火縄銃についていろいろな話。

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11
を教えて下さい。
実際にはどのくらいの威力があったのか?
どのように運用されていたのか?
各大名家の武将ごとの火縄銃の所持率は?
はたして鉄砲隊として一纏めにして運用できたのか?
などなど。
21:01/11/21 16:49
具体的な資料などを挙げてくれるとさらに嬉しいです。
3ななし:01/11/21 17:04
『鉄砲を捨てた日本人』(ノエル・ペリン;中公文庫)

読んだ人います?
何か「日本人は日本刀マンセーだから火縄銃を捨てた」みたいな事
が言いたいのだなと自分は受け取りました。
極論だなー、でも外人だから仕方ないのかと感じました。
どう思いましたか?
41:01/11/21 17:20
『鉄砲を捨てた日本人』というのは読んだ事無いです。
誰の本が良いんでしょうか?
鈴木真也氏の『鉄砲と日本人』という本はなかなか面白かったですけど。
5日本@名無史さん:01/11/21 17:22
読んでませんけども

日本人が刀を重視して鉄砲を嫌がったのは事実なんじゃないでしょうか
幕末時に幕兵を近代化しようとして「武士たるものが」と嫌がったとか
織田信長が長篠の戦で武田を破ったので鉄砲の威力は証明されてるのに
普及率がイマイチだったとも聞いたような
あ、あと徳川幕府へ反乱を起こさせないためにそういうふうに思想操作(できたのか?)したとかいう話も
聞いたことあるような

全て伝聞でスマソ

・・・なんつか歴史の話って自ずと幕末、近代へ逝ってしまうのだろうか
63:01/11/21 18:16
>1
『鉄砲と日本人』 面白そうな本ですね。手軽に入手できる本なら
読んでみたいです。
『鉄砲を捨てた日本人』は図書館で見つけました。1さんの近くの
図書館を探してみては?

>5
徳川の鎖国、統治政策では鉄砲は衰退していかざるをえなかった
でしょうね。
衰退の原因を日本人の美学だけに強調しすぎるから僕は例の本に
ハァ?となってしまったわけです。
73:01/11/21 18:27
他に最近読んだ関連の本では

「鉄炮伝来 兵器が語る近世の誕生 」/ 宇田川武久/著  中公新書

が良かったですね。
伝来から江戸の衰退期(かな?)までの鉄砲史を扱った本です。
言わば伝説で確証が無いということで従来の種子島伝来説に
疑いをかけ、直接ヨーロッパ伝来の銃ではなく、東南アジアで
製作された銃が倭寇を通じて入ってきたのだという説が展開されて
います。
他にも朝鮮での鉄砲発達史、銃砲の扱いが実践的なものから形式的な
ものに流れていく様子も描かれており、楽しく読めました。
8倭建命:01/11/21 18:40
>>5
>6にある『鉄砲と日本人』@学芸文庫ちくまでは正反対の解釈されています。
(むしろ白兵戦をきらった。)
またこの本で『鉄砲を捨てた日本人』は事実無根と批判されています。
あと長篠の戦いの「三千挺三段撃ち」は江戸時代の創作であるとか。
『鉄砲と日本人』おもしろいですよ。チョト高いけど(1000yen?
9日本@名無史さん:01/11/21 18:51
そもそも鉄砲が伝来したのはいつ?
応仁の乱のころには既に入っていたらしいが。
10日本@名無史さん:01/11/21 19:13
>9
一応は1543年、ポルトガル船、種子島に鉄砲を伝える
(山川出版社の日本史年表)との説が有力?
1543年以前から流入していた?という説もあるようですが否定
されています。
応仁の乱頃なんてトンでもない(笑
11日本@名無史さん:01/11/21 20:26
でも考えてみれば、こっちから出て行かなければ基本的に他国と争う必要のない
日本で内乱のみの必要性であれだけの銃が造られたのは自分的には異常にさえ思える。
言うまでもないけど戦いの収まった日本で銃は発達を止め、対して欧米では
他国間との兼ね合いの中で進歩を続けた。
やはり日本の戦国時代というのは(当時の日本人も?)特異な時代だったのかな。
12日本@名無史さん :01/11/21 20:35
火縄レスな鉄砲が一般化しなかったのはナゼなんでしょう?
やはり平和で必要無かったから?
131:01/11/21 20:41
>>6
長い幕藩体制の中で鉄砲があまリ重視されなくなったとはいえかなりの数が残っていたようですよ。
刀狩などとは違って廃棄の対象にはなっていなかったようですし。
>>9
たとえ1543年以前に日本に入ってきていたとしても
1543年に種子島に鉄砲が伝わった事の意義のほうが大きいと思います。
そこから堺に伝わったからこそあっという間に日本中に広まって言ったんだろうし。
143:01/11/21 21:07
>13
衰退というよりも停滞、あるいは技術的に16世紀から19世紀まで
止まってしまったと言った方が良かったかもしれませんね。
鉄砲隊はもちろん存続してますし民間(猟師などに)にも
ゆきわたってますから。
15日本@名無史さん:01/11/21 21:29
>1
・騎馬隊相手なら、弾の命中率が悪くても鉄砲を使うメリットはある。
 (馬が爆音で暴れだすため)
・雨の日の戦闘は避けた(梅雨時には、鉄砲は期待できない)

↑これらのことや鉄砲伝来の事情については、
逆説の日本史(9)戦国野望編 井沢元彦 著 小学館
に詳しく載ってるよ。

>>5
>幕末時に幕兵を近代化しようとして「武士たるものが」と嫌がったとか

「鉄砲なんて、足軽(下級武士)が使う武器だろ!」って意見ですよね。
16日本@名無史さん:01/11/22 17:00
>1
>1543年に種子島に鉄砲が伝わった事の意義のほうが大きいと思います。
多分それ以前に入ってきていたのは、明の銅銃の類なのでしょう。
あまり効果的は兵器なのでほとんど使われなかっただけなのでしょう。
実際火薬兵器は元寇のおり齎されているし、効果的なら
そのときから使用していると思いますからね。
(倭寇からの自らの戦闘経験から情報入ってきていると思いますし)
17名無しさん脚:01/11/22 20:16
江戸時代はレジャーとしての狩猟用に広く使われていたはずですが。
よく鴨うちにいったとか江戸時代の日記にも書いてありまする。
下級武士・庶民クラスでも撃ったことのある人は多いはず。
18初心者:01/11/22 23:59
ジェフリ・パーカー「長篠合戦の世界史」いう本、読んでたら
「長篠で信長は世界にさきがけて、<斉射>を発明した。こりゃ凄い」
って書いてあったんだけど、これってどう凄いの?

