1 :
日本@名無史さん:
続・上述の質問。
前のが大きくなりすぎて読めないのでとりあえず新スレ。
3 :
幕末歴史ベテラン:01/09/13 05:37
>1
何で、前のスレ使わないの?
「このスレ大きすぎます」だって。
乃木の殉死1
明治45年07月20日昼頃、明治天皇が危篤状態に陥ったことが公表された。
20日朝、乃木は神奈川横須賀の機関学校卒業式臨席のため既に東京を発して
いた。機関学校に天皇の危篤情報連絡が伝わった時にはすでに乃木は学校を出
発していた。乃木は夜は知人宅に泊まり、結局20日中に天皇の危篤を知ること
はできなかった。
21日朝、乃木は静岡沼津にて行われる学習院夏期訓練に行くために横須賀駅
へ行き、そこで知人の海軍中将と偶然会い天皇危篤を知る。急遽東京へ戻り汽
車中で同行となった横須賀鎮守府長官の馬車に同乗して参内した。以来、乃木
は肉食を止め酒を断ち、一日三度の参内を続けた。特別に寝室での拝謁を許さ
れたとも伝えられる。
29日夕の参内の際に天皇の病状悪化を知り、乃木は深夜まで控室に留まる。
30日午前零時半頃、明治天皇崩御。臨終に際して一番に呼ばれたという。
乃木の殉死2
乃木は天皇の死後も参内を続けた。宮殿控室の乃木がいつも座る席には誰も
座らなくなったという。肉食断ちを止めず髭を剃らず、顔色は悪いままだっ
た。しかし平素からの慎み深さ、丁寧親切ぶりは相変わらずなので、周囲は健
康を心配しつつも乃木の行動に特別の不審感を抱くことはなかった。ただ、学
習院某教授は、乃木が夏休みであるのに毎日出勤し私物整理を済ませていくの
に気づき、自宅に静子夫人を訪ねた折り自宅でも身辺整理をされていることを
聞き、その時少し疑問に感じた、と後に述べている。門柱の表札を外したのは
08月01日のことらしい。
08月20日ころから乃木の顔色にようやく晴れ晴れとした様子が見られてきた
という。某教授は、『思うに決然と御心中にその後自尽の可否が定まったの
で、それで御顔色が旧のように冴えられて来たのではあるまいか……他人の毀
誉褒貶などは度外に置くとして、とつおいつ慎密な御思案があったであろう…
…いよいよ熟慮の後に断行の御決定がついたので、それで気分も晴れ、また
従ってその御血色もよくなったのだろう』と回想している。
乃木の殉死3
明治天皇大葬の日は09月13日と決まる。学習院では、この夜は生徒達を東宮
御所御門前に並ばせお見送りする予定となり、しばしば職員は乃木邸に集まり
打ち合わせなどが行われた。乃木もできるだけその席に顔を出し、夫人も機嫌
良く歓談したので、訪問客の誰も乃木の決意に気付かなかった。
乃木は9月に入り、それとなく周囲への暇乞いを始めている。07日湯地家を
訪問。08日山県家を訪問。09日山本家を訪問。10日皇太子・両弟宮に拝謁。
前日の12日夜には、御大葬参列のために知人・親族がたくさん乃木邸に集ま
り、賑やかだったという。乃木が遺言状二通・遺書八通・辞世二句を書いたの
は、この夜皆が寝静まった後であるらしい。
乃木の殉死4
09月13日朝、写真屋を呼び陸軍大将正装での写真を撮影する。撮影後夫人と
共に参内。参内は危篤の報による急遽のものから計130回を数えたという。正午
頃に自宅へと戻る。幾人か来客があったと言われるがよくわからない。この時
既に、病気を理由に天皇の葬儀には欠席することを伝えていたらしい。
午後六時ころから乃木夫妻は二階にこもる。
八時少し前、夫人は葡萄酒を取りに階下へ降り、また二階へ戻った。
午後八時、霊柩馬車出門の号砲が鳴ると同時に二階にて異変が生じる。『大
将の居室に方り異様の音響あり。貞子(静子の姉)之を怪しみ直ちに下婢をし
て検せしむ。戸は内より堅く閉ざされて入るを得ず。戸隙より窺うに淋漓たる
鮮血畳を染むるが中に、夫人の瀕死呻吟せらるるが如きあり……午後八時三十
分に及び、付近警衛の任に在りたる警察官来邸し、家人と協力して大将居室の
戸を外し室内を検分す』
以後の経緯は、付近警護の坂本警部補、近所の医院代診中村医師、警視庁警
察医院岩田氏らの証言、検分記録などに詳しく記されている。
午後十時頃までには乃木夫妻の遺骸は安置され、周囲にその知らせが広がり
つつあった。翌零時過ぎには乃木夫妻殉死の号外が出ている。
青山練兵場内での大喪祭典が終わったのは14日午前二時頃。その後、霊柩を
奉安した特別列車は東京を後にして京都へ向かった。
乃木の殉死5
14日、朝から赤坂乃木邸には弔問客がつめかけ大混雑となる。同夜通夜。霊
柩奉安の特別列車は午後五時頃に伏見桃山に到着、御陵での埋葬が終わったの
は15日午前二時頃。
16日、遺書の一部が公式に発表される。それと別に遺書全文掲載の号外も出
る。遺書宛名には静子の名が見られ、夫人の自刃は事前に予定されていなかっ
たことが伺える。同日納棺式。
18日、午後一時半出棺式、午後六時頃埋葬。一般会葬者は20万人、「空前の
国民葬」といわれたほどの盛儀となった。
殉死に対する世評の多くはこれを讃えるものであり、冷静に批評するものは
少数であった。「大阪毎日新聞」は京都帝国大学谷本教授の談話を載せた。
『世の識者或いは教育者などという人が往々にして時勢後れの奇激なる教訓を
施すものあるを戒めたいとする理由から』という真意により乃木の殉死を論し
た教授談話は、その真意に関わらず激しい非難攻撃を受ける。自宅へは何百通
という脅迫状が届けられ、更に学生の排斥運動を受け、教授は大学を去らねば
ならなかった。「時事新報」は比較的冷静に報道したことが影響して読者が減
少したという。
乃木の殉死6
死後、乃木(夫妻)を神として崇める気運が縁の各地に高まり、乃木神社建
設期成を主唱する団体が幾つか起こる。乃木神社の建立第一は愛知県内の一個
人による私祠であるらしい。那須では葬儀の直後から神社創建の運動が始まっ
ている。長府では当初旧乃木家復元保存を目的とした「乃木記念会(大0204発
足)」が後に「乃木神社創建委員会(同0312)」と改められている。赤坂の創
建は明治神宮造営の関連からやや遅れた。
大正02年04月、乃木家は絶家となり赤坂乃木邸は東京市に寄付された。
大正03年頃から縁の各地で乃木神社創建が申請され始める。
(那須 乃木神社:大正0308申請・0406許可・0504御霊代奉還)
(伏見 乃木神社:大正0402申請・0411許可)
(長府 乃木神社:大正0512申請・0612許可)
(赤坂 乃木神社:大正0803申請・0805許可・1212鎮座式)
(函館 乃木神社: 大正0509許可)
(善通寺乃木神社: 昭和1010許可)
大正04年09月12日、爵位喪失。これにより乃木伯爵家は絶える。翌13日に乃
木家の旧主家毛利子爵家の次男元智に『乃木の家名再興の思召をもって』爵位
が授けられ、乃木伯爵家の再興となる。
大正05年、正二位を追贈される。
昭和09年、乃木伯爵家は爵位を返上、これにより廃家となる。
乃木の殉死7
青山墓地の乃木の墓石は、明治44年戴冠式随行員として渡英にあたり、自ら
選んだ神奈川産真鶴自然石である。これには「明治 十 年 月 日死」と刻
されていたが、その左横に「大正元年九月十三日死」と後刻されている。
乃木の任官1
『乃木希典の年譜のおもしろさは、明治04年、二十三歳でいきなり陸軍少佐
に任ぜられていることである。それ以前の兵歴はさほどではない(のに面白い
ことだ)』という嘲笑の根拠として、司馬氏は主に次の二点を挙げている。
『十八歳で藩兵の一人として豊前に出戦、負傷。幕末における彼の兵歴はわず
か半年』『藩命により伏見御新兵兵営に入り軽い程度の仏式教練を受ける……
合計六月の洋式軍事教育を受けたのが、乃木の唯一の軍事学校の学歴である』
これでいきなり陸軍少佐様とはお笑いだ、ということらしい。これ以前の乃
木の経歴を辿ると、以下のようになっている。
乃木の任官2
(1863)(無人14歳)
06月、藩学敬業館内集童場に入学
11月、元服【名を源三郎と改める】
14歳の時、藩の学校である集童場に入る。尊皇攘夷運動盛んな折り、若者は
意気軒昂・大言壮語してとかく武張った言動を好んだ。血気盛んな連中は腕試
しとして野良犬や猫をつかまえて刀や槍で殺したが、乃木はこうしたことに加
わらなかった。年上の者が「無人さん、あんたは臆病でいかん。犬も猫も殺し
えんではないか」となじると、乃木は「はい、私は犬や猫を殺す刀を持ちませ
ん」と答えたという。このようなこともあり、外面的にひ弱な感じの乃木は入
学当初、仲間から「熱がない」「弱虫」と非難された。だが、人となり、態
度、学力などから、次第にその非難は陰を潜めていった。
集童場に入ってしばらく経ち、生徒を二隊に分けて紅白戦が行われた。教官
によって荒ばれる二隊の指揮官は集童場の最優秀者と見なされるので、これが
生徒らの最大の関心事であった。乃木は白軍指揮官に選ばれた。乃木が学問に
おいて優れていることは既に認めていたが、文武両道の統率者と見る者はおら
ず、この選抜に皆驚き、不平を言った。しかし白軍指揮官として見事な采配を
示し紅白戦に勝利する。以後集童場では乃木を臆病者扱いする者はいなくなっ
たという。
乃木の任官3
集童場において認められたものの、乃木本人の志は文事にあったらしい。
「幼少の折は至って虚弱、武芸万端常に人後に落つるを免れなかった。何とか
人並の者になりたいと考え、学問を一心に勉強するが宜しかろう、と考えた」
とは晩年の乃木の弁。
それでとうとう「玉木先生の所に出かけて頼むが一番だと決心して」出奔し
たが、玉木文之進には『武士にならないなら百姓になれ』と一喝される。夫人
の取りなしでかろうじて玉木家に居ることを許され、しごかれる。結構鍛えら
れたらしく、翌年入門を許可されている。
(1864)(源三郎15歳)
03月、玉木文之進のもとに出奔
08月、四国連合艦隊の下関砲撃、従軍は許されなかった
(1865)(16歳)
09月、明倫館文学寮に通学
(1866)(17歳)
05月、第二次長州征伐
長府藩報国隊の砲一門の長として九州小倉口に出陣、負傷
第二次長州征伐は四境戦争と呼ばれ、長州藩にとって存亡を賭けた戦争とな
る。乃木はその一角である九州小倉藩との戦闘(長倉戦争)に出陣する。「砲
一門の長」とは「山砲一門と部下数十人」をもつ一指揮官という立場なのだ
が、これが司馬氏に言わせると単に「藩兵の一人として参加」となってしま
う。当時の虎の子兵器・山砲の指揮官を「兵の一人」と紹介したのは、意図的
に隠蔽したのか知らなかったのだろう。
乃木の任官4
(1867)(18歳)
01月、明倫館文学寮に入学
明治元年(19歳)
07月、明倫館文学寮を退学
明治二年(20歳)
01月、報国隊漢学教授となるも辞任、上京
11月、仏式操練伝習のために伏見御親兵兵営(京都河東)に入学
明治元年、報国隊は越後戦に出陣しているが乃木はこれに参加していない。
乃木はその少し前に相撲で足を挫き(笑)、出陣を許されなかったという。戊
辰戦争における戦歴がないことは、越後から戻った歴戦の強者どもの嘲笑のネ
タになり、漢学教育どころではなかったらしい。乃木は数日で辞表を出し、学
問をもって身を立てるために出来れば洋行をと願い、上京する。
東京では折しも山県有朋・西郷従道らがプロシアに派遣されようとしてい
た。乃木の従兄弟にあたる御堀耕助がこの一行に加わることになっていたの
で、乃木は御堀の従僕としてでも、と渡欧を懇願する。……玉木への出奔と状
況が重なるが、御堀も玉木と同じく『いやしくも男子の一言、一行は公明かつ
正大でなければならぬ。希望を達成するためには手段を選ばず、他人の奴僕た
るを厭わずとは何たる卑屈な考えだ』と乃木を一喝。次いで御堀は今日の時勢
を説き、武人として立つべきことを強く忠言する。乃木はこれを受け入れ、よ
うやくに軍人として進むことを決め、御親兵兵営に入営した。
乃木の任官5
明治三年(21歳)
01月、旧藩隊暴動鎮圧のために帰藩
07月、京都河東の御親兵練武掛となる(〜11月)
明治四年(源三郎22歳)
01月、豊浦藩陸兵練兵教官
11月、陸軍少佐に任官【名を希典と改める】
京都河東の御親兵に入営し仏式教練を受け始めるも一ヶ月で退営帰藩、暴動
鎮圧にあたる。そして半年後、御親兵練武掛(伍長)として京都河東に戻って
くる。つまり乃木の洋式軍事教練期間はわずか一月でしかない。その後に地元
でも練兵教官を務めていることから見ても、既に受ける側ではなく教育する立
場になっていたということである。もっとも教官不足の状況でもあったろう
し、「教えることで自ら学ぶ」というのは古今言われることではあるが、司馬
氏による教練を受ける側も教育する側も一緒くたのような紹介は明らかに誤り
であり、意図的に隠蔽したのか何かの勘違いであろう。
乃木の任官6
陸軍創設当初の頃は、将兵は藩隊時代の階級を基準としてそれぞれの官を与
えられている。乃木が尉官を飛び越えていきなり少佐に任命された明治04年頃
の、将来の将星たちの官位は、好い加減だがおよそ次のようになっている(好
い加減なのは、初任の時期と身分がバラバラで把握が難しいため)。
中 将:山県有朋
少 将:山田顕義・西郷従道
大 佐:大山 巌・谷 干城・野津鎮雄・三浦梧楼
中 佐:?
少 佐:乃木希典・野津道貫・岡沢 精・立見尚文・長谷川好道
大 尉:黒木為偵・奥 保鞏・小川又次
中 尉:川上操六・大島久直・大迫尚敏・西寛二郎
少 尉:土屋光春
準少尉:児玉源太郎
この時少佐である乃木は22歳、野津道貫は30歳、大尉の黒木は27歳、奥は25
歳、中尉の川上は23歳、準少尉の児玉は19歳。乃木が年齢不相応に高い任官で
あるのが目に付く。これが17歳で砲一門の長となり、21歳で御親兵練武掛(教
官)となった者として適当であるかどうか、これは判断の分かれるところだと
思う。
乃木の任官7
明治五年(希典23歳)
02月、東京鎮台第三分営大弐心得(大弐:次級者を示す)
明治六年(24歳)
04月、名古屋鎮台大弐心得
明治七年(25歳)
05月、休職(第一回目)
09月、陸軍卿伝令使(陸軍省副官に相当する?)
任官直後の乃木の役職は、ほぼ一貫して「○○心得」というものである。
「心得」とは、下級者が上級職を執ることを示し、本例で言えば本来中佐クラ
スが就任するべき役職に、乃木少佐が就任していることになる。年齢不相応に
高い任官と思われる乃木が更に、本来任ぜられるはずのない役職に就任してい
ることをどう見るか、これも判断の分かれるところかも知れない。
乃木の任官8
明治八年(26歳)
12月、熊本鎮台歩兵第十四連隊長心得
明治九年(27歳)
10月、熊本陣風連の乱、呼応して福岡秋月の旧藩士叛乱蜂起
11月、山口萩で前原一誠ら蜂起
12月、歩兵第十四連隊、秋月の乱を鎮圧
明治十年(28歳)
01月、小倉営所司令官心得(歩兵第十四連隊長職と兼務)
例によって「心得」の役職につき続けるわけだが、明治九年の異常事態にお
いては、その期待によく応えていると言える。任地の小倉は北部九州の要点で
あり、小倉部隊の行動如何によっては蜂起を各地散発に抑えることが出来ず、
北部九州一円を一体とした事態に発展した可能性が充分にあるものだった。こ
れに対し事前から不穏事態の報告・警告を重ね、事に及んでは秋月を鎮圧し、
旧小倉藩士の呼応蜂起も未然に抑えたという功績はあまり知られていない。
21 :
日本@名無史さん:01/09/20 09:20
22 :
日本@名無史さん:01/09/26 01:26
学習院の史学科です
23 :
日本@名無史さん:01/09/26 01:30
軍歌『水師営の会見』を聞け。好きになる。
「前スレ大きすぎて読めません」
そりゃそうだわなあ(笑)
25 :
日本@ななしさん:01/09/26 02:48
既出ならスマソ。
乃木大将自害の際、腹部には薄くためらい傷が、数多くあり
切腹に際して逡巡の様子、最終的に首の頚動脈を切り出血死。
夫人は唯一突きに胸を深く刺しており、これが致命傷。
乃木さんを貶めるつもりは毛頭ないが、夫人が気丈であった
ということ。江戸の昔でも切腹は薄く皮を引いた後(又は
その仕種をした後)に介錯していたので取り立てて非難される
ことでは無いと思うけどね。
まあ、本人は西南戦争で召すべき腹をここで召しますくらいの
気持ちだったんのかもね。その後の世間での扱いが問題なのかも。
26 :
日本@名無史さん:01/09/26 06:22
司馬の評価だと最高の武人で、かつ最低の戦術家ってことだね。
25の内容は検分内容ととかなり違う。出典は?…まあどうでも事いいか。
死の間際の事を書き連ねる趣味は無いので、当方の読んだ資料名のみを
書きます。「乃木希典 殉死・以後 伯爵家再興をめぐって」(井戸田博史)
同書参考文献は「乃木将軍及同夫人死体検案始末」。当時警察医として検視
にあたった岩田氏によるもの。
乃木の軍司令官就任1
「野戦の総司令官には薩の大山巌がすわった。さらには野戦各軍のうち戦略
上果敢さを期待された第一軍司令官の職には薩の黒木がついている。第二軍の
奥は閥外だが、第四軍の野津は薩であった。このことを山県がさびしがった。
『ひとりぐらい長州人を入れてもいいのではないか』といいだして、そういう
配慮から、第三軍司令官を選ぶについて長州人乃木希典が指名された」
司馬遼太郎氏は「坂の上の雲」において、乃木の軍司令官就任の経緯につい
て上記のように説明している。確かに、まずは野戦の総司令部が決まり、次い
で各軍が編成され……というのが普通に想像される時間の流れではある。しか
し実際の時間経過、状況推移とは大いに異なる。司馬氏の記述は明らかに誤り
である。実際の経過は次の通り。
明治37年
02月10日 第一軍編成【黒木為偵大将(薩摩):近衛・二・十二師団】
02月10日 対露宣戦布告
03月15日 第二軍編成【奥 保鞏大将(小倉):一・三・四・五・十一師団】
05月02日 乃木、第三軍司令官に親補
この時点で満州軍総司令部や第四軍などが出てくるとは、なんと不思議な就
任経緯の説明だろう。というか説明になっていない。
乃木の軍司令官就任2
05月02日 乃木、第三軍司令官に親補
05月31日 第三軍編成【乃木希典大将(長州):一・九・十一師団】
06月23日 満州軍総司令部編成【大山 巌大将(薩摩)】
06月30日 第四軍編成【野津道貫大将(薩摩):五・十師団】
06月30日 第二軍に第六師団が追加(第七・八師団は本土残置)
なぜ時間経過に拘るのかと言えば、後発軍の第三・第四軍の半数が第二軍か
らの抽出師団で編成されていたり、06月06日の六大将進級などの理由で師団長
が替わったり等々、複雑な状況推移を出来るだけ混乱なく理解するためであ
る。37年05月02日(第三軍司令官選別)の時点の話をしつつ他の時期の話を絡
めるのは現状把握を誤らせる原因になる。
蛇足ながら、05月の時点で出征中の第一・第二軍師団長八名中、山口出身者
は三名を数える(他は皇族、鹿児島、小倉、徳島、愛知が各一名づつ)。また
その後に現地軍総司令部構想が立ち上がった時、山県はそれへの着任を希望し
ている。司馬氏は、この時点のこの状況で、山県がどう寂しがったというのだ
ろうか。
後に決定された現地軍総司令官と第四軍司令官が薩摩出身者であったという
点、これを山県が寂しがった?という点、二点を強調して書くことが念頭に
あったのだろう。話を面白くしようと重々承知の経過実状を隠したのか、単に
時系列の考察不足だったのか、どちらであろうか。
乃木の軍司令官就任3
実際問題として誰が適任者といえるのかを検討する。
02月開戦時、大将となっているのは次の七名。
山県 有朋 (山 口・67歳)・・・・・・不適(元老)
大山 巌 (鹿児島・64歳)・・・・・・不適(参謀総長)
野津 道貫 (鹿児島・64歳)・・・軍事参議官
佐久間左馬太(山 口・61歳)・・・・・・不適(病弱で休職中)
桂 太郎 (山 口・59歳)・・・・・・不適(現職総理大臣)
黒木 為偵 (鹿児島・61歳)・・・軍事参議官
奥 保鞏 (小 倉・59歳)・・・軍事参議官
野戦軍司令官に適任なのは三名、うち野津は日清戦争で第一軍司令官を務め
た老将である。若い他の二名がまず任命されたのは、自然な流れといえる。
野津は後発野戦軍司令官として残された。出来得れば平野戦への増強投入を
目論んで。しかし歴史の流れは、まず、現地軍の後方安全を確実にする軍団の
結成を求めたのだが。
乃木の軍司令官就任4
次に、02月開戦時の古参中将六名について見る。彼らはこの時点の大将候補
といえる面々であり、山口は03月、他五名は06月に大将に補せられている。
岡沢 精 (山 口・60歳)・・・・不適(侍従武官長)
乃木 希典 (山 口・56歳)・直前復職 (留守近衛師団長)
長谷川好道 (山 口・?歳)・近衛師団長(開戦直後に第一軍編入、出征)
西 寛二郎(鹿児島・?歳)・第二師団長(開戦直後に第一軍編入、出征)
児玉 源太郎(山 口・?歳)・・・・不適(参謀次長)
山口 素臣 (山 口・?歳)・・・・不適(病弱)
上記合計13名の中で、別格の山県・大山・桂・児玉を除き、次いで侍従武官
長である岡沢、病弱の佐久間・山口を除いた場合、後発の野戦軍司令官として
任命するに適格な人物は既に限られている。
第一軍は、開戦直後に必勝を期して編成されるた。これに編入予定の近衛師
団・第二師団の師団長を、この時期に野戦軍司令官にすることも検討されたか
も知れないが、それは高等司令部内の団結結束・意志疎通を乱すこととなろ
う。序列と現職から見れば、野津大将か乃木中将かのいずれかが任命される状
況であった。
ちなみに、長谷川と西は大将昇進後、38年にそれぞれ韓国駐箚軍司令官、遼
東守備軍司令官となっている。山口は37年08月に胃癌により死亡した。
乃木の軍司令官就任5
大江志乃夫「日本の参謀本部」では、「旅順攻略のために第三軍の編成が決
定されたとき、軍司令官に起用されたのは、中将として休職二年八ヶ月ののち
留守近衛師団長に復職した乃木希典であった。先任中将とはいえ、休職中将か
ら留守師団長、軍司令官と、中将としての実際に軍職に就いていた期間(実役
停年期間)のながい他の野戦師団長を飛び越えての無理な人事であった」と書
かれている。
同階級内の序列は、その進級時期によって決まるが、大江氏は実役停年期間
に着目して乃木の軍司令官着任を不適切なものと指摘している。つまり、他の
師団長らの中に適任者が居たという指摘である。
開戦当時の各師団長── 近衛:長谷川好道、一:貞愛親王、
二:西寛二郎、三:大島義昌、四:小川又次、五:上田有沢、
六:大久保春野、七:大迫尚敏、八:立見尚見、九:大島久尚、
十:川村景明、十一:土屋光春、十二:井上光 ──彼ら十三名について比較
する。
乃木の軍司令官就任6
まず、単純に乃木中将と師団長十三名の序列を比較すると、その差は比較に
ならない。
大江氏の指摘に従い、休職期間32ヶ月を差し引いた少将実役期間を比較する
場合(±00)左列を見ることになる。中将として実際に就いていた期間が乃木
よりも明らかに長いのは長谷川のみ、小川が次いで長く、西・川村・大島がや
や長くなる。
ところが実は、乃木の中将時代休職は二度(台湾総督辞任と第十一師団長辞
任)であり、大江氏の指摘した32ヶ月ではなく、38ヶ月を差し引くべきなので
ある。この場合(±00)右列を見ることになる。乃木に較べて長谷川・小川の
実役期間が飛び抜けて長くなる。そして西・川村が次いで長く、大島がやや長
くなる。
注:乃木の年齢が上記と異なるのは、参考資料によって数えか満年齢かで記
述が異なるためです。どちらかに均すべきだと思いましたが、出来ませんでし
た。最大2歳の誤差が出てくることは先にお詫びしておきます。すみません。
年齢は、激務である野戦軍司令官として大きな問題となるのですが、このため
に年齢に関しての考察は出来ませんでした。
乃木の軍司令官就任7
師団 氏 名 (出・開戦時年齢)中将昇進
乃木 希典 (山 口・54歳)明治28年04月 (±00)
近衛・長谷川好道 (山 口・53歳)明治29年06月(+18)(+24)
一・貞愛 親王 (皇 族・45歳)明治31年10月(−10)(−04)
二・西 寛二郎(鹿児島・57歳)明治29年10月(+02)(+08)
三・大島 義昌 (山 口・53歳)明治31年02月(−02)(+04)
四・小川 又次 (小 倉・55歳)明治30年04月(+08)(+14)
五・上田 有沢 (徳 島・52歳)明治35年05月(−53)(−47)
六・大久保春野 (静 岡・57歳)明治33年04月(−16)(−22)
七・大迫 尚敏 (鹿児島・59歳)明治31年10月(−10)(−04)
八・立見 尚文 (桑 名・58歳)明治31年10月(−10)(−04)
九・大島 久尚 (秋 田・55歳)明治31年10月(−10)(−04)
十・川村 景明 (鹿児島・53歳)明治30年10月(+02)(+08)
十一・土屋 光春 (愛 知・55歳)明治35年05月(−53)(−47)
十二・井上 光 (山 口・52歳)明治32年03月(−13)(−07)
乃木の軍司令官就任8
序列・実役期間ともに乃木に及ばない者をリストから除くと、以下の五名が
残る。五名はいずれも日露戦争中に大将昇進が成った将軍であるが、全員が開
戦早々から先陣部隊として既に戦地に赴いてしまっている。
中将昇進 大将昇進
乃木 希典 (山 口・54歳)明治2804 (±00) 3706
近衛・長谷川好道 (山 口・53歳)明治2906(+18)(+24)3706
二・西 寛二郎(鹿児島・57歳)明治2910(+02)(+08)3706
三・大島 義昌 (山 口・53歳)明治3102(−02)(+04)3810
四・小川 又次 (小 倉・55歳)明治3004(+08)(+14)3801
十・川村 景明 (鹿児島・53歳)明治3010(+02)(+08)3801
第三軍の編成は急遽決められたものであり、既に先陣部隊として出征してい
た者達が任じられるような軍団ではなかった。第三軍に求められたのは、「旅
順要塞迅速攻略、第二軍の後方安全絶対確保」であった。平野戦闘・前方進出
と要塞攻略・後方確保とでは、軍団の性格が全く異なるのである。また、高等
司令部内の団結・意志疎通を保つことが考慮されてもおかしくはない。
内地に居る大将または実役期間の長い中将が任じられるのが当然の状況であ
り、そして大江氏の指摘するような『乃木より実役期間の長い中将』は既に内
地に居ない。結局は野津大将・乃木中将の他に適任者は居なかったといえる。
乃木の軍司令官就任9
大江氏は続けて「起用の理由は日清戦争で旅団長として旅順を攻略した経験
者であるということであった」と指摘しているが、乃木旅団は日清戦争旅順攻
略戦において予備隊として用いられたこと、また同時勃発の金州城攻防戦方面
において活躍した部隊であることについて、大江氏の記述はなされていない。
日清戦時の旅順攻略と乃木とを関連づける記述は多いが、それらの大半は、
乃木旅団が金州城警備部隊として分散された状態で、しかも予備隊としての参
加であったこと、さらに陥落翌朝には金州城救援に長駆転戦していることを紹
介していない。
大江氏は、別著「日露戦争と日本軍隊」において旅団司令部の特性について
触れ、「旅団長の指揮ぶりは、旅団長自身の実力を忠実に反映する」として、
日露戦争時の幾人かの有名旅団長の名を連ねている。日清戦時、上記の金州城
攻防戦ののちの蓋平・太平山の戦闘において、少数兵力をもって敵攻勢に対し
長期持久任務を完遂した乃木旅団についてももちろん知っていたと思われるの
だが、これについても氏は全く触れておらず、日清戦時の乃木旅団への言及が
悉く片手落ちになっていることを追記しておく。
乃木の軍司令官就任10
大江氏は更に続けて「軍事技術が日進月歩の時期に軍職を去っていた人物を
軍司令官にすえるという人事は適切でなかった」と指摘している。予備役と
なった軍人が不勉強になり日進月歩の技術革新についてゆけず実状に疎くなる
というのは世の常であり、乃木もその例に洩れないだろうという指摘である。
しかし、乃木がその例に当てはまらない事を示すエピソードは多い。正確な
語学力の持ち主だったことを示す独逸留学時の独語日記が現存するし、第十一
師団長の頃の勉強ぶりや、山県と張り合うほどに洋書軍事図書をよく読んでい
たことなどは生前には広く知られていたという。晩年の渡欧土産の大半が洋書
であったという記録も残っている。乃木が終生勉強熱心であったことが現在知
られていないのは司馬氏の小説中の記述が原因だと思われるがどうであろう。
那須における晴耕雨読の休職中については知らないが、たぶん似たようなも
のだと思う。明治天皇が、乃木が休職中にも関わらずいつも演習見学に姿を見
せる事を誉め、近従に「他の者と心掛けが違う」と語り、近従は「並々ではな
い御信任で、必ず万一の時には乃木さんは召されるであろう」と感じたという
のは、この裏付けとなるだろう。
追記:8のリストについて
衛・長谷川好道 (山 口・53歳)・・・第一軍編入
二・西 寛二郎(鹿児島・57歳)・・・第一軍編入
三・大島 義昌 (山 口・53歳)・・・第二軍編入
四・小川 又次 (小 倉・55歳)・・・第二軍編入、のち負傷
十・川村 景明 (鹿児島・53歳)・・・第四軍編入
川村景明中将の第十師団は、独立部隊として05月中旬に遼東半島に上陸、
のちに第四軍に編入されている。乃木の軍司令官就任と微妙に重なる時期で
あり、彼と乃木とで第三軍の司令官就任が比較検討されたとしても、おかし
くはないと思う。しかしながら、大江氏の先の記述には具体的な氏名の指摘
はなく、川村中将について考察した文献なども見つけることは出来なかった。
ども!ご苦労様です。私は何も出来ないけど、応援してます。
ども!いっぱいいっぱいです。
上の「乃木の殉死」書いて詰まった点なのですが、「軍神」として祭られて
いるというのは、いつから、どこに祭られているのか判りませんでした。
なんでも、「軍神乃木」と冠つけて記述された最初は昭和に入ってからとか。
ホント乃木さんのこと知らないなあ、と自覚した次第です。
41 :
日本@名無史さん:01/09/29 22:02
濃いなあ。もっと書いてよ
うーむ。最初は別に「軍神」ではなく、あくまで「神」として祀られたわけですか。
43 :
日本@名無史さん:01/09/29 22:44
乃木希助はカチコチの軍人です。
>43
今更名前の間違いは無いヤロ――!!(泣
いや、一発変換できないIMEの罪か・・・・・・。
私も「まれすけ」では希助と出ますね。わざわざ覚えさせるのもなあ、
と思って「まれてん」で希典と変換してます。だから、もしかしたら
たまにボケて間違えるかもしれません。前もって謝。
さて、「軍神」の冠が使われたのが意外と後世になってから、というのは、
資料の斜め読みでの知識ですんで、詳しくは知りません。しかしまあ、意外
なことではありますので、いつかちゃんと読んでみたいです。
>>37 よく勉強していて、旅順の体たらくであればやはり読んでいた本が悪い。
どんな本を読んでいたかを調べない事には大江氏の意見の方が信頼できる。
>>46「読んでいた本が悪い」これはまた新しい見解が出てきました。
「どんな本を読んでいたかを調べない事には」と言われますが、それでは
非難する人はそういう事も研究した上で非難しているんでしょうかね。人を
非難するに臨み、あまりに考察不足ではないでしょうか。
大江氏の考察の程度については知りませんが、司馬氏の程度は明白です。
司馬氏は小説「要塞」において、乃木の独逸留学の際には、乃木の言葉はま
ず仏語に訳され、それを更に独語に訳すという言語事情だった、と面白可笑し
く書き、さらに留学中の講義内容の答案の資料は残っていない、想像するに三
十八歳の乃木がこの知的訓練を受けるのは辛かったろう、と紹介しています。
ところが実際は?乃木が留学中に記した独語日記は現存し、その内容は実に
正確なものであったという独訳者も居ます。講義内容の答案も現存します。
司馬氏の考察の程度はこんなものです。大江氏はどうなんでしょう?
48 :
日本@名無史さん:01/09/30 10:39
企業でも政治家でも、人格者ってのは人の上にたたないほうがいい。
この人も人格者だったんだろう。
司令官としてはゼークトの言う「無能で勉強熱心」
つまり「即時銃殺」タイプ。
大江氏の意見を非難する人はそういう事も研究した上で非難しているんでしょうかね。
人を非難するに臨み、あまりに考察不足ではないでしょうか。
返しておくよ。
>嶽原さん
あんまり、真面目に煽りを相手にしない方が・・・・・・。
まあ、いいか。
>>49 あはは。所詮個人の趣味でやってる2chの書き込みと、日露戦争の
戦史研究における第一人者と言ってもいい方の記述を同一視されるか。
まあ光栄と思えなくもないですが、影響力というものを考えて下さい。
乃木の西南戦争1
明治08年、乃木は歩兵第十四連隊長心得として熊本鎮台の分営地小倉に赴任
する。翌09年、秋月の乱を鎮圧。明治10年01月兼小倉営所司令官となる。02月
06日、小倉営所は本営を経て陸軍卿より警備の内示を受ける。07日西郷挙兵、
西南戦争勃発。
この時の九州官軍は熊本鎮台の本営熊本と分営小倉の兵のみであった。当時
の戦力は以下のとおり。
○熊本鎮台
司令官:谷 干城少将
参謀長:樺山資紀中佐
参 謀:川上操六少佐・児玉源太郎 少佐
兵 員:約2500名(歩兵第十三連隊の他に砲兵他諸隊含む)
与倉知実中佐(第十三連隊長)
奥 保鞏少佐(第一大隊長)
◎小倉分営
司令官:乃木希典少佐(兼・歩兵第十四連隊長)
兵 員:約2000名(歩兵第十四連隊)
三個大隊兵力(一個大隊約650名、一個中隊約160名)
乃木の西南戦争2 ▽官軍の行動
○乃木に関連の薄い戦闘
◎乃木に関連する件 ▲薩軍の行動
02月 ↓ ↓
11日◎第十四連隊第一大隊一個中隊を長崎へ派遣する
12日◎長崎への派遣増加を依頼されるが拒否
13日◎第一大隊二個中隊(先発隊)と共に久留米に向かう
要請により長崎へと兵を派遣した翌12日に派遣兵員増加の依頼を受ける。し
かし乃木は薩軍に海路長崎を衝く行動は不可能としてこれを断り、一方で熊本
・長崎両面に通じる要地久留米への早期兵員派遣を要請する。
この要請は翌13日に許可がおり、先発隊は久留米へ向かうことになる。乃木
は14日の会議出席のため先発隊と共に小倉を発ち、雪中強行軍にて久留米へ向
かった。薩軍熊本入りの時期からして、小倉の部隊が熊本城入り出来たのは結
果的にこのタイミングが最後のチャンスとなった。
乃木の西南戦争3
14日◎熊本城での作戦会議に出席
15日 ・・・・・・・・・▲薩軍鹿児島を出発、熊本へ向かう
16日◎熊本発、久留米着
17日◎久留米発、福岡着
・福岡電信局にて薩軍熊本侵入を知る
18日◎先発隊を熊本へ向かわせる。
・連隊旗を奉じて残存部隊の進軍を命じる
・留守部隊の手筈を連絡
・福岡、柳川の不穏分子の警戒を命じる
14日、熊本本営において作戦会議が行われ、熊本城籠城策が決まる。
乃木は小倉に帰営し後命を待つことになり、16日熊本を発つ。翌日深夜福岡
に至ったところで薩軍が熊本国境を越えたことを電報で知る。直ちに久留米の
先発隊を熊本へ急行させる。また福岡県内各地の警戒、留守部隊への警護命令
などを出している。
乃木の西南戦争4
19日◎福岡発、久留米着 ▽賊徒征討令が発せられる
☆熊本城天守自焼
◎先発隊は熊本に入城(第一大隊二個中隊約330名)
19日、賊徒征討令が発せられる。編成された征討軍の兵力は以下の通り。
▽征討軍 征討総督:有栖川親王
参軍:山県有朋中将・川村純義中将
第一旅団:野津鎮雄少将・兵員約2000名
第二旅団:三好重臣少将・兵員約2000名
(※征討軍は逐次増加されていくが、それらは高瀬戦にも間に合っていないの
で省略する。第三旅団(三浦梧楼少将)追加編成が発令されたのは02月25日)
同日、熊本城天守が焼失する。第十四連隊の先発隊が熊本城に入城したのは
鎮火の直後らしい。
乃木の西南戦争5
20日◎第十四連隊主力、久留米に到着
21日 ・・・・・・・・・○川尻の戦闘(籠城軍が薩軍を奇襲、失敗)
☆熊本城包囲される
▽熊本鎮台の兵力は約03500名
▲薩軍包囲軍兵力は約13000名
◎第十四連隊主力(約1500名)は南関に至る
熊本籠城軍首脳は、鎮台兵を頼りとせず、熊本南部地域での迎撃は行わな
かった。21日未明の奇襲失敗はこの懸念が正しいものだったことを示してい
る。これと別に、籠城軍内に薩摩出身士族が多いことも懸念されていた。
「全員強行入城すべし」という命令を受けている乃木は、小倉・福岡から久
留米に着いた第十四連隊主力を掌握し、21日から南下を始める。しかし同日中
に薩軍は熊本城の包囲を完成してしまう。この時、第十四連隊は熊本から遠く
南関に達したに過ぎなかった。第十四連隊はこのように数箇所に別れて開戦を
迎えることになる。
◎第十四連隊(三個大隊、連隊兵員約2000名)
(一個中隊約160名、一個大隊約650名)
・長崎派遣兵員約160名
・先発隊として熊本入城を果たした兵員約330名
・後続熊本に向かった兵員、約1500名(小倉・福岡の残置兵員を含む)
付図
┌───┬─小倉
┌┘ ┌┘
┌福岡─┘ ┌┘
┌┘└┐ ┌┘
│ └┐ ┌┘
┌┘ ┌┼─┘
│ ┌┘│
│ ┌┘ │
┌──┼─┘ 久留米
│ └┐ │└┐
│ └─┬─┘ └┐
│ 南関 └┐
┌──┘ | 山鹿
長崎 石貫 │
│ │
高瀬 │
└─木葉─┐│
└植木
└┐
│
┌─┘
熊本
乃木の西南戦争6
22日 ・・・・・・・・・○熊本城攻防戦(初日)
▽征討軍(二個旅団)博多上陸
◎植木の戦闘(薩軍、南下中の乃木連隊を迎撃)
・0600、第十四連隊は南関を出発、高瀬に至る
・1300、乃木は三個中隊(吉松隊500名)を率い、植木方面を探る
・薩軍(400名)、向坂にて待ち伏せる
・1800、植木にて散兵線を張る(当初60名、逐次増加)
・1900、薩軍と交戦開始(連隊兵力200〜300?)
