1 :
名無し象は鼻がウナギだ! :
2006/07/05(水) 00:28:55
>>1 くだんスレ立てるな。
そんなことより、サッカーでオーストリアに雪辱を果たす方法でも考えろ。
3 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/05(水) 12:28:45
ら抜き言葉を「日本語の乱れだ」とする向きもあるけど、それはおかしくないだろうか? 言葉というのは時代とともに変化していくものだ。 平安時代の言葉使いと現代の言葉使いが違うからといって、日本語が乱れたとは言わない、それと同じこと。
4 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/05(水) 12:41:29
それと、ら抜き言葉が駄目だと言う人は、何が駄目だと考えているのか? むしろら抜き言葉を併用することでよりわかりやすい意思表示が可能だと思うんだが。 たとえば「食べられた」を例にとって考えてみる。 これだけでは、「自分の分のおやつを弟に食べられた(食べられてしまった)」 というような受身的な意味であるのか、あるいは 「風邪で食欲がなかったけどなんとかご飯を食べられた(食べることができた)」 というような意味なのかの判別が付かない。 ここでら抜き言葉を使うとどうなるかを考えてみる。 ら抜き言葉は受身的な意味では使用されない。 「自分の分のおやつを弟に食べれた」とは普通誰も言わない。 「風邪で食欲がなかったけどなんとかご飯を食べれた」というような使用法の場合のみ ら抜き言葉である「食べれた」が使用される。 つまり、「食べれた」というら抜き言葉を使うことで、「食べることができた」という意味であると確定される。 これは従来の日本語のわかり辛さが解消された、優れた日本語といえないだろうか?
>それと、ら抜き言葉が駄目だと言う人は、何が駄目だと考えているのか? ダメな物はダメ、オレ様の基準こそが正しいというジャイアニズム。
6 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/05(水) 12:46:59
逆に、ら抜き言葉の欠点を考えてみると、特に欠点がない。 ら抜き言葉を使うことで意味がわかりにくくなるとか、誤解が生まれるといったことがない。 「日本語として美しくない」などと主張する人もいるかもしれないが、 言葉は変化していくものだし、当然それに合わせて美的感覚もまた変化していくもの。 そういった人間は、自分が古い感覚に縛られたオールドタイプだと自覚するべきだ。
見らん 来らん
9 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/05(水) 17:12:38
10 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/06(木) 02:04:26
乱れだとかはどうでもいいの。 まだ辞書には載っていないから、テストでは×や減点なの。 不用意に子供の前で使うから、 子供は「ら抜き表現」ということすら知らずに使ってしまい、 平気でテストにも書いて減点させるわけ。 個人が使うのはどうぞご自由に。 辞書に載るまでは、 テレビで使ってはいけない。 子供の前では誤解されないよう気をつかえ。 それだけ。
11 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/06(木) 02:09:48
>>4 てなわけで
>>1 にも書かれているが、
聞き分けるにはむしろ都合がいいというのは筋が通っている。
単純に【今のところはまだ】辞書には載っていないから
テレビでタレントが平気で使っているのは教育上良くないし、
テストでは減点です。
個人で使うのは自由です。
ケの言葉とハレの言葉とで同じでない点があるのは当然のこと。なかなか気づかない子供は勘が悪く、将来性がない。 話すときは (よほどあらたまらない限り) 「……してる」「……するんだ」でよいが、まとまった内容の文章を書くときは「……している」「……するのだ」でなければならない。ら抜きもそれと同じ。
最近、可能以外で使うのも増えてるような
14 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/07(金) 00:52:46
どんな?
15 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/07(金) 00:57:43
「〜れる」という表現が他にあるのに、見れる、来れるが駄目なわけがないだろ。 受身と可能が同じ表現であることの方がおかしい。
16 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/07(金) 04:11:14
でもテストではダメ。
18 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/08(土) 01:01:17
たしかに。
19 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/10(月) 01:32:52
はいはい、言葉は変化するものでちゅね
20 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/10(月) 04:10:43
>>7 「来らん」ってどうやって読むの?
きらん?こらん?くらん?
21 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/10(月) 14:03:14
「こらん」じゃない? ちなみに東京西部や埼玉南西部は 「来ない」を「きない」という方言がある。
22 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/11(火) 17:12:13
ら抜き言葉を使わない芸能人っているのかしら?
23 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/11(火) 17:20:33
1段型の動詞が5段化しているのか? 下手すれば「見ます」が「見"り"ます」とかなりそうだな
見らん 見り 見る 見れば 見れ 「見り」は命令の形で使うことがあるかな九州
25 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/11(火) 21:10:15
見らんや来らんは山口でも使います。
26 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/12(水) 04:32:10
言葉の乱れではなく 意識の乱れだな。 日本語を学んでいる途中の子供への配慮が足らない。
おれは「ら抜き言葉」よりも「〜やらさせて頂きます」 とかの「さ足し言葉」の方が100倍嫌だね
というか「ら抜き」には全く違和感を感じない。
30 :
30 :2006/07/12(水) 15:34:15
「ら抜き」には感覚的に違和感を覚える。東京人の立場で言わせてもらえ ば、「〜だべ」「〜しとるんか」などと同様、方言臭さを感じてしまう。 別に方言を馬鹿にしているのではなく、単に馴染めない。最初から大阪弁 なり東北弁などであるなら「ら抜き」だけ浮いてくることはないのだが。
31 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/12(水) 17:31:06
東京でも若者はよく使うよ
32 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/12(水) 21:35:16
2ちゃんねるでこの手の話をすると話し言葉のことなのか書き言葉のことなのかごっちゃになってくる
33 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/13(木) 02:20:08
>>10 に激しく同意
会話で使うのは自由。
でもテストでは×。
「何でだめ?」という質問には「文法的に誤り」という明確な回答がある。
個人的には気持ち悪い。
というより「ら抜き言葉」なんてものがの存在があり得ない。
面接する時に、「出れる」って言う人を、それが理由で落とすことはなくても、「出られる」って言う人を重用します。
34 :
30 :2006/07/13(木) 02:56:21
A:「着る」「見る」「食べる」の過去形は「着た」「見た」「食べた」 B:「切る」「やる」「歌う」の過去形は「切った」「やった」「歌った」 パターンAの動詞には絶対に「ら」が必要。どうしても「着れる」「見れ る」と言いたいのであれば「着った」「見った」という言いかたも同時 にしてもらいたい。これなら誰でもわかるよね?
>>34 言語学板で、五段活用という単語も知らないような
小学生向けの「ことばのきまり」レベルの話を
さも得意げに講釈垂れられてもなあ('A`)
>>33 ら抜きが間違いでもその文脈で「重用」を使うことは正しいんだね。
>>30 は中年以上。
37 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/13(木) 03:47:30
>>34 中学の参考書で促音便と撥音便を復習しなさい。
38 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/13(木) 10:46:58
>>33 >というより「ら抜き言葉」なんてものがの存在があり得ない。
最近「信じがたい」「受け入れがたい」という意味で「あり得ない」という言葉を
使う人が多いようだが、これこそ受け入れがたい。
こちらの方言で書かせてもらえば、「受け入れれん」。
39 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/13(木) 11:02:45
五段活用(例:書く) kaku kakanai kakareru kakeru 上一段活用(例:見る) miru minai mirareru mireru 下一段活用(例:得る) eru enai erareru ereru カ行変格活用(例:来る) kuru konai korareru koreru 上一段活用、下一段活用、カ行変格活用の場合、一見すると「ら」が抜けたように見えるが、 五段活用を見ると、これらは全て「ar」が脱落していることが分かる。 五段活用における所謂「可能動詞」の変化を他の動詞にも適用すると、所謂「ら抜き言葉」になる。 そもそも「ら抜き言葉」という言葉がおかしいことが分かる。 「書かれる」「立たれる」などの形から、「書ける」「立てる」などの可能動詞が発生したのは江戸時代後期。 おそらく当時も、感覚的に違和感を覚える人や、文法的に誤りと糾弾する人がいたのだろう。 話し言葉ではいいが書き言葉では駄目だと言われたり、年寄りが可能動詞を使う若者を嘆いたりしたこともあっただろう。 しかし、機能的にも便利であり、短く使いやすいことから定着し、「文法的に正しい」とまでされるようになった。 可能動詞が認められるなら、今のところ所謂ら抜き言葉が認められていない理由は、 「五段活用以外の動詞に適用されるのが200年遅れたから」という理由しかない。こんなこと既に語り尽くされているだろうが。
>>38 その単語の意味が広がるのはよくあること。
あまり不思議には思わないが。
しかも、単語自体が間違ってるわけじゃない。
このスレで言ってるら抜き言葉は、言葉自体が変化したんだから、また別の問題だと思うんだが。
42 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/13(木) 11:50:18
下一段活用動詞のら抜きに関しては舌足らずな印象を受ける
43 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/13(木) 12:11:29
44 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/13(木) 12:40:58
>>40 「出れない、寝れない」は、「ら抜き」方言の俺でも違和感ある。
「出れん、寝れん」やな。
45 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/13(木) 13:24:46
出れねー 寝れねー
46 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/13(木) 14:18:37
ヴァギナFUCK
ぴれねー山脈
48 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/13(木) 15:11:09
Mr.Children
49 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/13(木) 15:33:52
>>44 出られん、寝られん。
俺は出られんなら使うな。
で、寝られんより眠れんを多用するから、寝られんも寝れんも違和感がある。
「出れない」「寝れない」はほとんど違和感がないが、「信じれない」「感じれない」などには多少違和感がある俺。 「見れる」「来れる」なんかは、むしろ「見られる」「来られる」のほうに違和感を感じる。 やはり短い単語から先に新しい言い方が普及していくんだろうな。
51 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/14(金) 02:05:33
動詞の活用と助動詞の接続についてわからんレベルの人には、どう説明しても理解できないでしょう。 「通じりゃいいじゃん」って世界。 いいよ、それで。 子供が塾に行って習って来て、「パパ間違ってるー」って言われるの。 もっとも子供もそのレベルまで行かないか・・・
>>51 それが日本語のよさかもしれん。
許容範囲が広い故の長所みたいなものかもしれないが。
所ジョージの歌に『昔の車で乗ってます』ってのがあるんだが、普通は『昔の車に乗ってます』だよな?
でも、所ジョージはそこを敢えて『で』にする事で、仕方なく乗ってる気持ちを表したかったと言っている。
良い例ではないが、そんなちょっとした気持ちの違いやなんかを、独特な表現で言っても通じるからこそ、
日本語って素晴らしいのかと思うんだが。
だから何も、模範的な言い回しだけが日本語じゃないし、答えでもないと感じるよ。
53 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/14(金) 02:15:55
パパが間違ってるなら 子供は正しくないということすら知らないよ。 ちなみに偏差値60以下のガキは 塾で習ったって一晩で忘れるね。
54 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/14(金) 09:40:00
正しい日本語を完璧に使いこなす人は世の中に0.0001%程度しかいない! みんな、どこかで間違えてるんだよね。 他人の「役不足」の誤用を指摘していい気になっていた奴が その翌日に自分の「確信犯」の誤用を指摘されて落ち込むとか、 よくある話。 ひとつの誤用を許せば、ほかの誤用もすべて許すことになる。 ひとつの誤用を許さねば、ほかの誤用もすべて許さぬことになる。 難しいものだ(藁
55 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/14(金) 12:20:48
アッー!
確信犯の間違った意味って何だっけ?
悪いて知ってて、そう思いながら悪いことをする。 って事じゃないのかな?
58 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/15(土) 17:49:27
正しい意味で「確信犯」を使っているのを聞いたことがない
>>58 そんな確固たる信念をもった人が少ないからじゃないか?
学生運動が盛んなときは、そんな人が多かったのかもしれないが。
60 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/15(土) 18:17:50
>>58 9.11テロで飛行機を突っ込ませた当人は、確信犯でしょうね。
61 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/15(土) 18:27:44
昨日だか一昨日の朝日夕刊スポーツ欄で二宮清純が 「ジダンの退場は人種差別反対の態度を示すための アピールであるから、あの頭突きは確信犯である…」 (以上うろ覚え)のようなことを書いていたが 正しい用法なのか誤用なのかよく判らなくなってきた
んー、正しいのでは? サッカー人の正しい態度より、人として正しい態度をとったという事じゃないか?
>>57 それ逆っていうか、違うだろ。
悪いと思わないですることだよ。
たとえばテロは、俺ら一般人からすると悪いことだけど、
テロやってる本人たちは正しいことだと信じてるからやってる。悪いことだと思ってない。
>>64 56 名前:名無し象は鼻がウナギだ![sage] 投稿日:2006/07/14(金) 12:31:00
確信犯の間違った意味って何だっけ?
57 名前:名無し象は鼻がウナギだ![sage] 投稿日:2006/07/14(金) 14:05:52
悪いて知ってて、そう思いながら悪いことをする。
って事じゃないのかな?
66 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/17(月) 03:36:16
トョペット
67 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/17(月) 22:26:55
ら抜き言葉が辞書に載ってないから間違いだ、なんていうアホは日本から出ていけよ 辞書でものを調べれないのが丸分かりだから 要するに日本人じゃないだよね
>>67 ないだよね?
ら抜きが間違い、間違いじゃないってのは、辞書を調べるとかは関係ない。
69 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/18(火) 01:43:07
71 :
68 :2006/07/18(火) 01:59:50
>>69 知ってるけど?
>>70 〜するのだ、と、〜するんだ、の件には異議ありだな。
72 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/18(火) 02:46:39
ぼく、ドえもん
73 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/18(火) 09:53:46
アッー!
75 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/18(火) 14:37:58
>>10 可能の助動詞が「未然+れる・られる」と書かれているのを理解していないヤツが多過ぎる
「ら抜き」が間違いならば五段活用動詞の可能が「仮定+る」という現実を無視できるのかを聞きたい
「ら抜き」を認めると可能の助動詞は「仮定+る」で統一される
乱れだとかはどうでもいいの。 まだ辞書には載っていないから、テストでは×や減点なの。 不用意に子供の前で使うから、 子供は「方言」ということすら知らずに使ってしまい、 平気でテストにも書いて減点させるわけ。 個人が使うのはどうぞご自由に。 辞書に載るまでは、 テレビで使ってはいけない。 子供の前では誤解されないよう気をつかえ。 それだけ。
>>76 テストで減点されるかは教師次第。
ちなみに、俺は方言を書いて減点されたことはない。
78 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/18(火) 18:47:25
そこまで便利なのか?
五段 書かれる → 書ける 上一 見られる → 見れる 下一 得られる → 得れる カ変 来られる → 来れる 五段動詞(四段動詞)の変化は江戸時代後期に起こったのに対し、 上一段、下一段、カ変動詞の変化は21世紀初頭現在まさに進行中である。 たまたま起きた時代が違うだけで、現象としては全く同じ変化である。 なのに、「書ける」などの五段動詞の可能動詞に対しては何も言わないで、 「見れる」「得れる」「来れる」などに対してだけ、「ら抜き言葉」という蔑称をつけ 「日本語の乱れ」とのレッテルを貼り、「正しくない」「美しくない」だの糾弾するのはいかがなものか。 大体そういう批判をする奴は、可能動詞がら抜き言葉と同じ変化をして生まれた言葉だということに 気付いていない。たまたま自分が教育を受けた時代に標準的だった日本語を 無批判に「正しい」「美しい」として受け入れ、変化した日本語を受け入れず非難する。 その当人が使っている日本語だって、そのさらに前の世代から見れば「美しくない」「乱れている」日本語なのに。 自分の世代だけがそんなに偉いのか?折角使い勝手がよくなり合理的になる変化を、 わざわざ自分の世代のエゴで潰すのか?別に個人的に馴染めないから自分では使わないというのは構わないが、 自分を正義だと信じきって上から見下して批判するのはおかしいのではないか?
80 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/18(火) 19:03:55
私の意見こそが正しい!貴様等私の意見に従え!まで読んだ
81 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/18(火) 19:05:25
長文は誰も読まないよな。
82 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/18(火) 19:11:50
長い文は読めれません。
意識して抜こうとしなきゃ抜けないからら抜きはダメ。 ら抜きって、明らかに1音減ってておかしいし。
>>83 意識しないと『ら』をいれられない。
だからら抜きでいい。
って人が増えたら、それが主流になる。
そうなっても仕方あるまい。
85 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/18(火) 21:37:54
明日こられますか 明日これますか どっちが不自然か
人による差があるだろうね
87 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/18(火) 21:40:41
明日来られますか?/明日来れますか? なら前者 明日来られる?/明日来れる? なら後者
明日来られへん?/明日来れへん? なら前者
>>83 そんなお前の事情は知らない。
自分の場合は、「見れる」「来れる」なんかは、意識しないと「ら」を入れられない。
そもそもら抜き言葉は「ら」が抜けてるんじゃない。
「書ける」は「書かれる」から一音減ってるからおかしいか?
ちなみに83はどこの人?地域による差はかなりあるだろうな。方言とも関わるし。
ら抜き言葉的言葉が最初に発生したのってどこだっけ?
90 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/18(火) 23:32:43
AR抜きとRA抜き似テルヨウデ随分違ウネ
91 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/19(水) 00:35:08
話し言葉でのら抜きにはもう慣れたし日本語の変化なのだろうが、 書き言葉でのら抜きはまだ違和感があるね。 赤ペンで書きなおしたくなる。 あと10年はテストで書いちゃマズイだろうね。
これから数十年、ら抜き言葉への変化がどのように変化していくか見ものだな。 目の前で日本語が変化していく分かりやすい実例だ。 どのように使用地域が広がっていくか、世代ごとの許容度がどう変化していくか、 私的な場面と公的な場面、話し言葉と書き言葉での使用頻度がどうなっていくか… ちゃんと調査していけばいい資料になりそうだ。
93 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/22(土) 03:24:13
ageれる?
あげられる
でも「あげられる」というとやっぱり受動の意味だよな現代の感覚では。
>>75 「五段動詞の仮定形+る」って考えるの面白いね
でもそれだと、↓の下一段活用を説明できない
話せない・話せます・話せる・話せるとき・話せれば・(話せろ)
助動詞「れる・られる」においても、「る」は終止形の活用語尾でしかないでしょ
可能の意味は「れ・られ」の部分が担っているんじゃ?
>>95 私は、一段動詞のら抜きが浸透したのは、
受動じゃなくて、尊敬と区別するためだと思ってたよ
たとえば
>>87 なんかは、
明日来られますか? ・・・・尊敬(目上の人の予定を伺っている)
明日来れますか? ・・・・可能
「いらっしゃる」「おこしになる」は廃れて行くんじゃないだろーか
「明日来られますか?」 これは敬語なのか何なのかわからないな。 まあ、「れる・られる」式敬語自体が嫌いだけど。
そもそも「ら抜き言葉」って言葉自体が妙。 語尾を変化させる事を面倒くさがって、 「とりあえず『れる』付けておけばいいか」という甘い考えが見える。 「れる言葉」とでも言ったほうがいいんじゃないかな。
じゃあ明日から古文で会話しないとな。 それからヨーロッパ人はラテン語しゃべらないとな。
どういう繋がりで「じゃあ」なのか。
102 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/24(月) 15:48:39
「帰れる」が、なぜ許容されるのか、辞書見ても分から ない。辞書の後の文法規則にいくら書いてもだめ。 辞書には、誰も読まない文法規則記載ではなく 可能動詞を見出し語として掲げるか、あるいは見出し語の記載中に、 可能動詞の形成可否を示してくれないとこまる。 そうじゃなきゃ、「まだ辞書には載っていないからだめ」とは言えない。
103 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/24(月) 23:40:21
104 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/25(火) 02:44:40
>>102 こういうことだよ。
・五段活用
帰る→帰れる ○
蹴る→蹴れる ○
など
・下一段活用
変える→変えれる ×
越える→越えれる ×
など
105 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/27(木) 01:43:06
ageられた?
>>105 そうゆう言葉はあまり使わないな。「上げられない」「上がった」なら使うけど。
107 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/27(木) 11:33:02
言語なんてのは、単なる、意志を伝えるための記号に過ぎない。 正しいとか、美しいとか言ってみても、飛行機で数時間も飛べば全く通じないような、狭い範囲での道具。 いや、飛行機など乗らなくても、この日本の中でさえ、数十年前の戦時中の新聞をすらすら読める人が、どれだけいるだろう。江戸時代の文章を読めるだろうか。千年もさかのぼれば、もう「古典」と称して、文法から勉強し直さなければならない、ほとんど違う言語だ。 当たり前のように言語は変化していく。ら抜きなんて、メリットすらあるのだから、必ず定着するだろう。これは言語の進化だ。受験生は使わない方がいいのは、もちろんだろうが、良い悪いの議論は面白いけど結論はもう出てると思う。「全然OK」でしょ。
>>106 受け身を使わない、珍しい日本人ですか?
109 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/27(木) 16:16:22
なんでこの手の議論になると古典から勉強しなきゃならんとか極端な事を言い出す奴が出てくるのだろうか
110 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/27(木) 22:04:11
「言葉は変化する」と開き直られるのは勘弁。 この世界は若者だけでできているんじゃないんだよ。
111 :
↑ :2006/07/27(木) 22:15:14
変化を受け入れられない頭のかたい中年。 「言葉は変化する」というのは開き直りではなく事実を述べているだけでしょう。
112 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/27(木) 22:15:21
覚ゆ 覚えれる 覚える 覚えられる だからどっちでもいいの?
113 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/27(木) 22:17:30
普遍の法則に抗おうともしない奴の方がよっぽど保守的
114 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/27(木) 22:18:00
>>104 きみの辞書では
五段活用
帰る(語幹・かえ+変化語尾・る)は
帰られる(語幹・かえ+変化語尾未然形・ら+可能助動詞・れる)
になっていないのか!
115 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/28(金) 01:03:33
帰られば
>>104 >蹴る→蹴れる ○
ダウト!
「蹴る」は下一なので、「蹴られる」でつよ
117 :
116 :2006/07/28(金) 02:03:29
>>116 は嘘、「蹴る」はラ行五段だね
むかし、古文の時間に「蹴る」が唯一の下一って習ったのと混同したw
>>104 スマソ
>>112 覚ゆ(下二段)→現代の覚える(下一段)
だから、教科書文法的には「覚えられる」が正解
>>116 おまえさんは、現代の共通語で「蹴る」を
「蹴ない(けない)」「蹴ます(けます)」「蹴た(けた)」と活用するのか?
お前は和声を1から勉強し直せ
121 :
116 :2006/07/28(金) 02:23:47
>>114 は釣り?
ごめんよ
>>104 、おまいの名誉のために可能形のおさらい
1)五段活用の動詞
「活用語尾の子音+eru」 で、下一段活用の可能動詞を作る
例)
帰る → 帰れる(kae-r+eru)
話す → 話せる(hana-s+eru)
書く → 書ける(ka-k+eru)
※学校文法では「eru」は助動詞とはみなさない(下一段の一単語とみなす)
※ラ行五段の可能動詞を「ら抜き」と勘違いして「帰られる」とか言い出す
「ら足し言葉」は興味深い現象
2)上一、下一、カ変動詞
可能の助動詞「られる」を未然形に接続させる
例)
見る → 見・られる
食べる → 食べ・られる
来る → 来(こ)・られる
3)サ変動詞
する → できる
だから、1)の五段活用のみ可能の形が受身、自発、尊敬と異なる形になってる
「ら抜き」は、2)の動詞限定の現象で、受身、自発、尊敬から可能の形を区別しようとする変化
100年後くらいまでには浸透・定着するんじゃないの?>ら抜き
>>71 >
>>70 > 〜するのだ、と、〜するんだ、の件には異議ありだな。
どのように?
124 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/28(金) 03:12:58
>>106 「そういう」を「そうゆう」と言ってしまうのは
お子ちゃまの特徴だよ。
>124 書くのは「そういう」だが、発音は「ソーユー」だ。
126 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/28(金) 06:24:56
デスクリムゾン
>>124 誰一人として、「そういう」って発音しないんだから、しょうがないでしょ!
「そういう」は「そうゆう」に変わったんだよ。
だが、ら抜の様に音自体がなくなってしまう変化は許さない。
あらたしい さんざか などはいずれも音数(文字数)が変化していない。
128 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/28(金) 14:03:04
>>123 ら抜きとの性質の違い、問題の違いがあるから。
130 :
128 :2006/07/28(金) 15:29:10
131 :
124 :2006/07/29(土) 04:13:03
失礼。訂正する。 ×「そうゆう」と言ってしまうのは ○「そうゆう」と書いてしまうのは
132 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/29(土) 04:14:46
>>123 「〜するんだ」・・・話し言葉
「〜するのだ」・・・書き言葉
それだけ。
134 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/29(土) 06:39:23
この動詞の活用が何活用であるかなんてそもそも誰も意識してないと思うよ
135 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/29(土) 07:40:50
オマエガナー
モヒカン族
138 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/29(土) 12:31:14
「食べる」は下一段活用の動詞だから、「食べれる」はら抜きで、間違いだ、などといちいち考えながら、人はしゃべるわけじゃないんだよ。
139 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/29(土) 12:48:53
するんだ、とするのだ、は微妙な意味の差がある。語感の鈍い人には一生わからないかもね。
140 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/29(土) 13:51:41
>>139 意味そのものは同じ
言い方によって人に与える印象が違うだけ
141 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/29(土) 14:35:21
>>121 >>114 だけど、1)のソースは?
俺の意見は広辞苑の助動詞活用表だけど
日本語には子音で切れる言葉はないし、母音で始まる言葉でも前の子音に直接影響しない
142 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/29(土) 18:49:32
ウホッいい男
145 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/29(土) 21:09:51
現代語では音便があるんだけど
146 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/07/30(日) 06:25:29
ウォンビン
>>146 あれマジで「ウ音便」に聞こえることがある
>>148 『母音脱落』という現象と『ら抜き』という現象の違い。
『母音脱落』はかなりの日本語に見られる現象。
『ら抜き』より昔からあり、全く問題にはなっていない。
>>149 「するのだ」>「するんだ」を「母音脱落」と見なすと、母音 o が落ちたことになる。
そんな例がほかにある?
151 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/02(水) 01:25:59
立て、立つんだジョー!
枕草子に、「いわんとす」を「いわむずる」とか言ったり書いたりするのは嘆かわしい、 みたいな箇所あったよね(その後一般化して、今じゃどっちも全然いわないが) 「と」抜きはともかく、「ん」→「む」なのはどーなんだろ
153 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/02(水) 02:00:37
kak-ar-eru → kak-eru (五段) mir-ar-eru → mir-eru (上一段) er-ar-eru → er-eru (下一段) kor-ar-eru → kor-eru (カ変) このように子音単位で考えれば、「ら抜き言葉」などという名称自体がおかしいことが明らかだ。 「ar抜き言葉」とでもいうべきものだ。五段活用の「可能動詞」ができる過程で音が脱落したと考えれば、 「ar」が抜けたとしか説明ができないからな。「ら」が脱落したわけではない。 五段動詞の「可能動詞」の類推で、「ら抜き言葉」の形が生まれるのは全く自然なことだ。 むしろ五段動詞だけで変化が止まるのがおかしいし、不安定な体系になる。 実際、「書かれる」「見られる」よりも「書ける」「見れる」のほうが便利なんだし、 元の「正しい」形に戻そうとしても、ラ行五段動詞と混同して訳が分からなくなったりしてるし、 もう止められないよ。辞書や国語審議会があと何十年で現実の用法の前に屈服するか楽しみだ。
>>153 およそ間違いではないが、理論的説明が浅いので説得力が低いよ。
この「ら抜き化」ほど明確な日本語の文法の上でハッキリした理由がある
変化も、現在起きている変化のなかでは非常に珍しい。
「便利」「いい易い」「現実の慣用だ」といった漠然とした理由では無いんだな。
「ら抜き」とは、全ての動詞において
「可能概念が『れる・られる』の意味の一群から完全に離脱しつつある」
という近年の日本語における可能概念の変化に対応するものだ。
伝統的な「れる・られる」(「る・らる」)の
受身・可能・自発・尊敬の4つの意味はコロラリーを為していて、
その根本的な意味は「自発(自分の意志と無関係に生ずる)」である。
だが、古代においては可能概念は「意志と無関係に生ずる(出で来る)」だったが
現代では可能概念はそのような意味で捉えられなくなっているから
「れる・られる」と同じ表現では的確な表現ができなくなっているということなのだ。
154続き。
ではなぜ「ら抜き」という形で「可能表現の離脱」が起きたのかを考える。
>>153 の説明では「-ar抜き」なんだが、この意味上の本体は-a-である。
Rは「る・らる」に遡る音節構造を整えるための介在子音と考えられる。
これは何かというと、おそらく「未然形」という活用形の本質部分と思われる。
つまり「ら抜き」とは「可能表現の『未然形接続の拒否』」なのだ。
代わりに「ら抜き」と「可能動詞」に共通する要素は-e-である。
これは「得る」の語幹とも考えられるが、
近現代日本語では仮定形を特徴付ける母音でもある。
古い已然形が消滅して仮定形となった時期と可能動詞が出現した時期が
大雑把に見て重なっているのは実に興味深い。
つまり現代日本語においては、
「可能表現は『未然・自発』ではなく『仮定・獲得』の意味を獲得した」
ということなのだろう。
155の更に続き。
だが俺は
>>153 とは「可能動詞」がある以上「ら抜き」は生じると言う
点では一致するが、その後の展望は違っていて
「ら抜き&可能動詞」が最終的に安定した形だとは思っていない。
恐らく既に「ら抜き伝統」の長い一部方言では始まっている
「五段動詞の『れ足す言葉』」まで変化して一応安定した形となるだろう。
まだ「可能動詞+ら抜き」では「動詞活用形に助動詞が付く」という
国語文法の基本枠組から外れたままだからだ。
「れ足す」が成立して「可能動詞」という特殊な動詞が姿を消し
「仮定形+れる」という形に変化して初めて安定する。
本来なら更に進んで
「一段動詞ら抜き」にさらに「れ足す」が生じる可能性さえあって
ここまで進んで初めて文法上の体系は完全に安定することになる。
「行け+れる→行けれる(れ足す。一部方言ではすでに標準形)」
「食べれ+れる(ら抜き+れ足す)→*食べれれる」
ここまで来ると机上のシミュレーションになるけどな。
一段動詞がなくなって、すべて(サ変カ変以外)五段活用するようになる可能性は?
>>153 > kak-ar-eru → kak-eru (五段)
> mir-ar-eru → mir-eru (上一段)
> er-ar-eru → er-eru (下一段)
五段動詞の語幹は kak- と考えてもよいが、一段動詞の語幹は *mir-,*er- ではなく mi-,e- だ。
> kor-ar-eru → kor-eru (カ変)
カ変動詞の語幹が *kor- だとは考えられない。
> 辞書や国語審議会があと何十年で現実の用法の前に屈服するか楽しみだ。
「いつでも始められます」「信じらんない」などはもう古臭くて、「いつでも始めれます」「信じれない」が普通だという状態に至ったら、認めてやってもいい。
それまでは認めないほうが文法記述はすっきりする。
>>155 > つまり現代日本語においては、
> 「可能表現は『未然・自発』ではなく『仮定・獲得』の意味を獲得した」
> ということなのだろう。
「書く」の仮定形は「書けば」、可能表現は「書ける」だが、可能表現の仮定形「書ければ」が存在する。
「可能」と「仮定」とは文法カテゴリが違う。
159 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/02(水) 03:42:19
長文乙。 単に上一段活用と下一段活用において 「みれる」「たべれる」と言ってしまうのが「ら抜き」言葉なのだよ。 それだけ。 テストや小論文でもそこだけ気をつければいい。
暗澹とするね
161 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/02(水) 06:25:46
アッー!
162 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/02(水) 23:45:50
「出られる」は公的な言葉、「出れる」私的な言葉。 「出られます」と「出れるよ」的な使い分け。 と解釈してみる。
>>158 同じように-a-を必要とする「せる、させる」とのコンビネーションで
「(嫌いな食べ物を)食べさせられた」のように、
未然形の-a-が接続のため二回連続することは普通に見られるわけで
それと全く同じことだよ。-e-が「ば」の接続のため2回出てきても無問題。
未然形の意味は1文節で一回表せばいいから
「*食べさせれた」と言うべきだとは言えない。それこそ「ら抜き」だ(w
この辺は意味上のカテゴリーと文法機能上のカテゴリーがやや未分化のままの
大槻文法以来の伝統文法そのものの限界であるとも言えるんだけどね。
用言活用仮定形との関係は伝統文法に繋げてみた俺の試論なんだが、
この考え方を採用しないとしても、現代日本語において
可能表現が「れる、られる」の意味コロラリー=自発概念から
完全に袂を分かっていることまではきっぱり100%断定できる。
早晩可能表現は「れる、られる」から分離されて新しい表現を得る運命にあり、
五段可能動詞という先例の方向性が規範としても承認されてしまった以上、
一段動詞も同じ方向へ向かうことは100%避けがたい。
164 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/03(木) 00:17:31
>>163 おつかれ。
短くまとめるのも作文力だよ。
長いなら長いなりに、適切に段落分けして適宜空行入れた方が良いよ。 それだけで読みやすさが全然違う。
166 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/03(木) 10:51:07
あとは訳の分からん横文字を使わずにな
行く→行かれる 行かれない は何という変化?
「行く」の未然形「行か」に可能の助動詞「れる」が接続した形
169 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/04(金) 02:34:04
ら抜きは西側の方言でしょ?
>>163 > 現代日本語において
> 可能表現が「れる、られる」の意味コロラリー=自発概念から
> 完全に袂を分かっていることまではきっぱり100%断定できる。
断定できない。「[テレビを 見] られる」と並んで、「テレビが 見られる」もいまだに使われている。
「テレビが 見られる」という可能表現は、「テレビ」をガ格に置いた自発表現の一種とも見られる。
> 五段可能動詞という先例の方向性が規範としても承認されてしまった以上
受動表現から離脱して、自動詞と同じ形の自発表現に合流したともとれる。
「ガラスが割れる」は、glass gets broken なのか、they are able to break glass なのか、文脈を見ないとわからない。
>>166 「訳の分からん」が非制限 (非限定) 用法になってないか w
基本的な用語はこういった所で勉強するように。
http://www.sil.org/linguistics/glossaryoflinguisticterms/
さすがに corollary はないけどね w
172 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/04(金) 12:46:10
ら抜き言葉は神奈川方言だと聞いたことがあるけど、真偽はどうなの?
>>170 ガラスが割れる : glass gets broken
ガラスを割れる : they are able to break glass
>>173 > ガラスを割れる : they are able to break glass
現代語ではヲ格もとれるが、「ガラスが割れる」も使われている。
ガはヲを兼務することがある。
176 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/05(土) 04:22:46
「こんなもん食べれへん」
>>175 「を」の変わりとして「が」が使われるわけじゃないだろう。
178 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/05(土) 07:55:48
行列のできる店 行列ができる店 行列をできる店 もう何がなんだか
180 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/06(日) 09:37:08
「ガラスが割れる」を「ガラスを割ることができる」っていう意味で使うことってほとんどないような… 少なくとも所謂ら抜き言葉を使ってる層は使わなくね?
使うとしても、アクセントが区別されるよね。 ガラスが割れる┐。 (⇒ガラスは割れる┐) ガラスが割れ┐る。 (⇒ガラスを割れ┐る)
182 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/06(日) 14:16:21
「ら」ではありませんが「い」抜きはかなり多い ・・・してる ・・・持ってます等々
>>182 母音脱落って変化は、もうかなり広く浸透しきっているので、ら抜きよりは問題視されてませんね。
か抜きは? 例:いかがです?
185 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/06(日) 19:04:55
それより「せんかった言葉」を取り上げてほしいですな。 映画見た? *見んかった(見んだ)
>>180 「あのおっさん、瓦が割れるんだってさ」とか
>>181 > 使うとしても、アクセントが区別されるよね。
> ガラスが割れ┐る。
> (⇒ガラスを割れ┐る)
こんな田舎臭いアクセント使わないよ。
>>185 ですから、それも母音脱落っていう変化です。
mi na katta→mi n katta
母音がなくなったり、母音がなくなりその前の子音が変化してたりする変化の事を言います。
西日本の方言では否定に「ん」を使うが「せんかった」は 未然形+ん(否定)+かった(形容詞の語尾)という構成であって母音の脱落じゃないぞ。 その証拠に「する」は「しんかった」でなく「せんかった」になる。
しんかった、という地域もあるけどね。
>>190 それって未然形の「せ」に「し」と揺れがあるだけじゃないのか。
「せんかった」でなく単独の「せん」の場合でも「しん」と言う地方なんだろ?
