1 :
名無し曰く、:
2 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 12:23:32.48 ID:RQABlMfb
3 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 12:38:50.91 ID:gJad+gea
>>357 名前:名無しさん 投稿日: 2012/12/29(土) 03:48:03 ID:??? 天道の統率の定義わかってない人多すぎじゃね?
>>天道の統率は軍をどれだけ率いたかというのが立派な加味点に入ってくる
>>これはゲームシステム
http://wikiwiki.jp/tendo/?%B7%B3%BB%F6%B4%F0%CB%DC%CA%D4#k8fdb305 >>にもちゃんとあって、統率が10上がるごとに最大兵士が250増える(大名、一門、幕府役職は別)
>>つまり「統率が高くないと大軍を率いることもできない」というのが信長の野望 天道のスタンスであって
>>これに照らすなら大軍率いた武将は統率にプラス点が入るというのが逆説的に証明できる
馬鹿かお前
国力ある武将で大軍動員できねー奴なんていねーよアホ
なんでこれが武将の能力に関係するんだアホ
関が原の時は西軍三成180000(畿内方面のみ)東軍で130000(畿内方面に向かった奴のみ)
あと織田信長は最大で2〜3万しか動員してないから上杉憲政、毛利輝元、徳川秀忠、石田三成、大内義隆、豊臣秀頼以下
石高に応じた動員ができない大名なんていないだろうし
一揆起こったり飢饉とか国力がダメージ受けてなけりゃ誰でも大軍なんて動員できる
こんなもん国力の問題で能力なんか関係あるわけねーだろ
万単位の兵率いたら統率上がるとか馬鹿じゃね
国力ある武将で国力に応じて大軍動員できなかった武将なんていないだろアホ
上杉憲政、毛利輝元、徳川秀忠、石田三成、大内義隆、豊臣秀頼は信長より戦上手なのかってのアホ
4 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 12:40:53.26 ID:S3jPrANP
関が原の時は西軍三成180000(畿内方面のみ)東軍で130000(畿内方面に向かった奴のみ)
織田信長は最大で2〜3万しか動員してないから上杉憲政、毛利輝元、徳川秀忠、石田三成、大内義隆、豊臣秀頼以下
5 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 14:01:33.99 ID:Vm1NCbdT
したらばに書き込めない低脳武田厨のためのスレ
6 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 17:22:06.00 ID:1sNqeueU
前スレといいすごいスレだな
歴史ゲーム板の深淵を覗いた気分だわ
7 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 19:20:09.11 ID:gJad+gea
>>357 名前:名無しさん 投稿日: 2012/12/29(土) 03:48:03 ID:??? 天道の統率の定義わかってない人多すぎじゃね?
>>天道の統率は軍をどれだけ率いたかというのが立派な加味点に入ってくる
>>これはゲームシステム
http://wikiwiki.jp/tendo/?%B7%B3%BB%F6%B4%F0%CB%DC%CA%D4#k8fdb305 >>にもちゃんとあって、統率が10上がるごとに最大兵士が250増える(大名、一門、幕府役職は別)
>>つまり「統率が高くないと大軍を率いることもできない」というのが信長の野望 天道のスタンスであって
>>これに照らすなら大軍率いた武将は統率にプラス点が入るというのが逆説的に証明できる
馬鹿かお前
国力ある武将で大軍動員できねー奴なんていねーよアホ
なんでこれが武将の能力に関係するんだアホ
関が原の時は西軍三成180000(畿内方面のみ)東軍で130000(畿内方面に向かった奴のみ)
あと織田信長は最大で2〜3万しか動員してないから上杉憲政、毛利輝元、徳川秀忠、石田三成、大内義隆、豊臣秀頼以下
石高に応じた動員ができない大名なんていないだろうし
一揆起こったり飢饉とか国力がダメージ受けてなけりゃ誰でも大軍なんて動員できる
こんなもん国力の問題で能力なんか関係あるわけねーだろ
万単位の兵率いたら統率上がるとか馬鹿じゃね
国力ある武将で国力に応じて大軍動員できなかった武将なんていないだろアホ
上杉憲政、毛利輝元、徳川秀忠、石田三成、大内義隆、豊臣秀頼は信長より戦上手なのかってのアホ
8 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 19:45:31.47 ID:S3jPrANP
関が原で38万くらい動員した三成が統率ダントツで最強だな
信長は2〜3万くらいしか動員した事ないから
三成100とすると信長はその13分の1の8くらいで妥当
9 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 20:32:55.75 ID:9JCOMOmt
空回りを承知でマジレスさせてもらうけどさぁ・・・
自分で埋め立てて新スレ立てて、って本当に何がしたいんだよ
したらばで議論が続くのが不満ならコピペ埋め立てをやめればいいだろ
むこうは避難所だと管理人が明言したし、住める環境なら戻る奴は戻るはず
ここが機能不全になれば、したらばでの欠席裁判になるってことは以前学習したんじゃなかったのか?
少なくともアンチ武田・三傑厨への攻撃手段としては賢明じゃないし、現状ではむしろ喜ばせるだけだ
スレを潰すつもりならまだしも、続けるつもりがあるんなら誰の得にもならないことはするな
10 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 20:36:53.53 ID:9JCOMOmt
11 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 21:01:06.79 ID:gJad+gea
12 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 21:08:20.40 ID:S3jPrANP
いっとくけどコピペを前スレで連発しまくってた奴は普段の武田派の奴とは別な
コピペは基本織田厨の妄言垂れ流し(信長や秀吉は戦が強い、領土広げまくった、負け戦は単なる局地戦etc)など
同じ繰り返される妄想に対する反論に対してしか使われていないが
前スレでは問答無用に反論とは関係なく繰り返されまくってる
まあ避難所にいっても同じ妄想繰り返してるだけだからその都度ここに反論&罵倒レスを書きこんでいくだけだから
同じ事だしどうでもいいが
13 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 21:10:07.98 ID:gJad+gea
したらばの内容みてると低レベルすぎるしむしろこのスレからでてってくれてありがたい
>>7に書かれてる妄想を始めアホの妄言集で埋め尽くすスレだもんな
14 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 23:44:49.22 ID:9JCOMOmt
ああそうか、別人だったのか(棒)
まぁ別に俺はお前を弄るのが趣味な奴らとは違うからいちいち追及はしないけどさ
反論にしろ罵倒にしろ限度ってものを弁えろよな
何もお前の意見を曲げろってわけじゃない
スレが正常に機能しなくなれば結局お前が一番損をするってところをよーく考えてくれや
15 :
名無し曰く、:2012/12/30(日) 00:27:08.10 ID:+TtgyjFk
スレの流れを妨げようとしてるのはアホ織田厨だろ
したらばみても散々このスレで論破&罵倒されまくった妄言を繰り返してるだけだし
有意義な議論の邪魔の糞レスしかしていないしな
16 :
名無し曰く、:2012/12/30(日) 00:54:18.85 ID:Jf1QZgzR
345でいっぱいになるって凄いな色々と
17 :
名無し曰く、:2012/12/30(日) 01:20:39.19 ID:LvjxNHl2
まるでAAスレのよーだ
18 :
名無し曰く、:2012/12/30(日) 06:28:17.27 ID:wlXV8IpY
>>9 普段コピペしている武田厨からすれば気に入らない奴は消えてほしいんだろうな
102スレ目前半でコピペが激減している時期があったが、どう見ても出来たばかりのしたらば掲示板に危惧していた
おまけに
>>2、
>>11とわざわざしたらば掲示板を自分で作ってまで攪乱している
結局こっちに流れなかった住民も結構いたので、この機会に自分の好き放題できると思ったんだろ
コピペ君の考えは恐らく
・俺のことが気に入らない奴は全員したらば行け(どうせ過疎ってすぐ皆いなくなるだろwと思っている可能性大)
・とりあえずスレをコピペで埋めまくる(スレ住民を踏絵して、コピペを忌避しない住民を厳選か?)
・新スレは絶対に自分が立てる(ローカルルールを自分が改竄するため、案の定このスレのLRも変わっている)
・最終的に自分好みのスレに変えて、自分を嫌悪するスレ住民をここから消す(自分がやりたい放題できるスレを作る)
というのがおおよその考えだろうな
コピペ君からすれば、本当に住民が大挙してどっかへ行って、欠席裁判されてそっちが盛り上がるなんてのは是が非でも避けたい
最悪共倒れになってもいいから、やりたい放題できるようにすることと、したらば掲示板を機能させないようにすることが当面の目標だろ
19 :
名無し曰く、:2012/12/30(日) 11:06:49.80 ID:Dzz3QtCM
三国志の過大過小すれは
演義派VS正史派の争いがあって
ゲームは基本演義基準だからと
正史派は参戦にいったな
20 :
名無し曰く、:2012/12/30(日) 11:11:03.04 ID:ST/5/EVb
だがさんは言いくるめ易いゲームの方の板に定住すると決めました
21 :
名無し曰く、:2012/12/30(日) 13:09:30.68 ID:VlOEW4Lo
そうやって戦国板に誘導するのやめてもらえます?
せっかく厄介払いできたのに
22 :
名無し曰く、:2012/12/30(日) 13:43:08.86 ID:+TtgyjFk
いっとくけどコピペを前スレで連発しまくってた奴は普段の武田派の奴とは別な
コピペは基本織田厨の妄言垂れ流し(信長や秀吉は戦が強い、領土広げまくった、負け戦は単なる局地戦etc)など
同じ繰り返される妄想に対する反論に対してしか使われていないが
前スレでは問答無用に反論とは関係なく繰り返されまくってる
まあ避難所にいっても同じ妄想繰り返してるだけだからその都度ここに反論&罵倒レスを書きこんでいくだけだから
同じ事だしどうでもいいが
23 :
名無し曰く、:2012/12/30(日) 13:51:50.48 ID:WDPoJA3W
だがさんID変えてノリノリだねえ
24 :
名無し曰く、:2012/12/30(日) 15:07:54.00 ID:RldpI95v
とりあえず東国アンチと尾張以西の西国マンセーに狂ってる基地外が消えない限りどうしようもない
前々スレあたりから織田派のレスは全て伊達最上直江武田上杉徳川北条佐竹アンチと
織田以西の大名マンセーを基地外のように繰り返すだけ。
しかも論拠もなく大軍率いたから、知名度が高いから、などと小学生でも馬鹿にしそうな内容。
はっきりいって落書き帳じゃないんだからもっとまともな意見書き込めるようになってから来てくれ
25 :
名無し曰く、:2012/12/30(日) 16:29:42.80 ID:cDeIupqJ
年の瀬もブレないだが△
26 :
名無し曰く、:2012/12/30(日) 19:27:49.68 ID:++AqrBWx
今のところこのスレ文字数の割合にして9割方だがさん
ハンパないっすね
27 :
名無し曰く、:2012/12/30(日) 22:07:20.01 ID:wlXV8IpY
今暴れているコピペ君がだが本人かそうでないかは半ばどうでもいいが、
コピペが連投するたびにだがが「あれはアホ織田厨の仕業、俺じゃねーよ」と
涙目になりながら必死に弁明するのが面白いからコピペ連投はだがの仕業だと思っているw
28 :
名無し曰く、:2012/12/31(月) 00:30:09.54 ID:eR+CXWQT
残念ながらもうここはだがさん観察スレとしか使いようがない
29 :
名無し曰く、:2012/12/31(月) 04:36:26.10 ID:3ZI6Pt7p
とりあえず良い大人なんだからコピペ連発やめるのと三行以内の
長文に言いたい事をまとめるとかしろよ。
30 :
名無し曰く、:2012/12/31(月) 11:24:59.74 ID:Yd79+4LT
前スレじゃ長文コピペ43連投して
>>350くらいで512k制限きたからな
31 :
名無し曰く、:2012/12/31(月) 13:08:46.31 ID:n2wEJikZ
まず織田厨が何回も同じ妄言垂れ流すのが先だな
織田厨の糞妄言ある限り反論としてコピペが使われるから無駄
32 :
名無し曰く、:2012/12/31(月) 13:20:41.25 ID:d9wUyDsr
大軍が率いたから統率高いとか小学生並の馬鹿がいる限りまともなスレとして機能するなんて無理
33 :
名無し曰く、:2012/12/31(月) 14:22:00.10 ID:n1OiPcZt
なんのためにID変えているのかもはや意味不明
34 :
名無し曰く、:2012/12/31(月) 17:52:15.63 ID:NCdRNswe
ID変えることで複数人の意見のように見せかけたいんだろ
バレバレだが
35 :
名無し曰く、:2012/12/31(月) 20:15:56.42 ID:dEYaPTE3
>バレバレだが
これは…
36 :
名無し曰く、:2012/12/31(月) 23:58:29.75 ID:5x4JXyoV
毎回最初のIDで書き込んで必ず5分以内に第二のIDで書き込むんだよな
その数分後に最初のIDで大量コピペの投下が始まる
平日の午前中だろうと週末の深夜だろうと毎回このID使い分けパターンなんだよな
スレ住人がみんなそんな事気付いてるのに何でID使い分けて複数の人が書き込んでる風に装うかね?
一応複数の意見に見せかけたら自説が優勢に見えるとでも思ってんだろうかw
37 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 00:09:15.63 ID:D8uJjPdB
最近は一行目の半ばまで読めばだがかどうかわかるようになった
38 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 05:34:51.57 ID:0w/4dntq
前スレ伸びないなと思ったら又コピペ野郎かよ!
マジで死ね!
ってこのスレ覗かなきゃ良いんだけどたまに面白いからなあ。
コピペ野郎糞チョンはマジ死ね!
39 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 06:08:57.70 ID:4ZjF3bRo
コピペ馬鹿に皆が呆れて放置してると思いきや
まさかの容量超えdat落ち
気をつけよう!コピペ馬鹿が本気をだせば300レスでdat落ちだ!
40 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 07:21:16.02 ID:d4FHtxuj
秀吉は本多正信強化版みたいな能力だろ。
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
トップ3どころかワースト3に入るレベルだと思われる
何せ直接対決で日本3大雑魚凡将の氏政・輝元・信雄に敗北
しかも会戦状況でいえば敵は圧倒的に寡兵&寝返りばかりで秀吉側に圧倒的有利
41 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 07:22:03.26 ID:d4FHtxuj
秀吉の三大デタラメ
○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦
圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ
○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ
○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
42 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 07:23:04.84 ID:d4FHtxuj
秀吉は、織田四天王の中では一番雑魚。
直接交戦での戦績からそれがよくわかる。
滝川にまけ柴田に負け明智にまけ、それを勝った勝ったと揉み隠し
しまいには輝元、氏政、信雄の日本3大凡将に大敗し天下失ったゴミ武将
箕浦合戦や金ヶ崎の退陣で秀吉の奮戦で撤退できたというのは講談
池田勢中心で奮戦したから撤退できたというのが最近の説。
いかに講談や軍記類で秀吉が基地外のように持ち上げられてるかわかる事柄のひとつ。
信長が殿に使ったとしたらよっぽど雑魚だから死んでも構わんと思ってたんだろうね
秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚
毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが
備前・美作方面に出兵すると大苦戦
元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい
絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる
圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。
43 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 07:26:10.49 ID:d4FHtxuj
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
>>364 名前:名無しさん 投稿日: 2012/12/31(月) 22:30:55 ID:???
>>知将系では昌幸と大谷だけ統率も適正も高いままな気がする
馬鹿かお前
精強徳川軍を散々追い込んだ真田昌幸はあれでも過小
武田信玄の薫陶を受け継いだことをアホ織田厨が
これみよがしに叩いているだけ
大谷は雑魚家臣団の藤堂に奮戦したが結局やられるくらいだから少し下げればいい
44 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 07:27:16.11 ID:d4FHtxuj
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
45 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 07:28:00.69 ID:d4FHtxuj
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
46 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 07:28:35.79 ID:d4FHtxuj
信長の功績は捏造だらけ
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
47 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 07:29:16.75 ID:d4FHtxuj
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
48 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 08:11:35.26 ID:4ZjF3bRo
>>39でレスした時は13KBと表示されていたが、現在は33KBと表示されている
わずか8レスで20KBだ
この調子だと200レス余で512k制限に達する
気をつけよう!コピペ馬鹿が本気をだせば200レスでdat落ちだ!
49 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 08:43:23.00 ID:v3ODC2f/
このコピペが何を主張したいのか分からない
50 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 10:30:37.00 ID:7RRErxiI
51 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 14:53:22.87 ID:giOb/uZI
だがさん正月ですよちょっとは自重しましょう
それにもう2013年ですよ何年それやってるんですか
今年はがんばってコピペの内容を少しでも新しくしましょう
52 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 18:22:55.85 ID:RVIXTzIr
また
人が寄ってこない
↓
だが、コピペ連投
↓
>>1000いくまでに容量制限
これのくり返しか
53 :
名無し曰く、:2013/01/01(火) 22:16:55.17 ID:pGk7Z7tG
佐久間信盛は過小
蒲生氏郷とかの雑魚と入れ替えていいくらい。
川尻や蜂谷、日根野とか織田家の中堅格やそれ以下の武将はもうちょい高くていい
その分アホみたいな豊臣雑魚武将を下げて能力入れ替えるべき。
54 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 05:30:46.90 ID:4iMP0ohO
大谷は豊臣軍団の中では強い方なんじゃね
関が原では小早川の大軍何回も退ける他前田や丹羽、藤堂らの大軍も翻弄されまくってるし
まあ現評価が妥当かどうかはともかく
55 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 05:36:52.34 ID:YUJP4QeM
元就は過大すぎないか
宗麟との北九州での直接対決連戦連敗だし宗麟と能力逆でいい
56 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 05:59:02.93 ID:YHmfs1v6
北九州戦線は道雪の力なんじゃないの
57 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 07:57:28.11 ID:kY0JHFeV
信長だって信玄だって完璧超人じゃないって、きちんとわかってるからコピペ連打するな
負けても負けても凹まずあきらめないところが凄いんだよ
58 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 08:37:14.27 ID:7TCogp51
直接会って殴り倒してからその熱いセリフを言ってやりたいな
59 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 11:22:43.98 ID:Xt2vvSL9
元就と宗麟は直接対決はしたことない
60 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 12:01:53.64 ID:YuVSJqn6
元就知略下げてその分を統率上げろよ
61 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 14:37:12.91 ID:YUJP4QeM
そもそも豊前や筑前は大内滅亡まで大内領だったし、立花などの飛び地以外に大友の直轄領なんてほとんどなく、旧大内勢力反大友の敵対国人ばかりの地。
水軍力の低い大友は山がちの豊後の峰や谷を越えて長駆、筑前や豊前北方へ進軍しなきゃならない一方で
毛利は瀬戸内海水軍を勢力下に長門から隣接した豊前北方へ上陸できる。
豊前と長門の間の海峡は非常に狭い運河であり、兵糧補給の面でも地理的にも毛利勢力の方が非常に近く有利に戦える。
さらに君は高等な外交戦略>>超えられない壁>>戦略的失敗の不利を覆す戦術でしかも、戦略的失敗を戦術的勝利の積み重ねで挽回することはまず不可能なのに
戦術で押されて外交戦略で「なんとか毛利を撃退」っておかしな事を主張してるのは失笑。
毛利が大内を滅ぼす際の約定がありながら元就の一方的裏切り奇襲で落とされた門司城を奪回したのは道雪だし、
門司奪回に大軍で来た毛利に対して、道雪の弓隊の破壊力に押されて毛利の進軍がストップし停滞したのが実態。
軍事的常識として
戦死者数の5倍以上の戦傷者や戦闘不能者が発生すると言われている。
1/10の戦死者ということは軍隊として崩壊してる。
しかもこの戦死者は吉川の軍であり、
それの前の戦いで小早川軍が道雪に破れて大被害を出している。
大内や尼子の残党を毛利側が都合が良い言い訳にしてるが
実際は小早川の敗北が決定打になってるのは間違いない。
大友との盟約を破り毛利2万が怒留湯主水がわずかな兵で守る門司城を奇襲する。
大友1万5000で出陣し10月13日に開戦。
大友が終始優勢で、ついに15日に至り毛利が総崩れで山口へ敗走。
門司合戦に敗北した毛利は大友の侵攻を恐れ、筑紫や秋月に支援を約束して謀反を唆す。
弘治3年7月、大友軍が謀反した秋月を滅亡させる。驚いた筑紫も毛利の支援が絶望的なので自ら城に火を放ち亡命。
永禄元年、毛利2万が再度、早鞆の瀬を渡河し門司城を奇襲。宗麟が戦略外交で幕府の仲介で時間稼ぎをしつつ、尼子と同盟を結び包囲網を構築。
永禄7年、元就は豊前の要衝松山城などを大友に明け渡すことに同意し撤退。毛利輝元に娘を娶せて毛利との和平が結ばれた。
ちなみにこの宗麟の娘は毛利の再度の裏切り行為のために送られることはなかった。。
大友絶頂期が到来。
永禄9年7月、尼子を滅亡させた元就は、また和平を破り宝満城督の高橋鑑種に謀反を唆し、それに伴い毛利3000とともに秋月や筑紫の復帰を後援。
この動きに麻生、宗像、城井、長野、千寿、後藤ら国人が同調。
大友は肥前や筑後の国人が龍造寺の動きを恐れて動員が進まなかったが、筑紫を降伏させる。
秋月&高橋救援のたまに毛利来るの噂により、宗像が立花城を襲撃しようとしたのを撃退。
永禄10年9月大友の撤退を秋月が1万2000で襲撃するも大友側が反撃し痛撃を与え撃退する。
夜になり風雨となり秋月が再度襲撃し、油断していた臼杵、吉弘が混乱敗走するも道雪が混乱を沈静化させ撃退。
永禄11年4月、立花鑑載が謀反し、これに同調し原田も挙兵。
これを受けて毛利は清水左近将監を将として立花救援に大規模出兵し立花城は1万以上に膨れ上がる。
62 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 14:38:26.63 ID:YUJP4QeM
筑前博多は大内、少弐の争奪争い以来の最重要拠点。ここを巡り毛利と大友の攻防が始まる。
永禄11年7月4日、道雪の調略で立花城落城。立花鑑載討ち死に。高橋城からからくも脱出した原田、衛藤らは清水とともに中国へ大敗走。
8月、原田、衛藤が立花城奪還を図り、再度、やってきた毛利の将たる清水と5000を集めて襲撃するも撃破される。
清水もなんとか新宮の浜から長門へ落ちた。
道雪との前回の戦いのダメージで軍隊崩壊状態から回復していない秋月は毛利の援軍敗北を知り戦わず大友に降伏。
秋月に続き、城井、長野、千手、麻生、宗像らも大友に降伏。
宝満城の高橋鑑種が孤立化。
永禄12年2月、大友全軍をあげて龍造寺討伐を開始し隆信を佐賀城へ押し込む。神代、馬場、八戸、横岳、犬塚、小田、姉川、高木が大友に降伏。
3月毛利4万で門司城奇襲し小倉城に着陣し長野氏の三岳城を落城させる(毛利の味方なのにキチガイ毛利に濡れ衣を着せられ血祭りにされた)
佐賀包囲で隆信はもはや風前の灯火だったが、毛利の侵攻を聞き、隆信と和議を結び大友全軍は博多へ急行。
(実質的に龍造寺の降伏で、毛利支援を行わない誓詞まで取られた)
竜造寺の援軍がこない&宝満城の高橋と合流に失敗した毛利がやむなく立花城攻め開始。
備蓄食料が少ない立花城では宗麟への使いを出し、食糧が尽きた立花城は宗麟の命令で開城。
さてその宗麟は密かに豊後府内に帰って吉岡宗歓の秘策を実行に移していた。
それは制海権を握る村上武吉を買収し、9月に大内輝弘を無事に毛利領へ送り込むことと、若林鎮興に軍船を指揮させ毛利の補給路を断つと言う知略。
見事に村上武吉が見て見ぬフリをしたために大成功し、大友との戦線の見通しも暗いことから元就は九州からの完全撤退指令。
ちなみに合戦でも5月18日毛利4万と大友3万5000が立花を巡って決戦をし、道雪が小早川隆景隊左翼に突撃をかけて敗走させたために毛利全軍も敗走していた。
永禄12年11月15日雨天にみぞれが混じり降る寒風の夜に吉川元春を殿に撤退開始。
「士卒大いに凍え疲れ、親を捨て主を跡に置きて、我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討。行程十余里が間、死人算を乱せるが如し、今日大友方へ討取る首数3491級」
そして置き去りにされた立花城の毛利軍も降伏。
毛利を待ち続けた高橋鑑種が11月下旬に、ついに大友に降伏し肥前、筑前、豊前の再制圧が完了し立花城には道雪が配置された。
毛利マンセー安西軍策でさえ、
毛利軍九州撤退の際に道雪が元春や隆景の使いに「そちらの陣が御敗軍の由」と発言し、
宗麟が立花城開城勧告で「今度中国勢敗軍のところ」と発言し、毛利側からはそれらになんら反論すらしてないのに毛利勝利ってw
毛利厨はほんと無知だな。
大内再興軍を輸送した若林鎮興はこのあとも大友水軍を育てて、国東半島封鎖戦で、ついに毛利水軍を撃破してますよ。
さらに島津侵攻軍には臼杵城防衛に活躍し、朝鮮役にも出陣。
しかも制海権の痛感した大友側は努力して1580年あたりには大友水軍を毛利水軍と同等かそれ以上になっちゃってますw
田北紹鉄の謀反が鎮圧された頃、田原親貫が城井鎮房と秋月種実に支援されて叛乱。
毛利が支援で派遣した毛利水軍は大友の名将若林鎮興が大友水軍を率い瞬殺し周防灘まで追撃掃討戦。
毛利の大敗を知り、田原側の城が次々に開城し田原滅亡。
ちなみに大友は毛利と対陣してる中で
国東半島の田原本家(義鑑の遺言でも言及してるが、大友最大勢力で代々の田原本家は大友宗家に謀反をたくらんできた)の動向を常に恐れていたという不安要因を抱えていた。
永禄11年には大友側が北九州での毛利の策動に再上陸を予想し
四国の土佐一条氏や伊予宇都宮氏を煽り、河野氏に対して挙兵させて小早川軍の伊予への派兵に成功している。
このために毛利側は清水左近将監が北九州へ派兵され小早川や吉川らが派遣されないという
大友側の筋書き通りの兵力分散の愚をおかしており毛利派国人たちの中心人物の立花鑑載への更なる毛利の増派も避けられ、
毛利派国人たちの各個撃破に成功し、来るべき毛利大軍の上陸に備える時間稼ぎができた
63 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 14:40:09.36 ID:YUJP4QeM
圧倒的に大友側が優勢だけどな。ただ地理的に毛利側の方が門司に隣接しててめちゃくちゃ有利な反面で
大友側は背反常ない豊前の独立心旺盛な国人たちが豊後の山谷を越えての補給の邪魔ばかりするのが大問題となってるだけ。
毛利が奇襲し怒留湯主水の門司城を奪う→道雪が仁保就定を破り門司城を奪回
毛利が6月に奪回し仁保隆慰を置く→1558年9月田原親宏が奪回→毛利が奪回?再度、仁保就定配置?
1559年3月下旬に筑紫氏が博多へ乱入し大略奪大会
1559年9月田原常陸介が仁保就定から門司を奪うが毛利に再奪回される。
大友側が奪回に動くが基本的には豊前全域の国人討伐がメインで、大友は花尾城や香春岳城を攻める。
最前線の門司城でも一進一退の攻防戦
1560年3月宗麟も後詰めで出馬するが、一方で幕府の仲介工作開始。
1560年9月26日田原親宏や武蔵田原親賢が率いる国東郡衆や宇佐郡衆が門司を攻略し、落ち行く波多野大和守興滋親子を討ち取ったらしい。
12月に牢人決起により門司城が落城し毛利側が仁保隆慰を後任にする。
1561年吉岡臼杵のニ老が北上
2月下毛郡代を勤めてきた野仲鎮兼が旧領仲尾郷・築地村に乱入宇佐郡一帯で暴れ
妙見城督を田原親賢に譲った杉因幡守隆哉も謀反し松山城に籠城し筑紫秋月宗像が挙兵
1561年7月大友側が宇佐宮香春社を焼き討ち
8月田原15000小倉表集結を仁保就定が元就へ急報
9月道雪が花尾城と香春岳城攻略に成功。
9月に豊後水軍が蓑島辺で村上水軍に敗北し海上輸送が頓挫。
築城・上毛・下毛・宇佐で牢人が蜂起し大友の兵糧輸送不安により11月撤退。
宇佐も混乱中なので宇佐郡衆や吉岡や臼杵は小倉南区の貫山を超えて日田に帰り着く。
高橋鑑種が毛利領への調略で成果を挙げたため毛利討伐発向準備を下令するも、
和睦の話が現実味を帯びてきたので中止。
1562年9月道雪が補給線を切り開くため松山城の戦いで毛利を大破。
9〜10月に両軍が中元寺や桜井や柳浦で交戦
10月13日道雪や吉弘が松山包囲のついでに門司郷大里で門司城番や村上水軍を撃破し
城将冷泉五郎元豊や桂兵部大夫元親、赤川助右衛門(又左衛門尉元吉)を討ち取る
大友尼子同盟
松山城の天野隆重もしきりに城番の交代を隆元に願うまで追い込まれる。
これを受けて元就は追いつめられ1563年3月和睦。
和睦の時の門司城の扱いは不明
1564年4月毛利の唆しで秋月筑紫謀反 7月には彦山も謀反 8月毛利は大友と和睦誓紙を交換しつつ高橋に謀反を勧める背信行為。
高橋は毛利領の国人への調略で成功を収め、毛利領侵攻に自信があったが中止になり、毛利領の国人達に対して面目を失い恥をかいていた。
大友側が幕府に、うわべで和睦のフリしてるだけで和睦条件である九州の国人との関係を切らない元就に圧力を加えるよう依頼。
なお、これ以上の謀反を煽るようなら大内の旧臣たちをこちらも煽ると警告。
まったく改まらない元就に激怒しこの後に実際に大友側にいた大内輝弘を毛利領へ上陸させようとして
中国側の島へ渡海するも、内応した陶や内藤の親大内国人が毛利側に討たれ上陸失敗。
1568年5月20日西大野宮山に籠城していた仁保隆慰らが田原親宏に落とされ
大坂山の杉と西郷も降伏し田原勢は7月に杉七郎重良の苅田松山城攻撃を開始受け
1569年3月両川が門司城を奪い小倉着陣し前年の玖珠郡長野氏の三岳城攻めに続き、三岳城で(企救長野?)長野を攻略し立花へ
立花城攻防戦で大内輝弘の上陸に成功&小早川軍の敗北で攻防戦に大友が勝利。
大友と連動し尼子再興軍の出雲山中とともに浦上宗景と一味した藤井一党も備後方面で毛利へ挙兵
孤立した高橋鑑種が大友に降伏したので高橋の名跡を奪い、腹心の紹運に高橋の名跡を与え
高橋鑑種には代わりに規矩一郡を与え小倉城に高橋鑑種を移す。
門司城の状況は不明
(小倉城に一度は毛利側へ寝返ってから大友に降伏してる危険な高橋が配置されたことから、
目と鼻の先の門司城は大友側だったと言われる。毛利側の史料の追放された高橋を拾って小倉へ配置したってのは大ウソ捏造)
1570年2月大友側として高橋鑑種が門司城を攻撃
門司城の状況は不明
ちなみにもともと小倉築城は住吉神社領吉母浦へ流れついた寄船を利用し掻楯板として毛利側の急造の城
暗黒寺が交渉役として小倉津町衆に外構え70枚を、堀隔子造成は規矩郡中へ申しつけ金具調達は本人
毛利は南条と一緒に堀担当の日野衆を派遣する。
小倉は家久が1570年に伊勢神宮上洛途中に午後2時ころ小倉の町に着き大友統治下の高橋鑑種殿の館を一見したと出てくる。
64 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 14:42:22.11 ID:4iMP0ohO
元就負けすぎだろw
大友の完勝じゃん。普通に能力逆にすべきだろw
65 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 15:09:48.70 ID:Dfr5fNsu
能力評価泣かせの宗麟が絡むとキツいw
あの人、シラフだと凄い名将だしw
酒飲むかどうかでパラが変動するシステム入れないと無理
66 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 15:12:15.98 ID:Dfr5fNsu
でも智謀100は謀聖にすべきだよなあ
ノブヤボの評価って武将風雲録+覇王伝の秀吉政治100で全て決まってしまったんだよな
67 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 15:15:34.11 ID:aFxOAHGs
謀略のイメージが強い武将
最上義光
今川義元
斎藤道三
三好長慶
松永久秀
宇喜多直家
尼子経久
毛利元就
陶晴賢
龍造寺隆信
68 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 15:17:21.92 ID:Dfr5fNsu
>>40-43 秀吉は自分で一武将としての能力は自分は太田三楽斎に劣ると言ってるし
69 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 15:29:24.95 ID:qsuRzbZ/
>>36 特徴を見事に書かれたもんで
今年はちょっとだけ投下パターン変えてきたぞw
70 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 15:56:19.09 ID:YUJP4QeM
元就は統率下げるべきだよなぁ
有田大井手の戦いとか厳島合戦とか軍記にしかないデタラメばっかだし
71 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 16:41:24.77 ID:8KybMJVA
だよなさん
72 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 17:28:57.03 ID:kV8AIxZR
3 :名無し曰く、:2010/10/18(月) 19:46:05 ID:8IjWOGxg
「だが」の特徴
武田>上杉>>>佐竹>(嫌いの壁)>伊達>北条>(嫌悪の壁)>>>>>>織田、秀吉
武田が大好きらしいです。次に好きなのは上杉。
佐竹は大して好きじゃないですが北条を貶めるため利用します。
とにかく信長秀吉が大嫌い。彼らを貶めるためなら北条厨にもなります。
史実や講談を自分に都合よく解釈して、三傑謙信玄北条佐竹関係の話題で粘着しますが、
「気に入らない大名を貶めたいだけ」なので、いくら理論的な反証をしても、
まったく聞く耳を持ちません、理解しようともしません。
反論すればするほど、嬉々として荒らしてきます。
武田厨・佐竹厨・アンチ秀吉厨を使い分けてるつもりらしいです。
短期間にIDを切り替えて自演、文体、内容、多用するコピペ等に特徴があります。
このテンプレができたときに比べると毛利や島津は北条と同ランク、伊達や徳川は上昇傾向だな
武田から離れていくごとに評価が酷くなり、武田が苦しめた連中に近くなるほど評価が上がる
チョンや在日が自国の英雄を持ち上げるときによく使う手ですなw
73 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 17:50:10.98 ID:kV8AIxZR
ちなみにチョンや在日がこの持ち上げ方をするというソースとして
徳川家康が好色暴君、伊藤博文を女色狂いだというヘタレに改変され
ただの一社長である孫正義を天才だと持ち上げて盲信しているというのがある
織田信長をパワハラアスペ、豊臣秀吉を無能な傀儡、
毛利輝元を雑魚君主と捏造し、武田信玄を戦国最強と盲信するだが君そっくりである
74 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 17:51:09.56 ID:kV8AIxZR
75 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 21:57:07.79 ID:YuVSJqn6
>>68 北条滅ぼした秀吉が
北条に一回も勝てず追出された太田より上とか
リップサービスしすぎだな
76 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 22:15:02.50 ID:YUJP4QeM
北条を1000〜2000そこそこで苦しめまくった太田
北条を全国からかき集めた235000で小田原1000や忍1000に手も足もでず韮山500に大苦戦。
重臣一柳直末・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田が戦死し
兵站維持できるギリギリのところまで追い込まれる始末。
太田>>>>>>>秀吉
77 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 22:19:08.52 ID:4iMP0ohO
壬生や佐野、水谷でも北条に勝ってるのに
ガチンコじゃ50倍〜80倍の兵力で小田原や忍も落とせない秀吉は壬生・佐野・水谷以下。
おそらく小田レベル
78 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 22:41:08.03 ID:Dfr5fNsu
水谷正村、簗田晴助は北条が地味なせいで被害を被ってるよな
相手が武田とかなら長野や村上のように過剰に持ち上げてもらえるのに
79 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 23:30:04.17 ID:4iMP0ohO
長野は武田に勝ってないけどな
80 :
名無し曰く、:2013/01/02(水) 23:45:47.64 ID:YuVSJqn6
長野なんて捏造やん
本当にあったかどうか分からん戦いで持ち上げられてるだけ
81 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 03:39:14.76 ID:Gay89a2y
新作出るらしいな
新しい能力が分かればこのスレもまた少しはまともになるかね
82 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 07:46:17.71 ID:TwUbISco
北見がまたPならそれ以上の災害が降りかかってくるかもしれないけどな
能力以前の問題で
83 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 11:14:33.37 ID:n0XJX0Ai
トレンドパクリゲーになるからガチャとかカード合成とかありそう
マジであるかもな
84 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 11:33:14.19 ID:yDNvBdjA
その簗田氏降した氏照はもう少し評価高くていいだろ
統率は十分高いけど武勇政治は過小気味
氏邦も知略政治もっと高くせい
85 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 11:55:44.67 ID:Ol10Xo1b
北条は雑魚大名
〜今川義元・上杉謙信・里見義堯・武田信玄に負け続け、逃げ惑ったザコ大名・北条氏康〜
1545年【狐橋の戦い】北条氏康●-○今川義元
1545年【吉原城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1547年【松山城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1551年【興国寺城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1553年【平井城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信(平子孫三郎)
1553年【忍城の戦い】北条氏康●-○成田長泰
1556年【三浦三崎の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1560年【沼田城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1560年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1561年【松山城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1562年【岩槻城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1565年【関宿城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信・簗田晴助
1566年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1567年【三船山の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1569年【三増峠の戦い】北条氏康●-○武田信玄
1570年【深沢城の戦い】北条氏康●-○武田信玄
86 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 11:56:30.96 ID:Ol10Xo1b
北条氏康が上野国を制圧した時点の謙信は
国人統制もできず越後一国すらまだまだ平定してないのに
北信濃を信玄が北上すると言う危機的状態。
そこから武田と北条の2軍を同時に相手をして無敗。
利根川以西は武田領化したが、そもそも長野氏などは
ほとんど謙信との書状交換もない独自勢力に近く
北上野は最終的に上杉領だし、
東上野を北条は領土下できずに由良氏には上野一国を与えるなどと言って
自軍に味方してくださいと言わんばかりの関係。
そもそも北条は南関東のような直轄化政策を北関東では放棄してしまってるのが現実で
西上野を支配した武田みたいに城代すら置けてない。
北条なんて忍城・騎西城の成田兄弟すら自立勢力のままを容認してるし
自立勢力が謙信の陣触れで動員されて戦わされるよりは
北条のように放任してくれて動員義務を負わない方が楽だから北条派に転向してたに過ぎんから
勝頼や義重や信長にもすぐ尻尾を振るような輩も北関東には多く、
まったく北条の家臣化などなされていない。
越相同盟にしても、謙信の条件要求をうやむやに誤魔化して
武田攻めをしてくれと言ってたのが北条。
沼田や厩橋着陣すれば、それは武田への無言の圧力になるので、
謙信が援軍を出してないとは言えない。
しかも越中は武田が一向宗を使って上杉と戦わせているので
越中への攻勢も武田攻め一環。
つかそもそも同盟交渉継続してただけだし。
そもそも御館の乱の時も北条は武田を使って自分は動かずに利用しようとして
勝頼が不満を漏らしているし、基本的に北条は糞。
越相同盟交渉の時に謙信は太田のために交渉してて、
北条が太田の息子の梶原を人質に出せなどと無理難題をふっかけておきながら
それすら有耶無耶にしつつ援軍出してくれを連呼。
氏政の息子を人質に出す話も有耶無耶。
そもそも佐竹も義昭時代と違って義重は奥羽方面への北上を指向して
北条と内通したり葦名を攻めたりと必ずしも謙信の味方ではない。
里見も副将軍と自称していて軍事的な交流などそもそもほとんどない。
87 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 11:57:43.32 ID:Ol10Xo1b
氏康は謙信に屈して越相同盟締結したんだよ
氏康は以後謙信を関東管領様と呼ぶことになり、南上野・北武蔵を謙信に割譲させられた
情けないことに氏政に到っては謙信にお歳暮まで送って機嫌を伺ってる
だいたい氏康は忍城攻撃に失敗、唐沢山城攻撃に失敗、岩付城攻撃に失敗、関宿城攻撃に失敗と城攻めが絶望的に下手くそ
また野戦でも狐橋の戦いで今川義元に敗れ、三崎の戦いで里見義弘に敗れ、三船山の戦いで里見義尭に敗れ(バカ息子に戦闘命令)、三増峠の戦いで信玄に敗れ(バカ息子に戦闘命令)、野戦で北条軍の弱体無能さを天下に轟かせてる
氏康の弱さは北条滅亡の危機を3度も味わったことからも明らか
狐橋の戦いで義元に敗れ関東管領山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏に河越城を攻められた時は信玄が仲介しなければ間違いなく北条滅亡してた
謙信に小田原城攻められた時も信玄が軍事行動起こさなければ連合軍は撤退せず城は陥落間違いなし
信玄が駿河に攻め込んだ時北条は西に本性現した武田、北に仇敵上杉、東に復活した里見と三方を敵に囲まれ半泣きで謙信に縋り付いた
小田原城下町を武田に火の海にされても城内で震えてただけの氏康
武田を撃退したなんて負け惜しみ、家を焼かれた領民は助けてくれなかった氏康を恨んだ
三増峠の戦いでも北条軍は大打撃を受けて駿河から叩き出されてしまった
北条軍は本当に弱小
まあ光秀にぶち殺されて死んだ信長より遥かに有能だろうな
包囲網張られた絶望的状況から両上杉や古河公方の8万の大軍や今川らの包囲網退けて
見事関東に覇を唱える礎を作っているし河越野戦なんてそうそうできる業じゃないだろうし
領土拡張率でいっても
氏康40→120
信長30→20で氏康のがずっと上だしな
88 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 11:58:44.78 ID:Ol10Xo1b
相模の北条氏康は関東制覇に失敗してしまった。
関東南東部では安房の里見義堯に翻弄され、
関東北東部では常陸の佐竹義昭に阻まれ、
関東北西部では越後の上杉謙信に歯が立たず、
関東南西部では甲斐の武田信玄や安房の里見義堯、越後の上杉謙信に攻め込まれ、
関東中央部では下総の簗田晴助に撃退された。
さらに駿河河東郡にて駿河の今川義元に手痛い敗北を喫し、領土を大幅に割譲する憂き目を見ている。
氏康の真骨頂とされる河越の戦い(天文15年)も決して特筆すべき戦ではなかった。
敵将は二十歳前後の若輩であった山内上杉憲政と扇谷上杉朝定および凡将の足利晴氏。
敵軍は指揮官達が戦慣れしてない上、団結力に欠ける烏合の衆であった。
この河越の戦いを桶狭間の戦い・厳島の戦いと並び日本三大奇襲戦とする珍説もあるが、
戦国の風雲児・織田信長が名将・今川義元を破った戦いや戦国最高の知将・毛利元就が猛将・陶晴賢を破った戦いとは
比べ物にならないほど凡庸な戦いであった。
北条氏康の生涯とは大まかに言って、関東の小大名に対しては強気に攻め、東日本の大大名からは逃げるものであった。
旧家臣が書いたのは『北条五代記』。
『北条記』は作者・成立年不詳の怪しげな軍記物語。
『北条記』と『北条五代記』では矛盾も多い。
たとえば氏康が夜襲によって八万の大軍を八千で撃破したとされる『河越夜戦』は怪しげな『北条記』の記述。
旧家臣が書いた『北条五代記』では彼我の兵数は明記されておらず、昼間の正面戦闘で撃退したと書かれている。
『北条五代記』と『北条記』はどちらも氏康称揚が著しいが
旧家臣が書いた『北条五代記』と比べると、物語である『北条記』のほうが氏康称揚が分かりやすい内容では有る。
そのためか、氏康は怪しげな『北条記』を元に語られる事が多いようだ。
氏康が過大評価されるのは『北条記』という虚構のせいだろう。
89 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 12:00:17.49 ID:Ol10Xo1b
領土の広さってそれ程関係ないんだよ
カナダやカザフスタンは日本より広いけどどっちも大したことない
戦国時代も同じで例えば大友宗麟や大内義隆は広かったけど弱かった
相馬なんか伊達の半分以下の領土で半世紀も互角に戦った
北条は領土広くても将が無能で兵も弱いから里見の精鋭部隊に翻弄されたし
氏康も成田に忍城で撃退されたり梁田に関宿城で敗走したりしてるわけ
氏康は後継ぎの養育を怠ったのがマイナス評価
バカ息子達が井の中の蛙で関東のザコ大名達を制圧したことで北条が最強と勘違いしてしまった
中央の情報収集を怠り秀吉に勝てると勘違いして滅亡
氏康自身も義元に負けた時点で上洛の道絶たれ天下諦めたんなら、バカ息子達に天下目指すなと叩き込んどくべきだった
息子達に天下目指すなと叩き込んで大名としての毛利を存続させた元就とは雲泥の差
氏康はリソースを適切に運用できてない。
北条に半分の国力で勝った武田や、四半分の国力で互角に戦った里見のほうが
リソースを適切に運用したと言える。
言い方をかえれば氏康は武田や里見に倍するリソースを持ちながら
その半分以下しか活用出来なかったということだ。
反面教師としては分かりやすいが参考にならないし評価も出来ない。
90 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 12:01:18.07 ID:Ol10Xo1b
今川と両上杉に東西から挟撃されたのは
氏康の外交オンチが原因で言い訳にならない
そもそも武田軍は河東に兵は送ったが
遠くから見てるだけで全く参戦してない
武田は今川と北条を仲裁し和睦させるため来てるんだから
参戦しなくて当たり前
そして氏康率いる北条軍は義元率いる今川軍に敗北し
河東から叩き出されて泣く泣く講和に署名
戦国の世で裏切り当たり前だろ純情少年よ
氏康のバカ息子もバカ孫も秀吉の大軍に囲まれて発狂号泣
日本中を敵に回し日本中に賊軍扱いされた戦国一の大バカ一家
島津も伊達も家康も秀吉に服従する中で
唯一空気も読めずダダこねた視野狭窄的白痴北条の哀れ末路はチーン
氏康って信玄いなきゃ何も出来なかったよな
今川義元に連戦連敗して滅亡の危機にあった時
信玄に泣きついて義元との和睦の仲介して貰って
九死に一生得たし、
上杉憲政に苦戦してた時も信玄が小田井原の戦いで
憲政軍を撃破して援護射撃して貰ったし、
上杉謙信に小田原城包囲されて滅亡の危機に瀕した時も
信玄が川中島で軍事行動に出て
謙信軍を引き揚げさせて貰ったし
91 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 12:03:47.57 ID:Ol10Xo1b
北条氏綱は無意味に今川義元と戦い破れ、
北条氏康は無意味に武田信玄と戦い破れ、
北条氏政は無意味に武田勝頼と戦い破れ、
北条氏直は無意味に豊臣秀吉と戦い破れ、
ここぞという時の外交能力低すぎるw
しかし北条は雑魚大名だが、それは単に佐竹里見武田上杉と比べての話。
織田とか東海以西の雑魚に比べたら遥かに強い。
氏康より下の氏直に織田家トップ格の滝川が戦術的大敗をして蹴散らされてる時点でわかる
92 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 12:04:35.35 ID:Ol10Xo1b
北条氏直は織田勢を蹴散らしてるんだよな
もし徳川家康が北条氏直を食い止めなかったら、
ボロボロの織田家は北条氏直に全て飲み込まれていた気がする
上杉景勝は上越しか支配できてないから、
北条氏直に単独で対抗できるほどの力は無かったと思う
徳川家康さえ突破すれば、旧織田勢は関東勢と比較するとだいぶ戦が弱いから楽勝だった
むしろ織田がやった戦なんて火事場泥棒しかねーじゃん
美濃を斉藤の幼君&混乱&分裂で寝返りばかりなのを火事場泥棒したら負けまくり
動乱でぐちゃぐちゃになった畿内を浅井や徳川や足利義昭の力を頼って火事場泥棒したはいいが
その後信玄に負けまくり滅亡寸前
伊勢でも分裂状態の北畠を無理矢理乗っ取ったりしたしたはいいが大河内城や長島一揆に負けまくり
しまいには御館の乱や新発田の乱で極度まで疲弊した上杉を45000の大軍&神保・佐々・長など地元諸侯派遣しまくり
火事場泥棒しようとしたら越中中部〜魚津・松倉の短い区間で天正8年から2年も立ち往生するなど大苦戦。
まともにガチンコで切り取った土地なんかねーだろ
93 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 13:32:27.14 ID:Q00kVTXm
北条叩いてるのかと思ったら
最終的に織田叩いてるのは
さすが、だがちゃんと言ったところか
94 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 15:09:26.25 ID:Yq6C6AZV
だがさん、だがさーん
正月なんですよそれ何年やってるんですか
今年こそはまず人の目を見てお話できるようになる事を目標としましょう
大丈夫いくつになっていたってがんばれば出来るはず
95 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 18:30:52.41 ID:n0XJX0Ai
氏照も氏邦も十分高いわ
あれよりあげるとなんで関東で敵対してた諸侯を滅ぼせなかったの?ってなる
信長も元就も敵対勢力を全部滅ぼしてるからあのパラだろ
96 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 19:35:37.83 ID:3Lcw8Vqx
信長も元就も敵対勢力滅ぼすどころか
滅ぼされかけたわけで。信長なんてちょうどいいタイミングで信玄の死と朝廷介した和議で助かっただけだし
97 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 19:40:44.76 ID:kIlliSZl
元就って大内と尼子が分裂しまくった所を火事場ドロしただけじゃん。
しかも敵対勢力って尼子・大友・浦上・宇喜多とどこも滅ぼしてないし
中国制覇なんてしてないだろ
厳島合戦で毛利が勝ったのは
能島村上水軍が陶
因島村上水軍が毛利
そして来島村上水軍がどっちに付くかで毛利は来島水軍が味方についてくれなきゃ終わりだと言ってた。
瀬戸内海の水運権益を手放して大幅常歩した結果、来島水軍が味方になり毛利が勝っただけ。
毛利は何もしてない。
98 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 19:42:59.03 ID:3Lcw8Vqx
尼子と大内が自滅しただけ。
敵失を評価することはできない。しかも陶や義久は元就を信用していたのに
完璧に裏切られたように 信義の欠片すらないキチガイをどう評価できるのか?