22日、第十四連隊主力は南関を出て高瀬に至り、行軍で疲弊した兵を休ませ
た。更に木葉に進み、熊本完全包囲の情報を受ける。またここで乃木は山鹿経
由で植木に先行した第三大隊と会い、薩軍が植木に進出していることを知る。
斥候の報告により植木に薩軍が居ないことを知り、夕刻植木に着くが、連日
の強行軍のために、この時植木まで突出した兵は60名に過ぎなかった。
この時既に、薩軍は官軍南下の報を受け植木から熊本寄りの向坂にて待ち伏
せていた。1800頃、乃木は植木の西南地域で散兵戦を張った。逐次後続が散兵
線に加わり、最終的には200〜300名ほどとなったらしい(第三大隊の第一・
二・四中隊の各一部が散兵線を形成していたといわれる)。斥候が向坂で銃撃
を受けるなどしたのち、1900頃から薩軍伊藤隊200名の切り込みで戦闘が始ま
る。連隊は散兵線に依り銃撃で応戦し撃退する。薩軍には村田隊200名が加わ
り援護射撃と切り込みが繰り返された。しばらくは一進一退の戦況が続いた。
乃木の西南戦争7
22日(6の続き)
・2100頃、乃木連隊は植木での持久を断念
・2140頃、千本桜まで退却(☆軍旗紛失)
・2300頃、乃木連隊は千本桜から七本を経て木葉へ撤退する
切り込みを主体とする敵軍との夜戦が始まり2時間経過、敵軍の銃弾が前方
からだけでなく左右からも飛来するようになり包囲運動に入りつつあることが
伺える状況となり、乃木はこれ以上の植木での持久を断念する。
2100頃、第三大隊長吉松少佐と謀り千本桜への退却を決定。連隊旗手に後退
の手筈を命じ、次いで負傷者・弾薬糧秣の後送など退却に関する指示をしてい
る。後送に間に合わない弾薬糧秣に火を放った後、残存兵力は左右に展開し脱
出を始めた。
実際に退却が始まったのは2140頃といわれている。この時既に連隊旗手が行
方不明になっていたとも言われる。また、本道を後退脱出する一団に連隊旗手
が含まれたため、乃木はこの一団にさらに十余名の兵を増加したとも言われて
おり、行方不明になった時期はよくわからない。とにかく連隊旗手は千本桜に
現れなかった。乃木の問いに、連隊旗手近辺に居た兵卒は「混戦のため不明」
と答え、伝令にて吉松少佐に尋ねたところ、答えは「本道最期の戦闘で敵中に
陥ったかも知れぬ」というものだった。
乃木は憤激し、「返戦して旗を獲んと欲する者は我に従え」と戦場へ戻ろう
とする。このとき第三大隊第三中隊が福岡より当地に到着。中隊長が旗手・連
隊旗捜索と殿を引き受けることになり、乃木は退却してきた部隊をまとめ木場
まで撤退した。
当日の戦況報告書では、後方部下の尽力により翌日の行動のメドがついた事
について触れ終了している。実際乃木連隊は孤立した状況であり、大失態とい
えどもそれを引きずる余裕はなかった。翌日は本日以上の激戦となっている。
乃木の西南戦争8
23日 ・・・・・・・・・○熊本城攻防戦(薩軍、北上案を軍議)
▽征討軍南下中
◎木葉の戦闘(木葉にて布陣、薩軍と衝突)
・薩軍、植木方面に増派(計1200〜1800名)
・乃木連隊は木葉に布陣、戦闘(700〜1000名)
・夕刻、退却開始
・薩軍にも、植木への撤退命令が出て戦闘は終了
・乃木連隊は高瀬を抜け南関へと撤退
木葉での戦闘は激戦となった。第三大隊長吉松少佐はここで戦死した。
ちなみに、この木場戦において、司馬小説「殉死」での「(植木戦の時)他
方面に居る吉松少佐のもとへ自ら伝令となって走った」という記述に似た状況
が生じている。植木退却時と木場戦闘時とで司馬氏の記述は混乱していると思
われる。
夕刻になり乃木連隊は高瀬へ向けて退却を開始するが、道中稲佐にて山鹿方
面より山中を強行してきた薩軍の攻撃を側方に受ける。退却行は大混乱に陥
り、乃木が敵と組み打ったまま崖を転げ落ちる場面もあったという。薩軍は優
勢であったが植木へと撤退し、戦闘は終了する。伝令の誤りと言われる。乃木
連隊はこの敵失により危機を脱した。
「我が兵は次第に退却してきた。乃木連隊長が来られた。みると顔も手も紫斑
色の打撲傷をもって満たされ、兵の肩を借りなければ歩けないという状態で、
帽子はなくなり服は裂け、散々である。翌日歩けなくなると馬に身体を縛り付
けて指揮をとる有様……」
深夜、久留米に達した征討軍へ乃木副官より援軍の要請が伝えられる。この
とき、征討軍旅団長(三好?野津?)は「乃木や青山は戦死したかっ!居れば
このようなことを言うはずがない!」と怒鳴り、「援兵はない。戦死せよと伝
えよ。しかし南関は明日まで敵に渡すな」と伝令に言ったという。これは勿
論、増援の約束で安心させてはならないという方便であるが、熊本入りを目指
す征討軍にとって県境の南関を確保するべくその前方で遅滞行動を取り続ける
乃木連隊の存在が重大な意味を持っていたことが伺える。
乃木の西南戦争9
24日 ・・・・・・・・・○熊本城攻防戦(以後長囲持久へ方針を転換)
▲薩軍北上開始
▽征討軍南下中
25日◎高瀬の戦闘(第一日目、征討軍の到着)
・乃木連隊は南関から高瀬へ進出
・征討軍南関に到着、高瀬へ急行
・乃木連隊は後退しつつも援軍を得て第二線で防御
◎石貫にて第二旅団長三好少将と面会
24日は誤報(薩軍が南関襲撃)による緊張はあったものの戦闘はなく、双方
兵を休ませた。薩軍は官軍大量南下を知り、木葉東南の田原坂と吉次峠を占領
しこれに備えた。
25日午前、乃木連隊は高瀬に進出し菊池川沿いに布陣する。薩軍が吉次から
前進し高瀬に達した時には乃木連隊は既に胸壁を築き備えていた。
1600頃戦闘が始まる。防御側は当初乃木連隊のみであり、押され気味の戦況
であったが、夕刻に遂に援軍を得て第二線で薩軍を退けた。夜になり薩軍は撤
退、官軍は当地で夜営する。
深夜、乃木は石貫に達した第二旅団司令部を訪問し旅団長三好少将と面会。
以後第二旅団の指揮下に入った。
薩軍は村田隊・別府隊・篠原隊・桐野隊の合計2800名を高瀬・山鹿方面に向
けて発進させた。
乃木の西南戦争10
26日◎高瀬の戦闘(第二日目、官軍攻勢に出る)
・乃木隊500名は菊池川を越えて攻勢に出る
・乃木隊、木葉を越えて田原坂に達するも旅団長命令により撤退
官軍は軍を二分し、その一軍団を乃木少佐の指揮下に置き植木・高瀬方面に
進出させた。もう一軍団は長谷川少佐が指揮した。
乃木隊は高瀬付近で戦闘を始め、近衛連隊の増援を得て攻勢に出る。植木に
逃れる薩軍を追い先鋒は田原坂上まで進出した。乃木は先鋒隊に当地の固守待
機を命じ、後方の三好少将に後続諸隊の急進を要請する。
1500頃、旅団長から撤退の命令が来る。「此地一度失すれば、再び之を占め
難き。第十四連隊独立して一夕を保し以て明日進戦の先鋒たらん」と返すが、
再三の撤退命令により乃木隊は撤退した。
後に田原坂が激戦地となったことから、この撤退命令を三好少将の愚策とす
る見方があるが、翌日には高瀬に薩軍2800名が殺到していることから見れば、
妥当だったとも思われる。田原坂確保ならずば、22・23両日の植木・木葉での
戦闘の意味がなく乃木連隊浮かばれずという見方もあるが、当時の目的は南関
確保であり、田原坂確保というのはやはり高望みだと思われる。
乃木の西南戦争11
27日◎高瀬の戦闘(第三日目、薩軍大攻勢実らず撤退)
・乃木隊は北部戦線で山鹿より南下してきた桐野隊と戦闘
・中央の篠原・別府隊、弾薬欠乏により撤退
・村田隊、次いで桐野隊も撤退し戦闘は終了
28日◎久留米病院に後送
薩軍は篠原・別府隊1200名を中央突破隊、村田隊1000名が左翼、そして山鹿
に達していた桐野隊600名が右翼という三隊を編成し高瀬にて大攻勢に出た。応
戦する官軍は、第二旅団長三好少将が銃撃により負傷したように劣勢であった
が、薩軍の中央突破隊が突然に撤退し、薩軍の戦線は一気に崩壊した。
乃木隊も桐野隊を退けるが、乃木は足背に貫通銃創を受け、旅団本部の軍医
の手当を受けている。旅団長・連隊長と立て続けの将校負傷に、軍医は「今日
のように上客がくるのは感心しないな」と苦笑したという。その後乃木は人力
車に乗せられて南関に後退させられるが、後退を嫌がり車上で暴れて、即席の
人夫はかなり大変だったらしい。
この時の戦闘における乃木の奮戦はこのように伝えられている。「実に乃木
さんの勢いは形容の詞もないほど勇壮で、そして惨憺たる光景だった。いつも
真先に身を進める。敵の砲弾はなぜ私の胸を打たぬかというようなさまで全身
を露出しておられた。我々部下の者はもとより他の将校たちも、乃木さんばか
りに弾丸は当たらぬのかとあやしみ思うほどであった」
乃木ばかりに当たらぬわけがなく、足背貫通銃創により行動力を削がれた乃
木は、南関から更に久留米病院に後送され、第一線をしばらく退く。翌03月04
日からの田原坂戦にはほとんど参加していない。
乃木の西南戦争12
31日◎久留米病院に入院
03月
04日 ・・・・・・・・・○田原坂の戦闘
・先鋒は青山大尉率いる第十四連隊
・官軍、二俣台地確保
19日◎久留米病院を脱走
20日 ・・・・・・・・・○田原坂の戦闘
◎植木にて戦闘指揮 ・官軍、七本を占領、植木に至る
21日◎征討第一旅団参謀兼務(営所司令官職・第十四連隊長職と兼務)
04月
01日 ・・・・・・・・・○田原坂の戦闘
・官軍、吉次峠を抜く
02日 ・・・・・・・・・○田原坂の戦闘
・官軍、薩軍本拠木場を抜く
09日◎木留にて負傷(左腕貫通銃創)
10日◎高瀬病院に後送
田原の激戦や、またその先鋒を第十四連隊が勤めたことを知ってか知らず
か、久留米病院で悶々としていた乃木の様子は、同室であった大阪鎮台歩兵第
八連隊第一大隊長大島義昌少佐の証言などがある。久留米病院から脱走した乃
木は、モッコに乗って部隊を指揮したらしい。乃木の戦線復帰と同時期に田原
坂の攻防は一段落を迎えている。
田原戦闘ののち、近辺の木留における戦闘で今度は腕に貫通銃創を受け、高
瀬の野戦病院に後送されている。
乃木の西南戦争13
17日◎軍旗喪失の待罪書を提出
18日◎熊本入城
22日◎陸軍中佐に進級
・第十四連隊長心得、征討第一旅団参謀を免ぜられる
・熊本鎮台参謀に任じられる(籠城中に負傷した樺山中佐の後任)
05月
09日◎軍旗紛失に関して罪不問の沙汰が下りる
西南戦争はまだまだ続くが、乃木のみに視点を限った場合、熊本鎮台参謀
として後方参謀となった辺りで終わりであろうか。この後、切腹未遂とかで
児玉に世話を焼かせたらしいが、それは戦争経過とはまた別の話。
明治11年01月、乃木「中佐」は東京鎮台歩兵第一連隊長に任ぜられた。頭号
歩兵連隊長という名誉ある地位への栄転であり、西南戦争における殊功が認め
られたためである。東京鎮台司令長官は征討軍第一旅団長を勤めた薩摩出身の
野津鎮雄であった。乃木は明治16年まで五年間この任にあり、連隊長として将
兵錬磨に励み多くの逸話を残している。
66 :
日本@名無史さん:01/10/12 04:31
乃木の退却1
明治10年02月22日、熊本平野には既に薩軍が進出し城を完全包囲、その北方
約10kmの植木にまで薩軍が進出している状況となっていた。熊本入城を命令さ
れ植木に達した時点で薩軍と戦闘状態に入った連隊指揮官はどのように状況判
断するべきだろうか。
「状況判断」とは「任務を基礎として、自軍の状態・敵情・地形など諸々の
条件を勘案して、自分がこれから何をすべきかという最善の方策を求める」と
いうものである。乃木の状況判断を想像し、またこれをもってこれまで多く言
われている「軍旗紛失をもって乃木は西南戦争の時から軍事的無能者だったこ
とは明白」という指摘に対し反論する。
乃木の退却2
まず、任務は「熊本城への速やかな入城」であるが、既に城は包囲されてい
る。突破入城を果たしたとしても、甚大な被害を被ることは明白であり、任務
達成の意味がない。
自軍の状態を見れば、正午ころに高瀬にて休止させているとはいえ強行軍に
よる疲弊が著しい。新式銃を装備しているとはいえ受領後の操銃訓練は充分で
はなく、いきなり夜間の実戦である。主に装填操作・射撃統制に不安がある。
しかも相手が薩軍士族というのは、徴集兵には荷が重すぎるかも知れない。
次に、この植木に進出している薩軍をどのような性格の部隊かを検討しなく
てはならない。薩軍が熊本城断固攻略の意図を持っていると見れば、植木の進
出部隊は包囲軍外周援護の前哨部隊と見ることができる。一方で、熊本は軍の
一部をもって監視牽制、薩軍主力は北上を企図していると見れば、この進出部
隊は主力の前衛部隊ということなる。前哨ならば乃木連隊が積極的な行動をと
らない限り敵の行動に自ずと制限がかかる。しかし前衛ならば時間の経過と共
に敵兵力は増大してゆくことは必至であり、また、それは今後の官軍主力の行
動に重大な影響を及ぼすことになる。
乃木の退却3
次に地形について考えてみる。植木は熊本から山鹿に北上する街道の中間点
にあり、戦闘の前に薩軍が既に山鹿に入っているという情報もあった。植木
は、南方熊本と北方山鹿からの薩軍との挟み撃ちも予想される、防御に適さな
い場所であった。
ところで北方から熊本に達する場合、植木西方の田原坂通過が重大事とな
る。ここは「腹切り坂」の異名を持つ、古くから知られた熊本北方の要地であ
る。植木を越えれば熊本までは比較的平坦な下り坂であり、植木固守が果たせ
れば熊本に急ぐ官軍にとって非常に有利な状況となる。
乃木の退却4
以上の状況判断に依り乃木連隊の採るべき方策を考える時、次の三案が考え
られる。
1・熊本への前進を継続する
2・現地点の付近で防御する
3・現地点を退却し後図を策する
1は無意味であり成功の可能性もほとんどない。2は、植木固守は重要であ
るかもしれないが、現在交戦中の敵部隊が主力の前衛部隊であった場合、寡兵
の現状では各個撃破されるのみである。また、山鹿の薩軍の動静も無視できな
い。乃木は状況判断の結果、3の退却を選択したと思われる。
乃木の退却5
上の状況判断に加えて、現時点で官軍主力の南下進出を援護する部隊が乃木
連隊以外に存在しないという事実も乃木の判断に大きく影響したと思われる。
乃木は状況判断によって熊本入城の決意を変更し、本州方面から増援にやって
くる官軍主力の集中・進出援護を任務として独断変更し、具体的な戦術的行動
としては遅滞行動──逐次抵抗しながら後退し、土地を犠牲にして時間を稼ぐ
ことが目的──をこの時点で意識していたと考えられる。実際、開戦前に散兵
線にて待機している時、部下に「今夜は何時までここで防ぐのか」と問われた
ときに「12時まで」と乃木は答えている。
またこの場合、時間稼ぎだけでなく、後方の南関の確保も重要な任務とな
る。翌23日に木葉で敗れ南関に撤退しながら、25日には南関から高瀬に前進し
陣地を設けて持久戦を展開、第二線陣地に後退したところでようやく到着した
征討軍の援軍を得ている。筑前街道の要衝・南関の確保を意識した連日の作戦
行動は、この想像の裏付けとなると思う。
乃木の退却6
22日の植木戦での戦死者は件の連隊旗手を含め03名。負傷者は25名。死者が
意外と少ないのは、夜戦の敵攻撃力が死に至るほどでも無かったためでもある
が、接敵・迎撃・退却まで終始統制が取れていたことを示している。
話は変わるが、翌23日も木葉にて朝から持久戦を展開している。多大な被害
を受けつつも終日当初の陣地を維持し、ここでも戦闘中の壊乱は生じていな
い。夕刻退却時に稲佐にて側背面から攻撃を受けて後方が混乱、これに乗じた
正面薩軍にも突破されて、乃木連隊は壊乱状態となっている。昼間激戦と夕刻
退却時の混乱のため100名以上の戦死者を出した。
22日の戦闘では、軍旗紛失という大失態に目を奪われてしまうが、植木での
持久を断念し退却を決定した時期は妥当であり、貴重な兵力を極力失わず遅滞
行動を完遂し戦闘・退却行ともに何らの破綻も生じていない。
問題は23日の損害である。木葉からの退却に失敗したのは問題と思う。退却
開始の時期が遅かったこと、山鹿方面から迂回していた薩軍を察知出来なかっ
たことが壊乱の原因に挙げられる。優勢な敵軍に対し遅延持久を目論む孤軍に
おいて、人員損害は極力避けなければならないし、もしも薩軍が敗走する乃木
連隊を追撃していれば、疲弊極限の乃木連隊では高瀬・石貫でも支えきれず、
一気に南関が陥落した可能性もあった。元々が圧倒的不利な状況であったのだ
から、私はこの一失策をもって乃木を軍事的無能者と断じようとは思わない。
しかし極めて重大な危機に陥ったことは事実であり、この失策を指摘しないわ
けにはいかない。
結論として、「両日の乃木連隊の戦闘において軍事的に問題と思われる点と
して、木葉からの退却に失敗した事が挙げられる。しかし連隊旗を紛失した植
木戦では全く問題点は見受けられない」と考え、「軍旗紛失をもって乃木は西
南戦争の時から軍事的無能者だったことは明白」という指摘は全く適当でない
ものと考える。
76 :
日本@名無史さん:01/10/30 05:07
あげ
77 :
日本@名無史さん:01/11/03 16:20
これは上げなければならない
>77
こりゃどうも。
79 :
日本@名無史さん:01/11/10 23:24
あげ?
74の結論部分訂正です。結論部二段目、
>『して、木葉からの退却に失敗した事が挙げられる。しかし連隊旗を紛失』
の「連隊旗」というのは「軍旗」の誤りです。
この時に失った旗物は、「軍旗」とされています。「軍旗」は横二尺六寸・
四分縦三尺三寸(約80糎×約100糎)の大きさで、74で間違えた「連隊旗」は
横五尺縦四尺四寸であり、まったく別物です。訂正します。
81 :
日本@名無史さん:01/11/15 05:38
乃木の切腹未遂1
西南戦争初頭の植木戦退却時に、乃木は指揮する小倉歩兵第十四連隊の軍旗
を紛失した。
乃木はこの後も木葉・高瀬と連隊の戦闘指揮を継続し、前衛部隊としての行
動を全うし征討軍との合流を果たした。戦局は官軍有利がほぼ決し、南下征討
軍は熊本に達する。乃木は熊本入城の前日に連隊旗紛失に関する待罪書を提出
した。
乃木の待罪書全文は以下のとおり。
「待罪書 過る二月二十二日植木に於て戦争の節、図らずも旗手河原林少尉事
急の際に戦死候処、夜中の苦戦当時、その死骸の所在を得ず。本人その節巻い
て身に負い居り候軍旗ともに紛失いたし、焼亡と賊手に落ち候と分明仕らず候
故、その後種々捜索を遂げ候えども今日に至るまで見当り申さず、畢竟希典不
注意の致す所恐懼に絶えず。依って進退伺い奉候也
明治十年四月十七日 歩兵第十四連隊長心得陸軍少佐乃木希典」
乃木の切腹未遂2
○↓軍旗の行方について
明治10年
02月22日◎植木戦○連隊旗手戦死、歩兵第十四連隊の軍旗を紛失
23日 木葉戦
25日 高瀬戦
03月03日 ○「花岡山に軍旗らしきものみとむ」(熊本鎮台戦闘日記)
11日 ○村田三介、山鹿方面にて戦死(軍旗は未亡人に送付)
下旬 ○連隊旗手の遺骸発見
21日 征討第一旅団参謀兼務(営所司令官職・第十四連隊長職と兼務)
04月13日 ○熊本攻囲軍撤退陣地より軍旗の頭徽を発見
17日◎軍旗紛失の待罪書を提出
18日 熊本入城
22日 熊本鎮台参謀となる
05月09日◎軍旗紛失に関して罪不問の沙汰が下りる
?日◎熊本城内で切腹未遂
明治11年
01月21日 ○歩兵第十四連隊、軍旗再授
24日 ○紛失軍旗発見(村田未亡人の自宅より押収)
乃木の切腹未遂3
軍旗とは日本陸軍の中で歩兵連隊と騎兵連隊のみに天皇より親授される特別
なものであり、紛失まして敵手に落ちる事などあってはならないことだった。
待罪書は熊本鎮台司令官(谷少将)を通じて征討軍参軍(山県中将)に提出
され、征討軍本営にて開かれた首脳部による会議で検討された。会議では、山
県は重罪を主張したが第一旅団長の野津鎮雄は乃木の戦役初期の尽力なくして
官軍の勝利はありえなかったとして、罪不問とし他日の奮励を待つべし、と主
張したといわれる。
席上で重罪を主張したとされる山県も、谷鎮台司令官宛に止むを得ない事情
だったことを考慮すべきことを手紙にて述べている。この後、天皇の裁可を仰
ぎ、最終的に罪不問とすることが決定されたらしい。
乃木の切腹未遂4
ところで奪取された軍旗は、熊本城攻囲初期、薩軍によって城外にて打ち振
り見せびらかされ、城内の官軍をして「第十四連隊は壊滅したか」と落胆させ
たと言われる。待罪書中では『焼亡と賊手に落ち候と分明仕らず、捜索を遂げ
候えども見当たり申さず』としているが、それは乃木連隊・救援征討軍にとっ
ての見解であり、薩軍と熊本籠城軍にとって軍旗の消息は明らかだった。また
噂などによって周知の事となっていた。
18日熊本入城、危機を脱した熊本城内における乃木の立場は、「軍旗を奪わ
れた連隊長」というものだったと思われる。この時期の城内での居心地の悪さ
を示す資料はあまり知らないが、興味深い。当時連隊旗手であった某少尉は、
児玉熊本鎮台参謀にこのように注意されたという。「乃木連隊長は、山県参軍
から陛下のご沙汰のあるまでは切腹しては相ならぬと、きつく申し渡されてい
る。連隊長の傍にいて、絶対に連隊長を自決させないように意を用いよ」
22日中佐進級、乃木は第十四連隊長(兼小倉営所司令官兼征討第一旅団参
謀)の任を解かれ、籠城中に負傷した樺山中佐の後任として熊本鎮台参謀と
なった。乃木の自殺を懸念し、監視しようと児玉が推薦したとも言われる。他
方、山県や谷などの計らいであったとも言われる。
乃木の切腹未遂5
05月09日◎軍旗紛失に関して罪不問の沙汰が下りる
?日◎熊本城内で切腹未遂(西島中将の証言による)
熊本入城直後から乃木の自殺が予想されていたことは、先の連隊旗手に対す
る児玉の注意からも伺えるが、乃木は軍旗紛失の罪過が不問とされた事で却っ
て苦悶を深め、ある夜ついに割腹自殺を図った。
日頃から注意していた児玉は寸前に阻止に入る。近くで就寝し居り騒動で目
覚めた西島中尉も加わり、ようやく阻止したという状況だったという。この時
の状況は、大正元年に乃木が殉死したのちに西島中将がうち明け話として公に
した。
西島中将のうち明け話とは、要すれば、児玉の説得により乃木は条件付きで
翻意したという話である。その条件とは「罪を償ってのち、いつかはこの事の
ために必ず死ぬ。その時まで児玉が乃木の命を預かる」というものである。そ
して児玉は自殺阻止に助力した西島中尉をその誓いの保証人とし、さらに「三
人だけの話に留め、一切秘密」を約したというものである。
乃木の切腹未遂6
「もう乃木大将の命を預かった児玉大将もこの世に居らず、お話してもよろ
しかろう」と明かしたのがこの夜の切腹未遂の話。ということは、この夜の事
は乃木の生前は知る人は居ない事だったということかも知れない。
西島中将のうち明け話を元に、伊藤痴遊という人物が「乃木希典」という本
にその時の状況を描いている。興味有る記述であるが、伊藤氏が講談師である
ことは承知しておきたい。熊本の夜、乃木と児玉との間で次の会話が交わされ
たように描かれている。
……
「わしが悪かった、児玉、おれは死なぬことにする」
「そうか、死ぬことはやめるか」
「今は死なぬが、しかし一度は死ぬ。このことのために必ず死ぬから、その時
は許してくれ」
「よし、わかった。けれども貴様が勝手に死ぬことは許さぬぞ。その際には必
ず俺に告げてくれ。俺は立会人になる。よいか、それさえ承知ならよろしい」
「それは必ず知らせる」
「独りで勝手に死ぬことはいかんぜ」
……
児玉は日露戦争終結の翌年明治39年07月23日に急死した。脳溢血と言われて
いる。乃木は、28日に青山練兵場で行われた葬儀での葬儀委員長として児玉を
送っている。
乃木の切腹未遂7
大正元年09月13日乃木は殉死を遂げる。「遺言条々」の第一条には自尽理由
が記されている。
「第一(自尽理由)
自分此度御跡を追い奉り自殺候段恐れ入り候儀、その罪は軽からずと存じ
候。然る処明治十年の役に於て軍旗を失い、その後死処を得たく心掛け候もそ
の機を得ず、皇恩の厚きに浴し今日迄過分の御優遇を蒙り、追々老衰最早お役
に立ち候時も余日無く候折柄、此度の御大変何とも恐入り候次第、ここに覚悟
相定め候事に候。」
自尽した二階の居間には、遺言条々や辞世の句と一緒に明治十年の待罪書と
それに対する命令書が添え置かれていた。
「過ル二月二十二日植木ニ於テ戦争ノ節図ラスモ旗手河原林少尉事急ノ際ニ戦
死候処夜中ノ苦戦当時其死骸ノ所在ヲ得ス本人其節巻テ身ニ負ヒ居候軍旗共紛
失致シ焼亡ト賊手ニ落候ト分明不仕候故其後種々捜索ヲ遂候得トモ今日ニ至ル
迄見当リ不申畢竟希典不注意ノ致ス所恐懼ニ堪ヘス依テ進退奉伺候也
明治十年四月十七日 歩兵第十四連隊長心得陸軍少佐乃木希典」
89 :
日本@名無史さん:01/11/23 01:47
あげ
90 :
日本@名無史さん:01/11/29 04:30
あげ
乃木の軍旗紛失1
小倉歩兵第十四連隊の軍旗については、紛失から発見まで以下の経緯を辿っ
たと言われている。
明治10年
02月22日河原林少尉戦死、歩兵第十四連隊軍旗紛失
03月03日「花岡山に軍旗らしきものみとむ」(熊本鎮台戦闘日記)
11日村田三介、山鹿方面にて戦死(軍旗は未亡人に届けられる)
下旬河原林少尉の遺骸発見
04月13日軍旗の頭徽発見
明治11年
01月21日軍旗再授
24日紛失軍旗発見(村田未亡人の自供による)
乃木の軍旗紛失2
紛失した「小倉歩兵第十四連隊の軍旗」とは、「連隊旗」ではなく「軍旗」
である。
◎軍旗:明治07年制定
・歩兵、騎兵連隊に限り親授された。
・デザイン:十六条の旭光
・大きさ:横二尺六寸四分縦三尺三寸(約80糎×約100糎)
「連隊旗」というものは、制定時期は明治03年、大きさは横五尺縦四尺四寸
と「軍旗」とは異なる。また親授ではなく、砲兵、工兵など全連隊に配布され
たものである。
◎連隊旗:明治03年制定
・歩兵、騎兵に限らず砲兵、工兵など全連隊に配布された。
・デザイン:十六条の旭光
・大きさ:横五尺縦四尺四寸
乃木の軍旗紛失3
植木戦から約一ヶ月ののち(?)の三月下旬に、連隊旗手河原林少尉の遺骸
が茶畑の中で発見されたという。その場所は植木戦が行われた場所から熊本方
向へ約500メートル進んだ場所であった。
植木戦当時の連隊旗手の行動は、このように伝えられている。
「本道最後の激戦、部下と共に刀をふるって吶喊……あるいは敵中に陥ったか
も知れぬ」
「官軍退却時に薩軍の中から『官軍の腰抜け』と呼ぶ者あり、少尉は憤然刀を
以て前後左右に数十名の兵と切り戦った」
つまり連隊旗手は軍旗を身に帯びたまま戦い、戦死したということになる。
第二次大戦敗戦までは、実はこのことはあまり広言されなかったという。昭
和軍隊における常識で考えるとき、死しても軍旗を守るべき旗手が敵中に軍旗
を持って突撃するとは考えられない、とされたため広言を憚られたと言われて
いる。
乃木の軍旗紛失4
連隊旗手を戦死せしめたのは岩切正九郎という人物であるといわれている。
岩切氏は薩摩郡四番大隊九番小隊(伊藤隊)の隊員で、薩摩示現流の達人で
あった。彼の実話として、当時の状況がこのように語られている。
「……戦闘中に隊からはぐれ茶畑の中を歩いていたところ、薩軍の雇い軍夫が
敵の接近を知らせた……抜刀を提げ馳せ向かい、十数間にして一士官を認め之
を倒した。……一士官の背腰に挟んだものにや、約二尺許もある巻いた旗が現
われたに因て、之を分捕した」
この時、岩切氏自身が旗を分捕り後に軍夫に与えたという説もあるが、「岩
切氏は軍夫に再び逢い、この軍夫に『旗を持って帰れ』と命じて戦場を引き揚
げた」とも言われている。
乃木の軍旗紛失5
岩切自身ではなく、軍夫が後に遺骸から旗を分捕ったというのは、地元の方
の調査結果による説である。何かの文献に発表されているかもしれない。
軍旗紛失に絡む軍夫とは、地元出身の軍夫荒木利八という人物であるといわ
れている。この調査によると、「岩切に命じられた荒木利八は、翌朝他の二名
の軍夫と共に、当時すでに植木町内に入っていた薩軍本営に軍旗を届け出た。
褒美をもらえると思っていたが、『奇特なること故、追って沙汰致す』と言わ
れアテが外れて帰った」という状況で薩軍に軍旗が渡ったらしい。
この説と別に、荒木氏が「戦闘の翌日23日の早朝、茶畑を歩いていると、刀
傷をうけて倒れている人間を発見した。その体から旗を見つけ、村田三介に届
けた」という状況で薩軍に軍旗が渡ったという説もある。ほぼ重なり、しかし
微妙にズレている説である。
乃木の軍旗紛失6
おそらく、上記のような「旗手戦死により取られた」状況で薩軍に軍旗が
渡ったのだと思われるが、異論もある。昭和50年代にNHK「歴史への招待」と
いう番組で、「軍旗紛失事件」という回で他説が紹介されている。民家の床の
間に置き放しになっていた状態で軍旗が薩軍の手に落ちた、という説である。
この説は、明治40年頃に熊本地方紙「熊本評論」に掲載された元熊本共同隊
隊員の高田露氏の証言によるものである。高田氏は当時国会議員であり、その
言は信憑性を備えていると思われる。「……あの晩は両軍とも疲れ果て、じつ
は双方とも退却した。そして翌朝、自分は植木に探索に行く必要に迫られた…
…「官軍の本営らしき家に入り、隈なく捜索すると、床の間に彩色燦爛として
紫の総の新しい一旒の立派な旗が立てかけてあるではないか……それは小倉連
隊の連隊旗であった」(熊本評論)」
乃木の軍旗紛失7
NHK「歴史への招待」では、04月13日に熊本の元薩軍攻囲陣地内から「軍旗
頭徽」が発見されていることを根拠として、軍旗がまるまる取られてしまった
状況だったと推測し、高田氏の証言による説「軍旗は床の間にあった説」を紹
介している。また、当時、山鹿で薩軍襲撃の誤報を受けて、連隊旗を陣営に置
きっ放しにして逃げ後でバツの悪い思いをした連隊があった(?)という話を
添えて、この説の補強をしている。
この「軍旗は床の間にあった説」が事実となると、「旗手戦死により取られ
た説」の成り立つ余地がない。乃木の証言、岩切氏と荒木氏の証言は嘘なの
か?という疑問が生じてくるのだが、それについて番組では、乃木に命じられ
て旗手が背に巻いていたという旗物は「軍旗」ではなく他の旗物、例えば「大
隊旗」などではないだろうか、という説を唱えて次の話題に移っている。
乃木の軍旗紛失8
NHK「歴史への招待」は放映の後に書籍化されており、「軍旗紛失事件」の
回は昭和56年10月01日に刊行された。この書籍中では基本的には放映内容をそ
のまま紹介しているのだが、放映内容の「軍旗は床の間にあった説」を修正す
る差込コラムが追加されている。
このコラムは上記5で先述した地元で調査された方が執筆されている。この
方の調査によると、次の様な状況であったろうと紹介している。
02月22日
・岩切氏、連隊旗手を斬殺
02月23日
・荒木氏、旗手の遺骸から奪った軍旗を植木町内の薩軍本営に届ける
・植木町内の薩軍は西方に出撃(木葉戦の連動?)
(高田氏協同の部隊が植木に到着)
・高田氏民家の床の間にあった軍旗を取り、村田三介の元に持ち帰る
つまりNHK番組内では「高田氏が入った民家は連隊本営」としていたのだ
が、それは「植木戦の後町内に入っていた薩軍本営」だったということで、こ
の説ならば、乃木の命令、連隊旗手の行動、岩切氏の証言、荒木氏の証言、高
田氏の証言ともに並び立ち、ほぼ矛盾はないように思われる。
乃木の軍旗紛失9
閑話休題、軍旗を所持していた村田三介が03月11日に山鹿方面にて戦死した
のち、軍旗は遺品と共に村田未亡人に届けられた。09月24日に鹿児島の城山が
陥落したのち、軍旗捜索が開始される。未亡人は蒲団に縫い込んだり庭の屋敷
神の堂内に隠したりしたが、結局密告により尋問を受け、自白させられる。
明治11年01月24日、「村田三介妻匿したる連隊旗後迫エダツキにあり、本日
出でたり」の電報が鹿児島から東京に飛んだが、その三日前(笑)の01月21日
に歩兵第十四連隊は異例の軍旗再授を受けていた。
おそらく陸軍中央はこの知らせに当惑したのだろう、翌02月04日になっても
何の沙汰も出せず、地元警察から「領置のままの発見軍旗をどうしたらいいの
か」と問い合わせる電報を打たれている。
乃木の軍旗紛失10
この発見の報が乃木に知らされたのか、興味深いところであるがよく判らな
い。この発見された軍旗は、その後とりあえず中央に移され保管され続けた。
大正十二年頃、某陸軍省職員が、軍の記録を編纂するために資料を調べてい
た時に偶然その軍旗を見つけたとの証言を残している。その証言で保管状況が
伺える。「ある日、編纂資料を調べるため倉庫に入ると、山のような資料の間
に、ホコリを被って白木の箱があった。開けて見ると、そのなかに歩兵第十四
連隊の軍旗が出てきた……」発見後の軍旗の消息を示す証言は、これ以外には
ない。一方、再授された小倉歩兵第十四連隊の軍旗はその後、日清戦争では旅
順、日露戦争では遼陽・沙河・奉天に翻り、昭和11年以降は連隊と共に大陸に
渡り満ソ国境の風に吹かれた。
昭和20年04月、連隊は九州宮崎県内に移動。本土決戦に備えつつあったとこ
ろで終戦となり、08月22日宮崎県高原町にて軍旗奉焼が行われた。紛失ののち
発見された軍旗も東京で密かに奉燃されたと思われる。現在、福岡県北九州市
内の歩兵第十四連隊跡地には陸上自衛隊第四十普通科連隊が駐屯している。そ
の敷地内の記念室には宮崎で奉焼された軍旗の一部が今も飾られているという。
……どこが「乃木の」なんだか……
102 :
日本@名無史さん:01/11/30 01:43
あげ
103 :
日本@名無史さん:01/12/03 20:56
あげる
乃木の凱旋戦況奉告1
司馬遼太郎の「殉死」には、乃木について描いた短編「要塞」「腹を切るこ
と」の二編が収録されている。これらは昭和42年06月と09月に別冊文芸春秋に
て発表された。
このうち「腹を切ること」では日露戦争後の凱旋参内、戦況奉告の情景を描
いている。
『……ただちに他の将軍たちとともに宮中差しまわしの馬車に分乗し、参内し
た。それぞれの軍司令官たちが御前に進み出、かれらそれぞれの戦闘経過をし
たためた復命書をおのおの読み上げた。……その復命書は感動的であった。
「……旅順ノ攻城ニハ半歳ノ長日月ヲ要シ、多大ノ犠牲ヲ供シ……」……希典
は読みつづけてついに絶句し、うなだれ、嗚咽しはじめ、声がしだいに高くな
り、他の諸将らは座に居つづけるに堪えられなくなり、……大山巌は廊下へ遠
慮した。つづいて東郷平八郎が去り、野津、奥、上村彦之丞らが靴音をしのば
せて去った。ただひとり児玉源太郎のみが、他になにごとかを考えているかの
ような顔つきでぼんやりと壁を見つめ、佇立したままであった。……』
乃木の凱旋戦況奉告2
上記文章には小説特有の修飾が含まれているので、それらを省略していくと
司馬氏が表現しようとしていた「その時の出来事」が残る。この場合、以下の
点があげられるだろうか。
1・他の将軍とともに参内
2・他の軍司令官とともに復命書奏告
3・乃木の上奏中に他の出席者退席
4・児玉は退席せず
これらが事実か否か考察することで、司馬氏小説「腹を切ること」における
『軍司令官凱旋戦況奉告』の場面がどれほど事実を伝えるものかを検討する。
乃木の凱旋戦況奉告3
「1・他の将軍とともに参内」は事実か
各軍司令官の凱旋・参内日時を確認すると、次のようになっている。
明治38年
10月16日満州方面にある出征部隊主力の凱旋並に復員の件裁可
12月07日満州軍総司令官元帥陸軍大将・大山 巌凱旋、直ちに参内
12月09日第一軍 司令官陸軍大将男爵・黒木為偵凱旋、直ちに参内
明治39年
01月12日第二軍 司令官陸軍大将男爵・奥 保鞏凱旋、直ちに参内
01月14日第三軍 司令官陸軍大将男爵・乃木希典凱旋、直ちに参内
01月17日第四軍 司令官陸軍大将伯爵・野津道貫凱旋、直ちに参内
01月20日鴨緑江軍司令官陸軍大将男爵・川村景明凱旋、直ちに参内
各人バラバラに帰って来て、直ちに参内することになっているらしい。幾人
かが揃ってから皆で参内というものではない。よって「他の将軍とともに参
内」という記述は事実ではない。司馬氏は、おそらくは後日の凱旋祝賀会また
は凱旋観兵式での情景と混同してしまっているのだろうと想像できるがどうで
あろう。
乃木の凱旋戦況奉告4
「2・他の軍司令官と共に復命書奏告」は事実か
1で示したように、他の軍司令官とは別日に参内しているので、「他の軍司
令官と共に復命書奏告」というのは事実ではない。1で重複する事をまた改め
てここで述べるのは、例の「乃木、死ぬのは私の死後にせよ」の言葉が掛けら
れた重要場面だからである。
昭和41年原書房発行の「明治軍事史(下)」に「軍司令官凱旋戦況奉告図
例」というものが掲載されている。これによると、この場に居合わせたのは明
治天皇と乃木、他は以下の四名となっている。
┌────────────┐
│御座ノ間 上 │ 上 :明治天皇
│ ?メ │
│ │
│ ?ム │ 陸軍大臣 :寺内正毅
│陸軍大臣 軍 参謀総長│ 参謀総長 :山県有朋
│ ?マ 司 ?ミ │ 満州軍総司令官:大山 巌
│ 令 ?ミ │
│ 官 満州軍総司令官
┝━━━━━━━━━━━━┥
│御二ノ間 ?ミ │
│ 侍従武官長 侍従武官長 :岡沢 精
│ │
│ │
└────────────┘
先日発刊された「明治天皇(ドナルド・キーン著)」には、「乃木大将(山
路愛山著)」からの引用としてこの場面を紹介している。これによると、御前
を退こうとする乃木に明治天皇が例の言葉を掛けたというのは事実であるらし
い。そして、その場には「侍従長徳大寺公爵と侍従武官長岡見(岡沢?)、そ
の他二〜三人」しか居なかったとしている。この事は居合わせた者達の秘密と
されたが、乃木殉死の後に岡沢大将がうち明け話として明らかにしたと言われ
る。「明治軍事史」の記述を裏打ちするものといえる。
乃木の凱旋戦況奉告5
「3・乃木の上奏中に他の出席者退席」は事実か
4の「軍司令官凱旋戦況奉告図例」では、その場に居たことが明らかな徳大
寺侍従長の場所が明記されていない。主要人物しか示していないものである可
能性がある。
侍従長はこの場面では黒子めいた立場であり、ために省略されたに過ぎない
かもしれないが、他の出席者が居なかったと断言は出来ない。しかし、司馬氏
の明記したように「野津、奥らは靴音忍ばせて退席した」というのは極めて疑
わしいと思われる。出席が確認されている大山は退席したのだろうか?4での
証言の「その他二〜三人」のうちに含まれていると考えるのが妥当と思うが、
よくわからない。
乃木の凱旋戦況奉告6
「4:児玉は退席せず」は事実か
「殉死」において「腹を切ること」と共に収録されている「要塞」では、児
玉についてはこう描かれている。
『乃木は凱旋後、第三軍司令官として陛下に拝謁を賜ったあと、自分の戦闘経
過を記述した復命書にも、「旅順ノ攻城ニ半歳ノ長日月ヲ要シ、多大ノ犠牲ヲ
供シ……云々」と書いている。……この復命書を児玉が私かに読んだとき、
「これが乃木だ」と、その畏敬する友人のために賛美した。』
わずか三ヶ月前に発表した短編小説では、児玉は退席云々どころか戦況奉告
の場にすら居ないように描いている。司馬氏はまず、児玉は奉告の場に居ない
ように描き、その描写をわずかの期間で改めている。これは、どうしたことだ
ろう。極めて時期の重なる短編作品中の司馬氏の描写のうち、司馬氏の心中で
はどちらが事実とされていたと解釈すればよいのかわからない。
私は、「明治軍事史」に書かれている「奉告図例」並びに「軍司令官凱旋戦
況報告次第」の記述を根拠として、児玉は奉告の場には居なかったと考えてい
る。司馬氏の「要塞」における児玉の取り扱いの方が、比較的事実に基づくも
のであると思う。つまり、この描写の変更は、新たな検証考察による描写の発
展ではなく根拠のない創作情景の追加に過ぎず、ために事実からの逸脱がより
激しくなっていると考える。
乃木の凱旋戦況奉告7
先に述べた考察点の他に、「泥と硝煙にまみれた汚れた軍服」という考察す
べき点がある。これについての記述を見つけることはまだ出来ていないが、こ
のような突飛というか無礼な服装は許されるものではないだろう。
司馬氏の描写は常に大袈裟に過ぎ、また事実からの逸脱が甚だしいという印
象を強く受ける。上記のような創作ぶりを確認出来た今、この点だけを事実だ
ろうと思うことは出来ない。おそらく司馬氏の創作だろうと想像する。
乃木の凱旋戦況奉告8
以上の理由で、司馬氏小説「腹を切ること」における『軍司令官凱旋戦況奉
告』の場面は、登場人物の確認すらも怠った小説作家の想像により造られた創
作情景であり、事実を伝えるものではないと考える。
最後に、「明治軍事史(昭和41年原書房発刊)」に掲載されている「戦況奉
告次第」を下に示し、これをかように劇的に描写(「腹を切ること」42年09月
発表)する司馬氏の小説家としての筆力に敬意を表すしてこの項を終える。
軍司令官凱旋戦況奉告次第 (参謀本部文書・満州軍凱旋に関する書類)
一 軍司令官以下正門を入り御車寄より参内
一 侍従武官御車寄に出迎ひ休所に案内す
此時侍従武官長参内の旨を言上す
一 陸軍大臣参謀総長満州軍総司令官御前に祗候す
一 侍従武官長御座所に軍司令官を率いて便宜の所に候す
一 軍司令官御前に進み凱旋戦況を奉告す
一 勅語を賜ふ
一 軍司令官随員拝謁
一 各員御前を退く
「明治三十七八年日露戦史」「同付図」「機密日露戦史」「明治軍事史」を
貸し出すという剛気な地方図書館に感謝を捧げる。
113 :
日本@名無史さん:01/12/08 23:15
嶽原さん、遂に司馬さんの間違い探しを開始ですか?
ライフワークになりそう・・・・・・。
いっそ本にして出版したら面白いでしょうけど、出してくれる出版社がなさそうですね。(苦笑
間違い探しも何も、小説的な装飾を剥ぎ取った後に残るものの少なさ
にあきれてしまっています。
例えば、乃木大将は新橋で下車した後でどうも宮中差し回しの馬車には
乗らず、愛馬に乗り参内したようです。その時と思われる写真もあるので
すが、日時場所が確定できなかったので省きました。
もしもこれが本当とすると、104の引用部分で残るのは「戦況奉告文」
のみとなり、間違い探しの対象も残らない……。
ライフワークにはならないと思いますが、まあ楽しんでやって行きます。
116 :
日本@名無史さん:01/12/11 19:49
116さんへ
続いてたというか、ネタが尽きないというか……。
203高地ですか……。いつかやってみたいネタで……。
118 :
日本@名無史さん:01/12/14 00:01
あげとく
119 :
日本@名無史さん:01/12/14 15:37
>119
ああ、凄い。特に「日露陸戦新史(沼田多稼蔵)」を参考文献に使用され
ているところは羨ましい。これは新書版の古書なので、痛みが激しくても
修復がされにくく、たいていの図書館では貸出禁止なんですよ。
乃木第三軍について、というよりも日露戦争について調べようとすると、
「公刊日露戦史」「日露陸戦新史」「機密日露戦史」は必須だと思います。
加えて大江志乃夫氏の「日露戦争の軍事史的研究」「日露戦争と日本軍隊」
も先の三編の補完としてとても参考になりますね。
いいものを見させて貰いました。
121 :
日本@名無史さん:01/12/16 15:54
あげ
122 :
日本@名無史さん:01/12/22 02:24
サルベージ
児玉>>>>>>乃木
>123
藁。虚しくないか?
125 :
日本@名無史さん:01/12/24 03:51
乃木将軍は欧州を歴訪した際、共産主義の話題が出たおりに、日本の武士道と似ているとかいうトンチンカンなコメントを出していたという逸話を読んだことがある
126 :
日本@名無史さん:01/12/24 04:14
>>119 司馬は、旅順要塞を陸軍全体が過小評価していた(近代要塞に対する知識不足)
と、ちゃんと書いてると思うが?
127 :
日本@名無史さん:01/12/24 04:28
要するに三国志の劉備みたいな人物か?
ロシヤが旅順要塞を本格的なヨーロッパ式の大要塞に仕立てあげているという
情報をほとんど持っていなかった。
それだけではなかった。
近代要塞とはどういうものかという認識すら、日本陸軍そのものに欠けていた。
(中略)
「まあ、大した時間はかかりますまい」
と児玉はいった。
その程度にしか、児玉といえども旅順要塞を認識していなかった。
>>126 所詮は小説家。司馬を語るつもりなら司馬スレに行ったら?
130 :
日本@名無史さん:01/12/24 22:00
>>126問題は第3軍司令部が旅順要塞の能力を正確に上に報告
できてたかどうか・・。ほうれんそうができてないのよね。
131 :
日本@名無史さん:01/12/31 12:12
>130
ほうれんそう?
>>120 「日露陸戦新史」は芙蓉書房で昭和55年に復刻されています。
これなら古書店でも運が良ければ千円前後で手に入ります。
ほうれんそう=報告・連絡・葬儀
134 :
日本@名無史さん:02/01/03 23:11
>>133
わろたが前途ある若者にホラ吹いちゃいかんがに。
ほうれんそう=報告・連絡・掃除?
>132
ありがとうございます。昭和55年ですか……。キツイですね。
>ほうれんそう
実は「検索しろ」との反応を想像していたのですが……。
130氏が一週間再来されていないのならば、氏の書き込みという行為に対す
る責任感について、また氏が再来されていたのならば、ギャグめいた混乱を
是正する気の有無について氏の考えがなんとなくわかりました。
136 :
日本@名無史さん:02/01/04 10:35
質問があります。旅順攻囲戦初期八月初旬の、海軍陸戦重砲隊についてです。
「近代戦の先駆日露戦争(成美堂ムック)」において、寺田近雄氏が以下の様
な記述をされています(80〜81P)。『(重砲隊は)陸軍の思惑など気にせず、
ロシア側の死角をぬい海軍砲隊を山上に上げ、眼下のロシア艦隊めがけてポン
ポン射ち込んだ。海軍にとっては宿願の敵艦砲撃の瞬間だが、日本陸軍までも
泡を食って山から海軍重砲隊を引きずり下ろした』
ここで私が疑問に思ったのは、「山上に重砲隊」という点ではありません
(おそらく観測所という意味でしょう)。「陸軍が砲撃を中止させた」という
点で、この点のソースを知りたいのです。
発行・編集の会社にこの点について質問したのですが、結局著者でないと判
らない事であること、著者に質問の連絡は出来ないとの返答がありました。
自分で調べても、どうもこのソースがわかりません。どなたかご存じの方、
おられましたら、教えて下さい。
お前ら厨房か?社会人ならほうれんそうなんて常識だぞ。
報告、連絡、相談だ。
遅レスご苦労さま。そのネタはもう終わっていたのです。
成美堂ムック「近代戦の先駆 日露戦争」は、1998年07月の発行です。
約100年近く埋没していた資料を、寺田氏が発見し、それを元に上記の
文章を書いたとなればまだ納得はいくのですが……。
これまでよく使われてきている資料に、この時このような確執があった
ということは記録されているのでしょうか?
140 :
名無しさん脚:02/01/05 19:52
要は、総合的な情報収集という概念がなかったんだろ。
工事人夫の数とかでも要塞の規模とか推測する資料につかえる。
141 :
日本@名無史さん:02/01/05 20:11
「総合的な情報収集」というものの一例として「工事人夫の数」を
推測資料と挙げられますか。しかし、それは戦争になる前、攻撃材料
を取りそろえるなどの際に問題となるべきものではありませんか?
敵要塞に対する事前情報の差異 それに対応する方法、そして
満州軍に出向かせて 要求するなりということ。
>事前情報:事前情報は殆ど皆無。「日清戦争時代と変わらなそうだ」などと
いう者も居たそうで。
>差異判明・上級司令部への要求:どうやらそんなものではないというのが
遼東半島前進中に判ってきて、「攻城砲兵など後続部隊が揃うまで攻撃はし
ない」と報告。上級司令部はそれに対して「この際無理押しはやむを得ず」
と返します。急げ急げと攻撃予定日も決定し、それへ向けて準備が進む。
それほど急がせられているというのに、泥路により攻城砲準備が遅れると
一日延期の決断もしています。現地第一線部隊はこの軍司令官の順延決定を
嫌がったそうです。上も「急げといったのに」と嫌がったでしょうね。
それは事前情報が無いとは言わないの。
日清戦争時と同じという情報があったのでしょ?
その割には第2次攻撃の後はマヌケな報告をして満州軍司令部と
の差が激しかったが?また乃木司令部人員が満州軍まで出向いて
直訴しに行ったという話もなさそうですし・
>144 そうです、そういう情報があって、で、どうやらそうではない、
腰を据えてやろうと「攻城部隊が揃うまで攻撃しない」と報告。問題ある?
そういえば、開戦前に攻城特殊部隊を大幅に削減され、また携帯砲弾数も
半減されられたことがあったそうです。それで、これでは足りないという事
で、砲弾の後送を上級司令部(大本営?満軍?)に約束させていたそうです
が、その事前約束すら上級司令部は果たさなかったそうです。
報告、連絡、相談、大事だと思いますよ。しかし無い袖は振れないという
状況である以上、残念ながらその結論は限られているのでは。
>144 「マヌケな報告」……?
側防機関の報告のこと?
>145 長岡少将に対する戦況報告ぐらいご存知でしょ?
この時期にこの戦況報告なんだよ。つまり現状分析に関する
連絡、報告、相談が欠けている。少なくとも各司令部の
差異を埋める努力を第3軍司令部が行なった形跡はなし。
是非、貴方のいうところの「マヌケな報告」というのが、どのような文面の
ものであるのか、どうすればマヌケでないと思われるのかお聞かせ願いたい。
長岡少将がキレたという事はなにかの資料にて読みました。しかし、なぜ
少将がキレたのかは、よく理解していません。
当時第三軍が得た情報と比べると、特段「マヌケな報告」とは思えなかった
ので。報告文面のどこがマヌケなのかお聞かせ下さい。
とりあえず、「工事人夫の数とかでも要塞の規模とか推測する資料」という
のは「戦争になる前、攻撃材料を取りそろえる等の際に問題となるべきもの」
ということでよろしいでしょうか。
もう一点、「事前情報が実状にそぐわなそうだと判断し、それをもとに『攻
城部隊が揃うまで攻撃しない』と報告連絡し、『無理押しやむを得ず』という
意見をもつ上との相談も行われた」ということで、この第一次総攻撃の時点で
は、いわゆるホウレンソウは行われていたということでよろしいでしょうか。
なんだ知らないのか?ウソだろ?司馬本にも書いているぞ?
>151
「司馬が書いている」では貴方が、その報告のどこを「マヌケ」と思われた
のか判りません。私は特段「マヌケ」だと思いませんので、是非、貴方がそう
思われた根拠をお書き下さい。
『なんだ知らないのか?』??「私は特段マヌケとは思わない」との文面
にて、知っていると応えたつもりですが?再度書きます。
私は長岡少将宛の報告は知っていますが、それが特段マヌケとは思いません。
151で記した二点についても、よろしいのでしょうか。二点とも、貴方の
書き込みから始まった論点ですので、一言よろしく。
152の後ろから二行目訂正です。
「150で記した二点」ですね。
以前、前スレだったか別場所だったか、議論の拡大が問題となったことがあ
りましたので、この二点に結論をつけてから現議論に入りたいと思います。
154 :
日本@名無史さん:02/01/06 16:04
> しかし、なぜ少将がキレたのかは、よく理解していません
この文であなたの読解力が理解できました。あしからず。
155 :
ageですか?:02/01/06 16:28
おそらく私の読解力という問題もあるでしょう。
私が、「貴方がその報告をマヌケと思われた理由を知りたい」というのも、
その点でまだ考察が必要な所だと思っているからです。
是非、貴方のいうところの「マヌケな報告」というのが、どのような文面の
ものであるのか、どうすればマヌケでないと思われるのかお聞かせ下さい。
また、150での二点も、貴方の書き込みで始まった論点です。結論について
お聞かせ下さい。
156 :
日本@名無史さん:02/01/06 16:46
このスレへの書き込みをされているのは、現在私と貴方の二名だけのようで
すが、多分幾人かは読まれているでしょう。「私の読解力の無さ」を指摘する
だけで議論をうち切ろうとするのは、無責任に過ぎると考えます。
ホウレンソウ男は逃亡した!
ホウレンソウ男は後に何も残さなかった!
論点を提案した側による「結論の確認」が、最後まで行われなかったのは、
残念なことです。軍事板の「乃木大将は軍神か」スレにても論点がめまぐるし
く変化して、結論が確認されないままで過ぎてゆく事態に陥ったことがあり、
ややしつこく結論の確認を願ったのですが、どうやら先方(論点提案側)には
結論を出す意図が全く無かったものと判断せざるを得ません。残念です。
159 :
日本@名無史さん:02/01/07 05:01
>>152の7行目「長岡少将宛の報告」
訂正します。「満州軍総司令官および大本営参謀総長に宛てた報告」です。
長岡次長に宛てたものではなかったですね。この報告に対する反応として、
長岡次長の「憤怒」が有名ですが、次長宛のものではないです。失礼しました。
まあ本来、147氏が訂正するべきものだと思いますが、氏にその気はない
ようですので。
160 :
日本@名無史さん:02/01/07 07:25
何時寝てるの?
適当に寝てます。合計すると一日八時間くらい?
