Partわんわん だから立てたかったの。ノ□Å□ヽノシ
>>前スレ595 あ。そうね。そういうのあるのよね。 男=能動 女=受動 594書いたとき、こんな基本中の基本事項を、すっぽり忘れてたあたしって何…? ヘテロ男女の他人事ね…。 (それがゲイも他人事じゃないっていうのがこのスレのはじめだろうけど、 やだーめんどくさーい。あたしはそれ、他人事にしちゃうわ) それでですね。はじめのスーツの話は、そういうことではなくて。 (もしかしたら、そういうことに関係あるかもしれないけど) スーツ → 人間の企業社会を体現するもの → 動物っぽさを排除した文化的人間らしさ。 スーツ → 下半身のラインが露骨に出るスーツ → 生々しい肉感的な動物っぽさ。 文明と野生。この2つが同時に両立しちゃってるスーツってものは 一体なんなんでしょ…??? という不思議だったんです。 ダブル・スタンダード、なら、あるときはA、あるときはB、ってことだと思うけど、 この場合、Aであると同時に正反対のBでもあるっていう離れ業をやってるんじゃない…? そもそもスーツに対して、そういった見方をしないのかもしれないけど…。
5 :
83 :2005/11/11(金) 03:29:54 ID:dVp4ENry
いぬタン、スレ立て乙〜。 >前スレ595 そーなのよ。あたしタチ寄りリバなんだけど、ヘテロ女性って自分がセックスしたくってウズウズしてるくせに、 誘われるのをじーっと待ってるのよね。その無言の要求がプレッシャー。 「“求めること”を求められること」ってキツいわ〜。 そこらへん、セックスをきちんと扱えるレズネコちゃんは、 ちゃんと自分の欲望をストレートに表現してくれるから楽。 「攻めネコ」という分類があってもいいと思う(あくまでも「オラネコ」とは別)。
6 :
禁断の名無しさん :2005/11/11(金) 03:47:24 ID:xTkJrvBN
>>83 タン
あなたはここの所、その手の話題にしか食いついてないですねwwwwww
7 :
禁断の名無しさん :2005/11/11(金) 04:03:51 ID:xTkJrvBN
っと、うっかり1行で送信してしまった。
>>1 =いぬまわりさん、「Partわんわん」スレ立て乙です。
つーかそういう「女の受け身っぷり」って、
セクシュアルな面に限った話でもない上に、
「典型的な女」っぽくない人間であれば、戸籍とか身体性別を
問わずに、誰相手にでも発揮されうることが多いってのが困ったところです。
前に言った「相手の性的な行為を下敷きにしか人間関係を作れない」
ってのもここに絡んでることが多いけど、
女嫌いを常日頃公言してる自分のような女にでも、
すり寄ってくる「おんぶおばけ女」は珍しくないからなあ。
ミソジニーは解消されるどころか増すばかりです。
8 :
禁断の名無しさん :2005/11/11(金) 04:42:09 ID:TwF3qQIB
>そうだなー ホントにそう思うよ。 >言いにくいことをきちっと言ってくれる人ってのは貴重だよね。 >そういう人がいるって事が"徳"だと思う。 プ
9 :
禁断の名無しさん :2005/11/11(金) 11:15:27 ID:mWcNJLp/
>>1 おつ
それと1〜3以外の過去レスミラーってみれないのかな
11 :
quarante-deux ◆42FM9sGQ4o :2005/11/11(金) 12:32:35 ID:DeMI+1aJ
>>1 (いぬまわりさん)
わんわんスレ立て乙です<(_ _)>
>83姐さん
ご無沙汰です。
> 42タンは相変わらず本質を突きつつ楽しんでらっしゃる模様で何より。
ええ、いろいろと楽しませていただいております。
これまでわかったようでわかんなかった、 devenir femme
become woman 女性になる、女性に生成変化する、というのが
このスレの参加者の方々のやりとりのおかげで、腑に落ちたり。
>1、いぬまわりさん 乙です。"わんわん"とは気づかなかったw 前スレ>593 >リスト・カット、(・A・)イクナイ!ですか? >女が、自分自身に向けるミソジニー、(・A・)イクナイ!ですか? >それで悩んでたとしても、悩むこと、悩んで辛いことは、(・A・)イクナイ? >(良いとも悪いとも言う気はないわ) 「いくない」と思ってるのは彼らの方なんだよね。 誤解を恐れずにいえば、それで心のバランスが取れるなら、いいじゃないかと 思うときが多々あるよ。 それに、放といたってみんな勝手にそれぞれ折り合いつけていくだろう。 俺はものすごく酷な要求を、彼らにしてるんだよね。 このスレから受け取った「何か」を繋いでほしがってるんだから。 ぜんぜん優しくないですね。むしろエゴだよ。 まあ、彼らに関してはセッカチを返上して辛抱強く待ってるけど。 >はくタン自身のため、だけでいいと思う。 あー スイマセン、言葉たりなかった。 俺自身のためてのはあります当然。それだけなら名無しでも別固定でもいいんだ。 「はく」でレスする理由って意味です。 前々スレあたりから複数のビアンさんによってミソジニーに関するレスがあったけど、 あれらは、 俺の中にある、埃かぶっていた女性嫌悪だの性欲嫌悪だのを呼び覚ましてくれた。 そういう"気づき"は全くの予想外だったので嬉しく思ってる。
>>4 それは離れ業ではなくて、現実に存在するものはたいていそうした二項対立を
無効化しているんじゃないでしょうか。
論理学ではAの否定を非Aで表し、「Aでなければ非Aである」という排中律を前提とすれば、
たとえば、文明⇔野性、といった二項対立が成立します。
インドの仏教哲学にはこの排中律を排した論理があって、「Aでなくかつ非Aでない」を両否、
「Aでありかつ非Aである」を両是といって、これを合わせて「空」と呼び、これこそが「現実」である、と考える。
ヘーゲルの弁証法でいう止揚、Aufheben というのは、Aをテーゼ、非Aをアンチテーゼとしたときに、
この両否「Aでなくかつ非Aでない」の力で両是「Aでありかつ非Aである」を生産することであると考えれば、
スーツという「空」は、織り切り縫う、という営為としての両否によって「文明⇔野性」を止揚し、
生産された両是としての「現実」である、ということになる。ヘーゲルは仏教哲学の「現実」の構造認識に
関わる論理を、人間の営みとしての生産の論理として、スタティックなものからダイナミックなものとした、と
とりあえずいえる。スーツもそうだけれど、テクストというのは織られたものであることを考えると
言葉を用いて書く、読む、というのもそうした生産の論理に貫かれた営みであって、「テクストの〈外〉はない、
だが、テクストは〈外〉である」ということにもなる。これがデリダの脱構築、deconstruction による
テクスト読解を可能としている基本論理であるといえる。
周知のように、バトラーはヘーゲル研究からそのキャリアをスタートさせています。
彼女のいう「ジェンダー・トラブル」というのは、「男性⇔女性」の二項対立に
関わるこの「空」の話ですね。ただ、ヘーゲルの弁証法を両是だけで終わらせると、
もともとあった二項対立をむしろ強化し、本質化することとなる。たとえば、
「ゲイ」は「男性でもありかつ女性でもある」というふうに。もっと通俗的な
紋切り型を使えば、「ひとには男性の部分もあれば女性の部分もある」とか。
バトラーはさらにその本質化をも批判しようとしている。そうした彼女から見れば、 ラカンやラカン派は「留保ある弁証法」「不徹底な弁証法」、「男性⇔女性」の 再本質化に留まっているように見えるんでしょう。主体の自己意識を超え、主観を超え、 作動する弁証法という客観的論理に、そんな簡単に「留保」はつけられないはずだ、 という直観が、バトラーにはある。 パフォーマティヴィティ performativity というのは、主観を超える客観に巻き込まれている主体、 「空」を生産、構築しながらその「空」に包まれたり貫かれたりもしている主体のありようのことで、 だからこれは意識的な戦略ではない。「生きる」というのは「留保なき弁証法」に身をさらすことである、 という「人間の条件」と言い換えてもよいものでしょう。この「留保」を自分が思いのままに操れる テクノロジーとして誤認し、脆弱な自己の脆弱さを強靭にするべく、他者を排除し操作しようとする者は 弁証法の論理によって因果応報を享ける。キルケゴールのいう「死に至る病」というのはそれですね。 ただ、仮に人間がすべての「留保」を完全に取り祓うことが可能だとして、それをやるとまず狂う。しかし、 「留保」には本質的に「無理」がある。「規範」というのはひとが狂わないために置かれた「留保」ですね。 でも、その「留保」を弁証法の論理は解体していく。というのは、「留保」もまた弁証法の論理によって 生産され構築されたものであるから。具体的な「留保」の「無理」に対応して、「留保」によって 身体の「内」に抑圧され、身体から排除された「内なる外」としての「狂気」に、身体をさらして 新たな「留保」、「規範」を生産し、構築すること、規範としてのジェンダーを解体する、というのは そうした「狂気」とのダンスであり、それを楽しもう、ということでもある。 「留保なき弁証法」「留保なきヘーゲル主義」というのはデリダがバタイユを論じた文章で用いた言葉だけれども、 前にスレで話題となったように、性行為における能動と受動との相互転換の目眩めく惑乱のうちに、エロティシズムが 生起する、そのときひとは我知らず「狂気」とのダンスを踊っている、それをもっと楽しみ、経済や政治の制度に つなげていけないか、そうした問いが「限定経済学」としての既存の経済学に対する、「普遍経済学」を構想する バタイユにはあり、そのバタイユの「普遍経済学」を人間の身体において展開したのがクロソフスキーの「生きた貨幣」。 スーツというのは、身体が「生きた貨幣」である、という事実を絶えず告げ知らせているものなのかもしれませんね。
15 :
禁断の名無しさん :2005/11/12(土) 13:41:29 ID:RKE7rdFH
>>4 個人的な意見で悪いが
仕事をしている男性はスーツ姿でいるところしか
想像つかないところがあるのだが。
成人男性の魅力を仕事を通してしか感じられないってのが
あるのかも。
あと、いぬさんはスーツ自体に興奮するフェティッシュなのですな。
私はスーツ専だと思っていたが
モデルがスーツを脱がない
が売りのエロビを見て
全く興奮しなかった経験がある。
16 :
83 :2005/11/12(土) 13:49:24 ID:FIP1eg0E
>>6 >あなたはここの所、その手の話題にしか食いついてないですねwwwwww
わっはっは。モニョリの原点回帰っつーことで。
前スレで42タンが書いていた「関係の発明」とはまさにその通りで、
わたし的にはモニョリ問題と密接にリンクしてんなーと感じるわけです。
男女一対の規範を人々に植え付ける異性愛強制社会は、
結婚のみならず恋愛も人生のパッケージアイテムの一つとして押し売りしてくる。
Aセクシュアル概念の誕生によって、
セックスレスは「解決すべき問題」ではなくなったけれど、
恋愛についてはまだまだ規範の力が強く働いていると思う。
「恋愛は素晴らしい。恋愛してこそ一人前」「恋をしたことのないヤツは人間じゃない」
なんて大きなお世話よね。
しかもその「素晴らしき恋愛」とやらが、
大した努力をしなくても天から降ってくるものだと信じ込まされている。
出会いのきっかけが偶然だったとしても、
また、偶然の産物としての発明も存在するにはするけれど、
その後の関係構築まで偶然まかせにされちゃかなわない。
「関係の発明」を偶然性や運命に頼るのは単なる怠慢よ。
セックスの場面でもそれ以外の場面でも、
イニシアチブを相手にゆだねることって女ジェンダーと無縁ではないと思うのよね。
「相手まかせ」と「偶然まかせ」は同じこと。
もちろん、男であってもこういう女ジェンダーを内在させている人はいます。
「子どものことはお前にまかせるよ」とかなんとか言っちゃってさ。
「わたしはこれこれこうしたいけど、あなたはどう?」って聞いたら、
最初は「それでいい」って従うくせに、
それが自分の好みに合わないことだと分かったとたん不平を露にする。
だったら最初から自分の好みや要求をクリアにしておいたら? って感じ。
なので、わたしはしょっぱなからワガママ炸裂な人のほうが楽に付き合えるわ。
「恋人」は、自分の心を勝手に読んで喜びをもたらしてくれる救世主ではないのよ。
>Aセクシュアル概念の誕生によって、 >セックスレスは「解決すべき問題」ではなくなったけれど、 >恋愛についてはまだまだ規範の力が強く働いていると思う。 >「恋愛は素晴らしい。恋愛してこそ一人前」「恋をしたことのないヤツは人間じゃない」 >なんて大きなお世話よね。 Aセクシュアルって 「セックス抜きで恋愛したい」という人だけじゃなくて 「恋愛もセックスもイラネ」って人も含むんじゃなかったっけ? 今同性愛板にあるAセクのスレは後者の人が対象のようだし。
>>16 実は、僕が83姐さんを、ジェンスレの志麻子姐さん、と
ひそかに呼んでいることはひみつだ(  ̄ー ̄)
たとえば、男根ロゴス中心主義、なんて言葉があって、それについて書かれた文章を
いろいろ読むわけだけれど、ああ、なるほど、と思うのは、セックスしてて
タチが先にイッた時に、「タチとして納得がいかない」とかぶつぶつ言ってるのを
聞いているときだったり、定期的に複数乱交イベントを主宰している目的が
「タチの勉強会」だという話を聞かされたりするときだったりするわけね。
なんで、「イカせる」って頭しかないのか、とこう思うわけ。
じゃあ何か、おまえは自分がイク時は自力でイッてるとでもいうのか、と。
まあ、「イカせる」は言語的コミュニケーションでは「わからせる」といったかたちをとるわけだけど、
83姐さんに前に「散文詩」みたいだ、と言われた僕の文章は、基本的に読み手に「わからせる」「納得させる」
気がまずない。説得しようとする姿勢が欠如している。それが僕の文章が長文となるひとつの原因。
「わかる」というのは出来事で、言語がとりあえず存在すればそのうち起きるだろう、と思っているので
考えてから書いているというよりは、考えながら書き、書きながら考えている。あるいは、書きながら
レスを読み、レスを読みながら書いている。書かれながら書き、書きながら書かれている。
そうした能動と受動の転換を楽しむ、というのに別にリバになる必要はなくて、タチにもタチなりの
能動と受動の目眩めき転換はあるはずで、それを楽しめばいいんじゃなかろうか、と。
このスレでも「オナニー」というのは、文章がひとりよがりであることの非難に使われる比喩となっている
けれども、これもメルロ=ポンティのいうように、両手の手のひらを合わせた時、右手の手のひらが
左手の手のひらに触れているのか、それともその逆か、が簡単には言えないように、イカせてる自分と
イッてる自分の分裂があり、能動と受動の転換があるわけでね。「オナニー」をそうした貧しいものとしか
とらえられない貧しさを、男根ロゴス中心主義、と呼んでもいい。僕はそう思っている。
で、このオナニスムの評価をめぐる話は、たぶん姐さんのいう規範としての恋愛に関わる話なんじゃないかな。
19 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/11/12(土) 18:48:57 ID:QRAkRlV9
わ、、、わっかんねー話がイパーイ((((・∀・))))!!!
分かるとこだけw
>>5 >ヘテロ女性って自分がセックスしたくってウズウズしてるくせに、
>誘われるのをじーっと待ってるのよね。
これって、いわゆる「誘い受け」ってやつになるんかな??
そこらへん、阿吽の呼吸で(w)読み取って、
自在に女に手だしたり出さなかったりする男が「モテ男」と呼ばれるんだろうね。
あれは、馴れ合いの呼吸、なのかも。
傍からみてると(なーにやってんだか!)だねw
>>10 dくす☆
>>15 RKE7rdFHさん
ううん。実は正反対なの。スーツが苦手なのよ。
スーツ着て働いてる男性には全く魅かれなくて、萎え萎えなの。
だけど、スーツって身体のラインがよくわかるので中にある肉体の想像もついて、
(あたし的には)折角いい男なのにスーツなんか着て台無しよ!勿体無いわ!
とっととお脱ぎっ! って感じよ。
>>13 42さん
そう。ご名答です。
両立、というか、対立するものとして扱わないこともできる。
42さんたら相変わらずほんとのことをすぐに言っちゃうのね。
もうっ。あえて姑息にそこには触れずにいたのに〜。やられたわw
そのスーツに関すること、実は、思ってることの一部をあえて伏せて書いていたの。
スーツ → 企業社会の規範に同化してることの象徴
スーツをかっこいいと思うこと → 規範への同化をかっこいいと思うこと
二項対立の性別観を当然視した上での男らしさを是とする → 二項対立規範が基準
二項対立規範が基準として見る世界観の上では、文明と野生の両立は否認されないかしら?
あれ? スーツの上では時を同じくしてその両立が同時に起こってない?
この線で書くと、あたしの攻撃性が出てきちゃいそうだったので、
>念のため、スーツ専のかたを責めてるわけじゃないのよ。
…と書いた手前、伏せていた部分です。(あーあ、バラしちゃった)
キルケゴール…。
あたしがこのスレに出入りしはじめたpart7の頃の42さんのレスの、
>思考の不確実性を確実に
>してくれる確実性をもとめる。デカルトならそれは「神」なんでしょうが、
この部分、思い出したわ。キルケゴールもそうよね…。
ずっと昔読んだきりで内容ほとんど忘れてるけど、
死に至る病ですって? 何で「神」だけは検証しないあなたがそんなことを言うの?
って思った覚えがあるわ。
スーツについての話で思い出したのだけど この間NHKで、性犯罪者の再犯の問題の番組をやっていて、 あたしはちょこっと一部しか見れなくて、全体の話はわからないだけど、 その中で、アメリカで犯罪者が精神科医のカウンセリングを受けているシーンがあって それが妙に印象に残っているの。 犯罪者はモザイクがしてあって顔が見れないけど、太っていて、髪の毛もボサボサで 洋服も着古してくたくたになった安物のカジュアル服で、ズボンもピチピチでみすぼらしいのよ。 (いぬまわりさんが好きな「CALL」のデブの犯人役の人をさらにみすぼらしくした感じ) 対する精神科医(カウンセラー)は上質なシャツにネクタイをしてその上に白衣を着て、スマートで、 髪は整髪剤でぴっちりしていて、そして極め付けに指に結婚指輪が光っていたの。 番組の内容とは外れてるけど、この構図にモニョってしまったの。 このカウンセラー、なんでこんなにぴっちりしてる必要があるの?と。。。 社会性・性愛コミュニケーションの規範に(表面上)びっちり則った記号の格好で 社会性・性愛コミュニケーションが破綻した性犯罪者から何を聞き出そうとしてるのかしらと。 これはなにかの皮肉がまじったコメディかしらとすら思ったわ。
話題ぶった切りなんですが ブラザーフッド←→シスターフッドのように ホモソーシャルの女版を表す言葉ってありますか? 対語とは言ってもレズ嫌悪の疑似ビアン関係というより ミソジニーを含み成り立つ女だけの世界、みたいなニュアンスなんですが
>>22 聞いたことない。(あたしが知らないだけかも)
それをあらわす言葉はない、として、何故ないのかちょっと考えてみたわ。
「結婚したら、女は男のモノで、夫がすべてで、夫を通じてしか他の女となんか繋がりはない」
そんな、ホモソーシャル男に都合のいい女性観を、無意識にせよ持ってるミソジニー女。
彼女たちが、女同士お互いに牽制と監視をしあいながら表面的に馴れ合うなら、
その馴れ合いも男とくっつくまでの間の一時的なもの。
一時的でも、その関係の陰険さが嫌なかたにとっては負担が大きいでしょうけど、
一時的なものだから、わざわざ、言葉を与える必要がないと思われてる?
でも、その女同士の関係一時的なものになるからこそ、男たちのミソジニーと同じく、
女たちの分断を支えてもいるんでしょうに…。
優先事項、「社会的な権利を剥奪された女の権利運動」のため、戦略的にとりあえず
女性をひとつにまとめようと、その部分、あえて不問にしたのかしらという気もするわ。
>>21 陽気な名無しさん
上質なシャツ、スマート、整髪剤、結婚指輪。
きっと本人はそれが誰にとっても信用に値する記号としか思ってないのよね…。
社会の規範にどっぷり漬かった─
規範の矛盾も問わず無批判に内面化した卑劣な奴、そう思われることなんて微塵も考えてないのね。
他者の目を気にして、気にしまくってその装い。
その他者の目として想定しているのは、支配的な規範に沿った人間たちの目だけ。
勝手な想像、はじめるわ。
精神科医のカウンセリングを受ける
鬱病って、規範に何がなんでも合わせようとして、ちょっとでも合わせられない部分があると、
自責の念にかられること。…ってことだと思ってるんだけど、
その際には、規範にそこまで厳密に合わせなくていいの、ってわかることが治癒なのかなって。
で。規範大好きだから鬱病になるんなら、
規範に沿った威厳のある外見の立派な「先生」の言うことを聞き入れそうよね…。
そして「先生」は「規範にそこまで厳密に合わせなくていい」で止めておいて、社会への適応させると。
「規範を徹底的に疑って、嘘があったら受け容れるな」までは行っちゃいけなそうよねw
あくまでも社会への適応が目的で、規範に合わせすぎと規範を疑いすぎの中間を目指す。
鬱病と反社会性人格障害、正反対と思ってる。
(あたしってば、この枠組みだと限りなく、反社会性〜側ねえw)
同じカウセンセラーや精神科医がどちらとも信頼関係を築けるものかしら…。
>太っていて、髪の毛もボサボサで、
>洋服も着古してくたくたになった安物のカジュアル服で、ズボンもピチピチでみすぼらしいのよ。
…ちょっと萌えた。
誤:精神科医のカウンセリングを受ける ↓ 正:代表的な精神疾患で鬱病があるけど、 どういう間違いよ。間抜けな私です。
>>20 思考機械のようなもので、情報がインプットされ作動すると止まりません(^-^;
制御装置が欲しいところです。また、
>>13 のような文章を書くとき、僕はひとりで
書いている気があまりしません。何人か憑いてます。霊感はまったくありませんが、
思考と書くことにおいては憑依体質です。ほんとのことをすぐに言う、というより
「言わされる」というのが実感ですね。
たとえば、performativity を「空」と関連づけて考え、言葉にしてみたのは、
>>14 がはじめてで、それはいぬまわりさんの
>>4 による触発がなければ
起こらなかったことです。そこからのバタイユ、バタイユを読むデリダ、クロソフスキーの
登場、「規範」「留保」「狂気」の概念連鎖は、自分でも、ああ、そうか、
という感じがあったりして、これが楽しい。
僕のイメージでは、いぬまわりさんを囲んでバタイユとデリダとクロソフスキーが
おしゃべりしてるのを、そのなかに加わって聴きながら、自分がバトラーとヘーゲルと
ナーガルジュナとキルケゴールについて(憑かれて?)話している、気分はニーチェか
ヘルダーリン、そういう感じなんです、映像化するとしたら。だから83姐さんのいう
「散文詩」というのは過褒ではあるけれど、たぶんはずれてもいない。
時空を超えて会して、さらにそこにいるひとといないひととの関係があって、
「思考」って「僕の」という所有形容詞をつけることがためらわれるものですね。
他のひとにはこのためらいはないのかな、と僕は自分の書いたものに署名するたびに
思い、「署名」を考察するデリダの文章を読むと、やっぱ、そうだよね、と思うんですが、
飲み会で居酒屋の予約でとりあえず僕の名前を記入する、そういうことでよいのかな、とも思ったり。
とこういうことを書きながら、「散文」と「映画」の関係、その関係における
ジェンダーとセクシュアリティの関係へと、興味が移っている。n次会の
会場へ移動しながら、まだまだ続く酒宴 symposium の参加者を楽しみにしている、
そんな感じでしょうか。
>>22 ホモソーシャリティというのは日本語で「同質集団性」と訳すことがありますが、
別に「男性」に限った性質ではないのでは、というのが現在の僕の理解です。
ホモ牛乳と同じですね。「同質の」、homogenous ということ。
女性でホモソーシャルな集団を表す名称としては、クイーンダムなんてそうかな、t
思いますが、どうなんでしょう。伝説のアマゾネスたちの国や女子校、宝塚なんかも
そう呼んでいいような。「女の園」ですね。
>>16 > 「恋人」は、自分の心を勝手に読んで喜びをもたらしてくれる救世主ではないのよ。
この「救世主」という言葉で思ったのは、セクシュアリティをどう定義するかはさておき、
それが他者とのなんらかの関係性を表すものであるとするなら、セクシュアリティが無い、と
いうことはどういうことになるのか、ということ。
ブランショがいう「無関係の関係」といった関係性を置くとしても、そうするとそこでは
救世主不在の世界で救世主を待ち望む、といったゴドー待ちというか、超メシアニスムが
あるような気がする。ブランショの小説の語りは「男性」でもなく、「女性」でもない
「中性」neutre 、ニュートラルの声だけれど、あれは関係性のゼロ度、そこからすべての
他者との関係が、ということは、すべてのセクシュアリティが生じる関係性のゼロ度と考えられる。
でも、それは生身の誰かの身体として実在するものではなく、理念として想定され、
あるセクシュアリティから別のセクシュアリティへの生成という出来事において、
ひとが一瞬ふれ、すべてのセクシュアリティに痕跡を残し、それによってさらに
別のセクシュアリティへの生成が可能となる、そうした何かなんじゃないか、と思う。
ブランショならば、その出来事を指して、 on meurt. 「ひとが死ぬ」と言い、
その何かを La mort 「死」と言うんじゃないか。「私」がそこに留まることは
ないけれど、その何かは「私」のうちに滞留する。「内なる外」として。
837 :はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/11/13(日) 16:03:54 ID:FtGlrTdW
ゆるゆる読んでる『新リア王』中に「色即是空・空即是色」登場。
"在るか否か"を問わずにすむ(問う意味がない)意識のありよう、
なんて参っちゃうなァコレ……;^ー^
自分がどこに行こうとしてるのかサパーリわからんちん……
840 :quarante-deux ◆42FM9sGQ4o :2005/11/13(日) 17:23:15 ID:pHsC7412
>>837 高村さんですか。読もうかと思いながらまだ買ってません。
でもそれは、「在るか否か」 To be or not to be が問題なのではなく、
「〜になる」 become が問題だ、ということなんじゃないでしょうかね。
汝、man 「人間=男」の名を与えられし者、「存在」に固執する忽れ、
「生成」せよ、woman「女」に。
これは桐野さんにも通じる何かでしょう。
850 :はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/11/13(日) 21:57:53 ID:FhnPD2aa
>>840 become まさに。
「人間である私は刻一刻何者かになり、何者でもなくなる」
いくら待ってもゴドーは来ない。とすれば、自身の能動に頼る他なく。
『OUT』は「女」を生き直す話だったっけ……
853 :quarante-deux ◆42FM9sGQ4o :2005/11/13(日) 22:08:46 ID:pHsC7412
>>850 そういうこと。そして、もっとも深くミソジニーを刻み込まれているのは、
近代においては女性だから。『オセロ』のデズデモーナのようにね。
>>26 42さん
昨日、とても久しぶりに「ガンジー」(1982 イギリス/インド)を観直したの。
前回観たのは20年ちょっと前。それからずっとあたし、
キリスト教にも理解があったガンジーさんは、英国の圧制に対し、
新約聖書にある「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」の
理想的な実践を行っていたのだと思っていたのだけれど、
非暴力による抵抗を説き、自らも率先して行った理由は。
・テロや暴力による抵抗は、支配する側の管理の強化を正当化させるから。
・報道によって事態がインドの他の国々に知れ渡るとき、
無抵抗な者に対して暴力を振るう者(英国のやり口)が「悪」と扱われるから。
っていうのが結構、前面に出ていたわ。うーん結構やり手ねえ。(いい意味で)
フリッツ・ラングの「メトロポリス」(1926 ドイツ)でも
メトロポリスの支配者ヨー・フレダーセンは、支配強化を正当化するためにわざと
暴動を起させていた。
近代以降、その支配と抵抗の構造は、ずっとずっと変わらないでいたのかしら。
今年、日本公開された
「亀も空を飛ぶ」(2004 イラク) 「アワーミュージック」(2004 フランス)
「ランド・オブ・プレンティ」(2004 アメリカ/ドイツ)
「Little Birds イラク 戦火の家族たち」(2005 日本)
…では、貿易センタービルへの攻撃とそれへのアメリカ国内の煽りと反発があった以降の
市井の人々の中でも、力だけで心まで縛られることからは逃れ、
冷静な視点も兼ね備えた人々の姿を描いていた。
(ここらへんの新しい映画のネタバレはしないでおくわ)
そこで42さんのこのレスを考えるの。
>運動の時代とは、抑圧の形態が「抑圧」から「排除」へと変化している。厄介な状況です。
>従来のマイノリティの内部にまたマジョリティが感染し、侵食している。
この状況下では、
──テロや暴力による抵抗は、支配する側の管理の強化を正当化させる。
これも前よりうまく機能出来なくなっているんじゃないかしら。
もしかしたら、社会運動が無効化される“厄介な状況”においては、
テロやへの反発が、逆にテロの妥当性を証明してしまう?
>「散文」と「映画」の関係
>>28 >>29 の“邪魔なので隔離スレから出てこないでください ”とこれ、繋がりそうな。
…従来のマジョリティの内部にまたマイノリティを感染し、侵食させる。
>>30 「非暴力直接行動」で検索すると、いろいろおもしろいものが出てきます。
ぜひ、お試しあれ。
「抑圧」と「排除」というのは、別に今になって「抑圧」から「排除」へという変化が
起きたわけではなくて、「排除」と「抑圧」は構造的に抑圧を構成しているのであって、
だから「排除」を「抑圧」に還元した女性解放運動は座礁した、これについては
バトラーが『ジェンダー・トラブル』の最初の方の註でナンシー・コットの書物の
タイトルを挙げながら、ground の2つの意味、「基盤にする」と「座礁する」に
ふれて言ってます。
先日、届いたばかりの、Sandra M. Gilbert & Susan Gubar の The Madwoman in the Atttic
『屋根裏の狂女』は1979年に出た初版に新たにこの本がジェンダー・スタディーズに与えた
影響に関する文章をつけて2000年に出した第2版ですが、この本のタイトルが表すように、
「狂女」は「屋根裏」に「排除」されている。この本は主に19世紀のイギリスの女性作家の
作品を扱ったものですが、彼女たちに小説を詩を書かせていたものはなんなのか、それを
問うことは、第2波フェミニズムへの反省でもある。そして、そこからセジウィックや
バトラーが登場するわけですね。
バトラーは言う。現行の法は、ひとをトラブルから遠ざけようとして、そんなことを
すればトラブルに巻き込まれるぞと脅し、さらには、そのひとをトラブルの状態に
陥らせようとすることすらある。これから得た結論は、トラブルは避け得ないものであり、
だからやれることは、いかにうまくトラブルを起こすか、いかにうまくトラブルの状態に
なるかということだった、と。これ、『ジェンダー・トラブル』の序文にあります。
『屋根裏の狂女』は1986年に抄訳が朝日出版社から出ましたが、現在は品切れのようです。
これも第2版の全訳が出るといいと思いますね。
32 :
禁断の名無しさん :2005/11/14(月) 13:00:39 ID:Tjr9h1QH
>>20 >ううん。実は正反対なの。スーツが苦手なのよ。
スーツ着て働いてる男性には全く魅かれなくて、萎え萎えなの。
だけど、スーツって身体のラインがよくわかるので中にある肉体の想像もついて、
(あたし的には)折角いい男なのにスーツなんか着て台無しよ!勿体無いわ!
とっととお脱ぎっ! って感じよ。
ある意味フェティッシュなのよ、これ。
スーツを脱がせたいという意味の。
強い思い入れありすぎ。
スーツ専の中には
私が驚いたスーツを着せた状態しか感じない人もいれば
スーツを脱がせることに快感を覚える(それも破ったり、ぐしゃぐしゃにしたい
らしい)人もいるそうで
正直、前者も後者も似たようなものかと。
>>32 フェティッシュというのは、去勢の否認、去勢されたという事実の否認に関わるものだから、
それを取り上げようとするのは、去勢されたという事実を認めさせようとすることになる。
スーツを着せた状態にしか感じない人というのは、去勢の否認を自らも分有するマゾヒスティックな
官能を覚えているのに対して、脱がせること、しかも破ったり、ぐしゃぐしゃにしたいというのは、
去勢を認めさせるというサディスティックな快楽を享楽している、ということなのではないかな。
確かにSMというジャンルで、ある意味フェティッシュに関わるという点では
似ているけれど、違いもあるような気がする。
>>32 >スーツを脱がせることに快感を覚える(それも破ったり、ぐしゃぐしゃにたい
>らしい)人もいるそうで
考えてもみなかったけど、それ、やりたいわ…。
>>33 フェティシズム全般として捉えるなら、納得できるんだけど。
男物スーツに関しても、フェティシズムの理由は去勢の否認なのかしら…?
というか、スーツの場合、去勢を意味してるのかしら。
スーツを着なくなったときが、社会の威を借りた男性性の弱まるとき。
逆に言うとスーツには、男社会を背後に背負った男根崇拝に近い意味が
持たされているのではないかしらと。
バリバリ仕事をこなすビジネスマン─経済関係の仕事をしている男に、特にそう感じる。
乱暴に言ってしまえば経済って結局、「金」に価値があるって大勢の人が妄信しなきゃ
成り立たないわけじゃない?
根本を不問にし、事実よりも、利益を優先する姿勢がなきゃ出来ない仕事よね。
(なんかカントっぽい非難ね)
そういった姿勢と、内なる他者=“男ジェンダー”による男の底上げとが、
お互いに構築された男性性を強化しあっているように見える。
そこが、あたしがスーツを嫌悪してしまう理由なんだけど…。
とかって、これ、相手によっては要するに「男嫌いなんだろ」で
済まされちゃいそうだけど…男、好きよ。剥き出しの動物の男はね。
35 :
83 :2005/11/15(火) 00:27:34 ID:fWQes0EO
>>17 >Aセクシュアルって
>「セックス抜きで恋愛したい」という人だけじゃなくて
>「恋愛もセックスもイラネ」って人も含むんじゃなかったっけ?
>今同性愛板にあるAセクのスレは後者の人が対象のようだし。
「含む」ということは、それ以外の人も当然いるわけで、
Aセクのすべてがセックスレスなだけでなく「恋愛レス」でもあるということではないよね。
あたしの知り合いにも「Aセクカップル」がいるし、恋愛の呪縛から逃れられない一例として、
「結婚はもうこりごり。これからは自由恋愛よ!」とか言っちゃう人もいる。
なぜか「恋愛はもうこりごり」とはならないのよね。
>>18 >実は、僕が83姐さんを、ジェンスレの志麻子姐さん、と
>ひそかに呼んでいることはひみつだ(  ̄ー ̄)
ひぁ〜っ、恐れ多いでございます! でもあたしには「侵略」の意志はありませんわ。
望むのは異文化交流。取り乱したり取り乱させたり、揺さぶったり揺さぶられたり、
撹乱したりされたりしながら互いを受け入れ合うこと。
だから、相手を支配するための暴力性は持ち合わせていないけれど、
思考回路や感じ方がまったく異なる他者を受け入れようと思えば、
自分に対しても相手に対しても暴力的にならざるを得ない。
違和感やモニョリを解消(昇華?)しようとする際のエネルギーの出方は暴力的。
こないだDumb Typeの「S/N」を観てきたんだけど、
Noiseのなかにこそとても大切なメッセージがあるのに、
Signalに無意識に従わされている身としては、そのNoiseを浴びるのが苦痛だったりする。
自分のなかのNoiseを他者に向けて発するときも、同じような苦痛や抵抗感を与えている。
でも、それらを恐れずにNoiseを発することが、アカウンタビリティなんだと思う。
>タチにもタチなりの
>能動と受動の目眩めき転換はあるはず
そーなのよね。わたしにも「受けタチ」の何たるかが見えてきましたv
つか、ここ数週間はネコ・ウィークエンドを堪能しております。
そして、「攻めネコ」であるパートナーから「ネコの能動性」について実地でご教授いただいてます。
ネコもさー、ただ快楽を与えられるのを待っているだけでなく、
いかに自分から快楽をつかみとってよりエロくなるか、ということに自覚的にならなきゃダメなんじゃん?
と思ったわ。
エロくなることはネコにとってだけの喜びではなく、タチへの能動的なサービスでもあるのよね。
これって
>>27 の、
>あるセクシュアリティから別のセクシュアリティへの生成という出来事において、
>ひとが一瞬ふれ、すべてのセクシュアリティに痕跡を残し、それによってさらに
>別のセクシュアリティへの生成が可能となる、そうした何か
につながることなのかしらん。
セクシュアリティってほんと、相手とその関係性によって変わりうるものなのね。
タチとしては「誰専」といっていいほどノーストライクゾーンなわたしですが、
ネコやるならいまのパートナーじゃなきゃヤだな、と思ったりする。
ええ、どうせノロケですよ。これくらいノロケたっていいでしょーん?
>>34 「嫌い」も度を超すと「好き」に近づいてくる、みたいな話ですな。
男のスーツが
>そういった姿勢と、内なる他者=“男ジェンダー”による男の底上げとが、
>お互いに構築された男性性を強化しあっているように見える。
>そこが、あたしがスーツを嫌悪してしまう理由なんだけど…。
というようなものであるからこそ、
「それをまとった男を性的に貶め辱めてやりたい→スーツ萌え〜」
ってな人々も出てくるんだと思うけど、違うのかな。
ま、それも、「スーツが
>>34 のようなものであること」
をあらかじめの前提とした嗜好でしかなく、
それを無化するものではないってのは確かですがねえ。
ていうか、そもそもスーツっていぬまわりさんが言うほど
「体の線まるわかり」な衣服だと思ってなかったことに気がつきました…
>>36 そうね…。認めざるを得ないわ。
>「それをまとった男を性的に貶め辱めてやりたい→スーツ萌え〜」
これ、あるかも。
滅多にいないけど、スーツのお尻がやぶけてるの見て、
サディスティックな性的欲望を持ってしまったことがあるわ。
「萌え」というか性衝動・性的欲望なんて 必ずしも「愛」とやらにつながってる訳じゃないですからねえ。 たしか姫野カオルコがなんかの小説で 「軽蔑し嫌悪している相手にしか欲情できない男」 てのを書いてたと思いますが、 ホモソーシャル&ミソジニーなヘテロ男とか、 それの陰画のような「セックスを絡めない人間関係が作れない女」 に限った話ではなく、 「性指向・嗜好」の如何を問わず、 その向く相手に「愛情」や「親密さ」を感じているわけじゃない人間って けっこう居るんじゃないですかね。 「○○愛者」はひょっとしたら「○○『憎』者」なのかもしれません。
「萌え」、というか性衝動・性的欲望なんてものは、 別に「愛」とやらに直結してる訳じゃないですからねえ。 たしか姫野カオルコがなんかの小説で 「軽蔑し嫌悪している相手だけにしか欲情できない男」 てのを書いてたと思いますが、 「性指向・嗜好」の如何を問わず、その向く相手に 「愛情」や「親密さ」なんぞひとっかけらも感じてない人間って、 けっこう居るんじゃないですかね。 ホモソーシャル&ミソジニーなヘテロ男とか、 それの陰画のような「セックスを絡めない人間関係が作れない女」 に限った話ではなくてね。 「○○愛者」はひょっとしたら「○○『憎』者」なのかもしれません。
2連投スマソ ○| ̄|_
>>38 あたしゃその、「○○愛」と「○○憎」を向ける対象がそれぞれ見事に別な相手だわw
「セックスを絡めない人間関係が作れない女」の場合ってきっと、
男の“女卑”を一旦男女の社会的位置のフィルターを通して歪めてから生成される欲望。
それとはまた違ったかたちかしら。
男の“男尊”が導く、“男以外のもの”への軽蔑と嫌悪を、ダイレクトに裏返して
そのまま男へ向けた敵意としての欲望。って感じ。
その場合、相手を激しくオネエで罵ってやることが必要条件w
穏やかな優しい気持ちになんてなったりしない。
好きな相手となら、くんくんにおいかいで、ぺろぺろ舐めて、頬擦りして、寄り添いたい。
犬化が基本ね。激しく発情中ならお尻のにおいをかぎあってじゃれるわ。
あたしにとって、好きな相手に対する欲望と嫌いな相手に対する欲望は、真逆の形で現れる。
これ、ヘテ男の、淑女と娼婦への欲望の使いわけに似てる?
ヘテ男の、女性ジェンダーの上に根ざした使い分けに対して、
ジェンダー規範への懐疑の上に根ざした使い分けね。
そう考えると、あたしの欲望の中に、アンチヘテ男という形で、
ヘテロジェンダーが鏡像として影を落としてるのだと気付いたわ。
で。ちょっと、あたしの話から離れたシミュレーション。
もし、その相反する欲望が、同じ対象に対して同時に起こったら?
ホモソーシャル&ミソジニーの上での女への欲望? ホモフォビアホモ?
複雑な両立。
ジェンダー批判も根本は、単純なものが真理である、っていう自然科学の考えを採用してるのかもね。
互いを否定しあうものを同時に身に付けても、対象が淑女と娼婦に分かれているなら、欲望の間での矛盾は起こらない。
そこに、欲望の対象は一人の相手でないといけないっていうロマンティック・ラブ・イデオロギーの影響が付け加わる。
特定の相手に、加虐性と愛情を両方とも執着させる…。ほんで、そこからの類推。
ドメスティック・バイオレンスには、ロマンティック・ラブ・イデオロギーが深く関与してる?
>>34 うん、つまりね、それは「ファロス」「男根」もまた、去勢される「ペニス」
「陰茎」にとっての代用物、フェティッシュにすぎない、ということなんだと思う。
そして、その事実を隠蔽することで、他のすべてのフェティッシュを「ファロス」の
代用物として考えるようにしむけている。それにより「ファロス」はフェティッシュでは
ないかのようにふるまう。あたかも貨幣が商品ではないかのようにふるまうように。
マルクスが『資本論』の「商品」の章で価値形態論のあとで「物神崇拝」、フェティシズムに
言及していることを思い出してもいい。すべての「倒錯」を決定づける「ファロス」もまた
ひとつの「倒錯」である、という転倒が、スーツにはある。
男性がスーツを着るのは、虚勢を張る、ということだと考えれば、
どうして女性でありながら男性として生涯を通そうとした、いわゆる
passing パッシングしようとした女性がそれがバレた時に、すさまじい
非難と暴力にさらされるのかも納得がいく。男装の際にまとったスーツが
フェティッシュにすぎないことを、彼女の生き方は明るみに出してしまうからでしょ。
それは「ジェンダー・トラブル」を引き起こす。
今、思い出したけれど、僕が最初にこのことを考えるきっかけとなったのは、
たぶん夜会1990でのあの方のスーツ姿とその格好で歌われた当時未発表曲だった
『Maybe』だと思う。僕の記憶が確かなら、あれ男物のスーツぽかったような。
「私は唇噛みしめて 胸をそらして歩いてゆく なんでもないわ 私は大丈夫
どこにも隙がない」「感情的な顔にならないで 誰にも弱みを知られないで
なんでもないわ 私は大丈夫 私は傷つかない」と歌いながら、「私は大丈夫」と
繰り返すあの歌は、確かにあの男物っぽいスーツに似合う。あの夜会には
タイトルはないけれど、確かテーマは「女のアイデンティティ」だったような。
日本語では「去勢」と「虚勢」が同じ音なのもおもしろい。
>>35 >こないだDumb Typeの「S/N」を観てきたんだけど、
>Noiseのなかにこそとても大切なメッセージがあるのに、
>Signalに無意識に従わされている身としては、そのNoiseを浴びるのが苦痛だったりする。
>自分のなかのNoiseを他者に向けて発するときも、同じような苦痛や抵抗感を与えている。
>でも、それらを恐れずにNoiseを発することが、アカウンタビリティなんだと思う。
暗闇のなか Noise と光の渦に巻き込まれて、残響と残像が聴衆でもあり観客でもある者たちに
刻印され続け、その痕跡が身体のかたちを変えんばかりになった瞬間に、ドラァグと化した
古橋が現れ、口パクで歌う。 People を。その瞬間に涙が出たのは眩しかったからなのか、
嬉しかったからなのか、今でもよくわからない。
『memorandum / teiji furuhashi』を読み返してみようかな。
44 :
禁断の名無しさん :2005/11/15(火) 13:02:35 ID:vwhPuodK
>>38 正直、私はデブなんだが
一部デブ専にそういう人がいるのだな。
太ること=怠けることという認識で
デブ男としか寝ないのが。
まさか、いぬまわり
デブに対しても「憎」の気持ちを持っているのではないだろうな。
>>44 へえ。そんなデブ専がいるんだ…。
デブ蔑視の優越感に浸りたいのかしら。
または、デブ=怠けって思い込んでる本人も怠けちゃんで、
怠け同士で気が合うってこと?
あたしは、ないわよ。全然ない。でぶに誓うわ。
好きなでぶもいるし嫌いなでぶもいるけど、中身が嫌いなでぶでも体型だけは好きよ。
理想体型の「でぶ」を目指して必死で太る人もいるでしょう?
太ること=怠けること、なんて発想、痩せてるのが誰にとっても理想的って
思ってるだけ。
視野が狭い狭い。
まあ、痩せてるのが(・∀・)イイ!と思ってて、食べるのがやめられなくてでぶ
の場合は…怠け、なのかしら。
痩せを理想としていながら自分はでぶ。
事あるごとに「僕はでぶだから、全然イケてない。痩せなきゃ。痩せなきゃ」
って言うでぶ、でぶ好きのあたしとしては苛々するわ。
好きな人が、肥満が原因で身体壊して、健康のために痩せなきゃって言うならいいけど、
外見の問題でそんなこと言い出したら
「自分を卑下しないでよ!なんで痩せたいのよ!でぶのあなたが素敵なの!
あなたは超イケてるの!ガリ専の他人の言うことなんて気にしないでいいのに!
あなたの贅肉が好きだって言ってるんでしょ!」って言うわ。
(でも言ってもなかなか通じないのよね。根深いでぶフォビアのでぶ)
イケるのは、ぽっちゃり〜でぶだけど、痩せ、スジ筋、マッチョ、別に憎まないわ。
というか、体型を理由に嫌うなんて、意味不明だわ。
でもさ。でぶとは別なんだけど、怠け者も別に嫌いではないわ。
バリバリの規範体現か、体現してなくても狂信的な規範擁護者、じゃなきゃ、
そうそう憎しみは抱かないわ。(スーツの象徴性は、そのコードに微妙に引っ掛かる)
46 :
禁断の名無しさん :2005/11/15(火) 23:43:34 ID:1UCMjony
あたしデブをみてもいいなぁーとは思わないの。 でもね。デブとセックスするとすごい興奮するの。 だけどデブをみてもいいなぁーとは思わないの。
47 :
禁断の名無しさん :2005/11/16(水) 02:23:03 ID:Ce85K3zq
デブ論で盛り上がっているところすみません。 どなたか男性の主張する男性差別≠ノついて ヘテロ女の私に説明してくださいませんか? というのも、私が子供のころは女性の時代です、男は駄目だ、弱い とかやたら謙る男性陣を子供ながら不気味に思っていたのですが ネット時代になって男性差別!女性優遇!という真逆の声が ここまで大きいことにどう受け止めたらいいのか戸惑っています。 本当に男性が差別を感じてるなら、 口の汚さは目をつぶっても彼らの主張に 耳を傾けなければと思うのですが 彼らの言動が自分がフェミニストに感じていた マイナスイメージと全く同じに感じるんです。 ・・・・でも彼らはフェミニストが諸悪の根源だと言う。 だから本当わからないんです。 彼らの主張が感情論が先行して理屈が通っていないとしても、 これだけ激しく言う何か男性に不満を抱かせる社会的 問題点があるのではないか?とも思うのですが もしかして、主張したい事はそんなになくて ただバックラッシュにホモソーシャルの団結とミソジニー文脈とネットの匿名性が 偶然重なって肥大してるというカンジなのかな?とも思えてきて・・・・ フェミニズムってこんなにアンチ衝動を生むほどすごかったんですか? 今の男性の意識ってどうなってるんだろう。
>>48 下に書いたこと、なんかちょっとズレてるかもしれないけど…。
>彼らはフェミニストが諸悪の根源だと言う。
ここが誤解のはじまりかと。
ウィメンズ・リブ全盛期の例えばこんな状況。
職場で男性上司が嫌がる女性部下に性行為を強要して、
それに女性が抗議をすると、生意気な女として立場が悪くなり
男性はお咎めなしの上、そういう欲求があるのは男として当然と一切問題視されない。
逆に、女性上司が嫌がる男性部下に性行為を強要して、
それに男性が抗議をすると、男性は被害者として意見が通り、
女性側は、下劣な淫乱女と軽蔑の目を向けられる。
こんな酷い状況下では、その被害者の救済を優先させなきゃいけないと、
女性側の女性への同一化もまた差別構造に貢献していることはとりあえず不問にして
女性は男性に差別されている、女性は大切にすべき、と
差別されている女性の権利主張をすることが問題解決には早かったのだと思う。
その時点で、そのやり方は仕方のなかったことだと思う。
で。その後のフェミは決して一枚岩ではなく、軌道修正を試行錯誤しているでしょ。
でも。フェミに便乗した、自分が女だからってひたすら女の利益だけを得ようとする女。
女性は男性に差別されている、という路線だけをひたすら繰り返す人たちはいる。
男女規範に盲目的に従い、女に同一化。
んでもって、そういうのをフェミと想定した男が、アンチフェミになる。
自分が男だからってひたすら男の利益だけを得ようとする男。
男女規範に盲目的に従い、男に同一化。
アンチフェミの方々、レディースデーとかを問題にされることが多いでしょ?
レディースデーとかって、フェミニズムの主張に基づいてやってると思って?
女をひとまとめに、男をひとまとめに扱うから出来る発想?