さらに大友に敗北し、大内残党には山口を焼かれ
尼子残党には東側を侵食されまくられ 元就死去前後の毛利の領地消失率で考えれば
滅亡の寸前の瓦解がはじまっていた。 元春の働きがなければ義隆や義晴の死去時の瓦解開始と似た条件が揃っていた。
毛利厨って基地害過ぎだよな。元就だけでなく隆元や隆景まですげー過大評価しまくりだし。
元春だって九州で殿と言う最も軍事的才覚と指揮と統帥と組織力が要求される戦略的撤退において大失敗して立花道雪らにフルボッコされて軍隊として崩壊した挙げ句に長駆大敗走してるし。
大内と尼子の自爆待ちで
気付いたら当時の平均年齢50歳でみんな死んでて
自分が地域の長老になってたので
死んで他に誰もいないのでやむをえずみんなに推戴され
(元就視点ではもともと安芸の国人一揆の盟主の家柄だし当たり前じゃボケ国人どもめ!)
吉川も小早川も普通に跡継ぎいないから次男か三男くれない→いいよ別に!
大内義隆が陶の謀反を知り調伏の護摩焚いてたらマジに陶が殺しにきた→陶が山田事件起こす→石見国人謀反→討伐中に元就火事場泥棒→
厳島でなにやら占いや気をみたりする陶がここ数日は大凶だから休戦日だな!→大凶?関係ねーよと元就襲撃→卑怯なり元就ぃ!
→石見銀山ゲット!ってあれ晴久突然死→20歳義久は毛利をビビリ石見を毛利にプレゼントするから和睦しよ♪→石見の国人見捨てられる→
うっひゃひゃ銀を出雲国人にばらまけ和睦なんて関係ねーし侵略じゃ!
実際は水上兵力を含めれば毛利より少なかったりしてなw
なんせ当主を殺してしまったので主従が疑心暗鬼になり、まとまりにかける陶軍は石見で大苦戦して和睦せざる負えなくなったくらい追い詰められた軍だし
石見から強行軍で中国地方を縦断して進軍してきたら使役の割に褒美がもらえるかもわからんし部下も離散するだろう。
長門守護代の内藤氏すら甥と叔父が内紛中だし。
周防の残留軍は火事場泥棒した毛利にすでにやられてるし北九州にも一応は備えないとだし石見にも兵力を拘置しなきゃならん。
陶は背後に多くの火種を抱えて戦力集中はできないのは明白。周防の石高から6000も動員できないんじゃないか?
元就の壮年期はセックル大好きでひたすらガキを作りまくって成長後には親戚作りをやってたんだろう。
外交的にはことなかれ主義で主に大内の庇護と援助をうけていた。
家督問題介入で怒ってたが尼子にも良い顔をしたりと卑屈だが八方美人をしてた。
大内としても安芸守護武田の支配に対して昔から反抗していた国人一揆の議長役をしていた毛利を通して安芸支配を固めていた。
尼子も武田がダメなら安芸支配のポイントは毛利だとして吉川氏経由で支援して優遇していた。
要するに大内と尼子の勢力圏の緩衝地帯に毛利がいたってわけ。
だから双方の傘下に両属し厚遇された毛利はけっこう美味しい地位にいたし力を蓄える事ができた。
またセックル好きのおかげでガキに恵まれ自身も地域の長老になるとかなり有利になった。
毛利は典型的な他力本願タイプで寄生虫・宿り木・小判鮫をして主家が衰退するのを待って地位を簒奪したと言える。
毛利家は代々の安芸国人一揆の議長役という地位が非常に有効になったんだろう。
99 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 21:12:39.76 ID:9Bb87+ri
元就は騙し討ちと火事場泥棒はうまいが戦は下手
100 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 22:34:29.76 ID:g8GXbYQN
元就=氏政
隆元=幻庵
元春=氏照
隆景=氏規
輝元=氏直
早雲、氏綱、氏康、綱成、氏繁に匹敵する名将は毛利にはいない
101 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 23:29:18.05 ID:Q00kVTXm
まぁ、北条は1回滅亡したけどね
102 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 23:40:47.68 ID:kIlliSZl
織田も豊臣もな
103 :
名無し曰く、:2013/01/03(木) 23:52:50.30 ID:23fZBmIH
このスレでも村上義清の最強が結論となってしまうのか
104 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 00:22:24.67 ID:S7MZsk5O
>>95 統率は十分高いけどさ
どちらとも民政に長け諸大名との外交にも多くかかわって貢献してるんで
政治も最低60台ってことも無いだろ
氏照は数々の戦で勇名馳せたと猛将と伝わってるし
氏邦は岩井の戦いで佐竹の伏兵を見破り打ち破った
それぞれ武勇と知略上げて欲しいぜ
105 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 00:57:20.85 ID:pjSgrVEA
>>67 この面子での知力ステータスにおける隆信の浮きっぷりよ…いや沈みっぷりか
106 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 02:01:25.78 ID:qqW/AD5P
氏照氏邦は統率下げて政治知略にまわせば良い
107 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 02:03:44.05 ID:dFE2qXYn
そこは龍造寺家兼だろ
108 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 05:58:56.35 ID:NkygIU8W
>>104 >氏邦は岩井の戦いで佐竹の伏兵を見破り打ち破った
この手の戦場での洞察力は統率換算だろ
でなきゃ川中島で山勘の策を見破った謙信の知略は100超える
109 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 06:44:05.71 ID:GHpvx5LY
つーか
>>104はでたらめすぎる
岩井の戦いは氏政氏照の指揮で、佐竹の攻撃を伏兵で撃退した戦い
110 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 07:01:02.55 ID:QdXxRuGN
北条過大武田過少
111 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 09:13:42.46 ID:6mqN/6ds
昨日のNHKによると最強の戦国武将は織田信長
112 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 09:41:05.10 ID:UtZkShJb
最強争いなら
そりゃ三傑の誰かになるだろ
113 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 11:30:16.62 ID:yMIFAi3y
信長の功績は捏造だらけ
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
114 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 11:31:02.77 ID:yMIFAi3y
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
115 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 11:31:53.89 ID:yMIFAi3y
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない
116 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 11:32:58.87 ID:yMIFAi3y
和田は伊丹が反織田で挙兵しないように説得していたんだし、細川と和田は協調して親織田だと見るべきだ。
ちなみに伊丹氏は天正2年4月の本願寺挙兵にも同調して、一向宗の力を借りて7月下旬に伊丹城を奪取し挙兵。
7/20に石山本願寺の中島砦攻撃で荒木軍の大半が戦死し
7/29には伊勢長島攻撃の戦地の信長が本願寺包囲に参加していた光秀に
奪取したばかりで兵糧が乏しい伊丹城は本願寺と連携してるから
即降伏は難しいので遠巻きするかどうかはお前の判断次第と言ってる。
8/3には河内若江城へ遊佐信教・三好康長らが攻めてきたり大和南部でも叛乱が起きまくり。
長島一向衆を大虐殺後は即、大和へ織田軍は進軍。ついで11/15に伊丹氏滅亡。
俺が言ったのはロクに準備なく、丹波攻め人選もいい加減だということ。
丹波国守護代内藤氏や宇津頼重が義昭に付いて、いまだに帰順しないからと言うことで
6/7川勝継氏 6/17小畠左馬助らに内藤らに味方したら成敗するから織田に付いて馳走しろ。
こんな乱暴な命令の書状を出しただけで放置だろ。
とうの信長は本願寺包囲をしつつ、光秀や秀吉などを引き連れて
越前で撫で斬り大虐殺大会に出かけてるだけだし。
9/26に越前虐殺大会から帰ると、万単位の虐殺に大満足してるようで高揚してるのか
思い出したように10/1に赤井直正を討つから光秀派遣したから片岡藤五郎は協力しろ。
そして天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないと大幅に白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末。
しかもその後におきる木津川口の敗戦も公記得意の信長が後詰めしようとしたが
間に合わなかったと言う岩村城援軍や明智城援軍や高天神城援軍などでも使われた決戦から逃亡正当化の常套文句。
さらに安土城建築の模様を再び書いたりと誤魔化してるが、このあたりから再び、信長は苦境に入り込んでる。
織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし
信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長
根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず
公記には天文21年(1552年)に桶狭間の戦いがあったと書いている事実w
このため桶狭間の戦い虚構捏造説の根拠にされるw(信秀死去は天文20年もしくは天文21年とされる)
天正9年11/24に信長の子の御坊殿が武田から返却されてきたので犬山城主にしたと
公記には書いてある。そこには信玄が養子にしたいと言うから甲斐へ送っていたと書かれている。
しかし実際は岩村城の養子に信長がねじ込んだ末に、武田軍に大敗して拉致られただけ。
完全に歪曲捏造しまくりなのが公記。
117 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 11:33:37.20 ID:yMIFAi3y
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
118 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 11:34:56.00 ID:yMIFAi3y
信長公記は志賀の陣まで
前代未聞の栄誉ある一戦
などと勝利宣言してるから
まったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て
一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら
比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長を
さすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
無知長厨乙
信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
信玄が織田に宣戦したのは
明らかにアスペ信長が無意識に挑発しまくってたのがよくわかるな。
それで信玄も堪忍の限界にきて
信玄の死んだ妻の妹が顕如の妻の如春尼だったこともあり
立ち上がっただけに過ぎんのに
信長はなぜか裏切られた!と逆切れw
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
119 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 11:35:51.53 ID:yMIFAi3y
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
120 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 11:37:16.34 ID:yMIFAi3y
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
121 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 14:13:26.35 ID:kZ7K9b5o
氏照氏邦が低いのは隆景元春ほどカリスマ性がないからだよな
122 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 15:12:10.39 ID:hWmLvcWb
隆景元春には家を滅ぼした愚将というマイナスイメージがない
が、その元春(政治61)よりも氏照(政治62)は政治高いし、べつに低くないだろ
政治の平均値53.6だし
123 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 15:56:16.15 ID:HWb2yKNM
毛利の両川なんて過大筆頭じゃん
大友や宇喜多に蹴散らされるくらいしかまともな実績ねぇしw
124 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 16:01:26.70 ID:ODaRrvjh
明智光秀にビビって赤井直正から太刀や馬ををもらいながら吉川元春はこれらをガメて違約逃走。
月山富田城の戦いで指揮した秋上久家や降露坂の戦いでも元春は明らかに大敗してるよね。
この人って吉川経家の鳥取城を見捨てて逃げた人でしょ。
但馬有子山城の山名堯熙 播磨三木城主・別所長治 摂津国の荒木村重 も見事に見捨てたよね。本願寺が必死こいてる時の元春の無能ぶりは異常。
同格くらいの相手には逃げてる(長期籠城してる相手への言い訳は援軍を出したが間に合わなかったw)
忍原崩れも直接の戦闘で負けたのは宍戸だけど刺賀長信救援できずに戦略的には大敗じゃね?(この戦いは元就のミスかもしれんが)
決定的に元春は立花道雪の猛追撃に付け狙われ大敗走してるよ。
西国盛衰記
毛利軍が立花から降雪の深夜に小倉へ向かって長躯敗走描写において
凍えて脱落していく兵すら見捨てて逃避行してる。
子が親を捨て、家臣が主を捨てて大敗走のあとに
「我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討にせし程に、
其の行程十余里が間は、死人算を乱せるが如し・・・」と続く
その結果、永禄12年11/15の夜に3491の首を討たれ毛利軍崩壊。
この時の殿に大失敗したのが元春の殿の指揮。
その裏づけ史料として有名なのが吉弘文書で、これにも辛10/15のこととして
紹運の兄の鎮信だけでも100人以上を討ち取ってる。
辛10/27に吉弘家中の者たちの分捕高名の着到状を見た宗麟が激賞してる。
125 :
名無し曰く、:2013/01/04(金) 16:56:15.19 ID:HWb2yKNM
辛川合戦・加茂崩れでは
宇喜多の攻勢により備中・美作で敗勢著しい毛利軍が巻き返しを図るために
輝元・隆景・元春まで出張ってきての虎倉城攻略作戦で(虎倉合戦)
10万石前後の小勢であった伊賀久隆にまんまと毛利軍が大敗し
粟屋元信など大物他3000ほどが討ち取られる雑魚っぷりを発揮
126 :
名無し曰く、:2013/01/05(土) 03:05:36.55 ID:dHtSczTz
プラス10刻みで
北条氏照
統率86武勇84知略70政治72
北条氏邦
統率85武勇77知略72政治66
此れ位オールラウンダーで強くしたら北条厨も満足だろ。?
127 :
名無し曰く、:2013/01/05(土) 05:47:39.51 ID:rwPRjYWE
北条厨乙
128 :
名無し曰く、:2013/01/05(土) 06:29:39.93 ID:mzaUqrI6
謙信に野望があれば小田原籠城に持ち込んだあとで
それまでに取った切り取った領地も自分の物とできたわけだ
そうなると版図は巨大になったとにな
129 :
名無し曰く、:2013/01/05(土) 07:41:56.36 ID:N4/Lchjt
新作発表で発情した北条厨のゴリ押し始まったなw
130 :
名無し曰く、:2013/01/05(土) 08:16:07.86 ID:nXpgoM7e
村上義清
家督相続後国人衆を次々駆逐北から東信濃の大部分を得る
高梨と対立、長尾に半従属していた高梨に攻め込む。
しかし長尾から援軍を出され断念したり決着つかず撤退
信虎と東信濃を奪い合う。
真田海野を駆逐。対武田では最初は優勢だったもの敗退、上杉がそこをかすめ取り領土は半分ずつ
晴信の信濃侵攻
上田原の戦いで快勝、信虎期からの重臣2人を討ち取る
続く砥石城の戦いで再び快勝、配下を討ち取り死屍累累を築く
真田幸隆の調略により国人衆が反乱、更に直臣に裏切られ城を追われ、一悶着あり高梨(上杉)を頼る
第4次川中島で信繁を討ち取る
前半生はかなり活躍(?)してるが没落がすごいそんな人
村上義清:統率100 武勇99
高梨政頼:統率84 武勇69 知略72 政治88
武田信玄:統率98 知略98
武田勝頼:知略27 政治40
山県昌景:統率95
馬場信房:統率92 武勇59 知略90
内藤昌豊:統率87 知略86 政治91
秋山信友:統率86
小山田信茂:統率85
真田幸隆:統率85 知略91 政治95
矢沢頼綱:統率83 武勇85 知略89
徳川家康:統率89
131 :
名無し曰く、:2013/01/05(土) 11:37:04.83 ID:xUioQ/Un
毛利勝永
夏の陣では真田信繁以上の活躍をしているのに何故か能力値がうんと低い
132 :
名無し曰く、:2013/01/05(土) 14:55:59.08 ID:pwlPCoND
>>131 司馬遼太郎が悪い
大阪の陣がらみの作品は長編も短編もたくさん書いていて
後藤又兵衛、長宗我部盛親・康豊、木村重成、塙直之、安井道頓が主役の作品まであるのに
毛利勝永についてはまるで隠蔽するかのごとく一切触れてない
嫌いだったのだろうか
133 :
名無し曰く、:2013/01/06(日) 00:08:26.59 ID:eUF2bjh4
嫌いじゃなくて単純に興味なかったんだろ
134 :
名無し曰く、:2013/01/06(日) 04:23:06.64 ID:2l86rAVN
>>毛利勝永
だって大活躍のソースが全部後世の軍記だし、
その軍記では真田幸村の方が遥かに活躍してるから
135 :
名無し曰く、:2013/01/06(日) 10:48:20.55 ID:oKj0zbUc
なぜか北条を目の敵にしてる輩はいるが北条厨はいないと断言する
少し上げていいんじゃないか程度の発言の奴までカウントしてたら誰も残らんわ
あと新作楽しみやね。次にまともに盛り上がるのは発売後か
136 :
名無し曰く、:2013/01/06(日) 11:01:06.06 ID:XfJc+cvm
北条厨乙
137 :
名無し曰く、:2013/01/06(日) 11:53:27.91 ID:XrKJHDYp
138 :
名無し曰く、:2013/01/06(日) 12:22:51.44 ID:R1/L6vfH
>此れ位オールラウンダーで強くしたら北条厨も満足だろ。?
>なぜか北条を目の敵にしてる輩はいるが北条厨はいないと断言する
暗に自分は北条厨ではないですよとアピールしようとして
かえってレスを不自然にしちまう残念さが笑えるw
139 :
名無し曰く、:2013/01/06(日) 13:28:28.29 ID:oKj0zbUc
我ながらこれは恥ずかしいことを。延々連呼されまくって読み飛ばしてたとか理由にならんよね
とりあえず俺の意見としては現状維持か綱成+氏照・氏邦下方修正で家臣団底上げ
もっと言えば国力増強+十把一絡げの家臣数増。最低でも評定衆+支城衆の主だった面子くらいは出して欲しい
あと多目の軍師補正とかいらんから。そんなことより幻庵長老を長綱として評価してくれと
うん、俺が北条厨ですねごめんなさい。ただ変なのが騒いでやたらと肩身狭い思いしてるのも覚えといてください・・・
140 :
名無し曰く、:2013/01/06(日) 14:53:06.88 ID:bPYGlJs7
北条は雑魚大名
〜今川義元・上杉謙信・里見義堯・武田信玄に負け続け、逃げ惑ったザコ大名・北条氏康〜
1545年【狐橋の戦い】北条氏康●-○今川義元
1545年【吉原城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1547年【松山城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1551年【興国寺城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1553年【平井城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信(平子孫三郎)
1553年【忍城の戦い】北条氏康●-○成田長泰
1556年【三浦三崎の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1560年【沼田城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1560年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1561年【松山城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1562年【岩槻城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1565年【関宿城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信・簗田晴助
1566年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1567年【三船山の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1569年【三増峠の戦い】北条氏康●-○武田信玄
1570年【深沢城の戦い】北条氏康●-○武田信玄
141 :
名無し曰く、:2013/01/06(日) 14:54:14.78 ID:bPYGlJs7
相模の北条氏康は関東制覇に失敗してしまった。
関東南東部では安房の里見義堯に翻弄され、
関東北東部では常陸の佐竹義昭に阻まれ、
関東北西部では越後の上杉謙信に歯が立たず、
関東南西部では甲斐の武田信玄や安房の里見義堯、越後の上杉謙信に攻め込まれ、
関東中央部では下総の簗田晴助に撃退された。
さらに駿河河東郡にて駿河の今川義元に手痛い敗北を喫し、領土を大幅に割譲する憂き目を見ている。
氏康の真骨頂とされる河越の戦い(天文15年)も決して特筆すべき戦ではなかった。
敵将は二十歳前後の若輩であった山内上杉憲政と扇谷上杉朝定および凡将の足利晴氏。
敵軍は指揮官達が戦慣れしてない上、団結力に欠ける烏合の衆であった。
この河越の戦いを桶狭間の戦い・厳島の戦いと並び日本三大奇襲戦とする珍説もあるが、
戦国の風雲児・織田信長が名将・今川義元を破った戦いや戦国最高の知将・毛利元就が猛将・陶晴賢を破った戦いとは
比べ物にならないほど凡庸な戦いであった。
北条氏康の生涯とは大まかに言って、関東の小大名に対しては強気に攻め、東日本の大大名からは逃げるものであった。
旧家臣が書いたのは『北条五代記』。
『北条記』は作者・成立年不詳の怪しげな軍記物語。
『北条記』と『北条五代記』では矛盾も多い。
たとえば氏康が夜襲によって八万の大軍を八千で撃破したとされる『河越夜戦』は怪しげな『北条記』の記述。
旧家臣が書いた『北条五代記』では彼我の兵数は明記されておらず、昼間の正面戦闘で撃退したと書かれている。
『北条五代記』と『北条記』はどちらも氏康称揚が著しいが
旧家臣が書いた『北条五代記』と比べると、物語である『北条記』のほうが氏康称揚が分かりやすい内容では有る。
そのためか、氏康は怪しげな『北条記』を元に語られる事が多いようだ。
氏康が過大評価されるのは『北条記』という虚構のせいだろう。
142 :
名無し曰く、:2013/01/06(日) 14:55:51.09 ID:bPYGlJs7
氏康が何で関東の覇者と言われるのか意味不明
氏康が関東で一番支配域広かったのは永禄3年
確かにこの頃は伊豆・相模・武蔵・上野・下総を支配し下野・上総へも触手を伸ばして強勢を誇っていた
だが謙信の関東征伐が開始されると一転、信玄の助勢が無ければ相模に引っ込んでるしか能が無い戦下手ぶりを発揮してる
謙信が攻めてきたら相模に引っ込んで信玄に救援を要請、謙信が関東から去ればモゾモゾ出てきて弱小大名をイジめる
また謙信が攻めてきたら相模へ引っ込み信玄に助けてくれ!と縋りつく
1566年あたりは信玄の助勢もあって謙信を苦戦させるも、今度は里見が復活を許してしまい
上総でブザマに敗走してる
これで関東の覇者はねーだろ
しょせん氏康は井の中の蛙
息子の氏政・氏照も身の程知らずで北条家を滅亡させてるし
父親の教育が悪かったんだろう
扇谷上杉は長尾能景により降伏させられていたし扇谷上杉を支援してた早雲は伊豆に逃亡していた。
山内上杉は長尾景春や長尾為景らによってすでに死亡寸前にされてたし、氏綱は信虎や為景に土下座外交していた。
北条は本来の税以外に臨時徴収しまくりで、しかも公共事業をまったくやらない。
佐竹が追い詰められたと言えるのは秀吉と家康が小牧長久手で戦っていたのと同時期において
戦われた沼尻の戦いの和睦を守る気がない氏政の背反行為のせい。
そもそも謙信の本当の目的が略奪とするソースを出してみろよ。
信玄の圧迫に行き詰まった氏康の土下座外交で謙信は越相同盟をやむを得ず結んでやったんだぞ。
143 :
名無し曰く、:2013/01/06(日) 14:57:04.29 ID:bPYGlJs7
上総・久留里城を攻城中の氏康は軍神襲来警報に驚き撤退、
武蔵・松山城で謙信迎撃を画策するも不利を悟り小田原城へ撤退
謙信率いる越後・関東連合軍が関東平野を縦断して進撃し、各地で激しい攻防戦となる
謙信本隊は氏康の本国・相模まで侵攻
小田原城で一ヶ月に渡り激しい攻防戦となる
しかし田植えの時期となりまた氏康の盟友・信玄が
川中島に海津城を完成させ謙信の背後を牽制
ここに至り謙信は攻城を中止、兵を引き揚げた
氏康は上野・厩橋城へ引き揚げる謙信に追撃戦を挑むも失敗
逆に松山城を謙信に奪われる
この関東出兵で上野全域だけでなく
武蔵の松山城・岩槻城・羽生城、
下野の祇園城、常陸の小田城、
下総の古河御所・関宿城が謙信の支配下となり
北条の勢力圏は大幅に縮小
安房の里見氏の救援にも成功した謙信の大勝利に終わった
氏康が倒した大名は山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・足利晴氏だけ
いずれも衰退期にあった弱小武家でしかも河越夜戦当時、憲政・朝定は共に二十歳前後
ガキ相手に勝って得意顔になり
それしか自慢できる戦歴がない氏康
だいたい河越夜戦の敵大将・憲政なんかザコの中のザコ
憲政が派遣した山内上杉軍は小田井原の戦いで
信玄が派遣した武田軍に大敗してほぼ全滅してる
つまり関東の大名は目茶苦茶弱い
後北条や山内上杉・扇谷上杉・古河足利はドングリの背くらべ
氏康は未開の地で猿山のボス猿してた土人みたいなもの
まさに井の中の蛙
144 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 00:00:00.19 ID:MjRu4AVd
北条氏は河越夜戦の勝利がピーク
145 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 04:51:39.77 ID:YUEzQHOe
残念無双北条厨
146 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 07:10:59.91 ID:WrHq+9SE
歴史通を自称する人真田信繁と書く
特に気にしてない人真田幸村と書く
147 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 07:51:34.82 ID:UghEkE5O
上杉謙信が武田や一揆勢に手を焼いていた状況で果たして関東支配を行えたかは疑問。
加賀、能登、越中を支配していた時とは情勢が違いすぎる。
148 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 08:52:54.88 ID:bL1dWq8O
有名大名の武勇は補正入ってるってのは分るんだが謙信(と為景)の武勇105は何か逸話でもあるの?
統率(軍略)は凄かったってのは分かるが武勇は要するにサシでの力って事だよな、そこらの剣豪並みかそれ以上って
信玄やら他高統率大名との差別化の為に武勇上げてるだけ?
149 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 09:18:22.95 ID:z0MHz1T3
人望や統制力、人材把握や適材適所とかの「組織としての力」が統率
個人の武勇や度胸、兵法や勝負勘等の「戦術レベルでの力」が武勇にまとめられてる
って考えをいつかの過大過小スレで見たな
150 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 09:23:10.61 ID:u5AKaveM
それを毎回いってるのアホ織田厨だけだよ
統率のゲーム上での中心的意味は部隊の戦闘能力(同数が与えられた時での攻撃・防御と士気低下・闘志上昇)
人望やら統制、人材把握とか適材適所とかはゲーム上政治や知略に依拠する能力
武勇はただのおかざり
統率などという言葉をゲーム上ではなく現実の意味で履き替えて無理矢理曲解しようとする馬鹿
151 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 14:05:28.52 ID:94BBU17Q
北条の武将が低いのは演出不足
黄色い旗指物指して勝った!勝った!ってさけんでりゃ
氏照ももっと上がった
152 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 14:57:57.04 ID:nCVDJfui
カタカタ詐欺
153 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 18:36:17.07 ID:70UclM53
信長さんの新作出るそうだな。
まあそれはいいとして、やっぱしチンギスハーンの新作がしたいんだがなあ。
このスレはコーエーも見てそうだから書いておこう。
154 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 19:49:42.00 ID:AFW8X17d
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
155 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 19:51:08.79 ID:AFW8X17d
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
156 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 19:51:55.48 ID:AFW8X17d
信長の功績は捏造だらけ
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
157 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 19:52:43.24 ID:AFW8X17d
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
158 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 19:53:17.41 ID:AFW8X17d
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
159 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 19:53:54.65 ID:AFW8X17d
東美濃攻防はガチンコのぶつかり合い。激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。これにより岩村城の武田所属が確定し、信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。その報告を信長が得て11/12に赤沢、
11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と
永禄9年に12歳前後で婚姻していて、勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して
秋山を討つまでは苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。
信勝に弓を引くとか考え難い。
信玄は元亀元年7/19に天台座主のトップの交代で新座主に猿の絵を送って祝福してる。
天台宗といえば比叡山であり、その比叡山には日吉神社があり延暦寺の守り神とされ、猿は日吉神社を象徴していた。
つまり信長が比叡山を焼き討ちした元亀2年9月に信長は信玄へ挑発したも同然の悪行をしている。
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、信コが今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状による反論でありその文中には「遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候」
と抜き出して柴辻が論を展開してるだけなので忠実に一字一句の抜き出しも付け足しもしてないので
別に歪曲したり捏造などしてない。そしてこの柴辻への反論はまったくなされてなく
無血開城論などすでに廃れた話で現在は誰も無血で譲渡されたなど書いてない。
さらに武田方の遠山氏が勝ったなどとこちらは一度も書いてないのに
「織田にボッコボッコにされ」などと得意がっててバカ丸出しの織田厨だが
結局、この信玄死去に至る経過において岩村城周辺でボッコボッコにされまくったのは織田方な事実はスルーw
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
160 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 19:54:51.93 ID:AFW8X17d
浅間山が大噴火して
武田滅亡の前兆とか噂された時点で積み
天変地異で滅亡したのが武田家。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
京の公家日記に視認観測記録が記述される程の大規模噴火は、
1108年の大噴火(後日、浅間山のある上野国の国司が朝廷へ上野国壊滅の報告をしている)
に続いて武田滅亡のこの時で有史以来わずかに二回目でしか無い。
天正10年1月6日付けの勝頼書状には
軍事行動は延期。2月には仏事を執行するから
3月、4月も一切動かない。
などと軍備を解除して武田領国は冬休みに入ってた。
そこで織田軍が無防備の武田領へ奇襲しただけだからなぁ。
高天神城は3年も籠城し続けていて
徳川はかなり苦労してるね。
つか一次史料を読むと
天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が
成立しつつあるような感じなんだよね。
勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、
天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり
景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし
そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、
織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。
そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。
逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより
事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。
なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。
天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、
使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、
援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。
そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。
明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。
織田と武田の同盟が成立すると誤認して
遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし
徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え
本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから
使者の往来が天正9年に入っても可能だった。
つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて
御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら
突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。
しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて
南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって
またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月)
織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。
161 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 19:55:32.66 ID:AFW8X17d
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
162 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 20:37:39.33 ID:wzl0n7pS
だがさんって正月も仕事始めも無いのな
どんな生活してるんだろう
163 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 21:08:48.08 ID:AFW8X17d
仕事のない暇人糞ニートはアホ織田厨のことだろ
だがだがだがだがと根拠のない誹謗中傷か
小学生でも馬鹿にしそうな糞レスしかしないし
有意義な議論の邪魔でしかない
論拠もまるでなく
はっきりいって落書き帳レベル
もっとまともな意見書き込めるようになってから来てくれ
164 :
名無し曰く、:2013/01/07(月) 23:45:14.26 ID:ObU9SE5x
もう126KBか
このスレはいくつで終わるか見物だ
165 :
名無し曰く、:2013/01/08(火) 06:04:24.49 ID:t3gECJeT
>>153 ああチンギスやりたいね。できれば項劉記も出して欲しい
ノブヤボの30周年記念の奴は北見が関わってないことを祈るしかないわ
166 :
名無し曰く、:2013/01/08(火) 08:03:19.84 ID:omCHkf4K
北条上げろばっかりじゃなくて北条の攻撃9年近く耐えた簗田晴助の武勇も揚げてやれよ
167 :
名無し曰く、:2013/01/08(火) 10:02:56.50 ID:RGJsrd6P
だから北条の個々の能力はこれ以上上げる必要ないんだって。むしろ地黄八幡とか下方修正していい
関東全体の国力上げて武将数増やす方向で調整して欲しい。信濃分割するくらいなら武蔵分割しろと
簗田晴助は・・・情勢に恵まれたとはいえ要地長いこと守ってるしなあ。もうちょっと強くてもいいのかもしれない
168 :
名無し曰く、:2013/01/08(火) 14:37:17.67 ID:pUhyCjrc
氏真とか頼芸とか信勝とか具房とか兼定とかはネタじゃなくて適正なの?
169 :
名無し曰く、:2013/01/08(火) 14:53:27.40 ID:LC6xuK5S
講談で暗愚として扱われていたり大きな合戦で大敗してるのは大体帝評価になってる
もしかしたら親父が偉大すぎたり周りが尋常じゃなかったりして相対的に酷い扱いになってるだけかもしれんが知る術もない
ちなみに蹴鞠さんは徐々に上がってるあたり見直しの兆しがある(教養が政治に移されただけかもしれんが)
170 :
名無し曰く、:2013/01/08(火) 16:05:18.10 ID:/Hvgs850
>>153 ランペルールを出して欲しい
ノブヤボの30周年記念は蒼天ベースでお願いしたい
171 :
名無し曰く、:2013/01/08(火) 22:39:08.52 ID:117NrV2Q
三国志12がベースです
172 :
名無し曰く、:2013/01/09(水) 01:24:22.77 ID:rvbwfM0L
沢彦宗恩はなんで武将キャラとして出てこないんだろうな
信長にとって見れば太原雪斎とか板部岡江雪斎みたいなもんだろ
173 :
名無し曰く、:2013/01/09(水) 08:16:51.41 ID:9AVFtsMo
>>172 資料不足なんじゃ?
板岡さんやら太原雪斎は複数の資料で側近として動いてるって示されてるけど沢彦さんは一つの資料でしか出て無いようだし
wiki見るまでは岐阜の話か知らなかった
174 :
名無し曰く、:2013/01/09(水) 09:34:06.73 ID:UKZ3+wtC
最新作は、応仁の乱(なんなら享徳の乱からでも構わんw)から、大阪夏の陣まで、シナリオ網羅して欲しいぜ。
絶対ありえないだろうけど。
175 :
名無し曰く、:2013/01/09(水) 11:18:06.42 ID:ozaH6OJ4
沢彦宗恩は信長の野望onlineだと
信長のお供としてでてくるね
大名格のお供だから
そこらの先陣武将より強い
176 :
名無し曰く、:2013/01/09(水) 12:15:59.59 ID:fALAeDCy
その系統だと長曽我部の滝本寺非有も出てないよな
177 :
名無し曰く、:2013/01/10(木) 04:45:36.49 ID:gHLTamCs
>>174 それは希望だが山名宗全とか細川政元とか細川高国とか北条早雲、三好元長
とかぐらいであと武将数がすかすかになるんだよね応仁の乱とか古いシナリオやると
後半の大阪夏もスカスカ
178 :
名無し曰く、:2013/01/10(木) 06:51:55.81 ID:F5Ug+qBF
応仁の乱といえば畠山義就の評価がどのゲームでもいまいち評価が低いのがなんか釈然としない
179 :
名無し曰く、:2013/01/10(木) 09:49:16.05 ID:d+jqjldt
>>177 有名どころしか上げて無いだけでスカスカにゃならんだろ自分の知ってるのがすべてじゃないんだから
180 :
名無し曰く、:2013/01/10(木) 16:33:09.71 ID:lvVo3DFU
>>176 ゲーム違って申し訳ないけど、太閤シリーズには出てたよ滝本寺さん。
弁舌が開幕2か3あって、まさに外交僧。
181 :
名無し曰く、:2013/01/11(金) 04:37:54.83 ID:2mrqCNM7
>>179 でも実際さ、蒼天禄でも北条早雲や細川政元が出てくる古いシナリオ
あったけどかろうじて北条家が三、四人いるくらいで武将少なかったぞ
あれ、早雲だけでほとんどの領地取れたもん。他家にほとんど武将がいないから
182 :
名無し曰く、:2013/01/11(金) 14:32:43.18 ID:Hx3cUJ3k
そろそろノブヤボにも名無し顔無し武将入れて大大名はそれなりの大きさにしとかないと、いつまでたっても武将数だけがもの言うままだな。
姉とか六角とか大内の家臣団が尾張や三河のの小大名以下の豪族より少ないとかあり得ん
183 :
名無し曰く、:2013/01/11(金) 18:04:50.09 ID:1SfFmENk
適当な能力でいいから「副将」みたいな汎用武将入れるべきだな
大名規模が一定以上になったらいなくなるとか寿命短いとか規制入れればいい
184 :
名無し曰く、:2013/01/11(金) 20:48:53.67 ID:cs0mBe1d
今のところ汎用武将は宴会奉行が大活躍
185 :
名無し曰く、:2013/01/11(金) 20:52:42.51 ID:g6MUte9t
天の声(語り部)も居るぞ
186 :
名無し曰く、:2013/01/12(土) 05:04:06.01 ID:wBfcIyjo
名無し武将と言えば、誰も守ってる城がないとき足軽って名前で
城守る奴が出てくるシリーズなかったっけ?
187 :
名無し曰く、:2013/01/12(土) 08:02:25.84 ID:Mtvvb2GJ
烈風じゃね?
188 :
名無し曰く、:2013/01/12(土) 08:33:46.40 ID:GwrNVEhv
天道もそうなってるな
当然ちゃんとセリフ付きだぜ
189 :
名無し曰く、:2013/01/12(土) 14:55:58.36 ID:OXPL6W0U
新作の能力はどうなるかな?
190 :
名無し曰く、:2013/01/12(土) 22:11:09.22 ID:lYnXFu1P
いつも通り信玄が1位だよ
191 :
名無し曰く、:2013/01/13(日) 03:37:00.82 ID:Tzm5nLTB
もう信長の野望なんだから信長が総合一位にしとけばいいんじゃねーのかなと
最近思う。信玄も信長も勝率はそう変わらんだろう。ただ成長システムを
復活させて欲しいわ。初期の信玄と戸石崩れ後の信玄じゃ能力違うだろうし
家康も若い頃より秀吉と戦ったあたりじゃレベルが違うだろ
192 :
名無し曰く、:2013/01/13(日) 04:06:33.31 ID:0/FUkAzs
三国志12で信長一位じゃなかたか?
