1 :
名無し曰く、:
2 :
名無し曰く、:2012/11/23(金) 09:08:39.40 ID:68TYXZfR
先ず義清にボコられた信玄の統率を下げろ
それから義清の統率を信玄以上にしろ
>>1乙
923 :名無し曰く、 投稿日:2012/11/22(木) 23:13:02.74 ID:tcBhpGC5
村上義清て対武田以外はどんな戦績あるの?
高梨氏との戦いとか
937 :名無し曰く、 投稿日:2012/11/23(金) 00:20:26.31 ID:Qz834Q4l
>>923 家督相続後国人衆を次々駆逐北から東信濃の大部分を得る
高梨と対立、長尾に半従属していた高梨に攻め込む。
しかし長尾から援軍を出され断念したり決着つかず撤退
信虎と東信濃を奪い合う。
真田海野を駆逐。対武田では最初は優勢だったもの敗退、上杉がそこをかすめ取り領土は半分ずつ
晴信の信濃侵攻
上田原の戦いで快勝、信虎期からの重臣2人を討ち取る
続く砥石城の戦いで再び快勝、配下を討ち取り死屍累累を築く
真田幸隆の調略により国人衆が反乱、更に直臣に裏切られ城を追われ、一悶着あり高梨(上杉)を頼る
第4次川中島で信繁を討ち取る
前半生はかなり活躍(?)してるが没落がすごいそんな人
長文すまん
3 :
名無し曰く、:2012/11/23(金) 14:26:27.76 ID:8S5yNN2A
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
4 :
名無し曰く、:2012/11/23(金) 14:41:00.81 ID:S+E3HXsf
義清は砥石崩れにおいて
信玄を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
5 :
名無し曰く、:2012/11/26(月) 22:52:06.51 ID:0ysd1tOl
質問なんだが信虎の時からすでに武田は信濃に領土もってたの?
6 :
名無し曰く、:2012/11/30(金) 01:13:02.65 ID:aVPLW9Y8
信虎時代はまずは諏訪を攻めたけど強かったため諏訪とは和睦して、
佐久郡に進出してさらに小県郡を伺う感じだったようだ
7 :
名無し曰く、:2012/12/15(土) 23:53:27.89 ID:dbEmkWvu
織田信忠
8 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 14:18:44.48 ID:M++SriDX
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
9 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 14:20:36.37 ID:M++SriDX
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
10 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 14:21:43.78 ID:M++SriDX
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
11 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 14:22:58.17 ID:M++SriDX
三方が原の戦いの、双方の顔ぶれから推測した兵数考察
・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)
/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり
『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく
@劣勢な家康が出陣した理由
A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。
鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。
三方原については、
佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領
全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。
更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。
元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容
信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)
佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
12 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 14:23:58.44 ID:M++SriDX
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
13 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 14:25:26.60 ID:M++SriDX
1546年 信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
14 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 14:26:01.94 ID:M++SriDX
1567年楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
15 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 14:27:33.71 ID:M++SriDX
伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。
反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
返す刀で浅井も総攻撃して攻略。朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。
調子にのって伊勢長島を攻撃。
第2次伊勢長島。伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
1574年 越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討し始める
16 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 14:40:46.64 ID:M++SriDX
天正7年初頭にも勝頼が毛利と荒木と本願寺を救うために
織田戦力を分散するために家康攻めで出陣OK返事出してんだよな。
その時に輝元が宗麟に足を引っ張られたごときで
武田との約束を破り正月16日出陣を無期延期にしやがったから
合同作戦じゃなくなって武田単独で
景虎自刃した3/24を過ぎてからの
4月より遠江高天神・国安(掛川市)を荒らしてて
信長も急いで摂津戦線から安土へ帰国してる。
いそぎ本願寺や荒木もこのチャンスに出撃せよと毛利に要求するが
まったくのヘタレぶりを露呈したために、
これを見た宇喜多・南条らも毛利を見限り、
天正8年になると荒木が破れ、本願寺も朝廷の勅令和睦を飲んでしまい
武田と毛利の滅亡が確定した。
しかし本能寺の変のおかげで毛利は滅亡を免れた。
結局、毛利がありえないくらいヘタレだから
織田を討つチャンスを何度も自らぶっ壊してる。
ちなみに8月末に厩橋北条高広が北条から武田へ服属先を変えたことをきっかけに
9/5北条と徳川が同盟したことを受けて武田内通の罪で信康が9/15に自害させられてる。
武田は佐竹らと同盟して北条を圧倒。伊豆浦でも武田水軍は北条水軍を圧倒し連戦連勝。
氏政は「このままでは北条は滅亡に向かう」
「上州は武田のものになってしまう」などと武田を恐れまくる。
しかし同時期に石山本願寺が勅命和睦命令の連投に恐れ多いと受託してしまう。
それでも天正9年末まで北条を圧倒し続け伊豆まで攻め込み里見氏も同盟参加。
徳川も高天神城をやっとの思いでなんとか攻略できたが、そこまででしかなかった。
所詮、家康は穴山とどっこいどっこい程度の実力しか無い。
天正10年の織田の攻撃のタイミングが浅間山噴火とシンクロして武田が崩壊しただけ。
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築して長篠城落城の危機に焦り
5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
17 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 14:41:41.33 ID:M++SriDX
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
18 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 14:42:35.56 ID:M++SriDX
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
19 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 14:43:46.03 ID:M++SriDX
謙信は在地領民を掌握している国人領主は北条や本庄のように離反の危険性が高い為に
他国者を取り立てて側近官僚としてネジ込んでるんだよ。他国者だから在地領民との代々の繋がりがない官僚だな。
在地領民と領主を切り離し官僚化させて中央集権化していくのは豊臣政権になると激しくなるが、
謙信は安堵権を利用して国人領主割拠の解体を始めてる。
>>家督相続後の世襲
河田も吉江も鯵坂も重臣の地位をまったく世襲してないんだが。
それに天正3年軍役帳において後継者の1位の景勝に続いて
2位 山浦上杉国清(養子として信濃村上国清をネジ込む)
3位 上条上杉景信(この古志長尾景信のこと。こいつの跡を河田長親が継ぐ予定ですでに古志衆が付けられていた)
4位 上条上杉政繁(能登畠山氏の出説あり。この後は能登畠山義春が継ぐ予定)
こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。
家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。
こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど
この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。
謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。
残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。
景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば
上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。
それに吉江景泰は中条の家督を継承したが中条の領地には一切赴任してないと言われている。
常に側近官僚としての立場で景勝の代になっても変わらなかった。ちなみにまだ18歳だった吉江景泰は7位ね。
武田はすでに信虎がかなり新人採用しまくってたから抜擢の土壌が成熟してるからね。
だいたい武田五名臣からして他国者ばかりだし。
近江出身で六角に仕えていた横田高松
美濃出身の多田満頼
下総出身の原虎胤
実在は不明だが諸国流浪の山本勘助。
そういや信玄が抜擢した春日改め高坂弾正は単なる百姓の子だったよな。
原虎胤に父を討たれて駿河から流浪してきた北条綱成を採用した北条氏綱なんかも大抜擢されたよな。
こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。
家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。
こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど
この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。
謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。
残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。
景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば
上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。
信長の内政や統治は具体的にどのようなことをしたのかね?
謙信は商売のために京へ行ったり、
戦乱続きで荒廃した越後でインフラ投資をして通行料無料の橋を作ったり、鉱山開発したりと
破綻していた越後経済を立て直した経済政策通だよ。
しかも永禄前期は毎年のように越後や甲斐が天候不順で相次ぐ不作などで大変だったのに。
高根金山・猿田金山(岩船郡朝日村の鳴海山にあった(本庄城(村上城)から北東20キロ地点)、
ぶどう金山(岩船郡山北町東部?) などが採掘場であったようだ。
前の2つは本庄繁長の領地にあるが、永禄十一年(1568)、謙信に反抗したため没収、以後は上杉が直轄していたと思われる。
当時の越後はまだ田んぼで稲作が主産業ではなく塩田労働者の方が多かった。
平地の集落より才浜と呼ばれた砂丘地帯の集落の方が圧倒的に人口が多く
管領細川政元の越後下向に従った冷泉為広の越後下向日記にも才浜の説明に
「里、海人多 塩ヤク」と記され塩業地帯が主産業だった。
また海上交易と金山収入もあり、農繁期が出兵の足かせになることはまったくない。
謙信が支配した直江津、柏崎 竹俣の三条 色部の岩舟
謙信は船頭前だけで年間四万貫も稼いでる。
部下の謀反が相次ぎ最後は謀反で親子ともども殺され織田家を簒奪された信長と違い、
謙信の晩年の謀反防止の家中改革の違いを見れば明らか。
20 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 14:44:46.41 ID:M++SriDX
さらに其々の荷には青苧役などの税をかけてるから莫大な収入
二度の上洛で藤原北家の支配だった青苧座を越後青苧座に独立させたのが一番大きい
しこたま儲けた謙信は斉藤に命じて五年間の租税免除・夫役御免を行ってる
越後豪族が持つ港も交易が盛んになり、色部の正月なんて鰊だアワビだ数の子だ山海の珍味が山盛り
彼らが操る北国船は牛馬で行う交易の数百倍の荷を扱えた
陸路では塩、蝋、木材、紙を売らせ、春日山府中には商家が建ち並んだ
為景時代に越後から逃げた商人を呼び戻し、
彼ら商人への優遇措置、治安維持を謙信自身が制札を下し、蔵田に施行させている
この蔵田という大商人を謙信は春日山城代に命じるなど重用している
>>北陸遠征で領土を拡大し家臣に分け与えたとか
畠山尚順から為景が任じられて以来の越中東部新河郡守護代を兼ねる謙信は
天正4年末に越中において領主のいない闕所地を直轄領とし、
放生津と伏木浜を港湾自由都市にし、放生津は特に楽市化し町人の諸役を三ヵ年免除
津料、渡役も免除し都市の振興保護政策を推進している。
これを越後の港湾都市府内と柏崎の直轄化を放生津で行い
越中を越後同様に豊かにする政策だと市村氏は論じてる。
また七尾城で幼主を擁して独裁してる長続連親子を除くことは
永禄9年2月17日に野洲郡矢島御所で覚慶は足利義秋と名乗って還俗した際に
三管領家の河内国畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱と
約束した室町幕府復興のための約定の履行である。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(上杉本の公式には能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春(上杉本の公式)を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。
本庄の乱が勃発するまで在地国人家臣らを信用し人質すら取らずにいたが
本庄の乱をきっかけに親しい者達からも人質を取り在地国人豪族を完全に統制下においたから
それ以降は家臣の謀反が無くなり版図の支配も安定している。
晩年まで謀反だらけの信長では勝ち目は無いだろうね。
信長は細川高国と敵対した細川晴元の嫡子の信良に自分の姉妹を嫁がせて京兆家の義兄になってるし
細川高国後継者の氏綱を擁立し京兆家の政治的な力を奪った三好長慶とやってることは何ら変わらないと言うより二番煎じ。
信長は京兆家の義兄の立場を利用してる分だけ旧時代の権威への依存度が高いだろ。
義尋を手元に置いておけば歴代の有力者みたいにいつでも義昭を廃して義尋を将軍に擁立できるだろ。
実際は関白になった秀吉の時期に義昭の将軍位は廃されたようだけど。
三法師の件だって別問題じゃないだろ。家臣によって織田後継者が左右されてる時点で信長がシステムを作ってないことに起因してる。
義尋を手元においている信長と三法師を手元に置く秀吉ってのも同じ性格を有するものだ。
。
21 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 14:45:33.61 ID:M++SriDX
長尾為景みたいに越後守護や関東管領をぶっ殺して旧勢力の権威を排除した方がよっぽど凄いわ。
信長は細川政元から始まる畿内有力者達がやってきたことのコピーでしかない。
元々、上洛した際に将軍の力で円滑に帰属させた国人達もいたし。
はっきりわかるのは信長が細川高国と同じように畿内で殺され
高国後継者の氏綱を傀儡にした長慶と秀吉のが同じだと言ってる。
しかし北条や徳川は大丈夫だろうね。
なんせ親子揃って謀反で殺されるようなマヌケな状況を作らないから。
信長と他の畿内有力者の違いなんて信長だけが他と違ってより粗暴・乱暴・性急・威圧的なだけでマイナス評価なだけ。
結局、敵を糾合する権威義昭を殺せない旧勢力の権威を利用してる者はその栄華は一代限りの方程式通りで、
信長の死の場合も別に不思議な事では無く、
細川高国や足利義輝のような京洛有力者の突発的死亡パターンによる家の自壊の類例に見事にハマってる。
例え信忠が生きていても松永久秀や三好三人衆のように織田有力重臣によって瓦解し、
義昭を奉じた毛利によって京洛から追い出されるのは間違いない。
畿内での肥大化が信長1人の力だと思い込む傲慢さが信長厨が重度盲目たる所以だよ。
簡単に言うと細川政元や細川高国や大内義興や細川晴元や三好長慶や浦上宗景や松永久秀らが
長い時間をかけ内紛と下克上の闘争を通じて努力し
京洛の権威の弱体化による更地化をしてやってきた成果の果実を信長は拾ったに過ぎない。
その成果の果実が信長をして彼らより大幅に時間短縮できて肥大化できた主たる理由。
むしろ信長は彼らに比べ、より何もやらずに果実だけを手に入れたと言える。
後発の利益が各地域での巨大勢力を生み出しているに過ぎない。
もちろん中国地方でも大内より肥大化した毛利が生まれているのが信長だけが例外・特別でない証拠。
地域の脅威に対して規模の経済や規模の軍事力による利益分配を国人達がより必要としたからに他ならない。
そういう時代の気運が反映したから信長が歴代畿内有力者より多少肥大化しただけのことで、
だからこそ信長だけを特別視するほどの差違も理由も無い。
果実を得た代償として信長は京洛において地盤やシステムを築かずに
ひたすら軍役をかけまくり乱暴性急に事を運び過ぎて親子揃って反発を買い謀反死を招いた愚者で死亡パターンは細川高国タイプ
まあ長慶や高国が暗殺されて、後継者がその仇討ちをして天下統一していたら
彼らは信長を超える評価をされていたのは間違いない。
将軍の式典などでの華美で派手な無駄遣いに反対して、
将軍から不興を買ってまで徳を以て天下に臨む態度こそ人心を得ると推奨していたし、
まさに岐山に発した周王朝の創始者武王の父の文王の如き仁君と称されたな。
信長はただの暴君だから暗殺された。
天下布武は別に天下統一を目指していたと言う解釈にはならんし
単に地勢的な理由から将軍が頼ってきただけ。
天下布武が天下統一と解釈するのも無理矢理。
しかも上洛してわずか14年で信長死亡。
細川高国政権19年や細川晴元政権18年や三好政権19年
と続いたことからわかることからわかるように
京を掌握した勢力のチートぶりは凄まじく低難易度である。
そしてだいたい20年近くは持つのが当たり前。
しかしなぜか信長政権は非常に短命でぐちゃぐちゃにかき乱して殺戮しただけだった
22 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 14:46:12.46 ID:M++SriDX
三好の内紛は信玄死去で義昭追放と信長が反攻を開始してから
織田との和睦派と抗戦派の間で勃発しただけ。篠原長房もこの政変で死んだ(讃州燎乱)
義昭の外交を担う義堯が信長から離反したのが元亀3年。
10/2六角義堯が三好甚五郎(三好神五郎政長の子か?)に四国衆渡海を命じてると義禎親子に伝えてる。
三好康長や篠原自遁は12月に長岡京のある大山崎で禁制を発布してるし、
桂川の渡河先の淀城には石成友通がいる(義昭が淀城を信長の金で修繕していたwww)
京の西側は三好による平定が完了し、すでに三好勢力圏になってるわけですがw
天正元年2/20の義堯が東(武田)北(上杉)此通候間と書いて同盟の存在を示している。
3/23義昭は京都聖護院門跡道澄を通じて小早川と浦上宗景の出陣を命じる(成?堂古文書)
4/21一向衆の懇望による和議が成立し謙信が春日山へ帰城。
8月再び、謙信は越中出陣し加賀朝日まで侵攻したのち信玄死んだ武田攻めするどころか8/下に帰国し年内は完全休養宣言。
10月に謙信が神保弥次郎の相続を認め、神保が日宮城に復帰完了し謙信の越中平定完了。
謙信が信長を無視して武田を一切、攻めようとしないのは甲越和与によるもの。
ちなみに天正6年に義堯は阿波・淡路の軍を率いて堺に上陸している。
信玄が死んだ軍事的バランス崩壊後に
浅井朝倉が滅び義昭が追放され義継が滅ぼされ松永が降伏した
一連の大変革による三好内の政変で反織田の篠原長房が失脚し死んだとみるべき。
1572年12月に篠原自遁は大和守と大山崎に禁制を出しており
大和守はおそらく長房の嫡男である以上この時点では自遁と長房は対立してないとされてる。
なんせ長房&息子は四国で自遁に殺されたことになってるから
だからできるだけ早く死んだと見積もっても1573年7/16以降だとされてる。
(もっとも1574年讃州繚乱まで事件らしいものの証拠はないが)
武田征伐で諏訪の陣において織田が占領した筑摩郡深志城の城米を出さしめて
在陣の諸将士に頒ち与えた史実を歪曲して信長公記は
3/19に信長が諏訪法花寺に着陣。
3/24各在陣致す諸将は給地からの補給に迷惑して困っているので
諸兵の数に従って御扶持米を深志で渡したと書いてあってワロタw
しかも雨や風で凍死者続出で暖もロクに取れてない惨憺たる補給実態の惨状で
さっさと逃げるように3/29には木曽口や伊那口へ
織田各軍が崩壊した補給状態から急いで美濃へ自壊敗走してる。
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
秀吉は親類だから公記での初登場でも
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが
その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。
23 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 15:00:19.52 ID:M++SriDX
長篠の戦い直後の岩村城攻撃を伝える信長書状には
しつこく言ってるように信忠若年だから万事において肝煎り専一しろと佐久間に命じ
信康の出陣なんていらんから留めておけと言ってる。
信長は信忠の無能さを心配し、
武田に内通している信康を邪険視しているのがわかる。
天正5年7月9日〜閏7月18日の期間に勝頼が長篠で戦死した者たちへの
相続やら、加増やらの処理を終わらせ戦後体制が確立するや
浜松の家康は信康を岡崎から遠江の掛川へ出陣させ武田へ備えさせてる(10月末まで)
武田との国境が積雪で不通になるや
12月15日に信長が1月下旬まで三河へ監視にやってくる
(徳川家臣は、家康は家康と呼び、信長を御家門様と呼ぶようになる)
2月に対武田籠城用の岡崎城拡張工事が終了後の
3月から岡崎衆の岡崎常住と毎月1日の信康への出仕を義務づける。
この事実上の徳川家後継者決定を受けて4月17日信康が浜松の家康へ礼に赴く。
9月5日突然、家康が家臣団の岡崎在郷無用の命がくだる。
この情勢下に10/17信長が三河へ来訪する意を伝える。
10/19勝頼出陣の報がきて出陣準備
10/27信康が浜松へ発つ。
10/28浜松に来た信康へ出仕したことが
申刻に大なへゆり候・五十年已来の大なへ之候(大地震?それとも信康の身を暗示?)
摂津で荒木の攻勢を受けた織田軍が大敗し水野忠分が戦死。
天正6年2月 対武田籠城用に浜松城の普請。
4/6勝頼が本願寺と荒木を援護するために義昭を擁する毛利軍の攻勢に呼応することを約する。
4/23勝頼が駿河まで出陣し、26日には浜松まで到着すると石川数正が報告する。
4/25武田軍が高天神城まで到着。4/26信康の合流を待って家康が三河吉田へ出陣。
6/5家康が岡崎へ信康を訪ねる・・・中なをし(仲直り)にお越し候・・・
ここの部分の家忠日記は文章が読めないようにされてる。
しかもいつも家康と呼称してんのに、
なぜか6/7浜松殿が遠州へ帰る。浜松殿がくわん乱煩いになったと書いていて
呼称が家康から浜松殿へ変化しており別人が改竄している(実際、仲直り目的の来訪記事は捏造だろう)
8/3浜松から岡崎へ家康がやってきて4日信康を三河大浜(幡豆郡)へ追放する
(実は家康親子が仰様候て、信長大浜へ御退候と書いている)
信長も三河へやってきていて、家康親子が仰天して会談したのを
信長が確認して大浜へ退いていったとする記述を
信康が大浜へ追放になったという誤記だと捏造解釈する。
5日家康が鉄砲衆を引き連れ西尾(幡豆郡)へ来て会下へ陣を取る。
8/8付けで家康が信長家臣の堀秀政へ結果報告の書状
(酒井を使者に家康が信長へ種々御懇していたのがわかる。信康不覚悟なので岡崎を追放と報告)
三河物語にも酒井が信長の質問攻めの結果、信長が信康に腹を切るように命じていて
家康は大敵を抱えて、後ろに信長がいるので背けないと言ってる)
9/15信康自決。
天正8年2/17 御新造様(信康夫人五徳)を御見送りするために
家康が岡崎へきて18日に岡崎城へ出仕(織田に岡崎城を占拠されてるので出仕なのか?)
ここでも家康を浜松殿と書いていて、あきらかに別人による家忠日記追加改竄だが
18日の記事を補填説明するために17日の記事を追加しただけのように感じる。
基本的にデキの悪い信忠のこともあり信長の介入と圧力があって信康を殺したとしか思えない。
しかし家康もメンツの問題から懇望はしてるが、
かと言って信康を殺すことにそれほど悩んでいたようにも思えない。
24 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 15:01:15.97 ID:M++SriDX
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる。
(濃姫と信長の婚姻が決まった前後からで道三とて国主になる予定にないものに嫁がせるなんてことはしないだろう)
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする悪質な操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が信長後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役だった道三が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【美濃は尾張半国を取っている】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
25 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 15:03:00.49 ID:M++SriDX
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが
なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。
織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と
今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し
10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた
西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ
三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため
天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから
加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ
天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。
謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。
9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。
ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。
26 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 15:04:56.65 ID:M++SriDX
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
27 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 15:06:06.45 ID:M++SriDX
謙信が生きていたら下記の状況からして上洛成功は間違いないな。
信長って天皇がいなかったら三回は反織田連合に捕縛されて自決させられてたよな。
志賀の陣・義昭二条城籠城。そして下記の荒木籠城。
天正6年2月東播磨を中心として実高43万石とされる別所氏が信長へ謀反。
美嚢郡淡河城・加東郡金鑵山城・加古郡高砂城・印南郡中道寺山城・明石郡枦谷城・明石郡林城・
飾西郡英賀城・加古郡野口城・印南郡志方城・印南郡神吉城など播磨一円蜂起。
御着城主の小寺氏などもこれに呼応の構えを取る。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。
赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。
謙信死すとの確定情報が届くと上杉へ備えていた信忠の大軍が開放され播磨へ移動可能になる。
上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて
織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元就死後に隆景と対立するようになった元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。
10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。
義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら
対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して摂津一円一斉挙兵。
摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか
対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し
本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい
相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。
がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために
天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。
信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し
高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。
謙信が生きていたら、勝頼も健在になるし
信忠を秀吉への援軍に派兵できないから
毛利の攻勢により播磨戦線が崩壊し
その影響で本願寺のいる摂津(荒木時限爆弾もある)
明智がボロ負けした丹波戦線まで(丹後もセットで爆発)
紀伊・河内・和泉・伊賀・伊勢南部・大和南部このあたり一円も高野山を始めとして反織田だし
(本能寺の変まで高野山は織田軍を山内侵入を許さなかった)
再度崩壊するから織田は詰むよ。
28 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 16:49:26.33 ID:SJUWV/Yv
北条>>謙信>>(越えられない壁)>>信玄
29 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 17:31:16.20 ID:M++SriDX
〜今川義元・上杉謙信・里見義堯・武田信玄に負け続け、逃げ惑ったザコ大名・北条氏康〜
1545年【狐橋の戦い】北条氏康●-○今川義元
1545年【吉原城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1547年【松山城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1551年【興国寺城の戦い】北条氏康●-○今川義元
1553年【平井城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信(平子孫三郎)
1553年【忍城の戦い】北条氏康●-○成田長泰
1556年【三浦三崎の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1560年【沼田城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1560年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1561年【松山城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信
1562年【岩槻城の戦い】北条氏康●-○太田資正
1565年【関宿城の戦い】北条氏康●-○上杉謙信・簗田晴助
1566年【久留里城の戦い】北条氏康●-○里見義堯
1567年【三船山の戦い】北条氏康●-○里見義堯(里見義弘)
1569年【三増峠の戦い】北条氏康●-○武田信玄
1570年【深沢城の戦い】北条氏康●-○武田信玄
30 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 17:32:31.69 ID:M++SriDX
まあ光秀にぶち殺されて死んだ信長より遥かに有能だろうな
包囲網張られた絶望的状況から両上杉や古河公方の8万の大軍や今川らの包囲網退けて
見事関東に覇を唱える礎を作っているし河越野戦なんてそうそうできる業じゃないだろうし
領土拡張率でいっても
氏康40→120
信長30→20で氏康のがずっと上だしな
31 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 17:33:46.65 ID:M++SriDX
謙信は野戦が無敵すぎる
信玄は布施の戦い八幡の戦いで謙信と初めて戦い野戦で敵わぬことを悟り以後は調略に切り替えてる
氏康は寡兵の上杉先遣隊に苦戦し謙信に敵わぬと見て以降一度も野戦せず逃げ回った
氏治は地の利を生かして謙信を沼地に誘い込めば勝てると野戦挑み壊滅的打撃受けて居城捨てて逃げた
越中一揆は坂の上から数万の大軍で迎撃すれば有利だろうと謙信に野戦を挑み付近流れるびや川が一揆兵の血で真っ赤に染まる大敗を喫した
謙信には誰も敵わん
http://www.furin-kazan.jp/nagano/tatakai/zukai4_2.html 大軍なのに篭城でやり過ごそうとした孫子の具現者、武田信玄。
しかし、謙信は寡兵で敵地に奥深く入り込み絶対的不利な状況に身を置く。
信玄それを見て「もしかしたら勝てるんじゃん?」と台風に手を出してしまいコテンパンにノサレる。
上の動画は、もはや神領域の采配。さすが軍神、孫子の研究者たる海上智明が日本史で最も芸術的な戦いをする武将と推すのも理解できる。
海上曰く、信長では絶対に信玄には勝てない。
ましてや謙信とガチでやりあったらあっさり粉砕される。
32 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 17:34:51.44 ID:M++SriDX
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのか?信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。9/27には逃げ帰った信長が美作
の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
信長が京か安土城にいた一次史料はない。信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。 8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる
防御力向上を図ったんだろう。松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいるわけない
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし本願寺方面には松永離脱と同日に
信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから信長が京や
石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけない
ほど追い詰められていた。本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には
細川の増援が決まったな。3月27日には 黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され代わりに信忠が派兵されることになる。
松永の 片岡城攻略で明智軍に「大勢損」が出たのに苦戦してないとかあり得ないわけだが。
それに当時の謙信と勝頼は義昭主導の甲越相一和が成立してたから上野や信濃で緊張なんて無かった。
しかも北条からも謙信が上洛するなら北条の援軍も派遣したいと申し出てるしな。
柴田や佐久間は織田家の宿老ではあっても秀吉、丹羽、滝川、稲葉ら信長直臣に命令する立場にない。
彼らを命令できるのは信長だけ(そもそも柴田は目付けの前田や佐々らに監視されている)
また柴田軍はかなり被害をこうむったから本願寺攻め総指揮官の佐久間がやってきて専守防衛してたんだろう。
稲葉や滝川の活動も見えなくなり彼らは負傷していたのではないか?また織田軍全体でも天正5年末から
天正7年まで活動が鈍りまくっている。
33 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 17:35:48.50 ID:M++SriDX
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間 これらの戦域で増援が必要だったのに全然
信長は増援派兵できない。彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったのだろう。光秀が幸運なのは謙信に続いて丹波の赤井直正が死去したこと。
越山すると言ってしない時が何度となくあるし数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は北条との対立には該当してない。
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文がある。詳細は謙信の書状に詳しく書いてある
史料が少ないだけで否定するなら、戦国時代のほとんどの合戦が非実在戦争になるぞw
厳島合戦や河越合戦はなかったのか。一次史料による否定ができない限り、いくら粘着して適当にケチをつけても無駄
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死。謙信が死んだ情報が入って始めて織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、手取川ののちも信長は謙信を恐れて
警戒してるのが現実。信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
織田軍はその後、戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績を
全然挙げられず「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?謙信は天正6年3月に死んでる。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。
もっとも一向宗というより、すで家臣に組み込まれているので上杉軍ではあるが。
滝川・稲葉らが重症を負ったようで当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。公記筆者の太田は北陸情報に疎いので柴田に関する記述もほとんどない
前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。秀吉は公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って
働いたと書いてる。もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。そのためか公記では秀吉が毛利に敗れた記述も隠蔽している。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の
大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。
34 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 17:36:56.72 ID:M++SriDX
わかりやすい
謙信の最強っぷりは微塵も揺るがないな
孫子研究家の海上氏の「信玄の戦争」は信玄を知る為の秀逸の書として評価が高いが、謙信の最強っぷりも紹介されている。
逆に軍神謙信とそこそこ戦う事が出来た信玄という武将が褒められるべきなのだろうな
当時の一般常識
>甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞
当時の兵の強さをうたったもので
一に上杉、二に武田、北条今川負けず劣らず
てのもある
35 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 17:37:35.33 ID:M++SriDX
手取川に信長来てないとするとどこにいたのかという話になるな
あんだけの織田オールスター武将で加賀に出兵してるのに信長がいないなんて誰が指揮統御できんのよW
柴田が越権行為して信長直轄武将まで指揮してたのか?信長が現地の柴田(8/8には手取川へ柴田は渡河済み)に防衛を命じてあるから
お前も相談して防衛してくれ。もし防衛できそうにない状況なら織田軍を動員することになる。決して見放さないと
上杉から離反した水越左馬助に信長が伝えてる書状だ。しかし結局、9/15には七尾城が落城してしまい
上記の情勢は明らかに現地の柴田や水越では防衛できない状況になっており水越に約束したように信長が織田本軍を率いて
秀吉・丹羽らと共にやってきて大敗。9/23には上杉軍が加賀国湊川まで追撃を兼ねて南下。9/27には逃げ帰った信長が美作
の江見為久へ秀吉を派遣する旨を伝える。信長が留守中の政治は二条城築城など村井貞勝が準備執行をやってるのがわかる。
信長が京か安土城にいた一次史料はない。信長がいなかったから松永親子の謀反が現実化してしまい
やっと9月29日になってから松永への対処を信長はやっているが明らかに手を打った時期は遅きに逸してる。
明らかに信長は北陸から逃げ戻ってきてる証拠。 8月17日には久秀が石山本願寺包囲から大和へ離脱して
本願寺包囲に大和衆が抜けた穴が空いてしまったのに松永討伐が出来ないまま放置は
上杉軍への対処に信長が出撃したからだろね。ちなみに謙信の能登加賀攻略に呼応して勝頼も遠江で徳川と対陣してんだよね。
謙信の越後撤退を知ったのか10月20日に武田軍も撤退。結局、大兵力を上杉への対処に充てた織田軍による援軍派遣徳川には無かった。
徳川はその後すぐに浜松城の譜請を大動員してやってる。徳川にとってもいまだ武田軍はかなりの脅威だから浜松城のさらなる
防御力向上を図ったんだろう。松永攻略は北陸に行ってない明智光秀、細川、筒井が大和へ先発し後詰めで信忠がやって来てるのがわかる。
松永すら対処できずに放置なのにさらに遠方の石山本願寺や紀州に信長がいるわけない
ちなみに閏7月13日に信長は安土下向してるし本願寺方面には松永離脱と同日に
信長が和泉に着陣した筒井と佐久間が話し合って協力するように伝えてるから信長が京や
石山本願寺にいて指揮をとっているとは思えないし手取川の前後の京には光秀が入っている。
また北陸には秀吉、丹羽、滝川、稲葉らが行ったとされるが、大敗した為に滝川や稲葉の戦後の動きは不明だし
柴田も消極的だし、秀吉も中国へ赴任した際はかなり貧弱な兵力だった為に播磨で苦戦続き。
明らかに織田軍の動きが鈍い。1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として
北陸へ松田監物を派遣してるところから佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけない
ほど追い詰められていた。本願寺攻めは代わりに信忠が配置されてる。松永攻めで損害が出た丹波攻めの光秀には
細川の増援が決まったな。3月27日には 黒田頼りの秀吉の三木城攻めに対して状況によっては信長自身の出馬があると言い、
状況とは謙信が死んだ風聞があることを指摘してる。結局、謙信死んだのが確定した為か戻ってきた佐久間に信長自身の出馬を反対され代わりに信忠が派兵されることになる
36 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 17:43:10.54 ID:M++SriDX
>>上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていた
・織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退
天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(上杉本の公式には能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春(上杉本の公式)を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。
公記は太田が金をもらって書いてるからな。
戦死して貧乏になった織田家の武将の一族では
太田に金を払って書いてもらえなかっただろうから
そういう不遇な戦死武将など、そもそも公記に登場しない。
そもそも三河物語の大久保も公記はデタラメばっかで
ぜんぜん武功ないやつがスゴイヤツと書かれていたりしてると書いてる。
これ太田に金を渡してよく書いてもらった結果。
池田なんて武田征伐に出陣してないのに出陣したと書いてもらって
池田家に献上してるしw
大久保が子供だから姉川の戦いなんて知らんだろとか言うアホもいるが
兄2人が姉川の戦いに参加してるから、普通に事実が聞けるしw
37 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 17:49:06.72 ID:M++SriDX
織田厨の大ウソ「信玄晩年には黒川金山が枯渇したので財政破綻」
枯渇したはずなのになぜか慶長19年になってさえ甲斐一国の金産出量は72000石相当もあった事実w
以前、織田厨が必死に「徳川の財政を支えた大久保長安の新しい技術のおかげ」と反論し
「おいおい長安って、武田配下だったんだがw灰吹法はとっくにあったしw」と嘲笑されていた恥かしい過去ありw
実際に破綻してたのは織田。
信玄上洛にビビっていた織田軍はたった1万しか動員出来なかった
ソースは年代記抄節。
金も鉄砲も金もなく京で略奪虐殺放火恐喝をして資金調達した犯罪者集団が織田。
織田厨のデタラメ「信玄が毎年戦をしまくって財政破綻して
兵糧はなくなり長期遠征は不可能だし民衆は怨嗟した」
1570年1月の駿河西部制圧後の信玄は
内政に集中していて1572年10月の西上作戦まで
大規模出兵は一切やってないから、それ以前の例年の頻繁な出兵は無し。
だから兵糧にはまったく心配ない。
むしろ信長は金も米も火薬もなく兵も1万しか集まらなかった。
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
兵科別の編成がなされていたから
北条・上杉・武田は部隊別の兵種の占める割合がわかるんだよね。
だけど織田はそんなことやってないからまったく不明。
公記には超長槍隊を信長が編成してた記述があるが
実際にそんな長槍がまったく出土してないし、代々に伝えらてすらいない。
天と地との映画に出てくる超長槍隊とか公記のパクリだが
あんな超長槍は一切、発見されてないからね。
織田一族が既存の土地に執着する古い豪族の連合体で
武田家などは集権化が比較的進んでいたことが判明しているんだよね
織田一族の領域では在地構造がそのまま温存されたり
私的な関係や便宜的な寄子寄親関係で適当に済ませてるケースが非常に多いが
武田家の領国では代官支配や主城主を中心とした再編成が多く見られる
ざる統治だったので、ちょっと体制を整備しようと
取り敢えず重臣2人のクビ斬ってみたら、反動で連続謀反が起き死亡ってとこじゃね
織田に離反が多いのも私的な主従関係を築いて一蓮托生な国人が多いから。
38 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 19:33:18.07 ID:M++SriDX
月岡野は一次史料で全く証明できず、あくまで太田の伝聞レベル。
明らかに太田が北陸方面の情報に疎いのがここでも露呈。
だから信長の反応が全くなし、実際は調略が成功した程度だろ。
そもそも当時の上杉は家督争いの内乱で武田軍が越後府中に駐留してるは、
北条軍が景勝の本領上田を襲撃する為に氏照と氏邦が越後坂戸城攻撃してる最中で、
越中なんて気にしてられない状況。
しかも織田は一次史料まったく無しの自称最強九鬼水軍の大船を使って
木津川口で毛利水軍を自称大敗させ瀬戸内海制海権を手に入れ
西国方面で絶対優位を確定させていながら、越中での勢力拡大すらできない体たらくw
月岡野www9/24に越中出陣を命じられ、10/4にはすでに帰陣候なのにわずか10日で
安土から飛騨経由で越中を往復して何ができんだよw
いま思いついたレベルの書き込みしかできない織田厨www
謙信だったら織田が数週間で滅ぶんじゃないか
謙信より格下の景勝相手に内乱につけこんで9倍もの圧倒的兵力差で火事場泥棒したら
越中中部〜魚津松倉で二年も食い止められたし
勝頼相手でも発狂があった長篠以外は織田方は上村・三方が原・東美濃攻防とヘタレビビリだったし
