同性愛って

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1名無しさん@お腹いっぱい。
こちらの学問ぜんぜんわからないのですが、なんとなく関連がありそうなので。
同性愛って人類学ではどういう風に論じますか?
2名無しさん@お腹いっぱい。:2001/04/30(月) 22:47 ID:???
 気になるんですよね。ゲイに就いての文章で、よく”江戸時代には男色が公認されてた”とか書かれてるの。確かに”黙認”はされていただろうけど”普通”のものと思われていたワケじゃないって気がしますし、江戸時代に認められていたのだから今でも認めるべきだって言い方は、なんだかなぁ、ってね。言葉が足らないと思うんです、この言い方。そりゃゲイの方には暗黙の前提があるのかもしれませんが、私のように外部から見たら解らない。(少なくとも男にとって)性に関するタブーが緩やかだったから、結果として男色に対する差別も緩やかだったって言い方なら解るのですけどね。結論を先に言うと女色と男色の間には差があった、と思っています。

 源氏物語、伊勢物語など”ヰタセクスアリス”の伝統(?)を受け継いだ「好色一代男」ってのがございます。井原西鶴といぅ大坂のブルジョア作家が書いたものですが、「世之介」といぅ主人公の七歳から六十歳までの性遍歴を年齢ごとに叙述するスタイル。天和二(一六八二)年の成立。
 同書によると世之介氏、五十四歳までに「たはふれし女」は三千七百四十二人、「もてあそ」んだ「少子(男の子)」は七百二十五人。ほぼ五対一の割合です。日曜日は休んで週に一度だけ男の子を抱いていた勘定。
 ただし男に”弄ばれた”ってのは、このうちには入っていない筈ですから、相手にした男性を加えると、もっと増えると思います。彼は十歳のとき既に綺麗にゲイっぽくオシャレして「よきとほむる人のあらば。只は通らじと、常々こころをみがきつれど」と”ハッテン”を祈ってウロついたりしてる。
 因みに当時は子供は前髪を立ててるんですが、大人になったら剃ってチョンマゲを結うんですよね。このチョンマゲを結うことが一般に”お稚児さん”を卒業するってことでもあったらしい。世之介の場合は十五ー七歳の時にチョンマゲになったようです(岩波文庫版挿し絵による)。
 ってぇこたぁ遅くとも十歳から受け身の男色に目覚め、早くとも十五歳の時に”お稚児さん”を卒業したと考えられる。最低五年は男色の受け身が可能な状態にあった。と、いうのも十四歳のとき買った「飛子(肉体を売る少年)」は二十四歳だったのですが、この飛子、前髪を立ててるんですよね。既に元服しているべき年齢にありながら、商売で男に抱かれるために前髪を剃ってなかった。これは逆に言えば、前髪を落とした者は男色の対象に(通常は)見られなかったってことっすよね。もっと突っ込んで言えば、元服前の少年は、男性とは認められず故に男性の性の対象となったのでは? 則ち”お稚児さん趣味”は男色ではなく”少年愛”というべきものではなかったか。いや、”異性愛”ではなかったか?
 則ち女という性を三千七百四十二人、少年という性を七百二十五人相手にした。また少年として男の性の対象となった数は解りませんが、かなりの数にのぼったことでしょう。ただし彼の場合は、少年という男から見れば性の対象の位置にあったときから女を性の対象にしております。故に少年という性は、女を欲望の対象にしつつ男の欲望の対象になるサンドイッチの具のよぉなモンだったと思われます。男ではなく、まして女ではない。
3名無しさん@お腹いっぱい。:2001/04/30(月) 22:51 ID:???
最近書店に行って女の子向け漫画雑誌のコーナーを見ると必ず何種類か女の子向けの男性を主人公とした同性愛雑誌が置いてある。なぜ今そういった珍妙な趣味が流行しているのか、たいへん興味深いところではあるがそれは社会学、心理学の領域になるのでここでは論じられない。そこで私はそういった趣味に理解を示す者として、いったい日本では男色という習慣はどのように扱われてきたのか興味をそそられたので、このテーマをレポートの題材として選んだものである。