193 :
名無し曰く、:2013/01/13(日) 08:58:13.44 ID:ZHTr0NnY
総合はそれなりに上位で良いが信長は近年になって上げすぎ創世以前の能力値に戻した方が良い
少し控えめだけど戦争(内政)重ねるうちに一級戦まで育つ信長のがイメージに合ってた
信長に限った話じゃないけど今って能力高い奴らはみんなインフレしてて70代の奴とかとの差が大きすぎて無双ゲーになりつつあるんだよな
次回作辺りで全体的な能力の見直ししてもらいたいところ
194 :
名無し曰く、:2013/01/13(日) 09:33:45.81 ID:1AtkSD0T
三国志12のステ
織田信長(曹操抑え総合1位)
統率96 武力84 知力90 政治93
羽柴秀吉
統率83 武力68 知力89 政治97
徳川家康
統率92 武力82 知力90 政治96
武田信玄
統率98 武力77 知力92 政治90
三傑は知力より政治が高め
秀吉の統率は相変わらず
家宝も持ってないから悲惨
ちなみに戦国勢では
統率TOPが謙信の100
武力TOPが上泉信綱の99
知力TOPが毛利元就の98
政治TOPが北条氏康の98
195 :
名無し曰く、:2013/01/13(日) 10:23:21.91 ID:/u7JBsZP
秀吉統率83とか高すぎだろ
純粋に戦績でみれば木造や高木・輝元みたいな雑魚に負けてるし60くらいでも高いだろ
196 :
名無し曰く、:2013/01/13(日) 10:25:57.13 ID:1R464ywU
秀吉は本多正信強化版みたいな能力だろ。
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
トップ3どころかワースト3に入るレベルだと思われる
何せ直接対決で日本3大雑魚凡将の氏政・輝元・信雄に敗北
しかも会戦状況でいえば敵は圧倒的に寡兵&寝返りばかりで秀吉側に圧倒的有利
197 :
名無し曰く、:2013/01/13(日) 10:28:50.03 ID:/u7JBsZP
秀吉は中国派遣時毛利や別所以前に宇喜多にすら負けた事もあるしな
198 :
名無し曰く、:2013/01/13(日) 11:12:14.52 ID:gfL32HFX
またワンパターンなID使い分け作戦始めたな
せめて投下する間隔を開けるなりして工夫してよ
199 :
名無し曰く、:2013/01/13(日) 11:21:43.27 ID:/u7JBsZP
織田厨がワンパターンな妄想やめるのが先
200 :
名無し曰く、:2013/01/13(日) 12:38:25.88 ID:1AtkSD0T
自演認めるなよ
201 :
名無し曰く、:2013/01/13(日) 14:14:15.00 ID:sHqZsTGf
裏切られたら誰でも苦戦すると思うが…
苦戦した事柄を、1つの戦でも幾つにも分けて水増ししてるのなんか見ても、秀吉に何かされたのか?って気になる
嫌信長の奴が戦で殺されたら評価0ってのと同レベル
202 :
名無し曰く、:2013/01/13(日) 14:31:49.07 ID:/u7JBsZP
裏切られて苦戦?天正6年以前の話だから守護赤松も別所も小寺も尼子残党も浦上も味方じゃん
203 :
名無し曰く、:2013/01/13(日) 14:38:16.25 ID:1R464ywU
山名も一時織田にたてついてたけどいざ攻められるとすぐに抗戦せずヘタレ降伏したしね
あの辺一帯は弱体化した守護大名のたまり場みたいなとこだったし
尼子残党が暴れまわってて織田派の勢力が強かったし
204 :
名無し曰く、:2013/01/13(日) 15:04:42.68 ID:kd93IoyE
まあこうなりますわな
ちょっとでもだがさんの神経にさわる事書いたら飛んできますよ
205 :
名無し曰く、:2013/01/13(日) 17:26:49.99 ID:lLaIEIL4
>>169 氏真君てよくよく考えたら可愛そうじゃね
親父や多くの家臣が一気に戦死
弔い合戦するにも、どうせいちゅうねん
206 :
名無し曰く、:2013/01/14(月) 04:21:27.93 ID:+kdLdl1A
でも、それほど切迫した状況でもないと思うがね
三国同盟で西以外から攻められる恐れはないし
その西側の織田も東進にはあまり乗り気ではなかった
おまけに元康が勝手に前線に居座ったから、実質的に織田と松平の戦いになっていた
損害も大損害と言えば大損害だが、1割程度であって長篠の戦いのように壊滅的損害と言う程ではない
政治的に離反さえ抑えられれば、兵力的にはまだまだ織田方を凌いでいた
207 :
名無し曰く、:2013/01/14(月) 04:28:44.40 ID:ORUi+zJd
秀吉の統率は上手い事調整してるほうじゃね?
七十代とかにすると流石に天下人になった奴をその数字にはって事になるし
90台じゃ戦上手すぎるし、秀吉は政治力で人脈、勢力広げて多数派になって圧倒する
パターンだし
208 :
名無し曰く、:2013/01/14(月) 08:23:28.62 ID:dK5voJzg
>>206 戦国時代の同盟はそこまで強固じゃないし、松平の領土拡張は今川の領土失陥とほぼ同義
父親が戦死し、さらに国人の頭が討たれたというのは壊滅的損害だし、政治的に離反を抑えられるなら戦国時代なってねえ
209 :
名無し曰く、:2013/01/14(月) 11:47:16.47 ID:+kdLdl1A
>>208 でも実際、義元が死んでから8年も維持されているし、北條氏は武田と手切れしてまで同盟維持し続けている
それに当主の討死は存亡に関わる大打撃だが、他の被害は取り立てて珍しい程の惨敗ではない
210 :
名無し曰く、:2013/01/14(月) 12:19:11.68 ID:dK5voJzg
そりゃ氏真が腐心してパワーバランスを何とか維持しようとしたからだろ、その結果八年維持できた
北条が何故武田に敵対したのか明確な根拠は無い
父親戦死が一番のネックだろうに、それ除外して全体がたいした被害ではないというのは話しにならんだろ
211 :
名無し曰く、:2013/01/14(月) 17:12:03.70 ID:N5Hpjp9c
書き込んでるレスの内容は同じなんだけど
一応、少し丁寧にレスするキャラと
ちょっと乱暴な口調のキャラがいるんだな
大丈夫、バレたりなんかはしてないから
212 :
名無し曰く、:2013/01/14(月) 23:53:27.95 ID:iz5M6yvd
要するに小牧長久手を再現するのには
どうすれば良いかって事だろ
家康89に下げて秀吉87に上げても
酒井や榊原を高くすればいいと思うんだが
213 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 05:08:39.24 ID:uvP0St4P
氏真は相手が悪かったってのもあるだろ
普通の三河・遠江国人程度なら、残った今川家の国力でもどうにかなった可能性もあるが
伸張して来た相手は家康だもん
214 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 05:49:32.47 ID:tAe2DoeC
信濃から美濃ルートってのは地形的に大軍を動かせる感じじゃないのかね
山が険しくて。ゲームじゃすぐお隣さんだから織田でやるとすぐ武田が攻めてくる
んだが。信玄は上洛ルートとして越後経由か駿河〜三河の二択みたいだったし
215 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 07:48:45.28 ID:cb2cioLc
国内最大規模の山岳地帯日本アルプスあるんだぜ?
全部が全部多岐訳じゃないが低いところでも道すら整備されてなかっただろうから峠越えも困難だろうしな
216 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 08:44:54.20 ID:8r9JSMPD
>>214 千単位の軍を簡単に動かせる道じゃないよ。信濃抜けて美濃入っても東美濃が山深い地域だからなお面倒
武田に木曾が重要視されたのはどうしても外せない要所だからってのが大きい
217 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 11:01:41.73 ID:zMrasVgf
織田信雄に7.5倍の兵力でガチンコ決戦で1万人ぶち殺され
高木や吉村や木造など数千貫そこそこの領主に5万で挑みかかって撃退される秀吉を上げるとか意味不明
輝元にも3000人ぶち殺されてるし補井田や宇喜多にも負けてるし2.5倍の兵力で有利な布陣で光秀軍より多い損害受けてるし
北条にも重臣何人か殺されてるし秀吉を60台くらいにヘタレさせれば何も矛盾がなくなる
中国でいえば劉邦だろ
政治や知略をその分チート化させれば問題ない
218 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 11:08:39.17 ID:cb2cioLc
一方周りの話題に乗れず自分の話題しか振れないだがもどきさんなのであった
219 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 11:09:47.27 ID:TLkTHGdX
秀吉は織田信雄や柴田勝政、吉村氏吉あたりより明らかに戦下手だからもっと下げるべき。
政治120知略120統率20
こんなもんじゃね
220 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 12:21:50.56 ID:9USUuiDc
>>217=219
家康や信雄なんて秀吉にすれば
身内のザコや不穏分子を振り落とすのに利用しただけじゃないの
明の大軍すら破った秀吉と
大坂の陣で逃げまわった家康では
目指すところが違いすぎた
221 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 14:58:53.28 ID:zMrasVgf
>>身内のザコや不穏分子を振り落とすのに利用しただけじゃないの
そんな史料はない
妄想乙
>>明の大軍すら破った秀吉と
秀吉なんて朝鮮わたってないじゃん
なんでも部下の手柄は秀吉の物
部下の失態は部下に押し付けようとする馬鹿妄言が秀吉厨クオリティ
222 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 15:10:44.00 ID:zMrasVgf
身内の雑魚ってか当時秀吉の数少ない血縁者の秀次が危機に陥りねねの親戚筋である木下兄弟も戦死してる
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
223 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 15:38:28.92 ID:eoR0j3GX
秀吉は本多正信強化版みたいな能力だろ。
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
トップ3どころかワースト3に入るレベルだと思われる
何せ直接対決で日本3大雑魚凡将の氏政・輝元・信雄に敗北
しかも会戦状況でいえば敵は圧倒的に寡兵&寝返りばかりで秀吉側に圧倒的有利
224 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 15:39:39.20 ID:eoR0j3GX
箕浦合戦や金ヶ崎の退陣で秀吉の奮戦で撤退できたというのは講談
池田勢中心で奮戦したから撤退できたというのが最近の説。
いかに講談や軍記類で秀吉が基地外のように持ち上げられてるかわかる事柄のひとつ。
信長が殿に使ったとしたらよっぽど雑魚だから死んでも構わんと思ってたんだろうね
秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚
毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが
備前・美作方面に出兵すると大苦戦
元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい
絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる
圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。
225 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 15:40:29.42 ID:eoR0j3GX
秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい
何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな
大嘘もいいとこなんだが。
松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし
小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
226 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 15:41:56.31 ID:eoR0j3GX
包囲網敷いてもって長宗我部は四国平定に手間取ってて
毛利も四国上陸してたから秀吉の後ろ付くどころじゃなかったし
佐々も前田と丹羽が抑えてたし蜂起するのは夏になってからだし
雑賀なんて大した軍勢もってないし毛利も上杉も木曽も宇喜多も大友も佐竹も味方
北条も家康の後ろを付くという風聞が垂れ流されてたし
おまけに石川もこの頃から秀吉と気脈を通じてたし
85年になると真田も小笠原も石川も水野も秀吉に寝返って譜代の離反によって軍事的機密が露見し圧倒的優位な状況なのに
家康に対して母と妹を人質に出さなきゃならないほど秀吉はへたれだったし
>朝廷を利用して徳川と和睦したならともかく、局地戦で苦戦したから方針転換したとか意味不明。
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
また近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい
>国内平定の次に外征を考えてたのに国内の大名の力を削ぐなんて考えるわきゃないだろ
天下統一すらしていないのにこの頃から海外遠征を考えられるわけない
227 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 15:42:56.12 ID:eoR0j3GX
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
228 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 15:44:06.55 ID:eoR0j3GX
小牧長久手の時でも雑魚信雄相手に1万人殺された上に
戸木松ノ木蟹江二重堀東駒野河波長久保浜田など格城郭の攻防で蹴散らされて
諦めて大阪に納馬する予定であり天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもん
229 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 17:03:14.51 ID:9USUuiDc
>>221 >勝頼は長篠の戦いにおいて
>信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なんて言っている人が妄想とか言っても
秀吉が朝鮮に渡っていないというなら
秀吉本隊が来たら逃げ回っていた家康の評価も出来ない
230 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 17:11:22.79 ID:KDWBDlEo
書状なんて現場の連中が談合して戦果捏造が横行してたんだから何枚あっても数字としての資料価値はないだろ…
231 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 17:14:01.32 ID:zMrasVgf
むしろ秀吉の方が自分の7分の1以下の兵力しかない信雄・家康から逃げ回ってる
長久手の合戦後秀吉方は4/30に二重堀合戦で信雄方の奇襲を受け二重堀どころか楽田陣から「敗北の体にて退却」(織田信雄書状)
小牧山から遠く木曽川を隔てた織田徳川の後詰にこれない木曽川筋をだらだら攻め
蟹江合戦では秀吉の眼前で滝川が蟹江前田他数城を調略で奪い敢闘する中秀吉は大阪にヘタレ敗走
これにより7月上旬の三河方面への侵攻計画が頓挫し晩秋まで戦いがもたれこむ始末
232 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 17:14:21.52 ID:eoR0j3GX
プッwwwwww捏造なんて織田チョンの大好きな
織田や豊臣の十八番じゃんよww
身内の雑魚ってか当時秀吉の数少ない血縁者の秀次が危機に陥りねねの親戚筋である木下兄弟も戦死してる
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
233 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 17:15:44.84 ID:eoR0j3GX
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
234 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 17:16:40.08 ID:eoR0j3GX
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
235 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 17:17:27.43 ID:eoR0j3GX
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい
結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、
長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
236 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 17:18:17.87 ID:eoR0j3GX
御用史書に書いてある中入りが池田の提案なんて信じてるのか?
ナポレオンは常に本隊中央部への集中砲火という戦術を生涯取り続けた。
得意戦術とはそういうものだ。
秀吉が過去に総大将として野戦を指揮した戦術を見れば一目瞭然。
中国大返しから山崎の合戦しかり、対柴田戦しかり。
要は別働隊の活用と機動力を生かした奇襲戦術。
大兵力である本隊を主戦場から離れた場所に配置し、敵側の予想をはるかに超える
機動力で、「ないはず」の大兵力を主戦場に投入する詐術的戦法が秀吉の得意技。
つまり長久手も同断。別働隊は敵本隊を長久手方面に誘い出し主戦場をそこに設定することにより
本隊機動力を発揮させるだけの距離を稼ぐための囮。
だから中途半端な行軍ではなく、陽動が主目的の作戦主旨に沿った行軍だ。
これだけ類似性のある作戦が、負け戦の時だけ秀吉ではなく他の者の立案などと
信じるほうがどうかしてる。
ナポレオン戦術は指揮系統を混乱させ軍団自体を無力化させる、という無敵の
戦術だったが、指揮系統を班単位に権限委譲し、アメーバ型組織を作ったプロシアの
クリューパーシステムの前に力を失った。
増して機動力のみが頼みのしかも2度も披露した秀吉戦術では、歴戦の将、家康をたぶらかすのは
無理というものだ。完全に秀吉の戦術の敗北だ。
だから秀吉もこの戦術は2度と使っていない。九州征伐、小田原陣では信長方式の
戦術不用の物量作戦戦略に切り替えている。
あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。
池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、
ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。
天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、
光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
237 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 17:19:14.99 ID:TLkTHGdX
>>232 >>一万人戦死
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は7.5倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
238 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 17:20:45.35 ID:eoR0j3GX
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
>>788 柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
239 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 17:21:21.33 ID:eoR0j3GX
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。
皆もいってるけど単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる
あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
240 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 17:22:37.88 ID:TLkTHGdX
>>231 夏の対陣の時も徳川方はただでさえ少ない兵力のうち半分を長陣による疲弊のため帰すなど
今まで以上圧倒的兵力差なのに信雄や徳川にビビリまくって手も足も出せない醜態っぷりw
はっきりいって信雄領国の基盤が磐石で寝返りも起こらず
家康領国も徳政連発するなど疲弊がなく、天正大地震や国人の離反連鎖がなければお手上げ状態だったというのが実際の所
241 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 17:22:51.83 ID:eoR0j3GX
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない
242 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 18:55:32.67 ID:9USUuiDc
秀吉が戦争下手だと言うなら家康は逆に京まで攻め込んでくれば良かっただけでは
それが出来ずに佐々や雑賀や長宗我部を見殺しにしたのは結局は空き巣狙いが精々だったと
243 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 19:11:28.18 ID:eoR0j3GX
圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
244 :
名無し曰く、:2013/01/15(火) 22:03:35.63 ID:zMrasVgf
>>秀吉が戦争下手だと言うなら家康は逆に京まで攻め込んでくれば良かっただけでは
相手の7分の1〜8分の一程度・味方は寝返りだらけの状態で自分から攻め込めるわけねーだろアホw
相手より圧倒的に少ない状況&信雄領国は基盤が弱いため寝返り崩壊状態の所自分から攻め入るとか基地外かと
>>それが出来ずに佐々や雑賀や長宗我部を見殺しにしたのは結局は空き巣狙いが精々だったと
そらただでさえ圧倒的な国力・兵力差なのに天正大地震と天正11年からの徳政連発と木曽小笠原真田石川水野と離反の連鎖で
軍事機密露見になって到底抗戦できる状況じゃないし領国が困窮してたのと和議結んだからわざわざ破る馬鹿はいないだろ
和議を勝手に反故にして単体で秀吉に歯向かう程馬鹿じゃないだろ
長宗我部は四国平定に手間取ってて毛利も四国上陸してたから秀吉の後ろ付くどころじゃなかったし
佐々も前田と丹羽が抑えてたし蜂起するのは夏になってからだし
雑賀なんて大した軍勢もってないし毛利も上杉も木曽も宇喜多も大友も佐竹も味方
北条も家康の後ろを付くという風聞が垂れ流されてたし おまけに石川もこの頃から秀吉と気脈を通じてたし
85年になると真田も小笠原も石川も水野も秀吉に寝返って譜代の離反によって軍事的機密が露見し圧倒的優位な状況なのに
家康に対して母と妹を人質に出さなきゃならないほど秀吉はへたれだったし
245 :
名無し曰く、:2013/01/16(水) 00:46:07.58 ID:ME3jW9lD
少々味方に寝返られたからと
統率20の秀吉相手に佐々、雑賀、長宗我部見捨てて
臣従してしまう家康って雑魚じゃないか?
246 :
名無し曰く、:2013/01/16(水) 04:37:45.04 ID:l/sksfUQ
輝元は正当評価
247 :
名無し曰く、:2013/01/16(水) 05:44:38.85 ID:4lgTBJ8j
248 :
名無し曰く、:2013/01/16(水) 06:00:35.34 ID:uTB2BcU+
少々って当時の徳川の国力と上杉との敵対状況と北条との緊張関係(表面上同盟結んでただけで書状のやり取りはほとんどないどころか家康は北条の敵対勢力の皆川などと頻繁に連絡とってるし
小牧長久手時も家康領国に乱入するという風聞が垂れ流されていた)考えれば石川木曽小笠原水野真田が離反って相当なもんだぞ
しかも石川の離反で軍事機密が露見、天正11年からは徳政連発で領国が困窮、天正13年には天正大地震で領内めちゃくちゃ(家忠日記)
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止 3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
信雄領国でも3月に伊勢で田丸神戸関信包、美濃で池田森、尾張では毛利秀頼・石田毛利広盛・松ノ木近辺の諸将(3/16信雄→吉村)
とめちゃめちゃに離反が起きている。元々信雄領国は基盤が脆弱すぎたし
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
249 :
名無し曰く、:2013/01/16(水) 19:20:32.56 ID:GseSgpue
だがさん就寝前にスッキリしておきたかったんだな
250 :
名無し曰く、:2013/01/17(木) 11:01:38.17 ID:x5WEYEyD
天正大地震の被害地って、山城、近江、若狭、越中、飛騨、美濃、尾張か。
家康の本拠地の方が損害軽微じゃん。
ますます以って雑魚さが見えてきたな
251 :
名無し曰く、:2013/01/17(木) 11:07:18.92 ID:x5WEYEyD
て、小牧長久手は天正11年で
天正13年の天正大地震関係ない。
252 :
名無し曰く、:2013/01/17(木) 12:38:45.22 ID:31/4rk0v
>>250 デタラメ乙w
天正大地震で壊滅的被害受けたのは三河や尾張だタコw
三河では大洪水が起こり永良、中島の堤が切れてしまう大損害が発生している
>>251 小牧長久手が天正11とか馬鹿じゃねーの
253 :
名無し曰く、:2013/01/17(木) 13:07:40.80 ID:31/4rk0v
壮厳講記録
天正13年8月25日申時大洪水候て、田ハタ流、郡内中数多家共二流死候、前代未聞候
家忠日記7/5
永良へ堤つかせに候、午後大なへゆり候、百年い来之なへ之由申候
一方この頃秀吉は7/18→伊藤祐時で
来月濃尾伊勢丹後若狭因幡越前加賀能登9カ国の軍勢を悉く申しつけ越中へ出兵させるといってる
家忠日記ではこの地震以降も天正14年3月まで地震を示すなへという記載が書き連ねられている
常光寺年代記
天正13
11月29日子刻大地震、国土家崩失人命、明ル晦日ノ夜丑国大地震、12月20此迄動成
254 :
名無し曰く、:2013/01/18(金) 04:58:43.26 ID:9qB6D5Z4
戦が強いだけでは天下は取れないってのは項羽と劉邦見ればわかるから
別に秀吉が戦下手であろうがどうでもいい
255 :
名無し曰く、:2013/01/18(金) 08:37:39.86 ID:CUe8RZ/d
なんつーか詭弁っていうか本末転倒だよねそれ
戦下手って認めちゃったら統率下げても良いって認めてるようなもんじゃねーの
まあ顛末を追えじゃなく後世の脚色がある小説か漫画嫁って時点でアレな気もするが
256 :
名無し曰く、:2013/01/18(金) 08:51:51.89 ID:IV+7Y0vX
大友宗麟て過小じゃね?
元就と能力逆でいいと思うが。直接対決で勝ちまくったし。
257 :
名無し曰く、:2013/01/18(金) 11:23:32.30 ID:kra+h8BY
どうでも良いけど
元就厨の不幸自慢は煩い
258 :
名無し曰く、:2013/01/18(金) 15:20:15.96 ID:i0NqobII
大友宗麟の知略は前半と後半で能力違う
あと、立花道雪に統率吸われてる感じ
大友宗麟
統率79 武勇69 知略78 政治93
立花道雪
統率107 武勇85 知略86 政治64
大友宗麟強化して
統率90 武勇69 知略92 政治93とかやったら
まんま三好長慶だ
259 :
名無し曰く、:2013/01/18(金) 17:57:54.28 ID:UFXqMb4g
つーか義統の事績と混同して語られてるからチグハグの印象が強いんだろう
宗麟は後半生は早々に隠居決め込んでる
しかも宗教にのめり込んでのものだから有りがちな形だけの大御所政治じゃないガチ隠居
まあ結局家臣団に息子使えなすぎだから復帰してくれとか言われるけどやる気無しだったり
こんなだから耳川以降の体たらくについて能力面で宗麟にsage要素付けるのは個人的にはどうかと思う
260 :
名無し曰く、:2013/01/18(金) 18:18:42.29 ID:kra+h8BY
なんかの考察で読んだけど
耳川も宗麟じゃなくて吉統が積極的主導説あったな。
でも自ら出陣して途中で寺院壊したのも宗麟といわれてるし
本当に評価難しいw
261 :
名無し曰く、:2013/01/18(金) 19:09:49.12 ID:CUe8RZ/d
ソーリンも地方の違いはあるとはいえ約一代で一時期の三好並みに領土は拡大してるしね
他の武将もそうだけど極端な負け方してると評価は結構下がってるようだしなかといって90代も少し高すぎな気もするけど
262 :
名無し曰く、:2013/01/18(金) 19:21:43.70 ID:53ldiN7b
宗麟は一番評価しにくいタイプだな
隆信にも似たようなこと言えるけど宗麟はいろんな意味で上位互換
なんかもう能力だけはオール90くらいにして
普段は病気ばかりして能力半減くらいの極端な能力付の方がいい気がしてきた
263 :
名無し曰く、:2013/01/18(金) 22:54:58.68 ID:uwrKTGyS
宗麟はキリスト教と女狂いさえなければなあ…
264 :
名無し曰く、:2013/01/19(土) 00:06:00.26 ID:FJxhVMq5
耳川の敗北をきっかけに国人が大量離反した時に
隠居していた宗麟が家臣団から懇望され
あくまで義統が当主という条件で復帰するや
速攻で離反状態から回復させ
離反に便乗してきた毛利まで撃破しちゃうのが宗麟。
寺社破壊は大友本家の直轄地がほとんどなく、
褒美すら与えられない財政状況を打破するための政策。
義輝と結んで毛利と非常に良い条件で和睦させたり、
信長が生きていた時は織田と結び毛利を圧迫。
島津に対しては秀吉と結ぶなど天才的な外交を見せる。
島津の豊後侵攻では大友本軍が豊前方面で秋月・高橋・長野兄弟討伐で出張中で豊後ががら空きな情勢下において宗麟の戦略眼がさらに光り
無謀なだけがとりえの家久のアキレス腱を三重城と喝破し
奥深く誘い込んでおいてから、三重城を脅かし退却路封鎖に恐怖した家久は
義弘を見殺しにして日向へ逃亡中に待ち構えていた佐伯の重包囲にフルボッコ。
志賀に退路を断たれて肥後へ抜けられない義弘も
(そもそも肥後国衆は相良を除いて島津の豊後侵攻にまったく従っていないので肥後衆からの支援を全く受けられない)
あわてて日向路より逃亡を図るも佐伯の重包囲で、
義弘が命より大切にしていた茶碗まで奪われる。
265 :
名無し曰く、:2013/01/19(土) 01:40:07.02 ID:ebkUWJw7
宗麟も好きだったなそういや
266 :
名無し曰く、:2013/01/19(土) 05:23:40.82 ID:SqYttrBl
>>255 そんなこと言ったら小牧長久手に関する資料全てに脚色がないとでも言い切れるのかよ
歴史の真実なんてしょせん誰かが残した資料でしか考察することできないのに
つーかばかじゃねーの項羽と劉邦って書いただけでそれを読めとかどこに書いてんだよ
例えで出しただけなのに。
267 :
名無し曰く、:2013/01/19(土) 08:01:10.78 ID:Lu6thcTe
また周りの話に乗れない秀吉信者が出たのね(´・ω・`)
268 :
名無し曰く、:2013/01/19(土) 12:18:42.78 ID:WRoVyfmR
まただがさんの情報操作に釣られる人間が出たのか(´・ω・`)
>>266=
>>254なんだから秀吉アンチでしょ
269 :
名無し曰く、:2013/01/19(土) 13:34:01.12 ID:z09s7dIn
宗麟強化するより
元就の知略政治下げたほうがよくない?
270 :
名無し曰く、:2013/01/19(土) 14:55:01.20 ID:ijuZ0nKY
能力逆にすべきじゃね
特に統率
271 :
名無し曰く、:2013/01/19(土) 21:08:28.33 ID:0zEqC5mP
変な伝統があるからやりづらいんじゃない
スパッとやったら評価したいけど
272 :
名無し曰く、:2013/01/19(土) 23:29:29.50 ID:ijuZ0nKY
隠れ名将吉岡長増
毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣山中幸盛に
弾薬、鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、
毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に山中幸盛に合力するよう促し成功。
長増は輝弘を送るにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を
筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、
この寝返りを毛利元就の策略と疑い、
8月9日に大友水軍の若林鎮興に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を
襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。
大内旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始し、
さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、
10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を釘付けにし、
同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防国に侵攻させた。
毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防.長門を攻撃できないことであった。
これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、
兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。
273 :
名無し曰く、:2013/01/20(日) 06:31:40.95 ID:3X8WO1kv
尼子経久はレジェンド枠で最近出るのに大内義興はあまり出ないんだよなゲーム
能力的にはどれくらいの数字つけてもらったことあるんだろ
274 :
名無し曰く、:2013/01/20(日) 07:26:35.86 ID:CVml1p/F
上限100の蒼で統-政-知86-88-80
そのまま天道にすれば知略以外90後半ってところと妄想
275 :
名無し曰く、:2013/01/20(日) 11:46:36.99 ID:UCnwSWpa
ファンクラブコンテンツだけど大内義興出てくるよ天道に
統100武82知83政85
足A馬B弓S鉄D兵C
戦法:威風之備
276 :
名無し曰く、:2013/01/20(日) 11:56:00.26 ID:MSSN3cIw
戦国前期の人物は異様に能力高いな
277 :
名無し曰く、:2013/01/20(日) 11:59:55.30 ID:0oK9lhg9
まあ大内義興は高くても仕方ない
278 :
名無し曰く、:2013/01/20(日) 13:36:46.98 ID:SJrlMKQ4
武力が剣豪より高いやついるけど、そもそも武力が影響与えるのは戦法威力だから仕方ないって評価?
279 :
名無し曰く、:2013/01/20(日) 13:47:03.77 ID:aGKqN01l
細川政元
大内義興
三好長慶
戦国前半〜中盤で京を抑えた天下人
細川政元と大内義興は蒼天以降でてこないので蒼天参照
細川政元
統率27 知略86 政治89
大内義興
統率86 知略80 政治88
蒼天は登場時初期能力が90MAXだから(謙信が統率90)
80後半はトップクラス
三好長慶(天道)
統率91 武勇67 知略92 政治94
280 :
名無し曰く、:2013/01/20(日) 14:44:17.18 ID:hcXYM9F9
戦国初期の人物は超人査定だけど天下創世の合戦トライアルに出た応仁の乱の主役たちはダメ扱いな能力だったよね
281 :
名無し曰く、:2013/01/20(日) 14:45:29.82 ID:hcXYM9F9
ごめん上げちゃった
申し訳ない
282 :
名無し曰く、:2013/01/20(日) 14:52:52.85 ID:SJrlMKQ4
>>279 天道は最大90じゃないから比べるなら比率割しないと意味なくね?
283 :
名無し曰く、:2013/01/20(日) 15:51:31.38 ID:gaQIw4Ti
>>279 大内義興
統率86 (謙信が統率90)
三好長慶(天道)
統率91
しかし過大評価だなコーエーは主要武将以外は適当につけすぎ
284 :
名無し曰く、:2013/01/20(日) 15:55:34.91 ID:CVml1p/F
なんでミヨッシーだけ天道基準を
285 :
名無し曰く、:2013/01/20(日) 22:12:18.80 ID:qFXywHF9
三好も武勇低いせいか
総合じゃパッとしないけど
個々の能力で見ればそれなりに評価されてんだな
286 :
名無し曰く、:2013/01/21(月) 04:42:01.32 ID:aSf4cKjF
尼子経久のライバルというと大内義興ってイメージあるな
でも上洛軍の時は経久も大内軍の一員にすぎなかったんだよね
でも京から義興が帰国しなくちゃいけない原因作ったのは経久が
勢力伸ばし始めたからみたいだけど
287 :
名無し曰く、:2013/01/21(月) 06:30:57.00 ID:YMxTKzKz
大内義興・陶興房
出てないせいか
大内義隆が以外に高数値
288 :
名無し曰く、:2013/01/21(月) 10:56:44.28 ID:BlEHbT5m
大内義綱・定綱も評価してくだしあコーエーさん
289 :
名無し曰く、:2013/01/21(月) 12:47:13.47 ID:HGRpVezT
義興配信武将だったきがする
統率100他85ぜんご
290 :
名無し曰く、:2013/01/21(月) 21:00:57.24 ID:RienJxo5
細川政元
大内義興
三好長慶
天下人なのに統率が低すぎる。
東国の信玄、氏康、謙信あたりより高くするべき。
291 :
名無し曰く、:2013/01/21(月) 21:13:19.02 ID:SRL4KRdZ
大内義興,細川政元は信長の野望ですらない
~~~~~~~
292 :
名無し曰く、:2013/01/21(月) 22:04:27.86 ID:AQdRMakG
は?
信長以外、信長の野望じゃない
293 :
名無し曰く、:2013/01/21(月) 22:41:34.11 ID:SRL4KRdZ
信長の野望なんだから元服以前なんぞ充実する必要がない
細かく分けりゃ時代分別自体違うんだから比較すら出来んだろうしな
294 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 00:01:59.86 ID:C4RRc7yP
天下人つってもピンきりだからなあ
餓死寸前の一揆に騙まし討ちで一門含め殺されまくった信長や信雄に1万人、輝元に3000人殺された雑魚もいるし
295 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 03:13:38.46 ID:iqfJl7m/
統率と采配を別にするべきだな
統率は例えば大名や城主、又は総大将にすると発揮する能力で
統率が高いと配下の能力値が上がると言うような全体的な効果にして
部隊ごとの基本的な強さは采配、武力、知略などとする
そうすれば特に戦で目立った働きはしてないが勢力拡大した人物と
戦では活動したけど勢力拡大は出来なかった人物を差別化できる
内政についても同じ
大名や城主の統率が高いと配下の能力が全体的にかさ上げされる
あとは離反しにくいとか、忠誠が上がりやすいとか
296 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 04:22:30.94 ID:cDuw2zoh
配下の能力上がるといっても具体的に個々の武将ごとで差が出るものか?
あんまり関係ないと思うが。
勢力拡大で物をいうのはそれより自国と相手国の国力・兵力のバランスと国人の向背だろ
297 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 04:26:02.44 ID:l//DISjN
武力と采配分けてた時あったような。武力が戦闘力で采配が防御力。
細川政元は統率低すぎるわ。一応半将軍って呼ばれるまでになった人なのに
298 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 08:27:58.26 ID:pxDjIzco
細川政元って最新作に出てないっていうか蒼pk以降出て無いんだからここで話してどうこうな訳じゃないと思うが
299 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 12:29:43.04 ID:+RHo9k3E
細川政元は1つ世代前の室町後期の武将のイメージ強いから
信野暮出て無くても良いと思うけどね
300 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 18:10:08.49 ID:0ht8rea/
>>294 信長の功績は捏造だらけだしな
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
301 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 18:11:05.54 ID:0ht8rea/
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
302 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 18:11:41.40 ID:0ht8rea/
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
303 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 18:12:40.25 ID:0ht8rea/
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない
304 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 18:14:15.06 ID:0ht8rea/
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
305 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 18:16:08.98 ID:0ht8rea/
信長公記は志賀の陣まで
前代未聞の栄誉ある一戦
などと勝利宣言してるから
まったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て
一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら
比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長を
さすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
無知長厨乙
信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
信玄が織田に宣戦したのは
明らかにアスペ信長が無意識に挑発しまくってたのがよくわかるな。
それで信玄も堪忍の限界にきて
信玄の死んだ妻の妹が顕如の妻の如春尼だったこともあり
立ち上がっただけに過ぎんのに
信長はなぜか裏切られた!と逆切れw
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
306 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 18:17:30.53 ID:0ht8rea/
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
307 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 18:20:13.05 ID:0ht8rea/
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
308 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 18:21:17.48 ID:0ht8rea/
これらをもとに能力をつける
天下人の家臣団
政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
カス武将の集まり織田軍
309 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 18:58:35.68 ID:pZhVGBK4
これほど無駄な行為って何に例えられるかな
310 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 19:06:18.52 ID:+RHo9k3E
309
砂漠に撒く水?
311 :
名無し曰く、:2013/01/22(火) 23:28:50.31 ID:XZl0em4o
>>309 シベリアの刑罰で穴掘らせてってあったじゃん
312 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 03:14:13.28 ID:dAnhHPd/
北条氏直が過小
統率82 武勇65 知略85 政治80はあっても良い
神流川合戦から信濃侵略で真田を筆頭に諸豪族傘下に、甲斐で家康軍と互角に対峙
対秀吉外交も理にかなってる
北条氏繁も過小
一国に匹敵する関宿攻略を一手に引き受け、もう少しで完成する所で急死は残念だが
統率84 武勇80 知略74 政治52
北条氏規は過大、氏政、氏照、氏邦は妥当
313 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 06:25:54.55 ID:Gow6mFi1
氏直強化して欲しいけど
そこまで強くなると
また北条アンチが騒ぐぞ
314 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 06:30:53.08 ID:MUw20xwR
戦国板を荒らし回った氏直厨=コピペ厨か?
自演の仕方がそっくり
315 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 06:35:27.35 ID:skFrChQj
細川高国って優秀なのかそうじゃないのか微妙だな古武将枠だけど
316 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 08:01:07.80 ID:DClx9Wni
上で三好の話題が出てたんで思い出したんだが
畠山高政が出てこないのは流石におかしいだろこのゲーム
仮にも10万人規模で行われた畿内最大級の合戦の主導者だぞ?
せめてガチンコで之虎と張り合える位のスペックで登場して欲しい
317 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 09:27:30.23 ID:+KjGVG2f
最近やけに時系列にそぐわない武将上げる奴いるけど同一人物?
畠山高政は概ね同意、だけど前例的に能力は低くされそうな
318 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 11:07:44.23 ID:gi6dNGWZ
色々と実績をふまえて能力値を修正していくとインフレになって個性がなくなるんなよな
結局、数字による能力表現は無理がある
あってもいいけど、特技のようなものを100以上作って組み合わせた方がいい
尚且つ、能力値や特技は表示するべきではない
非表示にする事でゲーム性はかなり上がると思う
319 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 11:57:39.78 ID:AJYjAVG8
じゃあ10段階評価か
信長
統率9 武勇8 知略9 政治10
信玄
統率10 武勇8 知略10 政治8
元就
統率9 武勇8 知略10 政治8
長慶
統率9 武勇6 知略9 政治9
利家
統率7 武勇9 知略6 政治7
一豊
統率5 武勇6 知略5 政治6
太閤豊臣秀吉
統率10 武勇7 知略10 政治10
320 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 12:58:08.64 ID:fqiNCQOH
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
321 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 12:59:27.70 ID:5fYOgORp
これらをもとに能力をつける
天下人の家臣団
政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 13 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
カス武将の集まり織田軍
322 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 13:09:59.37 ID:fFDKGmNg
毎度思うがIDを変える必要はあるのか?
323 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 15:06:38.15 ID:gi6dNGWZ
他のスレや板で自演してるんじゃないの?
324 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 15:38:55.63 ID:pCPU1Jcl
信長は合戦じゃなくクーデターでやられたのに
領土0とかで統率下げようとするのは理解不能だ
まあそうしなきゃお馴染みの領土拡張率理論で
信長の統率を信玄家康以上にしなきゃならなくなるからだろうが
信玄も家康も四天王などがいなければ
土下座外交のヘタレなんだから下げてもいいんじゃないか
325 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 15:52:48.09 ID:AJYjAVG8
本能寺後、明智領は丹波山城でそれ以外織田領なのにな
本能寺後の織田領は誰の領土になるんだよって話
326 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 16:08:18.02 ID:fqiNCQOH
は?
経過無視して結果で能力決まるなら光秀に殺されて死んだ信長は能力0だろ
クーデターだろうがなんだろうが関係ねえ
結果重視論脳のアホは都合いい部分だけ結果を見て都合悪い最後の部分は無視しようとするから論外
327 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 16:10:37.70 ID:5fYOgORp
そもそも信長は光秀にぶち殺されて死んでるのに織田領が信長のもんなわけねーだろ
死んでも自分のもんってか? w
328 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 17:38:44.80 ID:Gow6mFi1
>>314 俺自演扱いのなの
氏直は過小って前にココでも言われてただろ
329 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 18:06:45.75 ID:IruKViuD
生きてる間の評価をすべきであって、死に方やその後滅んだとかはその人の能力じゃないだろ
330 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 18:31:39.46 ID:pCPU1Jcl
>>326 だから本能寺の変で光秀に殺されたことを評価対象にするなら
統率と知略は領土拡張率から言って信玄と家康以上で
政治を下げればいいだろうと
331 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 19:53:41.26 ID:fqiNCQOH
>>329 そもそも周辺状況や地理条件無視して領土拡張なぞという一面的な部分のみで能力決め付けようとする馬鹿に対する反論としていってるだけだ
結果が問題だというなら光秀に殺されて死んだ、が結果の信長は能力0
結果ではなく経過をちゃんと考察するなら国力や周辺国の条件が違いすぎるから比較にならない
領土広げたなぞという一部分の結果だけみて経過無視。なのに殺されて死んだ、は無視するか
政治の問題などと論点捻じ曲げるのが馬鹿織田厨理論
>>330 なんで国力や敵対国の条件や同盟状況無視して領土拡張は統率や知略評価で
最後に殺されて死んだ事は結果無視して
状況考察で政治マイナスなんだよボケ
領土拡張が状況無視で統率知略なら殺されて死んだという結果を持つ信長は能力0だろうがアホ
332 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 19:59:42.70 ID:5fYOgORp
結果が全てだろ。
チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだ信長
最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り150万石まで領土広げた信玄
333 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 20:03:02.55 ID:fqiNCQOH
光秀に殺されて死んでるのに領土拡張率が信玄より上なわけねーじゃん
敗死した後の状態で敗死する前に持ってた領土を自分の物だとかアホかと
334 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 20:10:26.17 ID:YUcQhFyE
だがさん生きてて楽しい?
335 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 20:37:50.85 ID:AJYjAVG8
だがは結果が全てという
つまり戦国期に滅ぼされた勢力は全部ALL0な
336 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 21:01:03.56 ID:fqiNCQOH
殺されて死んだ信長は結果でいえば能力0
普通の人間なら経過を考慮しようとするだろうが織田厨の糞理論に従うとそうなる
337 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 21:06:42.21 ID:+KjGVG2f
だがさんの言う事はこの間の義清の詭弁以降信じれなくなりました><
338 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 21:11:01.76 ID:AJYjAVG8
だが理論では結果が全て
有名ドコロだと
織田大名家臣 ALL0
豊臣大名家臣 ALL0
武田大名家臣 ALL0
北条大名家臣 ALL0
三好大名家臣 ALL0
大友大名家臣 ALL0
だから滅ぼされた勢力は大名家臣ALL0
なんか問題あるのか?
結果が全てなんだろ?
339 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 21:17:46.67 ID:vitNG32i
だがの理屈なら全勢力all0か
みんな明治維新で滅んでるし
340 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 21:22:13.19 ID:AaXfS7/i
だがさんの大胆な切り口にはスレ住人一同完敗です><
341 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 21:59:46.07 ID:fFDKGmNg
一時期止まっていたコピペが急激に増えてきたな
避難所は再起不能だと目論んで一気にスレを潰しに来たんだろうか
342 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 22:05:20.46 ID:fFDKGmNg
>>339 だがさんは
>>327で
327 :名無し曰く、:2013/01/23(水) 16:10:37.70 ID:5fYOgORp
そもそも信長は光秀にぶち殺されて死んでるのに織田領が信長のもんなわけねーだろ
死んでも自分のもんってか? w
と言っている。
これによるとだが理論では「死んだ後の領地は死んだ当主のものではなくなるため、最終的に0になる」
ということだ。つまり武田信玄も武田勝頼に領土を奪われたため能力オール0、
徳川家康も死後徳川秀忠に領地を奪われたため能力オール0ということになる。
もちろん武将でもそう、前田利家は死後領地を前田利長に奪われた、だから能力はオール0ということだ。
山県昌景も死後穴山信君その他諸々に領地を奪われている、だから能力オール0
信長の野望に登場する全戦国武将をオール0にする、これが「だが理論」
343 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 22:24:31.80 ID:vi7xXAPL
何で遺骸が見付からなかったのかが不思議だ
344 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 22:32:05.65 ID:wO+aymD7
345 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 23:19:17.04 ID:fqiNCQOH
そら他者に殺されて死んだ後、生きてた頃持ってる物を自分のもんだとはいわん
自然史なら遺産といえるだろうが
346 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 23:19:51.98 ID:fqiNCQOH
自然史なら遺産といえるだろうが→自然死なら遺産といえるだろうが
347 :
名無し曰く、:2013/01/23(水) 23:38:29.82 ID:AJYjAVG8
滅んだ結果みたら0なんだけど
なんか問題あるのか?
結果が全てなんだろ?
