信長の野望で過大過小されてる武将102人目

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952名無し曰く、:2012/11/23(金) 01:07:22.42 ID:lRoG54Yh
>>950
おいおい・・・史料ならまだしも引用すらないHPはねーだろwww
史料引用書かなければHPなんて作り手次第でいくらでも改竄できるし
酷いところはWikiや他のHPの丸写しとかだぜ?ww

自力で守り抜いたってそもそもそいつらを攻めたのは秀吉の一部隊クラスだろ
秀吉軍が大部隊で突っ込んできたのは長久手と蟹江くらいで両方信雄は参戦してるじゃんよ
953名無し曰く、:2012/11/23(金) 01:11:47.92 ID:8S5yNN2A
>>952
んじゃ伊賀攻めでたいした損害がなかったとする史料は?
そもそも秀吉がいた今尾と松ノ木・東駒野は寸前の距離にあり
高木氏・吉村氏ともにかなり危機感をもって何回も援軍要請しているが信雄にことごとく無視されたため
単独で抗戦している
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
954名無し曰く、:2012/11/23(金) 01:12:31.48 ID:8S5yNN2A
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
955名無し曰く、:2012/11/23(金) 01:13:51.01 ID:8S5yNN2A
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
956名無し曰く、:2012/11/23(金) 01:17:48.47 ID:oHYzo7LR
信長公記は捏造軍記

・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森のキ沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い
957名無し曰く、:2012/11/23(金) 01:18:33.38 ID:oHYzo7LR
>>924
そもそも豊前や筑前は大内滅亡まで大内領だったし、立花などの飛び地以外に大友の直轄領なんてほとんどなく、旧大内勢力反大友の敵対国人ばかりの地。
水軍力の低い大友は山がちの豊後の峰や谷を越えて長駆、筑前や豊前北方へ進軍しなきゃならない一方で
毛利は瀬戸内海水軍を勢力下に長門から隣接した豊前北方へ上陸できる。
豊前と長門の間の海峡は非常に狭い運河であり、兵糧補給の面でも地理的にも毛利勢力の方が非常に近く有利に戦える。
さらに君は高等な外交戦略>>超えられない壁>>戦略的失敗の不利を覆す戦術でしかも、戦略的失敗を戦術的勝利の積み重ねで挽回することはまず不可能なのに
戦術で押されて外交戦略で「なんとか毛利を撃退」っておかしな事を主張してるのは失笑。
毛利が大内を滅ぼす際の約定がありながら元就の一方的裏切り奇襲で落とされた門司城を奪回したのは道雪だし、
門司奪回に大軍で来た毛利に対して、道雪の弓隊の破壊力に押されて毛利の進軍がストップし停滞したのが実態。

軍事的常識として
戦死者数の5倍以上の戦傷者や戦闘不能者が発生すると言われている。
1/10の戦死者ということは軍隊として崩壊してる。
しかもこの戦死者は吉川の軍であり、
それの前の戦いで小早川軍が道雪に破れて大被害を出している。
大内や尼子の残党を毛利側が都合が良い言い訳にしてるが
実際は小早川の敗北が決定打になってるのは間違いない。

大友との盟約を破り毛利2万が怒留湯主水がわずかな兵で守る門司城を奇襲する。
大友1万5000で出陣し10月13日に開戦。
大友が終始優勢で、ついに15日に至り毛利が総崩れで山口へ敗走。
門司合戦に敗北した毛利は大友の侵攻を恐れ、筑紫や秋月に支援を約束して謀反を唆す。
弘治3年7月、大友軍が謀反した秋月を滅亡させる。驚いた筑紫も毛利の支援が絶望的なので自ら城に火を放ち亡命。
永禄元年、毛利2万が再度、早鞆の瀬を渡河し門司城を奇襲。宗麟が戦略外交で幕府の仲介で時間稼ぎをしつつ、尼子と同盟を結び包囲網を構築。
永禄7年、元就は豊前の要衝松山城などを大友に明け渡すことに同意し撤退。毛利輝元に娘を娶せて毛利との和平が結ばれた。
ちなみにこの宗麟の娘は毛利の再度の裏切り行為のために送られることはなかった。。
大友絶頂期が到来。
永禄9年7月、尼子を滅亡させた元就は、また和平を破り宝満城督の高橋鑑種に謀反を唆し、それに伴い毛利3000とともに秋月や筑紫の復帰を後援。
この動きに麻生、宗像、城井、長野、千寿、後藤ら国人が同調。
大友は肥前や筑後の国人が龍造寺の動きを恐れて動員が進まなかったが、筑紫を降伏させる。
秋月&高橋救援のたまに毛利来るの噂により、宗像が立花城を襲撃しようとしたのを撃退。
永禄10年9月大友の撤退を秋月が1万2000で襲撃するも大友側が反撃し痛撃を与え撃退する。
夜になり風雨となり秋月が再度襲撃し、油断していた臼杵、吉弘が混乱敗走するも道雪が混乱を沈静化させ撃退。
永禄11年4月、立花鑑載が謀反し、これに同調し原田も挙兵。
これを受けて毛利は清水左近将監を将として立花救援に大規模出兵し立花城は1万以上に膨れ上がる。
958名無し曰く、:2012/11/23(金) 01:19:42.60 ID:lRoG54Yh
>>953
問責状ちゃんと読んだか?ww
信長は信雄に対して拓殖三郎左衛門が討死したこと、
勝手に軍を動かしたことしか咎めていない

