1 :
名無し曰く、:
2 :
名無し曰く、:2011/03/30(水) 01:47:46.90 ID:h1xN3W3d
乙 ありがとう
過大過小スレ好きだったんだけど
ここ何ヶ月かはホントうんざりだわ
このスレでまったり楽しく語りたい
3 :
名無し曰く、:2011/03/30(水) 02:54:58.81 ID:ylGOYkC6
荒れるのが嫌ならスレタイから「過大過少」を抜け
4 :
名無し曰く、:2011/03/30(水) 03:07:12.16 ID:muWURX0t
>定義としては「信長の野望の史実シナリオにおいて大名武将として登場しない」
天道の次代を継ぐ者シナリオでのみ大名になってる武将は除くとしても
本能寺後の織田家がバラバラになってるシナリオでの旧織田系勢力の大名も除くの?
織田信雄、織田信孝、柴田勝家、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀
池田恒興、前田利家、佐々成政、蒲生氏郷、細川親子あたり
5 :
名無し曰く、:2011/03/30(水) 03:33:41.83 ID:Nhd2YATZ
◯ _____
// ____/ \_________
// |\_____/ /
// │ /
// │ (
// │ )
// │ 我 々 は /
// │ /
// / 過 大 過 少 ス レ に /
// / /
// / あ ら ず │
// / /
// / /
// / (
//< _____ \
// \__ ______/  ̄
// \________/
//
6 :
名無し曰く、:2011/03/30(水) 05:26:59.96 ID:JV6hNHnA
>>2 完全に同意だな。
年末から佐竹、年明けから山田が出てきてホントウンザリだった。
良いスレにしたいね。
7 :
名無し曰く、:2011/03/30(水) 08:13:43.88 ID:n4QCd7Lw
>>4 家臣としての活躍の方が長ければいいんじゃね
滝川とかもうなんか違う感じじゃん
まあどっから定義づけるか知らんけど自分が家臣と感じなければスルーか他のスレで聞けば
8 :
名無し曰く、:2011/03/30(水) 21:06:05.62 ID:x9gWDx0G
にしても北条氏康ってなんであそこまで過大なの?
9 :
名無し曰く、:2011/03/30(水) 21:12:48.43 ID:ooSfND7V
このスレにも山田は出るのか、もはやスレ立てた意味がなくなってしまったな
10 :
名無し曰く、:2011/03/30(水) 21:17:01.69 ID:7JC57Feq
織田幹部の実績は地方大名と同レベルなんだよな
能力を正しく査定すると織田家が圧倒的になる
正史三国志準拠だと魏がチートになるのに似てるわ
そうするとゲームでも史実通りに拡大するはず
11 :
名無し曰く、:2011/03/30(水) 23:26:01.50 ID:x9gWDx0G
バカかとw
織田家軍団長が地方大名と同レベルなら
本能人の変後もそれぞれ勢力維持するわと。
一益は即効で撃退されて
川尻は討ち死にして
丹羽は軍が瓦解
秀吉はなんとか講和結んで遁走で
柴田くらいがやっとこさ現状維持で撤退じゃねーか
結局、家臣なんて、その身分に甘んじる限り
いつまで経っても家臣の域を超えられないんだよ
12 :
名無し曰く、:2011/03/30(水) 23:48:18.91 ID:Dhai0Ny3
>>10 大企業に人材が集まるのに似てるのかもね
結局はこなした仕事の経験も能力のうちだからなぁ
蜂屋とか河尻とか、森パパの政治力はもうちょっとなんとかしてほしい
関ヶ原以降のIFとか天道に期待してたが駄目だったね
至鎮とか活躍するの見たいなぁ
13 :
名無し曰く:2011/03/30(水) 23:56:54.12 ID:DJFd0LrH
mata odafannga jiennwo・・・
14 :
名無し曰く、:2011/03/30(水) 23:59:07.94 ID:JV6hNHnA
>>8 何で北条氏康が過大と思うの?
真っ当な評価じゃん。
15 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 00:00:40.16 ID:ObxYqzrH
>>14 おまえスレ立ち早々いきなりスレ違いやめとけやw
16 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 00:07:11.41 ID:DeY+kSTm
>>15 スマン!
じゃあ松田憲秀の統率は過小だよな?
17 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 00:12:42.23 ID:xXRwcAX1
城を明け渡すよう、主君に提言しただけ。戦後、自害を命じられたのは可哀相だが。
18 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 00:23:42.92 ID:8/PTywYB
「大勢力の家臣だから優秀」しか縋る物がない織田・北条厨哀れ・・・
19 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 00:31:15.06 ID:h6acUgEU
だな・・
こいつさ、ようやく自分こそが隔離されるべきキッチーだと自覚したのはいいんだけど
結局、知識ないから単発1人自演しても10でレス止まってやんのw
20 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 00:31:44.88 ID:2os443tt
んで、家臣の定義は?
秀吉は大名扱いだろうけど
本田忠勝って大名?家臣?
21 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 00:43:59.51 ID:RC1qq56P
家臣の評価には実績評価と比定評価があって、多分比定評価がメインになると思った
実績評価……史料上確実にこの人がやったということがわかってる
比定評価……この勢力のこれ程の伸張具合からして、重臣の某はこれぐらいの働きをしていただろうというもの
22 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 00:57:28.10 ID:8/PTywYB
織田・北条厨の御都合論理ここに極まり
23 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 01:02:49.81 ID:kpXhuWKu
>>20 大名扱いであの能力はおかしいだろw
家臣能力でも過小
24 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 01:37:53.56 ID:DeY+kSTm
何で今まで隔離スレ行けっても行かなかった山田がコッチに来るわけ?
お前の文章読みたくねえってのに心底のゲス野郎だな
山田・佐竹出入り禁止のスレ立てた方が良かったんじゃね?
25 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 01:44:01.58 ID:aBB8jv0I
あっちで負けたからだよ
山田は負けて負けてこんなところにまで辿り着いてしまったんだ
煽り叩きに疲れた隔離板の住民になら叩かれないなどという淡い期待を抱いて…
端から見てるだけもこのスレの賛同者は本スレ相手にここを主流にしてやろうと戦う気満々なのにな
26 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 01:54:54.89 ID:oNZRUE4y
いやいや山田君や佐竹君のおかげで
君たちに否定的なレスを付けやすい空気ができる訳さ。
これは重要。どちらのスレでも頑張ってほしいものだ。
27 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 01:59:43.92 ID:aBB8jv0I
その話は向こうでやりましょうや
われわれはもともと謙信玄スレの住人じゃないですか
28 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 15:25:53.74 ID:C5tjofNa
あんましスレが分散すると、話が薄くなるし
面白みも無くなるだろ・・・・。
煽りがいる方が盛り上がっていいじゃないか。
なんで隔離とかするんだよ?
29 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 18:37:07.71 ID:aBB8jv0I
それは「盛り上がり」じゃなくて「盛り上げてるつもり」だからですよ
いいから謙信玄行きましょうや
30 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 20:49:59.11 ID:h6acUgEU
>>26 そーゆーこと。
本スレ一目見たときに俺には分ったもん。
あーキチガイが単発ID自演で、善良な住人を言論統制してんな。。って
ネット社会の弊害をまさに体現してんだよな。。
つ北条厨
31 :
名無し曰く、:2011/03/31(木) 22:07:05.98 ID:aBB8jv0I
つ 鏡
32 :
名無し曰く、:2011/04/01(金) 01:36:55.55 ID:zBPlJHDG
キチガイ発言の奴ってsageしてないのな
浮き出てて面白いわ
33 :
名無し曰く、:2011/04/01(金) 04:13:04.29 ID:pLfyk+af
むしろ
キチガイの欝的なsageレスがキモいからワザと一般人はageてるのが普通かもな
ダッテ・・・
sageとか日常で使ってる奴いないもんwwwwwwwwww
34 :
名無し曰く、:2011/04/01(金) 07:26:30.02 ID:Q0x8h2rV
意味不明すぎる…
日常でage、sageとかいったい何言ってるの、こいつ…
35 :
名無し曰く、:2011/04/01(金) 16:40:40.08 ID:H81yxTPb
武将の話をしろよ
36 :
名無し曰く:2011/04/01(金) 21:19:07.88 ID:D0ihilxO
50いくまえにこの別ものぶり、爆笑だぜ
37 :
名無し曰く、:2011/04/03(日) 21:07:58.73 ID:aJ9gTKen
本庄繁長ってどうなの
38 :
名無し曰く、:2011/04/04(月) 02:51:51.80 ID:WpNuve5U
>>37 戦の強さは上杉軍屈指。特に庄内平野を最上から奪った軍功は大きい。
あと、外交能力も高い。一国人としても、外交官としても優秀。関ヶ原の後の徳川との和睦で活躍してる。
39 :
名無し曰く、:2011/04/04(月) 05:23:32.49 ID:cgPIDnPm
上杉の配下武将の中で同盟的な同格の臣従武将って
誰って判断したらいいんだろう
本庄、中条、椎名ぐらい?
40 :
名無し曰く、:2011/04/04(月) 10:42:40.64 ID:TtlhycxQ
>>38 88 90 39 24
統率と武勇は過大ってわけじゃなさそうだな
今のままじゃ完全な脳筋武将だから知略政治上げないと
41 :
名無し曰く、:2011/04/04(月) 16:27:01.10 ID:VKZaqIyw
宮本武蔵は、新陰じゃないから、特技に飛燕付けれないのは分かるけど、
槍3はかわいそす。
独自特技の二天ほしす・・・
42 :
名無し曰く、:2011/04/04(月) 16:46:03.27 ID:WbIPEhQD
由良さん地味に強いと思った。歴史的にも金山城で独立勢力としてあったほうがよくないかな。
43 :
名無し曰く、:2011/04/06(水) 00:44:31.61 ID:ppZr9lm6
>>41 戦場でたいして活躍できなかった武芸者風情にオリジナルの特技など過ぎたるもの
44 :
名無し曰く、:2011/04/07(木) 15:56:53.38 ID:lvjbtZUB
長宗我部の家臣が島津と比べて過小なので
上げる必要がある
45 :
名無し曰く、:2011/04/07(木) 16:22:26.31 ID:rHxZjEGZ
島津が過大なだけではなかろうか
46 :
名無し曰く、:2011/04/07(木) 16:41:01.69 ID:mf7nQibO
そもそも島津と長宗我部は対等なのか?
47 :
名無し曰く、:2011/04/08(金) 17:35:39.18 ID:yhMvqhr0
初めてのぶやぼやった時加藤清正が知名度の割に
能力が低い印象があったな
俺の中では島津より清正の方が格上だったもんで
島津家と長宗我部家は対等かどうか分からんけど
現状ここまで差がつくほど離れてはないっしょ
48 :
名無し曰く、:2011/04/08(金) 21:55:46.87 ID:ApbNt713
test
49 :
名無し曰く、:2011/04/11(月) 15:49:30.53 ID:nqvMOLuC
>>47 優れた政治家なのに政治が並で加藤家臣も大半が政治が並なんだよな
50 :
名無し曰く、:2011/04/12(火) 18:55:44.81 ID:NgigTuTu
>>47 清正の出世は秀吉の後ろ盾のおかげという点を考慮する必要がある
相当優遇されていた環境での功績故に話し七分程度に見て評価しないことには
公平感に欠ける
>>49 本当に優れた政治家なら秀吉縁者の立場的に
石田三成を差し置いて中央で政権を担っているはずなんだがな
51 :
名無し曰く、:2011/04/12(火) 19:07:15.88 ID:TY0NL1Mz
中央官僚と地方長官では求められる能力が違う。
52 :
名無し曰く、:2011/04/12(火) 22:41:46.98 ID:NgigTuTu
三成は地方に大領を与えられる(九州に33万石)話しは挙がったが、三成自身が拒否した
清正は中央に残る話は挙がらない
三成は中央官僚でありながら地方長官の任もできると見られていた
一方、清正は中央官僚になる話すら挙がらなかった
53 :
名無し曰く、:2011/04/13(水) 00:31:52.46 ID:4uGfaxu7
清正
内政家として優秀でも
官僚としては無理だと思うな
下手したら三成以上に敵作りそう
54 :
名無し曰く、:2011/04/13(水) 19:35:42.46 ID:zZnyuXFF
清正って文書を書けるの?
55 :
名無し曰く、:2011/04/13(水) 19:38:58.91 ID:jZYa5OFN
武将のことなら関-東-厨さまにお・ま・か・せっ
ジエンで持ち上げまくるよっ
56 :
名無し曰く、:2011/04/14(木) 21:14:15.23 ID:uxncHoof
>>50 >本当に優れた政治家なら秀吉縁者の立場的に
それは各家の事情によるかとー
秀吉は当時、最大の縁者の秀次を処分してますし
清正がそんなに近い縁者ではないにしろ
後継者が幼く縁者の数が少ない豊臣家だと色々難しいかとー
57 :
名無し曰く、:2011/04/14(木) 21:51:32.49 ID:8iZmhLmk
>>50 清正より秀吉にはるかに近い縁者の杉原氏や小出氏はいずれも数万石の小大名だが。
秀吉の近い縁者で、功績も能力も抜群の浅野長政も清正と大して変わらない石高だし、
自分と秀長の養子以外の縁者には、あまりひいきしないで古参の譜代と同じように扱ったんじゃないか?
58 :
名無し曰く、:2011/05/11(水) 18:51:02.85 ID:ANvKtjs+
一柳兄弟は何故ゲームに登場しないのだろう
59 :
名無し曰く:2011/05/12(木) 22:17:32.09 ID:t58SB2xV
一柳直末「本とににんともかんともでござるよ」
60 :
名無し曰く、:2011/05/12(木) 22:48:02.49 ID:sEO8RmRx
このスレ一ヶ月も埋もれてたのね
61 :
名無し曰く、:2011/05/23(月) 12:26:26.20 ID:AUULxhB4
62 :
名無し曰く、:2011/05/28(土) 21:25:57.96 ID:RPwzF2Vl
佐伯惟定はそろそろそれなりの能力で復活しても良いんじゃないかな。
じいちゃんもちょっと強くなったし
63 :
名無し曰く、:2011/06/03(金) 09:39:06.61 ID:CcBVcWka
藤堂の義理1は変。
弾正と同じはだめだろ。
藤堂は別に主家裏切ってないじゃん。
64 :
名無し曰く、:2011/06/03(金) 10:19:00.54 ID:bPDsQag/
転職重ねてステップアップしってた実力主義者だったようだし
ゲームの駒的にこれはこれで良いとは思う
ただ、ゲーム中で発せられる義理低い武将の台詞って
これまでのシリーズでは、いかにも野心家過ぎたり金に汚い風になってるのがなぁ
それは違うかなとは思うね
65 :
名無し曰く、:2011/06/04(土) 08:06:47.30 ID:BJIGzPgq
転職ってかいつも負け組みについて生き残るから
主家が変わりまくってるだけなんだと思うんだ。
秀長家に対する思い入れはかなり強かったみたいで
太閤の仕打ちに反発してたしけっこう義理がたい人にみえる。
66 :
名無し曰く、:2011/06/05(日) 11:10:53.95 ID:xgDCr9dN
池田勝正は過小評価。
織田信長との戦いとか京都防衛、金ヶ崎撤退戦の活躍を見ると
もっと強くていい。
さっさと追い出されたから知略と政治は低くていい。
統率74武勇65知略34政治32
鉄砲B
くらいで。
67 :
名無し曰く、:2011/06/05(日) 11:41:15.73 ID:vHmz8mMK
いいんじゃねーの
このスレ、直近で読んだ小説に影響された奴多くてなぁ
勝成厨みたいに
68 :
名無し曰く、:2011/06/05(日) 15:59:51.40 ID:yNEoSQZi
69 :
名無し曰く、:2011/06/05(日) 19:07:19.34 ID:kcsrYGic
秀長の死後、養子の秀保(秀次の弟)が跡を継いだけど、早くに死んでしまい秀長の家は断絶してしまう
この秀保の死は病死とされているが謎が多く、秀吉の暗殺説もあったりする
高虎は秀保の死後、高野山に出家している、再三の秀吉の説得により還俗し秀吉に仕えることになるが
このときの高虎の出家は秀吉の大和豊臣家に対する仕打ちに対する抗議とも言われている
70 :
名無し曰く、:2011/06/05(日) 19:13:59.52 ID:yNEoSQZi
>この秀保の死は病死とされているが謎が多く、秀吉の暗殺説もあったりする
当時の秀吉に一門である秀保を殺す理由ってないよね?
有ったりする、というが具体的に誰がそういう説を述べてるの?
>秀吉の大和豊臣家に対する仕打ちに対する抗議とも言われている
後継者が居ないとお家断絶は武家においては極々普通の裁定では?
江戸幕府の武家諸法度でも明言されてるよ
71 :
名無し曰く、:2011/06/05(日) 19:32:18.16 ID:kcsrYGic
>>70 秀保は秀次の弟であり秀保の死の3ヵ月後に秀次は切腹している
秀保が死んだ時期はちょうど秀吉と秀次の緊張関係の真っ只中である
秀保の死は小姓に飛びつかれて一緒に転落死という記録もあるから暗殺という疑いは当時からあるものと思われる
秀保の死後、高虎は秀長の他の養子などを候補にして大和豊臣家を残そうと尽力したけど失敗している
だが秀吉は秀長の家を潰す一方で秀長の家臣団を直臣にしている
秀吉のこういうやり方に高虎は嫌気がさして出家したとも言われている
72 :
名無し曰く、:2011/06/05(日) 19:40:52.26 ID:yNEoSQZi
>暗殺という疑いは当時からあるものと思われる
同時代史料である『多聞院日記』には「中納言死去必定也ト云々」、
つまり粗暴な振る舞いの多かった中納言秀俊が事故死したのは
天罰であると人々が語ったとされる
当時の人は事故死だと思って疑ってなかったようだよ
小姓に抱きつかれて転落死云々は藤堂家の記録だからむしろ後のものだよね?
>高虎は秀長の他の養子などを候補にして
候補になったのは当時高虎の養子だった藤堂高吉でしょ
主家が断絶した状況で自分の庇護下にある男子を後継ぎに推す家臣、
これってその真意を疑われても仕方ない状況だよね
暗殺説を言うならむしろ動機は秀吉ではなく高虎の方に濃厚なんじゃないの?
>説もあったりする
>と思われる
>とも言われている
だからソースは?
もしかして2chで見ただけとかじゃないよね
73 :
名無し曰く、:2011/06/05(日) 20:23:53.53 ID:xgDCr9dN
俺もその話はきいたことあるなあ。
どこでと聞かれるとよくわからんが
昔から結構言われてる話ではある。
後は秀保が死んだ後断絶するていうやり方のが気に入らなかったって
話もきいたことある。
まあ出家したってのは大和豊臣家がなくなったことにおもうところがあったんじゃない?
秀長の墓も直してるよね。
74 :
名無し曰く、:2011/06/05(日) 20:38:27.78 ID:yNEoSQZi
多分同じネットのソースで見ただけでは
きちんとした資料や研究書でそんな言説見たことないから
高虎が秀長に忠誠心を感じるのは立派なことだが、
それが秀吉への不義理の言い訳にはならないと思う
75 :
名無し曰く、:2011/06/06(月) 00:45:54.72 ID:dWt8kzi8
説っつーか小ネタみたいな話じゃねえの?
そんな噂もあったのかもしらんとかどっかの作家がいいだしたのかもしらん。
ネットではないな。
この話きいたのは本だったから。
研究書なんかじゃないよ。
そもそも高虎が出家するのは不義理じゃないんじゃね。
憶測はさまなきゃ秀長に対する義理だろ。
関が原で東軍についたのも旗色をはじめからはっきりさせてたしな。
だったら東軍大名はみんな義理1じゃないとおかしい。
凄く義理堅いてかんじではないが別に裏切ったわけでもないし
主君を暗殺したってわけでもない。
義理1って道三とか弾正につく数値だから高虎につくのは違和感。
義理40〜60くらいじゃないの?
まあ瀕死の浅井に限界まで援軍送った朝倉義景が義理3もおかしいけど。
76 :
名無し曰く、:2011/06/06(月) 01:13:11.65 ID:qWt5ulWD
一時期の織部や有楽といった茶人の知略が一桁とか極端に低かったことあるし
肥の数値配分ルールは妙
77 :
名無し曰く、:2011/06/06(月) 02:03:57.70 ID:ER/TMouI
結局憶測と感情論でしか高虎の不義理を擁護できないわけね
78 :
名無し曰く、:2011/06/10(金) 23:00:48.55 ID:aMXr4MXJ
浅井が倒れりゃ次は朝倉なんだから助けるのは当たり前。
戦国時代なんだから自分の利だけを考えて動くやつしかいないだろ。
義理が高いと言われてる連中だってそうすることで自分の自尊心満たしてたんだから
結局は自分のために行動してたんだしな。
義理じゃなくて欲望に忠実なんだよな
79 :
名無し曰く、:2011/06/18(土) 13:45:06.68 ID:rGvJ11Gs
義理=自分の正当性をアピールするソースとしてはかなり秀逸
>>47 長宗我部躍進のきっかけのひとつに、一条分家(兼定タン)を排除しようと
した一条本家(正一位・関白)の肩入れがある。だから長宗我部には他力本
願な要素が無きにしもあらず。信長の野望の武将プロフにある兼定の評価は
一条本家(公家)の視点から見たもの。戦国武将としての兼定はコーエー査
定の数値ほどに愚鈍ではない。ただ敵対した相手が悪かった。たかだか数万
石の領主レベルでは、正一位の関白様に歯が立たないのは当たり前だ
80 :
名無し曰く、:2011/09/07(水) 08:05:00.14 ID:HBSowHoc
tes
81 :
名無し曰く、:2011/10/18(火) 21:52:19.70 ID:VXX2n+Qs
病状態だと能力低下ってのがあるんだから、老化やイベント補正、ある期間だけの数値とかあってもいいわな
82 :
名無し曰く、:2012/01/13(金) 12:32:37.91 ID:YlaHbDQq
>>81 成長過程で能力が変わる仕様でいいと思うけど
幼年>青年>成年>中年>老年位で
中年あたりをピークにして
教練も成長補正を促すものにすれば壊れコマンドにならないし
例えばS1で青年で出たときは40-40のステータスで
S2で成年になっていたとして45-45がデフォだとした場合
S1から初めて教練しておけば48-42の様に成長を偏るように促すって事ね
83 :
82:2012/01/13(金) 12:35:06.69 ID:YlaHbDQq
初めて×
始めて○
84 :
名無し曰く、:2012/02/06(月) 06:44:52.03 ID:CyGWNqbA
ここって岩城重隆みたいなのはどうすればいいの?
蒼天録では大名だったが
85 :
名無し曰く、:2012/03/13(火) 19:15:49.07 ID:h3XBBy+A
古い時代のほうが過大に設定され気味だね。
で、信玄や謙信みたいな信長よりやや上の世代でピークに。
後半世代になると、真田みたいな例外除いておおむね過少気味に。
まともに考えれば、所詮一地方争覇レベルでひーこらいってるより、全国レベルの万単位動員当たり前の戦いくぐった連中のほうが上のはずなんだが……。
86 :
名無し曰く、:2012/03/13(火) 19:38:57.08 ID:h3XBBy+A
あと後発作品になると、固有戦法とか大名固有技術とか入ってきて数値以外でも過大が進むね。
甲陽軍鑑みたいなほぼ下心丸出しのでっち上げを史実だと思い込んだ奴が設定したってレベルでw
上杉んところの宇佐美さんの過大(ってか実像と全くかけはなれ)も、元は江戸期に軍学で出世しようとした馬鹿に対抗するために、
またでっち上げられた越州軍学という創作の成果だし。
87 :
名無し曰く、:2012/03/14(水) 01:14:54.38 ID:s+oYEufv
本スレは容量イッパイなのでとりあえずここ使おうか
88 :
名無し曰く、:2012/03/14(水) 03:47:42.19 ID:I1WYyh29
具体的に誰がどういう理由でどう過大かというレスがなく主観で決め付けるだけだから反論しようがない
前のテンプレで大名家ごとの大雑把な評価は禁止とかあったのになくなってしまったな
89 :
名無し曰く、:2012/03/14(水) 10:54:59.11 ID:zFuExGgV
>>85 規模が小さいから戦にしても政治にしても個が際立つのを
そのまま数字評価で高くしてるんだろうな、と思う。
90 :
名無し曰く、:2012/03/14(水) 15:09:03.24 ID:2EyDFv5e
規模が小さいからこそ個々の力が物をいう要素もあるし
大規模戦争だからといって一回一回の戦闘で個々の指揮官が大規模な軍隊を繰り出せるわけでもない
繰り出せたとしてもそれはただ単に国力や政略や調略の問題だから統率とは関係ない
91 :
名無し曰く、:2012/03/14(水) 18:44:28.94 ID:ypJBCHYX
>>78 義理を異様に高くするべきだって話じゃなくて
現状の上の人を排除して出世した人レベルの義理はおかしいって話だ
義理20〜30ぐらいなら問題ないだろう
革新や天道だと義理低いほうがプレイヤーにとって使いやすいけど
92 :
名無し曰く、:2012/03/14(水) 20:02:01.94 ID:4z5j/c4s
講談・創作モードと、史実準拠モードを一括で選択できるようにしてほしい。
いちいち適正に編集するのめんどくさい。PKもいるし。
まぁそうなると武田上杉が結構悲惨な事になるんだろうがw
93 :
名無し曰く、:2012/03/14(水) 21:45:57.44 ID:7oL9Fq5x
>>92 適当に修正して北越後を独立させるとトムとジェリーになって丁度いいぞ
94 :
名無し曰く、:2012/03/14(水) 22:12:40.81 ID:2EyDFv5e
相変わらず織田厨は
>>92みたいな低脳ばかりだな
講談で武田上杉が持ち上げられてるってソース出してみろよカス
むしろ森部稲生とか太閤記とか無駄に持ち上げられまくってんの織田の糞武将共だろうがw
史実じゃ一時的に大勢力だっただけなのを江戸期の講談で持ち上げたからあたかも天下人かのように勘違いする馬鹿が増え
基地外のような過大評価を受けるようになったのが織田糞武将
95 :
名無し曰く、:2012/03/14(水) 23:49:56.09 ID:4mng+MDi
武田厨は糞ばっかだなw
創価のお膝元に引っ込んでろ
96 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 01:16:54.30 ID:fAWF3D/j
>>94 一時的にでも大勢力になった織田>>>一時的にでも大勢力になれなかった武田・上杉
といいたいんですねわかります
97 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 02:45:51.64 ID:NlQV4EzR
上杉は謙信晩年の一時期かなり大勢力だろ
98 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 04:01:17.62 ID:DFv4C6dj
領国だけ並べてみるか(いずれも死亡の直前)
織田信長:尾張、美濃、伊勢、志摩、近江、越前、加賀、能登、山城、大和、丹波、丹後、播磨、因幡、但馬、摂津、河内
三河一部、越中一部、和泉一部
これに徳川氏、宇喜多氏などの領国が加わる。姉小路氏も従属か?
上杉謙信:越後、越中、能登
加賀一部、上野一部、信濃一部
ほか関東に支配圏が及んだ時期もあった
武田信玄:甲斐、駿河
信濃一部、遠江一部、三河一部、上野一部、飛騨一部、美濃一部
織田徳川と敵対した際に増やした部分も多い
江戸時代の顛末
織田信長:息子の織田信雄、弟の織田信包、織田長益が大名に。ほか高家旗本になった家も。石高はおおよそ10万石。
上杉謙信:後継者争いを経て上杉景勝が当主に。紆余曲折を経て米沢30万石に落ち着く
武田信玄:次代勝頼の代に滅亡。以後大名家としての武田家は存在しなくなる。
99 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 04:10:06.80 ID:DFv4C6dj
すまん、信長つけたし
甲斐一部、信濃一部、上野一部もそうだね。武田が滅ぶのは信長が死ぬ前だし
100 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 04:54:13.44 ID:NlQV4EzR
信長の場合
配下に討たれて全て崩壊したから領土拡張率は0
101 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 05:03:41.67 ID:NlQV4EzR
領土拡張率とか事績はその人のある地点ではなく
最初から最期までの事だからな
最期の都合悪い部分だけ特別扱いする必要はない
102 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 07:02:57.19 ID:R9gRNA2L
武田も勝頼が亡ぼされたから、拡張率はゼロでいいよねw
上杉は関ヶ原までもったから大目に見るわ
103 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 07:56:31.57 ID:33yWPQG5
配下に討たれたら0ってことは大内義隆も大友義鑑も0?
なんかやだなぁ
104 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 08:15:45.12 ID:NlQV4EzR
信玄が死んだ時点で武田は機能不全になったわけでないから0じゃない
そもそも領土拡張率で能力測ろうとする考えが間違い。
領土拡張率なら宇喜多直家、小笠原貞慶あたりが最強になるというだけ。
信長なんて3傑で一番下だし
105 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 09:08:52.96 ID:KQmkBxWq
論理はおろか屁理屈にすらなっていないのだが
106 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 11:07:02.79 ID:U5dhiCp1
否定する前に具体的に反論しろよタコ
107 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 12:04:54.25 ID:cRCKhqVQ
信長も死んだら明智が離反したぐらいで清洲会議で集まったりまだ織田家としては統率されてたのは無視なのか
108 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 12:59:35.36 ID:RIDSw5zM
支離滅裂な文への反論ってなんだ
添削してやればいいのか
109 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 13:16:11.53 ID:U5dhiCp1
信長が死んだ途端、信長の家臣は織田家として機能せず皆好き勝手に行動しまくるだけ。
神戸北畠は分家であって織田とは別物。織田家ではない。秀信は幼すぎて実権なし。
現に織田武将達は信雄信孝秀信を当主として機能していないから実質織田家は信長の死と同時に崩壊。
別の家臣の秀吉に織田は乗っ取られ
(多聞院日記「おおむね羽柴がままの様なり」と信長死後
たった『25日後』には完全に秀吉が清洲会議を支配し織田乗っ取り開始)
家康には甲斐・信濃を横領され
森長可は信長の遺命を無視して団の岩村の領土を襲撃横領
斎藤利堯なんて岐阜城を占領して自立するべく勝手に
安堵状を発給しまくる始末
織田信澄を勝手に殺しちゃったり
興福寺も信長死んだ途端に葬儀すらやらずに領地分捕りに熱心とか
これじゃダメ過ぎだろ…などと呆れ果ててるから
織田なんて家臣謀反で遅かれ早かれ崩壊予定だった。
本能寺の変を聞いて魚津から撤退中に宴会やる北陸軍
柴田が光秀射ちにいくよってやる気なしポーズで体面を飾ると、
利家は信長娘婿の息子を持つ立場なのに
無理だな。どうしてもってんなちょっとだけ兵送るけどなどと信長への冷酷態度。
明智光秀とお前らつながってたんじゃないかと思せる鈍さ。
前久も榊原康政に京の情勢は内輪之申事共と信長殺害を織田家臣の内輪揉めと発言してるし
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。実は利家って信長嫌いだったろw
みんな信長死んだ途端にめちゃくちゃに振舞ってるじゃん
110 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 14:45:19.43 ID:Lp23c1E7
それ信長死んで大分たってね
謙信もごっそり減っちまうじゃねえか
ただ単に信玄贔屓したいだけだろお前
111 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 14:53:28.76 ID:+/Ps/0DT
信長の死と同時だろ
信長の死&明智の謀反を諸将が知った時のリアクションが
>>109 秀吉なんて野望むき出しだし他の連中も然り
誰も信雄、信孝、信包、秀信あたりを主君として動いていない
秀信が主君に決まったけど結局実権が秀吉に返上されず申し訳程度に小さな領土与えられただけ
秀吉が織田家の武将としてではなくただ織田家と関係なく動き回ってたのは明白
織田家の家臣としての行動なら織田家に秀吉の領土全部返して実権渡さなきゃいけないんだから
112 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 15:04:23.56 ID:jp1Jpl1C
アスペルガーだが まとめWIKI
http://www26.atwiki.jp/dagamatome/ アスペルガーだがってどんな人?
その名の通り、アスペルガー症候群に見られる、頑固・執拗・妄想の激しい人物です。
武田信玄を信奉していて信玄なら天下を取れたと信じ込んでいます。一方で織田信長が大嫌い、徹底的にこき下ろしています。
ちょっとでも武田を叩いたり信長を持ち上げたりする書き込みは絶対に許さないのがだがの信条。
だがは織田厨という人物を目の敵にしています。織田厨は一人しかおらず、武田を叩いたり信長を持ち上げるのは 全て一人の織田厨によるもの と信じ込んでいます。
もちろんあなたも武田を叩いたり信長を持ち上げたりする書き込みをすれば、だがから織田厨の認定を授けてもらえます。
こんなにたくさんの書き込み、一人で書き込むなんて物理的に無理だし、互いに異なる意見をかわしあっているのに同一人物による書き込みとするのは辻褄が合わないのでは…?そんな常識はだがには通用しません。全部織田厨の自演だそうです。
一応社会人のようです。
忙しい合間をぬって織田厨叩きの活動を続けています。大変な執念の持ち主です。
アスペルガーだがはどこに現れるの?
巨大掲示板2chの織田信長、武田信玄に関連するスレに出没します。
板は問いません。主な出没板は戦国板・歴史ゲーム板・日本史板ですが、他にも世界史板や歴史難民板、漫画板など あらゆる板の織田武田関連の話題のあるスレに出没します。
そしてそれらのスレでの都合の悪い書き込みは全て一人の織田厨によるものと思い込んでいます。
アスペルガーだがの書き込みの特徴は?
織田厨と見られる書き込みに対して、全てに反論レスします。律儀にレスアンカー付きで。
例え何ヶ月も前の書き込みであろうと、掘り起こしてレスします。亀レスなどまったく気にしません。
口調はいつも上から目線。とても偉そうな態度で書き込みます。
だがの名前の由来は、「〜だが。」で終わる自己顕示欲の激しい文章を書くことが多いから。
暴言雑言当たり前です。モラルやマナーというものは持ち合わせていません。
強迫性障害と見られ、 レスしなかったら負け と考えています。
まともな議論の時でも、苦しくなると揚げ足取りや知能障害を起こして有耶無耶にしようとします。
別の話題の時でも、「信長はもっと負けてるけどな」などと無理矢理信長の話題に逸らそうとします。そして信長の話になればお決まりの織田厨認定が待っています。
苦しくなると無理な要求を突きつけて自論を正当化しようとするのもだがの常套手段。「武田が負けたって?具体的に武田が負けたと書かれている資料を出せ」etc.
アスペルガーだがはどこに住んでるの?
神奈川県
でも地元の北条は嫌い。
113 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 15:13:53.99 ID:+/Ps/0DT
別にだが認定しようと構わんけどそれと議論とは別問題
だがだろうが織田厨だろうが筋が通れば正しい
筋が通らなければ間違い
ただそれだけ
114 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 15:21:56.17 ID:RIDSw5zM
筋を通したいならまず作文のお勉強してこい
ただそれだけ
115 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 15:23:07.26 ID:+/Ps/0DT
そうやって罵倒しかできないのは自分が負けましたって言ってるのと同義
哀れな織田厨
116 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 15:25:01.93 ID:0TtlKYLv
アスペルガーだがは2chが雇ってるプロ固定の一人。2chを荒らしたり煽ったりして盛り上げるのが仕事のチンピラ。
それを突っ込まれたのがよほど都合が悪かったのか本スレをコピペで埋めた。
117 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 15:25:37.35 ID:RIDSw5zM
別に織田厨認定しようと構わんけどそれと読む気の失せるお前の文章とは別問題
118 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 15:35:47.01 ID:+/Ps/0DT
数行しか書いてなくても読む気うせるなんて素晴らしい頭脳の持ち主ですね
119 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 15:57:44.19 ID:5HUvlYSj
ていうか家臣スレじゃないのかよここ
勢力別の家臣語るならともかくスレチな上に煽りあうとか氏ね
120 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 16:32:07.86 ID:0TtlKYLv
だががしつこいのは当たり前。
なぜならそれが仕事だから。
だがが自分の仕事について頑なに口を閉ざす(でもニートではないと強く主張)のは
それが2ch上層部から口止めされてるから。
121 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 16:38:57.16 ID:0TtlKYLv
122 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 16:44:51.21 ID:+/Ps/0DT
本人かどうか確かめもせずどーでもいいコテ叩きに終始して空しくないか
123 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 16:48:37.42 ID:0TtlKYLv
さりげなく人格変えてだが擁護と。
だが乙!
124 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 18:07:19.22 ID:YZMZC/dR
やっぱ最終的に天下三傑の勢力に押さえ込まれたコンプレックスがあるのかな、甲信越は。
遅れた国人連合体・略奪で領民食わせてたゆえ、限界があった点をゲームでどうステ化するか、となると難しいが……。
まぁ、創作の中だけでは凄かった事にしたいというのはわかる。
信玄なんぞ、信長に「貴方以外味方いない、見捨てられたらウチは滅亡です」となきつくレベルなのが実相だったわけだが。
125 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 18:14:03.23 ID:+/Ps/0DT
それまんま信長のことやん
126 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 18:16:18.59 ID:YZMZC/dR
どこが?
127 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 21:04:10.43 ID:yavO/ekC
まあ信長より4年も長く生きてる癖に最大領土は信長の半分以下だからな信玄は
128 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 21:07:21.18 ID:lssuaIIS
信長の近くに強い大名いたっけ?
初期の義元くらいじゃね
129 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 21:09:44.13 ID:+/Ps/0DT
信長は領土拡張率0 ある人の事績の評価で最期だけ特別視して考えるのは間違い
信玄は領土拡張率6倍
130 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 21:19:19.45 ID:yavO/ekC
それおかしくね?少なくとも清洲会議までは織田としてまとまって領土配分行ってるんだかは謀反されたら全部ないっておかしくね?
131 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 21:24:43.24 ID:gNZMQ9Q0
ある人って誰やねん
尼子経久なんか説明のとこに最大版図の評価がされてるんだからのぶやぼじゃ最大版図が評価対象なんでしょ
死んだ時の領地だと色々評価し辛い人がぼちぼちいるからね
132 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 21:31:19.56 ID:+/Ps/0DT
133 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 21:41:05.54 ID:gNZMQ9Q0
いや清洲会議以降の事を挙げられても
まず信雄が織田じゃないとか訳のわからん事言ってる時点でなんかもうダメだ
配分=織田の領土だったんだから信長が死んだ瞬間織田の領地が消えたわけじゃないじゃん
信長が死に光秀が織田領全部ぶん取ったんならともかく名義的には配分した領地全部信長のもんだろ
134 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 21:46:33.46 ID:de1l43vW
信玄に都合のいいように解釈しようとしてるんだから無駄
普通評価は一番でかい領地の時
じゃなきゃ政宗や島津までクソレベルになる
135 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 22:02:30.44 ID:+/Ps/0DT
清洲会議以前でも織田家として機能してないじゃん
>>109 織田家として機能してるというなら秀吉は織田家の武将という事になり
誰か一問の連中に実権返さなきゃいけない
信雄信孝は神戸北畠の人間であって織田家の人間ではない
信長死んだ途端機能不全になったんだから領土拡張率は0
残念だったな
評価は最初から最期まで。都合悪い部分だけカットするとかそれこそ都合いいのにも程がある
136 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 22:04:13.54 ID:OJ8klSMg
信長の滅ぼしたor従属させた大名等(有名どころのみ)
足利家一門:足利
三管領:細川、斯波、畠山
四職:赤松、一色、京極、山名
南北朝時代からの古豪:北畠
応仁の乱からの古豪:朝倉
元覇者:三好
その他源氏:六角、武田
成り上がり:斎藤、宇喜多
宗教勢力:本願寺、比叡山
あー、のぶながってざこしかあいてしてないなー(棒
137 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 22:07:42.30 ID:+/Ps/0DT
信長の勢力国力レベルから考えたら皆雑魚だな
連携の悪い連合軍だったから各個撃破可能だったし信玄生きてる時は普通に押されてたし
あと一番大事な「織田家」を忘れてるぞ
138 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 22:09:51.57 ID:+/Ps/0DT
めんどいからコピペ
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに
義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし
本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど
(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。
信長の戦下手は神レベルだよな。
139 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 22:10:38.86 ID:+/Ps/0DT
信玄は国も貧困、山間で移動も大変、周辺は強国ばかり。領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で 山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチで
ぶつかり合い長尾も介入してくる 状況で信濃を取った点や北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど
攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事
など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。
上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して
何人も討ち取っている。信長は大軍で弱体化した小勢力に何回も負ける
斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に
痛打を加えられず。 大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、
屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人殺された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。
版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や
関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで
大変、武田以上に京まで遠く雪による制約も大きく関東、信濃、奥州、北陸
多方面戦略を展開してた上杉とは条件が違いすぎる
織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。北伊勢含めばもっと上がる。
幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。
尾張は石高的にかなり条件の良い国 京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。
京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば思い立ったら上洛できる位置。 西は木曽・揖斐川の大河に守られ
東と結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに
領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく
武田の本拠地も遠い。周りの大名も今川義元は運良く戦死 跡継ぎの氏真は暗愚
松平家は独立 同盟で後方の安全を確保
斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名
六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた
三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者
織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅
足利義昭も信長の所に来た
当時の武田の状況での信濃攻略は飛騨の三木家が斉藤滅ぼすのと同じくらい難易度高いだろw
強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
140 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 22:11:24.88 ID:+/Ps/0DT
幼君斎藤龍興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
141 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 22:12:15.68 ID:+/Ps/0DT
濃尾だけで100万石オーバーじゃねぇかw
織田は信秀時代ですらすでに朝廷への献金額も異常だし
織田家のボンボン嫡男に過ぎない時代で趣味ですでに高価な鉄砲を大量所持して
美濃国守の道三がビックリしてたし 幼少の家康を買い取った時の
たかが人質買い取りにしては桁外れの金額を即金で払った財力からしてかなり豊かだろうが。
信長は完全にチートスタートだ。
津島や熱田の海上貿易通商路を押さえた信秀のボンボン息子でお小遣いをたくさん持ってた
吉法師は将軍義輝が六角氏に命じて近江国友村に作らせた鉄砲製造所で試作がようやく完成したばかりであったが
さっそく大量の六匁玉の鉄砲を発注していたので道三との会見においてすでに五百梃の鉄砲と火薬を持ってた。
1543年2月信秀は平手政秀を通じて内裏修造費用4千貫文を貢納。
3年前にも伊勢豊受大神宮仮殿造営費700貫文を献納していたのにも関わらず。
田原城主戸田家臣又右衞門が拉致った松平竹千代を五百貫文の破格の大金でキャッシュ即払いした信秀
超イージーモードの織田家に自ら刃向かうバカはいません。
信長公記の記述する戦はデタラメばっかりです。
信玄は父を追放した権臣たちの操り人形の傀儡として祭り上げられ家臣団による合議体制となった。
信玄がその恐怖から脱したのは村上との敗戦を招いた権臣たちの討ち死にが契機となる。
一方、信長は斎藤道三の後見により確固たる地位を保持しており
三河でも水野を防波堤となし
将来の危険の芽を摘むべく弱者を追い詰め蜂起させて圧倒的戦力で叩き潰し直轄領化を推進していく。
義元は自国と尾張の隔絶した国力差に危機感を抱き
是が非でも三河の安定領国化を成さねばならない追い詰められた状況だった。
尾張より国力の小さい美濃攻略に11年
その後、将軍チートで簡単に上洛できただけ
しかしその後、信玄に滅亡寸前に追いやられるのが信長
甲斐の2倍の国力ある信濃を攻略できた信玄とはレベルが違い過ぎる。
斎藤は当主の相次ぐ死による交代で衰退し美濃国人衆は見限り初めて瓦解期に入っていた。
村上は地の利を占め逆に領土拡大する隆盛期に入っていた。
そんだけ信長が戦下手だという証拠。
そりゃそうだ。信長には敵を外交で一つに絞って
戦力の集中をすると言う軍事の基本すら理解できてない素人。
経済力を背景に負けても負けても侵攻を執拗に続けるだけのバカ。
領土拡大なんて濃尾の平野&湾岸の異常な石高と経済力を背景にすれば楽勝だろ。
むしろ無駄に摩擦と衝突を引き起こして同時に複数国で混乱を起こさせて勝つまで
執拗に攻め込みまくる信長のやり方は無駄に時間を浪費させただけに過ぎない。
142 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 22:13:02.72 ID:+/Ps/0DT
斯波氏に関しては今川の捕虜になった斯波義達の跡を継いだ
義統が3歳の幼君なのを良いことに守護代織田氏は専横して傀儡に成り下がって実権なし。
信秀は今川義元の弟で捕虜になった斯波義達の娘を娶って尾張に来た今川氏豊を討って
今川の尾張支配の牙城那古野城を奪取するなど今川勢力を尾張国から一掃してる。
織田大和守家の分家で清洲三奉行「織田弾正忠家」の勢威は主家を上回っており押さえられる者はいなかった。
それは大和守家の織田達勝の娘が信秀によって離縁させられてるのでもわかる。
(大和守家織田達勝と三奉行家の「織田藤左衛門家」が共同して信秀に当たっても勝てなかった)
1547年の信秀の稲葉山城攻撃では岩倉方織田伊勢守の一族や中嶋郡の豪族など
尾張北西部の者どもが先鋒をしていて「織田伊勢守家」岩倉織田家家中もすでに傘下に組み込んでいるのがわかる。
さらに朝倉孝景の軍も信秀の援軍にやってきていて
稲葉山城包囲は25000の兵が動員されたほどに信秀の威勢は巨大だった。
稲葉山城攻防において夕闇が迫り一時撤退した油断を突かれて道三の奇襲で破れたものの
次の大垣城攻防戦では道三も驚く速さで渡河した信秀は
電光石火の進軍で火をかけながら稲葉山城方面を急襲しようとしたために
驚いた道三が大垣城攻撃を諦めて撤退してる。
(藤左衛門家もこの時に信秀配下として軍事行動をしており信秀は尾張の大半から動員していた)
「織田伊勢守家」岩倉織田を継いだ織田信安(妹は信秀側室・のち信秀妹を娶る)は
「織田大和守家」から入った人物で幼君を口実に犬山城で後見監視してたのが信秀の弟の信康なわけで、
ぶっちゃけ尾張は信秀がほぼ制していたと言っていい。
1549年正月17日の信秀弟の信康の子の犬山城主織田信清の謀反に至っては信秀が急を聞き即日撃破してるほどの圧勝し
2月25日には何事も無く平穏であり美濃から帰蝶が無事に尾張へ輿入れして信長は強力な後ろ盾を得てる。
3月に入り太原雪斎に安祥城を攻められるが頑強な抵抗をしており
本多忠勝の父が討ち死にするなど今川全軍を撤退に追い込んでる。
11月8日の再攻撃で火縄銃を投入しやっと安祥城を落とせたほど苦労してるので尾張への軍事行動が断念されてる。
安祥城落城も雪斎が非常に攻めづらい城南からの奇襲で
城側は油断しきって防備が甘かったって言う奇略で1日で落としたって話だし。
これはもう信秀の失敗とは言えないよな。
それに三河国碧海郡にあった刈谷城を本拠地にしていた三河の大身と呼ばれた水野信元が信秀側だったから
織田の三河進出の拠点は失ってねーし、結局、信秀は尾張の旗頭として
国内に敵を入れることはなかった(守山崩れの例外があるが)
今川とも竹千代交換して和議が成り信秀の晩年は内外ともに安定してる。
清洲三奉行因幡守家から織田大和守家の織田達勝の養子になったと言われる織田信友は
織田伊勢守家同様にすでに家臣団を信秀に奪われ傀儡守護の斯波義統を擁立していたと言う
一点でかろうじて信秀の主君と言う名目的地位を維持できていたにすぎず軍事的には信秀に屈していた。
父から信長が与えられた名古屋城の税だけでそんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
大和守家の織田信友はすでに清洲城しかない孤立した状態で信秀に屈していたのに、
美濃の道三の後ろ盾がある信長に刃向かうこと自体が
獅子に立ち向かう蟻も同然で明らかに信長による排除の謀略に引っかかっての無謀な挙兵だろうな。
のちに武力で勝てないから信長暗殺計画を考えてたら、
信長にチクられたとして斯波義統を暗殺しちゃって自爆するし謀略に簡単に引っかかる超バカ殿だろ…
143 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 22:21:19.87 ID:+/Ps/0DT
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請した
9/20信長が摂津から志賀に到着。
10/4以降、12月まで信長が山城や摂津で徳政令を濫発して人心を得ようと必死w
10/20には比叡山や朝倉や浅井が下山して一条寺、高野、松崎を放火(言継日記)
11/12朝倉らは4万で信長方は8000とのこと(尋憲記)
朝倉らは修学寺や10/21には大津も焼いていて美濃への通路無候と書く(尋憲記)
三河物語は朝倉3万・織田1万以内で岐阜への道も塞がれたと記す。
信長が決戦しようと申し出たのを朝倉がシカトしたのは篠原長房ら三好勢&一揆勢を待っていたから。
10/22三好三人衆山城国御牧城を落城させ、河内国高屋城・烏帽子形城を攻める。
大胡武蔵守との面談によると義昭奉公衆も宇治へ出陣して帰るも、御牧城落城により
奉公衆と尾張衆を率いた秀吉が山城国へ出撃(言継日記)
10/21和田書状によると信長にも通報し、京都御人数残らず仰せ付ける。
南方衆必定京都へ可罷上候として一大事だとする。
10/22若狭武田氏が信長に対し挙兵(言継日記)
三好三人衆の入京を阻止すべく織田必死乙w
10/22義昭側近上野信恵→草刈景継
因幡美作の国人の草刈家文書(父の代から毛利に従っていた草刈景継だったが
新たに帰属した武田高信を厚遇したことに反発し織田へ内応するものちバレて毛利に殺される)
によると信長の朝倉討伐の時に離反した浅井は
京へ攻め入ったと書いてあり、信長の背後を襲ったわけじゃないとわかる。
備前浦上宗景と三好三人衆が播磨三木城を攻めるので草刈景継に浦上攻めを要請する。
青蓮院→下間丹後頼総宛10月末に細川藤孝が青蓮院門跡尊朝法親王に
本願寺との和睦斡旋を哀願してる事実・・・11/13に顕如が和睦受諾。
11/1将軍参賀の集まりが悪く義昭不興(言継日記)
11/5比叡山・朝倉らの京進入の風説に警戒する。
11/6浅井久政が佐和山籠城中の島秀宣に比叡山戦線は何事もなく平穏で
本意案の内と書いている(計画通りだ)
11/21信長が兵糧米を要求通り納付しない場合は徳政免除を停止し
御成敗すると豹変し方針変更して恫喝し始める(光源院文書)
(朝倉家記にも兵糧乏しいので将軍も信長も攻めあぐんでいたと記している)
織田信興が下間頼旦・下間頼盛らが率いる伊勢長島門徒に攻撃され殺される。
11/21柏原合戦などたびたび合戦あり朝倉軍勝利を続ける(夾迎寺文書と正月22日山崎吉家→直江景綱書状)
11/26志賀郡堅田大手口合戦によって織田大敗し坂井政尚や氏家朴全の弟や
郡上両遠藤氏の親織田方の遠藤胤俊らが討死。
(濃北一覧によると郡上勢は500討死し路地は敵だらけなので大徳寺に僧形し隠れ続け
郡上から迎えがきたので帰郷するも胤俊に子息無し)
美濃の飯沼氏が一族39騎が立正寺境内で討死するなど織田方のかなりの決定的大敗だったのが窺える。
顕如の12/3の朝倉義景宛書状でも「毎度勝利を得て珍重」
景健宛「毎度勝利を得て珍重」
義鏡宛「毎度勝利を得て比類無き」と書いてある。
志賀・高島・三浦の門徒も織田を敗走させたことを慈敬寺より丹後法印が聞いたと書く書状あり。
堅田搦手口合戦でも朝倉軍大勝(片岡文書)
堅田構口合戦でも織田軍敗走(松田文書)
この大敗により中山家記によると11/28義昭が三井寺へ移御座、一和之儀を懇望してきたことが
正月22日山崎吉家→直江景綱へ返信した書状にある。
12/7京で大火発生し知恩院里坊や勧修寺や大聖寺などが消失し乱暴狼藉発生し極度に混乱する。
12/9綸旨によって比叡山の山門領の保証が約束される。
伏見宮の記録によると
12/12信長から義昭にも和睦を受け入れてもらうため比叡山にいろいろと書状を出したことを報告。
12/14朝倉・比叡山と信長が和睦。(尋憲記には御下知・信長誓紙・御内書・綸旨などいろいろ出しても
比叡山がなかなか承諾せず難航したとか書かれている)
12/14信玄に宛てて顕如が妻の三条氏が亡くなられたお悔やみの書状を下間丹後頼総に持たせ派遣。
12/15義景から比叡山に勅命上意・六角定頼時代の山門領地を保証する信長の誓書も貰ったと書いてある。
12/16両軍帰国。
144 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 22:38:40.45 ID:RIDSw5zM
ほらすぐ馬脚を現しやがった
一々姑息な癖に学習しない奴だ
145 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 22:40:25.07 ID:fAWF3D/j
>めんどいからコピペ
長文コピペで荒らして容量圧迫してスレ落とそうとかもう完全に規制対象だと思うんだがなぁ
146 :
名無し曰く、:2012/03/15(木) 22:41:04.79 ID:+/Ps/0DT
そら反論内容は全てコピペ内に含まれているというだけ
いちいち反論とか面倒でやっとれん
147 :
名無し曰く、:2012/03/16(金) 00:15:30.49 ID:ZQpmEXs9
所詮だがは2ch運営陣の中でも下っ端。削除や管理の権限は与えられてない。
なぜなら馬鹿だから。
一般利用者と同じように荒らすことしかできない。
だからもらえる金も小遣い程度だろ。
148 :
名無し曰く、:2012/03/16(金) 00:23:34.28 ID:gEEE6g24
待てよ だがさんはエリート銀行員だぞ
信用金庫だけど(ボソッ
149 :
名無し曰く、:2012/03/16(金) 00:34:44.62 ID:6xUMIbYC
作品ごとにばらけるが忍者達の能力値は少し高く感じるな
滝川一益も不遇な晩年を見るともっと抑えても良いな
150 :
名無し曰く、:2012/03/16(金) 02:25:13.20 ID:gEEE6g24
不遇だから格下げなら武田四天王とか激ヤバだろ
151 :
名無し曰く、:2012/03/16(金) 21:21:07.92 ID:a+FMM1DY
上杉・武田を肌で知ってる直江兼続に、「信玄公や謙信公でもこれほどの武勇ではなかった」といわせちゃた鮭延秀綱の数値が……。
史実で強いはずの連中、不遇だな。
講談創作で持ち上げられないとそれまでか。
その割りに、講談補正から外される場合がおおい近畿勢w
152 :
名無し曰く、:2012/03/16(金) 21:39:37.62 ID:Ngs7KntJ
世代的に微妙なところだ>兼続
153 :
名無し曰く、:2012/03/16(金) 21:41:45.38 ID:SM0XhZuh
畿内の武将で講談ってどんなものがあるの?
そもそもどんな講談があるの?
154 :
名無し曰く、:2012/03/16(金) 21:57:24.21 ID:dzaIC6mC
講談ってのは軍記の読み聞かせをやったりする出し物の演目
なので軍記の記述=講談のような話
155 :
名無し曰く、:2012/03/16(金) 21:58:31.14 ID:LUM8ba05
雑賀孫市なんて『石山軍記』補正のお陰じゃないの
ゲームではその影響で戦闘能力のみならず知力まで一流の軍師格
156 :
名無し曰く、:2012/03/17(土) 17:10:16.64 ID:cGOd1ypu
孫市はあれ雑賀衆全体の評価含んでるよな
下間と同じタイプ
157 :
名無し曰く、:2012/03/18(日) 15:31:58.88 ID:aLXq8nby
武田の過大はシステム的なもん(騎馬優遇)とあいまって目立つからなあ。
上杉も謙信が過大すぎるが、逆にそれ以外は抑え気味で穴があるのに。
織田相手はもちろん、弱小時代の徳川相手に騙まし討ち、違約、火事場泥棒繰り返してそれでも結局勝てなかった程度なのに。
なんというか、武田家遺臣団がコンプレックス解消と出世手段として創作した話がそのままゲーム設定に継承されているというか。
史実武田の泣き所だった乏しい農産財源関連も過大だから、もっと酷いか?w
158 :
名無し曰く、:2012/03/18(日) 17:26:56.59 ID:rp3GxYyt
武田が過大なのは国力と騎馬の優遇があるだけ
史実にのっとって国力を下げて騎馬の優位性を抑えれば拡張も一気に滞る
織田相手でも三方が原上村東美濃攻防戦と勝ちまくり
信長より強い徳川軍相手でもさして攻め込みやすい地勢条件とはいえず
攻撃側としては兵力差2.5倍でそこまで圧倒的でもないのに物凄い勢いで侵略しまくり
滅亡寸前に追い込み、長篠までは一方的攻勢、長篠後ですら単独では中々進めないほど敢闘したのが武田
159 :
名無し曰く、:2012/03/18(日) 17:28:22.71 ID:Yin9GIiO
160 :
名無し曰く、:2012/03/18(日) 18:20:27.30 ID:6RyMSuEq
敢闘したにしては大して領土切り取れなかったっすよねw
しょぼwだがさんとsubさんくらいしょぼいっすわ
161 :
名無し曰く、:2012/03/18(日) 20:00:41.10 ID:MXQUSoTE
だからそれらは火事場泥棒や違約攻撃の成果じゃん。
勝ちまくりって例によって後世創作含みだろ?
徳川はディスるわけにはいかないから微妙な万歳している軍鑑あたりの。
東美濃で少数の織田勢に撃破された話とか見事スルーのw
162 :
名無し曰く、:2012/03/18(日) 20:46:41.25 ID:rp3GxYyt
火事場泥棒や違約攻撃?織田が違約違反で侵攻しまくりしかも自爆した武田や分裂状態だった斉藤攻略、
動乱の影響でクタクタな状態になった畿内を火事場泥棒した信長の事か?
後世創作?一次資料にない桶狭間や講談創作100%の森部や稲生、天王寺の事?