>「する」は「しんかった」でなく「せんかった」になる。 を否定しただけ。
>>182 それは補助動詞が連用形接続の助動詞に縮約していくという、
日本語ではあまりにもありふれた話のひとつ。
完了の「つ」が「棄つ」が縮約して生まれた上代より前の時代からの
日本語変化の基本的な形だ。
近い将来に進行形を表す連用形接続の下一段活用型助動詞「てる」が承認されるだろう。
西日本の方言では「とる」になるだろうけど。
>>188-190 西日本の「〜んかった」は
>>189 で正解。
「ない」は形容詞型活用語尾を提供しただけで「ん」の部分には関わっていない。
もっとも、東日本の「ない」の形容詞型語尾も19世紀以降に他から借りてきた
デタラメ借用なんだけどね(それ以前は不変化型、さらに以前には四段型だった)
北関東方言の「みたい→みたく」のようなデタラメ借用と全く同じ。
形容詞語尾が東国の「ない」と西国の「ん」「へん」を両方乗っ取ったことになる。
>>190 「ん」の接続時に「する」未然形を「し」と活用させる方言もある。
この「しん」が存在する地域では「しんかった」ということになる。
西日本の方言としての『せんかった』であっても、母音脱落は母音脱落です。 しかも、すでに全国に広まってしまい、方言の域を越えてますよ。 見んかった・知らんかった・分からんかった、など、もう広く使われています。 方言というものは色々あるけど、これは変化して出来たもの。 共通語の変化形ですから、西日本には母音脱落という変化をした方言がある、という事になるんですよ。 ただの方言で片付けず、それはどういう日本語の変化なのかを書いたんですけどね。
>>194 明らかにダウトだ。明らかな誤りの自説に固執するなよ。恥ずかしいねえw
関西の比較的新しい方言には「〜へんかった」「〜ひんかった」という表現がある。
「行けへんかった」「行きひんかった」などだ。
これは助動詞「なかった」の母音脱落としては説明不可能だ。
そしてこの変化は古い否定過去形「〜なんだ」を1970年代から急速に置き換えた。
そしてそれ以前から「行けへん」「行きひん」という表現は存在する。
まあ、「行かぬ」が「行かん」になったのは「母音脱落」だけどな。
だがこれは中世末から江戸時代の話なんだが。
>>194 自説が真理と信じる頭の悪いしったか君に馬鹿丁寧な歴史的説明でも加えてやるかw
共通語の否定助動詞「ない」は否定補助形容詞「ない」とは起源が全く違う。
前者は、奈良時代東国方言「なふ」に遡るものだ。
これは「なは、なひ、なへ」など変則四段的な活用をしていた。
この活用は中世末までには廃れたらしく、
17世紀の江戸方言には終止形の「ない、なひ」だけが出てくる。
同じ東国の「べえ」と同じような不変化型の助動詞だったようだ。
それなら否定の過去形はどのように表していたかというと、
畿内や西日本で中世に発生した否定過去専門の助動詞「なんだ」が
東国にもそのまま持ちこまれて使われていた。
(「行かなひ(現在形)」「行かなんだ(過去形)」)
この状況は19世紀まで続くのだが、おそらく江戸後期の江戸の口語で
「ない」の「い」がたまたま形容詞終止形と同じ形であることを逆手にとった
デタラメな形容詞風の活用をすることが始まり
「なかった」という否定助動詞の過去形がここで初めて出来た。
これで否定助動詞「ない」は各段に広い表現形式を獲得することとなり、
特に「行かなくなる」のように補助動詞「なる」をつけることが容易になった。
畿内西国の「ぬ・ん・へん・なんだ」に「なる」をつけようとすると、
「行かんようになる」と言うほか無く非常に面倒くさい。
そこで、2世紀前東国の「ない」と同じように「ん」にそのまま形容詞型語尾をつけて
「行かんくなる」「行けへんくなる」という表現が広まったと言うことだ。
これが「ない」と関係ないことが明らかなのは、もし「ない」が広まったのなら
西日本では形容詞連用形はウ音便化することが多いので
「*行かのうなる」「*行かななる」という表現が存在しているはずなのだ。
「行かんかった」というのはこれに付随して広まった表現で、
「行かなんだ」という古い表現をあっという間に駆逐してしまった。
197 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/07(月) 02:24:27
スレ違いだけど、 「違うかった」を大いに笑われたとき、悲しかった。
198 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/07(月) 06:35:42
アッー
200 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/07(月) 10:46:33
ではないです? ではありません
>>196 > そこで、2世紀前東国の「ない」と同じように「ん」にそのまま形容詞型語尾をつけて
> 「行かんくなる」「行けへんくなる」という表現が広まったと言うことだ。
そんな古いものじゃない。ごく最近の言い方だ。
> 「行かんかった」というのはこれに付随して広まった表現で、
> 「行かなんだ」という古い表現をあっという間に駆逐してしまった。
「行かへんかった」等は、「行かへんくなる」等よりずっと前からある言い方。
「行かなんだ」は確かにもう古風になった。
>>201 >そこで、2世紀前「の」(←ここ添加)東国の「ない」と同じように「ん」にそのまま形容詞型語尾をつけて
>「行かんくなる」「行けへんくなる」という表現が広まったと言うことだ
という意味だろう。
きれくなる
204 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/07(月) 22:40:09
うちの地域は中年以上が「せんかった」「せないかん」 若い人は「しんかった」「しないかん」
206 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/14(月) 02:00:58
あげられた?
207 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/17(木) 00:24:55
なんかみんな無駄にいろいろな理論や方言などを持ち出すけど、 ら抜き言葉になってしまうパターンは 中学文法で全て説明がつくんだよ。 上一段、下一段、カ行変格活用の場合は「ら」が必要。 五段活用は必要なし。
208 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/17(木) 00:30:18
五段動詞は可能動詞にすることができるが それ以外はできないと言い張る権威集団がいるからでしょ
209 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/17(木) 00:38:22
可能動詞は、「得る」がくっついた形だろ。 で、関西弁では、「得」が、動詞の前にくっつくのが基本だったので、 「よーかかん」とかの「よー」ができたわけだが、関東では、動詞の 連用形に「得る」がくっつくのが基本だった。「書き得る」とかの 形だな。もちろん、「見得る」という言い方もできるが、こっちは、 もともと「ゆ、らゆ」という助動詞も存在していて、これと混同され るので、一段活用には、「得る」がくっつくのは避けられたわけだ。 そこで、可能動詞は、五段活用専用になってしまったわけだな。
最近ラジオのCMで「見られる」って言ってる物があるんだが、どうにも 違和感がある。一瞬受け身に思えてしまう。可能の意味で使われてるんだけどさ。
211 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/17(木) 00:56:01
>>209 言語を学んだら言語はどんどん変わるのを知っていながら
(例えば、「見ゆ」は現在「見える」で正しいとしてる)
結局五段以外はできないと言い張る権威集団がいるからでしょ
212 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/17(木) 02:12:39
権威集団がいるんじゃなくて、 まだ見れる、来れるという表現が認められていないだけ。 「言葉の変化」が起こるにはまだ認知度が足りないということだ。 あと20年もすれば君の主張が通る日が来るかもね。
口語に限ればかなり認められてると思う。20年もいらないんじゃないかな。
>>212 >まだ見れる、来れるという表現が認められていないだけ。
認めるとか認めないとかは誰が判断してるの?
215 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/17(木) 03:16:28
辞書をつくる人。 NHKの人。 新聞社の人。 金田一先生。
大辞林第2版より >み・れる 2 【見れる】 > >(動ラ下一) >上一段動詞「見る」の可能動詞で、五段動詞「書く」「読む」の可能動詞「書ける」「読める」などからの類推でできた語。本来は「みられる」というべきもの。見ることができる。 >「舞台はここからでもよく―・れる」 >こ・れる 2 【来れる】 > >(動ラ下一) >来ることができる。五段動詞「書く」「読む」の可能動詞「書ける」「読める」などからの類推でできた語。「こられる」が本来の形。 いちおう記載してはいるんだね。「出れる」や「寝れる」あたりは見出し語としてはなかった。 しかし「見れる」の例文「舞台は〜」の場合は、別に「見える」でいいんじゃないかなぁ。もっと適当な 例文がありそうなもんだ。
217 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/17(木) 09:10:08
「かんがえれる」は、まだまだ普通じゃないよね。 「かんがえらんなーい」は普通に聞く言葉だが。
とある歌詞には、「忘らんない」なんてある。
219 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/17(木) 12:33:25
わすらる は万葉時代からある
>
>>158 > > 「いつでも始められます」「信じらんない」などはもう古臭くて、「いつでも始めれます」「信じれない」が普通だという状態に至ったら、認めてやってもいい。
> > それまでは認めないほうが文法記述はすっきりする。
221 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/17(木) 13:47:32
面倒だから、動詞は全部五段活用にそうぜ。 する → す:さない、します、す、せば、そう。 来る → く:かない、きます、く、けば、こう。 見る → む:まない、みます、む、めば、もう。 考える → かんぐ:かんがない、かんぎます、かんぐ、かんげば、かんごう。
考える → かんぐ: かんいだ、かんいで、かんいだり? 「立つ・立てる」「付く・付ける」「続く・続ける」「向く・向ける」等の区別が失われる。 英語や中国語は、原則として主語・目的語の省略ができないから、自動詞と他動詞とが同形でもよいが、日本語は補語の省略が自由なので、それではわけがわからなくなる。
223 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/17(木) 15:12:48
アッー!アッー!アッー!
224 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/17(木) 20:59:53
>>221 > 面倒だから、動詞は全部五段活用にそうぜ。
> する → す:さない、します、す、せば、そう。
> 来る → く:かない、きます、く、けば、こう。
> 見る → む:まない、みます、む、めば、もう。
> 考える → かんぐ:かんがない、かんぎます、かんぐ、かんげば、かんごう。
わざと ふざけたんですか?
「する」の場合は→し:しない、します、し、しれば、しろ、しろう
となるはずですよね。
225 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/17(木) 22:05:40
金田一秀穂は、ばかだよなあ NHKで国語についての番組で五感の嗅覚と臭覚を間違って使い、 テロップで指摘されて生き恥をさらしていた。
226 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/18(金) 04:58:34
ちんこ
227 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/20(日) 01:12:15
228 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/20(日) 06:59:44
ら抜きは嫌いだけど、もう受け入れるしかないのかなぁ。 違和感を覚えないようにするには、自分も使わなきゃいけない。 特に嫌なのが「見れる」。 最近はテレビでもよく言われるようになって、もう負けと思えてきた。 実生活でも「見れる」はよく聞くが、可能の「見られる」は聞かなくなってきた。 「見れる」を使っている集団内で、わざわざ「見られる」と言ったら受身かと 思われるかもしれない。 悔しいけど、使うしかないのか。 慣れの問題なのは「食べれる」で経験済みだ。 ミニストップがしつこく言ったおかげかかなり前に慣れた。 ら抜き動詞は完全に過渡期にあって、ら抜きの動詞と そうでない動詞が混在しているのも気になる。 受け入れるなら俺は書き言葉でも使用したいと思う。 ら抜きは「ら」の脱落だとは思わないし、意味が違うのだから。
229 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/20(日) 07:08:26
230 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/20(日) 08:43:12
日本で刊行されているメジャーな日本語教科書にはまだ「ら抜き言葉」は 採用されていないから、それらの教科書で日本語を学んだ外国人が実際に 日本人の話す日本語を聞いたら「はぁ?」と思うんだろうな。
231 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/20(日) 09:20:08
>>230 そうだから、ら抜きを教える教師もいるらしいよ。
232 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/20(日) 12:54:36
>>228 > ら抜きは嫌いだけど、もう受け入れるしかないのかなぁ。
> 違和感を覚えないようにするには、自分も使わなきゃいけない。
> 特に嫌なのが「見れる」。
> 最近はテレビでもよく言われるようになって、もう負けと思えてきた。
> 実生活でも「見れる」はよく聞くが、可能の「見られる」は聞かなくなってきた。
> 「見れる」を使っている集団内で、わざわざ「見られる」と言ったら受身かと
> 思われるかもしれない。
> 悔しいけど、使うしかないのか。
> 慣れの問題なのは「食べれる」で経験済みだ。
> ミニストップがしつこく言ったおかげかかなり前に慣れた。
> ら抜き動詞は完全に過渡期にあって、ら抜きの動詞と
> そうでない動詞が混在しているのも気になる。
> 受け入れるなら俺は書き言葉でも使用したいと思う。
> ら抜きは「ら」の脱落だとは思わないし、意味が違うのだから。
あなたは ばか過ぎるので日本から出て行ってください。
233 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/20(日) 14:55:13
アナル
234 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/20(日) 15:07:45
「ら」抜き言葉を云々する前に、「濁音」混ぜ言葉を減らしたほうがいい。古典の和語はすべて 「濁音」抜きだった。「いろは歌」も濁音抜きだったのに、「あいう順」にしたのが乱雑のもと?
235 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/20(日) 16:53:43
236 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/20(日) 16:57:35
>>234 あんた何いってんのか、自分でわかってんのか?
237 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/20(日) 17:03:50
色は匂えど散りぬるを我が世誰ぞ夢に見し、宇井の奥山今日越えて、浅き夢見し酔いもせず。は 「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそゆめにみしうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす」 だって言ってるんだよ。日本語すべてが入っている。ゐとゑは旧字だが、わ行としてある。 濁音なければ低音でなくいけるのに、濁音のせいで世界的に超低音域言語となっている。「いろは歌」でも 学んで現代の機能障害性を取り除いたらどうだ、ってこと。
238 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/20(日) 19:39:50
>>237 文語と口語の違いでは ないのですか?
濁音が追加されたといってますか?
あなたの知らない間に?
239 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/20(日) 19:46:28
ゐゑ。
241 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/20(日) 22:59:32
荒らしは無視しろ。荒らしの相手をしたら、あなたも荒らし。
242 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/21(月) 00:06:15
>>237 以前は、濁音の点々を表記しなかっただけなんだけど
知らないの?
しかも有声音が低音の原因なんじゃないぞ
知らないの?
>>241 荒らしでもない。
何でも荒らしというのは少しおかしい。
244 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/21(月) 00:09:22
>>242 げっ、知らなかった。てっきり清音(無濁音)で会話していたものかと。
低音の原因は母音言語性。でしょ?
>げっ、知らなかった。てっきり清音(無濁音)で会話していたものかと。 こいつスゲェ ていうか、母音言語性って何? なんかググったら、 「日本語はハッキリいって糞言語 その5」とかいうスレの、 >母音言語性から低音域なので、歌にするのは難しい、と比喩 しているだけだ(ポケ)。 しか引っかからないんだが… こんな短い一文をこんなワケワカランものにする才能もスゲェ
レベルが低くいとは思っていたが、やはりここも2chレベルなのか。
247 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/21(月) 22:12:47
>>246 違います。レベルが低いのは
>>237 だけです。
その証拠に、ほかの人は間違いを正しく指摘しています。
249 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/21(月) 23:56:18
そうか
250 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/23(水) 20:28:24
もう駄目だ、だれも「見られる」と言ってくれない。
「見る」や「来る」は比較的ら抜きになりやすいと思う。 らを付けるのと、付けなくてもいい言葉の規則がはっきりしないのが原因じゃない? 敬語より難しい。
付けなくてもいい言葉なんてないから
253 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/24(木) 02:28:06
>>251 ひとによって適用範囲が違うよね。
積極的にらを抜くひとでも、さすがに違和感があるのか、
動詞によっては、戻して話している。
残念ながら将来は、すべてら抜きになるのかもしれないけど、
完全に移行するまでには相当時間がかかると思う。
いまの時点では何がら抜きで、何がそのままなのか
規則性が何もない。
このあたりが国語として認めにくい理由のひとつだと思う。
一部の辞書では本来の言い方ではないとしながらも
特定の動詞を載せだしたから、動詞単位で認めていくということは
あるかもしれない。
254 :
253 :2006/08/24(木) 02:39:43
ていうかそろそろ逆に、 移行を許さない勢力が強くなってくるんじゃね? 許すべきではない事に徹底して抗うのもまた人生。
ら抜き言葉じゃなくて、下一段化じゃないの?(来る→来れるだけは例外として。) 行く→行けるとか勝つ→勝てるだって、 本来規範的な変化じゃなかったのに、 こちらには誰も文句を言わない不思議。
>>255 もう無理だね。
いまはもう誤用状態ではないから。
これから抵抗するなら、どう使い分けていくかを模索すべき。
実際、書き言葉では使うなというお達しはある。
個人的には不特定多数に向けて話すとき、改まった文章を書くときは
ら入り、そうでなときはまだ抵抗があるがら抜きするかもしれない。
>>257 何を言ってますか?明らかな誤用状態ですよ?
最低でも使う人間は知性を低く見られるのがデフォルト。
259 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/24(木) 03:22:17
>>256 行く、勝つは五段活用動詞で江戸時代に変化しました。
いま生きているひとの時代のことではないため、
当然、誰も問題にはしません。
いま問題になっているのは、そのとき変化しなかった
上一段活用、下一段活用、か行変格活用の動詞です。
もともと「ら」が入るものとそうでないものは文法的に違います。
過去形を考えて見ると動詞の種類が違うことがわかります。
「行く」は「行った」、「勝つ」は「勝った」、「切る」は「切った」
「見る」は「見た」、「来る」は「来た」、「着る」は「着た」
可能の意を付加する動詞の派生法 五段→同行下一段(近世に先んじて発生) 上一段→ラ行下一段 下一段→ラ行下一段 カ変、サ変は例外(将来は上と同じようになるかも?)
261 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/24(木) 03:36:53
おかしな変化をすると腐るけどなw
263 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/24(木) 03:40:48
>>258 誤用と言えば誤用です。
私は素人ですが、言葉には誤用、慣用、正用の段階があるそうです。
実際にはもう誤用と呼べない状態です。
私も同じように教養がないように見えるため、使いません。
ら抜き言葉のない新聞やニュース番組、本をよく読むひとからすれば
違和感があるのは当然です。
ただし、現実には広く使われているため、いつまでも固持は
できないと思っています。
264 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/24(木) 03:40:55
使ってるやつはおかしいと感じてないだろ。 そいつらがやがて多数派になる。
265 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/24(木) 03:45:55
>>261 その真理は逆で、死ぬと変化しないだと思う。
266 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/24(木) 03:51:33
おいおいちょっと待て じゃあ何が原因で死ぬんだ?他にそんな主要な原因があるのか?
>>256 自分が言うまでもないことですが、「ら」が抜ける変化なので
通称「ら抜き言葉」と言っているだけです。
>>266 民族の滅亡とともに言語は失われると思います。
269 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/24(木) 03:58:45
ま…まぁ…そうだけど…さ… 今は…さ…そういう次元の…さ…アレじゃないし…さ…
270 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/24(木) 03:59:25
ま…まぁ…そうだけど…さ… 今は…さ…そういう次元の…さ…アレじゃないし…さ…
>>251-264 江戸時代、日本語に起こった大きな変化として「二段活用動詞の一段動詞への変化」があった。
例えば「寝」(ぬ)が「寝る」、「生く」が「生きる」、「消ゆ」が「消える」になったような変化だ。
この移行期にどのように変化していったかというと、まず「寝」(ぬ)、「得」(う)といった
短い単語から先に変化していった。同一人物の口から一段活用の形と二段活用の形が
両方出ることもあり、その場合は、目上の人に話す場合は二段活用の形、
対等の立場や目下のものに話す場合は一段活用の形で話されることが多かった。
また、学者や武士などは江戸時代もかなり後期になっても二段活用の形で話すことが多く、
先に一段活用の語形を使い始めたのはどちらかといえば教養のない農民や町民だった。
また地方別に見ると、東日本のほうから先に変化し、西日本のほうが変化が遅れた。
しかし、江戸時代中期にはどんどん使用される範囲が広がっていき、江戸時代が終わる頃には
話し言葉では一段活用への変化がほとんど完了した。
ら抜き言葉の変化も、「見れる」「来れる」などの比較的短い単語から変化し、使用頻度が
低く改まった響きの長い言葉は「考えられる」「信じられる」のように変化が遅れている。
また、ら抜き言葉は俗な言葉と見なされ、目上の人へ話す場合や改まった場面で話す場合には
使用がためらわれることがあり、学者や知識人が変化に抵抗するというのも共通している。
>>271 連体化って江戸時代だったっけ?室町じゃなかったか?
どうでもいいが
>>258 疑問文じゃないのに「?」をつけるのは
知性が高いと自負する人的にOKなんでしょうか
274 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/24(木) 12:39:39
え、疑問文ぽく読むやん?
>>273 何言ってますか?
全然普通の用法ですよ?
277 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/24(木) 18:29:13
279 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/24(木) 23:41:27
>>258 >
>>257 > 何を言ってますか?明らかな誤用状態ですよ?
> 最低でも使う人間は知性を低く見られるのがデフォルト。
あなたの知性が一番低い。by 日本人全員
>by 日本人全員 >by 日本人全員 >by 日本人全員 誰の知性が一番低いか、見たまんま。
言語学といっても専門家がいないところが2ch。 結局、便所の落書きレベルなのが2ch。
>>272 終止形が連体形と同じ形に変化し合流したのが室町時代。
上二段動詞が上一段動詞に、下二段動詞が下一段動詞に変化し合流したのが江戸時代。
個人的に口語体の中であれば「ら抜き言葉」にはあまり抵抗は無いのだが 下記のような文体だけはなぜか生理的に我慢ならない。 「その店でニンテンドーDSが売ってた。」 DSが主語なのかよ! 「られ抜き言葉」かよ!
284 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/25(金) 23:28:24
>>283 そんな文章は見たことも きいたこともありません。
ですが「その店でニンテンドーDS売ってた。」
なら、何度もあります。
この場合、「「その店の店員」は、「その店で」、ニンテンドーDSを、売っていた。」
この省略形であり自然です。
つまり、あなたの勘違いです。あるいは鏡でも見てください。
>>284 あなたは鏡ばかり見ていないで周りも見てください。
>>286 中身のない煽りでしか反撃できないのか。
鈍感なのか無知なのか
ツタヤ 借りれません
>>289 残念だけど、もう寛容になった方がいいよ。
「借りれません」を百回くらい言えば慣れるよ。
今でもミニストップのCMでぬっ殺したくなります 慣れる訳がない
292 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/27(日) 03:36:32
>>283 ここにペンが置いてあったんだけど。
みたいな、「〜が〜してある」文と同じグループの表現でしょ。
この表現は、英語のbe+過去分詞と類似の構造になっていたりするんだけど、
広義の受動表現ととらえてもいいとおもう。
293 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/27(日) 04:56:38
いま見たAVに出ていた男がさ入れ言葉「撮らさせて」を連発。 DVDを投げ捨てようかと思ったが、やることやってからにすることにした。 なぜか後半は直ってた。
294 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/27(日) 07:39:33
昨日塾で中1に「ら抜き言葉」おしえました。 一応、当てずっぽうで全員正解したんですが、当てずっぽうでした。 高3の阪大志望の弟に聞いたら、分かっていませんでした。落ちたな。
295 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/27(日) 09:10:56
>>292 >
>>283 > ここにペンが置いてあったんだけど。
> みたいな、「〜が〜してある」文と同じグループの表現でしょ。
> この表現は、英語のbe+過去分詞と類似の構造になっていたりするんだけど、
> 広義の受動表現ととらえてもいいとおもう。
本気の ばかですね。
自動詞と他動詞の違いを覚えてください。
さようなら。
296 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/27(日) 09:16:32
既出だと思うが「ら抜き」は曖昧な「ら付き」の日本語を正確な日本語に変えたものだから無くならない。 意地が悪い人でなければあえて曖昧にいう必要もない。 「ら付き」だと「尊敬語」なのか「受身」なのか「できる」という意味なのか三択から選ばなければならない。 こんな曖昧な欠陥表現など避けて当然だ。 「投げれる」なら「投げることができる」の意味しかないが、 「投げられる」だと「投げることをされた」、「投げていただける」、「投げることができる」の三択になってしまう。 意味がわからなくなるのに「ら」など付けてはいけない。道徳上は。
297 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/27(日) 09:52:44
>>296 その通りです。いつも ご苦労様です。
過去ログに1000億町万を絵fhウェおいぐぉパフェ所ウィじふぇ満開回いじょう かかれている話です。
それでも過去ログを読まずに意味不明、自暴自棄、荒唐無けい、奇妙きてれつな自己主張を繰り返す人が大勢いるため、こうやって何度も何度も同じことを書いてくれる親切な人もいるのです。
わたしも昔は繰り返し投稿していました。でも、途中で ばからしくなって やめました。
誰もよんでくれていないことに気づいたからです。
ら抜き擁護の人、舌足らずで学習能力に欠ける知障の生み出した言葉に 後付けの無理矢理な正当化ご苦労様です 文脈から当たり前のように役割の読めるものを 無理矢理機能分化させる必要などありません 日本語も外国語のように全部主語を省略せずに書くべきだと 言うのに匹敵するような馬鹿馬鹿しい話です
五段動詞の可能動詞も、舌足らずで学習能力に欠ける知障の生み出した言葉と言えるわけだが。 残念ながら、教養のない池沼が生み出した言葉が普及していくこともあるのだよ。 ていうか新しい言葉は大抵池沼が生み出すものだよ。
「られる」つけてりゃ敬語になる、ってのもキモい 「このリンクからダウンロードされて下さい」とか
れる、られる敬語が嫌いな漏れが来ました。
302 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/27(日) 13:24:25
荒らしは無視しろ。荒らしの相手をしたら、あなたも荒らし。
>>298 句読点もまともに使わない人が偉そうに。
>>303 2chでは句点を使わないレスは珍しくもないし
TPO読めない君よりは偉いよ間違いなくw
>>304 2chではら抜きのレスは珍しくもないし
TPO読めない君よりは偉いよ間違いなくw
>>305 句点抜きで怒る奴はいないけど、
ら抜きで怒る奴は主流ですから。残念。
>>306 ら抜きで怒る奴はいないけど、
句点抜きで怒る奴は主流ですから。残念。
( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
309 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/27(日) 14:38:52
荒らしは無視しろ。荒らしの相手をしたら、あなたも荒らし。
最近では、友人同士など、非常に砕けた言葉を話す場面では、 所謂ら抜き言葉を使わないと返って意味を誤解される可能性があるからな。 目下や同格の相手にはら抜きを、目上にはら抜きなしの言葉を話すのが、 今のところはTPOに沿った話し方と言えるだろう。 これが、目上にもら抜きで話すのが普通になるのにはあと何十年かかるのかな。
なられてたまるか汚らわしい。
やだねえ、日本語原理主義者は。
313 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/27(日) 15:07:56
>>295 どこがどう本気の馬鹿だと思った?
>>292 の解釈が一般的ではないって言うことはよく分かってるんだけど、
他動詞である置く、売る等を自動詞的に使うための文法だとすれば、
それは広義の受動と捉えてもいいんじゃないかな?
まぁ、そうすると可能動詞も広義の受動文ってことになるが・・・
314 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/27(日) 15:08:41
夏だなぁ
316 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/27(日) 15:26:00
アッー!
おら前ららら落らちら着らけら
318 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/27(日) 15:55:29
荒らしは無視しろ。荒らしの相手をしたら、あなたも荒らし。
319 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/27(日) 16:23:08
まともに読めれん
れ入れ言葉登場
めえええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ
真面目に論じなけりゃつまんねぇだろ。
レ足す言葉
他の誤用言葉とは一線を画すものだとは思うけど、 積極的に変化を推進させるものではない。
「ギャル弁」という単語を普及させないか? ギャル弁:若年下層(いわゆるヤンキーやギャル)に典型的に見られる話し方。以下の性質がある。 ・ら抜き、さ入れ言葉 ・超、マジ、激、バリ、鬼、など強調語の多用 ・文頭に「つか、てか、ていうか」をつける ・疑問文の場合に文末の数語が平板化する。「てか、ら抜き言葉って超ヤバくね?ありえなくね?」だと超ヤバくね?ありえなくね?の部分が平板化する。 ・共通語にはない「べ」の使用 ・形容詞の連体形と連用形のアクセントの混同(白く:HLLでなく白く:LHL) ・文の切れ目で伸ばす(この前ー、旅行に行ったんだけどー、マジ人多かったしー)
326 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/27(日) 18:50:24
荒らしは無視しろ。荒らしの相手をしたら、あなたも荒らし。
新手の荒らしか。
328 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/27(日) 19:18:56
議論をまともに進めれんな
>>325 一般的に女の方が男より言語の変化への対応が早い。
最新の言語を子供に伝えなけらばならない、という
ホモサピエンスの雌の宿命だろ。
>>328 分かっててやってんのか
進められん、と言えよ
>>325 それでは保守杉だw
東京近郊のDQN語はもっと先を進んでいるよ。
・形容詞連用形は統合平板型が一般的となっている(白くLHH)
「やばくね?(LHHH)」などはこの一環と見て良い。
・「ちげえ(違え。形容詞化)」「みたく(同。形容詞タイプの活用)」
のように、単語末を勝手に品詞転換させる表現がいくつかある。
・名詞アクセントの強力すぎる平板型指向。
・母音の調音点がやや低舌化する傾向がある。沖縄方言の逆だ。
(ちょーうざくね?[t∫⊃:∂dzak∂næ])
>>329 それは人類が霊長類だったころから嫁取り婚(メスが群れを移動)が一般的だったので、
メスは新しい群れの一員としてそこの言語を早急に習得する必要があったから
というのが最近の有力説だな。
>・形容詞連用形は統合平板型が一般的となっている(白くLHH) > 「やばくね?(LHHH)」などはこの一環と見て良い。 むしろこれは前に流行ったもので、そのなごりでしかないと思う。 >一般的に女の方が男より言語の変化への対応が早い。 単に群れたいだけだ。
>単に群れたいだけ >新しい群れの一員としてそこの言語を早急に習得する必要 今は、入学、入社、転勤とかで オスも早いとこ群れに馴染まないといけない場面が多いから 変わっていくのかな
いきなり質問で申し訳ないんだけど、 「携わる」の可能形って、「携われる」? それとも「携わられる」? どっちだか教えてください。
>>335 前者に決まってんだろ
何故悩むのか理解できん
ラ行五段活用だからな。 ラ行五段活用の可能動詞が、なんだか「ら抜き言葉」のように思えてしまうのだろう。 「蹴る」「帰る」「取る」「走る」なんてのはラ行五段動詞で、 可能系は「蹴れる」「帰れる」「取れる」「走れる」というのが標準的だが、 これがら抜き言葉のような気がして、「蹴られる」「帰られる」「取られる」「走られる」と 「過剰修正」してしまう人が出てきている。 逆に言えば、ら抜き言葉は、ラ行五段動詞の可能形に影響されてできたとも言える。 「蹴る」→「蹴れる」、「取る」→「取れる」、「走る」→「走れる」になるのなら、 「見る」→「見れる」、「食べる」→「食べれる」でいいじゃんという感覚だろう。 「来る」(くる)→「来れる」(これる)となるのは、元々の可能形「来られる」(こられる)の影響だろう。
338 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/29(火) 20:23:08
この「ら」抜き言葉を使う人に指摘をすると決まって返ってくる答えが 「言葉は生き物だ。時代に合わせて進歩・変化していくものだ」 そして最後に「だったらお前は現代語使うな、昔の言葉で喋っていろ」云々 大体このような次第だ。 「ら」抜き言葉を好んで使っているような人達の、その他の言動やしぐさを見ても、 箸もろくに扱えないような育ちの良くなさそうな人も多く、 とても彼等の言うように進歩しているように見えない。
340 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/29(火) 20:44:27
「近頃、若き者ども、「見らるる」のこと、「見られる」とぞいふ。 はなはだあさまし。」 数百年前の学者の文章より。
>>339 まあ下三行は実際そうなんだよな。
色々な板にある質問スレの類でも、
テンプレもヘルプも見ず厨質問する奴は非常に高確率でら抜き使い。
342 :
じじい :2006/08/29(火) 21:00:31
「ら」抜き言葉をうるさく指摘する人たちって、 戦前、英語使うといちいち口うるさく怒ってた人にそっくりだ。
>>339 必ずしも育ちの良い言語表現が優先的に残るわけではない。
変なコンプレックスを通してものを見ないように。
今の標準語だって過去においては田舎言葉じゃないか。
日本は恵まれていて、育ちの悪い人たちもちゃんと読み書きができる。 育ちのいい人だけでなく悪い人も、話し言葉・書き言葉両面の日本語を 担っていくということ。 あきらめれ
346 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/29(火) 23:11:06
>>342 > 「ら」抜き言葉をうるさく指摘する人たちって、
> 戦前、英語使うといちいち口うるさく怒ってた人にそっくりだ。
ら抜きをうるさく禁止する人たちって、
アニメや漫画が悪影響だと口うるさく おこっていたくせに、世界に認められたとたんに「メディア芸術」と位置づけて全面的に支援する人にそっくりだ。
せめて支援するなら「アニメおたくは人間のくずだ」と ばかにしていたことを謝罪してからでしょうに。
>>338 違うの?kwsk
>>344 新しい言葉を使い始めるのは、多くの場合育ちの悪い馬鹿なんだから諦めれ。
「見られる」を使い出したのもおそらく馬鹿だ。
当時は、「『見らるる』というべきところを『見られる』っていうやつって、
ほぼ間違いなく馬鹿な農民どもだよなw」みたいな感じだったんだろうから。
今日は、NHKの9時のニュースで、青山祐子アナが「食べれる」って言ってた。
アナウンサーにまで「間違える」人が出てきている。(流石にまだ稀だが)
ら抜き言葉は使いたくないが、よほど意識していないとうっかり使ってしまうという人も多い。
ら抜き言葉が嫌いだと言う人は、これからよほど力を入れて撲滅運動をやらないと、
数十年後には、ら抜き言葉はダメだというだけで馬鹿な守旧派扱いされる可能性すらあるぞ。
>>346 ……未だにほとんどのアニメは見てるだけでヲタク認定され蔑視されるぞ。
特権はジブリディズニーサザエさんドラえもんちびまる子クレしん程度。
349 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/29(火) 23:25:37
美味しくいただけれます。
ら抜き(に限らないが)の擁護として持ち出される一文、「言葉は変化するものだ」。 これは実はら抜きの肯定の理由にはならない。 「言葉は変化するものだ」は全称命題であろうか?それとも単称命題であろうか? 単称命題ならば「あるとき言葉に変化があった」からら抜きは認めうるという意味になるが、 それは「ある時期に戦争があった」から戦争は倫理的な行為であるというのと同じことである。 全称命題ならば「どんな言葉も変化する」という意味、すなわち日本語もアサナ語もコーシャ語もどんな言葉も変化するという意味になる。 しかしこの命題は「変化する」としか述べておらず「ら抜きをする」を含まない。 それは「どんな人も病気になる。だから俺は癌になる」と同じことである。 癌は病気の一種だが、病気になるからといって必ず癌になるのではあるまい。 ら抜き言葉は変化の一種だが、変化するからといってら抜きが認められるようになるのが必然なのではあるまい。
>346 >348 現在進行形であるアニメではわかりにくいな。 明治時代における小説なんかを例にしたほうがいい。
>>347 >ら抜き言葉が嫌いだと言う人は、これからよほど力を入れて撲滅運動をやらないと、
>数十年後には、ら抜き言葉はダメだというだけで馬鹿な守旧派扱いされる可能性すらあるぞ
この文は
「ら抜き派(低教養)はこれからどんどん増えるが不ら抜き派(高教養)は増えず、将来はら抜き派が権力を持つ」
を前提としている。しかしこれは妥当だろうか?
不ら抜きは活字メディアと学校教育という城塞がある。
これを口語によるら抜き派DQNゲリラ軍が攻略するのは大変だと思われ。人海戦術で勝てるか?
だってそれなりに教養のある(はずの)人でも使う人が増えてきてるんだもの。 ら抜き言葉が高教養層を侵食しつつある。 現に活字メディアと学校教育による抵抗があるにも関わらず ら抜き言葉は勢力をゆっくりとだが着実に拡大している。 どっちも使い勝手が同じならともかく、ら抜き言葉のほうが意味の判別がしやすいという利点まである。 これからの不ら抜き派の抵抗の度合いによって普及の度合いもかなり変化するだろうが、 遠い将来、不ら抜き派が駆逐されることはあっても、ら抜き派が撲滅されることはないと俺は思う。
354 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/30(水) 00:40:41
>>351 小説って、今はマンガやアニメと比べると随分優遇されてるよな。
でも俺は小説読んでる奴はアニヲタと変わらんと思ってるよ。
キモイし。
>>354 知性が足りないだけだろそりゃw
貶すのにキモい位しかボキャブラリーないのかと。
そんな体たらくでなんで言語学板なんかに来てるんだよw
ちょっと感情が高まったようなシーンで 「もう誰も信じれない!」 なんて言ったりしたら一気に冷める。
357 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/30(水) 02:12:14
書き言葉と話し言葉は区別しろってこった
358 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/30(水) 11:32:56
よう言わんわー
>>355 今じゃ知性だか教養だかの証でも、
昔は小説を読むのは大衆でしかなかったってことぐらい、
本読んでれば知ってるよね?
>>354 は江戸や明治の生き残りだな。長く生き過ぎて退化したんだ
360 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/30(水) 12:44:31
育ちの良くない俺は「ら抜き言葉」をうっかり使わないように気をつけて話したり 書いたりしている。「ら抜き言葉」を使うとモロにお里が知れてしまうからな。
361 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/30(水) 12:50:27
え?今や小説読んでるのが知性や教養の証なの? 学問してる訳でもないのに、なんで!?
むしろ
>>354 が挙げた「小説」がどういう小説を指して
キモいという論断を下したのかが気になる。
創作者はすべて気色悪いということか。
学問やってさえいれば教養の証になるという
>>361 の指摘も
意味不明である。
テストで良い点数を採れる人が何より高等な教養人?
