http://book.2ch.net/test/read.cgi/bun/1002541336/478-480 ・・・こちら変わって広島カープ。年が明けた昭和26年早々、重大事件が勃発していた。
セ・リーグ内に、「広島カープを解散させるべ し」との案が具体化しつつあった事だ。
その根拠は、カープは給料を遅配し定期的支給を怠っているが、これはセ・リーグ加盟球団として恥になること。
また、25年度ビリであったが26年度も強化の実が上がっておらず、再びビリが決定的であり、セ・リーグのお荷物になること、であった。
その最終的決定を協議するセ・リーグ理事会は、26年3月16日、甲子園球場で開かれることになった。
16日から三日間行われる「大阪優勝大会」の初日の試合が終了した時点で、一気に可決してしまおうとしたのである。
勿論広島カープもこの準公式試合に参加する予定であった。解散か、大洋への吸収合併か、を目前にして何ら手を打たないほどカープは無能ではなかった。
広島カープ危機一髪・・・あらゆる手段を講じ、出来るだけの手を打っていた。
例えば、広島専売公社への売り込み、某ビール会社への打診、某ウィスキー会社への嘆願等々。が、全て失敗に終わった。
こうして万策尽き、途方に暮れていた折りもおり、3月13日、NHKの広島放送局即ちJOFKが、−−カープ解散か?と正午のニュースに流したからえらい事になった。
JOFKのニュースを聞いたカープ合宿では、緊急選手会が開かれた。皆実町の御幸荘アパートの合宿は、せきとして声もなかった。
「今のラジオを聞いたか。皆んなの遠慮のない意見を聞かせてくれ」
ようやく監督石本秀一がこれだけ言った。選手達は答えなかった。答えられなかった。