>彼らの言動が自分がフェミニストに感じていた
>マイナスイメージと全く同じに感じるんです。
そうよね。そうなのよね。
男権論者の言うフェミニスト = 女権論者。
女権論者の言う性差別主義者 = 男権論者。
女は女の味方をする、男は男の味方をする。人間は人間の味方をする。
それを前提にして、
女であったり、男であったり、人間であることで、自己定義、自己肯定し、
女であったり、男であったり、人間であることで、他者定義、他者認識する。
どっちも“はいはい、良かったね”(内心は“いいかげんにしな!”)って感じだわ。
…レディースデーの映画館に「あたし女です!」って言って行こうかと
ちょっと思わないでもないんだけど、
レディースデーと映画の日はマナー悪すぎDQNが多そうなので行く気が失せてます。
>>49 それを前提にして の上の文と下の文、順番が逆だわ。orz
ネットとフェミの関係に関しては、もう定員埋まったようだけれど、池袋のジュンク堂書店で
気鋭の社会学者北田暁大と明日まで企画書店を開いている上野千鶴子が「ロマン主義的シニシズムと
ミソジニー」というタイトルのトークセッションを11月27日にやる予定なので、そこで2ちゃんと
ミソジニーの関係というのも、おそらく話題になるでしょう。
>>48 男性がそのように短絡する社会的要因はもちろんあります。
>>48 は簡単な話で、もともと男性のあいだにも労働力評価の優劣があって、差はあったわけだけれど、
それでも「女よりはマシ」と思える、男にとっては「おだやかな時代」がかつてあった、ということです。
労働力の量も質もたいして問わなくてもいい、現在から見れば不効率なことをしていても、
それなりに経済的な利益が生まれる、そういう時代が、とりあえず戦後だけ考えてもバブル崩壊までは続いた。
年功序列、終身雇用、企業別福祉なんてみんな不効率きわまりない。男である限り「使えないやつ」でも
使ってあげましょう、というボランティアなんだから。
経済がグローバル化して、産業構造が転換し、効率がよければいいだけ利益が生まれる、
そういう状況では「使えない男」より「使える女」が動員される。それでまず、
その「使えない男」たちに被差別感がつのる。しかし、「使える男」も「使える女」も
消費期限のある「使い捨て」が原則だから、「使える男」にも不安はあり、競争相手を減らしたいという
願望が生まれる。なので、「今のところ使えているにすぎない男」たちもまた、「使える女」批判をはじめる。
さらにいわゆる「女女格差」も広がるから、社会進出を果たした女たちと比較されて「使えない女」と
なった女たちもまた、別の価値基準での評価を求めようとするが、それは結局「家事労働の能力」と
いったところに逆戻りして、これもまたバックラッシュの担い手になる。そのバックラッシュで
「今のところ使えているにすぎない女」たちも、キャリア継続の障害が増すわけだから、これもまた
アンチフェミにつながる。フェミが主張しなければ、こうはならない、とかね。
以上はきわめて図式的かつ乱暴な説明だけど、傾向としてはそういうことだととりあえず言える。
いぬまわりさんのいう「男女規範に盲目的に従い同一化」というのは、そうして男女の両方に起こる。
「男に同一化する女」もいるわけで。
いぬまわりさんの言うように今のフェミは一枚岩ではないけれど、それは別に今にはじまったことではなくて、
もともとそうなわけで、リベラルフェミとマルフェミのあいだには「女性の社会進出」をゴールとするか、
スタートにすぎないとするか、という大きな違いがある。ただ、とりあえず「女性の社会進出」をやりましょう、
ということで両者は一致できただけ。マルフェミにも抑圧の構造を一元的にとらえるか、二元的にとらえるか、
の立場の違いがあって、それによって戦略は異なってくる。
今は、マルフェミの二元論の立場を批判的に継承しつつ、フェミニスト・ポリティカル・エコノミーが、
サスキア・サッセンやナンシー・フォルブレ、日本では足立眞理子によって、展開されている。
理論的かつ実践的に今、おもしろく、また、重要なのはそこで、そこにクィア・スタディーズが
どう介入するか、がたとえば「クィア・ファミリー」ということで言われている。
Family Values というのは経済学の用語でこれまでもあったわけだけれど、それをさらに
Queer Family Values につなげよう、ということで、これは先進国において一面では、
破綻した福祉国家のツケを転嫁されるということでもあるけれど、そうした動きのなかから、
「効率」以外の value が出てくる可能性はあって、まだまだこれから、というか
状況はつねに milieu 「中間」だということでしょう。スタートからゴールまで一直線ではないし、
ただひとつのゴールを想定する必要もない。目の前の具体的状況に対処し、ともに生き延びる可能性を
大きくしていく、「みんなで生きるハウツー」を探しながらね。
>>49 BGMはあの方の新譜。「鮭踊り」元気でますね。バックラッシュは「向かい潮」だと思えば。
あと「釣り糸のもつれ」の意味もあるから上で説明した状況は「メビウスの帯」でもある。
DAMのカラオケにも入っているようなので、そのうち歌えるかな。「リレー」はUGAにも
入っているので、これは確実に某所で歌うことになりそうです。
53 :
禁断の名無しさん :2005/11/17(木) 17:21:36 ID:CeIH4WXI
>>45 デブ=怠け者と思っている人間は
かなりいるんだよ。
「デブは社会に適応できない」だの言うのね。
ご本人たちは体系も考えも色々。
あなたがいうような怠け者系のデブの人もいれば
妙に鍛えたマッチョの自称エリート公務員とか
あとどこといって特徴もない普通って人も見たし。
元スポーツエリートの実業家(というよりヤクザ)って人が
そういうタイプの人で一番最初に出会った人。
今となってはデブは人の何らかのコンプレックスを刺激することが
他の人より多いと思って生きているけど
一時期、出会う人みんなそんな感じでつらかったことある。
>>46 こういう人もいるね。
あと、デブの痩せたがりは私もちょっとあるわね。
まあ、デブ専さんじゃないから私自身は。
昔は痩せたいと本当に思ってました。
今も少しは痩せたい気分はあるけど
体の負担を減らしたいってのが理由で
もてなくならないような痩せ方が理想。
こういうのって周りの反応うんぬんより
自分の中でどう思うかってのも大きいのよ。
正直、私は太っているせいで
かなりもてる方だと思うけど
自分の体形は好きに
なかなかなれないのね。
西欧の近代において、「女性」に対する価値の切り下げと自己否定の強制は 「デブ」に対する価値の切り下げと自己否定の強制と同根だから、 fat feminism が登場するんでしょうね。 「女嫌い」だけでなく「デブ嫌い」というのもあって、健康的に太ることは 可能か、とか、さらには「健康」という価値はうさんくさくないか、とか いろいろ問題はある。 「デブ専」って最近はテレビでも普通にタレントが使ってるけど、 ノンケも使ってた言葉なんでしょうか。かつてはゲイ用語だったような気も。 そういう用語がある、ってことは「物好き」と取られていた、ってことでも あるんですかね「フケ専」なんかと同じで。 「老い」というのも近代において価値を切り下げられ自己否定を強制されるものでも ありますしね。そうした否定的な価値を付与されたものをどう肯定していくか、と いうのは、「ゲイ」にとっても無縁ではないでしょうし。
>>49 いぬまわり姐様
レス全体の論調には反論するわけではないけれど、
1点だけツッコミ入れさせて頂きます。
>ウィメンズ・リブ全盛期の例えばこんな状況。
>職場で男性上司が嫌がる女性部下に性行為を強要して、
>それに女性が抗議をすると、生意気な女として立場が悪くなり
>男性はお咎めなしの上、そういう欲求があるのは男として当然と一切問題視されない。
ここまでは「あるあるある」と言ってもあながち間違いではないと思うのですが、
>逆に、女性上司が嫌がる男性部下に性行為を強要して、
>それに男性が抗議をすると、男性は被害者として意見が通り、
>女性側は、下劣な淫乱女と軽蔑の目を向けられる。
これはどうなんですかねえ…?
男性性暴力被害者関連のサイトや文献を見る限りだと、
そもそも男性はこういう場合「被害者」として見てはもらえないし、
同時に、加害者の女性の行為も「加害」「暴力」とは見なされない、
というようなケースが今でもかなり多いような悪寒。
「女性(加害者)側が淫乱女と軽蔑の目を向けられる」ことはあると思いますけど。
こういうケースの被害者男性に浴びせられる声って、たとえば
「ま、相手があのヤリマンなのは置いといて、タダマンできてラッキーだったと思いなよ」
とか、
「『据え膳食わぬは男の恥』だろ、なに女みたいにセクハラとか言ってんの?」
みたいな感じなんじゃないかなあ。自分も男ではないから推測に過ぎんのですが。
ttp://www.comcarry.net/~genbu/myths.html ↑このへんもご一読頂きたいですね。
>>49 のレスが
>>48 さんへの回答として、
「ウィメンズ・リブが一時期あんなだった理由」がわかりやすいように、
物事をいろいろとはしょって書かれた文章であろうことは分かるのですが、
だからと言って不必要に誰かを蹴飛ばすようなことになっちゃイクナイ。
男の性暴力被害者って女の性暴力被害者よりはるかに立場が弱い、
つーか「立場が『ない』(そもそも存在すら認識されてなかったりするし)」
ように思うので、配慮は必要だと思うっす。
…いや、いぬまわり姐様が意図的に
「男も性被害に遭うったって大したことじゃない、社会的には「男」として
優遇されてる身じゃない、そのぐらい何よ!」
とお思いなら別ですが。
(こーゆー「変にフェミの入った女性被害者&その支援者」ってマジで居るので)
57 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/11/17(木) 22:35:54 ID:8w9jqYOx
「淫乱女の餌食にされた"被害者"」って意味じゃね?? 年上女との結婚を、「ボランティア」なんて言われたりするのと似てる。 被害者ってか、"笑いもの"かな。
>>57 いぬまわり姐のレスをそう読んだのか?
……………うーんうーん…
上のほうで42さんが書いてた「去勢」のイメージがあったんで。 女にレイプされた→男として牙ぬかれたヤツ→去勢、みたいな。 違ってたらスマソ。 つか実際に聞いたことあったんだよね>「ボランティア」 そう言ってた人たちは、明らかに気の毒がってたの思い出した→"被害者" それと、話ズレるかもだけど、 飲み屋のねーちゃんと結婚した男にも同じ反応してるの見た。 それも微妙に"被害者"扱いしてたように思う。 「家柄が〜」とか言ってるガチガチの姑的立場の人らじゃなくて 20代30代のフツーの男女だよ、言ってた人たちって。 ちっとビックラだったんだよなー…… >56のサイト、PCdだ際にアドレスなくしちゃって困ってたんだよね。 助かったよ。ありがd
話ズレすぎ、つーか読解力なさすぎない?
>>59 であんたが言ってるのは
「男性の性暴力被害」がいかに軽く扱われているか、ってのと、
>>54 で42タンが触れてる「「女性」に対する価値の切り下げと自己否定の強制」
ってことに触れていることは事実だが、
いぬまわり姐の
>>49 はたぶん、そういうニュアンスで書かれちゃいない。
脊髄反射でレスすんなってばさ…
んじゃいぬまわりさんのレスを待てばー??
>>56 セクハラをパワハラに還元できるかどうか、という問題だけど、
それは一気にやってはまずいだろう、ということでしょうね。
「男も被害者だ」とか「男の被害者もいる」ということで、
「女性の被害者」がいることが当然だと考えられては困る。
パワハラは規範としてのジェンダーに関わる部分はやはりあって、
ジェンダーというのは権力関係の用語だから、それが規範として
機能するところでは、権力も行使されれば、暴力もふるわれる。
そして、ジェンダーの解体にも同じことは言える。だからバトラーは
最近ずっと暴力の問題にこだわっている。ジェンダーを解体する者が
ふるわざるをえず、また、ふるってしまう暴力に。
ただ、日本の状況は欧米諸国とは違いますからね。ジェンダー後進国だから。
国会で、「家事労働」って言葉をなくそう、と真面目に提案する女性議員が
いる先進国なんてまずないでしょう。国連でも女性のエンパワーメントというのは
ひとつの課題ですしね。「人権」の問題なんです、ジェンダーって。
バトラーの悩みは、日本で暮らす僕からすると「贅沢な悩み」ですね。
なので、僕はいぬまわりさんの
>>49 は現在の日本の特殊状況において
必要な「乱暴さ」かな、と思います。必要な段階、というかね。
具体的に「男性被害者」個人に対応することは必要でしょうが、
それを一般化するのは、ちょっと待った、って感じでしょうか。
はくタンの「去勢」イメージはあたってると思うんですよね。
「望まない性的関係を強要され、受け入れざるを得ない者」=「女性」だとすると、
「男性被害者」って「女性」化させられていることになる。
>>55 の「ねぎらい」の言葉に「女みたいに」とか入るのは、そのせいでしょ。
というか、「ねぎらい」が必要になるわけですね、その場合。
そこがまだ、問題だと思う。「男性被害者」に「犬にでも噛まれたと思って
諦めろ」という男性の同僚がいるかどうか。まずいないと思いますけどね。
>>62 >「男も被害者だ」とか「男の被害者もいる」ということで、
>「女性の被害者」がいることが当然だと考えられては困る。
>なので、僕はいぬまわりさんの
>>49 は現在の日本の特殊状況において
>必要な「乱暴さ」かな、と思います。必要な段階、というかね。
>具体的に「男性被害者」個人に対応することは必要でしょうが、
>それを一般化するのは、ちょっと待った、って感じでしょうか。
おっしゃる通り。だから、「レス全体の論調には反論しないが、あえてツッコむ」
と言ったのです。
「男も被害に遭うんだから、女の被害者もガタガタ言うな」
みたいな事を言いたいわけではないっす。
…ただ、自分はその「乱暴さ」で散々嫌な目に遭ってきた人間なので。
「女性から加害を受けた」というようなことをちょっとでも口にすると、
「でも男のやることはもっと酷いし数も多いしポピュラーだ」
というようなことを矢継ぎ早にまくしたてる人は、男女や被害経験の有無を問わず多いっす。
男ではない自分ですらそうですから、いわんや男性の被害者に於いてをや、と。
そういえば自分が女に受けてる被害に関しても、
「犬にでも噛まれたと思って諦めろ」っていう「ねぎらい」は受けないな。
被害自体を信じてもらえなかったりっつーのは多いですが('A`)
>>63 うん、たぶんわかっているだろうな、と思って、
>>62 を書いたんですけどね。
少し補足しておきます。
>>56 はアメリカの事情だということを、やはり念頭に置く必要がある。
日本でももちろん「男性被害者」は存在するでしょうが、やっと
女性のセクハラ裁判で勝訴するケースが出てきた、とかそういう段階で
企業でも女性のセクハラへの取り組みが行われはじめてきた、ってとこでしょ。
そこで「男だってされている」という話をするのは尚早ではないか、
そういうことですね。それこそ「女性被害者」を不必要に蹴飛ばすことにも
なりかねない。「女もやってんだから、お互い様」とかね。現状をみると、
容易に想像可能だと思いませんか、そういう状況。
>>63 さんは言いたくなくても、
そういうことを大きな声でいいたいやつには事欠かない。
なんらかの機関で男性被害者のカウンセリングだとか対応を考える必要はある。
だけどそれを一般化して、「女もやってんじゃん」って話にするバカは
日本にはまだまだ多い。それでは話にならない、ってことです。
個別対応を考えることと、
>>56 のサイトのように一般原則化することとの
あいだには違いがあって、そこを今の日本では考慮する必要がある、
そういう判断はあっていいと思います。
>>55 ああぁぁあっ!Σノ´Å`;ヽ そうですね。おっしゃる通りだわ。
いろいろとはしょって書いたのはそうなんだけど、それにしても、
視点が異様に狭い、とち狂ったこと書いていたわ。
不必要に誰かを蹴飛ばしてしまいました。ほんと、ごめんなさい。
周囲の人々にとってそれぞれの立場が、
「醜女」「ふつう女」「美女」「醜男」「ふつう男」「美男」のどれかによって、
扱われかたが激変するような感じもする。
あたしのそのレス、まるで「醜女 → ふつう男」を想定しているよう。
55さんのツッコミは「ふつう女or美女 → 醜男orふつう男」で起こる状況?
>>57 はくタン
そんな状況があったからこそ、その無茶な扱いの違いを是正するのが急務だった。
っていう、これは、
>>56 さんのレスや、42さんが書いてくれた
>リベラルフェミとマルフェミのあいだには(中略)違いがある。
>ただ、とりあえず「女性の社会進出」をやりましょう、ということで両者は一致できただけ。
ここの理由となる当時の社会環境の一例の、脇道に逸れた部分の、また更におまけの部分。
同じことをしているのに、男はまともな男として、女は淫らな女扱われ。
加害者ではあるけれど、淫乱と扱われることで被害も受けている女。
男の被害者は、もちろん被害者なんだけど、そこに関しては触れてはいなかった。
触れてないけど、はくタンが言ってることも、忘れてはいけないことだと思うわ。
(あたし忘れてたのよ…。orz)
>>63 僕もはっきりとカムアウトはしてませんから、その「乱暴さ」に
ひどい目に遭ったこともありますよ。男の子が目の前でひどい目に
遭うのを見たことも何度もある。
スピヴァクのいう「戦略的本質主義」ってやつの必要がわかったのは、
ずいぶん後になってからですね。10年以上前に掛札さんと衝突したときには
よくわかりませんでした。彼女が「旗印」と言ったことの意味が
ようやくわかるようになったというか。でも、目の前で後輩が
「あんたなんかにわかるわけない」と言われているのを見て、
それはないんじゃないか、と思ったのは事実だし、その思いは今も変わりません。
それを言っちゃあおしまいだろ、姐さん、って感じですかね。
「わかってもらおうはこじきのこころ」だけど、「あんたなんかにわかるわけない」と いうのも禁句である。「承認」をめぐってはそれがデフォだということでしょう。
>56のサイトは同サロ板で
実際に被害に遭った人の紹介で知ったんだけども、
やっぱ男性被害者は二重三重の意味で声をあげにくいって話だった。
サイトにあるような偏見と、
>>64 の状況が絡み合ってるからだよね。
厄介なことだよホントに。
>>68 サイトにあるような認識を性急に一般原則化するんじゃなくて、
規範としてのジェンダーの解体を制度的に進めていくことが、
サイトにあるような認識に辿りつくようにする必要があると思うんだよね。
逆セクハラっていう言い方、モニョるわ。逆ナン、も。 何が「逆」なんだか。 セクハラ、ナンパって言葉に、はじめから男女役割を割り振って使ってるってことね…。
そういえば、大分前の話ですが、
>56のサイトの掲示板に、男性から性暴力被害に遭った女性
(それに関するサイト持ちだったからガチだと思う…)が、
「男性は何故女性を平気で強姦するのですか?
何故女性の性を金で買うことに拒否感を覚えないんですか?教えて下さい」
といったような感じのことを書き込んでるのを見て、
他人ごとながらモニターの前でと頭を抱えてしまった記憶があるよ。
よりにもよってそこでする質問かよ、と。
で、このスレ見て、そういう風に頭抱える人が、できうることなら
あまり出ないといいなあ…と思ったから、
匿名性を悪用して
>>55 を書かせてもらったわけではあるのです。
…ただまあ、そんなことを自分が書くことですでに、
「いたいけな女性被害者」が頭を抱えることになってるかもしれない、
とは思いますが。
所詮自分は根っからの女嫌い、
他人からのツッコミ無しではただの狂犬なのでしょう。
(そんな言い方すら犬に失礼だ)
>>71 そう簡単に他者の代わりにものが言えると思うな、ということですよね。
representaion 表象=代表というのは、そう簡単にやっちゃあいけない。
「女だから」ということは、「強姦された女」「性を金で買われた女」の
代わりにものを言うことを、それだけでは許さない。あたりまえのことだと
思うけれど。誰に何をどう問うかで、どこまで「代わりに」語ることができるかが
試される。それが「知性」の問題なんですが、これがなかなか難しいし、
「代わりに」語ることそれ自体を否定する短絡に陥る者も、跡を絶たない。
「代わりに」語ることそれ自体を糾弾するのは、差別を実際にされている者と
差別をしている者に共通する短絡です。でも、それと
>>71 とは別の問題で、
だからといって頭を使わずに「代わりに」語れると思い込まれても
困るわけですよね。とりあえず、おまえは語るな、と言うしかない。
>>69 それが最も効率的だとは思う。
思うけど焦るしイラつく俺はやっぱりイラチな野蛮人w
そういや、
「(男の、女の、子供の、金持ちの、etc.)あんたに分かるもんか」って言われると
めちゃくちゃ腹立つなあ……ひどく暴力的だと思う。なんも言えなくなっちゃうもんな。
>>73 > 「(男の、女の、子供の、金持ちの、etc.)あんたに分かるもんか」って言われると
> めちゃくちゃ腹立つなあ……ひどく暴力的だと思う。なんも言えなくなっちゃうもんな。
横からスミマセン。↑激しく同意です。
ホントにわかりそーもないヤツ、というか 「わかってないことが判明してるヤツ」に向かって 「あんたなんかにわかるわけない」と 言うのは許容範囲かも、と思いますがね。 ホラ、たとえば、「男には女を強姦するぐらいの元気がないと」 みたいな事言った政府のお偉いさんとか。名前とか覚えてないけど。 >「男性は何故女性を平気で強姦するのですか? > 何故女性の性を金で買うことに拒否感を覚えないんですか?教えて下さい」 が、もしもヤツに向かってされた質問だったら、 オレはむしろ「グッジョブ!」と叫ぶかもしれないwwwwwww
おー同志>74 でも Σ(゚Д゚;)>お前は語るな 寝るw バイ☆
77 :
83 :2005/11/18(金) 01:54:33 ID:iJv0PMly
>>56 のサイトが開けない…。な〜ぜ〜…?
>>38 >「軽蔑し嫌悪している相手にしか欲情できない男」
これ、けっこう鋭いと思うわ。
というか、欲情のからくりそのものが「軽蔑」とか「見下し」と深く関わり合ってるような。
上野千鶴子『発情装置』で、
「相手の女も自分と同じようにものを考えるのだと分かったとたん勃起できなくなった」男の話があったしね。
「人間」相手には欲情しないものなのかしら? とか思っちゃう。
で、ちょっと飛躍かもしれないけれど、自分に劣情を催させる女を、男は憎んでいるのではないかな。
もしかしたら男って自分の性欲そのものを無自覚のうちに憎んでいるのかも。
ま、「男って」なんて一般化した言い方はよくないんだろうけど、
あたし個人は「もの」としての女には欲情しないからなぁ。
78 :
83 :2005/11/18(金) 02:04:40 ID:iJv0PMly
>>54 >fat feminism
「デブに奴隷はいない」ってヤツね。
スリムな女を好むのは、女を奴隷として見ているから。
痩せてることって、さしずめ奴隷としての美よね。
「ふつう」とか「平均」とか「人並み」ってのが好きな人たちは、
「ふつう」から逸脱したデブが嫌いなんでしょうけど、
南米あたりのどっかの国では、
「美人」や「ハンサム」の条件に「太っていること」が挙げられてるわよね。
美の定義なんて文化や社会や時代によって変わるじゃんね。
今日、Joe Paceのゴスペルライブを見てきたんだけど、
クワイヤのメンバーがみんな黒豚ちゃんでカッコよかったわ〜。
欧米型の上半身デブって舞台映えするから好き☆
>「軽蔑し嫌悪している相手にしか欲情できない男」 男→醜い 女→美しい ノンケ男の中にこういうこと言うのがいるでしょ。 そこから繋がるのは、 男は醜いから、男とセックスできない。男同士がセックスするのは気持ち悪い。 って以外に、 男は醜いから、男である自分が女とセックスすることは、 醜いものに犯されるという屈辱を相手の女に味わわせること。 「美しい」けど軽蔑に値する“女”が陵辱されるのが快感。 っていうのがあると思うの。
>>77 オレは基本的に『男性』に惹かれる人間ですが、
最近、女に性暴力を振ることはできるかもしれない…つーか、
いわゆる「トラウマの再演」として女と寝ることは、
案外余裕で可能なのかも知れないなあ、と思ったことがあります。
性行為自体は欲情しなくても出来てしまうことな訳だし。
(83さんも書いていらっしゃったが、「ビアンタチ」は特にそうでしょうなあ。
片方がAセクなビアンカップルが、協議の結果
「お互いのために、時々Aセク側がタチになってセックスをする(逆はなし)」
ってことを決めてなんとかやっていってる、とかいう話も聞いたような)
ただ、アドレナリンは放出できるかも知れないけど、
ぜんぜん楽しくはなさそうだし、
「自分に向くミソジニー」が悪化するだけな結果に終わる気がするので
(↑被害者のことは全然考えてないあたりに注目)、
実行する気はさらさらありませんがね。
で、
>自分に劣情を催させる女を、男は憎んでいるのではないかな。
>もしかしたら男って自分の性欲そのものを無自覚のうちに憎んでいるのかも。
仏教における女の扱いがなんでああなのか、とか、
そもそもチンコのことを「魔羅」とか呼んでるのは?とかを連想しますね。
つか、ヘテロ男のミソジニーはそもそも
「制御できない自分の性欲への憎悪」が、その対象になる「女性」への憎悪に
すり替わってるんジャマイカ?って話もあったような。
>>77 何もかもを思い通りにコントロールしたいと思っている者にとって、
一番コントロールできないものは自分の身体、とりわけ、性欲でしょうからね。
病気ってかかりたくてかかる者はいないわけで、男にとってはまず身体が
厭わしい、ということに、近代においてはなるでしょう。あとピューリタニズムも
かなり影響がある。「性」っていわゆる標準家族のなかではタブーだったりしますし。
セジウィックのいう「クローゼット」が「公然の秘密」ということなら、
標準家族のなかにも「クローゼット」はある。精神分析のいう「去勢」と男性の身体嫌悪、
性欲嫌悪はつながってるわけですよね。
女が自分の身体を楽しむことに対して、愛憎半ばす、ってとこかと。
そして自分に劣情を催させる女に自らがコントロールできない性欲への
怒りを転嫁している。お疲れ〜、って感じですかね。
>>78 おっしゃることはごもっとも。でも、個人的にとくに男で「陰鬱なデブ」との
遭遇がこれまでよくあったので、まずは「デブ」がなるべく「陰鬱」にならない
社会にしないと、って思うことしきり。
福田和也なんてのも「陰鬱なデブ」だと思いますね。「躁鬱」かもしれない。
『俺の大東亜代理戦争』なんて読むとね。まあ、うがった見方をすれば、
2ちゃんで猖獗をきわめるロマン主義的シニシズムのパロディをやることで
批判している、ととれなくもないですが、そのへんが相変わらずあのイロニーで、
最終的にはどっちでもいい、ということなんだろうという感じがする。
まあ、批評家の才能というのはそういうものかな、とも思うけど。
聞くところによると彼のパートナーの方は「美人」らしいですが、
凡庸なサクセスストーリーって感じですね。詰めが甘いというか。
そこはパロディにできないのか、と。
話変わって
姐さんはたぶんご存知ではないかと思いますが、かつて『血と薔薇』なんて
とんでもない雑誌がありまして、先に復刻版が出たりしたんですが、
このたび河出文庫になりましてお手軽に読めるようになりました。
三島由紀夫や澁澤龍彦が裸体をさらし、篠山紀信が撮影しているという
写真もあれば、李礼仙のヌードもあるという、そういうグラビアがあったり、
フェティシズム特集が組まれていたり、とあまりにも前衛的すぎて
3号で廃刊になってしまった雑誌です。こんなものもあったのか、と
思うこと請け合い。ちなみに文庫は雑誌を全部そのまま文庫化している
わけではないようで、今のところ第2巻まで出ています。
>>79 スーツの話でそういえばあったなと思い出してジョン・ハーヴェイの
『黒服』という本を買い、読んでるんですがおもしろいです。
「黒」という色の象徴するものの歴史的変化を分析しながら、ジェンダーの
問題をとりあげていて、高山宏監修のいわゆる「高山本」のひとつなので
図版も豊富。高山「天才」宏は、「男の黒」と「女の白」を図式的に
とらえているだけでダイナミックな関係をとらえてない、と翻訳者を
さしおいて監修者解題を書いておりますが、そのへんはブラム・ダイクストラ
『倒錯の偶像』および高山宏の『テクスト世紀末』と合わせ読むとよいかと。
あと、それと合わせて買ったフレッド・ミラー・ロビンソンの
『山高帽の男』もおすすめです。とくに262ページのマグリットの
『ダマスカスへの道』の図版とそれについて書かれた文章。
そういえばマグリットってスーツ着た男の絵や、セルフポートレイトも
スーツだよな、と思った次第。
自分が痩せてないクセにどちらかというと「ガリ専」なのは もしかして、ある意味ではセオリーに合致してるのかwwwww 好きなのは男のガリであって女じゃないけどwwwww つか、澁澤がガリな裸を晒してる (個人的には別のとこで見たバスローブ写真のほうがイケます) 『血と薔薇』、文庫化ってなんか本のふいんき(何故かry)に似合わないですね。 ……澁澤の最初の妻であった矢川澄子が、自殺する前に、 澁澤のことを書いた本「おにいちゃん」の中で、避妊を嫌がる澁澤のせいで、 何度も何度も堕胎をくり返すハメになったことを告白してますな。 サド裁判とかやってる傍らでそんなだったか、と思うと、 さもありなん、と納得できる気がしつつも、それでもやっぱり 澁 澤 、D V 野 郎 だ っ た の か よ ! とゲンナリしたものです('A`) …話がサパーリまとまらなくなってきたので、これにて。
>>77 なるほど、そういう考え方もあるのかー。
バイの私的には男も女も、というか他人ことは、よくわからないので
どちらも「異性愛」の対象にしているようなところが
あるかも知れないと前々スレ(?)で書いたけど、
なんだかこれの裏返しな気もしてきた。
85 :
83 :2005/11/18(金) 16:28:44 ID:IUXeycpY
>>79 (いぬタン)
このごろの若い男の子(ヘテロね)でも、スネ毛剃ったりしてるみたいね。
フーコーが「みんなゲイになればいい」と言ったように、
みんな女性化すればいいと思うわ。
自分が醜いからって美しいものを憎んだり陵辱したりするのは、
自ら美からの疎外に拍車をかけるようなものよね。
>>80 >「制御できない自分の性欲への憎悪」が、その対象になる「女性」への憎悪に
>すり替わってるんジャマイカ?って話
タントラ・セックスでは女のパワーを取り込んで不老不死だか長寿だかを狙ってるわけでしょ?
どっちみち女って利用されるだけの存在なのかしら。
でも、たとえば月経は毎月自分をリフレッシュするための装置だったり、
それに伴って骨盤が開閉するとか、子宮は身体のセンター意識を持つために重要な器官で、
男性には子宮がないからセンター意識が持ちにくい、なんて話もあるわね。
ちょっと脱線しちった。
>>81 >まずは「デブ」がなるべく「陰鬱」にならない
>社会にしないと、って思うことしきり。
そーなのよねー。「デブ」の代わりに「マイノリティー」を当てはめてもいいと思うわ。
このカギカッコには「ゲイ」「レズ」「女」「性的サバイバー」「しょうがい者」とか、
いろんな社会的弱者のラベルが当てはまると思うんだけど、
弱者自身のなかにある、自分に対する差別意識(それは世間の価値観を内面化させられたもの)が
陰鬱にさせるんじゃないかと。
>『血と薔薇』
あたし白順社の復原版(全3巻)持ってる。まだ中身見てないけどv
ところで、「無買デー」ってどう思う?
知り合いのレズ仲間がこれに関連するパーティーを企画してるんだけど、
いまいち主旨が分からないので、参加すべきかどうか検討中。
http://www.bndjapan.org/
86 :
83 :2005/11/18(金) 17:07:08 ID:IUXeycpY
>>83 >澁 澤 、D V 野 郎 だ っ た の か よ ! とゲンナリしたものです('A`)
それを言うなら埴谷雄高もね。
福沢諭吉だって「人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」とか言ってたけど、
自分の妻や娘みたいな身近な女たちには威丈高だったみたいだし。
こういう人たちにとっては、
私的領域と公的領域で使い分けることを「二枚舌」と呼ばずに「良識的」というらしいわね。
>>85 83さん
あの。あたし、スネ毛、好きなの。
スネ毛ってかわいいと思うの。腕の毛もお腹の毛もお尻の毛もかわいい。
まあ、所詮人間の毛だから、犬やゴリラの毛を素敵と思うほどには
狂おしく素敵と思うわけではないけど…。
腋毛もあったほうがいい。男女問わずね。
そのくせハゲも好き。…よくわかんないわね。
念のため。好き、なのよ。欲望する、じゃなくて、好き。欲望もするけど。
「嫌い」をもとにした執着じゃなく、「好き」なの。
“ムダ毛”の処理って、人間⇔動物の枠組みで人間になろうとする行為に思える。
スーツにせよ、毛剃りにせよ、あたしが萎えるのポイントって人間化することかも。
>無買デー
面白い運動ね。
個人個人でそういう心がけをするのが一番なんだろうけど、
キャンペーン張って集団心理を利用しても、
そういった穏やかで無害な利用の仕方なら不快感はないわ。
んでも、それでパーティって、なんか主旨とズレてる気がするけど…。
…とかいうあたしもかなり主旨とズレた反応してしまう。↓
そこのマスコットの、クレイの食い過ぎブタ、激しくかわいいわぁ。
イケるわ。肉の質感が見事だわ。激萌え〜。
ボジョレ・ヌーボーを解禁日に飲まないキャンペーン。 バレンタインズデーにチョコレートを買わないキャンペーン。 商業キャンペーンに安易に踊らされるなっていう, アンチキャンペーンとしては意味あるのかもしれない。 でも,日本にはもともとブラックフライデーがないからねえ。 日本でやる意味は不明だし,むしろ逆にキャンペーンに 踊らされているのが滑稽。自虐ジョークなのかもしれない。 なんかどっかでも聞いたような話だねえ。
89 :
83 :2005/11/18(金) 19:01:27 ID:IUXeycpY
>>87 (犬タン)
あたし自身も脇毛放置派です。ポヤポヤとしか生えてないけど。
すね毛を剃る若い子たちは、とりあえず自分の身体性を意識しているという意味で
「女性化」してるんだと思う。
「すね毛→剃る」という処置は、自分の身体性を意識して、
いかに自分を魅力的に演出するかというプロセスの一環だから、
もちろん、フッサフサのすね毛を美しく見せられる人もいると思うの。男女問わずね。
長い髪が似合う人もいれば、短い髪が似合う人もいる。両方似合う人も。
それと同じように、自分に似合った体毛のあり方ってのもカスタマイズすればいいと思う。
女はとにかく剃る、男はとにかく生やし放題、じゃなくてさ。
あたしなんか、女の腕の毛が日の光で金色に見えるのがすっごく好きなんだけど、
本人は毛深いのがみっともないって言って剃っちゃうのよね。あーもったいない。
「好き」にせよ「嫌い」にせよ、自分の体毛をまったく意識したことがない人たちは、
とりあえず自分の身体性に敏感になってみるためにも、一度くらい剃毛してみればいいのに。
女のマン毛を剃りたがる男たちも、まずは自分のチン毛を剃ってみなさいよね、って。
>“ムダ毛”の処理って、人間⇔動物の枠組みで人間になろうとする行為に思える。
うーん、あたしは「商品化」じゃないかと思うわ。いい意味でも悪い意味でもね。
>無買デー
一時の購買意欲に駆られて無駄なもの買ってためこんだり結局捨てたりしないように、
CMや広告戦略に乗せられないで、本当に自分に必要なものだけ購入しましょう、ってことみたいね。
>>89 商品化と人間化が同じことに見えるわ…。
「身体性に鈍感な人間の男」に関しても、それ商品化から外されてるんじゃなく、
その鈍感さを自動的に「素朴で純朴で純粋な男らしい男」という価値に
読み替えてくれる市場があったりするんだもの。
>あたしなんか、女の腕の毛が日の光で金色に見えるのがすっごく好きなんだけど、
>本人は毛深いのがみっともないって言って剃っちゃうのよね。あーもったいない。
わかるわ。見とれてしまうわ。
>すね毛を剃る若い子たちは、とりあえず自分の身体性を意識しているという意味で
剃刀使い慣れなくて傷だらけかさぶただらけの足になってたり、
頻繁に剃るのは面倒なのかちょびちょび生えかかってる状態で、
剃らないより余計目立つすね毛になってたりする男、見かけるわよね。
微笑ましいような、いらだたしいような、微妙な気持ちになる。
92 :
禁断の名無しさん :2005/11/18(金) 20:24:52 ID:edqB9g5u
中身と入れ物を分けて自己肯定する人と中身と外見をセットで自己肯定する人って仲良くなれないのかしら。
93 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/11/18(金) 21:31:49 ID:Ryg4eciV
女性化をもって”キレイ”なのかどうかは置いといて、 男が”キレイ”を目指すことは、俺は大賛成だな。 自分のことを知るって意味でも、体をどう手入れしていくかって保健と一緒だもん。 >「身体性に鈍感な人間の男」に関しても、それ商品化から外されてるんじゃなく、 >その鈍感さを自動的に「素朴で純朴で純粋な男らしい男」という価値に >読み替えてくれる市場があったりするんだもの。 そういうのがあるから、勘違いのズボラ男がでかいツラするんだよな。 自分を客観的に見れないってのを助長してると思うよ、コレ。 甘やかしてるに等しい。 ついでに、部屋の掃除も保健の観点で見直してもらいたい。 おおいに見直してもらいたい>ズボラ男
94 :
禁断の名無しさん :2005/11/18(金) 21:32:46 ID:G0g4vgfG
>>77-78 軽蔑、嫌悪自体が
欲情の仕組みだとしたらダメンズウォーカー
なんてのもこの枠組みに入るのかもしれない。
それと、ふと思ったんだけど
>>79 の
>男→醜い 女→美しい ノンケ男の中にこういうこと言うのがいるでしょ。
>そこから繋がるのは、
>男は醜いから、男とセックスできない。男同士がセックスするのは気持ち悪い。
>って以外に、
>男は醜いから、男である自分が女とセックスすることは、
>醜いものに犯されるという屈辱を相手の女に味わわせること。
>「美しい」けど軽蔑に値する“女”が陵辱されるのが快感。
も重ね合わせると
デブ専でデブをバカにする人間は
逆にデブに対する負けているような気分もあるのでは?
他のこのような枠組みもそういう互いに立場を逆にしている二つの関係が
同時成立しているのかもしれない。
でも
>>85 の
>フーコーが「みんなゲイになればいい」と言ったように、
>みんな女性化すればいいと思うわ。
>自分が醜いからって美しいものを憎んだり陵辱したりするのは、
>自ら美からの疎外に拍車をかけるようなものよね。
は違うと思う。女性化しなくても疎外をしないのが一番。
ちなみに、デブをバカにするデブ専の1人に
スネ毛を処理する人間いました(恋愛関係にあった)
処理の現場でデブは汚いと言われた経験あり。
そこまでそういうことをそいつから一度も聞いていなかったので
大きなショックを受けて一気に別れました。
個人的に、女性が美しいとか好ましいだなんてからっきし思えないのもあって、 「みんな女性化すればいい」って言い方には到底賛成できない。 「とりあえず自分の身体性に敏感になってみたら?」って提案なら、 同意できるんだけどね。 つか、べつに「女性化」だけでなくとも 「みんな『同質』になればいい」というような言い方はヤだ。 それなんてファッショ?…ってのは言い過ぎなんだろうけど。
96 :
83 :2005/11/18(金) 23:12:04 ID:IUXeycpY
>>94-95 あのね、
>>85 には続きがあって、それが
>>89 なの。
>自分の身体性を意識しているという意味で「女性化」
ここ、見落としてほしくないのよね。
身体性を持たないことを「男性化」と呼ぶのなら、
身体性を持つことを「女性化」といえるでしょう。
これって前々スレあたりでもちょっと出た話題だったわよね。
だから、
>>95 の、
>「とりあえず自分の身体性に敏感になってみたら?」
これがビンゴ。
で、敏感になるそのなり方にはそれぞれバリエーションがあるわけで、
わたしは「女性化」の意味を画一化してはいないよ。
まさか、みんな化粧して女物の服着て髪の毛長くすることが「女性化」だと思ってるわけではないよね???
>>96 んー…
>だから、
>>95 の、
>>「とりあえず自分の身体性に敏感になってみたら?」
>これがビンゴ。
これをおっしゃって頂いた時点で
>>95 については「処理済」として扱って下さって結構です。
あなたが
>化粧して女物の服着て髪の毛長くすることが「女性化」だと思ってる
わけではないことはよくよくわかってはいるつもりなのだが、
実際そういう意味で
「みんな女性化すればいい」とか無神経に言い放つ、
男嫌いな女が実は案外多いから、
脊髄反射的に反発が沸いてしまうんですわ。スマソ。
98 :
83 :2005/11/18(金) 23:30:55 ID:IUXeycpY
>>97 リョーカイv
あと、一つ訂正ね。
>>96 「女性化」の意味を画一化、ではなくて、「女性化」の内容を画一化。
99 :
83 :2005/11/18(金) 23:42:47 ID:IUXeycpY
>>91 >「身体性に鈍感な人間の男」
「自分の身体に鈍感であれ、それが男だ」って商品価値(規範?)も確かにあるわね。
鈍感であることがセルフプロデュースとして成功してるかどうかは不明だけど。
で、「身体性を意識すること」「女性化すること」ってのは、
言ってみれば「“狙われる身体”になること」でもある。
だから、ここで言う「身体性」ってのは「狙われる者としての身体性」といえる。
バトラーの言う「予期せぬ行為体(エージェンシー)」としての身体性でもあるわね。
他者の欲望をかきたてる身体性を持ってごらんなさいな、ってことね。
“狙う身体”を持つ者(主に「自分は醜い」としている男性)は、
自分が“狙われる身体”を持つ可能性なんて思い及びもしないんじゃないかな。
ヘテロのホモフォビアにもいろいろあるんでしょうけど、
一つには、自分が男に“狙われる身体”となることへの恐怖があるんじゃないかしら。
もうひとつ、身体性を持つためのベクトルとして「健康」つまり「身体の快適さ」ってのもあるわね。
食べたいだけ食べて飲みたいだけ飲んで重篤な成人病に罹患してポックリ、なんてーのは、
「身体性に鈍感な男」に多いケース。
滅多に風邪引かないことを自慢する人がいるけど、
それって自分の体調変化に鈍感なだけでは? とか思っちゃう。
能動と受動の転換の第一歩みたいなもんだね>身体性を意識する ノンケ男にもできるレッスン1、てところで100☆
(;´ω`)狙ってる相手に狙われるように狙ってる人は狙われる人ですか?狙う人ですか?
わっけわかんね
>>101 "狙ってくれ"と思ってるんだから「狙われるカラダ」の持ち主=狙われる人、じゃねーの?
104 :
83 :2005/11/19(土) 02:16:10 ID:4zRwhy5T
>>100 (はくタン)
そうね。そのレッスン1が難しいのよねーたぶん。
>>101 狙わせる人、じゃない?
>>91 (いぬまわりさん)
昨日、やっと『アワーミュージック』観てきました。
僕にとっては、いくつかの奇妙な、そして幸福な遭遇がありました。
最初はバトラーとゴダールの遭遇です。最近、持ち歩いて読んでいるバトラーの Giving an account of oneself を行きの電車のなかで読んでいたのですが、
ちょうど第2部の「倫理の暴力に抗して」と題された部分のレヴィナスの「大文字の他者」についてバトラーが言及しているところを読んだところで
駅に着き、映画館に入り映画がはじまると、「地獄篇」の数々の戦争の映像のあとレヴィナスからの引用がまず耳に響いた。「死については2つの考え方がある。
死とは可能性の不可能性ではなく、むしろ不可能性の可能性だ」。これはブランショでもあるわけですが、ブランショからの引用もこの作品にはある。
また、レヴィナスの書物はこの作品の他のところにあからさまに現れる。「煉獄篇」でユーディット・レルネル(そういえば彼女の名はジュディスですね、
旧約のユーディットから取られている。祖国のために敵の将軍ホロフェルネスの首を切った女性ですね。絵画のモチーフにもなっている)が川のほとりで
欄干に置いて読んでいるのが、レヴィナスの Entre nous 『われわれのあいだで』ですね。そして有名な「顔が『汝、殺すなかれ』の表象なら」云々、という文章が朗読される。
オルガの行動というのは、バトラーのいう「倫理の暴力」と二重、三重に関わっている。彼女をあのように行動させることを決意させる何かも
「倫理の暴力」であれば、彼女のあの行動自体も「倫理の暴力」であり、そしてその結果を聞くばかりのゴダールもまた「倫理の暴力」とは
無関係ではない。「デジタルカメラは映画を救えるか?」と学生たちを前にした講義中に訊かれても、ゴダールは答えられないし、答えない。
空港にある大きな黄色の疑問符ではじまりそしてその疑問符で終わる「煉獄篇」はまた、「本の出会い」ではじまり「本との訣れ」で終わるものでもある。
オルガが最後に赤いバッグから取り出そうとした本はそれぞれが思い浮かべることができる本であって、1冊に決められない。だからこそ彼女が誰のどんな本を
取り出そうとしたのか、その問いが「オルガ」という固有名詞の固有性を考えさせる。
昨日、この映画を観た帰りに書店に立ち寄って見つけて買った東浩紀、宮台真司、北田暁大、
大澤真幸、鈴木謙介というメンバーの『波状言論S改』は、大澤を迎えた鼎談の最後で
固有名の問題にふれて終わる。それはテクノロジーの発達により、大澤の言い方なら「第三者の
審級」、東の言い方なら「象徴界」、レヴィナスならば「大文字の他者」と呼ぶ何かが
壊れている、という現状認識のもとでは、当然出てくる話だとは思う。だけど、彼らの「社会学」的な
視線は現状のまやかし mystification を demystifier 暴き立てる自らの言説に対してあまりにもナイーブだと思う。
自らが「大文字の他者」が壊れ、不在となった「かのような」状況を作り出している、ということに無自覚な言説は、
ゴダールがこの映画で語る「切り返しショット」 contre-champ を見ない視線によって支えられている。
他のことでは、言説に対してそのフィクション性を問題とする彼ら「社会学者」たちは、自らの
語る言説のフィクション性を見ない。「フィクションのユダヤ人、ドキュメンタリーのパレスチナ人」。
というのは、レヴィナスに対する批判でもあって「大文字の他者」をそう簡単に持ち出せるのか、と
いう疑問であると同時に、「大文字の他者」をそう簡単に消去できるのか、という疑問でもある。
ドキュメンタリーが「現実」だというのではなく、別のフィクションがあり、それがあるフィクションの
限界を構成しているということ、champ et contre-champ 「ショットと切り返しショット」、その言葉が
繰り返されるうちにどっちが「第1のもの」なのかはわからなくなっていく。
「現実」は2つのフィクション、「ショットと切り返しショット」との「あいだ」に生起する。
右を向いたケイリー・グラントのスチールと左を向いたロザリンド・ラッセルのスチールの
「あいだ」に、「ジェンダー」というフィクションを切り裂いて「現実」は生起する。
だから、ハワード・ホークスには男と女の区別ができなくなる。だって、そんな区別は「無い」から。
これはジェンダーの解体の問題ですね。そしてそこにも「暴力」はある。
2つめの遭遇は、映画を見終わって帰ろうとしたら、映画製作をしている後輩に出会ったことです。 結局、彼といっしょにもう一度映画を観ることにして、そのあとお茶を飲みながらいろいろ話しました。 そこで自分でも思いがけず出した問いは、ゴダールの映画における「家族」「共同生活」の問題で、 バルトの講義録やここでも話題になった「クィア・ファミリー」系のマンガの話を挙げて話していたら、 彼が今、書いている映画のプロットが「ルームシェア」をテーマとしたものだという話を聞かされ、 「みんなで生きるハウツー」、それを考えたいんだ、と彼は言う。これは、ゴダールの映画がこれまで 「家族」についてほとんど何もとりあげないことに、「天国篇」の最後あたりの男の子の「弟が生まれたよ!」という 声で気づいたことと、そしてあの最後の失楽園のパロディ、得楽園とでもいうシーンを観たことから、 起きた出来事、僕ひとりでは起きようのない出来事です。 最後の遭遇は、僕がこの映画を観に行くのが最終日となってしまったために起きたもので、 「天国篇」でオルガが言う「よく晴れた日だった。遠くまで見える。でも、オルガのいる ところまでは見えない」が、あの方が『命のリレー』に付け加えた「僕の命を 僕は見えない いつのまに走り始め いつまでを走るのだろう」というフレーズと重なったことです。 オルガにとってあの場所はゴールなのか。僕は違うと思う。彼女の名は、Goal ではなく、 Olga だから。 ゴールをねじれさせ、メビウスの帯にする。ねじれながら流れる無限軌道に。 『命のリレー』や『サーモン・ダンス』、後者のあの最後の繰り返される「生きて泳げ 涙は後ろへ流せ 向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ」というリフレインは「アワーミュージック」 なんじゃないかと、そう思いました。このゴールをひとつに決めず、分岐させ、転轍させ、 次のスタートへ繋ぐ、それってゲイの生き方にも関わることじゃないか。夜会の時の歌詞だと 「虫も獣も人も魚も」と歌われるだけだったのが、アルバムになって「星も礫も人も木の葉も」と 歌われる。「命のリレー」は生殖だけじゃない。ゲイだからこそ可能な「命のリレー」がある。 あとはいぬまわりさんがおっしゃってた「かわいいゴダール」、「カッコつけててもどこか抜けてる ゴダール」、確認しました。映画館で声出して笑ってしまったw この映画はゴダールが「ゴダール」として 登場しているはじめての映画なんですが、だからでしょうか、これはゴダールの、giving an account of myself で あるようなそんな印象を受けたのは、あのシーンがあったからであるようなそんな気が、今はします。 映画のネタバレを極力避けたので(ゴダールの映画でそんな配慮が必要なのはめずらしい)、観てないひとには 何のことやら、という長文、スマソ。しかも昨日が最終日だったので、観に行くこともできないという。 ただ、このスレのPart1から読めば、上で書いたことがこのスレと決して無関係ではないことは、わかると思う。 『アワーミュージック』は近日中にDVDになると思うし、またそのうちどこかで上映するだろうし、 東京以外の場所ではこれから公開のところもあると思うので、気が向いたら観てください。
ああっ、いつもにもましてレスが読みづらくなってる(^-^; ほんと、スマソ
補足をひとつ。 >「大文字の他者」をそう簡単に持ち出せるのか、という疑問であると同時に、 >「大文字の他者」をそう簡単に消去できるのか、という疑問 これは「わかってもらおうはこじきのこころ」だけど「あんたなんかにわかるわけない」と いうのも禁句、というそういうこと、「承認」の問題と関わってることです。
>>91 (いぬまわりさん)
オルガの最後のセリフ、あれがチャンドラーの『さらば愛しき女よ』からの引用ですね。
そしてあの失楽園のパロディの前に、オルガが出会う男性の読んでいる本はグーディスの
『ストリート・オブ・ノーリターン』、サミュエル・フラーの映画の原作で、オルガが
出会った男性はそれをフランス語の翻訳で読んでいる。そのタイトルは Sans espoir de retour
「帰れるという希望もなしに」です。「地獄」「煉獄」「天国」はダンテの『神曲』ですが、
『アワーミュージック』は「帰れない者たち」の『転生』『新生』の物語でもある。
ゴダールは自分より若い世代へ向けて、「帰れない者たちへ」と歌っている、かのようです。
110 :
83 :2005/11/20(日) 01:00:21 ID:aB6Ok1If
>>108 >これは「わかってもらおうはこじきのこころ」だけど「あんたなんかにわかるわけない」と
>いうのも禁句
83的には「7年殺し」と解釈しましたv
70年かもしれないし、700年、7000年かもしれないけどね。
ちなみに、7という数字を持ち出したのは語呂の良さ優先です。
>105-106 42さん まあ。観ていらしたのね。 鑑賞報告、面白く読ませていただきましたわ。 ありがとうございます。 疑問も残らないので、激しく同意、の一言で済んじゃうわ。w オルガに行動を起こさせたもの、オルガの行動、受身のゴダール、肯定、否定。 どれも「倫理の暴力」ではあり並列で扱われてしかるべきもの。 それがそれぞれ等価として扱われはしない状況故に 保留し問い続けることを、疑問符で示唆しているのかしらと受け取りました。 >オルガにとってあの場所はゴールなのか。僕は違うと思う。 あの場所は決してゴールではないですね。犬が一匹しかいなかったものw 本当のことは無限大にある。映画として描ききることは不可能なことですもの。無限に描き続けなきゃならない。 表現するときには、どうしても大部分は保留し抜け落ちてしまうことも映画内で「言い訳」したのは、 この映画を発することに対する良心の為した部分? 『海嘯』で水上繭さんたちが、フロンティアに憧憬の念を持ってあがいた場所、テレジア結核療養所は、 『サヨナラ・コンニチハ』で言う「なんにもない真空」だったのかと。 『24時発〜』のあかり/かげや鮭たちは、その真空を抜け出してしまった。そして走り続ける“存在と無限のあいだ”。 遠くまで見える─。オルガさんもそこを走り続けるのでしょうね。 そうそう。煉獄篇に、ラングの『メトロポリス』での、 アンドロイドが火刑に処させるシーンが挿入されてませんでした? 一瞬だけ写って「あれ?」と思ったら通り過ぎてた。見間違いかも。 DVD出たら見直してみますが。
>>112 煉獄篇でのラングの『メトロポリス』のシーンのインサートには気づきませんでした。
あったかもしれない。地獄篇から煉獄篇のオルガと出会うあたりまでは、
ゴダールによる20世紀とゴダールのこれまでの映画作品の「総括」のようでした。
地獄篇のあの殺戮の映像のモンタージュにはもうただ圧倒されるしかないし、
大使がユーディットに言う「個人の夢は2人のもの、国家の夢はひとりのもの」という
言葉は、ゴダールの『新・ドイツ零年』の最後の言葉です。そしてドライヤーの
『裁かるるジャンヌ』が引用され、オルガはサラエヴォの街中で立ち止まり、
まるで『勝手にしやがれ』のラストのジーン・セバークのようにスクリーンを観ている僕らを
見つめ返したかと思うと、そのまま遠くを見霽そうとする。ジーン・セバークが
アメリカでやった最初の役は、ジャンヌ・ダルクの役ですね。その意味でも、
この『アワーミュージック』は「メビウスの帯」だと思う。ゴダール自身にとっても。
煉獄篇の最初の方に登場人物たちが大使館で、シャンパンをふるまわれるシーンがあって、
そこで若いギャルソンが長く映され、アップになる。あれがゴダールの「倫理」なのか
「言い訳」なのか、僕には決めかねる。たぶん、ゴダールにだって決められない。
あのギャルソンにも決められない。でも、それは、決まってしまうのだし、
決まってしまえば、その「決定」、そしてその「決定」の残酷さをゴダールも、
あのギャルソンも、そして僕も、引き受け、「分有」するしかない。
だったら、それを進んで引き受け、「分有」しようとしてもいい。
ベルグニウが大使に言う、いぬまわりさんも前に言及してたあの言葉。
「行動する人間は、自分の言葉を適切な言葉で語れない。逆に物語を読み、
詩をよむ者は、実態を知らない」というのは、「当事者」である「あなた」にしかわからない、
あるいは「当事者」である「私」にしかわからない、ということではない。
それは、ただ「当事者」と「非当事者」とのあいだにある裂け目の存在を示すだけでなく、
その双方のひとつの身体において乗り越えがたく刻まれた裂け目の存在を示すものでもある。
「当事者の非当事者性」と「非当事者の当事者性」。83姐さんのいう「7年殺し」。
ここにも「ショットと切り返しショット」はある。
それぞれのあいだの、そしてそれぞれの、さまざまな裂け目を乗り越えることの
不可能性を、「二隻の舟」に乗り「分有」しながら生き続ける。それは「社会学者」たちとは
別の仕方で、「乗り越えの不可能性」を生きる、ということだと思う。
「私たちは二隻の舟 ひとつずつの そしてひとつの」
「よく晴れた日だった。遠くまで見える。でも、オルガのいるところまでは見えない」
「明視」と「盲目」。遠くを見霽るかそうとする眼差しと閉じられる目。「ショットと切り返しショット」。
114 :
83 :2005/11/20(日) 13:31:49 ID:lLU7yRXz
>>105 (42タン)
>「現実」は2つのフィクション、「ショットと切り返しショット」との「あいだ」に生起する。
>右を向いたケイリー・グラントのスチールと左を向いたロザリンド・ラッセルのスチールの
>「あいだ」に、「ジェンダー」というフィクションを切り裂いて「現実」は生起する。
松浦理英子『葬儀の日』を思い出した。
葬式の泣き屋である主人公と笑い屋の女性の奇妙な恋愛小説(とわたしは解釈している)なんだけど、
途中、インタビュアーの取材に答える形で、二人は泣き屋と笑い屋の関係を語る。
「川の右岸と左岸は水によって隔てられている。同時に水を共有し水を媒介として繋がっている。
あるいは水によって統合されている。また別の観点から言えば、川の一部、川に属するという意
味で、二つの岸は同じものではないにしても全く異なるものでもない。
いずれにせよ、二つの岸じゃ川の両端にあります。で、ある日突然、お互いに対岸の存在に気
づいたとします。いったいどうするべきでしょう? 走って逃げ出すことは不可能です。無視を
決め込んでそのまま何食わぬ様子で有り続けることはできます。もう一つ手があります。自らの
体である土を少しずつ切り取り崩して行って、水の中に侵入し、対岸に達しようと試みることで
す。とても時間がかかるし、洪水などによる自然変動に妨げられることもあるでしょう。それで
もいつか水を呑み尽くすことになるかも知れません。
『二つの岸はお互いを欲しているのか。』
だって両岸がないと川にならないじゃありませんか。そして、そのことから、ある問題が生
じます。二つの岸がついに手を取り合った時、川は潰れてしまってもはや川ではない。岸はも
う岸ではない。二つの岸であった物は自分がいったい何者なのかわからなくなってしまう。そ
れで苛々するんです、進むべきか渋滞し続けるべきか。いずれにせよ甲斐のないことではない
のか、とも。
『川とは何です?』
私たちもそれを知りたいのです。」(長文引用失礼)
他者との間に横たわる川という「現実」を、わたしたちはいったいどう扱ったらいいんでしょうかねぇ。
115 :
禁断の名無しさん :2005/11/20(日) 13:44:09 ID:yFtYzlHY
レズとホモのタチ、ネコの意味も違うのだからごっつちゃにして スレ立てた意味無い。 そもそもこれ立てたの糞レズでしょ!