徳川が圧倒的に強いのは三河平定戦や今川・吉良攻略、姉川、対北条、秀吉、豊臣などで確定している
西三河小領主から天下取ったのが家康。甲陽軍艦?むしろ武田の敵の連中のが講談補正受けまくりだろ。長野とかな
小田井原なんて軍艦どころか妙法寺記にもソースありだしな
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状
遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候
などと書いてあって織田と武田の間で
数多討ち取るような戦火が東美濃であったのは間違いないと柴辻氏が指摘してる。
また信玄三河から信濃へ撤退する6日前の
元亀4年3/6に秋山虎繁に東美濃出陣を命じていて
本願寺から朝倉出陣予定を聞いた信玄による
実質上の美濃侵攻の先鋒を兼ねていた。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
163 :
名無し曰く、:2012/03/18(日) 23:55:59.61 ID:0MxH6nZo
こんな書き込みでひろゆきから金もらえるんだから楽な商売だな。
それでもひろゆきが逮捕されるまでの話だが。
164 :
名無し曰く、:2012/03/18(日) 23:59:04.97 ID:Yin9GIiO
まあどのみち信長・家康よりはるか下にいるのが信玄だから。
165 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 05:16:36.04 ID:DEGhVZ3x
信長家康どころかその辺の地方群雄すら怪しい。
今川義元が死ぬまで終生義元に媚び売ってた武田信玄だからな。
倒したのは統率1ケタの氏真と信玄贔屓に押し上げられた超インフレ信濃国衆。
166 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 11:59:27.02 ID:HGX09ejq
武田の過大評価で気持ち悪いのは、信玄期万歳したいための創作・敵対ディスりだけじゃ飽き足らず身内までsageてるところだよな。
馬場が信玄の命令無視して無駄帰国したり放火しても何もいえなかった統制力の弱さを美談に仕立てたり。
長篠でその場にいなかったり、信玄時代からの重臣だったりする跡部や長坂を新興の奸臣に仕立てて責任押し付けたり。
コーエーのおかしな評価でもそれは継承され続けているという。
167 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 12:15:37.87 ID:bPrSk6kQ
別に義元に媚売ったから義元以下になるわけじゃないし氏真は一桁でも朝比奈・岡部・久野など
今川有力旧臣は健在だし対今川戦では北条、信濃攻略で山之内上杉や長尾などの参戦があったし上野の国人連中も倒したし
信濃自体地勢が割拠的で地元の有力豪族の力が強くて統一が非常に困難なだけ
身内をsageてるなら全然過大評価じゃないやん。しかも長野の講談とか
小山田信有が村上戦の傷が元で死んだとか山勘が川中島で討ち取られたとか
敵を万歳する講談ばっかじゃん
馬場なんて70台じゃなかったっけ?大して高く設定されてないし
長篠は革新の時はちゃんと勝頼の知略にも反映されてただろ
今は再評価論者がうるさくなって補正がかかったが
168 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 13:16:47.71 ID:HGX09ejq
>>167 五名臣()ageるために他勢力だけじゃなく、長らく武田を支えた重臣さえディスる性根にあきれているんだよ。
長篠の大敗の責任ある連中が過大数値ばかりじゃん。
馬場の無断帰国咎められなかったように、重臣の同意がなけりゃ武田は決戦できんかったのが史実だよ。
169 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 13:23:36.01 ID:HGX09ejq
だいたい武田の真骨頂は、それこそ道義もへったくれもない謀略だろう。
上杉、織田、さらにはより弱小の徳川相手ですら違約・騙まし討ちオンパレード。
雪で動き取れなくなる朝倉をせっついたように、ガチで戦ったら織田には勝てないことはわかっていた。
こういう謀略でなんとかしようとする面をステ的に評価するならともかく、他が過大がすぎるw
170 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 13:33:05.68 ID:z8T9gn4n
天道
統 武 知 政
秋山信友 71 78 75 58
穴山信君 38 19 52 72
甘利虎泰 87 79 65 78
板垣信方 85 56 74 84
一条信龍
小畠虎盛 71 77 51 21
小幡昌盛
飯富虎昌 80 91 41 39
小山田信茂 72 78 58 39
高坂昌信 87 58 84 66
三枝守友
真田信綱 69 78 50 43
真田幸隆 83 60 99 84
武田信繁 79 63 80 75
武田信廉 23 8 38 60
多田満頼 69 80 74 13
土屋昌次 55 76 34 12
内藤昌豊 78 70 82 79
馬場信春 77 86 56 68
原虎胤 73 92 30 9
原昌胤
山県昌景 88 94 69 63
山本勘助 62 41 97 76
横田高松 77 80 63 47
171 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 19:20:08.33 ID:MGLQirMF
徳川家臣団は総じて過少だな。
武田なんて徳川に拾ってもらわなければ創作()の場さえ与えられたか怪しいのに。
平均的に劣っているのは納得いかない。
172 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 19:54:20.51 ID:V8j5Ewwg
比べてみれば武田四名臣(笑)と徳川四天王だと、徳川の方が強くね?
173 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 19:56:31.44 ID:bPrSk6kQ
>>168 軍艦では勝頼が重臣連中の反対押し切って無謀に突っ込んだと書いてあるし
総大将が勝頼なんだから勝頼の判断力に問題があっただけ
>>169 織田や徳川にって元々信長が違約破って遠山をむりやり乗っ取ったのがきっかけだろ
お前だがが言ってたのをムリヤリ信長が斉藤や浅井朝倉など弱小勢力に騙し討ちかけまくった
武田にかぶせて真似してるだけだろ
上杉に違約した事もないし。ガチンコで戦って織田に勝てない勢力なんてほとんどないだろ。
武田はおろか北条、伊達、相馬、田村あたりでも十分可能
何せ圧倒的大軍で弱体化し分裂した雑魚勢力騙し討ちかけまくって負けまくってだけだからなw
>>170 山勘以外おおよそ妥当なラインだろ
依田とか岡部なんてむしろ過小
>>171 武田だけが創作補正大きいというソースよろ
174 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 20:00:03.00 ID:MGLQirMF
>>173 軍鑑は創作。資料として残っている書状でその場にいなかったこと確定の長坂を悪者にしたりとか。
地理的物理的に無理な戦術使ったことになってたりとか。
テンプレの数値サイトさんぐらい見ろよ。
なんで徳川四天王筆頭の統率武勇が武田名臣()に劣っているんだ?
武田軍の致命打になった鳶の巣山奇襲を成功させた酒井だぜ?
175 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 20:02:08.46 ID:MGLQirMF
キモ武田厨(数百年前の残党含む)は、勝頼に殉じて闘死した信玄以来の譜代を貶める、という身内攻撃に何か思うところはなかったんだろうか……。
それで信玄や迷臣持ち上げても……、と普通なら考える。
176 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 20:18:42.39 ID:z8T9gn4n
天道の徳川四天王
酒井忠次 90 78 74 63
本多忠勝 91 98 71 60
榊原康政 90 83 51 46
井伊直政 86 93 72 75
>>174 統率はわずかに勝っている
177 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 20:22:02.58 ID:bPrSk6kQ
>>174 軍艦が創作もあるだろうけどどの大名家であれ大名とは違い家臣個々の能力評価する場合
一次資料に残りづらいから軍記のエピソードに頼ってる部分はある
勝頼はどう見ても馬鹿
かなりの兵力比&まるで城みたいな堅個な陣地&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
こんなとこにムリヤリ突っ込んでいくような馬鹿が大将だから負けただけ
むしろその状況ですら8時間以上戦われ所々柵も破られてるくらい武田は名将ぞろいだったんだから
普通に総大将が馬鹿じゃなく戦ってたら武田が圧勝だったのは間違いない。
背後押さえられた状況で&上記の戦闘で疲弊しまくった状況でも勝頼ら一族衆は退却できたんだから
砦奇襲はそう重要な要素ではない
勝頼が馬鹿な証拠に長篠以外でも御館の乱や新府築城で馬鹿な失態を繰り返している
徳川が過小なだけ
しかも四天王なんて史実で別働隊として一軍隊率いて最強徳川相手で大暴れした山県で80台。
馬場・内藤が70台
これで過大というならもう長篠で敗戦しなくても高天神城攻略か下手したら
信玄時代の三河侵攻、三方が原、東美濃侵攻このあたりで大敗して
長篠では勝頼が討ち取られ瞬殺されていただけ。
一方的劣勢になっておかしくないほどのバランスになるだけ
武田なんて侵攻側として大して巨大とはいえない兵力で地勢的に攻め込みづらい地域攻略しまくってるからね
長篠以降ですら精強徳川軍相手や強国北条相手にかなり敢闘してたしな
178 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 20:28:35.19 ID:OUZtdZrA
天道の武田家配下の査定に関してはかなり文句は減ってる気がする
他に色々と突っ込みどころがあるせいで過大感はあまり減らないが
・信玄が強すぎる
・適正が武田家にマッチしすぎてる
・城増加やら国力高すぎ
179 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 20:37:14.11 ID:bPrSk6kQ
武田なんてむしろ過小だろ
依田、小山田あたりは80台あっていい
援軍も望めない二俣城や田中城で結局最期まで持ち堪えたし
180 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 20:41:57.38 ID:MGLQirMF
>>177 だから武田の失敗を勝頼一人に負わせて、迷臣の過大を守ろうと必死な理由は何?
武田の跡取りだよ? それを貶めてほかをageて何になるの?
仮にその情けない逃げが事実だったとして、じゃあその勝頼を後継にした信玄や周りは馬鹿ですか? ってだけじゃん。
181 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 20:43:47.32 ID:MGLQirMF
敵対だった連中を、滅ぼされた悔しさで創作で攻撃ってのは、まぁ卑しいにしろ感情的にわからなくもない。
だが武田厨は、同じ武田家の中の特定グループをまさにでっちあげで貶めるから異様に思える。
182 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 21:09:32.73 ID:bPrSk6kQ
>>180 いやそれは昔から一般的に言われてきた事で、近年勝頼再評価論者が出てきて話題になったが
事績をシンプルにみれば単に勝頼が馬鹿すぎて長篠での失態、御館の乱の失態、中央集権化の強行による失敗
新府築城による財政逼迫など極端に失態続きで滅びただけだから
勝頼が馬鹿すぎてどうしようもなかっただけなのがわかる
革新では極端な脳筋だったけどあれが実際の勝頼だろう
前に進むしかできない勢いだけの猪武者
183 :
名無し曰く、:2012/03/19(月) 22:38:09.06 ID:oniKfm4z
もはやコピペキャラとのキャラの使い分けが出来なくなってきただが。
まあそれはそれとして、1570年以降の武田は今川の弱小家臣団が配下に付くので過大感は薄まる。
今川家臣評価すると70年以降の武田の強化にも繋がるので悩むところだったり。
184 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 00:26:52.03 ID:nDThcvxx
戦国板でもさんざん関連スレで言われてたけど、武田家を詰ませたのは信玄だよ
外交で敵を作りまくってて、勝頼がどう足掻いても詰んでる
俺も武田家臣については文句はないが、信玄が総合一位は無理がある
天下創世みたく、世代で能力伸びたりするならまだ分かるけど
185 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 08:51:01.50 ID:0t2vFp/4
×散々言われていた
○ある1人が声だかに叫んでいた
186 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 12:21:52.89 ID:nDThcvxx
んじゃあ、勝頼が生き残るには…スレ見てくればいいよ
だがさんとsubとか、頭の膿んでる武田厨と違って、信玄マンセーじゃないからさ
187 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 13:04:53.62 ID:kCVCJCFc
武田で不当に過大評価されている連中と、その犠牲になって過少にされている連中を足して二で割ったら調度いいw
と、思ったけど過大の頭数のほうが多いからそれでもバランス悪いか。
188 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 13:12:33.09 ID:kCVCJCFc
>>184 外敵造りまくり遺恨残しまくり、領国疲弊その他だっけ。
軍事マガジン系だと、家督継承で信虎が作った集権体制が豪族連合体に逆戻りしたロス指摘したのもあったな。
そうなると家臣団にも原因が……特に老臣層。
189 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 13:16:49.61 ID:0t2vFp/4
武田で過大なの勝頼の知略だけ。
そのせいで過小になってる馬場や依田、小山田などを再び適正値に戻せばいいw
と思ったけど軒並み仮称だからそれでもバランス悪いな
勝頼は外敵つくりまくり領国疲弊させ信玄が作った集権体制が長篠の敗戦などの失態で豪族連合体に逆戻りした指摘があったな
そうなると勝頼の知略は革新の数値にもどさなくてはならない
190 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 13:19:02.90 ID:kCVCJCFc
>>189 それは軍鑑の創作信じて、勝頼がそもそも元服してない時期からの失策もそのせいにした与太レベルの話?
っていうか軍鑑ですら、勝頼が智謀をもって信玄さえ落とせなかった高天神城落とした経緯は端折れなかったわけだが……。
もっとも勝っても今度は「強すぎる大将は良くない」と貶めるのがなぁ……。
191 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 13:19:50.37 ID:0t2vFp/4
武田を史実にのっとって適正値に戻す
秋山信友 71 78 75 58⇒83 82 75 58
穴山信君 38 19 52 72
甘利虎泰 87 79 65 78
板垣信方 85 56 74 84
一条信龍
小畠虎盛 71 77 51 21
小幡昌盛
飯富虎昌 80 91 41 39
小山田信茂 72 78 58 39 ⇒83 86 58 70
高坂昌信 87 58 84 66
三枝守友
真田信綱 69 78 50 43 ⇒78 78 50 43
真田幸隆 83 60 99 84
武田信繁 79 63 80 75
武田信廉 23 8 38 60
多田満頼 69 80 74 13
土屋昌次 55 76 34 12
内藤昌豊 78 70 82 79
馬場信春 77 86 56 68 ⇒86 87 69 78
原虎胤 73 92 30 9
原昌胤
山県昌景 88 94 69 63 ⇒95 94 69 63
山本勘助 62 41 97 76
横田高松 77 80 63 47
192 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 13:21:08.96 ID:kCVCJCFc
>>191 だから史実って具体的に何よ?
長篠敗戦を、その場にいなかった連中の経歴を捏造してまで押し付けた話?
その場にいた老臣ズも公平に智謀落とさないと。それでもほかが過大ってかふざけたレベルだけどw
193 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 13:22:20.21 ID:0t2vFp/4
>>190 御館も長篠も新府も勝頼時代の話
信玄時代は特に何も失敗していない
お前の論法は信長死後織田家はめちゃめちゃになったから信長が全て悪いといってのと同じ
まあ信長の場合実際信長に全て滅亡の責任があるがw
194 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 13:23:15.88 ID:0t2vFp/4
軍艦が創作もあるだろうけどどの大名家であれ大名とは違い家臣個々の能力評価する場合
一次資料に残りづらいから軍記のエピソードに頼ってる部分はある
勝頼はどう見ても馬鹿
かなりの兵力比&まるで城みたいな堅個な陣地&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
こんなとこにムリヤリ突っ込んでいくような馬鹿が大将だから負けただけ
むしろその状況ですら8時間以上戦われ所々柵も破られてるくらい武田は名将ぞろいだったんだから
普通に総大将が馬鹿じゃなく戦ってたら武田が圧勝だったのは間違いない。
背後押さえられた状況で&上記の戦闘で疲弊しまくった状況でも勝頼ら一族衆は退却できたんだから
砦奇襲はそう重要な要素ではない
勝頼が馬鹿な証拠に長篠以外でも御館の乱や新府築城で馬鹿な失態を繰り返している
徳川が過小なだけ
しかも四天王なんて史実で別働隊として一軍隊率いて最強徳川相手で大暴れした山県で80台。
馬場・内藤が70台
これで過大というならもう長篠で敗戦しなくても高天神城攻略か下手したら
信玄時代の三河侵攻、三方が原、東美濃侵攻このあたりで大敗して
長篠では勝頼が討ち取られ瞬殺されていただけ。
一方的劣勢になっておかしくないほどのバランスになるだけ
武田なんて侵攻側として大して巨大とはいえない兵力で地勢的に攻め込みづらい地域攻略しまくってるからね
長篠以降ですら精強徳川軍相手や強国北条相手にかなり敢闘してたしな
195 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 13:24:16.10 ID:kCVCJCFc
>>193 人のレス読んでないでオウム返し改変だけかw 煽って何かした気になれるだけって凄いね。まさに武田厨wwwww
ぶっちゃけ、その勝頼時代が〜という大嘘がセイカイだとしても、同意したのは信玄以来の老臣達だが。
きっちり朱印状連署とか残っているし。
196 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 13:25:28.59 ID:0t2vFp/4
御館も長篠も新府も勝頼時代の話
信玄時代は特に何も失敗していない
お前の論法は信長死後織田家はめちゃめちゃになったから信長が全て悪いといってのと同じ
まあ信長の場合実際信長に全て滅亡の責任があるがw
朱印状?どれの事?
197 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 13:39:53.70 ID:kCVCJCFc
創作じゃない、妙法寺記とかの武田関連の資料見てみろよ。
信玄公は年に二度も戦するので国中が貧しくなる、信虎時代より酷いとはっきり書かれているぐらい。
もっとも、略奪が成功すると肯定的に書くんだから、当時らしい面もあるが。
武田略奪団なのが実像だよ。それが天下取りの火事場泥棒の夢見たから……。
信玄末期から、重税(棟別銭が隣国の数倍)や軍役拒否が凄いことになっている。
198 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 13:53:04.69 ID:0t2vFp/4
強圧的な態度でムリヤリ国を纏めた甲斐守護家と国人衆との間は悪化の一途。 甲斐府中は呉越同舟で牽制し合う状況。
しかも、甲斐は山国であるため、越後の半分の石高(20万石)でしかなく、金山などはまだ後世に誇るほど歳出が見込めた訳でもなく
信玄の家督相続当時は甲斐は飢饉が数年前から猛威をふるうまっただ中で高緯度のため冷夏が発生し
飢饉が慢性化し、河川氾濫で田畑は災害にたびたび見舞われ信玄が家督を継いだ時には数年間連続の飢饉により、甲斐の国状は悲惨この上がありません。
信虎はこれらに有効な手立てをうつ所か今川などの外圧もあり戦闘につぐ戦闘。ただでさえ、基盤の脆い甲斐の国政は破綻しています。
信玄の場合、これらを解決する為には豊かな土地の“略奪”が急務であり、国人衆もそれを求めます。
しかし、経済は破綻している武田家ですから、それを為す侵略は困難を極めたはずです。
しなければ、父と同様に追放の憂き目にあいます。父の偏愛を受けた優秀な弟がいますからその危機は尚更です。
また、このような経路を辿ったため、重臣・国人衆の干渉は非常に強いのです。
しかも、村上に負け続けた時にはその危機が更に深まりました(権臣が死んだのは良かったが)貧しい甲斐は侵略だけでは食べていけません。
信玄はのちに信玄堤と呼ばれる堤防を築いたりして創意工夫の上、新田開発に努めます。
(信玄に始まる甲州流防河法・甲州流河除法は幕府の関東郡代として関東全域開発をした伊奈忠次に受け継がれる)
後世に代表するような土木技術が甲斐で発達したのは当然といえば当然。 普通にやっていてはお米を採れる環境ではないからです。
地方豪族達との軋轢、家督就任当時の国状においてはハンパないレベル
199 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 13:54:15.33 ID:0t2vFp/4
長篠は決戦を挑んだ勝頼がバカ
信玄なら撤退を装い、追撃してきた織田を迎撃撃破してる。
そもそも織田厨は背後を抑えられて撤退出来ないなどとでっち上げしてるバカ。
長篠後には翌年に、武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるのでまだまだ信玄の遺産は充分にあり余力があったのだろう。
いよいよ勝頼独自色を出し、軍政、軍制改革を開始したつもりか織田へ復讐する為に手段を選ばず抜擢宣言し、
どんなに身分が低くても、前代には不遇だった者の経緯にはこだわらず依怙贔屓無しに
武勇のある者は抜擢するとか、鉄砲の鍛錬の奨励をくどいまでに強調し鉄砲手には頬あてまでも用意するように言っている。
かなり入念に砲撃戦を念頭においた指示をしている。
武田領内では火薬臭が漂うような大掛かりな鉄砲鍛錬が行われていたのだろう。
対北条戦で勝頼が暴れてるのも、佐竹義重が関東一の大鉄砲隊を持っていたのも、
勝頼との協調作戦から学んだ結果だろう。さらに手取川の戦いの年には、信長は武田と和議を提案していたのに勝頼は拒否して、
あくまで義昭や本願寺や毛利との協調を選んでいる。
まあ謙信が翌春前に死去したのは想定外か。毛利も丹波の赤鬼が同時期に死去したのは想定外だろう。
やはり謙信死去と、朝廷による交渉で本願寺が織田と和睦を受け入れたことが大きい。
武田に取り領土拡大を狙うには北条を侵略する他なく、
この頃になると織田との和睦を働きかけてるのだから。信長は武田と和睦する匂いをかけて、
織田勝長を返却させるや豹変して武田征伐を開始。不幸にも浅間山が噴火したために領内混乱し、
後詰めの勝頼が諏訪から甲斐に撤退するハメになる。
有史以来、京で浅間山噴火が観測されたのは、今回がわずか二度目の大噴火で、
京では武田滅亡の前兆と見られた。
ただ鉄砲鍛錬にこだわり過ぎているのが勝頼。本来は城や陣地における防衛戦に重要な鉄砲だが重量があり過ぎて、
なおかつ天候に左右されやすいものであり、 運用は限られている。
機を見て目まぐるしく離合集散する同盟関係や傭兵術や重臣調略を軽視し過ぎていたように思われる
200 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 15:33:55.70 ID:mkAZ8/lH
信玄は馬鹿まで読んだ
201 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 16:14:26.39 ID:QaMLHG8x
まただがさんか
202 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 16:32:42.80 ID:kXCRdH0a
武田厨はコピペばかりだし、史実については全く無知だし。
唯一の頼みである創作・捏造系についてもかなり怪しいし。軍鑑とかさらっとでも見たことさえなさげ。
そんなに現実の武田が嫌いかw
203 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 16:41:33.50 ID:QaMLHG8x
204 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 16:52:32.38 ID:kXCRdH0a
>>203 こんなに気持ち悪い奴だったのかこの武田厨……。
ガチで引くレベルじゃねーかw
205 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 18:22:03.19 ID:0t2vFp/4
反論内容はコピペに含まれてるから十分なだけ
毎回いう事が一緒だからな
織田厨のアホな妄想に反論なんてする価値なし
206 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 18:35:40.21 ID:ZIWiOQGY
言い訳なら病院の先生にでもしてくれ
207 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 18:40:46.19 ID:mkAZ8/lH
キチガイは自分は正常とか思ってるんだせw
208 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 18:52:34.95 ID:Xy2euKzE
伊達輝宗が随分過小評価されてる気がする。
稙宗・晴宗の争いの尻拭いして
政宗に家督渡す頃には往年の勢力を取り戻してる。
その後に政宗が空気読まない事続けたせいで
彼の成果が失われてしまった。
政宗はマイナススタートで伸ばしたような印象だけど、
輝宗の創り上げた下地ぶっ壊して自分で苦労してるだけじゃねーか。
点差開いてる時に登板した救援投手がセーブつけるために
わざと相手に打たせてから本気出してるよなもん。
晴宗・政宗の評価はもっと下げて、
そのぶんを輝宗に回して欲しい。
209 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 19:11:21.10 ID:nDThcvxx
武田盲は本当に人の話を聞かないよな
レス番付けてもレスになってねーよ、基地外
武田四名臣(笑)とか上げる要素がねーよ
大体、軍艦だって信玄ラブの春日弾正と甥が書いたんだから、当てになんねーし
210 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 19:38:34.77 ID:QaMLHG8x
武田家臣は全員全能力10ずつ落とせばとりあえずは調度いいんじゃね
211 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 19:56:50.96 ID:0t2vFp/4
武田を史実にのっとって適正値に戻す
秋山信友 71 78 75 58⇒83 82 75 58
穴山信君 38 19 52 72
甘利虎泰 87 79 65 78
板垣信方 85 56 74 84
一条信龍
小畠虎盛 71 77 51 21
小幡昌盛
飯富虎昌 80 91 41 39
小山田信茂 72 78 58 39 ⇒83 86 58 70
高坂昌信 87 58 84 66
三枝守友
真田信綱 69 78 50 43 ⇒78 78 50 43
真田幸隆 83 60 99 84
武田信繁 79 63 80 75
武田信廉 23 8 38 60
多田満頼 69 80 74 13
土屋昌次 55 76 34 12
内藤昌豊 78 70 82 79
馬場信春 77 86 56 68 ⇒86 87 69 78
原虎胤 73 92 30 9
原昌胤
山県昌景 88 94 69 63 ⇒95 94 69 63
山本勘助 62 41 97 76
横田高松 77 80 63 47
212 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 20:00:37.59 ID:0t2vFp/4
依田信蕃 82 83 69 48
小山田信有 83 76 77 73
岡部元信 79 82 66 58
朝比奈信置 72 74 50 50
木曾義昌 73 66 78 60
仁科盛信 79 77 55 56
武田勝頼 89 92 23 66
213 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 20:05:33.76 ID:0t2vFp/4
政宗はガチで戦上手
北 大崎 葛西 最上
東 相馬
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
これだけガチで敵対して拡張した。
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。
信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。
政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。
比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長
214 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 20:05:53.39 ID:kXCRdH0a
革新系列じゃほぼ死にステになっている武勇はともかく、統率あたりはねぇ……。
215 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 20:10:01.31 ID:0t2vFp/4
統率は同数を与えられた時いかに高い戦闘力をはっきできるかという戦闘力が中心的な意味
対徳川北条織田と攻撃側としてさして多くもない兵力で侵略しまくり勝ちまくり敢闘した武田が高いのは当たり前
武勇なんてお飾りみたいな能力に押し付けても仕方ない
216 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 20:10:51.46 ID:0t2vFp/4
軍艦が創作もあるだろうけどどの大名家であれ大名とは違い家臣個々の能力評価する場合
一次資料に残りづらいから軍記のエピソードに頼ってる部分はある
勝頼はどう見ても馬鹿
かなりの兵力比&まるで城みたいな堅個な陣地&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
こんなとこにムリヤリ突っ込んでいくような馬鹿が大将だから負けただけ
むしろその状況ですら8時間以上戦われ所々柵も破られてるくらい武田は名将ぞろいだったんだから
普通に総大将が馬鹿じゃなく戦ってたら武田が圧勝だったのは間違いない。
背後押さえられた状況で&上記の戦闘で疲弊しまくった状況でも勝頼ら一族衆は退却できたんだから
砦奇襲はそう重要な要素ではない
勝頼が馬鹿な証拠に長篠以外でも御館の乱や新府築城で馬鹿な失態を繰り返している
徳川が過小なだけ
しかも四天王なんて史実で別働隊として一軍隊率いて最強徳川相手で大暴れした山県で80台。
馬場・内藤が70台
これで過大というならもう長篠で敗戦しなくても高天神城攻略か下手したら
信玄時代の三河侵攻、三方が原、東美濃侵攻このあたりで大敗して
長篠では勝頼が討ち取られ瞬殺されていただけ。
一方的劣勢になっておかしくないほどのバランスになるだけ
武田なんて侵攻側として大して巨大とはいえない兵力で地勢的に攻め込みづらい地域攻略しまくってるからね
長篠以降ですら精強徳川軍相手や強国北条相手にかなり敢闘してたしな
217 :
名無し曰く、:2012/03/20(火) 23:59:42.43 ID:nDThcvxx
なんなの?またsubかよ
近づかないでくれる ?ゲイが感染るから
218 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 02:00:02.80 ID:cSxJCsvi
武田は軍鑑補正だからいつまでもアレ。
原や土屋兄すら出てこないトンデモ勢力。
だがさん同様触れてはいけない勢力扱いなんだろう。
219 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 02:31:05.53 ID:cSxJCsvi
天下を取った徳川を家臣として扱った豊臣>>>>>あわや家臣になる寸前だった織田>>>>>>>>>>>>>>三方が原でまぐれ勝ちした武田
三方が原で負けたのに織田との同盟を崩さなかった、ということは
家康にとっては信玄に負けても信長には逆らいたくなかったと言うことに他ならないのに
なぜか家康をダシにして無意味に評価を上げようとする雑魚武田
220 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 09:33:40.37 ID:Hj7ADDO5
>統率は同数を与えられた時いかに高い戦闘力をはっきできるかという戦闘力が中心的な意味
統率高いと指揮兵数増えるコエの基本傾向は無視ですかそうですか
221 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 11:29:05.71 ID:RMoWna4T
>>218 雑魚織田は信長公記や講談補正で森部稲生天王寺とか信長マンセー合戦ばかり採用されて基地外な高評価受けてるがな
>>219 三方が原は勿論その前後の攻防、勝頼時代ですら最強徳川に圧倒的強さ見せた武田
>>>>>>>>>豊臣を滅ぼし天下取った徳川>>>>>>>>>>>織田を実質的に滅ぼし天下取った豊臣
>>>>>>>>>>>>>>>家臣に瞬殺され秀吉に乗っ取られた織田
の間違い
家康が義理固いから助かっただけ
上洛戦、金ヶ崎、滋賀の陣、姉川、岩村攻囲戦
要衝ではことごとく徳川に助けられそれなのに武田に攻められても中々織田は援軍よこさないほど
糞役に立たない同盟者だったのに家康が離反しなかったのは義理固いからというだけ
>>220 指揮兵数なんて国力に恵まれてれば誰でもたくさん率いれるなんて当たり前
そんなもんで能力評価する方が間違い
222 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 11:42:22.80 ID:P4suOFDD
家康の松平家と代々戦ってきたのに同盟を結んだ信長
一緒に今川領へ攻め込むなどしておきながら敵にまわしてしまった信玄
知略において信玄の敗北は明らか
223 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 12:30:23.74 ID:RMoWna4T
徳川と共同して遠江侵攻する予定で派遣した軍とたまたま衝突してしまっただけ
224 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 12:46:52.03 ID:QlPKvAR2
林先生はこんなのばっかで大変だろうな
225 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 14:35:00.97 ID:CDgNNZoh
>>221 おい、公記は講談じゃなくて当時の人間が書いたれっきとした資料だぞw
お前がどんな妄想もっていようが好き勝手だが、それだけと言うくだらない理由で先人の記録を貶めるなよ。
それこそ創作ばかりの軍鑑じゃあるまいしw
226 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 14:46:24.95 ID:CDgNNZoh
>>222 軍鑑だと、まさにかつて騙し攻撃かけちゃった徳川への媚が凄いよね。
馬場「徳川を親戚にしていれば、天下簡単に取れたのにー!」ってw
自分から川を境に今川領分割しようって約束破って騙まし討ちにしたのに(史実)。
227 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 17:13:23.04 ID:1HAKWnqd
だがってマジで甲陽軍艦読んだことないんじゃね?
228 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 18:16:23.98 ID:P4suOFDD
>>223 なんという徳川軽視&不注意…こりゃもっと知略下げなきゃならんな
229 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 18:28:39.52 ID:RMoWna4T
信長公記は捏造軍記
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森のキ沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い
230 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 18:30:01.78 ID:RMoWna4T
信長は援軍として西に兵力派兵する余裕が無かったから、
勝頼は非常に有利な状況だった。
丹波の赤井直正も勝頼に書状を出してたし、
赤井忠家や内藤如安や宇津頼重らが反織田で丹波も毛利や武田に協調してる。
これ信玄の大きな遺産だな。
5月に長篠で武田が無謀な決戦で大敗した為に、
信長は余裕が生まれてしまい、
8月越前一向衆を壊滅させてから、
光秀に丹波侵攻を開始させてる。
波多野ら丹波衆の反撃で光秀は大敗したが。
実際、天正三年3/4には
芸但和与が正式に発足したことに対する織田→小早川への返信で、
信長は但馬はかねてから申し入れているように織田分国であることを承知してるはずだ。
近年はずっと山名祐豊から連絡が来なくなったのは無念だが、
出雲や伯耆の安定の為に、
尼子のいる但馬出兵がどうしても必要なら
仕方が無いと
背後で尼子を支援してる信長もしぶしぶ毛利の但馬での勝手な行動を認めてる。
それだけ信長には余裕が無かったから
露骨に毛利に開戦したく無かった。
信長は毛利に対して内心激怒してただろう。
すでに天正元年12月までに元春が信玄西上のドサクサに織田分国但馬を平定して出雲に帰国しており、
毛利は朝山日乗や安国寺らを織田に派遣し、秀吉を窓口に信長に媚びて敵対行動の誤魔化しをしてた。
うまく信長との間を誤魔化せたのは秀吉と朝山のおかげだと安国寺が12/12に書状を出してる。
天正4年5月までに尼子残党を京へ逃亡させ
毛利は山陰再平定に成功してる。
その一方で山陽道でも織田に内応した備中の三村を毛利は天正3年5月までに平定に成功。
勝頼が長篠で大敗したのはガチでバカ過ぎ。
天正5年9/10の丹羽長秀書状に
能登の百姓ことごとく謙信一味、末森まで通路封鎖されたと書いている。
末森は能加国境の主要通路を擁する交通の要衝。
これですでに七尾が落ちているのを織田は知っているはずで、
知らずに進軍してたらすでに七尾が落ちていたと知ってあわてて退去したところで背後を襲われたので無く、
七尾が落ちていたのを知った上で北上を続け11/3に上杉と正面から挑んで大敗したのだろう。
公記の加賀出兵記述は、
目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述。
尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。
太田牛一の記述は基本でたらめだらけだが
北陸・関東方面には特に極端に疎いからな
柴田の動きとか全然詳細に書かれてないし
芋川らが信濃で奮戦してる書状があるのに森が越後まで侵攻したとか
氏政が関東を放棄して織田に前面降伏したとか頭おかしいレベルw
天正2年4/13六角義賢が石部城で抵抗後に三雲氏の本拠地の信楽に向けて退城し、
この時に敵を追い払った山中山城に感状を12/24に出してる。
この間に勝頼が美濃明智城と遠江高天神城を攻略し、信長は越前での一揆を危惧
長篠の戦いの前年ですら、武田がむちゃくちゃ有利に戦ってるからね。
北条も織田を敵と言ってるし。
そもそも危機的な北条は越中で謙信の背後を突いてもらいたい一心で
永禄3年に氏康が永正3年からの禁制を撤回して
石山本願寺に関東での亡命寺社の帰国と保護を認めると約束しちゃったからな。
北条は何かあったら一向一揆を起こされるため完全に武田と本願寺の奴隷モードなんだよ。
だから氏政は氏康を暗殺してまで甲相同盟を復活させた。
231 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 18:30:07.89 ID:CDgNNZoh
232 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 18:31:05.86 ID:RMoWna4T
高天神城落城後に退却した勝頼だったが、
9月にまた来襲し家康はまた信長に助けて〜と泣き。
豪雨で増水して武田退却。
信長はいまさらになり出陣して武田討とうとしてたのに!と高天神城落城後と同じ発言に徳川家臣ドン引き
翌年には武田軍が尾張奥深く熱田まで侵攻し挑発
面子丸潰れの信長はやむなく三河へ。
細川に鉄砲手と火薬と鉄砲を調達するように命じるなど最初から陣地引きこもりの考え。
しかも兵糧も少なく、
ある程度したら退却するつもりだった信長。
(謙信に兵糧がないので追撃しなかったと述べてる)
徳川は酒井などが必死に武田と織田を戦わせようとしてる。
信長公記は酒井の意見をワザと信長が却下して秘密漏洩しないように
ひそかに呼びつけ酒井に同意した信長はすごいと歪曲
233 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 18:32:31.42 ID:RMoWna4T
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。
さて以下がその隠蔽である。
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
234 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 18:34:15.72 ID:40b8ufa+
だいたいふざけた過大の武田家臣団の中で、軍鑑でっち上げ等の創作被害者の会の皆様はほんと過少だな。
近畿で大忙しの織田の背後への空き巣狙いや、まだ一国ちょっとだった劣勢の徳川いじめなら誰だってできる。
でも跡部や長坂らは史実としては最後まで勝頼を支えて戦死したんだぜ。
能力的にも義理的にも貶め酷すぎ。
235 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 18:36:18.65 ID:RMoWna4T
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を西美濃国衆の安藤と竹中に半年にわたり占領される(龍興とその寵臣東美濃衆追放劇)
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
六角義秀が主導する義昭上洛戦を反故にした信長を龍興が「臆して天下の笑い者になった」と嘲笑し
逆キレした信長による河野島の織田敗戦劇により三好の反撃を受け義昭は若狭へ逃亡。
この信長ビビリ事件により上洛計画が崩壊し六角義秀が失脚してしまい
三好の後援を受ける六角義治による国人弾圧の結果、観音寺騒動が勃発し六角氏が弱体化。
ちなみに六角義治に対抗して六角重臣達が奉じる六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書六角重臣三雲宛て和田惟政披露状)
その話に西美濃の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功しているなど上洛成功までのシナリオは六角義秀によるもの。
信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたし、上洛成功も信長独力でのことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
(義秀の死に絶句して義治らが帰国するのを憂慮してる信長の書状があり、
この後に浅井長政も離反しているのが確認できる)
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけだし
それでさえ、家康がいなければ信長は死んでた。姉川の戦いを織田圧勝などと捏造してるが
朝倉・高島七頭・一揆連合軍が9/20には宇佐山城攻めを開始し織田信治と森可成を討死させ
21日には山科までやってきて志賀の陣になり、朝倉軍が大敗した姿などまったくない。
信長は「朝倉殿が天下をとってください。我に望みなし」の土下座降伏してる。
ちなみに義秀の後継者の義堯も信玄西上戦に合わせて信長から離反。
公記が六角義賢の弟の六角義弼や 六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に、
江戸時代中期に六角本家を主張し合う子達が争った際に、一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。
義弼なんて義治と同一人物にされてるし。
濃尾平野と伊勢湾経済圏を持つ信長がチート過ぎなのに義龍にボロ負け。龍興にまでボロ負け
結局、義昭と江州様(六角義秀)と浅井と和田ら近江甲賀衆が
斉藤攻略で織田に援軍を送ったから美濃攻略できただけだし
さっそく11/7に本願寺から上洛支援の書状も届くし本願寺は信長に贈り物攻勢してる。
11/9には天皇からも朝廷を守るように命じられるなど(ちょうど三好と松永が争い東大寺大仏殿を燃やした矢先)
信長上洛成功はお膳立てされてのこと。
さらに朝廷は三好が奉じていた足利義栄の将軍任官申請も却下して三好三人衆に抵抗してるし
この一連の織田擁護の流れを読んで織田方となったのが三好義継と松永や柳生宗厳と大和興福寺の人たちだし。
おまけに紀伊国粉河寺と畠山高政も義昭に呼応して織田方になるし。
しかも甲賀衆は義昭上洛戦に先立ち6/23には摂津表まで進出して三好三人衆と合戦までしてるし。
しかし9/7上洛戦開始するやいきなり信長は六角義治に大敗して岐阜に戻ってるから
援軍にきた三好三人衆側勢は京へ撤退してるし。
(上洛開始前から松永は三好勢兵力をずっと引き付けて戦っていた)
9/14には再度、天皇から織田へ綸旨が届いて義昭上洛の激励をされ京の御警護まで任されてる。
結局、江州様勢力が義治傘下から後藤・長田・進藤・永原・池田・平井・九里らを裏切らせて信長に内応させて箕作城を開城させて観音寺城の背後を遮させた為に
義治は敗走して上洛成功しただけ。 信長の戦下手は神レベルだよな。
236 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 18:49:12.65 ID:RMoWna4T
永正8年・10年と尾張守護の斯波義達が今川氏親と戦っているがなんと大和守・伊勢守の両織田守護代家は一切協力しておらず
完全に実権喪失している事実。織田両守護代家にとり斯波は象徴的存在に過ぎなくなっていた。
西尾張が根拠地の信秀の東尾張平定たる天文7年の名古屋城攻略と今川氏豊の追放により尾張南半分を支配下においたわけだが
すでに守護代織田達勝も信秀の行動を応援是認し10月に名古屋の性海寺への免除書状で支援している。
そして根拠地を自らが文書発給し支配していた。西尾張の勝幡城から信秀は本拠地を名古屋に移転して西三河へ目を向ける。
天文9年には伊勢神宮へ700貫寄進し、朝廷から三河守に任じられ三河から圧迫を受けていた尾張は信秀の名古屋攻略とともに
劣勢から攻勢に転換し、尾張をほぼ安定化させたため天文日記10年7/27でも斯波義統が信秀の威信をアテにして
本願寺に対して越前まで討ち入り越前を回復するから加賀門徒の協力依頼までしているほどの評価が尾張の外へ轟いている。
次に長尾為景が越後守護上杉定美傀儡政権運営していた時と酷似していた状況が一変したことを示す権力変化の証拠がある。
天文12年2/21の達勝安堵状には「弾正忠申調られ出置く上は」と書かれ天文8年までの従来、東尾張において達勝→信秀と出されてきた発給文書が、
ついに信秀→達勝に順番が逆になってしまう。この逆転現象は巨大な衝撃である。謙信政権でも苦悩していた守護による政治機構が簡単に解体されていく姿が尾張に生じているのである。
(結局、後継者なく定美が亡くなり、関東管領に就任し上杉を継ぐまで越後統治の正当性が得られなかった長尾氏)
また天文13年の信秀の美濃侵攻では守護斯波義統が禁制を出すなど、信秀支持の姿勢を示している。9月に美濃立政寺へ禁制を出した織田寛近は岩倉伊勢守の一族であり
守護斯波は言うまでも無く尾張国の大半が信秀の美濃侵攻を支持していたのは間違いない。ここに信秀による尾張統一が達成されたのである。
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。
三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の感状から第二次のみは史実確認が取れる。
信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど
今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。
佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。
静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)らが織田方として存在している。天文12年には
後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったが
すでに信秀にとって代わられている事実が見える。この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが
本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。
また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。
信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんw
そもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友を
さらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが
言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
237 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:10:39.78 ID:RMoWna4T
信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた水谷刑部少輔が織田との和睦にやっと同意。
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
伊勢新宮を支配する田丸城って言う北畠三御所の一つで信雄がここに入城するようになってから
織田による北畠支配が本格的にスタートしたのであり、現時点の織田には北畠支配などできてない。
六角重臣達と対立する六角義治に対抗して六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
元亀4年1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
238 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:14:40.96 ID:RMoWna4T
天下人の家臣団
政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 35 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
カス武将の集まり織田軍w
239 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:16:38.23 ID:cOomFysg
だがってさあ、2chに書き込むのが仕事だって親は知ってるのかなあ?
俺だったら恥ずかしくて人に言えないね、そんな仕事。
ニートの方がよっぽどマシ。
240 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:17:10.65 ID:RMoWna4T
天正2年正月の公記
朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は?
義昭→六角義賢書状
信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
そして越前が一向宗に奪われ、
勝頼に岩村城を奪われ
織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、
義賢書状では、信楽表で大勝利し感状まで出してる。
当時の斎藤は浅井と戦っていて、六角義治が斎藤と協調しようとするのを、土岐氏に配慮する六角義賢が、
同盟不成立にさせたりと西側が不安定だったから、斎藤は南下なんて考えてない。
義龍は信長同様に内政や国内整備や宗教統治政策をまったくやらずに放置した道三の悪政から、
改革を押し進めていたから、
尾張を内乱状態にさせて信長を封じつつ、
宗教統制を改革中に急死。
信長が家康の立場で独立し、家康が信長の立場で独立したら
信長は武田どころか今川氏真に瞬殺され家康は史実どおり畿内や美濃を瞬殺していたのは間違いない
何せ史実で今川氏真クラスの龍興に大敗を繰り返し今川氏真クラスの朝倉義景にも負けまくったけど
敵がアホすぎてなんとかなっただけ
一方家康は信長や秀吉が苦戦した畿内や美濃を瞬殺したしな
信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、 11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
241 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:18:32.66 ID:RMoWna4T
江戸期の妄言で織田が持ち上げられるようになった
事績からいえば三好の方が遥に上
北条や大友、伊達、長衆我部にも劣る事績しかないのが織田
信長が家康の立場で生れていたら吉良や今川の大軍に瞬殺されてたのは間違いない
周りにカスしかいない立地で助かったな
242 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:18:38.66 ID:1sv14Sf8
徳川家臣団も過少傾向。
四天王は近くに過大すぎる武田上杉がいるせいで微妙に見えるレベルだが、
大久保兄弟とかのはあきらかに過少。
主君が苦しい時から守り抜いて、天下取らせた連中だぜ?
243 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:21:07.71 ID:RMoWna4T
講談ではなく史実を元にした評価
天下人の家臣団
政治 統率 知略
家康 110 114 108
本多 77 105 80
酒井 87 95 93
井伊 85 94 93
榊原 50 94 70
大久保 47 83 76
氏康 120 105 108
氏政 96 83 84
政宗 107 97 96
盛氏 86 99 95
元就 96 107 120
小笠原 73 78 60
依田 47 82 86
大須賀 58 82 64
天下人を苦しめた武田家臣団
信玄 97 110 96
馬場 80 93 79
山県 70 99 74
香坂 78 96 85
内藤 79 88 85
秋山 58 85 83
仁科 60 88 69
そのライバル上杉
謙信 87 120 76
景勝 83 100 86
本庄 70 99 59
斉藤 82 93 85
柿崎 30 97 12
須田 78 82 85
山浦 50 86 70
天下人の踏み台にされた雑魚共
政治 統率 知略
信長(笑) 90 71 86
秀吉(大 爆 笑)89 35 89
光秀 85 79 80
滝川 70 77 83
柴田 60 83 52
贔屓目にみてもこんなもん
他の連中はこれ以下のカス
織田厨の大好きな
信忠(笑) 50 28 30
蒲生(笑) 60 55 68
丹羽(笑) 70 15 67
カス武将の集まり織田軍w
244 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:22:11.17 ID:RMoWna4T
武田・上杉が過小
天下一の強さと織田両国内ですら言われてるから全能力+50くらいのチート能力が妥当
織田家臣団が過大
まともに戦に勝った事がなく圧倒的国力の弾正忠家滅ぼしただけ。
全能力−70くらいが妥当
245 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:22:35.38 ID:P4suOFDD
246 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:27:40.48 ID:RMoWna4T
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の
天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを
信長は引きずっているのがわかる。
その後も織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。
ちなみに信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述がある。
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
付け加えるとして5/15書状の内容から
鉄炮放と玉薬の調達の報告だとわかるんだが、
鉄炮放とは砲手を意味しており、実際には細川が
玉薬と鉄砲の使い手を雇っていることを意味してる。
これは5/17付多聞院日記にも伝聞内容のためにタイムラグがあるものの
信長の命令で筒井が鉄砲衆50名を派遣と記しており
細川や筒井らが堺あたりから鉄砲衆を雇い入れて派兵してると思われる。
それを佐々や前田や塙らに配分して率いさせたと考えられる。
(当時の武士は鉄砲を扱わず百姓・足軽・雑兵のような身分に使わせてる)
また6/13付けの信長から上杉への書状において兵糧の調達が不充分なので
織田軍は撤退したとも述べていて、対陣長期化も織田軍は望んでいなかった。
武田が対陣を続けていたら、織田は長篠城を見放して和議を結ぼうとしただろう。
8/13には秀吉が兵糧を調達していて、信長はそれを小谷城で受け取って
越前一向一揆を討伐に向かっており、
数万人規模の老若男女の区別ない越前一円での大虐殺大会と大略奪を開始し9/26に帰還する。
10月初頭には石山本願寺が織田と和睦しようとするが、
信長がホントかどうかわからんからしばらく様子を見てから朱印を与えてやるとか余裕をぶっこくが
翌年1月に吉川に支援を願っていた赤井氏に呼応した波多野氏との挟撃で
明智軍が大敗北&摂津でも石山本願寺に織田軍がダブル敗北を喰らうw
もともと義昭側近の六角義尭が本願寺と武田の間を取り持っていて
信長の本願寺への攻勢への牽制で武田出馬要請があった。
また六角氏は武田軍に六角中務大輔を従軍させてる。
247 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:36:00.39 ID:1HAKWnqd
上洛スレ60事件でだがさん大分株落としたからなぁ
248 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:36:12.02 ID:XmSPdpNW
だがさんボキャブラリ少ないからNG登録が楽でいい
249 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:36:48.73 ID:RMoWna4T
徳川家康は過小
西三河で一地方小領主として独立して以来吉良今川朝倉北条豊臣と常に圧倒的大勢力に武力で打ち勝ち
天下を取った最強武将だからオール120くらいが妥当
武田信玄はその家康を2.5倍の兵力比とはいえ
壊滅的被害を与えて滅亡寸前に追い込んだから統率や知略は150くらいが妥当
250 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:39:55.58 ID:1sv14Sf8
>>203 だがって奴、本当に捏造しまくりだなぁ……。
これだと何かの間違いで本当のこといっても信頼されないよな。自業自得だけど。
2chの目先のスレで仮に嘘が通ったとして何になるんだろう、とか考えないんだろうな。
251 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:42:47.17 ID:RMoWna4T
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている) 現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
信長公記は志賀の陣まで 前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。 志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
公記は天正10年の武田攻めでは侵攻日に起きた浅間山大噴火を隠蔽。
武田滅亡の天意と言われた。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。
浅間山噴火が京で視認できたのは有史以来この時でわずか二度目。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
信長公記によると、
范可とは唐時代の人で止むを得ない事情により父親を殺さざるを得なかった経歴を持つとの事を書いているが ...もちろんそんな人物は中国に存在しません。
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、 公記の記述は辻褄が合わない。
捏造信長公記は父殺しイメージを架空人物まで創造して捏造してまで強調してるが、
実際は重臣達に追放された武田信虎や六角義治らと同じような状態になった際に道三は死ぬ覚悟に決戦を選択したに過ぎ無い。
252 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:44:16.97 ID:1HAKWnqd
>>203 上洛スレ60事件はリアルタイムで見てたが
その事件後だがさんの意見まったく通らなくなったからね
たまに本当のこと言っても「上洛スレ60事件で嘘ついてたから信用できない」とか言われてんのww
253 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:52:08.17 ID:RMoWna4T
政宗はガチで戦上手
北 大崎 葛西 最上
東 相馬
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
これだけガチで敵対して拡張した。
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。
信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。
政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。
比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長
これまでの考察で分かった事
氏康>>>>信長
政宗>>>>信長
本願寺、島津>>>>信長
家康>>>>信長
元親>>>>信長
信長が他大名の立場に生れていたら
信玄の場合信濃侵攻に30年かかり生涯を終える
元就の場合安芸一国人のまま生涯を終える
義重の場合常陸の統一すらできず葦名や田村に敗戦して敗死
政宗の場合関柴の戦いで討ち死に
氏康の場合両上杉の大軍に囲まれて戦死
義久の場合土持や相良、伊藤などに負けて敗死
宗麟の場合毛利元就に負けて敗死
元親の場合三好に負けて討ち死に
尾張だから助かっただけ
254 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 19:55:02.36 ID:QlPKvAR2
織田最強まで読んだ
255 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 20:12:20.53 ID:RMoWna4T
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに美濃は尾張半国を取っていると書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
256 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 20:17:18.13 ID:RMoWna4T
公記には天文21年(1552年)に桶狭間の戦いがあったと書いている事実w
このため桶狭間の戦い虚構捏造説の根拠にされるw(信秀死去は天文20年もしくは天文21年とされる)
天正9年11/24に信長の子の御坊殿が武田から返却されてきたので犬山城主にしたと
公記には書いてある。そこには信玄が養子にしたいと言うから甲斐へ送っていたと書かれている。
しかし実際は岩村城の養子に信長がねじ込んだ末に、武田軍に大敗して拉致られただけ。
完全に歪曲捏造しまくりなのが公記。
第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある
毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」
毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」
「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より
討ち取られた武将もいない
野田福島の戦いでは京へ撤退しようとする信長 江口川は水量が多く、水勢もすさまじいものがあり
船でしか渡れない場所なのに、信長は徒歩で渡れる始末。 しかも翌日からはまた徒歩でわたれなくなり
地元民が奇跡だと言い合う。これにより三好軍と本願寺からの 追撃を免れたなどとバカな妄想を書く公記。
他にも道三が討死した報を聞き退却しようとした織田軍であったが義龍の軍勢が追撃しようとしたところを、
信長が鉄砲を撃っただけで、信長公の勢いに飲まれて追撃する気がなくなるなど
くだらん話が散見されるのが妄想軍記信長公記のウケを狙ったガチなギャグである。
257 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 20:19:15.47 ID:RMoWna4T
徳川家臣団でいえば
本多>井伊、榊原、酒井>大久保>鳥居、大須賀康高、依田>岡部正綱、本多広孝、小笠原>平岩、本多重次、石川家成
>諏訪、保科、柴田康忠>雑魚織田武将(笑)、岡部長盛
関東でいえば
佐竹>里見、太田>結城、壬生、由良>北条、厩橋北条、那須、水谷、梶原>大田原、宇都宮
簗田、両上杉>皆川、小山>小田>>>>>>>>>雑魚織田(笑)
258 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 20:25:35.02 ID:RMoWna4T
金ヶ崎の時は敦賀郡司朝倉景恒と対立していた
大野郡司朝倉景鏡が援軍を送らず失脚狙いだったから織田の奇襲が成功しただけだし、
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのはそれ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が 正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。
遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
259 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 20:26:20.07 ID:RMoWna4T
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで 悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
元亀3年
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる
260 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 20:27:52.02 ID:RMoWna4T
徳川時代に徳川の家臣によって編集された四戦紀聞で書かれてる武将達。
其外両旗奉行安藤木工助基能・米津小大夫政信を始め加藤九郎兵衛景元・天野麦右衛門政景・
宇野三十郎政秋・服部源兵衛保正・榊原摂津守忠次・中根彦三郎・近藤宮内吉成・小川伝九郎・
夏目長三郎・山田甚五郎重吉・同角之丞・長谷川紀伊守正長・弟藤九郎英一・志村弥左衛門秀次・
中根市左衛門正直・門奈善三郎真友・渡辺十右衛門永・同新九郎・鈴木伝八郎・弟又六郎・
大村弥三郎・荒川甚太郎・権田久助・大橋刑部・野々山藤兵衛政安・原田藤左衛門種友・
杉浦次郎兵衛・大河内源五左衛門・石川小太夫・河澄源五重経・小笠原新九郎康元・同三郎兵衛・
秋山甚十郎・松平弥右衛門・石川半三郎正俊・江原亦助・河合弥五兵衛・加藤比根丞・其弟源四郎・
松山久内・杉山久助・石原十度右衛門・原久蔵・平井新三郎・児島源一郎正重・同与助・同善九郎・
堀川彦作・小笠原七郎右衛門・大久保新蔵忠寄・外山小作正重・松平主税・木村弥七郎安綱等。
後、織田の援軍として一手の将である平手をはじめとする織田武将家臣も死んでる
徳川もまだこの時はそれほど有名な武将が少ない。
4天王など徳川で有名になる武将達の活躍はこれ以降のものが多い。
それでも遠江の重要拠点二俣を任せられていた中根をはじめとし、
メンツには結構城持ちや奉行といった面々が入っている。
織田の援軍の一将である平手も死んでるし、織田方の被害も軽くみれない。
261 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 20:30:04.78 ID:RMoWna4T
幼君斎藤龍興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。
森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。
しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。
結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。
六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)
その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ
262 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 20:32:18.00 ID:RMoWna4T
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を西美濃国衆の安藤と竹中に半年にわたり占領される(龍興とその寵臣東美濃衆追放劇)
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。
六角義秀が主導する義昭上洛戦を反故にした信長を龍興が「臆して天下の笑い者になった」と嘲笑し
逆キレした信長による河野島の織田敗戦劇により三好の反撃を受け義昭は若狭へ逃亡。
この信長ビビリ事件により上洛計画が崩壊し六角義秀が失脚してしまい
三好の後援を受ける六角義治による国人弾圧の結果、観音寺騒動が勃発し六角氏が弱体化。
ちなみに六角義治に対抗して六角重臣達が奉じる六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書六角重臣三雲宛て和田惟政披露状)
その話に西美濃の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功しているなど上洛成功までのシナリオは六角義秀によるもの。
信長公記はこのあたりを全て隠蔽して
美濃は信長独力で攻略できたし、上洛成功も信長独力でのことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い
近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。
(義秀の死に絶句して義治らが帰国するのを憂慮してる信長の書状があり、
この後に浅井長政も離反しているのが確認できる)
この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけだし
それでさえ、家康がいなければ信長は死んでた。姉川の戦いを織田圧勝などと捏造してるが
朝倉・高島七頭・一揆連合軍が9/20には宇佐山城攻めを開始し織田信治と森可成を討死させ
21日には山科までやってきて志賀の陣になり、朝倉軍が大敗した姿などまったくない。
信長は「朝倉殿が天下をとってください。我に望みなし」の土下座降伏してる。
ちなみに義秀の後継者の義堯も信玄西上戦に合わせて信長から離反。
信長があと10年早く生れていたら全盛期の斉藤に瞬殺されてたのは間違いない
何せ史実で義龍には全く歯が立たず龍興の台になって幼君で家中が分裂して浅井が美濃を攻めて
それなのにまともに戦ったら全く歯が立たずボコボコだったんだから
263 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 20:33:02.29 ID:1sv14Sf8
>>252 上洛スレ以外でも大嘘吐き続けているからね。
天皇の綸旨まででっち上げとかどんだけだよ(汗
264 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 20:38:12.01 ID:RMoWna4T
政宗が10年早く生れていたら天下統一は夢じゃない。
当時の当主は相馬親子に大敗を喫し、御館の乱でも敗戦するなど戦が雑魚で
政略面でも南奥州連合の形成の波に取り残された田村との同盟を余技なくされるなど
凡庸な才覚しかない輝宗だったけど
政宗なら70年台一杯使って奥州制覇
その後南下して佐竹、北条などを潰し一気に天下に一番近い存在へ。
生れた時期が遅すぎたのが悔やまれる
265 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 20:39:46.19 ID:P4suOFDD
ちなみになんとなく想像つくかもしれないが、だがさんは三国志では蜀が大好き
266 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 20:47:19.89 ID:4PH0Va1G
これはだがさんじゃなくて、関東厨subのゲイ野郎だからね
267 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 21:04:46.21 ID:cSxJCsvi
同一人物説がでてるよ(だがとsub)
大体江戸期で織田が持ち上げられたとかw
江戸期の織田ってまさにだがが考えているような暴君信長と暗君信雄に振り回された
殊勝で賢い権現様という見るからに引き立て役のポジだったのにw
武田の講談と間違えて読んでるんだろうな
268 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 21:17:17.82 ID:RMoWna4T
江戸期の妄言で織田が持ち上げられるようになった
例:森部、稲生、天王寺の講談、信康事件、織田鉄砲隊の破壊力、鉄鋼船の活躍
逆に徳川は腹黒い天下を盗んだ悪党のように言われるようになった
しかし史実では家康は西三河小領主として独立後、吉良、今川、の大軍と戦いながら
一向宗をうまく封じ込め、圧倒的強さを誇る武田の猛攻に耐え忍び、織田の畿内平定戦にも大変尽力したにもかかわらず
織田からは中々援軍が来ず非常に役に立たない同盟者として苦労していた。
事績からいえば織田より三好の方が遥に上
史実で圧倒的国力の織田家を崩壊させただけ
北条や大友、伊達、長衆我部にも劣る事績しかないのが織田
信長が家康の立場で生れていたら吉良や今川氏真の大軍に瞬殺されてたのは間違いない
周りにカスしかいない立地で助かったな
269 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 21:21:03.40 ID:RMoWna4T
>>208 政宗なんて包囲網組まれてたから全勢力で相馬攻めができなかっただけでしょ
輝宗時代なんて回り味方だらけなのに大敗w
せいぜい6万石程度の相馬も潰せない、あげくの果てに張子の虎のような連合築いてただけで
中身の何もない領地で威張ってただけ
北信親に負けたって史実なの?
