1 :
名無し曰く、 :
2012/08/21(火) 12:10:16.51 ID:DWBTqz4o
2 :
名無し曰く、 :2012/08/21(火) 13:09:37.62 ID:ejYx7yr6
朝鮮、関が原、大阪の陣の戦いは参考記録でいいんじゃね? これらの戦いは団体戦というか権力者を利用して手柄を稼ぐという側面が強くて いままでの個人の力量で相手を倒す戦いとはちょっと趣が違う
3 :
名無し曰く、 :2012/08/21(火) 13:51:54.91 ID:Bb0SHMQp
>>1 糞スレ立てるな 能力が気にいらないならエディットで弄ればいいだけの話
4 :
名無し曰く、 :2012/08/21(火) 17:27:32.35 ID:w0bxOy7J
それ以外もほとんどは別に個人の力量ってわけじゃないだろ
5 :
名無し曰く、 :2012/08/21(火) 18:05:46.25 ID:DOHfemFV
前スレの
>>982 稲葉ってそんなすごい武将やったんやな
戦歴多いだけど普通の武将かと思ってたyo
6 :
名無し曰く、 :2012/08/21(火) 18:42:24.40 ID:k6lKSYuj
>>5 姉川では信長が家康に誰か貸そうと言ったら家康は迷いなく稲葉を指名し
徳川と稲葉が朝倉を圧してそのあと浅井に圧されている信長を救うために稲葉が浅井に横槍を入れて
ともに勲功第一第二となっています
隠居後になるものの、九州征伐から帰った秀吉は息子貞通に
九州には一鉄ほどの暁将は居なかったと言っています
再レスすると
織田が尾張・美濃制圧まで苦労して
そこから一気に畿内制覇して信長包囲網にも耐えたという史実を再現しやすくするための
東海関東勢をインフレさせたり近畿勢をデフレさせたりという現状を改善するには
稲葉(と美濃衆)の上方修正は有効だと思うわけですよ
現・稲葉一鉄
78 70 72 71 291 槍衾之二 B B D D C 1515 1588 A 41
ALL+8以上で
86 78 80 79 315 捨奸 B B B D C 1515 1588 A 41
7 :
名無し曰く、 :2012/08/21(火) 19:47:35.52 ID:78hV694I
美濃の武将だからある意味当然かもしれんけど、遊撃隊ってイメージだなー でも政治とか上げる程の事やってたかな、適性の方がいいんじゃね?
8 :
名無し曰く、 :2012/08/21(火) 19:58:25.53 ID:T46I3205
誰も突っ込んでないが政治とかそれ以前に戦法があり得ない それに稲葉は平均以上の数値もらってんだからいいじゃねえか 織田黒母衣衆で京の政務にも関わり数多くの参陣経験も持ち馬揃え二番手の蜂屋頼隆の評価をだな
9 :
名無し曰く、 :2012/08/21(火) 20:24:08.48 ID:fo8AFeyO
利家以外の母衣衆の評価は欲しいね 佐々ですら凡将クラスだからなあ
10 :
名無し曰く、 :2012/08/21(火) 21:50:06.38 ID:DOHfemFV
府中三人衆にしても信長の晩年時には10万〜20万石近く領土もらってるみたいだけど 母衣衆なんで、あんまり部隊率いての戦果や武功は聞いたことないな
11 :
名無し曰く、 :2012/08/21(火) 22:02:39.52 ID:k6lKSYuj
>>8 織田が尾張・美濃制圧まで苦労して
そこから一気に畿内制覇して信長包囲網にも耐えたという史実を
東海関東勢をインフレさせたり近畿勢をデフレさせたりせずに済むという点で
稲葉(と美濃衆)の上方修正は有効だと思うわけです
道三敗退後には織田についていた蜂屋では不可能でしょう?
政治や先鋒の事も少し調べれば分かりますよ
12 :
名無し曰く、 :2012/08/21(火) 22:33:22.09 ID:TFC1zEyK
>>2 その3つを参考記録なんかにしちゃったら
市松や虎之介の統率や武勇が佐吉と大差無くなっちゃうし
真田信繁さんなんか判断材料が完全に無くなっちゃうじゃないですかヤダー。
浅野幸長も判断材料が蔚山城の戦いくらいしか無いし。
13 :
名無し曰く、 :2012/08/21(火) 22:47:54.74 ID:T46I3205
>>11 捨奸は島津専用。車掛や赤備えと同じ。調べる必要もない
それに西美濃三人衆は安藤がやや微妙なくらいで十分な数値もらってるじゃないか
稲葉は統率・武勇はまだしも政治は過大気味だろ。なにか実績あったか?
蜂屋なんざ59 72 41 23 CDDCだぞ。政治23ってありえんだろ。実績はあるのに
森可成の政治29もそうだが西美濃三人衆以外の美濃衆の数値が適当すぎるよ
数値上は比較的マシな金森も適当感漂ってるし。美濃衆というか母衣衆の問題か?
あと美濃は長井道利の追加が欲しいところだなあ
14 :
名無し曰く、 :2012/08/21(火) 23:06:57.68 ID:k6lKSYuj
>>13 コーエーがテキトウなのは認めるけど
少し調べれば分かりますよと言われても
調べるまでもないとか言いきってしまう13もテキトウですよ
森可成も道三敗退後に織田だし
15 :
名無し曰く、 :2012/08/21(火) 23:42:17.66 ID:T46I3205
>>14 ほう。島津一族以外に捨奸がついていた事なんてあったのか。それはすまなかったな
なぜ道三にこだわるかがわからない。というか森は道三死ぬ前に織田所属だし
16 :
名無し曰く、 :2012/08/21(火) 23:56:40.54 ID:cCH6qsdc
>>15 うるさい、黙って過少の美濃衆と母衣衆の統率を上げればいいんだよ
17 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 00:07:09.44 ID:ZHLTd31o
>>15 >なぜ道三にこだわるかがわからない。というか森は道三死ぬ前に織田所属だし
だから
>>6 や
>>8 で何度も説明していますよ
そのあたりもテキトウなんですね
織田が尾張・美濃制圧まで苦労して
そこから一気に畿内制覇して信長包囲網にも耐えたという史実を
東海関東勢をインフレさせたり近畿勢をデフレさせたりせずに済むという点で
稲葉(と美濃衆)の上方修正は有効だと思うわけです
18 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 00:08:28.35 ID:ZHLTd31o
19 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 00:22:15.37 ID:Wf0AzUez
>>17 うん、それは言い方が悪かった。すまない
「なぜ道三死後に織田方についた将を上げるのを頑なに拒むのかがわからない」
苦労したのって道三時代〜義龍時代だよね。なら道三死後に寝返った面子の能力上げる方が辻褄あうんじゃねーの?
確かに勢力争いのバランスを完全に崩したのは美濃三人衆だけど、それ以前から織田方がジリジリ押し込んでるわけだしな
包囲網にしたって尾張・美濃・近江半国・伊勢に堺と掌握した織田の国力の問題じゃね?
そして俺の指摘は完全無視?
20 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 00:47:40.73 ID:ZHLTd31o
>>19 ジリジリ押し込んだ分は義龍と龍興の能力差と
徳川・浅井との同盟でいいんじゃないかと思いました
21 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 02:07:26.27 ID:wNXVPU8h
こやつ稲葉の子孫か
22 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 03:14:42.57 ID:cjTxC75c
美濃併呑後の信長の飛翔については国力の問題。 西美濃三人衆に高評価を与えるのは別に構わないが、今でも十分に評価されてると思う。
23 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 08:25:32.81 ID:ZHLTd31o
>>22 >今でも十分に評価されてると思う。
それは評価されていないと同意でしょう
信長包囲網瓦解まで美濃衆はあれだけ尾張信長のために働いた割に
織田軍団長や徳川四天王などと比べて低過ぎる
柴田勝家 90 93 53 67 303 突撃之四 C A D C B 1522 1583 A 72
明智光秀 88 85 92 96 361 烈火 B C D S A 1528 1582 A 42
滝川一益 89 81 84 54 308 連撃之四 C D D S B 1525 1586 A 67
羽柴秀吉 87 73 93 104 357 威風之備 S D D B A 1537 1598 S 45
本多忠勝 91 98 71 60 320 神槍 S A D C B 1548 1610 A 94
酒井忠次 90 78 74 63 305 槍衾之三 A C A C D 1527 1596 A 69
榊原康政 90 83 51 46 270 槍衾之三 A B C C C 1548 1606 A 81
井伊直政 86 93 72 75 326 赤備 B A D A B 1561 1602 A
氏家卜全 70 62 52 48 232 突撃之一 C C D D D 1513 1571 B 45
稲葉一鉄 78 70 72 71 291 槍衾之二 B B D D C 1515 1588 A 41
安藤守就 46 46 74 58 224 鼓舞 C D B D D 1523 1582 B 36
日根野弘就 49 76 49 39 213 槍衾之二 B C D D D 1520 1602 C 27
蒲生氏郷 85 73 81 83 322 烈火 B B D A B 1556 1595 A 78
磯野員昌 80 79 36 15 210 突撃之二 B B C D C 1534 1583 B 30
海北綱親 76 38 80 58 252 混乱 C B D D B 1509 1573 B 68
24 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 08:31:03.08 ID:0GTQR22Y
徳川四天王90三人はすごい違和感あるわ 井伊直正も86でも高い
25 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 11:41:24.42 ID:z0EUcTbb
方面軍任された軍団長より低いのは仕方ないだろ そこまで大任も石高も貰ってないんだから>稲葉
26 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 13:49:32.44 ID:/7VJJSbM
>>6 個人的に一鉄を強化したいというのには同意だけれども、
その能力の付け方はおかしいね。
上にも指摘している人がいるけれど、捨奸は歴史上島津家が行った事実に基づく島津家専用の戦法。
それを美濃の稲葉一鉄が使えたらおかしいでしょ。
さらに言えば捨奸は鉄砲戦法だから鉄砲適正Dの一鉄にはミスマッチなのね。
27 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 17:38:35.60 ID:+NcnxlNp
姉川で〜ついてるだけで非常にソースが胡散臭く見える
28 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 18:54:48.08 ID:j2p+4h6t
火牛の北条さんは他家にも取られる不遇
29 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 18:54:55.11 ID:ZHLTd31o
>>25 秀吉に安堵されたのは4万貫
正確な石高は不明ながら織田に下った頃から既に曽根の大名で
徐々に追放された安藤の領地などを貰って5万石以上の
しかも岐阜城の膝元という宿老的な地位ではなかったかと思われます
>>26 鉄砲戦法はコーエーの仕様だから仕方ないですが
捨テカマリは稲葉も用いたとされています
斥候兵を用いた戦術ということなので
軽騎兵か忍びか何かの特殊な訓練を積んだ兵士がいたんでしょうか
先駆けとしても守将としても活躍していますが、鉄砲はどうなんでしょうね?
>>27 ノブヤボは懇談もありでしょう?
30 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 18:55:52.17 ID:ZHLTd31o
訂正 懇談→講談
31 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 21:34:21.36 ID:Wf0AzUez
文体は違うが佐竹と似た臭いがするな 都合のいいとこにしか答えてないし、前提も推論から持ってきてる
32 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 21:46:13.20 ID:/7VJJSbM
>>29 捨て奸を何か違う戦法と間違えてる気がするな。
捨て奸って退却時に殿軍が捨て石となって時間を稼ぎ本隊を逃がす戦法だから、
斥候兵だとか軽騎兵だとか出てくる要素は無いよ。
33 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 22:04:38.12 ID:ZHLTd31o
>>31 文章に悪意を感じるんですけど
何か稲葉や美濃に気にいらない事がありますか?
>>32 カマリは斥候って意味ってことですが
薩摩でカマリを肝というなら別の物になりますが
どちらにしろ関ヶ原の島津よりは稲葉の方が使用は先では無いですかね?
しかしよく考えれば島津でいう釣り野伏と稲葉の捨てかまりが同じ意味って事になりますね
稲葉が用いたのもまさに関ヶ原の近くであり
その辺りでは島津の釣り野伏を捨てカマリと呼んだとかじゃないんですかね?
34 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 22:34:22.26 ID:/7VJJSbM
稲葉の捨てかまりってのがどういうものかはよく知らないから何とも言えない。 釣り野伏せと同じく偽装退却と伏兵による包囲殲滅戦術なのかな?
35 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 22:38:31.11 ID:KBOzdO2q
>>23 織田方面司令官が過小すぎるのが原因の一つでしょう
これらは謙信信玄長宗我部伊達などの田舎大名と同格の
統率にするために上げるべきだ
美濃衆は徳川四天王と能力を入れ狩ればちょうどいい
36 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 23:11:53.86 ID:ZHLTd31o
>>34 カマリとは斥候の事だという説明しか知らないので
斥候を現代的に考えれば軽騎兵で
当時ならスパイ(つまり忍び)の可能性もある
どちらにしろ関ヶ原周辺で言う捨てカマリが
偽装退却と伏兵による包囲殲滅戦術で
当たっている気がするのですが
37 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 23:20:39.09 ID:VkWptH2I
>>35 この後ID変えて長文コピペ貼るんですね。わかります。
38 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 23:23:21.07 ID:/7VJJSbM
ああ、島津のかまりは肝じゃないからね。 奸で伏兵の意味。 捨て石となった伏兵が追撃部隊を狙撃して足止めしたから捨て奸。 稲葉の捨てかまりについて、出典となった史料なり軍記物なりではどう描写されてるの?
39 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 23:26:34.34 ID:Wf0AzUez
>>33 そりゃ気に入らんよ。人の指摘についてほとんど説明ないんだもの
捨奸とか稲葉の政治実績とかもう面倒だから出展元出してくれ。できれば原文つきだと助かる
40 :
名無し曰く、 :2012/08/22(水) 23:41:10.47 ID:ZHLTd31o
>>38 長島一向一揆との戦いで退却時に織田軍は殿の氏家などが討たれている
その翌年にも再び同じような状況になった時に捨てカマリという伏兵策で功績を挙げたとか
近江で信長が危機に陥った時にも用いたとかなどで
機動性の高そうな斥候部隊を用いていたんだろうなという印象だった
>>39 織田家臣団の辞典や稲葉家譜などを基にしたと思われる資料や小説など
図書館などで調べられると思う
41 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 00:10:12.84 ID:3idg4w0V
伏兵を用いたってことしか分からないんじゃ、 正直島津のいずれの戦法とも同一視するのは難しいと思う。 捨て奸については先に書いた通りだし、釣り野伏も重要なのは囮部隊による誘引だからそういった記述がないと。 伏兵を用いるのは珍しいことじゃないからね。 本当に稲葉一鉄が捨てかまりという名の戦術を行ったのならそれは偶然の一致じゃないかな。
42 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 00:16:21.49 ID:r0fjvQaA
・・・まさか伏せかまりと間違えているわけじゃあるまいな? あと講談ならともかく小説ソースにスンナ。家臣団の辞典ってどこの何よ。「思われる」じゃ話にならんぞ 稲葉家譜の信頼性・・・これは一旦置いといていいや で、第二次長島侵攻の際の殿は林新次郎(通政)と毛屋猪介で雨のせいで鉄砲は使えなかったんじゃなかったか?
43 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 00:35:05.14 ID:QrfPBtB/
>>41 稲葉の捨てカマリ・・・斥候兵を用いた伏兵策?(長島一向一揆との戦いで退却時の危機に用いた)
島津の捨て奸・・・退却時に殿軍が捨て石となって時間を稼ぎ本隊を逃がす戦法(関ヶ原で用いた)
島津の釣り野伏・・・囮を使った偽装退却と伏兵による包囲殲滅戦術
ここで結論は出せませんが
まとめるとこんなところですか
>>42 >伏せかまり
検索するとコトバンクにこんな記事が
ふせかまり【伏せ屈り】. 草むらなどにかくれて敵の様子をうかがう者。ふしかまり。草かまり。
すてかまり【捨て屈り】. 昔,軍隊が退却するとき伏せ屈りの兵を残しておき,
近づく敵の首領などを遠矢または鉄砲で狙撃(そげき)させたもの。
辞典は織田家臣団のものだったと思われますが・・・
44 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 00:52:04.59 ID:ZD3tQB5W
それよりも天道スレに沸いてる北条sageキチガイを何とかしてくれ。
45 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 06:24:31.76 ID:k04wz15K
政治は北条じゃなくて家康トップにしろ
46 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 07:56:02.76 ID:YdAa+dMg
いや、秀吉がトップで
47 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 09:34:38.68 ID:R5fuuo9v
いや信長・・・は政治トップじゃなくていいか。 氏康一人なら信玄とのバランスとか言い訳できたが 北条三代で政治トップ3は明らかにやりすぎ。
48 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 12:00:46.05 ID:PBWBLaGf
地方大名として北条が政治トップは文句ないけど 天下人よりは下が良い
49 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 12:27:18.69 ID:iHQM4brM
トップ3は三傑だろ 信長は商業 秀吉、家康は外交 ってイメージだけど
50 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 16:08:18.13 ID:5JRGpuKO
政宗は高過ぎ!
51 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 18:56:25.70 ID:wCuPAM6z
浦上政宗?
52 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 19:13:29.99 ID:PBWBLaGf
どうでもいい話だけど 浦上政宗の息子にも忠宗て名前がいてワラた
53 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 20:09:36.76 ID:9/cIIkiy
秀吉は戦国一の梟雄 家康は農家
54 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 22:28:11.98 ID:TOkzKgTv
天道・天道PKから新規追加された武将は一部(大内義隆、波多野種通など)を除いて全員全能力−10が妥当。 明らかに天道から能力値70超えの敷居が低くなってる。適正も不自然に優秀。
55 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 22:35:38.79 ID:S6FrHMPZ
インフレしてるのは天道からというより革新からだと思うが
56 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 22:39:30.19 ID:xHoU+Ti5
>>50 政宗だけでなく地方大名の謙信が統率トップはおかしい
天下人の三人がトップ3だろ
57 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 22:59:38.19 ID:fdDvBv63
秀吉は本多正信強化版みたいな能力だろ。 ・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める ・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる ・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける ・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される ・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる ・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する ・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る (しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの 法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい ) ・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される ・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態 前田が兵を引いてなんとか助けられる ・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる ・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない 無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し 池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる ・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される ・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される ・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる ・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を 正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも 雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす ・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、 家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、 なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう ・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す ・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する ・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす ・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず 緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする ・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず 手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで 追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態) ・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる ・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する ・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない ・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない ・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う ・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、 国内を大いに疲弊させる トップ3どころかワースト3に入るレベルだと思われる 何せ直接対決で日本3大雑魚凡将の氏政・輝元・信雄に敗北 しかも会戦状況でいえば敵は圧倒的に寡兵&寝返りばかりで秀吉側に圧倒的有利
58 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 23:00:11.05 ID:fdDvBv63
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉 織田家中でいえば 柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>原田、川尻、日根野、金森、前田、池田 >>>>>>>>>>>秀吉 こんなもん 長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは 戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や丹波の赤井氏など国人が蜂起している事 それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ 長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然 池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟・森長可他1万人戦死 結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して 結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか 弱いにもほどがある しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国 ちなみに捏造でいえば信長や秀吉の方が遥に酷い。 83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり 84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり 紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり 尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶 秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。 徳川が捏造したなどとアホみたいな妄想を毎回語る馬鹿は消えろ 長篠の戦いも本当は武田圧勝だったけど徳川が捏造して織田徳川圧勝だったとかそういう話でもするか?
59 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 23:01:09.66 ID:fdDvBv63
秀吉の三大デタラメ ○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦 圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ ○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ ○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ 単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし 北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。 逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。 徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上 上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。 家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで 数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り 勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末) 山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚 家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため 尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は 企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に 上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、 駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、 伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る) 佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、 松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。 以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。 長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った 石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。 したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』) 圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。 別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。 織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。 本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は 初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。 そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは 自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。 長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田 等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
60 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 23:01:54.42 ID:fdDvBv63
秀吉は、織田四天王の中では一番雑魚。 直接交戦での戦績からそれがよくわかる。 滝川にまけ柴田に負け明智にまけ、それを勝った勝ったと揉み隠し しまいには輝元、氏政、信雄の日本3大凡将に大敗し天下失ったゴミ武将 箕浦合戦や金ヶ崎の退陣で秀吉の奮戦で撤退できたというのは講談 池田勢中心で奮戦したから撤退できたというのが最近の説。 いかに講談や軍記類で秀吉が基地外のように持ち上げられてるかわかる事柄のひとつ。 信長が殿に使ったとしたらよっぽど雑魚だから死んでも構わんと思ってたんだろうね
61 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 23:02:43.05 ID:fdDvBv63
秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚 毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが 備前・美作方面に出兵すると大苦戦 元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい 絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ
62 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 23:03:52.16 ID:fdDvBv63
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな 織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して 大きく勢力拡張 山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて 戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ 毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず 勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
63 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 23:04:28.25 ID:fdDvBv63
○長久手合戦の戦死者は1万人以上 4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り 5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人 フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人 戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平 佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市 梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎 森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太 また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。 アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが 文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ ちなみに 家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており 3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
64 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 23:06:40.82 ID:fdDvBv63
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。 信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡 石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で 母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる 圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。 上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し 徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。 宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。 長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った 木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。 単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし 北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。 逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。 徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上 上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。 家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで 数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り 勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末) 山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚 家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため 尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は 企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に 上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、 駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、 伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る) 佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、 松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。 以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。 長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った 石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。 したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
65 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 23:16:30.01 ID:lsSRbdZW
>>23 取りあえず秀吉を織田四天王とか言ってる時点でお前がにわかなのはよく理解できた。それはどこかのコピペかい???
66 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 23:17:52.06 ID:lsSRbdZW
67 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 23:31:04.61 ID:fdDvBv63
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。 この状況で前田や金森らが兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。 秀吉は軍事的才能が致命的に欠如していたんだろうな この戦いに限らず常に圧倒的大軍で寡兵の敵に敗走、大苦戦、大損害。 織田兄弟で最も無能な信雄ごときに苦戦する雑魚はそうそういないだろう。 信雄がもう少し基盤の強い土地で防戦できたら秀吉は蟹江あたりで戦死してたんじゃないか。
68 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 23:32:30.51 ID:fdDvBv63
上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が わずか22000程度で寝返り続出中で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!! ってまるで漫画だな。 アホすぎる さすが戦国最強豊臣軍
69 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 23:36:56.43 ID:fdDvBv63
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら 信雄が種種懇望してきたと書いてる 完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ 11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である 11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので 講和について同心した。 11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状 これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ 実際秀吉の予定とは全く別 ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中 戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない 実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態 んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回 ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力 どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです 本当に(ry ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない 3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束 3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛 美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう 伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで 楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、 信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止 3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると 圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。 そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって 尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
70 :
名無し曰く、 :2012/08/23(木) 23:59:28.73 ID:5JRGpuKO
直接交戦は雑魚だけど、それでも天下を取れた所が秀吉のすごい所。 かなり運も合ったけど。
71 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 00:22:22.65 ID:BmLmdobu
政治 統率 知略 信長 103 98 98 秀吉 120 25 120 こんなもんじゃね
72 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 00:25:30.90 ID:g+cLSWPf
秀吉の統率それはねーだろ
73 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 00:30:01.77 ID:09AHibtu
秀吉の戦はどうか分からんが、それ以外は統率高いのでは
74 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 01:17:14.87 ID:jgDs+d8x
秀吉で統率25とか出してたら地方武将が小数点切ってまうわ
75 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 01:21:52.99 ID:BmLmdobu
政治 統率 知略 信長 103 98 98 秀吉 120 25 120 こんなもんじゃね 秀吉が統率87なら他の有力大名なんか200か300くらいないとおかしい 何せ雑魚に蹴散らされる事で有名な信雄・氏政・輝元の日本三大凡将に大敗したレベルだし 秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな 大嘘もいいとこなんだが。 松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし 小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
76 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 01:23:34.25 ID:BmLmdobu
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
>>67 天正11年の滝川征伐でもボロクズのようにやられてるよ
3/4柴田勝家→填島宛書状・滝川一益事書
大軍率いて滝川軍を攻め崩そうと出てきた秀吉は桑名攻防で一益の鉄砲隊と足軽隊を交差した奇襲戦術にあって大苦戦
結局柴田が倒れて単独で抗戦しきれなくなって降伏しただけだしそれまで兵糧攻めにしようとしても
抗戦が激しく手に負えない状態だった(桑田氏論文)
秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚
毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが
備前・美作方面に出兵すると大苦戦
元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい
絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ
毛利輝元って大友や尼子残党や宇喜多や河野やらに苦しめられまくった戦国屈指の凡将なんだが
秀吉にだけは勝ててるんだよな。熊見川・祝山・備前児島をはじめ美作攻防。
宇喜多も不運だったわな。単体なら勝てる相手に秀吉が出てきたせいで足引っ張りまくって。
77 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 01:25:35.00 ID:BmLmdobu
直接交戦の結果からわかってる情報を整理し確定している組み合わせを出して 能力評価する。 武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝 岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる 武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え 最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず) 姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田 よって武田>>>>>徳川>>>>織田 毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに 結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名 よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると 武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出 信玄>>>>>家康 三方が原 家康>>>>信長 姉川 謙信>>>>柴田 手取川 謙信>>信玄 川中島 家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決 柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳 滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防 北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐 織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防 北条氏直>>滝川 神流川 秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線 宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐 上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防 上杉景勝>北条氏直 天正壬午 仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる) 信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された) 島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって 数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、 豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない) にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ 武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も 出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> 圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく やられまくった毛利 これらを元に数値をつける 120 上杉謙信 110 武田信玄 100 徳川家康 97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家 96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝 95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就 94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益 93 立花道雪 北条氏直 相馬盛胤 92 織田信忠 91 島津家久 伊達政宗 90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高 酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴 20 羽柴秀吉
78 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 01:26:23.00 ID:BmLmdobu
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ 謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで 戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利 前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田 戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄 徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで 譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川 まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津 わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条 秀吉は伊賀攻めで大敗した暗愚の凡将織田信雄より戦下手。 信雄家臣の吉村・木造などに大敗した雑魚
79 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 01:28:16.73 ID:BmLmdobu
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから 経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな 秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。 何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w 犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東) これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には 芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺 にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。 家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。 中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。 単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う 野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、 あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら 戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。 中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし 支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、 南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし 夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを 荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ 当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると 夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより 秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる 7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり 途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。 奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。 しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした 正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから 朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる 敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。 織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
80 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 01:29:13.55 ID:BmLmdobu
>>67 秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
81 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 01:30:35.12 ID:BmLmdobu
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。 秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から 遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる 織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず 池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。 秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却 池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。 別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる 秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因 兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし 家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい 結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな 木曽川筋のわずかな城を落としただけで 南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして 権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし 黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、 三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。 三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。 合戦時の陣立書にもはっきり名前がある 秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる (4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある) 松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して 攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる 伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。 堀と長谷川は中入り組。 (戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる) 3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、 池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。 この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で 「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。 丹羽長重も派遣されてる。 信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる 北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は 秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、 蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、 長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、 蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、 越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、 長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。 長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
82 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 01:32:52.15 ID:BmLmdobu
大友や宇喜多にゴミクズのように蹴散らされた雑魚毛利に大敗した秀吉 史料総覧 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記 [参考]備前軍記 [参考]浦上宇喜多両家記 [参考]陰徳太平記 [参考]御答書 [参考]總見記 [参考]柏崎物語 【管理番号】020100216456 【編/冊/頁】10編911冊179頁 【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条 【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、 自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書
83 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 05:53:28.69 ID:UHmHS2kz
長文マンまたでたか
84 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 06:20:12.06 ID:g+cLSWPf
コピペはおわった?
85 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 09:11:00.64 ID:e1iNEuP/
だがは今ここが主戦場か 三傑謙信玄佐竹北条は他でやれとあれほど言われとるのに
86 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 11:42:06.90 ID:09AHibtu
能力合計 ベスト20 天道 1. 武田信玄 382 (110 82 96 94) 2. 織田信長 380 (100 89 94 97) 3. 徳川家康 377 (96 87 94 100) 4. 太田道灌 376 (99 88 99 90) 5. 北条氏康 376 (96 79 94 107) 6. 北条早雲 369 7. 伊達政宗 367 8. 毛利元就 365 9. 真田昌幸 362 10. 明智光秀 361 11. 今川氏親 360 12. 斎藤道三 359 13. 北条氏綱 358 14. 佐竹義重 357 15. 羽柴秀吉 357 16. 長宗我部元親 356 17. 上杉謙信(♀) 356 18. 朝倉宗滴 353 19. 上杉謙信(♂) 353 20. 鍋島直茂 350 20. 大内義興 350
87 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 11:43:31.86 ID:09AHibtu
太田道灌って、ここまでの名将なんか?
88 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 11:51:13.67 ID:RIXToZ/5
レジャンド枠 生涯無敗だったから統率は高くていいけど 政治まで異様に高い理由はわからん
89 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 11:51:34.66 ID:RIXToZ/5
×レジャンド枠 ○レジェンド枠
90 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 12:00:21.50 ID:6FdJSEM7
まあ、江戸城を造ったし、上杉家家宰として辣腕を振るったのだから 政治は普通に90あっていいだろう。 むしろ暗殺されちゃったのに知略99が謎
91 :
質問 :2012/08/24(金) 12:10:42.55 ID:uLrfXS88
>>81 >黒田官べえはきてる。
中入りに備えて(?)3月下旬に岸和田の兵を呼び寄せて
4月11日には長久手の大敗の後に官兵衛も陣立てに加えられているのはわかったけど
どの時点できたのが確定なんですか?
92 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 12:20:50.12 ID:1oUlSSrw
>>90 90はねーよ
有名大名や5奉行、老中クラスだし
93 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 12:23:26.65 ID:6FdJSEM7
94 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 12:24:26.79 ID:6FdJSEM7
95 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 12:27:32.80 ID:2jn36i1j
昌幸って基本は防戦が中心で最終的にも小大名に収まったわけだし 他の地方覇者達と並んでるの見ると少しスケールが小さい気がするんだよね
96 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 12:33:59.41 ID:09AHibtu
>>95 たしかに。
能力低くして防戦の高い特技付けるのがいいな。
97 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 12:34:11.70 ID:RIXToZ/5
>>93 で、実績は?
まさか当時は砦のような江戸城たてて
家宰として力奮っただけで政治90になるの?
98 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 12:36:16.61 ID:AxK5PlOH
政治どころか知力も高い 総合4位とかありえない
99 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 12:44:10.52 ID:1oUlSSrw
武蔵半国の大名の家宰が総合4位だもん ないない その能力なら関東制覇くらいして
100 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 12:47:43.75 ID:/9YtKNGg
太田道灌が足軽戦術の創始者っていう伝説は本当なのかね それによって能力値は変わってくる
101 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 13:13:16.07 ID:o3BG84or
>>95 昌幸だけ場違い感あるよな
10万石の大名が総合トップ10入りってのは、(人によっては政宗・光秀もそう感じるかもしれないが。俺は許せる)
102 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 13:14:08.75 ID:p0dPwG+F
同感
103 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 13:26:44.85 ID:6JniE+sX
ネタ伝説っぽい奴は武勇知略適正戦法でなんとかしてほしいんだよなあある程度割り切れるから 統率政治はしっかりきめてほしい
104 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 14:19:52.47 ID:09AHibtu
>>103 武勇よりは、しっかり決めてそうな。
統率 TOP20 天道
1. 120 上杉謙信(♂) 車懸之備 武勇No,3
1. 120 上杉謙信(♀) 車懸之備
3. 110 武田信玄 不動之備 知略No,19
4. 107 立花道雪 鬼槍
5. 100 織田信長 覇王之備
5. 100 大内義興 威風之備
7. 99 長尾為景 車懸之備 武勇No,6
7. 99 太田道灌 鬼槍 知略No,8
9. 98 真田幸村 影突 武勇No,2
10. 97 北条早雲 火牛 知略No,12
10. 97 真田昌幸 火牛 知略No,12
12. 96 北条氏康 槍衾之極
12. 96 徳川家康 鉄壁之備
12. 96 伊達政宗 竜撃
12. 96 島津家久 捨奸
16. 95 長野業正 槍衾之四
16. 95 立花宗茂 突撃之極
16. 95 鈴木重秀 連撃之極 武勇No,10
16. 95 朝倉宗滴 突撃之四
20. 94 佐竹義重 鬼槍
105 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 15:46:31.06 ID:GPrzd8ic
政治 TOP20 天道 1. 110 北条氏綱 2. 107 北条氏康 統率No,12 3. 105 北条早雲 統率No,10 知略No,12 3. 105 本願寺蓮如 5. 104 羽柴秀吉 6. 100 徳川家康 統率No,12 7. 99 石田三成 8. 98 大久保長安 8. 98 細川藤孝 8. 98 村井貞勝 8. 98 毛利元就 知略No,2 12. 97 今川氏親 12. 97 織田信長 統率No5 12. 97 六角定頼 15. 96 明智光秀 15. 96 太原雪斎 知略No,12 15. 96 長束正家 18. 95 斎藤道三 知略No,7 18. 95 島津義久 18. 95 本多正信 知略No,6
106 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 18:12:33.37 ID:wRCKBc1w
日本語がわからんから、コピペしか出来ないんだろうなw
107 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 18:29:43.53 ID:Sd6Seuvd
>>105 毛利元就は政治過大80台で良い。
織田信長は政治過小105にして良い。
他は良いんじゃない。
108 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 18:42:41.26 ID:mtx4AKsj
世界ナンバーワン都市江戸の基礎を作ったんだからむしろ政治過小なぐらいだろ
109 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 20:02:58.63 ID:TmeO6QQb
別に家康は今のままでいいだろ その分、長安や正信がいるんだし
110 :
名無し曰く、 :2012/08/24(金) 22:14:51.38 ID:BmLmdobu
>>91 3/24日秀吉→黒田長政で中村6000のみを岸和田に残し残りを全て尾張口に来いといっていて
合戦時陣立書に名前がある
ちなみに6月下旬〜7月頭にかけて急行軍でも何でもなく大阪〜伊勢樟本まで秀吉はわずか2日で移動し帰陣している(家忠日記)
ちなみに秀長は松ヶ島を攻めていたため黒田と同陣したわけではないので秀長の着陣の時期とは関係ない
111 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 00:50:16.29 ID:Gv4wqGGz
道灌は主君に危険視されて殺されているんだから政治知略にマイナスくらうだろう
112 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 02:45:13.87 ID:zVTB9OFC
北条の過小評価が異常過ぎる
113 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 03:23:35.53 ID:iqQxq2le
つーか天道の北条はネタ大名だろ それこそチュートリアルを見れば明らか 天道と同じ響きの天童兄弟の能力を盛ったように チュートリアルを飾った北条一門の能力を大幅に盛った それだけのこと 北見はサービスのつもりなんだろうな
114 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 04:29:35.26 ID:t/NStoLa
>>110 つまり最後尾に美濃守(秀長)がいる4月9日の本陣?西備えの陣立書の
前野1000、生駒400、黒田550、蜂須賀1000、明石500、赤松500が
中村6000を残して岸和田からやってきた連中という訳かな?
前野と蜂須賀は尾張が地元だから兵が増えている可能性はあるのかな?
115 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 06:26:48.71 ID:lxpzb/Q3
>>112 家臣はともかく
当主一門に限ってはかなり強いやん
116 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 06:53:50.95 ID:3DcxsN12
>>113 ネタなら早雲は革新のまんなで良さそうなものだけど
天道で微妙に下方修正してるあたり、肥はこれが妥当な評価と思ってそうで怖い
氏康は革新初期から一貫して過大だし
>>105 とりあえず北条三代と蓮如、元就、藤孝、道三、義久をカットして政治94以下に押し込めば妥当かも
117 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 07:27:54.94 ID:XH+B/vEs
北条が過小に見えるのは国力の方だな。 どのシナリオでも領土が競合する国があると北条が割りを食ってるから。
118 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 07:37:01.57 ID:0g43Cad2
国力はスレ違い 北条厨は過大と言われると国力ガーと喚くねw
119 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 08:18:43.77 ID:77djEBIb
国力で割り食ってるのは北条に限った話じゃないのにな
120 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 08:36:02.00 ID:5O6YGgvN
>>116 蓮如は政治98くらいあってよい
当時衰退の極みで軍事力も皆無に等しい本願寺を
あそこまで広げたのだから
121 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 10:41:02.85 ID:Xd5wPNG3
蓮如は日本宗教史上屈指の傑物だからねぇ 時代が違うけど
122 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 18:17:23.26 ID:4Xhx2ixw
俺が北条の能力決めてやる 北条氏康 93 79 91 103 北条早雲 91 69 97 100
123 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 18:59:27.28 ID:lxpzb/Q3
あ 割と良い感じかも
124 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 19:22:43.70 ID:mQHi9SSf
全然 氏康政治トップはガチ
125 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 20:20:42.51 ID:KGM5ljle
というか斎藤道三って領内統治に関しては最悪だったから 息子が謀反起こした時も道三側についたのが殆ど居なかったっていうじゃん。 外交手腕なんかの政治力考慮に入れても流石に90越えは無いんじゃない?
126 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 20:44:09.29 ID:lxpzb/Q3
信秀の統率と道三の統率入れ替え 道三の政治を信秀に 信秀 大軍での大敗経験もあるのに統率高すぎ 逆に政治は経済上手なのに今のは低いな
127 :
名無し曰く、 :2012/08/25(土) 22:00:38.38 ID:vSVrlZsW
能力とかだいたいでいいんだが。 というよりシミュレーションなんだし 歴史をもう一度やったら、能力も変わって良いと思うんだよ。 実は斎藤龍興が強くて天下取りましたみたいな。
128 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 00:39:52.07 ID:YdKYpE7P
>>126 馬鹿か、大軍を率いたことがあるなら高統率にするべき。
129 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 01:58:12.64 ID:ZedhWTNe
龍興って評価酷いけど実際どうなん
130 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 02:08:24.23 ID:j3qaJR5w
降伏後、朝倉氏に最期迄付き従った立派な将
131 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 10:49:44.52 ID:WRfvuQRJ
道三ぶっ殺してからほとんど何の戦いもせずに 死んだ父親の義龍に講談小説補正で 統率吸い取られまくり
132 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 11:21:29.33 ID:qGcbROpR
跡を継いだ時点で14歳、信長に追放された時点で20歳。 家臣の助けがあったとはいえ、この間何回か信長撃退してるのに 小説や講談補正でボンクラ扱いは酷い
133 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 13:08:52.81 ID:iGknGXIH
同じように信長に善戦した朝倉義景のイメージも悪いな
134 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 13:35:01.80 ID:mMlfeFK3
信長は軍事能力的に大したこと無い、という今までのイメージで 「勝って」しまうと、原因を「相手が弱かったから」という理由に押し込められるからこうなるのよね カエサルもポンペイウスに勝ったのは「ポンペイウスがヘタレてたから」ってことになりがち。 強い信玄と互角に戦った謙信は強い。その謙信と互角だった信玄は強い。その信玄と互角だった謙信は強い。 っていう無限アウフヘーベンが出来る信玄謙信とは対照的
135 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 13:40:05.11 ID:busp8Xb3
なんでか知らんが、信長に善戦した武将はボンクラで、信玄に善戦した武将は名将なんだろ。 大軍を率いたことがあるなら高統率なんかな? 一番の大軍率いたのは秀吉で、秀長も結構大軍率いている。
136 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 14:13:30.98 ID:jz7iIiOR
「善戦」という曖昧な言葉でくくる詭弁w 自家を滅ぼした龍興義景は馬鹿殿扱いされ、 自家を保全拡大した武将は相応に評価されるだけ
137 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 14:16:14.38 ID:busp8Xb3
>>136 義景だってがんばって若狭手に入れなかったっけ?
138 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 14:24:31.01 ID:jz7iIiOR
だから何?
139 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 14:26:14.91 ID:Adm1L/q8
なんだよ頑張るとか頑張らないとか 厨房の部活かよ
140 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 14:31:47.19 ID:mMlfeFK3
又兵衛、黒田家やめるってよ
141 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 15:59:10.25 ID:mIX/3/IP
武田も上杉も、領土が上洛ルートにあったら滅ぼされてるから
142 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 16:20:41.24 ID:BuhUIqDv
>>128 つまり桶狭間の戦いは信長より大軍率いた義元を評価
包囲網大軍相手に押されまくってた寡兵の信長は包囲網勢より数段格下ということだな
>>135 なんで国力や政略や調略でかき集めた軍勢数の多さが戦のうまさどうこうの話に摩り替わるだアホ
過去レス無視して妄言垂れ流してんじゃねぇよw
>>いちいち反論するのがめんどくせーが、とりあえずランチェスターの法則は野戦じゃなくて会戦だよ
野戦と会戦は違うのか同じだろ
>>要するに、双方が決戦した場合の話であって、野戦においての攻勢側・防衛側
野戦において攻撃側も防衛側も結局の所平野部に出て戦うんだから結局何も変わらん
>>城攻めにしても、単に守備兵力が充分に動員される前に戦略機動による戦力の
>>適時集中で落としたというだけだろう
具体的にどこの事か知らんが守備側はなぜ戦力は分散し十分に兵力が整わないのに攻撃側は十分な兵力で叩けるのか不明
そんなら余計攻撃側の方が有利という事になる
>>戦上手という話にはなるが、それは戦略的に機先を制したためだ
なぜ防衛側の方が兵力を分散し攻撃側が集中して一城を攻められるのか不明
>>そうではなく、体勢を整えて防衛された城というのは、やはり三倍程度では落ちない
むしろ逆で2倍かそれ以下でも落としまくっている
>>そもそも、徳川三河などは、三方ヶ原での野戦で敗れており、基礎となる兵力を 消耗させられていた、という点もあるのだしな
普通なら城に篭もられていてガチガチに防衛されてた所を信玄の神采配で城からつり出して大破し圧倒的被害をもたらした信玄はどんだけ強いんだという話になるわな
俺は別に普通とはいわないまでもそうそう誇張する程のことでもなくこのくらいの兵力比なら普通だと思うが
>>別働隊は他も〜などと言っても、お前が例に出したのは「一定程度の国力」どころか当時では屈指の大勢力ばかりじゃねーか
一定程度の国力もない勢力がなぜただでさえ少ない兵を分散させるのか不明
ただでさえ不利なのにそんな事したら瞬殺されるのが目に見えてるし兵の分散に当たる別働隊の編成なんぞ一定程度の国力を持つ大名しかしないんだからそういうのが例に挙がるのは当然
>>で、開けた平原で行われてるとか何とかも言ってたが「だからこそ」だと気付け
平原での戦闘の主導権がなぜ兵の少ない方になるんだ?
