18 :
名無し象は鼻がウナギだ!:
清瀬氏の「派生文法」というのは、Bernard Blochや三上章の説とは異なるもの
なのでしょうか? このスレッドへの書き込みを見た限りでは同一のもので
あって、「派生文法」などという新しい名前をつけるまでもないように思えます。
さて、
>>15、
>>17の方は、この、Bloch系の理論を否定されているようですが、
国語学系の理論において、「書いた」と「嗅いだ」の対立の問題は説明できる
のでしょうか? Bloch系の理論においては、「嗅いだ」の方では語幹(kag-)
が有声子音で終わっているために同化が起きて過去を表す接辞「た」が「だ」に
なる、と説明されるわけですが、国語学系の理論においては、なぜ過去の接辞が
「た」になったり「だ」になったりするのか、説明できないのではありませんか?
19 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/02/20 03:31
>>18 そのとおりです。痛い所を突いて来ますね。
しかし、必ずしも子音終りの語幹を考えなくても説明はできます。
すなわち、いわゆる五段動詞の語幹の一つである kaki- や kagi- は、
-te、-ta、-tari の前ではいずれも kai- となるが、その際に、語幹が
有声子音を含んでいると、-te、-ta、-tari の頭子音が有声化するの
だ、というように、項目配列方式と項目過程方式とを組み合わせて記述
すればいいのです。そのほうが日本語ネイティヴの直観にもよく合うで
しょう。
>>19 -tara も入りますね。
それから、有声子音のなかでも、流音 r は除いておかなければならないでしょう。
これは有声というより、古い鼻音にかかわりのある現象ですから。
えーと、派生文法は適用範囲も限られるし、そんなに取柄が無いって結論でいいんですかぁ。
で、日本語は膠着語だけど活用する、と。
22 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/02/21 16:05
>>19 >そのほうが日本語ネイティヴの直観にもよく合うで
>しょう。
大人の日本語話者の直観には確かに合います。しかし、問題は、日本語を
習得し終わった我々の直観ではなく、日本語の動詞を習得する時点での、
赤ん坊の「直観」です。赤ん坊にとっては、Bloch流の分析の方が自然で
ある、という可能性があるわけです。
>>21 いえ、そういう結論にはならないでしょう。適用範囲がどうかとか、取柄
がどうかとかいうことはわかりませんが、「派生文法」(Bloch流の分析)
が間違っているということを示す証拠は存在していないと思います。
>>22 少なくとも派生文法における次の分析(
>>13のリンク先より)が
退けられることは確かでは。
>言い換えると、`kak'に`-ru'が後接した場合、子音が連続するため接尾辞
>の先頭のrが欠落するのである
「書く=kakru」なんて大人であれ幼児であれ日本語話者の直感に合致しないし
発音の通時的変遷を辿っても無根拠ですし。
ウイグル語・日本語間の機械翻訳みたいな純粋に操作上の一便法として仮定するなら
ともかく、それ以上に適用すべき道理がないと見ますね。
24 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/02/21 23:15
20さんへ 日本語のラ行はn起源ということですか?
地名の「敦賀」みたいなものですか?
詳しい参考になる本があったら教えてください
>>24 わかりにくい書き方でごめんなさい。いわゆる連濁という現象は、起源的には有声化というより、鼻音化というべきものだと思います。
流音 r にはもともと鼻音の要素がなかったので、連濁とかかわりがないのです。
濱田敦氏の著作などが参考になるでしょう。
「日本語話者の直感」って、ただの直感だよなあ・・・
例えば地球が丸いのは、全然地球居住者の直感と一致しませんけど。
>>26 言語は「地球」みたいな「モノ」ではないのです。
単なる音声では言語ではない。
言語(langue)は話者の頭の中にしか存在しません。
だから言語を使用する話者にとっての心的存在を考察せねばならんのです。
他の科学と違って言語学では「観点に先立って対象が存在するのでは
さらさらなくて、いわば観点が対象を作りだすのだ」。
(ソシュール『一般言語学講義』第3章「言語学の対象」参照)
28 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/03/02 18:31
29 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/03/22 11:34
やはり納得がゆかん。
日本語はモーラ言語だっての無視してないかい?
