん」
424日本@名無史さん:02/02/01 12:17
>>422
大久保彦左の「三河物語」読んだ事ある?
425日本@名無史さん:02/02/01 12:36
>>422
ありえないね。
仮にその二重政権は家康の時代はいいとしても、
秀忠の時代になって保てると思う?無理でしょ。
家康は自分の生きているに秀頼を殺し豊臣家を滅ぼしておきたかった。
そしてその後の徳川体制を磐石のものにした上で秀忠に譲りたかったはず。
426日本@名無史さん  :02/02/02 01:56
>425
西国にひしめいている豊臣大名が臣従しているのは家康であって、徳川家ではないということだ。
家康が死んでしまったあと、なんで秀忠に臣従せねばならない義理がある?
家康の生前から、西国の豊臣大名たちは豊臣秀頼にも臣従しているわけだから、家康が死んでしまえば
かれらは天下晴れて豊臣秀頼だけを主君と仰いで臣従するだろう。
その時点で、徳川秀忠に臣従する豊臣大名って誰だ? 藤堂高虎以外に誰がいるというのだ?!
427日本@名無史さん:02/02/02 02:14
>>422
西国は秀頼に任せって・・秀頼は摂河泉の大名に没落してるだろ。
西国の大名も清正をはじめ率先して江戸に屋敷を作り始めてるし。

>>426
池田輝政
428日本@名無史さん:02/02/02 02:17
>>426
藤堂高虎だって分からんぜ、世渡り上手だからな。
だからこそ家康は生きている間に豊臣を滅ぼしたかったんだろ。
>>422の言う二重政権構想なんて断じて家康の頭の中にはありえない。
429日本@名無史さん:02/02/02 02:49
>>428
確かに、そんな危険を孕んだ状況を次代まで持ち越すつもりなら、
後継者は戦ベタで有名で、武断派の多くからの信頼が薄かった秀忠じゃなく、
ある程度定評のあった秀康か、忠吉(すぐ死ぬけど)辺りを後継者に
据えていたと思われ。
430日本@名無史さん  :02/02/02 02:59
>428
人の心の中というのは分からんものだし、本人でも分からんものだ。
まして証明なぞはできんものだ。だから外に事実として現れたもので判定するしかなくなる。
そのとき、関ヶ原合戦後の領地配分に際して、西国に徳川勢力をまったく配置していないというのは
重要なポイントになる。

 なぜだ? これをうまく説明できるやつはいるか。

431日本@名無史さん:02/02/02 05:30
>>430
逆に君が家康の立場で手持ちの駒が5あるとするなら
そのうちの1つか2つの駒を西国に置くメリットは何かあるか?
兵力の分散につながる。
家康は分散するより集中することにより徳川政権の安定を図ったんだろう。
432日本史名無し:02/02/02 10:20
家康としては慶長期の段階では豊臣をつぶすことを念頭におき
その後、譜代大名の西国進出を予定していたのではないか。
豊臣大名のその後の末路を見るとそんな感じがする。
433日本史名無し:02/02/02 10:29
二重公儀と二重政権というのは厳密には意味が異なると思われ。
開幕後における慶長期の政権担当者は徳川であって豊臣ではない。
しかし、その一方で豊臣が一大名レベルでなかったことも事実。
その意味において笠谷氏の二重公儀説は正しい。
434日本@名無史さん:02/02/02 12:25
>>430
じゃあ聞くが家康はその二重政権構想とやらを永遠のものとして考えていたのか、
それとも関ヶ原以降、一時的なものとして考えていたのか、どっちだ?

それと君は言う事は偉そうだが、何か稚拙なものを感じる。。
もちっといろんな「事実」とやらを勉強してから発言した方がいいのでは?
435日本@名無史さん:02/02/02 13:33
そもそも>>422の言う二重政権って具体的にどういうの?
日本を東と西に分けて、それぞれを徳川、豊臣が政権担当するって事?
極端に言うと昔の東西ドイツや今の南北朝鮮みたいなのか。
436日本@名無史さん:02/02/02 13:40
>>430
「事実として現れたもので判断」ね。
事実として家康は豊臣家を滅ぼしましたが何か?

>人の心の中というのは分からんものだし、本人でも分からんものだ。
プ(藁
437日本@名無史さん:02/02/02 13:44
>>422 >>430
東国には豊臣系の大名がいたと思うんだが、
これらを残して二重政権にするのって徳川家にメリットってある?
438日本@名無史さん :02/02/02 13:45
>>435
鎌倉幕府みたいなもんでわ?
439日本@名無史さん:02/02/02 13:49
伊達政宗を加えて三重政権って考え方もあったりする(加来耕三氏)
440↑↑↑:02/02/02 13:50
トンデモ発見
441日本@名無史さん:02/02/02 13:53
>>437
摂関家筆頭の豊臣家の外戚って事ぐらいしか思い浮かばん。
442日本@名無史さん:02/02/02 14:02
辺見英夫氏も似たこと言ってたな。>>439
443日本@名無史さん  :02/02/02 15:07
考えてみれば、武家政権の発足時から東国、西国の二重政権というほうが主流なのだ。
頼朝の鎌倉幕府は東国中心の政権で、西国は京都朝廷の支配圏だ。
室町幕府ができると、武家政権の所在地は京都にかわるが、こんどは東国の施政権は鎌倉公方に委ねている。
豊臣秀吉の関白政権においても、東国の支配や裁判権は徳川家康に委任している。
それらからすると関ヶ原合戦の後に、家康が自己の勢力範囲を東国において、西国の支配を豊臣側に委ねるというのはむしろ自然な流れということができる。
われわれは、後の寛永時代以後に築き上げられた幕府による、強力で一元的な全国支配というイメージにとらわれているので、徳川・豊臣二重公儀説を理解できないのだ。
444日本@名無史さん:02/02/02 15:15
一気に一元的な全国支配ができなかったからしぶしぶ二重政権的にならざるを
えなかっただけで、それを存続させるつもりは家康にはなかったでしょう
445日本@名無史さん:02/02/02 15:59
>>444
なるほど、強力な一元政権での過程として捉えるなら有りうるかもね。
豊臣政権きっての実力者といっても関東中心の地方を支配していたに
すぎない徳川家が、いきなり全国を強力に縛り付けるのは難しい。
そのため、分散させるよりも、まずは東国から支配体制を確立していった方が
遥かに効率的だろうし。
もちろん、それは過程でしかないんだろうけど。

ただ、加藤(清正)家とかを改易したのは、家康の代ではなく、
秀忠政権下での土井利勝だったように思うのだが・・・。
446日本@名無史さん  :02/02/02 16:07
当時の統治技術のレベルからすると、この長い日本列島の全部を一元的に支配しようとするほうが無理なのだ。
東国、西国の二元支配は主流的な体制なのだろう。
447作太郎:02/02/02 16:22
笠谷氏が指摘するように慶長11年の江戸城普請において
豊臣秀頼が公儀普請奉行を出していることの意味は非常
に大きい。ただし、この二重公儀体制がいつまで続いた
と考えるのかという点と家康が豊臣家を将来的にどのよ
うに処遇しようとしていたのかという点だ。
豊臣家への厚礼の態度が西国大名を手なずけるための
単なる家康の政治的ポーズであったとすると二重公儀
体制は短期的なレンジで考えるべきかも知れない。
448次郎三郎:02/02/02 16:29
武家政権における二重公儀という点では豊臣秀吉と秀次の体制
や慶長10年代の家康(駿府の大御所政権)と秀忠(江戸の将軍政権)
もある種の二重公儀だろうし、一元的な権力基盤が確立するまでの
過渡的な政治形態としてとらえるべきか。
449日本史名無し:02/02/02 17:33
単純に考えればわかることだが、どうして豊臣秀頼を家康は
改易処分にしなかった(できなかった)かという点がポイント
だとおもう。つまり、豊臣秀頼が一大名に転落していたのであれば
改易すればそれですんだことなのに、わざわざ戦争をしかけたのは
いわば大坂の陣が幕府と一大名の戦争ではなく公儀と公儀の戦争
だったことを意味するものだろう。
450日本@名無史さん  :02/02/02 17:33
東国、西国の二元支配体制は、むしろ武家政治の伝統であり、主流だという点を見落としてはならない。

家光政権による江戸参勤交代制が、この伝統を大きく転換していくことになるということだ。
451日本@名無史さん:02/02/02 22:02
>>449
改易というか転封(大坂撤去)は言い渡したと思うが。
それに応じず大坂城に人集めて立て篭もれば、
それは討伐の口実になるでしょ。

俺としては>>444を指示だね。
452松太郎:02/02/02 22:31
福島正則は大坂の陣で豊臣氏が滅亡したあとも
安芸の国持大名としていたわけであり、元和5年
の改易までどのような位置付けだったのだろうか
とふと思ったりもする。
453日本@名無史さん:02/02/02 22:50
>東国、西国の二元支配体制は、むしろ武家政治の伝統であり、主流だという点を見落としてはならない
これが戦乱の原因であることも家康は当然理解していたと思う
だから家康は一元的な全国支配を目標にしていたんじゃないだろうか
家康の代では完成しなかったけど
454日本@名無史さん  :02/02/03 00:42
願望ということでいうならば、家康はとうぜん全国一元支配を目指すだろう。なにも
危険な勢力を残しておく必要もないからだ。
二重政権も不要ならば、豊臣大名だっていらない。まして毛利や島津はいつか必ず
リベンジを仕掛けてくるにちがいないのだから潰しておくにしくはない。
しかし願望と現実とは別だ。力関係、政治情勢、武家政治の伝統、いろいろな要因によって
心ならずも抑制を余儀なくされる。
妥協し、折り合って、均衡に到達したときにある政治体制ができる。それは当人にとって不本意であるかも知れないが、
自己の利益を守るためにも、受け容れざるをえないものだ。
問題となっているのは、願望の内容ではなくて、この現実に設定された政治体制がどのようなものであったかということだ。
455松太郎:02/02/03 23:13
笠谷氏の二重公儀説を批判する向きが学会の一部にあるが
どれも根拠は薄弱であり、笠谷氏が提示している数々の論拠
をすべて否定したものはない。笠谷説を否定する向きはそもそも
慶長期における政権の枠組みに関する捕らえ方が平板すぎるし
大きな意味での政治の推移が根本的にわかっていない。
456日本@名無史さん:02/02/04 13:02
二重公儀というよりも鎌倉時代の将軍と北条の関係を思い浮かべるが。
457日本@名無史さん:02/02/04 20:57
豊臣、徳川の二重公儀説に質問。
南部、津軽氏への仕置きは誰がしたのですか。(九戸の乱など)
関が原以降において豊臣氏に政権運用機構はありえたのでしょうか。
458日本@名無史さん:02/02/04 23:43
>456,457
関ヶ原合戦以前も以後も、秀頼が元服(15歳)するまでは家康が、
公儀の政務を代行運営するというのが大前提であり、諸大名たちの諒解となっていた。
ところが家康が将軍に就任して幕府を開いたことから話しがややこしくなっていったのだ。