ん?なんかレスが伸びてるな・・・・・・と思って見たら、なんだ、何の進展もないのか。
結局、乃木軍としてはやるべき事はきちんとやっていたという印象を受ける。
矢張り、1904年当時の装備レベルでは、あれ以上はどうしようもなかったっちゅ-ことでないのかね。
トーチカを一つづつ狙撃で潰せる軽歩兵砲とか、永久堡塁を爆砕できる大型航空爆弾とか、
適切な箇所にピンポイントかつリアルタイムな火制を誘導できる携帯無線機とか、
そういう装備が一切存在しなかったのだから。
軍板っぽいんでsage。
何の進展もありませんでした。
しかし……論点を絞り、結論を出そうとすると発言しなくなるというのは、
どういう事?
164 :
日本@名無史さん:02/01/08 07:42
乃木の欠点は現状の細やな把握と連絡不足という事実
それと指揮官に必要な政略的指導力
>164
論点提示側のそちら側より、具体的事例を挙げて頂きたく思います。
第3回攻撃後の乃木電に対する長岡少将の憤怒はどこの本にも書いてあるね。
これじゃない?
>166
失礼ですが、147氏でしょうか?
私もおそらくそれ、「満州軍総司令官および大本営参謀総長に宛てた報告」
だと思います。が、論点提示氏からどれが論点の電文だという指摘が無い状態
なので、議論が進まない状態です。
147氏は「長岡少将に対する戦況報告」を論点としているのですから……。
別人です。でも長岡少将が乃木電に苛立ちを覚えていたというのは事実らしいし
なんでしょうかね。
>168 「機密日露戦史」に、この時の長岡少将の苛立ちが説明されています。
おおまかに言えば、147氏の言われている所がその理由として説明されていま
す。「この時期に、こんな報告かい!」というところだと思います。ただし、
それと併記して、少将が憤慨しているのは少将の戦端当時からの自論である
二百三高地主攻論がいまだ採用されていないことにも因る、としています。
私はこの方が少将の憤激の大元ではないかと思っています。
児島襄「日露戦争」では、報告文面への憤激と二百三高地主攻論未採用への
憤慨を描写した後に、続けて得られた二百三高地へと主攻を変換した旨の報告
を得た少将が非常に安堵歓喜した場面があります。どちらかというと自論が未
だ採用されていないことへの憤慨が重なり、報告の文面にカチンと来たのでは
ないのかな、と私は思っています。
念のため……上記は、147氏への返答の「特段マヌケとは思わない」旨の論拠
とは、全く別のものです。
>169
「東京の大本営は単なる留守番で、長岡少将は山縣の使い走り程度の存在に過ぎない」
という桑原本の説明はどう思われます?
とりあえず私は、この記述を信じるしかない状況ですが。
どうなんでしょう……ねえ……
満州軍総司令部にそれまでの大本営の面々が移ってしまって、残りが空っぽ
の状態だった(兵站部長しか残らなかった?)ことを見れば、そういう見方も
出来ますね。少なくとも、某小説で言われているような立場の方では無かった
と思います。
NHK「その時歴史が動いた」で、日本人が初の飛行機発明家と成りうるチャ
ンスを潰した人物として紹介されていましたから、やや悪者めいた方という
印象を持ってしまいますね。
飛行機発明家というのは適切でないですな。というか間違いか?
日本人が、米国の兄弟に先駆け得るチャンスがあったのに、その提案を潰
した人物が長岡外史。
玉虫型飛行機械、でしたっけ。長岡氏、あとで謝ったとか。……なんか憎
めない人という印象を持っています。
日本の大本営は留守番部隊という言い方は酷い。家内の家計をやりくり
していたのはどこか?その重要性を理解してないんだろうね。桑原は。
確かに適当な言い方ではないです。しかし、兵站担当参謀しか残っていない
ような大本営の参謀が、作戦・戦術面に関する自論をいつまでも振りかざして
現地軍にあれこれ文句を言い続けているというのも、これまた如何なもんで
しょうかね。
そういう畑違いの事にずっと口出しし続けている長岡次長への非難の文脈で
「留守番部隊」とか「使い走り」という言い方が出て来るのも、まあ言い過ぎ
とは思いますが、「重要性を理解してない」が為の言い方とも思えませんでした。
興味のある方は一度読んでみて下さい。面白いです。
「名将 乃木希典」桑原嶽・著/中央乃木会・発行
空っぽの状態であったという意見は重要視してないですね。どうしようもない。
ああ、すいません。「空っぽ」というのは171の即興な私的感想で、桑原氏
がそう書いていたかどうかは定かではありません。しかし、「大本営」と比較
される対象である「満州軍総司令部」の陣容と比べると、「空っぽ」「留守番
(桑原氏の言)」とは、まあ許される比喩ではないかと思いました。失礼。
まあ、あれです。桑原氏の経歴を見れば、氏が兵站後方を重要視していない
だろうなどという気は起こらないと思いますがね。経歴はここでは書きません。
興味有る方は調べて下さい。手軽に知るには前掲書の後書きをどうぞ。
177 :
日本@名無史さん:02/01/09 22:12
桑原氏の著書が、「司馬遼太郎の誤りを正す」という副題を掲げているもの
であることも、氏の言が刺々しいことの理由と思います。
満州軍総司令部が巣分かれしたあとの大本営の参謀本部は、作戦部長・情報
部長が欠員となってしまい、後方担当の部長が残るのみの状態です。要すれば
大本営は、後方兵站の中枢であって、作戦の中枢ではありえません。しかしな
がら司馬氏は、『この日露戦争における作戦の中枢を握っているのは(大本営)参謀次長であった』としており、見当違いも甚だしい。
こういう見識への反撃としては、まあ分かりやすい言い方だと思います。
ながなが言い訳されてもあなたの意見は大本営は空っぽも軍隊の留守番
役なんでしょ?
ご自分でHPで評論されたら?
180 :
日本@名無史さん:02/01/09 22:34
178
文章になってません。ここは不特定数の人が読む場所ですよ。
『あなたの意見は大本営は空っぽも軍隊の留守番役なんでしょ?』???
コピーペースト作業の誤りですか?
>>180 あぁご自分で煽られるのですね。喜んで煽られましょうぞ。
>180 自分の書いた意見を訂正するならとっととすれば?
空っぽの状態だったんでしょ?何もすることのないような意見
に取れるね。
あなたは結局、なにが言いたいのですか?
>>183の考え方はおかしいと述べてるのがわからないのでしょ?
読解力ないから仕方ないか。
>182
ああ、なるほど。それが言いたかったのですか。
176でも書きましたが、176は読まれなかったのですね。再度書かせて頂きます。
「大本営」と比較される対象である「満州軍総司令部」の陣容と比べると、
「空っぽ」とは、まあ許される比喩ではないかと思いました。失礼。
>>180ネット上はここに限らずどこでも不特定多数の人が読めるよ。
あの文章から文意を汲むのは、読解力というよりも暗号解読力か特殊能力を
要すると思われるんですが、ほとんどの人にそういう能力はないと思いました
ので。
しかも、184では>>の使用法も間違っているし……。
まあ、「読解力」というキーワードを使ってくれましたので、過去に論点を
提示しながら結論を出さずにそのままの人物だということが分かりました。
……語るに落ちる、ってやつ?
嶽原さんは紳士だけど、結構辛辣な物言いもなさるのでコワい(笑
や、どもども。長岡少将の話に戻しましょうか。
機密日露戦史では、長岡少将の書簡、電報、日記などを多く紹介しており、
少将の存在なくば当時の状況は後世に伝わりにくかったのだろうと思いました。
その理由で、私は長岡少将は何か憎めませんね(笑)。「その時」で、突然
長岡少将の名前が出たときはびっくりしました(
>>172)。
と、いうわけで、今読みたい……というか図書館で借りたい本は、
「日露戦争と井口省吾」と「長岡外史録」だったりします。アンチ
乃木だろうがなんだろうが、知ったことではありません。
私は徳間文庫の「日露戦争」参謀本部編 をこないだ本屋で注文したのですが、
絶版だそうです・・・・・・徳間なめとんのか。
「その時」私は見てなかったんですが、玉虫飛行機ってマトモに飛ぶ代物じゃないと思ってました。
そういえば、「日本海海戦」の回ではやっぱり「坂雲」が推奨図書に挙げられてましたね(笑
徳間の本は、数年前はかすかに本屋に置かれていたんですが……。
その頃は乃木に無関心だった(笑)ので、もちろん徳間の本を買うことは
なかったんですが……。今は入手はちょっと難しいかも知れません。古本頼り
ですね。
しかし、言葉遣いというのは微妙です……。今日の「空っぽ」は、反省。
しばらくオチます。
前原透の「日本陸軍用兵思想史(天狼書店)」を、古書店で読むことが出来
ました。以前に、軍事板スレ「乃木大将は軍神か」に於いて、ななしのごんべ
氏より『乃木大将の罪的行為は日露戦争後の歩兵操典(1909年)と野戦要務令
に影響を与え、恐らく関わったのではないかと(想像される)』との書き込み
がありました。その中で前原氏の論文が紹介されていましたので、前原氏の名
著と呼ばれる本書には、ごんべ氏の主張の論拠となる記述があるのだろうか、
と気になり、是非読んでみたいと常々思っていた本です。
「日本の敗因2(角川文庫・NHK取材班)」にて書かれていたように、「武
士道精神の強調」が「用兵思想」に影響していたという趣旨の事が解説されて
いました。しかし、ごんべ氏が主張されていた「乃木の影響」または「乃木が
関与」というような記述、またそういう事を示唆するような記述は一切無かっ
たと思います。
立ち読みでしたので、本書にごんべ氏が参考にされたという『前原論文「昭
和期陸軍の軍事思想、わが国独自の用兵思想の形成経緯」』の内容がどれほど
織り込まれていたのかはよく覚えていません。ごんべ氏の主張の論拠を確認す
るには、成書ではなく一論文にまで辿り着かねばならないようです。
その論文のどのような記述から『乃木大将の罪的行為は日露戦争後の歩兵
操典(1909年)と野戦要務令に影響を与え、恐らく関わった』というごんべ氏
の主張が導き出されたのか……まだ判然としません。……ごんべ氏が抜粋紹介
してくれれば話は早かったんですが……。
いやあ、それにしても買いたかった……。さらば「用兵思想史」、また金の
ある日まで。
すでに書き終えています。人の意見を読まずに自分の意見のみを
かかれるここのスレは何の意味も無いですね。オナニースレか。
466 名前: ななしのごんべ 投稿日: 2001/06/23(土) 01:17
悪意を持たないで本2冊のみで乃木愚将論者に立ち向かうか・・。
勇敢だな。
ちなみにおれの主張は
>>46 >>47あたりからほぼ変わってない。
野外要務令の武士道の記載に着いて
乃木大将の復命書もまつわる話があるのだが、これが改竄された。
これは大山巌指導の日露戦史編纂綱領に基づいて改竄されたらしい。
(武器弾薬等の欠乏によりという項が削除)
当時の日本軍は士気が足りなかったので士気を重視するために
こうなったという意見が多数だがまぁ当時の世論を気にしてか、
情けない限りだな。だから乃木大将の自分での意思での関与は
ほぼ無し。
ただしこの復命書の文面はそのまま生かされることになる
と私は考えている。(旅順での乃木大将の愚直さを隠すため。)
大体その方面に無能な人間はなにもしないからな。
まぁ解釈は色々あるもんで 当時の人間の評価が1番では
ないでしょうかな? 乃木大将は結局は元帥になれんかった。
おや、ななしのごんべ氏でしょうか?
また、これも古書店立ち読み知識なんですが、生前、乃木大将が元帥候補と
して名が上がった時期があったそうで……。
明治44年の09月頃、大将序列としては5番手の乃木陸軍大将、東郷海軍大将
(席次は2番手?)とともに元帥府入りほとんど確定との風評が広まったとの
記述が何かの本に書かれていました。
「元帥になれなかったことが、当時の人の乃木への評価を物語っている」と
の意見が過去の書き込みに多数見受けられましたので、私も乃木元帥府入りと
いうことは当時考えられていなかったのだろう、と思っていましたので、この
記述には驚きました。
過去のことを辿るのは大変ですね……それにつけても金の欲しさよ。古書は
なんでこうも高いのか。
日本は第一次大戦での欧州での陸戦に参加しなかったために、戦前の陸軍人の中には、
アメリカ兵など弱いという、何の根拠もない思い込みをしていた者が多かった。
これは、そう思うことで、貧乏な軍隊である自分達を慰めていたんだが、その慰めが、
いつしか確信に変っていった。
希望や理想と必要と、資源や材料や能力が相合わないとき、人は、団体は、
どうその現実問題を処理するか?昭和の日本軍の場合、それは我にのみ都合の良い
思い込みによろうとした。思い込みさえすれば、刀や銃剣で、迫撃砲や機関砲に
勝てることになってしまう。
・・・・・・以上、兵頭師匠の新刊より抜粋でした。不肖の弟子として一言補足すると、
乃木や伊知地を無能と評価したがる風潮も、参本や陸大が
「そう思うことで、貧乏な軍隊である自分達を慰めていた」
ことの表れだったのでしょうね。
・・・・・・みんなビンボーが悪いんや。
>すでに書き終えています。(195)
そうでしたか?読み返してみます。194で、
>前原論文のどのような記述から『乃木大将の罪的行為は日露戦争後の歩兵
操典(1909年)と野戦要務令に影響を与え、恐らく関わった』というごんべ氏
の主張が導き出されたのか……
と書いておりますので、上記のごんべ氏の主張の論拠を、すでに書き終えて
いるということですね?
>『野外要務令の武士道の記載に着いて』
>乃木大将の復命書もまつわる話があるのだが、これが改竄された。
(→復命書……?前原論文と野外要務令の話ですよ)
>これは大山巌指導の日露戦史編纂綱領に基づいて改竄されたらしい。
(→復命書は公表時に即刻伏せ字にされたのでは?編纂綱領は、
より後のもの、順序が逆です。)
>当時の日本軍は士気が足りなかったので士気を重視するためにこうなったと
いう意見が多数だがまぁ当時の世論を気にしてか、情けない限りだな。
(→これも、公表復命書についての話しですね。私は、仕方ないと
思いますが。しかしほぼ同意です)
>だから乃木大将の自分での意思での関与はほぼ無し。
(→前文を受けての記述、また直後に復命書についての記述が続き
ますから、この文意は「復命書が伏せ字にされたことについて
乃木の関与はほぼ無し」ということですね。私も同意です)
>ただしこの復命書の文面はそのまま生かされることになると私は考えてい
る。(旅順での乃木大将の愚直さを隠すため。)大体その方面に無能な人間は
なにもしないからな。
(→まだ復命書ですか。論文と要務令の話じゃないんですか?)
おや、終わってしまいました……というわけで、194では、前原論文と野外要
務令については全く触れられておりません。まして、ごんべ氏の主張である
『乃木の罪的行為』の論拠については毫も触れておりません。
さて、以下は蛇足。
>まぁ解釈は色々あるもんで
(→全く、同意です)
>当時の人間の評価が1番ではないでしょうかな?乃木大将は結局は元帥になれ
んかった。
(→44年09月頃は元帥府入り確定との風評が立ったそうですが。
当時の人間の評価が一番なのですか?)
野外要務令改正理由書と野外要務令とは違います。
野外要務令改正理由書は大山巌指導の日露戦史編纂綱領に基づいて
います。揚げ足取るというのであればとことんあなたの揚げ足
を取りますよ。
201 :
日本@名無史さん:02/01/12 21:52
乃木軍の失敗は第2回攻撃前後と白襷隊に集中します。この点でもって
無能といえる根拠となりましょう。
202 :
日本@名無史さん:02/01/12 21:59
自身が無能と知っていた、乃木将軍、腹切るしかなかったのか。
現在の東京では、東郷神社周辺は日本の若者の町、乃木神社周辺
は他所の国の人がいっぱいいるとこ。
203 :
日本@名無史さん:02/01/12 22:06
色々な文献を読んでいて、第2回攻撃 つまり203高地に
攻撃面を展開したのは評価します。それは海軍と大本営の
意図と別のスレでも書かれていた通り星野大佐による提言を
受け入れたという事実であるからです。
しかし ここで疑問に思うのはあなた方が、坑道戦術に
変わったということを主張したことです。この点で
乃木軍は攻勢面を分散させたということに他なりません。
(東北正面と西北正面)
また第2回の攻撃においては203高地はスミルノフの重砲2門の
効果的な防御砲火によって混乱し、露軍の特殊兵器によって
挫折しました。
しかし乃木軍の第2回攻撃の目的は4目標の内3目標を奪取した
ことで目的を達成したとし、203高地の重要性(敵情報を確実に
入手できる場所)を認識できなかった点にあります。
これは情報の軽視として考えられますね。
204 :
>>200:02/01/12 22:06
「日露戦史編纂綱領」と「野外要務令改正理由書」との関連というのは
知りませんでした。
「編纂綱領」とは、あまり公に出来ないものだろうと漠然と思っており、
他へ波及するようなものではないと思っておりました。どのように関連す
るものですか?
揚げ足取りもなにも、198は「195では論拠の説明が既になされていたという
ことにならない」と書いたまでです。なんでしたら、再度論拠の説明を願います。
205 :
日本@名無史さん:02/01/12 22:16
野外要務令自体は日露戦争以前に書かれたものです。こんなのは
嶽原氏にとっては常識だと考えていましたが・・。
改正理由書に関して日露戦史編纂綱領が関わったというのは
私も立ち読みでしたが本に書いておりました。
206 :
日本@名無史さん:02/01/12 22:20
桑田悦氏によれば日露戦争後の戦史編纂にあたって上級司令部の
紛糾が削除されている事実があり、これを調べるためには戦史編纂に
あたった、上級将校の面々を調べる必要がありました。
改正理由書に日露戦史編纂綱領が関わったと記述しているのは
たしか陸軍用兵思想史という本だったと思います。市場には
めったに出回らなかったのであの時買っておればと悔やんでおります。
つーか、嶽原さん。別にそんなに追い詰めなくても・・・・・・・元々半年も前の話題なんだし(苦笑
いやまあ、別に良いんですけどね。
208 :
日本@名無史さん:02/01/12 22:25
この陸軍用兵思想の変遷はこんなところで調べるより、
五反田か、中古本屋で当たる方がよいと思いますよ。
ここでは何も出てきません。
>>206「めったに出回らない」
ええっ!?しまった、やっぱり買っておけば良かった!!
外見が個人出版誌のようなものだったので、買わなかったです。不覚。
参謀本部などが日露戦争での戦史編纂に関して改竄を行い
その綱領をかいたのが大山というのは意外です。
ただこのような研究をしているのが私の知る限り桑田悦氏と
前原透氏両名のみというのも根拠に薄いです。
>>208 たしかにそうですね。然るべき場所に行った方が早いのだろう。にしても
「用兵思想史」を立ち読みしながら購入しなかったのは、今更ながら痛恨事だ。
>>209 戦史編纂における編纂綱領研究については、日清戦史の方では幾人か
研究者がおられますが、日露戦史の方ではお二方だけなんですか……。
日清戦史編纂綱領に関する研究者:中塚明・大谷正・井上晴樹(敬称略)
さらに間違ってました。これがホントです。 ……寝ます。
211間違いました。
>>209、
>>210の間違いです。
136での疑問を再掲させて頂きます。
旅順攻囲戦初期(八月初旬)の海軍陸戦重砲隊についての疑問です。「近代
戦の先駆日露戦争(成美堂ムック)」80〜81Pにおいて、寺田近雄氏が以下の
様な記述をされています。『(重砲隊は)陸軍の思惑など気にせず、ロシア側
の死角をぬい海軍砲隊を山上に上げ、眼下のロシア艦隊めがけてポンポン射ち
込んだ。海軍にとっては宿願の敵艦砲撃の瞬間だが、日本陸軍までも泡を食っ
て山から海軍重砲隊を引きずり下ろした』
ここで私が疑問に思ったのは、「陸軍が引きずり下ろした」つまり、「砲撃
を中止させた」という点のソースは何なのだろう、という事です。
発行・編集の会社にこの点について質問したのですが、結局著者でないと判
らない事であること、著者に質問の連絡は出来ないとの返答がありました。自
分で調べても、どうもこのソースがわかりません。
「近代戦の先駆 日露戦争」は、1998年07月の発行です。約100年近く埋没
していた資料を、寺田氏が発見し、それを元に上記の文章を書いたという可能
性もありますが、これまでよく使われている資料に、この時このような事態が
生じていた、ということが記録なり証言なりが残されているのでしょうか。ど
なたかご存じの方、おられましたら教えて下さい。
>>214 自分の持っている本を読んでから書き込んでくれる?
7/23 陸軍の指揮下に入り、8/7から8/10に火石嶺高地に移動して
射撃、8/11の会議にて第一師団の支援と旅順市内を目標となる。
しかし 8/10以降も永野修身中尉率いる第3中隊12センチ砲2門は射撃
を実施。
>>215 ざっと見直しましたが、やはり有りません。
>ここで私が疑問に思ったのは、「陸軍が引きずり下ろした」つまり、
「砲撃を中止させた」という点のソースは何なのだろう、という事です。
「公刊日露戦史」参謀本部編 「機密日露戦史」谷寿夫・原書房
「日露戦争」旧参謀本部編・徳間文庫
……他を見ましたが記載は無かったと思います。
他に、「日露戦争」読売新聞社、「坂の上の雲と日露戦争」文芸春秋など、
昭和44年頃に出版された関連書物にも記載は無かったと思います。
東京日日新聞社・大阪毎日新聞社「参戦二十将星日露大戦を語る」は昭和
10年頃の出版物ですが、これにも記載は有りませんでした。
……結構探したつもりなんですが……ギブアップして質問させてもらいました。
8/11の会議における海軍重砲部隊の命令を確認すればよい。
史料を持っているなら、一つ一つの命令の意味そしてその結果
を確認せなあかんよ。
手持ちの資料を確認して、その結果、記述が見当たらないのです。公刊日露
戦史には、逐一の命令が記録されているわけではありません。『「公刊日露戦
史」には記載が無かったと思います』と書いたのは、勿論本書のこの時期の記
述を全て見た上でのことです。
その上で、『ご存じの方教えて下さい』という事です。
220 :
日本@名無史さん:02/01/14 21:48
馬鹿か?8/11の会議にて海軍重砲部隊の方針を明確にされたろ?
旅順市内と第1師団の支援。艦隊砲撃と書いてあるのか?
>>220 いえいえ、そうではなくて、「陸軍によって砲撃を止められた」という
寺田氏の記述の元になった資料の存在についてお尋ねしているのです。
214の文章を再度書きます。
214>ここで私が疑問に思ったのは、「陸軍が引きずり下ろした」つまり、
「砲撃を中止させた」という点のソースは何なのだろう、という事です。
222 :
日本@名無史さん:02/01/14 22:32
8/11の会議における命令じゃない?
>>220の言う。
223 :
日本@名無史さん:02/01/14 22:48
08月11日の会議が、寺田氏の言われる「中止(命令)」だとしますと、
旅順艦隊が、出港するのが10日早朝(0655)ですから、その時まで陸戦
重砲隊の砲撃は続けられていたという事で良いのでしょうか?
224 :
日本@名無史さん:02/01/14 22:55
>>223 となると215の永野修身の12センチ砲2門が気になりますね。
225 :
日本@名無史さん:02/01/15 08:56
寺田氏の記述『(重砲隊は)陸軍の思惑など気にせず、ロシア側の死角をぬ
い海軍砲隊を山上に上げ、眼下のロシア艦隊めがけてポンポン射ち込んだ。海
軍にとっては宿願の敵艦砲撃の瞬間だが、日本陸軍までも泡を食って山から海
軍重砲隊を引きずり下ろした』
この記述では、以下の疑問点が生じると考えます。
1・『陸軍の思惑など考えず』
陸軍の指揮下にあるのですから、これは有り得ないと思います。
2・『泡を食って引きずり下ろした』
この記述では、直ちに砲撃が中止されたような印象を受けます。しかし実際
は、07〜09日と砲撃は続けられています。10日に気球によって観測した所、
艦隊は既に出港しており数隻の汽船しか見えなかったと報告されたのですから、
10日も砲撃の意図は有ったと思われます。
陸軍によって殊勲の重砲隊砲撃が中止されたという事は、実際には無かった
のではないでしょうか?
>>224 223を受けて「となると……気になりますね」と言われておりますが、
私は全然気になりません。永野隊の、どの点が、どうして気になるのですか?
まあ読解力の問題かも知れませんが、とりあえず、224の一行だけでは、
何がどのように気になるのかサッパリ判りませんでした。
227 :
軍事板よりコピペ:02/01/18 11:25
490 :名無し三等兵 :01/12/26 23:20
>>487第一次大戦まで騎兵突撃は常識的な戦術だったんです。
ソンム戦ではイギリス騎兵が突撃して失敗してますし。
アルベールにあるソンム戦争博物館に槍を持った騎兵のマネキンが展示されていました。
この博物館は当時の地下塹壕を改造した施設で、当時の戦場の様子がリアルに再現されています。
http://ww1.m78.com/honbun/verdan%20siege.html日露戦争の教訓からドイツ軍は42センチ臼砲「ガンマ」を製作、緒戦でベルギーの
リエージュ要塞を撃破したものの、ヴェルダンでは要塞は落とせていません。
http://ww1.m78.com/honbun/somme%20battle.htmlソンムでは英仏軍が事前射撃で約6日間ぶっ続けで173万発も打ち込んだものの
ドイツ軍の塹壕線を破壊出来ず、攻撃初日で英軍は6万の死傷者を出しています。
このように当時の塹壕や要塞に対しては重砲の攻撃も余り効かない事が史実から分かっています。
なぜ史実を無視して「乃木は無能」だの「日本軍が早期に28センチ榴弾砲を投入すればよかった」
などと考える人がいるんでしょうか?
185の続き……
03月13日、児玉参謀次長は井口・松川両部長を呼び、以下の構想を語る。
『将来大本営を戦地と本国とに分置せんと企図し、現在の参謀本部の大部はこ
れを戦地に進め、本国には山県元帥を総長とし長岡および大島の内一名を次長
とし、兵站総監は宇佐川少将、同参謀長を岡大佐と予定す』
04月07日、参謀本部は陸軍省に、陸軍大総督府編成要領案および同勤務令
案を内示。翌08日、陸軍省の回答が来る。
『陸軍大総督府編成要領および勤務令を案ずるに……故にこの制によるとき
は、大本営の全権はほとんど挙げて総督府に委し、これがため大本営は単に空
権を擁するのみの状態となる如きは……』(機密日露戦史より)
「大総督府」案の頃の話です、念のため。これ以後、山県の「総督府」案を
経て、最終的に「満州軍総司令部」となるわけですが、児玉が奮闘して構想の
基本は残ったといえます。巣分かれの後は「ひっそりとした」と表現されてい
ますので、171の『満州軍総司令部にそれまでの大本営の面々が移ってしまっ
て、残りが空っぽの状態だった』は『〜移ってしまって、ひっそりとした』と
変更させて下さい。
大本営(06月)
侍従武官長 陸軍大将 岡沢精
陸軍部
参謀総長兼兵站総監 元帥大将 山県 有朋
参謀次長 少将 長岡 外史
兵站総幹部参謀長 砲兵大佐 大島 健一(平時:参謀本部第四部長)
運輸通信長官 輜重兵大佐 大沢 界雄(平時:参謀本部第三部長)
野戦経理長官 主計監 外松孫太郎(平時:陸軍省経理局長)
野戦衛生長官 軍医監 小池 正直(平時:陸軍省医務局長)
陸軍大臣 中将 寺内 正毅
人事局長 少将 中岡 黙
軍務局長 少将 宇佐川一正
満州軍総司令部(06月)
総司令官 元帥大将 大山 巌 (平時:参謀総長)
総参謀長 大将 児玉源太郎(平時:参謀次長)
第一課長(作戦)歩兵大佐 松川 敏胤(平時:参謀本部第一部長)
第二課長(情報) 少将 福島 安正(平時:参謀本部第二部長)
第三課長(後方) 少将 井口 省吾(平時:参謀本部総務部長)
230 :
日本@名無史さん:02/01/19 06:56
>このように当時の塹壕や要塞に対しては重砲の攻撃も余り効かない事が史実から分かっています。
>なぜ史実を無視して「乃木は無能」だの「日本軍が早期に28センチ榴弾砲を投入すればよかった」
>などと考える人がいるんでしょうか?
第2回総攻撃で目標を奪取できず、第3回攻撃で白襷隊という奇襲攻撃
に頼り、また戦域目標を誤った乃木が無能じゃないと言い切れるか?
231 :
日本@名無史さん:02/01/19 07:19
しかも227の引用は間違っている。227は軍板の487を晒しているのか?
・そしてここまでフランス軍は攻勢を成功させたことはないが、
防御ではすべてドイツ軍の進行を阻止していた。しかもフランス軍が
阻止しているのは陣地戦ではなく遭遇戦である。すなわち意外なよう
だが独仏軍の遭遇戦ではフランス軍に分があった。しかも攻勢を行い
突破に成功すれば次に待つのは遭遇戦だ。
ドイツ軍が第1陣のフランス軍を突破すると75(ミリ野砲)の斉射
を浴びドイツ軍が総崩れになるというパターンが多かった。ところが
この戦場は保塁とその保塁を連結させる塹壕にフランス軍はいた。
ファルケンハインは重砲で保塁を突き崩せると判断した。またベルダンを
死守することは保塁・塹壕に止まることを意味した。それでは
フランス軍の得意とする一旦後退・集中射撃という手が使えなくなる。
ところがファルケンハインの計算は保塁で崩れた。塹壕は砲で崩せるが
保塁は簡単に崩せない。するとそこで持久戦となる。そのうえ攻城砲(臼砲)
の射程距離は長くない。このため決死の勢いで前進するフランス砲兵隊を
阻止できず攻城砲強化地点がしばしば破壊されてしまった。この野砲を前進
して使用するという方法をドイツ軍は想定していなかった。
232 :
日本@名無史さん:02/01/19 07:21
フランス兵は塹壕や保塁を死守しそこに止まったから被害は
僅かにドイツ軍を上回った。だがドイツ軍も予想を上回る被害を
受けた。そしてフランス軍はドイツ軍の進行を阻止した。
この戦いの勝敗をどう判断すべきなのだろうか。事実としては
第1次大戦でベルダンは唯一防御に成功した要塞だ。
唯一防御に成功した要塞を常識とするんですね。
>>230>第2回総攻撃で目標を奪取できず、第3回攻撃で白襷隊という奇襲攻撃
>に頼り、また戦域目標を誤った乃木が無能じゃないと言い切れるか?
どんな名将にだって失敗はあるよ。ゼマのハンニバル、ロシアのナポレオン、マーケットガーデンのモンティ・・・・・・。
一切失策が無い、パーフェクトゲームでないと認めんというのかね、君は。
それはただの人間に、「神の視点」を持てと言っているに等しいよ。
乃木だって人間であり、成功もあれば失敗もある。
がやはり、敵に対して比較相対的に劣勢な戦力で、世界標準から見ると圧倒的に短い時間と少ない犠牲で
永久要塞を落としたという功績は、名将と呼んで差し支えないのではなかろうか。
細かい失敗をいちいちあげつらって「無能だ、無能だ」と騒ぐのはどんなもんかね。
234 :
日本@名無史さん:02/01/19 11:33
つーか、既に史実になりつつある乃木無能説を、
なぜ、ここまで誤謬だと反論を立てる人がいるのか、
俺にはホントよく分からん。
乃木関係者、皇国史観者、乃木心酔者、史実重視派、歴史考証学の徒、アンチ司馬
のどれかなんだろうな。でも、やっぱよく分からんなぁ。
235 :
日本@名無史さん:02/01/19 12:53
>>234歴史好きには乃木は無能にみえるが、
軍事好きには乃木は凡庸にみえる。
236 :
日本@名無史さん:02/01/19 13:38
>>233同意。
だが判断ミスとか置かれている状態の認識には、問題があったとは思うよ。
無能というより、誰がやっても結果は同じなんだけどね。
つまり陸軍の構造が古かったと言う事さ。
陥落出来るかどうか、情報を元に最初から大砲を持ち込む事を提案した
参謀や将官など、当時は居なかったよ。
俺は陸軍の進化の過程では付き物と認識しているけど。
当時の日本の苦悩と、乃木の苦悩とリンクして、最終的には勝ったから
広報的に海軍の東郷、陸軍の乃木を担ぐ必要性もあったと思う。
>>236そうそう。そういう当時の状況を勘案してなお「無能」と言うのならまだ良いんだけど、
後知恵だけ、物語を単純化し面白くする為だけに悪口を述べ立てる司馬みたいなのは
頭に来るんだよ。
実際に、明治大正昭和を通じて、乃木以上に上手く作戦をやってのけた将軍がいるかというと、
俺はちょっと思い付かない・・・・・・誰かいるかな?
司馬はどっちかというと、乃木より伊知地の無能を叩いてるけどね。
まぁ、司馬が乃木を批判したのは、
武人の鑑として武神にまで祭り上げられた乃木の虚像を徹底的に剥ぐことと、
ついで、その精神を色濃く受けた帝国陸軍を腐らせることを目的にしてたと思う。
軍事ヲタには、そんなことはどうでもいいだろうが。
239 :
日本@名無史さん:02/01/19 18:57
>>236 第2回攻撃の後は無能ぶりを展開しまくっているぞ。
2ケ旅団で落しかけていた203高地から目標を改め、一番強力な東正面
に目標を転換して、何も状況を考えていない白襷隊を認め、その
攻撃が失敗するととりあえず203高地に向けるバカっぷり。
240 :
日本@名無史さん:02/01/19 18:58
乃木が大戦略を見据えて目標立てているのなんて何がある?
彼は所詮連隊長が手ごろな将さ。
241 :
日本@名無史さん:02/01/19 19:02
連隊旗を紛失したときも別にお咎めなんてないのに、自分から
待罪するところなんざ、アホ。しかもそれを引きずってると
くりゃ、どうしようもないね。
演習中に児玉に中央突破されたときみ、乃木は予備隊を持っている
ので完全に突破されていないとガンと認めなかったが、評価は
児玉の勝利。まぁ機転の利かないおっさん。
242 :
日本@名無史さん:02/01/19 19:08
203高地を片手間で落しかけている!これは素晴らしい!
第3回でなぜ攻勢面を二龍山に向けたのかは不思議。あそこで
203高地にそのまま兵力をシフトさせれば10月にとりあえず
旅順艦隊を無力化できたことでしょう。
しかし第3回攻撃で彼の評価はがた落ちになったのでした。
>240『乃木が大戦略を見据えて目標立てているのなんて何がある?』
まず第一に正攻法の採用が挙げられることでしょう。
今は昔の過去スレより。
>何故か、乃木を批判すると、すぐに「司馬ヲタ」呼ばわり。
今は?(
>>234)
>乃木無能説を、誤謬だと反論を立てる人は乃木関係者、皇国史観者、乃木
心酔者、史実重視派、歴史考証学の徒、アンチ司馬のどれかなんだろうな。
なんともはや。レッテルペタペタ六連発、締めが司馬とは情けなや。
>>238-242つか、乃木に何か個人的な恨みつらみでもあるんですか?
さもなけりゃここまで悪意剥き出しでは書けないと思う。
247 :
日本@名無史さん:02/01/20 07:58
>>243 戦術レベルの話だろ?坑道戦術まさか坑道戦略なんて思っているのか?
あれは戦略目標を実現するための手段であって目的ではない。厨房か?
248 :
日本@名無史さん:02/01/20 08:46
そういう言い方をするのなら、軍司令官のレベルで戦略レベルの話は
出来ないことになりませんか?
軍司令官レベルでは、適切な決断をしていると思いますが。
249 :
日本@名無史さん:02/01/20 09:07
>>248 目的と手段を理解していない御仁には何を言っても無駄。
史実の乃木司令部は目的が右往左往している。だめだめ
250 :
日本@名無史さん:02/01/20 09:39
では、戦略レベルで軍司令官にどうしろと?
251 :
日本@名無史さん:02/01/20 09:45
>>250 大戦略を見据えて目標を立てたか?と聴いているの。
彼は仕事の優先順位を間違えた。どうしようもない。
252 :
日本@名無史さん:02/01/20 10:30
仕事の優先順位と言えば、間違いなく『迅速な旅順「占領」』です。
それを念頭にすれば、つまり大戦略を見据えて目標を立てれば、望台への
強襲が求められるのですが。
253 :
判ってないなあ・・・・・。:02/01/20 10:41
>>251 煽りだろうけど一応マジレス。
仮に203高地を早期に主攻して奪取したとして、旅順艦隊を撃滅できたとする。
しかしそれでも、要塞の主防御線は依然として健在なのだから、陥落させることは出来ない。
つまり第三軍のそもそもの作戦目的、「一刻も早く旅順を落とし、北方戦線に加われ」
という満州軍司令部の命令を果たせないことには変りが無い。
結局、要塞主防御線の攻略が必要となり、それなら東北から攻めた方が早いだろうと
いうことになる。
一方、望台を中心とする要塞東北の主防御線を奪取できれば、要塞自体を崩壊に導く
ことが出来るのだから、上記の命令も、艦隊を覆滅するというもう一つの作戦目的も
同時に達成することが可能になる。
だから、乃木軍司令官の作戦方針は間違ってはいないし、大山・児玉がそれを承認したのも
極めて当り前のこと。なんで「仕事の優先順位を間違えた」なんて暴言が吐けるわけ?
それともやっぱり確信犯ですか?
254 :
日本@名無史さん:02/01/20 10:45
>>252 仕事の優先順位は間違いなく迅速な旅順艦隊の無力化 その
手段として旅順攻略。第1回総攻撃で大損害を食らった乃木が
第2回で二百三高地攻略に重きをおいたのはなぜか?
そして目的を妥協した原因はなにか?を正確に考えなければ
ならない。あなたの言い様では真実には決して近づけない。
255 :
日本@名無史さん:02/01/20 10:55
254の言われるところの「第2回」とは、主防御線へ向けた攻撃、所謂
「総攻撃」ではありません。
この「第2回」は、最初から前進陣地の攻略が目的のものです。当然、
前進陣地の二百三高地の攻略も、主目的の内に入ります。
第一回:08月19日 〜24日 (06日間 強襲法:砲撃・突撃)
第○回:09月20日?〜24日?(05日間?西方前衛陣地の攻略)
第二回:10月26日 〜31日 (07日間 正攻法:坑道・突撃)
第三回:11月26日 〜06日 (11日間 ? : ? )
第●回:12月18日?〜01日 (15日間?正攻法:坑道・爆破)
第一回戦果:盤龍山東・西堡塁(助攻方面:大頂子山、青石根山)
第○回戦果:龍眼北方堡塁、水師営南方堡塁、南山坡山堡塁
第二回戦果:盤竜山北堡塁、盤龍山東堡塁東南の独立堡(一戸堡塁)
第三回戦果:203高地
第●回戦果:二龍山堡塁、松樹山堡塁、東鶏冠山北堡塁、望台
257 :
日本@名無史さん:02/01/20 11:18
>要塞の主防御線は依然として健在なのだから、陥落させることは出来ない
あ〜あ〜いいの?こんなコト言ってしまって。
日清戦役でどうやって落したかを把握して言ってるのか?
>>254>仕事の優先順位は間違いなく迅速な旅順艦隊の無力化 その
>手段として旅順攻略。
・・・・・・おいおい、正気かい?第三軍を北方に転用しなくても、奉天会戦は勝てたとか
思ってるわけ?詭弁・強弁もここまで来るとスゲエなあ。
259 :
日本@名無史さん:02/01/20 11:21
>>255 は8/31の乃木大将の正攻法転換の下令を知らないらしいから
無視。9/20を第2回攻撃じゃないなんてねぇ・・
260 :
日本@名無史さん:02/01/20 11:22
>254
>『仕事の優先順位は間違いなく迅速な旅順艦隊の無力化』?間違いなく?
252の「間違いなく」の論拠は、06月24日の、満州軍総司令官から第三軍へ
の訓令です。「敵の艦隊は旅順港の出入が可能である。遼陽付近の会戦は雨期
以降の予定であるから、第一軍と第二軍、独立第十師団はそれに基づく作戦を
計画する。第三軍は、全般作戦上なるべく速やかに旅順を攻略せよ」
>『第2回で二百三高地攻略に重きをおいたのはなぜか?』
その攻撃で西方の前衛陣地を駆逐するためです。
>257
へたれ清国軍に勝った際の経験を、世界最強を自負するロシア軍相手にそのまま当てはめては危険です。
262 :
日本@名無史さん:02/01/20 11:28
>へタレ清国軍に勝った経験を・・・・
白襷隊のことだね。
仕事の優先順位は間違いなく『迅速な旅順「占領」』(252)
間違いなく迅速な旅順艦隊の無力化(260)
「間違いなく」が対立していて、論点が明確ですね。
252の「間違いなく」の論拠は、06月24日の満州軍総司令官から第三軍へ
の訓令だと明記しました。260の論拠の明記を願います。
06月24日訓令「第三軍は、全般作戦上なるべく速やかに旅順を攻略せよ」
>257日清戦役でどうやって落したかを把握して言ってるのか?
日清戦役と日露戦役とで、攻撃方法を比較する事の意味が分かりません。
265 :
日本@名無史さん:02/01/20 11:41
>260 星野大佐の提言を受け入れて二百三高地を攻撃したはずだが?
266 :
日本@名無史さん:02/01/20 11:43
>>264 司令官の心理状況を性格に把握することに意味がある。
まさかあなたは乃木を調べていながら彼の過去の戦い方法を
交互に比較しないのですから そのような意味がわからないのですね。
267 :
日本@名無史さん:02/01/20 11:52
>>263 井上少佐の話と星野大佐の話等を参照すると面白いことが
解る。乃木司令部のなかで旅順における目的が定められていない。
これは11/13日の会議にてやっと幕僚間の意識が統一されること
になる。つまりそれまではてんでばらばらだったわけで、乃木が
統率者としての力量を疑う根拠となるねぇ。
268 :
日本@名無史さん:02/01/20 11:56
最終的に11/13の会議で決定したことは西北正面に向けず、
岩山の重防御陣地であり、また最初6月の決定事項を無闇に
守り、状況の変化に機敏にしていない東正面攻撃なのでした。
なしてこの会議でとりあえず海軍の要請たる203高地攻勢
に目を向けなかったのかは乃木が頑固者であったとしか
考えれらない。これは児玉との演習結果でもいえる。
また服装にしても自分だけは特注品を着ていたところを
鑑みるとかなりこだわりを持っている方でしょうね。
269 :
日本@名無史さん:02/01/20 12:06
>>268 その割にはカーキ色の軍服は日露戦争の戦勝服といって
固定化しましたよね。
写真で大山元帥と乃木大将を比べてみると大山元帥の
方が素朴に見える<W
>>269 軍隊(組織)の中で自分だけ特注の服を着るという行為は
組織の中で一体感を生み出すかといえば生み出さないでしょうね。
271 :
日本@名無史さん:02/01/20 12:11
>267
それは興味深い話ですね。
しかしながら、267で貴方自身が『
>>263』とされているわけですから、
263でお願いした「論拠」を示していただくのが、まず手始めの事と思います。
>>263「間違いなく」が対立していて、論点が明確ですね。252の「間違い
なく」の論拠は、06月24日の満州軍総司令官から第三軍への訓令だと明記しま
した。260の論拠の明記を願います。
将校の服は自費制のため、原則的には服制に準じつつ、自由裁量
の部分がかなりありました(「近代戦の先駆 日露戦争」)。
270のキモは、「自分だけ特注の服を着る」という所でしょうか
ら、この制度そのものが害があるという意見ですね。
9/5の会議でしょ。星野大佐の提言って 軍板の203高地スレ
で書いてありました。
どの写真ですか?
読売新聞社編纂の日露戦争カラードキュメント・バートンホームズ写真集
を参照しております。
乃木の服装は度が過ぎているよ。特にブーツ。
278 :
日本@名無史さん:02/01/20 12:49
>>276 明治38年 7月の山縣参謀総長が満州軍に来たときの
服を一同の服を見ればわかる。
279 :
日本@名無史さん:02/01/20 18:42
>278それを見れば、何がわかるのですか。特注品だということがわかると
いうのですか?他将は肋骨服こそ着用していませんが、制度として「将校は
自費制」なのですから、当然他将も特注品です。
一体感ということですが、第三軍将校にも肋骨服の将校は勿論居ます。第九
師団の大島将軍も肋骨服の写真があります。はっきり言ってバラバラですよ。
乃木のみの特異点というものではないと思います。
服装の話題は派生的に生じたものですから、本題に戻りましょう。
267の『井上少佐の話と星野大佐の話等』が260の論拠ということでしょうか。
どのような『話等』なのでしょうか。参考資料名もお聞かせ下さい。
280 :
日本@名無史さん:02/01/20 18:51
>279 それが結構重要なんだよ。乃木のDQN振りがよくわかるよ。
しかし あなたはこんな有名な写真も見たこと無いらしいね。
その写真をみれば、何がわかるというのですか?
282 :
日本@名無史さん:02/01/20 19:00
>>274に書いてあるとおり星野大佐は9/5の参謀長会議の席上にて
当面する目的は要塞の攻略ではなく港内にあるロシア艦隊の
撃滅こそ優先される課題とし、それいには旅順市街の背面にある
203高地は市街と港が望める唯一の高地で砲撃の観測地点としては
最適地である。という203高地攻略を提言している。
そしてそれは採択されている。だからこそ、9月攻勢は
傷がいえない東北正面より第1師団担当の西北面が主攻勢面と
なったのです。
283 :
日本@名無史さん:02/01/20 19:01
>280
服装で乃木をDQN扱いするわけ?だったら、
兵児帯巻いて脇差ぶち込んでた秋山なんかはどうなるんだよ(藁
反論できないからって、あくまで話を逸らそうとする態度は見苦しいYO!
乃木だけが明治38年7月半ばにも関わらず、助骨服を着ている。
彼はDQNだよ。あぁ精神的にいっちゃてるね。
>>283 お前無知だから無視。
陸軍戦時服服制(勅令196号)の由来を知れば、あの写真をみて
彼がDQNってのがわかるよ。まぁ見てみなって。
いえいえ、もちろん見たことありますよ。というか今。
しかしこれを見て何がわかるんですか?乃木の服が特注品だと判るのですか?
287 :
日本@名無史さん:02/01/20 19:16
>284写真を見て、精神状態が判るというのは、特殊能力か、または専門的
かつ長期の想像を絶する訓練が必要と思われます。
いずれにせよ、一般的な説明として不適切と思われます。別の説明方法は
ありませんか?
あと、肋骨服自体は、たしか日露戦争ギリギリまで普通に使われ
ていたと記憶しているのですが。
陸軍戦時服服制(勅令196号)の由来を知っておられますか
そしてその勅令が制定された時期。
>287
まあまあ。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で、乃木は無能だっつー先入観に凝り固まっているから、
こんなヘンテコな珍説が出てくるんでしょ。
>>290 べたな煽り。彼の行ったことを調べてない君はだまっておれ。
>289
知りません。どんなものですか? しばらく、本題は棚上げとしましょう。
>>291悪いね。
「乃木の服装を見る」 という行為と、
「乃木が無能だとわかる」 という行為との間にどのような論理的連関が
あるのか、ベタな煽りしかできない漏れには正直理解不能なのだよ(藁
明治38年2月22日第3軍司令部乃木大将は
全将兵の服装をカーキ色に統一し軍靴も同色編上靴に
すべきだとの意見を陸軍省に提出した。
この意見に基づき、陸軍省は軍服の改正を決め、
明治38年7月11日カーキ色の軍服を戦時服とする
陸軍戦時服服制(勅令196号)が制定された。
この服制は翌年には戦時平時を通して陸軍軍服制
に繋がっていく。
大山巌元帥が経費削減によいということで献策を
出していたのと同様と思われるが、乃木大将は日露戦争の
戦勝服たるカーキ色の服を精神要素を付加すべしと主張した。
あの写真をみて彼だけが助骨服?はあ?自分で軍服制を主張して
自分だけが助骨服?ハァ?と思うわけですけどね。
295 :
日本@名無史さん:02/01/20 19:43
>290 私も、もちろん珍説というか承伏できない説だと思っておりますが、
根拠がある説のようです。拝見させて頂きましょう。
実際、服制については私、知りません。それが判るのならば、楽しい事じゃ
ありませんか。
297 :
日本@名無史さん:02/01/20 19:48
>>296 乃木大将って有言不実行な方なんですね<W
298 :
日本@名無史さん:02/01/20 19:51
>>297 有言不実行というかとんちんかん?!でしょうね
自分の行動が回りにどういう風に見られているかを理解していない。
それは自分の行動を理解していないのと違うでしょうか。
299 :
日本@名無史さん:02/01/20 19:57
>>298精神的に逝っているというのはそういう事ですか?
