先ずは、九州説に有利な点は、
1 記紀伝承の根幹として、大和朝廷の九州建国、東遷、東征説話等は無視できない。
2 邪馬台国のベースとなりうるような弥生期以前の遺跡等は九州に多く、畿内大和ではかなり貧弱である。
3 地理的に朝鮮半島に近く有利。
次に不利な点
1 卑弥呼に100枚賜与されたという魏鏡の出土例が少ない。
2 「邪馬台国」に比定される地名が遺跡を伴わない。
3 倭人伝の距離記述と大きく矛盾する。
有利点・不利点まだまだたくさんありますけどね。
あら〜ん。やすもとさん、オ・ヒ・サー。
最近つれないんじゃな〜い?
ヒ・ミ・コ・サ・ビ・シ・イ♪
邪馬台国→大和朝廷は
永遠の謎
でも、天皇陵を調査すれば
一発でわかうこと
>>1 不利例の1の卑弥呼の鏡は、現物が特定出来ていないので判定しようがない。
不利例の2の地名については山門説には有力遺跡がない・・・とか言う意味なのか?
不利例の3の倭人伝の経路記述は、畿内説にとっても大問題だと思う。
いずれも、とりわけ九州説に不利というわけじゃないと思うのだが・・・どうだろう?
5 :
日本@名無史さん:01/11/04 19:10
九州説に有利な点の4
狗奴国との位置関係。
6 :
日本@名無史さん:01/11/04 19:25
>>4 >不利例の1の卑弥呼の鏡は、現物が特定出来ていないので判定しようがない。
特定できない時点でもう決定的に不利ってことでしょ。
>不利例の2の地名については山門説には有力遺跡がない・・・とか言う意味なのか?
山門説に限らず、どこの遺跡も地名が邪馬台と結びつかない。
>>5 どうしてそれが有利な点になるの?
卑弥呼の鏡について特定できないことは、畿内説とっても同じでないの。
8 :
日本@名無史さん:01/11/04 20:32
卑弥呼の鏡については畿内説の人の間では
三角縁神獣鏡説と画文帯神獣鏡説、それらの組み合わせ説などあり。
それぞれ主張するところがある。
現物が特定出来ていないので判定しようがないなんて逃げは言わない。
9 :
日本@名無史さん:01/11/04 20:39
三角縁の舶載鏡だけでは枚数が足りない。
画文帯神獣鏡を足したところで100枚には遠く及ばないが。
10 :
日本@名無史さん:01/11/04 20:43
>>9 >三角縁の舶載鏡だけでは枚数が足りない。
枚数が足りない? 三角縁の舶載鏡は何枚だというの?
11 :
日本@名無史さん:01/11/04 20:46
12 :
日本@名無史さん:01/11/04 20:53
どういう理由で三角縁の舶載鏡だけでは枚数が足りないと言うわけ?
13 :
日本@名無史さん:01/11/04 20:56
それよりここは「邪馬台国九州説を生真面目に検証してみる」ってスレだ。
卑彌呼の鏡は何なのか九州説の人に聞いてみようぜ。
14 :
日本@名無史さん:01/11/04 21:02
椿井大塚山や黒塚等で出土した500枚の内、どれとどれが舶載鏡なのでしょうか?
15 :
九州説じゃないけど:01/11/04 21:14
三角縁より青龍三年銘方格規矩鏡の方を重視すべきだと思われ。
17 :
日本@名無史さん:01/11/04 23:08
だいたいだな〜
畿内説では、
@△◎全部魏鏡
A△◎一部魏鏡、大半踏み返し
B△◎全部楽浪鏡
C画文帯神獣鏡が下賜鏡で、△◎はそれを模した国産
などがある。
@は、日本考古学の父、小林行雄先生が主張され昔は主流だったが、今はあんまりいない。
最近福永・西川氏が唱えるBがはやり。
九州説は、内行花文鏡や方格規矩鏡等を下賜鏡とする。
だたし、王氏などの畿内説の中国の学者や畿内説の柳田氏も同様の主張をしている。
18 :
日本@名無史さん:01/11/05 00:00
>九州説は、内行花文鏡や方格規矩鏡等を下賜鏡とする。
>だたし、王氏などの畿内説の中国の学者や畿内説の柳田氏も同様の主張をしている。
ちゅーのは、それらの鏡は3世紀には特に九州を指向してないという歴然たる事実があるんだ。
だから九州説が内行花文鏡や方格規矩鏡等を下賜鏡とするのは無理があるってこと。
それは、歴然と言えるほど確立した学説ではない。
有名どころでは、
柳田氏は、大型内向花文鏡等を出土する平原墓について、
出土のガラス管からほぼ古墳時代に並行することを示唆している。
王氏など中国の学者は、そもそも三国時代の中原鏡が内行花紋鏡や
方格規矩鏡等であると主張。
ということでそういう説もあるが、定説ではない。
20 :
日本@名無史さん:01/11/05 06:48
>柳田氏は、大型内向花文鏡等を出土する平原墓について、
>出土のガラス管からほぼ古墳時代に並行することを示唆している。
その鏡が日本製だともね。
>王氏など中国の学者は、そもそも三国時代の中原鏡が内行花紋鏡や
>方格規矩鏡等であると主張。
それが安満宮山のような復古鏡だともね。
九州で豊富に出てるような鏡種が卑彌呼の鏡だと言ってるのは誰?
21 :
日本@名無史さん:01/11/05 18:44
検証するっていうかけ声はいいけどさ、同じ九州説でもその実体はまるで違うだろ。
もうちょっと細かくわけないと意味ないよ。
九州説に有利な点なんて言っても、
九州説Aには有利だけど九州説Bには痛恨の一撃だったりするわけで、
全ての九州説に共通する根拠なんていまだかつて聞いたことがない。
いいかげんで、九州説なんていう訳のわからない実体のないものは捨てて、
宇佐説とか、甘木説とか、具体的な地名を挙げて議論しないとしょうがないぞ。
実際、九州説同士でどれが一番もっともらしいかを議論すれば邪馬台国論争は決着するよ。
九州説がいかにいいかげんな根拠で出来上がってるか痛いほどわかるからね。
22 :
1(実は畿内論者):01/11/05 21:46
>>21 お説御もっともです。
では、その内の一つ、かっての九州代表でもある筑後山門説についてはいかがでしょうか?
最近は、新たな解釈、考古学的進展も無く決め手を各状態ですね。
先ずは主な論者 これは、なかなか面子がそろっています。
新井白石 津田左右吉 榎一雄 牧健二 橋本増吉 星野悟
井上光貞? 藤間生大? 森浩一?
次は、倭人伝の路程解釈
大概は、伊都国から放射状に読む論者が多い。日数問題の解決策は未定。
卑弥呼の墓 決定的な定説はない
卑弥呼の鏡 上記に同じ
狗奴国 肥後菊池郷等 狗古智卑狗を菊地彦にあてる論者が居る。
大和朝廷との関係 在地の女酋と見る説多し、その後東遷したとする説や狗奴国が東遷したとする説有り。
その他 邪馬台国を中国上古音で発音した場合、奈良時代以前に日本で行われていた8母音制の音と
音素が一致しないとの指摘もある。
以上は概略のつもりなんですが、支持者の方がいらっしゃいましたら補足等お願いします。
23 :
西都原古墳祭り:01/11/05 22:20
卑弥呼の古墳は、九州宮崎県西都市西都原古墳群の中にある男狭穂塚である。
直径150mのその円噴(帆立貝型古墳)が魏志に表現された「径100余歩の円墳」の物的証拠である。
この厳然たる証拠を隠蔽するために、「西都の古墳は”5世紀のものである”」と、考古学お得意のでっち上げが行われ現在に至っている。
24 :
日本@名無史さん:01/11/05 23:29
>>22 築後山門?
>1 記紀伝承の根幹として、大和朝廷の九州建国、東遷、東征説話等は無視できない。
これは有利というより、不利な点だね。
>2 邪馬台国のベースとなりうるような弥生期以前の遺跡等は九州に多く、畿内大和ではかなり貧弱である。
これもだね。築後山門も遺跡は貧弱。なんかある?
>3 地理的に朝鮮半島に近く有利。
福岡・前原などには負ける。
築後山門の有利な点てなに?
25 :
1(実は畿内論者):01/11/06 00:01
豊前宇佐説の概要は次のとおり
論者 富来隆、神西秀憲、市村其三郎、松本清張、高木杉光、黒岩重吾、井沢元彦
倭人伝の路程 各説とも榎方式と方位修正を組み合わせたり、地形・地勢の特殊性により、
宇佐神宮まで辿り着かせます。
卑弥呼の墓 宇佐神宮の亀山、末社の百体神社が「奴婢百余人」の殉葬地
卑弥呼の鏡 不明
大和朝廷との関係 卑弥呼は宇佐神宮の比売大神または天照大御神、神功皇后であり、4世紀に東遷したとする。
26 :
日本@名無史さん:01/11/06 01:03
邪馬台国九州説の決定的に不利な点は
邪馬台国九州説を生真面目に検証してみる気のある人間がいないことのようだな。
27 :
日本@名無史さん:01/11/06 17:57
>>25 宇佐説?
1のあげた『九州説に有利な点』とかいうものからすると最悪だよね。
>1 記紀伝承の根幹として、大和朝廷の九州建国、東遷、東征説話等は無視できない。
東征説話によれば、神武は(船で)宇佐以外からやってきて短期間(一ヶ月未満)だけ宇佐に滞在して
岡田宮へ移るんだから、記紀伝承が無視できないなら宇佐ではありえない。
>2 邪馬台国のベースとなりうるような弥生期以前の遺跡等は九州に多く、畿内大和ではかなり貧弱である。
宇佐もほとんどめぼしい弥生以前の遺跡はなく貧弱。大和がダメなら宇佐もダメ。
>3 地理的に朝鮮半島に近く有利。
遠い。畿内に比べれば近いだろうけど、これは、目くそ鼻くそと言うヤツ。
宇佐を考える理由って何?
28 :
日本@名無史さん:01/11/06 18:23
第二次世界大戦、最初に玉砕したのは北の島アッソ島だったという。
けれどすぐそばにあったキスカ島、アッソ玉砕を聞いて密かに島を抜け出した
全員勿論無事だった
敵は気づかなかったそうだ
何故か誰もいなくなった島からたくさんの人の気配があったからだという
アッソ島の玉砕者が幽霊となってキスカ島の撤退者を守ったんじゃないかと言われる
「キスカ奇跡の撤退」・・・温まる?
29 :
日本@名無史さん:01/11/06 18:23
>28
あれ、何故かスレ間違えた;ごめんなさい
30 :
日本@名無史さん:01/11/06 18:29
>>23 それなら何故、水行10日、陸行17日と書かなかったの?
31 :
1(実は畿内論者):01/11/06 21:09
九州説各説の概論の続き
邪馬台国福岡説
論者 「『邪馬台国』はなかった」の古田武彦
倭人伝の路程解釈 周代短里説を採用、榎方式を採らず、先行動詞の有無により分岐させる古田方式により福岡市へ導く。
「水行十日陸行一月」は、全行程1万2千余里を日数で表記したと解する。
卑弥呼の墓 不祥
卑弥呼の鏡 板付付近で出土する漢代の伝世鏡等とする。
大和朝廷との関係 5世紀以降まで続く九州王朝を主張する。
その他
「魏志倭人伝」の現存するすべての木版本は邪馬臺(台)国ではなく邪馬壹(壱)国と記されている。
との指摘は有名ですね。
32 :
日本@名無史さん:01/11/06 21:30
そして「水行十日陸行一月」は、全行程だというのは漢文の読解としてはまったくありえない苦肉の局読なのだな。
卑弥呼の鏡が漢代の伝世鏡等というのも考古学的にはありえない時代錯誤。
九州王朝というのも史料の恣意的つまみ食いで生み出した幻想王朝なのだな。
ちなみに邪馬壹国は単純な筆写ミスと言うことで決着済み。
33 :
日本@名無史さん:01/11/06 21:39
>「水行十日陸行一月」は、全行程だというのは漢文の読解としては
>まったくありえない苦肉の局読なのだ
そりゃちがうだろ。
そこはそこだけ見れば「水行十日and陸行一月」とも「水行十日or陸行一月」とも解釈できる。
ただ「水行十日and陸行一月」の方が漢文として多少自然な感じがするという程度。
34 :
日本@名無史さん:01/11/06 21:51
>33
反論がずれているのでは?
>32は、「水行十日陸行一月」とは、帯方郡から卑弥呼の居所
までの全日程のことである、とする古田説を批判しているのでは?
35 :
日本@名無史さん:01/11/06 21:59
あ、そうなの? スマン、スマン。
九州説概論その4
お次は、邪馬台国・甘木朝倉説
現代九州説ではもっとも信者(失礼!)が多いと思います。
論者は 数理歴史学者 安本美典
倭人伝の路程解釈 不祥
卑弥呼の墓 不祥(比定地付近には、多数の弥生・古墳期の墳墓がある)
卑弥呼の鏡 不祥(比定地内の遺跡からは、内行花文鏡等が相当数出土)
大和朝廷との関係 記紀神話の「数理」解析により卑弥呼を天照とする。
「邪馬台国東遷説」を主張。北九州と畿内大和の地名の対照等をその傍証とする。
37 :
日本@名無史さん:01/11/06 23:58
それ、ぜんぶ不詳じゃねえか!(「不祥」ってイミシン・・・)
38 :
日本@名無史さん:01/11/07 00:08
>「数理」解析により。。。
ブッ笑わせるなよ!
39 :
日本@名無史さん:01/11/07 00:31
邪馬台国が沖縄であることを知らない馬鹿がいるな
40 :
日本@名無史さん:01/11/07 00:37
井沢の宇佐説こそ唯一検討に値する九州説ですね。
これ以外ないでしょ
41 :
日本@名無史さん:01/11/07 06:32
邪馬台国九州説のひとは自分の説を真面目に検証する意思も能力もないようだ。
42 :
日本@名無史さん:01/11/07 10:52
>>40 井沢のUSA説だって? ありゃあ高木の神津恭介小説のパクリじゃないか(藁
その高木の小説も古田その他の九州説のパクリで、松本清張に作家のモラル
に欠けると厳しく指摘されたものだぜ! あんた知ってて言ってんの?
43 :
日本@名無史さん:01/11/07 10:59
井沢のUSA説だって? ありゃ名探偵神津恭介のパクリじゃないか(藁
もっとも神津恭介も古田説その他の九州説のパクリで、松本清張に
作家のモラルに欠けると噛みつかれた代物だ!それを知ってて言ってんの?
44 :
日本@名無史さん:01/11/07 11:50
40じゃないですけど、大和説の人はよく
「百歩譲っても宇佐に数パーセントの可能性を認める程度、その他の九州説はトンデモ」
って言いますよね。
別に井沢って訳じゃなく、昔からある説でしょ?宇佐って。
45 :
日本@名無史さん:01/11/07 14:29
>>44 本気かい? 邪馬台国のことなんかまったく知らない井沢信者を除いて、
宇佐を支持する学者(在野を含め)、マニアの意見なんて聞いたことがないぞ!
その他の九州説
南九州諸説
菊池説、田川説、八代説、薩摩・大隈説、日向説、阿蘇説、山鹿説、島原説等多数
論者 本居宣長、那珂通世、白鳥庫吉、黛弘道、鈴木武樹、原田常治、太田亮、吉田東伍等
総じて倭人伝の路程記述を「読み下して」比定地へ導く。榎式を用いて解釈する場合が多い。
また、「邪馬台」との類似地名を傍証とするものや日向諸説のように記紀の建国神話を論拠と
するものもある。
九州説各論への1的検討
筑後山門説の検証
1 古来よりの地名「山門」と「邪馬台」の類似について
山門は地形に起因した地名であり、山地の近隣部に対してはありふれた呼称である。
まあ、畿内大和の場合にも言えることですね。多少の傍証価値はある。
2 路程解釈について
榎式を用いる説、用いない説があるが、伊都国以前の方位記載についてのズレは無視し
伊都国以降については無修正で南行させるものがほとんどであり、他説にくらべ劣る。
3 卑弥呼の墓、銅鏡
墓・銅鏡問題にかかわらず邪馬台国規模の遺跡が比定地内に見出せず致命的。
最近では、筑後山門は邪馬台国の発祥地だが卑弥呼の時代には、北九州方面に北遷して
いたというような論者もおり、既に「歴史上」の邪馬台国説になっている。
48 :
支持してるわけじゃないけど:01/11/07 23:35
49 :
日本@名無史さん:01/11/07 23:56
>>31 福岡説?
オレ的には、九州邪馬台国の一つの候補として認めることはやぶさかではないよ。
ただし、ただしだ、それは、魏志倭人伝とは全く整合しない、ということを認めた上でのことだ。
古田説支持なんてことでは全くない。
とりあえず倭人伝は忘れてしまって、考古学の成果からみて
『倭国29+1国の都として九州島内ならどこがふさわしいか』、
という問に答えれば、福岡、あるいは、糸島という答えはあり得るだろう。
逆に言うと、これが九州説最大の問題点でもある。
九州島内には倭国の都となり得る地がこれ以外にはないから、
糸島が伊都国、福岡が奴国であることがほぼ確定している状況下では、
九州に倭国の都=邪馬台国を求めることはできない。
邪馬台国が日本のどこにあろうとも、九州では絶対にありえない、
と言われる理由がここにある。
畿内説も九州説も目くそ鼻くそ
里程を正確に解すれば、沖縄以外ありえない。
51 :
日本@名無史さん:01/11/08 00:38
目くそ鼻くそよ と笑う うんこ
虚心坦懐に詠めば、沖縄以外ありえない。
そりゃ、彼らがネットで喚いているだけだよ。
学会見りゃ、そんなことがないことくらい分かるでしょ。
54 :
日本@名無史さん:01/11/08 00:49
おれは、邪馬台国は、近江だと思うが、どうだろうか?
55 :
日本@名無史さん:01/11/08 00:56
おれは北海道だと思うぞ
それは、無茶だろ。
ただ、アンタのようなのが出てくること自体、倭人伝で古代史を解明
することのばかばかしさが現れてるね。
邪馬台国宇佐説の検証(井沢の宇佐説については良く知らないので触れません)
1 「邪馬台」の類似地名について
各論者とも宇佐近辺に類似地名を検出するのに苦労している。
豊前全域から「耶馬渓」「山国」「山戸」等を取り出して関連附けようとしているがどうだろうか?
邪馬台>ヤマト>山門であれば、他の説が採る地形起因地名であり、宇佐周辺の地形からはそのような地名の発生は考え難いでしょう。
2 路程解釈について
中国人の日本列島についての地形誤認説を採り、倭地全体を60〜90度回転させる。投馬国は防府付近とする。
狗奴国や海東の倭種との位置関係も含め合理的に説明できるため方位論的には優位性がある。
しかし、里程・日程的には短里問題や1日の移動距離の制約などを持ち出さないとそのまま倭人伝の記述を採用することは困難で
畿内説より不利である。
3 卑弥呼の墓、銅鏡
卑弥呼の墓は、宇佐・亀山とする説が多いが、宗教施設内で考古学的検証は行われていない。
卑弥呼の鏡は、三角縁は否定、日本各地に伝世の古鏡のなかから見繕う感じであろうか。
4 卑弥呼=宇佐神宮祭神
神宮皇后に比定する意見もあるが、宇佐神宮の信仰が3世紀まで遡れる物か疑問。現在の神宮は、八幡信仰である。
58 :
日本@名無史さん:01/11/08 01:02
邪馬台国は、四国の可能性もあるな。
最近、庄内期の古墳や三角鏡も発見されている。
侮り難し。
59 :
日本@名無史さん:01/11/08 01:07
>56
おいおい、まじめにレスしないでくれよ。
>57
わざわざ検証する必要ないって。
みなさんの真摯さは分かったよ。
60 :
日本@名無史さん:01/11/08 01:08
侮ってよし。
61 :
日本@名無史さん:01/11/08 01:12
沖縄説が無視されている現状は、日本考古学の厨房さを表してますね。
>>61 戸数が少なすぎだからでは?
明石散人氏や、鯨統一郎氏の説も、お話として説得力がある。
東北八幡平説に1票。
63 :
日本@名無史さん:01/11/08 11:30
漏れは断固として大和郡山市を主張する。なぜなら知り合いの女性がミス卑弥呼
コンテストに入賞したのダ(ワラ
古田説への検証(というか疑問)を提示するつもりでしたが、
>>43が一部代弁してくれたみたいなので割愛します。
そのかわりに安本・甘木説への疑問を少々。
まず、地名比定について。安本説では後に邪馬台国は畿内大和に東遷します。
そして、大和の三輪とか春日とか長谷とかの地名の起源も甘木周辺にあり住人おいっしょに
地名も移植されたということなのですが、肝心の「大和」に比定すべき地名が甘木に見出せるのでしょうか?
さらに、考古学的傍証として邪馬台国規模の遺跡が存在するのでしょうか、平塚川添程度では小規模すぎると思います。
65 :
日本@名無史さん:01/11/09 09:02
そもそも類似地名がある場合には、どちらが先行するモノであるかという検証が
必要だ。例えば「小京都」と呼ばれる地方都市では、後世の文人墨客が賀茂川や
嵐山と言うような著名地名を付ける場合が幾らでもある。
甘木と大和に類似地名が存在するならば、甘木の地名が時代的にどの程度遡り得
るのかと言う確認が必要であろうし、大和から移住(或いは赴任)した官人や文
人による仮託ではないかと考える必要もあるだろう。安本は何をもって甘木が大
和に先行すると証明しているのか?
66 :
日本@名無史さん:01/11/09 10:17
安本さんはそれについては証明してないよ
憶測をのべているだけ。
講演とかで直の質問してみると、そんなに自信があるわけでもないようだね。
67 :
日本@名無史さん:01/11/09 13:00
あのさ、甘木周辺っていうけど、どのくらいの範囲を考えてる?
「賀茂川や嵐山」なんて名前がでてくるところをみると、
たかだか数キロぐらいだと思ってるんじゃない?
誰か、実際に地図あたったことある?
68 :
日本@名無史さん:01/11/09 13:48
> ちなみに邪馬壹国は単純な筆写ミスと言うことで決着済み。
これだけはウソ。現存三国志が筆写ミスなのか、三国志を引用した各文献が
著者の学説によって「邪馬臺」と意図的に書き換えられたのかは未決着のはず
だよ。明らかなトンデモ部分(「水行十日陸行一月=全行程説」とか「筑前の
前漢鏡=卑弥呼の鏡説」)などと一緒にしないよーに。
69 :
日本@名無史さん:01/11/09 16:21
邪馬台国九州説の決定的に不利な点は
邪馬台国九州説を生真面目に検証してみる気のある人間がいないことのようだな。
>>そうではなく水行10日、陸行1月は伊都国からだから邪馬台国九州説はおかしい。
畿内説、もしくは南九州「日向」説
70 :
日本@名無史さん:01/11/09 16:28
西都である証拠。
1、地名から(都という文字が後ろにつく。コレは東京「都」、京「都」に近いから宇「都」宮とはワケが違う。「宮」城県が首都でないことからも明らか。最後に「都」という文字がつくのがポイント。)
西都の「西」。もちろん日向地方は九州地方南東部でありさらに西都は東、海岸沿いにある。だから西都の「西」を「ニシ」と読むなんてオカシイではないか。
だからこの西都の「西」とは東西南北の「西。にし」のことではなく、西洲(九州)の都という意味。
2、三角縁神獣鏡も出土。
3、どうして21世紀、ブロードバンドの時代に西都は宮内庁の管理化と言う名目で遺跡(古墳)の発掘調査させないのか。
9割5分以上手付かずというではないか。出土したら困るものでもあるのか?悔しかったら古墳の発掘調査させろよ。
4、初出だがそもそも邪馬台国の場所が特定できないと言うのも変な話である。長岡京や藤原京の場所が特定できるのになぜ邪馬台国だけ特定できないのか?(ある政治的意図(天皇制)を感じざるをえない)
卑弥呼の墓が特定できないと言うのならまだわかる。しかし古代の最大都市であるはずの邪馬台国に魏からの使者、交易求めてやってきた商人、観光目的でやってきた人々・・・等誰か一人くらい自分の日記に邪馬台国の
場所くらいの記載を残したとしても悪くないはず。魏志倭人伝以外全ての古史古伝を偽書のレッテルはりに終始してる畿内説(ウヨ)は正直ウザイ。
仮に京都のような都がどこにあったか特定できないとする。原爆2回落とした上ブルトーザーで更地にして工場なり住宅地にでもなっているのならわからないかも知れない。
だから邪馬台国ほどの規模の遺跡は日本のどこか(九州か畿内)にあるはず。街全体が3世紀のことだからわからないというなら3世紀よりはるかに古い中国の漢の首都もメソポタミヤ文明の首都もエジプト文明の首都もどこも特定できないではないか。
政治的にある意図が感じられるのである。
5、九州(いや畿内含め)最大規模の古墳群遺跡が西都にはある。ついでに九州で一番大きな古墳(オサホズカ)がある。
6、神話伝承の数の上からも日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地こそ西都。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は人口密度が一番高かった。遺跡の数の上から。。。人間が過去そこに住んでもいないのに遺跡だけが残っていたならオ・バ・ケ!
8、朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」
コレだって火のないところに煙は立たないであろう。卑弥呼の墓に尻尾をつけると言うことは卑弥呼の墓が円墳であった証拠。やはり240年代は前方後円墳の時代ではないのだ。
9、まあ好太王の碑文アラシ、カンダンコキの焚書しようとした形跡からこいつ等が卑弥呼の墓を隠蔽しようとしたと疑われても返す言葉ないであろう。
記紀を天皇制に結び付けたい気持ちもわかるが現実は神武も卑弥呼も朝鮮からきたのよ。
コレ認めたくないから邪馬台国の場所がわからないわけ。まあ畿内の仁徳稜にしても同じこといえるが西都の発掘調査させるなら
一気に邪馬台国論争解決するだろう。(ついでに義経ジンギスカン説もね)
オサホズカ、メサホズカ、この2大古墳を中心にして西都原だけでも大小の古墳329を数え付近の川南古墳、持田古墳、
新田原古墳、本庄古墳、生日古墳の各古墳群を合計すると1000以上に上る。
71 :
日本@名無史さん:01/11/09 16:34
南九州説のポイント
大体、三つの基盤から成り立っていることがわかる。
一つ目は、魏志倭人伝において、「海を渡る」「水行」という二種類の記述が
適宜使い分けられていることである。このことから、邪馬台国は九州島内にあった
と考えることができる。
二つ目は、記紀の神武東征説話において、神武天皇が日向の国から出発したと
記されていることである。そして、なぜわざわざ敵地である日向と記述されて
いるかといった疑問から、実際に神武が日向にいた可能性を指摘した。
三つ目は、邪馬台国と大和の名前の類似から、邪馬台国が東遷して大和勢力に
なったという邪馬台国東遷説である。
この三つを組み合わせると、邪馬台国が南九州、とくに日向の地にあった可能性が
高いように思える。
つまり、日向に邪馬台国が存在し、そこから一部の集団(神武率いる)が東征して
大和朝廷(王権)を樹立したという解釈である。その場合、現地に残った勢力は、
隼人として後に大和朝廷と敵対することになったと考えられる。
この説の中心は、なぜ日向から神武が出発したかという点にある。邪馬台国が北部九州で
あれば、わざわざ日向と記さずに筑紫や豊国と記述すればいいし、邪馬台国が元から大和にあれば、
王朝の正当性を主張するために編纂した歴史書において、わざわざ神武が日向から来たなどと記述する
必要は無いのである。
その疑問を手っ取り早く解決すれば、実際に神武が日向の国にいたと考えるのが妥当ではないだろうか。
そして、そうだとすると、日向にあった邪馬台国の勢力の一部が、東に移動して大和になったと考えるのが妥当であろう。
72 :
日本@名無史さん:01/11/09 17:22
なるほど、如何に薄弱な基盤からなりたってるか良く分かる。
要するに神武が日向から出発した。。。ってゆうだけのことなんだね!
73 :
日本@名無史さん:01/11/09 19:36
しかも8世紀の本にそう書いてあるというだけ。
74 :
日本@名無史さん:01/11/09 20:01
日本書紀→卜部本が主流(13、14世紀)
>>67 難波津:那の津というのも有るんですよね。
音素とか適合してるんですかね?まあ、その辺りは安本氏得意の分野でしょうけど。
76 :
名無的発言者:01/11/09 23:02
>70
朝鮮総督府修史委員会の奇妙なウワサ。「黒板を中心とする焚書のウワサ」
もう少し詳しく解説してもらえませんか?
安本説の根幹は、古代天皇の在位年数解釈や古天文学の最近の成果による日蝕歴などから
卑弥呼=天照大神論を導き出したことだと思います。
地名探索の結果、甘木に着目したのも夜須川=天の安川など甘木=高天原説の立場でだと思えるのですが、
それが、いつのまにか邪馬台国になってしまったように見えます。
そのあたりの切り替えの理由が不明でやや胡散臭く感じています。
78 :
日本@名無史さん:01/11/09 23:32
>>77 >古天文学の最近の成果による日蝕歴などから
もったいぶるなよ。アスキーの天文ソフトのことだろ(ワラ
79 :
日本@名無史さん :01/11/09 23:46
西都バカの自作自演>70.71.76
>>78 PC98版を持ってましたよ。
98っていうのはWindowsのバージョンのことじゃないんだけどわかる?
81 :
日本@名無史さん:01/11/09 23:48
>>80 PC98版て書いたら、あの国民機版以外の何を指すんだ?
PC98っていうハードウエアの規格だかなんだかもあるけど、「版」がつけば違うのは自明だろ。
安本なんて大学教授は、誰も相手していない。
その上、政治的に完全に孤立している。
古代史を学びたいならこんなのは無視することだね。
84 :
日本@名無史さん:01/11/10 01:28
すげえ、不便なとこだよ、甘木は。
こんなとこに大国家が、あったなんてないんじゃない。
川添も最近何にも出てこないでしょ。
39 :日本@名無史さん :01/11/07 00:31
>邪馬台国が沖縄であることを知らない馬鹿がいるな
( ̄○ ̄;)!エジプトではなかったのか?
大事な卑弥呼さまを守らなければならないので
奥まったところの方がよかったとは考えられないでしょうか?
違う?
絶対違う?
邪馬台国は「某市」にある。
縦に書くと
某
市
ほうらやっぱり「甘木」だろ?
58 :日本@名無史さん :01/11/08 01:02
>邪馬台国は、四国の可能性もあるな。
>最近、庄内期の古墳や三角鏡も発見されている。
>侮り難し。
三角鏡ねえ・・・。 丸いのしか知らないもので。
邪馬台国は宇佐にあったって、結構説得力あると思うよ。
どうして、弓削道鏡事件で、宇佐神宮のご託宣を仰ぎに朝廷から
行ったのかな? それは史実でしょ。
やっぱり、大和朝廷のルーツは宇佐神宮にあったとしか考えられない。
91 :
日本@名無史さん:01/11/10 12:26
ローマ皇帝がイシスを祀ってたら帝国のルーツはエジプトかい?
吉野ヶ里=邪馬台国説の人っていないの? 人口面では相当なもんなんでしょ、あの辺りってさ。
93 :
日本@名無史さん:01/11/10 15:20
この人は邪馬台国吉野ヶ里説だろうか?Googleで調べた書名しかわからん。
著者 藤沢偉作
書名「邪馬台国は沈まず(潮出版)」
腰巻風アオリ 北九州背振山地と筑後平野を覆う大国家説。統計学者の推理。
同姓同名の著者で大陸書房出版の本もあったので、デンパ系のお方であることは間違いなし。
94 :
日本@名無史さん:01/11/10 16:28
とてもじゃないが真面目に検証する雰囲気じゃないな。
まっ、九州説ってそんなもんか・・
>>70に惹かれたんだけど、この説は発展性があると思うよ。
96 :
日本@名無史さん:01/11/10 17:37
結局九州説って、こういう時にはダンマリを決め込むんだよな。
で、ほとぼりが冷めた頃に出てきて、畿内説は宗教だなどとのたまふ。
>>91 ローマ皇帝がイシスをまつって、彼を祭る聖地に、ローマ皇帝の継承者の正統性
についてご託宣を仰ぎに行ったとしたら、どうよ? ローマ皇帝のルーツは
イシスの可能性が強くなるでしょ。
宇佐神宮のある、高台(古墳)の地下を掘れば、親魏倭王の金印と銅鏡は
必ず出てくるはず。
99 :
日本@名無史さん:01/11/10 18:00
>畿内説は宗教だなどとのたまふ
畿内説は政治だよ、宗教よりたちが悪い
「学閥政治学」に巧みな連中が多いのは確かだが、全員がそうだというのは間違い。
103 :
日本@名無史さん:01/11/10 18:42
沖縄しかありえないことが何故分からないのだろうか?
104 :
日本@名無史さん:01/11/10 18:43
>安本説の根幹は、古代天皇の在位年数解釈や古天文学の最近の成果による日蝕歴などから
>卑弥呼=天照大神論を導き出したことだと思います。
>地名探索の結果、甘木に着目したのも夜須川=天の安川など甘木=高天原説の立場でだと思えるのですが、
>それが、いつのまにか邪馬台国になってしまったように見えます。
>そのあたりの切り替えの理由が不明でやや胡散臭く感じています。
何故?
宇佐の近くに「耶馬溪」という地名。まさに邪馬台国じゃないか。
他のことばあそびとは訳がちがうそのまんまの地名。
>>102 ご苦労さま。私も辿り着いた先で食らいました。ハハハ・・・
スタートの時間は16時ごろで、このスレ通過が18時過ぎ、まだまだリンク貼り付けてる
見たいですけど、なんちゅうアホかいな。辿ってった私もアホやけどね。
>>104 「胡散臭い」を言い直すと「商売ッ気」ぐらいの意味になります。
邪馬台国=高天原の検証ってほとんどされてないですよね。
天の岩戸伝承と日蝕出現の計算結果を根拠っていうか思いつきで「言い切ってる」だけのような。
109 :
日本@名無史さん:01/11/10 20:10
>>105 「耶馬溪」は確かそんなに由緒ある地名ではないと聴いたことがあるが、出典示せずメンゴ。
110 :
日本@名無史さん:01/11/10 20:33
そんなのは何度も出てる。ただのネタに馬路レス擦るなよ!
耶馬溪の由来の詳細きぼんぬ。非常に邪馬台国と似ている名前は興味津々。
112 :
日本@名無史さん:01/11/10 21:43
福岡に馬田っつー地名もありますね
113 :
日本@名無史さん:01/11/10 21:47
沖縄にも耶麻とという地名があるのだ。
111〜113の中では、耶馬溪がいちばん邪馬台国に近い気がするが。
>>111 命名者は頼山陽、彼の邪馬台国のイメージに近かったに違いない。(マジレスしてはいけなかった?)
116 :
日本@名無史さん:01/11/10 22:05
メソパタミアじゃない?
>>115 その説って結構聞くけど、でも疑問アリ。
頼山陽って、地名つけるほど天皇や信長なみの権力者だったの?
118 :
日本@名無史さん:01/11/10 22:28
>ローマ皇帝がイシスをまつって、彼を祭る聖地に、ローマ皇帝の継承者の正統性についてご託宣を仰ぎに行ったとしたら、どうよ? ローマ皇帝のルーツはイシスの可能性が強くなるでしょ。
じゃフランス国王のルーツはローマか?
119 :
>105 >109:01/11/10 23:38
耶馬渓は頼山陽先生がおつけになったのです。
120 :
日本@名無史さん:01/11/10 23:44
もともとは山国渓(やまぐにたに)だそうです。
頼山陽が詩に耶馬渓と書いたので邪馬台国っぽくなっただけ。
しかしやっぱり「ヤマ・・」という地名だったことに変わりはないと
ご当地邪馬台国主義者は元気です。
121 :
日本@名無史さん:01/11/10 23:46
「ヤマ・・」なんて地名、全国どこにだってあるだろが!
>>117 じゃ、訂正
頼山陽が元の地名の「山国」をもじって考案したネタを領主の奥平さんが命名した。ではダメ?
124 :
日本@名無史さん:01/11/11 00:51
>>99 >畿内説は政治だよ、宗教よりたちが悪い
こういうことを言う時だけ元気なんだな、九州説は。
こんな事書いてるひまがあったら、早く九州説を検証して候補地を一つに絞れよ。
125 :
日本@名無史さん:01/11/11 02:07
言外に九州説が宗教であることをうすうす認めているようにも読めるが・・
126 :
日本@名無史さん:01/11/11 02:17
現段階で九州説が正しいだの、畿内説が正しいだのと喧々囂々しても
しょうがないと思う。解釈をいくら述べても検証できない話なんだから、
考古学的な証拠がもう少し蓄積されていくのを待つべし。
それが科学的な姿勢というもの。
実際こういったところで人の意見を聞いて、
もともと持っていた持論を変える人っているんだろうか?