しかも軍を勝手に動かしたことについては「父への奉公、兄城介(信忠)への大切はおまえの務めだ」
として信長は擁護すらしている。今回は家臣が死んだから取り繕うためと信雄に釘刺すためにやっただけであって
そもそも本当に大敗なら2年後に軍を率いさせてリベンジさせる機会なんて与えねーよ
959名無し曰く、:2012/11/23(金) 01:20:57.91 ID:lRoG54Yh
ちなみに先ほどの問責状、信長公記だけでなく崇福寺文書にも全く同じものがある
ま、信長公記が糞史料なんて恣意的な考えなしでは言えない話だがw
960名無し曰く、:2012/11/23(金) 01:25:20.20 ID:8S5yNN2A
そもそも損害の量をはかるのに織田方に都合のよい軍記や書状のみではかるのが間違い
木造記とか勢州軍記とか伊勢の在地勢力の史料だと3000人以上戦死したとしているし
信長が怒った話が本当ならそっちが本当だろ
つうかたいした損害もないなら問責状なんて書く必要ねーよ
961名無し曰く、:2012/11/23(金) 02:44:07.18 ID:oHYzo7LR
>>915
戦の強さなんて直接戦わなきゃわからないんだから
武将同士交戦した戦闘状況(戦力比・装備・地形など)と結果(勝敗、被害状況など)をわかる範囲でけんしょうすればいいだけ。
「生涯総合して〜」なんて戦闘回数が多けりゃ戦下手でも評価が上がるだけだから何の参考にもならん
一回の戦闘でも強い奴は強いし100回戦おうが雑魚は雑魚。
>>908
毛利両川って過大筆頭だろ
あと秀吉は毛利になんか勝ってないだろ
別所・山名を信長から援軍もらいまくって兵糧攻め・攻囲で長期間かけて反抗諦めさせただけ
南条・宇喜多はただ寝返っただけだし山名も分裂状態であっさり降伏したし
鳥取攻囲も毛利が南条宇喜多に苦戦している間に囲って兵糧攻めにしただけだし
鳥取は山名が勝手に米うってて物資不足だから簡単にいっただけだし熊見川でも美作攻防でも備前児島でも
清水相手でも秀吉は毛利方にコテンパンに蹴散らされてるし
>>906
お前相当馬鹿だな
信長が生きてる間に本能寺の変はおこり信長は殺されたんだろうが
寝言は寝て言えゴミ
物量は戦争において圧倒的な意味を持つし兵力の2乗が戦力比になるほど圧倒的な大きな意味がある
兵力に劣る側が勝つには相手の隙や油断をついて奇襲したりうまい戦術で敵をうまく釣り出して地形を利用して奇襲や包囲殲滅をかけたり
戦術力や指揮能力が相当凄くないと無理
逆に圧倒的大軍でもって寡兵の敵に蹴散らされてたら指揮官としては雑魚としかいいようがない
962名無し曰く、:2012/11/23(金) 03:20:08.65 ID:8S5yNN2A
武田軍団は過小の集まりだからな
史実で二倍も国力ある信濃+山之内上杉・長尾の介入の中
攻めるのが非常に困難な堅固な山城を落としまくり奪取
上野も同様に奪取
国力差2倍の今川+北条連合相手に駿河奪取
国力差5倍の徳川+織田連合相手に東美濃・三河・遠州奪取

雑魚織田トップ格の佐久間が全く歯が立たなくて逃げ回るばかりだったし
963名無し曰く、:2012/11/23(金) 03:21:07.54 ID:oHYzo7LR
秀吉の三大デタラメ

○秀吉は城攻めがうまい→デタラメ。松ノ木・三木・戸木・長久保・韮山・鳥取など大苦戦
圧倒的資金力と人心掌握と大規模軍隊が必要な水攻めや兵糧攻めや降伏勧告で楽に勝ってるだけ

○秀吉の一夜城→一次資料にない太閤記のデタラメ

○秀吉の中国大返し→事前に兵糧・街道確保など準備してたからできただけ
964名無し曰く、:2012/11/23(金) 03:22:03.40 ID:8S5yNN2A
秀吉はヘタレ毛利が上月を攻め落とし織田軍を蹴散らしたのに
安芸からの兵站の長さを理由に退却する雑魚っぷりを披露し
毛利つかえねぇwwwwとみた南条・宇喜多が離反し
毛利は数倍の国力がありながらこいつらに大苦戦。
その隙に織田方は兵糧切れの三木・同じく織田方に裏切ろうとした山名が米を売るなど物資貧困状態の鳥取などを火事場泥棒

この頃毛利は宇喜多に数倍の国力差がありながら加茂崩れ・辛川合戦で大敗するなど苦戦しまくり翻弄されまくり備前はおろか備中・美作でも劣勢だった

この窮地を救ったのが鳥取を火事場泥棒した秀吉が宇喜多方に歩調を合わせ参戦してきた事で
宇喜多は戦闘ゴミレベルの秀吉のせいで忍山・祝山攻防などで大敗し窮地に陥る
備中高松の時も、秀吉は宇喜多単体に翻弄されまくっていた毛利に対し「うわwwwこえぇwwww」と
膨大な金銭や人員や時間を犠牲にし雨が降らなければ失敗していたであろう水攻めという博打に打って出るが
気概0のヘタレ毛利にはこの策が功を挺し廻りが離反だらけで劣勢な中、単独で宇喜多・羽柴を撃退するなど功を上げていた清水宗治を見事に見捨て、高松は落城。
運がよかったな