たしかに逝ってしまってますね<W
ははあ、なるほど。
しかし提言を行っていた時は、当時の服制に合致していたわけで、
全然問題ないのですね。
07月11日制定規定に、26日に沿っていないことが、精神的に
問題あるという根拠なわけですか。
301 :
日本@名無史さん:02/01/20 20:07
>>300 自分で2月の段階で主張しておきながら、7月の段階で制定された
後でもあの服装ってのはおかしいでしょう?(頭が)
302 :
日本@名無史さん:02/01/20 20:09
というか頑固者だったらしいから、自分の服装だけは特別
だったのでしょうね。しかし人に押し付けておいて自分だけ
が違う服装というのはねぇ。
303 :
日本@名無史さん:02/01/20 20:11
乃木大将って旅順攻略の大将でしょ?こんなDQNなことやっていたの
ですか?
彼が戦後残した功績は他にもあるのでしょうか?
304 :
日本@名無史さん:02/01/20 20:14
>303 精神主義
学習院時代は肋骨服でない軍服写真となっている訳が判りました。
明治天皇が亡くなった後、皇居を辞す馬上の写真も普通の軍服です。……制定以後は別に肋骨服に固執せずに居ると思いますが。
38年07月を境にして、パッと変われなかったことをもって精神的
云々とはいささか苦笑を禁じ得ません。
306 :
日本@名無史さん:02/01/20 20:18
>>305 社会でもそうだが、自分で言ったことはまず
自分で実行しないと周りは付いていかない。2月の段階から
彼がそうしていたならば、指導力があると言えるが、7月
に入ってからもあの体たらくでは疑って彼を見た方がよい。
307 :
日本@名無史さん:02/01/20 20:19
>>306 というか勅令をあの時点では知らなかったのではないでしょうか?
308 :
日本@名無史さん:02/01/20 20:22
いずれにせよ、彼の言動と行動は一致しない。
309 :
日本@名無史さん:02/01/20 20:27
>308 それは旅順攻略時の不手際も言えることでしょうか?
310 :
日本@名無史さん:02/01/20 20:31
308だけど。恐らく彼が行おうとした事と、現実に3軍司令部との
差異は彼のこういった行動が基になっていると考えられます。
311 :
日本@名無史さん:02/01/20 20:38
26日の写真は、他将七名も服装は統一されていないように見えるのですが?
戦勝記念に10月頃に撮影した写真を幾枚か見ると、被写体の服装はバラバラ
です。勅令196号で、戦地で一斉に服を変更するというのが出来なかっただけ
ではないでしょうか?
312 :
日本@名無史さん:02/01/20 20:40
>>311 カーキ色の服装でないのは2月にカーキ色に統一しよう!と提言した
乃木だけ。
313 :
日本@名無史さん:02/01/20 20:43
あはは笑った。司馬が凱旋の時に汚い軍服と言ったのはこの写真
が根拠なんでしょうね。
ここの前半のスレの方ってアンチ司馬なのでしょうか?
316 :
日本@名無史さん:02/01/20 20:50
アンチ司馬=アンチ乃木=DQN どっちもどっち
そう、戦争中の提言なわけですから。各員ともに、被服は開戦当初のまま
だったのでしょう。
戦争終わって、内地に帰還した後もずっとそうだった訳ではないし、戦中の
乃木のカーキ服の写真は、記憶にありません。単に間に合わなかっただけなの
では?
318 :
日本@名無史さん:02/01/20 21:16
>>317 他の大山、奥や児玉、伊地知ですら両方着ているよ。
乃木だけ助骨服に固執しております。彼はこだわりがあるねぇ。
319 :
日本@名無史さん:02/01/20 21:25
>318 乃木の、戦時中机に向かっている写真を見たことありませんか?
これは色は黒ですが、肋骨服ではないですよ。
数はもちろん、種類もいくつか持っていたと思います。しかし肋骨服への
こだわりは有ったでしょうね。
320 :
日本@名無史さん:02/01/20 21:33
>319 法庫門の写真なら見ていますが、これも助骨服。
いずれにせよ彼の言動と行動は一致しない。しかも
自分の行動が相手にどういう印象を与えているかを認識していないと
読み取れます。
321 :
日本@名無史さん:02/01/20 21:50
法庫門の写真は、室内で眼鏡を掛けているものですね。
それではなく、屋外で眼鏡を掛けていない写真です。「読売新聞社編・
日露戦争カラードキュメント・バートン・ホームズ写真集」52Pです。
322 :
日本@名無史さん:02/01/20 21:55
>>ALL だれもが同じ本を持っているとは思うなよ。
>>322勿論です。乃木が肋骨服以外にも服を持っているという証拠として、
写真が掲載されている誌名・場所を述べているのみです。
同じ本を持て、という意図はありません。とりあえずは「写真がある」
という証拠として述べたまで、です。いずれかご覧になられる際の参考までに。
324 :
日本@名無史さん:02/01/21 01:17
さて、服装の話も一段落したようですから、254に戻りましょう。
267の『井上少佐の話と星野大佐の話等』が254の論拠ということでしょうか。
私が読んでいる「世界史としての日露戦争(大江氏著)」でも、「星野第一
師団参謀長の提議」が記述されています。しかしその提議の理由として挙げて
いるのは、「艦隊撃滅のため(港が一望できる高地の奪取)」ではありません。
理由として、『二百三高地から旅順要塞中心部である松樹山・二龍山の側面
を縦射できること』が挙げられています。二百三高地上から旅順港内が一望
できることは、この前進堡塁攻略戦の前に某中佐が実地偵察したときには気が
まわらず、南山坡山攻略後にはじめて確認できたことだった、としています。
『井上少佐の話と星野大佐の話等』というのは、どんなものですか?
325 :
日本@名無史さん:02/01/22 00:52
324は「世界史としての日露戦争」に紹介されている「星野参謀長の提議」
に関する部分の抜き書きです。前後の引用文献を見ると、この部分の参考文献
は「日露戦争秘史 旅順を落とすまで」(佐藤鋼次郎・あけぼの社1924)だ
と思われます。
『井上少佐の話と星野大佐の話等』というのは、どんなもので、どんな文献
に載っているものでしょうか。
名将 日露戦争回顧録だったけ?井上幾太郎の個人的な話が載っているのは、
平塚氏、学研の日露戦争に載っていますな。
児島襄の「日露戦争」では、9月の前進陣地攻撃時に203高地をも目標に定めたのは、
伊知地の発案のように書いていますね。
公刊戦史ではどのように記述されているのでしょうか?
9/5のは参謀会議ですから・・・。
>>324 この話と第2回攻撃後の判断を見る限り、第3軍は行き当たりばったりで戦争を
していたように感じますね。
330 :
日本@名無史さん:02/01/22 09:23
>326 学研M文庫の井上第三軍参謀の話が、252に対する254の論拠ですか?
252 :仕事の優先順位と言えば、間違いなく『迅速な旅順「占領」』です
254 :優先順位は間違いなく迅速な旅順艦隊の無力化 手段として旅順攻略
学研M文庫190〜192の談話、彼は冒頭こう言っているのですが。
「第三軍の任務は『なるべく速やかに旅順要塞を攻略するにあり』、こういう
命令であります。──なるべき速やかに旅順を攻略して第三軍は遼陽の攻撃に
加われ、またバ艦隊の来ぬ前に敵の海軍根拠地を覆せと……」
省略部分においても、井上参謀は「艦隊の無力化」なんて一言も言ってい
ません。
330追加
一言も言っていないというのは、このM文庫中190〜192についてですよ。
念のため。それと、引用中の「なるべき」ってのは「なるべく」の誤りです。
学研文庫の星野大佐の話はP227に載っていますよ。
井上幾太郎少佐と比較してさ、てんでばらばらなんだよね。第三軍司令部内って。
333 :
日本@名無史さん:02/01/22 22:06
星野大佐は、第三軍参謀ではありませんよ。
>333 ha?!
>334 えっ?
>332 『てんでばらばらなんだよね。第三軍司令部内』
学研文庫のP252に載っているではありませんか。
「〜またほとんど上下一致、成功の確信を持ってかかったのです」
(11月中旬の状況・「名将回顧・日露大戦秘史」井上幾太郎談話より)
>336 ha? 日野軍医の話をしましょうか?
大沢氏の話とかもある。
339 :
日本@名無史さん:02/01/22 22:26
いやいや、「星野大佐」が「第三軍司令部内」とどういう関わりがあるのか
まずハッキリさせましょう。
「星野大佐は第三軍参謀ではない」というのに「ha!?」とはどういう事?
あなたの考えでは参謀会議で採択したのって軍司令部に
関係ないらしいね。そうなんだ・・参謀会議の意味ないじゃん。
341 :
日本@名無史さん:02/01/22 22:32
どうやら、第三軍参謀ではないということは承知頂けたようですね。
342 :
日本@名無史さん:02/01/22 22:32
ここのスレって日本史板名物の田原総一郎と同じだね。
343 :
日本@名無史さん:02/01/22 22:33
だれも第3軍参謀なんて話はしてないが?
あはは。しかし論点の拡散を防ぐというのは、大事な事と思います。
345 :
日本@名無史さん:02/01/22 22:38
>342 嶽原の乃木無能を追求するスレ?
346 :
日本@名無史さん:02/01/22 22:39
まずは近場の論点に戻りましょうか。
>326 学研M文庫の井上第三軍参謀の話が、252に対する254の論拠ですか?
252 :仕事の優先順位と言えば、間違いなく『迅速な旅順「占領」』です
254 :優先順位は間違いなく迅速な旅順艦隊の無力化 手段として旅順攻略
学研M文庫190〜192の談話、彼は冒頭こう言っているのですが。
「第三軍の任務は『なるべく速やかに旅順要塞を攻略するにあり』、こういう
命令であります。──なるべく速やかに旅順を攻略して第三軍は遼陽の攻撃に
加われ、またバ艦隊の来ぬ前に敵の海軍根拠地を覆せと……」
井上参謀は「艦隊の無力化」なんて一言も言っていません。論拠として不適
切だと思われます。
近頃、ソロプレイでなくなり、何よりです。
349 :
日本@名無史さん:02/01/22 22:47
>>347 は
>>267の井上少佐の意見と星野大佐の提言がばらばら
という意味を理解していないバカですね。
350 :
日本@名無史さん:02/01/22 22:48
嶽原って学生だろ?だったら乃木が名将って思うのは仕方ないよ。
351 :
日本@名無史さん:02/01/22 22:49
>350 同意 乃木のような上司持ったら大変だぜ?<W
結構いるんだよなぁ。
352 :
日本@名無史さん:02/01/22 22:52
盲目的に乃木が名将って信じるてると見なくなるものが多い。
一途というのは若いからこそできるもんだね。
353 :
日本@名無史さん:02/01/22 22:52
>349
347では、「第三軍の仕事の優先順位」に対する二つの論の、論拠を求めて
おります。
井上少佐(第三軍参謀)の意見と、星野大佐(第一師団参謀)の提言が
ばらばらだ、という論点も興味深いところですがね。
355 :
日本@名無史さん:02/01/22 22:56
なぜ第3軍司令部が203高地を攻めたと思う?
356 :
日本@名無史さん:02/01/22 22:57
なぜ第3軍司令部が第3回総攻撃後半で203高地に対し
予備兵力や他師団の大隊まで転用したか考えたことあるか?
357 :
日本@名無史さん:02/01/22 22:58
でも203高地は要塞における重要陣地じゃないというのが桑原の意見だから仕方ないな。
358 :
日本@名無史さん:02/01/22 23:00
普通第一回総攻撃で現場を見ていたら、突撃やめさせるよな。
まるで、5万円持っていてバクチで勝てそうだからどんどん
つぎ込むのに似ている。一回目は1万5千円損失。
359 :
日本@名無史さん:02/01/22 23:02
ブラックジャックで1万6千円損したら、スロットやルーレット
に移ろうとするが、同じディーラーに対してまたバクチをするのが
乃木流
1〜3分程度の小刻みな発言ばかりで苦笑を禁じ得ませんでしたが、
352、353、354が同時刻の発言ですね。とても新鮮。
361 :
日本@名無史さん:02/01/22 23:03
>359 ディーラーは変えないんですね。<W 札の出し方は換えるけど、
それだけですね。
363 :
日本@名無史さん:02/01/22 23:06
364 :
日本@名無史さん:02/01/22 23:20
議論というか嶽原氏の論文が見たいですね。どこかからか出版しないのですか?
359・60・61のように、前後に別話題が挟み込んだり、
362のように、引用があと1〜2個続くのをフォローしきれなかったり、
そういうところが有って然るべきなのですよ。各人が、各々の思惑をもって
各々の端末から書き込むのですから。
まあ、同一端末から書き込んでいる場合はたいてい不自然となります。
366 :
日本@名無史さん:02/01/22 23:31
厨房にレスする奴をまた厨房という。
つか、ID復活して欲しいやね、マジで。
いやいや、上でも言われていました(笑)が、ソロプレイよりもなんぼか
ましですよ。
まあ、約半年前に激論してた時も、乃木無能論の論客はせいぜい2−3人。
こんな短時間で4つも5つもレスが連続する時点で、不自然極まりない訳です。
パッタリ、と止まってしまいました。
あちゃあ、やっぱり指摘しないでおいた方が楽しかったかも、と
後悔しています。あの同時刻コンボで、ついつい……。服制の話など
新しい知らなかったことが判って楽しかったですし、正直、後悔……。
大江氏の近書で述べられている星野大佐の提言理由なども、なかなか
興味深い論点となると思っていたのですがね。
まあ、良いじゃないですか。
また面白い発見があったら、是非教えてください。
ネタだけだよ。大本営参謀 大沢界雄の乃木がやる気をなくしたと聞いた
話はほんとかね。
井上参謀、星野参謀、日野軍医、大沢参謀、ただ名前の列挙でも詮無いこと
ですし、どんどん論点が変わっていくのは、幾多の過去スレの二の舞です。
順を追っていきましょう。
・井上第三軍参謀の話
・星野第一師団参謀長の話
・井上第三軍参謀の意見と星野第一師団参謀長の提言との食い違い
論点としては、ここらへんでしょうかね?
提案です。まずは事実関係の確認からしていきませんか。
まずは無味乾燥な事実関係の確認から入りたいと思うのですが。
例えば、旅順攻囲戦の流れ。私は、以下のように思っています。
事実関係に、何か問題点はありますか?
08月09日 旅順攻囲態勢成る
攻撃命令下令 08月17日
第一回総攻撃・08月19日〜24日(06日間 目的・要塞の陥落)
08月30日 軍会議により正攻法決定
09月01日 攻撃築城作業を開始
攻撃命令下令 09月17日
九月攻勢 ・09月19日〜23日(05日間 目的・西方前衛陣地の攻略)
10月01日 28糎榴弾砲射撃開始
攻撃命令下令 10月25日
第二回総攻撃・10月26日〜31日(07日間 目的・要塞の陥落)
攻撃命令下令 11月24日
第三回総攻撃・11月26日〜06日(11日間 目的・要塞の陥落→203高地攻略)
12月11日 旅順艦隊全滅確認
12月15日 コ少将戦死
十二月攻勢 ・12月18日〜01日(15日間 目的・要塞の陥落)
01月01日 降伏申し込み
すみません、間違いました。最後から二行目訂正です。
十二月攻勢 ・12月18日〜01日(15日間 目的・東北正面の三堡塁攻略)
この攻勢は、要塞の陥落を目的としたものではありませんでしたね。爆破
攻略成功の報告を聞いたのちも、陥落まであとしばらくは掛かると思ってい
たそうですから。
黄海海戦など海軍の絡みと満州軍方面の絡みの年表を出さない時点で
>>375はバカ
ちょっとそこまでは……。
連絡会議とかも入れなくてはいけないし。まあ旅順だけに限ってということで。
379 :
日本@名無史さん:02/01/24 07:09
>>378 旅順だけに限って→無意味 参謀本部が戦後編纂した間違いを
また犯すのか?バカか。
では、黄海海戦を入れる、と。
他には?
381 :
日本@名無史さん:02/01/24 07:19
>>380 満州軍方面の絡みと書いてあるのを読めないらしい。あと
児玉の第1段階作戦と第2段階作戦、どこでロシアと決戦をするか
の意図、それに対し 旅順攻略における大戦略の修正。
旅順攻囲前の攻略。 海軍重砲部隊による砲撃。黄海海戦。
第一回攻撃(8月)、第1回正攻攻撃 (9月) 第2回総攻撃(10月)
本によっては9月 10月は第2回攻撃と含まれている。
11月 第3回攻撃。203高地 第4回攻撃 12月 第5回攻撃。
11月攻勢と203高地攻勢は第3回に含まれる本もあり。
この間、満州軍方面では8月 10月、と何をやっていたかな?
>「参謀本部の誤り」
まあ、沼田氏著の「日露陸戦新史」を準公刊と認めていますし、補填されて
いるんじゃないですかね?
どうも、編纂途中で作業が中断した「幻の戦史」があるそうです……。
>381
いやあ、その全部は書けないでしょうよ。
段落が変わるのも、「省略されました・・・」も見苦しいし。
旅順に関わるものと決めると、何になると思いますか。
384 :
日本@名無史さん:02/01/24 07:27
1元的に物事を考えると歪む。司馬、児島、有坂は乃木無能派
で彼の指揮の欠点を調べ上げているが、桑原、福田は乃木本人の
立場から物事を見ている。
二十八は論外。武侠〜読んだが、1元的視野に囚われすぎ。
385 :
日本@名無史さん:02/01/24 07:29
>382 徳間文庫版を読んだが,しっかり上層司令部との紛糾は
ありませんでしたが?まさかそういうところは無視か?
>381
貴方が参考にされている学研M文庫の記述に準拠したつもりです。
本書では第一、二、三回の総攻撃については「総攻撃」攻撃下令
について逐一触れつつ、09月、12月攻勢については「総攻撃」とし
ていません。手頃、かつ双方所有しているものですし、これに準拠
しませんか。
387 :
日本@名無史さん:02/01/24 07:31
いやあ、その全部は書けないでしょうよ。
それじゃやめたら?
388 :
日本@名無史さん:02/01/24 07:32
私は結構参考にしているけど?8冊くらいかな?
まさか一冊の本だけ読んでいるかと思っているのか?
389 :
日本@名無史さん:02/01/24 07:33
桑田悦氏は乃木擁護と批判と両方しているね・
390 :
日本@名無史さん:02/01/24 07:34
>387 いやいや(笑)。ま、取捨選択の問題です。
>388 共通かつ、手頃なものとすると、どうしますね?
他の人も見る場所ですから、絶版でなく近年発行のもので。
392 :
日本@名無史さん:02/01/24 07:43
俺の持っている本は 坂之上の雲、児島本、学研、徳間文庫
編の参謀本部編日露戦争、学研の日露戦争、歴史読本別冊日露戦争
写真集、軍閥興亡史、日本の戦史(歴史と旅 別冊) 大江氏の
日本の参謀史等々。機密日露戦史は実家。
393 :
日本@名無史さん:02/01/24 07:45
追加、講談社20世紀全記録、リデルハート、間接アプローチ。
大国の興亡ポールケネディ、日露関連で情勢がわかるのは
これくらいだが?
坂の上の雲は小説ですから荷が勝ちすぎるでしょう。同一の記述があちこち
に飛ぶし、改訂箇所が幾箇所かあるようですから。
児島・徳間は絶版です。
学研も結構古くないですか?私は「旅順・奉天」は借りたのでちょっとこちらが不備です。
395 :
日本@名無史さん:02/01/24 07:53
学研M文庫が最も適しておりませんか?
去年の発行。旅順攻略戦の上巻で600円。
396 :
日本@名無史さん:02/01/24 07:54
旅順、奉天は有坂節全開だからあなたは読まれた方がよい。(俺は持ってない)
あと漫画の日露戦争があったな。
坂之上の雲でしか書いてない記述もある。個人的な談話等
は参考になるよ。殉死もね。
どの本もアテにはしない。でも全て参考にする。名将乃木本は
古本屋で売ってない。人気が無いからかね・・。
397 :
日本@名無史さん:02/01/24 07:55
>>395 参考にするもなにも、一冊の本で頼るのであれば
それ読め感想かけで終わり。意味ないからやめたら?
>397
いやいや、解釈どうこうの前の、事実関係の確認のためです。
9月攻勢を第二回総攻撃に含めるか否か、そんなことで応酬したく
ないのですよ。
400 :
日本@名無史さん:02/01/24 08:00
別の書き方をすればいいのに、なぜそんなにこだわる。
何月攻勢でいいでしょ?それぞれの攻勢にはそれぞれ
の主張が絡むことを理解していないか?
まさかあなたは資料を集めるだけのオタクか?
401 :
日本@名無史さん:02/01/24 08:03
公刊戦史では第2回総攻撃は9月攻勢だぜ?でも桑原本では
助攻となっている。それぞれにベクトルがあるよ。
>400 そこらへんを共通にしたいのですよ。無理ですかね?
記述や著者で選ぶとそういう問題が入ります。近年発行で入手し易いと
いう事で、学研M文庫の記述に準拠しませんか。
>396 「旅順・奉天」は読了しております。95年くらいの発行だったか?
付属鳥瞰図と年表がいい感じ。乃木に関する記述は凄かった……。
「名将 乃木希典」は古書店にはないでしょう……。というかどれほど
売れているのか(笑)?新人物往来社刊の桑原氏他著は結構見ますがね。
遼東半島の戦いと、同時期北方戦線の戦闘を追記して改訂。海軍重砲隊の
威嚇射撃は「攻囲網完成」の一部とします。
06月26日〜05日(目的:大連港安全確保・逆襲撃退)
07月25日〜30日(目的:遼東半島前進陣地の攻略)
08月07日〜09日(目的:東北方前衛陣地攻略・攻囲網完成)
第一回総攻撃・08月19日〜24日(目的:旅順要塞の陥落) 08/10黄海海戦
08月30日 軍会議により正攻法決定 08/25遼陽会戦
↓
09月01日 攻撃築城作業を開始 09/04遼陽占領
九月攻勢 ・09月19日〜23日(目的:西方前衛陣地の攻略)
09月24日 友安少将戦死
10月01日 28榴弾砲射撃を開始 10/08-15沙河会戦
第二回総攻撃・10月26日〜31日(目的:旅順要塞の陥落)
〜 〜 〜
406 :
日本@名無史さん:02/01/25 00:52
総攻撃の名称は避けたほうがいいっしょ?8月攻勢 9月攻勢 10月攻勢
11月攻勢 二百三高地攻勢 12月攻勢。
総攻撃というのは全戦線にわたっての攻撃なので無能な響きがしますな。
「攻勢」で統一しますか。
南山坡山攻略後に山上で敵情視察中に戦死した第一旅団長の記述は、
このレベルでの年表に入れるべきでしょうか。将軍戦死というのは、
12月のコ少将の戦死との釣り合いもあって入れてみましたが。
友安少将の死は重要だと思われ。
11月攻勢と203高地攻勢の区切りは、27日でよろしい?
26日の白襷隊夜襲が頓挫、27日0500頃に203高地への攻撃指向を
決定しているのですから。
改訂はまたいずれ。
9月攻勢にしても西方前衛陣地だけでなく、11師団も攻勢に
加わっているので助攻じゃなく総攻撃という解釈もあり。というかこちらの
方が論拠があると思う。
9月攻勢時の11師団の死傷者数は極めて少ないです。戦死09、負傷32。
牽制という程度に過ぎないと思い、助攻と見ましたが。
こうやって見ると、「攻勢」の文言はまさに至適といった感あり、です。
412 :
日本@名無史さん:02/01/31 02:38
9月攻勢の各師団ごとの話は、やや細かすぎると思います。
ちょっと置いときましょう。
上の大雑把な年表は、おおまかな事実関係の確認のみを主目的とします。
さて、8月攻勢と10月攻勢の目的を「要塞の陥落」としていますが、
これはおかしいでしょうか?単に「東北正面主防御線の攻略」とすべき?
413 :
日本@名無史さん:02/01/31 03:26
偉くなったつもりで、陛下の真似した人でしょ。
ロシアから日本を救ったのは、東郷さん。
>偉くなったつもりで、陛下の真似した
なに、それ?
415 :
日本@名無史さん:02/01/31 23:21
改訂しました。
06月26日〜05日 遼東半島東部の戦闘(目的:大連港安全確保・逆襲撃退)
07月25日〜30日 遼東半島中部の戦闘(目的:遼東半島前進陣地の攻略)
08月07日〜09日 旅順近郊の戦闘(目的:東北方前衛陣地攻略・攻囲網完成)
08月19日〜24日●八月攻勢(目的:東北方主防御線の攻略) 08/10黄海海戦
08月30日 軍会議により正攻法決定 08/25遼陽会戦
↓
09月01日 攻撃築城作業を開始 09/04遼陽占領
09月19日〜23日●九月攻勢(目的:西方前衛陣地の攻略)
09月24日 友安少将戦死
10月01日 28榴弾砲射撃を開始 10/08-15沙河会戦
10月26日〜31日●十月攻勢(目的:東北方主防御線の攻略)
11月26日 ●十一月攻勢(目的:東北方主防御線の攻略)
11月27日〜06日●二百三攻勢(目的:二百三高地の攻略)
12月11日 旅順艦隊の全滅を確認
12月15日 露軍コ少将戦死
12月18日〜01日●十二月攻勢(目的:東北方主防御線の攻略)
01月01日 降伏申し込み
416 :
日本@名無史さん:02/02/12 01:35
保存アゲ
417 :
日本@名無史さん:02/02/26 08:10
あげ
418 :
日本@名無史さん:02/02/26 23:42
w
419 :
日本@名無史さん:02/02/26 23:47
乃木元帥の最後の家が、東京六本木に現存しているが、
居間が半地下だったり、どうも暗いイメージを感じる。
善通寺周辺の旧跡が軍用地となってみる影もなくなっていたのを
復旧させたりしている。
422 :
日本@名無史さん:02/03/01 02:24
うーん。弾薬備蓄1日60発で総攻撃
>>20 秋月の乱の当時の乃木に対する評価 補足
乃木少佐は秋月の乱にて大阪鎮台に援兵を要請していた。
この点にて先輩の福原知勝大佐からの手紙
「敵人に向か一矢も放たず、しかしてまず助けを他に求むる者古より
未だ聞かざるところなり」
また仮に前原党の動きの呼応する備えのためであっても、山口県は
広島鎮台の管轄である。熊本鎮台に所属する第14連隊長心得とは
関係ない、先般足下の挙動において種種の悪声を来し、いささか、
長州人の面目にも関わってきている。と述べた。
>>68-74のほとんどがこの書き込んだ方の想定ですから
補足しておきましょう。
「状況判断」とは「任務を基礎として、自軍の状態・敵情・地形など諸々の
条件を勘案して、自分がこれから何をすべきかという最善の方策を求める」
当時の状況補足
乃木少佐は指揮下の3大隊のうち第1大隊を山鹿方面から南下させ、第3大隊、
第2大隊を高瀬方面から北上して隈本に向わせる計画を立てた。
第3大隊を先発隊として乃木少佐も第3大隊長吉松少佐、旗手河原少尉、大隊軍医
井上軍医、大隊副官渡辺大尉とともに進んだ。
西郷軍は乃木部隊の進出をしり、村田三介隊の5番大隊2番小隊、さらに
伊東直二が指揮する4番大隊9番小隊を派遣した。
2/22乃木隊は植木村に入り、兵を散開させ、斥候を出した先で村民3人が大荷物を
担いで側道を抜けようとするのを発見して捉えた。付近に西郷軍がおり、その糧食を
届にいくという荷物は大量の握り飯の包みであった。
乃木隊はその握り飯を没収して夕食に当て、村民は放逐した。
その後,西郷軍の村田三介隊による攻撃が始まる。
戦闘の前に西郷軍が乃木隊を補足攻撃しようとする意図は村民の糧食を
届に行くというという事で明確であったにも関わらず、それを自体の夕食に宛て、
そのまま「彼のなす所を待つ」というのは愚の骨頂である。
>>74 >結論として、「両日の乃木連隊の戦闘において軍事的に問題と思われる点と
>して、木葉からの退却に失敗した事が挙げられる。しかし連隊旗を紛失した植
>木戦では全く問題点は見受けられない」と考え、「軍旗紛失をもって乃木は西
>南戦争の時から軍事的無能者だったことは明白」という指摘は全く適当でない
>ものと考える。
よって↑はおかしい。
425 :
日本@名無史さん:02/03/18 03:46
あれまあ、懐かしい所を……。
>『戦闘の前に西郷軍が乃木隊を補足(ママ)攻撃しようとする意図は村民
の糧食を届に行くというという事で明確であった(
>>424)』
敵糧秣が届けられるという事で、なぜ捕捉攻撃という、敵軍の行動意図が
明確になるのか、判りません。なぜ明確になるのですか?捕捉攻撃に出ると
は限りませんよ。もしかしたらあちらも持久を目論んでいるかも知れません。
敵が他の行動を採らず捕捉攻撃に向かうということが、なぜ糧秣の存在で
判明してしまうのですか?
>『そのまま「彼のなす所を待つ」というのは愚の骨頂である。(
>>424)』
そこに薩軍が居ることは斥候によりすでに判明しており、乃木連隊がその
場所に散兵線を張ったのは、それによる敵情把握によるものです。
乃木連隊は、もちろん薩軍進出の想定もして散兵線を張り、火器統制の確認
や着剣命令、被発見を防ぐ注意事項などを与えて既に備えていた状況です。
情報により敵の存在を知り、敵襲を予期し、遅滞行動を念頭に散兵線を張っ
て、既に敵襲を待ち備えていた状況に、敵の糧秣が引っかかっただけだと言え
ると思います。
>>423 その後、福原は乃木との手紙のやり取りをしていますね。
結局、乃木の意に納得し激励の手紙を送ったと言われてます。福原
書簡の事を挙げ、それをもって評価を論されるならば、その顛末(福
原は納得した)にも触れられねばならないと思います。
福原が非難の手紙を出して、それっきりではないのですからね。
427 :
日本@名無史さん:02/03/18 04:01
おや。この辺の資料というのが、噂の中央乃木会とかがだしている
出版物ですか?
あ、いや。失礼。珍しいスレがあがっているなと思ったもので。
もっとやってくださいよ
「補足」などと不適切な言い方は止め、はっきり「反論」「訂正を求める」
などとお書きになられたら宜しいかと存じます。
冒頭に「補足」とし最後に「結論はおかしい」とする文章形態は珍妙です。
>427
そうです。当方(嶽原)はかなり重宝しました。
>428
400オチしてもう終わりだろうな、と思っていたら思いがけず反論が
寄せられておりましたので、アゲました。サゲでやってて倉庫行き
というのも変な終わり方ですのでね。
>敵糧秣が届けられるという事で、なぜ捕捉攻撃という、敵軍の行動意図が
>明確になるのか、判りません。なぜ明確になるのですか?
なぜ、植木村の村民が握り飯を西郷軍に持っていこうとしたか?
また、その量を測り知れば前もって敵軍の規模が把握できる。
そして熊本城攻略が命題の西郷軍の一部がわざわざ植木近辺まで
来ているというのがどんな目的かは少し考えれば把握できますが?
西郷軍が握り飯が植木村から届けられなかったことから、乃木部隊が
植木村にいる、もしくは少し前に居たという証になる。
その握り飯を夕食に宛てて其の村で敵の出方を待つというのは、
敵は乃木部隊の行動を把握しているのに対してかなり危険。
>乃木連隊は、もちろん薩軍進出の想定……
想定してたら、それを夕食にあてて自部隊を休養状態に持っていくでしょうか??
不意打ちを食らって、あたふた逃げたというのが実情のようです。
>情報により敵の存在を知り、敵襲を予期し、遅滞行動を念頭に……
?乃木部隊の目的は熊本城への全員強行入城すべしであって、
遅退行動が目的なんですか??
>乃木の意に納得し激励の手紙を送ったと言われてます。福原
>書簡の事を挙げ、それをもって評価を論されるならば、その顛末(福
>原は納得した)にも触れられねばならないと思います。
12/21の福原大佐の書簡では乃木の心情は了解しましたが、納得は
していませんけど?納得されたというのはどの文をもって判断されたのですか?
第三者の方の把握が簡単になるでしょうから、コテハンを名乗ります。
431氏にも、ROM者のためにコテハンを名乗られることをお勧めします。
>>431 >>敵糧秣が届けられるという事で、なぜ捕捉攻撃という、敵軍の行動意図が
明確になるのか、判りません。なぜ明確になるのですか?
>貴答
なぜ、植木村の村民が握り飯を西郷軍に持っていこうとしたか?
また、その量を測り知れば前もって敵軍の規模が把握できる。
そして熊本城攻略が命題の西郷軍の一部がわざわざ植木近辺まで
来ているというのがどんな目的かは少し考えれば把握できますが?
糧秣の量で判るのは「規模」?貴方は「補足攻撃」という敵軍の行動意図が
明確になる、と述べているのです。答えになっておりません。
奪取した糧秣が、敵軍の全てを対象にしたものか一部を対象にしたものかも
判りません。あなたが言われる「敵の規模」というのは、植木の敵軍全体です
か?一部ですか?それをどこで判断すると言われるのですか?
戻ります。お答え下さい。
『敵糧秣が届けられるという事で、なぜ捕捉攻撃という、敵軍の行動意図が
明確になるのか、判りません。なぜ明確になるのですか?』
加えてお聞きします。
『貴方が言われる、「糧秣量を測り知ることで把握できる敵軍の規模」とい
うのは、当面の相手である植木薩軍の全体ですか?一部ですか?それをど
こで判断できますか?』
さらに「熊本城攻略が命題の西郷軍の一部が植木まで来ている……ど
んな目的かは少し考えれば」、と述べられていますが、これは薩軍の意
図が分かっていれば、という前提の話になっています。
当時は薩軍の意図は全く判明していません。熊本を攻略しようとして
いるのか、北上しようとしているのか、意図不明の西郷軍の一部が植木
に来ているのが判っているだけです。北上部隊の前衛か?包囲部隊の前
哨か?どちらの可能性もあります。
貴方は、事後判明したことを当時も判っていたという前提で、当時の
人間の対応を非難しています。
435 :
日本@名無史さん:02/03/18 22:58
>>431 >?乃木部隊の目的は熊本城への全員強行入城すべしであって、
> 遅退行動が目的なんですか??
仮にそのような指令が出ていたとしても、目の前に規模不明の敵が
いると判った時点で遅滞作戦に移るのは常識的判断と思われ。
>奪取した糧秣が、敵軍の全てを対象にしたものか一部を対象にしたものかも
>判りません。あなたが言われる「敵の規模」というのは、植木の敵軍全体です
>か?一部ですか?それをどこで判断すると言われるのですか?
村民3人が担いでって書いているのが目に入らないのか。
貴方は人のレスを読まない方ですね。
西郷軍全体の糧食が村民3人で担げるほどなのですね。貴方が考えるには。
>薩軍の意図は全く判明していません。熊本を攻略しようとして
>いるのか、北上しようとしているのか、意図不明の西郷軍の一部が植木
>に来ているのが判っているだけです。北上部隊の前衛か?包囲部隊の前
>哨か?どちらの可能性もあります。
であるならば、当初の命令どおり熊本城への全員強行入城すべしを
なぜしなかったのでしょうかね。少なくとも乃木連隊主力は乃木部隊の前方に
位置してましたよ。兵力を分散させたまま、敵兵力の真っ只中におるのは
どうですか?
>目の前に規模不明の敵・・・。
ある程度の規模は把握できますって。もし熊本城が落城していて北上すると
確証できるくらいの兵力が来たら、乃木が其の場所にとどまるのは危険。
439 :
日本@名無史さん:02/03/18 23:43
440 :
日本@名無史さん:02/03/18 23:50
>>69 乃木の退却2
>まず、任務は「熊本城への速やかな入城」であるが、既に城は包囲されてい
>る。突破入城を果たしたとしても、甚大な被害を被ることは明白であり、任務
>達成の意味がない
>>434 当時は薩軍の意図は全く判明していません。熊本を攻略しようとして
>いるのか、北上しようとしているのか、意図不明の西郷軍の一部が植木
>に来ているのが判っているだけです。北上部隊の前衛か?包囲部隊の前
>哨か?どちらの可能性もあります。
2枚舌?それとも攻略しない城を包囲するのは極普通のことですか?
>>436 あなたは431で、地元民が運べるだけの糧秣の量を推し量る事で植木の敵軍
の規模が判るだろう、と言っておられましたね。その糧秣の量は、あなたが
436で言われたとおり三名の地元民が運んでいた程度のものです。
植木薩軍の規模を推し量る、何の根拠にもなりません。
>>437 『少なくとも乃木連隊主力は乃木部隊の前方に位置してましたよ。
兵力を分散させたまま、敵兵力の真っ只中におるのは どうですか? 』
文意が全く判りません。
連隊主力は乃木部隊の「前方」でなく「後方」です。未到達です。
植木の散兵線に到達していた部隊は連隊の一部、200〜300名です。
山鹿の敵軍の動静を勘案して、抗戦をうち切る計算もしていたようで
す。徒に敵のまっただ中にいたわけではありません。
>>440 『それとも攻略しない城を包囲するのは極普通のことですか? 』
鹿児島から北上してくる薩軍が熊本鎮台を囲むのは、当然考えられる
ことです。得られた情報も、そのとおりのものでした。
しかし、薩軍が断固攻略の意図をもつものか、一部攻囲のまま主力が
北上を続けるかどうかは、官軍側には全く予見不可能です。
『2枚舌?』
当方の書き込みの何処を指摘されての言葉か判りません。
>424
まだお答えになられてません。
『敵糧秣が届けられるという事で、なぜ捕捉攻撃という、敵軍の行動意図が
明確になるのか、判りません。なぜ明確になるのですか?』
加えてお聞きした、
『貴方が言われる、「糧秣量を測り知ることで把握できる敵軍の規模」とい
うのは、当面の相手である植木薩軍の全体ですか?一部ですか?それをど
こで判断できますか?』
への解答は、「村人三名が担げるほど(
>>436)」でよろしいのですか?
しかしながら、三名が運べる程度の糧秣の量など、植木薩軍の規模を測り
知ることの根拠になろうはずもありません。
つまり、436を書き込み時は、貴方も植木薩軍のごく一部しか測り知ること
が出来ないとお考えと見受けます。
しかし貴方は
>>431で、
『量を測り知れば前もって敵軍の規模が把握できる。』と述べております。
431書き込み時は、三名の担げる握り飯の量を根拠として敵軍の規模を把握
できるとお考えのようでしたが。
431と436で、貴方は相反することを主張されています。
後に書き込まれた436を以て、431の当該部主張点
『その量を測り知れば前もって敵軍の規模が把握できる』を撤回されたと
判断します。
>>乃木連隊は、もちろん薩軍進出の想定……
>貴答(
>>431)
想定してたら、それを夕食にあてて自部隊を休養状態に持っていくでしょう
か??不意打ちを食らって、あたふた逃げたというのが実情のようです。
想定していたからこそ、実際に、薩軍の切り込みを散兵線からの一斉射撃で
何度も撃退しているのです。
「攻撃を掛ける敵兵を二時間退けた」戦闘経過を、「不意打ち食らってあた
ふた逃げた」とする表現は、全く不適切なものです。
>>情報により敵の存在を知り、敵襲を予期し、遅滞行動を念頭に……
>貴答(
>>431)
?乃木部隊の目的は熊本城への全員強行入城すべしであって、
遅退行動が目的なんですか??
熊本城北方10kmの植木で敵と接触、城は包囲されている情報を得ている。
この状況で、命令だからと強行入城を図ったら全滅も有り得ます。
この状況で遊軍化した孤立部隊の採るべき方策は、全滅を賭して命令に従う
ことでなく、現位置を固守することでもなく、いずれ来る官軍主力の南下を援
護することです。
孤立部隊が遅滞行動を実行した(22日植木で抗戦、23日木葉で抗戦、25日高
瀬で抗戦)ことで、官軍主力の熊本県下への侵入(南関入り)は全く抵抗を受
けずに済みました。
447 :
日本@名無史さん:02/03/19 03:49
どら。別スレでお薦めの中央乃木会?の本、買ってみようかしら
448 :
日本@名無史さん:02/03/19 15:32
>>447 普通の書店にはないんですよこれが。
もしあなたが首都圏にお住まいなら、
東京の乃木坂(大江戸線に駅があります)にある乃木神社の社務所で売ってました。
その他の全国にある乃木関係の神社・史跡ではどうだかわかりませんが。
449 :
日本@名無史さん:02/03/19 16:16
>>448 大江戸線じゃなくて営団千代田線でした。
『名将 乃木希典』は中央乃木会のだした乃木大将のプロパガンダ本である。
いわゆるトンデモ本で、レトリックは稚拙で、情報の根拠となる出典が不明瞭、
まるで中学生の文章
>>450 ……(
>>396)で誰かが言っていた言葉を贈ります。
「どの本もアテにはしない。でも全て参考にする。」
>>448 山口県長府の乃木神社では売っていました。
多分、伏見・善通寺・函館・那須の別地でも入手可能と思われます。
>熊本城北方10kmの植木で敵と接触、城は包囲されている情報を得ている。
>>58 >22日、第十四連隊主力は南関を出て高瀬に至り、行軍で疲弊した兵を休ませ
>た。更に木葉に進み、熊本完全包囲の情報を受ける。
ちがうね。
>斥候の報告により植木に薩軍が居ないことを知り、
渡辺中尉が将校斥候となり植木に付いたとき、薩軍一個中隊が休憩していた
はずだが?
>この状況で遊軍化した孤立部隊の採るべき方策
なぜ遊軍化し、孤立部隊になってしまったのでしょう?
なぜ津下大佐の部隊を山鹿に向わせたのでしょう?
なぜ>>嶽原氏は正確に物事を書かないのでしょう?
不思議だ。
>熊本城北方10kmの植木で敵と接触、城は包囲されている情報を得ている。
>>58 >22日、第十四連隊主力は南関を出て高瀬に至り、行軍で疲弊した兵を休ませ
た。更に木葉に進み、熊本完全包囲の情報を受ける。
ちがうね。
違いましたね。訂正します。
『植木で敵と接触、城は包囲されている情報を「既に」得ている。』
>薩軍が植木に進出していることを知る。
>斥候の報告により植木に薩軍が居ないことを知り、
これもおかしい。
>>454 状況説明の食い違う文献が幾つかありました。その一つを採りました。
「植木に敵軍の居ないことを知り、植木まで前進した」
「植木で薩軍と小競り合い、薩軍は後退した」
おおまかに言って、こういう食い違いでした。どの説を採るべきだったか
は、今でも疑問に思っているところです。
植木を固守するならなぜ?2個大隊でいかなかったのですかね?
また少数の兵力(ほとんど威力斥候部隊並み)で植木に行ったのですかね?
>>455 >なぜ遊軍化し、孤立部隊になってしまったのでしょう?
強行入城が間に合わなかったからと思います。
>なぜ津下大佐の部隊を山鹿に向わせたのでしょう?
久留米−南関−熊本と、久留米−山鹿-熊本の、二街道が当時主要な街道
だったからではないでしょうか。一方を無考慮のままにして良しとは出来
なかったのだと思います。
>なぜ>>嶽原氏は正確に物事を書かないのでしょう?
なるべく正確に書きたいと思っております。
『西郷軍が乃木隊を補足攻撃しようとする意図は村民の糧食を届に行くと
いうという事で明確であった』など、書き込まれたご本人すらその根拠を
説明できないような「想像」はなるべく書くべきでない、と思っております。
また、「二時間の抗戦」という事実を無視して『不意打ちを食らって、
あたふた逃げた』というような「意図的誤り」も書くべきでないと思います。
>22日、第十四連隊主力は南関を出て高瀬に至り、行軍で疲弊した兵を休ませ
>た。更に木葉に進み、熊本完全包囲の情報を受ける。
>なぜ遊軍化し、孤立部隊になってしまったのでしょう?
強行入城が間に合わなかったからと思います。
おかしいね。熊本城完全包囲の情報を得つつ、強行入場しようと
したんだ。
>熊本城北方10kmの植木で敵と接触、城は包囲されている情報を既に得ている。
>この状況で、命令だからと強行入城を図ったら全滅も有り得ます。
植木の前で攻囲されているのが解っているのに、強行入城しようと
述べるのはおっかしいね。
>>461 431氏が、乃木部隊に与えられていた目的「強行入城」に拘っておられた
ので、それは最早妥当な方策ではなかったということを説明したまでです。
(
>>431)『?乃木部隊の目的は熊本城への全員強行入城すべしで
あって、遅退行動が目的なんですか??』
>>462 植木における接敵・交戦の時点で、乃木連隊に行動選択の判断が必要に
なったという事です。
そして、その判断は「任務を基礎として」行われます。まず命令として
与えられた任務、強行入城についての妥当性を判断しなくてはなりません。
さて、そちらからの矢継ぎ早の質問にもたいてい応答いたしました。
そろそろ答えて頂きましょう。
(
>>424に対する質問)
敵糧秣が届けられるという事で、なぜ捕捉攻撃という、敵軍の行動意図が
明確になるのか、判りません。なぜ明確になるのですか?
いや、植木に行った乃木と吉松の部隊は何人だったか書かれているでしょ。
なぜ、植木に行き薩軍と交戦した時点での判断にする?
しかも植木と木葉、山鹿と分けて述べられている以上、2/22の植木の乃木連隊
と書くのは間違ってますが・・。(正確には吉松大隊)
いや、そろそろ答えて頂きましょう。
(
>>424に対する質問)
敵糧秣が届けられるという事で、なぜ捕捉攻撃という、敵軍の行動意図が
明確になるのか、判りません。なぜ明確になるのですか?
戦の前に炊き出しをするのは極当たり前のことでしたが?
そして、熊本攻囲をしていた薩軍がなぜ植木村に炊き出しを
命じていたか?
官軍は熊本鎮台、小倉分営の乃木連隊が一番熊本城に対して
救援するのに早い。この時点で薩軍としては官軍が合流する前に
各個撃破するのが当然だと思います。敵の分進合撃の片割れを
攻撃するというのは普通に考えられますが・・・?
つまり植木村(駅)を本営に乃木軍を各個撃破するためと普通考えますわな。
薩軍としては乃木軍を各個撃破し、熊本城への増援の意図を挫くという意味で
植木村を奪取したはずですが?
>>467 >薩軍としては乃木軍を各個撃破し、熊本城への増援の意図を挫くという
意味で植木村を奪取したはずですが?
「〜という意味で〜したはず」?
当時の薩軍では具体的な方策がなんら決定されず、攻囲した熊本を断固攻略
するか北上するかもまとまっていなかった、ということを記した書物は多いで
す。北上案が軍議で決定されながら、数日熊本攻略戦を継続するほどに、統制
がなかったと解釈しておりました。
熊本北方の植木奪取が、乃木軍各個撃破という目的を以て行われたという
論拠はありますか?
>当時の薩軍では具体的な方策がなんら決定されず、攻囲した熊本を断固攻略
>するか北上するかもまとまっていなかった、
西郷軍は乃木部隊の進出をしり、村田三介隊の5番大隊2番小隊、さらに
伊東直二が指揮する4番大隊9番小隊を派遣した。
これは何を意味するか理解できますか?
>>467 疑問なのですが。
先ほど、乃木連隊が敵糧秣を奪取して食したことを以て、「休養状態」
にしているではないか、とその行動を批判していましたね。
(
>>431)『夕食にあてて自部隊を休養状態に持っていくでしょうか??』
しかし、
>>467では『戦の前に炊き出しをするのは極当たり前』と言われる。
意図せずに握り飯を得た乃木連隊がそれを食し休養状態になると判断され
るならば、もしも薩軍が握り飯を意図通り得ていたら、薩軍は休養状態にな
ると判断すべきだと思うのですが……?
あなたは、炊き出しという事実が「戦闘直前の極当たり前の事」と思って
いるのか、「休養状態にする事」と思っているのか、どちらですか?
同じ事をしても、それをしたのが「植木薩軍」なら戦闘直前の極当たり前
のこと、「乃木連隊」なら戦闘状態でなく休養状態にする事なのですか?
>>469 その派遣の意味が、果たして「熊本攻囲部隊の前哨部隊」なのか、はたまた
「北方進軍中の前衛部隊」なのか、当時は判断がつかない事と思います。
どちらとも有り得ることです。
また、当時の薩軍は何の意味で派遣したのでしょうか。
攻囲軍防御・敵増援妨害の意味でしょうか?北上部隊の先発でしょうか?