なんだか最初から九州説って人は最期まで九州説で
大和説のひとはずっと大和説なんじゃなかろうか。
自説の押し付け合いっていうか、相手の説のほころびを見つけては
非難しあっている、というかケチの付けあいをしてるだけのようだ。
まあ、僕のような初心者にとっては十分勉強になるから
あながち無駄なスレだとは思いませんが。
128 :
日本@名無史さん:01/11/11 03:05
しかしまあ九州説の連中が真剣に検証する気が無いことだけはわかった。
129 :
日本@名無史さん:01/11/11 03:11
しかしまあ大和説の連中が真剣に検証する気が無いことだけはわかった。
130 :
日本@名無史さん:01/11/11 03:14
畿内説の考古学上の「証拠」って、すげえいい加減。なんで古墳時代
の鏡が弥生時代の邪馬台国に関係あるわけ?ビンラデンのテロの「証拠」
といい勝負だぜ。
日本地図を広げて単純に倭人伝のとおりに
対馬→壱岐→松浦→伊都国・・・と数センチずつたどって行って
邪馬台国のところになるといきなり数十センチも移動しなければならない機内説って
やっぱりなんか変。
132 :
日本@名無史さん:01/11/11 10:34
九州説の人ってまだ邪馬台国=弥生時代って信じてるんだね。遅れてること。
133 :
日本@名無史さん:01/11/11 10:47
>>131 千戸とか二千戸のこんまい国を辿って最後は七万戸の国へ行くんだから
地図で見れば数センチずつたどって行っていきなり数十センチになるの
が自然じゃないの?
134 :
日本@名無史さん:01/11/11 11:08
135 :
日本@名無史さん:01/11/11 11:21
>>127 議論が不毛なのは、九州説側からはなんの論証もなされていないからさ。
だから、不毛な議論を不毛でなくするために九州説のよってたつところを明らかにするのがこのスレの目的なのだよ。
わかるか?
逆に、近畿説側の論証がなされていないと考えるなら、それ専用スレを立てるべし。
愚痴っていても何も進まんのだよ。わかるか?
おおかた、九州説諸氏
以前西都原の発掘調査の関係者の方の
「ぼやき」を聞いたことがあります。
「西都原の古墳を発掘するとね、朝鮮との関係、被葬者が朝鮮からの渡来民であるとしか
考えられないような物が出てくる。つまりは『天皇家のルーツは朝鮮にあり』って言ってるみたいな物だから、
西都原の本当に調査されなければいけないような古墳は発掘許可が下りない
”万世一系”という以上、これを否定する邪馬壱国の歴史、
あるいはそれを示唆するような資料は、当然抹殺されねばならない。
朝鮮総督府の朝鮮史編纂に関する昭和七年七月二十一日の
第六回委員会において、黒板勝美東大教授は、
「・・・鮮内各地名族旧家の秘蔵資料を借り入れ(略奪)、
その複本を作成(改竄)したものが、千三百五十余冊、
写真が二千七百余点である」と述べているが、
別の所では次のように記されている。
「大正十二年十月八日第一回委員会において定めた
朝鮮史編纂の大綱によって、人員と予算の許す範囲内に
おいて出張調査し・・・大正十五年十二月には更にこれを
一層強化し、全鮮各道は至らざるなく、更に内地・満州に
至るまで極力採取に努め、・・・
延べ日数は昭和十三年三月までに二千八百日、
蒐集資料は実に四千九百五十冊、写真四千五百十一枚、文記、
画像・扁額など四千五百十三点に達した」
委員会は更に、「・・・大正十二年七月、
黒板顧問が対馬に資料採訪を行ったとき、
朝鮮に関係ある文書古記録等が多数対州旧藩主宗伯爵家にあることを知り、
・・・古文書類六万六千四百六十九枚、古記録類三千五百七十六冊、
古地図三十四枚、古画類十八巻及び五十三枚を購入した」と述べている。
つまり黒板が焚書したと言う事なんだね。
こんな奴がいたから卑弥呼の墓に尻尾をつけて捏造したのさ。
>もともと持っていた持論を変える人っているんだろうか?
>なんだか最初から九州説って人は最期まで九州説で
>大和説のひとはずっと大和説なんじゃなかろうか。
身内の意見と違うこと言えないのは考古学だけじゃないでしょ。
キミの学科だって同じだよ。
お互い様だよ。
140 :
日本@名無史さん:01/11/11 17:49
>九州説の人ってまだ邪馬台国=弥生時代って信じてるんだね。遅れてること。
だからそれが問題なんでしょ。
その説がよって立つ土器編年、銅器編年、年輪年代法などが正しい値を示しているかどうか
ってことが論点なんだよ。
>>140 北部九州地方での古墳時代っていつ頃から始まるのでしょうか?
弥生期への移行するのはどの遺跡ぐらいからなのかな。
AD200年以前まで遡ることは無いでしょうけど・・・ご意見を伺いたいですね。
そんなの断言できんでしょ。それは、奈良も同じですよ。
キーポイントとなる平原にしても柳田氏は、副葬品から3世紀を示唆しているけど、
畿内説の人は、はいそうですかとは言わんでしょ。
だれかが言ったとおり、「まだ決定できません」というのが正しい。
ただ、個人の感触からすると、那珂八幡、原口、赤塚やらを考えると、畿内とほぼ同時期だと思います。
まあ、3世紀前半くらいかな。(平原との整合性は、??だけど)
土器編年の確固たる根拠はないから絶対正しいとは思わないけどね。
>>142 早速のレスありがとうございます。
私は、一応畿内説の立場なんですが、九州の重要遺跡で
例えば、前原の三雲・井原地区で調査未了の端山・築山などを周辺の遺跡群の状況から
3世紀初頭築ぐらいにするのもいいかななどと妄想します。
そうすると、平原はさらにその前で2世紀中ということになりますが・・・
144 :
日本@名無史さん:01/11/11 20:32
三角鏡批判好きな九州論者に訊きたいが、本命の帯獣鏡すら満足に出土しない
状況をどう考える。
つーか、△自体が初期古墳から出ているが・・・
布留期だけど。
146 :
日本@名無史さん:01/11/11 20:54
平原の大型鏡の方がはるかに重要だね。
147 :
日本@名無史さん:01/11/11 20:57
148 :
日本@名無史さん:01/11/11 20:59
沖縄説ってどうよ?
沖縄説こそ真実だ。
150 :
日本@名無史さん:01/11/11 21:02
卑弥呼は鏡なんか欲しくなかった。
鏡なんか幾らでも作れたから。
貰った鏡は鋳潰して銅剣にしてしまったのさ。(ワラ
151 :
日本@名無史さん:01/11/11 21:03
>>146 直径46.5cmの内行花文鏡(国産)のことか?
>>147 なぜ?△鏡よりは、まともじゃないかな?
152 :
日本@名無史さん:01/11/11 21:04
153 :
日本@名無史さん:01/11/11 21:07
九州には銅鐸は少ない。
それに銅鐸は埋めたんだろ。
沖縄説は九州説のひとつに含めるべきなのか・・・新たな大問題だな。
155 :
日本@名無史さん:01/11/11 21:09
156 :
日本@名無史さん:01/11/11 21:11
>>153 全部潰してしまったから残ってないのでは?
157 :
日本@名無史さん:01/11/11 21:12
八タ鏡も大型鏡であるらしい。
48センチの大型容器に入っている内行花文鏡との説が根強い。
もっともでかいのは容器だけだという説もある(安本が聞いた噂)
159 :
日本@名無史さん:01/11/11 21:16
いや、「従事した者によると・・・」という書き方だった。
二三センチくらいの容器が大型容器のなかにさらに入っているとか。
161 :
日本@名無史さん:01/11/11 21:24
>>160 ふ〜ん。見た人がいるんですか?
でも直径が半分くらいだとしたら「八咫」鏡と言えないような・・・
162 :
日本@名無史さん:01/11/11 21:28
>161
中身は、大昔の見た人が「八岳八葉」??とか書いているとか。
よって、森氏や原田氏などは、内行花紋鏡と想定しているそうだ。
それで平原墓の大型鏡を見て、「大きさも模様もそっくりだ」
と思ったらしい。
今は、見れないでしょう。
イタヅラ好きの天皇で覗き見した人はいるかも(w
でも、現存の神器って壇ノ浦以降のものの可能性が強いから鏡種も変わってるかも
ただし、三角縁ということは絶対ありませんね。
いや、天皇陛下も見れないらしい。
ちなみに本物の鏡は、伊勢神宮にあり、壇ノ浦で沈んだものは、レプリカです
165 :
日本@名無史さん:01/11/11 23:16
>164
本物かどうかなんて今の科学で年代測定すればすぐ分かるよ。
そうでしょうが、伊勢神宮の鏡は測定させてくれないでしょう。
167 :
日本@名無史さん:01/11/12 00:42
本物でも複製品でも「内行花紋鏡」だとしたら、
他のタイプより有り難味のある鏡だと評価されてることになるんか?
168 :
日本@名無史さん:01/11/12 02:00
>>157-165 おまえら全員素人だろ? 日本史にうといよな。
専門家にしては物知らなさすぎ。だからってウワサ話であれこれ論ずるな。
ここって専門家が語り合う場所か?
170 :
日本@名無史さん:01/11/12 13:01
>>142 年代はひとまずおいておいて、平原とか
>那珂八幡、原口、赤塚やら
とかを挙げておいて、とどのつまりは、九州のどこに邪馬台国をもっていくんだい。
考えてもみろよ。仮にオレが、
『畿内には、纏向遺跡もあるし箸墓もある。石塚や勝山の古い古墳もあり畿内には遺跡が豊富だ。』
とか逝っておいて、そこで唐突に、
『だから邪馬台国は河内だ』
と言ったら、『アホか、おめぇ』と言われるのがおちだ。当たりめェだな。
ところが九州説はこれが通ってしまう。
九州の遺跡はって聞かれると、平原とか那珂八幡とか糸島や福岡平野の遺跡をあげて畿内に劣らないとかなんとかいっておきながら、
いざ邪馬台はどこだって言うと、全く別の場所をあげる。
これは一種のペテンだ。
171 :
日本@名無史さん:01/11/12 17:47
>>170 だから南九州だって言ってるだろ!
ペテンだの何だの言うひまあったら崩してみろよ
どう考えても南九州っぽいぞ。
172 :
日本@名無史さん:01/11/12 18:08
ヤマタイがヤマトになったんでしょ。言語学では。水行10日、陸行1月にもあっている。
173 :
日本@名無史さん:01/11/12 18:14
なにも考えてないくせに。
174 :
1(畿内説信奉者):01/11/12 19:34
>>171 雄略陵が河内だとか、家康の墓所等は日光・静岡にあるとか・・・
後世でも政権所在地と墓所が離れてる例は多いし、卑弥呼の宮室と塚が別の国にあるってのはOKじゃないのかな?
175 :
日本@名無史さん:01/11/12 19:44
>174
雄略陵はどの古墳に比定されているのでしょうか?
素人な質問でスマソ。
176 :
1(畿内説信奉者):01/11/12 19:46
177 :
1(畿内説信奉者):01/11/12 19:54
>>175 特に意識して書いたわけじゃないっす。でも河内大塚かな?
178 :
日本@名無史さん:01/11/12 20:08
>177
昔読んだ本では河内大塚が有力候補とされていましたけど、
今でもそうなのですか。
179 :
1(畿内説信奉者):01/11/12 20:24
>>178 発掘調査したわけじゃないので状況に変化無しなんじゃないの・・・あまり詳しくはないんす。
はあ、私は、九州に邪馬台国があったとは、言っていないが・・・
九州における古墳時代の開始時期を推定しただけなんだけどねえ。
181 :
日本@名無史さん:01/11/13 00:18
沖縄説を無視すんじゃねえ。
182 :
日本@名無史さん:01/11/13 00:29
でも無視
>>ヤマタイがヤマトになったんでしょ。言語学では。水行10日、陸行1月にもあっている。
もともと「ヤマタイ」なんてのは読み間違い。
最初から「ヤマト」あるいはそれに近い音。
基本的に漢字は一字一音なのだあ。
ヤ・マ・タ・イ、だって、うぷっ。
そういえば、使者が「ヤマ」という国を博多弁で「ヤマたい」って言ったのが
始まりだなんてマジに言ってるのがいたなあ、HPまで作ってるのが。
184 :
日本@名無史さん:01/11/13 01:46
>>174 >家康の墓所等は日光・静岡にあるとか・・・
家康の墓が日光にあることが、幕府が江戸にあったことの証拠になるのか?
# 上野にも東照宮はあるのだが、ここでは目をつぶる。
いいか、
『日光には、家康の墓所がある。それはたいそう壮麗なもので、当時の建築・芸術・工芸の粋を集めたものだ。云々・・・』
ということを根拠にして、
『幕府が江戸にある』
という結論を引き出すことの陳腐さを言っているのだ。
仮に考古だけで考えるとしたならば、将軍の居城とおぼしき巨大な城
が江戸にある、とか、江戸は周辺と比較して人口が著しく多い、
とかいうことが都(=つまり幕府の置かれた場所)を推定する根拠になるだろう。
このとき、東照宮がどこにあるとか東照宮にどのようなお宝があるとかいうことは
全く論点から外れていることに思いを致すべし。
つまり、邪馬台国とは別の場所に墓所があるとするのであれば、平原のようなものは論点から外し、
九州島内の別の場所に邪馬台国を比定する根拠をあげる必要がある。
それを抜きに、『平原からたくさん鏡がでた。だから邪馬台国は九州だ』式の論法はペテンだ。
ただし、『だから平原のある糸島平野が邪馬台国だ』という結論になるのであれば、
それはそれで認めないではない。同意はしないけどね。
倭人伝とは全く整合しないのだが。
185 :
日本@名無史さん:01/11/13 01:54
それに平原からたくさん鏡がでたって、ありゃ国産鏡だよねえ?
それに平原は四角いしね。
ぜんぜん倭人伝と整合しない。
平原はホウケイ臭香墓です。
187 :
日本@名無史さん:01/11/13 06:19
古墳てさ、最初に畿内に発生した事は間違いなさそうだけど伝播速度が速すぎないか?
三世紀中庸に発生してから四世紀前半にはほぼ全国(九州から東北まで)的に前方後円墳が
作られるようになっている。
弥生時代鉄器も満足になかった畿内が古墳時代に入ると突然力をつけて百年も経たずに全国
制覇するとは考え難い。
九州勢が全国制覇だってありえないし。
やっぱ、外来勢力による日本征服というのが妥当じゃないか?
188 :
日本@名無史さん:01/11/13 07:32
日本人に洋服が普及したのも、やっぱり外来勢力が日本を征服したからですか?
189 :
日本@名無史さん:01/11/13 12:12
外来勢力ってどこよ、なんか文献ある?
>>184 気合のこもったレスをどうもありがとうございます。
だけど、平原は卑弥呼の墓だなんて言ってるひとはここには居ないような気がしますけど。
それに、あなただって都と墓所が一致しない可能性は否定しないんでしょ?
もともと卑弥呼は共立王なんだから・・・宮室は大和、墓は北九州も有りでしょう。
倭人での記述も墓についてだけは見てきたような書き方なんだから。
191 :
日本@名無史さん:01/11/13 22:58
>>189 まず候補の一つは公孫氏かな。
238年魏によって討たれ残党がちりじりになった。
魏は公孫氏(遼東)を討つにあたって船でソウル側に兵を送って挟み撃ちにした。
だから残党は東へ逃げるしかなかった。
東に逃げて海岸に追い詰められて海に逃げた。
そして海を筏か丸木舟で南下し、日本に向かった。
海流の関係で但馬海岸から北陸に多く流れ着く。
このあたりに前期前方後円墳や前方後方墳が沢山ある。
畿内より早いかもしれない。
もちろん一部は東北まで流れた事だろう。
若狭湾に上陸した一派が畿内に入ったとすれば、
そして何より楽浪で見つかった三角縁神獣鏡に似た鏡が
大和の三角縁神獣鏡になったと考えれば鏡にまつわる
いろんな問題が一気に解決する。
192 :
日本@名無史さん:01/11/13 23:43
>>180 140=142ではなかったか。それはすまそ。
何が言いたいかというと、
>>140 >>九州説の人ってまだ邪馬台国=弥生時代って信じてるんだね。遅れてること。
>だからそれが問題なんでしょ。
という認識が根本的に間違ってるということなのだな。
年代がズレていて、仮に邪馬台国時代が弥生後期であったとしても、
その時の九州で主導的立場にあるのは、伊都や奴といった玄海灘沿岸の国。
しかし、魏志倭人伝とこれまでの発掘調査の教えるところは、
三世紀には玄海灘沿岸以外にもう一つ倭に中心がありそこに倭王がいた、
ということなのだから、いくら玄海灘沿岸諸国が繁栄していたと強調してみたところで無駄。
それ以外の『もう一つ』を探さなければ意味がない。
しかし、それは九州島内では無理だ。たとえ年代がズレても。
倭人伝によれば、伊都国は女王国に統属されていた、
つまり、邪馬台国の影響下にあったことになるのだが、
弥生後期の段階では伊都国である糸島の勢力は、九州では福岡と並んでトップの位置に君臨している。
これを影響下に置くことができる勢力など、九州のどこを探しても存在しない。
後期前半から中頃なら、九州だけでなく、日本中探してもないだろう。
後期も終わりに近づけば、吉備・瀬戸内や出雲をはじめとする山陰が台頭してくるし、
終末期(庄内)なら大和。どの年代でも、九州の目はない。
>>180 140=142ではなかったか。それはすまそ。
何が言いたいかというと、
>>140 >>九州説の人ってまだ邪馬台国=弥生時代って信じてるんだね。遅れてること。
>だからそれが問題なんでしょ。
という認識が根本的に間違ってるということなのだな。
年代がズレていて、仮に邪馬台国時代が弥生後期であったとしても、
その時の九州で主導的立場にあるのは、伊都や奴といった玄海灘沿岸の国。
しかし、魏志倭人伝とこれまでの発掘調査の教えるところは、
三世紀には玄海灘沿岸以外にもう一つ倭に中心がありそこに倭王がいた、
ということなのだから、いくら玄海灘沿岸諸国が繁栄していたと強調してみたところで無駄。
それ以外の『もう一つ』を探さなければ意味がない。
しかし、それは九州島内では無理だ。たとえ年代がズレても。
倭人伝によれば、伊都国は女王国に統属されていた、
つまり、邪馬台国の影響下にあったことになるのだが、
弥生後期の段階では伊都国である糸島の勢力は、九州では福岡と並んでトップの位置に君臨している。
これを影響下に置くことができる勢力など、九州のどこを探しても存在しない。
あれ?なんでこうなったんだろ。ともかく、スマソ。下半分だけ読んで。
>>190 >だけど、平原は卑弥呼の墓だなんて言ってるひとはここには居ないような気がしますけど。
墓だけの問題じゃあないんだよ。
それと、書いてる連中の中にはいなくても、読んでるだけのやつらの中にはきっといる。
>>191 その外来勢力っていうのがフヨ系の韓族とか江南系アマ族だと九州説っぽくなるね。
196 :
日本@名無史さん:01/11/14 01:00
考古学的には全く無理でしょう。
>>194 佐賀や筑紫平野クラスでは、福岡平野の勢力を従えることは出来ないだろうと?
198 :
日本@名無史さん:01/11/14 01:31
平原は、それほど候補地としては押されてないだろ。
原田くらいだよ。
199 :
日本@名無史さん:01/11/14 01:38
つーか、沖縄つーのを完全に無視しているところが、日本考古学の
イタイとこだね。
捏造事件が起きるはずだよ。
200 :
日本@名無史さん:01/11/14 01:45
宇佐以外ありえないことが何故分からないのかねえ。
井沢は、もっと評価されるべき歴史家ですよ。
沖縄じゃないことは分かり切っているからそれでいいのだ。
「日本」考古学だもんな。
202 :
日本@名無史さん:01/11/14 01:52
里程から考えて沖縄以外ありえない。
東アジアの地図を見れば明らか
203 :
日本@名無史さん:01/11/14 01:55
平原以外候補がないなんてことはないでしょ。
吉野ヶ里以前には、九州に大規模遺跡はないと言われていたけど、
今ではこんな状態だからね。
そもそも平原説は、少数ですね。
204 :
日本@名無史さん:01/11/14 02:16
だったら候補あげてみれ!
205 :
日本@名無史さん:01/11/14 09:10
>>189の公孫氏説は最近見直されてる説だよね。
だがそれはあくまでも、越の豪族に同化した可能性があるというだけで
そのまま邪馬台国には繋がらないよ。
むしろ継体天皇が何故に7代孫として即位できたのかという疑問に対しての
ひとつの仮説であって、時代が違いすぎるよ。
206 :
日本@名無史さん:01/11/14 21:42
公孫氏の残党が大和の前身だとすると大和朝廷が先祖を必死で隠した訳も
理解できるな。
やはり敗残兵が前身ではかっこ悪いからね。
207 :
日本@名無史さん:01/11/14 21:56
里程から考えてエジプト以外ありえない。
地中海の地図を見れば明らか
邪馬台国九州説の検証っていうか自己流解釈 その5
邪馬台国宇佐説(井沢バージョン)
邪馬台国 卑弥呼の音を竺家寧・大野晋等の解釈を参考に「ピメコ」とし、類音の祭神「比売大神」の存在から宇佐に比定す。
路程の解釈 不祥(概ね他の宇佐説と同じと思われ)傍国「好古都国」を「ホカタァ=博多」等としているがヤマタイの地名は不祥
卑弥呼の墓 大元山(宇佐神宮の近くにあるらしい)比売大神の降臨地で考古調査不能の地とのこと
卑弥呼の鏡 不祥
大和との関係 卑弥呼=アマテラス説、「天岩戸隠れ」は当時出現した皆既日食をモチーフに卑弥呼の死(殺害)を意味す。
怨霊思想 比売大神への拝礼作法が出雲大社と同じく2拝4拍手1拝から卑弥呼=怨霊>殺害説の根拠としている。
ほとんど、言ったモン勝みたいな話ですね。だけど、聞きかじりなので誤解している点があればご指摘ください。
209 :
日本@名無史さん:01/11/15 00:26
平原以外にも
吉野ヶ里、川添平塚、宇佐、山門郷いくらでも候補は、あるじゃん。
210 :
日本@名無史さん:01/11/15 00:34
>>197 『だろう』ではなく、現実に『福岡平野の勢力を従え』てはいない。
それが事実。現実から目をそむけた所に九州説は成立する。
211 :
日本@名無史さん:01/11/15 00:35
で、その何処?
そりゃ、キミの想像でしょ。
213 :
日本@名無史さん:01/11/15 00:44
だから沖縄勢力が平原を支配下においていたのが何故分からないのかねえ。
214 :
日本@名無史さん:01/11/15 00:53
>>212 想像じゃないよ。出土品を比較すれば容易にわかる話さ。
それより、チミはどこに邪馬台国を比定するのかね?
具体的に一ヶ所をあげてちょ。
215 :
日本@名無史さん:01/11/15 00:57
>>213 こういうのって九州説の恥部汚物じゃないのか?
排出者責任で回収してくれ。
216 :
日本@名無史さん:01/11/15 00:59
エジプト説は、さすがに無理だろう。
217 :
木村鷹太郎:01/11/15 01:10
無礼者。何を言うか!日本民族は、太古欧亜の中央を占めたのじゃ。
沖縄に決まっている。
219 :
日本@名無史さん:01/11/15 02:19
九州説=平原となっているのか?
220 :
日本@名無史さん:01/11/15 06:09
甘木だろ。
221 :
日本@名無史さん:01/11/15 08:07
というか、九州説諸氏は南九州(西都)に統一しょうや、これが一番
222 :
日本@名無史さん:01/11/15 08:08
沖縄や鹿児島の状況も見えてくるしね
223 :
日本@名無史さん:01/11/15 16:56
九州説の弱いところは伊都国から陸行10日、水行1月で邪馬台国に到着するのだが
それでは九州島の外に出てしまうから北九州のどこかにあるはずだ。(ハズダ)という点
でこれは陸行1日の間違い、イヤなんだカンダ・・・・・・
素直に魏志倭人伝読むべきだよ。
北九州ばかり目がいきがちだが、南九州にも(日向)目を向けるべきだ。
邪馬台国ほどの大国なら九州か畿内どちらかに残っているはずだから。(少なくとも吉野ヶ里よりも一回りも二回りもドデカイ規模で・・・)
沖縄通り過ぎてフィリピンとかインドネシアまでいっちゃったらどうよ?
九州大学の地質の専門家が、人工衛星の調査などにより、邪馬台国時代は現在では
ない川があり、博多湾から玄海灘を結ぶ水路があった、と主張してるよ。
その説を取れば、魏志倭人伝通りに行くと、大分県の宇佐にたどり着くんだな。
これで宇佐決定。
大分県宇佐市の宇佐神宮は、全国八幡宮の総本山でもあります。
なぜ、そんな大切な神社が宇佐にあるのでしょうね。実に興味深い。
一度、きちょくれ。大分県宇佐神宮。
>>素直に魏志倭人伝読むべきだよ
伝聞の伝聞の伝聞のそのまた伝聞の記述を誰が信じるかっつの。
>宇佐神宮
渡来系の秦(幡)氏の氏神様ね。日本に渡ってきて最初に宇佐に住み着いた。
>>225 糸島半島がホントの島だったって話ですよね。
島側には傍国の一国の斯馬國が有ったとか・・・聞いたことは有るけど
結果として水行日程が短くなるだけで倭人伝の路程が現実に近づくわけではないと思いますが。
231 :
日本@名無史さん:01/11/15 20:46
>伊都国から陸行10日、水行1月
南九州なら収まるぜ!
糸島から宮崎まで歩いて10日くらいだろ
水行は敵対勢力(薩摩)を遠回りすれば一月はかかるぜ!
233 :
日本@名無史さん:01/11/15 21:20
>>225 >博多湾から玄海灘を結ぶ水路があった、と主張してるよ。
現在でもつながってる、っつうか、博多湾から一歩外に出れば玄海灘。
何が言いたいのか分からん。
どーだろね
隋書倭国伝では、筑紫から十余国を経て
大和に辿り着く、となってるからね
正直、畿内でもおかしくはない
235 :
日本@名無史さん:01/11/15 23:29
どうして誰も西都説には触れないのですか?
何か問題外だと言う理由があったら教えて欲しいんですけど。
初心者なもんで。
方角を歪曲してはいけない。
方角、里程が一致するのは、沖縄のみ。
これが真実
237 :
日本@名無史さん:01/11/16 01:09
誰かが九州の3世紀古墳について書いてたけど
例えば、月岡古墳なんかは江戸時代に発掘されていて、現在は4世紀墳の判定だけど
これを3世紀墳と考え直す可能性はないのでしょうか。
甘木での卑弥呼関係者の墳墓のように思えるのですが?
238 :
日本@名無史さん:01/11/16 05:21
>>237 3世紀墳と考え直す可能性は全くない。馬具が出てては話にならない。
239 :
日本@名無史さん:01/11/16 06:18
九州が当時技術先進地域で邪馬台国が九州を統治していたなら
近畿には技術は伝わりにくいんじゃないかな
僕も西都が臭いと思う
240 :
日本@名無史さん:01/11/16 06:53
頼むから真面目に検証してくれよ。
>>233 九州大学工学部の坂田武彦教授の地質学と気象学を使った研究によって、博多湾と
有明海を結ぶ水路が大宰府付近にあったことが判明しています。
魏志倭人伝の中に、「南に向かって20日とか10日とか進んでいく」という文章が
ありますが、この水路が上記のものであり、坂田教授によれば、博多湾側の注ぐ
御笠川と筑後川に注ぐ宝満川は、その昔、海峡で繋がっていたそうです。ここを帯方郡
からやってきた郡使は、魏志倭人伝通りに、南に向かって、船に乗って進んでいった
と考えられます。その結果、邪馬台国は、大分県宇佐市にたどりつくことになります。
ちなみに、国東半島は、国の東(邪馬台国から見て)という意味で命名されたものと
考えられています。
これで、邪馬台国は大分県にあった!という可能性が限りなく高くなりますね。
大分県にきちょくれ!! 待っちょるけんね。 湯布院や久住もいいよ。
今はふぐの季節です。関あじもよい。
243 :
日本@名無史さん:01/11/16 11:02
>博多湾と有明海を結ぶ水路が大宰府付近にあったことが判明しています
大嘘付くなよ(w
244 :
日本@名無史さん:01/11/16 11:03
よく見たらおまえずっと大嘘付いてるな
うそじゃないよ。科学的な根拠も歴史には必要ですよ。文系の諸君。
225は、玄界灘じゃなくて有明海の間違いでした。それは訂正します。
247 :
日本@名無史さん:01/11/16 12:03
坂田教授は、その旧水路の存在年代を何年頃迄と推定してんの?
まさか一万年前ってんじゃなかろうな。。。理系の諸君。
248 :
日本@名無史さん:01/11/16 12:30
>>246 有明海と宇佐の関係を100字以内で述べよ
249 :
日本@名無史さん:01/11/16 13:00
坂田助手って30年くらい前に大分の製鉄遺構をC14で8万年前って鑑定したひとであよね?
250 :
日本@名無史さん:01/11/16 13:01
あれ、紀元前8世紀だっけ?
251 :
日本@名無史さん:01/11/16 14:56
>>241 それ、同じ九州大学から手厳しい反論が出ていたよ。
地質学的に見れば現在と地形が違うのは、やぶさかではないが
あったとしても湿地帯程度で
少なくとも1800年前では水行が出来る状態ではなかったってのが
概要だった。
252 :
日本@名無史さん:01/11/16 15:19
じゃあ、九州説に質問だけど
邪馬台国が九州(山口県も沖縄も含めて)だと仮定すると
同時代にあった畿内文化圏の正体って何?
もしそれが狗奴国だとしたらその根拠は何?
それを説明できてこその学説だと思うが。
253 :
日本@名無史さん:01/11/16 17:44
>>252 ハイ、君の勝ち〜、良かったね、君は論破したんだよ(藁
254 :
日本@名無史さん:01/11/16 19:48
>>252 畿内には半島から逃げてきた朝鮮人か公孫氏の残党が作った国が出来ていた。
255 :
日本@名無史さん:01/11/16 21:31
話が有明海に向かってるので関連して。
この方面で九州説を唱えるお方って少ないですよね。
すぐに思いつくのは「幻の耶馬台国」の宮崎康平さんぐらいでしょうか?
比定地は島原(他の有明海沿岸も含む)、お国自慢説の元祖でもあります。
私は、島原では無く佐賀の三養基郡中原町にある姫方遺跡が少し気になってます。
雌塚という直径30m以上の円墳が有るとか・・・ 3世紀のもののように思えます。
257 :
日本@名無史さん:01/11/16 23:11
沖縄なんだけどなあ。
258 :
日本@名無史さん:01/11/16 23:11
age
>>241 私は国東(くにさき)という言葉は実に興味深いと思います。
国東半島は、豊後の国の中に入ると思いますが、豊後の国の中心の府内から見ると、
国東半島は北に位置します。で、どこの東かというと、これは宇佐だと思います。
宇佐は豊前の国なんですけどね。つまり律令制度の国境の考え方とは違った言葉
が、国東という地名なのではないでしょうか。
260 :
日本@名無史さん:01/11/16 23:51
景行天皇の12年、熊襲征伐の折、天皇は周防から遙かこの地を望まれて命名された
261 :
おいたん。:01/11/16 23:56
>>260 その話は知ってますが、周防から国東半島の方角は南では?
また、国東半島の北端に、国見という地名がありますが、この由来も
調べてみたいところです。
262 :
おいたん。:01/11/17 00:04
そして、魏志倭人伝には、邪馬台国の東には海があると書いてありますよね。
宇佐の東には国東半島、そして、海もありますよ。
畿内には東に海はありますか?
263 :
日本@名無史さん:01/11/17 00:07
日本はどこでも東西南北に海があります。
264 :
日本@名無史さん:01/11/17 00:38
里程については、東アジア史の立場からは、九州説になる。
作者が司馬氏にとりたてられ、なおかつその時代にかかれたことから、
里程及び戸数に誇張が行われたというもの。
倭が朝貢してきたときの窓口が司馬氏
大月氏が朝貢してきたときの窓口が曹爽一族
なので、魏時代に行われたこの二つの朝貢を同程度にするために誇張された。
ご存知の通り、朝貢はより遠くの国が徳を慕ってくるほうが喜ばれる。
証拠として、大月氏と倭は、記録上の戸数と距離が釣り合いがとれている。
265 :
日本@名無史さん:01/11/17 01:32
倭が朝貢してきたときは司馬氏は失脚中なのでその説はペケ。
曹爽のてがらになる。
しかも窓口責任者は反司馬氏の毋丘倹。
266 :
日本@名無史さん:01/11/17 02:26
沖縄以外ありえない
267 :
日本@名無史さん:01/11/17 02:38
>作者が司馬氏にとりたてられ、なおかつその時代にかかれたことから、
ウソ。陳寿は、三国志を書いたおかげで失脚してる。
268 :
日本@名無史さん:01/11/17 05:49
邪馬台国の東にあるから国東半島。(ワラ
>>267 陳寿は失脚中に三国志を書いたんだよ。
269 :
日本@名無史さん:01/11/17 06:32
いろいろ説が出てるが、畿内説の人は一つ一つ検証してくれ
沖縄は無視してくれ
そうしていくと、最後には西都がのこるよ。
270 :
日本@名無史さん:01/11/17 11:29
>>268 陳寿が三国志を書いたのは、著作郎に戻ってから。
271 :
日本@名無史さん:01/11/17 11:31
またウソ付かないように、原文付けとこ。
而壽魏志有失勗意,勗不欲其處[内],表為長廣太守
272 :
日本@名無史さん:01/11/17 11:41
「倭人伝」の通りに読むと・・・って主張する人が多いけど
記述の信憑性そのものの検証はしたの?
方位や距離の怪しさとともに、風俗に関しても
発掘結果との矛盾が論じられてるじゃない。
例えば「牛馬無し」にはずなのに北九州でも畿内でも
牛骨はいたるところで発見されてるし、全てが3世紀当時の倭の記述とは
考えにくい。
273 :
日本@名無史さん:01/11/17 11:43
>>269 宇佐だっていってたヤツは、これに何か一言ないのか?
たまには、九州説同士で議論してみろよ。子供みたいにだだこねてるだけじゃなくて。
それと、宇佐とサイト以外の九州説ってのは絶滅したのか?
>>261 景行紀でのネーミングは「国前(くにさき)」
「国東」に改名したのは、8世紀のこと。
275 :
日本@名無史さん:01/11/17 11:51
>>273 古田系博多派は絶滅、安本系甘木派は安本スレ、△縁鏡スレでヒッキーしている模様。
276 :
日本@名無史さん:01/11/17 14:58
倭人伝だけで古代史を解決しようとするやり方が問題なんだよ
277 :
日本@名無史さん:01/11/17 15:08
>>265 朝貢は公孫氏を司馬氏が討伐した直後じゃないの?
だから司馬氏失脚中ではなかったと思う。
>>268 仮にも時の政府が正史にとりあげた著作だからね。
司馬氏に都合の良いようにある程度の歪曲は考えられると思う。
278 :
日本@名無史さん:01/11/17 15:12
歪曲つーか、記述が少なすぎ。
明史でも日本の記述は無茶苦茶。
信憑性に問題があると思うね。
古代史の資料が何も残っていない朝鮮半島ならともなく、
日本でこれほど一時一句解析する必要があるとは思えないな。
>>276と
>>278に同意だな。
>>277の歪曲説も十分に考えられるし
第一「倭人伝の記述は鵜呑みに出来ない」ってのは
九州説、畿内説にかかわらず定説のはずだよ。
まず発掘有りきで、文献は補強的な2次資料でしか有り得ないってのが
古代史の前提だと思うが、如何に?
記紀と整合性がないなら日本じゃない。
それでも日本と考えるなら、
記紀をもとにした歴史そのものが否定される。
281 :
日本@名無史さん:01/11/17 16:24
>>277 仲達は倭から朝貢がくる前の239年年頭に曹爽の手で実権の無い名誉職に祭り上げられて事実上の失脚。
軍隊は掌握していたが中央政権からは干された。
ボケ老人の演技までして曹爽を安心させ、電光石火のクーデターで復活するのは249年。
つまり記録に残っている倭の朝貢はすっぽり曹爽の時代に収まる。
陳寿は立場上司馬氏に都合の悪いことはカットせざるを得なかったが、ウソをかくような人物ではなく、むしろけっこう硬骨漢である。
その司馬氏にとってマズいことも陳寿本人が書かなかったのではなく他人の手で削除された可能性があるのだから、司馬氏阿諛=歪曲説には根拠がない。
むしろ陳寿の直接の上司であった張華(のち幽州刺史として東夷経営に辣腕を振るう)の功績を誇張して韓を巨大にした可能性がある。
282 :
日本@名無史さん:01/11/17 16:30
>>280 8世紀に書かれた本が3世紀の状況を正確かつ克明に記述していると考えるのは暴論の類。
少なくとも上古に関しては、記紀をもとにした歴史そのものに信頼性がない。
283 :
西都原古墳祭り:01/11/17 17:00
>>283 おいおい、お前HPの管理人か?そうじゃなければ勝手に晒すな。
確かにコイツの主張は稚拙だし勉強不足だが
だからといってここに晒す必要ないだろ。
だから西都説は・・・(以下略)
285 :
日本@名無史さん:01/11/17 18:53
>>281 失脚前に公孫氏を亡ぼし、倭国朝貢の道を開いたのは司馬氏でしょ?
