1 :
名無し曰く、:
2 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 17:42:07 ID:Wg9GuYjs
織田厨へ
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
3 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 17:47:55 ID:Wg9GuYjs
織田厨
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ真性ナメクジ蛆虫死ねボケクズカスゴキブリ社会の底辺真性ナメクジ蛆虫
4 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 17:48:23 ID:oQnz+wro
ウメ
5 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 17:49:21 ID:Wg9GuYjs
織田厨死ね
6 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 17:52:05 ID:Wg9GuYjs
織田厨は社会どころかスレのゴミ。
大好きな信長、秀吉、丹羽、信忠を贔屓するだけの基地外知障自演厨
7 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 17:53:05 ID:Wg9GuYjs
織田厨は二度とくんな 生き埋めになって社会の底辺部でじっとしてろ
8 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 17:54:01 ID:oQnz+wro
>>5 もうチョット落ち着けよ。
色々勿体ないよアンタは。
多勢に無勢じゃアレだから、
夜の武田の人とタッグ組めば?
9 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 17:54:36 ID:Wg9GuYjs
>騙し討ちなのに織田勢は一揆が逃れてくる方向すら読まずに
>兵をバラバラに配置
>騙し討ちなのに織田勢は一揆が逃れてくる方向すら読まずに
>兵をバラバラに配置
>騙し討ちなのに織田勢は一揆が逃れてくる方向すら読まずに
>兵をバラバラに配置
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwっうえwwwwwwwっうえっwwwwwwうぇっwwwうぇっ
wwwwっうぇwwwwっうぇwwwwっうぇwwwうぇ
10 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 17:55:20 ID:Wg9GuYjs
織田厨へ
見え透いた自演してんな
マジうぜえわ
単発IDの糞ファンネル総動員して屁理屈ばかりの糞理論展開してんじゃなぇよ
糞基地外野郎
レス読み返してたら無性に腹立ってきたわ
死んで来い
11 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 17:55:48 ID:r7zm1AiR
>>1 乙と言いたい所だが、とりあえず自分の行為が武田厨の評価を貶めてることに気づこうな。
12 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 17:56:04 ID:Wg9GuYjs
毎日毎日武田上杉叩きの無意味な糞レスするな
自演するな別人だと」とぼけるな
マジで死ね
13 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 17:56:52 ID:Wg9GuYjs
国版で荒らすだけじゃ飽きたらずここも自分の巣にしようと思ってんのか
二語と武田叩き糞レスすんな自演すんな
内容ない書き込みすんな屁理屈こねるなついでにここからでてけ
二度と戦国版にも歴ゲにも日本史版にもくんな
き ち が い は 死 ね
14 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 17:58:21 ID:Wg9GuYjs
ウジムシ>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>織田厨
15 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:00:25 ID:3Ziok6hQ
武田擁護の人はWg9GuYjsに援護射撃をしてあげればいいんじゃないかな
16 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:00:25 ID:Wg9GuYjs
勝手に自分勝手な決り作って基地外論理展開してた織田厨
『空気読め、常識を知れ』異常発言してる事に全く気付けず自演しまくり屁理屈こねまわり
各地で暴れまわってる馬鹿
真性厨とはこういう香具師をいうんだろうな
17 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:00:37 ID:oQnz+wro
だめだこりゃ…
誰か別にスレ立てて下さい。
ここはID:Wg9GuYjsの痰壺にしとこう。
18 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:01:27 ID:Wg9GuYjs
>大軍w?おまえのいう大軍ってのは数千の援軍を言ってるのか?
>それでも兵力は武田が上回っていたが、上田原も砥石崩れも兵力圧倒的なのに
>惨敗してるわな。
真性基地外だwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
19 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:02:18 ID:Wg9GuYjs
>大軍w?おまえのいう大軍ってのは数千の援軍を言ってるのか?
>それでも兵力は武田が上回っていたが、上田原も砥石崩れも兵力圧倒的なのに
>惨敗してるわな。
どんな馬鹿だwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
20 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:09:32 ID:IFnOwpbI
>>17 俺が立てようか?
もしOKなら、テンプレも考えてもらうと助かる
[信長の野望過大過小スレ武田上杉三傑専用]
スレタイはこんなんでいいかい?
21 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:10:33 ID:Wg9GuYjs
織田厨死ね
22 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:13:28 ID:Wg9GuYjs
>>17 スレ読み直してみろよ
織田厨が煽って来て得意の自演やりまくりだしたから相応にかえしてやっただけだろうが
どうせ別人とかとぼけるんだろうが
23 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:13:41 ID:oQnz+wro
>>20 それで充分でしょう。
あ、★2とか入れといたらどうですか?
誘導しやすく。
24 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:13:59 ID:Wg9GuYjs
・織田厨は基地外
・織田が雑魚なのは確定。織田厨は自粛しろ
・織田厨は真性低脳無知なくせにすぐ揚げ足をとる
・織田厨は自演ファンネル総動員して基地外論理を展開する
・織田厨の好きな武将;信長、秀吉、前田、丹羽、毛利、信忠
・織田厨の嫌いな武将:武田、上杉、北条、伊達、直江
25 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:15:47 ID:3Ziok6hQ
>>22 ちょっと教えてほしいんだが
誰と誰が何の自演をやっているんだ
ID:Wg9GuYjsは織田厨というのは一人だと思っているのか?
26 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:17:45 ID:Wg9GuYjs
>>25 基地外論理展開し煽りまくる織田厨は一人だろ
言う事とかワンパターンだしとぼけるなといいたい。
こいつは戦国版でも暴れまわってる有名人だからひと目でわかる
27 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:18:51 ID:r7zm1AiR
28 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:20:34 ID:Wg9GuYjs
>>27 聞いた事あるが三好板言ってないからわからん
大体今日でも普通に議論してただけだろうが
織田厨が急に自分の無知棚に揚げて煽って来たんだろうが
マジ死ねって
29 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:28:11 ID:Wg9GuYjs
織田厨は痛すぎるな
こんだけ発言内容とか一緒で別人とかとぼけるな
30 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:28:27 ID:3Ziok6hQ
ID:Wg9GuYjsのいう織田厨の基地外論理展開って例えば何?
31 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:29:26 ID:oQnz+wro
>>28 煽りだってわかってんならスルーしなよ。
アンタの言うまともな議論してる奴だけ相手にすればいい。
煽りに応じてコピペ連投して荒らすのが正しいのかよ?
ここは煽りたい奴が誘導されてくるスレなんだよ。
それに耐えられないなら、もうやめれば?
武田の事は夜の武田の人に任せておけばいいよ。
32 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:30:05 ID:Wg9GuYjs
勝手に自分勝手な決り作って基地外論理展開してた織田厨
『スレの空気読め、2ちゃんの常識を知れ』異常発言してる事に全く気付けず自演しまくり屁理屈こねまわり
各地で暴れまわってる馬鹿
真性厨とはこういう香具師をいうんだろうな
33 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:31:37 ID:Wg9GuYjs
>>31 はぁ?相手に合わせて相応にやり返してやっただけだろうが
なんで泣き寝入りしなきゃならんのだ
自分勝手な事いうな基地外野郎
34 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:32:28 ID:3Ziok6hQ
とりあえずその「自分勝手な決り」と「基地外論理」について教えてくれ
35 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:33:18 ID:Wg9GuYjs
>それに耐えられないなら、もうやめれば?
じゃあお前が出ててけよ俺にだけ文句いってんな糞野郎がwwwwww
自演基地外織田厨がwwwwwwwwwwwww
マジで死ねにどとくんな
36 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:36:16 ID:Wg9GuYjs
>>34 >>31の言ってる事が既にそうだろうが。前スレの430-600
くらいを読み直して何も思わなかったらお雨も異常
37 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:37:01 ID:Wg9GuYjs
織田厨死ね
38 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:37:32 ID:oQnz+wro
>>33 織田厨以外でもアンタのやり方を支持してる人なんていないだろ?
夜の武田の人もアンタを支持してないしね。
俺は煽ってる織田厨なんざ相手にするなって言ってるんだよ。
俺のどこがキチガイなのか、皆が納得できるように説明してみなよ。
39 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:39:22 ID:Wg9GuYjs
>>38 だからそういう言葉を先に煽って来るやつに言ってないのが矛盾しまくりなんだろうが
基地外野郎
夜のやつだーたらなんて関係ねーわ
一生荒らし続けてやるわ
40 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:40:33 ID:Wg9GuYjs
誰がやり方を支持してるとかしてないとかそんなもん持ち出してる時点で
真性自己厨基地外
マジ死ねって
41 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:42:13 ID:oQnz+wro
42 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:42:38 ID:IFnOwpbI
>>23 じゃあ立てるならスレタイは
信長の野望過大過小スレ武田上杉三傑専用その2
でいきますね
まあ、焦って立てても仕方ないので
専用スレで扱う内容とか注意事項らしきものも考えて
>>1にでも載せたほうがいいと思うのですが
スレで扱う内容は、信玄・謙信・三傑及びその家臣団全てにします?
荒れる内容はある程度決まっているので、信玄・謙信・三傑の5名のみでもいい気もしますし
線引きが難しいんですよね
後、注意事項なんかも考えてもらえると助かります
基本sage進行とか、荒らし行為はスルー推奨とか
隔離スレだから何でもアリにしますか?
スレ立て直す必要なんてないという人もいると思うんで、
色んな意見を待ちながら、必要がありそうなら今日中に立てるくらいの姿勢でいこうと思います
43 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:43:40 ID:Wg9GuYjs
文章みりゃ分かるわ
お前が自演ファンネルなんてのも今日の展開でよくわかった。
先に煽って来た奴に何一言言わないんだからな
44 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:46:02 ID:oQnz+wro
>>42 そうですね。
夜まで様子見たほうがいいでしょうね。
違う意見も聞いてからのほうが。
45 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 18:47:20 ID:Wg9GuYjs
織田厨死ね
二度と書き込むな
一生地面の中で暮らせ
46 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:03:31 ID:3Ziok6hQ
前スレ400-600あたりを読んできたんだが
もしかして「自分勝手な決り」と「基地外論理」というのは
織田と武田はいっさい関係なくて
最初に煽った奴が悪いからそいつを注意しろとか
荒らした奴には荒らしで答えるのが礼儀とか
そんなレベルの話なのか?
47 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:07:18 ID:oQnz+wro
>>46 ID:Wg9GuYjsの今日最初のレスがコレ。
コレが彼の言う普通の議論らしい。
[939]名無し曰く、[] 2009/01/25(日) 09:27:11 ID:Wg9GuYjs
AAS
>>921 相当頭悪そうだな
功績厨馬鹿は死んでろ
あんだけ周り雑魚で自兵力多けりゃ功績残せない方がおかしいわ
>>924 撃退された系が敗戦にならないとか基地外だな
あれだけ圧倒的国力で押しまくって勝てないカス長や雑魚吉のへぼさくらい理解してから来い
>>928 雑魚相手に寡兵で勝っても意味ないわ 蟻を百万匹潰しても像一匹殺した香具師には勝てん
小田井原もしらねーのかkの無知野郎
信長なんて運だけだろ 島津も相手が弱くて自爆しただけだわ
氏康も信玄に負けてる
48 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:09:08 ID:Wg9GuYjs
そんなレベルって馬鹿か?w
毎回毎回普通に議論してるだけなのに
織田宙は基地外煽りで他人に不快感レスしまくり俺がそれ相応に返して
やったらいっつも俺にだけ文句レス
これのどこが自分勝手じゃないかいってみろ
寝言も大概にしろ
49 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:11:38 ID:Wg9GuYjs
>>47 基地外のように織田を持ち上げるレスしてる時点で不快感与える煽りみたいな
もんだ
まともな意見も言えなー基地外はロムって一生壁とでも話しとけw
50 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:12:37 ID:Wg9GuYjs
織田厨死ね
51 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:13:10 ID:Wg9GuYjs
まあ織田が雑魚なのは間違いない
52 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:13:49 ID:Wg9GuYjs
反論なし。
織田は雑魚
53 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:14:27 ID:3Ziok6hQ
俺が馬鹿なのは理解した。
織田を持ち上げるレスだけで不快感って。
54 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:14:46 ID:Wg9GuYjs
直江兼続>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
55 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:16:40 ID:Wg9GuYjs
>>53 低レベルすぎる同じような煽りレスが何回も何回も基地外のようにつくから
煽ってやっただけだ
こういう糞レスが反論しても反論してもつくからスレが腐る
56 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:17:19 ID:oQnz+wro
>>53 俺とアナタの事も同一人物だと思ってんじゃないの?
57 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:18:32 ID:Wg9GuYjs
もうすぐ
戦国最強武将の大河が始まるぞ
信長より遥かに有能な人物を主役で描いたドラマ
58 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:21:46 ID:oQnz+wro
ああ、今日は天地人か。
謙信が死んだ後は見なくていいかな…
59 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:22:15 ID:Wg9GuYjs
>俺とアナタの事も同一人物だと思ってんじゃないの?
お前さ、戦国版で口癖とかから同一と見られる香具師のレス
みたけどさ、不自然なまでに織田派が回りにわらわらとまいて
罵倒レスとかと一緒に出てくるんだよな
>>47とか後から無理やり引っ張り出してきた事から
明らかに焦って自己正当化しようとしてるだけだし
60 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:23:19 ID:Wg9GuYjs
何言ってるんだ
謙信以上の兼続が見れるのだ
楽しみだ
61 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:26:42 ID:oQnz+wro
62 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:27:44 ID:Wg9GuYjs
>>59 の証拠に
>>43の後間が空いて
>>44があるからスにはいたのにそのあとちょっとしてから
>>47で漏れのレス引っ張ってきてるしその場で指摘しないって事は
明らかに跡付け論理だな
63 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:29:20 ID:Wg9GuYjs
直江は天才策謀家
64 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:30:47 ID:Wg9GuYjs
直江様に勝てる可能性あるのは伊達と最上ぐらい
65 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:31:52 ID:r7zm1AiR
>Wg9GuYjs
もうさ、織田を持ち上げるレスが不快なんなら、
全部あんたのレスでこのスレ埋めてみたら?
きっとすばらしいスレになると思うぞ。
66 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:32:49 ID:oQnz+wro
>>63 今の展開を見る限りは、策謀家として
描こうとしてるようには見えないけどな…
策謀家にしてくれたほうが面白いだろうけど。
67 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:38:34 ID:2i6QyOlc
もう一人の武田好きに先に忠告しとくけど、
ID:Wg9GuYjsの肩入れするようなことはやめた方がいいぞ。
ID:Wg9GuYjsは織田武田以前にただの荒らしにしか見えんからな。
こいつの味方したら同類の荒らしとしかみなされなくなる。
68 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 19:46:33 ID:oQnz+wro
夜の武田の人は話がわかる人。
つーかあの人荒らさないし。
69 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 20:40:40 ID:TmFuSr4u
>>68 いやあの人も煽りには煽りで返す人でしょ、
知識はあるのにそのせいでたまに荒らし扱いされているのみるとちょっと残念。
まあこのスレはむしろ煽りで返さない人の方が少ないかもしれないけど。
70 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 20:47:18 ID:oQnz+wro
>>69 そうだね。
ID:Wg9GuYjsこの人も知識は凄いのに
勿体ないと思うんだわ。
71 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 21:11:58 ID:0EHLDxDI
今日も隔離スレとして正常機能しているようだな
72 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 22:37:48 ID:8EGO1PAZ
さてどうやらいろいろあるみたいだが、
とりあえず武田派として昼のレスを返していこうか。
>>956 >>信長の場合敗戦とはいえすぐに体制整えてるところから戦略的撤退が多いと見えるんだよな。
信玄もすぐに体勢整えてるが。上田原の後も砥石崩れの後も元気だぞ。
>>信玄みたいに豪族にボコボコにやられて数十年領土拡張滞るなんてことないし。
なんの戦い?誰との戦い?村上の2敗北の後は平気で動いて数年後には村上をたたき出してるぞ。
>>細かいところ抜きにしてもこれだけの戦績、さらに政治的功績は言うに及ばず。
何回も負けてるけどな。消耗戦と国力と政略によるもの。
>>信玄公の場合、信濃の豪族どもを倒して、西上野の豪族倒して、今川倒して。
対等以上の力を持つ上杉、北条と戦って領土獲得してるけどな。
斉藤義龍から領土奪えなかった誰かさんとは違って。
73 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 22:46:51 ID:8EGO1PAZ
>>960 政略戦略で評価。統率じゃ残念ながら。
>>美濃の場合も、義龍が死んでも彼の側近達が龍興を後見し、すくなくとも
>>統治の乱れや揺らぎは当初は起こっていない
竹中の稲葉山城のっとりは1564年。家督継承から3年後だぞ。
>>他所でも言ったが、強い相手とは争わず、弱い相手を侵略して勢力を拡大
>>することがどうしてマイナスになるんだ?
それ自体はマイナスにはならんさ。ただ戦わざるを得ない状況の人間たちもいるわけで。
関東三傑みたいにね。同格以上の相手としのぎを削りあって成果を出した人間に比べて
そうする必要がなく勢力を広げられた人間が恵まれていたのは事実だろう。
>>畿内だって様々な古くからの勢力と権益が錯綜して、
>>侵略征服しづらい地域だったと言える
結果としてひとたび圧倒的な力を持つものがいれば征服しやすい。
信長が畿内に入ったのは100万石以上の力を持ってから。
この力に対抗できる存在は当時の畿内にはなく、たやすく征服された。
信濃豪族連中は連合して武田に向かってきたことはさることながら
山之内上杉を引っ張り出してきた事も大きかった。
山之内上杉は2万の兵を差し向けたが武田は5千でこれを撃破してその意図をくじいた。
その後も長尾の介入が入るなど、大勢力の介入が続いている。
74 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 22:55:13 ID:8EGO1PAZ
>>963 信濃豪族連中で武田に滅ぼされた連中は片手じゃ足りないくらいだが。
何を持って滅ぼしてないと?
信濃征服自体はほぼ10年で完了してる。その後に介入してきた長尾上杉という
大勢力との戦いで時間かかったわけで。
>>965 小田井原は2万。武田の兵の4倍ですが。大軍だろ。
てか真田が砥石を調略した後に武田が村上を攻めて次々と城を攻略して叩き出し
戻ってきた村上も叩き出してる事をしらんのか。普通に勝ってるぞ。
>>967 最初に板垣によって村上が突き崩されたんだが。
そんで板垣が戦場のど真ん中で首実検をやったのを村上が襲って先陣崩壊。
そのまま本陣までなだれ込まれた。それでもそこから逆襲して村上の武将を何人も
討ち取ってたたき返した。先に戦場から引いたのは村上だよ。
砥石に関しても武田はこの戦いの前に小笠原の勢力を叩き潰してる。
その意義に関しちゃ砥石は最後をのぞけば随分大きい。
>>973 ま、板垣のポカでな。幼君に2回負けてる信長様ほどじゃない。
>>974 お前はろくなレスしてなさそうだが。
75 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 22:57:03 ID:8EGO1PAZ
76 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 23:00:34 ID:8EGO1PAZ
>>38 まあ武田派の人間としては織田派の叩きに意見してくれる彼のような人は
悪くは思ってない。
彼も落ち着けばいい議論ができそうな人だから
落ち着きを求めたいという事だ。
77 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 23:32:14 ID:Fb7UfQoA
>>73 >竹中の稲葉山城のっとりは1564年。家督継承から3年後だぞ。
つまり三年もたって、乱れが出てきたってことでしょう。
さらに言うならば、竹中のこの乗っ取りは不成功に終わっていることも。
結局美濃豪族達は龍興支持を変えなかったのだから。
>戦わざるを得ない状況の人間たちもいるわけで
その通りだが、交渉で戦いを回避することだって必ずしも不可能だった
わけじゃあない。三国同盟もそうだし、越相同盟も甲越和約などもある。
信長だって、何もせず大国の干渉が運良くなかったわけではない。大国の
干渉を排除するべく様々な外交折衝を行い。有利な状況を自らの意志と
努力で作り上げた。そういった裏面を無視して「信長は楽だった」という
のは認識不足もいいところ。もう一つ。これは信長に限った話じゃない。
信玄だって信濃攻略のために、今川北条という強国と外交で同盟を結び
その干渉を排除した上で侵略を進めた、結果信濃を切り取った。
随分と、信長とは評価基準が違いますねえ?
>この力に対抗できる存在は当時の畿内にはなく、たやすく征服された
畿内が信長に容易く征服された?それが本当だったなら、反信長包囲網
とやらはいったい何?信玄はどこと同盟して上洛戦を挑んだんだ?
そもそも
>信長が畿内に入ったのは100万石以上の力を持ってから
この100万石以上に到達するまでは、信長の敵は基本的に自分と同等レベル
であり、それらの相克に勝ち抜いて大勢力を築いたわけですが?
信長は大勢力だったから大兵力だったから楽勝だったとか言う人は、
信長家督相続時の状況を知っているのか?
78 :
名無し曰く、:2009/01/25(日) 23:42:00 ID:0EHLDxDI
ああ連投うざい
79 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 00:05:17 ID:VtEWSSCx
>>77 違うな。三年もたってるのに内乱が起きてるという事だ。とても磐石じゃない。
龍興も結局これだけの大罪を犯した安藤を処罰できなかった。
安藤は事前の根回しができなかっただけだ。
無理無理。北条と上杉は必然的に対立する。
そして武田は北条の同盟国である以上上杉と戦わざるを得ないし、
上杉の要求も武田の飲めるものでもない。
織田が何かした?西上野攻略中の武田に婚姻同盟を申し込んだ事くらいでは。
後は自分より小さな相手ばかり。
一年もたたないうちに畿内主要部は織田の手に押さえられ織田の国力は大幅に増加したが?
そして包囲網勢をあわせても織田と対等ぐらいの勢力を作ってる。
いや全然。もともと弾正忠家は尾張最強だろ。信長に味方した一門もいる。
美濃は幼君で義龍の時は勝てなかったけど?
ああ、尾張最強の家を継承したけど弟に背かれたな。
80 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 00:11:03 ID:b1Ww1UM+
弟に背かれたって言うか対抗勢力が弟を担ぎ出したんだろうけどな。
結果国人衆連合から一歩抜け出して独裁体制を確立できた。
信玄なんかは最後まで家臣団が強すぎてそのツケが勝頼に回った感じ。
81 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 00:33:20 ID:VtEWSSCx
>>80 どんなもんだかな。
その後も家臣にも味方にも何度もそむかれて最後は崩壊。
織田家の文書量から見てもそこまで強力な独裁体制だったものか。
信玄は取り立てた側近を家臣団の中枢にすえ、最終的に相当な権力を手にしてるが。
強すぎるとはとても思えないが。
82 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 00:43:31 ID:hC8qOUQh
少なくとも官僚化や中央集権化はされてはいないな、宣教師や公家などの評判は残された文書からは信長自身は結構独裁的ではあったようだし、
割と好き勝手やってるみたいだが、独裁的な体制を構築する組織を作っていないのはほぼ確実、あくまで個人的な独裁政権だったかもレベル。
単純に恐れられていただけかもしれないけどな。
83 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 01:09:15 ID:62nyZnQ2
信玄と謙信が最強だと信じてる人に
マジレスしてほしいんだけど
現状の統率で信玄110、謙信120、信長92
この差は妥当だと思ってんの?
なんとしても信長より上にしたいんだろうけど
18、28も格差があるのは良心が痛まないの?
ちょっと有力武将の数値かいてほしい
84 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 01:15:32 ID:4MeyHLyo
>>79 矛盾してますよ。その幼君でがたがたな美濃政権において、三年もたって
ようやく一件の謀反騒ぎがおきた。それも同調者は一人も出ずに降伏する
しかなかったお粗末なクーデターが。おかしな話ですねえ?
>畿内主要部は織田の手に押さえられ織田の国力は大幅に増加したが?
本当に何も知らないんですね。元亀の頃の畿内はあくまで幕府に従っていた。
信長は義昭幕府の主催者実権者として彼らを従えたが、身分はあくまで幕命
としてであり、畿内豪族達も、幕府の上位者として信長の命令に服したが、
織田家に被官したわけでは全く無い。だからこそ、元亀末年に将軍義昭が
信長との反目を宣言したとき、幕臣の立場として織田と戦ったのであって、
信長は家来に背かれたとは看做せない。彼らが織田の被官となって、畿内が
織田の領土化していいくのは天正以降。
上洛戦で織田家の領土になったのは、近江の旧六角領くらいか。
>もともと弾正忠家は尾張最強だろ
相対的に尾張で一番ではあったが、ダントツに引き離しているわけでもなく、
また信秀の死によって盟主の座を失った織田弾正忠家は、単独の勢力として
なら互角に近い者達がまだまだ尾張にはいた。清洲織田家もそうだし、犬山や
岩倉だって信長に負けない三千近い兵を動員する力を持っていた。そんな勢力を
きり従えることによって、桶狭間までに尾張の大部分をようやく押さえたら、
今度は三カ国の今川家の侵攻。
>>81 >その後も家臣にも味方にも何度もそむかれて最後は崩壊
具体例をどうぞ。何度もとかいうのなら、いくらでも出てくるでしょう?
味方に関しては向こうにも事情や状況があるのだから、信長の家中の
統制力とはまた別の問題。
元亀に離反した畿内の豪族達はそもそも織田家臣ですらない。
85 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 01:18:23 ID:hC8qOUQh
>>83 武将それぞれの功績や得意とする戦い方が違うからなんともいえない
大兵力で小兵力押しつぶすだとその中じゃ信玄が経験多くまだミスが少ない
小兵力で大軍を破るだとその中じゃ信長が一番経験ある
負け戦の少なさじゃその中じゃ謙信か?
でもそれでどう数値付けるかというと難しい。
86 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 01:37:55 ID:VtEWSSCx
>>84 全然矛盾してませんがなにか?
城をのっとられるクーデターなんてもんはめったにあるもんじゃありませんが何か?
そして龍興がその犯人たる安藤を処罰できてないなんて君の主張じゃおかしいですよねえ?
少なくとも君より知ってることは確実ですね。
信長上洛戦以後の多くの戦いに畿内勢は参戦してますが何か?
「三好左京大夫義継・細川兵部大輔藤孝・池田筑後守勝正・池田清貧・伊丹衆・荒木衆」
といった連中が1569年には信長方としてかいがいしく働いてますが何か?
伊勢攻めでも波多野氏の参戦が見受けられますが?
1570年の能が開かれたときも畠山高政・同昭高殿、一色義道殿、三好義継、松永久秀といった連中が
見受けられますが?
逆に何を持って制圧してないと?詳しく教えてもらえる?
将軍が立った時の勢力の名前もあげてね。
ダントツですが何か?朝廷に4千貫という大金を出して多方面作戦やってるような家ですが?
だからこそ他の諸勢力も信秀に従ってたんですがなにか?
互角なんて程遠いのですが。
桶狭間では先陣と勘違いして本陣突っ込んで大将たおせましたね。まことに運がいい。
87 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 01:43:51 ID:VtEWSSCx
>>84(続き)
織田信勝、林、織田信広をはじめとする一族、明智光秀、荒木、松永久秀、
後は浅井長政も信長は書状で家臣として扱ってますね。
家臣として扱っておきながら裏切られたら違うなんてそれはそれでお粗末ですが。
矛盾しまくりですが。
出せといいつつ、相手に事情があるから信長の統制とは関係ないなどとと
言い逃れもはなはだしい。
散々下として扱っておきながら離反されたら家臣じゃない?
あきれた逃げ口上ですね。
これだけ裏切られて何度も窮地に陥ってるのに何をいえたものか。
88 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 01:57:29 ID:hC8qOUQh
>>86 >「三好左京大夫義継・細川兵部大輔藤孝・池田筑後守勝正・池田清貧・伊丹衆・荒木衆」
>畠山高政・同昭高殿、一色義道殿、三好義継、松永久秀
これはあくまで幕臣としての関係じゃないか?
89 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 02:00:05 ID:9rIvzJO1
>>85 それをあえて数値化してみようっていうのがこのスレの主旨ですよ!しっかり!
90 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 02:07:17 ID:VtEWSSCx
>>88 そうか?
細川藤孝や池田勝正はその後も信長方だし二人の畠山も信長方、
一色義道も足利派を影でかくまったりしてるけど基本的に信長についてる。
力関係がものをいうということだと思うが。
てか
>>84の主張どおりなら信玄西上で織田の畿内支配があっさり崩壊しそうだから
こっちとしてはそれでもいいんだが。
91 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 02:22:10 ID:hC8qOUQh
>>89 統率でも
小規模の指揮
中規模の指揮
大規模の指揮
超大規模の指揮
攻城
篭城
殿戦
部隊の運用というか行軍速度
などが軍事的な要素となるだろうし、
更に革新ではこれに加えて
兵の徴兵
一揆扇動
どれが優先度高いんだか。
>>90 それらは織田家の陪臣じゃ無く、直臣なんだから、信長からすれば同格だろ形式的には。
決して織田家の家臣ではない。
92 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 02:25:59 ID:VtEWSSCx
>>91 形式的にはそうでも実質的に従属してる事に何か問題でも?
それは勢力圏と見ていいものだと思うが。
93 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 02:27:50 ID:9rIvzJO1
>>91 >どれが優先度高いんだか。
じゃあそっから議論スタートゥ!
94 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 02:34:27 ID:phL9t2hb
どれが一番優先度高いと言う基準は残念ながら存在しないと思う。
こちらが判断できるのは現在の数値から鑑みてそれぞれの武将がどれを優先的に評価されて
その数値がついているか・・・とある程度肥の査定を基準に柔軟に考えないとさすがに議論になりようが無い。
柔軟に考えてもやっぱりおかしいとなって初めて過小過大と言えるのではないかなと。
95 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 02:54:49 ID:4emLWXxL
>>91 そこに列挙された項目の情報を、武将1000人分以上すべてこと細かく資料から分析して用意できるか否かを考慮しての発言なのか?
できないことをあげつらっても意味が無いぞ?
96 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 03:21:18 ID:R+hn0dOM
具体的な数値案は何も言えず揚げ足の取り合いだけは熱心。
結局自分の知識を披露したいだけの連中でしたw
97 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 03:40:28 ID:R+hn0dOM
因みにいくら頑張っても厨同士の議論(笑)はなかったことになりますw
無駄な努力ご苦労さんw
98 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 03:46:51 ID:ICLpBRFP
大体小田井原で考慮すべきは信玄じゃなくて、板垣甘利の両将だろ。
・・・と思ったらこいつら両方とも革新出てないのな
99 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 10:05:11 ID:+MRn+XjA
荒しが消えてまともになったと思いきや
相変わらず、目的が論破(笑)の人の集いだねw
一々挑発的な言い回しをしないと気がすまないみたいだし
ああ、隔離スレだから問題ないか
100 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 12:28:44 ID:gnlbHEkn
というかかの人の場合は話し合いじゃなくて自分の意見を通すのが目的みたいに感じる
101 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 16:40:25 ID:/qIr68cm
>>96 もしそうだったとすればこんなに悲しいことはない。
俺は1,2年前に毛利厨の人と「信長元就どっちが統率100にふさわしいか」で議論したことあったがw
102 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 16:49:15 ID:eXLB4OY9
103 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 16:59:09 ID:zO0qhs7T
知らんかった
104 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 19:08:54 ID:Asl07Ap0
とりあえずこのスレでの板垣の評価を聞きたいわけだが。
信虎追放して信玄擁立に成功(政治知略評価)したけど最後はあまり華々しくない形で戦死(統率減点)
だから遊佐続光を少し強化したくらい?
105 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 21:24:44 ID:zUmw7OGM
一昨年の大河だと、余裕で武力90突破だったな
106 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 23:16:50 ID:503uYBs0
負け犬 上杉新潟田舎侍、武田落ちこぼれ侍は逃げたでござるか!わははは
107 :
名無し曰く、:2009/01/26(月) 23:55:53 ID:62nyZnQ2
元就と謙信の統率は史実だと逆だと思う
108 :
名無し曰く、:2009/01/27(火) 01:51:44 ID:I5wu01X6
>>100 かの人、じゃなくてかの人達でしょ。
>>102 家臣に殺され天下崩壊し信長は最たる負け犬だが。
109 :
名無し曰く、:2009/01/27(火) 08:08:27 ID:BNyyEqz8
110 :
名無し曰く、:2009/01/27(火) 10:05:39 ID:WRaNgg3y
信長 統率力100 武力100 政治力100 >>>>>> 駄目上杉 、武田 各々10くらいだろ。
111 :
名無し曰く、:2009/01/27(火) 10:36:33 ID:mITOlXuq
誰か
>>106に餌与えてやれよ
相手にされなくて可哀相だろ
112 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 07:16:21 ID:nVMlnEcG
>>85 マジレスするが信長が少数で多数を破る経験というのは天王寺だけじゃなかったか?
>>91 行軍速度というのは戦略的意味合いが強いし
街道の整備のされ方、川の渡河のしやすさ、山の起伏、雪など
自然環境的要素が強いからあまり統率に考慮されるべき要素とも言えないんじゃないか。
統率は単純に戦闘においてより不利な状況、少ない兵で強い相手を倒した奴
が高く設定されてると思うが。無論有利な状況を戦術的に作りだして戦ったのなら
それも勿論+の材料にはなるだろうけど。
部隊長クラスでも目立った活躍すれば統率アップ材料にはなるだろうし。
113 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 07:28:31 ID:nVMlnEcG
>>102 釣りでもなく聞くが当時の鉄砲ってそんなに強いの?
射程距離も殺傷力も命中率もたいした事ないという話を聞いたんだが。
鉄砲がそこまで強いにしては結構苦戦が多い気がするんだが。迎撃戦等なら
ともかくそれ以外でそこまで絶大な威力を発揮するの?
武田だって鉄砲を軽視してたわけでもないしむしろ多量かつ
高性能な物を揃える経済力がモノを言ったんじゃないか
114 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 08:31:58 ID:+r3mJZVn
>>113 鉄砲の音がすごいよ。長篠の戦いを現代に再現にした祭りだかを見たが
昔の鉄砲音はすごい音がする。
騎馬軍団の武者、馬にとっては 初体験に近い轟音と遠距離からの殺傷能力に
負けた。
日本史勉強しろや。(大まかなものだけど) 長篠の戦いのあとに武田は衰退して
徳川に吸収された。
115 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 08:45:01 ID:nVMlnEcG
>>114 鉄砲の射程は13mくらいしかないんじゃなかった?
殺傷性も低かったというのが戦国板の長篠スレにあったんだがデマ?
いや、だから通説は本当かと聞いてるんだが。
116 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 08:46:46 ID:nVMlnEcG
747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/05(日) 12:55:37 ID:K3ZYuSmO
発掘された弾丸を検証した結果では殺傷能力はかなり低かったことがわかっている。
当時の弾は現在の⊃型と違って不完全な○型で空気抵抗が大きく照準も合わない。
また、当時の火縄銃の分析でもバレル内に螺旋が刻まれてなく、弾に回転が加わらないので
弾の安定性、直進性もかなり低かったことが証明されている。
これらから推定される流体物理学上の有効射程距離は13m。
毎秒5mの速さで進軍されたとすると三段撃ちでも次弾発射まで7.8秒しか猶予時間がない。
敵がボルト並の速さだと猶予時間は4.1秒。柵だけじゃどうにもならんね。
やはり火縄銃以外のプラスアルファ部分が勝利に大きく貢献したと考えられる。
748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/05(日) 12:59:44 ID:vdhvkYCB
13mって矢より短そうなんだが
756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 03:31:16 ID:0E4ZZEJM
>>753 おいら 13mって距離はけっこう真実味あるかも、と思うよ。
当時の一丁あたりの携行弾薬数ってそう多くないと思うのよ。
もっと銃が主役だった朝鮮の役の金海城に用意された弾は銃一丁あたり23発なので、
二昔前の当時もそれ以上は持って行かなかったかと。まぁ硝石は輸入品だし高いものだしねぇ。
で、こういう前提条件では、種子島の有効射程云々よりも、
”鉄砲撃ちの勲功がわかる”距離で使われたと見る方が実情にあってるのじゃないかな。
この戦いじゃないけど、鉄砲の狙撃で武将を倒した功名の記録はあるしね。
となると、兜首を狙える状況ってのは、相手が突撃してきたとき、が一番だよね。
で、有効射程50mも先からバンザイ突撃する軍法は、銃装備もしていた武田軍では考えにくいんじゃないかな。
となると必然匍匐?前進で近寄ってから20m以内からの突撃、だったんじゃないかなぁ。
(これは旧陸軍のバンザイ突撃の距離だけど…)
となると、銃が使える距離もそれくらいに限定されてしまうと思う。
なので当時の銃術の本も至近距離での話しか書かれてないんだと思うよ。
761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 12:11:23 ID:t0OTtd2R
島津あたりの鉄砲の打ち方は相手の目がはっきりと見えるぐらいまで近づいたら撃てじゃなかった?
762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 13:13:28 ID:7x9W24i9
>>747 なるほど、野球のフォークボールと同じ原理ですね。
回転がないと空気抵抗の影響である地点を境に速度が極端に落ち弾も落ちる、と。
現在の素材と違って砲身内に撃つ度にわずかなひずみが生じるからカーブやシュートする軌道もありえますね。
弾も現在のように完全に規格化されてないから一発一発微妙に大きさや形が違うだろうし、
撃つ度に少しズレが出るのが当然だと思います。
763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/06(月) 13:39:15 ID:qbFElcfi
狙って「ある一点」を撃つ、というよりも「面」を撃つ兵器だったんじゃないかな
最低でも10人単位くらいがまとまって上級指揮者の示す方向におよそで筒先を合わせる
で、撃つ
狙って撃つわけじゃないので照準合わせもない
これなら実質的な有効射程距離は伸びる
たまたまその方向にいた撃たれる側にしてみれば被弾しようがしまいが轟音ともに弾が
殺到してくるイメージになる
117 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 09:00:34 ID:3R4HUirN
有効射程13mはありえないでしょ。
そんなもの使うぐらいなら弓を使えばいい話だし。
118 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 10:46:27 ID:DFYZQXGl
13mって結構大きいと思うけどな。ぶっちゃけ今の拳銃だって命中するのはそんくらいの距離だろ。
戦国時代の戦なんて総兵数の1/10も討ち取られたらケリが付く。
百丁単位で運用されたら充分脅威だと思うよ。
決死の覚悟でバンザイアタックかましてくる兵士なんてそんなにいないだろうし。
119 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 14:39:28 ID:FtFbcG+J
>13mって結構大きいと思うけどな。ぶっちゃけ今の拳銃だって命中するのはそんくらいの距離だろ。
wwwwwwwwwwwwwwwwww
120 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 17:10:07 ID:PFrBQkTE
北条氏康は過大評価、羽柴秀吉は過小評価。
関東で終わった氏康の能力が天下人の秀吉より
全部上なのはどう思う?
順位 武将名 統率 武勇 知略 政治 合計
04位 羽柴秀吉 95 79 94 107 375
16位 北条氏康 87 65 94 104 350
能力値を入れ替えたらしっくりくるな
121 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 18:00:23 ID:nVMlnEcG
倍以上の兵力を持ちながら光秀軍より多い損害を被り
撤退中なのに柴田勝政や佐久間盛政を大軍で襲ってしばらく持ち堪えられ
わずか16000〜18000ほどの家康に領国中の兵100000程かき集めて短期決戦
挑んでボロ負けする秀吉が統率95は絶対にない。
122 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 19:16:00 ID:Ne6Hygcb
>>116 それはレスの抽出のしかたがおかしい
もとスレでは、13mは島津鉄砲術の中で一撃必中を目指した距離で
実際は城の堀に面した城壁の銃眼を見ればわかるように、
少なくとも50m〜は実用射程だったのではと言う話だった
123 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 19:35:38 ID:E2goXaZd
射程は弓の方が長かったって聞いたけどなあ
124 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 19:53:21 ID:PFrBQkTE
>>121 氏康の統率95もないんじゃないか
秀吉の87が妥当というなら氏康は秀吉以下にしないと
氏康の政治がトップなのも変だしな三傑より下げないと
政治は秀吉>信長>>家康>氏康
125 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 20:54:56 ID:FtFbcG+J
>>121 倍以上の兵力を持ちながらボロ負けした上に重臣何人も打ち取られ
長野業正に4回も負け3万の兵で1000人の小城を落とすのに2か月もかかった信玄の
統率110はいいの?
126 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 21:49:53 ID:PpHFZRcL
NHKの番組で鉄砲の射程は100メートルっていってたがなぁ…
命中させられる距離は知らんが、敵への威嚇射撃にはそのくらいの距離でも有効だったんじゃ?
127 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 21:58:44 ID:+0uuO4qo
氏康の武勇60台はないでしょいくらなんでも。でも秀吉の武勇と統率は低すぎ
せめて90にしてアイテム補正で100にと、言いたいとこだけどじつはS1の信長の統率と(官位込み)
秀吉のアイテム補正込みの統率は同じ97なんだよね。
それでもPKでの足軽戦法の弱体化と、パッチ修正により計略熟練の上昇速度がさがったせいで
計略Bの秀吉が三英傑中最弱かも。
128 :
名無し曰く、:2009/01/28(水) 23:50:34 ID:+prJ4SK5
>>125 長野には負けてない。江戸時代の講談にしかないから。
上田原の事言ってるなら板垣の戦場真ん中首実検が原因だし
その状況から逆に村上の将を何人も討ち取ってる。
129 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 00:47:51 ID:D09y5RxX
っていうか福島正則とか加藤清正とか両兵衛とかに吸われてるだけで
単体で評価するなら統率面における秀吉の実力は最強クラスで問題ない。
ただ信長と同勢力にいるから、配下に吸われてるだけ。さすがにゲームなんだからその辺は鑑みていかないと。
氏康と比較するのはそもそもおかしい。
政治100オーバーはちょっと北条家全体の評価を吸ってる部分があるが
実力・実績から考えても統率95は極めて妥当。この辺までケチをつけ始めてたら本気でキリが無い。
130 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 08:20:36 ID:sRawkjBH
倍以上の兵力を持ちながら光秀軍より多い損害を被り
撤退中なのに柴田勝政や佐久間盛政を大軍で襲ってしばらく持ち堪えられ
わずか16000〜18000ほどの家康に領国中の兵100000程かき集めて短期決戦
挑んでボロ負けする秀吉が統率95は絶対にない。
実績なんて拡張をし続ける環境にあった織田家にいれば残しやすいのは当たり前でしょ
131 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 08:26:52 ID:sRawkjBH
秀吉の軍事面が最強クラスとか釣りですか?
132 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 12:31:38 ID:bZ2ILqB+
倍以上の兵力を持ちながらボロ負けした上に重臣何人も打ち取られ
長野業正に4回も負け3万の兵で1000人の小城を落とすのに2か月もかかり
2万の兵でも飯山城落とせず強姦略奪しか能がなかった信玄の統率110はいいの?
133 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 12:39:56 ID:9MIHM1gO
>>132 長野には負けてない。江戸時代の講談にしかないから。
上田原の事言ってるなら板垣の戦場真ん中首実検が原因だし
その状況から逆に村上の将を何人も討ち取ってる。
強姦略奪しか能がないって何のこと?
134 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 14:26:27 ID:tAESSYd9
>>130 光秀軍より多い損害を出したのは短期間で決着をつけるため
時間を味方の兵の血で買ったと考えれば十分元は取れている。
織田家が拡張をし続ける事ができたのは秀吉の実績
もちろん全てが猿の功績ではないが猿抜きでアレだけの拡大はなかった。
135 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 15:32:44 ID:ryfMKTe3
>>134 短期間で決着つけるため、と言われてもそんな事書かれた書状とかあったっけ?
決戦において一日二日でそこまで状況が変わるの?時間経てば不利になるのは
むしろ光秀の方じゃないのか。光秀は要所である山崎を防衛する形で
戦わざるをえない形の上に思ったような戦力が集まらず不利な状況
で戦っていたといえる。
どちらにしても戦いで大きな被害負っただろう事実は変わらないし
拡張は散々言われてるけど運や地理条件、周辺状況に恵まれていた所が大きいし
その織田家内にいれば必然的に実績を残しやすくなるから統率の高評価にそのまま
繋げるのはどうかと思う。
136 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 15:47:42 ID:ryfMKTe3
というか先に仕掛けたのは光秀軍だろ?
天王山は秀吉方が先に布陣してて中川もそこに加わろうとした所で
明智方が中川に襲い掛かって仕掛けたんじゃないのか。
137 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 18:29:54 ID:tAESSYd9
>>135 >時間経てば不利になるのはむしろ光秀の方じゃないのか。
秀吉と光秀だけでならそのとおり、ただ北条や徳川、上杉、毛利など
からみれば長引けば長引くほど火事場泥棒的に考えて望ましいのでは。
138 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 18:41:35 ID:ryfMKTe3
>>137 それは合戦での一日二日とかの話ではなく
ある程度長期的な話じゃないのか。しかも天王山を占拠された光秀が
先に仕掛けた戦いだし短期間で決着をつけるため というのは説得力に欠けるような
139 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 18:54:41 ID:C8WfsKkG
>>133 このゲームって講談も評価材料になるんじゃないの?
140 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 19:17:07 ID:ryfMKTe3
講談は含めない方がいいと思うがなあ
141 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 19:50:16 ID:tjGg5Sdi
明らかに史実に反してない史実は評価7割引で採用とか
そのまんま入れたら超人だらけだyo
142 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 20:23:08 ID:6iblYqvJ
史実って言っても多角的に資料が残ってる武将なんて一握りだから・・・
何を持って「史実」って言いたいのかわからんが講談に毛の生えたようなもんだろ?
三国志で言うと演技が講談で正史が史実って言ってるみたいなもん。
143 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 21:48:49 ID:lJDQw9fr
龍興さんマジパねぇっす
144 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 23:03:40 ID:WDkngo0D
天王山に限っては他の重臣が戦に間に合ってしまうと今後口出しされる憂いが残るから被害無視で一気に押し切ったんじゃね?
大体、光秀が不利な条件で戦ったというより、迅速に戻ってきて準備させなかった秀吉を評価するべき所じゃないか?
145 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 23:05:48 ID:D09y5RxX
>>142 1000年以上も時代が違う三国志と混同しちゃいかんよ。
まぁ講談と史実の区切りは難しいが戦国時代であれば史料も多いし。
146 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 23:08:44 ID:bMQnibIr
疲労困憊の秀吉本隊、無理して寄せ集めた秀孝、丹羽隊、
それに明智と何らかの上下関係あったかもしれない摂津衆、
訓練度や兵の忠誠度、士気などは悪そうだ。
訓練度はともかく兵の忠誠度なんて風雲録にしかないステータスだがw
147 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 23:24:32 ID:ryfMKTe3
>>144 だから先に仕掛けたのは光秀だと言ってるんだが。
迅速に戻ってきたのは戦略レベルでの話しだし
逆に言うと準備させなかったのにこの被害状況ではむしろマイナス
>>146 主殺しを討伐する目的なわけで戦意が上がらないと考える方が無理があるんだが
訓練度が劣るってなんで?士気でいえば光秀だって予想を上回る秀吉の行軍の
速さにみな動揺してそうなものだが。
148 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 23:26:50 ID:D09y5RxX
戦略レベルの話だったからなんだというのか。
むしろ統率は意味を考えればその戦略レベルのをこそ評価すべき。
149 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 23:28:20 ID:ryfMKTe3
統率はあくまで戦闘時のステータス。
戦略レベルでは厳密に戦闘と同義ではない
150 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 23:37:45 ID:bMQnibIr
>>147 主人が死んだということで戦意が下がる可能性もあると思うが。
つか兵の疲労は近年はだいたい士気の低下で表していると思うが、
訓練度が劣るって集めたばかりの兵は基本的に訓練度低いだろ。
151 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 23:38:12 ID:D09y5RxX
兵集めるのも兵の上限決めるのも部隊内の大将決めるのも統率
ついでに一揆起こしたりするのも。
戦闘時も士気と基礎能力のみに影響をする要素であって
それは戦闘時に何かすることで変わる要素ではない、極めて戦略的意味の強い数値。
戦闘時に能動的に動く戦術的な要素に影響するのは武勇と智略
152 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 23:41:54 ID:ryfMKTe3
>>150 主人が死んだ、で終わりなら戦意が下がるが
主人が死んでその逆臣を討つぞ!なら上がるんじゃ?
集めたばかりというのはなぜ?四国討伐は前々から決まってたんじゃないの?
摂津衆も旧に集められたものなの?
153 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 23:45:15 ID:ryfMKTe3
>>151 兵集めるのも統率だけど優先順位は低いんじゃないか。
戦略的意味合いが強いというのがわからん
基礎能力が戦略?闘志上昇スピードにも関わるし直接戦闘の根幹になる
能力じゃん。
154 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 23:46:35 ID:bMQnibIr
>>151 確かに戦法の使用が戦術にあたると考えるなら、武勇と知略だな。
>>152 逆臣討ったところで将来は・・・だし
経済で言うところのローリスク好むタイプは士気下がるんじゃ、
逆にハイリスク好むタイプは士気上がるだろうけど。
四国討伐軍は本能寺の影響で軍が四散しちゃって、それから無理やり集めた。
155 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 23:49:29 ID:bMQnibIr
戦場で謀略戦術駆使して勝ったタイプは武勇知略も評価して、
特に戦術駆使することなくただ正面から戦って普通に勝ったは統率のみ評価とするべきか?
156 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 23:51:01 ID:ryfMKTe3
>>154 戦法が戦術、というのはちょっとな。
武勇なんてほとんどおかざりだし。大局に影響ない。戦術は大軍同士でも
影響するでしょ。小牧とか川中島とか。
逆臣討って将来は‥ってなんで?
ローリスクどうこうより自分の主殺した奴相手なら士気はかなりあがりそうだけど。
157 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 23:52:59 ID:ryfMKTe3
>>155 武勇はおかざりでしょ。大局に影響ないし。
戦術の定義にもよるけど小牧とかなら充分戦術面で統率の評価材料になるでしょ
158 :
名無し曰く、:2009/01/29(木) 23:57:24 ID:bMQnibIr
>>156 騎馬戦法や捨て奸火牛計混乱あたりはともかく
残りの足軽や鉄砲などの戦法は戦術かというと疑問がつくのもあるな。
159 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 00:02:22 ID:vxFP49o5
>>158 戦術というには影響なさすぎなんだが‥。武勇30低くてもダメージ差でいうと
さほど大きくないし。戦闘の評価は統率+知略ですべきと思うがな。
160 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 00:04:28 ID:C8WfsKkG
結論・コーエーは糞
161 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 00:04:50 ID:iewuSvIx
>>157 小牧というか長久手を言っているのだろうけど、
勝った要因は、
1秀吉側に自軍の行動を悟らせなかったことと
2小牧からすばやく行軍したことと
3中入り軍に対して強襲突進突撃混乱に成功したこと
とするなら
1知略
2統率
3武勇知略
とすべきなのかな?
162 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 00:09:33 ID:vxFP49o5
>>161 いや中入り作戦察知して殲滅した事自体が戦術的勝利と言えると思うが。
あれだけ圧倒的兵力だし統率も多いに関係しそうなもんだが
1、2、3とかにわけずに全体で考えた方がしっくり来ないか?
163 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 00:15:14 ID:iewuSvIx
>>162 それじゃ何のための戦法だか・・・
まあ戦法はともかく武勇はほとんど意味なしステータスだが
その考え方だと知略は合戦時には影響しないステータスとしなければならなくなると思うが。
164 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 00:21:23 ID:vxFP49o5
>>163 知略は多いに影響するでしょ。無論全て総合して評価付けるべきと思うよ。
無論戦術レベルでの勝利に知略での評価も考慮すべきと思うが。
知略低い奴は偽報、流言、計略戦法にかかったりするし。
猛将系と知将系、バランス系等戦った経歴から見て
判断すべきと思うが戦術的勝利した奴は知略のみでなく統率にも大いに反映させるべきじゃ
165 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 00:23:33 ID:vwxpKJIm
>>153 基礎能力と言うのは事前に準備しておくものなので戦略的要素。
その基礎能力を戦闘中にどう活かしていくかが戦術的要素。
闘志上昇スピードと言うこのゲームではある意味行軍スピードのような要素も
戦闘開始時には変えようが無い基礎能力。
もっとも戦術と戦略と言うもの自体はっきりとは分けにくいものなので
数値の意味もそこまではっきり分けられるとも思えないし分ける意味も無いとは思うが。
どちらかに分けるとするならば統率が戦略、智略・武勇が戦術だろう。
166 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 00:27:44 ID:6J7cVDwZ
個人的に同条件でぶつけたら謙信だろうが氏真だろうが同じ強さにして欲しいんだけど。
統率は計略のかかりにくさとか行軍速度とかに反映させて。
167 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 00:27:55 ID:vxFP49o5
>>165 基礎能力が事前に準備しておくべきだから戦略?意味わからん。
行軍スピードが戦闘での基礎能力ってなぜ?大体そこまで差が出るものなの?