>>「連なる山脈の谷間と、開けた盆地・平原しか戦場に出来なかった」という事は
>>山脈の谷間など、限られたルートしか軍隊の機動が出来なかったという事で
谷間と盆地・平原てかなり特殊な条件だな。しかもそんな場所なら見晴らしがいいから敵が待ち伏せしてても容易にわかるだろ
しかもなぜそこにつながるルートが限られているんだ?東西南北どっからでも機動できるだろ
それができないような僻地なら防衛側もろくな防戦なんぞできない。基本的に攻撃側が兵をうまく展開して
戦えないなら防衛側もそうそううまく兵を展開なんぞできないしもし防衛にそうそう適した地なら別方面を迂回するなり
別働隊で撹乱するなり挟撃するなりするか、そもそも戦わなければいいだけ
>>あり、軍隊の機動の自由が限られていた何よりの証拠だろうが
軍隊の機動の自由が限られた地なら防衛側もろくに防戦なんてできない
>>そして、その様にルートが限られているのだから、大軍を多数に分けて進軍させる
>>だのというのは、そもそも物理的に妄言だと分かるな
例えば山が二つ連なっていても攻撃側は一隊で敵の正面、別働隊は背後か横からというように敵を撹乱可能
また奇襲どうこうをいうなら攻撃側から夜討ち・朝駆けも可能
>>まあ、無理にやったとしても、今度は各隊が分散して連携できず、各個撃破の標的
なぜ兵数に恵まれていても2隊にわけたくらいで負けるのか不明
よほど相手が強いか味方の戦術作戦に問題があったかとしかいいようがない
分散した所を狙ってくるのならそれに構えて陣地を構えて防戦するか敵が襲ってきた所を
編成した別働隊で後ろから襲撃させて勝利確定
基本的に大軍側は敵が鬼のように強いか敵の情報収集にかまけるか油断した雑魚だけが負ける羽目になる
>>ナポレオンの分進合撃が何故軍事上の革命であったのかといえば、今まではそういった
>>要素のために不可能であったからだ。お前が考えるほど易しい行いではないのだよ
戦国の戦争なんて装備も戦術も戦い方も単純だしゲームみたいなもんだろ。
そんな当たり前の戦術も理解できず大軍にもかかわらず敗れ去ったのが戦下手の雑魚
143 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 16:22:05.24 ID:BuhUIqDv
>>寡兵は兵の管理が容易で
妄想乙。寡兵の場合は敵の大軍に気圧されて兵の離散逃亡士気低下裏切りが多く
兵の管理どうこうといったレベルでなくなる事が多い。高遠攻防をみればわかる
>>大軍で勝つ方が難易度が高い
戦争なんて兵の数が圧倒的に物をいい特に野戦の場合では兵力比の2乗が戦力比の2乗に比例するほどおおきな意味を持つ
規模でいえば圧倒的に寡兵で勝つ方が不利
戦争においては圧倒的に兵の数がものをいう。史料にないにもかかわらず大軍の統制が取れず負けたとか妄言が通るなら
寡兵側は圧倒的大軍に威圧されてビビリまくり萎縮して士気が下がりまくり脱走裏切りでまくり物資もほとんどなく飢餓同然で矢玉も玉薬もなくて負けたみたいな主張もいくらでも通るわけで
難易度でいえば兵力差における戦争への重大な影響度を考えれば寡兵の方が遥かに難しい
防衛側は兵力が劣り戦略的に見ても主導権を取られやすく特に野戦では兵力比がもろにでるので圧倒的に不利
寡兵側が勝つには敵の油断をついて奇襲するなり見事な用兵で敵を味方陣地深く釣り込んで殲滅するなりしないと無理
普通にガチンコでやりあえばまず大軍側が100%勝つに決まっている
>>仮に大軍で負けようと大軍を運営してる武将が最高統率であるべき
そんなもんは国力や政治力や調略で現せばいいだけで戦のうまさどうこうとは全く関係ない
攻撃側が戦闘をしかけなければ戦闘は発生しないんだから攻撃側が戦場の決定権やそもそも戦闘を行うかどうか自体攻撃側が主導権を持っているといえる
>>組織運用上の話をしているんだから、現代でも戦国時代でも難度が上がるのは同じだよ
問題は兵の多寡による戦闘への影響度を話てるのに全く状況も命令内容も異なる現代の課長なぞだのの話が出るのか意味不明
>>むしろ、組織が整ってる現代の方が苦労は軽減されているんだから、戦国時代の方が ずっと大軍を率いるのは難しい
妄想乙。現代は組織が整おうが社会が複雑化・多極化し戦国の合戦みたいな戦術も命令も単純な物しか出されない時代などと
一緒くたにするのが間違い。大体戦国時代の人が書いた書物で現代のもののような複雑で論理性が読み取れる文章なんぞない
>>分かり易い様に例えているのに、それを「関係無い例」と耳目を塞いで逃げようとするな
全く関係ない話をして兵の多寡による戦闘での優劣への影響度をごまかそうとしている馬鹿に言われる事ではない
>>0 人に言う事を聞かせるのと、50人に言う事を聞かせるののどちらがより難しいか
お前のようなアホなたとえをしてやろう。50人いる会社と500人いる会社、さて会社としてどちらが平均所得が高いか?
企業として競争した場合、一人一人の能力が互角ならどちらが総資産で上になるんだ?考えてみろよアホ
>>武力や知略がお飾りだ、というのはコーエーのゲームバランスに文句を言えよ
ゲーム上でも史実でも武勇なんぞおかざり程度にしか影響がなく、史実をゲームに再現するために設定された能力値において
部隊の攻撃力防御力士気闘志上昇速度に影響与える「戦闘力」を表す統率が戦闘数値でないとか意味不明。とりあえず贔屓武将の統率age馬鹿はromっててくれ。
>>単に信長・信玄・家康が非凡なだけだろう。大軍を上手く動かすだけの能力が
大体の武将が敵兵力に比して味方兵力が少ないとき程苦戦している。伊達・長宗我部・島津。
いかに兵数が多ければ多いほど戦闘が有利になるかなんてアホでもわかる
144 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 16:23:59.02 ID:BuhUIqDv
>>間接的にしか関われないのに、結局は勝っているなら、これは指揮能力の高さを 証明している
とりあえずお前のダブスタ。大軍で負けても統制が難しかったから大将のせいではない。なのに大軍で勝ったら大将のおかげ
もういい加減にしろ
>>指示の徹底が難しくなった例など、枚挙に暇が無いと思うがな
史料に明らかに出ているならともかくないならそんなもんは妄想としかいいようがない
そんなら寡兵で負けた側も脱走兵でまくり、大軍にビビリまくり、裏切りだらけになって負けたとか史料になくても主張していいことになる
>>また、死兵になれば各自がより一丸となって敵に当たるので、統率がしやすく
妄言乙。高遠攻防でもおおかたの将兵は武田を見捨ててまともに抗戦したのはごくわずか
>>寡兵側に参陣した兵は、死兵となったからこそ良く指揮を守った、とも言えるだろう
そんな妄想言われても。そんな史料にも出てないのに主張するのがありなら
寡兵側は圧倒的大軍に威圧されてビビリまくり萎縮して士気が下がりまくり脱走裏切りでまくり物資もほとんどなく飢餓同然で矢玉も玉薬もなくて負けたみたいな主張もいくらでも通るわけで
>>それと、美濃攻めでも信長は別に寡兵だった訳じゃないんだが
信長の戦の中では敵兵数に比して自軍の兵力比が少ない状況だったといえる。少なくともその後の機内侵略に比べれば。
>>何でってお前、例えばだが、部長の仕事が課長の仕事より楽だとか思ってるの?
なんで戦国時代の率いる兵の多寡での優劣の話で関係ない現代の話が出てくるんだアホ
>>社会経験があるなら分かるだろうが、部長の仕事の方が課長の仕事より難しいのよ
戦国時代の戦争で兵を多く率いて戦うのと寡兵で戦うのと全く関係ない話乙
>>それと同じで、率いる数が増えれば増えるほど、その統率は困難になって来る
何が同じなんだアホ
勝手に部下が指揮官の命令無視したとかそんな史料もないのに兵が多かったから負けたなんて妄想のきわみだアホ
ガチンコで10人と50人がぶつかりあえばまず100%50人の方が勝つなんて小学生でもわかる事
>>大企業と中小企業の社長ではどっちが大変だと思ってるんだ
間違いなく中小企業の社長のが資本金ブランド力競争などめちゃめちゃ大変ですぐ倒産する
現代の会社で倒産してる率は中小のが圧倒的に多い
>>組織運用上の話をしているんだから、現代でも戦国時代でも難度が上がるのは同じだよ
問題は兵の多寡による戦闘への影響度を話てるのに全く状況も命令内容も異なる現代の課長なぞだのの話が出るのか意味不明
>>むしろ、組織が整ってる現代の方が苦労は軽減されているんだから、戦国時代の方が ずっと大軍を率いるのは難しい
妄想乙。現代は組織が整おうが社会が複雑化・多極化し戦国の合戦みたいな戦術も命令も単純な物しか出されない時代などと
一緒くたにするのが間違い。大体戦国時代の人が書いた書物で現代のもののような複雑で論理性が読み取れる文章なんぞない
>>分かり易い様に例えているのに、それを「関係無い例」と耳目を塞いで逃げようとするな
全く関係ない話をして兵の多寡による戦闘での優劣への影響度をごまかそうとしている馬鹿に言われる事ではない
>>0 人に言う事を聞かせるのと、50人に言う事を聞かせるののどちらがより難しいか
お前のようなアホなたとえをしてやろう。50人いる会社と500人いる会社、さて会社としてどちらが平均所得が高いか?
企業として競争した場合、一人一人の能力が互角ならどちらが総資産で上になるんだ?考えてみろよアホ
とりあえずお前のダブスタ。
大軍は統率するのが難しいから負けても大将の責任ではない。なのになぜか勝ったのは部下のおかげではなく大将の功績とか妄言も大概にしとけ馬鹿が
>>組織が大きいほど統率するのが難しくなる
組織が小さいほど資本金・技術力・ブランド力に劣り、営業活動・利潤の追求が難しくなる
大企業と中小で利潤・総資産・給料など比較してみろ馬鹿
>>大企業と中小企業の社長ではどっちが大変だと思ってるんだ
遥かに中小のが大変。潰れたり吸収合併されたり買収されたり全然利潤があげられず整理解雇しまくったり
安定性が全くなく所得でいっても大企業とは隔絶している
145 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 16:28:40.14 ID:BuhUIqDv
織田は天皇の威光と信玄の死で救われただけで史実では武田に滅ぼされ滅亡する事が確定だった信長 家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請した 9/20信長が摂津から志賀に到着。 10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w 10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記) 11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記) 朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記) 三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。 信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。 10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。 大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により 奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記) 10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。 南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。 10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記) 三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w 10/22義昭側近上野信恵→草刈景継 因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが 新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される) によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は 京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。 備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。 青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に 本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。 11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記) 11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。 11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で 本意案の内と書いている(計画通りだ) 11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し 御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書) (朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している) 織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。 11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状) 11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や 郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。 (濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け 郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し) 美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。 顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」 景健宛「毎度勝利を得て珍重」 義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。 志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。 堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書) 堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書) この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが 正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。 12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。 12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。 伏見宮の記録によると 12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。 12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても 比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている) 12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。 12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。 12/16両軍帰国。
146 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 16:30:03.14 ID:BuhUIqDv
金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w 元亀4年3/7 信長→幽斎 鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、 畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられ ない体で通路も同じ状況だと 完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www 元亀4年5/24 信長→池田恒興 恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は 6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww 3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。 天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。 これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。 この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し 3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
147 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 16:34:51.61 ID:VbUcc6Lf
>>137 朝倉義景が若狭を事実上の支配下に置く事になった元明拉致事件は動員された朝倉の兵力はたったの3千人
若狭武田家臣の抵抗らしい抵抗もほとんど無くこれを義景の手柄とするのは何とも言えない感がある
しかも若狭支配は1ヶ月程度の短期間のみで直ぐに足利幕府直轄領となるように義昭に返還している
若狭国は奪取せずに京との緩衝地帯として維持管理すべきだったのを誤った判断で直接統治する方向へいってしまった
148 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 16:39:26.71 ID:LxAWmVuN
大軍を率いた事がある=高統率なら、大阪の陣の幕府軍を率いたのは秀忠だから、秀忠>>家康になるのかな?
149 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 16:42:29.47 ID:BuhUIqDv
信長は大軍なんて率いていない。大軍になるころには部下に指揮権与えて自身は戦場に出る事自体少なくなってた 序盤の斉藤戦や今川との戦いなんかが信長指揮の戦いだが大軍じゃねーし包囲網軍相手の戦いも敵のが大軍
150 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 17:16:25.42 ID:zZ1Dgfkp
大軍を率いただけで統率上げるのはちょっとどうかと… 完璧にその大軍を統制できたのなら分かるんだけど
151 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 17:18:29.35 ID:BuhUIqDv
国力があって大軍を率いる事ができなかった奴なんていないだろ 両上杉でも今川氏真でも徳川秀忠でも織田信雄でも秀頼でもやってる
152 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 17:28:30.93 ID:Adm1L/q8
>>148 その大軍に見合った戦果を出してるかどうかじゃね
153 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 18:11:03.78 ID:MoRKD01p
田原親賢や板倉重昌の統率が高かったら変だしな
154 :
名無し曰く、 :2012/08/26(日) 21:21:41.85 ID:iGknGXIH
板倉重昌は少しかわいそうな気がするけどな 参戦した諸大名が言うこと聞かなかった
155 :
名無し曰く、 :2012/08/27(月) 06:29:40.36 ID:sylseFGE
大谷吉継は蒲生氏郷は能力が似てるな。どっちも過大評価だが
156 :
名無し曰く、 :2012/08/27(月) 06:56:30.82 ID:FE0j4Kqg
157 :
名無し曰く、 :2012/08/27(月) 10:16:54.97 ID:nCm0Nxyr
>>155 大谷吉継と蒲生氏郷は、天道は似てないと思うが
大谷吉継 93 68 91 89
蒲生氏郷 85 73 81 83
>>156 >>142 〜
>>146 は、結局何がいいたいか教えて!
読む気にならん。
158 :
名無し曰く、 :2012/08/27(月) 11:03:42.99 ID:2pD65gu7
大谷は統率と戦法の槍衾之極は過大だけど 知略と政治は別に言う程過大でもないでしょ 蒲生は戦法烈火は優遇しすぎだけど武勇が低いと思う 他の能力は別にとりたてて過大とは思わない
159 :
名無し曰く、 :2012/08/27(月) 11:54:47.83 ID:StRJM047
蒲生氏郷は才能だけならトップクラスでしょ ただ若かったのと活躍時期の問題で大物になれなかった 個人の資質だけなら、政宗なんか比較の対象にならないくらい氏郷は優秀 (てか、政宗はなんであんな過大評価なんだ?地元宮城だけどあいつは金持ちのドラ息子だよ) 過小評価は絶対島津家久(4男坊、跡継ぎじゃない方ね) 戦をやらせたら日本一(謙信も忠勝も幸村も足元にも及ぶまい)
160 :
名無し曰く、 :2012/08/27(月) 12:36:41.41 ID:SHMlvqqw
>>157 寡兵の織田軍に悉く潰された対信長包囲網の面々がいましたとさ。
161 :
名無し曰く、 :2012/08/27(月) 20:43:19.19 ID:VTAfsmYI
蒲生氏郷ってろくな戦績ないだろ 滝川征伐や木造攻めで大敗しただけの雑魚じゃん
162 :
名無し曰く、 :2012/08/27(月) 21:11:20.14 ID:rrHp6/Zr
>滝川征伐や木造攻めで大敗しただけの雑魚じゃん またコピペかよ 豊臣アンチも懲りないな
163 :
名無し曰く、 :2012/08/27(月) 22:21:36.53 ID:VTAfsmYI
蒲生厨馬鹿に比べればマシだろ 木造記とか捏造軍記だと木造は開城したとかデタラメをデッチあげているが 実情は天正12年四月に秀吉書状で戸木がいまだ開城せず。また 7月にもあいもかわらず大軍に付け城つけられまくりで攻囲されながら抗戦をしぶとく続け 9月の家康書状でも木造親子の抗戦が読み取れ結局最後まで陥落せず。 ちなみに戸木城の位置は秀吉が池田・森に備えた家康軍の尾張転進と 信包・関・神戸・田丸など地元諸将のこぞっての寝返りにつけこんで楽に火事場泥棒した 南伊勢の敵中の中の敵地ど真中で孤立した位置にあり 家康も兵糧搬入に奔走していたが強風のため挫折するほど織田・徳川との連携の難しい位置に存する こんな所をまともにガチンコで攻めまくって落とせなかった蒲生って雑魚すぎる
164 :
名無し曰く、 :2012/08/27(月) 22:50:58.90 ID:rrHp6/Zr
だがさん 夏休み終わっちゃうよ 毎日が夏休みなのかも知れないけど
165 :
名無し曰く、 :2012/08/27(月) 23:56:55.01 ID:nCm0Nxyr
俺の夏休みに終わりはない!!
166 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 00:21:17.10 ID:gM1Nh1AX
大谷吉継は確かに戦闘面が過大評価だよなあ。 「百万の軍勢を云々」の逸話と常山紀談辺りのヨイショが一人歩きしてるが 実際にはぶっちゃけ三成と大差無いと思う。これは市松の武勇や統率にも言えるが。 虎之介は朝鮮で無双しまくったから今のままでいいが。
167 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 00:25:54.49 ID:lTVakEkU
168 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 00:34:13.53 ID:MdvqVJte
立花宗茂の評価が過大すぎる。
169 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 00:46:18.40 ID:EdyfQ0hO
道雪に比べればずっとマシではある
170 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 00:53:05.19 ID:lTVakEkU
171 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 02:54:27.63 ID:+uPdceTx
女は過大
172 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 06:21:09.55 ID:naYz9zOd
173 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 07:00:34.44 ID:0b+tiNXn
道雪は歩けないんだから武力が一桁でもいいぐらい
174 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 07:03:07.73 ID:HE3txjRU
道雪は確かに高すぎる
175 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 11:13:09.11 ID:dNMN4Cfr
>>167 といっても負け戦関が原での奮闘の活躍だけで
あそこまで強くする必要性はないよ
大友は立花道雪を下げて
他の三老の吉弘鑑理と臼杵鑑速をもうちょっと評価すべき
176 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 11:31:44.96 ID:gM1Nh1AX
>>167 関ヶ原は実際には小早川寝返る以前に瞬殺だった説もあるからなあ。
奮戦説を採用するとしても、それなら泳いで参った人ももっと評価されないとダメじゃね?っていう。
177 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 11:54:46.46 ID:naYz9zOd
>>173 武勇は逆に低いんじゃねえの?
歩行できなくなる前か後か判らないけど
多々良浜の戦いかなんかで自ら部隊率いて切り込んだ逸話も在るんで
統率10下げて97・武勇プラス10の95
これなら妥当な能力だと思うよ
178 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 12:59:25.83 ID:lTVakEkU
九州の勇将(統率+武勇)トップは、島津家久だと思うがどう思う?
179 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 13:06:30.90 ID:lTVakEkU
>>176 秀家の武勇58は、ちょっと低すぎない?
俺的に水軍適正はよくして欲しいw
180 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 13:06:53.83 ID:HE3txjRU
義弘か宗茂
181 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 14:29:12.56 ID:AL5iSF2Z
秀家ってどっちかといえば勇将タイプだよね 高武勇低政治な感じ
182 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 18:12:38.05 ID:opNySdrm
>>178 謙信より戦が強い家久と立花宗茂はどっちが強いの
183 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 19:27:27.32 ID:gM1Nh1AX
泳いで参った人は家臣が割と出奔してるから政治と統率は低めかな?
184 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 20:22:34.64 ID:T89v3XrJ
家臣大量出奔のお家騒動、関ヶ原の敗北で大名家として滅亡とマイナス面のがでかいからな 関ヶ原での奮闘で武勇がもうちょっとマシになるかってくらいで 他の知略や政治なんかはもっと低くてもいいくらいだわな
185 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 21:42:36.02 ID:naYz9zOd
朝鮮でウリナラ三大戦勝の一つを敵側に与えたのもマイナスかな>秀家
186 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 23:09:51.55 ID:VTVrryV3
>>182 家久 > 宗茂
残虐非道の竜造寺ぶっ殺したのも、長宗我部のシャデをぶっ殺したのも、家久。
少ない数で大軍を負かした経験なら戦国一。真田幸村は大阪戦がかっこええが、そこでは勝利を得ていない。
187 :
名無し曰く、 :2012/08/28(火) 23:43:57.57 ID:lTVakEkU
全国でも、家久が最強かな。
188 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 00:33:33.31 ID:1IuBqjVJ
>残虐非道の竜造寺 の割には四天王たちもよく忠義を立てたわな
189 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 00:57:38.64 ID:0Qd+kQEZ
>>188 百武賢兼
1581年、主君・隆信が筑後国進出のために蒲池鎮漣を謀殺し、その居城・柳川城に攻め入った(柳川の戦い)。
賢兼の妻は出陣を促したが、賢兼は「こたびの鎮漣ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と答え、しきりに涙を流し、ついに最後まで出陣しなかった。
賢兼の案じた通り、隆信の蒲池氏に対する冷酷非道な仕打ちは、田尻鑑種や黒木家永など筑後の諸将の離反を招き、龍造寺氏没落の起因となってしまった。
この逸話が何ともいえない
190 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 01:00:55.32 ID:cWUWNlA2
家久って豊後あたりで佐伯なんとかを相手に野戦で負けてなかったか?
191 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 01:09:36.95 ID:z6bfXDUg
家久ってそんな強キャラか?沖田畷は確かにすげーけど
192 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 01:48:15.63 ID:ynk2KDKu
島津の戦は勝つべくして勝つ戦ではなく死中に活を求める戦 敢えて言うなら常に背水、いつも桶狭間 勝つときは大勝、負けるときはコロっと負ける
193 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 02:17:15.77 ID:TV6J8+Pn
島津家=朝倉家って事で、島津家久は朝倉宗滴さんっとことになるのか? 朝倉宗滴さんは政治以外過小だと思うがどうなのよ?戦国武将の戦国武将たる姿そのものだと思う 武士は犬畜生、武士は勝ってなんぼ。って御言葉を後世に残るぐらいだし… まさに羅将
194 :
忍法帖【Lv=28,xxxPT】 :2012/08/29(水) 02:37:53.46 ID:ZC21NdIN
あげ
195 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 03:06:09.62 ID:NiC3uRBt
>>193 島津=朝倉って意味が分からないんですが(困惑)
196 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 03:25:39.31 ID:zE5ALNN/
ツカソウテキのどこが過小よ?
197 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 06:33:18.14 ID:FX/DWU+0
>>191 沖田畷を評価するの分かるが
戸次川の戦いは過大評価されすぎだな
島津2万対豊臣6000ぐらいの戦いだだろ
198 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 06:40:53.32 ID:z6bfXDUg
199 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 07:11:58.06 ID:PILHu3A2
信親、存保を討ち死にさせたのは評価がある
200 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 07:22:40.71 ID:z6bfXDUg
宗滴の九竜川は氏康の河越と似てるな
201 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 07:25:41.99 ID:UMAhOkTV
>>199 秀久と元親を討ち死にさせるぐらいじゃないと家久スゲーサイキョーとは思えない
202 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 07:27:29.91 ID:z6bfXDUg
家久は強いけどそうでもなかった
203 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 09:37:16.13 ID:1IuBqjVJ
島津四兄弟といえば歳久はどんな智謀を発揮したエピソードがあるのだろう
204 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 12:42:37.36 ID:Dy0ixbN1
>>188 つーか、残虐非道の龍造寺ってまるで島津が残虐非道じゃないみたいな書き方
205 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 13:47:03.45 ID:FX/DWU+0
島津も普通に暴虐だな 奴隷貿易してた宗麟よりマシかもしれないけど
206 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 13:49:07.68 ID:o/aZNt8s
>>182 北条武田織田を蹴散らした謙信より強いわけなし
207 :
名無し :2012/08/29(水) 14:07:52.69 ID:a7JcS9hR
そもそも政治力が使い道無さ過ぎるのが イビツな評価の原因 政治力の高さが兵力の動員数を左右したり 拠点や輸送の概念をもうちょいしっかりして (いわゆる兵站ってヤツ?) 秀吉なんかは、戦闘能力低くして政治力を最高クラスにすれば イメージに近づくと思うんだが 逆に島津なんかは戦闘能力最強クラスで 政治力(兵動員能力)を下げれば無問題 めっちゃ適正な評価になるはず。
208 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 14:19:41.24 ID:hJdrlyGx
謙信が織田を蹴散らした…?
209 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 14:32:34.02 ID:AeHiJzkH
手取川の戦いのことか? 信長相手ではないが
210 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 16:30:09.56 ID:z6bfXDUg
信長ならまず手取乾渡らねーよ
211 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 17:41:11.81 ID:WM8jngDY
手取川ってようするに撤退しようとしてた織田に上杉が追撃かけて出血をしいようとした戦いでいいんだよね? 上杉はこの追撃で具体的にはどれぐらいの被害を織田に与えれたの? 撤退に失敗して討ち取られた将とかいたのん?
212 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 17:43:24.88 ID:z6bfXDUg
>>211 柴田、滝川、丹羽、羽柴はいずれも無事撤退。羽柴はその前に退却
213 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 17:52:46.66 ID:58bpFgY+
秀吉先に帰って怒られたって史実なんかな?なんとなく好きなエピソードなんだけど。 個人的に秀秋はもうちょい能力あってもいいと思う。 名将ではなくても凡将か凡将+くらいは欲しい。特に武勇あたり。
214 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 18:22:59.84 ID:z6bfXDUg
215 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 18:25:50.51 ID:lATz95O7
戦果面で謙信よりは家久の方がまだ軍神っぽい
216 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 18:27:20.19 ID:z6bfXDUg
家久が軍神とか笑ってしまう
217 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 20:47:14.79 ID:VBnxAtrx
そいや泗川の戦いってのは 明軍が城取りに来て城とったんだから明軍の勝ちなんじゃないのかと思うんだ よくいっても「明軍の勝ちだが島津が負けた訳でもない」が正しくね?
218 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 21:58:26.60 ID:FX/DWU+0
あんだけ被害出してんのに明軍勝ちはないな
219 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 21:58:46.92 ID:NiC3uRBt
>>217 島津が放棄・撤退したのは古城で、主戦場は新城
島津は新城を守り抜き明軍を撃退し、明軍は数万の損害を受けて壊滅・敗走している
島津が勝者なのは明らか
220 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 22:01:58.72 ID:h9vxjRet
ヒント:この時点で既に秀吉は死んでた
221 :
名無し曰く、 :2012/08/29(水) 22:11:00.28 ID:z6bfXDUg
秀吉の生死は関係ないだろ。それは大勢的な話であって、あくまでも局地戦だった四川の戦果とは微塵も関係ない
222 :
名無し曰く、 :2012/08/30(木) 00:29:43.07 ID:1QT0H75y
そろそろあっちの人が現れそうな予感
223 :
名無し曰く、 :2012/08/30(木) 11:20:12.78 ID:ugDae/uL
秀吉という言葉に反応するからな
224 :
名無し曰く、 :2012/08/30(木) 11:50:10.12 ID:S4D09wBd
>>222 毎日意味不明な長文コピペ爆撃するために現れてるやん
225 :
名無し曰く、 :2012/08/30(木) 14:43:06.03 ID:grA+AHfR
東北はDQ眼竜のせいで悪人にされた人がまあ多いこと そのくせDQN自身は現代でも英雄扱い
226 :
名無し曰く、 :2012/08/30(木) 14:56:24.56 ID:HdvgCqlO
DQNだけど英雄じゃダメなの?
227 :
名無し曰く、 :2012/08/30(木) 15:37:53.56 ID:jgQdlfX3
英雄なんてアレな人ばかりだぞ
228 :
名無し曰く、 :2012/08/30(木) 15:55:13.49 ID:HdvgCqlO
元祖独眼龍こと李克用からして結構な基地外なんで 政宗がDQ眼竜でも良いんじゃねって気がしないんでもないんだよな
229 :
名無し曰く、 :2012/08/30(木) 17:27:25.74 ID:pguqfVBm
東北6県のうち宮城県史と他5県史における宮城県の評価を見比べてみると幕末等一部時代での評価の剥離っぷりが凄いという話は聞いた事があるね
230 :
名無し曰く、 :2012/08/30(木) 19:37:23.19 ID:JmLafzKD
忠勝や宗茂より政宗や幸村の評価が高いのには違和感があるな
231 :
名無し曰く、 :2012/08/30(木) 20:16:07.78 ID:VsiJ9KXj
幸村って生涯で戦したのって実質2回だろ
232 :
名無し曰く、 :2012/08/30(木) 20:20:56.31 ID:bXNJt4h6
>>230 政宗とその他三人とでは活躍の質が違わね?
233 :
名無し曰く、 :2012/08/30(木) 20:36:20.33 ID:HdvgCqlO
>>231 4回だろ
小田原征伐・第2次上田・冬の陣・夏の陣
これは俗説の域こえないけど
上杉北条との小競り合い・第一次上田にも参加したとかしないとか
234 :
名無し曰く、 :2012/08/30(木) 20:49:38.94 ID:VsiJ9KXj
>>233 小田原忘れてた。なら小田原、第二次上田、大坂の陣で三回だな。あと一次上田は人質に行ってたからないな
235 :
名無し曰く、 :2012/08/30(木) 20:52:13.52 ID:VsiJ9KXj
宗茂にしろ忠勝にしろ史料少ないから信憑性は微妙。忠勝は徳川ということで盛られるし、宗茂の朝鮮での活躍は史料少ない。九州での話も殆ど道雪が総大将してたし。まあ肥後一揆と島津撃退は評価
236 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 04:19:44.66 ID:jUa0bPlZ
忠勝の場合は家康の指揮下から離れて戦ったという戦闘が基本的にないからな 忠勝の戦績が家康の戦績と被ることもしばしばあるから、微妙に線引き難しい 67年組は基本的に政宗が大名だし一番評価しやすいな 宗茂も幸村も所詮は一発屋
237 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 06:43:55.30 ID:/+2CLDz9
現状はむしろ家康が忠次、忠勝、康政、水野あたりを吸ってるんだと思うけどね 宗茂も道雪に吸わせて朝鮮出兵も評価されないなら 東北だけで評価されている政宗は尚更違和感あるし 幸村も大坂の陣で飛び抜けている訳でもなく小田原征伐・第2次上田は昌幸以下だろう
238 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 07:09:50.87 ID:bxGakwuH
政宗は政治高で統率下げ、幸村が大坂の陣で使ったのは昌幸が考えたものだというけど、実戦でかなり完成されていた点を評して統率は高くてもまあいいだろ
239 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 08:20:26.40 ID:E0fakjo7
政宗は家臣の功績吸収してるにしても統率高すぎる気がするが各地方に一人全国区でやりあえるのいないとって事で長宗我部と同じ部類だからまあ我慢出来る 宗茂は適正を何とかしろ火車懸りの陣なんて信憑性ないもんで騎馬Sはいらない
240 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 12:38:27.56 ID:tCCAZwNb
忠勝って部隊長って感じだろうから 武力評価ぐらいでいいと思うけどねえ
241 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 14:25:02.81 ID:UB+Xyh/u
大名が家臣の功績吸収するのは、ある程度仕方ないとも思うけどね 忠勝・康政・直政にしても家康指揮下での参戦・活躍が主な功績なんで 前に言われてたけど、四天王で一番統率高くするなら早いうちから先鋒や別働隊任されたこともある酒井忠次になると思う
242 :
名無し :2012/08/31(金) 14:36:21.80 ID:reua2dqr
まぁけど正直 酒井が忠勝よい戦場で役立つゲームだと それはそれで燃えない人が多いだろうしねぇ 講談レベルの話でも 忠勝の無傷の逸話やトンボ切りというオプションや 家康に過ぎたるものっていう逸話が能力の元だからね そう考えると、堅実に活躍できる武将と ムラがあるけど、ハマれば強い武将に分けて表現できれば ベターなんだろうけどねぇ。 上記の真田や立花はソッチ系な訳だし。
243 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 18:11:40.70 ID:JfYXeEtQ
>宗茂も道雪に吸わせて朝鮮出兵も評価されないなら
道雪宗茂どっちも過大だカス
なにが評価されないならだよ
>>172 >>177 道雪が統率97武勇95もあるか
244 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 19:59:44.79 ID:9CCt/BMD
>>243 政宗や幸村との比較で言ってるのは理解できてる?
宗茂以下でいいのか?
違うなら理由は?
245 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 20:28:49.81 ID:RZ2FfVoN
>>241 >四天王で一番統率高くするなら早いうちから先鋒や別働隊任されたこともある酒井忠次になると思う
それは4人の年齢、家格が同等だった場合の話じゃね?
>>236 忠勝の1番有名な逸話って小牧長久手の単独行動じゃね?
246 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 20:35:00.44 ID:6pV1xgW6
忠勝は一言坂と長久手だな、一言坂は何故そこまで評価されたのかよくわからん。正直忠勝って何がすごかったのか不明
247 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 20:54:21.69 ID:96JJ0tGy
“言葉の独り歩き”が大きいですね。 「唐の頭と本多平八」が彼を過大評価させたんでしょう。 竹中重治も実際は戦闘指揮官であり武功派の武将だったが、 「今孔明」の名前が独り歩きして、戦国屈指の智謀者になっちゃった。
248 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 20:55:03.02 ID:kNlnh4Kf
>>247 >竹中重治も実際は戦闘指揮官であり武功派の武将だったが、
聞いたこと無いがそうなの? そもそも実態が不明の武将だし
249 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 21:10:11.40 ID:PbjyUmwL
>>243 大友家くらいでかくなったらそれなりの能力評価しないといけないんだよ
上杉武田毛利は大名のその能力が行ったが最大勢力を作った時の大名宗麟がアレなんで
大友は宿将に能力評価が行っただけ
250 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 21:16:29.27 ID:6pV1xgW6
半兵衛は稲葉山略奪のくらいしかしらねーぞ
251 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 21:18:38.31 ID:96JJ0tGy
>>248 谷口克広氏の書籍あたりを読むと、横山城あたりで秀吉の右腕として活躍が確認できるよ。
252 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 21:21:25.50 ID:6pV1xgW6
赤備えって戦国最強部隊だったの?
253 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 22:38:00.05 ID:TZWF9Ke3
>>252 >赤備えって戦国最強部隊だったの?
最強
254 :
名無し曰く、 :2012/08/31(金) 22:44:31.63 ID:QdrUpb9G
>>250 播磨攻略時点までの秀吉与力の中じゃ地行が際立って大きいのは評価対象にならん?
255 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 00:00:29.74 ID:IXII8bbG
>>254 実績をあまり知らないから具体的なものを知りたい
256 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 00:02:49.76 ID:IXII8bbG
257 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 00:13:11.52 ID:bkartpYk
忠勝は三方ヶ原でも武功あげてなかったっけ?あれは単なる逸話なのかな
258 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 00:34:45.84 ID:q654mCj1
忠勝は関が原で500騎率いて同じぐらいの首級上げてたはず 実はそれがハイライトかも
259 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 03:06:36.96 ID:tF5IRoB6
武将の能力じゃないけど筒井家の存在が過大 大和の大名が松永家で、筒井一族は浪人のシナリオがあってもよさそうなのに一貫して大和の大名だし 1582年シナリオとかの時点では完全に織田家臣と言っていいはずなのになぜか独立大名扱い
260 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 03:30:12.16 ID:7C8G3xp6
82年シナリオは鈴木との兼ね合いじゃないの あんまり織田が強くても困るし
261 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 11:11:25.22 ID:POizAvuy
82年の小大名は筒井、鈴木、真田は鉄板
262 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 12:12:54.69 ID:jqzoN/Bd
鈴木なんか諸勢力扱いでいいのにな って畠山さんが言ってました
263 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 13:11:38.32 ID:IXII8bbG
鈴木とか雑賀衆でいいだろうな
264 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 14:34:53.77 ID:HreI8jCJ
河内の畠山さんと 新宮の畠山さんも出したほうがいいって 二本松の畠山さんが輝宗拉致りながら言ってた
265 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 15:31:35.54 ID:PjgdNJ23
>>186 逆にあれだけ手段を選ばず、しぶとく図太く這い上がってきた、龍造寺隆信の知謀が低すぎないか?あれじゃ誰も騙せん。
大友や島津に比べ、元の基盤は比べ物にならないほど小さく、一族滅亡寸前だったことを考えたらなぁ。
シリーズによっては、単なる鍋島直茂の下位みたいになってるし。
鍋島直茂が能力吸っているとも言えるが、直茂だけではあんなことは出来んよ。家久の凄さを表すのと、隆信の謀略にやられた武将のためにも、隆信の知謀は高めにしてもいいと思うが。
逆に武勇が高すぎる。(直茂は武勇低すぎ)
>>189 それ言ったら、何度も素行を道雪に注意されたり、一萬田に謀反を起こされた、大友宗麟はどうなるんだよw
隆信は野望のためなら手段を選ばぬ姿勢だからまだしも(だからえげつなくても、負け戦である沖田畷での最期まで家臣が奮戦したと)、
宗麟はどちらかというと自分の欲望に忠実だから故に家臣が愛想つかしての離反だから、フォロー出来ない。
それでも肥等のゲームでは、南蛮文化の第一人者な欠点なしな名君扱いってw
266 :
265 :2012/09/01(土) 15:35:50.77 ID:PjgdNJ23
亀レス・長文すまん。 いくら龍造寺隆信が悪逆非道といっても、信長に近いベクトルだと言いたかった。 肥によって、ただのアホな脳筋扱いされてるのは、どうしても納得がいかない。 あれじゃ、ワンマンが務まりようがないし、誰も怖がらない。
267 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 17:43:51.03 ID:kueK11Kk
まあ戦国九州一の悪逆無道の人物は誰かというなら大友宗麟なのは間違いないな。
268 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 18:13:08.25 ID:iwqoE+va
ああ、あいつの義理は過大だわ
269 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 18:15:08.24 ID:tNlgFvSF
とりあえずスーパーマンの鍋島をsageないとな
270 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 18:28:27.82 ID:SeCwjTpm
宗麟の義理は、マイナス27くらいか?
271 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 19:02:49.25 ID:PjgdNJ23
>>267 隆信は狡猾な暴君で、宗麟は無能ではない暗君だと思う。
宗麟は個人としては能力それなりにあるとは思うが、
あれだけの国力や人材抱えて、あのグダクダぶりはなぁ。
宗麟は家臣に対して面白半分に猿をけしかけて、道雪に注意されたくらいにDQNぶり。
>>269 鍋島は武勇だけは過小だと思う。
今山の戦い等、いろいろ死地を掻い潜ってきた猛者なのに。
むしろ、実績からしても立花宗茂は過大すぎると思う。
性格は真っ当で周りから好かれていたが、戦国時代で考えたら、あまり生き残りづらいと思う。
しかし、知謀は龍造寺隆信より高いとかもうね。とにかく隆信が低すぎる。
道雪のほうは、道雪相手に奮戦していた秋月との相対的な能力の差がありすぎ。
道雪が変に過大すぎて、そうなってる節がある。
一方、島津に対する相良は、それなりに対抗出来るバランスになってるのに。
>>170 義理の低さにもいろいろあるから、難しいな。
裏切りや騙しまくりなアグレッシブなのと、素行が悪くて家臣や家族を省みない内部的なのとではベクトルが違うような。
272 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 19:49:57.76 ID:tF5IRoB6
義理過大四天王 徳川家康85 南部信直75 里見義尭57 武田信玄10
273 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 20:40:44.21 ID:/rEh/iyT
>>271 龍造寺隆信
87 91 59 42 279 槍衾之三 A B D A A
↓
80 90 71 38 279 槍衾之三 A B D A A
こんなタイプ?
274 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 21:06:58.01 ID:POizAvuy
それでも曾祖父の家兼には大分劣るな
275 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 21:33:36.87 ID:ktMAJ1/0
>>273 84 91 75 33 279 威風之備 A B D A A
これではどう?
276 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 21:46:13.99 ID:My8vOAGj
魅力でもありゃー、バコッと低くすればいい話だよな>隆信と宗麟
277 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 21:50:42.06 ID:m8IieIU1
竜造寺厨とかいるんだな例の地味スレの人か? 道雪だの宗茂だの明らかにスター枠の連中にまともにケチつけてもどうにもなんねえよ とりあえず竜造寺ではなく秋月が過小なんだと言いたい
278 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 21:54:31.62 ID:IXII8bbG
それこそ秋月とか道雪と宗茂にボロクソに負けまくってたじゃん
279 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 22:48:43.52 ID:wMopBckJ
>>273 90 90 80 50くらいでもいいんじゃない?
280 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 22:55:28.17 ID:tNlgFvSF
えっ
281 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 22:57:55.68 ID:iwqoE+va
70 40 95 88 ってとこ
282 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 23:20:24.84 ID:SeCwjTpm
えっ 統率 武勇 知略 政治 そんな病弱みたいに なぜここまで上げた? 低すぎる。 そこまで高くないでしょ 隆信の活躍をよく知ってる奴はどう数値をつけてんだろな。
283 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 23:43:53.69 ID:vIPreR87
284 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 23:46:46.91 ID:67zxW3Lz
285 :
名無し曰く、 :2012/09/01(土) 23:47:20.85 ID:IXII8bbG
明らかに島津
286 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 00:43:43.88 ID:V51FrWnw
龍造寺は好きになれないけど智謀は低すぎる。 90あっていい。 けど龍造寺嫌いになった理由は単に俺がオールラウンダー好きで脳筋嫌いなだけで、光栄査定の最大の被害者とも言える>龍造寺隆信
287 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 00:53:32.53 ID:CdvRLAO3
龍造寺って今山の戦いとかよく乗り切れたもんだな。
288 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 01:56:02.48 ID:V51FrWnw
俺みたいなニワカは今山の奇襲はオールラウンダーの鍋島さんの能力になってるぜ もっと龍造寺隆信の良いトコ教えてくれ
289 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 02:03:21.93 ID:CdvRLAO3
龍造寺隆信の良いとこ???