459日本@名無史さん:02/02/04 23:49
当時は実力主義の時代だ。
秀吉だって、織田の子孫をかつがなかった。
そんなことする必要すらなかった。
だから、徳川氏が豊臣氏を簒奪したのは正当。
460日本@名無史さん:02/02/05 10:06
単純な簒奪なら、それなりに話しは簡単だったんだ。つまり秀頼を追放するか、いわゆる一大名に
転落させて臣従させてしまえば、話しはわかりやすかった。ところが家康は、
秀頼の地位をそのままにしておいて、それとは別個に政権のトップを作ってしまったので
話しがややこしくなってしまったというわけだ。
諸大名はいったいどっちにつけばよいかという問題だ。
家康と秀頼といったい、どっちが偉いのかという難問がでてきたのだ。
秀吉と、織田の子孫たちとの関係は、秀吉優位で問題ないのだが、
家康―秀頼の関係は明確ではない。例の二条城の座席配置がそれを示しているだろう。
家康の行為は簒奪の一種にはちがいないのだが、単なる簒奪でもないというところに
この問題のむつかしさがあるのだろう。
461日本@名無史さん:02/02/05 10:33
一大名に転落させて臣従させようとしてたじゃん。
ただ織田の子孫のようにおとなしく従わなかっただけで。
関ヶ原をきっかけに立場が明らかに逆転していく、それだけじゃん。
462日本@名無史さん:02/02/05 13:26
ただ単に順序をわきまえたってだけだろ。
徐々に逆転してってるんだし。
二条城の件は逆に自らの地位と諸大名への支配に自信があるからこそ、
あえて秀頼をたてたんじゃないの?
呼び付けることにこそ意味があると考えて。
463日本@名無史さん:02/02/05 19:39
>462
このスレではすでに決着ずみの問題。
150―250あたりを見よ
464次郎:02/02/05 19:45
少なくとも慶長11年の江戸城普請の時点では
豊臣秀頼が公儀普請奉行を出しているので
豊臣氏が公儀性を保持していたことがわかる。
高校の日本史の教科書の記述の仕方も悪いが、
関ヶ原以後一気に徳川に政権が移ったような
印象がいまだに根強い。この根底には徳川の
御用史観があり、当時の政治状況の正確な判断
基準を狂わせている。
465三郎:02/02/05 20:05
二重公儀というのは現代政治の連立政権のようなものだと
考えると分かりやすい。つまり、徳川と豊臣が組んで公儀
を形成していたわけで、豊臣の石高だけを見て一大名に転落
したとみなすことは妥当ではない。その最終的な行き着いた
はてが大坂の陣だったわけで、なぜ戦争で決着をつけなければ
ならなかったかという点を再検討すべきだろう。
そして、慶長期の政治状況というのはきわめて複雑であり、
家康の本音と建前の使い分けや西国大名を臣従(豊臣を臣従さ
せたわけではない)させたプロセスは単純に解釈できない部分
が多い。
466       :02/02/05 20:13
二条城会見のことは110-130でもやってるな。
467日本@名無史さん:02/02/06 13:14
>465
どこが連立政権なんだ?
468日本@名無史さん:02/02/06 14:39
>>463
決着ずみとは思えないけど。
469   :02/02/06 20:16
>468
前回以上のレベルの議論を展開することだ
470日本@名無史さん:02/02/06 21:34
ソース出てないじゃん。
そんな議論の中から結論出すなんて、厨房ですか?
2chの学問板って、ソースも出さずに都合のいい論を展開して、
その論を快く思った奴等がそれを検証もせずにまた書き込んで、
それが通説みたいになってたりするからいかん。

別に秀頼が上座という説が、都合の良い説と言うわけではないが、
ソースがない限りにわかに信じることはできないよ。
どっちが上座でもいいからソースを出してよ、ほんと。
471日本@名無史さん:02/02/06 21:43
>>470
全くあんたのいうとおりだ。
2chだからソースなんぞ出さんでもいいという奴もおるが
議論する以上、ソースは出して欲しいよ。頼むよ。
472日本@名無史さん:02/02/07 00:06
>>470,471
ちゃんと探したらどうか。探し方が悪い。ソースはすでに出されておるぞ。
200−250の間にある。
473470:02/02/07 00:20
ほんとだ。わっはっは、スマソ。
474日本@名無史さん :02/02/07 00:21
話を元に戻そう。
島津氏は大阪の陣の直前に、将軍徳川秀忠の次男、国松(ご存知徳川忠長)を
養子に迎えようとしている。これも豊臣・徳川二重公儀と関係あるのかしら?
(ソースは歴史群像の「島津戦記」ざんす)
475日本@名無史さん:02/02/07 12:51
>>472
ソースは出ててもその解釈が・・・。
476日本@名無史さん  :02/02/08 01:38
>475
どんな解釈が可能だろう。ぜひ聞かせてもらいたい。
477日本@名無史さん  :02/02/09 05:08
二条城会見に関する240の史料の内容からして、豊臣秀頼が特別の地位を保っているということは
間違いないだろう。「関ヶ原合戦ののち豊臣秀頼は一大名に転落した」という言いふるされた言説が
もはや通用しないということだけは確かだろう。単なる一大名では、家康との間にあのような座席のやり取りは
ありえないだろうから。
478日本史名無し:02/02/09 05:14
やはり関ヶ原以後の豊臣秀頼の位置付けについては
高校の日本史教科書の記述を書き改める必要があろう。
479日本@名無史さん:02/02/09 06:26
>>477
あくまでもこの場合、“特別”の地位なんだ。
関が原以降に豊臣氏に政権運用機構が有ったなら
そのソースを教えてください。
守り役の片桐まで徳川氏にとり込まれてるでしょ。
>>474
もうスコーシィ詳しく教えてください。


480  :02/02/09 07:00
>479
慶長11年から全国の大名が動員されて江戸城の大改修工事が始まる。従来の学説では
豊臣系諸大名をふくむ全国の諸大名が家康と徳川幕府に服属した画期として、この出来事が
位置づけられてきた。
ところが最近、この工事の監督を担当する普請奉行として、豊臣秀頼の家臣2名が参画していることが判明した。
将軍の居城の普請に、秀頼はもちろん工事には動員されていないが、むしろ監督者の立場で臨んでいることがあきらかになったわけだ。
この事実は、きわめて重要な問題として現在注目を集めている。
これは笠谷氏の二重公儀説を裏付ける重要な根拠となる可能性が高いからだ。
481日本@名無史さん:02/02/09 07:17
徳川氏の城と言う時点で傘下に下っているように思うのですが
これが、豊臣氏の京都の寺社作事改修に徳川氏が参加したと言うのならば
判るのですが。どうなんですかね。
482日本@名無史さん:02/02/09 08:41
>>480
体制上、そうしないと納得しにくい勢力なり雰囲気があり、
形の上でも豊臣家に派遣を依頼したのでは。
でも形だけとはいえ、移行期の力関係を考える上では大事ですな。
483日本史名無し:02/02/09 09:08
天下普請(江戸城普請)において普請役を賦課される一般大名
のレベルと監督者たる普請奉行のレベルとの差異が重要なので
あって江戸城が徳川氏の城だからその傘下に入ったと考える
必要はないと思うのだが。
484日本@名無史さん:02/02/09 13:00
>>480
コレ1個だけじゃたいして説得力を感じないんだが?
少なくとも教科書云々言うようなものには・・・。
名誉や名前だけなら残ってても不思議じゃないし。
西国の大名たちに対して実際権力があった証拠ならわかるけど。
485武一:02/02/09 13:40
逆に言うと、徳川家康と豊臣秀頼の間に封建的主従関係が成立していた
という証拠はあるのだろうか。
486日本@名無史さん:02/02/09 13:49
>484
そのほかのいろいろな事例については笠谷氏の『関ヶ原合戦』や『関ヶ原合戦四百年の謎』を読むことだ。
487日本@名無史さん:02/02/09 13:57
現代風に解釈すると豊臣家が立憲君主で
徳川幕府が内閣というのでは無理があるかな?
488日本@名無史さん:02/02/09 14:01
>487
しかし、既に天皇という君主が存在している以上、そのスタイルを存続させ
ることはできなかったんだな・・
489日本@名無史さん:02/02/09 15:08
>>488
なるほど。
490    :02/02/09 15:51
>487
天皇の問題は複雑になるからさておき、秀吉晩年にできた五大老制度が内閣で、豊臣秀頼が立憲君主のようなものだ。
そして関ヶ原合戦前後には五大老制は事実上は家康の一人大老になるわけだから、家康が内閣総理大臣(首相)と見ることができるだろう。
しかし家康はそののち将軍に就任して幕府を開く。これは豊臣秀頼の首相の地位から離脱をして、自身が政権のトップの地位に立つことを意味している。
つまり二つの政権と、二人の政権トップが誕生することになる。
そして天皇はといえば、この両方のさらに上に立憲君主として君臨することなるという構図だ。


では、
家康は大老で、しかも事実上は一人大老になるわけだから、
491    :02/02/09 15:54
490
スマン  最後の二行は不要。
492日本@名無史さん:02/02/09 16:08
教科書において、1603年にあたかも徳川家が全権を
掌握したかのように記述するから問題があるんだよね。
1615年まで豊臣家が存在した意義につては
スペースの関係で突っ込んで書いていないし。
493日本史名無し:02/02/09 16:25
そうそう。予備校などで教える受験の日本史でも
そのほうが説明しやすいから、豊臣家の関ヶ原以後
の位置付けについては大坂の陣勃発まで何も触れていない。
494   :02/02/09 16:57
いや実際のところ専門研究者の間でも、関ヶ原合戦ののち豊臣は一大名に転落したと
長く信じ込んでいたというのが実情だろう。教科書だけの責任ではないと思うが・・・
495492だよ:02/02/09 17:12
これはスレ違いだけど、世界史でもゲルマン人の侵入で476年ローマ帝国滅亡
なんて教えてるけど、1453年まで存在してるぞ!いいかげんなこと言うなと
声を大にして言いたい。

昨今、近現代の教科書問題ばっかりクローズアップされるけど
それ以前の歴史教科書記述にも問題が多々ありだと思う。
496日本@名無史さん:02/02/09 17:54
今の連立政権みたいな物でしょう
自民=徳川
公明=豊臣(公家とゆうことde)


497日本@名無史さん:02/02/09 20:26
(・∀・)ジサクジエンデシタ!
498日本@名無史さん:02/02/09 22:06
>>497
自作自演じゃないぞ。
真面目にやってくれよ。
このスレの題目は結構重要な問題だぞ。
みな疑問に思ってるんだから。
499日本@名無史さん:02/02/09 23:10
>497
q
500日本@名無史さん:02/02/09 23:12
祝500!
このスレの論争もずいぶんと続くね。三ヶ月目、500番台に突入だ!!
501日本@名無史さん:02/02/09 23:15
遡って読む気力はないので
だれか現時点でどちらの説が説得力あるのか
教えてくだされ。
502日本@名無史さん:02/02/09 23:19
>>497
どれとどれが自作自演というのだ?!
カン違いも、いいとこだ。
503日本@名無史さん:02/02/09 23:23
>501
人を頼るな! 自分の頭で考えろ!
人に頼って、歴史の真実が見えるものか!!
504日本@名無史さん:02/02/09 23:42
>>501三重公儀。
@朝廷
A豊臣家
B徳川家
505日本@名無史さん:02/02/09 23:47
まあ第一義的には朝廷だろうけど、実質的には豊臣と徳川の2重公儀状態
なんだろうね。
506日本@名無史さん:02/02/10 00:03
>>505
多重公儀状態ってのはどうよ?
507日本@名無史さん:02/02/10 00:23