116 :
83 :2005/11/20(日) 13:52:09 ID:lLU7yRXz
>>111 内田タンの言う「身体の覚知」と彼が対話したふたりの発言者の言う「身体の覚知」は位相が違うでしょ。
望むと望まざるとに関わらず他者の視線や思惑や妄想に巻き込まれる経験、
そこに自分の身体がどうしようもなく関わっているのだから。
内観とかコヒーレンスとか気の感応とか言ったって、
それは「性」ヤ「ジェンダー」と同じくらい「脳化された経験」だと思うけどねぇ。
「性」以外にも身体の覚知を促す契機はあるにはあるけれど、
彼には「性」をコードとして語るべき(考量すべき)身体性というものがないんじゃないかしら。
ないならないなりに想像することだってできるのに、それすらしようともせずに、
「武士道」とか持ち出されてもぜんぜん説得力感じないし、彼の話はやっぱつまんない。
117 :
禁断の名無しさん :2005/11/20(日) 15:18:00 ID:tQmbvvFB
男にはちやほやされるけど女からは嫌われる女ってあるじゃない。 それをホモやレズの世界に置き換えた時成立するのかしら。
>>114 『葬儀の日』、懐かしいですね。といっても僕がそれを読んだのは彼女がその作品で
文学界新人賞を獲ったのよりもずいぶんとあとになってからでしたが。文庫になっていた
『葬儀の日』『セバスチャン』『ナチュラル・ウーマン』を読んだ頃に、『親指Pの修行時代』が
雑誌に掲載されたんじゃなかったかと思います。寡作で知られる彼女ですが、僕は彼女の小説を
待っている読者のひとりです。
>>113 42さん
『アワーミュージック』の天国篇、
アニエス・ヴァルダ監督の1976年作品『歌う女・歌わない女』のラスト・シーンと似てると思いましたの。
『歌う女・歌わない女』の二人の主人公、歌う女ポムと歌わない女シュザンヌは、全く異なった生活環境の元から、
当時のフランスの中絶合法化運動との関わりを経て、自分の居場所を造り上げてゆく。
自由奔放に“言葉のない問題”を歌い上げるパフォーマンスを通じて、試行錯誤しながら行く先を見出すポム。
夫に先立たれた後、その日その日の生活に追われながらも諦めのかわりに選び取る場所を模索するシュザンヌ。
二人は映画の最後、簡素で何ということもなく見えるほど簡素なコミュニティの中で満ち足りた時を迎える。
今観ると、彼女たちの居場所は、70年代ヒッピー・ムーブメントの描く理想郷のステレオタイプにも見えちゃうし、
彼女たちのいる他の、関わらずに済まされない場所では、それまでと何も変わらない日々が続いているだろうけど、
他の妥当な描写が思い浮かぶわけでもなし、当時のフェミ運動の暖かい理想のひとつとしては愛おしくはある。
その理想郷が、『アワーミュージック』の天国篇の光景と、とても似ているの。
穏やかな河が流れ、たおやかな充足だけを持った若者たちが集う光景。
(『歌う女〜』では、その向こうに鉄条網と兵隊はないけど)
だけどゴダールさんは、そこをゴールとはせず、その地点でも保留にさせた。
ポム、シュザンヌは、『この一生だけでは辿り着けない』ことを認識するのは絶望への道である予感を感じて、
直視せずにいたのかもしれなかった。
その先の時代にいるオルガは、淡々とした事実の中にただ存在することによって、
『この一生だけでは辿り着けない』の中には、救い/赦しの可能性もあることを見ていたのでしょう。
ところで、話は変わって。松浦理恵子さん『優しい去勢のために』で映画『パサジェルカ』に関して、
今の話題の当事者性に関して何かいいこと書いてたような覚えがあるわ。
♪思い出せない 辿りつけない 夢の中では憶えてたのに〜
(『優しい〜』は、部屋の奥地にしまい込んでてすぐ出して確認できない…)
>>111 「狙われる身体」を俺が目指すときには、
狙う側の価値観だけに合わせようとか、あんまり考えないな。
むしろ「ココを狙って欲しい」という発信をするかな。そんな気がする。
そうすっと微妙に向こうも見る(狙う)目が変ってきたりね。
あるいは別の人の狙い視線にひっかかったりさw
「狙われる」ってのが必ずしも受け一方とも限らないと思うけど。
121 :
禁断の名無しさん :2005/11/22(火) 02:08:32 ID:yqD51gQ6
思いつめてるとは思わないけど・・・・ 他者からどう見られてるかをまったく意識せずに生きている 人間が存在するなんて自分には信じられない これって「身体性の自覚?」 ちょっと思ったこと。 「他者から見られる価値がある」客体である故に 身体性を獲得しているヘテロ女性は そのタイムリミットが過ぎた時 つまり彼女達から若さがなくなった時に 彼女達の身体性とかセクシャリティって変化って起きたりするんでしょーか。 アイデンティティ・クライシスが起こったりしないのかな?
123 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/11/22(火) 23:26:15 ID:28ibQm1w
>他者からどう見られてるかをまったく意識せずに生きている >人間が存在するなんて自分には信じられない 同意だ。 だって、みんな普通に「計算」してるもんね??(してないのかな???) 俺の場合、「他者」の大方は「もう一人の自分」が占めてるんだけど、 かなり意識してるなー つか、このブログの人、なんで「頭の良い人」に限定してるんだろう?? 「他者」を意識するしないと「頭の良し悪し」って関係なくない?? でもこの人も >必要最低限の「見られる自分」を適切にコントロールできるように、練習を積むこと>だと思う。 ちゃんと「計算」してるよね。いい事じゃんね、練習って。 『アエラ』でアンチエイジング特集を読んで気づいたんだけど、 あれ、必ずしも、いわゆる「若返り」を目指してるんじゃないんだね。 要するに、その年代年代ごとに「現役でいたい」って欲望だと思うんだよ。 肉体的にも精神的にも、ね。 リフレッシュとかリセットの意味に近い気がする。「新生」とかね。 「他者」を意識して自分の外見や中身を繰り返し見つめていくって作業は、 やってる人は、10代も50代も変わりなくやってんじゃないの?? だから、セクシャリティの揺らぎは、年代に関係なく起こりうると思うけど。
>>117 置き換えというのが、たとえば「タチ=男」「ネコ=女」と考えるということだとしたら、
「女に嫌われる女」は成り立たないでしょう。「女に嫌われる女」というのは「女性」の
ミソジニーで、異なるセクシュアル・カテゴリーにはそのカテゴリーのミソジニーが
ある、つまり「ゲイ」のミソジニー等がある、と考えられるんじゃないかと、思います。
>>119 『優しい〜』は僕ももってますが、同じくどこにあるかわかりません(^-^;
>>121 >>122 >>123 このブログのひと、前日に「非モテ」について書いていて、「大乗非モテ」「小乗非モテ」
「金剛非モテ」とか言っているけど、そうするとこの「見られる」「見る」というのは
「モテ」と関係があるのかな?
だとしたら、このひとが「モテない」のはよくわかる。だって、このひとがいう「頭のいいひと」って
「見られる自分」と「見られる自分を見る自分」だけで世界を自己完結させているひとで、つまり、
「他者」は不要だ、というのと変わらない。だけど、鏡を見るには鏡とのあいだの距離が必要だし、
鏡は割れる。そして、鏡に見入る者、世界を自己完結させようと望む者はその罅割れに飲み込まれる。
>>122 さんのいう
>他者からどう見られてるかをまったく意識せずに生きている
>人間が存在するなんて自分には信じられない
というのは、それが時代によってアニミズムやトーテミズムだったり、「超越神」への信仰であったり、という
違いはあるだろうけど、何らかの「他者」から「見られている」とか「他者」を「見る」、「他者」の声を聴く、
「他者」に声を聴かせる、「他者」に触れる、触れられる、「他者」を味わう、「他者」に味わわれる、
「他者」を嗅ぐ、「他者」に嗅がれる等々を意識せずに文明、文化なんて存在しない、ということなんじゃないかと思う。
たとえば、星野道夫がクマに「見られ、聴かれ、嗅がれ、ことによると触れられ、味わわれる」自分を求めてアラスカを駆け、 あの数々の写真を撮る。別に「人間」から「見られる」だけではない。「見られる自分」と「見られる自分を見る自分」、 鏡像の自分と鏡像を見る自分とのあいだには距離が必ずあって、それは絶対にゼロにはならない。 そしてわずかでも距離があれば、その距離のなかに無限の「他者」がいる。そのなかには「人間」ではない 「他者」もいるし、実は「見られる自分を見る自分」もまたそうした「他者」のひとつであって、 「鏡像」はそうした「他者としての自分」とは決して重ならない。歪みのない鏡はない、アナモルフォーズが 起きない鏡はないから。でも、だからこそ、変容が起こる。「見られる自分」は「他者」になる。 「見られる自分を見る自分」=「見られる自分」=鏡像はもはや成立しない。「見られる自分」=「他者」、 ランボーがいうように、 Je est un autre. 「私とは一個の他者である」。 メディアはひとつの鏡で、テクノロジーはその鏡の歪みをなくし、罅割れをなくそうとする試みの総体。 それゆえに、メディア・ナルシスが存在し、ナルシス・テクノロジーが存在する。現在、あたかも まったく歪みのない決して割れない鏡が存在するかのように思わせるナルシス・テクノロジーがあり、 それがブログの彼のような欲望を再生産する。でも、歪みのない鏡はないし、罅割れ砕け散らない鏡はない。 故障や事故と無縁のテクノロジーはないから。そして現在におけるそのナルシス・テクノロジーの ひとつが「社会学」で、メディア・ナルシスのひとつが「社会学者」だと僕は思う。 ブログの彼は僕には「社会学者」の卵に見える。 ブログの彼の「大乗」「小乗」「金剛」は元ネタはたぶん宮台真司で、 宮台がそれを「アイロニー」、「ネタ」でやってても、それはすぐに「現実」、「ベタ」として扱われ、 ロマン主義的シニシズムによる「他者」恐怖が「他者」を「排除」したいという欲望を 増幅させ再生産させていく。で、そのなかでミソジニーもまた再生産される。「他者としての女」が 「他者」の表象=代表=代理となるから。宮台に限らず、「『第三者の審級』、『象徴界』、『大文字の他者』が 失われたかのような」の、「かのような」に鈍感な鏡職人たち、「フィクション」への感性が乏しいがゆえに 挫折したアーティストたちのつくる鏡としての言説、書物は、ブログの彼のような「どうでもいいつまらない悩み」を 増幅させ、遷延化させ、こじらせるばかり。ブログの彼のいう「頭のいいひと」って要するに「アイロニー」を駆使する 「社会学者」だと思うんだけれど、「男性社会学者」は「挫折したアーティスト」でしかなく、アートおよびアーティストへの ルサンチマン、怨恨をなんとかしてくれないと迷惑きわまりない。 そう考えると、とりあえず鏡は鉄鎚で粉々に割りたくなるし、「ゴダールはやはり偉い」と言いたくなるけれど、 それでいいのか?、とも思う。『アワーミュージック』の「ゴダール」は、それでいいのか?、と問いかけ、挑発する。 なぁ、君、それでいいのか?
>>90 のリンク先に関して。
他者って誰のことなの。
他者が何に魅かれるか、何をもとに想定するの?
どういう他者に魅かれたいかをあえて問わず、一人でも多くモテたいの?
最大公約数にモテたいの?
A〜Zの他者がいる中で、Aにだけモテたいの?
Aが成員の99%、B〜Zが残りの1%だから?
外見がいいのを求めるのが本能と言うのはともかく、
外見の優劣の基準を不問にしているところも解せないわ。
その外見の良さを絶対的なもの、なの?
ノートルダムのせむし男に出てくる男たちの中では
フィーバス>フロロ>カジモドとなるのが自然の摂理だというの?
当時のフランスの美意識の流行がたまたまそうだっただけでしょ?
あたしは、カジモド>フィーバス>フロロだ。
外見で相手を捕まえた後の性格の相性についても、
Aの範疇に入る人の性格の幅なんて大差ないじゃないのさ。(←投げやり)
あたしの好きなのはAではなくB〜Zにいるってわかってるから、関係ないわ…。
たまたまでぶ専だから1%のほうだしw
1%をとりあえず無視して話を進めてる感じよね。( ゚д゚)ポカーン
前スレ338の
>人は他人を気にするよ。自分の立ち位置を考える。
これは、権力の力関係の中での位置の話だったけど、
モテ、非モテの話はそれとも違って、他者の視線と言うとき、
マイノリティもマジョリティ価値に完全に侵食されつくして
同質の視線を持ってることが前提みたいになっちゃってる感じが…。
はくタンの
>俺の場合、「他者」の大方は「もう一人の自分」が占めてるんだけど、
っていうのも、B〜Zの位置にあるのよね。
あのう…。突然ですが、『キング・コング』の中国題って『金剛』っていうの。
今さっきこのスレ開いたら、コングさま激萌えのあたしには
>>124-125 のレスの中の“金剛”だけがキラキラ輝いてそこだけ目に付いたわw
>>126 書店に行く用事があったのでついでに『優しい〜』の文庫版を買おうとしたら、
これが無い。調べると品切れ、お取り寄せできません、とのこと。
なのでハードカバーは、と調べると、おお、6冊もある。で、書棚に行って
「ま行」の作家のところを見ると、新刊でもないのに面出しで6冊置いてある。
ええっ! この本ってそんなに売れてるのか、と思い奥付けを見ると……「初版第一刷」。
売れてないわけね、これ(^-^;
で、こんな文章を見つけた。
ともかく、女性のオルガスムスをリアルに想像できる男やインポテンツの生理が
理解できる女性がいたっていいではないか、と思うのである。頭から嘘だと決めつけ
なくてもよい。そもそも「おまえに何がわかる」などという科白ははなはだ下品だ。
これ以外にも「当事者」「当事者性」をめぐるエッセイは多そうですね。10年ほど前に読んだときには
あんまりそういう印象はなかったけど。
「モテ」と聞くと思い出すのは、ある知人との会話。 「君のいう『モテる』ってのはたとえばどういうことなの?」と訊いたところ、 彼曰く、「そうだなあ、1週間に一度俺んちにそのたびに違う女がやって来て 『あたしと一緒に死んでくれ!』と言うとかかなあ」。 これくらいのことを言ってくれれば、まだおもしろい。 具体的なイメージのない「モテる」はつまらん。
129 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/11/23(水) 22:11:38 ID:75/2Q4R4
「一緒に死んでくれ!」……w
いわゆる「モテる男はつらいよ」を地でいく感じすねw
>>90 のサイトも
>>111 も
>>122 にも実は違和感を持ったんだけども、
「モテ男・女」と「非モテ男・女」ってどういう状態を指すのか、よく分かんないんだよな。
>>111 とかは"数"を問題にしてるよね。
>>122 もそうかな??
でもこれ、推察するに、何人と付き合ったor付き合ってるっていう、
"パートナーの数"の話じゃなさそうだね??
いろんな人にチヤホヤされる=モテるってことなのかなァ……?
"自分の身体を意識する"って話から、なんで、こういう方向にいくのか
ちょっと分かんないんだよなー
>>126 いぬまわりさん言うところの「Aグループ」しか問題にしてない、ってか
相手にしてないみたいなんだけど、一体、どういうことなんだろう。
130 :
禁断の名無しさん :2005/11/23(水) 22:28:48 ID:C+JOHc7w
ネコ タチ リバ …ってなんですか?最近女の子が好きって気付きました。
>>129 そういうひとたちの「モテる」に具体性がないのは、「モテる」と「『モテる』と
見られる」を区別できず、後者を「モテる」だと思い込んでるからでしょ。
具体的な欲望は「モテる」にではなく、「〜と見られる」の方にある。
で、それじゃあ、「モテる」わけないじゃない、というのが
>>124-125 の話。
そして、いぬまわりさんの疑問が生じるのも、そうした欲望の取り違えが
行われているからだと思う。
>>130 それらについて、なんなんでしょうね?、ということをいろんなところから
問い、考えているのが、このスレの参加者ではないかと思います。
なので、その問いに答えるのは難しいですね。
133 :
禁断の名無しさん :2005/11/23(水) 22:45:43 ID:C+JOHc7w
>>132 すいませんでした…。そうだったんですね。
レスありがとうございました
>>133 よかったらいっしょに考えてみましょう(^^)
>>131 そういう人たちって、非モテ論をサバルタンスタディーズとして
解釈しようとしてた人もいたところから察するに、
「『モテない』と見られたくない」が根っこにあるんじゃないかな。
「『モテる』と 見られる」とは少しだけ違うかもしれない。
だから容易に「脱オタク」の話とすりかわってしまうのでは?
「キモオタと見られたくない」がそもそもの出発点で。
どっちにしてもスパイラル的にモテなくなるのは間違いなさそうだけど。
>>131 フーンそっか。「どう見られるか」ってのはそういう話だったのか……
『野ブタ。』みたいだね……w
>>135 なるほど。そっちの方が正確かも。でも、それだとするとますますネガティヴな。
しかも、サバルタンスタディーズって(^-^; 「〜と見られる、見られない」という
主観のみの話で、それはとんでもないな。寡婦殉死と同じ扱いにされたらたまらない。
スピヴァクが聴いたら激怒しそうだ。グラムシは怒りのあまり生き返るんじゃないか。
まあ、「サバルタンは語ることができるか」というスピヴァクのあの脅迫めいた問いも
僕は嫌いですが。その問いのせいで結局、「自称サバルタン」が跳梁跋扈する。
スピヴァクによる「サバルタン」の定義は、「『自らを語ることができない者』であり、
たとえ語っても、それを解釈する他者の視点と言葉によって覆い隠されてしまうような者」だけど、
「モテ、非モテ」のように「語ることができない」理由が「主観へのひきこもり」、
メディア・ナルシシズムじゃあ、そもそも「他者」不在なんだから、「解釈する他者の視点と言葉」がありえない。
自分がつねにすでに「解釈する他者」のポジションを横領、再横領してるわけで。
たんに「語ることができない」だけで「サバルタン」を名乗られても。
「非モテ」って「『自らを語ることができない者』であり、たとえ語っても、
それを解釈する『自ら』の視点と言葉によって覆い隠されてしまうような者」だと思う。
つまり「モテ」と「非モテ」とのあいだには、「非サバルタン」と「サバルタン」との
あいだにある非対称性が存在しない。だから
>>135 さんの言う、「『モテない』と
見られたくない」は容易に「『モテる』と見られたい」と結びつく。
>>122 のリンク先の
ブログに書かれていることなんて、そうだと思う。どう見られるかの「計算」のスキルの
問題になってるわけだから。
>どう見られるかの「計算」のスキル
前スレで誰かが挙げてくれたこの(非モテ)ブログの
http://d.hatena.ne.jp/hazama-hazama/ 上野千鶴子批判の主旨は
「お前がモテないのはコミュニケーションスキルが低いせいだ」の欺瞞を
暴くことだと勝手に解釈しているんだけど、こうして見るとフェミニズムも
いつのまにか他者を忘れつつあるのかも知れないと余計なお世話。
多分、上野先生も最初は「計算」の話をしたかったんじゃないと思うんだけど。
139 :
83 :2005/11/24(木) 02:04:24 ID:p6vrfR3s
確か小山田圭吾がラジオで言ってたと思うんだけど、 「本当にモテるというのは、自分の好きな人が自分を好きになってくれること」だそうで。 好きでもなく関心もない相手からチヤホヤされるのって、端から見れば羨ましいんでしょうけど、 当人にとってはウザーで迷惑なことよね。 それがエスカレートすればストーカー行為にもなりうるし。
とりあえず最大公約数的なイケメンかイケコになれば、 大勢からちやほやされるし、そのちやほやしてくれる人の中から 「自分の好きな人」をよりどりみどりだ、というのが「脱ヲタ」の 基本コンセプトなのかしらね。 その最大公約数にモテるようになるか、少なくともいじめられない ようになるのが、「適応」でありコミュニケーションスキルだと。 非モテ的にはこんな感じ?
原則
>>126 >フィーバス>フロロ>カジモドとなるのが自然の摂理だというの?
二流の社会生物学者なんかはそれを肯定しかねないからなぁ。
>>138 「お前がモテないのはコミュニケーションスキルが低いせいだ」は
論理的に正しい。そしてその正しさは上野ではなく、
>>121 のリンク先の
彼が証明し、
>>138 のリンク先の彼が実演している。これは別に
「コミュニケーション能力神話」とはなんの関係もない、論理的な正しさ、の話。
簡単にいうと、「モテる、モテない」にこだわり、「『モテない』と見られたくない」
「『モテる』と見られたい」と欲望し、表明することそれ自体が、俺/私は
コミュニケーションスキルが低い、と、自分で意識せず告白しているのと同じだということ。
>>138 のリンク先の彼にはそれがわからないみたいだけど、
>>121 のリンク先の彼は
論理を展開して自己分析をし、そこまでは理解できている。で、「スキル」は
「技術、(技術を用いる能力という意味での)技能」でそれ自体はたんなる「能力」ではない。
「コミュニケーション能力」なんてものは無い。
「モテたい」と「『モテる』と見られたい」は別だということ、それがわかれば
スキルはアップしたも同じことだと思うけどね。「非モテ」を意識させられる者が
「『非モテ』と見られたくない」といった二重否定のかたちで「『モテ』と見られたい」と
欲望させられる構造が現在の日本社会にあるのはわかるけど、「構造」と「人物」とを
混同してちゃ、話にならない。上野のことを「破廉恥極まる唾棄すべき人間」と
「人格批判」をしても仕方ない。それもまた、コミュニケーションスキルの低さに
つながってるわけ。そういうことするから、ただでさえ「モテない」のが、
なおさらに「モテない」。たぶん上野以外の自分の周囲に対しても、この彼同じこと
してるんでしょう。
何を言ってもやっても、「『モテない』と見られたくない」というかたちでの
「『モテる』と見られたい」という二重に抽象的な、抽象的な「モテ」とさらに
「モテたい」と「『モテ』と見られたい」ということを混同する抽象性とで
二重に抽象的な、ゆえにナルシスティックな「モテ」欲望が相手にあからさまに見えれば、
そりゃ「キモい」という反応になって返ってくる。だって、「自分の思いのままに
ならない他者(ということはすべての他者)は不要だ、でも、自分の思いのままになる
誰かに愛して欲しい」じゃ、どうしようもない。こういうの、今の日本社会では、
少なくないでしょうけどね。
>>138 のリンク先に「コミュニケーション能力のないモテOL」の話があったけど、
彼女は別に「モテたい」と「『モテる』と見られたい」とを混同するという
論理的な誤りを犯してはおらず、リンク先の彼よりもはるかにスキルは高い。
同じことやってるのに、と思ってること、それ自体が誤りでしょう。
でも彼のブログ見て思ったが、中島義道とか仲正昌樹って当人たちの意図とは
関係なく、やっぱりこういう使われ方をしてるわけね。ナルシス・テクノロジーに
「哲学エッセイ」も入れておくとしよう。超越的存在に対する際限無き怒りと
際限無き諦め、ヨブとアブラハム、ってかたちで中島と仲正がカップリングされて
そこを「怒れるヨブ」としての「非モテ」が往還する。「恋愛」ってやっぱり
キリスト教の問題なんだな、と再確認。
>>141 彼女の書く描写は具体的ではあるけれど、「コミュニケーションスキル」の描写としては
構造的な具体性が無い。
>>141 さんがおっしゃるように、「コミュニケーションスキル」って
相手にだけ要求して終わり、ってものではないわけで。その点で、
>>121 や
>>138 のリンク先の彼ら、
「諦めるアブラハム」や「怒れるヨブ」たちの「モテ」イメージの具体性の無さと
大差はない。
これで思い出すのは、ドゥルーズが言ってた「ダメ教師」と「いい教師」の話。
「ダメ教師」は「私のようにしなさい」としか言わないが、「いい教師」は
それだけでなく「私といっしょにやりなさい」と言う、とドゥルーズは言っている。
Fais comme moi 「私のようにしなさい」つまり「私になれ」と言ってもダメで、
Fais avec moi 「私といっしょにやりなさい」と言って、いっしょにやることが
大切だ、ということ。これは補助輪無しの自転車に自分が乗れるようになったときの
ことを思い出してみて、なるほど、と思う。あるいは外国語の会話の習得を
考えてもいいし、数学を学ぶときだってある問題が途中までしか解けないところを
教師がフォローするなんてことがあって、その問題が解けるようになる。
で、彼女が「ダメ教師」でも
>>141 の下のリンク先のようなヘテ男がいる、というのは
良いことではないでしょうね。あるセクシュアリティを本質的に理想化されても。
セジウィックの言葉でいえば、「マイノリティ化の見解」が思いっきり「普遍化」されちゃってる。
これはかなりまずいと思う。これはバトラーの『ジェンダー・トラブル』が誤読されたときの
まずさに通じる。
どうまずいか、はまずは、彼のブログに出る「テクノロジーへの信仰」ね。
生殖テクノロジーにもふれてるけど、その次にある性欲を薬でコントロールする、
という話。「本質」はテクノロジーによって「構築」される、という教育基本法の
「改正」と同じ考え方がここにはある。「本質主義」批判というのは、「構築」された
ものを「本質」であると誤認することに対して、それが「構築」されたものであることを
示す、ということだけではなくて、これだと「構築主義」になり、「本質」が「構築」されるという
おめでたい話になる。「一般」と「特殊」しかない、という話に。「構築」というのは
コントロール可能性という話とは関係がないわけだけど、そこが理解されない。
規範の規範性は「本質」ではなく、ある規範の解体可能性が「本質」であり、
その「本質」によって規範の規範性は「構築」されている。だから解体を
通して別の規範を構築する、それが「一般」でも「特殊」でもない
「普遍」、「個別的普遍」で、したがって「本当のことは 無限大にある
すべて失くしても すべては始まる」。しかし、規範の解体可能性は
解体を行う者のコントロールをつねにすでに逃れている。というのは、
規範の解体可能性が解体を行う何物かとして agency を構築するから。
だから「僕の命を 僕は見えない」。見えるなら「命」を「僕」は自在に
コントロールできる。
「見る」というのはテクノロジーの問題で、これはフーコーがその生涯を通して
思考しつづけた問題でもある。別の出版社から今月復刊相成った、ジョナサン・
クレーリーの『観察者の系譜』はそのフーコーを継承したもので、ちょうど
「見る/見られる」がこのスレでも話題となっていることだし、おすすめ。
あー、そっか。 スキルと能力の混同もあるのね。 だから「スキルが低い」=「無能」みたいに思って、何か言い返したくなる。 これ、「学校化」の問題とも関係してそうだね。
要は「いじめられっ子に見られたくない」ってことなのかも。 いじめられること自体の責任はもちろん本人にはないけれど、 そういう理不尽な経験が続くと、誤った論理でもリアリティを 得てしまうんじゃないだろうか。
「非モテ」は自分が観察している、「見ている」ような「モテ」、主観的
「モテ」になりたい。そのためには現在の客観的「モテ」をつくりだしている
規範の解体が必要となる。しかしそうすると、自分がなりたいと思っている
主観的「モテ」自体が存在しなくなり、主観的「モテ」になれなくなってしまう。
客観を欠き、それゆえに具体性を欠いたナルシスティックな「モテ」をめぐる
ダブルバインド。自縄自縛。で、この「規範の解体」が結果的にナルシスティックな
「モテ」をも解体し、それになれなくすることを、フェミのせいにされても。
勘弁して欲しい。少しは自分でなんとかしてくれないと。現在の規範が
「モテ」と「非モテ」の両方を構築している以上、「規範の解体」は
「モテ」と「非モテ」の対立構造それ自体を別の何かに変えるから、
「非モテ」が「モテ」になることは永遠にありえない。
>>146 そういうことなんだよね。たとえば「介護」って「能力」の問題じゃなくて
「スキル」の問題だと思う。で、「能力」は蓄積できないし教えられない、
つまり継承できないけど、「スキル」なら蓄積し教え、継承することができる。
コミュニケーションもそうじゃん。子どもって他の子どもや親や周囲のひとたちとの
関係のなかで教え合いながら、スキルを身につけていく。
バトラーが「いかにうまくトラブルを起こすか、いかにうまくトラブルの状態になるか」が
問題だ、と『ジェンダー・トラブル』の序文で言うのも、スキルの話。
そして、テクノロジーとスキルとのあいだにはせめぎ合いがある。スキルの継承を
合理化し、それにかかる時間を短縮しようとする、その意味で economy である
テクノロジーとスキルは無縁ではいられないけれど、テクノロジーに代替不可能な
ものをスキルとして継承していく、前の世代のスキルにテクノロジーで反抗しつつ、
テクノロジーに代替不可能な何かを前の世代からスキルとして継承する。
「相続と齟齬をきたすもの」があり、それを「忠実による不忠実」によって
相続し、継承する。どれだけテクノロジーが進歩しても、いや、進歩すればなおさらに
このテクノロジーに代替不可能なものとしてのスキルはその重要性を増し、
必要なものとなるんじゃないかな。
>>147 そして、その誤った論理のゆえに、なおさらに「いじめられ」、
遠近法的倒錯によって、「だからおまえはいじめられるんだ」という
「いじめられる」理由の本質化が行われ、「いじめられる」こと
自体の責任が本人に帰せられることにまで、リアリティが生じてしまう。
で、問題がさらに錯綜する。
>>148 それで行くと、
>>90 の彼はスキルとテクノロジーを読み違えて
「外見」というテクロノジー信仰へ至ってしまったのかな。
彼、「いまどき外見じゃなくて中身だと言う人は、インターネットを知ろうとせずに
世の中を渡っていくようなものだ」みたいなことも書いてたし。(ソースどこだったかな)
コミュニケーションの動機が「オタクとしていじめられるのがイヤ」。
でも、実際「オタクをやめたい」なんて思う人ってみんなこれだと思うので、
テクノロジー信仰という名の主観的「モテ」ならば可能じゃないのかとも思う。
一体何がしたかったのを不問にするという条件で。
「モテ」「非モテ」にこだわり、「恋愛」をゲームとして、「戦争」として
楽しみたいなら、「戦略」と「戦術」の区別くらいはつけてもらわないと。
どんなに事前に「戦略」 strategy を綿密に立てたって、実際の戦闘では「戦術」 tactics が
必要で、場合によっては戦略の立て直しだって必要になる。「非モテ」ってそれが
わかってないんじゃないか、つまり、目の前にいる具体的な相手に「戦略」でしか
戦ったことがなく、で、惨敗してるんじゃないか、と思う。それはまた、別に目の前に
いる相手に「モテたい」と欲望しているわけではなく、相手および周囲から「『モテる』と
見られたい」と欲望していることにもつながっていて、本気で相手と「戦闘」してないんじゃないかな。
>>149 今、そうなっている、「テクノロジー信仰という名の主観的『モテ』ならば可能」というのが東浩紀のいう
「動物化」の話で、でもこれは「飼い馴らされた動物」の話だと思う。東って対談で動物の話をするときに
昔自分が飼っていた犬、の話を例によく挙げているけど、別に「動物」って「飼い馴らされた動物」ばかりじゃない。
「動物化」は「一体何がしたかったのかを不問にする」という条件無しでは、可能ではなく、そこに
齋藤環が「おまえは何を欲望するのか?」と問いかける。ナルシスになるにも、ナルシス・テクノロジーだけではなく、
相続し、継承すべきスキルはある。それを不変の非歴史的な「象徴界」と呼ぶかどうかは別にして。
Giving an account of myself というのはそうしたスキルの話で、テクノロジーに対してひとは無関心、
無責任でいることは可能で、またそうさせられてもいるけど、スキルに対してはひとは無関心、無責任では
いることはできない。
>>138 のリンク先の彼って、他人が立てた「戦略」をあてにして、で、失敗するとその「戦略」作成者の
せいにするばかり、って感じがするのね。あるいは、他人が立てた「戦略」を批判するばかり。
テクノロジーが進歩すれば、自分はセキュリティを確保して、指1本で敵を殲滅させることも可能なわけで、
それが「戦術」の重要性と必要性を忘れさせているんでしょう。
あと、
>>149 さんのおっしゃる「外見」におけるテクノロジーとスキルの話って、「化粧」をめぐる
言説として展開されてるんじゃないかと思う。「介護」を制度化するときと同じで、市場化と社会化を
両方やるというか、スキルの資格化とテクノロジー化をエステサロンのようなかたちで進める一方で、
@cosmeみたいにスキルの分有を進める、とか。
「女性」って自分の身体の表面としての「顔」のうえでこのテクノロジーとスキルのせめぎ合いを
体験してきたわけで、今ではそれ以外のセクシュアリティにも身体におけるそうしたせめぎ合いが
必要とされていて、それが「身体性の自覚」ということで言われているんじゃないかな。
知り合いのノンケ男からジムに通っていて遅い時間に行くと、生きのエレベーターでいっしょに
なった女性が帰りには、サングラスをかけニット帽を深くかぶって帰宅する、で、改めて
エレベーターのなかを見てみると、みんな女性は似たような格好をしていて、異様な雰囲気に
なっている、という話を聞いたけど、ロッカーに化粧道具置いてても、あとはそれほど遠くない
自分の家に帰るばかりだと、化粧するのが面倒になる、しかし、スッピンをさらすのは、
ということで、顔を隠蔽するという手段をとる、これも
>>149 さんのおっしゃってることに
通じているような気がする。
>>90 のリンク先の彼は、「カオ」をめぐるテクノロジー信仰だけでなく、
「カネ」というテクノロジーにも信仰があるみたいね。
スキルの相続、継承なんてめんどくさい、省けるとこは省きたい、ということかな。
省いたことで不可能となるところには目が行かず。「カネ」で自由になる「女」を
君は欲望していたのかい?、「カオ」で相手を判断する「女」を君は求めていたのかい?、と
いう他者の問いかけを不問に付す以外に、この悲喜劇をやりすごす手はないでしょうね。
>>152 アリでしょうね。ただ、この「モテ」「非モテ」は「オタク」を介して、
今、経済の活性化の話として展開されている。
森永卓郎が最近『「萌え」経済学』というトンデモ本を出したけれど、
今や世界商品となったアニメとその関連商品が長期不況からの脱出を
可能にする、実際そうなりつつある、という話。
「オタク」は経済システムにとって「ありがた〜い」消費者で、
「非モテ」もそう。「カオ」をはじめとする「外見」のテクノロジーに
「カネ」を使ってくれて、「カネ」というテクノロジーを「女」にも
使ってくれる、おそらくは経済的には「勝ち組」の「非モテ」から見れば
「モテ」である者たちにとって、「非モテ」はいつまでもその自分の
主観的「モテ」の牢獄に囚われていてくれた方が都合がいい。
なので、森永は「おまえは何を欲望しているのか?」と「オタク」に問う
香山リカを本のあとがきで批判する。その問いは、短期的な経済利益を
考えたときには邪魔だから。でも、「社会的ひきこもり」と同じで
「非モテ」が長期化し、遷延化することの社会的経済的な損失、ツケを
考える必要はあるでしょう。ところで、「非モテ」ってやっぱり経済的には
「負け組」ないしその予備軍が多いんでしょうか?
>>138 のリンク先の
彼なんかはそうみたいだけど。
>>152 の
>おそらくは経済的には「勝ち組」の「非モテ」から見れば
>「モテ」である者たちにとって、
は、
>おそらくは経済的には「勝ち組」で、「非モテ」から見れば
>「モテ」である者たちにとって、
の方がわかりやすいですね。訂正。
ありゃ、脱オタしてもしなくてもお金は出て行くのね。 非モテで非オタクの人が森永先生のお導きでオタクに なってしまったら、本当に何がしたいんだかの世界に。 好きなのかどうかもわからない物に金を払うぐらいなら 引きこもりのほうが健全かな。 非モテで非ヘテロで非オタクの人は経済活性化のお役には立ちませんかw
非モテ系ブログ、どれも理屈っぽいね。
そういうの選んで紹介してるってわけじゃないよね?w
>>157 のブログ中に
>「誰からも愛されたことがない」という抽象的・観念的な意味合いでの「非モテ」
という記述があるんだけど、、、
これは「僕(私)の方は愛しているのに報われない!」って思いが隠されてるんですかね??
その後も。
>なぜなら恋愛って多くの場合は、互いに、自分の求めるものを相手がくれるという関係だと
>言えると思うから。
>互いに幸せを求めていて、互いに幸せを押し付けあおうとしているのなら、
>その「幸せ」のイメージさえ共通していれば何も問題は無いだろう。
あんま主体性が感じられないんだけど気のせいかな。。
>>158 すごいね、そこ。
>>157 >>121 のリンク先の前日の
>金剛乗非モテは非モテテロリスト。モテ系をポアしてしまう。
>「醜い自分を殲滅しても、最も醜いセカイが最後に残る」
を読んだときにも思ったんだけど、「非モテ」って「虚無主義者」なのね。
>>138 のリンク先の彼はどこかに「すべて相対化してやる!」みたいなことも書いていた。
>>157 のリンク先の彼はまだ比較的冷静ではあるけれど、
>>157 さんの表現を使っていうと
「社会的存在として勝利」なんて抽象的なものに取り憑かれ続けていると、その当人が
「悪霊」化すると思う。今はまだ、「カネ」と「女」ってとこでホリエモン支持、という
段階くらいかもしれないけれど、その支持は確実に「負け組」である彼らの大半の
首を締めるわけで、行われていることは「緩慢な自殺」。そして、すでに去勢されて
そこにはもう存在しない男性器をじわじわと生涯かけて切断しようとすることで、
「まだ、去勢されていない」と思い込もうとすることでしか勃起しない想像の
男性器をいつか女相手に使うことを夢見ている男の姿が、彼らの文章を読むと思い浮かぶ。
その男の間違いは、他の男は去勢されていないのに自分だけが、と思っているところにある。
精神分析的には「モテ」も去勢されているけれど、それが「非モテ」にはわからない。
「非モテ」って遷延化すると、「大乗」→「小乗」→「金剛乗」と段階が進むんじゃないだろうか。
自分だけで世界を自己完結させたい欲望って、その世界を創造した超越的存在への憎悪に起因し、
しかしそんな存在は無いので、結局はその超越的存在が創造した存在者に対して代わりに憎悪が向けられる。
それが自分自身に向けば自殺、それ以外に向けばテロによる革命になる。非モテ系ブログって
自殺抑止になってるけれど、それがテロを醸成しているといった印象も。「自殺か、テロか」って
きわめて貧しい選択だし、両方取ると「自爆テロ」。ブログの文章、潜在的な「自爆テロ」になってるのも
少なくない。「諦めるアブラハム」は「怒れるヨブ」でもある。でも何より
彼らの文章を読むと、キリーロフが思い浮かぶ。
キリーロフだらけの社会って、いろいろな意味でセキュリティすっごく低いし、
それゆえに管理社会化も進行すると思うんで、それは勘弁して欲しい。
「あなたの隣に、ほら、キリーロフ」って笑ってられない。
『アワーミュージック』のオルガ、自殺とテロによる革命について考え続ける女子学生は、
『悪霊』のキリーロフから造形した、とゴダールはインタビューで言っている。
彼女はゴダールに見て欲しいと自分で作成したDVDを手渡す「オタク」で、たぶん彼女も
「非モテ」なんでしょう。まさか、ゴダールが日本語で書かれた非モテ系ブログを読んでいるとは
思わないけれど、妙な同時代性がそこにある。ジャパニメーションが世界商品となったことで
先進国における「オタク」化が進み、「非モテ」的虚無主義(別に新しいものではない)が
蔓延してるのかも。
で、この「非モテ」的虚無主義って確かに
>>152 のリンク先のゲイの彼が言うように、ゲイにはないのかも。
ゲイは「自殺か、テロか」という貧しい選択肢を突き付けられ続けながら、生き延びてきたわけで。
そもそもその選択肢をどうはぐらかし、バトラーみたいに「いかにうまくトラブルを起こすか」を
非男性(非ヘテロではなく)って具体的に考えざるを得ないんじゃないかな。「非モテ」ヘテ男の
反動的虚無主義 reactive nihilism と非男性(「モテ」「非モテ」にかかわらず)の能動的虚無主義
active nihilism 。ドストエフスキーとニーチェ。
「非モテ」ヘテ男の虚無主義はリアクションであってアクションではない。「自殺か、テロか」。
言説までそれに支配されて、自殺的言説とテロ(による革命)的言説しかない。言説行為だって
アクションたりうるのに、それまでリアクションになってる。
そっか、ジャパニメーションというより、デジカメのようなツールの普及の問題か。 ITの進歩と普及が先進国における「オタク」化を促進して、「非モテ」的虚無主義を 蔓延させはじめている。 「ゴダールさん、デジタルカメラは映画を救えますか?」
ハハハ
面白いことになりそうだねw>163
>>160 どれも理屈っぽくなかったから読めたー
どれだったか、町田の事件にからめて、
「非モテ」にも2種類あって自分は「モテ」を目指すものではない、って人がいるね。
"結婚できない"のではなく"結婚しない"のだってのを思い出したかも。
skill 1U 熟練[・・・の/・・・する](すぐれた)腕前 2C (特殊な)技能、技術、わざ technolgy 1U 技術、工業技術、テクノロジー;工(芸)学;応用科学 2C 技術的方法[過程];(個々の)技術 3U [集合的に](ある分野の)専門用語;術後 〜ジーニアス英和辞典より〜
>>164 目指さないんだとしたら、何を目的として『モテ』と『非モテ』を分け、『非モテ』を自称し、
それについてそんなに理屈を捏ねてるの?、という話になる。「おまえは何を望んでいるのか?」という話にね。
上野千鶴子は当然のことながら、「『モテ』『非モテ』にこだわること自体が愚か」であると
思っているわけで、それに目をつぶったうえで、「あんたたちそのまんまじゃいろんな意味で
ウザいから、『モテ』になりたいなら、仕方ないから、コミュニケーションスキルでも磨けばぁ」
と言っている。で、これは「『モテ』になりたい『抑圧系』ヘテ男」へのアドバイスとしては
妥当かつ的確である。
で、「『モテ』になりたいわけではない、と言うなら、『非モテ』概念の精緻化なんかに
いそしむより、『モテ』⇔『非モテ』の対立それ自体を再生産する構造を分析し、
それをなんとかすればぁ」と考えている。そのための概念装置は、フェミやクィア・
スタディーズが用意してるし、と。
「『モテ』になりたいわけではない」と「非モテ」ヘテ男が主観的に語っていることは、
その「非モテ」ヘテ男に「『モテ』への欲望」が客観的にある、ということとはまったく
関係のない話。だから、精神分析は「おまえは何を望んでいるのか?」と問う。
どこまで行っても、「主観」でしかものが考えられない、というのもコミュニケーション
スキルの問題でしょう。「結婚しない」というひとにも、たんにしない、というひとも
いれば、「非婚」概念の精緻化に走るひともいるでしょうが、後者は客観的には
「結婚への欲望」がある、ということでそうでなければ、あえてわざわざ分け続ける
必要はないわけね。
「恋愛資本主義」なんて言葉もブログで頻出しているけれど、「権力」や「抑圧」に関わる
問題において、ものごとを分け、とくに対立概念として考えるというのは、最終的にはその
区分自体を作り出すものについて思考し、それをなんとかする、というところに至らないと
無意味だと思う。ヘーゲルなら「止揚」というでしょうが、「自殺か、テロか」を回避する
ものとしての「止揚」というのは、『精神現象学』のフランス革命についての記述のところを
読めばわかるし、バトラーが修士論文をまとめた最初の著作、Subjects of Desire 『欲望の虜たち』
以来ヘーゲルを手放さないのも、彼女がビアンであることを考えれば納得がいく。
そして、今、「精神」の物質性 materiality が問われるのだとすれば、ヘーゲル批判が必要となる。
クィアが政治や経済について考えるというのは、そういうこと。 Material Queer なんて言葉もある。
これは「非モテ」「排除系」ヘテ男が「自分は『モテ』になりたいわけではないし、そんなことは言ってない」と
言っていることが主観的な言辞にすぎない、ということとも関連していて、
>>157 さんへのレスとして
実はこういうことを書こうかと、思っていたということがある。
やっぱりそうか。だったら、NPOで働くとか、ワーカーズ・コレクティブを
つくるとか、働き方の多様化を進めていく方から介入していった方が
いいのかもしれませんね。
なんで「企業」それも「大企業」って働くとか、ベンチャーの経営者として成功するって頭しかないの?
「社会的存在として勝利する」ってどういうこと言ってるの? 「カネ」と「女」でホリエモン支持なのはなぜ?