長篠合戦で三段射撃したいうの、じつは「伝説」いう話きいたんだけど・・・?
なるほど。伝説ですか
19武田研究家:01/11/23 00:38
>>15
>・騎馬隊相手なら、弾の命中率が悪くても鉄砲を使うメリットはある。
 (馬が爆音で暴れだすため)

おいおい…鉄炮が普及した軍隊では馬を銃声に慣らす訓練は必須だよ。
単純に「音」が通用したのは鉄炮が普及する以前、せいぜい1550年代
までだろう。
ついでに言っておくと戦国時代に「騎馬隊」は存在しない。

>・雨の日の戦闘は避けた(梅雨時には、鉄砲は期待できない)

ま、それはそうだね。

>↑これらのことや鉄砲伝来の事情については、
>逆説の日本史(9)戦国野望編 井沢元彦 著 小学館
>に詳しく載ってるよ。

そんなもん自慢げに披露したら笑われるだけだって。
もっとマトモな本を読みなさい。
20武田研究家:01/11/23 00:45
>>18
>ジェフリ・パーカー「長篠合戦の世界史」いう本、読んでたら
>「長篠で信長は世界にさきがけて、<斉射>を発明した。こりゃ凄い」
>って書いてあったんだけど、これってどう凄いの?

鉄炮は洋の東西を問わず長らく狙撃のための兵器だった。
狙撃とは言わないまでも、後の軍隊で行われる
「銃兵は狙いもつけるな、ただひたすら一斉に前方へと発射しろ」
という「面制圧」の発想はまったく見られなかった。
そういう意味で「こりゃ凄い」と言っているんだろう。

ただし!

信長が<斉射>を発明したってのは司馬遼太郎の妄想だからね。
じゃ「大量使用」がスゴイのか? 「野戦築城」がスゴイのか?
という話になると、ヨーロッパではスペインのゴンサロ・デ・コルドバ
が1503年にすでにやった事だから、スゴイわけでもない。
ジェフリー・パーカーはまず西洋史から勉強しろ! ってことだね。

>長篠合戦で三段射撃したいうの、じつは「伝説」いう話きいたんだけど・・・?
>なるほど。伝説ですか

伝説です。
21日本@名無史さん:01/11/23 00:45
ジェフリ ・パーカー「長篠合戦の世界史」(同文館)
バート・S・ホール「火器の誕生とヨーロッパの戦場」
は皇国スレで、誰かが薦めているのみたし、結構、翻訳書籍のなかでは
タネ本にしている人、多いとちゃう?

宇田川武久「鉄炮伝来 兵器が語る近世の誕生 」中公新書と
鈴木真也氏の『鉄砲と日本人』ちくま学芸文庫は、
見解の相違があると
22初心者:01/11/23 00:52
>武田研究家殿

丁寧なご教示ありがとうございます。
amazon.comで冬のボーナスで、近々、大量に買い物をして己の首を絞めようと
思っております。というわけで、何かお勧めの軍事史本、何かありませんか?

>21
「火器の誕生とヨーロッパの戦場」の出版社名、教えてください
23初心者:01/11/23 00:54
いや、できたら日本史に限らず
24日本@名無史さん:01/11/23 02:13
>>20
>>長篠合戦で三段射撃したいうの、じつは「伝説」いう話きいたんだけど・・・?
>>なるほど。伝説ですか
>
>伝説です。

どういう点が、事実と異なるんですか?
25名無しさん脚:01/11/23 08:33
そもそも大部隊で三段撃ちは無理。
26日本@名無史さん:01/11/23 12:56
種子島に火縄銃が伝来したときには
すでにヨーロッパでは火縄を使わない、フリント・ロック式が主流であった。
よって我が国に始めて、もたらされた銃の産地は東南アジア(おそらくシャム)
であると思われ。
なお、当時のヨーロッパ諸国が植民地獲得に乗り出したときの
主な兵器はまだ剣、槍、弓であり
そのころの欧州の技術力を持ってしても銃火器の大量運用は困難であった為に
戦場では補助的な役割に留るに過ぎなかった。
銃火器の効果的な運用を、始めて軍事作戦における戦術として確立したのは
戦国時代の日本人が最初であったと思う。
(ヘタクソで読みづらい文章スマソ)
27日本@名無史さん:01/11/23 15:53
>>25
何故、大部隊だと三段撃ちが無理なのですか?
28日本@名無史さん:01/11/23 15:57
>>27
発砲時の発煙で前がみえないからでは
2927:01/11/23 17:05
>>28
そういうことでしたら、
それは風の流れにもよると思うのですが。
30日本@名無史さん:01/11/23 19:04
今月の歴史群像、作戦級のレベルで「長篠武田騎馬軍団潰滅の謎に迫る」だったね。

後方連絡線を絶たれた勝頼が、包囲殲滅をさけるためやむを得ず防御柵(←史実?)内の敵火点(←3000丁?)に
正面から数次にわたり攻勢をかけ(←騎馬突撃?)、損耗のため後詰の部隊から
総崩れになったと。

三段撃ちとかは、もちろん記述なかったけど。どんなもんだろ。
31日本@名無史さん:01/11/23 19:53
>>30
戦国板のスレに面白い記述があった。
それは長篠で織田の鉄砲数があまりにも「少なすぎる」事だ。

まず、鉄砲は上杉、武田でも10%、織田なら十数%を所持していたと言われる。
それなのに織田が長篠で使ったとされる鉄砲は四万の軍勢にもかかわらず多数説で三千丁(7.5%)、小数説に至っては千丁(2.5%)と異常に少ない。

ある人の仮設によると長篠で織田勢は通常編成の鉄砲隊とは
別に専属の鉄砲隊を千もしくは三千、引き連れたのではないかという推測
32日本@名無史さん:01/11/23 20:39
要は「長篠合戦の伝説と真実」論じるなら、
三段撃ちはなかった(創作)
斉射はあり得た。
日本に騎兵はいない。ゆえにいわゆる武田騎馬軍団(騎馬武者集団)も歩兵従卒の歩速にあわせ突撃したので、
三段撃ちせずとも、火力1000〜3000で射すくめられた。

その際の火力の過小(まあ、異説あるひともあろう)をおぎなう馬防護柵(野戦築城)で、蹂躙をふせぎ、
敵正面を損耗させた。

そんなところか?
33日本@名無史さん:01/11/23 20:46
追加。長篠合戦は都合8時間の19回にわたる突撃と防御だったから、
織田・家康側の適正な火力の不足いう可能性>31ありえたかも。

たぶん力押しで、いわれるほどには織田側の圧勝ということじゃなく、
馬柵さえなければあやうく乱戦の、きわどい辛勝だったのか?
34日本@名無史さん:01/11/23 21:15
長篠の戦いで織田の兵が四万で鉄砲比率が推測される15%なら
鉄砲六千丁はないとおかしい・・・
10%でも四千丁
長篠の戦いの織田兵力は二万だったという切もてできているが
それでも、15%で三千、10%で二千はないとおかしい。