>これは何を意味するか理解できますか?(
>>469)
あなたはどちらなのか知って理解できているようですね。
何を意味するのですか?その判断根拠となったものは何ですか。
>>447 真夜中の方へ。
「名将 乃木希典」は
>>450の発言のようなプロパガンダめいた意味が
あると思います。
なにせ副題が「司馬遼太郎の誤りを正す」ですから、口調も鋭いです。
出典の不備は、元々が中央乃木会機関誌の連載コラムだったということが
影響しているのでしょう。
いずれにしろ興味深い内容だったと思います。興味あらば是非ご一読を。
473 :
真夜中のスレ保存人:02/03/20 01:45
なーに。私は俄か日露戦争ファンですので、手に入る資料はノビコフ・プリポイの
小説でも九段の某所発行でも頓着しません。
斜めに読んで楽しむだけです。
しかし、スレは西南戦争篇に突入ですか。
最近、ハリウッドがトム・クルーズ主演で南北戦争の英雄がウィンチェスター社の代理人として
日本に乗り込み鎮台さんを訓練して神風連から西南戦争で滅び行く武士階級を目撃する映画が撮影されると
仄聞しますが、このへん、国軍創世当時の話は興味がつきませぬな
というわけで小生は、近いうちに図書館で参謀本部編纂日本の戦史「維新・西南戦争」
(徳間書店)でも借りてきましょう。
以上、余談です。
ご歓談をおつづけくだされ
>>446 >熊本城北方10kmの植木で敵と接触、城は包囲されている情報を得ている。
>この状況で、命令だからと強行入城を図ったら全滅も有り得ます。
この情報からあなたは、熊本攻囲部隊の前哨部隊」なのか、はたまた
「北方進軍中の前衛部隊」なのか、当時は判断がつかないと考えるのですね。
城が攻囲状態だから遅退行動をしたのではなかったのですか?
薩摩軍の策源地はどこにあるか考えたことがありますか?
北方進軍中であれば、命令どおり強行入城したほうがいいでしょう。
何せ、薩摩軍を策源地からの連絡線を分断できますから。
>>470 戦の前の炊き出しは攻撃側がするもんです。こんなことは
常識です。小一時間の間に不意打ちの可能性のある防御側が
そんなことをするのはどうですか?
村民は向坂に届ける予定でした。届けさせて相手の不意を討つ
ことも可能だったはずですが、そんな卑怯なことは思いつかな
かったのでしょう・。
>三名が運べる程度の糧秣の量など、植木薩軍の規模を測り
>知ることの根拠になろうはずもありません
太平洋戦時のアメリカ軍はトイレの数から日本軍の兵士数を割り出した。
篭城戦で例えば一日の消費量を計算しておかないと持続期間が割り出せない。
敵の糧秣から敵の規模を把握できないと仰りようですと、乃木は
それが出来なかったと考えるべきでしょうな。
そこまで彼を貶めなくてもいいでしょうに・・。俺でもそこまでは言わない。
植木の時は敵の糧秣から敵を知ろうとしなかった怠慢と述べるつもりなのに。
>>475『この情報からあなたは、熊本攻囲部隊の前哨部隊」なのか、はたまた
「北方進軍中の前衛部隊」なのか、当時は判断がつかないと考えるのですね』
当方はそう思います。根拠は敵軍の意図が判断できる材料(情報)が得られ
ていないことです。
もし貴方が当時判断がつくことだと言われるならば、その根拠を挙げて頂き
たい。
>>475『城が攻囲状態だから遅退行動をしたのではなかったのですか?』
「城が攻囲状態だから」ではありません。「〜だから」ではなく「〜のた
め」です。「いずれ来る征討軍の南下を援護するため」です。
>>476『北方進軍中であれば、命令どおり強行入城したほうがいいでしょう。
何せ、薩摩軍を策源地からの連絡線を分断できますから。』
貴方は敵軍連絡線分断に利点を見て、強行入城すべきと思われるのですね。
私は、南下征討軍の進出を援護する利点と比べると、全滅を賭して強行入城
すべきでないと思います。
>>477『戦の前の炊き出しは攻撃側がするもんです。こんなことは常識です』
「常識」という単語では説明になっておりません。
>>477『村民は向坂に届ける予定でした。届けさせて相手の不意を討つことも
可能だったはずですが、そんな卑怯なことは思いつかなかった』
防御線に依り、既に敵の来襲に備えていた状態です。
「一斉射撃による撃退」を主な戦法とする防御側に、積極的に攻勢を掛ける
意味はさほどなかったのでは。
「こんなことは常識」という言葉を用いられていますが、その根拠が併記さ
れないために、説得力が全く感じられません。
「〜の理由で〜、依って・・である。こんなことは常識です」との用法なら
説得力が感じられますが。
「戦の前の炊き出しは攻撃側がするもんです。こんなことは常識です」では
全く説得力がありません。
>>478『敵の糧秣から敵を知ろうとしなかった』
「トイレ」は、敵勢力のほぼ全員がお世話になるものです。その「数」とい
う情報は、敵勢力を推し量ることの出来る、意味のあるになる情報と思います。
「三名の地元民が運んでいた握り飯」は、植木薩軍全てに渡るものなのか、
一部のためのものなのか、判断できません。
すなわち、敵勢力を推し量るためには情報不足の、意味のない情報です。
この情報を元に敵勢力を推し量ることは出来ないと思います。
425からの質問ですのに、貴方はまだお答えになられてません。
『敵糧秣が届けられるという事で、なぜ捕捉攻撃という、敵軍の行動意図が
明確になるのか、判りません。なぜ明確になるのですか?』
>>478『俺でもそこまでは言わない。植木の時は敵の糧秣から敵を知ろうとし
なかった怠慢と述べるつもりなのに。』
貴方の主張点が変化しています。
貴方は
>>424にて、『西郷軍が乃木隊を補足攻撃しようとする意図は村民の
糧食を届に行くというという事で明確であった』と、「敵の意図」が明確にな
ると述べていました。
糧秣の件によって知ることが出来るものを、「敵の意図(
>>424)」から
「敵(
>>478)(?何の意味でしょう?存在?規模?意図?)」へと変更し
たのは、どういう意図あってのものでしょうか?
存在について:斥候、小競り合いによって既に判明しています。糧秣の情報
は必要ありません。
規模について:糧秣を求めたものが植木薩軍全体なのか一部なのか判明しな
いので、規模を知る情報には不十分です。
意図について:糧秣と意図とを結びつける貴方の理由を知りたいです。
>>483の当方質問にお答え下さい。
>存在について:斥候、小競り合いによって既に判明しています。糧秣の情報
は必要ありません…… 規模
ワラたよ。糧秣を向坂に届ける村民に混じれば、近辺の相手の規模は直ぐわかりますな。
もしくは村民を尋問すればよろし。それを無視するあなたとは話が通じません。
また村民に糧秣を届けさせて相手の意図をそこで確認するということも可能。
敢えて、没収して敵に自分の存在を知らしめる必要はない。
>>486 それは軍事板二百三高地スレにレスし直して下さい。
>>485『村民に混じれば、近辺の相手の規模は直ぐわかります』
二月の午後六時、とっぷり暮れた山中でですか?
向坂に近づいて、暗闇の中で「止まれ!」「そこに置け!」「去れ!」
となるだけで、サッパリ判らなかったかも知れません。
>『村民に糧秣を届けさせて相手の意図をそこで確認する』
糧秣を届けに来た部外者に、行軍の意図などを洩らすとは思えません。
『〜すれば直ぐわかる』『〜して確認』など、貴方は、貴方の考える方法が
必ず成果を伴うと思いこんでいませんか。
成果の伴わない積極的な行動は、転じて不利に繋がるものです。
>『村民を尋問』
尋問したから、向坂の敵軍に届けに行くと判ったのではないでしょうか。
>二月の午後六時、とっぷり暮れた山中でですか?
>向坂に近づいて、暗闇の中で「止まれ!」「そこに置け!」「去れ!」
>となるだけで、サッパリ判らなかったかも知れません。
カモしれないから、貴方の意見では何もしなかったのですね。
よく判りました。
植木にいた薩軍も熊本城包囲に戻っているカモしれませんね。
山鹿に行った薩軍2個大隊の情報も嘘カモしれませんね。
情報を確認するというのはどういうことか知らないんですね。
君の意見だが
>防御線に依り、既に敵の来襲に備えていた状態です。
>二月の午後六時、とっぷり暮れた山中でですか?
敵の来襲という意図がなぜわかったとここで述べているのですか?
>>489 正確な情報など、よほど幸運な、または一方的な状況でなければ入手出来な
いと思います。かも知れない、かも知れない、という情報でも、自軍の行動を
決めていかなければなりません。
斥候・日中の小競り合いにより、敵軍の存在は判明しています。それを向い
撃つべく防御線を張り、具体的な注意事項を伝達し、植木南方の敵の来襲に備
えた。
かつ、植木北方の山鹿に進んだという敵の来襲に備え、抵抗をうち切る時期
についても決めている。
入手した情報に基づいた、適切な対応と思います。
植木の敵は引き返したカモ知れない、山鹿の敵情報は誤りカモ知れない、
しかし、その情報を否定する材料が無い以上、対応しなくてはなりません。
それでさ、糧秣は無視するのはおかしいと述べているの。
山鹿の敵情報でさ、12時まで保持することを決めたんだけどね。
なぜ12時と決めたと思う?
あと山鹿の敵部隊は2個大隊で植木にいる乃木軍はどのくらいか。
また山鹿に向っている津下の部隊はどのくらいかはご存知?
前にも述べた渡辺中尉の斥候も無視していますし、はっきり申し上げて
そこまで解らない状況で植木に入ったという貴方の意見は貴方自身の
意見でおかしいと述べているの。
大体 乃木自身が確実な情報を得るチャンスを潰しているのに目を瞑っている
のはなぜかね。プロパガンダに染まっているな。
>>493 貴方の言われる『山鹿の敵二個大隊』、
薩軍の軍編成では兵力は何名でしょうか。
>>493 渡辺中尉の斥候の話は、小説に載っていた内容を了解しております。
しかし、別資料で『植木に出した斥候からの、「敵影認められず」の
報で植木西南に進出』との記述がありました。
当方は、この場は前述の小説によらず、後述の資料に依りました。どちらを
選択するべきだったかは、未だ判然としておりません。もちろん、小説の内容
の方が正しいかもしれません(
>>458にて既述)。
496 :
日本@名無史さん:02/03/21 11:55
>入手した情報に基づいた、適切な対応と思います
後ほど乃木の判断が間違ってないと解釈するためにあんたが情報を
取捨選択しているとしか思えないが?
497 :
日本@名無史さん:02/03/21 12:03
>>496 嶽原のオナニースレだから介入するなってこった。
>>493『大体乃木自身が確実な情報を得るチャンスを潰しているのに目を瞑っ
ているのはなぜかね。プロパガンダに染まっているな』
「二時間に渡る交戦」という事実を無視して、「不意打ちを食らってあたふ
た逃げた」と言われる方が、プロパガンダに染まっていると思います。
「確実な情報」など、ノーリスクで得られるものではありません。リスクを
支払い、情報も得られない場合もあるでしょう。乃木連隊は特に人員損害は避
けたい状況です。リスクを避けたのかもしれません。
実際、植木では二時間以上に渡って交戦が継続されています。この事から見
れば、交戦に要する情報は既に充分であって、「糧秣から得られるかも知れな
かった情報」は不要のものだったと判断できると思います。
499 :
日本@名無史さん:02/03/21 12:19
>斥候・日中の小競り合いにより、敵軍の存在は判明しています。
>それを向い撃つべく防御線を張り、具体的な注意事項を伝達し、
>植木南方の敵の来襲に備えた。
植木南方の敵となぜわかったのですか?植木の部隊が山鹿の方の
2個大隊に合流すべく北方に進軍したとなぜ思わないのですか?
あなたの言い分だとこっちのほうが自然だと思いますよ。
>かつ、植木北方の山鹿に進んだという敵の来襲に備え、抵抗をうち切る時期
>についても決めている。
貴方は糧秣の意見を無視した解釈をしていましたね。あれで向坂に
敵が居るということが解ったと思いますが。糧秣の情報以外で
あなたは敵が西南に居るという資料はあるのですか?
あるのであれば、何故上げられないのですか?
500 :
日本@名無史さん:02/03/21 12:23
>交戦に要する情報は既に充分であって・・
ヲイヲイ 情報が十分であったって、包囲下に陥って撤退せざる
を得ない状況になったんだぜ?? 敢えて包囲されようとしたのか?
薩軍も官軍もほとんど編成は同じと見ていいでしょう。
502 :
日本@名無史さん:02/03/21 12:35
乃木連隊は特に人員損害は避けたい状況。
3個大隊を分散し、一個中隊欠けた第3大隊とともに先鋒に
向い、さらに完全な人数でない部隊が連隊?人員削減を
避けたい状況下でなぜ敢えて敵の包囲に陥る策をとるのかね?
また12時までといっても12時より早く山鹿の薩軍が来る
可能性もある。当時の戦で戦いつつ引くというのは至難
なはずだが?
>>502 現在植木、その西方には木葉・高瀬、高瀬北方に石貫と続き、そして県境の
要衝、南関に至ります。
要所要所で交戦するつもりだったのでしょう。人員被害は極力避けたい、
しかし抵抗し遅滞行動をもって後続征討軍主力の南下する時間を稼がなくては
ならない。難しいバランスを取らなければならない問題だと思います。
植木が、その南方はなだらかな下り坂で熊本への到達が容易となる場所で、
また南関へ至る筑前街道と山鹿街道の分かれ道となる重要な地点だという事
も考慮したのかも知れません。
山鹿の敵の到達前に撤退する目安として12時としているだけですよ。
実際は植木方面の敵に押されてゆき、09時に撤退を謀っています。負傷者を
後送し、糧秣を焼くという手順も踏んでの撤退が行われております。
撤退の決定は遅くもなく、早くもなかったと思います。
504 :
日本@名無史さん:02/03/21 15:34
軍板の203高地スレもそうだが、いい加減捨てハンぐらい付けたらどーよ?>いつまでも嶽原氏に絡んでる奴
論戦に負けるのが怖いから名無しで通してる、としか見えないぜ。
質問に答えてないね。
>斥候・日中の小競り合いにより、敵軍の存在は判明しています。
>それを向い撃つべく防御線を張り、具体的な注意事項を伝達し、
>植木南方の敵の来襲に備えた。
植木南方の敵となぜわかったのですか?植木の部隊が山鹿の方の
2個大隊に合流すべく北方に進軍したとなぜ思わないのですか?
あなたの言い分だとこっちのほうが自然だと思いますよ。
>かつ、植木北方の山鹿に進んだという敵の来襲に備え、抵抗をうち切る時期
>についても決めている。
貴方は糧秣の意見を無視した解釈をしていましたね。あれで向坂に
敵が居るということが解ったと思いますが。糧秣の情報以外で
あなたは敵が西南に居るという資料はあるのですか?
あるのであれば、何故上げられないのですか?
>乃木連隊は特に人員損害は避けたい状況。
3個大隊を分散し、一個中隊欠けた第3大隊とともに先鋒に
向い、さらに完全な人数でない部隊が連隊?人員削減を
避けたい状況下でなぜ敢えて敵の包囲に陥る策をとるのかね?
>>501 同じってことはないでしょう、当時の薩軍は 中隊編成が無く、「○番大隊
○番小隊」という言い方をしていたのですから。
ところで、
>>493で言われている植木戦の時の「山鹿の薩軍2個大隊」
というのは、何番と何番ですか?人員数はどの程度ですか?
>>505 >『植木南方の敵となぜわかったのですか?植木の部隊が山鹿の方の
2個大隊に合流すべく北方に進軍したとなぜ思わないのですか?』
日中の斥候行動と小競り合いで、植木薩軍は南方に後退したのでしょう(小
説の記述ですが、「薩軍は泡を食って潰走」とあります)。その場合、後退先
は熊本方向、南方となると思います。
北上すると、乃木連隊の来る方向に向かって潰走というおかしな文章になり
ます。
>『糧秣の情報以外であなたは敵が西南に居るという資料はあるのですか?
あるのであれば、何故上げられないのですか?』
上記のように、植木に居た薩軍の後退方向が熊本側だと思われるからです。
また、そんな資料を見たような気もします(不確実)。
また、展開した散兵線の敵軍来襲予測方向からも、敵の方向は判明していた
と思います。
>『一個中隊欠けた第3大隊とともに先鋒に向い、さらに完全な人数でない部隊
が連隊?』
呼び名の問題でしたら、当方も「連隊」とは言いにくい実勢と思います。し
かし、連隊長が居り、連隊旗がある場所を「連隊所在地」とするしかないと思います。他に「連隊所在地」として適当な場所がありません。
>『人員削減を避けたい状況下でなぜ敢えて敵の包囲に陥る策をとるのかね?』
抵抗が過ぎても人員被害が出るし、抵抗が足りないと遅滞行動の目的が果た
せない。どの程度に抵抗するか、難しい問題だと思います。
包囲されるまで抵抗を続けたとしたら、抵抗が過ぎた、撤退時期を誤った、
となるでしょう。
しかし実際は、負傷者後送・糧秣焼却と手順を踏んだ計画的な撤退によって
戦闘地帯を離脱しています。抵抗が過ぎて包囲されるような遅すぎる時期でも
なく、抵抗が足りないような早すぎる時期でもなく、妥当な時期の撤退が行わ
れたと思いますが。
薩軍:一個大隊は十個小隊で編成。
一個小隊は200人編成、一個大隊は200×10で2000。
薩軍基幹は六個大隊。
上記編成の五個大隊で2000×5で10000。
他に連合大隊が一個。連合大隊の一個小隊は80人編成、80×20で1600。
一番大隊長:篠原国幹 二番大隊長:村田新八 三番大隊長:永山弥一郎
四番大隊長:桐野利秋 五番大隊長:池上四郎 連合大隊長:別府晋介
>>493 >>493で言われている植木戦の時の「山鹿の薩軍2個大隊」というのは、
何番と何番ですか?人員数はどの程度ですか?
26日に、山鹿に薩軍1600名ほどが到着しているのですが、それと誤解して
おりませんか。
>>508 つまり、あなたは乃木が植木に着いたときは山鹿に薩軍2個大隊
も居なかったと述べたいのですね。
>>507 >日中の斥候行動と小競り合いで、植木薩軍は南方に後退したのでしょう。
植木駅を見ればよくわかりますが、T字路になっていて、戦場が
北部になったという想像もできますな。だから貴方の想像は
想像でしかなく、具体的な根拠はない。
>展開した散兵線の敵軍来襲予測方向(史実)からも、敵の方向は判明していた
>と思います。
だから乃木が予測できたのは糧秣以外にどんな情報があったからと
述べているの。
結局 どんな情報を持って乃木の部隊が向坂に向って陣を張ったのか
を理解していないのですね。なのに糧秣の逸話を必要ないと仰る。
不思議ですね。
>抵抗が過ぎても人員被害が出るし、抵抗が足りないと遅滞行動の目的が果た
>せない。どの程度に抵抗するか、難しい問題だと思います。
確認したいのですが、乃木部隊2/22 どんな命令で動いており、何時の時点で
独断で遅滞行動の目的に変わったか?あなたの意見を聞きたい。
また、あなたの言う2/22日中の乃木軍が斥候で確認できたと思われる、植木駅の薩軍は
何個部隊ですか?
>>510 当方が参考にした資料では、乃木連隊植木進出の経緯を、以下のように
記述していました。
・木葉で「植木に薩軍進出」という情報を得た。
・斥候を出した。
・「薩軍は大窪(植木南方4km)に後退した」という報告を斥候から得る。
・植木を少し過ぎた場所に散兵線を張る。
>『戦場が北部になったという想像もできますな。』
戦場が北部だったという想像は成り立たないと思います。
>『どんな情報を持って乃木の部隊が向坂に向って陣を張ったのか
を理解していないのですね。』
以前から申している通り、上記の斥候の報告によると理解しています。
>『斥候で確認できたと思われる、植木駅の薩軍は何個部隊ですか?』
木葉にて、植木に村田小隊進出、という情報を得たと書かれています。
そういえば当方、これと似たような質問を貴方へとしていました。その質問
『貴方の言われる山鹿の敵2個大隊とは何名規模?』の返答がまだでしたね。
当方は、この似たような質問に答えました。
ぜひお答え頂きたい。貴方の言われる山鹿の敵2個大隊とは何名規模?
>>510 『何時の時点で独断で遅滞行動の目的に変わったか?あなたの意見を聞きたい。』
木葉にて、熊本城が薩軍に包囲されたという情報を得た事で、「強行入城
すべし」の命令が実行不可能と判断したと思います。その時点だと思います。
504氏も言われていましたが……。
私も、現在論を交わしている相手には「捨てハン」を用いて頂きたいと思っ
ております。議論の拡散、無用の混乱を防ぐため、ぜひ使用して頂きたい。
>>嶽原
>>58で22日、第十四連隊主力は南関を出て高瀬に至り、行軍で疲弊した兵を休ませ
た。更に木葉に進み、熊本完全包囲の情報を受ける。またここで乃木は山鹿経
由で植木に先行した第三大隊と会い、薩軍が植木に進出していることを知る。
”斥候の報告により植木に薩軍が居ないことを知り”、夕刻植木に着くが、連日
の強行軍のために、この時植木まで突出した兵は60名に過ぎなかった。
と書いてますね。
>>511で
当方が参考にした資料では、乃木連隊植木進出の経緯を、以下のように
記述していました。
・木葉で「植木に薩軍進出」という情報を得た。
・斥候を出した。
”薩軍は大窪(植木南方4km)に後退した」という報告を斥候から得る。”
・植木を少し過ぎた場所に散兵線を張る。
>>58”斥候の報告により植木に薩軍が居ないことを知り”
>>511”薩軍は大窪(植木南方4km)に後退した」という報告を斥候から得る。”
???どちらが本当なんでしょう? きっと最初の58は間違いなんでしょうね。
>>453の指摘を受けて
>>456で訂正してますし、あなたの意見には信用がもてませんね。
一番参考にしているのが中央乃木会の名称乃木希典だから仕方がないか。
>薩軍2個大隊
この人数は不明です。私にとっては実際の人数は意味がありません。
なぜなら、嶽原氏の論で12時まで植木を保持するとあり、その根拠が
当方の資料で乃木が12時まで植木を保持する理由として
敵2個大隊が山鹿口から引き返してくる時間と示しているからです。
つまり山鹿口の薩軍2個大隊が虚であれ実であれ、乃木はその情報を
もとに12時まで保持をすることを決めた筈ですね。
>>512 木葉にて、熊本城が薩軍に包囲されたという情報を得た事で、「強行入城
すべし」の命令が実行不可能と判断したと思います。その時点だと思います。
>>463 植木における接敵・交戦の時点で、乃木連隊に行動選択の判断が必要に
なったという事です。
これも違う。
>>514 指摘の通り、『城は包囲されている情報を得ている』を『城は包囲されている
情報を「既に」得ている』と変更しました。この上記二文は、双方を否定し合う
ような文章ではありません。詳説しているかどうかという違いがあるだけです。
貴方は、この二文の相違点「既に」の挿入をもって当方の論全体の信頼性を
崩そうとしているのでしょうか。
しかしながら「既に」の挿入によって、詳説しているかどうかが変わるだけ
で、当方持論に関わる文意は全く変わっておりません。
>>515 この山鹿薩軍の具体的な規模に関する話題は、貴方の書き込み(
>>493『山鹿の
敵部隊は2個大隊で 植木にいる乃木軍はどのくらいか』)から始まったものでした。
当方は「植木に敵軍が進出しているという情報があった」としておりますが、
規模までは書いておりませんでした。貴方の書き込みで「2個大隊」という具体的
な規模の指摘があったために、その根拠をお聞きしたまでです。
493では『山鹿敵部隊(貴方曰く2個大隊)と植木乃木軍はどのくらいか』と、
双方の具体的な規模をそちらから提示しておりました。
それなのに『私にとっては実際の人数に意味はない』とは、『貴方の山鹿薩軍に
ついての指摘は根拠がなかった』という事ですね。了解しました。
519 :
日本@名無史さん:02/03/24 09:28
>>518 あなたの意見がどんどん変わるのが楽しいです。
植木で判断したのか木葉で判断したのか?
その判断の元になった情報はどの時点でどんな情報だったか?
どんどん変わりますね。
520 :
日本@名無史さん:02/03/24 09:33
戸川氏の本で薩軍2個大隊と書いてましたな。
あなたの考えでは2/22の山鹿口の薩軍はどのくらいの規模なのですか?
>>516 強行入城の命令をもって南下中、木葉にて「城包囲される」との情報を得て
命令の実行が不可能になったと判断した、と当方は考えています。
木葉で現地官吏に合い、薩軍植木進出の情報を得ましたが、斥候を出したと
ころ、植木には薩軍が居ない(南方に後退した)ことが判明したそうです。
この時点ではまだ接敵していません。木葉と植木の間には、かなりの距離が
あります。「征討軍主力の南下まで土地を犠牲にして時間を稼ぐ」目的がある
ですから、犠牲にする土地を増やすという意味で妥当といえるでしょう。
そして植木でいよいよ戦闘となり、当方が述べた「1命令通り強行入城2当
地防御3後退して後図を期す」の三択が迫られたと思います。
>>516 『
>>512 木葉にて、熊本城が薩軍に包囲されたという情報を得た事で、「強行入城
すべし」の命令が実行不可能と判断したと思います。その時点だと思います。
>>463 植木における接敵・交戦の時点で、乃木連隊に行動選択の判断が必要にな
ったという事です。
これも違う。』
当方は「強行入城の命令を不可能とし、遅滞行動を目的に変更した」のは城包囲
の情報を得た木葉進出の時と考えています。
そして「行動選択の判断(三択)が迫られた」のは木葉交戦の時と考えています。
>>520 私は「山鹿に薩軍進出の情報があった」としか認識していません。
その情報の内容(規模等)については知りません。
>>519 「既に」を挿入しているかどうかの差を、内容が変わっているように
言われるのですか。
どう内容が変わっていますか。
524 :
日本@名無史さん:02/03/24 09:52
>嶽原
>>58で山鹿系由で植木に入ったとあるが、山鹿と植木の街道は
一つしかないし、第3大隊は高瀬から桜塚、植木に向ったはずで、
兼松から山鹿系由は第1大隊のはずですが?
あなたの仰りようだと第3大隊から山鹿口に薩軍が
進出したのがわかったらしいですが、山鹿口に薩軍が
向うのはどの街道を通ればいいか理解してますか?
525 :
日本@名無史さん:02/03/24 10:05
>>523 最初(1から100)は情報が植木で接敵、交戦時、その後独断判断をした、と述べ、
>>512で木葉にて、熊本城が薩軍に包囲されたという情報を得た事で、「強行入城
すべし」の命令が実行不可能と判断したと思います。その時点だと思います。
と述べ、
>>521 で当方は「強行入城の命令を不可能とし、遅滞行動を目的に変更した」のは城包囲
の情報を得た木葉進出の時と考えています。
そして「行動選択の判断(三択)が迫られた」のは木葉交戦の時と考えています。
521の↑の部分は2/22 植木の戦いの後の話だよな。
526 :
日本@名無史さん:02/03/24 10:14
案外、いい加減なんですね。
>>524 >>58当方書き込み
『更に木葉に進み、熊本完全包囲の情報を受ける。またここで乃木は山鹿経
由で植木に先行した第三大隊と会い、』
すみません、『第三大隊』は、『第三大隊第○中隊』と書くべきところで
した。
当方資料「研究 西南の役(山下郁夫)」では『第三大隊第四中隊』となっています。
戸川氏小説では「津下少佐の部隊」となっていましたので、これに従えば貴方の
言われるとおり「第一大隊」なのですが、当方は前記資料に従いました。
528 :
日本@名無史さん:02/03/24 10:37
>>68-71 >植木に達した時点で薩軍と戦闘状態に入った連隊指揮官はどのように状況判
>断するべきだろうか。
>以上の状況判断に依り乃木連隊の採るべき方策を考える時、次の三案が考え
>られる。
>1・熊本への前進を継続する
>2・現地点の付近で防御する
>3・現地点を退却し後図を策する
>1は無意味であり成功の可能性もほとんどない。2は、植木固守は重要であ
>るかもしれないが、現在交戦中の敵部隊が主力の前衛部隊であった場合、寡兵
>の現状では各個撃破されるのみである。また、山鹿の薩軍の動静も無視できな
>い。乃木は状況判断の結果、3の退却を選択したと思われる。
>>521 >そして「行動選択の判断(三択)が迫られた」のは木葉交戦の時と考えています。
植木固守も三択の中に入っているな。たしか、木葉に撤退したとき、
植木に軍旗を取りに行こうとしましたが、明らかに乃木の本意と
違いますな。
529 :
日本@名無史さん:02/03/24 10:39
あの1から100 怪しいな・・。
結局 中央乃木会のプロパガンダ本を元に論をくみ上げると
おかしくなるな・
>526『案外、いい加減』
>529『あの1から100 怪しいな』
力不足で申し訳ありません(笑)。あの書き込み後もいろいろな資料を読み、
いろいろと書き加えたい場所が多く増え、残念なところです。
その一部。
・木葉戦の死傷者数:
当方は100名以上と書いていますが、死亡22名、負傷49名だったそうです。
531 :
日本@名無史さん:02/03/24 11:48
無駄だよ。一元的にしか物事を見れない嶽原氏のは無理でしょ。
これは
>>423-からの論でもいえるけど、まず乃木は無能でないという
観点から論を進めている。結論から原因を探っていて、結論のために
ご自分の意見を変えることや資料を探すのを厭わない姿勢はなんとも
痛々しい。
あはは。
一人称と二人称を取り違えてるよ、こいつ>531
まず「乃木は無能である」という観点から論を進めるから、いつまで経っても
くだらんイチャモンしか付けられないんだよ。
結論から理由を捏造して、結論の為にくるくる論点をスリ変えるところや、
「資料を探すことを厭わない」姿勢を「痛々しい」といってのける姿勢は
なんとも痛々しい。
お 前 が 単 な る 煽 り 厨 で な い と い う な ら 、
捨 て ハ ン ぐ ら い 付 け て み ろ !
まーできねーよな。だって、マトモに議論しても勝てないことは531自身が
よーく自覚してるもんね。ジサクジエンでもしなきゃ誤魔化せないもんな。
ぜんぜん誤魔化せてないけど。
う〜ん。罵倒合戦はあかんよ。きちんと論議するか
論議からおりてスレが止まるか、それでいいじゃない・・・
>>521訂正です。最終行
『そして「行動選択の判断(三択)が迫られた」のは木葉交戦の時と考えています。』
失礼しました。
『木葉交戦の時』というのは誤りです。『植木交戦の時』です。
535 :
日本@名無史さん:02/03/25 07:39
>504=532 議論に参加しないで煽るだけの厨房か?なにか嫌なことがあったの?
ここでいいから述べてみな?自作自演なんてしているつもりはないよ。
単におかしいところを指摘しているだけ。議論なんてものんじゃないよ。
当方の
>>58では握り飯没収エピソード自体を記述しておりませんので、
このエピソード関連については役立たずですが、それについて記述して
いる書物はあります。
握り飯については、乃木連隊の散兵線を張った場所から遠からぬ所に
薩軍が陣営を設けていることを意味する、として乃木が更に斥候を出した
という記述をしている小説があります(橋本昌樹「田原坂」)。
>>535>議論に参加しないで
>議論なんてものん(ママ)じゃない
どっちですか?
536続き
>>58『1800頃、乃木は植木の西南地域で散兵戦を張った。逐次後続が散兵線
に加わり、最終的には200〜300名ほどとなったらしい。斥候が向坂で銃撃を
受けるなどしたのち、1900頃から薩軍伊藤隊200名の切り込みで戦闘が始まる。』
>>58上記中二行目の、1900前に銃撃を受けた「斥候」が、橋本氏小説中で
出てくる「斥候(
>>536)」にあたります。
>>478『植木の時は敵の糧秣から敵を知ろうとしなかった怠慢と述べるつもりなのに』
>>536で記したように、更に斥候を出して敵情を探らせているので、
貴方が指摘している「怠慢」は無かったと言えるでしょう。
当方は、握り飯関連エピソードは散兵線に兵を配置した後の事なので
重要性を感じず、
>>58ではそれらには触れておりません。
しかしながら、当方が58で触れていないだけで、史実では乃木は怠慢
せずに対応していたということで宜しいでしょうか。
>>529>『中央乃木会のプロパガンダ本を元に』
西南戦争については、中央乃木会「名将乃木希典」の記述よりも、西
南戦争についての研究書の方を多く参考にしております。
当方も貴方と同様、戸川氏の書を大いに参考にしておりますが、研究
書と戸川氏著書とで食い違いがある場面は、研究書の方の記述を選択し
ました。
例:植木に進出時について
研究書;1木葉で掘軍吏副より報告(城は薩軍に包囲されている)
2木葉で遠近熊本県二等属より報告(植木に薩軍進出)
3木葉で第三大隊第四中隊(薩軍植木進出により木葉へ移動)に会う
4植木に斥候を出す
5斥候報告「薩軍は大窪に後退した」
6乃木部隊植木に前進
7植木西南部(向坂の手前)に布陣
戸川書;1掘報告(植木に薩軍進出)
2渡辺中尉の偵察(植木に薩軍一個中隊あり)
3乃木部隊前進
4戦闘、薩軍潰走
5植木占領
6部落の外に進み布陣
『更に木葉に進み、熊本完全包囲の情報を受ける。またここで乃木は山
鹿経由で植木に先行した第三大隊と会い、薩軍が植木に進出しているこ
とを知る。斥候の報告により植木に薩軍が居ないことを知り、夕刻植木
に着く(
>>58)』
上記58文章は、戸川著書記述に従わず研究書に従っていることがお判
り頂けると思います。
>>537=532 なのか?なぜROM氏への返答に答える?
>戸川著書記述に従わず研究書に従っていることがお判
>り頂けると思います。
>小説があります(橋本昌樹「田原坂」)。
>史実では乃木は怠慢せずに対応していたということで
>宜しいでしょうか。
ふーん。小説が史実。ふーん。
>>541 貴文中に「議論に参加」「議論なんてものじゃない」が並列する矛盾点を
疑問に思い、思わず指摘させていただきました。
しかし、532しか指摘してはいけないわけじゃないでしょう?まあ、たしか
に532氏にとっての突っ込み処を奪ってしまった格好になりましたが。
>>542 『ふーん。小説が史実。ふーん。』
そちらは戸川氏小説内容を「〜のはずだが?」などと連呼されていましたが?
当時の資料での確認をした上で「田原坂」を挙げました。
「……土人両三名、前きに賊の為に炊焚する所の糧食を……尽く之を獲る。
……駅外に散兵線を定むるや、更に捜兵を進む(戦闘日誌より)」
「握り飯を没収した後に斥候を出したこと」は、当時の資料にも書かれて
いることで、それを記述した小説もあるのです。
>>507 >負傷者後送・糧秣焼却と手順を踏んだ計画的な撤退によって
>戦闘地帯を離脱しています。抵抗が過ぎて包囲されるような遅すぎる時期でも
>なく、抵抗が足りないような早すぎる時期でもなく、妥当な時期の撤退が行わ
>れたと思いますが。
乃木連隊を撃退した植木戦での薩軍損害、戦死4名
同 薩軍の戦利品
新式のスナイドル銃360丁、弾薬1万2千発、馬一頭
乃木連隊 軍旗
数百名の部隊から360丁もの銃を奪取し、弾薬1万2千発を取られている
訳であって、計画的撤退という論理は虚構です。
当時の徴兵した官軍兵士達がいかに戦意に脆かったかを示されたうえで
同情するのならともかく、逐次撤退するという後知恵のプロパガンダに
載せられるまでもないかと。
>>454 銃、弾薬を奪取されたのは「撤退時に側背から攻撃を受け潰走した木葉戦」
においてです。
「植木戦」と「木葉戦」をごちゃまぜにしています。
547 :
日本@名無史さん:02/04/02 09:56
職業選ぶの間違えた、ついてない人
このスレはえらいぞ。
獄原さん&識者の方々
幕末がハリウッド映画になるらしいぞ!
1 :主演トム・クルーズ :02/02/28 04:20
http://www.eonline.com/News/Items/0,1,9574,00.html でさ、「グローリー」いう南北戦争映画の傑作とったエド・ズウィックいう監督がさ
こんど神風連〜西南戦争舞台にした映画とるらしい。
日本側の演出家は奈良橋陽子いうひと。
メールで、史実や軍事的に期待するもの、奈良橋さんに要請して欲しいよ。
とりあえずスナイドル銃の横列射撃と、田原坂における薩軍保塁からの白刃突撃は
こんなものだとか、アドヴァイスしてほしいね
>>545 『乃木連隊を撃退した植木戦での薩軍損害、戦死4名
同 薩軍の戦利品
新式のスナイドル銃360丁、弾薬1万2千発、馬一頭
乃木連隊 軍旗』
『数百名の部隊から360丁もの銃を奪取し、弾薬1万2千発を取られている
訳であって、計画的撤退という論理は虚構です。』
植木戦での薩軍死者は4名なんですか。乃木連隊死者は3名だそうですが。
360丁もの銃を奪取したとは、「木葉戦撤退時」の事。乃木連隊は700〜
一説では1000名が参加です。
●植木戦説明→『乃木連隊を撃退した植木戦での薩軍損害、戦死4名
同 薩軍の戦利品
○木葉戦説明→ 新式のスナイドル銃360丁、弾薬1万2千発、馬一頭
●植木戦説明→ 乃木連隊 軍旗』
●植木戦説明→『数百名の部隊から
○木葉戦説明→ 360丁もの銃を奪取し、弾薬1万2千発を取られている訳で
●植木戦説明→ あって、計画的撤退という論理は虚構です。』
上記の如く、あなたの545の文章は「植木戦」と「木葉戦」の説明が目茶
苦茶に混同しています。
こういう意図的混同から、後知恵プロパガンダが生じるのでしょうか。記述
はなるべく正確に。
550 :
日本@名無史さん:02/04/02 22:20
乃木坂に関係ある人
551 :
日本@名無史さん:02/04/02 22:58
>548
うおおお、すげー見てえ!いつ頃公開なの?
とりあえず、こんなシーンきぼんだね。
・田原坂戦。両軍の激烈な銃撃戦で黒煙が濛々と立ち込め、全く視界が
効かなくなる。と、ピーピーとあちこちで鳴り渡る口笛の音。
それを合図に、「キエエエーイ」と絶叫し、黒煙の中から
白刃をかざして突撃していく薩摩兵。
・同じく田原坂戦。戦友の死体を積み上げて胸壁とする官軍兵。
戦友の死体を陣地から投げ捨て、自分がその陣地に入る薩摩兵。
・将校が「突撃ーっ」と叫んでも、怖気づいて前進しない官軍兵。
・青竹一本で指揮を執る桐野。真紅のマントを翻す篠原。
・薩兵の抜刀突撃に対し、三人一組の銃剣刺突で対抗する官兵。
・和田越の最終戦。味方の屍を乗り越えて突撃してくる官兵を見て一言、
「なかなかどうして、百姓の兵隊も強いではないか。
これなら、外国の軍隊が攻めて来ても日本は大丈夫じゃ」
と呟く西郷。
・脱走兵を見て見ぬ振りして見逃してやる辺見。
552 :
日本@名無史さん:02/04/03 03:54
そうそう。いい加減工藤栄一十三人の刺客や黒澤明の乱より凄く
邦画もハイパーリアリズムでやるべきなんだよな。プライベートライアンなみに。
>>549 貴方はどんな資料を参考にしていますか?
当方は佐々友房の戦袍日記の記述から植木戦と述べましたが。
>>553 資料名失念しております。
ところで、『佐々友房』って誰ですか。
『戦袍日記の記述』はどのように植木と木葉を分けて説明していますか。
555 :
日本@名無史さん:02/04/03 14:06
機転(希典)の利かぬ野狐(乃木つね)が・・・・・
なんて戯れ歌が明治期にはあったらしいが、出典みつからないので1フレーズだけ
556 :
日本@名無史さん:02/04/03 17:11
>>555 七分児玉(児玉源太郎)で打ち上げた〜♪というふうに続くらしいですね。
当時東京鎮台の歩兵第二連隊長だった児玉源太郎が
演習の判定で乃木の第一連隊に勝ったことを記念して作らせたとか。
557 :
日本@名無史さん:02/04/03 18:01
>>553 >当方は佐々友房の戦袍日記の記述から植木戦と述べましたが
大嘘だね。
佐々の『戦袍日記』中では、植木・木葉の戦いに関しては、後日の
伝聞としてごく簡潔に述べられているだけで、銃360丁弾薬12000発なんて
話は全く出てこない。
558 :
日本@名無史さん:02/04/03 19:56
軍事史研究家の松下佳男は陸士は生徒隊の一人として明治天皇の大葬に参列していた時
同期の武藤章から乃木の自殺を知らされ、「以前から乃木という人を好きじゃなかったが、
『なぜ自殺を、しかも御大葬の日にと?』の日にとやや不快の念をいだいた」と50後に
述懐していた。よ
>>557 あ、そうなんですか。
当方は、佐々については、「戦袍日記自序」において明治22年06月に
「戦袍日記」を記したということは知っていましたが、記述内容はあまり
知りませんでした。どうもありがとうございます。
ところで553氏、557氏の言われることが本当だとすると……嘘ついたの?
559は失礼でした。
嘘かどうかは、553氏が
「当方は佐々友房の戦袍日記の記述から植木戦と述べましたが。(
>>553)」
と言っている訳だし、553氏の「戦袍日記の記述」が紹介されるのを待って
判断すべきでした。
>>559 後聞ク、此夕薩本営二於テ、小倉分営兵若干隊植木ニ進入スルノ報ヲ聞キ、
小隊長伊藤直次・村田三介各々部下ヲ率イ疾ク馳セテ之ニ向ヒテ
敵軍ト向坂ニ遇ヒ、激戦数次、遂ニ之ヲ敗ル。追躡シテ田原坂ヲ下リ、
薩ノ別隊ト挟撃シテ又大ニ之ヲ木葉二破リ、其連隊旗ヲ奪ヘリト云フ。
・・・これだけ。『戦袍日記』中で植木・木葉戦に言及してるのは、たったこれだけです。
>561(557)
佐々友房は、田原坂の戦闘を非常に重視して本書を書いているらしい
ですね。その点、緒戦の植木・木葉の扱いは軽くなっているのですな……。
元内閣安全保障室長の佐々淳行氏(連合赤軍あさま山荘事件とかの)の
祖父だとか。
どうもありがとうございました。
この文章では植木と木葉の戦況を区分することすら出来ませんのに、銃何丁
弾薬何発とか分捕り成果を詳細に知るには「特殊能力」が必要ですな。
本来、553氏が参考にしたとする箇所の説明をするべきだと思うのですが。
『>当方は佐々友房の戦袍日記の記述から植木戦と述べましたが。(
>>553)』
553は「特殊能力を持つ人」か、「サラリと嘘をつく人」ですね。
>>551 すごく重みがある台詞だね。
西郷たち薩摩士族にしてみれば、
「自分達が日本最強であり、将来の外国との戦争を戦えるのは自分達しかいない」
って誇りこそが、自らの存在意義そのものだったんだから。
「百姓兵に負けた今、自分達がこうして生きている意味も無くなった。
かくなる上は、せめて武士らしく、最後の一花を咲かせて散るのみ」
って思ったんだろうな。
前に(
>>423)で出ていた、福原大佐(陸軍第三局副長)との手紙の件。
423氏は、「福原大佐からの手紙」しか紹介していませんが、実はこの手紙
も含めて、両者の間には、以下のようなやりとりがあったそうです(桑原嶽氏
著書「名将乃木希典」より)。
1:福原→乃木「乃木の対応を批判する手紙」
2:乃木→福原「弁駁状」
3:福原→乃木「乃木の弁を了解しての激励」
4:乃木→福原「お礼の手紙」
この手紙のエピソードについては、まず、「どこまで紹介するか」というの
が第一の問題となります。423のように「1」のみを紹介するのと、「1〜4」
まで紹介するのとでは、全く印象が異なりますので。
この手紙四編は、別に起承転結の関係ではありませんが、それに例えれば、
「起」だけ文章を以て紹介しつつ「承転結」を伏せるのは、あまりにも恣意的
な紹介です。
少なくとも、「起承転結」という流れがあった事は紹介するべきでしょう。
第二の問題点は、福原大佐の批判は妥当だろうか、という事です。
手紙「1」で福原大佐の批判する点は、このようなものです。
大佐はまず「神風連の乱における児玉少佐の活躍」や、「萩の乱における諏
訪大尉の功績」を讃えたのち、『……足下引率する所の兵員一連隊の精兵有
り、しかして豊津の小争闘を除く外、いまだ一小戦だも聞かざりしに、かえっ
て大阪鎮台へ向いて援兵を乞いしと聞き、僕、誠に驚嘆の至りに堪えざりき…
…』と、二者に比べて乃木の行動は消極退嬰的であった、と非難しています。
福原大佐が讃えるところの二者の功績とは、いわば戦闘になってしまったあ
との後始末における活躍についての賞賛です。
しかし福岡県内において乃木は、秋月の乱勃発の前に既に情勢不安を察し、
兵員派遣などの手を打ち、勃発後は秋月賊徒と周辺士族(特に考慮していたの
は福岡、豊津。他に柳川、佐賀、久留米も憂慮)との連携を押さえ、また地元
民が扇動されないよう計るなど、先手を打ったために、目立った戦闘になるこ
と自体を防いでいるのです。
福原大佐は「豊津の小争闘」などと軽く見ていますが、豊津藩は元は小倉の
小笠原藩、幕末の長倉戦争で長州に蹂躙された過去を持ちます。
薩長新政府への恨みは深く、事前の手を打っていなければ「小争闘」などで
済んだかどうか?
「生じた乱の後始末に奮戦する」事を讃えるのは勿論当然のことです。しか
しそれと同等、もしかするとそれ以上に、「乱を小規模に防ぐ」事は評価され
こそすれ、非難される性格のものではありません。
〈付図〉
萩
│
│
┌山口───広島
下関────┘
┌─小倉┐
┌──┘ │ │
福岡──┘ ├─┴─行橋
│ │ │
└┐ ┌──┘ 豊津
│ ┌秋月┴小石原
├─甘木
│
久留米
┌┤
┌┘│
┌┘ │
柳川 │
│
│
熊本
第三の問題は、援軍を求めたというのは妥当かどうか、という事です。
大阪鎮台に援軍を求めたということも批判される点ですが、熊本・福岡と二
県に渡る叛乱が、わずかの間に連鎖して生じたという状況です。もしも鹿児島
が、という発想があっても別段過剰な反応ではないと思います。
鹿児島士族を相手とする場合、通報先は、元参議前原一誠率いる不平士族に
備える広島鎮台ではなく、東京鎮台か大阪鎮台になると思うのですが。
また、通報先の問題でなく、援軍を求めること自体が問題だと言われるかも
しれませんが、「寡を以て衆を破る」という発想よりもむしろ、「牛刀を以て
鶏を割く」という発想の方が、軍事的には合理的な発想だと思いますので、乃
木の判断は別段非難されるものではないと思います。
568 :
日本@名無史さん:02/04/09 17:14
本来なら軍事版の二百三高地スレに書いたほうがいい話題かもしれないが、
向こうでも激戦が繰り広げられているので、こちらに書かせてもらう。
内容はというと、日清戦争と日露戦争それぞれの旅順要塞攻防戦についてなんだけど、
日清戦争時の旅順攻略では大山巌率いる第二軍は、
兵站の失敗から一日分の補給しかなく、
また明確な地図や敵陣地の情報もなかった。
そして攻防戦直前に入った情報から当初の攻撃目標だった
永久堡塁のある東北正面を避け、
極力弱部である西北正面から迂回攻撃し、
東北正面を後ろから攻撃しようとしたと軍閥興亡史の大山巌の章にある。
この要塞攻防戦に従軍した乃木がなぜ、
軍司令部幕僚の意見や師団の意見に左右され、
東北正面に固執したのか不思議なんだ。
569 :
日本@名無史さん:02/04/09 19:41
日清戦争のことは良く分からないんだけど、日露戦争での旅順では攻撃正面を変えるとなるととても大変だぞ。
仮に西北正面に回す部隊を第9師団とすると、元からいる第一師団はさらに右翼(西方)へ陣地を
変換しなきゃいけない。また東北正面へ抑えとして残す第11師団は陣地を西方へ拡大しなきゃいけない。
さらに攻城砲兵団も射程が短い15センチ榴弾砲を始めとして
ほとんど陣地を移らなきゃいけないだろう。それも要塞からの妨害放火を耐えつつ・・・。
とうていかかる手間と時間が日清戦争時よりも大きくなると思うんだが、どうよ?