363 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/30(水) 18:52:45
この流れを私は止めれません。
>>362 小説を読むのが低俗である理由=礼教の益にならない
小説を読む人が増えることで何らかの形で民度の向上につながるか?否である。
小説家は文を作る職人である。よい職人とは利益のあるものを作る人である。
割れた茶碗は利益にならない。腐った小説も利益にならない。
なんだかもうどうでもよくなってきた
理屈はどうでもいい。 問題は不快なら抜き言葉をこの世から駆逐できるかどうかだ。
無理だと思います
ら抜きは、悔しいけど止められないと思います。 マスコミ、国語文法が抵抗しても、この流れを覆すのは 難しいと思います。 自分自身が言葉については保守的で良いといくら思っても、 多勢に無勢で残念ながらかなわないんですよね。
369 :
368 :2006/08/30(水) 22:54:50
ら抜きについてはただの誤用とは区別した方が良いと思います。 そう簡単にら抜きに統一されるとは思えません。 むしろ私は、ら抜きではない方が丁寧で上品な言い方として 残ると予想しています。
370 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/30(水) 23:05:38
反論なければ「ら抜き言葉に反対している人たちは人間の くず」で終了します。
と弱脳君が勝手な事をのたまっております。
372 :
368 :2006/08/30(水) 23:27:02
いまコーエーのゲームやり始めたら、セリフで「見れる」が出てきた。 しばらくしたら今度は「見られる」が出てきた。 もう、どっちなんだよ! このご時世を反映していますね。
>>370 ら抜き賛成のひとは、「信じれる」や「考えれる」、
「得れる」、「入れれる」等も使うのか?
すべてら抜きにしていないのなら、ら抜き賛成と言いながら、
動詞によっては反対ということになるよな。
極端な二元論に持ち込まないように。 立場としては「ら抜き賛成」じゃなくて、「ら抜き反対に反対」かな。
使うんだろどうせ 頭だけでなく舌も発達してないから 人並みの発音ができないんだよ多分
>>375 見て思ったが、所謂「ら抜き言葉」が広がったのには、「ラ行がいいにくい」ってのも関係あるだろうな。
「見られる」「来られる」っていうふうにラ行が2回続くよりも、「見れる」「来れる」のほうが言い易いとも言える。
>>374 ら抜きに大反対しているひとはもうあまりいないと思うよ。
少し被害妄想だよ。
反対勢力ももうあきらめ気味。
ら抜きの扱いも「乱れ」ではなく「ゆれ」扱いに変わったんだからね。
しかも、一部は辞書に慣用とは言っていないけど載ったんだし。
>>377 大反対してる勢力はまだまだ根強いし、
子供にも間違ってら抜きを伝えたくないと言う人も多い。
変わってない。相変わらず「乱れ」
辞書に載るにも注釈が要る時点で正当とはいえない。
379 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/31(木) 00:00:36
>>376 それは確かにあると思う。
否定を「見られない」ではなく「見らんない」と言ってきたのも
同様の理由だと思うから。
>>378 それは幅というものだと思う。
こういう状態であるからこそ、こういった辞書の載り方をするんじゃないかな。
たしか、ら抜きは古くからの方言でもあるから、乱れとしては扱わなくなったと思ったけど。
381 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/31(木) 00:29:36
僕らは仲間だ! は大丈夫ですよね?
地方方言の1単語の場合は ら抜き言葉と言うカテゴリには入っていないかと。 ら抜き言葉と言うのは、 東京弁において「ら」が抜け落ちる奇形の話だろ?
384 :
381 :2006/08/31(木) 00:41:59
ごめんなさい。「ら」よりも大丈夫じゃないかもしれません。
一番早い時期からら抜き言葉の記録が残ってるのって静岡弁だろ? 静岡弁でら抜き言葉になるなら、東京弁でら抜き言葉になってもたいした不思議ではない希ガス。
386 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/31(木) 04:01:36
ワタw
387 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/31(木) 04:41:20
間違っていることをわかった上で使うならいい。 書き言葉やテストでは正しく書くだろう。 しかし、大人が子供の前でら抜きを平然と言ったり タレントがテレビで不用意にら抜きを言ったりするのはダメ。 子供がら抜きを正しいものだと思ってしまう。 すでに、間違っているという認識がなく使ってしまう者も多い。
388 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/31(木) 11:51:32
男「別れよう」 女「いや、わかれない」 男「分かれよ」 女「いや、わからない」 男「別れられないの?」 女「わかれれないの」 男「わかれれられない?」 女「分かれよ」
>>387 コンビニ小休止のCMなんかは本当に勘弁願いたいな。
もし間違っているという認識がないまま使う人が相当に増えたら、 ら抜き言葉に対して間違ってない認定が出るから大丈夫。
仮に「正しい言葉」を「多くの人が使っている言葉」と定義する。 そうするとら抜き言葉が正しいかどうかはら抜き言葉を使う人口の多寡によって決まる。 現在は口語でかなり広まっていると思われるから(文語ではまだ使われていない)この仮定では口語では異形の一つとして正しいといえるだろう。 しかし「人口の多寡」は(自然数のレベルで)連続的な値である。「正しい」は正しいかそうでないかの二択である。 連続的な数値に二値を対応させると線引き、すなわち「何人を超えれば正しい言葉として認められるのか?」が問題になる。 例えば全話者の過半数なら正しい認めるとすると 「なぜ5割なのか?3割ではいけないのか?、7割は?」という疑問が起こるが、答える方法があるだろうか? 多数決に恣意のない閾値はありうるか?という問題はこれ自体が言葉の正しさに匹敵するほど重要であろう。 この問題を回避する方法として正しさを二択でなく連続的なものと考えればよい。 すなわち「人口のn割が使っている言い方はn割正しい」とするのである。 しかし正否は連続的な値にすることができても「採否」はそうではない。 「採否」とはある言い方を使用するかそうでないかをいう。 例えば「ら抜き言葉は公文書で使ってよいか?」という認可を考える問いに 「ら抜き言葉は2009年の統計では人口の4割が使っているとされていますから4割使用するのが望ましいでしょう」と答えてもしょうがない。 「4割使用する」とは一段・サ変・カ変動詞に「られる」がついた語句の数のうち4割がら抜きであるという意味ではあるまい。
「食べられる」というと「食われる」と紛らわしい
受身と可能の機能分化という 屁理屈を持ち出してら抜きを支持してる奴は、 敬語に対しても分化させた形態まで作ってから言え。 そこまで完全に機能分化させる事が出来たなら 理屈は正当とみなしら抜きも認めてやろう。
「言語は合理的な方向に変化する」は誤りである。 これが正しければ「変化する前よりも変化した後のほうが合理的である」といえる。 これは「古語よりも現代語のほうが合理的である」を意味し、 古形を残すアイスランド語はスウェーデン語よりも合理的でないことになる。 「言語は合理的に変化する。ら抜き言葉は(ら抜きをしないよりも)合理的である。ら抜き言葉は望ましい」という主張は 「言語は合理的に変化する。スウェーデン語は(アイスランド語よりも)合理的である。スウェーデン語は望ましい」という主張と同じ構造であるが、後者は「言語に優劣がない」という平等観に抵触する。 言語全体のレベルと形態のレベルで同じことがいえるとすると ら抜き言葉を認める根拠に合理性を持ってくる(受身と可能の区別や語形の統一)のは間接的に言語が優劣があることを認めることである。
>間接的に言語が優劣があることを認めることである。 それがどうかしたの?
397 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/31(木) 18:01:58
ちんこ
あの。ら抜きって、いけない行為なんですかね。多分、知らず知らずの内に使ってると思うから、不安です。
399 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/08/31(木) 22:38:34
>>398 君は「ら抜き」うんぬんより「句読点」のほうをどうにかした方がいいよ
400 :
398 :2006/08/31(木) 23:48:43
ごめんなさい。初めてなんで、変な質問ばかり。ここはハードル高すぎでした。ごめんなさい
>>398 氏は外国人と思われるが
言語のオタクとかフリークとかでないかぎりら抜き気なんて気にしなくてかまわん。
402 :
398 :2006/08/31(木) 23:58:51
ごめんなさい。冗談抜きで純国産なんです。句読点の打ち方を勉強しに来ました。ら抜きは奥が深いのですね。
403 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/01(金) 00:13:27
わからません。 わかりません。 わかるません。 わかれません。 わかろません。
404 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/01(金) 22:52:55
>>387 それ言ってももう無理です。
30代、40代でも使う状態では防ぎようがありません。
成長するにつれ、「られる」が可能の意味で使われることも
あるのだと気づくようになると思います。
405 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/01(金) 22:56:19
可能が「ら抜き」になっているのは理解しているが、 自発も「ら抜き」されているのかな?
406 :
405 :2006/09/01(金) 23:01:00
自発は受身に近いから、らを抜かない方が良いと思うが 自発でも使っているひとがいる。
抜いた方がいい語句なんてありません。
408 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/01(金) 23:13:33
あの林では、鳥の声が聞かれます。 あの林では、鳥の声が聞こえてきます。 あの林では、鳥の声を聞くことができます。 あの林では、鳥の声を聞けれます。
409 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/01(金) 23:27:09
ら抜きでは可能、受身、自発、尊敬で区別しなくてよかったものを いちいち区別しないといけない。 頭使って区別しなきゃいけないところは進化だなw
>>406 ラ抜きを自発の意味で使っているヤシなど聞いたことが無いよ。
これは五段可能動詞を自発の意味で使うヤシがいないのと全く同じ問題だ。
これは「ラ抜き」を通り越して「レ足す」が
若年新方言の標準的可能表現となっている地域でも全く同じはずだが。
もし自発でラ抜きが使われているなら、ソースとして例文を挙げてくれ。
411 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/01(金) 23:47:34
>>410 「気持ちの変化は見れず」の場合、ら抜き容認だとしても
「見れず」は変な感じがします。
「変化を見れず」なら可能と解釈でき、
「変化は見られず」なら自発と解釈できると思いますが
上記の例は、この二つがごっちゃになってしまっているだけでしょうか?
412 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/01(金) 23:52:44
m(__)m何言ってるのかわかりません
>>411 つまりそういうことだと思うよ。
自発は受身と同じく近代日本語では基本的に態に関わる問題なので、
前に来る格助詞が何かを見れば大抵のことは理解できる。
ところが助詞「は」は格助詞を隠してしまうので、
一見すると曖昧に見える場合が存在してしまうと言うことだけ。
日本語において態概念が徐々に明確化してきていることと、
可能動詞やラ抜きの発生との間には深い関連があるようだね。
>>412 全ての場面において「は」ではなく「が」を用いると分かりやすい。
「(我々は)変化『を』見れず」→可能。主語は強いて言えば「我々」。
「変化『が』見られず」→自発または一種の受身。主語は「変化」。
414 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/02(土) 00:03:50
「変化は見れない」の「見れない」は自発なのか可能なのかと 聞いています。
415 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/02(土) 00:12:02
>>408 ら抜きじゃないじゃない。
ちゃんとスレ書けれる?
ら入れ言葉だね。
417 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/02(土) 00:23:04
>>409 > ら抜きでは可能、受身、自発、尊敬で区別しなくてよかったものを
> いちいち区別しないといけない。
> 頭使って区別しなきゃいけないところは進化だなw
<誤り>
頭使って区別しなきゃいけないところは進化だなw
<正解>
頭を使って区別しなければいけないところは進化だなw
「を抜き言葉」を使わないでください。
「しなきゃ言葉」を使わないでください。
あなたは日本語を壊す人間の くずです。
419 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/02(土) 00:40:24
>>413 「見る」のように自発がある動詞は、前にくる助詞によって
多少意味が変わるため、ら抜き使用者でも区別が
難しいということでしょうか。
「変化は見れない」は、助詞と動詞の対応があっていないと
おかしな文章と判断して良さそうですね。
ただ、「テレビが見れる」、「テレビは見れる」という言い回しも
あるので、自発ではら抜きしないとは言えるでしょうか?
それともこれは例外なだけでしょうか?
420 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/02(土) 00:44:52
一気に奈良時代まで戻って 助動詞の「ゆ・らゆ」を使えば 問題解決だ〜!
>>419 可能表現は確かに対象に対して主格(「が」)をとることが今でもあるね。
俺が「大抵のこと(全部ではない)」と表現をぼかしたのは
この大きな例外があるから。
だが、これは欲求表現「たい」が付く時も同様なので、
(例「テレビが見たい」)
可能表現固有の現象とは言えない。
>420 「らゆ」使うべきところで「ゆ」を使う、「ら抜き言葉」が問題になるであろう。
423 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/02(土) 00:58:57
>>421 つまり、可能表現にするつもりで前の助詞に「は」「が」を使うことはあっても
自発で前の助詞に「は」「が」を使うことはないということでしょうか?
>>422 「れ足す言葉」ならぬ「え足す言葉」もできたりして。
425 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/02(土) 01:37:35
もっと気持ち悪い。吐きそう。
426 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/02(土) 10:07:06
>>417 >
>>409 > > ら抜きでは可能、受身、自発、尊敬で区別しなくてよかったものを
> > いちいち区別しないといけない。
> > 頭使って区別しなきゃいけないところは進化だなw
> <誤り>
> 頭使って区別しなきゃいけないところは進化だなw
> <正解>
> 頭を使って区別しなければいけないところは進化だなw
> 「を抜き言葉」を使わないでください。
> 「しなきゃ言葉」を使わないでください。
> あなたは日本語を壊す人間の くずです。
うまい。
自画自賛か。
れ足す言葉はビタミン不足を解消しそうだな
そういう意見も聞けれます。
430 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/04(月) 13:50:30
そんなんじゃ萌えれません。
432 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/04(月) 21:12:37
アッー!
433 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/05(火) 01:34:38
や な い か ?
434 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/05(火) 12:27:10
てめぇの血は何色だ
ウ ウ ウ ウ で ウ ウ ウ ウ よ ウ ウ ウ ウ の この世は私の為にある〜
436 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/07(木) 02:14:31
ラ抜きリンダ。
SFCヨッシーアイランドで、「なげれる」 てメッセージが出てきた。 天下の任天堂が
438 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/10(日) 00:42:01
>>437 はあ?
児童向けのゲイムに「父親に殺される」のような受身に取られる可能性のある「投げられる」なんて使うはずないでしょう。
あなたは本当に ばかですねえ。
親の顔が見たいですよ(笑)。
(笑
441 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/10(日) 00:57:08
(わらい) (わらう) (わらえ) (わらお)
>>437 口語じゃら抜きが当たり前の京都の会社だからな。
ついついでしょ。
444 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/10(日) 11:45:35
>>439-443 あなたは自分の間違いを反省もせず、間違いを指摘してくれた人を中傷する非人道的行為を繰り返しています。
あなたはネットでもリアルでも嫌われていますので、改善する必要があります。
最も理想的な方法としては、あなたが首をつって自殺する方法です。
これが あなたにとっても、あなた以外のすべての人間にとっても、もっとも良い方法です。
死ぬことは勇気が必要ですが、あなたは勇気を持っているので大丈夫です。
さあ、一歩だけ踏み出しましょう。そうすれば、きっと しあわせになれます。
445 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/10(日) 14:40:07
メ メ ミ メ ゾーマ
>>444 あなたは自分の間違いを反省もせず、間違いを指摘してくれた人を中傷する非人道的行為を繰り返しています。
あなたはネットでもリアルでも嫌われていますので、改善する必要があります。
最も理想的な方法としては、あなたが首をつって自殺する方法です。
これが あなたにとっても、あなた以外のすべての人間にとっても、もっとも良い方法です。
死ぬことは勇気が必要ですが、あなたは勇気を持っているので大丈夫です。
さあ、一歩だけ踏み出しましょう。そうすれば、きっと しあわせになれます。
447 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/10(日) 18:00:14
>>446 あなたは自分の間違いを反省もせず、間違いを指摘してくれた人を中傷する非人道的行為を繰り返しています。
あなたはネットでもリアルでも嫌われていますので、改善する必要があります。
最も理想的な方法としては、あなたが首をつって自殺する方法です。
これが あなたにとっても、あなた以外のすべての人間にとっても、もっとも良い方法です。
死ぬことは勇気が必要ですが、あなたは勇気を持っているので大丈夫です。
さあ、一歩だけ踏み出しましょう。そうすれば、きっと しあわせになれます。
448 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/10(日) 18:27:17
はいはいわろすわろす
449 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/10(日) 20:30:10
450 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/10(日) 22:50:04
見る= see(動詞):活用形有り 見える= seeable(形容詞):活用形無し
451 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/10(日) 22:53:58
じゃあ、見られる、見れるは?
見れる等と言う言葉は認めておりません
453 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/10(日) 23:08:28
オ オ オ オ オ オ オ オ オ オ オ オ オ オ オ オ オ オ オ オ ァッ!
>見れる等と言う言葉は認めておりません × 見れるという言葉は認めておりません。
455 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/10(日) 23:16:42
「ら付き言葉」によって「尊敬」「受身」「可能」の意味が重複する という問題についてだが、 これには文中の「主体」と「客体」との関係が深く影響するはずだ。 なのにその事がここではほとんど議論されていない。 日本語では主語が頻繁に省略される。そのため、 文中で「が」や「は」などの助詞を伴う言葉があたかも主語として振る舞いながらも 実はこの言葉が目的語(或いは対格補語)であり、 それとは別に本来の主語が隠れている、 という場合があったりする。次の文を考えてごらん―― 「この計画が成功するとは考えられない。」 この文の主語として 「計画」を挙げることも、或いは隠れた「私」を挙げることもできる。 そのような条件の下では、 動詞「考えられない」の態がいったい何なのかを客観的には断定しづらくなる。 この動詞は、それに係る主語が 「計画」ならば「受身を表す受動態」(考えられない)であるし 「私」ならば「不可能を表す能動態」(考えられない)である。 つまり、 文脈に頼らないといけなかったりする「ら付き言葉」のもともとの性格に加え、 文脈における主体と客体の関係そのものが曖昧になりやすいという日本語の構文の問題もがある ということ。
言語明瞭意味不明
457 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/10(日) 23:21:19
>「この計画が成功するとは考えられない。」 「計画」が主語だと思うひとはまずいない。 「私は、この計画が成功するとは考えられない。」 と 解釈するのが普通の日本人。
458 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/10(日) 23:22:49
>>451 見られる= seen(受動態)
見れる= can see(能動態/可能態)
見る= see(能動態)
459 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/10(日) 23:24:09
>>457 では、「計画」そのものではなく、
「この計画が成功する(こと)」という名詞句であれば?
見られる= seen(受動態) can see(能動態/可能態) (尊敬語) 見れる= (このような使い方は存在しない) 見る= see(能動態)
>>459 「考えられる」を受身で使うひとを俺は知らない。
五段動詞ではとっくに解決していることを何をいまさら
465 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 00:04:27
日本人は伝統的に 「心中を察する」とか 「空気を読む」といったことに徳を見いだし、 コミュニケーションの場における自分個人の発言の真意をなるべく潜ませる という発話形態を身につけてきた。 命題論理において必要不可欠な要素である主辞と賓辞との関係をできるだけ曖昧にするべく 述語を文の尻に置いて主語との距離を図るというSOV構文を日本人が開発してきたのは そういった傾向と関連がある。 そして 「ら付き言葉」というものもまた 本意をあまり直接には明示したがらない日本人のこの性格と結びついたものであると考えられる。 「ら付き言葉」で重複する「尊敬」「受身」「可能」といった意味の判別は、 (誰かが既に述べたように)文脈を手掛りにしておこなわれる。 これはすなわち、 当の発言や文にまつわる解釈が それを読む人の観点に依存しやすい、 ということだ。 [457]では「普通の日本人」というものが触れられているが、 命題論理としては不備をきたしやすい文や発言についてそれなりの共通理解を日本人達が果たせるっていうのは つまるところ日本における内輪的な価値観や談話法的省略規則すなわち「日本人の常識」が歴史を通じてそれなりに熟していることによるのだ。 早い話、日本語は、日本文化圏の中、日本人の間でこそ、もっとも有効に機能する、ということ。 「ら付き言葉」はそうして慣習的な談話法に依存してこそ使用されうるものの一つだ。 だが、日本文化という領域を越えて生活する日本人がますます増えているこの時代において 日本に固有の言語観のみに基づかなくてはならないという義務を彼らがいつまでも抱えていることには意義が無いんだよ。
>>465 あほくさ。
文脈で把握できるから区別の必要がないだけであって、
読む人依存じゃないっつうの。
誤解されようがないものを誤解されたら普通に呆れる。
ら抜きが機能分化の必然性からというのなら、
尊敬語もきっちり何らかの形で分化してから提示しろよ。
そもそも「ら付き言葉」なんて単語を作るな、「標準語」と呼べ。
標準語だとまた誤解を生む呼び名だと思うが。
>465 言いたいことがあるなら読みやすく書いた方が良いよ。
日本語は前にくる言葉によって判断できるから、問題ないんだよ。
470 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 01:17:12
>>460 そうやって君は
「ar-er-u」の解釈を全て「文脈」の解釈に求めるわけだけど
意味が多義化するというリスクをそこで負うぐらいなら
可能態の表現として「er-u」を認めて設定したほうが賢明だよ。
異なる態についてはそれぞれに固有の語形を与えたほうが
言語体系にとっては合理的で健康的だ。
君の主張:
mir-u = see(能動態)
mir-er-u=(無)
mir-ar-er-u = seen(受動態); can see(能動態/可能態);(尊敬語)
ねえ、受動と能動って、まったく相反する作用構造だよね。それなのに、
それらが同じ活用形で扱われてもかまわないと君は言ってるわけだ。
これまでの伝統的な日本語社会に属する人達同士でならこの用法は通じるものとされるだろう。
ところが現代の日本人の中には、特に西洋語の構文から影響を受けるかたちで、
能動態と受動態の区別に関する眼識を養えるようになっている人が多くいる。
「ら付き言葉」に縛られていない人の全てがそうであるわけではないのだけど、
可能態を表現するものとしての「er-u」を肯定する人達にはそのような眼識に由来する論拠が有るのだということ。
そしてそれは彼らの「屁理屈」なんかではなく、
日本語がより合理的な言語へと発達する過程を説明する正当な議論なんだよ。
そんなことを言ってたら、 自動詞と他動詞の区別が曖昧な英語なんかはどうなるんだ。 一部の動詞を除いて、構文の形式でしか自他の区別ができないんだぞ。
473 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 01:34:02
関係ないが、英語の動詞の活用ほどわかりにくいものはない。
474 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 01:40:03
>>466 ら抜きが機能分化の必然性からというのなら、
尊敬語もきっちり何らかの形で分化してから提示しろよ。
能動態と受動態とが重複している語形に更に尊敬語が加わっているのがそもそも問題。
おまえは「きっちり」と言うが、言語にたいするそういう正確な開発態度が日本人にはもともと無く、
それによって活用や表現の形態がやたらと複雑化してしまい、
語形のレベルでの態の区別などが困難となっており、文脈依存という条件に拘束される始末となった。
複数の意味が潜在する語形には[尊敬]を特定的に規定する能力が無いから、
[尊敬]という意味の本体は文脈にしか存在しない。抽象的な本体だ。
そんな条件にある尊敬語を具体的な言葉の語形そのものとして分化して提示することができるとでも思ってるのか。
475 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 01:56:06
>>469 日本語は前にくる言葉によって判断できるから、問題ないんだよ。
具体的にはどういうこと?
君の文、
「前にくる」の前は「日本語は」だけど、
君が言いたいのは「日本語は前にくる」ではないだろ。
日本語において、前にくる言葉は文意にまつわる判断を手伝ってくれないよ。
日本語の語順は論理上の問題があるんだよ。
そしてそれを解決するのが談話法的省略規則といった慣習的な情報しかないわけ。
或る文における「見られる」の意味を判断するうえでは
そういう内輪的な約束に基づいて文脈全体を解釈しなくてはいけないわけ。
それだから、コンピュータのような客観的で論理的な頭脳に
日本語ネイティヴの書いた文を英語などに訳させようとしても
適切な英文が出力されることはあまりないわけ。
476 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 01:58:33
>>472 だから英語の語順には法則があるんだろ。
日本語は、主語の省略もあれば、活用形における意味の重複もあり、
おまけに語順が奔放であるときている。
477 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 02:03:03
「新しく越したこの町では、あなた以外にまだ人は知らない。」 OCN翻訳でコンピュータはこう読んだ: 「this town passed newly -- you -- people do not know yet to except.」
478 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 02:05:29
>>473 英語の動詞の活用ほどわかりにくいものはない。
具体的に言うと?
>>474 横レスすまんが、内容的にはガイシュツなんだが、
「可能概念は分化させたいが、尊敬や受身は自発と同じ表現のままでよい」
という日本語話者の意識というのがあるんじゃないかね?
日本語において、古代とは可能の概念上の位置付けが変わってきた
(が、尊敬の概念上の位置付けは依然として変わっていない)
ということだろうよ。
日本語の尊敬概念は「原因(設定)の拒否(オギュスタン・ベルグ)」という
自発と共通する意味を今現在でも依然としてもっている。
480 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 02:11:45
>>475-476 助詞が使いこなせないとはね。
論外。
日本語の語順も決まったパタンがあり、助詞で決まる。
>>470 とにかく途中に正当と挟めば自分が正義だと言い張れるような誤解をしているのを、
ひしひしと感じる文章だな。
本当ならレスしたくない。
何か時代の流れの必然とか言いたがってるみたいだけど、眼識とかいうような根拠はないって。
機能分化なんてのも実際にはただの言葉の乱れに対して、
賢ぶりたい理屈屋が後からつけただけの屁理屈に過ぎない。
これに限らず、ら抜きを正当化する理屈は全部そうだけどな。
>>474 引用を用いて文章を書くなら、引用符くらいきちんと使えるようになりましょうw
そしていきなりお前呼ばわりも失礼極まりないな。
実用に対してほとんど問題が生じなくスルー可能な物を何故「問題」だと言い張る?
言語に対する正確な開発態度?いきなりムチャクチャ言い出すなよ。
最後はほとんど意味不明、お前(売り言葉に買い言葉)のその文の方が抽象的過ぎるw
誰にでも通じるまともな文章を書いてくれ。
>>470 >>474 何より、ら抜きで機能分化するのも結局不可能なんじゃないの?w
本当にそれが正当な理由かつ可能なら、どうしていつまで経っても
「見る」などの一部の単語でだけでしか積極的に使われないんだろうね?
これこそら抜きがただの言葉の乱れであって、
機能分化などと正当化できないという証拠では?
機能分化が根拠として正当なら、
使える単語に全適用しようと言う流れがあってもおかしくないはず。
>どうしていつまで経っても >「見る」などの一部の単語でだけでしか積極的に使われないんだろうね? まだ「いつまで」も経ってないから。そのうち変わるだろうて。
>使える単語に全適用しようと言う流れがあってもおかしくないはず。 方言レベルではある。
多くの日本人は、「れる」で統一して簡略化したいという意識が あるだけだと思う。
全部ら抜きにするひとはいるが、そのうち元に戻る。 「見れる」が一気に普及したのはテレビが原因だと思う。
>>483 方言はら抜き言葉とは別カテゴリ
ら抜き言葉と言うのはあくまで標準語でらが抜け落ちる異常
487 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 03:24:44
日本語では「速読」ができるといった利点があるが、 文意が多義的だったり不明瞭だったりして 同じ文を何度も読みなおさなくては理解できなかったり 細かい考察に向いていなかったりする。 言葉の組み立て方についても、日本語には妙なところがある。 たとえば次の文(いかにも例文ってかんじのやつだが)―― 「政府の防衛費削減の意思表明は割れんばかりの拍手をもって迎えられた。」 「政府の」は「意思表明」に、 「意思表明」は「防衛費削減の」に係っているわけだが、 この時点でまず本文の語順が錯綜していることになる。 かりにこの文面上の(客観的な)順序に沿って読むと、 「政府の・防衛費」という連結がまず出てくる。 でもここで「政府」を「防衛費」の所有格として認識してしまうと、 後続の「意思表明」の所有格となるべきものが無くなる。 それだから「政府の」がこの文でいったいどれに係ってどう働いているのかを判定するのは後回しにしなくてはいけない。 更なる問題は「防衛費・削減の・意思・表明」という連結にある。 これは「防衛費を削減するという意思の表明」を略したもの(日本人はこういう省略が好きだ)。 よく考えてみると、この「防衛費削減の意思表明」が合理的な言語表現ではないのがわかる。 まず「の」によって「意思表明」が「防衛費削減」の対象あるいは内容となっているが、本当はその逆であるはずだ。 そして更にこの2つの語が自身を逆向きに提示している、すなわち「削減(する)→防衛費」「表明(する)→意思」だ。 それを一瞬で処理して読解するというのだから日本人の頭はすごい。 まあそれだけに文意を全体から抽象化するための「漠然とした認識態度」が必要だということだ(細かい部位を意識していると文が読めなくなる)。 そしてそれだけに日本人は「全体的な印象に関する意識」に優れ、「文脈」というものに依拠している。 「-ar-er-u」といった具体的な語形それ自体が特定の意味を規定しなくてもいい、ということになる。
488 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 03:25:20
(487の続き) 一方、英語では例文が次のように書かかれる―― 「The government's announcement to reduce defense-spending was met with thunderous applause.」 この場合、素直に言葉を頭から順に読んでいっても読み手は文意を正しく把握できる。 「判断の後回し」や抽象化は必要なく、順を追うことがそのまま文の論理を捉えることになる。 英語の構文はだから合理的。だから客観的。
489 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 03:27:45
>>480 助詞が使いこなせないとはね。
具体的に言うと?
段落分けもせずみっちりすし詰めの読みにくい長文書く人が 読み易さについて語っても説得力ないよ。
492 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 03:40:21
“何か時代の流れの必然とか言いたがってるみたいだけど、眼識とかいうような根拠はないって。
機能分化なんてのも実際にはただの言葉の乱れに対して、
賢ぶりたい理屈屋が後からつけただけの屁理屈に過ぎない。”(
>>481 )
で、貴方は機能分化にはどのメリットも無いと言いたいのか?
それが眼識の違いなんだけどな。
自分が「言葉の乱れ」として定義したい現象について
そうとは言い切れないことを示す論拠が相手議論者から出されているもんだからって
これにむかついて「屁理屈」として封じ込めたい、
それが貴方の本音だろ。
この時間になると、それなりのひとが出没しますね。
494 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 04:23:31
“言語に対する正確な開発態度?いきなりムチャクチャ言い出すなよ。”(
>>481 )
言を改めれば、
自分達の言語にたいする客観的な観察眼を養うことの必要性が
大陸の人にとっては著しく有ったのにたいして
日本の人にとってはそれほど無かった、
ということ。
ヨーロッパなどでは
異なる文化圏に属する人達との対等な対話の土台をできるだけ整えるべく
自分達の使う言葉や表現の客観性だとか合理性を重要視することに意義が有った。
でもそのように客観的で合理的な態度は、
日本という比較的閉じた内輪的な社会で暮らす人間にとっては「それほど」大切じゃなかった、
ということ。
自分達の文化にたいして客観的な観点に立つかたちで日本人が「日本語」とか「日本」という概念を持ち合わせるということすらも、無かったよね。
これらの概念(i.e. 倭)を最初に与えたのは外部にいた中国人だったよね。
初めて日本人を民族として「科学的に」「客観的に」観察したのも日本人ではなくアメリカ人だったよね。
今も日本の学校では日本語のことが「国語」と読ばれていて、
これが日本人生徒達によって特に客観的な学問の対象として把握されるようなことはないよね。
495 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 04:24:36
[494]のつづき・・・ 日本人はたしかに自分達の言葉を開発してはきたけれど、 そこにはいろいろと不備がある。 談話法的省略規則に大きく依存しているほか、 かつての日本語に在った文法的に重要な助詞の数々を棄ててしまった。 結果、現代の日本語は、その文化圏を越えたものにたいしては すごく主観的で内輪的で通俗的な性格を帯びるようになった。 言語はどれもがそういうものであるとは限られないのにもかかわらずね。 ちなみに2ちゃんねる用語の発生と発展を許しているのは現代日本語そのものなんだよ。 英語にはスラングがあってもそういう奔放な用語体系は無いよね。 言語に対する開発態度の適切さについて一般の日本人は貧窮しているわけ。
496 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 04:37:37
“何より、ら抜きで機能分化するのも結局不可能なんじゃないの?w
本当にそれが正当な理由かつ可能なら、どうしていつまで経っても
「見る」などの一部の単語でだけでしか積極的に使われないんだろうね?
これこそら抜きがただの言葉の乱れであって、
機能分化などと正当化できないという証拠では?
機能分化が根拠として正当なら、
使える単語に全適用しようと言う流れがあってもおかしくないはず。”(
>>481 )
その流れを否定できるような論理は無いよ。だから、
機能分化の有益性に基づいての「ら抜き」は全ての動詞に適用できる。
「考えれる」は言いにくい、と感じる人もいるけど、
ケベック語の開発についてケベック人達自身が感じているような斬新さと比べればまだいいほうだ。
「ら抜き」の適用範囲が今のところ限られているのは、
適用者達の多くが「ら抜き」の文法原理を知識としてはまだ教わっていないからだよ。
それと、「ら抜き」は「誤用」だ、と叱ってやまない人達にたいして、
彼らが億劫になってしまっているからだよ。
497 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 04:45:05
“段落分けもせずみっちりすし詰めの読みにくい長文書く人が
読み易さについて語っても説得力ないよ。”(
>>490 )
できるだけのことはしている。
たった10文程度の投稿が「長文」であれば、
書物や論文を通じて貴方が汲み取るものはいったい何なのだということになる。
498 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 04:55:06
('A`)
499 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 05:11:06
これは食べられない I can't eat this. This can't be eaten. これを食べられるのですか? これをお食べになられるのですか? これをお食べになるのですか? これをお食べられるのですか? これをお食べ。
500 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 05:14:30
これをお食べられになられるのでされるか?
501 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 05:22:50
さっき、川原でやった六尺兄貴凄かったです!ガチムチの色黒兄貴がオッス連呼で 張型ケツにぶちこまれ腰振ってました。俺もくわえさせられて浣腸食らい無様に 排便さらしました。バリカン出されたときは一瞬引いたけど、兄貴の「いやなら 止めていいんだぜ!」の一言で覚悟決め、生まれて初めて丸刈りになりました。そ の後、脇・チンゲも刈られてビンビンのマラ、思いっきりしごかれ派手にガチムチ 兄貴の顔に飛ばしました。スッゲー男らしく気持ちよかったです。また行くとき カキコして下さい!帰ってから丸刈りの頭見て、また感じまくってます!
>>497 1
掲示板のやり取りは書物じゃなく会話。
レスにおいておおよそ5行以上は長文。
2
ネットと書物じゃ行間の間隔が全然違うから、
読み易い記述の仕方も自ずと変わる。
そのままみっちり書いても苦にならず読める書物と違い、
行間の狭いネットにおいてはそれなりの工夫が必要。
503 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 06:04:31
日本語はフォント幅めいっぱい使っているから、 上の行とくっついちゃうんだよね。 だから、改行する慣習ができた。
504 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 06:15:32
>>502 文字言語を音声言語(会話)と同一視してるところがいかにも日本人らしい(厭な意味ではなく)。
日本語の一般的な句読点の位置って、西洋語のそれと違って、口言葉的だもんね。
>>503 2ちゃんねるって地球上で最多の訪問者数を誇る掲示板のくせに、
スタイルがけっこう悪いんだよね。
外国語のBBSにあるような引用機能も無い。
討論には向かない。
でもそこで皆が噴き出している情報量は凄まじい。
505 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 06:21:25
>>503 その改行の習慣って、段落の定義をぶち壊してるよね。
2ちゃんねるにおいてはとにかく日本語は破裂するしかない。
>>505 2chというよりは日本語フォントと英字フォントの違いだよね。
HTMLのデフォルトは英字はそれなりに上下に隙間が
できるんだけど、日本語だとまったく空白がない。
Windowsのコントロールも同様。
だから、いままでなかった文単位で空行を入れるという文化が
できあがってしまった。
507 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 10:36:24
俺は何ヶ月も考えて、最近はら抜き容認、少しは使おうかと 思ったけどやっぱりやめた。 ひとはひと、自分は自分。 ひとに流されてはいけないというのが俺の信条。 俺はら抜きを使わない、ひとが使う分にはかまわない。 国が認めるようになるまでは使わない。 これが俺の結論。
五段活用動詞以外のすべての動詞の可能表現が 完全に「ら抜き」に移行するのは、30歳の俺でも死んだ後かもしれない。 ある程度、歳が大きくなるにつれ、上の世代から どう見えるかの方が重要だと思うようになった。 言葉は保守的、やや古めかしいくらいが大人っぽく見える。 これは、もっと若いころ、東京の年配の方の話し方を 聴いたときに思った。 わざわざ安っぽく変える必要はない。 言葉は内面を表す一部なのだから。
>>505 日本語に段落概念なんてそもそも馴染まなかったんじゃないのか
510 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 21:40:24
印刷する文章とネット、メールだけの文章では 書き方が完全に変わってしまったね。 英語も空行を入れる習慣はあるようだから、 似たようなものか。 紙と違って詰める必要がないと表現は変わるもんだな。
511 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 22:05:01
>>506 コントロールパネルの「画面」で設定する Clear-Type は、
英語や中国語の文字には効いても
なぜか日本語フォントには効かないんだよな。
そのせいで文字のエッジが醜いまま。
512 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 22:32:09
>>507 > 俺は何ヶ月も考えて、最近はら抜き容認、少しは使おうかと
> 思ったけどやっぱりやめた。
> ひとはひと、自分は自分。
> ひとに流されてはいけないというのが俺の信条。
> 俺はら抜きを使わない、ひとが使う分にはかまわない。
> 国が認めるようになるまでは使わない。
> これが俺の結論。
今の日本語表現のほとんどを国は認めていませんよ。
知らなかったんですか?