290 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 02:12:06.08 ID:CdvRLAO3
秀吉「龍造寺隆信は名君じゃ、なぜならあの直茂に諸事を任せたからじゃ。」
291 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 10:33:20.38 ID:q9ohGZSY
>>283 いや実際そいつらに劣るとは思えんが
同格程度じゃねえの?
一段下だと龍造寺とか長宗我部とか宇喜多が来る印象
292 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 10:54:58.87 ID:5tyEwPX3
年を跨げばダイナミックに勢力の変動があるのが戦国時代なのに そういう格付けはあまりに意味がないだろ 格付けは領地が固定化した江戸時代以降に幕府が焚き付けたもんだ
293 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 12:02:24.89 ID:QHU1Ub/d
>>287 龍造寺は城ひとつしか残ってなく、大友は兵力は大軍で、宗麟も戦場に来ていると言う、状況は絶望的な中、
総大将を討って、すぐに土下座して大友に従属した大胆さと狡猾さか。
専ら奇襲したのは直茂だし、隆信は母にケツを叩かれて奇襲をするのを決めた話があるくらいにチキン(武勇が高すぎる理由のひとつ)
隆信の性格は、正直誉められたものじゃないけど、ほとんど裸一貫から、
泥をすするみたいなことをやっても、利用できるものを利用して這い上がってきた、野望に満ちた、いかにも戦国大名らしいところは嫌いじゃない。
それだけに、肥の逆方向な脳筋評価に違和感を感じる。
沖田畷の敗戦は、今まで七転び八起きだった状況から好転して、調子に乗りすぎたのが原因だと思う。
コイツが気になったのは、全国版のとんでもない坊主ぶりなのを見たのがきっかけだね。
アレは過大どころのレベルじゃなかったけどw
全国版がなかったら、ここまで気にはならなかった。
294 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 18:51:31.46 ID:GNCjRjVC
本能寺シナリオなんかでも龍造寺の所領が佐賀だけだったりなのは過小だと思う
295 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 21:22:01.55 ID:jqRTIm8k
>>279 それまでの実績あっても
敗死した武将が統率90越えは違和感あるな。
296 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 21:24:04.82 ID:AMTL85qJ
何かいくら強くても戦死すると評価下がっちゃうよな
297 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 21:24:36.40 ID:Dt+VQSxs
「配慮と決断はカエサルに似たり」〜ルイスフロイス カエサルが実際すごかったかどうかは問題でなく、 ルイスフロイスにとって隆信の決断力は驚くほどだったということだ。 晩年の傲慢から来る失策が彼の評価を下げたが、鍋島信生を使いこなし、勢力を拡大した力はやはり逸材と呼べる。
298 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 21:34:22.55 ID:jqRTIm8k
>>296 うん
今川義元なんかもそう
戦国大名として再評価もかなり進んでるけど
総大将の討ち死に武将としては致命的な失敗だと思うんで
299 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 21:38:28.20 ID:AMTL85qJ
>>298 馬場とか山県とかは戦死抜いたらどうなるや
300 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 21:55:02.62 ID:3HRLR0Fb
馬場と山県は総大将じゃない 総大将逃がすための殿
301 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 21:57:35.25 ID:o2vX9Btz
幸村や紹運みたいに壮絶な戦死すれば上がるよ
302 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 21:58:27.93 ID:Dt+VQSxs
>>299 山県も死に方は壮絶だから、むしろ武勇面で評価をあげている。
このほかにも真田幸村のように死んで評価をあげる者もいるから、ようは死に方なんだろうねえ。
数で優勢な総大将が敗死すると評価が下がるが、陶隆房の場合はさほど評価が下がらない。
隆房に「西国一の侍大将」があれば、義元にも「街道一の弓取り」があるのに…
不公平だね。
303 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 22:16:59.20 ID:kKjLGcQD
つか馬場過小すぎだろ 劣化山県みたいな感じはやめてほしい 88 88 88 60くらいほしい
304 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 22:50:36.43 ID:KMujacV5
義元は固有弓技持ち+高能力じゃないですかぁぁ
305 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 23:16:25.64 ID:CdvRLAO3
ほとんどの人が、過大でも過小でもないと思っている武将は誰かな?
306 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 23:52:53.48 ID:q9ohGZSY
307 :
名無し曰く、 :2012/09/02(日) 23:58:42.62 ID:4QIrg+go
>>306 1534年シナリオの大田原資清の所在地がおかしい
あの時は那須地方追放されて越前大野にいた筈なのに
308 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 00:02:37.25 ID:AMTL85qJ
馬場は外交面でも活躍してたから政治70以上でもいいだろう。大名の器と賞されてるくらいだし
309 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 00:07:06.39 ID:/Tjro3BH
統率面で 徳川四天王>>織田4軍団長>>武田4名臣なのはどうかと思うのよね。 もっと織田を強く調整したほうがいいんじゃないのってことででで
310 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 00:23:34.18 ID:9FxuaMMZ
馬場とか山県は信長が指揮した軍を10分の一の兵で敗走させてる
311 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 00:27:03.69 ID:tLI/7LH5
徳川四天王は何かパッとしないイメージ。 忠勝は無傷&寡兵での戦果があるけど。
312 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 01:10:53.26 ID:DNH4TSMF
姉川あたりのシナリオで織田との同盟を一方的に破棄して 織田と武田両方敵に回してもゲームだと領土拡大できるレベルだからな 四天王の能力が高すぎるし、家康もおそらく本来は晩成型の成長曲線だけどクソ強いし
313 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 01:40:37.56 ID:cD58hsYg
織田と武田両方敵に回せるというのは、ちょっと高すぎるな。
314 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 01:56:53.99 ID:5DuptMW3
能力が高いのはいいけど統率に回すのはおかしい 徳川家臣なんか特に
315 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 03:26:52.72 ID:qGfVgG+N
徳川四天王は家宝でブーストするから織田や武田の家臣じゃ釣り合わん
316 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 06:56:47.78 ID:Y6mbvDEp
適正や武勇なんかは高くていいが統率が高いのはなんか違う気がする
317 :
名無し :2012/09/03(月) 09:11:40.38 ID:njFzNOQS
そこらへんは、どっちかというと 能力もあるけど 動員兵力の問題もあるんじゃね?>織田と武田両方を敵に回せる 大国でも小国でも動員兵力に言うほど大差が出ないよな。 領国数より武将数の問題になるから。 ここらへんはゲームとして改善するべきじゃね。 小国が大国相手でも武将数と能力があれば ガンガン侵略できるってのは、あまりに物量軽視だと思う。 守りはともかく攻めに関しては、もうちょっと工夫しないとなぁ。 小国では大国に歯が立たないよ。っていう仕様にしないと。
318 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 09:22:12.83 ID:8N1e/HKy
そもそもノブヤボって、歴史再現性など微塵にも考慮しないでしょ。 ホントの意味でシミュレーションでは無いんだよね。この会社のゲームって。 歴史の題材使って勝手にゲームつくっているだけ。
319 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 10:40:25.66 ID:BdWCxOw1
ぼくのかんがえたホントの歴史シミュレーション の構想を書いてみろよ鼻で笑ってやるからw
320 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 13:07:17.02 ID:1LIxZKgi
鼻で笑われるのは歴史再現性皆無のバカゲーキャラ能力を 史実がどうのと真面目に語っちゃう当スレ住民・・・
321 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 13:16:13.00 ID:3VPEEURm
織田は4軍団長は今くらいでいいと思うけど 丹羽、河尻、蜂屋、森親子、塙あたりの統率が低いと思う ていうか上で挙げた人達は丹羽さん以外政治も低すぎると思う
322 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 13:25:48.46 ID:cD58hsYg
武将が多い大名のエース級以外の武将は、下方修正しないと強すぎるから、しょうがないんじゃない?
323 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 13:34:15.83 ID:PoZLzmZo
織田家の有象無象は軒並み凡庸な能力設定なのに 羽柴や徳川は二線級の武将でも結構な能力値もらってるイメージあるな
324 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 13:36:58.47 ID:QdvbGFx/
>>321 織田軍団なんてぶっちゃけ秀吉以外機能した試しないから
(結局戦線の膠着が限界で信長や他軍団からの援軍で成り立ってた)
全員-5ずつ減らしてイイ
そのかわり
>丹羽、河尻、蜂屋、森親子、塙あたり
の武将の能力上げてくれ
325 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 14:44:23.26 ID:3VPEEURm
あと織田家は知名度的に十分なのに枠の関係で登場してない家臣が多過ぎるので その人たちの分登場してる武将の能力を底上げしてもいいと思う 森蘭丸の政治80は叩かれることがあるけど菅屋長頼、矢部家定、大津長昌、万見重元、長谷川秀一 あたりの分を吸収してると考えれば高すぎるってほどでもないと思う 堀秀政にも分けるべきだけど 村井定勝は武井・松井・島田の分を吸って政治1位でもいい
326 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 14:53:01.93 ID:3atPgkoT
逆に徳川は家臣は優秀なままで家康を下げるとか 例えば長曽我部元親くらいでも過小評価とは言えないような 96 87 94 100 377 鉄壁之備 S C D B A ↓ 93 86 93 84 356 (鬼槍) S C D C A ちなみに秀吉 87 73 93 104 357 威風之備 S D D B A 元親との差別化は元親の政治10下げ香宗我部親泰を10挙げて93とか
327 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 14:53:29.92 ID:cLTYv2xh
>>324 は?秀吉が一番機能してないだろ。他の連中のがよっぽどマシ。
秀吉はヘタレ毛利が上月を攻め落とし織田軍を蹴散らしたのに 安芸からの兵站の長さを理由に退却する雑魚っぷりを披露し
毛利つかえねぇwwwwとみた南条・宇喜多が離反し 毛利は数倍の国力がありながらこいつらに大苦戦。
その隙に織田方は兵糧切れの三木・同じく織田方に裏切ろうとした山名が米を売るなど物資貧困状態の鳥取などを火事場泥棒
この頃毛利は宇喜多に数倍の国力差がありながら加茂崩れ・辛川合戦で大敗するなど苦戦しまくり翻弄されまくり備前はおろか備中・美作でも劣勢だった
この窮地を救ったのが鳥取を火事場泥棒した秀吉が宇喜多方に歩調を合わせ参戦してきた事で
宇喜多は戦闘ゴミレベルの秀吉のせいで忍山・祝山・備前児島攻防などで大敗し窮地に陥る
備中高松の時も、秀吉は宇喜多単体に翻弄されまくっていた毛利に対し「うわwwwこえぇwwww」と
膨大な金銭や人員や時間を犠牲にし雨が降らなければ失敗していたであろう水攻めという博打に打って出るが
気概0のヘタレ毛利にはこの策が功を挺し廻りが離反だらけで劣勢な中、単独で宇喜多・羽柴を撃退するなど功を上げていた清水宗治を見事に見捨て、高松は落城。
運がよかったな
晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
柴田・明智・滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
328 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 14:55:11.75 ID:5DuptMW3
秀吉 87 73 104 100 こっちのがいい感じだよね 知略が低い秀吉ってなんか愛を感じないわ
329 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 14:58:22.60 ID:cLTYv2xh
政治 統率 知略 信長 103 98 98 秀吉 120 25 120 こんなもんじゃね 氏政・信雄・輝元の日本三台戦下手凡将にゴミクズのように敗れ去ったんだから 秀吉が統率87もあるなら他有力大名なんて300か400くらいないとおかしい
330 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 15:18:23.41 ID:3atPgkoT
>>329 ツンデレ?w
統率も秀吉は光秀と勝家以上の評価は受けるべきだと思うけどね
光秀と勝家を-5って方が妥当だと思うけど
331 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 17:02:15.54 ID:cLTYv2xh
秀吉は本多正信強化版みたいな能力だろ。 ・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める ・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる ・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける ・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される ・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる ・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する ・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る (しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの 法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい ) ・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される ・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態 前田が兵を引いてなんとか助けられる ・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる ・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない 無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し 池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる ・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される ・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される ・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる ・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を 正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも 雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす ・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、 家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、 なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう ・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す ・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する ・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす ・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず 緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする ・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず 手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで 追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態) ・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる ・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する ・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない ・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない ・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う ・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、 国内を大いに疲弊させる トップ3どころかワースト3に入るレベルだと思われる 何せ直接対決で日本3大雑魚凡将の氏政・輝元・信雄に敗北 しかも会戦状況でいえば敵は圧倒的に寡兵&寝返りばかりで秀吉側に圧倒的有利
332 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 17:02:49.08 ID:cLTYv2xh
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉 織田家中でいえば 柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>原田、川尻、日根野、金森、前田、池田 >>>>>>>>>>>秀吉 こんなもん 長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは 戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や丹波の赤井氏など国人が蜂起している事 それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ 長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然 池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟・森長可他1万人戦死 結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して 結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか 弱いにもほどがある しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国 ちなみに捏造でいえば信長や秀吉の方が遥に酷い。 83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり 84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり 紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり 尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶 秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。 徳川が捏造したなどとアホみたいな妄想を毎回語る馬鹿は消えろ 長篠の戦いも本当は武田圧勝だったけど徳川が捏造して織田徳川圧勝だったとかそういう話でもするか?
333 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 17:03:25.11 ID:cLTYv2xh
秀吉の三大デタラメ ○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦 圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ ○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ ○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ 単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし 北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。 逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。 徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上 上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。 家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで 数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り 勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末) 山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚 家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため 尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は 企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に 上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、 駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、 伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る) 佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、 松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。 以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。 長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った 石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。 したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』) 圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。 別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。 織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。 本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は 初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。 そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは 自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。 長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田 等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。 秀吉は、織田四天王の中では一番雑魚。 直接交戦での戦績からそれがよくわかる。 滝川にまけ柴田に負け明智にまけ、それを勝った勝ったと揉み隠し しまいには輝元、氏政、信雄の日本3大凡将に大敗し天下失ったゴミ武将 箕浦合戦や金ヶ崎の退陣で秀吉の奮戦で撤退できたというのは講談 池田勢中心で奮戦したから撤退できたというのが最近の説。 いかに講談や軍記類で秀吉が基地外のように持ち上げられてるかわかる事柄のひとつ。 信長が殿に使ったとしたらよっぽど雑魚だから死んでも構わんと思ってたんだろうね
334 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 17:04:34.77 ID:cLTYv2xh
直接交戦の結果からわかってる情報を整理し確定している組み合わせを出して 能力評価する。 武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝 岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる 武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え 最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず) 姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田 よって武田>>>>>徳川>>>>織田 毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに 結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名 よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると 武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出 信玄>>>>>家康 三方が原 家康>>>>信長 姉川 謙信>>>>柴田 手取川 謙信>>信玄 川中島 家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決 柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳 滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防 北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐 織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防 北条氏直>>滝川 神流川 秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線 宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐 上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防 上杉景勝>北条氏直 天正壬午 仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる) 信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された) 島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって 数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、 豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない) にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ 武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も 出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> 圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく やられまくった毛利 これらを元に数値をつける 120 上杉謙信 110 武田信玄 100 徳川家康 97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家 96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝 95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就 94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益 93 立花道雪 北条氏直 相馬盛胤 92 織田信忠 91 島津家久 伊達政宗 90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高 酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴 20 羽柴秀吉
335 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 17:05:13.25 ID:cLTYv2xh
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。 この状況で前田や金森らが兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。 秀吉は軍事的才能が致命的に欠如していたんだろうな この戦いに限らず常に圧倒的大軍で寡兵の敵に敗走、大苦戦、大損害。 織田兄弟で最も無能な信雄ごときに苦戦する雑魚はそうそういないだろう。 信雄がもう少し基盤の強い土地で防戦できたら秀吉は蟹江あたりで戦死してたんじゃないか。 上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が わずか22000程度で寝返り続出中で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!! ってまるで漫画だな。 アホすぎる さすが戦国最強豊臣軍
336 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 17:06:17.16 ID:cLTYv2xh
○長久手合戦の戦死者は1万人以上 4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り 5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人 フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人 戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平 佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市 梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎 森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太 また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。 アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが 文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ ちなみに 家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており 3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ 家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。 信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡 石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で 母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる 圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。 上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し 徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。 宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。 長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った 木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。
337 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 17:07:02.10 ID:cLTYv2xh
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし 北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。 逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。 徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上 上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。 家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで 数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り 勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末) 山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚 家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため 尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は 企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に 上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、 駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、 伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る) 佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、 松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。 以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。 長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った 石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。 したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
338 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 17:35:46.39 ID:cD58hsYg
とりあえず秀吉はあれだけの大軍を率いたんだから、それだけで統率50はあるんじゃない? 勝敗は悪かったとしても
339 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 19:30:23.38 ID:cLTYv2xh
つまり桶狭間の戦いは信長より大軍率いた義元を評価 包囲網大軍相手に押されまくってた寡兵の信長は包囲網勢より数段格下ということだな なんで国力や政略や調略でかき集めた軍勢数の多さが戦のうまさどうこうの話に摩り替わるだアホ 過去レス無視して妄言垂れ流してんじゃねぇよw >>いちいち反論するのがめんどくせーが、とりあえずランチェスターの法則は野戦じゃなくて会戦だよ 野戦と会戦は違うのか同じだろ >>要するに、双方が決戦した場合の話であって、野戦においての攻勢側・防衛側 野戦において攻撃側も防衛側も結局の所平野部に出て戦うんだから結局何も変わらん >>城攻めにしても、単に守備兵力が充分に動員される前に戦略機動による戦力の >>適時集中で落としたというだけだろう 具体的にどこの事か知らんが守備側はなぜ戦力は分散し十分に兵力が整わないのに攻撃側は十分な兵力で叩けるのか不明 そんなら余計攻撃側の方が有利という事になる >>戦上手という話にはなるが、それは戦略的に機先を制したためだ なぜ防衛側の方が兵力を分散し攻撃側が集中して一城を攻められるのか不明 >>そうではなく、体勢を整えて防衛された城というのは、やはり三倍程度では落ちない むしろ逆で2倍かそれ以下でも落としまくっている >>そもそも、徳川三河などは、三方ヶ原での野戦で敗れており、基礎となる兵力を 消耗させられていた、という点もあるのだしな 普通なら城に篭もられていてガチガチに防衛されてた所を信玄の神采配で城からつり出して大破し圧倒的被害をもたらした信玄はどんだけ強いんだという話になるわな 俺は別に普通とはいわないまでもそうそう誇張する程のことでもなくこのくらいの兵力比なら普通だと思うが >>別働隊は他も〜などと言っても、お前が例に出したのは「一定程度の国力」どころか当時では屈指の大勢力ばかりじゃねーか 一定程度の国力もない勢力がなぜただでさえ少ない兵を分散させるのか不明 ただでさえ不利なのにそんな事したら瞬殺されるのが目に見えてるし兵の分散に当たる別働隊の編成なんぞ一定程度の国力を持つ大名しかしないんだからそういうのが例に挙がるのは当然 >>で、開けた平原で行われてるとか何とかも言ってたが「だからこそ」だと気付け 平原での戦闘の主導権がなぜ兵の少ない方になるんだ? >>「連なる山脈の谷間と、開けた盆地・平原しか戦場に出来なかった」という事は >>山脈の谷間など、限られたルートしか軍隊の機動が出来なかったという事で 谷間と盆地・平原てかなり特殊な条件だな。しかもそんな場所なら見晴らしがいいから敵が待ち伏せしてても容易にわかるだろ しかもなぜそこにつながるルートが限られているんだ?東西南北どっからでも機動できるだろ それができないような僻地なら防衛側もろくな防戦なんぞできない。基本的に攻撃側が兵をうまく展開して 戦えないなら防衛側もそうそううまく兵を展開なんぞできないしもし防衛にそうそう適した地なら別方面を迂回するなり 別働隊で撹乱するなり挟撃するなりするか、そもそも戦わなければいいだけ >>あり、軍隊の機動の自由が限られていた何よりの証拠だろうが 軍隊の機動の自由が限られた地なら防衛側もろくに防戦なんてできない >>そして、その様にルートが限られているのだから、大軍を多数に分けて進軍させる >>だのというのは、そもそも物理的に妄言だと分かるな 例えば山が二つ連なっていても攻撃側は一隊で敵の正面、別働隊は背後か横からというように敵を撹乱可能 また奇襲どうこうをいうなら攻撃側から夜討ち・朝駆けも可能 >>まあ、無理にやったとしても、今度は各隊が分散して連携できず、各個撃破の標的 なぜ兵数に恵まれていても2隊にわけたくらいで負けるのか不明 よほど相手が強いか味方の戦術作戦に問題があったかとしかいいようがない 分散した所を狙ってくるのならそれに構えて陣地を構えて防戦するか敵が襲ってきた所を 編成した別働隊で後ろから襲撃させて勝利確定 基本的に大軍側は敵が鬼のように強いか敵の情報収集にかまけるか油断した雑魚だけが負ける羽目になる >>ナポレオンの分進合撃が何故軍事上の革命であったのかといえば、今まではそういった >>要素のために不可能であったからだ。お前が考えるほど易しい行いではないのだよ 戦国の戦争なんて装備も戦術も戦い方も単純だしゲームみたいなもんだろ。 そんな当たり前の戦術も理解できず大軍にもかかわらず敗れ去ったのが戦下手の雑魚
340 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 19:31:11.60 ID:cLTYv2xh
>>寡兵は兵の管理が容易で
妄想乙。寡兵の場合は敵の大軍に気圧されて兵の離散逃亡士気低下裏切りが多く
兵の管理どうこうといったレベルでなくなる事が多い。高遠攻防をみればわかる
>>大軍で勝つ方が難易度が高い
戦争なんて兵の数が圧倒的に物をいい特に野戦の場合では兵力比の2乗が戦力比の2乗に比例するほどおおきな意味を持つ
規模でいえば圧倒的に寡兵で勝つ方が不利
戦争においては圧倒的に兵の数がものをいう。史料にないにもかかわらず大軍の統制が取れず負けたとか妄言が通るなら
寡兵側は圧倒的大軍に威圧されてビビリまくり萎縮して士気が下がりまくり脱走裏切りでまくり物資もほとんどなく飢餓同然で矢玉も玉薬もなくて負けたみたいな主張もいくらでも通るわけで
難易度でいえば兵力差における戦争への重大な影響度を考えれば寡兵の方が遥かに難しい
防衛側は兵力が劣り戦略的に見ても主導権を取られやすく特に野戦では兵力比がもろにでるので圧倒的に不利
寡兵側が勝つには敵の油断をついて奇襲するなり見事な用兵で敵を味方陣地深く釣り込んで殲滅するなりしないと無理
普通にガチンコでやりあえばまず大軍側が100%勝つに決まっている
>>仮に大軍で負けようと大軍を運営してる武将が最高統率であるべき
そんなもんは国力や政治力や調略で現せばいいだけで戦のうまさどうこうとは全く関係ない
攻撃側が戦闘をしかけなければ戦闘は発生しないんだから攻撃側が戦場の決定権やそもそも戦闘を行うかどうか自体攻撃側が主導権を持っているといえる
>>組織運用上の話をしているんだから、現代でも戦国時代でも難度が上がるのは同じだよ
問題は兵の多寡による戦闘への影響度を話てるのに全く状況も命令内容も異なる現代の課長なぞだのの話が出るのか意味不明
>>むしろ、組織が整ってる現代の方が苦労は軽減されているんだから、戦国時代の方が ずっと大軍を率いるのは難しい
妄想乙。現代は組織が整おうが社会が複雑化・多極化し戦国の合戦みたいな戦術も命令も単純な物しか出されない時代などと
一緒くたにするのが間違い。大体戦国時代の人が書いた書物で現代のもののような複雑で論理性が読み取れる文章なんぞない
>>分かり易い様に例えているのに、それを「関係無い例」と耳目を塞いで逃げようとするな
全く関係ない話をして兵の多寡による戦闘での優劣への影響度をごまかそうとしている馬鹿に言われる事ではない
>>0 人に言う事を聞かせるのと、50人に言う事を聞かせるののどちらがより難しいか
お前のようなアホなたとえをしてやろう。50人いる会社と500人いる会社、さて会社としてどちらが平均所得が高いか?
企業として競争した場合、一人一人の能力が互角ならどちらが総資産で上になるんだ?考えてみろよアホ
>>武力や知略がお飾りだ、というのはコーエーのゲームバランスに文句を言えよ
ゲーム上でも史実でも武勇なんぞおかざり程度にしか影響がなく、史実をゲームに再現するために設定された能力値において
部隊の攻撃力防御力士気闘志上昇速度に影響与える「戦闘力」を表す統率が戦闘数値でないとか意味不明。とりあえず贔屓武将の統率age馬鹿はromっててくれ。
>>単に信長・信玄・家康が非凡なだけだろう。大軍を上手く動かすだけの能力が
大体の武将が敵兵力に比して味方兵力が少ないとき程苦戦している。伊達・長宗我部・島津。
いかに兵数が多ければ多いほど戦闘が有利になるかなんてアホでもわかる
341 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 19:35:23.20 ID:cLTYv2xh
>>攻守三倍則は別に城攻めに限らん防衛戦の全てに凡そ適応される物だ。 いつからそんな設定出てきた妄想乙。野戦においてはランチェスタ法則で戦力比は兵力比の2乗に比例するほど 圧倒的に大きな意味を持つ >>というか、城攻めの場合は三倍ぐらいで勝てる方が逆に珍しいぐらいだと思うがな。城にもよるけどな おいおい、そんなら3倍どころか2倍もない兵力比で長尾や山之内上杉の介入もある中キツイ山ランキングトップクラスの信濃を ガチンコで切り取り同じく長尾の介入の中上野山間の城をおとしまくり駿河を北条・今川相手に切り取り 圧倒的勢いで徳川を粉砕して滅亡寸前においつめた信玄はどんだけ戦上手なんだ? 伊達政宗なんかも包囲網しかれた状況で敵に勝利したりしたりめちゃめちゃ強い事になるぞ >>それと、三倍の被害を被る、だなんて話は誰もした覚えが無いんだがな・・・ 3倍の被害を蒙らないのに3倍の兵力があっても敵城を落とせないとか意味不明 実際には伊達の会津侵攻信玄の侵略戦争信長の美濃攻略元親の四国攻略など3倍どころか2倍もない兵力で攻略成功なんていくらでもある >>防衛側が戦場を選べる場合だって同じぐらいあるし、 攻撃側が戦闘をしかけなければ戦闘は発生しないんだから攻撃側が戦場の決定権やそもそも戦闘を行うかどうか自体攻撃側が主導権を持っているといえる >>防衛側の方が戦場を選びやすい傾向にある。山がちであり、平原が少ないから、迂回の自由が少ないため、戦場の選択権では防衛側が有利なのだ 実際の戦闘が行われている地域を見ると平野部が大半で大軍勢の展開しにくい平野部は避けられている 実際侵略行動起こすからには敵の奇襲が予測される地域に対して物見を放って探索するくらいの事はしなくてはならないわけで。 そんな行動を怠って奇襲されて負けたら指揮官としては無能というだけ。そもそもそんな例自体稀だがな >>お前が言うような戦場の選択権というのは、広大な平原を持つ野戦や、外洋での海戦、それと揚陸戦など、攻め手が広範囲から侵入出来る場合の話だ そもそも山ばかりの地域で戦闘がガチンコで行われた例なんてあったか? 大体山があっても平野部が中に開けている部分で会戦が行われている例が大半のはずだが。 >>で、野戦築城は攻め手側すらどんどんやってるぐらいなもんなんだがな >>「そうそう」ってのは具体的にどれぐらい簡単じゃないんだ? 例えば小牧長久手の徳川も柵なんかめぐらされていない無防備な陣(当代記・三河物語)だし 関が原でも陣地なんてなくなかったか?他にも大規模会戦で神流川・摺上原・耳川・沖田畷など野戦陣地を大規模に拵えていたなんて記述はなかったはずだが 逆に信長の長篠みたいなのは稀といえるだろ。費用もかかるし準備もいるしさほど容易ではない >>待ち構えて防戦してる側なら、充分に野戦築城をする余地はあるぞ そりゃ相手が攻めてくる場所がはっきりわかっているならの話だな。 でも普通の思考能力のある武将なら攻めにくい場所を作られたら違う方向から攻めるなりおびき出すなりいろいろ考えるわけで。
342 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 19:35:56.14 ID:cLTYv2xh
>>別働隊が〜というのは、日本の地形が山がちであり、機動の余地が少ない 事を加味すれば、圧倒的な優位とも言えない 実際に会戦が行われている場所でいうと山ばかりの場所なんてほとんどなく山が存在するが平野部が開けている場所がほとんど >>それに、別働隊の編成というのは戦略レベルになると、この時代ではよほど >>優れた大名でないと無理な話 別働隊の編成なんて一定クラスの国力を持つ大名ならどこでもやっている 伊達…包囲網しかれた時期に留守を北部に向かわせたり成実を別働隊として派遣したりしている 北条…氏照を下野、氏邦を上野、氏直を伊豆、氏政が下野に向かったりかなり別働隊を使っている 武田…山県、秋山を別働隊として使ったり馬場も別働隊にしている つうか上記は戦略レベルでみてもかなり離れた地域に別働隊として派遣されてるな。これよりかなり狭い範囲での戦術的別働隊でなぜ不可能なのか不明 >>国人衆にせよ家臣にせよ、大名には従ってもその配下の武将に従って、戦略単位として振舞うのは求心力の関係で難しい 配下の武将に従うのが嫌で戦えなくなった例なんてあったか? >>あと、伏兵を警戒して斥候を逐次出す場合、進軍が遅くなるから攻め手の戦場選択の優位など消えてしまうのだがな なぜ進軍しながら斥候を放つと進軍が遅くなるのかとなぜそれで戦略選択の優位が消えるのか意味不明 なら初めからそこから攻めず多方面に転進するなりすればいいだけ。 >>この様に、防戦側は特に日本では篭城だろうが野戦だろうが有利なので、それを 防衛側は兵力が劣り戦略的に見ても主導権を取られやすく特に野戦では兵力比がもろにでるので圧倒的に不利 寡兵側が勝つには敵の油断をついて奇襲するなり見事な用兵で敵を味方陣地深く釣り込んで殲滅するなりしないと無理 ガチンコでやりあえばまず大軍側が100%勝つに決まっている >>差し引かずに合戦での勝敗のみでどちらが上か、などと判断しては不適当なのだ そりゃ戦闘の強さなんて戦わないとわからないんだから 戦闘状況兵力比戦闘結果被害差など綿密に検証して相対法で能力評価すればいいだけ
343 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 19:52:12.01 ID:6TawNV94
毎度毎度クソみたいな長文コピペ連投お疲れさん
344 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 20:01:16.40 ID:8N1e/HKy
一夜明けて見たら、変なのが降臨してた
345 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 21:22:48.56 ID:L7Gsi2zy
つか>>で何を引用してるか 引用先がないからまったくわからん
346 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 21:32:34.41 ID:9FxuaMMZ
キチガイは放っておいて東北ってどうにも能力値低いよなぁ。中部>九州>中国>関東>東北>四国 みたいな感じで
347 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 21:37:42.20 ID:yjYy/aqF
伊達一族がやたら能力値高いじゃん 戸沢とかもいるし
348 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 21:40:45.88 ID:3atPgkoT
>>337 >勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
勝家も秀吉本隊が滝川に向かっても寝返りが出てすらビビってたし
>山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
序盤なら待ち構えている方が有利だし
そもそもそんなデータあるのか?
349 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 22:21:20.19 ID:ycSg2WiX
>347 南部家も結構強いしな 四国は全て長宗我部物差しに諮ってるから 一門や長宗我部相手に善戦した武将に限って言えばは。そこそこいい能力貰ってる
350 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 22:25:03.85 ID:KJU391m8
351 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 22:25:32.37 ID:cLTYv2xh
>>348 は?
勝家が秀吉にびびってた?
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田や金森らが兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
山崎の合戦は圧倒的兵力差&光秀側が山崎を守る形での不利な布陣
しかも戦いを仕掛けたのは光秀の方で待ち構えてたわけでもなんでもない
2.5倍の兵力差ならガチンコで戦っても被害差は6.25倍になる
なのに秀吉側のが損害がでかいんだから最低で見積もっても光秀に比べ秀吉は6.25倍戦下手。
出展は豊鑑、小早川家記、伊藤系譜、宮坂伊兵衛氏所蔵文書、日本戦史山崎役
どうみても光秀、柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
352 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 22:29:16.39 ID:cLTYv2xh
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから 経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな 秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。 何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w 犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東) これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には 芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺 にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。 家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。 中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。 皆もいってるけど単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う 野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、 あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら 戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。 中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし 支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、 南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし 夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを 荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ 当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると 夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより 秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる 六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり 途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。 奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。 しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした 正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから 朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる 敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。 織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
353 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 22:30:44.52 ID:cLTYv2xh
宇喜多や大友に蹴散らされまくった戦国屈指の雑魚毛利に大敗した秀吉 史料総覧 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 萩藩閥閲録 晋叟寺文書 毛利家日記 [参考]備前軍記 [参考]浦上宇喜多両家記 [参考]陰徳太平記 [参考]御答書 [参考]總見記 [参考]柏崎物語 【管理番号】020100216456 【編/冊/頁】10編911冊179頁 【綱文和暦】天正6年6月21日(15780060210) 3条 【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、 自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書
354 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 23:08:52.59 ID:L7Gsi2zy
その秀吉の子分になった毛利
355 :
名無し曰く、 :2012/09/03(月) 23:24:35.73 ID:3atPgkoT
>>351 兵数が多少多かろうと采配が20程度の秀吉を90以上の柴田が攻めなかったというのはおかしな話し。
光秀が秀吉を山崎の狭隘部で待ち構えていたとするのも通説だしそうでなければ大敗した光秀はただの馬鹿。
しかも賤ヶ岳では「勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ」と言いながら
山崎では「兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚」などと力押しを否定している。
せめてどっちかにしなよと。
356 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 00:25:17.76 ID:hMb0od60
何が面白いって合戦の全責任を全て秀吉に当ててるあたり馬鹿くさすぎるw 有名所なら忍城攻めは三成の失策の話だろw秀吉に当てんなよw 君が何言ってもただのキチガイ秀吉アンチにしか見えないからこれ以上見苦しい真似すんのやめたら?w
357 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 00:26:31.51 ID:yphX9oaD
>>355 >>兵数が多少多かろうと采配が20程度の秀吉を90以上の柴田が攻めなかったというのはおかしな話し。
何がおかしいのか不明
野戦においては圧倒的に兵力比が物をいい、兵力の2乗が戦力に比例する
まして秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田や金森らが兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ
なぜこんな状況で秀吉を少ない兵力で奇襲でもなんでもなく無理攻めしないと戦下手になるのか不明
>>光秀が秀吉を山崎の狭隘部で待ち構えていたとするのも通説だしそうでなければ大敗した光秀はただの馬鹿。
誰の通説なんだ?日本戦史山崎役、明智軍記、細川家記始めほとんどの史料は光秀は朝廷権力にすがり、大義名分を利用したため
山崎を守るため狭隘部での迎撃を捨て秀吉側に天王山を占拠され布陣で大きく水を開けられた状況で会戦している
>>しかも賤ヶ岳では「勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ」と言いながら
圧倒的兵力で襲ったにもかかわらず前田・金森・不破が兵を引くまで一進一退。
しかも勝家の部隊長にすぎない勝政・盛政の撤退中を背後から圧倒的大軍で襲ったのに逆に反撃され、撃退
>>山崎では「兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚」などと力押しを否定している。
山崎では2.5倍の兵力比&光秀が山崎を守る形での不利な布陣。これで被害が秀吉のが上
どうみても光秀>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
>>せめてどっちかにしなよと。
どこがダブスタなんだ?
358 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 00:28:54.28 ID:yphX9oaD
>>356 は?水攻めを命令したのは秀吉だろ
こんなもんが秀吉の責任じゃないなら逆に秀吉が勝った戦なんて部下の手柄で全部
秀吉の功責でもなんでもなくなるな
秀吉統率age厨はロムってろよカス
359 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 00:29:38.83 ID:hMb0od60
何にレスしてんのかわかんねwwwwwwwwww
360 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 00:30:13.58 ID:hMb0od60
361 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 00:32:04.76 ID:yphX9oaD
天正11年の滝川征伐でもボロクズのようにやられてるよ 3/3柴田勝家書状・滝川一益事書 大軍率いて滝川軍を攻め崩そうと出てきた秀吉は桑名攻防で一益の鉄砲隊と足軽隊を交差した奇襲戦術にあって大苦戦 結局柴田が倒れて単独で抗戦しきれなくなって降伏しただけだしそれまで兵糧攻めにしようとしても 抗戦が激しく手に負えない状態だった(桑田氏論文) 毛利輝元って大友や尼子残党や宇喜多や河野やらに苦しめられまくった戦国屈指の凡将なんだが 秀吉にだけは勝ててるんだよな。熊見川・祝山をはじめ美作攻防。 宇喜多も不運だったわな。単体なら勝てる相手に秀吉が出てきたせいで足引っ張りまくって。 正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。 秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から 遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる 織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず 池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。 秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却 池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。 別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる 秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因 兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし 家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい 結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな 木曽川筋のわずかな城を落としただけで 南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして 権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし
362 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 00:33:52.88 ID:yphX9oaD
>>360 天正18年4/5秀吉→黒田長政書状で秀吉が忍城攻めを直接命じたと言ってますが?
363 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 00:34:41.06 ID:yphX9oaD
織田家中の実力でいえば 柴田・明智・滝川>佐々・佐久間(信盛)>佐久間盛政・蜂谷・森(父)・稲葉・宮部 池田・丹羽>川尻・前田・蒲生・森(子)>日根野・神戸・関>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 秀吉は織田信雄より戦下手。 信雄家臣の木造親子や吉村氏吉に大敗。 二重堀合戦で信雄にも大敗し楽田から敗走した。
364 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 00:35:27.43 ID:yphX9oaD
秀吉が城攻めうまいってどこから出た話なんだろうな 大嘘もいいとこなんだが。 松ノ木・戸木・三木とかめちゃめちゃ苦戦してるし 小田原1200程度に手も足も出なかったレベルなのに
365 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 00:37:23.92 ID:yphX9oaD
>>356 逆に秀吉が指揮とらなかった九州攻め、四国攻め、朝鮮征伐あたりのがスムーズにいってるな
それでも仙石を先行させたり馬鹿な戦術で出さなくてもいい被害だしてるのはいつもの事だが
366 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 00:38:04.67 ID:hMb0od60
やべー秀吉アンチ湧きすぎてきめーwwwwwwww
367 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 00:38:56.70 ID:yphX9oaD
上方の圧倒的国力・先進的装備&135000もの圧倒的大軍の豊臣軍が わずか22000程度で寝返り続出中で基盤ガタガタの信雄相手に大敗!!! 敗戦!!!! ってまるで漫画だな。 アホすぎる さすが戦国最強豊臣軍
368 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 00:51:20.52 ID:KRTarDzr
>>367 yphX9oaDにいろいろ聞きたい事あるが、知略も秀吉が1番なん?
政治 統率 知略
秀吉 120 25 120
369 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 02:51:07.26 ID:cT7Sf9PQ
>>327 秀吉の能力値はどうでも良い
他軍団長の-5を受け入れて河尻、塙の能力を上げるかどうかだ
370 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 04:34:13.95 ID:hWnAdEKj
今の塙、河尻、蜂屋の能力だと 信長が一国を任せた理由がまるでわからない能力値
371 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 05:00:39.07 ID:nA2D/NZ9
塙直政は烈風伝だと鉄砲Aでかなり使える武将だったな。 鉄砲Aが最近の作品と違って9人しかいないから余計に際立ってた。
372 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 05:08:40.26 ID:AxQD7I+4
関ヶ原まで参戦してて姉小路を滅ぼした金森さんを 統率75ぐらいにしてくれれば満足
373 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 09:41:12.82 ID:jR9qEA6h
>>357 >圧倒的兵力で襲ったにもかかわらず前田・金森・不破が兵を引くまで一進一退
これって関ヶ原で西軍は一部しか戦闘していなかったにも関わらず
小早川や脇坂が寝返るまで押され続けた家康も低評価にしろということ?
>山崎を守るため狭隘部での迎撃を捨て秀吉側に天王山を占拠され布陣で大きく水を開けられた状況で会戦している
ならば天王山をやすやす取ったことは秀吉のプラス評価
山崎の後方で迎撃したこと自体が光秀のマイナス評価になるんじゃないの?
何にしても誰よりも城を落としてきた秀吉が城攻めが下手で
柴田や明智よりも采配低評価ってのはあり得ないな
374 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 11:46:34.01 ID:yphX9oaD
>>これって関ヶ原で西軍は一部しか戦闘していなかったにも関わらず >>小早川や脇坂が寝返るまで押され続けた家康も低評価にしろということ? 西軍参加の島津の史料で会戦当初から東軍優勢で小早川は東軍の勝利が決定的になったあとで寝返ってきたと書いてる しかも布陣でいえば西軍のが圧倒的に有利 >>ならば天王山をやすやす取ったことは秀吉のプラス評価 >>山崎の後方で迎撃したこと自体が光秀のマイナス評価になるんじゃないの? だから同じ事言わせるな 光秀は朝廷を守護する名目から戦術的に優位にたてる天王山を捨て山崎を守る不利な布陣を強いられたんだろうが >>何にしても誰よりも城を落としてきた秀吉が城攻めが下手で 馬鹿かお前。それをいうなら誰よりも城攻めで苦戦しまくりまくった秀吉が城攻めがうまいわけねだろアホ 秀吉の苦戦した諸城、 播磨三木上月但馬竹田因幡鳥取備前児島祝山備中高松伊勢長島桑名松ノ木戸木神戸松ヶ島小牧山蟹清水 つーかもう攻めたとこほとんどだな >>柴田や明智よりも采配低評価ってのはあり得ないな 秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。 この状況で前田や金森らが兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。 山崎の合戦は圧倒的兵力差&光秀側が山崎を守る形での不利な布陣 しかも戦いを仕掛けたのは光秀の方で待ち構えてたわけでもなんでもない 2.5倍の兵力差ならガチンコで戦っても被害差は6.25倍になる なのに秀吉側のが損害がでかいんだから最低で見積もっても光秀に比べ秀吉は6.25倍戦下手。 出展は豊鑑、小早川家記、伊藤系譜、宮坂伊兵衛氏所蔵文書、日本戦史山崎役 どうみても光秀、柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
375 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 11:50:08.86 ID:yphX9oaD
>>373 なんで戦術的采配とは無関係の光秀の事情での都合いい布陣が秀吉の高評価になるんだアホ
戦国最弱信雄・輝元・氏政相手に調略しまくって相手の結束ガタガタな状態で物凄い兵力で攻め込んで負けまくった
秀吉より城攻めへたくそな武将なんていねーよハゲ
376 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 11:51:09.31 ID:VYUjRI8y
今回はID変えてないっぽいからNGが捗ります
377 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 11:52:43.25 ID:yphX9oaD
○長久手合戦の戦死者は1万人以上 4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り 5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人 フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人 戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平 佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市 梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎 森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太 また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。堀氏のアンチ徳川馬鹿論文にその後のうわさでは3000人ばかり…というのが顕如日記にあると書いているが嘘 そんな記述はどこを探しても見つからない
378 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 11:52:54.28 ID:KRTarDzr
>>374 キター!!