日本において、いったいいつから男色という習慣が始まったのかはわからないが、日本書紀・神功皇后記のなかに小竹祝と天野祝の交情について載せられている。天野祝が小竹祝の死を悲しんでその亡骸の上に打ち重なって自害し、合葬したところ神の怒りにふれて「アズナイ」の罪で付近は常闇となったという。
また万葉集の巻4には大伴家持と藤原朝臣久須麻呂との間の贈答歌が七首載っており禁忌というほどではないようだが、まだ奈良時代にあっては男色は偶発的なもので風俗たりえてはいない。
風俗としての男色が日本に伝えられたのは、恐らく平安時代に中国へ留学した僧侶からであろうと思われる。よだれかけ巻五には「本朝にかく此道さかんになり侍るは、伝法弘法二大師渡唐の時、天親菩薩にならい奉りて、御帰朝後の事なりと理尽抄には書けり」とあり、伝法弘法云々はまゆつばとしても、男色が進んだ風俗として、または邪淫戒をおかさぬための手段として僧侶に取り入れられたことがわかる。また「大和物語」に醍醐天皇が堂上家の美しい御曹司を人知れずお召しになり、「あかでのみ経ればなるべし逢わぬ夜も逢う夜も人を哀れとぞ思ふ」と詠まれたという話が見え、天台と密接な関係にあった朝廷にもこの風がおよんでいたことがうかがえる。ただ恵心僧都は「往生要集」の集合地獄の条で、多苦悩所なる所は男が男に愛着して邪行を犯した者が落ちる地獄だと述べている。
鎌倉時代に入り、男色が文学の主題となる日を迎える。「平家物語」「宇治拾遺物語」「古今著聞集」「沙石集」などの説話文学、また「徒然草」にも当然のように僧侶の男色が頻出している。例えば「宇治拾遺集」巻五には、三井寺の別院一乗寺僧正でのちに延暦寺の座主となった増誉と、寵童小院の話が記されている。小院は田楽舞を踊る楽人であったが、増誉にみそめられ、無理に乞われて法師になった。しかしそのうち増誉は、出家させたのを後悔してべそをかいた。大人の癖になにをぐずっているのか、滑稽なかぎりだがそんなんしてべそをかいているうちに、結局小院の装束を脱がせ「障子の内に具して入られけり。その後はいななる事がありけん、知らず」だそうである。
さて室町時代に入るとさらに男色の習慣は一般化し、武家社会の男色好みが寺院のそれを上回るほどになっていく。「室町殿日記」は猿楽をよくする美少年が、足利将軍家や禁中に出入りし、「色をひさぎ人を惑わすこと遊女とかはることなし」と著わしている。また狂言「老武者」では、藤沢の宿に泊まったさるお方の子息の美少年のことを聞きつけて土地の若い衆がやってきて酒宴になった。そこへ一人の老人もやってくるのだが、行きがかり上喧嘩になってしまう。怒った老人は他の老人達を集め武装してやってくる。若者達が収集策としててんでに老人達に抱きつくと、老武者達は「思いの外なるにゃくぞくずきして、わが家々にぞ帰りける」。この狂言から、地方の士庶のあいだにも男色の習慣がおよんでいたことがわかる。
4名無しさん@お腹いっぱい。:2001/05/01(火) 17:13 ID:???
>>2-3
なんだか板違いのような印象を受けますが、荒しですか?(藁
長過ぎて読む気が失せてしまうので、もう少し要約していただけると嬉しいのですが…
5名無しさん@お腹いっぱい。:2001/05/21(月) 06:21 ID:pLHSwBp6
日本や中国のはでな同性愛の歴史に比べて
韓国のそれは地味です。あまり記録が残っていないからです。

歴史上に現れる同性愛として
新羅の花朗(ファラン)があります。
文武ともに優れた美少年を真骨(貴族層)から選抜した
エリート集団ですが、薩摩のへこにせのように儀式としての
同性愛的行為が行なわれていたそうです。
これを初めて指摘したのは植民地時代の日本人学者ですが、
「韓国の歴史を意図的に辱めるものである」という韓国人学者の
反発により長年研究が行なわれませんでしたが、最近ようやく
研究が再開されました。