348 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 01:02:10.59 ID:elZUSfQT
自然死なら遺産とか無知にもほどがあるな。
遺産は自然死不自然死に関わらず相続人に相続する権利が絶対発生する。
つまり「不自然死や殺害での死に遺産はない」とするのはありえない話。
逆に死んだ人間に生前持っていた領土の所有権がないというのなら、
どの大名どの武将も最終的に所有領土は0になる。
わかりやすいのが武田、信玄の後を継いで当主になった勝頼には
本来継がれるべき武田家の通字「信」が一切使われていない。
逆に信玄が滅ぼし、勝頼の母の出自であった諏訪家の通字「頼」を終生使い続けた
「武田は最終的に諏訪に乗っ取られた、だから武田家は信玄の死を以て滅亡している」
という極論も、だが理論の前では正論と化す
349 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 01:40:02.84 ID:v6rvxB9i
他人に殺されて死んだ後、生きてた頃持ってる物を自分のもんだとはいわん。敵である他者(光秀)に殺されて死んだ時点で失ったと見るべき。
他者に殺されて死んだわけでもなく病死なら遺産といえるだろうが
あと勝頼が諏訪の人間とかアホですか
ちゃんと復姓してるし信勝にはちゃんと信が使われてるのに
350 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 02:18:29.28 ID:Ix+VETg9
違う
結果だけみたら死んでるから能力0
351 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 04:04:12.57 ID:elZUSfQT
>>349 武田の人間になるなら信の字を使うべきところを勝頼はしなかった
改名する機会はいくらでもあったのにしなかった
信勝とか当主にならなかった人間の名前なんてどうでもいい
「信」の字を生涯に渡って忌避し仇敵諏訪の「頼」の字を使った時点で
勝頼の心は諏訪にあったとみるべき、姓とかいくらでも誤魔化せるから何の意味もない。
>>他者に殺されて死んだわけでもなく病死なら遺産といえるだろうが
遺産の概念に当てはめるなら他人に殺されようが途中で行方不明になろうが
全て相続できる遺産に該当。これは旧民法時代からの鉄則。
あの徳川幕府ですら「当主が不自然死したらそれだけで改易」なんて暴挙はしていない
ただの妄想
352 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 04:10:00.28 ID:v6rvxB9i
名前でどの家の当主かどうかわかるとかアホすぎてワロタwwww
353 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 04:14:09.78 ID:4FFDP02f
他者(光秀)との戦いに敗れ、殺されて死んだから殺された所で領土は信長のもんじゃない
信玄とか他の奴は他者との戦いに敗れ殺されたわけではないので残念ながら遺産(法律的用語どうこうの問題ではない)
そもそも戦国期の争い、戦争による命のやり取りに敗れ死んだ後の、生前持ってた領土に扱いの話と
現代での当事者の死に方と死後の遺産相続の法律的解釈を一緒くたに扱った妄言乙だな
354 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 04:21:37.73 ID:elZUSfQT
ちなみに遺産遺産と無知なアスペルガーがうるさく騒いでるが
世の中には生前贈与というものがあって、
被相続人が相続人に対して生前に物や財産を与えることが可能なのだよw
徳川幕府下でも諸藩が「分藩」と称して一族の誰かを当主に藩を新たに打ちたてたりしていた
典型的な「生前贈与」が当然のごとく行われていたわけww
織田家に当てはめると被相続人は言うまでもなく信長
相続権があるのは直系だと織田信包、織田有楽斎、織田三法師
他養子に入ってその家を継いだ北畠信雄、神戸信孝、羽柴秀勝にも一応相続権がある
ま、だが理論で「当時他家に養子に入っていた奴は家を継ぐ資格なし」としても
上の3人は確実に相続できて、しかも生前贈与で三法師以外はそれぞれ領地を貰っている。
学もないのに現代の言葉を使わないようにw
355 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 04:26:26.91 ID:elZUSfQT
>>353 旧民法の草案は全て日本固有の根付いた法律から参考にされている。
おまえの大好きな武田の分国法ももちろんのことだw
だからおまえの理屈は全く当てはまらないw
生前贈与の概念なんて家督継承と領地安堵で当時でも当たり前に行われているがw
>>信玄とか他の奴は他者との戦いに敗れ殺されたわけではないので残念ながら遺産(法律的用語どうこうの問題ではない)
つまりただの妄想
しかも直系相続の問題で言えば明らかに武田の方が相続人少ないのにこのザマ
当主候補の義信を無為に扱うからこうなるw
356 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 04:32:56.02 ID:elZUSfQT
>>352 名前以前の問題
勝頼はただえさえ武田家通字の「信」の字を使わず
武田にとっての仇敵諏訪の通字である「頼」の字を使った
それどころか信玄が戦った仇敵信長の養女から生まれた人間を取り立てている。
武田兵を数多殺された信長を崇めるかのような行為だ。
その嫡男は元服して武田信勝と名乗っているが、これ母方の養祖父にあたる「信長」の「信」だろ
人質としてとらえた信長子息にも「勝長」と与えているし明らかに信玄以来の「武田家」の伝統を忌避しまくり
357 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 05:24:08.96 ID:P4tvyjVJ
毛利勝永の顔グラでもせめて良いものにしてやってほしい
モブ並じゃかわいそうだ
358 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 05:35:11.25 ID:v6rvxB9i
>>356 そもそも諏訪が武田の仇敵っていつの話だよ
信玄が死ぬ30年も昔の話じゃねぇかw
なんで名前の文字でどこの家の人間かが決まるんだよアホ
>>354 相続どうこうの話じゃなくて信長が光秀に殺された後の信長の持ち領土の話なんだけど論点ずらし乙
>>355 戦国期に遺産相続が現代と同じ形態で行われていたソースは?
後生前贈与どうこうじゃなくて
戦いに負けて殺されて死んだ者が、戦いにまけて殺されて死ぬ前に持ってた領土をそのまま死んだ後にも持ってる事になるのかという話なので関係ない話乙
359 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 05:39:21.31 ID:4FFDP02f
信雄信孝信包秀信は織田家当主どころか秀吉の天下取りに利用されて滅んだだけ。誰も彼らを当主として機能していない。
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
360 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 05:42:12.17 ID:4FFDP02f
イエズス会日本報告集
秀吉は三歳の男児を擁立し日本の君主と称して安土に置き
信長2子の信雄を守役にした。
しかしこれはすべて上辺のことであり
羽柴殿がいっさいを治め、己れの望むことを行い
信雄さえも父に対するように彼に従っている。
これを整えた後、彼は柴田・池田・丹羽とともに
諸国と俸禄を意のままに分け合い、
信孝には美濃を与えたが彼は天下の主君になるのを望み満足しなかった。
多聞院日記7/6
天下のさまは柴田・羽柴・丹羽・池田・堀の5人で
分け取りのような沙汰になった(彼らは勝手に分国を形成)
信長の子らはいずれも詮(なすべき手段、方法)に立たず。
7日
信雄と信孝は言い争っているので名代を止め
尾張・伊勢と美濃の仮
柴田は長浜※、堀は信忠の子も御守として近江中郡
丹羽は志賀・高島郡。池田は大坂と十七所
筑前は山城一円・丹波一円
西ノ岡勝龍寺以下河内にては東の山の子まで秀長。
おおむね羽柴がままのさま也。
下京六条に城をこしらえて
名代なしにして
5人して異見を申してもりたてるとのこと。
中略
以上このごとく定まったが、
欲まみれ又種々これあるべく。
信長子息が大勢いるのにいずれも詮にこれ立たず
狂いべし出来事か。
また秀信3歳が秀吉に伴われて上洛したとも書かれている。
※10/10付け柴田→堀でも
柴田は長浜付之配分之外、一粒一銭も得てないと書いている。
また柴田と秀吉が直接に書状でやり取りすることは一切してないどころか
柴田は丹羽や堀に味方になって欲しい感丸出しの書状を出している。
すでに秀吉・丹羽・池田・堀らは派閥を形成しており、
その首魁の秀吉に柴田は書状すら出さない以上は明らかに対立している。
清洲会議ですでに多数派工作が開始されており、明らかに敵対化している。
また安土の普請をしてる間は信忠の岐阜城に秀信がいることになったが
柴田・信孝が条件をつけて秀信を安土に移さないと知るや
秀吉は10月末には丹羽や池田と謀り、織田主君の首を挿げ替えるべく
勝手に秀信を廃して信雄を擁立し
柴田と信孝を謀反人呼ばわりを開始する専横ぶりを顕わす。
信孝死後はいとも簡単に自分が挿げ替えた織田主君の信雄を攻撃する秀吉。
361 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 18:36:15.07 ID:JB73zi8X
滅んだ結果みたら関係者ALL0
だが曰く「織田厨の結果が全て理論」だけど
都合が悪いからスルー
なぜか死に方がどうとか解釈付けてるが
その織田厨のレスで死に方について解釈はあったの?
あったならスレ教えて
なかったら、滅んだ勢力はALL0
362 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 19:13:05.25 ID:elZUSfQT
日本人とは思えないレスだな
>>358 >>戦国期に遺産相続が現代と同じ形態で行われていたソースは?
戦国期に限らず遺産相続は鎌倉時代ひいては古代中世からほとんど変わっていないが。
遺産の概念が存在しなかったのは、土地や人民は全て天皇のもとであるという「公地公民」の時代だけ。
元々憲法や国際法の類と違って、民法は旧民法時代から日本にかつて基づく慣習法や他国の民法を混ぜて作られている。
これは旧民法にもきっちりと明記されていて、例えば戦国大名の手法として一般的だった「隠居」の概念は1947年まで続けられている。
遺産相続に至っては、ほとんど改訂されないまま現代まで存続している。
>>戦いに負けて殺されて死んだ者が、戦いにまけて殺されて死ぬ前に持ってた領土をそのまま死んだ後にも持ってる事になるのかという話
なる。おまえの大好きな武田家に例があるだろ。
武田家では信玄の実弟である武田信繁が川中島の戦いで戦死しているが、
武田家では信繁の死後は実子の信豊が跡をちゃんと継いでいる。
おまえの理屈が正しければ『武田信繁の遺領は、武田信繁をぶち殺した上杉家の柿崎村上等の手に帰する」はずなんだがなw
ちなみに遺産の相続は、被相続人が死んだ段階から発生し、相続人の認知は必要ない。
本能寺の場合、織田信長と織田信忠が死んだ段階から織田領の大半は当主秀信に存続権がある。
明智は不当に軍を駐屯させていただけに過ぎない。
>>相続どうこうの話じゃなくて信長が光秀に殺された後の信長の持ち領土の話
信長自身が所持していた領土は、信長信忠が死んだ段階で全て織田家の後継者である秀信に移る。
信長が生前に領土を渡していた土地は、そいつらのものになる(信雄信孝信包など)
363 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 19:22:21.67 ID:elZUSfQT
>>そもそも諏訪が武田の仇敵っていつの話だよ
信玄が滅ぼしたことに何の変りもない。
そもそも武田家の嫡男は正室腹の義信で、側室腹の四男坊だった勝頼とは雲泥の扱いがある。
所詮義信が死んだから年長者で健康だった勝頼を無理やり立てただけ。
勝頼からすれば兄と父親の都合で無理やり継がされただけだから武田家になんの愛着もない。
むしろ長らく使っていた諏訪の姓に愛着を感じていたのだろう。
武田の通字である「信」を生涯使わず、諏訪家通字の「頼」を使い続けた。
「信頼」とか「信勝」とかいくらでも名前を改名できたのに、それを生涯しなかった。
>>361 滅んだ滅んでないに関わらずほぼ全ての武将は能力allゼロになる。
だが理論では「遺産」の概念が発生しないから、大名が死んだ場合土地や財産は全て国に収公される。
戦国期は武家政権だから、1573年までに死んだ大名の土地は足利が、1574年から1584年までに死んだ大名の土地は織田が、
1585年から1602年までに死んだ大名の土地は豊臣が、1603年以降に死んだ大名の土地は徳川に所有権が移行する。
事実徳川政権下では相続人の発生しない藩は改易処分となり徳川幕府がその土地を自らの所有物としている。
武田信玄が死んだのは1573年だから、信玄が死んだ時に持っていた領地は全て足利義昭のものになる。
武田勝頼や武田家臣は不当に軍を置いていただけで、武田領は信玄が死んだ段階で0になるというのが「だが理論」
364 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 19:29:25.93 ID:1vvKAoWm
封建社会では封建領主が死んだら後継者が継ぐ事になってるから将軍のものにはならないぞ?
365 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 19:49:53.92 ID:SmVO4DTn
だがさんまた信濃の話するのー?
村上は―?村上は―?
366 :
mugen:2013/01/24(木) 20:02:23.81 ID:+hC1a7wC
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367 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 20:11:41.74 ID:elZUSfQT
>>364 封建社会と一口に言っても様々な形態があるから一概には言えない
封建領主が死んで後継者が絶対継ぐというのは非中央集権的な西欧であったもの
日本の封建社会はコロコロ変わるから、必ずしもそうとはならない
江戸期の封建制は絶対君主に近いものだしな
368 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 22:30:08.30 ID:naOzM7rg
織田家・・・南蛮文化を後世日本全土に残した最有力
徳川家、鍋島家・・・武士道
武田家・・・信玄堤
北条家・・・村請制度等徳川幕府の基盤、四公六民
大友家・・・西日本の南蛮文化の雄
島津家・・・特攻
三好家・・・堺文化のパトロン
最上家・・・最上川干拓
〜〜現代日本人に影響を与えた壁
上杉家・・・???
浅井家・・・???
朝倉家・・・???
毛利家・・・???
伊達家・・・???
〜〜有力大名の壁〜〜
その他
369 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 22:43:20.82 ID:JB73zi8X
伊達家・・・ずんだ餅
370 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 23:22:51.64 ID:4k9NpbZe
ここの意見まとめると
信玄信長両者ともマイナスで良いんだな?
371 :
名無し曰く、:2013/01/24(木) 23:25:30.17 ID:o8yIujPn
まてや
毛利がその位置はどう考えてもおかしいだろうが
372 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 01:29:50.21 ID:HKXndH8f
373 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 03:03:46.95 ID:eKHbYrQe
だが理論なら信玄信長どころか皆マイナス
上限10かと思えるくらいマイナス
374 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 04:25:52.30 ID:Zac4Wy4T
全員上限-10
武田他だがさんお気に入り大名家の武将のみ上限120
これでいいよもう
375 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 06:52:40.24 ID:tKYJfkQZ
だが理論ならALL0だろ
376 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 07:21:47.19 ID:A/zVWL7T
人は生まれながら平等
良いも悪いもないのです
つまりオール0が正解でござる
377 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 08:21:50.92 ID:ocb/h17h
だがさんもよーく聞いとけよ
378 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 09:03:29.94 ID:FajTfCBr
他人に殺されて死んだ後、生きてた頃持ってる物を自分のもんだとはいわん。敵である他者(光秀)に殺されて死んだ時点で失ったと見るべき。
他者に殺されて死んだわけでもなく病死なら遺産といえるだろうが
379 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 09:43:45.70 ID:6ZMej3C6
それ言ったら病気や老衰で死んだ人間も同じだろw
誰だってあの世までは持っていけない
380 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 10:35:38.00 ID:FajTfCBr
病気や老衰は戦国期での生業にあたる戦(命のかけひき)で相手に敗北したわけではないので
敗死した武将と同じにするのは間違い
結果でいえば相手との戦いで敗れて死ぬ武将は最低ランク
381 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 11:07:37.31 ID:PgJsOz7K
ここはいつから戦国武将から人間の命の価値を学ぶスレになったの?
382 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 11:15:08.72 ID:xqv5NO9O
仮にだがの主張を認めた場合は
武田も信玄以外の一門と家臣達のほとんどは最低評価ってことでいいわけか
383 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 11:22:03.61 ID:/xo7nCaB
だがをアスペルガー扱いするとアスペルガーに失礼
こいつは単なる壊れたレコードだ
384 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 12:47:09.45 ID:NFD9oI0D
滅んだ結果みたら関係者ALL0
だが曰く「織田厨の結果が全て理論」だけど
都合が悪いからスルー
なぜか死に方がどうとか解釈付けてるが
その織田厨のレスで死に方について解釈はあったの?
あったならスレ教えて
なかったら、滅んだ勢力はALL0
「だがが反論しない場合は認めたものとする」
385 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 13:14:42.35 ID:HLVzhJu5
他者(光秀)との戦いに敗れ、殺されて死んだから殺された所で領土は信長のもんじゃない
信玄とか他の奴は他者との戦いに敗れ殺されたわけではないので残念ながら遺産(法律的用語どうこうの問題ではない)
そもそも戦国期の争い、戦争による命のやり取りに敗れ死んだ後の、生前持ってた領土に扱いの話と
現代での当事者の死に方と死後の遺産相続の法律的解釈を一緒くたに扱った妄言乙だな
そもそも他の大名はどうか知らんが織田家には分国法すらないんだから
現代での法律的解釈での遺産相続の話が織田家でそのまま通じるわけがない
そもそも遺産相続などが明文化されたのは近代化以降
それまではなあなあで相続などやってただけ。
386 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 14:00:35.87 ID:deQcHgXm
山崎で明智と戦った軍隊はどこからきたの?
総大将は信孝だから織田の軍だし
387 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 14:03:10.45 ID:NFD9oI0D
>>385 今川義元も桶狭間で死んだのに
三河遠江駿河は今川領のまま
はい、論破
388 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 14:27:05.91 ID:FajTfCBr
>>387 今川義元のもんではない。はい、論破
>>386 信長は光秀との戦いに敗れ殺されてるので信長のもんではない
389 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 14:46:12.08 ID:kRJUob4H
>>388 結果みたら全員死んでるからから能力0
はい、論破
390 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 14:58:22.79 ID:FajTfCBr
戦国期において武士の生業の命のやり取り(戦い)に負けて死ぬ→どうみても生前の自分が持ってた物は戦いに負けて殺されて失う事になる
病気で死ぬ→他者との戦いで死んだわけではないので自分の物として持った状態で死ぬ
戦いが生業である武士がその生業とする戦いに敗れ殺されて死んだという事実が重要
391 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 15:01:09.35 ID:ocb/h17h
ここが今日の言葉遊びスレか
392 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 17:56:32.22 ID:eKHbYrQe
>>382 信玄は武田一門の中でも最低評価でしょ
自分の嫡男で立派に育った武田家次期当主を殺して
仇敵諏訪の跡を継いだ勝頼に縋り付いて家を形だけでもつなげようとする無能だからな
織田信長で言ったら明智光秀に家督と織田領を全て委譲するのと同レベル
信玄の死因も松平記では野田城攻囲中に撃たれた銃撃が基で死んでるし立派な戦死
信長と違って自刃ですらないから、足軽雑兵に討たれた雑魚という評価になる
393 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 18:38:47.21 ID:FajTfCBr
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
394 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 18:58:10.67 ID:eKHbYrQe
ソースのない妄想ってこういうのを言うんだよなw
影武者替え玉なんて信玄の十八番なのにw
395 :
名無し曰く、:2013/01/25(金) 19:30:32.51 ID:NFD9oI0D
結局
>>384にだがは反論できないか
だが・・・お前の負けだ
396 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 01:40:10.07 ID:DJQbsEzr
残念、だがちゃん敗走
397 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 05:31:19.11 ID:W5pqnHJp
伊達の種宗、晴宗、輝宗の三宗は地味だなー島津と違って
398 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 07:25:25.74 ID:cUU4ofmY
だがさん、負けちゃったの?
399 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 07:45:27.14 ID:I+4xkuG5
>>393 このレスは取っとこう
これはすごいと思うよもう
400 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 08:21:04.79 ID:d+kJgj36
401 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 08:27:14.53 ID:I+4xkuG5
うわ…
402 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 10:25:40.83 ID:8iPcQ20E
だがのあまりにもの負けっぷりに噴いた
403 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 10:50:25.20 ID:Pk/mIlzi
だがの結果が全て論で思い出したけど
龍造寺政家って全然出てこないな
404 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 11:25:39.64 ID:kNbAIWzh
政家は知的障害者だろw智謀政治0でいいんじゃないの
それより道雪や秀吉にほめられたというだけで
天下人レベルの能力になってる鍋島さんをなんとかしろ
405 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 11:36:50.19 ID:5rUvr+KT
406 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 13:00:33.17 ID:QgWqr+S0
単純な話だろ。
チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだ信長
最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り150万石まで領土広げた信玄
407 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 13:03:18.04 ID:5rUvr+KT
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
408 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 13:53:57.92 ID:Pk/mIlzi
>>405 >>384の反論まだか?
はやく死に方の解釈が書かれた
織田厨のスレとレス教えろ
提示できないなら、結果が全て論により
滅んだ勢力はALL0な
409 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 15:10:44.81 ID:5rUvr+KT
他者(光秀)との戦いに敗れ、殺されて死んだから殺された所で領土は信長のもんじゃない
信玄とか他の奴は他者との戦いに敗れ殺されたわけではないので残念ながら遺産(法律的用語どうこうの問題ではない)
そもそも戦国期の争い、戦争による命のやり取りに敗れ死んだ後の、生前持ってた領土に扱いの話と
現代での当事者の死に方と死後の遺産相続の法律的解釈を一緒くたに扱った妄言乙だな
そもそも他の大名はどうか知らんが織田家には分国法すらないんだから
現代での法律的解釈での遺産相続の話が織田家でそのまま通じるわけがない
そもそも遺産相続などが明文化されたのは近代化以降
それまではなあなあで相続などやってただけ。
>>387 今川義元のもんではない。はい、論破
>>386 信長は光秀との戦いに敗れ殺されてるので信長のもんではない
戦国期において武士の生業の命のやり取り(戦い)に負けて死ぬ→どうみても生前の自分が持ってた物は戦いに負けて殺されて失う事になる
病気で死ぬ→他者との戦いで死んだわけではないので自分の物として持った状態で死ぬ
戦いが生業である武士がその生業とする戦いに敗れ殺されて死んだという事実が重要
410 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 15:16:14.22 ID:kMtRc2Ih
>>403 病弱だったとはいえ肥後出征して義弘と対峙したりもしてるしちょっとぐらいなら下駄穿かせてあげてもいい気がする
411 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 17:32:09.45 ID:6rKnaWBU
>>409 義元のものだろ
違うっていうなら誰のもの?
412 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 18:13:25.68 ID:kQTw4JJ7
>>410 政家の肥後軍団の副将は鍋島で与力には地元の隈部や甲斐が付いてて早々ヘマなんてやりようがない
一応は当主の若殿には有望株や親父殿からの有力譜代が側近につくから
要らん口出ししなければ部下が勝手にやるもの
413 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 18:18:44.02 ID:5rUvr+KT
>>411 はあ?
戦に負けて殺されてんのに殺された後ですら義元のものとかアホじゃね
414 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 18:54:28.16 ID:lMXAjIN/
>>そもそも遺産相続などが明文化されたのは近代化以降
無知なら喋らなければいいのにw
遺産相続や財産分与が明文としてきっちり出てくるのは最短で757年の養老律令から
養老令に定められてある45条からなる「応分条」規定がこれにあたる。
律令体制の模範先であった中国とは微妙に異なり、嫡庶によって得られる財産量を変える概念が既にあった。
ちなみに武家政権の括りに限定しても1232年の貞永式目
第18条から第27条まで相続財産権の条文がきっちり残っていることも知らないんだなw
415 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 19:14:05.48 ID:QgWqr+S0
織田家には分国法がないから関係ないけどな
416 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 19:21:39.87 ID:lMXAjIN/
>>415 馬鹿だなおまえw
分国法以前の武士集団を統御するために作られたのが貞永式目だ
武士である以上貞永式目の統御からは逃れられないんだよw
この貞永式目に追加される形で17条の建武式目が室町政権から全大名に施行されている。
それすら守っていない家というのは、武士集団として存続できようがないw
ただの浮浪者集団なんだから領民も納税なんてしないし武士も奉公する必要がなくなるw
417 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 19:34:51.60 ID:Pk/mIlzi
>>387は今川領としか書いてないのに
なんで、だがは今川義元にこだわってるの?
三河遠江駿河は桶狭間で義元が死んでも
今川義元>今川氏真で今川領のままだよな
いつ義元を殺した織田信長のものになったの?
あと、はやく死に方の解釈が書かれた
織田厨のスレとレス教えろ
提示できないなら、結果が全て論により
滅んだ勢力はALL0な
418 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 20:44:35.94 ID:rzqEJL6m
筒井某(2歳)「大名なんざ側近が優秀ならなんとかなる」
419 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 20:48:15.99 ID:Nz2w2xii
>>404 鍋島は前々すれぐらいで妥当って結論出てなかった毛
420 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 21:26:05.18 ID:5rUvr+KT
>>417 は?
他者(光秀)との戦いに敗れ、殺されて死んだから殺された所で領土は信長のもんじゃない
信玄とか他の奴は他者との戦いに敗れ殺されたわけではないので残念ながら遺産(法律的用語どうこうの問題ではない)
そもそも戦国期の争い、戦争による命のやり取りに敗れ死んだ後の、生前持ってた領土に扱いの話と
現代での当事者の死に方と死後の遺産相続の法律的解釈を一緒くたに扱った妄言乙だな
そもそも他の大名はどうか知らんが織田家には分国法すらないんだから
現代での法律的解釈での遺産相続の話が織田家でそのまま通じるわけがない
そもそも遺産相続などが明文化されたのは近代化以降
それまではなあなあで相続などやってただけ。
>>416 戦国期に貞永式目どうこうなんて通用しないだろ
皆大名の裁量で政治が可能
その証拠に重税かしたり一揆起こったりクーデターが起こったりしてる
大体戦国期に貞永式目が武士を統御しそれに従ってたなんて書いてるアホ学者いないだろ
お前だけ。
421 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 22:10:58.43 ID:qSsQlza6
422 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 22:22:27.15 ID:MCv4FQMm
殺されたら終わりだから長篠や天目山で死んだやつらも0か
423 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 22:30:33.53 ID:Nz2w2xii
>>422 そうなるな
勝頼と武田家臣かなり下げないと
424 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 22:41:48.43 ID:5rUvr+KT
信雄信孝信包秀信は織田家当主どころか秀吉の天下取りに利用されて滅んだだけ。誰も彼らを当主として機能していない。
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
425 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 22:45:08.37 ID:5rUvr+KT
イエズス会日本報告集
秀吉は三歳の男児を擁立し日本の君主と称して安土に置き
信長2子の信雄を守役にした。
しかしこれはすべて上辺のことであり
羽柴殿がいっさいを治め、己れの望むことを行い
信雄さえも父に対するように彼に従っている。
これを整えた後、彼は柴田・池田・丹羽とともに
諸国と俸禄を意のままに分け合い、
信孝には美濃を与えたが彼は天下の主君になるのを望み満足しなかった。
多聞院日記7/6
天下のさまは柴田・羽柴・丹羽・池田・堀の5人で
分け取りのような沙汰になった(彼らは勝手に分国を形成)
信長の子らはいずれも詮(なすべき手段、方法)に立たず。
7日
信雄と信孝は言い争っているので名代を止め
尾張・伊勢と美濃の仮
柴田は長浜※、堀は信忠の子も御守として近江中郡
丹羽は志賀・高島郡。池田は大坂と十七所
筑前は山城一円・丹波一円
西ノ岡勝龍寺以下河内にては東の山の子まで秀長。
おおむね羽柴がままのさま也。
下京六条に城をこしらえて
名代なしにして
5人して異見を申してもりたてるとのこと。
中略
以上このごとく定まったが、
欲まみれ又種々これあるべく。
信長子息が大勢いるのにいずれも詮にこれ立たず
狂いべし出来事か。
また秀信3歳が秀吉に伴われて上洛したとも書かれている。
※10/10付け柴田→堀でも
柴田は長浜付之配分之外、一粒一銭も得てないと書いている。
また柴田と秀吉が直接に書状でやり取りすることは一切してないどころか
柴田は丹羽や堀に味方になって欲しい感丸出しの書状を出している。
すでに秀吉・丹羽・池田・堀らは派閥を形成しており、
その首魁の秀吉に柴田は書状すら出さない以上は明らかに対立している。
清洲会議ですでに多数派工作が開始されており、明らかに敵対化している。
また安土の普請をしてる間は信忠の岐阜城に秀信がいることになったが
柴田・信孝が条件をつけて秀信を安土に移さないと知るや
秀吉は10月末には丹羽や池田と謀り、織田主君の首を挿げ替えるべく
勝手に秀信を廃して信雄を擁立し
柴田と信孝を謀反人呼ばわりを開始する専横ぶりを顕わす。
信孝死後はいとも簡単に自分が挿げ替えた織田主君の信雄を攻撃する秀吉。
426 :
名無し曰く、:2013/01/26(土) 23:11:17.80 ID:QgWqr+S0
結果から見る考察なら
戦国期において戦を生業とする武士がその戦で他者に殺されて死ぬとか最低ランクでしょ
経過や状況ちゃんと見る考察ならそんな思考にはならんだろうが
427 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 02:35:00.32 ID:iyoS6o8r
>>420 つくづく救いようがない馬鹿だなwww
貞永式目こと御成敗式目は室町幕府の建武式目に受け継がれ、
その後も改訂増補が行われ室町幕府が滅亡するまで使われてるんだよw
つまり貞永式目が定められた1232年から
建武式目が追加された1336年を経て、室町幕府の滅亡まできっちり受け継がれているわけだw
ちなみに建武式目に法令追加が行われた最後の年は1520年、この14年後に信長が生誕している。
おまえは戦国諸大名が建武式目と分国法で統治している時代に
織田領のみが縄文時代以下の統治機構であったと恥を晒しているだけw
そもそも分国法なぞもともと建武式目や貞永式目のパクリで勝手に各々が改訂しているだけで
それで事足りると判断した大名はそのまま足利政権の定めた建武式目を使っていたわけだがw
馬鹿の上に自己主張が激しい基地外アスペw
428 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 02:37:40.42 ID:iyoS6o8r
>>422 武田信玄も松平記によれば野田城攻囲中に受けた銃撃が基で死んでいる
実質その辺の鉄砲足軽に殺されたも同然、だから信玄も0
429 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 05:34:11.33 ID:vuYjGMdz
鯛が原因で死んだり酒が原因で死んだら実質料理人に殺された事になるのか?
武士が戦場どころか不摂生で死ぬなんて評価ダウンの理由には十分だな…って、んなわけねーだろ?
死んだ原因でどうのこうの言うのいい加減やめろよ
430 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 05:54:53.27 ID:iyoS6o8r
そもそも死んだ原因どうこうをいちいち言ってるのは基地外アスペだけだけどな
もともと貞永式目27条には当主が不意に死んだ時に残った領地をどうするかが明文化されていて、
これが建武式目を定めた室町政権に引き継がれている。つまり基本的には
当主が戦死しようが行方不明になろうが子供や親族に相続権はあるということ。
現代はおろか中世ですら常識と化していた法律を
基地外アスペが他国の歴史持ち出してるのか「そんなことはない」と言い張っているだけ
431 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 07:56:55.84 ID:kTxllavf
まとめ
今川義元 死後8年 氏真退去まで
武田信玄 死後9年 勝頼自害まで
織田信長 死後1日 信忠自害まで
大友宗麟 死後6年 義統改易まで
豊臣秀吉 死後17年 秀頼自害まで
織田信長 死後8年 信雄改易まで
長宗我部 死後1年 盛親改易まで
信玄のほうが長いが、織田は後で復活してるから
後継者への引継ぎに関しては信玄も信長もほぼ同レベルじゃね?
432 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 10:28:00.94 ID:jc6aPyJ+
>>427 妄想はいいからそんなアホな学説唱えている学者か論文あげてくれ
>>428 そんな松代記にしかない糞妄想言われても。
>>429 武士の生業は戦だろ。戦国期において戦を生業にする武士が殺されて死ぬなんて結果でいえば最低としかいいようがない
いい加減ぐだぐだ擁護とか見苦しすぎるし話しが先にすすまんから黙ってろ
433 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 10:31:12.41 ID:+xNGzIzk
>>430 殺されて死んでも病死と変わらんとか相当馬鹿だな
織田家が本能寺で一気に崩壊したのは信長が光秀との戦いで殺されたからだろうが
普通に死んでりゃ普通に織田政権が続くし
結果でいや戦いが生業の武士が本業の戦争で死ぬってのはそれだけ実力がない証拠
他者(光秀)との戦いに敗れ、殺されて死んだから殺された所で領土は信長のもんじゃない
信玄とか他の奴は他者との戦いに敗れ殺されたわけではないので残念ながら遺産(法律的用語どうこうの問題ではない)
そもそも戦国期の争い、戦争による命のやり取りに敗れ死んだ後の、生前持ってた領土に扱いの話と
現代での当事者の死に方と死後の遺産相続の法律的解釈を一緒くたに扱った妄言乙だな
そもそも他の大名はどうか知らんが織田家には分国法すらないんだから
現代での法律的解釈での遺産相続の話が織田家でそのまま通じるわけがない
そもそも遺産相続などが明文化されたのは近代化以降
それまではなあなあで相続などやってただけ。
434 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 10:36:06.24 ID:jc6aPyJ+
>>429 戦国期において武士が戦いに負けて殺されるって現代でいや社員とか社長が他者との競争で
負けて絶望して自殺するか首になるようなもんだろ
戦国期における戦=現代における仕事だから本業とする仕事で完膚なきまでにやられて死ぬなんだから結果でいや完全に負け犬
>>430 死んだ後の領地の相続の事ではなく
殺されて死んだ後持ってた領地は自分のもんじゃねーだろタコって話だろうが論点ずらし乙
義元や隆信は殺されて死んだあとでも今川龍造寺領が自分のもんなわけねーだろタコw
435 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 10:43:16.36 ID:+xNGzIzk
戦国期に貞永式目どうこうなんて通用しないだろ
皆大名の裁量で政治が可能
その証拠に重税かしたり一揆起こったりクーデターが起こったりしてる
大体戦国期に貞永式目が武士を統御しそれに従ってたなんて書いてるアホ学者いないだろ
お前だけ。
436 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 10:53:07.43 ID:o/LSATpX
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437 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 11:00:31.00 ID:3QL9Vf0O
大名が野戦で死んで崩壊しなかった龍造寺はすごいな
438 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 11:15:18.14 ID:KyZegUvX
だがの結果が全て論は織田厨の発言が元
だから、早く死に方の解釈が書かれた織田厨のスレとレス教えろ
439 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 11:19:21.04 ID:wmjZ0Vzw
>>434 武田信玄が死んだあとでも武田領が自分のもののわけねーだろタコw
440 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 11:23:40.53 ID:KyZegUvX
だが「義元や隆信は殺されて死んだあとでも今川龍造寺領が自分のもんなわけねーだろタコw」
俺「は?子供に受け継がれてるだろ?だから今川龍造寺領」
俺「そもそも死んだら誰かに受け継がれるし、本人のものでないのは武田や北条も一緒」
俺「あと織田厨の結果が全て論の書かれたスレとレス教えろ」
441 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 11:56:48.16 ID:jc6aPyJ+
>>438 はっ?
織田厨は天下とったとか状況みないで結果編重な考察するアホだろうが
結果でいや信長なんて光秀との戦いで殺されて死んだんだから能力0だろタコw
>>439 信玄→病死なので他者との戦いで死んだわけじゃない
信長→戦を生業とする武士が戦で光秀に殺されて死ぬ
よって信玄は自分の物として死ぬ
信長は殺されて失って死ぬ
>>440 子供に受け継がれようが継がれまいが信長のもんじゃねーだろアホ
織田厨は天下取ったからとか領土広げたとか状況みないで結果で能力値決めようとするだろうがタコ
442 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 12:00:15.38 ID:+xNGzIzk
結果編重考察→信長は光秀との戦いで殺されて死んだだけなので能力0
経過・状況考察→信長が領土広げたのは国力や周辺敵対大名など状況や運、地理条件による所が大きいので
領土拡張率などというアホな基準で語るのは間違い
ある一部分だけ経過無視して結果だけ見て
信長に都合悪い光秀に殺され死んだという結果は無視しようとするのが糞アホ織田厨クオリティ
443 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 13:04:40.02 ID:kTxllavf
444 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 13:50:12.30 ID:jc6aPyJ+
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党・宇喜多・浦上&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
445 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 13:52:18.03 ID:+xNGzIzk
秀吉は天下なぞとっていない。
秀吉が天下取ったなら秀吉死後豊臣幕府が開かれているはず
ただ武力で平定したわけでもなく他大名と同盟関係結んだだけ。
関が原の時とか皆豊臣のため戦うという名分利用して好き勝手に自勢力の拡張狙ってただけ
446 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 13:55:42.31 ID:wmjZ0Vzw
447 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 13:56:57.58 ID:wmjZ0Vzw
448 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 14:12:02.83 ID:kTxllavf
449 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 14:18:44.21 ID:+xNGzIzk
秀吉は天下なぞとっていない。
秀吉が天下取ったなら秀吉死後豊臣幕府が開かれているはず
ただ武力で平定したわけでもなく他大名と同盟関係結んだだけ。
関が原の時とか皆豊臣のため戦うという名分利用して好き勝手に自勢力の拡張狙ってただけ
450 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 14:27:51.17 ID:cKpZmbkJ
秀吉は天下なぞとっていないなんて書いてるアホ学者いないだろ
お前だけ。
451 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 14:48:37.33 ID:vuYjGMdz
どの職業でも仕事場で死ぬのがかっこいいって感性は昔からあるんだけどな…
兵士は洋の東西を問わず死に場所求めて戦場に向かうとこあるし
むしろ戦いを生業としてるなら病気で死んだ方が評価低いだろ
452 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 14:50:13.97 ID:jc6aPyJ+
戦国期において戦いというのは相手を殺し、or従え
勢力広げようとする事
その生業とする戦いで負けて他者に殺されるという事は「結果」からみれば最低としかいいようがない
453 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 14:54:23.87 ID:+xNGzIzk
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
454 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 14:55:42.13 ID:jc6aPyJ+
※秀吉失態集※
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
455 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 14:56:38.01 ID:jc6aPyJ+
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
456 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 14:57:33.78 ID:jc6aPyJ+
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
457 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 14:58:08.47 ID:39mnnIL+
どっちでも良いが能力と死に様は関係ないだろうと
病気で死んだって病で倒れるまでの経緯が凄けりゃ評価は下がらんだろう
逆に戦場で死ぬのだって圧倒的不利な状況で死ぬのならそれは当然そこから逆転したらそれこそ凄い才能だったり奇跡なんだろうがゲームじゃないんだから一人の人間の力でできるのは限られてる
この話題を続けることこそ一番無意味
458 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 15:10:13.17 ID:+xNGzIzk
織田厨はある一部分だけは天下取ったなどと経過無視の結果で評価しようとする癖に
信長が光秀に殺されて死んだという都合悪い結果は無視しようとする馬鹿
459 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 15:27:51.64 ID:kTxllavf
>>449 つまり秀吉は天下を取った前提で書き込んでる
>>444=ID:jc6aPyJ+はバカということでよろしいんでしょうか?
460 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 15:45:04.65 ID:jc6aPyJ+
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
461 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 18:32:35.17 ID:vuYjGMdz
武力で他者を支配しようとしたのなんて一部の大名だけで殆どは朝廷内の地位や外交や姻戚で影響力高めようとしてただけだよな?そんな中で朝廷に金送って高い地位得たのは実力だろ
目的が違う人間並べて戦争の勝敗だけで順位決めますってのはズレてるにもほどがある。
戦車とパンで勝負しても審査基準が味ならパンが勝つだろ?
462 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 19:12:51.99 ID:jc6aPyJ+
そういうのは政治で評価すればいいだけ。
こと戦闘の強さは戦ってみなきゃわからんのだから
戦った武将同士会戦状況(兵力・装備・地形など)や戦闘結果(被害・勝敗など)などを吟味して
より苦しい条件、厳しい状況、少ない兵力でより強い相手、より強大な兵力相手によりよい戦果出した武将を高く設定すればいいだけ。
大体ゲームでの統率の中心的意味が同じ兵力を与えられた時いかに強い戦闘力発揮できるかなんだから
そういう能力高い武将は高くし、低い武将は低く設定すればいいだけ
463 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 20:06:01.29 ID:39mnnIL+
でもだがさん勝ち負けだけで判断して状況は一切考えて無いじゃん
464 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 20:49:28.15 ID:+xNGzIzk
兵力比・装備・会戦状況(地形・天候・陣地etc)・勝敗・被害状況などわかる範囲で検証すると
>>453でおおよそ妥当
465 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 21:44:49.14 ID:iyoS6o8r
>>463 というか結果論で一番注目されているのが武田信玄だからな
そもそも武田信玄が滅ぼした勢力は過程を見ても諏訪頼重、村上義清、今川氏真と雑魚ばかり
上杉謙信には実弟武田信繁を討たれ、村上義清には2倍以上の兵力を持ちながら複数回やられる雑魚。
最後の最後で「後の天下人徳川家康を2倍以上の兵力を持って蹴散らした」という結果だけでマンセーされているのが信玄
過程を重視するなら信玄は統率50もあればいい方、諏訪今川より統率が高く、村上義清の統率半分程度
466 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 21:50:10.14 ID:jc6aPyJ+
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
467 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 21:50:33.43 ID:jc6aPyJ+
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
468 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 21:51:38.91 ID:jc6aPyJ+
チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだ信長
最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り150万石まで領土広げた信玄
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない
469 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 21:53:19.28 ID:jc6aPyJ+
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
470 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 21:54:15.14 ID:jc6aPyJ+
三方が原の戦いの、双方の顔ぶれから推測した兵数考察
・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)
/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり
『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく
@劣勢な家康が出陣した理由
A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。
鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。
三方原については、
佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領
全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。
更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。
元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容
信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)
佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
471 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 21:58:01.53 ID:iyoS6o8r
遺産相続、財産分与の歴史
757年 :藤原不比等の定める養老律令に遺産財産を記す「応分条」の規定を明記
1232年:北条泰時ら鎌倉幕府の定めた御成敗式目(貞永式目)18条から27条まで遺産財産の処理を定義
27条には「当主が死んでも死後領地は子供親族に渡る」と原文が残存
1336年:足利直義(尊氏実弟)らが17条からなる御成敗式目(建武式目)を定める。のちに室町幕府基本方針を定めた全17条
条文の最初には「なかんづく鎌倉郡は、文治に右幕下はじめて武館を構へ、承久に義時朝臣天下を并呑す。武家に於ては、もつとも吉土と謂ふべきか。」
という文があり、鎌倉幕府の義時とその子泰時の治世を参考にし、貞永式目を受け継いだものであった。
1520年:鎌倉幕府の御成敗式目(貞永式目)を受け継ぎ追加してきた建武式目であったが
この年最後の建武以来追加が行われる。鎌倉幕府の御成敗式目を引き継ぎ、約200条近く追加された建武以来追加が終了
1534年:織田信長が尾張で生誕
だがは織田家は外国にあったものだと主張したいらしい
472 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 22:08:35.52 ID:iyoS6o8r
史料を無視して妄想極まればどんな武将でも最強だと言える
信長や秀吉や家康が天下有数の実力者足りえるのに長文は不要
信玄が最強だと語るのに容量ギリギリの長文×5レス
それが雑魚信玄を持ち上げる焦りであり不安要素だと気づかないアスペw
473 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 22:39:08.73 ID:jc6aPyJ+
単純な話だろ
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
474 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 22:41:42.15 ID:+xNGzIzk
相変わらず
>>472みたいな結果論脳の馬鹿が沸くな
信長は光秀との戦いで光秀に殺されたから結果論脳でいえば能力0だろ
475 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 22:42:58.03 ID:jc6aPyJ+
織田厨はある一部分だけは天下取ったなどと経過無視の結果で評価しようとする癖に
信長が光秀に殺されて死んだという都合悪い結果は無視しようとする馬鹿
476 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 22:51:32.43 ID:9XoEfMvM
> 上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
これって武田勝頼じゃないの?
あと生野山の合戦で氏康が上杉破ったのを必死でwiki編集してるUkycbseukslって奴、お前じゃね?
477 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 23:10:57.79 ID:JGNeJrvs
>>476 小田原の戦いでの攻防のことじゃね
しかし北条は後手に回りやすいやな
同盟破綻の後、上野方面で勝頼に良いようにさせて
家康なんか長篠以降そこら辺上手くかわしてんのに
これ以上数値上げる必要あるか?
478 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 23:13:44.59 ID:iyoS6o8r
>>474 わざわざID変えなくてもおまえだってわかってるよw
なら信玄は鉄砲足軽に殺されたんだからマイナスだなw
武田は捏造誇張大好きだから隠蔽しただけw
479 :
名無し曰く、:2013/01/27(日) 23:16:12.32 ID:iyoS6o8r
あ、そうそう
433 :名無し曰く、:2013/01/27(日) 10:31:12.41 ID:+xNGzIzk
そもそも他の大名はどうか知らんが織田家には分国法すらないんだから
現代での法律的解釈での遺産相続の話が織田家でそのまま通じるわけがない
そもそも遺産相続などが明文化されたのは近代化以降
それまではなあなあで相続などやってただけ。
これはどう説明つける気かな?www
コピペで誤魔化すのはいつもの癖だからアテにしてないけどw
遺産相続、財産分与の歴史
757年 :藤原不比等の定める養老律令に遺産財産を記す「応分条」の規定を明記
1232年:北条泰時ら鎌倉幕府の定めた御成敗式目(貞永式目)18条から27条まで遺産財産の処理を定義
27条には「当主が死んでも死後領地は子供親族に渡る」と原文が残存
1336年:足利直義(尊氏実弟)らが17条からなる御成敗式目(建武式目)を定める。のちに室町幕府基本方針を定めた全17条
条文の最初には「なかんづく鎌倉郡は、文治に右幕下はじめて武館を構へ、承久に義時朝臣天下を并呑す。武家に於ては、もつとも吉土と謂ふべきか。」
という文があり、鎌倉幕府の義時とその子泰時の治世を参考にし、貞永式目を受け継いだものであった。
1520年:鎌倉幕府の御成敗式目(貞永式目)を受け継ぎ追加してきた建武式目であったが
この年最後の建武以来追加が行われる。鎌倉幕府の御成敗式目を引き継ぎ、約200条近く追加された建武以来追加が終了
1534年:織田信長が尾張で生誕
480 :
名無し曰く、:2013/01/28(月) 04:33:48.28 ID:6oVu8/Ub
一応、信長は信玄と謙信に対してはなるべく戦いにならないようには
してたんだろ?外交的には
481 :
名無し曰く、:2013/01/28(月) 08:13:05.58 ID:8zSlPqPj
>>480 信長のそれは信玄と謙信に限ったことではないし
もっと言えば信長に限ったことですらないな
家康も信長と結んでるし、謙信も一時的に北条と結んでいた。
「上杉謙信が北条氏康と同盟結んだのは、謙信が氏康にビビっていたから」
という主張は俺は聞いたことないな
482 :
名無し曰く、:2013/01/28(月) 13:15:23.06 ID:qNatp7NL
>>472 だがって言えよ
実際のアスペの人に失礼
こいつアスペじゃないし
483 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 04:39:30.89 ID:zZ9fuyp/
アスぺは他に天才的な才能があるからなぁ
484 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 04:43:16.02 ID:zZ9fuyp/
信長の方針って基本秀吉みたいに領土をある程度保障して従属させていくのではなく
根こそぎ滅ぼしていく方針だったんかな。
485 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 05:12:59.65 ID:akrYtcWg
秀吉の方針は九州東北といった畿内と異なる地方だからこそという面もあるからね
実際関東の北条みたいな要地は滅ぼしているし、従属させても別の場所へ行かされたり改易して力削いだりもしている
486 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 08:16:16.46 ID:A2mJMhAH
中国に行こうとしてた秀吉にとって関東より九州のほうが大事だろ
487 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 10:27:16.04 ID:swdcIW07
前から思ってるんだが秋月種実や筑紫広門の統率武勇を上げるべきとなぜ言われないのか
そうしないと道雪や紹運があんなに高い理由はつかない
488 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 10:34:57.07 ID:lLjyCpoj
信長の場合根こそぎ滅ぼすというより
従属認める→離反→攻撃せざるをえないってパターン多くないか。
荒木・松永・別所・浅井etc
489 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 11:30:05.36 ID:i58Qqber
秀吉のやり方は相当大きくならないと難しいんじゃない?