賤ヶ岳の戦いの時は、毛利って味方と言えるほどか?
見方によっても味方と言えなくもないが、好意的中立ってとこじゃないの?
379 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 11:53:39.77 ID:yphX9oaD
秀吉は、織田四天王の中では一番雑魚。 直接交戦での戦績からそれがよくわかる。 滝川にまけ柴田に負け明智にまけ、それを勝った勝ったと揉み隠し しまいには輝元、氏政、信雄の日本3大凡将に大敗し天下失ったゴミ武将 秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。 この状況で前田や金森らが兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。 秀吉は軍事的才能が致命的に欠如していたんだろうな この戦いに限らず常に圧倒的大軍で寡兵の敵に敗走、大苦戦、大損害。 織田兄弟で最も無能な信雄ごときに苦戦する雑魚はそうそういないだろう。 信雄がもう少し基盤の強い土地で防戦できたら秀吉は蟹江あたりで戦死してたんじゃないか。
380 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 11:57:21.77 ID:KRTarDzr
>>379 平野ならまだしも賤ヶ岳だは数的優位を活かしにくい地形だろ。
381 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:00:55.74 ID:KRTarDzr
>>379 ちなみに輝元、氏政、信雄の統率はいくらだと考えているの?
君の中では武勇はないの?
382 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:05:15.56 ID:yphX9oaD
末森城前編利家武功覚書・高徳公譜略など前田の史料によると 秀吉が佐久間・柴田勢を襲撃し反撃にあったのは特に小高い丘の上ではない しかもこの地域全体平野ではないとはいえ狭隘部での広域な戦線が展開できない地域ではなく 実際両将とも大軍同士投入している
383 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:06:48.52 ID:KRTarDzr
384 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:06:50.71 ID:yphX9oaD
輝元…宇喜多大友相手にゴミクズのように蹴散らされた雑魚 氏政…佐竹里見に苦戦しまくった凡将 信雄…伊賀攻めで敗戦、一般的評価では暗愚の将
385 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:07:20.52 ID:KRTarDzr
383 間違えた382へ
386 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:08:08.44 ID:KRTarDzr
387 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:08:55.42 ID:yphX9oaD
現代と古代で地勢は変わってるだろうに現地に行くことに意味あるのか?
388 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:10:58.44 ID:KRTarDzr
>>387 賤ヶ岳がそんなに変わってるか?
じゃあ現地調査は全部無駄で、記述だけで判断すればいいと言う事か?
389 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:13:26.05 ID:KRTarDzr
>>387 地勢変わっていたら、お得意の文献で調べて修正して想像しろよ
390 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:14:40.36 ID:yphX9oaD
>>388 そら古戦城なんて河川の流れや地震の影響やら土砂崩れやら雨やら長年で大きく変わるだろ
尾張近辺も天正大地震前後でめちゃめちゃ地形変わったし
後前田の史料とかだと
柴田側は地勢をうまく利用して大軍相手に迎撃したなんて事かかれてないんだが
391 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:17:09.60 ID:yphX9oaD
>>389 とりあえずお前が羽柴の大軍相手に柴田側が地形を利用して大軍を展開させず迎撃したという史料出すのが先だな
静が岳合戦記とか日本戦史とか前田の史料とかメジャーどころにはのってない
392 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:20:02.05 ID:KRTarDzr
>>390 めちゃめちゃ地形変わったら史料残ってんだろ?
賤ヶ岳は?
賤ヶ岳周辺に布陣してるだけで地形利用しているだろ。
おまえ山行った事あるのか?
393 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:24:40.24 ID:yphX9oaD
>>392 めちゃめちゃ大軍が展開できない所で迎撃してたら史料残ってんだろ?
賤ヶ岳は?
賤ヶ岳周辺に布陣してるだけで大軍展開できるだろ
山なんて狭隘部でもなければ大軍普通に展開できるしな
関が原の時だって大軍が山に陣取ったりしている
394 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:28:02.28 ID:yphX9oaD
高徳公譜略 秀吉軍は平野部で勝政・盛政で交戦(地勢で邪魔されたなんて一切書いていない) 末森記前編利家武功覚書 上記と同様。両軍とも大軍を展開して衝突 前田が勝手に兵を引き戦局が変わった
395 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:33:11.54 ID:KRTarDzr
>>393 分かった分かった、史料に書いてなかったら大軍が展開できるところなんだな、
全部史料だけで判断するの分かったよ。
賤ヶ岳は、普通に会戦出来る所か?
まぁ史料に出来ないと書いてないから、出来るんだな。
全軍が地勢問題なく戦えたのか?
まぁ史料に残ってないな
396 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:44:12.10 ID:VYUjRI8y
基地外に触る奴も同類ですよねぇ
397 :
名無し :2012/09/04(火) 12:44:27.73 ID:LYPATQXm
全キャラが身分によって兵力を率いれるゲームだから 秀吉が高統率になるのも仕方ないわな。 同じ知行を持ってても 武将によって動員できる兵力が変わるって仕様なら 秀吉はもっと低統率で問題無いだろうけど。 逆に言うとゲーム上の秀吉の統率は そこらへんの補正が入ってるってだけだろ。
398 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 12:46:02.16 ID:KRTarDzr
基地外に触る基地外でごめんね。 一旦落ちます。
399 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 13:53:25.55 ID:jR9qEA6h
まあ光秀と勝家を-5って方が妥当だと思うんで 現状のコーエーの秀吉評価についてはどうでもいいけどね
400 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 15:12:33.52 ID:jR9qEA6h
柴田勝家 90 93 53 67 303 突撃之四 C A D C B 佐久間盛政 73 90 64 18 245 突撃之三 C A D D B 徳山則秀 41 50 41 59 191 斉射之一 D D C D D 中川清秀 48 72 19 14 153 槍衾之二 B D D C D 高山重友 68 56 66 72 262 鎮静 C D D B B 丹羽長秀 69 75 73 86 303 鎮静 C C B A D 佐久間や徳山なんかは柴田に吸われて それに合わせて賤ヶ岳の羽柴側も下げられている気がする
401 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 15:58:32.77 ID:k1ULYnri
このスレは絶対評価か相対評価かをはっきりさせるのが先決
402 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 16:50:06.75 ID:Qb5BdxwR
あまり関係ないがアンサイの酒井忠次の頁に 海老すくいと信康切腹の記述があって 後半だけまじめに書いてあってワロタ
403 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 18:50:42.57 ID:9mkBEY4H
絶対評価か相対評価かでそんなに能力変わるやついるか?
404 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 19:37:44.95 ID:ctBKFQCX
>>400 すっかり中川は佐久間に差を付けられたなぁ、三流武官と二流武官くらいの差だったのに。
もうちょっと頭の方は上げていいんじゃないかと思うが
405 :
名無し曰く、 :2012/09/04(火) 22:00:34.91 ID:TkNBdI+9
こうしてみると丹羽過少すぎるだろ 高山と統率1しか違わないとか
406 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 01:23:35.93 ID:IZxLoTL3
こうしてみると佐久間過小すぎるだろ 加賀一ヶ国任されたのに政治18とか
407 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 02:00:19.90 ID:1jH2EGEp
それ関係なくね?
408 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 02:05:12.45 ID:caGh7KXA
こないだ谷口克広さんの本読んでビックリしたんだけど、 池田恒興ってギリギリで信長から摂津の一国支配任されてるらしいな(河内だったかもしれん) 国持大名作りまくってたけど本能寺無かったらどうなってたんだろ
409 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 07:17:11.78 ID:EtvG3a6y
>>恒興 信長晩年には評価が上がったね。 能力はそんなに高くはないんだけど、 最長老と言えども林秀貞が追放され、 成果は見劣りしても人生を信長にささげた佐久間信盛も追放され、 「俺も危ない」って尻に火がついたのかな。 信長流マネジメントが有効に働いた一人。 逆にこのマネジメントで光秀は裏切ったけど。
410 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 07:42:53.00 ID:9M48PQhk
>>403 相対で高い低い言いつつ理想の数値は絶対にしちゃってるのはよくあることだと思うが
411 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 09:57:47.15 ID:v6YJqqWv
絶対評価か相対評価かってのはよく言われる話だからな 例えば武田信玄や上杉謙信なんてのはこのスレでは 過大評価だと挙げられてタブー化しているが、彼らの比較先は あくまで天下を統一した豊臣秀吉や徳川家康と比べて過大ということであって 真田幸隆や立花宗茂みたいな捏造レベルの人間と比べれば過小評価なわけだから、 基本的に相対評価で高い低いなんて言い合っても意味がない
412 :
名無し :2012/09/05(水) 10:03:53.07 ID:3U/Pv+xV
ただ、ゲームとして盛り上げるために どの勢力あるいは、どの地方でプレーしても 目玉となる武将がいた方が良い、という判断も制作側にあるんだろうな
413 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 10:07:41.75 ID:v6YJqqWv
ゲームとしての盛り上がり部分は仕方ない節がある。 再現性を高くすると織田豊臣徳川がとんでもないことになるからな。 能力が高くなる云々とかよりも、武将の数がヤバいことになる。 いくら武将の能力を強めに設定しても、数の暴力でボコボコにされて終わり。 阿閉貞征レベルのマイナー武将まで出したら、織田家の武将1000人とかになるだろ
414 :
名無し :2012/09/05(水) 10:13:50.92 ID:3U/Pv+xV
そこらへんはシステムとの兼ね合いもあるしなぁ キャラの魅力として能力値設定しても 戦争を出来るだけサクサク数多くできるようにして や内政・調達・輸送等の煩わしい部分を軽視する事で ゲームとしてのテンポを保ちつつバランス取ってるから 単純な戦上手と、局面で伝説的な活躍をした武将と 戦場での槍働きより兵の運用や戦争のタイミングの見極めで 戦闘に負けても戦争に勝ってきた武将の差異がつかなくなる。 ある程度の脳内補正は必須だよなw
415 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 10:36:13.94 ID:OiRFjjLN
大名を過大というか完璧超人にされると萎えるんだよな 別に謙信を統率、氏康を政治、元就を知略、信長や信玄を合計で それぞれ上位なんてのは特徴が出て面白いけど 今のオール元大名軍団、信長や政宗が切り込み隊長なんていうのは 出来ないことでは無いにしてもリアリティが無い 武将数足りないにしても家臣の能力値を割増しや大名との補完関係にする方が 有能な武将が豊臣系大名や徳川旗本になっていった雰囲気が出て面白そう
416 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 10:39:13.49 ID:QPK0smOn
>>411 >>あくまで天下を統一した豊臣秀吉や徳川家康と比べて過大ということであって
秀吉より過大な武将なんていねーよアホ 直接交戦の結果からわかってる情報を整理し確定している組み合わせを出して
能力評価する。
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利
これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110 武田信玄
100 徳川家康
97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
93 立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
92 織田信忠
91 島津家久 伊達政宗
90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴
20 羽柴秀吉
417 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 10:41:01.29 ID:QPK0smOn
秀吉が一番過大だろ。他の連中のがよっぽどマシ。 秀吉はヘタレ毛利が上月を攻め落とし織田軍を蹴散らしたのに 安芸からの兵站の長さを理由に退却する雑魚っぷりを披露し 毛利つかえねぇwwwwとみた南条・宇喜多が離反し 毛利は数倍の国力がありながらこいつらに大苦戦。 その隙に織田方は兵糧切れの三木・同じく織田方に裏切ろうとした山名が米を売るなど物資貧困状態の鳥取などを火事場泥棒 この頃毛利は宇喜多に数倍の国力差がありながら加茂崩れ・辛川合戦で大敗するなど苦戦しまくり翻弄されまくり備前はおろか備中・美作でも劣勢だった この窮地を救ったのが鳥取を火事場泥棒した秀吉が宇喜多方に歩調を合わせ参戦してきた事で 宇喜多は戦闘ゴミレベルの秀吉のせいで忍山・祝山・備前児島攻防などで大敗し窮地に陥る 備中高松の時も、秀吉は宇喜多単体に翻弄されまくっていた毛利に対し「うわwwwこえぇwwww」と 膨大な金銭や人員や時間を犠牲にし雨が降らなければ失敗していたであろう水攻めという博打に打って出るが 気概0のヘタレ毛利にはこの策が功を挺し廻りが離反だらけで劣勢な中、単独で宇喜多・羽柴を撃退するなど功を上げていた清水宗治を見事に見捨て、高松は落城。 運がよかったな 晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、 自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為 虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、 成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下 荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判 巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、 其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判 天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固 之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、 天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、 7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候 天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、 天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類 被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、 天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、 6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は 一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、 以上児玉家文書 柴田・明智・滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
418 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 10:41:45.09 ID:QPK0smOn
秀吉は本多正信強化版みたいな能力だろ。 ・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める ・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる ・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける ・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される ・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる ・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する ・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る (しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの 法則でいえば倍の兵力なら相手の25%の損害でなければおかしい ) ・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される ・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態 前田が兵を引いてなんとか助けられる ・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる ・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない 無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し 池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる ・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される ・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される ・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる ・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を 正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも 雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす ・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、 家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、 なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう ・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す ・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する ・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす ・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず 緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする ・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず 手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで 追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態) ・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる ・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する ・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない ・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない ・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う ・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、 国内を大いに疲弊させる トップ3どころかワースト3に入るレベルだと思われる 何せ直接対決で日本3大雑魚凡将の氏政・輝元・信雄に敗北 しかも会戦状況でいえば敵は圧倒的に寡兵&寝返りばかりで秀吉側に圧倒的有利
419 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 10:43:54.91 ID:QPK0smOn
天正11年の滝川征伐でもボロクズのようにやられてるよ 3/4柴田勝家→填島宛書状・滝川一益事書 大軍率いて滝川軍を攻め崩そうと出てきた秀吉は桑名攻防で一益の鉄砲隊と足軽隊を交差した奇襲戦術にあって大苦戦 結局柴田が倒れて単独で抗戦しきれなくなって降伏しただけだしそれまで兵糧攻めにしようとしても 抗戦が激しく手に負えない状態だった(桑田氏論文) 秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚 毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが 備前・美作方面に出兵すると大苦戦 元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい 絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ 毛利輝元って大友や尼子残党や宇喜多や河野やらに苦しめられまくった戦国屈指の凡将なんだが 秀吉にだけは勝ててるんだよな。熊見川・祝山・備前児島をはじめ美作攻防。 宇喜多も不運だったわな。単体なら勝てる相手に秀吉が出てきたせいで足引っ張りまくって。
420 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 10:44:25.21 ID:QPK0smOn
秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな 織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して 大きく勢力拡張 山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて 戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ 毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず 勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ 家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で 領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。 まあ毎度の事だけど
421 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 10:45:27.50 ID:QPK0smOn
秀吉の三大デタラメ ○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦 圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ ○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ ○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ 秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ 謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで 戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利 前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田 戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄 徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで 譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川 まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津 わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条 秀吉は伊賀攻めで大敗した暗愚の凡将織田信雄より戦下手。 信雄家臣の吉村・木造などに大敗した雑魚
422 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 10:46:20.73 ID:QPK0smOn
秀吉はある意味最強だよな 信雄・輝元・氏政にボロクズのように負ける武将なんてそうそういないだろうし 秀吉が過大評価されるのは太閤記とか豊臣秀吉譜とかの徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。 一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。 実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない 秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。 この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
423 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 10:47:59.34 ID:QPK0smOn
何せ長久手後、7倍もの圧倒的兵力差&寝返りばかりでガタガタな信雄相手に一進一退。長久手会戦後 4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候 羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ 4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる 4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる 秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど 完全に持久戦の態勢に入っている 4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候 4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する 4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候 4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た 4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた 播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた 5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した 5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが 美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ 5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した 5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので 近日討ち入るつもりだ 5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた 5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である 各高名の者共この内に申すべく候 5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く 敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである 5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である 5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した 家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ 先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った このほうの本意がなるまで程ない状態である 5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる 上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態 家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる 羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便 これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし 滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。 こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
424 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 10:53:56.74 ID:bYZAvjOa
>>415 > 今のオール元大名軍団、信長や政宗が切り込み隊長なんていうのは
政宗はよく知らんが、信長の切込隊長は意外と合ってると思うぞ。
大軍を率いて緻密な戦術を駆使するより、少数兵力で突撃する方が得意そうだし。
例:稲生、桶狭間、天王寺、etc.
425 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 11:06:11.52 ID:v6YJqqWv
むしろ大名なのに切り込まずに本陣に引きこもってた連中の方が稀だと思うが 伊達政宗も人取橋では結構奮戦してただろうし、パッと思いつく限りは武田信玄くらいか
426 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 11:40:34.73 ID:/uaMfA31
切込みじゃないけど奥羽永慶軍記かなんかに自ら鉄砲で敵撃退したみたいな話はあった思う>政宗 やっぱ切込みとかしないと武勇高いのダメかな?
427 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 11:52:18.18 ID:96Fyt50o
まぁ、 家柄も家臣もいない庶民から始まり戦でも人望でも勝ち続けて味方も増やし 天下人になった人や 家柄や有能な家臣はもともといても人質から始まって独立し、 出るところで出て最後の勝利者になった人や、 彼らの前提となる人とくらべられちゃ 地方の勝利者はエピソードも少なく過大と言われてしまう人もいるが夢もないよね 地方を下げるより上を強化してほしいかな 信長はオール100くらい 秀吉は統率と政治(知略は某参謀等に吸われる) 家康は統率と知略(政治は大久保等政治屋に吸われる) 部下にしたとき天下人の系譜を部下にしたという感覚が個人的に欲しい
428 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 12:38:54.13 ID:v6YJqqWv
信長は政治そこまでいらんな、85あれば十分だと思う
429 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 12:47:42.85 ID:OiRFjjLN
>>424-425 言葉が足りなかった
切込隊長ってのは色んな名将を差し置いて
ゲーム内で主砲になっている状況
具体的に言えば統率90以下にして
その分を他の能力値や家臣に回せとね
430 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 12:50:57.86 ID:OiRFjjLN
431 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 12:51:32.79 ID:v6YJqqWv
ゲーム内の主砲といっても、織田信長や上杉謙信は当てはまらないか? 政宗は確かに他に回してもいい気はするが
432 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 12:53:03.78 ID:v6YJqqWv
433 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:05:23.75 ID:o6BRbbNY
>>412 >>413 ゲームとしての盛り上がりを考えると、大体2回に1回は史実通り織田家が拡大するけど
展開によっては史実ではそれほど拡大しなかった家が拡大するとかなら面白いのに
いつもいつも武田ばっかり伸びて織田なんか君いたのって感じなのは面白くない。
九州も何度やっても島津ばっかり。
太閤立志伝だとプレイ毎に大友・島津・竜造寺で拡大勢力が違って面白かったのに。
434 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:06:36.15 ID:QPK0smOn
>>430 何回も繰り返しても同じ妄想垂れ流しの
>>427 にいえよ馬鹿
もうこれ以上繰り返すなら信長も全力で罵倒させてもらうわ
>>家柄も家臣もいない庶民から始まり戦でも人望でも勝ち続けて味方も増やし
>>天下人になった人や
、
はあ?秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだろ
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して
大きく勢力拡張
山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて
戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ
毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で
領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ
しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。
まあ毎度の事だけど
>>秀吉は統率と政治(知略は某参謀等に吸われる)
馬鹿かお前
信雄・輝元・氏政に圧倒的大軍で寝返らせまくって攻め込んでボロクズのように蹴散らされた秀吉が87より高いなら
他の有力大名なんて300くらいないとおかしい
435 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:09:14.17 ID:oR/BSrtl
>>427 過去レス散々無視して同じ妄想繰り返してんじゃねぇよボケ
436 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:11:38.92 ID:oR/BSrtl
>>家柄も家臣もいない庶民から始まり戦でも人望でも勝ち続けて味方も増やし はあ? 秀吉が戦術的にうまい采配で勝利して勝った戦なんて一つもねえよタコW 毛利信雄光秀氏政柴田滝川徳川どこと戦ってもボッコボコにやられまくって 圧倒的大軍と調略と政略で抗戦諦めさせてるだけだろうがタコ 何回言わせれば気が済むんだカス
437 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:13:12.71 ID:oR/BSrtl
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし 北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。 逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。 徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上 上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。 家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで 数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り 勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末) 山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚 家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため 尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は 企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に 上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、 駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、 伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る) 佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、 松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。 以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。 長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った 石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。 したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』) 圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。 別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。 織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。 本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は 初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。 そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは 自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。 長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田 等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
438 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:13:43.71 ID:oR/BSrtl
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉 織田家中でいえば 柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>原田、川尻、日根野、金森、前田、池田 >>>>>>>>>>>秀吉 こんなもん 長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは 戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や丹波の赤井氏など国人が蜂起している事 それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ 長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然 池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟・森長可他1万人戦死 結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して 結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか 弱いにもほどがある しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国 ちなみに捏造でいえば信長や秀吉の方が遥に酷い。 83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり 84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり 紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり 尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶 秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。 徳川が捏造したなどとアホみたいな妄想を毎回語る馬鹿は消えろ 長篠の戦いも本当は武田圧勝だったけど徳川が捏造して織田徳川圧勝だったとかそういう話でもするか?
439 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:14:40.57 ID:oR/BSrtl
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから 一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後 すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした 正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから 朝に動けば絶対間に合ったのに 軍事的才能がなさすぎる 敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。 池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から 尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら 相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし 夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを 荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ 家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。 信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡 石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で 母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる 圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。 上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し 徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。 宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう 裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。 長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った 木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。 家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため 尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は 企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に 上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、 駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、 伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、 木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)、佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、 大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。 以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。 長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った 石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。 したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
440 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:16:42.16 ID:2hpVlgeJ
姉川で織田より強い事が確定している西三河小領主から天下統一した最強家康でも 信玄に瞬殺され信玄より弱い勝頼相手に苦戦しまくったのが現実 寡兵で大軍秀吉に圧倒的に兵力比がモノをいう野戦で金森・前田らが撤退するまで 均衡を保った織田家最高峰の柴田なんか謙信に蹴散らされたばかりか謙信より弱い景勝を 内乱で自壊した隙をついて9倍もの圧倒的大軍&調略で火事場泥棒したのに越中中部で2年も足止め食らったのが史実 勝頼>>>家康 景勝>>>柴田 柴田>>>>>>秀吉 家康>>>信長 信玄>>勝頼 謙信>>景勝 これが客観的評価
441 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:17:19.64 ID:2hpVlgeJ
×織田に滅ぼされた ○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落と甲江同盟反故による騙まし討ち あんなもん完全にラッキーだっただけ 元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪 寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん いわば火事場泥棒みたいなもん 本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな 武田対織田の結果 上村合戦 武田の圧勝 東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属 三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走 長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面 ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず 柵も破られ9時間も戦われる始末 岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても 落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり 高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す 信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり 武田と織田比較 領土拡張率 武田>>>>織田(0倍) 戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害 武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略 負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝 直接交戦結果 上記の通り 天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。 武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に 作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ 吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。 甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる 天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り 山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
442 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:17:59.42 ID:2hpVlgeJ
信長の合戦一覧 生涯の多くを敗北に費やし、同格にはとても勝てず 運で勝てたら調子こいて突っ込んで負けている。 普通にやっても負けている。格下にももちろん負けている。 幻想を通り越してもはや織田厨しか抱いていない幻覚としか思えない 兵農分離とか以前に、単純に信長の指導に問題があったと思われる。 1546年 信長初陣。 今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。 後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。 1552年 信長家督継承。 素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、 やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて 抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。 守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。 1554年 村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。 1555年 叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。 信光は用済みとばかりに信長に殺される。 1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。 散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。 信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され 織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。 この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。 1560年 桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。 先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し 今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、 初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。 大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。 スーパーラッキーパンチ。
443 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:18:47.56 ID:2hpVlgeJ
これより信長は斉藤にシフトするが負けばかり。 1560年 桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、 美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。 1561年 斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。 信長、これを見て美濃侵攻。 嵐を利用して森部で勝利。 しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。 織田一族信清の弟戦死して敗走。 軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる 1562年 14条で弟を死なせたからか信清離反。 尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。 1563年 新加納で斉藤勢に敗北。 1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。 東美濃で武田の一部隊と衝突。 あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。 堂々砦攻防戦。 砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出して たまらず敗走。 1566年 足利義昭から上洛救援要請来る。 信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。 しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。 し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。 攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ 上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。 逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。 逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。 逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
444 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:20:00.04 ID:2hpVlgeJ
1571年伊勢長島第一次。 信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。 撤退するところを追撃され大敗北。 氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。 比叡山大虐殺。 先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。 虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。 1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。 嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。 信長、横山城から美濃に帰還。 その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。 その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。 信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。 武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。 武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに 三方ヶ原におびき出され完敗。 戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。 徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。 1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。 1573年 武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。 焼き討ちを行って織田を挑発。 信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて 織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。 信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。 この状態で将軍義昭離反。 「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。 天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。 信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。 信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
445 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:20:36.80 ID:2hpVlgeJ
伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。 反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。 朝倉は一門に裏切られての最後であった。 返す刀で浅井も総攻撃して攻略。 朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。 調子にのって伊勢長島を攻撃。 第2次伊勢長島。 伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、 一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも 一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず 凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。 1574年 越前蜂起。 苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に 反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。 織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。 武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。 結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。 朝倉攻略から3か月。短い平定であった。 東美濃攻防。 信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。 信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。 石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。 武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。 信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。 1574年 家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。 第三次伊勢長島。 大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。 三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。 一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。 し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。 武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。 大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。 し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。 餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。 この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら 信長勢に突撃する。 信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。 その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。 飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。 逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。 長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。 武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。 織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討し始める
446 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:21:40.48 ID:2hpVlgeJ
氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、 宇都宮、梁田、那須、小山、太田 その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。 信長は、浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。 氏康>>>>>>>信長 信長や秀吉は畿内や美濃に大苦戦し生涯を終えた。 家康は武田に苦戦したが畿内や美濃は瞬殺した。 武田>>>>家康>>>>>>>>>>>>>>>>雑魚織田 信長は山県、馬場、家康より弱い。 信玄は山県、馬場、家康よりずっと強い。 謙信は信玄より強い。 謙信>>信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長 政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると 圧倒的に政宗のが上。 信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。 政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう 大連合を自力で突破した。 比較にすらなるまい。
447 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:22:12.40 ID:2hpVlgeJ
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは 武田優位は揺るいでないから 信長は結局、 信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。 遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の 天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが 信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと 恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに 信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを 信長は引きずっているのがわかる。 元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが 無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。 同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが 調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが 5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。 5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし 家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより 長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために 勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。 そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。 つまり信長は火薬到着待ちをしていたので 勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。 13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。 連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に 作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ 吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。 公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている) 本願寺への義理も充分に果たしたし ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。 そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が 勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。 しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。 武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。 長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。 勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに 撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった。
448 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:23:43.65 ID:7sm7cgiv
織田は天皇の威光と信玄の死で救われただけ 史実では滅亡確定 家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから 瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請した 9/20信長が摂津から志賀に到着。 10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w 10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記) 11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記) 朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記) 三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。 信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。 10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。 大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により 奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記) 10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。 南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。 10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記) 三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w 10/22義昭側近上野信恵→草刈景継 因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが 新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される) によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は 京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。 備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。 青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に 本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。 11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記) 11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。 11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で 本意案の内と書いている(計画通りだ) 11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し 御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書) (朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している) 織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。 11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状) 11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や 郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。 (濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け 郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し) 美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。 顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」 景健宛「毎度勝利を得て珍重」 義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。 志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。 堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書) 堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書) この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが 正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。 12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。 12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。 伏見宮の記録によると 12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。 12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても 比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている) 12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。 12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。 12/16両軍帰国。
449 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:24:09.74 ID:OiRFjjLN
>>431 軍神様はそういうキャラでいいでしょ
>>432 コピペが邪魔だからまあそうなんだけど
統率60以下って軍団長なら部下の足を引っ張るくらいの数値だよな
ましてや20とか一揆勢相手に城にこもっても家臣に追い出されて負けるレベル
それが毛利や明智や柴田が勝手に負けてくれたみたいに言われると
突っ込みたくなるよな
450 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:25:15.64 ID:7sm7cgiv
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。 5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ (4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである。 (信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する) 当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、 土岐氏に配慮する六角義賢が、同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから斎藤は南下なんて考えてない。 義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、 改革を押し進めていたから、尾張を戦わずして勝つの深慮遠謀の策を以って内乱状態にさせて信長を封じつつ、宗教統制を改革中に急死。 信長は幼君斎藤龍興に苦しめられたが不景気で助かったみたいだな。 森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を 美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。 頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は 内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城 城内で内通が出て開城が犬山城 と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは 東美濃の国人達が経済的に没落していて 戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と 農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。 その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。 そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。 龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。 龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。 龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。 龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。 龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。 8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。 龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。 義龍の死の混乱に乗じてわすか二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。 しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し 稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。 結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。 永禄6年の観音寺騒動以来はっきりとニ派に分かれて対立する六角氏。 そこに永禄8年の将軍義輝暗殺と朝倉による義昭救出と言う事態が絡んで ようやく信長がラッキーな情勢に変化する。 親三好派の六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく 浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状) その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状) これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して 美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い 近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。 この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。 このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
451 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:26:31.53 ID:7sm7cgiv
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手 根拠1 遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の 天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが 信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと 恐れている 三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている 明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。 弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。 だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた 根拠2 長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差 の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功 (ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言) 根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し 勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態 何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで 武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ 一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍 信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
452 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:33:13.86 ID:7sm7cgiv
>>449 >>コピペが邪魔だからまあそうなんだけど
>>統率60以下って軍団長なら部下の足を引っ張るくらいの数値だよな
引っ張りまくってるな
別所相手に大苦戦し三木城・竹田城攻防など2年以上費やし
その間谷など重臣クラス大量戦死
>>ましてや20とか一揆勢相手に城にこもっても家臣に追い出されて負けるレベル
一揆勢みたいな結束力なしの権力基盤ガタガタな信雄相手に寝返らせまくって
圧倒的大軍で攻め込んで1万人戦死する大敗
その後の攻防も松ノ木戸木蟹江二重堀長久保など負けまくり1年費やしても基盤ガタガタな尾張半分すら切り取れず
>>それが毛利や明智や柴田が勝手に負けてくれたみたいに言われると
はあ?
毛利って宇喜多に苦戦しまくってる間に大した物資もない鳥取やらを調略と大軍での兵糧攻めなどで火事場泥棒しただけだろ
光秀戦も2.5倍の兵力差で光秀側が山崎を守る形の不利な布陣のおかげで有利に戦えたのに秀吉のが損害が多く
しまいには撤退中の柴田・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら反撃され
圧倒的兵力差がありながら前田・金森・不破らが兵をひくまで一進一退
前田金森不破らが兵引かなかったら負けてただろうな
453 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:34:35.41 ID:7sm7cgiv
武田軍団は過小の集まりだからな 史実で二倍も国力ある信濃+山之内上杉・長尾の介入の中 攻めるのが非常に困難な堅固な山城を落としまくり奪取 上野も同様に奪取 国力差2倍の今川+北条連合相手に駿河奪取 国力差5倍の徳川+織田連合相手に東美濃・三河・遠州奪取 雑魚織田トップ格の佐久間が全く歯が立たなくて逃げ回るばかりだったし
454 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:37:04.43 ID:KUT8nAL3
秀吉は織田信雄よりも戦下手 信雄家臣の吉村氏吉や木造親子に大敗した
455 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:37:44.61 ID:KUT8nAL3
秀吉は、織田四天王の中では一番雑魚。 直接交戦での戦績からそれがよくわかる。 滝川にまけ柴田に負け明智にまけ、それを勝った勝ったと揉み隠し しまいには輝元、氏政、信雄の日本3大凡将に大敗し天下失ったゴミ武将 箕浦合戦や金ヶ崎の退陣で秀吉の奮戦で撤退できたというのは講談 池田勢中心で奮戦したから撤退できたというのが最近の説。 いかに講談や軍記類で秀吉が基地外のように持ち上げられてるかわかる事柄のひとつ。 信長が殿に使ったとしたらよっぽど雑魚だから死んでも構わんと思ってたんだろうね
456 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:39:44.08 ID:IhpVPawH
武田上杉は史実で強いもんなあ 最強家康でも信玄に瞬殺され信玄より弱い勝頼相手に苦戦しまくったのが現実だし 織田家最高峰の柴田なんか謙信に蹴散らされたばかりか謙信より弱い景勝を 内乱で自壊した隙をついて9倍もの圧倒的大軍&調略で火事場泥棒したのに越中中部で2年も足止め食らったし
457 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:40:24.48 ID:IhpVPawH
高天神城は3年も籠城し続けていて 徳川はかなり苦労してるね。 つか一次史料を読むと 天正7年の中ごろあたりから佐竹のよる甲江同盟(武田・織田)が 成立しつつあるような感じなんだよね。 勝頼も佐竹の仲介が成功しそうで、確約が早く来ないかと悶えるとか書いてるし、 天正8年に入ると織田信房(御坊丸)を武田が織田へ返還したこともあり 景勝が甲江同盟を結んだのを、なぜ事前に報せてくれなかった!と抗議を受けてるし そのため武田の軍事行動の中心は対北条戦で、 織田と武田は和睦交渉中で事実上の戦闘停止状態。 そのため勝頼の書状も対北条での景気のよい話の書状ばっかり。 逆に高天神城とその周辺に関しては関心がないと言うより 事実上の膠着状態(甲江同盟交渉の影響で緊張状態にないヌルイ感じ)になってたとしか思えない。 なんせ高天神城からは一切、援軍要請すら出てない。 天正9年正月になって久しぶりに高天神城への勝頼書状が登場するが、 使者の往来の忠節ぶりを褒めて加増の話を書いてるだけで、 援軍に出るとか、そんな危機的な内容は一切書いてない。 そして次ぎに登場するのは3年も籠城して討死した岡部の所領の相続を息子に認めてる書状。 明らかに武田側に高天神城が落とされるとは思ってなかったとしか思えない。 織田と武田の同盟が成立すると誤認して 遠江方面での軍事行動を控えていたとしか思えないし 徳川も高天神城に砦を構築して包囲したとは言え 本気で攻め落とすつもりがあるような態度でなかったから 使者の往来が天正9年に入っても可能だった。 つまり織田が同盟成立を匂わせて佐竹や武田を騙していて 御坊丸を返還した武田は同盟なったと誤認して安心してたら 突然、高天神城が落とされてしまったと思われる。 しかもそんな武田に織田はさらに同盟のカマかけて 南化玄興ルートで和睦交渉の美人局をやって またしても佐竹や里見まで今度こそ同盟成立したと誤認してる(天正9年8月) 織田は奇襲によって完全に武田を騙し討ちしてる。 滅ぼされたってどっちも北条や徳川との対戦や内政失敗自爆や内乱で自壊しきったところを 圧倒的大軍と調略と騙まし討ちと偶然おこった天変地異で滅んだだけじゃん 弱りきった所を騙まし討ちと浅間山噴火で助けられただけで まともな会戦もろくになかったのに強いも糞もない
458 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:41:36.92 ID:IhpVPawH
結果がすべて。 光秀に殺されて死んだ信長。 最貧国甲斐から150万石まで版図広げた信玄 信長死後の織田家を火事場泥棒するも結局死後滅ぼされた秀吉
459 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:42:42.41 ID:IhpVPawH
伊達が一番過小だろ 結果でいっても大領だし スタートラインは輝宗の外交失敗で奥州で孤立した立場で包囲網張られた状態で南奥州またたくまに平定したから 8600丁もの鉄砲&関東最強の佐竹義重相手に会津領切り取るなんて 斉藤に苦戦しまくった信長ごときにできるわけないし 片倉景綱あたりは統率92知略103くらいあっていい 原田・後藤・白石・留守あたりももっと強いだろ
460 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:43:15.15 ID:IhpVPawH
別に俺は信玄なんてどうでもいいんだが 結果論でいえば信長より上に来るのは当たり前 過程でいえば自国の2倍もある、山間の攻略の難しい信濃を山之内上杉を大破しや長尾の介入がある中切り取り 同じく山間部の上野を上杉相手に切り取り 駿河も大国北条と交戦&包囲網張られた中で逆転劇で切り取り撤退戦で北条撃破 織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップの佐久間を撃破 ちなみに家康は信玄はおろか勝頼にも苦戦 まあアホにいっても無駄だからどうでもいいことだが
461 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:44:29.14 ID:ckkXJdVx
信長や秀吉は畿内や美濃に大苦戦。 家康は瞬殺した。
462 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:45:25.87 ID:ckkXJdVx
信長の捏造合戦集 桶狭間=一次資料にないデタラメ 尾張チート国力&朝廷献金&交易収入で今川より国力上 長篠=実際には1000程度の戦死者(多聞院日記) 同時代史料の長篠日記だと織田方も多数戦死 姉川=実際には痛み分け程度 信長公記や信長書状で基地外誇大喧伝 ×武田が実力で信長に滅ぼされた ○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる 離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒 こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる あんなもん完全にラッキーだっただけ 元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪 寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん いわば火事場泥棒みたいなもん 本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
463 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:46:11.23 ID:OiRFjjLN
全国の大名が火事場泥棒に屈した時代の どこが戦国なのかって感じなんだが
464 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:46:11.14 ID:ckkXJdVx
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して 義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし 龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。 義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、 7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも 来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。 これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。 しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。 これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。 これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し 木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。 その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した 龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが 織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ 翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が 近江坂本へ義昭討伐にやってくる。 8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り 若狭武田の下へ義昭は逃走した。 義龍にボロ負け。義興にまでボロ負け 結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が 斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし 本願寺は信長に贈り物攻勢してる。 11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど (ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先) 信長上洛成功はお膳立てされてのこと。 さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。 おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。 しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。 しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから 援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。 (上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた) 9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。 結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に 義治は敗走して上洛成功しただけ。 信長の戦下手は神レベルだよな。 義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後 多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に 出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、 その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、 さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、 これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。 六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w 公記は例のごとく隠蔽・捏造 むしろ朝廷の覚えめでたい+チート尾張一国+美濃大垣城+三河水野+道三後見+今川との同盟を 信長に遺して死んだ信秀にしてみれば 信長がなんでこんなに負けまくりなのか不思議だったろう。 信長が義昭を奉じて上洛成功したのも すべて六角義秀のシナリオに沿って市を長政へ嫁がせて 西美濃国人衆を仲間に抱き込んで 上洛への道を作ってくれたからだし それですら信長は敗れている
465 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:46:59.91 ID:ckkXJdVx
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは武田優位は揺るいでないから
信長は結局、 信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを信長は引きずっているのがわかる。
元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより
長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
つまり信長は火薬到着待ちをしていたので勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。
13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。
連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている)
本願寺への義理も充分に果たしたしここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。
そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が
勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。
しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。
武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。
勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった
しかしその状況ですら武田軍は
>>86 のように敢闘してるから
ガチンコでやりあったら信玄どころか勝頼でも信長よりずっと強いだろう
466 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:47:19.08 ID:J48zXJ1J
こいつどうにか出来ねえの? 一人でスレ容量食い潰してるって迷惑行為として通報できんのかな
467 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:49:53.52 ID:ckkXJdVx
>>466 何回論破されても同じ妄想垂れ流しの馬鹿が言ってんじゃねーよハゲ
468 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:51:33.57 ID:Gv6TYJQV
織田厨が木っ端微塵に蹴散らされててワロタ
469 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 13:56:07.40 ID:Gv6TYJQV
>>442-445 よぇぇぇなー。信長って。。。。
最貧国甲斐から自国の2倍もある信濃のめちゃ傾斜のきつい山間の城を
長尾や山之内上杉の介入のある中切り取り上野山間部も同様に奪取
国力差2倍の今川+北条連合相手に駿河奪取
国力差5倍の徳川+織田連合相手に東美濃・三河・遠州奪取
雑魚織田トップ格の佐久間が全く歯が立たなくて逃げ回るばかりだったし
包囲網しかれた状況ですら攻勢に出て侵略戦争成功させてるの信玄と政宗くらいだよな
信長なんて信玄生前は包囲網相手に押されっぱなしで滅ぼされるの確定してたし
470 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 14:16:00.04 ID:qvz2ARer
>最貧国甲斐 爆笑したわ
471 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 14:23:00.47 ID:Gv6TYJQV
甲斐は連年飢餓が発生する最弱国力&信虎の暴政で領内貧困のきわみ
472 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 14:24:17.43 ID:QU/pG1L5
「甲斐で餓死者が出たのは食べ物が取れない貧乏国だからではなく、 流通が乱れて食べ物を金で買ってた層に食べ物が入ってこなくなったせいだ」 っていう網野善彦さんの指摘ってどうなの
473 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 14:29:07.14 ID:J48zXJ1J
最貧国って壱岐とかあのへんじゃねえの?
474 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 15:55:21.25 ID:906/GSAu
飢饉が発生するのは死人が出ようが流通を止めて値を吊り上げようとする流通商人と それに対策を講じる事ができない施政者の責任
475 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 16:18:41.93 ID:Gv6TYJQV
強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。 しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく 信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し 飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。 信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。 信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。 しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。 しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。 また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。 しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。 信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。 (信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる。北条の関東開発はデタラメです) 後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。 地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状において謙信に劣る訳ではありません。
476 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 16:35:29.02 ID:0/ld4XhR
悪文すぎて読めん 書きなおせ
477 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 16:43:21.84 ID:2bxhXydM
確かに読み難い。
478 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 16:50:19.94 ID:3U/Pv+xV
箇条書きにする、とかね
479 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 17:26:20.15 ID:OxbaXRI4
信虎と勝頼って信玄持ち上げるためにボロクソに貶められたり功績奪われたりかわいそうだよね
480 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 19:54:38.24 ID:Gv6TYJQV
この程度の長文も読めないなら歴史を語る資格なし
481 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 20:01:58.83 ID:bYZAvjOa
単なる駄文だよ。
482 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 20:10:37.65 ID:ew3Dg+7a
武田信虎って北条氏綱や長尾為景と比べると微妙じゃね?