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&城みたいな陣地に発狂して突っ込んでも織田方に6000も被害与えて
9時間も戦い続けられたくらいだしガチンコで勝負したら勝頼にも劣るっしょ
信長自身勝頼を名大将的な評価してるし
また他の連中も圧倒的大軍&調略で内乱で自壊した所を火事場泥棒したのに
越中中部〜魚津・松倉の短い区間で9倍もの圧倒的兵力差がありながら2年も足止めくらう
普通に景勝>>>>>>>>>>>柴田だな
謙信時代は手取川で一級メンバー普通に蹴散らされて「案外手弱いので、もうすぐ上洛できる」とか言われてるし
謙信>>>>>>>信長だな
39 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 19:34:32.49 ID:M++SriDX
大久保が法螺話を書いたなんて根拠は全くないし
例によって公記では都合が悪いのか隠蔽して戦の内容について記述がなされていない
浅井三代記三河物語松平記で徳川の勝利で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
当代記のその方面の記述は基本的に信長記のトレースだから全く参考にならない
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのはそれ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
また織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。
遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
あと当代記とか信長書状でも徳川が大軍朝倉相手を任されて切り崩したと書いてるし
松平記や甲陽軍艦、三河物語、浅井三代記でも織田は大軍にもかかわらず寡兵の浅井に苦戦し
徳川は寡兵にもかかわらず大軍朝倉相手に大活躍して多数討ち取っているし上記のように裏づけもとれる
40 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 19:35:04.45 ID:M++SriDX
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
姉川で勝てたのは徳川のおかげ。
浅井三代記や三河物語で織田の苦戦と徳川の活躍で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
また遠藤直経の戦死場所が織田の本陣の布陣位置から大分後方へ離れている事から織田方の苦戦が読み取れ
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう
ちなみに徳川が圧倒的に強いのは
対今川・吉良・豊臣・姉川・北条(天正壬午)・関が原・大阪の陣で確定している
天下を取ったのも徳川
家康に勝てるのなんてほとんどいない
武田相手にやられまくってるのはただ武田が強すぎるだけ
北条や織田もけっちょんけっちょんにやられてるし
徳川が持ち上げたのではなく徳川が持ち上げるしかないほど圧倒的に強かっただけ
ひねくれた見方しかしないからそんな馬鹿みたいな曲解になる
41 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 19:35:38.18 ID:M++SriDX
信長は武田と和睦する匂いをかけて、織田勝長を返却させるや豹変して武田征伐を開始。
不幸にも浅間山が噴火したために領内混乱し、
後詰めの勝頼が諏訪から甲斐に撤退するハメになる。
有史以来、京で浅間山噴火が観測されたのは、今回がわずか二度目の大噴火で、
京では武田滅亡の前兆と見られた。
>噴火前から森や団のおかげで下条氏長や小笠原信嶺が寝返っているのに
そんな一次史料は存在しない。
まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても
滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ
2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句に
よくわからん家老のやつが
よくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。
松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。
これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れると
なんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww
団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって
実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で
小笠原の内応を書いており
実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している
寛永諸家系図の坪内氏に収録されている
坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。
武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは
3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り
居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ。
42 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 19:36:13.54 ID:M++SriDX
東美濃攻防はガチンコのぶつかり合い。激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。これにより岩村城の武田所属が確定し、信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。その報告を信長が得て11/12に赤沢、
11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と
永禄9年に12歳前後で婚姻していて、勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。
苗木城も武田方だったんだろうね。どう考えても織田が岩村城を奪回して
秋山を討つまでは苗木城が織田方として持ちこたえていられるわけがない。
信勝に弓を引くとか考え難い。
信玄は元亀元年7/19に天台座主のトップの交代で新座主に猿の絵を送って祝福してる。
天台宗といえば比叡山であり、その比叡山には日吉神社があり延暦寺の守り神とされ、猿は日吉神社を象徴していた。
つまり信長が比叡山を焼き討ちした元亀2年9月に信長は信玄へ挑発したも同然の悪行をしている。
永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然
それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
と謙信に氏照が情勢報告してるから、信コが今川を討たないと逆に謙信と氏真に信玄が挟撃されていた。
氏真は三河徳川の攻略を諦め、代わりに武田領侵略に路線変更していた
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状による反論でありその文中には「遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候」
と抜き出して柴辻が論を展開してるだけなので忠実に一字一句の抜き出しも付け足しもしてないので
別に歪曲したり捏造などしてない。そしてこの柴辻への反論はまったくなされてなく
無血開城論などすでに廃れた話で現在は誰も無血で譲渡されたなど書いてない。
さらに武田方の遠山氏が勝ったなどとこちらは一度も書いてないのに
「織田にボッコボッコにされ」などと得意がっててバカ丸出しの織田厨だが
結局、この信玄死去に至る経過において岩村城周辺でボッコボッコにされまくったのは織田方な事実はスルーw
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
43 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 19:38:25.53 ID:M++SriDX
なんか素人が上杉謙信に対してデタラメな評価書いてるの丸分かりなんだが。
上杉謙信は戦国最強であり武田信玄くらいしかまともに戦えず他の大名など足元にも及ばない。
北条氏康が上野国を制圧した時点の謙信は
国人統制もできず越後一国すらまだまだ平定してないのに
北信濃を信玄が北上すると言う危機的状態。
そこから武田と北条の2軍を同時に相手をして無敗。
利根川以西は武田領化したが、そもそも長野氏などは
ほとんど謙信との書状交換もない独自勢力に近く
北上野は最終的に上杉領だし、
東上野を北条は領土下できずに由良氏には上野一国を与えるなどと言って
自軍に味方してくださいと言わんばかりの関係。
そもそも北条は南関東のような直轄化政策を北関東では放棄してしまってるのが現実で
西上野を支配した武田みたいに城代すら置けてない。
北条なんて忍城・騎西城の成田兄弟すら自立勢力のままを容認してるし
自立勢力が謙信の陣触れで動員されて戦わされるよりは
北条のように放任してくれて動員義務を負わない方が楽だから北条派に転向してたに過ぎんから
勝頼や義重や信長にもすぐ尻尾を振るような輩も北関東には多く、
まったく北条の家臣化などなされていない。
越相同盟にしても、謙信の条件要求をうやむやに誤魔化して
武田攻めをしてくれと言ってたのが北条。
沼田や厩橋着陣すれば、それは武田への無言の圧力になるので、
謙信が援軍を出してないとは言えない。
しかも越中は武田が一向宗を使って上杉と戦わせているので
越中への攻勢も武田攻め一環。
つかそもそも同盟交渉継続してただけだし。
そもそも御館の乱の時も北条は武田を使って自分は動かずに利用しようとして
勝頼が不満を漏らしているし、基本的に北条は糞。
越相同盟交渉の時に謙信は太田のために交渉してて、
北条が太田の息子の梶原を人質に出せなどと無理難題をふっかけておきながら
それすら有耶無耶にしつつ援軍出してくれを連呼。
氏政の息子を人質に出す話も有耶無耶。
そもそも佐竹も義昭時代と違って義重は奥羽方面への北上を指向して
北条と内通したり葦名を攻めたりと必ずしも謙信の味方ではない。
里見も副将軍と自称していて軍事的な交流などそもそもほとんどない。
44 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 19:39:00.23 ID:M++SriDX
氏康は謙信に屈して越相同盟締結したんだよ
氏康は以後謙信を関東管領様と呼ぶことになり、南上野・北武蔵を謙信に割譲させられた
情けないことに氏政に到っては謙信にお歳暮まで送って機嫌を伺ってる
だいたい氏康は忍城攻撃に失敗、唐沢山城攻撃に失敗、岩付城攻撃に失敗、関宿城攻撃に失敗と城攻めが絶望的に下手くそ
また野戦でも狐橋の戦いで今川義元に敗れ、三崎の戦いで里見義弘に敗れ、三船山の戦いで里見義尭に敗れ(バカ息子に戦闘命令)、三増峠の戦いで信玄に敗れ(バカ息子に戦闘命令)、野戦で北条軍の弱体無能さを天下に轟かせてる
氏康の弱さは北条滅亡の危機を3度も味わったことからも明らか
狐橋の戦いで義元に敗れ関東管領山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏に河越城を攻められた時は信玄が仲介しなければ間違いなく北条滅亡してた
謙信に小田原城攻められた時も信玄が軍事行動起こさなければ連合軍は撤退せず城は陥落間違いなし
信玄が駿河に攻め込んだ時北条は西に本性現した武田、北に仇敵上杉、東に復活した里見と三方を敵に囲まれ半泣きで謙信に縋り付いた
小田原城下町を武田に火の海にされても城内で震えてただけの氏康
武田を撃退したなんて負け惜しみ、家を焼かれた領民は助けてくれなかった氏康を恨んだ
三増峠の戦いでも北条軍は大打撃を受けて駿河から叩き出されてしまった
北条軍は本当に弱小
45 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 19:40:48.60 ID:M++SriDX
武田や北条は謙信にガチンコ戦闘で負けきり、エア大敗はしなかったけど
織田は圧倒的兵力でトップ格柴田がガチ負けして加賀から追い返され
謙信死後御館の乱や新発田の乱でガタガタに弱った隙をついて
空白地同然の北陸を火事場泥棒しようとしたら越中中部で9倍もの圧倒的兵力で2年も足止め食らったし
普通に戦闘なら武田、北条>>>>>>織田
当時氏康の外交力不足で武田上杉里見佐竹と敵だらけになったんじゃん
武田に飲み込まれそうになったから上杉や里見と手当たり次第和睦試みた氏康、これが事実
ちなみに里見には和睦断られたよね
当時謙信は別に和睦する必要なかったんだよ
居城小田原が脅かされてた氏康と違い謙信の居城春日山は安心そのもの
ただ度重なる関東出兵で財政的に苦しくなった部下が「北条と和睦してください」と勧めたから和睦しただけ
当時の上杉は別に危機的状況じゃなかった
ちなみに越相同盟締結後に北条救援が遅れたのは信玄に扇動された越中守護代の椎名康胤と戦ってたから
共同して武田と戦うという約束破ったわけじゃないよ
康胤は越中一向一揆と手を組んだ上に越中一の堅城・松倉城に立て篭もって抗戦したから厄介だったわけ
松倉城は越後の近くだから謙信も見過ごせなかったんだね
一揆は越中加賀3万の大軍だから厄介だし
46 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 20:15:43.03 ID:M++SriDX
>>あとは元が過小だったからあまり叩かれずに済んでるけど堀秀政とか織田信忠とかもこのジャンルだね
何せその中で一番上の強さ(実績)の信長家臣トップ格柴田がゴミクズのように蹴散らされて
加賀から追い返され
謙信死後御館の乱や新発田の乱でガタガタに弱った隙をついて
空白地同然の北陸を火事場泥棒しようとしたら越中中部で9倍もの圧倒的兵力で2年も足止め食らったし
普通に戦闘なら武田、北条>>>>>>織田
北条が弱い=織田厨の妄想
織田家トップ4に入る滝川もガチンコ戦闘で大敗してるし織田なんぞよりは遥かに強い
織田・豊臣なんて謙信・信玄はおろか景勝、勝頼、氏直以下。
勝頼に勝てたのも甲江約定反故の騙まし討ちと浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖のおかげ
ガチンコで戦うと勝てないから岩村でも武田攻めでも騙まし討ちにするしかなかった
謙信>>>景勝>>>>織田雑魚軍団
そして毛利・島津等はその雑魚に簡単に蹴散らされたゴミ
謙信>>>景勝>>>>織田雑魚軍団>>大友>>>島津>>>>>>>毛利
47 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 20:16:13.20 ID:M++SriDX
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
48 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 20:16:53.96 ID:M++SriDX
×織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
49 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 20:17:29.80 ID:M++SriDX
信玄と氏康の両軍と対陣して
挑発しまくってる謙信の強心臓ぶりは
長篠の戦い後の天正4年10/15の教雅の書状の中で
謙信を日本無双之大将と言ってることでもわかる。
謙信を恐れた信長は勝頼に土下座した。
しかし天正5年12月に信長からの同盟願いを却下して
勝頼が鞆公儀政権の上杉・毛利・本願寺との
同盟に参加してしまったことで
信長は完全に追い詰められてしまった。
しかし謙信や丹波の赤鬼が死去するラッキーがあり
さらに天才秀吉が宇喜多を調略してしまったことで
毛利は大幅に戦線を後退させざるを得ず、
播磨兵庫・摂津尼崎・淡路岩屋に軍を駐留させていた毛利軍が
撤退した為に荒木や別所が降伏することになった。
信長って長島一揆に大敗してたよな
本願寺一揆を最後まで攻略できなかったよな
謙信は越中加賀一揆を楽勝で鎮圧してるんだが
信長は斎藤義竜に長良川で追撃され義父道三見殺しにして逃げ帰ってきたよな
浅井に裏切られて殺されそうになったよな
木津川海戦で毛利に大敗したよな
人使い荒すぎて長男もろとも部下に殺されたよな
三男信孝も秀吉に殺されたよな
次男信雄も秀吉に降伏したよな
しかも信長自慢の鉄砲は雨天や夜には全く役立たずで織田軍主力部隊が手取川で謙信に大敗したよな
信長って戦国の七雄の中で一番勝率低いんだよ
50 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 20:20:10.44 ID:M++SriDX
越相同盟って北条が同盟条件を守ろうとせずに援軍要請ばっかするから
駿河奪還するまでの一時しのぎの方便で誤魔化して
上杉からの攻撃をそらしてるだけなのでは?と疑ってたからね。
なにせ氏政が太田に松山城を与える条件を
8/3に上田政広の本領だから反対!と主張し由良氏にまでふざけんな!と言われる。
すると8/26になると氏政は由良に上野国一国全部宛がうとか言って機嫌とってる始末・・・
そりゃあ越後諸将が武田攻めに気合いれられるわけがない。
信玄が小田原へ侵攻した時に、謙信が越中から春日山へ戻ってきて
由良氏に越山するよって伝えて沼田にやってきたら
北条は大喜びで、謙信が武田を討つから氏照や氏邦も同陣してくれと言うと
北条は「それは無理」と拒否してくるから、これ同盟でもなんでもないだろ?だし。
これへの上杉諸将の総意返答が佐野への進撃だからね。
そして北条の返答は「岩槻を渡すつもりだったのに佐野へ行くから渡さなかっただけ。
渡すから武田を攻めてよ。ただし太田の子の梶原を小田原への人質にねw
氏政の息子の養子の件も了解するから柿崎景家か晴家を交換条件に」
なんでここで梶原を要求するのかね?明らかに譲渡する気なしで援軍を出させるための詐術でしかない。
これを受けて佐野を撤退した上杉軍。
しかし人質としてきたのは氏康の子・・・
もうね北条は氏政の子を養子に送る話も一切守らず、
足利藤氏を古河公方にする条件には、いや先日藤氏死んだから無理。
仕方が無いから義氏でいいじゃんとか言って、
交渉中で謙信が攻めてこないことをいいことに古河に配置して既成事実を作る始末。
謙信は拒絶してたんだけど、広田直繁・木戸忠朝がやたらに嘆いて嘆願するもんだから
元亀元年4月に自分への広田らの忠信を黙殺するのは辛いからと義氏の件をやむなく認めてる。
しかし背後で氏政が甲相同盟復活を計画してて、
元亀2年4月上杉に指摘されると氏康は「讒言だ。そんな事実はない」と弁解してるが
実はこの時点で氏康の花押の書状はすでに発給されておらず、氏政が氏康を装って出したとされていて
邪魔になっていた氏康は氏政に殺された。
謙信も北条をまったく信用せずにすでに徳川との同盟交渉を立ち上げてる。
ちなみに里見や佐竹が上杉と北条の同盟に反対してたのは信玄の策略によるもの。
謙信も武田の勢力拡大を抑えるために北条と同盟する必要性は感じていたのだろう。
しかし北条は援軍要求で利用するだけ利用して条件は守らずの不誠実な態度から
(ボケ老人化が進行していた氏康には氏政すら言うことを聞いてくれなかった)
武田封じの同盟相手を徳川・織田に変更した。
基本的に北条は弱いので不誠実な慇懃無礼な誤魔化し外交と
負けたのに勝った勝ったを連呼する情報操作の常習犯のクズだからな。
武田や北条は謙信にガチンコ戦闘で負けきり、エア大敗はしなかったけど
織田は圧倒的兵力でトップ格柴田がガチ負けして加賀から追い返され
謙信死後御館の乱や新発田の乱でガタガタに弱った隙をついて
空白地同然の北陸を火事場泥棒しようとしたら越中中部で9倍もの圧倒的兵力で2年も足止め食らったし
普通に戦闘なら武田、北条>>>>>>織田
51 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 20:20:50.77 ID:M++SriDX
天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。
龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収
急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言
七月廿八日 光佐(花押)
一色駿河守殿
真木嶋玄蕃頭殿
>>上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていた
・織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退
天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。
>>いわば他人の領土を織田軍が守るために救援するのであるが、
こんな戦いに信長自ら国元を空っぽにしてまでいくのはかなり怪しい。
越前一揆を撲滅するために柴田らはとっくに加賀への進出をすでに行っている。
そのため、もし能登が一向宗と同盟している上杉の手中に落ちたら
織田の加賀領国が危険に晒される。越中が上杉領化した今、能登まで上杉化することは
越前・加賀の織田領国の不安定化につながる。言わば日本を守るためには朝鮮を
朝鮮を守るために満州を!と言う軍事防衛思想に他ならない。
親織田勢力を見捨てることは大規模離反につながりかねないのは、
高天神城落城における信長が家康への指示において、武田が見殺しにしたと思わせるために
降伏を許さないで、皆殺しにせよと命じていることでもわかる。
もっとも高天神城側は降伏するつもりで、
勝頼には援軍はいらないと書状を出していたから救援は最初から来ないわけだが。
>>七尾城が助けて〜と言ってきたから信長は援軍出しただけで織田と関係ないし
>>落城してたのなら、織田の城じゃないし、奪回する気がおきるわけない。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書いてるが完全にデタラメ。
ちなみに謙信→長景連への3/19書状には
(菅屋・林・佐々・松井と供に長連竜(長続連の子)が織田配下として書かれてる)
信長が謙信に比叡山再興を約束してる土下座モードで謙信も納得したとか書いてるwww
(4/24謙信→関東の小田守治で氏政を足蹴倒すぞと報せていて、武田攻めする気なしwww
おそらく3/5の遊足庵への謙信書状で葦名と佐竹が和議になることと葦名が北条へ手切れ
佐竹・宇都宮連合が氏政を29日夜に多功原で大破し数千人を討ち取り、
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報が影響し%8
52 :
名無し曰く、:2012/12/18(火) 20:21:26.43 ID:M++SriDX
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報が影響してる。
謙信は信玄と氏康同陣の時にたびたび俺が乗り出してきても決戦せずに退散するくせにと愚痴ってる)
朝倉義景が一乗谷城から越前府中まで3/11には出陣してきたことを報じている。
また濃州・信州境を用心しろとも書いていて、信玄の美濃侵攻が近いことがわかる。
3/7信長→幽斎書状にも長与一(長景連)が味方だと書いてる。
元亀4年時点ですでに明らかに七尾城は織田方なのだがwww
>>1月16日には佐久間信盛と柴田の防備慰労として北陸へ松田監物を派遣してるところから
>>佐久間を本願寺攻めから抽出して対上杉防衛に転用しないといけないほど追い詰められていた。
佐久間まで北陸へ派兵させてまで謙信への防衛に当てる理由はただひとつ。
手取川で信長が超大敗して完全にビビっている証拠。
なぜなら信長が佐久間信盛へ弾劾状を出した内容には
本願寺包囲の責任者の佐久間の軍隊として
三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。
これに佐久間自身の配下を加えればと書かれている。
織田軍で一番の大部隊で必死に謙信の攻勢を凌ごうとして焦ってる姿が目に浮かぶ。
畠山尚順から為景が任じられて以来の越中東部新河郡守護代を兼ねる謙信は
天正4年末に越中において領主のいない闕所地を直轄領とし、
放生津と伏木浜を港湾自由都市にし、
放生津は特に楽市化し町人の諸役を三ヵ年免除
津料、渡役も免除し都市の振興保護政策を推進している。
これを越後の港湾都市府内と柏崎の直轄化を放生津で行い
越中を越後同様に豊かにする政策だと市村氏は論じてる。
また七尾城で幼主を擁して独裁してる長続連親子を除くことは
永禄9年2月17日に野洲郡矢島御所で覚慶は足利義秋と名乗って還俗した際に
三管領家の河内国畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱と
約束した室町幕府復興のための約定の履行である。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。
なぜなら手取川合戦の存在を消すには、畠山の息子が死んだから
柴田には助ける名目が無くなったことにしないと辻褄が合わなくなるから。
もし生存してるなら当然に、戦わず撤退することが正当化できなくなる。
53 :
名無し曰く、:2012/12/19(水) 15:22:43.69 ID:S+F5FDYA
f
54 :
名無し曰く、:2012/12/19(水) 15:34:51.71 ID:vISN4X4k
※秀吉失態集※
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
55 :
名無し曰く、:2012/12/19(水) 15:35:35.99 ID:vISN4X4k
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
56 :
名無し曰く、:2012/12/19(水) 15:37:48.87 ID:vISN4X4k
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
57 :
名無し曰く、:2012/12/19(水) 15:38:46.51 ID:vISN4X4k
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
58 :
名無し曰く、:2012/12/19(水) 15:40:47.30 ID:vISN4X4k
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
59 :
名無し曰く、:2012/12/19(水) 15:42:16.21 ID:vISN4X4k
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
60 :
名無し曰く、:2012/12/20(木) 17:07:24.16 ID:8Aj4oWe1
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
61 :
名無し曰く、:2012/12/20(木) 17:08:27.05 ID:8Aj4oWe1
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
62 :
名無し曰く、:2012/12/20(木) 17:08:59.89 ID:8Aj4oWe1
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
63 :
名無し曰く、:2012/12/20(木) 17:12:00.08 ID:8Aj4oWe1
小牧長久手の時でも雑魚信雄相手に1万人殺された上に
戸木松ノ木蟹江二重堀東駒野河波長久保浜田など格城郭の攻防で蹴散らされて
諦めて大阪に納馬する予定であり天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
64 :
名無し曰く、:2012/12/20(木) 17:15:04.79 ID:8Aj4oWe1
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
65 :
名無し曰く、:2012/12/20(木) 17:15:45.03 ID:8Aj4oWe1
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
66 :
名無し曰く、:2012/12/20(木) 22:59:29.67 ID:ccV3k3ai
しずヶ岳まで読んだ てか平仮名(笑)
67 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 00:47:55.47 ID:1W3ESZUN
要約すると武将に必要な能力は運ってことだな
絶対的な運の持ち主だけが武将双六であがる事ができる
信長なんかがいい例で、運が細かったせいであがり直前で振りだしに戻る…
あそこで家康ぐらいの強運を発揮できてたら、偶然その日は本能寺に居なかったり、光秀方の伝令が間違って信長の旗本に捕まったり、付近の農民から軍勢が京に近づいてきてるって情報が入ってくる。
ツイてる人間、持ってる人間家康はそれを可能にしてきた
結論・徳川家康は過小
家康に刃向かう大名家には天災・厄災・人災が立て続けに起きるぐらいでちょうどいいかと
68 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 01:31:16.07 ID:CWVUN+OQ
コピペ野郎死ね糞チョン
69 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 12:49:37.31 ID:FqikaR3L
クソスレ
70 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 14:58:06.16 ID:RG/Ouozo
家康が不運だったのはガチンコで700程度で織田兵10000を蹴散らしたりできる最強武田軍団が敵だったこと。
逆に家康が尾張で信長が西三河小領主スタートなら家康は史実でしたみたいに畿内や美濃を瞬殺できたに違いない
何せ美濃は幼君・クーデター騒ぎで分裂・美濃三人衆始め皆抵抗せずに自落
畿内も六角は対浅井敗戦や観音寺騒動で極度に弱体化・三好は分裂&足利義昭が信長の下に来たおかげで
上洛戦では圧倒的大軍が信長の下に集結・伊勢でも北畠は内訌で弱体化(史実でも信長は粛清しまくり)と
圧倒的に有利な位置条件だったし史実で畿内瞬殺した家康なら2年程度で統一できそうだ
71 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 15:25:31.01 ID:E+YhAiQK
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
72 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 15:26:22.09 ID:E+YhAiQK
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
73 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 15:27:30.01 ID:E+YhAiQK
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
74 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 15:28:11.45 ID:E+YhAiQK
三方が原の戦いの、双方の顔ぶれから推測した兵数考察
・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)
/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり
『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく
@劣勢な家康が出陣した理由
A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。
鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。
三方原については、
佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領
全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。
更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。
元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容
信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)
佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
75 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 15:28:56.30 ID:E+YhAiQK
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
76 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 15:29:31.32 ID:E+YhAiQK
天正7年初頭にも勝頼が毛利と荒木と本願寺を救うために
織田戦力を分散するために家康攻めで出陣OK返事出してんだよな。
その時に輝元が宗麟に足を引っ張られたごときで
武田との約束を破り正月16日出陣を無期延期にしやがったから
合同作戦じゃなくなって武田単独で
景虎自刃した3/24を過ぎてからの
4月より遠江高天神・国安(掛川市)を荒らしてて
信長も急いで摂津戦線から安土へ帰国してる。
いそぎ本願寺や荒木もこのチャンスに出撃せよと毛利に要求するが
まったくのヘタレぶりを露呈したために、
これを見た宇喜多・南条らも毛利を見限り、
天正8年になると荒木が破れ、本願寺も朝廷の勅令和睦を飲んでしまい
武田と毛利の滅亡が確定した。
しかし本能寺の変のおかげで毛利は滅亡を免れた。
結局、毛利がありえないくらいヘタレだから
織田を討つチャンスを何度も自らぶっ壊してる。
ちなみに8月末に厩橋北条高広が北条から武田へ服属先を変えたことをきっかけに
9/5北条と徳川が同盟したことを受けて武田内通の罪で信康が9/15に自害させられてる。
武田は佐竹らと同盟して北条を圧倒。伊豆浦でも武田水軍は北条水軍を圧倒し連戦連勝。
氏政は「このままでは北条は滅亡に向かう」
「上州は武田のものになってしまう」などと武田を恐れまくる。
しかし同時期に石山本願寺が勅命和睦命令の連投に恐れ多いと受託してしまう。
それでも天正9年末まで北条を圧倒し続け伊豆まで攻め込み里見氏も同盟参加。
徳川も高天神城をやっとの思いでなんとか攻略できたが、そこまででしかなかった。
所詮、家康は穴山とどっこいどっこい程度の実力しか無い。
天正10年の織田の攻撃のタイミングが浅間山噴火とシンクロして武田が崩壊しただけ。
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築して長篠城落城の危機に焦り
5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
77 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 15:30:10.18 ID:E+YhAiQK
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
姉川で勝てたのは徳川のおかげ。
浅井三代記や三河物語で織田の苦戦と徳川の活躍で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
また遠藤直経の戦死場所が織田の本陣の布陣位置から大分後方へ離れている事から織田方の苦戦が読み取れ
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう
ちなみに徳川が圧倒的に強いのは
対今川・吉良・豊臣・姉川・北条(天正壬午)・関が原・大阪の陣で確定している
天下を取ったのも徳川
家康に勝てるのなんてほとんどいない
武田相手にやられまくってるのはただ武田が強すぎるだけ
北条や織田もけっちょんけっちょんにやられてるし
徳川が持ち上げたのではなく徳川が持ち上げるしかないほど圧倒的に強かっただけ
ひねくれた見方しかしないからそんな馬鹿みたいな曲解になる
78 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 15:30:56.97 ID:E+YhAiQK
信長は武田と和睦する匂いをかけて、織田勝長を返却させるや豹変して武田征伐を開始。
不幸にも浅間山が噴火したために領内混乱し、
後詰めの勝頼が諏訪から甲斐に撤退するハメになる。
有史以来、京で浅間山噴火が観測されたのは、今回がわずか二度目の大噴火で、
京では武田滅亡の前兆と見られた。
>噴火前から森や団のおかげで下条氏長や小笠原信嶺が寝返っているのに
そんな一次史料は存在しない。
まさかソースが捏造軍記の嘘長公記とか言わないよねwww
デタラメ信長マンセーの公記を事実と譲歩したとしても
滝ヶ沢に要害を構えて下条伊豆守を入れておいたところ
2/6に家老の下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れ
などと、どこだからも分からん場所に砦かなにかを即席で作った挙句に
よくわからん家老のやつが
よくわからん織田方のやつを道案内してるに過ぎず
わりとどうでもいい話しか書いてない。
松尾城主の小笠原の内応はまさに浅間山大噴火当日の話だし。
これによって初めて織田軍の団や森が先陣として武田領へ侵攻開始。
そもそも下条九兵衛が脱走して岩村口から川尻与兵衛を引き入れると
なんで同日に木曽氏が織田へ援軍要請の懇願するのか意味不明。
すでに織田軍がいるはずじゃんよwww
団や森が先陣として武田領へ侵攻開始だって
実際にいつスタートしたか不明。
そもそも公記は浅間山大噴火を隠蔽した上で
小笠原の内応を書いており
実際の戦況がわかるのは3/5の信忠書状で坪内氏へ
高遠城を攻略した戦功を賞している
寛永諸家系図の坪内氏に収録されている
坪内氏が貰ったと自称する怪しげな信忠感状の写しのみ。
武田攻略に関わる内容がわりとわかるのは
3/8の信長書状で2/28に勝頼が居城へ逃げ入り
居所を自焼して山奥へ逃亡したと書かれてるだけ。
79 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 16:15:37.05 ID:E+YhAiQK
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
80 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 16:16:35.95 ID:E+YhAiQK
武田や北条は謙信にガチンコ戦闘で負けきり、エア大敗はしなかったけど
織田は圧倒的兵力でトップ格柴田がガチ負けして加賀から追い返され
謙信死後御館の乱や新発田の乱でガタガタに弱った隙をついて
空白地同然の北陸を火事場泥棒しようとしたら越中中部で9倍もの圧倒的兵力で2年も足止め食らったし
普通に戦闘なら武田、北条>>>>>>織田
当時氏康の外交力不足で武田上杉里見佐竹と敵だらけになったんじゃん
武田に飲み込まれそうになったから上杉や里見と手当たり次第和睦試みた氏康、これが事実
ちなみに里見には和睦断られたよね
当時謙信は別に和睦する必要なかったんだよ
居城小田原が脅かされてた氏康と違い謙信の居城春日山は安心そのもの
ただ度重なる関東出兵で財政的に苦しくなった部下が「北条と和睦してください」と勧めたから和睦しただけ
当時の上杉は別に危機的状況じゃなかった
ちなみに越相同盟締結後に北条救援が遅れたのは信玄に扇動された越中守護代の椎名康胤と戦ってたから
共同して武田と戦うという約束破ったわけじゃないよ
康胤は越中一向一揆と手を組んだ上に越中一の堅城・松倉城に立て篭もって抗戦したから厄介だったわけ
松倉城は越後の近くだから謙信も見過ごせなかったんだね
一揆は越中加賀3万の大軍だから厄介だし
81 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 16:17:16.11 ID:E+YhAiQK
信玄と氏康の両軍と対陣して
挑発しまくってる謙信の強心臓ぶりは
長篠の戦い後の天正4年10/15の教雅の書状の中で
謙信を日本無双之大将と言ってることでもわかる。
謙信を恐れた信長は勝頼に土下座した。
しかし天正5年12月に信長からの同盟願いを却下して
勝頼が鞆公儀政権の上杉・毛利・本願寺との
同盟に参加してしまったことで
信長は完全に追い詰められてしまった。
しかし謙信や丹波の赤鬼が死去するラッキーがあり
さらに天才秀吉が宇喜多を調略してしまったことで
毛利は大幅に戦線を後退させざるを得ず、
播磨兵庫・摂津尼崎・淡路岩屋に軍を駐留させていた毛利軍が
撤退した為に荒木や別所が降伏することになった。
信長って長島一揆に大敗してたよな
本願寺一揆を最後まで攻略できなかったよな
謙信は越中加賀一揆を楽勝で鎮圧してるんだが
信長は斎藤義竜に長良川で追撃され義父道三見殺しにして逃げ帰ってきたよな
浅井に裏切られて殺されそうになったよな
木津川海戦で毛利に大敗したよな
人使い荒すぎて長男もろとも部下に殺されたよな
三男信孝も秀吉に殺されたよな
次男信雄も秀吉に降伏したよな
しかも信長自慢の鉄砲は雨天や夜には全く役立たずで織田軍主力部隊が手取川で謙信に大敗したよな
信長って戦国の七雄の中で一番勝率低いんだよ
82 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 16:17:54.41 ID:E+YhAiQK
月岡野は一次史料で全く証明できず、あくまで太田の伝聞レベル。
明らかに太田が北陸方面の情報に疎いのがここでも露呈。
だから信長の反応が全くなし、実際は調略が成功した程度だろ。
そもそも当時の上杉は家督争いの内乱で武田軍が越後府中に駐留してるは、
北条軍が景勝の本領上田を襲撃する為に氏照と氏邦が越後坂戸城攻撃してる最中で、
越中なんて気にしてられない状況。
しかも織田は一次史料まったく無しの自称最強九鬼水軍の大船を使って
木津川口で毛利水軍を自称大敗させ瀬戸内海制海権を手に入れ
西国方面で絶対優位を確定させていながら、越中での勢力拡大すらできない体たらくw
月岡野www9/24に越中出陣を命じられ、10/4にはすでに帰陣候なのにわずか10日で
安土から飛騨経由で越中を往復して何ができんだよw
いま思いついたレベルの書き込みしかできない織田厨www
謙信だったら織田が数週間で滅ぶんじゃないか
謙信より格下の景勝相手に内乱につけこんで9倍もの圧倒的兵力差で火事場泥棒したら
越中中部〜魚津松倉で二年も食い止められたし
勝頼相手でも発狂があった長篠以外は織田方は上村・三方が原・東美濃攻防とヘタレビビリだったし
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&城みたいな陣地に発狂して突っ込んでも織田方に6000も被害与えて
9時間も戦い続けられたくらいだしガチンコで勝負したら勝頼にも劣るっしょ
信長自身勝頼を名大将的な評価してるし
また他の連中も圧倒的大軍&調略で内乱で自壊した所を火事場泥棒したのに
越中中部〜魚津・松倉の短い区間で9倍もの圧倒的兵力差がありながら2年も足止めくらう
普通に景勝>>>>>>>>>>>柴田だな
謙信時代は手取川で一級メンバー普通に蹴散らされて「案外手弱いので、もうすぐ上洛できる」とか言われてるし
謙信>>>>>>>信長だな
83 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 16:19:06.20 ID:E+YhAiQK
天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。
龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収
急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言
七月廿八日 光佐(花押)
一色駿河守殿
真木嶋玄蕃頭殿
>>上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていた
・織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退
天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。
>>いわば他人の領土を織田軍が守るために救援するのであるが、
こんな戦いに信長自ら国元を空っぽにしてまでいくのはかなり怪しい。
越前一揆を撲滅するために柴田らはとっくに加賀への進出をすでに行っている。
そのため、もし能登が一向宗と同盟している上杉の手中に落ちたら
織田の加賀領国が危険に晒される。越中が上杉領化した今、能登まで上杉化することは
越前・加賀の織田領国の不安定化につながる。言わば日本を守るためには朝鮮を
朝鮮を守るために満州を!と言う軍事防衛思想に他ならない。
親織田勢力を見捨てることは大規模離反につながりかねないのは、
高天神城落城における信長が家康への指示において、武田が見殺しにしたと思わせるために
降伏を許さないで、皆殺しにせよと命じていることでもわかる。
もっとも高天神城側は降伏するつもりで、
勝頼には援軍はいらないと書状を出していたから救援は最初から来ないわけだが。
>>七尾城が助けて〜と言ってきたから信長は援軍出しただけで織田と関係ないし
>>落城してたのなら、織田の城じゃないし、奪回する気がおきるわけない。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書いてるが完全にデタラメ。
ちなみに謙信→長景連への3/19書状には
(菅屋・林・佐々・松井と供に長連竜(長続連の子)が織田配下として書かれてる)
信長が謙信に比叡山再興を約束してる土下座モードで謙信も納得したとか書いてるwww
(4/24謙信→関東の小田守治で氏政を足蹴倒すぞと報せていて、武田攻めする気なしwww
おそらく3/5の遊足庵への謙信書状で葦名と佐竹が和議になることと葦名が北条へ手切れ
佐竹・宇都宮連合が氏政を29日夜に多功原で大破し数千人を討ち取り、
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報が影響し%8
84 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 16:19:52.60 ID:E+YhAiQK
何せその中で一番上の強さ(実績)の信長家臣トップ格柴田がゴミクズのように蹴散らされて
加賀から追い返され
謙信死後御館の乱や新発田の乱でガタガタに弱った隙をついて
空白地同然の北陸を火事場泥棒しようとしたら越中中部で9倍もの圧倒的兵力で2年も足止め食らったし
普通に戦闘なら武田、北条>>>>>>織田
北条が弱い=織田厨の妄想
織田家トップ4に入る滝川もガチンコ戦闘で大敗してるし織田なんぞよりは遥かに強い
織田・豊臣なんて謙信・信玄はおろか景勝、勝頼、氏直以下。
勝頼に勝てたのも甲江約定反故の騙まし討ちと浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖のおかげ
ガチンコで戦うと勝てないから岩村でも武田攻めでも騙まし討ちにするしかなかった
謙信>>>景勝>>>>織田雑魚軍団
そして毛利・島津等はその雑魚に簡単に蹴散らされたゴミ
謙信>>>景勝>>>>織田雑魚軍団>>大友>>>島津>>>>>>>毛利
85 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 16:20:23.58 ID:E+YhAiQK
>>上杉謙信は17日まで加賀能登国境付近にまで軍事行動をしていた
・織田信長はそれを知らず18日に川を渡り23日に謙信の動きを知り撤退
天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(上杉本の公式には能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春(上杉本の公式)を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。
公記は太田が金をもらって書いてるからな。
戦死して貧乏になった織田家の武将の一族では
太田に金を払って書いてもらえなかっただろうから
そういう不遇な戦死武将など、そもそも公記に登場しない。
そもそも三河物語の大久保も公記はデタラメばっかで
ぜんぜん武功ないやつがスゴイヤツと書かれていたりしてると書いてる。
これ太田に金を渡してよく書いてもらった結果。
池田なんて武田征伐に出陣してないのに出陣したと書いてもらって
池田家に献上してるしw
大久保が子供だから姉川の戦いなんて知らんだろとか言うアホもいるが
兄2人が姉川の戦いに参加してるから、普通に事実が聞けるしw
86 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 19:20:01.66 ID:lHSMVuFt
だがに荒らされたスレ
87 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 21:11:05.14 ID:V/NDz1jF
久しぶりにきたけど
>>1からずっと長文定形コピペだな
ネトウヨVS連呼リのコピペ合戦みたい
88 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 22:17:38.29 ID:NUB5VHlS
必死だな・・・
89 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 22:45:03.61 ID:z85Sv41o
Ta Ke Da 厨 うざい
90 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 23:12:20.62 ID:CWVUN+OQ
誰も読んでないのに長文コピペ貼ってスレ落とすのが最近の流行りらしい
91 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 23:56:04.38 ID:E+YhAiQK
※秀吉失態集※
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
92 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 23:56:55.31 ID:E+YhAiQK
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
93 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 23:57:33.53 ID:E+YhAiQK
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
94 :
名無し曰く、:2012/12/21(金) 23:59:21.68 ID:E+YhAiQK
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
95 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 00:00:30.53 ID:gskVRC5d
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
96 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 00:03:13.75 ID:E+YhAiQK
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
>>17 一次史料は?