日清戦争史なんて全然知らないからしまらない反論しか書けなかった。
ここいらに知識がある人、います?
>568
日清戦争当時の旅順は、要塞の構造、堅固さの程度、士気の程度、ともに
歩兵の吶喊で陥落する程度のものだったという点で、決定的に日露戦争当時
の状況と異なっていると思います。
同じ場所とはいえ、全く異質の戦場となっていたと思います。
「乃木大将と日本人(S・ウォシュバン・講談社学術文庫・540円)」に、
前スレ(
http://mentai.2ch.net/history/kako/979/979984185.html )の
670辺りで話題になった「一戸将軍は乃木をどう思っていたか」について窺い
知れるエピソードが書かれていました。
訳者となる目黒真澄氏が、原書内容について一戸大将に尋ねた時の事。
『……翻訳に初めて着手した後、一戸大将の門を叩いて原著者のことを尋ね
本書の内容を大体述べてみたところ、大将の喜びはひととおりでなかった。
「ウォシュバンという男は当時27、8歳の愉快な青年であった。非常に乃木さん
を崇拝したばかりではない、Father Nogi と呼んで、父のごとくに思っていた
ようだが、果たしてこうしたものを書いてくれたか」といって、涙を流さんば
かりに懐かしがるのであった……』
目黒氏は二、三の記述内容について触れているのですが、一戸大将は「そう
したことまで書いてあるか」「よく覚えていて書いてくれたものだ」と、その
記述の詳細なことを感心しています。ウオシュバンの記述は、かなりに当時の
様子を再現しているようです。
綾乃木さんて、どういうひと?
って読んじまったーよ!そこはかとなく綾乃木さんに勃起sage
「公刊日露戦史・爾霊山攻略1・12月05日」
以下は、「公刊日露戦史」における05日朝〜06日朝の爾霊山攻防に関する記
述です。
軍事板「二百三高地Part2スレ」最後尾にて、05〜06日の攻略法が論点と
なっておりました。書き込みのため資料を再点検していたところ、当のスレが
消えてしまいましたので、こちらの方に書き込みします。
記述は、主に突撃部隊に関するものに限り、周辺に残置待機中の予備隊の招
致・集合等の動きや、砲兵部隊の援護、工兵部隊の行動などについては、かな
り省きました。
「公刊日露戦史・爾霊山攻略2・12月05日」
05日
0800・爾霊山攻撃隊は、攻撃準備の配置に就く。
【攻撃部隊の突撃準備】
・村上大佐は歩兵第27及び第28連隊の両選抜隊を第一線に並列し、
同第25連隊の選抜隊を第二線とし、工兵第七大隊混成一小隊を、
三手榴弾班に分かち、その各一班を各選抜隊に配属させる。
0915・村上大佐は、攻撃隊に西南部山頂への突撃を命令。
・攻撃隊は突撃、敵の抵抗を排して山頂の散兵壕に突入。
【山頂の状況】
・攻撃隊の死傷甚だしい。
・村上大佐は、歩兵第27連隊集成第三中隊を次いで突撃させる。
・齋藤少将、村上大佐に歩兵第28連隊集成第二第三中隊、工兵第七大隊
の一部を増加し、山頂の支持に努めさせる。
【山頂の状況】
・山頂の攻撃隊は、死傷多大にして総兵力約40名。
・攻撃隊はことごとく散兵壕内に伏して、東北部山頂・滕家大山か
らの銃火、太陽溝及び椅子山方面からの砲火に対し身を起こすこ
とが出来ない状態。
・工兵第七大隊混成小隊は防御工事に努力。
「公刊日露戦史・爾霊山攻略3・12月05日」
1000・齋藤少将、村上大佐に後援として歩兵第25連隊第一大隊を増加。
・村上大佐、直ちに該大隊第三中隊を西南部山頂に増加。
【山頂の状況】
・防御工事が進む。
・山頂南側に通じる暗路発見。守兵射殺、南側開口部までを略取。
1020・村上大佐、同山頂の略取の目的を達したるものと認め、齋藤少将に報告。
【山頂の情況】
・敵の銃砲火依然として集中、死傷少なからず。
1000時に、『山頂部暗路の略取』という出来事があったというのは、この本
で初めて知りました。暗路は完全に地下隠蔽の構造を持つもののようで、この
「暗路略取」が山頂争奪戦に大いに役立ったと思われます。
この時機、爾霊山東北部攻撃隊(歩兵第28連隊集成第一中隊)・老虎溝山攻
撃隊(歩兵第26連隊集成第一中隊)は、それぞれ当面の敵に対し射撃し、牽制
しています。
「公刊日露戦史・爾霊山攻略4・12月05日」
1030・敵の銃火大いに衰え爾霊山西南部山頂の占領漸く確実となる。
【山頂からみた情況】
・敵兵約70、山腹に来援するもほどなく退却
・輜重車両の如きもの、市街方面に退却
【第十一師団よりの情報】
・敵の増加兵新たに爾霊山東南麓に来援
1100・第七師団長は、西南部山頂の略取全く確実となる後に東北部への攻撃を
開始するように齋藤少将に訓令。
・これをうけて齋藤少将は、現状を第七師団長に報告。
・報告とともに齋藤少将は、第七師団長に手榴弾の補充を請求。
・これをうけて第七師団長は、老虎溝山攻撃隊のものの充用を司令。
1135・齋藤少将は、村上大佐に山頂占領の確否を問い、占領確実ののちに東北
部山頂の攻撃に着手するよう通報。
・村上大佐は、目下防御工事中にて東北部攻撃なお時期尚早、と回答。
・齋藤少将は、攻撃準備として歩兵第28連隊集成第一中隊長沼辺大尉に
東北部の敵情を調査するよう命じる。
・沼辺大尉は斥候により、東北部の状況を知る。
「日露戦争(児島襄)」と比較すると、1030〜1100頃の状況(齋藤と大迫と
のやりとりの部分)がやや異なっています。「公刊戦史」以外にも第七師団の
戦史、日誌、報告などが元になっているのだろうかとも思えます。
「公刊日露戦史・爾霊山攻略5・12月05日」
(1135の続き)
【東北部の情況(沼辺報告)】
・敵散兵壕は既に破壊されており敵兵蟄伏、しかもその数多からず
・旅順方向より増援前進し来るの状有り
1320・前面の敵情依然として変せず。
・齋藤少将、第七師団長に東北部山頂への攻撃を具申。
『東北部山頂を略取するにあらざれば、現在の位置を確実に固守するを
得ず、しかも同部山頂の敵兵頗る微弱にして、これが奪取困難ならず』
・第七師団長は攻撃を認可。
・齋藤少将は東北部攻撃の企図を老虎溝山攻撃隊に通報し、牽制を要求。
東北部偵察が行われたのが1135、攻撃具申・認可がなされたのが1320、この
間の記述はありませんが、熾烈な攻防戦が行われたのは想像に難くありません。
攻撃前の12月03日に、軍司令官と師団長との間で行われた下問と答申では、
『もし夫れ確実に西南部山頂を占有せんか、大なる犠牲を賭して東北部山頂及
び老虎溝山を攻撃するの要なく、西南部山頂の観測により敵艦射撃を開始し得
べし』という認識でしたが、結局は西南部・東北部の占領は不可分であったこ
とが、1320の齋藤少将の具申で伺えます。
観測所設置のためには、「西南部の確保」だけでは不十分であり、やはり
「高地山頂全体の攻略」は必須のことでした。
「公刊日露戦史・爾霊山攻略6・12月05日」
1345・齋藤少将は、攻撃隊を東北部山頂に突進せしめる。
・攻撃部隊は歩兵第25連隊長渡辺大佐が指揮。
【攻撃部隊】・歩兵第28連隊集成第一中隊、工兵第八大隊第一中隊は
突撃。
・歩兵第25連隊第二大隊、後備歩兵第16連隊第一大隊
(第一第二中隊欠)、工兵第六大隊第二中隊(一小隊
欠)を該方面に増加。
【攻撃部隊の突撃準備】・歩兵第28連隊集成第一中隊長(沼辺大尉指
揮)は、歩兵各30・工兵各5の突撃班を三班編制。
・突撃の令を受け、各突撃班は15mの間をして続行し敵の散兵壕に突入。
・東北部攻撃隊は、東北部山頂の西側を略取。
「公刊日露戦史・爾霊山攻略7・12月05日」
1400・渡辺大佐指揮下の歩兵第25連隊第二大隊が第三攻撃陣地に到着。
・渡辺大佐は、歩兵第28連隊集成第一中隊が苦戦中である事を知り、
第二大隊に山頂一帯の敵兵掃討を命じる。
・歩兵第25連隊第二大隊(大隊長平賀少佐)は、大隊を挙げて
第一線に散開。
【山頂の情況】・中央鞍部付近に多数の敵兵残留し散兵壕を死守。
・要塞本防御線からの敵砲火山頂に集中。
・我が方の死傷続出。
1420・遂に全く東北部山頂の敵を撃攘する。
1500・齋藤少将は、師団予備歩兵第25連隊第三大隊集成一中隊の増加を
受ける。齋藤少将は、これを渡辺大佐に増加せんとする。
・齋藤少将は、渡辺大佐の要請(山砲一中隊の分属)を師団長に要請。
・齋藤少将は、村上大佐に、占領地区を拡張せしめることを命じる。
・齋藤少将は、工兵第七大隊に観測所の構築を命じる。
1500・村上大佐の担当する西南部の方面には、情況に変化はない。
・村上大佐は予備隊(歩兵第25連隊第一第二中隊の集成中隊および
第四中隊の二小隊)を第一線に増加させようとする。
1530・村上大佐は、予備隊の残余を爾霊山西南部西南稜線に派遣。
村上大佐は、齋藤少将に潘道子山の守備兵を増加させることを要請。
1530・第一師団長は、歩兵第15連隊第二第四中隊を第七師団に来援させる。
この部隊は村上大佐の率いる部隊を援助。第四中隊は村上大佐の予
備隊となり、第二中隊は第一線の防御工事を援助する。
東北部への突入を果たした歩兵第28連隊集成第一中隊(長・沼辺大尉指揮)
に続き、歩兵第25連隊第二大隊(長・平賀少佐)が第一線に参加。これが功を
奏し、東北部の敵はかなりに撃退されたようです。
西南部の状況は、1500において情況に変化なしとされ、ついで1530までの予
備隊、増援部隊の動きが記されていますが、戦況の具体的な記述はありません。
「公刊日露戦史・爾霊山攻略8・12月05日」
1600・敵の残兵なお各区の散兵壕内に潜み抵抗中。
・軍司令官と満州軍総参謀長は、露軍の夜間逆襲を慮い、
軍司令官は、第七師団長に同山の死守を命じる。
1630・第七師団長は、齋藤少将に日没前に山頂全部を確実に占領する
ことを訓令。
・齋藤少将は、占領地区拡張中の村上大佐が苦戦中であることを知り、
渡辺大佐に村上大佐を援助し、鞍部占領を確実にするよう命じる。
同時に、老虎溝山に連なる鞍部の守備の必要を注意する。
・渡辺大佐に増加された歩兵第25連隊第三大隊集成一中隊が到着。
・渡辺大佐は、到着部隊を戦線に加入するが、部隊配置に混乱が生じる。
【混乱の状況】
・渡辺大佐は、歩兵第25連隊第三大隊集成中隊を一度右翼に増加する
が、左翼の危険を顧慮して、これを左翼後方に移し予備隊とした。
・予備隊であった歩兵第三連隊第11中隊、後備歩兵第16連隊第一大隊
(第一第二中隊欠)は、誤解により第一線に進んでしまう。
1800・渡辺大佐は戦線整頓の必要を認め、在来の諸隊は第一線にとどめ、
他の部隊は一旦退却させる。
・この時既に敵情静穏となっており、防御工事も進捗し占領確実となる。
この時機の記述には、児玉大将が呼んだ歩兵第17連隊の動静も書かれていま
したが、爾霊山西側の潘道子山周辺での警備に当たったのみのようなので、上
記時系列への記載は省きました。
「公刊日露戦史・爾霊山攻略9・12月05〜06日」
1900・齋藤少将の要請した山砲中隊(一小隊)が山頂に到着するが、山頂は
地区狭小のため後退する。
【山頂の状況】・歩工兵計500名、機関砲二門をもって西南部山頂を守備。
・歩工兵計400名をもって東北部山頂を守備。
2030・少数の敵兵が両山頂に来襲するも、直ちに撃退する。
06日
0300・我が防御工事大いに進捗。
【山頂の状況】・鞍部付近に二、三の敵兵存在するを認めるのみ。
・敵兵逆襲し来るの状無し。
ようやくに05日が終わり、06日になります。山頂の敵兵は鞍部に数名の存在
を推知するのみとなりました。
齋藤少将が要請した山砲が、山頂に到着したものの、場所が狭いため据え付
けられなかったというのは、あまり聞かない話だと思います。機関砲二門が西
南部に据えられたのは、その山砲が後退した代わりとのことです。
1900の山頂守備兵数は、「日露戦争(児島襄)」では、これとは逆に西南部
400、東北部500となっています。
「公刊日露戦史・爾霊山攻略10・12月06日」
払暁前・齋藤少将は、村上・渡辺大佐に訓令
『夜明け後守兵を暴露せず、努めて敵火の害を避けしむべし』
『敵兵逆襲の顧慮なきに至らば、速やかに隊伍を整頓すべし』
0900【山頂の情況】・状況に変化無し。
・齋藤少将は、爾霊山守備隊に命令。
【命令】
・西南部山頂は歩兵第28連隊・工兵第七大隊第二中隊の一小隊・第一
師団の機関砲二門、東北部山頂は歩兵第25連隊(第一大隊欠)・工
兵第七大隊第一中隊の一小隊・第十一師団の機関砲二門をもって、
それぞれ堅固に防御工事を施す。
・中央鞍部に於いては互いに連携して之を守備する。
・歩兵第15連隊第三大隊(第11第12中隊欠・長粟野少佐)、同第三
連隊第11中隊を潘道子山東北高地の守備に任じる。
・歩兵第25連隊第一大隊は、爾霊山西北麓に位置。
・歩兵第27連隊・後備歩兵第16連隊第三第四中隊・近衛工兵第一中隊
(半小隊欠)・工兵第六大隊第二中隊(一小隊欠)・工兵第七大隊
(第一第二中隊の各一小隊欠)・工兵第八大隊第一中隊は、爾霊山
西北700mの谷地に位置。
・ただし工兵第七大隊長は工兵諸隊を指揮し、第一線の防御工事を援助。
以上です。誤記がありましたらすみません。
583 :
日本@名無史さん:02/05/03 01:35
あげとく
584 :
日本@名無史さん:02/05/03 05:19
これをあげずに何を揚げる?
天麩羅か?
585 :
日本@名無史さん:02/05/08 05:51
川路公は偉大なり!
586 :
日本@名無史さん:02/05/08 08:42
「公刊日露戦史」て、司馬遼太郎が明治以後日本で発行された最大の愚書であるかもしれない
とボロクソに貶してた参謀本部編さんの「明治卅七八年戦役日露戦史」のことですか?
587 :
日本@名無史さん:02/05/09 02:12
>>586 ほう、どこで司馬遼太郎はそんなことを?
「地図だけは良い」という彼の評価は読んだことがありますが。
>>587 司馬氏は「公刊戦史」をかなり低く評価しているようです。「坂の上の雲」
の後書きの一節。
『……価値論のない歴史などは単なる活字の羅列にすぎず、この明治末年から
大正初期にかけて刊行されたあらゆる書物の中で歳代の活字量をもつ官修史書
をいくら読んでも日露戦争というものの戦史的本質がすこしもわからないとい
う不思議な書物なのである。明治後日本で発行された最大の愚書であるかも
知れない。
私はこの全十巻を昭和三十年ごろ大阪の道頓堀の古本屋で買った。目方で
売る紙クズ同然の値段だった。古書籍商人というものは本の内容について
じつによく知っており、値段は正直に内容をあらわすものなのである……』
「公刊戦史」は、単なる戦闘記録文書というようなものだと思います。
589 :
日本@名無史さん:02/05/09 11:23
戦闘詳報にちょっと手を加えた全戦線の記録みたいなものかな?
>>588 ああ、「坂の上の雲」にありましたか。
僕が書き込んだ地図云々については
どこで読んだのやらどうも記憶がはっきりしないもので。
地図に関する記述はやはり、「坂の上の雲」(第四巻)のあとがきです
「・・・それだけのエネルギーをつかったものとしては各巻につけられいる
多数の地図をのぞいては、ほとんど書物としての価値をもたない・・・」
大江氏も公刊戦史より陸軍政史の方を重要視しているね。
大江氏は、陸軍政史の「復刻刊行」を行った方ですからね。
重要視というか、生みの親?というか?
大江氏が研究していたころは、全10巻一揃いは防衛庁戦史室にしかなかった
そうです。
594 :
日本@名無史さん:02/05/13 23:07
保存アゲ
595 :
日本@名無史さん:02/05/14 13:07
それにしても、乃木批判というのはいつの時代から出てきたんでしょうか?
やはり大江氏がしょっちゅう引用している佐藤鋼次郎の「旅順を陥とすまで」
からでしょうか?(まああの本では伊地知幸介のほうがよほど叩かれてますけど。)
あとは有名な谷寿夫の「機密日露戦史」でしょうか?
「剣の刃」に収録されている重松正彦氏の講演「乃木大将と昭和の将軍」
ではこの書によって乃木を非難する場面が出てきます。
あれ?
このスレは倉庫行きになったと思っていましたが……?
おや、嶽原さんところもそうなりましたか。
倉庫行きになるには日が浅すぎると思って
日本史板のスレッドをチェックしてみたらここに着いたので、
パソコンが逝かれたのかと思ったのですが・・・。
mentai.2ch.net/ からacademy.2ch.net/に変わった時に、倉庫入りになった
はずだったんですがね?摩訶不思議。
閑話休題「旅順を落とすまで」、私も読みたいです。
いかにリスペクトしようとも
乃木のおかげで死を強制された
多くの兵士がいたのは事実。
あんなしゃにむに押すことしかできない
指揮官は失格。
だいたいあの人は軍人向きじゃない。
だから晩年も他の軍人と馬が合わないから、
明治天皇のところに入り浸ってたんでしょ。
その最期もそう。
彼が切腹なんて噴飯モノ。
一人で首でも吊りゃあよかったんだよ。
自決ぐらい一人でしろよ。
602 :
日本@名無史さん:02/05/16 11:18
その論考なら文藝春秋から出ている「福田恒存全集第六巻」
に全文収録されています。
これなら見つかる機会も多くなるのでは?
でも時期からしてこれが乃木批判への最初の反論になるのか・・・。
ワシは臆病でな、一人で逝くのが恐ろしいのじゃ
みなさん、低レベルな煽りは無視ということで。
>>602 市立レベルの図書館ならあるかな?と思って福田氏の著作で検索したら、
翻訳物しか見つからなくて諦めておりました。
第六集ですか。ありがとうございます。
司馬氏小説とほとんど同時期に出版された、福岡徹著「明治の軍神」
も読みましたが、こちらの乃木愚将論の方がより激烈でした。
福田氏のこの反論への小説家からの反論がなく、この論争は終了した
ようですね。
608 :
日本@名無史さん:02/05/16 11:29
幼名は無人(なきと)だっが泣き虫、弱虫だったので泣人と呼ばれた
その無人自体、最初から死ぬものとしてあきらめの気持ちをこめてつけたとか、
強い子に何とか育ってもらうためにあえて反対の意味の名前をつけたとかで。
九歳で江戸から大阪まで歩いていったらしいです。昔の人は凄いです。
第三軍司令部の幕僚異動1
旅順攻囲戦第一次総攻撃失敗後の08月30日、第三軍司令官は隷下各師団参謀長・
師団工兵隊長・攻城砲兵司令部員等を司令部に召集し会議を開く。会議の結果、
正攻法採用が決定された。攻撃築城作業は直ちに開始され、最終的に要塞直下にま
で坑道を達せしめる。
東北面主堡塁陣地陥落は、この正攻法作業の成果であり、この会議は旅順攻囲戦
の一転機であったと言える。この会議に出席した第三軍司令部員は以下のとおり。
軍参謀長 (伊地知幸介少将)
軍参謀副長 (大庭 二郎中佐)
作戦担当参謀(白井 二郎少佐
津野田是重大尉)
兵站担当参謀(磯村 年少佐
井上幾太郎少佐)
情報担当参謀(山岡 熊治少佐
安原啓太郎大尉)
第三軍司令部の幕僚異動2
四ヶ月後、旅順要塞は陥落。01月13日に旅順入場式、01月14日に招魂祭が行われた。
01月12日、第三軍の戦闘序列変更が発令される。13日夜には総司令部から「第三
軍は遅くとも二月中旬までには遼陽付近に集中を終るべし」との電報が伝えられ、こ
れと前後して第三軍幕僚の異動が行われた。
司馬氏はこの幕僚異動について、『旅順攻撃の作戦と指導上の責任を問われたもの
で、軍司令官の乃木と一番若い参謀の津野田を除く全員が左遷された』という旨の文
章を書いている(坂の上の雲)が、これは小説としての面白さ、分かり易さを優先し
た文章であることに注意しなくてはならない。資料的に全くの誤りである。
司馬氏小説によれば幕僚八名中、津野田以外の七名が転出したと書かれているが、
実際に転出したのは参謀長伊地知少将、参謀副長大庭中佐、作戦担当参謀白井中佐の
三名である。
第三軍司令部の幕僚異動3
参謀長、参謀副長、作戦主任の三名が異動した事から見て、旅順攻城戦が当初の
予定とおりに進展しなかったことの責任を問われての異動であることがうかがえる。
三名の後任は以下のとおりである。
1・参謀長 :伊地知幸介少将→小泉正保少将
2・参謀副長:大庭 二郎中佐→河合 操中佐
3・作戦主任:白井 二郎中佐→菅野尚一少佐
ちなみに参謀長職は、新任の小泉少将が転任直後に負傷したため、松永少将に変
わった。松永少将は就任当時既に病気に罹っており、後に病状が重症化したため、
奉天戦ののちに一戸少将に変わっている。
第三軍司令部の幕僚異動4
三名の転出先はそれぞれ以下の通り。
1・伊地知少将:新設の旅順要塞司令官。
2・大庭 中佐:大本営付、01月27日に後備第二旅団参謀長。
3・白井 中佐:大本営付、残務整理で第三軍在勤、04月15日に侍従武官。
この三名のその後の昇進状況は以下のとおり。旅順戦の責任を問われたにしては、
順調な昇進をしているように見える。
1・伊地知幸介(少将):同期トップで中将昇進
2・大庭 二郎(中佐):同期トップで大将昇進
3・白井 二郎(中佐):同期トップで中将昇進
第三軍司令部幕僚はボンクラか1
第三軍幕僚はボンクラ揃いだったという記述は多く見受けられる。彼らの後の昇進
状況を調べてみる。まずは旅順戦時の幕僚について。
・軍参謀長 伊地知少将:中将に昇進(同期トップ)
・軍参謀副長 大庭 中佐:大将に昇進(同期トップ)
・作戦主任参謀白井 少佐:中将に昇進(同期トップ)
・作戦担当参謀津野田大尉:少将に昇進
・兵站担当参謀磯村 少佐:大将に昇進
・兵站担当参謀井上 少佐:大将に昇進
・情報担当参謀山岡 少佐:(奉天戦で失明、中佐で退役)
・情報担当参謀安原 大尉:?不明?
続いて旅順戦後に第三軍幕僚に加わり、奉天戦を指揮した幕僚について。
・軍参謀長 松永少将:中将に昇進
・軍参謀副長 河合中佐:大将に昇進
・作戦担当参謀菅野少佐:大将に昇進
第三軍司令部幕僚はボンクラか2
作戦担当参謀であった津野田大尉が少将で軍を退いているのが、むしろ目立つ
ほど、他の人員は高位に昇進している。いったいどのような根拠をもって「ボン
クラ揃い」と言われるのか、非常に疑問である。
少将で退役した津野田はボンクラであろうか。津野田が退役したのは少将昇進後
まもなくの時期であり、決してそれ以上の昇進が期待出来なかった状況ではない。
彼は旅順攻囲戦時、参謀業務に何かと口出しする軍司令官に向かって「そういろ
いろ言われると業務に支障をきたします」と言い、参謀長を激怒させたことがある。
この他にも放言また不注意な発言が多い。出世に興味が無かったのかもしれない。
第三軍司令部幕僚はボンクラか3
伊地知の経歴を同期生と比較してみると、伊地知が同期トップで明治39年に中将
に昇進したのに比べ、同期である井口・長岡が中将になったのは明治42年である。
伊地知はその後健康を損ね、大正02年に予備役に編入されているが、当時同期生は
誰も大将になっていない。
伊地知は大正06年に病死した。病死故に大将昇進ならなかったことを根拠として
ボンクラというのならば、日露戦準備中に急死した今信玄の異名を持った参謀本部
次長田村怡与造もボンクラ、弓張嶺の夜襲で勇名を馳せた第二師団旅団長松永正敏
もまたボンクラとなる。「大将昇進していない」というモノサシは、ボンクラか否
かの測りに不適切である。
「某は大将になっていないのでボンクラ」とは、某が誰であるかに関わらず、
単なる誹謗中傷言に過ぎないと考える。
第三軍司令部幕僚はボンクラか4
五軍の参謀長を勤めた少将は以下の九名である。彼ら少将九名のうち、最終階級
が中将で終わったものは約半数を占める。「大将ならずに退役」という事実をもっ
て「ボンクラ」の根拠とはいえないと考える。退役の理由は病気、引責など人それ
ぞれだからである。
第一軍 参謀長:藤井 茂太 少将→中将
第二軍 参謀長:落合豊三郎 少将 中将
第二軍 参謀長 大迫 尚道 少将 大将
第三軍 参謀長:伊地知幸介 少将 中将
第三軍 参謀長 小泉 正保 少将 中将
第三軍 参謀長 松永 正敏 少将 中将
第三軍 参謀長 一戸 兵衛 少将 大将
第四軍 参謀長:上原 勇作 少将 大将(元帥)
鴨緑江軍参謀長:内山小二郎 少将 大将
最後に、日露戦に参戦した何十人もの少将の内、戦功により男爵を授かったのは
伊地知・上原の二名のみである事、また伊地知は病により中将職で退役病没したが
上原はのちに元帥となっている事を余談として申し添え、この項を終える。
>615-618
第三司令部の幕僚移動について、ちょっと補足させてください。
3・作戦主任:白井二郎中佐→菅野尚一少佐
となっていますが、奉天会戦の資料を見ると
明治38年3月9日に松川少将が第三軍に「長蛇を逸すべからず」と
電話し、白井中佐が「長蛇を逸するのを待ちつつあり」と答えたという
話があります。
旅順陥落後に大本営に異動した白井中佐が何故
奉天会戦時に司令部に居るのか・・
これは、大本営付を任じられた白井中佐が、
「別に大本営は自分を必要としているわけではないし、
作戦日誌がたまっているので司令部に残して欲しい」
と司令部に頼み込んで、そのまま居残ってしまったかららしいです。
さすがに侍従武官に任じられた時は内地に帰りましたが。
加えて、情報担当:安原大尉は少将に昇進しています。
(最終職歴は第14師団司令部付)
でしゃばって申し訳ないです。失礼します。
>>619 安原大尉は少将になっていたのですか。最終階級が少将ならば、根気よく
捜せば見つけだせた筈ですね。後悔……。
白井参謀の、そのある意味物凄い(笑)発言については、割愛しました。
補足ありがとうございました。
旅順攻略の後の人事と太平洋戦争後の外交官の人事ってよく似ているね。
622 :
日本@名無史さん:02/05/19 21:00
伊地知と上原って藩閥だよな。なんか偏ってないか?
623 :
日本@名無史さん:02/05/19 21:52
既出かもしれないけど、女学校の女学生がミスコンで優勝した時に、
その女学生を退学にしたのが当時女学校校長の乃木さんなんだよね。
台湾総督になるときも、官僚たちは大騒ぎでその対応に追われたとか…。
やたらと厳しかった人なんだよね…。
>>622 私は、「なんか」というよりも「確実に」偏っていると思います。
しかし、考えてみると、江戸末期に外国軍に散々に打ちのめされて国防の危
うさを自身で味わったのは、薩摩・長州のみです。そこに人材が偏るというの
は、ある意味で道理であるように思います。
薩摩と長州の藩閥について、伊藤正徳氏が軍閥興亡史の序においてこう書か
れています。
『……(東郷、黒木、乃木、大山・児玉、山県、山本、桂の各人の日露戦関与
について言及)……
而して顧みるに、これらの将帥は、悉く長州か薩摩かの出身者のみである。
ここに閥の問題が潜在した。それが後年陸海両軍において同じように問題と
なり、派閥闘争の醜聞をも聞くに至ったのであるが、……日清、日露の両役
を通じ、山県、桂、児玉、寺内を首領とした長州閥と、大山、黒木、野津を
領袖とした薩州閥とに対し、その偉大なる戦功を批判する者はなかった。
同じように、山本、東郷、上村の鹿児島海軍閥を非難するものもなかった。
その指導統制と運用とが適正であったからだ。』
日清・日露という明治時代の戦争においては、薩摩・長州という藩閥の存在
は、必要不可欠なものだったと思います。
625 :
日本@名無史さん:02/05/20 11:17
>>623 女学校校長?学習院院長の間違いじゃないの?
626 :
日本@名無史さん:02/05/20 20:23
>>624 土佐の谷干城とか、閥外にも人はいないわけじゃなかったんだけど、
山県の独裁に反発して野に下ったんだっけな。
>>626 山県と反山県のグループが主流を争った、月曜会事件といわれるものの事で
しょうか?
谷は、閥外の人材というよりも、他閥に入っていた人材というべきです。
個々人の反発ではなく、これは政争による失脚では?
>>628 おっとっと、確かに月曜会事件で谷のほかに陸軍を飛び出した主な連中は
三浦悟楼といい、鳥尾小弥太といい、曾我祐準といい長州出身でしたな。
やはり長州閥内の山県派対反山県派といったほうが正しいか。
どうもあわてていたようで。
で、汚名挽回といかないまでも驚いたこと一つ。
鳥尾について書かれたページを発見したんだけど、
30そこらで陸軍中将・・・。22で陸軍少佐に任官された乃木より凄そう。
http://www3.gateway.ne.jp/~waizan/torio.htm
東京乃木坂に現存している乃木邸を見ると、なんとなく彼の性格が
見えてくる。
日当たりの悪い北向き斜面に半地下の居間。わざわざす住みづらい
家を建てたのだろうか。
ここらへんの軍閥史?のようなものは、難解ですね。軍内から追われた人は
政界入りしたしているから、なおさら複雑に……。鳥尾小弥太も政界入りしま
したね、と書こうと思ったら
>>628のHPがその関連を書いてましたか。
読みましたが、ううん、難しい(泣)。
誰か「汚名挽回」に突っ込んであげなよ。・゚・(ノД`)・゚・。
>>633 Oh,God!!正しくは「汚名返上」かい。でも検索してみると結構使われているね。
>>632 こんがらがった派閥抗争の世界がこうもわかりやすく・・・
ここまで知識を極めてみたいなあ。
乃木様お願いします。
もう二度と指導的な立場には立たないで下さい。
みんながえらい迷惑しますから。
636 :
伊達遠江守家中:02/05/21 14:47
>613
>新任の小泉少将が転任直後に負傷したため
旅順から新戦場へ鉄道移動中に立小便しようとして足を滑らせて堤防から転落。
バカではないにせよ、注意力が・・・。(藁
小泉首相って、第三軍の参謀になる前は何をしていたんでしょうか?
しまった……
小泉少将です
>637
す、すいません・・激しくワラタ・・・
小泉少将は第三軍参謀長着任前は歩兵24旅団旅団長をされておりました。
資料を改めて見ると、「38・2・7 重傷」と書かれているのがなんだか・・・
640 :
日本@名無史さん:02/05/24 21:46
641 :
日本@名無史さん:02/05/24 23:37
>>640 このスレでも激戦が繰り広げられたなあ。ここもほとんどマターリ状態なのを見ると、
軍人としての乃木の能力に関する論点はほとんど出し尽くされたといっていいのかな?
642 :
伊達遠江守家中:02/05/25 00:23
>641
乃木も乃木だが、参謀長が着任すると皆ドキュソになってしまうのは、乃木
将軍の人徳・影響力によるものか?(藁
>>641 出し尽くされたとは思っていません。ここがマターリしているのは、
乃木批判側の論者が自爆してしまっただけだと思います。
>>553(批判側の虚偽書き込み)
>>557(虚偽指摘)
>>561(証拠)
上の文、なんか変ですね。
「〜自爆して議論参加しなくなった為にマターリしている〜」という意味です。
645 :
日本@名無史さん:02/05/25 06:40
>>643 そうか?派閥組織を無視して昇進したからボンクラじゃないなんて
論を張る誰かさんに飽きられているような気がするが?
646 :
日本@名無史さん:02/05/25 06:43
もともと乃木は片目だったから、まともに兵役検査をしていたら
落ちているだろうね。
>>645 「派閥組織を無視して昇進したからボンクラじゃない」なんて誰も書き込ん
でないと思いますが?
私は「大将昇進ならず病死、を以てボンクラとは言えない」、また
「ボンクラ揃いと言われる割には高位昇進した割合が多い」と書き込みました。
先方が「飽きられている」かどうかはともかくとして、
私は下記のこれには「呆れました」よ。
>>553(批判側の虚偽書き込み)
649 :
日本@名無史さん:02/05/25 06:58
>ボンクラ揃いと言われる割には高位昇進した割合が多い
藩閥を其のときは無視しているよな
650 :
日本@名無史さん:02/05/25 07:07
面白い逸話がある。
明治24年10月28日 AM6:40名古屋地方に激しい地震が起こり、
名古屋市内だけでも倒壊、半壊ともに数千戸の損害を受けた。
東京との連絡も普通になり、また市の警察長官が市の治安を
守るために軍隊出動を要請したが、地方長官は動転していっこうに
出兵を要請しない。
桂師団長は軍隊はこんな厄災のときにこそ立つべきと判断。
軍隊を出動させて食料を放出し、治安を回復し、市民を飢えから
救った。
しかし乃木はこのことが気に入らず、「師団長が天皇の軍隊を
私した」と誰はばかることなく放言して歩いた。
桂は責任を負って辞表を提出した。
当時、乃木は桂のやることなすこと気に入らなかったそうです(笑)。
>>650 名古屋鎮台勤務の頃の話ですね。
ところで名古屋城、天守、本丸御殿などが太平洋戦争の空襲によって
焼失しました。現在、名古屋本丸近くの庭園内に、明治時代に建てられ
たといわれる倉庫が一棟残っています。
これの通称が「乃木倉庫」。
地方ネタ失礼。
同郷の後輩かつ、ある意味有能な桂が自分の上司になったことが
なおさら嫌だったんだろうね。
いずれにせよ、懐は狭い。
「軍政畑に生きる軍人」という人材を良く思わなかったのでしょうか。
それとも、「桂個人」が嫌いだったのでしょうか。
私は、桂個人が嫌いだったのだと思います。
桂も乃木を嫌っていたらしいが、軍隊の中では有効に扱っている。
日清戦争の金州の戦いなどでは桂は政治的手段をもって乃木に
援軍を要請しましたし、なかなか桂は侮れない。
乃木は人を見抜く力はなく自分の意見を押し付けていたと思います。
それじゃぁ人はついてこない。
桂は、部下である乃木が休職願いを出した際も、熱心に説得したらしいです。
なんで乃木が自分を嫌うのかよく判らなかったとも聞きます。
乃木は、晩年、若い頃に桂を嫌ったことを謝し、友好を深めたそうで。
>>655『金州の戦い』?
金州を陥とした翌年正月早々の、「海城救援の戦闘」のことでは?
>650
つい最近も、そんな事例なかったか?
出動して現地の復興に参加したい人と、それを批判する人。
「過去に学べ」などというPHP厨の発言は必ずしも同意しかねるが、時代
が変化して科学技術が進歩しても、人間の考えることが一番進歩しないとい
ういい見本だったり。
・・・・題して「乃木リアン・コントロール」(藁
>>658『・・・・題して「乃木リアン・コントロール」(藁 』
なんですかそりゃ(笑)。
乃木の、桂への当てつけの言動は数多く、「木賃宿」エピソードとかの
元ネタになったものも多いようです。
まあ下の者が上の者にブチブチ文句、というところでしょう。
しかし、その地震の時、乃木も名古屋に居たのでしょうが、実際の被災
救援に当たってどのように行動したのかは、興味あるところです。
>659
ほとんど意味はない。単に語呂が良いからつい手が滑っちゃった。
でも、神戸の時も最後までヒステリックに自衛隊の出動に対して抗議してい
た連中がいたな。
おかげで、神戸市役所(だったか忘れた)に展示してある写真には自衛隊員
が一枚も写ってないという噂だ。
○○○の炊き出しには誰も突っ込み入れないのに・・・。
○○○よりも過酷な扱いに耐える自衛隊員に萌え、つーかもし私が統幕にい
たら絶対クーデターしてやろうって思うような扱かわれ方。
話題がズレ出してるのでsage
話題を戻しましょうか。
第十一師団の攻城日誌の内容を紹介している書物『日本陸軍工兵史』の中
に、私的に面白いと思った記述があったので紹介します。
10月31日の所に、「総攻撃に於ける所見」として、第二回総攻撃の反省点
が列記されているところがありまして、その一項にこう書かれています。
『砲撃の長時間に亘りしこと
第二回総攻撃の際、五日間緩徐な射撃を加えたため、昼間与えた損害の過半
は夜間に修理せられ、火砲は依然として活動せり。砲撃は一乃至二日を出てざ
るを要し、この間猛撃するを可とす』
なるほどと思って読み進めていくと、11月28日の所に、同様に第三回総攻撃
の反省点が書かれています。その一項目。
『砲撃日数を一日とし猛烈を極めたるは可なるも、敵に予告するの弊あり』
……大規模攻撃ごとに、準備射撃の方法についても色々模索しているよう
ですが、いかんせん奏功せず……。28榴弾砲が既に戦線参加している状況で
これですから、第一回総攻撃の準備射撃については想像するも無残な状況で
あったのでしょう。
両反省点は矛盾しているというよりも、正解がない問題に取り組んでいる
現場の実状・苦悩をそのままに表したものといえると思います。
本書『日本陸軍工兵史』は、08月末の軍会議による正攻法決定について、
下記のように記しています。
『……強襲案より正攻法への転移は、唯に当面の戦術思想の変換であるばか
りでなく、旅順要塞攻略という戦略上の大転換である。これが如何にして転
換せられたか当時の経緯に省みて一言するの要があろう。しかしてその中心
となったのは軍の作戦主任参謀であった井上幾太郎少佐(後の大将)及び軍
工兵部部員宮原工兵大尉(後の中将)であった。……
……案成るや、軍に於いて各師団参謀長、工兵隊長、軍砲兵司令部高級部
員の会同を催して討議した。工兵としては正攻法は援護射撃がなければ不可
能、砲兵側は弾薬なしと賛成の色を見せず、結局賛否半ばして採決に至らず
工兵の賛成者は石川潔太(工11長)のみ。
参謀長伊地知少将、之を決済せず。この状を終始黙々として聴きありし
乃木将軍は「弾薬の到着まで手を拱いて待っている訳にも行くまい。正攻法
をやるより致し方なし。敵が一発打てばそれだけ敵の損耗だ。敵の弾丸があ
るだけ打たせようではないか」と断を下された。ひとえに乃木将軍の名将軍
であった事はこの一言をもってしても窺うろ(ママ)ことが出来る。……』
良否は各自の判断に任せるが、
乃木は謹厳実直で上からの命令は絶対であると、
組織がそのまま人格となっている。組織の枠から
外れる行為は罪悪と考える人でしょう。
組織を堅固ならしめる為には有用な人材です。
東郷さんは上からの命令を自己解釈して実行
するタイプ。
乃木の評価は忠実さであり、東郷の評価は実行力。
ただし東郷タイプの判断ミスは亡国になるかも・・。
664 :
日本@名無史さん:02/05/26 17:26
>>650 そのエピソードの元ネタどこから?「軍神」?
>>664 福岡 徹の「明治の軍神」に、たしかそんなエピソードが載っていたように
記憶しています。あんまり自信ないですが。
666 :
伊達遠江守家中:02/05/27 01:52
>662
>敵が一発打てばそれだけ敵の損耗だ。敵の弾丸があるだけ打たせようではないか」
その的になっているのは、各地から集められた陛下の赤子たち・・・。
>乃木将軍の名将軍であった事はこの一言をもってしても窺うろ(ママ)ことが出来
>る。……』
つーことは恐らく乃木大将の頭の中では
敵の弾丸一発>>>>>>>>>>>>>兵士一人の人名
という計算が働いていたのかもしれん。
やっぱ、ある意味では昭和陸軍を滅ぼしたのは乃木大将かも・・・。
軍の目的>>>>>>>>>>>>軍人の人命
という計算は働いていたと思いますよ。
669 :
伊達遠江守家中:02/05/27 07:29
>667
>戦争をすれば、人は死にます。
そんなことは、当たり前。至極当然のことです。
私のごとき、品性愚劣な厨房でもその程度は存じ上げております。
だからと言って、「敵の弾丸を消費させると言う目的」で兵士を敵の射線上に
立たせるのは、どうそろばんを弾いても賢い戦法とは言えない。
正確には、
軍の目的>>>>>職業軍人の人命>>>>>>>>>徴兵兵士の人命
という計算かと思われ。
旧ソ連の「人間地雷除去器」を連想しちまったよ。
>>669 >だからと言って、「敵の弾丸を消費させると言う目的」で兵士を敵の射線
上に立たせるのは、どうそろばんを弾いても賢い戦法とは言えない。
そんな戦法用いていません。『正攻法を選択する』と言っているのです。
攻撃築城作業は、当然に敵射線から出来るだけ隠匿して行います。
小説が元ネタでは、殆ど信憑性ゼロですねえ・・・・。
福岡氏は福田恒存氏の批判に対して、一言も再反論できなかったそうですし。
672 :
日本@名無史さん:02/05/27 15:50
>>669 そこまでいうならさ、乃木は、いや第3軍司令部はどうしたらよかったの?
まさか203高地を先に攻撃なんて言い出すなよ。
>>671 東洋文庫から出ている「桂太郎自伝」によると、桂は災害処理が一段落したあと、
自ら上京し、進退伺いを提出したことになっている。
(古川薫の『山河ありき』やその他桂の伝記でもこれを採用している。)
当然おとがめなしとなったけどね。
乃木については一言もなし。というか、乃木が辞職した前後の時期についても
「明治廿五年廿六年には別に記すべきことなし」と軽ーく流されちゃってる。
んで、地震当時の乃木の行動を知りたくて、「乃木希典全集」に収録されている
日記を見てもその時期の日記は無しときたもんだ。
後、明治37年の日記(なぜか始まるのが11月になってから!)
を見ると結構乃木は参謀と共に前線に出ているね。
ただ、この中にしょっちゅう出てくる「豊島山」という地名、
どこにあるかさっぱりわからず。
おまけ
大濱徹也著「乃木希典」河出文庫
を発見。この本には「名将乃木希典」で断片的にしか書かれていない
福原和勝の乃木への書簡や乃木の返書などがかなりの部分引用されていた。
案外
>>432もこれを元に書いてたりして。
673 :
伊達遠江守家中:02/05/27 20:56
>672
先に片足縛るようなこと言っておいて「どうしたらよかったの?」って聞くの?
それはまぁ良しとしても、他に手がないわけでもないだろ。
元々、「(相対的に)防備が不十分なところを攻撃するのは迂遠だから、防備が
堅いところを攻撃する」って言う第三軍の考え方が直線的すぎ。
大局的には、別に力攻めで攻略する必要ないじゃん。「直接的アプローチ」だ
けが唯一の方法でもあるまいよ。
>>673 大局的に、力押しが求められていたと思えます。
06月24日、満州軍総司令官から第三軍へ訓令
『……第三軍は、全般作戦上なるべく速やかに旅順を攻略せよ』
陸海高級参謀幕僚会議の結果の07月12日見解
『……刻下の情況、第三軍に少しく無理押しを望は実に已むを得ざるべし』
のちに、第三軍参謀は、こう記しています。
『……当面の事情此の如くなるに加え、大本営と総司令部とが、我が軍の
総攻撃を急にせよと督促したことは、実に予想以上である。
故に、将軍にしても若し最初から尋常一様の手段を執られたならば、
恐らく其の更迭は旬日を出ずして実現せられたであろう……』
日清戦争の時は時間に迫られて迂回して攻撃していますが??
>>671 ププ 信憑性がないなんてまぁ乃木信者は何を持って
そう考えるのか不思議だね。
>>676 何を以てですか?
>>542『ふーん。小説が史実。ふーん。』
こういう感じで。小説記述には、できるだけ裏打ちを求めたいです。
状況的には日清戦争時の方が逼迫しています。
日露戦争時の現場部隊たる第3軍は現状より与えられた上からの情報
を優先したというところでしょうか。
また第3軍の報告は当然都合の良いように上に報告されますわな。
>>678=WARBIRDS出身者?
いやプロパガンダ本を頼るよりは小説の方がマシと考えますが?
また名古屋鎮台を辞めた理由も当然しっていて650は信憑性が
無いというのはなんだかね。
乃木信者って
福原書簡も納得したというのは悪い意味で納得したのを
良い意味で納得したと捉えるし、一戸もそうだね。
納得した=良い意味で納得するとは書いていない。
それよか殉死説もいいけど憤死説の方はどうよ。
今の世間と自分の理想とのギャップに耐え切れず、死を持って
世間に訴えようとしたという論はなかなか面白いね。
>>680 状況的にというならば。
10年も経っていて、主人も替わって、兵器も変わって、全然比較できません。
現地軍は、その上級司令部の作戦指導により動くのでは。もしもその意向に
沿わない対応をするのならば、軍参謀が述べているように、更迭ものですね。
WARBIRDSには書き込んだことはありません。嶽原はここだけ。
乃木批判側は、
>>553の乃木批判側虚偽発言から以降はどうにも
旗色が悪そうですね。
名無しで書き込むと、553の虚偽発言者と同じに思われて損ですよ。
コテハンでも使われてはいかがですか?
685 :
伊達遠江守家中:02/05/27 22:28
>679
過去レス読んでみた・・・・一応結論らしきものが出てるねぇ。
「誰がやっても大差なし。みんな貧乏が悪いんだ。乃木さん悪くない」
ってことで本当にいいの?
何か乃木神社の宣伝本見てるような気がしてきた・・・。
686 :
日本@名無史さん:02/05/27 22:37
>>685 嶽原氏は乃木信者だからね。致し方なし。
>>683 はぁ? 地形は変わっていませんが?
重要な地形やポイントってのは10年くらいで変わりません。
アントワープとかね。
687 :
日本@名無史さん:02/05/27 22:39
>>685 貧乏が悪いというか・・・要塞攻略にわざわざ高価な榴散弾を
使って効果が薄いというのはもうダメダメだよな。
だが陸軍では榴弾はほとんど用意しておらず、海外への発注も
ほとんど榴散弾だったというから、乃木でなくても陸軍の人間では
どうやってもダメだったんじゃないかな。
688 :
日本@名無史さん:02/05/27 22:41
陸軍も馬鹿だが、乃木は無能じゃん。
689 :
日本@名無史さん:02/05/27 22:43
使えない武器と無能将軍、これ、最弱。
武器は野戦なら役に立つものだったが、乃木は野戦なら強いのかな?
私は乃木信者ですか?う〜ん。
対象が不当に貶められていて、それを擁護する発言をしたら、信者ですか?
地形ですか?たしか、清時代の「城壁」は、露時代は「旧囲壁」とされ、
交通壕として各堡塁陣地等をつなげる存在となっていますね。
地形は確かにほぼ一緒でしょう。しかし、その地形の上に築かれた人為的
構造物は全然、まったく違います。
691 :
日本@名無史さん:02/05/27 22:48
乃木でだめだったのが、児玉がいくとすぐ陥落
これで乃木の能力の証明終わり。
692 :
日本@名無史さん:02/05/27 22:50
>>691 海軍から調達した28サンチ榴弾砲の事を考えれば・・・
榴弾をほとんど持たぬ陸軍では能力に関わらず難しいことだったとも
言える。
まあ乃木は嫌いだが。
>>691 児玉は、落城間近の時期に訪れただけだと思います。
>>692 不思議と、これを勘違いされている方は多いのですね。
28サンチ榴弾砲は、陸軍の砲です。
694 :
日本@名無史さん:02/05/27 22:56
>>692 榴弾砲は要塞砲をはずして持ってきたので、陸軍の砲だと思うが?