>>963

宇喜多は単体でも大国毛利相手に攻勢に出て美作や備中を攻め取ったりしていたな
それを児島・祝山奪回に象徴されるように毛利方大勢が持ち直し
宇喜多を追い込みだすのが秀吉が戦線に加わりだ天正9年
いかにゴミクズレベルに秀吉が雑魚だったかわかる事例
流石清水宗治ごときに周囲寝返りだらけの中翻弄されまくっただけはある
965名無し曰く、:2012/11/23(金) 03:23:10.86 ID:8S5yNN2A
×織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落と甲江同盟反故による騙まし討ち

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな


武田対織田の結果

上村合戦  武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
   ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
   柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
       落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり


武田と織田比較

領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
      どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害  
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
   負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
 
直接交戦結果 上記の通り

天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。

甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる
天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止
さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
966名無し曰く、:2012/11/23(金) 03:24:08.56 ID:oHYzo7LR
氏康は今川、武田、両上杉、長尾、里見、佐竹、結城、
宇都宮、梁田、那須、小山、太田

その他大勢の関東諸侯に打ち勝ち、関東を手中にした。

信長は、浅井朝倉武田斉藤本願寺長島一揆雑賀衆北畠赤井等に敗戦し続け、家を滅ぼした。



氏康>>>>>>>信長

信長や秀吉は畿内や美濃に大苦戦し生涯を終えた。
家康は武田に苦戦したが畿内や美濃は瞬殺した。

武田>>>>家康>>>>>>>>>>>>>>>>雑魚織田

信長は山県、馬場、家康より弱い。

信玄は山県、馬場、家康よりずっと強い。

謙信は信玄より強い。

謙信>>信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長


政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。

信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。

政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。

比較にすらなるまい。
967名無し曰く、:2012/11/23(金) 03:25:13.11 ID:8S5yNN2A
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最大勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
小笠原貞慶    1582年     0万石    13万石    ∞
徳川秀忠     1602年     0万石   日本全土    ∞
4徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
5結城晴朝    1558年     1万石   23万石    23倍  
6佐竹義重    1570年     8万石  150万石  17倍
7上杉景勝    1578年     8万石  120万石    15倍
8菅沼定利    1562年     1万石   13万石     13倍
9武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
10上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長       30万石    0        0倍