高野山攻めは10月中旬以降に開始されてる。
公記ですら信雄を総大将に9月中に伊賀が平定され、
10月に伊賀を見聞にやってきた信長が信雄に会ったりして伊賀から安土に帰ったのは13日。
信孝は一切記録されてない大空白が続くし、
信孝の支配領地は記録が無くて実はよく分かってないのが現実。
ちなみに信雄も実際には直轄地をほとんど持ってない可能性が高く、
越前の一向宗攻めで他国衆に命令していて
伊勢衆は滝川らが命令発給しており、
信孝も他国衆や丹波衆に命令発給していたりする。
97 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 00:04:00.51 ID:gskVRC5d
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
98 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 00:04:40.76 ID:gskVRC5d
和田は伊丹が反織田で挙兵しないように説得していたんだし、細川と和田は協調して親織田だと見るべきだ。
ちなみに伊丹氏は天正2年4月の本願寺挙兵にも同調して、一向宗の力を借りて7月下旬に伊丹城を奪取し挙兵。
7/20に石山本願寺の中島砦攻撃で荒木軍の大半が戦死し
7/29には伊勢長島攻撃の戦地の信長が本願寺包囲に参加していた光秀に
奪取したばかりで兵糧が乏しい伊丹城は本願寺と連携してるから
即降伏は難しいので遠巻きするかどうかはお前の判断次第と言ってる。
8/3には河内若江城へ遊佐信教・三好康長らが攻めてきたり大和南部でも叛乱が起きまくり。
長島一向衆を大虐殺後は即、大和へ織田軍は進軍。ついで11/15に伊丹氏滅亡。
俺が言ったのはロクに準備なく、丹波攻め人選もいい加減だということ。
丹波国守護代内藤氏や宇津頼重が義昭に付いて、いまだに帰順しないからと言うことで
6/7川勝継氏 6/17小畠左馬助らに内藤らに味方したら成敗するから織田に付いて馳走しろ。
こんな乱暴な命令の書状を出しただけで放置だろ。
とうの信長は本願寺包囲をしつつ、光秀や秀吉などを引き連れて
越前で撫で斬り大虐殺大会に出かけてるだけだし。
9/26に越前虐殺大会から帰ると、万単位の虐殺に大満足してるようで高揚してるのか
思い出したように10/1に赤井直正を討つから光秀派遣したから片岡藤五郎は協力しろ。
そして天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないと大幅に白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末。
しかもその後におきる木津川口の敗戦も公記得意の信長が後詰めしようとしたが
間に合わなかったと言う岩村城援軍や明智城援軍や高天神城援軍などでも使われた決戦から逃亡正当化の常套文句。
さらに安土城建築の模様を再び書いたりと誤魔化してるが、このあたりから再び、信長は苦境に入り込んでる。
織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし
信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長
根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず
公記には天文21年(1552年)に桶狭間の戦いがあったと書いている事実w
このため桶狭間の戦い虚構捏造説の根拠にされるw(信秀死去は天文20年もしくは天文21年とされる)
天正9年11/24に信長の子の御坊殿が武田から返却されてきたので犬山城主にしたと
公記には書いてある。そこには信玄が養子にしたいと言うから甲斐へ送っていたと書かれている。
しかし実際は岩村城の養子に信長がねじ込んだ末に、武田軍に大敗して拉致られただけ。
完全に歪曲捏造しまくりなのが公記。
99 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 00:05:39.56 ID:gskVRC5d
第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある
毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、
敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」
毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」
「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より
討ち取られた武将もいない
野田福島の戦いでは京へ撤退しようとする信長
江口川は水量が多く、水勢もすさまじいものがあり
船でしか渡れない場所なのに、信長は徒歩で渡れる始末。
しかも翌日からはまた徒歩でわたれなくなり
地元民が奇跡だと言い合う。これにより三好軍と本願寺からの
追撃を免れたなどとバカな妄想を書く公記。
他にも道三が討死した報を聞き退却しようとした織田軍であったが
義龍の軍勢が追撃しようとしたところを、
信長が鉄砲を撃っただけで、信長公の勢いに飲まれて追撃する気がなくなるなど
くだらん話が散見されるのが妄想軍記信長公記のウケを狙ったガチなギャグである。
天正2年正月の公記
朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は?
義昭→六角義賢書状
信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
そして越前が一向宗に奪われ、
勝頼に岩村城を奪われ
織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、
義賢書状では、
信楽表で大勝利し感状まで出してる。
100 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 00:08:34.17 ID:gskVRC5d
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると
信長は滝川の子を信長の養子にして細野に人質として差し出し味方になってもらった。
この時、関一族の関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎配下の蒲生の近江日野城へ逃亡した。
永禄12年5月北畠四御所の木造氏が北畠内での序列に不満があって織田方へ走るや
北畠は信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆の秋山・沢・芳野らも動員して木造を滅ぼそうとするや
織田も伊勢の神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍に派兵し、
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で高級幹部20人以上が討ち死に大敗。
撤退での追撃を恐れて信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で
北畠家臣や南朝以来の繋がりがある紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし
伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと織田側は通報してる。
(弟を近江へ派遣するなど伊勢長島一揆を支援し長政と兵力融通していた日根野弘就に協力してた
北伊勢の自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)
公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。義興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。
101 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 00:09:18.49 ID:E+YhAiQK
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
102 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 00:10:21.29 ID:gskVRC5d
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。
さて以下がその隠蔽である。
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
103 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 00:11:08.88 ID:gskVRC5d
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
104 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 00:12:09.33 ID:gskVRC5d
信長公記は志賀の陣まで
前代未聞の栄誉ある一戦
などと勝利宣言してるから
まったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て
一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら
比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長を
さすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
無知長厨乙
信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
信玄が織田に宣戦したのは
明らかにアスペ信長が無意識に挑発しまくってたのがよくわかるな。
それで信玄も堪忍の限界にきて
信玄の死んだ妻の妹が顕如の妻の如春尼だったこともあり
立ち上がっただけに過ぎんのに
信長はなぜか裏切られた!と逆切れw
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
105 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 19:11:07.07 ID:gskVRC5d
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
106 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 19:11:51.78 ID:gskVRC5d
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
107 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 19:12:55.79 ID:gskVRC5d
長尾為景みたいに越後守護や関東管領をぶっ殺して旧勢力の権威を排除した方がよっぽど凄いわ。
信長は細川政元から始まる畿内有力者達がやってきたことのコピーでしかない。
元々、上洛した際に将軍の力で円滑に帰属させた国人達もいたし。
はっきりわかるのは信長が細川高国と同じように畿内で殺され
高国後継者の氏綱を傀儡にした長慶と秀吉のが同じだと言ってる。
しかし北条や徳川は大丈夫だろうね。
なんせ親子揃って謀反で殺されるようなマヌケな状況を作らないから。
信長と他の畿内有力者の違いなんて信長だけが他と違ってより粗暴・乱暴・性急・威圧的なだけでマイナス評価なだけ。
結局、敵を糾合する権威義昭を殺せない旧勢力の権威を利用してる者はその栄華は一代限りの方程式通りで、
信長の死の場合も別に不思議な事では無く、
細川高国や足利義輝のような京洛有力者の突発的死亡パターンによる家の自壊の類例に見事にハマってる。
例え信忠が生きていても松永久秀や三好三人衆のように織田有力重臣によって瓦解し、
義昭を奉じた毛利によって京洛から追い出されるのは間違いない。
畿内での肥大化が信長1人の力だと思い込む傲慢さが信長厨が重度盲目たる所以だよ。
簡単に言うと細川政元や細川高国や大内義興や細川晴元や三好長慶や浦上宗景や松永久秀らが
長い時間をかけ内紛と下克上の闘争を通じて努力し
京洛の権威の弱体化による更地化をしてやってきた成果の果実を信長は拾ったに過ぎない。
その成果の果実が信長をして彼らより大幅に時間短縮できて肥大化できた主たる理由。
むしろ信長は彼らに比べ、より何もやらずに果実だけを手に入れたと言える。
後発の利益が各地域での巨大勢力を生み出しているに過ぎない。
もちろん中国地方でも大内より肥大化した毛利が生まれているのが信長だけが例外・特別でない証拠。
地域の脅威に対して規模の経済や規模の軍事力による利益分配を国人達がより必要としたからに他ならない。
そういう時代の気運が反映したから信長が歴代畿内有力者より多少肥大化しただけのことで、
だからこそ信長だけを特別視するほどの差違も理由も無い。
果実を得た代償として信長は京洛において地盤やシステムを築かずに
ひたすら軍役をかけまくり乱暴性急に事を運び過ぎて親子揃って反発を買い謀反死を招いた愚者で死亡パターンは細川高国タイプ
まあ長慶や高国が暗殺されて、後継者がその仇討ちをして天下統一していたら
彼らは信長を超える評価をされていたのは間違いない。
将軍の式典などでの華美で派手な無駄遣いに反対して、
将軍から不興を買ってまで徳を以て天下に臨む態度こそ人心を得ると推奨していたし、
まさに岐山に発した周王朝の創始者武王の父の文王の如き仁君と称されたな。
信長はただの暴君だから暗殺された。
天下布武は別に天下統一を目指していたと言う解釈にはならんし
単に地勢的な理由から将軍が頼ってきただけ。
天下布武が天下統一と解釈するのも無理矢理。
しかも上洛してわずか14年で信長死亡。
細川高国政権19年や細川晴元政権18年や三好政権19年
と続いたことからわかることからわかるように
京を掌握した勢力のチートぶりは凄まじく低難易度である。
そしてだいたい20年近くは持つのが当たり前。
しかしなぜか信長政権は非常に短命でぐちゃぐちゃにかき乱して殺戮しただけだった
108 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 19:13:37.96 ID:gskVRC5d
三好の内紛は信玄死去で義昭追放と信長が反攻を開始してから
織田との和睦派と抗戦派の間で勃発しただけ。篠原長房もこの政変で死んだ(讃州燎乱)
義昭の外交を担う義堯が信長から離反したのが元亀3年。
10/2六角義堯が三好甚五郎(三好神五郎政長の子か?)に四国衆渡海を命じてると義禎親子に伝えてる。
三好康長や篠原自遁は12月に長岡京のある大山崎で禁制を発布してるし、
桂川の渡河先の淀城には石成友通がいる(義昭が淀城を信長の金で修繕していたwww)
京の西側は三好による平定が完了し、すでに三好勢力圏になってるわけですがw
天正元年2/20の義堯が東(武田)北(上杉)此通候間と書いて同盟の存在を示している。
3/23義昭は京都聖護院門跡道澄を通じて小早川と浦上宗景の出陣を命じる(成?堂古文書)
4/21一向衆の懇望による和議が成立し謙信が春日山へ帰城。
8月再び、謙信は越中出陣し加賀朝日まで侵攻したのち信玄死んだ武田攻めするどころか8/下に帰国し年内は完全休養宣言。
10月に謙信が神保弥次郎の相続を認め、神保が日宮城に復帰完了し謙信の越中平定完了。
謙信が信長を無視して武田を一切、攻めようとしないのは甲越和与によるもの。
ちなみに天正6年に義堯は阿波・淡路の軍を率いて堺に上陸している。
信玄が死んだ軍事的バランス崩壊後に
浅井朝倉が滅び義昭が追放され義継が滅ぼされ松永が降伏した
一連の大変革による三好内の政変で反織田の篠原長房が失脚し死んだとみるべき。
1572年12月に篠原自遁は大和守と大山崎に禁制を出しており
大和守はおそらく長房の嫡男である以上この時点では自遁と長房は対立してないとされてる。
なんせ長房&息子は四国で自遁に殺されたことになってるから
だからできるだけ早く死んだと見積もっても1573年7/16以降だとされてる。
(もっとも1574年讃州繚乱まで事件らしいものの証拠はないが)
武田征伐で諏訪の陣において織田が占領した筑摩郡深志城の城米を出さしめて
在陣の諸将士に頒ち与えた史実を歪曲して信長公記は
3/19に信長が諏訪法花寺に着陣。
3/24各在陣致す諸将は給地からの補給に迷惑して困っているので
諸兵の数に従って御扶持米を深志で渡したと書いてあってワロタw
しかも雨や風で凍死者続出で暖もロクに取れてない惨憺たる補給実態の惨状で
さっさと逃げるように3/29には木曽口や伊那口へ
織田各軍が崩壊した補給状態から急いで美濃へ自壊敗走してる。
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
秀吉は親類だから公記での初登場でも
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが
その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。
109 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 19:14:21.71 ID:gskVRC5d
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
110 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 19:14:57.28 ID:gskVRC5d
長篠の戦い直後の岩村城攻撃を伝える信長書状には
しつこく言ってるように信忠若年だから万事において肝煎り専一しろと佐久間に命じ
信康の出陣なんていらんから留めておけと言ってる。
信長は信忠の無能さを心配し、
武田に内通している信康を邪険視しているのがわかる。
天正5年7月9日〜閏7月18日の期間に勝頼が長篠で戦死した者たちへの
相続やら、加増やらの処理を終わらせ戦後体制が確立するや
浜松の家康は信康を岡崎から遠江の掛川へ出陣させ武田へ備えさせてる(10月末まで)
武田との国境が積雪で不通になるや
12月15日に信長が1月下旬まで三河へ監視にやってくる
(徳川家臣は、家康は家康と呼び、信長を御家門様と呼ぶようになる)
2月に対武田籠城用の岡崎城拡張工事が終了後の
3月から岡崎衆の岡崎常住と毎月1日の信康への出仕を義務づける。
この事実上の徳川家後継者決定を受けて4月17日信康が浜松の家康へ礼に赴く。
9月5日突然、家康が家臣団の岡崎在郷無用の命がくだる。
この情勢下に10/17信長が三河へ来訪する意を伝える。
10/19勝頼出陣の報がきて出陣準備
10/27信康が浜松へ発つ。
10/28浜松に来た信康へ出仕したことが
申刻に大なへゆり候・五十年已来の大なへ之候(大地震?それとも信康の身を暗示?)
摂津で荒木の攻勢を受けた織田軍が大敗し水野忠分が戦死。
天正6年2月 対武田籠城用に浜松城の普請。
4/6勝頼が本願寺と荒木を援護するために義昭を擁する毛利軍の攻勢に呼応することを約する。
4/23勝頼が駿河まで出陣し、26日には浜松まで到着すると石川数正が報告する。
4/25武田軍が高天神城まで到着。4/26信康の合流を待って家康が三河吉田へ出陣。
6/5家康が岡崎へ信康を訪ねる・・・中なをし(仲直り)にお越し候・・・
ここの部分の家忠日記は文章が読めないようにされてる。
しかもいつも家康と呼称してんのに、
なぜか6/7浜松殿が遠州へ帰る。浜松殿がくわん乱煩いになったと書いていて
呼称が家康から浜松殿へ変化しており別人が改竄している(実際、仲直り目的の来訪記事は捏造だろう)
8/3浜松から岡崎へ家康がやってきて4日信康を三河大浜(幡豆郡)へ追放する
(実は家康親子が仰様候て、信長大浜へ御退候と書いている)
信長も三河へやってきていて、家康親子が仰天して会談したのを
信長が確認して大浜へ退いていったとする記述を
信康が大浜へ追放になったという誤記だと捏造解釈する。
5日家康が鉄砲衆を引き連れ西尾(幡豆郡)へ来て会下へ陣を取る。
8/8付けで家康が信長家臣の堀秀政へ結果報告の書状
(酒井を使者に家康が信長へ種々御懇していたのがわかる。信康不覚悟なので岡崎を追放と報告)
三河物語にも酒井が信長の質問攻めの結果、信長が信康に腹を切るように命じていて
家康は大敵を抱えて、後ろに信長がいるので背けないと言ってる)
9/15信康自決。
天正8年2/17 御新造様(信康夫人五徳)を御見送りするために
家康が岡崎へきて18日に岡崎城へ出仕(織田に岡崎城を占拠されてるので出仕なのか?)
ここでも家康を浜松殿と書いていて、あきらかに別人による家忠日記追加改竄だが
18日の記事を補填説明するために17日の記事を追加しただけのように感じる。
基本的にデキの悪い信忠のこともあり信長の介入と圧力があって信康を殺したとしか思えない。
しかし家康もメンツの問題から懇望はしてるが、
かと言って信康を殺すことにそれほど悩んでいたようにも思えない。
111 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 19:15:55.95 ID:gskVRC5d
上杉に大敗したのか兵力の立て直しに時間がかかり過ぎている。
手取川の後、京防衛だった最後の無傷戦力たる明智軍団を投入して松永相手に明知軍まで大損害を出したのちも
丹波の明智・播磨の秀吉三河の徳川・越前の柴田・和泉の筒井・摂津の佐久間 これらの戦域で増援が必要だったのに全然
信長は増援派兵できない。彼ら自身も戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げてないね。丹羽・滝川・稲葉らを遊ばせていたのか?
上杉相手に殿を勤めて大損害&負傷で動けなかったのだろう。光秀が幸運なのは謙信に続いて丹波の赤井直正が死去したこと。
越山すると言ってしない時が何度となくあるし数週間だけ北関東に来てからさっさと越中出馬に出向くなんてしょっちゅうやってる。
越相同盟の時も北関東への謙信の出馬は北条との対立には該当してない。
歴代古案の謙信の書状と北徴遺文がある。詳細は謙信の書状に詳しく書いてある
史料が少ないだけで否定するなら、戦国時代のほとんどの合戦が非実在戦争になるぞw
厳島合戦や河越合戦はなかったのか。一次史料による否定ができない限り、いくら粘着して適当にケチをつけても無駄
その前後に明らかに勢力図が変わってるし、織田はわざわざ本願寺攻め総責任者の佐久間まで引っ張り出してまで、
越前防衛に必死。謙信が死んだ情報が入って始めて織田軍の播磨への援軍が実行されてるように、手取川ののちも信長は謙信を恐れて
警戒してるのが現実。信長公が援軍用意してたが前線ですでに敗北してたみたいだから援軍取りやめた
このフレーズは信長公記に頻繁に出てくる負けた時の常套句。第一次木津川口の敗戦でも同じ常套句を使って誤魔化してるくらい。
織田軍はその後、戦力不足で天正7年までロクな実績を挙げられないんだ?佐久間信盛が追放された時に信長は柴田も功績を
全然挙げられず「越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した」と書いている。
天正8年春にやっと加賀へ侵攻してるほど動きが鈍いのはなぜ?謙信は天正6年3月に死んでる。
あまりに柴田率いる北陸軍の損害が大きすぎて加賀にすら満足に侵攻できない状態なのが露呈してるんだけど。
柴田が秀吉や光秀どころか小身の池田恒興までがはなはだしい武功を挙げているので
武功がない柴田が焦って加賀を制圧したと信長は佐久間への糾弾で言っている。つまり、本願寺との和睦成立で加賀へ侵攻できたのではなく
秀吉や光秀らと違い手取川での敗戦で損害の大きい柴田軍が焦っていたのであって
そこに本願寺との抗争で加賀侵攻ができなかったとする言い訳は信長のこの発言により成立しないのである。
もしこれ以上の加賀への侵攻に遅れが生じていたなら佐久間同様に柴田も改易されていたのは明白で
そこに本願寺が〜と言う言い訳が成立しないのは明らか。
もっとも一向宗というより、すで家臣に組み込まれているので上杉軍ではあるが。
滝川・稲葉らが重症を負ったようで当分の間、登場しなくなる。しかも各地で苦戦する織田軍は
まったく援軍が派遣できないまま各戦線で劣勢。公記筆者の太田は北陸情報に疎いので柴田に関する記述もほとんどない
前線からの捏造報告を鵜呑みにしてる記述している。秀吉は公記ではそのこともあるから秀吉は中国戦線で昼夜を問わず駆け回って
働いたと書いてる。もっとも太田は太閤秀吉が手取川の大敗に参加してないと捏造記述した可能性はあるが。それは大かうさまくんきのうちでの
秀吉マンセーぶりからすればありうる。そのためか公記では秀吉が毛利に敗れた記述も隠蔽している。
>>一向衆側が何の記録も残してないのは何でだ?
義元は殺したとされるほどの桶狭間の戦いを証明できる書状がないのは何でなの?
だからって桶狭間の戦いは実在しなかったよねとは言わないよな?天災や戦災などで書状なんて消失してしまったのも多いのに
一向宗側に残ってないからおかしいなんて暴論すぎ。しかも歴代古案に証拠があるにも関わらず。
それにメディアが発達し民衆の知識も戦国とは比べものにならない近代の
大東亜戦争においては数々の敗戦を完璧に隠蔽してたぞ。もっと言うとアメリカに知らされないように大地震すら隠蔽された。
1943年9月10日鳥取地震・1944年12月7日東南海地震・1945年1月13日三河地震
まぁアメリカにはバレてたがな・・・それどころか台湾沖航空戦という勝ち戦がデッチ挙げられたりしたし。
だから大きな大敗や災害ほど周辺国への影響を考えて隠蔽されるのが普通だ。
112 :
名無し曰く、:2012/12/22(土) 19:16:51.23 ID:gskVRC5d
謙信が生きていたら下記の状況からして上洛成功は間違いないな。
信長って天皇がいなかったら三回は反織田連合に捕縛されて自決させられてたよな。
志賀の陣・義昭二条城籠城。そして下記の荒木籠城。
天正6年2月東播磨を中心として実高43万石とされる別所氏が信長へ謀反。
美嚢郡淡河城・加東郡金鑵山城・加古郡高砂城・印南郡中道寺山城・明石郡枦谷城・明石郡林城・
飾西郡英賀城・加古郡野口城・印南郡志方城・印南郡神吉城など播磨一円蜂起。
御着城主の小寺氏などもこれに呼応の構えを取る。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。
赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。
謙信死すとの確定情報が届くと上杉へ備えていた信忠の大軍が開放され播磨へ移動可能になる。
上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて
織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元就死後に隆景と対立するようになった元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。
10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。
義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら
対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して摂津一円一斉挙兵。
摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか
対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し
本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい
相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。
がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために
天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。
信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し
高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。
謙信が生きていたら、勝頼も健在になるし
信忠を秀吉への援軍に派兵できないから
毛利の攻勢により播磨戦線が崩壊し
その影響で本願寺のいる摂津(荒木時限爆弾もある)
明智がボロ負けした丹波戦線まで(丹後もセットで爆発)
紀伊・河内・和泉・伊賀・伊勢南部・大和南部このあたり一円も高野山を始めとして反織田だし
(本能寺の変まで高野山は織田軍を山内侵入を許さなかった)
再度崩壊するから織田は詰むよ。
113 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 03:26:39.60 ID:vLwpr2uD
豊臣三中老なんて何が過小なのかわかんね
軍事面でも政治面でもたいした事やってねーだろ
指揮官の資質の問われない基地外物量を背景にした楽な位攻めで雑魚イジメして蹴散らされてたくらいだし
まだ徳川中堅格の奥平・菅沼・岡部あたりのが上だろ
114 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 03:47:16.24 ID:NebcQG3k
まあでも福島・加藤・蒲生・藤堂・大谷あたりに比べたらマシ
上記の雑魚武将に80中盤だの90台だのネタ数値がついてるし
三中老は上げる必要ないが下げる必要ないけど
福島加藤蒲生藤堂あたりはまとめて−15〜20くらいで妥当になると思われ。
115 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 05:32:01.68 ID:oUK6dG1l
アスペルガーだが乙
116 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 05:38:58.80 ID:oUK6dG1l
徳川家臣とか大半が雑魚だろ
家康自身が天下人になったおかげで恩恵受けてるだけで
大半はまともな功績のない雑魚武将
当時5万石あったかどうかも怪しい真田ごときに手こずる時点で論外
小牧長久手も当主の家康以外は大半働いていない体たらくで
まだ山口や木造といった衰退しているはずの織田家臣の方が働いているじゃんよw
菅沼とか降伏と背信を繰り返した人間なんて徳川家臣団でもかなり下の方だろ
117 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 05:50:27.03 ID:oUK6dG1l
徳川家臣団で1万人以上の兵を率いた連中はほぼ皆無だからな
1級武将とされる徳川四天王ですらそんな経験もなく別働隊クラスの働きですら
目立った功績は長篠の酒井程度しかいないというショボさ
家康のお守だけして勝ち馬にタダのりするしかないのが徳川家臣団
家康がいない戦いとなると途端に負けの連続、真田すら倒せない弱小家臣団のできあがり
そら綺羅星のごとく有能な羽柴家臣団と、つい最近まで戦争三昧だった織田家臣を率いた秀吉に勝てるはずありませんわw
大坂の陣では1万人を越える兵力がいたという部隊もあったようだが
慣れないことをしたせいで大坂方の寄せ集め集にすらボコボコにされ
徳川四天王の後継者である本多忠朝が討死するという前代未聞の事態
家康もまさか自分の家臣団はここまで頼りないとは想像もつかなかったであろう
老いた家康は自分の後継者と家臣団の不甲斐なさに嘆いて、二度と戦を起こさないように豊臣秀頼を自害に追い込んで
年号変えてまで「戦争はおしまい」と高々に宣言せざるを得なかったんだろうなw
118 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 06:01:53.02 ID:oUK6dG1l
徳川家康は江戸幕府を開いた途端譜代の家臣を冷遇しているがそりゃそうだよな
自分がいなきゃ何もできない雑魚家臣に大領与える義理もない
家康がショボイと思われていた頃なんて一向一揆みたいな民草の鬱憤晴らしに乗っかる奴もいたし
大半は徳川家康についていけばなんとかなると思って藁をも掴んだ家臣ばかりだろ
織田信長や豊臣秀吉は本人が天下有数の名将に加えて
大名本人が寝てても領土がドンドン拡大していく有能な家臣がたっぷり
いきなり信長や秀吉が死んでもなんとかなるくらいの有能っぷりで
実際信長は天下取りの途中で死んでしまったがトップを変えるだけで数年経てば通常運転というチートっぷり
家康が死ねば1年後には徳川家そのものが霧散して滅亡するかもしれないハンデを背負い続けなければならず
内心自らの保身から勢力拡大の大名業務まで家康は気が気でなかっただろう
当然家康1人で天下は取れるわけもなく秀吉の家臣に甘んじている
元々大した功績もないくせに根性だけは下衆い徳川家臣団は石川を筆頭に秀吉に媚売りして豊臣家臣になる連中も出てくる有様
武田信玄の三遠侵攻の時すら寝返りするような忠誠心皆無の家臣団の存在は家康の頭を常に悩ませたに違いない
119 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 06:26:05.45 ID:oUK6dG1l
徳川雑魚家臣団
酒井忠次
徳川四天王で唯一それなりの功績を立てた武将。三河統一戦や長篠等行く先々でそれなりの功績を立て
順調に出世した点が徳川四天王と呼ばれる理由であるが、後の3人による箔塗りのおまけにすぎない
しかし家康の跡継ぎであるはずの松平信康を死なせる原因を作るというA級戦犯モノの失態を演じ、晩年は不遇であった
榊原康政
徳川四天王面汚し筆頭。まともな功績がないに等しく、ただ家康の勝ち馬に乗っただけ。
一番有名な功績が後世の創作で、しかも秀吉の悪口という何とも情けない代物
秀忠の勝ち馬に乗ろうとしたが真田相手に大苦戦し、初陣の秀忠と一緒に家康に怒られるという失態を演じる
井伊直政
徳川四天王面汚し。孤独な少年時に家康へ体で近づき軍隊を与えられるという温情采配で出世する。
家康の関東移封の際には徳川家臣で最も多くの所領を貰っているが、他の家臣が糞すぎて期待料だっただけと言われる。
関ヶ原の戦いでは勝手に先陣を行うという軍令違反をしでかした挙句、追い首を取ろうと島津軍へ迫るも重傷を負いそれが元で死んでしまったヘタレ
本多忠勝
徳川四天王面汚し。幼いころから家康に近侍して媚を売って温情采配で出世する。
一言坂の戦いでは無謀な突撃を敵将の温情で救われ、三方が原の戦いでは育ての親である叔父を見捨てるという鬼畜っぷりを発揮。
懲りずに小牧長久手では秀吉本隊の目の前を堂々と通ると言う自殺行為をするが、呆れた秀吉に救われるという幸運に見舞われる
以降まともな功績も行動もないまま死ぬ
120 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 06:45:06.73 ID:oUK6dG1l
徳川家康は晩年になると特に軍事の方では藤堂や伊達黒田などの外様大名をアテにしている
自分がいないと何もできないボンクラの徳川家臣団と違って
主君が何もせずとも手足のようにテキパキ動いてくれる旧豊臣家臣団が如何に頼りになったかは想像に難くない
藤堂は本多酒井榊原を差し置いて家康に「頼りになる」とまで言われ、伊達は縁戚関係結んでまで繋ぎとめられる家康の用意周到っぷり
晩年の家康は「豊臣家康」「源家康」のように「徳川」の苗字を出来るだけ避けている
「徳川」の呼称を使うと勤続年数だけで何もしないボンクラ家臣団がつけあがるからな
実際何も貢献しない譜代大名は温情で外様大名並の小領程度で干されていくのが江戸時代
121 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 12:15:02.64 ID:vLwpr2uD
その徳川軍の一部隊本多500に20000の兵を撃退された秀吉はどんだけ戦下手なんだよと。
122 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 12:35:54.21 ID:vLwpr2uD
>>116 徳川は織田より圧倒的に上だろ
織田が蹴散らされまくった最強武田軍団相手に一歩も引かず蹴散らされても敢闘した上に
姉川の戦いでも織田は浅井寡兵相手に苦戦しておされまくってたが朝倉大軍相手に徳川は大敢闘して勝利の目を作ったし
小牧長久手の戦いでも井伊の赤備えと本多500は秀吉の雑魚武将共を蹴散らしまくる大敢闘だろ
>>117 何わけわからん事いってんだ。秀吉軍は135000もいながら織田徳川18000〜20000そこそこに長久手で1万人ぶち殺された上に
神戸河波浜田松ノ木二重堀蟹江東駒野と格城郭攻防で敗戦して1年一杯かかって徳政連発&重臣寝返りばかりで基盤ガタガタな信雄領国をほとんど取ることできなかったじゃねぇかアホ
大阪の陣で戦ってたの四天王と関係ない2世連中じゃねぇかw
しかも徳川家臣系が寡兵で敢闘する中豊臣雑魚軍団の藤堂は唯一長宗我部隊に蹴散らされ敗退する体たらくw
なんで国力があれば誰でも動員可能な大軍を率いる事が武将の能力に関係あるんだタコ
国力あって大軍できなかった奴なんていねーわアホ。毛利輝元、豊臣秀頼、徳川秀忠、大内義隆、石田三成、上杉憲政は信長より有能ってかアホ
>>118 豊臣雑魚家臣や織田雑魚家臣は、当主が死んだたらめちゃめちゃになってあっさり織田家と豊臣家は滅びましたとさ
それもそのはず、単に運や恵まれたチート条件で勢力拡張しただけだもんな
徳川時代になったらあっさり福島加藤のツートップが改易
一方外様の北条や今川の旧臣でも成り上がってるから能力では北条、今川の家臣>>>>>>>雑魚織田豊臣家臣
一方家康が死んでも徳川家臣達は全くゆるぎなく天下は200年存続
まあ信長や秀吉が苦戦しまくった畿内や美濃を瞬殺したのが徳川なので当たり前だが
>>119 その本多500に蹴散らされたのが雑魚秀吉軍20000
兵力の2乗が戦力に比例するから20000÷500=40
40の2乗=16000 よって本多は秀吉の1600倍戦上手
関が原では井伊は島津隊を蹴散らして副将以下ほとんど討ち取っている
ちなみにその時の負傷で死んだとか明らかにデタラメ。破傷風の毒は数週間くらいで死に至るので数年たって死ぬなんてありえないし
そもそもそんな話軍記にしかないし
>>120 藤堂はゴマすりまくってただけだろ
しかも大阪の陣では味方が勝ちに乗ずる中唯一長宗我部隊に蹴散らされる雑魚っぷりだし
藤堂より格上のはずの福島も加藤もあっさり改易されてる時点で豊臣雑魚武将の実力などお察し
まあ指揮官の資質の問われない規格外の大軍での位攻めによる雑魚イジメの戦争で蹴散らされてただけだから
実力もないのも当たり前だろうが
123 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 12:47:32.68 ID:vLwpr2uD
徳川家臣団が不運だったのはガチンコで700程度で織田兵10000を蹴散らしたりできる最強武田軍団が敵だったこと。
逆に家康が尾張で信長が西三河小領主スタートなら家康は史実でしたみたいに畿内や美濃を瞬殺できたに違いない
何せ美濃は幼君・クーデター騒ぎで分裂・美濃三人衆始め皆抵抗せずに自落
畿内も六角は対浅井敗戦や観音寺騒動で極度に弱体化・三好は分裂&足利義昭が信長の下に来たおかげで
上洛戦では圧倒的大軍が信長の下に集結・伊勢でも北畠は内訌で弱体化(史実でも信長は粛清しまくり)と
圧倒的に有利な位置条件だったし史実で畿内瞬殺した家康なら2年程度で統一できそうだ
124 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 13:30:48.22 ID:SskjHo4E
125 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 13:35:22.27 ID:vLwpr2uD
姉川で勝てたのは徳川のおかげ。
浅井三代記や三河物語で織田の苦戦と徳川の活躍で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
また遠藤直経の戦死場所が織田の本陣の布陣位置から大分後方へ離れている事から織田方の苦戦が読み取れ
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう
ちなみに徳川が圧倒的に強いのは
対今川・吉良・豊臣・姉川・北条(天正壬午)・関が原・大阪の陣で確定している
天下を取ったのも徳川
家康に勝てるのなんてほとんどいない
武田相手にやられまくってるのはただ武田が強すぎるだけ
北条や織田もけっちょんけっちょんにやられてるし
徳川が持ち上げたのではなく徳川が持ち上げるしかないほど圧倒的に強かっただけ
ひねくれた見方しかしないからそんな馬鹿みたいな曲解になる
126 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 13:36:26.99 ID:NebcQG3k
大久保が法螺話を書いたなんて根拠は全くないし
例によって公記では都合が悪いのか隠蔽して戦の内容について記述がなされていない
浅井三代記三河物語松平記で徳川の勝利で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
当代記のその方面の記述は基本的に信長記のトレースだから全く参考にならない
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのはそれ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
また織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。
遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
あと当代記とか信長書状でも徳川が大軍朝倉相手を任されて切り崩したと書いてるし
松平記や甲陽軍艦、三河物語、浅井三代記でも織田は大軍にもかかわらず寡兵の浅井に苦戦し
徳川は寡兵にもかかわらず大軍朝倉相手に大活躍して多数討ち取っているし上記のように裏づけもとれる
127 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 13:38:28.23 ID:NebcQG3k
姉川で勝てたのは徳川のおかげ。
浅井三代記や三河物語で織田の苦戦と徳川の活躍で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
また遠藤直経の戦死場所が織田の本陣の布陣位置から大分後方へ離れている事から織田方の苦戦が読み取れ
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう
ちなみに徳川が圧倒的に強いのは
対今川・吉良・豊臣・姉川・北条(天正壬午)・関が原・大阪の陣で確定している
天下を取ったのも徳川
家康に勝てるのなんてほとんどいない
武田相手にやられまくってるのはただ武田が強すぎるだけ
北条や織田もけっちょんけっちょんにやられてるし
徳川が持ち上げたのではなく徳川が持ち上げるしかないほど圧倒的に強かっただけ
ひねくれた見方しかしないからそんな馬鹿みたいな曲解になる
大久保が子供だから姉川の戦いなんて知らんだろとか言うアホもいるが
兄2人が姉川の戦いに参加してるから、普通に事実が聞けるしw
128 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 13:48:45.93 ID:3HXB+TZB
三河物語を信じるなら金ケ崎の撤退も秀吉の功績になるけどな
129 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 13:50:12.93 ID:IV8U7PL2
小牧長久手って結局都合よく丸め込まれただろ…出費や消耗の寡多で戦いの勝敗決めるのか?