どれだけの数率いるかにもよるし。
戦略が知略で戦術が統率の方がずっとしっくり来るんだが。
戦略レベルでの話と戦術レベルでの話ごっちゃにしたら駄目だと思う。
戦術=純粋な戦闘=統率というのが俺の考え方だが。
168 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 00:29:14 ID:vxFP49o5
>>166 つ小牧長久手の戦い。正面からぶつかり合って徳川の大勝
169 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 00:33:53 ID:6J7cVDwZ
170 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 00:35:59 ID:vxFP49o5
>>169 兵の錬度と言われても指揮官の采配センスで勝負が決まったように見えるけど…
171 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 00:48:49 ID:6J7cVDwZ
>>170 小牧長久手が正面衝突の采配センスで決まったとは思えないんだけど・・・
戦術レベルの采配能力はゲーム上じゃプレイヤーに委ねられるからそっちで還元した方がいいと言ってる。
統率が高い武将は士気が落ちにくいとか移動速度が速いとかでメリット付ければいいじゃん。
172 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 01:37:47 ID:nVazAuUa
とはいえ小牧長久手は序盤を家康が制し、政治的に有利に秀吉がことを運んだ戦いだからね。
家康統率↑ 秀吉政治↑だろ。
173 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 01:42:45 ID:nVazAuUa
俺の中では
秀吉 統率89 知略97 政治95
家康 統率91 知略93 政治97
かな。
ちなみに
信長 統率97 知略91 政治100
信玄 統率86 知略92 政治88
謙信 統率93 知略74 政治79
元就 統率95 知略99 政治84
氏康 統率87 知略91 政治93
174 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 01:53:16 ID:lCalV1Zs
それはないだろ
家康や信玄、謙信は明らかに統率は信長より高い
逆に政治は高すぎる
175 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 02:07:30 ID:KWBlI0xH
>>173 さすがに家康よりは信玄の統率高くするべきなんじゃないかと思うが、
あとは結構同意だわ。
176 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 02:11:14 ID:nVazAuUa
>>175 いや、だって三方ヶ原は兵力差あるし。家康は晩成するだろ。
それ言ったら信玄も寡兵の豪族ごときに2回もボコられてるけど、村上義清>信玄なんて評価にはならんだろうが。
177 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 02:23:13 ID:syUz4V9v
小牧・長久手の明暗を分けたのは兵の錬度とか指揮官の采配センスとかよりも、両軍の諜報能力の差かな
近隣の農民を手なずけて羽柴軍の中入り部隊の情報をいち早く入手し、それを迅速に撃退した徳川軍に対し、
敵勢力圏内で警戒を怠り即効で撃破された羽柴の中入り部隊、
その徳川軍の動きに気付かず機を逸した羽柴本隊では勝敗は見えてる
別に家康のホームグラウンドってわけでもないのにこの戦いで見せた徳川軍の諜報能力の高さは特筆もの
指揮官として家康を見た場合、この戦いの前後がキャリアハイかな
この戦いの後秀秋のような小僧の動きに一喜一憂して爪をかんだり、
浪人部隊に本陣踏み荒らされて腹切ろうとしたりとあんまり良いとこない
178 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 02:49:31 ID:aBngdIk4
>>173 大大名のみんながみんな、そこまで高性能で特徴のない平たい能力設定だと
能力値を細かく設定する意味が無くね?
と思わなくも無い
179 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 03:03:04 ID:iewuSvIx
>>177 それだと知略の差になるな。
あとゲームだと農民の協力は諸勢力を味方にしたみたいに考えるべきか。
180 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 03:04:15 ID:7MrNy7qZ
お前は革新しかやったことがないのかと
181 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 05:18:37 ID:KvoMm5w5
>>166 国盗り頭脳バトルは、謙信、信玄はチートではなく、
信長や氏康などの有名大名と、ほぼ互角の設定で、
革新とちがい一般武将でも対応可能。
(相性があって、鉄砲の信長は騎馬の信玄より強いが、
足軽の氏康には弱い)
同じ兵科の戦力3の凡将が、三人同時(戦力9)に
攻撃すれば、戦力8の謙信を一撃で潰せるシステムになってる。
同じ兵科の戦力4×5部隊(戦力20の敵軍)が相手でも、
相性の良い兵科でレベル2か3なら、戦力1でも
先に攻撃すれば勝てる。
182 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 07:19:26 ID:vxFP49o5
>>171 なんでだ?一々書かれてなくても兵繰り出すタイミング(移動中狙ったり手薄になってるとこついたり)
陣構え、地形の生かし方等などそういったものが大きく影響したと思うが。
行軍スピードと言っても明らかな差が指揮官によって出るという根拠もないし
古代ローマのハンニバル戦争とかでも指揮官の采配で大きく明暗分かれたし。
日本の戦闘でも指揮官の戦術センス采配センスはかなり関係あると思うが。
>>172 秀吉は10万以上と言われる大軍かき集めて完敗したから軍事的には大敗だから
統率ダウンでしょ。2しか差がないなんて絶対にない。
>>176 城から見事つり出されて完敗喫してるんだけど。姉川でも活躍してるし
当時の彼の実力は充分でしょ。
183 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 07:28:19 ID:vxFP49o5
>>177 秀吉側だって情報収集に勤めてわいると思うが秀吉の作戦がまずかっただけでしょ。
というかこういう一連の敵軍の動き察知したり素早く行動したりという
采配や戦場での判断力こそ戦術センス、指揮灰采配能力だと思うが。
つうか中入り部隊だけでも24000くらいもいて羽柴軍全体で100000以上もおり
三月十三日の丹羽宛書状でも「半月くらいで一気に決着つけてやる」とか
合戦前日の書状でも自分の意思で軍を派遣するみたいな事言ってるし
その後7月あたりに送ってる書状でも三河、遠江への総攻撃作戦する意思の書状
書いてるから。これは実行されなかったけど。長久手が軍事的敗北なのは間違いない。
負けた結果秀吉の短期決戦構想が崩され持久戦に持ち込まれる事になったから。
184 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 08:40:37 ID:SW29v5kJ
その丹羽あて書状が、秀吉が織田徳川連合の謀略に引っ掛かった傍証じゃ
185 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 08:54:12 ID:vxFP49o5
謀略というか短期決戦できる兵力差は充分あったわけで。
上杉毛利も味方で毛利は秀包を秀吉に援軍に送ったり伊予に攻め込んで長曾我部をけん制してるし
上杉も信濃に攻め込んで徳川方の小笠原と戦ってたし木曾もその頃に秀吉に帰属。
雑賀衆もその前に攻めてきて撃退された後だからそこまで多くの抑えはいらない。
長久手町史読めばわかるけど秀吉は最低限の留守居の兵残して北尾張に軍結集させてる。
南伊勢半分もその前の三月の攻防で崩壊状態になってたし。
こんな圧倒的兵力差なら一気に決着つけられると考えるなら普通でしょ。
秀吉が戦闘面で大敗したのはどうやっても擁護できない
186 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 12:36:43 ID:f7QFlWv0
北条は小田原城があったから信玄や謙信の攻撃耐えれただけだろ?その小田原城自体も氏康が建てたわけじゃないし。
政治力はあるけど、そこまで統率高いとは思わない。
187 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 12:49:32 ID:bI02RhxH
政治手腕でいえば氏綱と氏政のが上のはずなんだがな、氏康の能力インフレは謎すぎて話しにならんね
188 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 15:17:46 ID:M3SyU/Xt
一回勝ったってことだけを理由にそれだけで統率が○○より上ってのは暴論じゃ
189 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 15:41:40 ID:WruLJiA+
氏康は民政家として有名だからそこそこあっても。とは言え高すぎかもな。
190 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 16:04:57 ID:bI02RhxH
×氏綱
○長綱
191 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 16:27:16 ID:vxFP49o5
>>188 なんで?直接戦闘があった奴同士比べるのは当然だと思うし
あの状況じゃ兵力差も圧倒的。これで家康が上と考えない方が不自然だと思うが。
相手が全く違う2者じゃなく、交戦した奴同士なら比較しやすいでしょ。
192 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 17:46:38 ID:x8UK8XtG
声が大きい奴ほどなんとやら
193 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 18:13:40 ID:WruLJiA+
>>192 こんなところで多数派を占めても次回作に反映される訳でもなく
反映されたとしてもたかがゲームのパラメータなんだけどね。
194 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 22:17:19 ID:wkINrP4G
>>106 その謙信から逃げたのが信長秀吉だよ
>>173 謙信から逃げた信長が謙信より上てことはないでしょ
195 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 22:50:33 ID:dBcBMtXR
>>193 それをいっちゃおしまいだww
まあ武将の能力はいくらでも変えられるから
光栄に何か言うとしたら武将の能力よりもシステムの方をもう少し何とかしろと
兵力よりも武将の能力値のほうが重要となっていることや、畿内よりも中部の方が豊かなとことか
そっちを何とかして欲しい
196 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 23:26:35 ID:wkINrP4G
たしかにそれはある
信長秀吉家康が謙信より統率上とか非現実的なことでなく
国力重視のゲームバランスにすべき
開発だ投資だで国力が上がる幅も少なくするべきだな
197 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 23:30:12 ID:syUz4V9v
>>183 そりゃ秀吉側も諜報活動はしてただろうが、実際問題小牧・長久手の戦役で
羽柴軍が情報面において徳川軍に一歩も二歩も遅れを取ってたのは事実だし
秀吉は対陣中の徳川軍が中入り部隊を迎撃するために部隊を割いたのに気付かず、
結果白山林で秀次の軍勢が壊滅させられたということを数刻遅れで知ったような状態
情報収集面ではまずったが、秀吉の作戦そのものに問題が有ったとは自分は思わないな
つうかさっきからやたらと羽柴軍が10万居たということを強調してらっしゃるが、
その数字は北尾張全域に展開した羽柴の友軍も含めての数字で、
実際に小牧・長久手で戦闘行為を行った人数じゃないよね
徳川・織田軍と交戦した羽柴軍は、白山林での敗報を受けた秀吉が
救援に駆けつけたときの2万の軍勢を併せてもおそよ4万強、
現実問題としてこの戦争は秀次隊2万を家康の軍勢1万が破ったというだけに過ぎない
事前の諜報活動と実戦に当たって水際立った野戦指揮を見せた
家康の采配は最大限評価されてしかるべきだと思うが、
この戦いが直接秀吉と家康の采配センスとやらの優劣を示すものだったとは自分は思わないよ
この二人は戦国でも屈指の戦歴を誇る武将なんだから、
その軍事的才能については一つの局地戦だけでなく生涯の軍功をトータルで判断すべき
198 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 23:54:00 ID:dBcBMtXR
実際小牧で秀吉軍10万なんていたのかどうか
宇喜多等の中国の武将・北陸の前田丹羽除いて、大坂の留守を除いたら
石高的には秀長軍と合わせて10万程度になりそうだが
199 :
名無し曰く、:2009/01/30(金) 23:54:35 ID:Z/LdRgOI
>>197 秀吉は長久手での戦い当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候、得其意候」
と柏井にいる高柳に伝えており、この事から家康勢の小幡方面への進軍を把握していた
と思われる。しかしすぐ進軍せず長久手での敗戦の報を得た後龍泉寺を経て長久手まで
進軍。しかし其の時にはもう家康は小牧に戻っており楽田もしくは犬山に引き返す事になった。
何回もい言うが秀吉は一貫して家康への短期決戦、三河遠江への侵攻を意図しており
秀吉の書状によると中入り部隊は総勢2万4、5千。
救援部隊が2万というのはソース教えてくれ。
局地戦とは言うがこの戦いの持つ意味は非常に大きい。短期決戦構想を崩され
だらだら戦うハメになり、その後六月に大阪へ帰陣するハメになっていて
7月〜九月にかけての短期決戦強く望む書状を各大名にも送っており
それも結局実現せず和議になっている。生涯の軍功と言っても相手が
違えば比べづらいし直接対決があった以上これを元に優劣をはっきりさせるのは
当然だと思う
200 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 00:08:06 ID:Xj3LGfnu
>>198 三月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井
滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には
秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが三月26日に
黒田長政宛書状で「備前の衆をこちらへ派遣する」と伝えているしその他
美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてるし。長曾我部はまだ讃岐平定してないし
毛利が伊予に攻め込んでてけん制してるから抑えはさほどいらない。
紀伊の雑賀衆は既に攻めてきて撃退された後。信雄領伊勢でも南半分は崩壊状態
になっててその方面の軍勢もかなり北尾張に集められてる。
ソースは長久手町史とそれらをわかりやすくまとめた「小牧長久手の戦いの構造」
201 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 00:17:30 ID:qvS3R6rt
>>199 小牧・長久手が秀吉と家康の一般的な意味における直接対決だったというのは異論を持たないが、
ゲーム中の統率が影響する部分、すなわち部隊同士のガチの殴り合いという意味では
家康はあくまで中入りの秀次隊を撃破したに過ぎず、一方の大将である秀吉本隊はほぼ無傷な状態
この戦役の結果のみで二人の統率の優劣を付けるってのは乱暴だと思うよ
長島一向一揆で一門を多く討たれた信長、防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われた秀吉、
犬居城攻めで天野景貫に退却中追撃を食らった家康、村上義清に二度も苦杯を舐めさせられた信玄、
臼井城攻めで数千人もの人的被害を出し撤退した謙信など、名将でも寡兵の相手に苦戦した例は珍しくない
そういうときに直接対決の結果だけを持って数値を付けると、
どうしても無理が出るのは過去スレでも散々語られてきたことでしょう
といっても自分としてはゲームの統率・武勇で家康>秀吉とすること自体に特に不満が有るわけじゃない
ただ二人の戦歴を無視して、小牧・長久手のみを以って
秀吉が戦下手であるという主張に無理があると言ってるだけ
「2しか差がないなんて絶対にない」なんてことは無いよ
秀吉と家康は戦国時代全体でもトップクラスの戦歴を誇る武将、
ゲームでも普通に二人揃ってトップクラスの評価をされて然るべき
あと救援部隊が2万ってのは旧軍が作成した小牧・長久手戦役の資料から
関ヶ原研究でも採用されてる三人役から推定した数値だと思う
つうか2万4千と大して変わらんじゃん
202 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 00:24:43 ID:qvS3R6rt
あ、中入れ部隊のことじゃなくて龍泉寺に向かった秀吉隊のことなのな
Wikipediaの記事でも採用されてるし、白山林の敗戦を知った秀吉が
急いで手元の旗本だけ連れて出たと考えると無難な数字じゃね
『常山紀談』みたいな江戸時代の説話集では8万になってるけどね>救援に向かった秀吉隊
現実問題として北尾張全域に展開してる8万の軍勢を即座に動かせるわけがない
203 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 00:26:16 ID:Xj3LGfnu
>>201 いや24000は中入り部隊の事。救援部隊は具体数書いてないし全軍で向かったのか
と思ったが。旧軍が作成したって信憑性あるの?推定中の推定だし軍令書の役割を
持っていた秀吉の書状等に比べたら資料価値としてはかなり劣りそうだが。
いや、俺が言ってるのはこれだけ兵力差あり戦術的大敗してだらだら戦うハメになった
んだから統率=戦闘力評価は落ちて当たり前だと思うが。
ほとんど城攻め失敗して後詰軍に手痛くやられた戦いとか城攻めとかじゃん。
小牧長久手は主力決戦だから分けて考えるべきだと思う。
戦歴といっても戦った相手が違うようじゃ比較しづらいし戦歴残しやすい状況
かどうかも大きく関係するからこの場合では直接戦闘を元に優劣付けられて当然と思う
204 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 00:26:32 ID:kyjmF1R/
>>167 goo辞書
戦略
長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法。戦略の具体的遂行である戦術とは区別される。
戦術
(1)個々の具体的な戦闘における戦闘力の使用法。普通、長期・広範の展望をもつ戦略の下位に属する。
(2)一定の目的を達成するためにとられる手段・方法。
戦略の中にある闘争の準備って部分がまさに統率によって兵を集め、兵力を決め隊長を決めたりする部分
計画や運用はさすがにプレイヤーが行う事。
戦術では
このゲームで戦闘力の使用法と言えば、当然戦闘時の戦法の行使。
その戦法の数値が武勇と智略に影響する以上はこの二つの数値は戦術よりの能力と言うべき
統率はある程度総合的な能力と言うのはわかるが、智略が戦略と言うのはこのゲームの場合
あまり当てはまっていない。戦略面で光る武将ほど統率は評価すべき。
205 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 00:31:52 ID:Xj3LGfnu
>>202 いやそもそも北尾張全体に広範囲に八万が展開してたのか?
を問うているわけだが。短期決戦目的ならなるべく結集すると思うし。
wikiを持ち出すなよ。先に旗本派遣しても其のすぐ後に残りの大軍の大部分
割けそうだけど。家康も他所に軍勢が多く散らばってるわけでもないし。
206 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 00:38:05 ID:Xj3LGfnu
>>204 >長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法。戦略の具体的遂行である戦術とは区別される。
これはわかるがこと戦闘と同義じゃないから統率よりも知略の方がしっくりくる
と思ったんだが。計画運用段階では政治、知略も大いに関係するし。
ぶつかりあう事自体戦闘力行しだし戦闘で重要ウエート占める統率を厳密な
戦闘で同義でない戦略を多く加味して評価するのはどうかと思う。
知略は冷静な判断できる奴とかが高いし当てはまってると思うが。comレベルも関係するけど
207 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 00:46:18 ID:5vbKRpi7
革新の知略は、ほぼ戦闘にしか関与しなくね?
208 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 00:49:06 ID:Xj3LGfnu
>>207 軍師の助言、引き抜き等。
というか信長とか戦略レベルで冷静な判断できる奴は高く設定されてると思う。
システム的な問題になるが引き抜きで史実の調略みたい事できたらいいなと思う
209 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 01:08:50 ID:kyjmF1R/
冷静な判断できる奴とかは何を基準にそう思ったのかよくわからんけど
とりあえず上位を見る限り下克上した奴は非常に高く設定されてるのと暗殺等の実績がある奴は高い模様。
そのぐらいで相対的な基準になるものは少ない。
ゲーム内での使用方法で言えば戦術的な意味が大きい数値。統率に比べ戦略的な意味合いはかなり少ない。
210 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 01:35:56 ID:1GnAjd2X
知略による引き抜きなんかは戦略的意味合いが非常に強いが
逆に統率が高いことによって作り出せる戦略的な優位なんて誤差の範囲だよ
211 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 01:55:59 ID:LQ+MRgzR
>>210 会社とか部活で指導者の統率力の違いが、
どれだけ組織全体のポテンシャルに影響するか経験してきただろう?
実際、古来から名将というのは兵士に慕われるような存在。
知略は大切だが、統率力をそこまで軽視するのは違うだろうな
212 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 02:15:02 ID:qvS3R6rt
>>203 旧軍が編纂した戦史資料における兵数は
関ヶ原なんかでもそうだけど基本的に推定
1万石あたり3人の動員なら無理なく可能という前提を元に、
出陣した武将の顔ぶれを見て、各地に残した予備兵力を考慮したうえで
軍記なんかでありがちな誇張を抜いたら
大体こんなもんだったんじゃね、という数字
それでも龍泉寺まで8万の大軍を率いてた秀吉が、
わずか500の兵数で立ちふさがる本多忠勝を見て、
涙を流しながらその忠勇に感動し攻撃を取り止めたとかいう
『徳川実紀』や『常山紀談』、『改正三河後風土記』の
笑っちゃうような記述に比べたら信憑性では幾分マシかな
実紀ではこれ以外にも徳川軍がこの戦役で併せて
1万3000も首級を挙げたとか吹かしまくりだしね
長久手町史、自分は読んだことないけど秀吉隊の兵数に関しては
ここらへんの江戸時代の史料の記述丸々採用しちゃったりしてるのかな
もう少し時間をくれれば天正記みたいな
一次資料を当たってみることもできるんだけど
213 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 02:23:27 ID:kyjmF1R/
>>210 兵の数を整えると言う戦略の根本的な要素が統率基準の時点で誤差もクソもない。
引き抜きは戦略でもあるが戦術でもある、味方にして自軍を優位にするという意味で言えば戦略でもあるが
上の戦術の意味における"目的を達成するためにとられる手段"そのものでもある。
何度も言うがどの数値もはっきりと分けられるほど基準がしっかりしたものではない
だがこのゲームの数値において統率と智略で智略の方が戦略と言うのは実情からあまりにも反している。
そしてそれぞれの数値の上位陣を見ても、大きな兵を整えられる立場にあった戦略的な意味を持つ人物(大名や勢力の大将)ほど統率は高い。
逆に智略は兵力や勢力が弱く戦略的不利な状況から覆した人物=下克上を達成した人物ほど評価されている、
つまり戦略的な意義は低めと見るのが一般的だろう。っていうかベスト10ほぼ全員、下克上武将だ。
早雲>経久>元就>半兵衛(秀吉評価)>本多>道三>松永>幸隆>黒田>宇喜多
214 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 02:29:50 ID:qvS3R6rt
つうかもう一度言わせてもらうけど小牧・長久手戦役に出陣した羽柴軍の中で
実際に徳川軍と戦闘らしい戦闘をしたのは秀次が指揮した中入り部隊だけ
中入り部隊壊滅の報を聞いて出陣するものの、
なんら戦果を挙げれずす帰陣する秀吉はかなり格好悪いが、
それでも秀吉本人が指揮してた部隊が
徳川と交戦して敗走したわけでもないんだから
厳密な意味では主力決戦でも直接対決でも何でもない、
つうのが一貫してる自分の主張なんだけどご理解頂けただろうか
この戦いで評価されるべきなのは、情報戦を制し軍を機敏に操った
家康の統率・知略にプラス、警戒を怠り徳川軍の奇襲を受けて壊滅した
秀次以下中入り部隊の諸将の統率・知略をマイナス、
そして彼らの作戦を立案し、諜報活動で遅れを取った
秀吉の知略マイナスつうのが自分の査定かな
この一戦は確かに秀吉冴えてないけど、
他の合戦では一流の采配見せてるから統率も一流の数値貰うべき
215 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 02:57:16 ID:1GnAjd2X
>>213 >引き抜きは戦略でもあるが戦術でもある、味方にして自軍を優位にするという意味で言えば戦略でもあるが
>上の戦術の意味における"目的を達成するためにとられる手段"そのものでもある。
兵を集めるという行為も目的を達成するために採る手段の一つに過ぎない
統率上位を見れば、大きな兵を整えられる武将よりも
少数の兵で派手な活躍をした武将のように、明確に戦術的強さををあらわす記録や逸話のある武将が高い
ついでに、知略上位の殆どが、大名武将またはその参謀だな
216 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 03:35:58 ID:VffSBNiq
クリックするの疲れた
217 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 03:37:31 ID:kyjmF1R/
>>215 引き抜きは相手勢力に損害を与えているが兵を集めているのは準備の枠を出ていない。
戦略と戦術というカテゴリーで別ける場合、よりグレーラインに近いのはどちらか。
寡兵で大軍を倒したと言うのはもちろん評価すべき要素だが
統率上位の武将を見る限りそこまで重要視されているわけでも無いという事がわかる。
統率上位
謙信>信玄>道雪>幸村>義弘>道灌>為景>業正>昌幸>宗茂
三大奇襲戦のような寡兵による戦いの代表例の武将は誰一人入れてないし
島津の中でも義弘の方が家久より評価されている。
そんで智略で評価されてる武将は大名といってもさっきから言ってるけど
下克上なのでもともとの出自は低かったもしくは低くなった=戦略的に不利な状況
になった後に大名なり参謀なりになれてる武将ばかり。
また明確に戦術的な強さの逸話や記録があるならそれは武勇で評価すべき要素。
無論、何度も言うがどっちにしろ完全にはっきりと分けられるはずもない。
だが実際の数値の傾向と数値のゲーム内での意義を見る限り
見る限り武勇・智略は戦術的な要素、統率は戦略的な要素に比重が重いと見るべき。
218 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 03:56:37 ID:kyjmF1R/
しつこいようだが
統率に戦術的要素が無いといっているわけでもなければ
智略に戦略的要素が無いといっているわけでもない。
あくまで比重の問題。
例えば寡兵で相手を倒した等の実績は戦術で覆したものの代表例ではあるが
俺もこれは統率でもっと評価すべきだとも思う。信長や元就はこの意味でももっと評価されるべきだろう。
しかしそれ以上に大勢力を有して小勢力を駆逐した実績の多い武将ほど統率面では評価すべきと見ているということ。
だから謙信や信玄も(その時代のレベルで)大軍勢を率いて勢力を広げた以上は評価されていて良いと思うし
三英傑らも評価されて良いと言える一方で真田や長野はおかしいだろうと思えるのが統率だと俺は解釈している。
もちろんそれでも過大・過小があるし、相対的な補正もあるので難しいわけだが。
219 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 04:01:55 ID:1GnAjd2X
>>217 相手勢力の戦力を削ぐ行為も準備の息を出ていない
統率上位の中に、大きな兵を整えられる立場にあった戦略的な意味を持つ人物の中で最も代表的な
三傑が誰一人として入れていない
下克上は戦国時代における究極の戦略目標の一つ
それを達成している武将の知略が高いというのなら、戦略に優れる事=知略が高いということ
明確に戦術的な強さの逸話や記録があるならそれはゲーム内で最も戦術に影響しうる能力値で評価すべき
220 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 04:24:58 ID:kyjmF1R/
>>219 >>統率上位の中に、大きな兵を整えられる立場にあった戦略的な意味を持つ人物の中で最も代表的な 三傑が誰一人として入れていない
時代それぞれの相対的な大きさってもんがあるから最も代表的とは思わんけど俺もこれこそがおかしいと思う。だからこそ論じているわけで。
最初の言葉の意味に戻るけど戦略ってのは戦術も含めた包括的な意味でもある
統率はまさにそういう意味でゲーム内でも使われているが
智略の方はどっちにしろ三傑も信玄も謙信もいないので別におかしいとも思わない。
どちらにしろ特殊な基準の数値である事は明白で、包括的な意味などもっていないが
戦略面の要素の一つである事は勿論否定をしていない。
>>明確に戦術的な強さの逸話や記録があるならそれはゲーム内で最も戦術に影響しうる能力値で評価すべき
やっぱり武勇と智略だね。このゲームで数値が影響する戦術と呼べるような行動は戦法しかない。
統率が影響する要素は既に戦略段階で決定されているものばかり。
221 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 05:00:08 ID:dRi6uNna
各パラメータの値を設定する際に最も考慮しなければならない判断基準の根本は、ゲーム中の効果に尽きる
統率の中でも最も重視される効果は、戦法や計略を駆使しない純粋な”戦闘”での強さ
戦略でも戦術でもない
戦闘を家臣任せにしている大名連中が上位を占めること自体がちゃんちゃらおかしい
革新各能力のゲーム中効果
統率
* 戦での部隊の攻撃力・防御力 * 高いほど募兵の効果が上がる
* 高いほど奇襲の効果が上がる * 高いほど闘志がたまりやすくなる
* 高いほど扇動の成功率が上がる * 率いる事の出来る兵数の上限
* 部隊内での部隊長決定の基準 * 高いほど築城速度が上がる
武勇
* 高いほど戦法の威力が上がる * 高いほど討ち死に負傷しにくい
* 脱獄率が高くなる
知略
* 高いほど計略の成功率が上がる * 高いほど敵の計略にかからない
* 高いほど助言が的確
政治
* 高いほど技術研究が早く終わる * 高いほど建設が早くなる
* 高いほど登用の成功率が上がる * 高いほど調達の効果が上がる
* 高いほど取引量が増える * 高いほど同盟締結、交渉などの成功率が上がる
222 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 05:13:59 ID:kyjmF1R/
>>221 戦争を本当に家臣任せにしていて自分で合戦に赴いていないのであれば
それはもちろん統率で評価すべきではないが、いつそんな話をしたの?
また純粋な兵の強さは戦術ではないだろうが兵の質という意味では戦略的な要素。
223 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 07:34:26 ID:Xj3LGfnu
>>212 秀吉の戦力考察に関してはもう既に上で説明した。24000〜25000は秀吉の書状に書いてる。
十万以上というのは
>>200に説明した状況であるし数値はともかく
呼び寄せてる要旨は書状にある。徳川方、信濃に中央部まで上杉が攻めてきて
木曾も秀吉方に帰属して徳川と交戦しているから抑えはある程度いるはず。
あとは双方の国力差考えればその数的差も自然だと思う。長久手町史といっても俺は
資料編一遍一章「文書」に収録された関係文書を中心に言ってるだけで、
これは他大名への戦況報告は除き、単なる軍事作戦の遂行上必要な軍令であった
事を意味しているからこれらは軍事指令に詳細内容、戦況の具体的推移、両軍の軍事動向
等考察する上でかなり役立つと思われる。長久手町史と同時に「小牧長久手の戦いの構造」
という本も合わせて見てもらえるとわかりやすいと思うが。
224 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 07:59:38 ID:Xj3LGfnu
>>214 もう一度言わせてもらうがこの戦いは三月の丹羽宛書状で「半月で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。7月3日秀吉は
八月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける
計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。秀吉が信雄と講和した11月13日にも
家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてたとえ年内であっても
「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明しているわけで、その中であの戦いが両軍が
軍を出来うる限り結集して対峙したわけで、これが主力決戦でないとはこれ如何に。
そもそも短期決戦志向してるのに力で捻り潰せない時点でどうかと思うが。これだけの大軍
ならチャンスもいいところ
秀吉は長久手での戦い当日となる九日に「小牧出候人数小幡へうつり候、得其意候」
と柏井にいる高柳に伝えており、この事から家康勢の小幡方面への進軍を把握していた
と思われる。しかしすぐ進軍せず長久手での敗戦の報を得た後龍泉寺を経て長久手まで
進軍。しかし其の時にはもう家康は小牧に戻っており楽田もしくは犬山に引き返す事になった。
秀吉は完全に戦闘レベルで作戦ミスしておりあれだけの大軍で家康をつり出そうと
するが見事失敗。他の奴相手にいくら勝っても寡兵の家康に戦術的大敗喫した事実は
変わらない。
225 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 08:03:53 ID:xKqNLiqi
句読点の無い長文って誰かに読んで欲しくて書いてるのかね?
226 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 08:09:25 ID:3J8GUtKW
小牧長久手の秀吉が冴えないのは
秀吉の能力よりも羽柴家が組織として未熟だったせいじゃないかと思うんだが。
そもそも1年半前までは与力合わせて約60万石程度だったのに
僅かの期間に数百万石の勢力へと拡大した羽柴家っていうのは
高級指揮官・下士官ともに人材不足だったと思われる。
特に秀次・池田なんてのは万はおろか、数千単位の軍勢を率いるのも
初めての急造の高級指揮官、また彼らの治める領地も1年ちょっとの間に与えられた新領地で
新しく率いる領民・それを指揮する急造の下士官という、家としては急造の組織。
そんな未熟な組織を、さらに完全に主君とも言えない状況で率いるんだから
十万の大軍といえども烏合の衆も同然、単純に数で押せるというもんでもないでしょう。
実際蜂須賀・秀長という秀吉の腹心は別方面に配置せざるを得なかったし、
秀次・池田のコンビはあまりにも稚拙な動きをし、そしてあっという間に壊滅した。
そんな背景を踏まえれば、秀吉らしからぬ采配になるもの仕方ないと思う。
227 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 08:24:50 ID:Xj3LGfnu
>>209 上位に来てる奴は皆戦略的状況判断に優れた奴多いと思うが。特に大名で
いえば信長、秀吉、信玄、氏康など。逆に低いのは勝頼、謙信など戦略観に
欠けていそうな猪武者達。いやゲーム内での現時点の意味ではそうだろうが
統率は極めて戦闘で重要な要素であり副次的意味合いにすぎない兵を集めたりするのを
多く加味して評価材料にするのはどうかと思う。
>>211 ゲーム内での統率の意味合いはほとんど戦闘だと思うが
>>213 とりあえず実際の戦闘での「戦術」と広い意味での戦術をごっちゃにしない方がいいのでは。
募兵なんて統率70くらいの奴に任せててもそこまで痛手にならないし
逆に戦闘では統率90と統率70くらいじゃ成果が大違い。
いや大きな兵を揃えられる人物はそれを何によって揃えたのかによると言わざるを得ない。
単純に攻めて土地を切り取ったなら統率(+アルファで戦い方によっては知略も)
調略なら知略、政略なら政治というように。元々立場or成り行き上大軍動かせる
地位にあるならそれは考慮する必要があまりない。
>戦略的不利な状況から覆した人物=下克上を達成した人物ほど評価されている、
戦略的不利な状況から有利な状況を作り出したのなら大いに知略は戦略に関係していると言える。
>>217 奇襲戦と言ってもやはり誰と戦ったかの方が大きく関係してるんじゃないか
強者相手にそれなりに成果上げた奴と弱者相手にかなり成果上げた奴じゃ
前者を優先してるんだと思う。そもそも能力値というのは他との比較でつくもので
周りが強くて其の周りとかなり接戦してれば相対的に自勢力も強く設定せざるをえない。
武勇は個人武勇で戦術とはほとんど関係なさそう。実際30違っても大局には影響しないし
戦闘ではあまり問題にならない重要度低い要素。戦闘評価は統率、知略で評価すべきと思う
>>
228 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 08:34:19 ID:Xj3LGfnu
>>226 播磨但馬因幡で六十万石?秀長と蜂須賀って北尾張に来てなかったか?
他も重要な奴は大体北尾張に結集してたと思うが。
家康の方も指揮官下仕官は旧武田系とかが多いんじゃないか。駿河も甲斐も
切り取って時間もさほどないし。信雄の領地も権力基盤が弱いために不安定なんだが。
伊勢は前年には戦場だったし
池田は山崎とかしずヶ岳で率いてなかったか?
山崎もしずが岳も一応勝利して、その後も紀伊、越中、四国、九州と難なく平定してるけど。
秀次、池田よりも単純に秀吉の戦闘での判断、作戦ミスだと思う。
229 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 08:35:55 ID:sVnCXb0W
小牧長久手の一戦を絶対評価にすべきでないという論に対する反論として
細々とした戦の詳細書いても意味がないというのも気づかないもんかな。
単に知識誇りがしたいだけ?
230 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 08:37:20 ID:N5Vs1K/Y
勝ち組み
徳川300年、織田 安土桃山文化
負け組
ドイナカ、騎馬軍団(大笑)、百姓、エタヒニン 上杉、武田です。
231 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 08:43:30 ID:Xj3LGfnu
>>226 というか池田は遊撃軍として摂津その他各方面で転戦してたと思うが。
不安定な時こそ力を示せば皆はついてきそうなんだがな。しずが岳で
柴田は消え畿内に敵もおらず雑賀衆も一回撃退された後であり
佐々も前田と丹羽親だけで十分。南伊勢半分も崩壊状態
長曾我部は讃岐平定前の上毛利が伊予に攻め込んでいる。上杉も信濃に攻め込み
木曾も帰属。決戦できないなら始めから決戦を想定などせず伊勢でも
ジワジワ削っていく方がよい。秀吉は決戦志向で北尾張に結集したという事が大きな
ポイントでありこれは決戦できると判断したんじゃないのか。
232 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 08:53:47 ID:Xj3LGfnu
>>218 重要なのは誰とどういう兵数比で戦ったか、じゃないの?
より強者により少ない兵力でよりよい戦闘結果が出せた奴は高い評価貰ってるとおもうが。
大軍勢率いる事も全く考慮しないとは言わないがただ単純に兵力で圧倒する戦闘
してただけ極めて高い評価するのはどうかと思う。俺は戦闘=統率と
考えているが。実際の戦闘での攻撃防御力闘志上昇スピードと著しく大きな
意味を持つんだが。知略は軍師の助言、引き抜きに相当するし
高く設定されてる奴見ても戦略的判断力優れた奴が多いと思われる
233 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 11:35:04 ID:kyjmF1R/
>>227 ゲーム内で実際、統率は戦闘そのもの以外にも明らかに影響を与えているのに
70くらいの奴に任せても〜とか言い始めても意味が無い。
70くらいと言ってる時点でやはり統率は直接戦闘以外でも影響を与えているという事だし
その直接戦闘で率いている兵の数そのものも統率が基準で決まっている。
何度も何度も何度も言っているが統率に戦術的要素が無いと言ってるわけじゃない
だが上記の事実が存在する以上、戦略的要素の強い数値であると言っている。
逆に智略と武勇は直接戦闘以外での活用のチャンスがほとんど無い、
だからこそこれらは戦術的な要素の強い数値だと言っている。
あなたのような極論を言い始めるのであればそもそも武勇なんか0でも構わんという奴ばかりになる。
しかし実際問題として戦術的に強いとされてる武将は比較的武勇も高めに設定されているのは事実であって
それをおまけと切って捨ててしまっては全く評価の議論はしようが無い
実際にゲーム上でどのように影響を与えているかと言う事と実際に役に立っているかどうかを混同していたらそれこそ評価などできない。
>>戦略的不利な状況から有利な状況を作り出したのなら大いに知略は戦略に関係していると言える。
戦略的に不利な状況で戦わざるを得なくなった時点で、戦略的には負けていたと言えるが戦術で覆したと言う事。
戦術が戦略に大いに関係しているのなんて当たり前。
234 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 12:11:01 ID:Xj3LGfnu
>>233 いやゲームでの影響の及ぼし方が全然違うと言ってるんだが。
統率60台じゃ話にもならないし。率いる兵数も決まる要素だが
一門であるかや譜代、役職などで大きく変わるしやはり中心的意味は戦闘力でしょ
いや俺も戦略要素よりも直接戦闘での要素と何回も言ってるつもりだが。
戦術要素が武勇?前田慶事とか個人武勇であって、勇猛な武将は高く設定されてるが
別に戦術要素が強いとも思わないけど。ゲームレベルで言っても現実でも武勇なんて
おまけ程度にしかならないと思うが。
>戦略的に不利な状況で戦わざるを得なくなった時点で、
>戦略的には負けていたと言えるが戦術で覆したと言う事。
戦略的に不利な状況で戦わずをえないくなったのはそれまでの状況によるものが大きく
これは戦略観が低いと判断する材料にはならないのでは。
235 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 12:51:51 ID:0+0z6BF6
実戦で勝てば戦後処理でも有利に働くよな。小牧長久手の家康とか
関ヶ原の義弘とか。
236 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 13:43:36 ID:kyjmF1R/
>>234 実際にゲームで数値として設定されて評価されているものをおまけと言って切り捨てていっては議論などできない。
>>いや俺も戦略要素よりも直接戦闘での要素と何回も言ってるつもりだが。
智略や武勇に比べて、統率は影響の及ぼし方が分散しているのはもう疑いようが無い。
特に兵力そのものに影響している以上、直接戦闘だけと考えるのはあまりにも乱暴な見解。
特に武勇は逆に直接戦闘での影響が全てと言っても過言じゃない。
相対的に見て統率の方が戦略面で評価する部分が大きいのはあまりにも当然の帰結。
そもそも兵力を整えると言う軍事戦略面の基礎になる部分が統率の数値が影響する要素としっかりリンクしている時点で
戦略面の強い要素である事は疑いようが無い、武勇や智略はそれに比べ戦略面での影響は曖昧すぎる。
後もうちょっと違う部分で言うと、直接戦闘の内容なんてハッキリしないものばかりで
武勇や智略のような数値であればともかく統率のように総合的に影響する数値をそういう曖昧な要素で評価するのは
実際の戦国時代におけるパワーバランスとかけ離れた結果を作ってしまいやすい。
237 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 14:37:46 ID:Xj3LGfnu
>>236 ゲームで数値化されてようと実際に影響をあまり及ぼさないものを過度に考えても
仕方ない。そもそも武勇という言葉自体戦術と関係ないし。
影響の及ぼし方が分散してようと実際の戦闘の場面での主要パラメータであり
戦法発動するための闘志上昇スピードも統率依存。直接戦闘だけとは言わないが
それを中心に考えるべき。相対的に見ても統率は戦闘で非常に大きな影響及ぼし
厳密に戦闘と同義ではない戦略を中心に評価つけるのはおかしい。
兵を集めるのが政略によるものなら政治、調略によるなら知略とすべきで
直接戦闘の内容がはっきりしないなんて言ってたら議論なんかできないしわかる範囲で
白黒付けるべきだと思う。武勇なんておまけ数値で戦闘力評価するのはあまりにも
史実に反してるし知略ももちろん含めるべきだがあくまで統率中心に考えるべき
戦国時代のパワーバランスと言っても兵数の少なさの割りに強さ発揮してる所の大名は
統率で高い評価もらってる奴が多いと思うしそれは論理的にも正しいと思う。特にゲームレベルでは。
238 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 16:39:20 ID:Ky310JMr
なんという読む気も失せる長文の応酬。
書いてるのはやっぱりいつもの連中かねえ。
239 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 16:42:38 ID:nJyhlbbS
>>238 IDがKYだな。
とりあえず俺はここの議論に参加させてもらう事もある人間だが
今回は無関係。
自分の嫌いな対象を勝手に少数認定するのはやめたほうがいい。
240 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 18:47:28 ID:5vbKRpi7
>>238 その連中とやらを隔離してるスレに来てまで何を言いたいのか
241 :
名無し曰く、:2009/01/31(土) 20:03:45 ID:qA0kjAdI
>>239 その言い回しで確かにいつもの連中の一人とわかるな
242 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 00:07:02 ID:HTj+YkUz
みんな働いてないと暇なんだな
243 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 00:57:53 ID:XaundZw9
>>223-224 まず最初に竜泉寺に向かった秀吉の救援隊の兵数について
手元の『愛知県史』ではWikipediaや旧軍戦史と同様2万の説を採用しており、
その参考資料として『長久手戦話』『堀家譜』『長久手合戦覚書』
『尾州長久手御合戦之覚』などを挙げてる
救援隊の兵数に関しては『徳川実紀』『常山紀談』の8万説より
信憑性が有ると思ってもらって間違いない
小牧・長久手が秀吉と家康の決戦であったかどうかについて
君が挙げた史料でもわかるとおり、秀吉が当初大兵力を以って
徳川・織田連合軍を即座に滅ぼす短期決戦の戦略をとろうとしてたのは同意、
というかそこはそもそも議論の対象になっていない
辞書で「決戦」の項目を引けばわかるが、
決戦とは「最終的な勝敗を決するために戦うこと」(大辞林より)とある
配下の一部隊が敗戦したものの、依然として無傷の大軍を維持したままだった
小牧・長久手戦役のことを普通は「決戦」とは言わない
この戦いの後も依然として秀吉は北尾張を掌握しており、
4月22日に陣地を攻めてきた徳川・織田連合軍と戦ったり、
翌5月1日に織田軍の大槻&大原の部隊を撃退したりと
両軍の小競り合いは続いてたわけ
戦史辞典や一般の百科事典を見てもこの戦いを
決戦だとしてるものは自分の調べる限り無かった
小牧・長久手の戦役は長く膠着状態が続いた羽柴・徳川両軍が
唯一大規模に交戦したということで歴史に残ってるが、
結局のところ年末の秀吉と信雄の講和まで続く尾張争奪戦の一局面に過ぎない
244 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 01:00:00 ID:XaundZw9
で、枝葉末節にとらわれず論旨を明確にすると、
小牧・長久手における秀吉の統率の評価は
1.部下が敗北した場合に、後方でその作戦を立案した
指揮官の統率にマイナスするかどうか
2.よしんばそれが指揮官の統率にマイナスされても、
ただ一つの作戦ミスを以って統率の数値を決めることが妥当かどうか
この二点に尽きると思う
ここまでの君の書き込みを振り返るに、君はどうやら両方ともYESの立場らしい
それはそれで結構だが、この査定を採用する場合
大勢力の長で軍を多方面に展開させた武将や、
戦歴が豊富でその結果負け戦も体験することになった
武将の統率に相対的に厳しい数値がつくことになることを理解してる?
小牧・長久手の一事を以って秀吉が統率トップクラスに値しないと言うなら、
具体的に君が考える妥当な統率上位者の名前を挙げてごらん
君の理屈を使ったらいくらでも彼らに難癖をつけることができるからさ
245 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 01:10:27 ID:tRGzsQfY
これは面白い展開になりそうだ。
246 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 01:15:23 ID:0Ehg2Dxo
一応こちらにも。
むこうのスレ
>>624 もともと
>>614の
>>その割には武田側は24将の一人が討ち取られてて、北条側の損害が不明という
>>北条の負けという割に結果のはっきりしない合戦だし。お互いに勝利を主張してるし。
というレスに対する答えなわけ。
>>614は武田は将が討ち取られてるけど北条側は被害が不明といってるが
実際は古河公方の重臣が戦死してて氏康がその後室に対してお悔やみ述べてますよという事。
武田の将が死んでるというなら北条の将もちゃんと死んでるよとね。
247 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 01:20:36 ID:gfT896Dr
>>246 将が死んでるだけで負けになるなら、武田も死んでるじゃん。
負けたという割には北条側の損害が不明だよねって意味なんだが。
例えばこの合戦が武田の負けとなっていてその理由が浅利信種の戦死を理由にしていたら
「それじゃ被害ははっきりわからんだろ」と逆に反論するはず。
248 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 01:27:09 ID:0Ehg2Dxo
>>247 そっちがもともと書いたんじゃないか。
武田は将が死んでるけど北条は被害が不明だと。
だから北条はしっかり将が死んでると書いてる。
別に北条の将が死んでるからだけで負けなんていってない。
2次資料や深沢書状、信玄書状、氏照書状の後半部などを見れば普通に
前半北条が押して後半武田が逆襲して北条撤退、という流れになるだけの話。
249 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 01:39:51 ID:ldLHTCoW
I
>>244 D:Xj3LGfnu系の考え方だと謙信信玄信長は飽きたので置いておくとして
徳川家康は天野に負けた・大坂の陣で苦戦
毛利元就は忍原で負けた
島津義弘は蒲生に苦戦・赤池長任に負けた・米良に負けた
立花道雪は秋月に大敗
とこんな感じで相手がインフレか
250 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 01:51:50 ID:gfT896Dr
氏照書状の後半部分では逃げられたけど落ち度はないとしか言ってないよ。
書状の相手が上杉なんだから、勝ったとだけ伝えたんじゃ「じゃあ何故信玄に逃げられたのか」と言う部分を結局追求されるのだから仕方ない。
で、繰り返すが北条側が負けたとするにはちょっと損害が不明すぎる。
武田軍撤収中の小競り合いの一つで、前半で北条側が押したが、後半は数で劣る北条側が押されて
痛みわけに終わったと見るのがはっきり言って妥当ではなかろうか。
後は講談だし・・・、まぁゲームの評価だし武田を褒める証拠にするのは良いと思うけど
氏照を貶す理由としては弱すぎる。氏照の書状との関係にしても後世の創作なんだからぴったりあってて当たり前だし。
251 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 01:54:27 ID:ldLHTCoW
つか楽勝で勝ちましたなんて上杉に送ったら、上杉は北条放っておいても大丈夫だな今のうちに国内北陸落ち着かせようってなるんじゃ
252 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 01:56:38 ID:0Ehg2Dxo
>>250 普通に勝っても総大将死なないのが当たり前なんだから
謙信もいちいち詮索しないと思うが。
武田が山の上から押しなだれてきた場面からいきなりだんまりになる
理由としては不適だと思うが。
だから深沢書状にもしっかり北条側の北条綱成にあてた書状で
「北条は三増峠で前代未聞の見苦しい敗軍だったな。」とかいてあるんだけど。
講談てかそれぞれの遺臣が残してるんだからそこまで馬鹿にできるものじゃないと思うが。
双方で武田勝利が一致してる事実は。
てか講談だけじゃなくて同時代資料の深沢書状で上記にあるように信玄が綱成に
北条の敗軍を伝えてるんだけど。
253 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 01:58:24 ID:gfT896Dr
>>251 そこはかなり重要。氏照と言うか北条側の上杉への書状の最大の意図は
そもそも上杉軍が小田原へ援軍に来なかった事への抗議であって見栄を張るためじゃない。
254 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 01:59:55 ID:0Ehg2Dxo
>>251 いやいや。氏照はその書状の中で小田原焼かれた事も伏せてて明らかに
上杉相手に不都合なところは隠してる。
てかそっちの論法なら被害をはっきり主張してお前が助けてくれなかったからだと
書けばいい。
実際この書状の後でまた書状出してるけど、そこでは「上杉殿は勝手に北陸でも平穏にしててください」と
いやみをこめて書いてる。相当頭にきてるみたいだな。
255 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:01:04 ID:0Ehg2Dxo
>>253 それなら被害をはっきり書けばいいだけの話といってる。
てか氏照はその書状の中で小田原を焼かれたことをしっかり隠してるんだから。
明らかに見栄張ってる。
256 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:04:26 ID:gfT896Dr
>>252 じゃあ信玄の書状では氏邦も氏規もそこで討ち取られたらしいから彼らは死んでないとおかしいということになる。
信玄の書状はハッタリが多すぎて信憑性は低いと言わざるをえない。
それぞれの遺臣と言うが、甲陽軍艦も北条五代記も信玄や氏康の評価は大絶賛するがそれ以降はむしろ貶しすぎなぐらいだし。
まぁ江戸時代の創作なので仕方ないだろうけど。でもゲームの評価だし褒める要素に使う分には良いと思うよ。
257 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:05:28 ID:gfT896Dr
>>255 氏照は滝山で篭城した後にこの合戦に臨んで、滝山に帰ったから
小田原の状況は良く判らないのでは?
258 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:08:57 ID:XaundZw9
当事者の手による書状は、江戸時代の家譜や軍記のように
後世に編纂されたものじゃない一次資料だから相対的に信憑性も高いんだが、
書いた人の見栄や諸勢力に対する宣伝、もしくは単純に
執筆者の情報不足から来る事実誤認なんかも含まれるから
それはそれで判断が難しいんだよな
第三者の手による日記なんかが残ってれば良いんだけどねえ
259 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:10:31 ID:0Ehg2Dxo
>>256 多少の誇張は入ってるだけの話。全否定できるもんじゃないと思うが。
てかお互い様でしょ?
氏照書状では小田原焼かれた事も武田の山上からの逆襲後も書いてないで
うまく見せてるんだから。
ていうか信玄がほかならぬ北条側の綱成に北条の敗軍を恫喝の材料として
上げてるんだから武田の勝利は疑いないと思うが。
三増峠では氏康生きてます。
創作、だけで済ませないでほしいんだけど。双方で武田勝利が一致してるんだから。
深沢書状でも小田原攻めから深沢攻防にいたるまでの武田の勝利を羅列した中に
三増峠が入ってるんだから普通に勝ちと認識されてたと思うが。
260 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:12:12 ID:0Ehg2Dxo
>>257 それはないと思う。
武田が相模で働いた事を書き、さらには武田の帰還経路を知って追跡してるから
普通に情報は集めてるはず。
261 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:12:22 ID:ldLHTCoW
>>254 そりゃ単純に氏照には小田原方面の状況が正確に掴めていなかっただけじゃね
まあそれとは別にあまりに自軍に不利に書くのも問題だろ、それ読んだ上杉が北条救う価値ねーな
援軍出しても無理じゃね、これだったら武田と一緒に北条攻めた方がいいんじゃねとか思われたら最悪だし
ある程度均衡していて上杉が参戦すれば一気にバランスが崩れると思わせるぐらいが丁度いいんじゃね
262 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:16:30 ID:0Ehg2Dxo
>>261 >>260にもあるが、氏照が武田が相模で働いた事を書いてる事や、
武田の帰還経路を正確に把握して追跡してるから情報は集めてるはず。
それ以降の所は同意。氏照にしてみればここで上杉側に不利な事を知られても
困る。だから都合の悪い所は隠し、自分達を味方するに足る勢力と印象づけようと
したんだろう。書状前半部は特に問題ないだろうし。
263 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:19:56 ID:ldLHTCoW
だから書状は最初からほぼ結論ありきなんじゃね
264 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:24:37 ID:gfT896Dr
>>259 そう、氏康は生きてる
だから北条記だったか五代記だったかは忘れたけど
氏康が小田原篭城後に何故か追撃で損害を与える事が出来たとする誇張が入っていたはず。
・・・ならなんで三増峠には行けなかったの?ってのは多分突っ込んじゃダメなんだと思うw
で、氏照は若輩者だからダメなんだと一蹴、これらの講談の性質はそういうもの。
265 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:28:33 ID:0Ehg2Dxo
>>263 さすがに明らかな嘘は書かないと思う。
そして深沢書状では信玄がほかならぬ北条側に勝利を書いてるんだから。
>>264 ただその北条側の軍記では「氏康の在世中に武田が北条に勝ったのはこれだけ!」とか
おいおいその後の駿河攻防はどうなるんだよ、と思いたくなるような書き方で
三増峠の戦いを締めくくってる。
北条側も氏康の敗戦と見てたようだが。
266 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:32:24 ID:gfT896Dr
>>265 氏邦と氏規を討ち取ったってのは明らかな嘘では?
267 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:34:29 ID:0Ehg2Dxo
>>266 全部分において、てな意味ね。多少の誇張は入る。
氏照書状も人の事言えないでしょ。
268 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:38:21 ID:0Ehg2Dxo
>>267追記
てか「以下」っていうのは「そいつらが率いる」ってな意味とも聞いた。
これだと氏邦と氏規の部隊のうち2千ほどを討ち取ったって意味になるか。
269 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:42:27 ID:gfT896Dr
氏照の書状の嘘ってどこ?あえて書かないのは嘘とは言わないと思うが。
また数字的な誇張ならともかく
北条家でも一門の宿将を討ち取ったとホラを吹くのは最早誇張と言うより流言の一種。
信憑性は格段に落ちるだろう。
270 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:45:32 ID:0Ehg2Dxo
>>269 それって言葉のトリックでは…。
どっちにしろ武田に逆襲されて撤退させられてるのに
「落ち度ありません」ってのは明らかに嘘だろ。
>>268の意味なら問題はなさそうだが。
どっちにしろ深沢書状で北条側の綱成にわざわざ勝利の一つとしてあげてるんだから
十分だと思うが。
271 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:46:56 ID:gfT896Dr
>>268 氏規はそもそも合戦に来てたか?
