700 :
日本@名無史さん:02/02/24 22:06
関ヶ原合戦で豊臣家と秀頼が一大名に転落したという見方が成立しないという点は、
これまでの議論の流れとして、だいたい認められるのではないかな。
豊臣家と秀頼が一大名というのでは、説明できない矛盾点が次々に明らかにされているからだ。
それでは豊臣公儀の存在が、どのように展開していくかという点が問題となる。
慶長16年の二条城会見が、やはり一つの画期をなしていると思う。
つまり、これを境にして幕府が西国の豊臣大名の内政に干渉するような事例も見られてくるからだ。
しかしこの二条城会見で、豊臣公儀は消滅したかというと、それは疑問だ。
このスレでもさんざん議論してきたように、二条城会見は家康に対する秀頼の臣従の儀式ではなかったからだ。
あくまでも秀頼が上座で、家康が下座というのが、この会見のおりの基本の形であった。
それを秀頼がへりくだって家康に上座を譲って、家康に敬意を表したというのが事実であった。
それは臣従とは別物であろう。
701 :
日本@名無史さん:02/02/24 22:09
>>700 >このスレでもさんざん議論してきたように、二条城会見は家康に対する秀頼の臣従の儀式ではなかったからだ。
家康は秀頼を臣従させるというより、天皇のようにかざりものにしようとしただけではないでしょうか。
702 :
日本@名無史さん:02/02/25 01:51
>701
天皇は上に奉って敬っても、軍事力というものを持たないから、
政権にとって脅威となることはない。
しかし、豊臣秀頼には強大な軍事力がある。直轄軍事力だけでも、
大坂の陣で幕府軍だけでなく全国の諸大名を総動員した軍事力に対峙した。
これに加藤清正、福島正則、浅野幸長といった豊臣恩顧の武将たちの
軍事力を合わせた総軍事力は、徳川幕府の軍事力を上回ることも考えられる。
お飾りで済むような、生やさしい問題ではないだろう。
703 :
日本@名無史さん:02/02/25 02:12
≫702
これまでの議論の流れを考慮すると今後の論点としては
大坂の陣の歴史的性格の見直し、つまり、幕府と一大名の
戦争ではなく、徳川公儀と豊臣公儀のいわば公儀と公儀の
戦争だった、という従来の見解に対する見直しをおこなう
ことになるのでしょうか。また、加藤清正や浅野幸長は
大坂の陣当時すでに故人でしたが、福島正則は在生していた
わけで、こうした豊臣恩顧の大名が豊臣に味方しなかった
点の明快な説明も必要と思うのですが。
704 :
日本@名無史さん:02/02/25 02:38
逆に言えば、豊臣が一大名に転落していたならば、
大坂の陣は必要なかったということでしょう。
あのような天下の諸大名を総動員したような大戦争は
そして鐘銘問題のような事柄を口実とした大戦争は
706 :
日本@名無史さん:02/02/25 03:46
≫705
そうですよね。これまでの通説(日本史の教科書的記述も含めて)
がどうしてこの点を指摘ないしは説明してこなかったのが不思議
ですよね。
707 :
日本@名無史さん:02/02/25 07:47
関ヶ原以後、豊臣が一大名に転落したっていうのはこれまでの歴史教育
におけるステレオタイプ的な説明だったわけだけど、冷静に考えると何か
おかしいというか矛盾する点があるって、笠谷氏以前の歴史学者はだれも
気付かなかったのかな?豊臣一大名転落説のルーツをたどると案外、徳川
史観のイデオローグが書いた『徳川実紀』までさかのぼったりして。
708 :
日本@名無史さん:02/02/25 13:36
>>706 日本史の教科書読むと、大坂の陣以外にも
説明不足だと感じるところはいくらでもあるよ。
通説から脱することはかなり大変なことなわけだ。
709 :
日本@名無史さん:02/02/25 16:21
笠谷氏以前には、朝尾直弘とか高木昭作といった歴史学者が、
それぞれ個別の問題について矛盾点のいくつかを指摘していた。
笠谷氏は関ヶ原合戦の軍事力構成をめぐって独自の見解を打ち出していたが、
その研究と先行の諸研究とを総合し、さらにいくつかの新事実を解明することによって
二重公儀説と名付けられている理論にまとめたというのが全体の研究動向ということができるだろう。
710 :
日本@名無史さん:02/02/25 16:26
大坂の陣で味方しそうな豊臣恩顧の大名って?
711 :
日本@名無史さん:02/02/25 16:56
≫709
現在の学界で笠谷説というのは他の多くの研究者の支持を得ているのですか?
それとも、笠谷説に反対の見解を述べる研究者もいるのでしょうか?