大軍用意できる側は数の暴力でゴリ押しできるから消耗大きくなるんだろ
130 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 13:55:30.40 ID:vLwpr2uD
寡兵のが圧倒的に損害多くなるに決まってんだろ
兵力の2乗が戦力比になるし
そもそもガチンコでぶつかりあって寡兵側が大軍側に勝つなんて大軍側がよほど戦術雑魚か桶狭間みたいに超幸運がないと無理
普通にぶつかりあえば大軍側が圧倒的に有利に戦えるに決まってる
事実寡兵が勝った戦は奇襲・本陣深く釣り込み・天候など幸運条件やら
特定条件がある戦ばかりだし
131 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 13:59:06.93 ID:NebcQG3k
小牧長久手の場合数の暴力で瞬殺するには十分すぎる兵力差あるしな
しかも信雄領国は岡田ら三重臣やら関、田丸、尾張毛利氏、神戸、信包、池田森と
次々秀吉方に寝返りまくってた上に家康は大半の軍勢を領国に残してた上に
小牧山なんて柵もめぐらされていない無防備な陣だしね
そこを小松寺、二重堀、蟹清水など周辺ガチガチに固めまくって動き封じるまで用意周到な手順踏んで
1万人ぶち殺されたのが秀吉
132 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 14:06:33.84 ID:vLwpr2uD
姉川の徳川活躍は三河物語だけじゃなくて松平記や甲陽軍艦など他史料で確認が取れる上に
信長書状でも大軍朝倉相手に寡兵徳川が切り崩したと書いてるしな
133 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 14:10:39.80 ID:vLwpr2uD
大久保が法螺話を書いたなんて根拠は全くないし
例によって公記では都合が悪いのか隠蔽して戦の内容について記述がなされていない
浅井三代記三河物語松平記で徳川の勝利で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
当代記のその方面の記述は基本的に信長記のトレースだから全く参考にならない
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのはそれ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
また織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。
遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
あと当代記とか信長書状でも徳川が大軍朝倉相手を任されて切り崩したと書いてるし
松平記や甲陽軍艦、三河物語、浅井三代記でも織田は大軍にもかかわらず寡兵の浅井に苦戦し
徳川は寡兵にもかかわらず大軍朝倉相手に大活躍して多数討ち取っているし上記のように裏づけもとれる
134 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 15:23:12.78 ID:oUK6dG1l
関ヶ原や大坂の陣なんてそれこそ旧豊臣家臣団のおかげじゃんよwww
関ヶ原で主軍を率いていたのは福島黒田藤堂細川など旧豊臣
寝返って勝負を決めた小早川や脇坂も旧豊臣
徳川主軍は援軍すらない真田ごときに手こずり決戦前に家康を見殺しにするという大失態を演じているし
運よく家康につけた井伊や忠吉も負傷して挙句ロクな手柄立ててないという無様っぷりwww
大坂の陣に至っては伊達や上杉藤堂など外様大名の活躍が目覚ましく
徳川譜代に至っては真田や大野ごときに右往左往して家康本陣が後ろにあるにもかかわらず我先にと逃亡する有様じゃんよwww
結局真田や大野を食い止めたのも細川や黒田といった旧豊臣家臣wwww
家康の天下取りを助けたのは信長を助け秀吉を支えた旧豊臣家臣ばかりwww
本多や榊原は最終的に5万石程度の領地しか与えられないという無残っぷりwww
135 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 15:34:14.56 ID:oUK6dG1l
姉川なんてまさに「家康だけが活躍した」戦いの典型じゃねーかwww
徳川家臣はただ勝ち馬に乗っただけで、挙句本多忠勝に至っては味方の手柄を横取りしだす有様www
真柄を討ち取ったという功績を徳川家臣団内で俺が討ったと浅ましく手柄を取り合い
そのせいで史料によって真柄を討ち取った武将が異なるという支離滅裂っぷりw
俺が討った俺がやったと銘々がそれぞれ吹聴していたことが後世にまで残るという下衆い根性だけが残る結果にwww
小牧長久手なんて大半織田勢のおかげじゃんよwwww
寝返り者続出で敗色濃厚だったのを引き分けに持ち込んだのはひとえに信雄と織田家臣団のおかげ
まあ家康の手柄も全くなかったわけではないが、徳川家臣団なんて何もしてないwww
家康が領内に残した役立たず家臣団はそのあと真田と戦って散々に敗れると言う兵力の無駄遣いのなんでもない大失態を行い
秀吉との決戦前だというのに鳥居の弟が真田によって討ち取られるというこれでもかと家康の足を引っ張る徳川家臣団www
挙句織田信雄が秀吉らに取り入ったのを見るや否や石川小笠原など下衆い徳川家臣団は家康を見限って秀吉家臣になろうとするものまで出てくる有様www
精強織田家臣団ならいざ知らず、家康がいなければ1年もたずに崩壊する雑魚徳川家臣団では秀吉+織田羽柴家臣団に対抗できるわけもなく家康は苦々しい思いで秀吉に降伏してしまった
136 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 15:41:42.88 ID:oUK6dG1l
徳川家臣団なんて織田家臣団以上に忠誠心皆無の奴らだらけだからなw
一向一揆なんていう民草の鬱憤晴らしに乗じて主君を裏切ったのはこいつらくらいだし
武田信玄の三遠侵攻の時も我先にと武田家臣団になる奴がガンガン出る始末
本能寺が起こって秀吉が勢力を固めると、今度は秀吉家臣団になろうと石川含め徳川譜代が秀吉家臣になろうと媚を売る始末
こんな散々な状況で天下を取った家康を待っていたのは「徳川二十八神将」などという
お世辞にも似つかわしくない吹聴誇張で己らの身分を後世に残そうとする自らの家臣達
「家康に天下を取らせてやったのは俺たち」と、ただ家康の勝ち馬に乗っただけの徳川譜代達を
家康はあの世からどんな目で見ていただろうな
そりゃあ七回主君を変えても立派な功績がある藤堂を「アテにしている」とか言うわけだ
功績も立てずろくすっぽ主君を奉らない徳川家臣団より数倍マシだもんな
137 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 15:42:48.40 ID:vLwpr2uD
関が原→西軍が雑魚だから家康は本軍動員する必要すらなかっただけ
(ちなみに忠吉や井伊が負傷したなんて事実はない)
藤堂隊は大谷勢1000そこそこに何回も撃退される醜態ぶり。
黒田隊・細川隊は石田6000そこそこに2倍もの兵力で挑みかかるも結局撃退。小早川&朽木小川らが寝返るまで結局
石田隊崩せず。
島津隊は島津豊久や長寿院盛淳(阿多盛淳)、肝付兼護らほとんどを井伊や本多らにぶち殺されほぼ全滅。
大阪の陣→味方が優勢で大阪方を蹴散らしまくる中、藤堂隊は唯一長宗我部に敗戦し大損害。
藤堂隊を破った長宗我部を井伊直孝が撃破しなんとか切り抜ける
真田丸では前田の雑魚部隊が大敗
138 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 15:46:52.04 ID:oUK6dG1l
>>122 本多は何もしてねーじゃねーかバーカwww
ただ基地外のように秀吉の近くに堂々と布陣してきたから
こいつアホかと秀吉に呆れられただけwwww
この時秀吉は池田軍含めた別働隊の敗北を知らないから本多と戦う気なんてさらさらない
家康がさっさと舞い戻ってこなければ本多は確実に討死している
というか本多は一言坂ですら自ら殿を買って出たのに心中するかのごとく無謀に突撃して
武田軍の武将に呆れられて助けられると言う基地外だからな
家康のおかげで討死を免れたのを「秀吉がビビッて退却した」と捏造させた本多www
139 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 15:50:25.37 ID:vLwpr2uD
>>135 姉川で家康一人が活躍なんて根拠はない
家康につけられてた徳川家臣達が朝倉大軍を蹴散らしたから勝てただけ
長久手→井伊隊が大暴れし戦歴豊富な池田森らを壊滅させている
本多500は秀吉方20000を撃退し龍泉寺方面への後詰遅れさせている
天正12年時は徳川方は安曇・筑摩での上杉との攻防だから上田合戦用とは別な
後家康が秀吉に降伏したなんて事実はない(佐々成政あて書状で秀康は人質として扱っていないと信雄が言ってるし
ただ和睦条件だっただけで、その証拠に翌年は秀吉家康とも対戦に向けて軍備整えまくっている)
>>136 大阪の陣や関が原で蹴散らされまくる藤堂じゃ
四天王・大久保鳥居はおろか
大須賀岡部諏訪保科など中堅格にも到底かなわんだろうな
140 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 15:51:45.26 ID:oUK6dG1l
>>137 関ヶ原→援軍すらない5万石程度の真田に大苦戦、関ヶ原に到達することができない徳川家臣が続出
徳川秀忠は初陣だったがその秀忠が戦上手に見えるくらい徳川家臣団が雑魚っぷりを発揮
初陣の秀忠と一緒に歴戦の榊原含めた徳川家臣団を叱責した家康は内心呆れていただろう
大坂→大坂城の本丸以外の堀を全て埋立て3分の1以下の兵力で野戦を挑んだ豊臣方に対して大苦戦
徳川四天王(笑)の子供である本多忠朝が討死して後ろの家康本陣を見捨てて逃げる徳川譜代が続出
木村後藤など本戦前に徳川外様大名が豊臣方の武将を討ち取り、本戦の天王寺合戦でも黒田細川などやはり外様が活躍して真田大野の突撃を防ぐ
徳川譜代はあまりにボロボロすぎて真田毛利大野ら大坂方が城へ退却する追撃すらできず、黒田細川がやっぱりこれもやる
141 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 15:57:37.50 ID:vLwpr2uD
>>138 いや本田500は秀吉20000を蹴散らし退却させている(小牧陣始末記・本多藤四郎覚書)
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと考えられる
しかし秀吉が動きだすのが遅すぎ、しかも本多に行軍妨害されたから遅れただけ。
>>140 上田合戦は相手が最強昌幸だから仕方がない
142 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 15:59:10.36 ID:oUK6dG1l
>>139 徳川家臣団は姉川で何もしてない
朝倉隊を打ち破ったのは当代記では「徳川旗本」で明らかに家康が指揮する軍団
長久手で井伊隊は大暴れどころか何もしていない、その証拠に池田森を討ち取ったのは井伊の部隊ではなく家康の直臣
本多はこの時秀吉に呆れられて一時的に近寄ろうとしてないだけ、秀吉はこの時別働隊が敗北していることを知らないからな
基地外の相手するより眼前にいる(と思っていた)徳川主軍の方が大事だと考えていただけ、家康がさっさと帰ってこなけりゃ本多は討死
跡継ぎがいるのに猶子として自らの嫡男を差し出しているのがどこが降伏じゃない?
最終的に秀康は結城なんていう有名無実な没落名門家に入れられておりますが
徳川四天王なんて徳川で唯一まともな家臣だった酒井にのっかろうとした雑魚ばかりだろ
榊原なんて軍功皆無だし真田ごときに手こずって初陣の秀忠と一緒に怒られている
信長家臣時代の秀長秀吉に仕えて功績立てまくりの藤堂とは比べ物にならない
事実徳川家康は藤堂に対して30万石という本多榊原の2倍の石高を与えている
しかも本多榊原は年々石高を減らされる貧乏所帯なのに対し藤堂は転封も一切なし
143 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 16:01:47.65 ID:vLwpr2uD
大久保が法螺話を書いたなんて根拠は全くないし
例によって公記では都合が悪いのか隠蔽して戦の内容について記述がなされていない
浅井三代記三河物語松平記で徳川の勝利で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
当代記のその方面の記述は基本的に信長記のトレースだから全く参考にならない
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのはそれ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
また織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。
遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
あと当代記とか信長書状でも徳川が大軍朝倉相手を任されて切り崩したと書いてるし
松平記や甲陽軍艦、三河物語、浅井三代記でも織田は大軍にもかかわらず寡兵の浅井に苦戦し
徳川は寡兵にもかかわらず大軍朝倉相手に大活躍して多数討ち取っているし上記のように裏づけもとれる
144 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 16:03:52.25 ID:oUK6dG1l
>>141 小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるようにとかそれこそ家康主軍との決戦を見込んで
秀吉が本隊を温存させていたと言う証拠じゃねーか、基地外のような本多隊相手にして兵を無駄に損傷したくないと
言っているようなものだろ、実際織田羽柴家臣団には本多級なんて腐るほどいるから生け捕りすらするのも手間
そんな基地外相手に可愛い可愛い有能家臣団が死なされたら目も当てられない
真田昌幸なんて武田時代でもほとんど上野方面の軍功しかないし
武田が滅亡してからはまともに戦争すらやってませんけどw
しかも真田昌幸だけには飽き足らず息子にすら大坂でいいようにボコられるという無様っぷり
家康もたかだか地方大名ごときに惨敗する徳川家臣団を苦々しく思っていただろうなw
145 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 16:17:51.55 ID:vLwpr2uD
>>142 >>長久手で井伊隊は大暴れどころか何もしていない、その証拠に池田森を討ち取ったのは井伊の部隊ではなく家康の直臣
池田履歴略記、細川家記などほとんどの史料で森隊は井伊勢に敗北したと書いてるし
緒戦で秀次勢を蹴散らしたのも家康方先手の榊原・本多広孝・大須賀・水野ら(谷口氏論文)
そもそも家康本隊だけで池田森秀次ら24000と戦えるわけないので家臣が活躍しないわけがないのだが
>>本多はこの時秀吉に呆れられて一時的に近寄ろうとしてないだけ、秀吉はこの時別働隊が敗北していることを知らないからな
>>141 >>基地外の相手するより眼前にいる(と思っていた)徳川主軍の方が大事だと考えていただけ
秀吉は20000、本多は500。これで瞬殺できないどころか行軍妨害されて龍泉寺方面への後詰が遅れたのが秀吉
>>跡継ぎがいるのに猶子として自らの嫡男を差し出しているのがどこが降伏じゃない
秀康は単なる講和の条件。織田信雄→佐々で秀吉は秀康を養子としていて人質とは扱っていないと言ってるし
降伏なら翌年秀吉が軍備増強&徳川討伐を表明、徳川方も諸城普請やら浜松会議やらで抗戦する気まんまんだし
これで両者の主従関係が成立していない=秀康養子は降伏ではなく単なる和睦条件だっただけ。
池上裕子氏「秀康の送付は家康の敗北・服属を意味するものではなかった。」
また信雄→家康で「家老中二、三人」を秀吉に差し出し、気に入れば秀康は岡崎まで帰されるといってる
146 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 16:21:05.17 ID:3HXB+TZB
三河物語を信じるなら秀吉が本多忠勝の部隊を潰さなかったのは彼の勇気を天晴と思ったから
147 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 16:28:16.04 ID:oUK6dG1l
池田履歴略記とか細川家記は150年近く後に出来た史料じゃねーかwww
その時代に生きている人間が小牧長久手のウラ取れるわけねーでしょw
そもそもこの時代の水野はまだ織田家臣でしょーがw
家康本隊だけで池田森秀次ら24000と戦えるわけないのでって何のために織田信雄が城を放置してまで助けに行ったと思ってるのw
これで瞬殺できないどころか行軍妨害されて龍泉寺方面への後詰が遅れたのが秀吉
→本多の基地外行動は常習犯、可愛い可愛い家臣は死なせたくないし
一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いているのは徳川家康本隊との決戦を示し合わせているだけ
秀康は単なる講和の条件。織田信雄→佐々で秀吉は秀康を養子としていて人質とは扱っていないと言ってるし
→講和条件のくせに自分の嫡男を敵方に送る家康wwwしかも秀吉からの人質は何もなしwww
やっとこさ送られてきたと思ったら40と70の未亡人と婆さんwww
148 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 16:31:28.58 ID:vLwpr2uD
>>144 >>小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるようにとかそれこそ家康主軍との決戦を見込んで
>>秀吉が本隊を温存させていたと言う証拠じゃねーか、
どこがどう証拠になるのか不明
本多勢はわずか500これを2万で瞬殺してれば龍泉寺方面の後詰成功の可能性は飛躍的に速まる可能性高いし
そうでなくとも少なくとも本多勢全滅させれば戦術的に少しは挽回可能
大阪の陣で蹴散らされてたの藤堂とか四天王の子とか小笠原の倅とか雑魚ばっかじゃん
>>142 徳川譜代に大領与えないという徳川の方針が
武功やら能力をそのまま現しているなんて根拠はない
凡クラの秀忠だって将軍になってるし
徳川譜代系は全体的に優遇されてないしその代わり江戸近辺守らせているし
ただ外様に気前よかったのと藤堂のゴマすりが功を奏しただけ
149 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 16:38:21.20 ID:oUK6dG1l
>>148 わずか500の本多隊を全滅させて何の足しになるのw
しかも本多がトンズラしたら自軍を損傷させるだけの無駄行動になるしwww
そもそも秀吉は後詰が負けるなんてハナから思っていなかった
家康はともかく信雄まで出てきて大半の軍隊がそっちに向かったとは思っていない
徳川譜代に大領を与えないとかそれこそボンクラ揃いの証拠だろ
本多や榊原などは関東移封の頃そのままの領国だし明らかに干されている
江戸近辺はおろか姫路に行って最終的には東北地方の5万石という明らかすぎる冷遇ルートだろ
藤堂や池田の方がよほどいいとこに領地持たせてくれてる。もちろん両方ともそこが本領であったわけではない
150 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 16:44:46.42 ID:vLwpr2uD
>>147 谷口央氏も池田森を蹴散らしたのは井伊+家康勢と書いてるし
三河物語でも本多や井伊の活躍で池田森を討ち取ったと書いてるな
後家記家譜や合戦参加者が書いた合戦記などでも井伊隊の活躍は書かれている
んで井伊隊が何もしなかったとか書いてるのはどの史料だ?
そもそも井伊隊は留守居部隊だと考えているのか?
>>一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いているのは徳川家康本隊との決戦を示し合わせているだけ
意味不明
家康方が小牧を離れたのに軍勢急いで追尾させて家康を挟み撃ちにしようとする狙いがないわけがない
そもそも何のために別働隊編成したと思ってんだアホ
そもそも信雄が先にヘタレ和睦したから単独で抗う国力も兵力も名文もなくなっただけ。
ただでさえ単体で秀吉戦に8000しか動員できない上に離反続き&徳政連発だからな
あと未亡人やばあさんなぞという曲解なんぞどうでもいい
たった一人の母と妹を自国の10分の1かそれ以下の国力の相手に差し出したのは秀吉しかいないしな
151 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 16:49:55.90 ID:vLwpr2uD
>>149 さっさと本多勢瞬殺しとけば安全に龍泉寺方面の後詰が素早く行えるな
なんせ2万vs500で陣地に篭もってるわけでもないし
そもそも別働隊編成は水陸両面から途中にも拠点を堅固に築かせまくって三河方面への大々的な侵攻作戦の一貫として
行っているのだから
家康方が小牧を出たと知っているのだからさっさと秀吉は追撃すればあっさり済んだはずの戦。
それを本多に行軍妨害されたために後詰が送れ家康にまんまと逃げられただけなのが秀吉
>>徳川譜代に大領を与えないとかそれこそボンクラ揃いの証拠だろ
根拠なし。外様で改易された福島加藤とかは凡クラだったから改易されたといいたいのか?
152 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 17:00:29.14 ID:NebcQG3k
福島加藤は改易。
よって能力0ってことな。
153 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 17:11:01.65 ID:oUK6dG1l
>>150 アホだろおまえ
徳川家康が主軍として行動したからこそ井伊がおこぼれを預かったんだろ
それが証拠に池田も森も討ち取ったのは家康直臣、つまり家康本隊の人間
敗残兵をボコしたから活躍というなら織田豊臣は余裕で皆統率100越えるな、誰でもできる
>>家康方が小牧を離れたのに軍勢急いで追尾させて家康を挟み撃ちにしようとする狙いがないわけがない
意味不明
小牧長久手の織田羽柴軍は兵力ともに連合軍を圧倒している
わざわざ別働隊に援軍を差し向ける必要すらない
家康に圧力をかけて家康が城から出て別働隊に敗退すれば後は信雄が勝手に降伏するだけ
>>たった一人の母と妹を自国の10分の1かそれ以下の国力の相手に差し出したのは秀吉しかいないしな
自分の嫡男を敵方に人質として送ったのも家康だけだなw
秀康は愛されていなかったなんて曲解はどうでもいい
家康子息は死んだ信康以外は全員側室の子で、秀忠はまだ幼児
154 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 17:17:08.83 ID:oUK6dG1l
>>151 >>なんせ2万vs500で陣地に篭もってるわけでもないし
そもそも秀吉はそう考えていない
あくまで出て行ったのは家康だけ、信雄は城でブルってる程度にしか考えていない
>>そもそも別働隊編成は水陸両面から途中にも拠点を堅固に築かせまくって三河方面への大々的な侵攻作戦の一貫として
根拠なき妄想はどうでもいい
三河侵攻作戦はあくまで小牧長久手の戦略の一環にすぎない
壮大のように見えるのは織田羽柴軍の数が圧倒的すぎるからそう見えるだけ
織田羽柴軍の大半は小牧や伊勢方面にいるし、三河に行ったのもたかが知れている
>>外様で改易された福島加藤とかは凡クラだったから改易されたといいたいのか?
加藤忠広や福島正利とのことを指しているなら能力0でいいな
でも信長の野望には出てないだろ?w
155 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 17:38:59.04 ID:vLwpr2uD
>>153 谷口央氏も池田森を蹴散らしたのは井伊+家康勢と書いてるし
三河物語でも本多や井伊の活躍で池田森を討ち取ったと書いてるな
後家記家譜や合戦参加者が書いた合戦記などでも井伊隊の活躍は書かれている
んで井伊隊が何もしなかったとか書いてるのはどの史料だ?
そもそも井伊隊は留守居部隊だと考えているのか?
>>わざわざ別働隊に援軍を差し向ける必要すらない
>>家康に圧力をかけて家康が城から出て別働隊に敗退すれば後は信雄が勝手に降伏するだけ
別働隊の人数は24000で織田徳川は最低でも小牧を出た軍勢は8000程はいると考えられるから
その軍勢を壊滅させればいいだけ。大チャンスなのに放置する理由0
要は本多500に蹴散らされてそれが間に合わなかっただけ。小牧陣始末記とか合戦参加者の史料にちゃんと書いてる
>>自分の嫡男を敵方に人質として送ったのも家康だけだな
人質だったなんて根拠はない。お前日本語読めないだろ
>>145 >>家康子息は死んだ信康以外は全員側室の子で、秀忠はまだ幼児
正室も側室も糞もない
子供なんて精力と女がいればいくらでも作り出せるし家康は現にたくさん作ってる
>>154 そう考えていない理由根拠が不明瞭
織田徳川は小牧山で16000〜17000(当代記)
んで秀吉方は100000〜125000(当代記・享禄以来年代記など)だから
少なくとも家康が出てけば半分は減るので
信雄のいる小牧山を攻め崩すか家康をさっさと追撃し本多500を瞬殺し家康が戻らないうちに別働隊と挟撃すればいいだけ
156 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 17:44:49.97 ID:vLwpr2uD
>>根拠なき妄想はどうでもいい
>>三河侵攻作戦はあくまで小牧長久手の戦略の一環にすぎない
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
>>加藤忠広や福島正利とのことを指しているなら能力0でいいな
そんなんでいいなら大阪の陣なんてほとんど徳川はえぬきの二世武将だらけだし
徳川譜代系能力と関係ない、でいいわけで。
あと福島は生きてる間大厳封食らってる
157 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 17:48:27.57 ID:NebcQG3k
西軍について改易された連中は少なくとも能力0でいいな
織田厨馬鹿理論だと江戸期の石高は能力に直結するらしいから
石田小西大谷宇喜多あたりは改易されるか斬首されたから能力0
158 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 18:05:04.73 ID:oUK6dG1l
>>156 減封と改易は違うだろ
どうせWiki見て改易だとか言っちゃったんだろ?www
>>一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
最初秀吉は織田信雄の本領である伊勢長島に攻撃しているがwww
その後も秀吉は尾張にある信雄の拠点を攻撃しているがww
おまえが言ってるのは「秀吉が家康も重視していた」という根拠なだけで
「秀吉は信雄のことなど無視していた」という根拠にはならない
信雄討伐と並行して家康討伐が行われていたと言う根拠になるだけだなw
>>157 石田や小西は戦争に負けて結果的に滅ぼされただけ
功績も立てずに改易冷遇された連中と一緒にするのは論外
まあおまえの理屈で言うなら武田勝頼も最終的に滅ぼされて改易同然の滅亡を食らってるから能力0だな
北条氏政も能力0で浅井長政も朝倉義景も0
159 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 18:08:59.42 ID:oUK6dG1l
>>155 >>んで井伊隊が何もしなかったとか書いてるのはどの史料だ?
劣勢の敵を追い首しただけで後世の史料に誇張して書かれているだけ
事実池田森両名とも井伊の部隊ではなく家康本隊が討ち取っている
おまえの理屈が正しければ井伊隊の誰かが討ち取っていてもおかしくないな
>>少なくとも家康が出てけば半分は減るので
半分減っても8000だから城攻めを無理強いできるわけがない
そもそも別働隊が家康をけちょんけちょんに破れば信雄は勝手に降伏する
わざわざ自分で攻めて軍を損傷せずとも降伏させられるわけ
それができなかったから秀吉は秀次を叱責した、まあこのあたりは家康流石と言えるだろう
160 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 18:14:00.71 ID:vLwpr2uD
>>158 >>石田や小西は戦争に負けて結果的に滅ぼされただけ
>>功績も立てずに改易冷遇された連中と一緒にするのは論外
そんなら酒井は信康の件で恨みありまくりだったし
他の重臣連中も一向一揆に加担したりした経緯があったり秀吉に寝返ったり
いろいろ取り潰される要因あったから大封与えられなかっただけ、で問題なし
>>最初秀吉は織田信雄の本領である伊勢長島に攻撃しているがwww
>>その後も秀吉は尾張にある信雄の拠点を攻撃しているが
結局何がいいたいのかわかんね
三河方面に侵攻する作戦の一貫として中入りを行ったという事を否定するソースにならないし
>>156に書いた通り
161 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 18:20:59.01 ID:vLwpr2uD
>>159 小牧山は柵もろくにめぐらされていない無防備な陣構え(当代記)
おまけに兵力差10倍以上で周辺も秀吉方拠点(蟹清水二重堀小牧寺などガチガチにかためてる)
あと別働隊が家康方に蹴散らされる可能性を考慮しない程秀吉はアホってか?