>>512 そういうこともあるのだと最近知りました。
まあ、定義するかしないかの話ですよね。
514 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 22:49:52
“わざわざ安っぽく変える必要はない。
言葉は内面を表す一部なのだから。”(
>>508 )
受動態を「-ar-er-u」で表し
可能態を「-er-u」で表す、
という規律について
傍から貴方が安っぽさを感じたとて、
これに準拠して「ら抜き言葉」を使う当人の内面を誠実な根拠が支えている場合には、
貴方の抱くその感慨は単なる慣習的価値観の余波でしかない。
古めかしい言葉の美徳は
僕にもよくわかる。
けれども、
能動態と受動態とが語形のレベルで混在した様式に依拠する言語は
現代人に要される「分析的な気概」が言葉として現れるのを妨げるものだ。
今の日本の大学では、
英語論文の書き方を教わるための特別な課程があったりするが、それは、
日本人の学術研究の場の国際化に寄与するほか、
当の研究内容の「より的確な言語化」にも寄与する。
日本語では定着せず英語では体系化している冠詞や数詞、或いは受動と能動の峻別は、
それを軽視する日本人もいるが、
学術的記述や政治的対話における重要性を持っている。
このような観点に基づいて従来の多義的な日本語表現を「葬り去る」必要はないが、
より合理的な言葉の組み立てを一般的におこなえるような言語環境を求めるのは大切だ。
また変なのが出てきた。
俺は簡単にいうと、相手によって使い分けるが面倒だから、 まだ使わないと言っているだけですよ。
>>505 日本語にそもそもパラグラフの観念が根付いているかどうかが
非常に怪しいわけだが…w
>>510 そうなんだよ。日本語だけの現象では無い。
>>503 >>511 が言うような日本語フォントのせいでもないし、
まして
>>504 に至っては論旨が完全に逆だよ。
日本語は電子メールとネット上の文で
初めて真の意味での言文一致を獲得したと言って良い。
英語圏からの帰国子女が口語そのままの手紙を書いて
日本育ちの他のヤシに失笑されることがよくあったが
最近の私的な電子メールの文体はこれに非常に近づいている。
文ごとの改行は世界的な「ネット文体」あるいは「モニター文体」
なんだよなあ。
>>514 可能概念って「態(voice)」なのか????
518 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 23:24:00
“日本語に段落概念なんてそもそも馴染まなかったんじゃないのか” (
>>509 )
命題という論理構造は馴染まなくても
段落概念が馴染むための余地は日本語にも大いにある。
言語それぞれの文法的な違いや特殊性は
主に「文/sentence」のレベルで表出し
「段落/paragraph」のレベルで確認されることは(まったく)ない。
段落のあり方を多様化させうるのは
当の言語体系内における創作スタイル或いは「genre」の存在だ。
たとえば
小説と詩とで
日本語界における段落のつくりが異なってくる。
このような相違は「genre」間で起こるのであって言語間ではない。
ただし、
「【日本人には】段落概念なんてそもそも馴染まなかった」ということならば、
ありうる。なぜなら、
人間あるいはその集まりである民族は
特定の「genre」にたいする好みや傾倒を有していたりするからだ。
長い文を嫌い、できることなら確定的な命題を口にしないで暮らしたい、
といった生活態度を伝統的に養ってきた民族であれば、
自己の意思を確定して内包するブロックとしての「段落」にそれほどの重要性を見いださない。
519 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 23:24:55
>>508 > 五段活用動詞以外のすべての動詞の可能表現が
> 完全に「ら抜き」に移行するのは、30歳の俺でも死んだ後かもしれない。
> ある程度、歳が大きくなるにつれ、上の世代から
> どう見えるかの方が重要だと思うようになった。
> 言葉は保守的、やや古めかしいくらいが大人っぽく見える。
> これは、もっと若いころ、東京の年配の方の話し方を
> 聴いたときに思った。
> わざわざ安っぽく変える必要はない。
> 言葉は内面を表す一部なのだから。
「五段活用動詞以外のすべての動詞の可能表現が」
→主語の「が」で改行するのは非常に安っぽいですね。
それ以外にも不自然な改行が多く、非常に安っぽいですね。
「30歳の俺でも」
→30歳にもなって、自分を「おれ」呼ばわり。非常に安っぽいですね。
「大人っぽく」「安っぽく」
→「〜っぽく」と、知性のかけらもない表現の連発。非常に安っぽいですね。
「言葉は内面を表す一部なのだから。」
→鏡どうぞ(笑)。
変わった人がいるねw
約二名どうしようもないら抜き言葉擁護者がいるな
どちらも痛くもかゆくもない、何とも思わないレスが できるところがすごいよ。
>>518 安っぽいステレオタイプな日本文化論をダラダラ書き連ねるなよ、
1970年代じゃあるまいし。w
パラグラフという概念は近代西欧語が生み出した特殊な文章構築技術だ。
原型はラテン語の修辞法だが、今のような形になったのは
西欧でも近代に入ってからだ。
それ以前の古典ギリシア語などの文章は、
パラグラフはおろか、定型で言い切らずに分詞でだらだら続けたり、
接続詞でだらだら続けるなんてのも当たり前だった。
だが、古代ギリシア人が
「できることなら確定的な命題を口にしないで暮らしたい、
といった生活態度を伝統的に養ってきた民族」
だったなどという話は聞いたことが無いw
524 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 23:49:11
>>523 まず、あなたは
「確定的な命題を口にしない」ことと
「自己の意思を確定して内包するブロックとしての段落を重要視しない」こととを
混同している。
前者は sentence のことで、後者は paragrah のことだよ。
僕は
パラグラフを用いない人を「確定的な命題を口にしないで暮らしたい」者と形容したんじゃない。
命題はセンテンスの産物だ。パラグラフのではない。
525 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/11(月) 23:55:39
>>522 議論っていうのは
お互いに痛みを感じ合ってエレクチオンするために繰り広げるSM劇じゃない。
まあそれはいいとして、
「見れる」「考えれる」などの言葉を認めないことの「正当な」論拠が何なのか
改めて確認したい。
526 :
522 :2006/09/12(火) 00:00:27
誰に聞いているのか? 俺はまだ使わないとは言っているが、認めていないとは 一度も言っていない。
527 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 00:06:14
>>520 > 変わった人がいるねw
あなたは自分の過失を認めず、他人に攻撃を繰り返すという非人道的な行為を繰り返しています。
あなたはネットでもリアルでも嫌われていますので、改善する必要があります。
最も理想的な方法としては、あなたが首をつって自殺する方法です。
これが あなたにとっても、あなた以外のすべての人間にとっても、もっとも良い方法です。
死ぬことは勇気が必要ですが、あなたは勇気を持っているので大丈夫です。
さあ、一歩だけ踏み出しましょう。そうすれば、きっと しあわせになれます。
とは言ったものの、夜になって考えが変わっちゃいました! やっぱり、ひとに合わせてちょっとは使っちゃいます!! 関係ないけど、地方によっては関東の「ちゃう」を 可愛く言う表現だと誤解しているひとがいるよね。
529 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 00:15:59
“国が認めるようになるまでは使わない。”(
>>507 )
言葉を用い、その恩恵を受けるのは国じゃない。人間だ。
言葉の使用における主体を持っているのは個人であって国家じゃないの。
個々人の使用に起因する現在のカタカナ語の氾濫を国が抑えることはできてないよね。
言語の核心は個人の意識にあるわけ。
言語の問題について国に頼りきることはできない。
あれこれ言うわりには、相手のレス読んでないんだね。
531 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 00:24:15
>>526 あなたは[525]で「ら抜き言葉の非容認者」として呼びつけられたわけじゃない。
僕は、
ら抜き言葉を認めないことの論拠が何なのかを改めて確認したい、
と言ったのだ。
動詞「認めない」の所有格は提示していない。
所有格を隠しているわけでもなく、単に「無い」。
「認めない」という行為そのものについて言及しているわけ。
>>525 国家の言語教育方針がら抜きでないものを正当としていて、
教育の結果まともな人にはそれがきちんと身についているから、
その結果「正当」なんだろw
別の視点から見ると、ら抜き言葉は
学習能力の低い人間の使う言葉と言う事も分かる。
533 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 00:37:21
>>530 お願いだから「誰」に言っているのかをハッキリしてほしい。
僕(529, 525, 524...)に宛てている場合・・・
僕は相手の投稿をデタラメに読もうとしているわけじゃない。
ら抜き言葉をおおいに語り合いたいわけ。
ちなみに意見はねちねちと語ってもしょうがないよね。
曖昧な短文は簡潔でいいけど、
もともとが匿名であるこういう場でそんなことばかりしていると
個人の意見の一貫性もくそもなく、
議論について見えてくるものも見えずじまいになるわけだよ。
> ちなみに意見はねちねちと語ってもしょうがないよね 簡潔に書ける事を無駄に装飾された言い回しで くどくど語るからネチネチ返されるんだと思われ
>>524 言っていることが
>>524 と
>>522 で矛盾していないか?
>長い文を嫌い、できることなら確定的な命題を口にしないで暮らしたい、
>といった生活態度を伝統的に養ってきた民族であれば、
>自己の意思を確定して内包するブロックとしての「段落」にそれほどの重要性を見いださない。
俺はこの内容をそのまま混ぜっ返しただけなんだけど。
536 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 01:19:04
>>532 ヴィトゲンシュタインの language game みたいなもんだね。
特定の方針や目的に準拠するとき
特定の行為は「正当」といった性格を見いだされるっていうやつ。
「正当」って価値は、いくらか相対的なんだ。
その相対性の壁を超えるものとして
客観的な知識範型の基盤をなす「合理性」がある。
合理的な考察のもとでは「ら抜き言葉」の不当性を唱えることはできなくなる。
そこでの問題は、
合理性と伝統性(および通俗性?)のどれに現在の日本語話者が傾倒してゆくかだ。
あとは歴史が決定する。
ただし伝統的な文法をこのまま引き摺ってゆくことは
日本語がこれからも「曖昧」で「不合理」であると指摘され続けてゆくことを意味する。
僕は日本語にそうであってほしくはない。
単に「ら抜き」の原理を容認するだけで済むことがどうしてこんな沙汰になるんだろう。
保守保守とか言っていながら、
外来語にたいする門は開けっ放しで造語活動も止んでしまってる。
「国家の言語教育方針」はよくわからない。
終焉してるのか、日本語の発達は。
537 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 01:21:42
>>534 君の言う「無駄に装飾された言い回し」ってのがどの箇所にあたるのかを指摘してほしい。
538 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 01:42:39
>>535 演繹の論理が反転してるんだよ。
[518](僕)の意見:
“長い文を嫌い、できることなら確定的な命題を口にしないで暮らしたい、
といった生活態度を伝統的に養ってきた民族”であれば
↓
“自己の意思を確定して内包するブロックとしての「段落」にそれほどの重要性を見いださない”。
[523]の指摘:
“パラグラフはおろか、定型で言い切らずに分詞でだらだら続けたり、
接続詞でだらだら続けるなんてのも当たり前だった古代ギリシア人”は
↓
“長い文を嫌い、できることなら確定的な命題を口にしないで暮らしたい、
といった生活態度を伝統的に養ってきた民族”ではない。
[518]と[523]とでは論法が一致しないから、
[523]にたいして[518]が論理的に応答するための土台が無い。
>>538 まあ俺は
>>518 を逆に否定させた論理を否定しただけだからね。
ということは、やや雑ではあるが
「長い文を嫌わず、確定的命題を口にすることを厭わないという
生活態度をもつ民族」は、
「パラグラフ概念を当然に重要視するはずだ」
という論理は「肯定しない」んだね。俺が知りたいのはそれだけ。
だが、それにしても
>>524 前段と
>>518 末尾は矛盾していると思うが。
540 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 02:11:27
子供の前では「ら抜き」を言うな。 大人同士や作文で自爆するのは勝手にせよ。 それだけでいい。
541 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 02:21:36
>>532 >国家の言語教育方針がら抜きでないものを正当としていて、
>教育の結果まともな人にはそれがきちんと身についているから、
>その結果「正当」なんだろw
[525](僕)が尋ねているのは「論拠の正当性」であって「行為の準拠性」ではない。
この違いがわかるだろうか。
たとえば「日本人は劣等民族ニダ!」と唱える人に、
「正当な論拠でもあるの?」とあなたが訊いたとする。
相手は
「将軍様の教えでは日本人は劣等だとされているからニダ!」と返す。
このとき、[532]によれば、
「将軍様」による是非の判定に準拠していることから彼の「日本人は劣等民族である」という提唱行為の論拠は「正当」である
ということが成り立つ。
だけどそういうわけにはいかない。
彼の提唱行為は「将軍様」の特定の価値観に「準拠」しているだけであって、
提唱を支える論理の根拠にまつわる正当性そのものはまだ吟味される余地がある。
繰り返し尋ねるけど、
「ら抜き言葉」を認めないことの正当な論拠って何?
「ら抜き」は方言扱いにして日常会話ではOKとし、 公式の場、または公的な文章では使わない、 といったように使い分けすればいいだけじゃないの?
543 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 02:38:52
>>540 >子供の前では「ら抜き」を言うな。
>大人同士や作文で自爆するのは勝手にせよ。
自爆にはならない。
発話内容がワンステップ分ほど明瞭化・正確化するだけ。
「あんな計画は(一般人によって)考えられるものではない。」(一般人によって=補語、考えられる=受動態動詞)と
「あんな計画は(一般人が)考えれるものではない。」(一般人が=主語、考えれる=能動態動詞)との区別を
子供達が学ぶのは
彼らにとってまったく害にならない。
むしら彼らの把握や思考が明晰化する。
あなたは知らないのだろうが、
日本の子供の言葉立てと西欧の子供のそれとの間には
著しい違いがある。
言語文法の繊細な性質に着目する機会について
日本人は幼い頃からあまり恵まれないまま育つ。
だから言葉の通俗化や乱れが日本社会では激しくなる。
544 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 03:07:42
>>542 どちらかというと、
公的で正式な文章や発言の中でこそ
「ら抜き言葉」の機能性が役立つんだけどな。
僕は、
もともとは方言や俗語として生まれたということから時代の波に乗るかたちで「ら抜き言葉」を妥協的に認容したいわけじゃない。
たとえ今の日本で誰一人として「ら抜き言葉」を使っていなくても、
日本語動詞の活用の仕方について僕は同じ批判をしていただろう。
伝統的・慣習的体制にたいしてこういう批判を唱えることは日本人にとっては「ありえない」ものなのだろうが、
これと同様の条件によって明治期以前の日本がいくらか閉塞していたという過去がある。
島国としての社会環境が永続することになっていれば一番よかったのだけど、
運命はそれを許さず、
日本は世界の異なる文化体系の交錯に著しく突入した。
こうして「日本の内容」は客観的な批判精神の対象物として日本人達自身に対等されうるものとなった。
545 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 03:20:20
[544]のつづき・・・ 日本社会においては、 誠実な論拠にもとづいて「ら抜き言葉」を使う人は「切実な被害者」になってしまう。 なんとなく「ら抜き言葉」を口にしているという人であれば 「国家の教育方針」からの忠告を受けるときに 「ああ、そうか、私の『誤ったクセ』は矯正しなきゃいけないものなんだな」ということで件は丸く収まる。 ところが何らかの合理的根拠にもとづいて「ら抜き言葉」の原理を把握するに至った人にとっては、 そのような忠告は内面的な葛藤の原因となる。 ちょうど、トマトが「果物」であることの合理的根拠を自分は理解しているのにもかかわらずそれを(伝統に従って)「野菜」と呼ぶよう一方的に強いられてしまう場合のように。 トマトについてどの詳しい知識をも持たない人にとっては「権威者」の指図に服従するのは易いが、 そういうわけにはいかない人達もまたある。
546 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 03:40:31
スーパーで梨が売ってたよ スーパーで梨が売られてたよ スーパーで梨が売れてたよ スーパーで梨が熟れてたよ
547 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 03:58:58
548 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 06:56:03
全てはテレビが悪い
いまみのもんたが「喋られる」と言った・・・。
550 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 07:28:01
>>547 なぜか、俺のレスと他人のレスを、同じ人物だと思ったみたいだね。
>>544-545 それは考えに考えて、ら抜きに反対しているひと、慎重なひとも
同様にそういうふうに感じるんだよ。
ひとの立場で考えられないのかな?
結局、自分が言っていることのみが正しく、認められなければ
ならないとしか受け取れない。
私は「見れる」だけがどうもしっくりこない。 個人的には、可能であっても「見られる」に受身のような 感覚があるのかもしれない。
553 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 08:24:04
日本語は世界で唯一受動態が二段構造で高度に発達している言語で「ら」こそがそのもの だから「ら」抜き言葉は日本語ですらない、言わば受動態そのものが無い朝鮮語に近い言語。 例えば「雨に降られる」をら抜きで訳すると「神が私に雨を打ち付ける」になる。 もはや日本語ではないし、日本人が持つ共通の感性とはかけ離れている 「ら」抜きを促進したい人は日本語・日本人そのものを無くしたい人なんでしょう
554 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 09:01:29
便利だからもっと使われるべきだ
動詞が先に来る文でないかぎり、便利だとは思わない。
阿呆と思われる。 阿呆と思わられる。
557 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 09:49:16
ドゴンボール
558 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 14:21:31
イデイン
イデオン?
560 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 14:56:48
>>549 やっぱりラ行五段活用の可能動詞と所謂「ら抜き言葉」が混同されてるな。
無理にら抜き言葉を使わないとするあまりラ行五段活用の可能動詞を
ら抜き言葉と混同して過剰修正してしまう。
>>553 何を言っているかよく分からんがそういう場合には「ら抜き言葉」は絶対に使われないだろ。
今「ら抜き言葉」をバンバン使ってる若者でも、「受動態」に対して「ら抜き言葉」は
決して使わない。「書ける」を受動態で使う奴がいないのと同じ。
受動態をら抜きで言ったら、そりゃ(少なくとも通じる)日本語じゃないな。
>>553 >日本語は世界で唯一受動態が二段構造で高度に発達している言語
分からん
562 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 18:11:56
アナル
563 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 18:46:19
>>560 >、「受動態」に対して「ら抜き言葉」は 決して使わない
見られる(受動態)→見れる
思いっきり使っているのですが。
564 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 19:05:14
>>563 それは「可能形」だと思って使っているんだと思うよ。
「〜が見られる」を「〜が見れる」といったりする人は、
「見られる」の部分を可能形だと思っているのであって、受動態とは思っていないと思う。
実際可能と受身のどっちにも取れるしな。
「恥ずかしいところをあの人に見られた」みたいな、どう考えても可能形とは解釈できない場合だったら、
「あの人に見れた」とかいう奴はいない。
565 :
お :2006/09/12(火) 21:14:19
可能動詞は五段活用の他動詞と一段活用の自動詞(焼くと焼ける)の対の類推で発生したものである。
566 :
543-545 :2006/09/12(火) 22:00:45
>>547 >こんな夜中に何やってんの?
地球は平たくないんだよ。
昼間は他の国にも訪れる。
在外言語学者乙。
568 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 22:08:34
>>556 >阿呆と思われる。
>阿呆と思わられる。
○ 阿呆と omow-ar-er-u(受動態)
× 阿呆と omow-ar-ar-er-u
○ 阿呆と omow-er-u(可能態)
「omow-er-u」は音便化して「思える」となる。
569 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 22:10:23
抜き言葉
またローマ字ハイフン厨のら抜き擁護か
>>568 だからどうして「可能」が「態(voice)」なんだよ?
そこのところを詳しく説明しないと説得力が無い。
「テレビが見れる」のような例を挙げるなら、
「テレビが見たい」という例もあるから
「欲求voice」も日本語には存在することになるよ。
572 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 22:32:58
>>551 >結局、自分が言っていることのみが正しく、認められなければ
>ならないとしか受け取れない。
では、
原型「思う/omo(w)-u」にたいする「思える/omo(w)-er-u」を可能態たらしめている、或いは
原型「書く/kak-u」にたいする「書ける/kak-er-u」を可能態たらしめている要素「er-u」は
原型「見る/mir-u」にたいする「見れる/mir-er-u」を可能態たらしめることができない
とする「ら抜き」否定者の考えを認める手掛りはどこにあるんですか?
その手掛りが無いものだから、僕は
「ら抜き」否定者および「ら抜き言葉」という表現そのものの論拠を訝っているわけだ。
僕は自分の主張を認めよとあなた達に申しつける前に
「ら抜き」否定者の主張の訝しさを提示している。
もう一度訊くよ。
原型「見る/mir-u」の可能態表現と受動態表現と尊敬表現とをすべて「見られる/mir-ar-er-u」に凝縮しなくてはならない理由は何ですか?
或いは
「書ける/kak-er-u」と「書かれる/kak-ar-er-u」とが区別されるために既に存在する原理を
「見れる/mir-er-u」と「見られる/mir-ar-er-u」との識別に適用できないのは何故ですか?
573 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 22:37:54
>>570 >またローマ字ハイフン厨のら抜き擁護か
日本語の音素を考察するうえでは日本語文字だけあれば事足りる
と考えるわけにはいかないよ。
活用が違うから。
575 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 22:43:57
ar抜きなんですよ!
ローマ字ハイフンってのが 特徴抽出して誰が厨か特定する為だけに 書かれてるフレーズな事を理解してないのかこの人は
577 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 22:51:34
確かに活用が違うからというのも一応答えにはなるが、 なんで五段活用動詞は良くてその他の動詞がダメなのかと言えば、 単に今までの(それも江戸時代中期以降200年強程度の)慣用でそうだったからだよな。 今まさにその使い分けの慣用が崩れてきているわけだが。 結局、ら抜き言葉を否定する根拠は、慣用の重視という以外にないんじゃないか。 その慣用も、なんで200年以上も続いたのかよく分からないような慣用だよな。 五段動詞の可能動詞から類推すればら抜き言葉の形が発生するのは自然なわけだし、 五段動詞の可能動詞で分かるように使い勝手はそれなりにいいわけだし、 最初に(静岡付近で)ら抜き言葉の形が発生するまでになんで100年以上かかったんだろう?
578 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 22:51:47
アッー!
579 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 22:53:05
>>571 >だからどうして「可能」が「態(voice)」なんだよ?
「可能」を「voice」として捉えるのはたしかに問題がある。けど、
「可能態」という表現における「態」は
動詞の活用する「形態」という意味で使っている。
(「受動態」における「態」についても同様。)
これに語弊があるというのなら、
「可能形」とか「可能動詞」でもいい。
「可能」だけだとまたマズい。
君からの推奨はありますか?
>「テレビが見れる」のような例を挙げるなら、
>「テレビが見たい」という例もあるから
>「欲求voice」も日本語には存在することになるよ。
そこんところはよくわからない。
「欲求」を示す表現法は日本語にも存在する
ということから君は何を言いたいの?
580 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 23:10:39
>>576 >ローマ字ハイフンってのが
>特徴抽出して誰が厨か特定する為だけに
>書かれてるフレーズな事を理解してないのかこの人は
投稿者にどの名札を付けるかは君の頭の勝手だ。
そんなことより、
日本語動詞の活用における音素のあり方を少しでも詳細に確かめようともしない態度を気にしたほうがいい。
日本語の47種の音節はあくまで「日本語話者のための日本語音素の抽象化記号」の集まりだ。
「それのみ」にもとづいて日本語を言語学的に考察しようとすることについてどの不器用さをも認知しない君が「厨」と呼ばれても責任を負える人はどこにもいないよ。
自分は、ら抜きでも構わないと考えている。ら抜き地域で育ったからむしろ推進派である位だ。 でも、 >可能・受動・尊敬表現をすべて「見られる」に凝縮しなくてはならない理由は何ですか? >「書ける」と「書かれる」とが区別されるために既に存在する原理を >「見れる」と「見られる」との識別に適用できないのは何故ですか? と聞かれると、慣習だから。と答える。 そもそも、島国だから可能・受動・尊敬を同一の形式で表しつづけられたわけじゃないし、 動詞の活用等の意味が分化、或いは融合することは日本語に限らず、 英語でもフランス語でも、ヤクート語でも、ケット語でもスワヒリ語でも有っただろう。 「ら抜き」に関しても、意味の分化の過程にあるに過ぎないし、 逆に、西日本では使われている「よる・とる」の対立のように、融合してしまった例も有る。 結局、これだけら抜き議論が流行るのも、 ら抜きと言うものを認識しやすい時代に僕らが生きているからだよ。 >たとえ今の日本で誰一人として「ら抜き言葉」を使っていなくても、 >日本語動詞の活用の仕方について僕は同じ批判をしていただろう。 というが、 「ている」を曖昧に使うのはやめて、「よる・とる」に相当する区別をするべきだ、 連体形と終止形の区別はきっちりと付けるべきだ。という意見があまり出てこないのも、 結局、その区別を、日常的に認識しづらい時代にいきているからだ。 だから、「僕は同じ批判をしていただろう」という発言は意味を持たない。 そもそも、「られる」を多用しないことで、 つまり、可能は「〜できる」、尊敬は「〜なさる」を使う事で混乱を防ごうとすることを防げる。 誰かが思いつくことは、すでに誰かがやっているものだ。 繰り返しっぽくなるが、「ら抜き」を使ったほうが文の意味が明確になるから・・・というより、 文を話者の意図した意味以外の意味にとる可能性が減るから、 「ら抜き」は好ましいと考えるのは、こじ付けに過ぎないよ。 単に言葉は変化するだけ。しかも、為政者などの意図とは別にね。
582 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/12(火) 23:20:21
>>574 >活用が違うから。
もっとしっかり説き明かしてくれませんか。
投稿の宛先も含めて。
583 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 00:32:14
>>581 >「ら抜き」を使ったほうが文の意味が明確になるから・・・というより、
>文を話者の意図した意味以外の意味にとる可能性が減るから、
>「ら抜き」は好ましいと考えるのは、こじ付けに過ぎないよ。
明確な表現を可能とする文法を言語が持つのにこしたことはない。
文章が始終ギラギラする必要もないが、
その言語がシステムとしてある程度の正確性を話者に提供できることは重要だ。
この点について従来の日本語にはそのような余裕があまり無かった。
これと関連して、翻訳における問題がある。
たとえば、
英語から日本語への翻訳は易いが、その逆は厄介だ、
という意見がある。
日本語では
正確な命題を構成するのに必要な合理的要素が省かれる分
メタ情報とでも呼ぶべきものによって文章が包まれやすくなる。
これが日本語を想像的で詩的な言語たらしめている要因なのだが、
翻訳に際してはそのあたりの解釈について具体的な付加判断をしなくてはならなくなる。
例を挙げる――
584 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 00:32:48
なぜ日本人女性は韓国男性に憧れるのだろうか。 まず韓国人男性は紳士的な振る舞いをします。 そして女性を大切に扱います そして情熱的です。 このような韓国人男性の振る舞いに日本人女性はコロリと落ちるのです。 日本人のような幼児的な男性にあきあきしてる裏返しの行動でしょう。 韓国人男性に憧れる日本女性は週末になるとソウルを訪れるそうです。 ソウルで運命的な出会いを期待しての訪韓です ソウルでは毎週末にお見合いパーテーが開かれています 日本女性と韓国男性のお見合いパーテーです 日本女性の参加者が圧倒的に多く韓国男性を集めるのに苦労するそうです。 日本女性は婚前交渉に積極的だと聞きました。 韓国では婚前交渉はタブーです。 お見合いパーテーで知り合い、その日のうちに関係を持つカップルが多いと聞きます。 「日本人女性は優秀な遺伝子を求めて韓国で股を開く」と韓国のWEBサイトで話題になっていました。 韓国では不道徳なものは、東から来ると言われています。 韓国は日本から多くの不道徳を持ち込まれています。 すべて事実だ。 日本の女は淫乱で男はまったく魅力がないインポ。 かわいそうな劣等民族
585 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 00:34:05
[583]のつづき・・・ 「1960年代、企業や行政機関はコンピュータを取り入れ、時間がかかり、 うんざりさせられることも多かったそれまでの計算法は時代遅れのものとなった。」 この文を英語に訳すためには、いくつかの箇所が明瞭化されざるをえない。 まず、通数原理によって抽象化されている「企業」や「行政機関」の複数性を提示しなければいけない。 次に、「時間がかかり」と「うんざりさせられる」にまつわる態の一致を図らなければいけない。 両者とも「計算法」を形容しているはずなのだけど、 「うんざりさせられる」というのは受動態表現であって、これに「計算法」が主語として結びつくことは本当はできないはず。 〔計算法はうんざりさせられる。〕=〔The arithmetic is tired.〕(?!) 〔計算法は人をうんざりさせる。〕=〔The arithmetic tires people.〕 主体と客体にまつわる関係あるいは態が文中で錯綜している例文の曖昧さは、 一般的な日本人には気にされないのだろうが 外国語圏ではしばしば問題となる。
586 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 00:36:26
[585]のつづき・・・ インターネットを使って英語文献を日本語に自動翻訳する日本人は沢山いるだろうが、 日本語から英語への自動翻訳はほとんど使い物にならないといっていい。 なぜなら原文そのものが日本語圏内の談話法的省略規則に満ちた多義的で不鮮明なものである場合がとても多く、 客観的な頭脳の代名詞であるコンピュータもそれをうまく解することはできないからだ。 このあいだ挙げた例として次のものがある―― 原文: 新しく越したこの町では、あなた以外にまだ人は知らない。 OCN翻訳: this town passed newly -- you -- people do not know yet to except. 原文: I don't know yet anybody except you in this town in which I have recently moved. OCN翻訳: 私はまだ、最近入居したこの町であなた以外の誰を知りません。 後者の和訳も完璧なものとはいえないが、前者の英訳よりかは遥かに実用的だ。
>>579 「可能態」などという珍妙な造語をしないでほしい。
少なくとも「受動態」という日本語の「態」という造語要素は、
「動詞の変化形を茫漠と表すすわりのよい表現」などという
いいかげんな要素ではない。
voiceという特定の文法概念を示す成分だ。
しかも、voice概念を含むかどうかこそは、
れる・られる、可能動詞、ラ抜き言葉の考察において
極めて重要な働きをするのだから尚更だ。
「形」の連発も良くない。
「形」とは、「未然形」のように
伝統文法においては動詞・助動詞の語尾変化のかたちを
形式的観点から分類して並べたものだ。
「未然形、連用形、終止形、連体形、仮定形、命令形、『可能形』」
と並べるわけには決していかない。
「可能」「受身」などを抽象名詞として用いれば十分であるはずだ。
日本語を「必要な命題を表す合理性が欠けている」と格好つけて罵る割には
自分の用いる日本語の基本タームの使い方が滅茶苦茶だ。
588 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 01:03:05
>>581 >>「書ける」と「書かれる」とが区別されるために既に存在する原理を
>>「見れる」と「見られる」との識別に適用できないのは何故ですか?
>と聞かれると、慣習だから。と答える。
それはおかしい。
[572]が尋ねているのは
可能動詞と受動態動詞との区別について既に存在する原理を
「見る」などの動詞の活用に適用“できない”のは何故か、です。
これにたいしてあなたが言っているのは
「慣習では、この原理をそういった動詞に適用“することがない”」
というもの。
結婚するまでは処女を保つことが女性にとって慣習化している社会があるとする。
このとき、
「慣習では、女は結婚するまで男性との性的関係を経験“することがない”」
ということが起きているわけだが、
そういった経験が女性には本質的に“できない”というわけではない。
同様に、
「書く」が「書ける」「書かれる」と変化するところの原理は
「見る」の活用に適用“できない”わけではない。
一方でこれを“できない”とする主張は、
単にこれまでの日本語社会における慣用を陳述しているだけであって、
日本語文法そのものにまつわる言語学上の論拠を欠いている。
改めて言うと、
ら抜き言葉を否認することには合理的な根拠が無い。
それをする暇があれば、
どの文法的知識にも基づかずにら抜き言葉を使っている人達のためのなんらかの教育を計画していたほうがいい。
そりゃ設問がおかしいから。
590 :
581 :2006/09/13(水) 01:17:41
>>583 >その言語がシステムとしてある程度の正確性を話者に提供できることは重要だ。
>この点について従来の日本語にはそのような余裕があまり無かった。
文章の混乱の可能性を完全に排除しなければならない文章であれば、
尊敬なら「なさる」、可能なら「〜できる」と言えばいいわけで、
そう言う回避方法が有るにもかかわらず、 「日本語にはそのような余裕が無かった」は無いだろう。
動詞側を変えなくても、名詞の格を用いて多義性を下げることができる。
言語によってその方法が違うだけだ。
>>585 僕が売った本はどれ?って書くと、[本が売る]?って書かれるのかな?
計算法にうんざりさせられる。→うんざりさせられる計算法 でしょ。
敢えて非文法的になるような解釈をする必要がある?
>数の話
日本語も英語もそれはお互い様でしょう?
英語は文法数があるから、「複数」と言うものを明示できるが、
そのせいで通数を表現するためにはa X or Xsとやらなければならなくなった。
>>588 >一方でこれを“できない”とする主張は、
>単にこれまでの日本語社会における慣用を陳述しているだけであって、
>日本語文法そのものにまつわる言語学上の論拠を欠いている。
言語学は、慣習法の体系に近いものなんだよ。
法学者に、なぜこのルールは慣習法として認められないんだ!
認めないなら、法学上の根拠を述べろって言ってもダメなのと同じ。
私の母方言においては、「ら抜き」は慣習として認められているけど、
所謂標準語においては、「ら抜き」は慣習として認められていない。
文法は言語学の中にあるのではなくて、話者の中にしかない。
だから、「慣習」以上の合理的な根拠は存在しない。
>ら抜き言葉を否認することには合理的な根拠が無い。
「ら抜き」を強硬に認めようとすることにも、合理的な根拠は無い。。
591 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 01:20:58
>>587 では訊くが、
voice の一つである「能動態」に、
「書ける」といった動詞は含まれないか? それとも含まれるか?
まちがいなく、「書ける」は「受動態」には属さない。かといって、
これが「能動態」にも属さないということにはならない。
「彼は推理小説を書く」と
「あの推理小説は彼によって書かれた」における動詞の態は異なるが、
「彼は推理小説を書く」と
「彼は推理小説を書ける」とのあいだで
主体(彼)と客体(推理小説)のあいだにおける作用関係すなわち動詞の態が異なっているとは思えない。
「書ける」にも、態の属性がある、ということ。
そしてそれは「能動態」なのだが、
原型「書く/kak-u」の派生要素として存在するのが「-er-u」であることを考えると、
「書ける」は「書く」から分岐した下位の態であるという推察が成り立つ。
このことから、「書ける」は「能動態の可能態」である、といった妙な言い方を僕はするときがある。
この言い方を君はどう修正する?
592 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 01:22:34
>>589 >そりゃ設問がおかしいから。
どのようにおかしいのかを指摘してくれれば設問は修正される。
おまえコテハンつけろよ
>>591 論理関係が明らかに可笑しい。
「書く」も「書ける」も能動態だ。そして能動態は無標なんだよ。
受動態が「れる、られる」という有標の文法要素を持つことになる。
そして能動態に下位概念など無い。
「能動態または受動態=態に関する全体集合」が基本。
これは英語などの多くの欧州言語の場合だ。
だが、日本語においては、自発をvoiceとして認めて
「能動態または受動態または自発態=全体集合」
と考える説もあり得る。これは古い印欧語とよく似ている。
「書く」も「書いた」も能動態だが形が違うから
「書いた」は能動態の完了態だと言えるかね?
「書きましたか」は能動態の丁寧態の完了態の疑問態だと??
595 :
581 :2006/09/13(水) 01:38:41
ほぼ完全に「態」であると言いきれるものとして、 受動・使役が有ると言うことに異論はないだろう。 あと、相互態というべき「〜しあう」も態として良いと思う。 んで、可能についてなんだけど、 「彼は推理小説を書く」、「彼は推理小説を書ける」 この2文の格の関係は同じだから、 態の要素は入ってこないだろう。 でも、 「ぼくは絵を書く」、「ぼくには絵が書ける」 だと、明らかに態の要素が入ってきている。 当然、「可能」の意味を付加するという要素に重点が置かれるので、 可能態と言いきってしまうのは問題だと思う。 でも、可能表現が、態の要素を持ちうるのは明らかだよね。 ここで、一番上の受動態について見てみると、 単なる格関係を変化させるだけじゃなくて、 自動詞であれば、いわゆる「被害の受動」という格関係の変化以外の要素も加わる。 こういう場合、完全に「態」と言いきっていいのか疑問が残るだろう。 でも、被害の意味よりも、態としての働きに重点が置かれるから、 あくまで受動「態」として扱われる。 結論として、 可能は態の要素を持つこともある。 だが、可能の意味を差し置いて、 「態」と付けるのは言いすぎ。 だが、可能表現を無条件で能動態であると考えるのは誤り。 って感じで如何?