盛氏末期は対上杉田村の敗戦&徳性の連発で疲弊が始まってたしすでに政宗台頭以前でも付け込む余地はいくらでもある
最上も大して大きくないしな。
政宗は史実で計150万石にはなるだろう大連合に打ち勝って奥州を席巻した。
政宗と輝宗では戦術、戦略、政治力、状況判断能力
全てにおいて差がありすぎる
輝宗だったらまだ稙宗、晴宗のがずっと有能
そもそも敵が増えたのは輝宗の外交感のなさから。
70年代後半の北条の膨張による北関東反北条連合形成とほぼ同時期に形成された広大な南奥州連合。
輝宗はこの波に取り残され、孤立した田村と同盟を築く道に至ったのである
表面上葦名佐竹と伊達は対立していないもののすでに田村を後押しする伊達と
佐竹葦名石川白河などとの代理戦争は既に始まっていた。
総無事令発令時伊達は明らかに軍事活動を縮小していた時期がある
一方反伊達連合は秀吉の威を借りても伊達に抗う事適わず、結局滅亡の憂き目を見てしまった。
一方佐竹も北条が総無事令を遵守し、宇都宮や結城から眼前の位置に北条方拠点が構えられた状況でも
攻略をせず、領国内の防衛に力を注いでるのをいい事に伊達戦に全力を尽くしたにもかかわらず
人取橋で負けすりあげ原で負け、佐竹の養子が入った洞の一角ともいうべき葦名を
滅ぼしてしまった。
270 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 21:38:44.32 ID:cSxJCsvi
江戸期って徳川幕府のこと言ってんだよな?
徳川幕府が信康事件みたいなあからさまに家康否定の記述流すと思ってんのw
さすがだが、何も繋がりのないものを平然と並べたてるw
挙句森部稲生など信長無名時代の戦いをソースに挙げるだが
家康より数えて2代も前の覇者の逸話など誰も読むわけがなく
つい最近まで講談の甫庵信長記が信じられていた
当然江戸期なんて信長誰それ状態、ああ家康公をパシってた暴君ねという扱いなのに
そんな状態で織田は江戸期に持ち上げられたとする無能だがw
無能信玄とお揃いである
271 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 21:41:13.72 ID:cSxJCsvi
おまけに江戸期というのがまた痛快である
江戸期と言えば徳川幕府、徳川将軍家。
徳川一色の世の中なのに「逆に徳川は腹黒い天下を盗んだ悪党のように言われるようになった」と主張するだが
江戸期にこんな打ち首レベルの発言や記録をする人がいるわけもなくw
272 :
キツネのレックス:2012/03/21(水) 21:54:22.11 ID:CTEv7ZEH
家康が伊賀を越えたとかいうけど
伊賀って今でも道ないよな? 甲賀も伊賀も琵琶湖の底だった
だそうだが
あのあたりは今でも謎が多い。
上野城はいつも空いてるしね
273 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 22:02:23.53 ID:2r/z5brn
だがさんの知名度ってどれくらい?
武田厨織田厨以外も知ってるのかな?
274 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 22:13:01.47 ID:Ld3ampsv
>>208 >>269 輝宗政治や知略はもっと高くても良いかもしれないけど
統率はこんなもんだよな
あと連合が大して役に立たないの反伊達包囲や奥羽列藩同盟の末路見りゃ明らか
275 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 22:14:04.52 ID:DhXIJxp1
伊賀越えのルートはいまだ確定されてないはず
276 :
キツネのレックス:2012/03/21(水) 22:31:50.09 ID:CTEv7ZEH
>>275 信長の野望は忍者が過大評価されてるが伊賀越えがたいしたこと
なかったら半蔵を初めとして、こいつらは一条以下だね
277 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 22:32:03.28 ID:3Ku5fkZ8
江戸期の妄言で織田が持ち上げられるようになった
例:森部、稲生、天王寺の講談、信康事件、織田鉄砲隊の破壊力、鉄鋼船の活躍
信長公記の講談捏造や信長記甫庵信長記などの妄想軍記が真しやかに信じられるようになったのは
天下人家康が力を貸し、一時とはいえ家康より優位に立っていたという事実から誇大に拡張的に
織田信者や織田子孫の妄言により事実が捏造されて信じられるようになったのである
逆に徳川家康は腹黒い天下を盗んだ悪党のように言われるようになった
大久保の三河物語を始め武功派連中は吏僚優遇の徳川の仕打ちに不満を抱き、
徳川は悪者、不義者として仕立て上げた。
しかし史実では家康は西三河小領主として独立後、吉良、今川、の大軍と戦いながら
一向宗をうまく封じ込め、圧倒的強さを誇る武田の猛攻に耐え忍び、織田の畿内平定戦にも大変尽力したにもかかわらず
織田からは中々援軍が来ず非常に役に立たない同盟者として苦労していた。
事績からいえば織田より三好の方が遥に上
史実で圧倒的国力の織田家を崩壊させただけ
北条や大友、伊達、長衆我部にも劣る事績しかないのが織田
信長が家康の立場で生れていたら吉良や今川氏真の大軍に瞬殺されてたのは間違いない
周りにカスしかいない立地で助かったな
278 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 22:57:04.02 ID:aUvsI7yg
よっぽど恥ずかしいところを突っ込まれて必死にコピペで埋めようとするだが。
279 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 23:04:06.31 ID:mvWgv2Kl
輝宗は相馬に負けてない。
勝った勝ったとか相馬の根拠ゼロの軍記に書いてあるだけ。
280 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 23:13:32.72 ID:3Ku5fkZ8
負けてるけど??
東京大学史料編纂所HPで検索してみ
雑魚すぎだろ輝宗
わずか6万石程度の相馬に大敗を繰り返し伊達家を停滞させた雑魚
281 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 23:17:14.56 ID:3Ku5fkZ8
政宗なんて包囲網組まれてたから全勢力で相馬攻めができなかっただけでしょ
輝宗時代なんて回り味方だらけなのに大敗w
せいぜい6万石程度の相馬も潰せない、あげくの果てに張子の虎のような連合築いてただけで
中身の何もない領地で威張ってただけ
北信親に負けたって史実なの?
盛氏末期は対上杉田村の敗戦&徳性の連発で疲弊が始まってたしすでに政宗台頭以前でも付け込む余地はいくらでもある
最上も大して大きくないしな。
政宗は史実で計150万石にはなるだろう大連合に打ち勝って奥州を席巻した。
政宗と輝宗では戦術、戦略、政治力、状況判断能力
全てにおいて差がありすぎる
輝宗だったらまだ稙宗、晴宗のがずっと有能
そもそも敵が増えたのは輝宗の外交感のなさから。
70年代後半の北条の膨張による北関東反北条連合形成とほぼ同時期に形成された広大な南奥州連合。
輝宗はこの波に取り残され、孤立した田村と同盟を築く道に至ったのである
表面上葦名佐竹と伊達は対立していないもののすでに田村を後押しする伊達と
佐竹葦名石川白河などとの代理戦争は既に始まっていた。
総無事令発令時伊達は明らかに軍事活動を縮小していた時期がある
一方反伊達連合は秀吉の威を借りても伊達に抗う事適わず、結局滅亡の憂き目を見てしまった。
一方佐竹も北条が総無事令を遵守し、宇都宮や結城から眼前の位置に北条方拠点が構えられた状況でも
攻略をせず、領国内の防衛に力を注いでるのをいい事に伊達戦に全力を尽くしたにもかかわらず
人取橋で負けすりあげ原で負け、佐竹の養子が入った洞の一角ともいうべき葦名を
滅ぼしてしまった。
政宗>>>>>>>>>>>>>>>>>>>輝宗
282 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 23:32:51.50 ID:Wz771kok
>>252 ちったあ自分を省みて出直せばまた違っただろうけど
現実はゴミ未満のコピペ荒らしに成り下がってるんだもんなあ。
なにより織田を貶めたければだが自身がべた褒めするのが確実だろうになw
283 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 23:45:08.35 ID:3Ku5fkZ8
織田厨に馬鹿妄想垂れ流しに一々反論なんてする価値なし
コピペで全て事足りるというだけ
毎回いう事一緒だからな
284 :
名無し曰く、:2012/03/21(水) 23:45:46.19 ID:DhXIJxp1
>>283 もはやその言い訳もコピペになっているなw
285 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 00:00:46.85 ID:L3u/yTa9
織田厨に馬鹿妄想垂れ流しに一々反論なんてする価値なし
コピペで全て事足りるというだけ
毎回いう事一緒だからな
一々反論なんて面倒でやっとれん
286 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 00:23:58.57 ID:HeCYltnw
直江兼続の過大評価は異常
65608090ぐらいで十分
287 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 01:43:16.28 ID:CKeAv4f7
兼仲さんの知力はふざけてんのか
288 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 01:45:33.69 ID:Qr5ggWW5
>>285 1レスなんぼの出来高だからコピペでもとりあえず反論してんだろ?
289 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 09:03:37.69 ID:E9f8grkQ
>>274 統率はしょぼしょぼで良いと思います。
連合は大して役に立たないけれど
均衡自体を目的としてたなら悪くない手段だし
天文の大乱以前の勢力取り戻せたんだし
悪い選択じゃなかったと思うのです。
290 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 10:18:25.78 ID:lvvu3SPM
相手が悪いから違反行為をやってもいいんだ!
とか相変わらずだがさんは社会経験ゼロの発言が多くて素敵ですね
291 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 11:43:41.66 ID:sUiz134V
コピペばっか。初歩的間違いを指摘されても修正しないあたり、ただのレス乞食かガチ病人かw
講談創作と喚くのなら、その講談や創作について多少は勉強してこいよ。
292 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 11:52:29.76 ID:sUiz134V
たとえば森部の戦いは、信長公記等の史料にはっきりある戦い。疑う余地のない話。
軍鑑あたりの第四回川中島みたく、人間的物理的に無理な戦術使ったって指摘でもあるの???
293 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 12:38:06.98 ID:YOujZPsl
だが史観では信長の戦いは全て嘘
負けまくった信長をなぜか見捨てずにいた朝廷さんが
事あるごとに勅使綸旨持ち出して信長の領土を守り続けていた
というのがだが史観
294 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 12:55:22.62 ID:uUE/dY5F
>>293 はいはい、捏造がバレたコピペはもういいよ。
全部まとめサイトにされているから。今更逃げも不能w
全て自業自得。
295 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 14:07:03.38 ID:L3u/yTa9
江戸期の妄言で織田が持ち上げられるようになった
例:森部、稲生、天王寺の講談、信康事件、織田鉄砲隊の破壊力、鉄鋼船の活躍
信長公記の講談捏造や信長記甫庵信長記などの妄想軍記が真しやかに信じられるようになったのは
天下人家康が力を貸し、一時とはいえ家康より優位に立っていたという事実から誇大に拡張的に
織田信者や織田子孫の妄言により事実が捏造されて信じられるようになったのである
逆に徳川家康は腹黒い天下を盗んだ悪党のように言われるようになった
大久保の三河物語を始め武功派連中は吏僚優遇の徳川の仕打ちに不満を抱き、
徳川は悪者、不義者として仕立て上げた。
しかし史実では家康は西三河小領主として独立後、吉良、今川、の大軍と戦いながら
一向宗をうまく封じ込め、圧倒的強さを誇る武田の猛攻に耐え忍び、織田の畿内平定戦にも大変尽力したにもかかわらず
織田からは中々援軍が来ず非常に役に立たない同盟者として苦労していた。
事績からいえば織田より三好の方が遥に上
史実で圧倒的国力の織田家を崩壊させただけ
北条や大友、伊達、長衆我部にも劣る事績しかないのが織田
信長が家康の立場で生れていたら吉良や今川氏真の大軍に瞬殺されてたのは間違いない
周りにカスしかいない立地で助かったな
296 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 14:08:27.53 ID:L3u/yTa9
信長公記は捏造軍記
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森のキ沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
・高遠城攻防戦での織田信家戦死を隠蔽
・堂々とか公記の記述の撤退の時に砦取り返されて本当は2回あったのに書いてない
・大した戦果のない姉川が大勝になってる。
・長篠の戦果が十倍以上過大になってる。
・道三との会見では、織田家臣である太田が、信長が織田家臣を連れて帰った後の道三の
「いずれ息子たちは信長の家臣となるだろう」という呟きをなぜか知って書いてる
・河野島の流れとか書いてない
・大良河原では追撃軍に信長が仁王立ちになって鉄砲撃ったら敵が追撃やめた
・稲生では信長が大声あげたら敵が敗走したり、信長が京に上った時に刺客のいる宿に乗り込んで
「殺せるものなら殺してみろ!」と啖呵切って刺客が恐れ入ったりかなり信長万歳な記事が多い
297 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 14:08:58.31 ID:L3u/yTa9
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている) 現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
信長公記は志賀の陣まで 前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。
3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから
本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。 志賀の陣でも朝倉軍3万に
織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、
信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるから
これでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。信長から御加勢依頼がきて
徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
公記は天正10年の武田攻めでは侵攻日に起きた浅間山大噴火を隠蔽。
武田滅亡の天意と言われた。
援軍に来た勝頼も諏訪から甲斐へ撤退せざるを得なくなる。
浅間山噴火が京で視認できたのは有史以来この時でわずか二度目。
東に横たわるアルプス山脈を無視して考えた場合、
広島での原爆が京都から視認出来たくらいの距離に相当する。
信長公記によると、
范可とは唐時代の人で止むを得ない事情により父親を殺さざるを得なかった経歴を持つとの事を書いているが ...もちろんそんな人物は中国に存在しません。
義龍が范可の署名を弘治元年12月から署名しており、 公記の記述は辻褄が合わない。
捏造信長公記は父殺しイメージを架空人物まで創造して捏造してまで強調してるが、
実際は重臣達に追放された武田信虎や六角義治らと同じような状態になった際に道三は死ぬ覚悟に決戦を選択したに過ぎ無い。
298 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 14:10:21.31 ID:L3u/yTa9
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。
さて以下がその隠蔽である。
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
299 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 14:11:17.88 ID:L3u/yTa9
公記には天文21年(1552年)に桶狭間の戦いがあったと書いている事実w
このため桶狭間の戦い虚構捏造説の根拠にされるw(信秀死去は天文20年もしくは天文21年とされる)
天正9年11/24に信長の子の御坊殿が武田から返却されてきたので犬山城主にしたと
公記には書いてある。そこには信玄が養子にしたいと言うから甲斐へ送っていたと書かれている。
しかし実際は岩村城の養子に信長がねじ込んだ末に、武田軍に大敗して拉致られただけ。
完全に歪曲捏造しまくりなのが公記。
第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある
毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」
毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」
「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より
討ち取られた武将もいない
野田福島の戦いでは京へ撤退しようとする信長 江口川は水量が多く、水勢もすさまじいものがあり
船でしか渡れない場所なのに、信長は徒歩で渡れる始末。 しかも翌日からはまた徒歩でわたれなくなり
地元民が奇跡だと言い合う。これにより三好軍と本願寺からの 追撃を免れたなどとバカな妄想を書く公記。
他にも道三が討死した報を聞き退却しようとした織田軍であったが義龍の軍勢が追撃しようとしたところを、
信長が鉄砲を撃っただけで、信長公の勢いに飲まれて追撃する気がなくなるなど
くだらん話が散見されるのが妄想軍記信長公記のウケを狙ったガチなギャグである。
300 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 14:13:04.98 ID:L3u/yTa9
江戸期の妄言で織田が持ち上げられるようになった
例:森部、稲生、天王寺の講談、信康事件、桶狭間の戦い、清洲同盟、織田鉄砲隊の破壊力、鉄鋼船の活躍
信長公記の講談捏造や信長記甫庵信長記などの妄想軍記が真しやかに信じられるようになったのは
天下人家康が力を貸し、一時とはいえ家康より優位に立っていたという事実から誇大に拡張的に
織田信者や織田子孫の妄言により事実が捏造されて信じられるようになったのである
逆に徳川家康は腹黒い天下を盗んだ悪党のように言われるようになった
大久保の三河物語を始め武功派連中は吏僚優遇の徳川の仕打ちに不満を抱き、
徳川は悪者、不義者として仕立て上げた。
しかし史実では家康は西三河小領主として独立後、吉良、今川、の大軍と戦いながら
一向宗をうまく封じ込め、圧倒的強さを誇る武田の猛攻に耐え忍び、織田の畿内平定戦にも大変尽力したにもかかわらず
織田からは中々援軍が来ず非常に役に立たない同盟者として苦労していた。
事績からいえば織田より三好の方が遥に上
史実で圧倒的国力の織田家を崩壊させただけ
北条や大友、伊達、長衆我部にも劣る事績しかないのが織田
信長が家康の立場で生れていたら吉良や今川氏真の大軍に瞬殺されてたのは間違いない
周りにカスしかいない立地で助かったな
301 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 14:31:08.98 ID:L3u/yTa9
金ヶ崎の時は敦賀郡司朝倉景恒と対立していた
大野郡司朝倉景鏡が援軍を送らず失脚狙いだったから織田の奇襲が成功しただけだし、
姉川の合戦に関する史料が徳川方には実に豊富にあるのは徳川方の大勝をよく示している証拠だと水藤真氏も主張してる。
織田が苦戦し、家康の奮闘でなんとか引き分けにもっていったというのは事実だろ。
姉川の戦いのあと朝倉が勝ちとして撤退していったから織田が横山城を奪取できたんだし、
再度の侵攻で森可成、織田信治、青地茂綱らを討ち、比叡山での対陣では安藤守就の二男、坂井政尚を討っている。
そもそも朝倉には小谷と山本山の防衛陣地から南には進出意思がまったく感じられないのであり
横山城や佐和山城の奪回なんてもともと考えてない。それを欲したのは小身の浅井でしかない。
さらに常に織田より朝倉の方が兵力も多く志賀の陣での和睦も織田が必死に天皇まで使って頼んでる始末。
信玄の死や義昭の降伏までは朝倉の方が織田より常に優勢なのは明らかだろ
織田がボロ負けしたとする大久保の記述が正しいと思われるのはそれ以後もずっと朝倉が優勢な点からもわかる。
10/20山崎本願寺が御牧城を奪って、それに呼応した朝倉・浅井が比叡山から出撃し
織田方に組した一乗寺・試楽寺・高野・松ヶ崎ら左京区に突撃して攻撃してる。
また大坂本願寺も10/22日に高屋城攻め開始。織田弱しと見て若狭武田氏も武藤・粟谷と共に織田に対して挙兵。
信長はもはや比叡山戦線で手いっぱいになり完全に江南に手が回らなくなり、
家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請。それで石川家成ら2000を家康が派遣。
11/21伊勢長島で信興が討死。11/26堅田で坂井らが朝倉軍により全滅させられる。これで完璧に織田軍が追い詰められてしまい、
11/28信長が浅井に土下座5ヶ条の朱印状を出して朝廷から和睦だからと必死に講和を願うブザマさにまで失墜する。
これは三河物語が書いてる「天下は朝倉殿が取りたまえ。我は2度と望まず」が 正しいことを証明している。
三河物語では延暦寺が朝倉に兵糧を補給しているので、信長のアテが外れたと書いている。
耶蘇会士日本通信でも「敵(浅井・朝倉)は上坂本および比叡の山の諸山に籠もり、
坊主等は食物および家を供して大いにこれを助け」と書いていて食料不足など書いてない
織田軍の苦戦を物語る根拠として
浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所があげられる。現在の東上坂町の水田地帯には、
字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。
こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、
その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。
遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。
姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、
織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。
302 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 14:31:42.14 ID:L3u/yTa9
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで 悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
元亀3年
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる
303 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 15:23:08.45 ID:L3u/yTa9
天文17年11月〜18年の間に信秀と道三は和睦し婚姻同盟し信長の後継者確定。
天文18年11月には藤原信長と署名する初見文書により熱田へ発給している。
天文19年8月に今川5万が尾張へ侵攻とする誤伝が定光寺年代記があり、これが桶狭間の戦いのモデル。
これを信長公記は天文21年に起きた桶狭間の戦いとして脚色した(さらにデタラメ学者は永禄3年の間違いと主張w)
しかし現実では斉藤が織田側になったこともあり
今川と織田は和睦の雰囲気となってきており天文19年冬に天皇が織田と今川の和睦を斡旋しており
信秀側が義元へ和睦してもらいたいなら刈谷城を水野に返還せよとの要求をしており今川はそれを呑んでいる。
それに前後して東条松平甚二郎が織田方へなるなど織田優位なままに三河戦線も終結した。
ちなみに稲本紀昭によると神宮文庫蔵の日記断片簡に天文17〜18年に弾正忠入道・尾張若殿と書かれており
信長は出家した信秀の後見を受けて家督を継いでいる可能性が高い。
そして天文21年3月に信秀は死去する。(信長公記系統では天文18年死去し21年に桶狭間とする操作を行っている)
また守護代達勝もこれに前後して死んでいるようで、天文22年に大和守勝秀の名で唯一の書状が出されている。
天文22年閏正月に平手が信長のアホぶりに失望し自害。信秀が後見につけた4人のうち
青山は稲葉城下で戦死・内藤は謎人物・林は信長を見限り弟支持に回るなど、信長の側近は崩壊。
この糞人格に不安を覚えた道三が4月に信長と会見し、舅だけは婿を見限らない宣言(娘が人質だしなw)
その後、守護斯波義統暗殺・守護代大和守信友暗殺と信長に都合がよい展開になっていたが
守山城主織田孫十郎による信長弟織田喜六郎秀孝殺害
守山城への信長弟の安房守の就任後暗殺されると、信長が逐電していた叔父の孫十郎の守山城主就任許可。
守山城を舞台として信長兄弟達が次々と抹消されていき、
信長に対抗できるのは勢力は達成(信勝・信行)だけになり疑心暗鬼になっていた時に義龍から書状が届いている。
信長の最年長の叔父織田信光暗殺(公記系では不慮の死と書いて誤魔化すが定光寺年代記に害されると書かれている)
天文23年正月、今川攻めをする信長のために道三が兵力を加勢し、水野と信長は知多半島で軍事作戦をする。
岡崎市史によれば1555年から二年の間に三河全域で国人たちの反今川大蜂起が発生しており、信長有利な展開だったという。
しかし1554年に道三が重臣に追放され義龍政権が発足し信長後見役が政権から降りると情勢は一変していく。
1556年4/20に道三が討たれた時に美濃譲り状を貰った信長だったが、義龍の尾張への謀略に悩まされ内乱に陥る。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ
(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに美濃は尾張半国を取っていると書かれているのである。
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
304 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 17:10:59.67 ID:Qr5ggWW5
>>303 ひろゆき逮捕されたらお前も間違いなく逮捕だな。
そんときは警察にお前のIP密告しといてやるよ。神奈川OCNのな。
305 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 18:16:51.05 ID:XI7Kpf/s
間違い・捏造をはっきり指摘された書き込みの数々をまとめに晒され、それでも修正ゼロでコピペし続けるとは。
病人扱いされるのはむしろ正当だなw
306 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 18:37:24.83 ID:uVoP6kpx
武田好きの武田知らず。
織田嫌いの織田知らず。
何がしたいんだこいつ?
どうもニート状態で年中複数のスレに粘着しているようだが……。
307 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 18:42:15.93 ID:PJwc374q
それ武田と織田逆にすると正しいな
308 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 18:43:57.72 ID:PJwc374q
信長なんて家康がいたから助かっただけ
今川氏真に勝てたのも武田を抑えられたのも上洛戦も畿内平定戦も家康いなけりゃ何もできなかった。
姉川でも磯野勢らにおされまくり崩壊寸前だったけど徳川の善戦で何とか引き分けに持ち込めただけ
三方が原でも最も雑魚だったのが織田の援軍
家康がいなけりゃ1ヶ月で武田に瞬殺されてたのは間違いない
家康が義理堅いから信長は助かっただけ
何回武田に攻められて援軍要請出しても援軍よこさない
徳川は織田のために援軍出しまくってるのに
こんな役に立たない同盟者普通なら見捨てるだろうに
織田が畿内平定できたのは全て家康の功績
309 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 18:44:25.68 ID:PJwc374q
政宗はガチで戦上手
北 大崎 葛西 最上
東 相馬
南・西 葦名 大内 畠山 佐竹 二階堂 白河結城 石川 猪苗代
これだけガチで敵対して拡張した。
政宗の葦名侵攻と信長の美濃攻略、これで比べると
圧倒的に政宗のが上。
信長は幼君でガタガタの斉藤に敗戦し続けてラッキーパンチで寝返りが出て勝っただけ。
政宗は佐竹や白河、二階堂、石川、相馬、最上、大崎、葛西など全てで150万石にもなるであろう
大連合を自力で突破した。
比較にすらなるまい。
自国の国力と拡張度やそのスピードから考えれば明らかに政宗>>>>信長
310 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 18:45:37.47 ID:PJwc374q
徳川家臣団でいえば、
本多>酒井、榊原、井伊>水野、依田信繁、大久保兄弟>松平康国、鳥居元忠、大須賀康高、石川数正
>菅沼、小笠原貞慶、岡部正綱 >石川家成、奥平、木曽義昌>諏訪頼忠
>平岩、柴田康忠、保科正直>>>>>>雑魚織田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>馬鹿織田廚
311 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 18:46:36.67 ID:PJwc374q
ランチェスター論争でわかった事
秀吉は光秀より6.25倍戦下手
信忠は仁科より2500〜3600以上戦下手
光秀>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
仁科>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信忠
島津は伊藤相良土持大友龍造寺豊臣遠征軍民軍など圧倒的大軍の敵を壊滅させ続けた。
織田は斉藤長島一揆北畠朝倉浅井本願寺武田赤井雑賀衆などに圧倒的大軍の味方を壊滅させられ続けた。
島津>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田
312 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 18:47:10.52 ID:nUUUgV2r
全部過去スレや他スレで捏造や初歩の初歩間違いを指摘されたコピペばかりってw
たまに他の大名に話飛ばすいともわからん。こっちも例によってコピペだし。
何かの話し逸らしでもしているつもりなんだろうか???
313 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 18:47:38.51 ID:PJwc374q
長篠で勝ったから信長が名将とかアホすぎる
丸で城みたいに堅固な陣地&かなり数的不利&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
こんな所に飛び込んでいく馬鹿が総大将だったから勝てただけ。
しかもその状況ですら8時間以上戦われて所々柵が破られたりしてるんだから
勝頼みたいな馬鹿が総大将じゃなく普通に戦術的勝負やらせてたら圧勝してただろ
長篠では雨でぬかるんだ地面の中で『まるで城攻め』と思わせるような堅固な陣地の中に
数の上でも鉄砲の性能や装備の上でも勝るであろう織田徳川相手に自分から突撃
御館の乱では北条・伊達E葦名とともに景虎支援をせず、景勝に買収されただけでなく、
北条家に対して土下座外交すれば同盟維持できたかもしれんのに駿河伊豆国境や
上野方面で公然と喧嘩をふっかけ、四方を敵に回して猪突猛進
これによって武田の軍役は急増し国人の疲弊と不満は頂点に達する
新府城もあの状況でやるのは…としか。
能力どうこうを超えて基地外すぎるな。
武田が滅んだのは勝頼1人に責任がある
314 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 18:48:43.14 ID:PJwc374q
経過や中身を考慮せず結果だけ桶狭間運良く手薄な今川本陣に勘違いして突っ込んだ信長強い論理でいうなら
動員力ならはるかに光秀上回るにも関わらず本能寺で手薄な陣を運悪くつかれ死んだ信長雑魚
と言う事
先陣と勘違いして突っ込んだら本陣があって雨や風が吹いたから勝てただけ
三河物語によると雨が降ってる所に織田勢が切りかかってきたので壊乱したとある。
信長公記にある「天晴るる」は通り雨と風が織田側がいた山の下から
今川本陣のいる山上に流れた、って事だろうな。
つまり今川勢は猛烈な雨と風を向かい側に受けながら織田に襲撃された事になる。
気力十分て事はないな。
実際今川方にしてみれば雨と風を向かい側に受けてる所を襲撃されたから
「水をまくるが如く崩れ」たわけだし、
その混乱の最中にまともに集団行動できてたのが義元の周りにいた300ほどだった
これが実力で勝ったというなら本能寺は実力負け
圧倒的大軍持ちながら偶発的に起きた手薄な所を奇襲されて死んだんだから
315 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 18:49:40.30 ID:PJwc374q
>>312 はあ? ? ?
されてませんけど????
316 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 18:53:55.81 ID:ju9xouuk
甲陽軍鑑だと桶狭間合戦あたりでも「山本勘介が、信長が義元に勝つのを見抜いてた」とかまさに後付創作乙な話してまで武田持ち上げているが。
まさにこういう流ればっかだよな。
信長を(捏造が何かの間違いで通じたとしてw)貶める=武田も下落の共倒れだな。
317 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 18:56:06.03 ID:PJwc374q
軍艦の話なんてしてませんけど????
つうか軍記物なんてメルヘン小説なんだから史料にする方が間違い
318 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 19:04:02.81 ID:PJwc374q
関東でいえば
佐竹>里見、太田>結城、壬生、由良>北条、厩橋北条、那須、水谷、梶原>大田原、宇都宮
簗田、両上杉>皆川、小山>小田
>>>>>>>>>雑魚織田(笑)
319 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 19:05:14.78 ID:PJwc374q
信長や秀吉は畿内美濃に大苦戦。
家康は瞬殺した。
320 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 19:06:05.45 ID:VW2ePoLp
思い込みや勢いで書く、なんてのは2chじゃ珍しくないが。
それを指摘されても懲りずに同じコピペ繰り返すってことは確信犯か。
過去、一応過ちを認めて謝罪した話さえ繰り返すってどんな馬鹿だよ。
321 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 19:06:30.69 ID:PJwc374q
領土拡張率ランキング
家督相続年 相続時勢力圏 最終勢力圏 勢力拡大率
1宇喜多直家 1555年 0万石 30万石 ∞
小笠原貞慶 1582年 0万石 13万石 ∞
徳川秀忠 1602年 0万石 日本全土 ∞
4徳川家康 1560年 2万石 1790万石 895倍
5結城晴朝 1558年 1万石 23万石 23倍
6佐竹義重 1570年 8万石 150万石 17倍
7上杉景勝 1578年 8万石 120万石 15倍
8菅沼定利 1562年 1万石 13万石 13倍
9武田信玄 1541年 14万石 130万石 9倍
10上杉謙信 1548年 23万石 178万石 8倍
11北条氏康 1541年 45万石 180万石 4倍
最下位 織田信長 30万石 0 0
322 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 19:07:18.50 ID:PJwc374q
323 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 19:12:27.31 ID:PJwc374q
武田軍は東美濃攻防戦や上村合戦で圧倒的大軍の織田に寡兵で大勝
岩村城攻防戦でも援軍全くだせない状況で圧倒的大軍の織田相手に半年近く持ち堪え最後は騙まし討ちでやっと落とされる
武田攻めでも50〜60分の一の兵で城外戦で一門の一人を討ち取り自軍より多くの被害を与え
最低4時間は戦ってたという戦術的大勝をする (ランチェスターの法則でいえば兵力差50〜60倍以上なら被害差も2500〜3600倍になるはず)
姉川で徳川以下の実力が露見した織田。その徳川を圧倒的勢いで勝ちまくり非常に軽微な被害で壊滅的損害与えたのが武田
よって武田>>>>>徳川>>>>織田
毛利は対織田戦や豊臣戦やら関が原やら圧倒的大軍や国力、鉄砲の豊富な動員にわりに
結局やられまくっただけだからな 織田が唯一兵数に頼らず楽に勝ててるのが毛利や島津といった雑魚大名
よって織田>>>>>島津>>>>毛利
以上をまとめると
武田>>>>>徳川>>>>>織田>>>>>島津>>>>>毛利 これが確定する
それぞれの合戦の戦闘結果から確定事項を抽出
信玄>>>>>家康 三方が原
家康>>>>信長 姉川
謙信>>>>柴田 手取川
謙信>>信玄 川中島
家康>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 84年一杯の直接対決
柴田>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 しずが岳
滝川>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 伊勢での攻防
北条氏政、氏規>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉 小田原征伐
織田信雄>>>>>秀吉 尾張や伊勢での攻防
北条氏直>>滝川 神流川
秀吉>>>>>>>>>>>>毛利一族 中国戦線
宮部>>>>>>>>>>島津 九州征伐
上杉景勝>>>北条氏照、氏邦 鉢方、八王子の攻防
上杉景勝>北条氏直 天正壬午
仁科>>>信忠 高遠の攻防戦(50〜60倍かそれ以上もの兵力差で織田方の損害の方が多く一門の一人戦死。最低4時間以上戦われる)
信忠≒光秀 二条城の戦い(圧倒的大軍で光秀は寡兵の信忠に何回も押し返された)
島津≒長宗我部 戸次川の戦い(兵力差あるとはいえ壊滅的打撃被った)よって
これらを元に数値をつける
120 上杉謙信
110 武田信玄
100 徳川家康
97 北条氏康 太原雪斎 山県昌景 上杉景勝 柴田勝家
96 武田勝頼 明智光秀 葦名盛氏 田村清顕 本多忠勝
95 本庄繁長 伊達政宗 織田信長 毛利元就
94 佐竹義重 北条綱成 滝川一益
93 立花道雪 北条氏直 相馬盛胤
92 織田信忠
91 島津家久 伊達政宗
90 島津義弘 長宗我部元親 黒田孝高
酒井忠次 真田幸村 朝倉宗滴
20 羽柴秀吉
324 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 19:16:57.62 ID:PJwc374q
1565年9月28日に織田への味方をして孤立奮闘してた
加治田城の佐藤紀伊守親子って信長に会って
感涙にむせび言葉も無いほど感激してありがたがったんだけど
翌29日に龍興が信長と決戦に出てきたら、
佐藤紀伊守親子を見捨てて信長逃亡しちゃうんだよな・・・
佐藤紀伊守が斉藤に出してた人質の娘が串刺しにされたのに。
結局のところ息子は斉藤軍の前に討死するし
岐阜陥落後に佐藤は用済みとばかりに隠居を強制され
加治田城は養子名目で送り込まれた
斎藤新五郎により乗っ取られちゃうし。
稲葉山を信長が奪ったあと
戦乱で失われてしまった名物の壺を義龍妻に
絶対に隠し持ってるだろ!さし出せと執拗にいびる信長に
無いものは無い・・・と義龍妻がもう自害するより仕方ないと決意したが、
信長に冷遇されている面目丸潰れの濃姫や
その親類、一族、美濃有力国人たち17人が結束し
失業していた佐藤紀伊守も参加し、
これ以上嫌がらせを続けるなら美濃国衆共みんなで自害するといって
信長に抵抗した話が言継日記に佐藤紀伊守から聞いた話として出ている。
朝廷の高位にいる殿上人の言継に佐藤紀伊守が
さびしい身の上についてグチって憤懣をブチまけているほど信長は冷酷。
そもそもその後の佐藤忠能は史料上では行方不明扱いで抹消されてる・・・
三次史料の堂洞軍記によると伊深村でひっそり野たれ死んだみたいだが。
ちなみに伊深村は織田軍の佐藤信則の領地だから
完全に領地を奪われて追放されてる…可哀想に。
元亀3年10/18付け河田宛の謙信書状
遠山号岩村認候処 城主取合 敵数多討捕 敵追払候
などと書いてあって織田と武田の間で
数多討ち取るような戦火が東美濃であったのは間違いないと柴辻氏が指摘してる。
また信玄三河から信濃へ撤退する6日前の
元亀4年3/6に秋山虎繁に東美濃出陣を命じていて
本願寺から朝倉出陣予定を聞いた信玄による
実質上の美濃侵攻の先鋒を兼ねていた。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
斎藤って野戦では信長に全勝無敗なんだよな。
明らかに稲葉山城乗っ取り以降の
家臣離反が滅亡原因だよな。
西美濃衆と東美濃衆の対立を調整できる人材がいなかったのが痛い。
龍興の寵愛が東美濃衆に偏っていたのと、
西美濃衆が六角勢の協調しての
近江浅井衆との戦役で負担過大だったこともあるんだろう。
佐々木哲も朝倉義景が近江南部に領地を持っていたからこそ、
義輝が殺された時に朝倉が主導して義昭を近江南部に逃がすことに成功したと論証してるな。
義景が六角出身の養子で、
六角義秀死去後に
義景が花押を六角氏様に変更してるし。
六角出身の仁木義政が義昭が義景邸を訪問した際に、
義景の後見人として振舞っていたり。
325 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 19:28:49.38 ID:oPTAcMt5
家臣限定のスレタイさえ読めないんだから……。
326 :
名無し曰く、:2012/03/22(木) 20:12:18.24 ID:m7jHjkZK
チョンだから仕方ないw
327 :
名無し曰く、:2012/03/23(金) 00:13:54.53 ID:yA/FsBwO
だがはニュー速で2ch擁護レスも書いてたからな。
2ch運営側の人間であることは間違いない。
武田最強を宣伝したけりゃブログでも作りゃいいのにそれもしないからな。
ただ2chに書き込むだけが目的。
328 :
名無し曰く、:2012/03/23(金) 03:36:23.51 ID:+qG15SRp
斎藤龍興による河野島大勝は大嘘だった
河野島の戦い全文
一去月廿九日織上当国境目へ出張候、其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島へ執入候、即時ニ竜興懸向候、依之織上引退、川縁ニ居陣候、
国之者共限堺川詰陣を取続相守候、自出張之翌日、風雨濃水ニ付而、自他不及行候き、漸水引候間、取懸可相果之由令儀定候之処、去八日未明ニ織上敗軍仕候、川へ逃入、
没溺水候者共不知数候、残党於川際少々討候、兵具已下捨候為躰、前代未聞ニ候、不遂一戦退散候之間、数多不討取事無念不少候、雖然此方任存分之条、可御心易候、
織田在陣中可注進申候へ共、無程落居候間、無其儀候、此等之通御伝語可畏存候、可得尊意候、恐惶敬白、
ここからわかる斎藤方の嘘
・行き道は凄く増水していた木曽川をなんなく渡河したにもかかわらず、帰りに水が引いた木曽川を渡る際に溺死者が多数出た点(其時分以外水迫候て、河表打渡、河野島)
・織田方が命令に背いて攻撃した(その前の信長弾劾)にも関わらず斎藤方が木曽川よりさらに先の境川に来ただけで軍を止める織田勢(即時ニ竜興懸向候〜国之者共限堺川詰陣を取続相守候)
・水が引いて斎藤が攻撃をかけようと考えた何日か前、既に織田軍は撤退していたにも関わらず斎藤方がその一部始終を見たと記している点(去八月八日〜前代未聞ニ候)
斎藤方の9割近くの誇張でできた河野島
だがのような無知無能なる人間に対する喧伝、アピールのためにこういった誇張が生まれたのだろう。
329 :
名無し曰く、:2012/04/14(土) 04:32:07.16 ID:vIRe6Gv8
330 :
名無し曰く、:2012/05/05(土) 14:39:04.61 ID:40XAPzt9
保守
331 :
名無し曰く、:2012/06/21(木) 04:19:27.39 ID:e4/RFe1P
<( ゚Д゚)>アーアー
332 :
名無し曰く、:2012/06/21(木) 23:34:17.64 ID:ygZea6MQ
家臣限定はどこいったんですかね・・・?
333 :
名無し曰く、:2012/06/22(金) 22:06:17.80 ID:nJuBMvt0
蒲生氏郷の武勇は過小
334 :
名無し曰く、:2012/06/23(土) 07:12:35.89 ID:ZnHAyAbL
革新からエライ弱体化したな>蒲生氏郷
335 :
名無し曰く、:2012/06/23(土) 11:54:22.96 ID:RUjYRBLz
天道からじゃね?
革新だと茶器ありで政治が90超えてた気がする
336 :
名無し曰く、:2012/06/23(土) 12:55:51.67 ID:ZnHAyAbL
334は革新の能力と比べて天道で弱体したねって意味ね
舌足らずでスマン
337 :
名無し曰く、:2012/06/25(月) 00:33:38.98 ID:33WHJUY6
最近の信長はインフレしすぎ
武将風雲録の頃は戦闘90以上が6人だけだったのに
天道だと武勇も統率も90以上だらけ
338 :
名無し曰く、:2012/06/25(月) 05:18:08.93 ID:K/Z4p9Lp
最大が120だからいいんだよ
100オーバーを90と換算すれば、5〜6人しかいないでしょ
339 :
名無し曰く、:2012/06/29(金) 11:28:01.68 ID:ubQ0e2nJ
小田辺勝成はなんの功績があって
あの統率高いの
340 :
名無し曰く、:2012/06/29(金) 12:55:46.66 ID:P49jV932
統率采配政治外交兵科適正って細かすぎぐらいなほうがいいけどKOEIはやる気ないしな
341 :
名無し曰く、:2012/06/29(金) 13:01:12.19 ID:90/jReHT
個性はつけやすくなるね。
実際一人一人振っていくのは大変だとは思うけど。
342 :
名無し曰く、:2012/06/30(土) 05:21:56.13 ID:t5UFAVk7
教養もあったころが懐かしい。今川氏真も教養のステがあったらあんなに政治が
高くならず教養に振られただろう
343 :
名無し曰く、:2012/06/30(土) 13:08:38.96 ID:ZtcPjtHr
大名が発展で重視するタイプを文化、軍事、商業、農業、貿易、南蛮とか別ゲー作ったほうが早いか
344 :
名無し曰く、:2012/07/01(日) 08:26:31.44 ID:e66plD/S
>>328 清洲同盟が信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、
信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。
さて以下がその隠蔽である。
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると臆した信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
9/13の義昭は謙信へ向けて「京表儀 織田尾張守出勢相違故
江州矢島儀 弥三好・松永計策共候間 難成安座候之条 若州へ相越
去八日至越州敦賀退座候 義景馳走候」
などと信長を名指しで非難している。
345 :
名無し曰く、:2012/07/08(日) 13:15:50.94 ID:5+3ZC6cI
光秀討死前にすでに家康も三法師を秀吉同様に擁立する動きを見せるなど
なぜか織田家内ですでに信忠の兄弟ではなく側室腹の三法師を後継にする合意が存在する謎。
秀吉が三法師を廃止し坂本城へ幽閉し事実上織田嫡流家断絶。
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したので信雄を降伏させる
(ちなみに信雄の昇進は朝臣北畠国司と言う名家を継ぐゆえ)
小田原陣後に信雄を出家させた挙句に小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放し傀儡北畠政権滅亡。
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった出家中の信雄を呼び出し
息子に秀の名を与え羽柴秀雄(幼名三法師)と称させ4万5000石の領地を与える。
秀吉が信雄を追放した時に旧主への優越感から再興させた羽柴秀信13万石と(白紙期間が長く信忠の子と同一人物か全く不明)
秀雄4万5000石は関が原の戦い後に改易(どちらも秀吉により断絶を経験しておりもはや織田は継続性の無い秀吉の遊び道具化)
秀信は高野山からも信長の所業を理由に拒絶され野たれ死に
秀雄は1602年に野たれ死にそうなのを聞いた徳川秀忠の好意により蔵米3000俵を恵んでもらったが栄養失調のため27で死去。
困窮した信雄はどうしようもなくなり大坂城で生活保護を受けることになる。
大坂陣の1614年に家康により買収されて大坂落城後の1615年に7月に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡で加増を受け織田家復興。
小幡藩の悪政ぶり
領民たちは織田信就の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願するほどで
上野国でもっとも貧しく上毛ならぬ不毛の地と揶揄された。
山県昌景の子孫で甲斐出身の山県大弐は(現在は尊王論者の神として山県神社で祭られている)
織田家の小幡藩で明和事件を引き起こし上野小幡藩主織田信邦
(高家旗本織田信栄の四男・ちなみに信栄に正室はいない)
に蟄居隠居を強要し、高家から普通の旗本に降格とし
官位剥奪の上(2度と従四位下へなれなくなった)鍛冶橋門内の江戸上屋敷も没収。
織田信長の子孫と言うことで認められていた国主格の待遇も廃止。
(信長のおかげで国主格だった・・・これは表向きの理由で実際は信雄4男の信良の長女松孝院が
1623年に将軍徳川秀忠の三男・忠長(不和だった家光により自害に追い込まれる)
と結婚していて徳川の外戚になっていたと言うのが本当の理由で
宇陀崩れや明和事件を契機に国主待遇は廃止された)
小幡藩改易に伴い信栄五男である織田信浮が継いで出羽入りしたが
天明の飢饉の災禍によってボロボロになり
明和事件で失った家格と旧領の回復を願うばかりで失意のうちに死去。
ちなみに信栄の次男の信憑は柏原陣屋の織田信旧養子となっている。
結局、織田の系統は山県昌景の子孫の謀略で
高家旗本から降格させられただの旗本になってしまった信栄系に乗っ取られた。
346 :
名無し曰く、:2012/07/08(日) 13:23:38.18 ID:5+3ZC6cI
米沢藩 表高 15万石 実高 33万石
実高で水戸徳川家(20位)や越前徳川家(18位)を抜いており石高ベスト20内に入る大藩。
柏原陣屋 3万石未満 2万石とされる。
兵庫県丹波市 織田信包系だったが慶安3年に改易し天領。
信雄系の宇陀藩で信武が発狂し宇陀崩れを起こして宇陀藩が改易されたことから
元禄8年に柏原藩が再興され信武の子が入る。
大名ではないので当然に城もなく陣屋。もちろん幕府に遠慮して城を作らなかったわけでもない。
信長以来の名族という理由だけで城主格にしてもらった為に
現代ではここを藩と呼称することもあるが
そもそも藩という言葉自体が明治以降の造語。
年貢軽減愁訴・百姓一揆・打ち壊し騒動が頻発する超絶貧困藩
天童陣屋 1万石未満 2万石とされる。
山形県天童市 信雄系 「裸足で紅花さしても織田に取られて因果因果」
で有名な奥羽で南部藩と1、2を争うの超絶貧困藩 天保元年に城主格にしてもらう。
上野国小幡藩時代の不祥事で信長以来の名族としての特権を全て剥奪されて出羽へ飛ばされた。
芝村陣屋 1万石未満 9000石とされる。
奈良県桜井市 有楽斎系 百姓が死ぬ覚悟で藩を大批判したいわくつきのキチガイ藩で
藩の借金が銀2693貫と言う途方もない額に膨れ上がる始末。城主格にしてもらう。
柳本陣屋 1万石未満 まったく不明
奈良県天理市 有楽斎系 陣屋
他の織田系と同様に嘉永5年に信長以来の名族ということもあって城主格にしてもらう。
重税の末に武器を持たない百姓の叛乱に対してガチで織田軍が絶滅戦争をした地獄の超絶貧困藩
遠い江戸への参勤交代あるし、織田は相当に貧困だったろうね。
347 :
名無し曰く、:2012/07/08(日) 18:38:48.24 ID:/d85vcgx
あれだけ栄華極めた織田家も
江戸時代は悲惨だな
348 :
名無し曰く、:2012/07/08(日) 19:31:01.26 ID:5+3ZC6cI
文明14年7/13に清洲城で日蓮宗と六条門徒の宗論に奉行として
立会い連署証文を発給した中に登場する織田良信?=西巌と同一人物???→信貞→信秀→信長
つまり信長の曽祖父からして、すでに遡れない怪しい家系が弾正忠家。
織田全体でみても劔神社の神官(忌部氏?)と本当につながりがあるか不明だし
もともと斯波氏の元で尾張守護代を勤めていたのは甲斐氏だし
1393年6/17付け書状の藤原信昌・将広親子が劔神社の修理興行に勤めて課役免除した書状から、
劔神社との関わりと「将」は斯波義将の偏諱なので斯波氏に仕えた証拠として
これが織田家の先祖なので
織田は忌部氏でなく藤原氏だとするトンデモ論を持ってくるものの
1392年の斯波氏の相国寺供養の随伴名簿に織田氏が存在してないため、
そもそもこの時点で織田氏はいまだ斯波氏の被官ですらなかったのではと指摘されてる。
つまりどこの馬の骨かさっぱりわからんのが織田氏
349 :
名無し曰く、:2012/07/08(日) 20:50:11.09 ID:gkavzwTQ
350 :
名無し曰く、:2012/07/09(月) 09:42:45.31 ID:d5oMM99t
20世紀のゲームしか知らんけど
>>338 > 最大が120
三國志IIの呂布みたいだな
351 :
名無し曰く、:2012/07/09(月) 14:39:38.94 ID:2MHL2KXn
全然関係ない話かもしれないけど
以前シブサワコウがラジオ番組の対談に出てたんだけど
「信長のエピソードで一番好きなのはなんですか?」って聞かれて
道三が信長に初めてあったときのエピソードをあげてた
有名な道中はうつけものの格好してたけど、実際会ってみたら見事な立ち振る舞いだったってやつね
少しでも歴史考察ができる人ならほぼ捏造確定のエピソードあげるなんて・・・すごく失望失望した覚えがある
352 :
名無し曰く、:2012/07/12(木) 18:25:20.94 ID:DIuXNBK2
>>351 俺はNHKの討論番組に出演してた司馬遼太郎先生が無茶苦茶言ってて
専門家の先生に次々看破されるのを見てすごく失望した覚えがある
まあ当時から怪しいといわれた龍馬と桂の試合を史実と言い切っちゃう人だからな
353 :
名無し曰く、:2012/07/12(木) 21:08:44.57 ID:ZesNqFGB
これは時代的に仕方ないんだけど
最近の研究じゃ否定されてる説も昔の小説そのまんま乗せてるのあるからな
354 :
名無し曰く、:2012/07/13(金) 13:09:12.62 ID:7H1SaL95
小説や漫画・ゲームなら話の流れを面白くするために適当な逸話選ぶのも仕方ないと思うぞ
エピソード(アネクドート)で好きなのは?って聞かれて逸話あげるのは別に問題ない
それを史実のように話すのは問題だけどさ
司馬センセは小説家であって研究家じゃねえからでしゃばらせるのが間違い。あれはダメ
355 :
名無し曰く、:2012/07/14(土) 09:20:37.41 ID:L+fV8UlF
2ちゃん戦国板で
著作物をクソみそに批判し始めて
しばらく経ってから
著作物も比較的、史実性が上がってきてるな。
90年代なんて講談と史実の線引きが曖昧なままだったし。
最近の流れとしては論文とかでも、
無意識なまま史実性が問われてこなかった
常識部分が問題化してきたりしてきてるし。
356 :
名無し曰く、:2012/07/14(土) 10:59:02.19 ID:VJpy42WI
なんか文章おかしいですよ
357 :
名無し曰く、:2012/07/20(金) 21:25:51.19 ID:N+JSAh7b
避難あげ
358 :
名無し曰く、:2012/07/24(火) 01:05:26.53 ID:Tc/bIJrw
>>351 信長公記に載ってる話だからセーフじゃね
359 :
名無し曰く、:2012/07/25(水) 08:36:22.94 ID:Yl16O0dy
>>358 信長公記はそこそこ信頼できる史料ではあるけれども
・この話は信長公記にしか記述がない(斉藤側からの史料がない)
・道三の言葉が織田方にどうやったら伝わるのか?(そもそもこんな事、人に聞かれる場所で言うわけないし)
という理由から信長すげーーってことが言いたいが為の捏造だろうと普通は考えますよ。
360 :
名無し曰く、:2012/07/25(水) 12:18:44.55 ID:lJIdAY6i
>>359 滅ぼされた家側の史料が無いのはよくあることだし、
>道三の言葉が織田方にどうやったら伝わるのか?
その後美濃併合したんだし伝え回ってきたとしても別におかしくなくね
武井夕庵みたいに斉藤家の右筆だった男が引き続き信長に仕えたって例もあるし
ようは「普通は捏造と考える」の「普通」のラインだよな
俺はこないだ、「川中島の一騎打ちはあった」ってことを大真面目に書いてる武田信玄の新書を読んだけど、
そういうグレーな話ってのは大抵、「あったかもしれないし、無かったかもしれない」
で落ち着けるのが歴史を楽しむ上ではベターでしょ
361 :
名無し曰く、:2012/07/27(金) 23:37:18.89 ID:4Kib+tni
>>355 史実性が問われてるといえば従来は当たり前のように語られてた
「石田三成は内政全般と兵站の天才」っていうのも実はこれといった証拠は無くて
任地先の町民や領民に慕われてた云々の話含めて創作の可能性が強いとか。
逆に意外と多くの合戦に従軍していたみたいね。
実際どんだけ活躍したんかは知らんけど。
362 :
名無し曰く、:2012/07/28(土) 14:40:20.79 ID:csTOBHyr
失敗したとはいえ忍の水攻め案が採用されているんじゃなかったっけ
合戦に暗ければ採用される余地はないだろうね
363 :
名無し曰く、:2012/07/28(土) 16:45:27.21 ID:EhgU9SOg
水攻めは秀吉の指示でむしろ三成は
「こんな水が溜まりにくいとこ水攻めにしろとか無茶言うなし」って書いた書状が残ってる。
364 :
名無し曰く、:2012/07/28(土) 20:38:22.71 ID:csTOBHyr
なるほどなあ
執行責任者に過ぎず意思決定者では無かったって訳か
365 :
名無し曰く、:2012/08/05(日) 12:20:25.16 ID:nEItafR9
剛力あやめ 統率1 武力153 智謀3 魅力399 義理98
366 :
名無し曰く、:2012/08/05(日) 13:24:54.83 ID:YgZrvyme
剛力ブスブス言われてるけど
結構タイプなんだよな
ブスカワ大好き
367 :
名無し曰く、:2012/08/05(日) 18:16:29.75 ID:nEItafR9
仏剛力
368 :
名無し曰く、:2012/08/21(火) 08:59:50.48 ID:Bb0SHMQp
武将の能力に納得いかないならエディタで弄ればいいだけの話
スレ終了
369 :
名無し曰く、:2012/09/11(火) 19:29:54.74 ID:XlrFBo3Z
前田慶次があんなに能力高いんだし、武蔵も吉川武蔵のイメージを取り入れてもっと能力を高くして良いと思うんだが…
370 :
名無し曰く、:2013/01/17(木) 18:03:09.82 ID:9vXjfl0f
入来院氏ってなんでほとんど出てこないのかが謎
義久、義弘、歳久ほどの名将の母親が入来院氏の出で
入来院氏は領土もかなり拡大してるし当主は義久の従兄弟だったりするわけだし
作品で取り扱ってもいいとおもうけど
371 :
名無し曰く、:2013/01/18(金) 08:52:28.08 ID:DTXcWxu7
細井官兵衛(不詳〜1562)
松永久秀家臣、六角家との戦いで壮絶な討ち死にをしたはず…
松永家で一番餅が好きな武将として記録が残ってる
自称戦国一のグルメ武将を無視するのは如何なものかと
372 :
名無し曰く、:2013/02/28(木) 05:09:06.58 ID:/n+mjnED
信玄一つ擁護するなら上洛の唯一の道筋にストーカの軍神様がいたことぐらいか
織田の上洛阻止の相手だった龍興や六角、三好の残党、朝倉よりは邪魔だったろう
373 :
名無し曰く、:2013/03/05(火) 20:21:31.28 ID:RU2Vrv+B
いやべつに上洛関係ないしストーカーされてないわけだが・・・
それは北信濃の問題でどうせすぐ帰るから無視すりゃいいだけ
374 :
名無し曰く、:2013/03/06(水) 05:39:21.08 ID:k/qBzFpn
謙信に信玄並の欲があれば京まですんなり上洛できたんだろうか
関東にこだわらず
375 :
名無し曰く、:2013/03/06(水) 10:17:11.85 ID:LDnqBRL5
謙信は2度悠々と上洛してるよ
京に入っても三好松永は怖気ついて謙信には何もできなかった
謙信は将軍に「成敗しましょうか」と言ったみたいだけどね
376 :
名無し曰く、:2013/03/06(水) 11:45:43.93 ID:e3ZSjDL7
龍造寺四天王は一緒くたに判断するんじゃなくて
江里口円城寺木下あたりは統率なしの武勇だけでおながいします
377 :
名無し曰く、:2013/03/07(木) 05:28:59.22 ID:cIF9eOUP
氏康と信玄の武力の差が納得いかん。氏康もかなりのもんだろ
378 :
名無し曰く、:2013/03/07(木) 16:21:16.04 ID:BC8sDyZA
つ小田原・駿河侵攻
同見ても
信玄>>氏康です
379 :
名無し曰く、:2013/03/07(木) 23:27:10.14 ID:nNRuzeZG
氏康79 綱成89 氏繁82 氏邦67
380 :
名無し曰く、:2013/03/07(木) 23:52:39.21 ID:bPQxCzaR
”〜家臣限定〜”
381 :
名無し曰く、:2013/03/08(金) 05:35:45.28 ID:lFxBAZAZ
そういえば上杉の柿崎は最初のシリーズじゃ脳筋扱いだったのが
最近は政治が60代まで上がってきてるな
382 :
名無し曰く、:2013/03/08(金) 10:07:05.78 ID:u8sK3ASj
脳筋の武将って本来は少ないしな
領主は大なり小なり政治家なわけだし
肥的にはキャラ付けで勇将=脳筋のほうが分かりやすいと思ってるだろうけど
383 :
名無し曰く、:2013/03/08(金) 12:03:13.74 ID:Z6Qx02Z9
>>382 光栄がっていうか歴史ファンの意識自体がずっとそうだったと思う
信長の野望をきっかけに歴史を好きになった歴史ファンの知識の増加量に、
今や光栄が追いつけてないっていうところだね
384 :
名無し曰く、:2013/03/09(土) 06:25:32.66 ID:niI+hMAu
家臣じゃなくてスレチだが話題の流れで一つ
謙信も畳か着物か忘れたがその原料になる草の栽培してそれを港の新ルートで近畿にじかに運んで潤沢な資金稼いでた
ってNHKの特集でやってたな当時は越後、米どころじゃなかったらしいし。そういう政治能力考慮すれば政治70以上は
あってもいいんだよな
385 :
名無し曰く、:2013/03/09(土) 07:59:59.19 ID:adXwCnNX
ゲームは講談軍記能力値と史実能力値で選択できれば良いと思う。
武将ファイル本を作るの大変だろうけどw
386 :
名無し曰く、:2013/03/11(月) 05:36:48.53 ID:eZzq49Ho
知力が信玄より謙信の方が劣るってステは
大熊やら家臣寝返らせたりする謀略面でか?