韮山で篭城してたのは知ってるが。
272 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:50:27 ID:ldLHTCoW
>>265 明らかな嘘がどの程度を指すかはわからないが長篠でさえ先手がちょっとミスってぐらいで済ます戦国の世
十分明らかな嘘に入りそうだが
その年の春の武田の出兵は無かったことにされているのか氏康の戦いでは無いということなのか
273 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:52:05 ID:0Ehg2Dxo
274 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:52:33 ID:ldLHTCoW
>>270 深沢書状はぶっちゃっけ武田がそう主張しているだけじゃ
あの書状は三増峠の部分以外も思いっきり武田の手柄を誇張していると思うが
それなのに三増峠の部分だけ正しいってもおかしいだろ
275 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:54:03 ID:0Ehg2Dxo
>>272 その主張なら氏照書状はしっかり嘘ついてる事になるが。
>>274 誇張ってどこらへん?特におかしい所はないと思うが。
かなり地味な戦果とかも書いてるし。
276 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 02:56:01 ID:gfT896Dr
>>268 あぁあと書状では氏照らが襲ってきて〜と始まって
氏邦・氏規以下〜人討ち取りとあるんだから
率いた兵だけを言っていると言う文章では氏照を省いた理由がわからない。
277 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 03:00:40 ID:0Ehg2Dxo
深沢書状にある三増峠後の武田の戦果としては
・蒲原城を守ってた北条氏信はじめとする北条一門と将を皆殺しにした。
・これを受けて薩睡砦は自落した。
・駿河の今川屋敷には岡部がいたんで説得して味方にした。
・花沢城を攻略したが城将が他国者なので開放した。
・伊豆に行って韮山近辺を焼いた。
てな感じだけど。どれも史実だろ。かなり地に足ついた戦果だし。
278 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 03:02:18 ID:0Ehg2Dxo
>>276 氏照が主将だから後陣にいたのでは?
そんで氏邦と氏規が前衛となり武田と戦い
退却するときも必然的に多くの被害を、って感じじゃ。
279 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 03:14:08 ID:gfT896Dr
>>278 まぁそもそも以下って言葉は今も昔も基準点を含む言葉だから
あそこで率いるの意味で使ってたとしてもその中に氏邦と氏規は入ることになるんだけどね。
280 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 03:16:46 ID:0Ehg2Dxo
>>279 昔は基準点を含めない数字も表したそうだぞ。
それなら入らないな。
281 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 03:18:21 ID:gfT896Dr
282 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 03:19:24 ID:0Ehg2Dxo
>>281 三増峠スレで辞典を調べた人がいて
その人が書いてた。
283 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 03:34:29 ID:gfT896Dr
>>277 これらの出来事は小田原攻めや越相同盟とは関係が深いだろうが
一つの局地戦である三増峠の結果とは何の関係もないと思うんだが。
284 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 03:37:14 ID:gfT896Dr
>>282 ちなみに
>>268の率いるの意味になるというのは
どのような場面で使われていたのだろうか?
285 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 03:38:54 ID:0Ehg2Dxo
>>283 だからもともと
>>274で深沢書状では武田の戦果が誇張されてるというから
それを受けて三増峠後の戦果を連ねたわけ。
これらの戦果はみな史実であり、深沢書状における三増峠の記述を疑う根拠にはなりえないという意味でね。
実際当の相手である北条側に対して連ねた戦果の一つとして三増峠が出てくるんだから
十分だと思うが。
286 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 03:41:16 ID:0Ehg2Dxo
>>284 已下が基準点を含めないで読むなら
普通に考えれば〜已下三千とかは〜に率いられた三千、って意味になるだろ。
確かに三千の軍勢とかの中に普通は将とかを含めないからな。
287 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 04:10:13 ID:gfT896Dr
>>285 その三増峠合戦そのものの戦果がハッキリしないから問題なんだが。
そこがはっきりしない以上は三増峠に関しては自称してるだけでしかないよ。
深沢矢文にしたって本人が勝ったと言ってるから勝ったと言う以上の根拠になりえていない。
で
>>286はやっぱり苦しいと思うよ・・・そもそも文章として不自然でしょ。
ネットから引っ張ってきた書状の内容を見てもその解釈には矛盾を感じるよ。
・・・北条源三・同新太郎・助五郎引卒六七千人之人数慕候之間、遂一戦新太郎・助五郎以下二千余人討取・・・
288 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 04:17:34 ID:0Ehg2Dxo
>>287 だからね。何度も言わせないでよ。
敵である北条側に対する恫喝にならないでしょ。
武田が勝ってないんだったら。
武田がいかに北条に対して勝ってるかを示し、武田に抵抗するのは無駄だと
告げてる文章なんだからさ。
北条が勝ってるような戦いあげてもしょうがないでしょ。
てかさ君がいう北条が勝ったとか優勢だったとかの論拠はまるでないんだけど。
さっきから盛大にいくつもスルーしてくれてるけど、そこらへんは認めたって事で
いいわけ?
その文は知ってるよ。ぜんぜん不自然じゃないと思うが。
てか仮に誇張だとしても氏照が宗の者何人も討ち取ったとかいってるけど
浅利くらいしか討ち取れてない北条の文も誇張で終わりなんだけど。
289 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 04:25:47 ID:gfT896Dr
俺は北条が勝ったとも一言も言ってない。
結果を見る限り、この合戦は小競り合いで終わった局地戦の一つとしか見てない。
どちらも勝ちを主張はするだろうけど、少なくともどちらも勝敗などと言えるほどの戦果は不明でしかない。
290 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 04:27:08 ID:gfT896Dr
>>288 あと、自分で読んでてあそこで以下を率いると言う意味で読むのは不自然だと全く感じないの?
291 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 04:32:22 ID:0Ehg2Dxo
>>289 だからそれだったら恫喝の材料にならないだろと言ってる。
武田が他ならぬ相手である北条に対して三増峠を恫喝材料に使ってる。
遺臣が残した2次資料はすべて武田の勝利で一致してる。
「氏康の一代で武田に負けたのはこれだけ!」とまで言って武田の勝利を認めてる。
氏照は山上の武田勢がなだれてきてから急に口をつぐんでる。
これだけそろえば普通に武田の勝ちだったと思うが。
これらの材料を全否定して本当に不思議に思わないの?
>>290 とりあえず意味は通ると思うが。
292 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 07:07:52 ID:Uq3ZoHNi
>>291 でもその「恫喝」に対して北条がリアクション取ったか?
全くの無視だよ、敵に対しての降伏を促すための書状なんだから誇張されてると
考えて間違いないだろ。
293 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 07:23:49 ID:WXdGXJh/
・・・北条源三・同新太郎・助五郎引卒六七千人之人数慕候之間、遂一戦新太郎・助五郎以下二千余人討取・・・
現代語訳すると
「氏照、氏邦、氏規が6,7千人を率いてきた。戦って氏邦、氏規以下2000人を討ち取った」
だよね?
将を討ったって意味でないのなら、氏邦と氏規の名前をわざわざ二度出して氏照と区別する意味がわからないんだけど
率いた兵の話なら氏照の兵は一人も討ち取ってないのか?って話だし
294 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 09:08:29 ID:UdS6sSQu
>>243 >『長久手戦話』『堀家譜』『長久手合戦覚書』『尾州長久手御合戦之覚』
これって江戸期成立の軍記じゃないの?
厳密に決戦というかはともかく、楽田、小牧という程近い場所に両軍
大軍(おそらく最低限の抑え除いた全て)結集させてたのは事実で。あの中入り作戦始め秀吉は何とか
家康を小牧山から釣り出そうと画策したもので単なる陽動ではなく陸海から一気に決着
付けるためのものだったんだがそれも巧くいかず楽田から寸前の距離にある
家康の手も足も出ずうまく翻弄されてしまった。美濃の拠点やら攻めて誘い出そうと
頑張るがうまくいかなかった。あの戦いの意義は非常に大きく、あの戦闘の後
秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。その内
家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われたりしていて
家康の勝利により厄介な事態が生まれる契機になっているのは間違いない。
結局講和を持ち出したのも秀吉の方だし。
5月〜8月、11月頃まで家康には恨みがあるので攻め滅ぼして無念を晴らしてやる、
とか再び三河、遠江へ総力で侵攻する意思を書状で表明してるし、他大名、秀吉近く
の者が書いた書状でも「再び侵攻するそうだ」等書かれてるのに結局秀吉は妥協した。
295 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 09:16:40 ID:UdS6sSQu
>>244 作戦ミスというかあの大軍で短期決戦で勝機を見出せなかったのが痛い。
山から巧く釣りだして撃破とか色々数を生かした戦い方ができそうなものだが。
数がいればできる事も必然的に増えるし。
>大勢力の長で軍を多方面に展開させた武将や、
これはかなり離れた位置で遠隔命令だしてるだけ。楽田と小牧山という程近い場所
で大軍かき集めて何もできず見事翻弄されただけの秀吉とは話が違いすぎる。
何回も言うが実際戦った者同士だと比べやすいしこのような圧倒的軍勢差が
ありながらこの戦闘結果ではトップクラスの評価は付けられないな。
296 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 09:50:09 ID:oehPzca2
知識馬鹿の狭視野の典型例
297 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 11:53:42 ID:tRGzsQfY
>>296 いかんね君。誰の書き込みのどの点が狭視野か書かないといかんね。
298 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 12:11:05 ID:39ZJE0Bv
長久手にしろ三増峠にしろ三戦板のほうはすっかり過疎なのにwww
299 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 13:10:46 ID:0Ehg2Dxo
>>292 なんで他の戦果は見事に史実から裏づけとれてるのに
三増峠だけ誇張だの根も葉もないになるんだ?
普通に他にあげられた戦果同様、三増峠も多少の誇張はあっても
武田の勝利と考えるのが普通だろ。
結局綱成もこの書状の後で降伏してるしな。
>>293 氏照が主将なんだから氏照が後陣にいたんじゃないのか?
そんで氏邦と氏規に大きな被害が、と。
てか仮に誇張だとしても氏照書状も浅利くらいでしかしかも流れ弾で死んでるのに
宗の者何人も討ち取ったといってるんだから
誇張してることに変わりはない。
300 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 13:48:25 ID:83+TE8Vo
飽きもせずよくもまあ
前半は北条が勝っていたが後半は逆に兵力差もあってか武田が盛り返して武田が勝った
双方ともに軍や家臣に被害出した
この戦場では武田は荷駄を失ったが一連の戦役通せば北条領焼き討ち略奪してる
北条は包囲殲滅には失敗したがとりあえず武田を追い払うことに成功
武田は土地など具体的な成果は何もなかったが北条勢北条領に打撃を与えるなどの戦果は得た
どっちが勝ったなんてあとはもう個人の判断でいいだろ、何でそんな拘るんだか
301 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 13:53:43 ID:0Ehg2Dxo
>>300 こっちとしては
>>前半は北条が勝っていたが後半は逆に兵力差もあってか武田が盛り返して武田が勝った
これだけ認めてもらいたいだけなんだが。
なぜか北条方はこれを認めず否定しようとする。他のすべての要素を否定してまで。
302 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 14:04:06 ID:83+TE8Vo
>>301 あなたが武田の勝利だと主張しているからじゃ?
北条側の主張は浅利や浦野などを討ち取り武田を甲斐に引かせたことから勝利だと思っているんじゃ
個人的には戦いそのものは痛み分けか武田の辛勝でいいと思うがな
ゲームの話に戻すなら小兵力で善戦している分北条が強いになりそうだが
氏康氏政に関しては戦場に間に合わなかったから
武田の欺瞞行動に惑わされたとするなら知略下げ
行軍速度を統率に入れるなら統率下げ
戦略的判断を統率に入れるなら統率下げ
ってとこか
303 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 14:19:24 ID:0Ehg2Dxo
>>302 そっちも戦いそのものは武田の勝ちと思うわけだろ?
実際戦いそのものは後半逆襲して戦場にとどまり、古河公方の重臣も討ち取り、
北条を撤退させ挟撃作戦もつぶした武田の勝利だと思うんだがな。もともと帰還途中だったし。
それさえ認めてもらえばいいだけなんだけどな。
実際武田のが3倍近く兵力あるんだから北条にしたった負けても恥じゃあるまい。
戦闘経過にしても北条側が追跡して武田の後方を攻撃し、途中から山の上で体勢整えた武田が
反撃して北条に逆襲、って感じで追跡する北条側の利と武田の兵力の差が自然に出たって感じだし。
304 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 14:49:01 ID:5xLnJwuo
305 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 16:34:26 ID:02/CIOvY
戦略的な目標を達成できた方が勝ちで良いと思うけどな。被害云々はとりあえず関係無い。
306 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 17:04:40 ID:WdjVVB34
戦争の勝利と戦場の勝利が混同しているように見えるがな。
307 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 20:08:38 ID:WXdGXJh/
じゃあ戦略目標って何?って話になるんだけどな
場合によっては双方の戦略目標が両方とも達成されることもあるし
308 :
名無し曰く、:2009/02/01(日) 20:21:02 ID:Op+vF4Z/
武田は後付臭いがいろいろ目標ありそうだが
北条は単純に領土の保持だろな、で出来ればその延長として武田が北条領に手出してこないように痛い目合わせておきたいぐらいで
309 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 00:16:22 ID:mx5XhCZH
>>302 講談もプラスのみであれば評価要素だと思うので信玄の評価を上げる要素にする事に異存はないけど
氏康の評価に関してはそんな曖昧な部分まで細かく査定されてマイナスされてたらキリ無いと思うんだが。
結果として大して損害も無ければ領土も取られて無いのに。
>>303 北条が撤退した事は何を論拠にしているの?
310 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 00:27:35 ID:W3A0Mtny
>>294-295 いずれも資料としての成立は江戸時代だけど、
「戦話」とか「覚書」ってのは、平和な時代になって
戦を知らない若者が、戦国生き残りの古老たちに彼らが従軍した戦について
聞いて書き残したというのが起源になっているわけね
実際に戦争に参加してた連中の話だから信憑性も高いと評価されてるよ
もっとも話し相手が記録するという形式だから聞き間違いから生じる誤り、
相手は爺さんだから記憶違いということも有り得るから、
資料の取り扱いにあたってそれ相応の注意は必要だけどね
『堀家譜』は見ての通り「家譜」、
家としての公式記録だからこれももちろん信憑性は高い
いずれにしても江戸時代も中期以降に成立した
『常山紀談』や『徳川実紀』とは比較にならない
で、中入り部隊の敗北を語ってる時に、何で「楽田と小牧山」なの?
秀吉本陣と家康本陣はそれぞれ楽田と小牧山で間違いないが、
徳川軍が中入り部隊を撃滅したのはそれより南の白山林と長久手でしょ
楽田と比較的近い白山林とでも、早朝の秀次隊の敗報が
午後になってやっと秀吉の元に届いたという程度の距離はあったわけ
どう考えてもこの時の秀吉は「離れた位置で遠隔命令だしてるだけ」の状態じゃん
つうか前日の書き込みでも質問したけど秀吉扱下ろすのは結構だけど、
それなら君が妥当だと思う統率上位武将の名前を挙げて欲しいね
もう議論の本質と関係してない瑣末なディテールで
相手を煙にまこうとするのは止めてね
そういうハッタリ、通用する人としない人が居るわけだから
311 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 00:42:01 ID:6tqsKlEQ
>>309 講談だけじゃないと思うが。
深沢書状における三増峠該当部分で
「小田原焼いて帰る途中で氏照と氏邦が追撃してきたので
三増峠においてあらかた討ち取ってやった。
この時の北条勢は前代未聞の見苦しい敗軍で諸軍の嘲りの的だった。
さらなる加勢があるだろうと備えていたが、氏政は味方が敗北してる中
追いかけてこなかったのでこちらも寄り道せずに帰陣した。」
という記述から。
北条側の軍記でも敵は深追いしてこなかったとあるし、
氏照書状でも山から押しなだれてきた武田勢に対して落ち度ない、と口つぐんでるし。
312 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 00:52:11 ID:6tqsKlEQ
>>311 >>311一応補足
氏政は味方が敗北してる中×
氏政は味方の北条勢が敗北してる中○
まあ大丈夫だと思うが。
313 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 00:57:29 ID:mx5XhCZH
>>311 つまり軍記以外では信玄側の一方的な書状だけで客観的な文章は無いって事だよね。
それで北条側が撤退したと言う証拠にはなりえないと思うんだが。
氏照は書状で信玄が「引き上げる時に」こちらにも兵が押しなだれてきたが
落ち度はないとしか言ってなく、その後ろに信玄を打ちもらして残念と書いているので
信玄が先に撤退したのではないの?
314 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 00:59:24 ID:mx5XhCZH
あぁ付け加えるとこれも氏照自身の書状なので
信憑性を疑う余地は無論あると思う。
だけどこの氏照の記載している内容に関して矛盾している点はあるだろうか?
315 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 01:02:29 ID:6tqsKlEQ
>>313 ちょっと待った。都合がいいにも程があると思うが。
武田の書状は一方的に否定して北条側の書状は完全肯定するつもりか?
他のすべての2次資料も武田の勝利で一致してる事も無視し、
小田原焼かれてる事も書かず、武田の逆襲からいきなり前半の揚々たる口調がなくなって
落ち度がない、だけしか書かなくなってる氏照書状を全面的に好意的に受け取って
北条が撤退してないというのはめちゃくちゃとしか思えないんだけど。
深沢書状はほかならぬ北条側に出された書状なんだが。
316 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 01:05:40 ID:mx5XhCZH
その前に2次資料って何?
317 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 01:06:55 ID:6tqsKlEQ
>>314 それはずるい逃げ口上だな。
それ言ったら深沢書状に矛盾してる所はあるのかな?
三増峠の後に述べられた戦果はいずれも資料で裏付けられてるものばかり。
三増峠だけ否定するのが不自然な事はわかるだろう。
第一、氏照書状は小田原焼かれた事は一切書かず、
前半勝ってた時は意気揚々と戦果を書いてるのに後半の武田の反撃からは落ち度ない、とだけしか
いえなくなってる所からして明らかに作為が入ってる。
その後の武田の反撃で北条勢が退却させられてるのは深沢書状も、
武田・北条の遺臣が残したそれぞれの2次資料にも合致する事だ。
318 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 01:07:44 ID:C1H2205S
>>310 浅野家譜みたら長久手が秀吉の戦いになってたり酷かったよ。
他の戦話や覚書でも80000連れてたとか
本多忠勝500に行軍妨害されたとか書いてるやつもあるし。
俺が言いたかったのは君の、秀吉が結集させた10万の兵力は北尾張全体に
散らばってるという主張に対してなぜ短期決戦を志向してせっかく軍勢集結させた
のに広範囲に分散するのか?という事。ついでに長久手町史に載せられてた
前田家文書や浅野家文書等の中の陣立書には敗戦の翌日の10日に北尾張に結集させた
主要メンバーほぼ全てといっていいものが載ってる(これには秀吉の花押もある)
この事からも10万の兵力は楽田近辺にいたと推測される。連絡受けて一日で動ける距離
なんて限られてるし急スピードで行軍すれば兵の疲労度も増す。この事では
先に挙げた「小牧長久手の戦いの構造」でも研究者ははっきり楽田近辺、と書いてる。
俺が言いたいのは家康を圧倒的兵力差がありながら軍事的に勝機が見出せなかったのが
問題と言ってるのだ。八月中旬〜下旬にかけても再び北尾張に軍結集させ、
この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに
結局和議の話があがっている(これは決裂になったが)
この時も目的は以前から秀吉が構想してた三河や遠江への総攻撃の計画の結果であるのに。
離れた位置というか圧倒的兵力差、しかも近距離での戦術的敗北と一緒くたには
すべきじゃないな。
他にも2倍以上の兵力差で光秀軍より多く被害を被ったり撤退中の柴田勝政、佐久間盛政
を大軍で襲撃したのにしばらく持ちこたえられたりと、これらと長久手を
総合してみると秀吉の戦闘力がさほどではない事が整合性をもって理解される。
319 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 01:08:40 ID:6tqsKlEQ
>>316 軍鑑・北条5代記・北条記をはじめとした
武田・北条の両方の遺臣の記録をもとにした資料の事。
軍鑑が最近史料価値を随分見直されて久しい事も考慮してね。
320 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 01:08:56 ID:C1H2205S
×浅野家譜みたら長久手が秀吉の戦いになってたり酷かったよ
○浅野家譜みたら長久手が秀吉の勝ちになってたり酷かったよ
321 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 02:25:39 ID:mx5XhCZH
>>317 まず自分が勝ったとただ言っているだけの部分は信玄にしろ氏照にしろ信用すべきではないと思うよ
状況から考えてどちらも負けたなんて言うはず無いんだから。
氏照の書状に関しても他の文章や客観的な状況と矛盾している部分は信用すべきではないと思うよ。
だけど矢文では勝ったとただ言ってるだけの部分以外で何か具体的に他の矛盾の無い部分はある?
あと、小田原勢が嘲笑されたなんて話は聞いた事が無いな。
322 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 02:34:38 ID:mx5XhCZH
>>319 質問の意図がわかりにくくてスマン
二次資料って言う言葉そのものの意味が聞いてみたかったの
コレは本題とはちょっと関係ない。
323 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 02:41:14 ID:6tqsKlEQ
>>321 >>だけど矢文では勝ったとただ言ってるだけの部分以外で何か具体的に他の矛盾の無い部分はある?
悪いがこの部分がどうしても解読できない。何を聞きたいのかもう少しわかりやすく書いてくれ。
とりあえず深沢書状では氏照・氏邦が追撃してきてそれを大方討ち取って
その敗軍ぶりが無様だったな、と他ならぬ北条相手の書状で言って恫喝してるんだけど。
深沢書状にある三増峠以外の戦果はみんな史実で裏づけあるんだから三増峠だけ疑う理由はないだろう。
小田原勢じゃなくて氏照・氏邦勢が武田の諸軍にあざ笑われたって事。
いちいち嘲笑が記録に残るのかという感じだが。
324 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 02:45:04 ID:RFMJRpoL
>史実で裏づけ
ないってば、ソースは?
敵に出す書状なんだから誇張してるんだろ、開城は書状を出した1か月以上あと。
一蹴されてるよ。
325 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 02:49:27 ID:6tqsKlEQ
>>324 なんでないって言い切るわけ?
三増峠以外に上げられてる深沢書状の戦果はみんな史実だぞ?
説明してもいいが、その前に本気で深沢書状に書かれてる武田の戦果が
みんな裏付けないことだっていうつもりなのか確認させてもらえるか?
もし深沢書状に書いてある武田の戦果すべてが裏づけないというなら
深沢攻防の時に武田は駿河の大部分を領有してないという事になるんだが
本気なのか?まずこれだけ聞かせてもらえるか?
326 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 03:22:16 ID:mx5XhCZH
>>323 北条相手に言ってるからこそ矢文の信憑性はよくわからんのよ。
篭城中の相手を動揺させるだけが意図であれば信憑性などどうでもいいわけで。
第三者に対して出しているものであれば信憑性のある部分も出てくるだろうが
この矢文の場合、史実の裏付けが取れたものは信憑性もあるだろうが無いものは信じようが無いというある種当たり前の返答しかしようが無い。
で、具体的な部分と言うのは、例えば氏照の文章では勝ったとか落ち度がとかそういう部分だけじゃ無くて
信玄が山に陣を張った→信玄が撤退中にこちらへも軍を送ってきた→信玄を逃がしたというような合戦経過を語っている。
信憑性の話は双方を兼ね合わせて矛盾の無い部分を探るとして合戦経過について具体的な部分を語っている部分を確認したいと言う事。
あと状況を重ねていて一つ気付いたんだがもしも氏照の軍が先に撤退をしたのだとすれば
氏照らは津久井衆らも率いていたはずで、この地はほぼ明け渡してしまったと言う事になる。
にもかかわらず、信玄はどこも奪わず去っていったと言う事だろうか。
信玄が撤収中に自国の神社を壊して薪にしてしまった兵を諌める事ができなかったとする逸話も残っている(都留郡の話かな
なぜ勝って悠然と帰ってきたのに自国で狼藉を働かねばならないのか。
例えば武田側が勝ったにしても、もともと撤退が目的だったのだから
ある程度氏照の軍に打撃を加えて氏照が追えないようにして撤収したと言うのであれば辻褄も合ってくる。
しかし先に氏照が撤収したとするとどうしても不自然な状況しか思い浮かばない。
そこまで壊滅させたにしては判明している被害が少なすぎるし。
327 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 03:37:14 ID:6tqsKlEQ
>>326 だから他の戦果がみんな史実なのに
なんで三増峠だけ嘘になるんだよ。めちゃくちゃ。
てかそもそも三増峠で勝ってないなら北条側である綱成は当然それを知ってるから
恫喝にならないだろ。
てか深沢書状は1571年1月3日だからこの10日あまり後に開城してることになるけど。
てかなんでその北条側の書状だけ鵜呑みにするわけ?
武田だって氏照・氏邦追撃→三増峠で迎撃→氏照・氏邦勢敗走→武田勢、氏政の後詰が
あるか警戒し備える→氏政がこないので甲斐へ帰還、
と具体的に述べてるんだけど。無理やり北条の書状だけ正しい事にしようとしてない?
もともと帰還が目的なんだからなんで北条領の占領なんかに乗りださにゃならんのよ。
追撃を撃退してそのまま帰っただけでしょ。深沢書状にあるとおり。
その逸話の資料は?とりあえず教えて。氏照書状前半で荷駄がやられた事もあったはずだが。
全然不自然じゃないだろ。武田はもともと撤退が目的なんだから後ろから来た
氏照たちを追い返して更なる北条の追撃に備えて、氏政もこないみたいだから帰還したんだろ。
全然不自然じゃない。無理やり不自然にしようとしてるだけだろう。
とりあえず古河公方の重臣が死んでる事から結構北条の被害も出てるのだろうし
北条側の軍記でも武田は敗れて退却した北条勢を深追いせずに帰還したと書いてある。
これは深沢書状に合致してるな。
328 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 13:15:43 ID:RFMJRpoL
>>327 裏付けがないってことより前に裏付けがあるってことを証明してもらわないと
話にならんぞ?悪魔の証明ってわかるか?
>だから他の戦果がみんな史実なのに
>なんで三増峠だけ嘘になるんだよ。
ずっとこれ主張してるけど、戦果を誇張してるのなら真実と嘘を織り交ぜるということも
考えられるよね。ましてや敵を降伏に促したい書状なんだから。
329 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 13:21:15 ID:HeD1Zxe3
深沢書状に書かれていることは事実も含まれているだろうが真実とは限らないわな
謙信の小田原来襲時に武田が援軍出したことや松山攻めで援軍出したことで北条勢が勝てたんだと豪語して
三増峠で北条勢なんて楽勝だったぜと言って
上杉と同盟しているようだが謙信なんてこの間川中島に出兵したら引きこもって出てこなかった
全体としてみるに三増峠に限らず一面事実だろうけど誇張しまくっていないか
こんな感じの書状で三増峠の部分だけ真実を書いているとは思えないので三増峠部分も誇張交じりだろ
もっとも自分の立場は痛みわけか辛勝、まあ将に限れば武田のほうが被害多そうという立場だが
氏康が出した労わりの書状も相手が援軍出してくれた外様の家臣だからいろいろ気を使う必要があったって感じで
立場上古河公方は上位にあたるしな
330 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 13:21:43 ID:6tqsKlEQ
>>328 だから確認したいだけど
本当に三増峠以外の深沢書状の武田の戦果が裏付けない事だと
主張するのかと聞いてるんだが。
何を根拠にそんなことを言ってるのか知りたいんだよ。
深沢書状にある三増峠以外の戦果がみんな嘘なら武田が駿河を支配してる事も
嘘だというに等しいんだけど。自分が何を言ってるのかわかってるのか?
そもそも深沢書状読んだ事あるのか?
とりあえず何を根拠に裏づけがないといってるのかそれだけでも教えてくれ。
だから北条側に出した書状なんだから嘘の戦果言ったって意味ないんだよ。
331 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 13:30:34 ID:6tqsKlEQ
>>329 実際それらにおいて武田の動きは史実だろう。
三増峠を否定するにはあたらんと思うが。
誇張ありでも武田が勝利といえる下地があったという事になるんだから。
てかね深沢書状における三増峠を語るならその文脈を見ないと。
信玄の小田原攻め焼き討ちからはじまって深沢に至るまでの
武田が駿河における北条の拠点をいくつも攻略した事を述べ、
それは蒲原落城を受けて薩睡砦が自落したとか、今川館に岡部がいたから説得して
味方につけたとか、花沢城を攻略して城主を捕らえたけど他国者だったから殺さないで
追放にとどめたとか、明らかに誇張の入りようもない地味な戦果もちゃんと書いてるんだから。
信玄の三増峠における動きも氏照・氏邦を退けた後で氏政に備え、来ないから帰還したとか
現実的な動きに触れられている。
332 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 16:17:33 ID:7XRecj7H
この武田厨、人の話全然聞かないな・・・
333 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 16:18:48 ID:GZKfiSTf
武田勝頼「やはり武田は最強ぞ〜」
334 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 17:43:32 ID:sU7y1Lmp
>>330 >北条側に出した書状なんだから嘘の戦果言ったって意味ない
これは書状の受け手が、その内容が嘘かどうか知っている場合ならそうだろうけど
深沢城中が三増峠の戦いの内容について正確に知らない可能性がある場合
武田側としては書状に虚偽が含める意義があるんだが
ゲームじゃあるまいし、同一大名家の内で完全で正確な情報共有がなされていたわけじゃないぞ
335 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 18:40:55 ID:HJY7wWtS
北条の立場から言えば、峠を封鎖して挟撃を狙うのが戦略的に当然。
状況は上杉の小田原包囲とは違うんだ。充分に逆襲の目がある。
それでも信玄は生きて帰国してるから武田勢が突破したんだろ。普通に考えればなんも問題ないこと。
例えば岐阜城を包囲されたら信長だって退却時の隙を狙うだろ。戦略の初歩。
336 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 20:29:27 ID:/4Qc60+p
>>332 どこら辺がそうなのか詳しく。
>>334 さすがに2年も立ってればその間に小田原での攻防について
正確な説明や情報が入るのは自然だが。
337 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 21:36:43 ID:7W/HsVTG
信玄厨のウザさは異常
たいして実績のない武田が最強と思ってるのが痛い
338 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 21:45:59 ID:bdf67Rn4
ソースも出さずこういうゴミみたいなレスするのはアンチ信玄ヲタと
織田派に対する反論続けてると必ず沸いてくる。
339 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 22:00:49 ID:7W/HsVTG
弱小勢力いじめと盟約破りが得意の戦国最強騎馬軍団(笑)
日本の歴史になんも影響を与えない存在
340 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 22:42:08 ID:7W/HsVTG
革新の武田、なんだありゃ
史実と拡大速度が違うだろ。信濃で小競り合いやってろや。
謙信玄の統率は誰が見ても過大。
信者は信玄の統率110が、恥ずかしいとも思わない面の皮の厚さw
普通の神経なら下げようと思うはず。
そのままで問題ないと思ってる信者って何考えてるんだ?
341 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 22:44:50 ID:bdf67Rn4
騎馬隊が強くて速いからと甲斐の募兵数が低くないからじゃないのか
信濃も全域支配してる設定になってるし
342 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 23:00:11 ID:sU7y1Lmp
>>336 「北条家にとっての正確な説明や情報」を武田は知っていたとは思えん
客観的には三増峠の戦いは引き分けだが、当事者同士は本気で勝利を主張してる、という状況でも
深沢城矢文は説明がつきます
343 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 23:22:25 ID:0aMzvT4t
流石にそれは屁理屈じゃね
344 :
名無し曰く、:2009/02/02(月) 23:41:50 ID:sU7y1Lmp
見通しの悪い山岳戦
双方にある程度の損害が発生している
撤退する側の武田が後半戦で勝利(=与えた損害を正確に把握するより帰還を優先)
自家の損害はまだしも、相手方に与えた損害を正確に把握できたか怪しい
お互いが結果を都合よく解釈している可能性は十分にあると思うのだが
345 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 00:55:33 ID:FDW3WD/n
別に北条武田どっちの勝ちでも構わんが、
利益のない合戦だったのは間違いないな。
どっちが「三増峠で勝ちました!」と叫んでも自慢にならん罠。
346 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 01:08:48 ID:lXDl2y95
>>337 最強なんて言葉にむきになって執着するのはどっかの厨くらいなもの。
根拠もださずに武田を叩こうとするのが痛々しいな。
>>339 北条や上杉といった強敵と渡り合って拡大してる。
日本の歴史にしっかり影響は与えた存在だと思うが。武田は。
>>342 綱成級の人間に正確な情報や報告が入ってないとしたら組織として
絶望的だと思うが。上位の人間には都合悪い事も含めて正確な情報入るように
なってるのが組織ってもん。でないと組織が滅ぶ。
それは屁理屈。どう見ても武田が最後に踏みとどまって敵を敗走させ、
両方の遺臣が残した軍記で武田の勝利で一致してる時点で明白。
347 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 01:43:27 ID:0IpUgi06
もういいだろ、ID:lXDl2y95はいつもの変質武田厨だろ。
絶対に譲らないし人の話も聞かないからレスしないほうがいい。
348 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 01:43:28 ID:FvyfUsME
>>344 同意、そしてそういう状況でお互いに深追いできない状況である事を考えると
この合戦の損害は双方大した被害があったとは思えない。
ところで現在の津久井の地元研究史で、津久井は武田と北条の境界付近で
津久井城自体はあくまで北条方だったがかなり武田よりの地で、
信玄の津久井城前における策略にまんまと騙された津久井城主は追撃する事ができなかったとか
武田の捕虜に顔馴染みがいたため斬らずにいたが小田原からの命で仕方なく斬ったとか、
津久井衆は元来武田方なので追撃に乗り気ではなかったと言うような伝承があるようだ。
上記の内容だけ見てもこの土地は武田色の非常に強い土地ではあるが
書状や講談ではほとんど触れられていない視点からみた三増峠の経過である点が興味深い。
しかしこの伝承、少し気になるところがある。
津久井衆・およびこの地の兵が元来武田よりで、あまり攻め気が無かったのは
氏照の書状にも少し出てきているし、津久井城が結局攻めてこなかったことは書状でも甲陽軍艦でも言われていて
どの文章にも矛盾しないので恐らく事実なのだろう。
しかしそれならばどのようにして津久井衆が武田の捕虜を抑えることになったのだろうか?と疑問が湧いた。
三増峠の時点で氏照の軍が敗北し撤退していたとすれば、その北にある津久井城に捕虜が送られてくるということはないだろう。
氏照軍三増に布陣→武田軍と激突(荷駄隊とか崩して北条優勢?)→信玄山に陣取る
→信玄側の部隊が突撃して武田側有利?
(甲陽軍鑑の軍容では馬場が先陣、勝頼が二番手、殿に浅利、曽根下野、らしい、山県が別働隊)
この後どうなったかと言う点が謎。氏照が単純に撤退したと言うのでは津久井衆が捕虜を取る暇が無い。
349 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 02:14:28 ID:fynTvgYR
>>318 小牧・長久手関連の史料全部読んだわけじゃないから
他の家譜や覚書でどのような扱いになってるか知らないけど、
現代の歴史家は秀吉隊8万の軍勢が本多隊500に行軍を阻まれたとかいう
三国志演義みたいな逸話を史実だとは見なしてない、
つうことでいい加減納得してくれませんか?
ちゃんとこちら側がソースが挙げた以上、そのソースを信用するかしないかは君の問題
まだ君が挙げてくれた本読んでないけど、多分そこでも史実と見なしてないと思うよ
大軍を率いていながら勝機を見出せなかった、ってまあその通りだけど、
それってその一事だけで秀吉が統率トップクラスに値しないとなるほどのマイナス要素なの?
羽柴の軍勢に対し織田・徳川軍も出来る限りの兵を南尾張に集結しており、
その兵数は合計で秀吉軍の12万に対し6万とも言われる大軍
いくら信雄でもその戦力とホームグラウンドの優位を考えたら舐められないし、
徳川は家康や四天王、石川数正に大久保兄弟、松平一族に半蔵コンビと
鳥居や平岩以外の主力勢ぞろいだし、小牧山付近は支城網でがっちり固められてるしで
秀吉もうかつに手を出せなかったんだろう(出した結果が中入り部隊の壊滅)
攻め手に数的優位が有りながらも敵の守りが堅く、膠着状態に陥り
結局攻めきれずに撤退する、なんて事例は戦国時代山ほどある
秀吉の小牧・長久手戦役も結局のところそのようなよくある事例の一つに過ぎない
勝ち戦でも相手が奮戦したら統率にマイナス要素とかもう滅茶苦茶じゃね
長久手で榊原隊を撃破した堀秀政の統率は、康政やその主君の家康
(↑君の理屈だと部下の敗戦は指揮官である大名の責任なんだよね)より上になるの?
秀吉が統率トップクラスに値しない、つう君の主張は結構だが、
ちゃんと自分の統率の数値を付ける判断基準を明確にした上で、
秀吉より確実に統率が上であると思われる武将を
リストアップしないと話にならない(つうか何度も言わせないで欲しい)
君一人が整合性を持って理解しても、このスレに居る人たちは誰一人納得しないよ
350 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 02:53:04 ID:lXDl2y95
>>347 実際資料に基づいて話をしているんでな。
自分と違う意見は認定か?いい御身分だな。
>>348 敗戦でも敵方の捕虜くらいいるだろう。
前半武田を後方から打撃を与えて北条が優勢だったのだから
その時にできた捕虜だとすればつじつまはあうし。
351 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 03:16:49 ID:8L/zRTXT
>>347 ID:7W/HsVTG
コイツの低俗な煽りのほうが酷いと思うけどね。
武田厨の彼のほうがいいレスしてるじゃん。
352 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 03:49:19 ID:FDW3WD/n
残念ながら世の中どちらが嫌われるかといえば圧倒的に
粘着連投厨>>>>>>>>>>>>>>単発暴言厨
353 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 09:07:23 ID:5GSp9hfV
>>349 現代の歴史家とは誰が指すのか知らないけどwikiには本多500に行軍妨害されたとは
書いてるんだが。いやソースを頭ごなしに否定するわけじゃないけど俺の読んだ本では
その事ははっきりとは書かれてなくてだから議論してるつもり
信雄、徳川連合軍六万って何の冗談よ。徳川は信濃筑摩軍北部まで上杉が侵略してきてて
木曾も秀吉に帰属して徳川方の小笠原等ある程度抑え残さなきゃいけない状態
南伊勢半分も崩壊してて北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して
信雄もそれに合わせ多く兵残してる。秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、
細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、
神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下
滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、
甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、
福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい
主力武将の中には尾張や隣国美濃出身の者も多く含まれているため秀吉は敵地とは言えある
程度カバーできるんじゃないか。国力差、毛利、上杉との関係、雑賀衆が既に三月に
攻めてきて撃退された後で、岸和田在番組も中村など一部除き呼び寄せられてる事、
長曾我部はまだ讃岐平定前で毛利も強力に抑えている事等(中国地方の兵も呼び寄せられてる)鑑みれば
「ただ単に両軍が尾張に結集させた兵力」ではなく「楽田と小牧山で睨み合ってる兵力」
が100000と16000〜18000の方がしっくり来るんだが
勝ったと言っても戦闘の詳細内容、数や条件の差はよく
吟味すべき。部下の敗戦を大名の責任とは言ってない。俺の判断基準というのは
能力値は他者との相対性で付く物で、より強い相手により少ない兵、厳しい条件で
よりよい結果を出せた者が高くなると言う事。じゃ家康当りは確実に秀吉より
上と思うけど。何か矛盾でも?
354 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 11:39:15 ID:bhR1oxkz
武将数こそ多いものの加藤とか福島はこの時期はまだ5千石とか3千石で物の数に入らんような
>能力値は他者との相対性で付く物で、より強い相手により少ない兵、厳しい条件で
>よりよい結果を出せた者が高くなると言う事。じゃ家康当りは確実に秀吉より
>上と思うけど。何か矛盾でも?
これだと一発屋やそれに準じる武将が評価されて歴戦の武将が低評価になるんじゃ
355 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 11:42:52 ID:/tqniM7p
あの頃の秀吉には家康をねじ伏せようって気がなかったんじゃないかな
降伏してくれれば穏便にすますみたいな
356 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 11:50:21 ID:fx+3ENh1
>>349 本多忠勝による秀吉の行軍妨害は複数の史料で確認できる
三国志演義みたいな逸話と断言するにはちょっと無理があるだろ
ただ秀吉軍8万はさすがにありえないけどね
細かい所には諸説あるけど
この時の兵数差は羽柴秀吉2万余、本多忠勝500余だったはず
357 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 11:54:09 ID:AzJY2YSG
>>352 さすがにそれは無理ない?
上で暴言はいてる人は連投してるし
文体からしていつも武田叩いてる人だってわかるし。
なんで武田厨の人だけ叩くのかな。
358 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 12:11:19 ID:5GSp9hfV
>>355 レスを読み返してくれ。3月13日や敗戦前日の丹羽宛書状等
散々説明したけど複数の書状ではっきり家康討伐の意思を表明してる。
しかも大軍結集してるから実行にも移してる
その後もそれは秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる
359 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 12:11:44 ID:WVwSRxJk
武田厨は議論してるだけだろ。
武田厨が連投して粘着してるというなら北条厨もそうだって事になる。
ID:7W/HsVTGとかいつものアンチ武田が多数派装って武田厨の反論を封じようとしてるのがワロスw
360 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 20:04:26 ID:gV6sCihC
>>346 「深沢城矢文は、三増峠の戦いが武田の勝利でないと矛盾するか否か」が論点だろ。ずらすな
「三増峠の戦いは武田の勝利だ、その根拠として深沢城矢文がある」という主張に対して
「戦いの戦場や経過を考慮すると、両者五分の痛みわけの場合でもその矢文は書かれ得る」と反論している
それに対して「そもそも三増峠の戦いは武田の勝ちなんだ」と返されても困る
361 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 20:21:20 ID:D4KikTYy
>>360 書かれ得ないっての。ずらしてんのはお前。
両者5分ってのがどういう状態なのか知らんが
氏照・氏邦敗走→武田勢氏政の後詰に備える→氏政が来ないので武田勢帰還
という動きを見る限りどう見ても最後に戦場に止まり北条勢を敗走させてるのは武田。
5分ってのは戦場から敗走しても5分なのか?
362 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 20:50:20 ID:120/eQGk
>>354 >これだと一発屋やそれに準じる武将が評価されて歴戦の武将が低評価になるんじゃ
戦歴が長くても、戦歴が長いにも関わらず目立った功績や特に優秀だと判断できるような材料が無い場合は
1発屋より低い評価になるのも仕方がないと思う
363 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 20:58:27 ID:gV6sCihC
もうアホらしくて議論する気も失せるわ
一度に全部の議論をしても埒が明かないから戦いの内容には深く触れずに
深沢城矢文が三増峠の結果の根拠になりうるかどうかに限定して話しているのに
なんで合戦中の経過が出てくるんだよ
で、その内容に突っ込むと根拠として深沢城矢文を持ち出すんだろ
堂々巡りだな
364 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 21:15:16 ID:D4KikTYy
>>363 はあ?お前が言い出したんだろ。
引き分けでも深沢書状が作られ得るって。
引き分けでも両者が自分のほうが勝ったと認識してる状態で深沢書状が書かれると
上でいいだしのお前だろ。
だからこっちは深沢書状にある限り武田が最後まで戦場に踏みとどまって
北条勢が敗走してるからそれでも5分だの両者が自分の勝ちだと認識しうる状況なのか?
と聞いてるんだよ。話そらすなよ。
365 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 21:26:45 ID:D4KikTYy
>>363追記としていっておくが
深沢書状は北条側に出された書状だから嘘書いても仕方ないし
その他の戦果は地味な戦果もしっかり書いてあり史実に沿ってる、
武田北条の遺臣が残した軍記でも武田勝利で一致してる、
北条の軍記に至っては「武田に北条が負けたのはこれだけ!」とまで言って
他の駿河攻防はどうなるんだというような言い方してまで敗戦を認めてる
北条の軍記にある「敵(武田)は敗走するこちら(北条)を深追いせずに帰還した」
は深沢書状に合致する、
などなどさんざん深沢書状については説明してきたが?
そんなに深沢書状だけ疑うのなら小田原焼き打ちを隠し
武田逆襲からいきなり詳しい説明がなくなる氏照書状を盲信する事なんか
できないと思うが?
366 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 22:33:21 ID:UMePAffi
元スレに氏康の病気についてあったので
氏康の病気は一般には1570年発症となっており、
ソースとしては神奈川県史資料編より
1570年8月6日の安藤板部岡の連署→氏康の病気の平癒を願っている書状
1570年8月13日の大石芳綱の山吉豊守あて書状→子供達の見分けもできず食事を指差しする状態だったことが書かれている
の2つ。
ただしものの史料によっては1570年8月6日を1571年としているものもある(戦国遺文北条氏編)
これに関しては関連する史料が無いためどちらが正しいと決定付けるのは難しいかも、
例え前年に発症していたとしてもこの時期になって・あるいはこの時期にも平癒祈願する可能性はあるので。
1570年8月13日の書状は病気以外の内容、大石の小田原滞在、現時点で武田が伊豆を攻めていることなどの記述より、
これを1571年とするとなると、これに関連する北条氏上杉氏の書状や武田の軍事行動と整合性が取れなくなるため、
この書状に関しては1570年とするのが妥当と思う。
また氏康が花押を用いるのは1570年6月が最後で、その後は印判を用いるようになる。
以上のことから1570年に病気発症と考えるのが妥当と思う。
逆に1571年とするのは何がソース?
367 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 22:50:05 ID:D4KikTYy
>>366 そちらが言ってる病気平癒祈願と病状説明の書状。
1571年のものと説明されてた。
あと氏康が謙信に対して1571年4月に北条と武田が和睦したというのは事実無根だと
説明してる書状があったと思うが。
368 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 22:55:20 ID:UMePAffi
前々から氏照書状は小田原焼き討ち隠しているという人がいるが、
1569年10月24日書状のことなら、
そもそも武田の動きについては、
碓氷峠を越えた後、すぐに滝川城に攻めてきた、そこで氏照の篭城の様子がいろいろあり、
その後(武田軍は)相模に動いた、となりその後、三増峠での戦いの様子となる。
書状を普通に読む限り、上野の様子・北武蔵鉢形城の様子・相模の様子は書かれていないので、
相模の様子はともかく鉢形城などはそれほど都合が悪いとも思えない、
単純に氏照自身が関わっている部分しか記述に無いと考える方が妥当。
このことから北条に関して都合の悪い部分を隠しているというのは間違いと思う。
369 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 23:00:04 ID:UMePAffi
>>367 >1571年のものと説明されてた。
だからソースというか参考資料は?
>あと氏康が謙信に対して1571年4月に北条と武田が和睦したというのは事実無根だと
>説明してる書状があったと思うが。
上で書いたように、この時期には氏康書状は花押ではなく、「機」という印判になっている。
370 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 23:23:30 ID:sFiBlamg
>>340 武田厨は意地でも110は
下げたくないんだよな
信長厨以外の戦国ファンだって
苦々しく思ってるのに空気よめてない
371 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 23:26:20 ID:YUhyZEYJ
>>350 敗戦でも敵方の捕虜は取る、確かにその通り。
しかしそれも敗戦の内容次第といえるだろう。
例えば山の上に陣を張った後の武田軍の突撃による被害が
大きな損害を与えられた上に北条側の方から逃走しなければいけないようなものだったとすれば
さすがに捕虜など取れる状況だとは思えない。
また氏照の状況を考えると
守るべき自領土である事、不利でも粘れば小田原本軍の援軍が期待できることなど
そう簡単に撤退を選べる状況ではないと言える。
だが逆に武田側の状況を考えると、もともと撤収中であるということ
下手に長引いて北条本軍に挟み撃ちにされた場合非常に危険であること
などを考えても、少しでも優勢になったのであればわざわざ氏照が逃げるまで追い込む必要など無く
さっさとその場を離れようと考えるのが当然の戦略だと言える
武田側にも前半で被害は出ているわけだし荷駄に被害が出ていると言う話も考えると
兵站の意味でも戦いを長引かせるのは愚策と言わざるを得ない。
そんな状況で時間も少なく、しかも動きにくい山岳戦で相手にそこまで大きな損害を出せるものであるだろうかとも思うし
実際の所、どちらも大した被害の記録は残っていない。
結局合戦の経過でどちらが優勢だったか?どちらが勝ったか?というのは俺にはわからない
だが武田側が優勢であるにしろ北条側が優勢であるにしろ
状況から考えて武田側が先に撤退を始めて北条勢はそこに取り残され深追いは出来なかった
と言う流れは変わらないのではないだろうか。
372 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 23:36:09 ID:D4KikTYy
>>369 ん?書状の事じゃないのか?
平山優氏の著作ではその二つの書状を1571年のものとしてた。
印判だと氏康でない事になるんだろうか?
正直そちらの説明が正しそうなので1570年でもいいんだが、
ちょっと気になった。
373 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 23:39:21 ID:D4KikTYy
>>368 相模で動いた武田の動きを知らないはずはないし、
武田の帰還経路を正確に追跡してる事からもそれは明白。
主城の近くの敵の動きなんだから知らないはずはないと思うが。
そしてそれは氏照にしても書きたくないことだったろうな。
374 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 23:46:22 ID:D4KikTYy
>>371 てかその逸話って何がもとなのだろうか?とりあえず教えて。
前半は北条が優勢だったんだからその間に取った捕虜だろう。
守るべき自領土も何も帰還途中の敵なんだから長居するはずがないのは
わかるだろう。むしろ小田原勢が来るのだから本来足止めしたかったのは氏照達だろう。
撤退を選びたいとかたくないで敗走が決まるもんじゃないと思うが。
3倍以上の敵に山から押し雪崩れられて引いたのは恥どころか自然だと思うが。普通は負ける。
最後の文章はまるで決め付け以外のものでないとしか。
なんで武田が北条にあてた書状では武田が北条勢を撃退し氏政に備えてる事まであるのに
それは全否定してそっちの主張が前提みたいになるんだか。
最後まで北条が戦場にとどまってたなんて氏照書状ですらあいまいだぞ。
375 :
名無し曰く、:2009/02/03(火) 23:58:19 ID:UMePAffi
>>372 書状というのは、基本的に右筆が書いて、本人は花押(サイン)を書くだけというのが基本。
で氏康の場合は1570年にはそのサインすらも書けなくなったのか判子押すという形式になった
なのでその1571年4月15日の書状も印判なので、1570年病気説の傍証になるって意味。
>>373 それを言うなら武蔵で動いた武田の動きを知らないはずないし、
行動をともにした氏邦らから直接情報を得ていてもおかしくない、
武田の帰還経路を正確に追跡といっても、
主要な城・家臣の中で滝山城・氏照が一番甲斐都留郡に近いのだから知ることが出来たのと、
自分が関わっているからでは。
376 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 00:03:21 ID:ge2T/9M8
>>375 確か謙信が生きてる間にハンコ使ってたはずでは?
武蔵と氏邦の事は書いても書かなくてもいい事柄だと思うが。
主城近辺の事なんだから一番のビックニュースだろうよ。
つまり結局氏照にしてみれば一番自分がかかわっているのだから
武田の動静に関する情報を収集する必要があった。
それなら相模からの武田の動きもとがらせていたのは自然だろう。
377 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 00:17:00 ID:HWBwvp5t
>>374 全くこちらのレスの意図が伝わっていないので少しレスを絞ります。
まず「先に撤退した方が負け=敗走」って考えてるようだけど
そもそもそんなつもりで書いてるわけではない事をわかって欲しい。
武田側が優勢だったとしても氏照軍が追って来れない程度に優勢になったら
状況から考えてすぐさま撤収するのが自然ではないかと言っている。
むしろいつ小田原勢がどのように追ってくるかがわからない状況で
撤退できるだけ優勢になっていると言うのに無駄に時間を費やすようであれば
たとえ勝ったんだとしても賢い選択であるとは到底思えない。
信玄が優秀な大将であればあるほど、状況から考えて
素早く撤収する事を優先するのではないだろうかと言っている。
378 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 00:21:18 ID:7O7Qn2Xl
>>376 >確か謙信が生きてる間にハンコ使ってたはずでは?
よく意味がわからないが、他の大名でも健康時に印を用いているという意味?
印と花押の併用などの人間もいるけど、
北条氏康の場合は書状は花押、1570年より「機」の判お使用し、
1570年6月を最後に花押は見られなくなる。
なので病気の結果、印を用いるようになったと一般的に考えられている。
無論学者が必ずしも正しいとは言わないが、この事に関しては十分妥当性があると考えるが。
相模は基本的に氏照の担当じゃないけど、八王子近辺は氏照の管轄、
小仏峠越えれば甲斐なのだからその地域での武田の軍事行動を調べるのは義務なのでは。
小山田の対処も氏照だったし、負けたけど。
379 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 00:28:37 ID:ge2T/9M8
>>377 何がなんでも戦場に踏みとどまったのを北条にしたいみたいだけど、
相変わらずこちらが上げた要素のほとんどを無視するのだろうか。
「追って来れないほど優勢」ってそもそも何。
軍勢をがっぷり四つに組み合わせてる状態で相手が追って来れない状態にするには
一回相手をその場から叩きださないとどうしようもないだろう。
多少優勢になろうが相手が目の前にいるのに反転して甲斐へ向かえばここぞとばかりに
背後をつかれるだけ。
実際前半で帰還する武田の後方をつかれて被害が出た以上、2度も同じ愚を犯すわけないだろう。
山の上から三倍の兵で一気に襲いかかられ北条勢は自然に敗走。
武田は氏政の後詰がやってくるかもしれないと備えたが来ないようなので
安心して甲斐へ帰還。という深沢書状通りの説明が一番理にかなう。
実際武田は北条勢を深追いしなかったし。
380 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 00:34:43 ID:FlU6WIG7
三増峠は三増峠の戦い自体が過大評価。
単なる撤退戦で何も得るものがなかったのに何か凄い戦いだったかのように宣伝されてる。
381 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 00:37:18 ID:ge2T/9M8
>>378 そういう意味。
なるほど。ひとまず納得しておく。
相模は主将たる氏康親子がいるわけだし、当然の事ながらそこでの武田の動きは
知らないといけない。そして氏照が甲斐への帰還経路上を管轄とするなら
ますますもって相模で武田がどう動いてるかを知らないといけない。
武田は相模で被害を受けたのか?武田は相模でどれだけ動きいつ自分達のほうにやってくるのか?
