5 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/01(日) 17:41:36
糞スレタイで立てるな
6 :
1:2009/03/01(日) 17:41:51
スレタイがあまり生真面目だと萎える
前スレみたいに揉めないギリギリのラインでよろ
・荒らしに対しては即時文章をNGword登録で対処してください。
相手にすればするほどスレが荒れます。
ほんわかしてていいスレタイだと思うよ
いい感じじゃないか、人柄みたいなものが出てて
自演しないでいいから
もうだめだ、この界隈
このカス、スレをゴダールスレに宣伝してきやがった・・
もう通報でもするか
レスの特徴から特定可能。だからそれには及ばない
特定はできるけど、ゴダールスレに古谷スレを宣伝って
馬鹿が一人荒らしまわるよりはるかにタチが悪いぞ
どうせ転叫院って奴の信奉者でしょ
16 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/01(日) 17:58:32
そもそも転居院て誰?
>>14 いや、その名を挙げたことすら単にレス欲しさのための戦略で、
ほとんど思いつきで次から次へと手法を変えてるだけだと思う
脳科学から山形へ、山形から浅田支持へ、浅田から転叫院へ、などなど
自演と偽装のために手を変え品を変え、煽りだけをやりたいんだろう
前々々スレ(10スレ目)の855で
>はい?俺はこのスレのぞいたのここ一週間ですよ。
このときには誰も突っ込まなかったが
このレスからして嘘なんだと思う
タチの悪い粘着自演荒らしだ
即刻NGword登録 と 定期的なスレ放置で対応するか・・・
あ、下手に
>>12で反応したから味をしめて今度は荒らしのためにスレ立てまでやりはじめたか
こりゃ完無視が一番だな
残菊物語で映画に戻ってきたかな
ついでに蓮実に戻ってきたのが泣ける
むしろちゃんと蓮實を読んで欲しいから古谷がんばれ
それはありだね、古谷がんばれ
残菊物語は神と言わざるを得ない
そう言われると見たくなるな
日本映画の頂点は、本当はこのへんらしいよ
これは違うけども
>そのことのひとつひとつに溝口は、撮影しながら、その度いちいち驚きをもち、興奮し、震えていたのではないだろうか。
溝口回帰とはこれいかに
そういう日もあるさ
溝口をフィルムスタディーから解放する言説だからねえ
>>32 自主映画とプロの映画の差異を職人的に擁護するのは痛いと思うが?
鶴田法男などを見ていた己を恥じよう
鶴田は悪くないでしょうにw
悪くないけど、小津の晩秋とか溝口を積みっぱなしで鶴田に耽るのはおかしいと思えて
>>34 でも溝口で重要なのは撮影中の興奮じゃないよ
自主映画?www
ここは「美術鑑賞板」ですよ、キモオタさん。削除いらいだしときますね♪><
そういえば成瀬、小津はある程度見てきたけど溝口ってほとんど触れてないわ
蓮實の溝口に関する文章ってどのへんに集まってたんだっけ
数本見てから蓮實を久々に読んでみようかな
古谷はできるだけ『にほんかいいもうとといぬ』に引き寄せたいんだと思う
>>42 それ反論じゃないよ
重要かどうかだもの
もちろん鑑賞者は興奮するよ
古谷がやりたいのは、要するに作者が一番作品に近いという話
そして僕が作者の心境を追体験できるという話
>>45 重要かどうかなんて主観だろうに
何がどう重要なのか書いてくれないと・・・
>>48 あの時代、キャメラのファインダーを直接追体験することは意味がなかったんですよ
ロッセリーニ以後に生まれた美学でしょう
もちろん現代の美学からみても映像に興奮できるのは溝口のすごいところ
>>49 カメラのファインダーを直接追体験することに意味がなかった、って
具体的に誰の議論を参照しているのですか?
複製芸術論なら、すでにその手の倒錯美学はあったと思うけど。
>>52 溝口自身のことを考える意味が薄いってだけですよ
あなたは古谷説を受け入れることで何が生まれると思いますか?
ロッセリーニ以後ってのは勇み足かな
カメラ=万年筆を考えていたんだけど、ヴェルトフもそうだったか
板違い
巣に帰れ 気持ち悪いんだよオタク
>>53 溝口の生い立ちとかそういう身辺から詰めていくアプローチはあるんでねーの?
>>56 というか、撮影と監督が完全分業なんですよ
今の自主映画は撮影行為で満足する人が多くて困る
>>56 ようするに「撮影しながら、その度いちいち」は無前提ではあり得ないってだけです
上映しながら興奮してるに決まってるけど、それは溝口だけの特権ではない
でもチェックはするわけでしょう
そこで興奮できるじゃない
>>59 だからそこは最初から否定していないよ
古谷の場合、撮影の現場で興奮が生まれるみたいな神話を作ってるから良くない
>>60 それは演劇論では
溝口は興奮していたんだろうし、作家の身体に還元する説明もありなんだぜ
>>61 現代の映画ならいくらでも可能だって言ってるよ
あとごく初期の映画も
フィルムスタディーズの入門書って何?
当方日本語と英語しか読めません。
できれば日本の最近の人で。
じゃあボードウェルの『フィルム・アート』
横レスするけど、
>>60はつまり、撮影/監督が無媒介にくっついてたような製作環境じゃない時代性なり、
撮影所システムの風習なりがあるのだが、古谷はそこを消し去ってるってことを強調したかったんだね
>>65 そう。
もちろん古谷が映像のみずみずしさを強調するのは正しいけど、
あの論理だと溝口のすごさの根本が損なわれてしまう
>>66 それはつまり、撮影/監督の完全分業であるにもかかわらず
ああした映像なりショットを作りえた溝口の特異性ってこと?
>>67 ボードウェルのあの本は大型でかなりごっつい本で、
あれに比する充実フィルムスタディーズ教科書って邦訳・邦語ともにまずない気がする
>>64なら他にも何か知ってるかもしれないけど
>>68 そう。だからこそ1930年代の日本映画は異常
>>71 それはすでにいろんなとこでいわれてるじゃん
>>71 撮影と監督の間で懸隔があるというのは、それ自体面白い問題だね
たしかに現在から見ると、技術的にまるで別物なんじゃないかっていうぐらいの差がありそう
スタジオか屋外か、以上の違いがありそうだ
そもそも溝口映画を溝口という名前に還元して受容してもいいのか、という根源的な問いもあるよね
ショットとか、撮影監督や照明など技術者の結晶だし
>>71 いや、そういうふうに「集団制作の総体」に帰してしまうよりは、
監督/撮影、監督/照明、監督/演技指導 などもろもろの指示系統=遠隔性がありながらも、
かつ、それを介して何らかのかたちへと進んでいく、みたいな議論にした方が面白いんじゃないかな
つまり、指示・指令の矢印が散らばりながらも集団内で、主な動作主によって制御されてるような
それだと市場万歳、ハイエク万歳にしかならんよ
>>76 いろいろはしょったけど、
ハリウッドとは違う形でスタジオシステムがあったということ
テレビドラマ論とかやらないのかねえ。
はてなのハルトマンとかやってたみたいだけど。
上のほうで80年代思想がスカだったという仮説が出てるとけど。
柄谷は「アンチオイディプス」からアイデア持ってきたんでねーの?と思うことがある。フロイト解釈とかどんぴしゃりだもん。
もしこれが本当なら日本のバブル思想ってやっぱドゴールとの格闘抜きの思想になっているんだよなあ。
>>79-80 ゴダールスレで馬鹿扱いされたからってこっちに戻ってこなくていいよ
領域横断にびびるようじゃ未熟よ
>>82 もちろん。そうよ。
80年代=スカって別冊宝島の言説でしょう
中森明夫
86 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/01(日) 22:27:23
写真評論家でいうと
倉石がいるけど
どうなの?
平倉がたまに出す名前だけど
前川修の周辺とか調べるのはどうだろう
金持ちサトウさんも入ってくる
トゥルニエと他者なき世界
89 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/01(日) 23:09:15
>>86 理論というよりもエッセー的な評論の集成だが
「反写真論」は読んでおくべきだろうな
福居の先生が読んでたやつか
精神病
94 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/02(月) 00:16:28
土屋さんの単著に期待
出るの?
96 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/02(月) 00:21:12
>>95 いや期待したいってだけなんだけど
でも、そのうち出すっしょ
いや、松浦寿夫の弟子ってことを鑑みると
ああ、たしかにその恐れはあるな
福住みたいに本が出てるのかどうか危ういよりは
福住は頑張ったとは思うよ 万年補欠の野球部員が必死こいてベタな素振りやってる感じ
多分そういう不器用さに惹かれた人も多いんだと思う。
でもチンポム事件をスルーしてしまった時点で、評論家としては完全終わったけどね...
先日のログで
>蓮実が腐してるのって北野圭介的、ジェイムソン的なカルスタ傾倒だと思うんだよね
って言った者だけど、もしかしたらあとのログで言われてる80年代日本とジェイムソン云々と
趣旨一緒にされて読まれてるかもしれないで、一言言うと:
ここで言ったジェイムソンってのはジェイムソンの仕事全体が対置されてるわけじゃなくて、
「最近のジェイムソンは駄目になった」って北野圭介・吉本光宏が対談で懸念してるようなそういう意味だよ
これは、90年代末以降のジェイムソンであり、こういうことが言われているのは2000年代以降のことだし、
80年代日本でのジェイムソン忌避とはまた全然別の話ね
ジェイムソンはジェイムソンでじっくり読まれるべきだったってのは同感だし
(当時国内文芸批評家でじっくり読んでたのってスガや英文学者ぐらいじゃないか…)
『逃走論』所収の『政治的無意識』への留保もうなずかされる面もあるけどね
北野・吉本のジェイムソンへの留保は論旨不鮮明でよくわからなかった
北野は一方でカルスタ的な戦前映画史の論文を書いてもいて、うーん、ちょっと単純かな?
って面があったので、その意味で「たぶん蓮実が標的にしたのはこういう議論(の英米文脈)じゃないかな」と
だから北野のジェイムソン留保がどこにあるのか、正直よくわからない点ではある
>>102 >吉本光宏
ぼちぼち読んでるんだけど、無敵の論理すぎて信用ならないんだが……
どんな解釈も帝国に飲み込まれるようなシナリオを作ってないか?
>>102 悪いが、吉本の著書は読んでない
あんまり期待してないんだが、良かったところあった?
帝国ってフーコー→ネグリ的な意味で「外部無き構造としての帝国」みたいな感じなのかな
>>104 批評家が新しい読み方を探して頑張っても、
結局「ハリウッド」に飲み込まれるみたいな、左翼敗北主義っぽい感じ
色々な人たちの弱点を突くのだけは異様にうまい
ただ、その勝ち方に大いに疑問が残る
ネグリでいうところのマルチチュードがいないので、たぶん状況主義に近い
>>106 なるほど、いろんな人・論を廃墟にしてしまうやり方か
でも弱点総括ってのは、それを書く著者にとっては
「違うアプローチをやりたいんだ」という呻きもともなって往々にして出てくるものだからね
その意味では吉本がこれまで何を読み、何を悩んできたかってのは見えやすそうだし、
留保込みで読むなら興味深い論点もありそうだね
>>107 シチュアシオニスト的な「真なる世界と映像の回復を求めるが、しかしつねに敗北する悲しさ」みたいな感じか
それってドゥルーズの『シネマ』終わりごろの論旨のロマンティックな受容の陰画でもあるけど、
シチュアシオニスト的になるだけでは「気持ちはわかるが、別のアプローチを試行錯誤しようよ」って思っちゃうな
で、対象はスピルバーグだけだから、シネフィル以外の人に読んでもらいたいんだと思うけど、
その人たちがあれを読んだあと既存のシネフィルと戦うようになれるとは思えない
つまり、ロスト・イン・アメリカと一緒じゃんという読後感
スピルバーグを非難しないところは昔の左翼と違うんだけど
その対象スピルバーグだけってのが困るなあ
一般的には知られてない様々な映画作家を取り上げると
作家主義的に見えかねないからそれを回避したいんだろうけど、
むしろそういう作家たちをシネフィルが語らないアプローチでやるのも併用した方がいいんじゃないかな
スピルバーグにこだわるのがシネフィルの一つの傾向でもあったりするけど、
そこに関しては別のアプローチはできてそうだね
でも、いわゆる「すべてを呑み込むハリウッド映画」みたいな、
シネフィルでも言いそうなのとどれほど差があるのかと…
そう、その意味で
>>110とどう違うの、と
>>106の紹介で十分興味は引いたので、注文したよ
白い犬のケツをずっと見ている。痩せている。うなだれている。貧相だ。
古谷のケツを見ているようなものかもしれない
それは思った
犬はいない
自分の背中が見えているとしたらヤバい
方法論として自分の身体性を見つめる人だから当然でしょう
>>41 そういえば、古谷が気に入った池田将、渡邉寿岳、小林恵など学生映画があるけど、
学生映画とシネフィルという系譜もあるよね
70年代末〜80年代初頭で言うと、
大森一樹、長尾直樹、石井聰互、黒沢清、万田邦敏、森達也(後三者は「パロディアス・ユニティ」で総称される)
72年『ぴあ』創刊、PFF前身の「ぴあ展」の第1回が77年で、
大森を学生映画の匂いを強く残しながらも先駆となり、その後8mm学生映画ブームが形成される
(大森以外には大林宣彦、原将人などが自主映画を撮り、ATG、にっかつロマンポルノが健在)
古谷はこの時期の黒沢らの作品は見てないみたいだけど、
現在の学生自主映画の動向がまた別の局面に達して存在してるって感じなのかな
映画美学校の学生作品をなぜか古谷は意図的に回避してる気配があるが・・・
ケツだからよかった?
曲がり角で曲がってくれたから?
振り向かれたらヤバかった
忘れてた
井口奈巳は美学校出身だったな
商業映画まで出てきてる人は一応チェックしてるか
>>116 >映画美学校の学生作品
御園生涼子と揉めてたからじゃね
彼女は黒沢清論集にいたはず
ドッペルゲンガー
>>119 御園生が黒沢清論集にいたってのは、たしかにおぼろげにそうだったかもしれないという記憶はあるが、
あなたの言ってるのは別の件だと思う
ユリイカ黒沢清特集の御園生涼子文章に古谷が不満を漏らしてた日記のことじゃない?
美学校学生作品を見てないのは単純にたまたまかもしれない
池田作品を見たのも、人から教えてもらってか、たまたまみたいな感じだったし
古谷はそんなに足しげく特集企画チェックをするタイプじゃないからね
>>121 先日の保坂の語る鏡像経験の延長か
夢は鏡の世界へ
別角度から『シネマ』2巻の議論につながってきてるようなw
鏡だと自分のケツは見えないから、そこを重視している
>>122 というのも、なんか私生活的にトラブルがあったんじゃないかと勘ぐるんだが
読み返してみたら、夢の中の幻視かと思ったら、身辺日記のくだりなんだな
あまりに夢日記みたいな文体なのでわかりにくかった
・鏡像、自己像が対象として現れること
・引用めいた話者の混濁した日記(前に触れられたコウガイビルの日記)
このへんはつながるし、たぶん古谷自身も好きなんだろうな
そりゃまあケツに火はついてるだろうよw
>>125 青山からの罵倒みたいな?