親魏倭王の称号は239年だし。ということは、晋代に、倭国が魏代に朝貢してきたのは
司馬氏のおかげですよー、と宣伝してもかまわないことになる。
陳寿はたしかに硬骨漢ともいわれているが、だからこそ、その程度の誇張ですんだのかも
しれない。それに、確か失脚中の彼をひきあげたのは司馬氏じゃなかったっけ?
もしめちゃくちゃ阿るような人間だったら、戸数100万戸、水行1月陸行2月とか書いていたかもしれない。
286 :
日本@名無史さん:01/11/17 19:30
倭人伝の方がよっぽど信頼性がねえだろ。
でなきゃ、邪馬台国四国説なんて成り立つわけがない。
考古学者の紀記無視つーのは、昔、考古学が穴掘り職人扱いで
文献学者に軽蔑されていた裏返しにすぎんね。
四国説、沖縄説、近江説記述がスカスカんな倭人伝だけなら
なんとでも解釈できるわけでね。
紀記と考古学を照らしてやる昔の方法であればここまで電波が
蔓延ることななかった。
288 :
日本@名無史さん:01/11/17 19:34
紀記自体もどこまで信頼性があるのかあやしいんじゃない?
まあ、怪しげなどこかの家の天井裏に眠っていたと称する文書よりはるかにマシだが。
そもそも、二つに矛盾する記述がある時点で、全幅の信頼はおけないし、
紀記を解釈する人に先入観とか思想がはいっていれば無意味だし。
289 :
日本@名無史さん:01/11/17 19:37
だ〜あからああ、邪馬台国は、沖縄なんだよ。
290 :
日本@名無史さん:01/11/17 19:39
里程無視する九州説
方角を無視する畿内説
ともにクソ
両方を満たすのは沖縄だけ
悔しかったら反論しろ。
倭人伝が客観的と考えている段階で、終わっているな。
そんなに客観的で正しい記述をしているなら、なんで約60箇所も
候補地が出てくるんだ?
292 :
日本@名無史さん:01/11/17 19:42
はぁい、沖縄でよかったね。
別に悔しくないし。
理論的に反論すべし
倭人伝を冷静に読めばそれ以外ありえない・
294 :
日本@名無史さん:01/11/17 19:55
「里程」
「方角」
これらは、基本的な事項。
これらについて陳寿が虚偽の記述をするはずがない・
したと言うなら証拠を示せ。
冷静に考えるべき。沖縄以外ありえない。
295 :
日本@名無史さん:01/11/17 19:56
>>293 沖縄の邪馬台国はどのようにして九州その他を支配したの?
296 :
日本@名無史さん:01/11/17 19:58
>>293 邪馬台国の敵対勢力は台湾島?フィリピン島?
297 :
日本@名無史さん:01/11/17 19:58
>>293 分かった、なら九州ー沖縄間に存在する島々についての
記述がないのは何故だ?
まさか不弥国から何処にも寄港しないで沖縄に着いたって
訳じゃないだろう?
298 :
日本@名無史さん:01/11/17 20:03
>>293 その後沖縄邪馬台国はどうなったのだ?
何故支配していたはずの九州勢力を大和に奪われたのだ?
ついでに沖縄邪馬台国と5世紀の大和朝廷との関係は?
299 :
日本@名無史さん:01/11/17 20:06
当時、九州から沖縄まで黒潮に逆らって航海できるのかな
潮の流れ速すぎるんじゃない?
300 :
日本@名無史さん:01/11/17 20:18
>>293 卑弥呼の墓は沖縄のどこにあるの?
嘉手納基地内だから調べられないなんて答えは駄目よ。
しかし10分程度でこれほど否定材料が集まるとは(w
301 :
日本@名無史さん:01/11/17 21:04
「沖縄説、完全に沈黙しましたッ!」
さて、九州説の皆様マターリと討論して下さい。
303 :
日本@質問くん:01/11/17 21:33
千余里というのが三個でてきますが足すと三千余里なんでしょうか?
それとも、四千余里ぐらいになるんでしょうか?
古代中国において「余里」はどれぐらいの距離として使われていたんでしょうか?
どなたかおしえてください。
304 :
日本@名無史さん:01/11/17 21:54
景初2年8月に公孫氏が滅びてから其の情報が畿内に伝わって
畿内にあった邪馬台国が景初3年6月に帯方郡に到達可能だったかどうか考えてみな。
瀋陽から金海まで直線でやく800kmある。
前原から畿内の邪馬台国まで直線600kmで倭人伝によると2ヶ月掛かる事になって
いる。
となると瀋陽から金海までは約三ヶ月掛かる筈である。
又、1596年の朝鮮通信使の日記によれば釜山から名護屋まで25日掛かっている。
三世紀には1596年より小さな船しかなく、もっと時間が掛かった可能性がある。
そこで金海−唐津間は一ヶ月と見ると瀋陽から畿内までは計6ヶ月掛かる。
そして魏に朝貢する為の準備に一ヶ月、畿内から帯方郡まで五ヶ月掛かる。
全部で約一年。
つまり邪馬台国が畿内にあっては景初3年6月に邪馬台国が帯方郡に朝貢する事は
不可能なのである。
従って畿内が邪馬台国ではあり得ない。
このような簡単な計算が出来ない畿内説学者は単なる馬鹿か、予算貰う為の嘘つき。
305 :
日本@名無史さん:01/11/17 22:07
公式の使者が旅する日程と、半島の変事を報じる火急の知らせのスピードを
同じに見積もるのは非現実的。
急報飛脚のスピードを倍くらいに見積もるとちょうどぴったりかな?
時間が無いから献上品が粗品だったのかもしれない。
306 :
日本@名無史さん:01/11/17 22:22
景初2年8月から景初3年6月まで丁度足掛け12ヶ月なんですけど?
遼東から畿内まで情報が伝わるスピードが
>>304の見積もりよりほんの少し速いだけで十分セーフですね。
ましてや8月に陥落する前から1ヶ月以上も包囲が続いているんだから、もう公孫氏はダメだという判断はもっと早くから出来たでしょうね。
水行10日を無視してはならない。
倭人伝は、古代国家を語る唯一の資料。
畿内説・九州説は、何故里程を歪曲できるのか理由を教えて欲しい。
歪曲は、許されない。
308 :
畿内信者は夢を見ている:01/11/17 22:59
当時の倭人が畿内から遼東半島まで情報ネットワークを構築していた
とは考えられない。
この情報は重要だから緊急で連絡しなければならないなんて判断できる
邪馬台国側のスパイが半島にいたと言うのかね。
普通に伝わる情報は「噂によれば公孫氏が滅んだらしい。」程度で
人間の歩く(移動)スピードの三倍くらいの時間が掛かって不正確な形で
伝わる物だ。
だから一年と言うのも最も巧くいっての話で現実には一年でも無理だろう。
不正確な情報に基づいて外交をする訳にはいかないから確認作業も必要になる。
邪馬台国が半島内にスパイ網を作っていたなんて夢見ているんじゃないか?
309 :
日本@名無史さん:01/11/17 23:11
倭人は帯方に属していたんだから、それ相当の情報ネットワークはあって当然と思いますよ。
実際のところ、倭人の朝貢というのはいつの時代も大陸の政治情勢を機敏に捉えて行われていますね。
自分の頭の中で作り上げた設定で「だから畿内ではありえない」なんて立論は児戯に等しいですよ。
310 :
日本@名無史さん:01/11/17 23:14
>>308 うぷぷっ。根底が覆されちゃったんで
今度は自分の計算を自分で否定してるよ。
311 :
日本@名無史さん:01/11/17 23:39
>>308 根本のところでおかしい。
陸行1月の存在を認めるなら九州説でも畿内説でも情報の伝達速度は同じ。
認めない場合でも往復で2ヶ月の差だが、それで遣使の可能性を否定しきれるのだろうか?
ところで貴方はの邪馬台国は何処にある?
312 :
日本@名無史さん:01/11/18 00:12
日本列島と大陸の間の移動にようする日数について
参考とするものと言えば8世紀の記録しかないんでしょうかね。
回数と記録内容が充実している遣渤海使の場合だと、
出発港から帰国港までの往復で大体150日から200日ぐらいです。
派遣先での滞在日数を含めても半分で3ヶ月、国内を2ヶ月としたら
片道は5ヶ月になりますね。どうでしょうか?
313 :
日本@名無史さん:01/11/18 00:28
AD3Cにおける西日本の状況から見ていったほうが良いと
思うのですがどうでしょう?
(1)北九州と畿内は、独立勢力
(2)西日本全体に畿内を中心とする ゆるい連合体ができていた
(1)なら、邪馬台国は北九州にあると考えるのが普通で
(2)なら、畿内にあると考えるのが普通だと思います。
#この問題を解くために邪馬台国論争をしているんですが(^^;
#邪馬台国がどこにあるかは、この問題が解けないと・・・
314 :
日本@名無史さん:01/11/18 00:37
だから、沖縄なんだよ。
みんな、素直になれよ
315 :
日本@名無史さん:01/11/18 00:40
考古学的には西日本全体に畿内を中心とする文化的な求心性が認められますね。
ですから、当然(2)なんですね。
考古学者が畿内を中心に掘っているからというだけ。
また、畿内遺跡が邪馬台国時代であるという証拠は、何もない。
あるというなら証拠を挙げよ。
沖縄を発掘せよ。
317 :
日本@名無史さん:01/11/18 00:53
纒向遺跡には西日本各地と交流があった痕跡が色濃く残っていて、当時の都であった可能性が高いですね。纒向日代宮伝承地とも近いです。
楽浪や中国本土と交流のあった痕跡もあります。
また、北部九州がなにものかの影響下に置かれていたとしたら、それは畿内以外にはありませんね。
博多湾岸は大陸との交渉の窓口だったのだから、そこには邪馬台国の痕跡があるはずです。
しかし、博多湾岸の地域は九州の他の地域に影響を与えることはあっても与えられてはいない。
機内の勢力は明らかに博多湾岸に入ってきている。
ま、そういうことでそれが全て物語っているでしょう。
じゃぁ、狗奴国はフィリピン?
投馬国はよ?
>>317 抽象的な表現で自分の結論だけ書かれても困ります。
何か具体例をあげて論証していただけませんか?
畿内>玄海灘諸国>豊・筑紫平野っていう影響関係の序列が分かるような事例がいいですね。
320 :
日本@名無史さん:01/11/18 01:34
>>277 >仮にも時の政府が正史にとりあげた著作だからね。
またデタラメかいてる。鎮守の私撰だよ。
321 :
日本@名無史さん:01/11/18 01:36
そうそう。後漢書だって今のが正史に入ったのは後のこと
322 :
日本@名無史さん:01/11/18 01:39
ここは九州説を検証するスレだからサワリだけ書いたんです。
具体的には供献土器の波及などですが、畿内説の立証は別の機会にしましょう。
九州説の人に聞きたいのは、沖縄はおいといて、たとえば甘木説なら甘木が前原を影響下においた痕跡があるかってことです。
畿内の遺跡が邪馬台国時代のものという証拠はない。
あるなら示せ。
沖縄以外すべて妄想
甘木ってほどんど発掘されとらんじゃん。
今のは中核部落じゃないでしょ。
台地の方はこれからと言う段階でそんなこと分かるの?
325 :
日本@名無史さん:01/11/18 01:47
>>320 それと、モロに正史だとおもうんですが、どういうことがいいたいのですか?
歴史を書くなんてことに言論の自由があるなんて思う方がおかしい。
歴史書を書くなんてことがどういうことか分かっていないのでしょうか。
後漢→魏→晋の正当性を示すのは晋代の歴史書の義務ですが。
326 :
日本@名無史さん:01/11/18 01:53
>>324 前原の側に甘木の影響があるのかという意味です。
327 :
日本@名無史さん:01/11/18 01:54
>>325 正史とはなにかを勉強し直したほうがいいな。
金田一くんの出てくる本を書いた人ではないぞ。
328 :
日本@名無史さん:01/11/18 01:54
いやだから、
平塚川添の発掘がほとんど進んでいない段階で
影響云々というのは論じられないんじゃないの?
ということなんだけど
330 :
日本@名無史さん:01/11/18 01:56
沖縄の遺跡は、海没したものがあ多い
邪馬台国も海の底だね
331 :
日本@名無史さん:01/11/18 01:57
>>327 晋の恵帝に認可されているということは、
晋として、それは都合が悪くない書物ですよ、っと認めたことだろ。
というか、晋の正当性をきちんとかいてあるな、よしよし、ってことでしょ。
332 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:01
>>331 違う。
辭多勸誡、明乎得失、有益風化
ということだ。
333 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:01
>>329 纒向だってたいして発掘されているわけじゃなし
現時点で博多湾岸に影響力をもった他地域として候補に上がるのは
やっぱり畿内が第一番でしょう。
334 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:02
平塚川添よりは、はるかに進んでいるのです。
マキムクは、王墓級の古墳までいくつか発掘されており、全体としては、
かなり発掘がすすんだ遺跡なのです。
畿内遺跡が邪馬台国時代だという証拠を挙げよ。
337 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:11
338 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:12
纒向遺跡全体に対する調査済みの面積は微々たるものですけれどね。
339 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:13
いずれにせよ、珍説奇説を含め、こんなに紛糾するということは
倭人伝の記述がいかにええ加減なものかってことだよ
340 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:13
沖縄から魏にいくのに、わざわざ九州通って朝鮮半島通って行くんだ。
しらんかったよ
面積的には、そうでしょうが、いずれにせよ平塚よりは、発掘されているのです
342 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:18
それが甘木説に証拠がないことの言い訳になる?
今の段階で甘木と平原の関係と言われても、平塚の発掘がほとんど
されていないわけですから、論証しようがないでしょう。
中核部落や王墓が発掘されて分かる話ですね。
344 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:27
>>343 雨着説は机上の空論であるという、力強い宣言だな。
お疲れ !
机上の空論か否かは、発掘してみて初めて分かる話なのです。
発掘もしないで平原と関係もないと言うのは全くおかしな話ですね。
346 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:34
ちなみに私は、弥生期にプレ邪馬台国が筑後川上流にあったと思っているだけなので、
邪馬台国=平塚ということはないとは思いますが、平原との関係については発掘調査
もせず断定するのは今の段階では早すぎますね。
347 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:37
里程を無視する九州説の悪辣なたくらみを粉砕すべき
沖縄を発掘せよ
348 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:38
全くおかしな話なのはそっちだな。
関係の痕跡があるか、と聞かれてるんだよ。
発掘もしないで平原と関係「ある」と言うのが全くおかしな話じゃないのか?
349 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:40
>>345 発掘してみないうちに候補地に挙げるということが机上の空論なのでは?
私は、「ある」とは言っていませんが。
今の段階であるかないかは、断定できる話ではないのです。
平塚川添遺跡は、現在は、低湿地であった一部の遺跡が発掘されています。
全体としては、吉野ヶ里遺跡を上回る遺跡と言われており(柳田氏)、
このため、候補としてはよくあがっている遺跡なのです(安本、奥野、森?)。
ただ、中核部分については、ほとんど発掘されていません。
352 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:46
沖縄を無視するな、
353 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:49
(安本、奥野、森?)この面々を見ると
ほとんど発掘されていないからこそ候補に上がってると言えそうな…
354 :
日本@名無史さん:01/11/18 02:54
無視してないよ。
むしろ当時の沖縄は邪馬台と中国なんかとのしがらみとは
独立した歴史を展開してたんだよ。
じゃぁ、狗奴国はフィリピン?
投馬国はよ?
356 :
日本@名無史さん:01/11/18 06:17
>沖縄説の人は昨日の質問に何一つ答えないで、喚いてるだけ
喚くだけじゃなくて何か持論を展開してみたら?資料出すとかさ
議論しようにも議論のきっかけが無いじゃん。
357 :
宇佐宇佐宇佐。:01/11/18 07:47
なぜ、道鏡事件で、皇位継承に関する問題を、宇佐神宮に打診しに
行ったのか?
358 :
畿内信者は夢を見ている:01/11/18 08:26
当時の畿内って大陸の文明取り込むのに凄く不便な所。
唐子・鍵遺跡見ても鉄器の出土も少なく、九州に比べてすごく遅れた観は否めない。
古墳の出現を画期として畿内が力をつけて周辺を支配するようになった訳だが、
唐子・鍵の弥生人がそのまま纏向を築いたと考えるのは無理がある。
どこかからやって来た(渡来してきた)集団が纏向の古墳を築いたと考えるのが自然だろう。
一方、倭人伝によると倭人達は漢の時代から中国に対して朝貢していた事が判る。
公孫氏の遼東支配により一時途切れたが其の朝貢の主体は漢のときも魏になってからも
国の名前が変っても同じ地域からだと推測できる。
つまり漢委奴国王の金印を貰った国か其の近くにある国であったと考えられるような
書き方がしてある。
九州は弥生時代から卑弥呼の時代まで連続性があるが、畿内は弥生時代と古墳時代の連続性が
認められない。
倭人伝の記載にある漢委奴国王時代からの連続性を考えた時に、九州に邪馬台国があったと
考えるのが無理がない事が判るだろう。
359 :
日本@名無史さん:01/11/18 10:42
>どこかからやって来た(渡来してきた)集団が纏向の古墳を築いたと考えるのが自然だろう。
今の九州説って、そういう夢の中だけに生き残っているんだね。
>今の九州説って、そういう夢の中だけに生き残っているんだね。
揶揄するだけなら書きこまないでください
361 :
日本@名無史さん:01/11/18 13:01
>>358が馬鹿にされるようなこと書くからだろう。
まともに反応できるような書き込みと言えるかね?
鼻でせせら嗤う以外に何ができようか。
こんな説がでてきるようじゃ、九州説は本当にオ・ワ・リ!
真面目に検証するってお題目は何処に逝ったのかね?
362 :
日本@名無史さん:01/11/18 13:06
いくらなんでも渡来集団が纏向の古墳を築いたって線は無いですね。
363 :
日本@名無史さん:01/11/18 13:11
『畿内信者は夢を見ている』なんて題名が揶揄なんだから辛く扱われても仕方ないよ。
方角を無視する畿内説も終わっている。
検証に耐えるのは、沖縄のみ
365 :
日本@名無史さん:01/11/18 13:24
平塚川添つーのはそんなにすごいんかい?
>>361 オ・ワ・リ! でいいからさ、あなたがそう考えるなら放置すればいいじゃん
揶揄してる時点でもうあなたには関係ないスレなんですよ、なぜ執着するのかな。
あなたは近畿説の人ですか? 第三者の目があることを知るべきですね。
367 :
日本@名無史さん:01/11/18 14:28
まず『畿内信者は夢を見ている』なんて言い方をとがめるべきですね。
そんな口を利けば反発を食らうのは当たり前でしょう。
あなたは一方的。
九州説の人ですか?
邪馬台国には「夢」が入り込む余地が多すぎます。
まあ、ほろ酔い気分で自分の夢を語るのも一興かとは思います。
私もいろんな夢を見ますが、それで「現実」が見えなくなることも多いし。
だけど、他人から夢見呼ばわりされれば面白くないですよね。
批判されるにしても、事実の考察に対するものでなければ反論すること自体無意味ですし、
抽象的な批判は、抽象的な自説の表明以上に困りものです。
369 :
日本@名無史さん:01/11/18 15:02
論証できない人論証する気の無い人はサヨナラ
370 :
日本@名無史さん:01/11/18 15:05
>>365 吉野ヶ里は小さいだろうと聞きましたがどうでしょうか?
> >365 吉野ヶ里は小さいだろうと聞きましたがどうでしょうか?
吉野ヶ里よりは・・・「より」が抜けました。失礼
372 :
日本@名無史さん:01/11/18 15:30
>>303 魏志の東夷伝全体で、約2500とか約130とか言う2桁の実数値が使われる概数の表記は、鮮卑伝の二億七千万だけです。
あとは、全て「1000余」等または「2000」等丁度の表記になります。2億7千万は特異な例外です。
つまり、約2500等は2000余と表記されていることになります。ただ、2900を2000余と表記したかはどうかはわかりません。
具体的な検証例がありそうなんですが・・・
373 :
日本@名無史さん:01/11/18 15:30
倭人は帯方郡(今のソウル付近)の東南にあたる大海の中にあり、山島が集まって国やムラを構成している。
もともと、百余国に分かれていた。漢時代に朝見する者があり、現在、(魏の)使者が通じている所は三十国である。
帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓 国(馬韓?)を経て、時には南行し、時には東行し、その北岸(?)
狗邪韓国(くやかんこく)に到る。七千里余りである。
始めて大海をわたること千余里で対馬に至る。其の長官を卑狗(ひく/ひこ)といい、副官を卑奴毋離(ひなもり)という。
この地の人々が住んで居る所は孤島であり、周囲四百余里しかない。土地は山ばかりで険しく、深林も多く、
道路は獣道のようである。千戸あまりの人口。良い田がなく、 海産物を食べて生活し、船で南北(韓国や北九州?)にのりだし
交易を行っている。また大海を渡ると千余里で、壱岐に到達する。この海を瀚海(かんかい:現在の玄界灘)という。
長官を(対馬と)同じく卑狗といい、副官を卑奴毋離という。周囲は三百里ほど。竹木や草むらが多く、三千戸程の家がある。
少し田畑があるが、これだけでは生活できず、(対馬と)同様に韓国・北九州と交易している。
さらに大海を渡る事千里余りで末盧国(今の佐賀県唐津市・東松浦郡)に到達する。四千余戸あり、 山際や海岸に沿って
家が建っている。草木が生い茂っていて、歩くとき前の人が見えない位である。好んで魚貝類を捕え、海の浅い所深い所
関係無しに、潜水してこれらを捕らえる。東南へ陸を行く事五百里で伊都国(今の福岡県糸島郡)に到る。長官を爾支といい、
副官を泄謨觚・柄渠觚という。千戸余りの人々が住んでおり代々王がいるが、皆女王国に統属している。
帯方郡の使者が常駐している所である。
そこから東南の方角へ行くと奴国(今の博多)に至る。距離は百里である。長官をジ馬觚といい、副官を卑奴毋離という。
二万余戸がある。東の方角へ行くと、不弥国に至る。百里である。長官を多模といい、副官を卑奴毋離という。千余戸がある。
南へ行くと、投馬国に至る。水行(一海を渡ると区別している事から、この表現は川を行くものだ、との説がある。)
で二十日かかる。長官を弥弥といい、副官を弥弥那利という。五万余戸ばかりの人口である。
南へ行くと、邪馬台国に到達する。女王の都がある所である、水行十日(と/又はの二説あり。)陸行一月である。
長官を伊支馬といい、次官を弥馬升とい い、次官を弥馬獲支といい、次官を奴佳タイという。七万余戸ばかりの人口である。
女王国より北の方角についてはその戸数・道里は記載できるが、その他の周辺の國は遠くて交渉が無く、詳細は不明である。
次に斯馬国があり、次に已百支国あり、次に伊邪国あり、次に都支国あり、次に弥奴 国あり、次に好古都国あり、次に不呼国あり、
次に姐奴国あり、次に対蘇国あり、次に蘇奴国あり、次に呼邑国あり、次に華奴蘇奴国あり、次に鬼国あり、次に為吾国あり、
次に鬼奴国あり、次に邪馬国あり、次に躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、次に烏奴国あり、次に奴国あり。
これが女王の(権力の)尽きる所である。
その南に狗奴国があり(今の熊本か?)、男子の王がいる。その長官は狗古智卑狗であり、(この國は)女王國に隷属していない。
帯方郡より女王国に至るまでは一万二千余里である。男子は大人、子供の区別無く皆体に入れ墨をしている。
昔から、この國の使者が中国に詣で来た時、皆自ら大夫と称している。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪入れ墨を以て蛟竜
(こうりゅう:サメの類)の害を避けたと言うが、今倭人も、好んで潜水して魚貝類を捕える。その時入れ墨が大魚・水禽を寄せ付けない
まじないとなっていたが、今では飾りとなってしまっている。国々によって各々入れ墨が異っている。
色々な職種、大人・子供の間で、尊卑の差がある。(倭の)方角・方向を言うならば、ちょうど会稽の東治(とうや)の東にあたる。
374 :
日本@質問くん:01/11/18 15:55
>>372 ご親切にありがとうございます。
倭人伝の部分里程をすべて足しても総里程(万二千余里)にならない。
もしかしたら「余里」が倭人伝の里数値の不足分を補っているのではと思いました。
>373
おいおい、まさか続けるつもりか?
376 :
畿内信者は夢を見ている:01/11/18 16:21
卑弥呼が女王の座についた時はAD180年位と推定されている。
其の頃、畿内は未だ唐子・鍵のときだよ。
唐子・鍵は九州や出雲などから遥かに遅れた後進国だったのだよ。
ろくに鉄製の武器もなかった弥生時代の畿内に何故突然巨大な古墳が
出来たか。
唐子・鍵の弥生人が鉄製武器を大量に持ち、強大な力を蓄え、古墳を
築く事が出来るようになったかを冷静に考えてごらん。
自然に唐子・鍵が纏向になる事はありえないことが判るだろう。
唐子・鍵と纏向の間には連続性が認められない。
唐子・鍵の銅鐸が一斉に廃棄され古墳時代には全く無くなったと言う事も
外来集団による征服が行われた事を示唆している。
早く目を覚ましたら銅?
>>376 >卑弥呼が女王の座についた時はAD180年位と推定されている
卑弥呼は何才の時に共立されて、何才まで生きたのかな?
邪馬台国は卑弥呼を操っている男の王がちゃんと居たんだよ
それから、邪馬台国以外すべて男王
邪馬台国の王が回りの王国を統合するために卑弥呼を立てた
実際は権限無し、単なる引き篭もり女
379 :
日本@名無史さん:01/11/18 17:33
>>378 俺、その文章どこかで書いた記憶がある・・・
380 :
畿内信者は夢を見ている:01/11/18 20:37
壱與は13歳で邪馬台国王になった。
卑弥呼も同じ位だろう。
死んだのは80歳位だったと思われる。
381 :
日本@名無史さん:01/11/18 21:55
倭国乱の時期は180年代だろうが、イコール共立の時期とは限らない。
倭国は歴年主がなかったのだから
卑弥呼が王になったのは2世紀も終わりごろに近いのではないかなあ。
宇佐神宮の地下(古墳)を誰か掘ってくれないかなあ。
国宝だから無理なのかな。 おれの生きている間に掘ってほしい。
きっと、すごい発見ができると思うのだが。
薩摩や長州は、後進地帯だが、明治維新を起こした。
沖縄が邪馬台国であることは十分ありうる
384 :
日本@名無史さん:01/11/18 22:14
卑弥呼=神武天皇
無理ではないが、何ら意味がないのでやらないだけ。
吉野ヶ里や平塚川添は意味があるから、発掘してるの。
行政関係者の意向がどういうものか悟るべし
宇佐説は、コヴァ
386 :
>>380、381:01/11/18 23:05
>其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子爲王
男王を師升、住七八十年は安帝遣使よりの起算だとすると、
確かに倭國亂は180年ごろですね。相攻伐歴年の年数については、
壹與擁立では「歴年」の表現が無いので、それよりは長くても
10年以上続いたような場合の表現には思えないなあ。
387 :
日本@名無史さん:01/11/19 00:04
>>386 >確かに倭國亂は180年ごろですね。相攻伐歴年の年数については、
魏志倭人伝の書き方では、乱が「はじまった」のが180年頃としか読めないだろ。
歴年が4、5年かあるいは100年か、これだけじゃ、わからん。
しかし、卑弥呼が239年に朝貢しているのだから、それより前だということは確か。
歴年が何年ぐらいかについて文句のあるヤツは、シニカで検索してミソ。
古事記でサ、仲哀天皇だっけ?神託に背いて熊襲討って死んだこと
になってるけど、この後しばらく皇后=卑弥呼が納めたって可能性と
かは無いの?
それから熊襲が邪馬台国の可能性もあるのかないのかどうか。
激しくスレ違いですんまそん。
389 :
日本@名無史さん:01/11/19 00:12
クマソ=クナ国という説が有力だね。でも最近東海地方説もあるね。
卑弥呼=神功皇后は、日本書紀の作者が勝手に考えただけ
390 :
日本@名無史さん:01/11/19 00:16
また、西都説は放置ですね。んー。
別に西都が邪馬台国で無くてもいいから、西都原古墳群が何であるのかを
誰か真面目に検証してくれませんかね。
誰かの作ったサイトが幼稚だったから西都は無視ってのはひどすぎ。
古墳はちゃんとあるのに・・・
391 :
日本@名無史さん:01/11/19 00:19
結局、マキムク=邪馬台国の時代
つー証拠が出てこないな。
392 :
日本@名無史さん:01/11/19 01:06
393 :
日本@名無史さん:01/11/19 06:47
纒向I〜IVの実年代と根拠は調査報告で公式発表されています。
常識の部類ですから、いまさら誰も答えてくれませんよ。
394 :
日本@名無史さん:01/11/19 08:42
「歴年」ってのはせいぜい5〜6年ぐらいの期間だヨ。
デムパを飛ばす前に、シニカヘ行け
396 :
日本@名無史さん:01/11/19 19:44
デムパ飛ばすよな輩はシニカを知るまい。
397 :
日本@名無史さん:01/11/20 00:39
まったく周王朝が5〜6年ぐらいで亡ぶかね。
出土品に年号が書いているわけではない。
考古学者のかってな思いこみ。
沖縄を発掘せよ
399 :
日本@名無史さん:01/11/20 06:46
考古学者の研究を否定しておいて、考古学者に沖縄を発掘せよというのは、なんとも矛盾だねえ。
それとも素人で盗掘して遺跡破壊するかね?
ま、捏造はしないでね。
400 :
日本@名無史さん:01/11/20 07:00
色々としがらみの多い学会はともかく2CHでは九州説が優勢のようだね。
「畿内信者は夢を見ている」にちゃんと反論できるやつがいない。
401 :
日本@名無史さん:01/11/20 08:50
>>400 スレテーマと微妙にズレてるので単にレスが付かないだけと思われ。
402 :
日本@名無史さん:01/11/20 09:36
>>400 さらに馬鹿っぽいので九州仲間からも無視されているものと思われ。
>>139 > 身内の意見と違うこと言えないのは考古学だけじゃないでしょ。
> キミの学科だって同じだよ。
解釈を自説の新規性の一つの中心に置く史学、仮説に重きに置く古代史、
に特徴的な性格である事は確か。考古学は古代史にひきづられている。
ただ、哲学あたりは学会で意見を言う事すらやばい雰囲気とか。
404 :
日本@名無史さん:01/11/20 15:54
>>401 そういうのを理由にしてはいるが、本当は答えられないからと思われ
405 :
「唐子」・鍵ってどこ?:01/11/20 17:22
おバカは放置
406 :
日本@名無史さん:01/11/20 21:10
>>358は何度論破されても時間をおいて同じ内容を繰り返し書き込むので、ついに畿内説の面々に見捨てられたと思われ
407 :
ちょっと変わった畿内説:01/11/20 21:14
邪馬台国に首都機能があったかどうかには、議論の余地がある。
むしろ、東征の足がかりとして畿内に邪馬台国という、いわば前線基地が
あったとは考えられませんか?
卑弥呼はその為の擁立で、実権がない象徴としての女王。
魏使が伊都国までしか訪れていないという仮説も
戦場まで赴くほどの危険を犯したくなかったと考えれば成立します。
それどころか、本当に帯方郡から倭に行ったのかどうかも疑わしいでしょ?
難斗米あたりが運搬を担当したのかもしれませんし。
つまり、卑弥呼の時代に邪馬台国は畿内にあったが
政治実権は北九州(恐らくは伊都国)主導だったと言うのはいかがです?
その後の大和朝廷が、東遷の結果なのか畿内勢力が九州を凌駕したのかは
材料が不足しているため、断ずる事は出来ませんが。
>>407 倭人伝の「伊都国」の記述は、かなり不自然ですが、北九州では別格的な地位に有ること誰も否定しないと思います。
しかし、「女王国に統属」する云々により文献的には否ですよね。ほかに検証すべき手段も無いし、残念ながら・・・
ところで、倭人伝解釈で「伊都国の謎」のひとつでもある「一大率」について新説とかは出てないですかね。
中国古文献からの検証を試みてる人はいないんでしたっけ?
その説は、別に変わってないよ。
寺沢が、北九州の圧倒的鉄器の優勢とまきむく遺跡の出現の年代の矛盾を解決すべく
打ち出した説だ。これとはちょっと変わるが、柳田も似たようなことを言っている。
今後、あんたのような考えが増えていくだろうよ。
隋書倭国伝では
「魏史にある、邪馬台国のことだ」と大和を紹介しているので
畿内だと思うんですけど
ま、7世紀になってもまだ、九州に邪馬台国があったというのなら
別ですが
411 :
407です:01/11/21 15:05
>>408 そうなんですよ。倭人伝の記述が伝聞推定であるとの証拠がない限り
万人を納得させられないのが、この説の弱みなんです。
>>409 なんと!うれしい限りのお言葉です。
では、少々調子に乗って・・・。
3世紀当時の鉄器って、武器としての威力はどんなものなのでしょうか?
鉄器先進国の北九州でも、一般兵士にまで行き渡っていたとは考えにくいのですが
むしろ開墾による国力の増強や、木製武器の製造グッズとして使用していたとは
考えられませんか?
412 :
日本@名無史さん:01/11/21 19:51
あのさあ、狗奴国は沖縄だぜ。これはハブが出るとか牛や馬がいない(牛や馬は畿内でも九州でも鹿児島でも骨発掘されとる。)
だから郡より邪馬台国至るに1万2千里とは沖縄から日向までの距離のことだよ!
ついでにその狗奴国(沖縄)が東治の東(福建省の真東)という記載もダウト!
伊都から水行10日陸行1月とは伊都から水行10日で熊本県の玉名。そこから歩いて大分経由で西都原まで17日。つまり、伊都国から西都まで一月(詳しくは27日)と言う意味。
魏志倭人伝を忠実に読むことだな。
413 :
日本@名無史さん:01/11/21 20:14
狗奴国は球磨川あたりのことじゃないのか?
414 :
日本@名無史さん:01/11/21 20:57
>>410 隋書倭国伝では耶麻堆には阿蘇山があったと書いてあるぞ。
415 :
日本@名無史さん:01/11/21 21:13
阿蘇山なら国内にあるぞ!都は大和だが。
416 :
日本@名無史さん:01/11/21 23:00
阿蘇山の見える所(九州)から先に移動した様子が無い。
417 :
日本@名無史さん:01/11/21 23:05
さてさて?隋書にはなんと書いてあるかな?
まず、どこから阿蘇山が見えたとは一切書いてない。
次に、倭国の都は筑紫よりも東と書いてある。
つまり、倭国の都から阿蘇山は見えない。
おしまい。
418 :
日本@名無史さん:01/11/22 00:22
>>417 >倭国の都は筑紫よりも東と書いてある って言うのは、
「地勢東高西下都於耶麻堆」のことだろうか?
ちょっと読み方が変ではないかな?
ただし、阿蘇が耶麻堆にあるとも絶対書いてないないが。
419 :
日本@名無史さん:01/11/22 00:38
邪馬台国は、沖縄。
クナ国は、南西諸島の一つだろう
420 :
日本@名無史さん:01/11/22 00:46
寺沢の「王権誕生」を読んでみたら?
422 :
日本@名無史さん:01/11/22 02:00
沖縄説が真実です
423 :
日本@名無史さん:01/11/22 02:06
>>420 なんだ?トンデモはハエのように九州説にたかるという例か?
425 :
日本@名無史さん:01/11/22 03:17
邪馬台国は大和じゃないの?
426 :
日本@名無史さん:01/11/22 04:24
九州にも大和の名がつく土地がありますが
427 :
日本@名無史さん:01/11/22 04:31
鳩首右折臣蛇は同じ話にループさせる以外に能がないね(w
428 :
日本@名無史さん:01/11/22 04:36
寺沢の畿内説とか大和岩雄の九州説ってのは、かなり特殊。
単純な東遷説とはちがう、もう少し洗練された折衷案ともいえる。
九州説の人は初代天皇は応神天皇?
>>412 それなら、むしろ鹿児島を押したいが。遺跡とかないの?
430 :
日本@名無史さん:01/11/22 08:27
シマ国(多分)の発掘が進んでるらしいが、誰が掘ってるのかな?
432 :
大室寅之スレ:01/11/22 18:41
宮崎県都城市(例の西都市のすぐ近く)=邪馬台国説ってのが
デムパ安本が編集している「季刊邪馬台国」の最新号に掲載されていた。
投馬国は豊後、狗奴国は鹿児島湾周辺だって。
柳田説は、
◎古墳時代の要素(鳥居、大柱、大型鏡など)を持つ平原遺跡
◎北九州の鉄器等の優勢
◎土器編年、年代法等によるマキムク遺跡の年代
の整合性を無理矢理とるための不自然な説じゃないかと思う。
北九州か畿内のどちらかの編年が間違っているのだと思うね。
434 :
日本@名無史さん:01/11/23 02:15
考古学的に、南九州の重要性は、分かる。
大和王朝が何らかの形で南九州と深い絆を持っていたことも事実
これらを考古学者が無視してきたも確かだ。
しかし、邪馬台国は言い過ぎだ。
道鏡事件で、もし、宇佐神宮の打診の結果、道鏡が天皇になってもよい、という
御宣託が下った場合に日本史にどういう影響が出たと思う?