NPOやワーカーズ・コレクティブのひとたちは「負け組」で自分たちはそうはなりたくない、
なんて思ってるなら、それはたんに「勝ち組」の価値観を内面化させられているにすぎなくて、
だから、「負け組非モテ」のままなんじゃないの?
と、これは「おまえは何を望むのか?」という問いの変奏、バリエーションだけど、
上野が「あっと」という雑誌で始めた「ケアの社会学」や、あるいはNEETの登場とも
関わって、「働き方」、「働くことの意味」の問い直しが始まっているということでもある。
「『モテ』への欲望」が自らにあることを精神分析的な意味で「否認」し、「排除」しているから、
自分の「労働」概念の再検討も自分ではできない、「非モテ」「排除系」ヘテ男、デジタル・キリーロフたちには、
そういう現実を突きつけるのも手でしょう。
ITを手にしたデジタル・キリーロフたちは何を目的としてどこで誰とどう「働く」か。
「働かない」という選択肢が何を意味するのかも含めて、それはクィアの
これからとも無縁ではない問いでしょう。Queer Family というのもそれが
「育児」「介護」等に関わる以上、そうした「労働」概念の転換を目指すものと
いえるんだから。
>>163 そうなんですよね。今、ブログみると「言語ゲームはしたくない」とか言いながら、
ability と skill の違いにこだわり始めて、「心にもないことを笑顔で言える程度の
スキル」は身についた、とか言っている。こりゃ、ダメだわ、という感じでしょ。
言語を媒介としたコミュニケーションに最低限必要なのは「話す能力」と「聴く能力」で
これはブログの彼が言う意味での「コミュニケーション能力」ではない。そしてスキルというのは、
その話す能力を用いる際の熟練の話で、たとえば、「心にもないことを笑顔で言えるようになりゃ
いいんだろ」というのは、ロー・テクノロジーであって、スキルじゃない。
相手とのコミュニケーションがうまくいってない、とその場で思うのであれば、
「キモい愛想笑い」をやめてみる、とか、「高い声のトーン」を落としてみる、とか、
「早口」をゆっくりな口調にしてみる、とか、そういうのがスキルでしょう。
虚無主義者で最初から相手のことを「殲滅すべき者」としてしか考えられないから、
「心にもないことを笑顔で言えるようになりゃいいんだろ」という話になるわけでしょ。
で、
>>163 さんのおっしゃってることがわかれば、スキルは半分身についたも同じだと思う。
そこがわかんないから、ダメなわけで。
169 :
ハザマ :2005/11/26(土) 00:55:21 ID:bezmBGyF
あなたたちは非常に不愉快な人たちです。 詳しくはブログに書きましたが。 あなたがたのような人間にコミュニケーションスキルを賢しらに説かれたくありません。 今すぐ、私を話題にするのはやめなさい。 非常に不愉快です。 もう少し自分の醜さに「客観的」になったらいかがでしょうか?
で、言語的コミュニケーションにおいて、
>>168 で言ったスキルを用いるには、
少なくとも、自分がどんな「笑顔」を相手に向けているか、ということを
客観的に把握する必要がある。そうした客観性が皆無だ、ということが
主観に自閉している、ということ。だから、コミュニケーションスキルの意味も
わからない。
ハラスメントというのは「いやがらせ」という意味だけれど、コミュニケーション行為についても
「自殺か、テロか」という単純化と同じで、「ハラスメントか、非ハラスメントか」でしか考えられない。
それを「ドグマ」という。ここを見ているようだから言っておくと、そちらのブログを見続ける必要を
僕は覚えないし、そんなヒマもないので、安心しなさい。
171 :
ハザマ :2005/11/26(土) 01:04:20 ID:bezmBGyF
だったらなんでそんなに執拗にコメントし続けたんですかね?
>>170 あなた個人の話題ではなく、「デジタル・キリーロフ」の話題です。
あなたが「デジタル・キリーロフ」でなければあなたには無関係の
話題であり、「デジタル・キリーロフ」だとしてもそれはある問題系に
つけた「名」で、あなたの「名前」ではありません。
また、僕は「デジタル・キリーロフ」を「醜い」とは一言も言っていない。
「客観的に自分を見る」というのは「自分の醜さを自覚する」というのとは
別のことです。
173 :
ハザマ :2005/11/26(土) 01:07:27 ID:bezmBGyF
ヒマだから言及していたんだろうが。 もはや詭弁ですな。 今度、私に言及したと思われる書き込みがあった場合、 管理者に削除依頼を出しますのでそのつもりでおれ。
174 :
ハザマ :2005/11/26(土) 01:09:30 ID:bezmBGyF
最後に私に対して「キモイ」と揶揄するような言葉を書いたことに関しては、 ここで謝罪を求めます。 不当な侮辱です。 あなたが私に関して発言してよいのは、その謝罪のみだ。
175 :
ハザマ :2005/11/26(土) 01:12:40 ID:bezmBGyF
あんたらは「クィアはキモイ」とか「ゲイはキモイ」とかそういう発言を容認するのか! ヘテロのオレだってそういう言葉を言うヤツがいたら怒りを感じるがな!!
>>171 >>163 さんのレスがあったからですね。
また、フェミやクィア・スタディーズが「客観」だとも言っていない。
フェミやクィア・スタディーズは自らの「主観」について「客観」的に
考えるための概念を鍛え上げてきた。「ジェンダー」だってそうです。
そうしたふるまいから、「非モテ」が学べることはあるでしょう。
クィアだって、フェミからそれを学んだ。
非モテには自らの「主観」を「客観」的に考えるつもりはなく、そうした
概念を鍛え上げる必要もない、というならそれまでの話です。そして
それは僕の知ったことではない。あなた個人が今のままでいたいなら
好きにすればいい。そうでないなら、「おまえは何を欲望するのか?」と
問われることを拒んでもはじまらない。それだけのことです。
>>174 あなた個人について「キモい」とは一言も言ってませんが。
あなたが「キモい」のかどうかも知りませんし、そんなことに関心もありませんし。
177 :
ハザマ :2005/11/26(土) 01:13:35 ID:bezmBGyF
そういう風に思わせるような発言だって言ってるんだよ。 政治家の答弁か?これは!!
>>168 の「キモい愛想笑い」であれば、これはセクシュアリティにはなんの
関係もありませんね。コミュニケーションスキル一般の説明ですから。
で、何が問題なんでしょう? ヒマではないのでよろしかったら もう一度レスをゆっくり読んで、誤解を解いていただけるとうれしいです。
180 :
ハザマ :2005/11/26(土) 01:19:16 ID:bezmBGyF
最低だな、テメーは。 その発言、当ブログで晒すことにする。 なお、この場で謝罪が会った場合、ブログから削除する。 繰り返すが、以後私に関する発言をした場合、私はこれを名誉毀損であると みなし、削除以来を提出する。
>>175 ご存知だとは思いますが queer というのは「変態」を指す言葉で、
クィア・スタディーズというのは、「ゲイはキモい」ということを
ゲイが認めるところから始まっている。
そして、その「キモさ」とヘテロが呼ぶものがどのようにして社会でつくられるのか、
それを客観的に考えようとしている。「怒り」を覚えているからこそ、それをまずは
自分で引き受けている。「容認するか、怒るか」も「自殺か、テロか」のバリエーションですね。
う〜む。 向こうのブログの読者ですが、正直、なんだかなぁ。 >ハザマ氏 頭に血が昇るのも全く分からないではないですが、正直言って見苦しいです。 quarante-deux氏の論に問題があると思われるのなら、論理的に反論すべきでしょう。
184 :
禁断の名無しさん :2005/11/26(土) 01:25:05 ID:E3z+br0h
>>181 quarante-deux * 1000 + 731.
185 :
ハザマ :2005/11/26(土) 01:25:51 ID:bezmBGyF
再び言うのもなんだが、「キモさ」を自ら認めるところから「非モテ」もやってんだよ、 このバカ!!よく読め!! 自分らだけが特別だと思ってるんだよ、テメーは!! こちらの勧告に従わず、なお発言を続けたので 名誉毀損であると見做し削除依頼を出します。
>>185 それだと、どうして
>>175 が問題になるのかが、わかりませんね。
「容認する」、と答えて何か問題が発生するんでしょうか。
187 :
禁断の名無しさん :2005/11/26(土) 01:32:20 ID:E3z+br0h
>>186 「キモい」という言い方は単なる形容詞じゃなくて、侮蔑の意が入ってるからでしょ。
「容認する」のは「形容詞」としての「キモい」、
言い換えれば「キモい」の語で表現される状態のことでしょ。
どう考えてもあなたの言いぐさ、詭弁そのもの。さっさと謝罪した方がいいですよ。
>>187 > 相手とのコミュニケーションがうまくいってない、とその場で思うのであれば、
>「キモい愛想笑い」をやめてみる、とか、「高い声のトーン」を落としてみる、とか、
>「早口」をゆっくりな口調にしてみる、とか、そういうのがスキルでしょう。
これはセクシュアリティには関係がない、というのは詭弁ではないですね。
「キモい愛想笑い」は僕にもできますから。
189 :
ハザマ :2005/11/26(土) 01:35:42 ID:bezmBGyF
発生しないのなら、 私はここでゲイやクィアの聞くに堪えない悪態を並び立ててみましょうか? (そんなこと、良心にかけてできませんがね!) あんたは、「非モテはキモイ愛想笑いをする」という風評を流したんだよ、わかるか? それを問題だと言っている。 相手のナイーヴな感情を扱えないヤツがコミュニケーションを説いたり、 クィアやゲイを論じたり、誠意ってモンがあるのか? それと削除依頼提出いたしました。 このスレが削除されることを心より望んでおります。
190 :
ハザマ :2005/11/26(土) 01:40:24 ID:bezmBGyF
いい加減にしろよ
>>168 を「非モテのコミュニケーションスキル」に限定されてナイーブな感情を
爆発させられてもこちらとしてはどうしようもないですね。
「コミュニケーションスキル」一般の説明をして、それを「非モテ」は理解していない
ようである、としか言っていない。それを「非モテはキモい愛想笑いをする」と
読む人間がいたら、それはその人間の読解力の問題で、それを除外して「風評を
流した」と言われても、どうしようもないですね。
>>191 なので、あとは本当にお好きになさってください。では。
あのう。失礼します。
ハザマさんのブログとこのスレ、斜め読みしての横からとりあえずの発言です。
>>166 42さん
あたしは、「モテ」になりたくないのは、
あたしが「人間」や「男」に、「女」にもなりたくないことと同じかと思えて
ちょっとシンパシーを感じるわ…。
ジェンダーにこだわるのは、ジェンダーロールに沿った形で利益を得たいからじゃないでしょう?
「モテ」にこだわるのも、「モテ」に憧れてるからじゃない。
対立概念を持ち出したのは、元々、非モテ側じゃないのよ。
現状、モテ=価値のあるもの、としている人々が強制的モテ愛wを押し付けているじゃない?
キモい愛想笑いをしてる。
これ、非モテに対してではなく、モテに対して言いたいわ。
ハザマさんのブログを読むと、キモい愛想笑いがスキルとして通用してしまう場所“一般社会”
と対峙している側だと思うの。
意識的に非モテについて考え、“キモい愛想笑い”が蔓延する「モテ」を
見据えた上で、自己分析も怠らない良ブログに見えるんですが…。
愛想笑いをしてみせる技術はある。でも愛想笑いを続けられないのは、
愛想笑いの気持ち悪さをわかっているから。
相手とのコミュニケーションがうまくいってない、んじゃなく。
相手とのコミュニケーションをうまくいかせることも出来る。
だけど、うまくいくコミュニケーションが拠っている土台が欺瞞的すぎて付き合いきれなくなる。
転がる石のように生きることもできる
上澄みをさらうようにうまく生きることもできるのに
フロンティア フロンティア
地平をみつけるために
誰にも守られず 誰にも祀られず
淋しさも優しさも ゆく手を塞げない
ハザマさんのブログ読んでると、この詞が思い浮かぶんですが…。
>>190 ハザマさん
このレス、あたしの勘違いでズレたこと言ってたらごめんなさいね。
就職活動編のブログ、とても共感したわ。
コミュニケーション能力の内容は、時代と場所と環境でいくらでも変わるものよ。
会社で、女の人たちと仲良くしてると、他の男の人たちからあたし、
とんでもなく高いコミュニケーション能力を持ってると思われてたりする。
(ちなみにあたし戸籍上男)
でもその“能力”って、男の人たちとのコミュニケーションには逆効果なのよね。
「スポーツマンって嫌ーい。
スポーツマンシップとかって言って、正々堂々と闘うなんて。偉ぶってさー。
そいつが正々堂々は当たり前じゃないと思ってるから、そういうことを言えるんだよねー。
根本が正々堂々としてなくて陰険なんだろうねー。イメージで売っていやらしいねー。
体育会とかって陰湿なイジメとか多いらしいもんねー」
こんなこと言っちゃってるあたしですから、
男ウケ、明るい人ウケ、モテ筋ウケはめちゃくちゃ悪い。
で、それでいいと思ってるの。テキトーに併せるよりは。
今の「モテ」が今優遇されるのも、ただ今の流行だからに過ぎないことは、
ハザマさんもよくわかっていることと思う。
今時のチャラチャラした「モテ」の連中、学生運動全盛の時代に同じようにしていたら、
全然モテなかったでしょうに。能力がないのよ。
まあ、流行に併せるのがその人のスタンスなら、同じように併せてモテるかもね。
それは、ただの、スキル。
特定のイデオロギー下で計られる「能力」の高低なんて気にすることはない。
姑息な「スキル」ならば、なおのこと。
だけど、押し付けは、毎日行われている。鬱陶しいわよね。
>>193 あの方の某イベントのチケットゲットしました。
さておき、
おっしゃることはわかったうえで、「非モテ」が『 Diamond Cage 』に
閉じ込められ、閉じ篭り「虜」となっている、と僕は思うわけです。
奇妙なことにこれは『アワーミュージック』のオルガを思い出させるし、
そのモデルとなった『悪霊』のキリーロフを思い出させる。
ダイヤの檻を破るものがなんだったかは、ご存知の通りです。
>>194 『網状言論S改』で小谷真理が、「オタク」と「女性」は似ている、と発言してましたが、
「非モテ」と「女性」も似ている、そういうことでしょう。
「オタク」が戦前の婦人雑誌で「婦人」「主婦」が作られたのと同じような仕方で
構築されたことを、北田暁大の婦人雑誌研究に言及しながら東浩紀が『波状言論S改』で
言っているのも、この小谷真理の発言をふまえてのことです。では、「ゲイ」は
どうなのか、というのはこれからゲイ・メディアが考えるべきことでしょう。
>>195 あら。おめ。東京?大阪?
あたしはとりあえず東京2回分おさえました。
当日はお互い、たっぷり堪能して楽しんできましょうね。
非モテと一口に言っても幅広いでしょうね。
幅が狭すぎのモテとは違って。(←いちいち嫌味なあたし)
フロンティアを見つけようとしている非モテの方は、
ダイヤがタマゴの殻並みのもろいものだと気付いているのだと思います。
だけど、これはダイヤだ、ダイヤだと世間では言う。
ガキのくせにと頬を打たれ 少年たちの目は歳を取る
そういう場面に出くわしたとき、岩戸に閉じこもったアマテラスに対しては、
42さんには
「熱病」や「最悪」より「泣かないでアマテラス」を歌ってほしいかなと。
勝手な期待ですけどね。
(ご乱心期のあのお方ならきっと、そこで唐突に「夏土産」とか歌って
ひっくり返らせてくれるかしら。それはそれで楽しいけど)
199 :
禁断の名無しさん :2005/11/26(土) 05:58:05 ID:Jgff5UmL
社会に必要とされないことほど悲しいことはなく、 また楽なことはない。
>>23 >上質なシャツ、スマート、整髪剤、結婚指輪。
>きっと本人はそれが誰にとっても信用に値する記号としか思ってないのよね…。
>社会の規範にどっぷり漬かった─
>規範の矛盾も問わず無批判に内面化した卑劣な奴、そう思われることなんて微塵も考えてないのね。
>他者の目を気にして、気にしまくってその装い。
>その他者の目として想定しているのは、支配的な規範に沿った人間たちの目だけ。
あたしはいぬまわりさん程スーツに対しての社会規範の嫌悪はなくて
ぶっちゃけると男性のスーツ姿自体は嫌いじゃないのだけど、
それにしても状況によるし、限度ってものがあるじゃない?
社会規範の威圧の度合いというのかしら。。。?
「みすぼらしい」性犯罪者に対するある種の無神経さを強烈に感じたの。
>勝手な想像、はじめるわ。
ちょっと肝心な部分で説明が不足してたわね。ごめんなさい。
詳しくはわからないのだけど、このシーンはアメリカかどこかの国が行っている性犯罪者の再犯を防ぐプログラムとして紹介されてて、
性犯罪を犯した人間を服役中から出所後も、ずっと監視下に置いて、
定期的にその人の心理状態をテストしたり、性欲を抑えるホルモン投薬したり、
そして更正のためのカウンセリングしたりしているらしいの。
強制的なプログラムの一環なの。
性犯罪者が自責を感じて自分から民間のカウンセラーを尋ねたというニュアンスを想像してたら少し違うかも。。。
でも(テレビ表面上では)自分の暴力的な反社会的な性指向に悩んでいて、でも社会的な性指向に修正するのは無理で、
ホルモンや薬剤投与で性欲を封印する事(社会性に則って自分の性指向を完全否定)に前向きに取組んでたわ。
反社会性人格障害なのかなんなのかはよくわからなかったわ。
>精神科医のカウンセリングを受ける >鬱病って、規範に何がなんでも合わせようとして、ちょっとでも合わせられない部分があると、 >自責の念にかられること。…ってことだと思ってるんだけど、 >その際には、規範にそこまで厳密に合わせなくていいの、ってわかることが治癒なのかなって。 >で。規範大好きだから鬱病になるんなら、 >規範に沿った威厳のある外見の立派な「先生」の言うことを聞き入れそうよね…。 >そして「先生」は「規範にそこまで厳密に合わせなくていい」で止めておいて、社会への適応させると。 >「規範を徹底的に疑って、嘘があったら受け容れるな」までは行っちゃいけなそうよねw >あくまでも社会への適応が目的で、規範に合わせすぎと規範を疑いすぎの中間を目指す。 どうかしら。。。 規範に沿えないで鬱病になった人間に、規範をこれ見よがしにギラつかせている人間が 君を理解したいんだよ、さあ話して。と言ったところで心を開けるとは思えないし、 さらに規範コンプレックス植えつけて余計に鬱病に拍車をかけそうな気がするけれど。。。 それって鬱病患者に「怠けるな!頑張れ!」と言ってるのと同質じゃない? それでうまく行くと思って意図的にしてたとしたら見当違いな気がするし、 まったく無自覚だとしたらそれはそれで感受性に欠けていると思うし、 反社会性人格障害的な人だったら無駄に反発を呼ぶだけのような気がするし。。 とにかく「なんでこの人、無意味に(威圧的に)きっちりし過ぎてるの?」とモニョってしまったのよ。 自分はオタクだけどオシャレに気を使っていて恋人がいると優越感に浸ってる人みたいに。 そして、性犯罪者の一方で身なりのきちんとした「まともな」先生がいる画面は、 きっと視聴者的にみていてほっと安心する構図なのでしょうね。。。とも思ったわ。 マイノリティに対するマジョリティ側の自己安心。 テレビの肝心な性犯罪の再犯問題とは最初から視点が外れてるのだけど。 ただスーツがはらんでいる社会的威圧、そして「モテ」「非モテ」の問題にも無関係ではない、 と強引に上の流れに合わせてみるわ。
>>22 >話題ぶった切りなんですが
>ブラザーフッド←→シスターフッドのように
>ホモソーシャルの女版を表す言葉ってありますか?
>対語とは言ってもレズ嫌悪の疑似ビアン関係というより
>ミソジニーを含み成り立つ女だけの世界、みたいなニュアンスなんですが
それって極端な例だと日本の遊郭の世界などのニュアンスかしら?
五社英雄監督、宮尾登美子原作の映画とか。
鬼龍院花子の生涯、陽揮楼、櫂、吉原炎上。。。。極道の妻たちも。
みんなホモソーシャルの論理でミソジニーを抱えながら女同士で強烈につながってるわよね。
「女社会」でそのまま通用する気がするわ。。。
上の映画の場合は、「情念」、「女の性」などの副題が付きそうだけど。
そう言えば、ドラマや映画などでよく女同士の友情が描かれてて、
「あんなクズ男とは別れなさいよ!」「ほっといて!」「バカ!ほっとけないわ!」
と男をネタ(敵)に喧嘩し、さらに友情を深めていくストーリーって、
セジウィックが言うところの男のホモソーシャルを180度回転して再生産した女版じゃないかしら?
男のミソジニー(女性嫌悪)と同じ役割が、男性の恋人に向けられてる(男性嫌悪)。
表面的かもしれないけど。
ただ、数少ないサンプルだけど、あたしの姉や知り合い・友人を見てると、
女の友情関係が男(恋人・夫)によって左右され決められるとも単純に思えなかったりして。
スーツと言えば、あたし青のシャツに黄色のネクタイがちょっと苦手だったわ。 ブランドで言えばヒューゴボス。。 イタリアン系のテラテラしてるスーツも違う意味で威圧感あって少し引いてしまうわ。
>>199 社会って自分が生活する上で利用できる「道具」だと思う。
「自動車に必要とされないのは悲しい」
これに頷く人は誰もいないだろうけど
「インターネットに必要とされないのは悲しい」
だと、もしかしたら頷く人もいるかもしれない。
>>200 ◆JiF670tafsさん(陽気な〜は外したの?)
>性犯罪を犯した人間を服役中から出所後も、ずっと監視下に置いて、
>定期的にその人の心理状態をテストしたり、性欲を抑えるホルモン投薬したり、
>そして更正のためのカウンセリングしたりしているらしいの。
>強制的なプログラムの一環なの。
えー? それは、『時計じかけのオレンジ』…?
イっちゃってるわ。
60-70年代にいっぱいあった管理社会を非難するSFが、
最近、殆どそのまんま現実になっちゃったようね。
当時あのへんのSFを読んでいた方々は、今をどう思っているのかしら。
書物が禁じられて考えることが禁じられて、明るく社会に貢献する“モテ系”の生活が望まれる
異様な未来社会を描いたブラッドベリの『華氏451度』。
善意を偽装して監視しあい牽制しあう成員の関係の築き方まで、
ブラッドベリの警鐘そのまんまになっちゃってる。
>>198 東京です。お互いに楽しんできましょう。
「泣かないでアマテラス」ですか。それでいくと僕が今歌っているのは「世情」と
「Maybe」ですね。そして「永田洋子は私だ!」と言った田中美津のことを考えている。
19世紀のロシアのキリーロフたちは「自殺か、テロか」でテロを選び「自由」を手にいれた。
でもその「夢」は長続きせず、ある者は国を追われ、そしてまたある者は同志に粛清された。
20世紀のドイツのキリーロフたちはもはやテロを選ぶことすらできなかった。彼らが選んだのは
官僚機構に対する「削除依頼」で、そのキリーロフたちの感性は
>>204 さんの「道具」としての
「社会」観に近い。テクノロジー信仰がそこにはある。20世紀のイタリアにおいて電話という
メディアがどう「削除依頼」に用いられたか、についてはロベルト・ロッセリーニの
『無防備都市』を観ればわかる。「削除依頼」というのは郵便や電話といった通信メディアに
よって可能となる。司法に対して「名誉毀損」を訴えることと、行政に対して「削除依頼」することとの
区別がつかないのも、テロを封じられたコミュニケーションスキルの低いキリーロフたちの特性で、
これも近代においては時期、場所を問わず変わらない。
20世紀末から今世紀のはじめの日本において、キリーロフたちは「自殺か、テロか」という演目を
再演している。かつてテロを選んだキリーロフたちは、ある者は国を追われ、またある者は
同志に粛清された。もはやテロを選ぶことすらできない「デジタル・キリーロフ」たちは
官僚機構に「削除依頼」できる日を夢見ている。
「泣かないでアマテラス」という歌は、「デジタル・キリーロフ」たちの「削除依頼」によって
「削除」されるであろう僕が「削除依頼しようとする同志」に一方的に歌う歌ではなく、
キリーロフたちの誰かが他のキリーロフたちと歌い合う、そういう歌なんじゃないでしょうか。
田中美津が永田洋子に歌い続けている歌、できるなら永田洋子から自分に向けて歌って欲しい歌、
そんな気がします。僕が一方的に誰かに歌う歌ではない。アワーミュージック、Notre Musique って
そういうものでしょう。『転生』の「サーモン・ダンス」みたいに。「生きて泳げ 涙はうしろへ流せ」と
誰かといっしょに歌い合い、呼びかけ合う、そういう歌。
僕はここに至って、どうして今、「レーニン・ルネッサンス」が起きているのか、それがやっと
腑に落ちたし、また、宮台がアイロニーで「亜細亜主義」「天皇」と言っているのかも腑に落ちましたが
「デジタル・キリーロフ」たちにそれが有効であるのかどうかは疑問です。
カフェでのオルガのセリフをすべて『悪霊』のキリーロフの言葉から引用し、9.11のテロリストたちは
「もう何も失うものがないからこそ、何かを獲得できると思っている」が、「オルガ、つまり私」は
「もう何も獲得できないときにも、何かを失うことはできる」と考えている、そこが違う、と語る
「地獄篇」の映像を作れるほどに「映像オタク」のゴダールもまた、「テクストオタク」の僕と同じく
「キリーロフ」であることは間違いない。「自殺する映画監督は少ない」ともゴダールは言う。
「映画監督は共同作業だから孤立することがない」とも。この「共同作業」を「アソシエーション」と
言ってもいいと思う。帰属する「場」としての「コミュニティ」ではなく。
僕は「泣かないでアマテラス」を少し歌っては歌いやめ、「熱病」「最悪」を
歌いながら、「EAST ASIA」を歌おうかどうか迷ってるところでしょうか。
>>205 フランソワ・トリュフォーが映画化しましたね。前スレでしたか、正確にはどういう表現で
おっしゃったのかは忘れましたが、わかりにくい「全体主義的状況」が成立しつつあることを
いぬまわりさんは危惧なさっていたように記憶してます。それと「自殺か、テロか」の振り子
運動をするコミュニケーションスキルの低さとはつながっている。ゴダールが「書物」に
こだわるのは、そこと関連があるんじゃないでしょうか。
で、レイ・ブラッドベリの読者である僕は、今、あれをはじめて読んだひとはそれがSFだとは思えず、
ドキュメンタリーだと思うに違いない、そう思ってます。
あのー、ここは42とはくの為の隔離スレですよっと。 こいつらが議論をまともにできない池沼だということを了承の上で書き込みをしてくださいね。
208 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/11/26(土) 09:52:18 ID:naMbZWp5
>>193 >対立概念を持ち出したのは、元々、非モテ側じゃないのよ。
>現状、モテ=価値のあるもの、としている人々が強制的モテ愛wを押し付けているじゃない?
これって、元々はそうだろうけど、
今は非モテ側も進んで対立概念を持ってしまってると思う。
外見が良くて、決してキモイ愛想笑いをすることなく好感をもたれるOLの話が
どっかで出ていたじゃん?
彼女は、そういう対立概念なんか持ってないよね。モテとしても、非モテとしても。
彼女の存在は、恐らく、
モテ側と非モテ側が抱えている対立概念(つまりモテ⇔非モテの概念そのもの)を
均等に脅かしているよね。
あんなふうにできるのが一番いいと思うんだけどな。
そこを考えない限りは、
フロンティアを見つけようとしても難しいんじゃないかと俺は思うけど。
209 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/11/26(土) 10:30:33 ID:naMbZWp5
キモい愛想笑いが通用する社会のみじゃないじゃん? 俺は介護現場に出入りするチャンスが多くあるんだけど、 はじめは、キモい愛想笑いがなければダメな場所だと勘違いしてた。 でも、ぜんぜんそうじゃない。 「心にもないこと」や「キモい愛想笑い」をもっとも良く見抜くのは、 認知症(いわゆるボケ)の婆さんたちだよ。 (↑爺さん達は、婆さん達ほど敏感じゃないと思う。コレ重要w) そんなものに彼らは価値を見出していない。 「モテ社会」が欺瞞に満ちてることを、よく知ってるんだね。 で、同じように価値を見出さない人って、別に介護の現場でなくても存在すると 俺は思うんだな。 「大企業」はどうだろう。難しい? 俺はそうでもないと思うよ。 「大企業」って、 モテ社会の欺瞞を見抜いているんだけども、 それでもなおモテ社会を支えていかなきゃならないジレンマを抱えていると 俺は思うのね。(そうでなければ「大企業」たりえない) そういう場所だからこそできる違う事があるんじゃないのかと思う。 もし「大企業」の中で、モテ⇔非モテの対立概念を打ち破ろうとするなら、 これまで通用していたスキルだのテクノロジーを、これまでと同じような形で用いても、 意味ないんじゃないだろうか? 以上は、もしも「別にモテたいと思ってない非モテ」君たちが、 本当にそう思っているならば、って前提の話。
>>199 ベクトルが違うんじゃないかな。
社会→自分、じゃなくて、自分→社会。
人が社会を必要としてるんだと思う。
例えリアルで"社会"を求めなくても、ネットの中では求める。
そういう現象あるよね今。
多くの人にとって、社会との関わりは必要なんだと思う。
社会を求めるから、社会からも求められる。
相互関係だよ。
>>167 >なんで「企業」それも「大企業」って働くとか、ベンチャーの経営者として成功するって頭しかないの?
>「社会的存在として勝利する」ってどういうこと言ってるの? 「カネ」と「女」でホリエモン支持なのはなぜ?
「非モテ」達の記号なんじゃないのかな。
とりあえずそう言っとけば「非モテ」として認知される。仲間ができやすくなる。
本当は、その底にいろんな思い――モテ社会の欺瞞への怒りとか――が
あるんだけど、とりあえず分かりやすい記号を並べておく。
問題は、記号ばかりが目立って、その底にあるモノが見えにくくなることだと思う。
「モテ」が可視できるのは記号だけになり、
そういう見方をされた「非モテ」は、
結果的に、ますます記号の説明に走り回らなきゃいけないハメに陥る。
自ら冠した記号に振り回され、首をしめられる、みたく。
記号を冠してもいいけども(他人の共感も得たいだろうしw)、
その一方で、ちゃんと、
「何がしたいのか」を自分に常に問い続けていかなかったらダメやないですかね。。
>>204 社会を構成する一員でないものがどう社会を利用するというのだろうか。
>>211 >「モテ」が可視できるのは記号だけになり、
>そういう見方をされた「非モテ」は、
>結果的に、ますます記号の説明に走り回らなきゃいけないハメに陥る。
>自ら冠した記号に振り回され、首をしめられる、みたく。
記号の説明を必要性は、
「何がしたいのか」を自分の中で確立したものがありさえすれば
必ずしも必要ではないと考える。
「ゲイ」という記号も、社会の枠組みの中では、「ホモ」「おかま」「ニューハーフ」
「ハード・ゲイ」と分類されているようで、多くの人はその違いを素人もしない。
ただの女装趣味とも区別されていない。
でも、そんな社会で生きることを不遇と思ったとしても、その思いは自分の中の
価値観から発生した思いに多くを依存する。
社会との立ち位置が同様に辺境である、「非モテ」にも同じ考えが適用できるはず
215 :
214 :2005/11/26(土) 19:04:44 ID:5FqFtkjO
>>214 ごめん。途中で書き込んでしまった。
d>記号の説明を必要性は
i>記号の説明を「非モテ」の当事者が行うべきか否かだが
216 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/11/26(土) 19:13:08 ID:naMbZWp5
>>215 確率したものがあれば、説明はもちろんのこと、
記号もいらないし、「非モテ」だと言わなくてもいいんじゃない??
>>216 違うところからそれを言うとね、いくら
>>185 のように「キモさ」を自ら認めている、と言っても、
>>175 では台無しなわけね。これ、「容認できないがゆえに、怒っている」わけで。
フェミにもこういうのはいるでしょう。田嶋陽子とか。で、こういう場合に
「容認」がなされるとしたら、それは「諦めのゆえに、容認する」ということで、
「諦めのゆえに、容認する『諦めるアブラハム』と「容認できないがゆえに、怒る『ヨブ』」とを
デジタルに切り換えていて、そのあいだはないわけね。「自殺か、テロか」。で、両方無理だと
官僚機構に「削除依頼」。自らのプライドを傷つけるものとの折衝、ネゴシエーションがない。
「自殺か、テロか」は「自己を『削除』するか、他者を『削除』するか」という選択でもある。
コミュニケーションスキルの欠如は結局、自分の手を汚さず「他者」を「削除」したい、という
欲望の再生産につながる。
「女性」「 queer 」はね、「怒りのゆえに、容認する」という道を選択したわけ。
つまり、「諦めない」という道をね。そしてそれは「自己も他者も『削除』しない」と
いう道であって、Comment Vivre Ensemble 、How to live together を身につけるという
こと。そしてみんなで survivre 、 survive していく。
ブラム・ダイクストラの『倒錯の偶像』の図版やジョルジュ・ディディ=ユベルマンの
『アウラ・ヒステリカ』の「女の地獄」と呼ばれたサルペトリエールの病院での
ヒステリー女性の写真を見れば、どれだけ「女性」が「キモい」ものとして表象されたかは、
わかるし、ホモフォビアという言葉は、「ゲイ」がどれだけ「キモい」か、ということに
関わってる言葉で、「女性」も「ゲイ」も何がその「キモい」という形容詞を成り立たせて
いるのか、を問うために「怒りのゆえに、その『キモい』という形容詞を容認し、引き受けた」
そして「キモい」というのは「価値判断」を含むから、その判断をひとに行わせる「規範」を
問い直すことになる。この「ひと」には「男性」だけでなく、「非男性」も含まれる。
価値観の内面化をさせられているという点では、「非男性」も同じ、いや、なおさらに
内面化させられているから。
で、「記号」を消費するというのはこの内面化させられた価値観の問い直しを
まずは困難にするわけね。消費を繰り返すことで、価値観および規範はその正しさを
獲得していくから。でも、「記号」を消費するなかにしか「記号」批判の
契機はない。そしてその契機は、自らの「内なる外」から、「おまえは何を
欲望しているのか?」という問いかけとともに訪れる。
しかし、その問いかけへの応答の言葉も「紋切り型」としての「記号」で
覆われていて、そのまま応答すればそれは制度としての「告白」「告悔」になり、
これは価値観および規範の正当化と再生産につながっていく。
「告白」「告悔」にならない、an account of oneself 、an account of myself を
どうやって行っていくか、それは「非男性」にとってはずっと問題だったわけだけど、
「男性」にとってはあたかも問題ではないかのようになっていた、そのフィクションが
もはや成り立たなくなり、パニックが起きている。
「モテ」であれ、「非モテ」であれ、「モテ、非モテ」にこだわる「男性」という セクシュアリティ、これまで他のセクシュアリティの「キモさ」を論い、問うばかりだった、 「男性」の「キモさ」が、問われつつある、それだけのことでしょ。これも別に歴史上 はじめてのことではない。フロイトがそれをやって一度パニックは起きている。 セジウィックの研究なんて、あれは「男性はキモい」と言ってるのと変わらない。そして、 その「キモさ」の核心を「ミソジニー」「女嫌い」と「ホモフォビア」「同性愛嫌悪」に見ている。 そこから「非男性」の「キモさ」を、「男性」という歴史的に構築されたセクシュアリティの 本質としての「ミソジニー」と「ホモフォビア」に起因するもの、「非男性」の歴史的に 構築された「キモさ」の本質は「男性」である、つまり、「キモいのは何よりもまず『男性』である」という ことになっているのが、おもしろい。これはたぶん、いぬまわりさん好みの結論だと思う。 しかし、「男性」が自らの「キモさ」の自覚を迫られてパニックを起こし、「非モテ」が「告白」「告悔」 すればするほど、「モテ」は自らの「キモさ」を自覚せずにすむ、そういう構造が成立するなかで、 「自殺」も「テロによる革命」もできない「デジタル・キリーロフ」たちが官僚機構への「削除依頼」を 夢見ているあいだに、ブラッドベリの世界が現実のものとなりつつある。
で、言わずもがなの結論を。
「非モテ」の「キモさ」とは「モテ」の「キモさ」に他ならない。
そして、それは近代において構築された「男性」というセクシュアリティの
「キモさ」であり、その本質は「ミソジニー」と「ホモフォビア」にある。
そして、それは「男性」以外のセクシュアリティの「キモさ」においても
同様で、何よりもまず「キモい」のは「男性」である。したがって、
「男性」以外のセクシュアリティは自らの内なる「男性性」を問い直すこと、
「ミソジニー」と「ホモフォビア」を問い直すことが自らの「キモさ」を
肯定するという価値転換にあたって、必要となる。Q.E.D.
>>198 ゴダールは松浦泉による『アワーミュージック』についてのインタビューの最後で、
「映画は世界を救えると思いますか」と問われて、「それは聞いてはいけない質問ですね」と
答えてます。「『泣かないでアマテラス』は世界を救えると思いますか」も同じですね、きっと。
さて、どう歌ったものか。地底人ダンスはつらいかもw
>>217-219 適当に掻い摘んで解釈すると
「諦めて容認するか、諦めないから容認しないという2択は、諦めない故に容認する=相手
との対話をはかる道の断絶である。対話を断絶すれば後には削除(暴力)しか残らない。」
「非モテの感じる疎外感は、モテ(男)側の価値観を内面化してしまっていることにより生じて
いる。従ってまずは自らが内面化しているモテの価値観を問い直すことが必要なのだが、
非モテ同士が互いの疎外感を告白し合って連帯するという構図では、内面化された価値観
は問われることなく維持され、モテの価値観は却って強化されてしまう」
非モテの文脈から解釈するとこんな感じかな? 合ってますか?>quarante-deuxさん
しかし、quarante-deuxさんにとってはどっちでもいいことかもしれないけど、あそこでハザマ
氏がブチキレずに冷静に話を続けてれば、もっと発展性のある展開もあったのになぁ、と
あちらのブログの読者としてはちと勿体無い気がしますた。
>>220 そういう解釈で合ってます。そしてこういう問題について行われる対話は
「無限の対話」 entretien infini だと思います。
>>220 さんが簡潔に要約してくださった、今、「非モテ」が陥っている隘路は、
歴史的に、マルクス主義者や「女性」「黒人」「ゲイ」等が陥ってきたものと同じです。
「女性」「黒人」「ゲイ」等は、「諦めることなく怒りのゆえに自らの負性を容認」し、
引き受け、価値転換をしようとし続けてきた。そうした者たちはそれぞれ分断されているけれど、
そのあいだには、かつての一枚岩の「連帯」とは異なる新たな「繋がり」が
作られつつある。ジェンダー・スタディーズとクィア・スタディーズの遭遇は
その「繋がり」に関わる。
そして、「非モテ」がどうするかは、「非モテ」が自分で決めることです。
「自分はなんでこんなに怒ってるのか」をちょっと考えてみれば、
すっかり分かる話だよねw
いったん"攻撃されている"(あるいは"否定されている")と思い込んでしまうと、
その被害者意識ってもんに、がんじがらめにされてしまうんだろうな。
そういう事は俺もよくあるので、気持ちは分からなくもないんだけどw
「怒り」をぶつける際には、なるべくデカい対象を探してみるってのも
抜け出す一つの手段じゃないかな?と思った。
>でも、「記号」を消費するなかにしか「記号」批判の契機はない。
>そしてその契機は、自らの「内なる外」から、
>「おまえは何を欲望しているのか?」という問いかけとともに訪れる。
消費していく中で、
(俺が今やってる事は、つまり、「モテ社会」への迎合ではないのか?)という"気づき"が
うまれるって事だよね??
「消費する自分」を客観的に見つめている「自分の内にある他者」を意識する、というか。
各ブログを読むと、ここまではほとんどの「非モテ」は分かってるような気もする。
でも、そういう事を、他人から、それも当事者でもない者から言われるのが
我慢できないんだろうかねー……
>>220 と同じく、俺もちと残念。
いぬまわりさんじゃないけど、俺も「非モテ」には
ビビッと感じるものがあったもんで。B〜Zグループにいるからかな?w
>>221 非モテは男じゃないわ。男とはモテるもののことを言うの。
非モテの方々は、男ではないことを認めなさい。
モテに憧れないだけでは不充分。
非モテは男じゃない。男のできそこない。
そう言われて傷つくとしたら、男でありたいという欲望があるということ。
それは嫌悪すべきものだと感づいたモテの世界観の形式への賛同してるも同然だわ。
↑ひどい書き方してみたw
本音を言えば。
泣かないでアマテラスは釣り餌としても使えるということを思っていたの。
いっそ地上の星のほうがいいかしら?
地上の星を聴いて自分に都合のいい慰めを得るオジサンたち、
名立たるものを追って 輝くものを追って 人は氷ばかり掴む
このフレーズを無視してるわよね。
いきなり「熱病」を歌っても、すぐにはときほどけない規範のせいで
余計なものばかり触発されてしまう。
「地上の星」のように、彼らが見過ごすと予想できる部分にさりげなく
罠を張っておくのはどうかしら。
恐ろしいものの形を ノートに描いてみなさい
そこに描けないものが 君たちを殺すだろう
彼らがまだ描けないものを、見せてほしいと望ませて
目の前でおもむろに描いてみせればいいと思うの。
アマテラスが岩戸から自分で選択して出てきたら、そこで
「線路の外の風景」を突きつけるの。
…って偽悪的な方向で言ってみたけど、これ、「あどけない話」での
いつかおまえに見せてあげよう 沈まない月も 翼のある花も
でもあると思うわ。
非モテが「キモイ」と言われて怒るのは、非モテが「男」であるジェンダーを 内面化しているからだ、という話はよくわかるんだけど、 quarante-deuxさんが「男はキモイ」と言ってしまう事は、 これは既存のジェンダーに捉われているんじゃないの、 いやそもそもそこから完全に脱することはできないだろ、 と思うんですがいかがですか?
>>224 男はキモイ:ジェンダー内面化、ジェンダー有効利用がキモイ。
非モテはキモイ:ジェンダー有効利用出来ない奴がキモイ。
既存のジェンダーに捉われているというより、
事実としてジェンダー強制力が働いている以上、
そこに言及していない発言が全て、ジェンダー規範の上で
扱われるような暗黙の強制力。
その場合、不問にされている部分を、男はキモイ、と言語化することにより
可視化させなければ、話は進まない。
ということだと思うの。
226 :
224 :2005/11/27(日) 16:11:27 ID:aM37Soc1
ふむふむなるほど。 確かに「男はキモイ」発言で、「ジェンダー内面化、ジェンダー有効利用がキモイ」 が解体されていくことはわかるけれども、 その過程で「非モテ」も「男」に含まれ、フェミ・ゲイ・クィア側といわゆる「モテ」側から 二重に攻撃されてしまうように見えてしまうのはどうなのよ? この辺の問題は、「非モテ」が「クィア」「フェミ」「ゲイ」とかと違って、 他者に見える形でカテゴリー化しにくいというところから生じると思うんだが。 「非モテ」も今はその辺をめぐって内ゲバやっているみたいだし。
>>223 今、『優しい去勢のために』を読んでるんですが、これ、今こそ大切な本かも
しれませんね。しかし、文庫は品切れ、ハードカバーは売れていない。
20世紀フランスにおけるヘーゲル哲学の受容について書いた、バトラーの最初の本、
Subjects of Desire の subject は哲学では「主観」「主体」と訳されるわけですが、
前にも書いたように僕は自分がこれを訳すなら「欲望の虜たち」と訳したい。
「虜」というのは「虎」に「男」が生け捕りにされている字ですが、別の見方をすれば、
「男」が「虎」の皮をかぶって虚勢を張っている姿にも見える。「去勢なんかされてないし、
されない」と。そしてその姿こそが精神分析でいう「去勢」なわけですね。
「虜」(りょ)という字には「とりこ、いけどり」の他に「奴隷をののしっていう語」という
意味もある。ヘーゲルのいう「主人と奴隷の弁証法」は「承認の欲望」をめぐるものであり
(過去スレで83姐さんが紹介してくれてますね)、その弁証法のうちに巻き込まれ、閉じ込められる
subject は何よりもまず「欲望の虜」で、だからこそ「おまえは何を欲望しているのか?」という
他者の問いかけに応答しながら、その応答の紋切り型をも批判していく必要がある。
あの方もいろいろやってるわけで、「熱病」と「地上の星」のあいだには10数年の月日がある。
「熱病」を歌ったから「地上の星」が歌えた、そういうことなのかな、と。ひとつひとつ
傷つけ傷つき合うなかで、互いの vulnerability 傷つきやすさを確認し合うなかからしか、
言葉は出て来ない。
>>224 「完全に脱する」ということで何を言っているのか、ということでしょうね。
>>225 でいぬまわりさんの言っているのはいわゆる脱構築 deconstruction を
価値転換だと考えたときに第1段階としてまずは「逆転」が必要だ、という話に
つながります。これ無しだと、簡単にいうと「みんなキモいんだよね」という
おめでたい話になりかねない。なので「キモさ」の脱構築をめぐってはまず、
「キモいのは『男性』である」ということをはっきりさせる必要がある。
しかし、ただ「逆転」させただけではまた「逆転」して元に戻るだけなので、
次の段階では「逆転」を可能にした「対立の構図」それ自体をも解体しなくてはならない。
で、この2つは段階なんだけど、それを同時にやる必要がある。
たとえば「ゲイ」が自らの「キモさ」を自らの「男性性」のうちにみて、
「ゲイ」の「ミソジニー」と「ホモフォビア」を問い直すことは、
2つの段階を同時に行うということなんじゃないかな。
>>226 「何よりもまず『キモい』のは『モテ』だ」、というのがこの場合の第1段階でしょう。
まずそこを明確にする必要がある。
しかし、それでは終わらない。「『モテ』⇔『非モテ』」の構図を解体する必要があって、
そのときには、双方の内なる「キモさ」としての「男性性」の問い直しが迫られる。
そして、そのなかで「男性」ひとりひとりのなかにある「非男性性」が多数多様な
セクシュアリティとして発現するには、「男性」「女性」以外のセクシュアリティが
どのような社会的関係を構築できるかにかかっており、それはたとえば queer family values を
めぐる問いとして現在展開されている。
229 :
224 :2005/11/27(日) 16:42:58 ID:aM37Soc1
よくわかりました。 ありがとうございました。
231 :
224 :2005/11/27(日) 17:39:14 ID:aM37Soc1
すいません、ハザマでした。 あんなに怒っておいてなんですが、クールダウンしましたので・・・ 誤解は私の中では解けました。 不愉快な思いをさせて申し訳ありませんでした。 私はまだまだこれからです。
>>231 まだまだこれからなのは、僕も同じです。
よかったらこれからもいっしょに、いろいろ考えていきましょう(^^)
225に関してちょっと補足と言い訳。 >非モテはキモイ:ジェンダー有効利用出来ない奴がキモイ。 っていうのは、よく言われてる意味での「キモイ」です。 「キモイ」の一言で、他人を軽蔑し乱暴に片付けてしまって終了。 その際に、規範の強制力を使っている。 だからこそ乱暴に「キモイ」だけで相手を否定して終了できる。 >男はキモイ:ジェンダー内面化、ジェンダー有効利用がキモイ。 こちらは、その乱暴な強制力を指して「キモイ」と言っている。 権力構造の内部ではなく、メタレベルの立場に立つという表明。 権力の濫用自体を問題視している「キモイ」だから、 この立ち位置で何をどう言ったところで、規範内にいる者に対しての 強制力は持たない。 42さんのその後の >>「キモさ」の脱構築をめぐってはまず、 >>「キモいのは『男性』である」ということをはっきりさせる必要がある。 もそういう意味は踏まえてくれていると思う。 ただ、「キモイ」っていう言葉が、モテ→非モテに対して常日頃使われている言葉なので 「キモイ」という言葉自体が想起させる、おぞましい記憶を誘発してしまうかも。 >すぐにはときほどけない規範のせいで >余計なものばかり触発されてしまう。 っていうのは、言葉足らずだったけど、そういう意味だったわ。 権力を身にまとって否定する意味合いがなくても、 ノンケから「ホモ」と呼ばれることを嫌がるゲイが予想されるように 「キモイ」は非モテにとって、トラウマが沁み込んでいてもおかしくない言葉よね。
234 :
ハザマ :2005/11/27(日) 18:22:23 ID:aM37Soc1
>quarante-deuxさん ありがとうございます。 当ブログの不適切な箇所は、削除させていただきたく思います。 >いぬまわりさん >権力を身にまとって否定する意味合いがなくても、 ノンケから「ホモ」と呼ばれることを嫌がるゲイが予想されるように 「キモイ」は非モテにとって、トラウマが沁み込んでいてもおかしくない言葉よね そう、私の言いたかったことはまさにそこなんです。
>>233 「泣かないでアマテラス」はアマテラスからウズメになったハザマさんが
歌ってくれそうですね。でも、僕もちゃんと歌わないと。ですよね。
>>234 「モテない女の僻み」と言いがかりな捨て台詞を吐かれたまま、
フェミが切り捨てられ、耳を閉ざされるようなよくある光景の前で、
「フェミとモテるモテないは関係ないわ、
勝手にルサンチマンに根拠があると決め付けないで」と反論してきたけど、
そのとき、モテるモテないの構造のおかしさには全く目を向けてなかったわ。
気にとめもせず非モテの方々を切り捨てていたことが多々あったのだと思う。
反省してるわ。
今回ハザマさんのブログを拝見して、気付いたの。ありがとうございます。
上手なコミュニケーション。タチ=男役、ネコ=女役として接する。 そうやってモテることは出来るのよ。でも、そんなことはしたくない。 モテの関係性は何かがおかしいとモニョる。こんなの、 『モテ(・∀・)シアワセ! 非モテ(・A・)フシアワセ!』の枠組み自体は疑わず、 モテたい非モテにとっては、モテるくせに贅沢な悩みだと怒りすら 感じるかもしれない。 その怒りは、枠組みの中で不利益を蒙る、マイノリティの怒り。 でも別な面から見ればそれは、枠組みを疑わないことによる、マジョリティへの帰属。 非モテのレッテルから逃れつつ、ジェンダー批判を行うのは逆に、 枠組みの中で、マジョリティ化しようとしつつ、 枠組みを疑うことにより、マイノリティを割り振られる。 ねじれた関係ね…。
そのねじれも、あちこちで起きていると 誰がどこでマジョリティなのかマイノリティなのか、わけ分かんなくなる。 とりあえず、諸悪の根源くさい枠組みだの対立概念だのを見るのに 集中しようと思うんだけど、なかなか独りでは見えてこないや。。
「脱オタ」に関しては、トランスのパス/ノンパスの関係に かなり似ているようにも。
非モテヘテ女性が不可視になったという話は そのままゲイにも通用すると思うんだが、 1.モテ記号が沢山あるために、誰もがどこかしらで需要が生じ、そもそも存在しない 2.モテ記号が沢山あるために、階層が乱立し確認が困難 どちらだろう。
それは、「性愛は必ず異性間でしか成り立たない」 とする「ヘテロセクシズム」にもとづいた偏見。 だから異性愛原理主義者は、「たとえ同性間で愛し合う人達が実在したとしても それは心のレベルでは本当は異性愛であり、同性愛者とは単に男に成り損なった男、 女に成り損なった女にすぎないんだ」と見なすことで納得しようとする。 異性愛原理主義者にとっては同性間の性愛は存在しないことになる。 「同性愛」のように一見して見えるものは、同性愛などではなく、 その内面では異性愛であって、同性が同性を愛した途端に、己の性別 を異性に転化させなくてはならない。 だから真の意味での同性愛は存在してはならないのだ。
>>242 いや、まだそれでは「原理主義」としては甘い。
「性愛」が存在しない、として「異性愛原理主義」者はやっと安心ができる。
つまり、「女は存在しない」として、性関係それ自体が存在しない、とする。
そうすると、「異性愛」も「病」となり、うまくエディプス関係に入れば
「神経症」としての「異性愛」が、うまくエディプス関係に入れなければ
「精神病」としての「同性愛」が成立する、と考えることができる。
たとえば、ラカンの考えでは、「女」(=ヒステリー)は表層的な「存在」で
「言葉によって語りうる本質」といった実体的な担保を欠いている、
それゆえに欲望の主体としては、欠如態としてしか可能にならないのが
「女性」である、とされる。「女」もセクシュアリティも幻想である、
セクシュアリティそのものが最も根源的な幻想である、となる。
問題は、すでにここでセクシュアリティのヘテロ化が行われているということ。
「ヘテロセクシュアリティは存在しない」が「セクシュアリティは存在しない」と
同じだと考えられている。「異性愛」は欠如態として存在するが、「非異性愛」は
欠如態としてすら存在しない。こうして「異性愛原理主義」は成立する。「性」に
歴史はない、そう言い換えてもいい。
で、これはポリティカル・エコノミーでいえば、再生産を考える必要のない
「純粋資本主義」に相当する。再生産を考えなくていいなら、女、子どもを
労働力として動員し、過労死するまで酷使すればいい。実際、どの国でも
産業資本主義の初期段階では、女、子どもがむしろコストのかからない労働力として
動員され、社会問題となっている。つまり、ただ一度の資本循環でいいなら、
円環として循環が閉じ、また始まる必要がないなら、そこに規範としてのジェンダーはいらない。
資本循環それ自体がヘテロセクシュアリティ強制による統制を必要としているわけではない。
ラカン=ジジェクはこの第1の、1回限りで再生産のない資本循環そのものに対して
円環を円環として閉じるための基盤としての「予めの排除」によって、「欠如態」としての
ヘテロセクシュアリティ強制をかけ、ヘテロセクシュアリティを「欠如態」として超歴史的な、
不変のものとする。でも、これはニーチェに言わせれば、「遠近法的倒錯」ということになる。
だから、そのニーチェに従って、フーコーは「性」の歴史化を試みる。
バトラーがどこまで「純粋資本主義」論のことを考えているのかはわからないけれど、
彼女の議論でおもしろいのは、多くのフェミニストが考えるように資本循環の始まる
最初にヘテロセクシュアリティ強制がかかっている必要はないと私は考えるが、
最初の資本循環が円環として閉じるその繋ぎ目のところに「性的差異」として現れざるを
えないものがある、と言っていると読めるところ。そしてもちろん彼女はこの「性的差異」を
ヘテロセクシュアリティだとは考えていない。
「純粋資本主義」批判とラカン=ジジェクの「女は存在しない」「性関係は存在しない」という
「異性愛原理主義」に対し「性の歴史」を語るフーコー=バトラーの批判は結びついていて、
Queer Family Values をめぐる議論において、前者のポリティカル・エコノミーに関する問題と
後者のカルチュラル・スタディーズに関する問題とが遭遇している、その結節点に、バトラー、
サッセン、フォルブレ、ヤングといったフェミニストたちの著作がある。
>>243 訂正
>多くのフェミニストが考えるように資本循環の始まる
>最初にヘテロセクシュアリティ強制がかかっている必要はないと私は考えるが、
は、
>多くのフェミニストが考えるように資本循環の始まる
>最初にヘテロセクシュアリティ強制がかかっていると考える必要はないと私は考えるが、
に訂正。
245 :
禁断の名無しさん :2005/11/28(月) 12:55:32 ID:PPLHGB/D
>>239 ざっと読んだだけだけど、「見た目」に格差をつける
絶対的な基準が果たしてあるんだろうか?