いやー、俺そういう想像はあまりしないタイプでさ、
基本「たまたまなんだろう」って発想してしまう
何となく「近づきたくないナー、美学校」みたいな気分は古谷にあるかもしれんけど
セクト的に自分が排除されるかも〜 みたいな不安から
>>128 だって黒沢清論集を手渡しで受け取ったりしてたみたいじゃん
その周辺と接触があったのは間違いないでしょう
古谷はカメラを回して柿の木とか撮影するべき
>>127 「白い犬」とは作品を判定する者でもあり、(....)時には批判的なことも言う
ってことか
あ、やばい、これだと「つまり俺たち」ってオチにされかねんw
>>129 そうなんだよねえ、でもあの頃、2000年前後の人脈ってどれほどあったのか疑問
映画関係で言うと、大寺および大寺友達界隈しか人脈無いんじゃないかと思うが・・・
俺の記憶では大寺-御園生ってつながりはなかったと思う
大寺からもらったのかもしれないし、御園生接触があったのかはわからない
ユリイカでの御園生文章にとりわけ言及したのは
接触あったから説 と ラカン援用してるから説 がありうるけど、俺は後者だと思う
ちょうど古谷がラカン読みをなんとなくやりだしてる時期だと推測されるから
でも、意外にトラブってそうだよな、とは思うw
>>132 うまい位置にスライドしてくれてありがとうw
空白のようなあの飼い主ポジションはいいね
>>130 発表すべきかどうかはともかく、
鈴木了二もそんなこと個人的にやってたし、やればいいんじゃね、とは思う
>>133 たぶん小沢って人じゃなかろうか
日記から何となく
あと、この時点で石岡読んでるんじゃね
古谷のスピルバーグ論が少し気になる
なんか面白いこと言ってるかも
>>136 なるほど、優先的にもらった人の文章を書いた説だね ありうるかも
石岡についてはそのときに読んでただろうし、
2000/4/28日記で触れられてるカリスマ論ってたぶん石岡文章だろう
つーかまた背中か
「『ドゥルーズ、映画を思考する』刊行に寄せて」,『Cahiers du Cinema Japon』,no.31,2001年2月[青山特集号]
あと、このときに名前覚えたんじゃないかな
次いで、軽井沢展文章とか、第III期批評空間のドゥルーズ『無人島』抜粋訳掲載予定の翻訳担当者
とかで名前は目にしていたろうし、とどめに多摩美シンポがくる
好きでも嫌いでもないんだろうけど意識してるんだろう
今は嫌いかもな
>>137 ユリイカ・スピルバーグ特集号のは知らないけど
ここいらへんで『ミュンヘン』『マイノリティ・リポート』『宇宙戦争』は論じられている
[なぜかURL添付レスができなくなってるから文章で示すけど、
スピルバーグで偽日記内検索すれば、20070801、20060905、20060106、...はてな未転載期....
20021220、20000510がスピルバーグ関連高し]
宮崎論もスピルバーグとの距離で考えてるみたいだな[20060123]
気がつけば『トゥモロー・ワールド』評もやってるのか
ちょっと意外だった[20070325]
>>140 そこのブログを古谷でぐぐったら、
2007-10-05 「愛とはおそらく転移のことだ。」
ってのが出てきた
偽日記をたまに見てる関心からいって、同姓同名じゃなさそうだね
俺、この人のことちっとも知らないけど
>>141 ロスト・イン・アメリカと吉本光宏とは別のスピルバーグ論になってれば面白そうだなあと
>>143 『未來』連載の藤井のスピルバーグ論と、藤井の『現代ハリウッド映画入門』でも併読してみようかな
>>140 ぐぐったら、即座にその件出てきたな
人脈調べに勤勉すぎw
小沢はシリーズ民藝旅行記『来鳥手帖』ってのにショートストーリーを書いてるとか、
『来森手帖』に「あおじろ物語」を連載だとか、
クオバディス・ジャパンのPR担当社員だとか、あるね
ブログを金井で検索すると、ちょっと距離感混じりで言及してて面白いな
活字ではあまり出ていない人みたい
しかも例によって超富裕層だったw
>>148 マジすかw
シネフィル蓮実派+お金持ち余裕層 ってすげえ嫌な組み合わせなんですが
>>149 親が大学の学長選挙云々って猫猫先生のところに書いてあった
オザケンとかの親戚か?
社交が出来る奴じゃないとクオバディスとか入れないでしょ
文化人はそういうのばっかりだから、貧乏人を探す方が早いよ
153 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/02(月) 15:49:16
ヤフオクの贋作出品者をこらしめようぜ。
捨てIDをヤフオクに登録する。
方法は、贋作出品者に意地悪な質問をいっぱい行う。
その内、入札が禁止される(質問も出来なくなる)ので、新IDを登録する。
俺は、かなりやっているけど、なにせ、多勢に無勢で、対応出来ない。
誰か手伝ってくれ〜。
自分のケツを真後ろから見つめるというのは面白いな
古谷は今からでも具象画を描けばいいのに
残菊物語を見て少し冴えてきてるでしょ
小沢個人および、小沢が論集を古谷に手渡した説は措いてさ、
古谷による小沢文章言及を見るかぎり、小沢の主旨って
時期的には、2000年時点だからまだ『EUREKA』公開(2000年1月)直後ぐらいで、
カイエジャポン31号(最終号, 2001年2月)青山特集も
浅田の「映画の21世紀は『EUREKA』をもって始まる」(2001年4月)もまだ出てない頃だけど、
おそらくカイエジャポン内部で形成されつつあった青山賞賛論脈を攻撃する内容だよな
古谷は他の映画の連想もしてるが、国内文脈では露骨にシネフィル内青山評価文脈が該当すると思う
前スレでも言ったように 社会学的言及/シネフィル語彙の
表面上は後者が前者を揶揄するかに見えて、実は前者に媚びてたor同程度かそれ以下の思考しかできなかった
という事態が、蓮實ドグマ的に前者罵倒をしているのが小沢なんじゃないの
問題は、この二択になってるかのような状況そのものであって、
いまだにちっとも変わってない気がする
具象やるには修練しないとな
157 :
訂正:2009/03/02(月) 15:58:25
という事態が、蓮實ドグマ的に前者罵倒をしているのが小沢なんじゃないの
↓
という事態があり、大寺の自称「シネフィル内左派」なんてのは「社会学的発想しますよw」
ぐらいのぬるい話なんだけど、
この構図内に収まる範囲で、蓮實ドグマ黒沢派みたいな面で前者罵倒をしているのが小沢なんじゃないの
こういう二択問題と、青山/黒沢が、派閥闘争的に使われたという記憶がある
>>155 >表面上は後者が前者を揶揄するかに見えて、実は前者に媚びてた
この媚びがわかりにくいっす
>>156 もう柴崎やナオコーラは間に合わないけど、
2・3年以内に具象でイラストを書けるようになれば、
女性作家の挿絵をやりつつ嫁も獲得できる
人間の欲望なんてそんなもんすよ
たぶん年齢的に、今が最後のチャンス
>>132 犬と飼い主が曲がったのは左
古谷はまっすぐ進んだ
つまり45歳の時の人生設計
犬が西むきゃ尾は東
>>158 趣味的&ナルシシズムから「社会学に映画を回収してはならない」「あいつらには映画はわからない」
などと社会学冷笑を延々と続けつつも、
社会性、政治性に関する思考を何もせず、国内の社会学言説をちょろっとフォローすることしかしなかった
その結果、同じ程度の接続しかできないことになり、
傍から見りゃ、社会学依存と変わらないことになった
政治性ってもっといろいろあるはずが、単に「現代的な○○の事例、社会問題の先駆ですね」
みたいなことしか言えない人も多くなった
暗に陽に馬鹿にしてる対象に実は依存し続け、
同じ程度の思考しかできなかったという状態は、
古谷における東・宮台の言及、青山におけるそれ、
大寺における黒沢清やネットの論じ方、などなどなどに全面的に溢れ返ってる
そんな局面のこと
>>164 了解
イーストウッドの政治性の無視はちょっとやばすぎるなあと思ってる
>>164 長谷正人みたいに、職業的に社会学をやってるシネフィルはどうなの
>>127 まとまった作家論はまとまらないw
金策。確定申告(は必要ないか)
5日には恵比寿にも行きたいのだった
>>166 長谷はシネフィルモードと社会学モードを使い分けてる気がする
前者は『映像という神秘と神秘』になる
『悪循環の現象学』、共著『映画の政治学』は読んでないから知らない
折衷あるいは使い分け、って現象は多いと思う
恵比寿でなんかあるの?
>>160 もう一人の古谷は左に進んだってことさ
「ぼく」も左に進みたかったのだった
南川史門が吉田修一の挿絵を描いたけど、
古谷がああいうのやればもう少し面白くなる
南川のはそつがない感じだからな
そつがないというか、売り絵に見せた学習系
学習系って何?
この二極化ワロスw
>>174 商業主義丸出しなんだが、実際には美術史から学びまくっている
古谷と対極的なあり方
古谷は商業主義を拒否しているが、学ぶのはめんどくさい
したがって俺のおすすめはフォトブックまたは絵本
いっそ日本海とか妹とか犬の絵を描くw
5日(木曜日)恵比寿ザ・ガーデンルール
神村恵
6日(金曜日)三省堂神保町店
柴崎友香×柴田元幸トークショー
古谷は翻訳文学を忌避しているから6日は行かなさそう
>>179 セザンヌとマティスが師なのに、具象を拒否している限り一生このままだと思う
古谷には抽象画のセンスがないし、感覚と身体が全てだから
>>183 でも横浜でやってたセザンヌ主義みたいになるのも考え物だ
>>181 ガーデンルームな
東京芸術見本市2009
インターナショナル・ショーケース
当日¥2.500か
行くだろうな
柴崎の方は行かないんじゃないか?
ガーデンヒルズに古谷って、おそろしく合わんな
>>187 でも脳みそドローイングじゃわびしすぎるでしょう
HPの絵も頭打ちだ
>>186 古谷自身の成長のための一つの契機としては必要だと思う
だって古谷って空をぼおっと見てるだけでも幸せでしょ?
>>190 そういう意味で一度やってみるのはいいかも
クロッキーに通ってたのはもうやめちゃったのかな
何言ってんの?
セザンヌ主義って技術的には全然目標低くないぞ
問題はそれを今やる意味があるかということだ
でも古谷は時代性とか文脈が嫌いだからおk
あと、何度でも言うけど具象をやれば作家の嫁がゲットできる
>>194 つまり、超高い技術的目標としてのセザンヌ主義にマジで励めと
>>196 本当はマティスの方がいいが、古谷が装飾に取り組めるとは思えないからね
装飾は嫌ってそう
>>198 だから実を言うと古谷がマティスをわかっているのか疑問に思う
確定申告やらなくても結局住民税のときに「収入を申告しろ」って封筒がくるからな。
どっちみち同じことするなら確定申告のときにやっといたほうがいい。
というか古谷って国民保険とか国からの強制徴収金は滞納してないんだろうか。なんだか怪しいけど。
>>203 でも古谷って柴田が担っている英米文学を避けてるでしょ
>>204 じゃあ行くのやめて、やっぱりナオコーラ先生にしとくか
古谷ってロリコンなの?
スレストw
209 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/02(月) 18:41:14
古谷利裕の最新作
「ダウン・キャスティド・アイ」
出版記念サイン会
「潮の変わり目でぼくと握手!」(古谷氏)
かぎりなくNT-Xくさいレスw
>犬のケツをずっと見ている。痩せている。うなだれている。貧相だ。白い。ぼやっとしている。ヤバい凝視モード……
このへんの俗語のリズムはヒプホプ向きだと思ったw
あちこちで鯖規制になってるのか
ひどいな
>撮影しながら、その度いちいち驚きをもち、興奮し、震えていたのではないだろうか。
この映画を撮ったのはぼくなのだったって正直に言っていいよ
言っても誰も責めないから
呉智英とか
伊藤剛とか
218 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/02(月) 23:24:25
南川と古谷ではフレームが違うだろw
だなw
中原昌也も電気代払えないとか書いてたがフレームが違うぜw
今期「組立」では、美術批評家で美術史がご専門の林道郎さん(上智大学教授)をお迎えして、上田和彦との公開対話を行います。
●上田和彦×林 道郎〈筆触・イメージ・身体〉
2009年4月4日(土)18:00より(当日は17:30以降作品を撤去します)
場所:photographers’ gallery
地図:
http://www.pg-web.net/home/access/index.htm コーディネート:永瀬恭一
料金:1,000円
要予約:近日中にphotographers’ galleryのwebサイトにて受付フォームを設置いたします。
※基本的にメールでの受付となります。
※件名に「組立」と入れてください。
221 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/03(火) 02:14:31
スイカスイカスイカ
仲良しシンポはいらないっす
思いっきり罵倒し合う対談なら、行くかも
俺たちvsフルヤンのシンポジウムなら毎日行われているぜw
223 わたしはダリ?名無しさん? sage 2009/03/03(火) 03:02:05
俺たちvsフルヤンのシンポジウムなら毎日行われているぜw
一行荒らしの人か
ちい散歩 entry
それだから駄目なのに
>ぼくにとって、具体的に目に見えるものではなく、このような感覚の揺れや変化が、絵のモチーフとなる。
感覚の揺れっぽいイメージの具象画だよなあ
具象画は描かないよ!ってスレ民に言ってるのかな
>>3,4の色々なブログを回ってみた
みんなそれなりに面白いこと言ってるけど古谷の注目度って異常だな
フルヤンのこういう番組を見つけてくる嗅覚は素晴らしいな
タモリ倶楽部は80年代から見つづけてるけど、こんなものがあったなんて知らなかったよ
散歩が人生で一番大事ってさりげなく言ってるよな
>>232 言うほどでもないだろ
バラエティ番組では既にパロディコント化されてるし
『渡辺篤史の建もの探訪』ライン
232のように思わせる才能はあるよ
もはやアルファブロガー
言っちゃ悪いけど、絵の才能が一番ないんじゃないか?
感覚の揺れっぽい雰囲気しかわかんねー
石岡のブログが読み物として面白くなってきてる
とらドラが好きみたいだな
揺れを感じると手が動いてなんか描いてしまうならその才能を生かして
地震計として残りの人生を生きてくれ
バッド・ベティカーって何者?
映画に詳しい人に解説を頼む
金権政治を批判して下さい
古谷先生
政治に関しても役立たず、というか、クズ
今日は、土手の上から〜川の中(の石の上)に瞬間移動している
『目眩シリーズ』
もしくは『よろめきモノ』とでもカテゴリーしてくれ
石岡さんのブログに期待
石岡ブログいつのまに色々増えてる
古谷は視覚を信用していないことがわかった
文章の方がダイレクト
視覚も記号も信用しない「文人画家」
あるときはフランス仕込みの文人。
またあるときはアニメの楽天性を顕彰する元岡崎派の抽象画家。
しかしてその実態は・・・・・
その返し全然うまくないよ
うまさを狙ってない
石岡さん、あれかな。四谷で授業持つのにあたって、
若者向けの宣伝もかねてブログ書きはじめたのかな。
,,,,,,,,,,,,,,,
/ ,,,, ,,,,\
| ・ ・ |
| ⊃ |
\ ー /
福居は練○場とかいうブログ見るとあれか、メンへラなのか
>>255 >四谷で授業持つのにあたって
すでに持ってるでしょ。
石岡は長い論文が苦手っぽいから
どんどんブログのほうで力を発揮してくれ。
どの程度のマニアなのかわからん
>>257 回ったサイトを貼って自分の写真を添えるだけ
262 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/04(水) 12:11:41
この界隈が活気づいてきた
月曜者って確か経営ヤバいんじゃなかったっけ。
福居は廻って張りつけてるサイトの内容からしてどことなく病んでる。
この人錬金術みたいに、できる限りの言説を原液抽出すればそれが作品の裏づけになってくれると思ってる節がある。
こんなの病んでるうちにはいらねーよ
アンフォルムは図版がどうなってるんだろ
古谷ついに小説家デビュー
「不徳のよろめき」
2ちゃんねらーとの苦闘の日々をつづった自伝的小説
「罪と罰」
art since 1900の翻訳を切に希望。
加治屋ってしゃべり方がキモ○。
>>267 よくわからんけど、本人が勝手に盛り上がってて周りは失笑してるっていうようなよくあるケースではないだろうか。
漫画を描いてみたら?
画家だし。
ジャック・リヴェット
「セリーヌとジュリーは舟でゆく」
>>277 どっちが上という話ではないので誤解しないで
実際、美術学校出身の漫画家は数えるぐらいしかいない
しりあがり寿や山田玲司…
ひとつには、漫画的ディフォルメが出来ないから
描き方が全く違う
ただし、漫画的手法や文法に拘らないなら話はまた別
それを漫画と言えるかどうかも別だけど
フルヤンが映像を撮ったり小説を書いたりはあっても、ダンスと漫画だけは絶対ないw
>>279 あのね、基本的なこというと、
「ディフォルメが出来ない」というわけではないのよ。
実際、美大出が漫画家にならないのは、物語作りの能力や
アイデアなどの面であって、絵は関係ない。
ディフォルメといってわかったつもりになっているようだけど、
美大出として言わせてもらうと、漫画もデッサンが基本にある。
いずれせよ「基礎知識」のない人が何いっても恥ずかしいだけ、
ということを指摘しておきたい。
>実際、美術学校出身の漫画家は数えるぐらいしかいない
おめーが知らねーだけだろ
>>275 フルヤンは人間を描けないんだから漫画は無理。
写真も風景だろうし。
喜国雅彦とか冬目景とかな
多摩美ばっかりだけどなw
285 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/05(木) 07:33:47
なるほど。美大出の漫画家ってみんな絵がアレなんだなw
しりあがり寿は絵が上手いよ。
フルヤンはシネフィルにリンチをぶつけたいのかもな
青山真治の批評よりはフルヤンの方が期待できるんだが、色々避けているから無理か
292 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/05(木) 12:37:04
>書類を提出するだけなのだが
税の納付という困難がまだあるのだった
じつは俺もまだ払ってないというか、正直めんどくせえというか、
脱税をする人の気持ちがこの期に及んでわかりやすくなるとは意外だった(苦笑)
みんな貧乏だからなw
で、12000円どうするよ?