やっぱり、宇佐は大和朝廷のルーツだよ。もしかして、道鏡以前にも大王が別系統に
なったことを宇佐が承認した例もあったりして。これは想像だけどね。
436 :
日本@名無史さん:01/11/23 10:52
8世紀の事と三世紀のことは無関係だと思うけど。
437 :
日本@名無史さん:01/11/23 12:25
やっぱ、沖縄ですね
沖縄まで、北九州から船で何日かかるんだ?
九州説の中にも2つある。
1つめは一時的に大和圏と一体になったあと独立して九州王朝になった説。
もう1つはそのまま独立を保ったまま九州王朝になった説。
441 :
真性厨房ですが:01/11/23 19:51
>>435 USAさん
ご承知のとおり宇佐(八幡)神社は記紀には一切登場しませんネ。
これに関する記録は、養老4年=720年に隼人の乱に際して鎮撫の懇請がなされてこと、
天平9年=737年に「伊勢の神宮、大神の社、筑紫の住吉・八幡二社、及び香椎宮に。。」
(伊勢、三輪、に続き住吉と同格)とあるのが初見でしょう?
つまり天皇家がこの神社を意識したのは、記紀編纂以降の比較的新しい時代なのです。
また天平勝宝元年=749年に八幡大神に一品、姫神に二品(天安2年に一品に進む)の神
階が授与されており、朝廷からは一般神社並みに扱われているでしょう?
言うまでもなく、皇祖神の伊勢神宮に天皇家から神階を授与すると言うような感覚は有り
得ません。つまり伊勢と宇佐では神格が根本的に違っているのです。
確かに宇佐八幡は社伝によれば神亀2年=725に現在の地に移遷した以前から、巧みに神仏
混合を取り入れ、以後も大仏殿建立に積極的に協力することで、時流に乗ってはいますが、
それ以上の特別な格付けはなされていなかったのではないでしょうか?
で。。。「道鏡神託問題」ですが、これも宇佐神社の神主が「道鏡を皇位に付ければ天下太
平」と言う神託があったと報告してきたため、その確認のため清麻呂が派遣されたのであっ
て、仮に他の有力神社の神主から同様の「神託」があれば、やはりその確認のために高官が
派遣されていたでしょう。
つまり宇佐神社が「皇位継承問題」に特別の権威を持っていたわけではないのです。
(ただし道鏡の皇位継承を明確に否定したことによって、逆にその「神託」に権威が加わる
のですが。。。)
宇佐神社の淵源や仏教との関係に付いては色々な説があり、その解明は困難ではありますが、
少なくとも天皇家中祖である応神と仏教菩薩に関する信仰対象に止まるものであって、皇祖神
信仰とは根本的に異なるものと理解すべきものではないでしょうか?
442 :
真性厨房ですが:01/11/23 20:04
つまり。。。宇佐神社の「神託問題」から、これを皇祖神に結びつけるとか、
ましてや邪馬台国九州説に結びつけるような議論は、これらの史料的事実を無
視するものであり、僕のような真性厨房から見てもナンセンスだと思います。
443 :
日本@名無史さん:01/11/24 07:11
八世紀の話は邪馬台国と関係あるとは思えん。
八世紀においても九州に天皇の後継について左右できるほどの軍事力もった勢力があったと見るか、
大和政権は半島、つまり百済あたりの影響下にあって百済にお伺いをたてた事を誤魔化すために
宇佐神宮の御宣託を受けた事にしたと言うのが真相のような気がする。
444 :
真性厨房ですが:01/11/24 11:43
>>443 流石にこれには参っちゃう。8世紀の「百済」の影響だって(WWW
最後の百済王「余豊璋」は天智の後援で百済王となったが、663年白村江の敗戦で百済は
滅亡し、王族貴族は倭国に亡命してるんでしょう?
その弟「余善光」は倭国に残留して「百済王」を賜姓され、「宇佐神託事件=769」の頃
には子孫の百済王敬福は左大弁・河内守をへて従三位刑部卿でしょう?
一体百済の誰にお伺いを立てるのやら。。。バッカミタイ!
445 :
日本@名無史さん:01/11/24 12:06
バッカミタイではない。
その頃もう百済は無いので・・くだらない。
446 :
日本@名無史さん:01/11/24 13:53
ウサチュウ話やクダラン話はいい加減にして本題にもどっては?
447 :
日本@名無史さん:01/11/24 20:27
苦し紛れのUSA説も自ら墓穴を掘ったし。。。旧習説は寝た切れです(藁
448 :
畿内信者は夢を見ている:01/11/25 15:01
九州説の証拠は倭人伝の記載にある距離、萬弐千余里と方向だろ。
素直に読めば九州以外にありえない。
畿内説では方向や距離の記述は間違いであるとしなけれならない。
畿内の三角縁神獣鏡も倭鏡と言うのが大勢だし、古墳の年代も寺沢年代が繰り上げ限度。
年輪年代も100年狂っている。
2世紀から3世紀初頭の畿内の後進性を考えるとAD240年に畿内に邪馬台国が存在
したと考えるのは無理ということが判らないのはかなり地方が進んでいると思われるね。
卑弥呼の擁立は2世紀末なのだよ。
2世紀末に畿内が九州や出雲に匹敵するほどの力、九州を支配するほどの能力もっていた
と言う証拠は何処にも無いのに畿内説はAD239年時点での事だけをアーデモナイ、
コーデモナイと下らない議論をしている。
九州説も畿内信者に引きづられて狂った土俵で相撲を取っている。どっちもアホ。
449 :
日本@名無史さん:01/11/25 16:41
>>448 なんど同じこと繰り返して書き込んでも
九州説からも賛成者が一人も出ないのはイタいね。
そろそろダブハンで「ソーダ!ソーダ!!ダイサンセーダ!」って書くかい?
450 :
日本@名無史さん:01/11/25 18:18
邪馬台国は九州。畿内には秦王国があった。
白村江の戦いの後、戦勝国新羅は秦王国を核に「日本」を作った。
448の主張はおおむね正しい。
451 :
日本@名無史さん:01/11/25 18:21
つーか、あの頃畿内と九州のダブル国家だったてのは皆同意だろ
そのどちらに卑弥呼がいたかが今の焦点。
452 :
日本@名無史さん:01/11/25 18:51
>>450 百済滅亡の後は、百済及び高麗を直轄領にしょうとする唐に対し、新羅は果敢な
闘争を展開する。。。その中で唐・日本の連携挟撃を畏れ、新羅は日本に擦り寄
ってくる。。。てなことくらいは知っとけよ!
秦王国ってのは隋書に竹斯国の東とされ、さらに十余国をへて海岸に達する九州
圏の国だが「其の人華夏に同じ」としてるので、新羅などとは何の関係もない。
隋書には「新羅・百済、皆倭を以って大国にして珍物多しと為し、並びに之を敬
仰し恒に通使の往来す」とあるのも覚えておきな!
453 :
日本@名無史さん:01/11/25 20:30
「弥生時代の遺跡に畿内では鉄器が殆んどない。遅れていた。」
と言う批判に畿内派はどう答えるんだろう。
AD200年頃九州勢が東征したと言うのかな。
454 :
ダーヴェル:01/11/25 21:03
業務連絡、業務連絡。
井沢元彦BBSで惑星の軌道が完全な円軌道などと電波出している、
宇佐=邪馬台国説のウサチュウ様、ウサチュウ様。
いらっしゃいましたら、至急、井沢スレにお戻りください。
(四拍手パンパンパンパン、っと)
455 :
日本@名無史さん:01/11/25 23:19
>>453 弥生時代じゃないので関係ないと答える。
そういう矛盾を解決するために寺沢説が出ているの。
最近のはやりだよ。
里程と方角を正確に読めば、沖縄です。
歪曲はやめよう
458 :
日本@名無史さん:01/11/26 00:45
よし!わかった!
457よ、沖縄を発掘してくれ!
沖縄は君に頼んだぞ!俺たちは本州をやるから。
結果を期待しているぞ。
じゃあな。
>>456 寺沢 薫の「王権誕生」読んだよ、ありがとう。
現時点では最も真実に近い仮説に思えたのですが
(特に倭国大乱後から、3世紀の西日本勢力の共立都市としての邪馬台国という
くだりと、前方後円墳の発生理由が秀逸)
これに具体的に反論している説ってありますか?
自分なりには、まきむく=邪馬台国じゃなくても成立しそうに思ったのですが。
460 :
日本@名無史さん:01/11/26 01:43
>>448 >九州説の証拠は倭人伝の記載にある距離、萬弐千余里と方向だろ。
方角=北部九州では方角はあわない。ついでに、距離でも、日数表記にはあわない。
方角がかろうじて正しそうなのは、南九州。
萬弐千余里=これは例のおかしな引き算の結果でてくる1300里+短里の事だと思うが、
短里=75m/里なら、1300里は1000kmほど。これでは南九州には到達しない。
「萬弐千余里」を論拠として採用する場合は、南九州説はこれにより否定されるのだが、それでいいのか?
さて、この互いに相矛盾するデータをどうまとめたら、
>素直に読めば九州以外にありえない。
という結果になるのか、
邪馬台国の場所はどこで、どういうルートを辿れば距離も方角も正しくなるのか、
きちんと書いてくれ。
そうでないと検証出来ない。
>>460 >1300里は1000kmほど。
は、丸が一個多い。100kmに訂正。スマソ。
462 :
九州真理教:01/11/26 02:34
>>460 >方角がかろうじて正しそうなのは、南九州
これで必要十分。
距離は相対的でアバウトなものであるから、あれこれ詮索するほうがナンセンス。
また、記紀には神武は九州から畿内にやってきた、とわざわざ記してあり、畿内出身とは記してない。
このことを考慮しても、やはり九州に邪馬台国があったと推理するのが自然。
さらにまた、物的証拠として、「径100余歩」(1歩は1.4m)に相当する古墳が西都原に存在する。
男狭穂塚(直径150mの円形古墳)のことであるが、これに匹敵する古墳は日本中どこにも存在しない。
男狭穂塚は5世紀築造とされているが、実は根拠が曖昧。3世紀の可能性がある。
463 :
日本@名無史さん:01/11/26 06:16
畿内から九州や出雲の1/3でも鉄器が発掘されていればね。
1/100くらいだろ。
鉄は朝鮮半島から輸入していて半島から遠い畿内は九州のおこぼれ程度しか
鉄を手に入れられなかった。
他国を支配するには鉄の武器が不可欠。
大和国は三世紀末に九州勢(邪馬台国or狗奴国)の東征によって出来たと
考えた方がいいんじゃないかと思う。
当時は鉄=軍事力だからね
465 :
日本@名無史さん:01/11/26 06:38
情報が古いようだ。1/3くらいは出ているね。
466 :
日本@名無史さん:01/11/26 07:06
20数点じゃないか?
467 :
日本@名無史さん:01/11/26 07:24
>他国を支配するには鉄の武器が不可欠
>鉄=軍事力
これはそう言い切れるものじゃないよ。
まず、武器としての威力の検証が必要でしょう?
青銅器よりは耐久性があるのは間違い無いが、そのまま殺傷力も
飛躍的に上がるのか?と考えてみてください。
後の時代の日本刀と違い、「斬る」ことが出来なかった鉄剣が
勝敗の明暗を分ける決定打とは考えにくいのでは?
むしろ、鉄=経済力と考えた方が
九州、畿内を問わず正解に近いのでは?
468 :
467の続き:01/11/26 07:45
発掘された鉄器にしても、実は青銅器さえも
絶対数が少なすぎて、戦場での有効性が疑問視されています。
これも後の世の例えですが、鉄砲のように
大量殺傷能力があるわけでもなく、後方からの長距離援護が
可能なわけでもない金属器の「剣」が少々の数で劇的な効果を
発揮できるものでしょうか?
つまり末端の兵士にまで鉄剣が行き渡っていたといった圧倒的な
数の優勢でもなければ、切れ味が無いに等しかった当時の剣では
メンテナンスの手間がかかる分、こん棒や石槍にさえ対しても
優位が保てるはずもありません。
それ以前に食料や設備といった補給に関しての概念の再検証も
必要でしょう。戦争を維持する力とは、経済力に他なりません。
だからこそ倭国大乱は100年もかかりながら決着がつかず
千日手に陥ったあげくの停戦だったのですから。
469 :
お〜い、448:01/11/26 08:31
462が一万二千里はいらないって言ってるぞ〜。
反論はないのか〜〜?
また、書き逃げか〜〜〜 !
それとも、448=462だけど知らん顔してたにんのふりか〜〜〜
470 :
日本@名無史さん:01/11/27 00:01
それは、確かだが、通常は、あんたの考えと逆に解釈されているな。
高地性集落は、防御用といいうのが通説
472 :
日本@名無史さん:01/11/27 01:01
だから、問題解決には、寺沢説しかないと思うぞ。
473 :
日本@名無史さん:01/11/27 01:13
北九州に耶馬(やば)渓って所があるけど
邪馬台国関係ないの?
474 :
日本@名無史さん:01/11/27 01:44
>>470 高地性集落は弥生の前期と中期と後期では
分布のしかたがそれぞれ特徴的で差が大きかったはず。
誰か解説キボン
九州は有利なんだけど
実際の比定地がねぇ
短日制にすれば宇佐になるらしいが
果たして……
476 :
日本@名無史さん:01/11/27 07:25
距離、方向とも完全に一致するのは日田だけです。
西都です
478 :
日本@名無史さん:01/11/27 12:39
>>474 解説とい言うほどのもんじゃないが。
九州と山陰には、ほとんど造られておらず、
大阪湾岸では全期間を通じて多数の高地性集落が存在する。
期間的な変動は四国・山陽地区に見受けられる程度。
九州王朝が東進した結果の影響かどうかはわからず。
>>478 解説ありがとう。
漏れがきいていたのは「前期は全国区で、後期は近畿限定」ってな話だったけど
・・・・そのへんはどーよ?
「そのへん」は専門家に引き継ぎたい。(^^;
481 :
日本@名無史さん:01/11/27 13:03
>>479 「前期は全国区で、後期は近畿限定」って言う傾向はぜんぜん無い。
瀬戸内に限って言えば、前期は西瀬戸内に多く、中期は東側にも多い。
さらに、後期に成ると南九州あたりにも出現する。
九州王朝というより、コウノ水軍あたりの活動が変動要因なのかもしれない。
邪馬台国の規模は7万戸(人口30万人)でかなリですよ。規模がでかかったはず。
>>狗奴国は沖縄だぜ。これはハブが出るとか牛や馬がいなかった独特の地域であったという記載からも明らか。
(牛や馬は畿内でも九州でも鹿児島でも骨発掘されとる。)
>>郡より邪馬台国至るに1万2千里とは沖縄から日向までの距離のことだよ!
ついでにその狗奴国(沖縄)が東治の東(福建省の真東)という記載もダウト!
伊都から水行10日陸行1月とは伊都から水行10日で熊本県の玉名。そこから歩いて大分経由で西都原まで17日。つまり、伊都国から西都まで一月(詳しくは27日)と言う意味。
魏志倭人伝を忠実に読むことだ。
>>474 トウマ国は南へ水行20日なんだよね。
とすると熊本県のクマ郡(人吉市辺り)になるが、たしか5万戸に相当する
ような高地性集落跡無かったけ。
卑弥呼の古墳を隠蔽した男・黒板勝美
1 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/06/09(土) 23:15
東大教授 黒板勝美。 西都原古墳オサメズカに土を持って変形型前方後円墳にしたてたのが彼の犯行。
それだけにはあき足らず、総督府修史委員会顧問として大正12年7月、対馬に史料採訪を行ったとき、朝鮮に関係ある文書古記録等が多数あることを知り、・・・古文書類66469枚 古記録類3576冊 古地図34枚 古画類18巻および53枚を押収。これら全てを焚書。
偽史シンジケートの指揮官 日本の恥 東大酷使学の教授 黒板勝美を考える。
485 :
日本@名無史さん:01/11/27 17:28
>たしか5万戸に相当する ような高地性集落跡無かったけ。
高地性集落にそんなでかいもんあるの???
邪馬台国の東に海があるって。
熊本県ではないな。福岡県でもなさそうだ。
どこかなあ?
先ずは、九州説に有利な点は、
1 記紀伝承の根幹として、大和朝廷の九州建国、東遷、東征説話等は無視できない。
2 邪馬台国のベースとなりうるような弥生期以前の遺跡等は九州に多く、畿内大和ではかなり貧弱である。
3 地理的に朝鮮半島に近く有利。
次に不利な点
4 卑弥呼に100枚賜与されたという魏鏡の出土例が少ない。
5 「邪馬台国」に比定される地名が遺跡を伴わない。
6 倭人伝の距離記述と大きく矛盾する。
有利点・不利点まだまだたくさんありますけどね。
>>日向説に当てはめる
1は日向の場合、神話、伝承類の数が出雲についで2番目に多い。
2は弥生時代に遺跡の数から人口密度が九州一多かったのが西都。(7万戸、30万人に相当)西都原古墳群は九州でも最大規模。
ただし何故ここがろくな発掘調査もされずに5世紀のものと(御用学者が勝手に)決め付けたのか。9割以上手付かずのまま放置されているのは何故か。
宮内庁は何故西都の古墳の発掘調査させないのか???
3その通り。
4三角縁神獣鏡ももちろん出土(ただし面白いことに畿内で作られて西都に輸入されてきた事になっている)
5西都の地名は西洲(九州)の都。という意味。
6伊都から水行10日陸行1月とは伊都から水行10日で熊本県の玉名。そこから歩いて大分経由で西都原まで17日。つまり、伊都国から西都まで一月(詳しくは27日)と言う意味。
488 :
日本@名無史さん:01/11/27 17:48
魏志倭人伝を一言一句厳密に読んだとしても
正解には辿り着けないよ。
戸数、方角、距離から一旦離れて
発掘状況と古代気象学や地理学の方面からアプローチしてみたら
どの説の論者も、また新たな発見が得られると思いますよ。
489 :
日本@名無史さん:01/11/27 22:43
>>487 九州で不利な点に上げられた4,5,6は少しも問題ではない。
4、魏の鏡そのものが中国、日本ともに少ないのだ。
魏の鏡といわれているが実際の所は疑問符のつく△を除くと魏鏡と断定できる鏡は畿内でも殆んどない。
5、地名は行政の都合で変えられる。邪馬台国が何時までも邪馬台国である必然性はない。
周辺に邪馬台の残映が残っていれば十分。
6、距離も萬弐千余里=水行10日、陸行一月と考えれば矛盾は無くなる。
一方この6の問題は畿内にとってはもっと大きな問題だ。水行30日、陸行一月はいくらなんでも掛かりすぎ。
不弥国から1300里では畿内に到達できない。
西都は問題外。
490 :
日本@名無史さん:01/11/27 22:50
>>489 >4、魏の鏡そのものが中国、日本ともに少ないのだ。
それは理由にならないな。
魏は薄葬なので見つからない理由がある。
倭は100枚もらって広く国中に示しているはず。
>6、距離も萬弐千余里=水行10日、陸行一月と考えれば矛盾は無くなる。
それは漢文の読解としてドーショーモない間違いなのでだめ。
>不弥国から1300里では畿内に到達できない。
そんなことはない。時間的にも距離的にも適切。
491 :
日本@名無史さん:01/11/27 23:17
「到達できない」も「適切」もでたらめ。
正しくは「なんにしても距離的には逝きすぎるがナ(藁」
ていうのが正解。
卑弥呼が銅鏡百枚といっしょに貰った五尺刀二口ってのは探索しようがないのか?
493 :
日本@名無史さん:01/11/27 23:33
鉄は錆びるからねえ
そこら辺の錆刀を片っ端からX線検査するべし。象嵌剣が混じってるに違いない!
495 :
>>494:01/11/27 23:39
自棄になりたくなるのは皆同じ(w
496 :
日本@名無史さん:01/11/27 23:42
>>491 博多から桜井まで鉄道キロで672km。
1里=430mとして約1,560里。
「適切」が正解で「逝きすぎる」が(藁)だろう。
科学は物的証拠を最優先する。
「径100余歩」を満たす古墳は、西都原古墳群の「男狭穂塚(直径150余m)」しかない。
ここから出発するのが学問といえる。
他説は妄想である。
498 :
日本@名無史さん:01/11/28 00:23
↑「学問といえる。他説は」の10字抹消。
499 :
1(何と無く畿内説):01/11/28 01:05
もし、邪馬台国が九州内に在るとしたら筑後川流域地方を第一候補にします。
倭人伝の7万戸は過大表現だとしても、3世紀ごろ九州内で最大人口を擁する平野こそ邪馬台国の所在地に相応しい。
福岡平野、遠賀川流域、宇佐、南九州等は、人口=農業生産力で敵うことはできません。
ただし、中心遺跡が発見されていないのが最大のウィークポイントですけどね。
奥の方に平塚があるじゃん。
柳田も「吉野ヶ里より大きい」と言っているんだから、問題ないでしょ
501 :
>>500:01/11/28 01:19
ほんとに大きいのかな?
まあ、掘り繰り返してみなくちゃわかりませんが。
502 :
日本@名無史さん:01/11/28 01:22
吉野ヶ里は、シマ国以下傍国のひとつ
「都支(tzci)国」の国府であったと考えております。
すなはち"筑(ちく)国"です。
そして、シマ国以下傍国も、
投馬や不弥や松浦・糸島と同じ、
連邦国家 邪馬台国の自治区であったと考えます。
しかるに、その首都
"邪馬台国女王の、都する処"は、奈良盆地の三輪山付近で
九州説も畿内説も両方正しい、ということになりましょう。
>>502 3世紀以前の銅製祭器の分布を見ると、奈良盆地は西日本の中では孤立しているように思われる。
4世紀以降の鏡教の布教状態でも近畿と九州には断絶が有る様にも見えるし、
このあたりは、昔から不可解なままなんですよね。
504 :
日本@名無史さん:01/11/28 01:41
>>503 >3世紀以前の銅製祭器の分布を見ると、奈良盆地は西日本の中では孤立しているように思われる。
どういう意味?ちゃんと書いて。
>>502 え? ただの近畿説にしかきこえませんが?
(いや、反論じゃなく)
506 :
日本@名無史さん:01/11/28 01:50
他のスレでも書いたが、そもそも三国志正史なんて当てにならんよ。
いい加減な書なんだから。
>>504 ちゃんとかどうかわかりませんが、
九州タイプの剣・鉾が大和では出土しない。
銅戈も大阪湾岸まで普及したが、大和では出土例が少ない。
銅鐸も吉野ヶ里と出雲では兄弟型も出土するが、大和のものとはタイプが異なる。
とかじゃダメ?
508 :
日本@名無史さん:01/11/28 02:15
>>502 卑弥呼の後の世代ではそれに近いんではないかな
509 :
日本@名無史さん:01/11/28 02:17
>>507 なんだ。そいういうことか。
銅鐸の分布ちゃんと調べてごらん。
最後のほうの銅鐸は奈良盆地からはほとんど出ていない。
いわゆる近畿式と呼ばれる大型銅鐸のことだが。
そういう意味で孤立してるんだ。畿内に広げてもやっぱりほとんどない。
今後出るかどうかは知らんけど。
510 :
日本@名無史さん:01/11/28 06:24
三世紀に北九州から畿内までの大連合国なんてのは無かったって事で
邪馬台国は北九州の範囲で探すべき。
やっぱ中心は八女か日田あたりだね。
ただ邪馬台国の範囲はピンポイントではなく有明海から豊前・豊後も
含んだ広い範囲を想定。
そうすれば倭人伝の記述に矛盾する所がほとんどなくなる。
511 :
日本@名無史さん:01/11/28 06:54
大連合国なんてのは無かったって言った瞬間に倭人伝の記述に矛盾すると思われ
512 :
日本@名無史さん:01/11/28 12:45
>>510 広すぎるって。筑後と豊じゃ地域性もかなり違う。それを一緒にしちゃ玄海灘諸国との差別化もできない。
513 :
日本@名無史さん:01/11/28 21:31
>>512 大阪と奈良は一緒か?
7万戸といえば近畿地方全部いれて丁度位だろ。
北九州も筑後川流域だけではちょっと足りないし、豊も入れないと。
東に海も必要。
514 :
日本@名無史さん:01/11/28 23:11
>513
私は「7万は実数じゃないよ説」なので戸数は気にしてないのです。すんません。
河内・大和は対立する面も多いのでしょうが、地理的にはともに大和川流域でそれなりに親縁性は高いでしょ。
筑・豊は、筑紫代表を朝倉郡、豊前代表を京都郡としても離れすぎ。日田ぐらいまでが限界ではないでしょうか?
土器や青銅器のタイプが比較的一致することは認めますけど、それは福岡平野もいっしょでしょう。
515 :
日本@名無史さん:01/11/28 23:38
弥生時代の筑後川流域にどのくらいの耕地面積が確保できたのだろうか?
当時は未だ海退直後で耕作適地はかなり少なかったと思う(福岡平野程度かも)
有明海側に大規模弥生集落がみつからないのその影響だろう。
516 :
日本@名無史さん:01/11/29 09:49
>有明海側に大規模弥生集落がみつからない
のは単に開発が進んでないだけ。
未だ海退直後で海が平野に食い込んでいたのは全国同じ。
福岡平野ももっと狭かった。
>「7万は実数じゃないよ説」
自分も同じだが極端にはかけ離れていない説だね。
魏使が人口数える訳も無いから邪馬台国側の言い分を鵜呑みにしただけかなとも思うが
国土や耕地の面積など、凡その邪馬台国の国力について調査する義務を負って来ている筈。
>筑・豊は、筑紫代表を朝倉郡、豊前代表を京都郡としても離れすぎ。
日田あたりに中心があればこれを基点にヤマ、ヤバの地名が点在する。
山門などは邪馬台国の入り口だった可能性があるわけで。
元々対立していた小国が集まって卑弥呼を国家統一の象徴として纏まったんだし。
広い範囲を占めていたと考えてもいいのでは?
517 :
日本@名無史さん:01/11/29 12:57
>>516 >広い範囲を占めていたと考えてもいいが、
卑弥呼をお祭りするだけとは言え、日田が首都とに相応しいかどうか・・・
弥生時代もかなり田舎に思われ(日田の方々ごめんなさい。)
518 :
日本@名無史さん:01/11/29 13:09
>日田が首都とに相応しいかどうか・・・
>弥生時代もかなり田舎に思われ(日田の方々ごめんなさい。)
意味不明、今の都市の規模がなにか関係あるの?
いと国(糸島の前原)の今現在の規模は小さいぞ
博学の道鏡は、宇佐神宮のご神託を出したら、朝廷が動揺するだろうってことを
知っていた。なぜ宇佐か?それは大和朝廷のルーツだから。
宇佐神宮は、日本で第2の社格をもつ神社ってみんな知ってた?
520 :
日本@名無史さん:01/11/30 02:21
>もし、邪馬台国が九州内に在るとしたら筑後川流域地方を第一候補にします。
あのね、どうでもいいんだけど、弥生後期の北部九州と中九州(白川以北)との文化的境界線は筑後川にあるわけ。
広い意味での国境線といってもいいんじゃないかな。そして、筑後川の北岸と南岸との文化的格差は、金属器では比べ物にならないくらい大きいわけ。
そいでね、福岡平野と筑後川の北岸を比べても比べようがないくらいなわけ。
とにかくびっくな福岡平野を圧倒できるような力を持つ地域はとても九州にはないと思うよ。
日田にはヒッタイト人がいた。国東半島では紀元前から製鉄が行われており、崩壊したヒッタイト帝国の技術者がユダヤのソロモンの支持の下、国東で東アジアの製鉄基地を造り上げた。
ヒタはその名残だろう。
耶馬渓は邪馬台国の勢力範囲がそこまで及んでいた証明だろうが、首都ではない。
首都は西都原古墳のある西都だろう。
522 :
日本@名無史さん:01/11/30 09:58
真性厨房さんの意見は、道鏡がなぜ宇佐神宮を出してきたのかを述べて
いない。
他の神社ならどこでも信じてくれたか? 宇佐神宮を出したら、朝廷が
動揺するのを道鏡が知っていたと考えるのが自然だろ。
524 :
真性厨房ですが:01/11/30 11:29
>>523 さんへ
まったく違うと思いますよ。。。レスのとおり宇佐神社は最も早く神仏
混合思想を取り入れた。。。言うならば「仏教系神社」の走りです。
「三宝の奴」と称して仏教に傾倒(出家)した聖武天皇や称徳天皇に信
任を得たのも、東大寺建立に際して地位を高めたのもその故です。
道鏡は言うまでもなく僧侶ですから、他の神社には殆ど影響力はありま
せん。「仏教系神社」だからこそ道鏡の意を受けて「神託」をデッチア
ゲタと考えられますね・・・
はい。それで「記紀不記の理由」や「神階授与の性格」あるいは「第二
の神格」とやらの具体的例証を示して下さいね。
邪馬台国が宮崎県なら、なんであの辺り人は日向隼人なんて呼ばれてたのよ?
隼人って今は兎も角、昔は蔑称でしょう?
526 :
日本@名無史さん:01/11/30 17:48
まあ、東に海があるのは西●×だけですね
527 :
真性厨房ですが:01/11/30 18:00
ご承知だと思うけど三輪山(纏向)を東に進むと、伊勢湾の神島に行き着きます。
小川さん(?)だったかの「太陽の道」ですね。だからどうと言うことはありま
せんが(WWW
528 :
日本@名無史さん:01/11/30 18:32
奈良県に海ありました?WW
529 :
日本@名無史さん:01/11/30 19:51
奈良県の東に海あります。
三重県の東に海があります
531 :
日本@名無史さん:01/11/30 20:16
へえ〜
532 :
日本@名無史さん:01/11/30 20:24
日本には東に海のない県はありません。
533 :
真性厨房ですが:01/11/30 22:11
どうして三世紀の話に「奈良県」や「三重県」なんて十九世紀以降の行政区画が出
てくるんだろう? 「大和」「伊賀」「伊勢」なんて律令行政区画だって適用出来
ないのに。。。
そうかと思えば、斎殿原や耶馬溪なんて中世以降の地名を引っ張り出したり。。。
真性厨房に理解できない発想をされても困っちゃうな(WWW
九州で一番規模のでかい古墳群遺跡が邪馬台国の跡ダ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜イ!
535 :
日本@名無史さん:01/12/01 03:43
地球は丸い。
だから東も西もナイ。
畿内から東へ三重までいき海に出た後、地球を一周して宮崎県(日向)
が邪馬台国の跡。
536 :
日本@名無史さん:01/12/01 08:01
唐津から東南に1里=75mで500里行ったら佐賀市あたりだろ。
伊都国の比定が前原とされている事が間違っているのだ。
伊都国が佐賀市あたりだと邪馬台国は有明海に接しているはず。
東に海があると言う事は邪馬台国の範囲は豊前まで含む。
人口的にもこれで十分。
伊都国、または不弥国から南に水行して投馬国に行く為にも
伊都国、または不弥国が有明海に面していなければならない。
有明海から豊前海岸までの中心が日田だ。
これっきゃないよ。
537 :
日本@名無史さん:01/12/01 08:04
>>536 日田だったら、耶馬溪町ぐらいがあやしいですな(w。
538 :
日本@名無史さん:01/12/01 08:13
あやしい(w。
539 :
日本@名無史さん:01/12/01 10:18
日田は3世紀でも田舎だからねぇ・・・
まあ、会所山の頂上遺物の下に101個の甕棺でも発見されたら考え直してもいいんだが。
540 :
日本@名無史さん:01/12/01 11:30
>>536 >伊都国が佐賀市あたりだと邪馬台国は有明海に接しているはず。
原文改訂
>伊都国、または不弥国が有明海に面していなければならない。
>有明海から豊前海岸までの中心が日田だ。
有明海に面している伊都国または不弥國からの方向が違う。
判決。デタラメ。
541 :
日本@名無史さん:01/12/01 11:32
>>533 >どうして三世紀の話に「奈良県」や「三重県」なんて十九世紀以降の行政区画が出てくるんだろう?
現代人が議論してるから。その方が意思の疎通がしやすい。
本筋を誤るようなら、注記すればいい。
不思議なのは
古事記、日本書紀に
邪馬台国の記述がない
543 :
日本@名無史さん:01/12/01 12:47
日田には伝世径路不祥の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡もあるが、
漏れは、関裕二じゃないから何とも言えんな。
544 :
大室寅之スレ:01/12/01 15:05
黄巾の乱以降、戦乱が長期化して武器となる鉄が不足し、魏は朝鮮半島や日本から
鉄を輸入していた可能性ありとは故・樋口清之氏。
545 :
日本@名無史さん:01/12/01 16:31
2〜3世紀の日田地方はやはり田舎でしょう。
中心となりそうな小迫辻原遺跡も規模では吉野ヶ里の1/10ぐらいだと思う。
当時も陸路の要衝ではあっただろうが、周辺地域を支配するような力は感じられない。
546 :
日本@名無史さん:01/12/01 16:38
伊都国は今の糸島のあたりだろ
あらゆる面で疑いの余地なし
547 :
日本@名無史さん:01/12/01 16:40
>>544 当時の倭人が鉄なんか輸出できるわけないじゃん。
>>543 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡ってな〜に?
そのころの鏡って銅で作ってたんじゃないの?
それと邪馬台国となんか関係しそうなの?
真性厨房様。
>「記紀不記の理由」
邪馬台国も記紀に載ってませんが。(反論その1)
>「第二の神格」
宇佐神宮の案内板に書いてあったよ。その出典は知らんけどね。誰か詳しい人教えてください。
いずれにせよ、八幡宮の総本社である宇佐神宮のミステリーは尽きないね。
九州のほかの神社でこんなに後世に影響を与えたところあるか?(反論その2)
西都原? 吉野ヶ里? 筑後川流域? な〜んにも後世にインパクトある史実なし。
八幡宇佐神宮マンセー!! (弐礼四拍手壱礼)
550 :
日本@名無史さん:01/12/01 17:35
鉄鏡は魏のころ結構はやりだよ。
でも邪馬台国とは関係ないだろうね。もらったのは銅鏡だから。
551 :
日本@名無史さん:01/12/01 17:42
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は日田の中期古墳から出土したと言われる後漢鏡。
珍しく鉄鏡だし錯嵌もある凄い鏡だが、出所来歴が詳らかではない。
今何処にあるのかは忘れた・・・
552 :
日本@名無史さん :01/12/01 17:52
>>547 倭人が中国沿岸にいたと書かれているカワラが曹一族の墓から出土しているよん。
553 :
日本@名無史さん:01/12/01 17:57
>>549 宇佐って戸数7万戸に該当するかな(大藁)
554 :
日本@名無史さん:01/12/01 18:02
>>552 ????? 倭人の鉄輸出力の話がカワラに書いてあるのな?
????? 3世紀の出雲あたりに輸出できるようなほどの採鉱能力は無いって話なんだけどな。
宇佐周辺で考えても、姫島(黒曜石の原産地はあまりにも有名)
も近くだし、古代から栄えていた文明圏を引き継いでいたのは確か。
それに553よ。北九州からごっそり大和地方に移民していったんだから、今の人口で
昔の戸数を想定するなよ。
大分の歴史は日本の歴史。おもしろいよ。おおいたにきちょくれ!!
557 :
ちょっと長くてスマソ:01/12/01 18:15
邪馬台国は日向地方(都は西都原)である。
道程は下記のとおり。
末ろ国上陸地「唐津」 から南東へ500里
伊都国「多久市近辺」へ到着。検問を受ける。そこから南東へ100里
奴国「佐賀平野一帯」の西部国境に到着。
奴国を見聞しながら東進。「吉野ヶ里」は奴国の首都かも?