ましてや鉄砲千丁説なんてのはお話しにならない程少ない。
信長公記に鉄砲千と書き、横に三と記したのは単なる書き間違いの訂正と思われる。
35名無しさん脚:01/11/23 22:41
>>27
32のいうとおり斉射は可能。
しかし三段撃ちとなると一番弾込めが遅い組に全体をあわせなければならなくなってしまう...
また、前線にずらっと並んだ兵全体に指揮することも困難。
実際は部隊単位で斉射したと思われ。
36武田研究家:01/11/24 00:26
>>26
ゴンサロ・デ・コルドバが1503年に鉄砲と野戦築城の組み合わせを
行なっている。
参考文献:バート・S・ホール『火器の誕生とヨーロッパの戦場』

>>27-29
「三段撃ち」はできなくもないが、「敵の突入を阻止し得るほどの連射を続ける事」
は不可能である。
ヨーロッパに目を向ければスネイルやシュネッケといった6段から8段に構えて
射撃を繰り返す戦術が1550年代には確認されている。
だが、それだけでは敵の突入を防ぎ切る事はできず、逆に斬り込まれて切り崩される
ことが多かった。
装備が同等なら、複雑過ぎる動き(戦術)はかえって戦闘行動の支障となる。
まして、たかだか三段の構えでそのような事を行なえば兵士の疲労は計り知れない。
長篠における八時間の戦闘において、先に音を上げるのは織田軍の鉄砲隊
という事態になったことであろう。
まして小瀬甫庵の『信長記』という信頼性の極めて低い軍記物以外に傍証の
無いこと、また「有効な戦術は広まる」という軍事上の法則に照らし合わせてみて
後の日本に類似する戦術が見られないことは、「信長の三段撃ち」を
否定するに十分な材料なのである。
37武田研究家:01/11/24 00:27
>>30
それは私も目を通しているが、空白の一日に関しては信長の書状に
「鉄炮取り詰め」という記述があるだけで武田側に記述が無く、
挑発以上の大規模戦闘が行われていたかどうかは断言できぬという点で
「まだ研究の余地あり」程度にとどめおくべきであろうと思われる。

>>31
>ある人の仮設によると長篠で織田勢は通常編成の鉄砲隊とは
>別に専属の鉄砲隊を千もしくは三千、引き連れたのではないかという推測

細川藤孝から100挺、筒井順慶から50挺の鉄炮とその射手が送られていた
事実が確認されている。これら後方の武将から派遣された鉄炮が「千挺計」
だったのだろう。
織田軍全体としては数千挺のオーダーに達していたと見て間違いないが、
織田信長の本隊と織田信忠の部隊は弾上山より後方に布陣していて
正面の戦闘へ参加していない点から三分の一は割り引かれるし、
また現地の狭い地形からみて大人数の部隊が同時に戦闘を行なうのは
難しいと思われる。引き抜かれた鉄炮隊は鉄炮足軽ばかりだから小回りも利くが、
滝川・丹羽・羽柴の部隊は通常編成であるから小回りが利かないと思われる。
ただし狭い地形は武田側も同じであるから、純粋に鉄炮の数を論じる場合なら
ともかく、それが戦闘の推移にそれほど影響したとは考えにくい。

鉄炮の数よりもむしろ、弾上山を「城」に仕立てそこに滝川・丹羽・羽柴の
軍勢二万あまりが立て篭もったという事が重要である。
小勢であってさえ城に篭れば大軍を迎え撃てる可能性がある。
まして大軍の織田軍が城に篭って小勢の武田軍がそれを攻めるのでは、
戦術としては勝ち目は無い。
長篠の合戦は鉄炮よりもこちらに意味があると言えよう。

<おまけ>
「斉射は可能」って意見が多いけど、そもそも「斉射」の定義を
この場合、どう考えているんですか?
38日本@名無史さん:01/11/24 00:33
>>36
なるほど兵の疲労ということを考えてみないといけないんだなあ
重い鉄砲を持って兵が撃ち役を交代するとなるとかなり疲れるでしょうね
もしかしたら鉄砲を持った兵が持ち場を交代したのではなく、
撃ち役と鉄砲の弾込め役、鉄砲手渡し役という3種類の分業制だったのかも。
39日本@名無史さん:01/11/24 01:20
>>37
>おまけ「斉射の定義」

漠然と兵隊カラムにして、面制圧の統制射撃みたいなこと考えてたけど、
長篠の場合、どうだったんだろうね?
8時間19回の突撃だから、とりあえず馬柵のある場所には横列しいて、
突撃のたびごとに、合間ぬってできるだけ火力集中の1回斉射はさせたと思うけど。

あとは各個射撃
地形がよくわからんが、隘路の両側にも散兵進出させて、そうとう狙撃させたのではないか?

長篠で武田軍も8時間戦ったということは、そうとう善戦して場合によっては、馬柵の一部
内側まで切り崩してはいったのではないかな?
40:01/11/24 01:22
西欧軍学のさわりを金科玉条にした今様の日本の閑な学者が
歴史群像などという俗誌において、
「三段射ちなど物理的に不可能」
などというまことしやかなデタラメを言った途端
それが定説となっている感あり。
「三段射ち」が一列1000×3の一斉射撃などと、
どこの文献にもない。
後年の講談を敷衍しているだけ。
三人一組の鉄砲組みが確固作業で打てば、
全体として「一斉射撃」は成立するのだから、
その点を論議しても意味ナシ。

馬防柵の存在は概略確認されているのだから、
試行錯誤の攻撃を繰り返す武田勢に
膨大な数の鉄砲隊が立ちふさがったという光景は
容易に想像できる。
その空間に流れた銃弾の数は戦死上革命的であったことは
疑いを入れない。
41日本@名無史さん:01/11/24 01:41
うーむ。言いたいことはわかるが、それってもしかして
>37への反論?
42武田研究家:01/11/24 01:41
>>40
>「三段射ち」が一列1000×3の一斉射撃などと、
>どこの文献にもない。
>後年の講談を敷衍しているだけ。

その「講談」が問題なんだと思うが。
「講談」のせいで見誤ってる部分てのは長篠に限らず
日本史の至る部分にある。

>その空間に流れた銃弾の数は戦死上革命的であったことは
>疑いを入れない。

「戦死」ではなく「戦史」だという前提で書くが、
そんなものは少しも「革命的」ではない。
既に挙げたゴンサロ・デ・コルドバは2000挺を揃えたというし、
日本にしても1570年の信長の野田・福島攻めなどは
双方3000挺の鉄炮を撃ち合うという壮絶な射撃戦であった。
だがこの時の鉄炮は信長が揃えたのではなく、双方の援軍である
雑賀衆・根来衆が持って来たもの。
こと鉄炮戦術に関して、信長は決して先進的ではない。
43日本@名無史さん:01/11/24 01:51
>>40
> 三人一組の鉄砲組みが確固作業で打てば、
> 全体として「一斉射撃」は成立するのだから、
> その点を論議しても意味ナシ。