戦術面では知力負けてないと思うけど。でも
そうすると謙信が本当の化け物になってしまうんだよな政治と知力まで80台に
するとゲームバランスがおかしくなる
387 :
名無し曰く、:2013/03/11(月) 14:00:38.30 ID:oVGIuZsx
>>386 戦場での知力は啄木鳥の戦法見破ってるし
謙信のほうが信玄勘助より上だろうね
388 :
名無し曰く、:2013/03/11(月) 14:29:24.37 ID:A5ftcGwN
知謀と知略をどうするかだな
389 :
名無し曰く、:2013/03/11(月) 15:24:55.58 ID:LJo2VDGo
家 臣 限 定
390 :
名無し曰く、:2013/03/11(月) 18:43:39.58 ID:WSiRypq9
じっくり考えるタイプじゃなくてその場での天才的な勘で動くみたいな後世のキャラ設定じゃないの
それに中途半端な脳筋は苦労するけど謙信はあのアホみたいな統率値で計略なんぞ関係無くいくらでもゴリ押し出来る
391 :
名無し曰く、:2013/03/12(火) 06:19:04.13 ID:sBHReMUO
講談で最大限に過大評価されてるのは真田の次男で間違いないだろう
392 :
名無し曰く、:2013/03/12(火) 10:52:27.63 ID:baz5754t
真田昌輝「照れるなー。長篠での討ち死に評価してもらってありがと」
393 :
名無し曰く、:2013/03/12(火) 11:24:52.13 ID:EaMf9jWB
>>吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない
よくそんな飛躍した妄言を思いつくもんだなw
吉村とかは信雄の家老でもなんでもねぇ末端城主で政策に関与してる立場じゃねぇだろが同一視すんじゃねぇよアホ。
だいたい木曽や真田や小笠原ら信濃最有力国人3氏が家康から離反した理由は、真田が家康への不満を吐いた諏訪郡知行宛行約束で騙しておいて
その約束を忘れて沼田割譲しろなんてお前はアホかと離反した事実から、池亨氏も家康からの離反組は秀吉との戦いにおいて約束された所領の獲得が
実際には家康の空手形でなんとか必死に出鱈目発給で繋ぎとめてたが、その誤魔化しも限界に達したからで、その最終段階でついに岡崎城代石川数正まで離反したんであって
ウソの連発で必死に繕ってた張子の虎のような徳川軍が秀吉軍とまともに戦えるような状況にはなく、時間が経てば経つほど徳川が一方的に不利になるだけの話。
394 :
名無し曰く、:2013/03/12(火) 11:27:56.04 ID:EaMf9jWB
つか秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねーだろw農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに
小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になるだろアホw
早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が
4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
395 :
名無し曰く、:2013/03/12(火) 11:30:27.79 ID:EaMf9jWB
しかも北条に対して秀吉軍が兵糧不足で敗北寸前だったとかお前は書いてるが、
山中城守備の松田康長の3/21付け書状の「敵陣中は兵糧不足で山芋を掘って食べており、米一升が鐚銭100文もしてるが、
それも底を尽き雑炊一椀が10文になっていおり長陣は無理」の書状については、
そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない)
つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww
前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw
396 :
名無し曰く、:2013/03/12(火) 11:33:55.07 ID:EaMf9jWB
毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家から
ソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのになぜ逃げまくるんだよwww
萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
397 :
名無し曰く、:2013/03/12(火) 11:38:25.48 ID:EaMf9jWB
>>熊見川だってちゃんと史料にいっぱいあるし顕如の書状にも織田方3000人討ち死
もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、ずっと篭城を続けた
山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
先祖代々の恨みのあまり秀吉・石田憎しで捏造歪曲ばっか吐いてんじゃねーよ在日織田厨くんよぉwww
398 :
名無し曰く、:2013/03/12(火) 12:58:07.29 ID:PIwq3QGo
>>393 吉村氏吉は信雄と最も書状のやり取りが盛んであり信雄の軍事活動の中核的存在であったのは明らか
そもそも木造の開城なんて木造軍記の講談ネタで一次資料にないから論外(秀吉は敵方の城について開城したら逐一書状で自慢気にかくので
それがない戸木城は最後まで抵抗したのは明白。そもそも吉村氏吉、澤井雄重、森晴光、平手大炊 小坂孫九郎、天野雄光も人質を要求されていない)
>>池亨氏も家康からの離反組は秀吉との戦いにおいて約束された所領の獲得が
木曽は天正12年春時点で離反してるし小笠原も真田も離反したのは翌13年であり家康が小牧長久手の戦い(秀吉との戦い)中に恩賞約束なんてしてねぇよクズ
天正10年〜11年にかけて小笠原や真田は家康の支援受けて勢力拡張し天正壬午の頃安曇筑摩の全域支配を任せる予定だったが
天正11年12年と連続で上杉との麻績・青柳の戦いに敗れるなど北信濃方面の拡張が滞り翌年小笠原は石川の人質連れてビビリまくって秀吉の下に参じたのと
天正壬午の恩賞問題やら沼田割譲問題やらで離反しただけで秀吉との戦いにおける恩賞なんて全く関係ない。そもそも秀吉との戦闘の部隊は美濃尾張伊勢が主なのに
なんで関係ない信濃で恩賞だされるんだよアホ
>>実際には家康の空手形でなんとか必死に出鱈目発給で繋ぎとめてたが、その誤魔化しも限界に達したからで、その最終段階でついに岡崎城代石川数正まで離反したんであって
石川は小笠原が人質連れて離反したから離反しただけ(織豊政権と東国、小笠原貞慶考)
>>つか秀吉軍相手の小田原城に篭城してる北条兵力がたった1000とかそんな少ないわけねーだろw農民町人も関係なく15歳から70歳男子を対象に郷へ動員かけてるのに
関東八州諸城人数覚書・北条家人数覚書その他もう一点の資料にある
>>小田原惣構え内の男子ですらもっといるだろw(池亨氏曰く、兵士2〜3万、普請に従事する百姓町人も入れて6万が小田原城に篭城していた)
根拠なし。太閤記の糞講談妄信の馬鹿学者乙
>>(黒田基樹氏曰く、北条の正規兵5万2000人+用兵の雇用や百姓軍役徴発がさらに追加で加わったであろう)
北条200万石程度でそんなありえない巨大兵力だせるわけねーだろクズ
天正壬午の時ですら昔は4万とか5万とか軍記ソースのデタラメ数字が並べられてたが最近の研究で2万(家康書状)とされてるし沼尻の戦いの時も同じような数字だし
>>城詰め兵力をゼロにして最前線防御線に全員配置の単純計算で、9mあたり1人で防御担当をしてた薄氷防衛ラインが9キロもあった計算になるだろアホw
そんな所も瞬殺できないからこそ秀吉は雑魚といってるわけで。
>>早川口から海岸部の司令官だった氏照配下として早川口の前線守備担当の皆川広照が4/9に家臣100人連れて投降しただけで全兵力の1割が大減少かよwww
何が問題なんだ?
>>下総千葉氏家臣で上総大台城主の井田因幡守に小田原へ200。小田原へ秀吉が来たらさらに130をつれてこい。
>>ついでに千葉氏本城から佐倉衆も連れてくるように命令してるのもあるしw1000とか計算があわねぇよアホ。
それら含めて1000で問題ないだろ。何が問題なんだ?
北条方は国力しょぼくその割りに防衛ラインは上野武蔵相模伊豆下総上総下野と広範に及ぶのだから
一点に集められる兵力は減るのは当たり前
>>そんなん北条研究してる学者ですら北条の現状認識力や情報収集能力の貧困さや願望希望的観測宣伝だと一笑にふしている話だ。
根拠なし。北条方の書状だけ捏造扱いするアホ学者の妄言なんぞソースなしの糞軍記と同類
>>(池亨氏曰く、それは錯誤だ。豊臣の兵站能力が理解できてないとすれば北条氏の戦略的判断の致命的誤りであり、あるいは気休めで書かれたかもしれない
根拠なし。そもそも佐竹の史料(田中文書)で豊臣方は6月時点で兵糧不足になっているのがわかる。
20万石も米用意しながら3カ月程度で不足に陥った豊臣方は単純計算で兵力60万だな。那須記にも豊臣方は兵力50万とあるし榊原書状にもあるし。
>>つかそもそも秀吉は小田原城を干してから会津へ向かう宣言してるのに兵糧不足なわけがなかろうwww
後から届けさせたか現地調達するつもりだったんじゃね
>>前年10月に長束へ蔵入米20万石を清水へ廻送するように命じ、さらに金一万枚で伊勢・尾張・三河・駿河で商品米を買い上げを命じ
それだけ用意させながら兵糧不足に陥るのだからよほど規格外の大軍だったとわかる
399 :
名無し曰く、:2013/03/12(火) 12:58:36.14 ID:PIwq3QGo
>>2月末に加藤・九鬼・脇坂の水軍が山中城のある伊豆の目と鼻の先の清水湊に実際に着岸し陸揚げ開始してるのに3/21にすでに食い物なく山芋掘って食いつなぐほど飢えてるわけねーよカスw
根拠なし
>>3/29にはたった2時間でその山中城が落城して(一柳直末が銃撃に当り死んだから秀吉無能とか言い出すキチガイのお前には笑ったわw)
300程度の山中城(秀吉は3000とかおおぼら吹いてるが)に5万騎で攻めて氏勝やら城主も抗戦意欲なしで逃げ出した戦闘で重臣一柳戦死するとか
相当の雑魚戦下手なのが秀吉(銃弾当たったから秀吉の責任じゃないとかないわ。敵方の迎撃をうまくかいくぐって最小の被害で即効瞬殺するのがうまい城攻め)
>>松田康長は討ち死にしてるしお前の支持する松田の妄想計画どおりにはまったくなってないわなw
北条氏勝以下数百程度の山中篭城組に5万で挑みかかった糞戦闘をそんな自慢気に語られれても
>>毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
>>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくるんだよwww
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ。
400 :
名無し曰く、:2013/03/12(火) 13:02:58.71 ID:PIwq3QGo
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案
紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ
顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明
あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
401 :
名無し曰く、:2013/03/13(水) 05:03:19.09 ID:QcIASf40
山中鹿をもうちょっと武力と統率力上げてやってください中国の家臣は全体的に
小粒すぎる毛利兄弟以外
402 :
名無し曰く、:2013/03/13(水) 05:17:30.41 ID:gyaDpSyK
毛利はゴミだろ
大友・宇喜多に蹴散らされまくり南条4万石や草刈3万石すら攻略できなかった雑魚じゃん
403 :
名無し曰く、:2013/03/14(木) 05:29:58.25 ID:n6ML3vMT
加藤清正のパラが万能に近くなってきてるな最近
武力は今のままでも良いと思うが統率が過大だ。高すぎる
404 :
名無し曰く、:2013/03/14(木) 15:46:11.67 ID:52x20K3o
ちょっちゅね
405 :
名無し曰く、:2013/03/14(木) 23:04:10.91 ID:7uYpRkkD
気持ち悪いほど家康贔屓の偏りっぷりだな。
朝鮮人の史観って気持ち悪いわ・・・
406 :
名無し曰く、:2013/03/14(木) 23:15:06.71 ID:9hHGjoCg
403
じゃあ統率下げて
政治思い切り上げるか?
407 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 00:01:46.26 ID:OdH4kI6y
>>405 家康の擁護に
〜だったから
〜のおかげ
とかひたすら言い訳しないと成り立たない無理くり秀吉批判が笑えるw
つか読む気が失せる垂れ流し駄文で、
論点を曖昧に誤魔化してるだけだし。
408 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 00:10:54.58 ID:FZtU1My5
批判も糞もない。徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
409 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 00:12:42.59 ID:FZtU1My5
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
410 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 00:13:26.17 ID:FZtU1My5
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
そもそも和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
411 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 00:13:54.23 ID:FZtU1My5
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
412 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 00:15:08.65 ID:FZtU1My5
秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
413 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 00:15:36.30 ID:FZtU1My5
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
414 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 00:15:57.76 ID:FZtU1My5
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
415 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 10:11:57.22 ID:7kFC+mHC
武勇を最高を誰にすべきなんだろうな
俺は客観評価として当時の実績名声を最重視するということで
可児才蔵を最高にすべきだと思うけど
慶次や幸村は論外
416 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 12:42:56.81 ID:qhd4aQAx
長文と家康あげは日本人じゃないと言ってる奴、他の権現スレでも似たようなことを書き込んでるだろ。
こんなところまでご苦労なこった。
417 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 12:49:59.31 ID:OdH4kI6y
まぁ在日なのはモロばれなんですがねw
本人には自覚ないらしいw
418 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 19:36:36.26 ID:azyZnUse
信長公記を読むと、
秀吉と荒木への援軍として5/6に信忠や信雄や信孝や佐久間らの大軍が明石に到着し、
神吉城や志方城や高砂攻略を開始。
6/18に高倉山に陣する秀吉は播磨より罷り上がり山中ら救援を嘆願しに信長に会談しに出発してるが、
信長は高倉山で長陣張っても意味ないから陣を引き払い信忠らと合流し三木城の支城である神吉や志方を攻めて播磨平定を優先せよと命じてる。
秀吉撤退の信長の意向を受けて秀吉への撤退支援として丹羽や明智や滝川が、
秀吉軍の高倉山から書写への退却支援のために三日月山に到着したのは6/29だから、退却はそれ以後の話なわけだ。
決して大敗して書写に逃げたわけじゃない。
6/21に信長の意向を無視して司令官秀吉もいない織田軍が毛利軍と無意味に戦うわけがない。
毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない。
つかこんな中途半端な日付に3000討つとか明らかに毛利側の嘘宣伝でしょ。
だいたい熊見川の戦いにしたって敵前渡河した吉川騎下の有地元盛が1番槍で突っ込んで中国探題羽柴秀吉と直に槍を合わせ撃ち勝った挙句に、
織田全軍を二番手の杉原盛重と共に標高360メートルの高倉山を駆け上がり叩き出す大勝ぶりで、
さらに追撃を緩めず曲輪や堀切りを突破し尾根続きの仁位山城をさらに追撃し、
ついには姫路市北西の書写山の円教寺に逃げ込んだ秀吉を追い詰めたなんて作り話でしょう。
よって顕如の書く討ち取り数は百歩譲っても尼子残党とのものでしょう。
顕如の書状には7/5に上月城落城とあるが、実際は7/1にすでに降伏開城してるし、
7/3には尼子一族が責任を取り自刃してる。
その頃の秀吉はすでに但馬で国衆を召し出し、生野銀山を押さえる竹田城に弟を配置し、
信忠らの撤兵後を視野に入れた三木城包囲のための資金と兵集めをしてる頃でしょう。
そして7月は荒木が勝手に有岡城へ帰国したため謀反の噂が立ち上り始める月でもある。
摂津一国支配を仰せ付けたにも関わらずそれを捨ててまでの荒木の謀反理由は朝恩を誇り別心を構えたからであり、それならばもはや是非に及ばずだと言う。
朝廷の恩ゆえの誇りが謀反に駆り立てたと言うのはのちの光秀と同じだろう。
是非に及ばずとは朝廷の意向の前では是非を考える必要性すらないと言ったところか。
さて7/16には神吉城が落城し志方城も降参したので信忠らは秀吉方に両城を引き渡し帰陣し、
秀吉単独での三木城攻略が再開。
信長が8/15に相撲大会のために1500人を安土に集め始める中で、8/17に信忠が播磨から帰り着き納馬。
本当に熊見川で毛利が織田軍に大勝利して書写山包囲し秀吉捕縛間際だったなら指呼の距離の姫路城へも勢いを駆って進出するはずだし、
信忠の大軍だって呑気に支城攻めを続けてから相撲大会見学のために帰国しねぇよ。
4月中旬に毛利や宇喜多らが上月城包囲し、秀吉荒木が高倉山に近接対陣開始の一報が入った時は、
信長本人が出陣するって危機感持って言い出してたのに、
明智や丹羽らの現地報告聞いてすっかり出陣する気持ち無くなって、
馬廻や小姓を連れて祇園会の見物をしてたり、信忠が岐阜で飼ってた鷹を鷹師に持ってこさせて一足没収して楽しんでんのは秀吉が大敗なんてしてねーからだろ。
419 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 21:38:11.72 ID:pi2O8t9C
>>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない
晋叟寺文書
天正6年8/21
今度播州上月之城従芸州被催候処、
自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、
成田五郎左衛門尉秀綱(花押)
晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八
敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、
輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門
桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候
天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿
輝元 御判
天正10年5/4小早川→冷民少
如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉
去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉
去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉
去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状
一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉
態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元
去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、
…中略 昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
420 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 21:52:21.58 ID:pi2O8t9C
>>信長は高倉山で長陣張っても意味ないから陣を引き払い信忠らと合流し三木城の支城である神吉や志方を攻めて播磨平定を優先せよと命じてる。
それ信長公記や太閤記の講談ネタで兵庫県史資料編とか細かく洗ってみてもそんな書状一切出てこない
>>秀吉撤退の信長の意向を受けて秀吉への撤退支援として丹羽や明智や滝川が秀吉軍の高倉山から書写への退却支援のために三日月山に到着したのは6/29だから
根拠は?
>>退却はそれ以後の話なわけだ
そもそも退却後に彼らが到着という流れでも全く問題なく話しがつながるわけで。
>>6/21に信長の意向を無視して司令官秀吉もいない織田軍が毛利軍と無意味に戦うわけがない
なぜ秀吉がいないことになってるのか不明。普通に上月救援しようと思ってたら毛利軍と遭遇して大破されて逃げ帰ってきたと考えればいいだけ
>>毛利の主張する捏造熊見川の戦いの日付は6/25だから顕如の上月城下での討ち取り書状は日付も合わないから熊見川の戦いのソースにすらならない。
顕如書状でも
>>419の文書でも6/21になってる
>>つかこんな中途半端な日付に3000討つとか明らかに毛利側の嘘宣伝でしょ。
なんで顕如の書状が毛利の嘘宣伝になるのか不明。顕如は織田の敵対者だが毛利一族でもなんでもない
>>だいたい熊見川の戦いにしたって敵前渡河した吉川騎下の有地元盛が1番槍で突っ込んで中国探題羽柴秀吉と直に槍を合わせ撃ち勝った挙句に、
>>織田全軍を二番手の杉原盛重と共に標高360メートルの高倉山を駆け上がり叩き出す大勝ぶりでさらに追撃を緩めず曲輪や堀切りを突破し尾根続きの仁位山城
>>をさらに追撃しついには姫路市北西の書写山の円教寺に逃げ込んだ秀吉を追い詰めたなんて作り話でしょう。
根拠不明。信長記の講談引用がソースなら毛利の日記やら萩藩閥越禄やら陰徳太平記の引用も普通にありだろ
>>よって顕如の書く討ち取り数は百歩譲っても尼子残党とのものでしょう。
根拠不明。上月城下なんだから尼子残党ではなく秀吉軍だろ。上月城内ではないし戦死した日時は21日。これで尼子残党の事だと考えるほうが無理がある
>>顕如の書状には7/5に上月城落城とあるが、実際は7/1にすでに降伏開城してるし7/3には尼子一族が責任を取り自刃してる。
んでそれがなぜ6/21に上月城下で戦死したものが尼子勢の事にすりかえられるのか不明
>>本当に熊見川で毛利が織田軍に大勝利して書写山包囲し秀吉捕縛間際だったなら指呼の距離の姫路城へも勢いを駆って進出するはずだし、
>>信忠の大軍だって呑気に支城攻めを続けてから相撲大会見学のために帰国しねぇよ。
毛利が本拠地からの距離と大友参陣と輝元のヘタレっぷりを理由に安芸にヘタレ退却する雑魚だったから信忠らも秀吉支援に乗り出す必要すらなかっただけだろ
>>馬廻や小姓を連れて祇園会の見物をしてたり、信忠が岐阜で飼ってた鷹を鷹師に持ってこさせて一足没収して楽しんでんのは秀吉が大敗なんてしてねーからだろ
全くの妄想願望乙。毛利にビビリまくって現実逃避したか毛利が安芸にヘタレ退却したから後詰する必要なくなっただけ
421 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 22:05:50.15 ID:pi2O8t9C
4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、
422 :
名無し曰く、:2013/03/15(金) 22:19:42.99 ID:2k3IqYdH
家 臣 限 定
423 :
名無し曰く、:2013/03/16(土) 01:04:55.41 ID:Kb7VIkwP
過大過小スレこいつに荒らされまくってたから次スレがまだ立ってないんだな
必要ないけど
424 :
名無し曰く、:2013/03/16(土) 01:48:12.82 ID:mUTv0tGl
ぶっちゃけ天道は語り尽くされた感があるから今はまぁこれで良いやって感じだけど、
新作出た時にこんなことやられたらと思うとぞっとするね
425 :
名無し曰く、:2013/03/16(土) 02:29:59.23 ID:dlQGwNCF
まちがいなくやるし
それに釣られる奴も居て新作でてもまともに語れんだろう
426 :
名無し曰く、:2013/03/17(日) 13:23:30.50 ID:945m2FdQ
毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家から
ソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのになぜ逃げまくるんだよwww
萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
晋曾寺文書だって原本書状がない信用性ゼロの後世作成文書だろううが。
萩藩は資料収集の際に偽書状であろうが、真偽の認定を避けて、つか藩士の先祖を疑えない空気で口出しできなかったから
アホみたいにたくさんの軍記を元ネタにしたような軍功感状が湧き出てきて収録されてる。肝心の毛利本家に書状案などの形として
領地宛がいの根拠となる記録の書留めの記録すらない完全に根拠ゼロのな。
どこの大名家でも家臣が所持していた感状なんて稀で貴重なものなのに、萩藩はとにかくアホみたいにある。
上杉氏の文書写ですら藩士の所持していた感状なんてほとんどない。
どの大名家でもせいぜい口述筆記による記録や覚書や家系譜などに記されているレベルで信憑性に疑問がつくのがほとんど。
これは武田の武名から江戸期に武田家からの感状がアホみたいに偽造されて、
現代では武田氏研究会や山梨県史編纂の過程でほとんど偽書状認定されて取捨選択されたのと萩は対照的だ。
特に北条や上杉の書状と照らし合わされて研究される武田書状と違い、毛利は敵対勢力の生存がほぼなく、
他大名との接点から遠かったため他有力藩からクレームもなく捏造しまくりの先祖武功大会状態。
427 :
名無し曰く、:2013/03/17(日) 13:25:18.26 ID:945m2FdQ
>>熊見川だってちゃんと史料にいっぱいあるし顕如の書状にも織田方3000人討ち死
もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、ずっと篭城を続けた
山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
先祖代々の恨みのあまり秀吉・石田憎しで捏造歪曲ばっか吐いてんじゃねーよ在日織田厨くんよぉwww
史実の虎倉合戦
宇喜多の攻勢により備中・美作で敗勢著しい毛利軍が巻き返しを図るために
輝元・隆景・元春まで出張ってきての虎倉城攻略作戦で(虎倉合戦)
10万石前後の小勢であった伊賀久隆にまんまと毛利軍が大敗し
粟屋元信など大物が討ち取られる。
捏造王の萩藩閥閲録・毛利家日記
あれは合戦では無かったので毛利の敗北とするのは間違えなので
デッチアゲ虎倉合戦では無く正式名称は加茂崩れと呼称する。
毛利軍は有漢から福山への陣替のために
近習が夜に先発し移動開始したけど
現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。
そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、
これによって伊賀家久が我が長州藩の家臣となった。
428 :
名無し曰く、:2013/03/17(日) 13:54:37.60 ID:nHrBwkxK
>>毛利相手に秀吉苦戦とかwwwだいたい1720年にもなってから藩士達から資料を集めだしたから、先祖の功績の捏造大会になった萩藩閥閲録や
>>毛利家日記みたいな家臣団が家に伝わってきいたと称し提出した偽書状の宝庫の捏造文書写を出して論ぜず、
根拠なし。毛利の負け戦もちゃんとのってるし史料の編纂作業なんてどの大名でもやっている。上杉の語年譜とか歴代古案とかと同じ
>>東京大学が出版してる毛利や吉川や小早川家に伝わる正統な書状をまとめた家わけ文書の毛利家からソースをひとつでも出してみろと再三要求してるのなぜ逃げまくるんだよwww
児玉家文書だの晋曾寺文書やらいろいろ出してるが無視しまくって捏造扱いしてるのがお前
>>萩藩閥閲録なんて山縣平八家蔵文書9で先祖の山縣三郎兵衛が第四次川中島合戦決戦2日前に信玄から書状をもらったことをでっち上げ
>>その中で山本勘助は登場するは山縣別働隊が1万引きつれ啄木鳥の別働隊を率いる内容が書かれてる始末www
根拠なし。辛川合戦や加茂崩れみたいな醜態もちゃんと書かれているのが荻藩閥越禄
>>また1801年に源兵衛が先祖の由緒を偽造するべく萩藩に提出した山本勝次郎方御判物写でもやっぱり山本勘助を実在させちまうなど、
>>武田や毛利系講談軍記を参考に先祖の捏造軍功祭りだし、児玉文書も1800年代に突然登場するでっち上げ。
そんな事かいてる学者の論文やら出してみろよクズw都合悪い文書だけ捏造扱いしてんじゃねぇよチンカス野郎
>>もう滅茶苦茶だなお前wそれ信長の命令で秀吉が撤退したのちも、
そもそもそれが軍記の講談ネタで兵庫県史とか洗ってみても信長の命令で秀吉が撤退したなんてどこにもかかれていない。
普通に毛利軍と熊見川の正面対決で大敗して戦線離脱せざるをえなくなっただけ。
>>山中ら尼子復興軍の全滅の話であって熊見川の戦いとはまったく関係ねーよ捏造野郎くんよw
顕如条文案
紀州惣門徒中宛文案
去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ
顕如
>>毛利の捏造ぶりの参考例・・・サムライワールド_歴史再発見_折敷畑合戦はなかった.1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、この合戦に関して発給されてたとされている感状である。
>>全部で五通あるが、そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論。
それが熊見川とどう関係あるのか不明
あれが捏造だからこれも捏造とか妄言乙だな
429 :
名無し曰く、:2013/03/17(日) 14:30:43.88 ID:nHrBwkxK
あと荻藩閥閲禄やらの件でも探しても
>>あれは合戦では無かったので虎倉合戦では無く加茂崩れと呼称。
>>毛利軍は有漢から福山への陣替のために近習が夜に先発し移動開始したけど
>>現地に不案内で進む先すら見分けられない有様。
>>そのため間違って小倉の尾頭へ出てるのに気づかず
>>高地の敵城から見透かされて、ことごとく討ち出してきて
>>鉄砲を撃たれたので移動中に小児与七郎、名古屋与七郎らザコが死んだ。
>>その後、死期を悟った悪魔の直家が伊賀久隆を毒殺したので、
>>これによって伊賀家久が長州藩の家臣となった。
>>一番笑えるのは荻藩閥閲禄において大四次川中島の戦い二日前の書状の写しがあって
>>そこには馬場を配下にしてる武田軍の参謀『山本勘助』が登場してて、2万のうち一万を山縣に預けるとか書いてる。
>>つかまだ飯富であって山縣を名乗ってませんがwww
こんな記述どこにもねぇわカスw
430 :
名無し曰く、:2013/03/17(日) 15:56:37.49 ID:VO3cZr+7
この在日は24時間常に監視して応酬レスしてくるな。
頭沸いてるわ・・・
431 :
名無し曰く、:2013/03/17(日) 16:13:20.13 ID:VO3cZr+7
>>421 ネットで大日本史料のデータベースで年代検索かけて
綱文だけ拾って転記してるだけじゃねぇか屑チョン
綱文内容が一次史料を元に書いてるわけねーだろ無知すぎてワロタw
だから下記みたいなカス資料の無意味な羅列しかお前はできないんだw
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw
432 :
名無し曰く、:2013/03/17(日) 16:16:59.64 ID:nHrBwkxK
そもそもお前の
>>418は信長公記や別所長治記など軍記類ソースの妄想シナリオだから
網文転記のがまだ信憑性あるだろアホ
433 :
名無し曰く、:2013/03/17(日) 16:20:59.23 ID:nHrBwkxK
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
434 :
名無し曰く、:2013/03/17(日) 16:22:13.30 ID:nHrBwkxK
厳島野坂文書
仁保元棟洗米返事
御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押
同左近大夫殿
御返報
435 :
名無し曰く、:2013/03/17(日) 16:29:33.55 ID:VO3cZr+7
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
436 :
名無し曰く、:2013/03/17(日) 17:04:13.75 ID:nHrBwkxK
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書
仁保元棟洗米返事
御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押
同左近大夫殿
御返報
437 :
名無し曰く、:2013/03/17(日) 19:33:25.05 ID:VO3cZr+7
つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
438 :
名無し曰く、:2013/03/17(日) 20:50:41.48 ID:nHrBwkxK
天正10年5/4小早川→冷民少 如仰鴨城之儀逆意之者在之付、羽柴自身至外構詰寄、終日雖及防戦候、甲丸以堅固
之上合力即切崩、敵数多討捕之、大利得之事、
天正6年8/10毛利輝元→児玉 去六月二十一日両軍互下合終日防戦之時、敵数多討捕、
7/7輝元→児玉 去月21日於羽柴陣麓合戦之時、其方事頓懸付之由、心懸神妙候
天正7年4/20輝元→児玉 去年上月合戦之時、其方同道仕者共辛労之通、
天正6年7/2吉川・小早川連署状 一筆到啓上候、去21日合戦於羽柴陣麓合戦之時、児玉小次郎鑓に被相之無比類
被仕候、自盛重・隆重茂被加御褒美候様、
天正6年6/26輝元→児玉 態申遣之候、今度合戦勝利之段大慶候、小次郎事、無比類心懸宴神妙之至候、
6/26輝元 去23日之書状被見候、21日之合戦勝利之段大慶候、上勢与初之儀候二如此之仕合、 …中略
昨日之注進ニ敵陣悉敗北之桁由候、誠以大利之段、更々無申計候、於今者上月之儀は
一着不可有程候、申越候通路銘々可及返事候へ共、
以上児玉家文書
天正6年6月21日(15780060210) 3条【綱文】 毛利氏の軍、羽柴秀吉等と播磨上月城下に戦ひて、之を破る、
晋叟寺文書 天正6年8/21 今度播州上月之城従芸州被催候処、自京都為後巻信長代官羽柴、荒木被差出、去六月21日来之、鉾盾削、就中為
虎御粉骨之被合戦於鑓下、彦六兵衛遂討死、其他京勢数多討死、成田五郎左衛門尉秀綱(花押) 晋叟寺 衣鉢閣下
荻藩閥閲禄巻91林平八 敵敗軍太慶候、上月もはや一着候、依去21日合戦之時、与二事別抽粉骨之由候、 輝元 御判
巻115の2湯原文左衛門 桂左衛門大夫書状披見候、其元長々在番辛労之段無計候、上月表之事敵悉敗軍候、此の節之儀候条、
其表之事堅固之儀可肝要候 天正6年六月二十八日湯原弾正忠殿 輝元 御判
顕如条文案 紀州惣門徒中宛文案 去5日上月城落居之由候、近比目出候、去月21日上月城下にて敵三千計討死手負不知敷由候
天正6年7月7日 紀州惣門徒中へ 顕如
厳島野坂文書
仁保元棟洗米返事
御状令拝見候、乃去十七夜之…(中略)
則拝領候、此表上勢及合戦、以其響令敗軍候、上月之儀茂可一着候、此方大利之段…
天正6年7月1日棚守左近将監 花押
同左近大夫殿
御返報
439 :
名無し曰く、:2013/03/18(月) 05:30:57.41 ID:v4qjgP6r
第六天魔王、甲斐の虎、越後の龍、相模の獅子、海道一の弓取り、猿、謀聖
軍神、他に異名みたいなのあったっけだいたいこんなもん?
440 :
名無し曰く、:2013/03/18(月) 10:38:39.60 ID:B6FQzTaj
異名は腐るほどあるぞ
特に鬼と槍の出現率は異常
丹波には赤鬼も青鬼もいるし鬼武蔵鬼柴田、鬼の〜とかも多い
あと同系の夜叉、熊とか狐とか狼とかの動物系、鍾馗とか孔明とか人物系が多いな
探してみると面白いよ
441 :
名無し曰く、:2013/03/18(月) 16:47:55.26 ID:ET3HumHg
>>401 おまえ東北みて同じこと言えんの?
西国は十分だろ
442 :
名無し曰く、:2013/03/18(月) 18:00:02.62 ID:M8vvPb4f
中国も東北もまだマシだろ
四国なんてもっと居ない
443 :
名無し曰く、:2013/03/19(火) 04:02:15.18 ID:AgdqVObC
444 :
名無し曰く、:2013/03/19(火) 08:58:45.94 ID:fYIEUJA1
四国最強長曽我部元親
九州最強島津義久
中国最強尼子経久
近畿最強三好長慶
中部最強織田信長
北陸最強上杉謙信
関東最強北条氏綱
東北最強蘆名盛氏
445 :
名無し曰く、:2013/03/19(火) 19:50:12.92 ID:dSsHBii5
四国は武将はいないけど領土は恵まれてる
土佐や伊予なんて二つに分ける必要無いだろうに
446 :
名無し曰く、:2013/03/19(火) 22:02:46.47 ID:bmY6wkpL
>>391〜392
真田家全体が過大って指摘はあり?
幸隆・昌幸・信之・幸村こめて
447 :
名無し曰く、:2013/03/20(水) 08:04:11.26 ID:oSWecR1+
>>438 お前、それ家わけ文書に載ってると誤解してんの?w
家わけ文書すら理解できてない無知ぶりを晒しまくってワロタwww
そんなクソ内容は家わけ文書には無いわwwwアホ乙www
448 :
名無し曰く、:2013/03/20(水) 13:47:51.00 ID:x9vNIfgT
児玉家文書やら晋曾寺文書やら萩藩閥越禄やら毛利家日記を捏造文書で資料的価値0なんていってる学者なんていねーだろ
史料の編纂なんてどの藩でも行ってるし上杉の御年譜とか歴代古案とかと同じ。
つーかあげた文書皆花押がちゃんとついてるし
449 :
名無し曰く、:2013/03/21(木) 05:10:22.08 ID:jTU5VkBs
歴史ってロマンを楽しむものだよねつーか江戸時代から日本人って二次設定好きだな
450 :
名無し曰く、:2013/03/21(木) 11:18:35.64 ID:kFnMCYvU
伊予は実際行ってみたら解るが長いからな
土佐は分割するほど国力のある土地じゃないけど、長宗我部出さんわけにもいかんし、でも実質トップ勢力は
一条だしって状態の妥協だから
国数の少ない全国版ですら分割されてたという肥の伝統でもあるしね
国によってもっと開発余地をメリハリつければいいんだが、それだと肥の調整力でバランス取れるはずもなく・・・
451 :
夢幻:2013/03/21(木) 22:26:48.32 ID:3iLHfd2E
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452 :
名無し曰く、:2013/03/21(木) 22:29:29.15 ID:0TEsdDpG
四国は長宗我部の大正義すぎて
元親家臣意外は、あまり強くする必要もないよね
453 :
名無し曰く、:2013/03/22(金) 15:19:47.34 ID:dHEM9TNa
統率と武勇の差が狂ってる七条兼仲がいればいい
454 :
名無し曰く、:2013/03/22(金) 22:14:34.02 ID:xJxeAiGn
長宗我部家臣団でも久武親直なんかはなんであんなに統率低いの納得できないな。
奸臣かどうかの評価は置いといて
あいつ伊予攻略の方面軍任されて
最大で一万近い大軍率いたこともあるのに
あまりにも低すぎるだろ。
455 :
名無し曰く、:2013/03/23(土) 06:28:29.10 ID:DVdrpcjm
毛利の家臣って三兄弟以外じゃ秀吉に水攻めされて切腹した人以外
あんまり戦闘に使えそうな人いないな文官はいるけど。
尼子も新宮党なぜか革新じゃ出てこないし武官部分が弱い
456 :
名無し曰く、:2013/03/26(火) 06:37:57.67 ID:KsfdjW8l
信長が美濃攻略に八年、石山本願寺攻略に10年か
けっこう時間かかってるな桶狭間から美濃攻略戦は
その間信玄は何やってたんだ
457 :
名無し曰く、:2013/03/26(火) 10:32:18.43 ID:j2vp2Kqb
斎藤に尾張半分取られ滅亡寸前の信長が泣きいれてきたから同盟してやってた。
458 :
名無し曰く、:2013/03/29(金) 04:02:57.61 ID:S26tPwqB
嘘くせー
459 :
名無し曰く、:2013/03/29(金) 21:06:54.92 ID:sI4k6Flm
信玄だって信濃攻略にそれぐらい年月かけてるからな
村上義清なんか信玄効果でかなり強いのに
斎藤龍興が弱いの何故?
460 :
名無し曰く、:2013/03/29(金) 22:04:24.33 ID:MAbRM7QU
そら直接対決の結果から信玄>>>>家康
姉川の戦いから家康>>>信長だから
家康より遥かに強い信玄が苦戦した村上の方が
家康より弱い信長が苦戦した義龍より強いのは当たり前
461 :
名無し曰く、:2013/03/29(金) 22:08:37.25 ID:vWSsJYFe
信長が苦戦したり負けまくるのは毎回の事だし
それで能力高くしてたら皆強くしなきゃいけない事になるわな
浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・斉藤義龍・北畠はまだしも
数万の大軍で餓死寸前の所を騙まし討ちにして一門10人以上殺された非戦闘員の長島一揆軍の統率者まで
チート能力にしなきゃいけなくなるし
そんな不自然な能力設定にするよりはじめから信長の戦闘能力を史実どおり雑魚にすれば済む話
462 :
名無し曰く、:2013/03/31(日) 03:43:14.00 ID:VVSFZcbW
戦の勝率言い出したら信玄の「戦は五分勝ち程度で良い」って言葉は意味ないな
信長が信玄の五分勝ち程度でいいってのを実戦してるというオチ
463 :
名無し曰く、:2013/03/31(日) 12:45:45.79 ID:9nw91SHE
敗戦やら苦戦を多く繰り返す事と個々の戦闘での五分勝ちって全く意味が違うんだが…
464 :
名無し曰く、:2013/03/31(日) 12:53:40.27 ID:VymE1kit
信長はコーエーが武将ファイルで革命家だと捏造マンセーしてただけ。
それを90年代にビジネス本などが信長革命家論に迎合した。
465 :
名無し曰く、:2013/03/31(日) 20:01:51.78 ID:2uFMmtM0
信長の野望ってタイトルのゲームに何を言ってるんだ
466 :
名無し曰く、:2013/03/31(日) 21:02:22.63 ID:5zOxju28
>信長はコーエーが武将ファイルで革命家だと捏造マンセーしてただけ。
信長を革命家として描くのは戦後の流行で、
例えば司馬遼太郎の国盗り物語でも顕著
コーエーなんかがそんな影響力あるわけ無いだろ
467 :
名無し曰く、:2013/04/01(月) 21:25:41.26 ID:hf49EGRB
>>コーエーなんかがそんな影響力あるわけ無いだろ
ゲーム板でなに言ってんだw
468 :
名無し曰く、:2013/04/01(月) 22:36:46.82 ID:RsEBnRe2
何この意味の分からない煽り
469 :
名無し曰く、:2013/04/02(火) 06:39:40.94 ID:Nf1G2TTa
天道じゃ信玄は82か武力。ちょうどいい具合に落ちて行ってる
そのうち70台になるな。病弱だし
470 :
名無し曰く、:2013/04/02(火) 17:15:35.04 ID:VW4gqYAY
信玄も病弱な割りに
一騎打ちとか、合戦で負傷した話チョロチョロあるんだな之が
471 :
名無し曰く、:2013/04/03(水) 04:03:48.34 ID:xajFpLlR
加藤清正と福島正則の統率はもっと下げていいわ
472 :
名無し曰く、:2013/04/03(水) 06:18:05.00 ID:E7xzcCI1
福島正則て昔えらい統率高かったよな
90ぐらいあった気が
473 :
名無し曰く、:2013/04/04(木) 04:07:01.28 ID:jfeD3DHT
立花道雪は足が不自由だったんだからどうしたって武力は下げるべきだろ
474 :
名無し曰く、:2013/04/05(金) 06:12:45.22 ID:SxOyjtrb
道雪はカゴもってる連中が武力90なんだよ。
475 :
名無し曰く、:2013/04/05(金) 18:37:25.49 ID:Rgi13G2V
具体的にどれくらいの数値がいいかも書き込んでくれよ
476 :
名無し曰く、:2013/04/05(金) 22:38:42.39 ID:ilGLYdKE
道雪は不随じゃないらしいが戦績しょっぱいし武力下げてもいいよ
んなのよりニコ厨好物の捏造毛利と負け島津を下げろ
特に次男
477 :
名無し曰く、:2013/04/06(土) 00:05:18.43 ID:z5brW/v9
犬童岡本にボコボコにされても負けてないことにしよう(薩摩芋)
478 :
名無し曰く、:2013/04/06(土) 12:38:35.27 ID:GFPES79t
若いころは付随じゃなかったんでしょ
雷切ったとかコーエーが大好きそうな話もあるし
武力統率は、さがらんだろ
479 :
名無し曰く、:2013/04/09(火) 19:56:42.92 ID:tE/rghgK
ゲームバランス的なあれもあるんじゃな、雷神さまは。島津のストッパー的な
ただ、必要以上に知略政治は高めな気がする
上杉さんちはじめ、各家の脳筋バカどもが不憫
480 :
名無し曰く、:2013/04/09(火) 21:50:34.52 ID:YCmR2/yn
雷神様は毛利や龍造寺に対する抑えだったのにね
481 :
名無し曰く、:2013/04/09(火) 22:29:57.66 ID:ZLTq85yR
主君を諫めるのは知?政?
そうなると吉岡や石宗あたりに知?かな
島津に対して云々なら志賀・甲斐・赤池とか件並みあがるがな
482 :
名無し曰く、:2013/04/09(火) 23:24:24.50 ID:tE/rghgK
諌めるだけならエピソードとしてはいくらでも転がってるしなぁ。しかも全然諌め切れてないし
例えば長宗我部さんちの福留儀重なんかは列伝にも禁酒令でのエピ書かれてるけど
配慮のあるような能力じゃないな
483 :
名無し曰く、:2013/04/09(火) 23:45:49.24 ID:N8YEa/R4
>>471 福島は関ヶ原での第一の功だぜ
同じ関ヶ原に参戦した他の豊臣後期の武将たちより(黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・池田輝政)
少しばかり高い82は、まあ妥当
484 :
名無し曰く、:2013/04/10(水) 12:29:42.74 ID:4vgPy2Vw
>>476 休松の合戦も立花寄りの資料だと
なぜか大友軍の勝ちみたいに書いてるらしいしな
両川より少し高いくらいの統率数値に落とせばいいのに道雪
485 :
名無し曰く、:2013/04/10(水) 13:06:02.55 ID:ENp3E78g
昔はそんな感じの数字でなかなか強い爺さんって程度だったけど天下創世からおかしくなった
娘も武将として出てくるようになったし弱くするわけにはいかんのだろう
486 :
名無し曰く、:2013/04/10(水) 22:44:29.20 ID:4vgPy2Vw
前にも似たようなこと書いたけど
統率マイナス10の97ぐらいまで落としたら
俺みたいな道雪過大厨も居なくなるのに
487 :
名無し曰く、:2013/04/11(木) 11:50:35.51 ID:WmOe7jyU
482
そういえば長宗我部元親も大友宗麟と同じく晩年失敗した人のカテゴリーに入ってるが
本拠地移転したのも有名な百箇条制定したのも本当に最晩年だし
後継者問題以外は宗麟ほどgdgdじゃなくね?
488 :
名無し曰く、:2013/04/11(木) 18:27:55.82 ID:e6U9aULk
>>487 個人的には長宗我部さんは晩節はを汚したというより、他家にどんどん養子を入れて勢力を拡大したけど、
次代への継承の際にそれが問題になったというとってもよくある政治的な問題が、
息子が夭折したした不運と相俟って心神喪失的なエピソードを生んだ面があるかと。
信親とその家臣団が欠けた時点でもう元親の心身以前の問題として家内に爆弾抱えたに等しい
考証の上では長宗我部家内の内紛の本来の原因はどこにあるのかしっかり考える必要がある
後、今も昔もあの有名人が今ではこんなに落ちぶれましたってのが好まれるのもまた、事実なんじゃないかな
そういえば戸次川の戦いって信親ばっかりクローズアップされるけど、次期当主討ち死に
したぐらいだから結構の次代の有力者になるはずだった者も欠けてるのかなぁ
今度ちゃんと調べよ
489 :
名無し曰く、:2013/04/11(木) 22:21:16.37 ID:BAeImldJ
雑賀衆は過大
490 :
名無し曰く、:2013/04/12(金) 13:38:06.68 ID:zrrmiLhB
大友宗麟もあれだぞ。
グダグダとはいえ豊後一カ国50万石は残したぞ
最全期からはほど遠いかもしれないが、それは土佐一カ国に落ち着いた元親とて同じこと
死後の顛末は息子たちの責任で、本人たちはそれほど悪くない生涯
491 :
名無し曰く、:2013/04/12(金) 14:43:39.89 ID:T8mOGoDL
大友宗麟は過小。毛利元就や島津を直接対決で蹴散らしまくったし毛利や島津と能力逆にすべき。
492 :
名無し曰く、:2013/04/12(金) 14:47:21.34 ID:Mtq/S2/X
家臣限定
493 :
名無し曰く、:2013/04/12(金) 19:29:44.41 ID:3YemhOJD
大体現状の戦力で十分毛利とも島津とも戦えるだろうに
494 :
名無し曰く、:2013/04/13(土) 02:26:37.24 ID:vgLTiJf/
道雪は島津毛利のどの武将より強いしね
宗麟も元就より数値下だけど
義久とは、それほど差がない
495 :
名無し曰く、:2013/04/13(土) 09:30:00.86 ID:7RTIC5v8
島津の豊後侵攻前にはすでに宗麟は病厚く立つことすら出来なかった。
大友の大黒柱がいつ死んでもおかしくない状態だったのが痛かったな。
496 :
名無し曰く、:2013/04/13(土) 11:16:08.27 ID:yR+xfgrZ
最近の大友さんは能力云々じゃなくて無理に兵器開発して勝手にアボンするのが問題
天道で少しは兵器の扱い改善されたけど、扱うAIがお馬鹿で無意味という
ゲーム内の大友家としてみたら結構華も実もある家臣団だよな
497 :
名無し曰く、:2013/04/13(土) 11:20:22.50 ID:6krpAQYN
宗麟は直接対決で毛利軍蹴散らしまくったし立花道雪以外の連中も毛利元就・元春・隆景の三人より統率低いのかおかしい
毛利は宇喜多や浦上やら尼子残党やらに苦戦繰り返してるし大幅能力下げ
大友は毛利だけではなく島津にも勝ちまくってるし(耳川は大友三軍部隊の上に宗麟が完全隠居)立花以外の連中も能力大幅上げが
正しい評価。
498 :
名無し曰く、:2013/04/13(土) 13:25:50.19 ID:syeM3U1b
大友は家臣団が優秀過ぎて宗麟じゃないと統御出来なかったって感じだよな。
無能義統なんて、ヤりて家臣団に馬鹿にされまくって舐められた感が…
499 :
名無し曰く、:2013/04/13(土) 13:45:11.56 ID:vgLTiJf/
関ヶ原の時には一応800人程度の旧臣や大友家慕う農民が集まったらしいけどね。
あれも義統の手柄というよりは大友家のかつての声望が強かったからかしら
500 :
名無し曰く、:2013/04/13(土) 14:26:24.89 ID:j5aE+ABs
>>498 義統は志賀親次とは相当仲悪かったからね
2、3回くらい暗殺しようとしたって話があるくらいに
501 :
名無し曰く、:2013/04/13(土) 16:23:18.74 ID:PVoZbbm+
大友のAIがアホなのは大名の格付けのせいだな
義久はSだけど宗麟はAだから
なぜかギン千代がSだったりするけど
502 :
名無し曰く、:2013/04/14(日) 04:11:55.92 ID:AEE7SDa7
鈴木重秀の統率なんとかしろよ70台でいい
生涯一傭兵なのに。鉄砲版剣豪みたいなもんだろ職人気質の
武力は高くていいと思うが
503 :
名無し曰く、:2013/04/14(日) 08:34:20.10 ID:yFTWk8rS
まあ鎌倉期からの代々の家臣達は大領国人ばっかで、
大友宗家の直轄領がほとんど無くて海外貿易収益で食いつないでいたから軍功で加増をできないから
宗麟のようなカリスマ性無いと統御できんだろ。
宗麟なんて博多商人に借金してたし。
504 :
名無し曰く、:2013/04/14(日) 13:10:11.16 ID:xglbiRo9
肥は孫一好きだからな補正したんだろ
豊後三老が低い気も駿河
たんに過去作から九州は島津だけやたら高い
んで相良が弱体化されてて野望のシステム的に阿蘇の甲斐さんは力発揮することもできず有馬も過小
そして毎回脳筋集団にされる熊
一人勝ちさせるように仕向けてるようにしかみえんな
ちなみに太閤かなんかだと本能寺シナリオ時の大友は毛利に小倉取られ城井さんには独立され豊後と筑前筑後分断
これで勝てない島津が過大
505 :
名無し曰く、:2013/04/14(日) 13:29:52.41 ID:qg5ULVnG
本当に昔の作品やったのかな
武将風雲録とか天翔記とか見てもやたら高いってことは無いと思うけど特に戦闘力は
シリーズによって若干違いはあるけど基本戦争さえ強けりゃ外交・内政ほったらかしでも天下取れるゲームなんだし政治力とか飾りよほとんど
島津に関しては鉄砲が強いのと陣取りゲームで端を持ってる有利さが出てる
506 :
名無し曰く、:2013/04/14(日) 13:54:03.61 ID:tpC4Qg1J
ゲームキャラクターに過大評価も糞もねーんだよ!
バーカ
507 :
名無し曰く、:2013/04/15(月) 00:41:39.73 ID:qZ9AJxOP
>>502 尻喰らえ孫一の重秀なら統率高くても良いんだがな
史実だと70か80で良いか
508 :
名無し曰く、:2013/04/15(月) 04:07:04.33 ID:N3OdFn8B
毛利勝永の顔グラをまともにするのと
統率を福島正則ぐらいにしてやれ
509 :
名無し曰く、:2013/04/15(月) 13:27:26.88 ID:27g6N4Ko
最新作だと統率89で福島より高いけど
これ以上上げたらさすがに高杉
510 :
名無し曰く、:2013/04/17(水) 11:58:53.65 ID:EjpzwYST
家康て一般的に城攻めは苦手だったって言われてるけど
大阪城いがい何かあったけ?
511 :
名無し曰く、:2013/04/17(水) 13:09:31.79 ID:lN6khOd8
高天神とか
512 :
名無し曰く、:2013/04/17(水) 16:34:03.41 ID:gTzcRs8a
武将風雲録って武将数少ないのになぜか御子神典膳が使い回しじゃなく独自の顔グラだったよな
伊藤一刀斎もいたし作者は吉川英治の宮本武蔵が好きだったんじゃないかと思う
嵐世記あたりから本能寺の変の四国説取り入れたり、司馬遼太郎贔屓になった感じ
513 :
名無し曰く、:2013/04/17(水) 23:14:09.25 ID:Xw8E07sF
武将風雲録の場合は時間とコストさえかければ誰でも軍師にできた。
お手軽さでいえばあれほど楽なのは無い。
DS2?あれは結局戦闘馬鹿を作るだけのゲームになっちゃったからあまりね。
適正も成長しないし。
脳筋は脳筋のままでいろというゲームはあまり好きでない。
脳筋石田三成とか、インテリ福島正則とか作れるようなゲームであれば面白いんだけど。
514 :
名無し曰く、:2013/04/18(木) 02:07:36.96 ID:aiLhOL7X
歴史秘話ヒストリア見たけど
直江兼続の知略上げるか
515 :
名無し曰く、:2013/04/18(木) 09:07:18.94 ID:y4C6GzPR
武将風雲録の茶器至上主義な世界観は良かったのになぜ一作だけで放棄してしまったのか
というわけでコーエーはへうげものをゲーム化しる
どぺえっとしたゲームになりそうだが
516 :
名無し曰く、:2013/04/18(木) 09:30:31.54 ID:nzifvKza
教養パラメータは良かったよねぇ
あれが無くなってから、武将たちはただの駒って感じが一層増してしまった
517 :
名無し曰く、:2013/04/18(木) 15:22:40.66 ID:/9q2uYkg
DS2は武将風雲録に良い肉づけをしたが、削ぎ落しもしてしまったのがまずかった。
適正の成長と教育項目の追加するだけでも良かったのだけど。
518 :
名無し曰く、:2013/04/18(木) 16:48:44.26 ID:rjR49EVR
>>488 信長の野望に登場経験ありは福留儀重と依岡左京(進)だけか?
あと新人物文庫の長宗我部元親の本に載ってる家臣団辞典より
石谷頼辰(斎藤利三の兄にして信親の舅)
桑名太郎左衛門(桑名吉成の従兄弟)
谷彦十郎(谷忠澄の長男)
野中重治(奉行の一人で紀州藩に仕えた野中親孝の兄)
依光越中(川窪定氏の子)
五百蔵左馬進(中富川の戦いで戦死した五百蔵佐渡守の弟。跡は
桑名太郎左衛門の子が女婿として同じ左馬進を継ぐ)
五百蔵六之進(左馬進の弟)
片岡光政(長宗我部氏と縁戚である片岡光綱の養子)
久保貞吉(香美郡久保城主久保宗安の子で、宗安の跡は貞吉が継ぐ)
519 :
名無し曰く、:2013/04/18(木) 18:45:50.68 ID:y4C6GzPR
元親の縁者の光秀と家久が京で親しく会っていたというのも歴史の不思議だな…
古田左介もその頃に家久に会っているけど実は茶頭として天下取るための遠大な策だったりして
520 :
名無し曰く、:2013/04/18(木) 18:49:52.80 ID:y4C6GzPR
京じゃなくて坂本城だったな。光秀、幽斎、紹巴、左介の数寄者ネットワークって凄いなと家久日記読んで思ったわ
521 :
名無し曰く、:2013/04/18(木) 18:51:00.95 ID:y4C6GzPR
光秀はこの数寄者派閥の力で天下を取れると考えたんだと思う
522 :
名無し曰く、:2013/04/18(木) 19:29:55.79 ID:aiLhOL7X
光秀て過大?過小?
今一歩たりないって印象なんだけど
523 :
名無し曰く、:2013/04/18(木) 19:32:32.01 ID:K+4eVoFN
赤井直正に二回も負けてるし統率はこれ以上上げる必要ない
政治知略はどうかしらん
524 :
名無し曰く、:2013/04/18(木) 20:13:11.78 ID:rFousQh7
>>518 おお!ありがたい
田舎は資料すらろくに集めらんねぇ
桑名太郎左衛門って桑名親光かな?
若年寄衆で知行八千七百石、小笠原流弓術を修め家中の弓術師範、
皮肉にも秀吉軍と戦って仙石に勝利していると、この人は野望出演してもいいくらいの人物だな
他にも片岡氏なんかも家中では大身か
後は石谷頼辰なんか生きてたらお福つながりで何か違ったんだろうか
525 :
名無し曰く、:2013/04/19(金) 09:25:50.45 ID:HiE26cI8
>>523 一回目の黒井城の戦いは知ってる
二回目って何
526 :
名無し曰く、:2013/04/19(金) 13:01:53.97 ID:E2Y7X/EZ
実際には織田の丹波侵攻は三度目の正直で平定
527 :
名無し曰く、:2013/04/19(金) 13:32:03.28 ID:3ElXVINz
そろそろ古田織部が上がってもいい頃
528 :
名無し曰く、:2013/04/19(金) 13:45:42.86 ID:HiE26cI8
>>526 3回もあったのか
第一次が黒井城で
第二次で直正が死んで支城の枝葉切り落としからの赤井氏滅亡だと思ってた
529 :
名無し曰く、:2013/04/20(土) 01:35:27.72 ID:fNuaV6M1
黒い城の戦いは波多野兄弟の裏切りで負けたんだから、
下げるなら、知略か政治で
統率下げるのも違うね。
530 :
名無し曰く、:2013/04/20(土) 02:48:57.87 ID:o4i2SOVO
ただ現状より統率上げる必要も特にないと思う
2回攻略失敗した事に変わりはないし特別戦上手と思わせる戦いも特にないと思うし現状で妥当じゃないの
531 :
名無し曰く、:2013/04/20(土) 12:51:57.83 ID:fNuaV6M1
じゃあ現状維持で
532 :
名無し曰く、:2013/04/21(日) 00:24:34.06 ID:WiKTkjpL
>>511 あと掛川城か。
あれは城が堅甲だったのか朝比奈が頑張ったのか
いかんせん、氏真が評価されること無いのが悲しい。
533 :
名無し曰く、:2013/04/23(火) 03:29:13.46 ID:2/zUDkdL
ほんとに無能でどうしようもねえって武将誰になるんだ?
六角の息子あたりかな
534 :
名無し曰く、:2013/04/23(火) 09:53:18.87 ID:Xr4S+ysm
光秀はステータス云々よりも家臣団が過小
存在しなさすぎ
寄騎含めて明智秀満、斎藤利三、津田重久、小川祐忠、阿閉貞征、可児吉長ぐらい?
これで秀吉オールスターズと戦えとか厳しすぎる
535 :
名無し曰く、:2013/04/23(火) 18:39:27.16 ID:WQk5s/En
>>533 むっかしいな
一般的に無能といわれる。
氏真・義景・義昭あたりにしたって、全部が全部悪いわけではないし
どんな武将にも良い時と悪いときがあるから
こんなの言い出したらキリ無いけどね。
536 :
名無し曰く、:2013/04/24(水) 00:51:58.53 ID:b7su1iYK
本当に本当だったのはまず一条さん
537 :
名無し曰く、:2013/04/24(水) 13:40:34.80 ID:qAnuZnq1
まっさきに浮かぶのは守護大名の方々
538 :
名無し曰く、:2013/04/25(木) 00:44:05.62 ID:ulKgXIMJ
六角の息子は放蕩が過ぎてそれを諫言した重臣も殺してるしこれは無能と言っていいと
思うんだがなあ
539 :
名無し曰く、:2013/04/25(木) 03:19:41.66 ID:2WXK73eK
相手が悪かったと言う良い訳も成り立つよ。
一条さんは相手が元親だったから
氏真は信玄・家康が相手だから運が悪かった
土岐頼芸は道三が
竜興・義景・六角親子・義昭は信長がry
540 :
名無し曰く、:2013/04/26(金) 14:58:20.22 ID:8gMQiJ7K
そしてクソ武将は居なくなった
541 :
名無し曰く、:2013/04/27(土) 04:32:24.20 ID:Jo5pO8ZC
武田信虎の統率は過小気味
甲斐みたいな貧弱な国で早雲氏綱・今川氏親と互角に戦って
時には破ったことあるのに90も届かないとは
実績調べたら
追放されるまで戦いに次ぐ戦いで、まさに戦の鬼か虎ですわコレ
542 :
名無し曰く、:2013/04/29(月) 04:07:40.65 ID:Yv7BBJ2l
543 :
名無し曰く、:2013/04/29(月) 19:32:16.04 ID:S62qZJ7U
信秀や輝宗なんてむちゃくちゃ歌唱だしな。
544 :
名無し曰く、:2013/04/29(月) 20:22:39.62 ID:t0hulbX/
545 :
名無し曰く、:2013/04/29(月) 20:33:34.53 ID:vl7qCWt/
官位で上がる分統率下げて政治あげるべき
546 :
名無し曰く、:2013/04/29(月) 21:51:13.33 ID:S62qZJ7U
信秀は尾張一国+美濃大垣城+三河の水野+今川が領土を織田に割いてまでした天皇斡旋の今川との同盟+道三の後見という至れりつくせりのものを信長に残して死んでる。
ここまでやってくれた戦国オヤジなんてほかにいないだろ。
547 :
名無し曰く、:2013/04/29(月) 22:01:03.61 ID:t0hulbX/
>>546 統率武勇は明らかに過大じゃね?