など戦機を図る上でも相模での武田の動きを知る必要があったのは自然。
確か氏照は周囲から寄せ集めて軍勢を作ってたはず。氏政達との挟撃も狙ってたとされる以上、
武田の相模での動きには神経をとがらせていたはず。
382 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 00:44:10 ID:7O7Qn2Xl
>>381 それを言うなら氏邦の城攻めた後、武田勢がどう動くかも調べていないといけない。
実際には調べていたんだろうけど、それを書状に書いていない以上、
相模方面も調べていたとしても書く必要も無い。
そもそも北条に不利なことを氏照は書かないと言っているが、
氏政か氏康自身が小田原まで攻められたことを書いているのに、
氏照がわざわざそのことを隠す必要性も隠す利点も無い。
383 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 00:46:39 ID:7O7Qn2Xl
訂正
>相模方面も調べていたとしても書く必要も無い。
相模方面も調べていたとしてもこちらだけをわざわざ書く必要も無い。
384 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 00:54:26 ID:HWBwvp5t
>>379 >>追って来れないほど優勢」ってそもそも何。
一度優勢になったら兵力の少ない方が追えるわけ無い。
前半で武田が後方を突かれて被害が出たってのは状況がよくわからんけど。
甲陽軍鑑で内藤がわざわざ「殿ならともかく小荷駄奉行は嫌」とか何とか言ってたし
普通に小荷駄隊は前の方にいたものだと思ってたよ。
で、自然に敗走っていうけど、いくら兵力で勝っていようと
5千を越える兵力を敗走させるまで攻撃するのは相当な時間がかかるよ。
そんな悠長な暇があったようには思えないよ。
>>380 ぶっちゃけ同意せざるを得ない
はっきりした結果が出てない以上、現段階でのこの合戦の評価はその程度だろう。
385 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 00:55:56 ID:ge2T/9M8
>>382 案外相模方面を書きたくなかったから書かなかったのかもな。
同盟者である謙信にあてた書状である以上、
小田原や相模がどうなったかは謙信としても最も知りたい情報だったろう。
ここで小田原や相模で北条が武田に打撃を与えでもすればそれは得意げに
かいていただろうな。少なくとも書く必要がない事柄ではないな。
氏政は氏政で書状を出し、氏照は氏照で書状を出してるだけの話。
相模で武田が働いた、と氏照が書いてる以上、書こうと思えば書けた話だが。
この氏照書状自体が最初から威勢のいい事をいいまくりの書状なのだから。
氏照書状によるなら氏照は武田を滝山で際限なく打ち取り手負いも数知れない状態にした
んだそうだな。その後の武田の動きをみる限りありえないが。
386 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 01:01:44 ID:ge2T/9M8
>>384 追えるとも。
二万近い敵がいきなり方向転換して甲斐に帰還するんだから。
いくらでも攻撃しほうだいだろ。
まあ北条方の書状や軍記では一貫して北条が後方から武田を追ったように書いてあるので
そうなのかと思ったのだが。
まあ仮に前にいて武田をふさいでいるなら武田が甲斐に帰還した以上、
北条勢を突破した事になるわけで。
それは武田の勝利としか言えないんじゃ。
三方ヶ原では家康は一万以上の兵を持ちながら平地で二万以上の武田勢に三時間足らずで
壊滅させられてます。
三分の一以下の北条勢が山の上から2万以上の武田に襲いかかられたらひとたまりもない。
387 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 01:49:05 ID:HWBwvp5t
>>386 武田側の勝利だったのだとすればそんな流れではないかなと言う事。
最初は地の利を生かして待ち構えていた北条勢が優勢だったが
山上で体勢を整えた武田軍が一部隊を突撃させ(甲陽軍鑑だと馬場が先頭に立った事になってるね)
それに押された北条軍を横目に武田本隊はそのまま通過したと言う流れが一番合点がいく。
これだと北条・武田双方の損害の記録が少ない事もわかるしそれでいて武田が勝利と判断する事もわかる。
ちなみに山岳戦は平地よりも少ない兵力同士しか戦えないからむしろ平地の方が短期間で結果は出やすいだろう。
山岳ってのはそもそも行軍するだけでも時間がかかる場所なわけで
実際、山岳戦でそんな大軍勢同士の合戦自体なかなか無い。
そんな大軍勢が思う存分力を発揮できる平地で完璧な形で誘い出された徳川軍を相手にした
三方ヶ原合戦でさえ3時間足らずはかかるのであれば、この合戦で許された時間は相当少ないと見るべきなのではないだろうか。
小田原と三増の間はそこまで距離があるわけじゃないし。
まぁ実際にどっちの勝利だったか?とかはまぁ史料が少ないだけに各々がたの判断に任せるが
上記の流れであれば信玄の評価にとって速やかな撤収と状況判断はプラスになるべきだと思うと同時に
氏照も大軍勢相手に善戦したと言えるのではないかと言うのが俺の最終的な評価に対する感想。
388 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 02:20:30 ID:ge2T/9M8
>>387 どんなもんだろうな。
軍鑑を基にするなら馬場の後ろに勝頼隊が続いていたわけだし、
何より山県の背面奇襲がついてくる。山の上から押し雪崩れてきたという
武田勢とは軍鑑に依拠するならば山の後ろに回り込んだ山県隊では。
となるとはさみうちを北条はくらってる事になる。
あなたの説で問題になるのは氏照書状の説明。
前半部で切所を乗り越えて武田勢に襲いかかり、武田勢を押し崩したとある。
となると仮に最初に山の上にいたとしても実戦では北条が武田を攻め、行軍してる武田勢のいる所、
つまり相対的に低位置に移動してる。
そして後半武田は被害を受けつつ山に上って体勢を整え北条勢に逆襲する。
つまりマウントポジションから坂落としをくらわせてる。
前半で戦って疲れてた上に山の上から坂落としを三倍の敵にやられたらひとたまりもないと
思うが。北条側の軍記でも武田勢が山の上にいて上ってくる北条勢が逆襲されたように書いてある。
軍鑑でも北条勢は多くが山に逃げ上って去ったという記述がある。
逆襲された時、下にいた北条勢が武田に山の上から攻撃された事は間違いないと思われる。
となれば前半の疲弊も手伝って敗走したのは極めて自然だと思うが。
三増峠は氏照はその前日にも武田勢の一部と戦っている以上疲弊は想像に難くない。
一日の間に行軍、合戦、敗退してる三方ヶ原の徳川も2時間ちょいで武田との戦いにつかれ
敗退してる事を見ると三増峠の北条勢が崩れるのは自明だと思うが。
389 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 05:22:09 ID:FlU6WIG7
____
/ \
/ _ノ ヽ、_ \
/ o゚((●)) ((●))゚o \ やっぱ小田原落とせなかったお 氏康強いお
| (__人__) |
\ ` ⌒´ /
____
/\ /\
/( ●) (●)\
/ :::::⌒(__人__)⌒:::::\ お?なんか氏照とかいう小倅の小勢がいるお
| |r┬-| | この程度なら勝てるお
\ ` ー'´ /
|
\ __ /
_ (m) _
|ミ|
/ `´ \
____
/⌒ ⌒\
/( ●) (●)\
/::::::⌒(__人__)⌒::::: \ これを三増峠の合戦と名付けるお!
| |r┬-| | そしたら勝ったことになるお!
\ `ー'´ / 小田原攻めはなかったことにするお!
390 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 08:37:02 ID:pNJznnW9
>>353 Wikipediaなんてソースにならないと言っときながら、
自分はWikipediaを根拠として持ち出すってこれ如何に
つうか君が粘着してるのは本多隊の行軍妨害の有無じゃなくて秀吉軍の兵数でしょ?
だったら旧軍戦史・尾張県史(とついでにWikipedia)が採用してる2万で確定でしょ
ちなみに小牧市の小牧・長久手合戦の紹介ページでも2万説を採用してる
長久手町史の資料編には乗ってないかもしれないが、
本文編にはおそらく記載されてると思うよ
で、織田・徳川連合軍の兵数について
家康が小牧山に四天王や石川数正など主力の譜代連中を連れてきたことは上でも述べた
それ以外にも主だった連中だけでも、
遠江から久野・秋鹿・大沢、駿河から岡部・安倍・向井、信濃から保科・松尾小笠原、
甲斐から今井・馬場・初鹿野・米倉折井山高山寺の武川衆に穴山衆と、
上杉&木曾を牽制するために信濃に小笠原貞慶を残した以外、
徳川軍も全領土から総動員かけてるわけ
この時期家康側も相当無理をしたらしく、羽柴軍と対陣中に後方で
重い賦役に反対する一揆が勃発する寸前だったと
三河の僧侶が書き残してるくらい(小和田哲男「秀吉の天下統一戦争」より)
織田も信雄本人がわざわざ小牧城まで出張ってきてるんだから、
普通に尾張に主力連れてきてたと考える方が妥当でしょ
実際に伊勢方面から織田長益・佐久間信栄・山口重政らが呼び出されてるわけで
勢力的には600万石強を占める羽柴が断然優位だったとはいえ、織田・徳川も
合計で250万石は下らない大勢力、西軍が大軍を北尾張に引き連れてきたら
東軍も相応の兵力を南尾張に結集したと見るべき
こういう織田・徳川側の事情も君の持ってる本に書いてないのかねえ
あとさ、もう秀吉側で参陣した武将の名前とか雑賀衆を三月に撃退したとか
同じこと執拗に何度も書き込みしなくていいから
ちゃんとレス読んでもらえればわかるけど、誰も今そこのところ問題にしてないよね?
その割に無意識か意図的か知らないが統率上位者の
名前挙げてくれってお願いは無視し続けるしさ
「家康当りは確実に秀吉より上だと思うが」って、確か上の方で
自分は一度「統率・武勇では家康>秀吉でも構わない」って言ってるよね?
家康が統率トップクラスなのは妥当として、
秀吉がそれに値するかを話し合ってきたわけでしょ
これからまだ議論を続ける気なら、きちんとレスの
キャッチボールができるように心がけて欲しい
有意義な議論が出来るなら良いが、そうでないなら君にレスするのも控えさせてもらう
391 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 12:14:10 ID:SbvbfkC0
なんというかいつもの武田厨どうしても氏照が隠蔽していたということにしたいみたいだな
昨日脳理論はちと酷すぎる、相変わらず北条は誇張隠蔽していて、武田のはそのまま信じるってのも
どうせ同じ結論の発言しか繰り返さないんだからまともな議論望むなら無視した方がいいんじゃ
392 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 12:25:42 ID:uIfDyqg9
そもそも相模とは魅力的な土地なのか、小田原攻めとは武田にとって力を見せつけ北条を牽制するだけの目的しかなかったのではないか?
北条を滅ぼす事ができなかったという理由だけで武田家を貶める発言は不当だと思います。
393 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 12:53:02 ID:1yWcwTol
武田にとっての力を見せつけるというのは町を焼いて略奪することなのか
394 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 12:58:36 ID:uIfDyqg9
インフラ整備しろって言うのか?
395 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 13:13:22 ID:lAj1A5hb
>>390 俺が言いたいのは君はwikiをソースの一つとして挙げててしかも
『長久手戦話』『堀家譜』『長久手合戦覚書』『尾州長久手御合戦之覚』
これらをソース元にしてるんでしょ?だから俺は他の覚書や戦話じゃ本多500
に行軍妨害喰らってたり80000説が書いてたりwikiにも本多の行軍妨害が載ってたり
するが、と言ってるんだけど。
俺は書状や陣立書、それにそれら一次資料をまとめた本しか読んでないんでな
信濃の支配は82〜83にかけて伊那を菅沼が固めた他は佐久、諏訪、小県、安曇、筑摩
など若干の郡をしかもところの一、二の城主の所領を安堵するという形で押さえたに
すぎない。しかも木曾谷、安曇、筑摩11万石の領主である木曾が離反して
さらに勢力が縮小してるがこれは小領主小笠原だけで押さえが効くはずない。
諏訪も残されてるし、甲斐衆を率いる鳥居も小牧陣に加わってない事から見ても
信濃の抑えに加わっていると思われる。それから一揆云々は武田時代後半の滅茶苦茶な
無理な軍役負担が領主達をずっと苦しめててこの時も武田滅亡から2年ほどしか経ってない
から信濃、甲斐、駿河では普通なレベルの動員でもかなり負担になるんじゃないか?
信雄本人は来てるけど木造氏など呼ばれてない連中も普通に多いでしょ。というか
秀吉が伊勢方面にのこしてるんだから残さないわけにはいかない。
つうか兵力に関して100000対16000〜18000は君の挙げた本や中公の「徳川家康」、
「豊臣秀吉の全て」などかなり多いわけで。「日本戦史」だと682万石と245万石
でしょ。しかも経済の中枢となる畿内は全て秀吉がおさえてるし。
相当イラついてるようだがこっちも同じ思いだ。異常に秀吉を過大評価する連中
の執拗なまでの無理やりな擁護は後ろ付けで理由を考えてるのがミエミエで痛すぎる
396 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 17:52:56 ID:NVcMOLY7
>>391 どこら辺がひどいのか教えてもらえる?
資料に基づいて話をしてるだけだが。
むしろ北条側の結論のが資料抜きの推定が多いじゃないか。
実際氏照の書状には滝山攻防とか明らかに誇張してるし
武田の逆襲から先はいきなり筆が重くなってる。
てか武田が北条宛に出した書状で武田が戦場に踏みとどまって氏政に
備えてる事まで書いてあって、北条の軍記でも武田の軍記でも武田勝利が
認められてるのに何をもって北条の勝ちというのか。
そもそも武田の書状を疑いつつ、氏照の書状は書いてない事まで最大限に
好意的に解釈して北条の勝ちっていうのは認められんぞ。
397 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 17:56:31 ID:NVcMOLY7
>>393 北条に対する牽制と、いい宣伝材料になるのと、越相同盟の楔にもなる。
主城を焼き打ちされるってのは結構な衝撃だ。
398 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 17:58:38 ID:NVcMOLY7
>>389 小田原攻めて町を焼き打ちにした事は信玄は
書状でしっかりアピールしてます。
なかった事にはしてません。
399 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 18:03:08 ID:tc82p5Hr
ID:pNJznnW9は本多の行軍妨害を否定してるんじゃないんだからその有無についてねちねち
レスしても意味がないと思うが。
400 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 18:21:52 ID:FlU6WIG7
>>398 2万も軍勢率いて挙げた戦果が放火だけ?放火って2万人も動員しないと出来ない大事業だっけ?w
それだけじゃ戦果というにはあまりにしょぼいから
ただの撤退戦を三増峠の戦いなどと名付けてでっち上げてんだろw
こんなせこい真似してるの戦国広しといえど武田だけ。
金ヶ崎や長谷堂も有名な撤退戦だけど、勝ち戦としてでっち上げたりなんかはしてないしな。
401 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 18:36:52 ID:NVcMOLY7
>>400 同等以上の敵勢力の領地まっただ中に入って主城を焼き打ちして
無事離脱し戦略の布石にしたのは
2万いても普通はやれない大事業だな。
3増峠があったのは事実だからw残念だろうがなw
402 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 18:43:36 ID:FlU6WIG7
布石w都合のいい言葉だな。
焼き討ちなんてね、合戦のたびにどこでも行われてます。
そんなのいちいち大戦果にカウントしてりゃどの合戦も勝ち戦名勝負のオンパレード。
んで氏照の軍勢追っ払った程度の小競り合いを三増峠の戦いなどと捏造w
手取川並に酷い捏造だなこりゃ。
403 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 18:47:18 ID:FlU6WIG7
つーか、甲陽軍艦の中ですら「何の利益もない戦いだった」と酷評されてるんだろ。
それを無理矢理合戦を捏造して勝ち戦にするとは必死すぎだろう。
404 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 18:49:06 ID:NVcMOLY7
>>402 同等以下の勢力相手に圧倒的な大軍でもない相手に領土を横断されて
主城を焼き打ちにされてまた領土を横断されて無事離脱されるなんてのは
ほとんど例がないけどなwまさに見事w
あいにく北条側もしっかり述べてる戦いですのでw
3増峠はw
405 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 18:51:47 ID:NVcMOLY7
>>403 酷評なんかされてないけどなw
その1文だけ切り取るなよw
信玄は6歳上の氏康に勝てたのは本望であったと喜んでるけどなw
第一北条方の軍記なんかもっとすごいぞw
「信玄が北条に勝ったのはこれだけなんだからな!」とか言って
後の駿河攻防の戦いまでスルーして負け惜しみしてる。
北条も随分必死だな。相当くやしかったんだろう。
406 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 19:02:18 ID:FlU6WIG7
>>404 無事離脱?してねーだろ。
兵力の劣る氏照勢に武将討ち取られてるだろ。
407 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 19:07:16 ID:NVcMOLY7
>>406 浅利は鉄砲で死んだそうだな。部隊は曽根が引き継いで戦い抜いてる。
その分逆襲して北条側に参戦してた古河公方の重臣まで討取ってやったが。
北条領国横断主城焼き打ちという荒業の割には被害少ないもんだ。
その後元気に駿河攻めてくし。軍のほとんどは無事。
408 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 19:20:33 ID:FlU6WIG7
それなら負けたはずの氏照勢も大して被害を受けていないようだが。
古河公方の家臣が死んだくらいで済んだのなら軽いもんだ。
重臣の損害が同じ1:1なら小勢で頑張った氏照勢の方が優秀だな。
409 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 19:31:56 ID:NVcMOLY7
>>408 優秀も何も追撃戦だからな。
行軍体勢で追撃くらえば後方が大変な事になるのは当然。
そんで武田が山の上で体勢整えて逆襲したらあっさり叩き返されましたよと。
そんで武田はまた帰還行動を再開しましたよと。
北条側の軍記でも「敵が深追いしてこなかった」と書いてある。
北条が頑張ったとは思うがな。
410 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 21:41:27 ID:B89DERbG
いい加減ゲームの話をしろと思うのだが
411 :
名無し曰く、:2009/02/04(水) 22:09:13 ID:z2GSBdbv
412 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 00:02:37 ID:7E3f928s
川中島や三増峠は
歴史的にどうでもいい不毛な戦いだったな
武田ってそんな戦いばっかり
413 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 00:05:05 ID:NQX4wbXq
そんなこといったら歴史的に重要な戦いなんて・・・
414 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 01:03:35 ID:eihfRDx/
>>412 どちらも当事者にとっては重要な戦いだったと思うが。
415 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 01:04:48 ID:XGXduy77
不毛な戦いといえば上杉
416 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 02:38:13 ID:JwQCBTRc
>>395 本多が500の兵で秀吉隊8万の行軍に立ち向かい、
秀吉がその勇気に感泣して兵を進めなかったという記述は、
改宝年間に成立した『武辺咄聞書』(それにしたって「数万」であって
「8万」ではない)が元ネタだと思ってるんだけど違うの?
議論の本筋から外れるが、後学のためにソースとなった覚書とやらを教えてほしい
小牧山付近の徳川・織田軍が合計で1万6000−8000は
現代の多くの研究書がその数値を採用してるし
(これは竜泉寺に向かった秀吉隊の兵数2万も同様だが)、疑問の余地は無いと思う
ただ自分が6万と言ったのは南尾張全体に展開した軍勢の数ですからそこはよろしく
戦場となった楽田・小牧山付近に限定すれば秀吉方も10万なんて居ないでしょ
(その根拠は既に上でも述べたから一々繰り返さない)
徳川の信濃支配が完全なものじゃなかった、というが、
それを言うなら秀吉も背後の美濃に未だ加賀野井城や竹鼻ヶ城
(いずれも小牧陣から撤退した秀吉によって5月に攻略)
といった織田方の拠点を抱えてる状態だし、そんなこと一々言い出したら切りが無いんでは?
小笠原だけでは信濃の抑えに力不足だというが、
実際に小牧まで保科・屋代・松尾小笠原といった信濃の諸勢力が参陣してるし、
逆に貞慶の方から上杉の麻績城や青柳城、木曾の福島城に攻めかかってる状態なんだから、
この時期羽柴方による徳川領信濃への圧迫など大したものじゃなかったと思うんだが
勝頼時代の無理な出兵による武田旧領の疲労は知らないが、
既に関東の北条とも講和してるし、家康が四方に敵を抱えた秀吉
(まあこれ自体家康の外交政策のおかげだから、そこは別に評価しないといけないが)
と比べて戦力を集中しやすい状態だったのは間違いない
異常に秀吉を過大評価する連中の後付擁護とやらにご立腹のようだが、
秀吉憎しで無理に難癖を付けてるから周囲から突込みが入ってるだけでは?
秀吉を信長の便所掃除人上がりとする『朝鮮王朝実録』や、
彼を軍事・政治・経済いずれの分野でも卓越した業績を残した
日本近世最大の巨人だとするハーバード大学教授の評伝まで
秀吉関連の本は色々読んだが、秀吉本人の軍が打ち破られたわけでもない
小牧・長久手の一戦、挙句最終的に勝利を収めてる山崎や賤ヶ岳での敵軍の奮戦を以って
秀吉の采配がさほどじゃない、なんて宣まってるのは君しか見たこと無いよ
結局小牧の陣で戦闘らしい戦闘といえば、
羽柴軍の中入り部隊2万が徳川軍1万に敗北したというだけ
それを羽柴軍10万を徳川軍1万8000が壊滅させたかのように書くのはフェアじゃないね
戦力で劣りながら敵の一部隊を壊滅させ、戦線を膠着状態に持ち込んだ家康は凄いが、
攻めきれなかったというだけで秀吉を戦下手呼ばわりするのは偏りすぎ
その手の「敗戦」は秀吉だけじゃなくて家康にも信長にも信玄にも謙信にもあったこと
その程度のことで統率に大幅減点されるようならば、統率の数値なんてまともにつけれない、
つうのが自分の一貫した主張、それに対して君は戦役の瑣末なディテールに
拘るだけで、本質的な回答は全くしてくれてないよね?
そこんとこを何とかしないと、自分はこれ以上君との議論に有意性を認められない
わかりやすく言えば忍耐も限界に近づいてるってこと
417 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 07:45:49 ID:tz44iWrm
>>416 本多500で足止めは戦国期知ってる大久保忠教とかおそらく同時代に書かれたであろう
当代記とかにもあったと思う。80000は確かなかったけど。てか俺もまだ資料読み込み
中なものでなんせ膨大だから後で報告する。いや、だからそれなら小牧山と楽田で
100000対16000〜18000なんて書かれ方しないって。他の本みたけど豊臣秀吉辞典
では家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(ソース元は吉村文書)これは極端だと
思うが最初の三月序盤の伊勢攻めでも秀吉は50000連れてたというのは勢州軍記にもあるし
21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)
これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、
小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われる
し、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請されてる。
美濃は一部除いてほぼ全域秀吉方なんだけど。岐阜に秀勝残しただけです。
この頃は佐々成政がまだ蜂起しておらず
上杉も信濃進出を積極的に行ってて北条氏直は信濃で唯一確保してた小県の小諸城を
放棄してる。それから俺が知ってる範囲では保科も残されてる。
>実際に小牧まで保科・屋代・松尾小笠原といった信濃の諸勢力が参陣してるし、
すまんがソース元を教えてくれ。屋代、保科は信濃居残り組みのはずだが
>逆に貞慶の方から上杉の麻績城や青柳城、木曾の福島城に攻めかかってる状態なんだから、
いやだからこの軍に家康の援兵が含まれてないのかと言ってるの。信濃は
甲斐とは違って保科、諏訪、小笠原、木曾といった旧領主の復活を家康が後押しした
だけで前期独立領主などの支配に任せる形での支配を行うだけだったんだが
こういう独立色強い所は離反が起き易く、援兵を粗末にはできないと考える
ついでに言うが徳川が
>>390のような主力掻き集めたソース元もよろしく。
長久手町史の資料編と本文編、豊臣秀吉辞典、豊臣秀吉の全て、徳川家康の全て
徳川家康(中公新書)、豊臣秀吉の天下統一戦争など色々見たけど家康出陣の
際の面子で四天王や大須賀、本多広たか、石川、松平家忠はのってるけど
それ以外の詳細の面子が載ったものは発見できない。秀吉方が連れてきた奴は
全て秀吉の書状や陣立書にかいてるけど徳川方が連れてきたメンバーはっきり
記した物がなくてな。
それから越後からだいぶ距離ある筑摩北部までわざわざ遠征してるのに大した圧迫
じゃないというのはないでしょ。毛利、上杉も味方。紀州一揆はもう説明したが
撃退されて後にそこの兵は中村など一部除き尾張まで呼ばれてる。代わりに宇喜多の
援軍が入ってる。
>>200に追記しとくが長曾我部は讃岐はおろかまだ伊予や阿波も
平定前だった。十河氏や河野氏がいまだ抑えてて毛利も同盟者河野氏の援軍として
渡航してる。長曾我部は上陸したくてもできる状態じゃなかった。ソース元は
例の本だが細かく説明すると長くなりすぎるので省略する。
おいおい中入り24000〜25000は秀吉の書状にはっきり書かれてるのに終にこれまで
否定?事実としてあるのは圧倒的兵力差がありながら家康に軍事的敗北を喫した
という事だけ。謙信信玄家康でここまで野戦で兵力差ありながらまけた例は見ないな
真田とか強者とされる奴だけでそういう奴はゲームでも高く設定されてる
418 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 12:21:17 ID:NJQxCuau
こと兵力に関しては一次史料でさえ信憑性低いのに、ましてや軍記物をソースとした兵力推定なんて
419 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 12:40:44 ID:tOjLj6dR
420 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 12:41:30 ID:tz44iWrm
しかし国力差、書状で秀吉が呼び寄せてる連中の名前や陣立書のメンツなど見りゃ秀吉方
は総力あげてるのはわかる。家康方は『徳川家康のすべて』によると
北条の変心を予想して甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、上杉の抑えとして遠江に大久保忠世、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、信濃伊那に菅沼、三河岡崎に本多重次を
配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた(『御当家記念録』『当代記』)
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった、と書いてある。
勝頼末期の圧制からさほど時間も経ってないし金山も枯渇してるし駿河、南信濃、甲斐
はあまり多く動員できない事情があるのかもしれない。豊臣秀吉辞典、豊臣秀吉の全て
徳川家康(中公新書)、豊臣秀吉の天下統一戦争など他の本でも家康軍は
家康軍の数に関しては同じようなものを書いてる。
421 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 16:41:13 ID:LWyLZVDg
上であがってる「小牧・長久手の戦いの構造」の著者の一人である下村信博氏の小牧長久手戦についての
論文読んだけど両軍間における決戦はおこなわれることはなかったと書いてあったな。
422 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 18:46:21 ID:tz44iWrm
決戦はなくても戦闘はあった
423 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 19:42:02 ID:YZhwIE9c
なんでアンチこんなに必死なのwwwwwww
424 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 19:50:44 ID:DAHBwX5O
425 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 20:03:50 ID:3rqFQvnS
真田昌幸の政治の高さは一体どこから来てるんだろうか
426 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 20:20:58 ID:V+f2lU/b
>>420 横からで悪いが大久保はまだしも、鳥居元忠平岩親吉牧野康成菅沼らは、
関東に移ってからの彼らの石高でさえ雀の涙みたいな兵力じゃないか?
427 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 20:47:59 ID:tz44iWrm
>>426 主要武将がいるかどうかでどのくらい兵力集めてるかの根拠の一つには
なりうるんじゃないか。追記しとくが家康は長久手合戦後申の刻に出した本多忠政、
鳥居元忠宛に戦勝を告げる書状を書いてるし小牧陣にはいないかと。
428 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 21:31:28 ID:USX0MbUU
「スレ違いだからやめろ」と止める人間のいない議論がここまで面白くなるとは思わなかった。
429 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 23:21:14 ID:6ItxIHfx
>>408 国府台合戦以降、力を失って完全にお飾りとなっていた上に
北条と上杉が同盟を組んでしまった関係でお飾りとしての存在感すら無くなってしまった
この時期の古河公方ではその家臣と言われても確かに大した損害ではないだろうな。
一方、武田側も武田24将の一人と浦野氏の一人ぐらいだとすると今ひとつ損害の規模が見えてこない。
だから氏照の方が優秀とか言うのは違うと思うが
確かにこの合戦だけで言えば兵力差のある中、氏照は頑張ったと評価されて良いと思う。
>>412 氏照はこの合戦の何日か前まで滝山城で必死の篭城戦を強いられていた後で
やっとこ撤退してくれたと思ったら小田原の鬼親から
相手は3倍以上も兵力いるのに追いかけて来いと言われたわけで・・・不毛って言うかちょっと哀れw
しかも自分は追いかけないしw
430 :
名無し曰く、:2009/02/05(木) 23:59:34 ID:V+f2lU/b
豊前か
正直どれほどの重臣というか兵力のものだったのか
栗橋衆の一人?
431 :
名無し曰く、:2009/02/06(金) 01:33:29 ID:UgONnmtZ
ここで敢えて氏照に本当に落度は無かった説を言ってみるw
信玄の合戦後の書状、
三増峠で氏照氏邦氏規らが6千〜7千の兵力で挑んできた
氏邦氏規以下2千の兵を討ち取った
とある、合戦後の二通の書状では信玄自身は氏照の部隊に対しての損害は言及していない、
氏照書状では先衆が攻め係り武田勢を崩した
自分の部隊にも敵が押し寄せてきたが自分には『越度』は無いと述べている
氏照は先衆とは別の後陣にいたか、あるいは別方向に布陣していて
先衆(ここに上総などの外様か氏邦らがいた?)は武田勢の反撃で敗れたが
氏照自身の陣は敗れることは無かった
武田側でも氏照勢を討ち取ったとは書いていない
両者の書状からこういう流れと推測すると両者の書状に矛盾は生じないんじゃないだろうかw
432 :
名無し曰く、:2009/02/06(金) 01:52:35 ID:zSi7im2r
状況を考えると6〜7千も本当に居たのか疑問。
いずれにしろその程度の兵力でそんな分散して守ったりはしないだろう。
大した損害が出てない=落ち度はない と考えれば普通に矛盾はないかと。
433 :
名無し曰く、:2009/02/06(金) 02:58:14 ID:9qgL/4tf
いかんせん氏政が武田寄りだから小田原本拠はまとまりがつかない。
嫁の信玄の娘と凄く仲が良かったというし、本来は謙信の人質に氏政の息子を送る予定が、
ごねまくって結局氏秀を送ることになったくらいだし。
最初の駿河侵攻の信玄を撃退した時も、ほとんど攻撃らしい攻撃をしていない。
434 :
名無し曰く、:2009/02/06(金) 05:04:26 ID:3X3oandR
>>417 こうやって資料を比較検討してみると
『当代記』『三河物語』『長久手戦話』etc.→『武辺咄聞書』→『常山紀談』『徳川実紀』と
時代が下るにつれてどんどん話が大げさになっていくさまがわかって興味深いね
>>390の参加武将のリストは、譜代旗本御家人の家譜家伝がソース
現代の歴史家の著書で、徳川方の参陣武将をまとめたものは自分も探したけどなかった
素人が片手間にしたものだから抜落等も有るかも知れないが、そこのところは容赦願いたい
ちなみに小牧に参加した保科は正俊じゃなくてその嫡子の正光の方
小牧・長久手の前後に小笠原貞慶が上杉木曾と小競り合いしてたのははっきりしてるが、
そこに信濃の他の豪族や徳川の援軍が有ったかどうかは
資料にも書いてなかったから自分にはわからないとしか言いようが無い
ただ君自身が挙げた本によれば鳥居と平岩は北条の抑えだったらしいから、
この二人は信濃までは出兵してないんじゃないの(後真田の抑えの役割も有ったと思う)
そもそもこの二人だけ信濃に来ても、その配下の国衆が小牧に居たらどうしようもないし
派遣された可能性があるとするなら、対上杉用に配置されたとされる
大久保やら菅沼とかそこらへんになるんじゃないかと
まあ大規模な衝突があったならその分戦闘に参加した武将などの資料も残ってるだろうし、
「はっきりしたことがわからない」ということは
逆に言えばその程度の脅威だったということじゃないの>上杉
小牧合戦の同年何度目かの新発田討伐に挑戦してそれも失敗してるような状態だし
中入り部隊の兵数2万4000-5000を否定したつもりはないよ
君が秀吉書状を根拠に上記の兵数を採用した経緯は重々承知してるが、
竜泉寺に向かった秀吉隊の兵数と違って大きな差も無いと思ったから、
ついつい通例に従って(千の位まで一々書くの面倒くさいし)2万と書いてしまったわけ
今まで羽柴や徳川の兵数やその周辺状況は散々議論してきたが、
肝心の(?)中入り部隊の壊滅については殆ど議論になってないことからわかるように、
長久手の戦闘そのものの経過自体は共通認識が有ると思って構わないと思う
中入り部隊の敗北を秀吉にどのようにフィードバックするかで揉めてるわけだから
435 :
名無し曰く、:2009/02/06(金) 05:13:30 ID:3X3oandR
で、やっと信玄や謙信など他の武将の名前が挙がったわけだけど、
それに対する自分の持論は上で述べたからもう繰り返さない
いちいち言わないけど、その人たちも大軍を率いながら
その優位を活かせず敗北した事例がしっかり有る
ちょっと疑問に思ったんだが、真田(幸村か?)の統率については妥当だと思ってるの?
自分の中では山崎の明智や賤ヶ岳の柴田みたいに
奮戦はプラス評価だが、結果的に負けてる以上勝者より上の数値は安易に付けれないと思うんだが
明智や柴田はまだ他に戦功が有るからトータルで判断することもできるが、
幸村は大坂の陣以前にそういうのがない、悪く言えば「一発屋」みたいな存在だし
436 :
名無し曰く、:2009/02/06(金) 05:29:18 ID:PlPF9Qfw
437 :
名無し曰く、:2009/02/06(金) 07:03:56 ID:y6I/Qp6h
>>434 保科正直は信濃居残り組だと長久手町史本文編だったか例の本だったかに
あった。一次資料もまだ全てを読み込んだわけじゃないから探してみるわ
いやはっきりした情報はなくてもその軍事衝突を過小に見積もる事はできない
と思うが。上杉は新発田を援助してた蘆名がこの時期佐竹の援軍要請を受けて
沼尻まで出陣してて連携関係が成っており信濃進出は積極的だったそうな。
北条が小県小諸城を放棄したのは二月。この時は上杉のみならず周辺領主による攻撃が
あったという続いて四月上旬に再び信濃に出陣、仕置きを終えて春日山に戻った
のが五月二十三日。秀吉は上記二つの行動を『御手柄』と賞賛したそうだ(戦国時代の終焉)
諏訪頼忠も動かされた情報がない以上信濃にいる可能性高いと思われる。
小笠原貞慶の版図について詳しく知らないが木曾、上杉の攻撃を単独で抑えられるほど
大きくはないんじゃないか。もうこの時信濃の徳川勢力は佐久伊那諏訪郡の他では
小笠原と屋代くらいしかいなかったような
大軍行かせずといってもここまでの失敗例は俺が知る限りないけど臼井城の事?
真田は詳しく知らないし過大のような気がするが家康と同等くらいの高評価は別に違和感ない
438 :
名無し曰く、:2009/02/06(金) 13:28:46 ID:reOvf5fA
>>432 三増峠の氏照書状の「落ち度がない」だが
実を言うと北条の軍記にも似たような表現がある。
北条勢が武田勢の逆襲を受け敗退したとき、
「これは仕方のない状況であり、力が及ばなかった」という風に表現されている。
もともと圧倒的な大軍に体勢を整えられて山から攻撃されたのでは敗退しても仕方ない
=こちらに落ち度はない
とすれば結構しっくりきたりする。
兵力については氏照が「兵を急いで集めたため寄せ集めになってしまい、
うまく戦えなかった」というような事をいってたような。
氏照も可能な限り兵を集めようとしたんじゃないかな。
そんで氏照勢+氏邦勢+氏規勢+その他集めた兵で6、7千近くと。
>>433 第2次薩睡は封鎖戦だからな。無理して攻める必要はないような。
氏政が三増峠以前には謙信たきつけて武田にぶつけようとしてる書状とかもあるし、
この一連の小田原戦役で不信を募らせたんじゃないかね。
439 :
名無し曰く、:2009/02/06(金) 21:08:24 ID:MHoEUz4e
440 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 00:08:26 ID:Tpv9t6Nn
武田は必ず勝てる状況をつくって戦に望んでいたから
こういう用意周到な点は、能力にし辛いから過大に見えるのだと思う
慎重でやってることは地味だけど、だからこそ戦績は優れている
441 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 02:52:29 ID:z1Nm+mOj
>>438 この合戦に限らず、どの合戦でも実際の状況に関しては謎な合戦ばかりなので
大きな合戦ともなればその後の力関係等への影響と合わせてようやく客観的な裏が取れるといえる。
しかしこの合戦がその後に与えた影響はほとんどなく、領土にも影響なし。
そしてどちらも大きな損害が出ていた記録が無いし
合戦の時間も長くない、まともにぶつかれる場所でもない
と来ればどっちの勝ちとかそういう問題以前にそれほど大きな合戦ではなかったというのはまず間違いないかと。
その程度の合戦にいちいち勝敗つける意義が感じられない。
その書状の解釈は信玄書状の”以下”を率いると解釈した件についてもそうだったが捻りすぎた解釈かと
どちらもそのままの意味で読めばいいだけの事・・・が、もはやその辺も賞味期限の切れた話題かと。
このスレ的に言えばどちらも評価すべき点があったというところがせいぜい落としどころかと思うが。
442 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 04:23:17 ID:huxqkMNs
素朴な疑問なんだけど、竹中半兵衛ってそこまで凄い人なの?
城乗っ取りとか確かに見事だけど、ノブヤボでは針が振れるほどの智謀に
なってるよね
443 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 04:32:06 ID:W0JQMZu1
>>441 しかしこれをさも大きな戦であり、それに大勝したかのように吹聴した深沢書状を書いたのが信玄。
444 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 09:12:26 ID:Dkc2Abl9
445 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 09:17:27 ID:WVmWDVrV
>>441 合戦自体は長くないってなんで?
前哨戦も含めれば二日にわたる戦いなのに。
決め付けすぎだろ。
武田の重臣も北条の重臣も死んでるんだからある程度大きな戦いだし。
少なくともまともにぶつかれないわけではないと思うが。
それいったら北条の動きもおかしくなるし。
勝敗つける意義も何も武田が最後まで戦場に踏みとどまってるのだから武田の勝ちで
いいだろ。なんでこの点については北条側の軍記でも認めてるのに無視なのか。
ただ負けてないといいたいだけにしか見えん。
>>443 実際戦場に踏みとどまって撃退したのは武田だ。
深沢書状には駿河攻略における地味な戦果もちゃんと書いてあるのに
何をもって吹聴というか。
446 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 09:18:58 ID:WVmWDVrV
>>444 武田の勝ち戦は数多いが。何を持って勝ててないといってるんだ?
447 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 09:21:39 ID:vWu8Z5++
戦史研究家が学研のムック本で書いてたけど、騎馬戦術を
真にマスターした軍人は、世界史でも、義経、ジンギスカン
、信玄、ナポレオンの四人だけだそう。
このことだけでも信玄公の偉大さは確実と思うけど
448 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 11:58:10 ID:3HQGu438
>>433 謙信にも疑われているし氏康と違って
この時の氏政は武田より関東に執着してそうなんだよね。
信玄の武蔵侵攻は当初から甲房同盟や関東勢へのデモ程度なんじゃない。
現状では氏照の評価を上げる事はあっても信玄のプラスになる事はなさそうだし
武田の勝利とか相越同盟に亀裂とか駿河撤退やとかまでなると大袈裟なかんじ。
449 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 12:29:34 ID:Dkc2Abl9
>>446 だから武田の勝ち戦って何を指してるの?
武田が勝った戦とその相手、列挙してみてよ。
450 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 17:23:02 ID:KemJ9lEm
ID:Dkc2Abl9
コレはさすがに相手にされないだろ。
ひでえなコイツ…
451 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 17:31:36 ID:nhPV4DXQ
確かに
452 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 17:32:59 ID:nhPV4DXQ
ひどいよな、武田厨が一番答えにくい質問をずけずけと
453 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 18:03:37 ID:fyohN4AB
佐久間政盛「われこそは佐久間政盛 わが力みよや」
454 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 19:01:29 ID:W0JQMZu1
>>440 必ず勝てる状況をつくってって、一方的に同盟破棄して攻め込むとか、
単に卑怯なことやってるだけじゃん。
それも今川や織田なんて相手が一番苦しい時に同盟破棄して攻め込むとか、卑劣の極み。
455 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 21:39:49 ID:z1Nm+mOj
>>445 公方自体もはや北条の重臣どころか存在意義自体ほとんど無くなってるよ。
その家臣が北条の重臣なわけないでしょ。
456 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 22:43:47 ID:WVmWDVrV
>>449 とりあえず50戦以上の勝ち戦をいちいち羅列しろというのだろうか。
本気で聞いてるのかを聞きたいんだが。
>>452 なあ本当に武田に勝ち戦がないと思ってるのか?
とりあえずそれだけ聞かせてもらえるか?
457 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 22:46:16 ID:WVmWDVrV
>>448 とりあえずこの戦いで上杉と北条の協調が絵に描いたもちだった事は
はっきり示されたと思うが。
北条の書状の怒り様とか見てると双方の不信感はかなり募ったと思われる。
458 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 22:54:31 ID:N93aS6gB
449 :名無し曰く、:2009/02/07(土) 12:29:34 ID:Dkc2Abl9
>>446 だから武田の勝ち戦って何を指してるの?
武田が勝った戦とその相手、列挙してみてよ
/\___/ヽ
/'''''' '''''':::::::\
.|(●), 、(●)、.:| <ばっかじゃねーの
| ,,ノ(、_, )ヽ、,, .::::|
.| ´トェェェイ` .:::::::|
\ `ニニ´ .:::::/
/`ー‐--‐‐―´
459 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 22:56:40 ID:xs/qi0Zp
>>454 それが戦略というもの、隙を見せた方騙される方が悪いに決まってる
460 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 22:57:28 ID:WVmWDVrV
>>454 普通に戦っても勝ってるが。
今川とは数年にわたる複雑な外交の結果。
今川も武田に対してやる事はやってる。1568年末の段階じゃ武田も今川を攻めざるを得ない。
織田に対しても武田織田両属の岩村をいきなり織田領に組み込んだのは織田なんだが。
>>455 北条の正当性の証として存在価値はあると思うが。
てか越相同盟は随分北条が上杉に譲った同盟だが
それでも古河公方をちゃんと認める事は条件に入ってる。
氏康がじきじきに戦死した豊前の奥方に書状送ってるんだけど。
461 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 22:58:52 ID:xs/qi0Zp
>>457 越相同盟の連携のまずさと三増峠は関係ないでしょ
この戦いの後からようやく上杉が上野や信濃に出兵しだして協調するようになったのだし
462 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 23:00:25 ID:WVmWDVrV
>>461 信濃に来てたか?上野も一回牽制して後はずっと北陸攻めてるし。
協調してるなんて北条自身が思わなかったと思うが。
463 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 23:01:08 ID:N93aS6gB
444 :名無し曰く、:2009/02/07(土) 09:12:26 ID:Dkc2Abl9
>>440 勝ててないだろ、例を挙げろよ。
r'゚'=、
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464 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 23:03:20 ID:N93aS6gB
452 :名無し曰く、:2009/02/07(土) 17:32:59 ID:nhPV4DXQ
ひどいよな、武田厨が一番答えにくい質問をずけずけと
巛ミヾヾ \
/ ミ ヽ
f, ミ }
┏v'┳_━━━ r、 |
yバノ゙’' ̄ ''' } }゙ }
‘ーj`' : // /
L_ヽ i V /
(" ` ! _/
\ _,. -‐ '  ̄ !_
/|~ /  ̄ \
ヒッシ・ダナー [Hissy Danner]
(1901〜1997 イギリス)
465 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 23:08:56 ID:hrZTjK0u
とりあえずAAやめれ。荒れるっていうか壊れる。
466 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 23:09:32 ID:WVmWDVrV
>>449が50戦以上ある武田の勝ち戦を本当に何一つ知らないとしたら
逆に驚愕せざるを得ない。
どういう偏った知識になっているのかと逆に興味はあるが。
467 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 23:09:53 ID:xs/qi0Zp
>>462 武田書状と上杉書状ではそうなっている
武田は軍を進めたら上杉は北信濃から逃げ出した
上杉は軍を進めたら武田は越後から逃げ出した
と正反対だけど
上野へは上杉は2回かと、
武田は上野へは何度も出兵しているようだが
468 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 23:17:46 ID:W0JQMZu1
つーか、ちょっとした武田叩き…というほどでもない批判や意見でも
何が何でも否定しなきゃ気が済まない所を見ると山梨県辺りから金もらってやってんじゃないかって感じがする。
実際あるよな2chの批判をもみ消すことを仕事にしてる会社。
469 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 23:22:26 ID:WVmWDVrV
>>467 何年の書状?
1571年末の対陣だっけ?あれ北条と武田の再同盟の後じゃなかったっけ。
武田の上野出兵は対北条領相手でしょ。
>>468 さすがに勝ち戦が存在しないとか言われると否定すると思うが。
俺は山梨県から金なんかもらってないぞ。
どこの大名のファンも妙な事言われたら説明するのは自然だと思うが。
470 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 23:28:19 ID:xs/qi0Zp
>>469 多分両家とも1570年日付は忘れた
争うとはいかなくても信濃に出兵なら他にもあったと思う
471 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 23:31:09 ID:WVmWDVrV
>>470 あったかな?
まあ争わないんじゃ北条にしてもなにやってんだ、ってことになるけど。
472 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 23:38:28 ID:xs/qi0Zp
あと北信濃の備えを固めろとかいう書状もあったな
>>469 上野は上杉領となったはずだが北条領ともいえるのでまあ対北条領と言えないことも無いが
>>471 書状からじゃ戦いの様子はよくわからないが
信越国境で対陣した武田が北信濃に兵力を回しただけでも十分な援護だと思うが
その間片方は自由になるんだし
473 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 23:44:48 ID:xs/qi0Zp
つか深沢矢文にも1570年川中島出兵は書かれていたはずだと思ったが
上の方の人たち散々矢文の内容は信用できるようなこと言っておいて武田に不都合な部分はスルーしてるのな
ってか本当に読んでいるのかな?
474 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 23:56:37 ID:WVmWDVrV
>>472 そんなに頻繁に上杉と対陣してるかな?信濃で?
上杉のタイムスケジュールを見るとかなり疑問。
1569年8月から10月まで越中攻め。
1569年11月からは関東出陣し年越して1570年3月まで関東攻めてる。
1570年4月に北条からの養子景虎到着。祝儀を執り行う。
1570年9月から信玄が上野進軍。
1570年10月に謙信上野に出陣してすぐ帰る。
1570年12月謙信、「来年は越中を手に入れられますように。それができたら一年間看経します。」
と願文を奉納。
1571年1月武田が駿河深沢攻めたとの報告を受け、北条からの援軍要請をされ
直江景綱をはじめとする部隊を上野沼田に派遣。
1571年2月武田が深沢を攻略して帰陣したため、沼田に派遣した部隊を呼び戻して越中攻めに使う。
1571年3月謙信越中攻め。
1571年4月氏康から謙信にあてて「武田と北条の和議の噂は嘘だ」という書状届く。
1571年10月北条氏康死亡。
1571年11月佐竹に攻められた小田氏を助けるために出陣。
1571年12月武田北条再同盟。
1572年閏1月謙信、武田方の石倉城を攻略したあと信玄と対陣して帰国。
てな感じだけど。信濃攻めてるかな?
475 :
名無し曰く、:2009/02/07(土) 23:58:08 ID:WVmWDVrV
>>473 上のほうの人たちって誰?
スレ間違えてない?
とりあえず俺は深沢書状は読んでるよ。
そんなに不都合なところあるとは思えないけど。
476 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 00:00:45 ID:Ni6TEJCj
武田批判は絶対封殺
477 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 00:04:33 ID:R0poGh8r
>>474 書状の年号推定が間違っている可能性もあるだろうけど
他史料から1570年と推定するのが一番可能性が高いだろうから1570年だと思う
>>475 いやこのスレ300辺り検索でもかけて自分で見つけてくれ
あと矢文読んでいるのなら武田の出兵があったことがわかるでしょ
で両家の書状からもともに出兵の記録があると
お互い相手が逃げ出したと言い張ってはいるが
478 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 00:06:37 ID:+nY1n/s/
>>475訂正
ああ、このスレでいいのか。
確認した。
該当部分では去年(深沢書状が1571年だから1570年か。)に
川中島に出陣して北からの敵(上杉勢)を待ち受けていたが
越後勢が来なかったので関東に向かい沼田や厩橋・深谷・藤田を焼き討ちして帰陣した、と
なってるな。
>>472の時系列では1570年9月の信玄の上野進軍がこれにあたるのかな?
479 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 00:10:11 ID:+nY1n/s/
>>476 変な言いがかりすんな。
>>477 書状確認完了。
>>478にも書いたけど
信玄の深沢書状いわく「謙信を川中島で待ち受けていたけどこなかったから
直接関東行って沼田・厩橋・深谷・藤田を焼き討ちして帰陣した」
だから信濃対陣じゃないんじゃ?