信長の頃でそれをやると従属勢力が大きすぎて安定しない
あと斉藤や武田や朝倉見ると、信長は内部崩壊するまで徹底的に調略を掛けてたから
最後には相手が家を保てる姿になってないというのもあるかも
490 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 12:21:03.84 ID:VCNoIPw3
491 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 15:29:09.29 ID:LeQq9Vsc
秀吉の場合はそもそも敵対者の対立を利用して得た同盟みたいな天下だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
492 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 16:21:45.38 ID:akrYtcWg
その家康はさらに敵を残してるじゃん
家康にとっての毛利輝元って秀吉で言えば柴田勝家
敵対大名やきな臭い大名残しすぎて秀忠が頑張ってるし
493 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 16:27:06.26 ID:akrYtcWg
>>486 全ては場所次第
実際唐入りの拠点に使えそうで、交通の要所でもあるな博方や豊前は秀吉はキッチリ抑えている。
逆に薩摩大隅みたいなド田舎は島津に適当に宛がっている
九州は地図見たら一発だけど平野部と山間部がくっきりわかれすぎてて、
全部支配するのは徒労で割に合わない。
家康も基本は要地を抑えて、田舎は土着勢力や外様に任せるパターンだけど
秀吉に比べると加藤を肥後に残したり、福島に広島なんぞ任せたりで
秀忠がいなかったらヤバかったんじゃないかってくらい家康期の基盤は微妙
494 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 16:36:28.37 ID:LeQq9Vsc
関が原の戦いで西軍について厳封・改易された大名はめちゃめちゃいて
総石高数百万石に及ぶ
上杉景勝 西 奥羽ノ内 1,200,000 → 出羽 米沢 300,000 -900,000
毛利秀就 西 安芸他六ヶ国 1,205,000 → 周防 長門 369,000 -836,000
佐竹義宣 西 常陸 水戸 545,700 → 出羽 秋田 205,800 -339,900
秋田実季 西 出羽 秋田 190,000 → 常陸 宍戸 50,000 -140,000
宇喜多秀家 西 備前 岡山 574,000 → 所領没収 −−− 遠流 八丈島
長宗我部盛親 西 土佐 浦戸 222,000 → 所領没収 −−− 浪人
前田利政 西 能登 七尾 215,000 → 所領没収 −−− 浪人
増田長盛 西 大和 郡山 200,000 → 所領没収 −−− 追放 高野山
宮部長熙 東注@ 因幡 鳥取 200,000 → 所領没収 −−− 身柄預 奥州南部家
小西行長 西 肥後 宇土 200,000 → 所領没収 −−− 斬首 享年不詳
石田三成 西 近江 佐和山 194,000 → 所領没収 −−− 斬首 享年41歳
織田秀信 西 美濃 岐阜 135,000 → 所領没収 −−− 出家 高野山
立花宗茂 西 筑後 柳河 132,000 → 所領没収 −−− 浪人 のち復帰
小早川秀包 西 筑後 久留米 130,000 → 所領没収 −−− 隠居
丹羽長重 西 加賀 小松 125,000 → 所領没収 慶長八年 再封 常陸古渡
岩城貞隆 中立 陸奥 岩城平 120,000 → 所領没収 −−− 身柄預 出羽佐竹家
青木一矩 西 越前 北ノ庄 80,000 → 所領没収 −−− ??
小川祐忠 西→東 伊予 府中 70,000 → 所領没収 −−− 翌年死去 享年不詳
太田一吉 西 豊後 臼杵 65,000 → 所領没収 −−− 出家
木下勝俊 西 若狭 小浜 62,000 → 所領没収 −−− 隠棲 長嘯子
安国寺恵瓊 西 伊予 伊予ノ内 60,000 → 所領没収 −−− 斬首 享年不詳
毛利勝信 西 豊前 小倉 60,000 → 所領没収 −−− 身柄預 土佐山内家
山口宗永 西 加賀 大聖寺 60,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
多賀谷重経 西 常陸 下妻 60,000 → 所領没収 −−− 浪人
相馬義胤 東注A 陸奥 中村 60,000 → 所領没収 −−− 再封 本領安堵
織田秀雄 東→西 越前 大野 50,000 → 所領没収 −−− 隠居
大谷吉継 西 越前 敦賀 50,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年42歳
長束正家 西 近江 水口 50,000 → 所領没収 −−− 自刃 享年不詳
丹羽長正 西 越前 藤枝 50,000 → 所領没収 −−− 浪人 豊臣家仕官
青山宗勝 西 越前 丸岡 46,000 → 所領没収 −−− 浪人
田丸忠昌 西 美濃 岩村 40,000 → 所領没収 −−− 追放 のち赦免
南条忠成 西 伯耆 羽衣石 40,000 → 所領没収 −−− 浪人 豊臣家仕官
真田昌幸 西 信濃 上田 38,000 → 所領没収 −−− 追放 高野山
小野木公郷 西 丹波 福知山 31,000 → 所領没収 −−− 自刃 享年不詳
伊藤盛正 西 美濃 大垣 30,000 → 所領没収 −−− 追放 前田家仕官
原勝胤 西 美濃 太田山 30,000 → 所領没収 −−− 自刃
小野寺義道 西 出羽 横手 30,000 → 所領没収 −−− 追放 石見で客死
石田正継 西 近江ノ内 30,000 → 所領没収 −−− 自刃 三成の父
島津豊久 西 日向 佐土原 28,600 → 所領没収 −−− 戦死 享年31歳
堀内氏善 西 紀伊 新宮 27,000 → 所領没収 −−− 身柄預 肥後加藤家
木下頼継 西 越前ノ内 25,000 → 所領没収 −−− 病死 享年不詳
氏家行広 西 伊勢 桑名 25,000 → 所領没収 −−− 浪人
佐藤方政 西 美濃 鉈尾山 25,000 → 所領没収 −−− 浪人
新庄直頼・直定 西 摂津 高槻 24,000 → 所領没収 −−− 身柄預 会津蒲生家
495 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 16:37:17.69 ID:LeQq9Vsc
斎村広道 西→東 但馬 竹田 22,000 → 所領没収 −−− 自刃 享年39歳
岡本良勝 西 伊勢 亀山 22,000 → 所領没収 −−− 自刃 享年57歳
多賀秀家 西 大和 宇多 20,000 → 所領没収 −−− 寄食 越後堀家
木下利房 西 若狭 高浜 20,000 → 所領没収 −−− 浪人
木下重賢 西 因幡 若桜 20,000 → 所領没収 −−− 不明
木下利久 西 不明 20,000 → 所領没収 −−− 不明 木下一元
木下延重 西 播磨ノ内 20,000 → 所領没収 −−− 不明
滝川雄利 西 伊勢 神戸 20,000 → 所領没収 −−− のち再封 常陸片野
垣見一直 西 豊後 富来 20,000 → 所領没収 −−− 謀殺 大垣城
丸毛兼利 西 美濃 福束 20,000 → 所領没収 −−− 逃亡 後に仕官
赤座直保 西→東 越前 今庄 20,000 → 所領没収 −−− 再仕官 加賀前田家
杉若氏宗 西 大和 郡山 19,000 → 所領没収 −−− 逃亡 行方不明
筑紫広門 西 筑後 山下 18,000 → 所領没収 −−− 出家 加藤家寄食
高橋直次 西 筑後 内山 18,000 → 所領没収 −−− 身柄預 奥州立花家
横浜茂勝 西 播磨ノ内 17,000 → 所領没収 −−− 不明
氏家行継 西 近江・伊勢ノ内 16,000 → 所領没収 −−− 身柄預 豊前細川家
寺田光吉 西 大和ノ内 15,000 → 所領没収 −−− 追放 高野山
熊谷直盛 西 豊後 安岐 15,000 → 所領没収 −−− 謀殺 大垣城
石田正澄 西 近江ノ内 15,000 → 所領没収 −−− 自刃 三成の兄
村上義忠 西 不明 14,000 → 所領没収 −−− 不明
藤掛永勝 西 丹波 上林 13,000 → 所領没収 −−− 不明 のち再仕官
宇多頼忠 西 大和・河内ノ内 13,000 → 所領没収 −−− 自刃 三成室の父
石川貞清 西 尾張 犬山 12,000 → 所領没収 −−− 剃髪 京で金融業
石川頼明 西 不明 12,000 → 所領没収 −−− 自刃 享年不詳
石川貞道 西 山城・丹波ノ内 12,000 → 所領没収 −−− 身柄預 奥州南部家
糟屋宗孝 西 播磨 加古川 12,000 → 所領没収 −−− 不明
池田高祐 西 伊予 大洲 12,000 → 所領没収 −−− 再仕官 伊予藤堂家
平塚為広 西 美濃 垂井 12,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
奥山正之 西 越前ノ内 11,000 → 所領没収 −−− 剃髪 京で隠棲
松浦久信 西 伊勢 井生 11,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
垣屋恒総 西 因幡 浦住 10,000 → 所領没収 −−− 自刃 高野山
戸田重政 西 越前 安居 10,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
赤松則英 西 阿波 住吉 10,000 → 所領没収 −−− 自刃
早川長政 西 豊後 府内 10,000 → 所領没収 −−− 浪人
山崎定勝 西 伊勢 竹原 10,000 → 所領没収 −−− 逃亡 のち再仕官
中江直澄 西 不明 10,000 → 所領没収 −−− 身柄預 奥州伊達家
山口修弘 西 加賀ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
寺西信乗 西 勢・江・越前ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 剃髪
寺西清行 西 越前ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 剃髪 のち再仕官
池田勝俊 西 不明 10,000 → 所領没収 −−− 不明
岸田忠氏 西 大和 岸田 10,000 → 所領没収 −−− 身柄預 奥州南部氏
上田重安 西 越前ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 逃亡 のち再仕官
木村勝正 西 美濃 北方(西保) 10,000 → 所領没収 −−− 追放 高野山
高木盛兼 西 美濃 高須 10,000 → 所領没収 −−− 再仕官 出雲堀尾家
加賀井秀望 西 美濃 加賀井 10,000 → 所領没収 −−− 殺害 享年不詳
川尻直次 西 美濃 苗木 10,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
堅田広澄 西 不明 10,000 → 所領没収 −−− 不明
高田治忠 西 丹波ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 不明
川勝秀氏 西 丹波ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 不明
三好丹後守 西 不明 10,000 → 所領没収 −−− 不明
496 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 17:20:29.05 ID:T4H9htod
秋月や筑紫がどれほど撃退されたと思ってんだ
いまさー
497 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 18:09:38.31 ID:A2mJMhAH
>>493 地方でくくるって見方が謝りだと気づいてくれてうれしいよ
家康の領国編成はそれまでのどの政権より強固だとおもうけどな?
あの時代で考えれば十分に強固だろ?
何がご不満なのやら
498 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 19:22:01.23 ID:fnds+j0H
>>494-495 長文だから読み飛ばそうかと思ったら、ちゃんとした内容だった
立花と丹羽は別格として再士官出来てる人も多いんだな
もしも関が原の時の大名だったら去就に迷うだろうなあ
俺は乗りきれる自信がない
周りが敵対大名だらけも困るし、恩讐も絡むからなあ・・・
499 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 20:15:26.67 ID:VCNoIPw3
>>493 家康死期の際、福島との逸話みると
他はともかく福島正則を改易するのは秀忠との間で既定路線だんじゃないかと推測
500 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 21:41:55.72 ID:3xGN+2Jo
信長・秀吉・家康の三人の中では家康が一番政治家として優秀だと思うが、
大名の改易による牢人(失業者)対策については認識が甘かったとしか言いようがないね
大坂の陣、島原の乱、慶安の変は家康の牢人への軽視が招いた失策の結果だろう
結果論になるけど大坂の陣が終わった時に奉公構を廃止するべきだった
501 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 23:11:19.90 ID:VCNoIPw3
家康も天下とって10数年たらずで死んだから
完璧な体制築く時間が少なかった、その辺の政策を後継者に持ち越しになったのは仕方ない
502 :
名無し曰く、:2013/01/29(火) 23:57:53.48 ID:JDSJSxrN
逆に言えばボロ出さずに済んだとも言える
10年20年と続いて上手く言ったかは神のみぞ知る所だ
それに秀忠や家光が徳川将軍家を潰していたら家康の評価も大分低くなった事は間違いない
逆に言えば二代目以降の手腕によって家康の評価が高くなっている事実がある
二代目以降の統治能力まで家康の功績として吸い上げてしまうのは憐れだ
503 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 01:07:34.79 ID:JYLTmkkN
つまり秀忠の政治が過小て訳か
家光はでてたっけ?
504 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 03:31:52.88 ID:zmgX/eJ8
信長が恭順させて離反されるのってやっぱり当時じゃ常識からはずれるというか
飛んだ理解しにくい思考だったのかね。あと振る舞いとか。
それか単純に相手がたまたま別についた方が得と思ってたのか
505 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 04:13:45.59 ID:tbhL2kKy
家を守るために主家を離反するなんて当時は常識だったんだよ。
所領安堵を条件として調略するなんて当然信長もやってたことだろう。
506 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 05:03:00.77 ID:60ckV/fp
>>497 いやむしろ基盤としては一番貧弱じゃないのか?
特に家康が将軍職をつとめた1603から家康が死去する1616までは
前政権の豊臣家臣がほとんど残留しているような状態。
しかも前政権の盟主だった豊臣秀頼もほぼ最後まで残っていたわけで。
あくまで家康は前政権の盟主豊臣を滅ぼすというほぼ最低限のことしかやっていない。
家康時代の領国を見て貰えればすぐわかると思うが大坂以西はほとんど外様大名
確かに
>>494>>495でもあるように関ヶ原の戦いでは改易しまくっているがそれでもまだ足りていない。復帰した大名もいるし。
九州中国に至っては外様がほとんどで幕末でもここから反旗を翻されている。
基盤となる関東に外様大名を置かなかったのは見事だと思うけど
九州とか中国のテコ入れは秀忠の功績であって家康がこれをやったかどうかは正直微妙。
507 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 06:35:38.52 ID:JYLTmkkN
いやいや家康で貧弱なら秀吉なんてもっとダメじゃね?
だがちゃん見たいなこと言うけどね
最大の障害である家康を戦いで討伐できるチャンス逃して逆に大領与え
秀頼がまだ幼かった事情も在るけども
跡目も諸侯の連衡みたいな形で取れせて
508 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 08:16:57.39 ID:60ckV/fp
家康が最大の障害なんてそれこそ後世の後付けじゃないの
小牧長久手はあくまで織田信雄と徳川家康の連合軍団であって
しかも実際の戦地や兵力比、大義名分なども考えれば信雄の方が危険度が高い
実際その信雄に対しては難癖つけてまで兵力や領土をひっぺがして手元に置いている
家康にも婚姻関係使ってまで縛ってるし、領地的な話を入れれば譜代の豊臣家臣を置いてきっちり睨みきかせている
秀次を殺したのも秀頼を後継と考えればまだ及第点。
敵となりかねない大名を残すというのなら、それこそ家康だって島津は本領安堵
伊達も上杉と組んで反対行動していたのに本領安堵までしているしな。
秀吉の手で一度天下統一されて統一の時流になっていたこと、
後継たる秀忠がやるべきことをしっかりやったから
江戸幕府は長期政権になったのであって、
家康がやってもいない統治政策や支配方式を使って評価するのは
信長が本能寺で死なずに天下統一したと見ているのと同レベル
509 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 09:48:16.52 ID:6kZB71gk
実際の危険度はともかくとして秀吉自身は信雄より家康を主敵とみていたようだな。3/23桂横繁→棚守左近太夫で徳川事三介殿後見被仕候とか、小牧長久手の戦役の発端を
秀吉→佐竹3/26「今度、家康構表裏、信雄若輩仁を申掠」とか11/13秀吉→伊木・池田・荒尾「家康儀今度信雄若人を引入、対秀吉重々不相届儀候」
と述べ戦役の首謀者として家康を名指しし「若輩」である信雄を利用した、としている点に端的に現れている。このため秀吉の家康に対する「存分」(遺恨)
は深くなったと書いてる。3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」、敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が
『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』(毛利輝元宛書状)
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している。小牧長久手の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに
日本の中心である京までも騒乱に陥れる一大事だった(長久手町史本文編)
510 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 09:49:01.21 ID:6kZB71gk
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
511 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 10:17:37.31 ID:6kZB71gk
ただ秀吉が実際に戦ってた相手は信雄がほとんどだし
秀吉が負けまくった神戸・松ノ木・河波・戸木・浜田・東駒野・二重堀などの城郭は全て信雄家臣が守ってた所だから
実際の危険度は信雄>>家康だったかもしれないが。(もっとも中伊勢以南と美濃は国人の離反で3月時点で崩壊しているが)
512 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 10:55:21.84 ID:60ckV/fp
わざわざコピペしなくていいよ
信雄が降伏してから家康が秀吉と敵対行動を行ったのはただの一度もない
どうでもいい真田を攻めたりしてお茶濁しただけ
そもそも秀吉と直接対決をするのに家臣がビビッて出奔するわ寝返るわで一枚岩でもなんでもない徳川陣営
特に石川なんて家康がガキの頃からの仲で小牧にも参陣していたのに
そんな奴がそそくさ逃げるんだからよほど無茶な状況だったんだろう
秀吉が家康を主敵とみていたのは主筋の信雄に対する負い目と侮り
家康さえぶっ潰せば信雄は泣いて降伏してくるとでも思っていたのだろう
513 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 11:22:56.19 ID:6kZB71gk
そもそも天正13年は徳川は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
1三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況
514 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 11:30:36.76 ID:6kZB71gk
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪われてる
515 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 11:43:35.75 ID:60ckV/fp
年貢を免除したり税を軽くするための「徳政」と
鎌倉室町で貧乏になった御家人を助ける目的で出す「徳政令」は
意味が違うことくらい知っといてくれ・・・
516 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 12:27:54.98 ID:ULVfmTkt
秀忠はなにが「ざっと済みたり」だ!と思っただろうな
517 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 13:07:45.23 ID:1CSggY/u
>>506 旧族大名やら織田の家臣ばかりに大藩与えた豊臣より?
幕末まで押さえ込んだ徳川より、治世下で東北で反乱起こされた豊臣が磐石?
だいぶ異なった見解持ってるみたいだな
>>508 信雄への難癖って何?
婚姻で縛れてるというなら、
>>486の福島を脅威としてるのは誤りか
伊達とも婚姻してるし
なんだ、磐石じゃん
518 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 13:08:35.08 ID:1CSggY/u
ID:6kZB71gk
だがみたいなコピペすんなよ
519 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 13:42:20.95 ID:60ckV/fp
>>517 旧族大名が大藩なのは徳川も同じなんですけどね
上杉や毛利を体よく減封できたのは関ヶ原のおかげであって
しかもこれ徳川政権誕生前の豊臣家での領地配分ですし
伊達や島津も大半そのまま残ってますね
幕末まで存続したというのはまさに希望的な評価方法で
そもそも徳川家康は幕末以前250年以上前にとっくに死んでます
家康の死後に幕府を脅かす大名が出なかったのは、その時々統治していた代々の将軍の功績であって
これを家康の功績とするならどんな大名武将もびっくりの過大評価ですな
改易や減封処分だけでも、一番多いのは2代将軍秀忠ですし、家康在世期は蔵入地も豊臣政権とさほど変わりませんが。
520 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 13:58:40.47 ID:60ckV/fp
>>517 >>治世下で東北で反乱起こされた豊臣が磐石?
葛西大崎一揆はもともと秀吉の領土召し上げに対する反発で
秀吉の治世と何の関係もありませんけど
伊達や最上のような一部の大名が秀吉に降伏してきたから、っていう段階でしかない
>>信雄への難癖って何?
無理やり改易させられて出家してますけど
>>婚姻で縛れてるというなら、
>>486の福島を脅威としてるのは誤りか
婚姻の要となった福島正之は1616年の段階だととっくに死んでます
正之の息子は家康養女と一緒に福島家を去っています
そしてその家康養女は津軽家へと輿入れしてます
521 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 14:01:39.21 ID:60ckV/fp
ちなみに伊達と婚姻を結んでいると言ってますが家康存命期にこれも離別していますね
ついでに伊達の婿養子だった松平忠輝も改易されていますね
伊達の娘はそのあと誰にも嫁いでいませんし思いっきり恨みつらみ残していますね
そもそも家康が盤石な基盤を築いていたとするなら
秀忠が江戸時代通じて最も外様譜代問わず大名を改易しまくったのはなぜなんですかね?
ただの酔狂ですか?
522 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 14:11:51.50 ID:JYLTmkkN
>>508 確かに後世の歴史知ってる結果論含んでるけどさ
家康在命中には島津・伊達・黒田・上杉にしても、幕府の脅威に成り得なかった
でも秀吉・秀頼にとっての家康の存在は致命的な脅威になったわけで
523 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 14:31:58.25 ID:60ckV/fp
家康が致命的な脅威になったのは秀吉や秀頼のせいじゃなくて
勝手に挙兵して大敗すると言う自爆した三成あたりのせいだからな・・・
三成が挙兵しなければ最低限あんな形で徳川があっさり頂点に立つこともなかった
秀頼は幼少なんだから本人が統治できるわけないし
秀吉はとっくに死んでで、かつ少なくとも本人も秀頼が幼少でも
政権機構を維持できるように、やることはやっている
「秀吉の子供がほとんどすぐに死んだ」は能力関係ないわけだし
秀頼主導の政権が長続きしなかったのは三成らのせいであり、
実際織田政権を途中で頓挫させた最たる原因である織田信孝は
知略19政治35と滅茶苦茶辛い評価をつけられている
524 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 14:59:38.43 ID:nqP9PWud
>>523 三成や家康の様な家臣を出す隙だらけの体制しか作れなかった秀吉とそんな家臣を出さず秀忠という優れた後継者に存分に力を発揮させる体制を残した家康…
秀次をあっさりぶっ殺した秀吉、関ヶ原の失敗で秀忠に殺したい程頭にこさせられながらもガマンした家康…
どっちが優れたモノを残したか一目瞭然だと思うけどw
525 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 15:27:02.59 ID:60ckV/fp
>>524 秀次をぶっ殺すのは当然の選択でしょ
秀吉は次代を秀頼に継がせたいと考えているわけで秀次の存在は最も邪魔
三成が自爆したのは別に秀吉のせいでもなんでもないし、しかも秀吉は死んでいる
関ヶ原の失敗ってなんだ?信州に突っ込めと言った本人は他ならぬ家康だが
自分で出した命令をたった数日出来なかっただけで文句言ったとでも言うのか家康は
おまけに存分に発揮させたと言えば聞こえはいいが秀忠が無能だったら
江戸幕府はとっくに滅びていても不思議ではないレベル。自分の子孫の褌で相撲を取るのか家康は。
そんな家臣を出さなかった?周りが無能と腑抜けばかりなのを家康の功績とするのか?そもそも豊臣が反抗してるし
526 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 15:32:03.57 ID:60ckV/fp
そもそも江戸幕府の基盤となる武家諸法度ですら初は元和令で発布者は秀忠だし
以降将軍がかわっていくにつれて武家諸法度の見直し、場合によっては変更すらされている
「江戸幕府が長続きしたのは家康のおかげ」というのは事実上徳川将軍2代から
15代までの功績全部吸い取っているのと同じ
秀忠家光その後の代々将軍が腐心したおかげであって、家康自身が築いた基盤は
織田政権豊臣政権と比べても最も貧弱で、かつ危なげない。
秀吉全盛期の豊臣政権の遺風と、後継者たる秀忠家光らの尽力ありきでしかない
527 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 15:32:23.32 ID:S8byxxlI
自力で統治もできないガキに継がせるために身内斬ったらいかんでしょw
528 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 15:37:49.00 ID:60ckV/fp
>>527 秀頼が生まれた以上秀次と秀頼はどっちか斬らなきゃいけないわな
どっちも残したらそれこそ豊臣豊臣で内部分裂が確実に起こる
双方を比べた場合を見れば秀次を継がせるほうが禍根が多い
もともと臨時で養子にしただけで秀次自身幼い頃から秀吉が可愛がったわけではない
自分の直臣と争いを起こさないと言う保障もないし、秀吉の一門は秀次だけじゃないから
他の一門が名乗りをあげないとも限らない。そうなったらなんのために秀頼殺したのかわからんしな
529 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 21:06:47.72 ID:CJ3czYmb
>>526 織田政権????
天下人同士で秀吉と家康を比較するのは理解できるが
なんでそこに織田がでてくんの?
530 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 22:12:53.55 ID:nqP9PWud
>>529 ただの嵐だろ?俺達がマトモに相手してるのを馬鹿にして楽しんでるんだよ
元々スレチなネタだし放っとこうぜ
531 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 22:59:47.17 ID:hITErWG0
532 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 23:13:50.95 ID:rImxc1fC
阿呆だが、三戦とか歴史難民で
3年前から同じコピペ連貼りしてんだ
533 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 23:25:11.60 ID:B2mGM3xv
秀吉の豊臣政権が短命に終わり、それを継承発展させた
江戸幕府が二百年以上長続きしたというのは、
統治者の政治的手腕や政権構造自体に起因するというよりも、
秀吉と家康両人の生殖能力の差に過ぎないと自分は思う
秀吉に秀忠くらいの年齢・才覚の正嫡が居れば
ああまで簡単に家康に政権を覆されることはなかったんじゃないかと
脇田修のように
「信長は中世最後の覇者、秀吉から近世封建制度が始まって家康はその模倣者」
とまで言うのはかなり極端だが、秀吉とその吏僚たちの政策立案、遂行能力は
秀次事件や唐入りの失敗による求心力低下をマイナス評価しても
同時代では隔絶してるんじゃないかと思う
基本的にはID:60ckV/fpの主張に同意するけど、
>>523は三成に厳しすぎる見方なんでないの?
三成の挙兵とその失敗が家康による豊臣政権乗っ取りを
結果的に大きく利したのは事実だが、そういう結果論で言うなら
秀頼誕生後に豊臣政権の潜在的脅威となる秀次を強引に排除したことで
かえって政権の求心力を低下させたことになったとも、
秀次粛清で生じた秀頼成人までの政治的空白を埋める手段である五大老制度も
家康に豊臣政権執政としての専断を許す方便になったとも言えるわけで
太閤の遺命をタテに専横を行う家康を倒すには
クーデターを起こす以外に方法があったとは思えないんだが
534 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 23:35:36.19 ID:JYLTmkkN
五大老制度がザルすぎる
家康以外の前田利家でも野心出せば禅譲専横という形で政権乗っ取れる可能性ある
535 :
名無し曰く、:2013/01/30(水) 23:49:53.64 ID:B2mGM3xv
五大老制度は秀吉に次ぐ実力者である家康に対して、
毛利=小早川と前田=宇喜多の縁戚ラインが互いに掣肘しあうのを期待して、
絶妙のパワーバランスで作られてたと思うよ
もっとも小早川隆景と前田利家の早すぎる死で
当初想定されたような機能はしなかったのも事実だろうけど
秀吉死後誰もが次代の天下人候補筆頭であると見た家康が
関ヶ原と大坂の陣という二つの大乱に勝利することで、
ようやく名実ともに天下人になることができたという事実は、
五大老制度のくびきが家康の足を引っ張ったと自分は見てる
536 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 01:26:38.35 ID:qBN1nq1c
秀吉政権は宇喜田秀家、結城秀康、小早川秀秋の養子トリオがイマイチだったのが何気に痛かったね
537 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 02:33:21.65 ID:xgoiI5LX
>>529 家康時代の基盤は秀吉はおろか信長すら危うい脆いものだったということ
身内優遇なら信長ですらやっているし、家康も死ぬ1616年の前年まで豊臣氏を滅ぼす戦乱をやっていた。
つまり乱世と隣り合わせの政権というのなら家康とて信長とそこまで大差なく、
家康時代には秀吉のような中央集権や強力支配体制は作り出せていないと言っていい。
家康はあくまで露払いしかやっておらず、信長の役割を家康が、秀吉の役割を秀忠がやったとすら言えるだろう。
事実徳川幕府の所有する蔵入地は代を経るごとに増えていき家康の子孫である綱吉、家宣の代では
家康時代に比べて2倍近く増加した蔵入地を所有している。
譜代親藩の勢力比を考えたら、織田政権より徳川政権(家康期)の方が脆いというのは自然な話
信長は離反されまくってるから、外様新参なんてほとんどいないし
538 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 02:46:12.59 ID:xgoiI5LX
>>533 別に太閤の遺命を盾に家康が専横を行おうが、長期的に見れば何の問題もない
もともと五大老制度なんて秀頼が成人するまでの政治的空白に対する場繋ぎ程度でしかないし
仮に家康が軍権を牛耳ったとしても成人した秀頼と対立して勝てる見込みは全くない。
秀吉自身も秀頼を官位につけるよう朝廷に働きかけて、秀吉が死ぬ直前に権中納言に任官されている。
「秀吉の後継者はこの秀頼ですよ」と豊臣と朝廷は相互に示しあっていたわけ。もちろん他の豊臣家臣を知っている。
秀次を自害させたのも政治的求心力の低下どころか、逆に求心力自体は上がっている。
「秀吉の認めていない後継者はこうなるぞ」と断言しているわけだからな。
織田秀信が権力を維持できなかったのは、前当主である織田信長、織田信忠による後継者指名を受けていなかったからであって、
秀吉政権で周囲に対してきっちり後継者認定をされている豊臣秀頼とは全く異なる。
だからこそ家康も関ヶ原では「天下簒奪」「徳川の天下」のような発言は全くせず
逆に豊臣との協力関係を全面に出して豊臣譜代家臣との連携を強化している。
むしろ家康は秀吉の側近として秀頼の動きも当然知っていただろうから、
逆に家康からすれば、秀頼が成人するまでの政治的空白でなんとかして自分の権力を固める必要があった。
そしてその「一時的な政治的空白を利用した早急な権力固め」の絶好な餌となったのが、三成の挙兵であり関ヶ原だったわけ。
つまり三成は自分の身を挺して、家康の権力固めと豊臣政権の権力削減を行った奸臣ということになる
不安定な織田政権を傾けた織田信孝ですら政治35知略19、安定政権といっていい豊臣政権を傾けた三成はそれ以上に下げる必要がある
539 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 03:19:34.34 ID:xgoiI5LX
>>535 むしろ五大老制度作って強力な大名を相互に牽制状態に置いたことそのものは間違いじゃないんだよな。
秀吉自身、織田信雄、徳川家康らに苦戦しているし誰かが抜きん出ようとしてもそれを絶対阻止する奴が出る。
事実家康も前田利家が生存していた頃は比較的譲歩的だった。
五大老制度があそこまであっさり崩壊した理由は、関ヶ原の勝利によって他の五大老を軽く凌ぐ権力を家康が保持したからであり、
その手助けとなったのが、わざわざ豊臣家臣によって蟄居になったにも拘らず勝手に戻ってきた三成。
家康に軍を纏める名分を与えてしまった上杉景勝らにも非はあるが、豊臣家や天皇からも認められた
上杉征伐に、わざわざ上杉を助けるような挙兵方法をした三成に咎があるのは当然。
540 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 04:53:06.22 ID:hbOgyMZW
結局、秀吉は北条と同じように家康をなんとしてでも戦で滅亡させとけば
良かったんだよ。懐柔させてさらに近畿から遠ざけたとはいえ自分石高に匹敵するような
知行与えちゃって。
541 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 05:35:09.56 ID:2/fp2gsX
>>537 いや織田政権テ何?
存在しないものを何で比較対象に出すの?
つかまず
>>537の政権の定義はどうなってんの?
武田政権、北条政権、毛利政権、三好政権なんてものも
>>537的には存在するの?
542 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 07:52:13.40 ID:xxWym4AO
>>532 そのリンク先をちゃんと読むと
だがってアンチ秀吉の基地外を敵にして反論してるんだよね。
ここのだがを装う基地外コピペ魔は
だがのレスコピに偽装しながらひそかに混じって、アンチ秀吉の主張を挿入してる真性基地外織田厨なのがよくわかる。
543 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 09:19:25.94 ID:c2meP1BZ
>>541 前者3つは別として三好政権は一応あったろ、基盤が脆弱だったのは確かだが
544 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 09:24:53.35 ID:MgYsLb34
545 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 09:51:21.17 ID:IFT3Ep9D
秀頼の生まれるのが遅すぎた。それだけ
自分の子かどうか疑わしいと本人が一番そう思ってただろう
546 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 10:20:38.23 ID:s3sqCfte
家康はロリコンの本性を抑えてまで年増との子作りに励んだ
人間の器がでかい
547 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 10:29:40.19 ID:MgYsLb34
秀頼は長浜(1573)くらいで、ねねが産めたらよかったね
秀吉死亡時点で26歳
信忠の死んだ年と変わらん
1595年くらいに家督譲れ
ただ三成の言うこと聞いて
大名の領地大削減しないと厳しいかな
548 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 11:04:40.67 ID:33cO/FAR
普通に統率は家康>秀吉で政治は秀吉>家康で問題ないな
合戦では家康が勝利し政争では秀吉が勝利したし
549 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 11:21:40.93 ID:+nFZF6tp
普通に幼君で心配なら秀次ころさなきゃよかっただけだろ
あの愚行のせいで最上とか東軍につく連中が増えたんだろうし
550 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 11:27:29.64 ID:6cXc+AxJ
豊臣政権が崩れたのは普通に家康が好き勝手やらかしたからで
三成の自爆どうこうの問題ではない
家康は禁止された諸大名との婚姻を勝手に行うなど明らかに豊臣政権下に禁止された行動をやりまくり
五奉行は連署して家康の横暴をやめさせようとしたが
関東の大軍がこぞって伏見城下まで集まり軍事的にどうしようもなくなって
逆に五奉行側が家康に謝罪を入れて解決するという
政権基盤内の秩序が崩壊しているのがわかる
三成や景勝や輝元らが挙兵しなくても家康の横暴によって豊臣政権は必ず崩壊していたと思われる
551 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 13:40:44.92 ID:efyi3mJ+
>>547 昨日の歴史ヒストリアか
秀吉が一番家康に劣ってんの生殖機能だな
家康は自分の血を引く孫や曾孫・重臣の娘やら養女にして
とにかく利用できる血筋は利用しまくったけど
秀吉は一門・養子養女がただでさえ少ないのに
それほど婚姻などに利用してない印象ある
552 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 13:56:59.80 ID:0jdBoulQ
結局、世の中の秩序は個人の道義心と武力によって成り立っているんだよな
どんなに完璧な法令を整備しても人々に守る気がなければ意味がない
例えば突然、軍人がこぞって反乱起こして新政権樹立を宣言したとしても国内には止める手立てはない
法律上それは出来ない事になっているけど無視されてしまったら警察などでは手も足も出ない
豊臣家も法整備し運営システムを構築して、徳川を始めとする配下から誓書を取ったりして十分に体制を整えてはいたのだが
最も強大な武力を有する徳川家がそれを無視し始めたら、力で押し潰されてしまった
配下に対して豊臣宗家の国力が弱すぎた事が最大の敗因
配下の違法行為を裁ける力がなければいくら綿密に法を張り巡らせても無駄だわな
553 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 13:59:33.01 ID:xgoiI5LX
>>541 織田政権と三好政権の定義は
>>544が既に述べてくれているが
そもそも戦国時代の原因である足利政権と比較して政権と呼べるかどうかが重要。
室町幕府を開いて発足した足利政権は支配地盤が鎌倉幕府のそれと比べて
かなり不安定で、特に関東あたりは毎年のように戦乱に見舞われている。
三好政権、織田政権とある程度勢力を固め、畿内京を支配していた連中は
前政権の足利政権の特に末期と比較してもそこまでの遜色はない。
ちなみに研究者によっては管領細川氏主導の政権を「堺幕府」などと呼称している連中もいる。
554 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 14:00:16.66 ID:6cXc+AxJ
秀次秀俊秀勝(信長の子)秀勝(秀吉の姉の子)秀康ってところか
幼君秀頼に継がせるよりこの中の一人を秀頼成人までの当主として据え置くべきだったな
五大老五奉行なんかに任せるより一応身内な分信用できるし
秀次とその関係でたくさん殺したせいで大きな禍根残したし
555 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 14:07:23.90 ID:xgoiI5LX
>>550 家康は豊臣秀吉と縁続きだし、関ヶ原開戦前の家康はあくまで「豊臣政権五大老筆頭」以上の地位にない。
家康が無茶苦茶やったせいだと言うが浅野、前田、加藤福島黒田など秀吉恩顧の大名ですら
親家康派に靡いており秀頼の下に家康がいて、そこから他の五大老や豊臣家臣に繋がる形できっちりと収まっている。
そもそも家康が独断で好き放題できたのは「秀頼が成人に足りえてない」というただその一点のみで
秀頼が成人してしまえば家康についている豊臣家臣など皆家康の手元から離れるし
そうなったら家康の天下なんて絶対に来なかっただろう。
五奉行も三成以外の人間はなんだかんだお茶を濁して両方を取り持っていたのに
三成だけがあからさまに反家康行動をして、しかもこれが秀頼の意思だと言わんがごとく勝手に無茶苦茶やったせいで
「横暴な三成を廃して秀頼ひいては豊臣家を救う」という絶好のお題目を家康や他の豊臣家臣に与えたせいでこのザマ
556 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 14:11:12.24 ID:efyi3mJ+
秀俊や秀康も体よく遠国の他家に養子に出せれてるからな
秀吉の養子の中で早世した奴抜いて、秀頼や豊臣家の藩屏になりそうなのって秀次と秀家以外いなくね?
557 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 16:32:36.39 ID:isNgIDRZ
質問!
>>550で家康は禁止された諸大名との婚姻を勝手に行うってあるけど、
大名家どうしの婚姻を許可するかどうか判断するのは家康の役目だったと何処かで読んだ気がするんだが、あっている?
558 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 16:43:52.40 ID:+nFZF6tp
>>557 俺が読んでいる吉川弘文館の本だと家康と伊達・蜂須賀・福島ら3大名家との間に交わされていた婚姻の密約は
同盟の締結を意味し、秀吉の取り交わした誓詞においてこの種の私婚は堅く禁じられていたとしている
1/21大阪の大老・奉行たちは3中老(中村・生駒・堀尾)を使者として家康の元に遣わし家康のかどを詰問
弁明のかなわぬ時は大老の列から取り除くと申し入れる
家康は大阪よりの糾問使に対し家康は伏見屋敷を増強し変にそなえる
豊臣系武将や榊原・本多らもこの事態をきいてかけつけ伏見の徳川屋敷には大軍勢が集結しこのため大阪の5奉行は逆にきわめて厳しい立場となり
家康を糾問するどころか5奉行側が家康にわびをいれるというめちゃくちゃな形での解決となる
559 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 16:48:09.39 ID:xgoiI5LX
結局そこで家康の家臣はおろか豊臣譜代の家臣が家康の肩持った時点で三成は察するべきだった
事実他の五大老はそこから反家康行動をあからさまにとることは避けている
560 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 17:05:01.95 ID:+nFZF6tp
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
561 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 17:26:06.56 ID:xgoiI5LX
浅野や前田や細川が散々家康に権力をほしいままにして馬鹿にされまくったのに
素直すぎると言っていいくらい家康に恭順の意を表してるのがどういうことかわからんのかね
この時の家康は、はっきり言ってかなり焦ってるよ。前田はまだしも浅野なんて秀吉親族の大名だし、
そんな家に疑いをかけてヘマ打てば下手すりゃ自分が敵対されかねないのにな
石田三成襲撃事件が起きて、諸将を纏めた家康のお株が挙がったのは事実
だが所詮豊臣家当主秀頼の前には無力だったことは、関ヶ原終わった後も豊臣が依然として力を持っていたことがその証左。
三成の馬鹿具合で寿命を縮めただけ。前田や浅野ですら我慢したのに、我慢できなかった三成は知略1ケタが妥当
562 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 17:28:58.11 ID:+nFZF6tp
また直接婚姻を結んでいない大名家も徳川家と親交があったようだ
島津家の場合慶長3年11月に義久が伏見家康邸を訪れる、後日その返礼として家康が義久を訪れる(大村市兵衛重頼古戦術書附)
これを知った三成は義弘・忠恒は朝鮮帰国後博多において三成より譴責を受け、そのため義久が義弘・忠恒に対し
「内府様へ参候事、又私宅へ入御之事、曾別心有之儀不申入、又不承候」と起請文を出すまでの騒ぎとなる
家康と島津家の間に梵舜や近衛前久・信伊が介在し両者の間を取り持つ
三成からの譴責に対する起請文は単なる見せ掛けである事が家康が義弘・忠恒の私宅をわずか4日後に訪問している所からわかる
また慶長4年1/9家康の差配によって島津家へ五万石の加増が「朝鮮し川表」における「御忠孝無比類、依之為褒美」与えられる
これも三成は反対するが家康によって強行される
対する三成と島津の関係は、島津は豊臣政権への服属以来、三成に細心の注意を払い接してきた人物であった。
島津領太閤検地の総責任者であり島津領豊臣倉入地の代官を務める三成は島津家への影響力が非常に大きく
三成の意向はすなわち豊臣政権の意向であった。
だが島津と家康が接近する中、三成とは距離が置き始めていた。それは慶長4年3/9忠恒が、三成が最も信頼し、
島津家内部で三成に最も協力的であった島津家老伊集院幸琉を誅殺した事に現れている
これは先学の指摘するとおり、島津家の豊臣政権からの離脱の第一歩といえよう。そしてこれは秀吉死去後の豊臣政権内部での三成の地位の弱体化なくしては
起こり得ない事であった
563 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 17:49:40.06 ID:+nFZF6tp
忠恒の幸柳誅殺行動に対し三成は「御立腹」で、義久は三成に「幸柳生害之儀、今度得御意急二仕出し候之処と存候」と言い訳にもならない弁明をしながら
「又八郎(忠恒)短慮之仕立、言語同断不及是非候」、「曲事深重二候」と三成の腹立ちに同調し、それを懸命に鎮めようとしている
さらに後日銀子十枚を贈答する。しかしこの前後の忠恒宛の書状で義久が忠恒をこの件で叱責した形跡は見られず、成敗そのものには異存はなかったと思われる
この事件以来三成から島津家への書状はなくなり疎遠になってきているのがわかる
さらにその後「庄内の乱(幸琉の子忠真の反乱)」において家康は終始島津家の立場に立ち、乱の収拾に尽力する
関が原の合戦直前まで島津家は家康の指示を尊重する形で乱の処理を行い家康の対応は島津家にとって大方において満足すべきものだった
家康もまたこの乱の処理を契機に諸大名への軍事動員権を行使するなど「公儀」としての立場を獲得していく
564 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 18:01:39.77 ID:xgoiI5LX
三成がいなければ秀頼の下で家康が主導して丸く収まると言う話じゃないですか
565 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 18:58:04.87 ID:isNgIDRZ
>>558 なんか色々すまないっす。オレが聞きたかったのは、極論すれば婚姻の許可は誰がだすの?って事だったんだけど。言葉足らずだった。
家康以外の他大名の場合はどうだったの?