後ろから家康が追尾してる事も一柳宛書状から秀吉は認識してたと考えられるのに
この家康からさらに追撃軍出せばいいだけだしそもそも実際秀吉は龍泉寺方面に出陣してんじゃん
>>わざわざ自分で攻めて軍を損傷せずとも降伏させられるわけ
そんなら他の連中に兵つけて援軍だせばいいだけだろ
それか史実どおり自分で援軍に赴くか小牧山攻めるかすればいいだけ。
どれもできず本多500に妨害されて間に合わなかったのが秀吉
>>劣勢の敵を追い首しただけで後世の史料に誇張して書かれているだけ
根拠なし。三河物語には井伊隊が蹴散らしたと書いてる
>>事実池田森両名とも井伊の部隊ではなく家康本隊が討ち取っている
そもそもそれが後世の史料がソースだろ
同時代史料に池田森を家康本体が討ち取ったなんて書いてるものはない
162 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 18:28:23.58 ID:oUK6dG1l
>>160 >>他の重臣連中も一向一揆に加担したりした経緯があったり秀吉に寝返ったり
本多や榊原は何もしてませんがwwww
何もしていないのに10万石程度っすかwwww
>>結局何がいいたいのかわかんね
信雄討伐などなかった、家康のことしか考えていなかったと
>>156で言ったから
俺が
>>158で「いやその理屈はおかしい」と述べただけ
それでおまえが「何を言っているのかわからん」というのなら
理由なしで
>>156で俺に噛みついたことになり、おまえがただの文盲だったというだけ
そもそも俺は中入り作戦を「重要視していなかった」とは一言も書いていない
「信雄討伐と同程度に、家康討伐を考えていた」と最初から発言している
勝手におまえが誤解してケチつけてるだけ
163 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 18:29:19.47 ID:vLwpr2uD
当代記によれば家康公先手が秀次と堀を追い崩し数多討ち取り池田が之を聞き出向き、
家康公押し出で合戦、と書いてるので合戦の勝敗を大きく傾けたのは最初の「家康公の先手」だな
つまり本多広孝、大須賀康高・榊原などだな
164 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 18:31:16.10 ID:vLwpr2uD
>>162 俺が信雄討伐などなかったとどこに書いているのかね
>>そもそも別働隊編成は水陸両面から途中にも拠点を堅固に築かせまくって三河方面への大々的な侵攻作戦の一貫として
これをお前が妄想と片付けたから反論したんだが
165 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 18:38:20.48 ID:oUK6dG1l
>>161 おまえこそアホなのか?
>>この家康からさらに追撃軍出せばいいだけだしそもそも実際秀吉は龍泉寺方面に出陣してんじゃん
龍泉寺方面への行軍はただ秀吉が牽制するために使っただけで家康の追撃なんてこれっぽっちも考えていない
そもそもおまえの理屈で言うなら「秀吉は家康を後詰して挟み撃ちにすれば勝てる」と言っているが
秀吉が家康を追撃したら今度は小牧山に残った軍が城から出てきて秀吉が挟み撃ちにされるわけだが
秀吉含め中枢が死んだら当然戦争は負けだし、そんな危険な行動を圧倒できる状況でやれと?桶狭間の再来でも起こす気か?
>>根拠なし。三河物語には井伊隊が蹴散らしたと書いてる
追い首を討って「蹴散らした」というなら誰でもできる
逆に聞くが、井伊隊の人間が森池田を討ち取ったという確たるソースはあるのか?
徳川本隊による池田森討ち取りが創作なのなら、井伊隊が討ち取ったと書かれているソースがあるはずだろ?
166 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 18:43:00.40 ID:oUK6dG1l
>>164 >>150 >>家康方が小牧を離れたのに軍勢急いで追尾させて家康を挟み撃ちにしようとする狙いがないわけがない
そもそも何のために別働隊編成したと思ってんだアホ
>>151 >>そもそも別働隊編成は水陸両面から途中にも拠点を堅固に築かせまくって三河方面への大々的な侵攻作戦の一貫として
行っているのだから家康方が小牧を出たと知っているのだからさっさと秀吉は追撃すればあっさり済んだはずの戦
この時点で織田信雄を無視しまくってるじゃねーか
秀吉からしてみれば家康領を狙って出てくるのは徳川軍だけと思っていた
そんな状態で徳川軍を追撃する後詰を出しても小牧在城軍に後ろから突かれて徳川軍と挟み撃ちにされるだけ
そうなったら完全に桶狭間のような秀吉+中枢戦死もありうるわけ
おまえはそれをしておけばよかったと結果論全開で言ってるからだろ
167 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 18:54:33.59 ID:vLwpr2uD
>>龍泉寺方面への行軍はただ秀吉が牽制するために使っただけで家康の追撃なんてこれっぽっちも考えていない
いつもの事だがちゃんと資料を出してくれ。
秀吉が実際に動き出したのは秀吉が別働隊の敗退を知ってから(谷口氏論文・小牧陣始末記、当代記、三河物語)
なので敗戦後家康軍が小牧山に戻る前に討ち取る目論見があったという他ない。そもそも家康討伐や三河方面侵攻が目的で中入りさせたのに
家康を討ち取るチャンスで行う龍泉寺方面の出兵目的が牽制とか意味不明
しかもどのような牽制になるんだ?ちゃんと考えて書き込めアホ
>>秀吉が家康を追撃したら今度は小牧山に残った軍が城から出てきて秀吉が挟み撃ちにされるわけだが
そのために小牧山周辺を秀吉方拠点(犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、
小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
こんだけずらっと拠点築いて家康方の動きを封じてる上に家康方は残り8000
秀吉方は楽田に76000と基地外のような兵力差があるのでそんな心配無用
>>秀吉含め中枢が死んだら当然戦争は負けだし、そんな危険な行動を圧倒できる状況でやれと
そんなら秀吉は楽田に残って誰か他の奴(前野蜂須賀黒田あたりか?)に援軍連れてよこせばいいだけ
>>逆に聞くが、井伊隊の人間が森池田を討ち取ったという確たるソースはあるのか
谷口氏論文、三河物語小牧陣始末記その他合戦参加者の書いた家譜家記合戦記はほとんど井伊隊が池田を倒したと書いてるし
三河物語では本多が森を討ち取ったと書いてる
168 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 19:00:46.65 ID:vLwpr2uD
>>166 信雄を討伐意思がなかったなどとどこにも書いてないわけで。
>>秀吉からしてみれば家康領を狙って出てくるのは徳川軍だけと思っていた
なんでそうなるのか不明
三河領が侵攻されれば織田徳川方としたら
尾張口や伊勢を一気に突破されるばかりか寝返りの危険や本領地占拠され一気に潰される危険もあるのだから
当然信雄軍の援軍も想定しててもおかしくない
>>そんな状態で徳川軍を追撃する後詰を出しても小牧在城軍に後ろから突かれて徳川軍と挟み撃ちにされるだけ
それをさせないため龍泉寺篠木柏井大草など中継地点に拠点築きまくり
しかも小牧山周辺も簡単に身動きできないように秀吉方拠点で固めてるし
そもそも小牧山8000楽田に76000だから
2万連れて援軍に向かった後信雄が追撃してきてもまた楽田から援軍出せばなんとでもなるし
そもそももっと大軍を秀吉方途中拠点(大草篠木柏井龍泉寺など)において挟撃防げばいいだけ。
そもそも数の絶対数が違うから何とでもなる
169 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 20:52:26.83 ID:oUK6dG1l
>>167 >>いつもの事だがちゃんと資料を出してくれ。
意味不明
いつもっていつのことだ?www
>>なので敗戦後家康軍が小牧山に戻る前に討ち取る目論見があったという他ない。
別働隊があまりに早く敗れただけであって秀吉は当初の予定通り行動しているだけ
そもそも別働隊が敗れた以上家康を叩くなんていうのは小牧山在城軍との挟み撃ちになることが火を見るより明らか
牽制となるべき別働隊がいない以上、桶狭間の再来で秀吉(+織田羽柴重臣)が小牧在城軍と長久手派遣軍に挟み撃ちにされて討死しかねない
そんな自ら死ににいくようなことをする愚を秀吉がわかっていたというだけ
>>家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
東と北を包囲しただけで敵があっさりと屈するわけがない
事実あっさりと包囲をかわされ別働隊を叩かれてしまっている
あくまで家康信雄軍が大挙して攻めてきた時のために作った要素が高い
ましてや長久手でドンパチやっている連中の救援するための役に立つとか論外
家康が長久手に行く前にそれらの拠点を落としたか?思いっきり素通りして行ってるだろ
170 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 21:04:06.41 ID:oUK6dG1l
>>そんなら秀吉は楽田に残って誰か他の奴(前野蜂須賀黒田あたりか?)に援軍連れてよこせばいいだけ
別働隊が敗れる前だろうが後だろうが同じこと、どっちみち挟み撃ちにあう
そもそも三河中入り作戦は作戦の一環だから家康が出てくるかどうかは運
織田徳川軍が三河を見捨てて楽田の秀吉本陣に全軍で突っ込んで来たらどうする気だバーカw
結果論信者は「あの時ああすればよかった」なんてほざけばいいだけだから楽だよなww
>>谷口氏論文、三河物語小牧陣始末記その他合戦参加者の書いた家譜家記合戦記はほとんど井伊隊が池田を倒したと書いてるし、三河物語では本多が森を討ち取ったと書いてる
適当に史料並べて書いた気になってんじゃねーよwww
三河物語の池田討ち取り人は長井右近(永井直勝)、森討ち取り人は本多八蔵(本多重次)で
井伊も本多も全く出てこねーだろーがwww本多重次なんてまさに家康に重宝された直臣の代表格で
後々蟄居を命じられるまでは秀康を任されるような直臣だろw
>>尾張口や伊勢を一気に突破されるばかりか寝返りの危険や本領地占拠され一気に潰される危険もあるのだから
三河の中入りでなんで尾張や伊勢が出てくるんだバーカww
海路を使った拠点攻略は九鬼嘉隆がやって盛大に失敗しただろw
そもそも三河なんて徳川ならいざ知らず織田にとっては他人の領地
他人の領地助ける間に本国が攻められまくったらどうするんだって考えるのが普通
信雄が普通じゃなかっただけ
>>そもそももっと大軍を秀吉方途中拠点(大草篠木柏井龍泉寺など)において挟撃防げばいいだけ。 そもそも数の絶対数が違うから何とでもなる
数の多寡で戦争が決まるなら秀次率いる別働隊が家康をけちょんけちょんにして終了だろーがw
そうならないからこそ長久手で家康が勝ったのであって「数の暴力で攻めればいい」なんてのは暴論にもほどがある
もともと優勢で普通にやっていれば勝てた別働隊が負けたんだから秀吉が慎重策に切り替えるのも当然の発想
171 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 21:49:47.80 ID:mS+CDTcc
適当に資料並べて書いた気になってんじゃねーよwww→もうちょっと優しくしてやれよw本人はいっぱしの論客気取りなんだからw
172 :
名無し曰く、:2012/12/23(日) 23:12:39.70 ID:gn/XLSXe
157
別に良いじゃないの
それまでいくら功績あっても
結果的に家滅亡や敗死した武将が評価辛くなるのは当然
173 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 00:03:37.36 ID:Kgu4JvH2
>>169 >>別働隊があまりに早く敗れただけであって秀吉は当初の予定通り行動しているだけ
妄想はいいからちゃんと史料だしてくれ
三河物語「其より三万余之者共を切り崩し給いて悉く追い討ち急ぎ人数を引き上げて
小幡の城へ引き入らせ給ふ処に関白殿、小口楽田にて此の由聞召して急ぎ龍泉寺迄押し出し給へども…」
当代記「家康公押出、直に合戦、庄入併武蔵守討死之間、士卒令敗北、秀吉公聞給則出馬、龍泉寺山に打上り給、」
と秀吉予定通りではなく敗報を聞いて急いで龍泉寺方面に移動している
>>そもそも別働隊が敗れた以上家康を叩くなんていうのは小牧山在城軍との挟み撃ちになることが火を見るより明らか
別働隊が24000で討ち取られたのが1万で敗残兵が14000で楽田にいる兵が76000さらに翌日になると秀長軍20000余りが到着している(4/11秀吉→木曽、長船、富岡書状)
徳川軍は小牧山+小幡方面全体で16000〜17000で一戦して疲労しているから圧倒的に兵力的に優位で挟撃の心配なんぞない
>>牽制となるべき別働隊がいない以上、桶狭間の再来で秀吉(+織田羽柴重臣)が小牧在城軍と長久手派遣軍に挟み撃ちにされて討死しかねない
別働隊は牽制目的じゃなく陸海両面においての三河方面侵攻計画の一環(4/8丹羽あて書状)
挟撃が心配なら龍泉寺に向かう秀吉軍とは別にさらに2万ほど途中の柏井大草龍泉寺篠木あたりにおいて信雄軍が追ってきたら迎撃すればいいだけ
>>170 >>別働隊が敗れる前だろうが後だろうが同じこと、どっちみち挟み撃ちにあう
なんでそうなるのか不明
徳川方は東と北がガチガチにかためられてる上に篠木柏井大草龍泉寺と途中にも拠点築かれまくってる上に
兵力で相当なハンデあるから秀吉方は半分を小牧山において半分を連れて龍泉寺方面向かって
その半分で小牧山からの信雄軍の動きに注意すればいいだけ
>>織田徳川軍が三河を見捨てて楽田の秀吉本陣に全軍で突っ込んで来たらどうする気だバーカw
大丈夫。秀吉方はまだ76000もいる上に翌日には秀長2万余りも到着している
174 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 00:10:17.42 ID:VsONFmid
馬鹿秀吉厨は全く懲りないな
※秀吉失態集※
・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
175 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 00:11:17.50 ID:VsONFmid
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
176 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 00:11:47.45 ID:VsONFmid
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
177 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 00:12:43.69 ID:VsONFmid
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
178 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 00:13:29.57 ID:VsONFmid
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
179 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 00:15:04.55 ID:VsONFmid
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
180 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 00:16:56.00 ID:VsONFmid
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
181 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 00:17:41.68 ID:VsONFmid
大久保が法螺話を書いたなんて根拠は全くないし
例によって公記では都合が悪いのか隠蔽して戦の内容について記述がなされていない
浅井三代記三河物語松平記で徳川の勝利で共通している上に
水野真氏も姉川の史料が徳川に豊富に存在するのは徳川の勝利をよく示していると認めている
当代記のその方面の記述は基本的に信長記のトレースだから全く参考にならない
信長書状から定説どおり織田vs浅井 徳川xs朝倉の布陣を敷いていた事がわかるし
定説どおり織田は寡兵の浅井に苦戦し徳川が大軍朝倉を破りそのおかげで勝ったという流れだろう
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは
徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのはそれ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。
織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。
これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと
必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が
正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
また織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ
信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。
遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
あと当代記とか信長書状でも徳川が大軍朝倉相手を任されて切り崩したと書いてるし
松平記や甲陽軍艦、三河物語、浅井三代記でも織田は大軍にもかかわらず寡兵の浅井に苦戦し
徳川は寡兵にもかかわらず大軍朝倉相手に大活躍して多数討ち取っているし上記のように裏づけもとれる
182 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 00:28:59.41 ID:Kgu4JvH2
三河物語「家康は御旗本衆、井伊兵部小輔計、以下雑兵3000余りにて跡より押し詰めさせ給ふ」
谷口氏「仏が根まで引き返した池田森と激突したのは家康本体である。この隊は徳川家康を本陣としこれに井伊直政に甲斐衆を預けた部隊を加えたものと考えられる」
>>三河の中入りでなんで尾張や伊勢が出てくるんだバーカww
そりゃ三河口が突破されれば小牧山を守るどころじゃなくなるからな
小牧山や清洲近辺に徳川軍がいることで保たれている均衡が、徳川軍が三河方面に引っ込んだら信雄単体で守るハメになるから一挙に崩れる可能性高い
3月の攻防でも徳川軍が池田と森に犬山方面に奇襲くらって転進したら神戸・関以南の信雄領国は離反の連鎖と圧倒的軍勢に飲み込まれて一挙に崩壊したし
>>海路を使った拠点攻略は九鬼嘉隆がやって盛大に失敗しただろw
それは陸での戦闘が失敗に終わって徳川方の迎撃がちゃんと機能したからだろ
陸戦で羽柴方が成功すれば当然海戦で迎撃する兵も減るから成功率も格段に上がる
>>数の多寡で戦争が決まるなら秀次率いる別働隊が家康をけちょんけちょんにして終了だろーがw
秀次ら別働隊の敗北は白山林で奇襲を受けたから。秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる。しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに 軍事的才能がなさすぎる 。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
>>もともと優勢で普通にやっていれば勝てた別働隊が負けたんだから
普通にやってれば勝てたも糞もない。途中で砦普請させながら大軍でのろのろ行軍させた上に
奇襲食らって、しかも家康の動きを知りながらすぐ兵出さなかったから負けただけ。
普通にやれば勝てる兵力差でもこんな糞戦術立てるような武将が指揮官だから負けただけの話
183 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 01:22:24.55 ID:VsONFmid
小牧長久手の時でも雑魚信雄相手に1万人殺された上に
戸木松ノ木蟹江二重堀東駒野河波長久保浜田など格城郭の攻防で蹴散らされて
諦めて大阪に納馬する予定であり天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
184 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 01:23:11.17 ID:VsONFmid
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
185 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 01:24:36.30 ID:VsONFmid
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
186 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 01:25:22.99 ID:VsONFmid
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
187 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 01:28:10.81 ID:VsONFmid
武田征伐で諏訪の陣において織田が占領した筑摩郡深志城の城米を出さしめて
在陣の諸将士に頒ち与えた史実を歪曲して信長公記は
3/19に信長が諏訪法花寺に着陣。
3/24各在陣致す諸将は給地からの補給に迷惑して困っているので
諸兵の数に従って御扶持米を深志で渡したと書いてあってワロタw
しかも雨や風で凍死者続出で暖もロクに取れてない惨憺たる補給実態の惨状で
さっさと逃げるように3/29には木曽口や伊那口へ
織田各軍が崩壊した補給状態から急いで美濃へ自壊敗走してる。
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。
秀吉は親類だから公記での初登場でも
すでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したが
その時に将軍義昭の警護役として登場してる。
どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。
完全に江戸期の講談の影響。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
188 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 01:28:40.86 ID:VsONFmid
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
189 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 01:29:51.74 ID:VsONFmid
◎信長公記
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い
記録ではなく名前通り軍記
天正2年正月の公記
朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は?
義昭→六角義賢書状
信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
そして越前が一向宗に奪われ、
勝頼に岩村城を奪われ
織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、
義賢書状では、
信楽表で大勝利し感状まで出してる。
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると
信長は滝川の子を信長の養子にして細野に人質として差し出し味方になってもらった。
この時、関一族の関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎配下の蒲生の近江日野城へ逃亡した。
永禄12年5月北畠四御所の木造氏が北畠内での序列に不満があって織田方へ走るや
北畠は信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆の秋山・沢・芳野らも動員して木造を滅ぼそうとするや
織田も伊勢の神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍に派兵し、
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で高級幹部20人以上が討ち死に大敗。
撤退での追撃を恐れて信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で
北畠家臣や南朝以来の繋がりがある紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし
伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと織田側は通報してる。
(弟を近江へ派遣するなど伊勢長島一揆を支援し長政と兵力融通していた日根野弘就に協力してた
北伊勢の自由商業町の山田三方の福島親子とか有名)
190 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 01:30:35.80 ID:VsONFmid
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。
さて以下がその隠蔽である。
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
191 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 01:32:50.11 ID:VsONFmid
結果でいえばころされて死んだだけの信長が最貧国甲斐から150万石までガチンコで領土広げた信玄と10しか差がないとか完全にネタランク。
長篠でも信玄より遥かに劣る勝頼に対して圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地の中で戦ってすら
6000もの大損害だしたし信玄>>>>勝頼>>>>信長にすべき。少なくとも勝頼89なら信長70台じゃないとおかしい
講談ではなく史実を元にした評価
天下人の家臣団
政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 35 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
カス武将の集まり織田軍
192 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 01:42:33.01 ID:ODC1hxzF
福島・加藤・蒲生・藤堂・大谷・黒田・細川あたりの豊臣系ゴミ武将が過大
上記の雑魚武将に80中盤だの90台だのネタ数値がついてるし
まとめて−20くらいで妥当になると思われ
指揮官の資質の問われない基地外物量を背景にした楽な位攻めで雑魚イジメして蹴散らされてたくらいだし
まだ徳川中堅格の奥平・菅沼・岡部・保科あたりのが上だろ
193 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 02:14:28.10 ID:Kgu4JvH2
蒲生なんか講談補正入りまくりだもんなぁ
史実では滝川や木造に蹴散らされるくらいしか実績ないし
194 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 20:43:27.62 ID:Tb4h7dqb
ウワアアアアンヽ(`Д´)ノ!!!!!!
宇喜多直家が建てた金山寺が燃えちゃったよ!
195 :
名無し曰く、:2012/12/24(月) 21:22:05.66 ID:WkKfXQDJ
1週間近くレスがないと思ったら案の定dat落ちしてたでござる
コピペ爆撃がすべて悪い
196 :
名無し曰く、:2012/12/25(火) 01:52:28.05 ID:JFU+pmSE
結果でいえばころされて死んだだけの信長が最貧国甲斐から150万石までガチンコで領土広げた信玄と10しか差がないとか完全にネタランク。
長篠でも信玄より遥かに劣る勝頼に対して圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地の中で戦ってすら
6000もの大損害だしたし信玄>>>>勝頼>>>>信長にすべき。少なくとも勝頼89なら信長70台じゃないとおかしい
講談ではなく史実を元にした評価
天下人の家臣団
政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 35 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
カス武将の集まり織田軍
197 :
名無し曰く、:2012/12/25(火) 03:45:32.56 ID:bxtnlvxh
去年とか一昨年あたりは、年末年始で議論が繰り広げられてるの見て、「こいつら年末年始に何やってんだよ」
って呆れながら思ったものだったけど、コピペで過疎ったこのスレの現状を目の当たりにするとあの頃が懐かしい。
198 :
名無し曰く、:2012/12/25(火) 06:47:11.64 ID:3I91SqaF
みんなどこに行ったの?
199 :
名無し曰く、:2012/12/25(火) 09:21:39.99 ID:4GY42p4q
したらば
200 :
名無し曰く、:2012/12/25(火) 11:50:52.51 ID:jCU2N+dM
したらばなんて織田厨しかいねーじゃん
201 :
名無し曰く、:2012/12/25(火) 11:54:30.47 ID:lwPeCEdr
いっとくけどこのスレでコピペ連発してるのスレ沈めようとしてるアホ織田厨な
武田派は織田厨への反論に対してしかコピペ使用していないからすぐわかる
202 :
名無し曰く、:2012/12/25(火) 12:32:52.16 ID:mAIWwTGc
被害妄想
203 :
名無し曰く、:2012/12/25(火) 12:46:20.59 ID:HrUMEK/a
204 :
名無し曰く、:2012/12/25(火) 13:25:31.13 ID:x7EYIQi6
映画化されたとはいえ忍衆家老達の能力えげつないな
成田甲斐 本多小松 とか無双の流れの萌え萌えキャラいらんわ
205 :
名無し曰く、:2012/12/25(火) 14:23:44.29 ID:hU4BYGEf
>>203 俺童貞だから
クリスマスもなんも関係ないや
206 :
名無し曰く、:2012/12/25(火) 14:30:59.20 ID:TXtQeAUX
スレの崩壊は関東厨が自作自演で自画自賛していたあの時から始まっていたのだ
207 :
名無し曰く、:2012/12/25(火) 17:11:05.11 ID:jCU2N+dM
依田信蕃・朝比奈信置・岡部元信あたりが過小
最強徳川軍相手に最後まで田中・高天神城守りぬいたし
依田は80のっていいくらいだな
208 :
名無し曰く、:2012/12/25(火) 17:15:09.06 ID:lwPeCEdr
基本東国も西国も畿内も無名な武将は過小だからな
西国でいうと大友家臣団の中堅格の連中や毛利家の児玉・乃美あたり。
東国だと上杉の須田・北条の成田・下野の皆川・壬生・今川の朝比奈・岡部。あと
後期徳川で活躍した信濃の地侍連中ももっと強いだろ
ゲリラ戦で大いに北条の軍勢苦しめたしな
209 :
名無し曰く、:2012/12/25(火) 18:34:46.13 ID:jCU2N+dM
須田なんかは松倉城で織田の大軍跳ね返したし北信での徳川との攻防で活躍してるし
統率はもうちょい上乗せしていい。せめて60後半くらい。
政治知略は十分いい評価だと思うが
210 :
名無し曰く、:2012/12/25(火) 20:13:02.12 ID:lwPeCEdr
毛利の両川とか福島加藤蒲生あたりは知名度だけで高評価もらってる典型例
特に両川なんて宇喜多や大友に蹴散らされまくるくらいしか実績ないし−20してもいいくらい。
211 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 02:16:31.73 ID:aEytAFdK
>>201 バレバレの自演擁護乙w
武田厨はあれだけ暴れていたのに最近は他人のせいにするんだなwww
212 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 02:21:33.99 ID:aEytAFdK
>>174からのコピペなんて言論封殺するいつものコピペ君の十八番じゃん
罵倒しながらも
>>172までは議論らしきもの(半ば罵り合いも入ってるが)が続いているのに
>>173で反論載せた後
>>174から
>>196まで怒涛のコピペ連投が続いている
明らかに
>>170君の反論をさせないようにコピペの連投で誤魔化してコピペをウザがった
>>170君が反論しないように仕組んでるし
213 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 02:29:59.57 ID:aEytAFdK
俺にはコピペ君の気持ちがよおくわかるよwwww
102スレ目でコピペがほとんどなかったのは、同時期にできたしたらば板へ
逃げる人がいっぱいいるかもしれないってビビったんでしょ?w
わざわざ自分もしたらば板作って拡散してたくらいだから、まあこれは図星だよねw
で、しばらく様子を見ていたけど結局したらば板へ行った人もそこまでおらず、ここに残る人も結構いることがわかった
まだまだこちらで思う存分暴れられるぞ、と思ってコピペ連投と普通のレスなどID使い分けで居座ってるのが現状かなーwwww
214 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 02:46:44.45 ID:aEytAFdK
215 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 06:05:08.96 ID:A2gWxcKg
知名度だけで高評価もらってる典型例って
まさに信玄や武田家臣の事じゃん
216 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 06:34:43.75 ID:aEytAFdK
武田信玄は信長の野望シリーズを制作した初代シブサワ・コウこと
コーエーの創業者である襟川陽一氏のお気に入りだからな
初期の作品では武田信玄も織田信長同様主人公として選択できたし
主人公補正に加えてシブサワ・コウ補正まで受けてるからそら強くなって当然
217 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 07:25:24.78 ID:ToVUkChi
そもそも江戸時代の講談とか小説がなければ歴ゲーなんて存在してなかったろうな
里見八犬伝も水滸伝のオマージュだし日本は昔からこんなもんだ
218 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 08:42:56.00 ID:aEytAFdK
講談モノは江戸期以前からもあったぞ
ただ武田上杉=戦国で一番強いと言うのが定着したのは江戸時代だけどな
それ以前でも全く強くない、というわけではなかったが
当代記に代表されるように三好織田豊臣徳川あたりが一番候補
219 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 10:51:17.91 ID:vf99NTek
>>31-
>>36 謙信に野戦で適わぬことは同時代に生きた武将達が一番よくわかってるだろうね
信長は謙信と戦うくらいなら「扇子一本持って降参し東日本は譲る」
秀吉は謙信と戦うくらいなら信長の命令に逆らってでも敵前逃亡
信玄は謙信がわざと隙を見せまくって決戦に持ち込まれ副将と軍師を討ち取られる
氏康は謙信来襲すると即篭城
220 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 12:54:46.24 ID:4w5Q/H3f
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
221 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 12:58:12.03 ID:4w5Q/H3f
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
(『甲陽軍鑑』)
織田両国内の記録
今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛
(中略)
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也
(『蓮成院記録』)
222 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 12:59:52.43 ID:4w5Q/H3f
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは
武田優位は揺るいでないから
信長は結局、
信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので
勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたし
ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。
長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに
撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった。
223 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 13:03:20.38 ID:dK6d0Zic
鍋島直茂が過大
雑魚朝鮮人相手に活躍したくらいしか実績なく龍造寺の瓦解防げなかった参謀ごとき
なぜ90台乗るのかわかんねw
224 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 13:13:38.00 ID:4w5Q/H3f
1576年 円昌坊教雅書状
謙信、大方於太刀者日本無双之名大将ニ而御入候
1582年3/5 蓮成院記録
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
信玄死去から10年経っても
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
とその遺武があったほどの威勢だったけどな。
信長死んだら武遺の話題すら出てないな。
225 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 13:15:13.74 ID:4w5Q/H3f
信吉が1602年に水戸25万石に封じられたのは武田としてだよ。
信玄最強というのは江戸初期から常識であり
甲州流軍学が江戸時代を通じて最強とされ続けてるしな。
1576年 円昌坊教雅書状
謙信、大方於太刀者日本無双之名大将ニ而御入候
1582年3/5 蓮成院記録
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
信玄死去から10年経っても甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士
とその遺武があったほどの威勢だったけどな。
信長死んだら武遺の話題すら出てないな。江戸期を通じて織田流軍学なんてもんは
誰も見向きもせず一切評判になったことすらないw
蓮成院って大和興福寺の蓮成院だろ?なんで比叡山が総本山なんだ?
南都北嶺は並び立ってるからどちらが主でどちらが従ではないだろ。
大和一国を支配して事実上の大和守護とみなされた荘園防衛軍たる僧兵武力軍で、三好軍や松永軍とも互角に戦ってんだろ。
筒井氏とかも興福寺官符衆徒だし。
正親町のは献金してもらいたいからリップサービスでそう信長を持ち上げておだててるだけで
誰か他の大名と比較してそう言ってるわけじゃない。
蓮成院にはリップサービスする必要性は無いし実際に風聞として天下一だという世評を知っていて
これからその地へ行くことにビビっている姿がわかる。
226 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 13:17:54.19 ID:dK6d0Zic
大友宗麟が過小。
毛利元就に直接対決で勝ちまくったし元就と能力逆にすべき。
227 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 21:22:54.49 ID:A2gWxcKg
223
信玄や武田四天王より全然強いよ>鍋島
228 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 23:25:31.15 ID:BmcReeIJ
実績はあっても鍋島はイマイチ人気無いからな
龍造寺自体が九州で島津大友(立花)のおまけみたいな扱いだし
229 :
名無し曰く、:2012/12/26(水) 23:33:15.81 ID:aEytAFdK
竜造寺四天王とか竜造寺一門の能力がコンパチすぎるからな
明らかにやる気がない
230 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 00:51:38.73 ID:B70RZtne
鍋島なんて龍造寺崩壊させたくらいしか実績ねーじゃん
今山の戦いなんて鍋島関係ないし
231 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 00:53:47.96 ID:SD16BofF
今山合戦で大友が大軍動員したとか軍記ソースだしな
大友の国力と周辺状況から4万も5万も動員できるわけないし
そもそも合戦自体の存在が疑わしいし
232 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:07:01.72 ID:QgZd8qfY
むしろ龍造寺の崩壊をよくぞとどめたという感じだろ
当主が戦死って大事なのに、よく本領を守ったってもんじゃね
233 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:16:48.56 ID:SD16BofF
単に島津が対大友の豊後方面やら水俣攻防とかでもたつきまくってたおかげでしょ
甲斐早雲にも撃退されたりしてるし別に鍋島いなくても崩壊してないと思うわ
234 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:22:44.44 ID:B70RZtne
天正7年9月から琢磨・八代衆700の守る水俣城のある葦北庄侵攻を開始した島津軍は連戦連敗だよ。
特に天正8年9月の佐敷計石合戦での相良大勝はすさまじいものだったとか。
それで最後は11万5000を投入して、
かる石之尾に家久・征久
熊牟礼に義弘
出水本陣が義久の総力戦で
相良義陽が大軍に背後を断たれる恐れから佐敷から八代へ撤退し
竜造寺に援軍を求めたものの援軍は来ず天正9年9/27に和睦開城。
この水俣攻防の一戦の敗北をもって相良は島津に屈する。
その後、島津の命令で甲斐宗運攻めを命じられ義陽敗死。
10歳忠房が相良当主になると島津は「お前らの方から前非を悔い
どうしても島津に仕えたいって再三懇望するから許してやった」という無礼なことをやる。
そして幼君をいいことに「野心は一切ない」とふざけたことを言っている島津は
葦北だけでなく八代郡を横領し、琢磨郡まで奪おうと策するが相良重臣の尽力で相良滅亡は避けられた。
木崎原のころには伊東一族って家臣から見限られてたんですよね?
義祐当人も放蕩、奢侈、諫言する家臣を遠ざける等主君としてどうだったんでしょうか。
米良氏は島津義弘の攻撃を撃退するなど奮戦してたのに所領の一部を伊東祐松に奪われたり。
落合氏も嫡男をこの祐松にされてるんですよね。
落合兼置も木崎原の殿軍を努めて討死してるのに相変わらず栄華な生活を送っていたのでしょうか?