483 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 20:22:38.78 ID:QU/pG1L5
484 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 21:13:52.85 ID:qvz2ARer
歴史を語るならまず現代文を書けるようにしないとな
485 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 21:58:46.40 ID:0eqTT3Cw
486 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 22:05:09.78 ID:+Hu0jl+V
Gv6TYJQV ↑ 長文読めるかどうかではなく、読み手に不快な文章を書き込んで偉そうにする、自分の愚かさがわからんと見える
487 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 22:23:00.01 ID:Gv6TYJQV
領土拡張率ランキング 家督相続年 相続時勢力圏 最大勢力圏 勢力拡大率 1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞ 小笠原貞慶 1582年 0万石 13万石 ∞ 徳川秀忠 1602年 0万石 日本全土 ∞ 4徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍 5結城晴朝 1558年 1万石 23万石 23倍 6佐竹義重 1570年 8万石 150万石 17倍 7上杉景勝 1578年 8万石 120万石 15倍 8菅沼定利 1562年 1万石 13万石 13倍 9武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍 10上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍 11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍 最下位 織田信長 30万石 0 0倍
488 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 22:23:39.72 ID:Gv6TYJQV
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると 圧倒的に政宗のが上。 信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。 政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう 大連合を自力で突破した。 比較にすらなるまい。
489 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 22:25:34.62 ID:Gv6TYJQV
政宗はガチで戦上手 北 大崎 葛西 最上 東 相馬 南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代 これだけガチで敵対して拡張した。 政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると 圧倒的に政宗のが上。 信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。 政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう 大連合を自力で突破した。 比較にすらなるまい。 自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長 これまでの考察で分かった事 氏康>>>>信長 政宗>>>>信長 本願寺、島津>>>>信長 家康>>>>信長 元親>>>>信長 信長が他大名の立場に生れていたら 信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える 元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える 義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死 政宗の場合関柴の戦いで討ち死に 氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死 義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死 宗麟の場合毛利元就に負けて敗死 元親の場合三好に負けて討ち死に 尾張だから助かっただけ
490 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 22:26:22.50 ID:QU/pG1L5
あーあいつもの始めちゃったw
491 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 22:26:25.07 ID:Gv6TYJQV
江戸期の妄言で織田が持ち上げられるようになった 例:森部、稲生、天王寺の講談、信康事件、織田鉄砲隊の破壊力、鉄鋼船の活躍 信長公記の講談捏造や信長記甫庵信長記などの妄想軍記が真しやかに信じられるようになったのは 天下人家康が力を貸し、一時とはいえ家康より優位に立っていたという事実から誇大に拡張的に 織田信者や織田子孫の妄言により事実が捏造されて信じられるようになったのである 逆に徳川家康は腹黒い天下を盗んだ悪党のように言われるようになった 大久保の三河物語を始め武功派連中は吏僚優遇の徳川の仕打ちに不満を抱き、 徳川は悪者、不義者として仕立て上げた。 しかし史実では家康は西三河小領主として独立後、吉良、今川、の大軍と戦いながら 一向宗をうまく封じ込め、圧倒的強さを誇る武田の猛攻に耐え忍び、織田の畿内平定戦にも大変尽力したにもかかわらず 織田からは中々援軍が来ず非常に役に立たない同盟者として苦労していた。 事績からいえば織田より三好の方が遥に上 史実で圧倒的国力の織田家を崩壊させただけ 北条や大友、伊達、長衆我部にも劣る事績しかないのが織田 信長が家康の立場で生れていたら吉良や今川氏真の大軍に瞬殺されてたのは間違いない 周りにカスしかいない立地で助かったな
492 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 22:27:09.62 ID:Gv6TYJQV
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw 織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし 織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して 美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。 信長は完全にチートスタートだ。 津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた 吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。 1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。 3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。 田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀 超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。 信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。 信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。 信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。 一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており 三河でも水野を防波堤となし 将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。 義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き 是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。 尾張より国力の小さい美濃攻略に11年 その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長 甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。 斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。 村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。 そんだけ信長が戦下手だという証拠。 そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って 戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。 経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。 領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。 むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで 執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
493 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 22:31:43.18 ID:U3S0DqYC
武田軍団は過小の集まりだからな 史実で二倍も国力ある信濃+山之内上杉・長尾の介入の中 攻めるのが非常に困難な日本トップクラスの峻険な山々に立ち並ぶ堅固な山城を落としまくり奪取 上野も山間部を攻めまくり同様に奪取 国力差2倍の今川+北条連合相手に駿河奪取 国力差5倍の徳川+織田連合相手に東美濃・三河・遠州奪取 雑魚織田トップ格の佐久間が全く歯が立たなくて逃げ回るばかりだったし
494 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 22:32:07.34 ID:/uaMfA31
もう戦国板帰りなって あっちのほうが知識ある人おおいから ここより議論できるから
495 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 22:34:32.02 ID:SRQ7rupo
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手 根拠1 遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の 天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが 信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと 恐れている 三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている 明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。 弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。 だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた 根拠2 長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差 の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功 (ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言) 根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し 勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態 何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで 武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ 一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍 信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
496 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 22:37:12.12 ID:ytehkAbC
論破されまくりで全く反論できない馬鹿織田厨の蹴散らされっぷりに吹いたw
497 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 22:39:05.73 ID:5SxDGKjl
親の顔がみてみたい
498 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 22:56:47.32 ID:0/ld4XhR
論破とか言ってるけど誰も読んでないと思うぞ
499 :
名無し曰く、 :2012/09/05(水) 23:05:12.74 ID:4PahHIGZ
それもコピペだろ
500 :
名無し曰く、 :2012/09/06(木) 00:30:10.21 ID:7Ex51tI4
長文コピペ連投の人は、コテハンにでもしてくれたらNGにしやすくていいんだけどな。 とりあえず「圧倒的」とか全角アンカーとかをNGに放り込んではいるが。
501 :
名無し曰く、 :2012/09/06(木) 00:34:14.63 ID:/ImITboB
>>500 これで今後「圧倒的」ってフレーズちょっと変えてきたら面白いなw
「絶対的」とか
502 :
名無し曰く、 :2012/09/06(木) 01:32:56.67 ID:8sJ348EQ
国力はスレ違い
503 :
名無し曰く、 :2012/09/06(木) 09:52:56.37 ID:36EsdJDT
織田厨はこの程度の長文も読めない馬鹿 論破されまくりで一言すら反論できず木っ端微塵の雑魚
504 :
名無し曰く、 :2012/09/06(木) 12:08:42.51 ID:1Cq4zDRz
なるほど、なるほど。 書いて無視されたら、論破したというのかw 初めて知ったwww 勝頼は戦上手いね。 ちゃんと状況把握して、長篠みたいな状態で戦うなんてw 決戦するかどうか、しっかり判断できるんだからwww
505 :
名無し曰く、 :2012/09/06(木) 12:54:49.42 ID:3oK9SG3T
コピペ→織田厨発狂してる ここまでテンプレ
506 :
名無し曰く、 :2012/09/06(木) 13:13:00.62 ID:7IWPuPXL
ネットソースだけコピペで継ぎ接ぎした学生レポートでも 上の駄文よりはまともな文章作ってくるよ
507 :
名無し曰く、 :2012/09/06(木) 13:27:24.70 ID:36EsdJDT
具体的な反論なしの馬鹿織田厨が泣き喚いててワロタw
508 :
名無し曰く、 :2012/09/06(木) 14:16:27.11 ID:TaKcjRi+
何百回と貼られるコピペにいちいち反論してたらキリがない
509 :
名無し曰く、 :2012/09/06(木) 15:24:38.77 ID:8sJ348EQ
武田は今でも十分評価されてるだろwwwww
510 :
名無し曰く、 :2012/09/06(木) 15:46:13.47 ID:XavQeaI8
511 :
名無し曰く、 :2012/09/06(木) 16:01:58.95 ID:zYTmehT+
このスレにはいないと思うが ネットソースまんま信じる馬鹿も多いんでね
512 :
名無し曰く、 :2012/09/06(木) 17:38:16.37 ID:sXdV4Ta5
その信玄さんボッコボコにした村上さんやら長野さんは如何に
513 :
名無し曰く、 :2012/09/06(木) 17:53:28.68 ID:oPJbdA7D
だがさんこれまで何度論破されて逃げ帰っても数日もしないうちに戻ってきて同じ長文コピペ爆撃繰り返すだけじゃん もう飽きたよ 同じ事書くのも面倒だし反論とか欲しいならだがさんのまとめサイト行ってくれ
514 :
名無し曰く、 :2012/09/06(木) 21:21:22.43 ID:36EsdJDT
だがのまとめサイトに反論なんて書いてないだろ 織田厨の愚痴と妄言しか書いていない
515 :
名無し曰く、 :2012/09/07(金) 14:20:04.96 ID:3NnQ7hgp
>>514 だがのまとめサイトって何?
新参に教えてくれ
516 :
名無し曰く、 :2012/09/07(金) 14:46:50.94 ID:1oUszC5R
土井利勝の評価を上げて欲しいな 功績面から見たらかなりの過小 徳川は政治チートが多いから兼ね合いかもしれんが 政治力は徳川家中では一位クラスだろ、失脚した本多正純より低いって・・・
517 :
名無し曰く、 :2012/09/07(金) 19:38:47.35 ID:m75wO272
織田厨は史料を無視して願望妄想を語り出す池沼。 新参者にはウソ長公記を選ばれた研究家しか読めないような態度で、 教授顔で偉そうに教えてやり悦に浸るキチガイ
518 :
名無し曰く、 :2012/09/07(金) 21:37:07.27 ID:zem+KZcI
519 :
名無し曰く、 :2012/09/07(金) 21:51:36.85 ID:D1CjwB0+
秀忠は統率高めにして適正ウンコにすべき
520 :
名無し曰く、 :2012/09/07(金) 22:23:10.71 ID:TXbCuBTd
糞玄を倒しても上謙がいるからな 全力出せば糞玄は倒せたが 確実に弱る。そのあとに上謙がきたら危ない よって生かさず殺さずだったと 考える専門家が多い。 信長>>大差>>糞玄>家康
521 :
名無し曰く、 :2012/09/07(金) 23:03:03.25 ID:OKMYm4CB
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手 根拠1 遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の 天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが 信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと 恐れている 三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている 明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。 弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。 だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた 根拠2 長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差 の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功 (ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言) 根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し 勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態 何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで 武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ 一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍 信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
522 :
名無し曰く、 :2012/09/08(土) 00:38:00.25 ID:NBH+ryD1
村上義清>>>>>>>>>>>>>>>武田信玄
523 :
名無し曰く、 :2012/09/08(土) 00:44:56.40 ID:3DBqIpjV
織田信奈の野望で少し家臣の能力が気になって何人か見たが、 柴田勝家の能力が高すぎだろ。あれは一夜城の時に主人公を 殴って失神させ、独断で築城した挙句失敗した無能なのに。 多少脚色があったにしても、えこひいきしすぎ。
524 :
名無し曰く、 :2012/09/08(土) 01:07:12.54 ID:RanRRhJJ
信長>勝頼
525 :
名無し曰く、 :2012/09/08(土) 01:29:44.68 ID:RIJtHv18
林羅山イシンスウデン本多正純は過大だよな
526 :
名無し曰く、 :2012/09/08(土) 08:09:04.70 ID:JgTYhpT7
信玄>>家康>>信長
527 :
名無し曰く、 :2012/09/08(土) 09:11:47.78 ID:2bnGeNs+
当時の信長の戦闘力を12だとすると 糞玄は4家康は2だとする。上謙は8 全力でやると12+2-4=10 そこに上謙がきても10-8=2 よって信長は生きのこる ただしそれでは他に攻められたら危ない。 よって生かさず殺さず来たら退けるでよかったんだよね。 おれもそうする。 清洲と岐阜を防衛ラインにして西にいく。 京に遠い東にいくメリットはゲーム的にはあったとしても 歴史的には無いからね。
528 :
名無し曰く、 :2012/09/08(土) 11:40:55.30 ID:TsQhqEh9
ノブヤボは貧乏国でも比較的兵力補充しやすいから、 経済的アドバンテージで兵力揃えた織田や、 宗教的アドバンテージで兵力揃えた一向宗は統率高くても良いよ。
529 :
名無し曰く、 :2012/09/08(土) 13:34:40.56 ID:RIJtHv18
畿内を目指すメリットが全然ないもんなあ
530 :
名無し曰く、 :2012/09/08(土) 14:06:55.36 ID:sHW3C/Rs
>>521 >遠江国高天神城を勝頼に奪われた際
勝頼もここで急死でもしていれば高評価だっただろうにな
後は信玄の遺臣を犬死させて転落人生一直線
531 :
名無し曰く、 :2012/09/08(土) 16:29:15.58 ID:rjdOQPQe
畿内の国力を上げて武将の能力を大幅に下げれば史実に近くなるね
532 :
名無し曰く、 :2012/09/08(土) 17:45:57.74 ID:RanRRhJJ
天道だと近畿は建物建てまくれるくらいにしないと 経済格差もっと表せ なんで信濃や薩摩と同じくらいの経済規模なんだよ
533 :
名無し曰く、 :2012/09/08(土) 18:08:40.68 ID:uFaeNV8D
>>532 武将能力の話ではなくてゲームシステムの話にはなってしまうんだけど
天道の施設は町並み周囲に8個しか建てられないけどマス自体は全部で11個ある
山城国なんかは町並み数は5と少ないが施設は11個建てれる(5*11=55)
陸奥国は広大な土地なので町並み数が10あるけれども施設は5しか建てられない(5*10=50)
密集して賑わっている地域と僻地の特徴がそれぞれ出せると思う
家宝・官位の多くが政治力UP効果で効果が重複しているので
町並み周囲の建設可能マス増加の効果がある家宝なんかもあると良い
534 :
名無し曰く、 :2012/09/08(土) 22:41:35.21 ID:iCJU77D3
>>530 家滅ぼした大名としては武力系が今でも十分高い武将なのにな>勝頼
朝倉とか斉藤はもっと悲惨な数値だぞ
535 :
名無し曰く、 :2012/09/08(土) 23:57:11.00 ID:sHW3C/Rs
>>534 確かに
まあ統率や武力を更に上げて95以上とかにして
知力10、政治20とかにしてもそれらしいのかもしれないが
そういうのを跡継ぎにしたという意味も含めて
信玄の政治も80台くらいの方がいいのかな
無能ではないけどイナゴちっくだし
536 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 00:20:30.56 ID:h9JkZr6k
勝頼つーか高天神城の戦いが過大だな 信玄が落とせなかったと言うけど すぐ撤退してそんなに本格的に攻めたかは疑問
537 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 00:28:12.26 ID:snhWwTid
合計能力は信長>勝頼
538 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 09:17:34.43 ID:aIj0QJYl
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。 天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。 天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。 これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w) しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり 今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており 信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。 それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。 ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており 信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる。 (濃姫と信長の婚姻が決まった前後からで道三とて国主になる予定にないものに嫁がせるなんてことはしないだろう) そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする悪質な操作を行っている) また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。 天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が信長後見につけた4人のうち 青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。 この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw) その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが 守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害 守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。 守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、 信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。 信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている) 天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。 岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。 しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役だった道三が政権から降りると情勢は一変していく。 1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。 5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ (4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【美濃は尾張半国を取っている】と書かれているのである。 (信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
539 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 09:19:41.68 ID:aIj0QJYl
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。 森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を 美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。 頑強に排除されてきた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は 内通で加治田城・黒田城/織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城/城内で内通が出て開城が犬山城 と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて 戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった 美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。 その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし、近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。 そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。 龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。 龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば←NEW 信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと。 龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。 龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。 龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。 ボロ負けの連続の信長は信玄の武威を借りたいがため・・・ 龍興16歳1565年11月に信玄を恐れていた信長は 苗木遠山氏の娘を貰い受けて養女となして勝頼へ嫁がせて同盟を結ばせて頂いている(重要な外交政策なのに公記が隠蔽している) これをぶっ壊そうとしたのが後の家康で元亀元年10/8に謙信へ宛てて甲・尾の縁談の儀を事切れるように風諫せしめ候と書いている。 龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。 8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。 龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。 義龍の死の混乱に乗じてわすか二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。 しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し 稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。 結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。 六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく 浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状) その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状) これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。 信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし 元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い 近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。 この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。 このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。 最近になって新たな事実が判明・・・龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中で←NEW 信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。 これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。 快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている。
540 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 10:10:10.65 ID:aIj0QJYl
斎藤道三死後4年が経った永禄3年に (10月に浅井重臣たちに久政が隠居に追いやられ長政が擁立される) 義賢が重臣たちに義治と義龍の娘との縁組を阻止するように命じてる。 理由は姻戚関係の土岐頼芸を六角が保護している(頼芸弟は朝倉が保護) さらに道三親子の悪行を書き連ね 成り上がり斎藤の家柄と釣り合わないとし、 浅井との戦いで義治は援軍を期待してのことだろうが 道三は首に縄つけても来ないわと記している。 結局、婚姻交渉は破談するがこの文書は 道三親子二代説の正しさを証明したことで有名である。 さて道三の美濃統治は不安定なもので、 木曽川長良川の大洪水と六角や朝倉や織田の攻撃による相次ぐ戦乱により、 美濃で大量の餓死者でた天文21年6月に六角が頼芸支援で攻め込んだ。 この戦いののち道三は頼芸を追放するが 越後で長尾氏が上杉の支配機構を解体出来なかったように、 斎藤氏も土岐氏の支配機構は解体できず かと言って道三には民政の新しい施策も全くなく結局、 重臣達により国主たる資格なしとして、 天文23年3月に道三も隠退に追い込まれる。 そして最後は甲斐を追放された信虎と同じく 追放か抗戦かの選択で道三は抵抗を選び討ち死にした。 ちなみに1554年に道三が隠退した翌年に 義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、 捏造信長公記は父殺しイメージを押し付けてるが この使用し始めた段階ではあくまで道三は隠退しただけで死んでないし 父を殺した范可なんて人物も史記などにも存在しない捏造。
541 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 10:12:43.72 ID:aIj0QJYl
道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し 1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し 最高意志決定機関の宿老制が完成し、 用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる) 立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。 これは土岐氏の官僚機構を 国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。 永禄三年には印判状という文書形式を導入。 知行あてがいも貫高制が導入され 重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。 さらに上洛し将軍相判衆になり美濃国主に正式に認められ、 伊勢や近衛との縁組など家格を上げる努力をしているあたりは 越後統治の正当性を求めて対立する国人を取り込みたい長尾家と同じ動きである。 信長にはできない状態の中で義龍の矢継ぎ早の改革は評価されるべきだろう。 斎藤氏が短命で滅亡したが行政文書は義龍時代に集中して遺っている。 下々の意見をすくい取り自ら政を重臣に諮る英邁な主君であるのは間違いない。 信長とはえらい違いだ。 この改革の中で別伝の乱という宗教対立が起きる。道三は日蓮宗だったが、最後まで厚遇姿勢のままで、 土岐成頼や政房や斎藤妙椿や妙純などの妙心寺派を統制できなかった。 この宗教権威への介入のため義龍は妙心寺四派のうちの霊雲派の別伝を保護し伝燈寺を開創した。 禅宗寺院の寺統権を新設された寺燈寺に任命するやいなや 土岐や斎藤に創建され尊崇を受けて来た東海派の瑞龍寺が反発。 これに同調し聖沢派や龍泉派も怒る。 そして彼らは崇福寺の快川紹喜の主導で永禄四年1/5尾張犬山の瑞泉寺に出国して会議を行い対抗。 義龍は通達は別伝が勝手にやったこととして撤回したが、 別伝の僧籍削除には断固反対し 義龍は別伝に勅願寺と紫衣着用を奏請し、さらに4/30には将軍義輝にもこれに福書してもらうことで対抗。 しかし対立中に義龍が5/11急死してうやむやになり出国していた諸老も帰国し別伝が逐電。快川は甲斐に行った。 義龍の急死で斎藤氏の宗教統制の挫折となったのは痛かった。 しかし信長がただの不良からヤクザの親分になっただけに比べて義龍は名君であるのは間違いない。
542 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 10:18:19.18 ID:aIj0QJYl
内政すらロクにやってないアホ長と違って義龍は優秀だな。 幼君の龍興が稲葉山を乗っ取られたりと 美濃国衆が斉藤を見限り始めたりと信長はホントに運がいいな。 考えてみたら長尾家も家格を引き上げたり、 将軍から朝倉孝景に続いて白傘袋や毛氈鞍覆を下賜してもらうことで守護の同格の権利を認めてもらい 天皇から治罰綸旨を頂いていながら 白傘袋や毛氈鞍覆をもらった為景は家格の高い上条に組みする国人と対抗した挙句に結局、上杉方に敗北してるし、 白傘袋や毛氈鞍覆を再度もらって将軍権威にすがろうとした景虎時代になっても 上杉行政府たる公銭方の爆弾を抱え 越後が完全統一できたのは天正3年に新発田・竹俣が謙信政権に参加した時とされてる。 上記のような苦労も織田家にはなく守護代の奉行に過ぎなかったはずの 信秀の時代にはすでに斯波守護権力は完全に解体されてるし 家格も財力を背景に朝廷工作して三河守まで貰ってるし すべてを解決して信長に引き継ぐ時には 道三の後ろ盾、義元とは信秀有利な条件で和睦してるし 信秀は嫡男のために心配がまったくない状態にして死んでる。 まぁそれでも成り上がり道三の娘くらいしか信長の婚姻相手なんて 昔の経緯にこだわる貴人からすればいなかったんだろうけどね。 岐阜城は竹中重治や斎藤利堯や織田信雄や福島正則などに落とされるなど 馬鹿みたいに簡単に落城しまくった城で落すのに苦労したのは信長だけ。
543 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 10:51:14.39 ID:aIj0QJYl
義昭を報じて上洛しようとした織田家は初戦で三好軍と戦い岐阜へ敗走した後 多聞院日記永禄11年9月19日京極、朽木、浅井らの使者が観音寺城に 出仕してきて屋形六角義賢に申し上げるには、すでに裏切った箕作の軍勢は一万二千になり、 その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼(義賢の弟)に味方した、 さらに勢州国司北畠氏が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、 これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くので降伏してくださいと伝えた。 六角攻略で実は織田家は一切触れられてない衝撃の事実w
544 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 10:55:04.48 ID:aIj0QJYl
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているが なんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず 完全に実権喪失している事実。 織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。 西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と 今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し 10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。 そして根拠地を自らが文書発給し支配していた 西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。 天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ 三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに 劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため 天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして 本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから 加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。 次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。 天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ 天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、 ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。 謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。 (結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏) また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。 9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり 守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。 ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。
545 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 10:57:55.57 ID:aIj0QJYl
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に 天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。 三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。 信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど 今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。 佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。 静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。 よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。 ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、 水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者) らが織田方として存在している。 天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫) 従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが すでに信秀にとって代わられている事実が見える。 この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが 本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており 丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。 また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに 信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。 信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が 守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗? そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。 しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。 つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。 公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが 言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
546 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 11:22:56.91 ID:yj+OT7wq
信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく 朝廷に献金した金額ランキング 1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理 2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費 3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明 4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費 5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理 ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、 彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。 「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、 北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、 だいたい600人を1年間雇えるくらい ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた) 信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。 1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。 良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。 ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に 宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と 毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。 信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、 道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、 希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・ もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。 信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。 ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると 道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。 まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、 信秀から尾張ほぼ一国60万石+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、 しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか 信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
547 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 11:31:07.91 ID:yj+OT7wq
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ 義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。 信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って 今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。 織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。 それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。 (大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった) 1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など 尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。 さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて 稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。 稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの 次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は 電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために 驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。 (藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた) 「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は 「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、 ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。 1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し 2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。 3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており 本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。 11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。 安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で 城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。 これはもう信秀の失敗とは言えないよな。 それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから 織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として 国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが) 今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。 清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は 織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う 一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
548 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 11:32:17.38 ID:yj+OT7wq
商業収入を含む日本一豊かな尾張一国
三河の水野氏の隷属
美濃大垣城
娘婿になったことによる強力な道三の後見
竹千代譲渡による今川との和睦
竹千代を戸田康光が奪ってきて織田家に引渡した際に
即金で千貫文を払ってるくらいバブルなのが信秀。
こんなに親父が信長のために遺してくれたのだから日本一恵まれてるのが信長。
超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除圧力に追い込まれた無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
尾張統一されたもんを引き継ぎながら道三が死んで後見が失われるや
信長自身の悪政を義龍に付込まれて尾張が謀反三昧にされただけだろw
まぁ平手まで自刃するほどのキチガイ信長じゃしょーがねぇけどな。
今川も別に尾張方面へ調略してた一次史料もなく、どう考えても愚主信長を見限り
今川方に鞍替えしただけの話で、それに対して信長がパブロフ犬のように条件反射で
包囲して砦を構築したから、義元も後詰めをしなければ面目を失うから出てきただけで
今川軍を呼び込んだのも信長本人の悪政が原因であり、それまでは今川と織田の和睦は継続していた。
結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り
清洲三奉行・織田弾正忠家が高収入源の商業都市津島や熱田を支配しまさに隆盛拡大発展期に入り、
織田弾正忠家の力のみで周辺諸国の国持ち大名とガチで戦闘が行えるまでに成長する。
さらに円滑に家督を継いでいた信長は実に運がいい男と言える。
しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で
尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、
この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。
また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解中。
三好配下内で闘争していた池田勝正などもあっけなく信長に降伏し労せずして摂津支配も確定させ
将軍権威を背景に若狭武田なども帰属させ大商業都市の堺・大津・草津をも支配下に組み込む。
一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し
1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた)
天候不順と河川氾濫ばかりの甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。
キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。
ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html
549 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 11:37:52.39 ID:yj+OT7wq
略奪する場所がなくなり資金難の織田軍 永禄11年11月上洛するやさっそく 石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝 法隆寺に防築銭千貫余を恐喝 永禄12年2月 堺の代表10人中8人を 自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。 尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。 8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に 祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され 今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。 信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも 志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。 信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。 永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。 朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長 比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。 元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納 しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。 この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。 元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに、 賀茂から嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁) 銀1300枚受け取り拒否した上京を焼き討ち略奪。下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。 織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が 略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している) 越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は 先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし 宗麟とかは商人から借金したりしてるけど 信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893 堺、草津、大津の関に代官を置いて税金取ってた信長に対して、 三好や六角や一向一揆はその交通量を激減させ 織田軍の補給や退路を遮断させ疲弊させる戦略だからかなり有効だったと思われる。 京での暴挙は自暴自棄に等しく完璧に物心両面で信長は追い詰められていた証拠だろう。 さらに奈良京都堺尼崎で恐喝略奪をして荒廃させた以上、 これ以上の略奪における大利益をあげるのは難しく、 天正2年春に織田が攻勢をかけるもまた資金難で停滞し各軍が各国で苦戦している。 兵力分散してるのも各軍が各国に現地調達をして軍を養わざる負えないからだろう。 原則は軍役負担者が安堵地から輸送による自給ではあるが、 軍役に次ぐ軍役でとても負担出来るわけもなく現地略奪方式を取らざるを得ない。 織田軍が虐殺したりしてるのも略奪や財産没収が目的だろう。 この略奪モンゴル方式は天正8年の本願寺との和睦まで続く。 あんだけ無理を強いて戦い続けてりゃ軍費だって無くなるだろ。 戊辰戦争でも軍費問題はデカかったんだから。ガキの頃から豊かな生活を親が与えると 大人になっても浪費癖が治らないばかりか酷くなるってのは事実なんだな。 それで金が無くなると虐殺と略奪だもんな。 そいつがアスペ・パワハラ独裁権力者だったから日本は不幸の闇に包まれたってわけだ。
550 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 11:41:32.68 ID:yj+OT7wq
熱田〜伊勢の商業通商ルートを武田水軍と伊勢水軍に封鎖され 破綻財政だった織田軍は金も兵糧も火薬も尽き周囲は離反三昧で1万しか兵を集められなくなり自暴自棄となった信長は京で虐殺略奪を開始。 武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625) もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記) 元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789) 北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。 元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、 11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995) 天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記) 6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され 翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785) 小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、 三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。 天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178) 天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332) 北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394) 要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。 第二次長島侵攻直前の天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状 信玄の西上中にも岐阜にほど近い新砦の守備をしていた日根野弘就に協力してた 伊勢大湊自由商業町の山田三方の福島親子が船を出していたことが発覚し、のち殺される。 このことからも織田に伊勢水軍が従っていたなかったことがわかる。 茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。 大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。 そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており 信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。 まさに面従腹背の北畠と伊勢水軍である。 そして林通政を討たれ逃亡中に凍死続出で大敗する織田軍・・・これを受け信雄も天正2年に発給文書ゼロ。 その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、 元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、 信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、 一向一揆論の金龍静氏も、 すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。 第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、 深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。 海津郡失陥は重大な事件で、 これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。 蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。 また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、 甲相同盟に基づき、 北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。
551 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 11:43:16.87 ID:yj+OT7wq
当時の当主は北畠具房(具教の嫡男)であり まず北畠具教と木造具政(晴具三男・具教の弟)の内訌において 木造が織田の力を借りて内訌を有利に運ぼうとしたことが挙げられる。 北畠に苦戦した織田は義昭の和睦調停において茶筅を人質に出して安全撤退した。 (北畠は人質を出してない)その時に茶筅の安全を守るため織田家から津田一安が付けられ、 木造からは滝川雄利(木造一族)と拓植三郎左衛門(木造重臣)が警護に付けられた。 さて成長し茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。 大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。 そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており 信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。 そして具教や具房の奉公人である山室氏(9/16・10/13・10/14・10/16・10/29)や 鳥屋尾氏(10/13・10/16・10/19・10/晦)によって大湊への軍事動員書状が発給されてる。 9/20頃に伊豆の敵船が大湊入り津田一安が現地入りして糾明に乗り出し大湊諸衆と交渉してる。 しかし大湊の船主たちが軍事動員に反対して拒絶している姿が山室氏の書状で判明する(太田家古文書) つまり大湊の船主の総意は織田に従いたくないという大前提が見て取れる。 また天正元年11月15日に山田三方中と北監物に信雄は文書発給しており 大意としては両御所様御同前に北監物(伊勢大神宮御師)の息子の 福島左京亮(皇大神宮御師)の跡職相続を認めたもの。 これも9/16・9/22・10/22に山室氏から奉書が発給済みのもの。 天正元年の信雄の具豊名での発給文書はこの3通のみ。 このように信玄が死去し義昭が追放された後になってやっと信雄の発言力が多少向上してるに過ぎない。 ここに至っても伊勢水軍が織田に服属してないのが理解できる。
552 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 11:44:30.29 ID:yj+OT7wq
次ぎに信雄が発給しているのは天正3年7/24から「信意」の名前で発給開始している。 つまり天正2年はまったく書状を発給していない。 よって7月の伊勢長島一揆討伐の軍事動員も具房らが主導していると見てよい。 ではなぜ天正3年から発給が開始されるのか?そして「具」ではなく「信」が使用されるのか。 それは多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。 そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。 津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。 天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、 原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、 多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。 大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。 天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され 伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、 織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。 これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。 本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは 信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい 織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。 つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、 12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。 天正2年はまったく書状を発給していないことに着目し 信雄が織田家に突っ返されてしまったとする考え方もある。 そして天正3年6月に再度、伊勢入部したとする。 その後、8月の越前一向宗殲滅戦には信雄は大和衆を率いる塙を部下としているように見え 滝川一益や津田一安は信長の命に従っているように見え、信雄とは別系統とも思える。 果たしてこの時の北畠衆は何をしてたのかわからんが、 天正4年11月に北畠一族を大殺戮をすることでやっと北畠支配が支配できた。
553 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 11:47:51.48 ID:yj+OT7wq
信長は大河内城2ヶ月大包囲で 将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎 丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら 高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり 藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。 (大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で 落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの) 信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒) 信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた 水谷刑部少輔の賛意を取り付け和睦に合意 追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。 伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから 織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。 伊勢長島一揆でも北畠に関係の南伊勢諸国人は船舶動員に非協力的で何度も信長の要請をシカトしてるし 彼らは北畠家臣や南朝以来の繋がりがある 紀伊半島の土豪連中まで長島一揆に入城してるし伊豆国方面からも敵大船が伊勢大湊へやってきたと 織田側は通報してる(日根野弘就に協力してた自由商業町の山田三方の福島親子とか有名) 家督を具房に譲ってはいたが実権を握って現役張ってた具教が織田との和睦を機に出家して引棲しただけで 娘の雪姫の養子になっただけの信雄に家督相続が見えてたわけじゃないから。 家督相続は長島一揆を織田が壊滅させ初めてパワーバランスの変化が生じて信雄が田丸城に入った時であって それまでは具房が北畠当主だから。 吸収されたのは当主と同格の御所様が乱立していた北畠首脳陣をことごとく汚い暗殺で抹消したからで それまではまったく織田が北畠を吸収できるような状況じゃなかった。 逆に言えば武力でも政治でも北畠を屈服させられず、汚い手段を執らない限り現状打開すら織田には無理だった。 どんな状況かを見分けられずすべてを混同し同一視するのは馬鹿のやること。人質を出すことの本質が理解出来てないね。 そもそも信雄小学5年生がいきなり娶るわけないだろ。 当初は雪姫の養子として入っただけだから。 具房の養嗣子にすらなってない。つーかのちに信雄が北畠を乗っ取った事実に引きずられて 信長が最初から北畠を乗っ取るつもり前提とか誤解してるだろ。 あの時点でそんなこと計画してないし長島一揆を鎮圧するまではそんなのそもそも無理だから。 北畠氏の本拠は多気御所と呼ばれた霧山城でそこは具房の妻の兄である北畠政成が城代として守り 具教らは最前線の大河内城で出張して指揮してた。 特に家城之清の武略は凄まじいもので織田軍をガンガン打ち破りまわり手におえなかった。 さらに南方には伊勢新宮を支配する田丸城ってのがあってだな。 ここも北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから織田による北畠支配がスタートしたと言うべきもの。 織田軍は大河内城さえ落とせずアホみたいに討ち死にしまくりだった。 一隊を霧山城方面に送ったが政成の妻は松永久秀で大和国人を引き連れて援軍にやってくるなどで織田軍はボロボロ。 しかも北畠・松永・信玄はつながっていた。 ちなみに信虎が以前、北畠軍を率いて志摩から九鬼を追い払ってるなど同じ源氏ゆえか元々親しい。 信雄がきた後も伊勢湊を支配する鳥屋尾満栄が信長が伊勢水軍を長島一揆に使おうとするのに 非協力的で雑賀水軍などを攻撃しなかったりさらに反織田の者達が集まってきた曽原城。 ここは具房がやってくると戦わず降伏するなど織田に対して自作自演をやってる。 しかもこいつらすぐ松阪城の前身にあたる砦を具教御所様の許しを得たと言って集まってくるが ここは大河内城のすぐ南で田丸城の北方にある場所で反織田やってる。 そもそも具教らが暗殺された時に大規模な北畠一族の広範囲にわたる 騙し討ちがあった事からも織田の北畠支配がうまく言ってなかったのがわかる。 ちなみに伊勢国司記略や津市史や安濃郡誌や北畠氏の研究などが出典
554 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 18:53:46.23 ID:AUS/5UQ3
朝から暇人だなアスペw
555 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 21:37:49.20 ID:kfq/ggKH
信雄が養子に入ったまで読んだ
556 :
名無し曰く、 :2012/09/09(日) 22:08:56.16 ID:X6l7NrxN
>>546 日明貿易してた大内家より豊かとか信秀が圧倒的にバブリー過ぎてワロタw
557 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 08:06:48.12 ID:oGkXeUIl
信長過大評価も甚だしいよね
558 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 08:44:30.04 ID:GPGpPwpE
信長以上の領土広げた奴が何人いるんだ
559 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 08:57:33.40 ID:+FCRbVt2
奉公構を一度でもやった奴は大幅に能力sageすべきだと思う 私は無能です、と言ってるのと同じだし 黒田長政、藤堂高虎、伊達政宗あたりね
560 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 09:13:21.28 ID:iqlBklS+
信玄公は本来日本の統治者であるべき逸材だったのに上杉長野村上義清と世界レベルの逸材に阻まれたからな 今川三好毛利本願寺と相手がゴミしかいない信長が切り取った800万石に価値はないのだよ
561 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 09:31:38.42 ID:oGkXeUIl
濃尾平野100万石で最初からチートな信長なくせに何であんなり苦戦しまくりなんだよw 秀吉と家康がいなかったら信長は近江で討死してたろ。
562 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 11:29:56.51 ID:oud1XNvx
>>527 織田の主力が謙信に木っ端微塵にされて敗走してる
563 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 11:58:40.20 ID:dHggbe9s
織田方は誰も戦死してないって、一兆回くらい聞いただろ
564 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 15:20:16.32 ID:1omqBJ30
>>559 やられた武将の行動に問題あったとは考えられないんだな、汚点も武勇伝に見えちゃうんだろうな
565 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 15:30:51.22 ID:+FCRbVt2
じゃあ手取川の仲間割れした柴田軍とは比較にならない規模の 織田オールスター軍団にあれだけ善戦した雑賀孫市は謙信以上だな 信長公記にも詳細な記述があるし
566 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 17:28:57.75 ID:D4ZNQfoe
撤退中でしかも渡河中の織田軍に襲撃して大将首の一つも上げられないってちょっとしょぼ過ぎだろ
567 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 18:13:58.53 ID:Gg1lp3Qo
松永久秀 統率38 武勇43 知略58 政治21 義理18 戦では連戦連敗、知略は並み。暴君だし政治は低め
568 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 19:38:57.83 ID:cql3wv2P
あれ松永って地元じゃ名君説あるんじゃねえの
569 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 19:59:25.21 ID:hW9nr30/
最前線指揮をしない織田軍
570 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 20:39:21.79 ID:C9zGdDdA
久秀は知謀が高いのはおいといて、 統率や政治も高いのは理由が分からない。
571 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 20:41:20.44 ID:jBDBIdN7
統率は弟の分…と言いたいが、弟が出てる作品でもそこそこ以上だったか。
572 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 22:45:32.01 ID:YIdN/h0u
久秀は『多聞院日記』読む限り筒井順慶相手には連戦連勝だよ >あれ松永って地元じゃ名君説あるんじゃねえの 地元民だけど嘘 島左近とか長屋王とかのほうがまだメジャー
573 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 23:08:05.78 ID:bzEaDGbV
政治は高くていいんじゃないか 多聞櫓とか信長に付いて勝ち組になったりとか
574 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 23:37:55.11 ID:8tHgfVOu
ちょっと変わった角度から。
武田は武田でも、若狭武田氏って何気に多芸の一家なのかなって思った。
武田流(弓術・馬術・礼法などからなる弓馬故実・武家故実の流派)の継承者だったらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%B5%81 で、上を考慮すると、
武田元光 72 35 66 78 D C B D D 威圧
武田信豊 58 63 25 43 D C B D D 斉射之一
↓
武田元光 72 35 66 78 D A A D D 斉射之四
武田信豊 58 63 25 43 D A A D D 斉射之四
こうしてみてはどうだろうか?
575 :
名無し曰く、 :2012/09/10(月) 23:59:55.80 ID:V41vu7Gg
信豊は戦での功績が無く武力も戦法も上げ過ぎかな 武田信方が一族としては存在感があると思うけどなあ
576 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 00:03:57.54 ID:YHpDSW7a
信長は1561〜1568の無駄な7年間が無ければ分布図は変わってた
577 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 00:42:47.49 ID:5+LRuOG+
無駄なって言われてもあの頃の信長ってまだ尾張の支配権固めきれてないじゃん やっと統一したら今川が来て今川潰したら従兄弟が斎藤にそそのかされて謀叛 7年で美濃60万石近く取れたのは明らかに異常だろ
578 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 01:18:28.52 ID:5jz4gIHN
>>567 松永の知略が58だなんて
そんなのに好き勝手やられた三好家や筒井家が惨めに成るじゃん
579 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 02:14:53.40 ID:98Jlt9Hx
知略20あるかないかで十分なそいつら相手なら58でも十分だろ
580 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 03:32:15.42 ID:A3klWQ/+
雑魚狩りしまくってる武将が過大評価される
581 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 03:33:47.33 ID:vWfhKk8u
村上義清にフルボッコにされて逃げ帰った武田信玄とかなw
582 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 06:22:30.27 ID:WHKovVJi
>>581 つまり、幸隆最強ってことでよろしいか?
583 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 09:50:43.48 ID:YHpDSW7a
>>577 そうだけど後ろに同盟国もおったのに7年間は長い気がしたよ
幸隆最強かもな 親子三代に渡り、優秀過ぎるのは真田しか居ないんじゃね?他居るなら挙げてくれ
584 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 10:06:27.15 ID:IJra1Oyt
早雲からなる 北条一族かな。 革新でも氏綱は データだけだけど。 統率83 武勇72 知略91 政治93と高水準 過去作でも登場してるときは。 高能力だわ
585 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 11:05:39.13 ID:6WADmwqk
島津兄弟は?
586 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 11:10:07.79 ID:Nivt4NPp
>>583 上2代はともかく信繁まで入れるのはちょっと…
587 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 11:35:45.40 ID:B5j99Y+p
過大スレと過小スレで分離するのってどうよ 過小スレにもキチガイくるかな
588 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 12:09:26.34 ID:2HxbBUjY
信之も知らないど素人は黙ってろ
589 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 12:44:14.95 ID:nuWppFBY
590 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 12:51:08.38 ID:w7mslzvZ
信幸は尚更なんじゃ
591 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 12:59:11.41 ID:YHpDSW7a
信繁駄目か? 信之を知らないとか、ここに来る価値ないよ
592 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 13:02:06.56 ID:nuWppFBY
>>591 うそ(笑)、知ってる。
先日、某投票で1位になった小松姫の旦那さんだろ。
593 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 15:08:08.89 ID:+jC9728j
大友宗麟 統率46武勇28知略68政治92 真田信繁 統率88武勇83知略76政治11 脇坂安治 統率96武勇83知略78政治55 加藤清正 統率95武勇98知略2政治86
594 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 15:59:46.80 ID:5jz4gIHN
他は納得できないでもないが 脇坂高っ!