それは「一斉」とは呼ばないと思う。
44日本@名無史さん:01/11/24 01:59
宇田川武久「鉄炮伝来 兵器が語る近世の誕生 」中公新書と
鈴木真也氏の『鉄砲と日本人』ちくま学芸文庫派閥の対立というべきか・・・。

まあ武田研究家さんクラスは別だけど、
オレ自身は

>西欧軍学のさわりを金科玉条にした今様の日本の閑な学者が
>歴史群像などという俗誌において、
>「三段射ちなど物理的に不可能」
>などというまことしやかなデタラメを言った途端
>それが定説となっている感あり。

といわれると、ちょっと耳が痛いね(笑)
45:01/11/24 02:02
「一斉射撃」の定義を
「三人一組の斉射」
というふうに読みかえればスコラ論議も少しは前進するのでは?
4644:01/11/24 02:08
まあ、問題は、あの日、どういう過程で武田軍が潰走したか
さらに重要なのは「戦死にいたる負傷の原因」を納得できるsimlatonを
提示することだろうね。

(合理にあった勝手な妄想じゃなく、できるだけ資料主義で)

すると、武田軍の戦死者が突貫時の銃創によるものなのか、それとも
織田本陣を攻め落とすにいたらず、後衛なり前衛から崩れて、そこに
追撃され刀傷で息絶えたのか。

すると、正面火力の軽重ではなく、陣地維持の原動となる>37の篭城説は、
けっこう納得できるものと思う
47日本@名無史さん:01/11/24 02:10
すまん。simulationね
48:01/11/24 02:16
近代における機関銃の射手にしても、
「射つ人」「弾を込める人」「その他の助手」
というふうに分かれており、
一番射手が倒れたら二番射手というふうに、上手な人から
順番が決まっているでしょう。
鉄砲隊にしても射撃のうまい人、弾を込めるのがすばやい人、
筒を掃除するのがうまい人、
というふうに、分業すれば効率は上がるのではないか。
そうしたことも文献にはないが、初歩的な思いつきで
実践されていたはず。
3人一組で3丁の鉄砲を持ち、射つのは一人、
というふうには考えられないか。
49日本@名無史さん:01/11/24 02:27
信長が天才的だったのは、鉄砲を使ったことよりも
戦闘の性質を[会戦](敵味方同等)から[攻城戦](味方優位で守りきったら勝ち)
に変えたことでしょうね。

武田方からみると、
・本隊の強固な防衛陣地
・長篠城
・鳶巣山砦(夜間強行軍5000で急襲)
によって盆地状のところに包囲されたことにより、
織田本隊を殲滅しなければならなくなった(支隊を攻撃しようと
すると本隊に後ろを見せることになる)。
50武田研究家:01/11/24 02:31
>>48
そういった撃ち方も記録に残っていないわけではない。
だが「常に行なっていたのか」とか「全ての者が行なっていたのか」
となると裏付けは無い。

ついでに言わせてもらえば、「三」という数字にこだわるのは
意味の無いことであろう。
どうせ裏付けは無いのだから、四人でも五人でも好きな数字で
いいと思うが。
例えば『長篠・設楽原合戦の真実』の名和弓雄氏は四人一組説を
採用していた。
また文献に残る例では『陰徳太平記』に雑賀衆は25人で一組となり、
二組50人を一小隊とし、二組が交代で射撃を行なったとある。
そしてその発展例としては作家の工藤章興氏の「二人一組、
25組で一小隊、二人で交互に射撃」という考え方もある。
51武田研究家:01/11/24 02:41
>>49
>信長が天才的だったのは、鉄砲を使ったことよりも
>戦闘の性質を[会戦](敵味方同等)から[攻城戦](味方優位で守りきったら勝ち)
>に変えたことでしょうね。

長篠以前において、「敵味方同等の会戦」がどのくらいあったと思いますか?

合戦の中心はずっと以前から攻城戦だし、陣城の構築も当時の常識。
勝頼が布陣した才ノ神も弾上山と同じく「城」と化していたことが
発掘の結果分かっている。(才ノ神は盆地ではなく弾上山と同じ丘陵)

敵に背後を取られた結果、勝頼は正面の信長と合戦せざるを得なくなったが、
戦闘の性質を変えたという程の事は無いのでは?

いや別にアンチ信長とかじゃないんだけどさ(笑)
52日本@名無史さん:01/11/24 02:49
わしは今から酒でも飲みながら、黒澤明の「乱」をみるでな。
おちる。
結論を楽しみにしとるぞよ
531:01/11/24 03:47
久しぶりに見たら随分スレが伸びてるね。
おまけに詳しい人も来てるみたいなのでちょい質問。
戦国時代の日本には相当数の火縄銃が有ったらしいけど、
たまを飛ばすために火薬、具体的には硝薬の原料となる硝石が日本では産出せず、
土哨法や輸入に頼ってたらしいけど、全体の10%を鉄砲隊が占めるような軍隊で
火薬は足りてたんでしょうか?
贅沢にバンバンと鉄砲を使えたんでしょうか?
ところで鉄砲隊の10%という数字は輜重隊などの非戦闘要員も入れての数字ですか?
質問ばかりですいません。
541:01/11/24 03:48
土哨法>土硝法
間違えてしまいました。スマソ。
55 :01/11/24 04:25
>>53
堺を抑えている信長や秀吉だから出来たんだと思うよ。
どっちにしても鉄砲伝来以降、日本が国内戦でドンパチやってた頃は
必ず異国との貿易が盛んな頃だし。
実際、本国がモロ内陸国の武田なんかは、信長方に火薬を卸している商人
に裏で接触してまで火薬を集めようと苦心してるから。
黒色火薬のうち7割までが硝石なんだから、便所の床下から取ったりウン
コ煮詰めたりする土硝法じゃ到底間に合わないでしょ。
56日本@名無史さん:01/11/24 06:42
>>53
土硝法は広まったのは江戸時代ですね。秀吉の朝鮮出兵の時に持ち帰られた
技術と言われています。
戦国時代には貿易を縛るものが無かったので大名に限らず寺院やら海賊やら
土豪やらが大陸に船を送っていましたから、西国と畿内の勢力であれば
まず問題無かったでしょう。
東国では北条家が明と貿易を行なっていた形跡があり、勢力によっては
独自ルートの入手もできたでしょう。
問題はそれ以外の勢力ですが、私が常々疑問に思っているのは
当時の流通がどの程度大名の規制を受けたのか?という事です。
例えば軍需物資としては決して欠かせない「鉄」ですが、主な産地は
山陰地方です。そこから海路で若狭を通り、さらに東へ進んだりあるいは
陸揚げして畿内へ運んだりとなるわけですが、もし毛利家が鉄の流通を
完全にストップできるならば、織田家は毛利家に敵わなかったでしょう。
堺が貿易の拠点だと言っても瀬戸内の村上水軍と熊野の雑賀水軍が
船を通さなければ信長は鉄砲が使えない事になります。
こう考えると大名は民間の流通に関して関銭を取るぐらいの事はできても、
完全なストップは難しかったのではないかと思われるのです。
ただし民間の流通ですから、拠点を押さえる信長などは別として
一気に大量入手というのは中々難しかったでありましょう。
その辺が武田家などの苦労であったと思われます。
ただし、全く手に入らないというほどではなかったのではないかと思われます。
というのも、全国の大名があれほどまでに鉄炮の導入に熱心だったのは
硝石を入手するあてがそもそもあったからだとも考えられるからです。
まあだからいくらでも使えるというほどではないにせよ、何とか使えるぐらい
には手に入ったのではないでしょうか。
57日本@名無史さん:01/11/24 15:28
ジェフリ・パーカーの名前あがっているからいうけど、やっぱ国外の資料から
ネタを拾うとき、おきやすい弊害だよね。長篠合戦の内容の信憑性の記述。