968名無し曰く、:2012/11/23(金) 03:27:12.87 ID:8S5yNN2A
1546年 信長初陣。
今川勢相手に何もできずに放火だけしてすぐさま逃げ出す。
後の多数の敗北を髣髴とさせる華々しい初陣であった。
1552年 信長家督継承。
素行の悪さからあちこちで「うつけ」と呼ばれて馬鹿にされ、
やさしかった父親の葬式にろくに服装もととのえないでやってきて
抹香を投げつける親不孝者。家臣失望。後にみんな離反。
守役の平手絶望。「守り立てる甲斐なし」といって自害。
1554年
村木攻め。斉藤道三から援軍もらって城を任せ、残り全軍で多数で攻めて成功。
1555年
叔父信光を使って清洲をだまし討ちにしてのっとる。
信光は用済みとばかりに信長に殺される。
1556年 舅道三が斉藤義龍に謀反され、窮地に陥る。
散々助けてもらってたくせに舅の危機に間に合わず、道三は討ち死に。
信長勢は行きがけの駄賃とばかりに、斉藤勢に攻撃され、あっという間に突き崩され
織田の武将が何人も討ち取られ、森も重傷を負う。たまらず敗走。
この無様な敗戦で尾張で離反相次ぐ。
1560年桶狭間の戦い。敵先陣と本陣を勘違いするというありえないミスを犯す。
先陣と勘違いしながら突っ込んだらいきなり大雨が発生し
今川勢が崩れる。本陣突っ込んだら大将が乗る塗り輿があり、
初めて自分が戦ってるのが本陣だと気づく。
大雨でぬかるんだ大地を逃げ切れなかった義元、織田勢に首を取られる。
1560年
桶狭間の勝ちを実力と勘違いしたか、
美濃にせめこみ、義龍にあっさり撃破される。2回。
1561年
斉藤義龍死亡。美濃は幼君が継ぎ、クーデター騒ぎまで起きるようになる。
信長、これを見て美濃侵攻。
嵐を利用して森部で勝利。
しかし調子にのって14条に攻め込んだら真正面から斉藤勢に撃破される。
織田一族信清の弟戦死して敗走。
軽海で夜まで戦ってなんとか追撃を振り切って逃げ延びる
1562年
14条で弟を死なせたからか信清離反。
尾張小口城を攻めて敗北。側近岩室長門死亡。
1563年
新加納で斉藤勢に敗北。
1565年 鵜沼猿食調略。丹羽のおかげ。
東美濃で武田の一部隊と衝突。あわてて兵を引き、婚姻同盟を申し込む。
堂々砦攻防戦。
砦攻略したと思ったら斉藤勢三千に襲われ死人負傷者多数出してたまらず敗走。
1566年
足利義昭から上洛救援要請来る。
信長はこれを受け、斉藤に和議と領土内通行容認を持ちかけ、斉藤はこれを受諾。
しかし信長は美濃に入るやいやな翻心し、斉藤領土に襲い掛かる。
し か し こ こ ま で し て も 勝 て な い。
攻撃はあっさり斉藤に防がれ、ここまでして騙まし討ちにしたのにあしらわれ
上洛救援も果たせず、「天下の笑い者」になる。
逆上して河野島まで進出するが、斉藤勢に迎撃されたら武具まで捨ててあわてて逃亡。
逃げる途中で洪水に見舞われ死亡者多数。逃げ遅れたものは斉藤勢に虐殺される。
969名無し曰く、:2012/11/23(金) 03:28:15.47 ID:8S5yNN2A
1567年楠・高岡城の攻略に失敗。
1568年 義昭を擁して上洛開始。
浅井に押され、観音寺騒動で弱体化していた六角を攻略する。
このときは織田のみならず浅井・徳川その他も含めた5万近い大軍であった。
分裂していた三好勢、これに対抗できず京都から撤退。
1569年 北畠を大軍で攻める。しかし見事に敗北。
当時の公卿の日記には「神の戦であろうか?国司達の勝利である。」と記される。
困った信長は和議を持ちかける。北畠これを受諾。信長はあとで謀殺してのっとり。
1570年朝倉にいちゃもんつけて攻め込む。
朝倉と同盟であった浅井はこれに反発。織田を挟撃する。
信長は部下を見捨てて逃亡。金ヶ崎の醜態である。
1570年 姉川の戦い。
従来織田による織田のための宣伝で織田の大勝とされてきた。
しかし織田のいう朝倉浅井一万近く死亡して浅井長政死亡という割には
朝倉の資料では戦死120となり、浅井長政も生きている。
実際は痛みわけと見るのが妥当といわれる。
野田福島の戦い。
数に任せて三好勢を追い詰めるが、それまでの行動から不振をもっていた本願寺が
織田に対して決起。野田福島でこれを迎撃。織田勢は押し返され無様に敗走。
坂本攻防。織田の将である森と織田一族が雁首並べて朝倉浅井勢に討ち取られ
そのまま京都に侵攻される。
志賀の陣。
織田主力と比叡山に陣を敷く朝倉浅井勢対陣。
信長は手も足も出ず、領土奪って困窮させたはずの比叡山に援助を頼み込むが
当然断られる。堅田に派遣した坂井勢はあっさりと朝倉浅井勢に壊滅させられ
打つ手なくなる。
小木江攻防。
信長の弟がこもる尾張小木江を伊勢長島勢攻撃。信長救援送れず見殺し。
周囲を包囲網勢に圧迫され、窮した信長は天皇を介して
朝倉浅井に「朝廷とか公方とか寺社とかその他のことは仰るとおりにいたします」と
無条件降伏に近いこといって和睦。その後しっかり和睦を破る
1571年 伊勢長島第一次。
信長自らが大軍を率いて攻撃するが失敗。
撤退するところを追撃され大敗北。氏家朴全死亡。部隊壊滅。柴田も負傷。
比叡山大虐殺。