豊臣・徳川は対等だけれど、朝廷は実権はないものの、その両方の上にあるといった感じだな
508日本@名無史さん:02/02/10 00:27
朝廷はスポーツでの審判のようなものなのではないかな。
509日本@名無史さん:02/02/10 00:30
>>488
鎌倉時代の北条政権は参考になりそうかな?
510日本@名無史さん:02/02/10 00:42
豊臣と徳川との関係は、現代流に表現すると、連邦国家の形が一番近いように思われ。
徳川を首長とする東日本国家と、豊臣を首長とする西日本国家があって、日本は東西二国で構成される連邦国家だ。
天皇はこの連邦国家の元首といったところだろう。
511日本@名無史さん:02/02/10 02:25
510
これはあくまでもイメージのことだから、歴史の現実とは違いはある。たとえば豊臣圏内の大名が、
徳川将軍の城普請に動員されるといったことは、連邦制とは別問題になってしまう。
連邦制のイメージは、あくまでも豊臣―徳川の勢力圏と棲み分けの状態を指したものだ。
512日本史名無し:02/02/10 07:21
連邦制と考えると大坂の陣の説明がつかなくなるような気がするが。
やはり現代社会における連立政権のイメージだろうか。
そして、その連立政権の決裂の結果が大坂の陣だったということなのかな。
513日本@名無史さん:02/02/10 12:23
ココまでの議論の流れでは二重政権、もしくは並立構造だった
ということでまとまりつつあるようですが。
「いや、そんなことは全く無い」という方の意見はありませんか。
514日本@名無史さん:02/02/10 12:41
だって豊臣氏には政権運用機構が無いもん。
認めないもん。
515日本史名無し:02/02/10 13:22
確かに当時の豊臣氏には政権運用機構がないが、公儀性の保持という
点では笠谷氏の説は説得力があると思う。
その意味では二重公儀であって二重政権ではない。
516日本@名無史さん:02/02/10 16:22
でも、大阪の陣の時、西国だろーが東国だろーがマトモな大名で
大阪方についたやつなんていたか?
二重政権と言える程豊臣に力があれば、徳川もそんな簡単に
ロコツに虐めて潰したり出来なかったんじゃ?
ほとんど言いがかりだし(w
折れはやっぱり名誉だけで中身は無かったと思うなあ。
517日本@名無史さん:02/02/10 17:03
確かに516さんの言うことに一理あると思いますが

1603年に征夷大将軍になってから1615年までの間に
徐々に権力移行があったと考えられるような気がするのですが。

そのへんの経緯について詳しい方いらっしゃいませんか?
518日本@名無史さん:02/02/10 17:43
>>516
>二重政権と言える程豊臣に力があれば、徳川もそんな簡単に
>ロコツに虐めて潰したり出来なかったんじゃ?

515では「その意味では二重公儀であって二重政権ではない。」
とあるよ。
519日本@名無史さん:02/02/10 17:51
公儀と政権の違いは如何に?
520日本史名無し:02/02/10 18:53
公儀の定義というのは大変むつかしい問題だが、簡単にいうと
公儀〓「おおやけ」という意味であり、一般の大名よりも次元
の高いステージということになるだろうか。笠谷氏がその所
説で問題提起したのは従来の豊臣秀頼の位置付けについて
一大名とは異なる次元であるということを事例を例示して
論述したものである。そして、当該期の政治構造について
二重公儀という学説を発表された。よって、笠谷氏は二重公儀
という表現はされているが、二重政権とは表記されていなかった
と思う。問題なのはこの二重公儀体制がどのような時系列的変化を
遂げたかということであり、平たく言えば、家康がいつまで秀頼の
政権代行者のような擬態(政治的ポーズ)をよそおっていたか
という点だろう。
521日本@名無史さん:02/02/10 19:16
擬態を装っていたのなら二重公儀という呼び方は適さないのでは?
522豊臣朝臣:02/02/10 19:40
>問題なのはこの二重公儀体制がどのような時系列的変化を遂げたか
割って入ってきて勝手ながら。
できればこの部分を議論して欲しいんですが。
523豊臣朝臣:02/02/10 19:47
>政権代行者のような擬態(政治的ポーズ)をよそおっていた
漏れはNHKの「葵 徳川三代」の時
ジェームス三木の脚本が日本のテレビ史上
初めてこの部分について比較的史実に基づく
描写がなされてたように思ったんですが。
524日本史名無し:02/02/10 20:15
ポイントは家康の将軍任官が慶長8年であり、関ヶ原の戦いから数年の
タイムラグがあるという点だ。多くの人はこの点に注意を払っていない
かもしれないが、関ヶ原の戦い直後の最高権力者は形式上は豊臣秀頼で
あり、家康はその政権代行者でしかなかった。こうしたいわばねじれ現象
的スタートをきったため慶長期の政治体制は複雑な様相を呈することとなった。
この点を読み解くキーワードが二重公儀という概念であり、たとえ家康の擬態
であったとしても西国大名との力関係から豊臣の公儀性を一気に払拭できな
かったのだろう。家康は慶長11年に大御所政治を開始するまでは江戸城には
ほとんど在城せず伏見城で政務を見ている。伏見城はいうまでもなく旧豊臣
政権の公儀の城であり、このように慶長期の初期段階で家康が上方を離れら
れなかった点からも当時の家康の権力基盤は脆弱だったと思われる。
525日本@名無史さん:02/02/10 20:27

慶長11年からの江戸城普請に、豊臣家臣が普請奉行として参画している以上、
豊臣に政権運用機構がなかったとは言えないだろう。かれらは国絵図の作成にも
携わっていることが判明しているので、豊臣の行政機構をあなどってはならない。
526豊臣朝臣:02/02/10 20:37
僭越ながら、私もむしろある時期を境にスムーズに政権交代が
なされた例の方がまれ(皆無?)のような気がします。
室町幕府の消滅時などもそうですよね。
他の時代の政権交代と比較してみるとどうなんでしょうか?
527日本@名無史さん:02/02/10 20:53
>>525
その名前(名誉?)が若干残ってたことにどれほどの意味があるか
イマイチわかんないっす。
いざって時、誰もついて来ないのに。
528日本@名無史さん:02/02/10 20:57
>527
それは単に、結果オーライの議論というものだろう
529日本@名無史さん:02/02/10 20:58
誰の名前で諸大名を召集したのか。
誰の名前で朝廷へ官位の奏請をしたのか?
豊臣の姓と羽柴の苗字はいつまで授与されたのか?
松平の苗字はいつから授与されたのか?
通字はどうなってるのか?
530日本@名無史さん:02/02/10 20:58
>>527
なぜ誰もついて来ないとわかる?
531豊臣朝臣:02/02/10 21:06
>>529
これはたいへん核心を突います。
大名家に残っていると公文書を調べるとわかりそうですね。
532豊臣朝臣:02/02/10 21:09
>>531
>これはたいへん核心を突います。
を訂正します。
>これはたいへん核心を突いています。
が正しいです。
533日本@名無史さん:02/02/10 21:10
>>530
実際、ついて来なかったでしょ?大阪の時。
それまでも、逆に徳川と縁を深めようとするだけで。
534日本史名無し:02/02/10 22:48
二重公儀体制の時系列的変化を考えるうえで、節目となるのは
慶長8年の家康の将軍任官、同10年の秀忠の二代目将軍就任、同11
年の江戸城大改修、同16年の二条城での家康と秀頼の会見、など
であろう。この中で二条城の会見については二重公儀説支持派と
否定派でその解釈は大きく異なっている。この点をどのうよに
クリアーしていくかが今後の課題だろう。
535日本@名無史さん:02/02/10 23:20
>>533
この件については、大坂の陣までに豊臣家子飼い
もしくは反徳川の大名の初代がほぼ死に絶えてい
るか、遠隔地に国替えになっている事も考慮すべ
きではないでしょうか。
536日本@名無史さん:02/02/11 03:26
>533
大坂の陣のときに、諸大名が豊臣についていかなかったのは事実だ。
しかしそのことは、この慶長19年、20年に見られる政治状況が、それ以前から一貫してあったことの証明にはならないのだ。
537日本@名無史さん:02/02/11 03:35
んで、結局いつからそんな徳川圧倒的優位になったって言うのよ?
この間に大きな動きも無かったし、関ヶ原時点で流れが決まっていたって
従来の説でかまわん気がするけど。
関ヶ原以降、西国大名たちも多くはむしろ徳川に擦り寄っていってるんだし。
なんか、教科書がどうとか鬼の首とったみたいに言ってるのもいたが、
どうしても重箱の隅つついてるみたいな議論という印象が拭えないんだが。
538日本@名無史さん:02/02/11 03:37
むしろ徳川側が慶長18年以降、急速に豊臣家に強硬な態度に転じたのか
そのあたりが知りたい。
539日本@名無史さん:02/02/11 03:52
>529
賜姓については羽柴、豊臣、松平すべて賜姓されていた池田輝政の
例が参考になると思います。池田輝政は、関が原の直後、直ちに羽柴
と豊臣の姓を破棄し、元姓の池田に戻っています。その後、1603年
ころに家康の孫である二男に松平が与えられ、家康の孫でない長男の
利隆にも1607年に松平が与えられています。池田輝政本人にも
1611年に松平の姓を与えています。
540日本@名無史さん:02/02/11 04:08
結局家康が豊臣を立てて立ってことかい。
541日本@名無史さん:02/02/11 04:15
>537
一山いくらというレベルの議論でかまわんのなら、別にそれでいいと思うけれど
542日本@名無史さん:02/02/11 05:27
福島正則の「羽柴左衛門大夫」
前田利長の「羽柴肥前守」
細川忠興の「羽柴越中守」 
これらは慶長末年まで使われているようだ。
543日本@名無史さん:02/02/11 05:55
豊臣と徳川の力のバランスが大きく崩れるのが、加藤清正と浅野幸長の死(慶長16、18)によってだ。
加藤、浅野そして福島正則の三人が健在である限り、家康は豊臣に対して武力行使はためらわれる。
西国の豊臣系の大名たちが、この三人の動向しだいで一致してそれに従うというのは、関ヶ原合戦の
小山の評定の状況からも予想されるところだ。
家康が武力行使で問題を決着させようと決断したのは、慶長18年の浅野幸長の死を境にしてのことだろう。
544q::02/02/11 08:05
≫533
大坂の陣の時に西国大名を含めて豊臣に味方しなかったのは周知だが、
これは戦争状態になった際にどちらの陣営に属するか、という問題
であって負けることがわかっている豊臣方に属しないのは当然だ。
だからといって、それ以前の政治状況を平板に理解してよいのか
という問題がある。大名というのは自家(自藩)の存続を第一に考える
ものであって、その辺は案外ドライに割り切っている。このことは
戊辰戦争の際に西日本の譜代大名が簡単に新政府側についたことからも
わかるように戦争状態になると勝敗の行方を冷静に見るものなのだ。
545:02/02/11 08:06
そうなんだ
546q::02/02/11 09:58
≫537
この人の言っている「重箱の隅、云々」という意味も分からないではないが
学説の是非を議論するということは多分にこうしたケースもある。
ただし、笠谷氏が提起されている二重公儀の問題は豊臣から徳川への権力
移行の側面では極めて重要な問題であって今後学界を二分する議論に発展
する可能性のある問題であることをわかってもらいたい。
547豊臣朝臣:02/02/11 11:10
関ケ原後の大名の処遇は誰の名で行なわれたのでしょうか?
たとえば毛利氏や上杉氏の大減封とか、豊臣家の身内の小早川秀秋の廃絶とか
どなたかご存知の方いらっしゃいませんか?
548日本@名無史さん:02/02/11 11:17
家康ですね。
549日本@名無史さん:02/02/11 11:21
>>548
大老としての家康?
550日本@名無史さん:02/02/11 11:25
結果、家康の手で豊家を滅亡に追い込まれたんだから、
二重公儀なんて建前で一過性のものだったんでしょ。