苦労して洋書仕入れて、「大汗で辞書ひきまくり解読した英語」というだけで
「これが正しい」と思いこんじゃうのも、気持ちはわかるけどさ
58武田研究家:01/11/24 17:57
>>9
雲泉大極の『碧山日録』に応仁の乱の時の話で「細川勝元の息子・細川政元の陣中に
『飛砲・火槍』なるものがある」とあるから、そのことだろう。
だから広義の火器はこの頃既に日本に入っていたと言えるね。

>>10
>応仁の乱頃なんてトンでもない(笑

上のような事情だから、笑い飛ばすのもどうかと。
59日本@名無史さん:01/11/24 18:17
鈴木真也氏の『鉄砲と日本人』は読んだが、なかなか説得力のある本だった。私
も戦国に生まれていたら、刀や槍で戦うより弓、鉄砲を使った”遠戦”を選んだ
筈だ。映画やテレビで見るような刀や槍を使った戦いは少なかったと思う。

長篠合戦絵巻を見ると、鉄砲を撃つ侍はみんな立派な衣装をしていていわゆる
鉄砲足軽には見えない。当時、鉄砲は立派な主力武器で武将も普通に使って
いたと思われる。
60日本@名無史さん:01/11/24 19:05
大阪夏の陣で徳川勢が真田の突撃に切り崩された原因を
鉄砲のせいにされたため、
江戸時代、鉄砲が衰退してしまったんですね。
正確には衰退したと言うかある程度の比率を守るようにすべしという事らしいですが、
どうなんでしょうね?
61日本史板で:01/11/25 01:29
アズマだのウヨだの訳わかんない台詞が流行ってるなあ思ったら、みんな
網野善彦ななめに読んで喋りちらかしているわけね。
やっと判った。

・・・なんか、まだ軍オタのほうがまし。
というわけで上げとく
62日本@名無史さん:01/11/25 02:05
>>61
このスレはアズマでもウヨでも網野でもないと思うけど。
63日本@名無史さん:01/11/25 02:19
>>60
一応、幕府が課す軍役があり、一定量を保持するようになっていたが、
実際はそれよりも多く持つ大名が多かった。何しろ鉄砲は主力兵器だからね。
64名無しさん脚:01/11/25 11:29
>江戸時代、鉄砲が衰退してしまったんですね。
戦争がなかったので、兵器として衰退しただけ。
害獣駆除とか狩猟とかの道具としては広く使われていた。
専門の猟師の他に、豪農〜自作農クラスも多数所持。
幕末から明治初期の一揆とかに猟師をあつめて狙撃隊を組織したとかあるから
一般の鉄砲足軽より技量は猟師の方が上と思われ。
65日本@名無史さん:01/11/25 12:04
日本の城垣があつくて城攻砲は発達しなかったんだYO!
661:01/11/25 12:54
>>64
でも江戸時代の中〜後期にかけていろいろな鉄砲が作られてますよね。
火薬を使わない空気銃とか、中にライフルを切った施条銃とか、
何本もの銃身を束ねてその銃身ごと回転させて撃つ連発銃とか(ガトリングというほどのものではない)、
こういった銃はなんであまり出回らなかったんでしょうね?
やはり需要がほとんど無かったんでしょうか?
67名無しさん脚:01/11/25 13:30
国友藤兵衛とかが作っているよね。試作だけで量産化されなかった。
幕末までは佐賀藩みたいな例外を除いて、基本的に軍備強化に不熱心だとみた方が^^;
つーか、財政的にアップアップでそれどころじゃないか。
ttp://www2.justnet.ne.jp/~teppounosato/kaji/hinawa2.htm
68日本@名無史さん:01/11/25 14:21
>>26
ウソ言うなよ…フリントロックが一般普及したのは1700年代だぞ
69日本@名無史さん:01/11/25 14:44
世界史板のオランダスレの人?
70だろうな>66:01/11/25 14:44
実戦がなかったし、どこの藩も財政難だし
おまけに下手に軍備を固めると「謀反の兆し」などと因縁をつけられる
71 :01/11/25 15:21
>>66
そういうのって全部宋明時代の中国の火器が元になってるんだよね。
3本の銃身を束ねる3連発の鉄三眼銃とかは、日本の鉄砲伝来以前
からあるし、5本の銃身を回転させながら撃つやつも「放迅雷銃」
っていって、これは関ヶ原以前にすでに明軍で実戦使用されてる。
江戸時代の日本が作ったのはこういった明の火器が元になってると
思うよ。
72日本@名無史さん:01/11/25 17:18
そういえば、いしいひさいちが鈴木真也、冷やかしてたな
73日本@名無史さん:01/11/25 18:24
>>72
詳細キボンヌ
7472:01/11/25 19:51
http://www.tsogen.co.jp/library/sinkan.html
いしいひさいち「ほんの本棚」(創元文庫)で
鈴木真也『鉄砲と日本人』(ちくま学芸文庫)評して、

「三段射撃はウソだをはじめ、戦国時代の通説、俗説を片端から論破。
ともかくアグレッシブに片端から傍証、論拠をしめし論理的にウソと説破していく姿が
まるで酒に酔った親父がちゃぶ台をひっくりかえすような小気味良さを感じる。
・・・が、あんまりふんぞり返りすぎて、ひっくり返らないか心配だ」

みたいな文章かいてた。
ま、いしい自体がディレッタントだから、適正な評とはまるで思わんけど、
この手の軍事スレッドみてると、まあ、鈴木氏自体の執筆の内容、アグレッシブ言うのも
あり得るかなあ思います。