ソフトクリーム買ってきたw
うめえ
あっというまに頭角をあらわすだろう
今日は恵比寿に行けたのかな?
フレーム踊り
>帰ってから、喫茶店にお勉強に行くまでの間、一時間くらい仮眠した。
これって編集がバイトを世話してやってるってことか?
能動性があるようにはみえないし
古谷って腹筋割れてるの?
超割れてるよ
「お勉強」がなんなのかわからんな。お勉強のときはだいたいネットカフェか喫茶店だし。
喫茶店でできる勉強ってたかが知れるなあ
佐々木中を読むとか
>古谷って腹筋割れてるの?
平地を歩くだけでは腹筋を鍛えれないのだが
フレームがまったく違う体だから何とも言えない
フレームが違うことで勝負するならダンスでしょう
ダンスなら揺れや目眩を表現出来る
ですね
ダンス行ってた
これはなんのフラグだろうw
>会場でもらったチラシで、3月20日と21日に、千歳烏山で、手塚夏子の振り付けで神村恵が踊り、神村恵の振り付けで手塚夏子が踊るという公演があることを知った。
あとここのスレタイの正しさ
>バケツの隣りにスイカが置かれ、スイカの隣りにはスノコが置かれ、
311 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/05(木) 22:32:43
前スレ
【飯とチケット】古谷利裕の偽日記12【ください】
ここ数ヶ月、正直ダンスについて書いている時がいちばん生き生きしてる
反面、身辺雑記の暗さといったら
せめてあと10歳若かったらな
フルヤン厄年じゃね?
前厄か?
占星術的には12年に1度の好機なのに
嫁取りにガッついている気が
半端な批評するくらいなら身近雑記のほうがずっとおもしろい
プロの小説家でも日常のスケッチやって失敗してるのをたまに見るが、フルヤンはかろうじてこなしているというか
そうか?身辺雑記より批評のほうが
320 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/05(木) 22:59:30
漫画家の話あったけど、
ここらへんはムサビだな、
↓
佐藤秀峰 吉田秋生 みうらじゅん
タマビでまだあがってないところだと、
たがみよしひさ なんてのもいたし、
普通に考えて、美大出とか中退の漫画家って多いよ。
人選微妙に古いな……
千歳烏山ってこれか
http://ameblo.jp/kamimuramegumi/ ●実験ユニット第二弾「神村の手塚と手塚の神村」
手塚夏子さんの振付で神村がソロを、神村の振付で手塚さんがソロを踊ります。
3月20日(金・祝) 15:00 / 18:30
21(土) 15:00 / 18:30
会場:studio GOO(京王線千歳烏山から徒歩5分)
出演:神村恵 手塚夏子
チケット:前売 2000円・当日 2500円
323 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/05(木) 23:16:42
ごめん、最近、漫画よめなくて、
そういえば、じゃりんこチエ ってタマビの奴が描いてたらしい、
チエをいじめる、いやみな金持ちのガキが自分の少年時代の自画像だってかいてあった。
しかし、フルヤンは、じゃりんこチエは嫌いだろうな。
鉄というキャラクターがマザコンで、チエに母親を求めてるとかいいそうで怖い。
そういや愛と依存とか最近言わないな
代わりに身辺雑記が暗い
フルヤンが貶しても別にいいんじゃね
じゃりんこチエ面白いし
古谷は漫画好きじゃなさそう
漫画はコマ割りというフレームに仕切られまくっているから、フルヤンには無理
踊るしかない
キャンバスを自作してないくせに……
329 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/05(木) 23:43:50
そこなんだよ、
ととやかくいいながら、木枠かってきたり、キャンバスをかって裏返したり、
粗雑というか、パンキッシュというか、メリケンサックというか、
【飯とチケット】古谷利裕の偽日記12【ください】
チケット:前売 2000円・当日 2500円
333 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/06(金) 00:03:44
フォトグラファーズギャラリーって造形大卒が多いな。
写真科って案外少ないから
335 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/06(金) 00:06:02
建築農業工作って、語呂だけみると如何わしくないか?
ガイダンスなら無料だから冷やかしてみればいいんじゃね
337 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/06(金) 00:07:52
写真科って、大学だと、日芸が人気あったよね。
日芸は業界色が強すぎる
芸術写真は弱い
339 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/06(金) 00:14:57
商業写真と芸術写真の分界がよくわからない。
アーバスだってファッション写真をとってた人だったりするし。
日本ではファッション関係は芸術扱い
ちょっと不正確だったか
とにかく日芸は美大と呼ぶには放送業界色が強すぎる
コネの関係かも
342 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/06(金) 00:21:27
かといって、いわゆるアート文脈から出てきた写真って、
ヤナギミワとか、ギャラリーコヤナギ旦那とか、美術史の娘とか、不可解なのばっかりだし、
日芸の人だったら謝るわw
ドキュメンタリー特有の深刻な雰囲気も飽きるよ
石岡更新
漫画描くしかないよ
苦手なフレームを克服するにはさ
そうでないといつまでも「フレーム、いらねw」のまま・・・
フレームを持たない(であろう)神村恵に夢中じゃないか
これはもう
踊るしかない
追っかけ状態だからな
千歳烏山(2連チャン)にも当然行く
「アイドル」を「追いかける」ように「ダンサー」を「追いかける」こと。
すなわち、主体が主体として成立するその空虚なる瞬間へ向けてこのー私ーを組織すること。
無数の「イメージ」の受肉の瞬間を待機すること。
記述と感覚の差異としての空虚なる主体としての私の身体系の絶えざる反復。
フモールをもって!
石岡のブルデュー論、続きが楽しみだ。
353 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/06(金) 09:31:57
>>346 よくわからないけど、アートという枠を意識して撮ってしまうと、とたんにつまらなくならないかな。
受容論理的に、作品をみる側がアートとして発見するのであれば勝手で構わないのだけど、
354 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/06(金) 10:59:29
>>353 フルヤン本人?
どんだけ素朴なんだよw
ただの美術嫌いみたいだろ
>>353 う〜ん、アートとして撮ることとアートとして発見することの違いって何?
写真ならなおさらその区別が曖昧になるように思うけど。
ドキュメント写真の人の現実フェチにはシネフィルと似たキモさが
石岡マンセーとか、もうレスが不自然すぎるからw
誰かさん
今時マンセーっていう男の人って
>>358 352は「がんばれよ」って意味じゃないかな?
そっとしておいてあげようよ
池田自演説とかいちいちうるさすぎ
ハゲは自演しないよ
空気嫁
ここは写真と漫画とダンスで
フレームがまったく違うから
フランケンズ批評の古谷さんもっと頑張れ
http://frankens.jugem.jp/?eid=1218 それはそうと今回の44、
誰も触れていないことがあるので、
いまさらながら演出プランのネタばらし。
最後の四幕はですね、
シェイクスピアじゃなくって、
チェーホフなんですね、実は。
木を切る音はご愛嬌なんですが、
まあ、ラストはワーニャ伯父さんでしたね。
ソーニャのさ、
「最後の日がきたらようやくほっとできるんだわ」
みたいな感じ。の大幅な誤意訳(笑)
シャイクスピアからチェーホフにそっと移行して
いたんですが、さすがにわかりづらかったか……。
まあ、いいや。
>>351 なんか答えてくれなそうな雰囲気ではあるが、一応聞いておくと、「フモール」でいいの?
ユーモアをカッコつけて言い替えてるだけ
Humor
ツァラトゥストラはこう言ったんじゃなくてかく語りきだろ、みたいなセンス
>>365 公演行ってないから何とも言えないんだが、それ読んだ限りではすげーくだらないことやってんのな
370 :
366:2009/03/06(金) 14:04:50
>>367 そりゃわかってるってw
そうじゃなくて、結論は「フモール」万歳でいいのかってこと
あと、これはフルヤンの思考パターンを解説したものなのかってことも
372 :
366:2009/03/06(金) 14:14:18
たしかにフルヤンのアート観は「ヒューモアとしての芸術論」みたいなとこあると思うけどw
でも、それとダンサーについてのフルヤンの感想はどう関係あるのかな、と
351は何も考えずにからかってるだけでしょ
374 :
366:2009/03/06(金) 14:28:25
>>373 そっか、そうだったのか、ぐやじい
>>369 同感、っていうかフルヤンの感想がくだらない
いや、古谷の感想は構わんのだがな
中野がそんなくだらないこと試してたのか、って意味だったんだけど…
まぁいいんだけど
ていうか
>>365 は中野成樹さんでしょ?
真面目な人だな
定期的に自演説を流す奴がいるが、石岡に関してはあからさまな褒め殺しだろw
ウチの古谷が失礼してすみません
もうチケットとかいいですから
いつも気になるんだが、異分野の作家はたいてい女性に注目するよな
嫁取り説が消えないのはそのせいだと思う
男の子女の子論をもっとやってほしい
じゃないと邪推は消えない
>>359 まあ、男は男に「男の人」と言わないのは確かだが
まあいいよ誰でも
いいなら言わないでよ!
もう!
>>380 この言い回しをしらないのか
それでマンセーとか言っちゃうなら半年ROMるべき
そんなことは知ったことではない!
>>382 すみません知りませんでした
教えて下さいマンセ
ぜってー教えねー
荒れてるぞー
一回落ち着けよー
特定ネタは荒らすのが目的だから
>書き込み人特定などの煽りはスルーしましょう。
>荒らし行為や煽りが頻発していますので適宜スルーしましょう。
384は前に語尾にスノッブ付けて面白いと思ってた中年
古谷がとっとと佐々木への「疑問」を明らかにしないから。。。
言った以上は逃げるなよな、と言いたい
390 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/06(金) 17:10:46
東スレで藤田と村上隆がへんなことはじめたな
古谷にも突撃しそうだ
それはない
向こうとこっちに接点が少なさ過ぎる
393 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/06(金) 19:21:45
佐々木中を批判すると、保坂サークルで微妙になるから疑問を述べるぐらいだと思う
古谷の批評は、作家の視点を特権化してる
でも本人の作品に興味が沸かないのが独創的
”お母さん あのね”
久しぶりに偽日記いがいに掲載された文章をよんだけど、
古谷の文章自体が、同じところをぐるぐるまわってしまっているような。
「無名アーティストのWildLife」というアイディアが素晴らしすぎて本人もそのフレームに囚われている
瑛太似の後輩と男色セクース
してみたいお
個性的な人が紛れ込んでる
今日のぶん読んでみると言ってることが一人だけ全てズレてる
今日は神保町の三省堂で、柴崎のトークショーがあるのを知っていて「駅には降りてない」とわざわざ書くいやらしさw
スレの好奇心に対しての、かわし方がうまくなった
ひとつ前の駅で降りて、歩いて行くのが古谷流w
神保町では降りてないのだった
今は柴崎友香より、神村恵に夢中だからだろ
こりゃ今年も展覧会をやるなw
今は、友香より恵がくれる刺激(目眩)が必要なのだった
今は言及を避けたい映像作家って?
タダで面白い映画見て、それについて書いて、金もらって……
古谷もなかなか順調じゃないか
映画評だって、その気持ちの揺れをそのまま書けばよろしい
俺たちは罠じゃないんだから
社会という枠に縛られまくり
>キャンバスにクレヨンでぐりぐりと描く
こいつの描き方ってなんか薄汚いんだよなあ
文章の方がまだ透明性がある
>>406 ヒント
「今日」「内幸町」「試写会」
追伸
俺は知らない
浅野いにお批判と柴崎への関心の減退
映画に詳しい人カモン
今週いろいろあったぜ
>何をどう言っても、罠にはまってしまうように思われる。
いい言葉だ。物語の力を全身に感じている者の言葉だ。古谷はしっかり成長してるよ。保坂みたいに「自分はわかってる」って姿勢を取り続けてたらガキのままだからな。
罠なんて言いぐさがガキだけどな
フルヤンは、実はこのスレをいちばん気にしているという証拠
確かにムダに煽ったり、あげ足取りの部分もあるが
中には的確な意見もあり、自分を客観視できる場所だと気付いたんだろう
かわし方がうまくなってきたのも、その余裕から
このスレ見ているの?
古谷君、いたら返事して
古谷は、勉強すべき
いろいろ知らないと恥ずかしいこともある。
>>417 その結果ちょっとだけ好転している気がする
>>419 映画と文学については、勉強してる奴の文章が読者受けしないから古谷が珍重されているんだと思う。古谷もそんなに受けていないけど。(美術も不勉強なのは内緒)
勉強して今の文体が壊れるのは怖いでしょう
423 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/07(土) 13:49:41
むっつりスケベ
若い女性の肢体にたいする関心が高まっているということはわかる。
若くなくてもおk
手塚夏子のような「母」の描写もエロい
>それまで、床に尻をつけてじかにしゃがんでいたのが、椅子に座った状態の動きとなる。
>しかし神村恵のダンスは、はじめから「人間」を離脱しているかのようだ。人間が、人間以外の動きを模倣するのではなく、人間のからだが、人間ではない動きをする、というのか。
?こういうのって、もしかしたら何もいってないのでは?
こっちが本筋だよ
つまりスイカすげー
>バケツの隣りにスイカが置かれ、スイカの隣りにはスノコが置かれ、さらに隣りに逆さにされたストーブが置かれる、みたいにして、時間と空間のなかに動きがぼこぼこっと配置されてゆく。
京王線なの?
京王八王子駅から一本だよ
>>426 観たことないから何とも言えないが、貞子みたいなもん?
>>430 古谷の文章からでは想像することもできない。
記述がないもの。
感想があるだけ
ダンス批評なら桜井圭介とかRHの人がいるからなあ
日記から考えると京王線の北野っぽい
NT-Xはもっと細かく特定しているみたいだ
>>426 神村のダンスの駆動は人間以外の動きを必要としていないってことだろう
その文章のままだけど
前半と後半が同じ意味に見えるの?
批評以前に感想でしかないレベル
ダンス論をやるには、解剖学ぐらいマスターせんと。
また工学君かよ
勉強は必要だけどそっち以前にも色々ある
>>435 >人間以外の動きを必要としていない
これだと人間のまんまじゃん
そりゃそこだけ切り取ったらそうなるけど
>はじめから「人間」を離脱しているかのようだ
の文脈を引き継いでるから
神村なんて見てないから実際どうなのかわからんけど
そこも「かのようだ」なので、人間のまんまだぜ
いつごろからダンス行くようになったんだろ
たぶん岡崎の影響
おれら誰も神村恵を知らない(観てない)で話してるw
もともとイベントの類に誰も行かねーじゃんw
昨日の岡崎とか聞きたいけど無理っぽい
行ってたとしても、わざわざこんなとこに報告なんてしないだろ
誰かの発言を煽るだけの人間ばっかりだし
だな
もったいない
石岡ブログ乙
はいはい自演
総合スレにならないのは、こういう無駄な緊張が発生するから
ダンスに熱中するのは別にいいけど、
それが、ドローウィングにおける、手首捻りのような癖の正当化に繋がることがないことを祈る。
ピカソ(手首から先の巨匠)の下手なやつみたいになったら悲惨。
そんな心配するまでもなく手癖万歳のような気がする
柴崎スレより
470 名前: 吾輩は名無しである Mail: sage 投稿日: 2009/03/07(土) 17:08:24
大雨だった割には50人ぐらい入っていた。 客筋は6:4で柴田元幸さんのよう(サイン会の流れを見て)。
会場にはルー・リードの『ヘロイン』が流されていて、どうやら柴崎さんは本当にヴェルヴェット・アンダーグラウンドやデニス・ジョンソンの小説が好きなようだ。
これにはみんな意外そうだった。 『ジーザス・サン』は、ヤクをキメてぶっとんでるファックヘッドという男(作者)の話。
そう考えると、元々この人の「フワフワ文体」は誤解されていて、保坂ラインではないのかもしれない。
海外翻訳モノって売れねーよな
さっそくルー・リードを聞くフルヤン
そういえばフルヤンには音楽(特に ROCK )という文脈ってなかったような?
