>>151 >>「フルチン」?それとも「フリチン」?
>はもともと文ではないと思うにゃ。
そんな無茶な。ならば一語文はどうなる?
153 :
(´∀`):02/11/07 09:03
語にゃが?
一語でも文と同じ機能を持つ(発語内力を持つ)ということと
構造として文レベルまで投射しているということは区別するにゃ
>>153 ああ、生成文法の定義での「文」ね。
そんな勝手な定義持ち出されても困るなあ。
>>153 一般に「語」でもあれば「文」でもあると認められる一語文などの言表を、
ことさらに「文」とは見做さないことにするのは如何なる利点があってのことなのですか。
とりわけ、それが今みたいに語用論的検討をなすにあたって適切な方法なのかどうか……。
その辺り、生成と前提を共有しない者にも得心のゆく仕方で説明してくれないと、独善的に見えます。
156 :
(´∀`):02/11/07 10:25
>>154、155
ではまずそっちの語用論的(?)「文」の定義を明確にしてもらおうかにゃ。
生成批判しようというのに「生成の勝手な定義は知らん」ではお話しにならんですにゃ。
このスレの議論が虚しいのは「主語」とか「文」とかの概念について共通理解ができて
ないのも一因にゃ。
157 :
(´∀`):02/11/07 10:32
>>155 >一般に「語」でもあれば「文」でもあると認められる
やはり機能と構造を混同しているようですがにゃ。
「主語」もそうにゃが、生成では「文」はプリミティブな概念ではないにゃ。例えば
日本語の使役文が補「文」構造を持っているかどうかの議論は、実際には使役補部の
範疇を問うているわけにゃ。IPまで投射しているのかVPどまりか、とかにゃ。
そこでもし語用論的には「君、本を読んでくれ」も「本!」も同じ発語内行為を果たすから
どちらも「文」だというのだとして、「本を読ませる」と「*本せる」(w)の違いは
どこにあるかと言えば、それは構造的な違いに求めるしかないだろにゃ。使役補部には
文的機能を持つ表現がくる、のではなく、文構造を持つ表現がくる、というのが
正しい記述のはずにゃ。構造的に意味のある記述を「文」という概念を用いてしようと
思えば「文」自体にも構造的な意味づけを与えるしかないのにゃ。
俺自身は語彙主義には反対にゃが、いちおう、語は脳内辞書に貯蔵されている単位、
文はそれを組み合わせてできるより大きな言語表現と言うことができるにゃ。
文の生成には辞書から単語を引っぱり出す以外の手間(統語計算)が要求されると
して、もし統語部門にだけ選択的に障害が生じた場合(ブローカ失語症など)、
「一語文」の発話も困難になるのかどうかで「一語文」を生成的な意味で「文」と
見なすべきかどうかが判断できるかもにゃ。
さらに別の議論としては、一語文しか発せない幼児の脳内には実は文構造に関する
知識がすでにあるということがあるにゃ。このことと実際の一語文が文構造を内包
しているのかどうかも、ちゃんと区別する必要があると思うにゃ。
また複合語やpolysynthesisまで含めて語と文の間の境界のあやふやさを問題にしたい
のにゃら、こっちはこっちで面白いテーマにゃから生成スレでお相手するにゃ。
>>156 立場が逆でしょ。
「生成批判」しようってのはこのスレッドの本来の趣旨ではない。
こちらが生成スレッドに乗り込んだってのなら説明責任はこちらにあるが、
むしろわざわざ語用論スレッドに乗り込んできた以上そちらから生成の定義を明らかにすべき。
あと、別に語用論でなくても、「一語文」て述語があることからもわかる通り、
常識として、語であり且つ文でもある言語事実が存在することは認められてます。
それに反する主張をするならば、説明が要るのは当然のことですよ。
>>157 肝腎の説明がありませんね。
結局、構造としての「文」に執着して機能としての文を無視することで
どんな利益があるのですか?
殊に、補「文」構造を議論してるわけでもない場合においては。
一語文を文として処理できないこと、つまり理論の適用範囲の狭さは、
決して生成文法の優位を意味しないはずですが。
主語と関係ないのでsage。
160 :
(´∀`):02/11/07 11:07
>>158 スレッドの趣旨とは別に、154にレスしたのにゃ。
ところでスレッドの本来の趣旨といえば、
>>1の金谷武洋『日本語に主語はいらない』は
生成批判を気取っており、それを巡るスレなのだからまんざら生成批判に無縁のスレでも
ないんだろーがにゃ?
>わざわざ語用論スレッドに乗り込んできた以上
なんにゃ、このヘタレな島国根性丸出しの縄張り意識は?(w
一語文に主語はいらない!