695 :
日本@名無史さん:02/05/27 23:00
乃木自身は大した軍事的能力はなかったと思う、しかしそれを言い出すと
大山の能力もよくわからない。参謀長に恵まれたか、恵まれなかったかの
違いかもしれない。
日露開戦前後の諜報で、『旅順要塞の山頂頂部は、水平に切り取ら
れている』というような報告がなされています。
日清戦争当時と日露戦争当時とでは、地形は当然に同じとしても、
その上に築かれた人為構造物は全く異なっているようですね。そして、
その構造物、つまり近代築城された堡塁などが大問題になるのです。
同一地点を、二つの戦争において比較すると、地形はほぼ一緒でも、
その堅固さが全然違っているのです。
697 :
日本@名無史さん:02/05/27 23:02
戦線へ移動する為の砲が野戦砲であると言う固定観念があるが為に、
固定砲である28サンチ砲を移動するという発想が出来なかったんだよ。
>>696 しかしこちらの兵器も進歩しているからと思ったからこそ、
第3軍や満州軍は正面突破できると思ったのでしょうが?
>>693 ヲイヲイ。203高地の戦いは日露両軍の決戦で、この
戦いの消耗によってロシアは戦力を喪失したというのは
桑原氏の意見のはずだが?
>>695 大山巌は優れた指揮官だよ。乃木が例え能力がないといえども、
それを換えなかった。だからこそ、児玉に命令文をしたためて、旅順
に派遣したり工夫をしたのでしょう。
第3軍参謀の経験不足は否めない。
>>700 桑原氏の意見はその通りですね。
それで、何が「ヲイヲイ。」なのでしょうか?私が693で述べたの
は、以下の二点ですが?
「児玉は、203陥落間近の時期に訪れただけだと思う」
「28サンチ榴弾砲は、陸軍の砲である」
>>696 それを甘く見た現地の部隊はどこかね?第3軍だよな。
乃木ってのが公表されるのと実際思われていたのとは違う逸話というのも
結構あるのだけど?
だからこそ戦後発表された機密日露戦史や明治軍制史によって
乃木無能説が台頭した物と思われる。いままで隠していたことが
ばれたからね。
そういえば ここでも公刊戦史をもとに書いている人がいたな。
公刊戦史は当てにならないのは太平洋戦争後に明らかにされたのだが?
仮に、乃木ではなく児玉が第三軍司令官だったとしよう。
やっぱり屍の山を築いて、後世から「無能」呼ばわりされたと思うな。
あるいはWW1時の仏軍のように、配下の兵士が命令拒否を行ったかもしれん。
705 :
日本@名無史さん:02/05/27 23:21
>>702 児玉が着て指揮権を譲り受けて1回の攻撃で203高地は落ちました。
児玉が来る前は4日かけても203高地は落せませんでした。
現実はこうなんだけど?
ちなみに公刊戦史には児玉が来たことは書いてませんね。
>>697 日清戦争当時と日露戦争当時との旅順要塞を比べると、
「10年も経っていて、主人も替わって、兵器も変わって、重要地点の堅固さ
も段違いで、全然比較できない」ということでよろしいでしょうか。
708 :
日本@名無史さん:02/05/27 23:22
>>706 問題は当時の日本軍が比較できていたか否かが問題。
絶対甘く見てたって?
甘く見てなかったらもっと具体案を検討する。
709 :
日本@名無史さん:02/05/27 23:25
公刊戦史のどこにどういう記述で書いていますか?
>>708 陸軍全体が、甘く見てたでしょうね。私はそう思います。
>705
児玉来訪以前の猛攻で、203高地はすでに陥落寸前。
最後の一手を指した人間だけが偉くて、そこまでの道のりを開いた連中の功績は無視ですか。
てかまあ、児玉が乃木の指揮権を代行したという話自体が眉唾物のようですが。
712 :
日本@名無史さん:02/05/27 23:26
旅順陥落後の乃木さんは大きな失敗もしていないので、
やはり参謀や参謀長が無能だったのではないか。
>>709 703氏がのたまうに、公刊戦史は当てにならないそうなので、
紹介は控えさせて頂きます。
恨むなら703氏を恨んでね。
>>709 ところで、徳間文庫版には書かれていなのですか?
715 :
日本@名無史さん:02/05/27 23:30
「できない」のではなく、「控えさせて頂きます」です。
703氏に揶揄されるのも面白くありませんので。
砲兵の装備、砲弾の製造量の見積もりや備蓄の算段も行なう
砲兵監だった伊地知がや、
二十八サンチ砲なんて使うまでも無いと思っていた豊島が
無能じゃないなんてよく言える。
718 :
日本@名無史さん:02/05/27 23:35
書いてあるなら堂々と紹介すればいい、703氏に遠慮する必要なし。
嶽原氏の論は乃木中央会のプロパ本を頼りにしている。
>>717 「伊地知砲兵監」
当時はそれで妥当だと思われていたのでしょう?当時の情勢から
鑑みて、伊地知の見積もりや算段はおかしかったのでしょうか?
「豊島」
どなたか、豊島中将について無能じゃないと言われていたのですか?
>>718 「遠慮」して書かないんじゃないんです。703での揶揄されている
書き込みが面白くないのですよ。
どうせまた、同じように書かれるに決まってます。
昔、『戦法日記』の内容を勝手に捏造したことを指摘されて赤っ恥かいた御仁が居ましたね。
今度は『公刊日露戦史』の内容を捏造ですか?
いいじゃないですか嶽原さん、ちゃあんとウソを指摘してやって下さいよ。
>>722 戦法日記?そんな日記どこにあるのかな?
724 :
日本@名無史さん:02/05/27 23:44
嶽原氏の論は乃木中央会のプロパ本を頼りにしている。
>>724 いやあ、面白い本でしたよ。
買って一読、「なんだこりゃ」というのが第一印象でしたがね(笑)。
726 :
日本@名無史さん:02/05/27 23:46
>>721 自分で「書いてある」と言ったことが証明できないなら
以後あなたの主張の信用度が低下するし、証明できたら
あなたの信用度が増すので、書いた方が良いと思うよ。
>723
や、これは失敬。『戦袍』なんて一発では変換できませんから。
さすがに
>>553氏本人だけあって、突っ込みが早いですね。
>>726 ……まあ、そうですね。ではちょっとだけ。書いてあることを証明
するには、その一部抜き書きで充分ですね。
公刊戦史第六巻の一部です。
『12月01日の情況
「第七師団の爾霊山攻撃の再興ならびに中止」
……この日1200、総参謀長児玉大将第三軍司令部に着し……』
なるほど、了解しました。
今確認比較してみたら、徳間文庫版には、この辺りはこう書かれて
いるだけでした。
『12月01日から04日にかけての間も、戦況には特別の変化はなく、
日本軍は新しい前進のきっかけをつくることができずに苦しんでいた』
『ちなみに公刊戦史には児玉が来たことは書いてませんね。(
>>705)』と
のたまう705氏の言われる所の「公刊戦史」とは、いかなるものなのか、非常
に疑問です。もしや「徳間文庫版」を指すのでしょうか……?
これは、「日本の戦史 日露戦争(旧参謀本部編纂)」です。「公刊戦史」
ではありません。705氏、今後二度とお間違えなきように。
……実を言うと、児玉来順という事は、すでにチョコっと書いているのです。
『
>>580 「公刊日露戦史・爾霊山攻略8・12月05日」
1600・敵の残兵なお各区の散兵壕内に潜み抵抗中。
・軍司令官と満州軍総参謀長は、露軍の夜間逆襲を慮い、……』
この「満州軍総参謀長」というのが、もちろん児玉のことなのですね。
というわけで、勿体ぶったふりをして、実は既に紹介済みなのでした(笑)。
また静かになりましたね。批判派も前スレと比較して質が落ちたこと落ちたこと。
それでですね、嶽原氏にひとつ質問があるのですが、
前スレの529から546にかけて「水師営に軍司令部が移転」とあるのですが、
第3軍司令部はいつ移動したのですか?
>>732 「軍司令部移転」は、少なくとも公刊戦史「付図」においては水師営の地点
に軍司令部のマークが記されているものはありませんでした。
「本文」には、いささか自信在りませんが、こちらにも無かったと記憶して
います。
>>732 「軍司令部水師営移転」は、どのような資料に記されているのでしょうか?
いや、こちらも前スレの過去ログを読んでいて
いきなり批判派からソースもなしにこんなことが書かれてあったので、少々驚きまして。
旅順関係の資料を探ってみても水師営の水の字も出てこないのでなんなんだと・・・。
sage
そういえば、ソースの提示がなかったですね。
手持ちの資料をパラパラ見ても、書かれていないと思います。
児玉大将が「司令部が遠すぎやしないか」と不満の感想を洩らし、それを
従者が手帳に書き留めた……という小説の記述はありますが。
738 :
日本@名無史さん:02/05/30 07:22
>>737 明治軍制史に大山大将の第3軍司令部が遠すぎるという
事を述べてましたね。児玉を派遣する前に。
>>738 それで、水師営への移転はありましたか?
>>737 嶽原氏はそういう事は当然ご存知だけど、都合の悪いことは
小説の記述と紹介してごまかそうとしますから。公刊戦史と同じ
あてにできないよ。
大山訓令は「各高等司令部は適当の位置に進め」という書き方です。
「軍司令部位置」への不満というよりも、第一線戦闘部隊の司令部で
ある「師団司令部」「旅団司令部」などの『“各”高等司令部』への
不満と見るべきではないでしょうか?
>>740 では、軍司令部水師営移転が行われたことを示すソースを提示して
下さい。
>>739 >児玉大将が「司令部が遠すぎやしないか」と不満の感想を洩らし、それを
従者が手帳に書き留めた……という小説の記述はありますが。
小説の記述ということで信憑性をなくす意図があると思えるが?<W
>>743 実際小説での記述ですから、仕方ありません(笑)。
明治軍制史にも児島の日露戦争でも古屋の日露戦争でも書いてあった
と思うが?<W
740氏に再度お尋ねします。ソースはないのですか?
>>745 リロードミスです、すみません。
さて、『書いてあったと思うが?』では困ります。
どのように書いてあるのでしょうか?
>747 小説の記述ということで信憑性をなくす意図があると思えるが?<W
と述べているだけで、司令部移転したとかは述べてないよ。
>>747 なるほど、軍司令部水師営移転のソース提示の意図はないということですね。
>>741 各高等司令部の訓令の前に 高等司令部と明記されてます。
当然軍司令部も含まれるものと考えるべきでしょ。まさか予備部隊
を出すのが師団司令部や旅団司令部と思っているのでしたら、
別ですけど?<W
訂正。すみません。
『児玉大将が「司令部が遠すぎやしないか」と不満の感想を洩らし、それを
従者が手帳に書き留めた……という小説の記述はありますが。(
>>737)』
上記は、「坂の上の雲(司馬)」と「日露戦争(児島)」の内容がごっちゃ
になってしまっています。まずこの点がおかしいです。
また、軍司令部位置の不満を聞いたのは、「坂の上の雲」では従者ではなく
福島少将でした。また手帳に書き留めたという記述はありません。
訂正、陳謝。
「坂の上の雲(司馬)」
・児玉、軍司令部の位置に不満を洩らす。
・傍で聞いていたのは福島少将。メモ取り記述なし。
「日露戦争(児島)」
・児玉、臨時墓所の位置に不満を洩らす。
・傍で聞いていたのは従者田中。メモ取り記述あり。
>>750 『まさか予備部隊を出すのが師団司令部や旅団司令部と思っているので
したら、 別ですけど?<W 』
私は、まさに師団司令部や旅団司令部が予備部隊を出すのだと思って
おります。
実際、爾霊山攻防戦における記述では、軍予備隊はまず師団長または
旅団長配下に組み込まれ、その後現地に到着しているのですから。
>>752 組みこむのを判断するのはどこだ?<W
軍司令部だよ。
>>753 組み込むのを判断するのは軍司令部ですね。
では、組み込まれた予備隊を第一線に出すのは?師団・旅団司令部ですね。
組み込まれた予備隊を、第一線に出すのを判断するのは師団・旅団
司令部などの『各高等司令部』です。
もちろん、第一線に出さずに周辺地域からの牽制部隊として留めたり
することもあります。
その辺りの判断は、現場の『各高等司令部』に委ねられます。
>>754 言うと思ったよ。予備部隊を組み込むタイミングを
出すのはどこか?そんなに第3軍司令部の責任をなくしたいの?
そういうのを無責任という<W
それまで各師団司令部幕僚がどんな文句を述べていたかを
知っている上で話しをしているはずだが・・。
第3軍司令部の責任を軽くすればするほど、無責任となるの
が理解できてないらしい・・・・。
さて出かけるか・。
>>756 軍司令部の責任が軽いとは思っておりません。
「予備隊を第一線に出すか否かを判断する高等司令部は、
軍司令部ではなく旅団・師団司令部である」と言っているのです。
そろそろ08時30分、いつも定刻でご苦労様です。
早朝の名無し乃木批判派は、いつも定刻どおりの行動をされていて、
その点は実は敬服しているところです。
ご忠告したいのですが、553の虚偽発言者も、早朝書き込みを常とさ
れている方なのです(同時期の軍事板203高地スレでも同様でした)。
『553 :日本@名無史さん :02/04/03 07:10
>>549 貴方はどんな資料を参考にしていますか?
当方は佐々友房の戦袍日記の記述から植木戦と述べましたが。』
このまま名無しで過ごされておりますと、上記の虚偽発言者と同一視
されてしまうかもしれません。コテハンの使用をお勧めします。
>>756『予備部隊を組み込むタイミングを出すのはどこか?』
日本語になってません。何であれ最後が『出す』と繋がればよいというので
はありますまい。
「予備隊をタイミング良く組み込むのはどこか?」という意味でしょうか?
上記の意味ならば、それは当然に『軍司令部』です。そして、予備隊をその
まま留置するか、第一線に出すか、または周囲地域に出して牽制の役を与える
か、など具体的に指示をするのは、『“各”高等司令部』たる師団・旅団司令
部です。
まず、論点を絞りましょうか。そもそもの論点は、これでした。
論点:「軍司令部水師営移転」はあったか?
当方嶽原は、なかったと思います。
論拠は、公刊戦史付図において軍司令部マークの移動がないという事です。
「あった」側である名無し氏は、明治軍事史・日露戦争(児島)・日露戦争
(古屋)に記述があったと思う、と言われています。
具体的な記述の紹介を待ちたいと思います。
具体的な記述の紹介は無いようですね。
>>745 私の見る限り、「明治軍事史」には軍司令部移転があったということを記
した箇所はありません。「日露戦争(児島)」にも同様の記述はありません。
私は「日露戦争(古屋)」は所持しておりませんので、判りません。しかし
上記二例に欠片もない記述を『あったと思う』と宣われる貴方の発言ですから
非常に疑問を持っております。
さて、「明治軍事史」には、旅順陥落後の01月07日に参謀総長より二つの
電報が第三軍に伝達されたことが示されています。伝達先は「柳樹房」です。
軍司令部は移転していないのでは、と思われます。
763 :
伊達遠江守家中:02/06/02 15:12
>762
「日露戦争」(児島)にはなかったなぁ。
1月2日の時点では、水師営は「ナツメの大樹を庭に持つ繃帯所」と書かれ
ていました。
1月3日の時点では、「参謀長伊地知少将一行が、柳樹房の第三軍司令部に
帰着した」とあります。
その後は、旅順受取りや儀式などで幹部将校の多くが水師営周辺にいること
が多かったことが、司令部移転の有無に対する意見の差となっていることを
想像しています。
ですから、1月7日電を受けて制度上は移転していないことになりますし、
「主将あるところ司令部」の論に立てば移転したことになります。
「水師営」で降伏会見が行われた事が、軍司令部所在地移動説の論拠と
なっている可能性があるのですね。
意外な感じがしますが、なるほど、と思いました。
732氏が述べられていたように、前スレ529〜546では、「旅順に来た児玉
はまず、軍司令部を水師営に移させた」という事が述べられているのですが、
これは要するに、旅順戦後処理の頃と混同しているのかも知れませんね。
いずれにせよ、12月01日の児玉大将来順によって軍司令部が移動したと
いうことはない、ということになると思います。
766 :
日本@名無史さん:02/06/10 18:42
対露戦勝利記念age
>>766 勝ちましたねえ。いいゲームでした。
ここまで来たら決勝トーナメントに残って欲しいです。
大山訓令はどのような認識の下で出されたのか・1
乃木采配批判の根拠としてよく挙げられるものに、「大山訓令」があります。
さて、この「訓令」は、訓令が伝達される少し前に伝達された(とある)
「命令に関する訓示」として伝達されたものです。やや複雑と思いますので、
まず「命令」「訓令(訓示)」の二つについて紹介します。
11月29日1150に、まず「命令」が第三軍に発電されます。
『命令 二百三高地攻撃復行に関する総司令官の命令
再度二百三高地を奪取して、再度敵に奪取せられたるは、余の大いに遺憾とする
所なり。この際宜しく用い得べき諸団体を挙げてこれを二百三高地の攻撃に用い、
必成の攻を期せらるべし。一般の戦況上、この攻撃を逡巡するの甚だ不利なるを認
む(明治軍事史)』
そして同日1740に、「訓令」が発電されます。
『訓令 右(この場合上記ですね)に関する総司令官訓示
今回二百三高地に対する戦闘の情況不利なるは、指揮統一の宜しきを得ざるもの
多きに帰すると言わざるを得ず。畢竟高等司令部及び予備隊の位置遠きに失し、
敵の逆襲に対しこれを救済するの時期を誤りたるものなり。貴官深く此に鑑み、
明朝の攻撃に当たり手は必ずこの弊を除き、各高等司令部適当の位置に進出して自
から地形と時期とを観察し占領の機会を逸せず、かつその占領を確実にすることを
期せらるべし(明治軍事史)』
大山訓令はどのような認識の下で出されたのか・2
この命令・訓令が非難しているのが28日〜29日未明の戦闘であることは、内容と
発電時期から見て、間違いありません。
(内容:敵の再奪還を非難→27日の戦闘では奪還していない)
(時期:29日昼〜夕方発電→27日か28日〜29日未明の戦闘のいずれか)
この訓令は、先に伝達した命令について総司令官が不満に思っていることを具体
的に記したものであり、総司令官が、第三軍攻撃指導をどのように「認識」し、
どの点について不満であると「判断」していたかを伺い知ることができます。
では、総司令官のその「認識」は正確だったのでしょうか?
大山訓令はどのような認識下で出されたのか・3
下記文章は、主に爾霊山攻撃に対する総司令部の所見を示すものです。総司令官
が、該命令・訓令を出す際に爾霊山攻撃についてどのように「認識」していたかが
伺い知れる文章です。
『旅順要塞第三回総攻撃に関する総司令部の所見
……(総司令部は、第三軍が第三回攻撃にて望台攻撃を中止して爾霊山攻略攻撃
へと主攻方向を転換したこと自体には同意する旨の記述)……。
然るに、この新なる203高地に向いてする攻撃は、27日午後より砲撃を開始し、
28日より29日に渡る夜間まで、再度之を占領して再度奪還せられたり。この際第一
師団は、その兵力則ち第七師団を以て時を移さず203高地を攻撃せしむること実に必
要なりし。然るにこの新鋭の兵力たる第七師団の大部はこの際、軍司令部の位置た
る周家屯の付近に位置し、203高地付近より約一日行程の距離にあり。この要塞戦に
於いて軍司令官がこの如く総予備隊を遠距離に置きたるは、実に帥兵の法を失する
ものにして、為に敵に時間の余裕を与えたるものと言うべし。
……(以下略)……。(明治軍事史)』
大山訓令はどのような認識下で出されたのか・4
上記の総司令部所見では、『28日の攻撃で、203高地を再々占領しながらその度
奪還された原因は、軍司令官が、総予備隊たる第七師団を前線まで行程約一日とい
う遠距離に置いた為である』と述べています。つまり総司令部は、総予備隊が適当
の位置に居れば、28日夜に占領した203高地が敵に奪還されることはなかっただろ
う、と認識しているように見受けられます。
軍総予備隊が主戦場から一日行程の場所に居たとしたら、また、その為に近辺に
適当な兵力がおらず、為に主戦場への兵力追加が不可能な事態となっていたのなら
ば、軍総予備隊を統べる軍司令部は非難されべきと思います。
しかし私は、この所見に示されている総司令部の「認識」に、二点の疑問を持っ
ています。
第一点は、総司令部は『一日の行程』と認識しているが、第七師団宿営地から
203高地近辺まで、本当に一日行程かかるのか?ということです。
第二点は、軍司令部は、実は適当人員を然るべき距離の位置に移動させていたの
ではないか?ということです。
大山訓令はどのような認識下で出されたのか・5
先の二点について、調べてみました。
まず総司令部で問題とされている「28日の第七師団」はどこに居たのかを、「公刊
戦史」より辿っていきました。記述は師団の歩兵兵力に限り、大隊単位(合計12)
で示します。地名については、下記略図を参考にして下さい。
【略図】
曹家屯
柳樹房
碾盤溝
廟霊山 東北溝
164高地
水師営 大姜家屯
大頂子山 松樹山
南山坡山
老虎溝山
爾霊山
大山訓令はどのような認識下で出されたのか・6
第七師団戦闘部隊は19日大連上陸。旅順到達後、主力は柳樹房北西の曹家屯に宿
営します。
第三回総攻撃にあたり、第14旅団の二個連隊は第九師団の所属となっています。
25日夜、軍命令により一個大隊は東北溝付近の谷地に、一個連隊は大姜家屯付近の
谷地に進出しているのですが、これは東北方面総攻撃に対しての措置です。
【25日の位置】 →【26日の位置】
第25連隊
第一・二大隊:水師営付近(白襷隊) 同左
第三大隊:東北溝 同左
第26連隊
第一・二・三大隊:曹家屯 →大姜家屯
第27連隊
第一・二・三大隊:大姜家屯 →曹家屯
第28連隊
第一・二・三大隊:曹家屯 同左
26日夜、第26連隊は大姜家屯へ。第27連隊は曹家屯へ移ります。これも東北方面
総攻撃に対しての措置です。
26日深夜、第25連隊第一・二大隊は壊滅的打撃を受けます。以後も記述は続けま
すが、この時点で戦力とは言えない状態と思われます。以後は動いていません。
大山訓令はどのような認識下で出されたのか・7
そして27日。問題とされる28日の前日です。この27日1800から、爾霊山への歩兵
突撃は始まっています。
第25連隊
第一・二大隊:水師営第一堡塁付近に位置
第三大隊:曹家屯
第26連隊
第一・二大隊:1530曹家屯出発、2100碾盤溝、のち大頂子山へ
第三大隊:曹家屯
第27連隊
第一・二・三大隊:曹家屯
第28連隊
第一・二・三大隊:曹家屯
東北方面に近接する大姜家屯に進出していた部隊は一旦、宿営地の曹家屯に移動
し、その後1530に、軍司令官は曹家屯の十個大隊のうちの二個大隊に西方面への移
動を命じています。
第一師団が二百三高地への突撃を開始したのは1800ですから、1530の二個大隊移
動命令は、軍総予備隊を適当の位置に進めるために作戦発動前に行われたものであ
ることが判ります。決して泥縄的な追加増派の移動命令ではありません。
ところで、この部隊は2100に碾盤溝に到着しているのです。総予備隊の元々の所
在地から203高地付近の碾盤溝までは約五時間半の行程であり、総司令部所見に見ら
れる『約一日行程の距離』という認識が現実の情況と全然異なっていることが判り
ます。
六時間で到達する距離を、その約四倍と見なされる約一日の距離と認識されては、
その認識に基づく判断に、影響を与えるように思います。この如く現実と異なる現
地情報は、何の意図を以て総司令部に伝えられたのか……それは置いといて、続け
て第七師団の位置を追います。
大山訓令はどのような認識下で出されたのか・8
28日の情況です。先に移動している二個大隊に加えて更に二個大隊、合計四個大
隊が西方面に移動しています。
第25連隊
第一・二大隊:水師営第一堡塁付近に位置
第三大隊:廟霊山?(付図では南山坡山北麓)
第26連隊
第一・二・三大隊:大頂子山〜南山坡山北麓
第27連隊
第一・二・三大隊:曹家屯
第28連隊
第一・二・三大隊:曹家屯
この日の軍総予備隊の位置が非難されているわけです。
六個大隊が、曹家屯に位置しています。ここから203高地周辺に行くには前述の通
り約六時間が必要なので、203高地争奪戦のための戦力としては役に立ちません。
しかしながら、それをもって「追加すべき人員が近くに居らず遠くに居たのが敗
因だ」と非難することは出来ないと思います。非難するためには、203高地近辺に配
置されていた人員が枯渇して六個大隊が必要な事態が生じておらねばなりません。
六個大隊(第27・28連隊)は確かに遠い曹家屯に居ましたが、既に203高地近辺
に配置されていた第25・26連隊の「四個大隊」は枯渇していたでしょうか?
大山訓令はどのような認識下で出されたのか・9
28日の戦闘には、第25・26連隊の「四個大隊」のうち、第26連隊の「三個大隊」
が増援部隊として1430〜1600に投入されています。これらを時系列に沿って並べる
と、このようになります。
0810(西南)他隊、突撃。一部成功。
1030(西南)他隊、突撃。一部成功のち撃退。
1200(西南)他隊、突撃。一部成功。
1340(東北)他隊、突撃。不成功。
1430 第一大隊03.04中隊、爾霊山東北部へ増援投入。
1500 第二大隊05.06中隊、爾霊山西南部へ増援投入。
1600 第一大隊01.02中隊、老虎溝山へ投入。
1600(西南)他隊+05.06中隊、突撃。不成功。
1630(老虎)他隊+01.02中隊、選抜隊突撃。不成功。
1700(東北)他隊+03.04中隊、突撃。成功のち撃退。
1800 第二大隊07.08中隊、爾霊山西南部へ再増援投入。
2200 第三大隊09.10中隊、爾霊山東北部へ再増援投入。
(※成功・不成功の評価は、「戦史講義録下巻」より引用しました)
大山訓令はどのような認識下で出されたのか・10
第26連隊の二個中隊(11.12中隊)は未投入です。2200に投入された二個中隊も、
第一線への投入はされていませんので、単純に考えても四個中隊つまり一個大隊分
の兵力が203高地至近距離にまるまる残っている情況です。これに加えて第25連隊
の一個大隊(2000頃に軍直轄から第一師団所属へ変更された)も、まるまる残っ
ています。
要するに、203高地周辺に派遣した第七師団の兵力四個大隊のうち、二個大隊分は、
健全な状態で残置されていたのです。
先に「単純に考えても」と述べたように、その他の隊も全滅したわけではありま
せん(例えば01.02中隊の1630突撃は選抜された人員によるものです)から、人員
数だけで見れば、実際はかなり多数が残っていたのです。増援兵力の枯渇という情
況では決してありませんでした。
つまり、山頂占領が失敗した理由は「人員不足」には求められないと考えられま
す。まして、軍総予備隊から抽出した、高地近くに移動済みの兵力はかなりの規模
が残っていたのですから、「六個大隊」が遠方に留め置かれていたことは失敗理由
とは全く関係しないと思います。
山頂占領が失敗した理由に、「予備隊位置不適当」というものも挙げられますが、
上記時系列のように事前に周囲配置された第七師団投入兵力が戦況に従い増援投入、
更に再増援投入されていることは、予備隊の位置は、前線投入にさして不都合のな
い位置に置かれていたことを示しているように思えます。予備隊位置不適当の為に
増援の期を失したとは言えないと思います。
大山訓令はどのような認識下で出されたのか・11
初めに記した総司令部所見の『……第七師団の大部はこの際、軍司令部の位置た
る周家屯の付近に位置し、203高地付近より約一日行程の距離にあり……』は、全く
現状からかけ離れた指摘であると私は思います。
また、28日の203高地争奪戦の際には攻撃が頓挫した後もまだ人員は残置されて
いたことから、当時既に、第七師団からの兵力抽出は適切に行われていたと考えま
す。よって、曹家屯に六個大隊を留め置いた処置が非難される謂われは無い、と考
えます。
予備隊位置が斯様に遠いと「認識」していたのならば、また203高地近辺に予備隊
が枯渇していたと「認識」していたのならば、第三軍の指揮を非難する「判断(所
見)」が下されても当然と思います。
しかしその「認識」が誤りであるのだから、その「判断(所見)」に誤りが入る
ことは免れないと思います。
参考資料
「公刊日露戦史(第六巻)」「明治軍事史(下)」「戦史講義録(下)」
779 :
日本@名無史さん:02/06/12 12:36
>>754 >六時間で到達する距離を、その約四倍と見なされる約一日の距離と認識されては、
>その認識に基づく判断に、影響を与えるように思います。この如く現実と異なる現
>地情報は、何の意図を以て総司令部に伝えられたのか……
昔の軍隊はすごいね。24時間ぶっ通して歩けるのか・・・。
そんな例はどこに書いているのですか?ぜひ示していただきたい。
>779
754って何ですか?それはともかく。
五時間半で移動を終えています。その後シレッと戦線投入できる状態でした
から、まあ無茶な行軍ではなかったと思います。
強行軍なら、もっと短時間で済んだと思われます。
そんな程度の距離を、『一日行程の距離』と認識していたのだと思います。
781 :
日本@名無史さん:02/06/12 13:46
>>780 戦線に投入できる状態って何か資料が残っているのですか?
また1日の軍の行程が24時間と考える根拠があると思うのですが、
資料を示していただけませんか?
>>781 当方の『六時間で到達する距離を、その約四倍と見なされる約一日の距離』
と書いた774の最後の四行が気になるのでしたら、この四行は撤回しますよ。
『一日行程の距離』と、いかにもはるか遠方に予備隊が置かれているような
印象を与える語句を用いているが、実状は5時間半かかる距離に置かれていた
ことを示したいだけですから、先の四行は当方の論としても不要な部分です。
783 :
日本@名無史さん:02/06/12 20:57
いや撤回も何も、5時間半という距離があなたには短いらしいから。
そして少なくとも
>>774の段階では6時間の約4倍の一日の行程と
書いておりますから、其の時点で当時の軍は24時間徒歩するのが
当たり前と貴方は認識していた上で論を組んだはずです。
>『一日行程の距離』と、いかにもはるか遠方に予備隊が置かれているような
>印象を与える語句を用いているが
5時間半という距離は立派に一日行程の距離と普通は考えますが?
>>783 『普通は考えます』
普通は、と言われても困ります。そちらも根拠を示して下さい。
『5時間半という距離があなたには短いらしい』
ええ、短いと思ってますよ。
五時間半というのは、この27日の部隊移動の際の時間です。ところで、
実は29日の部隊移動の際の時間は、もっと短いのです。
五時間半という時間が必要な距離、というのは、あくまでこの27日の例
によるものであり、同じ距離をもっと短時間で行軍した記録もあるのです。
784の文、なんだか判りにくいので補筆。
27日に、五時間半かけて移動というのは、寧ろ時間を掛けすぎている
と思います。
786 :
日本@名無史さん:02/06/12 21:30
>>785 根拠ってまず24時間行軍するのが当たり前の
根拠を示してくださいな?少なくとも
>>774に書いてある
でしょ?私の質問にまず答えてください。
>>786 782でも述べましたが、やはり、あの四行が気になるようですね。
では、あの四行は撤回します。
『一日行程の距離』と、いかにもはるか遠方に予備隊が置かれている
ような 印象を与える語句を用いているが、実状は5時間半かかる距離に
置かれていたことを示したいだけですから、先の四行は当方の論として
も不要な部分ですので。
788 :
日本@名無史さん:02/06/12 21:39
普通旧日本軍では8時間行軍が一日の行程ですが?
その内5時間半というのはほぼ一日と考えても普通です。
5時間半という距離がいかにも近いという印象を与える
論ですが、他の戦例などから1日の行程と考えるのが普通です。
言い方を変えれば、こうなります。
一日経たないと前線に来れないような遠方にいたのではない、という事を言いたいのです。
790 :
日本@名無史さん:02/06/12 21:42
徒歩時速4kmほどでなれた道なら8時間ほど行軍できますが、
不慣れな場所ですと倍以上かかります。
第7師団がまだ地理に不慣れというのは至る所でかかれてますし、
こういったことを無視して大山訓令の認識に疑念を感じるのは
非常にマヌケです。
>>788 行軍と言われますが、それは、『合戦場へ向かう行軍』においてでは
ありませんか?例えば、奉天へ向かう各軍の行軍とか。
本論点の場合、攻囲陣内の後方配置部隊が前線に向かう際の行軍……
というか陣地内の部隊移動ですので、あてはまらないと思いますが。
ちなみに、29日の移動所要時間は4時間と記録されています。あなた
の言われる『一日八時間が普通説』に従っても、『半日の行程』ですね。
>>790 その、不慣れな第七師団の部隊が、四時間で行軍しているのですが?
793 :
日本@名無史さん:02/06/12 21:51
>>780その後シレッと戦線投入できる状態でした。
たしか11/28の夜11時の攻撃時 馬場少将が第7師団所属部隊の
増派を受けたが、地理不案内であることを知って第1戦に増加するのを
止めてます。
貴方にとってこれがシレっと戦線投入できる状態な訳ですね。
まぁ別にいいけどね・・・。
794 :
日本@名無史さん:02/06/12 21:53
>>791 陣地内の移動と行軍とどちらが困難かも理解していないの?
もうどうでもいいよ。
>>790 第七師団が不慣れ、というのは、あくまで最前線の状況について、では?
曹家屯から水師営を経て碾盤溝・大頂子山山麓へ向かう道は、既に
日本軍が押さえていて、別に不案内な土地ではありません。
増援を送るのに半日以上もかかる距離に予備部隊を置いておくのが乃木流
>>794 どうでもいいなどと言わずに。
あなたの言われる『一日八時間が普通説』に従ってみましょう。
上記説に従って、29日に四時間で曹家屯から前線周辺に移動している
事実を検討すると、総司令部の認識『一日行程の距離』というのはやはり
大袈裟であると言い得ると、私は思うのですが。
798 :
日本@名無史さん:02/06/12 21:59
碾盤溝から203高地ってそんなに近い距離か?
太平溝まで直線距離で4km迂回すれば7、8kmあるぞ。
碾盤溝と大頂子山も高崎山が間にあって直線距離で2.5km
そもそも大頂子山と碾盤溝を一緒に論じているのも
何か偏向性を感じますね。
799 :
日本@名無史さん:02/06/12 22:01
そもそも昔の日本軍って一日30kmも行軍できたか?
>>774のいうように6時間の4倍を一日の行程と
考えたら100kmも不可能ではないが・・。<W
>>798 私も、結構距離があると思います。
予備隊としての派遣だからでしょうか、まず師団司令部位置付近に到着
して、その後にさらに大頂子山と南山坡山の間あたりに派遣されているよう
です。地図上で追うと、なんだか引き回されているように見えました。
>>800 せっかくのキリ番に、なんとも下品な言葉が入りましたね(笑)。
>>793『たしか11/28の夜11時の攻撃時 馬場少将が第7師団所属部隊の
増派を受けたが、地理不案内であることを知って第1戦に増加する
のを止めてます。
貴方にとってこれがシレっと戦線投入できる状態な訳ですね。』
下記では時刻が2200となってますが、この最後尾欄の09.10中隊のこと
ですね。他の中隊を見て下さい。同じように移動してきて、シレッと戦線投入しているでしょう?
『貴方にとって』といわれていますが、『私にとって(私の認識では)』ではなく、『実際に』そうだったのです。
1430 第一大隊03.04中隊、爾霊山東北部へ増援投入。
1500 第二大隊05.06中隊、爾霊山西南部へ増援投入。
1600 第一大隊01.02中隊、老虎溝山へ投入。
1600(西南)他隊+05.06中隊、突撃。不成功。
1630(老虎)他隊+01.02中隊、選抜隊突撃。不成功。
1700(東北)他隊+03.04中隊、突撃。成功のち撃退。
1800 第二大隊07.08中隊、爾霊山西南部へ再増援投入。
2200 第三大隊09.10中隊、爾霊山東北部へ再増援投入。
>>799 30kmとは、どこからどこまでの距離を言うのでしょうか?
第七師団のこれら部隊は、そんな距離を移動する必要は全くありません。
805 :
日本@名無史さん:02/06/13 17:29
乃木さんと大正天皇はなんだか似てますよね。
807 :
日本@名無史さん:02/06/13 22:17
>>806 くちひげは生やしてました。でもあごひげはなかったはず。
808 :
日本@名無史さん:02/06/13 22:25
成美堂出版「近代戦の先駆〜日露戦争」の旅順要塞攻撃の項で
児玉源太郎が柳樹房から水師営への司令部転換を行ったとありました。
その他にもその本には
「旅順要塞攻撃における日本軍の損害は10万人」
「児玉は28センチ榴弾砲で15分おきに二百三高地へ続くロシア軍の補給路を射撃させた」
など他の資料には全く触れられていない記述がありました。
>>804 脳内ワープしているな。昔の日本軍にはどこでもドア
でもあったような論を展開している<W
>>808 10万人ですか。そりゃ凄いですね。成美堂ムックって、たしかかなり近年
の発行物だと記憶していますが、新資料の発掘でもあったんでしょうか?
冗談はともかくとして、情けないことで。
>>809 軍総予備隊はそんな遠方に居なかった、という意味ですよ。
812 :
世界@名無史さん:02/06/13 23:09
院長閣下!と昭和天皇は呼んでいた。
少年時代の昭和天皇がもっとも尊敬していた人。
813 :
世界@名無史さん:02/06/13 23:15
明治天皇がもっとも愛した男!である。
「明治天皇と乃木希典」
「孝明天皇と松平容保」
ようするに単なる君臣関係を超えた、絶大な信頼関係
で結ばれた主従。
この方のためなら、どんな苦労もいとわないとおもわすせる
魅力ある君主じゃないと、こういう人間は決して上手に扱えない。
814 :
日本@名無史さん:02/06/14 10:46
ジリノフスキーは「日本海海戦の仇を討て」っつってロシア選手を焚付けていたそうで。
817 :
日本@名無史さん:02/06/14 22:33
>>811 >軍総予備隊はそんな遠方に居なかった
はいはい。援軍を出すのに4時間から5時間半かかる距離に配置しているのが
遠方でないんだね。あんたの1日の行程は24時間だし、そりゃ近いだろ・・。
しかも日本軍が防御しているなら解るんだよ。攻撃していて4時間から
5時間かかる距離に置くか?普通。
>>817 手持ちの軍総予備隊10個大隊のうち、たしかに六個大隊は曹家屯に居ました。
でも、四個大隊はすでに爾霊山高地周辺に移動済みであるのです。そして
先頭終了時、そのうち二個大隊は全くの無傷といってもいい状態だったのです。
遠方の六個大隊が必要な事態ではありませんでした。
攻勢情況に従い増援するべき兵力は、充分に周囲に置かれ、実際に投入され、
そして戦闘終了後も充分人員が存在していたのです。
819 :
日本@名無史さん:02/06/14 22:56
>>817 ところで貴方は、数日前に一日行軍八時間説を唱えられた方ですか?
四時間で移動している事実を考えると、半日の行程ということになり
ます。総司令官の認識『一日行程の距離』は大袈裟なものであるという
ことでよろしいでしょうか。
821 :
日本@名無史さん:02/06/14 22:58
>攻勢情況に従い増援するべき兵力は、充分に周囲に置かれ、
>実際に投入され、そして戦闘終了後も充分人員が存在して
>いたのです。
その戦いの時に陥落して、戦闘終了後も充分人員が存在している
ような話し方ですね。<W
822 :
日本@名無史さん:02/06/14 22:59
>>820 曹家屯から太平溝まで何キロあるのですか?
823 :
日本@名無史さん:02/06/14 23:01
>>820 貴方は一日行程24時間説を取っているんですよね。
根拠がいまだに出てこないのですが・・。当時の歩兵操典
に載っているのでしょうか?
>>821『その戦いの時に陥落して、戦闘終了後も充分人員が存在してい
るような話し方ですね。<W』
軍総予備隊の配置が遠かったために占領が維持できなかったのだ、
という総司令部所見に対し、それは認識が誤っている、ということを
述べております。
つまり、攻撃失敗の理由の妥当性を論じております。
826 :
日本@名無史さん:02/06/14 23:04
撤回って?1日24時間かかるという説を撤回したら
大山訓令の疑念は全て無意味ですね。少なくとも貴方は
軍の行程というものを知らないで憶測で大山司令官の
判断を批判しているのですから・・。
いいけどね。どこでもいるんだよなぁ。こういう奴。
>>822『太平溝までの距離』
太平溝という地名を出されておりますが、これは予備隊の駐留地と
いう認識でしょうか?それとも、増援のための待機地という認識で
しょうか? どのような意味で該地名をお使いですか?
828 :
日本@名無史さん:02/06/14 23:07
>軍総予備隊の配置が遠かったために占領が維持できなかったのだ、
>という総司令部所見に対し、それは認識が誤っている。
敵の逆襲に対して適切な救援が出来ないことが問題になっていたと
思うが??4時間以上もの距離に配置して、11/27の攻撃時にも
間に合わず、後半でも地理不案内で投入せざるを得なかった
状況を甘受すべきでないかい?
829 :
日本@名無史さん:02/06/14 23:09
>>827 あくまで具体的な数字を出そうとしない 827に呆れる。
そこまでして弁護するのか?おかしいよ。信者?
>>826 幸い、対論者に、一日行軍は八時間だという説を挙げられた方が
おられましたので、その説に乗り換えております。
その説に依っても、総司令部所見中の『一日行程の距離』という
文言への疑問は引き続き持てますので。
この説に従っても、曹家屯から爾霊山高地までの距離は「半日行程」
となるのですから。
>>829 地図をご覧になられれば判るはずですのに、何故当方にお聞きに
なられるのか、とても不思議なのですよ。
>>829 過去ログ読め。ここはオナニー信者のいるところ!
>830 曹家屯から爾霊山高地までの距離は何キロ?
>>828 27日の攻撃については、総司令部所見では総予備隊の位置を非難して
おりませんが?
28日の攻撃については、曹家屯から移動した第七師団の部隊は、昼間
に増援が可能な位置に既に進出させております。
>>833 私は検索サーチではありません。手持ちの地図をご覧下さい。
>曹家屯から爾霊山高地までの距離は「半日行程」
>>774 第26連隊
第一・二大隊:1530曹家屯出発、2100碾盤溝← 5時間半?
>>798 碾盤溝から203高地ってそんなに近い距離か?
太平溝まで直線距離で4km迂回すれば7、8kmあるぞ。
碾盤溝と大頂子山も高崎山が間にあって直線距離で2.5km
そもそも大頂子山と碾盤溝を一緒に論じているのも
何か偏向性を感じますね。
5時間半と戦場移動で数時間かかるな・・。これで半日か・・。
>>835 結局 正確な数字を出せないんだ・・。そうですか。
>>836 その後、同じ第七師団の他部隊は、ほぼ同じところを4時間で移動して
いるのですが?
839 :
日本@名無史さん:02/06/14 23:22
大山訓令の直後の攻撃にて適切な予備兵力の投入で
敵の逆襲を防げたんですか?
>>837 私は検索サーチではありませんのでね。あしからず。
公刊日露戦史は、市立図書館レベルで蔵書しているところが多いので
興味あらばご自分でご確認を。
同じところってどこからどこまで?その距離は?
>>840 当時の報告を聞いていたであろう大山司令の考えよりも、
実際の距離や行程や軍隊の移動時間やその他を知らないのに
疑念を持っていたわけですね。
よく判りました。
>>833 大体20`程じゃないか?
>>841 29日の0515に曹家屯を出発し、0930には標高164高地に到達しています。
>>842 大体20キロ程という想定ですか、なるほど。
846 :
日本@名無史さん:02/06/14 23:32
(844の続き)
総司令部所見の影響でしょうか。
曹家屯の位置は遠く見積もられているようですね。
848 :
日本@名無史さん:02/06/14 23:36
>>843 >29日の0515に曹家屯を出発し、0930には標高164高地に到達しています。
>>830 >その説に依っても、総司令部所見中の『一日行程の距離』という
>文言への疑問は引き続き持てますので。
>この説に従っても、曹家屯から爾霊山高地までの距離は「半日行程」
>となるのですから。
言葉曖昧にしていますね。二百三高地も164高地も同じところにあるの
ですか?地図をご覧になっているのですよね? 目が悪いのですか?
>>842 20キロというのは曹家屯から二百三高地までですか?
843は二百三高地ではなさそうですね。
実際の距離はどのくらいなんだろう?
>>843なぜ距離を出さない
のですか?
>>848 曹家屯の軍総予備隊は、直接に第一線の二百三高地に向かった
わけではありません。
移動部隊は、まず164高地などの第一師団司令部近辺に集合し、
第一師団の隷下に入ります。
その集合地が碾盤溝だったり、また164高地だったりするのです。
>833 >848 何度も言わせるなここはオナニー信者が
たむろするところ。
>>850の書き込み時間を見ろ、誰もついていけネェよ。
852 :
日本@名無史さん:02/06/14 23:57
>>850 >>830で貴方は曹家屯から二百三高地付近と述べていますが、
これは意図して曖昧にしているのですか?
164高地付近から二百三高地まで10分で付くくらいの距離ですか?
敢えてこういったことを書かないのは何か意図があるのでしょうか?
地図を見ている割には山岳地とか道とかが見えてないんじゃない?
そもそも一日の行程を24時間と考えていたみたいだし、どうしようもないな。
>>852 付図に、
碾盤溝
廟霊山
164高地
水師営
大頂子山
南山坡山
老虎溝山
爾霊山
と位置関係を述べています。意図的に曖昧にしたつもりはありません。
大頂子山の少し東方で道が二又に分かれており、
『164高地─┬水師営─曹家屯
爾霊山─┘ 』
の二つの距離は、ほぼ同じと見ました。
854 :
日本@名無史さん:02/06/15 18:50
>>853 大頂子山の少し東方で道が二又に分かれており、
『164高地─┬水師営─曹家屯
爾霊山─┘ 』
の二つの距離は、ほぼ同じと見ました。
warataよ。地図を読めてないし、距離も出ないわけだ。
地図読めって言われるのがよくわかるよ。
856 :
日本@名無史さん:02/06/15 20:32
そもそも第七師団を曹家屯に駐留させることを第三軍が決めた時点では
二〇三高地投入など予測していなかったのではないか?
曹家屯の西を通る金州〜旅順街道を使用しての東北正面投入がそもそもの目的とすれば
少しは合理性も出てくるのでは?
それが戦況の変化により西北正面二〇三高地への投入となったのだから
大回りもやむをえないと思われ。
>>853 を見る限り二百三高地の方が遠いけど・・。
>>856 25日・26日、歩兵第26・27連隊が、曹家屯と大姜家屯を行ったり来たり
しているのは、言われているとおりに東北正面投入を目論んでいたことを示
していると思います。この頃は、18旅団の歩兵二個連隊は、第九師団の令下
に置かれていたそうです。この二個連隊(六個連隊)が曹家屯に後々まで
留置されていた理由には、この編成の改変も絡んでいると思います。
>>857 当方のaa(というのですか?)の勘所が疎く、申し訳ありません。
858の三行目訂正です
『…二個連隊(六個連隊)…』→『…二個連隊(六個大隊)…』
訂正部分は858文の四行目でした……
水師営から二百三高地ってどんな道があるのですか?
距離では、道の状態(アップダウン、混雑など)を反映できません。
移動所要時間について論じるという事でよろしいのではないでしょうか?
もしもどうしても距離が気になるといわれるのでしたら、ご自分で
お調べになられて下さい。
アップダウンなど、道の状況も反映できる、移動所要時間で判断する
のが妥当と、私は思います。一日行軍は八時間であるという、対論者から
の提示は、当方にとってとても有益なものでした。
>距離では、道の状態(アップダウン、混雑など)を反映できません
だから水師営から二百三高地までどんな道があるのですか?
そして距離もどの位あるのですか?
>>864 >だから水師営から二百三高地までどんな道があるのですか?
そして距離もどの位あるのですか?
だからと言われても……
もしもどうしても距離が気になるといわれるのでしたら、ご自分で
お調べになられて下さい(863再掲)。
そもそも、当方が、なにがしかの距離を出したら出したで、「でも
山道なんだろ?」とか「定規を当てたか?」とか色々言われるでしょう
しね。やはりご自分でお調べになるのがいいんじゃないですか?
866 :
日本@名無史さん:02/06/15 22:16
>>865 だからそのような知識で大山訓令に疑念を持って
批判されてもね・・。水師営から直接二百三高地にいけそうな
口ぶりだから根拠を示してもらわないと。
867 :
日本@名無史さん:02/06/15 22:21
>>856 865は曹家屯に予備部隊があれば二百三高地と東北正面に直接援軍を
出せるらしい。ぜひとも曹家屯→水師営→二百三高地の道筋を示していただきたい。
間違っても、164高地を通って迂回する道はつかわないでしょ?