その次に歴史上に表われたのは李朝4代王の世宗の妃です。
長年子宝に恵まれなかった王は3番目にこの妃を迎えたそうですが、
王との性生活をあまり望まなかったそうです。
ある日、妃が下女との同性愛行為が発覚したのです。
死罪に処すべきとする部下達の意見を押しのけて
王は廃位して実家に送り返しましたが、家の前で
待っていた実父に絞め殺され、一家全員自決したそうです。

次に歴史上に現れるのは「なむさだんぺ」(男寺党碑)です。
これは全国各地をまわる男性芸能集団ですが、
彼らは行った先の村の男性と性交渉を持って
芸能よりは売春行為で生計を立てていたそうで、
このような行為は非道徳的なものとはされていなかったそうです。
この男寺党碑に関してはあまり研究が進んでおらず、解明が
進んでいない部分が多いです。

これ以降、95年、初めてのゲイアクティビストグループができて
社会問題となり一種の「ゲイブーム」が起きるまでは
同性愛者が歴史の表舞台に出て来ることはありませんでした。
6名無しさん@お腹いっぱい。:2001/05/21(月) 10:01 ID:???
801から来た電波?
7名無しさん@お腹いっぱい。:2001/05/21(月) 21:43 ID:DZM1YsD2
昔の日本は混浴だった。これは女性の裸がエロとして
捕らえられていなかったということだ。
逆にいうと男も女も「性的に」平等であったということか?
女の体に価値がなかったのか?
で、>2
それとにたようなのはニューギニアにいまでもあります。
少年は成熟するために口か肛門で精子を取り込み続けなけれ
ばならないというもので確か文化人類学によると
女性への危惧と避妊。性欲解消。
そして成人への従属が理由だったような。
8名無しさん@お腹いっぱい。:2001/05/27(日) 23:22
 801なんてどうでもいい。
 レズの歴史について知りたい。
9名無しさん@お腹いっぱい。:2001/05/28(月) 02:06
 古代のローマ人とかギリシャ人とかは、みんな、ホモ。
10名無しさん@お腹いっぱい。:2001/05/28(月) 14:52
 でもレズはマイナーだったの?
11名無しさん@お腹いっぱい。:2001/05/28(月) 15:00
男の方が色気あるから
12名無しさん@お腹いっぱい。:2001/05/28(月) 19:15
>>10
 レスボス島にハッテン場があった。
13>7:2001/05/28(月) 20:06
女に狂っている男はもう、うんざりだ。
女に興味ない男について知りたいという、
女が増えているっていうの聞いたことあるよ。
14名無しさん@お腹いっぱい。:2001/05/28(月) 20:52
>>7
江戸時代の本には若い娘が湯屋に行く時には、
母や近所の年配の女性と連れ立っていって
守るように囲んでもらっていたという記述がある。
女の体がエロだからこそ守る必要があったんじゃないのか?
15若衆:2001/06/06(水) 06:44
>>7
へ〜ニューギニアでも儀式的なものがあるんだ。興味深い。

基本的に多神教と同性愛ってが結びついてると思うのだけれど、
古代ギリシア、日本(八百万の神々)、北欧神話とか。
でもまだヒンズー、バラモン、チベット密教などの地域の確認がとれてない。
チベット僧の同性愛はあるのか?
インドとかの事情はどうなんでしょうか?
同性愛板では結構いたって記述があったけど、真偽の程が解らないので
ここで質問しておきます。
16名無しさん@お腹いっぱい。:2001/06/07(木) 13:33
おっ、なんか今までに無い傾向のスレだ。オモロイ。age
17名無しさん@お腹いっぱい。:2001/06/10(日) 07:37
o-i
18ggg:2001/06/10(日) 10:32
ホモなんているのか?
気持ち悪すぎ
死ねや
19名無しさん@お腹いっぱい。:2001/06/10(日) 10:42
>>14
じゃあ何故裸族の男共は所構わず催しては青姦せんのだ?
日本の野郎は生足程度でもおっ勃てる輩もおるっつーのに。
20名無しさん@お腹いっぱい。:2001/06/10(日) 10:52
>>19
それ、日本人がだらしねえからっす。 
21wakashu:2001/06/11(月) 04:51
>>18
無知蒙昧なドキュソは学術板から去れ