奴国東部境界から東へ100里
不彌国「久留米市近辺」に到着。
不彌国は交通の要所であり、市場でもあった。筑後川渡船場があった。
そこから小舟にて筑後川を下り有明海東岸沿いに南下。
大きな船は外洋を渡る時以外はもったいなくて使えない。
水も食料もわずかしか携帯できず、見聞の必要もあるので
各地に逗留しながら20日かけて(時化のときもあるし)
投馬国「熊本地方一帯」の首都「現熊本市近辺」に到着。
さらに宇土半島を迂回南下して10日かけて八代到着。
球磨川沿いを遡り山越えして一ツ瀬川を下り
今の西都に到る。(陸行一月)
方角、距離、地勢(戸数)を忠実にたどっていけば
上記のようになる。
伊都国が現在の前原あたりとするのが定説のように言われているが、
それだったら末ろ国に上陸する必然性が全くない。
初めの奴国が博多である必要性も無い。
「漢の委奴」がたとえ博多だったとしても、それが卑弥呼の時代の「奴国」
である証拠にはならない。
上記定説はただ単に畿内説を有利にするための詭弁でしかない。
また、九州諸説もその先入観を捨て去らなければどんな理論も成り立たない。
ちなみにもう一つの奴国は「宮崎から日南一帯」と考える。
そもそも九州においては文化の先進は有明海沿岸、及び南九州であっただろう。
有明海は水産資源に恵まれた穏やかな内海であり、周辺は火山地帯特有の肥沃な
しかも広大な平野を有している。
上海あたりから流れ着いた先進文化が定着繁栄したと考えても全く無理が無い。
南九州は言うまでも無く、黒潮による温暖な気候と南方の先進文化が
もたらされた地である。
特に宮崎平野は広大であり7万余戸を支えるに十分である。
西から山越えしてきた先進文化と先住縄文文化が融合発展したと考える。
そんな中で、天才科学者「卑弥呼」が出現した。
また、薩摩、大隈地方は縄文系の気質と文化が独自に発展したのであろう。
そしてそれが反骨の国「狗奴国」なのだ。
大分は、焼酎・蜜柑・魚・女の子・・・好きなものがいっぱい有るが、邪馬台国だけが無い。
記紀の伝承からいって、大和朝廷のもともとの起源は日向の国らしい、
ってのは俺もそう思うよ。
でもね、邪馬台国を始め、その時代の中心国家は、宇佐にあったと思うんだ。
日向国はその後、何も後世にインパクトある史実はないでしょ。
完全に忘れ去られているわけ。朝廷からも特に大事にされる神社とか
ないんじゃないの?少なくとも八幡宇佐神宮よりはね。
age
宇佐は「新(あら)邪馬台国」
西都原は「電波邪馬台国」
562 :
日本@名無史さん:01/12/01 19:11
宮崎は、焼酎・シーガイア・・・もうないか。
邪馬台国・・・もとから無いか。
563 :
日本@名無史さん :01/12/01 19:15
564 :
日本@名無史さん:01/12/01 19:33
まあどちらにしろ吸収ってことだね
近畿って二世紀頃後進地域でしょう
565 :
日本@名無史さん:01/12/01 19:38
日本で鉄が取れるようになったのは5世紀以降。
魏志にも倭人が半島で競って鉄を手に入れようとしていたと書いてある。
566 :
日本@名無史さん:01/12/01 21:08
宮崎ってさあ、今は民放のテレビ局2局しかないどうしようもないド田舎だけどさあ、
遺跡の数と神話伝承類の数が半端じゃないんだよねえ。
宮崎神話タブーなんてあってさあ。
このタブーは天皇制にリンクするからウヨが荒らしにかかるのも無理がない。
まあ、西都原にしても徹底した調査すればわかるんだろうけど。
ただ吉野ヶ里よりも規模はでかいよ。奴国は伊都国から東南100里 30キロ 歩いて2日
だから間違いない。それに卑弥呼の時代より100年古いから間違いない。
567 :
日本@名無史さん:01/12/02 00:57
へえ〜
サイトじゃない根拠の一つでも挙げてミロや!!
568 :
日本@名無史さん:01/12/02 02:01
つーか、宇佐ってどこ?
569 :
日本@名無史さん:01/12/02 06:13
吉野ヶ里は伊都国なんだよ。
1000戸という記述に合致し、物見櫓風の建物など軍事を司った伊都国に相応しい。
当時は海にも近く有明海の諸国に睨みを利かせるに丁度いいいちにあった。
570 :
日本@名無史さん:01/12/02 07:18
奴国はどこ?
571 :
日本@名無史さん:01/12/02 07:43
吉野ヶ里から10km以内のところ
572 :
日本@名無史さん:01/12/02 11:48
電波は飛びかってるようだが、検証がないな。
いちいち上げるのもきりがないが、たとえば直近では
>吉野ヶ里は伊都国なんだよ。
という根拠はなんなのだ?
他のどの国でもなく伊都であるという根拠を100字以内で述べよ。
知ってる遺跡が吉野ヶ里しかないなんてのは駄目だぞ。
573 :
日本@名無史さん:01/12/02 12:43
唐津から東南に500里(×76m)=38kmで著名な遺跡と言えば吉野ヶ里。
倭人伝の記載に一致する集落の形態。
周辺に稲作の跡が無く、軍事基地だった可能性が高い。
574 :
日本@名無史さん:01/12/02 15:42
東南10kmの地点に20倍の大きさの国があることが伊都の要件。
よって却下。
575 :
日本@名無史さん:01/12/02 15:54
>>565 2世紀の倭国内乱で使われた鉄製武器はどこが産地なんでしょ?
576 :
日本@名無史さん:01/12/02 18:45
>>575 確か辰韓て書いてあったぞ。(東夷伝を読むべし)
577 :
日本@名無史さん:01/12/02 19:33
どいつもこいつも、真面目に検証するやつがいないなあ。
578 :
日本@名無史さん:01/12/02 19:51
>>576 当時の戦争で鉄鏃を豪勢に使いまくったとは思わない。鉄剣も然り。
580 :
>>566:01/12/02 21:39
>>566 >宮崎神話タブーなんてあってさあ
どんなタブーですか?
お聞かせ下さい。ばかウヨは気にしないで。
581 :
日本@名無史さん:01/12/02 22:14
>>566 >宮崎神話タブーなんてあってさあ
どんなタブーですか?
お聞かせ下さい。ばかウヨは気にしないで。
>>いやいやそのバカウヨが散々街宣カーで妨害するから考古学者も歴史家もあまり日向神話に触れにくいのだよ
582 :
日本@名無史さん:01/12/02 22:19
前原は伊都国でここを動かすのはやめよう。
あとは榎木(らんちゃんファースト写真集11月発売!)説で十分説明がつくよ。
583 :
日本@名無史さん:01/12/02 22:24
「天皇家の"ふるさと"日向をゆく」
記紀の宮崎神話、
これに絡む地元に伝わる伝承、史跡を丹念に訪ね歩いた旅行記。
神話にまつわる話はいい、感動を与えてくれる。戦後の日本の歴史から神話が抹消され、
特に宮崎神話は軍国主義につながるものとしてタブーにまでなったというが、
著者は神話とはそのようなものではないよ強く主張している。
全く同感である。神話のない国にしてしまったとは、全くなさけないことをしてしまったものである。
この頃この本とか阿刀田高の「楽しい古事記」とかが出てきたのは喜ばしい。
神話は"戦前の軍国主義"ではないし、神々も"戦前の軍国主義"ではない。
>>549 宇佐=USA さん
流石の真性厨房も呆れ果てましたので、これにて失礼します。
585 :
邪馬台国比定地人気ランキング:01/12/02 23:16
1位 邪馬台国 九州で検索 4860件 (北九州1150件)
2位 邪馬台国 大和で検索 3440件 (畿内1100件)
3位 邪馬台国 沖縄で検索 1390件
4位 飛鳥 1210件
5位 箸墓 820件
6位 筑紫 814件
7位 博多 773件
8位 日向 662件 (西都98件)
9位 三輪 634件
10位 宇佐 608件
11位 鹿児島483件
586 :
訂正>>585:01/12/02 23:24
1位 邪馬台国 九州で検索 4860件 (北九州1150件)
2位 邪馬台国 大和で検索 3440件 (畿内1100件)
3位 邪馬台国 沖縄で検索 1390件
4位 飛鳥 1210件
5位 吉野ヶ里 889件
6位 箸墓 820件
7位 筑紫 814件
8位 博多 773件
9位 日向 662件 (西都98件)
10位 三輪 634件
11位 宇佐 608件
12位 鹿児島483件
邪馬台国 北海道 だと1,440け〜ん♪
邪馬台国 エジプト だと 786け〜ん♪
邪馬台国 フィリピンだと 275け〜ん♪
邪馬台国 ジャワ だと 111け〜ん♪
邪馬台国 さいたま市だと 31け〜ん♪
588 :
嫌よイヤヨそんなに見つめちゃイヤ〜〜ン!:01/12/02 23:50
九州説取るなら1、筑紫平野(筑後川流域)か2、日向説
のどちらかに決まりでしょう
遺跡的に重要なのは、平原だね。
591 :
究極の洗濯:01/12/03 01:31
>>588 築後平野には、邪馬台国をもってくる理由がない。
「築後平野には、邪馬台国を持ってきたい」という強い意思を持ってる連中が多数いるのはわかるのだが。
どうしてもどっちか選べと言われたら、迷わず、日向をとる。
しかし、考古学的に考えれば、玄海灘沿岸を支持したい。
ヒム仮説は考古資料を無視しているのだから、倭人伝を無視する玄海灘沿岸を笑えない。
592 :
日本@名無史さん:01/12/03 18:02
築後240年
593 :
日本@名無史さん:01/12/03 22:01
>ヒム仮説は考古資料を無視しているのだから・・・
日向説が考古資料を無視しているのではなく、皇国史観的考古学が
日向を無視しようとしてるだけじゃないの?
思想背景やこだわりを一切排除して科学的に再調査出来れば、
一気に解決するんじゃないか?
前原にしろ博多にしろ遺跡は数多いかもしれんが、伊都国であったり奴国であったりする
明確な証拠でもあるの? な〜〜んもないでしょ?
100年も200年も前の金印が離れ小島の田んぼから出てきたからって
その向かい側が奴国だってどうして断定できるの?
その土地の古墳内で出土したってなら認めるけどね。
地名だって参考にはなるけど証拠とは言えないね。
特に地方小都市は中央大都市や神話などの有名な地名を真似たりする
傾向が強いからね。
594 :
日本@名無史さん:01/12/03 22:34
と遠吠えしてみる
595 :
やっぱり日向でしょ:01/12/04 09:35
北に伊都国を軍事拠点とし、北部九州を制圧(というよりゆるやかな連合)し、
南の狗奴国(薩摩、大隈)には強大な邪馬台国(日向)自身が睨みをきかせていた。
いずれニニギノミコトが霧島山の隣の高千穂の峰に降臨し、狗奴国を制圧。
秩序が確立し邪馬台国連合が磐石になったところで神武東征が始まった。
神武が畿内を制圧して遷都し、大和朝廷を確立した時点で
昔の邪馬台国の首都であったところを西の都とした。
それが西都である。
邪馬台国がくな国に滅ぼされて、くな国が近畿まで攻め入って
大和になった可能性って無いの?
597 :
日本@名無史さん:01/12/04 13:17
畿内の方で古墳時代が始まる前だったら話にならないくらいの後進地域。
便利な北九州から不便な畿内に行く理由はないね。
邪馬台国の方が狗奴国に追われて畿内へ逃げていった可能性は否定出来ないけど。
あるいは狗奴国が逃げて行った可能性もあるな。
598 :
日本@名無史さん:01/12/04 21:54
伊都国から水行10日陸行1月の水行10日の部分だけつまみあげても熊本県の玉名あたりに
なるから邪馬台国が北九州(筑紫平野)(もしくは筑後川流域)にあったとする従来の
北九州説考古学者の説はおかしい。
魏志倭人伝を無視して戸数7万戸、人口約30万人の記載だけ見てもこれだけ規模のでかい
遺跡は筑紫平野か日向地方しかない。
西都原の発掘調査をウヨが妨害しないのなら邪馬台国論争一気にカイケツ!!!(ニヤリ
アホ、皇国史観なら、日向に遺跡があれば大喜びするだろ
600 :
日本@名無史さん:01/12/04 22:25
そのとおりだね。日向発祥ならば神武東征は史実なり、記紀マンセーっ
てわけだ。まして邪馬台国時代の倭国はろくに国家の体制がとれていな
い百済や新羅よりも遥かに強力だから、天皇家朝鮮起源など吹っ飛ばせ
るってわけだ。ウヨ598は街宣車で発掘資金を集めてまわれよ(藁
601 :
日本@名無史さん:01/12/04 22:28
確かに記紀を無視する考古学界もドキュソだが、西都バカもドキュソだ。
マルクス馬鹿と電波馬鹿。
どっちもどっち。
目糞鼻糞。
クナ国=騎馬民族=応神王朝というのは、井上光貞大先生が唱えていた。
驚くべきことに電波説唱える奴が歴博の館長だったわけ。
本当、江上「東大教授」といいこの世界は、ひどすぎ。
しゃれになってないと思う。
603 :
日本@名無史さん:01/12/04 22:57
*エジプト第26王朝のプサメティックT世だってのが定説!
*アッシリア帝国のアッシュルバニバルだって説もある!
*カルディア帝国のナボポラッサルも良い線だな!
*ハハハ。。。ご希望ならばユダヤのヨシアも入れとくか!
605 :
日本@名無史さん:01/12/04 23:23
天皇家宇宙飛来説は?
彼らが血縁を薄めずに頑張ってきたのは宇宙人としての得意能力を失わないようにするためだ!
>>591 九州説的には、3世紀でもっとも人口の多い(生産力の高い)ところが邪馬台国だろう。
嵐になる前に下げたほうがいいと思われ。
608 :
日本@名無史さん:01/12/04 23:29
さげれ!
611 :
日本@名無史さん:01/12/06 08:30
四国は畿内よりよほど倭人伝に合致しているね。
畿内には東に海が無い。
ところで画文帯神獣鏡がでた積石塚古墳てどこにあるんだっけ。
612 :
日本@名無史さん:01/12/06 10:43
ここで三重県が律令体制下の畿内かどうかなんてくだらんことを言うつもり
はないが、地理的には大和盆地→大和高原→伊勢湾なんて指呼の間だろ?
613 :
日本@名無史さん:01/12/06 15:48
614 :
貸間 力 嵐の前の静けさ:01/12/06 18:28
こういえばウヨはおこるよ(馬鹿だから)
扶余王仇台が神武天皇(伊都国 前原の王)
615 :
日本@名無史さん:01/12/06 18:46
>四国は畿内よりよほど倭人伝に合致しているね。
>畿内には東に海が無い。
方角のずれを考えたら若狭湾あたりが東の海でいいんではないかね
616 :
大室寅之スレ@井沢萌え:01/12/06 18:49
こういえば鹿島はあれるよ(幼稚だから)
西都原は斎殿原(神明神社の跡地)
617 :
日本@名無史さん:01/12/06 18:51
.∩∩
∩| || |∩
| .|| || || |
| __|
| (__.|. ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヽ.___.丿\(・∀・ )< >616は、これっ!
. \ ) \________
| | |
.(_(__)
618 :
日本@名無史さん:01/12/06 19:03
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| カツオめ、いい体をしおって、けしからん!!
\____ ________
. | / | とうさん、入浴中はかんべんして!
. ∨. | ___ _________
ζ ∨
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ ____
/ \/∵∴∵∴\ ,,=======================,,
/\ ⌒ ⌒ |∴∵∴∵∴\ || ̄ ̄\ .|| .||
||||||| (・) (・) |/ \ \∴∵| (( ||\\\\ || ||
(6-------◯⌒つ |(・) (・) ヽ∵| || ̄ ̄⌒ ̄ ¶|| ||
| _||||||||| | ⊂ ∪ 6) || (・) | || ||
\ / \_/ / ___ / || へ | .|| ||
\__∪_/ \ \_/ / =======================''
/^ `ヽ、 \___/ ))
. / /| ゜ ゜| \ / ^ヽ、. ((
/ / | , |\ ./ イ ゜ ゜l\\_
_/ / / |:::::: | ' | ゝて:::::::::::::/
`つノ.. ( ヽつ\ :::::::::l ⊂/ )::::::::::::::: / _|_|_|_|_|_|_|_|_|_|
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| |::::: r〜'. |. /_|_|_|_|_|_|_|_|_|_|_|_|_|
| ヽ;;;ノ. |. /_|_|_|_|_|_|_|_|_|_|_|_|_|_|
|_______________|/_|_|_|_|_|_|_|●|_|_|_|_|_|_|_|
『寄進』てどういう意味ですか?
620 :
日本@名無史さん:01/12/06 19:17
ほら、貸間が荒れた。
621 :
日本@名無史さん:01/12/09 11:53
邪馬台国九州説を真面目に検証できる人間はいない。
622 :
大室猫の介:01/12/09 20:46
こういう遺跡が西都に邪馬台国ができる下地になったのでは?
↓
http://news.msn.co.jp/articles/snews.asp?w=94850 宮崎で西日本最大級の縄文後期集落跡見つかる
2001 年 12月 9日
--------------------------------------------------------------------------------
宮崎県田野町元野の本野原遺跡で、100基を超える縄文時代後期(約4000
―3000年前)の竪穴式住居跡が見つかったことが9日、明らかになった。
住居跡周辺では約360基の土坑も出土、すり鉢状に整地した跡も確認されており、
上村俊雄・鹿児島国際大教授(考古学)は「縄文時代後期としては西日本で最大級
の集落跡。これほどの土坑群も極めて珍しい」と話している。
遺跡は標高約180メートルの台地上にあり、町教委が宮崎県の農地整備事業に
伴い、4月から約1ヘクタールを調査している。
竪穴式住居跡は、最大で一辺が7メートルと4メートルの方形や直径4メートル
の円形で、二か所の集落群に分かれている。住居跡が重なったものも多く、
建て替えが行われたと見られる。
土坑は住居群のわきに環状に密集しており、直径、深さとも数十センチから
1メートルを超えるものまで様々。
この環状土坑群(直径約30メートル)の内側は、中心に向けてすり鉢状のくぼ地
に整地した跡が確認された。くぼ地の中心部には、直径約50センチの石が6個
並んで配置されており、祭祀(さいし)的な意味合いを持つと見られている。
上村教授は「多数の住居跡と土坑群によって、当時の生活をうかがい知ることが
できる貴重な遺跡」と話している。
>>622 個人的には神武天皇の都だといいなぁ、とか思ってるけど。
で、畿内へ侵攻して大和朝廷誕生。
もちろん邪馬台国は大和で。
624 :
日本@名無史さん:01/12/10 00:45
625 :
日本@名無史さん:01/12/10 01:13
100年古いから間違いなんじゃないの。
626 :
日本@名無史さん:01/12/13 20:15
日向説上げ
627 :
日本@名無史さん:01/12/16 23:00
卑弥呼の時代より100年古いということは大戦のまえってこと?
628 :
日本@名無史さん:01/12/16 23:51
沖縄説を無視する考古学者は、厨房
厨房バンザイ
630 :
日本@名無史さん:01/12/23 04:22
>>628 沖縄が黒歯国だという説もあるんじゃなかったっけ?
何の資料か忘れたけど
「神武天皇までは筑紫に旧都があった」と明言していた
日本の資料があったはず
実年代に照らして言うと、3世紀の王都は北九州にあったんじゃないの・
隋書倭国伝でも、筑紫国って出てくるし
都が移ったあと、そこが筑紫ってよばれるようになったんじゃないの?
632 :
解決黒頭巾:01/12/24 02:55
桓檀古記には「筑紫は日向である」となっておる。
八女郡黒木町には「日向神峡」という湖がある。
つまり、神武の筑紫と、卑弥呼の日向が同じ邪馬台国連邦であったことが解る。
だから「筑紫は日向である」のである。
633 :
田布施町民:01/12/24 03:14
解決黒頭巾 よ大室スレの504を読んでくれたカナ??
放射線式を使っても
水行10日、陸行一月の謎は残る
635 :
日本@名無史さん:01/12/24 13:29
結局九州説を真面目に検証する奴はいないってことか
636 :
日本@名無史さん:01/12/24 17:13
1ももうあきらめたみたいだし、漏れももうあきらめた。
九州説のお人ってのは、理由も考えずに結論を連呼することが楽しいらしい。
637 :
日本@名無史さん:01/12/24 17:24
畿内説と言ってる時点でお前はドキュソ
638 :
日本@名無史さん:01/12/24 17:51
639 :
日本@名無史さん:01/12/24 17:52
そうそう
640 :
日本@名無史さん:01/12/24 19:15
>637
「おまえは九州説だ」って言われるよりはよっぽどまし (w
641 :
日本@名無史さん:01/12/24 19:21
最近、古代史スレまで荒れ気味なので、ローカルルール
に投票して早めに日本史板にローカルルールを載せましょう
642 :
日本@名無史さん:01/12/24 19:24
なんて載せるんだ?馬鹿を馬鹿と言っちゃいけませんってか?
643 :
日本@名無史さん:01/12/24 19:29
>>642 ローカルルール投票スレの1に三つの案が載っています
644 :
日本@名無史さん:01/12/24 19:31
>>640 それは差別だ。そんな差別用語を使ったらローカルルール抵触だ。
645 :
日本@名無史さん:01/12/24 19:46
来年もアズマスレに自スレがsageられるのを避ける為にも
一票を!
646 :
日本@名無史さん:01/12/24 19:56
自作自演でアゲサゲしてるのは自分だろ。
まあ、日本史板の住民ならそんなこと常識だし
韓国マスコミが「日本の学界はタブー視している」なんて言ってるのは
事実誤認だと言うことくらい分かっているだろう。
しかしまたなんで「桓武天皇の母親が百済系」であることで
「天皇百済起源説」を暗示してる今上陛下の気持ち分からないかな。
あまりに知識が浅すぎて閉口してしまうが。
648 :
日本@名無史さん:01/12/25 01:07
奈良は新羅系。
平安王朝は百済系。
たしかに現天皇家は白村江逃亡敗残者たる百済系子孫。
俺が言ったとおり桓武天皇が歴代天皇の中で1番。
(詳しくは平城京は100年もつづかず平安京は1200年も・・スレ)参照
651 :
日本@名無史さん:01/12/30 02:32
邪馬台国九州説としては、
ヤマト王朝のヤマトという音は邪馬台から奪ったと考えるの?
652 :
解決黒頭巾:01/12/30 02:41
白村江に戦勝した新羅が、日本に進駐して自国の年号「大和」を付けたんだよ。
それ以前に畿内にあった始皇帝の子孫たちが作った「秦王国」を合併してね。>651
653 :
解決黒頭巾:01/12/30 02:49
邪馬台国が畿内にあって「大和朝廷」がその正当な継承者ならば、「日本書紀」にそのことが一番に主張してあるはずであるが、その記述はない。
そうすると、邪馬台国は「大和朝廷」とは無関係な国家ということになる。
654 :
日本@名無史さん:01/12/30 03:02
400年以上も前のこと誰も覚えてなくて当然。
記述なくてあたりまえ。
655 :
解決黒頭巾:01/12/30 03:08
一方、魏志に記された「径100余歩」(直径140m以上)の円墳は、日本中探しても九州西都原の「男狭穂塚」以外に該当するものがない。
だから邪馬台国は九州で、その首都は西都なんだよ。
大和の「箸墓」は「秦王国」の王の墓だよ。でかいもの好きな始皇帝の子孫らしいよ。
それと、箸墓の伝承も九州にそっくりなのがあるから、それを真似したんだろうな。
もうひとつ、「日本書紀」は漢文でかかれているが、当時の民衆のほとんどは漢文なんて読めないから、これは中国に対する弁明書とみなせる。
つまり白村江のもう一つの戦勝者「中国」にたいして、「倭国にできた”日本”は新羅が占領して作った国じゃあないですよ。神代から連綿と続いて存在していた国なんですよ。」と、中国をだまして日本列島を乗っ取ったことを隠そうとしたんだな。
656 :
日本@名無史さん:01/12/30 09:36
九州説が妄想だってよくわかったよ。
657 :
日本@名無史さん:02/01/03 14:31
九州説を真面目に検証する人間はついに一人もいなかった。
659 :
日本@名無史さん:02/01/03 14:46
>>653 邪馬台国は、魏志倭人伝の記述の紹介という形で
日本書紀には出てくるよ。
660 :
日本@名無史さん:02/01/03 15:14
中国側からどう見られていたか、なんと呼ばれていたかなんて
当時の本人にわかってなくて当然だよね。
>>659 自国とは書いていない。別の国と見なすしかないね。
662 :
幸田シャーマン:02/01/03 15:22
邪馬台国は福岡県八女市にあった。
卑弥呼の死後も新羅との交易を
行いながら、磐井の乱まで政権が保たれた。
(八女市に岩戸山古墳がある。この墳墓は、大きさが西都原のものと同規模で、
別区が設けられていることで有名。磐井の墓といわれている。)
多くの財宝は、この乱の時に
大和側に掠奪された。
根拠?神の黙示だ。
663 :
日本@名無史さん:02/01/03 15:27
>>662 本来は西都原の「男狭穂塚」よりでかかったはずだが>>岩戸山古墳
664 :
日本@名無史さん:02/01/03 15:30
665 :
日本@名無史さん:02/01/03 15:36
自分の赤ん坊の時の写真を見せられて自分と気がつかなかったら
他人であるって証明だと言うがごときガサツな論理だなあ。
あほかとしかいいようがない。
666 :
日本@名無史さん:02/01/03 15:44
>>664 >じゃ「耶馬堆詩」はどうよ?
それ、どういう内容ですか?
667 :
日本@名無史さん:02/01/03 15:52
>>664 平安時代に書かれた「天皇家は百代目で終わる」って内容だったっけ?
668 :
日本@名無史さん:02/01/03 16:44
dakara
戸数7万戸、人口約30万人に該当する遺跡は九州説なら筑紫平野(筑後川流域)もしくは日向説
以外にね、ないのよ。
669 :
日本@名無史さん:02/01/03 18:42
ここはどこかって?
八女たい!ここ
やめたいここ
やめたいこく
やまたいこく
absolutely!
670 :
日本@名無史さん:02/01/03 19:21
671 :
ヒムカンミコ:02/01/03 21:08
>>670 日向説であれば(ただし西都は墓地であってみやこではないだろう)
魏志と古事記の記述に関する矛盾はほとんど無いことになるが?
672 :
日本@名無史さん:02/01/03 23:07
畿内大和説は倭人伝の内容をあまりにも無視しているからね。
本末転倒。
宮崎平野なら現在でも数十年に一度ぐらいしか雪は降らないし
土地が肥沃な為ほっておいても農作物が育成する。
673 :
日本@名無史さん:02/01/04 00:30
南九州説は無力無害だから何を言っても許す。
>>671魏志と古事記の記述に関する矛盾はほとんど無いことになるが
671さんどういうことですか?(もう少し詳しく説明して)
たしかに宮崎なら邪馬台国の東に海がある。という記載がいきてくるけど??
675 :
日本@名無史さん:02/01/04 00:39
晋書倭人伝では三十ヶ国の合計が七万戸。
676 :
ヒムカンミコ:02/01/04 02:45
魏志にいわく
>郡より狗邪韓国は南あるいは東に水行しながら七千余里、対馬国までが渡海して
千余里、戸数が千余戸、壱岐国までが南に渡海して千余里、戸数三千許家、末羅国
までが渡海して千余里、戸数四千余戸、伊都国までが東南陸行五百里、戸数千余戸
(魏略は万余戸)、奴国は東南に百里、戸数は二万余戸、不弥国は東行百里、
戸数千余戸、投馬国は南に水行二十日、戸数五万余戸、邪馬台国は南に水行
十日陸行一月、戸数七万余戸
すなおに見れば方角と距離が一番矛盾しない日本の内陸部は宮崎平野ということになる。
宮崎平野は広大で肥沃。気候は温暖で安定。畿内説は方角、筑紫説は距離が問題。
陸行一月は道の無い九州山地を越えるには必要。
水行十日つまり筑紫方面から船で海岸線を行けば十日でたどり着く。
>温暖で冬でも生野菜が食べられる。海に潜って貝や魚を捕る。
男は上半身裸。女は布に穴を開けたワンピース姿。
これは日本内陸部では宮崎ぐらい。太平洋の黒潮の為に鹿児島などより暖かい。
>女王國から東へ海を渡る千餘里。復(また)國有り、皆倭種。
勿論四国のこと。
>その南に狗奴国あり
これは鹿児島方面。
また古事記の日向からの神武東征や宮崎地方に残る国産み神話・伝説に矛盾しない。
677 :
日本@名無史さん:02/01/05 16:28
はいはい。よかったね。
678 :
日本@名無史さん:02/01/05 17:25
異議なし!<日向説
679 :
日本@名無史さん:02/01/05 18:46
三世紀中期は、現在より平均気温が0.5度ほど高く、
当時の気候状況は
北九州の現在の奄美大島、
九州中部は沖縄本島以南、
南九州は台湾中南部に匹敵。
(ソースは宮沢次郎「邪馬台国時代の気候」)
やっぱ決めては神話、伝承類の数が日向地方は出雲地方についで2番目
に多いという点。この事実だけはみのがせないな。
昔は南関東も現在よりも年間平均気温が高かったんだろうね。
今日は最低気温が4℃、最高気温は12℃。寒くてたまらん。。。
682 :
日本@名無史さん:02/01/05 19:43
>>680 GK大室(別名ソロモン君、西都ばか)が強烈過ぎるからね。
それで「邪馬台国はどこですか」スレがいくつも消滅したし。
まじめな日向説派の意見聞きたくても、ああいう阿呆の存在で
日向説だけじゃなく九州説までみんな電波扱いされるのが現状。
683 :
日本@名無史さん:02/01/05 19:45
>>682 「邪馬台国」自体が電波。正しくは「耶麻壱国」。
議論もされ尽くしているようなので提案。
それでは、九州説を二つに絞るとしたら、どうでしょう?
私は日向と宇佐に一票。
邪馬台国の発祥地は山門
卑弥呼の共立にともない、その中心は宇佐に移動し
3世紀後半、クナ国と和睦し、
宇佐から日向へと映る
クナ国の王はニニギ、邪馬台国の女王はトヨ
2人の婚姻をもって、新たな連合王国が九州に出現する
ニニギの妻、コノハサクヤヒメの別名は、トヨタマヒメ
よって、西都はこの第二次邪馬台国連合の中心地であったことが
神話から読み取れる
卑弥呼の金印も西都に眠っていると考えられる
686 :
日本@名無史さん:02/01/05 21:35
>>682 >GK大室(別名ソロモン君、西都ばか)が強烈過ぎるからね。
GK大室くんとソロモンくんは別人。GKくんは東京在住。ソロモンくんは広島在住。
西都主義の点では同じようだが。
687 :
ヒムカンミコ:02/01/05 23:36
688 :
日本@名無史さん:02/01/06 01:30
>>687 西都邪馬台国と大和朝廷は別系だと思うよ。
何らかの理由で邪馬台国の存在を隠したかった日本書紀作者が、日向を無視しきれないと感じて、神武東征の話を挿入したものと思う。
だから神武東征もつくりばなし。
ただ、日向の権力と神武という人間は実在した。
689 :
ヒムカンミコ:02/01/06 02:48
>>688 白村江の戦いによる大和朝廷敗走・百済滅亡とが663年。
記紀の書かれたのは712−720年頃。
百済滅亡により百済王族が宮崎の南郷村に亡命してきたのは663年以降。
南郷村につたわる銅鏡類の中に、奈良の正倉院宝物と同一のものがある。
また現在日本にある唐式鏡300面のうち、17面この村にあり、長屋王邸跡
から見つかった鏡と同型のものなども残されている。
ということは日向と大和朝廷とは記紀成立の頃にはまだ密接な関係があったと思われる。
>>689 アバウトに言い過ぎましたが、白村江の敗戦までは日向と大和は関係が密接どころか、日向が大和を支配していたと思われます。
このことは「日本書紀」に、
速吸之門(国東半島)で、海神族の珍彦に日向を出た神武天皇一行が出会い、
珍彦に案内されて大和へ進み、珍彦を「倭直部の始祖」であると書かれていることからもわかります。
つまり九州人(日向の支配下)が大和の始祖であったと解せるから。
しかし白村江の敗戦後は、大和の支配者(天皇)は半島からやって来た人間だと思うよ。
691 :
日本@名無史さん:02/01/07 10:52
692 :
日本@名無史さん:02/01/08 00:20
。
\ _温暖で、年中生野菜が食べれて、
東に海があって、直径140m以上の
古墳(男狭穂塚)があるって、、、、____/
\/ ∧_∧ゴニョゴニョ・・
( ´Д`) ∧_∧
/ \/ )(´Д` ) __!!!>>
/ \___// \、、、、西都しかないね。 (´´
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693 :
日本@名無史さん:02/01/08 00:22
温暖で、年中生野菜が食べれて、
東に海があって、直径140m以上の
古墳(男狭穂塚)があるって、、、、____/
\/ ∧_∧ゴニョゴニョ・・
( ´Д`) ∧_∧
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/ \___// \、、、、西都しかないね。 (´´
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694 :
日本@名無史さん:02/01/08 00:30
まあ、西都原古墳群を発掘調査すればすべては解決するでしょうね。
695 :
日本@名無史さん:02/01/08 15:49
>>南九州論者 わはは。 「そしじのむなくに」がかよ。
登場人物自身の言だぜ。 まともな奴はいねえな。
君らみんな素朴でいいな。
ここ数年の、桜井地方の発掘の成果で、とりあえず古墳時代の開始年代が
倭人条の当てはまることがかなり確実となった時点で、九州説論者は
(認める認めないはあるが)大打撃を受けた。
それは単なる素朴な所在地論議ではなく、社会学的、政治学的に邪馬台国が
一地方的な政権でなかったことを、意味するからだ。
つまりどんな頑固な九州説論者であれ、大和に朝廷ができて、それが日本を
支配する勢力になったことは動かしようのない事実。
東遷したといいたいところだろうが、古墳がすでに倭人条のころ大和に
発生したということは(現時点でそれより古い古墳はまず出そうもない
あったあったとしたら弥生墳丘墓)、東遷はもしあったとしても、それ以前
でしかなく、邪馬台国の時代はすでに大和に移っていたということ
(九州勢力の東遷を仮に認めても)
南九州に何かの集落があったかどうかということと、年代的にそれが
倭人条いうところの邪馬台国として適合するかどうか、はまったく別。
696 :
日本@名無史さん:02/01/08 15:58
色々としがらみの多い学会はともかく2CHでは日向説が優勢のようだね。
「畿内信者は夢を見ている」にちゃんと反論できるやつがいない。
[
697 :
日本@名無史さん:02/01/08 15:59
まじレスするのもなんだが、ついでに沖縄説に一言。
対馬も壱岐も島として認識されてかかれているな。
もし沖縄に邪馬台国があったなら、また一海を渡ること○里
邪馬台国にいたる。 と書くだろう。 で 個数の七万余戸
はどうすんの。 狗奴はどこ。
698 :
日本@名無史さん:02/01/08 16:52
東遷説の人は九州勢力が畿内に権力の中心を移さなければならなかった
動機についてどう考えているの?
なんでわざわざ半島からも遠い征服した敵の土地を新しい都にする必要があるの?
699 :
別スレよりコピペ:02/01/08 16:56
「弥生時代の終わりから、後の大和政権につながる広域の政治連合ができてくる。
その契機は朝鮮半島の鉄資源の入手ルートをめぐる確執ではなかったか」と、国立
歴史民族博物館の白石太一郎教授は推測する。列島の政治的統合が進むきっかけは、
対半島交渉の主導権争いだったというのである。
鉄資源は初め、玄界灘沿岸の北九州地区が独占してきた。しかし、それより東の
勢力もぜひ欲しい。そこで、瀬戸内海沿岸・畿内地域の諸国が鉄入手を目的に結束し
たのが「邪馬台国連合」だと白石教授は見る。そして、3世紀初め、邪馬台国側が北
九州勢を破ったと推測する。この時期、中国鏡の一つ「画文帯神獣鏡」が急に畿内で
増えるのがその根拠という。
700 :
日本@名無史さん:02/01/08 17:01
>「画文帯神獣鏡」が急に畿内で増えるのがその根拠という。
増えたっつうても4,5枚じゃあね。
≫699白石で思い出したけれども、新井白石も九州説をとっていた。
>なんでわざわざ半島からも遠い征服した敵の土地を新しい都にする必要があるの?
素朴な良い質問だ。
おそらく、半島および中国から攻められる可能性を考慮して、そして九州から引っ越しするのに瀬戸内海という通路がある理由からであろう。
uriuri
704 :
日本@名無史さん:02/01/10 01:26
705 :
日本@名無史さん:02/01/10 01:44
706 :
日本@名無史さん:02/01/10 02:25
まるで謎ww
唐。
元。
蛇頭。
710 :
日本@名無史さん:02/01/12 19:37
e
711 :
日本@名無史さん:02/01/13 03:25
>>695 >南九州に何かの集落があったかどうかということと、年代的にそれが
>倭人条いうところの邪馬台国として適合するかどうか、はまったく別。
全く同じ論理で、畿内に何かの集落があったかどうかということと、年代的にそれが
倭人条いうところの邪馬台国として適合するかどうか、はまったく別。
畿内にも日向にも都市はあった。
畿内には被差別部落民を連れてやって来た「秦王国」という”別倭”があり、
日向には「邪馬台国」(倭国)があった。
邪馬台国の勢力が消滅したのは白村江の戦い(7世紀)に敗れたためであり、
逆に畿内の秦王国の勢力が日向の邪馬台国を凌駕したのは、白村江の戦いで「新羅」側に加担したためであった。
という事は、日巫女を卑弥呼のように、汚い字になったのはそのため?
713 :
日本@名無史さん:02/01/13 18:03
前後関係がひっちゃかめっちゃかでござります
714 :
日本@名無史さん:02/01/13 22:33
井沢
715 :
日本@名無史さん:02/01/13 22:37
w
716 :
日本@名無史さん:02/01/14 15:27
www
711
もう少し詳しくたのんます。
正史では大和朝廷の阿曇比羅夫が、百済救援の派遣。→白村江の戦い。
畿内の秦王国?が新羅側に荷担。
邪馬台国は百済。
結局大和朝廷はナンなの?秦の末裔で百済派と新羅派が居たでいいのかな。
DQNな質問でスマソ。
720 :
日本@名無史さん:02/01/14 17:02
ホント
721 :
ほんとの711:02/01/14 22:41
大和朝廷なんぞは存在しなかった(書物の中にのみ存在)。
畿内に存在していたのは、秦韓の移住民たる「秦王国」。
秦韓の人々は、秦の始皇帝の末裔の人々と新羅系の人々。したがって、白村江の戦いでは「唐・新羅」側についた。
邪馬台国は「倭」と「九州の百済の分国」で構成されたものであり、だからこそ、「本国の百済」が滅亡しても防衛と復讐のために白村江の戦線へ向かう必然性があった。
「百済」とは、北倭と扶余族の共同でつくられた国。
倭人はマレー海域から鉄をひっさげて日本列島に上陸した。
安曇水軍は倭国(九州)の水軍であって、「別倭」の水軍ではない。
だから、安曇水軍の敗北=九州倭国の没落 となる。
722 :
日本@名無史さん:02/01/15 00:47
711,718,721は自作自演じゃないの?