566 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 21:02:52.80 ID:+nFZF6tp
>>565 家康と他大名にかかわらず他大名家同士の婚姻は大名間同士の同盟締結を意味するため
禁止されていた
三成が島津と家康の接触を咎めたりしたのも大名同士の結びつきにより
豊臣政権の実権が秀頼→家康へ動くと考えて行った行動だろう
現に豊臣恩顧系やら外様系で三成側に付くものは多く畿内方面だけで18万いるし
三成側の言い分は単純に筋目からいえばあっているのだろう(三成が朝鮮出兵のゴタゴタやらで武功派連中の信頼をなくしていた事は事実だろうが)
567 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 21:51:28.65 ID:64/kqsn3
聞かれた質問に関して的確に答えられないくせに
何でアンカー付けてまで返答したがるのかがよくわからん
そりゃあ質問した人も苦笑いするしかないわな
568 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 21:54:31.39 ID:Nd24vWaa
後継ぎと同時に死んだ信長や自分が死んだ時後継ぎが幼かった秀吉と
死亡時に成人した後継ぎがいた家康では全然状況が違う
569 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 22:02:05.94 ID:isNgIDRZ
>>566 全面禁止だったのかよ!
そんな馬鹿げた決まり家康はじめ無視するのも当たり前
570 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 22:08:40.99 ID:6cXc+AxJ
織田の場合はちゃんと信雄や信孝が控えてるんだが…
571 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 22:10:52.25 ID:isNgIDRZ
やべっ途中で送信しちまった。
馬鹿げた決まりを率先して無視して仲間を作った家康は流石だな。結局、同じように法令に反発している大名も味方につくしな。
572 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 22:15:10.73 ID:+nFZF6tp
結局三成が馬鹿だったというより豊臣政権の国力から考えたら
ハナクソみたいな国力しかなかった徳川を焼け太りさせたのが豊臣政権崩壊の原因としかいいようがない
いちゃもんつけて信濃や甲斐を蔵入り地にするなり木下とか秀勝とか極力秀吉に近い者封じるべきだったとしかいいようがない
あと秀次も殺したのは大きな痛手。秀頼成人まで秀次に後見させるなりすればこんな事態はさけられたはず
573 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 22:16:16.44 ID:q4MitPZK
秀吉が禁じた大名同士の婚姻ってのは、公儀の許可を得ない「私婚」ね
婚姻はこの時代には同盟の締結を意味しており、それゆえ
内々の婚姻は反逆行為につながるものとして、
秀吉存命中の文禄四年に発布された「御掟」でも江戸幕府の武家諸法度でも厳禁されてる
関ヶ原前の状況に即して言うなら、家康は子女と他の有力大名との婚姻を、
他の大老・奉行衆の許可を得た上で行わなければならなかった
伊達、福島、蜂須賀との婚姻が問題になったのは、直前まで関係者以外に秘匿されていたから
574 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 22:27:12.29 ID:q4MitPZK
>>538-539 既に昼間のうちに他の人がレスしてくれたようだけど、
秀吉没後の豊臣政権は贔屓目に見ても安定しているとはとても言えない状態だった
「次世代の天下人に反抗し失敗、結果的に前政権の崩壊を早めた」という
共通項で織田信孝と石田三成を同じ枠内にくくりマイナス評価をするとしても、
政治的実績で言えば清州会議で勝家に雷同するくらいが関の山の信孝に対し、
豊臣政権の年寄として市政検地兵站取次外交で才覚を発揮した三成とは
知力、政治の数値において大きく差があって当然だと思うな
575 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 22:55:27.95 ID:6cXc+AxJ
マイナスするなら三成より輝元だろ(すでに低い評価だが)
輝元なんてあんだけ圧倒的大軍と総大将の肩書きがありながら何もできず大厳封食らって
吉川小早川断絶とか情けなさ過ぎる
輝元の場合対宇喜多や南条の攻防も雑魚だから低評価するには申し分ない実績
576 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 23:25:44.99 ID:+nFZF6tp
関が原をおこしてしまった時点で西軍の負けは確定しているように語り結果三成は無能とののしるやからがいるが
それはあくまで結果論としかいいようがない
関が原会戦時の三成人数書立や慶長見聞集、真田文書を見ると西軍は畿内だけで18万も集まり
小早川や朽木らの離反を差しいても単純に東軍の兵力を圧倒している
これでは兵力的に考えても陣地でも東軍を粉砕する兵力として十分すぎる
負けたのは総大将であり戦局を決定できる大軍を有しながら大坂に居座り何もせず改易された輝元や
軍勢派遣を止めたとされる吉川や秀元ら毛利一族のせいとしかいいようがない
577 :
名無し曰く、:2013/01/31(木) 23:51:28.90 ID:6cXc+AxJ
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
ただ総大将としての三成の地位は家康に対抗できるものでなく、毛利輝元も総大将引き受けながら何もせず大厳封食らうヘタレぶりで
西軍は木っ端微塵になった。
578 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 01:52:14.01 ID:duxB0MgR
面白い議論で為になるんだが
一応能力値スレなんで、
お前ら武将たちの能力値も一緒に書いてくれよ。
これぐらいが妥当だとか
579 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 02:58:27.57 ID:PAsLnNKK
>>577大減封な
秀頼を戦場に押し出せば士気は上がり、勝てたはず
580 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 03:37:45.96 ID:OXPxxhMv
福島を押し込んだ宇喜多秀家の統率を上げてやってくれ
西軍で唯一普通に戦ってくれた味方みたいなもんだし
581 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 06:13:17.61 ID:ciweMU1f
>>575>>576 だって毛利輝元ってもう知略26だろ(政治62統率50)
関ヶ原の失敗を指すならもう既に評価下がってるし(まあ統率でさらに下がるかもしれんが)
これ以上下げても過小評価にしかならんと思うが。
そもそも石田三成の知略85(政治99統率52)はどこから来てるの?
石田三成の謀略なんてほとんど逸話も実績もないし
むしろ関ヶ原考えたら謀略かけられてる側じゃねーの?
>>574の言うとおり内政面に関しては実績あるから政治はそこそこ高くていいと思うけど
知略85はどこから来ているのかほんとに謎で仕方がない。
同じ五奉行の長束正家はなぜか知略20だけどこの2人の差は何?
582 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 06:25:45.31 ID:ciweMU1f
>>577 秀頼の成長を待って秀頼が総大将の地位についていたら
西軍として所属していた連中はおろか三成憎しで東軍についた連中も味方できただろ
所詮家康が持っている権力なんて秀頼不在の状況で得た急場凌ぎのものでしかない。
結局西軍は家康不在の隙をついて家康憎しで挙兵した連中ばかりなんだから
纏まりを欠いている烏合の衆なのは当然の話だろ
西軍総大将の毛利輝元からして勝手に他の豊臣家臣の領土へ侵攻しているし
畿内方面に集まった軍勢も伊勢やら大津城やら田辺城やらどうでもいい城攻めをして兵を分散させまくってるし
頼みの上杉は徳川にビビって最上や伊達みたいな雑魚勢力の討伐に傾注している有様
秀頼が総大将に君臨できていたならこんな状況はまずありえないし
実際にやった毛利その他は能力下げられるべきだが、家康憎しで利益求めた連中の集まりの西軍では
誰が総大将になろうが結局同じような状況を生み出すのがオチ。
そしてそんな毛利を総大将につけた石田三成の能力も当然下げてしかるべき
583 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 08:26:33.02 ID:PAsLnNKK
覇王伝も何故か知謀が少なかった三成 それでも最低70は必要だろう
輝元は話にならん 隆元が長命なら良かったのに
584 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 08:43:47.42 ID:ciweMU1f
三成に知略70もいらんだろ
知略70って徳川秀忠や土井利勝が知略73だぞ
三成がこの2人に勝ててる要素あるの?
585 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 09:04:53.17 ID:ciweMU1f
というか関ヶ原で改易された五奉行の中で三成だけが軒並み高いのが異常
本領安堵になった前田玄以や浅野が知略プラスされるのはともかく
本領全部失った挙句打ち首になった三成が知略85とか冗談にもほどがある
三成本人にも知略に加点する実績や逸話も乏しい
【変更前】
石田三成:政治99 統率52 知略85
増田長盛:政治92 統率22 知略58
長束正家:政治96 統率 8 知略20
【変更後】
石田三成:政治87 統率51 知略49
増田長盛:政治91 統率42 知略56
長束正家:政治89 統率33 知略60
これだけあれば十分
586 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 12:26:37.17 ID:+iJMowRb
昔の三成は知略低かった
覇王伝25
天翔記58
将星録29
烈風伝17
587 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 14:15:21.02 ID:yOExRKbG
実績云々は関係なくゲームバランス的に必要なんだよ
でも、どうせ上げるなら知略より統率を上げるべきたな
政治99 統率70 知略52
ぐらいでいいだろ
588 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 15:53:15.60 ID:XAFoG9ZL
三成最大の知略評価は、
石田家という大大名でもない三成が、
関ヶ原という舞台をプロデュースしたことだろう。
烏合の衆とも呼べる大名家達を、関ヶ原に集結させた
功績は凄いことだと思う。
結果的に勝利出来なかったのは、残念だけどね。
589 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 16:48:23.96 ID:ciweMU1f
>>538 プロデュースも何も場当たり的に蜂起した連中ばかりだろ
しかも三成1人が蜂起に関わったわけじゃなく、安国寺とかいるわけだしな
ただ毛利や宇喜多などが場当たり的に蜂起して、場当たり的に関ヶ原に集まっただけ。
本当にプロデュースする力があったのなら、大津城や田辺城みたいなどうでもいい城を攻めている部隊も
関ヶ原に集結させて勝ちを狙いに行くべきであるし、10万近くの軍勢同士が戦うという
未曾有の大規模衝突なのにも拘らず、実動が最長でも8時間足らずという不甲斐ない戦争を演出した咎は受けるべき
少なくとも関ヶ原以外の各地に分散していた西軍連中を集めていれば、最低でもこんな無様な敗北には繋がらなかった
>>587 三成ごときで統率70とか何舐めた評価しているんだ?
統率70台なんて秋山信友や佐久間信盛、蜂須賀正勝のような大名家で武功を立てまくった連中がもらえる数字だし
森可成や本多重次のような武闘派連中ですら60台に甘んじているのが現実。
関ヶ原で惨敗した挙句生涯に大した武功もない三成が統率70など1000年早い
三成に統率70与えるくらいなら、田中吉政、織田有楽斎、松平忠吉のような
関ヶ原で活躍した東軍諸将に統率加点して統率80台まで上げる方がよほどマシなレベル
590 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 16:50:29.86 ID:ciweMU1f
591 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 16:57:09.63 ID:6EozRAWX
>>576 毎回輝元がなにもしてないとか書いてるけど
大減封になったのは輝元が西軍の総大将として積極的に参加していたからだぞ
そもそも9・15に関ヶ原で戦う事に関して毛利家になんら相談されずに勝手に決められたこと
大垣城の連中が勝手に決めて勝手に自爆しただけの話
それなのに毛利家のせいにするなんてお門違いだろ
だいたい圧倒的大軍とか書いてるけど西軍の方は数字とか出してるのに
東軍の方の数字は出してないから説得力がない
>>587 ゲームバランス的に左近が高くなってるんだからあげる必要がないだろ
だいたい三成のやった計略はそのほとんど失敗に終わってるんだから
知略は20近くでいいだろ
592 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 17:06:14.79 ID:VIQpdF5y
秋山と信盛や蜂須賀を並べられるとそこでもなんか違和感がある
三成と信盛や蜂須賀あたりだったらまぁ西軍総大将格としてのご祝儀ならアリって感覚だが(実際の総大将は輝元だが)
593 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 17:09:23.85 ID:wi5poq6h
>>542 実際、だがなんてとっくにいなくなってる。
だがは信長厨と呼んでいたし、織田厨意呼んでるのはSAB。
んで、その織田厨は自分の意に沿わない奴は
誰彼かまわずだが呼ばわりし自演で多数派を装い
工作スレや工作WIKIを作り捏造し徹底排除する。
その結果、だがもsabも消え健全な議論は失われ
戦国板は廃墟になった。
戦国板には自分の好きな武将について褒めるレス以外を
敵視してだがとかSABとかレッテル貼って24時間レス監視してる基地外が生息してる。
その基地がこのスレや日本史板や三戦板などでもレッテル名を書いて広く活動し始めて
各板が崩壊してる。その無職が過度なアンチ秀吉&アンチ三成の織田厨。
先祖からの代々の敵のように秀吉を嫌い、そのために秀吉の政策はすべて否定し
朝鮮征伐での日本軍を貶して惨敗と捏造し、信雄を名将みたいに捏造したり
小田原征伐での北条を兵力まで曲解し、氏政をむりやり持ち上げたり、
三成を貶すために輝元や家康をむりくり持ち上げてる。
いまスレを支配してるのは他人のコピペを盗用してまで
無差別コピペ爆撃魔やってるアンチ秀吉の織田厨だよ。
594 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 17:49:25.36 ID:ibC/J85W
兵力曲解ってお前の事だろうが
史料にちゃんと書いてる北条方兵力を軍記ソースで8万だの馬鹿な数字持ち出して無理矢理捏造したり
一次資料に複数存在する熊見川を捏造呼ばわりしたり
小牧長久手の死傷者を複数存在する史料の数字ではなく顕如日記の加筆の捏造数字歪曲したり
マジで死んでくれ
595 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 17:51:17.76 ID:XyZnNbmD
秋山信友は過小。
馬場とともに織田軍蹴散らしてるし
596 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 17:56:41.43 ID:ibC/J85W
>>大減封になったのは輝元が西軍の総大将として積極的に参加していたからだぞ
関が原で輝元は何してたんだ?
戦場と関係ねー大阪に引きこもり
戦場にでてた秀元や広家らはあんだけ圧倒的大軍がありながら
何もせず大厳封食らっただけ。しかも総大将は輝元だから輝元のせいで負けたようなもん
>>大垣城の連中が勝手に決めて勝手に自爆しただけの話
西軍の総大将は輝元なんだからそもそも
徳川軍の西上に構えて大阪から出て前線に立っていないのがアホとしかいいようがない
東軍でいえば家康が江戸に引きこもって本多らに勝手に戦させてまけたら家康に責任がないとかいってるようなもん
597 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 17:59:09.52 ID:XyZnNbmD
ID:6EozRAWX
こいつはどうしようもない馬鹿だなw
あれだけ戦局決定できる圧倒的大軍と総大将の地位持っていながら
何もせず大厳封食らった雑魚毛利ではなく
石田に責任押し付けるとかアホすぎる
598 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 18:05:50.95 ID:XyZnNbmD
>>プロデュースも何も場当たり的に蜂起した連中ばかりだろ
場当たり的とか何を根拠に妄想してるの?
東軍の連中も家康関係なく自勢力拡大に好き勝手に動きまくってるんだが?
お前の意見には全く史料も論拠も示されておらずただ妄想してるだけ
599 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 18:06:18.06 ID:ciweMU1f
毛利輝元に責任が全くないなんて誰1人言ってないからな。
ただ毛利輝元は知略26で関ヶ原関係の減点はきっちりされている
あと下がるとすれば統率くらいだろうが、統率もそこまで高くない。
対して三成の場合は統率52知略85と、どう贔屓目に見ても関ヶ原の失敗が全く考慮されていない
それが今叩かれる元凶になっているだけ。
あと、さすがに「だが無関係説」は苦しすぎ。
織田厨がこのスレを荒らしていると言うのなら、コピペの内容は十中八九「信長マンセー」になるはずなのだが、
現実はこのスレのはるか前から「武田至上主義」でコピペは一貫している。
かたや「信長は領地を広げたのはまぐれ」とコピペでは散々貶められている
これで「荒らしているのは織田厨だ」なんていうのはだが本人だけ
600 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 18:09:28.90 ID:ciweMU1f
>>598 徳川家康率いる東軍で、周辺勢力の拡大に走っていたのは伊達くらいだが
その伊達ですら、当初家康が標榜した「上杉征伐」の任務を
途中まではきっちりやっているわけ。かたや西軍はといえば
まず総大将の毛利輝元が関ヶ原と何の関係もない四国の豊臣領を襲撃していて
この時点で既に「打倒家康」なんて適当な名目であることがわかりきっていたという状況。
その後も大津城や田辺城など、味方にならない勢力を問答無用で滅ぼそうとして
結果関ヶ原に到着できずに敗北すると言う有様なんだから話にならない
601 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 18:48:59.90 ID:ibC/J85W
関が原の戦いに関する再検討(白峰旬)
関が原の戦いにおける支戦(黒田孝高、最上義光、前田利長ら両主力軍が関係しない戦い)
においては自己の所領の拡大を目的とし、家康の本来の思惑や政治・軍事目的とは別次元で動いた戦いであった。
その証左として関が原の本戦(9/15)終了後も加藤清正が宇土城を攻撃したり伊達政宗が福島城を攻撃したりしているのは
家康のためではなくそれぞれの支配権の拡大をはかった物であり、まさに領土の拡大は切り取り次第という戦国時代の論理である事から、秀吉が
惣無事例で禁止したはずの私戦が公然と復活した事を意味していた。(中略)
石田・毛利軍の戦いも家康主導軍の戦いも公戦の形を取っているが、その本質は敵対する派閥の軍事力を相互に叩きのめす事を目的とした私戦であった。
(中略)両陣営とも太閤様御置目を持ち出して互いに相手がそれに背いたとして非難している点である
石田・毛利連合軍の戦略で注目される点は、早くも慶長5年7/26の時点で家康主導軍が東国から西上する事を想定していた事でそれを近江国内の瀬田・守山の間に展開する毛利輝元の軍勢2万余で迎撃する構想を立てていた事である
さらに宇喜多・小早川も山城国内の醍醐・山科・近江国内の大津に引き続き陣取りをしている状況を報じているので
毛利・宇喜多・小早川の軍事力が家康主導軍を迎撃する主力戦力であった事がわかる。
602 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 20:16:48.50 ID:ciweMU1f
加藤清正なんてもともと東軍にすらついていないだろバカか
西軍と敵対しているから東軍なんて無茶な分類されているだけ
勝手に第三者軍を東軍に入れるな
603 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 20:20:57.44 ID:bbGsLPCi
こりゃまた凄い詭弁を
604 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 20:25:26.18 ID:ciweMU1f
いや事実だろ
定義として東軍と指していいのは
・家康の指示に従う
・家康と一緒に関ヶ原へ向かっている
のが大前提で、他の奴は東軍支持、西軍支持以上の行動は出ない
これは西軍も一緒で、例えば上杉景勝や真田昌幸なんかは家康と敵対しただけで
西軍の動きと同列視できないだろ。上杉が西軍なら徳川軍を襲っているはずだしな
605 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 20:40:29.27 ID:p6qGPEg+
>>601 前半は理解できるが、後半がイミフだな
家康が反乱を起こした場合のプランは秀吉存命中からあったと思うし、
瀬田は古来からの京防衛の要衝なんだから、
瀬田周辺で敵を迎撃するのは当時の武将なら誰でも思い付く至極当然の事だろう
だいたい毛利輝元は7月17日に、
家康の事実上の私邸である大坂城西の丸を占拠して家康と敵対する意志を
ハッキリと表明している
当時の状況からしたら毛利勢が主力になるのは、これも至極当然の事だ
606 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 20:40:54.49 ID:XyZnNbmD
>>プロデュースも何も場当たり的に蜂起した連中ばかりだろ
>>しかも三成1人が蜂起に関わったわけじゃなく、安国寺とかいるわけだしな
>>ただ毛利や宇喜多などが場当たり的に蜂起して、場当たり的に関ヶ原に集まっただけ。
>>本当にプロデュースする力があったのなら、大津城や田辺城みたいなどうでもいい城を攻めている部隊も
>>関ヶ原に集結させて勝ちを狙いに行くべきであるし、10万近くの軍勢同士が戦うという
>>未曾有の大規模衝突なのにも拘らず、実動が最長でも8時間足らずという不甲斐ない戦争を演出した咎は受けるべき
>>少なくとも関ヶ原以外の各地に分散していた西軍連中を集めていれば、最低でもこんな無様な敗北には繋がらなかった
とりあえずこういう馬鹿丸出しの糞レスしかできないチンカス野朗はスレから出てってくれ
607 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 20:44:51.67 ID:ibC/J85W
関が原の戦いの主力は毛利軍
その馬鹿毛利がどうしようもなかったんだから単純に考えて勝てるわけがない
石田や奉行衆じゃ石高が低すぎるから無理
あと清正が東軍じゃないとか馬鹿すぎね
景勝とか佐竹とかが西軍じゃないといってるのと同じようなもんだろ
608 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 20:46:59.72 ID:p6qGPEg+
>>602 三成襲撃事件の際のメンバーは清正以外全員東軍にいるんだから
東軍と気脈を通じていたと考えるのが普通じゃね?
609 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 20:47:21.52 ID:XyZnNbmD
まず三成アンチ輝元マンセー馬鹿はちゃんとした論文なり史料なりだせっつーの
お前の妄想は一次資料じゃねぇよ
610 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 20:51:59.92 ID:ibC/J85W
>>602 お前の妄想なんか聞いてねえよクズ
上記の論文でも他の論文でも清正は東軍に分類されてるだろうが
グダグダいちゃもんつけて論拠となる史料も論文も出さずにいきがってんじゃねぇよクズ野郎
611 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 20:53:09.12 ID:XyZnNbmD
>>602 お前相当アホだな
西軍と敵対したり攻撃してたら東軍って分類するだろうが普通
しかも清正は家康と連絡とってんのもしらねえとか無知すぎてワロス
612 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 20:55:37.95 ID:ibC/J85W
関が原の敗因はあんだけ圧倒的大軍もってた馬鹿毛利のヘタレ具合で主力決戦で負けただけ
三成はむしろちょうどいいタイミングで挙兵して18万も畿内にかき集めたから賞賛されるべき
あのまま放置したら「天下殿」という評価を得た家康によって取り込まれたり個別にいちゃもんつけられて攻め込まれ降伏する勢力が次々増えて味方が減るだけの話
613 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 20:56:40.86 ID:XyZnNbmD
ID:ciweMU1f
こういう馬鹿はマジで死んだ方がいいな
学者の論文より自分の妄想が正しいとか
614 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 21:04:24.60 ID:XAFoG9ZL
いま、ふと気がついたことがある。
お前、福島正則だろ!
615 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 22:15:28.76 ID:xHMQxanl
>>585 逸話レベルでいいなら石田三成ほど頭が良かったことを示す
逸話が多く残ってる武将も稀だと思うよ
手元の『名将言行録』の石田三成の章ざっと読むだけで
「秀吉の好みを察して三度異なる温度と量の茶を献じた三献茶の話」や
「目先の五百石の代わりに宇治川淀川の萩と葭を刈り取る権利を手に入れ大儲けした話」や
「洪水を米俵で急ぎ塞ぎ、人夫に濡れた米俵を褒美に与えることで補修もうまく行った話」など、
三成が諸事に才覚を発揮して諸人に褒められるといったエピソードは枚挙に暇がない
関ヶ原の挙兵についても、家康の強権の前に一度は失脚した佐和山19万石の奉行が、
他の大老、奉行衆を仲間に引き入れ反家康の兵を挙げることに成功したという時点で
乱の結果如何を問わず一定の評価をされるべきだろう
元より無批判に受け入れられるような史料ではないが、『常山紀談』や『関原軍記大成』によれば
兼続による徳川挑発と上杉討伐に乗じた三成の挙兵は
東西呼応して家康を封殺するという謀略であり、これも半ばまでは成功している
江戸時代稀代の奸臣扱いされ人格面で誹謗を受けた三成だが、
悪知恵も含めた知略については十分評価されてきた
その流れを受けて、「家康には及ばないまでもそれに近い謀略の士」という
ゲーム中の能力値は各種の史料に描かれ
現在広く世に受け入れられている三成のイメージと乖離するものではないと思う
616 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 23:32:30.58 ID:WnGAmFaS
>>607 佐竹は徳川の真田上田城攻めに参戦させる為に
佐竹義久を援軍に出してて関が原のあと秀忠から礼状もらってる
617 :
名無し曰く、:2013/02/01(金) 23:51:16.47 ID:ibC/J85W
輝元は美濃口が徳川方先遣隊らによって攻められている間三成らからの後詰派遣要請を無視し続け
、伊勢湾などどうでもいい所に水軍送って放火・合戦するなどし、大垣城で西軍諸将が篭もっている間も重い腰をあげず
秀元や広家も使い物にならず西軍崩壊
真性のドクズ
618 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 05:19:09.13 ID:l2jy6wTY
ニコ大百科暇つぶしに見てたら、そこにも「だが」さんがいてワロタwどこまで出張してる
んだよ。記事まで作られてたぞ。「織田厨とあらば徹底的に叩く、武田信玄が生きていれば
天下を獲ったと言う。アスぺだが。頑固」
なにしれっと有名になってやがる
619 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 06:40:23.51 ID:xDIhmxrX
ID:XyZnNbmDはやっぱりアスペルガーだがだったのか
毛利輝元が関ヶ原敗戦の一因にあるなんてのは
>>599で散々言っている
だがその毛利は統率50知略26と散々な評価
対して三成は統率52知略85という関ヶ原の失態が一切考慮されていないと言う事実
>>612 18万も畿内から集めて分散させまくった結果関ヶ原で寝返りの連鎖でわずか最長8時間でボロクズに破られると言う
戦国史上類を見ない無様な大敗北を喫したのが三成だろうがw
武田ですら寝返りの連鎖があっても1ヶ月は持ちこたえたのに、その5倍以上の兵力を持った三成が
たった1日持たずに敗れたなんてこれ以上ないくらいの失点だがw
620 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 07:33:43.57 ID:xDIhmxrX
>>608 東軍と気脈を通じている≠東軍として所属しているなんだよ
そもそも加藤清正が行動を本格的に開始し始めたのは、関ヶ原の戦いが東軍勝利で終結した
9月15日以降の話で、事実
>>601の論文でもそれは大いに述べられている。
つまりID:XyZnNbmDは論文を長々と引用して「清正は東軍勝利という勝ち馬に乗っただけの勢力」ということを
わざわざ証明しているということになるんだよな。事実清正が宇土城や八代城を接収したのは関ヶ原終結後だ。
そもそも「東軍の主である徳川家康と連絡したから東軍に違いない」なんてのがそもそも誤りで
例えば家康と連絡を懇意にしていた丹羽長重は最終的に西軍についているし、
宮部長房、細野藤敦あたりにも西軍に寝返られている。
しかも家康は西軍の武将であった小早川、小出、竹中、石川のような連中にもお構いなしで書状を送りつけまくっていて
どう考えても味方につけるためになりふり構わない行動を行っているのが現存する書状からもすぐにわかる。
621 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 07:43:29.00 ID:2AnGpgYi
自閉症よりダウン症のほうが優秀
秀吉ダウン症説って珍説?
622 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 07:56:46.85 ID:xDIhmxrX
>>615 >>「目先の五百石の代わりに宇治川淀川の萩と葭を刈り取る権利を手に入れ大儲けした話」
>>「洪水を米俵で急ぎ塞ぎ、人夫に濡れた米俵を褒美に与えることで補修もうまく行った話」
そのエピソードは知略ではなく政治に含まれるような逸話じゃないか
どちらも三成が行政手腕を発揮して利益を出したというものだろ?
>>他の大老、奉行衆を仲間に引き入れ反家康の兵を挙げることに成功したという時点で
>>乱の結果如何を問わず一定の評価をされるべきだろう
「一定の評価」っていうのは知略85のような、知略でならした知将名将に
与えられる評価を貰うような高い評価の事を指すのか?
「謀略を行った」だけじゃあせいぜい知略50前後が関の山でしょ
あと、このスレで散々「毛利輝元が雑魚かったから負けた」「敗戦責任は毛利にある」
という意見が噴出しているが、その「毛利輝元」に「総大将たる権力を与えた」のは「石田三成」だからな。
「到底資質のない人間」を担ぎ出して、「史上類を見ない負け戦」を招いたのは三成
623 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 07:57:14.60 ID:hSgdn5nq
大局が見えずに、とりあえず三成憎しか。
なるほど福島だなw
624 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 08:05:11.83 ID:xDIhmxrX
大局が見えないのはどうみても石田三成の方じゃんw
「豊臣政権をあるべき姿にする」「秀吉亡き後権力を増大させる家康を廃する」という
名目を使いたいのなら、総大将は主君たる豊臣秀頼にするか、最低でも秀吉の養子であった宇喜多秀家にするべきであった。
秀吉と縁もゆかりもなくただ臣従した「毛利輝元」を総大将に担ぎ上げるのは
つまるところ「家康の二の舞」を狙っているだけとしか思われず、事実毛利輝元は
対家康戦争の総大将を勤める傍ら、四国に自軍を編成して他の豊臣家臣を攻撃する有様
「家康の専横を弾劾する」とおおっぴらに発言する連中が「自分の勢力を拡大するため」に
同僚である他の豊臣家臣の領地を攻撃して我が物にしようとするんだから、支持なんぞ得られるわけがない。
そんな支持も得られない、寝返ってくださいと言わんばかりに西軍の陣容や協力関係を固めている連中に
天皇や豊臣家から認可された上杉征伐の軍を率いる「東軍」に正当性で勝てるわけがない。
家康の去ぬ間にコソコソと挙兵して、秀吉となんの関係もない毛利を総大将に担ぎ上げた時点で
三成の敗北はハナから決定づけられていたとすら言える
625 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 09:05:31.52 ID:WTnqfhOZ
>>622 『名将言行録』ではそれぞれのエピソードの後に
「深く三成が才略を感ぜられけり」「時人も無双の才覚と感嘆せり」
「治部少めは天下にはばかる程の智慧を持たる奴なりと言はれけり」
「三成性慧敏にして」などなど、世人の三成に対する人物評で締めくくられており、
上で引用したエピソードは知略に属する逸話として扱われている
目先の五百石や米俵を犠牲にしてまで
大きく利益を挙げるor焦眉の問題を解決するというのは
多分に投機的な側面もあり、検地をやったとか築城をしたとかいう
いわゆる政治力評価の範疇から逸脱していると思う
というか、小田原征伐での奉行としての活躍など、
通常の行政手腕に長けていたことを示す逸話は別に載っている
知略94の家康に対して最終的に敗れはしたものの、
失脚した奉行が秀吉亡き後の政局で絶大な力を発揮した
五大老筆頭家康を勝敗定かならぬ乾坤一擲の野戦場まで誘き寄せた時点で、
既に謀略は半ば以上成功している
小早川の裏切りや吉川の不戦を勝利のための布石として打っていた
家康がなお三成の上を行っていたというだけ
というか家康の知略94というトップクラスの数値自体、
関ヶ原での三成との謀略合戦を評価されてのものだろう
大坂の陣でも謀略は行なっているけど、相手は大野とか秀頼だぞ
626 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 09:26:03.39 ID:xDIhmxrX
>>625 乾坤一擲の野戦場も何もすぐに負けているし
小早川の裏切りや吉川の不戦も島津家の史料「薩藩旧記雑録」では
「優勢だった東軍がさらに優勢になっただけ」と言う扱いでしかない
「勝敗定からぬ」「東軍勝利はギリギリだった」と言う評価を貰いたいのなら、
最低でもその辺の局地戦以上に長期化させる必要があるし
たった1日でボロクズに敗れたというのは豊臣が全国の諸大名を敵に回した大坂の陣以下だろ。
その理屈で言うなら豊臣秀頼も知略80〜90、統率も平均以上貰わなければおかしい。
三成の逸話が、政治的なものから逸脱しているというが
才略溢れる逸話を「丹羽歴代年譜付録」に多く持つ長束正家は知略20だ
確かにこれは、評価としてかなり過小の域だが、だからといって知略が急に80、90まで上がるわけではない
そもそも三成の場合、政治99という既に十分すぎる数値を貰っており、
ここに知略85が来ると、天下人を軽く超えてしまう程の数値を貰うことになる。
何より、関ヶ原での惨敗が全く考慮されていない。
毛利輝元という資質の拙い人物を総大将に担ぎ上げ、それによって結果的に大敗北を招いた
この咎は知略から引くと言うのは自然な話だろう。
627 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 10:56:28.67 ID:WTnqfhOZ
『丹羽歴代年譜付録』に載っている長束正家の才略溢れる逸話って、
軽輩だった長束正家を丹羽長秀が抜擢し奉行職を見事勤めあげたとか、
小田原征伐で莫大な兵糧をやりくりし家康に蕭何の才ありと感嘆されたとかそういうエピソードでしょ
長束正家が抜群の事務処理能力を有したことを示す逸話ではあるが、
それこそ政治の能力値で評価すべきであり、質量共に石田三成の逸話には遠く及ばない
西軍の総大将についてだが、周防長門安芸石見出雲備後に
合計120万石の所領を持つ毛利輝元が務めるのが格からして当然であり、
同じ五大老、従三位権中納言でも輝元と親子ほど年の開きがある
備前美作57万石の大名である宇喜多秀家は、
例え秀吉の養子であるという点を考慮しても輝元には及ばない
そもそも総大将の人選は三成の独断ではなく、
前田増田長束の奉行衆に安国寺恵瓊を加えた西軍首脳陣の相議
三成の独断ではなく、また諸事情を考慮するに妥当だという人選で、
三成一人にその責を負わせるのは妥当ではないと思うよ
三成ら西軍がたった1日で敗れたというのは関ヶ原本戦に限っての話では?
毛利宇喜多と協力し東下した家康を討つという直江兼続宛の書状の日付は6月20日、
家康の上杉討伐に合流するはずだった大谷吉継が兵を率いて引退した三成の篭る
佐和山城に入ったのが7月11日(戦略立案ではなく、西軍として初めての軍事行動)、
毛利や宇喜多、奉行衆らが「内府ちかひの条々」で家康を弾劾したのが7月17日(西軍の宣戦布告)、
西軍に従わなかった細川幽斎の篭る田辺城に向かって
兵を出したのが7月18日(東軍と西軍の初めての戦闘)だ
この後各地で様々な局地戦、前哨戦が行われたあと関ヶ原の決戦が9月15日(両軍の勝敗が決定)、
西軍首脳の三成が田中吉政の兵に捕縛されたのが9月21日、
毛利輝元が大坂城を退去したのが9月24日(明白な西軍の降伏)
関ヶ原の戦いと称される一連の戦役の開始と終焉をどこに置くのかは色々意見はあるだろうが、
少なくとも旧暦で2-3ヶ月に及ぶ戦闘だったことは間違いない
関ヶ原本戦にしても、野戦だから早期に決着が付くのは至極当然のことであり、
籠城戦である大坂の陣と比較して戦闘期間をどうこう言うのは自分には理解できない
628 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 11:38:38.19 ID:Uv8ZaMgG
関ヶ原の結果だけで判断すれば特筆すべき点はない。
関ヶ原まで持っていった力量をどう評価するか?ってあたりじゃね?