595 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 16:18:46.71 ID:2HxbBUjY
清正の虎退治って銃で虎を撃ち殺しただけなんだよな 武勇が過大すぎるかも
596 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 16:27:57.72 ID:gn1wCeUJ
政治86もねえ 適正とか特殊能力で調整できないもんか
597 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 16:51:17.72 ID:6WADmwqk
知略2はひどくね? どんな策にも嵌って死んでるだろw
598 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 19:35:40.71 ID:G8738mrU
というか時勢をちゃんと見て二条城会見実現させたんだから知謀高くてもいいだろ。 少なくとも三成よりは上
599 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 20:37:55.88 ID:FFIWb/kV
最近作でやっと謙信と信玄の戦闘数値が適正評価されてきたよな
600 :
名無し曰く、 :2012/09/11(火) 21:53:53.39 ID:P2ShVmAr
北条氏規 統率:73 武勇:82 知略:68 政治:52
601 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 00:16:05.21 ID:VRIQYFni
脇坂は1500の軍勢で朝鮮500000を蹴散らした。朝鮮では立花宗茂より評価高い
602 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 00:17:29.58 ID:yfKfifi/
鮮人から評価されてもなぁ・・・
603 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 00:32:00.71 ID:VRIQYFni
朝鮮で功績のあった加藤立花の統率は高いのに?
604 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 00:41:14.39 ID:o3htyrAW
向こうの大河ドラマ的なやつで脇坂が主役李舜臣のライバル扱いだったらしい
605 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 00:55:23.97 ID:e5TxZOT2
それはただ李舜臣が唯一大勝した相手だから持ち上げられただけでは
606 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 01:25:46.92 ID:3P1w2Hlg
あれって豊臣が秀吉と島津と脇坂しか出てないやんw
607 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 06:19:46.91 ID:iy8fsGkn
>>605 同じ理由で藤堂高虎も持ち上げられてるみたいだな
608 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 07:08:21.99 ID:FbYSZOLN
ということは、李瞬臣は脇坂安治には勝てるが、島津義弘には瞬殺されるレベルか
609 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 07:18:33.39 ID:1LAxS4LH
信繁と書いてるの見るとどうしても武田の弟が思い浮かんでしまう まあ歴史通気取りで幸村って書きたくないんだろうけど
610 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 07:43:46.54 ID:yfKfifi/
そもそも幸村なんて人物は想像上の人物ですし
611 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 09:11:56.70 ID:7tRSZNdf
昌幸、信之と同じゆきを使ってるだけ 村が不明過ぎる 信玄弟は典厩でいいだろ
612 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 10:05:39.43 ID:941b3/ie
信繁のせいで信之は肩身の狭い思いをしたよね 空気読んで大阪の陣なんて出るなよ
613 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 10:17:43.46 ID:EIplD7/Y
>>600 北条氏康 96 79 94 107 376 槍衾之極 S B C C D 1515 1571 S
北条氏政 82 63 78 89 312 槍衾之二 B C C D D 1538 1590 A
北条氏規 63 59 74 70 266 斉射之二 C C B B D 1545 1600 B
適正以外全て氏政より低いってのは残念だな
入れ替えてもいいのでは
614 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 11:41:55.14 ID:K4SkHD0x
>>608 追撃したら返り討ちにされて死んじゃったじゃないですか…
どんなマヌケだよ…
615 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 13:49:35.31 ID:vqfR2uZe
立花宗茂は能力高過ぎだろ 脇坂くらいの能力にしろよ
616 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 14:13:57.52 ID:wBn74oVW
東の本田に合わせてるんだろ>立花
617 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 14:54:39.28 ID:jnlTfVrX
>>615 宗茂は実際あんなもんだろ
李如松本人を精神的に追い詰めて明の日本軍への印象を変えさせた事は評価に値する
618 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 15:38:30.84 ID:vqfR2uZe
脇坂安治をもっと上げればいいんだよ 関ヶ原も勝ち馬に乗った脇坂を立花より知略上げろ
619 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 15:51:07.37 ID:VRIQYFni
信玄謙信が強すぎてゲームバランス壊してるな
620 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 15:53:18.15 ID:faq9CEGp
土地がやせてれば最強の信玄謙信でもいいんだけどね
621 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 15:59:52.63 ID:zJU8S/Zu
甲斐なんて山中の田舎だもんな
622 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 16:10:29.47 ID:+OPhjhrB
最近下手にってしまった s4真田すらクリアできません 岩村で織田兵3万ほど食ったら兵糧不足にぬり
623 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 16:12:40.66 ID:+OPhjhrB
1572年でも面積でいえば武田のが上
624 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 16:51:06.98 ID:GQAsd5yn
戦国大名は領域国家ではないので面積を持ち出すのではなく ○○郡○○郷の某と主従関係にあるという事を長々と書き連ねなければダメ
625 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 17:22:39.17 ID:OuNWYi+6
面積でいいなら南部さん連合とか… まあ面積だけだけど
626 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 17:34:26.88 ID:IRQOzrib
立花宗茂は西方に付いたのに、 大名に返り咲いたんだから、大層人間的に立派な人だったんだと思う。 当時の武士の間でも相当評価が高かったんだろう。 だからといって、数値が高くても良いというわけではないが。 統率80台、知略政治30〜40ぐらいでいいんじゃないかな
627 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 17:42:31.32 ID:faq9CEGp
東の本多もそうだけど要は大軍を率いるタイプじゃないわけだから武勇適正戦法が強くて使いやすいのが こういう武将の正しい姿だと思うんだよね
628 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 20:34:53.45 ID:gjp0lvRW
立花宗茂は朝鮮征伐しか活躍してないし過大だよな
629 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 20:43:36.52 ID:iy8fsGkn
その朝鮮での活躍も資料少ないしな
630 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 21:55:08.06 ID:941b3/ie
朝鮮の役自体が三国志演義みたいなうそ臭さが出まくってる戦果
631 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 21:56:02.24 ID:MMv9ZeBv
大河やるか漫画が流行るだけで 能力1割り増しがKoeiくおりてぃーだと思ってたのに 最近落ち着いてきて詰まんないな
632 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 22:44:13.23 ID:941b3/ie
山内一豊は結局能力80いかなかったな
633 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 23:08:58.76 ID:yIEsn71u
>>612 徳川幕府が、昌幸幸村を赦免しなかったからな。
これは家康の自業自得。
634 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 23:29:40.81 ID:p1h/mn6z
本多平八が殿と一戦つかまつるとかいって助命させた流れがあまりにうそ臭い
635 :
名無し曰く、 :2012/09/12(水) 23:39:16.99 ID:iy8fsGkn
>>632 能力80はやるほどの実績ないからね
でも武勇知略はもう少し高うなってもいいかも
636 :
名無し曰く、 :2012/09/13(木) 00:28:55.17 ID:QK5Ycbx1
武将の能力に部下数みたいなのできないかなー なんて思ったりするけどシステムの話はスレチですよね
637 :
名無し曰く、 :2012/09/13(木) 01:32:05.14 ID:SteTzYzY
完全な赦免にこぎつけるか処刑島流しにさせとけば信者の言う肩身が狭い思いなんてしなかった 身内の性格も理解出来ず中途半端な結果に満足した己の不手際を空気読めとか…信之の知略は下げるべき
638 :
名無し曰く、 :2012/09/13(木) 01:37:13.16 ID:C0DICZfc
原哲夫の漫画的には前田慶次より島左近の方が強い ちゃんと反映させるべき
639 :
名無し曰く、 :2012/09/13(木) 02:57:13.15 ID:TQQZni9U
PK買えよ
640 :
名無し曰く、 :2012/09/13(木) 03:00:01.71 ID:AoiB2ZGG
慶次が左近より使い勝手よかった作品なんて戦闘系能力が一つしかない一部の作品だけだろ 統率系と武勇系に分かれてる作品では左近の方が統率が遥かに高い上に知略も高くて使いやすい
641 :
名無し曰く、 :2012/09/13(木) 20:08:36.52 ID:K38eiWVG
642 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 11:18:57.51 ID:Y4YDAJ/7
山内千代 45、31、74、86 公式だから困る
643 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 11:32:37.61 ID:zGilxCEY
親子三代で優秀過ぎるのは他に上杉が居た ま、一人養子だが 後は真田、北条だけみたいだな
644 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 16:13:08.27 ID:p3MFmiQ3
武田、シマズもな
645 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 16:43:33.71 ID:g63Lk87o
信虎勝頼は脳筋で統率も80台、優秀過ぎるというほどではない
646 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 16:54:20.70 ID:zGilxCEY
島津は貴久がやや凡庸過ぎないか? 武田か…武勇だけなら親子三代優れてるんだがなあ
647 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 17:16:42.54 ID:hhonwV6c
648 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 18:45:09.54 ID:IV0OwWd2
642 :名無し曰く、:2012/09/14(金) 11:18:57.51 ID:Y4YDAJ/7 山内千代 45、31、74、86 一豊の能力がこれぐらいでいい感じだろ 45、31、74、86 これに武勇引くのと政治下げて 45、65、74、76
649 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 20:11:07.64 ID:GHOu7xR6
仙石とかもだけど 山内も10万石もらったんだから武力くらい上げてもいいんじゃw 山内千代 45、31、74、86 一豊の能力 74、86、45、31
650 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 20:16:47.51 ID:Y4YDAJ/7
家康としては治めにくい土佐は 乱れれば改易すればいいやって感じで入封させたんだろうな
651 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 20:31:19.95 ID:x7T1lva9
その土佐が倒幕の一角を担うのであった。 尻馬に乗る能力だけは長けているようだな
652 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 20:51:34.09 ID:Lqh0iqbG
幕末にも他藩の藩士に「貴殿の藩主は何の能ありて土佐一国の国主になりしや?」と からかわれてるぐらいだから、一豊の無能は変えるべきじゃないと思う
653 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 21:01:07.28 ID:IV0OwWd2
それはおかしい たいした功もないけど 大きな失敗があるわけでもなし無能ってどこで判断するの
654 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 21:06:48.17 ID:Y4YDAJ/7
関ヶ原の自分の城を家康に貸す話が他人からの知恵をぱくったとしても 一応はみんな躍起になって城を明け渡すようになったんだから 言いだしっぺとしてかなり得してるな それだけ東海道の清須までの道が確保出来たことが大きいんだろうけど
655 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 21:28:10.01 ID:OuqppqO6
幸隆って高武勇、高智謀という忍者以外では珍しいタイプだと思う 統武政智55856095(MAX100) ぐらいでキャラたてるのがいい。 村上撃破時の兵数は250ぐらいだったと思うが、大兵力を率いた経験ないし統率は上げづらい
656 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 21:30:20.47 ID:zGilxCEY
5刻みは吐き気する
657 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 21:38:34.41 ID:hhonwV6c
>>655 マックス100っていま120だろうカス死ね
658 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 21:44:49.32 ID:jmZMYmlR
なんか真田の中でも特にもやもやしてるよな幸隆 統率政治60くらいでもおかしくないだろ実際
659 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 23:08:12.00 ID:X4jFxnr7
> 626〜630 むしろ宗茂の活躍ぶりと当時の証言を見ると現状過小。はっきりいって謙信より上の数値でいい位。
660 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 23:19:45.96 ID:uNYKDKRO
越後の大名謙信と九州の小さな国の武将を比べる事自体がおかしいよ。 圧倒的に謙信が上!
661 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 23:34:01.62 ID:IV0OwWd2
活躍ぶりとと当時の証言てなんだ ちゃんとした史料だしてから言ってくれ
662 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 23:38:46.85 ID:pkCQvWMv
663 :
名無し曰く、 :2012/09/14(金) 23:50:20.75 ID:X4jFxnr7
小早川隆景「立花家の三千は他家の一万に匹敵する。」
664 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 01:47:45.15 ID:JS3Lea58
その手のリップサービスにしては約3倍ってのは少ないな よくあるのはだいたい10倍ぐらいじゃね
665 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 04:21:35.21 ID:HkKFk+V3
氏真の蹴鞠の能力は過小だな 蹴鞠は貴族階級のおじゃるな社交場 朝廷工作の織田家や足利家の氏真外交を評価すべき 氏真を所有してる大名は政治+10&朝廷工作成功率アップでいいよな?
666 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 06:08:47.62 ID:eBLZH31w
>>650 長宗我部時代の表高は10万石弱。
だいたい他の豊臣恩顧も倍増ぐらいが多いので、一豊もだいたい倍増ぐらいだから
優遇ってわけでもない。
20万石になったのは江戸時代に見栄をはってからだしね。
667 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 08:15:24.48 ID:B11XuMpT
立花の活躍なんてありがちなリップサービスだし しかも相手はほとんどの大名がフルボッコにできた雑魚朝鮮 こんなところでイキがっただけの立花が謙信以上なら ほとんどの武将が統率カンスト
668 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 08:23:24.27 ID:0WtzxfGF
>>664 一騎当千と言う言葉があってだな…
まあ張飛位しか該当しないだろうが
669 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 08:55:38.91 ID:6KtY/s6h
ウェリントン「ナポレオン一人で四万の軍勢に匹敵する」
670 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 10:12:04.26 ID:jvSYdGuX
水野勝成の能力上げろ こんな能力じゃへボ武将じゃねーか
671 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 10:13:43.89 ID:P9u8psSR
ヘボ武将じゃん
672 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 10:38:42.78 ID:f0YZ0Asi
ミミズくって周りビビらせたっていう 水野のコピペ貼られてもこまりますよ
673 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 10:56:37.25 ID:85ppCj3w
戦関係くらいは上げてもいいとは思うがね。 まあ水野コピペもアレには及ばんとはいえ、なかなかにウザイので、そのまんまでもいいがw
674 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 11:19:03.85 ID:FaTNQ5Y9
>>664 数年後に実際三倍ぐらいの敵とやって負けたから
言い当てた隆景スゲーって話なのかもしれないな
675 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 11:21:53.01 ID:e1qovqI/
それを織田コピペや武田コピペしてる連中が言っていたら笑えるな まあ普通に名将だよな ヘボとか根拠はなんだっていう
676 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 11:24:07.79 ID:e1qovqI/
>>674 鍋島、加藤、黒田って流石に相手が悪いだろ
677 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 13:21:23.40 ID:yx1Ey5+Z
伊達晴宗は知謀かなんか落としてメリハリつけたい 正直何がしたかったのかわからん
678 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 13:46:33.04 ID:XWiAjWRs
アレには自覚ないんだなw
679 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 13:51:43.82 ID:cb3fDUvq
>>677 稙宗統率低いと書こうかと思ったけど
優位な状況から晴宗に隠居に追い込まれてるんで低くても仕方ねえな
680 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 15:55:30.38 ID:SKusgIKo
東北がつまらないのは稙宗のせい
681 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 16:10:31.12 ID:NdzkU+4K
宗茂の話題になると水野厨が便乗してくるな。 勝成ごときヘボ武将が宗茂と同格気取りでむかつく。
682 :
名無し曰く、 :2012/09/15(土) 20:47:56.63 ID:OsuyHzki
福山藩と柳川藩は石高ほぼ同じだからね 意識しちゃうのは仕方ないね
683 :
名無し曰く、 :2012/09/16(日) 00:52:13.76 ID:LP9f7dwP
四国がつまらないのは元親のせい これは冗談だけど 長宗我部の大正義一人勝ち過ぎて面白みにかけるな まぁ元親いなかったらもっと地味だったとも思うけど
684 :
名無し曰く、 :2012/09/16(日) 01:30:53.98 ID:mLja8dJ8
烈風伝の1560年の長宗我部が好きだけどな。
685 :
名無し曰く、 :2012/09/16(日) 02:56:57.14 ID:hsGkixdF
長宗我部元親とか羽柴秀次にボコボコにされた時点で雑魚 秀吉本人がやる気満々で来たのに結局和議判定に持ち込んだ織田信雄の方が上
686 :
名無し曰く、 :2012/09/16(日) 04:11:26.23 ID:ZTd9vrQV
秀次が雑魚じゃないんよ。そこそこできるんよ、秀次。
687 :
名無し曰く、 :2012/09/16(日) 04:20:36.29 ID:hsGkixdF
そこそこできるけど当主不在であのボコられっぷりはねーわ これで統率90越えてんだろ元親は、70もあればいいよ
688 :
名無し曰く、 :2012/09/16(日) 07:43:33.04 ID:jYSxpqoQ
そもそも元親は四国統一をメインに査定されてるわけで 対秀吉なんかは多少マイナス査定になるくらいだろ
689 :
名無し曰く、 :2012/09/16(日) 13:21:09.81 ID:GpcKUUJ6
一条はともかく西園寺と河野は統率70前後で適性Bある武将がけっこういてそんなに弱くないし (ゲーム中では大友と毛利の標的になりやすいからすぐ滅亡するけど) あれくらい突出してないと統一まではいけんだろ
690 :
名無し曰く、 :2012/09/16(日) 16:07:52.68 ID:imdRAyHk
>>665 氏真は今は亡き教養があれば、無理矢理政治を上げなくても良いのに。
立花宗茂は統率・武勇はともかく(正直これらも過大だと思うが)、知謀60超えは明らかに高すぎるよ。
周りが認めていた人格者だが、関ヶ原後改易食らったし知謀とは縁が遠すぎる。
その人格で周りの嘆願があってか、改易から復帰したけど、
知謀が高い武将だったら、改易を免れる道を模索するわな。
魅力が存在するなら、魅力が高くなると思うが、知謀は高くても50未満と思う。
691 :
名無し曰く、 :2012/09/16(日) 22:23:12.01 ID:LP9f7dwP
>>690 信憑性は正直眉唾だけど
明軍おびき出して撃破した逸話があるから
あんま智謀低くしすぎるのもチョッと
692 :
名無し曰く、 :2012/09/16(日) 22:58:59.65 ID:ercTki7J
関ヶ原中の動きは義理や知略に反映されるとして 関ヶ原後の奔走は政治に分類されるだろ 別段策略に引っかかった大名でもないし、知略は54くらいが平均だから妥当 知略って60も1も同じようなもん
693 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 00:59:05.63 ID:Dw/R/aIm
糞みたいな竹だけは戦闘力半分にしてるな いっつも
694 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 01:27:11.78 ID:gR0xJjQq
過大・・・と言っていいのかは分からないけど 真田十勇士とか山本勘助(軍師として描かれてる方)とか ファンタジー系武将ってみんなそれなりに使えたり、強かったりするのがうんざり そろそろ存在自体が分からん武将は能力下げて欲しいでやんす
695 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 02:15:26.99 ID:EslBAmv6
ファンタジーて分かってるならネタ枠だと思ってあきらめろ
696 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 03:16:07.73 ID:AL+U689b
秀次なんぞ数に物言わせてただけ 信雄?あんな無能役に立たん
697 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 03:36:43.64 ID:lHuN5EMy
まぁ真田絡みは夏の陣から巻き返すのがゲーム的に面白いからな ずっとあのままだと思うわ
698 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 03:44:41.06 ID:PorR0cBv
武勇を示すエピソードが、信頼性の薄い文献にしかない猛将タイプの武将って多そうな気がするけど こういうのもある意味ファンタジー枠になるのかな
699 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 06:34:46.09 ID:EslBAmv6
700 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 07:12:13.08 ID:HhrwFBF+
いい加減コーエーは忠実武将の登場オンオフを実装すべき 真田十勇士とか見るだけで不快だわ シナリオによっては登場を絶対回避出来ないから困る
701 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 08:03:44.32 ID:WxG6EH+1
真田十勇士は女謙信と同じ扱いでいいと思うんだよなぁ。
702 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 08:32:49.01 ID:SW/IBsTB
山勘は実在したっけ?
703 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 10:13:01.28 ID:BKOvxfZS
当時無名な伝令兵Aとして存在はしてたんじゃね?
704 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 11:20:53.32 ID:5AmUDKkk
名作マルチ『戦国大名』では山勘の実在チェックというのがあり、 2分の1で存在しなかったことになります
705 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 11:26:06.99 ID:bufzKHx8
>>700 雑魚や平凡な能力ならまだしも比較的強いから余計腹立つ
作品によっちゃトップクラスのつよさ誇ってるからなぁ
706 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 13:26:53.57 ID:5RIRAMQU
信長の野望は史実よりイメージ重視だからしかたない
707 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 14:29:29.80 ID:5ARYLrya
>>672 あのミミズうんぬんって話は、ここのスレで話題にあがっていたんだが
結局、出典はなんなんだろう
708 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 16:21:44.29 ID:gUTGSger
>>696 織田信雄が無能とかどんなにわかだよwww
調子に乗って攻めた伊賀攻め以外織田家で従軍した戦は全て勝ち戦で
小牧長久手でも秀吉含めた往年の織田オールスター軍団をはねのけて伊勢長島城にすら辿りつかせていない。
織田信雄が無能なら伊達政宗も武田勝頼も北条氏政も長宗我部元親も島津義久も浅井長政も無能だな
だってこいつらはボコられまくった挙句、降伏し領地削減or逃亡自刃してお家滅亡なんだから
戦闘も外交も織田信雄より格下ということになる
709 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 16:37:52.03 ID:gUTGSger
参考記録 信長、秀吉、家康と戦った連中 浅井長政 織田信長と交戦、1573年羽柴秀吉に攻められ滅亡 統率87 武勇84 知略70 政治51 武田勝頼 織田信長・徳川家康と交戦、1582年織田信忠に攻められ滅亡 統率89 武勇90 知略56 政治55 北条氏政 豊臣秀吉と交戦、1590年豊臣秀吉に攻められ滅亡 統率82 武勇63 知略78 政治89 長宗我部元親 豊臣秀吉と交戦、1585年豊臣秀次に攻められ降伏 統率93 武勇86 知略93 政治84 島津義久 豊臣秀吉と交戦、1587年豊臣秀吉に攻められ降伏 統率88 武勇57 知略84 政治95 毛利輝元 織田信長、羽柴秀吉と交戦、1582年羽柴秀吉と講和、以後従属 統率50 武勇41 知略26 政治62 織田信雄 羽柴秀吉と交戦、1584年羽柴秀吉と講和、以後従属 統率40 武勇21 知略9 政治58 フルボッコにされて滅亡or降伏した大名>>>>>>>>>敵を食い止めて和議にこぎつけ家をほぼそのまま存続させた大名
710 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 19:10:13.20 ID:AL+U689b
信忠、信孝よりも能力は低いし生き延びたかった処世術だけは長けてた感じ
711 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 19:12:21.14 ID:C6nTDjYW
生存当時から不覚人として名高かった織田信雄は ほんとは有能な人だったの?
712 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 19:13:50.46 ID:C6nTDjYW
「鳩山ポッポは実は有能だった」って顔真っ赤になって擁護してくれる人が 100年後ぐらいには出てくるのかな・・・
713 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 19:17:55.01 ID:gUTGSger
鳩ポッポとは次元が違う あいつは何もしていない 日本の総理大臣で言うなら、岸信介よ
714 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 19:19:48.71 ID:gUTGSger
>>710 功績だけで言うなら織田信雄の方が織田信忠の方が上。
信忠に限ったことではないが格下をいじめて功績を分捕ろうとする連中の実に多いこと
武田しかり伊達しかり北条しかり、地方大名は皆これ。
だから中央勢力や大大名と真っ向勝負すると、途端に脆く崩れたりアホみたいな弱さに転落する
雑魚狩りが許されるのは自分より上がいない天下人だけ
715 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 19:20:21.68 ID:gUTGSger
信忠より、に訂正
716 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 19:26:00.18 ID:gUTGSger
そもそも「阿呆の信雄」なんて異名をつけたのは面白おかしく史実をくだいて解説する 講談、小説家の類で一次史料にはそんなもんひとつもない 信長の折檻にしても勝手に軍を出しただけで負けただの死にかけただのは嘘八百 大体アホ=戦争弱いというのが如何にも短絡的、折檻エピソードだけでもむしろ脳筋なところが目立つ
717 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 21:08:17.98 ID:lycPFqfT
>>711 優秀ではなく、悪運が強い。
それにのっかり単独暴走するけど、その行動さえ戦国時代を生き抜く流れにのって見える
戦国時代としては無能だが優秀でもポックリいく武将が多い中、生き残ることに関しては非常に優秀。
戦略ゲーとして数値に表現しにくい武将の一人と言える。
718 :
忍法帖【Lv=3,xxxP】(1+0:8) :2012/09/17(月) 21:08:43.05 ID:bICJqYax
あげ
719 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 21:15:12.02 ID:zl1SUWhx
鳩ぽっぽは親から地盤引き継いだだけの今川氏真で、 橋下市長は統率と武勇が真田幸村、知略と政治が羽柴秀吉 て感じだわな
720 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 21:27:23.77 ID:gUTGSger
架空の人物を出すなよ
それに今川の地盤もご先祖ありき、足利ブランドなんだからな
>>717 悪運が強い人間が無能なわけねーだろ
無能な人間なら大友義統のように放置され廃れるのがオチ
そもそも大友などと違い、織田信雄は羽柴秀吉に真正面から喧嘩を売っている
これでほとんど無事で済んだことがどれだけ異常なことかわかってないらしいな
721 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 22:24:12.42 ID:0aKMEI/W
ただ信雄が名将だったとしても小牧長久手時の秀吉の采配は余りにもひどい 小牧山なんて長久手戦時点では堀も柵もめぐらされていない無防備な陣営の上に 秀吉は犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東) これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には 芝のついた土手を築いて柵を付けている。 家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。 こんな条件から龍泉寺・大草・柏井など砦を築きながらまるできずいて下さいとばかりに無謀な中入りをさせ まんまと見破られ撃破され、しかも織田・徳川方の小幡方面への動きにきずきながらすぐに兵を出さず 出す頃にはすでに時遅しで逃げ帰られる始末。 その後の攻防においても戸木・松ノ木・蟹江・二重堀・浜田・河波・東駒野・長久保と各城郭攻防で敗戦・織田方に奪回される始末 戸木はまあ仕方ないにしても松ノ木・浜田・東駒野・河波なんて小規模な砦みたいなろくな防衛もない拠点なのになぜこんなとこもすぐ 陥落させられないのかわからん。そんなに高木や吉村や滝川雄利が名将なのか。 蟹江にしたって秀吉眼前で滝川が大チャンス作ってがんばったのに結局織田方が奪回。長久保も吉村が奪回。 こんな信雄家臣の小領主に苦戦してるようじゃいくら信雄が名将だったとしても擁護できまい
722 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 22:28:42.43 ID:gUTGSger
地方大名の中には空しく散っていった連中も多い 武田勝頼などは、長篠で織田信長に大敗して、次の遠征でも織田信忠に不戦敗、 最後の武田征伐などは織田信忠はおろか、裏切り者の木曽義昌すら倒せず、40名であわや甲斐山中逃避行で 自刃という悲しさだ。これだけ負けているのに統率89だ 長宗我部元親にしてもそうだ、土佐国を統一した後は本能寺で慌てた十河存保やブイブイ言わせる仙石秀久をボコるも 豊臣軍がきたとなるや連戦連敗、しかも豊臣秀次に負けるという不甲斐なさだ、これで統率93だ 秀吉本人の御来着ありとはいえ、島津義久にも基本的に同じことが言える、これで統率88 にも拘らず一気呵成に攻め込もうとした羽柴秀吉と正面からぶつかり、 自らを裏切った池田、森の両名を自ら討伐し、最終的に意気消沈した秀吉と和議を結んだ織田信雄が統率40だ 同じような展開を辿った毛利輝元の統率50といい、ここだけデフレ進行が異常に酷い 開発者はプログラムのミスでもしてるのか
723 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 22:32:49.66 ID:gUTGSger
>>721 松ノ木も蟹江も織田信雄の居城である伊勢長島から近いんだ
城の規模がショボくても、攻める側は常に本隊の援軍を警戒しなけりゃいけない
しかも規模が小さい分、攻め取った側が防衛に備えることすらできない
滝川一益ですら山口の奮戦に阻まれて、最終的には織田信雄、徳川家康の本隊にボコボコにされている。
ハナから織田徳川軍の作戦勝ちよ
724 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 22:44:11.78 ID:EslBAmv6
>>719 氏真も地盤っていっても
父が戦死後の混乱も背負ってるから
同情の余地あると思うけどな
725 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 22:53:28.73 ID:zl1SUWhx
鳩ポッポも基地問題とか混乱してるのを背負ってて さらなる混乱に陥れたこととかと一緒と考えられない? 橋下市長や小泉元首相は既得権益を放そうとしない 市役所員や郵政などを強引に打破して日本を牽引した人物だから 幸村と秀吉をあわせたような感じ
726 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 23:11:47.65 ID:0aKMEI/W
>>723 松ノ木は美濃側の脇田近くに存在
蟹江も蟹江合戦当初秀吉がいた大垣から目と鼻の先
おまけに楽田周辺の砦に2万以上留守居部隊が残されていて家康は身動きもできない状況
>>滝川一益ですら山口の奮戦に阻まれて
滝川が蟹江を開城したのは7/3で秀吉が1万人討ち取られた信雄にビビリまくって
大阪に逃げ帰ったため単独で抗戦不能になったため。もし秀吉が大軍で大垣→蟹江と南下していれば
信雄も家康も抗戦どころじゃなく秀吉の構想通り長島・清洲を分断し
し木曽宛書状で書いてる通り7月時点で三河・遠州両国への侵攻も容易。完全に秀吉の失態
727 :
名無し曰く、 :2012/09/17(月) 23:58:42.97 ID:gUTGSger
>>726 おいおい伊勢長島の場所がどこにあるかわかってるか?
尾張と伊勢の国境だし松ノ木も美濃とはいえ尾張のすぐ近くだぞw
>>秀吉が大軍で大垣→蟹江と南下していれば信雄も家康も抗戦どころじゃなく秀吉の構想通り長島・清洲を分断
そんなことしたら挟み撃ちで完全に秀吉の息の根が止まるぞw
そもそも滝川は力技で城を落としたわけではなく、あくまで寝返りで味方につけただけ
滝川自身もまともに攻めれば織田信雄、徳川家康の挟み撃ちでボコボコにされるのをわかっていた
だからこそ九鬼を味方につけて制海権の確保に腐心していたわけだからな
まあ結果はご覧のとおり、滝川は挟み撃ちにされ、九鬼もボコボコにされ城に籠った後逃走
誰が攻めても苦戦する防衛体制と連絡体制
728 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 00:45:23.02 ID:hwB+fchH
>>727 なぜ伊勢の孤島にある長島が美濃方面の松ノ木から近い事になるのか不明
しかも尾張には秀吉方拠点の楽田周辺やら竹鼻・奥・加賀野井を挟むから
松ノ木を攻める上で長島方面からの援軍を警戒するとか意味不明
それならよほど蟹江や長久保を攻めた織田方の方が秀吉の後詰援軍(しかも桁違いの大軍)を
めちゃくちゃ警戒しなくなる
>>そんなことしたら挟み撃ちで完全に秀吉の息の根が止まるぞw
なぜ家康を動けなくするためにおいた楽田周辺の2万を無視するんだアホ
秀吉陣がいる尾張や美濃から蟹江なんて程近くなのに危険どころか大チャンスとしか言いようがない
しかも滝川も単体ですら7/3まで粘っている(しかも降伏したのは秀吉の後詰がなくて諦めただけの可能性高い)
>>滝川自身もまともに攻めれば織田信雄、徳川家康の挟み撃ちでボコボコにされるのをわかっていた
そもそも滝川の判断じゃなく秀吉の敵地分断作戦の一貫だろ
6/25秀吉⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と書いているが秀吉の蟹江合戦失敗により延期になり8月に持ち越される
愛知県史資料編表題部や長久手町史通史編の谷口氏が領国分断作戦の一貫と書いてるし
秀吉がいたと思われる大垣と蟹江なんてすぐだし秀吉は滝川退城により三河侵攻を中断・延期してるから
三河方面への足がかりと容易に想像がつくしそもそも滝川は秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要
しかも滝川家臣でも何でもない九鬼まで動員されての徳川・織田分断作戦
そもそも滝川と九鬼って同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら 九鬼が兵出すわけないだろ
>>だからこそ九鬼を味方につけて制海権の確保に腐心していたわけだからな
論理的なつながりがないな。なぜまともにせめてボコボコにされ
秀吉が後詰しても挟み撃ちにされるような危険な場所で滝川が単独で調略に及び(単独行動なわけがない)
九鬼が滝川家臣でもなんでもないのに秀吉の命令でもなく危険な蟹江を保持するため制海権を確保する必要があるのか不明
>>まあ結果はご覧のとおり、滝川は挟み撃ちにされ、九鬼もボコボコにされ城に籠った後逃走
会戦の6/16当初大垣にいた秀吉が1万人ぶち殺された信雄にビビリまくってヘタレ敗走をしたために見捨てられた滝川が7/3まで粘ったものの諦めて降伏
>>誰が攻めても苦戦する防衛体制と連絡体制
そんな苦戦する防衛体制があるならなおさら蟹江保持に赴かず援軍も出さない秀吉は戦略家としても戦術家としても最低レベルの雑魚
729 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 00:47:52.71 ID:mc3iTdbg
なんかやけに信雄が推されてるな。 どうせなら、信忠・信雄・信孝の三兄弟に具体的に数値をつけてみたら?
730 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 00:47:54.68 ID:hwB+fchH
>>秀吉の戦略は下記であり、滝川の行動は秀吉の戦略外だ。6/4の佐竹宛の秀吉書状でも加賀野井城・奥城攻めを敵城中割と言っていて、 >>秀吉が岡崎への中割戦略から長島への中割戦略への変更がはっきりわかるから蟹江なんて戦略的に意味はない。 この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」 3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」 敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための 進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での 柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候 て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』 と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状) 長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき 出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので 時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら 討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり 秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる 7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。 この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。 8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している 7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる 8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする 三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する 同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる 9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。 二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する 11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
731 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 00:49:56.51 ID:hwB+fchH
>>728 めちゃくちゃ警戒しなくなる →めちゃくちゃ警戒しないといけなくなる
732 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 00:50:25.46 ID:WBwKPls1
そろそろコピペ合戦のゴングがなるか
733 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 00:57:04.62 ID:hwB+fchH
>>蟹江合戦が滝川の単独行動 長久手町史本文編の谷口氏や愛知県史資料編表題部はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環 と位置ずけているし滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われるから 容易に秀吉の軍事行動であると想像がつく。また蟹江合戦失敗により秀吉の7月の三河方面侵攻軍事計画が8月に延期されているのも 蟹江が秀吉から見て重要な戦略拠点である証拠。 滝川はこの時点で秀吉の同盟者でも何でもなく家臣なんだから独断での行動なら証明が必要 しかも滝川家臣でも同盟者でも何でもない九鬼まで動員されてる。 秀吉の意思がなかったら 九鬼が兵出すわけない 6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る 6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発 6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように 6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた 6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた 6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った 三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し >>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。 家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月 これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
734 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 01:08:54.51 ID:LL99q1O1
長い人生良い点を探し出そうと思えばいくらでも出来る コーエー自身、過小キャラの再評価ってのが常態化してて メリハリがなくなってきてるきらいすらある
735 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 01:29:47.13 ID:9PBvlO1A
信雄や信孝は秀吉に従わなかったし嫌われてんだなあ 長益は東軍に付いたし 信忠さえ生きてればなあ
736 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 02:18:45.56 ID:uFN2nOcW
まあ秀吉の失態云々はスレチだから別でやってくれ
少なくとも小牧以外の秀吉は冴えわたってるし
小牧レベルですら秀吉では「失態」になりうるというのなら別になんとも思わん
>>735 あからさまに行動していたのは信孝くらいで信雄は基本従順、
というか存在感薄すぎてもともと家督継承の段階でも微妙な扱いだった
737 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 02:37:53.01 ID:uFN2nOcW
>>729 推すも何も史料見ていれば信雄=暗愚なんて真っ先に切り捨てるべき風潮
失策は予想外の事態で部下が死んだ伊賀の件くらい。
基本的にほとんど勝ってばかりで、小牧ですら引き分けという勝率の高さ
まず歴ゲーor歴オタ界隈で優良評価を貰いやすい織田信忠だが、こいつは終生親父である信長の権威があったというのを加味する必要がある
もちろん失点はほぼないのでいきなり下がったりはしないが、特に政治はほぼ親父+その家臣任せなので70もいらない
織田信忠 統率76 武勇64 知略69 政治60 まあ誤差はあるが現状から知略+、政治−でおおよそ解決
次織田信雄、目を見張るのはやはり軍事手腕の高さ、秀吉という格上相手でもブレないところが素晴らしい
基本的に失策はほとんどないので統率は高くなる、要所で没落しているので知略は低め、内政は反秀吉包囲網実行者なのでそこそこ
織田信雄:統率85 武勇46 知略39 政治58
最後織田信孝、よく講談では「そこそこ優秀」扱いされているが信雄に負けてる時点で軍事はそれほど、つか軍を率いた実績はほぼ皆無
信長公記のエピソードを採用すると武勇は高めか、村井の代わりに内政をしきる&山崎以降の朝廷の扱いから政治は気持ち高めに、知略もそこそこ
織田信孝 統率43 武勇81 知略67 政治64
信長の野望見ていると頭の信雄、力の信孝の能力付されているが個人的に真逆だと思う
738 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 04:17:57.96 ID:a0E6LJtZ
氏真を親父戦死後の混乱で同情しろ言い出したら 信雄もそうだよな。
739 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 04:37:28.35 ID:lCdkLwJW
信長の嫡子 ALL+10 信忠専用 信長の七光 ALL+5 信長の血筋 信雄は 政治19 他 5 26歳でいった信忠より長生きしてるが、目立った資料がないこと、謀反に担ぎ出すまわりもなかったことからただの凡人とわかる。
740 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 06:31:44.69 ID:hwB+fchH
>>736 >>小牧レベルですら秀吉では「失態」になりうるというのなら別になんとも思わん
信雄が名将だったとしても小牧長久手時の秀吉の采配は余りにもひどい
小牧山なんて長久手戦時点では堀も柵もめぐらされていない無防備な陣営の上に
秀吉は犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
こんな条件から龍泉寺・大草・柏井など砦を築きながらまるできずいて下さいとばかりに無謀な中入りをさせ
まんまと見破られ撃破され、しかも織田・徳川方の小幡方面への動きにきずきながらすぐに兵を出さず
出す頃にはすでに時遅しで逃げ帰られる始末。
その後の攻防においても戸木・松ノ木・蟹江・二重堀・浜田・河波・東駒野・長久保と各城郭攻防で敗戦・織田方に奪回される始末
戸木はまあ仕方ないにしても松ノ木・浜田・東駒野・河波なんて小規模な砦みたいなろくな防衛もない拠点なのになぜこんなとこもすぐ
陥落させられないのかわからん。そんなに高木や吉村や滝川雄利が名将なのか。
蟹江にしたって秀吉眼前で滝川が大チャンス作ってがんばったのに結局織田方が奪回。長久保も吉村が奪回。
こんな信雄家臣の小領主に苦戦してるようじゃいくら信雄が名将だったとしても擁護できまい
741 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 06:38:25.23 ID:hwB+fchH
>>少なくとも小牧以外の秀吉は冴えわたってるし 対明知 2.5倍の兵力比&光秀側は山崎を守るため不利な布陣をしいたにもかかわらず ガチンコ野戦で秀吉側のは被害が多い(ランチェスターの法則でいえば2.5倍の兵力比なら被害差は6.25倍差にならないのがおかしい) 対柴田 圧倒的大軍で寡兵の柴田勝政・佐久間盛政が撤退中を背後から強襲したら逆に反撃され撃退 圧倒的兵力差にもかかわらず前田・金森・不破が兵をひくまで野戦で一進一退。前田・金森・不破が兵を引いて柴田軍の士気が崩壊したからなんとかなっただけ 対北条 235000の全国から総動員した圧倒的大軍でわずか34500で抗戦和平で割れ、皆川が寝返るなど 戦意0の北条に対し緒戦の駿河伊豆国境地域の戦闘でボロカス 山中城攻防で重臣一柳直末戦死。韮山城500や忍城1000に大苦戦しスカスカの小田原城1200に手も足も出ず 兵站もギリギリのところまで追い込まれ堀尾嫡男・前田重臣も戦死。 兵力の集中した八王子・鉢方を陥落させた真田・上杉・依田らの活躍と北条のヘタレ降伏がなけりゃ確実に撤退に追い込まれていたのが秀吉 対毛利 熊見川で戦死者3000の大敗。三木城や播磨諸城に2年費やしその間谷ら重臣戦死の大苦戦。 宇喜多・南条に毛利が大苦戦し、その間鳥取などを火事場泥棒したはいいが 因幡方面から備中・美作攻防に転進すると祝山・備前児島で敗北し清水宗治・補井田元清にも翻弄されまくり 自分一人じゃ無理だ〜と信長に泣きつく始末。
742 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 06:40:49.57 ID:MOeGuAvb
信雄が名将なら家康置いて講和してないだろ
743 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 06:43:05.71 ID:hwB+fchH
天正11年の滝川征伐でもボロクズのようにやられてる 3/4柴田勝家→填島宛書状・滝川一益事書 大軍率いて滝川軍を攻め崩そうと出てきた秀吉は桑名攻防で一益の鉄砲隊と足軽隊を交差した奇襲戦術にあって大苦戦 結局柴田が倒れて単独で抗戦しきれなくなって降伏しただけだしそれまで兵糧攻めにしようとしても 抗戦が激しく手に負えない状態だった(桑田氏論文) 秀吉は宇喜多・南条・大友・尼子・河野などに蹴散らされまくった雑魚毛利にも大敗した雑魚 毛利が宇喜多や南条に足を取られた隙に居留守泥棒的に鳥取・三木を掠め取ったいいが 備前・美作方面に出兵すると大苦戦 元々中国東部は尼子残党山名荒木別所などのゴタゴタで調略が有効に効きやすい 絶好の相性の場所だからなんとかなっただけ 毛利輝元って大友や尼子残党や宇喜多や河野やらに苦しめられまくった戦国屈指の凡将なんだが 秀吉にだけは勝ててるんだよな。熊見川・祝山・備前児島をはじめ美作攻防。 宇喜多も不運だったわな。単体なら勝てる相手に秀吉が出てきたせいで足引っ張りまくって。 秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ 謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで 戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利 前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田 戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄 徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで 譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川 まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津 わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条 秀吉は伊賀攻めで大敗した暗愚の凡将織田信雄より戦下手。 信雄家臣の吉村・木造などに大敗した雑魚 よって最大限に秀吉側に好意的にみても信雄と秀吉の統率はいれかえるべき 信雄→87 秀吉→5
744 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 06:46:17.75 ID:mc3iTdbg
>>737 まあ信雄=暗愚説の方がポピュラーだからね。
個人的にはこういう再評価は嫌いじゃない。
745 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 07:49:33.98 ID:MOeGuAvb
総大将を局地戦の戦績で統率5にして好意的w しかし最終勝利者だからといって統率をチートにしないというのも 逆に没落したからと言って統率を下げずに知力政治力を下げるというのもいいな
746 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 09:22:25.90 ID:+MfqLzkc
コピペよくみたら
>>721 と
>>740 みたいに
ちょっと前のレスと同じ事書いてるな
いやだからコピペなんだろうけど
観る価値ないね
747 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 09:28:22.39 ID:3ZmcGpGI
防衛戦って守るほうが有利なんだから そこらへん少しは考えないと 信雄だって伊賀攻め、北条攻めは駄目駄目だったし
748 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 09:55:45.59 ID:hwB+fchH
>>745 >>局地戦
都合悪くなると敗戦を覆い隠す秀吉厨の得意文句乙
そもそも上記の戦闘は局地戦というよりガチンコ戦闘での苦戦・敗戦なので
これが局地戦なら日本国中の戦闘全て局地戦
>>しかし最終勝利者だからといって統率をチートにしないというのも
最終勝利者だから統率ageなら最終敗者で光秀に殺されて死んだ信長は統率0
>>746 何回反論しても同じ事繰り返してんじゃねえよボケ
>>747 なんで防衛側有利なんだ?