先年の志賀の陣の仕返しに比叡山を焼き討ち。もともと敵対させたのは誰だったと思ってるのか。
虐殺焼き討ちは天を焦がし、悪名は天下に響き渡る。
1572年 信長、本隊を率いて朝倉浅井と対陣。
嵐を突いて朝倉勢に陣地を焼き討ちされ、700以上焼失。
信長、横山城から美濃に帰還。
その後朝倉浅井勢、織田勢を攻撃し大利をあげる。
その戦果は常陸にまでとどろき、複数の同時代資料で確認される。
信長、武田織田の両属だった岩村を当主が死んだのをいいことに部隊を派遣してのっとる。
武田、これを受け秋山を岩村に派遣。岩村勢、これに呼応して武田につく。
武田本軍、徳川領土を次々と侵食。織田も援軍を送り、徳川とともに
三方ヶ原におびき出され完敗。
戦死武将50名以上、死者千名〜2千名に達する大敗北。
徳川はこれ以後しばらく三千ほどしか動かせなくなる。
1572年 武田の秋山隊、上村合戦で織田勢を撃破。
1573年
武田の馬場美濃、800余りの兵を率いて東美濃侵攻。
焼き討ちを行って織田を挑発。
信長は一万余りの兵を率いて進出するが、馬場美濃は手勢を率いて
織田勢を急襲し、織田勢敗走。信長は後ろも見ないで岐阜に逃げ込んだらしい。
信長、諸方を敵に囲まれ、「方々手ふさがり」と公記でも嘆かれる。
この状態で将軍義昭離反。
「人質だしますから和睦しましょ」と持ちかけるが拒否される。
天皇を使ってダッシュで和睦してダッシュで美濃に帰る。
信玄死亡。武田勢撤退。反織田勢の反撃計画潰える。
信長、勢いにのって浅井に攻撃をしかけるが撃退される。
970名無し曰く、:2012/11/23(金) 04:45:36.02 ID:8S5yNN2A
伊勢長島に美濃と尾張の国境を焼き討ちされる。
反撃計画が潰えたことで自壊の始まった朝倉を攻撃して倒す。
朝倉は一門に裏切られての最後であった。
返す刀で浅井も総攻撃して攻略。朝倉・浅井長政・久政の首ははくだみにされたという・・・。
調子にのって伊勢長島を攻撃。
第2次伊勢長島。伊勢長島本城を攻略できず、引き返すところを攻撃され、
一の重臣林家の嫡男林新次郎率いる部隊とその与力を殿にするも
一揆勢の猛攻で壊滅。一揆勢の攻撃で体制を整えることも暖をとることもできず
凍死続出。信長もこれを突っ切って夜に岐阜に逃げ込んだ。
1574年 越前蜂起。
苦労して朝倉を倒して越前を制圧したと思ったら、そのあまりの杜撰な統治に
反発した旧朝倉家臣団が一向一揆と結んで蜂起。
織田の支配層はあるいは叩き出され、あるいは殺され、越前は一揆持ちの国となる。
武田討伐の後の甲斐と非常によく似たパターンであり、懲りない男である。
結局越前が再び信長の手に戻るのはこれよりおよそ2年後。
朝倉攻略から3か月。短い平定であった。
東美濃攻防。
信玄死去後の武田、東美濃に侵攻する。明智城をはじめとして織田方の城を次々に攻略。
信長は三万の大軍でこれを救援に行くも、山県率いる武田勢六千に険路を抑えられ、進むに進めないうちに武田に城を攻略され退却。武田は織田方の東美濃18城を攻略した。
石山本願寺を大軍で攻めるが攻略できず撤退。
武田軍、徳川方の高天神城を攻撃。徳川は織田に救援を要請。
信長の救援は遅遅として間に合わず、高天神陥落。家康失望。
1574年家康の嘆きとか無視して伊勢長島の攻略を開始する。
第三次伊勢長島。
大軍で攻めながらも一揆達の激しい抵抗にあい、兵糧攻め。
三か月ほどこれを続け、一揆勢、餓死者や身投げして死ぬ者続出。
一揆勢信長に降伏し、武装解除して長島を退去する事を受け入れる。
し か し 信 長 は 当 然 の よ う に 約 束 を 破 る。
武装解除した一揆勢が長島を退去する為に出てきた所を大軍で包囲。
大量の鉄砲を打ちこみ、そのあと総攻撃に移る。
し か し こ こ ま で し て も 大 損 害 を 受 け る。
餓死寸前で武装解除もしていた一揆勢、多くが織田勢に虐殺される。
この中で激怒した一揆勢の800余りが、武具もつけず刀しかもってない状態でありながら
信長勢に突撃する。
信長勢数万はこの飢え死に寸前の一揆勢800に突き崩され、打ちのめされ、兄信広達一門10人をはじめとして多くを打ち取られる大損害を受ける。
その一揆800はそのまま織田勢を突破し、多芸山から大阪まで逃げ延びた。
飢え死に寸前の一揆勢800に数万の兵でこれだけ一門を殺され、しかも逃げられるのは前代未聞の成果と言っていい。
逆上した信長、まだ城に残っていた、ろくに動けもしない一揆勢を城ごと全て焼き殺した。
長島近隣住民はこの卑劣なだまし討ちと虐殺を長く恨み、織田勢に宿を貸すのも嫌がるようになり、織田勢はあと後まで苦労する事になる。
武田軍、徳川領土に進攻。家康の主城浜松城下にまで踏み込み、稲を悉く刈り取り、城下町の屋敷も盛大に焼き打ちし、拠点となる城も築城して帰還。
織田は相変わらず救援を送らず。家康絶望。武田への鞍替えを検討し始める
971名無し曰く、:2012/11/23(金) 04:46:47.00 ID:8S5yNN2A
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。