>>472の時系列じゃ1570年9月の信玄上野進軍がこれにあたると思うけど。
480 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 00:16:38 ID:vZw4ObWN
【☆無敵☆】武田家の輝かしい戦歴【☆騎馬軍団☆】
1541年5月 信玄、信虎、村上義清に従い海野棟綱を攻める。とっとと帰りオヤジに怒られる。
6月 オヤジ狩り開始。武田信虎追放。
7月 諏訪頼重との同盟を一方的に破棄、名門諏訪家を攻め滅ぼす。
12歳の幼女である姪の諏訪御料人を愛人に迎える。
1548年2月 上田原の大敗 村上5000を上回る7000もの大軍で戦に挑むも先陣を包囲され殲滅。
副将重臣板垣、速攻で討ち死に。さらに怯んだ所を中央突破を受け、歴戦の重臣甘利、才間、
初鹿野を討ち取られ、さらに信玄自身も足軽に切り付けられ2箇所に重傷を負う。
将兵700も討ち取られる大敗。村上の被害は300程度。
この戦によって反武田勢力が力を盛り返し窮地の陥る。
平定に二年も費やし逆らう者を皆殺しにし、無駄に時間と軍費を費やす。
後の長篠大敗の後の信濃大離反の火種を作成する。
1550年10月 戸石崩れの大敗 原虎胤のみならず信玄自身も偵察に赴き、万全の体勢を築き上げ、
かつ、村上義清が高梨と交戦中の絶好の留守の機会に奇襲をするも、つい先程まで高梨軍と
死闘を繰り広げ疲弊していた村上軍が急遽来襲。圧倒的に有利でありながらまたも大敗。
将兵1000を失い、追撃を受け、信玄がその才能に期待していた未来の有望株であった
横田高松が討ち死に。信玄は後年まで酒を飲むとこの者を失った悲しみを周りの者に語った。
1551年10月 小岩岳城に奇襲をかけるも失敗。後年、その恨みか落城の際には降伏さえ許さず城兵500を
皆殺しにし、かつ、老人、女、子供に至るまでを奴隷として売りさばく(妙法寺記より抜粋)
そのため現在でも落城の8月12日には慰霊祭が行われている。野戦で討ち取った首を城に前に
槍で突き刺し並べ降伏を迫り成功するも無抵抗の城兵1000人を皆殺しにし、老人、子供は
黒川金山に奴隷として連行し、女は女郎屋に売りさばいた志賀城と双璧を成す大虐殺である。
1552年3月 村上義清との信州常田合戦で小山田信有、小山田 昌辰、討死
1553年4月 第1回川中島の戦い(布施の対陣) 更級郡八幡で戦うも長尾軍の猛攻により一時撤退。
高坂、奇襲をかけるも村上義清にボロボロにやられる。
後に甲陽軍艦において見事なまでの捏造で挽回をする。
8月 軍を建て直し川中島で戦うも越軍の連夜の夜襲に悩まされる。
9月 謙信に敗れ、筑摩、埴科郡に侵入され、荒砥城を落とされる。
信玄塩田城に怯えて篭る。謙信暴れるだけ暴れて帰還。
そのまま兵2000もの大軍を率い信玄が果たせなかった京へと上洛。
1554年7月 伊奈郡神之峰城主 知久頼元、座光寺氏が謀反。国内が乱れる。
1555年7月 第二回川中島の戦い(大塚の対陣) 再び越軍の夜襲に毎夜被害を出す。
信玄対抗して1000の別働隊を善光寺方面より向かわせ夜襲をかける。
が、見破られ手痛い被害を出す。ウサ晴らしに善光寺より本尊を強盗。
兵糧が底を尽き始める。今川に頼み旭山城を撤去する譲歩でなんとか和睦。
481 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 00:17:41 ID:vZw4ObWN
1557年1月 第三回川中島の戦い 村上義清の守る飯山城を攻略。失敗
謙信まで出陣してくる事となり上田西方坂城、岩鼻付近の武田軍を撃破される。
信玄出陣するも決着付かず。
1558年4月 信玄自ら武田軍二万を率い上州に侵攻。業政が吾妻に出陣している留守を狙うも、
業政は間道を使って直ちに帰還。業政に蹴散らされ、翌日には食糧を焼かれ弾薬を爆発され
軍を維持できなくなり即座に撤退。
1559年9月 飯富虎昌に安中城を攻撃させ、信玄は和田城の攻略に当たる。業政は援軍として駆けつけ
奇襲を行い信玄の陣を混乱に陥れる。反撃とばかりに雉郷城を取り囲むも空城。
長野業政は鷹留城の部下に策を与えて箕輪城に帰還。信玄は追撃しようと鷹留城を攻めるも
反撃を受け撤退。撤退中に伏兵を受け惨敗。兵五百を失う甚大な被害を出し撤退
1560年1月 再度箕輪城を取り囲んだが、飢えと寒さに苦しむ中、さらに安中忠政に
糧道を断たれ、長野業政の総攻撃を受け、たまらず撤退。
11月 武田一門の勝沼信元謀反。処刑。
1561年9月 第4回川中島の戦い 上杉12000、武田23000、上杉は数ヶ月前まで関東に遠征をし、
疲弊をしている圧倒的優位な戦。
啄木鳥戦法にて奇襲を行うも簡単に奇襲を読まれ、信繁、諸角、室住昌清、勘助討ち死に。
信玄自身も本陣にまで切り込んできた荒川に切りつけられる。
死者では上杉の1,5倍、負傷者では二倍近い損害を出す。
1565年9月 義信、飯富虎昌、謀反を起こそうとしたため処刑。国を傾けた大いなる要因となる。
1568年7月 謙信と同盟を結んでいた本庄と共謀し、大軍を率いて越後を攻める。
が、しかし越後以前の北信濃、村上義清の守る少数の小城である飯山城でさえ落とせず。
仕方なく撤退。駿河に侵攻。
1569年4月 合戦に敗れたため、駿河を放棄して帰還
1571年1月 駿河興国寺に奇襲をかけるが見破られ敗退。深沢城攻略も失敗。全軍撤退
1573年3月 信玄、2万5千もの大軍を率いて高天神城を攻める。が、失敗
4月 信玄没。死後娘婿の二人に裏切られる。奥平信昌、長篠城ごと徳川に寝返る
8月 武田信廉、山県昌景、穴山信君、北遠江へ侵攻。徳川の伏兵にあい敗北
1575年5月 長篠の戦い
死者7000、山県昌景、内藤昌秀、馬場信春、甘利信康、五味高重、安中景繁
真田信綱、昌輝、原昌胤、望月義勝、香坂昌澄、土屋昌続、川窪信実、和田業繁、
三枝守友、名和宗安、横田綱松、祢津是広、武田信実、討ち死に
11月 秋山信友、大嶋長利、座光寺貞房、討ち死に
1582年1月 木曽義昌、武田に謀反、織田に寝返る。
2月 武田勝頼二万の兵を率いて出陣。木曽義昌に鳥居峠で大敗。曾根覚雲斎謀反。武田信豊死亡
17日、松尾城の小笠原信嶺が反旗を翻し平谷陥落。
18日、保科正直、飯田城を捨て逃走。信廉、戦わずして大島城を捨て逃走。20日、田中城落城
3月 難攻不落の名城、高遠城1日で陥落。仁科盛信、小山田昌行、今福昌和、原貞胤、武田竜宝、
武田信綱、武田信堯、一条信就、山県昌満、朝比奈信直、諏方頼豊、一条信竜、討ち死に。
武田勝頼、盛信、信勝、信貞、信友、海野信親、跡部勝資、土屋昌恒、安部宗貞、小宮山友晴、
滝川一益に討ち取られる。
武田信豊、小山田信茂、長坂光堅、一条信就処刑
4月 織田軍による武田残党狩り開始。武田信玄の六男、葛山信貞、織田信長によって善光寺で殺害
武田残党は恵林寺ごと焼き殺され皆殺しにされる。
武田家唯一の生き残り武田信清、武田家滅亡時にその縁故を頼り、上杉氏に仕える。
江戸時代まで代々、上杉家の下層家臣として飼われる。
482 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 00:19:12 ID:vZw4ObWN
※注意
このスレは嘘を付いてでも武田に有利な書き込みをしなければ盛り上がりません。
そうしなければ、武田家は1582年に滅亡したという紛れもない事実があり、全く勝負になりませんからね。
是非皆さんもスレ伸ばしに協力してください。
なお、
武田信玄の失敗、敗北は大したことではありません。
その他の大名の失敗、敗北はとても重要な事です。
比較をした場合、能力は無条件で武田信玄の勝利です。
武田家の虐殺は綺麗な虐殺です。
武田家の捏造は綺麗な捏造です。
武田家の敗北は綺麗な敗北です。
また、
武田信玄にとって都合の悪いソースの引用は受け付けておりません。
武田家にとって都合の良いソースは、ゲームだろうがとある作家の話だろうが個人サイトだろうがそれが世間全体の意見となります。
そして、比較後の勝利宣言も忘れずに。テンプレ:『また○○が負けているのか』:『また武田が勝っているのか』
以上のことに注意していれば盛り上がると思います。
ここは2ちゃんねるです。恥ずかしからずに武田信玄圧勝宣言をしましょう。(自演歓迎)
483 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 00:20:45 ID:R0poGh8r
>>479 最初に書いたように
上杉側の書状では
武田が越後に攻めてきたので戦おうとしたら武田勢は逃げ出した
武田側の書状では
上杉が北信濃に攻めてきたので戦おうとしたら(ry
なので結局武田上杉はお互いを警戒しそのための軍事行動を取ることになっているんじゃ
上杉武田ともにどこまで兵を進めたかまではわからないが
すべての史料で戦闘の記録が無いことから具体的なぶっつかりあいは無かっただろうけど
484 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 00:32:36 ID:+nY1n/s/
>>480から
>>482 武田の事跡をここまで曲解してよく書けたもんだ。
勝ち戦もいい所も可能な限り悪く書いてるだけだろうが。
こっちはちゃんと資料で出してんだよ。
>>483 深沢書状では謙信が北信濃に来なかったので関東行って焼き討ちした、とある。
1570年9月にも武田は信濃から上野に進軍。厩橋城主北条(きたじょう)から謙信に
報告が来て謙信が上野に10月20日に出陣。そして両者すぐに帰る。
だから少なくとも深沢書状にあるのは1570年上野での対陣でいいような。
485 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 00:46:16 ID:oA6N8mtN
ID:vZw4ObWN
ダサいよ
486 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 00:52:19 ID:+nY1n/s/
>>480から
>>482を見れば見るほど凄いな。
長野の講談とか平気で入ってるし
1571年一月には深沢城攻略されてるのになぜか失敗してる事になってるし。
1573年3月には高天神攻めてないだろ。野田城攻略したあとじゃん。
他も・・・もう突っ込みどころありすぎて書けん・・・。
487 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 00:54:18 ID:AlzmlQAM
なんでこの平成の世の中にこんなことで必死になれるかマジ不思議だな・・
武田や北条の後裔かなんかなのか? 別に先祖を誇っても将来高家にもなれないと思うが
488 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 00:54:33 ID:Ni6TEJCj
一般人は武田厨ほど武田の事績の細かい部分の差異にまで興味ありません。
489 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:00:05 ID:Ni6TEJCj
>>487 まったくもって同意。
わざわざ当時の資料集めてまでやるとかマジで引く。
しかも目的がみんなの知らない歴史を教えてあげるよ、じゃなく、
俺の好きな武田は最強なんだ、お前らも認めろ、だからな。
490 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:06:21 ID:+nY1n/s/
>>488 でも武田の事跡を曲解して悪意を持って解釈して吹聴する事には
精をだされるわけですね。
>>489 もともと資料はこっちの趣味で有効活用させてもらってるんでね。
ここに書くのはそのついで。
最強なんて事には執着しない。
ただお前みたいな武田に滅ぼされた一族の末裔なのかと思うような
みょうちきりんな批判や叩きには抗弁するだけ。
資料ださずにたたくのはオーケーで資料出して説明するのがNGってどこの世界よ。
491 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:08:43 ID:toMxabwM
ウザイだけなんだけど
殆ど荒らしと変わらん行為だ
492 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:10:23 ID:+nY1n/s/
>>491 もともとこのスレは隔離スレだよん。
このスレができた経緯を知らんわけでもあるまい。
こっちもみょうちきりんな武田叩きがうざくてかなわん。
493 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:12:45 ID:hUi3GELI
先日このスレで織田厨が完膚なきまでに粉砕されたからな
残党がコピペやら引っ張り出してきてゲリラ活動を展開してるんだろう
494 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:18:28 ID:toMxabwM
歴史というのは推測でしかないんだよ、どれだけ当時の証拠が残っていようと、どれだけ文献並べようと、それが本当の真実かなんて証明しようがない
その当時に生まれてもない奴が人の妄想片手に、さも真実かのようにホラ吹いてんじゃねえよ
495 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:20:39 ID:+nY1n/s/
>>494 だからこそ当時の資料もとにして確度の高い推測をする必要があるんでしょ。
資料にもろくに基づいてないでたたくとか明らかに変だろ。
496 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:21:09 ID:gvODYVoV
そもそも
>>449のようなやつや
ID:vZw4ObWN
コイツみたいなやつの低俗な煽りが問題なんじゃないのか。
武田厨の彼はそれに対して真向からキチンと反論してるように見える。
ここはその為のスレでしょう。封殺もクソもない。
497 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:24:08 ID:Ni6TEJCj
俺は
>>480でも
>>487でもない。
こんなことに使われる資料がかわいそうってのとお前よっぽど暇なんだなっていう感想。
ついでの割りにはここでの活動の方がメインぽく見えるけどね。有効活用ってもどうせ似たようなことに使ってるんじゃないの?
>武田叩きがうざくてかなわん。
君は武田の何?武田批判を封じるサイバー親衛隊か何かですか?w
498 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:24:49 ID:O4jY/lfg
>>487 武田や北条が優秀だったことを示したいんじゃなく、
自分の考えが優秀なことを示したいんだろ。
俺はそれは良いことだと思うけど、うざいと思う人がいるのも分かる。
499 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:28:35 ID:+nY1n/s/
>>497 プライベートに関してはノーコメント。
てか俺の書き込み時間って大抵夜だろ。
>>ついでの割りにはここでの活動の方がメインぽく見えるけどね
お前は俺の私生活の何を知ってるんだwwはげしくワロタw
俺?俺はただの武田ファンの一人。それ以上でもそれ以下でもない。
500 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:31:25 ID:Ni6TEJCj
>>496 いや、ここはそういう自由なスレだから、嫌いなものは思う存分罵倒してもいいと思うわけよ。
別に織田が嫌いなら織田はザコ、運が良かっただけと叩いてもいいし、
上杉が嫌いならろくに倒した大名いないとか、
毛利が嫌いなら大友に撃退されたザコとかもいいし、
秀吉が嫌いなら戦争下手だしキチガイ行為大杉唐入り大失敗wwwでもいい。
でも武田を少しでも叩いたら武田厨が全力で食いついてきてうざいんだよなー。
他の大名の厨でここまで反応してくる奴っていないと思う。
501 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:33:51 ID:gvODYVoV
502 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:34:38 ID:+nY1n/s/
>>500 一時期前までは織田厨とかすごかったけどねー。
ここはそもそも
>>いや、ここはそういう自由なスレだから、嫌いなものは思う存分罵倒してもいいと思うわけよ。
そういうスレじゃないんだけど。
ファンがいっぱいついてて議論になりやすい武田上杉三傑関連の議論は
ここでやってね、という議論隔離スレなわけ。
だから議論するのは真に正当な行為。
503 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:47:02 ID:jJu6S5jc
煽りに弱い人達のスレですな。歴史の先人達のように心にゆとりを持ちなされ
504 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 01:54:19 ID:TClWm0TU
※ここは厨を隔離するスレです
505 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 07:04:25 ID:b/1YbPsf
おちょくりAA貼られただけで
>>468みたいに反応する武田嫌いの方が
煽りにずっと弱そうだがな。
>>494みたいなアホな事言ってソースも出さず
自分の妄想一方的に語るだけの馬鹿が戦国版で暴れまわっててキモすぎる
506 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 11:23:47 ID:bkimDhec
なんかもうこのスレ武田専用でいいじゃん。
そのほうが皆のため。
507 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 11:33:47 ID:sfmnAp/7
それだけじゃ無理だろ
武田だけ隔離しても織田の話題とか出れば食いついてくるだろうから
三増峠だって本スレで氏照らの統率の話や氏康などの話題から武田関連の話に繋がって
こっちに隔離されたんだから武田に関連するようなのも隔離しないと
508 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 14:03:50 ID:ac/RyTP0
三増峠の話を本スレで何気なく振ってみたときには
こんなに引っ張るとは思いませんでした
509 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 15:03:11 ID:NzCHT+Hp
>>460 そこいらの部隊長にだって功績があれば感状ぐらい送る。
損害があれば書状ぐらい送るでしょ。
小田原所領役帳でも所領をたらいまわしにされてて
氏照の支配下に置かれる事が大前提だったような公方が北条の重臣なわけない。
相越同盟締結前であればまだ謙信との関係でも正当性を訴えるための意味はあったが
同盟締結によって謙信が認めてしまった時点で、もはや北条からすれば利用価値は済んだわけで。
510 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 15:47:12 ID:NiOWEbqi
>>401 放火程度のことを信玄がやれば
大事業に思えるっておかしくないですか
三増峠のようなどうでもいい戦が自慢であり
武田の業績だったと誇りにするのは
いい加減にやめて下さい
こんなんで信玄は信長より上だってどうして思えるの?
511 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 17:27:14 ID:+nY1n/s/
>>509 さすがにその戦死で氏康直々のお悔やみの書状が遺族に行ってるのに
軽視できるもんじゃないと思うが。
謙信が認めたからこそ大事だと思うが。でなければ何のために古河公方を認めさせたのか
わからなくなる。
>>510 小田原という北条の本拠を焼き討ちしてる事が重要。
武田は北条と同等以下の勢力でその軍も圧倒的な大軍でもない。
それに領土を横断されて主城焼き討ちにされて無事離脱されてるなんてのは
なかなかない。戦略の布石には十分なったし。
三増峠も当人達にとっては重要な戦いだったと思うが。
少なくとも信長は同格の大名である義龍には勝ててないしなー。
結局天下崩壊嫡流断絶だしー。
512 :
名無し曰く、:2009/02/08(日) 22:51:08 ID:svv4X329
小田原所領役帳でどの程度の所領だったか調べれば少なくとも足利義氏の軍事力はわかるんじゃね
513 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 02:02:34 ID:eSZGlujg
>>511 逆に言えばお悔やみ程度で済む相手とも言える。
関東管領である謙信が北条の傀儡だとわかりきっている権力を
認めてしまった時点で既に公方・管領の機能は完全に崩壊したわけで
もはや公方本人の役目など終わったとしか言いようが無い。
実際これ以降は公方に関する動きは無くなり、義氏死後は幼い娘が城主になってしまったりしている。
また古河公方重臣の野田氏や梁田氏などの末路を見ても公方の家臣など
もはや北条にとって大した価値はないというのは事実ではないかと。
514 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 02:35:17 ID:rwbpxZnj
>>513 逆にいえないだろ。
北条当主がわざわざその奥方にお悔やみの書状送るなんてそうないだろ。
関東管領の謙信が認めた北条の権力なのだから、
北条が謙信を自分達より上位に認め下風につく事がこの同盟の条件の一つなのだから
古河公方の存在は北条側としても確保しておかねばならず、だからこそわざわざ認めさせる
事が条件に入ってるんだろ。
そっちの理屈では謙信が北条の上位に来る越相同盟の条件があわなくなる。
梁田氏とか相当の力を持つ豪族だが。
それレベルだとすると豊前はたいしたものだな。
515 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 02:48:52 ID:eSZGlujg
>>514 別にお悔やみの書状なんて珍しくも無いと思うが。
それ以降は何が言いたいのか良く判らない。
北条からすれば結局、謙信が関東に介入しないのであれば公方が死んだ所で何の問題も無いぞ。
豊前が勢力的に梁田氏や野田氏と同等の人物だったとは到底思えないが
そのクラスの人物達ですら越相同盟以降では急速に力を失っていった。
と、言うよりもそのクラスの人物だとすればむしろ死んでくれた方が北条としては都合がいい。
516 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 02:56:52 ID:rwbpxZnj
>>515 んじゃ北条氏康がお悔やみを述べた連中はどんな連中?
謙信が関東に介入するのは明白だろう。
越相同盟の条件は上野と武蔵北部の謙信への割譲、
謙信を関東管領と認め北条はその下風につく、
関宿を保全する、北条の息子を謙信の養子とする、など
明確に謙信の関東への影響力を拡大する方向だ。
この状況なら北条も自分達のよりどころをある程度残さねばならず
それが古河公方だったからこそ認める事を条件にもりこんだだけだろ。
謀殺説でもとるつもりかい?
資料抜きで謀殺扱いにして三増峠を負けてないというのは突飛にすぎると思うが。
517 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 03:33:56 ID:eSZGlujg
>>516 本題としては最初にも言ったが古河公方のそのまた家臣が北条の重臣だとは思えないと言う事。
管領ってのは公方の権威の元にあって初めて意味を成すもの。
その公方の権威を北条側に認めてしまっているのに、関東管領として北条が下風に〜と言うような事を言い始めている時点で
既に矛盾が生じていて、公方も管領も権威としての意味が完全に無くなってしまった事を意味している。
この時点で公方が死のうが適当な身内に後を継がせるだけだし(実際、娘に継がせただけだし)
謙信も公方を認めてると言う割に、これ以降の謙信はあまり積極的に公方に対して動きを見せなくなってしまい
関宿城も北条に確保される流れになったのは言うまでもない。
この家臣が死んだ所で北条にとっての損害は今の情報だけではちょっと疑わしい。
それでも大きな損害だと主張するならもうすこしこの人物の所領・持っていたであろう兵力などを
考察しないと難しいのではないだろうか。
謀殺などはとんでもない、それは梁田氏等と同等の人物だった場合の話。
だがそれはちょっとありえないだろう。
518 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 03:49:53 ID:rwbpxZnj
>>517 だからその割には北条氏康が直々にお悔やみ書いてるんだから
それなりに重要だったという事だと思うが。
それは別に矛盾しまい。
公方がいて管領がいてその下に北条がいるというだけの話だ。
形式においては北条は公方の下位にぞくするわけで当然管領よりも下。
謙信を正当な管領と見るならば北条が下にくる。何の矛盾もない話だが。
関宿に謙信が執着してない?本気でいってるのか?
1574年に一年近くかけて北条と戦い関宿を救おうとしてるのに。
結果論として関宿を攻略されたが謙信は間違いなく救おうと必死だった。
なんか曲解してるように見えるんだが。
公方の重要性は上に述べてきたとおり。
てか氏康直々にお悔やみ述べられるほどの者が死んで
他の傍証が全て武田勝利で一致してる以上、それなりの損害がでてると思うが。
てかべらぼうに大きな損害とは言われてないんじゃ。
北条の軍記にも敵が深追いしてこなかったとあるのだし、深沢書状でも深追いせずに引き上げてるし。
519 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 04:15:48 ID:eSZGlujg
>>518 >>公方がいて管領がいてその下に北条がいるというだけの話だ。
その公方の上に北条がいると言うのが明確であるにも関わらず、ね。
関宿に関しては語りたいところだがちょっと議題がそれてきたので自粛する。
そんでそれなりの被害が出たというなら
豊前山城守の兵力なり、それ以外の被害なり損害なりの記録が出てこないと
やはりそれほど大きな合戦ではなかったのではなかろうかという事の反証にはなりえないと思うわけだが。
武田側だってこの合戦で死んだ浦野重秀に信玄が香典を送ってたらしいが(新編会津風土記・・・だったかな)
結局損害は不明だからこそ武田側が負けともならないわけだし。
所領等に影響が出ていない合戦だからこそ、勝敗をつけるのであれば
その辺はより慎重に評価しないといけないと思うのだが。
520 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 04:33:36 ID:rwbpxZnj
>>519 いや、北条が謙信の下風につくのを明言してる以上、
普通に管領>北条の順列で問題ない。
実際上野武蔵北部譲るわ、息子養子に出すわ、関宿攻撃やめるわ、
で譲りまくりだし。
できれば語ってほしいが。
1574年いっぱいを関宿救援に費やした謙信が手を抜いてるとかありえんだろ。
少なくともそれなりの将領が死んでる戦いなんだからそれなりの被害があったと
見るのが妥当だが。
豊前山城は古河公方の重臣だが、浦野って信州の小県の小豪族で村上方から武田に寝返った奴だぞ。
そんで軍鑑での扱いは川中島の戦いの一幕で「浦野某を物見に使った」とか
扱われてるようなやつなんだが。
武田北条の双方の遺臣が残した軍記でも武田の勝ちで一致してて、武田の深沢書状では
武田が氏照達を追っ払って氏政に備えてる所まで描写があって、
氏照の書状もいきなり武田が山から押し寄せてきたら「落ち度ない」だけになってるところから
どう見ても武田の勝ちだと思うが。もう何回言ってるかわからないが。
少なくとも戦場に踏みとどまって北条を追っ払った武田の勝ちだと思うが。
負けてないといいたいだけにしか見えん。
521 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 06:07:18 ID:ynAmIWkA
ニート乙www
522 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 10:52:28 ID:S004NHEm
関宿に関しては1574年二月〜五月下旬、十月〜閏十一月半ばまで二回もの遠征
で十分救う努力はしてるかと。佐竹氏が謙信への不信感から同陣拒否を拒否したため
自身はやむなく下総古河、栗橋、上野館林、武蔵騎西、菖蒲、岩付など別個の
軍事行動を取る事になってしまったが。
523 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 18:18:23 ID:24EswJ/P
>>457 氏政は最初から謙信との和議には懐疑的で慎重だし
相越同盟の破綻は氏康の死去が原因で
>>461と同じで三増峠の影響は余りなさそう。
小田原から撤退しているのに踏みとどまったから
武田の勝ちってのも良くわかんない。
524 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 20:54:17 ID:rwbpxZnj
>>523 少なくともこの小田原戦役で氏政は随分書状で不満を匂わせてるが。
氏照もだけど。不信感が醸成されてるのは確かだと思うが。
野戦の戦場で一方の軍勢が敵を撃退して、戦場に残って他の部隊に備えた後で
甲斐に戻ってるんだからどう見てもその野戦では戦場に残ったほうの勝ちだろ。
525 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 21:16:38 ID:eSZGlujg
>>520 >>浦野って信州の小県の小豪族で村上方から武田に寝返った奴だぞ。
>>そんで軍鑑での扱いは川中島の戦いの一幕で「浦野某を物見に使った」とか
>>扱われてるようなやつなんだが。
所領すらはっきりしない古河公方の家臣を持ち上げてるのと同じ事だと思うが。
はっきり言ってどっちも大した事ない。戦場に踏みとどまった証拠など自分で言ってる以外で何一つ無いし。
そもそも一般的な合戦の場合は軍記や書状の内容に信憑性を持てるのは
・信憑性のある記録が残った被害の実数
・感状など功績の記録、および所領の増減
・その後の同地の勢力の変動
などの裏付けがあって初めて客観的な意味を持つと言える。
この合戦の場合いずれも大きなものはない。
526 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 21:31:15 ID:rwbpxZnj
>>525 古河公方の重臣なんだからそれなりのものと見るのが自然だろう。
だから信玄が北条方に送った深沢書状に出てると何度も言ってるだろうが。
武田北条の双方の遺臣が残した軍記でも武田勝利で一致してるし
氏照書状だっていきなり武田反撃から尻すぼみになってる。
これでどうやったら北条の勝ちとか戦場に北条が踏みとどまってたとかいえるんだよ。
根拠一切ないじゃないか。
それは明らかに主観だろう。書状で信憑性もてないとか言ったら
多くの戦国時代の合戦が消える事になるぞ。
精査は必要だが、武田がわざわざ北条方にあてた書状で三増峠で武田が戦場に残ってた事や
武田北条双方の遺臣が残した軍記でも武田勝利で一致してるんだから普通に武田の勝ちだろう。
なんでこれだけのもの全部否定してるのか。負けてないといいたいだけだろう。
逆に君の主張を裏付けるものは一切ないじゃないか。存在する資料をある限り否定して
武田の反撃からいきなり筆が重くなって「落ち度がない」としかいえなくなってる氏照書状を
最大限好意的に解釈してるだけじゃないか。
君の主張してる北条勝利を裏付けるものってあるの?
527 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 21:51:14 ID:eSZGlujg
>>526 何度も言ってることだが
この合戦はそもそも勝敗などと言う事がはっきりするほど大きなものではないと主張している。
北条がとどまっていた理由も何も北条領だし
北条も武田も留まっていたと断定できる記録が無いなら
最初から撤退していた武田軍がそのまま撤退したと考えるのが当然の帰結。
多くの戦国時代の合戦が消えるって具体的にどの合戦が消えるか言ってみてよ。
528 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 21:55:33 ID:rwbpxZnj
>>527 だからその根拠が一切ないだろうに。
当然の帰結って明らかにおかしいし決め付けじゃないか。
なんで北条がとどまっていた記録が一切なくて
武田の書状にはそれがしっかりあって武田北条双方の遺臣が残した軍記でも
それは明らかなのに君の勝手な断定がまかり通るんだよ。
上杉の萱名庄の戦いや手取川は確実に消えるな。調べりゃもっとあるだろうが。
529 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 22:00:20 ID:rwbpxZnj
>>527追記
武田は氏照・氏邦を撃退し、氏政に備えた後で帰還を再開してる。
これは追撃軍に対して一撃与えて安全を確保した上で帰還するというきわめて
自然な行動であり、その傾向は武田の書状でも武田北条双方の遺臣がのこした軍記でも一致。
これで何をけちつけてるのかわからん。
てかそっちの主張を裏付ける根拠一切ないじゃないか。あるなら出してくれよ。
氏照書状に書いてもない事を最大限好意的に膨らませてるだけだろう。
530 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 22:23:31 ID:uUFDsWz1
三増峠はおっきな戦だったよ
vs
三増峠は大した戦じゃなかったよ
重臣が討ち死にしてるよ
vs
そいつは重臣かどうか疑わしいよ
色んな軍記物に武田勝利って書いてるよ
vs
氏照は勝ったって書いてるよ
深沢書状には北条負けたって書いてあるよ
vs
信玄の誇張だよ
武田の勝利だったよ
vs
痛みわけだよ
北条は敗退したよ
vs
逃げられただけだよ
こんな感じ?
531 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 23:00:45 ID:24EswJ/P
そんな感じっぽいね。
毛利の感状と軍記では矛盾がない折敷畑ってのもあったから
実績を元に評価するなら
>>525の方が良さそうだけど。
>>524 氏政の謙信への不信感は和議締結前からだし
これが反上杉の転機とかまでいくかな?
信玄は寡兵を迎撃する為に大軍を率いてた訳じゃなさそうだし
勝ちと呼べる程の戦果があったか微妙かな。
532 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 23:36:14 ID:aeVZeXft
この時期の古河公方足利義氏は古河城から退いて相模などに所領与えられて、
いってみれば朝倉家のもとにいた義昭や、徳川家のもとにいた氏真みたいな存在、
家格はともかく、軍事力という点では価値は低い、その義氏の家臣では、
それこそ小豪族のような兵力の指揮官だったんじゃ。
豊前山城の未亡人宛の書状だけど、これに類するような夫人宛の書状は氏康氏政には無い
重臣だから未亡人宛に書状を出したのか?
でもだとしたら豊前山城より上位であろう重臣、
例えば北条綱重太田氏資などの戦死に対してはその手の気遣いは無い。
単に残っていないだけという可能性もあるがだとすると重臣を理由とするのは現段階では困難。
豊前山城守の後室宛の書状と朱印状だが書状のほうは夫人が氏康に夫の遺品を渡したことの返礼
朱印状の方は夫人に対して所領の安堵
豊前には跡継ぎがいなかった(いたとしても幼すぎた)のかもしれない、そのため女性宛に朱印状を出すという特殊な例になったのかも?
朱印状に関しては重臣でなく相手が小豪族でも普通に出すし。
家格はともかく軍事力で考えるなら豊前は小身なんじゃないだろうか?
>>520 >もう何回言ってるかわからないが。
どちらにも言えることだが相手が説得力無い納得しないと感じる意見を何回繰り返して言っても相手が納得するわけ無いだろうjk
533 :
名無し曰く、:2009/02/09(月) 23:49:26 ID:aeVZeXft
三増峠から藤野までが直線距離で20キロ、山間部なので実際には30キロほど?
だいたい一日の距離
一応10月7日には武田は藤野にいたということを正しいとして考えると、
武田は一番遅い例で10月7日午前中まで戦場にいた可能性あり。
氏政の一日遅れで取り逃がした書状が10月8日。
この書状を三増峠で書いたとするなら、北条本隊到着10月8日
武田は10月7日まで本当に氏政に備えて三増峠にいたとなる?
この書状を小田原で書いたとするなら、北条本隊到着が10月7日の朝か10月6日の午後としないと
8日までに小田原に帰れなくなる、これだと武田が備えていたは誇張でギリギリ逃げ出したになる?
この書状を帰途で書いたとするならその中間ってところか?
534 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 01:33:21 ID:dnmkT/8f
>>532 一応、相越同盟の時点では古河城にいたような気もするが定かではない
どっちにしろ葛西様と呼ばれていた頃から大して変わっているとも思えず、
軍事力があるとはとても思えないな。
535 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 01:56:47 ID:6tjesHYx
ごたく並べても真実は誰もわからないんだよ、ダラダラ文章書くんじゃねえ
536 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 02:35:52 ID:7FfLHJ86
結局なー、名勝負とか一大合戦とかって、
・趨勢を大きく変える多大な利益を得た
・相手が立ち直れないほど大きなダメージを与えた
・九死に一生を得るような奇跡的な展開、滅多に見られない展開があった
のどれかが当てはまるものなんだよなー。
そういう意味で三増峠はどれにも当てはまるとは言えず、重大な合戦と呼べるかどうかは疑問なんだよなあ。
つーか信玄の本来の目的はそもそも小田原攻略だし。
537 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 05:50:49 ID:NHFX+hJk
>>531 折敷畑って最近は疑念もたれてるんじゃなかったっけ?
もともとの不信がこれでさらに高まった、ってな所だと思うが。
本拠攻撃されても助けてくれないというのは明確な不信だろう。
決定的とも言っていいと思うが。
信玄の小田原襲撃という目的は達成した。
追撃してきた連中も三増峠で撃破。これで帰路の安全も確保された。
三増峠はべらぼうに重要とはいわなくても武田にとってそれなりに重要だろう。
>>536 小田原攻略が目的ではないだろう。3日で町を焼いて去ってるところから
それはありえない。滝山・鉢形も当初から攻略する気ではなく、焼き討ちと
抑えの攻撃で済ませる気だったのは、滝山攻めの前の小山田の書状からも明白。
とりあえず信玄にしてみれば重大といわなくても、うるさい追撃軍を撃退して
後方の安全を確保して帰還するという意味でそれなりに必要な戦いだったといえる。
538 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 12:33:02 ID:PM03J15b
そりゃまあ武田にとっちゃ三増峠は重要だろ。
北条は三増峠はあってもなくても影響ないし、勝っても負けても領土は守れるんだし、
でも武田はもし負けたら氏政が追いついて包囲が完成してかなり悲惨なことになってしまう。
539 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 13:14:13 ID:g4fLHAqW
しかし駿河守れなかったのとこの戦いの影響は無関係とは言えないのでは。
540 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 14:15:35 ID:74UZE+A5
結局小田原城を前に何もできずに帰ったんだろ。町を焼いたのは憂さ晴らし以外の何でもない。
541 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 14:58:58 ID:Ug74cRhG
大大名の本拠地を焼き払って無事に帰還できる信玄
武田の武威を見せ付けるには十分な戦果だった
三増峠は武田の勝ちが真実だと思う
542 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 15:10:45 ID:74UZE+A5
物は言いようだな・・・
543 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 18:46:13 ID:RiHBU0Bn
領土目的なら撤退=敗北だが、目的を果たして無事帰還なら勝利だろ
544 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 20:31:11 ID:WW6Yr8S9
だから合戦としては「小田原攻め」とするのが正しいのであって、
その戦闘のうちの一部に過ぎない三増峠での戦闘を
「三増峠の戦い」として独立して抽出するからややこしいことになる。
545 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 21:38:24 ID:Wb42QO/z
>>542 まあ小田原攻めたのが信玄や謙信でなく仮に信長とか家康だったら、
大軍率いて攻め入ったのにあっさり逃げ帰った、
その上野戦で小兵力の部隊に重臣討ち取られる大敗、
荷駄失った上に急いで逃げたせいで自領で兵士が略奪するほどの見苦しい大敗ってことにされそうだ。
546 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 22:09:36 ID:NHFX+hJk
>>545 戦略目的達成してなかったらそういわれるだろ。
武田の場合は小田原焼いて宣伝材料をゲットし
越相同盟に楔も打ち込んだので目的達成。
敵側にも損害与えてるし。追っ払ったし。
547 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 22:10:26 ID:Wb42QO/z
小田原所領役帳より
(単位:貫)
葛西様 395
主な重臣
北条幻庵 都合5442
山中康豊 168
北条綱重 1622
松田憲秀 1768?
松田筑前 103
板部岡康雄 335 此内160
北条綱成 都合1370+α
間宮康俊 698
遠山綱景 2048
太田康資 1419
大道寺周勝 1212
垪和氏続 1028
笠原綱信 447
清水康英 670 徐役159此外17
内藤康行 1750
他に
馬周足軽衆は数十〜400ぐらい
大藤政信は129
全家臣合計72000ほど
古河公方はその内の400
でそのまた家臣の豊前山城守の兵力はとなると本当に少数だと思う。
548 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 22:12:22 ID:Gnj/1rzT
しかし大勢でみても北条は押されてるだろう。御岳城攻略されるなど
武蔵まで武田の勢力が及んでるし駿河も北条が確保してた興国寺、平山城
など駿東郡南部以外武田が攻略したしな。
549 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 22:23:04 ID:NHFX+hJk
蒲原では
>>547にある北条幻庵の息子である氏信兄弟をはじめとし、
清水・笠原・狩野といった北条重臣の一族から兵に至るまで
皆殺しにされてるしな。
550 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 22:29:59 ID:Wb42QO/z
古河公方家における豊前山城守の立場だが古河公方に仕える医師で氏照の病に対して動いたこともある、
奉公衆というか北条足利間の取次も務めていたようで両者に向けた両者から向けられた文書を多く残している。
他国衆として小山田や飯富の所領はだいたい相模の津久井町田辺りに広がっていた。
>>546 武田や上杉と他の大名との違いはその戦略目標を作って貰えるかどうかにありそうだな。
>>548 武蔵に関しては主として秩父郡、
興国寺は攻略していないと思う、同盟時に武田に引き渡された。
また相模の山間部津久井の辺りも結構怪しくなっていると思う。
551 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 22:32:47 ID:NHFX+hJk
>>550 なかなか重要な人物だったわけね。
作ってもらうも何も信玄自身がそれを喧伝してるんだから
実際に戦略目標だったって事だろ。
552 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 22:41:15 ID:Gnj/1rzT
>>550 >他国衆として小山田や飯富の所領はだいたい相模の津久井町田辺りに広がっていた
領土宛がい状は出てたのか知らないけど空手形というか切りとった時与える
約束しただけで実際津久井を取った証拠にはならないのでは。
天正壬午の時の家康も信濃衆に切り取ってない土地を与える約束してるし
553 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 22:45:03 ID:Wb42QO/z
>>551 他の大名の場合、その辺は戦略目標って言って貰えないというか世間に認められないってこと。
越相同盟に楔も打ち込んだもこのスレや戦国板の三増峠スレ見ると、後世の捏造みたいだし。
ゲーム的に言うなら文官政治家タイプ的な意味でかなり重要、だと思う。
実質陪臣(?)の割には文書が多く残っている、右筆的立場かもしれない。
一応戦闘にも参加しているので織田上洛直後〜永禄終わりまでの織田家における光秀みたいなポジションかと思う。
554 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 22:47:25 ID:Wb42QO/z
>>552 いや他国衆としての話は小田原所領役帳時の話だから切り取りとかは無関係。
津久井など相模甲斐国境が武田にも通じだしているおいうのは津久井町史辺りがソースだったと思う。
555 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 22:52:58 ID:NHFX+hJk
>>553 なぜに後世の捏造?よくわからんな。
これで北条が上杉に不信感を抱いた事は書状で確認できるし、
信玄が小田原焼きうちを積極的に周囲にアピールして
イメージ戦略としたのも事実。
そこまで大きな存在だったのか。やるな豊前。
556 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 22:55:49 ID:Gnj/1rzT
>>554 >いや他国衆としての話は小田原所領役帳時の話だから切り取りとかは無関係。
??何が言いたいのかよくわからないが?
557 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 23:04:04 ID:NHFX+hJk
あんまり知られてないが地元の伝承では細野城・田代城という
津久井城近くの2城が三増峠前後に武田勢に攻略されたらしい。
そんでその2城はそれ以後廃城になったそうだ。
交通の要衝を信玄も押さえておきたかったのか。
558 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 23:10:42 ID:Wb42QO/z
>>555 イメージ戦略となりうるのも武田や上杉ぐらいで他の家だったら、誇張とかで流される、
越相同盟に楔というのも後世になって言われ始めたことじゃ。
ただ豊前は古河家が一応江戸時代まで残ったことから文書が豊富なだけの可能性も、
また古河家のということで立場こそ高いかもしれないが、
所領に関しては古河公方でさえ豪族レベル、その家臣だから、
軍事的には戦死した浦野と同等かそれ以下ぐらいかも。
>>556 他国衆として小山田らが北条家臣として相模辺りに所領を認められた(?)のは北条と武田が敵対する前の話。
>>557 細野城・田代城は遺構からは単なる館程度、また城兵も所領から数十人程度で
あっさり落城して逃げ散ったと推定されている。
遠江の二俣攻めの前に一日で落とした多数の城と同様、どうでもいいような城だったのだと思う。
559 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 23:23:18 ID:NHFX+hJk
>>558 武田に関しては、誇張も何も実際焼き討ちがあった事は北条自身が認めているし
武田が喧伝して戦略に使ったのも事実だし。
越相同盟への楔に関してはかなり確信的にやったと思うが。
武田は小田原攻めの前に上杉と甲越和与を締結している。
その上で武田は小田原を攻めたわけで、上杉が動かないようにして上で攻めてる。
北条家が動かない上杉を見てどう思うかは想像に難くないだろ。
さすがに浦野以下はないだろ。
豊前がそれだけの家臣なら軍の中でもかなり後方にいそうだけどな。古河公方の家臣だし。
北条が結構やられてる状況証拠になりそう。
それを武田がわざわざ攻略したのは北条方の連絡線を押さえ込むためだろうか。
560 :
名無し曰く、:2009/02/10(火) 23:41:37 ID:WW6Yr8S9
なんか信玄が出陣前に今回の合戦は威嚇のための宣伝としての合戦、
という前口上でもしていたのか?
終わってからなら実はあの合戦はこういう目的でした云々とどうとでも取り繕えるが。
561 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 00:05:32 ID:ZvWs7Whk
>>537 折敷畑はそうだよ。書状と軍記で矛盾がないからとの主張に対して
一石と投じる意味で折敷畑を挙げてみた。
小田原城も攻略じゃなく三増峠も意味があるってのも同意なんだけど
他の人のレスになると同盟への楔とか勝利とかどんどん大袈裟になるのが不思議。
562 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 00:15:15 ID:d625KEKR
>>560 とりあえず滝山攻めの前には小山田が
「鉢形焼き討ちしたから今度は滝山焼き討ちします。」
といった書状書いてる。
鉢形も滝山も本気で攻略する気が無かったのは明白。
となれば小田原だけを一気に攻略するはずがない。
実際3日城下を焼いただけで帰ってるし。
となれば喧伝目的と見るのが妥当。その後では立派に喧伝してるし。
>>561 実際楔にはなってるような。
563 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 00:19:15 ID:Tj9BNDAz
>>559 結局豊前は単に文書が豊富なだけで
むしろ古河公方のもとで書状を書く文官タイプであったにも関わらず
こんな僻地まで従軍させられてあえなく命を落とすぐらい
北条内では落ちぶれた武将だとしか見えない。
>>547で所領が無いに等しいのも事実だし浦野以下と言われても致し方ない。
564 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 00:40:29 ID:d625KEKR
>>563 古河公方の文書を扱うほどの人物なんだから
落ちぶれたとかないだろ。どう見ても。
これほどの奴ならだいぶ後方にいるだろうし、
北条方がだいぶ押されてる状況証拠にはなるな。
物見で小豪族の浦野以下はさすがにないだろ。
古河公方の重臣なんだから。
565 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 00:46:28 ID:Tj9BNDAz
>>564 そんなに重要な人物なら軍事力も無いのに従軍させられたりしないだろ。
まして後方に居るなんて妄想以外の何物でもない。
566 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 00:50:48 ID:d625KEKR
>>565 散々資料無視して妄想言ってるそっちにいわれたくないな。
深沢書状も信玄書状も武田北条の遺臣が残した軍記も全否定で
氏照書状にも根拠ないじゃないか、そっちの主張どおりの展開は。
軍事力がないわけじゃないだろう。明智光秀だって当初は軍事力薄弱でも戦闘に参加してる。
これだけの人物で軍事力が多くないなら本陣近くに座すのが自然だろう。
他に何に使うというのか。先陣にはつかえないだろ。
567 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 01:02:03 ID:96O7vuYX
焼き討ちするだけの喧伝行為なら合戦とすら呼べなくなるな。
ましてそれで勝っただの負けただの言うのは無意味。
568 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 01:03:14 ID:d625KEKR
>>567 そんな理屈はないな。
実際帰還するときに北条の側から挑んできてくれたんだからな。
それを見事に撃破してるんだからその戦いは武田の勝ちだろ。
569 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 01:16:12 ID:96O7vuYX
この程度の合戦で勝ち負けってねえ…。
北条からしたら小田原城を守る、という目的は達成したわけで、
武田の侵略から勝利、余力があったのでさらに追撃もしてみたけどさすがに信玄を討ち取るまではいかなかった、
とすることもできるわけで。
570 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 01:18:58 ID:d625KEKR
>>569 この程度も何も勝ちは勝ちだろ。どう見ても。
将領にも死者が出てるんだし。
武田の侵略も何も焼き討ち目的だが。
討ち取るまでも何も撃破されてるじゃないか。
571 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 01:21:38 ID:ZvWs7Whk
>>562 楔云々は氏康の遺言と同じで現実味がないんだよね。
三増峠の結果だけ見ても倍以上の武田軍が浅利を討たれてるし
寡兵の北条軍に被害を与えたとしても評価しずらいし勝ちまでいえるかどうか。
572 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 01:24:36 ID:96O7vuYX
北条の目的も小田原城死守じゃん。北条も目的は達成してる。
所詮氏照隊は主力じゃない。北条本家は追撃に参加しておらず追撃撃破は北条の本来の目的に入っていない。
三増峠はおまけみたいなもの。
573 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 01:28:23 ID:d625KEKR
>>571 実際に北条が相当不信もってるが。
浅利は鉄砲ね。部隊は曽根が引き継いで戦い抜いてる。
>>572 そんな阿呆な。氏政自体が「武田を追撃しようと三増山まで出張ったけど
一日の遅れで間に合わなかった」といってるんだから。
武田が各個撃破に成功しただけ。
574 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 01:30:16 ID:Tj9BNDAz
>>566 他に何に使うも何も単なる数あわせでしかない、この程度の人物なら。
所領が少ない=大きな兵力を率いていない事は小田原所領役帳のような記録ではっきりしてるし
それこそ軍記でも信玄の書状でも彼の名前は出てこない。
575 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 01:34:28 ID:d625KEKR
>>574 だからそういった人物で格式が高いのなら普通は本陣近くにいるはずだが。
先陣に使うわけにもいくまい。
576 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 01:39:16 ID:Tj9BNDAz
>>だからそういった人物で格式が高いのなら普通は本陣近くにいるはずだが。
何か例でもあるの?
俺はそういう理由で優遇されるレベルの人物ならばこういう合戦に駆り出される事自体ありえないと思うが。
577 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 01:43:35 ID:d625KEKR
>>576 まだ配属兵力が低い時代の明智とかそんな感じだが。
格式あるけど兵力は、てな感じではそれが妥当だろ。
578 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 01:59:15 ID:96O7vuYX
そんな高貴(笑)な人物を討ち取って何の自慢になるの?
価値があるのは猛将や勇将で知られる剛の武将の首じゃね?
579 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:01:15 ID:d625KEKR
>>578 北条の本陣近くまで危なくなってる証拠といえそうだが。
580 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:03:36 ID:96O7vuYX
本陣ってどこの本陣?
581 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:05:04 ID:d625KEKR
北条勢の本陣だろ。氏照が主将みたいだから氏照の近くか?
582 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:05:35 ID:96O7vuYX
本陣近くにいたという確たる証拠は?
583 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:07:46 ID:d625KEKR
>>582 そう見るのが自然ってとこだな。
格式高くて兵力少ないなら先陣に使うわけにもいくまい。
先陣かどこかにいたというなら確たる証拠だしてもらえる?
584 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:09:57 ID:96O7vuYX
はあ?結局全部推測じゃねえか。
氏照の護衛隊を任されてたってなら分かるが、
刻々と状況が変化する戦場で常時氏照…かどうかも分からない大将の側にいるわけないだろ。
585 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:11:47 ID:Tj9BNDAz
っていうか明智光秀って前半生ははっきりしていないように思ってたが
配属兵力が低い頃に格式の高さを理由に優遇されたなんて話があるの?
その後の光秀が転戦に次ぐ転戦によって実力で地位をもぎ取ってる事からも
兵力が低かろうともガンガン前線で戦って信長の信頼を勝ち取ったものだとばかり思っていたが。
六条合戦とかでも奮戦したと言うし。
586 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:11:53 ID:d625KEKR
>>584 お前のが推測だろうが。
格式高くて兵力少ない人間を本陣近くにつめさせる以外にどうやって使うんだよ。
お前の推測じゃない意見を言ってみろ。
わけないとか抜かしてないでな。
587 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:16:41 ID:d625KEKR
>>585 明智は六条合戦では格式高い細川と同じで義昭の近くに詰めていた。
そこを三好に襲撃されて六条合戦になる。
想定外だったようで明智たちは兵力が少なかったように表現されている。
588 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:19:39 ID:96O7vuYX
兵力少ない部隊を単体で使うわけなかろうが。
そういう小部隊を集合して一部隊が形成されてるんだろう。
そんな集合部隊がどこにいようと不思議じゃない。
589 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:20:55 ID:96O7vuYX
つーかどこにいたのかという正確な答えは「わからない」だろう。
具体的な記録が残ってるわけじゃなし。
590 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:21:08 ID:d625KEKR
>>588 だから格式高い人物なんだよ。豊前はな。本陣近くだろ。
591 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:21:39 ID:Tj9BNDAz
>>587 細川も明智も六条合戦では格式によって優遇されていて前線では戦っていないって事?
592 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:22:07 ID:d625KEKR
>>589 お前がいいだしたんだろうが。
まあ格式と小部隊であることから考えて本陣近くというのが妥当と思うがな。
593 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:23:44 ID:96O7vuYX
>>592 はあ?お前が言い出したんだろう。
まるで確定事項のごとく本陣にいた本陣にいたとずっとわめいてるじゃん。
594 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:25:32 ID:d625KEKR
>>591 違うって。もうちょい読んでくれ。
六条合戦では義昭がいきなり三好に襲われた事が想定外の事態だった。
だから本来戦闘であれば後方にあって義昭の警護をするはずの明智や細川が
戦う羽目になったってこと。ちなみに細川藤孝じゃなくて細川藤賢な。
足利の支流である典厩細川家。
595 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:26:15 ID:d625KEKR
>>593 いたんだろう、って書いてんだよ。
お前がいきなり本陣近くにいた確たる証拠だせとかぬかしてきたんだろうが。
596 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:26:32 ID:ZvWs7Whk
>>573 氏政の不信感は和議交渉時からだし不信感が募っても楔云々は大袈裟で
部隊の継続や死に方より重臣が討ち死した方が問題だと思う。
豊前山城守が畿内の公家みたく自由に視察できたのかはわからないけど
詳細不明の小勢で北条の被害を図るのはずれてる気がする。
597 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:30:11 ID:d625KEKR
>>596 なぜに大げさなのか。しっかり不信感を増させる事に成功してるのに。
直前に甲越和与をやった上で北条に攻め込んだ以上確信的にやってる。
なんで鉄砲で死んで部隊が無事なのにそれで大損害みたいにいわれにゃならんのよ。
本陣近くにいそうな人間だが。彼は。彼が死んでる事が一推定になりえそうだが。
598 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:32:23 ID:96O7vuYX
>>595 お前が本陣近くまで危なくなった証拠と言い出したのが最初じゃん。
本陣近くにいたのが推測なら誰の本陣かも推測、それをもって危機に陥ったとするのも推測。
推測も上塗りするとどんどん信憑性がなくなる。
80%の確率のものもさらにそれの80%の80%となると50%くらいになってしまうんだぜ?
599 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:32:47 ID:Tj9BNDAz
>>594 六条合戦は例外だと言いたいわけね、OK。
>>本来戦闘であれば後方にあって義昭の警護をするはず
これはつまり六条合戦以外では明智は後方に控えていたと言う事なんだろうけど
どれでもいいのでどれか一つ例が無いだろうか?
600 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:35:07 ID:d625KEKR
>>598 だから推測で言ったのをいきなり確たる証拠だせとか言い出したのは
お前だろうが。
少なくとも氏照が主将である事は確かだから本陣は氏照だろう。
小部隊で格式高い人間が他にどこに使えるか。
そしてその彼が死んでる事からしてその場所がどうなってるかも想像にかたくない。
601 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:39:05 ID:96O7vuYX
仮にそいつが本陣近くにいたとして、実際に本陣がやばくなっていたとして、
討ち取られた名のある武将がそいつだけってのも相当不自然だろう。
みんなさっさと引き払ってそいつだけ取り残されるような、よほどどんくさい人間だったとw
602 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:41:33 ID:96O7vuYX
例えば桶狭間で今川義元が討ち取られたわけだが、
実は義元以外の武将も相当数討ち取られてるわけで。
603 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:42:13 ID:d625KEKR
>>599 6条合戦の後でしばらく明智の従軍の記録が信長公記からなくなる。
その間に畿内でも伊勢でも戦いが起きてるが、前線の将達の名前に明智はない。
これが後方にいた証拠になるだろう。
ほされてたわけではなく若狭の説得とかやってるし。
604 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:43:19 ID:d625KEKR
>>601 武田も深追いしなかったみたいだからな。
>>602 地形が泥塗りだからな。
てか名前挙げてみて。
605 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:43:29 ID:Tj9BNDAz
>>597 鉄砲で死んだとかはそれこそ軍記でしか語られていない部分だから鵜呑みにするのはどうかと思うんだが。
軍記でも地形とか、人物とか、時間とか、軍容とか参考になる部分もあると思うけど
合戦の状況とかはその場にいたってわかるかどうか怪しいわけで。
606 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:46:05 ID:96O7vuYX
松井宗信、由比正信、吉田氏好、一宮宗是、久野元宗、井伊直盛
とりあえずざっとこんなもんか、桶狭間の今川方戦死者。
607 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:46:44 ID:d625KEKR
>>605 武田遺臣の残したものだし、曽根が部隊を引き継いだとかやたらと具体的だと思うが。
曽根近辺から話が残ったと考えれば自然。
608 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:52:33 ID:Tj9BNDAz
>>603 畿内や伊勢で起きた合戦に光秀は従軍したけど後方で控えていたという事?
609 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:56:27 ID:d625KEKR
>>608 もしくはいなかったか。どっちにしろ前線に名前が無い以上いるなら後方、
もしくはいないって所だろう。
志賀の陣のころには16人の将と一緒に穴太砦に入ってるが。
将の数から見てもそれほど兵力が多くなさそうだな。
610 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 02:59:55 ID:Tj9BNDAz
>>607 やたらと具体的だからこそ軍記物は信憑性が無いと言われてきたわけで。
そういう主観的な部分を極力排除していけば参考になる部分も多いと思うんだがね。
611 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 03:01:17 ID:Tj9BNDAz
>>609 その時点での明智ぐらいの武将であれば名前が無い以上居なかったんだろうな。
612 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 03:02:41 ID:gQyi8Nhc
>>563 豊前なんかの古河公方の兵力は氏照の与力となっているから、
従軍して氏照の先衆となるのは当たり前かと思う
>>564 豊前の兵力はともかく地位は推定だろ、推定の方を重視して理論組み立てるのはおかしくないか
もし後方にいて戦死したとするならもっと戦死している将がいてもいいだろうし
>>566 史料無視はお互い様に見えるが
あなただって相手の出す史料は誇張だの隠蔽しただのいって無視しているように見える
>>573 当時の戦傷原因の大半が弓鉄砲なんだから当然なんじゃ、
それに当時の鉄砲の射程は短いのだから普通に負けて戦死したでいいと思うが
>>575 金ヶ崎の光秀は前線じゃ
>>595 氏照の与力として付けられているのだから、他の下総などの他国衆や葛西の兵と同様先手だと思う
そこから豊前だけ抜いて氏照の部隊に付けるとかは当時の軍制では難しいだろうし
613 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 03:13:27 ID:Tj9BNDAz
>>612 確かにこの時期の鉄砲の射程を考えるに
大将に流れ弾が運悪く当たってしまったなんて事が起こる確率は限りなく低いかもしれないな。しかも山中だし。
614 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 03:16:26 ID:gQyi8Nhc
明智は両家を取り次ぐという立場としての喩えとしてはいいけど、明智の例がそのまま当て嵌まるわけでもないと思う、
信長も幕府奉公衆率いて畿内転戦したけど義氏と異なり義昭はそれなりに力を持っているのだから
家康配下の牧の原に入った氏真の家臣辺りが完全に養われているという点で近いんじゃないかと思う
他に氏真が氏直養子にした頃の氏真家臣とか
義昭はなんだかんだで独自の勢力もっているし、畿内勢力も一応従ったりもしている、義氏みたいな完全な居候じゃないから
615 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 03:17:33 ID:WlEXo1nK
豊前には本領安堵の書状が残ってるんだよな?それで戦力分からないの?
616 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 03:22:42 ID:gQyi8Nhc
>>615 あったかな?