今日の日記で音楽ネタをエントリーしてほしい
457 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/07(土) 22:22:45
佐々木は革命は常に可能だ派
樫村は大衆はゴミくずに成り下がったから不可能だ派
フルヤンがブックリストに載せてた前田英樹の本つまんね。
こんなの勧めるなよ。
459 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/07(土) 22:28:58
前田という時点で
前田のどれ?
古谷そんなのすすめちゃうんだw美術史が本当に嫌いなんだな
あれは二十世紀美術嫌いのための本
古谷利裕フェア・第2期《ガチガチ篇》のリストね。
「小津安二郎の家-持続と浸透」や 「対論・彫刻空間」も勧めてるから、もしかして結構前田好きなんだろうか。
彫刻空間もかw
あれって思想野郎が美術を勘違いしやすいから、美大出身なら注意するべきなのに
小津本のほうもシネフィルから評判は芳しくなかったような
小津の方はまだ色々な示唆があったと思う
前田本については、ルオーが出てきたあたりで白けたけど、
それ以外は面白かったよ。
セザンヌ本も読んでみたいよ。
美術に興味が薄いならそう思ってもおかしくない
前田は武道家だからバイアスがきつい
甲野との対談は面白い
美術批評家が禄なものを書かないことが本来の問題ではないの?
でも前田はあからさまな芸術軽視だから
まあ、こういう人だから……
>講義はゴーギャンについて。「説教のあとの幻影」ってこんなに良い作品だったっけ。これはピカソの「アヴィニョンの娘たち」やマティスの「ピアノのレッスン」、「カスバの門」、
セザンヌの晩年の諸作品(セザンヌの場合、この1点、というようには絞れない)などと並んで、近代絵画の誇る、絵画という形式の可能性をギリギリまで追求しえた作品の一つなのではないか、と、ちょっと驚く。
後期印象派、というだけで、現代美術の通ぶった人なら、ふふんと鼻で笑うだろうが、彼の最良の作品に比べれば、戦後のアメリカ絵画や現代絵画なんて、全然甘ったるくて弱っちい、って感じだ。っていうのは言いすぎか・・・。
今まで、ゴーギャンてゴッホやセザンヌに比べるとイマイチという感じだったのだけど、認識を改めなくてはいけない。
ゴーギャンって、タヒチに行く前はいい絵をポツポツと描いていると思うけど、
抽象表現主義経由の目でみて、抽象表現主義より優れているという物言いは転倒していると思う。
説教の後の幻影とかっていわれると、そう思ってしまう。
転倒がなくなったら絵を描く動機も消えてしまうんだろう
芸術は終わっているしね。動機はない。
またあんたか
芸術は終わったとか言う人は、たいてい自分が信じてきた芸術が信じられなくなったって言ってるだけなんだよな
芸術なんて、ある意味いつだって終わってる
古谷もほとんどその轍を踏んでる
>>479 でももう社会や大衆に影響を持たないじゃん。
映画批評とかもゼンゼン駄目になってきている
結局蓮見ぐらいでしょ、読めるものって
加藤とか四方田とか誰も読まんし、つまらなすぎて
加藤も四方田も映画を分析しているんだけど、
大衆から遊離してしまっとる
蓮見と違うのはいかにもそこで、大衆への教育、啓蒙という任務をサボった
で、案の定、大衆は映画を見なくなった
そうなると不幸なのは映画批評で、どんどんつまらなくなって風前の灯火
結局間違いは、大衆から遊離したこと
大衆とともに同じ目線で映画を見、そして感じること
これができない限り、映画批評の復活はない
芸術嫌いの工学君はここに常駐しなくていいよ
東スレでお笑いでも分析してください
ブレードランナー論序説とか今読むと苦しいよね
ジャパンリュミエール派のひとつの鬼っ子だったものがここまで
古びた、時代に限定されていた言説だったか、と真に驚かされる
今よむとそもそも読解不可能な日本語で書かれていることに気づく
日本語の規則を無視するということのなかにこそ、大衆軽視、大衆無視の
彼らのスタンスが見えるわけなんだけど、それが今のシーンを堕落させた
ものにした、という自覚が果たして彼らにちょっとでもあるのか?
>>481 それは文章書く人の責任じゃないかな
それとも、特定のメディアを想定して言ってるの?
>>485 どう苦しいのかわからん
大衆遊離ってだけじゃ抽象的
>>483 「大衆」って誰よw
基本的なとこ間違ってる
>>486 うーん、おれは芸術とメタ芸術=批評の差異は認めない立場なんだよね。
社会や大衆から遊離した芸術は、「終わった」といっていいと思うんだけど、
それは別の見方をすると「洗練された」ともいえるわけで・・・・
ただ俺はその見方は、たんにレトリカルだろうな、と思うんだよね。
基本的にこの国の文化は、戦後から急速に芸術→娯楽へと移行したと思うんだけど、
そのなかで芸術というものがかろうじて成立していたのが、80年代のアヴァン・ポップであり、シネフィルであった、と。その末裔が阿部や青山なんだろうけど、彼らが蓮見や高橋のように状況に介入しているか、というとどうも疑わしいんだよね。
美術になんの関心もない奴のレスだな
絵画はその軸で捉えられない
まあ、いかに大衆軽視の視線がありふれたものとなっているかは、
この↓レスを見てもわかるんだよね。
490 わたしはダリ?名無しさん? sage New! 2009/03/08(日) 02:18:25
美術になんの関心もない奴のレスだな
絵画はその軸で捉えられない
↑のような「関心のタコツボ」に「引きこもらん」とする意欲が90年代以降には
現象化してしまっている、と俺は感じるけど、そうしたスタンスがあっけらかんと
肯定されていくところにこそ、批評の成立不可能性が宿っているわけでさ。
いや、あんた絵画のことをここで一度も語ってないでしょ
俺は大衆軽視なんかじゃないよ
もちろん大衆だし
>>489 >うーん、おれは芸術とメタ芸術=批評の差異は認めない立場なんだよね。
「メタ」の使い方間違ってるよ。フルヤン、椹木並に。工学君、教えてあげて。
>社会や大衆から遊離した芸術は、「終わった」といっていいと思うんだけど
じゃあ、物理や数学なんて全部終わってるね。難しすぎてほとんど誰も分からないもの。
もう一人の映画の人がいるから図に乗ってるんだろうけどさ、
娯楽と芸術の区別はそう単純じゃない
ポロックだってすっかり大衆のものだが、それを娯楽とは呼ばない
>>494 >>489,491
この人の価値基準は文学と映画にはある程度当てはまるけれど、音楽と美術は全然違う。
ようするに美術に関心がない人。
いや、こいつはギャグで言ってんだよ
俺なんかずっと笑いっぱなしだし
今の批評って東の影響が強いんだなあと思った
今のフルヤンは「罠」がお気に入りのようだ
元気にドローイング展をやるとみたね
>>493 うへ、「メタ」の使い方間違っている?
メタテクストの理解で使ったんだけど・・・
どこらへんが勘に触ったのかしら。
数学はようわからんが、物理は応用されて社会の役に立っているんじゃないの?
それに「ほとんど誰も」という程度ではないでしょ。
ピカソやマティスを理解できる人間は日本で数百人ぐらいだと思うんだけど。
まあ数学や物理が20世紀に入って大衆から遊離した、というのはそうなんだけど、
芸術と違ってそうならざるをえない必然性はあるのかも。
まあ、そのへんはどうでもいい話で、俺がいいたいのは、芸術というジャンルが、今の
日本ですでに力を持っていないという単純なことなんだよね。
批評家がすべきことは、大衆を動員することもあるのだけど、今の若手はそういう気概が
ないでしょう。大衆軽視が前提になっている。
「分からない奴は分からないでいい」という巨匠的スタンスが、若手にまで蔓延している。
古谷のドローイングとかも誰かが大衆へと接続させるべく労働せにゃあかんのに、誰も
その役を買ってでない。
>>500 あんたがここで絵画蔑視を開陳してもつまらんよ
>>495 ポロックは大衆のものじゃないでしょ。
アメリカ論になるから、ここでは断言にとどめておきたい。
兎に角、俺は思うのだが、大衆との遊離がいまの芸術を活気なくさせている。
大衆軽視か迎合どちらかに二極分解し、中間がない。
古谷がその典型だろうけど、大衆を啓蒙しようという気力がないんだよね。
「分からないでいい。芸術は一部の人間のものだ」という才能主義か、
「どう?面白いでしょう。芸術は楽しまなきゃ!」という通俗主義のいずれかに
なっている。
そこへくると、やっぱり昭和の文化人はなかなか狡猾でさ、連中の仕事って、
大衆との関係の相においてこそ見るべきものがあると思うんだよね。
たとえば、シネフィルのドンたる蓮見も、実は、才能主義ではなかった。
「映画に選ばれない」人の視線を意識しながら、書いていた。
それが「凡庸」ということなんだろうけど。
じゃ、今の若手はどうか、というと、これは悪しきシネフィルの典型でさ。
モロに才能主義を信じちゃっているわけ。
その結果、大衆は離れて、この惨状が残されたわけだから、たちが悪い。
軽視され、排除される大衆。迫り来る芸術。
バカに真面目に答えて損した。
あのう、君が大衆の味方すると大衆がバカだって思われるからそれだけはやめて。
>>503 MoMAに行ってみなよ
今の美術館は大衆のものだけど、娯楽と芸術の区別は消えないし、テレビ番組の方が芸術化信仰が強い。
芸術化じゃなくて芸術家
色々なスレにここのurl貼ってるのもこの人か
芸術と娯楽という二元論的対立を超えていくことこそ68年以来の芸術の思考だったんだ
ろうけど、それは口先だけだった
「知の震源」柄谷行人の果敢な知的力業歴史的名著の原本
「歴史主義的普遍性」の基盤を大胆に覆す鋭い知性。新たな思考の視座を極
めて丹念に布置・構築して行く、最も現代的な「知の震源」柄谷行人の鮮や
かにして果敢な挑戦。名著『マルクスその可能性の中心』につづく柄谷思想
の原点となる歴史的快著。
柄谷行人
「定本」を出すとき、私は本書を絶版にするつもりだった。しかし、それが
「文芸文庫」で長い間出版されてきたことを考慮し、また、原本にも独自の
歴史的価値があることを勘案して、当初付いていた解説・作家案内を割愛し、
原本のみを再出版することにした。ここから、「定本」にいたるまでの変容
に、ここ30年間の世界の変容が刻まれている、と思う。――<「序文」より>
そんなことないよ
大衆の問題じゃない
「基礎知識」の問題
マルクスもアルチュセールも読まずに創作している奴らばかりだもん
古い話。ブレードランナー論序説は、悪くないテクストでしょ
質は決してよくないけど、まあ頑張っていた。
あれが日本の批評界に黙殺されたのが最大の不幸
加藤幹郎は大学生時代にイメージフォーラムに書きまくってた
日本の批評界が文学以外を無視しているだけ
加藤のような実証的な批評が無視され、古谷とかの感覚的批評ばかりが
持てはやされ
だからさ、君の理屈おかしいじゃん?
君にとっては芸術終わってないんでしょ、結局。
終わってるのは批評の方だ、と。
なら、作品と批評に区別はないという君の理屈は矛盾してるでしょ。
そもそもなんで影響力の少なさが芸術の終わりになるのさ?
こんなこと言ったら気に障るかも知れないが、もっと僕に注目してよって言ってるようなもんだと思うんだがな。
それと、「大衆」の定義をちゃんとして欲しいな。「大衆」を「啓蒙」できるくらいの勉強家を自負するなら。
まだ分からないようだからアドバイスしておくと、「大衆」ってのは一枚岩じゃないんだよ。
>>518 いっていることは分かるけど
俺がいいたいのは、芸術論なんだよね
個々の作品に限っては、君のいうようにいいものもある
けれどジャンルとしての芸術は社会に飽きられつつある
これが意味するのが、大阪知事橋下の例のアレでしょ
芸術というジャンルを大衆に啓蒙することは、政治の話になる
タコツボ化するのもいいけど、気づいたら壺が消えていた、という風に
なりたくないでしょ、われわれ
>>517 加藤は実証主義じゃない
「俺は実証やります」というポーズで批評をやろうとした人
藤井仁子はどうなの?
スピルバーグ論が期待される若手最有力ですが
テクスト権利章典のごとき何かに頼った言説屋でしょ
テクストを映画的に擁護することで、何かを守った気になっている80年代の亡霊
テクストは、徹底して、読み解き、読み抜き、読み破らないとあかんのに、
未だ80年代のナイーブな批評にうつつを抜かしているのでは?
軽視され、排除される大衆。迫り来る脳科学。
……駄目だこりゃ
>>522 >テクストを映画的に擁護する
具体的に何を指すの?
大衆を啓蒙する、とか壮大な話してんなー
第二のマルクスか?
で、実際にやりとりしてる内容は、映画の社会的ポジションについて
宮台のような映画批評はどうもなあ
内田樹ならおkってこと?
優秀な奴はもう映画に行かない
マルクスも読まない人ばかりが映画を論じてしまった
競争相手は馬鹿ばかりだけど、馬鹿も消えた
競争相手はいない世界へようこそ
朝日の夕刊で野崎歓がバザンの話をしていた
こういうの本当にしょうもない
>関係者のみなさまに2009年最大級の爆笑をお届けします。腹の皮がよじれすぎて切れちゃわないように、下腹部にうんと力を入れて踏んばるのですよ!
献本されました(爆)。
結局お前らが何を言っても大半の美大生は村上、会田とか言ってる件
結局現代美術系の大部分はそういうレベルで回ってる。
村上はきわめて知的ですよ
>>532 古谷はそう考えているかもしれないけどね
村上隆は知的だよ
評価の規則の次元でモノ作っている
文脈主義
すでに芸術が破綻し、不良債権化したことにとても自覚的なのですよ!
すでに終わったイカくさい80年代批評のために
藤井はあのエネルギーがどこから供給されているのか気がかり
リビドー的というか
今は00年代も終わろうとしているのに
要旨(BOOK):日常に普及したナノテクノロジーが、文明社会を根底から変容させた21世紀
中葉。世界は、多種多様な人種・宗教・主義・嗜好の集まりからなる国家都市
に細分化されていた。文化の坩堝・上海でヴィクトリア時代復興を願うフィン
クル=マグロウ卿は、孫娘の教育のため、若き淑女のための絵入り初等読本の
開発をナノテクノロジストのハックワースに依頼した。ナノテクの粋を集めた
プライマーは、読み手を主人公とし、その境遇を“物語”に取りこみながら教
育していく、究極のインタラクティヴ・ソフトだった。しかし、ハックワース
が自分の娘のために不正コピーした〈プライマー〉は、ある事件をきっかけに
、貧困と虐待の境遇にある少女ネルの手にわたってしまう。プライマーをめぐ
る複雑な思惑が渦巻くなか、そのささやかな物語によって育てられたネルは、
己れの人生という大いなる物語を切り拓き、その物語の力は、やがて激動の世
界そのものを変えてゆく。『ニューロマンサー』の“近未来”に『ハイペリオ
ン』の“叙事詩”をリミックスし、デジタル仕様の世界観を華麗かつ過激に超
越する、SF新紀元のパラダイムシフト。ヒューゴー賞・ローカス賞受賞
不良債権の比喩は使う方が痴呆化するから注意な
線と色彩の区別が微妙に変な気がする
頭悪いからうまくいえない
批判はだいたいあってると思うけど1種とか3種とかまったく意味不明w
こことかな
湯本が替わりに霊性とか言ってるのはどうかと思うけどw
今の保坂には佐々木中がいるから大丈夫そうだ
>保坂は樫村がいなきゃ小説家になれなかった。
そうすると、樫村の言うことより、自分の感性を信じられなくなる。
いってること間違いだらけなのに違和感を感じられない。
保坂最近小説かいてないけど、それは樫村の行き詰まりともシンクロしてる。
いままで樫村が情報源だったけど、それが上手く行かなくなると小説が書けなくなった。こういう簡単な相似を見落としてはならない
実際、保坂は樫村がノーって言うようなものを褒めることって、ない。
あれだけ、体癖違うのに、ここまで趣味が同じなんてありえない。
完全に支配されてる。
はなっから、いいえちがいますって言う気ない。
相手の話聞く前から、受け入れる体勢になってる。
師弟関係なんかじゃない。
弟子が師匠を超える可能性ゼロなんだから。
これは主従関係という。
古谷もそう。
疑問をまるで抱いてない。違和感をまるで感じない。
↑これ読んで「なるほどなー」って思う人間って存在するの?