>>126 のいぬまわりさんと同じような疑問が。
>>245 >>239 の彼にも他の「非モテ」系ブログにも言えることなんだけど、
「他者」「愛」「モテ」が原理的=メタなのはいいとして、
それが「他者」「愛」「モテ」のイメージの多数多様さという現実=ベタを
生産するところにつながらないのね。
原理的考察=メタが、現実=ベタを貧しくすることにしかつながらない。
原理が単純であるということは構わないけど、そこから多数多様なものが
生産されるんじゃなくて、単純な原理が多数多様なものの生産を不可能に
している、と僕には思える。「単純さ」を「貧しさ」と取り違えている。
こういうのは、たとえばゲイなら、セフレ候補と実際に性行為して、
お互いに定期的に付き合える相手かどうか判断する、とかそういうことで
すんなり日常的に回避してる取り違えだと思うのね。ノンケの出会い系でも
同じだと思うけど。そこでも具体的に「モテ」と「非モテ」を生きている
男女はいるでしょ。
「愛撫」とかってメタファーでしか考えてないから、そういうことになるのかと
思ったり。やってごらんなさい、ほんといろいろあるから、としか言いようがないw
補足しておくと、実際にやったことがあるかどうかはともかく、 たとえば、小説の描写や映画のシーンにおける「愛撫」をどれだけ 思い出せるかで、「愛撫」というメタな言葉が多数多様でベタな現実を 生産できるかは決まる。「童貞」でも「愛撫」が下手とは限らない。 AVばっか見てると下手になるかもw
248 :
禁断の名無しさん :2005/11/28(月) 17:07:10 ID:m0chwgcD
うはwwwwwwwオレが週末、やれスタジアムだなんだと
飛び回ってるうちに、
(
>>194 いぬまわり姐さん、自分は陰険な性格のミソジニストなので、
スーツ着た男も「スポーツマン」もわりと好きですわwwwwww
つか「スポーツマンシップ」って、
『滅多にないことだから「理想」となってる』というようなものなんでは)
なんかまたテラオモシロスなことになってるwwwww
おkおkwwwwwww
ハザマさん、ようこそ。
セクシュアリティとかクィアとかいうことに関する言葉って、
なーんか「モテ」というか「ヤレてる・ヤリたい」が前提のことが多くて、
(まぁそれ自体は仕方ないのか、とは思うのですが)、
モテないしヤレてないし、そもそも「ヤリたい」のかどうかも
はっきりしない、自分のような人間には違和感がぬぐいきれず、
そういう意味で「非モテ」という問題には関心があったし、
(自分は戸籍上は少なくとも「女性」なのですが)
いわゆる「非モテ」系ブログのうちいくつかはずーっと
読ませてもらってたりもするので、来て下さって個人的にはちょっと嬉しい。
女子の非モテは何故連帯しない(できない?)の? ミソジニーと理由でもあるの?
250 :
ハザマ :2005/11/28(月) 19:04:23 ID:xjvqLCPg
>>248 どうもありがとうございます。
ここでは勉強するつもりでお邪魔させてもらってます。
私はオフレコならばどんな生々しい話をしても、聞いてもオッケーなのですが、
さすがに2ちゃんでは悪意あるロムも蠢いているので、具体的な話までは控えたいと思います。
248さんのおっしゃっていることは、私は何となくわかるような気がします。
私の「ねじれた」セクシュアリティは、どうも「挿入」で満たされるものではなく、
「満たされない」ことが「満たされる」ことのようなのです。
今のところ、そういう私にとって都合のよい「装置」が「外」にあるのかどうか知りません。
そうすると、自分で「装置」を構築していくのですが、
これがどんどん断片化していき、統合性のないものとなっています。
では、アイデンティティクライシスのようなものに陥っているかというとそうでもなく、
むしろ以前よりかは落ち着いている。
どうも、そこにおいて私は多様な性を、ごく自然に受け入れられるように
なってきたような気がします。
ええと、トリップつけた方がいいですかね?
よろしければ付け方を教えていただきたいのですが・・・・
>>246 >やってごらんなさい、ほんといろいろあるから、としか言いようがないw
愛撫をやる機会のない非モテもいると思うわ…。
>>247 での補足は、そのフォローだとも思うけど。
「君に逢いたくて」というあたしが激萌えなプルさまが今のところ唯一主演を張ってる映画で、
デブで内気な非モテのプルさまは、モテ女(リヴ・タイラー)に恋心を抱くの。
プルさまとリヴ・タイラーの肉体的な愛撫シーンはないんだけど、
プルさま同居してるフレンチブルのナニーさんが、プルさまの顔をぺろぺろ舐める
シーンがあるわ。初めて見たとき卒倒しそうになったわ。
すてきなの!すてきなのよ! ノ;´Å`ヽ ハァハァアァアァン
犬好きなら、人間に対して非モテでも、犬とは愛撫しあえるかもよ〜。
異性受けがいいかなと思って犬好きのふりするモテ人間は、噛まれるかもよw
やりたいなら、ね。
あたしは、いつも犬といちゃいちゃしたい。
(って何を言いたかったのやら)
>「単純さ」を「貧しさ」と取り違えている。
極度なモテがモテてモテて、モテる数で勝負(?)して、モテモテでイケてるすごい俺に満足。
内実は、何十人と接しても、誰も彼もがみんな同じ、Sweet Poison。
単純で貧しい性愛だったりして。
モテの気分を想像する極度な非モテは、そんな極度なモテの貧しい手本が目立って見えて、
貧しい想像に入り込んでしまうのかも。
252 :
ハザマ :2005/11/28(月) 19:23:38 ID:xjvqLCPg
>>いぬまわりさん 私は自分の世界を楽しみつくしている人を見ると(とくにあっち方面でw)、 なぜかとても愉快になる人間なので(だからタモリ倶楽部が大好き)、 読むと声を出して笑いたくなりますね(w そうすると自分の性はある意味貧困だなあ、とも思いますが、 今は「それでもまあいいや」という気分なんですよね。 あ、いや、語りだしたらとまらないかも(w 「貧困」なりにこだわりが色々ありますね。 多分、他の人が聞けば笑えると思います。
>>ハザマさん 名前#任意の文字 とすればトリップ付きますよ。 くっついてきて勉強させてもらってます
>>252 ハザマさん
お待ち申し上げておりました
こちらこそ、お勉強させていただいてます。
非モテさんたちはみんな、ヘテロの極端に定型化した性愛を見ているという
偏見さえ持ってまとめて切り捨てていたのだと思う。
251で書いたみたいな、経験がないから、与えられたジェンダーそのまんま内面化、
っていうのばっかりかと。
(でもそんなこと思いつつ、デブヲタ非モテの外見にだけは発情してたりすんのよw
あたしには最高の外見なのに非モテなんてもったいないわ!あたしに頂戴っ!って)
そのカテゴリーの中に、ハザマさんのような方がいて、目を開かせてくれたわ。
嬉しいわ。
「装置」もなく、一人一人がただ居ることによって満たされる“性”というものもあると思います。
決まった形、理想の形、望まれる形、そういうのをひとつひとつ外していくことで
残るものは何もないかもしれないけど、そんなら何もなくたっていいじゃないと。
何もないっていうのも意外と楽。癒されるってそういうことかも。
42さんの「単純さ」を「貧しさ」と取り違えている。 っていう部分。
貧困、は数の問題じゃない。パターンの多さじゃない。
原理に、ジェンダー規範とか社会的に構築されたものを採用し、シンプルだから真理と嘯く手合い。
一旦社会の権力分布のフィルターを通して自分を写すことのどこがシンプルなんですかと。
原理の貧困さではなく、単純さというのは、
フィルターを通さず、自分と向き合えるかどうかにかかっていると思うわ。
そうそう。もしトリップの中に好きな文字列を入れたかったら、
ここ
http://ansitu.xrea.jp/guidance/?FAQ1 の
好きなトリップを出したい! っていうとこにあるツールを試してみてください。
>>248 あたしは陰険な性格の男嫌いですw
>>218 が当たってるもん。ヒヒヒヒ。
248さん、あたしと裏表の感触があって、ある種の緊張感と屈折した親近感を勝手に感じてますの。
あたしオレって使わないもの。248さんは、あたしなんて一人称、決して使わないでしょ?
今後とも宜しく。
255 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/11/28(月) 20:46:59 ID:0y5ej4lO
>239のところは、何が書いてあるんだか俺にはさっぱり分かんないw
「理屈っぽくてかなわん」。そんだけw スマソ。
>>243 中段の
>ただ一度の資本循環
って、日本の政治をイメージしたよ。
なんか問題が起きて、それに則した計画を立てて、制度化して、着手して、終わり。
連続性がないよね。それに「ほら。望み通りにしてやったよ」的な乱暴さ&単純さを感じるの。
いったん始めたら、
失敗が分かっても認めない、見直さない、ストップしない。
ただただ、やりっぱなし。
関わった役人も政治家も、自分の時代(天下)が終った後なんか
どうなってもいいと思ってるよね。累積赤字とかさ、そう思ってるとしか考えられない。
キモ……
>愛撫
そういえば、俺はまぶたとか鼻の頭を舐められるのが気持ちイイんだけどw、
(相手にもやるしw)
鈴木清順の映画とか、近所の犬に教わった覚えがーーーww
>>251 フォローというより、むしろそっちの方が重要である、ということだったりします。
「超越論的経験論」というか。たとえば、『キングコング』における「愛撫」を
観たことがあるかどうかで、愛撫って随分変わると思う。
で、「下手」とかいうと「コミュニケーションに『優劣』を持ちこむな」という
話になるんでしょうが、とりあえずSMの場合を除けば、相手が愛撫されて
「痛い」と言うよりは「気持ちいい」と言う方がいいし、自分に関してもそれは言える。
これはすごくザッハリッヒな、即物的な話だったりする。
>>239 の彼は、「労働力の商品化に屈することなく、非モテよ『非モテ』となることなく
死ね」と「非モテ」に命じるわけね。彼には、僕ならこう言う。「うん、わかった、
じゃあこうしよう、君が今すぐ大学をやめ、寮を出て、親の援助も一切受けず、
君の学歴を評価することのないどこか外国で、非熟練労働者として生活してみて、
それでも同じように言えるなら、そのとき君の話を聞こう」。
ブランショのいう「書くことの不可能性」というのはこうしたザッハリッヒな、
きわめて即物的なものでもあって、外国で非熟練労働者として生活する自分に
>>239 のような文章が書けるかどうか、と問うことが必要なのね。つまり、実際に
彼がそれをする必要はなく、ただ外国で非熟練労働者として生活する自分に
この文章が書けるかどうか、それを問えばいい。そうした問いなしに
「書くことの不可能性」なんて言葉は使うもんじゃない。真偽はさておき、
『私の死の瞬間』に書かれた経験があって、ブランショは「書くことの不可能性」という
言葉を使っている。
大澤にしても、宮台にしても、大学で教鞭を取り、自分で自分の食い扶持は
稼いでいる。それでも「労働力の商品化」への「抗い」を
>>239 のリンク先の
彼のように他者に命じることはしないと思う。それはバルトなら、arrogance
厚顔無恥と呼ぶふるまいで、「死ぬ(殺される)」がメタファーであるとしても、
「非モテは必ず死ぬ(殺される)」を普遍的道徳法則としての「非モテは死ね(殺されろ)」に
置き換えず、個人的な「格率」として遵守すればいいと思う。「僕は非モテとして死ぬ(殺される)」
とだけ言っておけばいい。仲間を募ったりせずに。
>>255 そういうことだよね。愛撫っていろんなひとや動物から教わるし、
小説や映画からも、子どもの頃壊したおもちゃからだって教わる。
ああ あれは壊れた玩具 いつもいつも好きだったのに
僕には直せなかった 夢の中で 今も泣いてる
あの方の『最後の女神』を聴くと僕はいつも子どもの自分が
壊したおもちゃたちのことを考える。それが僕に教えてくれたこと、
それが何かを。
259 :
禁断の名無しさん :2005/11/28(月) 22:24:31 ID:qzn9mJmY
他人の体の重みと温もりは何度経験しても感動するわ。 母親が過剰に子供を愛してしまう気持ちが少しわかる気がするの。
260 :
禁断の名無しさん :2005/11/28(月) 22:46:03 ID:PPLHGB/D
>>251 貧困さの原因は42さんの言う「諦めゆえの容認」でモテる人が
非モテさんの考える「モテ」モデルになっているところにもありそう。
「脱オタ」って、「自分のいるところなんてどうにもならない」という前提で
険しい一本道を必死に進んでいくイメージなんだけどw
それで「みんなからバカにされない男性像」を手に入れて、安心できてる
人にはとりあえず何も言うことはないけど、その人にとって異性と恋愛するのも、
「男性像」を構成する一要素に過ぎないような印象も受けるな。
>>256 自分は「死ぬ」としか書いていません。
「死ね」とは書いていません。
>>261 「非モテは必ず死ぬ」とコンスタティヴに書けば、パフォーマティヴに
「非モテは必ず死ななければならない」「非モテは非モテとして死ね」と
機能してしまってもおかしくはないでしょ。「命じるつもりはなかった」は、
「命じてしまった」とは関係がないことも、君ならわかるはず。
>>261 もう少し言うと、「非モテは必ず死ぬ」という事実言明を、君のあの文章は
その文脈のゆえに規範化しちゃってると思う。君はそうは思わない?
>>261 規範化してないとするとね、最後の大澤の『性愛と資本主義』からの引用の
必要性が読み手には理解できなくなる。「書くこと」「愛すること」を
可能にするために、「非モテは死ななければならない」、君はそう言ってしまってない?
>非モテは必ず死ぬ。上からの抑圧によってではなく、見えない他者、いや、私たちが見ようとしなかった他者による
>最高の復讐劇によって。そこではじめて書くことが可能になり、愛することが可能になるかもしれない。
>そのとき、もう一度だけ許されたコミュニケーションにおいて、私たちは他者を”愛撫”しなければならないだろう。
>>205 名無しのつもりじゃないのに名無しって入ってると変だなと思ったから、
気に入ってたけど外しちゃったわ。
>60-70年代にいっぱいあった管理社会を非難するSFが、
>最近、殆どそのまんま現実になっちゃったようね。
>当時あのへんのSFを読んでいた方々は、今をどう思っているのかしら。
>書物が禁じられて考えることが禁じられて、明るく社会に貢献する“モテ系”の生活が望まれる
>異様な未来社会を描いたブラッドベリの『華氏451度』。
>善意を偽装して監視しあい牽制しあう成員の関係の築き方まで、
>ブラッドベリの警鐘そのまんまになっちゃってる。
あたしの説明がうまくなくて、「時計仕掛けのオレンジ」のような物凄い国家の陰謀の世界を
想像しちゃったのかもしれないけれど、実際はちょっと違うの。
番組の画像を見つけて来たわ。
ttp://utada7268.hp.infoseek.co.jp/e1/index2.html NHKスペシャルの「性犯罪 再犯をどう防ぐか」という番組だったわ。
これの下から3段目からの画像がそうだわ。アメリカじゃなくイギリスだったわ。
右端の青いタオルをかけていて、字幕に「ブラウスを引き裂き胸を露出させた」
とあるのは、テストの途中なの。
ペニスに輪ゴムのようなセンサーを装着して、センサーを付けて
色々とポルノチックな暴力的、残虐的シーンを朗読して、どこに興奮するかを調べてるらしいの。
グラフが興奮度合いを表してるみたい。
あたしが見た犯罪者とカウンセラーの対照的で印象的なシーンは残念ながらここにないのだけれど
このテストシーンの前後くらいにあったわ。ないのが残念だわ。。。
ただここで管理されているのは、殺人を含むレイプや暴力などを犯した性犯罪者で、
再犯の危険性がある人達なの(それもさらにエスカレートする危険性が高い)。
下のイギリス人は理性ではいけないこととわかっているけれど、今もそういう欲望があって
性欲が高まると自分を抑えることができなくて怖い、薬で抑えるしかないと自分から言ってるの。
暴力的な性犯罪を野晒しにするわけにはいかないからとても難しい問題よね。
この画像を見るとテクノロジーと管理社会にSFチックな仰々しさはないのだけれど
現実ってそういうものかもしれないわね。
そういえばジェイムス・ティプトリー・ジュニアって女性の覆面作家だったのに
彼こそ男の中の男のSF作家と評されたのがおかしかったわ。
あたしが読んだ物は初期の短編からすでに強烈に女性を感じたけれど。男性への皮肉も。
801の先駆けだったりして。。。
あたしR・A・ラファティが好きだったわ。
「モテ」「非モテ」って、あたしは単にモテるモテないだけじゃないような気がしてる。 前に中二病とか、学校に例える話題が出てたけれど、 それでいうとクラスの派閥の人間関係に関係しているような気がするの。 目立つグループ(モテ)←無難グループ←地味グループ(非モテ) みたいな階層って集団にいるとどうしても生まれて、 これって後付のファッションやコミュニケーション能力でカバー仕切れるものじゃないような気がしてる。 政治家の人間関係を見てても思うのだけど、人の輪の中心にいたり、目立つ派閥に呼ばれたりする事って 努力以外にも素質の問題があるような気がしてならないのの。 物凄く見も蓋もない話しで書いていて憂鬱になるのだけど。 「ラーラはただのデブ」という小説が、このクラスの問題を扱ってておもしろかったわ。 ところで、個人のブログを張ってる人って同じ人なの? 少し無責任のような気がするのだけれど。
>>265 ジェイムス・ティプトリー・ジュニアについては丹生谷貴志が
『男と女と帝国』でフーコーと結びつけて何か書いていたような。
でも、内容が思い出せない(^-^;
268 :
160 :2005/11/29(火) 00:19:14 ID:vrBUx+JD
>>266 >ところで、個人のブログを張ってる人って同じ人なの?
>少し無責任のような気がするのだけれど。
そうですね・・・2chに張る行為は「晒し」の要素が
どうしても入ってしまいますね。すいませんでした。反省。
とりあえず、一人だけではない模様。
>>266 >>268 難しいね。基本的にはブログの書き手に断わってから載せるべきなのかな。
ヘンなところに貼られて、ブログやめちゃった例も少なからずあるしね。
>>267 訂正
本の正しいタイトルは『女と男と帝国』です。
>>261 は賢い方(だろう)だから、42 氏がただの言葉の揚げ足取りをしたり
言葉遊びをしたのではないことを理解できると思う。
ボケやスルーはネタとしてつまらないので、もうちっと42氏と絡んでみて欲しいなー
>>271 >>256 は
>>261 さんを一方的に責めている文章じゃなくてね、わかるひとには
わかると思うんだけど、僕も
>>261 さんと同じ間違いをしたことがあるし、
今でもそうした間違いを犯しかねない言葉の使い方をしているわけ。
>>256 が書けるのは、自戒でもあるから。
「書くことの不可能性」「愛することの不可能性」なんて言葉は、ああいう文章を
書かせちゃうとこがある。でも、そうやって間違って何かを知ることもある。
それでいいと思う。
>>272 表現が迂闊すぎたようですね
責めているから反論してって煽っているつもりではなく、
せっかくの対話の機会を有効利用してくださいってことです。
>>256 に対して、
>>261 の内容では、42氏の中では完結できるでしょうが、
傍観者の私としてはもう少し先もあるのであれば見てみたいし、
「誤解でした」で済んでも別に不満ではない。
ただ先が見たい
>>273 煽っているんじゃないことはわかってますよ(^^)
先は、彼がこれから書く文章で、ってのじゃダメかな。
>>265 JiF670tafsさん
名無しと間違われたことも何回かあったわよねえ。
あたしもあのコテ名気に入っていたのよ…。密かにファンだったわ。
(ここで陽気な名無しさんを見慣れていたせいで、たまにサロン板覗いたとき、
「ぎゃ!何事!陽気な名無しさんだらけ!」と一瞬ギョっとしてたんだけど)
>あたしの説明がうまくなくて、
いいえ〜。そんなことないわ。
あたしが話をずらしたレスをしちゃっただけなの。
で。その画像…。
うは…。かわいい…。画像保存しちゃったじゃないのよ、もう。
即物的に性的欲望をかきたてる肉体だわ。ぺろぺろぺろぺろ。
性犯罪者のこのかたも欲望される客体です。
デブヲタっていうけど、ガリヲタって聞いたことないわ。
…今、時間がないので、あとでもうちょっとレスするわね。ノ・Å・ヽノシ
ガリオタって言いますよー。 デブオタほど「モテ」じゃないのがw 少し残念ですが。
>>276 そうなのね。ガリオタでググったらいっぱい出てきたわ。
>>266 "素質"というか俺は"個性"だと思うんだけどね。
理系か文系か程度の違いでしかないと思う。
学校ってのは、外から見ると限りなく閉鎖的な空間なんだけど、
中にいる者にとっては、ほとんど全世界に匹敵するくらいに大きかったりする。
その中で通用している価値観が全てであるかのような錯覚を
どうしてもしてしまう。若いと特にね。
立場を変えたらどうなのか、ものの見方を変えたらどうなのか、
そういう刺激みたいなもんは、絶えず求めていく/外からも与えていく、ことで
少しは違うんじゃないのかなあと思うのね。
そういう意味でも、まず、自分らの枠を外したり広げて
所属集団内外の「誰かと対話する」ってのは非常に大事なことだろうと思う。
>>268-269 このスレで扱うぶんにはさしたる問題はないだろうと思い
(悪意で取り上げたり、語ったりする人はいないし)
晒し状態ってのは前から気にはなっていたけれども、特に指摘はしなかったのね。
でもまあ……このスレを足がかりに悪さする人だっているかも知れないし、、
だけどそういう連中の面倒まで見られないんでね……
貼る人それぞれの判断(了解とる等)に任せるしかないんじゃないかなァ……
なんかさー
「非モテ」ブログの人たちが、こんなにも冷静&真剣に
このスレのレスを読んでくれることに感動してる。
これでトリップついたでしょうか?
トリップおめ☆
おお、つきましたね。教えてくださった方ありがとうございます。 >>はくさん 不特定の人間の悪意への対処というのは、非常に難しいですね。 特にブログでは。 今まで私は自分の中でセーフガードを作って悪意が身に及ばぬようにしていたのですが、 思わぬところ(ほぼ身内)から情報が漏れて、結局セーフガードが機能しなくなりました。 その瞬間から悪意にさらされて、その対処に追われています・・・・・ その対処を自分で楽しんでいる面もありますが、ここのところ結構疲れます。 かなり過激な手段に出ることによって、悪意あるエントリを消させることは ブログだとできるようです。 そこから対話へ行けるのか・・・・・ 今回は私の方からそれを閉ざしてしまったわけですが、 とりあえず、要求を呑んでもらっただけでもよかったと思います。 それにしてもkiya先生は、私の行くところの先々に出没するな。 好かれたもんだ(w
>>281 俺も2ちゃんでは相当に憎まれているのでちょっと分かりますw>結構疲れます
何をどう言っても伝わらない相手っていますね。
でもそれって、
"今だから"伝わらない、"俺だから"伝わらないって事もあると思うんですよ。
だから、その人が「その対話が必要だ」と感じれば、状況は変化するかもです。
でもま、悪意でひとと接するのが目的・趣味って人もいるらしいし、
そいう人は、もう放っとくしかないでしょうねw
283 :
83 :2005/11/30(水) 17:35:46 ID:AyZu9ilm
>>13 (42タン)
亀レスですが、「空」とはユングのいう「集合的無意識」みたいなものなのかしら。
いまちょっと身近な事象と絡めて文化相対主義と反ム相対主義について考えをめぐらせていて、
C・ギアツは『解釈人類学と反ー反相対主義』のなかで、
文化の違いを超えた普遍的概念(=理性、知性)によって相対主義的アプローチを退けられると思ったら大間違いだ、
みたいなことを述べているらしい。
ギアツの著書は読んでいないので詳細は不明だけど、
理性や知性もまた特定の社会によって構築された固有の概念であって普遍的とはなりえない、
ということなのかしらね。
42タンならご存知でしょうけど、集合的無意識って、
分裂病患者の語る内容が特定の社会文化や価値観を超えていることから着想を得た概念よね。
42タンだったら、相対主義(A)と反ム相対主義(非A)をどのようにアウフヘーベンする?
>>283 「集合的無意識」とは違うような。「集合的無意識」には歴史があって、
「原型」アーキタイプを考えることができるけれど、「空」は論理だから
歴史はない。ナーガルジュナが「空」を説いたのは『中論』という本だけど
これは、古代ギリシア的なアルケー「始源」を使わずに世界の生成と存在を
説明しようとしているから「中」なんでしょう。
これがわかりにくいのは、言葉というフィクションのフィクション性を
当の言葉というフィクションで説明しようとしているメタフィクションだからで、
それを説明しようとするとさらに大変なことになる。とりあえず、こんなものがあるので
ごらんあれ。
ttp://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0846.html なので、とりあえずは「空即是色 色即是空」ということなのかなと。
「特定の社会文化や価値観を超えているかのように見える」という「かのうような」と
「特定の社会文化や価値観を超える」ということとの差異があり、構築ということを
考えると、構築された文化は相対性をもつけれど、その相対性は構築性、ということは、
変化の可能性という普遍性によって支えられている。これは言語で考えるとわかりやすい。
翻訳って、可能でありかつ不可能である、というパラドクスがある。そしてこれどっちが
オリジナルかわからない。『源氏物語』を英語に訳した時、歴史的な順序でいえば日本語→英語だけど、
構造的には紫式部が英語の Genji を翻訳したのが『源氏物語』だと考えることもできる。
いわゆる「日本語」内でも『源氏物語』とその現代語訳にはそうした関係が成り立つ。
概念というのはそれ自体は構築されたもので、したがって歴史性を帯びてもいれば
壊れるときも訪れる。その「壊れ」の可能性こそがその概念が「創造される」可能性でも
あり、その「解体と創造」こそが普遍で、だからたとえばジェンダーは「解体」され「創造される」。
スピヴァクが提起したサティーやサーダウィが提起した女子割礼を文化相対主義や多文化主義に
ゆだねることはできない。だから問いは、どうして「サティー」や「女子割礼」といったものを
その社会が必要とし続けるのか、それをもたない文化もあるというのに、ということになる。
ただギアツが怒っているのは、いわゆる「西洋民主主義」というやつが帝国主義を支え、植民地文化を
暴力的に破壊したものであり、それ自体はローカルなものであるのに普遍の「顔」をすることに対してで
植民地政策は宗主国の議会における民主主義的な決定プロセスを経て成立したことを考えれば、
その怒りは理解できる。「民主主義」もまた「解体」され「創造され」なければならない、
そのときに一度、すべての文化を等価として考える、文化相対主義は必要であるし、
それを西洋起源の概念で乗り越える際の暴力を考える必要がある、そういうことではないかと。
285 :
禁断の名無しさん :2005/12/01(木) 04:14:01 ID:fEExj3oS
アホの子に語って聞かせるジェンダー論スレが欲しいお!
↑ここがそうですけど
288 :
禁断の名無しさん :2005/12/01(木) 08:53:49 ID:YQTvvhZD
>>283 途上国で「伝統文化」と呼ばれているものの大半が、西欧との遭遇以前には
なかったか、あるいは中断されていたという実証研究もあったりして、
そこから、西欧との遭遇に対抗的に「伝統文化」をつくりあげ、強化した、と
考えることもできる。
「伝統文化」に「男女不平等」なものが多い理由は、西欧の「男女不平等」な
文化に対抗するために、それを模倣、ミメーシスしたからで、つまり、
サティーや女子割礼の差別性は帝国主義の暴力性に由来する。
ギアツに言わせれば、ローカル・ナレッジにも「男女平等」を達成する
道筋は開けていたのに、それを西欧が帝国主義により暴力的に閉ざしながら、
その破壊されたローカルな文化の西欧起源の差別性に、普遍性として
「西洋民主主義」を今度は経済のグローバル化を背景として暴力的に
押し付けようとしている、そういうことでしょう。
特殊が普遍を僭称する、そこに暴力が発生する。だから一度その普遍と
特殊の垂直のヒエラルキー、階層をならして、相対化し、すべてを等価の
特殊として水平に並べることは必要。でも、今度はそこからその特殊の
あいだの交通関係や変換関係として、普遍を取り出す必要がある、そういうことかと。
アソシエーションとか、ネットワークってそういう発想でできている。
垂直化、水平化、連合化はメビウスの帯みたいにつながってる。これをやれば十分、
これで終わり、ということはないでしょう。
290 :
83 :2005/12/01(木) 11:24:36 ID:xQXrF/wK
>>284 (42タン)
リンクありがとん。
原型が考えられる=歴史を持つ、とは「はじまりがあれば終わりもある」ってことかな。
「はじまる」ということは、「はじまる前」の状態もあったということで、
それが「終わる(完成、あるいは崩壊する)」ことによってまた新たになにかが「はじまる」のかな。
「中」とは、はじまりも終わりもなくずっと継続していることを言うのかしら。
「継続」などという時間的な捉え方も不可能な気もするけど。
それにしても、「論理に歴史はない」ってどういうことだろう?
「空」の論理に歴史がなければ、「排中律」の論理にも歴史はないといえる?
それとも、排中律は「中」のカウンター的論理として発生したもの?
>>289 (42タン)
>途上国で「伝統文化」と呼ばれているものの大半が、西欧との遭遇以前には
>なかったか、あるいは中断されていたという実証研究
日本において「男は外で働き、女は家庭を守る」という性役割分担が「伝統」である、
と言ってしまうのと似ているような。
FGMやサティーは決してその民族が独自に生み出した文化ではなく、
西欧文化との遭遇によって再構築された「伝統文化」ってことか。
>>290 歴史というのは特殊としての「色」の変化のことで、
「空」はその変化を可能にする普遍である、ということでしょう。
たとえばフーコーがいうように「性」に歴史はある。それに対してラカン派が
「性」の論理をあたかもそれが「空」であるかのようにして批判しようとする。
しかし、論理もそれが言葉で展開されるときは「色」であって、「空」足り得ない。
performativity というのは道元なんかにも通じる「一切空」に似ていると思う。
しかし、それをバトラーが語れば「色」となる。荒川修作/マドリン・ギンズの
『死なないために』では blank 「空白」と呼ばれているものも思い出すし、
「切り閉じ」 cleaving なんて言葉も思い出す。
「色」と「色」のあいだに「空」はあり、「色」の「内なる外」として「空」はある。
「はじまりも終わりもない」というのは「はじまり」と「終わり」があって
はじめて言える。むしろ、どこからでもはじまるし、どこでも終わる、
「はじまり」「終わり」は今、ここで「反復」されている「空」で、
それが「差異」としての「色」をつくりだし、その「差異」がさらなる
「空」の「反復」を招き寄せる。
今、あの方の新譜の「メビウスの帯はつながる」を聴いていてふと思い出した。 ラカンは「現実界」「想像界」「象徴界」を、ダンテの『神曲』の「地獄」「煉獄」 「天上」および、それをそれこそ終わり無い連鎖のなかに閉じ込め無限とした ジョイスの『フィネガンズ ウェイク』から構想したということを。 サミュエル・ベケットには 「ダンテ…ブルーノ・ヴィーコ…ジョイス」という 題名のジョイス論があるけれど、こうしてみると、ゴダールの『アワーミュージック』、 「非モテ」と『悪霊』、相対主義と反−相対主義、「はじまり」と「終わり」という 直線とどこからでもはじまり終わる円環(特殊としての無際限と普遍としての無限)等々、 話は奇妙にもつながっているのかも。それこそメビウスの帯のように。
>>292 メビウスの帯はつながる → メビウスの帯はねじれる
ノ・Å・ヽノシ
>>288 援助について考えるときに毎回思うのは
女が自由にセックスできる環境が貧しいのかなってこと。
男が利用できる風俗はいろいろとあるのに、女が利用できるのってないよね????
男の場合「童貞を捨てる」場所ってのはちゃんと用意されてるけど
女が「処女を捨てる」場所がないって意味でね。
ってなことを考えるのは、女友達に一人、
「処女でいるのが苦痛だから」って理由で
実質的な援交をやった人がいたからなんだけどさ。
>>293 あ、そうだったw なんかつながる方ばかりに意識が行って。
296 :
83 :2005/12/01(木) 23:56:56 ID:xQXrF/wK
>>291 (42タン)
セクシュアリティやジェンダー規範には疑問や抵抗を感じつつ、
その他多くの社会規範に知らない間に乗っけられていることに忸怩たる思いがずっとあって、
降りようにもなかなか降りられないから半分降りたつもりでいたけれど、
規範や概念や価値観はいつか壊れる可能性があるからこそ、
その壊れに関わるかもしれない者として自覚的に乗っかっていこう、というふうに思えたわ。
298 :
もえないゴミ ◆A96aq6DkZI :2005/12/02(金) 14:16:45 ID:7OwBQjOR
あまりに面白かったのでここのスレにも貼って反応をみる
日経BP
立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」
第57回 女性・女系天皇容認で議論呼ぶY染色体論とミトコンドリア
ttp://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/051130_tennou/index.html >こういうばかげた主張を封じるために、女性天皇容認
>論者は、神武天皇Y染色体より、はるかに貴いのは、
>天照大神由来のミトコンドリアであり、これは女性に
>しか伝えられていない、という主張でもするとよい。
>細胞生物学の知識がある人はよく知るように、
>ミトコンドリアは女性から女性にしか伝わらない。
>だから、人類の起源を調べる時によく資料として
>使われ、その資料をもとにイブの最初の子孫は
>何系統いて、そこからどのような人種、民族が
>生まれたなどという議論も行われている。
>天皇家の祖先そのものである天照大神の
>ミトコンドリアを受け継ぐ天皇家の女性たちこそ、
>天皇の台座に登るいちばんの資格者だという
>議論が行われてもおかしくない。
>>298 もしかしたら現天皇家が天照ミトコンドリアを継承していないかも。
それで、庶民の中にいくらでもいる、となったら問題だよな(w
アホのやぎさんの言っているY染色体云々もどうしようもない話で、
「神武Y染色体」を継承している人はその辺にいくらでもいる。
例えば、平氏と源氏の末裔はみんな「神武Y染色体」を持っている。
自分が源氏・平氏の末裔だということを知らない者も多いだろう。
そんなのもみんな皇位継承者なんだろうか。
やぎさんは自分で自分の首を絞めていると思うけどね。
山羊って不敬な奴だな、けしからんw
>>299 >>300 宮台真司の表現を借りていえば、いわゆる「つくる会」メンバーは「ヘタレ左翼」から
「ヘタレ右翼」への転向組が大半で、結局は「内ゲバ」が生じるようなセクトの
ファンダメンタリズム、主義に殉じる、というロマン派(ロマン主義ならぬ)の
「キモい男らしさ」を体現するしか能が無い、ということでしょ。
やぎなんてのは年齢的には「内ゲバ」世代ではないはずなんだが。
なんつうか、未だに三島由紀夫の轍を踏みたいヤツは多いのかなっつー感じ<「ヘタレ右翼」
303 :
禁断の名無しさん :2005/12/03(土) 02:54:06 ID:ST3GYQqm
304 :
禁断の名無しさん :2005/12/04(日) 08:06:02 ID:m8k2cAf4
ジェンダー論ってスレタイに必要ないんじゃない? 個人個人の主張は理解できるけど社会に還元できる意見ではないわ。
来年から多摩美で「芸術人類学」を講義する予定の中沢新一の「カイエ・ソバージュ」を 遅ればせながら読んでいるのだけど、これがおもしろい。またまた奇妙なことに 「メビウスの帯」「空」の話も全5巻の巻を追うごとに出てくるし、「ミソジニー」 「ホモフォビア」という言葉を使わずにその解体も語られている。そして全5巻の しめくくりに出てくる言葉はあの方の「サーモン・ダンス」を思わせる、「鮭は人間である」 だったりする。そこへいたる膨大な人類学・考古学の資料の渉猟と、それをつないでいく 「流動的知性」、カスタネダ的といってもいい知性のありようは、たぶん83姐さん好み。
身分制が存在する時代あるいは社会において、現在の「人権」にあたるものを 語る者に対して、「個人個人の主張は理解できるけど社会に還元できる意見ではない」と 言うことは、それを聡明さと見まごうほどにたやすい。 「主張を社会に還元する」というのは、個人および集団の愚かしいほどまでに困難で具体的な行為で、 それをわれわれは自らもその恩恵を確実に被っている「人権」の歴史から学び、知ることができる。 僕は「聡明なたやすさ」よりも「愚かしい困難さ」を楽しむ。ジェンダー・スタディーズ、クィア・ スタディーズはそうした「愚かしい困難さ」を楽しむ者たちの「旅の記録」「旅行記」だと思う。
池沼の隔離スレで何をいまさら・・・
308 :
83 :2005/12/05(月) 00:58:22 ID:XaK7hXim
>>305 あら、じゃあチェキラしておこうっと! さんくす!
ε ⌒ヘ⌒ヽフ ⊂ノ・Å・ ヽ ( ( ・ω・) ブタサン、カワイイヨ! しー し─J
ε ⌒ヘ⌒ヽフ ノ・Å・ヽ…ズレタヨ ( ( ・ω・) しー し─J ズレテモカワイイヨ
>>311 >>305 の本はいぬまわりさんにもおすすめです。「人間」と「動物」の関係についての
再考がなされていて、これはいぬまわりさん好みなんじゃないかと思います。
また、このスレの参加者の方々にもおすすめです。
ジェンダーの解体ということに関していえば、問題がないわけではないけれど、
こういう講義が大学で行われているのは大変いいことだと思います。
「萌え」をめぐる本が何冊か出てますね。森永卓郎の『萌え経済学』に 続いて「電波男」本田透の『萌える男』、そしてノンフィクション・ ライター大泉実成の『萌えの研究』。 おもしろいのは、「萌え」がグローバリゼーションに対するオルター・ グローバリゼーションの問題としてとらえられているところ。 「タチ」「ネコ」の関係を考えるときにも、ヒントとなる書物群でしょう。
ありゃ、、『カイエ・ソバージュ』予約したばっかなのに、、w 非モテ系のブログをなんとなく継続して見てたんですが、 新しく「非"非モテ"」なんて言葉がでてきてて、対立概念がよりキツくなってる。 分離主義的っていうんかなあ。 なんだか、こう、 ぐんぐん態度を硬化させてて(>非モテ)読んでて息苦しいすねー…… 恋愛語るのに別に経験とか関係ないんだから、 お互いこだわりなく自由に意見交換すればいいと思うんだけどなァ……
315 :
禁断の名無しさん :2005/12/10(土) 12:31:57 ID:MqVop3bv
「非モテ」なんかそのうち滅びますよ(w 内ゲバっぽくラディカルさを競い合っているところに、 煽り・荒らしの切り崩しが介入してもうズタズタですよ。 ミクロではサヨクの歴史そのものですね。
ぅーん……「滅ぼされる」ってこと? それとも自滅? 最初に、「非モテである」と名乗った動機って何なんだろう。 それを考えれば、滅ぶにしても、ズタズタにされたりしないんじゃ?? すっぱいブドウ話が例にあったね。 (非モテってのは、悔し紛れに「あれ(恋愛)はすっぱいブドウなんだ」と 言ってるも同じだと) そのブドウは果たして本当に甘いのか・すっぱいのか?って話をした方が、 まだ益があると思うんだなあ…… 地面に落ちた腐ったブドウだって立派に使い道があると思うしね。 ま、そういう俺は、甘ったるいブドウも種なしブドウも好きじゃなかったりするんだけどw 「下流層」関係の記事をパラ読みしたら、そこでも「コミュニケーション能力の低さ」が 云々されてて。それと、あらゆる面で「意欲に欠けている」というのが 「下流層」の特徴として挙げられてた。 「意欲を削いでいる」のは何なのか誰なのか、という事はちょっと置いて、 自分を取り巻くきっつい状況・現象を楽しめない、のがいちばん問題じゃないかすら。。
318 :
禁断の名無しさん :2005/12/10(土) 16:05:26 ID:icc8aKx6 BE:70747283-##
能動的受動
>316 なんか……滅びちゃった?
320 :
禁断の名無しさん :2005/12/13(火) 21:14:44 ID:0GFQM8yD
この非モテ連合なんてネットの無い時代からあったじゃん だめ連合とかいう
>>321 この彼、学歴コンプレックスあるんですね。「凡庸な女性」と
「極一部のインテリ女性」とを分けるところをみると。
では、「極一部のインテリ男性」が、おそらくは「凡庸な男性」であろう彼に、
こう言ってみてはどうでしょう。
「私は有給も取らずサービス残業も出張も度重なる転勤も拒否せず、
仕事の邪魔になる家庭も持たず、『作業用ロボット』として一生働きます。
自分の体力の限界といった個人的事由により過労死したとしても、会社に
賠償は求めません」という誓約書を書けば、総合職として「インテリ男性」と
同じ扱いをしてやってもいい、と。
生産効率が違う者に対して同じ扱いをする必要がない、ということを徹底させれば
どうなるか、彼の思考は、自分だけに都合よく、不徹底なだけですね。
そもそもの間違いは、自分が「非モテ」なのを大多数の「凡庸な女性」の
「凡庸さ」に帰しているところなわけでしょうが、そんなふうに思っていれば
モテるものもモテなくなります。他の「男」と自分が「同じ」に扱われて
いないということに対する不満、または、扱われない可能性があるという
怖れが、ねじれたかたちで出ている、そういうことでしょう。
生産効率を云々したときに、「非モテ」ってそんなに高いんでしょうか?
「金に女はついてくる」というホリエモン流の考えでいるなら、
金があれば「モテ」ということになりますから、「非モテ」って金はない、
わけでしょう? 生産効率の低さを理由に女性から差別されている、そういった
意識がある、ってことなんですかね。
本田透の『萌える男』では「恋愛資本主義」批判が展開されているわけですが、 ああいうかたちで「恋愛」を斥ける必要はないと思うんですね。 資本主義というシステムのなかで「恋愛」が彼のいう機能を果たしている ことは言えるとして、そうではない「恋愛」の可能性と条件を 考えればいい。フーリエの「愛の新世界」とかね。 「非モテ」の彼たちは、たとえばゲーテの『若きウェルテルの悩み』なんて 読んだことがあるのかな。あれは「元祖非モテ」小説だよね。書簡体小説だけど 日付入ってるから、日記というかブログっぽいし。 『若きウェルテルの悩み』(新潮文庫の方が読みやすい)を読んだあとで、 ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』を読むと、おもしろいんじゃないかと。
>>321 のリンク先の彼は、「人権」というものが端的にわかっていないわけですね。
生物学的・身体的な差異、社会的な差異がいくらあろうと、同じ「人」として
扱いましょう、というのが「人権」であって、その恩恵を彼だって被っている。
別に「非人間」である「作業用ロボット」である「男」の側に
「人権」を限定し、それに合わせて「女」の「人権」を制限する必要はまったくない。
「女は楽をしている、女は得だ」と思うなら、たんに彼が「女」になればいいだけのこと。
「女」が享受する「人権」を「男」も享受できるようにすればいい。それが
制度的に困難だからといって、「女」が享受する「人権」を剥奪する権利は
誰にもない。
生産効率で差別されるからこそ、必要なのが「人権」だということ、それが
わかってない。自分の「人権」が侵害されていることを理由に、他者の
「人権」を侵害していい、ということにはならない。
それは、労働力の再生産効率を考えれば、非ヘテロというのはヘテロに比べれば
低いわけで、だからといって、ヘテロ以外のセクシュアリティを享受する
「人権」を剥奪されるいわれはない、ということとも関連する。ヘテロが
規範としてのジェンダーによって、他のセクシュアリティを享受する「人権」を
侵害されていることを理由に、非ヘテロが「人権」を侵害されるいわれも、
ましてや、剥奪されるいわれも、まったくない。時として殺害にまで及ぶ
ゲイやビアン、トランスに対するヘテロによるバッシングが提起するのは、
そうした問題でしょう。
ヘテロ男であり続けること、ヘテロ女であり続けることが、その彼/彼女たちの
「人権」の侵害に、そして彼/彼女たちによる非ヘテロの「人権」の侵害および
「人権」を享受する非ヘテロによるヘテロの「人権」の侵害につながらないような
社会をどう構築するか、それが課題です。
誰か他の者の「人権」を侵害しておけば、自分の「人権」は保障される、と
考えるのは短絡にすぎない。他者の「人権」を自分が侵害することが可能であるなら、
自己の「人権」もまた他者から侵害される可能性があり、その可能性に怯えながら
生きること、それ自体がすでに、「人権」が侵害されているのであって、
>>321 のリンク先の彼は、そうした怯えのなかで「人権」を侵害されながら生きている。
他者の「人権」を保障することが、自己の「人権」をも保障することにつながる、ということ、
それなしで、他者のであれ自己のであれ、「人権」侵害を問題にしても意味はありません。
覚悟は新しいことを言っているつもりで典型的なミソジニーに陥ってるよね。 しかも自分が下流(非モテ)なんだから、あんな主張しても保守にうまく絡め取られるだけ。 勝ち組・負け組、モテ・非モテという二項対立を拡大再生産する。 バカだなあ。
非モテルサンチマン男の何がムカつくって 女は非モテを見ない、男は差別されてる女優遇だといいながら 自分は女のモテ層しか見ていない所。 非モテ女は、最初から視線にも入ってないくせに どっちが贅沢言ってんだ ムカつくわ〜〜
「共生」って発想、ないんだろうかねー…… 大事なのは、他者と共に生きるにはどうしたらいいか?だろうと思うんだけど、 邪魔な者・見たくない者は切り捨てる的なやり方には賛同しかねるな。 だって何の解決にもならないもんね? それじゃ単なるイス取りゲームじゃん。 非モテのブログからあちこち飛んでみて初めて知ったんだけど、 >321のリンク人に限らず、女に対する怨嗟(特に@喪板とか)って凄いんだねー…… 女によるブサ男へのイジメも相当なもんだけど、、、 醜さにおいてはドッチもドッチだ。 そんなんじゃ、ますますモテから遠ざかりますヨっと。
>>327 バルトが『恋愛のディスクール・断章』で、「恋する者」をウェルテルのような
「所を得たいと望むのに得ることができない者」としてとらえ、椅子取りゲームの敗者に
たとえているのを、思い出しますね。
だから、どうやったら「欲望せずに」生きられるのかが個人的な問題なんですよ 欲望を相対化する、というか、欲望させられずに生きる戦略 喪男道のやっていることは、ある種の袋小路ではあるけれども、あのやり方をとられたらもうどうしようもない 批判すれば批判するだけ、それが彼らの正当性の根拠にされてしまう構造なのだから・・・ 彼らの暴走を止めるには、批判という戦略は有効ではない だったらどうすればいいのかというと・・・多数派を印象操作して徹底的に叩いて”潰す”しかない
331 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/12/17(土) 01:48:43 ID:U6IISZHg
>>229 恋の敗者? まあね、彼氏・彼女ゲットも戦いの一つだしね。。
敗れたからって別に人格否定されたわけじゃないし。。
単に、狙った相手のタイプじゃなかったってだけだし。。だよね……だよね?!(涙キラーン←嘘w
>>330 欲望せずに生きる???