723 :
日本@名無史さん:02/01/15 00:57
憶測とはいえオモシロイ。
秦王国らしき国がが魏史に載っていれば良いんだけど。
畿内の遺跡から、発掘されれば裏付けられるけど。
724 :
日本@名無史さん:02/01/15 01:12
>>723 ホントにただの憶測だな
「秦王国」って隋書だけの記述じゃないでしょうか?しかも位置的に畿内には持って来れないのではないかな。
周防とか豊前あたりとする説はあるけどね。
白村江の前提として、中大兄皇子や斉明天皇が筑紫まで行ってるはずだけど。
725 :
日本@名無史さん:02/01/15 01:18
>>723 ホントにただの憶測だな。「秦王国」は随書のみの記述。行程的に豊前とか周防にする説はあるけど。
解釈もいろいろ。秦(辰)韓系の渡来人が多い地域ぐらいの意味と言う説もある。
まあまたも九州王朝説ですかい。
ところが、白村江の前提として、中大兄皇子や斉明天皇が筑紫まで行ってるのだけど。
あげ
727 :
日本@名無史さん:02/01/16 02:05
「秦王国」の首都は藤原京。
その支配領域は鳥栖から畿内までの広範囲にわたるものと推理。
728 :
日本@名無史さん:02/01/17 19:33
729 :
日本@名無史さん:02/01/17 19:38
あでq
731 :
日本@名無史さん:02/01/19 03:58
「秦王国」の日本列島における出発点は、吉野ヶ里から鳥栖かけて存在した「倭奴国」であり、
山口県、広島県地方、岡山県地方、と徐々に畿内へ進軍し、最終的に藤原京を首都とした。
広島県に「呉市」という街があるが、文字通り「中国地方」の人々住んでいたのであろう。
秦の始皇帝の残党である「秦王国」の人々は、秦氏となり、やがて藤原氏のなかに紛れ込んでいった。
「宋書」に「日本国はもとの倭奴国である」とあるのは「秦王国」のことをいっている。
「秦王国」は「別倭」「伊倭」「日の出るところの倭人」と言われた。
誰でも自分の国を中心に考えるから、「日の出るところの倭人」と言った人種は日本列島自生の人種ではなく、西から来た「秦王国」の中国人であろう。
このように、邪馬台国のあった九州の「倭国」と、「別倭」たる畿内の「秦王国」ははっきり区別されていたのである。
732 :
日本@名無史さん:02/01/19 14:47
age
八女市(福岡県)をひっぺがしたらなんか出てきそうな予感
734 :
日本@名無史さん:02/01/19 16:15
ヤメヤメ
735 :
日本@名無史さん:02/01/20 14:32
age
736 :
日本@名無史さん:02/01/22 20:38
『隋書』倭国条に、隋の裴清世が608年に邪馬台国へ実際にやって来て、
阿毎多利思北孤と会見した記事があるのに、『日本書紀』にはその記事がない。
これなんかも、大和が邪馬台国だったら率先して『日本書紀』に取り上げる事項なのに書かれてないということは、
大和に来たのではなく、九州西都原にあった邪馬台国に来たから、『日本書紀』の作者は載せることが出来なかったんだな。
実際、「倭国」の描写として「阿蘇山」の様子が書かれているし、畿内が「倭国」ではない、すなわち邪馬台国でなかった、というのは決定的であるね。
あほやの〜
阿蘇山なら都がどこだろうが倭国のなかにあるだろ?
倭国は九州(竹斯国)。
九州以東(秦王国)は倭国の支配下にある。
と書いてある。
だから本州は倭国ではなく、「別倭」。
もちろん阿蘇山も九州にしかない。
人吉盆地が投馬国なら伊都国から南へ水行20日になりますか?
今日、本屋で卑弥呼は熊襲の球磨の方が侵略してきて戦っている途中に死んだ
と書いてあったが戦いに強い球磨=クマソが投馬国なのか??
投馬国は薩摩。
さ+トウマ→さとうま→さつま
隋書に限って言えば
対馬から壱岐が、「南」なのになぜか「東」になっている
その次は筑紫だが、筑紫が、壱岐から見て
どの方角にあるのかは書いていない
次に秦王国が来るわけだが、これは、いまだに諸説がある
そして、東(南?)に10余国を経て、海岸に達す
とだけある
当時の都は、書記によれば、飛鳥に存在した
難波の海岸から、飛鳥の都まではそこそこ歩くはずだが
歩行記事は一切なし
また、本当に畿内大和に行ったのなら、険しい山岳地帯の描写があっても
良さそうなものだが、それすらない
その代わり「阿蘇山」だけが、なぜか「印象に残った」と記述されている
ここで、後の時代に行基が作ったとされる「行基図」を見ると
当時の日本には、半島から対馬、壱岐を経て畿内に行く道のりと
(なぜか)筑紫を経て、宮崎(日向)に至る道筋とか両方しめされている
日向からなら、阿蘇山も遠くはないし、その様子が
印象に残ったとしても、おかしくはない
都合の良いことに、大化の改新で、蘇我氏編纂の国史は焼き捨てられた、とある
書記は、天武朝が畿内に王権を樹立して初めて編纂したものであり
白村江以前には、全く違った歴史が存在したと考えてもおかしくはない
742 :
日本@名無史さん:02/01/24 20:32
阿蘇山の描写がされていますが、阿蘇山は福岡からは見えませんから、阿蘇山の見えるコース、すなわち日向を目指して裴清世が進んだことは明らかですね。
「別倭」を建てた連中が「倭国」の邪馬台国を抹殺するために「日本書紀」を書いたのは明らか。
阿蘇山の雄大さには、それを見た誰もが圧倒される。
また、見てないものにはそれが解らない。
裴清世は、まさしくそれを間近でみたからこそ、その強烈な印象を語ったのである。
すなわち彼は、大和ではなく西都原へ行ったのであった。
>>740 月光仮面=解決黒頭巾さんに質問
投馬国は邪馬台国7万戸につぐ5万戸(人口20万人)なんだけど。。。
薩摩にその規模に匹敵する巨大な遺跡があるか??
僕が人吉盆地(球磨川)に投馬国を当てたのはそのあたりで宇佐くらいのデカサの遺跡を
想定してるけど、水行20日って人吉盆地のあたりの熊襲の球磨の方のことでは。
卑弥呼が死の間際に投馬国(人吉盆地)の人間が西都にせめてきたと言う記録はあるが。
遺跡がデカイからそこが王権の中心だったとは限らない
実際、現在の天皇家が倭王になったとされるのは、欽明天皇以降であって
それ以前の王権は、現在では異なるものであった可能性が高い
3〜4世紀の畿内には、天皇家とは別の王がいた(=ニギハヤヒ?)
そうでなければ、書記は、天皇家の降臨場所を畿内にしたはずである
しかし、実際には、まぎれもなく「日向」と書かれているのだ
考古学的に劣っているからといって、それが「支配ー被支配」の関係を
ただちに決定するものではない
>>744 わたしは解決黒頭巾ではない。
薩摩は阿多隼人の国。
九州の遺跡は破壊されたり、埋め戻されたりすることが多い。
鹿児島県川内(せんだい)市には、ニニギノミコトの墓といわれる可愛山上陵があるが、
川内(せんだい)の地名は、都になって千の台(うてな)があるほど栄えたからとも、戦いに備えて千の砦を構えられたからとも伝えられている。
伊都国から水行10日で玉名に着き、同じく伊都国から水行20日で川内川まで南下、遡上して行ったと思われる。
747 :
日本@名無史さん:02/01/26 08:07
九州説=d出も
>>746 鹿児島県の吉松町の遺跡も古墳が41基発見されてるが???(投馬国じゃないの)
749 :
日本@名無史さん:02/01/26 13:37
俺は九州人なので邪馬台国九州説をとりたかったが、やっぱり大和朝廷や天皇家
との関係も考えるとやはり畿内説が正しいと思う。「魏志」倭人伝とかには、
「九州には『狗奴国』という女王に従わぬ国があった」との記述があるし、古事記なども
考慮すると、この「狗奴国」は後に「クマソ族」なって独自の文化を築いたように思える。
その後、景行天皇の御代に、天皇とコウスノミコトは幾度にも渡り九州征伐に出かけている。
時代的には4〜5世紀だろう。卑弥呼の時代が3世紀だから、邪馬台国が原始大和朝廷になり、
狗奴国がそのままクマソ、土蜘蛛になったというのが自然ではないか。
俺は第1代神武天皇から第9代開化天皇までは架空の天皇だと勝手に解釈してるので、邪馬台国が
自然に大和朝廷に発展したとしても矛盾はないと思う。卑弥呼〜イヨ〜第10代(実質的には初代)崇神天皇
と続いたのではないか。卑弥呼は結局狗奴国を支配できなかったしその後倭国は乱戦時代。その結果として
狗奴国は中央からの進攻を受けることなく独自の文化を築くことが出来たのだと思う。
750 :
日本@名無史さん:02/01/26 14:33
>「魏志」倭人伝とかには、 「九州には『狗奴国』という
>女王に従わぬ国があった」との記述があるし
そんな記述はないだろ?「其南有狗奴國」とあるだけだ。
751 :
日本@名無史さん:02/01/26 14:59
時代の流れを追いかけていくと、崇神天皇・垂仁天皇の2代で福島県から広
島県付近まで勢力を拡大したあと、垂仁天皇の子供の景行天皇の時代に今度
はヤマトタケルが出て、九州・出雲・関東に遠征します。そしてヤマトタケ
ルの嫁にあたる神功皇后が朝鮮半島にまで兵を進め、その神功皇后の子の
応神天皇が畿内で安定政権の樹立に成功します。崇神天皇から応神天皇まで
は大和朝廷の戦いの歴史であり、「初めて国を治めた天皇」が「和国に君臨
する大王」に成長する記録でもあります。
752 :
日本@名無史さん:02/01/26 15:13
いつまでやってんの?
邪馬台国は大和国に決まっとるだろが。奈良盆地東南部。
753 :
日本@名無史さん:02/01/26 15:16
『熊襲反乱の平定の途路、仲哀天皇9年に天皇が亡くなると、神功皇后は天照大神、住吉神等の託
宣を得て、三韓の攻略に出発する。 熊襲の背後に新羅が控えていると予想したからである。
戦前の国定教科書(初等科国史)には、「音に聞く日本の船、神国のつわものにちがいないと思って、
王はすぐさま皇后をお出迎え申し上げ二心のないしるしに、毎年必ずみつぎ物をたてまつることを、堅
く誓いました。・・・この後、熊襲がしずまったのは言うまでもなく、百済や高句麗まで
も、わが国につき従いました。」とある。
神功皇后がるかどうか証明されていないが、高句麗王の広開土王の石碑文にも倭人を撃退した記述が
されている。また、神功皇后の遠征への出発地であった長崎県壱岐島では、
全島に神功皇后にちなんだ伝説があり、勝利を祈った北端の勝本には、
神功皇后を祀る聖母神社が鎮座している。
今でも、壱岐には神功皇后の「足跡」が残されているのである。
754 :
日本@名無史さん:02/01/26 15:43
南九州に入った海洋系民族の国は、邪馬台国の南に位置しておりこれと対立していた狗奴国(くなこく)、そしてヤマトタケルによって征服されたことになっている熊襲(くまそ)国だろう。
狗奴国と熊襲国は同じ国で、場所は現在の熊本県南部から鹿児島県にあったと考えられる。この国はおそらく4世紀中に、後に大和朝廷と呼ばれるようになる国との戦いに敗れ、その傘下に入り、
蔑称の「熊襲」ではなく「隼人」と呼ばれるようになった。この辺の事情は、「海幸彦、山幸彦」の神話でも比喩的に語られている。
山幸彦が兄の海幸彦の釣り針を借りて釣りをしたが、なくして兄の怒りを買う。その後、釣り針を取り戻し、兄を懲らしめ、以後服従させる。そして、山幸彦の子孫が大和朝廷につながり、
海幸彦の子孫は隼人となったと記紀に書かれている。これはあきらかに海洋系民族が大陸系民族に敗れ、その支配下に入ったことを示していると言えよう。
しかし、その後もこの海洋系民族は時々反乱を起こしては大和朝廷を悩ませた。奈良時代初期の720年の
「隼人の乱」や平安時代の「藤原純友の乱」などは海洋系民族の大陸系支配民族に対する抵抗運動と考えられる。
近畿地方には和泉、河内、阿太の地名がある。
これは薩摩の地名である、出水、川内、阿多の地名から漢字を変えて
用いたものなり!
すなわち、この地を征服したるはわが薩摩の住民なり!
神武東征の神話はしゃれでもなく事実を神話化したものであることは
明らかなり!
756 :
日本@名無史さん:02/01/26 15:58
>>755 じゃあなぜ景行天皇〜応神天皇は薩摩討伐に必死になったわけ?天皇がクマソ起源なら
クマソは真っ先に大和朝廷を支持し、あんなに何回も叛乱を起こさなかったはずでしょ?
薩摩は19世紀になっても反政府暴動をやってたほどのサヨッキーな土地だよ(w
ばか者!明治政府を見よ。薩摩は明治政府を作った主役であるが、
明治政府は薩摩を攻撃してるではないか!
それと同じく、応神天皇の時代にもそれはあったと考える。
とにかく大和朝廷を作った主役は薩摩人に他ならない!
この間、「ここ変」で今でも沖縄県民は日本人でも中国人でもなくて「沖縄人」
というらしいが、5世紀の日本では鹿児島の熊襲は多民族だったのかもね。
中国南部からの渡来人(稲穂もってきた人)・・・山幸彦
スンダランド大陸からの渡来人・・・・・・・・・海幸彦(隼人族)
山幸彦を助けた別グループの海人族・・・・・・・琉球or中国人or半島人
という人種構成が薩摩人の構成と思われる。
見事に神話に近い話がここで完成する。
神武東征の話はでたらめではない!
760 :
日本@名無史さん:02/01/26 17:53
>>757 だいたいさ、クマソって原始人に毛が生えたような文化しか持ってないタダの土人じゃん。
国家さえ形成できなかった体育会系ドキュソ民族が大和朝廷を築けたとは思われないな。
大和朝廷はもともと渡来人の政権じゃん。
761 :
日本@名無史さん:02/01/26 18:01
760
そうだとは、言いきれないよ。
それにそんな偏見があっては、歴史そのものが君にはムリじゃないか。
762 :
日本@名無史さん:02/01/26 18:50
>>761 でもさ、事実鹿児島からは文明の形跡のある移籍は見つかってないし、縄文集落なら
有るし、古墳もあるが、古墳は後の時代なので却下。その、原始〜古墳をうめる時代の
文明集落がない。此はダサツマが続縄文文化でずっと生きてきた証拠では?打差妻には
「坊津」という国際港が発達したけどそれは薩摩の国がおかれてからだし。
南、投馬国に至る
(マツラ国から)水行20日(で、宮崎県の妻に着く)である
南、邪馬台国に至る
女王の都する所なり
(マツラ国から)水行10日(で宇佐に着く)陸行(ならば)1月(は
かかるだろう)である
(略)
女王国の東、海を渡って千里の場所(周防)にまた国がある
皆、倭種である
(略)
女王の(権力の)尽きる場所の南(宮崎県南部、大隈、薩摩)には
狗奴国(熊襲)がある
その王は「ヒコミコト」で、官はキクチヒコである
764 :
日本@名無史さん:02/01/26 19:12
>>763 キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
765 :
日本@名無史さん:02/01/26 20:56
>>761 >>でもさ、事実鹿児島からは文明の形跡のある移籍は見つかってないし
九州の遺跡は破壊されたり、埋め戻されたりすることが多い。
鹿児島県川内(せんだい)市には、ニニギノミコトの墓といわれる可愛山上陵があるが、
川内(せんだい)の地名は、都になって千の台(うてな)があるほど栄えたからとも、戦いに備えて千の砦を構えられたからとも伝えられている。
766 :
日本@名無史さん:02/01/26 21:22
┌───────
│
>>765そうだったノカー♪
└─v─v────
γ⌒Y⌒ヽ
(・∀・|・∀・)
(__(__)(__)__)
ニニギノミコトなんて実在する分けないじゃん。天皇だって1〜9代は虚構だし。
なるほど、千台→川内となったわけか。川内には薩摩國の国府が有ったし、守りを
硬くするのは当たり前だもんね。もし砦があったとしてもそれは薩摩の国が成立してから
のような気がする。日本書紀とか見ると、クマソは殆ど川上や山間の洞穴に住み着いていた
と有るし。ところで、何故に九州の遺跡は埋め戻されるの?吉野ヶ里とかは発掘されたのに。
 ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧
( ・∀・)
( )
| | |
(__)_)
767 :
日本@名無史さん:02/01/26 22:04
遺跡は開発の邪魔になるからね。
吉野ヶ里も済んでの事、破壊されるところだった。
ある高校教師とその息子の情熱が吉野ヶ里を開発による破壊から救った
とNHKのプロジェクトXで言うとった。
768 :
日本@名無史さん:02/01/26 22:07
元々は九州にあったけど、畿内に移動したんだYO
769 :
日本@名無史さん:02/01/27 00:55
去年発掘された宮崎県田野町の本野原遺跡も、西日本最大級の縄文遺跡と発表されたけど公開後に砂をかけて埋め戻されたね。
なんでも圃場をつくるために掘ったら出てきたが、地権者に対する補償とか今後の維持費を考えるととても経費が捻出できないので埋め戻したとか。
770 :
日本@名無史さん:02/01/27 01:24
>>768 それが妥当な見解だと思う。
九州から大阪平野は船で数日足らず。
朝鮮からの軍事的影響を考えて、畿内に移ったと考えられる。
メインは船だから、吉備国、出雲国は無傷のままだったという事。
771 :
日本@名無史さん:02/01/27 03:49
あいだはどうすんの。無人の高野豆腐ってわけじゃないんだけど。
瀬戸内だったら、吉備の海運力なくしては移動は無理でしょ。
どこでもドアでも使ったのかな?
772 :
日本@名無史さん:02/01/27 07:20
ドウシテ吉松町の古墳群遺跡(41基)が投馬国跡と悟らないのか?
(伊都国から水行20日の場所にあるだろうよ)
鹿児島県吉松町の永山古墳群41基はサイトと同じく5世紀のものと「されてる」のがポイント!
775 :
日本@名無史さん:02/01/27 15:59
吉松ねー。地図で見ると川内川の一番奥だね。
急流や岩場もあったかもしれないし、水行40日くらいかかるんじゃあないの?
川内市のニニギノミコト(と呼ばれる指導者)の墓からも随分遠いし・・・
落人の集落かもね。
776 :
日本@名無史さん:02/01/28 18:18
三国志の魏志倭人伝の頃にも関わらず、九州で外交を行うのが一番理に適っている。
邪馬台国は九州説でよいが、ほぼ同時期に
@東部開拓も進行中(後、支配者交代によって大和朝廷と変わる)
A大和族が吉備出雲を占拠中だった。(後、戦争によって大和朝廷が支配)
266年、倭女王壱与、西晋に遣使。
いぞれにせよ、266年以後の147年間が謎じゃ〜。
777 :
日本@名無史さん:02/01/28 19:40
>>776 俺は、その空白の年間は中国、四国の瀬戸内側に、
その謎を解く手がかりがあると思う。
沿岸部の海底探査も必要かと。
778 :
日本@名無史さん:02/01/29 13:57
>>776 そのころに崇神天皇があらわれ、景行天皇、ヤマトタケルや神功皇后による西国
東国征伐があったんだろうね。
779 :
日本@名無史さん:02/01/29 17:08
その証しになるものが、発掘されないかなあ。
780 :
ド素人だけどさ:02/01/29 20:03
ていうか、倭人伝通りの海域を調査したことはあるの?
ひょっとしたら、沈んでしまった島があったかもしんないじゃん。w
781 :
日本@名無史さん:02/01/30 00:46
潜ってくれよ、どこまでも。
ばかなことを言うとるわい。
日本最大級の「壁」が鹿児島の大隈半島で発掘されとるんだぞ!
「壁」を所有してるというのは、古墳よりも重要視されてもいい物件である!
何しろ、中国では皇帝の印としてされておるのがこの「壁」だからな。
邪馬台国発祥地は薩摩なり!
783 :
日本@名無史さん:02/01/30 14:28
邪馬台国ってほんとに大きな国だったのかなぁ。
国の大きさ書いてある文献あるの?A.D240年頃
たまたま国交を開拓していた(大国にとり入れられた)がんばりやサンの
国だったら?小さい国でも外国の戦術など取り入れて強い国だったら?
卑弥呼は、中央行政のできるとこに住むんじゃない?
何処?九州?
784 :
日本@名無史さん:02/01/30 18:54
卑弥呼はチョン
785 :
日本@名無史さん:02/01/30 19:31
>>782 でっかい壁とはそりゃ剛毅だな。
カベが皇帝の印とは初めてきいたぜ。(ワラ
>>all
大体、戸数7万戸人口30万人の大都市遺跡がこの狭い日本の中でどこにあったかわからない
なんてバカな話ありません。長岡京がどこにあったかわからない。こんな話ないでしょ。
みんなもバカではないからきずいていると思われます。畿内説では遠すぎる(距離3倍)
北九州説では朝鮮半島に近すぎるのです。(北九州説で国名を比定すると九州の地図をコピー機で印刷するとしたら3分の1の
縮小図みたいになる。)
>>畿内か九州で一番規模のでかい遺跡が見つかれば解決でしょう。少なくとも筑紫平野より
デカイことが条件です。記紀にそれなりの記載なり神話なり書いてなければおかしいでしょう。卑弥呼の墓でも規模がでかく
ないと矛盾します。温暖なのも条件です。東に海がなければいけません。地名の考証も必要です。
>>マア、お偉い先生らにはそれなりの御苦労(この場合教授職というお立場)も多いという事だな。
>>786 卑弥呼の都のあったところは、わかってますよ。纏向です。
ただ、考古学的確認が終わってないだけね。
因みに、長岡京の存在が考古学的に実証されたのは昭和30年代になってからの話ね。
8世紀の遺跡で文献資料も倭人伝の数百倍も揃ってたのにね。
大極殿跡が掘り出されるまでは、実際には建設されなかったとノタマッテいた先生方もいました。
後ね、3世紀で30万人規模の都市遺構が邪馬台国だとしたら、中国大陸にも無いと思うぞ。
>>782 「璧」だよ。「壁」じゃなくて。
いわゆる「穀璧」ね。文字通り「完璧」らしいね。
出てきた場所は日向国那珂郡今町(串間市)。中国との交流の証拠。
あと、「貨泉」(中国の新の貨幣)も宮崎市の大淀川から出てるね。
完璧な「穀璧」は日本中でこの一個のみ。
789 :
557だけど:02/01/31 18:38
誰か勝手に他スレにコピペした奴がいるな。別にかまわんけど。
>>787 30万人の都市ではなくて国だろ。
>>788 この「穀璧」はいつの時代なの?
那珂郡という地名は、もうひとつの「奴国」につながるね。
>>557と重複したりするけど悪しからず
福岡(博多)が「伊都」の次の「奴国」て言われてるけど、「好古都国」がそのまま
「ハカタ」じゃない?
離れ小島である志賀島の金印は荒れた田んぼの中から小石に囲まれて出たもので、
周囲には何の遺跡も無かったそうな。これは金印を持ちかえる途中で敵に襲われたか、
船が難破したかで、とりあえず隠しておいたがそのままになったと考えることもできる。
つまりこの金印が博多=「奴国」である証拠にはならんのよ。
博多が「奴国」でなければ「伊都国」はどこ?
魏志倭人伝どうり「末ろ国(唐津)」から松浦川、厳木川沿いに東南に500里の
ところにある多久市あたりではないかな。弥生期の牟田部遺跡が出ている。
あとの道程は
>>557を見よ。
ちなみに熊本市に戸島町というのがあるが「投馬国」に比定できないか?
邪馬台国は正しくは「邪馬壹国」であり、その都は九州本土で一番高い山である霧島山
の韓国岳を拝める地域ではないかと考える。
卑弥呼は火の巫女でもあり、活火山である霧島山を崇拝あるいは監視していたとも
考えられる。
鬼道がどんなものかは知らないが、人々を驚愕、畏敬させていたのだろう。
暦(星の運行)や気象をよく読んだのではないか?
それには高千穂の峰あたりが絶好の場所なんだが。
で、邪馬台国は日向地方一帯、その宮殿は高原町あたりか(神様は高い所がお好き)?
後のニニギノミコトあたりから呪術支配の終焉とともに西都が中心になったのではないか。
邪馬台国と狗奴国の戦いはアマテラスとスサノオの戦いに比定されるが
日本書記ではスサノオの領地は田畑は痩せていて雨が降れば流れるとある。
これはまさにシラスのことであり薩摩、大隈のことであろう。
つまり邪馬台国と狗奴国は都城盆地あたりの領有をめぐって争ったのではないか。
久邇も敏も同じだろうニャロメ
791 :
日本@名無史さん:02/01/31 22:19
そりゃまあ同じと言えば同じかも知れんが、現代人にとってはイメージってもんがあるでしょうに。
日向地方一帯を国と言った場合、都市とはちょっとかけ離れてるよね〜〜(汗
壁じゃなく、璧。
そうだ。わしもなんか違うわいとは思うとったんじゃ。すまんの。
完璧!という語源はこの璧からもきてるように重要視していい物品じゃ!!
みなさん、古墳より重要な璧に注目しよう!
それが薩摩の地から出ているんです。
邪馬台国発祥地はだれがどうわめいても薩摩の地、大きく言えば日向ですよ。
793 :
日本@名無史さん :02/02/01 17:38
石川県は邪馬台国の誘致を決定、
金沢大学に協力を要請した。
794 :
日本@名無史さん:02/02/01 17:50
>>792 俺の海洋民族発祥説とつながるな、日向であれば。
済まんが、その壁の住所教えてくれ。ネットマップで確認してみたい。
>794
すまん。文献は家にあるけん、今わからんですたい。
796 :
日本@名無史さん:02/02/01 22:57
邪馬台国は魏志倭人伝で言及された国(隋書などはそのコピー)。
それ以外我日本にはなーんの資料もないのよ(記紀や各地の風土記以外には)。
ならばそれに示された通りに考えるのがあたりまえだろ。
大和は確かに同時代に畿内で栄えた国であろう。
同時代だからと言ってなぜ倭人伝をねじまげてまで邪馬台国になりたいの?
なぜ方角をそのまま素直に受け入れないの?不思議でならん。
大和に誇りを持てよ。邪馬台国でも邪馬壹国でもなかろ、大和だろ。
(後に神武によって征服されるんだけど、それはそれとして・・・)
厨房ならいざしらず立派な大学の先生までがそれなんだからやってられん。
畿内説を唱えてるやつらはまさに、江戸明治大正昭和の非科学的な脳内考古学者ってやつだな。
旧石器考古学(藤村捏造)と全く同じだ。
>>557や
>>789が言ってることをよ〜く考えてみろ。
倭人伝にも記紀に対してもどこにも矛盾がなかろう。
各地で発掘がなされてるようだが、
なんでもかんでも卑弥呼だっていやあいいってもんじゃないぞ!!
今の日本ってそんなに活力ないの?卑弥呼に頼らざるを得ないの?悲しいね。
797 :
日本@名無史さん:02/02/01 23:26
国の活力と考古学とは直接関連がないと思うけどな。
単に、卑弥呼の謎を明確にしたいだけさ。
俺も、796の見解通りだよ。
だが俺が本当に知りたいのは、邪馬台国や大和民族のルーツ。ただそれだけ。
798 :
日本@名無史さん:02/02/01 23:35
倭人伝を捻じ曲げて邪馬台国は九州だといってる無学な人々って
悲しいね。
文献も考古学も認めることができなくて、信仰のみに生きてるのかな?
信仰のみに生きてるのかな?
>>信仰のみで生きてます。
8
0
0
>>789 >>
>>787 >>30万人の都市ではなくて国だろ。
30万都市の存在を主張してるのは、俺じゃなくて
>>786だよ。
レスを良く読んでみてね。
少しだけ気分が悪いんで、細かいことだけど言わせてもらったよ。
787=789=786
7 7 7
8 = 8 = 8
6 7 9
8888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888
0000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000
4444444444444444444444444444444444444444444444444444444444444444444444
「穀璧」は福岡県前原市(伊都国ね)の須玖岡本遺跡や三雲遺跡でも見つかってはいるが、「破片」のみ。
完璧なものは日向で見つかったこの一品のみ。
この「穀璧」は、日向国那珂郡今町(串間市)の王ノ山で、江戸時代、佐吉という農民が掘り出した石棺に入っていた。
直径33.3センチで、外周と内周には中国独特のトウテツ文(奇異な獣面模様)が施され、その中間には穀粒状の模様がある。材質は硬玉製。
旧藩主前田家所蔵で、完璧なものは日本中でこの一個しかないため、十分な考証が進んでない。
「璧」は古代中国皇帝が地位の象徴として、諸侯に下賜したものといわれている。
紀元前四世紀から紀元後三世紀のものと言われている。
卑弥呼が貰うものにふさわしいといえる。それがその名も「王之山」と言う日向の地で発見された。
806 :
557=789だけど:02/02/02 09:14
>>801=787殿
おっしゃる通り、大変失礼致しました。
801=806
∩∩
>>805 ∩| || |∩
| .|| || || |
| __|
| (__.|.
先ずは、九州説に有利な点は、
1 記紀伝承の根幹として、大和朝廷の九州建国、東遷、東征説話等は無視できない。
2 邪馬台国のベースとなりうるような弥生期以前の遺跡等は九州に多く、畿内大和ではかなり貧弱である。
3 地理的に朝鮮半島に近く有利。
次に不利な点
1 卑弥呼に100枚賜与されたという魏鏡の出土例が少ない。
2 「邪馬台国」に比定される地名が遺跡を伴わない。
3 倭人伝の距離記述と大きく矛盾する。
有利点・不利点まだまだたくさんありますけどね
8
1
0
.
811
812
畿内信者が発狂して大暴れしてるな
814 :
日本@名無史さん:02/02/04 21:55
あげ
816 :
日本@名無史さん:02/02/05 07:40
あのなー。
銅鐸は朝鮮半島にあった牛鈴(牛の首に着けてガラガラ音を出す)だったの。
これが九州に伝えられると九州には牛が居ないものだから牛鈴は人間が振って
音を出して楽しむ玩具みたいな使われ方をした。
ところが笑っちゃう事に畿内に伝わるとこれが神器になっちゃうんだな。
いかに畿内が後進地帯だったかが解るってものだ。
銅鐸が大型化する前の小型銅鐸が九州や畿内で見つかっている事を知っているかね?
これには明らかに音を出すものだった証拠が残されている。
さらに朝鮮式無紋銅鐸というのが朝鮮半島および九州で見つかっている事も
付け加えておく。
魏志倭人伝に書いてあるような邪馬台国など実在しなかったことはもう明確に
なってると思うんですけど。
818 :
日本@名無史さん:02/02/05 13:05
九州しかないじゃん
中国大陸や朝鮮半島に近いところにあった可能性が高いと思うよ。
西都原古墳群が5〜6世紀のものだとしても、古代の宮崎平野一帯にある程度強大な
権力集団が存在していたことは間違いない。彼らはどこからきて、どこへ行ったのか。
古墳時代の規模的には、大和や河内、吉備には劣るようだが、北部九州や毛野国に
匹敵すると考えられる。
残念ながら宮崎県では発掘現場自体が少なく、目立つ遺跡がないのだが・・・
820 :
日本@名無史さん:02/02/05 22:59
西都原のオサホ、メサホの年代鑑定は誰がやったの?
明治か大正のお偉い先生じゃなかったか?
それじゃ全くあてにならんね。100年200年の誤差は十分有るだろう。
その当時の年代鑑定の根拠って何だったんだ?
年輪年代はもちろんありゃしねーし、土器編年もまともじゃなかったろう。
(今もまともとは思ってないが)
状況証拠は日向以外有り得ないのだが,確固たる証拠が出てないのが如何ともしがたいね。
景気が良くなってあちこち掘り返すようになったら判るんだろうけどな。
あとは考古学が真にまともな学問になって、宮内庁が科学に目覚めるのを待つだけか。
何か荒れてきましたね。
>>820 もう、結論は出てるよ。後は西都を公開するだけでしょう。
その通り。
噴長径154.6mの造り出し付き円墳たる「男狭穂塚」の存在が、
魏志の「卑弥呼死す。大いに冢を作る。径100余歩。」を裏付ける確たる証拠である。
824 :
日本@名無史さん:02/02/09 22:26
西都原観光協会のホームページが最近更新されたました。
それに伴い、以前まであった古墳群の「南北全長3000キロ」と言う表記も
無くなってしまいました・・・豪州大陸よりも広い世界一の遺跡だったのに残念。
825 :
日本@名無史さん:02/02/09 23:27
826 :
日本@名無史さん:02/02/10 00:29
>>824 未だGoogleのキャッシュなら残ってたよ。(w
そう言えば、これのコピペをそのまんま貼り付けてた人がいましたね。
829 :
日本@名無史さん:02/02/10 04:09
阿蘇氏という鹿児島出身の豪族は、東北地方に進出したよ。
830 :
日本@名無史さん:02/02/10 21:28
ま、だれにでも間違いはある。
南北3.2kmね。
という事は、吉野ヶ里の南北1キロより規模がでかいという事か。
吉野ヶ里は伊都国から歩いて2日、30キロだし邪馬台国より100年古いのだから倭の奴国
で間違いないでしょう。(方角的にも)
あとは、邪馬台国が、どこにあったかだな!
832 :
日本@名無史さん:02/02/10 23:23
>>831 ヴォケか?じゃあ、福岡市〜春日市が奴国じゃないわけ?笑わせるな!!!!
833 :
邪馬台国は:02/02/11 07:57
支那人のダボラ
その存在をまじめに研究する奴はヴァカ
ヤマト国 → ヤマタイ
日御子 → ヒミコ
834 :
日本@名無史さん:02/02/11 08:55
福岡(博多)は好古都国。読んで字の如し。
835 :
日本@名無史さん:02/02/11 09:36
>>834 博多の地名は8世紀以降、それ以前は儺ノ津。これ常識。834は逝ってよし
836 :
日本@名無史さん:02/02/11 17:43
>>835 あんたらが常識といってるものは根拠が無いものが多い。
8世紀以前にそこが那の津でありハカタではなかったという地図でも持ってるん?
脳内地図じゃねーの?
837 :
日本@名無史さん:02/02/11 18:11
>>836 日本書紀と続日本紀で記述が異なる。同じ場所であることは、地名や考古学的証拠から明白。
証拠がないのはあなたでしょう。脳内地図はあんただよ。
漢委奴国王金印の存在(志賀嶋は那珂郡)、那の津(那珂の地名の起こり)、吉野ケ里をはるかにこえる須玖岡本遺跡群や比恵那珂遺跡群の規模と内容、中期から後期、古墳前期まで繁栄が続く点など、根拠はたくさんある。
836、834は永遠に逝ってよし
838 :
日本@名無史さん:02/02/11 18:15
福岡市内の各地に那(ナ)という地名が沢山残ってるよ
住んでみればわかる
箸墓=ひみこ
古代、博多は「安羅津」と呼ばれていた。
また、日向は「安羅国」と呼ばれていた。
>>840 ツネタカさんについてもっと知りたいレス。
(気になって夜も眠れん)
大山町の徳川ツネタカさん邸にいった事あるが、小和田邸と同じくらい立派な家でした。
>>
だとしたら雅子様が皇室に嫁がれる前に、「(皇太子とは)身分が違いすぎます。」と言ったが、
皇太子がもしホントウにつねたかさんの子なら、似たもの同士のカップルと言う事になるが???
大室近祐さんの息子を松平一郎氏の養子にしたということですか??
>>841 東京都迷惑防止条例に抵触につきタイーホ
843 :
日本@名無史さん:02/02/12 07:17
>>840 根拠、文献を述べよ。
鹿島ネタだったら怒るぞ(藁)ゴルァァァ!!
>789のコピペ
離れ小島である志賀島の金印は荒れた田んぼの中から小石に囲まれて出たもので、
周囲には何の遺跡も無かったそうな。これは金印を持ちかえる途中で敵に襲われたか、
船が難破したかで、とりあえず隠しておいたがそのままになったと考えることもできる。
つまりこの金印が博多=「奴国」である証拠にはならんのよ。
那がつくから奴国かい?「ナ」がつく地名なら日本全国ゴマンとあらーな。
国として栄えたのなら遺跡はあるわな。でもな、それが「奴国」という証拠にはならんのよ。
考古学的証拠というが、実はそれが一番あてにならんのよ。
悔しかったら物的証拠をだしてみれ。
倭人伝にある情報なら倭人伝に沿って考察しろってんだ。
やれ誤字だとか、数を間違えてるとか、方角を書き間違えてるとか、
勝手に倭人伝を都合いいように改造するんじゃねー。バカタレが。
845 :
日本@名無史さん:02/02/12 17:59
でしょ?