必死に力説してる人がいるけど
何が重要なのかいまいち分からないんだけど・・・。
551豊臣朝臣:02/02/11 11:28
>>547
失礼しました。
「どのような資格で行なわれたのでしょうか?」
と問うべきでした。
552日本@名無史さん:02/02/11 11:32
>>550
最初から読んできたけど。
ここで議論している人たちは、たとえ建前だけであろうと
いつまで続いたかを知りたいんじゃないの?
553日本@名無史さん:02/02/11 11:33
笠谷氏って何者?
554日本@名無史さん:02/02/11 11:36
>>552
いつどの事例をもってして家康に政権が移ったかって事?
555日本@名無史さん:02/02/11 11:41
>550
徳川慶喜が大政奉還した時だって幕府の行政機構は
そのまましばらく残ってたんだから、1603年に
いきなり以前の行政機構が無くなると考える方が
不自然じゃないか?
556日本@名無史さん:02/02/11 11:46
>>555
他の時代を例えに出すのは必ずしも適当でないと思うのだが。
557日本@名無史さん:02/02/11 11:48
>>556
例えとしてはとてもわかりやすいと思うのだが。
558日本@名無史さん:02/02/11 11:49
>>557
状況が違うから全く例えになってないと思うのだが。
559日本@名無史さん:02/02/11 11:50
>>551
実力で簒奪したのに資格も何もないのでは...。
理屈は後から付いてくる、というやつでしょ。結局。
すでに豊臣の行政機構(?)、5大老、5奉行は崩壊しているし、
秀頼の朝廷の官位も家康より下でしょ? 確か。
560日本@名無史さん:02/02/11 11:51
>>555
じゃあ1603年を境に徐々に政権が移行したって事?
561q::02/02/11 11:55
≫555
その点を解くヒントになるのが慶長11年まで家康が伏見で
政務を見たということと関連すると思う。
≫550
結果論からいうとその通りなんだが、たとえ建前で一過性
のものであっても二重公儀の内実をどうとらえるかは政治史
上重要だと思う。
562日本@名無史さん:02/02/11 11:55
>>559
資格の意味を理解していないと思われ。
563日本@名無史さん:02/02/11 11:57
>>558
状況が違っても十分例えになっていると思うのだが。
564豊臣朝臣:02/02/11 12:17
徳川家康が本人の認識に関わらず豊臣家の行政機構
の重役としてしか各書状を発行することが出来なかった
としたら、少なくとも建前上は豊臣政権は続いていたと言える。
というのはどうでしょうか?
565豊臣朝臣:02/02/11 12:24
>>564
読み返すと文章的にチョッとという感じですが
よろしくお願いします。
566日本@名無史さん:02/02/11 12:29
建前上は続いてたと思うよ。
要はその建前もいつ崩れ去ったかって事を皆は議論してるんでしょ?
567豊臣朝臣:02/02/11 12:31
失礼しました(涙
568日本@名無史さん:02/02/11 12:41
しかし、関ヶ原の後、領土の再配分って井伊直政と本多忠勝が
中心になって取り仕切ったんでしょ?
なんか徳川の家臣団クラスが指揮って決めた領地に、全国の多くの大名達は
ろくに文句も言えず移動したわけだし、ここに豊臣の力がほとんど介入出来てない
って時点で既に事実上の決着がついてるじゃないかと思われ。
569日本史@名無しさん:02/02/11 12:49
≫568
その所領配分は、「豊臣の力がほとんど介入出来てない」のではなく
家康が「豊臣の威を借りて」〓秀頼の政権代行者として、処理した
点に問題があるのだろう。
570日本@名無史さん:02/02/11 13:02
>>569
「威を借りて」と言っても、豊臣方に実権は無かったわけでしょ?
例えば、領土問題で言えば西国の中でも毛利家の扱いについて吉川が
再考を頼んだのも徳川家だし、その他の大名も豊臣家ではなく、それどころか、
既に徳川家の家臣団の顔色をうかがっているって方が重要だと思うけど。
ここで豊臣家という名前がどれだけ価値があったかというのはかなり疑問。
571日本@名無史さん:02/02/11 13:10
さっきから見てると議論が堂堂巡りになってないか?

@征夷大将軍任官=豊臣家の政権喪失(議論の余地は無い)
           VS
A征夷大将軍任官後に豊臣家の政権保持の建前がいつ失われた

この場で@みたく「議論の余地は無い」と否定してしまったら身も蓋も
無いんじゃないの。
572日本@名無史さん:02/02/11 13:34
≫570
たしかに、家康から見れば孫同然の秀頼には政治統治能力も
なければ、軍事指揮能力もない。その意味では、当時の豊臣氏
にどれだけの実権があったのか、といえばそれまでだが、
少なくとも、将軍任官前の家康が関ヶ原の戦後処理をしたのは
旧豊臣政権の枠内で、つまり、秀頼の政権代行者としてやらざる
を得なかったのではないか。ただし、御指摘のように個々の交渉
はで家康に取り入ったケースも多かったかもしれないが…。
573日本@名無史さん:02/02/11 13:39
いつの時点ではっきり資格を得たなど、言えるはずもなし。
相対的なもので、徐々に立場を高め、最終的に簒奪しただけ。
家康は征夷大将軍任官の時も、秀頼の官位も上げる働きかけをしているものな。
574日本@名無史さん:02/02/11 13:39
「羽柴」とか「松平」という名の政治的意味はいかほどのものなの?
575日本@名無史さん:02/02/11 13:40
徳川頼房の「頼」の字の由来は?
576日本@名無史さん:02/02/11 13:47
初歩的な質問でなおかつ脱線ですが
秀吉の「秀」の字をもらってる大名の子息がたくさんいて
ほとんどが豊家滅亡後も改名していないようですが
こだわりは無かったのですか?秀忠、秀康、秀就、etc
>>575も秀頼の「頼」?
577日本@名無史さん:02/02/11 13:48
もっと簡単にすると、豊印乳業の秀吉社長が死去して
役員会で筆頭取締役の家康と利家に派閥が出来て
その後利家死去派閥の一部を三成が継承する。
役員会あれる。三成、失脚するがまだ最高顧問として影響力行使。
また豊臣乳業の最高取締役へ毛利氏就任。
家康VS三成、決戦するが三成死去。
家康は豊臣乳業の筆頭株主兼最高取締役に就任。
さてこの会社は誰の物でしょう。
578日本@名無史さん:02/02/11 13:59
>576
徳川頼房
1603生れ
1611元服
秀頼の「頼」なの?
579日本@名無史さん:02/02/11 14:01
>>576
秀忠は周囲からは変えることを勧められた時期もあったらしいが、
本人が別に今のままでかまわないと言ったそう。
他の連中も長年使ってる名前をあえて変えたがらなかったのでわ?
もし、力関係として「豊臣=徳川」の時期が長くて対立が続けば必要が
あるだろうけど、「豊臣>徳川」から「豊臣<徳川」が秀吉の死後
あっという間だったので、こだわる必要性が薄かったのかも。
580日本@名無史さん:02/02/11 14:01
んなわけないだろ。無知め。
そんなこともしらずに議論してんのか。頼房のこと。
581日本@名無史さん:02/02/11 14:02
≫577
というより、家康は社員を引き抜いて別会社を作ったということでしょう。
そして、最終的に元いた会社を倒産に追い込んだ、ということかな。
582日本@名無史さん:02/02/11 14:04
>>580
じゃあ、だれの「頼」なんだよ?
無知でないなら答えてみな!
583日本@名無史さん:02/02/11 14:07
>581
いつまで前の会社の役員を兼ねていたか?
584日本@名無史さん:02/02/11 14:08
>582
そんなの自分で調べろよ。
調べる脳はあるんだろ。そんな煽りで教えてもらえると思ってんのか
これを知らずに関が原から大坂の陣を語っていたとは驚き
585日本@名無史さん:02/02/11 14:12
>>584
な〜んだ、やっぱり答えられないのか。
ただの恥さらし野郎か。
とっとと消えな!
586日本@名無史さん:02/02/11 14:14
>585
おまえってプライドないの?(藁
所詮匿名掲示板だし、後で知ってからまるではじめから知ってたかの
ような顔して平気で書き込みすんだろ。それとも永遠に無知なままか
587日本@名無史さん:02/02/11 14:18
両方ともくだらないからやめてくれ
588日本@名無史さん:02/02/11 14:19
両方ともって・・・(ぷ
589日本@名無史さん:02/02/11 14:26
>>585
おまえがそうだからといって
みんながそうだと思うあたり
無知を通り越してまさに無能だね。(藁
590日本@名無史さん:02/02/11 14:27
>>587
知ってるなら教えてやれよ。知ってるならな。
そうすれば終わると思うぞ(藁
それともおまえって・・・まさかーーーー
本当に恥ずかしいやつ。
591日本@名無史さん:02/02/11 14:28
>>575
源頼朝にあやかってつけたという話だよ。
また義宣は源義家から。

592日本@名無史さん:02/02/11 14:28
>586
頼房の「頼」の字は秀頼の「頼」の字ですが、それが何か?
593日本@名無史さん:02/02/11 14:30
ソース出れば決着つくね
594日本@名無史さん:02/02/11 14:31
せっかく良い感じで盛り上がってるんだから暴言はやめようぜ。
別に初心者から研究者までいろんな人が参加してて良いじゃないか。
595日本@名無史さん:02/02/11 14:32
頼朝と義家
って「葵 徳川三代」でいってたね。
あのドラマ結構考証良かったから
それであってると思う。
596日本@名無史さん:02/02/11 14:34
秀吉存命時からの決め事とは言え
秀忠の娘を秀頼に嫁がせたことはどう考える?
597日本@名無史さん:02/02/11 14:36
秀吉恩顧の大名に配慮したから。
598日本@名無史さん:02/02/11 14:38
>595
大河ドラマがソース?
599日本@名無史さん:02/02/11 14:41
>>569
まあ、順序とすれば順当でしょう。
家康の娘も結構トンデモナイとこに嫁いでるし、
子息の扱い見ても、それ程、子供に情の深いタイプじゃなさそうだし。
600日本@名無史さん:02/02/11 14:46
>>598
「葵」は結構イミナにこだわってた。
同じジェームス三木脚本の「吉宗」も。

例えば
家康の「康」は祖父の清康の「康」
秀忠の「忠」は祖父の広忠の「忠」

ジェームス三木は名前ヲタだな。
601日本@名無史さん:02/02/11 14:49
>>599
とんでもないところって?
602日本@名無史さん:02/02/11 15:25