>>19
やっぱモザイクとっても問題ないかも??
そんなにエロって私秘されるべきなのか?
22109:2001/06/13(水) 15:41
兵庫県西宮市は美少年多い。ホモにお勧めの街である。
23名無しさん@お腹いっぱい。:2001/06/13(水) 22:24
世界史版にこんな話しがあったのですがどうなんでしょうか?

http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=whis&key=985615262
■F・ルーズベルトの妻について

27 名前:世界@名無史さん 投稿日:2001/04/17(火) 20:14
>>24
女性ですよ。結婚もしたが、一番有名な恋人は人類学者のマーガレット・ミード。
ルース・ベネディクトの論文より
「社会が同性愛に名誉ある地位を認める場合は、
同性愛者たちは役目を立派に果たすのに、やぶさかでない」。
そういえば最近、つきあった男性への手紙が出てきたのがリンカーン。

http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=whis&key=987414540&ls=50
男色家@世界史板

あとマーガレット・ミードとルース・ベネディクトにはレズビアンの
話しがあったような。
24名無しさん@お腹いっぱい。:2001/06/14(木) 00:16
>>19
日頃から服着てる(隠している)のと
着てないのとの違い?か
25同性愛板より:2001/06/14(木) 05:14
26若衆:2001/06/17(日) 14:45
江戸時代では男色は当たり前のことでした。
歌舞伎も衆道歌舞伎、若衆歌舞伎といって
美少年が男色を売るものでした。
しかし、美少年の色香に溺れる、いわゆる
若衆狂いと呼ばれる武士があまりにも増え
刃傷事件までおきた為に、禁止され、前髪を
切った、大人の男だけが演じる、野郎歌舞伎
つまり現在の歌舞伎となったわけです。
その他にも近世では、仏寺で僧の男色の相手を
する稚児、商店で店主の相手をする丁稚、
また少年の男色を売るためだけの籠屋、茶店も
ありました。
またあまりにも若衆買いが流行ったために、女性が
前髪の少年に扮して売春をする若衆太夫まで生まれた
位です。
この通り、近世までの日本では男が男と寝るのは
別に特別なことでも無かった訳です。それが
明治維新によって大量に西洋の文化、イデオロギーが
流入したために、男が少年と寝る=変態、犯罪者と
いう思想が生まれてしまったのです。

2、3は知ったか知識をしないように。
27若衆:2001/06/17(日) 14:50
>>2
蘊蓄を語るものが「気はしますし」なんて言うもんでは無いですね。
現代のイデオロギーから語ってどうするよ。
ということですね。時代考証する資格無し
28名無しさん@お腹いっぱい。:2001/06/18(月) 08:41
>>26-27
 >>2-3じゃないけど、漏れも色々調べているうちに「江戸時代には
男色は当たり前だった」という物言いは一定の留保をつけて聞くべきだと
思うようになったよ。

 ちなみに>>2-3はここ↓の転載みたいだな。
ttp://www.infomadonna.ne.jp/~hirohumi/ZUI_SHU.htm
 ここのも、論旨としては極端かもしれないけど、階級差や地方格差を
考慮しないとダメって主張には同意したいんだよね。だってかげまの美が
称えられてる頃って陰間の値段むっちゃ高かったし、衆道って関東圏では
マイナーな文化だったはずだし。それに近世には男色を高貴な趣味だって
言う連中の滑稽さを茶化したり揶揄したりする川柳とかも結構あるわけ。
あと、衆道と近世後期のかげま買いを一緒に語っちゃうのもまずい(後者
はいまのニューハーフ風俗みたいな位置付けだったんじゃないか)。

 江戸末期になると陰間茶屋は梅毒蔓延とともに徐々に消失してゆくん
だけど、そのときは既に陰間に対する「気持ちの悪いもの」「醜いもの」
「美しくないもの」っていうスティグマタイズは始まってたみたいだよ。
その後明治中期になって鶏姦罪が作られるんだけど、これは事実上殆ど
機能しなかった。ごく短期間で廃止されたし、検挙者もほとんどいな
かったはず。同性愛が「変態性欲」として語られるようになったのは
明治維新とともにじゃなくて、大正時代、1920年ぐらいからの話。その
約50年間の間には、薩摩出身者による男色ブームとか、女性同性愛とか、
開化セクソロジーや大正セクソロジーもうとにかくいろいろあるわけ。
だから「近世/近代で同性愛観がドラスティックに変わった」っていう
主張とか「近世には男色は普通のことだった」ってのはちょっと実態と
違う、雑すぎる表現だと思うのさ。