おれ、『鉄砲と日本人』未読なのです
75日本@名無史さん:01/11/25 22:46
火縄銃を見ていて常々疑問を感じている事がある。照準をつける出っ張り、
何故後ろ側に穴が空いているのか?それも横穴???
76日本@名無史さん:01/11/26 00:43
名すれage
77日本@名無史さん:01/11/26 05:00
>>71
どうだろう?
明のやつは「銅銃」の発展形だけど、
日本にはあくまでも「火縄銃」の発展形だからね。
ただどちらにしろ「イロモノ」であることに変わりは無かったんだろうけど。
78大和@名無しさん:01/11/26 12:31
土硝法ですか。ウンコ煮詰めて火薬を取り出す・・・。
「やけくそ」の意味がわかったような気が。
79日本@名無史さん:01/11/26 12:53
地中にいる硝化菌(窒素化合物や空気中の窒素を取り込んで
硝酸塩を作るバクテリア)の利用した硝石製造法。
日本では加賀藩が越中五個荘でやっていたのが有名。
80日本@名無史さん:01/11/26 12:59
槍隊の繰り掛けイメージで、40〜50丁ずつの火縄銃が三段撃ちする
ことなら、ありうるのでは?<多段撃ち(二段撃ちの記録もあり)
あと、「槍玉」に挙げられるというのが5〜6本の槍がひとりに集中する
ことを意味ように、「鉄砲玉」40〜50発が、旗指物をつけた武将達に、
「右、武田菱、狙え、放て」と指揮されて撃ち込まれるというイメージで
正しいでしょうか?
81日本@名無史さん:01/11/27 06:12
ま、あげとく。日本史、もうこのスレくらいだろ。まともなのは
82日本@名無史さん:01/11/27 22:15
日本のグスタフ・アドルフは織田信長だと思う
83日本@名無史さん:01/11/28 01:02
>>82
それを言うなら雑賀衆だろう。
84日本@名無史さん:01/11/28 01:09
雑賀衆の誰かに君主としてのビジョンがある?
85日本@名無史さん:01/11/28 01:13
>>84
軍事家としての評価
グスタフ・アドルフ>雑賀衆>>>>>>信長

君主としての評価
グスタフ・アドルフ>>>信長>>>雑賀衆
861:01/11/28 08:35
勝手なこといって悪いんですけど、できれば人物の比較はご遠慮願いたいんですけど…
それやりだすと絶対荒れるんで。偉そうなこといってスマソ。
87日本@名無史さん:01/11/28 09:49
>>86
まあ、許してやれよ、それを言わないと夜も日も眠れない
欲求不満がいるってこった。
88日本@名無しさん:01/11/28 12:49
雑賀衆や根来衆が当時一番鉄砲技術が上手かった。
ただ、信長の様にビジョンを持って行動していたかについては、否定。
傭兵としては有能。そこを利用したのが本願寺勢力。
8982:01/11/28 22:23
>1
うわははは。まあ、沈みそうだったので、こてこてな煽りですたい。
誰も本気でしんじませんがな
90日本@名無史さん:01/11/29 13:56
>>75
あのヨコ穴につくモノを見たことある人ほとんどいないのじゃないかな?
少なくとも学芸員や学者の90%以上は知らない筈です。あそこには照尺
(照準装置)が付いているのです。但しピン一つで取り外せ、且つ大名は
御身守るために照準は家臣には貸すだけで銃と一緒には預けないのです。
そのため照尺の無い火縄銃が大量に現存し、日本の鉄砲には照尺がないと
思われているのです。照尺付き火縄銃は1挺だけ見ました。ピンを取って
照尺を外すと見覚えのある形でした。
911:01/11/29 20:33
>>90
初めて聞きましたよ、その話。
照準機があるのかないのかすら知らなかったです。
そんな自分にちょっと鬱…
火縄銃でのピンポイントの狙撃って実際どのくらい命中率があったんですか?
92日本@名無史さん:01/12/01 04:53
はげ
93日本@名無史さん:01/12/02 17:38
>>91
静止目標相手でも、50メートルの距離で散布界が30センチ以上。
お互い動く戦場では名手でも10間(18メートル)以内まで
引き付けるのが良いとされた。
ヨーロッパでは「騎兵は白目が見えてから撃て」というぐらい
「引き付けること」が重視された。
94日本@名無史さん:01/12/02 18:13
火縄銃の有効射程距離が50メートルそこそこなら速射に優れる弓矢の方が実戦においては役にたったのではないでしょうか。火縄銃のメリットはどこにあったのでしょうか。
95日本@名無史さん:01/12/02 18:23
すいません、他のスレに書き込んだ者ですが、
信長の鉄砲の最新の研究史をまとめてある本がありましたら教えてください。
このスレの人はけっこう詳しそうなんでわかるかなと、思って書き込みました。
よろしくお願いします。
961:01/12/02 18:31
>>94
やはりその轟音でしょうか。
あとは威力が大きかったのかも。
弓と違って習熟していなくても威力のある攻撃を遠距離から浴びせられる、とか。
97日本@名無史さん:01/12/02 19:49
>>56
毛利氏は火薬の入手が容易で、製鉄の技術がありながら、
なぜ山陰地方に鉄砲の生産地を作ろうとしなかったの?
98日本@名無史さん:01/12/02 21:26
弓というのはそんなに習熟するのに苦労するものでしょうか?よく学生が部活で弓道をやって的に矢を当てていますがそんなに難しいものでしょうか?特に日本では硝石が得られず輸入に頼っていましたがそれを考えると弓矢の方がメリットが大きいように思えます。
99日本@名無史さん:01/12/02 23:42
>>98
弓を確実に当てられるようになるのに3年位時間がかかります。弓道の段位で
必中の義務は4段以上。素人がわずか28m(的の大きさは胴体の太さと同じ)
射程で人間に当てるのは100本の1回位です。弓の有効射程は2m位です。
(念のため私は弓道やってますから…)
鉄砲は100m先でも10cmの松の木撃ち抜けるそうです。照尺をつけて、
個々に調整すると(照尺の役割は弾道調整が主な役割です。固定した上で何十
発と試し撃ちをし、その銃の最命中位置を測定してその位置に狙いが定まるよ
うに照尺を調整します。これを偏差値調整と言います)、丸弾を使っても格段
に命中率が上がります。この状態での有効射程は素人でも100mです。
100日本@名無史さん:01/12/03 11:14
鉄砲で撃った猪や鹿の肉はあまり美味しくない、と言って
槍で立ち向かう猟師の話をどこかで読んだな
101日本@名無史さん:01/12/03 23:24
>>99
その話、日本史板ではデフォになってますけど
こういう話知っていますか?
現在海外で日本のおのぼりさん向けに射撃ツアーやってるところは
いくらでも有ります。
行って来た人は皆、「素人でもまっすぐ正面なら簡単に当たる」と言います。
ところが、その手の店は大概素人も簡単に命中させることが出来るように
弾丸の火薬の量をワザと減らしている場合が多いのです。
反動が小さいので狙いが逸れないわけですね。
火縄銃の貫通力は松の板5枚ぶち抜くと言われますが
鎧武者を殺すために当然火薬の量はマックスに近く必要とされます。
その場合、反動によって操作は著しく難しくなります。
あなたのおっしゃる「素人同然でも有効射程100メートル」とは
火薬を減らした『ただ中てる』だけの場合の話では?
102日本@名無史さん:01/12/04 15:46
適当な静止した的に命中させりゃそれでいい趣味やスポーツでの射的と、
敵からの攻撃の恐怖に晒されながら動き回る相手を確実に命中させなきゃならない戦場での射的じゃ全然違うと思う。
103日本@名無史さん:01/12/05 01:33
>>98 >>99
まず>>99氏、弓はどのくらいの強さのものをお使いですか?
>>101氏が鉄砲についた述べられたのと同じで、戦場では弓矢も
非常に強いものを使います。
現在弓道用に売っている弓は引くのに必要な力が5kgぐらいからあります。
が、戦国時代の弓はこれが40〜70kgです。
「三人張り」「五人張り」といったものになるとこれがさらに
200kgや300kgになります。
こんなものを使うのですから、技術も体力も必要です。
その代わり、殺傷距離は30m、有効射程80m、最大射程380m
という報告もなされています。
鉄砲だと殺傷距離100m、有効射程200m、最大射程500mなどと
言われておりますが、困ったことに当てるのが非常に難しい。
ライフリングも無く、銃の口径は製作者によってバラつきがあり、
弾の大きさもバラつきがあります。これで正確な射撃は非常に難しい。
お互いに動く戦場で、確実な命中を狙うなら十間(18m)まで
敵を引きつけたと言われています。が、これでさえ「鉄砲上手」の
逸話ですから、一般の鉄砲足軽ともなるともはや定かでは無いのです。
104日本@名無史さん:01/12/05 07:16
弓の有効射程2メートルってのはいくらなんでも・・・
それじゃ、長槍の方が長いよ。
20メートルの間違いじゃじゃの?
105日本@名無史さん:01/12/05 09:33
>>94
銃の方が、携帯性に優れてるんじゃないかな?