政治知略に回すべき
548 :
名無し曰く、:2013/04/29(月) 22:51:55.35 ID:NsgIFj+b
>>546 信秀は再三の外征失敗で吊し上げにあってひどい状態になった矢先に死んだろ
だから信長が家督継いだ時尾張3郡しか残ってなかったのさ
549 :
名無し曰く、:2013/04/29(月) 23:43:30.67 ID:S62qZJ7U
550 :
名無し曰く、:2013/04/30(火) 00:52:53.82 ID:nHk0iSnW
この特徴のある書き込みから大体予想はしてたけど…
551 :
名無し曰く、:2013/04/30(火) 03:36:15.39 ID:xLx+Bj3n
北条氏政は過大じゃないかな?
上にもあったが一番のポンツク武将・ポンツク世継ぎ
一度、たった一度大阪城で頭下げるだけで少なくとも一国は確保。
配置変えがあったとしても一国の大名になってたのに、関東以西のほぼ全大名を敵にしてなんとかなると思った大うつけ者。
なんとかなる状況で自ら進んで下手うった大名って北条氏政ぐらいだよな?
552 :
名無し曰く、:2013/04/30(火) 04:48:43.33 ID:7m5kJy2U
信長は現状のゲームシステムだとチートにするしか方法がないから仕方ない。
信長の戦争での敗北ってのは全て信長が不在のところで行われている。
しかも「これは負けるなって思ったら撤退」とか「戦って勝つの難しいから和議使うわ」という徹底ぶり。
戦う前に勝負を捨てるから戦闘での敗北にはならない。あえて言うなら不戦敗か、ゲームの撤退コマンドを押すようなもん。
信玄や家康ですら死にかけの時があったのに信長は本能寺以外全く無縁、銃撃受けてもピンピンしてる
だからこれを忠実に再現すると「信長と戦った時」で「信長が負けそうになった」ら、
「朝廷のお偉いさんあたりが、すたすたやってきて無理やり戦争終了される」という面倒なシステムが必要
それができないから信長は統率100になっている。
553 :
名無し曰く、:2013/04/30(火) 06:05:18.97 ID:UlyUKwDw
信長は毎回死にそうになるような敗戦を繰り返しまくってそのたびにチート幸運で助けられてるのが特徴
対斉藤戦でも大河内城攻めでも長島一向一揆征伐でも浅井朝倉戦でも弱りきった相手や弱体化しきった相手、自国に比べてハナクソみたいな国力しかない相手に
騙まし討ちをかけたりして逆に反撃くらって味方を殺されまくってるのが特徴
信玄や家康はこういった事は全くなく、格上の国力の北条・今川・豊臣・織田などに勝ちまくってる
554 :
名無し曰く、:2013/04/30(火) 06:08:58.07 ID:BafIgOPz
信長は金ヶ崎の時も謙信上洛の時も信玄死ぬ直前の浅井朝倉戦でも長島征伐でも殺されかけてるからね
家康や信玄は全くこんな危機ないし
555 :
名無し曰く、:2013/04/30(火) 06:13:20.01 ID:UlyUKwDw
信長が神戸氏に大敗した永禄8年に市を浅井に向かわせ協力を取り付けたおかげで
やっと近江からの軍事的圧力のおかげで翌9年に信長は中濃・西美濃の調略に成功し
10年に美濃を奪うことができたくらいの下手くそだからね。
そもそも信長公記はデタラメだらけだしね。例えば伊勢なんて簡単に平定したみたいに書かれてるけど
永禄10年(1567年)8月滝川を先鋒に4万で伊勢侵攻したが神戸氏への支援として関氏の他に
長島門徒・高田門徒・天台宗信徒・伊勢水軍・志摩水軍に呼応して美濃で氏家・安藤・稲葉が謀反。
さらに北畠氏は鳥屋尾石見を使者として信玄とも協調し徹底抗戦したから滝川を放置して信長は逃亡してるし、
永禄11年11月の伊勢攻めでは去年の屈辱からかおよそ武士とは言えない略奪暴行大虐殺をしまくって南下するも苦戦。
結局、戦闘行為で力でねじ伏せることを諦め神戸氏に人質として信孝を与えて縁戚化させるしかなかった。
なんせ12年春には安濃津城前面まで来ながら信長は逃走してる。
そして織田方になった北伊勢の者どもを利用して調略や仲間割れを煽り
長野氏やその家臣の細野氏や雲林院氏の家中を疑心暗鬼にさせて暗殺や内紛を引き起こさせ
長野具藤は長野城を放棄して実家の北畠氏へ逃げ、
細野藤敦から離反した弟達の尽力により神戸友盛の娘を娶っていた信包が入城した。
(もともと具藤は暗愚だから長野氏の養子に迎えることに細野・雲林院は大反対だった)
怒った細野藤敦が長野城を奪い取ると信長は滝川の子を信長の養子にして細野に人質として渡し味方になってもらった。
この時、関一族の関盛信は信長帰属を良しとせず六角承禎の近江日野城へ逃亡した。
永禄12年5月北畠四御所の木造氏が北畠内での序列に不満があって織田方へ走るや
信玄・伊賀・大和へ支援要請し大和三人衆の秋山・沢・芳野らも動員して北畠は木造を滅ぼそうとするや
織田も伊勢の関・神戸・長野に滝川・織田信昌を援軍に派兵し、
滝川三郎兵衛が九鬼を買収し志摩水軍を北伊勢反北畠連合側に寝返らせる。
北畠が2ヶ月に及ぶ親族同士の殺し合いをして疲弊してると見て取るや信長7万で自ら出兵し
北畠氏を踏み潰そうとやってきた信長は大河内城2ヶ月大包囲で
将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎
丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら
高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり
藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。
(大河内城の北東の守りを固める阿坂城1万5000包囲では秀吉が左股に矢を受ける大苦戦で
落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの)
信長の危機を知った義昭が北畠との和睦を斡旋し(古簡雑簒)
信雄を人質に取ったことで和睦を拒否ってた
水谷刑部少輔がやっと和睦に同意し
追撃されないよう信雄を人質として差し出して京へ帰る他に手が無かった。
556 :
名無し曰く、:2013/04/30(火) 06:15:11.95 ID:BafIgOPz
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
557 :
名無し曰く、:2013/04/30(火) 06:21:27.06 ID:UlyUKwDw
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし
信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長
根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず
558 :
名無し曰く、:2013/04/30(火) 06:29:10.01 ID:BafIgOPz
信長が直に率いた戦なんて雑魚にしか見えんのだが。斉藤戦とか大河内城攻め
長島侵攻戦、対浅井の攻防、姉川、小木江攻防
まだ佐久間とか部下の戦の方がマシじゃね
559 :
名無し曰く、:2013/04/30(火) 07:38:22.11 ID:kbHbiVBy
>>552 >>信長の戦争での敗北ってのは全て信長が不在のところで行われている。
すっげー大嘘を書いてるキチガイがいるな・・・
560 :
名無し曰く、:2013/04/30(火) 07:52:26.13 ID:wIenEDdh
その場にいようがいまいが、敗北は頂点である殿様の責任です
561 :
名無し曰く、:2013/04/30(火) 09:05:56.87 ID:8FU2TmI/
〜家臣限定〜
562 :
名無し曰く、:2013/04/30(火) 10:00:37.83 ID:7QZacTCk
誰だよ織田の話し始めたの
なり潜めてたモンスター呼び覚まして
563 :
名無し曰く、:2013/04/30(火) 12:56:12.84 ID:WlYNZ0fp
柳生宗矩
生涯主君を変えた事がなくて義理10は逆に凄い
低武力だった時代に比べたら(剣豪としては)マシな扱いになったけど
564 :
名無し曰く、:2013/04/30(火) 23:48:06.90 ID:7m5kJy2U
朝からコピペ吐いてる基地外お疲れ
信長本隊>>>>>>>>信玄本隊
川中島でボコボコにされ、上田原でも負傷するほどボコられる信玄w
信長は本隊をボコボコにされたことないからなw
>>560 それはゲームシステム上統率に入らないな。
つうか、その理屈だと勝利は頂点である殿さまの功績になるから
大名以外は全て勝ちなしの統率0になるぞ
565 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 00:04:26.93 ID:5Kegx1Vg
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
×武田が実力で信長に滅ぼされた
○甲江約定反故にによる武田の戦闘体勢解除につけこんだ圧倒的大軍での騙まし討ちと
タイミングよく起きた浅間山噴火による領内混乱と対北条徳川戦の疲弊と勝頼の失政自爆による財政破綻などによる
離反の連鎖につけこんだ火事場泥棒
こんな卑怯な手法&幸運があれば誰でも勝てる
あんなもん完全にラッキーだっただけ
元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無
今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わん
いわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
566 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 00:05:01.19 ID:5Kegx1Vg
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
頑強に排除されてkた西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は内通で加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。
龍興12歳1561年5月義龍の死去を聞いて急いで出陣するも敗走。さらに続けて墨俣攻防で信清の弟討死。
5年後の1561年(永禄4年)8/28の快川紹喜書状には義龍が江南出勢し勝利したが現在も戦いが続いていると書かれ(4月の浅井戦のこと。その後5月義龍急死)さらに【【美濃は尾張半国を取っている】】と書かれているのである←【【NEW】】
(信長は義龍死去を聞いて斉藤勢が近江戦線に出張っている隙を突き即、美濃を奇襲するが大敗する)
龍興13歳1562年永禄5年2月27日付け快川和尚→飛騨禅昌寺書状によれば信長が美濃へ侵攻するも敗北し追撃を恐れた信長は西美濃の墨俣城で龍興と人質交換して退却したとのこと←【【NEW】】
龍興14歳1563年新加納を進撃してきた信長を撃退。
龍興15歳1564年稲葉山を安藤と竹中に占領される。
龍興16歳1565年9月龍興三千で信長を直接討ちにきたら加治田を見捨てて信長逃亡。
龍興17歳1566年4月各務野へ信長がやってきたので龍興も新加納に出て決戦の姿勢を見せたら信長逃亡。
8月龍興の前に織田軍大敗木曽川溺死多数。その後もずっと木曽川での攻防を繰り返すも美濃への進出できず。
龍興18歳1567年斉藤義竜7回忌法要で美濃の武将達が参列してる中信長がその隙を狙って稲葉山城を奪ったから落城しただけ。
これは快川和尚が実際に7回忌法要の準備をするために4月に甲斐から美濃へ向け出立してることでもわかる。
快川は法要が終わるまで半年間もの間、美濃に滞在してから年末に甲斐の恵林寺へ帰り着いている
龍興18歳1567年8月に六角を通じて浅井との婚姻成立により浅井も参戦したことで美濃三人衆の内応に成功。義龍の死の混乱に乗じてわすか
二日後には信長が美濃攻撃を開始するが斉藤は撃破に成功。しかし国内は幼君ゆえ混沌し竹中・安藤の稲葉山奪取が勃発し
稲葉山占拠は半年に及び、これを受けて信長は小牧山に拠点を移している。結局竹中や安藤は美濃簒奪に失敗したが、
斉藤家はすでに美濃国人らを統御できる力はなかったのが内外に露呈した。六角義治と対立する六角重臣達らの支持を受ける六角義秀が義昭を上洛させるべく
浅井と織田の同盟を推進し市の婚姻を働きかけ(福田寺文書和田惟政披露状)その話に美濃三人衆の氏家と安藤も乗り気になっていた(長政→市橋伝左衛門尉宛て書状)
これにより信長はやっと美濃攻略に成功する。信長公記はこのあたりを全て隠蔽して美濃は信長独力で攻略できたことに捏造してるし
元亀元年6/28姉川の戦いの寸前の6/19には故六角義秀に近い近江修理大夫が義治親子を捕縛してるのを信長が褒めてる。この時に宮が助命嘆願してきたが貴国ノ御心次第だとも信長が言ってる。
このために義治軍が姉川の戦いに参加できなかったから信長が姉川で破滅せずにすんだだけ。
567 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 00:05:58.64 ID:5Kegx1Vg
信長はマグレの火事場泥棒しかできない雑魚
信長の父信秀は天文10年(1541年)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上だけでなく
朝廷に献金した金額ランキング
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
「四十万疋(=4千貫)」っていくらだよ??ということになりますが、
北条氏の軍制では700疋で兵隊を1年に1人雇えたらしいので、
だいたい600人を1年間雇えるくらい
ただ焔硝の製法である古土法だと大量生産ができずに普及が進まなかった(当時は明との交易は禁止されていた)
信玄なども1555年正月に焔硝について触れている書状がある。
1549年太原雪斎が信秀の安祥城を攻略した決め手も奇襲した際の鉄砲だと言われてる。
良質のインド産の焔硝をポルトガル商人から輸入できるようになってから大量運用が可能になる。
ちなみに1567年信長が岐阜城を落したのと同時期に
宗麟が司教宛てに毛利への硝石の輸出禁止と
毎年良質な硝石200斤の大友への輸出を航海指揮官ピタン・モールに頼んで欲しいと依頼しているほどの戦略的な軍事物資。
信秀が死ぬ2年前の1549年に信長が近江の国友村に高級品の火縄銃500丁を注文しており、
道三との正徳寺会見でその鉄砲を大量所持していて道三が驚いたとの記述があるが、
希少価値が高い硝石の在庫がそんなにあったのだろうか・・・
もしあったのなら尾張国に集まる経済力と富は突出していてとてつもないものだったろう。
信秀による実質的な尾張統一完成が稲葉山城攻撃につながったと言われてるからね。
ロクに優秀でもない林・佐久間・平手を付けられた信長が与えられた名古屋城の税だけで
そんだけの鉄砲を買い込み火薬も備蓄してたとなると
道三死後に美濃国譲り状までもらって支配の正当性を持ちながら
なんで美濃国攻略に10年以上もかけてるんだって話だよね。
まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国60万石+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
568 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 00:06:55.48 ID:7m5kJy2U
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、
此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。
569 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 00:07:52.94 ID:5Kegx1Vg
>>上杉憲政に至っては北条氏康にフルボッコにされたせいでそれ以降全く日の目を見れなくなる雑魚っぷり
信玄の信濃侵攻に大軍送ってるし上野で瓦解も起きてないのに日の目を見られなくなるとかデタラメ乙
小田井原合戦前で上杉の瓦解など全く起きていない
>>信濃の40万石はただの合計で内実は村上諏訪小笠原高梨高遠と有象無象の連合勢力で
>>諏訪をぶっ潰す時には高遠と連合するなど信玄は所詮現地の連中の手を利用しまくったのに10年も費やしている雑魚w
諏訪倒した後は小笠原村上木曽などことごとく敵方&上杉や長尾の軍勢と戦いながら石高が自国の倍もある全国でもキツイ城ランキングトップクラスの堅城落としまくってる
>>美濃の斎藤なんて60万石近い領土を持ってるし義龍の頃でも多くの美濃衆が義龍に味方してる
54万石を60万石とかしょぼい捏造してんじゃねぇよボケ
>>たまたま斎藤道三が死んだ時に不穏な奴が少し出ただけで内実60万石は確実にある
ソース出せよタコ
加治田城・黒田城 織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城城内で内通が出て開城が犬山城と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに武士階級も収入が無かっただけ。
裕福な信長の尾張なら楽だし近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして斉藤家は落ちぶれてしまったからかんたんに信長は火事場泥棒で美濃を手にいれただけ
>>薄氷の尾張有数実力者の嫡男に生まれた織田信長
チート尾張一国&交易収入&朝廷への献金額全国ダントツトップ&周辺国は分裂・弱体化しきっており美濃も伊勢も近江も楽に火事場泥棒
>>三河在地勢力の息子徳川家康、
信玄に瞬殺された雑魚
>>農民or下級武士の息子に生まれた豊臣秀吉
そもそも秀吉は一次史料初見ですで信長の領地安堵状に添え状を出してる身分で登場
(のちの堀秀政などと同様な立場。信長公記では一軍を率いる将として初登場)
どこにも百姓や底辺からの抜擢を示す証拠なない)
津田や木下は織田家の親類衆でしょ。秀吉は親類だから公記での初登場でもすでに佐久間信盛や丹羽長秀に並ぶ一軍の指揮官だし。
六条本圀寺に三好勢が攻めてきた時に光秀も初登場したがその時に将軍義昭の警護役として登場してる。どこにも秀吉や光秀が
氏素性のわからん人間や流浪の人物などと言うことは書いてない。完全に江戸期の講談の影響。
秀吉は『太閤記』の捏造話は信憑性ゼロであり美濃攻略戦の11年間の間に信長に仕え始めていたと思われ濃尾国境を流れる木曽川の水運業者の川並衆の土豪と秀吉は個人的な強い繋がりがあったのを買われ
木下姓も妻方から貰ったのではなく、元々秀吉の名字。
>>それに比べて生まれたときから甲斐22万石がそっくり入る武田嫡男に生まれておいて
信濃→甲斐の二倍の石高&山之内上杉49万石や長尾37万石が援護しまくり
北条&今川→計200万石越えのチート国力
織田・徳川→計300万石近いチート国力
彼ら相手に蹴散らしまくり三河遠州駿河信濃上野美濃など切り取りまくり北条や織田の大軍を蹴散らしまくったのが信玄
570 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 00:09:12.55 ID:5Kegx1Vg
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
>>今川氏真すら満足に攻められず家康と北条に一度撃退される雑魚っぷり
北条+今川で国力は武田より上。しかも武田は上杉も敵対
>>基本武田軍の方が多いのに川中島や上田原と重臣が必ず死ぬという雑魚っぷり
川中島は織田家トップ格柴田&オールスター面子を瞬殺した最強謙信相手じゃん
むしろあんだけキツイ山城の立ち並ぶ信濃や上野や奥三河など攻めてまともな敗戦2回だけって少なすぎると思うわw
信長なんて義龍亡き後の幼君龍興にすら負けまくってるじゃん。しかも非戦闘員の一揆勢(餓死寸前)にも騙まし討ちしたのに一門10人以上殺されまくる醜態っぷりw
>>信長で言うなら戦争するたびに羽柴や柴田滝川明智あたりが必ず1人は戦死するようなものw
羽柴や柴田や滝川明智あたりは交戦相手が雑魚すぎて運よく生き残って生き残ったから有名になっただけだろ
柴田明智滝川羽柴より格上の原田とか森とか坂井正尚・久蔵とか平手とか氏家とか重臣クラスでも信長のアホな戦でかなり死んでるしそのおかげで
上がいなくなって抜擢されて有名になっただけなのが柴田明智羽柴滝川。坂本・宇佐山に置かれなくて運がよかったな
その与力の織田信治とか青地・尾藤源内・尾藤又八・道家清十郎・助十郎も戦死
坂井と一緒に安藤・桑原・甲斐守・浦野、氏家と一緒に種田・一柳
林秀貞の嫡子の新次郎、与力加藤
小口城の合戦で信長の側近岩室三方が原の合戦で加藤長谷川山口佐脇玉越
大量に戦死してる
武田は対村上で板垣甘利が死んだくらいで他は特になし
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
>>で、そのあと織田家臣の秀吉はどうなったんですか?w
氏直が2倍程度の兵力で10倍の被害差で瞬殺した滝川に対し10倍以上の兵力で挑みかかってゲリラ戦術で散々苦しめられ
兵糧攻めも全く通用せずボロカス(天正11年3/4柴田→填島書状・滝川事書)
結局柴田が崩れて単独で抗戦不可な状況になってすら7月まで敢闘される有様w
>>北条氏直以下だと言うのだから、元織田家臣団が大挙して攻め寄せた小田原の役では
>>北条氏直率いる北条家臣団はさぞや武勇を発揮して、豊臣軍をけちょんけちょんにして小田原から撃退することに成功したんですよね?w
北条は34500豊臣235000で小田原は1000忍1000に手も足もでず韮山500でも大苦戦。
普通なら一週間〜2週間で終わりそうな兵力比で重臣一柳・堀尾嫡男・前田重臣・平岩弟・依田らが戦死
しかも佐竹の史料から豊臣方は兵糧20万石用意しておきながら物資切れ気味になる有様
>>信玄なんて信雄以下の雑魚じゃん
自国の2倍もある、日本で最も険しい山が立ち並ぶ山間の攻略の難しい信濃を
山之内上杉の大軍を大破しながら、また長尾の介入がある中切り取り
同じく山間部の大国上野を上杉相手に切り取り
駿河も大国北条と交戦&今川・北条・上杉・徳川・織田の包囲網張られた中で逆転劇で切り取り
自国の1.8倍くらいはあるであろう北条領を、少ない兵力で蹂躙しまくり、撤退戦で北条の大軍を撃破
織田・徳川相手に東美濃・三河・遠州切り取り最強家康&織田トップ格の佐久間・滝川・平手・前田(兄)ら精鋭を撃破
上村合戦や東美濃攻防では信長の大軍は馬場700程度に散々翻弄されまくる始末
571 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 00:11:32.56 ID:5Kegx1Vg
信長公記は志賀の陣まで前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に 織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるからこれでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
信長から御加勢依頼がきて徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
572 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 00:29:58.91 ID:J17E4fj7
だがさん対立煽り失敗した?『論破される無様な織田厨』を自演してるでしょ?
コピペ連投するならIDはちゃんと見ようよ
573 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 01:09:40.20 ID:H1AymHUb
三方が原の戦いの、双方の顔ぶれから推測した兵数考察
・武田(約18,000人)北条(約3,000人)
・佐久間、林、平手、滝川(約9,000人)水野(約2,000人)徳川(約12,000人)
/武田、上杉は全兵力を投入できない為、自国の兵士はせいぜい18,000人程度が限度
/佐久間、林、平手、柴田は代々重臣の家柄
/戦略家・織田信長が相手より少ない兵を送り込むとは考えにくい
/洪水や退却中というのも恐らく織田側の情報操作、織田家武将の退却戦は定評あり
『総見記』元禄初年(1690?)
佐久間信盛、平手汎秀、林秀貞、水野信元、毛利長秀・美濃三人衆、都合三千
三方原合戦については谷口克広でさえ、このメンバーで3千人という
信長の援軍は少なすぎると述べている
三方原合戦の謎とされる下記も、織田ー徳川方が優勢だったとすれば納得がいく
@劣勢な家康が出陣した理由
A劣勢な徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。
鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は
劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形で、両軍の規模を見ればどちらも定石と異なる
布陣を敷いていたことがわかる。
三方原については、
佐久間信盛:(約4000人)織田家の最有力武将、前田本家(与十郎)を支配していた
林秀貞:(約2000人)幼少信長付の筆頭家老
平手汎秀:(約1000人)代々家老の家柄
滝川一益:(約2000人)伊勢攻略及び尾張西部の守備を担う有力武将
毛利長秀:(約1000人)赤母衣衆、斯波氏?
美濃三人衆:(約3000人)織田家遊撃軍の主力
水野信元:(約2000人)織田家の同盟相手、尾張から三河にかけて勢力を有する水野一族惣領
全員揃うと織田家の援軍だけで1万3千、水野家2千、
徳川家最大動員数1万2千とすると、合計約2万7千人が妥当
柴田勝家、佐久間信盛はそれぞれ当時の織田家最有力武将であった。
つまり織田家は果敢に上杉謙信、武田信玄に総力戦を挑み、敗れ去っていたという真実。
更にこのことは織田信長に東方との戦争を危険性を強烈に認識させ、
1.長篠合戦での極端な守備的布陣
2.甲斐侵攻までの長い空白期間
3.甲斐侵攻作戦における慎重な指示
4.更に消極的な越後侵攻
に繋がったと推測できる。
元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容
信長本隊
佐久間信盛軍団
(浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団
(氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)
佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
574 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 01:10:28.60 ID:H1AymHUb
実際信長は信玄どころか弱体化しきった幼君龍興や北畠やら長島一揆やらに蹴散らされまくったし
武田相手にも三方が原上村東美濃攻防など蹴散らされまくってるしなぁ
信玄よりも勝頼と比べたほうがよさそうだ。
長篠は勝頼の自爆発狂があったにもかかわらず以外と接戦を繰り広げてたみたいだしw
武田崩れって喧嘩でいえば他の強者との戦いでつかれきってた強靭ファイターがもう仲直りしようねと関係が良くなってたため警戒0で油断しきってた相手から
突如騙まし討ちで10人くらいの大勢でしかも凶器使って襲われ、たまたま悪いタイミングで発症した心臓病のために抵抗できなくなったため
無理矢理殺されたみたいなもん。こんなもんを実力で勝ったとはいわん
信長が光秀に殺されたから信長は実力で殺されたといってるようなもん。
575 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 01:38:30.43 ID:wqG9bcs7
その調子でさっさと埋めてくれ
新作出るまでこのスレはいらん
576 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 01:42:47.39 ID:Iu0u4nvQ
たったひとりの人間が、かつてあれほど賑わいを見せていたスレを壊せるんだな
逆に感動するわ
577 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 04:37:39.92 ID:jYyrE3bK
信虎と為景爺はどこで差をつけてんだ。同じ戦にあけくれた生涯だったのに
能力差がある
578 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 05:13:52.64 ID:tv+ISqYE
信虎は追放されたとあとセミリタイアして余生が長かったから
579 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 09:42:15.99 ID:wUBT0H+P
羽柴四天王って全員過小じゃね?
580 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 12:33:07.86 ID:H1AymHUb
豊臣系ゴミ武将は全体的に過大
将の資質の問われない規格外の大軍を用いた雑魚イジメ(しかも降伏勧告など自力で勝った戦じゃない戦いばかり)でしか活躍してないし
581 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 12:36:43.44 ID:lYG7WevC
四天王といえば武田四天王と徳川四天王が過小だな
豊臣雑魚武将がオールスターで参加した小牧長久手の戦いなんかで兵力比7.5倍くらいで蹴散らしまくったし
582 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 13:00:29.07 ID:H1AymHUb
豊臣ゴミ武将なんて統率80以上は一人もいなくていい
いれば信雄や輝元や氏政みたいな雑魚に負けるわけねーし
583 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 13:08:52.15 ID:lYG7WevC
岐阜城なんて竹中・斉藤利尭・土岐・信雄やらに落とされまくってるのに
これを西軍諸将寝返りだらけ・城のつくりも知悉してる状態で落として何が凄いのかわからん
毛利アホ元が奉行衆らの要請無視しまくって美濃口に援軍送らなかったから西軍は数が圧倒的に足りなかったし
美濃方面の諸将は東軍に寝返りまくって楽に侵攻できただけだし
584 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 13:21:39.29 ID:5Kegx1Vg
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
信玄>>勝頼>>>>>家康>>>>信長
585 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 13:30:07.68 ID:6NxXHFMW
ステはもうちょい下げるかこんなもんだろ
技能が酷すぎるんでもうちょいへこませてもいいな<武田関連
586 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 15:43:10.79 ID:H1AymHUb
武田は過小だろ
信長より遥かに戦上手な最強徳川軍破りまくったし
織田軍中核の佐久間平手滝川前田弟水野ら2万瞬殺してるし上村合戦や東美濃攻防でも瞬殺したし
北条も撤退戦でもボコボコにしてるし
587 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 16:31:09.04 ID:lYG7WevC
勝頼は長篠の戦いにおいて
信長を討死、もしくは半殺しの半身不随にしていると言う可能性が高い。
なぜなら織田軍は武田軍を追撃せずにさっさと帰っている。
長篠の戦いからしばらく経つと信長は花押をほぼ書かなくなり(書けない?)
朱印や黒印の印判ばっかり使うため、信長以外の人物がハンコを押して書いている。
天正9年に3/25に家康に宛てた書状の1通しか花押の書状はないわけだが
それすらも過去の信長の花押と違うという点と、
あて先が三河守殿と書いていると言う理由から偽造の可能性が高いといわれている。
信長の替え玉として兄弟が立てられたのだろう。
謀反人の弟の子である津田信澄が天正3年から急速に地位を高めていく謎も
信長が戦傷が元で死んだためと考えると理解できる。
花押が書けないと言うの最末期状態だから相当終わってたんだな信長。
氏親の印判つきの今川のかな目録の分国法も
最近では氏親は脳溢血で花押が書けないと考えられ、
実際に分国法を作ったのはかな混じりの文章を書いていた寿桂尼だとされてる。
歴史検討において花押を書ける書けないは
健康状態や生死判断に利用されてるもんな。
馬場は700の兵でも信長3万の兵卒より強かったから、
三万÷700=43
兵力比の2乗が戦闘力に比例するから
43の2乗=1844
攻守三倍原則を適用するにしても
43÷3=14.3
14.3の2乗=204.49だから最低でも馬場は信長より204.49倍戦上手。
信長が統率100なら馬場は20449が妥当
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
588 :
名無し曰く、:2013/05/01(水) 23:03:18.94 ID:5Kegx1Vg
信長の勝ち戦なんて講談がほとんどだしなぁ
桶狭間も一次資料にないデタラメだしその軍記内ですらたまたま先陣と思っていった先が本陣で
たまたま偶発的に都合いいタイミングで雨や風が吹いて勝てただけだし
甲斐は18万石&例年のように飢饉
信濃は40万石近い上にキツイ城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮
おまけに山之内上杉は上野49万石長尾も越後37万石
あと山之内上杉が本格的に弱体化するのは天文17年以降でそれまでは上野にしっかり地盤を残し氏康にも抗戦している
あと斉藤が60万石とかデタラメもいい所
斉藤は幼君で分裂状態・稲葉山乗っ取り事件に代表されるようめちゃめちゃに弱りきってた上
信長が攻めていくと抗戦もせず降伏するものばかりだったし実高でいえば10数万石くらいだろ
おまけに浅井やら甲賀衆やらが援軍で送られてくるし
武田軍団は過小武将だらけだからな
織田軍3万なんて東美濃攻防・上村合戦でボロクズのように馬場や秋山3000〜5000程度に蹴散らされたし
三方が原でもトップ格の佐久間が全く歯が立たず信長より遥かに戦上手な家康もヘタレるほど実力の差があったし
信玄はおろか勝頼にも全く歯が立たなかったのが実情だし
589 :
名無し曰く、:2013/05/02(木) 00:05:41.44 ID:kS4bzEbg
こいつに支持されてるってだけで武田の評価下がるわぁ
590 :
名無し曰く、:2013/05/02(木) 05:33:46.57 ID:M8pvzoVg
こいつが主張すればするほど
信玄・勝頼て愚将だったんだ。っと実感するね。
591 :
名無し曰く、:2013/05/02(木) 06:45:28.72 ID:SQgEi7Cf
それなのに織田に滅ぼされた武田家って…
592 :
名無し曰く、:2013/05/02(木) 08:10:11.74 ID:TOj2+pod
だがはいろんな板に書き込んで武田をどこまで貶めれば気が済むのだろう
593 :
名無し曰く、:2013/05/02(木) 08:35:45.48 ID:1KKi5QsX
羽柴四天王が活躍してた時期はまだ「大軍を用いた雑魚イジメ」とは言えないだろ
594 :
名無し曰く、:2013/05/02(木) 13:53:56.90 ID:I/ABwKk5
羽柴四天王って誰なんだ?
竹中・蜂須賀・前野・堀尾か?ならまあ同意
595 :
名無し曰く、:2013/05/02(木) 13:59:32.82 ID:SYIkDQwK
武田征伐でまともに抗戦したの仁科1000程度だけだもんなぁ
対北条徳川戦の疲弊や勝頼の失政自爆や信長の甲江和与反故の騙まし討ちのせいで
他の連中はドミノ倒し的に寝返っただけだし実力で倒したわけでもなんでもないし
×織田に滅ぼされた
○勝頼の自爆と財政破綻と徳川北条戦の領国疲弊と浅間山噴火による自落
あんなもん完全にラッキーだっただけ。元々勝頼の自爆と対北条徳川戦で極端に弱りきってる上に天変地異による災悪
寝返りの連鎖でまともに戦う者皆無今川氏真レベルでも5万もありゃ十分勝てる
こんなもんを実力で滅ぼしたとか言わんいわば火事場泥棒みたいなもん
本能寺後武田領国の織田軍が皆蹴散らされて周辺大名の草刈場になったのも織田が雑魚すぎたおかげだろうな
武田対織田の結果
上村合戦 武田の圧勝
東美濃攻防戦 武田の圧勝 東美濃は完全に武田に帰属
三方が原 武田の圧勝 織田家トップクラスの佐久間敗走
長篠 城みたいな陣地&圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面
ここに勝頼が無謀に突っ込んできたのを迎撃しただけ。しかもその状況ですら勝頼を討ち取れず
柵も破られ9時間も戦われる始末
岩村攻囲戦 兵力差6〜8倍&長篠後後詰も来ない状態で士気ガタガタ&徳川からも援軍貰ってる状態で半年かかっても
落とせず騙し討ちにしないと勝てない醜態ぶり
高遠攻囲戦 兵力比50〜60倍で絶対的に兵力比が物をいう城外戦で一族織田信家始め大損害を出す
信濃の歌にも残ってしまう体たらくぶり。普通なら10分で終わりそうな戦闘で最低に見積もっても4時間以上戦われる雑魚っぷり
武田と織田比較
領土拡張率 武田>>>>織田(0倍)
戦闘 織田 圧倒的大軍で寡兵の斉藤浅井朝倉本願寺武田上杉毛利赤井波多野長島一揆本願寺北畠など
どこと戦っても大敗&大苦戦&大損害
武田 兵力比1.4倍程度の攻撃側としてさほど多くない数で攻略の難しい山間の信濃上野奥三河遠江等を次々と攻略
負けほとんどなし。大国北条軍にも、信長より遥かに戦上手な事が確定的な家康にも大勝
直接交戦結果 上記の通り
天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
甲陽軍鑑が長篠の戦いの記述を書く時に元ネタに使ったとされる天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。
馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも
大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前まで追い詰めるも
鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死
596 :
名無し曰く、:2013/05/02(木) 14:01:48.79 ID:I/ABwKk5
>>591 滅ぼしたって勝頼の失政自爆と対北条徳川戦で疲弊しきった所を甲江同盟詐欺の騙まし討ちで戦闘体勢解除してた所を
北条徳川とあわせて規格外の大軍で襲ったら仁科以外まともに抗戦せずに棚ボタ的に火事場ドロできただけじゃん
こんなまともな戦闘も起きてないのに滅ぼしたも糞もない
武田崩れって喧嘩でいえば他の強者との戦いでつかれきってた強靭ファイターがもう仲直りしようねと関係が良くなってたため警戒0で油断しきってた相手から
突如騙まし討ちで10人くらいの大勢でしかも凶器使って襲われ、たまたま悪いタイミングで発症した心臓病のために抵抗できなくなったため
無理矢理殺されたみたいなもん。こんなもんを実力で勝ったとはいわん
信長が光秀に殺されたから信長は実力で殺されたといってるようなもん
597 :
名無し曰く、:2013/05/03(金) 02:43:48.04 ID:dcg0Fnf1
長宗我部元親って「鳥なき島の蝙蝠だっけ?」信長に揶揄されたの
たしかに相手が一条さんとかだもんな。関東や九州に比べてもライバルがしょっぱい
598 :
名無し曰く、:2013/05/03(金) 04:31:07.39 ID:Jg9b7gvr
十河さん
そこそこ強いだろ
599 :
名無し曰く、:2013/05/03(金) 21:43:19.35 ID:V3sbM7LC
ていうか信長クラスの大大名に戦のうまさとか関係なくね?
600 :
名無し曰く、:2013/05/03(金) 23:56:34.46 ID:3beX8Eij
ニュー速+で墨俣城のスレが凄い伸びてるけど、
実はかつての過大過小民が流れてるだろ
601 :
名無し曰く、:2013/05/04(土) 05:15:01.78 ID:8x4P5cND
>>597 四国で元親に勝った事あるのって本山親茂しかいないからな。
長宗我部が強すぎたのか、それとも他が弱すぎたのか
602 :
名無し曰く、:2013/05/04(土) 05:58:17.06 ID:y4giiM1U
>>594 宮田光次(? - 1578年)
神子田正治(? - 1587年)
尾藤知宣(? - 1590年)
戸田勝隆(? - 1594年)
603 :
名無し曰く、:2013/05/05(日) 01:19:04.89 ID:XB1+HR+t
信長も、義龍亡き後はその息子、六角、朝倉、三好の残党
ライバルってほどの強烈な相手は近畿にはいないな。しいていえば邪魔な存在は
本願寺ぐらいか。長慶が万全で生きていれば面白かったのに
604 :
名無し曰く、:2013/05/05(日) 07:08:33.03 ID:jkOaLDWW
石山本願寺は戦国史上最強クラスだけどな
605 :
名無し曰く、:2013/05/05(日) 12:23:32.91 ID:NY0AQws0
>>604 やっぱり織田最高の武将は佐久間信盛だよな。
606 :
名無し曰く、:2013/05/06(月) 04:13:22.39 ID:bLGt8XD/
佐久間信盛って当時の地位的には丹羽や柴田クラスぐらの地位はあったの?
607 :
名無し曰く、:2013/05/06(月) 09:09:56.82 ID:mGP1ZQDB
彼らより遥かに上。
織田分国6カ国か七か国のあらゆる国に与力がいたから総勢2万くらいの動員力があったと思われ、本願寺攻めの
最大の功績者。
ただ大身すぎたため、織田譜代格粛清で中央集権狙った信長に根拠なしのいちゃもん&いいがかりつけられて改易された。
光秀が本能寺起こす伏線にもなった出来事
608 :
レス代行、広告付きVer:2013/05/06(月) 15:10:13.75 ID:pb8zVsme
丹羽さんは尾張時代同格だった勝家信盛とは
司令官としてかなり差がついて置いていかれてたみたいね。
【広告】
コワ〜いパチンコ店の話(宝島文庫2011/3/18発行)
ある地域では、月に1回、その地域のパチンコ店と警察署と消防署で会合があります。
会合が終わったあとに警察と消防をソープランドに連れて行きます。
609 :
名無し曰く、:2013/05/06(月) 17:13:26.14 ID:PI52I+N1
中央集権なんかできたのかな。
まぁ、何百人も全国に殿様がいたこと自体の方がすごいのかな。
こんな国他にあるの?
610 :
名無し曰く、:2013/05/06(月) 23:24:48.33 ID:2IZk6rhS
>>607 与力は家臣じゃないから=力が強いとは言えん
つうか力が強かったら信盛が反旗翻して終わりだろ
>>608 そうとは言えない
所詮柴田は地方のドサ周りにすぎないからな
佐久間も畿内制覇の軍に任命されたのは立派だが
所詮原田が死んだ後の臨時要員。佐久間が多くの与力を集め実働したのもたった2年だけ。
逆に丹羽は伊賀攻めで織田信雄、四国攻めで織田信孝の補佐を歴任。
現当主の弟で総帥の息子の補佐をやったのは丹羽だけ。あと地位が逆だが秀吉も。
はっきりいって次期当主層である織田信忠、織田信雄、織田信孝、あと織田秀勝。
こいつらと全く繋がりのなかった明智光秀、柴田勝家、佐久間信盛等々は
織田家の匙加減ですぐポイできる非常にやわっちい権力しかない。だから信盛はクビにされ光秀は謀叛を起こした
611 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 00:45:46.43 ID:G4uTqnXR
>>610 あいかわらずお前は馬鹿だな
そもそも織田家臣団(つうか他大名も大体そうだが)直轄地なんてなくて皆与力制だから
与力の大きさ=石高、知行地だろうがw
>>所詮柴田は地方のドサ周りにすぎないからな
根拠なし
>>佐久間も畿内制覇の軍に任命されたのは立派だが
>>所詮原田が死んだ後の臨時要員。佐久間が多くの与力を集め実働したのもたった2年だけ。
その前から最も大身なのは佐久間だろうがw近江に派遣された七将のうちでも最も大身だったし
浅井朝倉戦でトップ4のうち坂井と森が殺されて佐久間より上の石高の奴なんていねーよタコw
>>逆に丹羽は伊賀攻めで織田信雄、四国攻めで織田信孝の補佐を歴任。
総大将にもなれず信長の次男三男の副将格(しかもその中で特別な地位にいたわけでもないことが丹羽家記からもわかる)
>>現当主の弟で総帥の息子の補佐をやったのは丹羽だけ。あと地位が逆だが秀吉も。
滝川や川尻も雑魚の森も補佐やりまくってるじゃねぇかw
つうか別所攻めとか松永攻めとか次期当主格にあたる信忠の補佐役なんて皆やってるじゃねぇかクズ
612 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 00:50:48.70 ID:ZFtmy0IN
佐久間は織田家トップの実力者であり織田分国中に大軍を持った名将だったが
信長はいちゃもんつけまくって改易したんだよな
この頃の織田では安藤、水野、丹羽氏次など根拠もなく功臣たちを無理矢理改易する慣習が行われ中央集権化をしようとしたら
それに危機感もった光秀が自国を召し上げられて信長を襲撃して殺した。
613 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 00:54:54.25 ID:G4uTqnXR
丹羽みたいなゴミみたいな貫高しか持たずろくな戦功なし。実力0の雑魚を佐久間より上とか頭逝ってるな
補佐役なんて皆やってるっつーの
信忠の補佐だった若手馬周りの連中はどんだけ有能なんだよ
614 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 00:57:21.80 ID:ZFtmy0IN
はっきりいって三方が原の織田軍のメンバーは織田で相当大身な連中で、
一部隊しか送らなかったのではなく、正面から大軍で臨んで大敗したのが実情
佐久間平手滝川水野林前田弟で2万にはなるだろうし
615 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 00:57:52.87 ID:G4uTqnXR
それを正面からガチで破った信玄の采配はやはり神レベル
616 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 00:59:53.80 ID:djeWJtHD
与力の大きさが石高知行地wwww
初めて聞いたわそんな珍説w
つうか佐久間の場合その与力である保田に嫌気さされて、最終的にそれが信長折檻に繋がるんだが
この事実をもってしてもおまえは佐久間が「あらゆる国に与力がいた」「総勢2万の巨大勢力」とでも言うのか?w
ちなみに保田は佐久間氏が養子に出すほど縁の深い家だからな?w
お得意の捏造で「従わないショボイ与力がいただけ」とかぬかすなよ?w
>>>>所詮柴田は地方のドサ周りにすぎないからな
根拠おおありじゃんw
別所攻めも松永攻めも参加していないのは有力格では柴田くらいのもんw
羽柴、明智、丹羽、滝川、信雄信孝兄弟、みんな参加している
ちなみに天正6年の荒木村重討伐では前田佐々不破などなど北国勢も動員され
しかも信長直々に討伐隊を編成するという非常に大規模な軍事行動にも拘らず
柴田の名前がどこにもないという不遇っぷり。畿内制覇の軍事行動に全く参加させてもらえず
北国で一揆衆を殺しまくる作業のどこが優遇なのか、是非聞かせていただきたいw
>>浅井朝倉戦でトップ4のうち坂井と森が殺されて佐久間より上の石高はいない
与力含めての石高は直轄領ではないので論外だし、そもそも時期が異なる
>>総大将にもなれず信長の次男三男の副将格
信長が手塩にかけた息子を預けるにたる存在だと思われていただけ。
つうか総大将かどうかは関係ない。要は信長がどう思っていたかが重要
いくら総大将でも勝家みたいに武功にもならん一揆勢の掃討だのをやらされるために寒い北陸に飛ばされるよりはマシ
>>滝川や川尻も雑魚の森も補佐やりまくってるじゃねぇかw
川尻と森は全然補佐できてないじゃん
川尻は信長の言うこと聞いてるだけで信忠に何も言ってない、信長書状でも
「俺が信忠に言い聞かせる」とまで言われる有様。森なんか自由気ままに先行してるしただ信忠とグルになって暴れてるだけ。
滝川が信忠の補佐したのはわからんでもないが、それとて明確なのは武田征伐くらいのもんだな
617 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 01:02:29.43 ID:djeWJtHD
自演なんてしなくていいからさっさと答えろよw
信長の天下統一事業の一環である畿内制覇にロクすっぽ参加させてもらえず
北陸で義勇兵レベルの一向衆の掃討ばかりおしつけられていた柴田が
信長から確かな権力を与えられていたという根拠をなw
所詮地方の雑魚信玄を持ち上げるために無理やり佐久間を持ち上げているだけの
アスペルガーだがらしい手前勝手なオレオレ理論だから
そんなことできないくらいは、わかっているけどなw
618 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 01:42:00.33 ID:G4uTqnXR
>>与力の大きさが石高知行地wwww 初めて聞いたわそんな珍説w
そもそも織田家臣団(つうか他大名も大体そうだが)直轄地なんてなくて皆与力制だから
与力の大きさ=石高、知行地だろうがw
直轄地で一人の武将にまとまった領地与えるなんて支配体制誰に認めてるんだよアホ
与力が貫高じゃなかったら知行高を示すものなしなんぞ存在しねーよクス
>>つうか佐久間の場合その与力である保田に嫌気さされて、最終的にそれが信長折檻に繋がるんだが
ソースは?
>>別所攻めも松永攻めも参加していないのは有力格では柴田くらいのもんw
>>羽柴、明智、丹羽、滝川、信雄信孝兄弟、みんな参加している
当たり前だろアホ。上杉謙信に大敗して戦力補充ができなくて普通に休止してたか加賀で戦ってただけろうがボォケ
>>ちなみに天正6年の荒木村重討伐では前田佐々不破などなど北国勢も動員され
そもそもそれって信長公記のデタラメ逸話で一次資料に書いてねーだろ
>>しかも信長直々に討伐隊を編成するという非常に大規模な軍事行動にも拘らず
敵は荒木だけじゃねーだろクズ
他の方面で戦ってた連中はこぞって不遇扱いになるなアホ
>>柴田の名前がどこにもないという不遇っぷり。畿内制覇の軍事行動に全く参加させてもらえず
畿内制覇の軍事行動なんてたいした難易度じゃねーだろ
そもそもたいした国力の敵もいないし留守居兵もなしにして総がかりで攻め込む必要がない
>>北国で一揆衆を殺しまくる作業のどこが優遇なのか
最も手ごわい上杉軍相手にしてたのが柴田。
>>与力含めての石高は直轄領ではない
そもそも直轄領だけでいったら家臣団なんて皆無に近いだろ
基本皆与力制(頼子より親制)でより親の軍団長に信長の与力つけてただけなのが織田軍
>>信長が手塩にかけた息子を預けるにたる存在だと思われていただけ
根拠なし。つうか副将なんて3人もいるしその中で特別な存在だったという事もなく、四国みたいな石高もしょぼくろくな城郭もない
雑魚相手に副将任されただけなのが丹羽
>>要は信長がどう思っていたかが重要
信長の評価でいえば戦国最強の上杉軍相手のガチンこ戦闘柴田>>>>>>>>>>雑魚しかいない石高もしょぼい三好など味方も多くいる
城もしょぼい四国相手の副将格三人の中の一人でしかなく若狭数万石しかない丹羽
>>いくら総大将でも勝家みたいに武功にもならん一揆勢の掃討だのをやらされるために寒い北陸に飛ばされるよりは
一揆勢の掃討がなぜ武功にならないのか意味不明
長島一向一揆や本願寺の例みれば一揆勢の精強さが見て取れ、畿内の雑魚相手の戦より遥かに難しい仕事を任されたのが柴田
619 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 01:48:54.58 ID:G4uTqnXR
>>川尻と森は全然補佐できてないじゃん
具体的にどこができてないのか不明
>>川尻は信長の言うこと聞いてるだけで信忠に何も言ってない、
根拠なし。そもそも補佐なんだから助けるだけでいいし信忠に命令する必要なし
>>信長書状でも 「俺が信忠に言い聞かせる」とまで言われる有様。
それがなぜ補佐できてないことになるのか不明。補佐できててもより信長の意思を直接的に伝える必要があっただけ
>>森なんか自由気ままに先行してるしただ信忠とグルになって暴れてるだけ。
そんなら信忠が思った行動を実行に移してるから補佐しまくってるじゃねぇかタコ
>>滝川が信忠の補佐したのはわからんでもないが、それとて明確なのは武田征伐くらいのもんだな
別所攻め荒木攻め松永攻めなど援軍派遣の総大将信忠がとった時皆で補佐しまくってるじゃねぇかボォケ
>>信長の天下統一事業の一環である畿内制覇にロクすっぽ参加させてもらえず
畿内平定戦で柴田は参加しまくっている(三好討伐、浅井朝倉戦、長島侵攻戦など)浅井朝倉滅亡は
国力的に本願寺以外雑魚しか残ってないから次の敵本願寺と上杉に備えて頼りになる柴田を北陸に置いただけ。
>>北陸で義勇兵レベルの一向衆の掃討ばかりおしつけられていた柴田が
意味不明。長島一向宗や本願寺の例みれば一向宗の精強さはアホでもわかる
>>信長から確かな権力を与えられていたという根拠をなw
そりゃ簡単。織田家で最も大身だから。
>>所詮地方の雑魚信玄を持ち上げるために無理やり佐久間を持ち上げているだけの
信玄は最強家康にも織田軍最強の佐久間に平手滝川水野と大軍大破したし信長を滅亡寸前に追い込んだし
信長より遥かに実力上だろうね。後ひといきのところで病死して助かっただけだし
620 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 01:52:35.97 ID:ZFtmy0IN
日比野弥次郎・日比野孫一に陣夫銭の件で棚橋彦一郎の違乱に対して、
和田八郎に命じて1貫500文を納めるようにと決まったので
異議申し立てをしないようにせよという内容の書状を発給している。
この書状は織田信長御朱印の旨で裁許するようにと書かれているが
日比野は尾張、棚橋は美濃の人物でいずれも信忠領地の武将
結局、信長が裁断してるのか。
やっぱ信忠は無能だな。
621 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 02:18:16.38 ID:G4uTqnXR
そもそも丹羽って織田の一門衆だろ。
一門なのにろくな戦功もなく禄高もしょぼく若狭数万石で大将としての戦もなくどうでもいい四国攻めの副将格の3人のうちの一人。
よっぽど無能だったに違いない。そもそも信雄自体一門の癖ろくな戦功もないどころか
北畠に養子に出されて以来加増もほとんどされず伊賀攻めで大敗し信長に譴責された雑魚。
事実耶蘇会年報でも信孝は褒められてるが信雄は散々貶されている
こんなどうでもいい雑魚の補佐(うまく勤まったかどうかわからんが)やったからって何の能力の根拠になるかわかんねw
622 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 02:20:54.66 ID:ZFtmy0IN
武田討伐の責任者は川尻であり
信忠はただのお飾り。
信忠はよく贔屓目にみても滝川と同格レベル。
森や梶原はまったく相談もせず、どんどん進軍。
信長もあいつら軽率な行動の言い訳に力戦したとか言って
後から俺に訴訟してくるだろうと書いてる。
織田厨は信長書状すらまったく読んでないアホ
自分の願望信長像・信忠像を否定するレスを中層レッテル人格攻撃で排除してるだけ。
そして武田を捏造妄想曲解でまったく根拠ゼロの悪口中傷でっち上げで攻撃してきた歴史。
623 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 02:22:09.61 ID:ZFtmy0IN
信長が出陣を急いだのは
森ら若手が、信忠の指令を黙殺しまくって
勝手な行動するためだから、よっぽど信忠は人望も統率力も皆無だったのがわかるな。
バカ若殿信忠は無能過ぎて、
25歳になっても川尻が事実上の指揮官やってるくらいのボンクラw
追加保護者に滝川まで付けられるくらい信長は不安視していたが、
案の定、森や梶原は好き勝手やった挙句に信長に断罪されるどころか加増してもらったw
ハッキリ言って信忠イラネw
624 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 02:47:08.73 ID:djeWJtHD
>>618 本気でアホだなw
信長公記を否定するということは、おまえの大好きな佐久間の功績も否定するということだ
まあ村上に2回も負けた雑魚すぎる大名武田信玄を擁護するには
そんな天地をひっくり返すかのような矛盾も肯定しなけりゃいかんのだから、哀れ極まりないw
>>与力の大きさ=石高、知行地だろうがw
アホかおまえ
与力が在地領主なのは言うまでもないが、その与力が加勢するのは「信長」であって「佐久間」じゃない
「佐久間」に加勢するのは「信長の命令ありき」であって何もなしに従わない連中など戦力と呼ばん
事実同じ地方幹部クラスの柴田勝家は前田や佐々などたくさん与力を抱えているが
摂津で戦争が起こるたびに信長の下に行ってしまうからロクすっぽ戦力がない。
>>ソースは?
信長公記、以上終わり
信長公記の一方的な否定は歴史家の誰もやっていない、すなわちおまえの妄想
>>敵は荒木だけじゃねーだろクズ
当たり前だろボケ、おまえはそんなこともわからんのかw
>>他の方面で戦ってた連中はこぞって不遇扱いになるなアホ
その通りだぞ、今更何を言ってるんだおまえ。
荒木村重や神保長住なんて完全に使い捨てだからな
旧朝倉家臣の連中も一向一揆の盾や捨て石にされて終わり。
他の大名とドンパチやりあうという重大な責任があるのに
戦力は勝手に引き抜かれ、用済みなら追放されの役割が優遇だと思ってんのか?w
625 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 03:00:47.70 ID:djeWJtHD
>>最も手ごわい上杉軍相手にしてたのが柴田。
その上杉軍を相手にしている最中に
同僚の羽柴秀吉に戦線離脱されるという足の引っ張りを受けたにもかかわらず
その秀吉は大した咎めを受けるどころか別方面軍の総大将格にされる優遇人事をされて
骨折り損のくたびれもうけをモロにやっていましたよねw
>>根拠なし。つうか副将なんて3人もいるしその中で特別な存在だったという事もなく、四国みたいな石高もしょぼくろくな城郭もない
四国みたいな石高もしょぼくろくな城郭もない雑魚相手にするだけで、軍功扱いされて重用されるんだぞ。
これほど楽で堅実な仕事なんてないぞ?しかも次期織田家当主候補の息子の前でだからな、織田家中からの評価も上がる
>>信長の評価でいえば戦国最強の上杉軍相手のガチンこ戦闘柴田>>>>>>>>>>(以下略)
上杉謙信という強大な相手に捨て石同然の防波堤の役割を任され
下に組み込まれた信長の可愛い子飼いは与力をさせながら、信長が戦争になるとすぐに引き戻され
挙句味方から壮絶な足引っ張りを受けたのになんの御咎めもないどころか、そいつが重用されるという
思いっきり侮辱的な行為をされている柴田が「信用されている(キリッ」
>>畿内平定戦で柴田は参加しまくっている(三好討伐、浅井朝倉戦、長島侵攻戦など)浅井朝倉滅亡
信長の領地が畿内にしかないんだから当たり前
つうかその戦いですら柴田軍は中核にない。挙句光秀や秀吉と違い
昨日まで一向一揆衆がウヨウヨいた越前をいきなり任されるという投げ槍っぷり
他の連中は悠々と畿内に領地を貰って過ごしてるのに自分だけ北陸とかいうド田舎のそれも強大な敵との前線にいるという悲しさ
>>意味不明。長島一向宗や本願寺の例みれば一向宗の精強さはアホでもわかる
そんな精強な相手をロクな保証もないまま相手され続けるという酷使状態
こんなタダ働き同然の扱いで優遇とか気がくるっているんだろうなw
>>そりゃ簡単。織田家で最も大身だから。
全然大身じゃねーじゃんよwもうちょっとまともな答え言えよw
領地ですら織田一門以下の扱いで、中央から遠ざけられまくってる人間が大身w
秀吉の方が織田家の扱いでもよほど上じゃねーかw
>>長島一向一揆や本願寺の例みれば一揆勢の精強さが見て取れ、畿内の雑魚相手の戦より遥かに難しい仕事を任されたのが柴田
はるかに難しい仕事を捨て石同然で任されて、用が済んだらポイ
簡単な仕事を任されて、そんな簡単なことができれば重用されまくる
基地外はこれで前者の方が優遇されていると思うらしいw
626 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 03:20:14.16 ID:djeWJtHD
>>619 >>具体的にどこができてないのか不明
信長→川尻の書状で信長は「信忠には俺から言っておく」と書かれている
監督の川尻なんてアテにならんと言わんがごとく自分が全部采配取り仕切っている。
これで補佐とかちゃんちゃらおかしいし川尻が采配した形跡もゼロ
ただ一緒に付添しただけ。森は信長に名指しで独断専行否定されててほとんど論外。
>>根拠なし。そもそも補佐なんだから助けるだけでいいし信忠に命令する必要なし
助けてすらいない。主要な城を落としたわけでもなければ、勝頼を追い詰めたわけでもない
ほとんど付き添い同然で蚊帳の外状態だったわけだがw
>>それがなぜ補佐できてないことになるのか不明。補佐できててもより信長の意思を直接的に伝える必要があっただけ
信長が直接信忠に言い分を伝えるなら間の川尻なんて不要。しかも軍功もほぼなし。
助けている以前にただの付き添い。川尻が軍を率いたり采配を取った形跡もなし
>>別所攻め荒木攻め松永攻めなど援軍派遣の総大将信忠がとった時皆で補佐しまくってるじゃねぇかボォケ
ただ命令を聞いてその通りに実行するのを補佐とは言わん。家臣と主君の関係として当然の事。
>>621 >>事実耶蘇会年報でも信孝は褒められてるが信雄は散々貶されている
「信雄=暗愚」説って耶蘇会年報を書いていたキリシタン教徒が
ロクに情報の精査もしないまま「安土城を焼いたのは信雄、あいつはアホ」って
ムック本のように書き立てただけじゃんwそこ以外に「信雄=暗愚」説は全く出てこないどころか、
フロイスに至っては小牧の信雄を「あいつはあくどい」とまで書簡に残すなどもう滅茶苦茶
そもそも安土城放火は兼見卿記など信頼できる一次史料で「領民の略奪」だと書かれているんだから
信雄暗愚説などただの濡れ布以下でしかないわけだがw
627 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 03:24:22.28 ID:djeWJtHD
>>622>>623 部下が暴走するも何も信忠が焚き付けてるじゃんよw
信忠は森や梶原を怒るどころか4月には武功に対する感状まで出しちゃう始末
3月には一緒に信濃高遠城を攻めて1日足らずでこれを落としてしまう上機嫌っぷりを発揮
信長書状で信長が既に森梶原に苦言を呈しているのに
これで森や梶原が信忠も無視してたら誰が彼らを許すんだよw
軍令違反で打ち首で終わりw
628 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 03:27:24.88 ID:djeWJtHD
大体武田信玄みたいな雑魚が強いとかアホにもほどがあるw
信玄が無傷で勝てたのは今川氏真(統率10、武勇6、知略8)だけw
村上義清(統率89、武勇92、知略71)に寡兵で2回も負けるなど負け戦だらけの人生
数でゴリ押しするしか能がなく、逆境を覆すどころか逆境そのものを経験していない
雑魚信玄は統率30、武勇3、知略39あたりが妥当
629 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 03:29:54.17 ID:djeWJtHD
哀れ基地外らしい末路w
630 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 04:23:54.08 ID:q0Ctc4HA
今までのやり方じゃスレ違いになってダメだから、部下を取り上げて焚きつけようって、
何が武田厨をそこまで掻き立てるのか
631 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 09:41:01.86 ID:G4uTqnXR
>>信長公記を否定するということは、おまえの大好きな佐久間の功績も否定するということだ
佐久間の功責は一次資料でも確認できるので信長公記を擁護する根拠にはならない
>>まあ村上に2回も負けた雑魚すぎる大名武田信玄を擁護するには
村上は1.4倍程度の兵力比にもかかわらず信玄相手に天嶮によりながら負けまくり信濃を思いっきりたたき出されてる
>>与力が在地領主なのは言うまでもないが、その与力が加勢するのは「信長」であって「佐久間」じゃない
そんなん他の織田家の武将達も同じ。つうか直轄地を大量に認めるなんて統治織田家の武将に誰も信長は認めてないし他の諸大名でも同じ。
やってるのはよっぽど統治形態のぬるいハリボテ大名くらい。
>>「佐久間」に加勢するのは「信長の命令ありき」であって何もなしに従わない連中など戦力と呼ばん
根拠なし。そもそも与力はある軍事命令を遂行させるためにつけられたのだから、その軍事命令上では与力の大将に従わなければ与力の意味がない。単に援軍としてよこせばいいだけ
>>事実同じ地方幹部クラスの柴田勝家は前田や佐々などたくさん与力を抱えているが
>>摂津で戦争が起こるたびに信長の下に行ってしまうから
摂津で戦争が起こるたびにって荒木攻めや松永攻めの援軍として一時期赴いただけだし他の時期はずっと北陸に張り付いてるだけボォケ
>>信長公記、以上終わり
信長公記は一次資料じゃない。
>>信長公記の一方的な否定は歴史家の誰もやっていない、すなわちおまえの妄想
信長公記が誤りが多く単なる軍記。一次資料扱いしてるのはお前だけ
>>当たり前だろボケ、おまえはそんなこともわからんのかw
だから信長分国家の諸大名総動員してなんで他の大名相手の部下を0にして松永や荒木ごとき雑魚を攻める必要あるって話だろうがボォケ
>>その通りだぞ、今更何を言ってるんだおまえ。
つまり荒木攻めの時期などに対別所毛利で中国に張り付き援軍としての責務を負わなかった秀吉が雑魚と。
>>荒木村重や神保長住なんて完全に使い捨てだからな
根拠なし。そもそも荒木松永なんて国力的にもへぼく大軍よこすほどの相手でもない
>>旧朝倉家臣の連中も一向一揆の盾や捨て石にされて終わり。
なんで柴田の話から旧朝倉家臣の連中にすりかわるんだ?つうか織田家の武将でもその時期松永荒木攻めに動員されず他の大名の相手してた奴なんていくらでもいるじゃんよ
>> 他の大名とドンパチやりあうという重大な責任があるのに
だから国中留守にして松永荒木戦に戦力総動員する必要がどこにあるんだって話しだろうがボォケ
>>戦力は勝手に引き抜かれ、用済みなら追放されの役割が優遇だと思ってんのか?