さて以下がその隠蔽である。

永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。

これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
972名無し曰く、:2012/11/23(金) 04:47:37.96 ID:8S5yNN2A
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
973名無し曰く、:2012/11/23(金) 04:48:24.16 ID:8S5yNN2A
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。

父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
974名無し曰く、:2012/11/23(金) 04:51:08.28 ID:8S5yNN2A
信長の弟で織田家重鎮にして信忠後見役だった織田信包(息子は尾張守護斯波義銀の娘婿)を始め
織田一門も清州会議から完全排除し専横重臣の秘密会議で織田家の将来を専断してる時点で、
織田家に実権はなく、家臣による下克上が成立し主従関係は完全に逆転した。
他家の人間になった者が本家を継いだ場合は他家に乗っ取られたことになります。
それを防ぐために還俗して本家を継ぐ僧籍の者が縁者には必ずいます。
ちなみに北畠家内において信雄は傀儡でしかなく信雄が織田を継ぐという行為は
北畠家を傀儡にしていた木造家による織田家簒奪の完成なのであります。
多聞院日記6/24から信雄が家督相続して田丸城に入城してるのが判明する。
そして7月に代替わり徳政令を発布しており、津田一安が添状を発給している。そして越前一向宗殲滅戦に向かう。
津田らは茶筅と書状で呼んでおり、滝川一益の取り次ぎで信長へ書状を出している。
天正4年11月に北畠・長野・坂内・大河内らを信雄が粛清することになるが、
原因として挙げられるのは天正4年から義昭が鞆幕府を設立し、
多聞院日記には具教もしくは具房が信雄の家督相続の時期に北畠氏の大和領へ入国していたことが挙げられる。
大和宇陀一揆ら反織田勢力との合流の風聞であり、これが破滅への道となった。
天正4年12月には津田一安が滝川雄利と拓植三郎左衛門らの讒言で誅殺され
伊賀攻めで拓植三郎左衛門が討死すると木造一族の滝川雄利の独裁体制が敷かれ、
織田信包などに指示を出すほどの権勢を持つようになる。
これにより当初からの目標であった木造氏による北畠氏の乗っ取りが完了し、信雄は傀儡化されてしまうのである。
本能寺の変とともに伊勢が混乱状態になり、明智討伐などできず精彩を欠いたのは
信長の内政丸投げにより、土着権力が独自に主従を形成する弊害がモロに出てしまい
織田氏は名目上の主にしかならず、事実上の木造氏のよる支配下にあったからである。
つまるところ天正3年6月に信雄が北畠家督と継ぎ、天正4年11月に反織田で面従腹背の北畠氏粛清するも、
12月には木造氏による支配が完成してしまい、信雄の傀儡化という歴史的推移が見て取れる。
しかも小牧長久手後の雄利は羽柴姓を貰い秀吉政権の一員になってしまうなど信雄を軽視しているのが見事に顕れている。
そもそも雄利の岳父は秀吉方の一益な時点でお察しw
信長の場合は家臣の謀反でたった一日で嫡子まで死ぬなんて愚かな大名はなかなかいないわ。
しかも別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始www)
家康には甲斐・信濃を横領され森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領w
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に安堵状を発給しまくる始末www
信長がむちゃくちゃ『厚遇していた織田信澄』を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃんwww
975名無し曰く、:2012/11/23(金) 04:52:06.68 ID:8S5yNN2A
傍から見てて誰もが秀吉の思惑通りに進んだと実感してんだよ。
そもそも三法師が信孝の元にいるのも4家老による清洲会議で決定していたもんだ。
丹羽が安土城の普請で住めるくらいのある程度完了したら三法師を
岐阜から移す取り決めをしてたのも知らんのか。
その後、柴田も秀吉も対立してるため、それぞれ別々に9/11.9/12に信長百日忌をやってる。
その間に、テキトー清洲会議のデタラメぶりが噴出し
清洲会議から織田一門を排除していた為に細部合意を当事者同士が合意していない結果
(明と日本が当事者のチョンを無視して講和交渉して、決定したことを受け入れろやと言われるようなもんだしな)
信孝と信雄が国境線争いで対立し始めてるし
さらに秀吉がそろそろ安土へ三法師を!との意見に
清洲会議の屈辱から巻き返すべく柴田が秀吉への反発を強めていて
柴田が畿内がよく治まった上で宿老総意を得て安土へ移す方がいいと
秀吉方だった丹羽に同意を求めて味方化しようとしたが見事に拒否られてる。
(柴田が合意不可能な条件を提示していて、あからさまに三法師を手元から離さない信孝とつながっていたのがわかる)
これが9/3の情勢であり、
その後、11/1になると三法師を安土に移そうとしない信孝の違背から
秀吉は信雄を柴田を除く三家老合意で担ぐことを家康へ書状を出してる。
8/7秀吉は京都で専横していた桑原貞也を罷免して浅野と杉原を京都奉行にしたことが
柴田との対立の直接的なスタートになったなんてソースは聞いたことない。
そもそも山城国を秀吉に与えた時点で、そんなことは想定できる話だし柴田はそんなにバカなのかw
しかも信雄を擁立したのは11月になってからの話で、
三法師をなんとか信孝の手から離して安土へと動く秀吉は8/11の書状などを見ると
信孝との関係をそれ以前はまだ破綻させようとは思ってなかったのがわかる。
対立が先鋭化したのは9月であり、それ以前はまだ明智残党を討ったり、
体制固めをしていたから先鋭化してないだけで火種は存在し対立しつつ、双方相手の情勢を窺っていた。
しかし明らかに「おおむね羽柴がままの様なり」な清洲会議の結果、
秀吉への反発がスタートしたのは明らかで三法師を手元におき傀儡の主導権を握るべく、
秀吉・丹羽・池田と信孝・柴田が対立開始していて双方が対抗心剥き出しで
織田家内の多数派工作をしてる(7/11には秀吉は丹後の処置を完了し細川家との同盟を結んでる)
また外交政策も織田家が窓口代表ではなく、柴田も秀吉も各自でおのおのやっており織田主家なんて無視。
そして信孝と信雄も国境問題で対立しているので、自然と信雄が秀吉側になるのも当たり前。
976名無し曰く、:2012/11/23(金) 04:53:23.09 ID:8S5yNN2A
清洲会議前後からの各人の敬称

蓮成院記録
三七殿(信孝)・御茶筅様(信雄)
多聞院日記
御本所(信雄)・三七(信孝)・上野殿(信包)
筒井は大和一円、筑州一円入魂
※丹波一円が織田秀勝へ渡されたとレスする人がいるが
これはどの一次史料から?
織田秀勝は丹波亀山城しか与えられてないのでは?
しかもいつの間にか羽柴秀勝が丹波亀山城主に摩り替えられていて怪しい。
また信孝死亡後に、信雄から三法師に家督が返却されたとするソースは?

イエズス会日本報告集
御本所殿(信雄)・三七殿
諸国の大半を我が物としたのは羽柴筑前殿である。

7/3
信孝が本能寺を信長墓所とする書状を本能寺に出す。
8/11秀吉→丹羽
若子様(三法師)がまだお越しにならないのは普請等ができてないからだ。
その分を聞いたので、その方は近いのであるから、自分のトコの普請を後回しにして
安土の普請を仰せ付ける。参らなければ油断と存す。さようになれば
その方も我らも外聞が悪くなる。こちらも山崎の普請を中断して安土へいく。
坂本で詳しくは会談しよう。
三七殿より言われたように美濃と尾張の国境を木曽川にする

信雄が発給する文書は「三介信雄」「信雄」もしくは印や花印だけで署名なし。
しかし8/26付け木曽宛の信孝文書には突如「織田三七郎信」と署名する信孝。
また文中では信雄を「三介へも申し遣べく事」と呼んで、家康への援軍を出そうと思ったが
相州勢を包囲して勝利眼前とのことだから止めた。かわりに尾州から兵をだすと書いてる。

8/14・15の信雄の堀や丹羽宛書状には千福遠江守が旧領復帰して
若君様への奉公ができるよう頼んでいる。
977名無し曰く、:2012/11/23(金) 05:15:43.00 ID:8S5yNN2A
領土拡張率ランキング