>>853で同じ距離と述べていますし。
>>866 根拠を距離で示せと言われているようですが、「距離」では道の状況など
が反映されません。当方は距離ではなく「移動所要時間」で示しております
が、こちらの方ならば道の状況なども反映できますし、根拠としては「距離」
よりも妥当だと思います。
869 :
日本@名無史さん:02/06/15 22:25
sage
870 :
日本@名無史さん:02/06/15 22:27
>>868 時間だけだと妥当だと思わないから、話しているの。
>>870 移動所要時間よりも距離が妥当だと思われる根拠は何ですか?
872 :
日本@名無史さん:02/06/15 22:30
移動所要時間、距離、状態、部隊、色々な要素が必要でしょ?
またあなたは
>>853で水師営から二百三高地まで直接いける
と述べています。是非根拠を示していただきたい。
873 :
日本@名無史さん:02/06/15 22:36
>>嶽原氏
今、坂上の地図を見ているけど水師営から二百三高地から直接いける
道なんてなさそうだし・・。もしあるなら示してくださいお願いします。
>>872 例えば距離。同じ距離でも昼・夜間、晴・雨天、慣・不慣れで変わるでしょう。
例えば状態。健全・疲労、往・復路、などで変わるでしょう。
例えば部隊。……部隊?新着歩兵部隊の移動の話に限定されているのでは?
しかし、移動所要時間は、『実際に移動にかかった時間』です。上記の
距離、状態などのように変わるものではありません。妥当性として問題は
ありますか?
875 :
日本@名無史さん:02/06/15 22:39
>>874 >移動所要時間は、『実際に移動にかかった時間』です。上記の
>距離、状態などのように変わるものではありません。
移動時間・・最初 5時間半と言って、4時間でいけるといい。
上記の距離が変わるのか?地殻変動が激しいの?旅順って?
876 :
日本@名無史さん:02/06/15 22:44
水師営から碾盤溝への道はよく判る。
水師営から二百三高地への道を示してくれ。どういう道をたどるんだ?
>>853で二つの距離は、ほぼ同じと見ました。と述べているし。
>>875 その距離を5時間半で移動した記録がある、と述べた際に、もっと短い時間で
移動した記録もある、と述べております。
それが四時間という記録なのです。
すみません!
水師営-爾霊山などという道はありません!
地図を見間違えました。訂正します。
水師営から爾霊山へ行く道はありません。853の書き込みは誤りです。
撤回します。
853以降、大変失礼いたしました。
880 :
日本@名無史さん:02/06/15 22:55
>>879 853以降?あのぉ水師営から二百三高地に4時間から5時間で逝けると強弁してた
のはどこのレスから?
768からのスレの貴方の考えは全ておかしいとみるべきですね。
>>880 ただし、当方が撤回するのは853以降です。
883 :
日本@名無史さん:02/06/15 23:20
別に撤回しなくてもいいよ。一日の行程が24時間で
水師営から二百三高地まで4時間ないし5時間半で
着く距離が当時の現状らしい。
貴方の認識はこうでしょ?そりゃ大山訓令や色々な
ことに疑念を持つ罠・・・。
上の論理の様な展開ですと、色々なデムパが聞けそうですね<W
>>883 上の三行、何を言われているのか分かりません。
しかしながら、重ね重ね、853のおける二又道のようないい加減な
物言いについてはお詫びいたします。
お詫びとして、希望されていた距離を紹介します。
│
┌────土城子─曹家屯
┌東泥河子 │
│ ┌┘
┌┘ │
大王荘 │
┌────┘ 火石嶺
┌┘ 廟霊山 │
│ △ 碾盤溝 ┌┘
├──────┤ │
└┐ △ └┐ │
└┐164 高地 └────水師営
└┐
△ └┬
大頂子山 ┌┘
※┌┘ △
─┬─┘ 青石根山
│ △
│ 南山坡山
│
曹家屯からの第七師団歩兵部隊は、曹家屯-土城子-東泥河子-大王荘と
いう道筋を経て第一師団司令部の在地である164高地に進んでいます。
移動距離は約12kmです。
そしてさらに164高地周辺から大頂子山と青石根山の中間地点まで進ん
でいます。
この移動距離は約3kmです。
28日の攻撃が行われていたとき、結局最後まで第一線に投入されな
かった25連隊第三大隊と26連隊第三大隊は、図中※印の位置に居ました。
12+3で15キロ、多く見積もっても16キロ程度です。
888 :
日本@名無史さん:02/06/15 23:58
>>867 水師営〜二〇三高地の道はどうもないらしいが、
こちらの持っている地図も相当ラフなもので、
この質問には元から答えようが無かったよ。
で、今回の訓令問題について僕個人の意見を述べさせてもらうと、
>第一点は、総司令部は『一日の行程』と認識しているが、第七師団宿営地から
>203高地近辺まで、本当に一日行程かかるのか?ということです。
七師団が曹家屯到着後、軍司令部は方針転換を行い、
結果として戦場からそれだけ離れてしまったというのが事実というところでは?
>第二点は、軍司令部は、実は適当人員を然るべき距離の位置に移動させていたの
>ではないか?ということです。
これは移動させていたと見るべきだろう。
一地点の攻撃に集中できる人員は限られたもんだ。
そもそも予備隊があるにもかかわらず、投入のタイミングを逸して
敵に頂上を奪われ奪回に動かなければならないというのは
距離問題を考えなくてすむロシア軍も経験させられたことだろ?
その原因としては予備隊の数の多寡よりも
突撃隊と予備隊投入を決断する前線司令部とのコミュニケーションに
限界があったからではないかと考えるんだけど、いかがなもんでしょ?
PS
すでに当人が過ちを認めているのに下らん茶々入れなさんな。
まず27日の移動について。
移動したのは曹家屯〜碾盤溝の間。
移動時間は1530〜2100の05時間30分。
『歩兵第26連隊(第三大隊欠)は軍命令により第一師団増援のため、1530曹家
屯を出発、土城子、東泥河子、大王荘を経て2100碾盤溝に到着し、ついで第一
師団長の指示に依り南山坡山北麓に前進せり』
次に29日の移動について。
移動したのは曹家屯〜164高地西北谷地。
移動時間は0515〜0930の04時間15分。
『歩兵第13第14両旅団司令部及び同第27連隊(第一大隊欠)、同第28連隊、砲
兵第七連隊、工兵第七大隊は0515より曹家屯を出発し、0930標高164高地西北
の谷地に開進』
886で示した図のとおり、碾盤溝と164高地はほぼ同じ位置にあります。ほぼ
同じ距離を四時間で移動したということを
>>838で述べたのですが、それがい
つの間にか曹家屯から二百三高地までの距離という認識に変わってしまってお
りました。
大変失礼しました。
>>888 水師営〜二〇三高地の道は、全く有りません。大変失礼しました。
>>888 第七師団は到着後いったん第九師団令下に入っておりますので、当初は東北方面
への投入が考えられていたのでしょう。
その後主攻を爾霊山に変更した後に、第一師団が攻撃を開始する1800よりも前に、
東北方面に備えていた軍総予備隊の移動命令は出されているのですから(1530移動
開始)、遠くなった主戦場を追うがごとくに、軍総予備隊の移動も随時に行われて
いたと、私は考えます。
また、どうしても腑に落ちないのが『一日行程の距離』という文言です。第七師
団兵力を、西方面の第一師団司令部配下に移すために、移動させるわけですが、
その移動所用時間は4時間〜5時間半、距離にして約12キロ。
第一線の爾霊山までの距離でも15〜16キロ、これを『一日行程の距離』と言われ
るのはおかしいと、私は思うのです。
総司令官所見では、あたかも軍総予備隊の位置不適切を敗因と指摘しているよう
に思えます。
しかし実際は元々曹家屯は総司令官所見のごとく遠方ではなく、また軍司令部の
役割である、軍総予備隊からの爾霊山周辺への兵力抽出という点は、私は充分にな
されていたと思います。
突撃命令の決断や、または予備隊処遇(留置?前線配置?)の決定などは、軍司
令部の手を離れ、第一線の各高等司令部の管轄であると、私は考えます。
892 :
プラトーン:02/06/16 01:12
203高地に突撃ばっかさせた指揮官 西南戦争で軍旗を奪われたのは帝国陸軍史上この人だけみたい
893 :
日本@名無史さん:02/06/16 01:41
最近、ひょっとして「乃木は明治天皇の滝口」だったのでは、
と思うことがある。
894 :
日本@名無史さん:02/06/16 01:57
乃木さんを一言でいうと、上司には絶対にしたくない
人です。死ぬならひとりでしんで欲しい。
895 :
日本@名無史さん:02/06/16 07:28
>>891 平地12km 山道4km そこから戦線に投入か・・。
行軍8時間といっても1時間の内15分は休憩、各装置点検。
山道4kmは攻撃塹もあり倍の時間がかかると考えて2時間以上
7時間半か・・一日仕事だねぇ。そこから戦線投入って疲れてると思うけどね。
以前からそれを4時間半と強弁していたんだよねぇ。
>>894 乃木信者も同じです。上の距離を物資を担いだ上で
宿営地から7時間以上も徒歩移動した上で戦線投入が一日行程で
ないなんて主張しているんだから。
机上の空論を満たすために資料を読まれてますからね。
>>895『上の距離を物資を担いだ上で宿営地から7時間以上も徒歩移動した
上で戦線投入が一日行程でないなんて主張しているんだから。
机上の空論を満たすために資料を読まれてますからね。』
7時間以上というのも、貴方の机上での想像でありましょう。
机上の空論と言い出したら、際限がありません。
そもそもの総司令部所見、現場から遠い煙台の総司令部所見は机上の空論で
ある、となりますが、そういうことでよろしいのですか?
>>895 >『平地12km 山道4km そこから戦線に投入か・・。』
軍総予備隊の駐屯地を発して、そのまま戦線投入は出来ません。
まず第一師団の令下に入る必要があります。戦端が開かれる2000
より前、つまり第一師団固有の予備隊がまだ健全である頃に、既に
軍総予備隊は移動を始めています。
この頃は、まだ第一師団の予備隊も充分にあります。第七師団
の兵力の到来が必須な状況ではありません。
>『山道4kmは攻撃塹もあり倍の時間がかかると考えて2時間以上
7時間半か・・一日仕事だねぇ。そこから戦線投入って疲れてると思う』
疲れているでしょうね。
しかし、この部隊が増援されて実行された突撃は、『一度成功せるも
(集中火・逆襲のため)撃退せらる』という正否評価を得ています。
疲れているだろうことは同意しますが、そのことが原因で何か問題が
生じていたという事を示すような資料などはありますか?
>『以前からそれを4時間半と強弁していたんだよねぇ』
いいえ、私が主張していた時間は、「五時間半」と「四時間」である
はずです。「4時間半」という貴方の認識は、何かの間違いか、両者の
混同ではありませんか?
そもそも、私論『大山訓令はどのような認識下で出されたのか』で
は、曹家屯の軍総予備隊が第一師団配下となるべく師団司令部在地に
到着するまでの「曹家屯〜碾盤溝または164高地」までの移動所用時間
として上記「五時間半」「四時間」を挙げております。
あなたが認識されている「山道4km……」という所は、この移動所要
時間には含まれません。
当方の768以降878までの書き込みの撤回点について
1・本論について
768〜778『大山訓令はどのような認識下で出されたのか1〜11』
の内容については、
>>782にて示した四行を除き、撤回いたしません。
2・撤回点その1
当方の書き込みの誤りは、
>>830の書き込みにて『曹家屯から爾霊山高地』
と述べたのが、始まりです。その後、
>>848にて言葉の曖昧さを指摘された所
で気づけば良かったのですが、全く気づきませんでした。
これは正しくは『曹家屯から碾盤溝または164高地』とするべきものでした。
この部分は撤回し、上記の様に訂正します。
3・撤回点その2
>>853で述べた「二又道」というのは、164高地から爾霊山方面への道と、
化頭溝山方面(未攻略)への道が分かれる分岐路のことです。
この二又道の一方が水師営に通じるとした
>>853の記述は全くの誤りです。
全くもって申し訳有りません。
>>853は全面撤回します。
以上です。失礼しました。
899 :
日本@名無史さん:02/06/17 07:43
>>898 もうどっか逝ったら?一人で一日中資料読んでいたらいいじゃん。
900 :
日本@名無史さん:02/06/17 07:49
>>778より
>『……第七師団の大部はこの際、軍司令部の位置た
>る周家屯の付近に位置し、203高地付近より約一日行程の距離にあり……』は、全く
>現状からかけ離れた指摘であると私は思います。
>
>>898 2・撤回点その1
当方の書き込みの誤りは、
>>830の書き込みにて『曹家屯から爾霊山高地』
と述べたのが、始まりです。その後、
>>848にて言葉の曖昧さを指摘された所
で気づけば良かったのですが、全く気づきませんでした。
これは正しくは『曹家屯から碾盤溝または164高地』とするべきものでした。
この部分は撤回し、上記の様に訂正します。
ふーん。満州軍司令部と貴方の認識は違うのは当然だな。
164高地は二百三高地付近か?
>>900 まあそう言わず、今後ともお付き合い下さい。
それにしても、しばらく毎朝の日課であった書き込みがなかったですが、
ここ1〜2日で回復しておりますね。
当方のポカが回復の契機とか?
>>900 軍の総予備隊である部隊が、そのまま前線に詰めることはできません。
まずは、第一線を指揮する第一師団司令部の近辺に行かねばなりません。
移動所要時間として記録されているのは、その第一司令部近辺までの
所要時間であると言うことです。
903 :
日本@名無史さん:02/06/17 07:59
大山訓令 抜粋
然るにこの新鋭の兵力たる第七師団の大部はこの際、軍司令部の位置た
る周家屯の付近に位置し、203高地付近より約一日行程の距離にあり。
嶽原 纏め
『28日の攻撃で、203高地を再々占領しながらその度
奪還された原因は、軍司令官が、総予備隊たる第七師団を前線まで行程約一日とい
う遠距離に置いた為である』と述べています
>>897 私論『大山訓令はどのような認識下で出されたのか』で
は、曹家屯の軍総予備隊が第一師団配下となるべく師団司令部在地に
到着するまでの「曹家屯〜碾盤溝または164高地」までの移動所用時間
として上記「五時間半」「四時間」を挙げております。
二百三高地付近が前戦に変わり、前戦が第1師団配下に変わっている。
そりゃ誤って訓令読んだら間違う罠。
>>903 二百三高地はまさに「前線」でしょう?
大山訓令中の文言「二百三高地付近」というのを「前線」とした点に、何か
問題ありますか?
905 :
日本@名無史さん:02/06/17 08:13
203高地付近が164高地に変わっている点
906 :
日本@名無史さん:02/06/17 08:16
だから言葉を曖昧にすることによって範囲を広げているんだろ?
大山訓令の述べる通り、二百三高地に投入された時間はいつ?
決して第一師団の配下に入った時間ではなく、馬場少将が攻撃を
開始できた時間と大山訓令は述べていると思うけど。
あぁそうか、無責任司令部だから師団配下のことは考えなくて
いいのね<w
907 :
日本@名無史さん:02/06/17 08:18
二百三高地付近というのは老虎溝山や二百三高地 東北、西南
付近を指すはずだけどね・・。
それを164高地まで含むのか・・。
>>903 1・「二百三高地付近」を「前線」とした点
2・「203高地付近」を「164高地」とした点
の二点が問題であるということですね。
1について
二百三高地はまさに前線です。大山訓令中の文言「二百三高地付近」という
のを「前線」とした点に、何か問題ありますか?
2について
この時は、まだ第一師団の兵力は残存しています。予備隊の兵力も既に
二百三高地近辺に詰めております。
後続の第7師団兵力は、前線に配属される前に、164高地で予備隊として
適当な兵力に整頓されねばなりません。
この時点では、別に二百三高地近辺まで行く必要性はないのですよ。
909 :
日本@名無史さん:02/06/17 08:30
>>908 それで予備隊の投入する必要がなかった11/28から29の
戦いで二百三高地は取れたのですか?
それなら文句言われるいわれはないけどね。
11/29の戦いで二百三高地が落ちたような言い様ですね。
だから必要がなかったのでしょ?<w
>>909『予備隊の投入する必要がなかった11/28から29の戦い』
予備隊投入の必要がなかったなどと、当方は述べておりません。
どなたが、どこで述べているのでしょうか。
『11/29の戦いで二百三高地が落ちたような言い様ですね』
以前にも述べましたように、当方は攻略戦に失敗した理由の妥当性を論じて
おります。いわれているような言い様は当方はしておりません。
貴方が指摘された二点について、当方は908の如くの考えです。
この点は如何でしょうか。
912 :
日本@名無史さん:02/06/17 19:51
>>910 予備隊投入の必要がなかったなどと、当方は述べておりません。
どなたが、どこで述べているのでしょうか。
>>908 別に二百三高地近辺まで行く必要性はないのですよ。
どう捉えても必要性がないと書いていますな。
>>778より
>『……第七師団の大部はこの際、軍司令部の位置た
>る周家屯の付近に位置し、203高地付近より約一日行程の距離にあり……』は、全く
>現状からかけ離れた指摘であると私は思います。
>
>>898 2・撤回点その1
当方の書き込みの誤りは、
>>830の書き込みにて『曹家屯から爾霊山高地』
と述べたのが、始まりです。その後、
>>848にて言葉の曖昧さを指摘された所
で気づけば良かったのですが、全く気づきませんでした。
これは正しくは『曹家屯から碾盤溝または164高地』とするべきものでした。
この部分は撤回し、上記の様に訂正します。
ふーん。満州軍司令部と貴方の認識は違うのは当然だな。
164高地は二百三高地付近か?
914 :
日本@名無史さん:02/06/17 20:55
>>908 2について
@>この時は、まだ第一師団の兵力は残存しています。
どの時?
A>予備隊の兵力も既に二百三高地近辺に詰めております。
二百三高地付近?164高地じゃないの?
B>後続の第7師団兵力は、前線に配属される前に、164高地で予備隊として
>適当な兵力に整頓されねばなりません。
ハァ?二百三高地付近に投入されいているのに164高地で呼びたいとして
適当な兵力に整頓されねばなりません??
しかもここでは前戦に配属される前ときたもんだ。
C>この時点では、別に二百三高地近辺まで行く必要性はないのですよ。
二百三高地付近に投入されているとAで述べて、二百三高地近辺に
イク必要はない?
何を言っているんだか……。戦力にならないものを投入しているのを
投入していると論じているんだから・・。かなり笑えます。
>>914 1・>>この時は、まだ第一師団の兵力は残存しています。
>どの時?
164高地に到着して、第一師団の予備隊となった時です。
2・>>予備隊の兵力も既に二百三高地近辺に詰めております。
>二百三高地付近?164高地じゃないの?
第一師団の予備隊のことですよ。二百三高地への増援兵力
には、まず(既存の)第一師団の予備隊が使用されました。
3・>>後続の第7師団兵力は、前線に配属される前に、164高地
で予備隊として適当な兵力に整頓されねばなりません。
>ハァ?二百三高地付近に投入されいているのに164高地で
呼びたいとして適当な兵力に整頓されねばなりません??
しかもここでは前戦に配属される前ときたもんだ。
?第7師団抽出兵力を活用する前に、既存の第一師団所属の兵力
を用いるというのは当然でしょう?
第一師団所属の予備隊の存在を無視していませんか。
4・>>この時点では、別に二百三高地近辺まで行く必要性はないのですよ。
>二百三高地付近に投入されているとAで述べて、二百三高地近辺に
イク必要はない?
勿論です。第一師団の予備隊が居るのですから。
>何を言っているんだか……。戦力にならないものを投入しているのを
投入していると論じているんだから・・。かなり笑えます。
……?第一師団の予備隊の存在を、貴方はすっかり忘れていませんか?
>>912『
>>908 別に二百三高地近辺まで行く必要性はないのですよ。
どう捉えても必要性がないと書いていますな。』
第七師団抽出兵力が164高地で予備隊として整頓されている時、爾霊山
周辺には既存の第一師団所属予備隊が詰めているのです。
この時点では、別に第七師団抽出兵力が爾霊山周辺に行く必要はあり
ません。既に(第一師団の)予備隊が前に出ているのですから。
必要性がない、と述べたのは上記の時点での事です。908でもちゃんと
書いてますよ。「この時点では」と。そして第一師団の予備隊が投入さ
れたのち、第七師団抽出の予備隊が投入されるのです。
28日と29日の戦いで予備隊投入の必要がないなど、私は書いておりません。
917 :
日本@名無史さん:02/06/17 22:11
おぉ初めて第一師団の予備隊が出てきましたね。
今までは第7師団の話しかしてませんでしたな。
918 :
日本@名無史さん:02/06/17 22:17
とりあえず、君の見解を述べたまえ。その第一師団の予備隊はどの
位の規模でどの時期に投入したから、第7師団の予備は投入する必要が
なかったと。
919 :
日本@名無史さん:02/06/17 22:26
ところで「希典」ってなんて読むんですか。
アフォな漏れに教えてください
920 :
日本@名無史さん:02/06/17 22:29
マレスケ 乃木もアフォだよ。
>917
908で、既に当方は(既存の)第一師団予備隊について述べております。
>>908『2について
この時は、まだ第一師団の兵力は残存しています。予備隊の兵力も既に
二百三高地近辺に詰めております。』
>>918 27日に爾霊山への攻撃が行われておりますので、その時以来、予備隊も組織
されております。
924 :
日本@名無史さん:02/06/17 22:46
>>923 どの位の規模なのかとも聞いているんだけど?
925 :
日本@名無史さん:02/06/17 22:49
第7師団の半分が曹家屯に残っていたから、きっと2コ連隊は
残っていることでしょう。
そのような戦力で充分だったと思うわけですよね。
>>925 2個連隊あれば落せそうですね。なぜ落ちなかったのでしょうか。
>>924 即答を求められますか……。
貴方はこんな細かい質問に即答できるのですか?
>>925 第一師団に加入された第七師団抽出兵力が、結局残存したままに
28日の戦闘は終了しています。使い切っていないのです。
曹家屯残留部隊の出る幕ではないと思っています。
>>927 >28日の戦闘は終了しています。使い切っていないのです。
>曹家屯残留部隊の出る幕ではないと思っています。
11/29 0030頃に二百三高地西南部がロシア軍の逆襲に
あっていますが・・・・。 戦闘は終了したのですか・・。
>第一師団に加入された第七師団抽出兵力が、結局残存したままに
>28日の戦闘は終了しています。使い切っていないのです。
11/28の夜11時の攻撃時 馬場少将が第7師団所属部隊の
増派を受けたが、地理不案内であることを知って第1戦に増加するのを
止めてます。
使い切っていないんじゃなくて使えなかったの。無理して使って
損耗させるわけにはいかないでしょ。
931 :
926=924:02/06/17 23:14
すみません。間違えました。924です。
資料を持たれているのですから、即座に
でるかなと思ったのです。すみません。どの位
第一師団は予備部隊をもっていたのでしょうか?
>>929、930
なるほど使えなかったのですね。でも嶽原氏とは
また違った見解ですね。
28日の爾霊山攻撃では、第七師団抽出兵力で構成された予備隊が投入
されるまでに、以下のように増加部隊が投入されております。
(注1:下記は、第一師団の予備隊の全体像を示すものではありません
注2:部隊名は、戦史講義録(下巻)より引用しました
注3:増加部隊は増加された順に示しています
注4:即答は無理ですよ……)
●爾霊山西南部
・元々の攻撃隊:後備歩兵第15連隊を基幹とする兵力
・増加部隊
:後備歩兵第16連隊03.04中隊
:後備歩兵第38連隊05.08中隊
★:歩兵第26連隊05.06中隊
●爾霊山東北部
・元々の攻撃隊:歩兵第一連隊第三大隊
・増加部隊 :歩兵第15連隊01.03中隊
:歩兵第一連隊03中隊
★:歩兵第26連隊03.04中隊
★:歩兵第26連隊09.10中隊
>>930 29日未明の戦闘は、28日の戦闘が継続しているものですから。
>>931 深夜ですからね。高等司令部の判断は妥当と思います。
しかし第七師団抽出部隊は深夜に到着したのではありませんよ。1600の
西南部への攻撃には既に参加しているのですから。
>>932の一部を訂正します。
●爾霊山西南部
・元々の攻撃隊:後備歩兵第15連隊を基幹とする兵力
・増加部隊
:後備歩兵第16連隊03.04中隊
:後備歩兵第38連隊05.08中隊←(05.06.08に訂正)
★:歩兵第26連隊05.06中隊
「使い切っていない」「使えなかった」と、言い方はそれぞれですが、
要するに28日〜の攻撃は第七師団抽出兵力(予備隊)は残存したままに
終わっているのです。
更に、第七師団抽出兵力は夕刻に実際に使用されています。使えない
深夜に来着したのではありません。
使える時刻(1600頃)に使用されており、翌日未明に攻撃が終了した
時に、まだ部隊が残っていた。
このことを見れば、軍総予備隊からの爾霊山攻撃のための部隊抽出は
充分に行われていたと言えると思います。
936 :
日本@名無史さん:02/06/18 08:13
>>935 机上の空論だな。使えない兵力を使ったと言い張っている。
>>936 机上の空論?使えない兵力?
あなたは、実際に使用された現実を、いかようにお考えで?
938 :
日本@名無史さん:02/06/18 08:21
現実って失敗しているでしょ?第7師団貴下の兵力は
ほぼ地理不案内だったはずですが?
第7師団の予備隊が地理不案内でなかったという根拠あるの?
>>938 なるほど、攻撃失敗の原因は、予備隊位置ではなく地理不案内に
求められると言われるのですね。
地理不案内でいろいろな齟齬が起きているのは、主に夜間では
ありませんか?第七師団抽出部隊は、1600に戦闘をしています。
940 :
日本@名無史さん:02/06/18 08:29
941 :
日本@名無史さん:02/06/18 08:31
16:30に攻撃開始した部隊は成功したのかい?
昼間だけどさ・・・。
>>940 夜間部隊移動・戦闘において、地理不案内のための様々な齟齬が生じて
おります。
>>941 なんども述べておりますが、「攻撃失敗の原因の妥当性」を論じており
ます。
昼間の戦闘では、地理不案内の齟齬は生じていないようです。
例1・第26連隊第一大隊01.02中隊が参加した戦闘の記述
(時刻は1630頃)
『1630我が攻城砲兵の火力顕われしにより、老虎溝山の攻撃に任ぜし秀島
少佐の率いる部隊(歩兵第15連隊第二大隊(第六中隊欠)★同第26連隊第
一大隊(第三第四中隊欠))は選抜隊三(各隊31名、各中隊より出せるもの
なり)をして、同山中腹の敵の散兵壕より歩兵第一連隊の選抜隊(第一第二
大隊の各中隊より出せるもの、40名)とともに突撃せしめ、歩の他を以て
これに続き、猛烈なる銃火及び手榴弾を冒し遂に敵を撃退してひとたび山頂
堡塁の一部を略取……』
例2・第26連隊第一大隊03.04中隊のが参加した戦闘の記述
(時刻は上記同時刻頃、1630〜1700)
『爾霊山東北部に向かいし枝吉少佐の指揮する部隊は、老虎溝山の敵の動揺
に乗じ、先歩兵第15連隊第一第三中隊を以て突撃し、★同26連隊第三第四
中隊を併列散開して突進し、急嶮なる斜面を攀ち敵の中腹散兵壕に達し、激
烈なる投弾、擲石のあと、遂に東北部山頂を略取……』
944 :
この巨大ダム野郎:02/06/18 11:38
>>嶽原 テメェまだやってんのか!!
お前みたいな奴が2ちゃんを面白くしてくれてんのは解るが、
板違いだろ!!
どうせオメェのHPがあるんだろが、そっちに誘導しろ。
945 :
日本@名無史さん:02/06/18 21:05
巨大ダム?なんのことですか?
>>944 まだやってます。まあ軍事板向きな話題ではあります。
日本史の一人物として、乃木(関連)を見るということでご容赦を。
当方のHPは、別に乃木ネタではありませんので……。
947 :
日本@名無史さん:02/06/18 21:38
>軍事板向きな話題
一日の行程が24時間なんてほざいたらどんなことになることやら・・。
948 :
日本@名無史さん:02/06/18 22:02
嶽原氏は11/27からの攻撃失敗の原因は何と考えていますか?
949 :
日本@名無史さん :02/06/18 22:03
>>947 さてどうなるでしょう?
『一日行程の距離』を、乃木批判者は当初20キロと思っていたことも、
面白いネタになるかも知れませんね。
952 :
日本@名無史さん:02/06/18 22:13
>951 失敗の原因を考えずに妥協性を追及できるのか・・。
変わった人というかかなりおかしい。
>>950 そうそう 水師営から二百三高地まで直接いけると
述べているしね。
954 :
日本@名無史さん:02/06/18 22:20
>>804 >30kmとは、どこからどこまでの距離を言うのでしょうか?
>第七師団のこれら部隊は、そんな距離を移動する必要は全くありません。
804が
>>840で15kmを半日行程と見越して、1日30kmなんだろ?
一日行程30km以上という根拠を示してくれませんか?
そうそう 二百三高地付近までの行程な。前戦なんて曖昧な
言い方するなよ。
955 :
日本@名無史さん:02/06/18 22:23
>>951 >>824 >軍総予備隊の配置が遠かったために占領が維持できなかったのだ、
>という総司令部所見に対し、それは認識が誤っている、ということを
>述べております。
つまり兵力があってなぜ占拠できなかったんでしょう。
まず嶽原は総司令部所見に対し、占領失敗の原因を述べるべきなのに、
第3軍司令部の責任回避に徹していますな<W
>>953 いやお恥ずかしい。
>>954 ああ、そうでした、当初は30キロと述べていたんですよね。
>>840にそんなことが?
『840 :嶽原 :02/06/14 23:23?
>>837私は検索サーチではありませんのでね。あしからず。
公刊日露戦史は、市立図書館レベルで蔵書しているところが
多いので興味あらばご自分でご確認を。』
957 :
日本@名無史さん:02/06/18 22:27
>>955 そういえば第一師団長はなんで辞めさせられたのかな?
>>955 軍司令部の責任回避に徹している?いいえ。
第一線の戦闘指揮に関して、軍司令部の関与した「軍総予備隊からの予備隊
抽出」に問題はないと思う、と述べているのです。
失敗の原因は、色々と考えられて良く判りません、としか言えません。
しかし、総司令部所見の如く「軍総予備隊の位置」というのは失敗の原因
ではない。そう思っています。
>>958その原因を追求したら面白くなるだろ・・<w
今までの嶽原のデムパが水の泡
>軍司令部の関与した「軍総予備隊からの予備隊抽出」に問題はないと思う、
軍司令部がその予備隊がまともに機能しているかを確認するのが
抜けていますな。まともに機能しておりません。11/26から11/29
までずっと。
>>960 いままでの嶽原のはデムパだからね。
彼の理論は満州軍司令部は糞、大本営も糞、第3軍マンセーだから。
楽しんでご覧・・。
>>962 そうなんですか? 第3軍というよりは乃木マンセー
なんじゃないですか?
>>963 乃木と第3軍が一番苦労したことになるからね。
配下の師団長や満州軍司令部、大本営は糞ということになるから。
>>960 第一師団長が変わった理由というのは、何ですか?
>>961 まともに機能しているでしょう?軍総予備隊からの抽出部隊が参加した
戦闘は、一度目的を達しているのですよ。
例1・第26連隊第一大隊01.02中隊が参加した戦闘
『秀島少佐の率いる部隊(歩兵第15連隊第二大隊(第六中隊欠)★同第26連隊
第一大隊(第三第四中隊欠))は……猛烈なる銃火及び手榴弾を冒し遂に敵を
撃退してひとたび山頂堡塁の一部を略取……』
例2・第26連隊第一大隊03.04中隊のが参加した戦闘
『爾霊山東北部に向かいし枝吉少佐の指揮する部隊は……★同26連隊第三第四
中隊を併列散開して突進し、急嶮なる斜面を攀ち敵の中腹散兵壕に達し、激烈
なる投弾、擲石のあと、遂に東北部山頂を略取……』
>>962・964
それぞれに問題があると思っております。それにしても、糞とは嫌な言葉
ですね。
元祖カミカゼ
>>958 辞めさせられた第一師団長とは、松村務本のことですか?
>>960『その原因を追求したら面白くなる』
その口振りですと、辞めさせられた理由をご存じのようですが、
いったい何の理由なのですか?爾霊山攻防戦と関係あるのですか?
>>968 前に、日本史板へけえってくれ、と言われた事がありましてね……
>>960 『(辞めさせられた)その原因』とは何ですか?
973 :
日本@名無史さん:02/06/19 00:12
>>973 新スレ立てられたのですね。 今後、頑張って下さい。
第一師団長が辞めさせられた理由は何だろうか、というのを、958氏が
疑問提示されておりました。
それに答え960氏は
『その原因を追求したら面白くなるだろ・・<w
今までの嶽原のデムパが水の泡』
と答えられておりますが、はっきり言って960氏のこの言は意味不明です。
第一師団長は、戦病死ではなかったでしょうか?
当方の記憶では、「日露戦争実記」にて、第一師団長死亡を伝える記事を
見たような覚えがあるのですが、詳細をご存じの方は居られませんか?
>>818 >攻勢情況に従い増援するべき兵力は、充分に周囲に置かれ、実際に投入され、
>そして戦闘終了後も充分人員が存在していたのです。
11/29未明の第一師団長松本中将の言葉にも表れている。
『師団原下の兵力にては到底攻撃を再興することを能わず』
>>818 >攻勢情況に従い増援するべき兵力は、充分に周囲に置かれ、実際に投入され、
>そして戦闘終了後も充分人員が存在していたのです。
11/29未明の第一師団長松本中将の言葉にも表れている。
『師団原下の兵力にては到底攻撃を再興することを能わず』
11/26の白襷隊の失敗の一因として第7師団の地理不案内があげられます。
迷子になり、大損害になりましたね。
11/26の白襷隊の後、第9師団長に26連隊を増派し、東北正面を攻撃しようと
しましたが、第9師団長は幾たび突撃を履行するも蓋し同一の失敗を
反復するに過ぎず。と述べた。
その一因として第7師団の地理不案内をあげ、またその到来に時間が
係ることが実証されていると述べている。
また、11/28の夜の攻撃時 馬場少将が第7師団所属部隊の
増派を受けたが、地理不案内であることを知って第1戦に増加するのを
止めてます。
前線指揮官は使えないから使わなかったんだけど・・。
実際投入したから軍司令官は責任ないなんて言い訳をしているんだよね。きっと。
>>771 >第一点は、総司令部は『一日の行程』と認識しているが、第七師団宿営地から
>203高地近辺まで、本当に一日行程かかるのか?ということです。
総司令部所見では、『28日の攻撃で、203高地を再々占領しながらその度
奪還された原因は、軍司令官が、総予備隊たる第七師団を前線まで行程約一日とい
う遠距離に置いた為である』と述べています。
半日行程(4半日行程?)というのは貴方の思い込みで前戦まで
行程約一日という大山元帥の見かたはおかしくありません。
第7師団を前戦まで行程約一日というのは曹家屯から碾盤溝まで
4時間以上。そこから休憩、食事を含めて5時間半。碾盤溝乃至大目にみて
164高地から二百三高地へは正午頃発令、発進して増援が2時半に到着している
ところから2時間程度かかることがわかる。合計7時間程の行程ですね。
これを行軍8時間と考えて約一日の行程と見る大山訓令はとくに
避難されるいわれはありません。
第3軍は大山訓令を沈思に受け止めるべきでしょう。
>>776において、1430 第一大隊03.04中隊、爾霊山東北部へ増援投入
1500 第二大隊05.06中隊、爾霊山西南部へ増援投入
というのは松本師団長が下令した時刻ですよね。
つまり前戦に到着したのは1500以降と認識すべきで、前日の11/27の15:30に
出発して前線(二百三高地付近)に投入されるのが11/28の1500、
戦闘参加が同日1530というのが
>>776で書いているにも関わらず実際一日程度
かかっている時間を一日行程でないとも述べています。
これはおかしいですね。
また嶽原氏はなぜか師団司令部付近に到着=前戦=主戦場と解しています。
何ゆえ師団司令部付近=前戦=203高地付近となるのかがわかりません。
二百三高地付近=前戦=師団司令部と置き換えることによって、大山訓令に
対する屁理屈だということが解りますね。
>775
>ここから203高地周辺に行くには前述の通り約六時間が必要なので、
>203高地争奪戦のための戦力としては役に立ちません。
6時間以上かかるし、地理不案内でもあるしほんとに役に立ちません。
>>776 11/28未明 第一師団長 第一師団予備後備38連隊第2大隊加勢を決める。
0810(西南)他隊、突撃。一部成功。
第2散兵壕を奪取、山頂には進撃できず。を一部成功?
1030(西南)他隊、突撃。一部成功のち撃退。
山頂を占領した途端、逆襲にあい、第2散兵壕に退却。
1200(西南)他隊、突撃。一部成功。
第一師団 後備38連隊第2大隊加勢山頂の一部を奪回
1340(東北)他隊、突撃。不成功。
第一旅団 突撃後40mで全滅。
1430 第一大隊03.04中隊、爾霊山東北部へ増援投入下令。←師団司令部発進
1500 第二大隊05.06中隊、爾霊山西南部へ増援投入下令。←師団司令部発進
1600 第一大隊01.02中隊、老虎溝山へ投入。
1600(西南)他隊+05.06中隊、突撃。不成功。←攻撃開始
1630(老虎)他隊+01.02中隊、選抜隊突撃。不成功。←攻撃開始
山頂堡塁を一部奪取するが突撃陣地に退却。
1700(東北)他隊+03.04中隊、突撃。成功のち撃退。
東北部山頂を一時奪取するが突撃陣地に退却。
↑の功績が第7師団だけであれば増援を出している意味があるが、
第9師団長の見解や白襷隊の失敗要因、また後ほど大迫師団長が
述べている地理不案内を解消できる時間が無いところから、
足手まといになったと判断すべし。
また1刻を争う争奪戦に2時間以上もの距離に予備部隊を置いている
第一師団も非難を免れない。また満遍なく老虎溝山、東北、西南を
攻めた方法もまずい。これによって予備兵力は枯渇するのは目に見えている。
1800 第二大隊07.08中隊、爾霊山西南部へ再増援投入。
2200 第三大隊09.10中隊、爾霊山東北部へ再増援投入。
2430第26連隊第3大隊東北部にて敵逆襲を受けて増派するも
地理不案内をもって混雑しロシア軍の側射によって
退却させられている。
>>771 >第二点は、軍司令部は、実は適当人員を然るべき距離の位置に移動させていたの
>ではないか?ということです。
>>774 >第一師団が二百三高地への突撃を開始したのは1800ですから、1530の二個大隊移
>動命令は、軍総予備隊を適当の位置に進めるために作戦発動前に行われたものであ
>ることが判ります。決して泥縄的な追加増派の移動命令ではありません。
11/27の15:30は2個大隊の移動命令の他に第1師団長が18:00に攻撃すると
下令した時間です。つまり作戦発令と同時に5分の1が出発したわけで泥縄的といえます。
11/27AM10:00に乃木大将は命令を下達しています。
『第一師団は砲撃の成果を待ち、日没頃二百三高地に向かい突撃し、之を
略すすべし。』
もし前もって打ち合わせできていたら、1日以上を時間をあけ第1師団参謀の案の
通り、第7師団の到着を待ち地理不案内を解消し、全力をもって二百三高地を攻撃
できる態勢を作っているでしょう。
大迫師団長が1日の余裕を見たのと対照的です。
上記のような対策をとっているならともかく、実際は泥縄式に対処しているよう
にしか思えません。
作戦発動前と述べていますが、兵力の到着を待って攻撃せよ等の命令を出せる立場の
軍司令部がそれを行わず、結果的に泥縄になったのは批判(訓令)を受けてますね。
津野田大尉は11/30に兵力の逐次投入は不得策だから第7師団全力で攻撃を
させるべきである。とこの時点で見解を述べています。
第3軍がそのとき泥縄と認めていることに対し後世の貴方が言い分けするの
はとても愚かだと思います。
つまり地理不案内である第7師団を運用する時間がないところから、
適当な人員を移動させていたとは決して言えません。
これは11/29未明の第一師団長松本中将の言葉にも表れている。
『師団原下の兵力にては到底攻撃を再興することを能わず』
>>774 >第一師団が二百三高地への突撃を開始したのは1800ですから、1530の二個大隊移
>動命令は、軍総予備隊を適当の位置に進めるために作戦発動前に行われたものであ
>ることが判ります。決して泥縄的な追加増派の移動命令ではありません。
大山訓令抜粋
『然るにこの新鋭の兵力たる第七師団の大部はこの際、軍司令部の位置た
る周家屯の付近に位置し、203高地付近より約一日行程の距離にあり』
11/27 10:00 第3軍二百三高地攻撃 下令 第一師団は日没頃に攻撃せよ(文面略)
15:30 第一師団長 18:00に攻撃開始すると下令
15:30 10個大隊の内 2個大隊 西方に移動
11/29 未明 第一師団長
『師団原下の兵力にては到底攻撃を再興することを能わず』
11/29 明朝 更に2個大隊移動?
(29日の0515に曹家屯を出発し、0930には標高164高地に到達しています。)
第7師団主力6個大隊は周家屯付近にあるな・・。
泥縄に2個大隊ずつ投入している現実が見えてきますね。
>>777 >山頂占領が失敗した理由は「人員不足」には求められないと考えられます。
まずそこに部隊があればいいと考え、行軍の行程を知らなかった
ところ等から机上の空論を展開しています。
>>774の時点では5時間半の4倍の1日行程とみなすと述べいているところから
そのときは軍の行程を知らなかったと断定できます。
太平洋戦争のとき、こういった机上の空論でかなりの部隊が悲惨な目に
合ったことが思い浮かばれます。
11/26の白襷隊の失敗の一因として第7師団の地理不案内があげられます。
迷子になり、大損害になりましたね。
11/26の白襷隊の後、第9師団長に26連隊を増派し、東北正面を攻撃しようと
しましたが、第9師団長は幾たび突撃を履行するも蓋し同一の失敗を
反復するに過ぎず。と述べた。
その一因として第7師団の地理不案内をあげ、またその到来に時間が
係ることが実証されていると述べている。
また、11/28の夜の攻撃時 馬場少将が第7師団所属部隊の
増派を受けたが、地理不案内であることを知って第1戦に増加するのを
止めてます。
これは何を意味をするか、つまり前戦に投入したと強弁しているが、
有効に機能するためには地理不案内を解消すべきなのにそれをしていない。
つまり同じような戦い方を二百三高地方面でも繰り返したといえます。
これは第7師団大迫師団長に指揮が変わったときに第7師団の主力が
地理不案内を理由に攻撃時間を1日とったことにも現れている。
(11/29 AM7:10高崎山検討開始、攻撃時間11/30 AM10:00)
つまり第7師団の兵力は地理不案内のために投入しても意味がない。
と現場指揮官 松本師団長は判断したとおもわれます。
11/29午前2時の第一師団長の結文にも現れている。
『師団原下の兵力にては到底攻撃を再興することを能わず』
この文のどこに
>>777 のような
『山頂占領が失敗した理由は「人員不足」には求められないと考えられます。』
という認識が得られるのかは不思議です。私論なので別にどうでもいいんですけど。
そういえば 大山司令官も第3軍に対してはかなり糞味噌な感想を
抱いていたようですね。
児玉はもともと旅順が陥落したら本国に帰還させて一旦復員解除
して北方の為に一司令部を起すことを考えていました。
児玉大将が第3軍に行く際に一礼を要求したのは一礼の行使は
旅順口陥落を待たずに第3軍司令部解散に繋がる合意のものであり、
その場合は児玉大将自身の責任を追及される。大山元帥が児玉大将の
覚悟を確かめた所以ですが、児玉大将の性格からこれも致し方なし
と考えていたようですね。
>>780 >五時間半で移動を終えています。その後シレッと戦線投入できる状態でした
>から、まあ無茶な行軍ではなかったと思います。
>強行軍なら、もっと短時間で済んだと思われます。
16km以上徒歩行軍して戦線投入に2時間かかって、大変だのぉ。
嶽原のような(乃木)のような指揮官に入らなくてよかったよ。
数字だけで判断する官僚的人間だからな。(第3軍首脳部)
大山司令は物事をズバっと言わない性質、というか、やんわりと
包んで話される方です。訓令の裏側にある厳しい気持ちを理解できないのは
今もおなじですね。
幕僚は日々の戦況を知らせない。その不満を
『児玉さん、どの辺で戦っているのです』 との言葉で戦況は
報告しなければなりませんよという気持ちを暗に示したりしています。
大山訓令は余程のことと認識すべきでしょう。
機密日露戦史というのは戦前に書かれた物で、関係数将軍の秘話の
話によって乃木が旅順を落したのではなく、児玉が落したような
ニュアンスになったんだよね。
埋めておこう
ウメウメ 今村大将も旅順攻略は乃木しかできないといっているけど、
我慢強かっただけだからね。
戦法を採用するのはいいが、軍の根本的な運用は下手だろう<致命的
>>977・978
あなたが挙げられた三例、26日の夜襲失敗原因(地理不案内)・第九師団長
の判断・28日の馬場少将の判断は、夜間の第七師団戦力投入についてのものです。
第七師団兵力は、夕刻にすでに攻撃に参加しています。
例示するのならば、同時刻頃(夕刻)の例を挙げるべきです。
>>979 「行程約一日?」についてのこれまでの指摘の総括(
>>979での指摘)には
、なるほどと思っております。
『第7師団を前戦まで行程約一日というのは曹家屯から碾盤溝まで
4時間以上。そこから休憩、食事を含めて5時間半。碾盤溝乃至大目にみて
164高地から二百三高地へは正午頃発令、発進して増援が2時半に到着している
ところから2時間程度かかることがわかる。合計7時間程の行程ですね』
これは、曹家屯出発から、休憩・食事・改編を含めて、前線に到達するまで
合計七時間程の時間が必要であるだろう、と言われているのですね。
上記の第9師団長の意見(第7師団は地理不案内)を聞いているのに
二百三高地方面でおなじ愚を侵してしまうのは精神的に参っていた
と考えるべきですね。でも 信者は認めないんだよな。
>>980『6時間以上かかるし、地理不案内でもあるしほんとに役に立ちません』
当方が役に立たないといっているのは、留め置いた六個大隊の事です。
この時、四個大隊は爾霊山周辺に移動していて、役に立つ状態です。
>例示するのならば、同時刻頃(夕刻)の例を挙げるべきです。
第7師団長は攻撃の前に地理不案内を解消するために1日
攻撃を待っていますが・・。
11/29朝 検討 攻撃開始11/30AM10;00
これでも不案内でないと言うの?
>>994 >>984 のコピペ
第7師団大迫師団長に指揮が変わったときに第7師団の主力が
地理不案内を理由に攻撃時間を1日とったことにも現れている。
(11/29 AM7:10高崎山検討開始、攻撃時間11/30 AM10:00)
つまり第7師団の兵力は地理不案内のために投入しても意味がない。
と現場指揮官 松本師団長は判断したとおもわれます。
11/29午前2時の第一師団長の結文にも現れている。
『師団原下の兵力にては到底攻撃を再興することを能わず』
この文のどこに
>>777 のような
『山頂占領が失敗した理由は「人員不足」には求められないと考えられます。』
という認識が得られるのかは不思議です。私論なので別にどうでもいいんですけど
>>981『第9師団長の見解や白襷隊の失敗要因、また後ほど大迫師団長が
述べている地理不案内を解消できる時間が無いところから、
足手まといになったと判断すべし。』
貴方の述べている上記理由は、夜間の新参兵力投入についての危惧を
示すものです。この夕刻投入には、その問題はありません。
地理不案内で迷ってもいません。
足手まといといわれますが、この夕刻戦闘において、そのような事態
であったことを示す資料などはあるのですか?
>>992 前日の11/27の15:30に出発して前線(二百三高地付近)に投入されるのが
11/28の1500、戦闘参加が同日1530というのが
>>776で書いているにも関わ
らず実際一日程度かかっている時間を一日行程でないとも述べています。
これはおかしいですね。
また嶽原氏はなぜか師団司令部付近に到着=前戦=主戦場と解しています。
何ゆえ師団司令部付近=前戦=203高地付近となるのかがわかりません。
夜間だから大丈夫という論理ならば、大迫師団長は地理不案内を
理由に攻撃を1日も延ばさない。
実際 地理不案内なのをなぜ隠す。
>>997 夕刻の戦闘において地理不案内によって齟齬が生じたという資料を
見せて下さい。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。