そりゃ信長は非道な人間だからな。佐久間の同時期に追放された丹羽水野林安藤あたりも同じようにいちゃもんつけられて改易、切腹させられてるしな
>>その上杉軍を相手にしている最中に 同僚の羽柴秀吉に戦線離脱されるという足の引っ張りを受けたにもかかわらず
>>その秀吉は大した咎めを受けるどころか別方面軍の総大将格にされる優遇人事をされて
上杉相手に秀吉が行っても雑魚すぎて無駄だと思ったんじゃね。毛利相手に熊見川で大敗した上に別所相手に信忠の援軍貰いまくってなんとか2年かけて兵糧攻めで落としただけだし。
秀吉は木下で早くから高い身分だったのが一次資料でわかるし一門優遇の織田家でえこひいきされてたんだろ。丹羽は一門なのに雑魚石高だったから丹羽よりはまだ調略に長けてたのかもしれないな
>>四国みたいな石高もしょぼくろくな城郭もない雑魚相手にするだけで、軍功扱いされて重用されるんだぞ。
軍功っつうか雑魚相手の楽な仕事しか任されないから能力しょぼくくねって話しだろ。しかも副将格3人のうちの一人で、阿波を与えられる予定って話も眉唾ものだしな
>>これほど楽で堅実な仕事なんてないぞ?しかも次期織田家当主候補の息子の前でだからな、織田家中からの評価も上がる
信孝が時期当主候補なわけねーだろクズw信忠が生きてるのになぜ信孝に当主回って来るんだよアホ
632 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 09:41:23.56 ID:G4uTqnXR
>>上杉謙信という強大な相手に捨て石同然の防波堤の役割を任され
捨石ってなんだよアホw強大な敵に雑魚わざわざぶつける必要なんてないわアホ
松永荒木みたいな雑魚国力の相手に派遣するほうがよっぽど雑魚でいいわ(長期持久戦で簡単に落ちる)
>>下に組み込まれた信長の可愛い子飼いは与力をさせながら、信長が戦争になるとすぐに引き戻され
そりゃ謙信死んで越後が御館の乱で不穏になりだしたから一時的にひっこぬいただけだろ
佐々長縄も神保長住も長連龍も御館の乱の隙に北陸に派遣されて上杉相手の火事場ドロ戦の手助けをしてるし
>>挙句味方から壮絶な足引っ張りを受けたのになんの御咎めもないどころか、そいつが重用されるという
そりゃ相手が謙信だから仕方ないと思ったんじゃね。秀吉は織田一門格だからえこ贔屓されてたんだろうし
>>思いっきり侮辱的な行為をされている柴田が「信用されている(キリッ」
そら強敵上杉相手させられてるんだから相当な信頼だろ
>>信長の領地が畿内にしかないんだから当たり前
だから畿内平定戦に参加してるって話だろうが。
>>つうかその戦いですら柴田軍は中核にない。挙句光秀や秀吉と違い
近江6将の内の一人やってるだろ
>>昨日まで一向一揆衆がウヨウヨいた越前をいきなり任されるという投げ槍っぷり
越前は57万石もある大国だし朝倉旧臣が統治に失敗した後なのできわめて重要な任務だろ
>>他の連中は悠々と畿内に領地を貰って過ごしてるのに自分だけ北陸とかいうド田舎のそれも強大な敵との前線にいるという悲しさ
悠々と畿内に領地もらってすごすなんて軍事的な重要な役割もらって達成しなくてはならない家臣としては全く信頼されてない証拠。
畿内なんて味方が一番多いんだからわざわざ有能な武将残す意味がないしお前の妄想どおりだと中国攻めの矢面に出された秀吉とかは超絶無能になるなw
>>そんな精強な相手をロクな保証もないまま相手され続けるという酷使状態 こんなタダ働き同然の扱いで優遇とか気がくるっているんだろうなw
アホかw無能な武将に任せたら織田家が傾くだろうがw
>>全然大身じゃねーじゃんよwもうちょっとまともな答え言えよw
どこがだ?
>>領地ですら織田一門以下の扱いで、中央から遠ざけられまくってる人間が大身w
ですらってなんだ。一門格は優遇される身分だろアホ。
しかも加賀能登越中半国越前飛騨で150万石くらいになるから光秀よりも遥かに上だろ。
>>秀吉の方が織田家の扱いでもよほど上じゃねーか
秀吉は織田一門だし秀吉は寝返った南条宇喜多草刈など中国の国人を除けば播磨但馬因幡長浜で勝家の方が石高上じゃね
四国にいたのはそれこそ秀吉家臣とは到底言えない三好残党だし
>>はるかに難しい仕事を捨て石同然で任されて、用が済んだらポイ
柴田はすてられてなんていないし佐久間は無理矢理中央集権のダシにされただけだろ
難しい仕事を無能な部下に任せてうまくいくわけねぇし
>>簡単な仕事を任されて、そんな簡単なことができれば重用されまくる
ようは信長はえこひいきが激しく、個人的感情で動く人間だったってことだろ。谷口もそう書いてるし
>>基地外はこれで前者の方が優遇されていると思うらしい
しょぼい仕事しか任されない人間を有能とはいわん。会社でいえば無能な親類にはしょぼい仕事しか任されずしかし解雇されないが
有能な叩き上げ部下は重要な仕事任されるが簡単に首切られるというだけ。前者が滝川柴田佐久間。後者が織田親類集秀吉丹羽。
633 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 09:50:59.35 ID:G4uTqnXR
>>信長→川尻の書状で信長は「信忠には俺から言っておく」と書かれている
お前の書いた文章は信長が準備して出陣日が決まったら上申するように命じてる2/15の話であり
まだ織田軍は出陣すらしてない時だからだから信忠が信長の意向を無視して進軍開始してる証拠にすらならない開戦前に強がり言ってても開戦したらなw
その後、信忠は森や梶原の進撃を統制出来ず失敗してるだけだし、 信長が進軍上進を許可したりする書状もあるし、
このことは2/23や3/1の信長書状でたびたび森や梶原の進軍に信長が言及してる事実からわかる。むしろ信長の耳に森らの勝手な行動をチクってただけだろw
>>これで補佐とかちゃんちゃらおかしいし川尻が采配した形跡もゼロ
一次資料見る限り川尻は信忠を軽んじて自分が采配している
>>ただ一緒に付添しただけ。森は信長に名指しで独断専行否定されててほとんど論外。
そもそもお前のあげた書状そのものが信忠に対する独断専行じゃね。信忠に対して信長が直接いわなければならない程信忠が信長の命令無視して任務遂行
しかも信忠の補佐の武将も信忠の命令無視して行動してるから相当信忠が無能だったのは間違いない
信長公記なんて捏造軍記は一次史料じゃねぇよカス
3/1書状を歪曲解釈して気持ち悪いんだよお前。
信長は総司令官の川尻へ宛てて
俺が出陣するまでに伝い城を築き終えよ、これは信忠や他の者もやること。厳命である。
4日後には俺も出陣する。不注意な戦をせず、軍記も違反するな、弱敵と侮るな。
森と梶原の勝手な行動をお前らの言上で聞いたので、俺から申し聞かせた。
勝手な行動はあとで俺が来た時に訴訟するつもりだからだ。
このように命令を聞かないのは俺がまだ進発してないからだ。
信忠が堅く申しても意に沿わない事は沙汰の限りであるので、このことは俺が進発したら
異議を言わせないから、お前らも固く陣を守り、あとからの俺の仕置きを待て。
高遠を焼いた件はしかるべくことだ。すべて相談してから計略しろ。
信忠や滝川や水野信之や水野忠重らの陣所の申告のこと聞き届ける。しかしそこより先へ出るな。
だいたい高遠攻めに信忠が参加してたかあやしいけどな。
高遠を燃やした報告は川尻だし、そのころの信忠は
滝川や水野信之や水野忠重と一緒にいたとしか思えないし
3/3に出された信長の信忠への書状では穴山がついに謀反したので勝頼が北へ逃げたので
(徳川と北条がついに動き出し駿河が挟撃を受ける可能性が発生したので穴山がついに決断)
お前らの大嶋(下伊那)から飯島(上伊那)への陣換を許可するがそれより先は一切進軍すんな。だもんな。
3/5の信忠→坪内宛の高遠での戦功感状は原本なしで寛永諸家系図 伝坪内利定に収録されてる写しだけで
坪内家が先祖の戦功を捏造してるだけだし。信忠が後方の安全地帯にいたとしか思えん。
634 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 10:41:37.25 ID:G4uTqnXR
信長公記の武田征伐話はデタラメばっかりで信用性ゼロだからな。
俺が一次史料を書いてあげよう。
大分県でも観測された浅間山超噴火が14日。
2/15付けの信長→滝川書状の中で
我々出馬儀 無油断令用意候て 一左右(いっそう)相待候
能々見合候て 発足之日限可申上候
などと書いてあり、信長は自分の出馬まで油断なく用意して待つように
よくよく見合わせて出撃のスケジュールを俺に申しあげよなどと命じている。
いまだ織田軍は信濃・美濃国境線上で待機していて
本格的な侵攻をしていないのが判明する。
また信忠が若いので働きして名を取らんとする気色があるので
俺が来るまでちゃんと抑えるのだ。もし失敗したら2度と俺の前に出ることは許さんから覚悟しろ。
2/23の信長→川尻宛の書状では
19日の書状報告を読んだ信長が飯田・大嶋が落居したので敵の城は高遠城だけだとのこと。
高遠攻略のためのしかるべきところに2.3の伝城を普請するように。
高嶋(諏訪)に在陣していた勝頼は甲州へ引き退いたとの話だが
韮崎の新城はまだ完成してないし城域が手広いが(この後に四郎無人之由と書いてる)
籠城するのであろうか、例え人数が多かったとしても
この状況では退治するのは簡単だろう。
信忠が軽挙しないように滝川とも相談してよく申し聞かせよ。
森や梶原が談合せずに進軍したとのこと。若きものだから粉骨して名を取ろうとしてるのだろう。
また俺へ褒美などで訴訟する種とも思ってるに違いない。
アホな働きは無用だとよくよく申し聞かせよ。
高遠の陣取りはよく相談してのちのちのことまで示し合わせて落ち度ないように。
(この時期になると森や梶原が信長の命令を無視する行為を公然とやりだすのがわかる)
2/28の信長→川尻
大嶋を武田側が明け退いた内容について重ねての説明を聞いた。
(やはり武田が組織的抵抗できずに逃亡を重ねてるのがわかる)
道を作れ。あちこちに作りまくれ。そうすれば撤退する時に役にたつ。
俺の出馬前に急いで作れ。進軍とかしなくていいから作れ。
大百姓は草が靡くタイミングをよく知ってる。そういう時に役にたつ。
勝頼は俺が出陣して叩くから進むんじゃねぇよ。この命令は信忠や滝川にも申し伝えた。
とにかくつなぎの城を普請することに集中しろアホども。
上記と同じ日付の2/28の信長→川尻
高遠へのつなぎの城を作るよう申し伝えた件、お前が皆に尋ねはよやれや。
(追加で出した書状か。どうしても厳命したいようだ)
635 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 10:42:16.13 ID:G4uTqnXR
3/1の信長→川尻
26日の書状読んだわ。21日に命じた俺が出馬する前までの伝城作りの件、
25日に返信がきたが、信忠やそのほかの者に申し聞かせたそうだな。
今後もその調子でこのことに集中して油断すんな。
俺は5日に出馬し、やがてお前らに会うので、それをもって討ち果たすのだ。
その意はたびたび申し聞かせているはずだ。少しも進軍してはならない弱敵と侮るんじゃない。
森と梶原が言うことを聞かないようで曲事だ。若き者ゆえ俺に訴訟する気だろ。
俺がまだ進発してないのだ。信忠に固く申し付け候はぬ話である。
これにつき俺が進発した時に異議に及ぶこと許さない。とにかく固く守れ。
高遠の町を燃やしたのはよくやった。信忠・滝川・小川・水野・高橋の陣の前進設営について
聞き届けてやろう。しかしそこから先へは進むんじゃねぇぞ。
3/3信長→信忠
29日の注進が今日届いた。穴山が謀反したので勝頼が甲州北へ逃亡したとか。
穴山が内々に申していた話が実儀となったようだ。
よって陣を大嶋から飯嶋へ移すのも是非もない。しかしそれ以上はす・す・む・な・!
俺がちかじか出陣し手間なく討ち果たすんだから。これは川尻にも言ってある。
3/5の信忠→坪内(偽書状写しの可能性あり)
高遠城陥落の際しての坪内への感状
3/8の信長→柴田
5日に安土を出陣して今日は犬山。2/28に勝頼が居城を焼いて山奥へ逃亡したので
先手には甲州へ討ち出させた。信忠も同じように甲州だ。
俺が出馬する意味なくなったけど連々と関東見物を望んでいたことだしな。
3/13の信長→柴田・佐々・前田・不破 武田を滅ぼしたぞ。
3/17の信長→松井
穴山の忠節のおかげで、俺が出馬すると。日限から路地まで色を立つべきよし(一揆蜂起させた)
あちこちに風聞させてくれた小山田が滝川と心を合わせて14日に勝頼を討った。
典厩も小諸城で出羽守が忠節してくれたので首が到来〜長いので略〜
このことを秀吉へも伝えよ。
3/27の信長→木曽 本領安堵ならびに加増
天変地異を天皇の神威とか吹聴してたくらいだからなー 当時の人々は迷信とか盲信してたし将軍足利義持の時代に対馬へ朝鮮軍が攻めてきた時も
軍神が現れたとか出雲大社から神功皇后?のような女武者が活躍したとか根も葉もない話がガチで信じられて、さすが神国だとか言われたからなw
ちなみに敗走した朝鮮は、日本がキレたらビビって日本を攻める気持ちなんて無かったんだよ!実は背後に中国軍が2万の船で来てたけど台風で全部沈んだとかデタラメ吐いてるw
636 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:12:51.39 ID:G4uTqnXR
>>助けてすらいない。主要な城を落としたわけでもなければ、勝頼を追い詰めたわけでもない ほとんど付き添い同然で蚊帳の外状態だったわけだがw
>>634-635のように信長の命令川尻が直接受けて信忠に申し聞かせるよう重ねて書いてるし信忠の軽挙を抑えて慎重に進軍しろ、つなぎの城を作れと重ね重ねかいてる
>>信長が直接信忠に言い分を伝えるなら間の川尻なんて不要。しかも軍功もほぼなし。
そら川尻が実質的総大将で信長が命令受けて信忠に申し聞かせてただけだろ。軍功も糞も川尻は信忠軍団にあって遊軍として各地に転戦してるし武田攻めの総責任者として責務果たしている
>>助けている以前にただの付き添い。川尻が軍を率いたり采配を取った形跡もなし
>>634-635のように信長からの命令実行に移すため信忠らに申し聞かせまくっている。信忠は信長の命令を川尻を通して伝え聞く立場にあっただけ。
>>ただ命令を聞いてその通りに実行するのを補佐とは言わん。家臣と主君の関係として当然の事。
んで丹羽がそれとは違う関係だったというソースは?
>>「信雄=暗愚」説って耶蘇会年報を書いていたキリシタン教徒がロクに情報の精査もしないまま「安土城を焼いたのは信雄、あいつはアホ」って
>>ムック本のように書き立てただけじゃんwそこ以外に「信雄=暗愚」説は全く出てこないどころか
本能寺前の信雄も散々貶められている
>>フロイスに至っては小牧の信雄を「あいつはあくどい」とまで書簡に残すなどもう滅茶苦茶
そんな記述あったか?そもそもフロイス自体キリシタン迫害前は秀吉マンセー視点で記述している(長島桑名浜田松ヶ島戸木など全く落ちていない段階で
伊勢一国とったとか秀吉の諸大名あて捏造誇大喧伝がそのまま事実かのように記述されてるし長久手の戦いは家康が城主に偽りの降伏させたとか捏造しまくっている)
>>部下が暴走するも何も信忠が焚き付けてるじゃんよw
2/23森や梶原が談合せずに進軍したとのこと3/1にも彼らが言うこと聞かないとか信長→川尻で書いてる
>>信忠は森や梶原を怒るどころか4月には武功に対する感状まで出しちゃう始末
それがなんなんだ?
>>3月には一緒に信濃高遠城を攻めて1日足らずでこれを落としてしまう上機嫌っぷりを発揮
相手は1000そこそこだし味方が圧倒的に多いからなんとかなっただけだろ
>>信長書状で信長が既に森梶原に苦言を呈してい
森や梶原は好き勝手やった挙句に信長に断罪されるどころか加増してもらったw
ハッキリ言って信忠イラネw
>>これで森や梶原が信忠も無視してたら誰が彼らを許すんだよw 軍令違反で打ち首で終わりw
意味不明。信長が森や団がいうこときかないと書いてるにもかかわらず断罪もされず加増されてる
いかに信忠が単なる従軍者の一人にすぎず信長から信頼を得ていない根拠といえる
637 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:17:16.46 ID:G4uTqnXR
>>628 チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死んだのが信長
最貧国甲斐から二倍も国力ある信濃を山之内上杉や長尾が介入してくる中切り取り
信濃山間や上野山間などキツイ城トップクラスの所をガチンコで落としまくり
最強家康に死の恐怖与え織田家トップ格の佐久間水野平手滝川を蹴散らしまくり
駿河も自国より国力上の北条+今川から切り取り北条の大軍大破して150万石まで領土広げた信玄
どうみても信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長でしょ。
信長が甲斐に生まれてたらきつい城ランキングトップクラスが立ち並ぶ天嶮の信濃の城をほとんどおとせず終わっただろうし
山之内上杉か諏訪あたりに蹴散らされて終りでしょ。史実で弱体化したクーデター騒ぎの幼君斉藤に負けまくり
長島侵攻戦でも何回も大敗し、餓死寸前の一揆勢数百を数万で騙まし討ちにしたら一門10人以上殺される雑魚だし
信濃の拠点落とせるわけがない。
638 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:21:35.51 ID:G4uTqnXR
信長の功績は捏造だらけ
信長公記の捏造まとめ
・松永の降伏時期を一年前倒しして信玄西上中に降伏したけとに捏造歪曲
・手取川は長家家譜、北徴遺文、謙信書状などにあるにもかかわらず隠蔽
・熊見川も同様
・森長可が82年に越後侵攻した→景勝が越後の諸勢に戦いの労いや発布を出してる様子はなく
それどころか一次資料では森の長沼を奪い、芋川らは5月下旬になっても信濃内で戦ってる事から明らかにデタラメ
・信長公記の5/13に長篠への後詰めに行く途中に熱田社の八剣宮が荒廃してる様を
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ向かう記述
↓
多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。
・公記が今堅田と共に石山砦で山岡景友を降伏させたと書いてるが、
一次史料には一切書かれてないデタラメ
・第二次木津川口の戦いで勝利とデタラメ
毛利側一次史料に勝利し兵糧を本願寺に運び入れたと書かれている事実
・高野山は最後まで信長を撃退しつづけて
本能寺の変のあとに戦友の上杉景勝に
山内に織田を一切入れなかったと自慢してるように
高野山の記事でもやはり信長公記はデタラメ吐いてる。
なんと公記は土橋の城館を攻め落として平定したというどうでもよいくだらない話で誤魔化すw
・公記の天正8年3月、
ついに北条氏政が関八州を織田分国にして下さいと降伏を申し出るw
早雲が小田原城奪取から85年にして北条はついに隷属化
・一次史料だけを読むと
信長って金ヶ崎で浅井に背後を攻められ挟撃の危機になったなんて
公記の記述が大ウソなのがわかる。実際は浅井と六角の兵が近江に起すを聞き、
越前より軍を班して京都に還ると書いてあるだけ。事前に情報を得ていてまったく危機的な状況ではなかった。
軍記特有の脚色がなされて信長絶体絶命のピンチみたいに描かれている
・信長公記は野田福島の戦いを信長の敗戦と書いてないどころか
志賀の陣を義昭の懇請でやむなく朝倉と和睦したなどと書き
志賀の陣のことを一戦御名誉と賞賛している。
つまり負け戦であっても信長公記は隠蔽してないどころか
ことごとく織田は負けてないことに歪曲されてるだけ
639 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:22:06.33 ID:G4uTqnXR
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに
第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
尊経閣文庫蔵安土日記
信長記の写本だがもっとも古態をとどめている。安土城についての史料的価値が高く他の信長記にない逸話が登場する。
木田梧楼家蔵信長記
本願寺攻めが他の信長記より詳しい。
首巻のある信長記(陽明本など)
信長上洛以前の記録であるが、これは自筆本が後世に伝わってない。
また年次の誤りが異常に多く永禄3年の桶狭間の戦いを天文21年としていたりする。
尊経閣文庫蔵織田記
首巻が他のと違う。が天文13年9月の信秀の美濃攻めで大敗した織田の討ち死に数を50とする。
陽明本などは5000とする為、こちらの方が信憑性が高いと言われる。
内閣文庫蔵安土日記は池田家本系統の写
長篠での鉄炮数を30挺計と書いていたりする。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
そもそも信長は発給文書が極端に少なく、ほとんど部下へ丸投げなので
信長の業績はまったくわからず、やむおえず太田の著書に頼らざる負えないだけで
信憑性は疑問のシロモノであり、関が原や秀吉の史料は豊富にあるので
太田の記述した関が原や秀吉に関する記述は三次史料以下の扱いである。
640 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:25:39.31 ID:G4uTqnXR
信長公記は志賀の陣まで前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ
実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に 織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし、信長が兵糧に困るだろうと考えていたら比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。
その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるからこれでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
信長から御加勢依頼がきて徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
信長公記が三河物語に較べて信憑性が低いとされる点に天文11年第一次・天文17年第二次に渡る小豆坂合戦記述がある。三河物語は第二次の方のみしか記されておらず、今川義元の
感状から第二次のみは史実確認が取れる。 信秀は第二次にあたる戦いでは今川の背後にあたる北条氏康に書状を出しているなど今川を背後から牽制する策をとっており挟撃策を恐れる
今川方も抑止的な軍事行動しかできていない。佐々木城主松平忠倫や松平清定(信秀縁戚)など有力な織田方松平一族も依然として信秀を支持している。静岡県史も今川の軍勢が天文11年に西三河に進出するなど考えられないと一蹴している。
よって第一次の戦いは公記の捏造であり、三河物語の正しさが証明された戦いである。ただ信秀が東三河で優勢だったのはたしかで、
水野信元や松平信孝(天文16年9/28には松平広忠を大敗させてる武辺者)らが織田方として存在している。天文12年には後奈良天皇に4000貫を献上し(今川は500貫)
従来尾張を支配する守護斯波と守護代大和守の富強ぶりが都でも評判であったがすでに信秀にとって代わられている事実が見える。
この献上の際には信長の側近の平手が京に出向いているが本願寺証如に面会してるのがわかる。本願寺側は「門徒に対して一段悪勢の者」と認識しており
丁重に織田外交団を接待しているのがわかる。本願寺との険悪さがすでに存在していた。また同時期には熱田神宮寺座主も、いままでは大和守の判物を手にいれて満足していたはずなのに
信秀を当殿様と呼び信秀判物を手に入れようとした。信長公記系に記される信秀に従い出陣し稲葉山の戦いで戦死した清洲三奉行の織田因幡守の子で信友が
守護代大和守の養子として清洲城(斯波氏を傀儡にしてる)へ入城し天文16〜17年・21年に信秀・信長と対抗?
そもそも大和守達勝は天文19年12/17の熱田神宮の書状で存命が確認されるのでデタラメ。
しかも達勝の後継者は勝秀であり、もう何言ってんのかわかりませーんwそもそも信友なんて一次史料には一切出てこない架空人物としか思えないし。
つうか斯波氏を傀儡にしている大和守を傀儡にしてる信友をさらに傀儡にしてる孤立してる清洲城の坂井・川尻・織田三位ら重臣達ってストーリーかよwww
ちなみに尾張北を支配していた岩倉織田伊勢守も天文6年に広高が当主であったのが確認できるが
その後、まったく消え去り史料上から消え去っている。信安を追放した信賢とか江戸期の捏造話で存在確認できない。
公記系によると永禄2年に信長が岩倉城を数ヶ月包囲して信賢を降伏させたとするが言継卿記によるとその時期の信長は上洛して義輝に謁見し、堺・奈良見物してる最中w
641 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:26:28.52 ID:G4uTqnXR
織田チョンは根拠もなく、大久保が指摘しているのは太田ではなく甫庵の方だと歪曲するキチガイです。
実際に当時から信長記と呼ばれていたのは太田の方です。明治14年に町田久成著の我自刊我書に収録された時の題名で尊経閣文庫信長記の十五巻奥書に信長記と書いてあるのが本来のタイトル。
甫庵の著作は甫庵信長記と呼ばれちゃんと区別されてる。今は15帖を信長記、首巻が伴ってるのを信長公記としていることを指摘するよ。
角川文庫の信長公記は陽明文庫本の翻訳で角川ははしがきに第一級の史料と自分マンセーしたのがそもそも素人の誤解の始まり。
太田は信長の右筆ではないので信長についての情報をすべて知る立場にいないので注意が必要である。
一説に丹羽長秀の与力だったことから長秀の右筆なのではないかと言われている(天正3年に長秀の命を受けている)
現在まで残る信長公記の自筆・写本・亜流は金子拓氏の最新研究結果によれば70以上
太田牛一は発注者の意を汲んで添削してるので一種の売文家の評されている。
池田家に発注された時には武田攻めに参加してない池田の名前を追加したりした信長記である。
天理本
首巻の桶狭間での一番鑓は子平太ではなく小藤太になっている(古戦群記と同じ)
また信長が上洛した時に斉藤家義龍の刺客6人衆の中の青木加賀右衛門が抹消されていない。
陽明本では姉川の戦いで真柄を討ち取ったのが青木所右衛門と改変されている。
太田の子孫は青木氏に仕えている。
桶狭間前哨戦の大高城において天理本は大高城の南にも押さえとして
信長は大野・小河衆を配置している(張州雑志にも氷上・正光寺に付城があったと記している
さらに小瀬甫庵本信長記と同じく軍議を開いた信長が家老衆らの籠城策を蹴って国境で決戦すると主張している。
また信長が出撃する際に敦盛を舞うシーンがでてくるが天理本はその前日にも家来達の酒宴を開いてる。
池田家本系統の太田の内閣文庫蔵信長記には
池田が参加してないはずの長篠に参加したことになってるわけだがw
(大久保もぜんぜん活躍してないヤツが活躍したことになっていたりと指摘してるw)
これが金をもらって捏造する売文家と言われる太田のやり方。
信長公記の著者の太田が書いた太閤記や高麗陣日記や関が原軍記が
デタラメ過ぎて、誰も引用しないシロモノなのに
信長公記だけは絶対に正しいと主張する方が頭が悪い。
太田の信長記や豊国大明神臨時御祭礼記録や内府公軍記を含む
「五代之軍記」なる著作や高麗陣日記や神武天皇征伐秘略や中古日本治乱記なども二次史料にも満たないダメ著。
そもそも信長公記と呼ばれたのは
尊経閣15冊本信長記の奥書に慶長十八年と書かれていて
太田が死んだ年に書かれた池田本系の最終形態だが
それまでの池田本には無い信長長女に言及があり
信康の正妻岡崎殿を信長の元へ送り返したなどと書かれていたり、
信長が金華山(稲葉山)において弓鉄砲で狩りを楽しんで
鹿を78頭射殺して御祝着不斜候と大喜びしてるなど
池田本からさらなる追加記事を登場させている。
これは誰の発注なのか不明だが、適宜、発注者の要求で内容を太田が訂正・改変してるのは事実。
642 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:32:53.00 ID:G4uTqnXR
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡
蘇原郷を扶助してる。 あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反
を食い止めようとしてる。 そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
信長公記は志賀の陣まで前代未聞の栄誉ある一戦などと勝利宣言してるからまったく信用性ゼロ実際は義昭が必死に調停してくれたから信長は助かっただけ。
そもそも三河物語には和田が参加したなんて書いてない。 3万の朝倉が1万の織田を旗本まで切りくずして朝倉軍が一気に前進していたが、
家康が前面の敵を撃ち、信長の崩れを見て 一気に朝倉奥陣に斬り込んだから本陣に横撃を受けて朝倉軍が崩れただけ。
志賀の陣でも朝倉軍3万に織田1万じゃ帰り道を塞がれたらかなわないから和睦したって書いてるし信長が兵糧に困るだろうと考えていたら
比叡山から朝倉に米が運ばれてしまったと書かれてる。その一方で比叡山の騙し討ちを喝破した信長をさすがの弓取りと称賛してるからこれでも三河物語は信長寄りにかいてるわけだが。
無知長厨乙信長から御加勢依頼がきて 徳川からは石河家成が織田への援軍で参加してるから。
信玄が織田に宣戦したのは明らかにアスペ信長が無意識に挑発しまくってたのがよくわかるな。それで信玄も堪忍の限界にきて
信玄の死んだ妻の妹が顕如の妻の如春尼だったこともあり立ち上がっただけに過ぎんのに信長はなぜか裏切られた!と逆切れw
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。
643 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:42:36.31 ID:G4uTqnXR
公記の加賀出兵記述は目的も状況推移も何も書いておらず意味不明の記述尚且つ、わざわざ記述した意味がわからん上にかなり短い内容。
あきらかに文章の大幅削除されている。能登に遊佐の補佐で上条政繁(上杉本の公式には能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)とその子の畠山義春(上杉本の公式)を養子に迎えて北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。公記は太田が金をもらって書いてるからな。
戦死して貧乏になった織田家の武将の一族では太田に金を払って書いてもらえなかっただろうからそういう不遇な戦死武将など、そもそも公記に登場しない。
そもそも三河物語の大久保も公記はデタラメばっかでぜんぜん武功ないやつがスゴイヤツと書かれていたりしてると書いてる。これ太田に金を渡してよく書いてもらった結果。
池田なんて武田征伐に出陣してないのに出陣したと書いてもらって池田家に献上してるし大久保が子供だから姉川の戦いなんて知らんだろとか言うアホもいるが
兄2人が姉川の戦いに参加してるから、普通に事実が聞けるしw佐久間まで北陸へ派兵させてまで謙信への防衛に当てる理由はただひとつ。
手取川で信長が超大敗して完全にビビっている証拠。なぜなら信長が佐久間信盛へ弾劾状を出した内容には本願寺包囲の責任者の佐久間の軍隊として
三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。これに佐久間自身の配下を加えればと書かれている。
天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。 龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収
急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候 殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候 可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候 聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候 北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候 吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言
七月廿八日 光佐(花押) 一色駿河守殿 真木嶋玄蕃頭殿
天王寺の戦いでの信長の突撃は信長公記にしか登場しない捏造で一次史料や日記など史料的裏付けがありません。
たとえ史実であったとしても信長は最低でも佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝 滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉
丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就・馬廻衆の合計3000以上は率いているし信長に呼応して挟撃してきたのが荒木村重・細川藤孝・明智光秀・三好康長 根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆
佐久間信栄・猪子兵介・大津伝十郎・江州衆らだから明らかに織田方は大兵力のはず
公記には天文21年(1552年)に桶狭間の戦いがあったと書いている事実w
このため桶狭間の戦い虚構捏造説の根拠にされるw(信秀死去は天文20年もしくは天文21年とされる)
天正9年11/24に信長の子の御坊殿が武田から返却されてきたので犬山城主にしたと公記には書いてある。そこには信玄が養子にしたいと言うから甲斐へ送っていたと書かれている。
しかし実際は岩村城の養子に信長がねじ込んだ末に、武田軍に大敗して拉致られただけ。完全に歪曲捏造しまくりなのが公記。
天正2年正月の公記 朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は? 義昭→六角義賢書状 信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
細野って公記が六角義賢の弟の六角義弼や六角義秀やその子の義堯の存在を隠蔽してしまった為に江戸時代中期に、
六角本家を主張し合う子達が争った際に一方的に不利になり存在を疑われた人物なんだよな。義弼なんて義治と同一人物にされてるし。
644 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 11:43:24.72 ID:G4uTqnXR
信長公記にすら記されていない以上は捏造逸話以外のなにものでもない。
などと言いたいところだが、さて信長公記が隠蔽する時は必ず理由がある。
信長公記において家康がすでに同盟者となっていては都合が悪いのだ。
そこで思い出されるのは、信秀死去寸前に今川と和睦してることを隠蔽して、信長の立場が不安定だと捏造してる公記だが、
家康との共同作戦で思い出される史実で、公記が完全隠蔽してる事件がある。
それを隠蔽してる以上は家康がすでに同盟者であっては困る。
あくまで家康は永禄11年の義昭上洛戦以降の同盟者でなくては都合が悪いのだ。
さて以下がその隠蔽である。
永禄9年に信長は近江矢島の義昭を上洛させるためと称して
義昭に斉藤龍興との和睦を申請し義昭が喜んで和睦を斡旋したし
龍興も義昭を「公方様」と呼んで快諾して誓詞を細川藤孝に提出してる。
義昭は信長に藤孝を下向させ上洛の打ち合わせをし、
7月には能登七尾の畠山義綱や大和の十市遠勝にも
来月22日に信長が出陣するから上洛の供をするように命じてる。
これにより尾張・三河・美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。
しかし出陣当日になると信長が突然出兵できないと言い出す。
これには龍興18歳も信長が臆したと嘲笑し、義秋も信長を糾弾し天下の物笑いとなった。
これにキレた信長が8/29に同盟軍の美濃攻めを突如開始し
木曽川の河野島へ渡川進撃。奇襲に怒った龍興も
すぐさま応戦し河野島へ渡ってきたので織田軍は敗走し川を挟んで対陣。
その翌日から風雨激しく洪水になり閏8月8日の明け方に奇襲を敢行した
龍興側に織田軍は大敗。勝利した斉藤に義昭は改めて上洛を願うが
織田の動向が心配なので上洛は難しいと言われ
翌8月3日に織田と上洛戦を企んだと知った三好長逸3000が
近江坂本へ義昭討伐にやってくる。
8/29は暗夜だったのを幸いに側近4、5人で琵琶湖を渡り
若狭武田の下へ義昭は逃走した。
645 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 13:37:46.20 ID:djeWJtHD
信長公記が軍記物とか、おまえの都合のいい妄想はいいからw
義演准后日記によると1598年にはとっくに信長公記の存在が世に認知されており、
学者の藤本正行は家康の呼称や信長の扱い等から底本は日記形式であるとちゃんと学説で発表している
要するにおまえの妄想だの全く意味がないし、多少齟齬があるから史料として未熟というのなら
武田の史料なんて大半嘘つきで史料未満のものばっかりじゃんw
初陣の信玄が誰も落とせない城を落とすという捏造ばかりだしw
646 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 13:58:18.09 ID:djeWJtHD
>>そんなん他の織田家の武将達も同じ。つうか直轄地を大量に認めるなんて統治織田家の武将に誰も信長は認めてないし
だから他の織田家武将達も基盤は貧弱だと言ってるだろ
柴田はポイポイ戦力引き抜かれるし佐久間は与力に苦言を呈されて最終的に追放された。
他の織田家武将達と同じように佐久間の基盤も貧弱で脆いものだったというだけ。
>>摂津で戦争が起こるたびにって荒木攻めや松永攻めの援軍として一時期赴いただけだし他の時期はずっと北陸に張り付いてるだけボォケ
柴田が越前に任命されてからほとんど引き抜かれてるじゃんよw
まともに戦力揃った戦いなんて手取川くらいじゃんw
結局柴田は天正8年に能登加賀の制圧に向かうがこの時すら与力の記述が全くない。
>>一門優遇の織田家でえこひいきされてたんだろ
それを「優遇されている」というんだろ。羽柴や丹羽は優遇されて、
柴田は上杉を押しつけられるほど冷遇されていた。何か間違っているか?w
>>軍功っつうか雑魚相手の楽な仕事しか任されないから能力しょぼくくねって話しだろ。
おまえがどう思うかなんて関係ない。信長がどう思っていたかだろ。
強敵上杉の捨て石にされるか、100%勝てる軍役を任されるか、どちらが重きを置かれていたかなんて誰でもわかる
>>信孝が時期当主候補なわけねーだろクズw信忠が生きてるのになぜ信孝に当主回って来るんだよアホ
丹羽は信雄も信孝も両方唾つけてるから信忠が死んだら回ってくるし
そもそも丹羽は信忠とも協力関係だしな。信忠が死のうが生きようが
次期を支える織田一門を助けたことがどれだけ影響力が高いかバカ以外ならわかるだろ
647 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 14:10:55.05 ID:djeWJtHD
>>捨石ってなんだよアホw強大な敵に雑魚わざわざぶつける必要なんてないわアホ
強大な敵に強大な味方が殺されたらどうするんだよアホw
そいつが死んだら織田家の運営に関わるような奴を敵対勢力の掃討なんかに使うかよw
神保や荒木遠山のようなどうでもいい奴に防波堤をさせて、最後の重要な役割は斎藤、秀吉、信忠のような重要人物に
功績をおいしく取らせるのが、信長のやり口じゃんよw柴田は最後まで死ななかったから功績にありつけただけw
>>松永荒木みたいな雑魚国力の相手に派遣するほうがよっぽど雑魚でいいわ(長期持久戦で簡単に落ちる)
普通にやれば功績ゲットなんだから信長が重要だと考えている人間に任せるに決まってるじゃんw
これほど後継者の地固めするのに最高の相手はいねーだろ。あとは強大な敵にも一応出陣させて恩を売っておけばいいだけ。
まあこの時点の織田家なんて国力が余所の10倍は軽くあるから、どんな敵でも国力的には雑魚みたいなもんだしなw
あの上杉ですら織田の5分の1くらいしかないし。
>>そりゃ相手が謙信だから仕方ないと思ったんじゃね。秀吉は織田一門格だからえこ贔屓されてたんだろうし
つまりその程度で済まされるほど秀吉は優遇され勝家は冷遇されていたということ
勝家の敗戦なんて予想通りだったってことだろw完全な捨て石じゃんw
>>そら強敵上杉相手させられてるんだから相当な信頼だろ
面倒な仕事を押しつけられた挙句与力をバンバン引き抜かれて、負けたら領地ポイの可能性まである仕事が「信用されている」ね
おまえ追放された原田一族や佐久間も優遇されていた、みたいに考えてそうだなマヌケだからw
>>近江6将の内の一人やってるだろ だから畿内平定戦に参加してるって話だろうが。
その時は多少なりとも信用されていただけ。越前なんかに入れられた時点で勝家の命運は終わった
そもそも勝家なんて年齢的に織田信忠の補佐なんてできないからなw
子供がいるわけでもねーのに重用したところで途中で死んでまうしな。
648 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 14:26:11.85 ID:djeWJtHD
>>越前は57万石もある大国だし朝倉旧臣が統治に失敗した後なのできわめて重要な任務だろ
ともすれば朝倉旧臣の二の舞になってぶっ殺されるかもしれないのに信頼性w
こいつが死んでも大したことねーやって思われていた証左じゃねーかw
>>悠々と畿内に領地もらってすごすなんて軍事的な重要な役割もらって達成しなくてはならない家臣としては全く信頼されてない証拠。
畿内の連中はいざというときに信長の手足として動く必要があるんだから信長からすれば信頼しまくってるだろ。
織田家一門が自ら率いるときに離反の可能性がある家臣を側に置いておくわけがないだろ
>>お前の妄想どおりだと中国攻めの矢面に出された秀吉とかは超絶無能になるな
無能か有能かは関係ない。信長に信頼されていたかどうかだろ。
んで中国攻めの矢面に立たされた秀吉が完全に信頼されていたかどうかといえばNO
最も、秀吉が中国攻めの矢面に立たされたのは手取川の戦線離脱による懲罰任務だから
この一例だけを指して「全く信頼されていなかった」と言い切るのは無理があるがな
>>アホかw無能な武将に任せたら織田家が傾くだろうがw
この時点の他を圧倒できる国力を持つ織田家がそうそう傾くわけねーだろ。
信長もその可能性は熟知していて前田や佐々不破など柴田の与力を削りまくっている。
万が一柴田が戦死しても死ぬのは柴田直属の部隊だけになるようになw
最も原田の場合は死の間際に明智松永水野と与力を巻き込みまくって本当にヤバい状態になってしまったがw
>>どこがだ?しかも加賀能登越中半国越前飛騨で150万石くらいになるから
ほとんど直轄地じゃねーじゃんよw大半は与力の領土じゃねーかw
与力の領土がアテにならんのは寝返りの連鎖を生みまくった賤ヶ岳の戦いで証明されまくってるじゃんよw
>>秀吉は織田一門だし秀吉は寝返った南条宇喜多草刈など中国の国人を除けば播磨但馬因幡長浜で勝家の方が石高上じゃね
おまえの理屈で言えば与力も戦力に入るんだから南条や宇喜多なんかは秀吉の戦力だろ。
与力が戦力にならんという俺の理屈なら柴田の与力である前田佐々不破などは柴田の戦力にならんから
どっちにしろ秀吉の方がよほど上。つうか信長の息子貰って織田一門になってる時点で思いっきり好待遇じゃんかよw
>>柴田はすてられてなんていないし佐久間は無理矢理中央集権のダシにされただけだろ
柴田が捨てられなかったのは加賀や能登を分捕って織田家に貢献したからだろタコw
その功績ですら「天下に面目を施した」と「やって当然のことをやったまで」と佐久間への折檻状で信長に断じられ
羽柴明智池田の軍功よりも下位の評価を貰っているじゃんw
>>ようは信長はえこひいきが激しく、個人的感情で動く人間だったってことだろ。谷口もそう書いてるし
依怙贔屓が激しいのは当たり前だ。いくら有能だからってすぐ寝返られるような人間を要職につけてどうする。
あの徳川家康と以後の将軍が築いた幕藩体制だって依怙贔屓の典型だろ。加藤や福島のような外様はつまらん理由ですぐ改易されたのに
鳥居や榊原のような譜代大名は何かにつけて「先祖の功績」で存続されまくっているしなw
649 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 14:42:26.81 ID:djeWJtHD
>>会社でいえば無能な親類にはしょぼい仕事しか任されずしかし解雇されないが 有能な叩き上げ部下は重要な仕事任されるが簡単に首切られるというだけ。
おまえ社会のこと何もわかってないんだな、ニート丸出しじゃんw
日本屈指の会社であるトヨタ自動車(TOYOTAグループ)は創業者から相談役に至るまで
全てが始祖である豊田佐吉の親族一門で構成されている。最初からどいつが会社の中核を任されるか決まりきっているわけ。
当時の織田家ひいては武家も全く同じパターン。仕事を任されつつも規定の出世ルートを辿るのが織田一門や丹羽羽柴池田など。
仕事を任されるがいつクビになるかもわからんし責任も大きいのが柴田佐久間原田など。どっちが有能でどっちが無能かなど断じれるわけもないが、前者の方が明らかに信用されているだけ
>>このことは2/23や3/1の信長書状でたびたび森や梶原の進軍に信長が言及してる事実からわかる。むしろ信長の耳に森らの勝手な行動をチクってただけだろw
勝手な行動をチクっていたのは川尻だろ、信忠は一緒になって攻めまくっているじゃんw
>>一次資料見る限り川尻は信忠を軽んじて自分が采配している
一次史料でも采配した形跡は全くのゼロ。高遠城攻撃にも参加した形跡はなく
勝頼を追い詰めたのも川尻ではない。森や梶原については言うまでもない。
>>信忠に対して信長が直接いわなければならない程信忠が信長の命令無視して任務遂行しかも信忠の補佐の武将も信忠の命令無視して行動してるから
滝川は信忠の命令守っているし織田長益は信忠の命令で木曽義昌を助けてるわけだが
川尻だけがせっせと信長のご機嫌伺いして、それを信長に見透かされて「俺から言っておくから」と体よくはぐらかされている。
>>3/1書状を歪曲解釈して気持ち悪いんだよお前。
結局城を築き終わる前に武田勝頼はボロクズに敗走した挙句自刃して
信長は3/8の書状で「関東見物」とまで書きだして武田の「属平均」に「出馬」する必要なしとまで書いてるじゃんw
おまえこそ3月8日の書状を無視して捏造歪曲しているだけの屑だろw
感状の現本がないと言い出したらほとんどの感状が捏造になるしなw
つうか信長公記にこの下りは全くないから、おまえの指摘すべて的外れだけどなw
650 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 15:27:23.45 ID:G4uTqnXR
>>だから他の織田家武将達も基盤は貧弱だと言ってるだろ
>>柴田はポイポイ戦力引き抜かれるし佐久間は与力に苦言を呈されて最終的に追放された。
>>他の織田家武将達と同じように佐久間の基盤も貧弱で脆いものだったというだけ
基盤がどうとかどうでもいい。信長の評価基準が禄高の大きさしかないのだからそれが大きい佐久間は単純に評価されてたのがわかるだけ
>>柴田が越前に任命されてからほとんど引き抜かれてるじゃんよw
いつといつの事だ?松永攻めと荒木攻め以外にはほとんど引き抜かれてねぇよボォケ
>>まともに戦力揃った戦いなんて手取川くらいじゃんw
御館の乱の後北陸には佐々長縄・神保長住・斉藤新吾・長連龍らが派遣されたし
享禄以来年代記や末森記前編利家武功覚書によれば45000の兵力で北陸侵攻開始している
>>結局柴田は天正8年に能登加賀の制圧に向かうがこの時すら与力の記述が全くない。
上記史料により45000の兵力+佐々長縄・神保・長・斉藤ら飛騨口別働隊で御館の乱や新発田の乱で疲弊しきった上杉相手に火事場泥棒戦をやっているのが北陸侵攻軍
>>それを「優遇されている」というんだろ。羽柴や丹羽は優遇されて、
丹羽なんか一門の癖に全く優遇されてねーし羽柴も中国地方に左遷されており冷遇されまくっている
二人とも一門で優遇されるべき身分にありながら冷遇されまくったのが実体
>>柴田は上杉を押しつけられるほど冷遇されていた。何か間違っているか?w
どこが冷遇なのか不明
>>おまえがどう思うかなんて関係ない。信長がどう思っていたかだろ。
>>強敵上杉の捨て石にされるか、100%勝てる軍役を任されるか、どちらが重きを置かれていたかなんて誰でもわかる
そりゃ部下として有能で信頼されてる武将には雑魚相手ではなく強者相手にぶつけるというだけ。事実謙信出兵時織田家オールスターメンバーで向かってるし
謙信死んで上杉が自爆したら他の連中を他方面に回す余裕ができたというだけ
>>丹羽は信雄も信孝も両方唾つけてるから信忠が死んだら回ってくるし
なんで信忠が死んだ後のことが想定に上がるのか意味不明。信忠は実際生きてるし信雄信孝以外にも候補なんていっぱいいる
>>そもそも丹羽は信忠とも協力関係だしな。信忠が死のうが生きようが次期を支える織田一門を助けたことがどれだけ影響力が高いかバカ以外ならわかるだろ
意味不明。協力関係って何だ?信忠指揮の戦に参加したことをもって協力関係にあるとするなら皆協力関係だろボケ
毛利秀頼とか日根野とか川尻団とかみんな協力関係じゃんよ。北条氏政ですら協力したから協力関係だなw
651 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 15:28:07.94 ID:G4uTqnXR
>>強大な敵に強大な味方が殺されたらどうするんだよアホw
強敵に雑魚ぶつけたらそこが思いっきり敵に切り取られて敵が強大になって手におえなくなるだけ。
弱的なら雑魚ぶつけても数を生かした持久戦で倒せるし実際そうやって多くの敵を倒してきた。強敵に強者をぶつければ敵の振興食い止められる可能性高く
信長はいつもそうやってきた(志賀の陣や三方が原、手取川、長篠など)
>>そいつが死んだら織田家の運営に関わるような奴を敵対勢力の掃討なんかに使うかよw
つまり秀吉は毛利の最前線に立たされてたから雑魚だったと。
>>神保や荒木遠山のようなどうでもいい奴に防波堤をさせて
意味不明。防波堤ってなんだ?神保が北陸に派遣されたのは越中国人の調略のためだし(神保の活躍で越中国人らが多く寝返っている)
荒木は佐久間の本願寺攻め総大将取られただろ。佐久間軍団の中で協力して本願寺らと戦ってただけ。
>>最後の重要な役割は斎藤、秀吉、信忠のような重要人物に
秀吉は播磨に派遣されて危険地域思いっきり出されて案の状熊見川で大敗している。斉藤が重要な役割ってなんだ?
信忠も武田攻め荒木攻め松永攻めなど転進してるじゃんよ。不慮の事故で死んだら元も子もねーしお前の言うとおりなら京か安土で政務だけやらせとけばいいなw
>>功績をおいしく取らせるのが、信長のやり口じゃんよw柴田は最後まで死ななかったから功績にありつけただけw
意味不明。丹波には光秀播磨には秀吉北陸には柴田と最初から強大の軍団送りまくっている。つうかお前の大好きな佐久間譴責状で彼らの活躍を褒めてる文書(信長公記の偽書の可能性高いが)
がちゃんとあり、そこには信忠や丹羽なんて名前すらあがってねーじゃん
>>普通にやれば功績ゲットなんだから信長が重要だと考えている人間に任せるに決まってるじゃんw
そんな味方の分国のど真中で孤立無援で抗戦してる雑魚国力の相手なんて雑魚武将でせめても長期持久戦+物量で落ちる(事実信貴山城はさっさと落ちてる)
>>これほど後継者の地固めするのに最高の相手はいねーだろ。あとは強大な敵にも一応出陣させて恩を売っておけばいいだけ。
意味がわからん。後継者の地固めなら最初から出陣させないか後方支援してればいいだけ。
>>まあこの時点の織田家なんて国力が余所の10倍は軽くあるから、どんな敵でも国力的には雑魚みたいなもんだしなw
少なくとも織田分国のど真中で雑魚国力で抗戦してる松永荒木より国力そこそこある北陸で柴田+オールスターメンバー蹴散らした上杉の方が遥かに難敵。
御館の乱や新発田の乱で疲弊しきったとはいえ、信長はこの期に乗じて斉藤神保長佐々長縄ら派遣して越中能登での勢力回復狙って実際御館の乱の後の頃には北陸国衆らが多く寝返りだすんだから。
>>あの上杉ですら織田の5分の1くらいしかないし。
上杉はもっとすくなくね
>>つまりその程度で済まされるほど秀吉は優遇され勝家は冷遇されていたということ
そりゃ一門だから優遇されてたんじゃね。まあお前の論理だと対毛利の前線に置かれたから冷遇されたとも解釈できるが。
>>勝家の敗戦なんて予想通りだったってことだろw完全な捨て石じゃん
根拠は?敗戦がわかってるなら最初から退却して越前あたりで迎撃すりゃいいだけだろ。いくら上杉といえど本国からの距離があれば長期間同じ戦線にはりつくのは容易じゃないだろうし
ほかに敵もいるし
>>面倒な仕事を押しつけられた挙句与力をバンバン引き抜かれて、負けたら領地ポイの可能性まである仕事が「信用されている」ね
そりゃ織田家の武将であり家臣は信長や織田のために働くだから困難な任務まかされてるってことは信頼されてる証拠だろうね
つうか勝家は与力を引き抜かれるどころか佐久間ら大軍をわざわざ摂津から引っこ抜いて北陸戦線にあててるわけだが。
652 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 15:28:37.73 ID:G4uTqnXR
>>おまえ追放された原田一族や佐久間も優遇されていた、みたいに考えてそうだなマヌケだからw
そりゃ優遇されてたからこそ7か国に及ぶ広範な領土得たわけだし最も織田分国中で強大な軍事力持ってたんだから佐久間も柴田も原田も相当優遇されてた証拠。
丹羽なんて佐久間譴責状で名前すらあがってないしな
>>その時は多少なりとも信用されていただけ。越前なんかに入れられた時点で勝家の命運は終わった
意味不明。信長がそう思ってたという史料だせよアホ。
>>そもそも勝家なんて年齢的に織田信忠の補佐なんてできないからなw
そんな老害の武将を使わなければならない程織田家のほかの連中が無能なんだろ
>>子供がいるわけでもねーのに重用したところで途中で死んでまうしな。
そんな年寄りでも重用され大封もらったんだから織田家ではトップと評価されてた証拠。
光秀だって丹波のしょぼい領土と赤井や波多野など雑魚相手の戦任されただけの上にあっさり領土召し上げて左遷されてたしな
>>ともすれば朝倉旧臣の二の舞になってぶっ殺されるかもしれないのに信頼性w
>>こいつが死んでも大したことねーやって思われていた証左じゃねーかw
雑魚や無能にやらせたらもう一回越前が一揆に支配されて上杉あたりと結託されたら織田家は滅亡まっしぐらだろアホ
>>畿内の連中はいざというときに信長の手足として動く必要があるんだから信長からすれば信頼しまくってるだろ。
いざという時しか出番なしの上に織田分国のど真中で敵もろくにいない地域でのうのうと過ごすなんて武将としてはよほど無能なんだろ
戦闘経験も全くつめないし領土も広がらないし誰でもできる雑魚相手の戦に有能な武将残す理由がない
>>織田家一門が自ら率いるときに離反の可能性がある家臣を側に置いておくわけがないだろ
光秀は信長は裏切ったが、畿内に置かれていたし荒木も松永も置かれてたじゃん
>>んで中国攻めの矢面に立たされた秀吉が完全に信頼されていたかどうかといえばNO
根拠は?
>>最も、秀吉が中国攻めの矢面に立たされたのは手取川の戦線離脱による懲罰任務だから
そもそも秀吉による中国経略なんて天正3年頃から行われている(小寺や別所や赤松らと接触して信長に拝謁するよう取り計らったりしてるのが
別所記などでわかる)
>>この一例だけを指して「全く信頼されていなかった」と言い切るのは無理があるがな
信頼されていない武将には敵地との最前線で信頼されてる武将には畿内に置いたという論理なら秀吉は信頼全くされてないことになるな
>>この時点の他を圧倒できる国力を持つ織田家がそうそう傾くわけねーだろ。
傾くってのはより厄介で膠着が続いたりするって意味な。実際謙信に負けた時期は毛利が中国地方に出張ってくるし光秀も赤井に負けるし
播磨でも毛利軍に呼応して反旗翻すし松永荒木別所と離反も続くしかなり厄介な状況が生まれることにはなる
>>信長もその可能性は熟知していて前田や佐々不破など柴田の与力を削りまくっている。
松永攻めと荒木攻めの時くらいしか抜いていない。前田家記の末森記前編利家武功覚書によれば前田や佐々は天正6年から45000の大軍で柴田軍の中で北陸経略にあたった
と書いてるし享禄以来年代記でも45000で北陸侵攻したと書いてる。つうか信長公記もこの数字だろ
>>万が一柴田が戦死しても死ぬのは柴田直属の部隊だけになるようになw
最初から負けるつもりなら領土放棄して越前か近江まで引き上げてそこで防衛すりゃいいだけだろうがボォケ
>>最も原田の場合は死の間際に明智松永水野と与力を巻き込みまくって本当にヤバい状態になってしまったが
大阪方面軍司令官で最も大身で信長から信頼されてたんだから当たり前だろアホ
653 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 15:28:58.58 ID:G4uTqnXR
>>ほとんど直轄地じゃねーじゃんよw大半は与力の領土じゃねーかw
んなもん柴田に限らん。羽柴も明智も滝川もお前の好きな信忠も同じ。つうか他の大名も同じ(寄子寄親制で寄親の大名に与力として
家臣がくっついているだけ。)
>>おまえの理屈で言えば与力も戦力に入るんだから南条や宇喜多なんかは秀吉の戦力だろ。
南条や宇喜多はたまたまラッキーで寝返っただけだし秀吉が自力で切り取ったものでもなく信長から与えられたものでもないし
本能寺前時点でいえば柴田にとっての新発田や鮎川みたいなもんじゃね
本能寺後はじかに秀吉に援軍送ったりしてるが
>>与力が戦力にならんという俺の理屈なら柴田の与力である前田佐々不破などは柴田の戦力にならんから
そんなら秀吉与力の秀長宮部前野蜂須賀河波衆長浜衆播磨衆の小寺赤松但馬衆の山名なども全く戦力にならないから直轄地皆無だなw
>>どっちにしろ秀吉の方がよほど上。つうか信長の息子貰って織田一門になってる時点で思いっきり好待遇じゃんかよ
織田一門だからエコ贔屓されたんだろ。好き嫌いで判断するのが信長だからな。そもそも秀吉なんて一次資料でもかなり高い身分で領土安堵状出してるし
信長公記でもすでに一軍の指揮官だし姓からして木下だし一門だから優遇されただけじゃねw
>>柴田が捨てられなかったのは加賀や能登を分捕って織田家に貢献したからだろタコw
だから信頼されてるってことだろうがアホ
>>その功績ですら「天下に面目を施した」と「やって当然のことをやったまで」と佐久間への折檻状で信長に断じられ
なんで天下に面目を施すことがやって当然のことをやったという解釈になるのか不明
やって当たり前のことやっても天下に面目なんて施せるわけがない
>>羽柴明智池田の軍功よりも下位の評価を貰っているじゃんw
信長の評価基準がデタラメすぎるだけだろw
中国戦線なんてもともと赤松・山名・小寺・別所など信長に拝謁して織田分国だったのが
秀吉の失態で播磨国衆らがこぞって寝返って毛利軍に熊見川で大敗し、上月城の尼子残党も見捨てる事になり、窮地だったのが
毛利の兵站の長さを理由にしたヘタレ退却と、たびたび来た信忠ら大軍の援軍と、南条宇喜多草刈ら毛利方国人の一斉離反で助かっただけだし数か国比類なしとか捏造乙としかいいようがないし
池田も柴田に比べりゃ何もやってないし明智も第一に評価されるほどのことはやってない。
そもそもその文書自体信長公記にしかでてこないので後世の偽作の可能性高いがw
654 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 15:41:30.09 ID:G4uTqnXR
>>全てが始祖である豊田佐吉の親族一門で構成されている。最初からどいつが会社の中核を任されるか決まりきっているわけ。
>>当時の織田家ひいては武家も全く同じパターン。仕事を任されつつも規定の出世ルートを辿るのが織田一門や丹羽羽柴池田など。
>>仕事を任されるがいつクビになるかもわからんし責任も大きいのが柴田佐久間原田など。どっちが有能でどっちが無能かなど断じれるわけもないが、前者の方が明らかに信用されているだけ
コネや縁故で入った無能にはしょぼい仕事が与えられ、叩き上げの有能な武将には責任大きい期待度高い仕事が与えられるのが会社。
前者が丹羽羽柴織田一門、後者が柴田佐久間滝川。
>>勝手な行動をチクっていたのは川尻だろ、信忠は一緒になって攻めまくっているじゃんw
信長→川尻で信忠の軽挙つつしむよう書いてる
>>一次史料でも采配した形跡は全くのゼロ。高遠城攻撃にも参加した形跡はなく
>>634-635のように信長からの命令実行に移すため信忠らに申し聞かせまくっている。信忠は信長の命令を川尻を通して伝え聞く立場にあっただけ
川尻は自分が信長代行として信忠を率いて命令したが信忠は川尻信長のいうこときかず無視して勇んでいっただけ。
>>勝頼を追い詰めたのも川尻ではない。森や梶原については言うまでもない。
根拠なし。川尻が信長とじきにやりとりしてつなぎの城の築城など軍事命令を受け取って動いてたんだから武田攻めの総大将は川尻で滝川信忠が補佐。
その証拠に川尻は甲斐一国(一部除き)を加増されている
>>滝川は信忠の命令守っているし織田長益は信忠の命令で木曽義昌を助けてるわけだが
そんな史料あったか?