ひどいにも程があるぞ。
保坂は単に、したたかなだけに思えるけどな
樫村も佐々木も利用してるだけだろ
ヤンフルは樫村に心酔してる…してた
去年までは
今は分からん
相互依存なのは事実だろう
保坂には貶された方がいいような気がしてくる
全体的に人脈の関連付けが強引すぎるんだよ。
佐々木と保坂だって、保坂が良書として紹介してただけで、それ以上は今のところ何もないんだし。
保坂掲示板を一度見てみた方がいい
佐々木を読んで、単純にやる気になっている保坂に呆れてるんだろうな
もう読破するのも面倒くさいんじゃないかw
ここ数日、ダンスやドローイングに熱中しているのをそう読むか
今のフルヤンには神村恵がいるからな
単に制作の動機付け以上の存在なんだろう
やたら青臭くて前向きな日記を信じるなら
悪いことじゃない
>>549 あのカルト宗教みたいなとこだろ?
良書として紹介ってあそこの発言のことだよ。
もしすでに対談とかしてるなら俺が知らないだけだが。
保坂は「すごいすごい」っていつも言ってるから(とくに新人とか)、あんまり気にしないほうがいいよ。
>>552 軽いストーカ体質なのかね?
実際に接触あるとは思えない
>>554 これだけベタ褒めしているにも拘わらず、神村恵のブログ(?)にフルヤンのことは触れられてないところをみると
神村は古谷利裕を知らないんじゃないかな?
周りから「有名な人なんですよ」と聞かされても「ふーん…」みたいな
だから腰の弱いフランケンズと違ってチケットも自腹
ふつうに考えれば彼氏いるだろうしな
>>553 フルヤンもあそこの「同調圧力」に負けてると思わないかい?
558 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/08(日) 21:00:58
じゃあうまくその言葉を使い分けているわけだな
いや〜、古谷の記述だけだと「ドキュメンタリーは嘘をつく」程度のことしか言えてないような
うまくそ
あそこまで作品解説しちゃっていいのか?
僕はこの瞳で嘘をつく
564 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/08(日) 23:43:16
アイアムムネオ
ここってたまに異様に盛り上がるね
先週とかすごい勢い
【陵南公園】古谷利裕の偽日記【やすらぎ霊園】
川部良太って芸大先端か
池田と黒瀬の知り合いだろうか
>>565 見てる人の層に偏りがあるからな
思想、美術、映画は密度が濃い
小説(文章技術全般)、演劇(ダンス等含む)は人が少ない
だから話題によって、盛り上がりにムラがある
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。
ヤマカンこと山本寛と Ordet Part66[アニメ漫画業界]
>>541って何?
よくある電波系のサイトでしょう。
湯本も樫村も、元ラカン派の電波
フルヤンはこういう人に魅力を感じるのだろう。
千歳烏山に20日に行くとフルヤンがいるのかな
入り口近くで「余ってるチケットただでもらえませんか〜?」と叫んでる汚らしいロン毛がいたら、それがフルヤン。
576 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/09(月) 22:47:18
「ぼくの絵とチケットを交換しませんかなのだった」
って言ってみればいい
神村恵に絵を捧げるとか(マジでそのつもりだったら古谷ゴメン)
うむ。上にもあったけど黒瀬、池田と面識あってもおかしくないな
ってか、ぐぐっても件数少ない
古谷はどこからこういう作家を見つけてくるんだろ
古谷は映像作品でなんかの賞に引っかかって、そっち系の講師目指すなら五年でなんとかなりそう
にわかにスレ人口が数人増えたっぽいな、ここ
むしろ減ってね?
俺は1週間の鯖規制から復帰したところだ
ほっとくとろくな議論してないな、ここ
と呆れていたところ
工学君がどうやら暴れまわってたみたいだね
口調が前スレ後半の俺と似てるから困るw
ちなみに吉本本は読み終えてなく、
北野圭介の出したばかりの『映像論序説』読み中なんだが、
まあまあいい本だ
シネフィル的な言説を通過してない人の方が楽しめるかもしれん
スティーブン・シャビロ(映像を見る身体という、蓮実みたいな視点のバタイユ的な人)が言及されたり、
フルッサーが出てきたり、フルッサーと初期デリダの類似性が軽く触れられたり、
なぜかカヴェルとクラウスもなぜか触れられたりと、人名索引的にはすごいことになってる
わっかんねーなー
どうして美術とか映画とかと関わるの辞めないんだろ、みんな
俺は鉄道オタにそういう感想を持つが、それを鉄の板で言う気にはならんw
>>586 シューティング、そして西部劇ときて、まさかつなげるつもりか・・?
と思ってたらどんぴしゃでウケた
俺はベティカー見てないから知らんけど、蓮実あたりのベティカー評価で言う、
一種の抽象性にまで進展した西部劇、というのをゲーム空間につなげたいのかな、と思ったり
最新の記事の、ブルデューがらみのは、興味深く示唆を受けて読んでる
面白いので、どしどし書いてほしいし、
俺も何か読んでみようかなと思った
>>589 けっこうシネフィルっぽいの?やたらにわかと言ってるけど
>>590 俺のシネフィル教養に穴だらけなだけかもしれんけど、
ベティカーってハリウッド50年代の中でも渋い層なんじゃないかと
あんまり上映もされてない気がするし、
ニコラス・レイ、ダグラス・サークを飛ばしてベティカーって、ある意味すげーなとか思った
石岡のにわか云々はなかば社交辞令じゃないかな
シネフィルってあちこちを全面的にコンプリートしなくても、
実は結構相手に認められるルートはあるので、石岡ほど優秀なら面白がられると思うけどね
なるほど。あと藤井仁子の件kwsk
>>592 たまたまこの前ぐぐったら、映画板の蓮実スレで経緯がちらっと紹介されてた
中村秀之のノワール論の賞賛の仕方が加藤のカンに触れて、
シネマガジネットでの加藤による中村本書評で藤井を批判したらしいのね
その件をめぐる喧嘩じゃねーのか、と言われてた
どっちにしろ、同業者ぐらいに近しい人ぐらいにしか気づけない、
触れなくてもいいような喧嘩や話題を嬉々として盛り上がって触れる
藤井の神経はちょっと変なんじゃねーのとは思う
作家間、批評家間にたまに(別に問題的には深くもない)喧嘩が起きる程度には、
研究者間でもその手のことは起こるんだろうし、
いちいち舞い上がって言及することかこんなもの、と思う
第一、「喧嘩したら即献本来なくなった」って事態のほうがやらしいじゃん、と思うし、
加藤の振る舞いは別におかしくないと思うんだが
軽々とパンクを自称したり、平倉のシネマ書評を気軽に賞賛するところといい、
藤井には能天気な面ばかりが目立つな
俺は前スレでも言ったように、藤井にはあまり驚かされたことはない
もちろん、見落としはあるだろうから、「いや、藤井のこの論文は良かった」ってのがあったら教えてほしいけど
蓮實がドゥルーズ好きじゃないから、平倉のような批判はふつうだよね
石岡のこれってその件じゃね?
>映画についても、かつてドゥルーズ『シネマ』を読みながら対象作品を見たことがあり、ある種の人たちにとっての禁忌?にすでに思いっきり触れてしまっているわけですが(何人かの友人には実際指摘されました)、
しかしながら、この「にわか問題」については思うところもあるので稿を改めたいと思います。
>>594 俺は蓮実の言う「『シネマ』見て、あそこで出てくる作品を見ていくようなのはだめです」って主張は嫌いだな
第一、『シネマ』読みながら触れていっても、補助線が『シネマ』だけに陥るって状況、そうそうないだろw
蓮実のあの手の言動は、実証主義の学者が理論的な学者に対して
「ふんだ、この作家の研究は俺たちに覇権あり」とか主張するのと変わらんと思ってみてる
シネマから多産的な方向に模索したり、ドゥルーズの映画の見方に対してあれこれ試行錯誤したり、
概念形成とは何か、とかそんな議論だってありえるのに、
先にそれを潰し、日本で『シネマ』を読まれなくするための土壌形成かとすら思うね
要するに、自分らにとって不都合だから腐して牽制してるだけだろ、と俺は思ってて、大嫌い
是々非々、自分の映画の読み方やそこでの概念の自己反省、さらなる足取りを含めて、
『シネマ』は読まれるべきだし、『シネマ』を賞賛するか/潰すか みたいな二択状況は最低だ
アニメの話をしながら書いてるしな
>ある種の人たち
ああ、平倉を含めて指してるのでは、ってことか
俺は蓮実および、蓮実に忠実な信徒を指してるのかと思った
(平倉はやや緩く脱線しながらも、蓮実圏域からうまく出れてないってことで、ボーダーライン)
単に「シネマを応用しました〜」みたいな議論を石岡だってやる気ないだろうし、
いいんじゃねーの、と思うけどなあ、別にシネマと平行しながら映画見ても
さすがに平倉とは仲いいんじゃないのかな
質問ばかりだけど、あと聞きたかったのは古谷の最近の映画論かな
ラカン使ってないのはよさげ
>>598 古谷の映画論自体を最近読んでないなあ
溝口のは、俺が晩菊見てないという根本的な欠落が・・・・
黒沢・武については前スレで言った
インランド・エンパイアは見てないので知らん
あんまり古谷と見てる映画かぶってないのでコメントできね
北野圭介本について言うと、ひょっとしてこれ、古谷も気に入るかもしれんな、とは思った
川部良太みたいなイメージフォーラムの人を褒めることについてね
>さすがに平倉とは仲いいんじゃないのか
そりゃそうだね
まあでもさー、
>『シネマ』を読みながら対象作品を見たことがあり
>指摘されました
ぶっちゃけ、論の運び方と、心理的武装解除の手順次第だぜこんなもん
「演繹的だ!」って印象もたれないやり方にすれば、簡単に凡百のシネフィルはなびいてくる
つまり、印象の水準でしかねーよ、と思う
相手のプライドを崩さずに、理論展開をうまく見せると、シネフィルなんか
コロっと「なかなか面白い議論をしますね」みたいに寄ってくる気がするんだがな・・・
プライド保持したくて反感にいたるレベルの層が多いんだから
>>600 それこそ見てないから知らん
>>116的な自主映画史とか、まとまらんものですかね
イメージフォーラム系とか、アップリンク系とか、PFF系とか、いろいろあるよねあのへん・・
3/9を読むと、一定以上の才能がある人の批判パターンが一緒のような
フルヤンはシネフィルが嫌いになってるんだと思った
>>601 なんかめんどくさそうだなw
どの業界もそんな感じかもしれないけど
>>605 北野本は、戦術としてやってるのか当人も悩んでるのか知らないが、
妙にそういった武装解除手順がくどかったw
彼自身、蓮実圏域のみならず、「演繹的か作品からか」みたいなジレンマで悩んでるんだろうな
章の一つはゲーム論になってて、興味深いよ
シネフィル以外に読者を作りそうな労作だと思ったな
>>607 でも、演繹的かどうか(理論のみならず当人の問題設定も含む)、作品からかどうか、
なんて本当に簡単に区別つくのか? と考えてみると、こういう発想は出てくるよ
「要するに、どっちの印象に転んだか、どっちの印象に誘えるレトリックや文体が蓄積されたか」
のレベルで、大概は振り分けられて突付かれたり反感食われることになる
で、シネフィルってある種の文体、語りを使ってるかどうかでその振り分けをやってるのであり、
必ずしも慎重で鋭敏な読解をしているとは言いがたいと思う
川部とか、今日の瀬田とかまったく知らんけど、古谷の文読むと見てみたくなる
そういう力はあるんだよな
名前は覚えるし、機会があればちょっと見てみるかな、て気にさせる力はあるよね
でもね、どういうわけか古谷の文章は紙媒体だと冴えないんだよ
>>603 住人増えてないのでは、という意味か
増えたとしても1,2人ってことだけどね
文字数の尺と、議題設定や作品評の設定を持った上で書くとだめになることが多いってことでは
>>612 古谷の批判の仕方ね
佐々木中に待ったをかけるときもあんなだったと思う
>>614 人脈話、業界内力関係話で落とす発想の人がどうもこのスレじゃ多いし、
佐々木スレもそういう感じだよね
>>615 作品評の場合は、たぶん「レヴュー」に対する論立ての発想の仕方から規定されてつまらなくなっていると思う
>>608 まぁなー
「論とはそういうもの」としてみると、その命題に対して論駁するのはなかなかシンドイ
むしろ俺自身が実践してる気がする
>>616 全部誤解されているようだ
書き方が悪かった
古谷が佐々木中や瀬田を批判するとき、一定以上の才能を認めているようで、
本当は全然認めていないような気がするってこと
今思うと岡崎もこういう褒め方だったんだろうなあと
ああ、3/9ってエントリーの方ね
スレの3/9ログの方かと、おもいきり勘違いした
>>619 斜め読みしたけど、3/9エントリーって、古谷が漏らす「映画の80年代的なもの」
への回想と、今そういう作品を見ることの不満 って視点とほとんどかぶるね
現実にはあるもろもろの屈折を導入しないままに、
映画を見て映画を作ってることのまずさがでてるんじゃないの言いたいように見える
黒沢清信者としての古谷という意味では、
アカルイミライへといたるような黒沢の軌跡を前提に、瀬田はもっと試行錯誤してよ、
って言ってるのでは
>>618 俺は結構極端で、「文章にはつねに、少なくとも潜在的には、論立てでもある」とみなしちゃうタイプ
だから、文体や語彙操作で派閥分けるみたいなのは嫌いだし、
論文のかたちであっても、(切り込みの)センスあるなあ、この人、と思うことは多い
ドゥルーズだってそういう感じでいろいろなものからインスピレーション受ける人だったんじゃないかと
論と作品読解なんて、そうそう分けられないし、演繹的なんてそうそう起きないよ
「つまらない論」というのは、いわば演繹的、とでもいう雰囲気が出るのはあるけどね
古谷は技術が見える作品が嫌いなんだと思う
>>623 自分にとっての既知のものとして驚きがないようなもの、って印象なんだろうね
>車のなかで男と少女が唐突に「勇気」とか「未来」とか言い合う場面とか、
このへんは、初期ゴダールの、『アルファヴィル』での、「愛」をめぐる台詞を聞くときに感じるものと通じるし、
ある種、学芸会的に閉じてる感じを瀬田に感じたのかな
自主映画ってそういうものになりがちだろ、と思ってしまうが・・・
黒沢清でも『勝手にしやがれ!!』シリーズはそういうおとぎ話めいたところあるし、
いかにコメディとしてやってるとはいえ、あまり面白くはない
あのコメディを追い込んだら『蜘蛛の瞳』になるのだが
>>609 心酔芸とでも言うか。
んで、心酔芸とばれないよう、バランス取るために無理して作家と距離を取ってるかのようなことを付け加える、と。
藤枝に似てるなー。
黒沢清って全部既視感があるから面白いんだと思ってたぜ
>>625 基本的に古谷は、(古谷の描く)作者像と同化して論じる人だからね
ゆえに、「いや、お前のやりたいことをお前がやれよ」という気にさせられることが多々ある
しかし、この断絶感の上で何かを論じることが下手だし、
だから自分を追い込むのも作品を追い込むのも、どうも漠然としてる
こんな事言ってるし、そこは容赦するしかないかと
>ぼくは、人の作品を観る時でも自分で作品をつくる時でも、まずは自分自身に生起するこのような感情を指針(触角)とするしかないので、
>>626 ジャンルで見ることが難しくなってくる、という意味では
アカルイミライまでの黒沢はある程度変化してるよ
細かい話といえばそうなんだけど
既視感ってどういう意味合いでだろう
似たような映像が作品をまたがっていっぱいあるってことかな
それは俺も「たまには違うのやれよ」と思わないでもない
あとは小道具みたいなものが似てるってことかな
幽霊→クラゲ→幽霊→ミイラ→幽霊とか、ダンボール、ビニールカーテンとか
>>629 映画好きなら黒沢清は見ておけ、みたいに言われた事があって、教科書化してるからかも
で、なんか権威化しているし、俺にとって未知な感じはなかった
貶すと怒られそうじゃん
だからこんなものかって感じでそれこそ勉強気分で見た
>>630 黒沢清自身が教科書化してるとは思わないが、停滞はあると思う
黒沢を薦めるってのは何か背景がわかるな
思うに、90年代以後映画を見続けたシンフィル層にとって、
黒沢はちょっとしたトラウマみたいになってると思うんだよ
乗り越えるやり方がわからない壁みたいになってるという意味で
で、たぶんゴダールと近しいものとして黒沢は受容されたんだけど、
1ショットの扱いや、1ショットで行為を起こせば出来事となる、みたいな発想や、
死を可視化させて幽霊にするという手付きなんかを見るかぎり、実はゴダールとは遠い
しかし、シネフィルってショットの美学に傾きやすいから、
この差をうまく見れなかったんじゃないかな
前スレで言った、黒沢清をめぐる映画批評言語の停滞は、
実は蓮実以後の映画を語る言語の停滞の集結点でもあり、ここをトポスとしてとらえて、
脱構築的に介入すればかなり効果があると思うんだが・・・
黒沢がマイスター扱いってのは、そういう事態の現われなんだよね
なる
あんまり出来事が起きてる感じがしなかったな
感受性が鈍い俺が悪いんだろうと思って特に気にしてないけど、
正直あまり面白くない
>>631 うーん・・w
映画に疎い人に全力で薦めるべき作家ではないとは思うんだけどね俺は
ただ、シネフィルが、つまり国内の映画批評言語が黒沢をうまくズバズバ論じれない、という点では
橋頭堡みたいになってるっていうかなあ
その「黒沢から見ろ」ってのは、「俺の悩みをわかってくれ」みたいな言い回しにも見える
黒沢から見るってのはいろいろおかしいと思うw
俺は黒沢から見たタイプの人間だけど、初期ベルトルッチ、アンゲロプロス、エリセ、相米などと
一緒に見ていくような見方をしてたよ
で、実際、そういう流れで見たほうがいいんじゃないかな
でもエリセはそれこそ神だと思ったな
映画の中で出来事が起きてる気がした
赤ん坊がピンチの十分間のやつとか
>>633 行為が行為として、ポンと投げ出されてるような演出をするためのノウハウを黒沢はやっててね
しかし、一種擬似的にそれが出来事と混同されている気がする
ああいうワンショットでの唐突で淡白な動作の開始が出来事かっていうと、違うだろうね
ただし、ショットの美学に陥りやすい(バザンの頃からこの種の「リアルさ」の志向はある)シネフィルには、
あれこそが・・・! みたいに発想しやすくなってるんだと思うよ
というわけで、出来事と映画ってのは実のところどうなのよ、ってのが
本当は映画批評で議論されているべきだった
>>637 ようはブレッソンの延長みたいな感じだろうか?