162 :
(´∀`):02/11/07 11:10
>>159 構造の議論と機能の議論は別物、と言ってるのにゃが?
構造分析をする上では「文」の構造に言及する必要があり、機能論は無益だということにゃ。
逆にきくにゃが機能を論じる上で「文」という用語を引っぱり出す利益は何なのにゃ?
それこそ発語内力に言及したほうが包括的で機能論的にも有益だと思うにゃが? もともと
語や文は構造分析・統語論の用語だということも失念なきようににゃ。
で、語用論の勝手な「文」の定義はまだかにゃ?
これはかなり普及した学説だが,唯一の具体的単位は文であると主張し,われわれは
文によってのみ語り,語はあとでそれから引き出したものだという.だがまず,文は
どのていど言語 langue にぞくするのであるか? もしそれが言 parole のなわばりの
ものであるならば,言語単位として通用するわけにはゆくまい.
(ソシュール『一般言語学講義』)
164 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/11/07 12:32
>>163 Chom的に言い換えると、統語論はパフォーマンスの問題、ということ
なわけだけど、語用論はパフォーマンスの問題でいいけど、現在の
言語学で論じられているのは、可能性としての統語論、という観点。
パフォーマンスは、その可能な中から選択した、にすぎないのであって、
可能性それ自体をパフォーマンスのレベルで論じることはできないよね。
問題は語用論がコンピタンスの問題にどれくらい関係するのか、という
ことがあって、極端な人はコンピタンスそれ自体を否定するわけだが。
パフォーマンスのみ、というのは言語モデルとしてありえるのかな。
昔(かなり昔ねw)、顔文字氏が「単語は残りかすみたいなもん」と
発言してたが、コンピタンスを示すとされる我々のジャッジメント(直感)
みたいなものもなんらかの残りかす、みたいなもんということになるん
だろうかね、パフォーマンスオンリーのモデルでは。
>>151 >2.英語でも代名詞類など
>指示的代名詞の指示対象決定と束縛代名詞の束縛子決定はことなる現象であり、前者はinter-
>sententialな語用論的問題、後者はintrasententialな統語論的問題、と棲み分けされてるのにゃ。
だからそんな棲み分けなんてねぇぞってのが、認知の立場からの主張だろ。
誰かvan Hoek理論に詳しいやつ説明してやれ。
俺は忙しい。w
>>165 その認知の立場からの主張とやらは最も単純な事実によっても
支持しがたい、と言われてるんだぞアホw
168 :
かかりちゃん:02/11/07 13:47
一応、発話と文とは別々の概念であるってことは了解しているの?
猪木の、「1、2、3、だ〜」は発話だけど文でない。語用論は
発話に関する理論よね?
ところでこのすれの>1の話題にしている金谷さんの書いたものは
とあるinformalな場に出ているものを見たことがあるにょろ。
結構、腰をぬかしたにょろ。
>>169 それでしたら、ぜひ詳細をきぼんぬですね。
171 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/11/08 00:46
>>150です。
>>151 >まるで統語には語順しかないような言い方にゃが、情報の新旧だけで日本語の階層構造にゃら、
>移動の局所性にゃら、照応語の束縛条件にゃら、格標示パタンにゃらが全部でてくるのかにゃ?
もちろん、統語論固有の規則性は認めますが、実用にならない文まで
生成しておいて、意味解釈や語用論でフィルタリングするより、様々な
語用論的・意味論的条件下で可能なものを絞っておいてから統語規則を
適用した方がよいのではないかという発想です。
つまり、どういう事態をどういう文脈でどういう構文で表わすかという
方向で発想したい。人間が言語を使う自然な過程は、そちらの方向でしょ
う。
>統語構造と情報構造には対応関係があるからこそ、言語に実用可能な部分もあるということだと
>思うにゃ。それを統語構造が情報構造に基づくとか言い出すと本末転倒の感が否めないにゃ。
この部分が私の言っていることと関わりがあるのかどうか分かりませんが、
「言語に実用可能な部分もある」というのは、実用にならない文まで生成
文法が生成してしまうから出てくる言葉ではないのでしょうか。
(続く)
>>171の続き
>>普通、不定表現を前において定表現を後ろに置くとまずい文になる。
>あまりに漠然としすぎていて予測能力ゼロですにゃ。
> There is a book/*the book in our room.
>there構文における定性制約は情報の新旧で語られることが多いけれども、この例では定表現が
>不定表現に後続してますにゃ。
だから、「語順の固定した英語にはあまり関係がないけれど」と書いて
おいたのです。例えば、ドイツ語では、
*Er gibt ein Buch dem Mann.