モテたいとか金ほすいとか考えずに生きるってこと???
それがもし「他人と比べない」って意味なら、
比べないようにするための「戦略」なんてものが必要なの???
>多数派を印象操作して徹底的に叩いて”潰す”しかない まず多数派の価値観に囚われてるのが前提の癖して何を生意気な
ん?意味がよく
なんかよく分からないんだけど、 喪男を「叩く」とか「潰そう」とか、俺は思わないですヨー それと、 批判が >正当性の根拠にされてしまう のだったら、その「批判」は、的外れだったり、どっか間違ってるって事じゃないですかね。
>>328 「弱者」として生き続けたいなら、そうやってあしらい続ければよろしい。
そうでないなら、他にするべきこと、できることはある、たとえばそれが
はくタンのいう「共生」ですね。
まあ、「自殺か、テロか」の「デジタル・キリーロフ」に「ウェルテル」を
今更演じられても、と思うわけですが。再演するというのなら、
肯定可能な差異をつくりだしてくれないとね。230年前の小説を無意識に繰り返す、
そのこと自体のバカバカしさも、「非モテ」を追い詰めているんでしょう。
>>330 「欲望させられずに生きる」ことを欲望させられ、ヘーゲルのいう「主人と奴隷の弁証法」に巻き込まれる。
「多数派」というのが誰のことはよくわかりませんが、「欲望させられずに生きる戦略」なんてものを
欲望させられ続ける限り、暴走する「喪男」「非モテ」は跡を絶ちませんね。「欲望させる」存在としての「女」も絶滅はしませんし。
自らが他者を「欲望させる」主人としてだけ生きていきたい、というのなら、
ヘーゲルにもとづけばそうしたものは「死」しかないわけですから、「私は死にたい」か、
「すべての他者に死を与えたい」のどちらかにならざるを得ず、これが「自殺か、テロか」という
貧しい選択肢なわけです。しかし、人間の行為というのは、その2つの選択肢のあいだに
無限に存在する。他者を「欲望する」だけではなく他者を「欲望させる」だけでもない行為が、
2つのあいだには、無限にある。「共生」とはその「無限の行為」についた名でしょう。
そして「死」の否定、「死」からの逃避が「共生」なのではなく、「共生」の否定が
「死」として表象されている、表象の不可能性の表象として表象されているにすぎない。
「他者を欲望させる主人としてだけ生きている存在」として「女」を誤ってイメージし、
それを実在の女たちにあてはめ、「他者に欲望させられる奴隷としてだけ生きている存在」としての
誤った自らのイメージを再確認するというのも、「ひとりSM」に似たなんともご苦労なことだと思うだけで、
批判する気はないですね。
「非モテ」って「女」を欲望してるんじゃなくて、誰からも「欲望される女」をゲットできる
「モテ」と争って勝ちたいという欲望に取り憑かれている。「元祖非モテ」こと「ウェルテル」は
その欲望のゆえに自殺する。具体的に「女」を欲望するんじゃなく、「女」にランク付けして、「上位の女」という
抽象的なものを欲望させられている。で、そのランク付けは、この社会の価値観に取り憑かれ、させられているんで、
まずは、そのランク付けを「欲望させられる」ことをどうにかしないと。
しかし、何十年、何百年前に既にやられたことだから、繰り返してはいけないってのもアレだなあ。 「そういうのはダサい、時代遅れ」って考えが、全共闘以後の社会運動をことごとくスポイルしてきたわけで。 確かに最終的には何かを欲望していることからは逃れられない。 ただ、僕はどうせ欲望するのであれば過剰に交換可能なもの、欲望不可能なものを欲望したいと欲望する。 「共生」なんて言葉は、中庸と同様にある意味もっとも欺瞞に満ちた言葉で、その実 所与の欲望の構造を現状肯定しているに過ぎないのでは。
僕は薄情な人間なので、人間そのものは欲望できません。42の人の言うように、 たとえば「女という観念」にしか恋することができなかったし、多分これからも無理でしょう。 想像界の住人として人間を見ることができず、常に象徴界の代理表現としてのみ、僕の目には人間らしきものが映るだけです。 最近、自己啓発セミナーに通うことを検討しています。
>>336 「繰り返していけない」とは言ってませんね。とりあえず「繰り返し」であることを
意識してもらえばそれでいい。たんなる「繰り返し」で終わらなければいいわけです。
そして「共生」というのは「過剰に交換可能なもの、欲望不可能なものを欲望したいと
欲望する」ことなしにはありえませんよ。フーリエのいう association での「共生」とは
そういう欲望なしにはなしえないし、ベンヤミンがそのフーリエに見出す「パサージュ」には、
そうした欲望が渦巻いている。そしてそれをクロソフスキーが「生きた貨幣」として形象化する。
>>336 のように言うなら、本当にそう欲望したいなら、君が「生きた貨幣」になればいいし、
欲望することができるなら、そうなる。欲望を自分の身体に形象化し、バルトなら
フィギュールと呼ぶものとしてとらえうるほどに、その欲望に強度があれば。
ゲットする女は「並の女」じゃダメなんだ!! モテが狙う(と「非モテ」が勝手に思い込んでる)「超一流の女」でなければ!! 「非モテ」って、いわゆる「男の中の男」なのかっ?!w 煽りはさておき。 こないだ飲み会で40代の超美人さんとご一緒しますた(・∀・)エヘ 彼女のモテ話を聞いて思わず苦笑したんだけど、 「あらん限りのテクニック使ってバキュームフェラで歓待したのに逃げやがったのよ!!!」 逃げたのは20代の若い男ね。このままじゃボクは駄目になる、とかナントカ。 しのごの言ってないで、欲望に従って、バキュームフェラに溺れたらいいのに……w 「非モテ」が自分らの存在を多様性の一つだと考えてるなら、 彼らが狙う女(男)も多様であっていいはずだし、 付き合い方や関わり方も多様なはずと思うんだよね。 てか、ンなことをことさら強調しなくたって、元々そういうもんじゃないのかな。 まあ、みんなが多様性のもとで自由にラブしあえば 「非モテ」も存在しなくなるんだけどさw
>>337 セミナーに通うより、
>>336 の欲望の強度を高める方がいいんじゃないでしょうか。
そして欲望の強度が高まるというのはそれが具体化すること、 embody すること、
incarner することです。したいことなら、してみればいい。
>>339 僕が
>>335 に書いた「他者を『欲望する』だけではなく他者を
『欲望させる』だけでもない行為」の具体的なイメージは
フェラチオだったんで、そのエピソードには思わず笑ってしまいましたw
……バキュームフェラで42さんとシンクロかあ……w なんか。 337の人は、いっぺん、自分が欲望されてみたらいいのに?とか思った。
モテないままならモテないままでも、 別に性愛がらみのこと(『萌え』も含めてね) だけが楽しいことってわけじゃなし、 とりあえずそっち方向を追求してみる方向へ行くってのも手だ (あ、これがいわゆる「タモリ倶楽部派非モテ」か?)。 …………ただ、それでなんとかやってける人はそもそも 「非モテ」という名にはさほど執着する必要もないんだろうなあ。ううむ。 (戦略的に名乗る場合は別として)
>>342 それを言っちゃあおしめえよ…ってか、
「いっぺん、自分が欲望されてみたらいいのに?」
とかいうことを簡単に言っちゃえるのは、
あなたがあくまで「モテ」側に立っているからだ、
とかいうことになるんではないかなあ。
…非モテのお悩みのうち、他人とか外界がなんとかできるのって
「ラブ・ハラスメント」という概念の範囲のことでしかないんだと思う。
「他人の性生活にむやみに首を突っ込むのはよろしくないですよ」
「つーか、人にはそれぞれいろんな事情があるんだから、ほっといてやれ」
ってな部分ね。
で、この部分ではいわゆるところの「セクシュアルマイノリティ」と非モテは
利害が一致するところもあるんじゃないの?と思うんですわ。
…そうではなく、「それでもやっぱりオリは恋人が欲しいYO!ウワァァァァン」
ってことに関しては、そりゃもう、極めて大雑把に言えば、
個人が試行錯誤するほかはないだろう、と思うんですよ。
つーか、非モテに関して
「とりあえず外見(ファッションとか体型とか)どうにかしようぜ」
ってアドバイスはけっこう散見されると思うんですが、
これって前に42タンが話してた「ファット・フェミニズム」とか、
「美の概念を問い直せ!」とかって話とつなげるとどうなるんだろうなあ…
>>344 いや、それは分かってる>モテ側の論理
欲望する対象を限定するように、欲望されたい対象も限定してるんであればって話。
で、これも「〜〜をどうにかしようぜ」の部分だよ。
自分の身体性を意識するとか、能動から受動への転換とか、
そこらへんにも軽く関わってると思う。
非モテが何を目的とするのかは、それぞれ違うらしいってことは俺も分かってきた。
(そのために、「非モテ」の定義を難しくしてて、混乱の元になってるようだけど)
目的がどこにあるにしても、何をどうしたらいいか分からない人には、
種々雑多のアドバイスは別に無駄じゃないでしょ。
「男が欲望の対象になる」ことを話すのはこの板らしいと思うんだけど。
非モテ話は、ラブハラスメント問題に移ってからは
がぜん身を乗り出してブログ読んでたりするw
hazamaのひとの最後のエントリにもあるように、 「タモリ倶楽部派」はタモリ倶楽部派として、結局「萌えオタ」を叩かないと生きていけない 鯛男を非難する喪男道と同じ轍を踏んでいると思う 僕は30kg以上減量してきたし、ジムにも通っているし、脱オタファッションも研究してきたけど、 そまあういうことじゃないんだろうな、欲望される云々に必要なものは まず、今の生活環境が、学校−バイト−趣味いずれも男同士の繋がりしかないから、やる気出ないってのもあるけど ぬるいホモソーシャルだな
>>346 うん。あんま関係ないと思う>減量、ジム、ファッション
イミフだろけど、あなたのブログの最近の文章はとっても分かりやすいよ。
要するに。そういう事だと思う。
それから
>>336 の
>「そういうのはダサい、時代遅れ」って考えが、
42さんが書いてるのに重ねて俺がアレコレとアフォかますのも何だけど、
昔の作品を2005年の今に打つ意味が問題になるんだろうと俺は思うのね。
その作品の中の何を今問うのか、という。
ダサさや時代遅れが問題になるって事じゃないと思いますよ。
言いたいこと、もう一つあった。 「共生」って、俺のイメージでは「シェアする」に近いんだよ。 ラブハラスメントは、モテも非モテも、男も女も、若い人も妙齢の人も、ヘテロも非へテロも、 区別なくかかってくると思うから、シェアできることはたくさんあるよね多分。
>>346 hazamaさんに関してはまず「乙彼さんでした」と。
ブログにしろこういうとこへの書き込みにしろ、
自分に過大な負担をかけてまでやることではないからね。
で、今ちょうど読んでる「萌える男」とかで言う(脳内での)「純愛」
という言葉に、なんかうさんくささを感じなあ、ってのは自分も感じるとこです。
でもそれって「タモリ倶楽部派vs萌えヲタ」っていう対立構造に回収できる話なのかな。
…前にもいぬまわりタンがこのスレで「逆ナン」という言葉を
問題にしていたことがあった気がするのだけど、
「女性が好みの男性に自分からアプローチすること」が、
ただの「ナンパ」ではなく「『逆』ナン」と言われてしまう、
そういう現状ってのも「欲望されたという経験がない(それを認識できない)男」
の登場に関連してるのかもわからんね。
>>345 のはくタンの話にもつながるが。
で、そうなると非モテ男子が「ヤリマン女」を叩く傾向ってのも
なんかあんまり良いことではないような気がする…
あと、どっかで
「非モテ男はまだ声を上げることはできるが、
非モテ女性は存在を主張することすらできないぐらいに追いつめられている」
っていうような文章を読んだけど、これはマジで同意だなあ…
「キモメン」が必死に女をナンパする図ってのは笑いの対象にはされそうだが、
「キモウーメン」が必死に男をナンパする図ってのは笑いの種にすらならん希ガス…
「非モテ」の保守化はフリーターやニートの保守化ともつながっている現象なんでしょうか。 玄田タンはニートに、社会に対して「労働」のあり方を問い直させ、新たな関係を創出する 可能性を希望として見出していたわけですが、フリーターもニートも自分たちの生き延びを 制限するであろう「構造改革」を支持する。国に頼れば、自分だけは生き延びられる、 そう思わされ思っているのかもしれませんが、それはそれこそ「椅子取りゲーム」で必ず敗者は出るし、 今の勝者もまた次のゲームで敗者になる可能性がある。そして、椅子の数は原理上無際限だから、 いつ敗者となるかわからない不安のなかでストレスを抱えて生き続けることとなる。 『萌える男』の本田タンの分析も早くも玄田タンと同じ運命を辿りつつある、ということなのか。 「萌え」は標準家族に換わるひととひととのつながりを創出しうるのかどうか。 ニートも非モテもまだ、その試みを始めたばかりで、先は長い、いろいろやればいいんじゃないでしょうか。 フェミやクィアがやっているように。そのうちどこかでいっしょに何かやることもあるでしょうし。
>>346 ちょっと、ちょっと、Tさんでしょ?
何こんなところでボソボソ言ってるのさ(w
「タモリ倶楽部派」というけどあの分類をやったのはあくまで覚悟氏。
分派として何かしよう、言おうという意図はあまりない。
「タモリ倶楽部派」というものがそもそも存在したとしても
人を叩いて「生きている」のは「タモリ倶楽部派」ではない。
だから、ブログで「政治的」発言を行うのをやめたんだけどね。
はくさんの「シェア」という話は非常に共感する。
「タモリ倶楽部派」として言いたいことはこれ。
だから「萌え」も現代的な恋愛至上主義をある程度克服する装置として悪くないとは思っている。
しかし、本田透が「萌え」こそ「純愛」だと言い、それを家族愛までにつなげようとするのはわかり易すぎる。
結局
>>350 でquarante-deuxさんが仰っているようなことが現代の「恋愛」で続くだけ。
だから、私が叩くことで自己正当化をはかっていると言うより、
こっちまで巻き添えにして自爆するのはやめてくれと言っているわけでして。
>quarante-deuxさん
本田と玄田は現時点での分析までは一緒だとしても、
玄田は分析し続け、いかんともしがたい現実をどうするべきなのか考え続けるのでしょうが、
本田は「萌え」な「純愛」で終わりのはずです。
いろいろやると言っても「ツンデレ」だの「姉萌え」など
記号的の組み換えをし続けるだけなのではないでしょうか?(現時点では)
>>351 >人を叩いて「生きている」のは「タモリ倶楽部派」ではない。
>蒼天孔明なみにいきりたってます。
>本人も本人だが、たかるヤツは輪をかけてスゴイな。
>うおお、一句一句がオレの血を滾らせる・・・・
>すさまじいまでのヴァカだ。本気で叩きたくなる・・・・・
>誰か止めて。
>もう、曹操に突撃したくてウズウズしている蒼天張飛のようです。
>ハデにヤれるんなら、こんなブログ惜しくねーかなー
ブログの最後の方でこう書いていたね。これは?
あなたの最後の言葉
「非モテ・オタクの保守化・右傾化がキモくて仕方がない。」や
覚悟への示唆には同感なんだが
その直前までは何をやりたいのか正直解らなかった。
>>351 (ハザマさん)
まずはブログお疲れさまでした<(_ _)>
本田についてはその通りですね。彼はジェンダーとかセクシュアリティといった
概念を使わずに「幻想」という概念だけで分析を行なっているので、どうしても
そうなります。彼にはレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』だとか未開社会の
家族構造を扱った文化人類学のエスノグラフィを読み、さらには「姉」が生物学的に
男性である可能性なんかも考えてくれるとおもしろいと思うのですが、それは
彼の「萌え」論を読む者が、好きにすればいいことですね。また、「純愛」で
労働力の再生産をどうするのか、Who paids for the kids? という問いは、
「萌える男」本田にとっても考えるべき問題のはずです。
しかし、なんというか、なんで人類で初めて「恋愛」をするかのように、
「恋愛」しようとしているのか。マニュアルが機能しないと、とたんに「アダム」化する
というのも、どうしたことかと。民俗学がフィールドワークする社会では、
たとえば若衆宿なんてものがあって、そこで年長の青年から年少の青年へ
性のてほどきが行われ、中上健次の小説に出てくるような「若衆宿でチンポ
まさぐりおうた仲」の「朋輩」関係があったりしたけれど、それに似たことは
近年まであったし、今でもあるところにはあるんじゃないかと思う。
そこで自分の身体が「他者を欲望すると同時に他者に欲望させるもの」でもある、という
経験をし、「欲望させられずに生きる」ということそれ自体を欲望させられる、
ことなく、生きていくスタートを切る。身体的な接触があるかどうかは
別にして、先輩・後輩関係で男同士でそうした若衆宿での経験の「痕跡」を
経験するということは、少なからずあるはずで、「欲望させる」ということに
ついての紋切り型のイメージが、その経験の強度を奪い、「欲望させる」身体として
自己を肯定することを困難にしているんでしょうか。
何もむつかしいことではなく、先輩から「かわいいやつ」だとかわいがられたり、
後輩から「憧れの先輩」として憧れられたり、という経験、そうしたものがあれば、
「欲望させる」身体としての自己を肯定することは、できるんじゃないかと思う。
で、これは周囲の同年代以上の男たちを見る限り、ノンケ、ゲイに関わらず、
そうした経験を何らかのかたちでしていると思うし、昔話をすればそういう
経験の話はいろいろ出てくるわけで、「非モテ」って思うにまず「男同士のあいだ」での
経験が乏しいんじゃないのかな。
>、「非モテ」って思うにまず「男同士のあいだ」での > 経験が乏しいんじゃないのかな。 ホモソーシャルからも弾き出されるって話も多いですから そうなんでしょう
355 :
禁断の名無しさん :2005/12/17(土) 17:42:10 ID:aAERu775 BE:29478252-##
人のことをあれこれいうのってたのしいわよね
>>352 あの時、いろんな悪意に包囲されていたので色々意味のないことを書いて撹乱しました。
色々言われるのに疲れてしまったので、「語る価値のないくだらないヤツ」になって
フェードアウトしようとしたわけです。
>>352 あれを読んで、キモイとかウザイとか何コイツ?とか思ってくれれば
こちらの意図はほぼ達成されたも同然でした。
最後(ネット上で)私は「非モテ」ですらないくだらないただの人、になったワケです。
>>353 quarante-deuxさん
すごくそれは感じますね。書けずじまいに終わったことの1つです。
例えば私、中学時代の部活動で成績もよく部活もできる先輩にすごくあこがれ、
またかわいがってもらったんですよね。
そしてそれは自分が先輩になった時、同じように後輩とそういう関係が形成された。
アレは前近代だったら絶対もっと先まで行ってた(w
と最近自分で気付いた。
気付いたからと言ってじゃあ現在の自分のそういうホモソーシャルな部分を
もっと掘り下げようとは今のところ思わないけれども、
セクシュアリティにおいて「寛容」にはなれたと思います。
しかし、そういう「寛容」への気付きの機会すら「非モテ」には少ないという現実があるでしょうね。
例えばイジメや不登校や引きこもりという現実は、それを阻むでしょう。
私も実際中学ではいじめられていましたが、部活が救済装置だったんだなと。
当時はキツくて大嫌いでしたけどね(w
>>354 19世紀末イギリスの「非モテ」は「鎖に繋がれたアンドロメダ」という
二次元の「女」を芸術としては二流の絵画にして愛でながら、ミソジニーと
ホモフォビアを醸成し、ホモソーシャルな関係を作っていたけれど、
彼らは体育会系ホモソーシャリティから弾き出された文科系で、そっちの
方がミソジニーは強い、というのが歴史的にはある。
まあ、体育会系ホモソーシャリティは先輩後輩でゲイビデオ出演とか、
集団レイプとか、そうしたことにもつながるけど、そこからも弾き出された
文科系が「非モテ」になり、女性の権利獲得を阻む「女」のイメージを
造り、自分たちを「欲望する」ことのない女たちへの復讐を図る。
これも19世紀末のたんなる繰り返しですね。
以前は、男同士の男に対する「かわいい」「カッコいい」等の評価基準は
女のそれとはかなり異なっていたんじゃないかと思うんですが、ジャニ系が
マス・メディアで存在感を大きくするにつれて、その評価基準が一致してきて
いるんでしょうか。その結果、男同士で「モテ」になる男が女にも「モテ」となる、
ということが一般化する。これはまあ、ある意味、男も容姿で差別されるという
ことで、これまで容姿で差別され「ビューティフル・コロシアム」なんてものに
すがることも必要だった、女の側からのアファーマティブ・アクションだと
言えなくはないんでしょうが、差別される男からすれば
>>358 でハザマさんの
おっしゃる救済装置が機能不全に陥ったわけで、救われない。
>>358 >しかし、そういう「寛容」への気付きの機会すら「非モテ」には少ないという現実があるでしょうね。
>例えばイジメや不登校や引きこもりという現実は、それを阻むでしょう。
なるほど。そういったところでセクシュアリティとそれらの社会問題は
つながっているんですね。
>>352 う〜ん、なんかうまく自分を語ることが出来ないな(w
何度もカキコスマソ
自分には、「オレのことはオレが決める」「オレはオレだ」という欲望があって、
自分の意図しない「自己」が存在するのが生理的にイヤだ(これは生きている限り仕方ないんだけど)。
おかしなレッテルをはられるくらいだったら、
「語る価値のないヤツ」になる方がよっぽどマシだった、ということかなあ。
ああ、あの汚らわしい罵倒にはちゃんと「標的」がいます。
わかる人にはわかるんですが。
そういう最も卑怯で薄汚い自分をさらけ出すことで
自分をリセットし、誰からも(自分の意図しない人たち)相手にされないようにしたということでしょう。
その間に、自分と気の合う「仲間」とはブログを超えてリアルで知り合うことができたので、
あのブログを捨てることには何の未練もなかったです。
「最後にあんなモノ見せられて不愉快だ!!」とお怒りの人には、
すみません
と言う他ないですが。ここに常駐している方とかTさんとか。
最後にそれを謝りに来た、というのもあります。
【男m】 バイセクシャルの部屋【女】
http://sakura02.bbspink.com/test/read.cgi/gaypink/1098354243/ よかった、こっちは落ちてなかった。
ここまでの書き込み読んでて、もうひとつ思い出したのがあったわ。
>27 :17:04/10/25 12:53:46 ID:9JL3krAY
>
>>19 >>バイの人って、実際はゲイよりも多いと思うんだけどなぁ、どうなんでしょ?
>実際そうなんじゃないの?ゲイバーによく行くけど妻帯者って多いよ。つまりは広い意味でのバイってことでしょ?
>偽装ばかりじゃないと思うんだよね。
>>あと、バイって自覚を持って以来もてるって言うのも同意。
>なんか女の子の扱いに余裕が出たからかな?っと自己分析してみたり。
> それもあるよね。ガッツかないしさ。
> でも基本的にはバイやゲイってモテるんですよ。
>日本ではバイもゲイに括られるから、ゲイで説明すると、ゲイは自分の売りポイントを育てるでしょ?
>デブ専でも老け専でも、それら好かれる要素を武器にしようと特化・努力する。
>そういう意味でオシャレさんが多い。ましてバイだと両性と交流しているから情報が多いので感性も発達するんだよね。
>俺は不細工な顔・体型だけどね。
>あとバイの良いところは、ノンケ衆にホモと思われないし、ゲイにはキチンとお仲間系と
>見抜いてもらえるところ。
>好みの男に目を潤ませているところを見られたらノンケの男や女にもバレルだろうけどネ(笑)
オシャレをして欲望されるようになるんじゃなくて、
欲望されることを意識していれば自然にそうなるって話ね。
男性ばっかり、女性ばっかりにモテるなんて人なんていないんじゃない?
男女に関係なく「お仲間系」はいて、彼(女)の視線に気づくかどうか。
ちなみにこちら17さんの「理想の恋人」はタチのニューハーフだって。
「兄さん」については、僕の書き方だと「持ち上げているように見えて貶している」ように見えるだろうけど、 僕はマジであの人尊敬しています というか、何かにベタになれる人はみんな凄いと思う。それが道徳的に良いか悪いかに関係なく
な、、なんだか楽しそうな話をしてるぢゃないか!!
>>349 「非モテ女」の最大の敵は、やっぱ女なんかなー
「非モテ男」同士の連帯や「モテ男」への怨嗟の根っこにミソジニーが関係してると思うんだけど、
ここにもやっぱりミソジニーがありそうな……
「ヤリマン」ってのは、女が「モテ女」に向ける中傷かな。
これって「モテ」に対するラブハラじゃないかと思うんだよね。
>>362 >オシャレをして欲望されるようになるんじゃなくて、
>欲望されることを意識していれば自然にそうなるって話ね。
それダ!!! そういうことを言いたかったw
>>360 喪板に行ってみたんだが…。
あの連中を内部から説得、啓蒙するのは無理だと思ったな。
(既婚者ということで)決定的に彼らとは溝が生じたことだし
外部の人間としてブログを立ち上げてみては?
「いろんな悪意に包囲されていた」とのことだけど
喪・非モテではない人間と意思疎通を図った方が早いと思うが。
現にここではうまくいっている。
折角主張に方向性が見えてきたのに勿体ない。
>>365 非モテとして語るべきことは語りつくした感があります。
今の自分はここまでと言うことです。
ここが引き際だと思いました。
もしこれから研鑽を積んでもっと語るべきことができたら
また何かやるかもしれません。
ここでもそろそろROMないし名無しに戻るころかとも思います。
>ハザマさん 避難所ってスレを読みました。お疲れ様ですw 外の人間が中に入って何か言うのはリスク高すぎなんだよなァ、やっぱ。。 無用の反感を買うと、せっかく積み上げたものがダーーッと後戻りしちゃうしね。 ただ、ごく僅かだけど主張をちゃんと聞いてる人もいたようだから(全面肯定ではないにせよ)、 まるっと無駄ってわけじゃないと思う。 機が熟すのを待つしかないんじゃないかな。 (その"機"が致命的に遅れることを一番恐れているんだって分かるけどね……) ああ。。この俺が、人にこんなことを言うなんて……w
女をボロクソに叩く「モテない男」たちは、
男が女に何をしてきたかって事を知らないのかな……??
彼らが女に不当に差別され苦痛を味わっていることは分かるが、
それは、「女の側からのアファーマティブ・アクション」(
>>359 参照)という面も
あるからだよね。
そういう事を不問にして、かたくなに「弱者」を自称し続けることは、
みずから、「非モテ女」や「真の非モテ男」なんてのを産み出し続けていると思うんだけどな。
その結果、男尊女卑や女性蔑視も、なくなるどころか逆に強化され、
新たに男性蔑視を育て上げてる、一部の男と女の手で。
関係板や各ブログを見ていると、そんな気がしてならない。
そんなの、激しく迷惑だよ。。
俺もいいかげんニブチンだし気づけない事柄は多いけど、
あそこまでヒステリックではないと思う。(と、軽く自己弁護w)
なんか、、、あれじゃ、どっから解きほぐしたらいいのか分かんないね。
俺が「シェア」できると思うことは、
それぞれの痛みや楽しさ、苦しさとか喜びとか、かなあ。
ネコからタチへ、ゲイからノンケへ、女から男へ、オタクから一般人(w)へ、
っていうようにカテゴリーを越えてシェアできるものがあると思うんですよ。
>>346 さんへの「欲望される可能性を示唆する」みたくね。
そういうやり取りの際に「勝ち負け」だの「上下」だの「差別・被差別」だのに
しがみついていたんじゃ、うまくいきっこないっしょ。。
>>368 「欲望する」と「欲望される」という能動、受動の関係と、
「欲望する」と「欲望させる」という使役の関係が、
交差するところで、「欲望させたい相手から欲望されたい」と欲望させられる。
で、この「欲望させたい相手」を限定するのが規範としてのジェンダーなわけね。
相手は誰でもいいわけではなく、他の者が羨むような、その相手を「欲望させ」
相手から「欲望される」ことで「すごいやつ」だと承認されるような、
そういう相手でなくてはならない。
でも、これって結局、相手を類型、タイプとしてしか見ていなくて、
相手のことを欲望しているんじゃなく、相手を欲望させ、欲望されることで
自らが他者に承認されることを欲望しているにすぎない。「恋愛」には
確かに相互にそうした抽象的な第三者による承認の欲望しかない場合もあるけど、
そればかりが「恋愛」ではない。既存の社会構造を円滑に循環させる「恋愛」
ばかりではなく、その社会構造を組換え、再構築する「恋愛」もある。
いきなり、セクシュアリティの枠をはずせ、とは言わないまでも、
>>326 さんの言うようなことはあるわけで、「モテ」の価値観を内面化
させられ、「モテ」の価値観に代わる価値観を見出せない限り、
「非モテ」はつねにすでに「負けている」し、「ウェルテル」のように
潜在的にはつねにすでに「自殺している」。
「非モテ」はその近代における誕生からして「ウェルテル」のように「滅んでいる」
「自滅している」んだから、これ以上滅びようはない。逆に、そこを好機ととらえて、
「モテ」の価値観を問い直す、とりあえず本田はそこまでは辿りついている。まあ、
マス・メディアの「萌え」への注目もあって後押しされてるというのはあるにしても、
それもまた時機というものだから。
「キリーロフ」や「ウェルテル」という古い名前がリアルなのは、
ゲーテやドストエフスキーが生きた時代、それをとりあえず「近代」と
呼んでおけば、その「近代」のなかに僕たちもいて、ゲーテやドストエフスキーが
自らが生きた時代の構造を小説というメディアにおいて描き得たがゆえで、
彼らの小説が「普遍的」だとしたら、それは「いつの時代もそうだ」ということではなく、
「近代はこうだ」ということを描写し得ているからだと思う。
バトラーは、restaging universality 普遍を再演する、ということを言う。
それはたとえば、僕たちが「ウェルテル」や「キリーロフ」にこの時代のなかで
ならざるをえず、なってしまうのだとして、
>>347 ではくタンのいうことが
重要になってくる。同じストーリー、同じ結末じゃつまらない。
クロソフスキーはニーチェのいう「永劫回帰」について、すべてが回帰するのではなく、
回帰する強度をもったものだけが回帰するのだ、というようなことを言っているけれど、
ゲーテの「ウェルテル」やドストエフスキーの「キリーロフ」は、それぞれのうちに
「そうではなかったけれどもそうでありえた、彼以上に彼である自己」の存在を、
そうした存在の強度、新たな生成につながる強度、あの方の「命のリレー」でいえば
「命のバトン」を、感じさせるし、もっている。
「ウェルテル」や「キリーロフ」の喪に服する、というのは、いたずらに
彼らを再演せず、彼らの強度を自分たちの身に引き受け、ストーリーを、
結末を、変えてしまう、そうやって彼らを「単独かつ普遍の誰か」として
遇し、歓待する、そうしたことなんじゃないだろうか。
この一生だけでは辿りつけないとしても
命のバトン掴んで 願いを引き継いでゆけ
371 :
陽気な名無しさん :2005/12/18(日) 12:36:36 ID:ZsSrfqJ9
↑ポエム? ポエマー?
限定条件をどんどん厳しくしていけば、アニメキャラ萌えになるのかな??w 2次元萌えの人も、必ずしも恋愛否定派ではなくて(「脳内恋愛」してるそうだし)、 単に、リアルでは、望み通りの異性&望み通りのシチュでの恋愛ができないというだけか。 けっこう原理主義??つか、究極の「恋愛至上主義者」なのかもしれないね。 「恋愛資本主義」なるものに踊らされて、 クリスマスはこうでなくっちゃ!!なんてのたまう「モテ女」と たいして違わない気もするけど、どうだろうw
>>321 のブログの記事、ちょっと分かんないことがあるんだけど。
アンケートの設問は「独身でいることのデメリット」になってるんだけど、
管理人はこれを「結婚する理由」として考えてるよね。
独身のデメリットが、すなわち結婚する理由にはならないと俺は思うんだけどさ。
ま、「結婚する女」がいかに打算的かって自論に説得力をもたせたいんだろうから
意図は分かるんだけども、ちょっとねー
どうも読んでると、この管理人は、
「生産性をあげるためには、ハードワークをこなせる作業用ロボットでいなきゃいけない」と
考えてるみたいなんだけど(違う??)
「生理もあって妊娠して残業こなせない女」も含めたみんなで
仕事をシェアしながら生産性をあげていくってやり方もあると思うのね。
権利ばかりを主張し義務を果たさない、って点を責めたい気持ちは分からないじゃないけど、
(でもそれは女に限った話じゃないっしょ)
なんだか、
「キモい男社会」(キモい男の社会、じゃないよw)の論理から一歩も出ていないっぽいんだよな。
こういう状態では、いつまでたっても、新たな価値観を見出すことはできないんじゃないかなー
ウェルテルやキリーロフが誕生した時代におきた「価値観の揺らぎ」を
今の俺たちもまた、経験してるってことですかね。
>>370 そう考えると、「非モテ」とか「ラブハラ」とか「801」とかの話題に
俺がやたらとワクワクするのも成る程納得ーw
375 :
禁断の名無しさん :2005/12/20(火) 06:12:45 ID:m66V1uTm
甘えたくても甘えられないのが現実なのよ つД`)・゚・。・゚゚・*
レズって差別語なの?
377 :
禁断の名無しさん :2005/12/20(火) 17:32:55 ID:/yZqLnnv
ヘテロの方?ビアンって呼んだほうが好ましいみたいよ? レズっていうのはゲイでいうホモみたいなもんかしら?
378 :
('A`) :2005/12/21(水) 09:37:28 ID:W/eIg70p
「非モテ」と「喪男」を今だ混同しているスレはここですか?
>>372 馬鹿な事を書いてるかもなので間違ってたら許してください。
>単に、リアルでは、望み通りの異性&望み通りのシチュでの恋愛ができないというだけか。
>けっこう原理主義??つか、究極の「恋愛至上主義者」なのかもしれないね。
この部分はものすごくわかるのですが
>「恋愛資本主義」なるものに踊らされて、
> クリスマスはこうでなくっちゃ!!なんてのたまう「モテ女」と
>たいして違わない気もするけど、どうだろうw
踊らされてる人と自らの自覚で閉鎖してる彼等とじゃぜんぜん違うと私は思うのです。
恋愛は他者から強要されるものでは無いと思いますし、まして恋愛資本主義なんていう
ビジネスと一緒にするのがそもそもの間違いなんじゃないでしょうか?
なんかよく解らない文で申し訳ない
>>379 しかし、エロゲーを買ったり美少女アニメを見たりして萌えている限り
どっぷり資本主義に浸かっているのは変わらないわけ。
もしあなたが妹だの、姉だの、ツンデレだの言っていたら、
それは完全に踊らされている(ように見える)w
それは多かれ少なかれ誰でもそうなんだけどね。
>踊らされてる人と自らの自覚で閉鎖してる彼等とじゃぜんぜん違うと私は思うのです。 自らの意思で閉鎖といえば聞こえはいいけど要は現実逃避ともいえる。 そしてあなたが馬鹿にしている恋愛資本主義に踊らされてる一般人 踊らされてる部分もあると自覚した上で、自らの意思で 苦しみ楽しみがある世界に飛び込んでいる人だっている いずれにせよ想像で人の価値観はこうに違いないって決め付けるのはやめなよ
だからね、「踊らされてる面があるんじゃないですか?」と誰かが言ってあげる必要があるんですよ。 特に価値観が普遍化して、誰も疑問を持たなくなってしまった恋愛資本主義に対しては。 「オタだって萌えだの妹だのに踊らされてるじゃねーか」と言われれば、そうかもしれません。 が、「萌え」や「妹萌え」なんて単語が存在しない10年も20年も前の時代から、 萌えや妹萌えは存在してました。それは踊らされてやっていた訳ではないからだと思われます。 >いずれにせよ想像で人の価値観はこうに違いないって決め付けるのはやめなよ 10年、20年、これで苦しんできたオタにとっては偽善にしか聞こえないと思います。
僕は資本主義自体は批判しない 恋愛資本主義もイケメンイケコならさぞ楽しいだろうと思う。 ただそれは、彼らにとって恋愛が「交換可能」だからであって、 僕みたいなキモメンにとっては、三次元恋愛は何ら交換可能なものではない。 脱オタしようが、ダイエットしようが、金かけようが何も買えやしない。 恋愛資本主義批判というのは、恋愛が資本主義的だから起きるのではなく、むしろ 三次元恋愛が資本的ではない(ハビトゥスや顔面の初期値に左右・交換の抑制・二極化・保守的)ことから起きてしまう。 電波男や喪男道なんかは、そこをつかみ切れていないから、二次元恋愛こそ交換不可能なもの=純愛 として称揚してしまうという典型的な誤謬を犯してしまうのだが、 二次元の有効性とは、彼らの信念とは逆に、彼らの行動様式として、二次元キャラなら”誰でも大好き”(アイドルオタクにおいてはこれをDDと呼ぶ) であり、恋愛対象が何ら純愛的なものとしては捉えられずに、まったく交換可能なものとしてしか見られない、 愛する対象が(万人に平等に)存在しないからこそ資本的なものとキモメンが共存できる、その逆説的な可能性にあるように僕には思える。 資本主義から「愛の大切さ」や「(家父長的な)家族の大切さ」などの典型的道徳を排し、本当の意味で 誰でも踊れるように、いかなる恋愛の形式も可能にするために、二次元という回路が発現したのではないか。 >どっぷり資本主義に浸かっているのは変わらないわけ。 >もしあなたが妹だの、姉だの、ツンデレだの言っていたら、 >それは完全に踊らされている(ように見える)w そう、どんどん踊ろう。どんどん資本に、商品に、架空の恋人たちに、マーケティングに操られよう。 三次元恋愛では踊ることすら許されず、キモメンは二次元に閉塞したのだから。
僕は、「電波男」は支持できても「萌える男」は非難せざるを得ない。 なぜなら、本田氏は「萌える男」の後半で「妄想(二次元)を現実(三次元)にフィードバックしよう」と素で主張しているから。 そこから本田氏は家族の大切さ(家族萌え)とか人や社会の温もりを再びとか、まさに八木みたいなバカ保守としか言いようがない 陳腐な論を展開してしまう。 二次元は、三次元に還元できない、あらかじめ腐った空間、不可能な空間だからこそ価値がある (2chと論壇の関係と同じ)のであって、”のまネコ騒動”や”嫌韓流”などで(単なるお祭りとしてではなく)ガチに政治的に 企業やメディアや体制に反発してしまう2ちゃんねらーが出てきてしまったのが、滑稽どころか有害危険でしかなかったのと同様に、 二次元を三次元へフィードバックする試みは、容易にバックラッシュや保守に悪用されてしまう結果に終わるだろう。 もちろん、本田氏自身は、「電波男」のあとがきに書かれていたように、家族についての幻想を既に破壊された人間なので、 彼にとっての三次元へ向けての言説は、郷愁というかネタとしての意味以上のものはないのかもしれないけれども。
・・・・・聞くけど非モテさんは同性や非恋愛関係との異性とのコミュニケーションは ちゃんと取れてる自負はある? どうもそっちからしてつまづいてるような気がするんだよね。 恋愛市場において下位のものが上位のものが 手に入れられないと嘆いてるだけに見えるんだけど。
386 :
('A`) :2005/12/21(水) 15:57:37 ID:eDzg5YFA
非モテさんはそうかもしれませんね。
強者のなれあいスレか
>>385 とれてなかったら駄目でしょうか?
ここであなたが言う”コミュニケーション”ってどういう意味ですか?
意思疎通ならできていると思います。一応、生活してますから。
>恋愛市場において下位のものが上位のものが
>手に入れられないと嘆いてるだけに見えるんだけど。
そうですね。だから?解決策は?努力ですか?
389 :
('A`) :2005/12/21(水) 16:40:14 ID:eDzg5YFA
ちなみに喪男は恋愛市場そのものに参加する気がないですね。
>>383 こんにちは。急に現れて質問しまくっちゃいますw
>恋愛資本主義もイケメンイケコならさぞ楽しいだろうと思う。
踊らされていることや踊ることが非モテ差別の実践だと気付いていてもなお、
自分がイケメンイケコとして上手く踊れたら楽しいと思う?
そんなずうずうしい、徹底して利己的なことをして楽しいほど自己中心的なの?
たとえ出来てもそんな真似はしないでほしいわ。
>僕みたいなキモメンにとっては
誰から見てもキモメンなの? そんな顔は想像つかないんだけど…。
あたしにとっては、いわゆるジャニ系がキモメンの筆頭。
他のどの動物にも似ていない人間にしか有り得ない醜悪な顔。
>三次元恋愛が資本的ではない(ハビトゥスや顔面の初期値に左右・交換の抑制・二極化・保守的)
()内が、どうして資本的でないのかがよくわかんないけど、まあ、それは置いておいて。
()内の枠組みは絶対ではないのに、絶対のものとして扱われてしまっているからでしょう?
かといって、二次元恋愛も、その絶対性を壊す方向を向いているようにも見えない。
人間に対する萌えばっかりに見えるのよ。
ケモノ萌えにしたって擬人化されててあたしは萎えるわ。
>資本主義から「愛の大切さ」や「(家父長的な)家族の大切さ」などの典型的道徳を排し、本当の意味で
>誰でも踊れるように、いかなる恋愛の形式も可能にするために、二次元という回路が発現したのではないか。
ここね。いかなる恋愛の形式も可能にするために?そうなの?
「愛の大切さ」や「(家父長的な)家族の大切さ」を外しても、
それらのもとになってる人間至上主義と性役割が中心になってはいない?
ツンデレ、というと、今あたしは真っ先に2005年版「キング・コング」(全国劇場公開中!観てね!)が
思い浮かぶけどw 一般にはそうじゃないでしょ?
萌え要素の中で、中心的になる事象には、性役割が刻印されていることが多い。
それは三次元恋愛から自由に踊っていることなのかしら…?
あたしは別に、非モテが既存の性役割に沿った二次元恋愛をしていること自体を責める気はないの。
だけど「弱者の言い分が優先事項。では誰がより強者で誰が弱者か」
「全ての側面において弱者は非モテ」…と言ってるような雰囲気を感じてしまっただけ。
異性愛を中心とした権力分布においては、喪男、Aセク、ゲイの方がマイノリティだったりするし。
まあ、ある面、あなたはあたしより強者だろうし、別な面ではあたしはあなたより強者でしょう。
そんなことで弱者の椅子を取りあったって不毛だわ。
ただ、ここは「タチとネコのジェンダー論」のスレ。
ジェンダー=性役割を疑わせる可能性は今のところ、非モテからはあたしは感じとれてないの。
逆に、三次元の「恋愛資本主義」がそのままの形で残っているようにも見えるのよ。
ツンデレ。これも、昔からあったリアル恋愛のテクニックよね。
コミュニケーションというものが「価値観が異なる相手と意思を疎通し分かりあうこと」 という定義なら、恋愛上級者様もそうでない人間もそんなもの最初から持ってません。 オタクをキモイと感じるのも、恋愛市場主義が理解できない、というのも 同等に「コミュニケーション不全」ということになります。 「同じ価値観を共有する者同士が意思疎通し分かりあう」能力と定義するなら そんなもの誰だって持ってます。
>>391 あら。あたしに対するレスじゃないけど、答になってるわ。
そのレス、とても同意だわ。ありがとう。
んでも、非モテ一般の意見とは思えないけど、
一般の意見を代弁して貰っても意味ないしね。
まあ今まではオタキモイと言ってるタイプの人間がコミュニケーション能力高いとされ、 (理由はどうあれ)恋愛に至上の価値を見出せないタイプがコミュ不全者として断罪されてきました。 非婚化晩婚化が進み、マイノリティがマジョリティとなりつつある状況下において、 ようやくそういう幻想がなくなりつつある、といったところでしょうか。
内田樹たんとか見てるとわかるっしょ コミュニケーション能力ということばは、マジョリティかそうでないかや権力持ってるかそうでないかを 隠蔽する道具でしかない
>>384 ロマン主義の可能性と危険が、そこにあるのは今に始まったことじゃない。また、
>恋愛資本主義批判というのは、恋愛が資本主義的だから起きるのではなく、むしろ
>三次元恋愛が資本的ではない(ハビトゥスや顔面の初期値に左右・交換の抑制・二極化・保守的)ことから起きてしまう。
のも今に始まったことではなく、だったら交換のうちに自分の身体をさらして「交換可能なもの」とされるなかで、
「交換不可能な強度」を発生させてごらんなさい、ということで、ひとに何かを命じたり、勧めたりする前に
まずは自分の身体を使ってみてはというのは、前にも似たようなことを「非モテは非モテのまま死ね」という話をめぐって
言った覚えがあるけれど、それは Bodies that matter であるということで、クローゼットから服を取り出して
着替えるように、セクシュアリティが選択できるわけではない、といった話にもつながる。
1920年代から30年代にかけての、ベンヤミンとシュミットとのねじれ、20年代にはロマン主義における
「批評」の可能性を顕揚したベンヤミンが30年代には政治の芸術化、美学化としての政治的ロマン主義を批判するに至り、
20年代には政治的ロマン主義を批判していたシュミットが、30年代には政治神学を唱え、ナチスの御用学者となっていく。
しかし、これはメディアとテクノロジーなしに「現実」が存在しない以上、避けて通るわけにはいかない危険であり、
その危険 peril を乗り越える ex-perri としての経験 experience の問題でもある。
二次元と三次元を分かつ、というのも三次元の側から行われることで、それはたとえば、三次元を「生き生きとした現前」
としての声、二次元を「現前の死せる表象」としての文字、と考え、後者を「悪」とするといった形而上学の伝統の中に
だってある。したがって、つねにすでに、二次元は三次元に侵食されているし、三次元は二次元に感染している。
そして、それは経験の条件に他ならない。二次元と三次元の区別がフィクションであることを
理解せず、その区別を実体化している点では、
>>383-384 はその批判対象となんら変わらない。
ひとが「三次元」と呼ぶもの、言説のうちで語る「三次元」は、無限にある「二次元」のなかでヘゲモニーを握ったものにすぎない。
そして、ヘテロセクシュアリティを「唯一の正しいセクシュアリティ」とする規範としてのジェンダーについても、同じことが言える。
「萌える男」が「悪用される」ということを「そうに決まっている」と決めつけるのは、ヘゲモニーを争うにあたって既存のジェンダーへの
「敗北」を必然化、永遠化、超歴史化、しているのと変わらないし、「恋愛資本主義」を宿命化、しているのと変わらない。二次元の三次元への
還元不可能性を主張するのは、「文学と政治」「芸術と政治」という二元論を前提として、「政治の文学化」「政治の芸術化」に荷担し、
現実としての「恋愛資本主義」を追認しているのと変わらない。ロマン主義の顕揚によるロマン主義批判が政治的ロマン主義に陥る
そのプロセスを
>>383-384 は再演している。「不可能なもの」の「可能性」を「価値」という言葉で、安易に主張しすぎている。
そんなものは「不可能なもの」と呼ぶに値しない。試されることのない、経験されることのない、「不可能なもの」は、
諦められた「可能なもの」にすぎない。
ドゥルーズは、顕在性 actuality と現実性 reality 、潜在性 virtuality と可能性 possibility とを区別し、 顕在性と潜在性の軸と現実性と可能性の軸との交差のうちに「出来事」を考えたけれど、これはたとえば、 書道経験者ならわかるんじゃないかと思う。師範による手本を前に、あるいは自らがイメージする 線を念頭に、筆をもって線を引く、あの瞬間に両者の軸は交差する。あるいはデッサンをする経験でもいい。 モデルを前に、コンテを手にとって線を引く、あの瞬間に両者の軸は交差する。書かれた書、描かれたデッサンは、 オリジナル、モデルに対するコピーではなく、オリジナル、モデル自体がすでに何かのコピーなのだから、 それはコピーのコピーとしてのシミュラークルであって、僕の書いた書、描いたデッサンに、朱筆を入れる師範、 デッサンを手直しする画家もまた、僕と同じ危険を、線を引き間違える危険を、経験する。 僕は筆であり、「二次元」と「三次元」の境界、そのどっちつかず、「二次元」でもなければ「三次元」でもなく、 「二次元」でもあれば「三次元」でもある、そのどこか、どこにもなくどこにもあるどこかで、 線を引く。すでに引かれた線ばかりが、線ではなく、すべての線が引かれ終わることはないから。 線を引かされることと引くこと、踊らされることと踊ることとのあいだで、僕は線を引き、そして、踊る。
>>394 諦められた「可能なもの」にすぎない「二次元」を「不可能なもの」だと
誤認するから、「不可能なもの」としてのコミュニケーションに関する
スキルアップができなくなる。
「不可能なもの」は何よりもまず、「二次元」と「三次元」との区別であって
コミュニケーションというのは、その区別の「不可能性」の経験に他ならない。
なに言ってるか全然わからん 数学の言葉で説明してよ 準同型とか可換環とか双対性とかp進体とか反変関手とか使って
>>398 それらの用語を説明してくれれば、可能な限りやりますよ。
たとえば、今の状況で、「準同型」とはこれこれのものだが、このレスの
この部分はそういう理解でいいか、と問うのと、
>>398 のレスの違いが、
「コミュニケーションスキル」の問題。わかります?
そして、そうした「数学の言葉」による形式化の破綻するところが 経験の領域。それを生きるのに、「数学の言葉」は別にあっても なくてもいい。
401 :
('A`) :2005/12/21(水) 19:04:21 ID:eDzg5YFA
ま、要は三次元で相手にされない人が二次元に逝くと('A`) ・三次元をあきらめたのが喪男 ・三次元をあきらめてないのが鯛男 恋愛関係以外のコミュニケーションは良好
僕にとって「ジェンダー」という言葉による形式化は、何かを経験するために
必要だけれど、それを「数学の言葉」で言い換え、さらに形式化することは
その何かを経験するためにさしあたり必要ではない。そして、不思議なことに僕以外にも、
その「ジェンダー」という言葉による形式化を必要とするひとはいる。
そのひとたちの経験は、僕の経験とは異なるだろうけれど。
そして、「ジェンダー」という言葉による形式化が必要なのも「とりあえず」のことで
そうした形式化を不要にするためにその言葉を用いる、それが「ジェンダー」批判という経験。
バトラーなら Undoing Gender とそれを呼ぶ。
>>398 さんにとって、「数学の言葉」による形式化が何かを経験することに必要なら、
それはそれで構わない。しかし、そこにそうした形式化を不要にするために
その「数学の言葉」を用いる、ということがなければ、既存の社会構造を批判する経験には
つながらない。
>>398 ところで、
>>398 さんのご専門はカテゴリー論なんでしょうか?
