信長の野望・創造 14作目

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721名無し曰く、
総大将の能力は部隊全体の士気や攻撃力防御力に影響するなんて要素がほしいな
例えば史実で宇喜多は天正7〜8年にかけて大国毛利相手に辛川合戦・加茂崩れで2000人討ち取るなど
勝利を繰り返し優勢だったけど秀吉が備前・美作戦線に加わりだす天正9年頃から児島・祝山崩れで敗北し
美作でも補井田元清に撃退されだしてるし、戦下手な武将が戦場に総大将として出ると名将でも戦闘能力がガタ落ちするとか
722名無し曰く、:2013/08/13(火) 15:10:43.50 ID:tKMlac1j
>>721
それは確かにいいかもね
それなら小牧長久手や熊見川の醜態もうなずけるしゲームでも表現しやすい
あとこの頃の秀吉軍は軍閥化が進んでいて委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて
逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるし陣立書の導入により今までのような一揆的秩序の貫徹する
軍隊内部に 命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている
この辺をどうゲームにうまく生かせるかだな
723名無し曰く、:2013/08/13(火) 15:12:04.22 ID:pyut7lgq
信長秀吉って両方とも殺されるか滅ぼされただけなんだが。
一時畿内が動乱の影響で疲弊しきった隙をついて棚ボタ的に勢力拡張した時期もあったが
所詮実力で広げたわけじゃないので簡単に滅ぼされたじゃん
724名無し曰く、:2013/08/13(火) 15:12:55.11 ID:TYYYk2CR
あんな巨大な勢力を持ちながら殺されたり滅ぼされる例はまず少ないので、それを武将の能力値に反映すべきだな

武器性能比×兵力の2乗が実践での戦力比(敵軍に与えるダメージ比)だからね
地形補正を考慮するにしても常に規格外の大軍&畿内の高性能装備で寡兵の雑魚国力の敵に負けまくり
殺されまくった信長や秀吉は相当指揮采配能力統率能力が欠如してるとしかいいようがないわな
725名無し曰く、:2013/08/13(火) 15:13:35.54 ID:8uQIXdD9
信玄は史実で信長滅ぼし天下統一寸前だったしなぁ
織田家や豊臣家なんて一時畿内の疲弊・弱体化・混乱に乗じて火事場ドロで勢力拡張しただけだし
信玄存命中は完全に土下座状態だったし
726名無し曰く、:2013/08/13(火) 15:16:27.43 ID:Cm+dXt/8
確かにな。
織田は押されまくり史実では下記のように滅亡確定。信玄の死と朝廷権力に救われただけなのが信長。
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請した

9/20信長が摂津から志賀に到着。
10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継
因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが
新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される)
によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は
京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。
727名無し曰く、:2013/08/13(火) 15:18:15.19 ID:tKMlac1j
能力値変動性には同意
武将の能力は素の能力+経験や教育によって水ましされる能力値の合計で現される
つまり実践経験が乏しいのに史実で糞強かった武将は素の能力値が高く経験値が低い
実践経験が豊富なのに史実で蹴散らされまくった雑魚は素の能力値が低く経験値が高いという設定にすればいい
728名無し曰く、:2013/08/13(火) 15:19:35.34 ID:b6MEN4R4
実践経験つみまくったのに実践経験が浅く教育で言ってもあまり受けていないであろう
斉藤や北畠や浅井朝倉信雄家康毛利などに蹴散らされまくった信長秀吉は
素の能力値のスペックでいえば最低ランクだな 逆に幸村なんかは素の能力値は最高ランク
確かに局地戦はあまり重要ではないな