629 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 12:35:04.40 ID:25LVX5yr
>>18万も畿内から集めて分散させまくった結果関ヶ原で寝返りの連鎖でわずか最長8時間でボロクズに破られると言う
>>戦国史上類を見ない無様な大敗北を喫したのが三成だろうがw
三成の敗因は主に美濃ラインが想定以上突破された事や小早川毛利らの不戦
これをつきつめると三成らからの援軍要請を無視し続け伊勢湾で水軍送って荒らしまわる馬鹿行動を行い美濃まで押し込まれる契機を与えた輝元のアホっぷりによって生まれた事
>>秀吉と縁もゆかりもなくただ臣従した「毛利輝元」を総大将に担ぎ上げるのは
>>つまるところ「家康の二の舞」を狙っているだけとしか思われず、
三成は一貫して「豊臣家のため」を貫きとおしている。証拠として島津家への加増問題に反対し
>>562 蔚山篭城時の論考交渉を巡って配下の領地を少しでも削減して豊臣くらいり地を増やそうとしているのがわかる
あと毛利輝元を総大将にかつぎあげたのは三成の地位(奉行)や軍事力(10数万石)では到底家康に太刀打ちできず
少しでも地位軍事力の勝るものを総大将に担ぎ上げる必要性からだろ
>>「家康の専横を弾劾する」とおおっぴらに発言する連中が「自分の勢力を拡大するため」に
>>同僚である他の豊臣家臣の領地を攻撃して我が物にしようとするんだから、支持なんぞ得られるわけがない
それは家康側も同じ事
>>601 どちら側もただ単に勢力拡張を狙って敵対勢力を根こそぎ潰そうとしていただけ。
>>家康の去ぬ間にコソコソと挙兵して、秀吉となんの関係もない毛利を総大将に担ぎ上げた時点
毛利輝元は石高でいっても大老という立場でも圧倒的に三成より上でまた小早川家も元々毛利家の分家なんだから
影響力でも圧倒的で総大将にふさわしい人物としかいいようがない
630 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 12:47:44.64 ID:xDIhmxrX
>>627 >>合計120万石の所領を持つ毛利輝元が務めるのが格からして当然であり
まずその時点で踏み外している。
関ヶ原の戦いの西軍の大義名分は「豊臣家で権勢を増す家康を廃する」のが第一の目的であり、
その大義名分を使いたいのなら、亡くなっている秀吉に連なる連中、近しい連中を持ち出すのが当然の発想。
石高や軍事力の強い「毛利輝元」を優先的に総大将に持ち出した時点で、
石田三成ひいては西軍が「家康とはまた別の、豊臣家で権勢を振るいたがる連中」と識別されるに至ってしまう。
事実、秀吉の親族である木下家定系、浅野長吉系の人間は大半が東軍に所属するにおよび、
西軍総大将の毛利輝元が、対家康を行う傍ら自領を拡大するという傍若無人な行動を行い、
石田三成はといえば、諸将の妻子を人質に取るという同僚を臣下としか思わない行動を取っている。
この時点で西軍は「家康憎しのためだけに集まった、纏まりを持たない烏合の衆」と認識される羽目になり、
それが結果的に、直接対峙した関ヶ原でわずか1日での大敗北を喫すると言う戦国史上類を見ない大惨敗を生んでしまった。
また、このスレで散在する意見に「関ヶ原の敗戦責任を三成1人に負わすのは妥当ではない」と言う意見があるが
関ヶ原で西軍に属した主な武将は敗戦責任もあってその能力に辛い評価をつけられている。
毛利輝元の知略26、長宗我部盛親の知略35、毛利秀元の知略30、織田秀信の知略12などは
関ヶ原での敗戦責任による減点採点からくるものであり、
その他の諸将も西軍加担者は大なり小なり知略が下がっている。
関ヶ原周辺で戦い敗れたにもかかわらず、高い知略を有しているのは
石田三成の知略85、大谷吉継の知略91のみであり、
この2人のみが、関ヶ原の敗戦責任を追及されず評価されるに至っている。
631 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 12:54:29.06 ID:xDIhmxrX
>>629 >>毛利輝元は石高でいっても大老という立場でも圧倒的に三成より上でまた小早川家も元々毛利家の分家なんだから
>>影響力でも圧倒的で総大将にふさわしい人物としかいいようがない
>>少しでも地位軍事力の勝るものを総大将に担ぎ上げる必要性からだろ
それではただ三成が「私怨で家康を恨み力の強い毛利をアテにした」という名分にしかならん
「秀吉亡き後権勢を誇る家康を廃する」のが目的ならば、最低でも秀吉の養子であった宇喜多秀家を持ち出すのが筋
可能ならば、豊臣秀頼の成長を待ち成長した秀頼の裁可を待つのが最も理想。
そもそも宇喜多秀家は秀吉の養子にして備前57万石の大領主。
官位においては従三位中納言に任命されていて、内大臣徳川家康に十分対抗しうる存在。
「専横する家康を弾劾する」と言う名目において、実際に秀吉の養子をつとめた宇喜多秀家は格好の人材であり、
三成がその秀家すら総大将に担がず、秀吉と何の関係もない毛利輝元を総大将に推挙したというのなら、
三成はよほど馬鹿だったのか、腹に一物を抱えていた奸臣だったかのどちらかだな
632 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 18:21:18.36 ID:NB8Fv1aM
毎日毎日自宅警備員のチョンが執拗に粘着してるな。
633 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 18:33:49.81 ID:xDIhmxrX
今の時期がどういう時期なのかわからないのは低学歴とおっさんだけだよw
歴ゲー板なんだからそれくらいはわかってるよねw
634 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 18:47:03.02 ID:RvALgyfr
ヤバい俺低学歴だから分からん
教えて
635 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 19:21:04.74 ID:xDIhmxrX
>>634 中高生:大半の人間は試験前の補習がほとんどになるので家にいる機会が多い
受験生:推薦組は受験終了で最も暇な時期
大学生:既に後期試験が終了、糞長い春休み期間
社会人:事業や会社によるが大半の企業にとって2月は閑散期
ついでに言うと社会人でも俺みたいな「職場が家から歩いて2分でつく」という
個人や一族経営の中小企業に勤めている連中も多くいるからな。
まあ見様によってはニート同然とも言えるけど
636 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 20:28:26.58 ID:RvALgyfr
親切にありがとう
低学歴フリーターだから世間の流れ全然分からなくて笑った
637 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 21:16:43.09 ID:6AgYgk4x
留守政景とか。
638 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 21:43:31.07 ID:5YFRxIdP
三成と吉継だけ過大って言われると説得力あるなあ
この二人は腐人気枠っぽいイメージあるし
639 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 22:16:37.95 ID:7BQFPXFu
だけってその二人は一例で同じ世代でも過大されてるやつなんてもっといるだろう
640 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 22:35:36.22 ID:uvUJA9Gm
過大なのは島左近だけだろ
西軍の武将は過小評価されすぎ
641 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 22:39:53.65 ID:WTnqfhOZ
>>630 秀吉の縁戚である木下家定は戦闘に参加せず中立、浅野長政は息子である浅野幸長が
反石田襲撃メンバーの一員であり、上杉討伐軍の主力であるから東軍に付くのは当たり前
小山評定でも徳川家康は西軍のことを名目上の総大将である毛利ではなく
反家康の旗頭であり実質的な主導者である「浮田石田」と呼んでおり、
その上で福島正則ら諸将は家康への与力を宣言しているわけで(『東照宮御実記』より)
宇喜多秀家を総大将にしなかったことで西軍の大義名分が失われたとの意見は根拠が無い
そもそも関ヶ原本戦に参加した西軍諸将の中で最も戦意が高く西軍の中核となった宇喜多隊が
西軍総大将である輝元率いる毛利本隊の代わりに大坂城を守備することになったら、
史実より悲惨な結果になったのは目に見えてる
毛利輝元や秀元、長宗我部盛親らの知略が低評価されるのは、
関ヶ原での敗戦で所領を減らしたことが大きなマイナスとなってるのは間違いないが、
そのマイナス要素とは西軍に属しながら主体的に行動することができなかったからに他ならない
(もっと言えば関ヶ原以外で知略を示したというような加点評価がないのも大きい)
西軍でも家康打倒の戦略を練り上杉討伐の間隙を突いて挙兵に成功した
石田大谷安国寺ら首脳陣の知力は高く評価されてるし、
本戦に参加せずとも戦意が高く積極的に行動した
真田昌幸や直江兼続らの知略も減点評価を受けているように思えない
石田三成には
1.「三献茶」「宇治川淀川の萩と葭」「洪水の米俵」「毛利の大桃」など、世人に知恵者であると讃えられた数多くの逸話
2.失脚した中大名という立場でありながら、上杉討伐の隙を突いて上片の反家康派を糾合し挙兵に至った謀略
3.事実かどうかは疑わしいが、『甫庵太閤記』で仄めかされた秀次讒言や『氏郷記』に記された蒲生氏郷暗殺などの奸計
という知略評価にプラスとなるような事績が多い
それに
4.関ヶ原首脳陣としての敗戦責任
をマイナス評価しても(それすら連帯責任に過ぎないが)、
知略85という現状の数値が過大評価だとは自分は思わない
642 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 22:44:12.25 ID:25LVX5yr
大谷はともかくとして三成は言うほど過大じゃないと思うがなあ
あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて
前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
関が原の戦いも美濃口の防衛要請無視しまくって四国やら伊勢湾やらどうでもいいところに軍送った輝元のアホさ加減で負けただけだし
美濃口に大軍で援軍きてたら東軍は木曽川の防壁と美濃の秀信や木造などに阻まれて進む事など到底適わないだろうし
畿内方面に展開してる部隊だけなら西軍のがずっと多いはずだから西軍に戦力の集中を考案できる優秀の戦略眼もった武将がトップなら
東軍など一網打尽にできたはず。
総大将輝元がアホみたいなところに軍進めたり
肝心の決戦で軍動かさなかったり馬鹿みたいな行動したおかげで三成は寡兵で戦わなくてはならなくなり西軍は大敗した
643 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 22:57:16.24 ID:25LVX5yr
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
644 :
名無し曰く、:2013/02/02(土) 23:11:22.62 ID:RvALgyfr
>>640 逆に東軍武将で過小評価されてるに誰だろ
645 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 04:01:17.40 ID:8qIoiQrG
真田幸村はルックスを過大評価されすぎてる
646 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 05:21:42.75 ID:5+WJHfS5
>>641 >そのマイナス要素とは西軍に属しながら主体的に行動することができなかったからに他ならない
その基準て関ヶ原で戦わなかった事を前提に言ってるけど
関ヶ原本戦までの間は秀元、盛親とか普通に西軍の将として自主的に戦っているじゃない
そもそも西軍は9月15日に関ヶ原で戦うために行動をとってたわけじゃない
だからこそあんだけ兵を分散していたんだろ
関ヶ原が決戦になったいう結果だけで無意味な行動がとか
いろいろ文句を言ってる馬鹿がいるけど
無意味な行動になったのは9月15日に関ヶ原で戦ったからだぞ
その9月15日に関ヶ原で戦うことは大垣城にいる連中が独断で決めた事
秀元や盛親が賛同したのに戦わなかったのなら叩かれるのも仕方ないが
こちらの知らないところで勝手に決められ、それに従わなかったら叩かれるのはおかしいと思う
>西軍でも家康打倒の戦略を練り上杉討伐の間隙を突いて挙兵に成功した
その挙兵に仕方に問題があるだろ
諸大名を説得して味方につけたらのならともかく
上杉討伐に集まっていたのを街道を封鎖して
味方につくよう強引に脅迫して味方につけた
一見うまくいったように見えるけど関ヶ原での寝返りをみると
とても成功したとは見えない
つーか三成の計略はそのほとんどが成功したためしがない
ガラシャを人質にしようとしたら死なれるし、
小早川の説得も失敗してるし、
秀次讒言や氏郷の暗殺は関係ないとされてるし、
関ヶ原での決戦も大敗してるし
とても知略85もあるようにみえない
昔の信長の野望で知略が低かったのこれらが原因だろ
647 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 06:26:50.80 ID:a0jBHAVg
幸村に比べて毛利勝永の扱いといったら・・・
648 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 08:25:57.53 ID:Yp/gwkri
馬鹿かお前
その関が原でどうして戦う事になったのか考えてみろよタコ
東軍が尾張口に来たときに輝元が散々美濃口の防衛要請無視したり大垣篭城組の後詰要請無視して
伊勢湾だの四国だのどうでもいいところに兵チラシまくった結果だろうが
大体石田なんて大きな軍団持ってないしほとんど毛利一族のどうこうで決まるたたかいじゃねぇか
持ってた地位と軍団の規模無視して無理矢理捏造擁護で輝元擁護してんじゃねぇよクズ
649 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 09:14:53.57 ID:X/3K4Nce
>>644 真っ先に挙がっていいのは織田有楽斎だろうな。
わずか500の兵しか率いてなかったにもかかわらず、戸田勝成、蒲生頼郷隊を討ち取ったと言われてるし
2000石から4万2000石(うち1万は長孝にだけど)の加増は東軍諸将の連中を見ても目を見張るものがある。
寝返り組だけど小早川秀秋も評価低いな。
>>648 輝元の評価が下がれば下がるだけ三成も評価下がるぞw
そんな資質の拙い輝元を総大将にしたのは、他ならぬ三成と西軍諸将
別に三成にとっては他の人物を総大将に仰ぐこともできた。
あと、輝元を擁護している奴は流石に誰もいないw
650 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 09:30:43.70 ID:X/3K4Nce
>>641 東照宮御実記って江戸時代の後期に出来た史料でしょ。
しかも同史料によると
「近日石田治部少輔三成其居城佐和山ヲ出テ大坂ニ赴キ。
同意ノ諸大名ヲ語ラヒアツメ。偏ニ当家ヲ傾ケ参ラセン結構トオボエタリ」
「三成事昨年以来ノ恥辱ヲ雪ガムトテ異図ヲ企テ。諸大名ヲカタラフト見タリ」
「福島左衛門大夫正則一人進ミ出。内府ノ仰ハサル事ナレドモ此度ノ事全ク三成ガ計ヨリ出テ。天下ヲ乱サントスルニマガヒナシ。」
と、どう見ても石田三成が主犯認定されて、それで諸将が結束しているように見えるが。
651 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 11:03:33.46 ID:Yp/gwkri
ゲームじゃあるまいし輝元がどのくらいの能力かどうかなんて三成からみてわかるわけないだろ
実際に戦場に立たせてみないとわからん。自分の家臣でもないし
652 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 11:38:21.11 ID:X/3K4Nce
そんな未知数極まりない人間を総大将に担ぎ上げる時点で論外でしょ
しかも宇喜多秀家は
・秀吉の養子
・備前57万石
・従三位権中納言
・朝鮮出兵で従軍して活躍
と十分すぎるくらい実績がある
この秀家を差し置いて、毛利輝元を担ぎ上げるとすれば
三成が大馬鹿だったか、秀吉に近しかった秀家を担ぎ上げる不都合があったかのどちらか
653 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 11:47:38.93 ID:4QPBM/Jq
そもそも決起自体が宇喜田の暴走説もあったような・・・
宇喜田の手綱を握る為に毛利担ぎ出したって筋だったかな
654 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 11:51:06.51 ID:lA+26Jqu
>>646 南宮山に布陣していた毛利秀元や長宗我部盛親が
関ヶ原で決戦するという戦略に賛同しなかった、
という根拠を教えていただきたい
伊勢攻略を担当していた毛利隊長宗我部隊が
西軍諸将が笹尾山天満山松尾山に布陣するのにあわせて
関ヶ原まで出てきてるのだから、もちろん大垣城に居た
西軍首脳と同意が有ったとするのが自然だと思うが
石田三成の謀略の失敗としてガラシャ死亡や小早川の説得失敗を挙げてるが、
ガラシャの夫である細川忠興は七将襲撃メンバーの1人であり元より反石田の武将
石田が人質を取ろうが取るまいが、ガラシャが生きていようが死んでいようが
家康に与して石田と戦っただろうというのは他の東軍諸将を見ても想像に難くない
なお、自軍に結集した武将たちの去就が信用できず
その妻子を半ば強制的に人質にとるというのは家康もやっており、
現に生駒蜂須賀小出寺澤亀井坂崎戸川らが人質を小田原城に供出している
小早川の説得失敗については、黒田長政から事前調略に関わらず
東軍と西軍の激突が始まって家康より叛撃要請が出てももなお小早川が旗幟を鮮明にせず、
家康がその心底を疑ったという記述が『黒田家譜』『関原軍記大成』『朝野旧聞?藁』に見られる
要するに秀秋は東軍へ通じていながらも最終局面に至ってなおその去就をためらったということで、
石田ら西軍首脳の説得が全く効果がなく家康の謀略に拠って
小早川離反が予め定まっていたというのは徳川史観に過ぎないと自分は思う
>>650 総大将が毛利であろうが宇喜多であろうが、
石田が裏で糸を引いてるのは東軍諸将にとって明白だったから、
「宇喜多秀家を総大将にしなかったことで西軍の大義名分が失われたとの意見は根拠が無い」
と言ってるわけで
『東照宮御実記』だけじゃなくその引用元となった『関原軍記大成』でもそれは一緒
そちらでも上方逆徒の中心人物として
石田、増田、宇喜多らへの言及はあるが毛利はスルーされてる
655 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 11:59:10.89 ID:5nO3l7Zk
そりゃ毛利を戦場に引きずり込むのが目的だったのだろう
毛利120万石が味方につくかつかないかでは雲泥の差がある
総大将ともなれば国許で傍観している訳にもいかないし、おいそれと家康に味方もしにくくなる
それに輝元がボンクラでも毛利家の名前は非常に大きい
元就以来の名声があるし、豊臣政権下でも活躍している
若年の秀家より遥かに重みがある
どちらかを大将に据えるなら誰でも間違いなく毛利を選ぶだろう
656 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 12:00:42.63 ID:lA+26Jqu
>>652 宇喜多秀家は当時二十八歳の若輩であり、前年に宇喜多騒動で
譜代家臣の大量離脱があったということを指摘しないとフェアーじゃない
徳川家康
・秀吉の義弟
・関東250万石
・五大老筆頭
・正二位内大臣
・桶狭間から小田原征伐まで百戦錬磨
・59才
に対抗するのに
宇喜多秀家
・秀吉の養子
・備前57万石
・従三位権中納言
・朝鮮出兵で従軍して活躍
・宇喜多騒動で領国ボロボロ
・28才
毛利輝元
・豊臣家とは特に縁戚関係なし(家康と義兄弟)
・周防長門安芸石見出雲備後120万石(小早川や安国寺ら与力を含めれば150万石以上)
・従三位権中納言
・朝鮮出兵で従軍して活躍
・47才
どちらが良いかの選択肢になるが、家康に対抗するならまだ輝元の方がマシだろう
つうか宇喜多総大将なら西軍が勝ってたとかまだ有利だったとか
具体的にどのような資料や研究者の言説を根拠に言っているのか教えていただきたい
657 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 12:10:57.33 ID:jD7RKpUL
658 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 12:29:51.81 ID:X/3K4Nce
>>654 西軍の大義名分が失われたとするのは何の関係もない毛利輝元を担いだからだろうが。
いきなり五大老で家康に匹敵しうる毛利輝元が出てくれば、誰だって裏で手繰り寄せているのがわかるだろ
そもそも東照宮御実記って1800年代の成立だから根拠に乏しいだろ。
>>家康に対抗するならまだ輝元の方がマシだろう
>>宇喜多総大将なら西軍が勝ってたとかまだ有利だったとか
関ヶ原の戦いの帰趨を見ていればわかりきっているだろうが
関ヶ原の戦いの毛利隊は、大坂−関ヶ原と主要軍が分割されたせいで
大坂にいる毛利輝元はほとんど何もせず、関ヶ原に派遣した秀元吉川は指揮系統が統一できずに行動すらしなかっただろ
もっと言えば毛利輝元が関ヶ原に布陣していれば、輝元を守護するために秀元吉川が遮二無二戦った可能性が高いのは誰もが知ること。
譜代家臣が減ってボロボロだった宇喜多隊ですらあれだけ抗戦できたんだから
毛利が本腰入れて関ヶ原の中央に布陣していれば全然違う結果になるだろ。
>>655 毛利を戦場に引き込むのが目的なら、猶更関ヶ原に連れて行くべきだっただろ
東軍と直接交戦になれば毛利輝元だって日和見するわけにもいかないし、自動的に吉川や秀元も西軍につけられる。
代わりに戦意の高い宇喜多が大坂城に入るんだから、もっと西軍全体が統御して動けた可能性も高い
結局戦意の薄い輝元を大坂城に入れてしまったせいで、西軍全体に纏まりを欠き、
現地関ヶ原に赴いた毛利軍も指揮系統がまともに働かず、ほとんど交戦しないまま敗戦するんだから
三成らの考えた体制は、馬鹿としか言いようがないだろ。
659 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 12:35:09.46 ID:lA+26Jqu
>>655 輝元を総大将にしなかった場合、毛利家が西軍首脳に対しどう思うかという懸念材料も有るね
石高も豊臣政権への貢献も年齢も上回る輝元が名目上とはいえ
秀家の麾下になるという事実は耐え難いものだろう
史実の西軍総大将でありながら家臣が東軍に内通しており本戦で動けなかったというのも大概だが、
積極的に西軍への敵対行動に出る可能性すらある
それよりは輝元が総大将でも気にしないどころか、
関ヶ原本戦で最も士気旺盛秀家を風下に立たせるほうがはるかに賢いよね
>>658 「根拠となる資料もないし君と同じ説を唱えている研究者も居ない」という解釈でよろしいか?
まあ自分も関ヶ原関連の資料は軍記から研究書までそれなりに読んできたけど、
西軍必勝の秘策として宇喜多総大将とか見たことないもん
660 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 12:42:26.90 ID:X/3K4Nce
そもそも毛利輝元を総大将にして是と考える奴は何寝言ほざいてるんだ
秀吉存命の豊臣政権の地位は宇喜多秀家>毛利輝元だし
秀吉の遺風を残したいのならこれにまず殉じるべき。
>>659 他人の揚げ足取ってる前に自分の根拠をまず明示しろよ
東照宮御実記は江戸時代の史料で、かつ「石田三成が天下を災いに招いている」
というのがこの史料での東軍結束の逸話で、宇喜多がどう毛利がどうなんて一言も書いていない。
>>西軍必勝の秘策として宇喜多総大将とか見たことないもん
当たり前。必勝を期待するなら秀頼の成長を待って、秀頼の裁可を仰ぐのが最も好ましい判断だし
宇喜多総大将というのは、所詮毛利輝元の総大将よりはマシと言うレベルでしかない
「毛利輝元を総大将とした、石田三成らの属する西軍体制」が酷評されているというのでいいなら、
その辺の研究者の論文や資料でいくらでもあがっていると思うがなw
661 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 12:50:45.17 ID:X/3K4Nce
>>654 >>その妻子を半ば強制的に人質にとるというのは家康もやっており、
家康がそれを行って成功を収めたのは、豊臣五大老筆頭で、かつ正二位内大臣という
地位を利用できたからこそであり、当時の五奉行を辞任させられ、官位も低い三成が真似たところで
何の意味もないことくらいどころか、諸将の恨みを買うのがわかりきっているだろ。
当時の三成の所領は他の豊臣家臣に比べても同じかせいぜい下で、自分と同列か下位に甘んじる人間が
「人質」などという本来上位の人間が行う所業をすれば人心が離れるのは当然の発想。
ただ「権勢を増す家康が憎い」というだけで集まった集団を、己の同心か部下の如く考えた三成の知略は当然減点対象になる。
662 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 13:01:01.64 ID:lA+26Jqu
>>660 根拠は明示しているだろう
『東照宮御実記』と、その元ネタの『関原軍記大成』
どちらも江戸時代中期以降成立なのが悔やまれるが、
小山評定については一次資料が殆ど無いから仕方がない
「宇喜多がどう毛利がどうなんて一言も書いていない」というなら
(実際は毛利に対する言及はないが「浮田」は西軍首脳として石田と併せて呼ばれている)、
それこそ誰が総大将であろうが石田が西軍に居る以上
上杉征伐に同行した石田に恨みを持つ諸将は家康に従っただろうという
主張のこの上ない傍証となると思うがいかがだろうか
関ヶ原の戦いにおける西軍首脳陣がまとまりのない状態だったのは
衆目の一致するところであろうが、
そもそも平時寄親寄子関係にない大名同士が協力して戦う以上
連携に支障を来すことがあるのは当然のこと
従来家康を首領として盤石の体制だったとされていた東軍ですら、
笠谷和比古氏らの研究によって主力となった
豊臣恩顧の大名たちの掌握に四苦八苦していたことが指摘されている
そういう前提に従ってなお、西軍の総大将に毛利輝元より
宇喜多秀家の方が相応しかったとしている
資料、研究者が存在するのかと聞いているんですよ
前田が屈服し上杉が滅亡寸前という状況で、
「必勝を期待するなら秀頼の成長を待って、秀頼の裁可を仰ぐのが最も好ましい」
と書いている資料や研究者でも良いよ
>>661 畿内にいた東軍諸将の妻子の人質収監は石田三成の独断ではなく、
西軍首脳陣もっと言えば五大老で従三位権中納言の毛利輝元&宇喜多秀家の名前で行われている
石田が特に恨まれたのは本人の人望の無さに過ぎない
663 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 13:24:14.81 ID:X/3K4Nce
>>662 何を言ってるんだね
豊臣秀頼が蔵入地を3分の1近くまで減らされ、徳川家康が
江戸幕府を成立させて諸大名を牛耳るようになった頃ですら
豊臣秀頼に大きな権力があったのは、君が出した笠谷氏ですら唱えているじゃないか。
豊臣本家の権力がこれだけ削がれていても、家康にとっては脅威に写ったんだから、
権力を削がれる前に秀頼が成長して統率できれば、家康が勝てる相手ではないというのはわかりきっているだろ。
家康が豊臣家臣の掌握に苦心していたというのもその通りであるが、
逆に言えばそれだけ東軍の地盤も強固なものではなかったと言うことであるし、
さらに突き詰めていけば三成が基盤を固められなかったのは、東軍が強固な基盤を築いていたからではなく
三成自身の力のなさ、ひいては西軍諸将の力の拙さ纏まりのなさであろう。
そういう前提があるからこそ、戦意の乏しかった毛利輝元ではなく、戦意の高い宇喜多秀家の方が
西軍の統御をより好ましい状況に持って行けたわけであり、勝敗の如何はともかくとして、
少なくとも史実の西軍大惨敗よりは、強固な基盤で東軍に立ち向かえたとするのは当然の発想だろ。
664 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 13:28:30.89 ID:dZ+3j+M7
>>654 >その妻子を半ば強制的に人質にとるというのは家康もやっており、
>現に生駒蜂須賀小出寺澤亀井坂崎戸川らが人質を小田原城に供出している
人質を出すよう命令したところまでは悪いとは言え無いと思うが
拒否されて強攻策を取ってさらにそれに失敗したことが悪いだけで
665 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 13:35:06.21 ID:lA+26Jqu
豊臣政権蔵入地が3分の1になった反面、関ヶ原で主力となった
豊臣恩顧の大名に大幅な加増を行わなければならず、
結果二十ヶ国以上、日本の3分の1以上の領地が彼らのものになったからね
それら豊臣恩顧の大名たちが家康の江戸幕府と秀頼の豊臣政権に両属した状態を以て、
笠谷氏は関ヶ原の戦後レジームを「二重公儀体制」と呼称しているわけで
・・・でそれが関ヶ原前に家康主導で他の大老&奉行衆が失脚していき
秀吉の築いた合議制が機能していなかったという事実に何の関係があるの?
笠谷氏はその主著「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」で
そのものズバリ「豊臣政権とその崩壊」という章を作って関ヶ原直前の家康専横を詳述してるが
「権力を削がれる前に秀頼が成長して統率できれば、家康が勝てる相手ではない」
なんて言われたら笠谷氏もびっくりするんじゃないか
まあ資料や研究者は存在せず全て君の独自研究だということが分かったからもう良いよ
三成の知略の話に戻ろうか
666 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 13:40:55.60 ID:0IRsYKNS
秀頼が総大将すればよかった
東軍の
667 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 13:48:12.20 ID:X/3K4Nce
>>665 頭が固いというより、もはや盲信だね
江戸幕府が成立しなければ、徳川家康の牛耳る権力なんて一過性のものにすぎないし、
秀吉は合議制を築く傍ら嫡子たる秀頼の権力固めも進めていて、秀吉死没の直前に
秀頼は権中納言に任命され、徳川幕府成立後も右大臣に任命されているなど順当に官位を貰い
豊臣家の権力固めに進んでいる。秀吉没後の体制がそのまま進めば、時を経るほど不利になるのは家康の方であり、
主君である秀頼に背くことなく、「江戸幕府」なる体制を築き上げたことで諸大名は豊臣徳川両方に頭を下げることになる羽目になる。
その事実をひた隠しに隠して、適当な研究者の名前を出し、そこから
「自説の都合のいい部分のみ」を切り取るのだから、信者というのは怖いもんだ。
668 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 13:51:14.73 ID:lA+26Jqu
いや、君の主張する「事実」とやらは全部実際の歴史とは違うIFの話じゃん
別にIFの話でも良いけど、それならそう書いていただかないと
関ヶ原については様々な人間が様々なことを言ってるが、
世界で君一人だけが主張している独創性溢れる考察だってことを
669 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 13:56:19.82 ID:X/3K4Nce
>>668 歴史が違うのはどちらの方でしょうか?
こちらは秀吉死後の体制を、秀吉の後継者である豊臣秀頼を頂点に置き、
その下に五大老筆頭の徳川家康がおり、その下あるいは同位に豊臣家臣団がいると考え、
ゆえに関ヶ原直前の徳川家康は、豊臣秀頼が相手では勝てなかったと考えていますが。
貴方の中では、秀吉の死後後を継いだのは徳川家康なのですか?
主君の嫡男を差し置いて、それ以上に徳川家康が権力を笠に豊臣家を無視して独断で政治をできるほど強かったのですか?
670 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:00:14.26 ID:0IRsYKNS
徳川の東軍が、豊臣正規軍で
西軍がクーデーター軍なんだから
秀頼が西軍の大将になるなんてありえないだろ
秀頼の命令で上杉討伐してんだし
671 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:01:40.90 ID:lA+26Jqu
笠谷氏は「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」で
「豊臣政権とその崩壊」の最後の一文
>こうして家康に敵対する勢力はことごとく退けられ、あるいは圧迫され
>政権はいまや家康の独裁の様相を呈してきた。
言葉は違うが、彼は第一章を丸々使って
「主君の嫡男を差し置いて、それ以上に徳川家康が権力を笠に豊臣家を無視して独断で政治をできるほど強かった」
という意味のことを書いてますよ
まさか読んでないとか有り得ないとは思うけど、
関ヶ原前後の状況についてよくまとまった良い本だから一読をお勧めする
672 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:05:31.81 ID:X/3K4Nce
>>670 まず自分は「秀頼を西軍の総大将につけろ」なんて一言も言ってません。
「秀頼の裁可を仰げ」と言っているのです。徳川家康が軍の総大将として
豊臣家臣団を率いられるのは、豊臣家から権力を与えられているからです。
逆に言えば、豊臣家の当主たる秀頼が「家康に権力を与えない」と判断すれば、
それだけで豊臣家臣が家康から離れていくのは、猿でもわかるでしょう。
673 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:09:43.61 ID:0IRsYKNS
秀頼がそんな判断できるわけないだろ
実際、史実でやってないんだし
IFの話がしたいなら違う板かスレでやったら?
このスレは実績にそった能力を決めるスレ
674 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:12:38.10 ID:GbsgbAkI
何これ?
だがちゃんではないよな
だが並の馬鹿だけど
675 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:17:56.89 ID:lA+26Jqu
研究者が資料をベースに仮定の話をするならまだしも、
名無しの2chネラーが資料に依拠せずに「俺が思うからこうなるはずだ」
「俺の言うとおりにしないからこいつらは駄目だった」と言われてもねえ
>>674 意見は異なれど一応議論はできるから、
コピペ連投荒らしではないと思うが、
平日休日問わず1日中スレに張りついてるし
その間コピペ連投が止んでるしで同一人物じゃないかとチョット疑ってる
676 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:18:47.39 ID:X/3K4Nce
>>671 あのですね、こんなことも言わなきゃいけないのかとも思いますが
笠谷氏、光成氏をはじめ、数多の歴史学者が「関ヶ原合戦直前」の
「徳川家康の台頭」に関して史料を交えて私見を記述していますが、その大部分は
「豊臣政権内部」の話であって、つまるところ秀頼を無視することは誰1人できていないわけです。
これは関ヶ原合戦直後に、豊臣家臣達に大きな所領を与えるという気遣いを家康が見せていることからも明らかで、
本当に家康が真に独断的、専横的な態度を見せるなら、井伊や本多といった譜代大名に多くの所領を与え、
豊臣家臣団にはさほど大きな所領を与えないのが筋ですが、別に家康はそういうことしている気配はないですし、
あくまで豊臣政権を崩壊させ、徳川主導で統治体制を構築するということを家康がやったのは、せいぜい死ぬ間際1年あればいい方です。
結局のところ、関ヶ原合戦前後の家康の権力というのは、
成人せずまともな権力を行使できない豊臣秀頼のおかげで、一過性で生じたものであって
豊臣秀頼が盤石な体制のまま、成人すればまず間違いなく徳川家康の勝ち目はないこと、
そしてそれは、江戸幕府という支配体制を築き、直轄領を削減して弱らせながら依然権力を保持していた豊臣家に対する
家康の史実での態度が、如実に証明しているんですがね。
677 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:21:41.63 ID:X/3K4Nce
>>674 むしろ、こっちが相手はだがちゃんだと疑ってますけどね。
ID:lA+26Jquは石田三成の器量を褒め称えると表では発言していますが、
>>665では、秀吉の合議制を何の根拠もなく全否定しています。
石田三成を擁護することで、間接的に秀吉の残した体制を根拠なく貶める
信長や秀吉が大嫌いのあの基地外君のやりそうなことだと疑っているんですがね。
678 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:21:42.99 ID:GbsgbAkI
ID:X/3K4Nceが誰の能力の話をしてるかわからん
679 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:22:35.83 ID:X/3K4Nce
>>678 家康を弾劾するなら主君たる秀頼の裁可を仰ぐべき
できないのなら秀吉に近しい宇喜多を総大将にして対抗すべき
どっちもしなかった三成は馬鹿
端的に纏めればこうですね
680 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:26:52.30 ID:GbsgbAkI
>>679 そうですか
じゃあ続きはIFスレでやってください
681 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:27:50.32 ID:X/3K4Nce
>>673 別の人間の話をすれば、織田秀信は12歳で所領の統治を任されています
関ヶ原当時秀頼は8歳ですから、多少期間を我慢すれば何の問題もありません
そもそも徳川家康は当時59歳で、いつ死ぬかわかりませんし、
どっちにせよ豊臣秀頼が判断力をつけ、確たる地盤を残していた時点で家康に勝ち目はありません
大坂の陣の時ですら、判断に悩んだ大名や家康の危惧する大名がいたくらいですし
682 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:27:50.94 ID:0IRsYKNS
本能寺で死んだ信長は馬鹿
家康潰さなかった秀吉は馬鹿
こんなIFの話はどうでもいいよ
屁理屈こねてなんでも馬鹿にできる
683 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:32:04.74 ID:X/3K4Nce
>>680>>682 Ifはあくまで対処法を1つを述べているだけに過ぎませんし、
そもそもなぜ自分が反対されているのかわかりかねますね。
・毛利輝元を総大将に据える
・西軍諸将を掌握できず、裏切り日和見が増大(徳川家康は東軍諸将を苦心して掌握した)
・関ヶ原で家康と衝突しわずか1日で大敗北を喫する
・安国寺などと一緒に京で斬首
関ヶ原の失態を事実だけで述べましたが、はたしてこれで知略85はつくのですかな?
684 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:33:02.51 ID:lA+26Jqu
>>676-677 笠谷氏や光成氏のような数多の歴史学者は秀頼の存在を無視してないよ
>かくてその声望(引用者注:家康のこと)はいやまして高まり、
>世上ではこれを指して家康が「天下殿」になったというような受け止め方をした。
>みずからが秀頼と並び立つ存在であることを天下に誇示した。
関ヶ原前の家康が太閤の遺命をタテに、秀頼の庇護者という名目で
権力を私物化していたことが如実に書かれている
要するに秀吉が家康の権力を抑えるために意を砕いた五大老制度は
家康に対する抑止力として期待された小早川隆景と前田利家の早世によって
関ヶ原の戦い前には既に崩壊していたということだ
これは秀吉の不覚というよりは彼の不運という面が大きいとは既に述べたけどね
つうか秀吉の合議制を何の根拠もなく否定って、
こっちは笠谷氏の著作物をベースに語ってるんだからさ
>事実をひた隠しに隠して、適当な研究者の名前を出し、そこから
>「自説の都合のいい部分のみ」を切り取るのだから、信者というのは怖いもんだ。
君はそれすら出来てないよ
685 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:36:08.62 ID:lA+26Jqu
>>683 1.「三献茶」「宇治川淀川の萩と葭」「洪水の米俵」「毛利の大桃」など、世人に知恵者であると讃えられた数多くの逸話
2.失脚した中大名という立場でありながら、上杉討伐の隙を突いて上片の反家康派を糾合し挙兵に至った謀略
3.事実かどうかは疑わしいが、『甫庵太閤記』で仄めかされた秀次讒言や『氏郷記』に記された蒲生氏郷暗殺などの奸計
4.関ヶ原首脳陣としての敗戦責任(石田個人ではなく連帯責任)
上での自分のレスだが、これを叩き台にして議論しようか
関ヶ原での敗戦の責任をマイナス評価しても知略85は妥当だと思うが、君の意見をどうぞ
686 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:40:48.88 ID:0IRsYKNS
>>683 IFなんて上手くいくかどうかなんてわからないだから無理だろ
実績で評価したら?
687 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:45:39.65 ID:X/3K4Nce
>>684 >>要するに秀吉が家康の権力を抑えるために意を砕いた五大老制度は
あのですね、まずその五大老に対する認識そのものが既に誤りでして、
秀吉存命の頃から、家康は織田信雄の跡を受ける形で正二位内大臣を受任されています。
他の五大老で、ここまで官位が昇進した人間はいませんし、
五大老も合議制も、あくまで豊臣秀頼の権力固めにしか使われていないわけです。
「家康の名声が高まり、豊臣秀頼の庇護者として声望を高めた」という記述はありますが
「合議制が役に立たない」「秀頼を亡き者の如く家康が権力を高めた」という言い方をしている人はいませんし、
あなたがそう思っているのならそれはあなたの妄想です。
>>君はそれすら出来てないよ
自分が根底にしているのは、実際に家康がやったこと、秀頼がやったことを
史料を交えて論拠にしてますが、都合が悪いからと他人の論拠を否定するのは辞めてもらいたいものですね。
かくいうあなたは「東照宮御実記」を出したわりに、宇喜多毛利の対応も説明できていませんし。
688 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:50:43.92 ID:X/3K4Nce
>>685 全うに評価できるのは1くらいじゃないですか
2に至っては大失敗に終わっていますし3はほとんどが既に否定されています
関ヶ原の敗戦責任をマイナスしても知略85でいいのなら、
伊達政宗や北条氏政や織田信雄といった他の大名は知略100越えますね
もっと言えば豊臣秀吉や徳川家康ほどになると知略150は堅いんじゃないでしょうか
689 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 14:51:17.68 ID:lA+26Jqu
居ませんもなにも具体的に研究者の名前と著作物と原文を引用してるのに何言ってんの
「史料を交えて論拠にしてますが」って君が資料を出すことなんて殆どないじゃん
さっきだってこっちが資料と研究者の名前を要求しても何一つ意味のある回答を成せてない
>そういう前提に従ってなお、西軍の総大将に毛利輝元より
>宇喜多秀家の方が相応しかったとしている
>資料、研究者が存在するのかと聞いているんですよ
>前田が屈服し上杉が滅亡寸前という状況で、
>「必勝を期待するなら秀頼の成長を待って、秀頼の裁可を仰ぐのが最も好ましい」
>と書いている資料や研究者でも良いよ
もう一度だけ聞くが、この疑問に対して有効な回答を出来ない以上、
君とはまともに議論が出来ないものと見做す
君ほど暇じゃないからね
690 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 15:04:25.40 ID:m8jkJlpu
>>685 > 1.「三献茶」「宇治川淀川の萩と葭」「洪水の米俵」「毛利の大桃」など、世人に知恵者であると讃えられた数多くの逸話
小知恵レベルだな。
> 2.失脚した中大名という立場でありながら、上杉討伐の隙を突いて上片の反家康派を糾合し挙兵に至った謀略
前段はマイナス、後段はいわゆる政治力という見方もあるね。ゲームシステム上、知略にまわしてもいいかも。
> 3.事実かどうかは疑わしいが、『甫庵太閤記』で仄めかされた秀次讒言や『氏郷記』に記された蒲生氏郷暗殺などの奸計
大局を見渡してのものといえるかなあ?久秀・直家的な智略という点ではプラスかも。
どうも盲目的というか智略の働かせ方が必ずしも良い方に向かってない感じ。
智略Max評価で70、時代への影響という面も考慮すればMax80でもいいかな?
智略85はちょっと高評価しすぎだと思う。
691 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 15:13:17.88 ID:X/3K4Nce
>>689 その論拠は既に述べましたが、自分に都合のいい説が通じなくなったからといって
自らの都合で「議論打ち切り宣言」ですか?
関ヶ原合戦後の秀頼=蔵入地が3分の1以下、徳川幕府が成立し家康が征夷大将軍になる
この状況下で
・豊臣秀頼が右大臣に昇進(公卿補任)
・豊臣秀頼が徳川家康と会談し、加藤清正、浅野幸長、池田輝政、藤堂高虎が伴をする(家忠日記、徳川実記)
と十分すぎるくらい権力を行使していますけど、家康が権力を固める前に秀頼が出てきたら、と考えれば
秀頼が上回るというのは五大老制度、秀吉と家康を見ればわかると思いますがw
この時点での秀頼の官位は、家康とほぼ同等の従二位権中納言。
まさか官位が重要ではない、とか言う気はありませんよね?w
692 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 15:19:28.04 ID:X/3K4Nce
>>686 実績で評価した結果が、知略は並、あるいはそれ以下だと言うのが私の主張なんですけどね
それに対して自分の好き嫌いを反映する連中がケチをつけているだけであって。
正直、この手のタイプは自分の好きな武将に対して歪曲的好意的な見方をし、
高い評価を与えられなければ気が済まないという点に関しては
あの基地外君と全く同じ思考なんですよ
693 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 15:19:36.81 ID:2TR4C0jV
論拠じゃなくてソースを出せと言われてる以上出せない方が負け
その論拠にしたって妄想丸出しでこのスレですら失笑されてる
694 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 15:21:43.85 ID:UMG5UUwF
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695 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 15:23:28.48 ID:X/3K4Nce
>>693 それまんまID:lA+26Jquのことですけどね
そもそも東照宮御実記は江戸時代後期1800年代の成立で
ソースと言うにはいささか問題がありますし、
笠谷氏の論拠に関しても秀頼の動きや存在を無視して語っていますから論拠になりえません
ちなみに秀頼が江戸幕府成立後も権力を保持できていたという史料なら
徳川実記、当代記、家忠日記と腐るほど史料がありますので。
696 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 15:30:55.47 ID:2TR4C0jV
秀頼が幕府成立後も隠然たる権力を保持した、てのはここでは議論の対象になってない
関ヶ原前の情勢についてお前の妄想のソース出せって言われてんだろ
東照宮御実記がソースとして問題あると言いながら徳川実記挙げるとか馬鹿なのか
697 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 15:38:11.31 ID:X/3K4Nce
>>696 別にこちらは、徳川実記を挙げなくても証明できますからね
ただ、向こうが東照宮御実記を挙げるなら、こちらも挙げるぞというだけであって。
関ヶ原前の情勢?徳川家康が確たる権力を築き江戸幕府を設立して、
対する秀頼は蔵入地を3分の1近くにさせられた状況ですら
権力を持っていたのに、関ヶ原前だけ都合よく持っていなかったんですか?
なら家康はなぜ上杉征伐と称して軍を率いる立場にあったんですか?
誰に認めて貰えたから、そういう立場についていると思っているんですか?
698 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 15:44:45.74 ID:2TR4C0jV
また論点ずらすような無意味レスしてるけど、
ソース出せないからお茶濁してるだけってバレてるぞ
699 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 16:21:36.93 ID:X/3K4Nce
>>698 反論に窮したんなら黙っておけばいいのにw
上杉征伐が秀頼の謁見を経て豊臣軍として
公式に認められてることも知らんのか
三河物語にちゃんと書いてあるぞ
700 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 16:35:12.59 ID:0IRsYKNS
>>698 こいつIFの話で論点ずらし始めたし
何がしたいかわからんわ
701 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 16:46:02.65 ID:X/3K4Nce
やっぱりあの基地外君がチラチラ見え隠れするなぁ
単発IDで人格批判させるのは彼の得意技だったし
702 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 17:03:07.93 ID:GbsgbAkI
だがちゃん、今日も1日スレ張り付き連投か
703 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 17:06:32.18 ID:3g0+d/Dh
704 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 17:14:54.47 ID:X/3K4Nce
>>703 俺があの基地外君のわけがないじゃん
基地外君なら秀吉を讃える俺の主張なんて血反吐が出るほど反対したいくらいだろ
むしろID:lA+26Jqu=基地外君の意見が全く出ないことに薄気味悪さすら感じるわ
昨日暴れていた「三成は悪くない」「悪いのは雑魚輝元」ってのは間違いなく基地外君だろうけど
意見が凄く似ているし三成を無理やり擁護に入る流れもそっくりすぎる
705 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 17:39:20.28 ID:jLTOL9C2
だがちゃん御用達の学者の徳川マンセー説が論破されまくってんのか
706 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 17:45:12.62 ID:ZZe1Pl+/
むしろ徳川軍が関が原前から三成挙兵時に勝つ事が既定路線であるように語るのが
アホ織田厨特有の徳川史観
学説も糞も秀吉マンセーの馬鹿堀の糞論文くらいしか織田厨は読んでないからまともな反論なんぞできるはずがない
707 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 17:49:44.97 ID:X/3K4Nce
お、本人降臨w
毛利輝元が酷評されていた時点で俺がおまえだとわかってたよw
おまえ毛利大嫌いだもんな、信長秀吉の次くらいにw
708 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 17:52:45.72 ID:0IRsYKNS
だがは、なぜ2IDを使って
数分おきの時間差レスをするのか
709 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 17:55:04.48 ID:X/3K4Nce
>>708もそうだけど
>>702>>703>>705は大いに反省すべきだなw
基地外君の特徴は
3 :名無し曰く、:2010/10/18(月) 19:46:05 ID:8IjWOGxg
「だが」の特徴
武田>上杉>>>佐竹>(嫌いの壁)>伊達>北条>(嫌悪の壁)>>>>>>織田、秀吉
武田が大好きらしいです。次に好きなのは上杉。
佐竹は大して好きじゃないですが北条を貶めるため利用します。
とにかく信長秀吉が大嫌い。彼らを貶めるためなら北条厨にもなります。
史実や講談を自分に都合よく解釈して、三傑謙信玄北条佐竹関係の話題で粘着しますが、
「気に入らない大名を貶めたいだけ」なので、いくら理論的な反証をしても、
まったく聞く耳を持ちません、理解しようともしません。
反論すればするほど、嬉々として荒らしてきます。
武田厨・佐竹厨・アンチ秀吉厨を使い分けてるつもりらしいです。
短期間にIDを切り替えて自演、文体、内容、多用するコピペ等に特徴があります。
で既に散々書かれているのに赤の他人に基地外君のレッテルを貼って散々酷評していたんだからな
710 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 17:57:55.23 ID:X/3K4Nce
「だが」の特徴
盲信:武田 上杉
好意:佐竹 大友 伊達
普通:徳川 島津
嫌悪:北条 毛利
死ね:豊臣 織田
武田が大好きらしいです。次に好きなのは上杉。
佐竹は大して好きじゃないですが北条を貶めるため利用します。
とにかく信長秀吉が大嫌い。彼らを貶めるためなら北条厨にもなります。
史実や講談を自分に都合よく解釈して、三傑謙信玄北条佐竹関係の話題で粘着しますが、
「気に入らない大名を貶めたいだけ」なので、いくら理論的な反証をしても、
まったく聞く耳を持ちません、理解しようともしません。
反論すればするほど、嬉々として荒らしてきます。
武田厨・佐竹厨・アンチ秀吉厨を使い分けてるつもりらしいです。
短期間にIDを切り替えて自演、文体、内容、多用するコピペ等に特徴があります。
せっかくだし今の基地外君基準
711 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 17:58:00.83 ID:0IRsYKNS
やっぱりこいつもヤバイな
だがレベルのクズ
712 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 18:00:17.67 ID:X/3K4Nce
IDをコロコロ変えたり単発用に作らなくてもいいんだけどな、丸わかりだからw
713 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 18:04:43.91 ID:3g0+d/Dh
714 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 18:07:28.16 ID:X/3K4Nce
>>713 その手があったかー
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないなw
715 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 18:40:22.52 ID:Yp/gwkri
>>658 三成ら西軍諸侯は輝元に援軍要請している(8/29保科正光→黒河内長三、9/12石田三成→増田)
が輝元は無視して伊勢湾やら四国やらに軍向けるばかり
また、美濃攻防時三成は織田秀信救援軍として美濃河渡において東軍と戦っているが数が足りず、敗れている
このときも毛利の大軍の後詰が素直に行われていれば簡単に撃退できたはずだが輝元は大阪から足を動かさず
伊勢湾に軍船送って荒らしまわるだけ。
はっきりいって奉行衆がどんな名将でも総大将がここまでのクズだとどんな軍でも勝ちようがない
西軍の中核は毛利軍や小早川軍など毛利一族の軍であり
こいつらが全く使い物にならない以上、西軍に勝つ事なんて無理で三成の能力どうこうの問題ではない
716 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 18:41:14.27 ID:Yp/gwkri
×西軍に勝つ事なんて→○西軍が勝つ事なんて
717 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 18:47:16.64 ID:X/3K4Nce
そんな奴を総大将にするからじゃんw
他の奴を総大将にしておけばやる気のない輝元に上から指示出せたのに
718 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 20:30:03.42 ID:8aizJWpO
つっても石高や格から言って当時毛利より上なんて家康除けば秀頼くらいしかいなくね?
719 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 20:44:16.66 ID:X/3K4Nce
>>718 石高はともかく格なら毛利に対抗する連中いるでしょ
720 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 20:49:31.64 ID:Yp/gwkri
>>663 >>さらに突き詰めていけば三成が基盤を固められなかったのは、東軍が強固な基盤を築いていたからではなく
>>三成自身の力のなさ、ひいては西軍諸将の力の拙さ纏まりのなさであろう。
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
実際三成は蔚山城攻防での論考交渉の際や島津家倉入り地加増問題など
一貫して豊臣の倉入り地の維持・諸大名の倉入り地や石高増加反対や家康と諸大名との会合を糾問したりと
豊臣家のために動いているのに対し家康は五大老の許可なく私婚で諸大名取り込んだり島津の倉いり地問題や庄内の乱の協力などで積極的に
諸大名を取り込み豊臣家のためなどではなく自勢力拡大・専横を行っているのは明らかで
その証拠に三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いている
むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎずまとまっていたとする根拠がない
西軍の敗因はあくまで毛利家の美濃口への援軍要請無視・優先順位低く要害の構えられた伊勢方面軍編成による戦力分散
・毛利一族が総大将にかかわらず不戦・毛利輝元出陣なし・小早川の離反と
毛利のあまりのヘタレぶりで負けただけにすぎない
721 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 20:56:52.43 ID:Yp/gwkri
>>660 その豊臣秀頼を福島加藤黒田始め武功派連中皆見捨てて家康の犬になっている件…
722 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:02:53.74 ID:Yp/gwkri
>>西軍の大義名分が失われたとするのは何の関係もない毛利輝元を担いだからだろうが
大義名分なんて家康側にははなからなさすぎる
禁止された私婚をどうどうと執り行うどころかそれに対する大老連署での詰問に対し軍事力行使で奉行衆を逆に謝らせ
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
島津など他大名にも接触しまくり恩を売りまくり
はっきりいって徳川方には大儀名分も糞もあったものじゃなく
無理やり無茶苦茶なやり方で豊臣家を崩壊させたにすぎん
723 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:05:22.84 ID:Yp/gwkri
>>当たり前。必勝を期待するなら秀頼の成長を待って、秀頼の裁可を仰ぐのが最も好ましい判断だし
あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて
前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
関が原の戦いも美濃口の防衛要請無視しまくって四国やら伊勢湾やらどうでもいいところに軍送った輝元のアホさ加減で負けただけだし
美濃口に大軍で援軍きてたら東軍は木曽川の防壁と美濃の秀信や木造などに阻まれて進む事など到底適わないだろうし
畿内方面に展開してる部隊だけなら西軍のがずっと多いはずだから西軍に戦力の集中を考案できる優秀の戦略眼もった武将がトップなら
東軍など一網打尽にできたはず。
総大将輝元がアホみたいなところに軍進めたり
肝心の決戦で軍動かさなかったり馬鹿みたいな行動したおかげで三成は寡兵で戦わなくてはならなくなり西軍は大敗した
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
724 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:05:38.07 ID:jcwa0pt6
If屑 vs だか
725 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:12:39.87 ID:G7vQXq7T
726 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:13:25.69 ID:Yp/gwkri
>>620 清正は9/7に→本多正信・西尾吉次に向けて家康の清須への到着に対応し、行動するといっている
さらに9/11に尾張到着を受けて、行動を開始するといっているので
関が原会戦前より清正が東軍方だったのは明白
また9/7の書状によれば家康の元に「一人進上申候」と言っていて人を送っているのがわかる
727 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:22:48.48 ID:2TR4C0jV
>>699 ソース出せないなら黙っておけばいいのにw
しかも三河物語の記述を捏造とか
お前上の方で丹羽歴代年譜録についても適当なこと言ってたけど、
読んだことないの丸分かりだぞ
728 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:30:23.35 ID:Yp/gwkri
>>697 >>なら家康はなぜ上杉征伐と称して軍を率いる立場にあったんですか?