小田原所領役帳じゃ陪臣だから名前はないだろうし
後室宛の朱印状はそのまま認めるで数値は書いていなかったような・・・
でも北条が屋敷を与えた時に一緒に安堵状与えていたような気もする
藤氏が死んだ頃だから多分1566年ぐらいに
617 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 03:25:46 ID:WlEXo1nK
>>616 >後室宛の朱印状はそのまま認めるで数値は書いていなかったような・・・
俺が見当つけてたのこれだから無いわwごめんごめん。
618 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 03:36:13 ID:gQyi8Nhc
619 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 03:44:56 ID:Tj9BNDAz
>>614 結局、格式に関わらず従軍するなら優遇なしで戦わせなければならないし
格式を重んじるならそもそも合戦になど連れていかない
と言うことではないだろうかと思っている。
620 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 04:04:58 ID:A0mppSlR
信玄厨にとって、信玄の放火は凄い、
信長の桶狭間は大した事ないって、
世間とズレた感覚だよな。
こんな事で、信玄が凄いと神格化しなきゃ
いけないなんて、どんだけ実績がショボいんだよ武田は。
信長が義元討ち取ったのは偶然だっていうけど、
放火より全然凄いことだ。
必死に「北条に勝った信玄凄い」を連呼して
こっちが恥ずかしい。
さも凄い戦いだったかのよういに鼓吹して虚しくならないの?
621 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 06:14:27 ID:bwwj6c+H
さて武田厨は豪快に釣られるのだろうか!?
622 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 08:49:15 ID:14G8Jv1x
桶狭間では先陣と勘違いして本陣突っ込んで大将たおせましたね。まことに運がいい。
623 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 11:05:33 ID:AKnFBjYn
これだけは言える、信玄が兵力3000で氏康の3万を奇襲で倒したら絶対に
信玄厨は偶然などと言わない。
てか信長の偉業はもう論理的に崩せないから運というX要素で煽るしかないんだろ?
624 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 11:16:25 ID:d625KEKR
>>612 氏邦・氏規が氏照の下について戦ってるんだから
常識的に考えれば氏照が本陣になるわな。
その下につくなら本陣詰めだ。
豊前は古河公方の重臣として多くの書状を残していると
上にあるが。それならどう見ても地位は高いとみるべきだろう。
別に無視してはいないが。氏照書状の滝山攻めのところは攻める前の小山田の
書状からしてどうみても焼き討ち目的なんだが。明らかに書状からは誇張が入ってるが。
敗軍になった場合、その部隊が崩れ、討ち取られた将の首があげられる。
鉄砲で浅利が死にその部隊を曽根が引き継いで戦闘終結まで戦いぬいてる事は
部隊が敗れてもいないし敗軍にもなってないことを示しているが?
金ヶ先の主力は池田だろ。
氏邦・氏規の部隊が先手で氏照とその与力は後方だろ。ふつうに考えれば。
625 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 11:19:28 ID:d625KEKR
>>613 その後で曽根が部隊を引き継いで戦闘終結まで戦いぬいてる事は
部隊が破れたわけでも敗軍になったわけでもない事を示していると思うが。
>>614 義氏も兵力持ってるようだが。
>>619 でも明智は途中までryなわけで。格式あるのに寡兵で突っ込ませて死なれてもな。
626 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 11:22:39 ID:d625KEKR
>>620 実際に信長自身が先陣と本陣を勘違いしてる状況だからな。
運としか。
信玄のは戦略効果狙ってるので。
駿河とってるから勝ってるし。
>>622 本能寺で崩壊、数多い敗戦、虚像の横行その他と突っ込みどころありまくりだと思うが。
627 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 13:53:47 ID:ckdqVh4J
想像だけでよくそこまで語れるな。
628 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 14:52:27 ID:/ChCnzxU
>>597 信玄の行動を相越同盟の妨害活動とするなら副次的なもので効果ないし
甲越和与は持ち出してるし見当違いじゃない。
三増峠も曽我が実際部隊を率いたのは疑問が残るし
兵力差と重臣の討ち死にを考えると手放しで褒められないって事。
詳細が殆ど不明な人物の憶測で判断するのは意味がなさそう。
629 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 16:38:56 ID:YjgsnXb1
見逃してるかもしれんのだが、
戦略効果狙ってるって、
どこかの資料にかいてあるの?
それともただの憶測?
630 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 17:20:39 ID:SwhrpWFA
武田を押す人の戦略という言葉が
ほとんどの場合において戦術でしかないことについて
631 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 18:59:35 ID:f7/XFidD
↑こいつ最高にアホ
632 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 19:17:05 ID:bwwj6c+H
武田厨ID:d625KEKRに同意する者がただの一人も現れない件
633 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 19:19:15 ID:14G8Jv1x
多数決スレでもないのにこういう少数認定するような糞レスするのは大方織田派
お前に同意してんのもお前とお前のファンネルだけだからあきらめろ
634 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 19:22:13 ID:d625KEKR
>>628 妨害活動及び宣伝材料ゲットだから効果ないとは思えんが。
甲越和与は小田原攻めの前にちゃんと締結されてる。
曽我じゃなくて曽根ね。やたらと具体的だと思うが。
手放しでほめなくてもいいが勝ちは勝ちだろう。
>>629 ずっと上のほうにも書いてるんだけど。ちゃんと見返してくれ。
小山田が小田原侵攻の途中、滝山攻めの前に出した書状で
「小田原への道程において既に御岳・鉢形をはじめとして数箇所の城を攻撃し放火した。
今向かっている滝山にも放火は必然だ。」
といっている書状がある。鉢形も滝山もその他の小田原までの途中の城を攻略する気は無かった事がわかる。
となれば当然小田原だけ攻略する気だったわけがない。実際3日で引いてるし。
北条への牽制、宣伝材料ゲット、という戦略目的だったと考えるのが妥当。
>>630 どう見ても戦術じゃないだろ。
635 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 19:24:56 ID:d625KEKR
636 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 19:30:53 ID:ZufApMoC
武田厨とやらに同意できるところは多々あるが勝った負けたという単純化に興味が無いから
生暖かく見てるだけ
637 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 19:53:47 ID:bwwj6c+H
厨にとっては勝った負けたが一番大事なんですよ
638 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 19:57:05 ID:6aQIZEl1
史料を恣意的に解釈したりと都合のいい部分だけ抜き出して推測したり
どうも武田厨の言うことは信用できないんだよな
昨日の豊前についての意見も ID:Wb42QO/zの説明のうち
武田厨にとって都合のいい部分だけ使ってるというか
光秀みたいなポジションという言葉を勝手に拡大解釈して話を進めている印象受ける
639 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 19:59:38 ID:YjgsnXb1
>>634 いや、俺が聞いたのは直接いってる資料があるかどうか。
それだとやっぱり推測にすぎないんじゃないか
自分が見た解釈では、北条方を城から誘い出して、
野戦に持ち込みたかったってのもあったし、
一概にそうだとは言えないんじゃ
640 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 21:05:54 ID:d625KEKR
>>638 実際書状を大量に発給し重要な立場にいたと上でも説明あったろうが。
>>639 そんなこと言ったらどれも目的なんかわからんぞ。
そっちのは「解釈」だろ?誰が言ってたわけ?
こっちのは書状で小山田が滝山他の城を攻略する気が無いのを示しているんだが。
これで小田原を本気で攻略する気だったわけないだろ。実際3日で町を焼いたら引いてるんだし。
641 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 21:16:31 ID:hJZj8+VM
それはあくまで小山田の場合だな。
小山田がそうだったから武田の小田原攻めもそうだとするのはこれまた勝手な拡大解釈。
642 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 21:18:40 ID:d625KEKR
>>641 小山田の書状は武田の小田原攻めに従った時のものなんだが。
何をいってるんだ?拡大解釈じゃなくて妥当だろう。
643 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 21:25:10 ID:nCYQdQYI
本気で攻略するつもりがなかったのなら勝ち負けなんてつけようがないね。
ドローっつーかノーゲームってことでいいんじゃね?
644 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 21:28:57 ID:d625KEKR
>>643 小田原侵攻に関しては武田の戦略目的達成ではあるが勝ち負けではないな。
だが追撃で仕掛けてきたのを三増峠で追っ払ったのは武田の勝ちだろ。
645 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 21:32:08 ID:nCYQdQYI
それってわざわざ勝ち戦として抜き出す必要があるほどの戦闘なのか?
古今東西撤退戦の成功を勝ち戦としてる戦争なんて三増峠以外聞いたことがないんだが。
646 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 21:35:24 ID:d625KEKR
>>645 敗退での撤退戦じゃないからな。
武田が大喜びで喧伝してる所からも
それなりの意義があった戦闘という事だろう。
小田原放火攻撃だけでなく、もう一つの宣伝材料としてな。
647 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 21:41:05 ID:nCYQdQYI
それは単なる情報操作、イメージ戦略じゃね?
宣伝、鼓舞材料としてさも大戦に勝利したかのような信玄の誇張。
まあそこは信玄の知略の評価にはなるがね。
つーか撤退戦を勝利としてる戦争が他にもあったら教えて欲しい。
648 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 21:50:22 ID:d625KEKR
>>647 敗退からの撤退じゃないからな。三増峠は特殊な状況だな。
それほど巨大な勝利でなかったとしても、北条勢のそれなりの部隊を
野戦で撃退した事は願っても無い宣伝材料になっただろうな。
兵数からしても武田が負けるわけがない状況、そんな状況でノコノコしかけてきた事、
それに勝利した事で格好の宣伝材料を小田原放火に続いて得た事をもって
信玄はこの勝利を神のおかげといったのかもな。
三国志の孔明が追撃してくる司馬尉を撃破した戦いは孔明の勝利とされてるな。
正史で。
649 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 22:10:08 ID:Tj9BNDAz
>>624 >>敗軍になった場合、その部隊が崩れ、討ち取られた将の首があげられる。
>>鉄砲で浅利が死にその部隊を曽根が引き継いで戦闘終結まで戦いぬいてる事は
>>部隊が敗れてもいないし敗軍にもなってないことを示しているが?
では氏照の軍も将の首が取られていないので部隊が敗れてもいないし敗軍にもなっていないということでは?
お互いにそんな状況だからこの合戦は勝敗などがつくようなものではなかったと言うのが結論としか言いようが無いわけだが。
650 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 22:12:57 ID:Nn2EI5wj
小山田の書状って実際にはどんなことが書いてあるんだ?
>>638も言っているがイマイチどこか誤魔化していそうでそれだけじゃ信用できない
宣伝材料というが実際にどの程度宣伝しているんだ?史料は残っているの、それとも後世の創作?
>>645 撤退戦を善戦したとか負けなかったとかいう戦はありそうだけど、
重臣討たれておきながらそれでも大勝利で大戦果挙げた一大決戦だったみたいに言うのはこれぐらいだけじゃね?
651 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 22:20:02 ID:d625KEKR
>>650 なんかもういい加減にしてくれとしか言えんのだが・・・・・・。
こっちに資料を要求するくせして紹介したら信用できんじゃ話にならんぞ。
そっちはそれをいえるだけの資料を出したのか?
都合の悪い事は全部創作創作といわなきゃ気がすまんのか?
>>634に該当のところ上げといたからそれ見ろよ。少しは見返せよ。
諏訪大社にも書状出してるし、味方勢力にも書状出してるよ。阿呆らしい。
いきなり条件狭められてるな。孔明のも真田のも勝利とされてるぞ。
652 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 22:23:45 ID:Tj9BNDAz
>>625 曽根の戦いに関しても記載されているのは軍記のみ。
そもそも曽根が引き継いでいようとそれなりの損害が出たことを否定できる反証にはなってない。
豊前に関しては上でも言われてたけど
地位が高いということ自体があなたの推測の域を出ていないので
そこからさらに想像を拡げた所で同意を得られる要素はないぞ。
それに比べて率いていた兵力が少ない事はほぼ確定事項だ。
653 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 22:25:37 ID:d625KEKR
>>649 浦野は死んでるが。
深沢書状にも武田北条の遺臣が残した軍記でも武田勝利で一致してますが。
深沢書状では武田が氏照を追っ払った後で氏政に備えた事まで書いてありますが。
戦場に踏みとどまったのはどう見ても武田。
654 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 22:27:59 ID:d625KEKR
>>652 部隊が大打撃受けてたり敗退してるなら曽根が部隊を引き継いで戦えるわけないだろう。
多くの書状を残してる人物だと上で説明されてたが。
普通書状発給するのはそれなりの地位のものだが。まして多数ならな。
本陣である氏照の陣に同陣してたなら氏照の陣まで打撃を受けてる事は明らかだな。
655 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 22:30:06 ID:YjgsnXb1
小山田信茂願文は少しだけここに書いてあるようだ
ttp://homepage3.nifty.com/yogokun/mimasetouge.htm でもこれから言えるのは
小田原城が目的だったということだけだと思うんだが
野戦を誘い、あわよくば攻略という考えもあったと思うんだが
まあ、実際は
対駿府、対越相同盟が目的で攻略は二次的な目的だとは思うが
それはそうと、三増峠は運が良かっただけじゃないかと思うんだが
北条にあまりやる気がなかったからよかったものの
氏政の進軍が早ければ
包囲殲滅されてた可能性もあるわけだろ?
まあ、さっさと決着をつけた信玄は評価できると思うが
656 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 22:33:37 ID:Tj9BNDAz
>>654 浅利も龍朱印状の発行が許されてるし、起請文も多く残っているので地位が高いことは間違いない。
だから信玄の近くに居たはずだから、彼が死んでる以上武田軍の損害も大きいはずだな。
657 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 22:34:54 ID:d625KEKR
>>655 氏政も確かこの時兵を集めるのに苦労してたような。
軍役外の動員をかけてなんとか兵を集めてたのを見た覚えがある。
やる気以前にそう簡単に追いつける状態じゃなかったんだろ。
てか氏政の書状でもしっかり書いてあるしな。
「三増山まで追いかけたけど一日の遅れで間に合わなかった。」と。
658 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 22:36:34 ID:d625KEKR
>>656 それはないな。
浅利は西上野の部隊を率い、殿軍を任されていた。
どう見ても信玄のそばにはいないが。
659 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 22:57:43 ID:nCYQdQYI
>>648 その孔明のなんて戦い?
>>651 いきなり真田が出てきてるが、真田がなんか関係あるのか?
660 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 22:58:32 ID:Tj9BNDAz
>>658 格式とやら(それすら曖昧だが)だけで氏照の傍にいたはずと言う所まで勝手に想像を拡げるのであれば
浅利でも簡単にそういうことが言えるということを揶揄しただけだよ。
ちなみに浅利が殿軍を勤めていたというのも甲陽軍鑑の記述だけど、
それを採用すると浅利が死んだのは氏照が優勢に進めていた前半ではなく
後半の武田軍が押しなだれてきた時に死んだ事になるのでますます武田が勝ったと言う
状況が想像しづらくなったりもするし。まぁ軍記はどうでもいいが。
はっきり言って死んだと言う結果以外、合戦の記録が全く無い豊前の配置されていた位置などわかるはずが無いし
兵力が少ない事がはっきりしている時点で軍事上の重要性は皆無に等しい人物だと言う事は間違いない。
661 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 23:05:56 ID:d625KEKR
>>659 陳倉の戦いと第4次北伐の撤退戦。
真田も大阪の陣で撤退戦で勝利して徳川の追撃を封じた後で帰還して
「関東勢100万といえど男は一人もおらず候」とかいってるが。
>>660 何を言ってるんだ?
浅利が死んだのは山県の山裏からの背面攻撃が始まる前だから
立派に前半だろ。
山県が山裏から押しなだれてきて武田の反撃開始なんだから。
なにをいってるの?北条側の軍記でも前哨戦で死んだとはっきりいわれてるしな。
だから上にあったが古河公方の兵は氏照の与力らしい。
兵力すくなくて氏照の与力で格式高いなら氏照の部隊の中にいるとしか思えんが。
それ以前にこの戦いの前衛は氏邦や氏規だから氏照の部隊は後方にいたはず。
662 :
名無し曰く、:2009/02/11(水) 23:39:16 ID:Tj9BNDAz
>>661 与力だったから氏照の先衆になっててもおかしくないと言うレスは見たけど。
そもそも前衛は氏邦と氏規?それは一体どの記述をもとに言ってるの?
甲陽軍鑑と氏照の書状でどちらも武田軍が途中で山に引いて陣を張った記述があって
軍鑑ではその後の記述から武田軍の攻勢の話になってたし、
書状でも「武田軍が押しなだれてきた」云々が出てくるのは山に陣を張った後の話。
でも氏照の書状で宗の者云々を討ち取った描写が出るのはその陣を張る前の話だし。
まぁ勝ってたはずなのに殿軍の大将が死んでるって言うのもそもそも変な話なんだが。
当時の鉄砲がそれこそ後方に居るはずの殿軍の大将を射抜くってのもまぁ妙な状況ではある。
663 :
名無し曰く、:2009/02/12(木) 00:31:59 ID:zKkVvEkV
>>662 氏照が主将みたいだから氏照が後方にいるのが自然だと思うが。
まさか主将が先陣やるわけもなさそうだし。
氏照書状では後方から襲い掛かったように書いてあるから
殿軍である浅利がそれと接触したのは全然不思議じゃないんだが。
北条の軍記でも北条勢が後方から武田に襲い掛かったように書いてある。
軍鑑では武田勢が反撃に出るのは山県隊が後ろに回りこみ、合図の旗が振られてからだぞ。
そして浅利が死んだ後に馬場隊のものが一番槍2番槍を勤めた事が出てくるから
浅利の死はぎりぎり前半だと思うが。てか鉄砲で死んだ浅利の部隊を曽根が引き継いで北条の部隊を撃破してることも
かいてあったでしょ。
664 :
名無し曰く、:2009/02/12(木) 04:51:49 ID:QO8X/gTz
>>661 おいおい、陳倉の戦いも第四次北伐も真田の撤退もどれも勝利になんぞしてねえぞ。
陳倉の戦いも第四次北伐も追撃してきた王双や張コウを討ち取ったというだけで、戦争自体は敗北している。
真田の場合は撤退に対して徳川方は追撃自体を行っておらず、そもそも「撤退戦」にはなっていない。従って勝ち負けをつけることは不可能。
665 :
名無し曰く、:2009/02/12(木) 11:41:41 ID:zKkVvEkV
>>664 おいおい。
その王双や張コウを撃破した戦い自体は勝ちとされてるぞ。
まさに三増峠。
戦争自体も引き分け扱いだし。てか第4次北伐は敗北扱いはへんだろ。
真田はその前日に徳川方と戦って打撃を与えて追撃を封じ、その上で撤退してるんだが。
これも三増峠と通じると思うが。
666 :
名無し曰く、:2009/02/12(木) 20:42:37 ID:XZY92M4o
>>665 三増峠の場合は討ち取られたのは退却側の武田だと思うが。
667 :
名無し曰く、:2009/02/12(木) 20:52:22 ID:lZYi9dsW
>>645 三増峠で戦果を挙げた事にしないと
重臣討ち死に小田原撤退じゃ里見らにも示しがつかないし。
>>634 甲越和与は相越同盟締結時に破棄されて
妨害より信濃の防衛案の側面が強いし
その曽根の行動も妙に都合よく具体的すぎて折敷畑に近い感じがする。
668 :
名無し曰く、:2009/02/12(木) 22:27:01 ID:TbOP5bba
>>663 先陣とか別けられるほど大部隊ではないと思うが。
氏照自身が前線に出ていたかどうかはともかく
氏照の部隊は普通に氏邦の部隊と共に前線にも居ただろう。
持ち兵の少ない外様の与力という部分で考えれば豊前がそんな前線の部隊に混ぜられてそこにいた可能性は高い。
こういう際、普通に考えて自分の周りは信用できる自分の側近で固めるだろうし。
結局記録が無いから、どこに居たかなどわかるはずも無いわけだが。
>>667 確かに、大将が死んだ部隊をいきなり抑えられるものなのかは甚だ疑問。
また、例え残った兵力を多少まとめられたとしても、浅利が死んだ際にそれなりに
損害が出たであろうという事を覆しうる材料にはなってないし
まして北条に反撃できたなどというのはちょっと出来すぎているというのは同意。
669 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 00:29:12 ID:wI9fs2qI
>>665 三増峠みたいに一部の戦闘を抜き出して固有の名称を付けて勝ち戦にしてるようなのはどこにもない。
徳川方に打撃を与えたのはあくまで「通常の戦闘」。
その後退却命令が下ったので撤退を始めたが、追撃してこなかったので「撤退戦」は発生していない。
670 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 01:05:06 ID:jz7lV4Xu
>>666 撃退には成功してる。
三国志では孔明はこの後しばらくして宰相に復帰するが
その理由である功績にこの撤退戦での勝利も入ってる。
なかなか意義があるようだな。
>>667 小田原焼きうちの時点で十分宣伝にはなるが。実際してるし。
三増峠で勝ったのも効果的だったろうが。
甲越和与が破棄されるのは1570年7月。
小田原攻めではしっかり有効。
671 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 01:10:31 ID:jz7lV4Xu
>>668 6、7千もいるなら本陣くらいあっておかしくないと思うが。
そんなばらばらに攻めるものか?
実際鉄砲で流れ弾で討ち死になんだから仕方あるまい。
曽根は監軍だから指揮を執ることはできるだろう。
実際浅利をうった部隊まで具体的に書かれてるからな。反撃した事も含めてな。
>>669 だから孔明はその撤退戦で勝利した事を宰相に戻ったときの功績の一つとされてるんだが。
真田はもともと後藤隊が敗れた時点で退却を決断してたはずだが。
それでそのままひくわけにもいかないし、逃げてくる味方の援護の為に
徳川と一戦交えたんだが。立派に撤退のための戦闘。
672 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 01:22:33 ID:wI9fs2qI
>>671 だから撤退戦を見事に成功させ追撃武将の首も討ち取ったことを「功績」とはしているが「勝利」としている文献なんてどこにあるのよ。
真田も件も都合よく解釈しないでくれ。んなこと言ったらどんな合戦でも撤退戦になる。
どんな合戦でも最終的には戦場から撤退するんだからな。
一旦退却を決めていたが結局決戦に及んだ以上、通常の戦闘であって撤退戦ではない。
一連の戦闘を全部撤退戦にしてる文献などどこにもない。
673 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 01:27:57 ID:AQSUDpD9
恣意的解釈が多くて話にならない
674 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 01:51:27 ID:hDEAwKwI
多数決が正しいとは思わないけど、納得する人より反対する人が多そうなんだから自分の意見がおかしいとか偏ってるとか思わないのかな
ただ同じ結論の主張を繰り返しているだけにしか見えない
もう少し別の史料からとか別の方面から考察するとかしてみたら
数の差かもしれないけれど否定的?な人たちのレスの方がいろんな意見や史料があって面白い
675 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 02:03:25 ID:o8Yl3M/N
曽根はなんで光栄に嫌われてるの?
676 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 04:36:58 ID:Xzmd6IEC
なんか実績あるの?
677 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 08:49:46 ID:bF9T4jB7
織田厨は自演酷すぎる
多数決だと一人のファンネルで埋まってしまうから話にならん
言ってる事とか文章の書き方でミエミエでワロス
678 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 12:23:17 ID:jM4Q7af/
いい加減、その妄想はやめたらどうだい?
いつも他人のせいにしてみっともないだけだよ。
679 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 12:39:48 ID:bF9T4jB7
自分の基地外妄想披露して荒らしまわってる馬鹿に言われたくないわ
目障りだから消えろ
680 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 13:03:31 ID:bF9T4jB7
すいません言い過ぎでした
681 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 13:09:44 ID:+zFnqKyE
単純にどっちが論理的か話の筋が通っているかってだけかと
感情論や推測からの論理の飛躍、後世の逸話や軍記を元にした話の進め方が多くなればその分説得力が無くなるわけでさ
682 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 13:51:52 ID:Rm27eelS
とりあえず武田厨の人には、三増峠が武田の勝ちだったとして、それが
「信玄の能力値上昇(もしくは氏康、氏照の相関)に影響を与えるほどの勝利だったと思うかどうか」
を問いたい。多分このスレ的には一番重要なことだろう。
683 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 15:25:46 ID:8xFfjp0S
「戦略的な意味」って言葉を使うならそこを説明して欲しい
武田の強さを喧伝するきっかけとなった戦いで
これにより織田と徳川が武田に土下座外交をするようになったとか、
北条はこの後武田と戦うことがなかったとか言われりゃ
納得がいくわけよ
684 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 18:32:36 ID:wI9fs2qI
戦略的な意味だと、勝敗より上杉が北条に援軍を出さなかったことが一番影響が大きい。
685 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 19:02:32 ID:8xFfjp0S
ゴメンよくわからないんだ。
>>684なら
上杉が北条に援軍を出さなかったから何なのか?
ってことを聞いてるつもりなんだ。
686 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 19:14:18 ID:kebtYRK0
>>670 武田は小田原焼き討ちして三増峠で山城豊前守討ち取り(氏邦を破る?)
北条は小田原防衛して三増峠で浅利と海野討ち取り(信玄を取り逃す?)
どちらも勝ちと言えるし三増峠だけだと武田が兵が多い分不利じゃない。
同盟の楔って主張でしょ?
武蔵侵攻と甲越和与は同盟締結前で甲越和与は信濃防衛の側面が強いし
今回の行動で早期締結させる結果になったから逆効果だし副次的って事。
687 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 19:20:44 ID:kebtYRK0
>>668 撤退中で殿の将が討たれたのに反撃してその場に全軍が留まるってのも変で
大活躍した曽根の記述は軍鑑が初述で恩賞で浅利後の人事にかすりもしなければ
感状や他の記録に触れられていないのも変で軍記物の悪い面が強調されてる感じ。
上野衆の浅利と土屋が内藤らに殿を任されて浅利が討たれても善戦して信玄を逃し
浅利の後を子と二人に引き継がせた方がましな気がする。
688 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 19:59:51 ID:wI9fs2qI
>>685 北条としては上杉との協力体制で武田を攻め滅ぼす戦略だったと思う。
上杉宛の氏照の書状も盛んに援軍を促すものだし。
ところが最後まで援軍を出さないまま終わってしまったので、一気に上杉への不信感が上昇。
後に武田との再同盟という戦略転換の原因になったといえる。
そういう意味で戦略に与えた影響は大きいと思う。そこまで狙っての出兵だったかは分からんが。
まあ三増峠の勝敗はほとんど関係ないが。
…もしかして俺全然ずれたこと言ってる?
689 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 21:32:40 ID:8xFfjp0S
>>688 よくわかったありがとう。
俺の知識と理解力が足らんかったので話の流れがよくわからなかったんだ。
三増峠はともかく、武田の出兵とその効果は理解できた。
言葉にトゲがあったことも謝る。ごめんなさい。
690 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 22:33:03 ID:quadLdVo
なんか自分が軽い気持ちで推測して語ったことが大げさにとらえられて論争の元となっていて凹むのだが。
691 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 23:33:19 ID:quadLdVo
豊前は確かに残している文書量は多いが、最初に上でもちょっと触れたが単純に残った史料が多いだけという可能性も、
豊前氏に関する文書のほぼすべてが豊前氏古文書に依拠するので。
また古河家でも比較的文書は多いがそこまでの重臣かは不明。
家臣のトップは奏者奉行人は周興として、彼のように自身が添状や国外勢力との外交を行うような文書は無い。
また後年の奉行連署にも豊前氏は名を連ねていない。
1566年5月の義氏の氏康宛書状1567年8月で巨細は豊前山城守に仰せ含めたとかある、
また義氏の豊前宛の書状では氏康氏政にこれこれの内容を伝えろとかの書状も多い、
その仕事の内容は軍使や取次ぎみたいな立場かと思う。
1568年8月に周興に、同心致すべく候、とあるので彼の同心の可能性もある、
足利義氏の豊前後室宛書状写しに芳春院領の知行ともあるし。
>>615 一応どこそこ安堵とか書いてあるけれども、その土地の数値が無いから戦力はわからない。
>>616 屋敷を与えた時も数値は無い。
692 :
名無し曰く、:2009/02/13(金) 23:48:43 ID:quadLdVo
三増峠に関する感状等だが、
武田側に内容を疑われている物が一通のみで、基本的に両者とも感状は残っていない。
宣伝効果だが、小田原放火三増峠に関する記述は遠山諏訪のみで、
他には一色宛書状には記述はない奥平宛には相模で一戦して勝利とのみ、
佐竹宛には記述なしである。
但し、委細は使者に聞けなので使者が語っている可能性・単に史料が残っていない可能性あり。
また1569年12月以降の書状では駿河を取ったこととなり、小田原や三増峠はこれといって宣伝している様子は史料上はない。
693 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 00:08:31 ID:HYqcmC8Y
武田が最初から小田原城放火が目的だった理由としての小山田信茂願文だが、
>>655のリンク先にも一部記述あるが、
小田原へ向かって興亡一戦を遂げ、これまでの鬱憤を晴らすとあるので、
そのまま取れば決戦する積りで示威目的宣伝目的ではないとなる。
御岳鉢形その他数箇所を攻め滅ぼしたので、とあるので領土目的とも取れる、
放火も焼き滅ぼすのように使うこともあるので滝山を落とす積りだったとも取れる。
小田原を本気で攻略する気が無いという意味を小山田願文から取るのは難しいと思う。
694 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 00:52:18 ID:36Nx+Rsw
>>671 軍記物の信憑性の話をしてるのに、
軍記物で流れ弾で死んだとなってるんだから仕方あるまいって会話にすらなってないんだが。
695 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 01:43:45 ID:UF73ehMT
いくら隔離スレとはいえ、ゲームの数値にどう影響するわけ?
戦国板行けばいいじゃんww
696 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 03:58:18 ID:36Nx+Rsw
そうだねそろそろまとめとして数値的な面で言えば、
篭城した直後な上に本軍もいない寄せ集めの寡兵だけで
氏照は大軍の武田相手に良く頑張った、ぐらいの評価を統率におまけ加算ぐらいはされてもよいのではないか、というとこ。
さすがにこの程度の戦果では勝敗が決まるようなレベルではないし。
武田の評価は撤退は成功してるし、やはり勝敗が決まるようなレベルのものでもないので
とりあえず下げる必要性はないと思うけどまぁそっちはそっちを評価する人に任せる。
697 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 07:47:36 ID:nm2s+mPA
>>672 だから「功績」てことはその局面においては勝利だろうに。
何を言ってるんだ?明らかに恣意的過ぎるとしかおもえん。
真田の件をそういうなら武田も北条相手に戦ってるから決戦だな。
それで勝利と。
>>674 まったく思わんね。武田勝利で一致する数多くの資料を批判して
ただ否定してるだけにしか見えんのだけど。
698 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 07:50:47 ID:nm2s+mPA
>>672 それなら武田勝利で一致する全ての資料が恣意的か。
ふざけるなよ。
>>683 だから何度もいってるだろうが。いい加減にしろよ。
武田はこの成果を宣伝に利用してるし、越相同盟の不信が高まった事も事実なんだが。
699 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 07:51:48 ID:nm2s+mPA
700 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 07:58:23 ID:nm2s+mPA
>>686 だから甲越和与があった後で小田原侵攻した結果、
上杉は動かず、北条と上杉の不信が高まった。
越相同盟が結ばれた後も結局この2勢力は協調して武田と戦うなく終わる。
明確だと思うが。
>>687 恣意的すぎるな。
北条の書状にさえ明確に武田の反撃はある。
武田にしても小田原から敗れて退却するわけじゃないんだから戦力はある。
殿軍がやられた後で体勢を整えて反撃に出ただけの事。
もともと曽根は監軍なんだから浅利の死んだ後に指揮を執ったのはおかしくないし
内藤はそれまでの功績からいって上野を任されたのは自然だが。
さらにいっておくと曽根の当時の地位では内藤に劣るのは当然。
それから北条の軍記でさえ武田の反撃で北条が破れた事は一致してる。
前哨戦で北条が勝利して浅利が死んだこともな。
701 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 08:04:21 ID:nm2s+mPA
>>679 まさか一人認定してないよな?
>>681 だから武田北条の両方の遺臣が残した軍記だといってる。
それが双方で武田勝利で一致してるのは北条勝利ならおかしいだろうに。
北条相手に出した深沢書状でもしっかり勝利の様子を書いてるのに。
これも否定かよ。
>>691 その理屈でいったら資料研究なんかできなくなるぞ。
書状が多い人間は基本的にそれなりの重要性があるとみなされるのに。
>>692 そんなあなたに深沢書状。
702 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 08:08:41 ID:nm2s+mPA
>>693 実際領土化してないし、すたこらと滝山向かって放火は必然だといってるんだから
放火目的だと思うが。
周囲を領土化してないのに小田原だけとるわけないだろ。
>>694 話にならんのはこっちだが。
武田側でいやなら北条側の軍記でもそう。
さらにいっておくと氏照書状でも宗のものを討ち取ったのは前半だ。
北条側の軍記と一致してるな。
703 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 08:10:09 ID:nm2s+mPA
>>696 どう見ても戦場から相手を退却させてるのは武田なのに…。わけわからんな。
704 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 08:12:58 ID:gFR+JlWd
結局痛み分けってことだろ
705 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 12:00:46 ID:r0On0Bnw
>>703 数的にいえば、武田が勝って当然。
むしろ氏照に頑張れちゃってるかんじだね。
ただし散々言われてることではあるけど、武田信玄の真価は戦術ではなく戦略・外交面だってこと。
第二次駿河侵攻ではこれあるを覚悟して備えていた北条の防衛網を崩せなかった上、
北条の周辺全部敵にしてやった反面、自分の周囲も全部敵になった。
そこで関東行ですよ。
この遠征行は関東の城を一つたりとも落としていないが、
結局これで駿河一国を取ったといっても過言じゃない。
また北条と上杉の関係に楔を打ち込み、北条との再同盟にこぎつけて西上の見込みができた。
この件に関しては、信玄は神懸ってる。
706 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 13:41:20 ID:cveg6xEN
707 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 13:55:30 ID:r0On0Bnw
戦術的には関係ない。
戦略面では、駿河偏重の防衛体制を北条に改めさせることで駿河侵攻を容易にしたって事。25000の兵を動員して遠足しに行ったわけじゃないんだし、そこには目的があるわけでしょう。
708 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 14:00:16 ID:T5+IcJFk
>>703 撤退させたら勝ちっていうんなら信長の十四条合戦も勝ちになるの?
709 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 14:17:38 ID:w1rPlNRB
高坂「無用の戦にございます」
710 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 14:30:31 ID:nm2s+mPA
>>708 14条じゃ撃破されて逃げ帰ってるのは信長なんだけど。
その後の軽海と混同してないか?
711 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 14:36:57 ID:nm2s+mPA
>>709 信玄「6歳上の氏康めに勝てたのは満足じゃ。」
北条「信玄が北条に勝ったのこれだけなんだからな!」
712 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 15:00:54 ID:w1rPlNRB
>>711 こんなのにも答えてくれてありがとう
一つ聞きたいんだが、三増峠のwikiには
最近発見された資料で綱茂らも参戦していたとあるんだが、
この資料って知ってる?
713 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 15:04:33 ID:nm2s+mPA
>>712 さあ? 今のところは知らない。
軍記じゃ参戦してるが、同時代級なら明確に参戦を記したものは特に知らない。
北条の書状のマイナーな書状にあるのかも知れないが。
714 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 15:12:39 ID:T5+IcJFk
>>710 逃げ帰ってはなくね?俺は一連と認識してるが、分けてもいいわ。
軽海は勝ちでいいの?
715 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 15:17:07 ID:nm2s+mPA
>>714 あれ明らかに14条で敗れて退却してるところに
斉藤勢が来たのを軽海で迎撃してるから別の戦いだろ。
軽海って夜まで戦って敵が時間切れ撤退みたいな流れだが。
あれを勝ちというと違和感あるような。
716 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 15:18:13 ID:nm2s+mPA
軽海は引き分けという印象だな。
717 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 15:19:05 ID:w1rPlNRB
>>713 サンクス
どちらにしても、たいした数の部隊じゃなかったのかな
718 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 15:23:20 ID:nm2s+mPA
>>717 正直な話、同時代資料だと参戦武将の名前までいちいち書かないのよ。
総大将の名前とかは書くけど。
それさえ書かない事も多い。「武田勢が〜」「北条勢が〜」とか
そんな風にあらわすから。
719 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 15:31:17 ID:Itazm+nL
>>700 相越同盟の交渉が難航して甲越和与に合意しているのだから
謙信が援軍を送らないは当然だし
これで北条が上杉を恨むのは筋違いだし信玄の戦略にするのも大袈裟って事。
>>701 軍鑑の三増峠や曽根の活躍が信用できなくて実際
北条は殿の浅利を討てても殿軍を破れず追撃を阻止され被害が出た。
武田が有利なら殿軍を置き軍を分散したり浅利の遺領など分割する必要もないし。
720 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 15:36:08 ID:T5+IcJFk
>>716 信長の方が最後まで残ってたけどどう思う?
721 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 15:36:32 ID:nm2s+mPA
>>719 甲越和与は小田原攻めの時点では北条は知らなかったはずだが。
筋違いも何も思いっきり北条は上杉にいらついて恨み言いってるが。
帰還途中なんだから背後を警戒して殿軍を置くのは当然だろ。
なんで殿おかないのが自然なのかわからんのだが。
どんな移動行動でも殿は置くだろ。
浅利が死んだから分割したって変じゃないだろ。
がら空きにしておく必要もないし。
722 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 15:38:24 ID:nm2s+mPA
>>720 夜になったから敵も自然に帰りそうな、としか。
日のあるうちから次の日の朝まで戦い続けるわけにもいかんし。
723 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 15:45:26 ID:T5+IcJFk
>>722 距離置いて対陣ならまだしも撤退だぞ。
西美濃のかなり奥深いところに信長の軍勢残して。
724 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 15:53:12 ID:nm2s+mPA
>>723 墨俣はそこまで奥深くとも思えんし、墨俣だけじゃそこまでの脅威と思えんが。
軽海の戦いは夜中まで戦ってんだぞ。人間の体力としても限界だろうし夜じゃ戦いにくい事この上ない。
725 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 15:53:45 ID:Itazm+nL
>>691-693 くわしくてわかりやすいけど同じ人かな?
軍の進行状況から略奪と示威目的で隙あればって感じと思うけど
本格的に対決を考えて小田原に向かうのは無謀すぎるし
北条側の抵抗が弱く欲出して小田原まで誘き出されたって考え方もありなのかな。
726 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 16:03:39 ID:T5+IcJFk
>>724 夜までずっと戦ってたから織田軍も撤退してくれると思って撤退したと?
それって十分敗退だろ。
727 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 16:05:46 ID:Itazm+nL
>>721 北条の交渉が纏まらない以上上杉への恨み言は筋違いだし
武田が上方や織田と交渉してるのを全く知らないって事はないと思うけど。
殿を置いたって事は武田軍が危機を感じてた訳で反転して陣張りし留まるって変じゃない。
728 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 16:10:46 ID:Itazm+nL
浅利の遺領分割も信玄や勝頼など一門に組み込むなら自然な感じだけど
内藤と土屋が引き継ぐって事は彼らがなんらかの活躍があったからじゃなの。
729 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 16:13:47 ID:nm2s+mPA
>>727 筋違いかは問題じゃないと思うが。
実際北条が思いっきり上杉に恨み言言ってる事実があるだけで。
その交渉が甲越の和睦にまでいたってる事を知ってるとは思えないが。
実際この時点でのその動きを見れば知ってるとは思えんし。
だからどんな移動行動でも殿軍はおくだろ。当たり前だろ。
そんで追撃がきて殿が打撃を受けたからうるさい追撃を追い払うために
本軍が向き直って逆襲開始、って事だろ。
730 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 16:18:04 ID:nm2s+mPA
>>728 浅利は戦死と共にその家系が断絶したらしい。
子供がいなかったのかな。
箕輪は要衝だし、内藤が活躍してる事は武田の軍記でも北条の軍記でもあるな。
731 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 16:26:27 ID:Itazm+nL
>>729 武田が織田が関係を深めて将軍が上杉の和睦工作してるのも北条は気付かず
筋違いの恨み言を書かせる事が同盟の楔となる信玄の戦略なの?
目的が甲斐への帰還なんだから最初の殿が破られたなら次の殿を残せば良い訳で
本軍を反転させて逆襲で目的と行動が矛盾しているんだけど。
732 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 17:28:21 ID:36Nx+Rsw
>>702 鉄砲の流れ弾で死んだ事の信憑性と曽根の話に関する話をしているのに
そういうレスをしてくるから会話になってないといってるんだが。
同じ事を何度も主張しなくてもあなたの主張はわかってるよ。
でもそれで納得できる人はいないから議論が続いているわけで。
733 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 18:05:47 ID:i3iMtf3L
>>696 小競り合いの三増峠で信玄が勝った凄いと言われても
統率110には疑問がある
武田が好きな人には重要な大戦なんだろうけど
三増峠に粘着して余裕がないとこなんか武田の実績の低さを
表してるから下げざる得ない
734 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 18:55:17 ID:NCwrD2Dl
つくづく武田厨のキチガイっぷりには呆れるな…。ほとんどこのスレ武田厨の隔離専用じゃん。
わざわざ古いレス蒸し返すだけでなく、
すでに別の人間が返答して礼まで言って終了済みの話題にまで口を出すとか正気とは思えんわ。
735 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 21:54:38 ID:Ruq1wQp8
>>700 北条側が武田に対する上杉の軍事行動を喜ぶ書状が1569年と1570年にある。
>>701 豊前氏に関しては上で述べているように残した文書量以外の部分でも、
重臣よりは一段落ちそうなので、そんな枝葉部分に拘らずとも
全くの無名ではないにしても最重要というほどでもないと言う結論に落ち着くかと思う。
対外的な外交に関する書状というのが抜けていた、
なので矢文だけでなく浦野の息子に関する文書にも言及していないだけ。
>>702 願文には北武蔵の諸城落としてとあるから、落とせなかっただけで予定では城落とす積りだったかもしれない、
どちらにしても事実と異なるのだから、自分の主張に都合がいい部分だけ抜き出して根拠とするのは難しいと思う。
736 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 22:07:14 ID:36Nx+Rsw
>>701 たびたび北条側の軍記というけど、五代記は甲陽軍鑑同様に結果的に徳川家康を称える事になる
信玄・氏康らの世代は無条件で称えるが(家康が信玄に敗北しているため)
氏政世代には贔屓どころか辛辣に書いているのは有名で年齢的にも三増峠での詳細を知るはずも無く
また氏政の切腹の日が三浦同寸の切腹と同日である事を重ね、祟りであるというような事を
五代記の最後に加えている事からも彼が北条家の家臣と言うだけでなく滅ぼされた
三浦氏の一族であるという事も忘れてはならない。
軍記物が信用できないのはそういう作者の思惑が大きく影響してしまう部分にもある。
北条記に至っては作者・作成時期共に不明で、信憑性もくそも無い。
737 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 22:21:59 ID:Ruq1wQp8
>>707 駿河偏重の防衛体制を北条に改めさせることで駿河侵攻を容易にしたというが具体的には?
1569年春の段階で相模武蔵などの諸城を固めるように指示はしているし、
小田原城などの大改修も1569年冬、武田が駿河の大部分を制した後、
史料から関東遠征による北条の防衛体制変更への影響を見るのは困難だと思う。
>>712 知らない。
wiki見たら脚注なし、
2006年5月にこのことが書かれるようになったので、事実ならいい加減それに関する情報出てきてもいいと思うが。
>>723-724 一応尾張国境から10キロほど、但し間に木曽川含む河川が三、位置的には稲葉山大垣の中間。
三増峠は甲斐国境からは直線距離では20キロほど武田軍の通ったと思われる道だと30キロほど、相模川や多数の山々ありで。
これをどう取るかは人次第だが。
>>725 同じ人です。
>>729 恨み言とは1569年10月8日北条氏康書状の、
上杉の加勢が無かったので武田勢を取逃したと言っている部分のこと?
>>730 武田滅亡後は家康家臣となった浅利昌種が後継いで侍大将として仕えていたと思う。
738 :
名無し曰く、:2009/02/14(土) 22:55:17 ID:Ruq1wQp8
浦野についても調べてみた
1569年8月5日信玄判物より浦野民部右衛門尉の知行宛行
石原の内高源寺 200貫(群馬県渋川市)
山名の内 100貫(群馬県高崎市)
安堵ではないので本領とは別にこれらを加増?
知行の位置からして、浅利の与力?
また戦国遺文より
1569年秋関東で大暴風雨利根川流域で大きな被害あり
1569年正月とは異なり秋以降の北条の動きが鈍い理由の一つか?
739 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 07:25:54 ID:6XL6NWo5
>>736 >氏政世代には贔屓どころか辛辣に書いているのは有名
とは言うがさ、この間五代記をたらたら読んでいたんだが、
氏政は酷評というほど酷評されてないと思うんだ。
巻の四「北条氏政東西南北と戦いのこと」では、名将扱いですよ。
740 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 10:04:17 ID:tlrrWKJ2
>>726 時間切れ引き分けみたいなもんだといってるだろ。
実際織田だってその後帰ってるし。
>>731 実際それで北条は上杉に不信感を強くしてるからな。
同盟の楔としては十分。
何が矛盾?兵力が優越してるのだからなんで兵力を小出しにしなきゃならん。
一度に反撃して追っ払った後で安全に帰還すればいいだけの話。
深沢書状見る限りそんな感じ。
741 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 10:06:19 ID:tlrrWKJ2
>>732 ぶっちゃけた話「納得したくない」だけにしかみえんのだが。
北条側の軍記でもいいが。どっちにしろ北条の負けで終わってるから。
氏照書状の流れを見れば北条側の軍記のが近いか。
742 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 10:08:48 ID:tlrrWKJ2
>>733 武田の勝ち戦は別にこの三増峠以外にもいくらでもあるし、
三増峠はそれほど重要ともおもってない。
問題は明らかに三増峠は武田の勝ちで終わってるのに
というか北条が勝ったというのを裏付けるものは何もないのに
北条の勝ちにしたがるのが納得できないの。
武田の勝ちは勝ちだろう。
743 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 10:10:04 ID:tlrrWKJ2
>>734 終了済みの話題ってなんだ?誰が答えたんだ?
勝手に終了されても困るんだが。
いやなら答えなければいいだけの話だが?
744 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 10:43:58 ID:cal26Dgg
>>741 曽根や鉄砲の話だと言ってるのにあくまでそこには言及しないなら無理にレスせんでも良いけど。
北条の軍記で負けというけど、じゃあ北条五代記では
氏康が武田軍を1000人近く討ち取ったことになってるんだけどこれも採用して良いの?
前半で北条が押していたというのは確かに武田・北条の軍記で共通する事だしw
で、氏規の雑兵2〜30人倒した部分だけが信玄が勝利した唯一の瞬間とこういうわけで。
軍記から都合の良い部分だけを抜き出すと、こういう解釈も簡単にできる。あなたがやってる事だけど。
結局軍記の信憑性の低さがどんどん露呈するだけの事。
あと、氏照の書状の流れと五代記の流れはほとんど類似点が無いので何故近いと感じたのかはよくわからない。
甲陽軍鑑の方が似ていて、むしろ甲陽軍鑑における最後の勝利の部分以外はほとんどリンクする。
甲陽軍鑑の方がいくらか信憑性があるとは思う。
745 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 10:54:49 ID:tlrrWKJ2
>>735 実際上杉は戦ってないけどな。
最重要でなくても書状をそれなりに残してる人物だとしたら他家の事例を見ても
それなりのものと思われるが。
「滝山でも放火が必然だ」と書いてあるのは明確なんだが。
「攻亡」だから攻略した、ってな意味か?放火でも意味とおりそうだが。
746 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 10:56:53 ID:tlrrWKJ2
>>736 北条びいきは一貫しているんだが。
北条側の被害を思いっきり過小にしてる時点で明白。
氏政も随分いい評価もらってたと思うが。
747 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 11:00:59 ID:tlrrWKJ2
>>744 それは無理だな。
「氏康・氏政の本隊」がやったというのは当時の書状にもない。
追撃したのは氏照たちなわけで。
そしてそれが追撃して撃破されたことは当時の書状からも
軍記からも裏づけられる事なので明確。
俺は少なくとも君のようにそこまで都合よく抜き出しちゃいないがな。
氏康たちが追撃して成功したなんていう根拠は一切ないんでな。
北条記のほうな。前半宗の者を討ち取り(前哨戦で浅利が死んだと書いてある。)
そして勢いに乗って進んだところ武田に反撃され、追撃され、被害を出したが
敵は深追いしてこなかったという所。
748 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 11:03:25 ID:tlrrWKJ2
>>737 後は「勝手に越中攻めてろよ」的ないやみをにおわせた書状とかな。
749 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 12:15:33 ID:cal26Dgg
>>747 >>氏康たちが追撃して成功したなんていう根拠は一切ないんでな。
信玄自身の書状にも他の軍記にも同様の事が言えるからこそ具体的な実績が必要だとあちこちから言われているわけで
それなのに結局、軍記や本人の書状以外で具体的な勝利の根拠が示せていない時点で
>>744とやってる事は大差ない。
>>744に違和感を感じたのであればあなたの意見も同じように周りから受け止められているというだけの事。
750 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 12:20:53 ID:tlrrWKJ2
>>749 それで言う事はそれらの資料を全否定して
ろくに根拠もない北条勝利だか優勢だかを主張する事なわけで?
話にならんだろ。
751 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 15:04:01 ID:qiWiq2/h
>>742 ここでお前を批判してる人たちって、北条の勝ちにしたがってるわけじゃないだろ。
引き分けにしたがってるんだろ。
752 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 15:12:23 ID:qiWiq2/h
>>740 撤退=敗退ではないと思っているお前が、
どうして三増峠の氏照隊の撤退だけは敗退と断言できてしまうのか。
753 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 15:40:24 ID:0vloe2Kn
>>740 その程度で同盟の楔とか戦略的にはとなるから大袈裟なんだよ。
北条の外交方針の転換は氏康の意向が強く氏政は当初から慎重的なんだし。
時間が過ぎるほど包囲される危険性があるのにその場に留まるなんておかしいでしょ。
氏照が城に入らず追撃に出たのも武田の行軍は早かった可能性が高いし
深沢矢文は使者と立てた正式な書状というより
投降か士気低下を狙った側面が強く内容もそんな感じじゃない。
754 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 15:48:36 ID:0vloe2Kn
>>738 綱成が浅利を討ちって北条記か古今消息集にあるのかな。
宛行だから加増じゃない。
浦野氏は海野城以外に八木沢八百貫、福田百貫知行宛行とか
信玄の妹?が嫁いだり準一門としてそれなりの勢力があったのかも。
北条の動きが鈍いのは上杉との交渉の調整が難航してるからと思うけど
天災の影響もあったのかな?
里見など関東勢の動向がもう少し詳しくなればわかりやすいんだけど。
755 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 18:39:16 ID:sRtewgc/
つーかもう武田厨は無視して三増関連の話まとめようぜ。三増峠に興味がある奴は結構人数いそうだし。
とりあえず俺は「三増峠の合戦」なるものは認めない派。
あの合戦はあくまで「小田原攻撃」であり、三増峠での戦闘はその一部に過ぎない。
突出して大きな戦果を挙げたというならこのように個別に命名して独立した合戦として扱うのも構わないが、
内容的には所詮撤退に成功したというだけ。単に信玄が誇張したから有名になったに過ぎない。
孔明の陳倉や第四次北伐は追撃武将を討ち取るという信玄の場合よりはるかに大きな戦果を挙げながら、
三増峠のような誇張は行っていない。
この辺りについて、武田厨以外の意見を聞かせてくれ。
756 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 18:40:47 ID:RihooDNn
>>751 引き分けではなく明らかに武田の勝ち
氏康と信玄では実力に差がある
757 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 18:54:18 ID:sRtewgc/
まあ氏康はとうに全盛期過ぎてたからな。逆に信玄は氏康に勝ったことに大喜び。
三増峠の過剰な誇張を見ても、よほど氏康にコンプレックスがあったと見える。
758 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 20:14:46 ID:RihooDNn
>>757 コンプレックスを抱く必要がない
戦政智人望などの総合力
で武田信玄を超える武将は存在しない
島津義弘、毛利元就、長宗我部元親、
織田信長、上杉謙信、北条氏康、伊達政宗
みんな一流だが総合力で信玄に及ばん
759 :
名無し曰く、:2009/02/15(日) 21:49:36 ID:F5/cz20C
不完全な後継者政策の面で彼らには及ばないのだが。
結局はそいつらの総合力は同レベルだ。
760 :
名無し曰く、:2009/02/16(月) 12:05:34 ID:NOSUHnTI
>>751 引き分けねえ……。
>>752 軽海=戦い続けて夜になったからまだ戦えるけど自分から撤退。引き分け。
三増峠=武田の反撃により敗勢となった北条勢が戦場から敗走。武田の勝利。
こんな感じだと思うが。
>>753 その程度って実際に影響でてるんだから無視するものでもないと思うが。
氏照勢は戦場から敗走していないのにどうして包囲されるんだよ。
氏照書状でも北条の軍記でも同時代の信玄の書状でも一貫して北条が武田の後方から
追跡してきたように書いてあるんだが。追撃組の第一陣が氏照達だとして
それを敗走させてさらに後方から氏政がくるかに備えてこないようだから
甲斐に帰還した、とする深沢書状の文言は非常に理にかなっていると思うが。
>>755 北条勢を追い返してるようだが。
>>757 コンプレックスがあったとは思えんが。
軍鑑の台詞でも三増峠前に「氏康でさえこの信玄相手には篭城するしかなかったのに
氏照達のような小倅どもに何ができるか」とか言ってるし。
761 :
名無し曰く、:2009/02/16(月) 12:26:55 ID:wL3amopQ
>>755 誇張だと思う。
戦闘そのものは武田の辛勝ぐらいに思っていたけど、一連の流れを見たら武田のほうが不利に思えてきた。
前半北条有利で後半武田有利、規模は小さいけど第4次川中島みたいな感じに思っている、土豪呼ばわりされてた浦野でさえも豊前より上で人的被害も武田のほうが上っぽいし。
762 :
名無し曰く、:2009/02/16(月) 12:54:09 ID:NOSUHnTI
>>761 なんで不利になるのか。後半まで武田が不利な根拠なんかまるでないぞ。
前半が北条有利だったのは軍記でも書状でもあった事だ。追撃なんだから当然有利。
後半武田の反撃からは武田が有利で北条を敗退させたのは多くの資料が示唆するところだ。
まあその意味で川中島みたいな流れに似てるかもしれん。
浦野に関しては書状を出す立場ではないのだが。
豊前のほうが格式や重要性はあると思うが。
763 :
名無し曰く、:2009/02/16(月) 15:57:04 ID:EavLTOgU
>>760 >引き分けねえ……。
なんだその一言コメントwww
本当に、その辺りの認識改めてくれないことには永遠に段違い平行線だわ。
764 :
名無し曰く、:2009/02/16(月) 16:40:17 ID:oHIPkuXZ
嫌味いってるとか恨みがましいとかって実際には直接そんなことは書いていなくて、
北条が手紙書いた時はきっとこんな気持ちだったに違いないと勝手に行間読んで
その想像した北条の気持ちを根拠として上杉北条間の楔になったに違いないって
主張するのはどうかと思う。
浦野と豊前の違いは多分江戸幕府における高家と有力大名の違いみたいなものだろ。
765 :
名無し曰く、:2009/02/16(月) 19:00:25 ID:ry98p3G6
>>755 浅利の息子について
>>730を無視してくのってどうよってかんじだけど
無視してないけど実際に影響ってどの位?