米良落合どちらも島津方に寝返ってますよね。
235 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:30:49.21 ID:SD16BofF
筑前侵攻ではその入り口に当たる筑紫攻めでボロクソになり、次の高橋紹雲攻めを国人達から拒否されて島津ボロクソ。
立花城攻めはもはや遠くからやあやあ騒ぐ以外に手はなく、挙げ句の果てに大敗走。
続いて占いで豊後侵攻を決めるあほぶり。しかもビビり迷って二度目のクジ引きで決めるw
天正15年病になる秀吉は新田八幡宮に乱入したかららしいw
南郡衆筆頭の志賀親度(義統の愛妾一の対殿を奪いとって囲ったのがバレた)の誘導で肥後口から攻めた義弘3万7000は1000に満たない親度の子の若干20歳の志賀親次の岡城で何度となく大敗。
やむなく義弘は岡城に留まり、新納忠元を玖珠郡、新納久時を大分郡攻略に向かわせるべく軍を3つにするアホな戦力分散をする。
しかし玖珠郡の要衝の角牟礼城で森五郎左衛門1000に忠元は大敗。
やむなく標的を日出生城攻略に変更するも、城を空にして出現した帆足鑑直300が急襲し忠元まで重傷になる大敗。
久時4000も権現獄城の狭間鎮秀300の奇策の前に敗走(のち義統が狭間を謀殺)
さらに義弘は決戦地を指定した挑戦状を叩きつけた親次にまた敗れるわ、
阿南惟秀の謀略で親次が笹原目城攻めをして白坂石見が討ち死にするなど敗北続きなために三者は合流せざる負えなくなり肥後口対は停滞。
日向口から豊後に入った家久隊は栂牟礼城の佐伯惟定の前に大敗(あまりの完勝なためのち秀吉が激賞した)。
王子ヶ城の野津院衆も島津を破る活躍。
やむなく臼杵方面へ転戦したら病み寝込みながら宗麟自ら指揮した丹生島城の国崩しの前に逃げ惑うハメに。
籠城に向かない館の大友館を放棄して龍王城に義統が向かったのに釣り込まれた島津はさらに深く侵入の上、鶴崎城で吉岡長増の子の妻妙林尼の知略の前に島津3000は16回攻めて落ちずに苦戦敗走。
そのため龍王城も杵築城もまったく落ちずに島津敗走。
その間に後方の鶴ヶ城を利光宗魚に奪われ撤退補給路を封鎖され慌てる醜態。
必死に力攻めしても落ちず。
結果、島津は半数の兵を失い、残った兵2万のうち実動可能兵6000に満たなかった。
さらに仙石が鶴ヶ城救援積極攻撃を主張したが義統の無傷の8000は拒否し兵力温存。
仙石3000長宗我部3000が盲信自爆
帰り道を作るために義久は鶴ヶ城を必死に攻撃、たまたま宗魚が流れ矢に当たり落命し開城したが島津3000も道連れにした。
その間に志賀、佐伯らが次々に城を奪回に後方遮断。
236 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:31:36.11 ID:SD16BofF
その他各地の攻防
木付城(江戸時代になり杵築)の木付鎮直は忠元を追撃し大いに破ったため勝山城と呼ばれるようになった。
逆竹城(山の城)朽網鑑康が病没する中で息子の鎮則は島津の数度の攻撃を撃破。
久保泊城では四浦の武士と呼ばれた鳩、加嶋、加島、紀らに島津は撃退される。
松牟礼城をみただけでビヒって攻めずに敗走した島津。
吉田一祐は平原坂にて島津を撃破し月山の太刀を宗麟から恩賞としてもらう。
柴田宮千代は岩瀬砦に籠城し島津兵98を討ち取り暴れまわった挙げ句に落城。
捕らえられて島津軍に引き出されるが脇差しで敵将を刺した為殺されるが、妹が兄を討った者を刺し、妹も殺される。
菅迫城の朝倉一玄は留守の火縄の計で空城の駄原城を炎上させ、反乱や失火と思って襲いかかって入城してきた島津軍を志賀らとともに包囲し壊滅させる。
帆足鑑直の妻の鬼御前は空城を自らの侍女に鎧を着せて誤魔化していたが、角牟礼城で籠城していた森鎮生に嫁いだ娘に
「昼も夜も油断せぬように。合戦難儀でも先走って自害せず、城を枕に討ち死にしなさい。未練な働きをするなら七回生まれ変わっても勘当です」と書き送った。
このように大友側は各拠点を固守して島津軍の戦力を暫時減少させつつ、撤退焦土戦略で島津の攻勢限界点まで持久策と後方遮断を行う。
島津は低脳なので力攻めと条件反射しかしないからどんどん島津兵力は低下する。
釣り野伏しかやらないので大友側は夜襲をメインに行う。
鶴崎城の故吉岡長増は豊後三老の長老にして毛利軍壊滅に功績をあげた謀略の献策立案者。
大内逆上陸作戦において村上武吉を買収して成功に導いた智者。
その名を恥ずかしめず島津を撃退した妙林尼は素晴らしい。
またその際に大友水軍を率いて大内輝弘を上陸させ、毛利の補給路を遮断した若林鎮興の功績から、宗麟が水軍の重要性を痛感し、
若林に税を免除し水軍の育成を命じ、のち田原親貫の反乱では国東半島を海上封鎖した際に支援にきた毛利水軍を大破し大友水軍を大きく成長させ、
この島津侵攻の際に臼杵や丹生島の征海権を握り島津水軍を撃退したという。
佐伯惟定は日向豊後国境の梓峠で義弘を大破した際に義弘が命より大切にしていた唐物茶入を戦利品に堂々と凱旋し、のちに佐伯肩衝と呼ばれる。のち藤堂高虎配下となる。
※訂正
鶴ヶ城→鶴賀城
権現獄城→権現岳城
237 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:34:53.75 ID:rvKMTUkf
木崎原の戦い ○義弘軍2百 対 ●伊東軍3千
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 義弘、槍の達人柚木丹波を一騎打ちで討ち取る。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。
耳川の戦い ○島津軍2万 対 ●大友軍4万5千
九州の覇者を賭けた戦い。 義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。 こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者2万人、 重臣多数戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦と比べるとその大勝利ぶりが際立っている。 以後、大友は衰退。
沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5千 対 ●龍造寺軍6万
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。 戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取るというのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。
戸次川の戦い ○家久軍1万 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。 この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。
泗川の戦い ○義弘軍7千 対 ●明・朝鮮軍20万
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃し散々に打ち破った。 また自らも刀を振るって奮戦した。 明軍の死者は8万。
露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。 順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、 朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。 秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。
関ヶ原退却戦 ○義弘軍3百 対 ●東軍8万
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。 家康は島津を恐れ、関ヶ原後も減封する事が出来なかった。
238 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:36:38.56 ID:SD16BofF
残念ながら家久は戦場のだいぶ後ろでビビって隠れてただけ。赤星や相良の援軍が必死に戦い、
それを有馬の陸から2門、海からの2門の大砲で援護射撃して崩しにかかり隆信が前線が崩壊して混乱してるのを見てこいと指示しただけなのを
「隆信さまがどんどん前進しろや!」と喚いて回ったために竜造寺軍が自殺進軍を開始し完全に敗北して隆信の周りが孤立無援になってから 急いで家久が少数の兵を派遣しておいしいトコだけ盗んだ卑怯者なだけ。
しかも有馬を助けたいだけで野心はないと大ウソまでついて善人顔してた屑な人柄。イエズス会によると「前線にあった島津軍は膨大で、
しかも優れた装備の隆信軍を見て色を失い、互いに顔を見合わせ死の汗を流した」と島津が完全に怯えていたと記す。そして後方へ逃げた島津3000。
一方の有馬5000や赤星や相良らが島津に代わり、前線で竜造寺と果敢に激突し、大村純忠が戦うフリをして空砲をはなって有馬に内通を開始。
陸海からの大砲の集中攻撃で竜造寺が敗走した時に島津の川上が竜造寺兵の如く変装して独断行動で隆信に近づき暗殺しただけ。隆信は川上を味方の兵だと誤解していた。
イエズス会は隆信を暴君と呼んで嫌っていたが島津に対してはデタラメを言うようなことはない。島津の国主と書いたりしている。
また陸上2門と有馬の老臣安富徳円の船から二門の大砲を操ったのが隆信が不当に殺すことを命じたために大村領から逃げてきたマルチニヨというキリシタンが砲の狙いをつけ
黒奴が砲に装薬し、マラバル人が火をつけたなど細々と解説している。もっとも跪いて手を挙げ祈祷したりする手順があったのでそれを知る人間しか大砲を操れなかった。
フロイスによると有馬氏へ天正8年に鉛や硝石を提供したりしているので大砲もこの時にもらったのではと言われている。これにより海岸線のに展開して進軍していた竜造寺隊は崩壊逃走し
一部は中央の畦道を進軍する軍へ乱入混乱が増した。有馬隊は柵の後ろで鉄砲により応戦していた中央の赤星隊300を守るために右前方に突出した森岳に布陣し
大砲を打ち込みつつ有馬兄弟や叔父たちとともに竜造寺の槍隊に討ってでて恐れを知らなかった。
事実、隆信戦死の地とされる場所は海岸線に近い森岳前方なのである。つまり有馬の陸海からの大砲と有馬本隊の突撃(有馬隊自体は鉄砲は使わず)で竜造寺の左翼の海岸線の部隊は
壊滅し、その敗走は中央軍の混乱を誘い、隆信は海岸線の部隊の督戦のため移動し
そこで隆信は孤立無援状態に陥り討ち死にしたとしか思えない。ちなみに竜造寺軍は鉄砲1000挺に大砲も持っていたらしい。これを島津が見て恐怖したようだ。
ちなみに相良軍は13歳の忠房が疱瘡で病んでいたために有馬救援軍を的場自休が代役として率いており竜造寺相手の先陣争いでは騎下の豊永金兵衛が奮戦したと言う。
島津が攻撃に参加したと思われるのは竜造寺が敗走した後の追撃戦のみ。これを家久の武功だなんて主張するのは基地外のやること。
豊後への家久の侵入でも佐伯地方で大敗続きでついに佐伯攻略を諦めて盲信したために補給困難に陥り、利光宗魚が鶴賀城を奪回し完全に補給線を断ち切られ大苦戦。
たまたま利光宗魚が流れ矢で死んだからよかったものの島津兵力は半数以下までダウンさせた。
一般に軍隊において半数が戦力外になるということは部隊の崩壊を意味している。仙石秀久の自爆がなければ家久こそ自滅していただろう。
統率面でも豊後で略奪、人さらい。さらに仙石秀久軍からの略奪を繰り返し
多くの戦利品を集めた薩摩兵は勝手に薩摩へ帰っていき、ただでさえ減少した島津軍は完全に崩壊し
ついには佐伯地方でフルボッコされるなかを敗走。続いて岡城で封鎖を受けて肥後へ脱出不可能になった義弘が佐伯地方から日向へ抜けるにあたり、
先に血路を開いてくれたと誤解し家久を信用していた義弘は佐伯地方から日向へ抜ける峠で包囲され壊滅的な被害を受けて殿の相良軍を壊滅されながら逃走し、家久の援軍もなく死地で迷走し義弘が命より大切にしていた茶器まで佐伯氏に奪われる始末。
つか丸尾山方面へ向かったはずの右翼の鍋島ってこの時も兵を動かしてないように思える。出兵に反対していた鍋島はこの時、
隆信を暗殺すべく敵側へ内通してたんじゃないか?この時の鍋島の行動は腑に落ちない。
239 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:39:57.87 ID:rvKMTUkf
島津家とか、隼人とかが
最低でも過去2000年くらいは存続してる、皇族とかに並ぶ大公
ぶっちゃけ過去2000年大公とかない、ていうか、そんなの大公レベルじゃないだろう。
日本の歴史には2000年間しょっちゅう島津でてくるぜ
島津伝説1
2000年前全国征伐
1500年前いろんな戦争にでてくる
1000年前守護と強力
800年前平氏側について頼朝につっこまれる
700年前蒙古征伐
500年前薩摩ならず九州統一
400年前グイシーマンズ
390〜年前関が原で鬼といわれる
380年前島津をもってこそ、真田を武という
200〜300年前 島津、隼人の教育により、武士にして畑耕すというライフサイクルおくる
200年前 全国で一速く工業化、機械化を図る。島津てこいれ、島津知り合いで重工業化を図る
200年前 隼人とともに薩摩一国でイギリス戦艦を倒す このときイギリスのほうが島津より損害大きい
島津こそ戦国最強の家にふさわしい風格と伝統と武力を兼ね備えている
これらの前では武田上杉織田徳川などゴミに等しい
240 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:40:01.22 ID:SD16BofF
そもそも女間者を伊東に近づけてウソ情報を流したとか
アチコチに伏兵を配置してことごとく逃走路を操ったとか孔明かよwアホでデタラメな講談の話を
信じるなよw
だいたい伊東3000戦死者560
島津300戦死者250なんだから敗北側は島津だから。
伊東側は勇猛で皆が陣頭指揮して戦死したが
島津側の将は逃げ回って兵どもがバタバタ討ち死にした。
まーこれが捨てガマリというヤツだなw
伊東の敗亡はデタラメな政治で人心が伊東から離れて
島津へ内応したから。
あと義弘が妻子がいる加久藤城をワザと兵を少なくして
油断させて伊東に攻めさせたとか、相良をウソ情報で撤退させたとかw
おまえ相良と婚姻関係だった大隈の菱刈氏の大口城が陥落した時点で加久藤城は背後に大口の新納が配置れてんだから安泰だろ。
油断させておびき出したとか完全に捏造デタラメw
だいたい大口陥落で菱刈氏衰退に拍車がかかったので
東郷や渋谷も島津側に走って周辺が島津一色に塗られた状況・・・そんな状況の場所を相良がわざわざ攻めるわけねーだろw
伊東に飫肥を攻め取られた島津は日向への唯一の出入口になった大口方面に戦力集中してんだぞw
しかし島津弱いね。
相良に負けっぱなしだもんな。
薩摩からの入口に過ぎない水俣城攻防戦でも大敗しまくりで
最後は家久31000 義弘31000 義久53000で水俣城700を囲んで和睦に追い込んだにすぎんからな。
この時に竜造寺が援軍を出さなかったから助かったが
もし出してたらまた水俣攻略失敗してたなw
241 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:41:26.03 ID:SD16BofF
天正7年9月から琢磨・八代衆700の守る水俣城のある葦北庄侵攻を開始した島津軍は連戦連敗だよ。
特に天正8年9月の佐敷計石合戦での相良大勝はすさまじいものだったとか。
それで最後は11万5000を投入して、
かる石之尾に家久・征久
熊牟礼に義弘
出水本陣が義久の総力戦で
相良義陽が大軍に背後を断たれる恐れから佐敷から八代へ撤退し
竜造寺に援軍を求めたものの援軍は来ず天正9年9/27に和睦開城。
この水俣攻防の一戦の敗北をもって相良は島津に屈する。
その後、島津の命令で甲斐宗運攻めを命じられ義陽敗死。
10歳忠房が相良当主になると島津は「お前らの方から前非を悔い
どうしても島津に仕えたいって再三懇望するから許してやった」という無礼なことをやる。
そして幼君をいいことに「野心は一切ない」とふざけたことを言っている島津は
葦北だけでなく八代郡を横領し、琢磨郡まで奪おうと策するが相良重臣の尽力で相良滅亡は避けられた。
木崎原のころには伊東一族って家臣から見限られてたんですよね?
義祐当人も放蕩、奢侈、諫言する家臣を遠ざける等主君としてどうだったんでしょうか。
米良氏は島津義弘の攻撃を撃退するなど奮戦してたのに所領の一部を伊東祐松に奪われたり。
落合氏も嫡男をこの祐松にされてるんですよね。
落合兼置も木崎原の殿軍を努めて討死してるのに相変わらず栄華な生活を送っていたのでしょうか?
米良落合どちらも島津方に寝返ってますよね。
そういう事が積もり積もって人心を失って表面だけしか従ってなかったんだと思うよ。
だから劣勢となるともはや篭城できる状態ではなかったと…。
命を賭けて頑張ってるのに報いるどころかそんなことやってちゃね。
小林城の攻防戦で米良重方・矩重兄弟は攻撃方の島津軍を撃退してますね。
義弘は討死寸前で重傷を負ったとか書いてある。
義久も義弘も来ている本格的な侵攻だったが失敗して撤退した。
攻勢に出た木崎原の戦いで重方が戦死。
跡を継いだ弟の矩重は所領一部没収、謀反嫌疑などで不満を募らせ島津方に
寝返る。伊東義祐死後、祐兵が旧領の一部を回復して復帰すると島津家を去り、
祐兵に謝罪して許され再び家臣になる…だって。
家臣団の府内集住に成功した反面で二階崩れの変が起きた大友や六角氏の挫折や武田信虎追放劇のように
強権発動で豪族連中を屈服させて中央集権化を目指すのに失敗したんだな。
結局、そういうことをせずに甘やかしたり、欲で釣って自陣営に引き込んでる大名が
成功して版図拡大してんだよな。
それで豊臣政権の力を借りて上杉のように官僚化へ脱皮するか
最上のように失敗改易するか、伊達や島津のようにグダグダなまま封権制度を引きずるか。
242 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:43:32.80 ID:B70RZtne
>>234 基本的に島津は戦えば必ず負ける軍隊なので毎回圧倒的大軍で敵の反抗を諦めさせてるだけ
例えば伊東崩れと呼ばれる伊東氏滅亡の時も圧倒的な大軍だった。
天正4年(1576年)8月島津義久が率いる30000の大軍勢から攻撃を受ける。
守りを固める伊東勘解由の高原城には370余人ほどの兵しかいなかった。
伊東義祐は城兵を救うべく援軍を出したが、圧倒的な兵数差一戦も行えなかった。
これにより伊東崩れと称される伊東氏崩壊が始まり翌年には豊後へ逃避行をしている。
>>235 相良の援軍として1556年から大口城へ入り駐屯した赤池長任とその配下の岡本頼氏
この両名に島津はフルボッコ&報復攻撃の連続で義弘は完全に涙目。
なにしろ1568年に赤池長任が死去するまでの10年以上に渡りまったく落ちる気配すらなかった。
赤池が死去した翌年にやっと落城。
ちなみに島津の豊後侵攻で大友にボコボコにされて岡城方面から肥後へ抜ける退却路を封鎖され
家久がフルボッコされながら日向へ落ちて行った佐伯地方から
義弘もズタボロになりながら脱出を図った時に
義弘が死にそうなのを助けて殿を務めて命を救ってやったのが相良からの援軍の岡本頼氏。
>>237 >>関ヶ原退却戦 ○義弘軍3百 対 ●東軍8万
なにわけわからんこと言ってんだw
そもそも関が原の義弘は部下を捨て駒にして敗走しただけだろ。
243 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:45:20.25 ID:SD16BofF
そもそも木崎原の戦域は島津領だしそこの地域の農民を説得して味方につけたとしているが、
これを島津の兵力に加算してないが当時は島津領の農民=半農の国人集団だろうし
島津伊東の石高的に考えても明らかに島津の総兵力は伊東以上のはずで、島津側の寡兵はいつもの島津マンセーの捏造だろうね。
戦闘開始するやあちこちから伊東の退路に島津の援軍が都合よくやってくるネタ話からして講談臭がするし。
まぁ秀吉の島津征伐の道案内をやった先陣の復習に燃える伊東祐兵に島津は報復されて土下座するわけだが
>>239 あぁ官軍という看板のおかげで勝てただけなのに勘違いした挙句に
神風連が速攻で落城させた熊本城に大苦戦して
連戦連敗した賊の薩摩芋のことですねw
244 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:46:33.29 ID:B70RZtne
佐伯惟教って日向の高城救援に向かっていた島津家久の軍勢を遭遇戦で大破してんだよな。
本戦前夜に田北鎮周が「この戦自体が反対だったが先陣を任されたからには潔く突撃して死んでみせる」と自暴自棄発言。
翌日に自突撃するので、これでは作戦もなにもないと嘆いて続いて自突撃して息子ともども殉じてしまうが、
あとを継いだ孫の佐伯惟定は義弘と義久の両方をボコボコにして秀吉から激賞されてるし、まさに島津キラー佐伯。
245 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:46:42.79 ID:rvKMTUkf
>>242 300と800000が戦って300が生き残る戦いは歴史上探しても稀
どこをどう見ても島津義弘公を討ち取って手柄にしようとしたら、
井伊や松平が重傷を負って義弘公を取り逃がす
痛恨のミスを徳川がしただけ
石田三成含め豊臣譜代の連中がガチで雑魚すぎたから
西軍が負けただけであって
義弘公が総大将だったら
問答無用で家康の首を取って豊臣秀頼の天下が来ていた
246 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:50:21.14 ID:QgZd8qfY
龍造寺の話題じゃなかったっけか
247 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:50:38.59 ID:rvKMTUkf
>>243 西南戦争なんて
所詮薩摩の武骨者である西郷が起こしただけ
大久保松方山本など島津が育んだ薩摩閥は
明治維新から大正昭和で新生日本を育てただろ
東郷に至っては世界最強と呼ばれた露助とガチでやり合って
露助の誇るバルチック艦隊を日本海の餌にするという偉業
今でもヨーロッパでは露助を倒した英雄トーゴーとして
そこらへんのガキでも知ってるレベルの偉人を育てたのが島津
織田徳川や武田上杉にそれくらいの偉人を作ってから言えよマヌケ
248 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:56:33.01 ID:SD16BofF
まあ関ヶ原だって単なる敗走なのに、印象操作でちょっと言葉を換えただけで180度印象が変わるのが島津信者みたいで、
なぜかマンセーできてしまうと言う分かり易い詐欺にひっかかる幼稚な脳しかないのが島津信者だからね。
部下を生贄に突き出して注意を引きつけておいて卑怯にも自分だけ助かろうとした挙げ句に
父をされた人に憐れみをかけられて身辺警護してもらい救ってもらう情けなさがガチ泣ける。
関ヶ原後の新年に挨拶に来ない島津に対して家康が「いまになって事の重大さにやっと気がついたみたいだなアホ低脳乙。怖じ気づいて引きこもり挨拶にすら来ないとはワロタw」とバカにされる始末。
これがヘタレ島津の真の姿だよな。
>>245 島津の軍勢数は300ではなく2600だな(石田三成人数書立)
>>井伊や松平が重傷を負って義弘公を取り逃がす
これ明らかにデタラメ。島津の軍記にしかなくて島津マンセー薩藩旧記雑録にすらかかれてないから。
しかも井伊の死因は破傷風とされるが破傷風が2年もたって発症で死ぬなんてありえないからな
ただの老衰だろ
本多や井伊らが島津追撃したなんて本多の武功記にもでてこない講談ネタだし
大阪の陣の真田の活躍と同じただの江戸期の徳川史観w
>>石田三成含め豊臣譜代の連中がガチで雑魚すぎたから
石田を攻めた黒田らがもたついてた上に大谷にも翻弄されまくってた豊臣恩顧組w
昼になって寝返り連鎖で裏崩れのようになって豊臣恩顧の東軍武将は助かっただけだし
しかもそんな状況ですら8000しか戦死させられない有様w
249 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:57:34.51 ID:SD16BofF
御船城の甲斐親直に負けまくり
その子の甲斐親英にも負けまくり
御船城が攻略できずターゲットを高森城にしたら見事に謀られた島津は高森惟居の反撃に壊滅的ボロ負けを喫して相良領まで大敗走。
天正10年に島津の先鋒となり戦死した相良義陽の死と同時に相良領八代を奪い取っていた島津との最前線の堅志田城で負けまくって攻略を断念していた島津が
天正11年に堅志田城の押さえとして花山城を築いていたが、
天正13年に勝ちに乗じて堅志田城を防衛するために阿蘇軍を率いた親英に花山城が攻略されてしまう弱さを発揮。
阿蘇合戦に大敗した島津は、ついに相良を戦わず降伏させた際と同様の圧倒的大軍で北上。
それでも親英に大苦戦。
親英に勝てない義弘は、親英との和睦交渉の席でいきなり拉致り、弓矢の前では偽りもありと開き直り連行したために阿蘇氏は滅亡。
そういや宝満山城を守っていた宗茂の弟の統増に対しての和睦交渉でも
島津は城兵の命を助ける&母の宋雲院と統増の立花城への移動の安全保証の約束がありながら
宋雲院と統増を拉致り、立花城攻めにおいて高満城兵を前線に出して弓矢の盾にして宗茂に降伏すれば違う場所に城と領地を与えると提案してきたが宗茂はまったく信用しなかったな。
島津の戦を冒涜し、武門を辱める行為の数々は卑劣かつ悪質な犯罪者ですらある。
いつも負けまくり圧倒的大軍でないと勝てない弱島津の捏造マンセーは見るに耐えない愚劣さだ。
×高満城兵を前線に
○宝満山城兵を前線に
寡兵で島津が勝ったなんて完璧な捏造だよな。ほとんど負けまくりの島津が戦国最強とかチョンみたいだよな薩摩隼人族って
250 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 01:58:25.26 ID:SD16BofF
連戦連敗で毎回、死にそうになる大敗ばかりで、
圧倒的大軍で戦わず降伏させるくらいしか勝ち戦がないのが島津
当時の島津の石高は伊東より高く、しかも相良や伊東との長年の最前線の係争地。
なおかつ戦場は義弘統治下で戦いながら、
地元農民(実質半農の国人)の動員を、なぜか島津兵力にカウントしないし、
島津の各地からの援軍も伊東の行動経路にうまい具合に偶然やってくるなど
三国志演義の孔明のような配置をするなど
講談臭しか漂わない軍記物語でしかない木崎原の戦いも明らかに島津得意の捏造。
251 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 02:02:48.61 ID:SD16BofF
九州に惣無事令が発令されてたから大友は進んで討って出て
ケンカ両成敗にされないようにしてただけだよ。
佐竹が惣無事令を受けて葦名支援から手を引いたことで政宗が調子付いたのと島津は同じ。
まぁ大友側はたとえれば北条が謙信や信玄相手に籠城してたのと同じ。
結果、豊後の地域拠点はほとんど落城させられなかった。
特に宗麟が籠城してたトコなんて余裕で島津を撃退してしまったし。
敵を胸中に招きいれる策を
途中で大友の罠だと気づいた家久は退路を死守すべく
義弘を棄てて退却を開始しようとしたくらいだし。
それと耳川の戦いは大友ニ軍だからね。
毛利と正面衝突した時みたいな鬼道雪主導の一軍編成とは違う。
簡単な話、佐竹一軍が対北条戦用に鬼真壁や太田梶原親子などが
投入されるが、佐竹ニ軍編成の伊達用が劣ってるのと同じ。
最近の資料では耳川の戦いは大友軍(日向方面軍)4万3千人に対し、
島津軍は4万9千人プラス高城兵3千人と大友軍に勝る大軍を動員して
いる。
ちなみに豊後南西部から肥後を突き抜けて
山間部を通過してくる
大友別働隊は難路と悪路と補給に苦しみ
まったく到着してませんから
さらに大友軍は激減しますよ。
252 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 02:04:42.79 ID:rvKMTUkf
8000人も戦死者が出たら普通の戦いでは負けなんだよ
豊臣が数だけの雑魚部隊だから持ちこたえられただけ
それすら小早川のガキに裏切られただけで
大谷宇喜多小西と豊臣家臣団がボッコボコにやられて
討死潰走するというヘタレっぷり
義弘公が総大将なら御自ら
秀秋の首を討ち取って
返す刀で家康の首を取るくらいは造作もなかった
石田三成の測った数なんてアテになるかよ
ただえさえ島津を酷評していた口だけの雑魚三成だ
数を8倍増しにして軍役を8倍ふっかけるくらいのことはしただろ
大体42歳かそこらで死んだ井伊直政が老衰とかねーって
破傷風は傷口から入るというだけで
傷を負った途端すぐに感染するわけじゃない
大方無理して働いて傷口がパックリ開いたときに
菌が入ってそれにやられて死んだんだろ
義弘公の率いる島津の戦いは
2年3年たっても相手を苦しめる最強無比の力だな
253 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 02:11:49.63 ID:SD16BofF
254 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 02:53:37.93 ID:rvKMTUkf
今の時代の統計を持ってきてどうするんだよタコ
大体破傷風が認知されたのは
北里柴三郎のいる大正時代だろうが
戦国時代に医療的知識がある奴が
そう多くいるわけでもあるまいし
どうせ気合で治すとか適当なこと言って
無理しておっ死んだんだろ
井伊は部下にも厳しくて有名だからな
根性論で最強島津の牙を凌げりゃ
苦労はしねーんだよ
255 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 03:00:30.93 ID:rvKMTUkf
大体
>>248で言われている老衰なんて
本来の医学的観点からすればありえねーのよ
人間はなんの病気にもかからなければ
150歳は軽く生きれる程度の肉体と構造をしているからな
死因に老衰をあてはめるのは
ただ単に病名や症状がわからないから
とりあえず適当に老衰にして丸く収めよう
なんていう過去の医学界の姑息かつ浅ましい判断によって
生み出された言葉で
現代では死因に「老衰」なんて言葉はまずもってこないから
老衰死は格段に減っている
ましてや井伊のような42歳という
普通に考えれば働き盛りの歳の人間が
いきなりポックリ逝くなんてのはどう見ても不自然死
徳川のメンツに関わるから
記録を抹消しただけで
戦国最強無比であった島津の牙にかかって
それが死因に繋がったのは
疑いようのない事実
256 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 05:51:12.80 ID:xDEqP5Uy
しかしこの長いコピペを見てると
毛利元就の愚痴を聞かされる身内の気持ちになるな
257 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 08:06:52.89 ID:/CtnA5T1
TERU「(じじいさっさと死なねえかな…)」
258 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 11:42:49.78 ID:5rKll8PW
>>257 お前は元就が完全に隠居して銀山城に行くって言ったとき
面倒見てくれないなら俺も行くって泣きついたじゃないかw
259 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 13:40:10.90 ID:B70RZtne
>>戦争経験少ない人間でも功績があれば高くしていいと思うけど、高さに限度があるとは思う
誰でも勝てる戦に勝ったからといって戦功あったとはいわん
数少ない戦いでも劣勢な状況下・厳しい条件で強い武将相手に戦果上げた真田の評価が高くなるのは当たり前
>>348 家康が秀吉を恐れるどころか
秀吉が家康はおろか信雄や輝元を恐れまくってるじゃん
7〜最大10倍の兵力差で寝返りだらけの信雄領国を蹂躙できないどころか松ノ木浜田戸木河波東駒野蟹江など
蹴散らされまくってるし蟹江の時なんか信雄にビビッて秀吉のいる大垣から眼前で敢闘してる滝川見捨てたし
>>343 そもそも一発屋とかお前の大好きな鍋島とか藤堂とか豊臣ゴミ雑魚武将によく当てはまる言葉だろ
いてもいなくても変わらないような1000対10みたいなどうでもいい戦でしか活躍してない上に
そんな戦ですら蹴散らされてるし
真田なんて寡兵で徳川追い込みまくったし高いの当たり前
260 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 13:42:11.29 ID:SD16BofF
信長もある意味一発屋じゃね
桶狭間のチート運とか同じ事二回やれっていっても無理だろうし
斉藤戦や北畠戦、長島一揆との戦いになると別人のように蹴散らされまくるし
261 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 13:45:53.25 ID:B70RZtne
伊達政宗なんかは戦歴でいっても相当豊富だし
一発屋の藤堂・細川・大谷・福島あたりより遥かに上だと思うわ
何せ30万石そこそこで石川白河最上大崎葛西二階堂猪苗代葦名相馬大内の大連合に勝ちまくったし
こんな芸当豊臣雑魚武将とか雑魚島津に蹴散らされるくらいしか実績ない鍋島なんかにできるわけないし
262 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 13:47:59.97 ID:SD16BofF
戦歴豊富な大友宗麟・長宗我部元親・上杉の須田・旧今川の朝比奈・岡部が過小。
一発屋の雑魚藤堂福島加藤黒田あたりより遥かに上だろ
263 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 13:55:30.31 ID:GQlzMcHm
だがちゃん
今度は鍋島に噛み付いてきて
なんかあったのか?
264 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 16:02:37.37 ID:WWd151Et
道雪の言を借りれば直茂≒道雪
265 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 22:15:10.30 ID:rvKMTUkf
したらばにまで噛みつくだがちゃん
規制されているから当然かw
266 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 22:21:07.59 ID:rvKMTUkf
信長は天才
島津家久が京を訪れた際には
家久の類稀な将器を一瞬で見抜き
有力中の有力だった明智光秀に応対させる気に入りっぷり
勝てる相手と勝てない相手を見抜く眼力こそが
その躍進を支えた屋台骨であったのだろう
武田信玄や上杉謙信なぞは
お互いの力の強さを嫌というほどわかっておきながら
川中島なんていう国単位すらないショボイ土地を
10年近くに渡って攻撃して
犠牲者をたくさん出して何も取れないという
戦国大名としては致命的なミスを犯し
信玄に至っては方針転換のために
息子と重臣まで泣く泣く殺す羽目になった
信玄に信長がごとき眼力があれば
天下は無理でも畿内を制することくらいは
できたはずであろうにな
267 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 22:30:24.58 ID:rvKMTUkf
その点は島津にとっても不運であった
九州最南端に位置する島津では
勢力を拡大するためには
否が応でも北に進むしかなく
当時隆盛で強力な大友と全面戦争をしなければならない状態で
大友をようやく倒せると思ったら
畿内中部の雑魚勢力が軒並み秀吉に倒されているという不運
結果雑魚と言えども数の暴力を背景に攻めてきた秀吉に
勇猛果敢な薩摩隼人が死ぬのは惜しいと義久公は降伏を選択してしまった
義久公は将器こそ今一つであったが家臣領民に慕われており
内心将器抜群の義弘公との関係には複雑な思いを抱いていたであろう
仮に義弘公が美濃の当主として
世に君臨していたなら
恐らく1580年には天下統一を成し遂げていたはずである
義弘公が九州に生まれ
しかも上に嫡男たる家臣に慕われた兄が存在したのは
不運としか言いようがない
268 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 22:58:16.34 ID:SD16BofF
島津が幸運だったのは最南端で後ろの心配がなく、また鉄砲の伝来が最も速い九州南部に領地があった事
また例年のように大友はおろか相良や阿蘇、伊藤や肝付など全国的に見ても最弱レベルの雑魚大名に蹴散らされながら
島津の領地は最南端で領国の反乱も起きず、また周囲からも狙われにくい位置条件
もし島津が伊達のような四方を強豪に囲まれた立地なら、軍勢を集中させ領地を広げるどころではなくなり
猪苗代二階堂白川石川相馬佐竹葦名最上大崎葛西連合に蹴散らされまくってたのは間違いない
秀吉の参陣しなかった九州征伐では、の立花や高橋など遠征軍以前に在地領主に苦しめられまくり、
秀長軍どころか秀長の先鋒の宮部の陣地を抜く事すらできず敗走。
関が原でも義弘→忠恒書状から7000程度の兵力を連れてた事が確定的なのにかかわらず300と大捏造し
豊久以下ほとんどが討ち取られる雑魚っぷり(後世の講談では寡兵で徳川重臣を負傷させたとデタラメを捏造しまくる有様w)
こんな雑魚にすら勝てず負けまくったのが鍋島。大友宗麟が家督を無能義統にあけわたさず
自分で舵とりしてたら龍造寺も島津も瞬殺されてただろうな(実際耳川後の反乱など宗麟が復権すると瞬殺されてる)
269 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 23:03:16.58 ID:B70RZtne
九州征伐って動員兵力150000(秀吉→立花書状)なんだが
このうち実際島津と交戦したの宮部や藤堂など一部隊だけだもんね
あとは島津が九州の在地領主に苦しめられまくって勝手に敗走しただけだし
下手したら九州征伐軍なんかなくても瞬殺されてたようにしか見えんわ
実際立花山城とか島津は基地外のような大軍で囲っても落とせないどころか
負傷者戦死者だしまくって敗走。九州の笑いものになったそうな
270 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 23:07:50.66 ID:SD16BofF
木崎原の戦いは、元亀3年(1572年)、
日向国真幸院木崎原(現宮崎県えびの市)において
伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦である。
大軍(3000人という説が有力)を擁していた伊東側が
僅かな兵力(300人)しか持っていなかった島津側に
大敗したことから「九州の桶狭間」とも呼ばれる。
なお、この戦いには相良義陽も伊東軍と連合する予定で出陣したが、
義弘の計略により撤退している。
この戦いをきっかけとして伊東氏は急激に衰亡し、後の「高城川の戦い(耳川の戦い)」の遠因ともなった。
「木崎原合戦」とは島津側の呼び方である。伊東側では「覚頭(加久藤)合戦」とされている。
若輩者が守る岡城ひとつ落とせないばかりか志賀が考案した釣り野伏で大敗するなどして
豊後侵攻してからわずか4ヶ月を経たずして作戦は破綻し肥後への退路を絶たれ
フルボッコされながら相良氏の殿に護られ日向へ大敗走した情けない武将だね。
秀長先鋒に大敗すると伊集院の用兵の悪さが原因とか捏造し
相良氏の殿で逃げながら、肥後に入った秀吉軍と相良氏に黙って降伏交渉し始め
島津軍が逃走し、がら空きの領地に焦って戻った相良氏が島津の裏切りに怒りながら降伏交渉を開始したら遅すぎて改易されそうになったり。
関ヶ原後の九州への大敗走でも親をされたが義を掲げた立花氏に護られてるし
まったくのダメ武将…なんなのこいつ。
耳川の戦いでは
毛利を撃退し6ヶ国守護だった大友より
大兵力を動員していた島津(薩摩と大隅と統治のまだ浅い日向半国)
明らかにこの戦いでの島津の動員兵力は寡兵に捏造されているのは明白。
271 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 23:27:25.17 ID:rvKMTUkf
最強島津の功績に嫉妬しているアスペがいるな
当主である義久公の判断が拙かったから
苦しい境地に追い込まれてしまっただけだし
立花山城の奪還作戦なんて秀吉が大挙して
押し寄せるという風聞があったから島津軍が家久の軍と
合流するために撤退しただけで
実際毛利輝元の軍団は既に九州にいたし
誰もいない空城を奪い取っただけで
武功とほめそやかす立花宗茂は功績が欲しかっただけのザコ
実際立花はこの捏造功績を出したおかげで
旧主であるはずの大友を見捨てるように豊臣政権で
生き残り、主家が改易されたにもかかわらず救済しなかったグズ
義を掲げるどころかお家乗っ取りを果たした
鍋島直茂を馬鹿にできない不義の塊じゃんよ
大友宗麟は主君としてあっぱれな器だったが
もともとキリシタン狂いになって息子の無能も見抜けない
ボンクラの鏡。恐らく最強島津との戦いで鬱になったから
現実逃避するようにキリシタンに逃げたのだろうな
最強島津の手にかかって戸次川で嫡男の信親を討たれた
長宗我部元親も廃人同然になって
家督を四男である盛親に譲り渡すという
愚行を行っているし
272 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 23:32:23.31 ID:rvKMTUkf
島津家とか、隼人とかが
最低でも過去2000年くらいは存続してる、皇族とかに並ぶ大公
ぶっちゃけ過去2000年大公とかない、ていうか、そんなの大公レベルじゃないだろう。
日本の歴史には2000年間しょっちゅう島津でてくるぜ
島津伝説1
2000年前全国征伐
1500年前いろんな戦争にでてくる
1000年前守護と強力
800年前平氏側について頼朝につっこまれる
700年前蒙古征伐
500年前薩摩ならず九州統一
400年前グイシーマンズ
390〜年前関が原で鬼といわれる
380年前島津をもってこそ、真田を武という
200〜300年前 島津、隼人の教育により、武士にして畑耕すというライフサイクルおくる
200年前 全国で一速く工業化、機械化を図る。島津てこいれ、島津知り合いで重工業化を図る
200年前 隼人とともに薩摩一国でイギリス戦艦を倒す このときイギリスのほうが島津より損害大きい
110年前 薩摩隼人の東郷平八郎が世界最強のバルチック艦隊を倒す ロシアはこれを受けて日本と和睦
この後100年前の山本権兵衛を境に薩摩隼人が総理大臣になることはなく
それ以降は太平洋戦争や日中戦争で日本は転げ落ちるようにアジアの覇者から転落する
島津こそ戦国最強の家にふさわしい風格と伝統と武力を兼ね備えている
これらの前では武田上杉織田徳川などゴミに等しい
273 :
名無し曰く、:2012/12/27(木) 23:40:59.97 ID:/CtnA5T1
じゃあ九州流れに便乗して立花ァ千代は間違いなく過大評価
±1,2の中には旦那や義重,吉継, 長慶などが居るがこれらは史料上で何度か合戦を経験し活躍している旨が記載されているが
それに比べ戦歴があるかどうかすら分からず史料上に確認も出来ないァ千代がこれらと並ぶのはどう考えてもあり得ない
どう考えても女性武将の活躍は後世の創作なのだから架空姫武将,女性武将は謙信♀も含め軒並み弱体化させるべき
274 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 00:18:27.37 ID:W/omQ7ei
ァ千代は本来過大とか過小とかそういう土俵にいる人物じゃないはずだけどね
能力が高すぎて無視出来ない存在になってしまってるけど
275 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 00:19:06.57 ID:XQT4wxwX
>>273 明らかなネタ女武将なんで
気にすることも無いんじゃね?