>>川尻だけがせっせと信長のご機嫌伺いして、それを信長に見透かされて「俺から言っておくから」と体よくはぐらかされている。
信長の機嫌伺いも糞も信長がじきじきに川尻に命令に当たる軍令出して信忠を従わせようとしてるんだから見透かすも糞もない
>>結局城を築き終わる前に武田勝頼はボロクズに敗走した挙句自刃して
抗戦したのが仁科1000程度だけだからな
655 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 15:44:03.62 ID:G4uTqnXR
>>信長公記が軍記物とか、おまえの都合のいい妄想はいいから
>>638-644のように捏造ばっかされてるし信長マンセー記述(信長に「歯向かうものは滅びるのだ、とか)書いてるしどうみても軍記。
656 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 16:29:12.45 ID:djeWJtHD
>>650 >>基盤がどうとかどうでもいい。信長の評価基準が禄高の大きさしかないのだからそれが大きい佐久間は単純に評価されてたのがわかるだけ
禄高の大きさなんてそれこそアテにならん、佐久間のように全部没収されたら終わりだしな
要地に領土を貰ったり、織田一門と縁戚やコネを作っておけば、例えどんなことになっても優遇される
>>いつといつの事だ?松永攻めと荒木攻め以外にはほとんど引き抜かれてねぇよボォケ
荒木攻めなんてほとんど本願寺毛利攻め兼任だしかなりの長期間だろうが
事実雑賀攻めでも越前衆は参加しているし一番重要な時期に引っこ抜かれてるじゃん
>>御館の乱の後北陸には佐々長縄・神保長住・斉藤新吾・長連龍らが派遣されたし
神保と斎藤は柴田の与力ですらねーだろ、信忠与力をぶち込むことで柴田の功績をおいしく戴かれてるじゃん
>>45000の兵力で北陸侵攻開始している
>>つうか信長公記もこの数字だろ
嘘つくな、信長公記の勝家による北陸功績は天正五年の「柴田北国相働くの事」
天正八年の「能登・加賀両国、柴田一篇に申し付くるの事」があるがいずれも兵数記載なんてされてねーだろ
末森記って江戸時代の史料だから、それこそアテにならんし、そもそも
織田軍による北陸制圧の後半は、織田信忠旗下の家臣も参加しているから45000の兵力が全て柴田の指示で動いていたかどうかも眉唾じゃん
>>丹羽なんか一門の癖に全く優遇されてねーし羽柴も中国地方に左遷されており冷遇されまくっている
中国地方に左遷されたと言いながら、北陸なんぞに飛ばされた柴田は優遇か
相変わらずマンセー思考のおめでたい頭でなによりだw
>>そりゃ部下として有能で信頼されてる武将には雑魚相手ではなく強者相手にぶつけるというだけ。事実謙信出兵時織田家オールスターメンバーで向かってるし
どこがオールスターだよ適当な解釈で捏造してんじゃねーよボケw
織田信忠含む織田一門は全く介在してないし明智光秀や池田恒興すらいない
森、佐久間、永岡などもおらずただ手の空いた奴をとりあえず連れて行っただけで
やる気のない秀吉が勝手に帰還してるほど纏まりの欠いた集団じゃんw
>>謙信死んで上杉が自爆したら他の連中を他方面に回す余裕ができたというだけ
勝手に殺すなや、雑賀攻めとかでも謙信生きてるのに普通に不破光治とか参戦してるじゃんよ
謙信が出てきてちょっと雲行き怪しい時だけ与力が協力してくれているだけで基本は全部柴田の役回りじゃんよ
そのために一族の柴田義宣あたりがぶっ殺されたりしてるし冷遇極まりない
>>なんで信忠が死んだ後のことが想定に上がるのか意味不明。信忠は実際生きてるし信雄信孝以外にも候補なんていっぱいいる
よっぽどのことがない限り家督は年長者からだアホ、ただえさえ正室腹の息子が存在しねーんだしな
>>毛利秀頼とか日根野とか川尻団とかみんな協力関係じゃんよ。北条氏政ですら協力したから協力関係だなw
協力関係だってのは距離が近く従軍して補佐している関係ってことだ。川尻と団は協力関係と言っていいがな
北条氏政なんて織田に協力して分捕ってやった上野を、なぜか織田家臣の滝川に領地取られて恩賞なしの時点で信長からどう思われてるか察せよw
657 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 16:30:57.40 ID:djeWJtHD
>>655 太田は織田家に属する人間なんだから信長を讃えるのは当たり前だタコw
つうかおまえの理屈なら先祖主君を持ち上げただけで偽書軍記になるのだから
世の中の史料の大半は捏造軍記だなww先祖主君を讃えない史料なんてまずないしw
658 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 16:49:33.99 ID:djeWJtHD
>>信長はいつもそうやってきた(志賀の陣や三方が原、手取川、長篠など)
適当な妄想こくなタコ
志賀の陣は信長自ら駆けずり回っているし三方が原や長篠なぞそれこそ体のいい捨て石じゃねーかw
三方が原の敗戦後は家康の高天神救援要請を悉く無視してるし、思いっきり使いっ走りだろうが
>>つまり秀吉は毛利の最前線に立たされてたから雑魚だったと。
雑魚かどうかは評価基準にない、要するに信長に重用されてない奴が任務につく
つまり信長にはさほど信頼されていない。実際に勝家も雑魚じゃねーだろ
雑魚は村上みたいな弱小に2回も敗れた武田信玄だけで十分だカス
>>意味不明。防波堤ってなんだ?神保が北陸に派遣されたのは越中国人の調略のためだし
直接敵の攻撃にさらされたり敵の影響を受ける地位にあるってことだろ
事実神保は最後に越中から追い立てられている。「用済みだからおまえの領地はないよ」ってばかりに織田軍も気にしてない
>>秀吉は播磨に派遣されて危険地域思いっきり出されて案の状熊見川で大敗している。斉藤が重要な役割ってなんだ?
熊見川って撤退する敵を追い散らしただけの戦いだし上月城見捨ててまで撤退してこいと信長からある程度は目をかけられていたじゃん
半ば懲罰に近いものではあったが信忠から援助受けたりちゃんと任務やらしてもらっている。
斎藤は途中から柴田がやってる北陸制圧に参加してるじゃんよ
>>不慮の事故で死んだら元も子もねーしお前の言うとおりなら京か安土で政務だけやらせとけばいいなw
そんなので死ぬような無能には到底家督継がせられないってことだろ、戦国時代なんだから当然
>>そこには信忠や丹羽なんて名前すらあがってねーじゃん
信忠は息子なんだから当たり前だろ、あの書状は同僚の功績を指して「おまえは働いていない」という叱責なんだからな
「名前が上がっていないから不働き」なんて言うのはバカだけ、つうか丹羽が不働きだったら佐久間と一緒に追放されているだろカス
>>そんな味方の分国のど真中で孤立無援で抗戦してる雑魚国力の相手なんて雑魚武将でせめても長期持久戦+物量で落ちる(事実信貴山城はさっさと落ちてる)
どこを攻めているから雑魚とか全く関係なし、ただ信長に信頼されているだけw
雑魚は村上みたいな弱小に2回も負けた武田信玄だけで十分。織田家で言うなら松永に2回も負けたようなもんだからなw
>>意味がわからん。後継者の地固めなら最初から出陣させないか後方支援してればいいだけ
そんな無能は家督継げない、それで家督継げるのはおまえみたいなニートだけ
>>蹴散らした上杉の方が遥かに難敵。
難敵に正面からぶちあてられた挙句功績を横取りされかけた柴田は冷遇、以上証明終了
>>敗戦がわかってるなら最初から退却して越前あたりで迎撃すりゃいいだけだろ。
領土を損ないたくなかったんじゃねーの?
>>勝家は与力を引き抜かれるどころか佐久間ら大軍をわざわざ摂津から引っこ抜いて北陸戦線にあててるわけだが。
佐久間って摂津戦線にいなかっただろ、元々勝家と同列任務だ
659 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:04:17.46 ID:djeWJtHD
>>丹羽なんて佐久間譴責状で名前すらあがってないしな
いちいち膨大な織田家臣の名前を挙げるのを面倒くさがっただけ
つうか名前挙がらない=信頼されないなら織田家臣の大半は信頼されてないことになるし不働きだというのなら佐久間と一緒に丹羽も追放されているだけ
>>意味不明。信長がそう思ってたという史料だせよアホ。
勝家を重用したいのなら摂津戦線でも任せればよかっただけ。上洛直後から重用されていた重臣で
以後畿内方面に参加できなかったのは勝家だけ、丹羽も秀吉も佐久間でさえ畿内で戦えたのに柴田は一切戦えず
>>そんな老害の武将を使わなければならない程織田家のほかの連中が無能なんだろ
根拠なしの妄想乙、役に立つんなら使うだけ。信頼されてるかどうかは別
>>そんな年寄りでも重用され大封もらったんだから織田家ではトップと評価されてた証拠。
その大封は勝家とほとんど縁のない与力の領土、勝家が統括できていたかも怪しい代物
>>光秀だって丹波のしょぼい領土と赤井や波多野など雑魚相手の戦任されただけの上にあっさり領土召し上げて左遷されてたしな
後世の創作にして妄想乙
>>雑魚や無能にやらせたらもう一回越前が一揆に支配されて上杉あたりと結託されたら織田家は滅亡まっしぐらだろアホ
この当時の織田軍が越前失ったところで滅亡なんてまずない、つうか越前は朝倉旧臣がぶっ殺されまくった時に一度失ってるが
盛大に大軍を派遣して更地同然の如く敵対勢力を葬って終わったじゃんw
>>戦闘経験も全くつめないし領土も広がらないし誰でもできる雑魚相手の戦に有能な武将残す理由がない
戦争がほとんど終わっているのに戦闘経験積ませるとかアホ乙wまあ松永荒木別所攻めで十分に戦争経験積む機会があったのはあれだがなw
>>光秀は信長は裏切ったが、畿内に置かれていたし荒木も松永も置かれてたじゃん
信長は寝返ると思っていなかったんだろ
>>根拠は?そもそも秀吉による中国経略なんて天正3年頃から行われている(小寺や別所や赤松らと接触して信長に拝謁するよう取り計らったりしてるのが別所記などでわかる)
関係を取り持つことと実際に前線に赴くことは全然ちげーよks
>>信頼されていない武将には敵地との最前線で信頼されてる武将には畿内に置いたという論理なら秀吉は信頼全くされてないことになるな
実際大して信用されてないでしょ、秀吉が厚遇されているのは信長の息子が秀吉の養子に行ったからで
>>傾くってのはより厄介で膠着が続いたりするって意味な。松永荒木別所と離反も続くしかなり厄介な状況が生まれることにはなる
その程度の傾きでどのみち織田家が崩壊するわけねーから一過性のもんにすぎん
そんなの信長あたりが直属率いて軍を出せばすぐに終わるし実際松永は瞬殺じゃん
>>最初から負けるつもりなら領土放棄して越前か近江まで引き上げてそこで防衛すりゃいいだけだろうがボォケ
自領付近で戦争しかけるとか馬鹿のやることだボケ。なんで敵と戦うだけで領地を疲弊させなきゃならんのだアホ
>>大阪方面軍司令官で最も大身で信長から信頼されてたんだから当たり前だろアホ
全部薄氷の権力じゃねーかw実際原田死んだ後一族はあっさりポイされてしまうくらいに落ちぶれたわけだしな
660 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:08:45.78 ID:djeWJtHD
>>んなもん柴田に限らん。羽柴も明智も滝川もお前の好きな信忠も同じ。つうか他の大名も同じ
信忠は織田家当主なんだから全然ちげーよタコw家臣が主君に従うのは当然の発想だタコ
同僚が同僚に従う必要がないから羽柴も明智も滝川も権力薄いってのは散々言ってるだろカス
人の言ってることも理解できんのかアスペ野郎
>>なんで天下に面目を施すことがやって当然のことをやったという解釈になるのか不明
「柴田修理亮、右の働き聞き及び、一国を存知ながら、天下の取沙汰迷惑に付きて」がやるべきことをやったになるのは当然だろ
軍功が凄いというなら明智羽柴池田のところに柴田もつけてやればいいだけ
>>織田一門だからエコ贔屓されたんだろ。好き嫌いで判断するのが信長だからな。
その好き嫌い方針が秀吉に継がれついには徳川家康の幕藩体制の基礎になっているわけだがw
おまえは天下の徳川幕府の施政方針を否定するのか?w
>>信長の評価基準がデタラメすぎるだけだろw
根拠なしの妄想乙
661 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:17:28.21 ID:djeWJtHD
>>コネや縁故で入った無能にはしょぼい仕事が与えられ、叩き上げの有能な武将には責任大きい期待度高い仕事が与えられるのが会社。
TOYOTAグループに始まり日本の有力会社はそんな形式になってない
というか叩き上げの有能な連中に任せ過ぎると会社が乗っ取られて終了
そんな社会の仕組みも知らないニート君が会社を例に出しても馬鹿にされるだけw
>>信長→川尻で信忠の軽挙つつしむよう書いてる
で結局そのままどんどん進んでいったんだから命令順守できてないじゃん
しかも信長が後から「武田を平定」するのに「出馬」不要と書状で伝えている。
>>
>>634-635のように信長からの命令実行に移すため信忠らに申し聞かせまくっている。信忠は信長の命令を川尻を通して伝え聞く立場にあっただけ
で、織田信忠はそれを守ってもないし「勝頼が撤退した」と信長に事後報告だけして
すぐ高遠城を攻めて甲斐にまで突っ込んでるわけだが。
>>川尻は自分が信長代行として信忠を率いて命令したが信忠は川尻信長のいうこときかず無視して勇んでいっただけ
誰1人川尻の命令聞いてないんじゃ率いているとは言えんだろ
>>根拠なし。川尻が信長とじきにやりとりしてつなぎの城の築城など軍事命令を受け取って動いてたんだから武田攻めの総大将は川尻で滝川信忠が補佐
武田攻め総大将が補佐役と相談して同じ補佐役の独断を諌めるのか?w総大将なら堂々と率いろよw
「不越之様、滝川相談堅可申聞候、此儀第一肝要候」の書状を出したのはおまえだぞ?w
>>そんな史料あったか?
滝川は信長書状で散々言われているし長益は信長公記にあるだろ
>>信長の機嫌伺いも糞も信長がじきじきに川尻に命令に当たる軍令出して信忠を従わせようとしてるんだから見透かすも糞もない
で誰1人川尻の命令聞かずに攻めまくっているわけだが
>>抗戦したのが仁科1000程度だけだからな
で川尻は結果的にほとんど何もせずに終わったって話じゃん
662 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:27:36.98 ID:G4uTqnXR
>>禄高の大きさなんてそれこそアテにならん、佐久間のように全部没収されたら終わりだしな
だったら織田家臣団の序列なんて妄想でしかはかれねーなボケ
>>要地に領土を貰ったり、織田一門と縁戚やコネを作っておけば、例えどんなことになっても優遇される
そんな優遇されるべき一門の地位にいながら冷遇されまくりハナクソみたいな土地しかもらえなかったのが丹羽
>>荒木攻めなんてほとんど本願寺毛利攻め兼任だしかなりの長期間だろうが
なんで遠方にいる毛利攻めと佐久間が担当してる本願寺攻めといっしょくたになるんだ?
>>事実雑賀攻めでも越前衆は参加しているし一番重要な時期に引っこ抜かれてるじゃん
なんで手取川前の時期ほんの一時行われた雑賀攻めが根拠にあがるんだ?
謙信死後御館の乱や新発田の乱で弱りきったから周辺国にまわす余裕できただけだろ
>>神保と斎藤は柴田の与力ですらねーだろ、信忠与力をぶち込むことで柴田の功績をおいしく戴かれてるじゃん
なんで柴田の手助けを行ったのに「柴田の手柄をとられた」という歪曲解釈になるのか不明。
柴田の与力の佐々前田らが多方面に出兵したから柴田の功責を水ましするつもりだったとでもいうのかよアホ
>>末森記って江戸時代の史料だから、それこそアテにならんし
根拠は?末森記否定なら末森合戦の史料なんてそもそも存在しないし、そもそも前田家の家記だし一次資料の享禄以来年代記にも同じ数字が書かれてるし
長家家譜も同じ数字だったはず
織田軍による北陸制圧の後半は、織田信忠旗下の家臣も参加しているから45000の兵力が全て柴田の指示で動いていたかどうかも眉唾じゃん
>>中国地方に左遷されたと言いながら、北陸なんぞに飛ばされた柴田は優遇か
いや、そもそもお前に話を合わせたんだがね
>>どこがオールスターだよ適当な解釈で捏造してんじゃねーよボケw
長家家譜(織田側) そ(七尾城)の援将には柴田勝家・丹羽五郎左衛門尉長秀・長谷川藤五郎秀一・
稲葉伊予守通胤・滝川左近将監一益・羽柴秀吉・ 前田利家・徳山五兵衛則秀・
柴田伊賀守勝豊・佐々内蔵助成政・不破彦三・金森五郎八・堀久太郎秀政その勢四万余、
元亀2年の長島一向一揆攻め5万人の内容には信長本隊 佐久間信盛軍団 (浅井政貞・山田勝盛・長谷川与次・和田定利・中嶋豊後守など尾張衆が中心)
柴田勝家軍団 (氏家卜全・稲葉良通・安藤定治・不破光治・市橋長利・飯沼長継・丸毛長照・塚本小大膳など美濃衆が中心)
佐久間信盛、柴田勝家は、この頃すでに1万〜2万を率いていたと考えるのが妥当だろう
>>織田信忠含む織田一門は全く介在してないし明智光秀や池田恒興すらいない
でも圧倒的に大軍が投入されてるしな。織田家中核の柴田+その他大勢で軽く4万は超える
>>森、佐久間、永岡などもおらずただ手の空いた奴をとりあえず連れて行っただけで
なんで丹羽柴田前田佐々羽柴長稲葉堀蜂谷金森長谷川らの手があくんだよボケ
>>やる気のない秀吉が勝手に帰還してるほど纏まりの欠いた集団じゃんw
秀吉はビビリまくって逃げただけじゃんw謙信相手では戦死するのが目にみえてるからな
>>勝手に殺すなや、雑賀攻めとかでも謙信生きてるのに普通に不破光治とか参戦してるじゃんよ
なんで謙信生前一月か二月で終了した雑賀攻めが根拠にあがるんだ?
>>謙信が出てきてちょっと雲行き怪しい時だけ与力が協力してくれているだけで基本は全部柴田の役回りじゃんよ
柴田は美濃とか他地域にも与力がいまくるからな。長島侵攻戦でも大量の柴田軍団が投入されてるし。
>>そのために一族の柴田義宣あたりがぶっ殺されたりしてるし冷遇極まりない
それだけ信長から寡兵でも戦えるって評価されてたんじゃね
>>よっぽどのことがない限り家督は年長者からだアホ、ただえさえ正室腹の息子が存在しねーんだしな
ならとっくに北畠や神戸から復姓させとるわw
>>協力関係だってのは距離が近く従軍して補佐している関係ってことだ。川尻と団は協力関係と言っていいがな
んで丹羽と信雄らの関係は信忠と彼らの関係とどう違うんだ?
>>北条氏政なんて織田に協力して分捕ってやった上野を、なぜか織田家臣の滝川に領地取られて恩賞なしの時点で信長からどう思われてるか察せよw
だから協力関係だったことにかわりはないだろw信忠と協力関係だった奴なんてごまんといるじゃん
663 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:34:22.36 ID:Gno+jI19
>>656 例の人にいちいち返答するのはやめておけよ
スレを埋められるだけだ
664 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:41:43.05 ID:G4uTqnXR
>>いちいち膨大な織田家臣の名前を挙げるのを面倒くさがっただけ
根拠なし。雑魚だしろくな功責もないから名前挙げなかっただけ。
>>つうか名前挙がらない=信頼されないなら織田家臣の大半は信頼されてないことになるし不働きだというのなら佐久間と一緒に丹羽も追放されているだけ
いや雑魚でもイエスマンなら政務に使えるし、忠誠が篤ければおいとける
>>勝家を重用したいのなら摂津戦線でも任せればよかっただけ
なんで摂津戦線が最重要戦線とか他方面の武将は重用じゃなくなるんだよボォケw
秀吉なんて摂津に出向かせてもらってないから冷遇しまくりだなw摂津なんて長期持久戦で落ちるから将の資質問われんから雑魚で十分だわw
>>上洛直後から重用されていた重臣で 以後畿内方面に参加できなかったのは勝家だけ、丹羽も秀吉も佐久間でさえ畿内で戦えたのに柴田は一切戦えず
そりゃ最強上杉の相手や一揆の風土が強い越前加賀支配を任されてたからな。柴田は対浅井朝倉で戦いまくってるじゃねぇかタコ
浅井朝倉もいない雑魚しかいない畿内でそんな強い武将投入する意味がない
>>根拠なしの妄想乙、役に立つんなら使うだけ。信頼されてるかどうかは別
年寄りでも危険な戦線&強敵上杉相手に投入されてるんだから織田家内では実力評価されてた証拠
>>その大封は勝家とほとんど縁のない与力の領土、勝家が統括できていたかも怪しい代物
そんなもん他の連中も同じ。つうか他の大名も頼子より親制だから一緒
>>後世の創作にして妄想乙
はっ?常識だろ。何いってんだ?
>>この当時の織田軍が越前失ったところで滅亡なんてまずない、つうか越前は朝倉旧臣がぶっ殺されまくった時に一度失ってるが
>>盛大に大軍を派遣して更地同然の如く敵対勢力を葬って終わったじゃんw
そりゃ上杉や毛利ら周辺大名との連携も取れてない時期だしな。謙信が手取川で、赤井が丹波、毛利が播磨戦線で勝利重ねる時期はかなり織田家は窮地だったし
謙信生きてたらかなり危ない。播磨の諸将や畿内でも不穏な動きあるしな
>>戦争がほとんど終わっているのに戦闘経験積ませるとかアホ乙wまあ松永荒木別所攻めで十分に戦争経験積む機会があったのはあれだがなw
まだ四国中国北陸関東東北九州とたくさんのこってるだろアホ
>>信長は寝返ると思っていなかったんだろ
つまり信長の信頼は正確さ0の妄想と
>>関係を取り持つことと実際に前線に赴くことは全然ちげーよks
だから「経略は。」
>>その程度の傾きでどのみち織田家が崩壊するわけねーから一過性のもんにすぎん
武田勝頼毛利輝元本願寺顕如荒木村重上杉謙信松永別所赤井と一度に結託したらとんでもないことになる。
史実では毛利がありえないくらいヘタレて出兵約束反故にしたり謙信赤井直正と名将の病死や別所荒木松永の離反時期の齟齬でうまくいかなかったがな
>>そんなの信長あたりが直属率いて軍を出せばすぐに終わるし実際松永は瞬殺じゃん
そりゃいっぺんの全員が離反しなかったし毛利もなかなか出兵しないし謙信も病没したし直正も病死したからな
>>自領付近で戦争しかけるとか馬鹿のやることだボケ。なんで敵と戦うだけで領地を疲弊させなきゃならんのだアホ
だったら余計に前線に名将おいて敵を頑強に食い止められる状況作る必要あるって話だろアホ
>>全部薄氷の権力じゃねーかw実際原田死んだ後一族はあっさりポイされてしまうくらいに落ちぶれたわけだしな
薄氷であれ大身は大身。分国中にかなりの大軍がいるわけだしな
そもそも信長の権力自体薄氷だしな
665 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:55:13.11 ID:G4uTqnXR
>>信忠は織田家当主なんだから全然ちげーよタコw家臣が主君に従うのは当然の発想だタコ
何も違わない
>>634-635よく読めよアホ。信長の命令で何もかもやっててただの傀儡にすぎないのが信忠
>>同僚が同僚に従う必要がないから羽柴も明智も滝川も権力薄いってのは散々言ってるだろカス
同僚じゃねぇよカス 与力制はある軍事命令内では与力の大将の命令内で動かないといけないのが実際(手取川の時なんか
あれだけオールスターメンバーいるのに柴田が大将の権力持ってなかったら到底軍として機能しないし信長がいないとおかしいことになる)
>>「柴田修理亮、右の働き聞き及び、一国を存知ながら、天下の取沙汰迷惑に付きて」がやるべきことをやったになるのは当然だろ
意味がわからん。なんでそれがやるべきことをやった、なんだ?
>>軍功が凄いというなら明智羽柴池田のところに柴田もつけてやればいいだけ
単に担当戦線が違うしその時期加賀や越中を中々突っ切れずにいたからどうしても地味に見えたってだけじゃね
>>その好き嫌い方針が秀吉に継がれついには徳川家康の幕藩体制の基礎になっているわけだがw
>>おまえは天下の徳川幕府の施政方針を否定するのか?w
意味不明。どこがどう受け継がれたんだ?
>>根拠なしの妄想乙
根拠なら書いてる
>>653の下部
>>TOYOTAグループに始まり日本の有力会社はそんな形式になってない
デタラメ乙。有能な若手には大変な仕事任せるのが普通。つうか無能な武将にやらせても失敗に終わるだけなので意味がない
>>というか叩き上げの有能な連中に任せ過ぎると会社が乗っ取られて終了
無能な連中に大変な仕事任せたら業務こなせず会社が潰れて終了
>>で結局そのままどんどん進んでいったんだから命令順守できてないじゃん
そりゃ単に信忠がアホってだけの話だろ。川尻は必至に信長の機嫌伺ってるが信忠が無視したからな
>>で、織田信忠はそれを守ってもないし「勝頼が撤退した」と信長に事後報告だけして
信忠は信長からじきじきにいわれても無視するアホだからな
>>誰1人川尻の命令聞いてないんじゃ率いているとは言えんだろ
一応信長が命令出した撤退用のつなぎの城は作ったんじゃないのか?
>>武田攻め総大将が補佐役と相談して同じ補佐役の独断を諌めるのか?w総大将なら堂々と率いろよw
そりゃアホばっかりだから信長の命令も川尻の命令も無視したんじゃね
666 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 17:56:38.74 ID:G4uTqnXR
667 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:02:51.16 ID:G4uTqnXR
天正9年1月1日 在国諸將の参賀を停む、又馬場を安土城の北に築く
天正9年1月3日信長、武田勝頼の、遠江高天神城を赴援せんとするを聞き、信忠をして、尾張清洲城に出陣せしめ、水野忠守、同忠重等を遣して、遠江横須賀城を守らしむ、
天正9年1月9日信長、鯨肉を献ず
天正9年1月15日信長、三毬打を安土城に行ふ、又北畠信雄、神戸信孝等と共に騎乗す、
1月25日信長、河内安井清右衛門に其屋敷を安堵せしめ、諸役を免除し、之に禁制を掲ぐ、
天正9年2月6日宮女及び立入隆佐等を安土に遣し、練香を信長に賜ひ、調馬の事を命ぜらる、信長、之を奉ず、
天正9年2月11日信長、綸旨等の旨に任せ、四府駕輿丁藤本三郎左衞門尉の諸役を免除す、
天正9年2月20日信長、入京して、本能寺に館す、
天正9年2月23日耶蘇会宣教師バリニヤーニ、黒奴を連行して信長に謁す、
天正9年2月24日柴田勝家、上京して、信長に謁し、太刀、黄金等を進む、信長、其越前、加賀を平定するの功を賞す、
天正9年2月28日信長、馬埒を禁裏東門外に構へ、諸將をして騎乗せしむ、之を叡覧あらせられ、信長に勅書及び御衣を賜ふ、
天正9年2月29日信長、紀伊熊野新宮神主堀内新次郎に知行分同社領の地を安堵せしむ、
天正9年3月1日 前右大臣織田信長を、左大臣に任ぜんとす、尋で、信長、譲位の叡慮を奉じて後に之を拝すべきことを奏請す、譲位を延引あらせらる、
天正9年3月5日信長、諸將をして、騎乗せしむ、誠仁親王、之を御覧あらせらる、
天正9年3月5日信長、長岡藤孝をして、所領丹後を諸給人に宛行はしめ、余分は藤孝の直務と為さしむ、
天正9年3月6日本願寺光佐(顕如)の請に依り、紀伊雑賀に在る同寺坊官赦免の命を諸国に下すべき旨を信長に命ぜらる、尋で、信長、之を奉ずるに依り、光佐、御禮金を献ず、
3/18勝頼が佐竹の斡旋で信長と同盟を結ぶ風説が伝わる
天正9年3月20日三好康長、讃岐より阿波岩倉城に到り、子式部少輔を諭し、長宗我部元親に反き、信長に帰属せしむ、
天正9年3月24日信長、佐々成政、神保長住をして、越中小井手城を赴援せしめ、又不破光治、前田利家等の諸將を遣し、之を援けしむ、是日、上杉景勝等、兵を班す、
天正9年3月25日信長、矢部善七郎、猪子兵介をして、山城勝龍寺城を守らしむ
天正9年3月28畠山氏の遺臣長連龍、信長の援に拠り、温井景隆等を能登七尾城に攻めて、之を降す、是日、信長、菅屋長頼を遣して、之を守らしむ、
天正9年4月1日吉田兼和、松井友閑に頼り、吉田社修理のことを信長に請
天正9年4月8日信長、筒井順慶をして、歓進猿楽を大和木寺に張行せしむ、
天正9年4月10日信長、近江竹生島に詣し、帰城す、其侍女等の恣に同国桑實寺に詣するを怒り、之を出さしむ、同寺僧、之を庇護するに依り、併せて、之を殺す、
天正9年4月12日信長、越前溝口定勝(秀勝)に所領を宛行ふ、
天正9年4月13日信長、長谷川秀一、野々村幸久に所領を宛行ふ
天正9年4月16日若狭高浜城逸見昌経歿す、是日、信長、其所領を武田元明、溝口定勝(秀勝)に頒ち與ふ、
天正9年4月20日信長、堀秀政をして、和泉國中に指出を徴せしむ、槙尾寺、之に応ぜざるに依り、是日、秀政、兵を率ゐて、之を囲む、僧徒、退散す、尋で、信長、同寺を火かしむ、
天正9年4月20日信長、森蘭丸(長定)に近江に於て所領を宛行ふ、
天正9年4月25日越前溝口定勝(秀勝、)高麗鷹を信長に進む、
天正9年6月5日北條氏政、信長に馬を遺る
天正9年6月15日信長、筒井順慶に大和吐田村を宛行ふ、是日、順慶、信長に之を謝す、
天正9年6月16日信長、越後新発田城新発田重家の款を通ずることを越中の某に報じ、之と海上の連絡を計らしむ
天正9年6月28日信長、眞桑瓜を献ず、
天正9年6月28日近衞前久、信長の命に依り、島津義久をして、豊後大友義統と講和せしむ、是日、義久、太刀、馬を前久に遺り、之を謝す、
668 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:03:22.91 ID:G4uTqnXR
天正10年1月6日信長、鯨肉を献ず、之を廷臣に頒ち賜ふ
正10年1月10日備中猿掛山城荘駿河守、羽柴秀吉に頼りて、信長に降る、是日、秀吉、信長の朱印状を請ひて、駿河守に與ふ、
天正10年1月15日信長、三毬打を行ひ、又騎乗す、近衞前久、之に会す
天正10年1月16日信長、佐久間信盛の遺子正勝を召出して、信忠に仕へしむ
天正10年1月21日羽柴秀吉、宇喜多秀家の老臣岡平内等と共に、安土に抵り、信長に謁す、信長、秀家をして、父直家の遺跡を襲がしむ、
天正10年1月22日信長、狩獲せる鶴を献ず
天正10年1月23日一向宗徒紀伊鈴木孫一、養父の仇土橋平次を撃たんとし、援を信長に請ふ、信長、族左兵衞佐某をして、之を同国雑賀に赴援せしめ、平次を斬る、是日、本願寺光壽(教如)をして、信長と和融せしめらる
正10年1月25日大神宮神主等、両宮を造替せんことを信長に請ふ、是日、信長、銭三千貫を寄進し、平井久右衞門、上部貞永を奉行と為す、尋で、織田信忠をして、岐阜城に蓄ふる銭を検して、造替の用途に備へしむ、
天正10年1月29日信長、尾張の暦師の訴に依り、陰陽頭土御門久脩を招きて、閏月の有無を糺決せしむ、
天正10年2月2日信濃木曽義昌、美濃苗木城苗木久兵衞に頼り、武田勝頼に背きて、信長に通ず、是日、勝頼、之を撃たんとし、諏訪上原に出陣し、諸將をして、国境を守らしむ、
正10年2月3日信長、諸將の甲斐侵入の進路を定め、親ら織田信忠等と共に美濃より、徳川家康をして駿河より、北條氏政をして関東より、金森長近をして飛騨より進ましむ
天正10年2月9日信長、長宗我部元親の好を通ずるを容れ、之に四国の攻略を許す、更に之を停めて、土佐及び阿波二郡を與ふ、元親、命に従はず、信長、神戸信孝をして、之を撃たしめんとし、是日、三好康長をして、出陣せしむ、
天正10年2月21日信長、織田信忠及び瀧川一益、川尻秀隆をして、信濃高遠城攻略の為め付城を築き、守備を厳にせしむ
天正10年2月28日信長、妙心寺をして、法度を犯す者は、寺法に拠りて、処分せしむ
天正10年3月5日信長、惟任光秀、筒井順慶、長岡忠興等の諸將を率ゐて安土城を発し、柏原に著す、近衞前久、軍に従ふ、
天正10年3月6日信長、美濃呂久川に著す、仁科盛信の首級を実検し、之を長良川に梟せしむ、尋で、岐阜城に著す、
天正10年3月9日石清水八幡宮法楽和歌御会を行ひ、信長の戦捷を祈らせらる、
天正10年3月10日諸社寺をして、信長の戦捷を祈らしむ、
天正10年3月14日信長、信濃波合に著陣し、武田勝頼父子の首級を実検す、明日、同国飯田に移り、之を梟す、3/11誠仁親王、千返楽を奏し、信長の戦捷を祈らせらる
天正10年3月16日武田信豊、信濃小諸城下曽根信恒に頼る、信恒、信豊を殺し、是日、首級を信長に同国飯田に進む
3月19日信長、信濃飯田より同国上諏訪に陣を移す、徳川家康、来会す、明日、木曽義昌、小笠原信嶺、穴山信君、来り謁す、信長、之に旧領を安堵せしめ、義昌に信濃安曇、筑摩の二郡を加増す、又諏訪社、同上坊、南方村、甲斐川口郷等に禁制を掲ぐ
天正10年3月19日信長、信忠をして、甲信両国を守らしめ、東海道より帰国せんとす、是日、徳川家康、道路の普請等を為さしむ、
天正10年3月21日北條氏政、信長に物を遺りて、戦捷を賀す
天正10年3月22日左中弁萬里小路充房を甲斐に下し、宸翰を信長父子に賜ひて、之を犒はせらる
天正10年3月22日信長、武田勝頼父子及び武田信豊の首級を京都に送る、是日、之を梟せしむ、
天正10年3月23日信長、上野及び信濃二郡を瀧川一益に與へ、関東に鎮せしむ、尋で、一益、上野箕輪城より同国厩橋城に移る
天正10年3月24日信長、従軍の將士に兵糧を頒ち與ふ
天正10年3月26日信長、信忠の戦功を賞して、物を與へ、家督を譲るべきことを約す、尋で、信忠、之を謝す、
天正10年3月26日北條氏政、信長の飼馬料として、米千俵を信濃諏訪に輸す
天正10年3月28日北條氏政、信長の、好を厚くせんことを伊豆三島社に立願す、
天正10年3月29日信長、甲斐を河尻秀隆に、駿河を徳川家康に、信濃高井、水内、更科、埴科四郡を森長可に、伊奈郡を毛利秀頼に、美濃岩村城を団景春に、同金山城を森長定に與ふ、
天正10年3月是月信長、甲信両国の法度を定む、又信濃の金鑿をして、速に還住し、採掘に努めしむ、
天正10年4月2日信長、帰国せんとし、信濃諏訪を発し、甲斐台原に到る、北條氏政、狩獲せる雉を進む、
669 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:03:45.44 ID:G4uTqnXR
4月2日信長の將森長可、信濃和合院領に禁制を掲ぐ
4月3信長、甲府に到り、武田氏の館址に陣す、北條氏政、馬、鷹を贈る
4月3日信長、甲斐仏師原郷等に禁制を掲ぐ
4月10日信長、穴山信君に甲斐の本知分を安堵せしめ、河尻秀隆に宛行ふ地と境界を立て、領知せしむ
4月21日信長、甲府を発し、是日、安土に凱旋
5月1日上杉景勝、信長の兵と戦はんとし、佐竹義重と旧交を修す
5月7日信長、神戸信孝に四国出陣を命じ、之に讃岐を與へ、三好康長に阿波を與ふ、
5月17日信長、羽柴秀吉の請に依りて、親ら之を赴援せんとし、惟任光秀に先鋒を命じ、是日、其邑に帰り、準備を為さしむ
5月21日信長、徳川家康等をして、京都、大坂、奈良及び堺等を遊覧せしむ
5月22日伊達輝宗、信長に馬を贈る
5月29日信長、津田信益、蒲生賢秀等をして、安土城を守らしめ、近臣数十人と共に入京し、本能寺に館す
5月29日越後新発田城新発田重家、信長と通謀し、芦名盛隆も亦、信長に款を通ず、是日、盛隆の將金上盛備、瀧川一益に違約せざることを陳ず、
また信長死後ですら隠岐清家の義子経清、織田信長に属せんとし、事成らずして、清家を誘殺す、
伊予来島城主村上通昌、毛利輝元に叛き、羽柴秀吉に依りて、織田信長に属す、能島城主村上武吉、元吉父子、湯月城主河野通直と謀り、輝元の援を乞ひ、数通昌を攻む、忽那島大浦の鼻に戦ふ、通昌敗れ、京都に走る、
と信長という名前が史料にあがっている。実権が信長にあったのは明らか
670 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:13:37.60 ID:/Bn1jav9
あぼーんだらけになったぞばかやろうw
671 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:43:49.02 ID:gmZOupGE
柴田勝家は過小評価されてると思う
戦闘系パラメータもそうだが、政治力も後継争いとかの根回しは下手だったが、国を治めるという意味では名君の範疇だし
逆に本田忠勝とかなんでこんな高いんだ?って気がする
ていうか過去作ではもう少し普通の武将だった気がするけど、いつからかトップクラスの猛将になってた
672 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 18:59:59.76 ID:ZFtmy0IN
柴田は戦闘面はもう十分評価高いじゃん
政治知略はまあ同意
673 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 19:10:59.58 ID:nVoWiH7b
勝家は適正が不遇だな織田においては
武田か上杉に行ったほうが活躍出来る
674 :
名無し曰く、:2013/05/07(火) 19:16:35.46 ID:/hUYR0xN
勝家の適正はホントにずっと言われてるね
適正活かすの難しい
675 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:40:14.35 ID:B0jTq1Kx
平安の大物ホモ藤原頼長の日記「台記」の研究を読んでるんだけど
「受領讃」こと大僕卿孝標とかいう男が笑えた。
孝標日記(仮)
1. 頼長から手紙でしつこく言い寄られる。うざい。無視。
つーか俺には愛する妻もいるし。
2.このまま無視し続けるつもりだが、どうやら
俺とヤりたいがために坊主に加持祈祷までさせてるらしい。キモすぎ。
3.元上司の藤原忠雅さんは頼長の愛人の1人だったらしく、
俺と頼長の仲を取り持ってポイントを稼ごうとしてやがる。
これはかなり断り辛い。最悪。
4.しかたなく1回だけ会ってやる。会うだけだ。
それに忠雅さんも同席してもらって3人で。妙なことにはなるまい。
5.忠雅さんが頼長と別れたらしい。なんかかなり嫌な予感がする。
6.頼長のやつ調子にのって、今度は陰陽師に祈祷させてるらしい。テラキモス。
つーかストーカーだろ完全に。
1度会うだけの約束だったじゃねーかよ。祈祷のせいか最近夢見が悪い
676 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:41:10.64 ID:B0jTq1Kx
613 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 09:47:20.36 ID:IR7rRxeP0
7.久しぶりに忠雅さんから呼び出されたので、
何の用かとおもって家まで行ったら、ニヤニヤした顔の頼長がいた。
畜生、ハメられた。
って言うかこの日は忠雅さんの手前、断りきれずに
とうとう実際に「ハメ」られてしまった。ケツが痛ぇ……。痛ぇよ…。
8.妻が難産で死んだ……。子供も死産だった。欝だ。俺も死にたい。
とか言ってる矢先に、玄関先まで頼長が来てるらしいと従者から連絡が。
馬に乗って駆けつけてきたらしいが「空気読め」と百万回言いたい。
なんでこんな奴が藤原氏の氏長者なんだクソが。
馬より鼻息荒らそうで想像するだけでキモい。顔も見たくない。
もちろん追い返すように従者に言った。はぁー。
8.妻が死んでからは頼長も言い寄ってこなくなった。
さすがに俺の胸中を察してくれたのかな。
噂では今は年上の男と乳繰り合ってるらしいがもうどうでもいい。
9.と思っていたが妻の四十九日が終わった直後、
忠雅とさん一緒に頼長がうちまで押しかけてきた。
思わず警戒したけど普通に2人してお悔やみを言って帰って行った。
ホッっとした。意外と常識はわきまえてるんだな。
10.俺が甘かった。2日後にまた、頼長が今度は1人でうちまで来やがった。
もちろんまた俺のケツを掘ろうと必死に迫ってきたよ……。
開き直って交換条件を出したらOKしてくれた。
クソーこうなったらとことんコイツを利用して出世してやるしかねぇ。
ヤケクソだ。
なんかこんな感じだったw
続きが気になる人はヒストリア84号を読もう。
真面目な論文なんだけどそれだけに妙に生々しい。
614 名前:本当にあった怖い名無し[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 10:01:08.92 ID:EhN6dW4D0
頼長さんは保元の乱の時も、夜襲かけようぜ!ってノリノリの為朝さんに
「バーロー皇族同士の戦いでそんな姑息なマネができっかよ」と
謎のスポーツマンシップを発揮した挙げ句、相手方にさくっと夜襲かけられて
殺されたジェントルマンだからな。
677 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:43:15.38 ID:B0jTq1Kx
857 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/23(土) 13:33:59 ID:ObMPUxG9
上田宗箇は常々こう自慢していたという。
上田「ワシは今まで金銀は見た事がない!」
ゲヒ殿、なんかいってやってくださいよ。といいたいがこれを聞けばこの人達はこう言っただろう。
前田利家「銭があれば世の中怖い物はないんじゃ!」
黒田如水「銭で兵を雇うんじゃ!」
徳川家康「銭があれば何でも出来るんじゃ!」
徳川家康は「ケチ」だと、フロイスにも書かれるほど有名だったが、もちろん趣味だってあった。
なんだか文章があってないと思うかも知れないが、実はその趣味が何と「へそくり」。
しかも鎧櫃の中にへそくりをため込んでいたのだ。
ある日、どこかの大名家(名誉の為、伏せる)の家臣が使いとしてやってきた。
使者「申し訳ありません。のっぴきならない理由がありまして、つまりその・・・・」
家康「何?」
使者「お金貸してください!」
家康は家臣に言って奥から鎧櫃を持ってこさせ、開けさせた。
使者はこれを見てビックリした。そりゃそうだ。中にはぎっしりと詰まったお金の山。
それもきちんといつここに入れたものかも書いてあった。つまり「へそくりの記録付き」。
そしてその使者はもう一つ驚いたものを見つけた。銭に書かれた記録の中には、
家康がまだ三河の小領主時代のものがあったのだ!
恐るべき「へそくり歴」である。
ちなみに、某大名家の使者はちゃんと家康からお金を借りる事が出来たそうである。
863 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/23(土) 14:28:38 ID:ObMPUxG9
徳川家康の「ザ・へそくり術」
さて、
>>857の続編とも言うべき、「家康のへそくり」の話。
家康はへそくりが好きだったのだが、どうやってへそくりをしたのかというと・・・・
勘定方「殿。今年度の収入はこのようになりました。お言いつけ通り兵糧用の米と換金の米を分け、
銭の収入はこのようになりました。」
家康「決済する!」
そう、コイツも又、前田利家と同じく自分の勘定は自分で決済していたのである。
但し、利家の場合は例の「そろばん」まで用いて、本当に自分で計算までしていたが。
家康「この数字のキリがいいところまでは銭蔵に収めておけ、半端な銭はもってこい。」
勘定方「はっ!いつも通りにいたします。」
家康「それから奥向きで仕事をしている女房衆も呼んできてくれよ。」
こうして、奥から女性陣がやって来る。そうこうする内に、勘定の結果、「貫」の単位までは
銭蔵へ収められ、「匁」以下の端数の銭が持ち込まれた。
家康「これは、ワシの私的に使う銭(お小遣い)じゃ、数えておくれ。」
侍女「は〜い。」
こうして私的な銭が数えられた。そして・・・・・
家康「終わったか。では、鎧櫃へ入れよう。」
侍女「は〜い。」
こうしてへそくられた。
こうして貯められたへそくりでアッチコッチの大名にお金を貸した。
そして、味方を増やしてしまい、天下人になったのだ。
ちなみにこの鎧櫃、へそくりの重さに耐えかねて伏見城の床をぶち抜いたという。
678 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:45:03.25 ID:B0jTq1Kx
760 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/05/20(水) 18:29:20 ID:hPtFliDR
江戸時代末期、将軍徳川家定は台所で料理するのが好きだった。
これを見て松平春獄はこう言った。
春獄「男が台所にはいるとは、まったく芋将軍が。」
もしこの人が聞いたらこう言っただろう
( ●Д゚)「武将こそ台所に入りやがれ!バカ野郎!」
ご存知、仙台の不良老人、日本一のへそ曲がり、伊達政宗である。
この人は本当に多彩だった。武芸から芸事まで趣味のクラスター爆弾とも言うくらい
たくさんの趣味を持っていた。
この政宗が大好きだったのが、
「料理」
である。
なんでまた、と思わないように。
ちなみに細川幽斎も料理が得意だったが政宗の料理好きの原因はこれ。
→「兵糧研究」
簡単に言うと補給の問題を解決する為である。大きな軍隊を動かす政宗にとっては
若い頃から補給の問題に目を向けていたのである。
ところがこれにはまってしまった。
太平の世が来たときの目的はこれ。→「美食を極める。」
今度は今度でいろんな食材をどうするかという研究だったのである。
当然台所に入って自ら料理をした。
この結果、仙台は「美食の街」になってしまったのである。
政宗は常々こう言っていたそうである。
( ●Д゚)「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」
ちなみに兵糧研究から「凍り豆腐」が美食研究から「ずんだ餅」が生まれたと言われている。
679 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:46:26.97 ID:B0jTq1Kx
814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/14(土) 23:43:58 ID:k+QIANcy
江戸城禁煙令
父親の影響か、徳川秀忠もかなりの健康マニアであったようだ。ただ、父親と違うのは、
家康は案外、他人の嗜好には立ち入らない人間だったが、秀忠はそうではない。
自分が良いと思うことは、満面の善意で、人にも勧める人間である。
そんなわけで江戸城内に、こんな命令が出された
『喫煙厳禁!』
当時既にタバコは、世の中にかなり広まっていた。
当然徳川家中にも、である。ニコチン中毒者がこういう時考える事。それは禁煙!
ではない。
当然、「隠れて吸う」である。
そんなわけで江戸城内の御番衆の湯飲み所は、いつのまにやら秘密の喫煙室と化していた。
さて、ニコチン患者達が今日も安らかにタバコを吸っていると、そこにひょっこり顔を出した人間がいた。
「よっ?なにやってんの?」
老中、土井利勝であった。
一同驚愕、大慌てで各々とっさにタバコ道具を隠す。なかにはキセルでやけどする人間までいる
有様であった。
しかし利勝騒がず、部屋の中に着座し、
「そなた達が今吸ってたもの、私にも振舞ってくだされ。」
などと言い出した。一同すっかり困り果てたが、何度も所望するのでしかたなく、
袖の中やひょうたんに隠したタバコやキセルを出し、利勝に差し出した。
彼はこれを二三服吸うと
「思いもかけず珍しいものを頂いた。ありがとう!」
そういって帰ろうとした、と、そこで振り向き、
「今日のことは私も一緒だから当然誰にも言わないけど、私に見つかるくらいだからここは危ないぞ。
上様がお嫌いなものなんだから、五月蝿いのに見つからないうちに、な。」
そこでこれ以降、湯飲み所での喫煙はピタリと無くなった、とのことである。
680 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:48:01.49 ID:B0jTq1Kx
727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/12(木) 01:49:45 ID:0gCb8Q/X
ある日、武田家に仕えたいという牢人がやって来た。
そこで重臣たちが面接すると、かなりの才人であることがわかった。
「こいつは掘り出し物だ。きっと御家の役に立つであろう。」
ということで彼らは信玄にこの牢人のことを話した。
「とても優秀な男です。なんとしても召抱えるべきです。」
「ふ〜ん、お前たちは皆同じ意見なのか?
そうか、じゃあ召抱える前にどんな男かこっそり見てみようか。
その男に食事を出してやれ。」
そして信玄は隣の部屋から男の食事している様子をチラッと見ると、
すぐに自分の部屋に戻った。
「どうですか、なかなかよさそうでしょう?」
「あの男は登用しない。」
「は?」
「あれは牢人じゃないな。牢人はあんな食い方はしない。
いいとこの大名の、しかもそれなりに地位のある家臣だろう。」
「なんですとっ!?」
驚いた重臣たちは牢人のところに素っ飛んで行き、締め上げた。
「おい貴様、よくも我らを謀ったな!どこの家中の者だ!」
「ひぃっ、わ、私は○○家の者です〜。」
その男は都周辺の大名の家来だった。信玄の推理通りだ。
重臣たちは恐縮しながら信玄のもとに戻ってきた。
「ハッハッハ、だから常々言ってるじゃないか。
全員が百点満点をつけるような人間にろくな奴はいない、ってな。」
681 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:48:59.62 ID:B0jTq1Kx
296 名前: 紙やすり(catv?)[sage] 投稿日:2010/02/13(土) 19:01:00.91 ID:MlQXFf5i
>>235調べてたらこんなのがあったw
宇喜多中納言の略歴
1572年 岡山で誕生
1573年 近所の小川で泳いでいるところを家臣に目撃される。
1576年 旭川を泳いで渡る
1577年 大雨で水嵩の増した吉井川を渡っているところを領民に目撃される
1579年 児島湾横断に挑戦し成功する
1580年 岡山の燈籠崎から櫃石島、岩黒島、与島を経て宇多津へ遠泳する
1582年 瀬戸内海を泳いで東上し、本能寺の変を見物。即日泳いで帰郷する
1586年 前田家の姫君と結婚する。前田利家に挨拶するため、敦賀から金沢まで泳ぐ
1590年 小田原の役で伊勢から泳いで参戦
1592年 名護屋から釜山の近郊東莱まで泳ぐ
1597年 再度朝鮮へ泳いで渡る
1598年 朝鮮から泳いで帰国
1600年 関が原で敗北、大坂から泳いで薩摩に逃亡
1603年 島津忠恒によって徳川家康に引き渡される。大阪まで瀬戸内海を泳いで渡る
1606年 八丈島へ流罪が決まり、逃亡を恐れた幕府により、船で八丈島まで送られる
1614年 島流しになっていた八丈島から大阪城に出陣。徳川勢に苦汁をなめさせる
1615年 またも島流しになっていた八丈島から大阪城に出陣。敗北し泳いで八丈島へ逃亡
八丈島にいたらしいが、大坂や岡山での目撃証言や、
江戸城の御堀で泳いでいたのを目撃したという証言もある
1655年 八丈島で逝去。享年83
682 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 00:49:54.71 ID:B0jTq1Kx
伊達政宗が治めた領国は62万石
しかし、一説には江戸中期の実高は少なく見ても100万石
多く見ると150〜200万石程あった模様
ここまで実高を伸ばした背景には政宗の100万石への野望が
あったのかもしれない・・・
軍事ではなく内政で100万石に達した仙台藩
この大事業の陰に一人の浪人の存在が大きく関係している。
川村(孫兵衛)重吉(※しげよしorじゅうきちが一般的な読み方)
彼は関ヶ原の戦いで人生を大きく変えた人物である。
関ヶ原の戦い前夜
伊達政宗は会津の上杉景勝を抑える為に東北戦線に参加していた。
政宗は徳川家康から上杉景勝を抑えた見返りとして、葛西・大崎一揆時に
領地替えで没収された、米沢等を含めた50万石を与えられる約束を
されていた。
世に言う”100万石のお墨付き”である。
しかし当時、政宗30代中ごろの油の乗り切った時期・・・
未だ天下への夢は諦めていなかった。
また、世間から”狸”と評されている家康の話を鵜呑みにはしなかった。
( ●_ ̄)「家康殿はああは言っていたが、早々と石田方と決着が着くとは思えん」
「所詮は紙切れでしかない約束事などに如何程の効力があろうか・・・」
( ●ー ̄)「ここは騒ぎに乗じて領国を拡大する好機と捉えるが吉!」
「上杉を攻める準備の裏で南部領で一揆を扇動するかのう・・・」
政宗は上杉景勝をけん制する動きをしながら裏で南部領内に一揆を扇動したのであった。
また徳川方、石田方どちらに転んでもいい様に上杉にも和睦の使者を使わす動きを見せた。
683 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:50:50.87 ID:B0jTq1Kx
327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 03:06:14 ID:/evSTSPf
326つづき
しかし、政宗の読みとは裏腹に関ヶ原の戦いは1日で徳川方の勝利となる。
徳川方勝利の報を聞いた政宗はその場で落胆したという。
( ●_ ̄;)「わ、僅か1日で勝敗が決するとは・・・」
「やはり天の時は政宗ではなく家康殿を選ばれたか・・・」
止む無く兵を岩出山へ引いた政宗であったが
この時、戦後の論功行賞に対しての策が浮んでいた。
( ●ー ̄)「このままで終わる政宗ではないわ!!」
その後、家康から会津の上杉を抑えた件に関して感状が届いた。
その感状の返答として政宗は以下の要求を家康に強請った。
「徳川家康 様へ
この度の戦勝おめでとうございます。
さて、これから論功行賞に移られると思いますが、
私からこの度の上杉攻めに関しての恩賞をいくつか
リクエストしたく思います。
1.葛西・大崎一揆時に没収された米沢等の領地 50万石
(これは既に確実ですが、念のために書きましたw)
2.奥羽仕置時に太閤から没収された会津領 50万石
3.関東or京近辺に領国が欲しいです。 20〜30万石
あの強豪上杉を抑えたんですからこれくらい当然ですよね!!
上杉を私が抑えていなければ今回の東軍の勝利はなかったと
思いますよ!!
政宗あっての徳川家だということをお忘れなく・・・
家康様 期待してますNE!!