 漏れもどっちかっつーとセクシュアリティの歴史的・文化的相対性を
強調して同性愛差別に対抗したいって立場なんだけど、そのへんの認識を
あいまいにしたまま「近世には〜」って言ってると、いつか実証的な
歴史研究者から手痛い反撃を食らうことになると思うんで、最近は
そういう表現は使わないようにしてる。

このへんについては貴重な研究として古川誠「セクシュアリティの変容:
近代日本の同性愛をめぐる3つのコード」という論文があるから、
調べてみて。
29名無しさん@お腹いっぱい。:2001/06/27(水) 00:16
こんなもの見つけました。
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~kotoito/koto/danshoku.html
30若衆:2001/06/28(木) 05:16
>>29
ありがとうございます
31名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/13(金) 00:37
http://www.sexuality.org/l/lesbigay/gayceleb.html
歴史上の同性愛者のリスト
32名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/14(土) 15:09
33若衆:2001/07/24(火) 06:39
http://203.174.72.111/koneeta/99kaku13.HTM#10
>売春行為と言う物が犯罪かどうか、恋愛による結婚が「純粋」な物なのかどうか、
>男色が女色の代行なのかどうか、などは、現在の日本人の道徳規準から判断するのは難しいことです。
>また、「男色によってエイズの心配はなかったのか」、と言う考えは、
>エイズ差別につながる基本的な誤解です。エイズは『もののけ姫』の「祟り神」のようなもので、
>最近になって文明社会を襲いだした物だし、性行為による感染症は、男色だけに関わるわけではありません。

これはとある大学の授業内容。
遊び人のコギャルも相当な確立で性病感染(淋病、クラミジアetc)があるらしいし、
梅毒がそれだけ蔓延したのもそれだけ盛んであった証明に他ならないことだと思う。
(行為が切れやすく感染しやすいというのは確かに現実であるが
 今は完璧でないにしてもスキンがあるわけですしね。)
今やアメリカの報道は同性愛を沈静化するための意図的な報道ということになってるわけで。

http://www.nikkei.co.jp/pub/newbooks00-02/16327/16327.html
異性間恋愛の起源は日本では明らかに「明治以後」というのが学者の間の統一見解のようです。
また、フロイト研究の岸田秀(唯幻論)も、
近代、キリスト教が否定されたあとの「補償」として「恋愛」が開発された、との見解を保持している。
(それ以前の貴族などの特権階級の『恋愛』はさておく。
 現代の資本/民主主義のイデオロギーは「神殺し」後のヨーロッパ=近代に端を発す)

言いたいことは、「同性愛が当然であった」( 大衆文化としての)
というのは誰もが実行していたわけではなく、
ただ「それほど否定されていなかった」という意味で使ってもいいだろう、ということ。
(もちろん一部生理的嫌悪を抱くものはいたであろうが全体のパラダイムではあり得ない。)
誰もが保持するべき、求めるべき指標はなく、
ただ「恋ふ=求める(異性同性に限らず)」「色=性欲(lust)」だけがあったということのようだ。
「男女の恋愛」は作られたパラダイムであるということは確かであると思われる。
また上記の佐伯順子氏の「美少年尽くし」も必読でせう。

やはり前も述べたとおり、上のコピペは現代のパラダイムの只中にある言説で
蓋然性は相当低いといえるものであろう。>>2-3
(繰り返すが「気はしますし」なんていう台詞が如実に醸し出す現代性+個人的嗜好)
趣味の性雑学サイトの随想、という定義でいいだろうと思う。
そんなのばらまかれたら迷惑といふもの。
34若衆:2001/07/24(火) 06:41
>>アメリカのエイズ報道ですね。
35名無しさん@お腹いっぱい。
日本史板から

http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=994598904&ls=50

ヲイヲイこの板には性の歴史研究してるひとはいないのか?