(He gives a book the man.)
は、非文です。ロシア語などでも同じことが言えるようです。
> とある人が私の叔父を訪ねてきた。
>不定主語が定名詞句に先行してるにゃが、まずくはないですにゃ。
基本語順(すべてが新情報の文で最もnormalな語順)に従った文は、
情報構造の規則(旧→新)に違反できます。上の文は、基本語順です。
また、日本語では、
叔父が僕にChomskyの本をくれた。
叔父がChomskyの本を僕にくれた。
も言えてしまうので、この辺は個別言語的な面もあるようですが。
(続く)
>>172の続き
>>2.英語でも代名詞類など
>指示的代名詞の指示対象決定と束縛代名詞の束縛子決定はことなる現象であり、前者はinter-
>sententialな語用論的問題、後者はintrasententialな統語論的問題、と棲み分けされてるのにゃ。
このintersententialな問題は、決して瑣末な問題ではなく、
intrasententialな問題と同等かそれ以上に大きく扱われるべきでは
ないでしょうか。生成文法の扱える問題は、現実の文脈に置かれた文
ではなく、いわば、all new sentenceのような極めてまれな文に限ら
れていて、その文の中の規則性だけが人間の言語能力に関わっていて
言語学の扱う部分であるという考えの人が多すぎる気がします。
>133の例はそこで書かれてあるようなのでいいんでないかにゃ。
しかし、
>>133で補われている主語は、複数の可能性があって、文脈に
よって適切な語が選ばれなければなりませんが、それは、1文だけで
は解決の付かない問題です。2chのスレ題だからこそ、ああいう
補完が考えられたのだと思います。
174 :
(´∀`):02/11/08 05:18
手短にいくにゃ
>>171 能力と使用の区別に賛同するか否かに帰結するにゃ。実際に起きてしまった
現象だけ見てるのか、その背景にある潜在的可能性を見てるのか、の違いにゃ。
例えば「実用にならない文でも生成できる」ということ自体を人間言語について
無視していい事実だと思うかどうか、にゃ。
>>172 個別言語ごとに情報構造の組立がコロコロ変わるというのも妙な話しにゃが、
こちらは表面的多様性を見てるのか、深層普遍性を見てるのか、の違いだにゃ。
>語順の固定した英語
と、そうでない言語の違いがどこからでてくるのか、をまず調べた上で、
語順の比較的自由な言語でどのような条件下で語順の変化が起きるのかを議論
すべきだと思うにゃ。
175 :
(´∀`):02/11/08 05:23
>>173 >このintersententialな問題は、決して瑣末な問題ではなく、
誰もそんなことは言ってないにゃが? どうも甚だしい誤解がいまだにまかり
通っているようにゃが、生成が万能であるとか、生成の扱う側面だけが言語学に
とって重要だとか、生成側の誰も思ってないのにゃ。すべての個別理論は相補的
分業である、と俺自身も何度ここで書いたか分からんにゃ。
逆に語用論や機能主義だけで言語のすべてが説明できる、生成のような形式論は
不用である、と主張するアフォがいれば徹底的に叩かせてもらうにゃ。
>複数の可能性があって、文脈によって適切な語が選ばれなければなりませんが、
>それは、1文だけでは解決の付かない問題
PROの随意解釈と同じようなもんだと書いたはずにゃが?
it is illegal to kill people
誰が殺すのかの具体的な解釈は文脈によって決まりこれは語用論の問題、しかし
英語の不定詞主語として音形化を伴わない名詞句が生起可能であるという事実は
統語論ないし狭義言語知識の問題にゃ。
重要なのは理論の棲み分け、今西進化論なのにゃ(w
176 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/11/08 12:39
>>168 不意に襲ってきた痛みに声にならない声を上げたら、それは発話であって文ではない。
強引に文字で記せば「ギャアア」とか「ヒイイ」とかになるかもしれんが。
しかし「イテッ」「イタっ」「痛い!」だったら、立派に意味のある「文」ですよね。
「痛い」「悲しい」「嬉しい」……みな一語文たり得る。
それともいちいち「私は痛い」「私は悲しい」と主語「私は」を附けないと「文」ではないのか?
>>168 人の尻馬に乗ってつっこみをいれよう!
「いくぞ〜、1、2、3、だぁ〜」は、「いくぞ〜」だけが文?
「い〜の〜き、い〜の〜き、い〜の〜き」のような猪木コールは、文?
「いっの〜き、がんば〜れ、いっの〜き、がんば〜れ」のような声援は?