矢千本より、弾千発の方がコンパクトだよね?(でも、弾の方が重い?)
106日本@名無しさん:01/12/05 10:52
火薬の調達に関しても、土地ごとに難易の違いがあったんじゃないかな?
鉄砲火薬の調合法も、刀剣の鍛造法みたいに秘伝扱いだったとか。
さらに、鉄砲鍛冶の存在も。
新しい武器である鉄砲を製作できる鍛冶屋の総数、依頼先と注文数、可能生産数、
火薬の生産地と生産量、らの工業的視点も必要と思われ。
いくら欲しくっても、先行依頼分が詰まっていたら、なかなか手に入らないし。
さらに製造コストも鎧一着分はしたらしいし。
107日本@名無史さん:01/12/05 11:31
文献名は失念したが、火縄銃(ゲベール銃だったかもしれん)
の有効殺傷距離は二十間、ということが書かれていたのだが?
距離はともかく、とにかく引き付けろという意味だったのだろうか・・・。

あと、弓の話だが「鉄弓」という代物は実際に使われていたのかね?
108日本@名無史さん:01/12/05 21:01
今このスレ見つけたんだけど、長篠の戦の話ってもう終わっちゃった?
最近の有力な説とかどうなってんのかな。
研究史きぼーん
109日本@名無史さん:01/12/06 01:08
火縄銃の威力は、色々あるが、データによると現代で言うと
コルト38ショートより、やや上ぐらいの威力。
中型ピストルぐらいです、鉄砲は滅茶苦茶重いです。
弾は火縄銃の方が重い。
殺傷能力は十分。
110日本@名無史さん:01/12/06 01:10
日本で、フリントロック式の銃が、発達しなかったのは、良質な
火打石が取れなかったことも有ります。
1111:01/12/06 04:27
>>109
火縄銃は現代の銃と違って鉛の柔らかい弾を使うので
運動エネルギー以上の威力が出ると聞いたのですが実際はどうだったのでしょうか?

>>108
長篠の戦いの話はまだ出てないです。
本についてはこのスレの最初の方にいくつか名前が挙がっているので
そこらへんを読んだらどうでしょう?
112日本@名無史さん:01/12/06 07:56
>>111
柔らかい鉛の玉を使うと貫通力は落ちる代わりに
体内でグチャッと潰れるので殺傷能力が高まります。
頭より胸や腹を狙うのが普通でした。
113日本@名無史さん:01/12/06 12:00
>>112
そうだね。
弓は命中しても致命傷にはならない。毒矢にしても即効性があるわけではなく、
軽症なら獰猛な戦士たちを凶暴化させたりもする。
一撃でしとめる鉄砲の威力は絶大だったでしょう。
114日本@名無史さん:01/12/06 12:14
弓には習熟度が必要なほか、実戦的にも
弓が効果を発揮するのは50mくらいでしょう。せいぜい30m。
有効射程距離ぎりぎりです。
それ以上接近すると白兵戦となる。

もっとも命中率が高く、効果的な打撃をあたえるには水平射撃で
相手の胴、顔面を狙うのでしょうが、白兵戦にもつれこまない
前提とすると局面が限定されてくるのではないか。
城の上から寄せ手に射掛ける場合、日本の足軽の陣笠は相当程度
防御に効果があったろう。

矢の発射速度が速くても、その効果を鉄砲以上に発揮できるのは
50m以上くらいの遠くからの一方的な射点を得るという条件付
ではないか。そうなると命中率、打撃力が落ちてくる。

鉄砲の場合、白兵戦を回避できる距離から安定した射撃効果を
発揮できる。
そんなところでは?
115日本@名無史さん:01/12/06 15:58
でも、弓は少なくとも非常に多用されましたよ。
それに鉄砲には及ばないまでも、わりと有効だったとは思います。
戦国期においても弓は非常に多く使われ、
関ヶ原の闘いにおいてすら、死傷原因の三位でした。
ちなみに一位が鉄砲、二位が槍、四位が刀
116日本@名無史さん:01/12/06 20:30
>>114
それで白兵戦にならないのが戦国時代というか。(中世までも日本もだけど)
文献で見る限りではもし正面衝突の場合はかなりの近距離で
弓矢鉄砲の撃ち合いをし、どちらかが崩れ始めてから始めて
接近戦に移行(つまりは追撃)したんですね。
117日本@名無史さん:01/12/07 03:33
>>116
戦術が進歩するほど白兵戦は少なくなるでしょう。