>>595 「僕には絵が描ける」は一応非文ではないが、
「僕は絵を描ける」と全く同じ意味でこれも非文ではないから
「僕は絵を描く」との間で態の差異の関係は全く生じていないことになる。
可能表現において「絵が描ける」のような例を重要視するべきではない。
「絵を描ける」とも問題なく言えてしまうのだから。
これは、可能表現と「絵が描きたい」のような欲求表現において、
「客体を主格で表すことが『あり得る』」という例外事例。
そして「僕には絵が描ける」の「僕には」については、
「意味上の主体が文法上の主格をとれない場合には、しばしば与格で代用される」
という日本語文法上の基本原則の結果だ。
(印欧語の場合には奪格や属格が用いられるんじゃなかったかな)
「貴人は畏れ多いので主格をとらない」という慣習により、
古い表現で「天皇陛下には、…」というものがある。
>>596 本来、態の差っていうのは意味の差ではないよね。
あくまで格関係のみを変えるもの。
だから、「僕は絵を描ける」と「僕(に)は絵が描ける」
に意味の差が無いからといって、
態の差が無いという結論にはならないよ。
>可能表現において「絵が描ける」のような例を重要視するべきではない。
>「絵を描ける」とも問題なく言えてしまうのだから。
>これは、可能表現と「絵が描きたい」のような欲求表現において、
>「客体を主格で表すことが『あり得る』」という例外事例。
これは、まさに可能表現が部分的に「態」の要素が入り込んでくる証拠だと考える。
「絵を描ける」と問題なく言えてしまうけど、
「絵が描ける」の格関係の議論には、「絵を描ける」と言えるかどうかは、
本来関係ないのでは?
それに、可能表現の議論において、その「例外」の量が多すぎると思う。
>「意味上の主体が文法上の主格をとれない場合には、しばしば与格で代用される」
>という日本語文法上の基本原則の結果だ。
このあたりは議論のあるところなんだよね。
「意味上の主体」と言うものも、厳密に定義するのが難しい。
598 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 02:22:34
>>585 >「1960年代、企業や行政機関はコンピュータを取り入れ、時間がかかり、
>うんざりさせられることも多かったそれまでの計算法は時代遅れのものとなった。」
>
>「時間がかかり」と「うんざりさせられる」にまつわる態の一致を図らなければいけない。
>両者とも「計算法」を形容しているはずなのだけど、
>「うんざりさせられる」というのは受動態表現であって、これに「計算法」が主語として結びつくことは本当はできないはず。
>
>〔計算法はうんざりさせられる。〕=〔The arithmetic is tired.〕(?!)
>〔計算法は人をうんざりさせる。〕=〔The arithmetic tires people.〕
>>590 >計算法にうんざりさせられる。→うんざりさせられる計算法 でしょ。
>敢えて非文法的になるような解釈をする必要がある?
「うんざりさせられる私」と言って自分の境遇を嘆いている人がいるとき、
その人の発言を敢えて文法的に解析するとどういう構造が出てくる?
「私」が「うんざりさせられる」、すなわち「I am tired.」だよね。すると、
「うんざりさせられる計算法」はどうなる?
「計算法」が「うんざりさせられる」、すなわち「The arithmetic is tired.」だけど、これはおかしいでしょ。
正しくは「人」を「うんざりさせる」「計算法」でしょ。
動詞の態が逆なんだよ。
「計算法」は、「うんざりさせられる」側としての主語にはなれないんだよ。
ここであなたが敢えて非文法的になるような解釈をするのなら話は別だが。
>>597 いや、助詞を「能動態」と全く同じものにしても
意味が全く同じということは重要だよ。
「描く」と「描ける」の差は格支配の必要的変更を要求しない
ということを意味しているわけだから。
受身(真正の受動態)の場合には必要的変更が要求される。
「ぼくは彼を殴る」「ぼくは彼に殴られる」
「*ぼくは彼を殴られる(受動態としては意味不明となる)」
なぜここに線引きをするかと言えば、「絵が描ける」を重視すると、
「絵が描きたい」も同様に扱わなくてはならなくなるからというのもある。
欲求表現にもヴォイスの要素が含まれることを認めなくてはならなくなる。
「絵が描きたい」もまた、「絵を描きたい」と全く同じ意味で言える。
600 :
590 :2006/09/13(水) 02:36:33
>>598 僕が飛ばした紙飛行機。
紙飛行機を飛ばした人。
これでも分からない?
「飛ばしたX」と言った場合、
Xは行為者か客体か分からない。
つまり多義的。
これに、
「紙飛行機を」を付ければ、Xは行為者であることが確定するし、
「僕が」を付ければ、Xは客体であることが確定する。
>>598 の例文においても、
「企業や行政機関は」(この場合、主題化された主格だよね)と現れている以上、
「うんざりさせられる計算法」の、
「計算法」は、主格として「うんざりさせられる」にかかる可能性を否定される。
つまり、消去法的に、「計算法にうんざりさせられる」→「うんざりさせられる計算法」であることが確定する。
一つ聞きたいが、
>>598 は日本語の母語話者?
601 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 02:55:38
変なのが住みついちゃったなあ・・・。 追い出せれるか??
602 :
590 :2006/09/13(水) 02:59:01
>>599 通常の受動文と同じレベルで、
ヴォイスの要素を認めなければならないとは始めから思ってない。
ただ、ある条件で、ヴォイス的な要素が入ってくる事が有る。
程度は言っても良いんじゃないかと思う。
本来1つの表現だった「られる」という助動詞だって、
一方では可能を意味するようになり、
一方では受動を意味するようになったわけで、
ここから態で、ここからは態ではないという境界線は無いと考える。
「描きたい」だとどうだろう。
「あの子に絵が描きたがる」とは言えないわけで、
形容詞になってるんだからと考えてもいいけど、(動詞の変化形だからダメか?)
「たがる」になった段階で感情の表現ではなくなってるよねぇ。
「〜たい」に関しても、個人的には、
限定的にではあるが、ヴォイスの要素を認めたいんだけど、
人によって、切る場所が違うだけのような気もする。
あとは「分かる」っていう動詞も両構文がありうるから問題になるかな。
この解釈の問題は、傍論にあたるもので、
文章の解釈に違いが出るようなものではないけれど・・・
603 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 03:05:12
>>590 >文章の混乱の可能性を完全に排除しなければならない文章であれば、
>尊敬なら「なさる」、可能なら「〜できる」と言えばいいわけで、
>そう言う回避方法が有るにもかかわらず、 「日本語にはそのような余裕が無かった」は無いだろう。
動詞に限って指摘したわけではないのだけど。
また、「なさる」や「〜できる」という表現を使うと、
文語が長くなるほか(e.g. 「見れる」→「見ることができる」、「考えれる」→「考えることができる」)、
日本語本来のやまと言葉よりも「漢字熟語の動詞化」というスタイルに傾倒しやすくなる。
「作曲できる」というのは単に「作曲」という漢字熟語に「できる」を付けただけだが、
そうなると今度は「作曲できる」の原型としての「作曲する」が果たして正当な日本語動詞なのかどうか
という議論が出てくる。
普通の日本語辞書にはこのような語が索引として出てくることはなく、単に「作曲」だけとある。
そして解説を読むと、「音楽作品を創作すること」とある。
「作曲」そのものが名詞なのか動詞なのかという定義は無い。
「する」が付いていないことからこれを名詞とする人もいるが、
こういった漢字熟語があたかも動詞として機能しているかのような構文様式で日本語を書く人もいる。
そもそも動詞としても機能する言葉を中国から輸入したのが「作曲」といった語彙なのだ。
日本語では、動詞の態に限らず、
文中における単語の役割やそれに基づく意味合が何なのかという時点で
表現の多義性にくるまれやすくある。
このあいだ挙げた「政府の防衛費削減の意思表明」という句はその例だ。
こういった句が何を指しているのかを僕達は日常的に理解できているらしいが、
繊細なところを突っ込んで考えてみると、
語同士の関係構造が錯綜していてよくわからなくなる。
604 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 03:18:31
>>590 >英語は文法数があるから、「複数」と言うものを明示できるが、
>そのせいで通数を表現するためにはa X or Xsとやらなければならなくなった。
そう?
いちおう government といったふうに一般概念としての「政府」を通数的に表すことはできるよ。
これに加えて、
a government, governments, the government, the governments
といった区別が可能となっている。
人によっては更に God と god みたいに頭文字の大小を使いわけることもある。
(ちなみにそれによって話者の議論的立場を識別できたりする。
God はキリスト教的有神論者、god は無神論者、Gods はヒンドゥー教的汎神論者、という具合に。)
まあ世界には双数を表現できる言語もあるわけで、
なにも英語が完璧な言語であると僕は言いたいわけじゃないんだが。
>>603 文脈・文体によって使い分ければ、長くなりすぎることはない。
「〜できる」にしなくても文脈上明らかな場所は言い換えなくてもいいわけだから。
「今日図書館に行ったらあの本が借りられるよ」
と言った場合、
「今日図書館に行ったら、あの本が第三者によって借りられる」
という解釈をする人はいない。
「先生はいかれたよ」は、先生が変になったと解釈されそうだから、
「先生は行きなさったよ」とでも言いかえればいい。
>日本語では、動詞の態に限らず(以下略
単に隣の芝生が青くみえてるだけだと思う。
日本語で、自動詞と他動詞が、たいてい異なった形になっているのは、
英語なんかに比べると日本語の論理的な点だろうし、
明確な表現をしたければ、利点を生かすように日本語を使っていけばいい。
諸外国語だって、日常ずっと明確に表現しようとしているわけじゃないし。
>>604 単数双数複数なんて文章の明晰さと全く関わらない部分でしょ。
数を明確にしたければ、「数詞」っていう便利なものがある。
名詞は基本的に通数、数に言及したければ、
数詞をつけるか、「複数の」に当たる形容詞を付ける、という表現法のほうが、
分析的だし、便利だと思うぞ。
606 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 04:17:14
>>590 >「ら抜き」を強硬に認めようとすることにも、合理的な根拠は無い。
それは僕の論点をちょっと歪めている。
僕は
「ら抜き言葉を否認することには慣習上の準拠性は有っても言語学上の合理的な根拠が無い」と指摘し、
「ら抜き言葉を是認することには慣習上の準拠性は無くても言語学上の合理的な根拠が有る」と提示している。
607 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 04:17:50
[606]のつづき・・・ >言語学は、慣習法の体系に近いものなんだよ。 慣習法の体系に近くても、慣習法そのものではない、という点に注目したい。 今の日本人は日本語についてなにかと去勢されたようなかんじがあって、 2ch用語やギャル言葉とは別に「日本語」そのものを体系的に開発したり創造しようっていう積極性が無く、 日本語の使用がますます通俗的になっているもんだから、 これに慣習法としての性格がいくらか見いだされてもおかしくはない。 それでも言語の使用は、たとえば正月にお宮参りをするといった行為とはやはり本質的に違う。 言語は、内面の意思や思考や感情を外へ汲み出すための道具としての機能を核とする。 そこには、個人の主観を超えた客観的な原理が存在し、 掴み所の無い慣習的情報とは異なって操作可能な「実体」がある。 それだから人は言語を対象化してこれを育てることができる。 なぜ僕が「慣習上の準拠性」よりも「言語学上の根拠」に傾倒しているのか。 それは日本語を言語として育てたいという気持が僕にはあり、 その作業を他の日本語話者達とで共有したいからだ。 一方で「ら抜き言葉」を抑圧している人達は、 自分の慣れ親しんでいない語形にたいする主観的な違和感から これを排除して日本語の発展を凝結しようとしているにすぎない。 それだから「ら付き」と「ら抜き」に関する文法的眼識の定着に数百年といった時間がこうしてかかっている。 慣習にしがみついていれば発達が滞るのは当たり前だ。 先進国であるにもかかわらず、そんなことだから日本は、 日々どんどん生まれている新しい概念についてこれをつれづれに外国語からカタカナで流用するしかなくなっている。 「e-mail」や「download」に当てる日本語を日本人はいまだ発明していない。 そういった概念を自分達がなにかしらの日本語で口にするところを想像すらしない。 慣習を越えたところに広がる空間を「日本人として」開拓する力に乏しいわけ。
608 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 04:27:10
>>594 >「書く」も「書いた」も能動態だが形が違うから
>「書いた」は能動態の完了態だと言えるかね?
「書く」と「書いた」とを区別するのは時制であって態じゃないよ。
609 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 05:33:33
>>600 >「飛ばしたX」と言った場合、
>Xは行為者か客体か分からない。
>つまり多義的。
>
>これに、
>「紙飛行機を」を付ければ、Xは行為者であることが確定するし、
>「僕が」を付ければ、Xは客体であることが確定する。
あなたの言っていることは正しい。が、
[585]の例文では、まず、
「うんざりさせられる(ことも多かったそれまでの)計算法」
について、
上記の「僕が」とか「飛行機を」に当たるような言葉がそもそも無い――
「1960年代、企業や行政機関はコンピュータを取り入れ、時間がかかり、
うんざりさせられることも多かったそれまでの計算法は時代遅れのものとなった。」
で、あなたは一つ勘違いしている点がある。
僕が指摘したのは
「計算法」を形容する「時間がかかり」と「うんざりさせられる」との間に主体関係の相反があり
こういった表現を日本人はごく普通にする、
ということであって、
「計算法」の格はどう確定されうるかということではない。
「計算法」は
「時間がかかり」の主体にはなれるが
「うんざりさせられる」の主体にはなれない。
受動態動詞「うんざりさせられる」の主体(受け手)は「人々」(或いは「社員」)であって「計算法」ではない。
610 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 06:06:44
>>600 >「企業や行政機関は」(この場合、主題化された主格だよね)と現れている以上、
>「うんざりさせられる計算法」の、
>「計算法」は、主格として「うんざりさせられる」にかかる可能性を否定される。
>つまり、消去法的に、「計算法にうんざりさせられる」→「うんざりさせられる計算法」であることが確定する。
すなわち例文における「計算法」は補語(与格)であると?
でも、「時間がかかり」との関係では主語(主格)になるよね。
僕が問題としているのはこの格の不一致のことだよ。
それと、あなたはとんでもない見落としをしている。
例文は2文節から成っていて、
1文節目の主格が「企業や行政機関は」、
2文節目の主格が「計算法は」
ということになっている。
「企業や行政機関は〜した、だから、計算法は〜となった」
という構造。
2文節目の主格を1文節目のそれが占有することはできない。
君の消去法は効力を有さない。
また、「消去法的に確定する」とはいうものの、
そんなことをしないと格が発現できないようでは
やっぱり日本語の構文に自律性とか自己完結性の難点があるということだよね。
>
>>598 は日本語の母語話者?
僕は日本語の母語話者だ。
外国語の母語話者に日本語を教えたりするなかで
「ら抜き言葉」などの問題にますます注目するようになった。
長きにわたって主張や議論したい人は名前をコテハンにしてくれないかなあ。 書いてる当人は自分が書いたのがどのレスかわかるからいいんだろうけど、 読んでる方としては大量のレスのうちのどれとどれが同一人物のレスかを 考えなければいけない時点で読む気をなくす。
612 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 11:04:09
まんこ
言葉を改良するのは合理的だが、あまり不都合のない言葉なら 変えないことも合理的な考え。 だから、そう簡単には移行しないのです。
「見られる」などが可能と尊敬と自発と受身の4通りに解釈できることが不都合だと 考える人がいるから(もちろんそれだけではなくて単に可能動詞からの類推などもあるだろうが)、 ら抜き言葉が発生して、それを好んで使う人がいるんじゃないの? それを不都合と考えない人もいて、そういう人は変化に抵抗しているわけで。 今までの日本語の歴史上で起こった変化で、その移行期にどんな抵抗が あったかを知るとなかなか面白いよ。
>それを不都合と考えない人 むしろおかしな変化を不都合と考える人と言った方が
>「見られる」などが可能と尊敬と自発と受身の4通りに解釈できることが不都合 これは一番、説得力がない説明。 五段活用動詞のように「ら」がなくても伝達上、問題ないことに 気づいたというのが正しいと思う。 しかし、言葉は伝われば良いというものではないと多くのひとが 考えるので、すぐに置き換わるものではない。
617 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 14:57:02
とまあ、そういう風にも考えれる。
>>609 ,610
「計算法に」うんざりさせられる。
「計算法に」時間がかかる。
両方とも、形として現れている格は同じ。
「時間がかかる計算法」
「うんざりさせられる計算法」
何の矛盾もないよ。
「1960年代、コンピュータの普及の結果、
時間がかかり、 うんざりさせられることも多かったそれまでの計算法は
時代遅れのものとなった。」
でも問題無い。
「最近、時間がかかり、うんざりさせられることも多かった従来の計算法は時代遅れのものとなった。」
も問題無い。
>また、「消去法的に確定する」とはいうものの、
>そんなことをしないと格が発現できないようでは
>やっぱり日本語の構文に自律性とか自己完結性の難点があるということだよね。
消去法的な格の確定なんて日本語よりも英語のほうが得意技だし、
どの言語でもよく使われる方法だよ。
>僕は日本語の母語話者だ。
>外国語の母語話者に日本語を教えたりするなかで
>「ら抜き言葉」などの問題にますます注目するようになった。
隣の芝生が青く見えてるだけ。
>>606 ,607
僕は ら抜きの存在しない方言において、
「ら抜き言葉を否認することには、慣習上の準拠性は有り、言語学上の合理的な根拠が無い」と指摘し、
「ら抜き言葉を是認することには、慣習上の準拠性は無く、言語学上の合理的な根拠が無い」と提示している。
ら抜きを是認するか否認するかについて、言語学は中立だよ。
619 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 20:03:05
>>616 でも、置き換わることに抵抗する悪の国民たちも、そろそろ反省してくれると思います。
だから大丈夫ですよ。
>>619 置き換わるのが異常だと思わないのが悪の国民だヴァカ
反省するのはお前みたいな奴
621 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 20:20:29
>>可能と尊敬と自発と受身の4通りに解釈 「られる」を尊敬に使うのがうるさい感じがする。 >タイトルを取られた >娘さんにほれられた
>>620 今まで色々日本語も変化したし、その度に古い表現が新しい表現に置き換わっていく
過程があったわけですが、それも異常ですかそうですか
>>622 置き換わる事に抵抗するのが悪と言うのに比べたらよほど正常
>>623 別に抵抗することが悪とは俺は思わないけど、今までの日本語の変化の多くは
そうした抵抗があったにも関わらず、その甲斐なく(?)定着していったわけで。
例えば江戸時代に「アウ」(開口音)と「オウ」(合口音)の発音が合流したけど、
合流していく頃にはそれに対する批判があったり、正しい使い分け方を記した
本を著して、なんとか発音の区別を保とうとした人もいた。
結局合流したけど。なんかそういうふうに、抵抗も結局徒労に終わる気がするんだよね。
可能動詞の発生は五段他動詞/一段自動詞の対をなす動詞(解く/解ける)からの類推である(
>>565 =俺参照)。
ら抜きに関して「ar抜き」という説がある(
>>153 参照)。
kak-u(書く)
kak-ar-eru(書かれる)
kak-eru(書ける)
mir-u(見る)
mir-ar-eru(見られる)
mir-eru(見れる)
ら抜きである「見れる」は可能動詞である「書ける」と同じく「書かれる」「見られる」からarが脱落したものであるというもので、
これを根拠に「どちらもar抜きであるからら抜きを認めない理由は無い」としてら抜きが主張される。
>>153 では
>五段活用の「可能動詞」ができる過程で音が脱落したと考えれば、「ar」が抜けたとしか説明ができないからな
とあるように可能動詞は「書かれる」からarが脱落したものであると述べている。
>>565 と
>>153 は相反するが、どちらが正しいのだろうか?
一般の日本人は開音節を音素として認識しており子音と母音に分けたレベルであるarを抽出する意識があるとは考えにくい点からして
ar抜き説は問題がある。
>今まで色々日本語も変化したし、その度に古い表現が新しい表現に置き換わっていく
>過程があったわけですが、それも異常ですかそうですか
言い換えると「ら抜き言葉を否定していらっしゃいますがならば言語の変化を否定するのでしょうか?」となるが、
ここには「ら抜き言葉を否定することと言語が変化することを否定することは同値である」という前提が隠れている。
上位語を主語にする文が成り立てば下位語を主語にする文も成り立つがその逆は成り立たない。
ら抜き言葉は言語の変化の一種(ら抜き言葉⊂言語の変化)でありら抜き言葉=下位語、言語の変化=上位語である。
よって
>>622 の意見は成り立たないと思われる。
>その逆は成り立たない すまん、ここが紛らわしいな。「逆が成り立つとは限らない」と解釈してほしい。
「ら抜き言葉は方言で古くから使われているから共通語でら抜き言葉が広まるのは問題ない」といわれるが、 「共通語でら抜き言葉が誤用とされているのだから方言でら抜き言葉が使われるのはゆゆしきことである」も成り立つのであろうか? 前者は方言を根拠に共通語の規範(ら抜きの可否)を述べており、後者は共通語を根拠に方言の規範を述べている。 後者は「方言の弾圧の思想」と呼ばれるであろうが、一方で前者を認めればダブルスタンダードであろう。
>「ら抜き言葉は方言で古くから使われているから共通語でら抜き言葉が広まるのは問題ない」といわれるが 誰がいつどこで?
630 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 22:30:48
>>618 >>また、「消去法的に確定する」とはいうものの、
>>そんなことをしないと格が発現できないようでは
>>やっぱり日本語の構文に自律性とか自己完結性の難点があるということだよね。
>消去法的な格の確定なんて日本語よりも英語のほうが得意技だし、
>どの言語でもよく使われる方法だよ。
例を挙げてくれると助かる。
>>625 確かに普段の日本人は開音節を音素として認識しているが、
「書かれる」→「書ける」、「読まれる」→「読める」、「打たれる」→「打てる」、
「足される」→「足せる」のような変化が実際に起こったのだから、
「ar抜き」と解釈することも可能。
また、「走る」・・・「走れる」との類推から「見る」・・・「見れる」のような形ができたと
解釈することも可能。
どちらも五段活用からの類推であり、両方同じ形に行き着くのだから、
「どちらも正しい」と言えるのではないか?
632 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/13(水) 22:50:49
長文乙
>>629 面倒だから、Yahooの辞書から。
The lady who you met this morning is a professor of music.
このwhoが、後に出てくるmetに対して目的格だっていうのは、
whoのあとのyou metによって決まる。
>>631 可能動詞の起源って諸説あるみたいだけど、
「書かれる」→「書ける」っていう変化は起こったことがないんじゃないかな。
上のほうで出てるように、
>可能動詞は五段活用の他動詞と一段活用の自動詞(焼くと焼ける)
>の対の類推で発生したものである。
という説と、
書き得る→(kakieru→kakeru)→書ける
という説が主流じゃない?
一段動詞の可能動詞化に関しては、5段の可能動詞からの連想だけど。
634 :
変な在外言語学者 :2006/09/13(水) 23:16:48
>>625 >一般の日本人は開音節を音素として認識しており子音と母音に分けたレベルであるarを抽出する意識があるとは考えにくい点からして
>ar抜き説は問題がある。
一般の日本人は開音節を音素として認識しているのだとする考え方のほうに問題がある。
次に挙げる2つの文の関係を考えてみてほしい――
1: それをやってしまえばおしまいであるよ。
2: それをやっちまえばおしまいだよ。
自分の言葉を開音節にもとづいて認識するのが日本人にとって基本となっているのならば、
正式的・標準的な1の表現における開音節が子音と母音とに分かれて凝縮した2のような文を僕達が口にしたり文字にしたりするのは不可能で、
かわりに次のような文が標準語圏において一般化していたはずだ――
3: それをやってまえばおしまいであよ。
4: それをやっしまえばおしまいでるよ。
だけどもそういう事実は無い。
日本人はたしかに2に見られるような音素の短縮化を日常的におこなっているのであり、このことから、
音素を子音と母音とに分けて(ごく瞬間的・無意識的にだが)捉える能力を日本人は有している
ということがわかる。
繰り返しになるが、日本語において定義されている47つの音節は
日本語話者の音素をあくまで「抽象化」「一般化」してできた図における記号にすぎない。
日本人の意識はことごとく開音節に依拠しているのだとする説は
その五十音図のもとで国語を理解するよう学校などで教えられて育ったことによる日本人自身のイデオロギーから出発している。
かりに日本語がベトナム語のようにラテンアルファベットを採用する場合には
活用などにたいする一般的な日本人の理解が革新することになるだろう。
もちろん五十音図を棄てる必要はまったくないが、
日本語において実際に機能している音素のあり方を考察するためのツールは必要だ。
635 :
変な在外言語学者 :2006/09/13(水) 23:41:03
>>618 >「計算法に」うんざりさせられる。
>「計算法に」時間がかかる。
>両方とも、形として現れている格は同じ。
>
>「時間がかかる計算法」
>「うんざりさせられる計算法」
>何の矛盾もないよ。
残念だが
[585]の例文では「計算法」が2文節目の主格であり
正しくは
「計算法は・うんざりさせられる」
「計算法は・時間がかかる」
という構造が僕達の対象となっている。
また、このほかにあなたが挙げる例文――
「1960年代、コンピュータの普及の結果、
時間がかかり、 うんざりさせられることも多かったそれまでの計算法は
時代遅れのものとなった。」
および
「最近、時間がかかり、うんざりさせられることも多かった従来の計算法は時代遅れのものとなった。」
においても、
明らかに「計算法」が文の「主格/主語」となっているのだから、
あなたが主張するように「うんざりさせられる」と「時間がかかる」の「与格/補語」としてこれを据えることは
できない。
636 :
変な在外言語学者 :2006/09/13(水) 23:43:25
[635]のつづき・・・ 「計算法は・うんざりさせられる」 「計算法は・時間がかかる」 を変化させたものとして 「時間がかかり、うんざりさせられる(ことも多かった従来の)計算法」 が[585]の例文に組み込まれているわけだが、 「計算法」は 「時間がかかり」の主格にはなれても 「うんざりさせられる」の主格にはなれない。 これにたいしてあなたは[618]で 「計算法」を与格あるいは補語として捉えるよう答えているが、 既に明らかにされているように「計算法」はそのような脇役ではなく主役そのものなのだ。 だから、この主役に係る動詞は 受動態「うんざりさせられる」ではなく 能動態「うんざりさせる」でなければならない。 「計算法」が受身的に何者かによってうんざりさせられているわけではなく、 自発的に何者かをうんざりさせているのだ。 そういった個と個との関係を漠然と記述してしまうクセが日本人にはよくある。 文意が日本人同士で通じるかどうかを僕はここで問題としているんじゃない。 日本人が日本語をシステムとしてどれだけ有効に合理的に扱えているかに着目している。
なんでレス番を[]でくくるの? ポップアップしないんだけど。
638 :
変な在外言語学者 :2006/09/13(水) 23:56:55
>>633 >The lady who you met this morning is a professor of music.
>
>このwhoが、後に出てくるmetに対して目的格だっていうのは、
>whoのあとのyou metによって決まる。
それが「消去法による確定」ってやつなのか?
名詞/名詞句に続く関係代名詞はいつも目的格になるんだよ。
英語は、語順が比較的奔放な日本語とは事情が違う。
両者を無理に同一視する必要は無い。
639 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/14(木) 00:03:14
>>637 > なんでレス番を[]でくくるの? ポップアップしないんだけど。
そうですよね。掲示板の文化も習慣も利便性も、どうでもいいんでしょう。
そういう「唯我独尊」の思想が文章にも にじみ出ていて こっけいですね。
>>637 場に相応しいテキスト記述が出来ないのに
言葉について詳しいつもりで用語ばかりこねくり回す、
所詮その程度だって事。
そもそも、動詞と名詞が形の上で同型のものがゴロゴロある、
名詞の明示的な屈折は主格と一部属格だけ、代名詞屈折も主格と斜格だけ、
(myなどは所有形容詞であって属格では無い)
動詞の法(mood)や不定形語尾もほぼ完全に磨耗してなくなっている、
なんていう「悲惨な状況」の言語である英語が
「
>>607 式日本語劣等言語論」の「価値体系」の上で
日本語に比べてさえ優れた言語などとはとても思えないんだがね。
特に品詞が印欧語の中では異様なほどの文脈依存になることと、
法語尾が壊滅して表現の幅が著しく狭まっていることは致命傷だ。
>>607 にとって理想の言語はサンスクリット語くらいしかないよ。
サンスクリットを現代の生きた言語として教えている村がインドにあるそうだ。
インドに移住でもすれば幸せだろうに
>>607
642 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 00:21:35
>>639 それしか言うことがなくなったの?
自分達の内輪的な法則に外部の者が馴染むまでの時間を許容することもできないあなたが
なぜ「唯我独尊」を語れる?
僕は2ちゃんねるの初心者だ。
レス番については君達に言われたとおりにする。
人格攻撃を始める前に、僕にたいする反論を素直に続けてくれないか?
にょきにょきと独りで頭を出している僕のようなキノコを「唯我独尊」とは呼ぶものの、
自分の思うところをとことん明らかにしてゆけば
自分の意見にたいするいろんな批判に出会えるチャンスも増えてくるわけで、
思想生活的には悪い事態にならない。
臆病になる必要はない。
批判を恐がる必要はない。
誤った点が自分の意見に見つかったら、それについて内省すればいい。
僕の文章から何がにじみ出ていようが
このトピにおける議論に貢献できるような点であればどんどん指摘してほしい。
だけど君はそれをしていない。
単に僕にたいする人格攻撃をしているだけだ。
>>635 ,636
計算法のあとに「は」って続いていることと、
「時間がかかる計算法」、「うんざりさせられる計算法」の「計算法」が、
「時間がかかる」「うんざりさせられる」に対して、どういう格関係になっているかは、
全く無関係でしょ。
例えば、
「今日読んだ本は面白くなかった」も、文法的におかしかったと指摘するわけ?
644 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 00:47:14
>>641 >>607 は僕の投稿だが、
はたして僕は日本語について言語体系としての「最終的な限界」を主張しているだろうか?
僕は、
現代の日本人が体系的な造語活動などに関して怠けているのだと言っているのであって、
日本語を本質的に劣等な言語として侮辱しているわけじゃない。
言語は、どれも、その話者達によって開発されてゆく余地をいつでも持っている。
その機会を今の日本人は有効に使っていないということ。
「ら抜き/ら付き」問題など、日本語には議論を呼ぶ文法上の特質がある。
それらが仮に「難点」であるならば、これは話者達自身によって克服されることができる。
だがそれをするだけの積極性が今の日本人には無いということ。
今の日本人は、日本の内容を系統的に創造してゆくだけの力をあまり持っていない。
かわりに、
古い慣習に固執しながらもこれを
アメリカなどの外部文化圏からの影響に従って無防備に汚染させてゆくという
無意識的な自虐というか精神分裂病に陥っている。
外来のカタカナ語は新語として輸入されるだけのものではなく、
従来の由緒正しき日本語を「置き換える」かたちででも使われている。
あなたのように日本語の素晴らしさを語る人がいる一方で、
大勢の日本人が日本語を毛嫌いするようにカタカナ語を使い回している。
「管理」は「マネジメント」であり、「音楽家」や「芸術家」は「アーティスト」である。
「日本語劣等言語論」の「価値体系」に浸っているのは
僕のような変な在外言語学者ではなく
今の一般的な日本人達自身なのだ。
その自虐的な価値体系にたいする批判の一環として
僕の「ら抜き」擁護の姿勢がある。
この事をあなたは理解していない。
645 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/14(木) 00:58:10
長文乙。 そのうち飽きるだろう。
結局何を言いたいわけ?
648 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 01:46:38
>>643 >計算法のあとに「は」って続いていることと、
>「時間がかかる計算法」、「うんざりさせられる計算法」の「計算法」が、
>「時間がかかる」「うんざりさせられる」に対して、どういう格関係になっているかは、
>全く無関係でしょ。
>
>例えば、
>「今日読んだ本は面白くなかった」も、文法的におかしかったと指摘するわけ?
>>585 の例文と、
あなたが上で挙げている例文との違いがわからないの?
>>585 「・・・、時間がかかり、うんざりさせられることも多かったそれまでの計算法は時代遅れのものとなった。」
>>643 「今日読んだ本は面白くなかった」
>>643 では主格(本)を形容する動詞が1つ(読んだ)しかないが、
>>585 ではこれが2つ存在する。
そしてこの2つのあいだに態の相反が起こっているわけ。
「時間がかかる」が「計算法」を主格に据えることはできても
受動態動詞「うんざりさせられる」の受け手として「計算法」が振る舞うことはできない。
言うべきは、
動詞を能動態にした「人々をうんざりさせる計算法」だ。
しかし日本語の世界ではこのような「人々」といった概念を述べる習慣が無いよね。
すると、「計算法」そのものとは相対関係にある「人々」の感情「うんざり」という語を選択することがそもそもまずかった
ということになる。
かわりに「厄介」とか「面倒」といった言葉で形容していれば問題は無かった――
「・・・、時間がかかり、面倒だったそれまでの計算法は時代遅れのものとなった。」
649 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 01:48:26
>>648 のつづき・・・
「計算法」のあとの「は」の件だけど、
文法上の主格となっている「計算法は」を文法的に形容するためには
「(計算法は)時間がかかる」と「(計算法は)(人々を)うんざりさせる」というように
態の一致を図らなければならない。
これについてあなたはそんな必要が無いのだと言う。
たしかに、日本人同士での日本語のやりとりを観察するところでは
あなたの意見が当てはまる。
するとだけど、
日本人は、
文を読み取る上で文法以外の何かを動員していることになる。
これが日本語文におけるメタ情報だ。
「時間がかかり、うんざりさせられることも多かったそれまでの計算法は時代遅れのものとなった」
という文を読むさいには、
「計算法」にたいする「時間がかかる(り)」と「うんざりさせられる」との態の不一致を「許容する」
という前提を持たないことには
「計算法は」と「うんざりさせられる」との主辞・賓辞関係の意味的破綻が目について認識されてしまう。
この破綻をスルーするための仕掛が日本語ネイティヴの認識機構には秘められているということ。
650 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 01:51:23
>>649 のつづき・・・
次の文を考えてみてほしい――
「身支度で時間がかかり、そのせいでこれまでうんざりさせられることも多かった僕はついに彼女に文句を言った」
>>585 の例文では「計算法」の位置に当てはまる上の「僕」は、
やはり「計算法」と同様に主格である。
この主格の事実を無視するかたちであなたは以前に
「計算法に・うんざりさせられる」という捉え方(すなわち左の受動態動詞の受け手となる主格が別にあるのだという論理)を出したが、
その主張を上の例文に当てはめると
「僕に・うんざりさせられる」という解釈がなされる。
はたしてこれは正しい解釈だろうか?
実のところ、
「彼女」にうんざりさせられているのが「僕」であって、
「彼女」が「僕」にうんざりさせられているわけではない。
この点で既に
>>585 において主格である「計算法」が
「うんざりさせられる」という受動態動詞を受け取ることの意味的錯綜がある
ということがわかるだろう。
そしてこのような意味的錯綜をスルーするように日本人は生まれつき慣習付けられているわけ。
651 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 01:54:26
>>646 免罪符を請願するつもりは無い。
責任は僕が負い続ける。
初心者であるということについては自分の素性にまつわる事実を部分的に表明したにすぎない。
652 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/14(木) 02:04:26
それぐらいなら、許せれる範囲かな。
653 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 02:06:33
>>647 >結局何を言いたいわけ?
まず、「ら抜き言葉」の現象には、
単に流行の影響を受けている人と、
その使用についてそれなりの論拠を持っている人とが携わっている
ということ。
次に、
伝統的・慣習的な日本語観にもとづいて
「ら抜き」が広まっているところの流行の波を抑圧し
「ら抜き」が論理的に肯定されているところの合理性を排除しようとしている人がいる
ということ。
更には、
「ら抜き言葉」の使用を叱責してくるそれらの人達にたいして
どの億劫や控制をも感じる必要が今の日本語話者には無い
ということ。
僕の長文は、
上記の点について詰問してくる投稿にたいする返答にすぎない。
>>649 おまえさんがそのまま致命的にネイティブ日本人なわけだがw
格好付けて「自分以外の日本人ネイティブを非難して悦に入る」ばかりで
自分が掘った墓穴に気づいていないかな?
>「(計算法は)時間がかかる」
これは有名な「象は鼻が長い」構文そのものだ。
最も印欧諸語に翻訳しづらい構文にあたる。
なにしろ主語と思しきものが2つも出てくるのだからね。
「象文」を「(英訳などの外国語訳のために)正しく論理的に補った形」
として堂々と提示するあたり、
致命的に「日本人ネイティブ的な非論理性」を丸出しにしているよ。
655 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 02:48:01
>>654 >>「(計算法は)時間がかかる」
>これは有名な「象は鼻が長い」構文そのものだ。
>最も印欧諸語に翻訳しづらい構文にあたる。
>なにしろ主語と思しきものが2つも出てくるのだからね。
>「象文」を「(英訳などの外国語訳のために)正しく論理的に補った形」
>として堂々と提示するあたり、
>致命的に「日本人ネイティブ的な非論理性」を丸出しにしているよ。
そっちの議論に移りたいの?