関ヶ原合戦後の領地配分についての議論は250−320ですでに充分やっている。
あとから参加した人は、いちおうこのスレに検索をかけて、問題が既出かどうか確かめてくれ。
そうでないと、またもとのレベルまで引き戻されて、どうどうめぐりをやるハメになってしまう。
同じ問題をもう一度論じたいのなら、前回に出された議論をふまえて、
それをさらに前進させていくような議論をやって欲しい。お願いだ。
603日本@名無史さん:02/02/11 16:10
>>599
奥平とか?w
まあ、当時としては重要なポイントなんだろうけど。
604日本@名無史さん:02/02/11 16:21
>>602
あの豊臣家蚊帳の外で徳川家が贔屓されたかってやつは、
今回の話題とあまり関係ないと思われ(w
605日本@名無史さん:02/02/11 19:35
そんなにとんでもなくないぞ?
家康の実の娘は3人

長女 奥平
次女 北条(池田)
三女 蒲生(浅野)

奥平は確か信長の命令だったような。
蒲生、池田は秀吉の命令だったような。
606日本@名無史さん:02/02/11 19:41
で、浅野は38歳で押し付け女房だし。
607日本@名無しさん:02/02/11 19:49
>>606
しっかり子供を産んでいるところはご立派。
608日本@名無史さん:02/02/11 20:15
>>607
でも一人産んで死んでるね。
609日本@名無史さん:02/02/11 21:07
>>607
長晟が必死だったんだろう。
子を生さねばかなりの確率で浅野家アボーンだから。
610日本@名無史さん:02/02/11 22:31
家康の娘ってブサイコだろうな(想像
611日本@名無史さん:02/02/11 23:08
再婚を相当嫌がってたらしいね。
で、ケコーンして1年で子供生んで死んじゃう。お気の毒に。
612日本@名無史さん:02/02/11 23:23
その子孫が刃傷沙汰起こして赤穂藩をあぼーんさせるんだから皮肉なもんだ。
613日本@名無史さん:02/02/11 23:30
家康の娘は怖いやつばかりだね。
長女は宇都宮釣天井の原因作った人だし、次女は再嫁先で先妻の息子
を毒殺し、三女もきつい人だったらしいし。
614日本@名無史さん:02/02/11 23:31
>>612 赤穂藩は振姫の子孫ではない。
615日本@名無史さん:02/02/11 23:37
>>613
 なぜか家康の身内の女ってきついのばっかりだよな。
616日本@名無史さん:02/02/11 23:41
ていうか、振姫って蒲生秀行との間に男子2人いたよね。
息子がちゃんと60万石の大名として存在してるのに、嫁がされるってなんか強引過ぎるような
617       :02/02/11 23:42
豊臣秀頼の政治運営機構が見えないということが言われているが、それなら徳川の方に
この時期、どんなまともな政治運営機構があるのかと問いたい。特に全国支配の分野でだ。
家康のよこで本多正信や正純がごそごそやってくらいが、せきの山ではないか。そこに天海だの崇伝だの三浦按針だの
わけのわからない連中が、そのときどきの用事に応じてなんやかやとやっているわけだ。
徳川幕府が強力なのは、家康というカリスマ的求心力があるからで、これで全国の大名たちは
幕府に服従しているにすぎないのだ。べつに徳川家に服従せねばならぬ必要なぞはどこにもないのだ。

618日本@名無史さん :02/02/11 23:42
>>615
あそこのしまりが?と突っ込み
619日本@名無史さん:02/02/11 23:45
>618
くだらんこと言うとらんと、まじめに論争せい!!
620日本@名無史さん:02/02/11 23:46
>>616
 夫の死後、10歳の息子の後見として実権を握ろうとするものの、
筆頭家老の岡半兵衛(重正?)と対立。
 家康に頼んで岡半兵衛を始末したものの、おそらく喧嘩両成敗で
息子たちと引き離されたのではないかと。
 ちなみにこの岡半兵衛の妻はなぜか石田三成の次女。
621日本@名無史さん:02/02/11 23:49
>>612
浅野長晟は先妻がいて、嫡子もいたのに、家康の孫の方を後継にしたわけ。
だから嫡子が赤穂藩だった気がする。
他大名もそうしてるね。たとえ養女であっても徳川系の人を後継にしている。
それを考えると池田氏は家康の孫を後継にしなかったんだよね。
勇気あるなあ。
622日本@名無史さん:02/02/11 23:49
>>617
家康亡き後徳川幕府は崩壊してないけど・・・。
623日本@名無史さん:02/02/12 00:05
婚姻っていうのはかなり重要だね。
関が原から大坂の陣までに全国の主要な大名はほとんど徳川家の
いわば親戚になってるわけだから。養女が大半でも。
624日本@名無史さん:02/02/12 00:14
>>617
初期の江戸幕府の政権安定には、本多親子ら家康下の人間たちより、
むしろ、土井利勝・青山忠俊・酒井忠世など秀忠の幕僚たちの貢献が大きい。
特に、利勝はこの時期既に秀忠の側近中の側近で、西国大名である
黒田家が船舶に関する禁令違反を治めたりしている。
家康が巨大なカリスマだったことは否定しないが、江戸幕府=家康という
考えには甚だ疑問。
625日本@名無史さん:02/02/12 00:21
浅野ってよく潰されなかったな。
626日本@名無史さん:02/02/12 00:34
>622
豊臣が無くなってるからだろうよ
627日本@名無史さん:02/02/12 00:40
>624
秀忠とその側近たちの役割は、幕臣や幕府領の支配を担当しており、
全国支配の方は家康の仕事だ。まだ土井利勝の出る幕ではないだろう。
628日本@名無史さん:02/02/12 00:48
>>627
利勝は慶長10年に大炊頭となってから、既に幕府の中枢を担っていて、
同15年には老中に就任している。
この間の業績には、幕臣や幕府領だけでなく、前述の黒田家の船舶問題
のように全国の大名たちへの令の取り締まりや処罰にも行っている。
同19年に大阪の陣が始まるわけだが、この時期既に秀忠とその幕僚による
全国の大名達への統括は始まっているよ。
629日本@名無史さん:02/02/12 00:57
鐘名問題のような口実で豊臣を滅ぼしにかかったのは、つまるところ豊臣秀頼の存在を
それだけ恐れていたからに他ならないということだろう。家康は、自分という存在が消えてしまったら、
徳川幕府の行く末が危ういということを自覚していたからこそ、自分の存命のうちに、
しゃにむに豊臣つぶしに走ったのだ。
630日本@名無史さん:02/02/12 01:01
念には念を入れただけだろ。
631日本@名無史さん:02/02/12 01:05
大坂陣時に江戸に留め置かれた大名

黒田長政
福島正則
加藤嘉明
632日本@名無史さん:02/02/12 01:13
>>629
まあ、いくら現状が絶対優勢でも豊臣家の前政権としてのカリスマは
残ってたわけだし、これは勢力比に関係無く潰せるもんだったら
潰したかったと思うよ。
家康は源頼朝信仰が強かったらしいし、源氏壊滅状態に妥協して
頼朝を生かしたために、自分の死後に一門を滅ぼされた平清盛の
ことが重ね合わさていたと思われ。
633日本@名無史さん:02/02/12 01:50

家康ぬきで徳川幕府がじゅうぶんに安定しており、豊臣家がいっかいの大名にすぎないのであれば
大坂の陣のような手荒なまねは必要なかっただろう。
しかも、その討伐の口実が鐘銘問題というのは、いかにも無理という感はいなめないであろう。
無理であれ、非道であれ、家康としては豊臣を残して、他界することはできなかったということだろう。
634日本@名無史さん:02/02/12 01:52
>>632
石田三成も頼朝が好きで、「源平盛衰記」を愛読していた。
関ヶ原で切腹しなかったのは「富士川の戦いの頼朝」に重ねてた。
司馬遼の「関ヶ原」がソースだから、
フィクションかもしれないけどね。

このスレとは関係ないからsage
635日本@名無史さん:02/02/12 02:01
>>634
ちょと以外っすね。
オヤビンの秀吉は「頼朝は源氏の棟梁からの天下人、自分のが偉大だ」
みたいなことを言ってたって話なのに。
家康は晩年吾妻鏡を愛読してらしいです。
こちらは鎌倉と近いし、東国に幕府を築く手本にしたのかと。
って、おれもsageで。
636日本@名無史さん:02/02/12 02:07
>634
「富士川の戦い」?
「石橋山の戦い」だろう!
637日本@名無史さん:02/02/12 02:14
>>635
オレの記憶だと、
「同じ卑賎の身から天下を取ったのは、ワシとそなただけ。
しかしそなたは源氏という血筋があるだけマシ」
と鶴ヶ丘八幡宮の頼朝像の肩をたたきながらいったそうな。
秀吉自身も頼朝に重ね合わせてるけど、「オレのほうがすごい」
といってる。

>>634
三成の切腹前のエピソード、
「腹を下しているから、柿は食わん。
男子たるもの、最後まで命は惜しむもの。
今、大地震が起きればどうなるかわからない」
は最高にかっこいい、とオレは思うよ。

オレもsage
638634:02/02/12 02:17
>>636
ゴメン。ゴメン。
石橋山だ。
何を勘違いしてるんだろう。

逝ってくる。
639日本@名無史さん:02/02/12 06:55
≫617
それは家康が駿府で大御所政治を開始する慶長11年までのことをいっているのですか。
それとも大坂の陣までの経緯を含めていっているんでしょうか。御教示ください。
≫628
土井利勝は大炊助であり、大炊頭になるのはもっとあとだったと思うのですが。
ただし、土井利勝が大炊助から大炊頭になった正確な年次はつかんでいませんが。
≫629
まったく同感です。秀頼が一大名に転落していたのであれば、のちの福島正則のように
改易すればすむことで、難癖をつけて戦争にもちこむことはなかったでしょう。
そのあたりに家康の豊臣家滅亡への執念がうかがえます。
640日本@名無史さん:02/02/12 08:56
>>639
相手が素直に従わなければ改易は無理でしょう。
改易を拒否すれば当然戦争となる。
それだけのこと。

641日本@名無史さん:02/02/12 11:26
>>639
土井利勝が大炊助になったのは慶長8年で、家康が征夷大将軍に就任
した年、大炊頭となったのは秀忠が2代将軍となった慶長10年で
同時にこの年には小見川1万石の大名になってます。
そして、老中となったのが慶長15年で佐倉3万2400石に封ぜられています。
ソースは「土井家譜」「諸侯年表」から。
642日本@名無史さん:02/02/12 19:33
≫641
御教示ありがとうございました。勉強させていただきました。
643【^▽^】関東侍ジョーカー:02/02/12 19:47
秀吉が頼朝を尊敬していたのは事実。
当時の武士は大抵が頼朝崇拝者。
644日本@名無史さん:02/02/13 01:50
>>640
豊臣討伐のためには、徳川全軍のほかに、全国の大名を総動員しなければならなかったわけだろうが。
そこにすでに並の大名とは異なる、豊臣家と秀頼の存在の強大さが表現されていると思われ。
645日本@名無史さん:02/02/13 02:26
>641
幕府の老中制度が確立するのは、三代将軍家光の寛永10年以降のことと言われている。このころは
「年寄」と呼ばれている連中が何人かいて、あれこれ随時に仕事をしているような状態だということだ。