30 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/03/22 12:53
>>29 英語では、シラブルの切れ目と形態素の切れ目は一致していません。
例えば、hiker。形態素の切れ目はk音と後続の母音の間にあるが、
シラブルの切れ目はk音の前にある(と思われる)。
日本語の場合も、同様に、モーラの切れ目と形態素の切れ目は一致しない、
ということでしょう。
31 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/03/22 15:40
>>30 英語では、シラブルと形態素の切れ目の不一致が、品詞・語類を問わず起こるのに対して、日本語ではいわゆる五段活用の動詞にのみ集中して現れる (ということになる)。
それが納得いかない理由ではないかな。
>>31 私よりうまく言って下さり、有り難うございます。
他ではモーラ言語としての特性が形態素にも反映してるのに
五彈動詞だけナゼ……ってことになりますよね。
33 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/03/27 05:37
そもそも日本語の活用表自体がカナを単位として音声を記述する習慣から
派生しているので、文法分析に当たってはいったんその発想を脱出すべきだろう。
言語の実態が文字に即しているという保証はない。
朝鮮語のシラブルは音声と意味で切り方が異なることを念頭に置くとよい。
チェロキー文字はカナのようにCVで一字だが、その切り方は形態の境界と
一致しない。
kak-ruのような解釈は岩波新書で中島ふみお(字忘れた)もやっている。
生成文法なら違和感のない発想だ。歴史的根拠など無くても共時的分析で
もっとも合理的ならそれでよいのでは?逆に将来kak-ruのような構造が
音声に反映されるかもしれないだろ?
34 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/03/27 10:11
>>33 いや、だから、「カナを単位として音声を記述する習慣」は脱却してもいいが、
モーラ言語であるって日本語の特性を閑却してはいかんでしょ?
「カナを単位として音声を記述する習慣」が日本語の文法と適合性を持ったのも
カナがモーラ言語としての特性をよく写し得る表記だったからで。
>>34 そこだね。日本語が「モーラ言語」であることは間違いないとしても、
ある言語がモーラ言語かシラビーム言語かという問題は、その言語の
morphologyと本当に関係があるのか、そこが問題なんだ。
古典語は「子音語幹」「母音語幹」を認めた方が解きやすい、と上に
あったが、もしそれが正しいなら、明らかに音声を「子音」「母音」に
分ける習慣の無かった時代に五十音図の発想から出た「四段活用」のよ
うな考え方を守ることがそんなに重要なのか、ということになる。
朝鮮語で「生きていく」にあたる表現saragadaを、現代語表記では
sar-a-ga-da(生き・て・行く)の4音節に切る(daは動詞辞書形語尾)。
「生きる」はsar-daで、語幹に連用形を作る接続語尾-aが付くことでsara
という形が生まれる。これは我々の耳にも母語話者の一次的聴覚印象でも
sa-raとしか切ることができない。事実中期朝鮮語ではこういうときはsa-ra
と綴っていた。「意味のまとまり」に着目してsar-aと綴るようになったの
は近代になってから。ちょうど中世のドイツ語が文法的交替を綴りに反映
させず聞いたままの表記を行っていたのに似ている。
今の韓国人は子供の時からsa-raではなくsar-aと書くよう教え込まれる。
それは聴覚的・生理的印象よりも形態論的構造を優先して書く綴り字法で
あり、人為的な訓練を経なければ習得できないのだよ。
煽りっぽくなっちゃうけど、日本語の分析をする人は、外国語に接する
ことで従来と異なった角度から日本語を見る習慣をつけてほしい。過去の
言語学史の発展は常に他の言語との対照から生まれてきたという事実をお
忘れなく。
36 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/03/28 00:39
ちなみに中期朝鮮語でも「月印千江之曲」ではsar-aのように綴られることもある。
