三國志で過大過小評価されている武将 三十二人目

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348名無し曰く、
傍から勝手に口を出させてもらうと、
>>342の主張の意図は明確だと思う。

ようするに二度ある儒須(213年と217年)の内、
江表伝にあるように奇襲時に孫権が直接言葉をかけられるのは213年の方のはずで、
合肥で張遼が大活躍した215年以前の言葉としては不自然だ、
ってことだよね?

読んでて解からない箇所といえば217年に孫権が居ないという根拠だけど
217年の方は呂蒙伝に「呂蒙を都督とし」とあるから、で合ってる?
もっとハッキリ書いてある箇所あったっかもしれないが思い出せない。

>>343の方は正直自信はないけど、
多分甘寧伝の烏林→皖城→儒須が「のちに(原文『後』)で結んでるように
これらが時系列で並んでるだろうと言いたいんではないかと。

342側は本文の儒須の時期は不詳(つまり217年もあり得る)と前置きしてると思うんだけど、
343は「裴松之がそこ(甘寧伝の儒須の箇所)に注釈入れてるんだからこの時を指してるハズだ」
つまり本文と同じ時期だと言いたいんじゃないかと俺は推測する。


勝手に両者の言い分をまとめちゃったけど、間違ってたらゴメン。