伊達政宗」
この書状を見た家康は怒りを通り越して政宗に呆れた。
家康「政宗という男は・・・こんな要求受け入れられるわけないだろ・・・」
「政宗が此度の上杉攻めの裏で南部領内の一揆を扇動したという
疑惑が南部利直から書状できておるし・・・」
「素直にしておれば米沢領50万石を拝領出来たものを・・・」
こうして政宗は米沢周辺50万石を家康から反故にされ代わりに
白石攻めで支配下に置いていた刈田領2万石のみの拝領となった。
この時点で仙台藩60万石・・・
その後、家康から申し訳ない程度で近江国(現:滋賀県)に1万石を拝領するに
留まった。
それからしばらくして・・・
政宗は京に向かう途中に家康から拝領した近江国の所領に立ち寄ることにした。
684 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:51:26.87 ID:B0jTq1Kx
328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 03:08:29 ID:/evSTSPf
326つづき
( ●_ ̄;)「確かに京周辺の所領だが・・・これ本当に1万石もあるのか?」
「ワシにはどう見ても3千石しかないように思えるが・・・」
田畑を訝しげに見ていた政宗の目に一人の男が映った。
ないやら田畑を見て「あーでもない、こーでもない」と言わんばかりである。
( ●_ ̄)「その方、何をしておる?」
( ・∀・)「いえ、この土地やりようによっては石高を倍に出来るかな
なんて考えてたんですよ」
( ●_ ̄)「何?この土地を倍にか?」
( ・∀・)「はい、そうです」
この男、早速政宗に土地改良の方法を説明し始めた。
あまりに斬新なやり方に政宗以下近習が驚きを隠せなかった。
( ●_ ̄;)「(これほどまでの男が何故浪人のような形を・・・)」
( ●_ ̄) 「お主、何故それほどの能力がありながら浪人のような形を
しておるのだ?」
( ・∀・;)「いや〜、元々私は毛利家に御仕えしていたんですが
関ヶ原の戦いで毛利家が120万石から36万石に減俸
されまして・・・」
( ●_ ̄) 「それで浪人となったと・・・」
( ・∀・;)「はい・・・」
この時、政宗の脳裏に家康から”100万石のお墨付き”を反故にされた事が思い出された。
( ●_ ̄) 「(身から出た錆とはいえ、100万石を不意にしたのは痛かった)」
「(これから大きな戦はないであろうし、軍事的に領土を増やすのは
もう出来ない。しかし、内政的には増やすことは出来よう)」
「(幸か不幸か、わが領国には未開拓の土地が山のようにある。それを
開発できれば・・・)」
( ●ー ̄)「(100万石、いや200万石も夢ではない!!)」
( ●_ ̄)「お主、ワシに仕えぬか」
( ・∀・;)「え?伊達様にですか?」
( ●_ ̄)「ワシの領内には未開発の土地が山のようにある。これからは戦で領土を拡大する
時代ではなく内政で領土を拡大する時代になろう。」
「そちのように治水・土木に精通する人間が必要になる」
( ●ー ̄)「どうじゃ?ワシとともに100万石、いや200万石を自らの手で開拓してみぬか!」
男はしばらく考えた
( ・∀・;)「(毛利家ではそんなに重用されなかった私を
必要としてくれる方がいたとは・・・)」
「(これも何かの縁だ、この方の御仕えしよう)」
( ・∀・)「伊達様!若輩の身でありますが、宜しくお願い致します!」
( ●ー ̄)「うむ、宜しく頼むぞ」
( ●_ ̄)「ところで、そちの名を聞いていなかったな」
( ・∀・)「川村重吉(かわむらしげよし)と申します」
( ●ー ̄)「重吉、宜しく頼むぞ」¥
こうして川村重吉は伊達家に仕官することとなった。
その後の重吉の仕事振りに伊達家中は驚きを隠せなかった。
685 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:52:26.04 ID:B0jTq1Kx
329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 03:09:57 ID:/evSTSPf
326つづき
当時の仙台城下は湿地帯でおまけに広瀬川は谷川という状態だった為、
井戸水の確保に頭を悩ませていた政宗は重吉に・・・
( ●_ ̄;)「城下に井戸が掘れるようにならんかね?」
と相談した。これに対して重吉は・・・
( ・∀・)「簡単です。広瀬川の上流から支流を人工的に作って
緩やかに水を流して町中を潤し、地中に水を浸透させればいいんです。」
と答える。
しかし、現在ほど治水・土木技術が発達していない当時この難事業は無理ではないか
と思われていたが、重吉はいとも簡単にこなしてしまう。
これが、現在の四ツ谷用水の基となった。
(この事業事態は伊達吉村まで引き継がれることになります。)
しかし、重吉とってもっとも難事業となったことがある。
北上川の治水工事です。
元和2年(1616年)から寛永3年(1626年)の10年を費やす難事業となった。
重吉自身、工事費ねん出のため自ら借財、工事現場に泊り込み、
従事者達と汗を流し、筆舌に尽くせぬ労苦を重ねる。
その結果、迫川と江合川を北上川に合流させ、
北上川本流を石巻湾に南下させる河川改修事業が成功。
この結果、三川が合流していた仙北平野の開発が進みました。
また仙台藩米のほかに盛岡・八戸藩米の川下しが開始され、
内陸水路が整備されて河口港石巻が成立された。
葛西家滅亡後寒村に過ぎなかった石巻に一躍米の集散地となり、
河口周辺には仙台、盛岡、一関、八戸各藩の米倉が立ち並び、
江戸へ米を運ぶ千石船が往来繁栄を極めた。
治水に伴って流域では三十三万石余の新田開発も行われ、
地域の発展に計り知れない恩恵をもたらした。
686 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:53:09.41 ID:B0jTq1Kx
330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 03:11:20 ID:/evSTSPf
326つづき
その後、重吉の活躍に対して政宗は1500石の領地を与えた。
しかし、重吉の家臣たちはこの政宗の褒美に憤慨した。
家臣1「殿はあれだけの大事業をなされたのに、
政宗様はたった1500石程度の褒美とは・・・」
家臣2「殿があまりに不憫過ぎます・・・」
そうぼやく家臣に重吉は笑いながらこう言った。
( ・∀・)「この1500石と書かれている領地はまだ未開拓の土地。
政宗様はこの土地好きなように開拓しろと書いている。
我らの力を持ってすれば10倍いや、
20倍にだって出来るではないか!!」
差し詰め、政宗は重吉に小切手を渡したといった感じであろうか。
重吉は貰った土地を開拓しながらも、さらに領内の治水・土木工事を
積極的に進めて行った。
北上川の工事完成後は石巻に住み、
慶安元年(1648年)、74歳で世を去る。
死の直前まで開拓現場に足を運んでいたようである。
それから335年後の昭和58年(1983年)8月1日・・・
宮城県の地元紙・河北新報社は、石巻市制施行50周年に当たり
港町石巻の基礎を築いた大恩人としての業績を後世に伝えるため
宮城県石巻市の日和山公園内に川村孫兵衛重吉の銅像を建立、
石巻市民に寄贈した。
関ヶ原の戦いで浪人となった川村重吉・・・
歴史に”もしも”を持ち込んでは行けないが毛利家が重吉の才能を
分かっていたら、幕末の長州藩はどうなっていたのだろうか
等と考えてしまう。
687 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:53:44.17 ID:B0jTq1Kx
173 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/02(月) 17:51:40 ID:jHcr0HH1
武田信玄の家臣に、原昌俊という武将がいた。
この昌俊は、辺見某と言う家の娘を、嫁とした。
この辺見某は合戦に追われ、家にいることがまれで、また、その妻も早くに死別し、
娘は屋敷で一人、さびしく留守をすることが多かった。
その家は上条の地蔵堂のほとりにあった。
結婚をして、この娘は昌俊に、深く愛された。娘もまた妻として夫を深く愛し、
新たな、あたたかい家庭を得た事を喜んだ。
が、妻は間もなく病に倒れ、必死の看病も空しく、はかなくも世を去った。
昌俊の嘆きは例えようも無いほどであった。
妻は死ぬ前に、法成地の地蔵堂の方に向かって手を合わせ、どうか願いをかなえてください、と、
地蔵の寳号を唱えながら死んだ。
そこで昌俊は妻を法成寺の後ろに墓をつくって葬り、自身もまた、妻が後世に導いてもらえるようにと
地蔵菩薩に帰依し、祈った。
妻の死から、100日を経た夜半の事である。
杖をつき、水晶の数珠を身につけた80歳ほどの老僧が、昌俊の家の戸をたたいた。
何事かと尋ねると、老僧は言う、「おぬしの妻が生き返ったので、連れてきた。」
昌俊は大いに驚き見ると、僧に、ぐったりとしているが確かに生きている妻が抱えられていた。
僧は言う。「自分は法成寺の内に住む者だが、今宵、堂より出でてみれば、塚が崩れ、この人が
倒れておった。何者かと尋ねれば、原昌俊の妻だと言う。よってここに連れて来たのだ。
良く、養生させるように。」
そしてかき消すようにいなくなった。
後で確認をしてみると、確かに妻を埋めた塚は崩れていたと言う。
さて、蘇った妻は、最初は呆然として、記憶なども欠落していたようだが、昌俊が粥などあたえ
看病しているうち、七日ほどたつと元のように戻った。
ただ、明るい場所を嫌うようになった。
ともかくも、元の幸せな生活が戻ってきた。翌年には子が生まれた。そして3年がたった。
妻は涙を流しながら、昌俊に言った。
「私は、この世の者ではありません。
あなたともう一度だけでも過ごしたくて、上条の地蔵菩薩にお願いをし、3年の間だけ、この世に
戻ってくる事を許されました。
その時間はもう、尽きようとしています。
子を残していくのはつらいですが、私の塚は壊さないで、良く弔ってください。どうか、
私のことを、忘れないでください。」
そして、消えた。
後で彼女の塚を見ると、崩れていたというのは幻で、草が茫々として生い茂っていた。
人々は不思議な事と囁きあい、この事を聞いた信玄は、法成寺の地蔵堂を改修し、
昌俊の妻の菩提を弔った。
そして昌俊はこれ以後、新たに妻を持つ事はなかった。
彼女の残した子は、成長した後、原隼人を名乗り、武田にその人ありと天下に名を響かせることになる。
688 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:54:38.44 ID:B0jTq1Kx
74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 11:20:50 ID:40yFsSUj
スレの流れを変えるには食い物ネタに限るな
ラスボスとふぐの話をとあるサイトよりコピペ
豊臣秀吉による文禄・慶長の役の際に
下関から海を渡っていった、しかし兵士が下関で獲れた
ふぐを内蔵ごと食べまくったせいで集団による食中毒死者を
大量に出してしまいました。
烈火の如く怒った秀吉により出されたのが「河豚食用禁止令」であり、
日本最初のふぐ食用取り締まり令だと言われている。
江戸期になるとあちこちの藩で禁令が出されるようになり、黒田藩や長州藩では河豚を食べ中毒死した場合はお家断絶と、
武士にとって最高の厳罰が設けられた。
しかし「河豚は食いたし命は惜しし」、「真に一死に値する」といわれる河豚の味。
江戸時代の俳人・一茶や芭蕉も河豚をよんだ句がいくつかあり、そのうまさに魅かれて、さかんに河豚を食べている。
禁令をくぐって広く食用され、落語のネタや浮世絵の画材にされるなど愛されていた。
明治になってからも「河豚を食う物は拘留科料に処する」という禁令があった。
75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 11:22:14 ID:40yFsSUj
明治21、22年の頃、すでに伯爵になっていた伊藤博文が
下関の料亭「春帆桜」(明治28年日清講和条約の舞台)を訪問した際に、
あいにくその日はしけで魚がない、女将がその旨を申し上げると
「俺はよいが馬関(下関)に来て、魚がないとは…。」とやんわりと皮肉った。
女傑として名高い女将が、それではと意を決して禁令の河豚を出したところ、
「一身よく百味も相をととのえ」と絶賛し、「調理法さえ間違えなければこんなに美味い
ものを禁じるのは勿体ないことだ。」早速、時の山口県令・原保太郎に命じ、
「違警罪即決例」のふぐの条項を削除させるように働きかけたのが「ふぐ解禁令」である。
全国で最初にふぐ食が解禁されたのが山口県であったということも、
下関でふぐが盛んになっていった要因の一つであると言えよう。
しかし河豚食が解禁されたのは山口県だけで、合法的に全国で河豚を食すには、戦後を待たねばならなかった。
(東京都は、明治25年、兵庫県は大正7年、大阪府は昭和16年に解禁)河豚といえば山口といわれるようになったのは、
このような事情からと推察される。
94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/31(土) 18:54:03 ID:D3V+kteZ
>>75 一方少し送れて昭和後期、下関に立ち寄られた時の天皇(昭和天皇)は
万が一を警戒した近習によって河豚を食べさせてもらえなかった。
しょんぼりと膳(河豚抜き)のものをつつく天皇陛下をよそに、同行の
政治家や役人は河豚の美味をかみ締めていた。
陛下、そんな一同を見渡して曰く。
「河豚には、毒があるのだぞ…」
滅多に我侭を言わず、美食家ではあられたが食事への不満を言わぬ事
で有名であった陛下ですら負け惜しみを言ってしまうほどに世の人を
魅了した魅惑の食材なのでした。
689 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:56:10.74 ID:B0jTq1Kx
785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/04(日) 06:34:11 ID:Mkh9BYHf
最上義光、人生を語る
―義光公は無道に報いず、将兵を我が子のように愛すると評判ですが。
「まあそうだね、武士っていうのはさあ、結局扇みたいなものなのよ。
要が大将、骨が物頭、総勢は紙ね、わかる?
どれが欠けても駄目ってことだね。だからさ、そうするのが当然なの」
―知仁勇を備え、寛大で柔軟だけど邪悪ではない性格だそうですね。
「やめろよ、照れるだろ。侍道に背かないようにしていただけだよ」
(※義光が書状でよく使っていた言葉は「侍道」。いまでいう武士道
と道義ではなく「常識的に考えて」みたいな意味)
―戦国という時代を振り返ってみていかがですか。
「そうねえ、この時代には神社や寺をぶちこわしたり、主君の恩義を無視したり、
親不孝だったりしたりね。あと贅沢三昧で金がなくなったら、税金重くしてって
いう。そういうDQNがいて滅びたりしたよね。
DQNっていうのは結局DQNだし、それをしかりつけない家臣もだめなのよ」
―ご自身はそういうことはなかったのですか?
「そりゃオレだって若い頃は天童や白鳥と戦ったりね、バカやって領民に
苦労かけちゃったからね。上杉との合戦では戦死者一杯だしたし、
そういうのは今になってみればすごく恥ずかしいよ」
―成功の秘訣は?
「どうだろうね。まあ神仏に助けられて、こうやって領地をおさめられている
わけだからね。そうはいってももう年だからさ、あとは死ぬしかないわけだよ。
さみしいよね、本音言うとさ。
で、もうここいらで恩返ししよっかな、って思うのね」
―恩返しとは?
「戦いで占領した土地からは、軍の給料とする以外はあと三年は年貢とらないよ。
その浮いたお金で寺社仏閣の整備、修復をしてくれればいいからさ」
―気前がいいですね。今日はありがとうございました。何か一言どうぞ。
「みんな、妹や家族は大事にしろよ!」
(※『最上記』、『奥羽永慶軍記』、『羽源記』、義光書状
などにある義光の発言や評価をまとめてみました)
690 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 01:56:59.37 ID:B0jTq1Kx
731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/01(木) 20:32:27 ID:obqaIR0A
名将言行録から人間慌てると何を言うかわからん話。
1.蜂須賀家政家臣
蜂須賀家政の家臣何某は病気になって休みをとっていた。
病気とはいえたまには運動せんと…とでも思ったか、ある日家の近くをゆっくり
歩きまわったりしていたところ、そこにちょうど家政の駕籠が通りかかった。
何某が頭を下げていると家政が駕籠から降りてきて、
「お前病気って話だったけどなんの病気?」
何某ははっとして、これは俺が出歩いてるのを見て、
こいつ仮病で休みやがってと思われてるんじゃないか!?
えーと…えーと外出してても問題なさそうな病気…
「つ、つんぼです!」
ヤッチマッター!
そんなわけねえ!そんなわけねえー!
しかし家政はこれを聞いて「よく養生しろよ」とだけ言って帰ってしまった。
何某がこの失態を責められるのではと家で恐れおののいていると、
家政から漢方薬と見舞いの言葉が送られてきた
「顔色も悪いし痩せこけてるからこりゃ肝臓かなと思って聞いてみただけだ」
ほっとした何某はやがて快癒して出仕もできるようになった。
これはとっさに嘘の病名を言ったことを気に病んで治るのが
遅くなってはいかんという家政の心遣いだったという。
家政は常々人に「武士は情あるを以て好しとす」と語っていたそうな。
691 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 02:56:54.68 ID:B0jTq1Kx
732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/01(木) 20:32:59 ID:obqaIR0A
2.黒田如水家臣
聚楽第に諸大名が伺候していた当時、黒田家では賭博はご法度だった。
ところがお分かりと思うが禁じられていてもやる奴はやるということで
黒田家の家臣桂菊右衛門はその夜博打で大勝ちして、羽織に包んだ戦利品
片手にほくほくと朝帰りの家路を辿っていた。
ところがはっと気が付く、ありゃこの道は大殿が仕事に出る時に通る道では
なかったか。
鉢合わせになったりしたら嫌だなあ…そう思いながら進んでいると、
悪い予感は当たるもので、角を曲がった所でばったり如水と会ってしまった!
ここで何某慌てたのなんのって、思わずこう叫んだ
「それがしっ、博打の帰りではございません!」
ヤッチマッター!
如水はその場ではなにも聞かなかったように通り過ぎたが、桂は後悔した。
あんなことを言ったらそりゃあバレるに決まってる。俺はもう切腹だ。
家でふさぎこんでいると事情を知った朋輩も、そりゃお前切腹だよと
沈痛な表情で見舞いに訪れる。
もちろん明日の命も知れぬとあっては金どころではなく、戦利品の包みは
その辺に放置され中身も確かめないままであったが、
当の如水はそれを聞いて大笑いし「よしよし勝ったか、まあ勝ったところで
打ち止めにしておけ、いいことの後は悪いことがあるぞ。
今朝みたいなアホなことを言い出すのも法度を恐れるあまりのこと、
そんなに大事と思うなら今度からどんな法度も破らぬようにすることだ。
今回は許すがその内身代を擦り切らせたなんて話を聞いたら今度こそ
罰を与えるぞ。
とにかく博打に限らず無駄遣いしたりして擦り切らないように気をつけろ」
如水はこの調子で世知に長けて、落ち度があっても厳罰に処すことはなく
相手に非を悟らせ機会を与えたので非常に仕えやすかったそうだ。
殿様っていうのはフォローも上手じゃなきゃいけないんですね。
692 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 02:57:44.88 ID:B0jTq1Kx
526 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/25(木) 00:23:55 ID:PyeGt8Rf
政宗の国風六首
政宗が朝鮮出兵のおり、幼い頃からの近臣であった原田宗時が対馬で病没した
友とも言える宗時の死に、政宗は和歌六首を贈った
夏衣 きつつなれにし みなれども 別るる秋の 程ぞ物うき
虫の音も 涙催す 夕ま暮 淋しき床の 起臥はうし
哀れげに 思うにつれぬ 世の習い 馴れにし夢の 別れをぞする
みるからに 猶哀れそう 筆の跡 今より後の 形見ならまし
誰とても ついには行かん 道なれど 先立つ人の 身ぞ哀れなる
吹き払う 嵐にもろき 萩の花 誰しも今や 猶まさるらん
上から順に頭の一文字を取ると「なむあみだぶ」となる
DQNと言われまくっている政宗であるが、こんなセンチな面もあるのだ
以下余談
原田家は跡継ぎがおらず、桑折家からの養子・宗資を迎えることで名跡を残した
その原田宗資と茂庭綱元・香の前の娘おつた(一説には政宗の落胤)の子が
伊達騒動で有名な原田甲斐である
おつたが本当に政宗の娘であるならば、原田甲斐は
原田宗時の義理の孫であり、
茂庭綱元の義理の孫であり、
なおかつ政宗の孫という、かなりややこしい血筋となる
693 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 02:58:21.95 ID:B0jTq1Kx
180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/09(火) 23:17:40 ID:U/FGy2Xg
朝鮮出兵で浅野長政は心配で夜も眠れなかった。まだ若い我が子が朝鮮に出兵するのだ。
長政はたまらず清正の屋敷に駆け込んだ。
驚いた清正は兎に角話しを聞いた。
長「まだ若い幸長は血気盛んだ。敵陣に真っ先に突入して死んでしまうだろう」
清「若いならそれくらいの方がよろしいでしょう」
長「異国で日本のような戦が出来ようか?勝手が違うと私は思うのだ」
おろおろするのを見かねた清正は
「なら私が親となり朝鮮では幸長殿の面倒をみましょう」
っと幸長の義父となる事を長政に告げた。
幸長は喜んで屋敷に帰り幸長にその事を伝えた。
其を聞いた幸長も「憧れの加藤様と一緒に戦える」と喜んだ。
翌日二人は揃って清正邸に赴いた。
長「いいか幸長、これよりお前の父は清正殿だ。
知っての通り清正殿は天下に名を知られた武士だ。
お前も清正殿を見習い清正殿のようになれ」
幸「よろしくお願いします、父上」
清「私は子が居ないからいきなり子が出来たようでこれは嬉しいものだな」
その後、朝鮮出兵中二人は泥水啜って戦い抜いた。
幸長は清正を本当の親父のように思い「清正殿に成りたい」と清正を目指した。
帰国した幸長は大いに成長していた。
清正の下で激戦を潜り抜けてきた幸長は立派な将に成長していた。
長政が家康に靡いても幸長は家康の天下を認めながらも豊臣家に尽くした。
幸長にとっては家を盛り上げてくれた恩は豊臣家にあれど一度は謀反人と罰せられた豊家に思い入れようはあまりない。
しかし彼は武士としての忠を貫いて行動したのである。
それは清正から学んだ忠義の姿勢である。
いつの間にか清正と幸長は豊臣家の二大重鎮となっていた。彼は清正と並び称される事が誇りだった。
しかし義父である清正死後、後を追うように幸長も死んでしまう。
この二本の柱が折れてしまった事により豊臣家は暴発し滅びる。
↓死因
清正「お主、童貞だな」
幸長「どどど童貞ちゃうわ」
清正「まぁまぁ一緒に街にでもくりだそうや。フヒヒヒヒ」
幸長「ごくりっ…」
694 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 02:59:00.05 ID:B0jTq1Kx
705 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/24(月) 22:26:49 ID:kk5WKUU7
黒田如水が、福岡城を築城していた頃
建築現場から、木材が盗まれるという事件が頻発した。それがあまりに続き、工事の進捗にまで
影響をし始めた。それを聞いた如水の命で張り込みが行われ、やがてそれが功を奏し犯人を逮捕できた。
大工の一人だった。
報告を受けた如水は、その場に大工や左官どもを集めておくように、と言い、捕縛された
大工の元に駆けつけた。そして大工や左官達の前に犯人を引き出すと、いきなりこれを、
罵倒し始めた。
「この材木泥棒め!お前は泥棒などして恥ずかしいとは思わぬのか?大うつけが!」
そして扇子で犯人の頭をぴしゃりと叩き、「恥を知る頭もないか」と罵った。
やがて大工や左官達に振り返り、「よいか皆のもの、この男は盗人である!その罪により打ち首といたす!」
そしてこの男は一旦、石牢に入れられた。
そして数ヶ月がたった。
あの犯人は、そのまま石牢に入れられていた。如水から、刑執行の命令が無いのだ。
もしや大殿はあの罪人の事をお忘れになっているのでは?そう思った家臣達は、如水に尋ねた。
「どうでしょう、明日にでもあの罪人を打ち首になされては…?」
「ばかもの!」如水が怒鳴った「お前達は命の大切さを知らぬのか!?」
殿が打ち首にせよと言ったのではないか、そう思い唖然とする家臣たちに如水は
「よいか、大将たる者、理非賞罰の心構えがなくてはならぬ。お前達は、あの時大工を集めたのは
見せしめのためだと思っておろう。それはその通りじゃ。大工達を戒めるため、あの場に集めた。
…が、犯人を殺すかどうか、これは別じゃ。人間は、誰しも何かの役に立つ。だが、盗まれた
材木に衣服を着せても、あの犯人の大工と同じ役に立とうか?出来まい。
かように、人の命とは大切なものだ。みだりにこれを奪ってはならぬ。
お前達は、人の上に立つ者達だ。最初に盗まれた時、『再び罪を犯せば次は無い』、そう知らしめ、
同じ事を繰り返さぬようすることが役目であろう。
それを、何度も盗まれていながら、捕まえたから首を斬る。これではあまりに浅はかであろう。
あの犯人を放って置いたのは、お前達の誰かがこのことに気がついて、防犯を徹底できなかった
自分達も悪い。このたびだけは許してやってほしい。そう言いに来ないかと、それを待って
いたからなのじゃ。
よいか、この事をどうか、よく考えて欲しい。そしてあの犯人は、今回だけは許してやるのだ。
『この次は無いぞ?』と言ってな。」
治世を為す者は、罪を犯したものを憎む前に、その罪を犯させてしまった自らを省みよ。
そんな事を伝えた、黒田如水のお話
695 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 02:59:50.56 ID:B0jTq1Kx
611 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/19(水) 18:45:23 ID:7jr2svV7
堀秀政のちょっと良い話(戦場編其ノ一)
人使いが巧く、「名人久太郎」と呼ばれた秀政。戦場でも彼はその才能を発揮していた。
合戦での陣中の夜間、特に風雨の強い時などは
「陣泥棒」と言う、武具や糧秣を盗む盗賊が
いて、当時の武将達は常に警戒していた。だが
秀政の陣では「陣泥棒」にやられる事が無かった。
秀政は見張りの兵達に、こう申し付けていた。
「今宵は風雨が強く、泥棒には絶好の機会だ。もし
『陣泥棒』が来なくても、わしがスキを見て泥棒に
入るので、気をつけておけよ。」
大将にこう言われては、厳しく警戒せざるを得ない。
秀政はこうして「陣泥棒」を防いだのである。
612 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/19(水) 19:19:38 ID:7jr2svV7
堀秀政のちょっと良い話(戦場編其ノ二)
秀政が秀吉の配下として九州平定戦に従軍していた時の話である。
秀政は城を攻めていた。城方から勇敢にも
討って出てきた、敵兵五十人ほどを生け捕り
にした。秀政の前に引き出された敵兵達は、
見せしめの処刑を覚悟した。
秀政は敵兵達に言った「九州に来てから城攻め
ばかり。攻めた城はどこも一日で落城し、わし
は次々と行軍せねばならず、本当にきついのだ。
そこでお前達に頼みがある。このまま城に帰って、
せめて後三日は持ちこたえてくれないか?対陣して
いれば軍を動かさずに済むからな。」
と言って敵兵全員を解放した。すぐさま城に逃げ
帰った兵達は、とても敵う相手ではないと悟り、
城方は即座に降伏した。「名人久太郎」の面目躍如である。
もっとも、秀政は本当に休みたかったのかもしれないが…
615 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/19(水) 21:22:55 ID:7jr2svV7
堀秀政のちょっと良い話(政務編)
ある時、堀家では論争が起きた。それは
「荷駄を運ぶ際、荷駄の数を決める勘定役と、
荷駄を運ぶ担ぎ役とではどちらが偉いか?」
と言うものであった。現代風に言えば経理担当
と現場担当どちらが大変か?と言う感じである。
これを聞いた秀政は勘定役、担ぎ役の双方を集めこう言った。
「わしはかつて、蔵入り奉行(経理担当)をして
いたので、勘定役の苦労はわかる。だが担ぎ役は
したことが無いゆえ、今からやってみる。荷駄を
用意してくれ。」と言って荷駄を用意させ、自ら
荷駄を担いで小高い山を乗り越えた。
そこで一緒に着いてきた勘定役と担ぎ役の双方に言った。
「わしも戦で鍛えたゆえ、荷駄ごときと思っていたが、
間違いだった。ここに運ぶまでにヘトヘトになってしまった。
担ぎ役達には、いつもこの様な苦労をさせていたのだな。
本当にありがたい。これで勘定役も荷駄を運ぶ苦労がわかったで
あろう。お互いが苦労をいたわれば良いのではないか。」
勘定役、担ぎ役の双方は秀政の体を張った説得に感動し、和解した。
以後論争は無くなり、家中の団結は一層強くなったのである。
696 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:00:45.98 ID:B0jTq1Kx
645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/20(木) 20:46:08 ID:uUJ+sXDV
加藤嘉明の家臣に、河村権七という者がいた。
彼は関ヶ原でも大功をたてた者であったが、生来頑固であり、あるとき、
嘉明と行き違いで口論となり、腹立ちのあまり加藤家を出奔することにした。
が、出奔した後「あいつは他の家に、今より良い条件で仕えるために出奔したのだ。不忠者だ」などと
言われるのも片腹痛い。そこで、書置きを残した。
「この度お暇を頂くのは、他家に仕えるためではない。例え放浪の身になっても、
加藤家以外に仕える事はない。今後加藤家に大事があったときには、何処にいようと掛けつける。」
そうして、出て行った。これを知った嘉明は渋い顔をしたが、そのままほおって置いた。
14年の時が過ぎ、大阪の陣となる。
この時、豊臣恩顧の大名の多くは、江戸に留守居として抑留された。無論嘉明もそうなった。
そしてこんな噂が流れた。江戸に抑留された大名達は皆、改易されるのではないか?
そんな嘉明の江戸屋敷に、汚い身なりをした修験者が現れた。
「どうか殿にお目通りを」河村権七であった。
嘉明は驚き、対面した。「加藤家改易の噂を聞き、いても立ってもいられず参上いたしました。」
「…よく来た。書置きのとおりにいたしたな。」
嘉明はそれを喜び、河村を、元のように八百石で召抱える、戻って来い。と言った。
最初権七は恐縮したが、ついにこれに応じた。
「よし…。ではこちらに来い。」
嘉明は権七を、屋敷の一室に連れ出した。その部屋には、紫の布に覆われた、山のようなものがあった。
これはなんだろうと、権七が不思議な顔をしていると、嘉明は家臣に命じその布を取らせた。
その下には、莫大な金銀があった。
「権七、お前の俸禄じゃ。」
権七は混乱した。たった今八百石で仕えるとは言ったが、それが何故このような大金になるのか。
すると、その布を取った家臣が言った。
「これは河村殿が、『見聞の旅』に出ている間の俸禄を、殿の仰せで積み立てておいたものです。
14年分で一万一千二百石。どうぞお納めなされ。」
「お前は14年前、言ったな」唖然とする権七に、嘉明は語りかけた
「他家には仕えぬ。わしの一大事には駆けつける。お前の忠心を思えば、わしにはおぬしの俸禄を、
横領することなど出来なかった。そして今、その通りにしてくれた。
権七、またこの嘉明に、力を貸してくれ。」
権七はただただ、感涙にむせんでいた。
大阪の陣の後、会津四十万石に加増された加藤家において、河村権七は良く、嘉明を支えたという。
697 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:42:37.83 ID:B0jTq1Kx
568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/18(火) 18:06:45 ID:vu+4blV7
彦根城の人柱
慶長八年(1603)、家康の命により築城の始まった彦根城。工事は順調に進んだが、
天守の築造にいたってとたんに進捗が滞った。どうやっても上手く行かないのだ。
これに、工事関係者は「人柱を用いるべきではないか?」
と、ささやき始めた。この声は藩主、井伊直継にまで達したが、直継は
「人柱など立てても、工事が進むわけではない。人命を無駄にしてはならぬ。」
と、それを認めなかった。しかし、工事は遅々として進まない。
責任者の普請奉行は、深く悩んだ。自宅でも工事の事ばかり考えていた。
どうすればこれを打開できるか…
父の悩む姿に、その娘、お菊が、思いつめた顔で言った
「父上様、私を人柱にしてください!」
唖然とする父、そして母。だがお菊は言う、
「父上はいつもおっしゃっているではないですか、殿様がお困りの時は、
命を捨ててご奉公しなければならない、と。」
「だが、それは…」
「今こそわたくしが、殿様のお役に立てるときではございませんか。
そのために投げ出す命なら、本望でございます!」
娘に説得され、翌日普請奉行は直継にこれを進言した。
「なんと…」
直継はしばらく考え、言った
「お主の娘の忠心、感じ入った。このとおり、礼を申す。」
主君であるにもかかわらず、直継は普請奉行に深々と頭を下げた。
お菊は、人柱となることになった。
数日後、白装束に着替えたお菊は、白木の箱に入り、埋められた。
「殿様のお役に立ってまいります。」
それが最後の言葉だった。
普請奉行は、娘が埋められるところを見ることが出来なかったと言う。
お菊の埋められた数日後、天守は無事、天守代にすえられた。工事は成功した。
直継から、普請奉行の元に書状が届いた。
お前達には、この工事の事で特に礼を言いたいので、内儀と一緒に屋敷に来て欲しい、と。
夫婦二人、御前にまかり出た。平伏していると、直継が入ってきた。「顔を上げよ」視線を上に上げると
「あっ!」
「父上様!母上様!」、お菊がいた。
「わしはな」
仰天している普請奉行夫婦に、直継は言う
「最初から、人柱などするつもりはなかったのじゃ。だが工事の者達はもはや、
人柱をしないと納得できないようであった。だからお主の娘を埋めると見せかけ、
こっそり空の箱と取り替えたのだ。みな、人柱があったと思い、
おかげで工事は順調に進んだ。黙っていてすまなかった。礼を申す。」
普請奉行は涙を止める事ができず、ただただ体を震わせながら平伏していた、と言う。
698 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:44:00.99 ID:B0jTq1Kx
520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/17(月) 10:02:38 ID:YhqBQFKz
遊郭と家康
駿府の城下町に遊郭ができ、徳川家の旗本御家人に大人気となった。
家康は内心御家人の遊蕩を苦々しく思ったが、遊郭が城下町の繁栄に貢献してい
ることもあり、特に取り締まりはしなかった。
しかし、家康が遊郭を放任したことで、御家人の中には遊郭の借金で首が回らなく
なる阿呆が出る始末。
そこである作戦を考えた。
ある時駿府町奉行から、
「上様が遊郭の遊女の踊りを御覧になりたいので、上様の御前で選りすぐりの遊
女による踊りを披露せよ。」とお達しがあった。
数日後遊女たちは家康の御前で見事な踊りを披露し、家康は遊女一人一人に菓子
を自ら与えるほどの上機嫌ぶり。
そして、遊郭に帰ろうとする彼女たちに町奉行はこう言った。
「上様はそなたたちの魅力にメロメロになられたそうだ。そなたたちの内から上
様のお側仕えに何人か召し出されると思うので、その準備だけはしておれよ。
但し、この話は内密にな。」
この話を聞いてすっかり有頂天になった遊女たちは、早速客の御家人たちにその話
を自慢した。
それを聞いた御家人たちは、
「こんなに口が軽い遊女たちが上様のお側仕えになれば、俺たちの遊蕩も洗いざ
らい上様にばれるに違いない。」とすっかりブルッてしまい、その日を境に御家
人の遊郭通いはピタッとなくなりましたとさ。
(名将言行録)
699 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:44:53.31 ID:B0jTq1Kx
457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/15(土) 16:39:35 ID:JUL2/4z8
大阪冬の陣が始まろうという頃
杉野右馬允の家臣に山本才助という者がいたが、その才介の召し使っている老女に、
この年18になる、三之助という者がいた。この若者が、主人が出陣するのなら、
自分も是非連れて行って欲しいと、そう言って来た。
才介は「年老いた母がいるのだ、国元に居ろ」と言ったが、その母も
「武家に奉公している者は、戦の時は主人の共をして出陣するものです。私の事は心配せずに、銅か息子の願いを聞いてください。」
そう頼むので、従軍する事となった。
そして大阪に着き、合戦が始まった。大阪城から数百丁の鉄砲が、一斉に放たれた。
とたん三之助は、
逃げた。
初めての戦場と大量の鉄砲の音、緊張と恐怖でわけがわからなくなり、戦場から逃走したのだ。
故郷の屋敷に、ボロボロの姿で現れた三之助を見た母親は驚いた。
「もしや、ご主人が討ち死になさったかい!?」
「いいや、ご主人にはなんにもなかったけど、大阪城からの鉄砲の音を聞いて、天地が崩れるかと思って一目散にここを目指して逃げてきた。途中で金がなくなり、乞食をしながらやっと帰りついた」と、答えた。
母は最初の驚きが過ぎると、だんだん腹が立ってきた。
「お前のような者とは親子の縁を切る!これが今生の別れだ!」と、金を渡して屋敷を追い出した。
大阪冬の陣は、和議が成った。
杉野軍も国許に戻った。さて、母に追い出されて十日後、あの三之助がまた屋敷に戻ってきた。
母はまた彼を叱り飛ばし、追い出そうとしたが、屋敷に帰っていた山本才介がそれを聞きつけ、三之助を呼んだ。
「お前はどうして逃げたのだ?」
銃の音で怖くなって逃げた。その顛末を正直に話した。「追い出されたけど、どこにも行く所はありません。お手打ちも覚悟の上で戻ってきました。」
山本才介は何も言わず、三之助を元のように召抱えた。
さて、和議は壊れ、夏の陣が起こる。杉野家も出陣が決まった。
三之助はまた、従軍を願い出た。「また鉄砲が鳴るぞ?」才介は笑って言った、母も今度は強く反対したが、三之助は真剣だった。才介は、従軍を許した。
天王子、岡山での最後の決戦、山本才介と三之助、そしてもう一人の従者は、
城に引き上げようとしていた敵の騎馬武者三人に追いつき、攻撃を仕掛けようとした。
しかし城内から鉄砲を撃ちかけられ、従者が腰を撃たれ、斃れた。
残るは、才介と三之助の二人だけである。才介は勇敢に騎馬武者に向かっていったが
ついに取り逃がしそうになった。その時、
三之助の猟銃が放った弾が、騎馬武者の一人に当たり、落馬させた。
山本才介はその首を取り、見事、手柄を上げた。
冬に逃げた三之助が、それを許した恩に報い、夏に主人に手柄を上げさせた。そんなお話。
700 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:46:29.25 ID:B0jTq1Kx
758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/23(木) 23:01:24 ID:e7FJPJ0G
島津家と猫の関係。
島津義弘は朝鮮出兵の際、猫の瞳孔で時刻を知るため七匹の猫を
従軍させた。朝鮮の島津家中では籠に猫を入れて背負っていたそうだ。
そのうち五匹は死んでしまったが、二匹は生き延びて帰国した。
その一匹は黄色と白の毛色で、義弘の二男・久保はこの猫をヤスと名付け、
とてもかわいがっていた。久保は二十一歳で陣没してしまうが、
そのあとも地元ではこの毛色の猫をヤスと呼ぶようになったという。
この猫の供養のため、鹿児島には猫猫神社があり、ヤスと同じ毛色の
猫がえがかれた絵馬がある。毎年時の記念日には時計業者が
神社を訪れるという。猫の健康にも御利益があるとか。
_ , -、 , -、,っ
<´ 3ヽ、 ∧,,∧ rl ε> < 3 ) ∧,,∧ / ⌒>
∠、・_,つノ c'(__,)っ (_c、_l ,_>っ ∠、・_,、つ c(´=ω=`)っ と、__,>
788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/24(金) 16:42:35 ID:h6k95Dc3
鯉を食った話
まだ家康が岡崎にいた頃、家康は城中の池に、3匹の鯉を大事に飼っていた。
ところがある日、一番大きな鯉が消えうせていた。家康が番人に問いただすと、
家臣の鈴木久三郎という者が、殿から拝領したのだといってこの鯉を調理させ、
さらに同僚達を呼んで織田信長から送られた酒と一緒に平らげてしまった、ということであった。
なんと言うやつだ!鈴木を成敗する!怒った家康は長刀を握り締め、鈴木を呼びつけた。
御前に現れた彼は大小を後ろに投げ捨て、平伏し、言った。
「恐れ入った事をいたしました。しかし魚鳥のため人の命をお取りなさるとは、なんと愚かな。
殿の事を見損なっておりました。さあ、ご存分に!」
と、家康の前に首を差し出した。
このとき家康は気がついた。つい先日、城の堀で魚を盗った徒士と、禁猟地で鳥を撃った
家士がいて、近く処刑するつもりで捕らえさせてあった。
鈴木は、命をかけてそのことに対する諫言をしているのだ。
家康は手に持った長刀を放り出すと
「久三郎、一命を許す」
と言って、奥に引っ込んでしまった。先に捕まった二人の家士も許された。
なんとも家康らしいお話。
701 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:48:49.11 ID:B0jTq1Kx
455 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/13(月) 00:46:19 ID:/AzWYN/d
山内上杉憲政の家来に、大谷休伯という男がいた。侍と言うよりも、農政を担当する文官であった。
天文二十年(1551)の平井城落城により、山内上杉憲政は越後の長尾景虎の元に逃れるが、休伯は軍役に
関わらなかったため許され、金山城主、由良成繁の元に身を寄せた。
しばらくすると休伯は、成繁の妻輝子の実家である館林城主、赤井氏より相談を受けた。彼の領地、館林の開拓を
やってくれないか?と。
館林を調べたところ、その地は利根川と渡良瀬川という二つの大きな川による水害、冬の強風(からっ風)で
火山灰や赤土が舞う風害、火山灰などの吸水性からくる水不足に慢性的に悩まさ、農民達も多くが貧窮していた。
特に水不足は深刻で、田植えの時期になるたびに水争いが起こる有様であった。
「これは、大変な事業になります」
この土地の問題を解決するには、長い時間と、莫大な資金と、労力が、どうしても必要であることを説明し、
それに対して覚悟があるのかということを、休伯は赤井氏に確認をした。彼らも、覚悟をした。
休伯は館林へ居を移した。事業が始まった。
永禄元年(1558年)、防風林開発に着手。場所は館林西南多々良沼のすぐ側、館野ヶ原と呼ばれる土地で、
被害の大きさと新田開拓を見越してのものである。館林に大量の松苗はないので、由良成繁の金山城のある
金山から分けてもらうことにした。
初年に植えた松は日照りにより枯れるものが多かった、それを館林の農民達は馬鹿にした。「ほら、無理なことだ」と。
しかし翌年に、館野ヶ原に祠を造り松の成長を祈ると、今度は無事に成長した。
事業は順調に行くかと思われた。が、暗雲は一気に訪れた。永禄五年(1562)二月、北条氏についていた館林赤井氏は、
上杉謙信の軍勢の襲来により滅ぼされてた。事業主体が、消滅してしまったのだ。
休伯達は呆然とするより他無かった。もはや、この事業は続けることが出来ない。
その時である
館林の村落の者達が、休伯の下に次々とやってきた。「どうか事業を、止めないでください」
資金に関しても人手に関しても、出来うる限り協力する、と言う。農民達は、休伯らが、自分達のために
働いていることを、いつしか理解していたのだ。ここに彼らの活動は、地域事業となった。
住民達の協力により、二十年の歳月をかけて、五百十八町、518haの防風林は完成した。
この事業に必要とした松苗は115万本という。現在の多々良沼の松林はこの松の子孫である。
これにより風害が減り、開拓が行いやすくなった。
防風林開発が軌道に乗ると、休伯らは堤防と用水路の開発を同時に進めることにした。
この地方の水利から渡良瀬川と多々良沼が用水に適していると判断。荒山小左衛門の協力の元、現在の
太田市内ヶ島付近から明和町大輪、十七ヶ村、五百九十九町に至る「上休伯堀」という長大な用水路を開発。
さらに休伯は、独力で館林市多々良沼から明和町江黒、十八ヶ村、四百九十七町に至る「下休伯堀」を開発。
休伯堀は合わせて三十五ヶ村、約四百町に及んだ。これにより1000haもの土地に水が供給されるようになった。
堤防の開発も進み、地域一帯の農作物の生産性は大幅に上がった。
休泊はこの大事業を、ついに成功させたのだ。
天正六年(1578)、休泊は病気により自宅で養生するようになる。熊倉善三郎に後を任せ、天正六年八月二十九日、
数年前に娶った妻と、三歳になる息子作太郎に看取られ静かに息を引き取った。法名「大谷休泊関月居士」。
領民は誠実な人柄で開発事業を指揮してくれた休伯の死を悼み、松苗の成長を祈った館野ヶ原の祠を神社とし、
篤く弔った。この神社は「大谷神社」と名付けられ、今も館林の人々により、大切に保存されている。
時が過ぎて昭和二十八年、四百年にわたって領民を支えた大事業に敬意を表し、休泊の墓所は県指定史跡とされた。
戦国の、戦わなかった英雄のお話。
702 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 03:50:40.09 ID:B0jTq1Kx
180 名前:165[sage] 投稿日:2008/02/25(月) 22:02:49 ID:bg+5s1AL
レスをくれた皆さん、ありがとうございます。
稚拙な長文ですが、読んで頂ければ光栄です。芋鍋
徳川四天王の一人、井伊直政の次男である井伊直孝の若き頃の逸話である。
直孝は父同様、その才覚を徳川家康に見込まれ、若くして
周囲に一目置かれる存在となっていた。政務に勤しむ直孝に、ある老臣が声をかけた。
「直孝、お主の様な若者が仕事に励んでいるのは嬉しい。わし
たちも励みになる。そなたを見込んで話すが、実は我々年寄り
連中が集まり、二月(ふたつき)に一度、合議をしておる。
どうだ、お主も来ないか?」聞けば、参加する者たちは徳川家古参の、歴戦の武将達だった。
直孝に否やがあろうはずも無く、喜んで参加を希望した。
181 名前:165[sage] 投稿日:2008/02/25(月) 22:46:21 ID:bg+5s1AL
さて、その日がやって来た。直孝にしてみれば、憧憬の的であった
武将達が集まり、ざっくばらんに語り合っている贅沢な酒宴だ。
ある者は手柄を立てた時の話、ある者は戦の仕様を考証し、ある者は
名高い武将と戦った時の思い出を語っている。一つ一つの話に直孝は
感銘を受けていた。宴もたけなわとなった頃、大鍋が運ばれてきた。鍋の中には、よく
煮えた芋が入っていた。皆が思い思いに椀に取り分け、黙々と食べは
じめた。芋の入った椀が直孝にも廻って来た。一口食べた直孝は驚い
た。まったく味が無いのだ。それどころか、まるで泥を食べたような
土臭さであった。思わず直孝は言った。
「申し訳ございませぬ。この芋は、私には少々味が足りぬ様でござい
ます。塩か醤油はございませぬか?」すると老臣は箸を置き、直孝に向き直ってこう言った。
「実はお主を誘ったのは、この芋鍋を食べて欲しかったからじゃ。」
182 名前:165[sage] 投稿日:2008/02/25(月) 23:24:37 ID:bg+5s1AL
老臣は続けた。「家康公の若き頃は、我らは毎日このような味も無い芋鍋を
食べていた。そして今も徳川家のために働いてくれる足軽達、
田畑を耕す農民達の中には、この芋鍋すら満足に食えぬ者もいる。
我らはその事を決して忘れぬよう、こうして集い、芋鍋を皆で食べているのだ。」
さらに老臣は続けた「これからはお主のような若者が、徳川家の政事の中心となる
であろう。だからこそ、お主に伝えたかった。我らの手柄や戦
の仕様、ましてや、もうこの世におらぬ武将の話などでは無い。
この芋鍋の味を決して忘れてくれるなよ。」
直孝は芋をたいらげると、老臣達に深々と頭を下げ、言った。
「この味、生涯忘れませぬ。」
他の徳川四天王をはじめ、徳川創業の功臣の二代目が次々と冷遇
粛清されていく中、直孝は幕府の信任厚く、彦根藩主そして大老と
出世し、後に名君として歴史に名を残す事となる。
彼が名君となりえたのは、芋鍋の味を忘れなかったからかもしれない。
〜終わり〜
703 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 05:30:30.31 ID:ioP/d/y0
革新じゃ福島正則の統率が101とかおかしな事になってる
704 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 06:16:41.49 ID:j2kPB8GR
革新は能力値一、二割増しなんでしょ。
だから、福島は80〜90ぐらいとなる。
昔と一緒。
705 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 12:33:15.42 ID:B0jTq1Kx
372 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/18(木) 10:05:13 ID:pzR6Zbmo
竹中半兵衛のちょっと良い話 〜智将半兵衛その人〜
智将として名高い竹中半兵衛。もちろん戦国の当時
でも、その評判は高かった。特に半兵衛の陣立ては
素晴らしく、他の武将の陣立てにも積極的に助言した。
だがあまりに口を出しすぎるので、半兵衛の助言を疎
ましく思う者も居た。
ある時、「今日こそ半兵衛に口出しさせるか!」と
息巻く武将がいた。そこに訪れた半兵衛、陣立てを
見るなりこう言った。
「なんとも素晴らしい陣立てですね。感服いたした。」
と、その武将を褒め称えた。半兵衛に褒められて悪い気
はしない。すっかり和気あいあいとなった頃、半兵衛は
言った。「ここを少し変えて見ましょう。もっと良い
陣形になりますよ。」と言った。気を良くしていた武将
は言われるまま、陣立てを変えてしまった。後になって
その武将は「しまった、半兵衛にしてやられたわ。」
と笑いながらぼやいた。
374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/18(木) 10:22:57 ID:pzR6Zbmo
竹中半兵衛のちょっと良い話 〜武人半兵衛その人〜
半兵衛は時折、手足をぶらぶらさせる癖があった。
秀吉や他の武将、果ては客人の面前でも、その癖
を直そうとはしなかった。
ある時、その癖を見咎めた武将が「無礼であろう!」
と怒った。だが半兵衛は平然と答えた。
「これはいつ敵に襲われても、すぐに身動きが出来る
様に備えているのです。もしその時、手足が痺れて動作
が遅れれば、大事となりますから。」
わずか十六人の手勢で、稲葉山城を落とした武人の言葉
に「さすがは半兵衛殿。武士とはかくあるべし。」
と、怒った武将もこれに納得した
706 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 12:33:57.49 ID:B0jTq1Kx
「亭主を呼べぇ!!」
三河吉田の旅籠亭主・彦兵衛が、大声で呼ぶ客の部屋へ向かうと、薄汚い若侍の前に
たくさんの餅が広がっていた。
給仕に当った女中に聞くと、侍は好物だからと餅を山ほど注文したがその餅の出し方が
気に入らぬと言って、皿をひっくり返したのだと言う。
若侍「客に出すのに、雑な山盛りにして出すとは何だ?普通ならば、漆塗りの盆に丁寧
に積み上げて、持って来るものだろう?!最初から出し直せ!!」
十八から店を預かり二十年目の彦兵衛、慣れたもので皿に三つほど餅を乗せ直すと、
「それは失礼致しました。しかしこの餅の盛付けは、三河ではお武家様のための盛付け
で、『城持ち』と『白い餅』を掛けて、山のように大きい城の城主になれるように、との私ど
ものせめてもの心遣いでございます。どうかお納めください。」
と言って若侍に勧めた。
「そうか、そんな謂われが・・・それは済まなんだ。では、喜んでいただこう。」
以外にも若侍はあっさり納得して、餅をガツガツと食い始めた。
その様子に長年のカンからピンと来た彦兵衛は若侍に話しかけた。
「ところでお侍さん、 ・・・金が無いんでしょう?事情だけでも話してみませんかね?」
顔を青くして餅をむさぼる手を止めた若侍は、少ししてポツリポツリと語り出した。
401 名前:出世の白餅(二)[sage] 投稿日:2008/12/19(金) 21:47:03 ID:cg67r90c
若侍の名は、与右衛門。 近江の出だが、浅井家の滅亡で職を失い、旧浅井家臣の間をフラフラしていたが長続きせず、いっそ浅井家に勝った織田家か徳川家に仕官しようと美濃・三河まで出てきたが、うまく行かず路銀が尽きてしまった。
どうせ死ぬなら、好物を満足行くまで食って・・・と考えてこの旅籠に入ったのだそうな。
「お前様、近江と言えば私の生国。他人事とは思えませんよ!」ホロリ…
などと騒ぎを聞きつけてやって来た自分の女房まで言い出すので、
仏心のわいた彦兵衛、タダ食いを許してやった上に、
「こういう時は、思い切って一から出直すのが良いものです。親御さんも心配しておられるでしょう。一度、故郷に帰って親孝行されてはいかがです?」
と、助言まで与えてやった。
するとこの若侍・与右衛門、
「承知した。ついては、路銀を五分ばかりお借りしたい。必ず、出世してお返しいたす。」
などと再び調子に乗り出した。
人の良い彦兵衛もこの言葉にはあきれ果てたが、要望の倍の路銀をくれてやった。
「このご恩は必ず・・・必ずっ・・・・・・!!」相変わらず台詞は立派に、与右衛門は去った。
女中「これで良かったんですかねえ・・・」
彦兵衛「なに、こんな世の中だ。当てにしないで待てばいいのさ」
707 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 12:35:16.26 ID:B0jTq1Kx
402 名前:出世の白餅(三)[sage] 投稿日:2008/12/19(金) 21:47:46 ID:cg67r90c
「何だ、あいつら・・・」その日、三河吉田の町は凍りついた。
やって来た大名行列の侍たちが、あまりにも異様な面体の者ばかりだったからだ。
顔中、刀傷が這っている者。指が欠けた者。鉄砲の撃ち過ぎで顔半面にヤケド跡がある者。
いかなる闘争を潜り抜けたか、独眼・隻腕の者までいる。
面体も荒々しい侍たちが一斉に頭をさげると、行列の真ん中の籠から、大男が現れた。
この男も、身なりこそ絹の羽織に黄金造りの太刀と重そうな皮袋とたいそう立派だが、
顔中に傷跡が残り、右手の薬指・小指が半分しか無い。この男が大名だろうか。
大名とおぼしき大男は、まっすぐにあの彦兵衛の旅籠に向かった。
彦兵衛「こ、こんな七十過ぎた老いぼれの店に何の御用で・・・」
大名は金子がギッシリ入った皮袋を彦兵衛に渡すと、深々と頭を下げ、口を開いた。
「藤堂和泉守与右衛門高虎、彦兵衛殿の言葉に従い、郷里に帰って武者修行に励み、
縁あって故・大和大納言秀長公に拾われ、中国地方を東奔西走し、山崎・賤ヶ岳で戦い、
四国で命を拾い、九州を駆け抜け、大納言家の消滅後に独立して朝鮮へ渡って転戦し、関ヶ原で大谷隊の鉄砲に指を飛ばされ、
功により、伊予半国の大名となり、恩を返すべく参勤交代の途上、吉田に立ち寄りました。遅参の段、御免なれ!!」
「あ・・・あの餅好きの与右衛門さんかね?!」
「いかにも。彦兵衛殿のご恩を忘れず、今日まで励んで参りました。おお、そうだ。
旗、挙げい!!」
紺地に白い丸を三つ描いた旗印が高々とひるがえった。
「白丸が三つ・・・あっ、ウ、ウチの餅じゃないか!!」
「さよう。彦兵衛殿に教わりし『白餅』の志を忘れぬよう、当家の旗印と致しました。」
高虎はその後も出世し、伊賀一国と伊勢八郡32万石の太守となり、寛永七年死去した。
高虎の遺命により、藤堂藩は参勤交代の際、三河吉田で宿泊するのが慣例となった。
708 :
名無し曰く、:2013/05/08(水) 12:35:56.64 ID:B0jTq1Kx
267 名前:小田原提灯(一)[sage] 投稿日:2008/12/14(日) 16:44:21 ID:z4nHQZyE
みなさんの家に提灯はありますか?え?みやげ物がホコリかぶってる?そうですか・・・
佐竹氏との戦に向かう北条家臣・山下民部は猛りに猛っていた。家老・松田憲秀の甥で、
謙信に「岩舟山に赤鬼の棲むと言いけるは、一体彼がことなるべし」とまで賞賛された、
松田康郷の騎馬隊に選ばれたからだ。
この抜擢に答えるべく、民部は旗指物を家中の勇者が良く使っている『提灯』にした。
それも、目立つように六個の提灯を連ねたものを。 「いざ、これにて功名せん!」
そんな民部を見て声をかけて来た男がいた。『地黄八幡』玉縄衆を代表する古兵、
その旗指物『七つ提灯』を関八州に知られる武辺隠れ無き老武者、三好孫太郎だった。
孫太郎「やあ。キミの旗指物には何か由来があるのかい?」
民部「別に何も・・・ただ、オレの心意気を示したかっただけです。」
−さすがに「あなたたちのマネです」とは言えない−
孫太郎「大道寺駿河守殿を知ってるかい?」家老の身で自ら先陣を切り、軍を鼓舞する
大武辺者・大道寺政繁は若者の憧れである。知らぬはずが無い。
「あの方の馬印は、『九つ提灯』だ。あれはね、大道寺殿が若い頃、敵将・本間近江守を
大格闘の末、討ち取る時に本間当人から武勇を称えられ、その勧めに従って造ったものさ。
オレは、天文15年の上杉との戦に初陣した。その時、一番槍の功名を立てて、氏康公に
感状をいただいた。感激したオレは、記念として旗指物に一つ提灯を差した。
以来、元亀2年に房州の海賊19人を討ち取るまで七度の手柄を立て、七つ提灯を差している。
268 名前:小田原提灯(二)[sage] 投稿日:2008/12/14(日) 16:45:10 ID:z4nHQZyE
さて、大道寺殿の提灯には、かつての強敵(とも)の想いが詰まっている。オレの提灯には、
自分自身の誇りが詰まっている。キミの提灯には、何が詰まっているんだい?
・・・出撃の時間だ、オッサンの長話につき合わせてゴメンな。」
それきり、山下民部と三好孫太郎が会うことは無かった。
合戦が始まると、佐竹の侍から
「我こそは、大石八郎!北条の衆、我と思わん者あれば、組んで勝負せん!」
と名乗る者が現れて、長刀を風車のごとく振り回し、北条の侍を寄せ付けなかった。
誰も近づけぬ鬼のような武者目がけて、突進する者が現れた。 山下民部だった。
馬ごと大石にブチ当たった民部は、馬から転げ落ちながらこの強兵を引きずりこみ、
(キミの提灯には・・・
大石を組み伏せ、太刀で斬りつけた。
・・・何が詰まっているんだい?)
「・・・・・・・・」
見事に大石の首を挙げた民部は、自分の旗指物を外すと提灯を五つ引きちぎって捨てた。
一つだけになった提灯を差し直すと、再び馬にまたがり駆け出した。(北条五代記)
今じゃシケたみやげ物の提灯に、男の見栄と誇りが詰まってた、そんな時代のお話。
709 :
名無し曰く、:
156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/09(火) 10:05:31 ID:xDDT8x00
いい話というか、すさまじい話。ちょいグロ注意
細川の血達磨
細川忠興の時代、ある牢人の兄弟が仕官を求めてきた。
「われら、事に及んで他人の出来ない事をして、お役に立って見せましょう。」
そう、きっぱりと答える二人を頼もしく思い、それぞれ召抱えた。
ある時江戸に大火事があり、細川屋敷にまで延焼した。
幸い、屋敷にあった大事な道具類は皆、避難させたが、どうした失態か、細川家に秘蔵された
達磨の掛け軸が、屋敷の中に置き忘れられていた。
忠興はこれを大変惜しんでいたが、ここでかの兄弟が、「御殿はまだ焼けておりませぬ。
この間に我らが取ってまいりましょう。」と言った。
忠興は喜んだが、しかしこれを心配もし、「まだ火が回っていなければ達磨の掛け軸を取って来い。
もし、もう火が回っていれば、かまわないから早々に戻って来い。」と言って、彼らを送り出した。
兄弟が御殿に駆けつけると、まさに今、火が燃え移らんとしていたところだったが、
「今ならまだ間に合う」
と、もうもうたる煙の中を入っていった。達磨の掛け軸は、無事に床の間にかかっていた。
急いで外し、羽織に包み、それを持って脱出しようとした、
が、一足遅く火が回り、兄弟はもはやなすすべなく、焼け死んだ。
火が静まる。
焼け跡から、彼ら兄弟の死骸も見つかった。それは、驚くべき物だった。
兄弟は、先ず、兄が弟に手をかけて首を討ち、喉を切り開いて内臓を引き出し、その体の中に
羽織でよく包んだ掛け軸を押し込んだ。
さらに兄は自分の腹を十文字にかっ斬り、弟の遺骸を自分の腹の中に押し込み、抱きかかえるようにして
死んでいた。
掛け軸を取り出してみると、よく羽織に包んであったためえには血糊の一滴もついてはいなかったが、
上下左右の隅が、少しずつ血に染まっていた。
忠興はこれに深く感銘を受け、血のしみた掛け軸をわざと修復せず、兄弟それぞれが
裃をつけこの掛け軸を守るさまを新たに描かせ、あわせて三幅一対の掛け軸とした。
この絵はいつともなく「細川の血達磨」と呼ばれるようになり、今も大切に秘蔵されていると言う。