規範としての「ジェンダー」を、無限に存在するセクシュアリティを
「男性」と「女性」の2つに限定し、対立関係に置いたうえで順序化する
変換であると定義した時に、それを
>>398 で挙げた用語群で説明することが
その変換自体を解体し、多様なセクシュアリティを社会での実現することに
つながるのなら、それはそれらの言葉を用いることができる
>>398 さんの
ような方が、ひとつの思考実験として、やってみてよいことではないかと思います。
また、僕にそれが可能ならやってみたいとも思う。
ただ、そうしたレベルでの形式化を「数学の言葉」なしで行い、別のレベルの
形式化とのあいだを往還し、展開しているのが、おそらくバトラーのようなひと
なのでしょう。そのスキルを彼女から学ぶこと、今の僕はとりあえずそれを
選び、やっている、そういうことでしょうか。
quarante-deux ◆42FM9sGQ4o の文章が偉く読みにくい件について コピぺして文章を削って補足してやっと意味がつかめる状態なのでもう少しわかりやすく書いてほしい
405 :
('A`) :2005/12/21(水) 20:28:51 ID:eDzg5YFA
quarante-deuxさんはblogで活躍できるかもしれませんね。
>>388 >そうですね。だから?解決策は?努力ですか?
恋愛資本主義の世の中だけど必ずしも恋愛に価値を見出せない人種も
いるって主張じゃなかったの?
何故解決≠チて単語が出てくるのが意味分かりません
>>404 できれば、その削って補足した文章をここに掲載していただけると
非常に僕も助かります。
>資本主義から「愛の大切さ」や「(家父長的な)家族の大切さ」などの典型的道徳を排し、本当の意味で >誰でも踊れるように、いかなる恋愛の形式も可能にするために、二次元という回路が発現したのではないか いかなる恋愛の形式も可能にするために 「愛や(家父長的な)家族の大切さ」を外しても、 それらに人間至上主義と性役割が中心になってはいない? ツンデレ、「キング・コング」が 思い浮かぶけど? 萌え要素は性役割が刻印されていることが多い。 それは三次元恋愛から自由に踊っていることになるか? 別に、非モテが既存の性役割をしていること自体を責める気はない だけど「弱者の言い分が優先事項。では誰がより強者で誰が弱者か」 「全ての側面において弱者は非モテ」…という雰囲気を感じた。 異性愛権力分布において、喪男、Aセク、ゲイの方がマイノリティだし。 ある面、あなたはあたしより強者、別な面では強者。 そんな弱者の椅子を取りあったって不毛。 ここは「タチとネコのジェンダー論」のスレ。 ジェンダー=性役割を疑わせる可能性は今のところ非モテから感じとれてない。 逆に三次元の「恋愛資本主義」がそのままの形で残っているようにも見える。 こんな感じに文章改変してます
>>408 僕の文章でそれをやるとたとえばどうなります?
何があなたにとって「過剰な無駄」なのか、比較すればわかるので
そうすれば僕にも、対応の取りようがあるのではないかと思います。
>僕の文章でそれをやるとたとえばどうなります? quarante-deux ◆42FM9sGQ4o [氏も同じように改変省略補足したんですが それは理解したら消去してしまいました すみません
>>410 それは謝るようなことではないです。次回、また同じようなことが
ありましたら、よろしくお願いします。
必要な過剰さを残しながらよりわかりやすくできるなら、誰かといっしょに
文章を書きたい、と常々思っております。
>>379 んとねー
二次元萌えの人が、対象の条件をどんどんキツくしていくのと、
踊らされてる「モテ女」が、踊る条件をどんどんキツくしていくのと
同じように見えるってこと。
>>381 確かに、よーっく分かって「踊っている」人もいるよねw
何にドコに踊らされるか・踊らされないか、シーンごとに取捨選択して、
上手に楽しんでいる人もいる。なので、
>>382 の
>特に価値観が普遍化して、誰も疑問を持たなくなってしまった恋愛資本主義に対しては。
は、一部の恋愛資本主義者の価値観が普遍化しているとは思わないし、
疑問を持ってる人はいっぱいいると思うよw
独身者の割合も増えてってるし、女性の社会進出も後退はしてないしね。
>>390 >かといって、二次元恋愛も、その絶対性を壊す方向を向いているようにも見えない。
あ、そうそう。これこれ。
むしろ、その絶対性を強化しているように見えるわけ。
>>379
414 :
('A`) :2005/12/21(水) 22:31:09 ID:eDzg5YFA
> 二次元萌えの人が、対象の条件をどんどんキツくしていくのと、 > 踊らされてる「モテ女」が、踊る条件をどんどんキツくしていくのと kwsk
詳しく???
欲望する対象・欲望させる対象の条件を、
>>390 でポイントになっている「絶対性」にあわせた形で狭めていく、
その過程で三次元→二次元に移行していってる。(と思うんですが。違ったら悪ぃ)
「モテ女」もそれと同じことをやってる。(と思うんですが。違ったら悪ぃw)
ていうわけで、俺から見ると、両者ともにたいして違わないって話。
416 :
('A`) :2005/12/21(水) 22:51:45 ID:eDzg5YFA
違ったら悪いって('A`) 違うよ。もう「欲望の対象」とか書いている時点で 分かり合えないと思った。
そうですかw いちおう、欲望する・させるの話は直近100レス中で話題になってますんで、 興味があったら読んでみてはいかがでしょうか。
419 :
('A`) :2005/12/21(水) 23:04:43 ID:eDzg5YFA
直近100レス中に「あの」難解な文がいくつもあるのがつらいっす 冬休みにでものんびり解読してみます
「数学の用語で」云々は、皮肉のつもりで書いたことくらい分かってくれると思ったんだけどなー まあ、わかってもらえなかったのは発信者たる僕の責任ですけど。 僕自身、「てめえの文章は分かり辛すぎる」ってよく文句言われる人間なんだけど、 僕から見ても42の人の文章はやりすぎですよ。もっと削れるはずだし、もっとわかりやすく書けるはず。
42さんのレスかい?>難解な文 難解ではない文章で書かれたレスもたくさんありますよ。 ハザマさんのも、kiyaさんのも、名無しさんのもね。 俺なんかは、ほとんど猿でも分かる文章だと思うヨww 非モテ話が始まってから、俺はほとんど人のレスの繰り返ししか 書いてなかったりする。ヲチされてるの分かってたし、誰が来てもとっかかりやすいように。 だもんで、ずっとsageてんのね。って、んなことどーでもいいねw
>>416 喪男にもいろんな人がいるんだろうが、
「電波男派」とか呼ばれる人たちは
>欲望する対象・欲望させる対象の条件
を2次元に求めてるんじゃないの?
あなたがそれに当てはまるのかどうかはわからんが。
「違う」なら、どう「違う」のかを、kwsk!
ばくぜんとした「喪男」としてではなく、あなた個人を理解して欲しいというなら
(そういう気持ちがないのなら
>>416 で「分かり合えないと思った」と書く必要はないと思うが)
それなりに言葉を費やしたほうがいいと思うよ。
あと、42タンの文章を読むコツをひとつ書いておくと、 「学者の名前や本の名前が出たらとりあえずそれは横に置き、 『XXXは〜〜〜と述べているが』の〜〜〜のとこだけを読む」 みたいなことかな。 もちろん、その本なり、その学者のことに触れたものなりに直接 触れてみるに越したことはないけど、とりあえずこのスレで会話をする分には そのぐらいの理解でもなんとかなると思う。 (ただ、『あくまでこれは、XXXについての42タン独自の解釈である』 てことは頭のどっかに置いておかないとマズいが) …こういうのも「コミュニケーションスキル」のうちなんですかね?
それから、俺は、「鯛男」と「喪男」を区別せずにレス書いてるよ。
というのは、今のところ区別しなきゃいけない必要性はあんま感じないから。
>>390 の「絶対性」の枠組みの中にいるという点では全く同じで、
そういう枠組みの外にいる(と思われる)俺にとっては、
どっちも強者?マジョリティ?、分からんけど、そういうものにしか見えないんだよね。
>>420 もちろん、皮肉であることを理解したうえでの「修辞学」的な対応です。
なので、ご心配なさらぬよう。
>>423 そうでしょう。
前々から思ってたことなんだが、 一部の「喪男」が「鯛男」を排除しようとしたり、 既婚者が未婚の非モテに 「お前なんて非モテを語るに値しない!」とか言われたりするのって、 ゲイ・ビアンコミュニティの中でのバイ・バッシングとか、 トランスジェンダーコミュニティにかつてあった 「TS原理主義者によるTG・TVバッシング」とか、 あるいは2chのAセクスレッドにおける 「狭義Aセクこそ真のAセク!」とかってのと 構造としてはまるっきり一緒な希ガス。 いずこも同じ秋の夕暮れ、ってやつですか…
>>423 慣れ、ってのもあるかもしれない。
まあ、別に今すぐ理解しなくたっていいしね。
俺なんか2割も分かってないし。
数ヵ月後に「あの時のあのレスは!!!」とか閃くこともあるしねwww
ま、癇癪おこして「分かり合えない!!」って背を向けちゃうのは
ちと勿体無いとは思うよ。
428 :
禁断の名無しさん :2005/12/21(水) 23:38:34 ID:VlSFjVHZ
違うでしょ。
まー、ただ、42タンの物言いってのは、読む側になんつーか
「42タンの背後にたたずむ『アカデミックな権威』のまぼろし」
(あくまで「まぼろし」なんだと思うけど…)
みたいなものを連想させてしまいがちではあるなあと思います。
42タンにはそのつもりはなくてもね。
そこんとこで引いてしまう人がいるであろうことはわかるんですよね。
どっちにとっても勿体ない話なんだけど。
自分がもうちょっと芸達者だったら、
「キリーロフってなんですかぁ〜?あたし最近西尾維新とかしか読んでなくって〜」
とかツッコミ入れたいところではあるんだが、
オレは生憎ドストエフスキー(だっけ?)も西尾維新も読んでないし(w
(でも、キリーロフがどんなキャラかを知らなくても、
42タンの言いたいことが読めないわけじゃない。
>>423 みたいな感じで)
そういえば42タンは、前に一時期、
関西弁でレスを書いてらしたこともあったんだけど、
あの時はレス・スレの印象がだいぶ違って見えて驚いた記憶があります。
>>408 あの…。そのレスで言いたかったのは…。
そのレスを省略するとしたら、はくタンの言うように
「三次元で絶対視されてる価値観を、二次元も無批判に取り入れてないかい?
それってマイノリティかい?」ってとこかしら。
でもそれより最重要ポイントは
2005年版「キング・コング」全国劇場公開中!観てね! …ですw
>>424 の後段をずっと考え続けていると、
鯛男にしろ喪男にしろ、「モテ社会」に流通している価値基準をそのまま持っているということで、
それってつまり、
流通している価値基準に苦しめられている「真の非モテ」たちの首を、
更にしめることじゃないだろうか?という結論を、俺は出さざるを得ないのね。
それで「弱者」といえるんだろうか?
単なる、「モテ社会」の中でイス取りゲームをやってるだけではないのか?ってね。
ハザマさんが避難所のスレで必死に言ってたのも、同じだと思うんだけど。
このスレでは、「流通している価値基準」を疑うことを薦め、
その実践として欲望されることを意識してみる、と言ってたわけすね^ー^
>>430 その最重要ポイント、承ったw
別に弱者性やマイノリティ性で同性愛を超えるとも思ってませんし、 競争しようとも思ってませんけどね(^^; 彼らが異性愛的価値観に縛られているのは、 そういった価値観によって形成された社会に今も生かされているという事実と それを成しえない自分への呵責。 そしてその呵責を乗り越えるだけのビジョンが示せない人間が、 むやみに既存の価値観を壊すべきではないとする考え方があると思う。 あと、喪やオタが少子化の責任擦り付けの矢面に立たされてる現状も影響しているかも知れない。
???? どっから「競争」とかって言葉が出てくるんだろう……??? ま、いっか。 「それを成しえない」というのは、既定の価値観で成り立っている社会に暮らし、 それなりの恩恵を受けながらも、その価値観に従えない。どうしてもモニョってしまう。 そして、モニョってしまうことに対して罪悪感を持ってしまう、ってことだろうか。 それはねー 非常によく分かりますよ。 実際、そいうことで自殺したり事件起こしたりする人、いるもんね。(加害者被害者とわず) つか、誰でも、多かれ少なかれ、そういうモニョリは持ってると思うのね。 だけど何となく折り合いつけてやってるってトコだろう。 俺だって、「モテ社会」なるものを苦々しく思いながらも楽しんでるよw 楽しみつつも、押しつけられたら、やんわりと押し返したり(=疑義を唱える)してる。 ただ、どうしても折り合いつけられない事もあって (このとき、しばしば”ワガママ”と罵られるw) そういう時に助けになるのは、既存の価値観じゃなく自分の価値観なんだよね。 俺が書いてきた”別の価値観を身につける”ってのは、 革命起こす勢いでこの世界を否定しる!って話ではなくw、 単純に、ものの見方や感じ方が変わってくるよって話なのね。 「恋愛資本主義」に踊らされている人々から彼らの価値観を押しつけられた時に、 自分や他人を恨んでしまう程の苦しさや怒りは感じなくて済みますよ、って話なんだわ。 自分が楽になれば、他人が何に踊っていようと、たいして気にならなくなる。 気にしなくなる人が増えれば、踊ってる奴らがアフォになっていくw 「価値観の崩壊」ってのは、そういう個人レベルの価値転換の積み重ねによって 起きるんじゃないかと思うんだけど。
>少子化の責任をおっつけられる それはあるだろうねー 強制異性愛の脊髄反射って感じ? 前スレ181だか182だかに掲載された、オタクの人のHPで、 オタクみずからがオタクの素晴らしさを説明していかねば!的なことを書いてたけど、 あれは、そういう意味でも重要じゃないかと思う。 ただ、、、思うのは。 毎度毎度こっち側から働きかけをするのは疲れるなぁってことで。 だからこそ、いたずらに敵を作るのは得策じゃないよなぁ、と…… せっかく広げた対話の窓口を塞ぐような真似は、ちょっとできないなぁ、と……
>>432 現状、少子化の責任は
政府に押し付けられている感がなきにしもあらず。
てか、少子化で慌てているのは
企業とあとは年金生活に片足突っ込んでいる層なので
責任を押し付けやすい政府に話が行っているような。
ぶっちゃけ、誰に責任押し付けていいかわからない人が多数のような。
と、ちょっとだけ本題と関係ないところを突っ込んで去る。
436 :
禁断の名無しさん :2005/12/23(金) 03:02:46 ID:/4FT5RTs
結局世の中贈与論なのだわ
ごめん寝てた
いろいろ書きたいことはありますが、完璧にスレ違いになるのではてなのほうに書きます。 これから大阪に行ってくるのでいつ書けるかはわかりませんが・・・。 ひとつふたつポイントを挙げておくとすれば、僕が二次元と三次元の峻別をつけようと(無意味に)あがくのは、 形而上的な問題からではなくて(トランスディメンジョンな価値観をもつほうが望ましいという主張には同意)、実際的な問題からです。 というのも、キモメンとか喪男と呼ばれる人間は、外見や”コミュニケーションスキル”の劣悪さゆえにそう呼ばれるのであって、 それと彼らのセクシュアリティの有り様は(少なくとも直接には)関連していないのです。 だから、ゲイコミュニティのように、○○というマイノリティであることがその人のセクシュアリティである、という主張は意味がなく、 モテないのはその人が「モテないセクシュアリティ」を持っているから、というわけでもないのです。 確かに、喪男・キモメンと呼ばれる集団には、恋愛や結婚に対して保守的な考え方をする人間が多いですが、 しかしそれは、保守的だから非モテなのではなく、むしろ因果関係は逆で、モテないゆえに保守的になってしまうわけです。 (ちょうど、低所得層ほど自民党を支持するように) つまり、二次元が(三次元恋愛の鏡写しとして)性役割の固定化から脱せないのは、三次元恋愛において異性愛者がマジョリティーで あるという事象と同じくらいどうしようもないことではあります。だからこそ、僕たちキモヲタの手による二次元世界のヘタレなホモソーシャルが、 三次元世界に還元されないように、そして実在する人々に迷惑が及ばないように、二次元だけで完結される射精作法を身につけなければならない。 逆に言えば、現代においては、「自分は家父長的価値観が全身に染みこんだ人間だ」と気付いてしまった人たちは、 二次元に逃げ込むより他にないのかもしれません。(下手に異性と関わりを持とうとすれば、ジェンダーフリーへ向かう世の中に迷惑をかけますから) たとえば、僕は数学科の学生ですが、ウチの学科には2〜3年に一人くらいのペースでしか女性が入ってきません。 この現象が、性役割の教育(シャドウ・ワーク)の帰結なのか、それとも男女が本来的に持つセクシュアリティの相違によるものなのかはわかりませんが、 どちらにしろ、数学科に所属していて数学に興味があるという時点で、僕はどうしようもなく”男性的”であるし、 どうしようもなく”傷付ける性”であるわけです。そんな人間に、三次元恋愛が許されるとは思えない。どうしたって、相手を傷付けてしまわざるを得ない。
さらに、僕はロリコンでもあります。ロリコンが他の性的倒錯と決定的に異なる点は、その性的欲望が決して実行に移されてはならないことです。 最近、メディアが楽しそうに取り上げるレベルの猟奇事件が何件か続けて起きましたが、 統計的に二次ロリと犯罪とが結びつかなくても、FUD(不安、不確実、不信(不審))で煽れば世間なんて簡単に二次(ロリ)叩きに走るわけです。 (おそらく、オタクが「自分たちはマイノリティ」だと感じるのはこのあたりの要素が大きいでしょう。 セクシャルマイノリティではないけれども、体のいいスケープゴートに使われがちであるという事実が、 「また僕たち叩かれてるよ→それはマイノリティだからだ」と思わせるのだと。) この状況を鑑みるに、萌えオタたちにとっては二次元と三次元との関係を希薄にさせることが(それが二次元礼讃や三次元攻撃に繋がる場合も含めて) 至上命題となっているわけです。 確かに、キモヲタたちが彼ら自身の強制的異性愛の呪縛から逃れ、三次元恋愛ベースのセクシュアリティから逃れ、 多様性を獲得することができれば、それが問題解決への一番の近道でしょう。 しかしながら、それらが簡単にできるとは僕には思えません。 教育や社会の変革により、ジェンダーフリの考え方自体は支持されるようになるでしょう。「強制的異性愛以外の様式も全然OK」という認識は広まるでしょう。 女装(悟り)もコスプレ界でどんどん常識化されていくでしょう。そしてもちろんそうなるべきです。しかし、こうした多様性を理解し受け入れることと、 自分自身がその多様なセクシュアリティとなることの間には、越え難い溝があります。 (たとえば、いぬまわりさんがジャニ系の顔を本気で好きになることができるでしょうか、というような話です) ただ”価値観を相対化して多様性を受け入れればいいと言われても、なかなか困難が多い。 しかし、だからといってそのままキモヲタコミュニティを放っておけば、「喪男道」みたいな動きが(ネット上だけでなく) 現実世界でもホモソーシャルな枠組みをなし、あなたがたに迷惑をかけるかもしれません。 そのとき非モテはまぎれもなく「強者」であります。ではそうしないためには、幻想のホモソーシャルを幻想のまま 世界の隅っこに留まらせておくにはどうすればいいのか(そしてこれは同時に、不安ベースで攻撃してくるメディアに対して どのような戦略をとれば三次元から同じセクシュアリティをもつ二次元を切断できるのか、でもある)、これが萌えを巡る個人的な難問として、 僕の腐った頭を悩ませ続けています。 それではみなさんさようなら。
>>438-439 >というのも、キモメンとか喪男と呼ばれる人間は、外見や”コミュニケーションスキル”の劣悪さゆえにそう呼ばれるのであって、
>それと彼らのセクシュアリティの有り様は(少なくとも直接には)関連していないのです。
ええ、そうですね、そこには「規範としてのジェンダー」という媒介があります。
>だから、ゲイコミュニティのように、○○というマイノリティであることがその人のセクシュアリティである、という主張は意味がなく、
>モテないのはその人が「モテないセクシュアリティ」を持っているから、というわけでもないのです。
そういう本質主義的な主張をするゲイがすべてではありません。そして、セクシュアリティは「持つ」ものかどうか。
>逆に言えば、現代においては、「自分は家父長的価値観が全身に染みこんだ人間だ」と気付いてしまった人たちは、
>二次元に逃げ込むより他にないのかもしれません。(下手に異性と関わりを持とうとすれば、ジェンダーフリーへ向かう世の中に迷惑をかけますから)
セジウィックの『男同士の絆』 『クローゼットの認識論』 といった著作が明らかにしたのは、
近代におけるセクシュアリティの構築はあなたのいう「家父長的価値観」、セジウィックの
用語でいえば、「ミソジニー」と「ホモフォビア」と無関係ではなく、誰もが「家父長的価値観が
全身に染みこんだ人間」である、ということに他なりません。これはフロイトが誰もが「神経症である」、と
考えたことに始まる、精神分析的な「人間」の捉え方です。したがって、上の引用にはいくつかの
短絡があります。下手であろうとなかろうと、異性と関わることでジェンダーフリーの妨げとなる
「神経症」もある、ということです。フロイトなら、その「神経症」の治癒は別の種類の「神経症」への
罹患だと考えるでしょう。下手であろうとなかろうと、異性と関わることを通じてジェンダーフリーを
進める「神経症」もある、ということです。
>どちらにしろ、数学科に所属していて数学に興味があるという時点で、僕はどうしようもなく”男性的”であるし、
>どうしようもなく”傷付ける性”であるわけです。そんな人間に、三次元恋愛が許されるとは思えない。どうしたって、相手を傷付けてしまわざるを得ない。
ここにも短絡がありますね。「数学」と「男性性」の本質主義的な理解、および、「男性」を「傷つける性」とする本質主義。
あなたは「女性」から「傷つけられた」んじゃなかったでしょうか。では、その「女性」は「男性」ですか。
>さらに、僕はロリコンでもあります。ロリコンが他の性的倒錯と決定的に異なる点は、その性的欲望が決して実行に移されてはならないことです。
ペドに関しては、規範としてのジェンダーの解体がその欲望の再生産条件自体を変えてしまうといったことが、考えられる。
それはおそらくゲイやビアンその他にとっても同じでしょう。
>教育や社会の変革により、ジェンダーフリの考え方自体は支持されるようになるでしょう。「強制的異性愛以外の様式も全然OK」という認識は広まるでしょう。
>女装(悟り)もコスプレ界でどんどん常識化されていくでしょう。そしてもちろんそうなるべきです。しかし、こうした多様性を理解し受け入れることと、
>自分自身がその多様なセクシュアリティとなることの間には、越え難い溝があります。
>(たとえば、いぬまわりさんがジャニ系の顔を本気で好きになることができるでしょうか、というような話です)
セクシュアリティの承認をめぐる話は、上の引用のような「容認」ではありません。
それについては前スレで書きました。
また、「〜になる」というのもそうした意識的なものや「できるできない」といったことではない。
ドゥルーズ=ガタリがいうように「〜になる」は「出来事」であって、条件が整えば起こってしまう。
自分がどれだけその条件を準備しても、必ず向こうからやってくるものがある。「待つ」ということが
そこにはある。
そして、いぬまわりさんへの問いは「にせの問い」ですね。ジェンダーの解体が進めば、「ジャニ系の顔」が
無くなる。そうなったら、いぬまわりさんがその誰かのたんなる顔を好きになる、という出来事が起こる。
そして、以上の数々の疑問が生じるような「萌えを巡る個人的な難問」を
>二次元と三次元の峻別をつけようと(無意味に)あがく
ことが作り出し、再生産しているのではないか、ということでしょうか。
>ジェンダーの解体が進めば、「ジャニ系の顔」が無くなる。 そうね。 ジャニ系の顔っていうのは、顔の造りだけでジャニ系が成り立つんじゃなくて、 「美しいもの」「格好いいもの」とされた流行の装いや立ち居振る舞いを身につけた上で成り立つ。 権力が刻印されたコードを利用しているのだと思うの。 優位のbelongingを選択する(できる)ことによって得る権力。 嫌悪を抱いてしまうのは、そこがポイント。 「マイ・フェア・レディ」(ピグマリオンでもいいわ)のイライザが 粗野な娘であるなら好き。“魅力的”な淑女になったイライザは嫌なのよ…。 「美女と野獣」で呪いが解けた野獣が王子様に戻ることへのモニョリと同じね。 モテを目指す非モテ、出来ることならモテでありたかったと願う非モテ。 その願いは理解出来ることだけど、 自分を苦しめてきた価値観の維持に自分も貢献してしまっていることにもなって 自分の首を締めてはいないかと。 >外見や”コミュニケーションスキル”の劣悪さゆえに それが「劣悪」と教えられた通りに感じなくてもいいのに。
>それが「劣悪」と教えられた通りに感じなくてもいいのに。 感じなくていいし感じる謂れも無いのはわかっているのですが、 普段の生活の中で「劣悪だ」とどこに行っても洗脳され、その価値観を内面化 させられる場合、具体的にどうやってどこに逃げを打ったらよいのでしょうか。 逃げずに強くなるしかないのでしょうか。
えーー??? 具体的にって…… 自分の欲望をよく見つめて、それに忠実になればいいんじゃないのーー?
>>442 は
>>439 さんでしょうか。
たとえば、留学して他の地域からの留学生の女性と付き合ってみる、
といったこともありますね。「普段の生活」を別の場所でやってみる、とか。
「どこに行っても」とのことですが、そんなに多くの場所には行ってないんじゃないかと。
教養を欠いたかたちで「モテ」「非モテ」といった現象が起きるのは、さしあたって
日本とその影響をうけつつある東アジア諸国くらいでしょうから、「逃げ」を
考えるなら、そういうやり方もあるでしょう。
そういった逃げや現状の価値観に従わない生き方を20年以上も経た結果、 それで果たして良かったのか?と自問し始めているところなのです。 それは自分一人の生活の向上という利己的な意味においてではなく、 「理想主義的・原理主義的過ぎて気持ち悪い」「だからお前達は現実社会からパージされるのだ」 と言われ、貝のように生きてきた結果、 現実がこれほど醜く成り果ててしまったのではないか?と。 理想は果たして本当に不必要ないのか?と。 理想を現実にフィードバックさせることで、現実をもう少しマシにできるのではないか?と。 その為に何か自分達にできることがあるのではないか?と。 利己的に生き、利己的な損得だけで生きるなら、世の中の事(犯罪や少子化)は完全に無視して 貝のように生きるだけでいいし、そのほうが楽なのは確かではあるのですが。
なんだか面白い展開になってるので便乗してみる。
>>438 kiya氏
> どちらにしろ、数学科に所属していて数学に興味があるという時点で、
> 僕はどうしようもなく”男性的”であるし、どうしようもなく”傷付ける性”であるわけです。
私は特にここに引っかかりました。
数学に興味がある=男性的=傷つける性 というのが短絡であることは42氏の言われる
通りなんですが、「自分は相手を傷つける性質を有する」という強迫観念的な自己規定
そのものが、自分自身を追い詰め、結果的に「相手を傷つける」ことに繋がってるんじゃ
ないかと。
こう思うのは、かつて私自身が同じような強迫観念を抱いていたためでもあります。
こういった自己規定は「人と接するか接しないか」の0か1かの関係性に帰結してしまい、
その間にある「目の前の相手にどのくらい心を開いて、どのように接するのか」という試行
錯誤の努力を放棄させてしまうんです。その意味で、自らを一方的に加害者と断ずること
は、被害者と断ずることと同様に甘えであると思います。
447 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/12/25(日) 00:56:05 ID:I55D5f1Y
>>445 ちょっと、意味がよく分からない。
スレの流れから、
現状の価値観に従わない=貝のように生きる、利己的に生きることだ、と捉えてるの???
445は喪の人なの?? 世間の価値観に従わずに生きることが、 犯罪や少子化問題をより悪くすることになると思ってんのかな?? だとしたら、それこそ、世間なるものの術中にハマってる気が……w ちなみに、俺は全く逆に思ってるよ。 ジェンダー規範の解体だの、現状とは別の価値観を身につけることは、 犯罪の抑制や少子化を食い止めるんじゃないかと思ってる。 何かに縛られることなく捉われることなく、 みんなが当たり前に「共生」していける社会を構築できると思うから。 (なんか、イメージだけなんだけど。。論理的に説明できなくて申し訳ない。。) つか、現状の価値観のもとで、そんな事態になってしまったわけなんだから、 同じことを続けて何がどう変わるんだろう?? いいかげん、違うことをやってみてもいいんじゃないか?と思うんだけどw 今の「現実」は偏ってると思う、いろんな意味で。 例えば、容姿が良いとか金をより多く持ってる者が「善」とされ優遇されるとかね。 だから、そういう「現実」を支えている価値観を疑ったり、疑問をつけたりしていって、 いっぺんサラな状態にする必要があるんじゃないかと思うんだよね。 で、それがなされた時、どういう"理想"を持つのか。 その"理想"をどう現実にフィードバックさせるのか。 ってのは、その後の話じゃないんかな。
449 :
喪の人 :2005/12/25(日) 02:09:15 ID:h4bZgnUK
そこが方法論というか価値観の違いとか言いようが無いというか、 432で書いた >ビジョンが示せない人間が、むやみに既存の価値観を壊すべきではないとする考え方があると思う。 ということでして、今よりも価値のある未来に向けてなら現状を粉々にすることもいとわないですが、 そこがどうもジェンダー論周辺からは見えてこないんですよね。 ジェンダー論の指導的な立場の人間はすべからくビジョンに乏しいというか、 男憎しのジェンダフリーな方々ばっかりだし。 民主主義革命にしろ共産主義革命にしろ、目指すべきものあっての「革命」であって、 目指すべきもの無き革命はただの暴徒というか破壊行為でしかないのでは、と。 「現状の価値観は”すべからく”間違っているから全部ぶっ壊そう」では誰もついてこない、と。
ぅーん……? 誰かが「ビジョン」を提示しなきゃいけないの?? 提示する権利や自由は、誰もが持ってるんだよ、俺もあなた(449)もね。 その自由を行使して、 「ビジョン」「目指すべきもの」を一緒に考えたり作っていけばいいんじゃないんでしょーか。 今フト思ったんだけど、 「承認」ってことなのかもしれない>みんなが当たり前に「共生」していける社会を構築できる 異性愛者がいて同性愛者がいて、オタクがいて男がいて女がいて障害者がいて……etc いろんな人が存在し、それぞれの間で縦横無尽に対話がなされれば、 犯罪や少子化抑制につながるんじゃないでしょーか。
>>449 「既存の価値観を壊す」ことと「多数派の価値観に与しない」ことは別のことだと思うのですが。
わざわざ「革命」を気取ることもなく、「多数派に与しない」ことはさほど難しくありません。
それと、現状の価値観がいいか悪いかは置いて、「他人の価値観に無条件に捉われること」
それ自体に問題があると私は考えています。
ある価値観が、未来において価値あるものかどうかは誰にも分かりません。だからこそ、自身
の行動・価値基準を自身の責任において決めていくべきだと思うのです。「既存の価値観」を
素直に肯定するならそれでいいと思いますが、それに違和感を感じるのであれば、そこから
外れることに罪悪感を持つ必要はないでしょう。
それから、今よりも価値がある未来、なんて誰も保障できないと思うよ。 いくら「ジェンダー論の指導的な立場の人間」でも、それは断言できない。 価値がなさそうだったら、また軌道修正すればいいんでさ。 絶対唯一の「ビジョン」があるとは思えないし。 規範を壊すことは新たな規範を作ること、42さんはそう書いてたっけ?? 要するに、これで終わりって事はありえないっしょ。この先もずっと。 パート1や2、3あたりで、既得権益とかの話も出てるんだけど、 ある種の人々は、今現在握っている利を、なかなか放したがらない。だよね?? 変化、破壊に抵抗を覚えたり恐怖を感じるのも分からないじゃないけど、 何かを新たに構築するには必要なことだと思うよ。
>>451 そうですよね。なんで、そう極論にいくんかなあ……
>>433 にも書いてるように、
「”すべからく”間違っている」なんて誰も言ってないと思うんだけどなあ……
どのレスを、そんなふうに読んだんだろう???
ていうか、うまいこと言いますねー>「他人の価値観に無条件に捉われること」
>>442 の人は、
>洗脳され、その価値観を内面化させられる場合
「される」って書いてるね。
これねえ……なんか、話が通じない根源はコレかなって気がする。
「させられてる」んじゃなく「してる」んじゃないのか?って話をしてんだよね俺は。
少し前に非モテについて"主体性がない"って書いたんだけど……
それと関係あるのかどうか分かんないけど、、、
その強固な被害者意識をひとまず捨てて(←コレが難しいんだってのはわかるが)
素の自分の欲望、ってのかな、それを見つめてみたらどうだろう。
そうすっと見えてくるんじゃないのかな??
「洗脳されたい」「その価値観に従いたい」って思いがどんだけ強いかってことが。
洗脳されたい・従いたい、だけど、そうできない自分。
であるならば。
洗脳したり従わせようとしてる者は加害者? 俺は違うと思うんだけど。
442の人を弱者たらしめ傷つけているのは、442自身だと思うんだけど。
で、見つめた結果。
テクノロジー武装してまで努力し続けるか。
そんなんあほらしいとケツまくるか(w
決めるのは自分しかないんで。
ま、「逃げる」ってのも選択肢としてアリだね。
454 :
禁断の名無しさん :2005/12/25(日) 05:55:40 ID:62Zzfy3D
自分の気持ちを優先させようとすればするほど他人の気持ちを無視できなくなるのにね。
>>445 =
>>438 >>439 ですよね。
理想を現実にフィードバックさせる、と言うのは
具体的に何を変えたいんですか?
理想というのは何でしょうか?
キモメンキモウーメン、イケメンイケコって概念を無くすこと?
イケメンイケコ同様にキモメンキモウーメンもパートナーを宛がえる社会?
それとも恋愛に纏わる過剰な幻想=エロスを無くす事ですか?
私は恋愛至上主義社会で損する側なので
いずれにしろ変えてもらえなら得ですけど
現状の規定で満足な人種もかなり多いっていうのが実感としてあります。
その場合
>>445 =
>>438 >>439 氏の言う変化がまたエゴになるのでは?
だからはくタソの共生が理想だなと思うんですが。
わたしゃ>445さんじゃ無いけど
>>455 さん
共生が理想だとして、現実ではそれすらも理想主義的だとしか
いえない世界が多すぎるんじゃないですかね。
このスレの住人の方は少なくともゲイコミュニティで承認を得る
事ができたのかもしれませんが、散り散りに存在する非モテの場合、
各種コミュニティから疎外されたままで、同調圧力に晒され続けて
いる事が問題なのかもしれません。
>>445 の人と僕の主張は逆です。
僕は、フィードバック”しない”ためにどうすればいいか、ということしか言っていません。
>>453 自分のなかにある加害性を「見つめる」ことと、その加害性から脱することは違うと思います。
ダイエットや美容という脅迫観念に悩まされている人に、「そういう価値観は社会の押しつけとあなたの奴隷精神が・・・」と
”説教”したとしても、それは構造的には説教した人の自己満足になっているだけで、
説教された側はその主張自体は理解できても、メタのレベルでは説教する人−説教される人の間の抑圧の構造が
繰り返されているし、もとの強迫観念から解放されるわけでもありません。
もう一度書くと、身体的なレベルで刻印された観念から脱出することと、その観念について理解し相対化することの間には、
ズレがあります。脱出できないのは理解していないからとは限らないし、理解すれば脱出できるわけでもありません。
>>458 kiya氏
別のブログのコメントでも書いたんですが、いったん染み付いた強迫観念はなかなか抜け
切るのは困難です。しかし、「強迫観念について理解し相対化」することによって、気付か
ない状態よりもより生きやすくなることは可能だと思います。
要は「強迫観念という持病」とどう上手く付き合っていくか、という問題なのでは?
それにはあまり同意できません。 「相対化」は論理的整合性という観点からは重要ですが、生きやすくするという意味ではむしろ逆効果になりかねません。 人は、自己言及や相対化なしに自分の信じる正義感を無自覚に無批判に振り回しているときに最も”生き生き”するものです。 マスコミにしろ、過激派喪男にしろ、ブッシュにしろ、ビンラディンにしろ、モテ資本にしろ、僕自身にしろ。
うーん。。 まぁ確かに「強迫観念に踊らされている状態」を生き生きしていると言えば言えますが。 しかし「そんなことは些細な問題だ」と言うと怒られるでしょうか? 「強迫観念に踊らされている」人間は多かれ少なかれ周囲との軋轢を生み、しかもなぜ 軋轢を生んでいるかが本人には分かりません。この「本人には分からない」という点が 重要で、「踊らされている」限り本人には、この世がひたすら理不尽さの塊のように見えて しまいます。 このような状態を、たとえ「生き生き」しているからといって「生きやすい」と言えるでしょうか?
kiyaさんの主張は、これ、客観の欠如って事になるの? ニヒリズムってやつ?ww
恋愛資本主義に踊り・踊らされてる人々と同じで構わない、
自分が"生き生き"するために、他者の"生きやすさ"を侵害するのだ、という宣言なんかな?
ま、それは置いといて。
>>442 を俺は浅読みしてたかもしれない。
442は、「お前は醜い」と言われ続けた結果、
自分の顔を「醜い顔のモデルケース」としてしか見れなくなってる、という話かな??
そうなった自分は、どこに「逃げ」ればいいのかって事だね??
これまで俺は、その「醜い」という基準が果たして正しいのかどうか、
もっと言えば、そういう基準が存在する必要があるのかどうか、
そこを疑い・考えてみたらどうですか?って話をしてきたんだけども。
もし、抜き差しならない程の「強迫観念」を持つに至っているんなら、
それはセクハラの領域だと思うんだけどね。
そのセクハラによって、働く(勉強する)意欲が削がれているんなら、
訴えたらいいんじゃないの??
そんなふうな「生きやすさ」をほんとうに望んでいるの? そんな僅かなささやかな「生きやすさ」に逃げた先で出逢える相手は皆、 「お前は醜い」と言う奴らばかりではないの? 「醜くない。そんな造られた美醜の概念は下らない」と言う者を望まないの? そんな他者をも拒絶したいの? そして、そんな他者は「生きやすさ」を自明視する人の中にはいる筈がない。 もちろん、そんな相手と出逢える確証はないけど、もしかしたら、ね。 もったいない。出逢える可能性を自ら摘むことはないと思うのよ。
なんだかさー
説教だの、革命だの、理想主義だの、観念からの脱出だの……
俺、そんなに難しいこと言ってないんだけどなー……
>>455 >現状の規定で満足な人種もかなり多いっていうのが実感としてあります。
同意。特別「モテ」でもなく「非モテ」でもないって人がほとんどだと思うよ?
で、なんとなくうまいこと折り合いつけてやってるよねw
>その「醜い」という基準が果たして正しいのかどうか
「目が大きい」事を美とし理想としている"環境"の中で、そういうものだと教え込まれ、
自分自身もそういうもんだと思い込んでいれば、
「目が小さい自分」ってのは、どうしようもなく「醜く」見えるだろうさ。
だけど本当に「目が大きい」のが万人共通の「美」なの?w
世の中には、二重のパッチリ目をキモいと思う人はごまんといるんだよ?w
(俺の場合、斉藤暁さんの目なんか非常に好きだけどねw
佐藤友美さん、木村多江さんの目も色っぽいと思う)
小説なんかで「おもたげな」「ものうげな」「切れ長の」「鋭い」と表現される目は、
“一重まぶた”や”小さい目”を指してるんじゃないかと俺は思うのね。
そういう目を想像し良しとする、愛でる、これも「愛撫」の一環でしょ。(
>>246 )
あと、「ブサ男・ブサ女」カップルってのも掃いて捨てるほどいて、
彼らこそ折り合いつけてうまくやってるわけでしょ。
それを表現する言葉もたくさんある。
蓼くう虫も好き好き……ノミの夫婦……割れ鍋に綴じ蓋……アバタもエクボ……
(これらは外見の美醜だけを表した言葉ではないけれど、
世間の価値基準から外れた人々の存在を表す言葉じゃないのかな)
非モテ・喪の人々(全員ではないだろうが)ってのは、そういう類の”経験値”が
圧倒的に不足してるんじゃないかと思うよ。
なぜ不足するのかっていうと、
「目が大きい事を美とし理想とする」価値観に捉われてるからでしょ。
その価値観に固執してる限り、「小さい目」を愛撫するチャンスは、まず来ないだろうね。
「小さい目の(醜い)自分」を愛撫することも、
「小さい目の(醜い)他者」を愛撫することもできない、ってことだ。
>>463 いぬまわりさん、
二次元の世界では、どのキャラクターも「お前は醜い」なんて言わないんだよw
だから"生き生き"できるんじゃない?
>>464 のラストに追加。
世の中には、目の小さい(醜い)人が大勢いるってのに
愛撫できないってのは気の毒なことだと思うよw
>>454 は、kiyaさんの宣言と、非モテがこれだけ存在し声をあげている現実を
ひきくらべて考えると、非常に含蓄あるね。
ぶっちゃけ、kiyaさんのように、
「美」は「大きな目」にあるんだとし、手に入らない三次元に見切りをつけて
二次元世界にその「美」を求めるってのも、俺は全然アリだと思うんだわ。
何を「美」とするかなんて、ひとの勝手だからね。
そうしたい人はそうすればいいさ。
ただし、そんならKiyaさんは「(世間の価値観によって差別され虐げられている)非モテ」
を自称する必要はないよね。(実際、自称してるかどうか知らないがw)
単に、【誰に強制されたのでもない自分自身が理想とする「美」を誠実に追求する人】ってだけなんで。
ま、その「個人の美の基準」を他人に押しつけて、直接的に非モテの首を絞めなければ、
とりあえずのところ、いいんでねーの。。
小さい目ね。 日本の二次元アニメ、“かわいい”に幅がないと思うの。 美醜の基準がとても定型化してるように思うの。 英国アードマン・アニメーションのクレイアニメに多い点目が好きだわ。 (有名なのはウォレス&グルミット) 片や、森久美子や天童よしみが「上手な歌が魅力のでぶ」扱いされがちなむこうで、 ベット・ミドラーやアレサ・フランクリンは「歌の上手な魅力的な女性」。 あーあ。
その、「あーあ」っての分かるww 森久美子が「太ってる人は神の使い」とされてる地域に行くテレビを見たけど、 モテモテだったー 今日考えてたんだけど、てか前からアチコチで言われてたかも?だけど、 女子高生の美的感覚は、アニメから受け継いでるよね?? アニメキャラが男にウケてるから、女の子はそれを忠実に真似たんだと思うんだけど。 ミニの制服にルーズソックスなんて、まんまアニメでしょ?? 馬鹿っぽい(失礼)しゃべりとか思考とかも、 アニメの「無垢」とか「処女性」とか「従順」をそのまんま映してる気がするんだなー それなのに、そういう三次元女をバカにするてのはどういうワケだろう……
>>462 横から申し訳ないのですが、
> そのセクハラによって、働く(勉強する)意欲が削がれているんなら、
> 訴えたらいいんじゃないの??
これで訴えても馬鹿にされるということがわかっているからこそ
(冗談抜きで、統合失調症扱いされても不思議はないと思います)
「非モテ」は自己主張を繰り返すのではないのでしょうか。
「ラブハラスメント」言説はまさにそれが表に出たものだと思います。
それに、そのようなセクハラ(主に同性からの)は余りにも遍在していて、
どこを訴えてよいのかもわからないのが現状です。
こうしたセクハラは、個々の加害者から受ける被害は些細なものでありながら、
どこに行っても被害から逃れることができないという、そのことが被害者を
追いつめていくことになっているわけですから。
このテのセクハラ裁判は、実際にあったような気がするんだけど
ソース出せないから、まあいいや。
>>442 も
>>470 も同じこと言ってるね。
>どこに行っても被害から逃れることができない
>普段の生活の中で〜どこへ行っても
>>444 (42さん)は
>「どこに行っても」とのことですが、そんなに多くの場所には行ってないんじゃないかと。
と言ってるんだけど、俺も同じ意見だよ。
これは、物理的な場所に限っての話じゃない。
>>464 で書いてる、
小説や映画(いぬまわりさんは映画を何度も挙げてるね)という場所での経験も
不足してるように思う。
わかるかな??
あなた方が、「どこに行っても被害を受ける」と言えば言うほど、
行く場所が限られていて、経験不足だなあ……という思いが強くなるの。
だから、俺があなた方に言えることは、
・別の価値観が流通している場所を見つける
・別の価値観をみずからが作る
これしか思いつかないんだよ。
で、この2点は恐らくほぼ同時に行う事ができる。
ただそれには、
自分が現状の価値観をどれだけ内面化しちゃってるか、に気づかなければ
無理じゃないかと思うよ。
どこへ行けばいいんですか? 何を好きになればいいんですか? たとえば、世で言う「ブサイク」の写真をじっと見つめて、「好きになる好きになる」と自己暗示をかければいいんでしょうか?
>>470 「非モテとは(顔の美醜等の基準によって)『非モテ』と呼ばれる者のことである」と
言えるのであれば、問題は、日本人の若いヘテロ男女の「モテ」イメージの貧しさになります。
セクシュアリティ、人種、民族、国籍、学歴、年齢、容貌、体格等々の限定が
日本人の若いヘテロ男女の「モテ」イメージにはあり、その限定には
規範としてのジェンダーが関わっている。
「余りにも遍在」「どこに行っても」と言うには、「非モテ男」の経験は貧困だと思います。
小説を読み、映画を観ることまで含めて。
>>472 だからさ、アンタは無理するこたねえよ。
世で言う「イケメンイケコ」が素敵☆と思ってんでしょ?
アンタはそれでいいじゃんw
>>471 おや、レスがかぶってますね。
>>472 自分を「非モテ」と呼ぶ前に、自分が何を「モテ」と考えているのか、
自分がそうなりたいかどうかは別にして、自分がどうなれば「モテ」と
言えるのか、それを考えてみればどうでしょう。
おそらくそのイメージは「モテ男」と共有しているきわめて限定された貧困なものだと
思うけれど、それに対して「〜は非ず」と名乗りながら、限定はなんらはずされない、
そこにいぬまわりさんやはくタンは疑問をもっている。
それは、「非モテ」を僭称してるんじゃないの?、ということでしょう。
「モテ」イメージが貧困であればあるほど、「非モテ」というのは
より豊かで肯定できる存在になるはずが、そうなっていない。
何が「非」なのか、まったくわからない。
俺が一番気になるのは、
物理的によその土地に移れない(職場や学校を移れないとか)、
容姿以外の売りポイントを持たない(学歴とか特殊技能とか)人たちなんだよね。
>>456 の、
>散り散りに存在する非モテの場合、各種コミュニティから疎外されたままで、
>同調圧力に晒され続けている
人たちね。
このスレ見てたり、ブログ立ててる人たちは、まだマシでしょ。
上記の「真の非モテ」達を何とかしようと思うなら、
やっぱり、個人レベルでの価値観の転換を、
地道に行っていくしかないんじゃないかと俺は思うんだよ。
このスレにレスできる喪の人たちは、
「それはできない。これもできない」と言うのはやめて、
他に良い策を書いてみれば。
二次元に逃げるってのは分かったんでw、それ以外でねw
なんつーか、イメージ・経験・価値観が貧困/豊かという基準でモテ非モテの抑圧が繰り返されてるんだなあ・・・
お前らが策を書いてみろって・・・ 良い策がないから、ここでうだうだお伺いを立ててるんじゃいですかw
×立ててるんじゃいですか ○立ててるんじゃないですか
>>477-478 だから俺が言えることは、明記してるじゃん。
それが違う、不満だ、ピンと来ないってんなら、あとどうしろってのよ?w
ていうか、こうなると、あなた方が何を問題にしたいのか疑問に思うよ。
まさかと思うが、
「モテ」人がいかにヒドイか間違っているか歪んでいるか
みんなして悪口を羅列しろってんじゃないよね?w
で、
>>476 の
>自分を「非モテ」と呼ぶ前に、自分が何を「モテ」と考えているのか、
>自分がそうなりたいかどうかは別にして、自分がどうなれば「モテ」と
>言えるのか、それを考えてみればどうでしょう。
あなたも、それを考えてみれば。
>>477 「貧困さ」を「豊かさ」と取り違えることで、抑圧が生じているんですよ。
これは「モテ」イメージに限ったことではありませんが。
>>480 すみません。具体的にどのレスに明記されていますか?
>>477 「繰り返されてる」んじゃなくて、あなたが「繰り返している」んです。
また、
>>458 の話は「理解」の定義の問題ですね。僕は「理解」という言葉を、たとえば、
補助輪無しの自転車に乗れない状態から乗れる状態への移行、脱出を可能にする
ものとして使う。
>>458 は「説教」だけでは「理解」が起こらないという話であって、
そこから「説教」を「説教」する者の自己満足でしかないものとするのは短絡でしょう。
「説教」というのは「説」と「教」から成る言葉ですが、「教える」ということにおいては
言葉にできない何かも関わっていて、たとえば、自分が補助輪無しの自転車に乗れるように
なったのがどうしてか、ということを言葉にするのは困難です。しかし、補助輪無しの
自転車の乗り方を教える時には、「もっとペダルをこいで!」とか、「怖がってちゃダメ」とか、
いろいろと言葉を用い「説教」する。そうやって「説教」しつつ、自転車を途中まで後ろから
押したり、自分で乗って見せたり、隣で並んで乗ったりしながら、言葉にすることが困難な
ものを教え、学ぶ、そういう出来事が起こる。
>>458 の例は一般化するには、あまりに
描写不足で、そこにも「モテ」イメージの貧困と同じ、「理解」イメージの
貧困があると思う。
「そういう価値観は社会の押しつけとあなたの奴隷精神が・・・」という言葉が、
「理解」につながるかどうかは、言葉以外のものがその言葉とどう組み合わされているかによる。
拒食症を克服した女性がその克服の記録映像とともに、その言葉を口にする、
そうした場面を考えてみてもいい。ある「強迫観念」から脱出している者がいるなら、
それを「教え−学ぶ」という出来事は起こる。「美容やダイエット」についても
それは同じこと。そのための条件は、言葉によってだけでは設定されない。それだけのこと。
もうひとつ。
「強迫観念」という言葉はつねに否定的な意味で用いられるけれど、
これは冗語だと思う。というのは「観念」というのは、強迫反復しつつ
ひとに取り憑くものだから。したがって、「観念」という言葉を用いながら、
「強迫反復」を否定することは無意味でしょう。そして、フェミニズムも
そうした「強迫反復」する「観念」のひとつだといえる。
問題はどんな「観念」をどのように「強迫反復」するか、今スレの別のレスで書いた言葉で
いえば「再演」するかで、たとえば「自殺」という観念を強迫反復すること自体を
問題視する必要はまったくない。また、ある「強迫反復」が「生き生き」と
しているかどうかは、その「強迫反復」が問題であるかどうか、とは関係がない。
>>449 さんのいう「ビジョン」といったものは、その「ビジョン」の実現のために生きる、
といった倒錯を引き起こしてきた。人間の生を手段化する、そうしたものとして
「ビジョン」が機能してきたこと、それを考えずに代替的な「ビジョン」を
立てることはできない。
そこで、現在、存在する「ビジョン」の人間の生を手段化する機能を
機能不全、トラブルに陥らせながら、その「ビジョン」を素材として別の
「ビジョン」をともに創出するという「強迫反復」から、新たな社会関係を
構築する、といったことを考える。
これはある「強迫反復」に対してメタレベルにある反復ではなく、
その「強迫反復」を自らも行いながら、その途中でそれを中断し、
失敗することを「強迫反復」するということ。Undoing Gender の
undoing とはそうした「強迫反復」であって、そうすると問題は、
どのようにうまく失敗するか、どのようにうまくトラブルを起こすか、と
いうことになる。それはそれぞれが自分でやってみることでしょう。
練習しても自転車に乗れない香具師はどうするの?