>>635 挿入される白黒映画の岸辺のフランケンシュタインと少女の箇所かな
いやー、エリセは今こそ、「内乱と亀裂と出来事の痕跡とはこういうものかもしれない」
などと見られるべきだと思うね
イラク戦争の後、見るべきかも、とか
俺はマジでエリセ好きだなあ
エル・スールの絵葉書としてしか表象されない南部スペインというのも面白いんだけど、
黒沢のニンゲン合格の絵葉書とかアカルイミライのクラゲが行く海が
エリセ的なトポス観から転用されてるんだよね
つまり黒沢清を楽しく見るのに失敗したのかw
ドレミファ娘とかVシネは見てないんだけどね
>>637 そう、ブレッソン的なもの
実際、黒沢はブレッソン大好きだよ
ブレッソンとは多少カメラ位置は違うけどね
黒沢におけるカサヴェテスとブレッソンの位置って似てるんじゃないかと思う
>>640 俺は、映画に疎いけどセンスや発想が鋭くていろいろ読んでる人には、
ニンゲン合格か、蜘蛛の瞳か、アカルイミライだけを薦めることにしてる
幽霊による恐怖映画じゃないものの方が黒沢はいいと思うし、
ショットで見ない人の方が黒沢をうまく切って面白いところを読むなあ、という印象があるな
>>636 >赤ん坊がピンチの十分間のやつ
もしかして、10ミニッツ・オールダーに入ってるやつか
これ見てないなあ
>>643 それ
比べると黒沢清はかなり精彩を欠いてみえたぜ
酷な比較だろうけどあまり映画マニアじゃないからね
>>644 そのぐらいの淡白さで黒沢と距離もって見るぐらいの方が絶対いいと思うよ
ゴダールをどう料理していいのかわからなくなってる停滞の結果が、
いわばショット美学への傾倒と、ジャンル要素の扱いが混迷してる事態と、
黒沢の異様な持ち上げられ方に帰結してる
実際、「カン」のレベルでは、青山よりは黒沢はすごいものを持ってる人ではあるんだろうが…
作品はどうも微妙なものが多い
アカルイミライの終わりごろ、いきなり藤竜也とオダギリが分割画面で同居するのとか、
カンとしてはすげーいいんだけどね・・・
>>642 まあ蜘蛛の瞳を今度見てみるよ
黒沢はビリーバーでもないのに信仰をちらつかせている気がしてならないけども
>>644 いま10ミニッツのエリセ見てるけど、面白いねこれ
何かを待機し続けてるようで、かつ、何かが起こり続けてるようで・・
ドゥルーズ的に言えば、action-reactionの関係はかなり崩れてるし、
ただリアクションがないままに何かをおこなってる
でも今思うとCUREの印象が悪かったからかも
>>646 どうしても見つからなければ、トレントでなら落とせるから
そのときにはAsianDVDclub.orgにでも登録して拾え
一つ先に言っておくと、
ヤクザ映画の現代的転用といったジャンル的読解はつまらなくなるからするなってのと、
幽霊要素は出てくるが、無視していい
古谷はメルヴィルの「バートルビー」を見て蜘蛛の瞳を思い出すと言っていたが、
ドゥルーズ、アガンベンによるバートルビー読解と比べると、蜘蛛の瞳には限界が感じられると俺は思う
少なくとも、アガンベンが言うような、「できればしたくないのです」の否定性の突きつけが不在だ
しかし、こうした圏域で黒沢を突付きだすことが重要なのだというのが俺の見解
CUREは二者関係間の干渉というのだけに絞れば面白い
白痴が一人いて、質問をして、相手を解体するっていう非対称的関係
サイコサスペンスの枠は要らないし、つまらないと思う
太陽も、二者関係のやりとりと、それ自体が政治的構成になってる、って意味で
俺の中では黒沢の限界を超える意味で関心がつながってたんだなあ、と前スレで自己内省的にそのためね
かぎ括弧つきでなら、「ある意味で」ゴダールの特性は黒沢に結構来てる
場所Aから場所Bに行く過程が映画になるってのは、まさにゴダール
フォーエヴァーモーツァルトもはなればなれにもウィークエンドもアワー(煉獄と天国)も全部これだし、
二項を置いてその非対称性をやるってのもゴダールの模索だった
だが、その黒沢でのやり方の限界を突付かなかったのがかなり問題
訂正 と前スレで自己内省的に言ったのはそのためね
まあ、黒沢の延長線としていま自分の関心を読み直したら、ってことでしかないし、
別に俺はそんなに黒沢愛だけで映画を見続けたわけでもないのだが
>ビリーバーでもないのに信仰をちらつかせている
映画への信仰、みたいな蓮実的な意味合いか、
それとも、文字通り、信仰と超越性ということかな
黒沢の、一種神秘主義的なものに隣接してる道具立てって、
「こうすれば映画作れるから」みたいな発想にしか見えないよ
ゴダールがジュリアン・グリーンを好んで、不可能な愛と言い出したり
『JLG/JLG』末尾で世界の救済を語るようなのとは、かなり資質が違うと思う
浅田がi-mode critiqueで青山/黒沢を対比して
黒沢を職人として留保をおいたような欠落は、たしかにあるんじゃないかな
奈良美智が落書きで逮捕か
フルヤンは外では描かなさそうだけどなんかコメントが聞きたい気分だぜ
654 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/10(火) 22:22:43
ここ数日、エリセのLIFELINEのことずっと考えてた
スレ覗いたら同じ人がいて驚いた
モノクロて感覚的要素は扱えない分、空間・時間は扱いやすいですね
最後新聞が湿っていくでしょ
あの、写真に時間が流れる感じがすごい
つまり映画ってことだけど
あの十分はたいていの映画より貴重だな
正直、Lifeline見て、エリセってこんなのも撮れるのか、とびっくりしたわ
何気にそうそう誰でも撮れる映画じゃないよな
ああいう短い作品の方が、作家としてどういうコンセプトと作品を組めるのかっていう底力が明確に出るね
日本人作家の若手に近い10分枠を与えて、何が出てくるかというと、暗然たる気分になる
岡田 身体を見るリテラシーって必要ですよ。僕は別に教育に自分が携わりたいという欲望はないから、それ以上のことは言えないですけど、でも、絶対あったほうがいいと思う。惑わされないと思いますよね。
自分の身体を軸にするために必要なリテラシーだと思うんですよね。ロダンとかの大理石彫刻を見て、「このポーズを真似しよう」みたいなことでも、相当面白いと思うんですよ。
そうすると、単純に言うと、フォルムじゃなくて、運動として彫刻を捉えるということが出来るようになるはずなんです。彫刻ってそう見ないと面白くない、実は。そうなった時に、
そうやって運動として自分の体と一緒に見た時にシンクロできちゃうもののすごさみたいなところにショックを受けるというところまで届かないじゃないですか。
「ああ、きれい」とかで終わっちゃうんですよ、フォルムで見ちゃうとね。やっぱりすごい人の作った彫刻の運動はすごくて。そういうことだって、僕、結構大事だと思うんですよね。それはまずは演劇の作り手が持つべきだって本当に思う。
岡田利規か
岡崎と読み違えて、たじろいだw
こんな素の身体論じゃないもんな
>フォルムじゃなくて、運動として彫刻を捉えるということが出来るようにな
割と普通なヴォリュームについての話やないか、とか思った
素材の動的な変成作用みたいなものを垣間見て、そこにあるフォルムをその運動の一時中断とする、
という発想はありふれてるし、彫刻と運動のモチーフに馴染んでれば別段目新しくもない
素材/フォルム間じゃなくて、動作/フォルム間で言えば、未来派とかデュシャン知っててもその種の感覚は養われる
>そうやって運動として自分の体と一緒に見た時にシンクロできちゃうもの
上記ヴォリューム、運動観からすれば、むしろ
「自分の身体まで中断と持続性がひっきりなしに交代するような蛍光灯の明滅みたいになっちゃうんですよ」
ぐらいの面白いことを言ってほしいぐらいだ
>>628 こう考えるフルヤンは岡田利規メソッドでおk
なにこの酒飲みの論理w
「帰って来たあいつ」by カーネルサンダース
さっき俺はカーネル報道を小さな八百屋のラジオで聞いたな
たしかに不思議な感触はあった
亡霊が蘇ってきたっていうかねw
友人から酒をもらうフラグかな
僕は酩酊から脱我にいたる的な
渡部などが柄谷の愛煙家ぶりを好むようなものかと
しかもばらばらの四肢が順々に発見されたらしいよね
殺人事件みたいだとは思ったし、しかも85年の死体ってわけだ
古谷にとっての過去の総括が始まるフラグかとすら思ってしまうw
今高村薫のマークスの山って読んでてよくわからないんだけど
サンダースみたいな話なの?
高村はノーチェックだから知らん
あと、眼精疲労から来る頭痛や肩こりと連動いてるのか、
花粉症からなのか、古谷の記述ではよくわからないな
前者なら姿勢改善や肩こり対処などの手の打ちようがある
酒を飲めば直るって言いたいだけだと思うがw
ニュース記事を見ると完全にコントだぞ
>阪神は一度も日本一になれず、「カーネル・サンダースの呪い」とも言われた因縁
>阪神ファンらは「今年こそ日本一や」と沸き立った。
>ダイバーの水中マイクの声が作業船上のスピーカーから「下半身、間違いない」と聞こえた。
>報道陣や作業員から歓声があがり
>両足首、左手、眼鏡部分などは発見できず、同9時40分で捜索を打ち切った。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
すまん、なんか間違えたようだ
>>669の二つ目のスレの84を試したつもりがw
まあいいか
驚いた
XXXXが来たのかとw
どうやら有名な引っ掛け技みたいで、見事にだまされたよw
ほのぼのスレかw
それはちょっと情けないw
ほろ酔いで散歩してたいってことか
酒を飲めない理由
1.経済的に。
2.原稿(まとまった作家論)が上がっていない。
黒瀬がGEISAIでなんかしゃべったみたいね
684 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/11(水) 21:24:37
古谷さん マスクしなって
してると全然違うんだからさ
poor な男に鼻セレブw
フルヤンやっぱ体にガタが来始めているのでは?
この年代でコロッとやられる人は多いぜ
>>674 声はすれども姿は見えず、いつも「○○、55円、□□、40円」などと
野菜市場価格を告げているラジオから、お、ニュースも流れるんだなこれ、と
思ったら朴訥な語りでカーネルサンダースの話が出てきてな
不思議な感慨があった
文章では笑える内容なのは、たしかにw
「俺が古谷ならこれ絶対ネタにするわ」と思ったもんだ
アカルイミライで出てくるクラゲのニュースみたいだな、とかね
●昨日の夜中くらいから頭痛は半端ではなく酷くなって、とにかく頭痛いから寝てしまおうと思っても、ズキズキとくる痛みの衝撃波で眠ることも出来ない。
頭痛薬くらい常備しておけばよいのだが、そんな余計なものはうちには一切ないのだった。
691 :
668:2009/03/12(木) 00:44:13
ぶっ 3/10はやはり3/11のための序文だったのか
たまに予想が当たると、喜べばいいのか悩んでしまうな
最近は二日分のエントリーを一日で書き下ろす手も覚えたのか
692 :
672:2009/03/12(木) 00:52:22
俺は肩こりから始まって頭痛が酷かったり肩・腰がズンと重くてきつかった頃があるけど、
1000円台の鍼灸で結構その場その場はかなり楽になったもんだ
慢性的なものだと、大体は生活習慣や座位、寝具の問題になるから
その場の鍼灸だけでは根本的には治らないがね
鍼灸医から処方された、「リズミカルシン」っていう(インドメタシンとl-メントールしか入ってないが・・)塗り薬が超効いた
>時間が経つのが遅く、少しでも痛くない姿勢はどんなだろうとか、肩をほぐしたりとか、目の回りをマッサージしたりとかして、
どうやら俺のレス見たのかな、と思ったんで、アドバイスしておく
意外にやってみると、へえ、こんなんで軽くなるものなのか、と驚くものだよ
鍼灸受けたら、人間は無自覚に筋肉硬直させがちなんだなあ、と身体感覚の印象が変わったもんだ
最近の鍼灸は、赤外線使って内側からほぐしたりするから、マジいろいろあって
身体感覚的にも面白いから、気が向いたらフルヤン試してみるといいよ
そこからアレか、
就職ってめんどくさそう→そしたら美大でも行くか
って感じでぼく史が続くの?