276 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 00:31:05.00 ID:aZiy/vCO
>>274,275
補正効いてるとは言えやりすぎな気がするのよ
これが上位備え持ちにして統率下げるなら同じ特別扱いでもいくらか納得出来るんだけど
いくらなんでも元親と同統率同適正同戦法他適正は上は酷いよなぁと
まあ過大過小っていうよか半分愚痴なんだけどね
277 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 02:13:41.03 ID:XQT4wxwX
>>276 言いたいことも判るけど
ネタ枠だと思って諦めるしか
278 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 08:08:21.37 ID:8ehHPGaf
立花ァ千代は語るに値しないだろ女謙信と同じでネタもしくは無双キャラ
279 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 09:14:19.54 ID:3FpRZ7CB
そういや、女謙信とァ千代の鉄砲部隊は、どちらも八切止夫の日本意外史の説だな
280 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 09:58:20.32 ID:5Nm2BeTc
ちなみに竜造寺を破った時の有馬は陣から大砲2門
キリシタン船からも2門の大砲で竜造寺軍をフルボッコさせ
隊列を維持できないまでに崩壊に追い込んでる。
また、実家が有馬な大村氏は竜造寺の先鋒を命じられていたが
有馬に内通し、空鉄砲を撃って戦ってるフリをしてるし
菊池旧臣の赤星道半も人質の子を竜造寺に殺され、有馬救援に参戦してる。
相良からも的場自休の有馬支援隊が出ていて豊永金兵衛が先陣争いまでやってる。
これら全部を黙殺して、島津が竜造寺に勝った。島津最強ろ書くのが
島津マンセー本の歪曲捏造。
ほんと厨ニ病のバカしか島津が九州統一できたなんて寝ぼけたこと言わないよwww
博多の町まで焼いてるし、略奪しまくり肥前は深刻な餓鬼状態を生むし、男は殺戮し、女子供は海外に売り払い
裸で市中に引き出して、白目を確認して病気かどうかで値段交渉。
九州全域で反感買ってるしw
281 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 10:00:27.55 ID:spdM3Pi+
アホか
282 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 10:02:03.97 ID:5Nm2BeTc
家久は佐伯地方をまったく攻略できず、佐伯氏の本拠の栂牟礼城にすらまったく辿り着けず、撤退した際は佐伯地方で最大級のフルボッコを受け相良氏の殿が無ければ日向に帰れなかったのが義弘。
筑後口では玖珠衆が集結していた角牟礼城にも派兵した義弘は連戦連大敗。
肥前口入ってすぐの南郡衆の集結した岡城でも志賀が思うままに義弘を翻弄され続けて挑戦状まで送られて見事に大敗。
丹生島では宗麟や臼杵氏の前に3日間怒涛の国崩し集中砲火に阿鼻叫喚の上に逃亡する島津w
鶴崎城では吉岡氏が宗麟のために臼杵地方へ派兵させて、空城だったのになぜか吉岡長増の未亡人妙林尼の前に16回連続大敗し最後は陥れられた島津w
木次城で島津は瞬殺されたから、義統の龍王城はまったく危機感ありませんでしたが?
どこが島津が豊後攻略できそうな雰囲気なんですかね?九州統一できる?バカ言うなよ(笑)
戦力集中して拠点城で籠城しつつ、背後を遮断し補給線を断ち切り、焦土作戦で消耗戦を強いて、
島津は補給もできずに略奪限界がきた&兵の大出血により戦闘員1/3以下にまで低下し軍隊として崩壊してしまったわけだが。
毛利水軍を破った大友水軍の前に、島津は上陸挟撃を恐れて豊後海岸線に近付くことすらできなかったマヌケぶりだしなw
大友水軍がいるから兵糧に不安もなく宗麟の丹生島は絶対に安泰なんだよ。
だいたい宗麟はずっと病にかかって立てずに寝込んでいてさえ、島津に勝ってしまったわけだよ。島津チョー弱いわw
島津は言い訳して秀吉軍が来るから撤退したなどと歪曲捏造してバカ丸出し。
そもそも秀吉軍の南下があんなに簡単に進んだのも筑前や豊後での大友軍による島津軍への大出血の強要による成果によるところが大きい。
義統が無能だっただけで宗麟は大友氏最大の繁栄を築き上げた名将。
晩年は病にかかり自由がまったく利かないながらも島津を撃破。
改易されたから伊達や毛利や島津のような言い訳擁護や歪曲捏造やマンセーネタが創り出されなかったどころか、
周辺の毛利や島津らから故意に悪く書かれているだけのこと。
改易の原因は死んでた宗麟のせいじゃない。
明の大軍の大挙南下で平壌にいた小西敗走状況での混乱した状況での誤報で戦局判断ミスをして改易の原因を作った志賀親次のせい。
だがな、島津侵攻時は20歳で指揮経験のない寡兵の志賀親次に何度となく大敗した義弘は志賀親次を最高の名将だとマンセーすることで、
寡兵の親次から挑戦状まで出されて応じて野戦で敗走した義弘を擁護するほど島津の捏造ぶりは基地外。
283 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 10:04:02.14 ID:5Nm2BeTc
筑前での立花宗茂の話の時も毛利の援軍は豊前で大虐殺して回って脅してたが、
秋月から養子に入った高橋元種の香春岳城を攻略した時点で
戦力ボロボロでそれ以上の進軍を断念し越冬準備を開始してるのも知らずに語ってるバカぶりだったが・・・
6カ国守護なんて名を持てば実質的にも支配が確立できていたと思ってるなんて超絶バカwww
大友側のまったく微動だにしなかった数々の城を何度も攻めては敗走。
そしてそれら数々の拠点城を策源地とした後方遮断と調略によって、
島津は誰が見ても圧倒的不利で、事態打開の方策もない大消耗戦で
大幅ば戦力低下状態に追い込まれ、豊後で島津に内応した国人たちまでが
大友の調略に応じて見放されてしまい、ついには完璧な孤立に追い詰められ
府内から逃げるほかなくなってしまい
義弘が攻略できなかった岡城を中心にした肥後口は完全に封鎖されてしまう。
島津が相良を殿にさせて日向口から逃避行する際では、
家久がまったく攻略できずに放置した無傷の栂牟礼城を中心とした支城ネットワークの中を
通過しなきゃならず、佐伯領主の佐伯惟定を中心に満を持してこの時を待ち構えていた
捕捉殲滅軍の前に、最後は日向豊後国境の梓峠でほぼ壊滅的被害を受け、
義弘が命より大切にしていた唐物茶入を戦利品まで手に入れ、のちに秀吉に見せている。
この大友による自力での島津敗走への報告を得て、やっと門司に集結を開始し始めていた秀吉軍が
タイムスケジュールを大幅に前倒しして、大急ぎで追撃準備を開始して、島津がとっくに逃げ去った後の豊後に入国し
義統に道案内をしてもらい、日向へ入国したわけだ。
これらの自力島津撃破の大功を評価した秀吉は、立花や佐伯を激賞してるんだよアホ島津厨クンwww
島津最強じゃなきゃ嫌だとか泣いて必死でマンセーして超無知をさらけ出したなwww
そもそも秀吉は豊前での毛利のボロクソぶりに、毛利じゃ秋月攻略すら無理とみて
専守防衛を命じていたから充分な準備と集結を待ってからの南下を考えており
即、豊後救援なんて考えていなかった。
すると島津が敗走を重ね、ついに豊後から逃走した。
蒲生らも準備が追いつかずに大追撃をしてたので後続が追いつかなかったほど。
肥前で略奪しまくっていた島津は補給も受けられず豊後でも強盗のような集団に成り下がっていた。
家久の1万の軍勢は進入から2ヶ月を経た時点で後方遮断されて必死に城奪回の強攻めなどの愚を繰り返し
すでに半数以上が討ち死になどで戦力外になっていたので軍隊として崩壊していた。
284 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 10:05:24.15 ID:iVf9s2Ug
龍造寺鍋島の話題だったのに、どうでもいい島津コピペを連投
自分の手持ちのコピペがある武将しか語れない奥の浅いだが
285 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 10:11:44.19 ID:5Nm2BeTc
御船城の甲斐親直に負けまくりその子の甲斐親英にも負けまくり
御船城が攻略できずターゲットを高森城にしたら見事に謀られた島津は高森惟居の反撃に壊滅的ボロ負けを喫して相良領まで大敗走。
天正10年に島津の先鋒となり戦死した相良義陽の死と同時に相良領八代を奪い取っていた島津との最前線の堅志田城で負けまくって攻略を断念していた島津が
天正11年に堅志田城の押さえとして花山城を築いていたが、
天正13年に勝ちに乗じて堅志田城を防衛するために阿蘇軍を率いた親英に花山城が攻略されてしまう弱さを発揮。
阿蘇合戦に大敗した島津は、ついに相良を戦わず降伏させた際と同様の圧倒的大軍で北上。
それでも親英に大苦戦。
親英に勝てない義弘は、親英との和睦交渉の席でいきなり拉致り、弓矢の前では偽りもありと開き直り連行したために阿蘇氏は滅亡。
そういや宝満山城を守っていた宗茂の弟の統増に対しての和睦交渉でも
島津は城兵の命を助ける&母の宋雲院と統増の立花城への移動の安全保証の約束がありながら
宋雲院と統増を拉致り、立花城攻めにおいて高満城兵を前線に出して弓矢の盾にして宗茂に降伏すれば違う場所に城と領地を与えると提案してきたが宗茂はまったく信用しなかったな。
島津の戦を冒涜し、武門を辱める行為の数々は卑劣かつ悪質な犯罪者ですらある。
いつも負けまくり圧倒的大軍でないと勝てない弱島津の捏造マンセーは見るに耐えない愚劣さだ。
286 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 10:13:26.85 ID:5Nm2BeTc
そもそも筑前攻略に失敗して筑後まで宗茂が島津を追撃して
北九州平定に失敗して
やむなく大友本国を狙ったのに、なんで九州統一寸前なの?
博多や大宰府は九州じゃないの?
しかも義久から家督を譲られた義弘が新当主として
でかいことやろう!で始めたのが豊後侵攻。
しかもそれ以前に家久が独断で豊後国人に島津が軍事侵攻して協力すると返事して
義久は大激怒して家久をシカトしてたのを
義弘がパクッた侵攻作戦。
しかも再度、北九州へ攻めるか豊後攻めるかで重臣対立してくじ引きで決めた妥協案。
義弘は義久が実権譲渡しないのに怒って書状出してるし、
いざ豊後侵攻したら籠城戦略に大苦戦。
島津の軍規は乱れに乱れ、兵は略奪しまくった後に厭戦気分で勝手に帰国しまくりなのがバレたら困るのに人質とか取って
現状がバレたら島津軍は終わりだと家久は嘆いてるし
その家久は勝手に豊後国主を名乗って義弘に援軍よこせと要求するも
占いでお前のところへ援軍出さずに玖珠郡へ戦力派兵した方がいいと出たから送らないと拒絶される。
玖珠郡への派兵軍は大敗。
家久は義弘は将にあるまじき愚者と義久に讒言しまくりした挙句に
志賀らに逆調略をかけられ苦戦する島津を見限って
次々と豊後南部が裏切りまくり、退路が閉じられる恐怖に
義弘に無断で家久逃亡。義弘も筑後や肥後へ脱出するルートが
完全に閉鎖されてフルボッコを受けて相良らを棄てガマリ状態にして逃亡するも捕捉され義弘は大切にしていた茶器まで佐伯に奪われる始末。
287 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 10:23:47.39 ID:aZiy/vCO
図星図星(ニヤニヤ
288 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 11:27:26.59 ID:LFVite+y
木崎原の戦い ○義弘軍2百 対 ●伊東軍3千
島津のお家芸、釣り野伏で見事勝利。 義弘、槍の達人柚木丹波を一騎打ちで討ち取る。 この戦いでミリタリーバランスが島津に傾く。
耳川の戦い ○島津軍2万 対 ●大友軍4万5千
九州の覇者を賭けた戦い。 義弘の冷静沈着な側面攻撃と家久の同時攻撃で勝敗が決定。 こんな大規模な野戦をガチでやって大友軍の死者2万人、 重臣多数戦死という一方的な大勝利を収めている。
稀な大勝利、武田信玄 対 上杉謙信の川中島合戦と比べるとその大勝利ぶりが際立っている。 以後、大友は衰退。
沖田畷の戦い ○家久・有馬連合軍5千 対 ●龍造寺軍6万
龍造寺はこの戦いで隆信、四天王を失い島津の傘下に入る。 戸次川でも長宗我部信親・十河存保を討ち取るが、指揮官を討ち取るというのは野戦では珍しく、それを何度もやり遂げている島津家久は戦国一の戦上手といえよう。
戸次川の戦い ○家久軍1万 対 ●豊臣四国連合軍
寄せ集めにすぎない連合軍は歴戦の勇将・家久の敵ではなかった。 この戦いで長宗我部信親・十河存保戦死。 長宗我部元親、ショックで廃人になる。
泗川の戦い ○義弘軍7千 対 ●明・朝鮮軍20万
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、 朝鮮にいる将たちに帰国命令が下りる。 それを知った明軍・朝鮮軍は20万の軍勢を日本軍の中央を守る義弘の泗川に向ける。
義弘は、泗川にいくつかあった支城を破棄、泗川に新たに築いた城に立て籠もる。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃し散々に打ち破った。 また自らも刀を振るって奮戦した。 明軍の死者は8万。
露梁津の海戦 ○義弘軍 対 ●朝鮮水軍
この時も義弘は水軍を率いて活躍。 順天の小西行長を救出し、さらに全軍の殿を務め、 朝鮮の名将・李舜臣と交戦し見事討ち取る。日本軍退却成功。
もし義弘が朝鮮出兵に参加してなかったら日本軍は朝鮮で全滅してた。 秀吉は大名の領地加増を禁止してたが 島津だけはあまりの戦功の大きさに加増された。
関ヶ原退却戦 ○義弘軍3百 対 ●東軍8万
福島隊を突破、追撃してきた井伊直正と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大阪城に残された妻を取り戻し、薩摩へ無事帰還。 家康は島津を恐れ、関ヶ原後も減封する事が出来なかった。
289 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 11:28:48.08 ID:LFVite+y
島津家とか、隼人とかが
最低でも過去2000年くらいは存続してる、皇族とかに並ぶ大公
ぶっちゃけ過去2000年大公とかない、ていうか、そんなの大公レベルじゃないだろう。
日本の歴史には2000年間しょっちゅう島津でてくるぜ
島津伝説1
2000年前全国征伐
1500年前いろんな戦争にでてくる
1000年前守護と強力
800年前平氏側について頼朝につっこまれる
700年前蒙古征伐
500年前薩摩ならず九州統一
400年前グイシーマンズ
390〜年前関が原で鬼といわれる
380年前島津をもってこそ、真田を武という
200〜300年前 島津、隼人の教育により、武士にして畑耕すというライフサイクルおくる
200年前 全国で一速く工業化、機械化を図る。島津てこいれ、島津知り合いで重工業化を図る
200年前 隼人とともに薩摩一国でイギリス戦艦を倒す このときイギリスのほうが島津より損害大きい
110年前 薩摩隼人の東郷平八郎が世界最強のバルチック艦隊を倒す ロシアはこれを受けて日本と和睦
この後100年前の山本権兵衛を境に薩摩隼人が総理大臣になることはなく
それ以降は太平洋戦争や日中戦争で日本は転げ落ちるようにアジアの覇者から転落する
島津こそ戦国最強の家にふさわしい風格と伝統と武力を兼ね備えている
これらの前では武田上杉織田徳川などゴミに等しい
290 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 12:43:20.40 ID:Xar9Easu
dat落ちせん程度にたのまー
長文は見た瞬間読むのもめんどいからあぼーんするからいいんだが
291 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 16:16:59.98 ID:cDkd38/a
最近は面倒になったのかID変えが少なくなったんで一括NGできて助かる
292 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 18:20:13.74 ID:5Nm2BeTc
万単位の兵率いたら統率上がるとか馬鹿じゃね
国力ある武将で国力に応じて大軍動員できなかった武将なんていないだろアホ
上杉憲政、毛利輝元、徳川秀忠、石田三成、大内義隆、豊臣秀頼は信長より戦上手なのかってのアホ
293 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 18:21:41.86 ID:aPQ9dlEL
織田厨は大軍用意する国力や兵力に恵まれた事を
大軍率いる才能があるから統率高い、などと都合よく履き替える馬鹿
294 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 18:23:12.81 ID:5Nm2BeTc
上杉憲政が過小。
対北条戦で80000も動員したし3万そこそこしか動員した事ない信長より遥かに戦上手。
その憲政を破った氏康は信長の3倍くらいの戦上手
295 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 18:24:53.90 ID:aPQ9dlEL
徳川秀忠も大阪の陣で圧倒的大軍同士の戦いを短期間で終わらせたし
統率180くらいあげていいな
296 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 18:30:35.31 ID:iVf9s2Ug
龍造寺鍋島はいつも割と動員数多いから評価されてしかるべきだな
297 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 18:52:13.91 ID:6uNOx8rO
動員10万以上って
北条征伐 豊臣方20万
九州征伐 豊臣方20万
大阪の冬の陣 徳川方20万
大阪の夏の陣 徳川方15万
文禄の役 豊臣方15万
慶長の役 豊臣方10万
四国征伐 豊臣方12万
紀州攻め 織田方10万
くらい?
298 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 18:52:44.31 ID:6uNOx8rO
>慶長の役 豊臣方10万
慶長の役 豊臣方14万に訂正
299 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 19:06:33.71 ID:5Nm2BeTc
関が原の時は西軍三成180000(畿内方面のみ)東軍で130000(畿内方面に向かった奴のみ)
あと織田信長は最大で2〜3万しか動員してないから上杉憲政、毛利輝元、徳川秀忠、石田三成、大内義隆、豊臣秀頼以下
300 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 19:09:14.94 ID:aPQ9dlEL
石高に応じた動員ができない大名なんていないだろうし
一揆起こったり飢饉とか国力がダメージ受けてなけりゃ誰でも大軍なんて動員できる
こんなもん国力の問題で能力なんか関係あるわけねーだろ
301 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 19:33:33.20 ID:5Nm2BeTc
57万石もありながら通説によれば3000しか動員できなかった尾張の雑魚もいたがな
302 :
名無し曰く、:2012/12/28(金) 22:31:59.48 ID:XQT4wxwX
>>296 当時の肥前は石高の割りに人口が多かったって説
前に聴いたことあるな
303 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 03:24:05.97 ID:RQABlMfb
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
304 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 03:24:50.96 ID:RQABlMfb
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
305 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 03:25:56.89 ID:RQABlMfb
1546年 信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
306 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 03:27:16.92 ID:RQABlMfb
1567年楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
307 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 03:28:01.64 ID:RQABlMfb
伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。
反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
返す刀で浅井も総攻撃して攻略。朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。
調子にのって伊勢長島を攻撃。
第2次伊勢長島。伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
1574年 越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討し始める
308 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 03:29:18.60 ID:RQABlMfb
信長の功績は捏造だらけ
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
309 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 03:30:07.11 ID:RQABlMfb
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
310 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 03:31:05.11 ID:RQABlMfb
和田は伊丹が反織田で挙兵しないように説得していたんだし、細川と和田は協調して親織田だと見るべきだ。
ちなみに伊丹氏は天正2年4月の本願寺挙兵にも同調して、一向宗の力を借りて7月下旬に伊丹城を奪取し挙兵。
7/20に石山本願寺の中島砦攻撃で荒木軍の大半が戦死し
7/29には伊勢長島攻撃の戦地の信長が本願寺包囲に参加していた光秀に
奪取したばかりで兵糧が乏しい伊丹城は本願寺と連携してるから
即降伏は難しいので遠巻きするかどうかはお前の判断次第と言ってる。
8/3には河内若江城へ遊佐信教・三好康長らが攻めてきたり大和南部でも叛乱が起きまくり。
長島一向衆を大虐殺後は即、大和へ織田軍は進軍。ついで11/15に伊丹氏滅亡。
俺が言ったのはロクに準備なく、丹波攻め人選もいい加減だということ。
丹波国守護代内藤氏や宇津頼重が義昭に付いて、いまだに帰順しないからと言うことで
6/7川勝継氏 6/17小畠左馬助らに内藤らに味方したら成敗するから織田に付いて馳走しろ。
こんな乱暴な命令の書状を出しただけで放置だろ。
とうの信長は本願寺包囲をしつつ、光秀や秀吉などを引き連れて
越前で撫で斬り大虐殺大会に出かけてるだけだし。
9/26に越前虐殺大会から帰ると、万単位の虐殺に大満足してるようで高揚してるのか
思い出したように10/1に赤井直正を討つから光秀派遣したから片岡藤五郎は協力しろ。
そして天正4年1/15に光秀が赤井と波多野に大敗した報が入り、
1/28には石山本願寺に織田軍が敗れる報がやってくる。
ここら辺りの信長公記は安土城建設開始とか書いて完全に隠蔽してる。
さすがに本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死するところは隠蔽できず書いてるが
(つか、書かないと大幅に白紙日程になるのを誤魔化しきれない)
それですら一次史料にはない信長の5/7天王寺突撃大勝利話を持ち出して信長マンセーに摺り変えてる。
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末。
しかもその後におきる木津川口の敗戦も公記得意の信長が後詰めしようとしたが
間に合わなかったと言う岩村城援軍や明智城援軍や高天神城援軍などでも使われた決戦から逃亡正当化の常套文句。
さらに安土城建築の模様を再び書いたりと誤魔化してるが、このあたりから再び、信長は苦境に入り込んでる。
織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし
信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長
根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず
311 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 07:21:59.70 ID:RQABlMfb
公記が六角義賢の弟の六角義弼や
六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に、
一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。義興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。
312 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 07:22:29.66 ID:RQABlMfb
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
313 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 07:23:17.79 ID:RQABlMfb
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。
さて以下がその隠蔽である。
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
314 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 07:23:54.91 ID:RQABlMfb
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
315 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 07:24:38.90 ID:RQABlMfb
信長公記は志賀の陣まで
前代未聞の栄誉ある一戦
などと勝利宣言してるから
まったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て
一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら
比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長を
さすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
無知長厨乙
信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
信玄が織田に宣戦したのは
明らかにアスペ信長が無意識に挑発しまくってたのがよくわかるな。
それで信玄も堪忍の限界にきて
信玄の死んだ妻の妹が顕如の妻の如春尼だったこともあり
立ち上がっただけに過ぎんのに
信長はなぜか裏切られた!と逆切れw
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
316 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 07:26:35.14 ID:RQABlMfb
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、
山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
山岡景友が志賀郡を手中にしていたのか、それとも景隆や景佐も両天秤をかけていたのか。
元亀2年には駿河の富士金山・安部金山・井川金山などが武田金堀衆により本格稼動し始めてる。
といっても、もともと採掘してる武田領の長畑金山を駿河側から掘ったり(井川金山)
武田の早川金山を駿河側から掘ったり(安部金山)
武田の中山金山を駿河側から掘ったり(富士金山)
要するに武田氏が従来の金脈を駿河側から掘って採掘力を2倍に強化したと言うこと。
これで武田の財力基盤はさらに強化されている。
小規模な範囲での興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
ミクロレベルでの政策なら一定の成果が上がるが、マクロレベルでやった信長はアホ。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。
一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。
このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。
一方、1560年代より島津が大隈の加治木で偽銭製造を開始し
偽造硬貨による信用不安で西国において銭より米が決済に使われる頻度が上がる。
東国では悪銭でない永楽銭が信長の失政で信用低下著しい京銭4文との交換比率になっていた。
この信用不安を解消する手を打ったのは秀吉。
とくに天正大判を発行するなど秀吉の金本位体制は
西欧重商主義と金融資本の概念を先取りしていて驚愕的である。
317 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 07:28:48.19 ID:RQABlMfb
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに、
賀茂から嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
銀1300枚受け取り拒否した上京を焼き討ち略奪。下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
堺、草津、大津の関に代官を置いて税金取ってた信長に対して、
三好や六角や一向一揆はその交通量を激減させ
織田軍の補給や退路を遮断させ疲弊させる戦略だからかなり有効だったと思われる。
京での暴挙は自暴自棄に等しく完璧に物心両面で信長は追い詰められていた証拠だろう。
さらに奈良京都堺尼崎で恐喝略奪をして荒廃させた以上、
これ以上の略奪における大利益をあげるのは難しく、
天正2年春に織田が攻勢をかけるもまた資金難で停滞し各軍が各国で苦戦している。
兵力分散してるのも各軍が各国に現地調達をして軍を養わざる負えないからだろう。
原則は軍役負担者が安堵地から輸送による自給ではあるが、
軍役に次ぐ軍役でとても負担出来るわけもなく現地略奪方式を取らざるを得ない。
織田軍が虐殺したりしてるのも略奪や財産没収が目的だろう。
この略奪モンゴル方式は天正8年の本願寺との和睦まで続く。
あんだけ無理を強いて戦い続けてりゃ軍費だって無くなるだろ。
戊辰戦争でも軍費問題はデカかったんだから。ガキの頃から豊かな生活を親が与えると
大人になっても浪費癖が治らないばかりか酷くなるってのは事実なんだな。
それで金が無くなると虐殺と略奪だもんな。
そいつがアスペ・パワハラ独裁権力者だったから日本は不幸の闇に包まれたってわけだ。
318 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 07:30:32.39 ID:RQABlMfb
公記が隠蔽して一切書かない山陰戦線
信長は援軍として西に兵力派兵する余裕が無かったから、
勝頼は非常に有利な状況だった。
丹波の赤井直正も勝頼に書状を出してたし、
赤井忠家や内藤如安や宇津頼重らが反織田で丹波も毛利や武田に協調してる。
これ信玄の大きな遺産だな。
5月に長篠で武田が無謀な決戦で大敗した為に、
信長は余裕が生まれてしまい、
8月越前一向衆を壊滅させてから、
光秀に丹波侵攻を開始させてる。
波多野ら丹波衆の反撃で光秀は大敗したが。
実際、天正三年3/4には
芸但和与が正式に発足したことに対する織田→小早川への返信で、
信長は但馬はかねてから申し入れているように織田分国であることを承知してるはずだ。
近年はずっと山名祐豊から連絡が来なくなったのは無念だが、
出雲や伯耆の安定の為に、
尼子のいる但馬出兵がどうしても必要なら
仕方が無いと
背後で尼子を支援してる信長もしぶしぶ毛利の但馬での勝手な行動を認めてる。
それだけ信長には余裕が無かったから
露骨に毛利に開戦したく無かった。
信長は毛利に対して内心激怒してただろう。
すでに天正元年12月までに元春が信玄西上のドサクサに織田分国但馬を平定して出雲に帰国しており、
毛利は朝山日乗や安国寺らを織田に派遣し、秀吉を窓口に信長に媚びて敵対行動の誤魔化しをしてた。
うまく信長との間を誤魔化せたのは秀吉と朝山のおかげだと安国寺が12/12に書状を出してる。
以前の但馬窓口は志賀の陣で討死した坂井政尚だった(山名祐豊が帰国し交代するまで但馬此隅山城を占領して但馬統治していた。
朝倉軍が坂井を討死させて織田但馬窓口消失の大金星を挙げる)
天正4年5月までに尼子残党を京へ逃亡させ
毛利は山陰再平定に成功してる。
その一方で山陽道でも織田に内応した備中の三村を毛利は天正3年5月までに平定に成功。
勝頼が長篠で大敗したのはガチでバカ過ぎ。
319 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 09:41:05.56 ID:RQABlMfb
/20信長が摂津から志賀に到着。
10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継
因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが
新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される)
によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は
京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。
320 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 09:41:46.50 ID:RQABlMfb
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
321 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 09:42:52.91 ID:RQABlMfb
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた
水谷刑部少輔が賛意を取り付け和睦に合意
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
織田の矛先をかわすべく家督を具房に譲ってはいたが
実権を握って現役張ってた反織田の具教が織田との和睦を機に出家して引棲しただけで
娘の雪姫の養子になっただけの信雄に家督相続が見えてたわけじゃないから。
信雄が発給しているのは天正3年7/24から「信意」の名前で発給開始している。
つまり天正2年はまったく書状を発給していない。
よって7月の伊勢長島一揆討伐の軍事動員も具房らが主導していると見てよい。
第三次長島侵攻を経た天正3年(1575年)に信雄が北畠家督を得て
田丸城へ入り御本所と呼ばれるようになる(田丸具忠は一ノ瀬御所へ移城)
北畠当主として滝川に差出検地をやらせることで伊勢での実効支配を進めようとしたのだ。
それに対して信雄側の加藤甚五郎に対して熊野勢堀内氏虎が攻撃をかけて激破。
576年正月に鳥屋尾が岐阜に国司の使いとして年賀の挨拶に来るや信長は挑発しまくって威嚇した。
11月北畠具房と四男・徳松丸、五男・亀松丸が共に暗殺される。
第二次長島侵攻直前の天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状
信玄の西上中にも岐阜にほど近い新砦の守備をしていた日根野弘就に協力してた
伊勢大湊自由商業町の山田三方の福島親子が船を出していたことが発覚し、のち殺される。
このことからも織田に伊勢水軍が従っていたなかったことがわかる。
茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
まさに面従腹背の北畠と伊勢水軍である。
そして林通政を討たれ逃亡中に凍死続出で大敗する織田軍・・・これを受け信雄も天正2年に発給文書ゼロ。
伊勢での織田の支配がスタートしたのは天正3年から。
角明浩氏によれば摂津同様に信長の命令を無視して私戦を繰り返しまくって去就著しい大和衆の統御を
織田家がうまく行えるようになったのは天正2年(1574年)の蘭奢待採取と塙直政の大和守護任官が大きいそうだ。
これにより筒井衆や興福寺を始めとした大和衆の本願寺攻撃への協力が取り付けれるようになり
伊勢長島への有効的な攻撃が可能になったのだと。
(しかし同時に信玄と義昭に内通したが許された松永が
筒井より下の立場に逆転したので不満をもっており大和混乱の火種は残る)
伊勢長島攻略を完了して北伊勢での支配を確立させると信長は南伊勢への関与を強め始めた。
322 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 09:47:47.67 ID:RQABlMfb
永禄9年の斉藤との戦いと永禄10年の稲葉山城落城の話を
同じ年の出来事のように偽装して記して
河野島の戦いが無かったことに捏造してる
義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後
多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に
出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、
その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、
さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、
これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。
六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w
公記は例のごとく隠蔽・捏造
武田征伐で諏訪の陣において
織田が占領した筑摩郡深志城の城米を出さしめて
在陣の諸将士に頒ち与えた史実を歪曲して
信長公記は
3/19に信長が諏訪法花寺に着陣。
3/24各在陣致す諸将は給地からの補給に迷惑して困っているので
諸兵の数に従って御扶持米を深志で渡したと書いてあってワロタw
しかも雨や風で凍死者続出で暖もロクに取れてない惨憺たる補給実態の惨状で
さっさと逃げるように3/29には木曽口や伊那口へ
織田各軍が崩壊した補給状態から急いで美濃へ自壊敗走してる。
323 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 09:49:10.90 ID:RQABlMfb
たしか尋憲記では天正元年3/6に義昭も義継と松永を許して京都にくるのはめでたい。
足利家への奔走を頼むって書いてあるんだよね。
公記の記述から信長に降伏を装いつつ
その裏で義昭への降伏交渉してて3月にまとまり義昭に内応してた。
和田を殺した荒木も同様な真似をしてると思う。
天正元年正月には信長と義昭の対立が表面化しているから、
これは義昭ー三好ー松永の密約を世間に公開し、織田派への圧力を
目的とした行動と考えるのが自然かと。
公記は松永が降伏したのを一年前倒しで記して、信玄との呼応の事実を隠蔽してる。
実際の大和・山城での松永の行動は信長にとってかなり脅威だったからこその歪曲だろう。
ついでに堺・京商人の動向。
まず堺会合衆だが、一般には永禄12年に信長に屈服したと言われるが、事実は違う。
会合衆の長老格天王寺屋津田宗及は日記(天王寺茶会記)によると、 元亀争乱期を
通じて、何度か本願寺や三好と会い、信長が天満森で敗走した直後に本願寺にも
訪問し、御茶を点てている。 逆に織田方とは全く会っておらず、津田が仲間の
会合衆と共に初めて信長に会うのは、天正元年11月京妙覚寺においてである。
元亀期、堺会合衆は二派に分かれ、津田が長老格に対し、信長派今井は新参なので、
反信長派が優勢だったと考えられる。 むしろ今井を残しておいて、裏目が出た時に
対処する商人らしいやり口だったのだろう。 また津田は元亀2年2〜3月京へ赴き、
京町衆と数度会合をもっている。
天正元年4月信長は上京を焼き、町衆の多い下京に自分に従えと命じているため、
京町衆も反信長派になっていたかと。 畿内一円の商人逹は「矢銭」をかけた信長を
嫌い、反信長派の動きをしていたと推定。 資金流通や弾薬物資も、信長よりも反信長
陣営に有利に回っていたと考えられる。
和泉
三好分国として安定。配下領主松浦・寺田・沼間・眞鍋など。
讃岐十河存保が織田に通じた後、誘降を受け入れる。
324 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 09:49:48.59 ID:RQABlMfb
桶狭間は一次資料にないデタラメ
国力でいえば尾張57万石+交易収入+チート献金で織田の方が上
先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって雨や風が吹いたから勝てただけ
三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記には信長軍の突撃の前に「俄に急雨石氷を投げ打つように敵の輔に打付」たとある(陽明文庫本首巻)
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった
これが実力で勝ったというなら本能寺は実力負け
圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから
政宗レベルなら国力差2倍程度なら偶発的条件に頼らなくても撃退可能
325 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 10:27:38.43 ID:RQABlMfb
☆慈敬寺文書の顕如書状2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
2/15松永久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが
10日付で義昭に帰参しさらに静原に山本城を築いて織田に反抗する。
近衛家文書の2/16浅井長政→伊勢七郎左衛門宛てでは信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆(義昭軍)合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/19の義昭書状では★山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
浅井長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べている。
琵琶湖最大の商業地の堅田村の郷士達が本願寺や浅井の味方になってしまい
坂本を居城とする明智軍は大津で苦戦し立ち往生しているのがわかる。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後にすぐ筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと明智への援軍も上洛できないほど街道封鎖は深刻になっており
大津や草津の関も機能してないはずで近江戦線は崩壊してるのがわかる。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書くが、
によると☆のような情勢であるのがわかる。
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き(柴田軍が大津に到着したのか?)