射撃戦で不利になった側が後退するか、白兵戦に活路を見出す。
また、射撃戦で崩れた相手を見て一気に殲滅を狙うために
有利な側が白兵戦を挑む、ないし追撃する…という展開ではなかった
でしょうか。
また、攻城戦では降伏がない限り白兵戦は避けられませんでしたが、
それに至るまでは、射撃戦が続く。
まあ、誰が考えても当然でしょうが。
118日本@名無史さん:01/12/07 08:18
そういえばフロントミッションやった時も
最初は必ず遠距離からミサイルで痛めつけてから接近したなぁ。
自軍の被害を少しでも減らしたいと思うのは
指揮官だったら誰でも考える事だろうしね。
119日本@名無しさん:01/12/07 11:22
・・・火薬の調達と扱いに習熟しているか否かも一因だな。
雑賀衆は火薬の扱いに習熟していたために、鉄砲への馴染みも早かったと思われ。
あと、火縄銃って撃つと銃身内部に火薬の燃え滓が溜まっていくから、5〜6発も撃つと
もう使えなくなるんだって。
120日本@名無史さん:01/12/07 14:24
>>119
んなこたーナイデショ。
限界はあったにせよ。
121日本@名無史さん:01/12/08 00:24
>>120
いや、本当。
だがそれで撃てなくなるわけではない。
使用する弾をだんだん小さいものに変えていく。
ただし筒の口径に合わない弾丸を撃つことになるから、命中率は落ちまくり。
122日本@名無史さん:01/12/08 21:55
121 勿論、掃除するから何発でも打てるよ。
123日本@名無史さん:01/12/09 00:47
日本国内でも土硝法で硝石を生産していたそうですがどの程度の生産能力があったのでしょうか。
124日本@名無史さん:01/12/09 00:55
火縄銃もいいが、アズマをどうにかしようよ
125日本@名無史さん:01/12/09 00:56
お互い別のスレで話せば良いだけの話。
126日本@名無史さん:01/12/09 14:20
>>121
なにかトンデモ説のような気が。マジですか?(w

5,6発打って次には小さい弾を用意。
そんな細かな芸当(=弾丸の生産体系)をしていましたかねえ。
そんな状態ならツッコミ(弾が出ない)が生じるはずですが、
どうするのですか?それで銃はパーでしょう。
そのために銃口から掃除をするのではないですか?

わずか5,6発で使えなくなるようなものがあれほど普及するはずがありません。
費用対効果マイナス。
127実験室の名無しさん :01/12/09 14:50
>>123
土のカリウム含有度にもよるけれど、黒土1キロからだけだと10グラム前後。
そこへ糞尿や草木灰などを追加すると、場合によっては100グラム前後まで
増加する。さらにアルコール(焼酎)で精製することで硝石以上の純度になる。
128日本@名無史さん:01/12/09 17:27
>>126
砲術の本にも「秘伝」として伝わってるホンモノですよ。
銃口からカルカを突っ込んだぐらいじゃ火薬カスってのは落ちませんから。
尾栓のネジを外して水洗いして乾かさないとダメ。
129101:01/12/09 23:37
>>126 >>128
薬莢がない時代ですからね、
確かに有りそうなことです。
そう考えると鉄砲が全軍の三分の一を占めるようになってからも
弓足軽隊が必要とされた理由が分かる気がします。
130日本@名無史さん:01/12/10 00:40
加賀で土硝法にて硝石を生産していたらしいですが、他の地域では土硝法では硝石は作れないのでしょうか?
131日本@名無史さん:01/12/10 00:42
自分がせっかく書いたレスが、アズマの駄スレageのお陰で
誰の目にも触れる事無く沈んでいって悔しい思いをした経験
ありませんか?


アズマの暴挙は一年にも渡って続いています。
放置を続ける限りアズマは此処を去らないでしょう。

そろそろ、アズマを何とかすべく行動すべき時ではないでしょうか?
まずはローカルルールの設定からでも同意していただけませんか?
132日本@名無史さん:01/12/10 21:07
江戸時代には日本全土で猟師が鉄砲を使うようになっていましたが、
その鉄砲や火薬はどこで作られていたのですか?
堺や国友から製法が伝わったんですかね?
133セーラー服と火縄銃:01/12/11 03:12
種子島でポルトガル人から従をもらったとき、何語で話したの?
134日本@名無史さん:01/12/11 05:00
>>126
しかし鉄砲の弾がなくなって困ったという記録はあっても、
撃てなくなったから困ったという話は聞いたことがないが。
その話だと、鉄砲兵は5,6発の弾丸しか携行していないことになる。
135日本@名無史さん:01/12/11 21:37
>>133
通訳に中国人がいたと言われてますね。
その通訳が倭寇の頭目の一人王直だったとかなんとか。本当かどうかは知りませんが。

そもそも火縄銃は合戦中どのくらい使われたんでしょうか?
相手が必中距離に入ってから一人あたり2,3発ぐらいでしょうか?
1361:01/12/12 03:48
名前入れ忘れてた。
135=1です。
137北条たん:01/12/12 04:12
>>130
江戸時代の物産名鑑みたいのを見てたら、
飛騨や米沢も硝石の特産地として出ていた。
138日本@名無史さん:01/12/12 04:15
>>137
ハンドル消し忘れか?
お前が色んなスレage荒らししてるのが分かったぞ
139北条たん:01/12/12 04:21
あげ荒らしってどういうことだ?
おれは歴史の話をしにきてるだけだ。
あまえのアズマだウヨクだというクソスレに協力しないからといって、
それをあげ荒らし呼ばわりか。
138の無意味なレスこそ荒らしだろうが。
140日本@名無史さん:01/12/12 04:47
皇族礼賛系以外はあらしと認定する
141:01/12/12 05:34
勝手なこと言うな!ヴォケ。
142日本@名無史さん:01/12/12 07:22
荒らしやら罵倒は余所でやっていただきたいんですが。
143日本@名無しさん:01/12/12 11:22
合戦が終わるたびに銃尻のねじ外して水洗いでしょう。
合戦中に銃を洗浄するなんてヒマありませんから。

すると、戦国時代の合戦パターンは、

まず遠距離武器の弓や銃を撃ち続ける。
 ↓
弾や矢が尽き、弓は弦が緩んで、鉄砲は銃身に火薬の燃え滓が付きまくって撃てなくなる
 ↓
槍足軽部隊による中距離攻撃に移行

というパターンかな。
144通行人:02/01/03 23:01
dane
145日本@名無史さん:02/01/05 19:25
>だんだん玉を小さくしていく
故稲垣史生先生が『時代考証事典』をはじめ、あちこちに書いて、
故所荘吉先生も、『図解古銃』の射撃手順の分解写真で、
少しずつ小さくした鉛玉を入れた早合を用意するところに
「砲術の『秘伝』にある」と(是非には触れずに)キャプションを
つけていた。
名和弓雄先生は一貫して、そんな悠長なこと、戦場では出来るかい、
と主張していらっしゃる。
世界前装銃射撃協議会では、規程の14発撃つ間、銃腔内を洗浄してはならない、
とのこと。まあ、現在の装薬は燃え滓が少ないのだろうけれども。
慶長役、蔚山篭城で浅野長慶(幸長)は自ら鉄砲を撃ちまくり、銃身が焼けて
狐色になったものを「狐筒」と名付けて家宝にしたそうな。
それほどまでに加熱するには、三十発は撃たないとならない、とも名和先生は
書き述べられている。
146たまに書き込むとこれだ
>145

×世界前装銃射撃協議会→○世界前装銃射撃競技会
×三十発は撃たないと→○三十発は連続して撃たないと