ちなみに、私は、イノキ・ボンバイエが上記のように聞こえてますた…
(これが書きたかった)
168のどこを見ても
>主語「私は」を附けないと「文」ではない
とは言ってないようですが?
「ギャアア」は文ではないが「イテッ」は文ですか?
その判断基準は何ですか?
>>178 生成文法によれば、一語文は文ではないってさ。
「声にならない声」とは即ち「言葉にならない叫び」なのだから、
「文」どころか「言語」ですらないはず。
それが“ouch!”みたいに各言語によって定まった反応だったら別だけど。
>179
178への答えにはなってないような。。。
一語文が文か否かを、文の定義を明記しないで
言い合ってても意味ないし。。。
181 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/11/08 21:38
感歎文(感動文)も一語から成る場合が多いが、
あれはやはり文ではないわけですか。
文でないとしたら、生成文法では何と呼んでるの? 感歎詞とはまた異なるし。
「文」の話でごたごた言い出したのは
>>152の書き込みが契機になっていると思うけど、
生成以外では「文」はどう定義されてんのよ?
時代と共に定義も変わってきているし、扱う領域も変わってきているけど
例えば60年代だったらS節点に支配された記号列を「文」と定義してただろうね、生成では。
で、生成以外ではどう定義されてんのよ?で、一応、定義が明示化されていた
生成では一語文もその上にS節点設けていたわけだ。文句あっかよ?で、生成以外では
どう定義されてたんよ?だが、そんな構造を仮定しても、辻褄あわせに過ぎないと
生成内部で修正していって、結局、今は「文」とやらにはまともな定義不可となってる
と思うぜ。もちinformalには使いまくっているけどね。キチンと言う時にはTPとか
CPとか言うと思うし、例えばOuchのような一語「文」はそのままレイベルがOuchの記号列だ。
総称して言う時には言語表現(linguistic expression)だな。その言語表現Eの
音声と意味の関係をつけることに関心を向けてるのが生成なんだよ。ともかく生成
以外では「文」をどう定義してるんよ?
でもって、その「文」ってものが定義可能だとして、その概念を設定する
ことによってどんな経験的利点があるかもついでに教えてくれよな。
それがないとしたら、んなもん、捨てちまえ。
184 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/11/08 23:40
国語学では山田孝雄以来の陳述論争の中で句成立論・文成立論があって、
渡辺実『国語構文論』が一つの達成と見られる。
>>182,
>>183 文の定義は、橋本文法になるが、句点で区切れる単位でいいだろう。
それは、通常、文末イントネーションタイプとポーズが置ける位置
によって区切られる。
たぶん、この定義の曖昧さを非難するだろうが、言語というのは、
そもそも連続的なもの(indiscrete)であって、数学的なものじゃな
い。共時的にも通時的にもね。
文を共時的に見た場合も、アクセント・イントネーション・声色まで
総合的に見なければ、真の理解は得られないことからもこれは明らか
なこと。
それを否定することは、言語を全体的に見ていないことになる。立場
の相違だろうが・・・
>>183 A 桜の花が咲く
a [桜の花が咲く]季節だ
Aは文だが、文aの[ ]内は句だ。
この(経験的にも認められる)差異を説明できる方がよくないかね?
「文」の定義が必要な所以だ。
>>186 それ、返答になってないと思うけど。
>>185 言語は連続的だろうと思うが、理解する上で分節するのは
無意味とは言えないしむしろ当然だろう。
>>187 >>185は、分節しないなんていってないつもり。
分節しきれない部分も残るってこと。一語文しかり。
いろいろどうもありがとう。えーっと生成にもルートって概念はあってこれは
最上位の構成素の意味です。大昔にエモンズという人がこのルートでしかかからない
変形規則があるといっていろいろすったもんだした揚げ句、今はほったらかしになってる
ところがあると思います。それに類比的な概念としてLexical Arrayと言うのがあって
大雑把に言ってこれを使い切って作られた構造がルート、つまり最上位の構成素です。
これを「文」と定義するならそれで構いません。最上位構成素が特殊なイントネーションを
持つこともあると思うし、エモンズじゃないけど、何か特殊なことが起こることもある
と思います。でも
>>185さんも
>>186さんも生成で言うルート構造のことを問題に
なさっているような気がするのでした。
なんだか変な文章だたー。これはいつもだー(笑)
言いたかったのは、185,6さんの「文」と言うのと僕が「ルート構造」というのは
同じじゃないかとそこだけです。
191 :
(´∀`):02/11/09 05:13
にゃんだか空虚なやりとりが続いてるにゃー
文の一義的定義が困難なのは事実だし、人によって理論によって見方が変わるだろう
ことも当然なのにゃが、自分の立場ではとりあえずこう定義するってのを言ってから
発言してもらいたいもんですにゃー。
>>185 >句点で区切れる単位
句読法や文字を持たない言語もイパーイあるにゃが?