公儀無視して家康の私婚政策やら諸大名への恩売りで篭絡されたアホな大名やら
三成憎しで凝り固まっている人間らが家康側についたからだろ。
私婚問題で奉行衆や大老衆に詰問された時も軍事力行使で無理矢理乗り切っているし
三成襲撃事件に見えるように福島加藤武功派連中は豊臣の事より三成憎しの個人的感情で
家康と組み、三成を失脚させ、家康に大チャンス与えた張本人
>>誰に認めて貰えたから、そういう立場についていると思っているんですか?
同上。
729 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:36:57.29 ID:Yp/gwkri
>>691 >>関ヶ原合戦後の秀頼=蔵入地が3分の1以下、徳川幕府が成立し家康が征夷大将軍になる
まず徳川幕府が成立、征夷大将軍就任、豊臣蔵入り地三分の1と言う時点でろくに権力行使できていない
豊臣秀頼にそんな権力あるならそれ自体がありえず、削減された西国大名分を豊臣分として加増したり
秀頼本人が関白になるくらいじゃないとおかしい
>>・豊臣秀頼が右大臣に昇進(公卿補任)
官位自体は無意味とは言わないがそれに応じた権力発動ができるかどうかはまた別問題
実際に秀頼や豊臣家の命令で何かしら軍事行動なり諸大名の加増厳封なり
実力行使している場面がないと話にならない
>>・豊臣秀頼が徳川家康と会談し、加藤清正、浅野幸長、池田輝政、藤堂高虎が伴をする(家忠日記、徳川実記)
それ自体がなぜ「秀頼の権限・実力行使」になるんだ?
傀儡みたいな当主でも前主君の子なら、建前上そのくらいのことはやるだろ
730 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 21:56:59.03 ID:X/3K4Nce
>>727 ごめんごめん
三河物語じゃなくて板坂卜斎覚書だけだったな
有名な方を挙げた方がわかりやすいと思って「秀頼たいめん」の記述を勘違いしただけだよ
すまんなぁ
731 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:03:05.04 ID:X/3K4Nce
>>720 >>これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は
>>無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
そのわりには吉川は中立、小早川ほか数名寝返り
三成と家康の所業に苦言を呈していた三中老は家康に所属と
全く持って三成が統御できている節がないんですがw
>>その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後
所詮その権力が付け焼刃でしかないというのは既に述べてますけどね
そもそもあなたも「むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎず」
って言ってますやん。家康が持っている権力もその程度なんですよ
>>721 家康の狗に成り下がったのは家康が確たる権力を築いた後であって
関ヶ原直前期の家康は他の人も言うように家康と三成の対立からくる派閥抗争でたまたま家康についているだけ
この時点で秀頼が出てきたら家康はどうすることもできない
732 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:04:55.11 ID:2TR4C0jV
>>730 謝らなくて良いから早くソース出せよ
適当なこと言って誤魔化そうとしてもバレバレなんだからな
お前みたいに議論で優位に立とうとするために資料捏造するクズが多くて困る
どうせ毎日2chに長時間張り付くニート同然の生活してるんだから
図書館にでも籠ってまともな資料探してこいや
733 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:10:04.21 ID:X/3K4Nce
>>722 >>このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
>>他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方
全然潰せてませんけどね
浅野は当人が隠居しただけで終わってますし、
奉行衆に至っては家康に対して態度を軟化しただけで、何もできずに終わっています
結局この時の家康の権力固めというのは「力」を背景に「脅迫」で他大名に頭下げさせているだけで、
力そのものも不安定であるうえに、秀頼が出てくればあっさり終わってしまうような不安定極まりないものにすぎない
>>豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
石田三成がいる限り徳川家康が対立勢力を纏め上げることなんぞ容易でしょうなw
そんなことをするくらいなら秀次事件にかこつけて三成ぶっ殺した方がよっぽど豊臣のためになります
734 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:13:22.59 ID:X/3K4Nce
>>732 あー君アレか
ある事実を述べた人には「その話は捏造妄想だ」とか言って
史料名を出した人には「この史料の中身は信用できない」とか言って
原文丸写しした人には「史料の中身を改竄している」とか言っちゃう人か
まあ悪いこと言わないから、「板坂卜斎覚書」の件は君が下がった方がいいよ
君が意地になって認めなくても、第三者が認知できちゃうからね
735 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:18:43.17 ID:X/3K4Nce
>>726 >>関が原会戦前より清正が東軍方だったのは明白
書状で言うだけなら、誰でもできちゃうんですよ
結局清正は東軍のために何か動きましたか?
本戦前に東軍として行動しましたか?
>>728 >>三成襲撃事件に見えるように福島加藤武功派連中は豊臣の事より三成憎しの個人的感情で
>>三成憎しで凝り固まっている人間らが家康側についたからだろ
やっぱり三成が蟄居されたまま消えればよかったんじゃないかw
三成がいなければ東軍についた豊臣家臣は家康のもとから離れるし
家康が豊臣家臣の掌握に苦心している間に秀頼が出てきてゲームセット
三成が辞任されたのにまた出戻りするから皆怒るんだよね
しかも出てくるだけ出てきたわりに、大したことできずに死んじゃうしw
736 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:31:17.64 ID:Yp/gwkri
>>そのわりには吉川は中立、小早川ほか数名寝返り
その通りで全くもって毛利一族のヘタレ具合で負けただけなのが西軍
>>その権力が付け焼刃でしかないというのは
具体的にどういう点でだ?
後付け焼刃程度でも
付け焼刃的権力すらろくにもたない連中しかいない時点では、強力な権力持っているともいえる
>>むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎず
いや、西軍と東軍のまとまりの優劣の話であって権力度合いの話ではない
>>家康の狗に成り下がったのは家康が確たる権力を築いた後であって
家康が権力築こうが築くまいが秀頼が元は主君でその他は秀頼に従わなきゃいけないんだから
そんなのは理由にならない
大阪の陣で武功派連中も皆家康の犬に成り下がってる時点で豊臣どうこうよりも三成にくしなどという私的感情でおろかに豊臣家を衰退させたにすぎない
>>奉行衆に至っては家康に対して態度を軟化しただけで
そもそも筋目から家康が私婚問題で糾弾されたら軍を動かしたり武功派連中の警護で
大軍が参道して奉行衆が謝罪入れてる時点で豊臣家を家康が踏みにじり秩序を破壊している
>>全然潰せてませんけどね浅野は当人が隠居しただけで終わってますし
>>560に書いたように皆順繰りに敵対勢力は潰され逆に婚姻政策やら領地問題やらで恩売りまくって
自派閥拡大しようとしてるから秀頼成人までの時点まで待つなんて到底無理
それこそ家康によって天下簒奪が完成するだけ
737 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:36:45.84 ID:Yp/gwkri
>>735 >>書状で言うだけなら、誰でもできちゃうんですよ
>>726で十分
他の寝返った連中と違い清正は寝返ってもいないし三成方とも連絡とってないし
寝返った勢力は寝返った時点で西軍と判断されるだけでそうでない清正は東軍と呼応する事を約し
実際その通りの行動で戦役は終わったので東軍
いやそもそも豊臣家のことを考えるなら消えるべきは三成ではなく武功派連中
三成は他大名の領地問題やら家康の専横に対して一貫して豊臣蔵入り地維持or増加&徳川派閥拡大阻止&他大名の倉入り地削減など
豊臣のために動きまくってるが
武功派連中は好き嫌いで三成を敵と見定め、家康にまんまと利用された上に秀頼成人後も豊臣を見事見捨てて徳川の犬になりさがっている
738 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:40:17.25 ID:X/3K4Nce
>>736 >>付け焼刃的権力すらろくにもたない連中しかいない時点では、強力な権力持っているともいえ
つまり君は三成のボロクズな権力基盤と比較して、家康のそれを「強力」と言っているんだろ?
じゃあ豊臣秀頼じゃ当時の家康なら相手にならないよ、「相手が三成だから」「三成が貧弱な権力しか持っていないから」勝てただけ
>>家康が権力築こうが築くまいが秀頼が元は主君でその他は秀頼に従わなきゃいけないんだから
家康は江戸幕府開府してますし、秀頼は関白ですらない
武士たるもの将軍に従うのが当然の役目、そして将軍は秀忠、前将軍は家康
>>大軍が参道して奉行衆が謝罪入れてる時点で豊臣家を家康が踏みにじり秩序を破壊している
所詮その家康による「権力固め」「秩序破壊」も一過性。
>>皆順繰りに敵対勢力は潰され逆に婚姻政策やら領地問題やらで恩売りまくって
浅野や前田は滅ぼされましたか?
家康に反対した三奉行は誰か1人でも滅ぼされましたか?
あの上杉ですら最終的には許されてますけど
>>自派閥拡大しようとしてるから秀頼成人までの時点まで待つなんて到底無理
秀頼は関ヶ原当時8歳だからあと2、3年待てばいい
上杉やさらに先目をつけられる勢力が三成や輝元のような無能連中じゃなければ
家康とていちいち敵対したり弾劾したりするのにも時を費やす。
739 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:44:30.45 ID:X/3K4Nce
>>737 >>清正は東軍と呼応する事を約し実際その通りの行動で戦役は終わったので東軍
ただ勝ち馬に乗っただけですけどね
関ヶ原終わる前までは東軍のためなどほとんど何もしていない清正
>>三成は他大名の領地問題やら家康の専横に対して一貫して豊臣蔵入り地維持or増加
>>&徳川派閥拡大阻止&他大名の倉入り地削減など豊臣のために動きまくってるが
全然豊臣のために動いてませんけど
代替わりの際に他大名を厳しく律して地位強化なんて、他大名から恨み受ける元ですし
強固な支配体制を確立した徳川幕府ならいざ知らず、幼君秀頼でそれをやるのはどう考えても無謀
そら三成に反対意見や対立意見がひっきりなしに出るのは当然のことですなぁ
740 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:47:13.21 ID:2TR4C0jV
>>734 会津征伐前に家康が後陽成帝や豊臣家から下賜を受けたとか、
史籍集覧で慶長年中ト斎記の該当日見なくてもWikipediaですら書いてんだよ
このスレで要求されてるのは秀頼成人まで家康は何もできなかったとか
宇喜多総大将の方が妥当だとかいうお前の主張のソースなんだよ
必死で本論と関係ないことに話を振ってその資料を挙げて何かを証明したように取り繕ってるが、
お前が平日に仕事をせず休日に家族友人恋人と出掛けたりもせず
1日中2chするしか能がないニートだという事実と同様、皆にはバレバレだぞ
つうか三河物語や丹羽歴代年譜録の捏造ばれてんのによく恥ずかしげもなく書き込み続けられるな
さすがニート様は違うと感心するよ
741 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 22:53:18.68 ID:lA+26Jqu
>>690 1.の逸話だが、逸話集に記載されてる戦国武将の智謀を示す話なんて大なり小なりこんなもん
三国志演義の軍師のように敵に離間策を仕掛けたとか
敵軍師の謀略を見破ったとかそういうレベルの話は有っても稀
石田三成にはこの手の才覚を示す逸話が秀吉の次くらいに多いので、それは評価されるべきだと思う
2.の三成挙兵については、6月20日付直江兼続宛書状でも三成が自慢げに書いてる通り、
直江に挑発された家康が上杉討伐のため東下している間に佐和山から発して大坂入り、
その後毛利輝元と宇喜多秀家と協力して家康打倒の兵を挙げるということで、
途中までは三成の計画通りに進んだということが分かる
挙兵の際に失脚していた、というのは政争に敗れたというわけだから、そこは確かにマイナス要因かもね
政争の相手が五大老筆頭で絶大な権勢を振るった家康だったということは考慮して頂きたいが
3.は意見の別れるところだろうね
事実かどうか怪しいとされる秀次讒言や氏郷暗殺に加え、
三成は唐入りの間に加藤清正失脚や小早川秀秋移封のために動いているが、
秀吉存命中は豊臣政権の脅威となりうる武将の排除や軍紀の徹底というような意味が有った策謀も、
秀吉死後は豊臣政権内の混乱や対立を助長する一因となったとも言える
まあ三成にとっては秀吉の寿命まではどうしようもないことだし、
松永久秀の三好一族殺害疑惑も三好家衰亡に繋がっただけなのに
ゲーム中で高く評価されてるし別に良いんじゃね、と思う
現状ゲーム中で石田三成と同じ知略85が付いてる武将は
蘆名盛氏、壬生綱房、筧十蔵、河田長親、安国寺恵瓊、上村頼興、伊集院忠朗たち
壬生や上村のように味方を讒言、暗殺した奸臣(徳川史観での三成と同じと言える)もいれば、
筧のような講談枠忍者武将もいるし、恵慶のような三成と同じように刑死した西軍首脳もいる
蘆名や河田、伊集院も名将だが知略を示すような事績には乏しいし、三成もこんなもんじゃないの、と思う
大谷吉継のように知略90台以上なら過大と言われても仕方ないだろうが
742 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:00:22.69 ID:0IRsYKNS
もう能力関係なくなってきたな
関が原の話したかったら
日本史板や戦国板いけよ
743 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:00:37.52 ID:X/3K4Nce
>>740 秀頼や宇喜多の話は既に出したから君が見ていないだけでしょ
江戸幕府成立後の圧倒的徳川優勢と思える時期ですら家康は
秀頼との関係を重視しまくっているし、関ヶ原の敗戦状況を鑑みれば
宇喜多の方が妥当であったとする見方はごく自然な発想だし
そもそも俺自身あの場で最もよかった行動は「秀頼の成長を待ち裁可を仰ぐ」と
散々言っていて、前述の秀頼の話で十分説明できているだろ
この多種多様な業務体系の多い現代日本で、まだそんなおっさんみたいなこと言ってるのか
しかも今日は日曜日、昨日は土曜日で普通の社会人ですらわんさかいる曜日に
わざわざ「曜日感覚のないニートですよ」と取られるような言い方しなくてもいいと思うぞ。
俺自身3年前から2年前まで1年間転職による失業無職期間があったから偉そうなことは言えないが
「無職無職」だとネットで声高に叫ぶのは経験上同類項かガキくらいだからや恥かくだけだよ
744 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:07:49.47 ID:lA+26Jqu
745 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:12:25.39 ID:X/3K4Nce
>>744 「貴重な余暇を毎日長時間2chで書込することに費やす」ことを嘲り笑うこと自体は大いに結構なんだけど、
今回の場合は言ってる人間が言ってる人間なんだよな。ID:2TR4C0jVは今日だと昼頃からいて、
今この深夜でも文句垂れているくらいだし、はっきり言って人様のライフスタイルを嘲笑できる種の人間ではないでしょ
あんまり言いたくないが、「文句しか言っていない」「そのわりに投稿量、投稿回数が多い」というのは
むしろこんな下衆い俺ですら、ちょっと引く
746 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:17:26.59 ID:X/3K4Nce
>>741 三成の知略に戻ってきたのでそこに話題をこちらも移すが
まず筧は講談忍者なのでハナから除外していいだろう
安国寺は三成と同種の評価体系のままだから、量の大小はわからぬが下げるべき
上村と壬生は難しいところだが個人的にはこのままでいい
蘆名は現状維持が妥当、河田伊集院も下げるべき
というか、三成が典型的なのだが逸話の大半に政治絡みの話があり、
実際に政治で多く評価を貰っている人間が
知略でも多くの加点を貰うというのはどうなのか単純に疑問
特に三成のような「最後は失敗した」系でこれを貰うのは
747 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:34:24.63 ID:Yp/gwkri
>>つまり君は三成のボロクズな権力基盤と比較して、家康のそれを「強力」と言っているんだろ?
いや家康の専横がまかり通るような状態だった状況に比していえば家康程度でもある程度強力だったといえるのではと指摘しただけ
そもそも三成に限った話ではなく豊臣家の状態が三成に私恨で豊臣宗家の事を忘れる武功派の愚行、
家康にいちゃもんをつけられて攻めるポーズを見せたら即座に誤り人質要求されそれに従う浅野・前田・細川ら
そして「天下殿」の世評を得る家康、など豊臣の状態自体が既にグラグラだというだけ。
>>家康は江戸幕府開府してますし、秀頼は関白ですらない
>>武士たるもの将軍に従うのが当然の役目、そして将軍は秀忠、前将軍は家康
つまり豊臣恩顧武将がそういう状態にしただけ。
豊臣恩顧武将が戦後の論功行賞で異を唱えるなり江戸幕府開設を妨げるなり秀頼の官位昇進を強く促すなり
いくらでも防ぐ手法はあったわけで。豊臣の事を忘れ、家康に利用され、家康の権力強化を妨げず
権力が強化された家康の犬になり豊臣を見捨てたのが豊臣武功派連中
>>所詮その家康による「権力固め」「秩序破壊」も一過性
根拠不明
>>浅野や前田は滅ぼされましたか? 家康に反対した三奉行は誰か1人でも滅ぼされましたか?
いや滅ぼされたとかどうとかではなく「敵対勢力を潰す」
>>560 >>秀頼は関ヶ原当時8歳だからあと2、3年待てばいい
10、11じゃ幼君もいい所じゃねぇかw
普通元服行うのは1516だろw
>>上杉やさらに先目をつけられる勢力が三成や輝元のような無能連中じゃなければ
意味不明
三成襲撃事件→三成失脚・家康「天下殿」の世評→前田浅野細川へのいちゃもん→屈服
また対島津みたいに多大な恩売るor婚姻・同盟→徳川勢力拡張
と順繰りに潰されていくだけ
>>ただ勝ち馬に乗っただけですけどね
>>関ヶ原終わる前までは東軍のためなどほとんど何もしていない清正
勝ち馬にのろうがのるまいが東軍の家康と東軍に呼応して挙兵すると約束し
東軍の尾張着陣にあわせて行動開始している(9/7・9/11書状)のでどうみても東軍
また9/7の書状によれば家康の元に「一人進上申候」と言っていて人を送っているのがわかる
748 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:39:41.56 ID:Yp/gwkri
>>代替わりの際に他大名を厳しく律して地位強化なんて、他大名から恨み受ける元ですし
お前は徳川は他大名をろくに潰していないからたいした権力ないと一方でいい
石田は他大名の領地を少しでも削って豊臣蔵入り地を少しでも増大させようとする事が豊臣の基盤強化に繋がらないと妄想し
矛盾しまくりなことに少しでもきづけアホw
>>幼君秀頼でそれをやるのはどう考えても無謀
幼君だからこそ基盤をしっかり築く事が政権の安定化になる
幼君にもかかわらず配下大名の領地が膨大にあり
家臣達の専横・私利私欲・私的感情で崩壊したのが豊臣家
749 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:44:03.14 ID:Yp/gwkri
>>そら三成に反対意見や対立意見がひっきりなしに出るのは当然のことですなぁ
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
結局武功派連中は私利私欲につられて恩賞を減らそうとする三成を毛嫌いして豊臣宗家の事を忘れ家康に利用されたにすぎない
そんな奸臣こそ豊臣を崩壊させた張本人
750 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:48:41.36 ID:Yp/gwkri
俺が読んでいる吉川弘文館の本だと家康と伊達・蜂須賀・福島ら3大名家との間に交わされていた婚姻の密約は
同盟の締結を意味し、秀吉の取り交わした誓詞においてこの種の私婚は堅く禁じられていたとしている
1/21大阪の大老・奉行たちは3中老(中村・生駒・堀尾)を使者として家康の元に遣わし家康のかどを詰問
弁明のかなわぬ時は大老の列から取り除くと申し入れる
家康は大阪よりの糾問使に対し家康は伏見屋敷を増強し変にそなえる
豊臣系武将や榊原・本多らもこの事態をきいてかけつけ伏見の徳川屋敷には大軍勢が集結しこのため大阪の5奉行は逆にきわめて厳しい立場となり
家康を糾問するどころか5奉行側が家康にわびをいれるというめちゃくちゃな形での解決となる
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
751 :
名無し曰く、:2013/02/03(日) 23:48:56.11 ID:Yp/gwkri
また直接婚姻を結んでいない大名家も徳川家と親交があったようだ
島津家の場合慶長3年11月に義久が伏見家康邸を訪れる、後日その返礼として家康が義久を訪れる(大村市兵衛重頼古戦術書附)
これを知った三成は義弘・忠恒は朝鮮帰国後博多において三成より譴責を受け、そのため義久が義弘・忠恒に対し
「内府様へ参候事、又私宅へ入御之事、曾別心有之儀不申入、又不承候」と起請文を出すまでの騒ぎとなる
家康と島津家の間に梵舜や近衛前久・信伊が介在し両者の間を取り持つ
三成からの譴責に対する起請文は単なる見せ掛けである事が家康が義弘・忠恒の私宅をわずか4日後に訪問している所からわかる
また慶長4年1/9家康の差配によって島津家へ五万石の加増が「朝鮮し川表」における「御忠孝無比類、依之為褒美」与えられる
これも三成は反対するが家康によって強行される
対する三成と島津の関係は、島津は豊臣政権への服属以来、三成に細心の注意を払い接してきた人物であった。
島津領太閤検地の総責任者であり島津領豊臣倉入地の代官を務める三成は島津家への影響力が非常に大きく
三成の意向はすなわち豊臣政権の意向であった。
だが島津と家康が接近する中、三成とは距離が置き始めていた。それは慶長4年3/9忠恒が、三成が最も信頼し、
島津家内部で三成に最も協力的であった島津家老伊集院幸琉を誅殺した事に現れている
これは先学の指摘するとおり、島津家の豊臣政権からの離脱の第一歩といえよう。そしてこれは秀吉死去後の豊臣政権内部での三成の地位の弱体化なくしては
起こり得ない事であった
忠恒の幸柳誅殺行動に対し三成は「御立腹」で、義久は三成に「幸柳生害之儀、今度得御意急二仕出し候之処と存候」と言い訳にもならない弁明をしながら
「又八郎(忠恒)短慮之仕立、言語同断不及是非候」、「曲事深重二候」と三成の腹立ちに同調し、それを懸命に鎮めようとしている
さらに後日銀子十枚を贈答する。しかしこの前後の忠恒宛の書状で義久が忠恒をこの件で叱責した形跡は見られず、成敗そのものには異存はなかったと思われる
この事件以来三成から島津家への書状はなくなり疎遠になってきているのがわかる
さらにその後「庄内の乱(幸琉の子忠真の反乱)」において家康は終始島津家の立場に立ち、乱の収拾に尽力する
関が原の合戦直前まで島津家は家康の指示を尊重する形で乱の処理を行い家康の対応は島津家にとって大方において満足すべきものだった
家康もまたこの乱の処理を契機に諸大名への軍事動員権を行使するなど「公儀」としての立場を獲得していく
上記のように三成は一貫して家康の専横を弾劾しまくり家康は豊臣の秩序を崩壊させようと動いているのは明白
個人的感情と私利私欲で豊臣家への恩を忘れ徳川の犬に成り下がった馬鹿な豊臣武功派連中と
圧倒的大軍と総大将としての地位がありながらなにもしないどころか関係ない方面に軍を出し後詰援軍要請無視し続けたアホ輝元によって
豊臣政権は崩壊した
752 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 00:04:37.84 ID:oxdhDFc6
黒川晴氏
伊達政宗を破りかけてるから
753 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 00:53:08.93 ID:juXa9+U6
お前らもうそろそろ本当に戦国板帰れよ
秀吉死後から関ヶ原前後の話すると
家康の手腕凄いよねしか答え出ないだろ。
754 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 01:16:09.06 ID:x9viooSS
能力値に関係ある話してるのに他スレ誘導とかアホじゃねぇの
知識ろくにねーからまともに議論参加できねー糞カスはROMってろよクズ
755 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 02:57:11.83 ID:cdHdjhih
関ヶ原でそれなりに頑張ってた宇喜多秀家もう少し統率武勇上がらないかな
あれじゃ福島正則に一瞬で叩き潰されるだろ
政治は内政干渉されないと家臣まとめきれなかったくらいだしマイナス30でもいい
756 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 03:50:46.85 ID:x9viooSS
東軍武闘派連中の統率は異常に過大
輝元の援軍要請無視によって圧倒的兵力差が生じ美濃国人も寝返りばかりになって美濃突破できただけなのに
757 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:02:52.45 ID:j5f64daE
マイナスするならそいつらより輝元だろ(すでに低い評価だが)
輝元なんてあんだけ圧倒的大軍と総大将の肩書きがありながら何もできず大厳封食らって
吉川小早川断絶とか情けなさ過ぎる
輝元の場合対宇喜多や南条の攻防も雑魚だから低評価するには申し分ない実績
関が原をおこしてしまった時点で西軍の負けは確定しているように語り結果三成は無能とののしるやからがいるが
それはあくまで結果論としかいいようがない
関が原会戦時の三成人数書立や慶長見聞集、真田文書を見ると西軍は畿内だけで18万も集まり
小早川や朽木らの離反を差しいても単純に東軍の兵力を圧倒している
これでは兵力的に考えても陣地でも東軍を粉砕する兵力として十分すぎる
負けたのは総大将であり戦局を決定できる大軍を有しながら大坂に居座り何もせず改易された輝元や
軍勢派遣を止めたとされる吉川や秀元ら毛利一族のせいとしかいいようがない
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
ただ総大将としての三成の地位は家康に対抗できるものでなく、毛利輝元も総大将引き受けながら何もせず大厳封食らうヘタレぶりで
西軍は木っ端微塵になった。
758 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:04:55.22 ID:j5f64daE
俺が読んでいる吉川弘文館の本だと家康と伊達・蜂須賀・福島ら3大名家との間に交わされていた婚姻の密約は
同盟の締結を意味し、秀吉の取り交わした誓詞においてこの種の私婚は堅く禁じられていたとしている
1/21大阪の大老・奉行たちは3中老(中村・生駒・堀尾)を使者として家康の元に遣わし家康のかどを詰問
弁明のかなわぬ時は大老の列から取り除くと申し入れる
家康は大阪よりの糾問使に対し家康は伏見屋敷を増強し変にそなえる
豊臣系武将や榊原・本多らもこの事態をきいてかけつけ伏見の徳川屋敷には大軍勢が集結しこのため大阪の5奉行は逆にきわめて厳しい立場となり
家康を糾問するどころか5奉行側が家康にわびをいれるというめちゃくちゃな形での解決となる
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
759 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:06:27.06 ID:j5f64daE
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
馬鹿かお前
その関が原でどうして戦う事になったのか考えてみろよタコ
東軍が尾張口に来たときに輝元が散々美濃口の防衛要請無視したり大垣篭城組の後詰要請無視して
伊勢湾だの四国だのどうでもいいところに兵チラシまくった結果だろうが
大体石田なんて大きな軍団持ってないしほとんど毛利一族のどうこうで決まるたたかいじゃねぇか
持ってた地位と軍団の規模無視して無理矢理捏造擁護で輝元擁護してんじゃねぇよクズ
760 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:07:44.94 ID:j5f64daE
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
実際三成は蔚山城攻防での論考交渉の際や島津家倉入り地加増問題など
一貫して豊臣の倉入り地の維持・諸大名の倉入り地や石高増加反対や家康と諸大名との会合を糾問したりと
豊臣家のために動いているのに対し家康は五大老の許可なく私婚で諸大名取り込んだり島津の倉いり地問題や庄内の乱の協力などで積極的に
諸大名を取り込み豊臣家のためなどではなく自勢力拡大・専横を行っているのは明らかで
その証拠に三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いている
むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎずまとまっていたとする根拠がない
西軍の敗因はあくまで毛利家の美濃口への援軍要請無視・優先順位低く要害の構えられた伊勢方面軍編成による戦力分散
・毛利一族が総大将にかかわらず不戦・毛利輝元出陣なし・小早川の離反と
毛利のあまりのヘタレぶりで負けただけにすぎない
>>西軍の大義名分が失われたとするのは何の関係もない毛利輝元を担いだからだろうが
大義名分なんて家康側にははなからなさすぎる
禁止された私婚をどうどうと執り行うどころかそれに対する大老連署での詰問に対し軍事力行使で奉行衆を逆に謝らせ
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
島津など他大名にも接触しまくり恩を売りまくり
はっきりいって徳川方には大儀名分も糞もあったものじゃなく
無理やり無茶苦茶なやり方で豊臣家を崩壊させたにすぎん
761 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:09:16.04 ID:j5f64daE
あのタイミングで三成が挙兵しなきゃ家康の無茶苦茶なやり方で次々いちゃもんつけられて
前田や浅野やらみたいに次々降伏するだけの話だし
秀頼成人までまだ時間があるし既に天下人という世評を受け武功派連中により三成失脚、
家康は諸将の意向無視で勝手に婚姻同盟派閥形成するし島津への倉いり地問題やらで散々恩売ったりしてるし
関が原の戦いも美濃口の防衛要請無視しまくって四国やら伊勢湾やらどうでもいいところに軍送った輝元のアホさ加減で負けただけだし
美濃口に大軍で援軍きてたら東軍は木曽川の防壁と美濃の秀信や木造などに阻まれて進む事など到底適わないだろうし
畿内方面に展開してる部隊だけなら西軍のがずっと多いはずだから西軍に戦力の集中を考案できる優秀の戦略眼もった武将がトップなら
東軍など一網打尽にできたはず。
総大将輝元がアホみたいなところに軍進めたり
肝心の決戦で軍動かさなかったり馬鹿みたいな行動したおかげで三成は寡兵で戦わなくてはならなくなり西軍は大敗した
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。
>>そのわりには吉川は中立、小早川ほか数名寝返り
その通りで全くもって毛利一族のヘタレ具合で負けただけなのが西軍
>>その権力が付け焼刃でしかないというのは
具体的にどういう点でだ?
後付け焼刃程度でも
付け焼刃的権力すらろくにもたない連中しかいない時点では、強力な権力持っているともいえる
>>むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎず
いや、西軍と東軍のまとまりの優劣の話であって権力度合いの話ではない
>>家康の狗に成り下がったのは家康が確たる権力を築いた後であって
家康が権力築こうが築くまいが秀頼が元は主君でその他は秀頼に従わなきゃいけないんだから
そんなのは理由にならない
大阪の陣で武功派連中も皆家康の犬に成り下がってる時点で豊臣どうこうよりも三成にくしなどという私的感情でおろかに豊臣家を衰退させたにすぎない
>>奉行衆に至っては家康に対して態度を軟化しただけで
そもそも筋目から家康が私婚問題で糾弾されたら軍を動かしたり武功派連中の警護で
大軍が参道して奉行衆が謝罪入れてる時点で豊臣家を家康が踏みにじり秩序を破壊している
>>全然潰せてませんけどね浅野は当人が隠居しただけで終わってますし
>>560に書いたように皆順繰りに敵対勢力は潰され逆に婚姻政策やら領地問題やらで恩売りまくって
自派閥拡大しようとしてるから秀頼成人までの時点まで待つなんて到底無理
それこそ家康によって天下簒奪が完成するだけ
762 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:11:48.17 ID:j5f64daE
>>つまり君は三成のボロクズな権力基盤と比較して、家康のそれを「強力」と言っているんだろ?
いや家康の専横がまかり通るような状態だった状況に比していえば家康程度でもある程度強力だったといえるのではと指摘しただけ
そもそも三成に限った話ではなく豊臣家の状態が三成に私恨で豊臣宗家の事を忘れる武功派の愚行、
家康にいちゃもんをつけられて攻めるポーズを見せたら即座に誤り人質要求されそれに従う浅野・前田・細川ら
そして「天下殿」の世評を得る家康、など豊臣の状態自体が既にグラグラだというだけ。
>>家康は江戸幕府開府してますし、秀頼は関白ですらない
>>武士たるもの将軍に従うのが当然の役目、そして将軍は秀忠、前将軍は家康
つまり豊臣恩顧武将がそういう状態にしただけ。
豊臣恩顧武将が戦後の論功行賞で異を唱えるなり江戸幕府開設を妨げるなり秀頼の官位昇進を強く促すなり
いくらでも防ぐ手法はあったわけで。豊臣の事を忘れ、家康に利用され、家康の権力強化を妨げず
権力が強化された家康の犬になり豊臣を見捨てたのが豊臣武功派連中
>>所詮その家康による「権力固め」「秩序破壊」も一過性
根拠不明
>>浅野や前田は滅ぼされましたか? 家康に反対した三奉行は誰か1人でも滅ぼされましたか?
いや滅ぼされたとかどうとかではなく「敵対勢力を潰す」
>>560 >>秀頼は関ヶ原当時8歳だからあと2、3年待てばいい
10、11じゃ幼君もいい所じゃねぇかw
普通元服行うのは1516だろw
>>上杉やさらに先目をつけられる勢力が三成や輝元のような無能連中じゃなければ
意味不明
三成襲撃事件→三成失脚・家康「天下殿」の世評→前田浅野細川へのいちゃもん→屈服
また対島津みたいに多大な恩売るor婚姻・同盟→徳川勢力拡張
と順繰りに潰されていくだけ
>>ただ勝ち馬に乗っただけですけどね
>>関ヶ原終わる前までは東軍のためなどほとんど何もしていない清正
勝ち馬にのろうがのるまいが東軍の家康と東軍に呼応して挙兵すると約束し
東軍の尾張着陣にあわせて行動開始している(9/7・9/11書状)のでどうみても東軍
また9/7の書状によれば家康の元に「一人進上申候」と言っていて人を送っているのがわかる
>>代替わりの際に他大名を厳しく律して地位強化なんて、他大名から恨み受ける元ですし
お前は徳川は他大名をろくに潰していないからたいした権力ないと一方でいい
石田は他大名の領地を少しでも削って豊臣蔵入り地を少しでも増大させようとする事が豊臣の基盤強化に繋がらないと妄想し
矛盾しまくりなことに少しでもきづけアホw
>>幼君秀頼でそれをやるのはどう考えても無謀
幼君だからこそ基盤をしっかり築く事が政権の安定化になる
幼君にもかかわらず配下大名の領地が膨大にあり
家臣達の専横・私利私欲・私的感情で崩壊したのが豊臣家
>>そら三成に反対意見や対立意見がひっきりなしに出るのは当然のことですなぁ
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
結局武功派連中は私利私欲につられて恩賞を減らそうとする三成を毛嫌いして豊臣宗家の事を忘れ家康に利用されたにすぎない
そんな奸臣こそ豊臣を崩壊させた張本人
763 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:12:38.74 ID:j5f64daE
俺が読んでいる吉川弘文館の本だと家康と伊達・蜂須賀・福島ら3大名家との間に交わされていた婚姻の密約は
同盟の締結を意味し、秀吉の取り交わした誓詞においてこの種の私婚は堅く禁じられていたとしている
1/21大阪の大老・奉行たちは3中老(中村・生駒・堀尾)を使者として家康の元に遣わし家康のかどを詰問
弁明のかなわぬ時は大老の列から取り除くと申し入れる
家康は大阪よりの糾問使に対し家康は伏見屋敷を増強し変にそなえる
豊臣系武将や榊原・本多らもこの事態をきいてかけつけ伏見の徳川屋敷には大軍勢が集結しこのため大阪の5奉行は逆にきわめて厳しい立場となり
家康を糾問するどころか5奉行側が家康にわびをいれるというめちゃくちゃな形での解決となる
この後前田利家など大老、奉行衆と家康との確執はぬきがたくなり細川忠興はそれを仲介する
家康の暗殺計画が奉行衆らによって企てられ家康は向島に城を移す
利家が死亡し、今度は武功派7将によって三成襲撃計画が起こり、家康は公儀にのっとり武力行使をやめさせる
石田三成襲撃事件本質が蔚山篭城戦をめぐるものであるとわかる(3/19 5大老連署状)
この問題の解決により家康は「天下殿」という世評を受ける(多聞院日記)
そのような中9月に大阪へ家康が赴いた際、暗殺計画があることを増田より告げられる。前田・浅野・大野らが首謀
この一件より家康は伏見より大阪西の丸へ移り天守閣を築造して、自らが秀頼と並び立つ立場であると天下に誇示する
家康は先の暗殺計画の謀議者の摘発に乗り出し土方・大野を配流処分とし
浅野は奉行職を解任し国許へ蟄居とする
また加賀前田家や細川忠興にも追求の手を伸ばし利長の挙兵反乱の疑いを詰問し
10/3西の丸に諸将を収集し北陸討伐令を出す。細川は家康へ恭順の意を示し家康に誓詞を出しさらにその三男忠利を江戸に送り人質とする
前田は弁明するが母芳春院を江戸に送る事を求められる
このように家康は自分のやる事は詰問されても自力で排除し奉行衆を屈服させようとし
他者の行いは徹底的に詰問して敵対勢力を一つ一つ潰すやり方で無理矢理豊臣家を崩壊させた張本人
豊臣が滅ばないためには家康に大封与えない事が一番
秀吉に恭順した時点でもってた三河遠州駿河信濃佐久諏訪伊那と甲斐の100万石程度にとどめるか
信濃3郡と甲斐を無理矢理没収するのが一番手っ取り早い解決方法
764 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:13:49.33 ID:j5f64daE
東軍には三成憎しの武功派と家康が外交や婚姻で懐柔した伊達・蜂須賀などが付いたのに対して
西軍には上杉・毛利・宇喜多や5奉行のほかの連中・さらに畿内・西国の諸将が多く付いている
三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いたという事は諸侯は内心では家康のやり方は無茶苦茶で豊臣政権をあからさまに犯すやり方をしてると考えた証拠だろう
実際三成は蔚山城攻防での論考交渉の際や島津家倉入り地加増問題など
一貫して豊臣の倉入り地の維持・諸大名の倉入り地や石高増加反対や家康と諸大名との会合を糾問したりと
豊臣家のために動いているのに対し家康は五大老の許可なく私婚で諸大名取り込んだり島津の倉いり地問題や庄内の乱の協力などで積極的に
諸大名を取り込み豊臣家のためなどではなく自勢力拡大・専横を行っているのは明らかで
その証拠に三成襲撃事件後三成が失脚し、家康は「天下殿」という世評を受け、
その後に暗殺計画の企て摘発により前田利長・浅野・細川を屈服させ相当な権力を確立したと思われた後ですら
これだけ多くの味方が三成には付いている
むしろ東軍についた諸大名の方が三成憎しの個人的感情やらで凝り固まっているにすぎずまとまっていたとする根拠がない
西軍の敗因はあくまで毛利家の美濃口への援軍要請無視・優先順位低く要害の構えられた伊勢方面軍編成による戦力分散
・毛利一族が総大将にかかわらず不戦・毛利輝元出陣なし・小早川の離反と
毛利のあまりのヘタレぶりで負けただけにすぎない
また直接婚姻を結んでいない大名家も徳川家と親交があったようだ
島津家の場合慶長3年11月に義久が伏見家康邸を訪れる、後日その返礼として家康が義久を訪れる(大村市兵衛重頼古戦術書附)
これを知った三成は義弘・忠恒は朝鮮帰国後博多において三成より譴責を受け、そのため義久が義弘・忠恒に対し
「内府様へ参候事、又私宅へ入御之事、曾別心有之儀不申入、又不承候」と起請文を出すまでの騒ぎとなる
家康と島津家の間に梵舜や近衛前久・信伊が介在し両者の間を取り持つ
三成からの譴責に対する起請文は単なる見せ掛けである事が家康が義弘・忠恒の私宅をわずか4日後に訪問している所からわかる
また慶長4年1/9家康の差配によって島津家へ五万石の加増が「朝鮮し川表」における「御忠孝無比類、依之為褒美」与えられる
これも三成は反対するが家康によって強行される
対する三成と島津の関係は、島津は豊臣政権への服属以来、三成に細心の注意を払い接してきた人物であった。
島津領太閤検地の総責任者であり島津領豊臣倉入地の代官を務める三成は島津家への影響力が非常に大きく
三成の意向はすなわち豊臣政権の意向であった。
だが島津と家康が接近する中、三成とは距離が置き始めていた。それは慶長4年3/9忠恒が、三成が最も信頼し、
島津家内部で三成に最も協力的であった島津家老伊集院幸琉を誅殺した事に現れている
これは先学の指摘するとおり、島津家の豊臣政権からの離脱の第一歩といえよう。そしてこれは秀吉死去後の豊臣政権内部での三成の地位の弱体化なくしては
起こり得ない事であった
忠恒の幸柳誅殺行動に対し三成は「御立腹」で、義久は三成に「幸柳生害之儀、今度得御意急二仕出し候之処と存候」と言い訳にもならない弁明をしながら
「又八郎(忠恒)短慮之仕立、言語同断不及是非候」、「曲事深重二候」と三成の腹立ちに同調し、それを懸命に鎮めようとしている
さらに後日銀子十枚を贈答する。しかしこの前後の忠恒宛の書状で義久が忠恒をこの件で叱責した形跡は見られず、成敗そのものには異存はなかったと思われる
この事件以来三成から島津家への書状はなくなり疎遠になってきているのがわかる
さらにその後「庄内の乱(幸琉の子忠真の反乱)」において家康は終始島津家の立場に立ち、乱の収拾に尽力する
関が原の合戦直前まで島津家は家康の指示を尊重する形で乱の処理を行い家康の対応は島津家にとって大方において満足すべきものだった
家康もまたこの乱の処理を契機に諸大名への軍事動員権を行使するなど「公儀」としての立場を獲得していく
上記のように三成は一貫して家康の専横を弾劾しまくり家康は豊臣の秩序を崩壊させようと動いているのは明白
個人的感情と私利私欲で豊臣家への恩を忘れ徳川の犬に成り下がった馬鹿な豊臣武功派連中と
圧倒的大軍と総大将としての地位がありながらなにもしないどころか関係ない方面に軍を出し後詰援軍要請無視し続けたアホ輝元によって
豊臣政権は崩壊した
765 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 08:28:18.08 ID:j5f64daE
秀吉は天下なぞとっていない。
秀吉が天下取ったなら秀吉死後豊臣幕府が開かれているはず
ただ武力で平定したわけでもなく他大名と同盟関係結んだだけ。
関が原の時とか皆豊臣のため戦うという名分利用して好き勝手に自勢力の拡張狙ってただけ
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
そういうのは政治で評価すればいいだけ。
こと戦闘の強さは戦ってみなきゃわからんのだから
戦った武将同士会戦状況(兵力・装備・地形など)や戦闘結果(被害・勝敗など)などを吟味して
より苦しい条件、厳しい状況、少ない兵力でより強い相手、より強大な兵力相手によりよい戦果出した武将を高く設定すればいいだけ。
大体ゲームでの統率の中心的意味が同じ兵力を与えられた時いかに強い戦闘力発揮できるかなんだから
そういう能力高い武将は高くし、低い武将は低く設定すればいいだけ
766 :
名無し曰く、:2013/02/04(月) 09:45:42.39 ID:0scqsgcu
5奉行全員が西軍に付いた訳ではない 前田、浅野のアホは東軍
毛利が結局は豊臣を滅ぼした感じ 小早川の裏切り 吉川の動き無し 毛利の日和見
767 :
名無し曰く、:
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる