>>92 「書陵部調」は明治33年の間違いじゃないかい?
105 :
日本@名無史さん:01/11/21 14:29
縄文時代には熱帯ジャポニカによる稲の栽培が日本でも行なわれてるね。
さらに縄文末期には温帯ジャポニカも導入している。
混在して植えていた跡も発見されており、
従来の『弥生時代に外からやってきた人が稲を持ち込んで支配』説は崩れさった。
106 :
日本@名無史さん:01/11/26 12:54
ようするに昔から日本人(あるいは倭人あるいは縄文人)は
日本列島だけでなく朝鮮半島南部にもいたということだね。
逆にいうと白村江の戦い以降だけが特殊な状態であるということ。
107 :
日本@名無史さん:01/11/27 01:29
そもそも三国志正史の記述が正しいという根拠は?
子孫から賄賂もらって良いように書いた書でしょ?三国志正史って。
いまいち、信用に足らないと思われ。
108 :
日本@名無史さん:01/11/27 01:46
こっちのスレは偽物だろ
禿胴!
まさにその通りだな
110 :
日本@名無史さん:01/11/28 18:35
歴史は素人なんで素朴な質問だが。
賄賂もらって良いように書いたって魏や晋についてはわかるが
なんで邪馬台国について良いように書く必要があるの?他国のことだよ。
魏志倭人伝の倭人の風俗を読むと大和とは思えませんけどね。
111 :
日本@名無史さん:01/11/30 17:46
大体南を東に変えたり7万戸がオーバーだったり畿内信者は妄想が多すぎ
禿胴!
まさにその通りだな
>>110 >賄賂もらって良いように書いたって
デマだから、まともに取り合わないように
114 :
日本@名無史さん:01/12/01 13:33
SiteUp!!
初めてカキコするが、論理的思考をすれば邪馬台は九州で中心は日向だろう。
西都原は不可解な点が多すぎる。その過去の調査過程において。
畿内論者にとっては非常に不都合なものが多いからだ。
第一、刺青人など隼人以外の何者でもないではないか。
畿内説は余りにもコジツケだらけで読んでいてウザい。
116 :
日本@名無史さん:01/12/06 19:15
a
117 :
日本@名無史さん:01/12/06 19:20
ho
(´-`).。oO(へぇ…そうだったんだぁ…)
119 :
日本@名無史さん:01/12/06 23:55
西都by西都
(´-`).。oO(へぇ…そうだったんだぁ…)
121 :
日本@名無史さん :01/12/09 02:57
●
123 :
日本@名無史さん:01/12/11 21:45
124 :
日本@名無史さん:01/12/11 22:57
ヤマト=邪馬台こそ当て字
邪馬壱国こそ正解だゴラァ!
125 :
日本@名無史さん:01/12/11 22:59
7万戸、人口約30万人の記載からして筑紫平野かそれより規模のでかい日向くらいしか該当しないダニャロメ!
127 :
日本@名無史さん:01/12/11 23:02
128 :
日本@名無史さん:01/12/11 23:07
西都原古墳群は、南北約3千kmの台地に、大小無数の古墳がある日本最大の古墳群です。
3世紀には最盛期を迎え、4世紀、5世紀初めまで西都原古墳時代は続いたと言われています。
その中でも男狭穂塚、女狭穂塚といわれている古墳は全国的にも有名で卑弥呼の墓に違いありません。
129 :
日本@名無史さん:01/12/15 23:59
西都原信者は盲信しすぎでは?
どう考えても邪馬台国はアズマの血である秋田にあった。
130 :
日本@名無史さん:01/12/18 23:16
日本中央(だっけ?)の碑があるのは秋田だっけ?
名古屋にきまっとるぎゃ
132 :
日本@名無史さん:01/12/19 00:43
そういや、天孫降臨の地もその辺だね
133 :
日本@名無史さん:01/12/19 01:17
日本中央碑は三沢と野辺地の間。
134 :
アズマも反アズマも出て行け:01/12/19 01:34
何ヶ所かあるんじゃなかった?
東に海があるのは( )だけ
136 :
日本@名無史さん:01/12/22 22:10
sousou
沖縄に決まっているだろう
138 :
日本@名無史さん:01/12/26 18:12
日向説って、神武とリンクするの?