いいよ、それでも。
「象文」の論理性はたしかに訝られるものだ。
日本語におけるそういう更なる非合理的な習慣にツッコミを入れたいのなら、
僕はかまわない。
でもここは「ら抜き言葉を語るスレ」でしょ。
話題が飛んだりすると、どうせ
「激しく板違い」とか言う人がいるんでしょ。
だから僕はスルーした。
656 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 02:51:47
>>654 >格好付けて「自分以外の日本人ネイティブを非難して悦に入る」ばかりで
>自分が掘った墓穴に気づいていないかな?
僕が「非難」しているのは
能動と受動とを区別せず使い分けない習慣であって
自分以外の日本人ネイティヴそのものではない。
何度も言うように、
僕は日本人や日本語に絶対的な限界を突きつけているわけじゃない。
僕が挙げている難点は、突破しようと思えば突破できるものだ。
それをしようとしない人達がいて、
彼らの習慣を僕は批判している。
あなたは
「性質」と「個」とを同一視している。
たしかに僕は言語にたいする一般の日本人の習慣的性質を批判しているが
だからといって日本の人間という個そのものを非難していることにはならない。
現に
その習慣的性質を超えて
「ら抜き言葉」にたいする肯定姿勢を立てている個人が
日本にはそれなりにいる。
あなたの人間観のもとでは
個が性質から区別されることがなく、ラベルに埋もれてしまい、
時を得たさいに何らかの突破口を切り開くことができなくなる。
>>648 では、
「1960年代、企業や行政機関はコンピュータを取り入れ、
うんざりさせられることも多かったそれまでの計算法は時代遅れのものとなった。」
は、文法的には全く問題無いというところまでは認めるわけだね。
>>649 一応、確認。
図書館にて、「この本はもう呼んだ?」
「この本」の格は何ですか?
>>650 >「彼女」にうんざりさせられているのが「僕」であって、
>「彼女」が「僕」にうんざりさせられているわけではない。
>はたしてこれは正しい解釈だろうか?
「計算法」であれば、自動的に
「計算法がうんざりさせられる」→「うんざりさせられる計算法」が否定されるから、
「計算法にうんざりさせられる」→「うんざりさせられる計算法」となるけど、
「僕」であれば、第一の選択肢である、
「僕がうんざりさせられる」→「うんざりさせられる僕」が肯定されるので、
第二の選択肢である、
「僕にうんざりさせられる」→「うんざりさせられる僕」を選ぶ必要がない。
>>653 >僕の長文は、
>上記の点について詰問してくる投稿にたいする返答にすぎない。
ぼくも!
>>656 個と属性を混同して珍妙な文化論まがいのことを力説しているのは
おまえさんのほうだよ。
俺は、ラ抜き言葉に対して反対ではない。日本語において、数百年をかけて
可能概念が概念体系上の「鞍替え」をしつつあることの証左だと考えている。
これは日本語の歴史上「た」の成立に匹敵する大きなものだ。
これがどのような鞍替えであるかを理解するために、
ヴォイスに関する厳密で慎重な議論を吹っかけたりしたわけだ。
この可能概念の鞍替えは、
西欧語の影響であるように見えて実はそうではない。
というのは五段(四段)可能動詞は、
日本語が西欧語を本格的に知る前に成立しているからだ。
だが、俺は「日本語の構文に自律性とか自己完結性の難点がある」だの
「個と個との関係を漠然と記述してしまうクセが日本人にはよくある」だの、
「今の日本人は、日本の内容を系統的に創造してゆくだけの力をあまり持っていない」
だの、珍妙な前世紀的なステレオタイプ日本文化論を引き合いに出すことには
全面的に反対だ。こんなことは「ら抜き」の考察と全く何の関係も無い。
659 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 03:47:28
>>657 >では、
>「1960年代、企業や行政機関はコンピュータを取り入れ、
>うんざりさせられることも多かったそれまでの計算法は時代遅れのものとなった。」
>は、文法的には全く問題無いというところまでは認めるわけだね。
文法的には正しい。
「うんざりさせられる」という動詞は
「計算法」という名詞を文法的に形容している。
問題は、
その形容が人間にとって合理的な意味を成しているか(書き手の真意を表しているか)どうかだ。
「うんざりさせられる僕は」
は素直に合理的だが、
「うんざりさせられる計算法は」
を
>>657 の例文において正しく読み取るには
ある種のひねりが必要となる。
なにせ、「うんざりさせられる」がそのままの語形(受動態)で機能するには
「計算法」がいったん主格から引き摺り下ろされ
読み手の頭の中で「人々」などのような主格が別に立てられ、
「計算法」は「に」などの助詞を伴う補語として脇役に回らなければならないからだ。
そのあと、読み手は、
「時代遅れのものとなった」という述語にさいして
「計算法」を再び主語として引き上げなくてはならない。
そうでないことには
読み手が「うんざりさせられる」について頭の中で想定した「人々は」がそのまま
「時代遅れのものとなった」の主語として台頭してしまう。
660 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 04:00:03
>>649 >>657 >一応、確認。
>図書館にて、「この本はもう呼んだ?」
>「この本」の格は何ですか?
目的格だよ。
そこでの「は」は、
日本語において「主題化」を担うやつだよね。
主語を省略するという習慣のもと
「この本をもう読んだ?」
と言うと、
主語の欠損が文面に現れ、命題論理として不安定になるが、
「この本」を発言におけるかりそめの主体とするかたちで「は」が出てくると、
その響きが重心を生んで、なんとなくバランスがよくなる。
実際には論理上の解決が図られているわけではないのだが。
(要するに、論理よりも感覚、ということ。)
これを日本語における助詞機能の高度な発達とみる人もいるけど、一方で、
主体関係を明らかにしたがらないシャイな日本語ネイティヴの文体がしかたなく必要としている助詞機能の兼用化だろうとする人もいる。
661 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 04:00:54
>>660 のつづき・・・
ここであえて主体を明示すると次のようになる――
「おまえはこの本はもう読んだ?」
「あの人はこの本はもう読んだかな?」
ここでの「は」がもうめんどくさいということで省略する例は多い――
「おまえこの本もう読んだ?」
「あの人この本もう読んだかな?」
こうなると語順とかけっこうどうでもよくなる――
「もうこの本おまえ読んだ?」
「あの人もう読んだかなこの本?」
>>660 >主体関係を明らかにしたがらないシャイな日本語ネイティヴの文体が
>しかたなく必要としている助詞機能の兼用化だろうとする人もいる。
こういう昭和40年代のカッパブックスに出てくるような
安っぽい三文なんちゃって日本文化論を言語文法論に絡めるなよ。
「は」の文法法則と安物ステレオタイプ文化論との間は何の関係も無い。
それが証拠に、「日本人のシャイな性格」を身につけなかった
米国帰りの帰国子女やアメリカンスクール出の英語ペラペラの米国人が
「この本はもう読んだ?」や「もうこの本おまえ読んだ?」
のような日本語を使わない傾向があるといえるかね?
俺の知る限りむしろ逆だが。
(アメリカ帰りの帰国子女、特に女子は文章語においてさえ
格助詞の使用を省略する傾向がある。「は」の使用は日本人と変わらない)
663 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 04:46:53
>>658 >俺は「日本語の構文に自律性とか自己完結性の難点がある」だの
>「個と個との関係を漠然と記述してしまうクセが日本人にはよくある」だの、
>「今の日本人は、日本の内容を系統的に創造してゆくだけの力をあまり持っていない」
>だの、珍妙な前世紀的なステレオタイプ日本文化論を引き合いに出すことには
>全面的に反対だ。
日本人にとって珍妙なそういった日本文化論にたいする日本人自身のステレオタイプそのものが今は発生しているわけだが。
「日本の内容を系統的に創造してゆく力」について簡単に尋ねる。
「音楽」を「ミュージック」に、「歌手」を「シンガー」に、「位」を「ランキング」に置き換え
「computer」を「コンピュータ」と、「e-mail」を「E(イー)メール」と、「download」を「ダウンロードする」と綴る
ということしかできなくなっている今の日本人の背景に、
「日本の内容を系統的に創造してゆく力」の貧窮があるとはあなたは思わないのだろうか?
(つづく)
664 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 04:47:40
>>663 のつづき・・・
そんなものは「ら抜き言葉」の議論には関係ない、とあなたは言うが、
すると言語の認識学的な性格にたいするあなたの洞察に不備があるということになる。
英語論文で日本人が典型的に受動態動詞を多用することは知られている。
これは日本語における「られる」という語形にたいする僕達の感覚的な慣れに由来する。
ではなぜ日本人は「られる」の語形を重用し慣用化しているのか。
それは日本語の使用において僕達がごく日常的に主語を欠いた文体を用いることと関係している。
主体を明示しないという条件のもとでは、
単なる自発動詞から構成される文よりも
受身動詞とそれに係る与格(補語)とによって構成される文のほうがまず文語数的に豊かであり、
主体関係を明らかにせずとも発話内容の「空間性」を生成することに貢献できる。
つまり、これまで「ら抜き」が控制されてきたことの背景には
当の話者達が
主語と自発動詞とからなる能動表現よりも
受身動詞と補語とからなる受動表現を多用してきたところの認識態度と関わりがあるわけ。
それだから、
主体の明示による個と個との関係の明確な記述を避けるクセ或いは習慣を
「ら抜き言葉」の議論において対象外とすることはできないの。
665 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 04:59:40
>>662 >「は」の文法法則と安物ステレオタイプ文化論との間は何の関係も無い。
>それが証拠に、「日本人のシャイな性格」を身につけなかった
>米国帰りの帰国子女やアメリカンスクール出の英語ペラペラの米国人が
>「この本はもう読んだ?」や「もうこの本おまえ読んだ?」
>のような日本語を使わない傾向があるといえるかね?
現行の日本語の文法や構文がそういうスタイルを許しているにすぎない。
ぬかるんだ地面では誰もの足が沈みやすくある。
>アメリカ帰りの帰国子女、特に女子は文章語においてさえ
>格助詞の使用を省略する傾向がある。「は」の使用は日本人と変わらない)
やれやれ。
英語には格助詞が無いんだよ。
格助詞を使う習慣をアメリカで身につけておけと言うのはおかしい。
ちなみに日本語における格助詞の機能は、
英語において、語順が担っている。
666 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/14(木) 05:00:28
こんな長文を きちんと 読めれる人間が 何人いるのかなー 数えれる?
667 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 05:06:57
>>662 主体関係の明示について日本人はシャイである、
という意見にたいする不満をあなたは抱いている。
では、
日本人がごく頻繁に主語を省略するのは何故なのか?
668 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 05:15:35
>>666 そういうグチをこぼすのはもうやめなよ。
僕はここで本を書いているわけじゃない。
一つ一つの投稿を読むのに一分もかからない。
669 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/14(木) 07:13:49
あー痛い痛い
長いものには巻かれろで日本人は多数派にはなると 一気に勢いづく。 ら抜きの定着は間違いないけど、言葉を大切にし、 文字をよく読み書きするひとほど抵抗感があることは あたりまえのことだ。 考えてみると、老人はたくさんの言葉の変化を 見てきたんだろうなと思う。 俺にとっては大人になって初めての大きな変化だから 相当戸惑いはある。 昨日だったか、後藤田正純議員がテレビで 自信満々に「借りれる」と連呼していた。 地盤が四国のひとだからで方言で言うから確信犯だろう。 きっと国会でもら抜きで言っていたんだろう。 ら抜き方言がまったくない関東の郊外の出身の俺としては どの動詞がら抜きを許容するのかという判断が難しい。
671 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 08:21:06
なんて恥ずかしい長文をつらつらと書き綴ってしまったのだろう… 皆さん迷惑かけてすみませんでした
672 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/14(木) 11:10:40
>>666 「読めれる」はら抜きじゃないだろw 所謂「れ足す言葉」だな。
これも、五段以外の動詞の可能形が全て(ら抜きか否かに関わらず)
最後に「れる」が付くことからの類推で生まれた形なんだろうけど。
やっぱり、動詞の活用によって可能形を作る規則が違うというのは、
今の日本語話者には負担なんじゃないかな。
だから「ら抜き言葉」やら「れ足す言葉」やらが生まれてくるわけで。
>>672 方言の影響だよ。
その理由に関東でも東京近郊以外は最近までまったく
ら抜きが見られなかった。
>>673 その方言で、類推によって「ら抜き」や「れ足す」が生まれたってことじゃないの?
何も必ず東京方言で最初に発生する必然性はないわけだし。
潜在的には関東の方言でも発生する可能性があった言葉が、
先にその言葉が発生した他の地方の方言の影響を受けて一般化したというだけでは。
675 :
673 :2006/09/14(木) 12:17:54
>>674 だから、それを言っている。
方言で言っている地域が本当に変化したものなのかどうか
わかっているのかな。
本当は最初から「ら」が付いていなかったのではないのかと
思えてきた。
さすがに「れ足す」はら抜き推進でも新文法上、
反対するだろうな。
スレの勢いが…
677 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/14(木) 14:35:17
信じれないスピードで進んでるね
だめだ長くて嫁ねー。 ここで長文書かれると迷惑だから本でも書いて出版しろ。
そうすれば読んでもらえれるヨ
680 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/14(木) 20:19:27
ーメン
今ageてレスしてるら抜きバカはキモいから死んでください。
>>665 こりゃダメだ。話にならない。
自説がグダグダの自己矛盾に陥っていることに
全く気づいていないようだ。
もし、おまえさんが
>>664 で主張するように、
一般的な日本語話者に民族文化的な
「主体の明示による個と個との関係の明確な記述を避けようとするクセ或いは習慣」
なるものがあって、それが
現実の日本語という言語における文法使用に反映すると考えるなら、
米国帰りの帰国子女は
「主体の明示による個と個との関係の明確な記述」を『行おうとする癖あるいは習慣』
を持っているはずなのだから、
それを日本語文法において反映させるためのツールである格助詞については
「それを明確に表示する癖を持っているはずだ」
とならないかね?
(続き) 日本語自体に「限界は無い」などと言っておきながら、 英語における語順と同じ価値を持つ日本語の格助詞の使用については >英語には格助詞が無いんだよ。 >格助詞を使う習慣をアメリカで身につけておけと言うのはおかしい。 などと逃げ、 さらには >現行の日本語の文法や構文がそういうスタイルを許しているにすぎない。 >ぬかるんだ地面では誰もの足が沈みやすくある。 などと自説を全面崩壊させるような議論を言い放って平然としている。 もし民俗的メンタリティーが文法使用に影響を与えるなら、 日本人よりも、より主体客体を明示したがる帰国子女は、 そのメンタリティに支えられた日本語文法の活用として 「日本人よりも格助詞を一々ハッキリ明示したがる」という 全く正反対の結論になるはずだがねえ。 帰国子女のほうが「ぬかるみに嵌りやすい」とは一体どういうことかね? こんな「日本語教師」に運悪くあたった外国人の日本語学習者には 本当に心底同情するよ。
>>675 俺は「レ足す」もまた合理的変化だと考えているよ。
俺は「
>>665 理論(と思しきもの)」のうち、
「安物日本人論」との関連を全否定しているだけで
-ar-抜きという考え方の方向性については否定しない。
俺はラ抜きの本質は-ar-抜きというより「-a-抜き」だろうと考えている。
これは上代以前の日本語で「る、らる」が成立した時に遡る話だ。
「る」と「らる」の使い分けは、未然形語尾が-aとなるものに「る」、
ならないものに「らる」が付いている。
これは要するに「-a-を添付した」ということで、子音Rは
上代日本語の特徴である「母音連続の忌避」のため挟み込まれた
介在子音に過ぎないと考えられる。
この「『る、らる』における『-a-添付』を可能表現に限って否定する」のが
おそらく可能動詞・ラ抜き語の文法的な根本的意味だろう。
アナがラ付き言葉喋ってると逆にわざとらしく感じる今日この頃。
(続き) だが、-a-接続の拒否を行う際に、五段動詞では「未然形の拒否(これは必然)」 「音添付ではなく一方的縮約」「母音連続の拒否」の方法がとられたため 可能動詞においては「行く」に対する「行ける」のように 動詞+助動詞の形ではなく融合した「可能動詞」という 「五段動詞に限って可能だけを表す特殊な自立語用言」が生まれてしまった。 これは日本語においては畸形的変化なので、 「ラ抜き言葉」の成立により助動詞「れる」を抽出できたならば、 五段動詞においても助動詞で可能を示す本来の日本語文法の王道に戻る事が可能だ。 こう考えれば、 -a-の拒否を続けながら助動詞「れる」の使用を行うことによって 「行けれる」という「レ足す」表現が成立することは合理的帰結だ。 既にアイディア自体はガイシュツなんだがね。
687 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 21:47:46
>>682 >こりゃダメだ。話にならない。
>自説がグダグダの自己矛盾に陥っていることに
>全く気づいていないようだ。
>[…]
>米国帰りの帰国子女は
>「主体の明示による個と個との関係の明確な記述」を『行おうとする癖あるいは習慣』
>を持っているはずなのだから、
>それを日本語文法において反映させるためのツールである格助詞については
>「それを明確に表示する癖を持っているはずだ」
>とならないかね?
帰国子女の経験を君が持っていなかったり知らない場合のために言っておくけど、
彼らには、
(1)その英語生活のなかで(既に
>>665 で述べたように)格助詞を重要視する習慣がもともと無く、また、
(2)proposition を正確に(命題論理的に)提出する言語として日本語を使うつもりがそもそも無い
という事情がよくある。
彼らにとって、英語は文(sentence)が基本であり、日本語は語(word)が基本とされやすいわけ。
日本語では英語のような文を織ることはできないのを知っているから、
彼らは日本語にたいしてより「言葉遊び」的な捉え方をすることになるの。
かりに敢えて正確な発話を日本語でやろうとすると、
ネイティヴの日本人から「何それ?」ってなかんじに嘲られる。
日本語がそのような可能性を秘めている一方でこれを受け容れようとしない日本人の慣習と常識があるわけ。
ところで
「こりゃダメだ」とか「グダグダ」とか「自己矛盾に陥っている」とかいう言葉で
自分の気にくわない相手をねじ伏せようとしたって
そういう形容が事実には即さないかぎり
君の返信はただの内面的な怨嗟の拡張にすぎない。
688 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/14(木) 21:48:24
689 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 22:09:01
>>683 >日本語自体に「限界は無い」などと言っておきながら、
>英語における語順と同じ価値を持つ日本語の格助詞の使用については
>>英語には格助詞が無いんだよ。
>>格助詞を使う習慣をアメリカで身につけておけと言うのはおかしい。
>などと逃げ、
>さらには
>>現行の日本語の文法や構文がそういうスタイルを許しているにすぎない。
>>ぬかるんだ地面では誰もの足が沈みやすくある。
>などと自説を全面崩壊させるような議論を言い放って平然としている。
やれやれ。
地面がぬかるんでいるのは、手入れをされていないからだよ。
改めて言うが、日本語自体には限界が無い。
主語が欠けていればこれを付け、
助詞の数が不足していればこれを足し、
動詞の活用の機能分化に不備があればこれを是正する。
そうやって地盤を固める作業がすごく消極的だから、足元がぬかるむんだよ。
助詞の「が」とか、辞書で引くと、何が出てくるよ。
あういう漠然とした定義のままで言語の基盤が固まるわけがないだろ。
ところで君は、
日本語の格助詞が英語における語順と同じ機能を持っているから
英語話者が日本語の格助詞の使い方をアメリカ生活のなかで身につけていてもおかしくはない
ということを言いたいのか?
勘弁してくれよ。
妙なことを平然と言って全面崩壊しているのは君の思考だよ。
690 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 22:10:38
>>671 だから2ちゃんねるでコテハンなんて使いたくないんだよね。
反論できなくなると今度はそういうネタでしかレスできなくなるの?
あまり理解できてないところがあるのなら、ちゃんと質問をしてよ。
僕は荒らし屋じゃない。
訊かれた点については答える。
691 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 22:12:41
>>672 >「読めれる」はら抜きじゃないだろw 所謂「れ足す言葉」だな。
>>675 >さすがに「れ足す」はら抜き推進でも新文法上、
>反対するだろうな。
僕も「れ足す」はおかしいと思う。
活用についてはやっぱりローマ字で捉える見方が必要となる。
「見られる」対「見れる」と、
「読まれる」対「読める」とは
本当は考察の対象として同じ土台にあるのだけど、
五十音図の「ら」という音節にこだわっていると
「ら」を含まない「読まれる」「読める」などを除外してしまい、議論が片手落ちになる。
これらの動詞をローマ字で捉えてみると、そのような看過は回避できる――
mir-ar-er-u / mir-er-u
yom-ar-er-u / yom-er-u
語幹に「-ar-er-u」を付けると受動、「-er-u」を付けると可能の表現として機能するのがわかる。
よって、語幹との間に余分な音素が紛れている次の活用形は上記の法則外として定義できる――
yom-ar-ar-er-u / yom-er-er-u
このような「ar」や「er」の重複は
「よまれる」「よめる」という五十音表記から見抜くことができない。
だけど国学が隆盛する頃にはこの五十音表記での捉え方が既に慣習化していたから、
動詞の活用について日本の学者達は「上一段」とか「カ行変格」といった多様な規則を作ってこれを当てはめることでしか解せなかった。
692 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 22:16:52
>>677 >信じれないスピードで進んでるね
ちなみにこの「信じれない」は「信じられない」でも正解となる。
どちらかの使用が特定的となるのは次のような場合――
@
「俺が信じれないスピードで(スレが)進んでるね」
主格「俺が」が伴う。
ただしこの主格は「スピード」に係るところの形容句のものであり、文そのものの主語は隠れた「スレが」である。
文の主語が隠れると、その欠席を形容句の主格が埋めるかたちで
「俺が・進んでる」という誤解が生じやすくなる。
これを避けるべく、「俺が」が「スレが」の道連れとなって共に省略されるような傾向が日本語にはある。
結果、主体要素が一つも無いという上の文が出来あがる。
A
「俺によって信じられないスピードで(スレが)進んでるね」
与格「俺によって」が伴う。
ここでの形容句の主格は「スピード」であり、
@とは相対的に主格と目的格とが反転している。
また、@と違って、文の隠れた主語「スレが」の席が別の言葉に占有されるおそれはない。
693 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 22:21:18
>>692 のつづき
現行の日本語では基本的にAの場合における与格(補語)をさらに省略したかたちで
「信じられないスピードで進んでるね」という文体を使うことになっている。
@のようなストレートな文体はもともと日本人の間では標準化せず、
だからAの「られる/られない」が「れる/れない」に勝って日本人の感覚にこれまで馴染んできた。
両の語形の間にはちゃんとした文法的相関関係があるものの、
お得意の省略文体によって日本人はこれを認識する手掛り(主格や与格の存在)を失いやすくなり、
「信じれないスピードで進んでる」と「信じられないスピードで進んでる」とを識別することを習慣化できなくなっているわけ。
このとき、@のような文体を使わないという傾向に基づく「れる/れない」にたいする「不馴染み」から、
「信じれない」を「らが抜けた言葉」と呼んで誤用とし、「信じられない」を正用とする日本人が出てきた。
そのような断定をおこなう権威者の多くは国の教育機関の中央に集まるわけで、
それによって標準語圏における「ら抜き言葉」の発展が抑圧されてしまったのでは、
と僕は考えている。
694 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 22:24:51
>>678 >だめだ長くて嫁ねー。
>ここで長文書かれると迷惑だから本でも書いて出版しろ。
もともとの投稿文はもっと長い。
削れるような箇所は削っている。
あまりに削り過ぎると、その隙間を狙った詰問や悪戯なツッコミが増えるわけで、
だから僕は、自分の意見について他人が尋ねてくるだろう疑問点をまえもって推し測るかたちでレスしている。
僕は君達を疲れさせようとしてこれまでの投稿を送ってきたんじゃない。
僕からの余分なレス数をできるだけ少なくして君達に手間をかけさせないようにしてのことだ。
逆に上のような君のレスのほうが手間取りやさんとなってる。
長文=冗長という式でせっかちな文句を言うための投稿の分は
僕の意見の内容にたいする反論にまわしたほうがいい。
ちなみに、このスレでさえ日本人にこれだけの不満を焚きつけている意見が
本として出版されるのはかえって面倒だろ。
僕は自分の意見を吟味してもらうためにこの掲示板にいる。
そういう動機や立場をおかしいのだとすると、
君自身はいったいなんでここにいるのかということになる。
僕達は牛のようにただ唸ったり喘いだりするためにここにいるんじゃない。
言語を考察しようとしているのだ。
俺は考察じゃなく単純にら抜き言葉を撲滅したいな
696 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 22:33:24
チラシの裏か本書いて出版するかどっちかにしろよ。 ここは長文読めない白痴(←なぜか返還できなかった) の溜まり場なんだから長文書かれると迷惑なんだよ。
体調わるくて長い文章読めないけど、そうじゃなかったら だいたい2chなんか見てないで本読んでるってーの
699 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 23:02:15
>>697 ほんとだ。「はくち」が「白痴」にならない。
「へんかん」はちゃんと「変換」になったけど。
日本で最大級の掲示板が
「長文読めない白痴」の溜まり場なのか?
ていうか自分の敵わない投稿をそうやって排斥してるから
なんら向上できずに停滞するほうへ群がるんじゃないの?
>>698 体調が悪いのならパソコンの画面に向かうよりもちゃんと休んでいたほうがいいよ。
700 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 23:11:34
オッス!
人がそれなりに多いと、 掲示板であろうともチャットに近くなる。 そうなると長く喋るのが嫌われるのは当然の道理。
702 :
変な在外言語学者 :2006/09/14(木) 23:13:14
703 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/14(木) 23:16:18
要は 初 心 者 は 半 年 R O M れ ってことだな
704 :
変な在外言語学者 :2006/09/15(金) 00:49:43
>>703 要は、
半年間ROMる中で議論の仕方を忘れ
羊みたいになってしまえ
ってことだな。
ケヴィン・クローンじゃないけど、
日本人はやっぱり個人対個人のディベートが厭なのかな。
群に埋もれてねちねちと周りの空気を窺っていたほうが生き方としてしっくりくるわけなのかな。
だからこういう匿名掲示板に続々と集まっては
たった一国の人口(および妙な在日朝鮮人など)で世界最大級の溜まり場を作ってしまっているわけか。
705 :
変な在外言語学者 :2006/09/15(金) 01:03:17
らがぬけて ラーメンは ーめん チョルラナムドはチョルナムド 色はカー アッラーの神はアッー!
707 :
変な在外言語学者 :2006/09/15(金) 01:31:15
>>705 お前が喋り杉だって暗に言われてるんだよアホ。
行間くらいそれなりに読めるようになってから言語を語れ。
709 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/15(金) 01:35:19
なかなか諦めれない、頭のカタい学者崩れが多いんだね
711 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/15(金) 01:47:36
712 :
変な在外言語学者 :2006/09/15(金) 01:54:02
713 :
変な在外言語学者 :2006/09/15(金) 01:56:40
>>708 >お前が喋り杉だって暗に言われてるんだよアホ。
>行間くらいそれなりに読めるようになってから言語を語れ。
どの行間のことを言っているのだ。
715 :
変な在外言語学者 :2006/09/15(金) 02:02:27
>>710 すると、
(1)「今回の事件は」の文法的役割とは?
(2)「米の事件をまねた」の主格と「今回の事件は」との文法的関係とは?
>>687 >(2)proposition を正確に(命題論理的に)提出する言語として日本語を使うつもりがそもそも無い
>という事情がよくある。
>彼らにとって、英語は文(sentence)が基本であり、日本語は語(word)が基本とされやすいわけ。
>日本語では英語のような文を織ることはできないのを知っているから、
>彼らは日本語にたいしてより「言葉遊び」的な捉え方をすることになるの。
どこの差別主義者の話だ?日本人のことではないぞ。帰国子女の側のことだ。
確かにドイツ語はどんな場面であっても丁寧に厳密な文を作る傾向があるが、
英語は日本語と比べても随分ひどい「単語指向言語」だけどな。
それでもイギリス人は一応文を組み立てようとするが、
アメリカ人はそれさえ「丁寧杉。無駄大杉。」と切り捨てる。
帰国子女の日本語発話を言葉遊びと捉えかねないのは一般日本人の側だ。
というのは、特に米語には複雑なmoodまたはそれを代替する語法が乏しいから、
米語の語法を引きずったままの帰国子女は
ぶっきらぼうで細かい話法を使い分けない話し方を
しばしば日本語でも行ってしまうからだ。
宇多田ヒカルや関根麻里がちょうどそのような状況に陥っている。
>>691 くだらない文化論の応酬はさておき、「変な在外言語学者」氏から
ようやく文法に関する自説の説明がなされたので、それについて述べる。
>>691 >mir-ar-er-u / mir-er-u
>yom-ar-er-u / yom-er-u
なるほど。
では一つお聞きしたいが、
とすると五段動詞「読む」において"yom"と抜き出された「語幹」と、
一段動詞「見る」において"mir"と抜き出された「語幹」は等価値ということだね。
こりゃ日本語学習者を混乱の坩堝に叩きこんでしまう説だ罠
日本語学習者が一斉にこのように活用するだろう。
「見らない」「見ります」「見った」「見る」「見れ(命令)」「見ろう」…
一段動詞と五段動詞の見極めは日本語学習の初歩なんだよ。
おまえさんはとてつもなく悪い日本語教師だよ。
718 :
変な在外言語学者 :2006/09/15(金) 02:15:34
>>711 >「諦められない」ぢゃ。ヴォケが。
He can't give up. =彼は諦められない。
He can't be given up. =彼は諦められない。
やれやれ。
719 :
変な在外言語学者 :2006/09/15(金) 02:21:36
>>708 >行間くらいそれなりに読めるようになってから言語を語れ。
>>713 >どの行間のことを言っているのだ。
>>714 >
>>701 の
>行間=真意=お前が喋り杉でウザイ
>>701 >人がそれなりに多いと、
>掲示板であろうともチャットに近くなる。
>そうなると長く喋るのが嫌われるのは当然の道理。
だからどの行間のことを言っているのだ?
720 :
変な在外言語学者 :2006/09/15(金) 02:50:39
>>716 わかってないね。
帰国子女の場合にかぎらず、日本語を英語みたく話す人は誰でもネイティヴの日本人からおかしく思われるんだよ。
そういう喋り方が日本語社会では普通じゃないんだろうなってのを彼らは
少なくとも日本人の親との会話とかで知ることになるから
「あの監督の楽曲を私はとてもよく好んでいる」なんて言わずに
「あのプロデューサーの曲すごい好き」とか言うようになるわけ。
どうしてここで「曲」にたいする助詞を付けなかったりするかっていうと、
そういう不備を継続的に矯正できるような言語環境に彼らがいないから。
現に、アメリカで暮らしていても通うのは日本人学校だけでテレビもあまり観ないっていう人は
たとえば宇多田ヒカルよりかは助詞を正しく使えたりするわけ。
帰国子女は彼らなりに
日本国内の日本語社会に身を置いた際にネイティヴの日本人から変に思われたり省かれたくないっていう気持がある。
だけども日常的に英語を使ってきたというような場合では
助詞とかの正しい使い方をしっかり頭に染み込ませるのはやっぱり簡単なことじゃないんだよ。
あなたにはそれがわからないのか?
>>719 お前、頭悪過ぎないか?
まさか行と行の間に細かい字が入ってるとか思ってないよな?
>
>>701 の
>行間=真意=お前が喋り杉でウザイ
どのも何もこれが「行間」の完全解答だよ。
行間って言うのはその人が本当に言いたい事、
つまり
>>701 が真に言いたいのは「お前ウザい自粛しろ」だって事。
ここまで言わないと(まさか、言っても?)分からないなら
学者気取るのももうやめとけよ。
日本語を全然人並みに使いこなせないんだからよ。
>>717 韓国語勉強すれば、その仕組みもわかるから
ってか、トルコ語とかモンゴル語、満州語も似てるし
日本語のようなモーラ単位で区切るのではなく、(子音−母音−子音)で区切るのも考えたほうが体系的に
きれいになる。
また、不規則動詞なんて普通だから
日本語の体系作ってきた人たちは、アルタイ系言語の研究あんまりしてこなかったんだよな
なんで子音+母音で区切るわけよw
>>722 ニダーさんよ、こんなところまで出張かい??
日本語文法を朝鮮語式に「語幹+接中辞(接尾辞)+語尾」の
三層構造で説明できるとでも?
まあ良かろう。
補助動詞や補助形容詞の末裔である助動詞が
複雑な活用をしながら重層的に重なる日本語の用言「語尾」部分について、
朝鮮語式にクリアーな三層で説明することに、チャレンジしてみるかね?
まあ頑張ってみてくれw生暖かく見守っていてやるからw
例題をだしておくか。 「食べられませんでしょうかね」という日本語の一文節がある。 これを朝鮮語式の三層構造で説明すること。
725 :
変な在外言語学者 :2006/09/15(金) 03:54:21
>>716 >英語は日本語と比べても随分ひどい「単語指向言語」だけどな。
それってさ
教育の恩恵をあまり受けることのできない低所得層の人達の習性だろ。
いいか。
日本語の場合、
たとえ政府とかの教育方針をきれいさっぱり鵜呑みにしても
命題論理として完結した文を使う習慣を身につけることは難しいどころか
方針自体がそもそも主辞‐賓辞関係の的確性と明瞭性をあまり重要視していないんだよ。
「象は鼻が長い」とか「これが好きです」を国は正用とするでしょ。
一方で英語の場合、
アメリカなりイギリスなり、正規の教育をかじればかじるだけ
英語がもともと可能としている明確なセンテンス指向を獲得できるようになるの。
>>724 だからさ、朝鮮語にあるような変則活用が日本語にもあるわけ
そういう細かいところはどの言語にもあるもんだから、そんな細かくいってたら体系的にまとまらないんだよ
極論で言えば、スペイン語の不規則動詞と英語の不規則動詞の関連を体系的に説明しろっていってるようなもんだよそれはw
727 :
変な在外言語学者 :2006/09/15(金) 03:55:13
>>725 のつづき・・・
とりあえず例を挙げる。
以下は日本国憲法の序文からの和文と英文の抜粋だ――
われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、
政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、
他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
We believe
that no nation is responsible to itself alone,
but that laws of political morality are universal;
and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.
和文のほうには、主辞(われらは)も賓辞(信ずる)もちゃんと存在するのだが、
その間にずらっと並ぶ言葉の集まりが全体の命題論理に霧を被せるようなかんじになってる。
英文では命題を頭から尻まで潔く読み通せるが、
和文では最後の「信ずる」に辿り着くまで
「われら」にたいする他の擬似的な述語(i.e. 〜を無視してはならない、〜を維持し、など)が
真の賓辞なのかどうか判別をつけることができずにこれを漠然と読み進めるはめになる。
読んでいながらも頭の中で常に「待った!」を掛けなきゃいけないわけだ。
「〜を無視してはならない」で一旦一つの命題が完結して
「政治道徳の法則は」で別の文節が開始しているということなのかどうかも
最後の「信ずる」にぶつかるまで判断できない。
この和文をたった一回読んだだけでその文構造を的確に理解できる人は少ないだろう。
「信ずる」に着くときにはその主語が何なのかを
>>600 が言ったような「消去法」で「選択」しなければならないからだ。
この消去法あるいは選択が可能となるのは
手札(文中の単語)をすべて拾い揃えてからになる。
728 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/15(金) 04:16:41
考えれない。 読み進めれない。 読む気になれない。
729 :
変な在外言語学者 :2006/09/15(金) 04:53:10
>>722 >なんで子音+母音で区切るわけよw
「なにで/nanide」を「なんで/nan'de」と短縮できるのは
君の口が子音と母音とを分割して構成しなおすことができるからだ。
「やってしまった/yatteshimatta」から「やっちゃった/yatt'hi'atta」への短縮についても同様。
730 :
妙な在外言語オタク :2006/09/15(金) 04:59:24
>>721 >学者気取るのももうやめとけよ。
「在外言語学者」というラベルを付けてきたのは
>>567 だ。
>日本語を全然人並みに使いこなせないんだからよ。
「全然」と言われるほどの間違いをしたか?
「行間を読む」と「れる」以外に例があるのなら挙げてくれないか?
それを言うと2ちゃんねるの一般投稿者や今の中学生や高校生の日本語はいったい何なんだっていう話になるが。
「人並み」っつったって、国語力の低下してる今の日本人を基準にしたら評価はもっと甘めでもいいはずだぞ。
日本で最多の訪問者数を誇る掲示板の文面がこんなんじゃ
「人並み」の敷居は高くないよな。
731 :
妙な在外言語オタク :2006/09/15(金) 05:05:14
>>721 >「お前ウザい自粛しろ」だって事。
反論もせずにただ投稿を読むのがめんどいからって自粛を迫るのか。べらぼうにすてきだね。
自粛するまえにどうしても知りたいことがある。
>>695 はら抜き言葉を撲滅したいと言ったが、
ら抜き言葉の普及を護る行為が否定され
逆にこれを撲滅する行為がスルーされるのは何故だ。
「長文」を投稿しなかったから?
それとも日本人の言語習慣の変遷を抑圧することにちゃんとした正当性があるから?