         家督相続年  相続時勢力圏  最大勢力圏  勢力拡大率
1宇喜多直家    1555年     0万石    30万石      ∞
小笠原貞慶    1582年     0万石    13万石    ∞
徳川秀忠     1602年     0万石   日本全土    ∞
4徳川家康     1560年     2万石    1790万石     895倍
5結城晴朝    1558年     1万石   23万石    23倍  
6佐竹義重    1570年     8万石  150万石  17倍
7上杉景勝    1578年     8万石  120万石    15倍
8菅沼定利    1562年     1万石   13万石     13倍
9武田信玄   1541年    14万石    130万石      9倍
10上杉謙信    1548年     23万石   178万石       8倍
11北条氏康    1541年     45万石    180万石      4倍

最下位 織田信長       30万石    0        0倍
978名無し曰く、:2012/11/23(金) 05:54:29.74 ID:7n6dqJ69
桶狭間なんだが、当時戦国最強の今川軍25000を信長はわずか200そこらの兵で完勝
これは信玄や謙信でも出来ない。100倍以上の兵力差でも大勝する、やはり信長の軍略は神クラスじゃね?
この戦で活躍して侍大将に昇進した秀吉の情報戦もすごすぎる
979名無し曰く、:2012/11/23(金) 07:13:31.92 ID:8S5yNN2A
厳島や桶狭間は軍記にしかない話だしなあ
しかもその軍記引用でも桶狭間はたまたま先陣と勘違いして突っ込んだ先が本陣で
雨と風が都合いいタイミングで吹いて勝てただけの運だけだし
今川と織田なら駿河+遠州+三河70万石そこそこと
尾張57万石+チート交易収入・朝廷献金額トップでどっこいくらいの国力だし
980名無し曰く、:2012/11/23(金) 07:15:35.01 ID:8S5yNN2A
信長の捏造合戦集

桶狭間=一次資料にないデタラメ
    尾張チート国力&朝廷献金&交易収入で今川より国力上

長篠=実際には1000程度の戦死者(多聞院日記)
   同時代史料の長篠日記だと織田方も多数戦死

姉川=実際には痛み分け程度 
   信長公記や信長書状で基地外誇大喧伝 



×武田が実力で信長に滅ぼされた

○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒

こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる

あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
981名無し曰く、:2012/11/23(金) 07:16:14.90 ID:oHYzo7LR
経過や中身を考慮せず結果だけ桶狭間運良く手薄な今川本陣に勘違いして突っ込んだ信長強い論理でいうなら
動員力ならはるかに光秀上回るにも関わらず本能寺で手薄な陣を運悪くつかれ死んだ信長雑魚と言う事

先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって雨や風が吹いたから勝てただけ

三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった

これが実力で勝ったというなら本能寺は実力負け

圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから
982名無し曰く、:2012/11/23(金) 07:20:42.82 ID:BUDhHTp2
昔のパラに戻してくれ
統率=攻撃力
采配=防御力
教養=朝廷との外交
やっぱり朝廷に貢ぐのは伝統芸だよノブヤボシリーズの
相手がかってに来て金払って官位もらうのはなんか違う
停戦調停とか朝廷に貢いでやってもらうのがリアルでいいわ
983名無し曰く、:2012/11/23(金) 07:24:16.03 ID:7n6dqJ69
違うよ、藤吉郎の情報戦で今川本陣はバレバレ
美濃攻めの時は獣道を地方豪族である小六を取り入れて美濃攻略
一夜城も建築専門家に言わせれば当時の発想ではすごいらしい
その秀吉を農民出身ながら差別なく登用した信長の眼力は神クラス
984名無し曰く、:2012/11/23(金) 07:25:00.04 ID:8S5yNN2A
直接交戦の結果からわかってる情報を整理し確定している組み合わせを出して
能力評価する。
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も50〜60倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利 以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長  姉川
謙信>>>>柴田  手取川
謙信>>信玄    川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉  84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉     しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉      伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉   小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉            尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川            神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族   中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津       九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦       鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直            天正壬午
仁科>>>信忠  高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀     二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部     戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
数的優位があるとはいえ滝川を野戦で見事な偽退却戦術で非常に軽微な被害で大破した上、
豊臣軍23万5千(陣立書だと21万5千だがこれには佐竹宇都宮里見那須結城といった反北条勢が入っていない)
にわずか34500で挑み緒戦の駿河伊豆国境の戦いで大勝し、伊豆韮山でわずか500の兵で豊臣2万を大苦戦させ
武蔵忍城では1000の兵で豊臣30000の包囲を受けながら結局落とされずわずか1000がこもっただけの本城小田原に手も足も
出させず4カ月も粘り、豊臣方兵站が壊滅する寸前という窮地に追いやり、かなり余力を残した状態で降伏した北条氏直
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
圧倒的大軍で滝川に大苦戦する秀吉の先遣隊の中の先遣隊に寡兵でやられまくった島津
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>圧倒的大軍持ちながら寡兵で送りこまれた秀吉軍にいいところなく
やられまくった毛利

これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110  武田信玄
100 徳川家康
  
  
 97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
 96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
 95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
 94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
 93  立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
 92 織田信忠
 91 島津家久 伊達政宗
 90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
    酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴


20 羽柴秀吉
985名無し曰く、:2012/11/23(金) 07:26:24.29 ID:oHYzo7LR
>>983
とりあえず糞太閤記の妄言垂れ流しはよそでやってくれ
986名無し曰く、:2012/11/23(金) 07:28:59.54 ID:8S5yNN2A
長篠の戦は圧倒的兵力差&まるで城みたいな陣地・雨でぬかるんだ地面・高性能鉄砲と
こんな所に無謀に正面から突撃する馬鹿が相手だから勝てただけだしなあ
むしろそんな自殺戦闘で6000人の武田相手に6000もの損害だす醜態晒したのが織田軍(武田が大損害受けたとするのは全て軍記のでっちあげ)
まともに戦術的勝負させたら100%武田の勝ちだろ
987名無し曰く、:2012/11/23(金) 07:30:10.30 ID:zw8VgNGH
桶狭間って
本隊の兵力同数、今川軍は見晴らしのきく丘の上で織田の接近に気付いていた、正面からのガチンコ対決って感じじゃない?
雪斎亡き後の義元なんて大したこと無いけど、それでも兵力同数で丘の上に陣取る軍の大将を討ち取るのは大したものだね。信長は負け戦も多いけど生き延びるし、最前線の指揮も多く、桶狭間みたいに突撃力も高い。戦場では名将ってより猛将タイプ。ただし智謀は高い
統率78武勇94政治91智謀104
988名無し曰く、:2012/11/23(金) 07:31:05.73 ID:8S5yNN2A
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
989名無し曰く、:2012/11/23(金) 07:31:58.27 ID:oHYzo7LR
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
990名無し曰く、:2012/11/23(金) 07:35:47.35 ID:7n6dqJ69
信長の戦って部下に大将をやらせることが多いんだよ
それだけ差別なく部下にチャンスを与える非常に素晴らしいCEO見たいな感じだ
でも信長本人が参加した戦に負けはないんだよね
やらかしたのは、信長軍でも一番弱い柴田、滝川、前田、佐々、佐久間みたいな
古豪ばかり。こんなのに三方が原で勝って、織田本営に勝ったと勘違いしている
武田厨は痛いよなw
結局長篠で滅亡したんだし・・・
991名無し曰く、:2012/11/23(金) 07:37:45.10 ID:aE7l6y1z
だがって凄いな。
一晩中こんな長レスしてたのかw
992名無し曰く、:2012/11/23(金) 07:41:25.71 ID:8S5yNN2A
武田信玄より遥かに劣る勝頼でも、信長より遥かに戦上手

根拠1
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れている
三河物語でも信長は勝頼を東西に名の聞こえし名大将と褒めちぎっている
明智城を攻略した時も織田軍がまた逃てたしな。
弱過ぎて話にならないと思ってたんだろうな勝頼視点だと。
だからこそ長篠後も甲斐越後の兵は日本一と恐れられた

根拠2
長篠では武田勢6000そこそこで織田徳川1万5千に対してまるで城みたいな陣地&雨でぬかるんだ地面&高性能鉄砲&圧倒的兵力差
の中無謀に突っ込んで織田軍を蹴散らしまくり6000もの損害を与え9時間も戦い続ける敢闘ぶり
しかも武田は戦いの後半に一門衆が勝手に退却するという内部崩壊要因がありながら見事退却に成功
(ちなみに武田軍将兵の武将が多く討ち取られたというのは軍記にしかない妄言)

根拠3 この戦いの後も信長は勝頼を恐れまくり8年何もできず武田が対北条徳川戦で疲弊し
勝頼の失政自爆による家中離反崩壊につけこみさらに甲江同盟反故の騙まし討ちをしかけないと勝てなかったのが実態
何せたかだか岩村5000の秋山落とすのに8倍もの兵力で半年持ちこたえ騙まし討ちにしてやっと勝ったくらいで
武田攻めでも唯一まともに抗戦した高遠1000以下に城外戦で50〜60倍もの兵力で最低で4時間以上戦われ
一門織田信家を討ち取られたくらい実際戦うとボロクズレベルだったのが織田軍

信玄>>>>>勝頼>>>>>>>>>>>>>>>信長
993名無し曰く、:2012/11/23(金) 07:54:39.14 ID:8S5yNN2A
双方の顔ぶれから推測した兵数

・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)

/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり

『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく

@劣勢な家康が出陣した理由

A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。

鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。

三方原については、

佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領

全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。

更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。


元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容

信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)

佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
994名無し曰く、:2012/11/23(金) 08:08:57.17 ID:8S5yNN2A
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
995名無し曰く、:2012/11/23(金) 08:23:57.78 ID:pxOYVzoB
志村光安は過小評価
996名無し曰く、:2012/11/23(金) 09:17:43.04 ID:68TYXZfR
>>961
>あと秀吉は毛利になんか勝ってないだろ

上月城も高松城も鳥取城もスルーなのか?
毛利みたいな愚物を支えた両川を秀吉以下の過大評価とするならどれくらいが妥当だと思うのか?
その両川に蹴散らされた長宗我部や島津をどう評価するのか?
997名無し曰く、:2012/11/23(金) 10:13:06.74 ID:HuE+cHVQ
都合の良い資料であればまともに相手にされてないような資料の数々を全て事実扱いで根拠に使い
さらにそこから憶測妄想を飛躍させた語り
都合の悪いものは全て捏造・隠蔽の結果扱いをデフォルトにしてるだがさんに何言っても無駄でしょ
998名無し曰く、:2012/11/23(金) 10:56:53.54 ID:GL5Ta7HS
信長の野望で過大過小されてる武将102人目
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1348648391/

とりあえず、次スレはここの再利用でいいのかな
999名無し曰く、:2012/11/23(金) 11:01:46.34 ID:S+E3HXsf
>>998
OK
1000名無し曰く、:2012/11/23(金) 11:02:44.42 ID:S+E3HXsf
信長の野望で過大過小されている三傑謙信玄佐竹用6
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/gamehis/1287397965/

こっちもな
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。