吉野ヶ里が奴国である
846 :
日本@名無史さん:02/02/12 18:08
844と845は同一の西都バカ自作自演と思われ(藁)
じゃあ、吉野ケ里が奴国と言う証拠は?
あそうか、君の電波だね(warawara)
847 :
日本@名無史さん:02/02/12 19:41
おまえ、畿内に奴国があったなんてまさか言い出すんじゃないの?だとしたらアレだよ。藁
848 :
日本@名無史さん:02/02/12 19:44
>>847 誰に言ってるの??そんなこと誰も言ってないぜ
849 :
日本@名無史さん:02/02/12 19:49
もはやアズマが何言っても
あとの祭り
850 :
日本@名無史さん:02/02/12 20:33
『岩波日本史辞典』より
奴国
魏志倭人伝に伊都国から邪馬台国に向う途中に位置していたとある国。
1〜3世紀,現福岡県福岡市・春日市あたりに所在。
儺県・那の津・筑前国那珂郡などは遺称地名。57年,後漢に朝貢し印綬を
授けられた。2万余戸あり,官には馬觚と副の卑奴母離の存在が記されている。
須玖岡本遺跡は代表的な墳墓遺跡。
須玖岡本遺跡
福岡県春日市にある弥生時代の遺跡。
後漢書や魏志倭人伝にいう奴国なこくの中心部にあたる。
1899年に巨石下の合口甕棺から前漢鏡約30面,青銅利器,ガラス器など
多数の遺物が発見され,奴国王墓と考えられている。
1929年の京大,62年の福岡県教育委員会,86年以降の春日市教育委員会の調査でも,
王墓の西北で多数の甕棺墓と副葬品が発見され,90年には方形の墳丘墓が
確認された。本遺跡の周辺では弥生中期から後期の青銅器・ガラス器の
生産遺跡が多数発見され,青銅祭器の埋納も多い。
すでに837さんが書かれているとおり。ま、電波さんには届かないでしょうが。
851 :
日本@名無史さん:02/02/12 22:54
だからー、その墓に「奴国王の墓」とでも書いてあったのかって聞いてんの。
玄海灘沿岸で栄えたのなら大陸との交易があっても何の不思議も無い。
そしてそれが奴国であっても好古都であってもかまわんではないか。
ただね、「末ろ国」から東南へ500里が「伊都」それから東南へ100里が「奴国」
その通りにその時代の遺跡が出てきたら、それがそうだと考えるのが当たり前の話。
昔の考古はごろ合せで「大和=邪馬台国」という前提のもとに強引に畿内にもっていこうと
したから、そういう定説、常識を作ってしまったわけ。
その後新たな発掘がなされてるんだから、それなりに考え直してもいいんじゃない?
あくまでも倭人伝に沿ってね。(記紀や風土記も参考にして)
852 :
日本@名無史さん:02/02/12 23:14
そしたら西都原に着くんですよ。
853 :
日本@名無史さん:02/02/12 23:26
854 :
日本@名無史さん:02/02/12 23:27
と、強引にもっていくのだった。
855 :
日本@名無史さん:02/02/13 10:47
那の津ってあんた弥生時代は海の底だったんじゃねーの?
856 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:04
>>855 博多の砂丘上に弥生時代後期から古墳時代前期の大集落である博多遺跡群がある。また住吉神社には銅鉾が伝世されている(古い地形でも島状だった)。また博多の後背湿地を抜けると1キロ強で比恵・那珂遺跡群という弥生時代屈指の大遺跡群がある。
確かに当時は現在より海進があったが、今の等高線を何メートル機械的に引き下げた海岸線ではない。
あえて言えば5mぐらいの海抜が異なるが、これは平均値であり、実際の海はラグーンがあったり、砂丘があったり、河口の砂州があったりで相当入り組んでいた。
少なくとも855は無知。根拠のない妄想を言わないように。恥を知れ。
857 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:33
恥知らずなもんでゴメンヨー。
那の津ってのは現在の那珂川の河口じゃなかったのね。
住吉神社は博多駅の近くだよね。そのあたりも那の津って言ってたの?
砂丘大集落って何町あたりなの?教えて?
今度行ってみる。
858 :
日本@名無史さん:02/02/13 17:42
>>857 あなたは西都バカじゃないみたいね。
砂丘の上の大集落と言っても、今じゃ町中で分からんよ。一応、祇園町のあたり一帯の地下に当時の集落があるけど。
弥生や古墳前期の遺跡のある砂丘の上にまた砂の堆積があり、古代に官衙があり、11世紀以降は貿易の大拠点としての中世都市博多になるけど、何度も埋め立てして今の状況になってるから。今の地表下2m以上下で当時の集落が出てたのを見たことあるよ。
もちろん、想像で言ってるのでなく、何度もビルの立て替えで調査してるみたいだからその成果が報告去れてるよ。
あと、6世紀以降の話だけど、「那津屯倉」というのは比恵遺跡に比定されてるみたいよ。
「那の津」というのはあの辺の那珂川下流から河口の貿易の拠点になるような集落のある一帯を指した地名じゃないかな。
859 :
日本@名無史さん:02/02/13 19:03
俺は恥知らずの日向バカだよーん。
〇〇津という地名はほとんど例外無しに昔の河口に面しており、
海岸線が後退した後もその地(内陸)にとどまっている。
博多の那の津はありゃどうみても埋立地だ(時代は知らんが)。
要するに那の津は昔は海の底であり、新しい地名だということ。
那珂川という地名も何時のもんやらわからんね。
前原(怡土=伊都))もそうだけど那珂も強大な佐賀平野勢力の影響が
あったかもしれない。
領地は何十年、何百年も一定であるはずがないし、領主の移動とともに
地名がそっくり移動するってことも無いとはいえない。
少なくとも倭人伝上(卑弥呼の時代)では今の博多は奴国ではない。
860 :
日本@名無史さん:02/02/13 21:31
>>859 856ヲよく読め。あんたの言ってるの矛盾してるし、事実にも合わんよ。
文献上では那の津は飛鳥時代には確実にある。また記紀の記述上、那の津が今の福岡にないと他の地名との連関からおかしくなる(仲哀
、神功紀など)。
強大な佐賀平野勢力?奴国にも伊都国に勝てんよ。吉野ケ里のプロジェクトXのS田さんにに悪いけど。
だいたい佐賀が奴国と言う証拠はないよ。
ついでに「サイト」が確実に新しい地名なのにね。
本当にちゃんと証拠のアル古い地名を無視かよ。
仮定を何重にも重ねてるのは誰だよ。
そう言うのを厨房通り越してトンデモとか電波というのだよ。ワ カ ル !!
あんたの相手するのもホント疲れるよ。
ちなみに「津」というのは「河口」というより「港」の意味だろ。
日向バカ、西都バカは永遠に逝ってよし。
まあ、電波には電波しか届かないみたいだけどな。
861 :
日本@名無史さん:02/02/13 21:58
ハカタの語源。誰か知っとーや?
羽形、泊潟・・・・瀬戸内海にも伯方島とかあって関係あるらしいが。
862 :
日本@名無史さん:02/02/13 22:03
863 :
日本@名無史さん:02/02/13 23:15
>>856,860
おまえは人の疑問、質問をはぐらかす天才だな。まるで今のおとぼけ大臣だ。
誰が飛鳥時代の話をしてる?弥生時代の話をしてるんだよ。
弥生時代には那の津は海の底だったてのは、はっきりしてるじゃないか。
それとも弥生時代は海原に地名を付けてたっていうのかよ。
飛鳥時代では那の津1丁目あたりは陸になってたかも知れんがな。
物的証拠を出せといやあ、一般的な遺跡の話をするし、
那の津といやあ、住吉とか他の明らかに陸であった所の話をするし、
論点をずらして自分の都合の良いところだけ押し付けようとする。
誰も佐賀が奴国である証拠が有るとは言っていない。
倭人伝どうりに進めば奴国として佐賀平野に到達すると言ってるだけだ。
決して博多や春日市には行けない、つまり決して畿内には辿りつけない
と言ってるの。 お わ か り ?
おまえの脳みそは化石か?もっと柔軟に物事を考えられないの?
それが出来ないのなら、相手をしてくれなくてもいいから、
おとなしく ひ っ こ ん ど れ や!!
864 :
日本@名無史さん:02/02/14 00:28
>>863 倭人伝どおりに進むと佐賀平野どころか、その手前の對海・壱支・末盧にもたどり着けんが?
普通に行けば九州西方の海上をポチャポチャしてるだけだぜ。
レベル低。
867 :
日本@名無史さん:02/02/14 04:59
『国史大辞典』(吉川弘文館)より(節略)
博多
『続日本紀』天平宝字三年三月二十四日条に見える「博多大津」が初見。
博多の歴史は奴国から数えても約二千年に及ぶ。
古代・中世の博多は・外来文物の受容・摂取はもとより日本文物の移出を直接に担い、
他の地域に類のない国際性を持ち、東アジアへ向けての日本の顔であったといってよい。
宣化天皇元年、大和政権は那津のほとりに官家を修造し、諸国の屯倉から穀を運ばせて
非常に備えさせた。一種の対外的な兵站基地であったと見られる。福岡市南区の三宅や
博多区の比恵遺跡が比定されたりしている。奴国も那津官家も日本の対外関係の中で
みずからの形態を明らかにしており、これらに続く筑紫館ー鴻臚館も同様であり、
博多の都市的発展は古代ー中世と対外関係を媒介とするものであった。中央区西公園付近を
荒津というが、荒津の海に面した現在の平和台球場付近に鴻臚館はあったといわれる。
(867注、近年発掘によって確定した)
これは外国使節接待の迎賓館および関係官司で、日本から外国へ使いする者などの宿館である。
大宰府蕃客所に属し、約百年間存続する。つまり博多は大宰府の外港として機能したのである。
(以下略)
「奴国王の墓」なんて書いてあるわけがない。そんな物的証拠を求めているのなら
歴史学からは早々に手を引いた方がいい。当然期待に添うような成果は得られない。
別に歴史学に限らず学問は蓋然性である。複数の史料等の記述、あるいは物的資料が
出来る限り矛盾の無いような解釈に至るよう努力するしかない。その意味で、奴国や
那津官家、筑紫大宰のことを合わせ考えた場合、現在のところ上述のような蓋然性が
高いとされている。少なくともこれらを考慮することなく、あそこだここだと言って
みても意味がない。
868 :
日本@名無史さん:02/02/14 08:23
>>863 だから、博多に遺跡あるって
あんたはAFOか
あと、今の「那の津1丁目」とかはなるほど埋め立て地。でもそれは近世以降よ。
論点をずらしてるのはあんただよ。というか大バカ。
だいいち、その前の奈良時代の文献の那の津はどうなるのよ。いまの「那の津1丁目」が古代の「那の津」なんて
誰も言ってないジャン。
867氏の言うように、もとの那の津の地名は博多から比恵遺跡(駅南から那珂)のあたり。
あんたの話は時空が歪んでるよ。トンデモ系によくある話。
その那の津を含む福岡平野一帯が「奴国」とか「儺県」とされたのは常識。
869 :
日本@名無史さん:02/02/14 09:47
>>860,867
いやあ勉強になるわ。
大変お疲れなのに俺みたいなど素人につきあってくれてありがとよ。
すっこんどれって言うのは撤回しよう。
あんたレベル高いね?デンパとか逝ってよしとかいう2ch用語は似合わんよ。
博多が大陸との交易に重大な役割を果たしてきたというのは、いまさら
くどくど言われなくても十分承知。
それに神武東征以降の大和政権時代の繁栄をここで述べられてもな〜。
で、邪馬台国が畿内であって、強大な奴国があって、良好な那の津があって
どうして末ろ国(唐津と言われてる)に上陸する必要があったの?
そんなに昔から交易が有ったのになぜ方向記述が合わないの?
魏も倭も方向感覚が全く無かったとか、字を書き間違えたってのは無しにしようね。
俺は物的証拠を求めてるのではない。(各地の陵墓の発掘が進めば出てくるだろうけど)
倭人伝の内容を歪めてまでも、博多が倭人伝の奴国と言い張るからそういったまでだ。
>学問は蓋然性である。複数の史料等の記述、あるいは物的資料が
>出来る限り矛盾の無いような解釈に至るよう努力するしかない。
俺もそう思うよ。日向を前提としてどう進めば、倭人伝を歪めることなく辿り着ける
かを推測してるんだよ。その道程に弥生の遺跡があればより真実に近いといえる。
もちろん地名比定も大事だが、1000年、2000年も経た今ではそれが大きな根拠と言えるかどうか。
>>868 俺はその常識ってやつに挑戦してるのよ。
870 :
日本@名無史さん:02/02/14 12:30
>>869 要するに非常識なのね
物的証拠を放棄するなら弥生の遺跡もいらんだろ(藁)。言ってることが矛盾しとる。
大体、日向だってそりゃ弥生の遺跡はあるだろ。遺跡云々言った時点で、考古学は無視できんのよ。
まあ、無視してあんたの頭の中で電波飛ばすならそりゃそれで面白いけどな(藁)
大体、ここまでのレスを見ると、あんた倭人伝と手元の日本地図だけで適当にああだこうだ言ってるだけじゃん。無知丸出しだろうが。
問題は、女王の都する所に足りるべき質と規模の遺跡があるかどうかであって、ただあればいいわけじゃない。
あと倭人伝を本気でそのまま読んだら対馬から壱岐に行けないよ。南じゃなくて東南だぜ。
沈んだ島でもあるってか?(藁)
末ろから伊都(これは前原と認めてるらしいな)も東南じゃなくて東だぜ。
日向も南というより東南だろうが。だいいち投馬国をどこにするのよ。AFOくさ。
どっちにしたって倭人伝を一字一句そのまま読むことはできんのよ。
「里」の問題も未解決だしな。
トンデモ日向説の「末路」が見えたな(藁藁)
871 :
日本@名無史さん:02/02/14 13:21
>>870 あんた867かい?だから俺はど素人って言ってるだろが。
日向って大きんだよ。霧島山も宮崎もそうなんだよー。
真南じゃなくても南南東ぐらいだったら南っていうんだよー。
伊都は多久市の牟田辺遺跡あたりと思ってるのよね。
そして不彌は久留米近辺。
投馬は玉名から熊本と思いたいんだけど、いい遺跡出てる?
それが心配。
一応あんたの質問に答えてやったから869の質問に答えてくれないか?
人の揚げ足取りばっかりせずに為になることを教えてくれよ。
その点
>>867とかには論点の問題があっても為になってるなー。
850、867は別人だが、良識的な援護射撃をしてる人。
揚げ足取りは誰ですか。
ホントしろうと丸出しだね。
伊都国が糸島あたりでないという時点で終わってる。原田大六おじさんがいたら激怒して張りたおされるぞ。
まあ、原田大六のこといっても電波は知らないと思われ。
そりゃ、多久にも久留米にも玉名にも日向にも遺跡はあるがな。
それと倭人伝の記事(行程だけじゃないよ)と合うかは別。あんた、記紀等も参考にって書いたけど、ならば伊都国は伊覩県(前原市)だろうが。
いまさら説明するまでもないと思われ(藁)
ホント、地図上だけで適当につじつま合わせてるのが見え見えじゃん。何も調べてないよ。
何も調べないうちに、先に結論を決めつけて(あんたの場合は日向説)、そのあとむりやり電波を発信するようなやつらが次から次へと出てくるから邪馬台国論争は終わらないと言うことだね。
ちなみに、畿内説は喧々諤々の論争を江戸時代から経て生き残ってる訳で、さらに最近は考古学の成果から九州説の多かった文献屋も畿内説に転向するのが多い訳で。
だから、畿内説も先に結論ありきじゃねえか、という予想されるたわごとは当たらないのよ。
ちなみに、九州の遺跡の実態を知ってる九州の考古学者って、結構前から邪馬台国は畿内説の人が多いんだよね。
理由は、伊都国、奴国に匹敵する遺跡が筑紫平野やましてや宇佐や肥後や日向などにありそうもないから。
それと、卑弥呼が死んだ頃は、年代論的に古墳時代の頭になりそうだとすでに1960年代に気が着いてたから。これは中国鏡の年代からね。
年輪年代によって初めて年代が推定された訳じゃないんだよ。(その点、近畿の考古学者の一部はむしろおかしいところもあるが)。
卑弥呼の死んだ頃古墳時代に突入してたら、もう中心は畿内だしね。
オワカリ??
あと、日向って大きいだけだろ。だから何?大きいなら関東平野か北海道で決まりだね。(と、すでに誰か書き込んでたような)
それに投馬国が玉名か熊本なら、やはり西都は南東じゃねえの?自分で言ってることが矛盾してるよ。
オワカリ?倭人伝は理由は不明だが、方位や行程が絶対無謬じゃないってことよ。このことは対馬から壱岐でも言えるだろうよ。
末ロに上陸したのは経由地としてに過ぎんじゃないの?東松浦半島の呼子は壱岐からよく見えるしな。
ここから陸地が始まると言うことを強調しただけで、実際の行程は船で行ったことの方が多かっただろうよ。
それが証拠に、糸島半島の海岸沿いの弥生から古墳の集落には、韓国系や楽浪系の遺物がよく出るしな。
まあ、あんたがいかにホントにド素人で、何も調べてなくて、恥知らずで、電波系かっていうのがココに来れば分かるよ。
ttp://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/wwwbbs/wwwboard.html ここでは、素人だけど、ほとんどプロ顔負けの連中が年中論争してるから。
お勉強する気がもしあったら行ってみな。
873 :
日本@名無史さん:02/02/14 19:18
age
874 :
日本@名無史さん:02/02/14 20:00
卑弥呼が魏から貰ったって言う鏡が気になってます。
大事な鏡をぽこぽこ造るでしょうか?
三角縁神獣鏡とは想えません。怪しげな鏡が出るところが
気になります。画文帯神獣鏡など。近畿地方が気になっております。
875 :
日本@名無史さん:02/02/14 20:11
邪馬台国=ヤマタイ=ヤマト=大和
だろ!!
素直に考えろよ低農事ども! 馬鹿じゃね〜の?
邪馬台国は近畿を中心に西日本地方を支配して居たんだよ
876 :
日本@名無史さん:02/02/14 20:39
私は畿内説だが、
>>874,
>>875のような単純畿内至上主義者は低レベルと思われ
画文帯神獣鏡は、庄内式の時期にホントに分布図のものが全て輸入されたか疑問と思われ。
三角縁神獣鏡と一緒に後から入ったと思うのだが。
間違いのない庄内式の時期から出たのは萩原だけ。
ホケノはホントに庄内式か?布留0式の時期かもよ。それを庄内式新と言うならそうだが。
その布留0式を含めても、画文帯神獣鏡分布図のごくわずか。
この点にF永は触れず、銅鐸から画文帯へなどと適当なことを言っている。
そのような単純な畿内説には与しない。
「西日本を支配した」だと??「共立」という言葉を忘れてるぞ。
少なくとも古墳前期は相当な地域色があるのだが。
877 :
日本@名無史さん:02/02/14 21:38
>>876 俺も畿内説なんだが、アンタみたいな文章書く奴は好かんな。
多分N研あたりの穴堀さんだろうけど、鏡なんかで邪馬台国は見つからないよ。
このスレは、DQN&電波野郎どもが戯れるためのものだ。
狭い学会の中で虚栄を張り合う人たちのスレは他にあったじゃないか。
そっちに行きなよ。
878 :
日本@名無史さん:02/02/14 23:01
>>このスレは、DQN&電波野郎どもが戯れるためのものだ
そうだったね。はたから見てると面白いよ。こっちも電波飛ばしそうだよ。
まあ確かに876みたいなマジレスはここには似合わないな。
でもそのくせ、西都説の御仁なんかムキになってるし。
879 :
日本@名無史さん:02/02/14 23:04
>>877 DQNと電波と厨房で一生戯れておけ(WWWWWWWW)
「東日流外三郡誌」の記述が正しいのであれば、
邪馬台国は畿内である。
なんと言っても負けた側が書いた記事だからの。
日向勢力に負けたと書いてある。
神武天皇率いる勢力=日向勢力 と考えていいのでは?
そして串間市から出土した璧は神武所有のものと考えたい。
神武天皇の東征伝説はしゃれでもなく事実であるといえよう。
ヤマタイ=ヤマト=大和 素直に考えればこうなる。
大体中国語の発音では ト=タイ みたいな感じの言い方するぜ!!
神武が邪馬台国をのっとったから、九州か畿内かといわれたら、
魏志倭人伝の記載の頃は畿内だと言うほうが正しいかな。
881 :
日本@名無史さん:02/02/15 15:40
882 :
日本@名無史さん:02/02/15 15:47
、「末ろ国」から東南へ500里が「伊都」それから東南へ100里が「奴国」
>>もはや吉野ヶ里が奴国に決まりですね。
883 :
日本@名無史さん:02/02/15 16:17
理由は、伊都国、奴国に匹敵する遺跡が筑紫平野やましてや宇佐や肥後や日向などにありそうもないから。
>>吉野ヶ里って伊都国から東南100里30キロ歩いて2日じゃないの?
884 :
終了(結論):02/02/15 16:35
以前西都原の発掘調査の関係者の方の
「ぼやき」を聞いたことがあります。
「西都原の古墳を発掘するとね、朝鮮との関係、被葬者が朝鮮からの渡来民であるとしか
考えられないような物が出てくる。つまりは『天皇家のルーツは朝鮮にあり』って言ってるみたいな物だから、
西都原の本当に調査されなければいけないような古墳は発掘許可が下りない
138 :日本@名無史さん :01/11/11 16:24
”万世一系”という以上、これを否定する邪馬壱国の歴史、
あるいはそれを示唆するような資料は、当然抹殺されねばならない。
朝鮮総督府の朝鮮史編纂に関する昭和七年七月二十一日の
第六回委員会において、黒板勝美東大教授は、
「・・・鮮内各地名族旧家の秘蔵資料を借り入れ(略奪)、
その複本を作成(改竄)したものが、千三百五十余冊、
写真が二千七百余点である」と述べているが、
別の所では次のように記されている。
「大正十二年十月八日第一回委員会において定めた
朝鮮史編纂の大綱によって、人員と予算の許す範囲内に
おいて出張調査し・・・大正十五年十二月には更にこれを
一層強化し、全鮮各道は至らざるなく、更に内地・満州に
至るまで極力採取に努め、・・・
延べ日数は昭和十三年三月までに二千八百日、
蒐集資料は実に四千九百五十冊、写真四千五百十一枚、文記、
画像・扁額など四千五百十三点に達した」
委員会は更に、「・・・大正十二年七月、
黒板顧問が対馬に資料採訪を行ったとき、
朝鮮に関係ある文書古記録等が多数対州旧藩主宗伯爵家にあることを知り、
・・・古文書類六万六千四百六十九枚、古記録類三千五百七十六冊、
古地図三十四枚、古画類十八巻及び五十三枚を購入した」と述べている。
つまり黒板が焚書したと言う事なんだね。
こんな奴がいたから卑弥呼の墓に尻尾をつけて捏造したのさ。
885 :
畿内説に質問:02/02/15 17:01
記紀にわずかでも邪馬台国が大和にあったと思われるような記載ってあるの?
886 :
日本@名無史さん:02/02/15 17:46
聞く前に読むがいいだ。
887 :
日本@名無史さん :02/02/15 17:52
>>885 ないんじゃない。あったら邪馬台国論争なんてないよ。
>>884 >つまり黒板が焚書したと言う事なんだね。
長々とコピペしてくれたあげくに、何が何で「つまり」なんだか、さっぱりわからんのだが・・・
最低限、他人にわかるような文章だけをカキコしてね。
889 :
日本@名無史さん:02/02/15 20:15
他人にわかるような文章かけるレベルの人間が西都とか言ってるわけねーじゃん。
890 :
日本@名無史さん:02/02/15 20:30
別スレッドより大量コピぺ。長いですが、西都デンパがあまりにもうざいので皆様ご了承下さい。
それと、西都原の調査が妨害されているとか、成果が隠ぺいされているとか、まっかな嘘というのは前に書いた通り。
二つの陵墓も、むしろ宮内庁にしてはもっともオープンで、宮崎県教委に立ち入り表面調査を許し、宮崎県教委が精密な測量図を製作したのも前に書いた通り。
いいかげんな陰謀妄想はやめなさい。
行程記事をそのまま行くといかに荒唐無稽かわかりましたよ。
伊都国、奴国の位置がこれじゃね。地名比定さえもないんじゃね。
考古学的にも完全にDQN、ただのストーリーで根拠が全くないよね。
根拠が「○○と思う」からそうだって?そういうのは妄想と言うんだよ。
よくこんなふうに手を替え品を替えむりやり日向に持って来れるもんだと感心しました。
それと、投馬国=熊本なら、日向は東じゃねえのか?
あと、火山地帯特有の肥沃な平野っていうが、むしろ生産性は低いんじゃないのかな?
「戸数」を忠実にたどるなら、実際の遺跡群の分布を調べなさいって。
伊都国(糸島)、奴国(福岡平野)にまさる九州の地域はないんだよ。その次にすこしランクおとして吉野ケ里の佐賀平野がやっと来るかもしれないけど。
ちなみに、「畿内説」の年代観って、むしろ1960年代以降の九州の考古学者の年代観が元。
年輪年代は、後付けしただけ。問題は、そういう学史を無視して、年輪年代で全て分かった、初めて分かったと宣伝する
畿内の学者やマスコミが問題。
九州の考古学者は、意外に昔から九州説はあまりいない。
というのも、奴国や伊都国と少なくとも同じかそれ以上の遺跡群が筑紫平野やましてや南九州にないのを分かっているから。
ただし、畿内説を採っても、中山平次郎、原田大六、柳田康雄のように、邪馬台国北部九州勢力東遷成立説は一部に根強い。
ところで、このスレでの九州説の人の、年代観の根拠は何?
根拠は無いんじゃない?
891 :
日本@名無史さん:02/02/15 20:33
長いですが続きです。やはり別スレッドよりコピぺです。一部書き加えましたが、あまり編集してません。
ご了承ください。
それと、西都説信者に聴くけど、すぐ「黒坂による捏造」とか持ち出すけど、(大体、資料の調査、収集がなんで捏造になるのかな??)
むしろ、西都原(日向)に古い古墳があった方が、記紀を裏付けるから、そのほうが都合がいいはずだけど、こう皇国史観から言えばね。
前にも書いたけど、おさ穂塚、めさ穂塚は5世紀のものだよ。
3世紀と言う根拠、全くなしよ。
おさ穂塚を「前方後円墳に偽造」したなら、前方部の盛土が半端だね。
5世紀によくある帆立貝古墳としてもっとも矛盾が無い。
段築のあり方や、周堤のあり方もそうよ。
ちなみに西都原は、何度も言うように、最近またちゃんと調査されつつあるからね。
「陰謀」で調査が阻害されていると言うことは無いよ。
嘘と思ったら宮崎県教委に聴いてみな。
今、古そうな形態の柄鏡式前方後円墳をいくつか調査してるけど、
葺石の完備や段築のありかた、出土土器から言って、古いもので4世紀前半が限度だね。
もちろん、古墳の型式から言って、おさ穂、めさ穂塚はもっと新しい。
あっそうか、おさ穂塚を3世紀にしてもいいよ。
その代わり、箸墓古墳は2世紀初めくらいになっちゃうだろうね。
今の考古学的年代観を古すぎると批判するなら、おさ穂塚は5世紀後半ぐらいにしなきゃね。
もっとも、考古学的編年法(相対年代法、型式学)を何度講議しても、結論が先にある人には理解できないだろうしね。
というか理解したく無いから、荒らしに走るかな?
あるいは「ユダヤの陰謀」「フリーメーソンの」とかトンでも陰謀説を書くのかな?
最近の調査でも、朝鮮と関係ありそうなもの出てないんだけど、、、
そもそも、古墳時代でも日向は古墳は大きいだけで田舎だから、朝鮮系の遺物もともと少ないよ。
そんなこと言ったら、畿内(大和、河内)の天皇陵周辺の陪塚(特に5世紀の)から朝鮮系のものたくさん出てるよ。天皇陵本体は掘れないけど、主墳の内容も想像できるよ。
また、天皇陵指定から外れた畿内の大型古墳からも特に中〜後期古墳から朝鮮系が多く出るよ。
だから、やっぱり天皇家は朝鮮系ってか?それとも騎馬民族ってか?
:日本@名無史さん :02/01/13 22:54
>>南を東に読み替えたり、
末ろ国から伊都国、伊都国から奴国も東南なのに本当は東。方位はもともと倭人伝ではややおかしい。
九州説も水行陸行の日数解釈で苦労してるよね。だから行程記事ではどっちつかず。
>>年輪年代法で根拠なく畿内の古墳を最大100〜150年ずらしたり
じゃあ、最大100〜150年新しくする根拠はどこなのかな?ちなみに
>>418にあるように、年輪年代以前に、九州の考古学者がまともな年代論をしてたんだよ。
学史を知らないのがばれたね。
892 :
日本@名無史さん:02/02/15 20:37
続きの続きです。これでおしまいです。やはり別スレからのコピぺです
>>古墳の周りを柵で張り巡らしたり、
何のこと?陵墓指定の問題と(というより近代天皇制の問題)、邪馬台国畿内説の問題は別じゃあないの?
>>距離も九州の3倍くらい遠いし、
dakara、倭人伝の不確かな内容じゃあ、どっちでもありなのは認めるよ。
>>大和の東に海なんてないし
「其の東」を何の東にするかが問題。「邪馬台国の」東かどうか。同じ問題は狗奴国でも言える。
「倭国」連合のどっかの東、ぐらいじゃないの。例えば、伊勢湾でもいいし、九州説なら周防灘だろうけど、、、
邪馬台国=日向とすると、日向灘の東はずっと海なんだけど。この記事は邪馬台国の位置をきめる根拠にはどうかね?
>>日本書紀にも大和朝廷に関する記述なんて、日向に比べてほとんどないし、
神武以降はほとんど大和の記事なんだけど、、、安元みたいに神代=邪馬台国なら、あんたの言うこと分からんこともないけど、
でも神代のことが、本当に全部古い時代の話のストレートなものか、怪しいよね。その後の政治過程や地方政権の服属過程やあるいはくり返される古墳での儀礼がかなりミックスされていると思うけど。
例えば、横穴式石室がないと、黄泉の国の話は理解できないし。
政治的に意図的にかどうかはともかく、いろんな理由で、伝承がそのまま神話化されているのでなくて、複雑に変化変容、付加されたりして記紀に最終的に書かれたんじゃ無いの
>>トンデモなら大和に邪馬台国があった根拠の一つでも出してみろよ。
簡単です。3世紀に、墳墓にしても、鏡にしても、もっとも中心的な地域は大和です。
単に大きい都市的な大集落は、伊都国、奴国にもあって、まだこの時期侮れないのですが、
それらを一応統制してた邪馬台国は少なくともこの両国の遺跡に肩を並べる内容でないとね。
そうすると、可能性あるのは、大和、河内、備中(吉備)あたり。
中でも、纏向古墳群のある纏向遺跡が筆頭候補。
ちなみに俺自身は箸墓古墳は3世紀後半と思うので、卑弥呼じゃ無いと思うけど(トヨ?)、3世紀前半にその前提となる
遺跡群が作られつつあったと思うよ。
伊都国、奴国を統制できるような内容の遺跡が南九州や他の九州内にある可能性は、まあかなり小さいでしょうね。
私の考えは寺沢薫『王権誕生』に近いけど。
でも畿内説が、箸墓伝承に頼ってるというのはどうかな。
箸墓古墳を卑弥呼の墓としない畿内説もあるよ。
>>435をよく読んで。
神話の話がなんで邪馬台国の位置に直結するのか不明ね。
あと、畿内に中心があっても、「連合」の程度が問題だから、そんな広い範囲あるわけない、と決めてかかるのはどうかな?
古墳の分布の仕方や、鏡や石製品の分布の仕方をどう解釈しますか?
あと、伊都国、奴国を抑えられそうな、ひいき目に見ても、がんばって肩を並べられそうな3世紀の遺跡群が
九州のどこにあるんでしょうか?あったら教えて欲しいぐらいなんだけど。
漏れも九州出身なので、畿内に邪馬台国持っていかれるのホントはイヤなんだけど、
冷静に考古学的証拠を積み上げるとそうなるのよね。
ただ、ある種の東遷説(邪馬台国成立前)はあるかもと思ってるけど。
そうすれば、3世紀前半まで親元の北部九州にも力があり(ただし中心は玄界灘沿岸、これは考古学的にも根拠がある)、
少しずつ力関係が遷移して、3世紀半ばに畿内邪馬台国が親元の国々を押さえるために一大率を置き(逆に言うと、相当恐れている)、
箸墓古墳の築造後(3世紀後半から末と思うのですが)、完全に力関係が決まったと言うことでは無いでしょうか。
でも、九州(日向以外)の舞台の神話ってどれぐらいあるの?
安元みたいに高天原というのかな?
仮にそうだとしても、邪馬台国かどうかは別問題。
あと、
>>467さんは、>西都だって築造年代の割にはニニギノミコトの墓になってるし
これはオサ穂塚が本当は新しい(5世紀)だけど、ニニギの墓と伝承されている、だから、何か古い時代の中心が日向にあったということの伝承だ、という意味ですか?
それならそれでもいいけど、3世紀前後の古墳や遺跡でものを言おうよ。
日向の都市的集落遺跡はどこですか?
絶対無いとは言いません。しかし、それを予想される集落遺跡は無いです、今のところ
住居址など遺構の切り合いも少ない遺跡が多いし、あまり濃密な人口がいたとは思えない
畿内のトップの集落の質は全く別物。纏向にしても、中河内の集落群にしてもね。
893 :
日本@名無史さん:02/02/15 20:46
890〜892
>>だから、クソコビベもうあき秋田。
894 :
日本@名無史さん:02/02/15 21:01
まあ890〜892のコピぺも確かにクドイけど、もともと同じ内容のコピぺをやってるのは西都バカの方だからなあ。
しかも西都バカの場合は、一回反論されてどうしようもないものを、また同じ内容で持ち出すからな。
クソコピぺという点では西都バカの方が上だな。
まあ、伊都国と奴国の位置はどうシヨウモなくDQNだよね。
次の文献を読んでみてよみなさん。倭人伝の伊都国、奴国の比定は間違いないから。
『奴国の首都 須玖岡本遺跡』春日市教育委員会編 吉川弘文館
『倭人伝の国々』小田富士雄編 学生社
『伊都国を掘る』柳田康雄 大和書房
このあたりは最近の書物だけど、この前古本屋で面白いの見つけたよ。
『邪馬台国論争』原田大六 三一書房 (絶板みたい)
この本は、いろんなDQNなトンデモ邪馬台国説を考古学から痛快に批判していて為になるぜ。
もっともこのおっさんも晩年は神話に没頭してトンデモになっちゃったみたいだが。
そうそう、少しだけだけど日向説も批判されてたな。もっとも九州説もだいたい批判されてるけど。
でも、吉野ケ里の調査とかみると、筑紫平野にはまだ何か眠ってそうな気がするけどなあ。だめなのかなあ。
筑後山門説とか御井(久留米)説って最近はどうなの?久留米とか八女とか大きい遺跡ないのかな?
895 :
さてと突っ込ませてもらうかな!:02/02/15 21:17
1、それと、西都原の調査が妨害されているとか、成果が隠ぺいされているとか、まっかな嘘というのは前に書いた通り。
二つの陵墓も、むしろ宮内庁にしてはもっともオープン
>>どーしゅて古墳の周りに柵張り巡らして立ち入り禁止にするのかな。
(学者が古墳の内部を調査すれば解決ですね。)
2、行程記事をそのまま行くといかに荒唐無稽かわかりましたよ。
伊都国、奴国の位置がこれじゃね。地名比定さえもないんじゃね
>>だから伊都国から東南100里で奴国でしょう。歩いて30キロ2日。
吉野ヶ里で十分。
伊都国から水行10日で熊本(玉名)そこから歩いて(大分県経由)西都原まで17日。
つまり水行10日陸行1月とは伊都国から10日(南へ)で熊本の玉名。そこから歩いて西都まで17日。
伊都国から西都まで1月(27日)かかると言う意味。これガイシュツ。どんなにがんばっても畿内までいけないのね。
3、投馬国=熊本なら、日向は東じゃねえのか?