139 :
138する:01/12/26 18:53
神武天皇であるが、元の名をイワレヒコといい古代朝鮮
(といっても現代の朝鮮半島ではなく、中国遼寧省の
遼東半島のあたりにあった)の扶余族の王であった。
また扶余族の支配者は、その淵源をトルコの
「ウラルトゥ王国」にもち、『上記』等にある
「ウガヤ王朝」とは「ウラルトゥ王国」のことである。
つまり、神武の先祖はシルクロードの西からはるばる
満州の地までやって来たのである。
神武と卑弥呼は夫婦であり、卑弥呼は中国のユダヤ系
フェニキア人、公孫氏の女であった。
彼らが朝鮮半島を南下して九州に上陸し、「伊都国」
(福岡県)、「安羅国」(宮崎県西都原)を建て、
アラビア及びインドにその先祖を持つニギハヤヒが
熊本に建てた「多婆羅国」と連合した3つの国家が
邪馬壱国(邪馬台国)であり古墳時代の始まりであった。
卑弥呼の古墳(宮崎県西都市西都原古墳男狭穂塚)
高さ:19m 外堀外径:249m 主円丘部径:132m
そして勃発した”白村江の戦い”。
新羅、唐の連合軍に敗れた倭と百済の連合軍こそ
”邪馬壱国(邪馬台国)”の系譜であった。
新羅は戦勝国として日本列島を占領し、開いた時代が”
奈良王朝”である。
しかし、この奈良時代も”白村江”の百済の残党、
桓武の”平安王朝”と交代を余儀なくされる、、、、
このように古代日本列島には種々の民族が渡来してきており、
このことを考慮に入れると”日本多民族渡来国家”が正しい
呼称と言えましょう。
日本人と共通の先祖は”北倭”(東胡)である、言っている。
”北倭”の一部が、扶余族の神武に率いられて九州にやってきた
のが邪馬壱国(邪馬台国)建国の頃(紀元200年頃)である。
140 :
日本@名無史さん:01/12/26 19:31
神武は百済の王、仇台のこと。
百済王であった神武は福岡地方に伊都国を建てた。したがって福岡地方には百済の前進基地があったことになる。
それより前、ニギハヤヒは熊本地方に多(婆)羅国を建てていた。また朝鮮半島にも多婆羅国があった。
百済と多(婆)羅国は合体した。クタラとは旧タラ国の意味である。
百済の前進基地たる伊都国と多婆羅国は、日向の安羅国とともに邪馬台国連邦を形成していた。
したがって、朝鮮本国の百済が滅亡しても「白村江の戦い」に出向かざるを得ない理由があったのである。
もちろん倭国とは九州のことで、卑弥呼は日向の安羅国にいた。
最近の九州説ってこんなのばっかなんだぜ。
落ちるとこまで落ちたもんだ。
142 :
日本@名無史さん:01/12/29 23:24
こっちはトンデモ系が作ったニセスレ
144 :
日本@名無史さん:02/01/04 02:10
>>143 usoha tuitehaikenaito mamani osowaranakatutano
145 :
日本@名無史さん:02/01/04 02:25
>>143 いいえトンデモではありません。日向説であれば(ただし西都)
魏志と古事記の記述に関する矛盾はほとんど無いことになる。
宮崎平野なら現在でも数十年に一度ぐらいしか雪は降らないし
土地が肥沃な為ほっておいても農作物が育成する。
それに宮崎なら邪馬台国の東に海があるという記載も生きてくるし
晋書倭人伝では三十ヶ国の合計が七万戸とかかれている。
いまある遺跡は明治に変造されたのだと叫ぶトンデモ
soreha anatano kotodesho
sousou
149 :
日本@名無史さん:02/01/11 06:07
mousou
maane
f\
152 :
日本@名無史さん:02/01/24 22:28
隼人、熊襲、吉備、出雲の勢力を抑えた事を考えると、
九州→大阪へ船で良く頻繁移動可能な状態が想像できる。
邪馬台国自体は九州説を1番と考えたいが、同時に大阪
あたりまでは勢力範囲であったと考える。
ある日突然邪馬台国が消えたのではなく、何らかの異変に
よって、大阪側が残ったと思えるのだが。
呉・越人による、海洋族が仁徳稜辺りを拠点を構えた大和説が
俺は辻褄が合うと思っているが、誰か意見ない?