そもそも中国攻めで大敗した熊見川は秀吉が防衛戦だし
対明知も柴田もガチンコ野戦で防衛側攻勢側関係なくむしろ山崎なんて光秀のが
山崎を守るために天王山占拠を捨てた不利な布陣
北条攻めは秀吉の失態じゃねぇかw韮山も山中も小田原も秀吉軍が攻めて大苦戦
逆に秀吉が指揮取らなかった九州・四国攻めのがうまくいってる
都合悪いとこは全て部下に押し付けてんじゃねぇよタコ
749 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 09:59:49.72 ID:hwB+fchH
>>747 >>防衛戦って守るほうが有利なんだから
防衛に適した堅固な拠点や地形に合わせて有利な布陣・迎撃態勢があったなら
ともかく小牧長久手時は川があっただけで川さえこえてしまえば平野部ばかりの尾張国内の戦闘
障害となる川も池田・森が部下について伊勢に転進してた家康の留守をついて一気に尾張に襲撃したおかげで
あっさり超えられたのにその後の攻防で蹴散らされまくり負けまくり1年一杯かかって7〜8倍の兵力差で
尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
750 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 09:59:51.44 ID:lCdkLwJW
過去資料もなく歴史的功績もなくどっかのおっさんの妄想論文で再評価とか捏造すぎワロタ
751 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 10:01:54.61 ID:pFd75mIx
>>746 他の誰も使わないような頭の悪い、適当な武将名列記や城名列記なんかをNGにぶち込むと色々捗るぞ
752 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 10:05:04.61 ID:hwB+fchH
なんでもいいけど秀吉の指揮采配能力がゴミクズレベルの雑魚なのは認めてほしいもんだね それ素直に認めてくれりゃ何もいわん なんだかんだ後ろ付けで無理やり擁護したり局地戦だの大軍だから逆に不利だの妄言垂れ流し&反論できなくなると無視でごまかすのが織田厨 これ以上繰り返すなら信長も全力で罵倒&織田厨の大嫌いな武田・伊達持ち上げさせてもらう
753 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 11:13:00.47 ID:3ZmcGpGI
都合悪いとは全部部下に押し付けてじゃねぇよタコって書いてあるけど 都合の悪いところを全て秀吉に押し付けてるのはそちらの方ではないか? あと、あくまでここは信長の野望での話だぞ 統率5の秀吉がどうやって天下統一したのか教えてくれ
754 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 11:27:35.87 ID:+MfqLzkc
>>1 に
コピペ連投、自作自演禁止
三傑謙信玄佐竹は専用スレへお願いします
こう書いてあるのに
秀吉の話題を続けるID:hwB+fchHは早く死ねよ
755 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 11:30:30.00 ID:hwB+fchH
都合の悪い所といわれても 小牧長久手も小田原征伐の韮山・山中・忍・小田原攻略失敗&重臣多数戦死も滝川攻略失敗も 毛利征伐の三木城大苦戦・播磨攻略失敗・熊見川も美作・備前・備中攻防も秀吉指揮の戦いだし こんなんが秀吉ではなく部下の責任なら逆に秀吉が勝った戦も全部部下の功責ですむだろ
756 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 11:33:26.90 ID:hwB+fchH
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ 謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで 戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利 前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田 戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄 徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで 譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川 まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津 わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条 秀吉は伊賀攻めで大敗した暗愚の凡将織田信雄より戦下手。 信雄家臣の吉村・木造などに大敗した雑魚 秀吉なんて運だけで天下取ったようなもんだからな 織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して 大きく勢力拡張 山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入でぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて 戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多くあつまっただけ 毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず 勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ 家康なんか天正11年からの特政連発&木曽小笠原真田石川水野の離反とそれによる領国軍事機密露見と天正大地震の影響で 領内めちゃめちゃになったせいで従わざるをえなくなっただけだからなあ しかもそんな状況で秀吉は母と妹人質にださなきゃならないほどヘタレぶりだったし。 まあ毎度の事だけど
757 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 11:37:09.61 ID:ByemKkJl
コピペ連投禁止 秀吉の話はスレ違い
758 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 13:05:13.77 ID:mc3iTdbg
そこまで秀吉が雑魚だと認めさせたいのなら、 こんなところで主張するより然るべき場所で主張したら? 学会で認められればそれがスタンダードになるだろうよ。
759 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 13:29:52.38 ID:DK/tbqc1
秀吉は運と政治力と部下能力だけでのし上がった戦下手の雑魚武将 認めるからもういいだろ
760 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 13:39:20.73 ID:hwB+fchH
761 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 15:45:56.68 ID:NJWk3tqa
わかったから専用スレでやって
762 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 15:49:20.73 ID:uFN2nOcW
>>742 織田信雄が総大将なんだから単独講和も別に何の問題もないが。
そこは知略で下げてやればいいだけで。
そもそも小牧での織田徳川連合軍なんて博打の連続で
これはコピペにも指摘はあるが基本的に織田徳川軍は背後の織田羽柴軍本隊をガン無視して一方的に各個撃破している。
特に羽柴秀次の作戦なんか明らかに織田徳川軍の分断を狙ったものだが、徳川はおろか織田信雄まで自軍ほとんど率いて攻撃かけるという思い切りのよさ
それでいて羽柴秀吉が大軍を動かそうとするとさっと自城に籠ってしまう隙のなさもある。
このあたり元々織田本家&羽柴秀吉に喧嘩を売った時点で織田信雄が決死の覚悟だったとも言える。
羽柴秀吉が無能だったと声高に叫びたい人がいるようだが
負けですらない引き分けでそんなこと言い出したら他の連中なんてとんでもないことになるわな
立花みたいな連中を落とせないから島津義弘は統率3、今川氏真に一度敗北して国元に帰った武田信玄は統率1とでもいう気か?
立花はまだ統率で下がっても知れているが、今川氏真なんて統率10、再評価してもらわん限り信玄とか相当下がりそうなものだな、スレチだから詳しく言及はせんが
763 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 16:36:12.66 ID:MOeGuAvb
まあランチェスターとかいうなら
孫子の攻城十倍とか近現代の攻撃三〜六倍の法則
とかにも配慮してくれって感じだな
身の回りに数十人しか居ない時に光秀にやられた信長の統率が0とか
言っている時点で理論的な議論は不可能なのかもしれないが
>>762 同感
764 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 16:43:32.37 ID:hwB+fchH
>>762 >>特に羽柴秀次の作戦なんか明らかに織田徳川軍の分断を狙ったものだが
4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
765 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 16:44:35.85 ID:hwB+fchH
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり 途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。 奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。 しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした 正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから 朝に動けば絶対間に合ったのに 軍事的才能がなさすぎる 敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。 池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から 尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら 相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし 夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを 荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな 池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から 尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら 相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし 夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを 荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか 間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど 不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる 中入り勢は突出などしとらん 秀吉の命令通り動いただけ 6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然 畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから 戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな 秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな 目付け役で堀・長谷川も加わってるし お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での 家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな 敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。 池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から 尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら 相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし 夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを 荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
766 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 16:51:30.39 ID:uFN2nOcW
コピペ君は戦争目的もわかってないのか 織田信雄を降伏させるのが目的なのに全部潰すとか全く意味がない 大体君の理論も無茶苦茶だな 秀吉が功績をたてたのは部下のおかげ、というのはまだわかるが >>信長も全力で罵倒&織田厨の大嫌いな武田・伊達持ち上げさせてもらう これが意味不明。信長って典型的なワンマン大名で家督譲って息子に一線任せる以外は全部自分で戦争をして勝った、 「部下頼みの戦しかできない」のを嫌う君には絶好の存在じゃないのかね。 武田信玄や伊達政宗はどっちかというと部下頼みが多く、信玄も宿敵村上を追放するのに真田を重用し、織田徳川との戦いも山県秋山に委任している。 伊達政宗も留守政景に委任した戦がかなりある、君にとってはむしろ忌避すべき存在じゃないのか?w それとも「部下頼みだけど信玄は好き、秀吉は嫌い」とでもいう気かね?
767 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 16:53:45.60 ID:hwB+fchH
>>762 >>負けですらない引き分けでそんなこと言い出したら他の連中なんてとんでもないことになるわな
1年一杯使って7〜8倍もの圧倒的兵力で総攻撃しかけたら羽黒で負け長久手で1万人戦死
その後戸木松ノ木蟹江長久保東駒野河波浜田二重堀と負け続けて基盤ガタガタな信雄領国(春ごろから寝返りばかり)を
尾張半分すら切り取れず秀吉が諦めて大阪に納馬しようとしてたらたまたま信雄が和議に乗ってきてくれた攻防
のどこが負けじゃないんだ。こんな春から家康討伐と叫び続けて何回も何回も失敗し続けた戦いなんてそうそうないわ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
768 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 16:55:49.44 ID:hwB+fchH
>>織田信雄を降伏させるのが目的なのに全部潰すとか全く意味がない この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」 3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」 「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから 一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」 敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための 進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」 とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での 柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を 三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨 を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候 て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』 と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状) 長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした 『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき 出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事) 軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので 時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら 討ち果たしてやる 六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります 7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して 尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた 兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている (これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。 一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している 7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる 8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする 三河表へ出兵する予定である 9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する 同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる 9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。 二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する 11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め と書いていて秀吉の家康への敵意と討伐意思と行動がよみとれる
769 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 16:59:47.23 ID:uFN2nOcW
>>尾張半分すら切り取れず秀吉が諦めて大阪に納馬しようとしてたらたまたま信雄が和議に乗ってきてくれた攻防 和議を結ぶ前の秀吉は確か伊賀にいたはずだが、滝川雄利の奮戦で城は落ちていなかったし。 >>どこが負けじゃないんだ 和議を結んでおいてどこが負け?w それこそ織田信雄、徳川家康の勝利なら、真っ先に彼ら2人は秀吉に奪われた南伊勢、美濃の所領奪還を目指すはずだが 特に美濃なんて池田森が寝返ったせいで秀吉に与した土地、秀吉が負けたなら奪い返すなんて容易いこと
770 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 17:03:58.92 ID:hwB+fchH
>>763 >>孫子の攻城十倍とか近現代の攻撃三〜六倍の法則
そんなもの実際の適用はない。普通は攻守三倍原則が適用。しかもこれよりすくない兵力比で攻略成功なんていくらでもある
そんなら3倍どころか2倍もない兵力比で長尾や山之内上杉の介入もある中キツイ山ランキングトップクラスの信濃を
ガチンコで切り取り同じく長尾の介入の中上野山間の城をおとしまくり駿河を北条・今川相手に切り取り
圧倒的勢いで徳川を粉砕して滅亡寸前においつめた信玄はどんだけ戦上手なんだ?
伊達政宗なんかも包囲網しかれた状況で敵に勝利したりしたりめちゃめちゃ強い事になるぞ
実際には伊達の会津侵攻信玄の侵略戦争信長の美濃攻略元親の四国攻略など3倍どころか2倍もない兵力で攻略成功なんていくらでもある 7
攻撃側が戦闘をしかけなければ戦闘は発生しないんだから攻撃側が戦場の決定権やそもそも戦闘を行うかどうか自体攻撃側が主導権を持っているといえる
防衛側は兵力が劣り戦略的に見ても主導権を取られやすく特に野戦では兵力比がもろにでるので圧倒的に不利
寡兵側が勝つには敵の油断をついて奇襲するなり見事な用兵で敵を味方陣地深く釣り込んで殲滅するなりしないと無理
ガチンコでやりあえばまず大軍側が100%勝つに決まっている
>>身の回りに数十人しか居ない時に光秀にやられた信長の統率が0とか
>>言っている時点で理論的な議論は不可能なのかもしれないが
>>745 で最終勝利者だから統率が高いだの馬鹿な論拠で語るアホ織田厨にあわせただけだよ
最終でいえば光秀に殺されて死んだ信長が統率0なのは当たり前
771 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 17:07:46.88 ID:uFN2nOcW
家康を討とうとするのは当然のこと もともと秀吉は「信雄は家康に操られているだけ」としか思っていない 本心からか、それとも信雄が織田家の人間であることに遠慮したかは別として 少なくとも家康を討ちさえすれば、信雄などさっさと降伏してくると思い込んでいただけに過ぎない。 というか、家康だけを倒す気でいるのなら後半の蟹江攻略や北尾張攻略なんて全くの無駄 特に蟹江なんて信雄の所領で、別に家康の所領に通じるわけでもないのにわざわざ九鬼までがこの奪い合いに加担している 池田森の時みたいに中入り目指して徳川をおびき寄せばいいはずなのだが、なぜかそれをしなかった
772 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 17:09:41.64 ID:uFN2nOcW
>>最終勝利者だから統率が高いだの馬鹿な論拠で語る 戦国の最終勝利者は徳川秀忠だが誰も秀忠が統率最高なんて言ってる連中はいないだろ・・・ 勝手に自分がそう思い込んでるだけやないかw
773 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 17:10:19.67 ID:hwB+fchH
>>769 そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
>>和議を結んでおいてどこが負け
戦略目的は
>>768 のように家康討伐。んで結果は羽黒で負け長久手で1万人戦死
その後戸木松ノ木蟹江長久保東駒野河波浜田二重堀と負け続けて基盤ガタガタな信雄領国(春ごろから寝返りばかり)を
尾張半分すら切り取れずと完全に負け
774 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 17:11:25.83 ID:YaQetsDm
775 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 17:11:46.84 ID:uFN2nOcW
家康討伐が目的なら蟹江攻めなんで無駄行動 しかも水軍衆まで動員している 目的の1つにはあったのかもしれんがそれだけではないのは見てもわかる
776 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 17:12:09.84 ID:FyaogNq3
>〜としか思っていない >思い込んでいた ソースは?
777 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 17:18:25.93 ID:uFN2nOcW
>>776 秀吉の書状がそうでしょ
ていうか自分で出してないか?
「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」「徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候」
というのがまさにそう。少なくとも織田徳川軍は史料で見る限り、長宗我部元親への協力要請など明らかに信雄主導で動いているのだが
織田羽柴軍がそれを感知している様子は一切ない。あくまで「徳川家康が総大将で、信雄は傀儡にすぎない」と思い込んでなければ
このような文章はまず出てこない。知っての通り、家康はあくまで援軍で、信雄が総大将なのだがそれを織田羽柴軍が公言している様子はない。
まあ三英傑の話題なんてスレチだから、「秀吉は無能、秀吉の負け」と騒ぎたいのなら俺は切り上げとくが
778 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 17:20:03.00 ID:hwB+fchH
>>771 >>というか、家康だけを倒す気でいるのなら後半の蟹江攻略や北尾張攻略なんて全くの無駄
家康だけを倒す気ではないだろうが蟹江合戦は完全に三河方面を意識したものだな
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。
この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じておりその後も三河への侵攻計画を表明している。
蟹江合戦失敗により秀吉の7月の三河方面侵攻軍事計画が8月に延期されている(7月の秀吉書状)のも
蟹江が秀吉から見て三河攻略の上で重要な戦略拠点である証拠
>>772 アホ織田厨がよく使う論法だがな
>>745 みたいな
779 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 17:24:24.86 ID:uFN2nOcW
780 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 17:45:24.09 ID:a0E6LJtZ
uFN2nOcWもhwB+fchH 自作自演に見えてきた
781 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 18:07:46.58 ID:MOeGuAvb
>>770 =778
防衛戦と攻略戦の違いを無視してコピペして続けて
無能無能を連呼しているだけ人間に
理論的な話しは通じないということだな
局地戦で幾ら家康が勝ったところで
大局的は信雄を攻略し家康を臣従させるという軍事目的を達しているわけだしな
782 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 18:20:32.49 ID:lCdkLwJW
>>781 秀吉の策で重臣三人ぶっころしてる時点でお察しください。
783 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 18:37:11.16 ID:vdn9PiNr
蒼天録はよかったな 戦が苦手でも政治と計略でひっくり返せた 最近のは戦争でしか拡大できないからみんなそこにしか目がいかない
784 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 18:43:43.27 ID:hwB+fchH
>>781 つまり信長が勝った防衛戦の桶狭間は勝って当たり前
包囲網相手に劣勢一方で防衛状態だった信長は包囲網軍より下
ちなみに蟹江合戦・長久保攻防は圧倒的に信雄側が寡兵にもかかわらず信雄が攻撃側で攻略成功
長久手も周辺拠点ガチガチに砦でかためて織田徳川の動きを封じてる時点で攻撃防衛関係なく
小牧山なんて長久手戦時点では堀も柵もめぐらされていない無防備な陣営の上に
秀吉は犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
こんな条件から龍泉寺・大草・柏井など砦を築きながらまるできずいて下さいとばかりに無謀な中入りをさせ
まんまと見破られ撃破され、しかも織田・徳川方の小幡方面への動きにきずきながらすぐに兵を出さず
出す頃にはすでに時遅しで逃げ帰られる始末。
>>大局的は信雄を攻略し家康を臣従させるという軍事目的を達しているわけだしな
>>768 無視すんなカス
>>局地戦で幾ら家康が勝ったところで
なんで両軍あわせて10万以上もの圧倒的軍勢で総決戦して1万人戦死の大損害になった戦いが単なる局地戦なんだアホ
京でも騒乱が数日続いてるしその後の攻防も攻防においても戸木・松ノ木・蟹江・二重堀・浜田・河波・東駒野・長久保
と各城郭攻防で敗戦・織田方に奪回される始末。しかも織田徳川方は寝返りばかり&前年から徳政連発
&家康は対上杉と北条の変心に備え単体で8000しか連れてこれない状況(御当家記念禄・当代記・御年譜徴考)
局地戦どうこうでなく全体でみても苦戦しまくってるだろアホ
785 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 18:50:47.44 ID:hwB+fchH
>>防衛戦と攻略戦の違いを無視してコピペして続けて つまり防衛戦の熊見川に大敗したり圧倒的大軍で防衛戦に臨んだ二重堀合戦で襲撃されて大人数討ち取られた秀吉は 物凄い戦下手だな 基本防戦なので勝っても領地は増えるわけではなく負ければ滅亡か領土減るので 士気は下がりやすいし寡兵で圧倒的に不利な上に裏切りや脱走兵も出やすい
786 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 18:52:05.06 ID:hwB+fchH
>>歴史上寡兵で大軍を打ち破った戦いは、その兵卒を生かした戦いよりも >>むしろ個人の武勇や知略策略、あるいは地の利によって勝ったものが圧倒的に多い 地の利というのは確かに当たってるけどそれをうまく生かしたり戦術で敵をうまく釣り込んだりするのが名将の采配だな 個人の武勇なんぞが決めてとなって寡兵で大軍を破った戦いなんてあったっけ? 知略や策略はまあそうだろうが戦場で繰り出される両将の戦術は指揮官の指揮采配能力なんだから これは戦上手かどうかそのものといえる >>寡兵で切り抜ける力こそ、武勇や知略に還元すればいいという話。 なぜそうなるのか不明。個人的武勇なんて現実でもゲームでも戦場にたいした影響を及ぼさない物がなぜ 戦上手かどうかの問題にすりかわるのかって話だし知略も戦場では補助的意味しかゲームでは与えられていない 統率こそ戦闘での中心的能力なんだから戦闘に強い武将は統率ageが普通 >>百人単位千人単位の戦なら個の勇の影響力は高い 影響力があるだけで大軍を跳ね返せるわけがない >>特に日本じゃ千単位万単位で戦える所がそもそも少ないから 千単位万単位で戦った戦を上げていくと数限りないね。そんな戦でも両将の戦術力や指揮采配能力が 大きく物を言ったわけで、武勇なんぞハナクソくらいの影響しかない >>豪傑の類はもてはやされる そもそも講談くらいでしかないくないか? >>城攻めでもこの手の剛の者がいなくては力攻めひとつできなくなる そら強兵の方が有利だろうが一人豪の物がいた所で大軍で結束されて鑓で結束して攻撃されたり鉄砲で撃たれたら一溜まりもないわけで。 >>敵対国を圧倒する兵力を持たない限り、兵が増えても苦戦は耐えない。 兵が増える程っていうのは敵対勢力に比しての話ね。例えば信長でも斉藤戦信玄でも信濃侵攻家康でも三河平定や一向一揆戦が 敵対勢力に比して兵が余り多くなく最も苦戦が多かったといえる >>兵が増えれば増えたで、周辺国から警戒を受けて包囲網を受けることもある。 包囲網を受けたのに敵勢力の大軍相手に敢闘したなら十分評価に値すると思うが 兵が増えたというだけで必ずしも包囲網かけられたり攻撃されまくるというわけでもない >>大軍になればなったで将兵に油断が生まれる。 それは将兵に責任があるんだから武将の能力に反映せざるをえないね >>人の行うことだけに計算どおりにはなかなかいかないもの それはわかるが資料に出ていない限り不運な偶発的条件で負けたというのは妄想の域を出ないだろう 逆に寡兵の方は脱走・逃亡・寝返りがただでさえ少ない兵の中から出まくってたが勝ったという妄想も可能なわけで >>兵をそろえただけじゃ勝てんよ 即勝つ事にはつながらないだろうが圧倒的優位な状況が生まれる事には変わりない
787 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 18:53:17.81 ID:hwB+fchH
>>防衛戦と攻略戦の違いを無視してコピペして続けて 信雄が名将だったとしても小牧長久手時の秀吉の采配は余りにもひどい 小牧山なんて長久手戦時点では堀も柵もめぐらされていない無防備な陣営の上に 秀吉は犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東) これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には 芝のついた土手を築いて柵を付けている。 家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。 こんな条件から龍泉寺・大草・柏井など砦を築きながらまるできずいて下さいとばかりに無謀な中入りをさせ まんまと見破られ撃破され、しかも織田・徳川方の小幡方面への動きにきずきながらすぐに兵を出さず 出す頃にはすでに時遅しで逃げ帰られる始末。 その後の攻防においても戸木・松ノ木・蟹江・二重堀・浜田・河波・東駒野・長久保と各城郭攻防で敗戦・織田方に奪回される始末 戸木はまあ仕方ないにしても松ノ木・浜田・東駒野・河波なんて小規模な砦みたいなろくな防衛もない拠点なのになぜこんなとこもすぐ 陥落させられないのかわからん。そんなに高木や吉村や滝川雄利が名将なのか。 蟹江にしたって秀吉眼前で滝川が大チャンス作ってがんばったのに結局織田方が奪回。長久保も吉村が奪回。 こんな信雄家臣の小領主に苦戦してるようじゃいくら信雄が名将だったとしても擁護できまい
788 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 18:54:17.73 ID:hwB+fchH
>>歴史上寡兵で大軍を打ち破った戦いは、その兵卒を生かした戦いよりも >>むしろ個人の武勇や知略策略、あるいは地の利によって勝ったものが圧倒的に多い 地の利というのは確かに当たってるけどそれをうまく生かしたり戦術で敵をうまく釣り込んだりするのが名将の采配だな 個人の武勇なんぞが決めてとなって寡兵で大軍を破った戦いなんてあったっけ? 知略や策略はまあそうだろうが戦場で繰り出される両将の戦術は指揮官の指揮采配能力なんだから これは戦上手かどうかそのものといえる >>寡兵で切り抜ける力こそ、武勇や知略に還元すればいいという話。 なぜそうなるのか不明。個人的武勇なんて現実でもゲームでも戦場にたいした影響を及ぼさない物がなぜ 戦上手かどうかの問題にすりかわるのかって話だし知略も戦場では補助的意味しかゲームでは与えられていない 統率こそ戦闘での中心的能力なんだから戦闘に強い武将は統率ageが普通 >>百人単位千人単位の戦なら個の勇の影響力は高い 影響力があるだけで大軍を跳ね返せるわけがない >>特に日本じゃ千単位万単位で戦える所がそもそも少ないから 千単位万単位で戦った戦を上げていくと数限りないね。そんな戦でも両将の戦術力や指揮采配能力が 大きく物を言ったわけで、武勇なんぞハナクソくらいの影響しかない >>豪傑の類はもてはやされる そもそも講談くらいでしかないくないか? >>城攻めでもこの手の剛の者がいなくては力攻めひとつできなくなる そら強兵の方が有利だろうが一人豪の物がいた所で大軍で結束されて鑓で結束して攻撃されたり鉄砲で撃たれたら一溜まりもないわけで。 >>敵対国を圧倒する兵力を持たない限り、兵が増えても苦戦は耐えない。 兵が増える程っていうのは敵対勢力に比しての話ね。例えば信長でも斉藤戦信玄でも信濃侵攻家康でも三河平定や一向一揆戦が 敵対勢力に比して兵が余り多くなく最も苦戦が多かったといえる >>兵が増えれば増えたで、周辺国から警戒を受けて包囲網を受けることもある。 包囲網を受けたのに敵勢力の大軍相手に敢闘したなら十分評価に値すると思うが 兵が増えたというだけで必ずしも包囲網かけられたり攻撃されまくるというわけでもない >>大軍になればなったで将兵に油断が生まれる。 それは将兵に責任があるんだから武将の能力に反映せざるをえないね >>人の行うことだけに計算どおりにはなかなかいかないもの それはわかるが資料に出ていない限り不運な偶発的条件で負けたというのは妄想の域を出ないだろう 逆に寡兵の方は脱走・逃亡・寝返りがただでさえ少ない兵の中から出まくってたが勝ったという妄想も可能なわけで >>兵をそろえただけじゃ勝てんよ 即勝つ事にはつながらないだろうが圧倒的優位な状況が生まれる事には変わりない
789 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 18:55:03.56 ID:hwB+fchH
×織田に滅ぼされた ○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落と甲江同盟反故による騙まし討ち あんなもん完全にラッキーだっただけ 元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪 寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん いわば火事場泥棒みたいなもん 本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな 武田対織田の結果 上村合戦 武田の圧勝 東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属 三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走 長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面 ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず 柵も破られ9時間も戦われる始末 岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても 落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり 高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す 信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり 武田と織田比較 領土拡張率 武田>>>>織田(0倍) 戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害 武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略 負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝 直接交戦結果 上記の通り 天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。 武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に 作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ 吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。 甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる 天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り 山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
790 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 18:56:24.51 ID:hwB+fchH
政宗はガチで戦上手 北 大崎 葛西 最上 東 相馬 南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代 これだけガチで敵対して拡張した。 政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると 圧倒的に政宗のが上。 信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。 政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう 大連合を自力で突破した。 比較にすらなるまい。 自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長 これまでの考察で分かった事 氏康>>>>信長 政宗>>>>信長 本願寺、島津>>>>信長 家康>>>>信長 元親>>>>信長 信長が他大名の立場に生れていたら 信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える 元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える 義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死 政宗の場合関柴の戦いで討ち死に 氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死 義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死 宗麟の場合毛利元就に負けて敗死 元親の場合三好に負けて討ち死に 尾張だから助かっただけ
791 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 18:58:13.80 ID:hwB+fchH
天皇の威光と信玄の死で救われただけで 史実では武田や包囲網の軍勢に押されまくり滅ぼされ滅亡する事が確定だった信長 信長は防衛側。包囲網が攻勢側。よって信長は浅井朝倉武田などより遥かに戦下手。 家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから 瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請した 9/20信長が摂津から志賀に到着。 10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w 10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記) 11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記) 朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記) 三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。 信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。 10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。 大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により 奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記) 10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。 南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。 10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記) 三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w 10/22義昭側近上野信恵→草刈景継 因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが 新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される) によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は 京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。 備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。 青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に 本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。 11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記) 11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。 11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で 本意案の内と書いている(計画通りだ) 11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し 御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書) (朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している) 織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。 11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状) 11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や 郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。 (濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け 郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し) 美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。 顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」 景健宛「毎度勝利を得て珍重」 義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。 志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。 堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書) 堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書) この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが 正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。 12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。 12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。 伏見宮の記録によると 12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。 12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても 比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている) 12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。 12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。 12/16両軍帰国。
792 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 18:59:04.68 ID:hwB+fchH
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手 根拠1 遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の 天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが 信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと 恐れている 三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている 明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。 弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。 だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた 根拠2 長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差 の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功 (ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言) 根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し 勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態 何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで 武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ 一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍 信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
793 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 19:11:32.89 ID:Up45zI8u
>>大局的は信雄を攻略し家康を臣従させるという軍事目的を達しているわけだしな そもそもお前は一次資料を全く読んでいないのがミエミエ 戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は 天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため 単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく 11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく 翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の 三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている 秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない 兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた 天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、 秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす 11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている) 天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する 四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる 其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず 公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす 2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。 秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな 家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている 関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし 諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは 秀忠を疎んじていた証拠といえる
794 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 19:12:19.59 ID:Up45zI8u
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情 顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し 10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と 譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して 機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら 軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉 そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら 信雄が種種懇望してきたと書いてる 完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ 11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である 11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので 講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中 戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない 実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態 んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回 ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力 どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです 本当に(ry ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で 終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない 3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束 3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛 美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう 伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで 楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、 信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止 3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると 圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記) そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって 尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
795 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 19:13:34.70 ID:mc3iTdbg
自分の言葉で語れずコピペ投下ってダサいよな。 信長秀吉貶したいにしても、せめて自分の言葉を書けよ。
796 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 19:13:59.67 ID:Up45zI8u
金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w 元亀4年3/7 信長→幽斎 鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、 畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられ ない体で通路も同じ状況だと 完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www 元亀4年5/24 信長→池田恒興 恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は 6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww 3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。 天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。 これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。 この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し 3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
797 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 19:19:52.82 ID:Up45zI8u
>>防衛戦って守るほうが有利なんだから 防衛の拠点となる要衝の城や迎撃陣地が整ってるならともかく 小牧山なんて柵も堀もろくにめぐらされていない無防備な陣地だな(三河物語) 秀吉は犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東) これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には 芝のついた土手を築いて柵を付けている。 家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。 こんな条件から龍泉寺・大草・柏井など砦を築きながらまるできずいて下さいとばかりに無謀な中入りをさせ まんまと見破られ撃破され、しかも織田・徳川方の小幡方面への動きにきずきながらすぐに兵を出さず 出す頃にはすでに時遅しで逃げ帰られる始末。 しかも松ノ木も浜田も東駒野も河波も小規模な砦みたいなろくな防衛もない拠点。 おまけに松ノ木近辺の諸将は3月の秀吉書状や信雄→吉村書状で秀吉方に既に寝返っており 地の利も完全に秀吉にある 蟹江にしたって秀吉眼前で滝川が大チャンス作ってがんばったのに結局織田方が奪回。長久保も吉村が奪回。
798 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 19:21:12.16 ID:Up45zI8u
直接交戦の結果からわかってる情報を整理し確定している組み合わせを出して 能力評価する。 武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝 岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる 武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え 最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず) 姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田 よって武田>>>>>徳川>>>>織田 毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに 結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名 よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると 武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出 信玄>>>>>家康 三方が原 家康>>>>信長 姉川 謙信>>>>柴田 手取川 謙信>>信玄 川中島 家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決 柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳 滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防 北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐 織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防 北条氏直>>滝川 神流川 秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線 宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐 上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防 上杉景勝>北条氏直 天正壬午 仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる) 信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された) 島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって 数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、 豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない) にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ 武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も 出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> 圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津 >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく やられまくった毛利 これらを元に数値をつける 120 上杉謙信 110 武田信玄 100 徳川家康 97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家 96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝 95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就 94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益 93 立花道雪 北条氏直 相馬盛胤 92 織田信忠 91 島津家久 伊達政宗 90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高 酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴 20 羽柴秀吉
799 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 19:22:29.83 ID:Up45zI8u
姉川で織田より強い事が確定している西三河小領主から天下統一した最強家康でも 信玄に瞬殺され信玄より弱い勝頼相手に苦戦しまくったのが現実 寡兵で大軍秀吉に圧倒的に兵力比がモノをいう野戦で金森・前田らが撤退するまで 均衡を保った織田家最高峰の柴田なんか謙信に蹴散らされたばかりか謙信より弱い景勝を 内乱で自壊した隙をついて9倍もの圧倒的大軍&調略で火事場泥棒したのに越中中部で2年も足止め食らったのが史実 勝頼>>>家康 景勝>>>柴田 柴田>>>>>>秀吉 家康>>>信長 信玄>>勝頼 謙信>>景勝 これが客観的評価
800 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 19:25:22.43 ID:Up45zI8u
1546年 信長初陣。 今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。 後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。 1552年 信長家督継承。 素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、 やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて 抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。 守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。 1554年 村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。 1555年 叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。 信光は用済みとばかりに信長に殺される。 1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。 散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。 信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され 織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。 この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。 1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。 先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し 今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、 初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。 大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。 1560年 桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、 美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。 1561年 斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。 信長、これを見て美濃侵攻。 嵐を利用して森部で勝利。 しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。 織田一族信清の弟戦死して敗走。 軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる 1562年 14条で弟を死なせたからか信清離反。 尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。 1563年 新加納で斉藤勢に敗北。 1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。 東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。 堂々砦攻防戦。 砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。 1566年 足利義昭から上洛救援要請来る。 信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。 しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。 し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。 攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ 上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。 逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。 逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
801 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 19:26:00.06 ID:Up45zI8u
1567年楠・高岡城の攻略に失敗。 1568年 義昭を擁して上洛開始。 浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。 このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。 分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。 1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。 当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。 困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。 1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。 朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。 信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。 1570年 姉川の戦い。 従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。 しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には 朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。 実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。 野田福島の戦い。 数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が 織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。 坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ そのまま京都に侵攻される。 志賀の陣。 織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。 信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが 当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ 打つ手なくなる。 小木江攻防。 信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。 周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して 朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と 無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る 1571年 伊勢長島第一次。 信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。 撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。 比叡山大虐殺。 先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。 虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。 1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。 嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。 信長、横山城から美濃に帰還。 その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。 その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。 信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。 武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。 武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに 三方ヶ原におびき出され完敗。 戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。 徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。 1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。 1573年 武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。 焼き討ちを行って織田を挑発。 信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて 織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。 信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。 この状態で将軍義昭離反。 「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。 天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。 信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。 信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
802 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 19:27:02.89 ID:dQw5WgQh
ID変えんなアスぺ
803 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 19:27:11.43 ID:FOQ+P6bE
謙信なんか越中に数十年足止め食らってたし、 弱小畠山の七尾城を落とせなかった。 統率60くらい
804 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 19:29:35.24 ID:uFN2nOcW
やっぱりコピペ君は武田信玄のファンだったか 別に信玄を持ち上げたいならいくらでも持ち上げればいいと思うが まずこのスレではスレ違いであるし、それに・・・率直にいって厳しいと思うねw 伊達政宗は若年で強大な連合軍を相手にした、戦国が終わったということで持ち上げられないこともないが 武田信玄なぞ50越えて結局100万石いかなかった、多分伊達政宗より生涯領土少ないんじゃないかなw 「強敵に囲まれたから」と言っても織田信長を除けば皆自分より格下の領国だし 100万石ってはっきり言えば前田利家レベルだから、全国区の相手では話にならない。 ま、せいぜい頑張りたまえw
805 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 19:52:46.62 ID:Up45zI8u
信玄は最貧国甲斐から自国の2倍もある、山間の日本トップクラスの堅城の並んだ攻略の難しい信濃を 山之内上杉の大軍の援軍を大破し長尾の介入がある中切り取り 同じく山間部の攻略の難しい上野を上杉相手に切り取り 駿河も大国北条+今川と交戦&包囲網張られた中で逆転劇で切り取り撤退戦で北条撃破 織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップの佐久間を撃破 東美濃攻防や上村合戦では織田方3万の大軍を大破。三方が原では最強徳川軍と織田家トップ格の佐久間&滝川平手の 精鋭撃破し圧倒的な損害を与え徳川は重臣以下ほとんど戦死。平手戦死。滝川逃走。 ちなみに信長より遥かに戦上手な家康でも信玄はおろか勝頼にも苦戦
806 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 20:35:22.24 ID:FOQ+P6bE
信玄だって調略が主体でしょ。 家来にやる褒美を捻出するのにくろうしたそうだ。 武田は主従というより同盟集団だ。
807 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 20:44:39.26 ID:s/8V9VkR
茶道具ごときに価値を付けた信長は大したもんだな
808 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 20:50:07.15 ID:aYqH8AFQ
実績からいって 天下とった信長秀吉の統率120と110 三好長慶99 毛利97 家康 90 100万石レベルの前田利家 武田信玄 上杉謙信は統率80
809 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 20:56:21.58 ID:uFN2nOcW
3位は普通に家康でいい
810 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:05:03.29 ID:Up45zI8u
領土拡張率0の信長は能力0が妥当 信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め 織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、 織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。 他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。 それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。 ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は 北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。 多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。 そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。 津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。 天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、 原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、 多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。 大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。 天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され 伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、 織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。 これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。 本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは 信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい 織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。 つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、 12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。 しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。 そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw 信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。 しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後 たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www) 家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w 斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www 信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり 興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから 織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。 本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍 柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、 利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに 無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。 明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。 前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし 天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、 利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」 って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
811 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:05:46.62 ID:Up45zI8u
講談ではなく史実を元にした評価 天下人の家臣団 政治 統率 知略 家康 110 114 108 本多 77 105 80 酒井 87 95 93 井伊 85 94 93 榊原 50 94 70 大久保 47 83 76 氏康 120 105 108 氏政 96 83 84 政宗 107 97 96 盛氏 86 99 95 元就 96 107 120 小笠原 73 78 60 依田 47 82 86 大須賀 58 82 64 天下人を苦しめた武田家臣団 信玄 97 110 96 馬場 80 93 79 山県 70 99 74 香坂 78 96 85 内藤 79 88 85 秋山 58 85 83 仁科 60 88 69 そのライバル上杉 謙信 87 120 76 景勝 83 100 86 本庄 70 99 59 斉藤 82 93 85 柿崎 30 97 12 須田 78 82 85 山浦 50 86 70 天下人の踏み台にされた雑魚共 政治 統率 知略 信長(笑) 90 71 86 秀吉(大 爆 笑)89 13 89 光秀 85 79 80 滝川 70 77 83 柴田 60 83 52 贔屓目にみてもこんなもん 他の連中はこれ以下のカス 織田厨の大好きな 信忠(笑) 50 28 30 蒲生(笑) 60 55 68 丹羽(笑) 70 15 67 カス武将の集まり織田軍
812 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:07:01.51 ID:Up45zI8u
武田対織田の結果 上村合戦 武田の圧勝 東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属 三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走 長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面 ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず 柵も破られ9時間も戦われる始末 岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても 落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり 高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す 信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり 天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。 武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に 作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ 吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。 甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる 天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り 山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死 武田と織田比較 領土拡張率 武田>>>>織田(0倍) 戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害 武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略 負けほとんどなし。小田井原では山之内上杉の大軍撃破 大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝 直接交戦結果 前述の通り
813 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:07:47.23 ID:Up45zI8u
江戸期の妄言で織田が持ち上げられるようになった 例:森部、稲生、天王寺の講談、信康事件、織田鉄砲隊の破壊力、鉄鋼船の活躍 信長公記の講談捏造や信長記甫庵信長記などの妄想軍記が真しやかに信じられるようになったのは 天下人家康が力を貸し、一時とはいえ家康より優位に立っていたという事実から誇大に拡張的に 織田信者や織田子孫の妄言により事実が捏造されて信じられるようになったのである 逆に徳川家康は腹黒い天下を盗んだ悪党のように言われるようになった 大久保の三河物語を始め武功派連中は吏僚優遇の徳川の仕打ちに不満を抱き、 徳川は悪者、不義者として仕立て上げた。 しかし史実では家康は西三河小領主として独立後、吉良、今川、の大軍と戦いながら 一向宗をうまく封じ込め、圧倒的強さを誇る武田の猛攻に耐え忍び、織田の畿内平定戦にも大変尽力したにもかかわらず 織田からは中々援軍が来ず非常に役に立たない同盟者として苦労していた。 事績からいえば織田より三好の方が遥に上 史実で圧倒的国力の織田家を崩壊させただけ 北条や大友、伊達、長衆我部にも劣る事績しかないのが織田 信長が家康の立場で生れていたら吉良や今川氏真の大軍に瞬殺されてたのは間違いない 周りにカスしかいない立地で助かったな
814 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:08:40.89 ID:Up45zI8u
信長は大版図なんて築いていない。圧倒的国力の弾正忠家継ぎながら敗戦を繰り返し、織田家を滅亡させただけ。 誰か人物の歴史を語る場合最初から最期で語るのが当たり前。都合の悪い最後の部分だけ特別にするのは間違い。 徳川家康は西三河の小領主として独立して以来吉良・今川の大軍と戦い、野戦でも大軍相手に勝ち、 譜代衆が多く敵方に離反した三河一向一揆も自力で封じ込め、西三河東三河奥三河遠江と自力で切り取り 圧倒的戦闘力を誇る武田の侵攻に耐える一方で信長の上洛戦、姉川(浅井側史料と三河物語はじめとする徳川側史料で織田の苦戦と徳川の奮戦は共通している) 、滋賀の陣、金ヶ崎の撤退戦、岩村攻囲戦、長島侵攻戦など要所要所で援軍を向け 信長の畿内平定戦に大きく貢献。一方信長はというと圧倒的国力を持ちながら武田に対してビビリまくり 援軍全然おくらず家康を失望させまくる始末。家康は長篠の時はかなりギリギリの所で次援軍が来ないと織田から離反する所まで追い詰められていた。 信長が畿内平定できたのなんてほとんど家康のおかげ。家康がいなけりゃ武田に瞬殺されてたのは圧倒的戦闘力の劣る信長軍団の戦歴みれば一目瞭然 何せ斉藤浅井朝倉六角波多野赤井本願寺武田上杉毛利長島一揆北畠どこと戦っても圧倒的大軍で寡兵の敵に大敗・苦戦・大損害ばかり 家康は本能寺後も北条の大軍や秀吉の大軍相手に大敢闘 ちなみに秀吉軍は統制とれていないのが敗因ではなく秀吉の講じた三河侵攻大作戦があまりにも戦術的にゴミすぎて 敵に向けて無謀な行軍をさせてしまい、元々領国基盤がガタガタで結束力が非常に弱い信雄の領国(3月の家臣誅殺がその表れ) やその軍団に7倍もの圧倒的兵力比でもって大敗するという歴史的にみる醜態を演じる (池田らが秀吉の命令に忠実に動いていたのは敗戦二日後の木曾あて書状や敗戦前日の丹羽長秀宛書状で一目瞭然) 長久手の戦い後もわずか手勢8000+権力基盤ガタガタで離反ばかりの信雄家臣団でもって 松ノ木、奥、長久保、戸木、蟹江、木造などで秀吉軍を散々翻弄し、ついに圧倒的国力&兵力差で1年一杯使って 秀吉に尾張半国すら切り取らせない奮戦ぶり。結局和議を申し入れたのも秀吉 (しかもその条件は信雄に北伊勢と尾張の支配を引き続き認めるという破格の条件) さらに秀吉との84年の攻防後、85年には小笠原石川水野木曾真田が秀吉に帰属し 家康の信濃支配は諏訪伊那佐久のわずか3郡まで減る。譜代衆の出奔&軍事機密が露見し めちゃくちゃな国力差と圧倒的に不利な状況でもって秀吉の軍門に降らず、ついには母と妹を人質に奪い 北条征伐のちは関東240万石の大国主として抜擢されるほどの政治的勝利 関が原では地形的に不利&家康本体30000も投入されていない段階でも西軍相手に圧倒的優勢 (小早川の裏切りで勝ったというのは嘘。西軍島津の記録では小早川裏切り前から東軍が押していた) 10万もの圧倒的大軍の西軍を一日で壊滅させ信長や秀吉が大苦戦した畿内や美濃を瞬殺 大阪の陣でもあれだけの大規模会戦&堅固な城にもかかわらず短期間で終結 信長や秀吉みたいにダラダラ戦い続けない所が家康の凄さを象徴している