三増峠が同盟の楔とか戦略的とか飛躍しすぎて大袈裟だって事。
包囲されるのは武田軍ね。氏照が氏政の軍を待たず劣勢で追撃したのは
信玄の撤収が早く取り逃がす可能性が高かいと判断したんじゃないかって事。
あと氏照の書状は殿の軍とも解釈できるし
矛盾した信玄の行動の裏付けにはならないっぽい。
766 :
名無し曰く、:2009/02/16(月) 19:04:22 ID:ry98p3G6
767 :
名無し曰く、:2009/02/16(月) 21:36:48 ID:XtTsKFYC
質問なんだが氏康は国府台以降軍の指揮を取っていないが、この時だけ急に指揮権を取り戻して武田と戦ったって確かなソースはあるの?
ただでさえ三増峠に着く前に逃げられてしまって本隊は戦っていないのだから氏康の統率には関係ない気がする。
三増峠に関しては勝敗は置いておくとして、武田が小兵力の氏照氏邦に苦戦して重臣討ち取られたのは確実のようだから、信玄の統率sage?
氏邦はともかく氏照の部隊が負けていないというのは武田北条両者の書状で同じらしいから、氏照は統率大幅age?
768 :
名無し曰く、:2009/02/16(月) 22:07:03 ID:sw9bfuO6
引き分けも何も武田は戦略目的を達成して撤退したわけだから
信玄の統率110を下げることはない
北条は何もできなかったんだし
769 :
名無し曰く、:2009/02/16(月) 22:23:39 ID:v06JAPzy
村上、上杉、長野に負けまくってる信玄の統率110がおかしいのは同意。
770 :
名無し曰く、:2009/02/16(月) 22:42:20 ID:XiMx4qO2
統率100以上の奴は
全員-10するといい感じになると思う。
771 :
名無し曰く、:2009/02/16(月) 23:02:00 ID:Vqzdf754
>>755 俺は合戦そのものを否定する気はないけど、やはり勝敗がはっきりするほど大きなものではなかったというとこだと思う。
小田原攻め全体の信玄の戦略は悪くないと思うんだけどね、
この局地戦に関しては明らかに氏照の方が少ない兵力にも関わらず戦果が残っている時点で
武田の勝利とか言えるものではないとしか言いようが無い、負けと言うほどでもないだろうけど。
772 :
名無し曰く、:2009/02/16(月) 23:12:47 ID:0zV4T1g2
結論としては氏照の統率武勇うpで問題ないだろう。
信玄相手に寡兵で奮戦しながら80切ってるとかありえんわ。
773 :
名無し曰く、:2009/02/16(月) 23:45:19 ID:Vqzdf754
>>762 追撃戦で有利なのは、本戦で多くの損害を受けた兵を追いかけるからこそ有利なんだと思うけど
武田軍は小田原で合戦をしていたわけではない、特に損害を受けていない2万の兵力なわけで。
3倍の兵力相手に追撃だから当然有利なんていえる状況ではないと思うぞ。
あと、氏照の書状でも優勢だった前半では後方から追跡したようには書いてない、
最初に切所でぶつかってそこから山に一度引いた武田軍が撤退する際に一部がこちらへ来たと言っている。
甲陽軍鑑の記述を信用するならその部隊が馬場や浅利の部隊なんだろう。
この時点で言えば後方から攻撃しているのかもしれんけど。
滝山から津久井経由で来た氏照軍が三増の位置で武田軍の後ろにいるのは地理的にも変だし、
後方から追撃となると相当な大回りをしないと出来ない。
774 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 00:56:28 ID:nRqykGzR
>>762 帰路無法を働く武田兵を信玄は処罰できなかったともあるし
感状を発行し捕虜処断する北条に対し
遠山と奥平に勝ったと書状を送る武田の最後は有利だったのかな。
>>767 小田原まで武田軍が迫ってるから可能性はないとは言えないけど
氏康が篭城戦だけは指揮ってのは甲陽軍鑑だけかも。
三増峠は信玄の高い数値の根拠にならないと思う。
775 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 01:02:23 ID:vcdPIJVQ
しかしノブヤボってほんと終わってるな。この過大過小スレもノブヤボヲタっつーより
戦国板から流れてきた戦国ヲタみたいなのの方が多いし。
本スレには革新が最新作!なんて言い張る奴もいるしw
そりゃ順番的にはノブヤボシリーズの最新作ということになるだろうが、
2005年に出たようなゲーム新しくもなんともないだろと。
776 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 01:44:47 ID:IsV8McSY
結論は三増峠は
氏康の下げる要因にはならない
信玄が氏康より上となる要因にはならない
信玄の統率を上げる要因とはならない
氏照の統率武勇を上げる要因となる
これでおk?
>>773 追撃戦で有利なのは相手が逃げながら戦わないといけないからじゃ
あと鉢形滝山小田原と各城攻めてそれなりに被害出ているはずじゃ
また一ヶ月に渡って遠征していたのだからかなり疲弊していると思う
777 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 02:30:56 ID:iMoi8vbT
>>773 上の結論の方は同意。
滝山や鉢形で奮戦していたのも氏照や氏邦なので疲弊はお互い様だし、逃げながら戦うというより氏照の軍は位置的に前に居たはずという事。
そのためとりあえず有利ないわゆる追撃戦みたいな状況はありえないかな、と。平均的に見て1ヶ月ってそんなに長い行軍じゃないし。
もしも滝山や鉢形で損害があったとするなら、それはそれで氏照らの評価につながるけども
さすがに滝山城での戦いは北条側にとって苦しいものだったんだと俺は思う。
だからこそ八王子城みたいな巨大な城を築城しようとしたんだろうし。
778 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 02:31:45 ID:iMoi8vbT
779 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 11:51:51 ID:PF3RWeJc
>>763 段違い平行線っていうのがよくわからないが、
トータルで痛みわけ、みたいに言いたいのかな?
まあ北条もよく頑張ったとは思うが。
>>764 実際「お前が加勢してくれなかったからこんな事になった」とか
恨み言とかいわないんだろうか。
780 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 11:58:28 ID:PF3RWeJc
>>765 >>730を書いたのは俺なんだけど。
何が言いたいのかわからんのだが。
とりあえず直接的には対北条に対するいい宣伝にはなったな。
本拠焼き討ちなんてそうある事じゃない。
飛躍してもないと思うが。実際北条が恨み言言ってる事態ではな。
後ろから来てるんだから包囲はされんだろ。
だから信玄の行動のどこが矛盾してるのか。負けて退却するわけじゃないんだから
戦力的には反撃するのに十分だし、さらには追撃を振り切るためにそれを迎撃するのは
おかしくないし。
北条勢が追撃して武田後方の殿を攻撃→殿に被害出る→本隊が山の上で体勢を整えて反撃→
北条勢を撃退→さらに後方から氏政本隊が来ないかを警戒し備える→来ないようなので帰還
氏照書状と深沢書状あわせればこんな感じになるが。全然矛盾してないと思うが。
何を矛盾してると思うんだ?
781 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 12:07:41 ID:PF3RWeJc
>>767 一応深沢書状では
氏照も氏邦とまとめて破ったとある。
>>769 長野には負けてない。これは何度でも言う。江戸時代の講談だけ。
>>773 行軍隊形からして甲斐に向かって移動してる武田勢の尻尾から食らいつくんだから
有利だと思うが。少なくとも武田が後方の北条勢に向かう為に隊形を切り替えるまでは。
それまでは北条勢が殿相手に優位、そして山の上で体勢を整えた武田勢が反撃に出てから
兵力の差もあって武田優位、北条撤退。順当な流れだと思うが。
一部がこちらに来た、ってか敵が押しなだれてきた、って感じで書いてあったと思うが。
浅利の部隊じゃないだろ。軍鑑を取るなら山県や馬場、内藤といった連中だろう。
氏照は確かこの時の軍を集めるのに苦労してたはず。
実際滝山とかで損害を受けてるし。6、7千作るのには時間がかかったろう。
後方から攻めるのはおかしくないと思うが。
782 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 12:13:24 ID:PF3RWeJc
>>774 武田も感状だしてる。
それなら他ならぬ北条相手に三増峠の勝利を戦果として述べ、
細野城・田代城を攻略してる武田の後半が不利とは思えないが。
ここで言われるようにひたすら撤退で精一杯ならこんな事できんだろ。
>>777 氏照は滝山の痛手のせいかこの合戦の兵を集めるのに苦労してたはず。
それで寄せ集めみたいになってしまったとか言ってる。
となれば武田の後方から追跡する形になってもおかしくないが。
783 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 12:17:01 ID:PF3RWeJc
784 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 12:51:56 ID:pIl8fhmO
>>776 氏康 統率95
信玄 統率90
氏照 統率91
785 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 14:48:28 ID:uNR/pSFO
氏照は好きだが、90台はさすがに過大評価だ。
786 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 18:52:09 ID:nRqykGzR
>>780 浅利の息子について
>>730で間違った書き込みを
>>737でフォローされてるのに何事もなかったかの様にするのはどうなの?
三増峠後に北条が上杉から武田に方針変換した様子は見られないし
同盟の楔としてどの位影響があったのかって事。
信玄は撤退を始めたのは戦略的目標を達成したからじゃなくて
氏照軍らと氏政本軍に時間が経てば経つほど包囲される危険性もある訳で
矛盾した信玄の行動はまず何で氏照が兵的不利なのに追撃に出たと思う?
武田が不利な根拠なんかまるでないとうい反証で挙げたんだけど
信玄の感状は信憑性が怪しまれているし
津久井城の支城に近い両城が落城したとされるのは浅利が討たれる前では?
787 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 19:06:06 ID:vcdPIJVQ
もういい加減三増峠も飽きてきた。いつまでだらだらやってんだ。
話まとめる気あるのかお前ら。
武田厨筆頭に揚げ足の取りあいをとりとめもなく続けてるだけ。いい加減にしろ。
ただ相手して欲しくて雑談したいだけなら雑談板にでも池。
788 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 20:09:15 ID:tMk5mIwM
隔離スレまで来て何言ってんの
789 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 20:27:36 ID:iMoi8vbT
>>781 兵を集めるのに時間がかかって武田軍を後方から追いすがる形になるのであれば
甲府が津久井よりもはるか北西にある以上、少なくとも津久井付近から北西の位置でぶつかったのでないと位置的におかしい。
しかし実際は津久井よりもずっと南東にある三増で衝突しているわけで。
津久井から南にある三増に向かっている氏照の軍は
小田原から三増に向かって北上している武田軍の前に出るのは間違いない。
津久井−三増峠−荻野付近がほとんど一直線である以上
どちらかが迂回をしたのであればやはり三増峠ではなく、もっと津久井方面からそれた場所でぶつかっているはず。
ぶつかった後の戦局の流れ次第で結果的に武田軍が撤退に移り、それを追撃したというのは考えられるが
合戦当初は正面衝突に近い状況である事は疑いが無いと思うが。
軍鑑ではその馬場の部隊の殿軍が浅利隊だったはずだが。
790 :
名無し曰く、:2009/02/17(火) 20:39:49 ID:FxUlNr43
議論嫌な奴は本スレ行け。
791 :
名無し曰く、:2009/02/18(水) 06:19:57 ID:QdFy0Pv3
>>786 浅利についてだが、平山氏の文では信種死後に
一門衆でありながら一切記録が無くなる事から断絶したものと見られる、と述べているな。
確かにそれだけの一族が残ってたら記録がなくなるのは変な話。一回途絶えたのか。
これが何か?
その後もぐだぐだで共同攻撃はついに行われず、氏康が倒れたら一気に再同盟の流れに北条は動き出すけど。
だから何が矛盾してるのかさっぱりわからない。
小田原攻撃という戦略が達成目的でないなら滝山その他の城を攻略しないで小田原向かうわけないでしょ。
その小田原も焼き討ちして3日で引き上げてるんだから攻略がメインでなかったと見ればすっきりする話。
氏照が追撃を始めたのは帰還する武田に背後から襲えば殿には勝てると踏んだからだろ。
本隊に逆襲されたのは以外だったろうが。
感状や城について述べてるってことはID変わってるけど
>>765=
>>774?
とりあえず感状はちゃんと残ってるし、その2城が攻略されてる事からも武田が
帰還に手一杯だったってことはなくなるわけだが。
浅利が死ぬ前にやったというならそれこそ武田は北条との戦闘を想定して周囲の地形確保をしていたという事になるが。
これは北条側の軍記に見られる表現ではあるな。
792 :
名無し曰く、:2009/02/18(水) 06:27:57 ID:QdFy0Pv3
>>789 全然おかしくないと思うが。
武田が三増峠を通過中に氏照達が到着して攻撃を開始したとなれば
後方から食らいつく形になるが。
戦況から見るとこっちが近いと思うが。
北条側の軍記は三増峠にいて北条を待ち受けていたのは武田、というので一致してるな。
馬場の部隊、というと語弊があるな。
この時の武田の編成では馬場は勝頼隊他を引率する武田の中央軍なのでその殿軍である浅利もそういう位置づけだと思うが。
北条側の軍記でも前哨戦で浅利が死んだとしてるな。
793 :
名無し曰く、:2009/02/18(水) 21:57:43 ID:N5bWrdgW
>>792 北西へ進んでいる武田軍を後方から攻撃するためには武田軍より南東側にいかないといけないわけで。
北から出発した氏照軍が三増のさらに南東側に行くためには三増に居る武田軍を通り越して迂回する必要があるというだけの事。
通過中とか先に居たとかは何の関係もないよ、むしろ武田軍が先に待ち構えていたのであれば追撃どころかもはや通常の野戦同様だし。
で軍鑑の話は意味がよくわからんぞ、武田の中央軍ってなんの事?
信玄なら旗本連れて山の上に行ってるし戦いに参加してる様子が無い。
794 :
名無し曰く、:2009/02/18(水) 22:42:24 ID:SZjTsFi8
>>792 断絶したらしく子供がいなかったのかに対して昌種の返答に
平山の主張は関係ないし何らかの行動があってもいいんじゃない?
補足するなら相備えを召し上げられても遺領は相続してるし
勝頼の時には加増もされてて断絶したとは思えないけど。
795 :
名無し曰く、:2009/02/18(水) 23:23:23 ID:SZjTsFi8
北条と上杉で交渉が難航したのは立場主張が相容れない部分が多いからで
氏政は氏康生存時から不服を示しているけど
これに対して三増峠が同盟の楔としてどんな影響を与えたの?
氏照は殿よりは優勢で追撃した可能性もあるけどそれじゃ既に信玄は撤退行程に入っているよね。
信玄自体が小田原焼き討ちを宣伝として利用してないのは
>>692にあったけど
戦略目的を果たせないのに殿を置いたのは北条軍に包囲される危険性があったからじゃないの?
両方とも自分だよ。
後半まで武田が不利な根拠なんかまるでないに対して
北条は感状を発行し捕虜を処断してるって事だけど
偽書の可能性がある信玄の感状と2城を攻略って
両城とも137貫の内藤氏津久井城の支城で田代城は殆ど館だよ。
796 :
名無し曰く、:2009/02/19(木) 00:15:23 ID:u5yhMAOW
浅利の遺領問題だけど信種は義信騒動の信玄筆頭ともされる立場で
信玄が帰路で野放しにした武田軍の騒動があったのは諏訪神社だよね。
今回の遠征に不満があったのか義信の件かはわからないけど
浅利の討ち死で勝頼相続に残した禍根は意外と大きかったのかも。
797 :
名無し曰く、:2009/02/19(木) 09:52:15 ID:u3aObaFg
>>793 だから南下してくる氏照が三増峠を移動してもはや尻尾を見せている
武田勢を襲う形になるならあたるのは最後陣だろ。
その相手は殿の一部隊、という事になるけどな。
だから、信玄が旗本を率いて山に登り、
実際に武田勢戦闘の主力として中央から進撃したのが馬場の部隊だろ。
そしてその殿である浅利は当然武田勢中央の殿となる。
>>794 実際その後に記録にはあらわれないらしいぞ。それを述べたまで。
あんたが言ってるのは何が論拠? 軍鑑?
798 :
名無し曰く、:2009/02/19(木) 10:01:10 ID:u3aObaFg
>>795 北条が上杉に対して恨み言をいうくらい影響を与えてるな。
不信感のさらなる醸成に役立ったろう。
だからどんな進軍形態でも殿は置くって。甲斐へ帰る途中で北条の「追撃」を警戒してたのであって
これは自然。「包囲」を警戒してたかは別問題だろう。全然矛盾しない。
そして戦闘が開始され、殿が打撃をうけたので山で体勢を整えて本隊で反撃、北条勢撤退、ってことだろう。
宣伝として利用してるって。りっぱに戦略目的は果たしてる。
諏訪にも遠山にも言ってるし、三増峠の戦いについては奥平にも述べてる。
てか
>>692にもしっかりそう書いてあるし、使者の口述だった可能性もありと
書いてあるだろうに。なんか意図的にスルーしてるのか?
武田のほうにも感状残ってるし、さらにいっておくと拠点をしっかり確保してるのに
何か問題でも?てかそっちの主張どおり武田がただ逃げるだけならわざわざ北条方の拠点を
奪ってるのは明らかに矛盾してるだろうが。
北条方に当てた深沢書状でも勝利をのべてるしな。後半武田優勢の根拠としては十分だろう。
遺臣の残した軍記でも一致だし。
799 :
名無し曰く、:2009/02/19(木) 12:40:08 ID:MAx8ETNA
自分の意見の根拠としては軍記を利用するのに相手が意見の根拠として軍記を利用すると批判w
800 :
名無し曰く、:2009/02/19(木) 16:05:15 ID:SefKo2rI
地理について、
滝川から三増峠まで津久井経由と思い込んでいる人多いけど、
津久井を通らず、
相模川を沿っていく平坦なルートもある。
このルートを使えば、厚木まで一番早く行けるし
三増峠・愛川・津久井も楽に行ける。つまり選択行動範囲が広いわけ。
つまり一つの仮説として、
北条は信玄の帰路ルートを、
厚木から相模川を沿って津久井にでる事を想定し、(こちらのほうが自然)、
迎撃するたまに、滝山から相模川を沿っていく。
この動きを察知した武田は北条に逃れるため、
あえて山岳(愛川)にコースを途中変更する。
北条も武田の動きを察して
相模川沿いからもっとも行軍負担が少ない形で愛川に進入する。
当然、武田は山岳ルートなので
行軍スピードが遅く北条に追いつかれる(三増峠)。
よって、北条が武田の背後に回る事も、側面を突く事も十分可能。
801 :
名無し曰く、:2009/02/19(木) 16:12:52 ID:V7BkSRzF
ダブスタ君がここにもいるんか
武田厨の鏡だな彼は
802 :
名無し曰く、:2009/02/19(木) 17:14:30 ID:u5yhMAOW
>>798 平山の主張を引用したとして断絶したらしく子供がいなかったのかの問いに
昌種の名が挙がったのに無視かよって事なんだけど。
嫡子がいて浅利郷が他者に宛てがられた形跡もないのに断絶とは。
上杉への不信感を否定する書き込みもあったけど
自分は上杉への不信感は高まったとしても
信玄の戦略として同盟の楔とするのは大袈裟じゃないかって事なんだけど。
803 :
名無し曰く、:2009/02/19(木) 17:34:05 ID:qqd5wOBP
>>802 詳しい時系列は知らないので与太話程度だけど、
確かこの前後に信玄は謙信と和睦してなかったっけ。
謙信が出陣しないことがわかってるなら、確信犯的犯行で計画通り(ニヤリ でいいと思う。
804 :
名無し曰く、:2009/02/19(木) 17:34:51 ID:u5yhMAOW
深沢矢文に対する見解と軍記の信憑性は前述の通りだけど
小田原城焼き討ちが目標としていた戦果を挙げたのに
国内に宛てた書状にしかみられず国外に関連した記述が見られない以上
現状ではこれを目的と見るのは無理だと思う。
だから信玄は目的を果たしたのでなく
戦況の悪化により殿を残し撤収を開始したと方が自然でしょ。
武田軍が拠点とする程内藤氏の館と小城は大きくないし
津久井城は落とせず両城への攻撃は撤収する前だよ。
805 :
名無し曰く、:2009/02/19(木) 17:44:32 ID:u5yhMAOW
>>803 謙信は信玄と和睦を成立する前から北条とは成立してないんだよね。
信玄が信濃防衛を優先した講和が北条に筋違いで不信感が高まったとしても
まだ成立していない同盟の楔とかって変じゃない。
806 :
名無し曰く、:2009/02/19(木) 23:51:29 ID:9kJrPMOG
>>800 氏照の軍が武田の後背もしくは側面を突くためには確かにそのぐらいの迂回をする必要がある。
現在、16号線が通っているところなのでその経路は俺も真っ先に考えたが
まず武田の視点で考えた場合、下記の理由からその経路で撤退するのは
考えにくいという考えに至った。
・1 甲斐へ向かうには単純に大きく遠回りになる。
・2 その経路は氏照の領地で津久井筋に比べ格段に危険である事。
・3 相模川を2回渡らなければ甲斐へ戻れない経路である事。
1は単純、物凄く遠くなる。特に氏照は津久井を経由せずに厚木周りで三増に向かうとなれば
氏政の方が先に着くんではないかというぐらい遠くなる。完全に小田原より遠い。
これではそもそも時間軸的におかしくなってしまうのではないだろうか。
だがこれだけであれば、まだ一考の余地はある、しかし2と3が致命的。
2はそもそもこの経路は滝山を攻撃した際に実際武田軍が通っている経路であるが
それはつまり滝山から最も近い経路であるということで津久井のような北条領と武田領が入り混じっているような場所でもない。
追撃を避けたいと考えるのであれば、この経路を通るのはかなり危険性が高いといえるだろう。
3が個人的には一番需要、相模川は今も昔もデカイ。
その為渡るだけでも時間がかかるだけでなく非常に危険を伴う事は言うまでもない。
甲陽軍鑑でも行きに渡る際に特に戦いがあったわけでもないのにわざわざ警戒しながら渡る際の描写があるぐらい。
武田軍が三増付近を経由せずにこの経路を選んだ場合、愛川までで一回、津久井・相模湖までで
もう一回渡らなければ甲府の方へ向かう事はできない。
追撃される危険性ということを考えた場合これは致命的といえるのではないだろうか。
807 :
名無し曰く、:2009/02/20(金) 10:02:51 ID:pdtZ/ArI
>>799 北条側の軍記にしかなくて同時代資料にはない氏康追撃と
同時代資料に根拠あって武田も北条も軍記で一致してる
武田勝利はべつものだが。
>>801 おお、いつもの無根拠ダブスタ認定君じゃないか。
いつもの通り答えてはくれないで逃げるだろうがどこがダブスタなのか具体的にこたえてね。
808 :
名無し曰く、:2009/02/20(金) 10:13:27 ID:pdtZ/ArI
>>802 そうかい。悪かったね。
でもまあその後一切資料に登場しないってのはかなり不思議だね。
甲越和与を小田原ぜめの前にやってるから
不信感醸成確信犯だろ。
>>804 だからその場合目的がなんだったの。
3日町を焼いてさっさと引いた小田原攻めを目的としてるとは思えないが。
駿河対陣の時に佐竹への書状で小田原に攻め上がるという表現があるから
関東勢力へのデモンストレーションとして小田原進撃は必要な一手だった。
諏訪大社に宣伝したって事は諸国にもひろまるし、里見にも勝利を報じてたろう。
だから小田原を焼いて引き揚げる途中で津久井を通り、甲斐に帰る途中で追いかけてきた
氏照を迎撃しただけの話でしょ。安全に帰還するために背後を確保するのは自然だし、
書状を見る限りどうも進軍途中に追い付かれて戦闘になだれ込んだようだが。
だから戦況悪化で引いたってのがそっちの考えなんだろ?
わざわざ小田原から甲斐に戻る途中なのに
そっちのいうように殿だけ残して急いで帰る途中でこの二つの城を攻撃する必要がどこにある?
この二つを攻略してるのだから武田がやる気だった事やきちんと迎撃してないと
つじつまあわんだろ。
809 :
名無し曰く、:2009/02/20(金) 10:15:02 ID:pdtZ/ArI
>>805 もうすでに越相同盟の前段階の和議は済んでて
同盟への歩み寄りや共同作戦も協議されてる段階だが。
十分楔を打ち込む対象だろ。
810 :
名無し曰く、:2009/02/20(金) 10:17:00 ID:pdtZ/ArI
>>808訂正
3日町を焼いてさっさと引いた小田原攻めを目的としてるとは思えないが。×
3日町を焼いてさっさと引いた小田原の攻略を目的としてるとは思えないが。○
811 :
名無し曰く、:2009/02/20(金) 11:31:28 ID:O6q18ptn
武田にはそういう目的もあったろうけど、上手くいかなかった。 でいいんじゃね。
812 :
名無し曰く、:2009/02/20(金) 15:11:48 ID:3yzdabYC
「義風堂々一直江兼続一前田慶次 月語り」
これはまた凄いストーリーだなw
上杉謙信と関白・近衛前久の妹・妙姫が恋仲であったという説は有名だけど、
なんと樋口与六(直江兼続)がその2人の遺児であり、、、
謙信の正統後継者であるとする説から物語を展開するわけだ
これは初めて見るパターンだな
たしかに直江兼継こそが越後の真の支配者であるとする証拠は、
近年いろいろ発掘されてきてる
先日テレビで直江による謙信暗殺説とか、
直江が主君・景勝よりも多くの騎馬を従えていたことや、
臣下であるにも関わらず秀吉(近衛家養子)から豊臣の姓を賜ったり、
家臣としては異例の米沢30万石の大封を与えられたりと、まさしく異例尽くし
妙姫は、謙信が結婚を断ったため憔悴して亡くなったとされるが、当初は存在の信憑性を疑われていた
それがここに来て近衛前久の日記で彼女の名前が確認されたことで、にわかに信憑性が増した
まあ一方では謙信女性説も以前として強いわけだけども。
813 :
名無し曰く、:2009/02/20(金) 21:25:48 ID:4vlbMWeR
三増峠での武田氏の出した感状はわかるけど、北条氏の出した感状とは何?
814 :
名無し曰く、:2009/02/21(土) 03:31:32 ID:hR/9k+nx
>>808 >>だから小田原を焼いて引き揚げる途中で津久井を通り、甲斐に帰る途中で追いかけてきた ・・・
>>806に書いたが氏照が津久井付近を経由してきたのであれば三増峠では武田軍の前に出るしかないぞ。
>>800の人が説明してくれた経路を通らないと三増峠の南側へ迂回して武田軍の後方を突く事はできない。
ちなみに
>>797で移動してもはや尻尾を見せているとか何を根拠に言っているのかもわからなければ
地形的にも意味のわからん説明が書かれていたが、どこを通って武田軍の後ろに出るという
>>800のような説明が無いから返答のしようが無い。
815 :
名無し曰く、:2009/02/21(土) 05:04:09 ID:ln4OYcV9
柴田勝家が一番気になるわ
革新では織田家中どころか、全国屈指猛将なんだが
勝家って、こんな評価されるような武勲あったっけ?
816 :
名無し曰く、:2009/02/21(土) 08:35:49 ID:BR3x/m+R
甕割柴田くらいしかしらないなあ。
817 :
名無し曰く、:2009/02/21(土) 09:08:02 ID:e8j1yASe
柴田は織田家中で北陸方面司令官
武勲の面で大きく力買われてたから起用されたんだろう。
光秀や秀吉と比べ政治知略は大きく劣るし統率だけは高くて問題なかろう。
梁田やら原田、佐久間みたいに途上で消えた武将ではないんだし。
818 :
名無し曰く、:2009/02/21(土) 11:36:39 ID:mrkXNwVF
>>814 武田が尻尾を見せていた根拠としては
氏照書状の前半部に小荷駄を攻撃した、とある所からも殿軍と戦ってる所からも
明らかだと思うが。
てか武田の書状でも武田北条の軍記でも後方から北条が追跡してきたって
流れは共通なんだよな。
819 :
名無し曰く、:2009/02/21(土) 11:56:44 ID:20rONf7B
>>808 父虎在の記録や信種も義信反旗以前は殆ど見ないし
昌種は父ほど才覚なく元に戻ったと考えるのが自然なんじゃない。
信玄の小田原侵攻は北条の譲歩を引き出し和議を早めたし逆効果でしょ。
自分は最初に関東勢への影響力を高めるのが目的と主張してるし
小田原焼き討ちを目的としてたなら成果を上げたとして
里見以外にも佐竹や織田への書状に触れてないのは不自然じゃないって事だけど。
両城は小規模の館と砦で別に本隊じゃなくても十分可能でこれは氏照の部隊にも言える事。
逆に退路を確保できずに小田原に向かったとなると武田軍の侵攻も順調じゃなかった可能性もあるね。
820 :
名無し曰く、:2009/02/21(土) 13:35:15 ID:20rONf7B
氏照が劣勢なのに追撃した理由。
1殿だけなら勝てる算段。
2信玄の撤収が早く氏政本隊を待てば間に合わない可能性が高い。
これは両立出来そうだしお互いの考えに大差ないよね。
信玄が支城を攻略したのに津久井城を攻撃しなかった理由。
1氏照が殿を破ったので安全に撤退するため反転。
2北条軍に包囲される可能性が高いので威嚇だけして素通り。
この時点で信玄の優先順位は甲斐に帰還する事で
わざわざ信玄が軍を分け反転して氏照らと交戦し田代城や細野城を攻略する必要もないし
後に氏政と交戦する備えも津久井城を攻略素振りもない以上
三増峠は戦況悪化による撤退で殿を置き邪魔な津久井城に威嚇して
そのまま撤退したのが自然じゃない。
退却に成功しても勝ち負けの判別もつかないし高能力の根拠にならないと思う。
821 :
名無し曰く、:2009/02/21(土) 14:08:53 ID:pvwbapaT
参考にだが北条家はだいたい100貫で兵10ちょいだったと思う。
武田が出しているのは感状ではなく朱印状だった、但し信憑性は低いので無視していいかと思う。
>>754 浦野民部に関しては
1567年5月1日の朱印状による知行宛行で
150貫加増があった。
豊前がどの程度の兵力かは判らないけど、浦野民部が既に豊前の主君である古河公方を上回っているので
軍事上は明らかに浦野の方がより大身であったでいいと思う。
>>782 感状は出していないと思うが具体的にいつ?
細野城・田代城は他の人も言っているように城とは名ばかりの数十名程度の館でしかない。
また落としたことも一次史料・江戸時代初期の軍記物には存在せず、
落としたことが事実であっても当時では無視されるような城でしかないということに。
落としたという伝承は後年の地誌(相模風土記に似た名前だったと思う)による。
>>796 荷駄を失ったせいか季節のせいか武田は寒さを凌ぐため諏訪神社だけでなく撤退路にある寺社を壊しては
それを薪代わりにして寒さを凌いだという。
諏訪神社の逸話が有名なのは勝頼が諏訪神社の被害を補償したからかもしれない。
>>797 浅利昌種に関して言えば、武田氏の現在ある一次史料には一切名前は無い。
ただ他の人も言うように昌種は信種に比べ無能だったとのか被官同心減らされているので、
武田家の重要人物はなくなっている。
822 :
名無し曰く、:2009/02/21(土) 14:30:13 ID:pvwbapaT
駿河偏重の防衛体制を北条に改めさせることへの否定の付けたしだが、
1569年5月からの各種書状などより、
武田が相模武蔵へ攻め入るのは必然といい、防備を固めるよう指示、滝山にも人を入れている。
小田原や国境の普請を行わせるいったのは1569年11月23日だった。
>>748 10月24日の遠山氏の山吉宛書状のことなら、
越中へ働きその地をご静謐にすることが重要です、その上で武田を攻めてください
といっている。
また1569年11月13日氏康謙信宛書状で
秋に越中に行ったら、神保の敵対があったとのことなので越中への出張のこと納得しました、
と言っている、なので北条も越中攻めに関しては理解していたのでは。
823 :
名無し曰く、:2009/02/21(土) 14:51:47 ID:pvwbapaT
相越同盟だが、
1569年6月に血判について6月28日に上野引渡しの件について
1569年8月5日松山城は上田氏の本領なので上田氏に帰属するかについて
と三増前でもある程度話あっているが、そこから更に1570年の春まで人質のことや岩付のことなので話し合っている。
武田と上杉の敵対関係についてだが、
1569年11月14日遠山の山吉宛書状で、
雪の中信州へ動いて敵50討ち取りと聞き、北条父子は大変喜んでいます
1569年11月20日氏邦山吉宛で
信州境に人を置き、早速の越山に満足しています
とある
1569年12月10日信玄信長宛では
武田は先ごろ信州へ出馬したと書いてあるのは、この上杉の出馬を指しているのではと思う。
1569年11月29日氏邦書状より、謙信が沼田に着陣して満足している、
1569年12月9日謙信芦名宛で、北条と協力して武田を押し詰める積りだと語る
その動きに対して上にも書いた1569年12月10日信玄信長宛で
信長義昭に頼んで謙信の動きを封じる武田の味方になるよう要請
それでも
1569年12月19日信玄高山宛で、
駿河の各城落としたので、伊豆相模に攻め込みたいが、沼田の上杉が不安なので、
普請が出来次第甲府に帰り、岩村田まで出陣する
と言っている。
824 :
名無し曰く、:2009/02/21(土) 15:06:48 ID:pvwbapaT
1570年1月4日氏政謙信宛1月15日遠山山吉宛書状で
佐野攻めについて不審に思うと書いているので
これに関しては不審に思い文句を言っている。
1570年9月3日氏真が山吉柿崎直江宛に上杉勢が信州へ出張の由
1570年9月3日朝比奈が山吉柿崎直江宛に上杉勢が信州へご進発の由
と書状を出している
1570年10月24日上杉条書で
去る20日信玄が越山してきたが程なく退散
景虎は信越の仕置きのため府中に置く
とある
あと1571年10月に景虎が信州口での働きに対する感状を出している
というわけで激しく戦火を交えているわけではないだろうが上杉はそれなりに動いているし、
武田もそれによって動きを制限されている。
825 :
名無し曰く、:2009/02/21(土) 15:12:26 ID:pvwbapaT
甲相再同盟の動きだが
1571年10月27日信玄一色宛で
沼田前橋撃砕後、秩父の人民断絶した、来月中旬に小田原へ向かう
とある。
また1571年12月3日対武田での戦闘に対して北条が出した感状が3つ残っている。
と再同盟直前まで激しくやりあっていたようだから、
氏康が死ななければ再同盟は無かったかもしれない。
826 :
名無し曰く、:2009/02/21(土) 17:31:49 ID:hR/9k+nx
>>818 荷駄隊が後ろに居るって事がそもそもあなたの想像以上の何者でもない。
甲陽軍鑑で内藤が小荷駄奉行を任されて 「しんがりはともかく小荷駄奉行は不名誉」
と言っている場面もあり、その翌日に信玄が山に上がるより先に三増を上がっている描写があるため
少なくとも軍鑑では前の方を進んでいる。
無論軍記なので軍の編成などはっきりした論拠とは呼べないが、一応そちらのレスに即したレスを返したけどね
俺が聞いてるのは「どの経路を通って三増峠で氏照の軍が武田軍の後ろに出れば良いのか」と聞いているのであって
軍記や書状で後ろからと書いていたから後ろから攻撃した、なんてのはそもそも反論になってない。
地理的に不可能なのであれば恣意的に記載できる書状や軍記の記載の方を疑うのは当たり前すぎることなわけで。
827 :
名無し曰く、:2009/02/22(日) 00:10:19 ID:U5wXu7bn
>>826 不可能って事はないんじゃない?
北条の書状でも軍記でも追跡の形を取ってるのは重要だと思う。
828 :
名無し曰く、:2009/02/22(日) 15:14:22 ID:JiUhV7KL
三増峠に関しては、少なくとも北条側の死者が2千ていうのは間違いなく大誇張
この時期、この軍規模の激突で、一方的に2千も死者をだしたら、空前の大敗北であって
とても内外に隠し通せるようなものじゃないしね
どうみてもお互い、大規模衝突の前に軍を引いての痛み分けでしょ、勝ち負け無しの
というか、三増峠に関しては、いまさら詳細が分かるわけでも無し、この辺でもうカンベンしてください
829 :
名無し曰く、:2009/02/22(日) 19:35:53 ID:f4n86wFA
>>808 >里見にも勝利を報じてたろう。
そんなの知らんな、ソースは何?
あと深沢矢文も真偽問題あるよな
830 :
名無し曰く、:2009/02/22(日) 22:25:52 ID:rruoJzt0
>>829 奥平に勝利を報じてるよね。
>>692でも言われてるけど。
その事を里見と間違えてるんじゃ。
どんな所?
内容みると非常に史実をよく網羅したものだけど。
831 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 02:42:34 ID:lGf9ceVH
>>819 それでも記録に一切ないってのはな。
逆効果とは思えんが。その後もろくに上杉は北条の救援をしなかった。
よくわからんのだが。関東勢への影響を強めるために小田原攻撃をしたと言いながら
宣伝がどうとか。宣伝は関東勢への影響を強めるためのものだろう?
これもよくわからんな。退路って、また逆走して小田原から西上野まで戻るのか?
甲斐が近くにあるんだからそこ行けばいいだろ。
本隊じゃないとしたらますますそっちの主張と矛盾する。
武田はわざわざ津久井方面の城攻略して地形の確保に努めてるんだからな。
戦う事を想定して備えてるとしか思えんが。
832 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 02:46:43 ID:lGf9ceVH
>>820 うむ。そこには問題ない。
そこは違うな。
信玄の深沢書状では三増峠で氏照を撃退した後で
氏政の追撃に備え、氏政が来ないようなので帰還したとしっかり書いてある。
だから>>後に氏政と交戦する備えも
これはある事になる。
三増峠で高い能力もらおうとは思わんが。
833 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 02:51:02 ID:lGf9ceVH
>>821 問題はそこら辺まで武田勢が進出してることだが。
明らかに撤退一直線というそちら側の主張とは矛盾する動きだ。
>>822 そんなに円満だったら氏康死後に再同盟の動きにならんだろ。
さらに言うと謙信の方もいそいそと氏康死後に信玄と同盟しようとしてるしな。
関係はぼろぼろに見えるが。
皮肉を込めたように感じられるんだが。
834 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 03:05:51 ID:lGf9ceVH
>>823 1569年12月6日には駿河蒲原を攻略してるが。
11月9日には駿河平定の願文だしてるし、主な視点はこっちにシフトしてるようだが。
その割には北陸ばっか攻めてるけどな。
沼田着陣も佐野攻めてろくに武田と戦わなかった。
氏邦もさぞがっかりしたろう。
>>824 深沢書状では武田と上杉はは上野方面で対峙したようだが。
上にもあるが。
まあどっちにしろ武田は1570年代になれば駿河主要部はおろか伊豆にも進出するように
なるわけで。かなり攻勢に出られてると思うが。
北条にしてみれば上杉にもっと動いてもらわにゃ割にあわなかったろう。
835 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 03:07:51 ID:lGf9ceVH
>>825 氏政が再同盟発表してるのが12月末。
この交渉は水面下で進められたというのがまあ定説だな。
これだけの交渉が即座に決まるわけもなし。
てか氏康が死んだのは10月だしな。
836 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 03:14:43 ID:lGf9ceVH
>>826 不可能なんてとても思えんが。
その内藤に対して信玄が説得してやらせてるな。
少なくとも戦闘序列としては前じゃないが。
反論になってないってのは決め付けだな。
滝山から南下して三増峠をすでに武田が通過中なら必然的に後方につくことになる。
もしくは横あいからななめに向かう感じか。
てか氏照書状でも軍記でも武田の書状でも一致してるんだから問題ないと思うが。
837 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 03:16:13 ID:lGf9ceVH
>>829 奥平のと間違えた。悪い。
深沢書状は非常に駿河平定までの流れが正確だけどな。
838 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 03:18:15 ID:lGf9ceVH
>>828 それでもいいような気になってきたから不思議だ。
839 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 13:41:38 ID:WhzQeoH9
一次史料よりも他の物を重視して自分の意見を根拠とする、流石は・・・としかいえんな
話し合いなんて望んでいなくて単に自分の意見をごり押ししているようにしか見えんな
840 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 15:14:51 ID:ql2tmAgl
>>839 信玄の書状数点に深沢書状、氏照書状、
これって一次史料でしょ?
これを基に武田北条双方の人が意見展開してるようにみえるけど。
これだけじゃよくわからないから軍記とか出てくるけど別に悪くないんじゃ?
武田北条双方の遺臣が書いたものだし。
武田の書状全部否定して北条の書状だけ神聖視するのも変な話だし。
841 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 19:49:15 ID:Btd/oPKd
839だが
このスレを見る限り例の人は
その史料の中から武田に都合がいい部分だけ引用したり
前後を無視して恣意的に解釈したり
武田に都合が悪い部分はガン無視したり
というのが目立つ
史料には書いてないけどきっと嫌味を臭わせているとかも本人の勝手な感想じゃ
こんな感じの論調じゃ上みたいな印象しか受けない
その上深沢書状も怪しいらしいし
>武田の書状全部否定して北条の書状だけ神聖視するのも変な話だし
ぶっちゃっけこれの逆やっていて
ついでに北条の史料で武田にとっては都合がいい部分を引用するのが例の人じゃ
842 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 19:59:46 ID:Yo8oGOkC
流れが正確って・・・。史料どころか講談小説の類も
信長が本能寺で討たれるまでの流れとか
秀吉が天下取るまでの流れとか、流れ自体はどれも正確だよ。
これが信長が本能寺で討たれずに天下を取って世界征服を始めるような流れになったら、
歴史小説じゃなくてファンタジー小説になる。
843 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 20:05:38 ID:fYCD7K1X
>>841 そうはいうけど、北条側が勝ったっていう根拠って
あんまりないと思うけど。
武田側の都合のいい部分を引き出して北条側に都合のいい解釈をしたり
北条側の書状で書いてない事を好意的に解釈するのは北条側の人もやってるよ。
らしいし、っていう推測で批難するのもいただけないね。
>>842 講談小説とかはかなり中身とか時系列とか間違えてるのも多いよ。
深沢書状は見る限り内容に変な点は特にないと思うけど。
批難するなら深沢書状の具体的にどこが悪いのかを言わないと。
844 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 20:12:06 ID:fYCD7K1X
というか武田厨の人って別に氏照書状を全否定とかしてないんじゃない?
レス見ても基本的にその内容を踏まえてるみたいだし。
敵が押し雪崩れてきて越度無、の所から不意に氏照の書状から具体的な内容がなくなるのは
確かに不可解だとは思う。
845 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 22:32:06 ID:XFeFvJBf
深沢矢文は単純に学者内で後世の創作か?って疑われている話のことかと思う。
846 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 22:38:39 ID:XFeFvJBf
ちなみに何が原因で疑われているかは専門家じゃないので自分には不明。
一般書では普通に引用されていたりするかもしれないが、学者連による武田氏関係の専門書では要検討とかの扱いになっていた。
847 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 22:53:19 ID:/N1epjIo
>>827 氏照の書状で追跡という事は何も書かれていないよ。
荷駄隊を崩したという事が記載されているだけ、軍記でも北条記だけ
この北条記は武田の進軍経路でも謙信の進軍経路とごっちゃになっていたり
三増峠の追撃軍も「小田原衆」と呼んでいて、位置関係に関して詳しい考察がされているようにはとても思えない。
これを論拠にするのは難しいかと、そもそも作者不明で北条の軍記と呼んで良いかどうかすら不明な怪しい代物だし。
>>836 >>三増峠をすでに武田が通過中なら必然的に後方につくことになる。
大きく迂回しない限り普通に北条軍は三増峠の北側、武田軍の進行方向に出ます。武田軍の後ろになど出ようが無いよ。
通過中とか何の関係もない。
また横合いから斜めにというけど、峠に居る相手を横から討つからには氏照の軍は峠を横から進入しないといけない。
どのような経路を通って氏照がそんな位置に移動したのか、それを尋ねているわけだが。
848 :
名無し曰く、:2009/02/23(月) 23:11:47 ID:XFeFvJBf
ぐーぐるマップで見たところ
少なくとも高尾山の東を通って南下 ここまでは確実として、
どこで相模川を渡るか。
湖はダムによるものだから当時は無いとして、津久井城に向かうと若干遠回り、
三増峠に一番近いコースだと串川付近で渡河して小倉の山を北周りで避ければ北から三増峠だが、
若干遠回りになるがその山を南周りで避ける形で渡河すれば南から三増峠
とこんな感じ?
地図見た限り南からだと結構遠回り。
この状況で南からとすると
・渡河地点が限られている
・武田は当初鎌倉方面向かうと言っていたので北条軍は最初は南に向かっていた
・三増峠より南方で迎え撃つ予定が予想以上に武田の撤退速度が速かった
・峠を封鎖して包囲ではなく北条本隊と合流する予定だった
とかの理由が考えられるか?
849 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 01:28:17 ID:++WGzWQB
>>848 まず高尾山の東を通る必要はあるだろうか?
まぁ東ってどのぐらい東なのかが良く判らんけど。
とりあえず滝山から素直に南下してくるのであれば
現在の八王子バイパスよりちょい西付近を抜けて
そのまま津久井筋の付近へ南下する形になると思われる。
津久井湖が有ろうとなかろうとこの辺は変わらないと思うがどうだろうか?
それはさておき、それぞれについて考えてみる
・渡河地点が限られている場合。
実際に限られてはいると思う、それだけに双方が氏照の支配下で
要所である津久井と滝山をつなぐ渡河地点が設けられて居ないというのは考えにくいと思う。
・鎌倉方面へ向かうと想定した
方角的な理由としては一番納得できるが、やはり遠すぎる。
氏政の追撃が間に合わなかったと言うその後の流れがある以上
あまり遠すぎるルートを通ってこれる程の猶予があったかどうかはちょっと難しいところ。
また、武田軍がこのルートを選択したと仮定すると撤退したと言うよりさらに北条領の奥地へ突き進むルートになるため
焦って退路を防ぐ必要性自体がなくなると思われる、鎌倉方面から甲斐方面へ帰還するためには結局西へ戻ってこなければならないわけで。
・三増峠より南方を想定していた。
その場合小田原は三増峠から見て、さらに西にあるため
やはり津久井筋を通っていくのが自然であって、東側へ行く理由はますます無くなると思われる。
・北条本隊と合流してから追撃する予定だった。
迂回する理由としては納得できる。
だけどどこで合流する事を想定するか、がポイントかな。
荻野や相川の付近を想定していたのであれば
結局、津久井を通った方が早くなるし。
850 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 01:55:31 ID:xz92m9MJ
神奈川県道511号をチェック
八王子在住ならこのルートを使って愛川・厚木にいくだろう。
それ以外のルートは何回も山を登る下る繰り返す。
三増峠から神奈川県道511号まで車で10以内。
851 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 03:09:50 ID:xz92m9MJ
滝山→元八王子→高尾駅→町田街道→神奈川県城山→県道511.
甲斐への出口を塞ぐなら、三ヵ木・相模湖(反町)にバリケードが自然。
津久井城を意識しての三増峠布陣なら大失敗
(三増峠を経由せずに三ヵ木・津久井城・八王子は迂回できる→長竹、511号
追跡の末、結果的に三増峠開戦じゃあないだろうか。
852 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 03:36:24 ID:hw13zOb6
>>847 北条5代記でも北条勢追跡という形だよ。
そんで武田が三増峠に兵を伏せていて北条勢が進軍した所を襲撃して
撃退する流れになってる。
北条5代記は北条遺臣の三浦が書いたものだし、北条の軍記が二つとも
北条が武田を追跡する形をとり、武田の書状でもそうなっているのは重要だと思う。
荷駄だって一番前で進軍するわけないんだから
氏照書状で真っ先に攻撃されている事が述べられているのが荷駄隊であるというのも
これを裏付けているように思う。
ルートは
>>851の人のはどうだろうか。
853 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 03:37:27 ID:++WGzWQB
>>850 まず、当時の相模川がどのくらい今より大きかったかはわからないが
少なくとも津久井湖などがある現在よりはずっと太く広かった事は間違いなく、
下手をすると小倉山付近の511号はそもそも川だった可能性もある。
武田軍がもし山から川へ向けて襲い掛かってきた場合、背水の陣になる状況でもあり、かなり危険と言わざるを得ない。
平安の頃より氾濫が多い川で、整備のされていなかった当時というのもあるが
>>738で北の利根川で大暴風雨のあった年だと言う記録もある。
また津久井付近で川を渡った頃には、武田軍は既に愛川から三増の方面に抜けているであろう頃であり
(そうじゃないと武田軍が先に三増に着きようがない)
そこから三増方面を避けて川沿いを選ぶ事自体が、既に不自然。
武田軍が甲斐とは反対のそちらの道を選ぶ可能性は皆無だし。
854 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 04:17:46 ID:++WGzWQB
>>851 上で山を避けて平地を通ることを重視しているのに
滝山から津久井へのルートは高尾の方へ向けて出発するというのも変な話では。
三ヵ木や相模湖で食い止めるというだけなら普通に平地を南下してから西へ目指せばよいわけで。
そして津久井に着く頃には武田軍の方向ぐらいはおおよそわかってくるだろう。
そうすると武田軍が三増へ先に布陣をしている以上、三増の方へまっすぐ向かうしかないと思うわけだが。
>>852 五代記で追撃してたのは氏康じゃなかっただろうか?
855 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 05:24:31 ID:TbOl24+6
ざっとまとめてみる。
織田家 信長…適正 家臣…やや過小 備考…家臣数が過大、強そうな奴は大体豊臣家臣だったり
豊臣家 秀吉…過小 家臣…過大
上杉家 謙信…政治過小 家臣…政治過小戦闘過大
武田家 信玄…やや過大 家臣…過大 備考…信玄死後以降の家臣は過小
北条家 氏康…適正 家臣…過小 備考…五色備え他強そうな奴が未登場
毛利家 元就…適正 家臣…過小 備考…両川頼みな構成
今川家 義元…適正 家臣…かなり過小 備考…強そうな奴は大体松平家臣
大友家 宗麟…適正 家臣…過大
856 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 05:30:00 ID:++WGzWQB
>>855 俺が言うのもあれだけど
武田の家臣って真田関連が突き抜けてるだけで後は過大と断言するレベルじゃないと思う。
857 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 08:53:27 ID:hKewJxLy
ただ過大過小と言われても根拠をちゃんと書いてくれないとな
俺的には秀吉は至って適正値だし上杉も柿崎以外は戦闘値も適正だと思う。
むしろ兵数が過大
858 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 10:25:22 ID:hw13zOb6
>>854 北条5代記では氏康達が追撃し、その後で各地から北条方の武将達が
武田追撃のために馳せ参じ、三増峠で撃退されたのは氏規達の部隊という事になってる。
859 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 15:30:15 ID:kyohgt2v
>>855 北条のキレンジャー以外の五色備は、
史料はおろか伝承もほとんどないから能力値をつけられないと思う。
まあ、松田兄弟とか山角兄弟、諸衆の重要メンバーで未登場のやつらも結構いるから、
まずはそっちだろうね。
能力値は一族は結構適正、家臣が(主に軍事方面で)過小。
860 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 20:22:04 ID:TxGN2I8A
>>825 いろいろ参考になるよ。乙
氏康の遺言はかなりあやしいと思う。
>>831 信種の記録も義信以降に集中してるし
浅利と武田の所領を比べれば特に違和感を感じない。
そんなに気になるなら自ら訪れて調べてみたらいいんじゃない?
861 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 20:26:08 ID:jbugi3FE
武田信玄はよく取り上げられてるが、
武田信繫ってどうなん?
四名臣とかと比べても
全体的に高すぎる気がするんだが
あと、義元は過小だと思う
雪斎に吸われてるとしても、もうちょっと
評価あってもいいと思う
862 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 20:44:57 ID:TxGN2I8A
三増峠の後も北条と上杉はお互いに確認しあって関係改善が進んでるよ。
信玄の北条領侵攻は退路が確保できずに奥に進むなんて
当初から考えられた行動としては稚拙じゃない。
津久井へも本格的に拠点攻略に動いていないし
氏政が来なかったってのは負け惜しみや
信玄は凱旋できずに面子を保とうとしてる風にも見え
これから戦う相手より先に高地に陣を引き
一日も待たずにその場に離れるなんて備えたとは言えないでしょ。
863 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 21:10:49 ID:TxGN2I8A
>>849 津久井に向かったのは武田の別働隊で全軍が進んだっけ?
