>>186 どうも、ありがたさが分からず、成仏できないか。
日本人だったら歎異抄でしょうな。 あちらの人は知らないがw
心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
(新約聖書「マタイによる福音書」)
【住職による現代語訳】
http://www.oct.zaq.ne.jp/vows/tanni/tanni05.htm 『善人でさえ仏の真実の世界に往き遂げることができるのだから、
悪人が往生するのは当然です』
しかし、世間の人たちが常に言うのは、
『悪人でさえ往生させてもらえるのだから、まして善人の往生は当然です』と。
この事は一応、道理があるように思われますが、阿弥陀仏の根本の願いの働きに全てお任せする、
『本願他力(ほんがんたりき)』の本意に背いています。
なぜなら、自分の力で善行を積み上げて仏に成ろうと努力して、
なんとかできると信じている『自力作善(じりきさぜん)』の人は、
ひたすらに他力(阿弥陀仏の働き)にお任せするという、
『馮む(たのむ)』心が欠けているので、阿弥陀仏の願いに添うものではありません。
しかし、自力の心を翻して、
他力を馮みたてまつれば、
真実の本願に報いて建てられた一如(いちにょ)真実の世界に往くことができるのです。