>>意味不明。伊都国から素直に南へ水行20日なので、熊本県の人吉盆地から鹿児島県吉松町永山遺跡まで。
そう、熊襲のクマの方でしょう。5万戸ということは魏志倭人伝に記載されてる国の中で2番目に人口が多いところでしょう。
(もちろん邪馬台国7万戸は九州で一番規模のでかい古墳群遺跡跡でなければ矛盾しますね。よって弥生時代一番人口密度の高かった
日向地方が邪馬台国でそれほどトンデモ説か?)「戸数」を忠実にたどるなら、実際の遺跡群の分布を調べなさいって。
4、奴国や伊都国と少なくとも同じかそれ以上の遺跡群が筑紫平野やましてや南九州にないのを分かっているから
>>だから佐賀県に吉野ヶ里もあるし、何度かコビベしたはずで西都原古墳群は古墳の数が300基以上確認されてるんですけど。。。
(九州最大規模の遺跡)
5、西都原の古墳を発掘するとね、朝鮮との関係、被葬者が朝鮮からの渡来民であるとしか
考えられないような物が出てくる。つまりは『天皇家のルーツは朝鮮にあり』って言ってるみたいな物だから、
=むしろ、西都原(日向)に古い古墳があった方が、記紀を裏付けるから、そのほうが都合がいいはずだけど、こう皇国史観から言えばね。
>>やはり都合わるいでちゅー。
896 :
日本@名無史さん:02/02/15 21:27
まだ分からんらしいので、今一度別スレッどよりコピぺ
>発掘させてくれないんだよね。
これ、嘘です。男挾穂塚と女狭穂塚は宮内庁指定陵墓だからまあ、今の天皇制の元では仕方ないとして、
宮崎県教委で何基かここ10年ぐらいで掘ってます。(史跡整備のための確認調査)
確認調査ですから、主体部(埋葬施設)は後回しで今は掘ってませんが(外形確認)、時期を決める土器も出てますし、流れから行けばそのうちどれかを掘るでしょう。
また6世紀末の大型円墳の鬼の窟古墳についてはは石室も調査され、整備されてます。
また、二つ陵墓にしても、宮内庁が最近、宮崎県教委に立ち入りを許し、外面観察と精密な再測量をしています。
その結果、男挾穂塚は帆立貝形の円墳(造出付き円墳)の可能性が高くなったようです。
帆立貝なら、4世紀末以降です。
女狭穂塚は、かなり埴輪(円筒埴輪)が今まで出土し、報告もされています。陪塚の169号や171号も同様に埴輪が出ています(形象埴輪もある)。
その型式観から、5世紀前半前後。
男狭穂塚も、まだ数少ないながら女狭穂塚とは少し異なるタイプの円筒埴輪が表採、報告されてます。
女狭穂塚を前後する時期(少し前の4世紀末と見るか、少し後の5世紀半ばと見るか見解は二つに一つ。)
訳の分からん年代観はやめにしましょうや。
また、根拠のない、事実と異なる、「陰謀論」や「隠蔽論」もやめましょう。
宮内庁も、最近はすこしづつオープンになりつつあります。
少なくとも、研究者なら、遺物を見せてくれますし、一部学会に陵墓立ち入りも認めつつあります(まだ限定的だが)。
>>よって弥生時代一番人口密度の高かった日向地方
(藁)根拠無し、逝ってよし
熊本が投馬国なら「女王国以北」云々一大率の記事が解けない。
それと、大和には、投馬国(水行20日で来た。出雲か吉備か。多分、出雲?)のあと水行10日、陸行1月だから、届かない、と言うことはない。
>>どーしゅて古墳の周りに柵張り巡らして立ち入り禁止にするのかな。
(学者が古墳の内部を調査すれば解決ですね。)
邪馬台国云々ではなく、天皇制の体質の問題だろ!!AFOか
西都原が最大の古墳群とは言えん。あんた古市や百舌鳥古墳群、佐紀古墳群に行ったことあるンか?
それに邪馬台国とは全然関係ない時期。しかも「古墳群」ッて言ったて、一時期で広いわけじゃない。長期間累積した姿だろうが。
897 :
日本@名無史さん:02/02/15 21:34
>>895 水行と陸行合わせて1月というのは新解釈だな。デも、誰も信用しないな。というか、こじつけだろ(藁)
だいたい水行が十日、陸行が1月と言ってるんだろうが。どこにも合わせて1月とは書いてない。
あと、伊都国が多久市あたりと言ったな。西都は地図で測るとやはり南東だぜ。南南東にもならん。言ってることがホンマニいい加減であることがよく分かったよ。
898 :
さてと突っ込ませてもらうかな!:02/02/15 21:54
6、前にも書いたけど、おさ穂塚、めさ穂塚は5世紀のものだよ。
3世紀と言う根拠、全くなしよ。
>>じゃあ、あんたが3世紀のものではない根拠説明してごらん。
=同時に箸墓が一番古い3世紀の墓というだけでそれ以外に邪馬台国が畿内にあった
という根拠もね。
7、箸墓古墳は2世紀初めくらいになっちゃうだろうね。
>>前方後円墳が2世紀はじめだって(激藁)
8、最近の調査でも、朝鮮と関係ありそうなもの出てないんだけど、、、
>>でてるけど公に公開しないだけですけど。(いいなあ、お偉いさんはモノかくして)
9、天皇陵本体は掘れないけど、
>>あ〜あ自爆しましたね。(藁)(やっぱりそうなんだね)
10、伊都国から奴国も東南なのに本当は東。
>>アンタのいうとおり。だけど南を東に読みかえたらデンパ!
11、>>距離も九州の3倍くらい遠いし、
dakara、倭人伝の不確かな内容じゃあ、どっちでもありなのは認めるよ。
>>だから、北九州説なら朝鮮半島に近すぎるし畿内説では距離が3倍になるんだと
みんな認めているジャン。だから、何度もいうように南九州説!
12、「其の東」を何の東にするかが問題。「邪馬台国の」東かどうか=
邪馬台国=日向とすると、日向灘の東はずっと海なんだけど(また自爆しちゃいました。(大藁))
13、政治的に意図的にかどうかはともかく、いろんな理由で、伝承がそのまま神話化されているのでなくて、
複雑に変化変容、付加されたりして記紀に最終的に書かれたんじゃ無いの
>>ドキュウヨ君のクセに日本書紀を否定するなよ。>>だったら信頼のおける古史古伝でも読み比べたら。
(あっ!古史古伝はデンパだそうだね。記紀も考証に値しない史書なら畿内信者は比定する
資料もなければ根拠すらも説明できないわな)(わら)
14、大和、河内、
>>だから大和もね河内もね港がないの。海もないの。トウジの東が(福建省)クナ国というレスあったけど
となるとクナ国って沖縄じゃないの?どう考えても畿内にならないでしょう。
15、伊都国、奴国を統制できるような内容の遺跡が南九州や他の九州内にある可能性は、まあかなり小さいでしょうね
>>だから、九州で最大規模の遺跡が西都で九州で一番大きな古墳がオサホとメサホと何度書かせる。
(墓が大きいということはそれだけ王族の権力が大きかった事の何よりの証拠)=
もともと同じ内容のコピぺをやってるのは西都バカの方だからなあ。
しかも西都バカの場合は、一回反論されてどうしようもないものを、また同じ内容で持ち出すからな。
→何度も同じこと言わせるなって。こういうアホがいるからアホには同じことを何度も書いて教えてあげないと(藁)
899 :
さてと突っ込ませてもらうかな!:02/02/15 22:04
>>よって弥生時代一番人口密度の高かった日向地方
(藁)根拠無し、逝ってよし
だ か ら
根拠は日向地方(西都を中心とする地域)に古墳が集中的に300基以上
確認されてるだろ。
同じこと何度も書かせるほうが悪い。
900 :
日本@名無史さん:02/02/15 22:35
西都bakaが頑張れば頑張るほど九州説の栄光が穢れていく。
901 :
日本@名無史さん:02/02/15 23:03
>>6、前にも書いたけど、おさ穂塚、めさ穂塚は5世紀のものだよ。
3世紀と言う根拠、全くなしよ。
>>じゃあ、あんたが3世紀のものではない根拠説明してごらん
何度も説明してるよ。よく文を読めよ。ゴルァアア!
>>7、箸墓古墳は2世紀初めくらいになっちゃうだろうね。
>>前方後円墳が2世紀はじめだって(激藁)
前後の文脈を読めよ。オサホが3世紀にすれば、という話よ。激藁したなら、それはオサホが3世紀だと激藁という意味よ。自爆はあんた。
(藁藁)あとね、私は箸墓古墳を卑弥呼の墓とは一言も言ってない。3世紀後半でいい。
別に箸墓古墳の前にすでに畿内に中枢はできつつあるのよ。
>>8、最近の調査でも、朝鮮と関係ありそうなもの出てないんだけど、、、
>>でてるけど公に公開しないだけですけど。(いいなあ、お偉いさんはモノかくして)
どこにだよ?(藁)デンパを受信して見えたのかい?(藁藁)発掘できないと言ってることと矛盾してるぞ。
それに、宮内庁は遺物公開してますので、あしからず。ついでに、陵墓指定から漏れた畿内の大王墓級古墳はすでに発掘されまくってるので。
内容もかなり判明してます。中期以降の古墳はなるほど朝鮮系の遺物多いよ。だから何??
騎馬民族説デンパでも発信するんかいな
>>9、天皇陵本体は掘れないけど、
>>あ〜あ自爆しましたね。(藁)(やっぱりそうなんだね)
だ か ら 、それは邪馬台国問題ではなく政治的な天皇制問題だろうが。
それに上にも書いたように、天皇陵の内容って、今までの盗掘品から一部判明してるし、他の大王墓級の古墳の遺物などから予想できるのよ。
あんた、ホントに何にも知らないんだな。
902 :
日本@名無史さん:02/02/15 23:06
>>12、「其の東」を何の東にするかが問題。「邪馬台国の」東かどうか=
邪馬台国=日向とすると、日向灘の東はずっと海なんだけど(また自爆しちゃいました。(大藁))
あんた倭人伝をもう一度読めよ。海の向うに倭種の国があろうが。ずっと海だと認めるなら、それこそ自爆。
それとも「倭種の国」はハワイかアメリカとでも言うのかな(激激藁藁)
だ か ら
>> 根拠は日向地方(西都を中心とする地域)に古墳が集中的に300基以上
確認されてるだろ。
同じこと何度も書かせるほうが悪い。
古墳群は4〜6世紀、邪馬台国の3世紀とは直接関係無し。3世紀の遺跡で勝負しなさいよ。オサホが3世紀ってのは無しよ。ボウヤ。
それに古墳の数だけなら群馬県が一番多いぞ。よって邪馬台国は毛野に決定!てか??(藁藁)
>>13、政治的に意図的にかどうかはともかく、いろんな理由で、伝承がそのまま神話化されているのでなくて、
複雑に変化変容、付加されたりして記紀に最終的に書かれたんじゃ無いの
>>ドキュウヨ君のクセに日本書紀を否定するなよ。>>だったら信頼のおける古史古伝でも読み比べたら。
(あっ!古史古伝はデンパだそうだね。記紀も考証に値しない史書なら畿内信者は比定する
資料もなければ根拠すらも説明できないわな)(わら)
あのね、漏れは左翼よ。それが何か。
古史古伝?ああ、近代以降の新史新伝ね。(藁)それが何か。
>>14、大和、河内、
>>だから大和もね河内もね港がないの。海もないの。トウジの東が(福建省)クナ国というレスあったけど
となるとクナ国って沖縄じゃないの?どう考えても畿内にならないでしょう。
河内には難波津が古来あります。さらに弥生時代は河内潟というおおきな入海が今の平野部に入り、その沿岸沿いに大きな弥生遺跡が発掘されています。
これらは港としての拠点集落でしょう。まあ、大和は内陸ですが。でも、大和川水運はかなり古くからり利用されてますので。
それに、倭人伝では途中から陸行ですから問題ないですね。
>>15、伊都国、奴国を統制できるような内容の遺跡が南九州や他の九州内にある可能性は、まあかなり小さいでしょうね
>>だから、九州で最大規模の遺跡が西都で九州で一番大きな古墳がオサホとメサホと何度書かせる。
(墓が大きいということはそれだけ王族の権力が大きかった事の何よりの証拠)=
もともと同じ内容のコピぺをやってるのは西都バカの方だからなあ。
しかも西都バカの場合は、一回反論されてどうしようもないものを、また同じ内容で持ち出すからな。
→何度も同じこと言わせるなって。こういうアホがいるからアホには同じことを何度も書いて教えてあげないと(藁)
あのね、AFOはあんた。西都原の大型古墳は4〜5世紀。その頃は畿内にもっとでかいのあるよ。
>>→何度も同じこと言わせるなって。こういうアホがいるからアホには同じことを何度も書いて教えてあげないと(藁)
禿同。それって自分に言ってるんだロ。(激藁)
>>900 西都bakaが頑張れば頑張るほど九州説の栄光が穢れていく。
ホントにそうです。禿同。学史上のマトモな九州説まで穢してしまいますよね。
誰か、九州説の方で西都バカを諭してやってくださいな。
903 :
日本@名無史さん:02/02/15 23:08
落合莞爾氏は街道関係者だよ。GK君。
>>899 質問その1 弥生時代と古墳時代のに対するあなた自身の区分方法を説明せよ
質問その2 西都原古墳群の古墳1基あたりの密度(古墳数÷古墳群の推定面積)を求めよ。
質問その3 南九州系地下式横穴墓と西都原古墳群の成立について述べよ
質問その4 次の倭人伝路程図の各地点に対応する現行地名を答えよ。
狗邪韓國 對海國 一大國 末盧國 伊都國 奴國 不彌國 投馬國
905 :
日本@名無史さん:02/02/15 23:16
>>だから大和もね河内もね港がないの。海もないの。
大和はともかく、河内に海がないだと?氷河期か、3世紀は(藁)
906 :
日本@名無史さん:02/02/15 23:41
>>905 757年の和泉分国後の河内は確かに内陸国だ。注意して言葉は使わないと揚げ足を取られることになる。
>>901 それは邪馬台国問題ではなく政治的な天皇制問題だろうが
>>そうだよ、この問題の本質は天皇制の政治的な問題なんだよ。ようやくキチがきずいたようやね(藁)
あとは、神武と卑弥呼がちょんから来た事を認めて西都原を公開するのみ。
自問自答は見苦しいよ(わら
909 :
日本@名無史さん:02/02/16 01:57
>>902 しかも西都バカの場合は、一回反論されてどうしようもないものを、
また同じ内容で持ち出すからな
>>コビベのコビベは正直見苦しいよ(輪あら
>>14、大和、河内、
>>だから大和もね河内もね港がないの。海もないの。トウジの東が(福建省)クナ国というレスあったけど
となるとクナ国って沖縄じゃないの?どう考えても畿内にならないでしょう。
河内には難波津が古来あります。さらに弥生時代は河内潟というおおきな入海が今の平野部に入り、その沿岸沿いに大きな弥生遺跡が発掘されています。
これらは港としての拠点集落でしょう。まあ、大和は内陸ですが。でも、大和川水運はかなり古くからり利用されてますので。
それに、倭人伝では途中から陸行ですから問題ないですね。
>>邪馬台国の東に海があるのに西の難波津から船に乗るんだね(ププッ
911 :
日本@名無史さん:02/02/16 10:34
>>910 意味不明。行程の水行の話をしただけ。「其の東千里」の「其の」は邪馬台国なのか、あるいは後漢書にあるように古い史料の九州までの倭国の
ことかが問題。後者なら問題ない。前者の場合、伊勢湾とも解釈できる。
>>906 この文脈での「河内」は後の、河内と呼ばれた地域ということであり、問題ない。問題のやよい時代から古墳時代前期は河内潟がある。
>>>>そうだよ、この問題の本質は天皇制の政治的な問題なんだよ。ようやくキチがきずいたようやね(藁)
あとは、神武と卑弥呼がちょんから来た事を認めて西都原を公開するのみ。
論理がブッ飛んでいる。神武(その実在性の薄ささえ問題にしてないのが論外だが)や卑弥呼が半島起源である証拠が全くない。
「終了」しているのは西都バカの頭のほうだろ。
西都バカは肝心な問題に全く答えていない。
904の質問に答えてみな。(これは漏れじゃないよ)
あと、オサホが3世紀と言う根拠は。「径百余歩」だから。って言うのは無しよ。
考古学的には証拠ないもんね。ていうか、西都バカは考古学ヲ知らないし。遺跡云々言うなら、考古学にゆだねるべき。
考古学を無視するなら、遺跡の有る無しを無視して、単にデンパを発信すればよし。
まあ、いずれにしても逝ってよしだな。
912 :
日本@名無史さん:02/02/16 12:14
913 :
日本@名無史さん:02/02/16 12:22
西都bakaにマトモに論争しても無意味と思われ。
デンパにはデンパで臨むべきだな。
誰か木村鷹太郎をイタコキボンヌ。
914 :
日本@名無史さん:02/02/16 12:35
>>913 西都くんはネタもしくはマジデムパなんだから反応するのが間違い。
放置。
すると彼は構って貰えず寂しくて悲しくなって死にます。
915 :
日本@名無史さん:02/02/16 16:08
>>914 西都クン萌〜〜!な私は、彼が死んでしまったら寂しくて悲しくて死んでしまいます。
だから、彼が死んじゃわないようにみんなでかまってあげてくださいよぉ。
>>911 オイ!お前、アホやろ。ワイのレスと自分のレスをもう一度読み返して見れ!!
917 :
日本@名無史さん:02/02/16 16:20
>>916 後の「河内」地域の弥生時代には海が入り込んでいるのだから、問題ないだろ?
それとも何か問題が?
弥生時代に「畿内」がないのに「畿内地域」という言葉を使うのと同じでは。
「揚げ足取られることになる」と言って自分で揚げ足をとってもねえ。
何かおかしいですか??
念のため、和泉分国後の「河内」に当たる地域の方に「河内潟」が入っていますので。
それにそのレスは、河内には(邪馬台国当時)港も海もない、と言ったので、それに対するレスなので。誤解なさらないよう。
まさか916さんは西都信者その人でもないでしょうし、そのシンパでもないでしょう?
何か問題ありますか?
あれ、邪馬台国の東に海があるのは伊勢湾の事だと抜かした誰かさんはどこに逝ったのでしょうかねえ
920 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:16
西都クンに質問!
ネタ(シャレ)でやっているのですか?
それともマジで西都=邪馬台国と信じてるのですか?
もう一つ質問!
基地外鹿島昇の言うことを全部信じてるのですか??もしかして本人だったりして。
921 :
まあ、南を東に読みかえるれべるだもんな(藁:02/02/16 18:19
後の「河内」地域の弥生時代には海が入り込んでいるのだから、問題ないだろ?
それとも何か問題が?
弥生時代に「畿内」がないのに「畿内地域」という言葉を使うのと同じでは。
「揚げ足取られることになる」と言って自分で揚げ足をとってもねえ。
何かおかしいですか??
>>何かおかしいです。
邪馬台国のヒ・ガ・シに海がある。という記載の根拠の説明になってない。
922 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:20
西都クンに質問!
日向の東の千里向うの倭種の国ってどこですか??
923 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:21
女優に卑弥呼ってやつがいたな。
924 :
まあ、南を東に読みかえるれべるだもんな(藁:02/02/16 18:27
朝鮮半島からきた船が水行で河内の港に到着した事まで100万歩譲ってやるよ。
そこから(河内の港)歩いて陸行一月で畿内に行くとしたら???
牛歩で行くのかなあ??(牛にすらバカにされるよ。牛だってこんなにのろまじゃないとね)
>>妄想大好きだねえ(藁)
925 :
しかし人間ってこうも粘着質になれるもんか?:02/02/16 18:31
>>911 もしネタでなかったら、
あの「落合莞爾」氏が出てきたということは、
畿内バカは普段から日常的にああいう差別発言をしているんろうね。
それがどんな事になるか、という事まで考えないでさ。
今後、誰かさんたちから、訴えられようと、糾弾されようと、
それは自分の身から出たサビだと、諦めておきなさいね。
橋本龍太郎氏を頼っても、「自業自得」って言われて追い払われるだけだよ。
926 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:31
>>921 はい、南を東に代えれば、ほとんど他は問題ない。
方位にこだわって無理するのが九州説。
>>邪馬台国のヒ・ガ・シに海がある。という記載の根拠の説明になってない。
東の海渡って千里で倭種の国云々については、二通りの説を書きましたが。それが何か。
何度も言うけど、倭人伝を一字一句矛盾無く比定できる場所は無い。
倭人伝と、当時の考古学的状況からもっとも蓋然性の高いのを探ると、結局畿内が最有力と言う話。
まあ、日向にすると、蓋然性がほとんどないと言うことです。
まあ、2chで学問的思考を(特にサイト信者)に求めても無理みたいですが。
あのね、そのレスは、河内に海も港も無いと言ったから反論したまで。それ以外の意味は無い。ホント、文脈分からん人だねアンタハ
大体ね、東の「倭種の国」っていった
初めて、日本板にお邪魔しましたが、
ヤマトって最悪の荒氏ですね。
928 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:40
あんたも揚げ足取りしかできない厨房だねえ
河内には海と港があると言ったまでだろ。
投馬国がもし吉備なら、水行10日または陸行1月で大和でしょう(大和川経由で纏向に行ける。纏向大溝は運河として機能したといわれる。)
投馬国が出雲なら、この場合は丹後まで水行10日で、その後陸行1月ということでしょう。
投馬国の位置が問題だが、倭人伝の材料からでは決められないのが本音。
むりやり決めるから混乱のもと。奴国までほとんど間違い無いのとは大違いなので。
それと「落合カンジ」っていったいなんだよ。そんな畿内バカ(??)と一緒にすんなよ。それともただの荒らしかよ。
基地外鹿島昇の言うことを全部信じてるのですか?
>>史学界も考古学会も生存中である師匠の研究に異議を唱え
ることが出来ない不自 由な研究環境と聞いている。順当にいけば褒賞
を貰える可能性がある
学者なら、この手の危険なテーマをあえて選ばないでしょう。
だから御用史学だけ無闇にありがたがるのも問題ですよ。
必ずしも鹿島氏が正しいとはかぎりませんが。
930 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:46
>>929
意味不明。史学界も考古学界も案外激しく論争してるよ。鹿島のはあまりにもトンデモだからみんな相手に市内だけ。
>>必ずしも鹿島氏が正しいとはかぎりませんが。
鹿島の言ってることで正しいことなんてあるのかよ(藁WWWWW)
>>927
「917」と称しているのは偽者。騙りにつき注意。>>初めて、日本板にお邪魔しましたが、
嘘コケ、ゴルァアアア!!!そういう騙りをするのを本当のアラシと言うんだよ。
931 :
日本@名無史さん:02/02/16 18:58
>>925 言ってることが関係ないだろ。そういう荒らしはダメよ。落合云々って畿内野郎が言ってるわけじゃないだろ。
というか西都バカの自作自演の荒らし(陥れる罠)なんだろうけど。
畿内説じゃねえのに、畿内説と自称して(騙って)揚げ足取るのはやめた方がいいんじゃねえのか
>>910,
>>919の西都オタ君よ
932 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:00
質問に答えられず、形勢が不利と悟るとアラシに走るサイトクンであった、、、、
933 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:11
デムパ西都バカも、言ってることは妥当だが粘着質な畿内説オタクも、ヒッキーである点は同じと思われ。
934 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:15
935 :
>>933:02/02/16 19:17
分かりました。西都バカと一緒にされてはたまらんので、ここらで休戦します。
西都の煽りや騙りにレスするだけ無駄で、かつ板が荒らされるということが分かりましたので、しばらくロムに入ります。
途中で援護してくれた何人かの方にはお礼申し上げます。
936 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:18
畿内説って根拠もないのに揚げ足鳥はお上手だね。しかし揚げ足取ればとるほど日向説の説得力
が増す事にきずいてないんだね(藁
937 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:22
>>936 どこがだよ?(藁)畿内説屋が休戦したとたんにまた適当なこと言ってるね。
畿内説屋の質問に答えてないのにね。日向説はデムパとして最強だね。
938 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:24
>それに、宮内庁は遺物公開してますので、あしからず。ついでに、陵墓指定から漏れた畿内の大王墓級古墳はすでに発掘されまくってるので。
内容もかなり判明してます。中期以降の古墳はなるほど朝鮮系の遺物多いよ。だから何?
長々とコピペしてくれたあげくに、何が何で「朝鮮系の遺物多いよ。だから何?」だよ。なんだか、
さっぱりわからんのだが・・・
最低限、他人にわかるような文章だけをカキコしてね。
939 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:26
先ずは、畿内説に不利な点は、
1 記紀伝承の根幹として、大和朝廷の九州建国、東遷、東征説話等は無視できない。
2 邪馬台国のベースとなりうるような弥生期以前の遺跡等は九州に多く、畿内大和ではかなり貧弱である。
3 地理的に朝鮮半島に近く有利。
。
有利点はまだまだたくさんありますけどね。
940 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:27
>>938
そうかあ?神武や卑弥呼がチョンだからどうのと言うのに対するレスだろ。
その皮肉のわからない方が低レベルと思うけど。どうよ?
941 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:28
レスを付ける時はレスを全部読んでからにしましょう。
既出の話題をむしかえすと、議論の妨げになります。
荒らし・煽り・厨房は『完全無視』+削除依頼しましょう。
煽りにはsageでもレスしないこと。無視できない貴方も厨房です。
以前西都原の発掘調査の関係者の方の
「ぼやき」を聞いたことがあります。
「西都原の古墳を発掘するとね、朝鮮との関係、被葬者が朝鮮からの渡来民であるとしか
考えられないような物が出てくる。つまりは『天皇家のルーツは朝鮮にあり』って言ってるみたいな物だから、
西都原の本当に調査されなければいけないような古墳は発掘許可が下りない
だから、同じこと何度もいうけどさあ↑を認めてしまったら畿内信者は存在価値なくなるだろ。
九州の方が朝鮮半島に近いんだからさ。
943 :
宮崎県文化財担当者:02/02/16 19:34
>>942 休戦した畿内屋がそれは事実と違うと言ってますが。
それに誰がそんなことぼやいたのよ?少なくともそんな話漏れは聞いたことないよ
944 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:38
分かりました。西都バカと一緒にされてはたまらんので、ここらで休戦します。
西都の煽りや騙りにレスするだけ無駄で、かつ板が荒らされるということが分かりましたので、しばらくロムに入ります。
途中で援護してくれた何人かの方にはお礼申し上げます。
>>あのさあ、何度も同じこと書かせるほうが悪いし、煽っているのは畿内説君のほうで
ただ、オレは根拠を示してやってるだけ。それに対してデンパとしか反論できないのも
畿内説の方。自分たちが根拠の一つも説明できないくせに人のせいにするんじゃねえ。
945 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:40
どうせ西都バカ鹿島あたりの作り話しなんだから気になさんな>>943さん。
まともな埋蔵文化財担当者でそんなこと言うやついるわけないだろ。
946 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:43
九州しかないじゃん
中国大陸や朝鮮半島に近いところにあった可能性が高いと思うよ
947 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:48
強大な佐賀平野勢力?奴国にも伊都国に勝てんよ。吉野ケ里のプロジェクトXのS田さんにに悪いけど。
だいたい佐賀が奴国と言う証拠はないよ
>>はあ?なにいってるの??奴国が伊都国から東南100里と書かれているだろう。ちゃんと読みなよ。
佐賀平野以外にありえないじゃん。
948 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:48
根拠にならんものを根拠というのが西都クン
きちんと反論してる部分を無視するのが西都クン
都合の悪い文章を読まないのが西都クン
畿内説クンが「デムパ」というのも仕方ない。
でもデンパには自分がデンパと分からないのが世の常。
同じこと書かせるって、そりゃ、何回も否定したり反論されてるのに同じことを書くから悪いと思うのだが。
少なくとも、一度批判されたことには、何らかの反批判かあるいは一部でも認めて説を変更しなくては。
その「根拠」というのを、批判されてるわけで。一度批判されたものを、何度も同じ内容で書くのが悪いと思いますが。
みなさんどうよ?
しかしすごいな、このスレッドって。
949 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:51
>>1 新スレたててくれーーーーー。
これじゃ話もできないよーーーー。
ほんとヴァカばっかし。
950 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:52
根拠にならんものを根拠というのが西都クン
きちんと反論してる部分を無視するのが西都クン
都合の悪い文章を読まないのが西都クン
畿内説クンが「デムパ」というのも仕方ない。
>>それは全てオマエに当てはまる。(デンパ以外に反論できないの?(藁)
951 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:54
伊都国を伊覩(怡土)にしない時点で終わってるよ、西都クン
また奴国佐賀説かよ。泣けてくる、、、
>>850,
>>867をもう一度読んでね☆
952 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:55
離れ小島である志賀島の金印は荒れた田んぼの中から小石に囲まれて出たもので、
周囲には何の遺跡も無かったそうな。これは金印を持ちかえる途中で敵に襲われたか、
船が難破したかで、とりあえず隠しておいたがそのままになったと考えることもできる。
つまりこの金印が博多=「奴国」である証拠にはならんのよ。
那がつくから奴国かい?「ナ」がつく地名なら日本全国ゴマンとあらーな。
国として栄えたのなら遺跡はあるわな。でもな、それが「奴国」という証拠にはならんのよ。
考古学的証拠というが、実はそれが一番あてにならんのよ。
悔しかったら物的証拠をだしてみれ。
倭人伝にある情報なら倭人伝に沿って考察しろってんだ。
やれ誤字だとか、数を間違えてるとか、方角を書き間違えてるとか、
勝手に倭人伝を都合いいように改造するんじゃねー。
953 :
日本@名無史さん:02/02/16 19:58
>>950
ちゃんと一つ一つ反論してるのに無視して、同じこと書くからデンパと言われているんだよ。ボウヤ
デンパ、と言われているのは、反論じゃなくて、もう君にはお手上げだと言うことだよ。
そこんところワカルかな?
954 :
日本@名無史さん:02/02/16 20:03
>>952
また同じこと書いてる。
>>850、
>>867をもう一度よく読んでね
あとね、志賀島は奴国の領域だけど、奴国の中心と言ってる人は誰もいないよ。
だから周りに顕著な遺跡がなくてもいいんじゃないの?銅鐸や銅鉾の埋納と同じだろ。
それに奴国の中心は須玖岡本遺跡でしょ。
これを否定したら話は前に進まない。
955 :
日本@名無史さん:02/02/16 20:10
>>944 遊んでやるぞ。
邪馬台国の属する時代区分を答えろ。
@弥生時代 A古墳時代 Bその他
三択だ。当てずっぽうでも回答できるだろう。回答期限は本日の20:30だ。わかったな。
956 :
日本@名無史さん:02/02/16 20:12
このスレッドって、最初は結構マトモな議論ができかけていたけど、
>>70あたりから西都バカが乱入してクソスレッドになったみたいね。
もうこのスレやめて新スレ立てようや。
そんで西都バカが入って来たらみんなであぼーん依頼しよう。
958 :
日本@名無史さん:02/02/16 20:23
>>949 >>ほんとヴァカばっかし
と言うが、バカはサイトバカ一人と思うんだけど。
正常な議論ができないよ、こいつだけは。
959 :
日本@名無史さん:02/02/16 20:25
ほんとヴァカばっかしだ。
単なるコピペにまじにレスしてる奴がいる(954とかね)。
>>1 新スレたててくれーーーーー。
これじゃ話もできないよーーーー。
960 :
日本@名無史さん:02/02/16 20:28
>>957 タイトルが気に入らん。新スレたててくれーーーー。
961 :
日本@名無史さん:02/02/16 20:31
>>960 逆に電波除けになるかも。サイトバカには、効かないかもしれんが・・・
>>944 時間切れだ。何番を選択しても「正解」扱いしてやるつもりだったんだが残念だな。
第2問だ。今度は多少手間がかかるやつだ。
西都原古墳群の成立過程を支群ごとに説明しろ。
ついでに第3問だ。10平方キロメートルの広大な領域内に300基しか古墳が無い高名古墳群を答えろ。
今度の回答期限は9時だぞ。解らなかったら解らないとちゃんと返事しろよ。
西都小僧のくせにシカト決めようなんて生意気だぞ。いいな。
963 :
日本@名無史さん:02/02/16 21:11
AGE
964 :
日本@名無史さん:02/02/16 21:13
>>962 西都バカに西都原古墳群のことを聞いても答えられないと思われ(藁)
965 :
日本@名無史さん:02/02/16 21:38
あぁぁぁ-----死ぬぅぅ---
新スレ----
966 :
日本@名無史さん:02/02/16 21:59
>>961 デムパスレにはデムパしか集まらないと思われ。
でも西都バカと他のデムパとのデムパ対決も面白そうだが。
967 :
日本@名無史さん:02/02/16 22:03
968 :
日本@名無史さん:02/02/16 22:05
デンパどうしの戦いね・・・面白い!!
でもブァカどうしの戦いは見て折れん。
心が寂しくなってしまふ。
>>944 どうした!答えろよ。
じゃあ、これが最後のチャンスだ。簡単な問題だよ。
次の中で西都原古墳群内の支群の名称では無いものどれだ。
@祇園原 A寺原 B尾筋
もしかして、お前は西都原のことなんか何も知らないんじゃないんかい?
リミットは後10分な。
970 :
日本@名無史さん:02/02/16 23:04
>>969 サイト君萌えの人はあなたですね。
そんなに虐めちゃ可哀相(少しだけ)だよ。
971 :
日本@名無史さん:02/02/17 01:42
西都死亡か?
972 :
サイド by 西都:02/02/17 02:59
卑弥呼の古墳は男狭穂塚。
3時のおやつは文明堂。
これ常識。
973 :
日本@名無史さん:02/02/17 08:10
974 :
日本@名無史さん:02/02/17 11:11
>>972 質問 男狭穂塚墓域内で発掘された著名な象形埴輪は?
ばかばかり
>>955 || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| 邪馬台国は箸墓! . わかりましたね!
|| \ (゚ー゚*)
||_______ ⊂ ⊂ |
∧ ∧ ∧ ∧ ∧ ∧ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( .∧ ∧ ( ∧ ∧ ( .∧ ∧ | |
〜(_( ∧ ∧ __( ∧ ∧__( ∧ ∧ ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_( ∧ ∧_( ∧ ∧
〜(_(..゚Д゚)〜(_( ,)〜(_ ( ) はーい、先生
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
.____∧___________
/ .
|卑弥呼の墓、箸墓が前方後円墳だから、
邪馬台国の時代は古墳時代(激藁)
>>976 そうか!邪馬台国は箸墓の中に埋まってたのかあ。見つからんわけじゃのぉ。
978 :
日本@名無史さん:02/02/17 14:00
九州説はアラシで終わるのか。
>>978 そう。後22レスで終わってしまいます。
西都説はバカが言ってることなので検討するに値しない。
ってなことを書くとアラシが入るんだろうなあ
981 :
日本@名無史さん:02/02/17 15:39
>>974 >>象形埴輪
→形象埴輪だろ
象の埴輪があったら見てみたいよ(藁)
まあ西都バカはこれすらも分からないと思われ
982 :
日本@名無史さん:02/02/17 16:45
>>974 子持家形埴輪のこと?もしそうならあれは169号墳では?
まあ西都バカはこういうことさえも知らないと思われというのは
>>981に禿同
>>976 また問題だ。西都原で一番小さい古墳はど〜れ〜だ〜?
982の言っている169号墳の通称名は?
985 :
日本@名無史さん:02/02/17 18:11
サイト君って大卒社会人なんですか?
どう見ても中学生レベルの知力じゃないかな。
986 :
日本@名無史さん:02/02/17 19:22
西都原古墳群のことを全く知らない西都バカ
西都バカの情報源は鹿島のトンデモ本のみと思われ
987 :
日本@名無史さん:02/02/17 19:24
西都沈黙ス、、、
ところがそうみせかけてアラシに入るのが西都クンであった、、
アラシの前の静けさか
988 :
日本@名無史さん:02/02/17 19:33
あと13、、、、
西都クン萌えーーーーー
卑弥呼がいたのは九州倭国、西都原。
大和は「別倭」。
「倭国」は九州。本州は「別倭」。
このことが解らないと古代史は解らない。群盲象を評す。
郡盲=畿内説信者
郡盲=畿内説信者 → 群盲=畿内説信者
訂正お詫びいたします(笑い)
991 :
日本@名無史さん:02/02/17 20:24
西都は孤盲(笑い)
992 :
日本@名無史さん:02/02/17 20:29
>>986 サイトは、鹿島氏の著書も読んでないと思われ。
鹿島ファンのHPから適当にコピペしてきてるだけ。いつも文章が変なのはその為ね。
誰か鹿島ネタで出題してみ。ほとんど答えられないんじゃないかな?
993 :
電波厨房に遊んでやるyo!:02/02/17 21:18
どうせ西都バカ鹿島あたりの作り話しなんだから気になさんな
>>992さん。
まともな埋蔵文化財担当者でそんなこと言うやついるわけないだろ。
>>990 「須密爾国」について説明してくりゃれ(w
995 :
日本@名無史さん:02/02/17 21:30
>>993 言ってることが意味不明のアラシ西都クンか?
いずれしても西都原調査関係者のボヤキ云々は捏造
『古代日向の国』日高正晴 NHKブックスでも読んでお勉強しなさい
996 :
日本@名無史さん:02/02/17 21:35
伊都国が前原あたりという点では畿内説も九州説も一致している意見だが倭人伝に、伊都国から東南100里
でナ国に。。という記載は鵜呑みにしたら佐賀か筑紫平野のあたりになるけど
吉野ヶ里をナ国に比定してはいけない理由って何?
997 :
日本@名無史さん:02/02/17 21:35
西都バカがムキになればなるほど邪馬台国日向説の信用は地に墜ちると思われ
998 :
日本@名無史さん:02/02/17 21:39
>>996 奴国が那の津(福岡平野)である理由はガイシュツ
>>850,
>>867 伊都国は前原でいいと言うのでしょう?西都バカではないですね?
それを言うなら、末ロ国(唐津)から前原が東南のはずなのに実際は東、また対馬から壱岐も南と書くが実際は南東。
このあたりからすでに方位が怪しくなってることに注意すべき。
999 :
日本@名無史さん:02/02/17 21:40
999ゲット!!!!!
1000 :
1000:02/02/17 21:41
1000
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。