三増峠の部隊も氏照じゃなく氏政に備えてて
本隊は既に三ヶ木まで行かなくても三増峠から離れてたら
氏照らが信玄を追撃するとする表現で変ではないんじゃない。
864 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 21:22:58 ID:sgvgevfO
>>860 訪れるってどこを?
>>862 関係改善なんだろうか。
さんざん同盟条件の履行について衝突し、
北条が折れる形で履行されたはいいものの共同作戦は実現せず、
結局1571年には上杉に武田と北条が和睦するという噂が流れてすぐさま緊張したりしてる。
だから小田原から逆走して西上野までいくんかいと。
小田原から甲斐に直接帰った方が近いんだからそこを行けばいいだけだろうに。
何が稚拙なのか。
負け惜しみっていうのがよくわからんけど、そっちの書きぶりだと
氏照達が撃退されたあと一日近く信玄が備えていたのを認めてるように見えるんだが。
それなら三増峠の激突は武田が最後に戦場に踏みとどまった事になるんだが。
てかさ、なんで帰還途中で追撃を振り切るために迎撃したのに
氏照達を撃退して氏政達に備えて、しばらく氏政達は来なさそうだって事がわかったのに
長居する必要あるんだよ。そのまま帰ったのは自然としか思えないが。
865 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 22:13:30 ID:TxGN2I8A
>>864 昌種の事を調べるなら山梨県東八代郡浅利が
浅利氏の本貫地だし現地を訪れるのも良いんじゃないの。
両家のやり取りは
>>832-833にもあるし前進してるでしょ。
破綻したのは両家の成り立ちと氏康と違い
謙信と氏政の考え方の違いからくる所が大きいんだから。
無理して小田原まで行く必要性を感じないだよね。
小田原焼き討ちが目的で満足いく結果が得られたのなら
殿を置き早々に撤退すれば良いわけで
氏政以前に氏照と交戦する意義がわからないし
現に氏照の進軍ルートや交戦状況は不明だし。
866 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 22:17:32 ID:TxGN2I8A
867 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 22:17:33 ID:RvjKa0Ca
信玄と氏康って総合能力ではどっちが上?
868 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 22:23:46 ID:xz92m9MJ
滝山かや津久井の経路はそんなに重要じゃない。
北条が恐れたのは津久井城攻略されこと。
武田が津久井を攻略したら、北条は関東どころじゃなくなる。
氏照は511号から武田の背後に回りこみ
津久井城手勢と挟撃しようとした可能性があるなあ。
氏照が深追い追わなかったのも、津久井専守の目的があったため。
869 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 23:15:49 ID:++WGzWQB
>>868 津久井を専守したいなら津久井で篭城すれば良い。
そこそこの要害なんだから少なくとも小田原勢を待ち受けられるだけの時間は余裕で稼げるぞ。
そもそも511号線に関しては
>>853で書いてるがちょっと考えにくい。
当時は補整もされていないし山から襲われたらひとたまりもない低地で川沿い(川沿いどころか一部川そのものだった可能性高い)を
わざわざ背水の陣を敷いて突き進む意義がわからない。
見通しの良い低地の川沿いを5000を超える大軍が行進してたら山にいる武田軍が気付かないわけないわけで
あまりに危険極まりない割に結局武田軍から隠れて動けるわけでもない以上、ほとんど意味も成してない。
それどころか相模川の当時の形状次第では通りやすい道だったかどうかもかなり怪しい。
870 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 23:26:55 ID:TxGN2I8A
信玄は小田原の撤退を早期から考えていて軍記だと
撤退行動を悟られ氏政の反撃に警戒し荷駄隊を先頭にバックで小田原から徐々に離脱する。
小幡?の別働隊を斥候に津久井方面に向かわせる。
氏照らが津久井方面へ一気に抜け武田の別働隊を破り勢いに乗り三増峠へ。
氏照らの行動が思いのほか早く対応に間に合わないまま荷駄隊が先行し三増峠へ。
氏照らは先行する荷駄隊を破るも数に勝る周囲の武田軍が反撃し氏邦らを破る。
これでも帰路に物資が不足したのも両者の言い分もある程度通りそうだし
被害が出ている武田軍が氏政の部隊を警戒して撤退したとする表現ならわかるけど
詳細がわからず双方とも勝ちを主張しているのに武田の主張だけ採用して
留まったから勝ちとするのは同盟の件と同様に飛躍して大袈裟な感じ。
871 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 23:57:20 ID:TbOl24+6
>>867 微妙なところ。
ただ氏康は優等生過ぎてかえって地味なイメージ。
なんか強烈なインパクトのある逸話があったらよかったんだけどね。
政治も合戦も謀略もそつなくこなし過ぎていまいち個性がない。
872 :
名無し曰く、:2009/02/24(火) 23:58:40 ID:681jEaYP
873 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 00:26:39 ID:BGPVW3DQ
>>869 大正・昭和初期の津久井周辺の相模川の写真があるが、
ダムを除きあんまり変わっていない。
そして、船による交通が発達していた(厚木や平塚まで船を使用していたらしい)。
つまり、相模川は交通網として主要な役割をしていた。
そして511号は古くからある道。
厚木・愛川は山というより森林。
周辺を見渡せることなんかできないし、機動力もない。
奇襲なんかできない。
>津久井で篭城すれば良い。
武田が押し寄せたならばそのつもりだっただろう。
津久井城規模で籠城するなら、氏照隊では兵数多過ぎ。
874 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 00:45:26 ID:qWZOl0Gj
現地ネタ
511号は崖際だったり相模川の上通ったり、
当時と今じゃ地形は異なるだろうが軍の移動は難しいと思う。
>>850-851の城山→県道511は現新小倉橋を通るってことだろうけど、
現在では橋や道が無ければ崖みたいなとこを下りないと川岸まではいけない、
相模川に注ぐ小さな川が滝となっている。
流れは結構速くしかも深い、この地点での水遊びは危険。
当時はともかく現在ではこの辺は歩いて渡河することは不可能であることは保障する。
地図上にある城山や町田街道あたりで津久井城に一旦向かうとすると山とはいわないが丘を越える必要あり
でその後現在は湖となっている谷を下って上って、そこから相模川沿いに三増峠方面に向かうとするとかなり遠回り。
三増峠より北の方で相模川越えるとなると基本的に山の中、
相模川はところどころ曲がりくねっているが川の流れの外側が山地や台地を削るため崖となっている場所も多い。
川に沿って南下はまずない。
875 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 00:59:44 ID:qWZOl0Gj
津久井城、地元では『城山』だが
小学校の遠足で登ったがw小倉山より高いので木さえなければ三増峠付近まで見えると思う。
今思い出すと串川と相模川に囲まれていていい地形。
あと串川など、相模川以外の小さな川あるがこれも山の中を走る川だけあって谷底みたいな感じ、
橋が無かった時代は渡れる箇所は限られていただろうと思う。
876 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 01:14:11 ID:SOBuvxzI
>>865 結局その両者のスレ違いはその後も続き、
結局謙信は一度も武田と本格的に戦おうとはしなかった。
これは氏康生存の時から変わらない。
無理して小田原まで行く必要も何も実際小田原行ってるんだけど。
氏照と交戦する意味は十分あるだろ。
うるさい追撃を叩きだして背後の安全を確保して帰還するのは自然だと思うが。
交戦状況は氏照書状や深沢書状にも見られると思うが。
これで交戦状況不明といったら戦国時代の多くの戦いが不明になると思うが。
877 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 01:14:21 ID:BGPVW3DQ
>>874 >現新小倉橋
旧小倉橋。そして川に向かって下っていく道ちゃんとある。
>流れは結構速くしかも深い、
近くのダムの状況によって異なる。元々流れが穏やかな川。
>当時はともかく現在ではこの辺は歩いて渡河することは不可能であることは保障する。
信玄は三ヵ木から相模湖(反町)の間の相模川(小倉周辺より渡河困難)を渡河している。
よって、小倉周辺も当時の軍隊で渡河できただろう。
>相模川はところどころ曲がりくねっているが川の流れの外側が山地や台地を削るため崖となっている場所も多い。
そうゆう所は対岸をつかえばいい。渡河はそんなに大変ではないのではないか?
穏やかな相模川で溺れて死ぬような所は、どんなに見積もっても限られている
878 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 01:18:44 ID:SOBuvxzI
>>870 大袈裟な感じも何も実際そっちも
>>氏照らは先行する荷駄隊を破るも数に勝る周囲の武田軍が反撃し氏邦らを破る。
という状況を想定してるじゃないか。
これはどう見ても武田が北条勢を後半崩して戦場に踏みとどまってる事を認めてるじゃないか。
だから氏照勢vs武田勢では三増峠の地に最終的にとどまったのは武田でFAだろ?
こっちはそれを主張してるだけにすぎんし、それをそっちが認めるなら何にも問題はないと思うが。
879 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 01:27:06 ID:qWZOl0Gj
>>877 道があるってそりゃ現在の技術があるからじゃ
何を言っているんだ?
流れの速さをどう感じるかは人それぞれだからまあ仕方ないかもしれないが
渡河は簡単じゃないだろ、敵軍が迫っているというのに。
>穏やかな相模川で溺れて死ぬような所は、どんなに見積もっても限られている
現地の人間はその意見にはみな反対すると思う。
信玄が渡河したのは道志川が合流するよりも更に上流そこまでいけば川幅も大分狭くなっているってだけじゃ、
そこから小倉辺りまでは支流が6本ぐらい合流しているんだし。
880 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 01:47:03 ID:BGPVW3DQ
>>880 信玄はちゃんと沼本を通過している。三ケ木〜沼本ならば、現在の道志橋周辺だろう。
現在の沼本と全く同じと言うつもりはないが、渡河が簡単な河ではない。
今以上に相模川は重宝されていたから、
川へ至る道がない、ということはないだろうし、
各地点で渡河ができる、橋の役割をするようなものあっただろう。
881 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 01:47:41 ID:SOBuvxzI
>>870 追記として武田の書状だけじゃなくて
信玄がほかならぬ北条に出した書状で勝利を書き
武田北条の双方の遺臣が遺した軍記でも武田勝利で一致してるところからも見て
武田の勝利と見ていいと思うのだが。
んな大勝とは思わんが。
882 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 02:26:42 ID:8lFAZgjc
ただ軍記は信玄が盛んに武田勝利を宣伝した後に書かれたものだから、
その影響でそのまま大勝利風に書いてしまったのかも。
特に軍艦の方は元武田家臣の書いたものだけに、信玄の言葉の受け売りも十分考えられる。
883 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 02:28:53 ID:8lFAZgjc
ってか武田北条関係者以外の人物でこの合戦について書いた書状とかないの?
884 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 04:29:47 ID:opw8ni9/
>>878 武田と戦うなら上杉と停戦だけでも意味があるし
北条の外交方針が氏康死去に比べて三増峠が影響したとは思えないけど。
両軍の動きを軍記に合うように参考に挙げたけど結果がこの通りとは考えられないし
北条軍の陣容やどちらが先に三増峠に布陣したかもわからないし
実際の合戦が軍記の描写とかけ離れていたのは多く三増峠も該当してる思う。
深沢矢文は正式な書状じゃないし甲陽軍鑑や北条記以外だと
相模国風土記や宝ヶ峰日記には津久井城を守り武田軍が先に撤退したともあるし
三増峠で武田の相手は氏照だけでなく北条軍で氏政は信玄がすぐに撤退したから
向かわなかった訳で信玄が踏み留まるとは言えないでしょ。
状況がわからないから氏照らに対し不利な状況で戦った可能性があったとして
撤退できても劣勢に重臣は討たれるは帰路に物資不足で自領で暴動が起きるじゃとても勝ちと呼べるものじゃないよ。
885 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 04:31:46 ID:opw8ni9/
>>883 信玄も見増坂で一戦して勝利したとしか残してなくてお互いに勝ったと主張したのしか残ってない。
だから主戦場の場所さえ特定されておらず撤退する武田軍は陽動の為か分散して行動した節もあり
両軍がどう展開して氏照らが信玄本隊と戦ったかさえもわからない。
北条の史料を疑問視する人もいるけど戦後処理が上記のに記録されていたり
諏訪神社の件などで信玄の書状にも疑問が持たれ始めてる状況じゃない。
886 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 05:01:43 ID:BGPVW3DQ
敗戦だったら反町で首実検するかい?
三増峠に比較的近い反町で首実検をした、ということは
武田はそれなりの手ごたえがあった、ということ。
887 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 06:15:03 ID:opw8ni9/
敗北感を感じさせない様にするのも大将の勤めでしょ。
だから誇張した書状が残され軍記の基になるんだし
三増峠は勝敗がはっきりつくものじゃないけど撤退に成功したからって
兵力は上なのに浅利や浦野が討ち死に帰路に領内各地で暴動となると武田は分が悪いと思う。
888 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 06:56:47 ID:SOBuvxzI
>>887 領内各地で暴動って何の話だよ。
ただ兵の一部が一つの神社から薪かっぱらっただけだが。
三増峠の近くで首実験してるなら踏みとどまってやってるんだから敗北感も何もないだろ。
敵を追い返してるんだから。
889 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 07:08:42 ID:SOBuvxzI
>>884 本来は上杉に関東諸侯とも仲介してもらって盛大に武田を踏みつぶすつもり
だったんだが。そんな消極的なもんじゃなさそうだが。
小田原襲撃で関東諸侯にいいアピールして反北条包囲網を活かしたのはいい事だと思うが。
信玄の書状は「帰国のときに北条勢が慕ってきた(追跡してきた)ので一戦に及んだ」
だから武田勢が先に入ってると思うが。氏照達書状でも移動中の武田勢に襲いかかってる描写だし。
だが符号点は結構あると思うが。
正式な書状だろ。相手に向けて送って何が違うのか。
だから三増峠の戦いは氏照達との戦いでしょ。
氏照達が襲いかかってきたんだから。
それを撃破して戦場に踏みとどまって追撃を潰して帰還という目的も達成。何が問題なのか。
890 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 07:10:36 ID:SOBuvxzI
>>885 三増峠を北条の勝ちとか言ってる研究者は寡聞にして知らないが。誰か知ってる?
891 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 07:12:41 ID:8lFAZgjc
だんだん手取川くさくなってきたね…。
対外的にさほど知れ渡ってなかったってことはそれほど大きな戦いではなかったと。
892 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 07:22:15 ID:BGPVW3DQ
>>891 そんなことはない。
三増峠以降、北条は八王子・津久井防衛の見直しのため、
大きな拠点となる八王子城を築城している。
893 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 12:19:46 ID:koEe4+vi
>>889 >小田原襲撃で関東諸侯にいいアピールして反北条包囲網を活かしたのはいい事だと思うが。
これは一次史料じゃ確認出来ないって否定されていたと思うが。
>>892 それだって上読んだ限りじゃ、春からとか駿河を失ってからとかの時期じゃ。
894 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 13:42:02 ID:PmjtNppN
>>893 あなた関東諸侯への影響力を強めるのが目的って
言ってなかったっけ?別の人?
895 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 13:43:52 ID:PmjtNppN
>>891 それ言ったらある程度大きな戦い、たとえば川中島とかでも
武田・上杉方以外の書状や記録ってあるんだろうか?
896 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 19:30:33 ID:HPR+T/sh
ところで今の議論て誰の能力値に関係してる議論なんだ?
見てるうちになんかよくわからなくなってきたんだが。
897 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 19:43:41 ID:bMdu69yc
いや、わかるだろ普通…
関連してる武将達でしょ
898 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 20:18:23 ID:HPR+T/sh
いや信玄なり氏照の能力値の議論なんだろうというのはわかるんだけど
話の主軸としてはどっちメインなのかがわからなくてね。
それともこの戦場の話が終わったら信玄なり氏照の別の戦場の話を
また突き詰めて適正能力値を出していくのかな?
もしそうだったら余計な口挟んで申し訳ない。
899 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 21:08:13 ID:8lFAZgjc
そういうすぐに本題を見失って脱線し始める連中を隔離するスレです。
900 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 21:31:50 ID:bMdu69yc
本題から入って色んな方向に議論が派生していくのはよくある事でしょ。
どれも関係ある話ばかりだし。
901 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 22:10:10 ID:8lFAZgjc
で、能力値に関する結論は何も出ないままうやむやになって終わったことばかりだけどね。
ただ自分の好きな武将がけなされて我慢できないっていう連中ばかりが集められた感じ。
902 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 22:12:35 ID:WyNvAEWs
結論ありきで話してるからしかたない
903 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 22:13:52 ID:S29Y0TJ8
謙信はAB型か…
904 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 22:44:26 ID:XfUVV5Qe
>>886 反畑じゃ?
でもこの記述信じると武田は直線距離で10キロ-山道なので実際に歩く距離はもっとだろうけど-
も後方に移動して道志川の渡しを越えてそこで勝鬨を上げたということに
単純に考えるなら武田はさっさと戦場を離脱して安全地帯まで逃げ切ったって感じじゃ
905 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 22:47:30 ID:XfUVV5Qe
能力値に関しては上の方にもあったが
信玄の統率を上げるほどの戦いじゃない
氏康は戦ったのか判らないので氏康信玄の順位付けには向かない
氏照は勝ったにせよ負けたにせよこの兵力差で頑張ったので統率を上げる
906 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 23:18:05 ID:p/JwyEhY
>>873 別に奇襲する必要なんかない、こんな地形で普通に叩かれるだけでとてつもなく危険。ただでさえ数で負けてるのに。
そんで森林だからとか関係ない、物見が行けば川沿い歩いてる5000人規模の部隊とか即発見される。
511号線を前もって通るからには、武田軍が三増に入ってからでは遅いし。
相模川は鎌倉時代から氾濫の記録が残ってるし、昭和初期でも大きな氾濫による水害に悩まされていた。
穏やかとはとても言えない川、わざわざ説明が必要だとは思わなかったけど。
>>892 それは三増峠じゃ無くて滝山城での戦いの影響でしょ。
907 :
名無し曰く、:2009/02/25(水) 23:58:02 ID:lK9MibQd
鉢形城〜三増峠をとおして
甲州による北条領侵入経路として、
小仏峠と津久井の重要性(危険性)が認識されるようになった。
八王子城はこれに対応したもの。
滝山では津久井救援に時間がかかる。
氏照は八王子城主になって、一度揺らいだ影響力を取り戻し、
多摩支配を強化しているから全体的に能力アップではないだろうか?
>>907 水害のない一級河川なんてない。
全国の一級河川と比較してみて激しい河川なんてとても言えない。
もちろんピクニック行く気分で言わないでね。
あくまでも生死を賭けた行軍と仮定して相模川を見てよ。
908 :
名無し曰く、:2009/02/26(木) 00:31:38 ID:tLaX4bjW
>>904 確かに、現地に残って勝ったにしては随分中途半端なところで勝どきを上げてたことになるね。
そもそもその辺はあんまし信憑性無いと思って気にしてなかったけど。
>>905 基本的に同意、氏照の評価がプラスになるなら信玄の評価が落ちるような戦いでもない。
>>907 >>水害のない一級河川なんてない
だからその川沿いを歩くのは危険と言っているんだが。
生死を賭けた行軍だからこそ少しでも危険なルートは普通避けるでしょ。
あと、八王子城移転についてははっきりした記録が出てくるのは
1580年代で記録も少ないだけに説も多々あるのに、何を論拠に断言してるの?
滝山城を攻撃された事が原因というのはよく言われる説で、
場所についても小仏峠を意識したというような部分が説得力はあるけど
それでもはっきりした論拠があるものじゃない。
津久井を守るためってのはあまり聞いた事が無い、まぁ津久井を守る意図があっても別に良いんだけど
結局三増峠とはあまり関係ないし。
909 :
名無し曰く、:2009/02/26(木) 12:24:48 ID:YX8XsfzP
ただ現状信玄は過大だから
信玄の統率を上げる要素でない=現状の数値を下げる要素
90台前半に落ち着くか?
910 :
名無し曰く、:2009/02/26(木) 15:36:16 ID:uSxoWVKc
>>909 まあそうだろうな
三増峠ていどが売りじゃあね…
911 :
名無し曰く、:2009/02/26(木) 17:02:09 ID:6wyg27lL
100マックスなら96くらいが妥当じゃないか。
やはり国も貧困、山間で移動も大変、領土面積当たりの石高が低い甲斐や信濃で
山之内上杉の大軍を破ったり村上、小笠原らとガチでぶつかり合い長尾も介入してくる
状況で信濃を取った点や北条との抗争で駿河を取った事、距離的にさほど
攻め込みやすいと言えない徳川領を押しまくり追い詰め、東美濃も侵略した事
など見るにやはり軍略はピカイチだろう。負けがかなり少ないのも大きい。
上田原も板垣の敵陣のど真ん中での首実験が原因だし逆にその状況から反撃して
何人も討ち取っている。
912 :
名無し曰く、:2009/02/27(金) 00:27:48 ID:pVvI4sru
能力値はマックスの値から決めるのではなく、
相対評価で決めるべき
信玄と比べるべきは謙信、氏康、義元、家康、義清あたりだが、
謙信以外のどいつと比べても過大すぎる
謙信も過大なので、どのみち下げるべき
913 :
名無し曰く、:2009/02/27(金) 00:37:57 ID:bff0SCiN
数値の高低を廃止して、特性で差別化すりゃいいのにな。
頭脳バトルみたいに。
914 :
名無し曰く、:2009/02/27(金) 00:40:05 ID:oITNQ4xc
キャラゲーなんだから
信玄ツエ−謙信ツエ−でいいんだよ
915 :
名無し曰く、:2009/02/27(金) 00:42:37 ID:KB09/0eV
色んな奴で○○ツエーやりたいんだよ。
916 :
名無し曰く、:2009/02/27(金) 00:44:03 ID:Jkk5eRxp
>>910 3増峠が売りだなんて主張してるのはいないと思うが。
武田の勝ち戦はほかにもいくらでもあるんだが。
武田の勝ち戦の何を知っていると?
>>912 まあ110とはいわんがな。
917 :
名無し曰く、:2009/02/27(金) 00:54:13 ID:Jkk5eRxp
>>904 勝った後に
前進して反畑でやったならおかしくないと思うが。
軍鑑での戦いは突破戦だしな。
北条5代記や北条記でも山の上に伏せられていた山県や内藤勢が前進してきた
北条勢に襲いかかって撃退する流れ。
信玄本陣はあるいは反畑近くにいたのか。それとも戦闘終了後の集結地点として
反畑に集結したのか。
>>908 上記に同じく。
>>909 110とはいわんが
>>信玄の統率を上げる要素でない=現状の数値を下げる要素
これは論理的におかしいと思うが。
>>908の人も下げる要素ではないと言ってるし。
918 :
名無し曰く、:2009/02/27(金) 02:41:43 ID:KB09/0eV
どっちにしろ100オーバーのMAX120の能力値設定なんていらん罠。
中途半端で分かりにくいよ。まだMAX127とかMAX255とかの方がしっくりくるわ。
919 :
名無し曰く、:2009/02/27(金) 12:39:09 ID:zlZD8gRq
大多数の人間には、128とか256の意味なんてわからんだろ、
というかどうでもいいと思ってるぞ。
120という数字にも、それなりの意味があるしね。
920 :
名無し曰く、:2009/02/27(金) 12:39:52 ID:2/db+lg2
>>917 軍艦でも北条は後ろから追ってきたじゃねーの
921 :
名無し曰く、:2009/02/27(金) 12:52:51 ID:FXYHopHo
軍鑑だと氏照勢は武田の前面に展開してる形みたいだけど。
氏政達が武田の後方から追跡はしてるが戦場には到着せず。
信玄の書状では氏照勢が追跡してきたになってる。
北条の軍記では二つとも武田と戦闘した北条勢は後方から追跡して戦う形式になってる。
922 :
名無し曰く、:2009/02/27(金) 17:31:38 ID:se21xbHm
>>875 >津久井城、地元では『城山』だが
それはギャグで言っているのか?
だとしたら土人乙w
923 :
名無し曰く、:2009/02/27(金) 17:41:29 ID:SqUfG1OV
我が家の村上義清
統率100 武勇98 知略65 政治47
固有戦法 乗崩
謙信とともに怒涛の勢いで攻めてきます。
924 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 00:07:26 ID:qQEHNGRe
深沢矢文に関しては
>>845の言うようにいろいろ問題のある史料。
>>833 細野城・田代城に関しては、
まず、江戸時代後期初出の記録が信用できるのか、
またその記録でも田代城はあくまで1569年の武田来襲時に攻められてそのまま廃城となったという説があるという記述、
更に、城主は10貫20貫と非常に少ない。
そこら辺まで進出というが進出というよりは退路の安全確保のため城とは名ばかりの建物を襲った、かも知れない程度。
皮肉も何も史料としては事実、
皮肉と思うのはあなたが史料のごく一部だけを抽出して考えているからだと思う。
もっとも円満だったとは思わないが、外交なんてそんなものだろう。
>>834 北と南両方を攻めるなんて非効率的、そりゃ当然どちらかに集中するだろう。
残された史料上では1569年〜1571年で見るなら北陸攻めよりも上野信濃へ動いた方が多い。
>深沢書状では武田と上杉はは上野方面で対峙したようだが。
深沢書状がすべての史料と言うわけでもないだろう、それに深沢矢文は用いるには難ありだし。
冬場はともかくとして、1570年夏の伊豆攻めは上杉にとっても予想外だったようではある、
景虎書状直江宛で、こちらは軍を集結しているのに武田に伊豆を攻められるなんて、北条は油断していたのでは、と。
>>835 氏康死亡後戦いながら交渉を続けていたのだろう、史料が残っていないのは残念だが。
織田徳川同盟にしても、志賀の陣での講和でも直前まで戦っている。
>>922 吹いた。
925 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 00:14:58 ID:qQEHNGRe
浦野に関しては他に
1562年9月22に箕輪に500貫
1562年10月10日甘利添状
1562年11月11日信玄書状
1562年12月28日甘利書状などに名前が見られた。
豊前に関しては、氏康氏政らの出す書状はほとんどが薬に関する書状、
この場合は政治的にはたいしたこと無い人物だが、個人的には重要な人物と判断するべきか。
926 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 00:44:06 ID:qQEHNGRe
>>920 >>921 甲陽軍鑑での三増峠の記述は戦い前日は北条勢2万が三増峠に待ち構えているが、
合戦当日は逆に武田勢が三増峠に布陣して北条勢が南から攻めてくるかのように書かれている。
詳しく言うなら
もし北条勢が三増峠に布陣して武田勢がそこに攻めるとすると、
信玄が三増峠を左に見る山に布陣したという点
三増峠より東には小倉山ぐらいしかない
綱成が陣から後ろへと氏康らに使者を出すのが見えたという点
使者はどこを通ったのか、武田勢を突破したのか
左に布陣し三増峠方面に浅利がという点
右に布陣したはずの残りの部隊は相模川沿いに進んだのか
それだと右の勢が通過した志田沢真田(ともに三増峠南西)とは反対になる
南から攻められたはずの北条勢が栗沢深堀(三増峠西南・志田山南)などで混乱という点
南から攻められたはずの北条勢が敗走の結果、半原山(志田山から更に西南)にという点
なんでそんな方向に逃れるのか武田勢を突破したのか
これらがおかしくなる。
927 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 01:08:00 ID:QKsLECep
織田信長 統率109 知略94 政治114
徳川家康 統率100 知略97 政治106
羽柴秀吉 統率95 知略104 政治102
武田信玄 統率92 知略96 政治90
上杉謙信 統率99 知略76 政治79
北条氏康 統率93 知略91 政治101
毛利元就 統率105 知略112 政治84
伊達政宗 統率92 知略93 政治99
三好長慶 統率99 知略95 政治89
俺のデータではこうしてる、織豊系武将軒並み全能力値を上昇させ史実の凶悪な領地拡大力を再現。
928 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 01:20:03 ID:uYizX+Oc
>>927 インフレしすぎだが
順位は史実に近いな
929 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 02:34:05 ID:tEBs05sw
>>917 信玄の評価については同意、散々三増峠合戦について氏照の善戦は主張してるが
それは当然、氏照の評価に関してであって、信玄の評価を落とす材料に使われるのは甚だ心外。
信玄の評価の話をするなら信長や謙信を相手にもっと大きな議論をすべきだろう。
この合戦の規模で数値を語れるのはせいぜい統率7〜80台ぐらいまでだと思われ。
>>926 武田軍が北上し三増峠にさしかかり、北条軍が津久井から南下すれば
当然三増峠で正面衝突することになるだろうが、その後の位置関係は戦闘状況により変わる為、推測は難しいと思った。
荷駄隊を崩したりなど、北条勢が優勢だったようではあるが、そのあと信玄は山に布陣したというように動きがあるようだし。
衝突までの進軍経路はそれぞれがどこを目指しているかということを踏まえて
衝突地点と位置関係を考える事で推測することができるが
その後の戦闘状況やそれに伴う位置関係の変化などはさすがに推測しようが無い部分が多いと思う。
>>927 織豊系信者と見せかけた伊達信者と見た。
930 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 04:54:17 ID:ygTRYJ1E
>>927 その査定結構好き。
とりあえず信玄厨の人の査定が知りたいわ。
931 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 05:09:52 ID:J+BN1WkU
信長は大軍で弱体化した小勢力に何回も負ける
斉藤、本願寺、伊勢長島一向一揆。姉川でも大軍で寡兵の浅井に
痛打を加えられず。 大良河原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、
屈服した志賀の陣、800の敵に数万の兵で一門を10人殺された伊勢長島第3次。
戦は大した事ない。その分調略や政略でカバーしてる。
版図拡張と言っても山間部出身で周りも強国、国も貧困で京への距離もある武田や
関東出兵や武田との対戦を余儀なくされ国内も反乱やら蘆名の介入やらで
大変、武田以上に京まで遠く雪による制約も大きい上杉とは条件が違いすぎる
織田は美濃、尾張で信玄の最大版図くらいになる国力。北伊勢含めばもっと上がる。
幼君でガタガタな斉藤はクーデター起こるぐらいだったし相当弱体化してた。
尾張は石高的にかなり条件の良い国
京から遠くも無く近くもない程よい位置でもある。
京の動乱に巻き込まれず濃尾両国を有すれば
思い立ったら上洛できる位置。 西は木曽・揖斐川の大河に守られ
東と結べば背後に敵無し。尾張、伊勢、畿内等は国高の高さの割りに
領土面積が狭く平野部が多く移動も楽。美濃も地形的に東から侵略されずらく
武田の本拠地も遠い。
周りの大名も今川義元は運良く戦死 跡継ぎの氏真は暗愚
松平家は独立 同盟で後方の安全を確保
斉藤家の義龍は早死して、跡継ぎの龍興は暗愚
朝倉家の朝倉義景は惰弱で暗愚の代名詞のような大名
六角家は観音寺騒動や対浅井の敗戦で弱体化しきっていた
三好家は分裂状態で統制が取れずバラバラ
織田と本格的に戦う前に信玄は病死 跡継ぎの勝頼は猪武者
織田と本格的に戦う前に謙信は病死 その後上杉家は内乱で自滅
足利義昭も信長の所に来た
932 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 06:08:39 ID:vs5rv4FZ
案の定アンチ織田厨が発狂してるw
因みに武田厨≠アンチ織田厨ね。この二人は共闘することもあるが基本的に信念は異なる。
三増峠にアンチ織田厨が参加していないのを見ても分かるとおり、織田が絡まない話には興味がない。
逆に滝川神流川に武田厨は参加していない。こっちは武田が絡まない話には興味はないようだ。
933 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 06:48:22 ID:J+BN1WkU
三方が原では武田軍がわずか200名の死傷者を出したのに対し、徳川軍は2000。
ランチェスターの法則で言えば2.5倍の兵力差なので被害の差も2.5倍くらいに
なるはず。この事から信玄>家康は確定。信玄の本拠地からは攻めやすい距離にある
とは言えず、織田の援軍も来てるのに押されまくってるし。
そして家康はこの時点でも信長より上だろう。姉川でも寡兵で大軍の朝倉相手を
任されて活躍(一方織田は大軍で寡兵の浅井に痛打を加えられず。)
三河の小領主としてスタートし、吉良、今川等と戦いながら自力で
西三河、東三河、遠江と攻略したしな。
934 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 06:48:42 ID:TMdnfQqQ
隔離スレに籠もってろ
935 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 12:48:12 ID:bt4CvkQ3
ここが隔離スレだろ
革新で史実のような織田家の領土拡大能力出そうと思ったら
武将の能力もだが、それ以上に金をどうにかしてやらないと
>>929 軍鑑じゃ前日の時点で既に三増峠に布陣しているみたいだぜ
ただ前日の動きも奇妙でよくわからないが
936 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 14:31:13 ID:cQRYP4KS
>>927 織田は周辺情勢と物量を再現できればそれで十分だと思うが。
能力地になんで無理に上乗せしようとするんだか。
>>928 信長の統率がそんなに高い分けないと何度もry
数々の敗戦は無視ですかそうですか。
>>930 俺は信長の統率が100超えるなんて事は絶対にないとおもってる。
937 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 14:47:25 ID:cQRYP4KS
>>924 そのいろいろの内容を教えてもらわないと話にならないと思うが。
基本的に正確に事象を書いてると思うが。
だからこちらは田代や細野の方面に進出してる事を書いている。
そちらのいうように退却で手一杯ならここに進出してわざわざ襲う意味がどこにある?
実際円満といいがたいし、その後もろくに上杉北条の連携が成立してないのは
そちらも知ってのとおりだろう。
その当然どちらに集中、というので北条は武田を攻めて欲しかったからこそ
散々譲歩したのじゃないか。北条は北陸を上杉が攻めて拡大してもらうために
譲歩しまくったんじゃないぞ。
1570年には関東に来たと思ったら武田攻めないで佐野攻めて北条に不審がられ、
上野で武田と対峙してろくに戦わずすぐに両方引き上げ、
その年の年末には「来年越中に遠征して、越中を手に入れられるなら毎日看経する」という
願文出してるが。どう見ても武田と戦うやる気なし。
1571年には北条の援軍要請受けるが自分は出陣せず部隊を派遣して
しかもすぐさま呼び戻して越中攻めに使ってる。
優先順位がどこにあったかは明白だと思うが。
だからどこに難があるのかと。ってか上杉方からしても北条(きたじょう)が
武田が信濃から上野にきたから救援求む、という連絡を受けて上野に出ているはずだが。
938 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 14:51:11 ID:cQRYP4KS
>>925 豊前に関しては古河公方書簡集でやたらと
豊前山城とその一族に当てた書状が多かったのは驚いた。
確か知行をもらってる書簡もあった。
なかなか重要な人物だったようだが。
939 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 14:56:27 ID:cQRYP4KS
>>926 それにたいしてだが、
軍鑑の記述によると山県が別働隊を率いて韮尾根をまわるという記述や
先陣として馬場がいてその後に諸部隊が続き、殿を浅利が勤めるという構図に
山を攻めあがるという表現、これらからして前方に北条がいると捉えられやすいと思うが。
まあ俺は信玄書状・深沢書状・北条の書状・北条の軍記二つなどで
武田の後方から北条勢が追跡してくる流れだからそれでいいと思ってるが。
確か軍鑑でも北条勢が武田の大軍を前にして半原山のほうに向かって移動し仕切りなおした
記述があったような。
940 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 16:01:51 ID:ygTRYJ1E
>>936 だから武田厨の頭の中ではどんな具合になってるのか教えてってこと。
941 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 16:10:30 ID:cQRYP4KS
>>940 いちいち挑発的な言い方だな。
信長はせいぜい統率は92か3だな。知略は91か2。
政治は最高点に近いのをあげればいい。
942 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 16:14:35 ID:ygTRYJ1E
>>941 挑発的かな?分からん。
あと比較として信玄、謙信、氏康もろもろのも出してくれないとそれじゃあ分からんからお願い。
943 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 16:17:32 ID:cQRYP4KS
>>942 正直めんどい。
書こうとするならこの3人に関しては事跡などから
いろいろ考慮して決めたいな。
そうすると時間かかるんでちとめんどい。
944 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 16:19:12 ID:WSfU6MHF
氏康の政治は信玄や謙信より遥かに下だろ。
農民逃げまくりであの手この手を出した文書があって、
「先進的だ!」と見えるけど何の効果もなく国は疲弊してるだけなんだから。
945 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 16:20:58 ID:ygTRYJ1E
>>943 めんどいのは分かるけど頑張ってよ。
だってそうじゃないと出してくれた信長の数字が高いか低いか分からんw
あと元就も欲しいわ。
946 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 16:22:41 ID:QKsLECep
まぁ、なに言っても史上の功績からして能力差は明らかだし。隔離スレの役割は果たしている。
947 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 16:24:40 ID:cQRYP4KS
>>945 元就までやるのか。正直相当時間かかりそうなんだが。
もう少しで出かけるんでまた今度にしてくれ。
ただ俺は100を最高値にして信長の能力を出したので
十分強力なキャラと見ていい。
948 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 16:27:46 ID:cQRYP4KS
>>944 あながちそうとも言い難い。
北条の統治は江戸時代の支配体制へと向かう流れが
もっとも顕著に確認できるもので、
その意味で先進的と呼んでいいと思われる。
>>946 史上の功績からの能力差が明らか?
伊勢長島の800人に大軍でありながら一族10人殺されたりしてるところとか?
志賀の陣で屈服しちゃったりしてるところとか?
これで織田万歳な流れになるなら正当な議論スレとかいいだすんじゃないだろうな?
949 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 16:27:47 ID:ygTRYJ1E
>>947 出かけて帰ってきてくれたらしてくれるってことな?な?
きっと良い叩き台になると思うわ。
950 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 16:28:57 ID:cQRYP4KS
>>949 ふーむ。
一日一人みたいな感じでいいか?
さすがに時間との兼ね合いで一気に書くのはつらそうなので。
951 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 16:30:01 ID:ygTRYJ1E
952 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 16:31:56 ID:cQRYP4KS
>>951 わかった。
なら最初は誰からいくかな・・・。
まあ考えてみる。
953 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 16:52:42 ID:J+BN1WkU
俺も書くか。あくまで主観なんで罵倒嘲笑は遠慮願いたい。
統率 知略 政治
信長 88 96 100
秀吉 85 97 98
家康 91 93 98
信玄 96 94 90
謙信 100 79 68
氏康 87 89 98
元就 92 100 88
政宗 87 91 89
蘆名盛氏87 82 86
佐竹義重86 83 81
954 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 17:03:54 ID:J+BN1WkU
修正 盛氏 85 82 84
955 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 17:19:03 ID:WSfU6MHF
>>948 確かに先進的なんだけど、北条はやることが早過ぎて空回りしてるんだよね。徳川が受け継げるだけの基盤を作りはした。
しかし彼の政治能力に高い数値を与えてゲームの関東を肥沃な地域に塗り替えるのは違うと思う。
荒れ果てた関東に理想国を打ち立てようとしながら、
にっちもさっちもいかない北条が実像だろうし、魅力的だと思うんだよな。
956 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 18:35:12 ID:r8cxMdTq
比較しにくいし
数値はMAX120に統一しようよ
957 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 18:49:13 ID:J+BN1WkU
100の方がわかりやすいし革新以外では大体100が最大値じゃなかったっけ?
958 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 20:34:29 ID:YcAGjtf+
>>937 深沢矢文に関しては学者レベルでは問題のある史料とされているんだからそれでいいんじゃないか?
959 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 20:39:00 ID:YcAGjtf+
>>937 あと田代とかはぶっちゃけ通り道なだけで寄り道や多方面の進出ではないと思うが
960 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 20:55:06 ID:xFdynbHF
>>957 最大値が100だと個性がつけにくいし
上位がギュウギュウの団子状態になってしまう
961 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 21:13:39 ID:YcAGjtf+
革新基準だと多数の武将を指揮して上手く戦う能力は統率にはないから
信玄や秀吉みたいなタイプは低くなるんじゃないか?
烈風伝みたいな総大将の采配が他の武将にも及ぶシステムだと高評価すべきだけど
また統率の
>* 戦での部隊の攻撃力・防御力
に限るなら
革新の場合だと統率はあくまで自分と副将二人の直卒の兵に対してのみ影響するから
むしろ大軍を上手く運用した系よりも前線で実際に戦闘した系の戦績を持つ武将の方が高評価になりそうな気がする
>* 高いほど募兵の効果が上がる
此れに関しては史実で軍役を定めているような武将にこそ高い評価を付けるべきだろうが
史実でこのような作業に携わっているのはゲームじゃ政治系とされているような武将だ
962 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 21:14:54 ID:J+BN1WkU
個性を付けた結果が革新の能力であって過大過小と叫ばれてるんだけどね
上位連中は正直団子だと思う。あとは運と状況次第だな
963 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 21:50:10 ID:J+BN1WkU
秀吉は大軍を運用してうまく戦っていると言えば聞こえがいいけど
実際数に依存してるだけとも言える。総大将の采配としても微妙だな。
・熊見川で毛利にボロクソに負ける
・美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、光秀軍よりも多い損害を被る (しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい)
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で襲ってしばらく持ち堪えられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの家康に領国中の兵100000程かき集めて
短期決戦挑んでボロ負けする
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
大軍率いた経験が多いから能力が高くなるというのも変な話で
経験がない奴にできない根拠なんてない。全国的に見ても戦闘だけなら
珍しくないレベルだろう。調略や政略はともかく…
964 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 22:11:03 ID:tEBs05sw
>>955 戦国時代に合戦の多い場所で農民が逃げるのなんて当たり前なんだが。
戦争が原因で付近の村が荒れたとかの部分まで全部政治マイナス面に評価されるなら
戦国大名の評価は大減点になるし。
北条の政治が原因で関東が荒れ果てたなんていう話は聞いた事もない。
恐らくどこかで制札の類でも見て思いついたんだろうけどちょっと意見としては的外れにもほどがある。
965 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 22:26:04 ID:xFdynbHF
とりあえず革新の能力値です
個人的には、良く出来てると思う
統率 武勇 知略 政治
信長 92 89 96 105
秀吉 87 65 94 104
家康 95 89 94 100
信玄 110 88 96 94
謙信 120 105 74 54
氏康 95 79 94 107
元就 92 69 105 98
政宗 95 86 92 93
966 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 22:31:14 ID:cdFPdKQf
967 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 22:38:59 ID:J+BN1WkU
俺も革新DSどちらの設定も好きだが織田派としては不満だろう。
なら大分補正されてるDSをベースにするか間の能力にするかといった所だろう
968 :
名無し曰く、:2009/02/28(土) 23:06:40 ID:SpBQ5t6w
ただでさえ謙信、信玄と
統率の差がありすぎるのに
家宝、官位補正まであるから
さらに初期状態での差が開く
信玄は統率減らして知略を、
謙信は統率減らして政治を
それぞれあげるべきだと思う
969 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 00:42:01 ID:vdKMQU6E
ってか必要要素が統率に偏重してる仕様がそもそも問題だろう。
統率の高い謙信信玄が強いのなんてまさに統率偏重。謙信なんて政治50台しかなくても強い。
ぶっちゃけ政治0知略0統率120の大名でも圧倒的に勢力伸ばすんじゃね?
970 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 01:02:27 ID:6aP7TBlK
>>969 まぁなー。だから今度査定してくれる武田厨の人には、
その辺りのことも踏まえて欲しいと思わないでもない。
政治120あっても、ゲーム的(革新的)にはメリットも魅力も言うほどない。
971 :
970:2009/03/01(日) 01:04:01 ID:6aP7TBlK
まぁそれ言い出したら査定としてブレ始めるから難しいとこだけど。
972 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 01:10:13 ID:Ny5DcWBy
>>970 よくわからないけど
ゲームとして得かどうかで能力評価するのか?
事跡から評価するんじゃないの?
そうでないなら評価する意味ないんじゃ?
973 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 01:12:21 ID:X61WUDUG
褒美で簡単に忠誠度が上がるゲームシステムがダメだな
974 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 01:44:56 ID:6aP7TBlK
>>972 得かどうかじゃなくて、ゲーム上で正しくその武将の個性を現すことができるかどうか。
だな。
極端にいえば信長の政治を120にするより、
統率を120にしたほうが史実のような領土拡張は再現されやすい。
もちろんそういう問題じゃないから、このスレはこんなに伸びてるし、
>>971に言ってるように査定としてブレが起こりやすくなるから難しいよねと。
975 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 01:52:20 ID:V0X9qnnB
革新はむしろ武勇の数値が不満だ
信玄も信長もそんなに個人の武勇伝はないのに、
実際に槍働きのエピソードのある大抵の武将より低いのがな…
976 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 02:19:16 ID:Ny5DcWBy
>>974 史実の織田家の領土拡張は物量と
畿内の勢力真空を表現できれば十分だとおもうけど。
実際当主が統率高くなくても
物量あれば信長の野望は勝てるゲームだし。
977 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 02:21:01 ID:6aP7TBlK
>>976 その話はとにかく武田厨の人が他の名将の査定を出してからだな。
978 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 04:55:41 ID:E1qeexDy
CPUが馬鹿だからなぁ
領土欲とかつければいいんじゃないの?じゃあ謙信は伸びないし
979 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 06:08:53 ID:vdKMQU6E
まあ結論としては肥は糞ってこった。
980 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 06:50:54 ID:vPXw+sHh
>>977 簡単な話だから先にすませておこう。
革新の場合、初期シナリオで武田・上杉が伸びるのは
兵・金・糧が他国の3倍ほどあるため。
織田が伸びないのは物量が他国と大差ない、
人件費が国力に比して多すぎる、農村が足らず兵糧が不足しがち、
などの理由による。
これらの問題が解消する天下布武シナリオなどでは織田も普通に伸びるので
ゲームの展開から能力云々は筋違いだとおもう。
981 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 07:23:48 ID:g2/ebZcj
織田軍団の強さを表したいなら
ツールを使って鉄砲隊を強化すればイイのでは?
なんにせよ、戦国時代の異端者である信長公を
4つの能力値で表現するのは不可能だと思う。
982 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 08:32:34 ID:hhjflEqL
それよりも政略や調略コマンドを充実させるべきだろう。
美濃攻めのように敗戦を調略や政略でうまくカバーするなどできればよい。
信長の鉄砲戦術は虚構が多いし過大評価する程でもない(三段討ちとか)
ID:vPXw+sHhの言うとおり1567年以降のシナリオなら織田は順調に伸びていくし
史実での各国の石高ごとの兵数を再現すれば史実に近いものに仕上がりそうだ。
983 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 11:54:48 ID:CPBmWcQR
織田の強さの秘訣は鉄砲隊とかねーわ。
長篠は野戦に篭城戦を持ち込んだ方を評価されるべきだと思うし、
桶狭間なんか鉄砲を大量に投入したわけでもないのに勝ってるしな。
信長が異端とか夢見がちすぎる。
やってることは諸侯と大して変わらない、規模は全然違うけど。
984 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 13:00:11 ID:OXwBKav6
>>890 諏訪神社以外のは
>>821を参考にしたけど
勝頼と関わりの深い諏訪神社での暴動は磯貝らが武田の勝ちに疑問視してる。
追い返したかは不明だけど反畑は武田軍が集合する為2つの川を越え防衛に適した場所とされ
武田軍にとって浅利や浦野の被害は明確で見合うかは兎も角豊前を討ったのは知る由もないし
両軍の魂の鎮魂って首洗池の伝承に浅利を超える戦果はないし。
戦略として同盟の楔って主張から随分ずれてるし
三増峠の前は主に領土の帰属問題で武田を叩く算段が議題に上るとは思えないけど
小田原は謙信を意識し過ぎたのか褒められるものじゃないし。
信玄が布陣したとされる場所は上にも出てたけど現実的じゃないし
三増以外にも志田や津久井で双方とも各地で勝ちを主張して
被害兵数の根拠も双方の主張による所が大きく例え軍鑑の通りであっても
撤退戦は防衛線や殿と違って大将が踏み止まったなら逆に致命的だし
信玄が撤退できた事に意義があって寡兵に重臣を討たれた事が問題でしょ。
深沢矢文って実物じゃなく使者を立てずに矢で射掛けたとされてる物じゃなかった?
985 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 13:01:45 ID:hhjflEqL
桶狭間では先陣と勘違いして本陣突っ込んで大将倒した戦。いわば突発事故
>>931にあるように大規模な領土獲得も周辺の状況や地理条件、運による所が大きい
986 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 13:25:46 ID:OXwBKav6
>>938 豊前山城守の立場は高家に近く外交僧の様な立場で軍役で重要されず
古河公方足利氏の研究だと知行は記載されてなかった気がするけど
古河公方書簡集とやらに詳しくあるなら教えて。
987 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 13:36:00 ID:Ny5DcWBy
>>984 その諏訪神社以外の例がまるであがってないんだが。
首洗池で武田が戦勝の儀を執り行ってる時点で
武田の勝利に問題はないと思うが。
戦闘後に合流・集結して行ったし、さらには地形から見ても周囲に対応できる地形だから
集結地点には最適だしな。
そもそも浅利の死は鉄砲で曽根が引き継いで戦い抜いてるって言ってるだろ。
曽根はこれで勝った結果興国寺城を後でもらったそうだ。
実際武田の行動を北条は掣肘できず、上杉は北条の援護をしなかった。
十分だと思うが。
どこが現実的でないと?
むしろ上では北条追跡からの戦闘を支持してる人もいるが?
実際全ての史料でそうなってるからな。
全然問題じゃないだろ。追撃勢を撃退して安全を確保して帰還。
なんの問題もない勝利だと思うが。
それがなんで問題なのか知らんが。内容は正確だしな。
988 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 13:38:21 ID:Ny5DcWBy
>>986 古河公方書簡集は図書館で見る機会があったので一読してみたが
確かに豊前山城宛に知行が与えられてた書状があったな。
80貫と100貫だったかな?貸し出しができなかったのでうろ覚えだが。
読んだとき豊前関連の書状がやたら多くて驚いたのは覚えている。
まあ今度機会があったら調べてきてもいいが。
989 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 13:41:03 ID:Ny5DcWBy
>>958 >>959 何が悪いのか一切わからんのだが。
明らかに甲斐への帰還へ一目散ならやらなくていいルートだが。
990 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 13:45:57 ID:Ny5DcWBy
とりあえず昨日ID:ygTRYJ1Eに言われた能力査定をやってみる。
最初は上杉謙信でやってみる。
991 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 13:52:00 ID:Ny5DcWBy
後誰か答えて欲しいんだけど
この査定には講談入れていいのか?
史実だけでいくのか?
992 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 14:19:05 ID:hhjflEqL
俺は史実だけの方がいいと思うが講談も含めると言ってた人もいたな
993 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 14:21:17 ID:wA58iT1U
資料があって通説を覆してるハナシは史実重視、そういう資料・新事実が無いハナシは講談含みでもいいだろう。そういうゲームだし
994 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 14:23:12 ID:BGe/wIcO
>>987 北条追跡からの戦いだと言いたいならちゃんと経路を示してから言ってください。
今のところ常識的に武田軍を後ろから攻撃できる経路が無い。
軍記や書状ではこういう場合、何の論拠にもならないよ。
995 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 14:31:03 ID:Ny5DcWBy
>>994 だから武田既に三増峠を通過中なら南下する北条勢が必然的に斜め後方から攻撃する事に
なるだけの話だが。
>>926は逆に北条勢が前方に展開してるほうがおかしいと
いうレスになってるが。
そんなの言ったら何を論拠にするつもりなのやら。全てで一致してるのに無視とかありえんわ。
996 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 14:42:59 ID:hhjflEqL
次スレたてた。
997 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 15:05:38 ID:OXwBKav6
>>988 ありがと。スレ立ても乙。ただ
>>547でも主家の古河公方が400貫中で
筆頭家老でもない豊前の180貫は異常な感じがするし今度自分も借りてみる。
反畑はまず三増から距離があり戦勝の儀より浅利や浦野の戦死者に対し追悼が強く
もちろん敗北感を感じさせない為に両軍の魂を鎮魂としたんだろうけど
曽根の興国寺城の在番になったのは花沢城攻めの功とされ三増峠は触れられてないよね。
この時に上杉とは共同で軍事行動を行う段階でないし
北条は領土を守り迎撃で被害を与え内藤氏に対する支配力を強めているよ。
北条追跡は自分だが現実的でないのは軍鑑の信玄が布陣したとされる場所で
信玄は撤退戦で万が一討ち死にする可能性を考え軍を分散した節があるのに
自ら退路を確保し踏み止まる必要はないでしょ。
深沢矢文の内容が正確なら軍鑑同様の評価はされないし
軍鑑の三増峠は磯貝ですら疑問視してる。
998 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 15:19:56 ID:Ny5DcWBy
>>997 スレたてたのは俺じゃないぞ。
そうだったか?軍鑑ではこの功績で興国寺城代になったと平山氏の著作にあるが。
てかどっちにしろそっちも戦場において武田が踏みとどまってる事認めてるじゃないか。
何が問題なのか。
その割には上杉に対して何度も出兵要請してるんだけど。
武田に被害を与えられてもいるが。
てか内藤に対する支配?内藤ってあの武田四天王の内藤?
内藤はその後も一貫して武田の武将として北条上杉と相対してるが。
だから北条側の軍記では追跡する北条勢が山の上に伏せられていた山県や内藤の襲撃を
受けて撃退する流れなんだけど。これなら信玄が先行していたとしても成り立つが。
軍鑑同様?どこら辺が?まあいいけど内容のどこが変なのか指摘してくれないと
話にならないよ。
北条記でも北条5代記でもいいけど、いずれにせよ北条が武田に撃退されてる流れは変わらんのだけど。
999 :
名無し曰く、:2009/03/01(日) 15:23:04 ID:Ny5DcWBy
もうスレも終わりに近いので話があるなら次のスレで。
次のスレでは上杉謙信の査定を書いたら俺は出かけるのでよろしく。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。