そして、笠谷説は今後、通説として認知されていくのでしょうか。
712 :
日本@名無史さん:02/02/25 18:52
笠谷説に反対を唱える研究者はたくさんいます。
むしろ大勢は、旧説に従っているというのが現状です。
しかし新しい学説が登場するときというのは、いつもそうですから
多数決で見てみても意味はないでしょう。
この二重公儀説は学界における重要争点の一つとして、
論争のただ中にあると言ってよいでしよう。
この問題は、関ヶ原合戦の理解、大坂の陣の解釈だけにとどまらず
天皇制の問題や、幕藩体制そのものの理解にも連動していくテーマですから
これから、さまざまな分野で長く論じられていくことでしょう。
713 :
日本@名無史さん:02/02/25 19:05
≫712
詳しい解説をいただきありがとうございました。これまでの議論の経過
を見てもわかるように、通説的理解では矛盾する部分があきらかになった
わけですから、今後、笠谷説の趣旨が学界で多くの支持を得ていくものと
確信しています。笠谷説に反対する研究者は上述の矛盾点に今後、どう
答えていくのか注視されます。
714 :
日本@名無史さん:02/03/19 00:51
age
>>710 密かに人とか米を送ったのが毛利と島津
もう少し大阪が頑張ったら松平忠輝と一緒に
裏切りたかったのが伊達正宗
716 :
日本@名無史さん:02/03/21 23:18
結論は出ないようだな。
資料もそろえずに
議論するのは
無駄。
717 :
日本@名無史さん:02/03/22 22:23
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ・∀・) < 今更一大名に転落して無いと判ったところで大勢に影響ない。
( ) \__________
| | |
(__)_)
718 :
日本@名無史さん:02/03/22 22:29
719 :
日本@名無史さん:02/03/22 22:38
大阪の陣のとき家康はブレーンの坊主に
主人殺しの理論武装をさせているはず、
ゆえに、名目上の主従関係はあった。
720 :
日本@名無史さん:02/03/22 23:25
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ・∀・) < そもそも秀頼は秀吉の子じゃないからね。
( ) \__________
| | |
(__)_)
721 :
日本@名無史さん:02/03/22 23:31
>>720 そうだね。大野治長の子供に従う大名がいないのは自明の理
>>720 それはどっちでもいいんだよ。
秀吉が秀頼を実子として認知していたのは確実だから。
まあ秀吉にしてみればそう信じたかったんだろうけどね。
鳥羽院・崇徳院みたいに父親が認めてないのなら問題ありだけどね。
723 :
日本@名無史さん:02/03/22 23:42
>>722 それは太閤が生きてる間は有効だけど、
死んだ後はやはり、秀吉の恩があればあるほど
それを裏切った淀殿と大野の子には忠義を尽くせないのと違うだろうか?
>>723 秀吉の恩顧の武将達の感情的な問題ではそうでしょうね。
ただ正当性という観点から考えると、先代(つまり秀吉)が
認めてしまっている以上、他人が何を言ってもどう思っても
秀頼の正当性はゆるがない。だからこれを秀頼排除の表向きの
理由にはできない。
725 :
日本@名無史さん:02/03/23 00:06
>>724 表向きにはでき無いとしても、大坂の陣であからさまに
徳川軍として豊臣家を滅ぼすことへの自責の念を抑える
理由には出来た事は想像に難くない。
726 :
日本@名無史さん:02/03/23 00:16
>>725 まあそんなとこだろうね。個人的な罪悪感を減らすためには
丁度いい口実だから。意図的に噂を広めるぐらいはやったかも。
人に言われずとも怪しいと思ってた人も多いだろうけど。
徳川にとっては大いに利用価値のある噂ではあるでしょう。
ただし豊臣攻めの正式な理由は別に用意しなければならないけどね。
727 :
日本@名無史さん:02/03/23 19:08
戊辰戦争時に何故慶喜は斬罪にならなかったのだ?
徳川家なんて、根絶やしにすればよかったのに。
728 :
日本@名無史さん:02/03/23 19:24
豊臣恩顧の武将を定義せよ
729 :
日本@名無史さん:02/03/23 19:39
秀吉によって大名に立てられた者、でいいんじゃないの。
旧織田系でも前田や堀のように豊臣時代になってから大大名になった連中は
豊臣恩顧と言ってもいいと思う。
730 :
日本@名無史さん:02/03/23 20:10
織田有楽斎もそうですか?
731 :
日本@名無史さん:02/03/23 23:39
関が原の論功行賞を家康がやったのがそもそもおかしい。
732 :
日本@名無史さん:02/03/24 19:06
733 :
日本@名無史さん:02/03/24 21:41
西軍の総帥が秀頼と同じ大坂城にいたことには触れないの?
735 :
日本@名無史さん:02/03/30 19:26
あげんなぼけ
736 :
日本@名無史さん:02/03/30 23:21
>735
オマエモナー
>>733 それを言うと毛利の悪行がばれるからsage!