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶(山岡景友)ら西近江で挙兵。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
326 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 10:28:31.62 ID:RQABlMfb
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで柴田が落とせずに苦戦してるじゃんw
坂本の明智軍はすでに崩壊してるし。
すでに琵琶湖西岸はことごとく義昭側。
大津で柴田が立ち往生して入京すら出来ず。
2/23に信玄撤退したから上洛する発言してた信長だが、戦況悪化と兵力が集まらず
まったく動けず義昭に土下座交渉を継続する始末。
義昭が信長の人質を突っ返し断交するに及んで、
やっと3月末に信長は上洛するも味方は細川と荒木だけでみんな離反。
自暴自棄の信長は京を地獄にして略奪殺戮しつつ、
天皇に和睦斡旋哀願。
和睦したら即日、背後の六角と一揆衆を攻撃しに帰るほど切迫した情勢。
しかも六角を攻め落とせない。
そのうち信玄死亡情勢が流れる。
すると情勢は織田優位に一変。
天皇の威光と信玄死亡に助けられただけなのが信長
元亀3年10/5の朝倉景亮書状により蒲生家すらも織田を見限るのがわかる。
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所
山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、
山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
山岡景友が志賀郡を手中にしていたのか、それとも景隆や景佐も両天秤をかけていたのか。
金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
元亀4年5/24
信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
元亀4年3/7
信長→幽斎
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www
327 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 10:29:09.40 ID:RQABlMfb
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に
天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。
ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)
らが織田方として存在している。
天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
328 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 10:30:19.89 ID:RQABlMfb
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、
土岐氏に配慮する六角義賢が、同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、尾張を戦わずして勝つの深慮遠謀の策を以って内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。
329 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 10:31:17.46 ID:RQABlMfb
織田チョンは根拠もなく、大久保が指摘しているのは太田ではなく甫庵の方だと歪曲するキチガイです。
実際に当時から信長記と呼ばれていたのは太田の方です。
明治14年に町田久成著の我自刊我書に収録された時の題名で
尊経閣文庫信長記の十五巻奥書に信長記と書いてあるのが本来のタイトル。
甫庵の著作は甫庵信長記と呼ばれちゃんと区別されてる。
今は15帖を信長記、首巻が伴ってるのを信長公記としていることを指摘するよ。
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
池田家本系統の太田の内閣文庫蔵信長記には
池田が参加してないはずの長篠に参加したことになってるわけだがw
(大久保もぜんぜん活躍してないヤツが活躍したことになっていたりと指摘してるw)
これが金をもらって捏造する売文家と言われる太田のやり方。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
太田の信長記や豊国大明神臨時御祭礼記録や内府公軍記を含む
「五代之軍記」なる著作や高麗陣日記や神武天皇征伐秘略や中古日本治乱記なども二次史料にも満たないダメ著。
そもそも信長公記と呼ばれたのは
尊経閣15冊本信長記の奥書に慶長十八年と書かれていて
太田が死んだ年に書かれた池田本系の最終形態だが
それまでの池田本には無い信長長女に言及があり
信康の正妻岡崎殿を信長の元へ送り返したなどと書かれていたり、
信長が金華山(稲葉山)において弓鉄砲で狩りを楽しんで
鹿を78頭射殺して御祝着不斜候と大喜びしてるなど
池田本からさらなる追加記事を登場させている。
これは誰の発注なのか不明だが、適宜、発注者の要求で内容を太田が訂正・改変してるのは事実。
330 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 10:32:30.42 ID:RQABlMfb
元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
嘘長公記はこれを隠蔽。
この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。
12/22に武田軍が三方が原で大勝。
これらの結果、織田は一万しか動員できないほどに離反されて衰退した。
これを受け1/17信玄からの依頼を受け石山本願寺も四カ国門徒(尾張・美濃・三河・遠江)を一斉蜂起させた。
家康は野田城の武田軍に吉田城で震えて、
岐阜で震えているヘタレ信長の後詰が近日来ると盲信した謙信に泣き書状を書いている。
一方、浅井軍は近江の高島郡を経て滋賀郡を平定。
完全に終わってた信長。
デタラメ公記は北条記以下の糞軍記。
一次史料を見ると朝倉って織田に連戦連勝してるんだよな。
いつも織田が退却したのを見届けて越前へ帰陣してる。
浅井を見捨てるに忍びないって志賀の陣の和睦で言っていて
浅井が滅亡しないようにやってきてるだけで
織田に他意はないって言ってるだけだし。
捏造公記だと朝倉軍を弱く書いてるのが笑えるけどwww
信長公記の5/13に熱田で信長が陣を張り熱田社の八剣宮が酷く荒廃してる様を(癈壌し正体なきを御覧)
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ陣を移し長篠の後詰めに行く記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
一次史料から5/5に尾張の甚目寺不動坊の証秀が熱田社に剣を奉納している。
5/11に熱田社祝師に信長が三河出陣を前に恒例の御祓いをしてくれと懇請している。
5/15の信長書状から13日に信長が出陣して14日に岡崎に到着していたことがわかる。
つまり武田軍は12日には尾張の僧が織田の戦勝が祈願して熱田の神へ奉納した剣を奪い、
信長の出陣にあたっての戦勝の御祓いを13日にしてもらおうとしていたのに
熱田を焦土と化して挑発している姿がみえる(信長が神仏を恐れず、政教分離していたなどお笑いである)
今までの信長は家康への後詰めにおいて、なんだかんだ理由をつけて
三河までやってこなかった。もしくは間に合わないようにワザと遅く行っていたが、
この完全にメンツ丸つぶれの挑発に
長篠まで行かざる負えなくなったのだろう。
331 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 10:33:33.68 ID:RQABlMfb
京を支配してる織田の一方的な軍事プロパガンダを聞いて
それを公家が日記に記入してるのであって公家が日記の記述を他人に見せる目的で
故意に情報を曲げて書いてるなんて一度も書いてないだろwww
本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが
(天王寺の戦い・・・公記には数千挺の鉄砲に狙撃される中を信長が突撃して大勝利したとデタラメを吐く)
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末だし
(同時期の柴田書状には能登・加賀・越中を織田が平均したとデタラメを吐いてる)
姉川の戦いでの言継卿記でも浅井討ち死に、その他8000討ち取りとか書いてる。
また越前以下9600討ち取り(公記ですら浅井の死者1100と書いてるのにw)
そんなに討ち取ったのなら志賀の陣のような体たらくにならんだろう。
長篠の戦いでも大げさな戦果な上に、勝頼も死んだとか書いてるのが信長。
長篠の戦いの信長による戦果捏造宣伝工作
5/26信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと
誇張しまくりを書いていて5/21の戦い当日付の兼見卿記にも信長が一戦に及んで
数千騎を討死させたと書いてる(騎馬武者だけで数千もいたのかすら怪しいデッチあげぶりw)
つか、こりゃあ武田大騎馬軍団だなw 実際の武田軍の損害については
実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた
5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。
(それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。
と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか)
5/24に兼見卿記が記す、光秀と会談した際に聞いた長篠の戦いの話では
「ことごとく討ち果たした」に表現が大幅に後退している。
ちなみに6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね
などと書いていて討取り数にまったく触れていない。
実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w
実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い。
>>国半分を制圧したという
織田の大嘘を鵜呑みにして書いてるだけ。そんな織田のホラを信じてたら中国地方どころか
九州まで一遍にすでに制圧完了してたりしてることになるわwwwそんなデタラメ宣伝工作の証明する一次史料はない。
信長は誇張による情報操作を公家相手にかなりやってる。
叡山焼討ちでも言継卿記が3000〜4000人は殺されたと書いてるが、
冷めた目でみてる年代記抄節はおよそ1600余人くらいと誇張に惑わされずに冷静に書いてるしw
だいたい信長は越前一揆を撫で切りした時も
越前府中の街の中は足の踏み場もなく一面が死体で埋めつくされて愉快だわとか誇張しまくり。
>>信濃国半分制圧
まったく具体性にかけていて、テキトーに言ってるだけで信用性ゼロ
いつもの関東まで一遍に申し付けたとか中国どころか九州まで属本意とかと同じ信長の虚言癖。
信長がデタラメを吐いて言ったことを京に常駐してる村井がそのまま伝えただけ
つうか2/7の時点でどう考えたって信濃の半分を手に入れてるわけねーだろw
その2日後の2/9には秀吉が関東の太田へ織田は
すでに中国四国も手に入れたとか言ってるし織田の対外宣伝はまったく信用性ゼロwww
太田牛一の公記にも、あきらかに信長による対外宣伝を真に受けて書いてるようなシーンが何度も出てくる。
特に北陸情勢なんて明らかにそんな話ばっかりで
発信者が有利になるように操作された情報を公記に書いてるだけで事実確認なんてまったくなされてない。
332 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 10:46:49.24 ID:RQABlMfb
信長の過大戦果吹聴虚言癖は神レベルw
1万討ち取ったとか平気で一桁盛るからなwww
北条も関東縦断して小田原城まで攻め込まれたくせに
その途上で何度も武田に勝った勝った連呼してるアホぶりw
政宗はもうね、関が原で南部に負けていながら
南部が西軍になりそうだから恫喝してやったとか
最上弱すぎとかデタラメ報告が笑える。
信玄西上で完全に追い詰められた信長と言う状況の中で
松永久秀が信長に降伏したとか
とんでもないデタラメの大嘘を書いてる時点で
いかに信長が絶望的だったかを窺い知ることができる。
清洲同盟が信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、
信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。
さて以下がその隠蔽である。
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると臆した信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
9/13の義昭は謙信へ向けて「京表儀 織田尾張守出勢相違故
江州矢島儀 弥三好・松永計策共候間 難成安座候之条 若州へ相越
去八日至越州敦賀退座候 義景馳走候」
などと信長を名指しで非難している。
333 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 11:30:07.77 ID:RQABlMfb
3月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してるので攻撃開始したのだろう。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
★のように戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
信長は伊丹氏により摂津において中島城の細川が堺へ敗走(信長はさてもさても惜しいことだと悔しがってる)
に続き3/7にはさらに賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを
慈敬寺から報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で急ぎ加勢した近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/21には義景→馬場宛でも敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞して、
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
(佐々木左馬頭とは義昭側の仁木義政で明智軍記では義政は山岡らと石山・堅田に籠城したと書いてある)
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで織田を粉砕した大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は、義昭らに敗北を重ねて
信長が兵を集めて援軍に来るのを待っている現実が見える。
大商業地堅田村を一向宗側が取り込んでいるため、
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで織田軍が大敗している。
また明智軍が崩壊していた現状から手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながら兵力が全然集まらずまったく出馬できないありさま。
松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www
元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww天下布武で家臣へ土下座書状wwww
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
334 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 11:32:04.29 ID:RQABlMfb
信長公記が天正元年11月に若江城で謀反が起きて三好義継が自刃と書いてるのはデタラメ
実際の義継は三好孫六郎存康と言う名で義昭を上意と呼びつつ
勝頼の高天神城攻略を喜ぶ書状を天正2年8/10付けで穴山に出してる。
元亀元年7月の三好重存(義継)が発給した禁制には孫六郎と書いていて
その時の花押と今回の花押がそっくりである。
松永久秀降伏を一年前倒ししてるだけでなく三好義継の死亡まで捏造。
三好重存(義継)の禁制の該当書状は
大日本古文書の東福寺文書1巻134ページ
元亀元年7月に孫六郎の花押があり、
また勝頼の高天神城攻略を喜ぶ書状を
天正2年8/10付けで穴山に出してる書状は於曽家文書で
三好孫六郎存康の花押は上記と完全に一致とのこと。
存保って織田方だったはずじゃん。
議論で不利になったから、
前提をぶっ壊して信長が見事に騙されていたとか
織田厨は自分の都合で根拠なく歪曲を開始して主張し始めてるわけ?
335 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 11:33:11.49 ID:RQABlMfb
最近の甲陽軍鑑は飛躍的に再評価されてきている。
1990年代に国語学者酒井憲ニ氏の大著甲陽軍鑑大成を完成させてからは
柴辻氏なども軍鑑を史料に取り込むなどの風潮が出始めており、
この大著の完成は甲陽軍鑑の評価を一変させ好転させた。
これを読んでいない、または存在を知らない研究者はド素人である。
それどころか桶狭間の戦いにおける
黒田日出男氏を始めとした今川軍の兵が乱捕り中の隙を
織田軍が攻撃した為に義元を討てたとする論拠として軍鑑を援用している。
これは公記の記述を盲信している正面攻撃を元とする藤本正行氏の正面攻撃説や小和田氏の正面奇襲説の
信長の不可解な成功の理由として充分な証明理由となろう。
旧日本陸軍参謀本部の苦肉の発想であった迂回奇襲説はこれにより論破されてしまったのである。
(信長公記が高台の今川軍を低地から出撃した織田軍が正面攻撃して勝ったと書く
現実にはありえない妄想ぶりに参謀本部も頭を抱えた結果、妄想を膨らませ迂回奇襲しかありえないと結論した)
読む場合に注意すべき点は
軍鑑と史実の年記の食い違いがあるので対照年表を見ながら読むべし
ごくまれに偽文書が挿入され操作をしている
特に史実と食い違うのが山本勘助がらみの誤記創作が多いと言う事で
勘助自体が存在しないと言われる所以である
原因は高坂弾正の口述を猿楽者大蔵彦十郎と春日惣次郎が筆記した作品を
小幡景憲がのちに自家のために加筆し歪曲捏造改悪をしていると言われている。
市河文書「武田晴信書状」に山本菅助の名前があり存在が確認され
晴信側近である事がわかり軍鑑では足軽衆である事がわかる。
この文書では勘助と共に原与左衛門尉が足軽大将衆であったのがわかる。
この原の舅が小畠景憲の祖父である虎盛であり東信や北信で活躍しており勘助との関わりが見える。
また小畠景憲は出版する金がなかったから出版出来なかったと言うのが通説だが
出版出来なかった理由が自家に都合がよく改悪捏造したからとも考えられる。
三条藩主稲垣重種が筆写のために借りた軍鑑を宇佐美勝興に書写された時に
無断で密にもう一つ筆写して京都で出版したと言う。
336 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 11:34:13.78 ID:RQABlMfb
甲陽軍鑑が過小評価されていたせいで武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
337 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 11:35:40.16 ID:RQABlMfb
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた
根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)
根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍
信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
338 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 11:36:18.03 ID:RQABlMfb
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
339 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 11:37:59.72 ID:RQABlMfb
家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
なされていない
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
一次史料をみる限り石山本願寺が降伏する以前の織田軍兵力は1万〜3万しか動員出来てない。
織田軍が攻めこんだ先は摂津や河内・大和など一国亡国と記述されるなど、
軍が略奪による現地調達方式なので多方面に敵を作るデメリット付き兵力分散して軍を養う必要性から大軍集中が無理。
しかもそこを領国にしても荒れ果ててる。よって国力の単純比較は成立しない。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地→興福寺大乗院跡750石&興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地→興福寺春日社は2万1000石とされて、この膨大な差が大問題となった。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。つかできない。
秀吉は兵站補給概念を持っていて奉行衆による計画的な物資管理や
大軍進駐に伴う排便処理による衛生管理を編み出すことで
信長には不可能だった「位攻め」戦略を多用し瞬く間に天下を統一してしまった。
位攻めとは、圧倒的大軍を用いて相手の軍の士気を崩壊させ服属を強要する戦略。
信長の現地調達方式では大軍の集中は不可能であり、戦力崩壊を起こす攻勢限界点が存在する。
すでに美濃の隣国信濃への出陣である武田攻めにおいて、
遠陣だから率いる人数を抑えることで兵糧が続くように。
しかし戦力ダウンにならないように剛力の者を選んで引き連れよと人数調整をしていた時点でお察し。
信濃より遥かに遠い備中えの遠陣である毛利攻めで旧来の遅れた兵制の信長は討死していただろう。
340 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 11:39:11.95 ID:RQABlMfb
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万〜3万くらいだよな。
秀吉はそういったシステムを作る天才だから速攻で全国制覇したし、海外遠征まで実現できた。
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある
(生産力・経済の概念は遠征補給兵站思想と、重商主義的な朝鮮出兵ビジョンが視野にあるから)
隣国武田攻め自体が補給の問題から兵数調整してる上に
(人数少なく召し連れることで在陣中の兵糧がつづく様に〜中略〜
但し人数多く候様に剛力粉骨の者を召し連れるように)
そもそも農繁期と言っても戦国期の農民は米ばかり作っていたわけではなく、基本
米を刈り取ったらすぐに麦を植え春先にはその麦を刈り取りまた米を植え、という形だったので、
少なくとも春先と秋の2回農繁期があった。(米の二期作も併用している地域は夏も)
ここからも「織田以外は農繁期は出兵しなかった」という変な考えは完全に成り立たないことがわかる。
だいたい武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は帰る必要が無い
信玄とか謙信は普通に刈田もやらずに出兵してるよな。
そもそも稲を植える時期、3月とか普通に信濃出兵してること多いし。
織田厨って稲を植える時期を何月で、
刈田をする時期を何月だと思ってるのか本当に謎w
織田だけ兵農分離してると主張する際に客観的なデータやソースを絶対に出さないし。
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
勝頼が当主の天正2年尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
組織改革がなされていた武田・上杉・北条>>>織田
言継卿記の元亀元年5/9六角入道の出張に浅井同心し信長2万で出陣。
5/22六角入道と右衛門督(義治)2万で甲賀石部城出陣と元禄初期の織田の動員力は2万。
そして柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚と並び称された
坂井政尚と森可成が討死しただけでなく織田信治・蒲生定秀の弟の青地茂綱らが討ち取られる志賀の陣で
(青地氏も六角の重臣の1人で湖東草津方面の豪族で六角家中では山岡と並び称されていて、
その人物が討死じゃ長光寺城の柴田・安土の中川の領地支配も揺らいでる事態)
信長は屈服するなど次第に追い詰められていく織田の兵力が激減し朝倉浅井3万の前に
織田は1万まで減少して志賀の陣で土下座
(三河物語にも信長が朝倉に負け宣言をして天下は朝倉殿が取りたまえ。私は2度と天下を望まないと発言)
公記で織田3万と記述されてるのは下記の2回。
長篠の戦いで織田徳川双方を合わせた連合軍が3万と
長篠の戦い後に一向衆に奪われた越前に織田が攻め入った時の記述において、
かき集めた牢人衆や朝倉旧臣や浅井旧臣らも率いてた上でやっと3万に達してる。
尾張伊勢長島一向一揆衆には朝倉滅亡前の段階で林道政以外にも
織田信興・氏家卜全・蜂須賀正勝の弟が殺され柴田勝家も負傷。
そんな状態で、ついに金も兵糧も鉄砲も足らず三条河原で軍列を整え
知恩院に陣した総兵力織田軍たった1万だけ(年代記抄節)しか動員できず
(叡山焼討ちで言継卿記が伝聞から3000〜4000人殺されたと驚いているのを
年代記抄節はおよそ1600余人と誇張に惑わされずに冷静に書いてる)
朝倉軍は浅井の援軍として25000(朝倉始末記)もしくは2万(信長公記)を動員しているわけだ。
341 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 11:40:05.62 ID:RQABlMfb
3/23義昭は京都聖護院門跡道澄を通じて小早川と浦上宗景の出陣を命じる(成?堂古文書)
たった織田軍が1万だけなのは年代記抄節にキッチリ書いてあるし
丹波の実力者内藤如安は義昭に味方しないと信長は決めつけていたが、
その内藤(松永久秀の弟の子)が射撃手1000を含めた5000で参加
3/6付で兄の義輝殺しの三好義継と松永久秀を義昭はついに許していて
「京都に集結してくれるてはめでたい。足利家について奔走してくれ」(尋憲記)
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領したという3月下旬の報告がある。
朝倉の書状で既に小谷に先発隊が入って普請を行っている事があり義景自身も敦賀にまで出陣して5月まで在陣してる
武田軍が野田表から撤退を確認した信長が2/23に上洛して畿内平均宣言したが
2/26に御内書が出された武田に東美濃(加治田城・つぼ城)で暴れられてビビッて中止。
(ついでに二条城の魔改造完成&朝倉軍出撃のお知らせ付き小島氏所蔵文書2/26浅井書状)
琵琶湖最大の商業地の堅田村の郷士達が本願寺や浅井の味方になってしまい
坂本を居城とする明智軍は大津で苦戦し立ち往生しているのがわかる。
この時期の摂津では荒木や高山重友が織田に謀反して和田惟長を殺し高津帰城攻撃開始。
(和田惟政が殺された後、信長から幽斎が惟長を御指南するよう言われていた)
2/27には右京兆(細川昭元)の中島城が落城し、信長はさてもさても惜しきと落胆。
伊丹の謀反で賀島城が落ちて絶言語候と驚愕する信長w
石成友通が味方かどうか不安だから気遣いしろとビビる信長w
灰方や中嶋も内藤に馳走してるから一味・丹波の宇津も内藤と同じ義昭方だと完全に動けなくなる信長。
岐阜城で震えていた信長は3/25と1ヶ月後にやっと上洛するため岐阜出発。
しかもこれも信玄死去を知らない義昭が3/6信長からもらった人質を突き返して
新たな堀を作り始め挑発したからで京に誘き出されたのは信長の方。
北条の武田軍への援軍2000・織田の徳川軍への援軍3000など義理で派兵した北条と大差なしの織田兵力に余裕無し。
近江横山城で朝倉・浅井にビビって家康の援軍待ちをしてたのは秀吉。
秀吉なんぞ無視して浅井軍は自由に高島郡を経由して西近江の滋賀郡などへ出兵して支配下に置いてる。
明智軍が崩壊してたために援軍として派遣された柴田・丹羽・蜂屋らは
六角と一揆勢に街道封鎖されているので琵琶湖経由でしか行軍不可。
大商業地堅田村を一向宗側が取り込んでいるため、
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで援軍にきた織田軍が大敗している。
信長本隊がやっとやってきての全兵力がたった1万。
京都を火の海にして義昭と和睦したあとに来た家康の使いの小栗に
近江横山城への出陣は必要なくなったと4/6に伝えたように
(信長は宛名に三河守殿 進覧之候などと家康にまで気を使う始末w)
兵力不足から浅井・朝倉を押さえていた秀吉と信玄にフルボッコされて間もない家康を交代させようとするほど逼迫
家康に援軍いらないと信長が発言したのも4/4禁中不慮の時は避難と聞いた天皇が
4/5義昭と信長の講和を斡旋した翌日4/6の発言だし
(4/7義昭と呼応して信長の背後を閉鎖した近江百済寺一揆と六角の攻撃に急ぎ出発するほど追い詰められていた)
安国寺恵瓊 天正元年(1573年)12月12日付
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。
左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」
公家や寺社との付き合いのある安国寺には信長のやり方ではどっちにしろ破滅する末路しか見えないのだった。
本能寺の変後に義昭は毛利の乃美への「信長を討ち果たした」
島津義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と語ってる
342 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 12:14:14.44 ID:RQABlMfb
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書いてるが完全にデタラメ。
ちなみに謙信→長景連への3/19書状には
(菅屋・林・佐々・松井と供に長連竜(長続連の子)が織田配下として書かれてる)
信長が謙信に比叡山再興を約束してる土下座モードで謙信も納得したとか書いてるwww
(4/24謙信→関東の小田守治で氏政を足蹴倒すぞと報せていて、武田攻めする気なしwww
おそらく3/5の遊足庵への謙信書状で葦名と佐竹が和議になることと葦名が北条へ手切れ
佐竹・宇都宮連合が氏政を29日夜に多功原で大破し数千人を討ち取り、
岩槻へ氏政がたった一騎で逃げ入った報と義昭の側近六角義堯による甲越同盟が影響してる。
謙信は信玄と氏康同陣の時にたびたび俺が乗り出してきても決戦せずに退散するくせにと愚痴ってる)
朝倉義景が一乗谷城から越前府中まで3/11には出陣してきたことを報じている。
また濃州・信州境を用心しろとも書いていて、信玄の美濃侵攻が近いことがわかる。
3/7信長→幽斎書状にも長与一(長景連)が味方だと書いてる。
706 :人間七七四年:2011/11/23(水) 03:34:29.75 ID:YvL+q4gF
朝倉滅亡後の9/29には小瀬清長・織田信次・織田信直・織田信広・織田信成・織田信昌・織田秀成
佐々成政の長男・佐治信方・平手久秀・山田勝盛・和田定利が戦死してるなど
実際の織田軍は朝倉平定戦において大きく兵力が消耗していたと思われるね。
そもそも非常に珍しいことに織田親族の軍まで出さざるおえなかったくらい
兵力が足らずにかき集めていたのが見える。信玄死去後の
朝倉攻め時点でさえ織田軍が3万動員できていたなんてありえない。
河内上国+松永の軍勢に河内下国の畠山昭高はボコボコにされて
孤立無援のまま高屋城篭城して織田の援軍待ちじゃん。 しかも遊佐信教に6月に暗殺される始末。
三好義継の河内を本願寺の前衛と捉えて支援してますがwww
(河内が落ちると河川のない大坂南へ通ずる四天王寺方面へ織田軍が進出できる為)
近江すら平定できない信長・・・
4/7 六角義治の籠城する鯰江城を佐久間、蒲生、丹羽、柴田に攻撃させる。
4/19 鯰江城攻撃失敗。柴田に十河存保への援軍として義継の若江城攻めを行うように命じる。
6/25 高屋城で遊佐信教が畠山昭高を暗殺。
7/14 信長、内応するか悩んでいた畠山昭高を遊佐信教が暗殺した事に怒り
信教を必ず討つべし、指令については柴田に命じると言っているので
柴田は若江城攻めどころか高屋城まで敵方に落ち織田は河内国を見事に失陥。
河内国から柴田敗走か。なぜか近江にいて朝倉攻め参加する始末・・・
9/4 柴田へ鯰江城の攻撃を命じる。
浅井・朝倉滅亡後に佐久間の石部城包囲で
天正2年4月 六角承禎が4/13に石部城から信楽に向けて退城
山中山城らが敵を追い払ったから無事に信楽に着いたことを書いた感状だけど
出した日付は12/24だから天正3年前後も信楽でまだ織田に抵抗。
ちなみに伊賀国は六角氏綱の子が仁木氏を継承し仁木義政を名乗って以来、六角勢力圏。
天正4年以降になっても承禎は近江や伊賀でがんばって抵抗。
11/25北畠具教が信長によって謀殺された後に
北畠庶子家坂内氏が逃亡し、具教の弟の朝親も還俗し坂内へ書状出してるし坂内も勝頼に書状だしてる。
その時に沙弥承禎の名前で坂内氏に12/18付けで書状出してるが
国司御一類御生涯付〜北畠殿相続無き場合はあなたが家督を継ぎなさい。
そのこと大本所へ意見しますよって言ってる。ちなみに具教の正妻は承禎の妹。
年不詳12/7付け武田刑部大輔宛朝倉宮増丸書状では
佐々木源兵衛なる者が朝倉残党や加賀一向宗と連絡とってるし
これ吉川文書収録だから、鞆にいた義昭側近の若狭武田氏や大本所六角義堯に佐々木源兵衛は関わりある人物だね。
天正6年に義堯は阿波・淡路の軍を率いて境に上陸するから、それ以前の文書だと思う。
六角氏は朝倉と北畠再興運動やってひたすら信長に対抗してる。
義昭側近の一色昭辰も天正3年8/24に元春に修理大夫一色義辰(一色義道)の本国丹後の儀につき
輝元御出勢の刻は本意に任せるので頼みます。 (毛利を)御馳走することは本望です。
などと言っていて毛利は丹後も傘下に収めているんだよな。
343 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 12:14:58.31 ID:RQABlMfb
一次史料をみる限り石山本願寺が降伏する以前の織田軍兵力は1万〜3万しか動員出来てない。
織田軍が攻めこんだ先は摂津や河内・大和など一国亡国と記述されるなど、
軍が略奪による現地調達方式なので多方面に敵を作るデメリット付き兵力分散して軍を養う必要性から大軍集中が無理。
しかもそこを領国にしても荒れ果ててる。よって国力の単純比較は成立しない。
信長の軍事政策にはまるで評価されるところがない。
常備軍や兵農分離なんてデタラメであるばかりか
そもそも基本である法度に従って寄子を取り締ることもしてないし
貫高に応じて負担する軍役の内容を細かく指示したこともない。
秀吉は兵站補給概念を持っていて奉行衆による計画的な物資管理や
大軍進駐に伴う排便処理による衛生管理を編み出すことで
信長には不可能だった「位攻め」戦略を多用し瞬く間に天下を統一してしまった。
位攻めとは、圧倒的大軍を用いて相手の軍の士気を崩壊させ服属を強要する戦略。
信長の現地調達方式では大軍の集中は不可能であり、
戦力崩壊を起こす攻勢限界点が存在する。
長篠の戦い直後の6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
本能寺の変勃発で千載一遇の大チャンス到来。
しかし機を見るに敏な天才秀吉の口からのデマカセ詐術に
見事にひっかかる古今東西最強のバカ兄弟隆景&元春
織田厨は相変わらず無知だな。
不利どころか毛利にとってむちゃくちゃおいしい条件だった。
なんせ備後、備中、出雲、伯耆、美作の五カ国が毛利へ割譲されると言う
話で決着が図られていたと言うスーパーいい加減なデタラメ口約束だったんだから。
だから本能寺の変直後の秀吉と毛利側の和睦起請文にはこの条件はまったく明記されてない。
これがのちのち大問題に発展する。
つうか小早川と吉川が毎回バカな方針対立するから毛利の騙しやすさは異常w
当然この時の約束なんて交渉の切欠でも何でもない。早く退却したい秀吉の口からでたデマカセ。
当初の秀吉側へ因幡・美作・伯耆半国・備中半国割譲で手打ちなんてのは途中で話が摺り変えられていたわけだ。
しかも起請文には明記していないと言う詐欺的手法で秀吉の手玉に乗せられ見事に毛利は騙された。
344 :
名無し曰く、:2012/12/29(土) 12:18:10.15 ID:RQABlMfb
信長には分国法すら無く、単に室町幕府に寄生してたら下克上された
歴史的意義の無い実質10年弱で淘汰された畿内政権だからね。
島津が「こんな遠くに秀吉はこないだろう」と思っていたのは本当
それは別にお前さんが言ってるような政治的理由なんか関係ない
博多があろうとなかろうと、島津は秀吉はこれないと思っていた
それはなぜか?距離の問題だ
適当体制の信長が武田攻め程度の距離で、兵糧におっかなびっくりになってた事実を考えてみろ
旧来の放任主義な適当体制じゃ、九州まで10数万もの兵を送り込んで維持する事はできない、
送れる兵力なんてたかが知れてる、それなら島津が遅れをとる事はない、
これが島津の目算だったし、それは実際にある程度ただしかった
信長政権のままだったら九州に大軍で侵攻する事は難しかったろうな
しかし、当時には東国で既に今川・武田・北条・上杉をはじめとして領内に細かく指示を出して、領国を整備・掌握し、
それによって軍役や軍事力の構成、さらには兵站を円滑化させようとする試みが進められ、成功していた
秀吉はそれと同じような要領で、信長がそれまで手をつけなかった畿内の流通や利権の掌握・整備を進めていき、
10数万もの大軍を九州まで送り込み、維持する事が出来る体制を作る事に成功したわけだ
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
武田や北条では常識だったが貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
345 :
名無し曰く、:
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに
まずは小手調べで賀茂〜嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
恐ろしくなった上京が払った銀1300枚の受け取り拒否した上で上京を焼き討ち略奪。
(信長に金を渡しに行く際に織田軍に略奪され、改めて高利貸しから借金して信長に渡すなど酷い状態になったりした)
御所への延焼の恐れが出てきて天皇も逃亡準備。桂川が死体で埋め尽くされる大虐殺開始。
下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
しかしあっちゃこっちゃ延焼しまくりで火だけは統御できない。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
しかしもう恐喝できる相手すらいなくなり
みんな貧民だらけになってしまう現実・・・