そこで一つ問題を考えてみたいのだが、慶長年間に幕府にほんとうに、豊臣家と格段に違う、まっとうな政治運営機構など
あるのか大いに疑問なのだ。家康ぬきでも、全国の諸大名を統制し、全国支配を安定して運営できるような
政治機構の実態を示してもらいたい。土井利勝の活動もふくめて、ぜひ事例をあげてもらいたい。ソースもいっしょに。
646日本@名無史さん:02/02/13 03:46
≫644
改易と討伐の根本的な違いは、討伐の場合、秀頼の殺害を正当化できる
点にあり、余命があまりない家康にはそういう目的があったということ
でしょうか。2代将軍の秀忠は周知のように生涯一度も目立った軍功が
なかった戦争オンチであり、家康は自分の生きている間に戦争で決着を
つけたかったのでしょう。そうしないと、家康の死後、西国大名が秀頼
をかつぎあげて武力蜂起する危険もあったわけですから。
647日本@名無史さん:02/02/13 03:56
≫645
617の御指摘とともに鋭い視点と思いますが、慶長年間というのは慶長20年
も含めて、ということでしょうか。また、「家康ぬきでも」というのは家康
というカリスマを除外した江戸の将軍政権の機構運営の具体例を挙げよ
という意味でよいのでしょうか。
648日本@名無史さん:02/02/13 05:26
>647
くわしく言いますと、慶長16年の秀頼・家康の二条城会見の前と後とで状況が変わるので
時期を区別して考えなければならないでしょうが、この際そのことは抜きにして、
とりあえず慶長年間について、幕府の政治運営機構(全国支配の分野での)とは何かということを検討する必要があります。
慶長20年も含めてということでも構わないと思います。

649       :02/02/14 03:38
1603年(慶長8年)に徳川幕府が成立したと、年表にも、歴史の本にも書いてある。
そうすると、何か壮大で堅固な政府機構が歴史上に登場したという印象をもつことになる。
しかしそれは錯覚なのだ。
実際に起こっていることは、徳川家康が朝廷から征夷大将軍という
称号をもらったというだけのことなのだ。単に名前だけのことでしかない。
豊臣秀頼の権威は名前だけのものでしかないという意見が多く出されているが、
将軍家康と幕府の存在とても、名前だけのものでしかないのだ。
もっとも、名前だからといってバカにしてはならず、
名前それ自体に人と社会を支配する力のあることを見落としてはならないのだが。


650ななしさん ◆9nBGVxsM :02/02/14 06:18
┌──┐                       ______________
  │掠疾│          |^E)          /
  │如如\∧|_ヘ /  / /  ∧ノノノ      │この板に いまだ来ざりき 
  │火風../ \◆ノゝ ./ / ミ/ ・ ・ヽ    < 我が軍団 今ぞ初陣
  │不徐.三√´Д`)/ / ミ/    //ヽ    │  飾りてくれむ
  │動如≡|゚ 〒 ゚| _ノミミ/    _//____)    .\
  │如林 | 三三 / ミミ/    /  ̄           ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  │山侵\\ = |  ミ/    /
  └――l\つ ソ__/    ヽ  
       /三/ ヽ_ノ\     \
 ミミミ/ ̄| ̄\ゞ\::::::|    ___.\
    |   .|___/ ./:::::::|   .\ .\\
    |     (  ヾ ̄ ̄  /\\ .ヽ )
    |     .ヽ___)______/   ヽ ) / /
    \   /~  ヽ       / / |::::] 
      ヽ   |\  _|      |:::::]    
       ヽ | .| ./
       / / ././
       / / |::::]
      |::::::]




651日本@名無史さん:02/02/14 11:46
>>649
関が原の直後、徳川家康は大久保長安を石見銀山に送り込んでいる
この事実をどのように判断するのか
それに豊臣家の金城湯池ともいうべき近江を徳川家臣に封じている
結果的には徳川家康の天下取りは「関が原」に勝利したことで不動のものとなった
豊臣家は全国各地の蔵入地を没収され、摂河泉のみを統治する1大名になった
652日本@名無史さん:02/02/14 11:59
>>651
ガイシュツならスマソ!
以前から不思議だったことがある。
たしか、豊臣家の蔵入地は220万石程度あったと思うが
家康はどのようにしてそれを奪っていったのか?
豊臣家はなぜそれを許したのか?
この議題ではその辺の経緯も重要ではないのかと思われ。
653>652:02/02/14 12:17
淀殿の脱糞姿を盗撮したからだよ。
さすがの淀殿もこれは黙らざるを得なかった。
654日本@名無史さん:02/02/14 13:26
>>652
奪ったというより「関が原」の論功行賞で、徳川家臣や東軍派大名に領地を封じ、
その結果、徳川自身が太り、豊臣家の蔵入地が消滅してしまった。
秀頼の名代として、徳川家康が領地を封じたことによって、権力が家康に移行したと私は考えている。
これは織田家の武将たちに、秀吉が領地を封じたり、安堵した結果、権力の移譲が起こったことと同じ。
領地を封じた人間に覇権がなければ(足利義昭みたいに)、人間は武力を持ち、覇権を誇る人間に権力を
求める。
脆弱とはいえ、一旦、秀吉が築き上げた中央権力の威力は、当時の大名や武将にとって領地を治めるのに好都合
だったのでしょう。
当時、世界一の産出量を誇った石見銀山を収用したことが、徳川家康が豊臣家を圧倒する源にも
なったことでしょう。
家康は、信長・秀吉が果たせなかった「通貨統一」という大権力者に成り上がれたのですから。
655日本@名無史さん:02/02/14 13:56
家康はどのような名分で豊臣家の蔵入地を奪えたのか。
名分は必要でしょ?
656日本@名無史さん:02/02/14 14:11
東軍の大名に加増した。
657日本@名無史さん:02/02/14 14:16
>>655
関が原の合戦自体が、「豊臣家臣団の内戦」だからね。
豊臣家としても「奸臣を取り除いた」って立場をとらざるを得ないから
「褒賞」として蔵入地を与えたものと思われ。
658日本@名無史さん:02/02/14 15:08
なんか議論がかみあっていない気がする。そもそも笠谷氏が提起
した二重公儀って徳川と豊臣の権力が拮抗していた、なんて言って
ないでしょ。徳川に権力移行したことを前提に論じていた、と思う
んだけど。たしかに二重公儀というネーミングからそのように連想
する人がいるのかもしれないけど。笠谷氏が論及していたのは
徳川に権力が移行した〓豊臣は一大名に転落した、という通説への
反論だったはず。逆に言うと、豊臣がいつから一大名に転落したのか
という年次の特定やその論拠(徳川と豊臣の封建的な主従関係を示す
史料的根拠)を示すべきなんじゃないかな。権力機構という点では
家康が将軍になったあとは豊臣は家政機関しかなかったような感じが
しているが。
659       :02/02/14 15:14
全国に散在する豊臣直轄領(いっぱんに「太閤蔵入地」と呼ばれている)の
ゆくえは重要と思われ。
ただし笠谷氏の『関ヶ原合戦』によると、慶長九年に讃岐国にある太閤蔵入地の
年貢収支について、淀殿が関与している史料が出されているので、
この問題も一筋縄ではいかないようだ。
660日本@名無史さん:02/02/14 15:23
>658
いま問題となっているのは、豊臣の家政機関のことではなく、
徳川幕府にどれだけ、全国支配を行ううえで必要な政務運営機構が
整っているのかを考えるところにあると思う。
それで直轄領のこととか、「通貨統一」の問題があがっているのだろう。
>651
豊臣が摂津・河内・和泉の一大名に転落したという発言は
控えたほうがよいと思う。なぜなら、いまその発言内容が
正しいのか、間違っているのかを議論しているところだから。
661日本@名無史さん:02/02/14 15:27
>>629
何を今さら力説してんだよ。
既出だよ。
それともっとうまく改行してくれ。
662日本@名無史さん:02/02/14 15:45
豊臣が摂河泉の一大名に転落したと考えている人はそのように
いっても構わないと思うけど、一大名に転落した時期とその根拠
(このことは同時に笠谷氏が提示した根拠を否定することになる)
を先に明示するべきじゃないかな。そうしないと議論が深まって
いかないと思う。
663日本@名無史さん:02/02/14 16:25
返々秀より事

  たのミ申候、五人のしゆたのミ申上候ゝゝ、
  いさい五人の物ニ申わたし候、
  なこりおしく候、以上
  秀より事なりたち候やうに、
  此かきつけ之しゆとしてたのミ申候、
  なに事も、此ほかにわおもひのこす事なく候、
  かしく

  八月五日     秀吉 御判

   いへやす
   ちくせん
   てるもと
   かけかつ
   秀いへ 

    まいる

秀吉が後事を託した五大老で残ったのは、結局、徳川家康のみ
名目上も、実質上も、彼が大名や武将たちの封地を決定できる権限を持ち得た

更に征夷大将軍を拝したことは、武門の棟梁として朝廷から認められたことになる。
徳川幕府の統治機構は、三河以来の老中、若年寄、という組織をそのまま踏襲している。
664日本@名無史さん:02/02/14 17:28
加藤清正死去後の肥後国内の領国経営について、慶長17年6月27日付で
発給された加藤氏重臣宛の下知状(「武家厳制録」)は、青山図書助、
土井大炊頭、酒井雅楽頭、本多佐渡守の連署で出されている。
これなどは西国外様大名に対する明白な幕府の統制を示す史料である。
665日本@名無史さん:02/02/15 09:36
今更ながら質問していいですか?
五大老、五奉行って当時からそう呼ばれていたの?
それぞれが豊臣政権下で受け持つ仕事というか、
職務の分担ってどんなかんじだったのでしょうか?
666日本@名無史さん:02/02/15 13:01
>>665
確か、五大老は「御奉行衆」で五奉行が「年寄衆」だったはず。
間違ってたらスマソ
667日本@名無史さん:02/02/17 00:45
>664
それなどは大事な史料だろうね。こういうものをたくさん集めていかないと
正しい議論はできないと思う。ただし前に言われていたかも知れないけれど
これは家康と秀頼の二条城の会見より後の史料だよね。それ以前のものはないの?
668日本@名無史さん:02/02/19 01:58
667
反応ないね。無いんじゃないの
669  :02/02/19 02:19
広末涼子は最高だよ
670日本@名無史さん:02/02/19 04:12
>>669
こんな資料しかないんか?!(藁
671もし、:02/02/19 06:04
徳川家康が、大坂の陣まで寿命が持たなかった場合、
秀忠を放逐して
冷遇した結城秀康や
武田信吉
あるいは、
伊達の娘婿松平忠輝などの
優秀な息子らがいるじゃん。
秀忠の力量が凡庸なのはしれたこと。
ただ、治世の才で買われた、
逆にいえば、いよいよやばいとなれば、
秀忠を粛正して
他の息子らに家督相続させる手もあるんじゃないの。
結城秀康なら、秀頼とも親しいので、徳川存続はありえるし・・・。
家康にきらわれているけどね。
まあ梅毒だけどねー。
親父に嫌われているのは
忠輝もそうだけどね・・・・
672日本@名無史さん:02/02/19 06:28
家康の家臣団は結城秀康にはついていかん。
673日本@名無史さん:02/02/19 13:51
>>672
なんで?
古参の家臣団の中ではむしろこっちを押す声のが強かったらしいのに、
特に関ヶ原の直後は。
674502:02/02/19 17:10
笠谷説が何なのか知りたい人は、ひとまずここを参照。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1007377692/l50
675674:02/02/19 17:10
>>674
スレ違いでした、逝ってくる。
676日本@名無史さん:02/02/19 17:32
674
ナンノコッチャ わからんぞ!!
677674:02/02/19 17:41
>>676
だから書くスレ間違えたって書いただろ。
死者にむち打つサディストめ。
678日本@名無史さん:02/02/20 01:56
664と667のやりとりはどうなったんじゃい?
664が返答せんと前へ進まんぞ
679日本@名無史さん:02/02/21 03:49
誰か664を助けてやらんかw
680日本@名無史さん:02/02/22 01:49
664問題はかなり深刻になっているように思われ
はたして解決可能か
681日本@名無史さん:02/02/23 00:16
664
デッド・ロックか!!
682日本@名無史さん:02/02/23 15:34
固まってしまったようだ。
だれかどうにかできないのか・・・
683日本@名無史さん:02/02/23 16:31
ようするに、二条城会見以前では
家康や幕府が、西国大名の内政に干渉しているような資料は
無いということなのだろう
684日本@名無史さん:02/02/23 17:36
一般的見解として慶長期の幕府政治は駿府の大御所政治と江戸の将軍政治
にわかれており、それぞれ家康が西国、秀忠が東国と分担していたので
江戸の将軍政権の年寄衆が西国大名の内政干渉をした史料はさがしてもない
だろう。それよりも、家康と西国大名の改易の事例に着目して、例えば伊賀
上野の筒井定次の改易などの事例において家康がどのように関与したか、など
を調べた方が有効なのではないか。改易事例の詳細を追っていくと、家康が
巧妙に関与したケースがあるはずで、そうした点からアプローチするほうが
わかりやすい。

685日本@名無史さん:02/02/23 17:45
西国大名の改易に家康の巧妙な意図が働いていたことを
検証できれば、それも立派な内政干渉であろう。
686日本@名無史さん:02/02/23 17:49
あるいは、慶長年間に家康が西国大名の家中騒動をどのように
裁決したか調べればよいのではないか。そうした裁決は家康
サイドに有利に裁決したはずで、大坂の陣への伏線として西
国大名対策の背景がうかがえるはず。
687日本@名無史さん:02/02/23 17:52
二重公儀との関連でいうと、徳川公儀が豊臣公儀を駆逐していく
時代的段階が西国大名の改易とリンクしているはずなので
そうした意味でも調べる意味はある。
688日本@名無史さん:02/02/23 18:24
前の方にも出てたけど、黒田家が幕府の令を破って千石積みの大船を
作ったのを船出奉行向井将監が土井利勝に報告したが、
長政の関ヶ原での功を考えて、あえて咎めなかったって話はあるみたいだね。
一応、長政生前の話で。
俺のソースは歴史群像なんでアレだけど(w
689日本@名無史さん:02/02/23 21:14

議論の筋が少しズレているように思う。
家康が西国大名の内政に干渉したかどうかは、
いま問題となっている議論の筋ではない。
家康が、秀頼の政務代理者であることは
秀吉の臨終のときから認められているのだから、
家康が西国大名の内政に干渉することは問題とはならない。

問題は、そのような内政干渉も含めて、全国支配を
持続的かつ有効に運営するような政務機構なるものが
はたして家康の下に存在しているか否かということなのだ。
豊臣家に比べて、格段に強力な制度というものが
本当に家康の下にあるかどうかということが問題になっていると思う。
690日本@名無史さん:02/02/23 21:31
家康というより、秀忠幕府下の官僚の土井利勝にってとこが、
結構ポイントだと思うよ。
691日本@名無史さん:02/02/23 21:34
当該期における幕府の機構の存否を史料的に跡付けようとする
問題提起の趣旨は理解できるが、通説的理解では、福島貴美子
氏の論文「江戸幕府初期の政治制度について」(『論集日本歴史7』     
有精堂)において「家康を中心に個人的に結ばれたものであるから
組織化はされておらず、典型的な家政的政権」だったという点に
集約されるのではないか。つまり、家康の駿府政権というのは
典型的なブレーン政治であり、そうしたブレーンなどの側近連中
をとりまとめて仕切っていたのが本多正純だったことは周知であろう。
だから、当時の幕府が機構として未整備だった(もつとも何をもって
機構というかも問題だが)という点は自明であり、二重公儀の問題
(本質的理解)とどうリンクするのかがいまいち理解できないのだが。
692日本@名無史さん:02/02/23 21:55
≫689
当時の家康のもとに全国支配を継続的に運営できる政務機構が
なかったとしても、当時の政治の運営方式が家康と大名の個別の
統制関係に立脚していたとすると、機構の有無は問題とはならない
のではないか。なにしろ武家諸法度がでるのも元和元年であるし、
機構や法の整備という点では元和以降というのは周知のところでは
ないのか。豊臣と徳川の権力比を考える場合、ブレーン政治でもよいから
最終的に豊臣公儀を戦争という最終手段により抹殺した家康の政略の勝利
であって政治の形態に拘泥する必要はないのでは?
693日本@名無史さん:02/02/24 00:45
>690
この数日間のやり取りを見とらんかったのか?! そんなものがまったく存在しとらんということを

>692
二重公儀説の議論に対して、豊臣にはロクな政治機構が存在していないから、豊臣公儀など存在しないという意見があった。
それに対して、では徳川には、全国支配を保障できるような政治機構なぞ存在したのか?という反論があったので、この政治機構の有無をめぐる問題をやっているわけだ。
だいたい決着はついたようだが。

694          :02/02/24 02:20
そうなると家康と幕府に残された手がかりは、
もう「通貨統一」ぐらいしかないということになるのだけれども、
これも実は最近の研究で否定されている。
加賀の前田、秋田の佐竹、長州の毛利、といった藩領では
独自の金銀通貨が流通していた。
さらに、津軽・会津・米沢・越後・土佐・播磨・豊後・日向といった諸地方でも
独自の「領国貨幣」が流通していたことが確認されている。
幕府の三貨制度というのは公式通貨としての通用性はあったけれども、
全国の通貨を統一していたわけではない。
幕府通貨が全国の通貨制度を統一するのは、
元禄のいわゆる荻原重秀の悪貨乱発政策の効果によって、
ようやく達成されるということだ。
695日本@名無史さん:02/02/24 06:06
≫693
ということは今後の議論の展開の方向は、豊臣公儀の実態解明へ向かうわけですか。
696          :02/02/24 14:49
この問題は笠谷氏の『関ヶ原合戦』や『関ヶ原合戦四百年の謎』に
詳しい議論が書かれているが、それを検討するということになるのだろうか
697日本@名無史さん:02/02/24 16:19
1.関ヶ原合戦ののち、豊臣家と秀頼は一大名に転落した。
2.慶長10年に家康は将軍職を息子の秀忠に譲った。これで豊臣政権の目はなくなった。
3.慶長16年の二条城会見で、秀頼は家康に臣従した。
ここらが、これまでの通説の基本だろう。
これがどう変わっていくかだな。
698日本@名無史さん:02/02/24 17:54
≫697
1の点については、秀頼が一大名に転落したと考える通説派は、家康と秀頼との間に
封建的主従関係が成立していたことを史料的に示す必要があるのではないか。
笠谷説では逆に豊臣秀頼の公儀性を示す事例を提示している。
2の点に関連する部分では、慶長11年の江戸城普請に秀頼が公儀普請奉行を出している点を
笠谷氏は指摘している。この説は白峰氏の論文の論点を引用する形で述べられている
が重要な点は慶長10年以降も依然として豊臣公儀の実在性が論証できた点にある。
3の二条城の会見に関する見解は豊臣公儀の肯定派と否定派で見解が大きく異なっている
点は周知である。
699日本@名無史さん:02/02/24 18:30
≫697
その他に論点として付け加えると、豊臣公儀の終焉期をどのように考える
のかという点も重要だろう。例えば、二重公儀体制のまま大坂の陣へ至る
のか、あるいは、慶長16年の二条城会見により徳川公儀が豊臣公儀を吸収
する形になるのか、などの点を確定する作業も必要であろう。
700日本@名無史さん:02/02/24 22:06
関ヶ原合戦で豊臣家と秀頼が一大名に転落したという見方が成立しないという点は、
これまでの議論の流れとして、だいたい認められるのではないかな。
豊臣家と秀頼が一大名というのでは、説明できない矛盾点が次々に明らかにされているからだ。
それでは豊臣公儀の存在が、どのように展開していくかという点が問題となる。
慶長16年の二条城会見が、やはり一つの画期をなしていると思う。
つまり、これを境にして幕府が西国の豊臣大名の内政に干渉するような事例も見られてくるからだ。
しかしこの二条城会見で、豊臣公儀は消滅したかというと、それは疑問だ。
このスレでもさんざん議論してきたように、二条城会見は家康に対する秀頼の臣従の儀式ではなかったからだ。
あくまでも秀頼が上座で、家康が下座というのが、この会見のおりの基本の形であった。
それを秀頼がへりくだって家康に上座を譲って、家康に敬意を表したというのが事実であった。
それは臣従とは別物であろう。
701日本@名無史さん:02/02/24 22:09
>>700
>このスレでもさんざん議論してきたように、二条城会見は家康に対する秀頼の臣従の儀式ではなかったからだ。

家康は秀頼を臣従させるというより、天皇のようにかざりものにしようとしただけではないでしょうか。
702日本@名無史さん:02/02/25 01:51
>701
天皇は上に奉って敬っても、軍事力というものを持たないから、
政権にとって脅威となることはない。
しかし、豊臣秀頼には強大な軍事力がある。直轄軍事力だけでも、
大坂の陣で幕府軍だけでなく全国の諸大名を総動員した軍事力に対峙した。
これに加藤清正、福島正則、浅野幸長といった豊臣恩顧の武将たちの
軍事力を合わせた総軍事力は、徳川幕府の軍事力を上回ることも考えられる。
お飾りで済むような、生やさしい問題ではないだろう。
703日本@名無史さん:02/02/25 02:12
≫702
これまでの議論の流れを考慮すると今後の論点としては
大坂の陣の歴史的性格の見直し、つまり、幕府と一大名の
戦争ではなく、徳川公儀と豊臣公儀のいわば公儀と公儀の
戦争だった、という従来の見解に対する見直しをおこなう
ことになるのでしょうか。また、加藤清正や浅野幸長は
大坂の陣当時すでに故人でしたが、福島正則は在生していた
わけで、こうした豊臣恩顧の大名が豊臣に味方しなかった
点の明快な説明も必要と思うのですが。
704日本@名無史さん:02/02/25 02:38
>>703
福島正則は軟禁されていましたが…。
705日本@名無史さん:02/02/25 03:06
逆に言えば、豊臣が一大名に転落していたならば、
大坂の陣は必要なかったということでしょう。
あのような天下の諸大名を総動員したような大戦争は
そして鐘銘問題のような事柄を口実とした大戦争は
706日本@名無史さん:02/02/25 03:46
≫705
そうですよね。これまでの通説(日本史の教科書的記述も含めて)
がどうしてこの点を指摘ないしは説明してこなかったのが不思議
ですよね。
707日本@名無史さん:02/02/25 07:47
関ヶ原以後、豊臣が一大名に転落したっていうのはこれまでの歴史教育
におけるステレオタイプ的な説明だったわけだけど、冷静に考えると何か
おかしいというか矛盾する点があるって、笠谷氏以前の歴史学者はだれも
気付かなかったのかな?豊臣一大名転落説のルーツをたどると案外、徳川
史観のイデオローグが書いた『徳川実紀』までさかのぼったりして。
708日本@名無史さん:02/02/25 13:36
>>706
日本史の教科書読むと、大坂の陣以外にも
説明不足だと感じるところはいくらでもあるよ。
通説から脱することはかなり大変なことなわけだ。
709日本@名無史さん:02/02/25 16:21
笠谷氏以前には、朝尾直弘とか高木昭作といった歴史学者が、
それぞれ個別の問題について矛盾点のいくつかを指摘していた。
笠谷氏は関ヶ原合戦の軍事力構成をめぐって独自の見解を打ち出していたが、
その研究と先行の諸研究とを総合し、さらにいくつかの新事実を解明することによって
二重公儀説と名付けられている理論にまとめたというのが全体の研究動向ということができるだろう。
710日本@名無史さん:02/02/25 16:26
大坂の陣で味方しそうな豊臣恩顧の大名って?
711日本@名無史さん:02/02/25 16:56
≫709
現在の学界で笠谷説というのは他の多くの研究者の支持を得ているのですか?
それとも、笠谷説に反対の見解を述べる研究者もいるのでしょうか?
そして、笠谷説は今後、通説として認知されていくのでしょうか。
712日本@名無史さん:02/02/25 18:52
笠谷説に反対を唱える研究者はたくさんいます。
むしろ大勢は、旧説に従っているというのが現状です。
しかし新しい学説が登場するときというのは、いつもそうですから
多数決で見てみても意味はないでしょう。
この二重公儀説は学界における重要争点の一つとして、
論争のただ中にあると言ってよいでしよう。
この問題は、関ヶ原合戦の理解、大坂の陣の解釈だけにとどまらず
天皇制の問題や、幕藩体制そのものの理解にも連動していくテーマですから
これから、さまざまな分野で長く論じられていくことでしょう。
713日本@名無史さん:02/02/25 19:05
≫712
詳しい解説をいただきありがとうございました。これまでの議論の経過
を見てもわかるように、通説的理解では矛盾する部分があきらかになった
わけですから、今後、笠谷説の趣旨が学界で多くの支持を得ていくものと
確信しています。笠谷説に反対する研究者は上述の矛盾点に今後、どう
答えていくのか注視されます。
714日本@名無史さん:02/03/19 00:51
age
715日本@名無史さん:02/03/21 00:04
>>710

密かに人とか米を送ったのが毛利と島津
もう少し大阪が頑張ったら松平忠輝と一緒に
裏切りたかったのが伊達正宗
716日本@名無史さん:02/03/21 23:18
結論は出ないようだな。
 資料もそろえずに
  議論するのは
   無駄。

717日本@名無史さん:02/03/22 22:23
  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ( ・∀・) < 今更一大名に転落して無いと判ったところで大勢に影響ない。
 (    )   \__________
 | | |
 (__)_)
718日本@名無史さん:02/03/22 22:29
>>717
そりゃまあそうだが…
719日本@名無史さん:02/03/22 22:38
大阪の陣のとき家康はブレーンの坊主に
主人殺しの理論武装をさせているはず、
ゆえに、名目上の主従関係はあった。
720日本@名無史さん:02/03/22 23:25
  ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ( ・∀・) < そもそも秀頼は秀吉の子じゃないからね。
 (    )   \__________
 | | |
 (__)_)
721日本@名無史さん:02/03/22 23:31
>>720
そうだね。大野治長の子供に従う大名がいないのは自明の理
722日本@名無史さん:02/03/22 23:31
>>720
それはどっちでもいいんだよ。
秀吉が秀頼を実子として認知していたのは確実だから。
まあ秀吉にしてみればそう信じたかったんだろうけどね。
鳥羽院・崇徳院みたいに父親が認めてないのなら問題ありだけどね。
723日本@名無史さん:02/03/22 23:42
>>722
それは太閤が生きてる間は有効だけど、
死んだ後はやはり、秀吉の恩があればあるほど
それを裏切った淀殿と大野の子には忠義を尽くせないのと違うだろうか?
724722:02/03/22 23:48
>>723
秀吉の恩顧の武将達の感情的な問題ではそうでしょうね。
ただ正当性という観点から考えると、先代(つまり秀吉)が
認めてしまっている以上、他人が何を言ってもどう思っても
秀頼の正当性はゆるがない。だからこれを秀頼排除の表向きの
理由にはできない。
725日本@名無史さん:02/03/23 00:06
>>724
表向きにはでき無いとしても、大坂の陣であからさまに
徳川軍として豊臣家を滅ぼすことへの自責の念を抑える
理由には出来た事は想像に難くない。
726日本@名無史さん:02/03/23 00:16
>>725
 まあそんなとこだろうね。個人的な罪悪感を減らすためには
丁度いい口実だから。意図的に噂を広めるぐらいはやったかも。
人に言われずとも怪しいと思ってた人も多いだろうけど。
 徳川にとっては大いに利用価値のある噂ではあるでしょう。
ただし豊臣攻めの正式な理由は別に用意しなければならないけどね。
727日本@名無史さん:02/03/23 19:08
戊辰戦争時に何故慶喜は斬罪にならなかったのだ?
徳川家なんて、根絶やしにすればよかったのに。
728日本@名無史さん:02/03/23 19:24
豊臣恩顧の武将を定義せよ
729日本@名無史さん:02/03/23 19:39
秀吉によって大名に立てられた者、でいいんじゃないの。
旧織田系でも前田や堀のように豊臣時代になってから大大名になった連中は
豊臣恩顧と言ってもいいと思う。
730日本@名無史さん:02/03/23 20:10
織田有楽斎もそうですか?
731日本@名無史さん:02/03/23 23:39
関が原の論功行賞を家康がやったのがそもそもおかしい。
732日本@名無史さん:02/03/24 19:06
>>731
筆頭大老だからいいんじゃないの?
733日本@名無史さん:02/03/24 21:41
西軍の総帥が秀頼と同じ大坂城にいたことには触れないの?
734日本@名無史さん:02/03/28 23:05





735日本@名無史さん:02/03/30 19:26
あげんなぼけ
736日本@名無史さん:02/03/30 23:21
>735
オマエモナー
737日本@名無史さん:02/04/07 19:14
>>733
それを言うと毛利の悪行がばれるからsage!
738日本@名無史さん:02/04/23 06:57
すげー文体そっくりなやつの自作自演すごい!(・∀・)
たまにハンドル変えてたのが凝ってる
739日本@名無史さん:02/04/30 21:35
age
740伊達遠江守家中:02/05/09 14:45
>659
>全国に散在する豊臣直轄領(いっぱんに「太閤蔵入地」と呼ばれている)の
>ゆくえは重要と思われ。

遅レスでスマソ
江戸幕府の天領の支配方法と豊臣直轄領(摂河泉・都市・鉱山以外)の支配方法が
違うからだと聞いたことがある。
前者は、代官所を設けて代官が赴任して直接支配していた。
後者は、近隣の大名に支配を任せて年貢を送らせていた。
考え方としては江戸時代、会津松平家に預所となった時期のある南山御蔵入を想像
してもらったらどうか。
だから、何となくそこに新しく入ってきた大名の領地に繰り込まれてしまったので
はないかと思うのだが。
741伊達遠江守家中:02/05/16 05:56
>737
ばれるから、って現地でも吉川広家がバレバレな利敵行為しとるやん。(笑)
742日本@名無史さん:02/05/16 09:37
>>740
ほぼ、その通りだが補足。
豊臣蔵入地は秀吉存命の頃に堀尾吉晴(自信なし)だったかが、勝手に自分の家臣を豊臣蔵入地に入れて、
秀吉に叱咤される事件があった。秀吉存命の頃から、そんな事件があったので、豊臣蔵入地の危うさがわかる。
それで、秀吉・利家の死後、家康が勝手に豊臣蔵入地を諸大名に与えるとともに三成等の奉行派を意図的に挑発して、
関ヶ原を誘発させる原因となった。

しかし、加藤清正のように
「自領の豊臣蔵入地の分は自領の収穫を削ってでも、絶対に豊臣家に納入する」と宣言していた者も居るし、
また関ヶ原以降の豊臣蔵入地の存在があちこちで確認されていて、
豊臣家は単純に摂津・和泉・河内のうち62万石の一大名とはいえなくなってきた。
また、少し関係ないが福島正則は絶えず大阪に三万石の米を用意し豊臣家に何かあったら、
これを使うように申し出てたという。
743日本@名無史さん:02/05/17 02:32
豊臣家、頑張ったのにあぼーんされてカワイソウだね
744日本@名無史さん:02/05/25 01:02
http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/nihonsi-top.htm

こんなのあったよ。
745日本@名無史さん:02/06/04 23:05
age
746虎之助:02/06/05 10:45
そんなことより1よ、ちょいと聞いておくれよ。天下の行方とは関係ないけどさ。
昨日、大坂城に年賀の挨拶に行ったんです。秀頼君の顔見たくて。
そしたらなんか人がぜんぜんいなくて、だれも座ってなくて寒いくらいなんです。
で、よく見たらなんか秀頼君が泣きそうな顔して、お虎、秀頼を見捨てるな、とか言ってるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
秀頼様、この虎ごときにそんなお言葉、もったいなくて、泣いちまうじゃねーか、ボケが。
秀吉様のお子だよ、秀頼君は。
なんか大野や片桐とかもいるのに。側近揃っててこのざまか。おめでてー日だってのに。
よーし秀頼、虎の家の子になっちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
秀頼様、天下取ってやるから、しばしお待ちください。
豊臣家ってのはな、もっと燦然と輝いてるべきなんだよ。
千畳敷きの向かいに座った奴とは、遠くて誰だかもわからない。
秀吉公の話に笑いが起きる、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供だけの年賀なんて寂しいよ。
で、今度は伏見に挨拶に来たら、隣の藤堂が、上様おめでとうございます、とか言ってるんです。
そこで本気でぶち切れですよ。
あのな、上様は大坂におわす秀頼君だけだ。ボケが。
得意げな顔して何が、上様、だ。
お前は本当にたぬきを主君と思っているのかと問いたい。問い詰めたい。いや、切腹申しつけたい。
お前、所領が欲しいだけちゃうんかと。
豊臣家家臣の俺から言わせてもらえば今、豊臣家の間での最新流行はやっぱり、
討ち死に覚悟で二条城で秀頼様を守る、これだね。
それでなんとかお家だけは存続。これが最低限の家臣の道。
そこで家康が許せば秀頼様は大名として残る。そん代わり所領が少なめ。これ。
で、それに千姫様にお子(女で家光に嫁がす)。これ最強。
しかしここで秀頼様の評価が秀忠より高いとマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
本当はお薦め出来ない。
おい、佐吉よ、オレが間違ってたのか、あの世に行ったら教えてくれ。
747【^▽^】勤皇の志士ジョーカー:02/06/05 11:53
大野を殺せ!淀殿を軟禁せよ!
748司馬遼サイコー!:02/06/14 01:13
今朝、通学の電車の中で「城塞」を読み終えて、思わず涙してしまった・・
749日本@名無史さん
age