80年代が嫌いというわりに、この頃のテレビは異様に大好きな気がする
>>688 ノイズがひどいけど、ちゃんと聞いてみると面白い
というか東って自分のこと文学域の人間だと思ってんのな
何様だよ、って思うけど
ああいうシンポですらないダラダラしたトークの、しかも動画って
まず見る気にならないんだが、これは面白かったというポイントがあったら、
分:秒数とトピックを挙げてほしいな
黒瀬・東で、紹介者がXXXなんだから、意欲を沸かす方が大変だ
>>693 正直、ぼく史よりも、80年代のもろもろの文化事象や文学・映画・美術のリアルタイムでの感覚や
今思うことなどをとりまぜ、ある程度具体的なエピを交えながら書いた方がウケると思う
かつて過去スレで「フルヤンによる80年代本はどや?」の提案があったが、あの線で
>>696 芸デのGEISAIスレに行けばトピックが箇条書きされているよ
>>697 でも「ぼく」を交えないと書けない人なのがネック
>>698-700 いや、そうではなくて、たぶん俺
>>695が面白いと思ったトピックを挙げろという意味だろう
わりぃ
レスにあの系トークを嫌う雰囲気が充ちていて気分が萎えた
>>702 俺もあのトークは面白いと思ったんだが……
696はアレルギーが強いな
704 :
696:2009/03/12(木) 17:50:10
いやー、別にグダグダトークでもいいんだけど、
ラルク絡みのことを何も知らないから何か最初から興味が減退しちゃってさ
まあ今度見てみるよ、すまんかった
あのピカチューはユリイカに文章書いてる坂上ってやつ
707 :
696:2009/03/12(木) 17:57:48
ありがとね
part3-4あたりはたしかに興味深いトピが並んでるな
ちょこちょこ見てみるよ
708 :
696:2009/03/12(木) 21:00:17
とりあえず瑣末な指摘なんだけども、
part5で黒瀬が「アニメ批評に対していやらしい批判があって、その人らは蓮實ファンで、シネフィル」
という箇所があるが、黒瀬批判ってそんなに知らないが、これぐらいしか思い出せないぞ
ttp://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-201.html アニメに関してシネフィルが、アニメ批評への批判を含めて
何か言うってこと自体あんまり生じない傾向があって、
おそらくシネフィルに一番大きい気分は「アニメへの困惑」なんだと思う
なぜかというと、バザン的な写真の存在論とか、真理がその向こうにあるといった実在感や、
フィルムのもつ記録性のもつ驚きとか(ショットの持続性への美学は大体ここにつながってる)
その手の主要発想を持ち込めないから、「対応しがたい」ってのが実情になってるから
ゴダールスレでのアニメってよくわかんないってムードはそういう反映だと見ればわかりやすい
しかしながらコンセプチュアルには、映画論で培われた美学は接続できるかも、
とか、登場人物の関係論や視線関係なんかでつながるかも、というふうにつなげてるのが古谷じゃないかな
かつ、ややシネフィル的に作画オタ化してるようだが
実際のところ、黒瀬が気にしてるほど、シネフィルvsアニメ批評の構図はできてないと思う
一番よく出るのは、アニメに対する、困惑、および困惑を見せないための拒否、ってな感じだよ
つまりそこと対決してるんでしょ
710 :
696:2009/03/12(木) 21:16:23
そこって、古谷? 上のHP? それともアニメはよくわからないっていうシネフィル層?
動画見た感じじゃ「アニメには作画オタ、演出オタが多くて、その分析手法じゃないとパージされちゃう。
彼らはオタク的に"アニメの見方はこうに決まってる"と信じてる。そういう姿勢はシネフィルと見た目似てる」
って意味合いの、アナロジーで言ってるって側面の方が強かったようだが
そこのHP。もちろん
>>710のような趣旨もありそう。
712 :
696:2009/03/12(木) 21:31:57
なるほどね。でも、まああのHPみたいなの気にしなくていいと思うけどねw
俺もシネフィルとオタクの規範意識やその言説の使い方にはしばしば近いものを感じるし、
蓮實の言う「官能」なんて、「のちの萌えである」とからかいたくなるものがあるから、
黒瀬のアナロジーも気持ちはよくわかる。
オタクの規範意識の祖は蓮実あたりにあるってことで
誰かアルケオロジカルな分析を徹底的にやった方が見晴らしがよくなるんじゃないかと思うことはある。
シネフィル上がりからすると、オタクって限界がすごく見えやすい気がするな。
昔の宇野の指摘でうまいな、と思ったのは、2ch(vip含め)とオタクの規範意識がすごく似てるってやつでね、
実際のところ黒瀬が苛立ってるのは、2chーネットーアニメ読解ーオタク の循環的連鎖でしょう。
で、オタクほど顕著だったり動きはないけど、シネフィルにもそういう閉塞の循環がある気はする。
藤井仁子ブログとか葛生の○×採点とか見てるとなんか嫌な気持ちになる
714 :
696:2009/03/12(木) 22:04:15
東浩紀のことだけど。
美術って怪獣排除してないよね、別に。怪獣描いた絵なんてくさるほどあるもんな。
スーパーフラットで美術も怪獣も一緒になって解放されると思ったとか言ってるけど・・・。
今どきスーパーフラット引きずってるヤツがいるとはなあ。
>>715の言う意味とは別に、東の言う「解放」ってどうも首をひねる。
サワラギが言ってたようなサブカルチャーの文化的収奪としての転用ではないかたちで
美術としてコンテンツを移動させるとき、美術館で展示すればよいというものではない、
という主旨は理解はできるし、実際、岡崎もこだわるように
展示空間とリプレゼンテーションの問題はいろんな英米系の議論があるように美術では無垢ではないだろう。
で、岡崎経由で池田がアーカイブ=ミュージアムとしてのyoutubeとか言ってるわけで。
そこが東の場合、ヒエラルキー云々という言葉が混ざりだし、
言説空間での承認や、言説場の分布の再編成、
象徴資本としての格上げ、商品価格の上昇などと話がごちゃごちゃになっているような気がする。
この話が混ざりだすと、「読解として論が出ても意味がない。"解放"はされていない」と
切りなくいくらでも言えるロジックになってしまうように思うのだが。
怪獣、怪物というのは、ニーチェにも出てくるけど、
それ自体結構ロマン主義以来割と頻出するモチーフでしょう。
カント美学でいえば崇高になる。
文学でいっても非人間的なるものは、ホフマンやクライストでも人形のモチーフがよく出てくるし、
フリードリヒの風景画なんか「怪物的風景あるいは廃墟的空白」みたいなもんだ。
東が言う言葉だと、「怪獣映画以来の造形が美術では関心もたれてません。
あれはキャラとして形象に落とし込むことと非人間性の問題が混ざっているから新たに議論をする必要がある」
ぐらいの愚痴にしか聞こえないのだが…。しかも当人はやる気がないって言うから何だそりゃっていう。
形象とその合成・置換をめぐってキャラとは何か、そして不可避なのか、
っていう論点を徹底的にやった方がまだ面白いんじゃないの。
おそらく、ロシア構成主義やメイエルホリドぐらいまでこの路線は辿れるだろうし。
スーパーフラット(笑)
とりあえずpart3-5あたりは見たんだけど、
強いて面白いと言えば、part4の黒瀬の話が良かったかな。
「作品が自律しているのではなくキャラが自律してメディアミックスして横断する」とは東が言ってきたことで、
たしかどこかで東は、映画はショットで分析するけど、
アニメには映画でのショットの持続性と切断性が同様にあるわけじゃないから
ショットの対応物を探せばキャラになるのではないか、というふうに言っていた。
まあこれも本当にそういう対応関係でいいのか、とか、
ショットといってもショット間の関係とショットの構成要素に着目する場合はまたいろいろ違うような、とも思うが、
黒瀬の言ってるのは:
・「キャラクターに乱反射する現実」
・「キャラクターに読者・製作者がイマジネーションを投射すると、
キャラクターの造形がそれを受けて反射する。その反射が制作の動力になる」
・「キャラクターがこうした投射/反射をなぜ可能にするか。
媒質としての不透明性があるからだ」
(メッツの映像と記号性に関する葛藤に似ていなくもない。
また、動ポモ2のpp.92-96での定義で言えば、もともとこれは柄谷の
近代以前(描写の言葉が多義的):不透明、近代(自然主義小説の描写):透明
という対比に基づいているのだから、「半透明」とは
言葉の多義性の別の復活というかたちで東が持ち出したもので、
キャラおよび物語世界の設定群を前提にした描写があり、
日常性かつ非日常展開の混在が実現されている、という話だった。
黒瀬の言う投射/反射(project/reflect)の語彙は、いわば描写や言葉というよりは、
像としてのキャラ造形および設定群がスクリーンのように主体と関係をもつという話だね。)
なるほど。
続き
・「造形言語として透明ではなく、半透明で、キャラクターの言語とはそもそもそういうもの」
(ここで黒瀬は東の半透明=記号的-身体的両義性としての手塚的図像使用(大塚説)という話ではなく、
田中純の論じる情念定型がキャラ造形に近い横断性を持つという話をしていて、
傷ついたキャラの図像の、読者による身体的同期作用→ゆえに記号的多義性というよりも、
むしろ「造形要素の結合・分解が自ら展開するがゆえに媒質として半透明」といった論旨をやってる。
つまり図像の孕むフォルマリム的な自己展開があるということだね)
このへんの論の作り方は重要な違いになるはずだし、
GEISAIスレのまとめでは見えにくくなってたから整理しなおしてみた。
東がその後で言ってる、僕のいってるキャラ人ってのは、格類型や同一化対象の形象ではない
という論旨は、いわば投射/反射を観客による感情移入だとして論を立てていくタイプの映画理論と対照すると、
東がなぜこれを言い出したのかがわかりやすくなる。
アルチュセール派とラカン派のやった映画理論は、この種の主体論としての視線と同一化問題になってたからね。
フェミニズム的映画理論などでは実に強力に展開できたわけだが。
投射/反射と言われると、ゴダールの『JLG/JLG』で出てきた
ナショナルな表象の相互規定論みたいな三角形の二重合わせのシーンや、
どうも図形的に似ているラカンの視線論(『精神分析の四基本概念』)を思い出したが、
東の論立ては同時に、主体の問題をどうするのかというのが消えやすくなるんじゃないかな。
もちろん、宇野みたいに人生論的に消化するのはどうかと思うが。
訂正 僕の言ってるキャラってのは、
訂正2w 人格類型や
(まあエンロールメントをおこなう際の性格・身振りのパターンや、
そういうものとしての模倣対象としての形態ではないってことだね)
part1-2はまだ見てないけれど、「エモーショナルな表現として見られる」云々は、
要するに作者のリプレゼンテーションとして作品が機能しちゃうってことでしょう。
そしてこれは英米圏でしばしば(ジェイムズ・クリフォードなどもたぶんそういう議論をやってるんだろうけど)
展示行為のもつ再現前の政治的構造として論じられるものだよね。
対談では社会学的な回収としての「作者の実存」の話になってるけれど、
古谷にも「作品を媒介に作者の経験へと遡行し、追体験する」という軸があるのだから、
実は簡単には切りにくい問題でもある。
古谷が作者というメタカテゴリーを持ち出すのは、作品だと完結的に読解されてしまいがちになるから、
より潜在性を見るために、技術と経験が絡み合う場への係留点を残しておこうってことだけど、
岡崎だと係留点はノーテーションとそれが指示する未知の対象、みたいな論立てにしてあって、
作者というカテゴリーを使わずにどうそうした余白を考えるかって話になってる。
岡崎が彫刻とそれが指示する「これはXのミメーシスである」という作用として議論するようなものを
どう維持するかっていうのが重要なんじゃないかな。
東-黒瀬だと、依然として「キャラが光としてあって、分光スペクトルとして分化して展開する」といった
それ自体、メタ分析が容易な足場になってるように思うのだが。
その後、東が言ってる、文体vs主題・物語の構図は、
やまとごころ/からごころ的に受容されたシネフィルのロジックとほとんど一緒なわけで、
映画批評で言えばショット分析・演出分析vsシナリオの構図になる。
「いまは主題・物語が圧倒している」などと言って「いや、文体だ。文体がコンセプト」とやり返しても、
実のところこの二元論そのものの温存になるだろう。
むしろ、そう簡単に分けられないというかたちで問題があるわけだから、
「フォルマリスティックな作業こそがコンセプチュアル」だけでは議論が甘いと思うな。
そこで東が「保守的に旧来のメディアの論立てを追うのではないためにどうするのか」と言いながら、
美術の資金問題だけにしか語れていないのはちょっとなあ。
まあ、偶然性や世俗性が入りこむから、契機にはなるけど、
それを言い出したら映画批評におけるジャンルとその逸脱(ジャンルの枠はいわば世俗性なんだから)、
という議論に似てしまうようにも思う。
その後の自己言及性の話は、ちょっと定義が曖昧な話になってるから何ともいいがたい。
磯崎の議論に沿いすぎだし、メディウムにおいては自己言及とは事後的にはつねに見出されちゃうものだから、
磯崎はしばしば彼がやってしまうように、疎外論的に自己言及=貧困/生の現実=豊かさ みたいな図にしてしまってるんじゃないか。
東がそこに同調してるのは、「保守的に旧来のメディアの展開を追っても・・」という気分からだろうけど、
ここは単純な議論をすべきじゃないと思う。
いい仕事
ふと批評空間第一期10号(1993)を買って読んでるんだが、
冒頭の座談会は既読と思っていたが今読み返しても面白いな
開始早々、岡崎がアクセル全開ですげえw
高橋悠治も混ざってた巻頭座談会は10号だったかなと思って落掌したが、あれは別の号だったか
高橋悠治がお歴々から「尊師」扱いされてるのだったら、第二期7号じゃないかな
そんな内容なのかよw
たしか柄谷の『シンポジウム』シリーズに入らなかったやつだよね?
高橋参加の座談が批評空間に載るって珍しいから、一度読んでみようとは思ってるんだが
とりあえず、10号は芸術特集号になってて結構いいな
浅田の上田高弘批判も要を得た適切なものだ
シネフィルとかいつの時代だよw
黒瀬って美術評論じゃないよな、微妙に。
強いて言うならば、形象(図像)変容探求および下部構造としてのアーキテクチャの人。
ぶっちゃけ、ペインタリーな保守性も強いんじゃないかな。
補足
図像を扱うジャンルが主、って意味の話ね。
別にグリーンバーグ的な意味での平面性や絵画の絵画性というよりも、
図像とそれをめぐる(変形を含む)コミュニケーションのあたりに特化してる気がする。
黒瀬のピカソ論は読んでないので、ピカソについては何を書いたのかは知らんが。
これまでの文学的な批評じたい消えていい。
ネットでアマチュアも分析するようになった。
キャラクターのパターンとか。ストーリーの類型とか。
「ツンデレ」という言葉は社会に浸透した。
これが正しい批評のあり方。
文学的批評は、文学的知識しかない人間の生き残りゲームでしかない。
編集者とかもそう。
とっくに需要もないのに亡霊のようにある。消えていい。
文学、それはひとつの規則であり、規則は自然を壊すとともにそこへ現前する。
公理系としての文学はそれ自体内部を外部=無意識として持ちつつ静かに自己の
自壊を待ちつつ戯れる。戯れという制度。
文学、それは一個の小世界だが、我々の前へ呼びかけつつ呼びかけられて死の受容としてあり、それ以外にはない。
池田も黒瀬も、複数のコンテクストが絡み合ってキャラが立ち上がるんだっていう単純素朴な議論なワケだが。
図像学でしかないというのは、その通りだと思うし、批評基準も曖昧で、「だから何?」とか言いたくなる。
単純というか素人議論。
喩えるなら、「加速度に力は比例する」といっているだけで、「だから何?」としか。
そりゃ正論だけど解像度低すぎ。
つか漫画500冊は読んでからいえといいたい。
うんうん。
黒瀬は横断という名の食い散らかし系なんだよね。椹木を始祖とする。
そりゃアニメの人も怒るだろうよっていう。特化してない事を強みとするんだろうが、
どこまで潰されずにやり切れるかだね。
いや、横断はいいけど、横断歩道を歩いているだけなのは勘弁と。
>>739 >「横断歩道を歩いているだけなのは勘弁」
うまいこと言うw
でしょ?w
美術からアニメへの横断ならsukebeningenなんかどうだろ
グリーンバーグ的な言説を背景にオタク、特に作画ヲタを局地的に挑発してるっぽい
それゆえ限界も見えるけど少なくともあの気概は買いたい
結局無知かつ無技術なのよ。
何も知らないし、何も作れないから、文学でお茶を濁す。
シネフィルも無能だったね。
黒沢清ぐらいだよまともなのは。
他はくだらない歴史や文学などを映画に読み取っているだけ。
あとは、映画や映画史など論じるだけ。
技術的に、いかに作るか、どうすれば面白いのか、売れるのか、っていう
視点で常識的に語ったのは黒沢だけ。
シネフィルには作るっていう視点が欠けている。
アマチュアでも映画撮影するべき。
>>724 >古谷にも「作品を媒介に作者の経験へと遡行し、追体験する」という軸がある
これが「文学的批評」ってことだよね?
いや、それは違う。
古谷の批評ではなく、妄想だから。
文学的批評っていうのは、作り手にとって役に立たない批評のこと。
消えていくし、消えればいい。
う〜ん・・・
批評は作り手にとって役に立つと言っても、いろいろあるよね。
単に批評は作り方教えろよみたいな話にしていいのかな?
まあ、漫画夜話的なの想定してちょ・・・
749 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/13(金) 22:55:59
日記が更新されないね
「文学的批評」が何を指しているのかよくわからん
批評っていう行為は解釈の総称であって、その意味では文学に含まれる
文学の一部とされるのを回避しようとすれば解釈から脱却するしかないが、その場合、限りなく数学(=論理)に近づいていく
ありがちなケースだけど、文学に対する批判それ自体が文学になるから、火傷したくなければそっち方面に手を出さないほうがいいよ
というか、いつもの映画の彼はどれだろう?