すげー文体そっくりなやつの自作自演すごい!(・∀・)
たまにハンドル変えてたのが凝ってる
739 :
日本@名無史さん:02/04/30 21:35
age
740 :
伊達遠江守家中:02/05/09 14:45
>659
>全国に散在する豊臣直轄領(いっぱんに「太閤蔵入地」と呼ばれている)の
>ゆくえは重要と思われ。
遅レスでスマソ
江戸幕府の天領の支配方法と豊臣直轄領(摂河泉・都市・鉱山以外)の支配方法が
違うからだと聞いたことがある。
前者は、代官所を設けて代官が赴任して直接支配していた。
後者は、近隣の大名に支配を任せて年貢を送らせていた。
考え方としては江戸時代、会津松平家に預所となった時期のある南山御蔵入を想像
してもらったらどうか。
だから、何となくそこに新しく入ってきた大名の領地に繰り込まれてしまったので
はないかと思うのだが。
741 :
伊達遠江守家中:02/05/16 05:56
>737
ばれるから、って現地でも吉川広家がバレバレな利敵行為しとるやん。(笑)
742 :
日本@名無史さん:02/05/16 09:37
>>740 ほぼ、その通りだが補足。
豊臣蔵入地は秀吉存命の頃に堀尾吉晴(自信なし)だったかが、勝手に自分の家臣を豊臣蔵入地に入れて、
秀吉に叱咤される事件があった。秀吉存命の頃から、そんな事件があったので、豊臣蔵入地の危うさがわかる。
それで、秀吉・利家の死後、家康が勝手に豊臣蔵入地を諸大名に与えるとともに三成等の奉行派を意図的に挑発して、
関ヶ原を誘発させる原因となった。
しかし、加藤清正のように
「自領の豊臣蔵入地の分は自領の収穫を削ってでも、絶対に豊臣家に納入する」と宣言していた者も居るし、
また関ヶ原以降の豊臣蔵入地の存在があちこちで確認されていて、
豊臣家は単純に摂津・和泉・河内のうち62万石の一大名とはいえなくなってきた。
また、少し関係ないが福島正則は絶えず大阪に三万石の米を用意し豊臣家に何かあったら、
これを使うように申し出てたという。
豊臣家、頑張ったのにあぼーんされてカワイソウだね
744 :
日本@名無史さん:02/05/25 01:02
745 :
日本@名無史さん:02/06/04 23:05
age
そんなことより1よ、ちょいと聞いておくれよ。天下の行方とは関係ないけどさ。
昨日、大坂城に年賀の挨拶に行ったんです。秀頼君の顔見たくて。
そしたらなんか人がぜんぜんいなくて、だれも座ってなくて寒いくらいなんです。
で、よく見たらなんか秀頼君が泣きそうな顔して、お虎、秀頼を見捨てるな、とか言ってるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
秀頼様、この虎ごときにそんなお言葉、もったいなくて、泣いちまうじゃねーか、ボケが。
秀吉様のお子だよ、秀頼君は。
なんか大野や片桐とかもいるのに。側近揃っててこのざまか。おめでてー日だってのに。
よーし秀頼、虎の家の子になっちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
秀頼様、天下取ってやるから、しばしお待ちください。
豊臣家ってのはな、もっと燦然と輝いてるべきなんだよ。
千畳敷きの向かいに座った奴とは、遠くて誰だかもわからない。
秀吉公の話に笑いが起きる、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供だけの年賀なんて寂しいよ。
で、今度は伏見に挨拶に来たら、隣の藤堂が、上様おめでとうございます、とか言ってるんです。
そこで本気でぶち切れですよ。
あのな、上様は大坂におわす秀頼君だけだ。ボケが。
得意げな顔して何が、上様、だ。
お前は本当にたぬきを主君と思っているのかと問いたい。問い詰めたい。いや、切腹申しつけたい。
お前、所領が欲しいだけちゃうんかと。
豊臣家家臣の俺から言わせてもらえば今、豊臣家の間での最新流行はやっぱり、
討ち死に覚悟で二条城で秀頼様を守る、これだね。
それでなんとかお家だけは存続。これが最低限の家臣の道。
そこで家康が許せば秀頼様は大名として残る。そん代わり所領が少なめ。これ。
で、それに千姫様にお子(女で家光に嫁がす)。これ最強。
しかしここで秀頼様の評価が秀忠より高いとマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
本当はお薦め出来ない。
おい、佐吉よ、オレが間違ってたのか、あの世に行ったら教えてくれ。
747 :
【^▽^】勤皇の志士ジョーカー:02/06/05 11:53
大野を殺せ!淀殿を軟禁せよ!
748 :
司馬遼サイコー!:02/06/14 01:13
今朝、通学の電車の中で「城塞」を読み終えて、思わず涙してしまった・・
749 :
日本@名無史さん:
age