ら抜きはありだね
734 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/15(金) 06:13:43
/⌒ヽ / -_-) どうも。 | ⊃旦と) ヽ__)、__)
735 :
妙な在外言語オタク :2006/09/15(金) 10:39:19
オラオラ!俺を論破できる奴はいないのか!?誰でもいいからかかってこいや!
>>720 >英語みたく話す人
こんな言葉を書いていたら説得力はない。
若いうちは、自分たちが世の中の中心だと錯覚する。 上の世代はバカで、頭が固くて、融通がきかないだけだと思いこむ。 俺ももっと若いころはそう思っていた。 特に社会人になるまでは、なかなかこういう考えから抜け出せないもんだ。 年を重ねないとわからないこともあるんだよ。
ら抜きではない方に違和感があるひとは、出版物を読まないのだろうか? ニュース、新聞、書籍はみんな「ら入り」なんだから、違和感があるのも変な話だ。
俺はら入り方言を大事にしたいから、ら抜きはできるだけ使いません(^^
>>729 それはただ母音が脱落してなまっただけだろ
741 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/15(金) 18:21:18
話し言葉と書き言葉は別だろ
そうだな。文字で「来られる」と書いてあっても違和感を感じない人が、 実際に誰かの口から可能の意味で「来られる」という言葉が発話されるのを聞いて 違和感を持つというのは十分有り得ることだ。
ら抜きが書き言葉、話し言葉の違いだとすると ら抜き推進派の理屈は崩壊する。
>>741 それは違う。
書き言葉においては、当面使うなという指針もあるし、
物書きの大半はら抜きを使うことに積極的ではないだけだ。
書き言葉において、現在、丁寧な表現かどうかの差はあると思う。
書き言葉でらがあった方が丁寧だという感覚が
すでにあるとするなら、話し言葉においても、
ら付きが丁寧な表現として認知されるようになるだろう。
「行かれる」が丁寧、上品な表現としての地位があることを
考えるとそう思える。
「行かれる」という語感は、 「イカレる」「怒れる」「逝かれる」に通じ、 笑ってしまうようになった……
相手がら抜きを許容するかどうかわからないとき、 不特定多数に向けて発するとき、改まった場所で発するときは ら抜きで言わないから、こうなるとら抜きではない方が どうしても改まった表現に落ち着いてしまいそうだな。
748 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/15(金) 20:51:50
使役の受け身はある意味、ら抜き言葉なのだから 他でら抜き認めたら混乱が起こるし、日本語崩壊しかねない。
749 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/15(金) 21:28:33
>「行かられる」という語感は、 >「イカラレる」「怒られる」「逝かられる」に通じ、 >笑ってしまうようになった…… ? 何が いいたいんですか? 育ちが ばれてしまいますよ。惨めですね。
750 :
妙な在外言語オタク :2006/09/15(金) 22:00:27
>>736 >>英語みたく話す人
>こんな言葉を書いていたら説得力はない
別の板で「すごく」と「すごい」の違いが論じられていたが、
上の「みたく」を書いたせいで
「日本語を全然人並みに使いこなせない」(
>>721 )とか
動詞の活用に関する議論に説得力は無いとか
言えるのか?
そもそも
文が長いとか
表現が硬いとか
そういうことを言って僕を自粛させようとしているのはそっちだろ。
「英語のような文体を用いて発話する人」と
「英語みたく話す人」と
いったいどちらがいいのか
はっきりしてくれないか。
752 :
妙な在外言語オタク :2006/09/15(金) 22:23:03
>>737 >若いうちは、自分たちが世の中の中心だと錯覚する。
>上の世代はバカで、頭が固くて、融通がきかないだけだと思いこむ。
>
>俺ももっと若いころはそう思っていた。
>特に社会人になるまでは、なかなかこういう考えから抜け出せないもんだ。
>
>年を重ねないとわからないこともあるんだよ。
昔の時代に生きていた自分の経験を参考に
若い頃の人間というのは閉鎖的であるとあなたがこの時代において一般化しているのがマズい。
昔の世代の人間は現在のファッションや思想体系を理解しがたくあるが、
今の新しい世代の人間はこれまで人類史に遺されてきた価値観をすべて認知の対象とできる。
その証拠に、今のメディアで湛えている記号学的構造を観てみるといい。
ある所にはエジプト王朝があり、ある所には60年代的色彩があり、
またある所には80年代的音響があり、別な所には15世紀的様式がある。
今の若い人達は、自己の生に先立つ時代の諸々の要素を受けとめる用意がある。
あなたの若い頃には無かったポストモダニズムが今の若年層にはあり、
彼らはあなたよりも非絶対的でより相対的であるといっていい。
悪く言えば彼らにはあなたの呼ぶ「中心」というものがそもそも無い。
年を重ねてしまうとわからなくなることもあるんだよ。
753 :
妙な在外言語オタク :2006/09/15(金) 22:29:07
>>738 >ら抜きではない方に違和感があるひとは、出版物を読まないのだろうか?
>ニュース、新聞、書籍はみんな「ら入り」なんだから、違和感があるのも変な話だ。
そういうものを読んでこそ「ら入り」に違和感を覚える人がいるんだよ。
日常会話で「ら入り」を耳にするよりも
権威者が「ら入り」に固執してる姿を目にするときのほうが「なんでやねん」っていう感慨が強いわけ。
ちなみに僕は「ら入り」そのものを否定しているわけではなく、
「ら入り」(ar/a 入り)と「ら抜き」(ar/a 抜き)とを区別できずに使い分けない慣習を問題としている。
754 :
妙な在外言語オタク :2006/09/15(金) 22:39:57
>>729 >「なにで/nanide」を「なんで/nan'de」と短縮できるのは
>君の口が子音と母音とを分割して構成しなおすことができるからだ。
>「やってしまった/yatteshimatta」から「やっちゃった/yatt'hi'atta」への短縮についても同様。
>>740 >それはただ母音が脱落してなまっただけだろ
母音が脱落するとまず何が残るよ?
そもそも、
誰かさん曰く開音節しか使えないはずの日本人が母音を脱落させる現象を
君はどう説明する?
ちなみに一般の日本人の音声を録音して調べてみると
彼らがどれだけ閉音節をよく使っているかがわかる。
755 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/15(金) 22:44:03
吐き気すら覚える
756 :
妙な在外言語オタク :2006/09/15(金) 22:47:09
>>748 >使役の受け身はある意味、ら抜き言葉なのだから
>他でら抜き認めたら混乱が起こるし、日本語崩壊しかねない。
別な言い方に改めて説明してほしい。
いったいどういう混乱のことを言っているのか。
757 :
妙な在外言語オタク :2006/09/15(金) 23:18:56
>>747 >相手がら抜きを許容するかどうかわからないとき、
>不特定多数に向けて発するとき、改まった場所で発するときは
>ら抜きで言わないから、こうなるとら抜きではない方が
>どうしても改まった表現に落ち着いてしまいそうだな。
ヘゲモニーの害。
ら入りとら抜きを識別した言葉遣いが
「権威者」側の意にそぐわないということで
話者は折れて屈服しやすくなっているということ。
ちなみにその権威者は
標準語圏における過去の日本人が「ら付き」ばかり使っていたという事実に関する知識を持っているだけで、
「ら付き」と「ら抜き」がどうして使い分けられうるのかを知らない。
なぜそれを知らないのかというと、
そういった使い分けが正用化されたということを歴史の中に見つけることができないから。
所詮彼らは昔の時代の人達の言葉の使い方を実演して悦に入っているにすぎない。
そしていざら抜き擁護者を見かけると
「自分を世の中の中心だと錯覚するしょうもない若僧め」とかなんとか言って(
>>737 )
彼らを弾圧しにかかる。
どっちが自己中心的なんだか。
>>754 なにがいいたいか分からないが、日本語にだって母音脱落はかなりある
学生の発音はgakuseiじゃなくてgaksee、本来のgakuseiなんて発音はしない
ですdesuのuも通常脱落する
759 :
妙な在外言語オタク :2006/09/15(金) 23:26:26
>>758 >なにがいいたいか分からないが、日本語にだって母音脱落はかなりある
>学生の発音はgakuseiじゃなくてgaksee、本来のgakuseiなんて発音はしない
>ですdesuのuも通常脱落する
たしかに僕が何を言わんとしてるのかをわかってないみたいだね。
僕は「日本語にだって母音脱落はかなりあり、日本人が閉音節を音素とすることはよくある」とする立場、
つまり君と同じ意見を持ってるってこと。
それにたいして
>>729 と
>>740 が疑問を投げかけてきたから
>>754 で僕はそれに返答したわけだが。
760 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/15(金) 23:33:22
なぜ人を見下したような発言をするのだろうか
761 :
妙な在外言語オタク :2006/09/15(金) 23:40:25
>>760 >なぜ人を見下したような発言をするのだろうか
なぜ主体を無視したようなレスをするのか。
「誰の投稿」が「どの箇所」で「人を見下したような発言」をしているのか
僕は君に改めて指摘しなおしてほしい。
762 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/16(土) 09:21:52
疲れた
763 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/16(土) 17:31:54
>>751 >
>>749 > ?????
> こいつ何言ってんの?
あなたは 育ちが悪いので、他人の意見を理解できません。
哀れな人です。
ロート製薬の新聞広告欄に、「今日も4時間しか寝れない」 って書いてあった。!
767 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/17(日) 10:40:17
あー、ムララムララする。
768 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/17(日) 11:40:01
>>765 >
>>763 > ???
>
>>749 の最初の3行ってどこから引用したの?
>
>>745 にラを付けたつもり?ら抜きでないものにらを足してどうするの?
そう引用元に いったんですよ。
あなた、本当に間抜けですね(笑)。
769 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/17(日) 12:09:30
平和だなぁ
個人的な考えを言っただけで、よくわからないレスばかり付くな。 自分がどう思うのか、どう考えるかで十分だよ。
>>753 >「ら入り」(ar/a 入り)と「ら抜き」(ar/a 抜き)とを区別できずに使い分けない慣習を問題としている。
方言を基準に標準語に文句をつけられても困るな。
「英語みたく話す人」 少なくとも、「英語みたいに話す人」と書いてくれ。 普通は「英語のように話す人」と書くけどね。 「みたく」では馬鹿にされて当然。 これも若者言葉、方言らしいが。
「行かられる」「逝かられる」ってなんだよw
774 :
妙な在外言語オタク :2006/09/17(日) 23:48:37
>>772 突っ込めそうなところは突っ込んでやれってかんじだな。
逆に「英語みたいに話す」について突っ込ませてもらうが、
次の2つの文を比べてごらん――
1.彼は子供みたいに話す。
2.彼は社長みたいに話す。
3.彼はラモスみたいに話す。
4.彼は英語みたいに話す。
1〜3における「子供」「社長」「ラモス」は主語「彼」と同格であり、
そこでの「みたいに」は合理的な比喩の用法だといえるが、
4においてはそうではない。
4における「英語」は、後続の「みたいに」によって誤って「擬人化」されてしまっている。
「子供」や「社長」や「ラモス」を、話す者、とみることはできるが、
「英語」をそのような「行為する人格者」とみなすことはできず、あくまで「話される物」でしかない。
「英語みたいに話す人/a person who speaks like English」というのは滑稽だ。
またどうせ「英語のような文体を用いて発話する人/a person who speaks with a form of English language」と書いたって
「装飾的で冗長な言い方はやめれ」とか突っ込まれて揚げ足をとられるだろうってのはわかってたから。
かといって「英語みたいに話す人」のおかしさをスルーするつもりが僕には無かったから。
だからしかたなく「みたく」という副詞を使って表現そのものを曖昧にしたわけ。
775 :
妙な在外言語オタク :2006/09/17(日) 23:59:15
>>771 >方言を基準に標準語に文句をつけられても困るな。
かならずしも方言が基準となっているわけじゃない。
また、各地の方言を抜きにしたって、
「ら/ar/a」の有る無しに基づく文法的相関関係を認識できずにこれを使い分けない慣習を
標準語が持っている
という事実にかわりはない。
或る事象にたいする分別が無い価値体系を基準に
その事象に文句をつけてきても
困るな。
776 :
妙な在外言語オタク :2006/09/18(月) 00:01:17
>>774 注:「次の2つの文」→「次の4つの文」
また突っ込まれるんだろうな。やれやれ。
>774 なぜわざわざ英訳するのですか。 それでは日本文と英文との一対一対応に囚われてしまいそうです。
778 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/18(月) 00:46:14
>>774 お前の存在そのものが突っ込みどころ満載ですが
まだやってんのか。好きだね。
>>775 もともと、標準語では「ら入り」で統一されているんだから、
使い分けるも何もない。
どういう使い分けがあるのか、全く説明しないくせに
力説されてもみんな困るよなw
あなたの中では、方言をベースに使い分けがあるんでしょ?
そうだとすると、あなたのいう「ら抜き」は言葉の変化ではなくて
方言を論じているに過ぎないよ。
>>774 そんな説明がいるようでは、言葉の選択を誤ったと
自ら認めているようなものだ。
だいたい、書き言葉で頻繁に出てくる「のように」が出てこず、
口語的な形容動詞の亜種を使用してくるあたりが、
普段、活字を読んでいないことを証明している。
阿 呆 襲 来 三 時 間 前
方言にあるんだったら、その勢力範囲が広がって東京に達したってことで 問題ないんじゃね?(標準語と東京弁は違うけど、今は実質東京の言葉が 標準語みたいなもんだし) どうせ今ら抜きが普通になってる方言だって、ここ100年ぐらいの変化の結果なんだし、 ら抜きの今の勢力範囲が今後も不動なわけがないじゃん。
786 :
妙な在外言語オタク :2006/09/19(火) 07:35:42
>>781 >もともと、標準語では「ら入り」で統一されているんだから、
>使い分けるも何もない。
>
>どういう使い分けがあるのか、全く説明しないくせに
>力説されてもみんな困るよなw
>
>あなたの中では、方言をベースに使い分けがあるんでしょ?
>そうだとすると、あなたのいう「ら抜き」は言葉の変化ではなくて
>方言を論じているに過ぎないよ。
要するにあなたは以前の僕の投稿を読んだうえでレスをしてなんかいないってことなんだよな。
787 :
妙な在外言語オタク :2006/09/19(火) 07:45:01
>>782 >だいたい、書き言葉で頻繁に出てくる「のように」が出てこず、
>口語的な形容動詞の亜種を使用してくるあたりが、
>普段、活字を読んでいないことを証明している。
「英語みたいに話す人」を「英語のように話す人」としたって、
「英語」と「人」とが同格となってしまうことにかわりはない。
「普段、活字を読んでいないことを証明している」・・・
ぷっ。君の主観的な検証法には欠陥があるってことだな。
だからら抜きの意義を検証することも君にはできないんだろ。
788 :
妙な在外言語オタク :2006/09/19(火) 08:15:41
>>778 >日本語でおk
>>779 >お前の存在そのものが突っ込みどころ満載ですが
>>780 >まだやってんのか。好きだね。
まあそういうレスが君達の最後の手札になってるわけだよな。
まともな反論もしないで板に滞在しつづける君達はさすがにアナーキストだよ。
ここのビザを取得したいのなら、なんでもいいからとりあえず議論っぽいことをしてみなさい。
789 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/19(火) 15:51:05
お日本語でk
今日自動車学校の教官(40〜50代ぐらい?)が「できられる」と発言するのを聞いた。2回。 その教官は「見れる」「食べれる」とも発言していた。
796 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/20(水) 06:45:43
アッー!
797 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/21(木) 00:23:08
>>795 > 今日自動車学校の教官(40〜50代ぐらい?)が「できられる」と発言するのを聞いた。2回。
> その教官は「見れる」「食べれる」とも発言していた。
採点してあげますと、「できられる」が間違いで、それ以外の教官のすべての発言が適正です。
798 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/21(木) 01:13:45
最近、ら抜きする上に、形態上短すぎて頼りないからか、「読める ことが出来る」「見れることが出来る」なんていうDQNだらけだ。 ら抜きも相当に嫌だけど、これは最悪。
799 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/21(木) 02:35:05
もう、どうしようも、できないのです。
800 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/21(木) 04:32:34
言語の常識は、時代によって変化し続け、大衆がそれを 当たり前に使用することによって、認知され 新しい常識となる例は多い。 らを抜くことで、全く逆の意味になってしまうものや 意味の通じなくなるもの以外 日常会話において そのような変化は古典からさかのぼるまでもなく 当たり前にあるし、 もっと以外で驚くべき、変化はいくらでもある 変化も、その時代の文化として、やがて認知されるでしょう 造語もどんどん新しい日本語として追加されてますし 話し言葉としてはもうさほどの違和感を感じない方が 多数をしめている時代になっている気もします。 ちなみに「ら」をいれることで真逆の意味にとれたりして、 まぎらわしい事も多いので、あえて抜いたほうが解りやすい例も多いです。
801 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/21(木) 22:27:43
>>801 古語と現代語比べてみろ
すでに別言語のレベルだから
803 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/22(金) 00:11:44
804 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/22(金) 00:14:13
平安時代 最近「させんとす」「いはんとす」「なにせんとす」の「と」を無くして、「いはむずる」「いでんずる」などと 言う人がいる。とてもみっともない。 鎌倉時代 最近、係り結びの法則が乱れている。正しい結びの形を使えないものが多い。 室町時代 最近では、「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」を同じように発音する人が増えている。 京都の人ですら同じように発音しているように聞こえる。困ったものだ。 江戸時代 最近「あう」と「おう」、「か」と「くゎ」の発音や仮名遣いを混同する人が多い。正しく使い分けなければならない。 また、最近の若者は「見らるる」「来らるる」などを「見られる」「来られる」などという。 昭和・平成時代 最近「見られる」「来られる」を「見れる」「来れる」などという若者が増えている。 このような間違った言葉は日本語の乱れだ。正しい日本語を話さなくてはならない。
変化をすべて正しいものとするなら、それは研究でもなんでもない。
806 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/23(土) 09:59:49
>>805 あなたは ばか過ぎるので死んでください。
807 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/23(土) 10:32:34
一名の馬鹿のせいでこのスレもすっかり荒廃してしまったな
808 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/23(土) 12:10:32
>>806 まったく同じ文を前にも見たことがありますw
>>807 そうだよな。
お前みたいな馬鹿は引っ込んでろ
810 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/23(土) 23:30:40
オマエモナー
811 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/24(日) 01:51:34
>>806 >ばか過ぎる
この少し変な表現を使うひとは限られている。
馬鹿の程度を言いたいんだろうが、「過ぎ」の意味がわかっていないな。
813 :
811 :2006/09/24(日) 02:00:33
811は勘違いでした。
アッー!
815 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/24(日) 09:47:56
使い方としては
「
>>811 は ばか過ぎる」など。
816 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/24(日) 10:27:48
どうでもいいが、馬鹿すぎるという表現は稚拙。
817 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/24(日) 11:52:38
使い方としては
「
>>816 は ばか過ぎる」など。
「馬鹿な」が言えるから、「馬鹿だ」にはいわゆる形容動詞もある。 形容動詞 (の語幹) に「‐すぎる」を付けることはできる。「静かすぎる」「複雑すぎる」等。
「馬鹿過ぎる」という表現は 馬鹿の程度が過ぎない状態、つまり「適度に馬鹿だ」という状態があることを暗示している。 「馬鹿過ぎる」という表現を否定する意見の人は 「適度な馬鹿なんていねーよ。馬鹿は馬鹿だろ?」という考えなのかも
820 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/24(日) 15:16:08
使い方としては
「
>>819 は ばか過ぎる」など。
「ら抜き言葉」って可能表現と受身表現を混同せずに分けたい、 っていう意識が働いた結果起きた、昭和後期から始まった 日本語の歴史的変化、でFAなんだよね?
822 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/24(日) 17:25:19
No
824 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/24(日) 17:49:58
咳ばらいが苦痛
>>819 > つまり「適度に馬鹿だ」という状態があることを暗示している。
だれでも、ときどき、適度にお馬鹿さん。
826 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/24(日) 21:26:26
やばい、萌えそうだ。
827 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/24(日) 21:54:46
ら抜き言葉は文法上誤りで候。 ゆめゆめ使うことなかれ。 いとおかし。
828 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/25(月) 10:43:11
827はじめ「ら抜き言葉」反対派の使うおかしな日本語と乱れた日本語の 使い方が気になる。
829 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/25(月) 10:45:59
「乱れた日本語」とか「正しい日本語」とかいう言葉自体が気に入らない。 言葉に乱れてるも何もあるかって思う。 もう少し日本語の歴史を勉強すれば、「正しい日本語」なんて表現がいかに馬鹿馬鹿しいか分かるのに。
830 :
828 :2006/09/25(月) 10:46:23
関係ない話だが、昔山田邦子だったかが、海外旅行で 「I am orange juice.」 と言ったとお笑い番組でバカにされていたが、 けっこう普通になりつつあるとか。
831 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/25(月) 16:55:26
で?
>>830 そう、普通に使うみたいだよ
NHKのラジオ語学テキストにも載ってたな
ら抜き言葉もおんなじようなもの
100年後の日本語が見てみたいなw
今の若者言葉が古風な日本語になるわけだろ?
おれには全く想像できないけど、100年前の日本語みればこうなりそうとか、分かんないかな
だれか想像してみて偉い人
100年後の日本語を予想するスレ とかなんとかいうのがあったような気がする。
834 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/25(月) 18:59:36
>>832 >
>>830 > そう、普通に使うみたいだよ
> NHKのラジオ語学テキストにも載ってたな
あ、それ うそです。
だって、そのうそを広めたの、わたしですから。
ごめんなさい。
835 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/25(月) 20:11:06
そのウソ、ホント?
836 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/28(木) 16:57:09
とんこつーめん みそーめん しょうゆーめん それでも旨いよ!
837 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/29(金) 01:03:53
とにかく違和感があるんだよ。 ”ら”を抜かれると。 おはようございます を おっはーにするくらいに。 ありがとうございます を あざーすにするくらいに こんばんはを こん〜 にするくらいに。 ムカっとくるんだ。
839 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/29(金) 17:27:23
ドゴンクエスト
840 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/29(金) 20:25:19
とにかく違和感があるんだよ。 ”ら”を入れられると。 無駄な改行を2行ほど入れた後に「ムカっとくるんだ」と書いてる ばかを見たときくらいに。 早く死ねばいいのにって思います。
明治後期の変化: 書かれる→書ける 行かれる→行ける kak-ar-eru→kak-eru ik-ar-eru →ik-eru 昭和後期の変化(いわゆる「ら抜き」): 食べられる→食べれる 帰られる→帰れる taber-ar-eru→taber-eru kaer-ar-eru →kaer-eru 「ら抜き言葉」は実際は仮名文字上そう見えるだけで、 実際は「ar」抜き言葉なんだよな。
842 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/29(金) 21:05:16
とんだ糞スレだなぁ
とんでない糞スレだよ
844 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/29(金) 22:28:39
ブ イト・ノア
とんだ糞スレ とんでもない糞スレ 程度はどちらが甚だしいのだろうか。
「とんだ」は、話者が迷惑を被 (りそうにな) ったときに言うんじゃない?
847 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/30(土) 08:37:28
>>842 あなたの人間性は くそ そのものです。
はやく死んでください。by 日本人全員
〜を知らないたぁ、とんだお笑い草だぜ(小林清志の声で)
というわけで、ここからは とんだ とんでもない のプロトタイプ属性を探るスレになりました。
♪とんで とんで とんで とんで とんで とんで とんで とんで とんで まわって まわって まわって まわぁ〜るぅ〜〜〜ぅ♪
>>841 五段の可能動詞ができたのはもっと早いよ。江戸時代後期ぐらい。
あと、五段の可能動詞自体は、「書かれる」ではなくて、「書き得る」からできたという説もある。
そうでないと、可能動詞がなぜ可能の意味だけを持つようになったかが説明できない。
ただそうだとしても、「ら抜き言葉」ができるころには「書き得る」が起源ということは忘れられて、
「書かれる」と「書ける」の対立との類推から「見られる」と「見れる」というふうに「ら抜き言葉」ができたんだろう。
ラ行五段可能動詞の類推からもら抜きは発生し得る。「走る」「走れる」と「見る」「見れる」の対立は自然だからね。
色々解釈はあるけど、ら抜き言葉にたどり着く道は多くあるから、ら抜き言葉の発生は歴史の必然だよ。
>あと、五段の可能動詞自体は、「書かれる」ではなくて、「書き得る」からできたという説もある。 >そうでないと、可能動詞がなぜ可能の意味だけを持つようになったかが説明できない 「書きうる」は連体形のアクセントがLHHLで連用形はLHH-ないしLHLである。一方「書ける」は連体形がLHLで連用形がHLである。 「書ける」が書きうるの縮約であれば連用形のアクセントはLHH→LHとなるはずであるがHLとなっている(1)。 また「消える」が「ける」、「見える」が「める」のように母音の「い」と「え」が隣接する動詞の「い」が脱落することはない。 母音の融合が起きる江戸弁でもie>eはai>eと比べれば起きにくい変化であると思われる(2)。 さらに「連用形+得る」の縮約が五段動詞に起きてサ変カ変に起きていないのかも問題になる 来える>ける、しえる>せるという語形がないのはなぜあろうか?(3)。 この三つから「得る」説は信憑性が低い。
>>852 その3つの理由は、
「書かれる」から変化したという説にも当てはまるよ。
動詞のアクセントに関しては、
他の一般的な1段動詞からの連想というか、
動詞のアクセント体系による制限によって、
書けた(○HLL ×LHL)となった可能性もある。
東京アクセントだけじゃなくて、
同じように可能動詞を発生させている京都のアクセントや、
その他の地域でのアクセントについても調査しないといけないだろうね。
>>851-853 俺も「書き得る」説はアクセントの点で怪しいと思う。
語義の上では魅力的なんだけどね。
古いタイプの京阪式アクセントを分析しても、
可能動詞は原動詞のアクセント型をそのまま受け継ぐだけという
未然形接続(京阪式では未然形は固有のアクセント型を持たない)に親和的で
連用形アクセントが割り込んだ形跡が全く見られない。
これは、例えば関西方言の否定助動詞「へん」の接続アクセントには
例え一見未然形か何かのような接続に見える場合があっても
連用形アクセントが明確に保存されているのと好対照。
ただ、「書かれる」から変化したとすると、 どういう変化によって、 「書ける」になったのか、 やっぱり説明できないわけだよな・・
とんだ は軽蔑 とんでもない は憤慨 のにおいを感じる。
857 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/09/30(土) 22:41:57
今日、朝食が *食べれ* なかった。 超ショック……。
>>855 kakareru → kakeru
yomareru → yomeru
ar が抜けただけ。
taberareru → tabereru
いまの起こっているら抜きと同じとも言える。
もしかしたら、実は「れ」抜きで始まり、二段階で変化して 「か」を「け」、つまり「a」を「e」と発音したがる関東方言に よって起こったのかもしれない。 書かれる → 書かる → 書ける 行かれる → 行かる → 行ける 読まれる → 読まる → 読める 俺は素人ですw
860 :
859 :2006/10/02(月) 06:13:42
または順番が違って 書かれる → 書けれる → 書ける かもしれない。
>>858 なぜarが抜ければ可能を表すかという説明は無し?
arが抜けて可能動詞が生まれるというルートは、
「〜得る」から可能動詞が発生したというルート以上に難しいだろうよ。
>>859 近畿以西で「書かる」で残ってればそれでもいいね。
>>860 erが落ちたプロセスの説明がいるだろうよ。
862 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/02(月) 10:20:33
>>861 素人の俺に答えてほしいなら書きますね。
受身、尊敬をあまり使う機会がない庶民は
「書かれる」を可能の意味でしか使用していなかった。
庶民が「書かれる」が言いにくいので、
訛って「書ける」にしてしまった。
しかし、受身、尊敬を使う機会の多いひとは
すべて「書かれる」と言っていた。
そのうち、これらが混ざって「書ける」が可能で
よく現れ、受身、尊敬が古いまま「書かれる」と言われた。
この言葉の違いが意味の違いとして残り、
分化することになった。
といま思いついたことを書いてみました。
863 :
862 :2006/10/02(月) 10:23:14
862は職業システムプログラマの私が道楽で考えたことなので 真剣に読まないように!
864 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/02(月) 19:31:29
今日、朝食が 食べれ なかった。 *超ショック* ……。 超ショック → チョーショック → 朝食
865 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/02(月) 20:29:24
ちんこ
866 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/03(火) 01:15:06
彼は明日なら来られると思われる。
「来られる」という尊敬はまず使わないから。
868 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/03(火) 17:23:52
来はる
いらっしゃる おいでになる みえる おみえになる おこしになる
870 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/03(火) 18:09:04
はいはい変化変化
ゴリ=ゴリラ
会話で「ら」抜きも気になるが、 最近は掲示板のどこを見ても「ら」抜きばかりだな 嫌な世の中になったもんだ
>>872 ネットは若い人間が多いというものあるし、
もともとの方言がでている可能性もある。
俺もそうだが、気になり出すと気づくようになるのかもしれない。
昔の高橋名人の動画見たら、高橋名人もら抜きだった。
最近2chでは受身までら抜きするのがいるな。 まあ、これは完全にDQNだろうけど。
875 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/04(水) 12:23:39
見れる:可能 見らる:受け身
876 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/04(水) 20:31:07
すまん、間違えた。 <間違い> 嫌な世の中になったもんだ <正解> すてきな世の中に なったもんだ
877 :
変な在外言語オタク :2006/10/04(水) 22:56:44
久しぶり(^O^)/みんな元気にしてたかな?
878 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/05(木) 01:15:50
>>873 高橋名人も北海道人だからよっぽど注意して喋らんとら抜きになるのは仕方無い。
880 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/05(木) 07:53:30
ディッツ
881 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/05(木) 08:26:04
司法試験の論文で ら をぬかれた答案みると即座にやぶりすてたくなるな。
882 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/05(木) 09:35:03
シンド ーのリスト
883 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/05(木) 20:55:55
>>881 あなたは主観的な意見のみで他人を判断する鬼畜以下の ごみです。
あなたはネットでもリアルでも嫌われていますので、改善する必要があります。
最も理想的な方法としては、あなたが首をつって自殺する方法です。
これが あなたにとっても、あなた以外のすべての人間にとっても、もっとも良い方法です。
死ぬことは勇気が必要ですが、あなたは勇気を持っているので大丈夫です。
さあ、一歩だけ踏み出しましょう。そうすれば、きっと しあわせになれます。
ミヒマルGT
885 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/10(火) 09:40:38
>>840 「明日来られる?」って聞く人は、やさしそうで思いやりがある感じ。
「明日来れる?」は、なめくさってる感じ。
886 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/10(火) 11:48:40
同感。
887 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/10(火) 11:50:50
ら抜きを言う奴は、舌がまわらない言語障害者だろ?
888 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/10(火) 11:53:25
そうすると、「ら抜き」なんて 「き」と「り」を舌の横を使って発音しちゃう奴とおんなじレベルだよね。 「キリギリス」って、ちゃんと言えるか? ら抜きくん。
>>885-886 これからはら入りは可能の丁寧表現だね。
これはいままで尊敬を兼ねていたことによる功罪。
方言は別として 「ら」抜き言葉を注意すると「言葉は生き物なんだから 時代によって変わるモノ」とかナントカ言っちゃって開き直りされる。 「ら」抜き言葉を使っている人間を見渡す限り、コンビニの前で へたれこんでいるようなのと同類の、品位の欠落した人間にしか見えない。 通常会話として持っている語彙が少ないから(何でもかんでも「超〜」「ヤバイ」を くっつける)、どんどん稚拙な、簡略的な言語しか話せなくなりその結果 「ら」抜きにまで至ったのではないか?
>>890 新しい表現が出てきたときに、考えるひとと、
そうでないひとがいる。
やはりそれはどういうことなのか、誤りなのかどうなのか
考えないひとは簡単に受け入れる傾向がある。
「ら抜き」に関しては一度話し出すと、らを付けていた
動詞とそうでない動詞の区別ができなくなり
総じてら抜きになると思われる。
>>872 どこのスレでも、厨質問をする奴のほとんどは
ら抜き使いだったりするな。
逆にまともな質問をしてくる人には
ら抜き使いはほとんどいない。
>>890 本当同じパターンの屁理屈を使った開き直りはうんざり。
だからこそ、そういう奴を簡単に
ぐうの音も出ないようにできるだけの上手い言い返しが欲しい。
まあ元々ら抜き擁護の屁理屈自体が
どれも取ってつけたような物だから、
それへの反論も取ってつけたような話になりがちではあるけど。
>>892 「ら抜き」をさらに変化させて、これが正しいと言ってやれ。
それは言わない、使わないと反論したら、ら抜き肯定論を
全部返してやればよい。
結局、同じことだからそのまま使える。
上のほうのレス(
>>625-628 )で書いたがら抜き擁護の理由は大きく分けて4つある
1ar抜き説:ら抜きは正しくはar抜きでありこれは可能動詞の発生と同じである。
2変化説:言葉は変化するものであるからら抜きは正当。
3合理説:受身と可能を区別できるあるいは「られる」の形が一つになるのは合理的。
4方言移入説:ら抜きは方言で用いられておりそれが標準語でも用いられるようになった。
1ar抜き説の反論
ar抜きは後ろに子音をとるarの脱落を仮定する点でやや無理があり
ら抜きと可能動詞が同一の事象であるとは断言しにくい。
2変化説の反論
ら抜き擁護派に「言葉は変化するものである」という主張があるが
これは
「ら抜きをなくするのも言葉の変化である。言葉は変化するものであるからら抜きは誤りである。」とら抜き否定派の根拠にもなりうる。
3合理説の反論
語形の合流=合理的という仮定に問題がある。
4方言移入説の反論
方言で使っているから共通語でも使ってよいということにはならない。
可能の助動詞で発生するラ抜き以外にも、もう1つ変な言葉があるよね。 使役の場合だけど、たとえば「食べらせる」っていう言葉とか。 動詞:食べる 語幹:tabe ■いわゆる「正しい」日本語の場合 使役…助動詞は -(s)as-e- tabe-sas-e-r-u 食べさせる 受身/尊敬…助動詞は -(r)ar-e- tabe-rar-e-r-u 食べられる 可能… -(r)ar-e- ※ただし、文脈を見ないと受身や尊敬と区別が付かない。 tabe-rar-e-r-u 食べられる ■いわゆる「変な」日本語の場合 使役…助動詞は -ase- taber-ase-r-u 食べらせる 受身/尊敬…助動詞は -are- taber-are-r-u 食べられる 可能…助動詞は -e- ※いわゆる「ラ抜き」。受身/尊敬と区別がつく taber-e-r-u 食べれる 変な日本語の場合は、語幹末が母音で終わる動詞は、rをつけて、 そこまでを語幹とみなすことで、語幹末が子音の語と 助動詞の形の統一化をはかろうとしているように思える。
■使役の助動詞 -(s)as- tabe-sas-u 食べさす tabe-sas-e-r-u 食べさせる (? tabe-sas-ana-y) 食べささない(通じるが違和感アリ) tabe-sas-e-na-y 食べさせない kak-as-u 書かす kak-ase-r-u 書かせる (? kak-as-ana-y) 書かさない(通じるが違和感アリ) kak-ase-na-y 書かせない 直前の語の末尾が母音の場合は、sを補う。 ただし、否定の場合に (s)as + e + na-y (s)as + ana-y (違和感アリ) の2つの形がある。 前者は、「(s)as-e」 + 「r-u」 or 「na-y」の形をとるもの、 後者は、「(s)as」 + 「u」 or 「ana-y」の形をとるものと言え、 使役の助動詞「(s)as」の次に「e」を必ずしも持ってくる必要はないと言える。 ただし、否定の助動詞と接続させた場合は、方言などでなければ違和感を感じることや、 他の受身や可能の助動詞と連携して接続する場合は、 (s)as-e以外はありえなくないことから、(s)as-eでワンセットになりつつあると言える。
■受身の助動詞 -(r)ar-e- tabe-r-ar-e-r-u 食べられる tabe-r-ar-e-na-y 食べられない kak-ar-e-r-u 書かれる kak-ar-e-na-y 書かれない 直前の語の末尾が母音の場合は、rを補う。 現代語の受身の場合は、「-(r)ar-」だけでなく、「-e-」までセットになって、初めて受身の意味になっている。 現代語では「食べらる」とは言わないが、しかし古典では受身の助動詞として許容されている。 つまり、古典では使役の助動詞「-(s)as-」のように、 「-(r)ar-」のみで受身の助動詞として機能していたが、現在では死語になっていると言える。 sak- -ar-u 咲かる tab-er-ar-u 食べらる ※食べる tabe-r-u が 食ぶ tab-u となるなど、現代語とは異なる活用をする?