>>186 >Aは文だが、文aの[ ]内は句だ
[ ]内はいわゆる埋め込み「文」で、逃走派しゃんのいうルート文と対比されるべき
ものであって句と対比されるものではないにゃ。
>(経験的にも認められる)差異
どんな差異か不明にゃ。たとえば
太郎は [ 花子が美人である ] と主張した。
太郎は [ 花子が美人である ]との主張を覆した。
の[ ] 内はそちらではどういう扱いになるのにゃ。
機能論・語用論の話しをするときに文とか語とかいう統語概念でくくろうとするのが
混乱の始まりだと思うにゃ。
「水をくれ!」「水!」
前者は文(命令文)、後者は語、範疇はべつにゃが、どちらも使われる場面次第で
命令とか依頼とかいう同じillocutionary forceを持つ、という言い方で、機能的・
発話行為理論にくくればいいのにゃ。後者も文だと言い張る必要はないですにゃ。
一語文というのは、一語でも文と同じような機能や解釈が可能という意味で、構造的に
文であるということではないと思うにゃ。反語彙論の俺がいうのもヘンだけどにゃー
ぶっちゃけ、日本語の、主語が見えない文を「文」と認めるかどうかの戦いなわけね。
>>192 そゆこと。だから山田孝雄以来、争点になってきたんです。
生成文法と雖も、日本語を考察する場合は国文法の研究史を辿っておくのは当然のことだよね。
主語が見えない文、といってしまったらすでに文と認めていることになるが?
193さん、せっかくだから国文法における代表的な文の定義をまとめてもらえませんか?
>>194 googleでを検索! キイワード「渡辺実 陳述」
http://nihongo-online.org/tree01/treebbs.cgi?kako=1&log=197 「陳述」の概念は、山田孝雄に はじまると きいていますが、その解釈
をめぐっては さまざまな論争が くりひろげられたようです。それを無理
やりに まとめて、簡単に定義すれば「文を文として成立させる能力」の
ようなもので、その能力をもった成分が文末に あらわれないと、文が成立
せず、その「陳述」の能力が発揮されると文が終結しなければならないと
おもわれるものだと いえるでしょう。
ほかの言語との比較の観点をつよく意識せざるをえない日本語学では、
国語学の伝統に かわって日本語の「モダリティ」論による研究が さかん
になったのは、至極当然だったと いえます。いつしか「陳述」という
ことばが あまり つかわれなくなり、「モダリティ」が さかんに いわれる
ようになったのも、すべての言語に関係のある一般性のたかい概念として
「言表態度」の あらわれかたを研究しようという態度表明だったと うけ
とめられると わたしは おもいます。
このような「モダリティ」の研究が隆盛であるなかで、もともと「陳述」論
が もっていた「文をなりたたせる能力」という議論が うすらいでしまって
いると感じると いったら、いいすぎでしょうか。
工藤浩「現代日本語の文の叙法性 序章」もある。
http://www7.plala.or.jp/dokuro/modality.html
196 :
(´∀`):02/11/10 06:58
195の
>
http://www7.plala.or.jp/dokuro/modality.html の冒頭に書いてあるのが、語用論的な文の定義と見てよさそうですにゃ。
> <文>は、伝え合い communicationの機能を果たす、言語活動の最小単位である。
>極端な例をあげれば「絵!」と叫んだ場合、あるいは「これは何?」に対して「絵。」
>と答えた場合、それは1音=1語=1文である。言語場の中で、それは立派に言語活動
>の単位として機能している。
これはこれでconsistentにゃから大いに結構だと思うにゃが、言語活動から抽象され
communicationの機能を果たさなければ、たとえ「太郎は学生である。」でも文ではない
ということになってしまい、統語分析上は有意義ではなく採用し難い定義、ということですにゃ。
立場により違う定義が選ばれる、これは致し方ないですにゃ。
さてかりに「文」である「絵。」には主語がないのだから、文には必ず主語があるとはいえない、
と誰かが主張したとするにゃ。これは一語文を文と認定しない立場にとってirrelevantである
のみならず、英語でも(そしてたぶんどの言語でも)同様に一語文はあるのだから、とりわけ
(英語と違って)日本語には主語はない、という金谷氏の主張にとってもirrelevantということに
なるにゃ。