つまり世宗自身は形態論的な表記にしたかったようです。
>>29 中世の「連声」は不一致の例では?たしか「名詞+助詞」の場合にも
あったような…
また、英語からの接辞の借用には超モーラ的なものが生まれつつある。
「アルバイター」「ガンバリズム」「ゴーマニスト」(笑)などの
英語にない造語も増えている。
ちなみにインドネシア語では英語の-izationを-isasiとするのが定着し、
独自の単語を生んでいる。(例hutanisasi植林:「森」+「〜化する」)
品詞による不均衡というのは現代語だけ見るとそうなんだろうけど、
挿入子音/s/とか(春雨)、いわゆる「ク語法」の名詞化接辞-aku(言わく、
思へらく)とか見ても、純粋に動詞だけとは言い切れないような気もする。
これこそ過去の日本語の性質のrelicsかもしれない。有史以前の日本語は
モーラ言語ではなかったのかもね。ギリシア語やラテン語はモーラ言語から
シラビーム言語に変化していったことを参考に挙げておきたい。逆もあるだ
ろう。
>>36 情報感謝。形態論的な表記と音声的な表記との間を揺れていたのかもしれませんね。
日韓併合まで正書法を確立するに至らなかったわけだし。
38 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/03/28 03:16
39 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/03/29 03:41
>>38 それでは
>>37の挙げる和製英語もどきの名詞の例についてはどう?
>日本語ネイティブの内観と合致しない(
>>15)
>日本語はモーラ言語だっての無視してないかい?(
>>29)
このあたり主観的すぎてついていけない。主観の正しさを他人に納得のいくよう
に(つまりは客観的に)書いてもらいたい。音韻論と形態論が何の交替現象も
起こさずダイレクトに連動しなければならないという保証はどこから来るのか。
なお、
>>34の、
>「カナを単位として音声を記述する習慣」が日本語の文法と適合性を
>持ったのもカナがモーラ言語としての特性をよく写し得る表記だったからで。(
>>34)
について引っかかっていたのは、カナは「日本語の文法と適合性を」持っていた
というくだり。実際には「日本語の文法」とではなく「日本語の音韻体系」と適合性を
持っていたとしか言えないのではないか。音韻の構造が形態論を規定すると
いうこと?なぜ?「モーラ言語だから、それが何?」と煽りたくなる(w
そこで
>>31の助け船が登場。となるが、今のところ「品詞の不均衡」以外に
不都合な点が見あたらないのを強調するのもどうかと思う。最近のどんな言語
理論を見ても、大雑把な言い方になるが、動詞は文法の要でしょ。
>>39 >音韻論と形態論が何の交替現象も
>起こさずダイレクトに連動しなければならない
とか
>音韻の構造が形態論を規定すると
とか、そこまでは言ってないでしょ。勝手に拡大解釈されても……。
ただし、「文法」において、単位として「語」に分節することが前提される以上、
形態論と相関的であることは当然ですよね。
で、日本語におけるemic(phonemicではないよ)観点からすれば
開音節の母音で終了する所に日本語の「語」の切れ目が見出されるんではないの?
違ってたらご指摘下さい。
>40
なるほど。
日本語の「語」はそう言っていいかも知れない。ただ「形態」の境界はどうだろう。
昔から文部省文法の問題点として挙げられるのは、「動詞+助動詞」のように
考えるのはわかりやすいが、はたしてこの「助動詞」を「語」として独立したもの
と割り切っていいのか?てことでしょ。
だから「文節」なんていう「文」と「語」のあいだの中間的性質の単位を設定しな
ければならなかったわけで、その伝で言うなら、開音節の母音で終了する所に
切れ目が見出されるのは最小でも「文節」止まりかも知れない。我々はその可能性を
論じているわけだ。
なお、サンスクリットにはsandhi(連声)という現象があるが、これは語の境界と
音節の境界の不一致と見ることができるね。
ドイツ語には前置詞in+定冠詞dem→im
漢文にも
「動詞+代名詞「之」+前置詞「於」」→「動詞+合音詞「諸」」
「動詞+前置詞「於」+代名詞「之」」→「動詞+合音詞「焉」」
のような「語」の枠を越えた融合がある。