■可能の助動詞 tabe-r-ar-e-r-u 食べられる tabe-r- -e-r-u 食べれる tabe-r-ar-e-na-y 食べられない tabe-r- -e-na-y 食べれない kak-ar-e-r-u 書かれる kak- -e-r-u 書ける kak-ar-e-na-y 書かれない kak- -e-na-y 書けない ※その他の言い方(方言?) kak- -e-r-e-r-u 書けれる kak- -e-r-e-na-y 書けれない 可能の助動詞は、受身のそれとどこが違うのだろうかというと、 上記を全て見比べると、共通しているのは「-e-」ということが分かる。 また、直前の語の末尾が母音の場合は、必ずrを補っていることも分かる。 よって、可能の助動詞は「-(r)e-」である。
順序としては、次の通り。 元々、受身/可能の助動詞は、古文の時代には「らる」であり、 助動詞としては、-(r)ar- であったため、 自発、受身、可能と区別することができなかった。 ↓ 受身/可能の助動詞-(r)ar- に -e- が付与されて-(r)are-でワンセットになった。 ↓ -(r)are- の助動詞の中から、 受身の助動詞を従来の -(r)ar- で見いだすようになり、 可能の助動詞を -e- の音に見いだすように別れ始めた。 ↓ 語幹末が子音で終わる単語において、受身の助動詞-(r)are-と、 可能の助動詞-e-の使い分けが始まった。 (例) 書く 語幹:kak kak-u 書く kak-ase-r-u 書かせる 使役 kak-are-r-u 書かれる 受身/尊敬 kak-e-r-u 書ける 可能 ↓ (続く)
(続き) 語幹末が母音で終わる単語においても、同様の流れが始まった。 ★今ココ (例) 食べる 語幹:tabe tabe-r-u 食べる tabe-sase-r-u 食べさせる 使役 tabe-rare-r-u 食べられる 受身/尊敬 tabe-re-r-u 食べれる 可能・ラ抜き ↓ 語幹末が子音の動詞と、母音の動詞で、 ★次ココ 助動詞の形を統一するはたらきが始まった。 語幹末が母音の動詞には、問答無用でrを付与して、そこまでを語幹にして、 語幹末が子音で終わる単語と同じ形の助動詞を付与するようになった。 ここでは、使役の動詞の語形が変化している。 (例) 食べる 語幹:tabe→taber いわゆる「変な」日本語 taber-u 食べる taber-ase-r-u 食べらせる taber-are-r-u 食べられる taber-e-r-u 食べれる ※↑の「書く」の例と助動詞の形が全く同じになっていることが分かる。
使役: 語幹-(s)as- 語幹-(s)ase- 語幹+r-ase- 受身/尊敬 語幹-(r)ar- 語幹-(r)are- 語幹+r-are- 可能: 語幹-(r)ar- 語幹-(r)are- 語幹-(r)e- 語幹+r-e-
ただ、複数の助動詞の組み合わせを考えた場合、それらも1つの動詞語幹とみなして飲み込んでしまうことができる。 用は、喋るの語幹「syaber」と同じように「r」で終わる形にしてしまえば、そこまでを語幹と認識できてしまうということだ。 いわゆる「正しい」日本語: 食べさせられなかったそうだ tabe-sase-rare-naka'(r)-ta-sow-da 語幹(tabe)-使役(sas-e)-受身/尊敬/可能(rar-e)-否定(naka'(r))-完了(ta)-推量(sow)-断定(da) いわゆる「ラ抜き」=可能の助動詞-(r)e-の独立: 食べさせれなかったそうだ tabe-sase-re-naka'(r)-ta-sow-da 語幹(tabe)-使役(sas-e)-可能(re)-否定(naka'(r))-完了(ta)-推量(sow)-断定(da) 変な日本語: 食べらせれなかったそうだ tabe-rase-re-naka'(r)-ta-sow-da
この原理で、さらに変な日本語を作ってみた: 食べさせらす 使役-使役 tabe-sase-ras-u tabesaser-as-u 食べさせらせる 使役-使役 tabe-sase-rase-r-u tabesaser-ase-r-u 食べさせられらす 使役-受身-使役 tabe-sase-rare-rasu tabesaserarer-as-u 食べさせられらせる 使役-受身-使役 tabe-sase-rare-rase-r-u tabesaserarer-ase-r-u 食べさせられらせられる 使役-受身-使役-受身-自発 tabe-sase-rare-rase-rare-r-u tabesaserareraser-are-r-u 食べさせられらせれる 使役-受身-使役-可能-自発 tabe-sase-rare-rase-re-r-u tabesaserareraser-e-r-u
ただし、可能の助動詞だけは、最後の(r)uや(a)nayの直前でなければ認識できないらしい。 たとえば、次の文は意味不明な中から可能の意味をまったく取り出せない。 食べさせれさせる tabe-sase-re-sase-r-u tabesaseresaser-u 食べれさせる tabe-re-sase-r-u taberesaser-u
905 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/11(水) 23:37:06
アッー!
使役の場合は、「ラ抜き」と逆に「サ入れ」という現象が見られるね。
「行かせる」→「行かさせる」のような形だ。
これは使役助動詞を「させる」に一本化しようとする動きと見られる。
>>903 >>904 いろんな例を考えることは重要だけれど、
文法上、表そうとする意味が全く不明の語形を創作する意味は無いよ。
また、可能の助動詞は、-(r)e-だが、 -e-だけよりも-re-の形を取った時の方が、より可能を強く表すらしい。 そのため、動詞語幹が子音で終わっていて-re-の形を持つ必要のないものにまで、 無理矢理-re-の形を作ろうとする動きもある。このとき、補う母音は e となる。 たとえば、 kak-e-r-u 書ける kak-ere-r-u 書けれる これは、いわゆる「れ足す言葉」と呼ばれるものだが、 可能の助動詞を -re- の形にしたいがために、わざわざ erを付与した形なので、実際には「er足す言葉」ということになる。
>>906 意味ないことをやってみたい年頃だったんだよw
>>900 はまだやや甘いと思うが、
>>691 や
>>722 のような、一段動詞と五段動詞の活用が区別できない
アルタイ朝鮮式膠着理論に拘泥する悲惨な理論にはなっていない点は評価できるよ。
膠着語的な用法を取り入れた解体分析と、日本語本来の付属語活用数珠繋ぎと、
悪くない位置でバランスを取っている。
>>907 「ら抜き」から「れ足す」にしだすと言いにくいから
結局、元に戻ってしまう可能性がありそうだね。
食べられる → 食べれる → 食べれれる → 食べられる
>>910 そうすると、今度はまた受身と可能の区別がつかなくなって・・・ぐるぐる
やっぱり、今の日本語の受身、尊敬、可能、自発といったあたりの言い方の体系が不安定なんだよ。 可能動詞ができた段階で、ら抜き言葉もできないと不自然というか、不安定な状況になった。 可能動詞で、可能だけの意味を明示できる利益を享受しているのに、それが五段動詞以外でできないのも 不安定だし。今は安定な体系を求めていろいろ模索中の段階なんだろう。 可能動詞みたいなのがあるのはなんだかんだいって便利だから、全ての動詞で可能だけが短い形で区別できる 体系に落ちつくと思うけど。それまで何年かかることやら。
可能を表すには、動作の名詞化辞「こと」を使って行為をのものを主格にして、 それに可能を表す動詞「出来」を付与する形もあるね。 食べさせることが出来る。 {tabe-sase-r-u}koto-ga deki-r-u. とりあえず、 -(s)ase- が、サ入れの -(a)sase- -(r)e- が、レ足すの -(e)re- にならないことを願いたい。長くて鬱陶しい。 こういうのは、カナにこだわる学校文法の弊害じゃないのかね。
>>900 の説と同値な学校文法による解答
ら抜き言葉とは、一段動詞の語幹に五段動詞でのバリアントである「れる」をつけたものである。
書く:書か-れる=食べる:X
X=食べ-れる
レ足す言葉とは、可能動詞の語幹に五段動詞でのバリアントである「れる」をつけたものである。
書く:書かれる=書ける:X
X=書け-れる
「食べらせる」は一段動詞の「食べる」を部分的に五段動詞と混同したものである。
書く:書か-せる=食べる:X
X=食べら-せる
915 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/12(木) 14:29:06
デトロイトメタルシティ
>>914 でもそれだと、「される」「れる」には、元々に受身の意味も含まれているのに、
なんで「れる」だけ抜き出すと、受身の意味が完全に消えて、
可能の意味だけになるのか、説明ができないよね。
書か-れる →受身/可能
書ける →可能
食べ-られる →受身/可能
食べ-れる →可能
じゃあ、
書け-る
食べれ-る
で「る」が可能なのかというと、
食べ-る
これは自発ではあるけど、可能ではないから、
「る」でもないことがわかる。
じゃあ「れ」なのかというと、否定してみれば、
書か-れない
書け-ない
食べ-られない
食べ-れない
となって、「書けない」などは、「れ」の1文字も入っていないのに、
可能の否定になっていると分かる。
やはり、可能の助動詞はローマ字で分析したときに抽出できる -(r)e- の音であり、
これは仮名文字でやっていると見つけることができない助動詞だということが分かる。
>>917 まだ可能動詞は動詞+助動詞じゃないんだよ。
日本語文節は、複数の助動詞が活用を重ねながら後に続いていくので
朝鮮語のような自立語+接辞+語尾の三段構造には
絶対に分解できない。「行けなかったようだったのかしらね。」
のような大量の付属語が付いた場合に全く説明できないのだ。
可能動詞に含まれる-e-というのは、現状では
まだ動詞が屈折的変化を起こした語尾の一部と考えるほかは無い。
だが、これが過渡期の状況に過ぎないことは、
ラ抜きを古くから用いる方言などでは「レ足す」が既に始まっていることで明白だ。
「レ足す」をすれば、「れる」という助動詞を抜き出すことが出来る。
また、可能動詞であっても、ローマ字化すれば、 変化していない部分があり、つまり語幹はそのままであることもわかる。 また、エ段で終わるからといって、 書け-ない と 食べ-ない が同じにはならなず、 食べられ-ない 食べれ-ない という可能動詞のバリエーションが増えてしまうのも、 kak-u kak-ana-y kak-are-na-y kak-e-na-y tabe-r-u tabe-na-y tabe-rare-na-y tabe-re-na-y と分析すれば、動詞の語幹はずっと変わらず kakやtabe であり、 直前の語の末尾が母音か子音かでデフォルトの子音や母音を補う助動詞と、 定型の連携をしていることが分析できる。 動詞語幹:tabe- 自発助動:-(r)u 否定助動:-(a)na-y 受身/可能助動:-(r)are- 可能助動:-(r)e-
>>918 行けなかったようだったのかしらね。
{ik-e-naka'(r)-ta-yow-d'(e)a'(r)-ta}-no-kasira-ne.
{動詞語幹-可能助動-否定助動-完了助動-推量助動-断定助動-過去助動}-名詞化辞-助詞-助詞
>>920 じゃあ「行けなかった」はどう説明する?
この例のほうが良いかな。 「行けない」は{ik-e-na-i}だと言うだろう。 なら「行かない」は{ik-a-na-i}となるはずだ。 じゃあこの{-a-}はどんな意味の何という『助動詞』だ?
>>921 行けなかった。
ik-e-nakar-ta.
動詞語幹-可能-否定助動-過去助動
>>922 否定助動 -(a)na-
単に、1つ前の語の末尾が子音だと、デフォルトでaを補うだけ。
ik-e だと、1つ前の語が母音だから -na- で接続できる。
ik- だと、1つ前の語が子音だから、デフォルト a を補って -ana- で接続する。
他の助動詞と連携しても同じ。
たとえば、使役には古い形の -(s)as- と、新しい形の -(s)ase- があるが、
行かさない ik-as -ana-y
行かせない ik-ase -na-y
となる。
どちらも形が異なるだけで意味は全く変わらないことがわかる。
つまり、aは音韻上の橋渡しでしかない。
仮名文字の「ない」でチョン切るから、特に意味がないaまで助動詞にしなければならなくなる。
>>918 >可能動詞に含まれる-e-というのは、現状では
>まだ動詞が屈折的変化を起こした語尾の一部と考えるほかは無い。
一つ伺いたいが、
ら抜きでない一段動詞に含まれる-e-も可能の助動詞(に近いもの)であるとするのか?
燃やす/燃える
moy-a-su
moy-e-ru
越す/越える
ko-su
ko-e-ru
のような例を挙げれば-e-は自発および可能を表す成分であるといえるとも思えるが。
>>924 未然形接続の助動詞のうち、「れる、られる」と「せる、させる」は
確かに「無い場合に-a-を補う」という考え方が明白なわけだが、
「ない」と「う、よう」には-a-が必須じゃないだろ?
なぜ「ない」「ず、ぬ」古典語では「まほし」の場合、
「子音語幹(五段動詞)」の場合だけ-a-を補うんだ?
一体、この変幻自在の-a-にはどんな意味があるんだい?
これは音韻変化してしまったが「う、よう」についても言える。
>>923 まだ自己矛盾に気づいていないかな?
おまえさんは、助動詞を屈折活用させながら、用言の屈折活用を認めない。
屈折させないかするのかどっちかにしろ。
{ik-e}と解体するなら、{ik-e-na-kar-ta}とでもなるはずだろ。
>>926 音韻上の橋渡しでしかない。
使役 -(s)as-、-(s)ase-
受身/尊敬/可能 -(r)are-
可能 -(r)e-
自発 -(r)u-
否定 -(a)na-、-(a)nakar-
否定の a だけに限らず、
他の助動詞でも、1つ前の語が母音で終わるか子音で終わるかで、
デフォルトで補う音がある。
したがって、 「行けなかったようだったのかしらね。」は、 {ik-e-na-kar-ta-you-d-ar-ta-no-kasira-ne} となるはずだ。ここで{e}{kar}{ar}って何だ?ということになる。 ここで朝鮮語式膠着論は破綻するわけだ。 「行けなかったら」は{ik-e-na-kar-ta-ra}となるんだが、 「行けなかった」は{ik-e-na-kar-ta}となる。 摩訶不思議なことに、前者では-ta-は接辞だが、後者では-taとなって語尾だ。 こんな馬鹿げた話は無い。 なぜこんなことが起きるのかというと、日本語の付属語の大半は、 補助用言が縮約して出来たものだからだ。 だから用言の活用と助動詞の活用は本質的に同じもので、表裏一体となる。
>>927 俺のは、形にこだわった活用じゃなくて、どの音に助動詞としての意味がついているのか、
きちんとそれを解明してあるでしょ?
しかも、ルールは簡単、1つ前の語が母音で終わるか子音で終わるかだし、
それによって意味が変わってしまうこともない。
意味もなく形にこだわって、仮名文字の区切りでぶったぎっておいて、
それを五段だ一段だ、可能動詞だ、と、実際には可能を表す助動詞を抽出できるにもかかわらず、
あくまで形にこだわり、決めつけだけで終わらせておくことに意味があるのかな、って思ってるだけ。
nakar は、 nakar-i が語源だから、na-kar という分割にはならないんじゃ?
>>929 それと、俺がやってるのは、別に朝鮮語式膠着論ってわけじゃないよ。
なんか勝手に思いこんでるみたいだけど。
>>931 だったらもっと悲惨なことになるよ。
おまえさんの方法論は、中途半端にアルタイ式膠着語論を
導入しているようにしか見えない。
実はおまえさんの攻撃対象であるいわゆる橋本文法体系は、
形式的に見て最も矛盾が少ないように構築されている。
形態上全く同じものが、ある時は重大な意味を持つ「助動詞」であり、
ある時はただの無意味な介在母音であるというような
いいかげんな理論は文法としての論理性を持ち得ないんだよ。
橋本文法は、実はおまえさんが行った程度の音素解体は行われた上で、
再構築した結果、開音節単位を基本として構築できたというだけの話だ。
>>929 >>932 いやに攻撃的だね。
もちろん、音の集まりなんだから、どうとでも区切れるわけだけど、
ika-nakar-ta
ika-se-nakar-ta
ika-re-nakar-ta
ike-nakar-ta
tabe-nakar-ta
tabe-sase-nakar-ta
tabe-rare-nakar-ta
tabe-re-nakar-ta
こうすると、動詞もバラバラに活用するし、助動詞もバラバラに活用するしで、
なにがなにやら、不規則もいいとこででしょ?
これを、動詞の語幹がどこまでが固定で、どこからが変動しているのかを
母音・子音に分けてやれば、活用の規則性が見えてくるってことさ。
表裏一体であるというけど、↑みたいな切り方では規則性がなさすぎるし、
実際にこんな複雑なものを全部覚えて使っていたら、言語野に負荷かかりまくるでしょ?
めんどくさがって受身と可能を分け出す程度の脳みそが、そんな非効率なことをやるかな。
漢字の比率がやたら上がると読みにくくなるんだぜ、 読みやすくするために平易な言葉に「開く」事も 覚えろよ一部の奴。 一例 構築されている→作られている
>>933 だから最も基本的なことを忘れているんだよ。
「行く」をikで区切るなら、{ik-u}となるわけで、
文を言い切る助動詞?語尾?の{-u}がどうしても出てくることになる。
同じ方法で「食べる」を分解すると{tabe-ru}となって終止形を表す{-ru}が
出てくることになる。
それなら助動詞はどうする?となるわけだ。
助動詞も同じように、「語幹」と「語尾」に解体せざるを得ない。
そうしなければ文法体系の論理的一貫性が崩壊してしまう。
そうなると、自立語と付属語という二段構造が、各々語幹と語尾に解体され
なんと合計四層構造の複雑怪奇なものになるわけだ。
しかも、「た(完了)」や形容詞・形容動詞の「語尾」のように
それ自体が複雑怪奇な語尾変化を行うものがある。
助動詞はより磨耗しているから語幹と語尾を分離できないものが多数ある。
つまり、屈折を回避して音素に解体して「子音語幹」を立てる結果、
従来の文法よりもさらに複雑怪奇な状況が生じるというドツボに嵌る。
これなら、自立語と付属語が各々屈折活用するという考え方だけで良い。
そして、これで体系を作るなら、ひらがな単位で十分だということだ。
>>935 -ru も -u もどちらも助動詞で、それが付くと文章の型は「終止形」と呼ばれる、っていうだけだ。
これには、-ru も -u も、恣意的動作を表す動詞に付けば、動作主の自発という意味がある。
-ru- と -u- は、直前の語が母音ならば、デフォルトで r の音が補われているだけの違いで、
どちらの形でも意味が変わらないのだから、rの音は膠着語としての接合のための、
単なる橋渡しでしかなく、-(r)u- が自発の助動詞であると言える。
また、動詞も自立語という形式的な概念で考えるのではなく、
動詞は、たとえば tabe という動詞の概念形が主となる意味を表し、
次に現在や過去や未来等々の、具体的なムードに落としこんで初めて使用できる、
即ち何らかの助動詞や助詞などと接合(=いわゆる活用)させなければ、
言語規約上使用できないのだ、と考えた方が自然ではないだろうか。
そもそも、語幹と語尾に形式的に分けるだけが目的ではなく、
語としてのアイデンティティは、一体どの音にあるのか、
それを分析するにはローマ字の方が都合がよい、ということだ。
仮名文字は、あくまで日本語母語話者が様々な語を合成させて
完成した文章を表すのには都合がよいが、子音-母音という限られた
ペアであるが故に、解像度が低く分析には向かないのだ。
ら抜き言葉反対論者は「お里が知れる」という表現についてどう思ってるのかしらん。
939 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/14(土) 14:50:45
>>939 どこ?
判別法に従うとら抜きじゃないよ?
知る sir-u 語幹:sir しられる sir-are-ru 受け身/尊敬/可能 しれる sir-e-ru 可能? 知りたいことが知れる 知りたいことが分かる 他人に知れる 他人に知られる
「知る」の可能を「知れる」ではなく、誤って「知られる」と
思いこんでいる者がいるようだね。
>>939 よく読め。このはやとちりが。
「しられる」は「知られる」のことではない。
>>941 「知れる」は単純に「知る」の可能動詞ではないから、
そうなると言っているんだろうが、
「知る」の可能が「知られる」にはならない。
可能動詞ではない「知れる」は別の意味も含むため、
通常、「知る」の可能は「知ることができる」と言う。
943 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/15(日) 01:47:01
たかが知れている。
944 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/15(日) 02:43:15
rhapsody
945 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/15(日) 11:19:31
ーメン
946 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/17(火) 17:06:58
オ オ オ
947 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/18(水) 02:23:30
そろそろネタが尽きたかな? 長文野郎ももう来ないしね。
948 :
妙な在外言語オタク :2006/10/18(水) 05:08:48
949 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/25(水) 00:59:25
まあ、このスレの結論としては 【「ら抜き」を平気で使う奴は思考が浅い】ということでしょうかね。
確信犯です。
今NHKで見てたら評論家じじいがあまりにもうざいので来た。 止めれない 伝えれない って連続で言ったので。
“「ら」抜き”をやるのはガキばかりかと思っていたが、 よく注意して見ているといい歳こいた人が… ただ方言の影響が深い人もいるだろうから一概には言えないが、 聴いていてやはりみっともない。 神戸の人とかは普段は「ら」抜きで話しているな
953 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/28(土) 00:00:19
>>952 安心してください。
あなたのほうが何倍も みっともないですから。
954 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/10/28(土) 05:03:39
ここの人たちCORRUPTEDとか聴いたこと無いんだね… ノイズからプログレまで、幅広い音楽要素を、明確なコンセプトの下、 スタイリッシュに統合する手腕は世界で彼らだけのものだと思う。
彡川川川三三三ミ〜 プウゥ〜ン 川|川/ \|〜 ポワ〜ン ________ ‖|‖ ◎---◎|〜 / 川川‖ 3 ヽ〜 < 「あなたのほうが何倍も みっともないですから」 川川 ∴)д(∴)〜 \________ 川川 〜 /〜 カタカタカタ 川川‖ 〜 /‖ _____ 川川川川___/‖ | | ̄ ̄\ \ / \__| | | ̄ ̄| / \○○命_ | | |__| | \ |つ |__|__/ / / ドキュソ氏ね | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
956 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/11/01(水) 21:57:10
アッー!
>>952 フォーマルな場:ラ入り
日常会話:ラ抜き
これが現代の自然な日本語の使い方じゃないかな。
日常会話でまでラ入りだと方言か堅苦しい人にしか聞こえないよ。
一辺倒に批判するのではなく、TPOを弁えるのが重要、ということだ。
堅苦しい人っていうのはどうなわけ?
959 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/11/02(木) 23:30:30
>>959 俺は
>>10 の言い分には反対だな。
子供の前で使わないとかはおかしいでしょ。
子供だからこそ、社会、つまりは人との接し方をきちんと覚えないといけない。
本当にすべきは、場や相手に応じた使い分け、つまり言葉と、
その言葉がもたらす相手との距離感をきちんと教えるべき。
それをしないから、先生や親相手に同年代の友達に話す時の言葉と
同じ言葉を使ってしまって、関係がギクシャクすることになる。
961 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/11/03(金) 10:59:13
>関係がギクシャクすることになる。 という一節以外のすべてに賛成です。
963 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/11/05(日) 18:55:33
ら入り:食べらるっと? ら抜き:食べるっと? うーん、ら抜きやったら意味が通じらん。
方言だからだろ?
965 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/11/05(日) 23:41:33
「言葉は変るもの」という洗脳から抜け出せ。 変らないほうが断然効率いいんだから、「ら」入れで保守していこうぜ。 あと、法則があると楽。 四段活用動詞は「ら」はいらない。あとの動詞は「ら」をつけよう。 見れる、着れる、食べれる、は通用している部分があるけど 決めれる、入れれる、得れれる、はおかしいでしょ。
>>965 いやいや、変えない方が楽だったら変わらなかっただろう。
可能動詞と受身/尊敬を分けた方が理解しやすいという
総意があったから全体的に変わってきたんじゃないの?
ら抜きの許容度は人や地域や世代によるから一概には言えないだろうね。
どうでもいいけど、「得れれる」は「得れる」の間違い。
れれれのれ
968 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/11/06(月) 06:29:13
ーメン
>>963 「食べらるる」は「食べらるっ」「食べらるー」の様に省略されてきているので、
今後も「食べるる」と省略される事は無いでしょう。
まあ、九州でも将来的には「食べらるっ」「食べらるー」ではなく
「食べれる」を使う人が大多数になるのでしょうが・・・
970 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/11/07(火) 01:32:28
>>960 残念ながら、子供はまだ「原則」を習得している段階だから
「例外」を臨機応変に使うのはまだ先の話なのだよ。
>>1 のリンク先をよく読んでおくとよかろう。
971 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/11/07(火) 02:24:49
土佐弁では「食べれれる」という語形だそうですが、今も使う人います?
972 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/11/07(火) 07:11:33
アヌス
>>970 >>1 読んだけど、テレビや大人が「ら抜き」のような
「間違った日本語」「乱れた日本語」を使わず
「正しい日本語」を使うようにしろ、という内容だね。
>>1 のリンク先の人って言葉遣いの目的を理解してないんじゃないかな。
>>960 で言った通り、言葉遣いというのは、相手との距離感や目的に応じて、
場面によって使い分けるべきものだよ。
学校で教えられるものだけでも、尊敬語、謙譲語、丁寧語、美化語など、
場面や話す相手、相手にどう思ってほしいかという目的に応じていろいろあるが、
日常会話でもそれは同じことだ。
>>1 のリンク先でおかしいと感じたのは、たとえば「テレビ」とひとくくりにし、
タレントがくだけた日本語を使うのがいけない、と言っているが、
それは番組の内容に依るだろうと思う。
たとえば、大笑いしたいバラエティー番組で堅苦しい日本語ばかりだったら、
そんな番組を見ても楽しくはならないし、意味がないだろう。
逆に、政治・経済などを伝えるニュースや報道番組などで、
日常会話のような日本語で喋られたら、緊迫感が伝わってこない。
「夜空ノ向コウ」にしたって、若者向けの歌、かつ聴いている人に
日常会話のようにそっと語りかけるような歌にしたい、心に届く歌にしたい、
という作詞者の意図があるのだろう。
であるのに、もしフォーマルな日本語の歌詞にしたら、作詞者が伝えたかったことを
伝えられないということになる。
「間違った日本語」「乱れた日本語」「正しい日本語」
こういった先入観にとらわれ、言葉遣いが持つ距離感、堅さ、柔らかさ、
それを理解できないのでは、日本語の持つ表現の豊かさを理解できないのに等しいと思うよ。
だからこそ、違いをきちんと教えるというのが重要だということだね。
974 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/11/07(火) 12:10:48
人間は弱い みんな気付けば知識に殺されてるんじゃないか? これはほんとにマズイぞ CD聴くとき先入観とかいろんな考えが邪魔に入るのはマズイ 洋楽板が糞とか、そんなことじゃなく 音楽の聴きかた自体が糞になってきてるんじゃないかと思う
975 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/11/07(火) 13:56:06
ら抜き言葉は、ある用法に限っては、間違った日本語ではなくて新しい日本語だと思います。
どういう用法?ちなみに俺は根絶派-容認派-使用派-推進派の四つに分けた場合は根絶派だな。
俺は使用派だけど、場面や相手を選んで使う分にはいいと思う。 ら抜き自体には別段問題はなくて、どこでも同じ言葉遣いしかできないような 言葉の使い分けが出来ない奴が問題なんだと思うな。
>>976 ら抜きは自分より同等か、目下の立場の相手に使う場合のみ正しい表現方法だ
と思います。なぜなら、ら抜きは文字や文章を略することを目的としているか
らであり、新しい略語を目上の人間に対して使うと、失礼に当たる場合がある
からです。また、正式な文書でも使うべきではないと思います。
ら抜きは、それ自体略語であると同時に、前後の文章を省略する役割を持って
います。例えば、単に「見られる」とだけ言った場合、「見る」が「できる」
のか、「見る」を「される」のか判断できませんが、「見る」が「できる」の
場合は「見れる」・「見える」、「見る」を「される」の場合は「見られる」
と使い分けることで、前後の文脈が一切なくともどの意味で使われているのか
判断できます。このような言語としての利便性は、同等の立場間での口語表現
としては積極的に取り入れてよいと思います。
主語を始め色々な部分を略すことができるのは日本語の便利な部分ですから、
会話の課程などで何かを略すというのはある意味で正しい使い方だと思うわけ
です。
>>966 そんな総意があったら誰も問題視しない。
>ら抜きの許容度は人や地域や世代によるから一概には言えないだろうね。
だから保守すべきなのだろうに。
地域はともかく世代は「られる」でも統一できる。
>可能動詞と受身/尊敬を分けた方が理解しやすい
それはその使い分けを「られる」のみに頼っているから。
他の言い回しも使えば何てことない。「られる」のみでしかこれらを
言い表せないのような人は国語力が貧困なだけ。
使い分けよりも、言葉の規範性・歴史性を尊ぶことのほうが大事。
>>979 何故「保守すべき」で「統一」する必要があるの?
「言葉の規範性・歴史性を尊ぶこと」のほうが大事なのは何故?
理由が書いてくれてないから納得できないな。
それを言ったら、既に言文を一致させた段階で、
歴史性などとうに捨て去っているぞ。
しかも、その一致させたはずのものが、
しかも、「ら抜き」などのように、再度口語と文語に分かれつつあるのだ。
だいたい、「れる」が可能動詞として通用するようになったからといって
「られる」が可能動詞として通用しなくなるわけじゃあないよ。
古い世代は「られる」しか通用しないが、
若い世代は「れる」も「られる」も通用するなど、下位互換性がある。
>それはその使い分けを「られる」のみに頼っているから。
保守すべきなら、当然元々の可能助動詞である「られる」型に
頼ることになるんだけどな。
どうせ、全部の動詞を漢語動詞に変換して「○○可能」にするとか、
似たように動詞句を名詞に変換して「○○することができる」
とかやるとか言うのだろう?
簡便かつ誤解を生みにくい方向へ向かうべきなのに、
元より回りくどくて使いにくい言い方にしてどうするんだよ。
推進派の俺としては 可能はら抜きに統一。 受け身はら入りに統一。 尊敬はほかの表現を使い、れるられるは使わない。
「できる」で事足りないなら。
984 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/11/07(火) 20:52:24
下一段または語幹が三文字以上の動詞じゃなければいいよ
ら有りも有り
986 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/11/07(火) 22:10:39
卍ハーケンクロス
987 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/11/07(火) 23:09:07
そろそろ次スレのスレタイを考えよう 「2」を付けるだけでいいだろうが 念のため
>>980 >「言葉の規範性・歴史性を尊ぶこと」のほうが大事なのは何故?
コミュニケーションの手段としては二者間の言語意識の一致が第一。
一方が言葉の形を変えたり意味を追加したりすると、不一致が起る。
ある小集団内における符牒のようなものならば事は小さいが、公に出すとなると話が違う。
言語によって経営される社会というものは、そういった不一致によって崩れてしまう。
大規模に言えば、多言語国家はそれぞれを取りまとめるのに苦労し、
小規模に言えば、言葉遣いによってそうなる。
特に俺が問題にしたいのは、この「られる」が共通語の「られる」であるということ。
共通語は、国民が統合するための絶対的手段であるからであるから、永年変容しないほうがよいのは当然である。
その際に規範となるものは、歴史しかない。新しい感覚は無用な混乱を生むだけである。
俺は何も「ら」抜きだけで社会が崩れるとは思っていない。
ただ、「ら」抜きを許容するその態度が、今後そういうものを引き起こすのではないか、と思うからそう言っている。
「楽だから」という身勝手な理由で言葉を変容させるのは、言葉が共有財産であるという意識がなく、また公という意識もない。
しかも日本語は長い歴史を持つ言語である。そういったものに自分の感覚や意見を反映させようとする意識こそが危うい。
社会を崩れさせる要素を持っていると思う。
また、さしたる信念・学術的論拠がないままに「ら」抜きを用いるならば、
他の「乱れた言葉遣い」や、将来起るかもしれない他の「言語意識の不一致」を糾弾することはできない。
なぜなら「ら」抜き使用者は、自分の感覚と意志とによって言葉の公を離脱したからである。
(988のつづき) >既に言文を一致させた段階で、 歴史性などとうに捨て去っているぞ。 それは表記の問題。だいたい我々は文語体を捨てたわけではない。使わなくなっただけ。 互換性について触れているが、これと同じで、日本語をどのように表記するかであり、 全く通じなくなったのではない。今すぐ容易に学べて、しかも判読できるのに、それを 歴史性がないとは言えない。 >簡便かつ誤解を生みにくい方向へ向かうべき 「ら」抜きのみを見ていれば「簡便かつ誤解を生みにくい」かもしれないが、 他の語への影響を考えれば、「ら」抜きと言う前例のせいでいろんな符牒が飛び交って、寧ろ疏通の困難を生みかねない。 本当に効率よくしたいのなら、他の「難解で誤解を生みやすい」言葉も一緒に、研究と洗練を重ね、国家の名の下に、 国民に使用を強制して公布すべき。それでこそ「ら」抜きの意義も認められる。 しかし言葉は歴史と慣用とによって現在の形になっているわけだから、そんなことはできない。 ならば徹底して保守するのが「簡便かつ誤解を生みにくい方向」なのではないか。 >>それはその使い分けを「られる」のみに頼っているから。 >保守すべきなら、当然元々の可能助動詞である「られる」型に >頼ることになるんだけどな。 これがよく分らない。もう一度説明をお願いします。 長くてスミマセン。
>>988 >一方が言葉の形を変えたり意味を追加したりすると、不一致が起る。
これは、言語の発展そのものを否定する内容だね。
言語の発展とは、ある時点では無かった概念を、
音韻の変化や、元の意味からメタファー的に別の意味への転用をしたりすることで、
新たに語を作ったり、既存の語の転用で補ったりして理解できるようにしてきた。
変化を否定するということは、日本語や、その背景にある
日本語話者の文化における新たな概念の発生を阻害するということ。
日常用途に耐えうる言語でなくなるとき、その言語は死語になる。
>共通語は、国民が統合するための絶対的手段であるからであるから、
>永年変容しないほうがよいのは当然である。
当然かどうかは↑の理由から疑問だな。
中央集権国家の運営には、最大公約数的に、中央からの伝令が
末端まで伝わるレベル、つまり、公共の機関を利用できる程度に
通じれば問題ないのでは?
>ただ、「ら」抜きを許容するその態度が、今後そういうものを
>引き起こすのではないか、と思うからそう言っている。
そういう意味では、俺は「ら抜き」が本質的な問題ではないと思っている。
何度も言うように、場や相手や目的に応じた、言葉遣いの使い分けが
できない人間がいるということが問題なのだと思う。
>しかも日本語は長い歴史を持つ言語である。
>そういったものに自分の感覚や意見を反映させようとする意識こそが危うい。
使う人あっての日本語。
だいたい、奈良時代の日本語なんて今じゃ専門家以外には通じないよね。
江戸時代の言葉なんてイマドキ喋ってたら笑われるだろ? マルシアとか。
>>989 >だいたい我々は文語体を捨てたわけではない。使わなくなっただけ。
使わないということは、専門家以外にとっては死語ということだよ。
昔はそれが正しくても、今使ったら笑われるか変人扱いだろう?
>他の「乱れた言葉遣い」や、将来起るかもしれない他の
>「言語意識の不一致」を糾弾することはできない。
乱れてるというそれも、こういう場面ではこういう、という慣習でしかないよ。
フォーマルな場ではこういうんだ、という意味で注意することはできるかもしれないけど、
「正しい日本語」というものは幻想にすぎない。
>本当に効率よくしたいのなら、他の「難解で誤解を生みやすい」言葉も一緒に、
>研究と洗練を重ね、国家の名の下に、国民に使用を強制して公布すべき。
認知言語学やれば分かるけど、辞書に載ってる語も、文法にも、
使用法の許容度みたいなのが際限なくある。
それこそ、世代や地域や生活環境によっても個人毎に許容度にずれがあるだろう。
解明する研究なんて万年あっても終わらず、それをやっているうちに
元の言葉のほうが変わっていってしまうだろうね。
また、それを意識的に全て覚えるなど不可能。
それこそ非効率極まりない。
そもそも、言語自体がそういった厳密に規定して押しつけできる
性質のものではないのだから、最大公約数的に、
学校で教えてる程度の日本語で十分だろう。
マルシアは、月曜夜8時、6chの日本語だろ
>>989 >>それはその使い分けを「られる」のみに頼っているから。
>保守すべきなら、当然元々の可能助動詞である「られる」型に
>頼ることになるんだけどな。
元々の標準語では、語幹末が母音なら rare、
語幹末尾が子音ならareが可能の助動詞を表す最もフォーマルな形だ。
「使い分けを「られる」のみに頼っているから」
とは言うが、保守して変えるな、というスタンスなら、
その「られる」こそが最もフォーマルな形なのだから、
「られる」型の可能表現をを使わないと、
フォーマルな日本語としてはおかしいわけよ。
要するに、あなたの言っていることは自己矛盾しているということ。
>>992 ああいうのも一応歴史的考証の上に当時の言葉遣いを再現してるんでしょ?
言葉は世につれ人につれ。 個人がどうあがこうと変化は止められない。 目くじらを立てていても時間の無駄。 皆さん変化を受け容れて楽しみましょう。
996 :
名無し象は鼻がウナギだ! :2006/11/08(水) 05:25:15
またキモい言語オタクが襲来してますね
すべての可能ラレがレに変わっているのなら、ラ抜きを認めてしまってもかまわない。 しかし、「?居れる/○居られる」「*信じれない/○信じられない (>信じらんない)」のように、レに変わっていないラレもまだある。 ラ抜きを正用と認めると、ラ抜きが使えない場合を例外として説明しなければならず、文法が複雑になる。 ラ抜きは認めないとする保守的な方針を採るのも、現在の段階ではやむを得ないだろう。
終
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