815 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:09:54.11 ID:Up45zI8u
信長が他大名の立場に生れていたら 信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える 元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える 義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死 政宗の場合関柴の戦いで討ち死に 氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死 義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死 宗麟の場合毛利元就に負けて敗死 元親の場合三好に負けて討ち死に 尾張だから助かっただけ 信長なんて家康がいたから助かっただけ 今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。 姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ 三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍 家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない 家康が義理堅いから信長は助かっただけ 何回武田に攻められて援軍要請出しても援軍よこさない 徳川は織田のために援軍出しまくってるのに こんな役に立たない同盟者普通なら見捨てるだろうに 織田が畿内平定できたのは全て家康の功績 他大名が信長の立場で生れていたら 家康 史実どおり畿内美濃を瞬殺 島津 史実どおり寡兵でも大軍撃破 氏康 史実どおり寡兵で大軍撃破&政略を利用して領土拡大 信玄 史実どおり負けをほとんどせず畿内や美濃の雑魚を瞬殺 元就 史実どおり謀略を駆使して分裂状態の斉藤や畿内を併合 元親 史実どおり小勢力でも他大勢力を戦に打ち勝ち併呑 信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら 信長は武田どころか今川氏真に瞬殺され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬殺していたのは間違いない 何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど 敵がアホすぎてなんとかなっただけ 一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬殺したしな
816 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:10:30.72 ID:Up45zI8u
領土拡張率ランキング 家督相続年 相続時勢力圏 最終勢力圏 勢力拡大率 1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞ 北条早雲 1460 0 万石 25万石 ∞ 3徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍 4最上義光 1533年 1万石 54万石 54倍 5津軽為信 1540年 0,7万石 24万石 34倍 6葦名盛氏 1532年? 2万石 60万石 30倍 7伊達政宗 1585年 15万石 180万石 13倍 8武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍 9上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍 10毛利元就 1526 10万石 60万石 6倍 11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍 最下位 織田信長 30万石 0 0倍 ちなみに領土拡張スピードなら 短期間で包囲網打ち破った伊達政宗>>>>>>雑魚信長
817 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:11:45.61 ID:Up45zI8u
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは 武田優位は揺るいでないから 信長は結局、 信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。 遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の 天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが 信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと 恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに 信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを 信長は引きずっているのがわかる。 元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが 無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。 同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが 調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが 5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。 5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし 家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより 長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために 勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。 そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。 つまり信長は火薬到着待ちをしていたので 勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。 13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。 連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に 作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ 吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。 公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている) 本願寺への義理も充分に果たしたし ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。 そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が 勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。 しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。 武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。 長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。 勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに 撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった 武田侵攻のときといい、勝頼にビビリまくりなのが信長
818 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:12:21.30 ID:uFN2nOcW
コピペ君も頑張るね
819 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:13:15.39 ID:Up45zI8u
包囲網勢にぼこられっぱなしの信長w 大雪で道が封鎖され補給が途絶すると言うなら そもそも浅井はとっくに降伏してるはず。 しかし実際には湖北十ヶ寺によって支援され 本願寺によって北陸門徒も兵糧を運んできたり 比叡山も援助していて兵糧に困ってないし、 武田が郡上八幡経由で浅井に書状を出していたり 朝倉から本願寺に書状を出しているなど 自由往来が可能だった。 織田による包囲封鎖なんて実際には大げさに誇張してるだけ。 姉川の戦いののちも浅井・朝倉はむちゃくちゃ勢いがあって 9/20森可成や織田信治や青地茂綱らを討ったあと、 宇佐山城の守りが固く、そちらからの入京に時間を浪費すると喝破した浅井朝倉は即日、転進して大津を放火し 9/21山科醍醐方面から進軍する迅速な判断力は褒められる。 (24日には信長が下坂本に着陣してる) そして24日には京の前面である浅井は比叡山青山、朝倉は青山南の壷笠山に陣を敷いた。 その上で京を戦乱に巻き込まないように京を大回りして (先鋒は入京していたが賀茂別雷神社・離宮八幡宮・知恩院・東寺らに禁制を給して迂回) 長政隊は丹波から嵯峨へ進軍して織田軍後方をかき乱す遊撃を開始してる。 10/20山崎の本願寺が御牧城を攻め取り、 それに呼応した比叡山の浅井・朝倉軍が出撃し、 織田方に組する左京区にあたる織田軍と(義昭奉公衆との説あり) 交戦しつつ修学寺・一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎などをピンポイント放火してるし、 (義景は元亀2年7/4に六角軍が入京するにあたり、 義賢に洛中を放火しないように書状を送っている) 22日には大坂本願寺が畠山昭高の高屋城を攻め、 若狭武田も織田から離反して武藤や粟谷と挙兵してる。 信長は完全に無策で、家康に援軍派遣の哀願をするしかなかった。 家康は信長に江南を我が物顔で暴れている一揆と六角勢が、 瀬田と草津の間を封鎖するのを防いで退路を維持する役目を負わされた。 信長はというと11/21朝倉軍は坂井政尚と安藤守就の子を討死させ、 同日には伊勢長島でも織田信興が討死と全戦線が崩壊。 11/28朝廷から関白二条晴良が信長の和睦懇願を受けて坂本へきた。 織田の敗北は間違いないんだよな。
820 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:15:40.99 ID:s/8V9VkR
領土拡張率ランキングだけは勘弁してくれ 毎回吹いてしまうw
821 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:22:20.38 ID:uFN2nOcW
なぜか草履取りから天下人になった秀吉がいないんだよね
822 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:50:21.55 ID:+d3eAOFS
オワコンの2chのオワコンの信長の野望のオワコンのスレでコピペ連投という古臭い荒らしを見られる化石のようなスレ。
823 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:51:59.37 ID:QdlCx//s
幼君斎藤龍興に信長は苦しめられまくったが 美濃の不景気で助かったようだな。 森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を 美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。 頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は 内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城 城内で内通が出て開城が犬山城 と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは 東美濃の国人達が経済的に没落していて 戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と 農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに 武士階級も収入が無かったと主張してる。 その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし 近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。 そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして 斉藤家は落ちぶれてしまったから かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。 龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。 龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。 龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。 龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。 龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。 8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。 龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。 義龍の死の混乱に乗じてわすか 二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。 しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し 稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。 結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、 斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。 六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく 浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状) その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状) これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して 美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし 元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い 近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。 この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。 このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
824 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:53:04.04 ID:QdlCx//s
信長は大河内城2ヶ月大包囲で 将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎 丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら 高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり 藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。 (大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で 落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの) 信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒) 信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。 追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。 伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから 織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。 六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく 浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状) その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状) これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して 美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし 元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い 近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。 この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。 このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。 信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに 信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。 元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ (天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる) 岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。 2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、 3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。 (ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる) その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw 3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし 京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
825 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:54:20.00 ID:QdlCx//s
天正2年正月の公記 朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。 史実の信長は? 義昭→六角義賢書状 信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw そして越前が一向宗に奪われ、 勝頼に岩村城を奪われ 織田の攻勢期は半年持たず… さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、 石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、 義賢書状では、信楽表で大勝利し感状まで出してる。 当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、土岐氏に配慮する六角義賢が、 同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、斎藤は南下なんて考えてない。 義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、 改革を押し進めていたから、 尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、 宗教統制を改革中に急死。 信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら 信長は武田どころか今川氏真に瞬殺され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬殺していたのは間違いない 何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど 敵がアホすぎてなんとかなっただけ 一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬殺したしな 信長なんて家康がいたから助かっただけ 今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。 姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ 三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍 家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない 信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。 つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。 ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、 信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。 それで11月には岩村城が武田に取り返され、 11/9にはその戦功として 信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。 信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、 加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。 あきらかに武田方が11月中にはすでに、 加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、 信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。 そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。 東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
826 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:55:09.81 ID:QdlCx//s
残念だけど信玄死後も長篠の敗戦までは 武田優位は揺るいでないから 信長は結局、 信玄に屈辱を味わったまま死んだ事実か変わらないんだ。 遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の 天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが 信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと 恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに 信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを 信長は引きずっているのがわかる。 元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが 無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。 同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが 調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが 5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。 5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし 家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築している信長のヘタレぶりにより 長篠城落城の危機に焦り5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために 勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦で織田徳川3万との戦が起こってる。 そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。 つまり信長は火薬到着待ちをしていたので 勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。 13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。 連戦連勝の圧倒ぶりを誇る武田軍は足助城・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に 作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ 吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。 公記によるとたった15000で出陣して(実数は六千から一万と言われている) 本願寺への義理も充分に果たしたし ここまでの破竹の勢いでの戦果で満足して帰国すべきだった。 そもそも岡崎城主信康家臣で岡崎町奉行を務めていた大岡弥四郎が 勝頼に通謀し足助城から岡崎に武田軍を招きいれようとしたので奥三河へ勝頼が出てきてる。 しかし発覚してしまい岡崎突入を断念し、ニ連木城・長篠城方面に転進したとされる。 武田の軍事計画が狂ってしまった以上は長居は無用だった。 長篠城攻撃はとりあえず予定を変えたレベルの思いつき。 勝頼は戦略的な方針計画が大きく変更になっているのに 撤退せずに泥縄的に軍事行動を続ける過信による誤判断が大敗につながった。
827 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:55:44.65 ID:QdlCx//s
信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を 信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。 多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。 これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して 本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。 勝頼がいくら信長が戦下手だからって ナメ過ぎてたった15000で勝てると増長してたのが武田滅亡スイッチだし 武田が3万くらい動員して9時間に渡り攻勢に出てたら織田なんて踏み潰してた。 鉄砲三段なんて捏造話を作って圧倒しましたイメージを必死に創造してたようだけど。 まあ手取川でエア大敗したほどの弱織田軍だしねぇ。 しかも丹波の一国人の赤井直正にまで大敗したのが織田軍。 義龍や信玄や謙信や元就や直正が死んで超ラッキーだったよね。 遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の 天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが 信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと 恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに 信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを 信長は引きずっているのがわかる。 明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。 弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。 だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられたわけだしな。 長篠では甲州兵の勇敢さを恐怖を骨の髄まで味わったんだろうな。 織田が圧倒的兵力になったのは 包囲していた本願寺が天皇の和睦を受け入れた天正8年8月以降。 それでも紀伊の高野山が織田に抵抗していて 織田は攻めあぐんでいる。結局、高野山は本能寺の変まで 山内に織田軍の進入を許さず凌ぎきってしまった。
828 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:56:21.43 ID:QdlCx//s
天正7年初頭にも勝頼が毛利と荒木と本願寺を救うために 織田戦力を分散するために家康攻めで出陣OK返事出してんだよな。 その時に輝元が宗麟に足を引っ張られたごときで 武田との約束を破り正月16日出陣を無期延期にしやがったから 合同作戦じゃなくなって武田単独で 景虎自刃した3/24を過ぎてからの 4月より遠江高天神・国安(掛川市)を荒らしてて 信長も急いで摂津戦線から安土へ帰国してる。 いそぎ本願寺や荒木もこのチャンスに出撃せよと毛利に要求するが まったくのヘタレぶりを露呈したために、 これを見た宇喜多・南条らも毛利を見限り、 天正8年になると荒木が破れ、本願寺も朝廷の勅令和睦を飲んでしまい 武田と毛利の滅亡が確定した。 しかし本能寺の変のおかげで毛利は滅亡を免れた。 結局、毛利がありえないくらいヘタレだから 織田を討つチャンスを何度も自らぶっ壊してる。 ちなみに8月末に厩橋北条高広が北条から武田へ服属先を変えたことをきっかけに 9/5北条と徳川が同盟したことを受けて武田内通の罪で信康が9/15に自害させられてる。 武田は佐竹らと同盟して北条を圧倒。伊豆浦でも武田水軍は北条水軍を圧倒し連戦連勝。 氏政は「このままでは北条は滅亡に向かう」 「上州は武田のものになってしまう」などと武田を恐れまくる。 しかし同時期に石山本願寺が勅命和睦命令の連投に恐れ多いと受託してしまう。 それでも天正9年末まで北条を圧倒し続け伊豆まで攻め込み里見氏も同盟参加。 徳川も高天神城をやっとの思いでなんとか攻略できたが、そこまででしかなかった。 所詮、家康は穴山とどっこいどっこい程度の実力しか無い。 天正10年の織田の攻撃のタイミングが浅間山噴火とシンクロして武田が崩壊しただけ。 元亀4年の信玄西上の時の織田は金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが 無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。 同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが 調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが 5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。 5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし 家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築して長篠城落城の危機に焦り 5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために 勝頼の攻勢を生み出し、さっそく5/21に長篠の合戦が起こってる。そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。 つまり信長は火薬到着待ちをしていたので勝頼は19日までに信長を攻撃してれば勝てた。13日に出馬し、14日に岡崎に信長は到着してた。 付け加えるとして5/15書状の内容から鉄炮放と玉薬の調達の報告だとわかるんだが、 鉄炮放とは砲手を意味しており、実際には細川が玉薬と鉄砲の使い手を雇っていることを意味してる。 これは5/17付多聞院日記にも伝聞内容のためにタイムラグがあるものの信長の命令で筒井が鉄砲衆50名を派遣と記しており 細川や筒井らが堺あたりから鉄砲衆を雇い入れて派兵してると思われる。 それを佐々や前田や塙らに配分して率いさせたと考えられる。 (当時の武士は鉄砲を扱わず百姓・足軽・雑兵のような身分に使わせてる) また6/13付けの信長から上杉への書状において兵糧の調達が不充分なので 織田軍は撤退したとも述べていて、対陣長期化も織田軍は望んでいなかった。 武田が対陣を続けていたら、織田は長篠城を見放して和議を結ぼうとしただろう。 8/13には秀吉が兵糧を調達していて、信長はそれを小谷城で受け取って 越前一向一揆を討伐に向かっており、 数万人規模の老若男女の区別ない越前一円での大虐殺大会と大略奪を開始し9/26に帰還する。 10月初頭には石山本願寺が織田と和睦しようとするが、 信長がホントかどうかわからんからしばらく様子を見てから朱印を与えてやるとか余裕をぶっこくが 翌年1月に吉川に支援を願っていた赤井氏に呼応した波多野氏との挟撃で 明智軍が大敗北&摂津でも石山本願寺に織田軍がダブル敗北を喰らうw
829 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 21:57:09.68 ID:QdlCx//s
公記が六角義賢の弟の六角義弼や 六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、 江戸時代中期に、 六角本家を主張し合う子達が争った際に、 一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。 義弼なんて義治と同一人物にされてるし。 濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに 義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け 結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が 斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし 本願寺は信長に贈り物攻勢してる。 11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど (ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先) 信長上洛成功はお膳立てされてのこと。 さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。 おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。 しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。 しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから 援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。 (上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた) 9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。 結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に 義治は敗走して上洛成功しただけ。 信長の戦下手は神レベルだよな。
830 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 22:33:17.21 ID:I126lqMh
QdlCx//s
831 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 22:50:27.32 ID:QdlCx//s
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw 織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし 織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して 美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。 信長は完全にチートスタートだ。 津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた 吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。 1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。 3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。 田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀 超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。 信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。 信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。 信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。 一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており 三河でも水野を防波堤となし 将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。 義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き 是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。 尾張より国力の小さい美濃攻略に11年 その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長 甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。 斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。 村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。 そんだけ信長が戦下手だという証拠。 そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って 戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。 経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。 領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。 むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで 執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
832 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 22:51:08.66 ID:QdlCx//s
金ヶ崎の時は 敦賀郡司朝倉景恒と対立していた 大野郡司朝倉景鏡が援軍を送らず失脚狙いだったから 織田の奇襲が成功しただけだし、 姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは 徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。 織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。 姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから 織田が横山城を奪取できたんだし、 再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、 比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。 そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には 進出意思がまったく感じられないのであり 横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。 それを欲したのは小身の浅井でしかない。 さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く 志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。 信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ 織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのは それ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。 10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し 織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。 また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。 織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。 信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、 家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから 瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。 11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。 これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、 11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと 必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。 これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が 正しいことを証明している。 三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。 耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、 坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない 織田軍の苦戦を物語る根拠として 浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、 字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。 こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、 その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ 信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。 遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。 姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、 織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
833 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 22:52:29.12 ID:QdlCx//s
姉川で織田より強い事が確定している西三河小領主から天下統一した最強家康でも 信玄に瞬殺され信玄より弱い勝頼相手に苦戦しまくったのが現実 寡兵で大軍秀吉に圧倒的に兵力比がモノをいう野戦で金森・前田らが撤退するまで 均衡を保った織田家最高峰の柴田なんか謙信に蹴散らされたばかりか謙信より弱い景勝を 内乱で自壊した隙をついて9倍もの圧倒的大軍&調略で火事場泥棒したのに越中中部で2年も足止め食らったのが史実 勝頼>>>家康 景勝>>>柴田 柴田>>>>>>秀吉 家康>>>信長 信玄>>勝頼 謙信>>景勝 これが客観的評価 ×織田に滅ぼされた ○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落と甲江同盟反故による騙まし討ち あんなもん完全にラッキーだっただけ 元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪 寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無 今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん いわば火事場泥棒みたいなもん 本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな 武田対織田の結果 上村合戦 武田の圧勝 東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属 三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走 長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面 ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず 柵も破られ9時間も戦われる始末 岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても 落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり 高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す 信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
834 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 22:53:19.19 ID:QdlCx//s
信長公記は捏造軍記 ・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲 ・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽 ・熊見川も同様 ・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく それどころか一次資料では森のキ沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ ・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を 信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述 ↓ 多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。 これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して 本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。 ・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、 一次史料には一切書かれてないデタラメ ・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ 毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実 ・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて 本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に 山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように 高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。 なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw ・公記の天正8年3月、 ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw 早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化 ・一次史料だけを読むと 信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて 公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、 越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。 軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている ・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか 志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き 志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。 つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ ・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽 ・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない ・大した戦果のない姉川が大勝になってる。 ・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。 ・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の 「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる ・河野島の流れとか書いてない ・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた ・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで 「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い
835 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 22:57:51.88 ID:VbeGpUTs
現在472KBをお知らせします
836 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 23:13:09.48 ID:WBwKPls1
毎回毎回誰も見もしねえコピペをいちいちID変えて連投してくんのは恐れ入る メモ帳でフォルダ分けてあったりするんだろうか
837 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 23:15:22.50 ID:5TwkJ8zp
次スレまで長文レスを禁ず
838 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 23:38:25.03 ID:QdlCx//s
全く反論できない馬鹿織田厨が泣き喚いててワロタw
839 :
名無し曰く、 :2012/09/18(火) 23:48:58.41 ID:lCdkLwJW
パトラッシュ「わかったからクソしてネロ」
840 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 00:28:10.55 ID:ylXYXjG2
841 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 00:42:55.61 ID:Tq58kWMu
コピペ連投って内容自体違うんだから連投じゃねーよアホ しかも議論に関係ある事なのになぜ規制かける必要あるんだ馬鹿
842 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 00:46:04.95 ID:Li8yfvib
>>808 みたいに論拠書かない妄想駄文連投禁止とかをテンプレにすべきだろ
織田厨のレスなんてほとんど論破された内容&妄想願文しかないからほとんどのレスが規制対象になるぞ
843 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 00:51:12.66 ID:Li8yfvib
信長が上洛戦で主導的役割をもらい、上洛から畿内制圧がアホでもできるほど 簡単にできたのは朝廷の招聘による権威のおかげ。 永禄10年11月7日に顕如が信長が上洛しようとするのを祝福して太刀を贈ってるし(顕如上人御書札案留) また同じ頃に朝廷からも上洛するようにと 同じ時期に勅使が来たと織田信長文書の研究の奥野高広氏が書いてる。 これ論文などでは「決勝綸旨」と書かれる歴史用語で 芝辻氏はこの永禄10年11月の決勝綸旨による朝廷認可の 正当性を機会に信長が「天下布武」の印を使い始めたと論じてる。 (ちなみに信長は無知かつ文才が無く、文書の格式や決まりをまったく知らず 書札礼が無視されていたり、書止め文言も一貫性がまったく無く 武家文書としても判物・印判状・書状の様式区分がまったく守られていないし 朱印・黒印の使い分けもまったくわからないなどまったく以ってデタラメ) 万里小路惟房も勅裁が下された上は信長も朝廷を早く馳走するのが肝要と言って上洛を促してるし。 急速に畿内に信長呼応勢力が大増加してる。 12/1には信長が興福寺に義昭の上洛に供奉する&松永久秀が信長に協力すると言ってるし 1/18には三好義継までが義昭と信長の上洛は成功すると詠んだ歌を多聞院が見てる。 3/11には大和国人の十市氏や篠原弾正や三好康長まで 義昭上洛側に組してるのを多聞院が3/14に書いてるし(三好康長らはのちに仲違いしたが) 4月にはさかんに和田を含め甲賀衆や蒲生郡の義昭擁立派と織田と連絡を取り合ってるし。 (蒲生郡には義昭を後援していた奉公衆が活動しており、義昭と共闘する信玄に蒲生が呼応する理由は存在する) 比叡山も荘園の奪回を期待して信長を後援してるし (しかし約束は果たされず元亀元年10/26正親町天皇が信長に荘園を延暦寺に返せと命じてるがやはり無視) 比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して 比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。 信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には 蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状 今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく 入洛を計画しているとのことを聞き及びました。 叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。 蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状 あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。 これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。 このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が 御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。 謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと 謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し 朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。 このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。
844 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 00:56:40.24 ID:Li8yfvib
織田厨は馬鹿
845 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 01:05:09.02 ID:Li8yfvib
武田軍は足助城を攻略しただけでなく 5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し先陣はすでに熱田まで進出してるし 4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、 その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?) 遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して 彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる) その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。 小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って (尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候 などと書いてる。 このことから当初案では毛利と呼応しての本願寺救援のための出陣計画だが 岡崎内応策が露見した後、作戦変更して 穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し 長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか? そのために長期対陣に備えて武田軍は(高柳光寿曰く)実数6000の兵しか連れてこなかった。 しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから 織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。 (熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった) そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、 武田軍が残り54000の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して(武田軍兵力6万は尋憲記) 郡上八幡の遠藤氏や安養寺や最勝寺の一揆軍の南下で北からも岐阜を圧迫し織田を引き付けつつ 尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として 各務原市〜岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。 長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。 しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、 織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの 徳川・滝川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し (一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない) 撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記) 義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。 三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し 尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。 長篠戦死者に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く 名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、 永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。 また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、 6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、 甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で 名の有る者の戦死者はまったくいない。 わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも 織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて 捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い。
846 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 01:33:27.58 ID:Nb6MMpYr
つまりここまでの流れをまとめると、 龍造寺隆信はもっと評価されてしかるべきということだな 武勇DOWN 智謀政治UPで頼む
847 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 02:15:51.46 ID:vIZ7Lajy
朝倉義景公と今川氏真は再評価すべきだな 両方とも政治系80以上 義景公は統率や指揮といった軍事系も70以上ないとおかしいわ
848 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 03:26:39.22 ID:ik3sM4T7
今川氏真や織田信雄は低能力でいいと思うけどね 無能君主を補佐して、チート武田&織田軍団や主家簒奪の秀吉軍団を倒すのが面白い
849 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 05:47:04.10 ID:x5XhhHb2
>>808 じゃあなんで天下取った家康が長慶元就より低いんだよ
850 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 07:24:31.88 ID:AyLnmh/n
家康は天下が平定した後に、内部抗争で勝っただけだもの
851 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 07:58:38.95 ID:Li8yfvib
>>833 武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>812 >>845 信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
こんなもんだろ
852 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 10:11:04.84 ID:f+Y3NwXe
徳川家康 統率120武勇88知略120政治120 本多正信 統率62武勇30知略106政治88 本多忠勝 統率103武勇99知略74政治41 金地院崇伝 統率2武勇5知略98政治104 榊原康政 統率99武勇78知略76政治65 井伊直政 統率96武勇86知略81政治70 淀君 統率8武勇2知略4政治6 豊臣秀頼 統率2武勇15知略8政治1 石田三成 統率21武勇12知略33政治46
853 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 12:01:57.95 ID:4r7UVSas
誰か、コピペ連投のやつ用のスレを立ててやってくれよ。
854 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 12:18:03.57 ID:BXLeZWGC
855 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 12:31:36.25 ID:9uX2pBr+
>>852 そんな正信、康政を寄せ付けなかった昌幸最強ってことでよろしいか?
856 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 13:08:47.45 ID:yrsFIqNy
>>847 このスレなんかでもそうだけど近年朝倉義景に対する評価が上がりつつある
それらはおそらく織田家に対する意外なほどの健闘、一時的な事象ではあるが
南加賀・若狭国への領地拡大、一乗谷文化・経済の繁栄に対する評価上げ等…
だがこれらの功績自体が知られるようにはなってきても
中身は一体どのようなものであったのかという事は殆ど知られていない
ちょっと詳しく書いてみるのでこのスレの人達にも数字が適正なものなのかどうか判断して欲しい
857 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 13:09:31.96 ID:yrsFIqNy
@初陣の南加賀奪取における義景が果たした役割について ・自身自らの出陣を決断したのが軍勢の越前出立数日前という慌ただしさだった為 事前に協議を重ねられていた軍略会議にはほぼ出席出来ていない ・手取川を越えて現在の野々市市周辺にまで連戦連勝で奥深く攻め込んではいるが 城を囲む役割は山崎吉家隊、近隣の村々に放火して回るのが景隆隊・景鏡隊で 義景本陣は戦場を目視出来ないぐらい後方の安全地帯で越前・加賀中から かき集めた高僧達が読経する中で鎮座して戦況報告を受けるのみであった事 ・この戦における本願寺の総大将は今までのような歴戦の坊官ではなく 雑賀庄から加賀へ派遣されていた坪坂氏という国人で、この人物は主に 金銭・兵糧の調達を中心に行ってきた人物で戦に関しては実績のない人物であった ・南加賀を統治するにあたって在地の国人勢力の再蜂起を恐れた為 石高の半分を加賀国人連合に分け与える取り付けを行っており 能美郡8万石と江沼郡12万石の計20万石のうちの半分を享受出来ただけ(しかも統治期間はわずか3年半のみ)
858 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 13:10:15.56 ID:yrsFIqNy
A若狭国奪取とその顛末について ・義景が武田家当主元明を拉致した際に動員された朝倉軍の兵数は約3千といわれており しかも殆どそれに対して抵抗らしい抵抗も起こっておらず実質的な戦自体は発生していない ・朝倉家が若狭を統治し始めた1ヶ月後に義昭が織田軍に奉じられて上洛、若狭国は将軍家直轄領の為に せっかく手に入れた若狭国の統治権を直ぐに足利幕府へと返納する羽目になってしまい各種収穫はおろか 若狭国人衆を懐柔する期間さえ殆どなく、若狭侵攻自体が若狭武田旧臣からの支持を得られなかった
859 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 13:11:22.44 ID:yrsFIqNy
B越前・一乗谷文化、経済の発展に対する義景の功績について ・一乗谷から発信された書状や越前国内の史跡に記された日時を調べると大きな2つの波があるとされている 一つは3代貞景の壮年期であり、もう一つは4代宗淳孝景の最晩年期から5代義景の最初期にかけての2つである 初代英林孝景と2代氏景が国内に残る反朝倉勢力との戦いに終始する中で国内情勢が安定してきた時の当主 3代、4代の時代に一乗谷周辺が大いに発展していった事が解明されている 4代宗淳孝景は急死であった為、義景の当主着任最初期は一族の重鎮朝倉宗滴が政治も差配していた ・義景の時代において前当主の功績とは全く被らない商業的成功としては越前海岸から越前府中に通じる 西街道と呼ばれている街道の長期拡張工事と再整備がもたらした府中経済の発展 ・衣服・薬剤販売を手掛け越前を代表する商家であった橘屋に新たに酒売買の特権を与えて豪商へと育てた
860 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 13:12:15.03 ID:yrsFIqNy
以上、織田家との絡み以外の部分であまり知られていないであろう義景の事跡の数々… こういった部分を踏まえたうえでこのスレの人達の義景評価を聞かせて欲しい
861 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 16:07:47.91 ID:cKzCRS3G
アンカーすら使いこなせない 毎回無駄な長文レスしている人間の 秀吉の統率が13とかの意見に 説得力があると思ってるのかね? つーかあちこちで徳川マンセー豊臣アンチしまくってるのこいつだな? 家康が幸村にボコられたとかのとかどうカウントしてるんだ?
862 :
_ :2012/09/19(水) 16:11:50.04 ID:7QLHBtQY
そんな朝倉家もゲーム内では 一向一揆に国内を荒らされ シリーズによっては完全に一向一揆で詰むという有様w
863 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 16:27:19.85 ID:4T3OWwQT
所詮キャラゲーだもんね。浅井が朝倉や六角より強いのがゲームじゃ普通だし
864 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 16:56:14.33 ID:BXLeZWGC
半月で織田に滅亡させられた六角な 定頼の頃はよかったけど 義賢がな
865 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 17:53:04.69 ID:5fhbrkhP
でも織田vs六角は速攻でなければ長期抵抗されてた可能性も高いよ 半月で潰せたのは六角の当時のシステムでは織田のあまりの速攻に対応できなかったからだし 半月で滅ぼされたというが半月以上時間かけてたら潰すのにかなり時間かかることになってた
866 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 17:53:41.38 ID:ylXYXjG2
>>841 コピペ連投がなぜ規制されるか知らんらしいなw
もともと関係のない内容を声高に叫ぶことで、スレを阻害させようとする連中がいたから規制された
「俺は暴言も中傷もしてないからいてもいいよな?」なんていう掲示板のルールを逆手に取った荒らしが流行ったため
このスレではもともと厳密な定義はされていなかったが、
100スレ目にしてついに織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、上杉謙信、佐竹義重以下6名が
「スレ違い」かつ「話題にするのは荒らし同等の行為」だと認められた。
にも拘らず三傑や信玄のコピペ爆撃するのは反省、謝罪の余地なしとみていい
これからはコピペ爆撃したい奴が1人でスレを立てて、1人でスレを伸ばせばいいだけの事
http://jbbs.livedoor.jp/game/55125/ コピペ爆撃が酷いので次スレはしたらばです
867 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 17:57:53.99 ID:ylXYXjG2
大体言い訳が見苦しすぎ 織田を推す奴だってー、でも秀吉マンセーしてる奴だってー、 はぁ?www 他の奴が守ってないからといって守らなくてもいいなんて完全に犯罪者思考だなw 秀吉嫌いといいホンマモンのあちらの国の人なんてオチはやめてくれよ?w 伊達だろうが島津だろうが織田だろうが毛利だろうが徳川だろうが羽柴だろうが 同じ内容を何度も叫んで、意見に違える人間は人格否定 そんな基地外丸出しの行為がいつまでも黙認されていると思ったら大間違い たまたま今回は基地外コピペ爆撃の奴が武田好きだったというだけ
868 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 18:59:06.76 ID:Li8yfvib
武田軍団は過小武将だらけだからな 織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし 三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし 信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし 信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長 こんなもんだろ
869 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 19:01:49.07 ID:Li8yfvib
信玄にボロクズのように敗れ去った氏康でも光秀にぶち殺されて死んだ信長より遥かに有能だろうな 包囲網張られた絶望的状況から両上杉や古河公方の8万の大軍や今川らの包囲網退けて 見事関東に覇を唱える礎を作っているし河越野戦なんてそうそうできる業じゃないだろうし 氏康>>>>>信長
870 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 19:54:32.14 ID:Li8yfvib
871 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 20:05:24.73 ID:P/XnWMIQ
ID:Li8yfvibはリアルキチガイやな
872 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 21:37:06.01 ID:BXLeZWGC
アンチ秀吉=アンチ織田なの? コピペ爆撃してるやつ
873 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 22:19:46.15 ID:Li8yfvib
政宗はガチで戦上手 北 大崎 葛西 最上 東 相馬 南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代 これだけガチで敵対して拡張した。 政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると 圧倒的に政宗のが上。 信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。 政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう 大連合を自力で突破した。 比較にすらなるまい。 自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長
874 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 23:03:00.37 ID:JnopM7iX
伊達厨さんおひさ
875 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 23:03:45.79 ID:P/XnWMIQ
ID見ろよ
876 :
名無し曰く、 :2012/09/19(水) 23:36:43.94 ID:Li8yfvib
天正2年正月の公記 朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。 史実の信長は? 義昭→六角義賢書状 信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw そして越前が一向宗に奪われ、 勝頼に岩村城を奪われ 織田の攻勢期は半年持たず… さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、 石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、 義賢書状では、信楽表で大勝利し感状まで出してる。 当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、土岐氏に配慮する六角義賢が、 同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、斎藤は南下なんて考えてない。 義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、 改革を押し進めていたから、 尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、 宗教統制を改革中に急死。 信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら 信長は武田どころか今川氏真に瞬殺され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬殺していたのは間違いない 何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど 敵がアホすぎてなんとかなっただけ 一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬殺したしな 信長なんて家康がいたから助かっただけ 今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。 姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ 三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍 家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない 信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。 つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。 ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、 信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。 それで11月には岩村城が武田に取り返され、 11/9にはその戦功として 信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。 信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、 加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。 あきらかに武田方が11月中にはすでに、 加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、 信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。 そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。 東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
877 :
名無し曰く、 :2012/09/20(木) 02:21:00.17 ID:9m6Zy6Ts
878 :
名無し曰く、 :2012/09/20(木) 06:43:23.76 ID:luxelmiH
コピペ厨が必死に誘導中、日をまたいでもIDが変わらないのは天罰でも下ったんだろうw
1 :名無し曰く、:2012/09/19(水) 00:49:05.36 ID:Li8yfvib
論破された同一内容のレスの繰り返し・論拠を書かない妄想願文・自作自演禁止
三傑謙信玄佐竹は専用スレへお願いします
関連サイト
全国版から天道までの武将の能力値を羅網したサイト
火間虫入道 -信長の野望 蒐集者の庭-
http://hima.que.ne.jp/index.shtml DS2の武将能力はここで
879 :
名無し曰く、 :2012/09/20(木) 06:44:53.61 ID:luxelmiH
日はまたいでなかったな
880 :
名無し曰く、 :2012/09/20(木) 09:11:58.59 ID:XOYtNhrh
>>852 四天王亡き大坂の陣で
苦戦しまくった家康の統率は90以下でいいよ
>>873 先代までの遺領や家臣団などのスタートラインも加味して
元親以下でいいと思うが
881 :
名無し曰く、 :2012/09/20(木) 10:39:50.10 ID:n0tSewnv
政宗スタート時点では20万石程度しかないからな。しかも 北 大崎 葛西 最上 東 相馬 南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代 これだけガチで敵対して拡張したんだからめちゃくちゃ戦上手 家康はあれだけ大規な模城攻め&城攻めに必要な3倍の兵力もないにもかかわらず 短期間で大阪城瞬殺(大阪方はことごとくガチンコ戦闘で負けて戦死) しかも家康はヨボヨボ老人で実質的総大将は秀忠
882 :
名無し曰く、 :2012/09/20(木) 12:50:16.55 ID:ogpI0WvQ
>>880 大阪の陣(特に夏の陣)の幕府側の大将は秀忠じゃね?戦闘にかんして家康は督戦してただけって感じ。
883 :
名無し曰く、 :2012/09/20(木) 15:43:17.86 ID:n0tSewnv
当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw 強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。 しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく 信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し 飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。 信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。 信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。 しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。 しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。 また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。 しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。 信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。 (信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる) 後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。 地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
884 :
名無し曰く、 :2012/09/20(木) 17:18:50.77 ID:yjo79JmV
信玄持ち上げるために実績は奪われ失敗は押し付けられとことんこき下ろされる信虎さんかわいそうですまで読んだ
885 :
名無し曰く、 :2012/09/20(木) 18:09:46.72 ID:n0tSewnv
当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw 強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。 しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく 信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し 飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。 信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。 信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。 しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。 しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。 また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。 しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。 信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。 (信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる) 後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。 地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
886 :
名無し曰く、 :2012/09/20(木) 21:25:54.99 ID:XOYtNhrh
>>881 政宗は周りは敵と言っても実際には親戚ばかり
実力は秀吉の北条征伐のついでにまとめて潰されるようなレベル
葦名に至っては当主が暗殺されるようなお家騒動の中の統率53知略26が相手
奥州以外ではどうだったかというと
関ヶ原や大坂の陣でイマイチどころか
味方を撃ったり一揆を扇動していたりというんじゃな
長宗我部は国人スタートの上に相手は三好だし
やはり政治以外は元親以下で
>>882 幸村や勝永や明石や後藤・木村の残党相手に逃げまわったのは家康で
秀忠は持ちこたえているんで
887 :
名無し曰く、 :2012/09/20(木) 22:20:07.61 ID:n0tSewnv
政宗はスタート時点では20万石程度しかないからな。しかも 北 大崎 葛西 最上 東 相馬 南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代 これだけガチで敵対して拡張したんだからめちゃくちゃ戦上手 奥州は親戚同士でも血で血を洗うような泥沼の会戦ばかりなので(最上義光の父との相克や奥州全体を巻き込んだ天文の乱など) 血が繋がろうがどうだろうが関係ない 関が原の戦いの時も名将本庄繁長相手に一歩も引かず城をいくつか奪った。 家康はあれだけ大規な模城攻め&城攻めに必要な3倍の兵力もないにもかかわらず 短期間で大阪城瞬殺(大阪方はことごとくガチンコ戦闘で負けて戦死) しかも家康はヨボヨボ老人で実質的総大将は秀忠 家康が幸村相手に逃げ回ったというのは講談がメインソース。 実際の所はあれだけ大規模会戦&堅固な城なのに瞬殺同然
888 :
名無し曰く、 :2012/09/20(木) 22:52:22.38 ID:QxGtZJr1
884 悪い無知ですまんけど信虎の政治的実績ってあるの?
889 :
名無し曰く、 :2012/09/20(木) 23:58:24.62 ID:o7eAiJPc
俺も次スレはしたらばの掲示板で続行する事に賛成 長期間にわたってスレ進行妨害するレスに対しては速やかにアク禁&IP晒しで対処をしっかりしてくれるならばね そうやってちゃんと自治がされるなら俺も2ちゃんに書き込まれたまともな能力談義レスを したらば掲示板へ転載するの手伝ったりして向こうの掲示板が盛り上がるように協力するよ 昔みたいにまったり楽しく語りたいわ
890 :
名無し曰く、 :2012/09/21(金) 00:21:50.19 ID:KUiPrAeE
論拠書かない妄想駄文連投禁止とかをテンプレにすべきだろ
織田厨のレスなんてほとんど論破された内容&妄想願文しかないからほとんどのレスが規制対象になるぞ
なんで
>>876 みたいな論拠や史料に基づいた考察が規制されて
織田厨の妄想願文&論破された妄想繰り返しが規制対象にならんのだ
891 :
名無し曰く、 :2012/09/21(金) 00:27:17.79 ID:KUiPrAeE
892 :
名無し曰く、 :2012/09/21(金) 00:34:01.13 ID:a4z6QgMB
確かに論破された内容を反証レス無視して時間たったら繰り返したり 妄想を垂れ流すだけのレスは無駄 一回決着がついた話は基本的に繰り返さずしっかりした反論を、最後の反論のあったレスにつけるのが議論の基本 議論があったのにまた最初から妄言を吐く→反論→無視してまた妄想駄文 こういう流れが多すぎる
893 :
名無し曰く、 :2012/09/21(金) 00:34:35.78 ID:X++EXL4C
”&”を禁止にすればコピペ爆撃防げる気がする
894 :
名無し曰く、 :2012/09/21(金) 09:30:10.52 ID:rw6jENe3
895 :
名無し曰く、 :
2012/09/21(金) 09:39:00.17 ID:rw6jENe3 >>893 不可能だろうな、だががコピペ文から&を抜けばいいだけだし
つか100スレ目で三英傑と謙信玄が禁止にされたのも、コピペを防ぐためだった
つまりこの5人は話題にすら出せないということでもある