今、容姿に照準合わして書いてるけど、
それはkiyaさんが「キモメン」と書いたのに合わせているからなんだけど、
>>442 とかは「コミュニケーション」についても問題にしたいんだろうと思う。
てか、そっちが重要なんかな、ひょっとして。
で、もうメンドくさいから明かしてしまうが、
いかふらいって人のブログにコメントした「ララミー」てのは俺ですよ。
あと、らんげなんとかって人のところの「素朴な疑問」てのも俺だ。
前者コメントでは、基本的なコミュニケーションについて書き、
後者コメントでは、"経験"の必要性について書いたっけかな。
正直、あれ以上に言えることはないすね、俺は。
>>486 一輪車に乗る練習でもやってみればいいのでは。
>>482 てめえ、ふざけんなよ。読む気もないなら見るんじゃねーよ。
自転車に乗れないことで、他のすべてのことができなくなるわけじゃなし、 必要なら乗れるまで練習するか、別の乗り物に乗る練習をするか、で それはひとに訊ねることではなくて、自分で考え決めることでしょう。
どのレスに書かれているか答えられないのですか?
>>486 乗れない自転車に乗ろうとこだわり続けるのは何故なんだって話をしてんだよ、
こないだっからずっと。
自転車がダメでも、車でも飛行機でも何でもあるって話してんの。
ていうか荒しかよ、コイツ。
あと、自転車を変えてみる、乗る場所を変えてみる、教わるひとを変えてみる、と
いったことをやってもいいけれど、
>>486 は「理解」の定義とは関係のない問いですね。
荒らし認定が早すぎませんか?それってコミュニケーションスキルがなくないですか?
>>494 あなたも僕に数学用語を用いて「皮肉」を言うだけのコミュニケーション
スキルはもっている。そのスキルを「皮肉」以外に使えばいいだけです。
あと、
>>494 のようなつまらない「煽り」以外にもね。
スキルがないんじゃなくて、使い方を誤っている。
たぶん、恋愛においてもそうなんでしょう。
499 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/12/27(火) 02:00:05 ID:Cx4VC56q
>>494 お前さん
>>416 かい? コミュニケーションなんたら言うなら、
せめて人のレスくらい読みな。ほらよ。
>278の>266宛、>317の中段、>327の上段
>339の3段め、>342、>345、>364の>362宛
>368、>431、>433、>448、>450
>453、>462の>442に言及してる部分
>464、>471、>476
スキルの使い方というのも、小説や映画から教わることが 可能なものでもありますね。 ということで、今夜はこのへんで。
おやおや。誰かと思えばkiyaかい。 がっかりさせんなよ。
良い策を一つ「明記」するのを忘れてたよ。 ・小説を読み、映画を見ること。 具体的な作品はガイシュツ。自分でログ遡って探して下さい。 お休みン☆
503 :
470 :2005/12/27(火) 02:38:45 ID:+Wg3Oqt2
>>473 > 「余りにも遍在」「どこに行っても」と言うには、「非モテ男」の経験は貧困だと思います。
> 小説を読み、映画を観ることまで含めて。
では例えばどんな小説や映画があるでしょうか?
42さんお勧めのウェルテルなんかも当然読んでます。
でも、そこに救いがあるようには思えませんでした。
件の「もてない男」の著者の小谷野敦氏は国文学者ですけれども、
あの本の中でも「もてない男の苦しみ」を描いた文学作品はさほど多くないと
述べられていた気もします。私はあの本を読書案内として使えるかと思って
購入したのですが、なかなか良いものに出会うきっかけにはなれなかった。
>>487 > いかふらいって人のブログにコメントした「ララミー」てのは俺ですよ。
> あと、らんげなんとかって人のところの「素朴な疑問」てのも俺だ。
> 前者コメントでは、基本的なコミュニケーションについて書き、
> 後者コメントでは、"経験"の必要性について書いたっけかな。
後者はrangelife氏のことですか?
「経験」に関しては非モテはドツボにはまっている面があると思いますよ。
自己卑下の悪循環から、どんどん外の世界を忌避するようになっているから。
非モテはある種の神経症に近いと思うし、実際ブログを見ている限り、
精神的な病気にかかったことがある人もそれなりに多いと思う。
そういう風に、何らかの形で認知が歪んでいる人に対して、「見聞を広めよ」と
言っても仕方がないです。ことに「真の非モテ」に関してはそう。
そういう面で、「ララミー」名であなたが書いたことには同意できません。
一方的に上からものを言っていることで、あの場にいた人全ての反感を
買うような書き方をしたことを含めて、です。あれでは誰の耳にも届きません。
>>476 > 上記の「真の非モテ」達を何とかしようと思うなら、
> やっぱり、個人レベルでの価値観の転換を、
> 地道に行っていくしかないんじゃないかと俺は思うんだよ。
実のところ、ブログ書いてる人なんかはその試行錯誤の段階なんじゃないでしょうか。
だって、モテに批判されるべき点があると気付いているからモテの批判を書くわけで、
それは内面化されたモテ的価値観からの脱却の第一歩です。
全部自分の中に溜め込んでた間は、悩みを口に出して外に言うこともできなかったはず。
それに比べたら幾分はマシになっている、とも考えられませんか?
はく氏や42氏の「非モテは経験の貧困さから、狭い価値基準の中に閉じ込められている」
というのは確かに一理あります。ただ、470氏の言われるように、非モテの中にはある種の
神経症を患っている人が少なからず存在することも確かでしょう。神経症や精神病に罹る
と、病的な自己強迫から抜け出すのが難しくなります。
神経症のことはひとまず脇に置いて考えると、
>>503 =470氏が「経験の貧困さ」から抜け出
せない原因の一つは、「救いを求めている」点にあるのではないかと思います。
というのも、「救われる」という構図そのものが、「自分を苦しめているモテの価値基準」を
世界の前提に据えてしまっているからです。「救われたい」と期待する限り、こうした価値
基準の狭さから逃れることは出来ません。求めるべきは「救い」ではなく「無関係」でしょう。
「モテの価値基準」と「無関係な」価値観であれば、容易に見つけることが出来るはずです。
小説にせよ、映画にせよ、または生身の人間にせよ。
505 :
禁断の名無しさん :2005/12/27(火) 06:18:51 ID:oHcje9YJ
意味がないものに価値を見い出すのも人生の楽しみの1つよね。
「意味がないもの」は、 価値を計ろうとしている者が゛現時点゛で「意味がないもの」という(潜在的な)価値観/感を用いて計っているだけであって、「意味がないもの」は存在しないとい。 だから、視野を広げたり、複数の価値観があることを実感するために、多様な経験、本、映画を薦めているんだと思います。
507 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/12/27(火) 07:25:43 ID:Cx4VC56q
神経症の人がどうなのかは分からないけども、
学校いって就職して仕事してる中で、「見聞を広め」てはいても、
それが「経験」に結びつかないっていう事だよね
>>504-505 ちょうどいい例が速攻でてきてる。
>あの場にいた人全ての反感を
>買うような書き方をしたことを含めて、です。あれでは誰の耳にも届きません。
と書いてしまうって事だろうねーw
俺は、その理由を、
>>464 に書いたような事(その価値観に捉われているから)としたが、
そうではないという事だね??
烏蛇さんが言う「無関係な価値観」てのは、
俺なんかが言ってる「自分の価値観」とごく近いと思うんだけどね。
むしろ結びつけて拒絶するのは、非モテ側だという気がする。
503のレスを読むとどうもそんな気がするんだわ。
>それに比べたら幾分はマシになっている、とも考えられませんか?
いや、だから、上で「マシ」だろうって書いてますよね俺。
で、なにやら、一発逆転の策を求めているみたいなんだけど
(上の方にあった"すべからく"とか"革命"とか、そういう言葉が出てくる所を見ると、そう思わざるを得ない)
そんな簡単にいくとは思わないし、
このスレで出てきた指摘や提案は、あくまでも一つのものの考え方として、
あなた方ブログ人が、真の非モテたちへと繋げば、それなりに意味があると
思うんですよ。このスレのレスにしろ、ブログの各コメントにしろ、
全てを「違う」と否定しないでさ。否定するのは簡単だけどね。
要するに、俺が上で"地道に"って書いてるのは、そういう事ですね^ー^
ちと時間ないので、夜にでもまた何か書くことがあったら書きますわノシ
>>504 同意ですね。「救いを求めている」ことが問題だと思います。
思い出すのはカフカの「掟の門前」でしょうか。
>>470 さんには
「もてない男の苦しみ」を書いたものとして、まずはこれを
奨めておきます。
あのう…。非モテの外見、非モテのコミュニケーション。 モテないと思い知らされてきたようだけど、実際のKiyaさんってどんなのかしら? そこいらじゅうにいるアホなノンケ“モテ”たちより遥かにポイント高いわよ。 あたしとかはくタンとか42さんとかがリアルでKiyaさんにお会いしたら、 メロメロに惚れちゃう可能性がなくもないような。 色々書いてるけど、モテ/非モテの強迫観念に対しての距離の置きかたは、 ゲイだっていうので、やりやすい優位な立場ではあると思うのね。 右向いても左向いてもヘテロ社会どっぷりって位置よりは、 色々なタイプの方が容認される場面に出くわす機会が多そうじゃない? この板の「ゲイに生まれて良かったこと」みたいなスレで、 「ゲイならモテる外見だけど、ノンケなら誰にも相手にされなかった」 とか言ってるみたいなの。 そういうのとは別に、 表面ばかりを見る奴、流行にばかり捕われているアホばかりが寄ってきて、 ロクな相手に出会えないという美男美女のボヤき。 贅沢に聞こえるかもしれないけど、モテない、っていうのは、 そういううんざりする悩みと無縁でいられるってことでもあるわよね。 あたし一時期、「似合うよ」「かわいい」って言われて、 ちょい長めの茶髪でジャニっぽい服装にしてたことがあったの。 (太りたかったけど、なかなか太れなくて痩せてた) そしたら女からも男からもモテた…。あら。モテるのってなんて簡単。 だけど、そんな外見を身につけて、寄ってくるようになったのは ゲイ男、ヘテ女、どちらも、言うこと為すこといちいち、 ゲイ蔑視、女性蔑視、外国人蔑視、非モテ蔑視、経済崇拝、など、 差別意識に溢れたモテ連中ばっかり…。 うんざりして半年でそういうスタイルはやめたわ。
510 :
禁断の名無しさん :2005/12/27(火) 12:40:49 ID:pqxyYwjq
もてはやされてよかったわね
>503 経験って言うのは、何も現実の対人コミュニケーションだけに 求められるものではないですよね。はくさんは映画等も挙げて ますし、該当エントリのコメントでは、物質を通して得る経験も 話題に上がってました。 非モテの主張で気になる点は、「経験の忌避」ではなく 「経験の否定」になってる面が見受けられる事です。 何らかを通して経験は蓄積されている筈にも関わらず、 それらは省みられていない。 内部化されたモテ観念の外部化作業とは別に、自らの中に ある、経験そのものから「交流」を洗い出す作業も必要だと 思います。というか、これをしないと外部化できない気がします。 神経症に近いのなら尚更モノから始めた方が良いでしょうしね。 キモメンだとかいった強迫観念は、日本人のいない所で二週間 でも過ごせばあっさりと解放されるでしょう。 漏からするとkiyaさんがキモメンだと自称するのも不思議です。 どこが?
512 :
禁断の名無しさん :2005/12/27(火) 22:00:01 ID:qt951bkj
高校生がこんな勉強何の役に立つの?っていうのと似たようなものなのかしら。 まぁ興味を失えば経験も結局無駄な時間よね。
>リアルでKiyaさんにお会いしたら、 >メロメロに惚れちゃう可能性がなくもないような。 アチャー バレた(・∀・)エヘ 「救い」とか哲学的なことはよく分かんないポ(・∀・) 試しに、俺の愛撫された経験・愛撫した経験を書いてみゆ てゆうか書きたい気分ポ(・∀・)
愛撫の体験その1) 子供の頃に持ってたコリー犬のぬいぐるみがあったポ(・∀・) 他にいくつかあったけど一番のお気に入りだったポ(・∀・) 寝る時も遊ぶ時もいつも一緒だったポ(・∀・) 無機物のぬいぐるみだけど、ほんとに息してて、 黒いボタンの目はいつも俺のことを見守ってたポ…… お母さんでお父さんでお兄ちゃんでお姉ちゃんでもあったポ(・∀・) コリーはいつも俺をあやしてくれてたポ(・∀・) 引越しの時に手伝いに来たオバちゃんがゴミだと思って捨ててしまったポ…… そんな形でコリーとさよならするとは思いもよらなかったポ(・∀・)…… 今でも思い出すと涙が出てくゆ でもオバちゃん恨む気はないポ(・∀・) コリーはおれが一人でも大丈夫だと思っていなくなったと思うことにしたポ(・∀・)! 俺のコリー、大好きだポ(・∀・)
愛撫体験その2) これはつい最近の話ポ(・∀・)去年の夏ー 俺はなんだか物凄く落ち込んで、不忍池公園を歩いていたポ(・∀・) そしたらホームレス風のおっちゃんが急に声かけてきたポ(・∀・) 「あんちゃん。でっけえ虹が出てるよ」 びっくりして空を見上げたら、ほんとに虹が出てたのー 東の空から西の空までくっきり七色ー あんなに大きくてきれいな虹は産まれてはじめてポ!!! おっちゃんは、しょぼくれて歩いてる俺を愛撫してくれたんだねー…… あの時、なんで落ち込んでたのか思い出せないけど あの虹とおっちゃんの笑顔は忘れないポ(・∀・)!
愛撫した経験を思い出せないーーーヽ(`д´)ノムキーーー ……まだまだ俺はダメぽ(´・ω・`)……
517 :
470 :2005/12/28(水) 01:13:08 ID:lM1l9qMi
皆さんありがとうございます。 ただ、「救われる」ってのがなんでモテ側の価値観ということになって しまうのかよくわかりません。 「救われる」ってのは自己の内面の問題だと思ってたんですが? 自己の内面の問題って言い方が曖昧だったら、「無関係な価値観」 あるいは「自分の価値観」と言いかえてもいいかもしれません。 非モテ云々と関係なく、本や映画は好きです。それから音楽とか美術とかも。 悩みが深まるにつれてそういうものはより積極的に取り入れてきたつもりです。 だから逆にこのスレの皆さんが、浅学な我々にはがゆい思いをするのも ある程度は想像つくんですが。そういったものに興味がない人の 悩みを聞くのがなかなか大変なことは実体験として知ってるつもりですので。 「掟の門前」は読んだことありませんでした。 実はカフカは余りにもリアルすぎて怖いのでできるだけ逃げてたんですが、 勇気を出して再挑戦してみます。 それでは。
518 :
禁断の名無しさん :2005/12/28(水) 05:50:11 ID:fxpony03
全ての人がおしなべて男らしくすればジェンダーなんて無問題になるじゃない
520 :
はく ◆3NcRyI2Bhk :2005/12/28(水) 14:58:14 ID:twSBMlOu
>>519 そのSF漫画に出てくるシチュエーションは、今、
先進諸国と後進諸国(不適切な表現かな)の間で行われているさまざまな消費と供給の関係に
似てるね。
「家族」という単位枠組みを維持しようとするあまりに、
いろんな弊害を産み出してると考える俺にとっては、
スウェーデンが陥ってる新たな問題は重く受け止めるし、
「家族」という枠組みを見直そうとは思いこそすれ、
今の日本で何としてでも維持しなければ……とは思わないな。
「育児」や「労働」を、少し特別視しすぎてやしないか?という気が、
うっすらしなくもないね。
まあ、他人がやってることよりも、自分がやってることの方が
「大変だ」「偉い」「辛い」としたがるのは俺も身に覚えがあるので
口ごもっちゃうんだけども。
521 :
:2005/12/29(木) 11:59:03 ID:XjBgZF7j
スレの流れと違う投稿で失礼します 自分はゲイでもないし、「モテない」ということに悩んだことはないけど、(性嫌悪の入ってる狭義Aセクだもんで) 『電波男』とか共感するところもあったし(コミュニケーション不全感が強いから) それにもまして、このスレの内容はすごい教わることは多かったよ。 自分、モテたいわけではないのに、というかむしろモテたくないのに、容姿コンプレックスがすごいです。 だって例えば「僕、恋愛とかセックスとかあまり興味ないんです」って 例えばオダギリジョーが言うのと、ほんこんが言うのでは説得力が違って聞こえるでしょ? 「モテない男がウソをついて開き直ってる(本当はスケベなのに)」みたいに見られるのは屈辱ですから。 正直、男の体をしている以上、性的な目からは逃れられないのだなあ、という絶望感があるですよ。 男は年をとれば(若くても不細工ならそうかしれないけど、不細工やダサい男は「バカにする対象として」視野に入っているという話もある) ヘテロ女やモテ男の視線から外れ「品定めの対象」にはならないかも知れないけど、 何歳になっても「傷つける性」と見なされる眼差しからは逃れられないわけで…。 「内面は外見に出る」という観念が遍在する以上、暑苦しいタイプの不細工ならなおさら危ない人と見られる。
522 :
禁断の名無しさん :2005/12/29(木) 16:35:40 ID:4k65VBN0 BE:94329784-
同性に性欲を感じてもそれを口には出せない状況と似てるのかもね モテない男が本心を隠して開き直るって
>>521 ってむしろ女性の視点じゃないか?
だって例えば「私、恋愛とかセックスとかあまり興味ないんです」って
例えば伊藤美咲が言うのと、山田花子が言うのでは説得力が違って聞こえるでしょ?
「モテない女がウソをついて開き直ってる(本当はモテたい癖に)」みたいに見られるのは屈辱ですから。
正直、女の体をしている以上、性的な目からは逃れられないのだなあ、という絶望感があるですよ。
女は年をとれば(若くても不細工ならそうかしれないけど、不細工やダサい女は「バカにする対象として」視野に入っているという話もある)
ヘテロ男やモテ女の視線から外れ「品定めの対象」にはならないかも知れないけど、
何歳になっても「見られる性」と見なされる眼差しからは逃れられないわけで…(「見られない」事も含め)
「内面は外見に出る」という観念が遍在する以上、暑苦しいタイプのブスならなおさら危ない人と見られる。
でも女でこんな不満を口にする人はいない
当たり前のこととして受け止めるのが当たり前って感じ
こういうの口に出せるだけ男性がうらやましいって女の私は思う
524 :
禁断の名無しさん :2005/12/29(木) 19:50:29 ID:oWMIYR6A
>>523 禿同
女はブスだったとしても、些細な一部分だけでも性的対象として観られる。
相手が女に気持ちがなくても胸だけとか、足だけとか、髪だけとか、唇だけとかの一部分だけで性的対象(道具)のようにされる時と場合がある。
気持ちがなくて性的対象(道具)にされるのはかなり苦痛で屈辱的。
525 :
禁断の名無しさん :2005/12/29(木) 20:01:39 ID:9howex/V
レイプされる女の人の気持ち? 誰だって言い訳じゃない この身体をおもちゃにされる屈辱 やっぱプライドってあるよね自尊心
嘲笑せよ、強姦者は女を侮辱できない、ですわ
527 :
禁断の名無しさん :2005/12/29(木) 20:11:54 ID:9howex/V
あっ本気の女性なんだ
528 :
521 :2005/12/29(木) 22:09:48 ID:XjBgZF7j
もちろん匿名ネット上だからこそこんなこと言えるわけで。 リアルでは口に出せやしない。Aセクシャルのコミュニティは別として。 男はいやだな、と思う反面、女になるのもいやだな、と思う >524の理由で。
欲望されることへの苦痛(どうしても「見られる性」「傷付けられる性」であることの苦痛) と 欲望されないことへの苦痛(どうしても「見る性」「傷付ける性」でしかないことへの苦痛) か・・・ 脱オタ・非モテ言説で典型的に言われるのは、「努力して嫌われないような身なりになり、異性に積極的にアプローチしよう。 しかし、ガツガツしてはいけません(相手に不快感を与えてはいけません)」 という内容なんだけど、キモ顔で挙動不審の気がある自分は、どうしたって接触した相手を傷付けてしまうのではないか、 という加害者意識から逃れられない。 「ガツガツしている」という言い方が、相手の受け止め方次第のものである以上、自分はどのようなアプローチをしても、 ガツガツしていないようには見られないのではないか、という。
ガツガツしてていいじゃんって思うんだけどね。 実際必死なんだもん
「ガツガツしている」と見られたくない(思われたくない)、
なぜなら「性嫌悪の入ってる狭義Aセク」の自分には性欲などないんだから。
って事ですかね???
>>529
532 :
521 :2005/12/29(木) 23:48:39 ID:XjBgZF7j
>529ではないけど、 はくさんの言う通りですね。 なんかこう男はみんな潜在的にスケベと信じている人が多くていやになる。 まぁ人にどう見られるかは別に自分の身体への違和感はあるんですが。
>>523 のように女に言い換えると、
女は「性嫌悪の入ってる狭義Aセクですから」と言ったりしないで黙っていても
まあ人畜無害とされて見過ごされるが、
男だとそうはいかない。(何かやらかすんじゃ……)みたく警戒される、ってのはあるだろうね。
これ、ゲイが「あなただったら送りオオカミにならないわね」と言われた時に感じるモニョリとも
通じるんだろうか。
傷つける性⇔傷つけられる性、見る性⇔見られる性は、
特に境界がハッキリしてるものではなく、一人の人間の中でも錯綜してるものであり、
だから性別とは関係ないはずなんだけど、
その区別が男⇔女で固定されてしまってるように思う。
一部の女が、「傷つける」「見る」ことを(無意識にでも)行ってるのが
今のこの「恋愛資本主義」なる世界、なのかもしれないね。
その反動で、男もいやおうなく「傷つけられる」「見られる」ことを
意識せざるを得なくなっているのかな。
あ、違う人だったのかスマソ。 Aセクへの無理解や偏見の話ですよね??
去勢手術は本気で受けようかと思ってたときありますね(つーか今も) そういや、オタキングが去勢したんだっけ?
オタキングはパイプカットですって。
男の「傷つける性」の決め付けもいやだし 女の「傷つけられる性」の被害者意識も嫌 もちろんレイプは絶対許せないけど レイプ=「女の大切な何か」が奪われた、みたいに神聖視して ドラマチックに仕立てる風潮が気持ち悪い 女の作る性メディアも強引にやられちゃって・・・みたいなレイプ幻想モノ多いじゃん 女と一緒になってレイプを糾弾する男もレイプAV見てるんだから
「物の本にあるように強姦が性欲ではなく、強姦によって女を侮辱したいという、 女性憎悪者の感情的欲望から起こる行為であるとすれば、「最大の侮辱」云々 といった女の怨嗟の声こそ、強姦者及び潜在的強姦者の期待するものであるから。」 「〈レイプは女にとってこんなに辛いことなのよ〉と、女が真摯に訴えても、強姦者は 悔悟するどころかますますいい気になり、〈それはかわいそうに〉と甘い涙とともに 満足を噛み締めるだけだろう。」 BY松浦理英子
悲惨さをドラマ化することが、悲惨さそのものを覆い隠してしまう、ということか
540 :
禁断の名無しさん :2005/12/30(金) 21:52:29 ID:iYvOtAWt
541 :
83 :2005/12/31(土) 16:48:54 ID:xoLKywNM
ごぶさたです。 そーいえば、1/14にお茶大でバトラータンの講演があるそうよ。 テーマは「ジェンダーをおりる」だとか。 お茶のサイト見たけどそんな情報載ってない。謎。 どなたか詳細ご存知? って、わたしは行けないのだけど。
543 :
83 :2005/12/31(土) 16:56:43 ID:xoLKywNM
おー、はくタンさんくす!
545 :
83 :2005/12/31(土) 21:16:01 ID:xoLKywNM
42タンならUndoing Genderをどう訳す? この訳って妥当なのかしら。
>>545 複数の意味が重層的に重なっている修辞学の教師としての面目躍如たる
語の選択ですから、日本語に訳すのは難しいですね。
イメージとしては辞書の最初に出てくる「ほどく」でいいんじゃないかと
思います。自分の身体と他者の身体に絡みつき縺れ、動きを制限する
ジェンダーをほどく、という感じ。
竹村さんは訳語の選択に関しては「名人」との定評があるので、
「おりる」という語の採用は、何らかの考えがあってのことだとは思いますが、
今回の講演会の司会の際に何か説明をするのかな。
バトラーはポール・ド・マンをめぐる論集にも論考を寄せているんですが、 そのド・マンがいわゆる脱構築的読解、デコンストラクティブ・リーディングについて、 undoing という語、解きほどく、という語を用いる。これは「引用の織物」としての テクストをほどくというイメージで、たぶんバトラーが undoing という語を選ぶに あたっては、ド・マンのことも考えたんじゃないかと。 あとは、do の意味である「演ずる」「上演する」の否定であるとか、 老荘思想の「無為」やナンシーの『無為の共同体』との関連だとか、 いろいろありそうな気もします。
549 :
禁断の名無しさん :2006/01/01(日) 15:31:09 ID:ba+fX+KB BE:141495168-
日本人って言葉を掘り下げすぎるのよね。
すみません、過去スレを再うpしていただきたいのですが・・・ どなたかよろしくお願いします
551 :
83 :2006/01/01(日) 23:55:32 ID:cDduD2C/
>>546-547 42タンさんくす!
>>550 ごみん。わたしにはできない。誰かよろしく。
それにしても再うp希望の過去スレナンバーを明記したほうがいいかも。
550です
>>551 全てです。つまり1〜10です。
>>552 Part6しか見つかりませんでした・・・
再うpできる方がいらっしゃれば、お願いしたいのですが
今日中にうpするからちょいまっとれ
ありがとうございます>553さん
うpないみたいね...
あらやだ、ありがと♪
俺はうpする側ではないですよ、っと・・・
>>557 さん
ありがとうございました。非常に興味がわいたのでじっくり読ませていただきます。
560 :
禁断の名無しさん :2006/01/04(水) 01:55:09 ID:ipiZShvk
タチを英単語に直すとどうなるの?
561 :
83 :2006/01/04(水) 04:44:07 ID:pICG5GkZ
>>561 ブッチ butch とフェム femme ってビアンの「タチ」と「ウケ」だよね。
ゲイの場合は、どうなんだろう。queen とか girl って「ウケ」でいいのかな。
バトラーの『ジェンダー・トラブル』でこの4つは出てたはず。
別スレで大年増さんに訊いてみるか。
563 :
83 :2006/01/04(水) 21:27:58 ID:pICG5GkZ
>>562 主にレズビアンの、ってことで、男性同性愛者にもbutchって適用されるのかと思ってた。
教えて! 英語圏の人。
>>563 別スレで大年増さんに教えていただきました。
a top がゲイの「タチ」で a bottom がゲイの「ネコ」だそうです。
これ、アメリカ版801のスラッシュで使われてますね。
ちなみに queen は大オネエということで「タチ」の可能性もあり、
単独で使うと蔑称になるので注意、とのこと。
565 :
モエ(´ー`)y─┛~~ ◆MOE69AmvXs :2006/01/04(水) 22:26:42 ID:BwHv3Jj0
久々に(・∀・)ノ コンチワ つーかPart11かよ、って時点で結構衝撃的(;´ー`)y─┛~~
いぬまわりさんがうpしてくれた過去ログをチラ見してたら ちょうど801の話を、42さんとモエがしてるんだね@パート4 その中身の濃さに、前スレパート10を消しゴムで消したくなったよw
567 :
83 :2006/01/05(木) 01:26:38 ID:+eeq2g8g
>>564 そういえば聞いたことある〜。>topとbottom
単独で使うと蔑称になるということは、どういう使い方だと蔑称にならないんだろーか。
>>565 モエタンおひさ!
>>567 ういあーヽ(´ー`)ノシ
あ、そうだ83タン、多分はくタンからメール行ってると思いますのでご覧になってください(・∀・)
俺のアド、しばらく使ってなかったらデータが全て飛んでまして(;´ー`)y─┛~~ 私信スマソ
>>567 大年増さんが挙げてくださった例だと、たとえば大年増さんに
対して an opera queen と言うとか。drag queen ってのも
もともとはそういうののひとつなんでしょう。
570 :
83 :2006/01/05(木) 15:32:32 ID:+eeq2g8g
>>568 うぃーす。いただきますた。もうちと早くお知らせしてほすぃかったわン。
>>569 んじゃ、フレディー・マーキュリーのQueenってもろ蔑称なのかしら。。。
モエタンの書き込み見たのは何ヶ月ぶりだろう......
ともあれ、新年を迎えてお元気ならなによりです。
で、今更50レス近く前のレスとかに突っ込むのもアレですが、
>>521 -あたりの話について蒸しかえさせて頂きます。
AセクのHPとかで
>「ガツガツしている」と見られたくない(思われたくない)、
>なぜなら「性嫌悪の入ってる狭義Aセク」の自分には性欲などないんだから。
とかって書き込みはマジでよく見るけど、
「ガツガツしていると思われたくない」っていうのも
なんつーか、「性欲の一部」とは言わないまでも、
「他人との関係性の中の、性的な面に関する部分」を
どのようにかたちづくりたいか、という「欲望」の一部ではあるんジャマイカ。
つーか前にもそういう話出たけど、「セクースしたい・誰かと恋愛したい」
だけを「性欲」とか言うのって、まあ一般的な認識としてはそうなんだと思うんだけど、
ちょっと粗雑ではあるなあ、という気もするんだよね。
むしろ「性欲」とか「性的なもの」が指し示すものを、そういったことに
限定しないで、力いっぱい拡散させるって方向性が、Aセクにとって
有益だったりすることもなくはないように思うんだけど......
「性嫌悪」の強い人だとそうは持って行きたくないのかな。
そんなことを考えたりしますよ。
あとさー、
>>538 って、理屈としてはまったくその通り、ごもっとも、なんだけど、
これを、『現在において』実際にレイプ被害に遭った人に対して、
言っちゃっていいのかどうかってこととは別のように思いますです......。
たしか松浦タン自身はこの発言のあとに、
「だから自分はレイプされたら相手の男を思い切り嘲笑してやるぜ」
みたいに書いていたと思うんだけど、
それは
>>538 を書いたご本人だから言えることなんであって、
こういう認識が世間一般にある程度浸透していないうちに
>>538 みたいなことを
被害者に向けて言ってしまうと、
「そんな程度のことで傷ついたり苦しんだりしているアンタ(被害者)が悪い」
というセカンドレイプになりかねないと思うんですわ。
......って、なんでこんなことを自分が書いてるのかっていうと、
あくまで噂話、ではあるんですが、
まさに「そんな程度のことで(中略)アンタが悪い」的なことをレイプ被害者に向けて
言い放った某有名フェミニスト女性が居たっつー話を聞いたことがあるからなんですが。
で、その話が真贋はともかく、ある程度流布してしまっているっていうことは、
世間の「フェミニズム(フェミニスト)」に対するイメージがそんなことになってしまっている、
ということなんじゃないかとと思うわけです。
そりゃあ「フェミニズム」というだけで叩きたがる人間がいるのもムリないなあ、と
新年早々ウツな気分になりましたことです。
前スレ(か前々スレ)あたりで42タンが「コミュニズムの復権」みたいな話をなさってましたが、
フェミニズムももうちょっとマシなイメージで捉えられる日が来るんでしょうかねえ、いつかは......
Queenのバンド名の正確な由来についてはよくは知らないのですが (「女王陛下の治める国を代表するバンドになってやるぜ!」ってのと 「カマ野郎」のダブルミーニングを狙ったのでは?という気がしますが) 彼らが当初、母国ではさほど売れず、日本の、特に女性に人気が出たことで サクセスロードに乗っかることになった......とかいう話はオモロいなー、 と思います。 Break Freeという曲のプロモビデオでは全員女装してるしな。 思うに、その当時Queenにはまってた女性たちっていうのは、今で言うところの 「801女」とか「オコゲ」に通じる感性の人たちだったのではないかなあ。 あとTopとBottomって、SMの世界だとTop=S、Bottom=Mだったような気も。
574 :
83 :2006/01/05(木) 20:35:38 ID:+eeq2g8g
>>571 これまでのスレの流れも斜め読みしかしてないんでアレですが、
「自分がどう<見られたい(思われたい)>か?」ばっかりで、
「自分がどう<ありたい>か?」って視点はあんまり感じないよね。この手の非モテ話って。
本当はガツガツしてんのにそう思われたくないったって無茶な話だし、
本当にガツガツしてないんだったら人がどう受け止めようと勝手に思わせておけばいいと思う。
575 :
83 :2006/01/05(木) 20:45:56 ID:+eeq2g8g
>>572 レイプ被害者に対してかけるべき言葉なんて全然思いつかないのだけど、
もしその人がレイプによって自分が汚されたとかスティグマを捺されたという意味で
「傷ついた」と感じているなら、
暴力を受けたことによる恐怖や屈辱は消えないかもしれない。
でも、あなたはそれによって汚されもしないし傷つけられもしない、と言いたいかな。
人として、生き物として生存の危機(恐怖や屈辱)を感じたことと、
「<女として>傷ついた」ってことは別物だと思うのね。
おとといね、岩波書店の思考のフロンティアシリーズ『フェミニズム』を読んだのよ。
竹村さんの。
そのなかでバトラーの言を引いて、
「セックス(身体的な性差)はセクシュアリティを実現する<器>であるとか、
セクシュアリティを用意する<所与の条件>であるとみなす考え方ーーつま
りセックスが原因であり、セクシュアリティやジェンダーは結果であるとみ
なす因果関係ーーはじつは転倒されたもので、ジェンダーこそがセクシュア
リティの物語を捏造し、セックスという身体的性差を事実として遡及的に生
産しているものである」
と言っている。
つまり、セックスが最初にあってその上にジェンダーが構築されるのではなく、
社会的・文化的な性差であるジェンダーによって、セックスという虚構が構築される、
というわけ。
なるほどな、と思いましたよ。
わたしが自明のものとしてきた(女の)身体は、
ジェンダー規範によって捏造された虚構にすぎない、ってことね。
虚構であることが暴かれてもわたしの身体はなにも変わりはないのだけどね。
ただ、身体に対する認識は変わる。
ま、これまでにもこんな話は出てきたのかもしれんけど、
いまになってようやく自己の身体認識を改めさせられましたよ。
「生殖」の一点のみにおいて身体的性差の分類が必要なら、
どうしてさまざまな書類に「男/女」を明記しなきゃならんのか疑問になってくる。
レイプやDVの問題もジェンダー規範に深く関わっているんだろうし、
ジェンダー規範ゆえに起こるものでもあるんだろうけど、
<女として>という視点を持ち込むと、「男だって〜」と切り返される。
いやはや、どうしたものか。
>>573 Queenの名前の由来推測説、わたしもそんなふうに思ってるわ。
576 :
83 :2006/01/05(木) 20:52:09 ID:+eeq2g8g
読みたい、読まなきゃ、と思っている本はつねに目の前にうずたかく積み上げられていて、 でもそれらの本は電車のなかとかカフェとかで気軽に開ける類いのものではなく、 机を前にして開くにしてもなかなかの覚悟と思い切りが必要。 しかも、目では活字を追いながら頭では別なことを考えはじめたりして、 いかんいかん、内容が分からなくなってしまった、 とまた段落の最初から読み直したりして、時間がかかる。 で、読んでて読みにくい文章って、 問題系があまりに複雑すぎるために書いてる人もよく分かってなかったり、 悩んだり躊躇したりしてるから使う言葉の選択が慎重すぎて訳がわからなかったりする。 という前置きはこのくらいにして、 3年くらい前に買って本棚の肥やしと化していたとある本を、おととい一冊読了した。 苦々しいきっかけから「よいしょ」と取り出したのだけれど、 やっぱそういうきっかけがあるときに読んだ本って、 難解なりに部分的にはスルスルとしみ込んでくるものがある。 以下、抜粋引用。 自己が構成する共同性を私は共同体と呼びたい。それは、社会的なものとは区 別されるだろう。共同体は、新しくやってきた者(パゾリーニの『テオレマ』 でのテレンス・スタンプを思い出そう)によって誘惑され、自分のこれまで来 た道を踏みはずす者たちによって構成されている。それに対して、社会は、新 しく来た者に命令する。黙れ、私の言う通りにしろ、私はお前の手本である。 私を模倣せよ。社会はそこに新しくやって来た者からは学ばない。反対に、新 参者に教えようとする。この意味で社会は閉じている。ところが、共同体は、 新しい者に誘惑され、学ぶのである。つまり、共同体はつねに開かれているの である。共同体の方が個体のもとに到来するのだ。 (中略)最近私たちは、「他者(異なる存在)と出会う」ということばかり聞 かされ続けている。だが、そういった議論は「同じもの」同士ならうまくいく ということを安易に前提としてはいないだろうか。けれども、文学や映画にお ける分身のテーマの扱いを見れば分かるように、本当に同じもの、対等な者の あいだの愛(ベルサーニの『ホモズ』のひとつのテーマ)はいかにして可能な のか。このことは決して自明ではない。同じものの共同体としての自己たちの 共同体はいかにして可能なのか。この問いは開かれたままである。 共同体は開かれている。したがって、その境界を区切ることはできない。とい うことは、存在するのはただひとつの共同体でしかない。それは「人類」であ る。あるいは、こういうべきかもしれない。人類というのは、誘惑されて社会 から道を踏み誤るその瞬間に形成される存在である。晩年のフーコーのセクシュ アリティ論が開く政治的地平は、このような人類への参加の呼びかけ、誘惑を はらんでいる。私はこの誘惑に応じるのだろうか。そして、あなたはどうする のだろう。 *** 強調しておかなければならないのは、セクシュアリティは、「自己」の存在に 関わるのであって、人間の分類に関係するのではないということだ。セクシュ アリティを、分類に基づく集団への帰属の原理とはみなさないことである。 (抜粋引用ここまで)
577 :
83 :2006/01/05(木) 20:53:07 ID:+eeq2g8g
>>576 『ジェンダー/セクシュアリティ』田崎英明(岩波書店)でした。
黒人のフェミニストの誰だったかが、「私は黒人にも白人にも女にも男にも帰属したくない。
ただ人間だけに帰属したい。そして人間を愛している」という主旨のことを言っていたのを思い出した。
女にも男にも帰属したくない、だけで言葉を止めなかったのは何故かしら。
「社会」が模倣させようとする規範のうちで、許容出来る部分への同意を表明して、
「社会」からの抵抗を緩和しようとしている? 彼女の思惑はそんなことかと想像したわ。
また、そのフェミニストや
>>576 の引用元の方がそう語るときの事情とは別に、
「性」へ無批判に帰属するためには、前提条件として、
「人間」への帰属の優位性を全く疑わないものであることが必要なのかと思う。
チラシ裏。
「キング・コング」に関して「ゴリラの映画なんて観たくねーよ」
「ブロークバック・マウンテン」に関して「ホモの映画なんて観たくねーよ」
同じ人が言ってそう…。
動物を、ヘテロ人間に擬人化した「チキン・リトル」ならデートムービーにもぴったり。
(とはいえ、「チキン・リトル」にはひねったゲイネタもあって面白かったですよ)
「キング・コング」「ブロークバック・マウンテン」を観もしないで避ける「人間」が
「タイタニック」や「X−MEN」は観てたり。相違点はどこなのかねえ。
…表層だけを本質と扱いたいんですか。そうですか。
間違いとは言わないけど寂しく感じるわ。チラシ裏おわり。
>「同じもの」同士ならうまくいく
自己を肯定する根拠が、「同じもの」であることの「正しさ」に依っているから、
「同じもの」同士はうまくいかなくてはなくてはならないという強迫があるのだと思うわ。
>>577 ヘンな本ですよねw どこがジェンダーとセクシュアリティの本なのかと思う。
ダーウィンのミミズについての話が蜿蜒と続くw このシリーズ的にはどうなのか、
という話を、さっき田崎タンの直接の知り合いとしてきたばかりだったりw
帰ってきて、今、スレを覗いてちょっとびっくり。
でもいい本です。とくに文献案内は秀逸で、ここのところそこに挙がっている本の
邦訳は進んでいます。岩波の「思考のフロンティア」は当たりはずれは大きいけれど
このスレを読んでいるひとにはおすすめですね。アガンベン、リンギスなど、直接
ジェンダーやセクシュアリティにふれたものではないけれど、必読図書が挙げられている。
田崎タンにとって重要であそこに挙がってないのは、ランシエールくらいでしょうか。
田崎タンの最初の本は『夢の労働・労働の夢』でそれはランシエールの『プロレタリアートの夜』が
背景にある。1830年代のフランスの労働者が「プロレタリアート」という古代ローマの最下級層の
名を自称したことの意味と、フレディたちが Queen というバンド名を選び取ることには共通する
ものがあるでしょう。東郷健が「オカマ」と自称するのも同じだし、ベルサーニが queer と
呼ばれること、gay と呼ばれることを嫌い、homo と自称するのも同じです。
ただ、田崎タンは先走りすぎていて、バトラーがほとんど読まれていない状態で、
ベルサーニの話をそういう文脈でするのはどうか、ということがある。
何らかの基準により異なるから不平等でいい、という話があるときには、
まず、異なっているけれど平等だ、という話をし、そのうえで、
平等だから同じだ、とならないと、というのがあるんじゃないか。
Homos の翻訳は最悪なので、原書で読むのをおすすめしますし、
ベルサーニについては『フロイト的身体』も訳されているのだけれど、
訳した長原豊というひとがまた偏屈なひとなので、これもいろいろ
問題はある。まずはバトラー、それからベルサーニ、ということで、
83姐さんのスレの順序は、なるほど、ということですね。
>>575 そのバトラーの引用箇所が、
>>158 に貼られてる記事でまさに問題視されてるんだけどw、
記事内容そのものはアレだけどw、引用部分は俺も「ナルホド☆」と思った。
そういうふうに転換して眺めてみると、すごく分かりやすかったのね俺には。
だけど一部の人にとっては「性別をなくすというのかこのバカチンが!」になるんだね……
>>579 >1830年代のフランスの労働者が「プロレタリアート」という古代ローマの最下級層の
>名を自称したことの意味
あんま関係ないんだけど、数日前にNHKの番組で、
いろんな人が自分の終戦を語る、みたいなものやってて、
その中に「労働組合を結成させられ、改めて自分たちは"労働者なんだ"と自覚させられた」体験を語った人がいた。
それまでは"労働者"と言えば肉体労働者だ、という暗黙の了解があったもので
知的労働者だったその人は違和感を持ったそうで。
その人の場合は自発的に名乗ったわけじゃなく、
確かGHQからのお仕着せで名乗らされたという事情があったからなんだけども。
何かを自称するってことは、すごく重要な事なんですね。
582 :
83 :2006/01/06(金) 01:47:07 ID:2JIuT9QX
>>578 >女にも男にも帰属したくない、だけで言葉を止めなかったのは何故かしら。
推測するに、男/女の区別と同様、白人/黒人という人種の分類は、生物学上の分類ではなく、政治的な分類だからじゃないかしら。
そして実はタチ/ネコの分類も政治的なものなのかもしれない。。。
>「人間」への帰属の優位性を全く疑わない
人間/非人間の分類も政治的かも。。。
レズビアンにベジタリアンやヴィーガンが多い理由もなんとなく分かる。
ラディカル・レズビアンのモニカ・ウィティッグは、
すでに1981年に「レズビアンは女ではない」と宣言し、
90年にバトラーはこのウィティッグをも批判して、
「レズビアンのセクシュアリティーは、『セックス』とか『女』とか
『自然な身体』というカテゴリーに異を唱えるだけでなく、
『レズビアン』というカテゴリーにも異を唱えるものと理解しなければならない」
と言っているそうで。
じゃあ、ベジタリアンやヴィーガンは動物を食べるのは可哀想で植物を食べるのは可哀想じゃない、
と考えているわけではないのでしょうけど。
>「チキン・リトル」にはひねったゲイネタもあって面白かったですよ
おお、電車の中吊りで発見して、うちの彼女にけっこう似てるから「観ようよ!」と話してたとこ。
これで観る決心がついたわ☆
>>「同じもの」同士ならうまくいく
>自己を肯定する根拠が、「同じもの」であることの「正しさ」に依っているから、
>「同じもの」同士はうまくいかなくてはなくてはならないという強迫があるのだと思うわ。
「違うもの」同士ならうまくいかなくて当たり前、って諦められるところもあるのかな、と。
彼女によく、「わたしと83は違う!」と言われるのだけど、
一人ひとり違うことは前提としてあって、それでも歩み寄れる共通性ってないのかしら、と思う。
どんなに揺さぶられたとしても、それがどんなにしんどくても、
わたしは彼女に踏み込んでいきたいし、彼女にも踏み込んできてほしいと思っているの。
でも、「違う!」と言われたら、二人の間に線引きされて、
「こっちに入ってくるな!」と言われているような気がして哀しくなる。
583 :
83 :2006/01/06(金) 01:51:42 ID:2JIuT9QX
>>579 うん、確かにヘンな本だったw でも面白かった。
レスの順序なんて考えてなかったわ〜。
それにしても、42タンはさすがに押さえてますわね。この本。
あたしまだ『ジェンダー・トラブル』読了してないのよね。。。
でも、いまならちゃんと読めるかも。
といいつつ、なかなか読む時間がとれない。
今月下旬に渡欧するので、飛行機のなかででも読もうかしら。
584 :
83 :2006/01/06(金) 02:04:45 ID:2JIuT9QX
>>581 >「性別をなくすというのかこのバカチンが!」
身体的性差が強制異性愛システムを存続させるための政治的装置である、
ということにまったく思い至らず、「自然な身体」としての身体自我を持っている人たちにとっては、
まさに(ジェンダ−・)アイデンティティー・クライシスなんでしょうね。
名付けられることによって自己認識が変わる、というのは、いいほうに働いたりよくないほうに働いたりするわよね。
下のフラッシュはいいほうに働いた例かな。ちょっと泣けた。
http://www.hamakko.or.jp/ 〜shuhei/Flash/-k-.swf
>>582 だいぶ前の曲ではあるけど、このスレでバンプ・オブ・チキンに関する話題が出るとは。
邦楽アーティストの名といったら中島みゆきしか出ないものかと思ってた(苦笑)。
586 :
83 :2006/01/06(金) 03:28:02 ID:2JIuT9QX
>>584-585 あー
そのフラッシュは別バージョン(?かな?詩人だったような)のを見たことがあるなー
そこでは恋人になってるけど、手紙(メッセージ)を他の誰かに繋いでいく事も
俺的にツボだったりする。
>>584-587 K は最後の付け加えられた K なんでしょうが「黒猫」「孤独」「変わり者」
「黒き幸」「黒」「恋人」「故郷」「騎士」も ローマ字で K で始まる言葉ですね。
その K の音の響きがすでに何かをつないでもいる、そういう気がします。
589 :
禁断の名無しさん :2006/01/08(日) 11:17:21 ID:1vFMOK0R
タチ気質やネコ気質の違いというものはあるのだろう。 つまり、将来的にタチになるヒトは、最初からタチの気質であり、ネコはネコの気質なのである。 しかし、実際に同性愛行為に及ぶその時まで、タチなのかネコなのかは不明である。 これは古典的には「未決定の時点ではタチかネコのどちらかの可能性を秘めているが、潜在的にはどちらか一方である」と解釈されていた。 しかし、現代では、「行為に及ぶその時まで、タチの可能性とネコの可能性の両方が多重的に存在している」 と解釈される。いや、タチかネコかだけではない。ストレートかゲイかすら、性体験を迎えるその時まで 多重的に存在しているのだ。 童貞のノンケは実はノンケではなく、ノンケとオカマが多重的に存在しており、オカマを掘られるその時まで不確定なのだ。 これを、シュレディンガーのオカマという。
>>589 「性体験を迎えるその時まで」という限定もなくていいと思いますよ。
「気質」というのは変容を可能にする潜在的なものであり続けるものでしょう。
591 :
禁断の名無しさん :2006/01/08(日) 13:51:21 ID:PV2+65FE
性行為におよぶ際により経済効果の高い方を選ぶ。
性差が政治的な分類であるとするなら、タチ、ネコ、ヘテロ、ゲイそれらが 潜在しているのは、その個人の気質の中ではなく、 (広義の)社会との関係性の持ち方の中になのではないかしら。 >オカマを掘られるその時まで不確定なのだ というのは、性指向が、行為によって定義づけられるということだと思うけど、 定義づけをする主体が、社会性の文脈でその行為に名付けを行っているように思われる。 その名付けを行う権利は、個人の内部にはなく、 それもまた社会的に形づくられた権力が持ちうるもの。 つまり、性指向を多重的に存在させているのは、その個人ではなく、 個人が定義づけを行う権力とどのように向き合うかに拠っているのではないかしら。
>>592 そういうことですね。バトラーには The Psychic Life of Power という
タイトルの本があるんですが、これは『権力の心的生』などととりあえず
日本語になってたりします。性指向というのもそうした権力のなかで
かたちづくられる「心」と関わるものだと思います。
594 :
禁断の名無しさん :2006/01/09(月) 05:17:42 ID:VMNk4Se+ BE:212242098-
それでもなお、あなたは自分の役割を全うしようとするんでしょ?
595 :
禁断の名無しさん :2006/01/09(月) 19:40:45 ID:+NjXZ7KG
∧∧∩ ( ゚∀゚ )/ ハ_ハ ⊂ ノ ハ_ハ ('(゚∀゚ ∩ (つ ノ ∩ ゚∀゚)') ハ_ハ ヽ 〈 (ノ 〉 / ハ_ハ ('(゚∀゚∩ ヽヽ_) (_ノ ノ .∩ ゚∀゚)') O,_ 〈 〉 ,_O `ヽ_) (_/ ´ ハ_ハ シュレディンガーのオカマ ハ_ハ ⊂(゚∀゚⊂⌒`⊃ ⊂´⌒⊃゚∀゚)⊃
596 :
禁断の名無しさん :
2006/01/10(火) 22:39:29 ID:JCXpqSfD