大体わかるけど、たまに判別しかねるところがある
解釈は数学にもありますが・・
「文学的批評」ってのは、何の影響力も持たない主観の垂れ流しってくらいの意味じゃないかな?
影響力が無いと言っても、売れ行きとか作家の格付けぐらいには影響力持ったりするんだが。
>>751 何を言いたいのかさっぱりわからんが、勝手に想像すると、解釈が数学にある以上は文学/数学の二項を「解釈」の媒介によって対峙させてはまずいだろ、ってことか?
それならこう答えよう、どうでもいい、と
むしろ批評と数学を同時に見たりいろいろなことが試せるだろ、おまえの好きにしろ
>>754 そのくらいの意味すらないと思うけどな
文学的ではない批評って存在するの?ってことを言いたかっただけ
>>752 なりすましを心配するようなゴミ掲示板で、よくまじめに議論を展開できるな
君の言説や態度にはたまにビビらされることがあって、興味深く読んでるよ
本当はブログをやってほしいんだが、まぁやる気はないんだろうな
757 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/14(土) 12:16:16
文体からして有賀さつきだと思う
>>736 >池田も黒瀬も、複数のコンテクストが絡み合ってキャラが立ち上がるんだっていう単純素朴な議論なワケだが。
言ってしまえば、そうだな。
図像学だとまずいっていう前提が分からん
古谷は実感信仰だからまずいってことになるし、議論の特徴しか伝えていないのでは
なんというか古谷がたまにやらかす矮小化と似てる
21日のイベント行ってみようかなぁ
761 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/14(土) 17:22:34
>>757 755はさつきではありません。
他人に言説を帰するのなら、責任を持ちましょう。
他人を名指すのなら、まず自分から名乗りましょう。
まちがって特定された本人はたいへんな迷惑を被るのです。
らぶあんどぴーす。 W
>>759 図像とその展開の議論に特化されてるという話は
そもそも
>>731を受けての話だろう
「図像論だからまずい」じゃなくて、
「図像論以外の蓄積がどうも見えない、GEAISAIやチ○への切り込みも素人くさい」
ってことを言いたかったのかと思った
でも言い方としては、良く浅田彰がやるような、特定の方法論の切り捨てに近いんじゃないかと
ユング(笑)とかそういう符牒になったら嫌じゃん
俺は80-90年代はあたかもユングが潰されたように見えながら
結構しぶとく生き延びたという印象があるがな。
山口昌男とユングはやたらしぶといんだな、と京極夏彦がデビューしたとき痛感したものだ。
>>736でなるほどと思ったのは、キャラとコンテクストの関係だけど、この前後関係は微妙だよね。
キャラは編集・加工可能性のもとにあるから、いろんな媒体に乗れるというわけで、
キャラ特性→諸コンテクストへの横断 という順にも思える。
シネフィルのテマティスムとは違ってるのは、その横断性のもつ範囲の拡大が、
テマティスムだと固有名の徴を割と維持するから、あまりできない一方、
キャラだといろいろ動きが取れますよ、ってところぐらいだな。
>>719の単純な誤記があったので訂正
・・「キャラクターがこうした投射/反射をなぜ可能にするか。
媒質としての半透明性があるからだ」
ここまで露骨に売文を匂わせるのは…
>●一旦帰ってから喫茶店へ行って読書。喫茶店から帰ってDVDを二本観る。どちらも、書くべき原稿と関係している。
>20から25枚くらいの原稿二つ、21日のトーク、ゲラの直し、ぼくにとってはいっぱいいっぱいの仕事量で、原稿関係ではない本を読んだりすることがなかなか出来ない。
>とはいえ、これでは経済的にまったく足りないのだが。(絵を描くことは、これらの「仕事」とはまたちょっと別の意味での『仕事』だ。)
ここ何日かのスレの話題に応えてくれているとしたら、書くのが困難な映画作家とは黒沢清なんだがな
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
GEISAI(ゲイサイ)&デザインフェスタ [芸術デザイン]
黒瀬乙
時期的にイーストウッドかなあ、とは思ったが、試写やるタイミングじゃないし、
スレとの関係で言ったら黒沢だろうな。
俺は「古谷は黒沢再論やるべき」とは言ったが、すぐにやれとまでは言うつもりはない。
2,3年後までにやるのを見越して考えてみろ、ぐらいの話だ。
でも、そういう緊張はいいだろうし、古谷だって心のどこかで望んでるだろってことで。
既存言説からうまく外れて書くのは、陥穽っていうよりは
いかに思考するかが問われるんで、そのためにまあ2年ぐらい準備期間延ばすのも認めるんだけどね。
実際、古谷自身、黒沢をめぐる言説にはどこかしら満足してないだろう?
そう呼びかけてみたくもなるんだが。
石岡ブログが更新されてる。継続の危機を感じてると言ってるけど、
石岡ぐらいの面白さなら、週1、二週1ぐらいのペースでも全然いいよ。
できれば、北野本の第2章第1節にあてられた
ゲームにおけるインタラクティヴィティと身体という切り口に
2Dシューティングオタとして何か書いてみてほしい。
このスレほんとうに自演宣伝ばっかで萎える。
オマイr気づいても気づかない振りするの上手いよな。
そろそろ不快だぞ。
771が石岡だと思ってるのか……
それもすごいな
774 :
771:2009/03/15(日) 13:51:15
俺はただの石岡期待派だw
↑こういう返しももうワンパターンすぎ
776 :
771:2009/03/15(日) 13:56:21
じゃあいいよ、自演でも何でも。
みんな自演して、イベント情報、興味深い記事をどんどん紹介してくれ。
さしずめお前は黒瀬自演ということにしておこうか。
自演上等なのでどんどん貼ってくれw
日曜か・・・ なるほど、暴れだす季節(曜日)が巡ってきたわけだな
論客の人も最近日曜に集中しがちだよな
よくよく見ると、スレはじめ・スレ終わりごろに荒れる傾向にあるというよりは、
スレのはじめと終わりが土日になることが多いってことなんだな。
そのパターンが繰り返されてる。
予想に反してニートが少ないのでは
労働時間がよくわからない不思議なスレではある。
きっとみんなブラジルかどこに住んでるってことにしようぜw
そう、だから、イベントのレポは出てこないんだよ!
ROMだけがイベント情報を得るスレ
この隔たりはあたかもゴダールにとってのベトナムのごとし
785 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/15(日) 14:48:33
XXXはスルーで。
アカデミックな抑圧に見えるってどういうことだとw
石岡もそっち系だよな
福嶋のユリイカの連載には期待してたりするけど
あと黒瀬らとのCLAPM的/ブルバギ的な集団での研究計画とかw
アカデミックな人は実はいないし
その研究計画は俺もちょっと興味もってる
抑圧かー
昨日の東スレでの「芸術」をめぐる議論の流れは
さながらフロイトvsユングだったよ
>>790 ニコニコ以降という視座の彼らが、
ああいうスタイルを採用するっていうのは
なかなかおもしろそうなんだけどね
かつてシネフィルとかどの程度流行したの?
アニメオタクと比較できないほどのマイナでしょ。
結局、日本のシネフィルって権威主義、アカデミズムだった。
蓮見重彦の価値観を信奉するばかりで、実態がなかったといえる。
ホークスとヒッチコックを持ち上げ、文芸映画や実験映画を貶す、という
挙措は、思考のレベルがいかにも低レベル。
シネフィルっていうのは、不良債権のひとつでさ、
日本的現状に介入するには、漫画を900冊読んだほうがお得なのよ。
この反インテリ的風土においてはさ。
技術へと開かれない批評が、シネフィリーと呼ばれてもてはやされていた
時代はよかった。
でも行く川の流れは、というわけでさ。もうシネフィルの発言を聞く耳はない。
また君かw
不良債権をなじるスタイルみたいだけど、本当は好きだろ?
堀や平倉、(論旨はかなり違うが)加藤は技術へと開かれたシネフィルって感じなんだがw
人文=不良債権君はそういう技術に疎いから仕方ない
>>796 付け加えると、そのへんの人は趣味関連で嫌味なことをあまり言わない気がする
>>797 心理学、分析哲学、認知科学、歴史学、文学(文献学)。
どれも技術知ですが?じゃないと税金使う意味ないし。
おれは、明治以降の出版業界と癒着した文学的批評というマイナジャンル
を批判しているだけ。
漫画、アニメで現代思想ターム使って分析するとか痛いを超えて意味不明だし。
シネフィルを含めて前時代の批評は、これからの批評の邪魔でしかない。
>>799 東界隈がそういう批評の現在形だぜ?
向こうでそれ語った方が有効だろう
出張宅配サービスですよw
>>798 葛生や藤井みたいな性格の悪さや、趣味で結託するような姿勢とは無縁だね。
堀は北野がメディアと技術に関する騎手として挙げているレフ・マノヴィッチも訳してるし、
ランシエールの小論やペーター・ヴァイベルまで訳してるんだぜ。
ヴァイベルってたしかアルスエレクトロニカに深く関わってた映像・視覚技術の批評家だよね。
また、堀はエイゼンシッツやドゥニ、スティグレールが関わってた
映像と著作権に関する討議サークルの紹介もしている。
いまはランシエールの『イメージの運命(Le destin des images)』(2003)を翻訳中らしい。
ttp://www003.upp.so-net.ne.jp/jhori/ 石岡、北野、堀あたりは結構クロスセッションできるメンバーだろうと俺は勝手に妄想している。
海外の固有名を出しまくって乗り切る批評・・・・・w
冷静な目で見れば、ただのオタクおしゃべりなのに・・・
>>803 じゃあアニオタしゃべりやってみなよ
黒瀬にも負けるんじゃね?
>どの程度流行したの?
>結局、日本のシネフィルって
>漫画を900冊読んだほうが
国内の固有名を出しまくって乗り切る批評・・・・・w
冷静な目で見れば、ただのオタクおしゃべりなのに・・・
で、海外の名前出したら
>>803になるんですね、わかります
いや待て、
>>803が言ってるのはこういうことだろう
「ぼくのためにサーヴェイ論文一本分ぐらいの紹介作業やってくだちゃーい」
返答:勝手に読め
さて、そろそろスルータイムだ
暇だからってXXXに関わってたら無駄にログが流れてしまうぞ?
>>802 >石岡、北野、堀あたりは結構クロスセッションできるメンバーだろうと俺は勝手に妄想している。
交流はあるんじゃないか?
いつまでスノッブしているんだよ。
内実がある場合スノッブとは言わない
美術系がアニメ、漫画に手を出すと失敗するよ。
>>809 黒瀬さん?
アニメについてそれらしげに語ることがアニメオタクなのではないのですよ。
そこに愛がないんじゃー。
批評を批評オタクから解放せよ!
俺はシネフィルの手法を維持せよだなんて一言も語ってないんだがなw
むしろ激烈に蓮實を批判するタイプだから、保守派みたいに言われるとあまりに心外だ。
十年遅れの山形浩生はもういいから
浅田スレで騒いでたのもこいつだろ?
なのに本当のターゲットの東スレでは何も語らない
>>818 未熟な弱虫だからだろうな。
そういうやつほど他スレ、他板で暴れまわって「俺がお前らを啓蒙してやるよw」とかすぐ言う。
多くのシネフィルが威圧的に趣味をひけらかす行動原理といっしょ。要するに甘ったれだ。
おしゃべりに水を差されてご遺憾のようですね
いや、スレ止まってたのにお前さんが暴れて放火してたから鎮火作業が手間取っただけだろw
ついに記憶喪失技まで獲得したのか?
それは、それは鎮火作業ご苦労様でしたスノッブ。
弱虫ははやくお母さんに泣きついて寝るがいいよ
特定の学問分野だけを技術と考えるのは、ただの理論フェチ
気がつけば2007年の『それぞれのシネマ』は去年DVD化されてた
4000円代も出して買うもんじゃないような・・・
ライフラインと拮抗するくらいの収録されてる?
いや、すまんがネットで拾って英訳と顔をつつき合わせて見たぐらいなんで、全部は見てないんだ
北野のは酷かった、スレイマン良かった、ぐらいしかいえないな
後は適当に葛生記事でも参照してくれw
あ、でもどうなんだろ。全然すごくはないけど、
dolls、takeshi'sに比べれば面白い・・・・のかなあ、あれは。
田舎の映画館に北野軍団の誰かが農夫役で映画を見にきて、上映技師が武。
キッズリターンを上映するんだけど、上映機が故障してて、火を噴き、
飛び飛びや無音でカットバックされまくって上映、数分で映画は終わり、農夫はポカンとして帰る。
帰路につく農夫の後景があからさまなCGの極彩色夕焼け。
自己破壊の欲望とソレヲギャグにするっていう路線はこのところの武と一緒だけど、
短編だとまだ見てられるかも。いや、見る価値ゼロだし、どうしようもない作品だが。
オリヴェイラはたしかフルシチョフとローマ教皇の対談を、
白黒無声映画で撮ったみたいなフィクション。よく覚えてないけど、結構面白かったような・・・。
あとは飛ばし飛ばしで見たが、まあ総体としては別に必見って感じではない印象だった。
南米の二人連れの男が劇場の前で「今日はカンヌ映画祭だよね」「で、カンヌってなんだっけ」
「しらね、漁村じゃね?」みたいなお笑いのトークじみたやり取りとか(割と無名な作家の短編)、
ヴェンダースがどこかのアフリカの国の独立数周年を記念して荒野みたいな町の子供の姿を撮ってたり、
「カンヌ」であることを逆手にとって政治性を出したか、あるいは
いっかにも「映画言及してますよ、ほら、映画映画」みたいなのに流れ込むかどっちかだったような。
盲人女と男がスクリーンを見ながら会話をしてる短編が、モチーフとしてはへえ、って感じで、
トリアーは、劇場で映画見てたら隣からセールスマンに何度もしつこく話しかけられて、キレて殺すって話で、
たしかガス・ヴァン・サントは、美青年上映技師がこっそり映画を上映して
スクリーンの美女に抱きつき、スクリーンの世界に入ってEND みたいなやつだったかな。
『それぞれのシネマ』は英字幕ファイルとともに結構ネットで転がってたと思う。
コントレさんを参照せねばならないのかw とにかくサンクス
トリアーと武のが×だってことに異論は特にないな。
無音だったり日本語だったりで見やすかったから先に見たってだけだしな、俺もw
全部あわせると結構長くて、しかも言語をまたがってるから、
一つの外語字幕ファイルを使っても今ひとつ把握できないんだよね。
俺、英語聞き取り下手だし。そんなこんなで面倒くさくなってさじを投げた記憶がある。
ま、10ミニッツの方がまだ企画的にも、コンセプトでもいいのが多いと思うよ
それぞれシネマは所詮お祭りオムニバスだよなって感じのものだ
だがそれがいい
いやあ、どうかなあw 葛生が辛口でレヴューやってるのは、
さすがに彼でも「能天気すぎるだろこの企画」と思ったんだろうな。
その判断は間違っちゃいないと思う。
葛生の採点に理があるとは思えん
理はない。が、漠然と「酷いオムニバスだ・・」という雰囲気は伝えてるのでまあいいかなあ、と。
◎、○、△の区別は人によってかなり違ってくると思うし、俺はスレイマンが一番気に入ってた。
今日の夕方から夜にかけてみんな楽しそうだな
どこかのアホが文学と言ったときに声を上げたのは俺だけで「あれれ?」と思ったが、映画と言えばワラワラと人が湧いて出てくる
この人気の偏りっぷりはどうなんだろう
たぶん文学か映画か、ってのは、新垣結衣か長澤まさみか、っていうことなんだろうな、結局。
どちらも制服が似合うし、イメージとしては優等生タイプなのだが、新垣はデカすぎるだろ、とか、長澤はもう少し目がパッチリしてたらいいのに、とか
でも俺は新垣なんだよな
まず瞳の輝きが違うし、あれほど黒髪ストレートが似合う子はいないと思うし、だいいちポッキーダンスが可愛すぎるだろ
まぁそういうことだな
今のおまえが一番楽しそうだな
845 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/16(月) 09:03:07
福嶋エントリー読んだ
完結しなくていいんでは?
実証科学に文化を還元するのは無理でしょう
そーいや川村のロスコ展は行った人いる?
ここのスレ民は様々なイベントを見逃す運命なのでは
スレ民は遅れて蘇る
ゾンビだな
カーネル・サンダースのように
共産主義のように
Port Bの宣伝文句特別寄稿を藤原敏史(=水原文人)がやってたのは驚きだったが、
藤原は気がつけばブログやってるのか。
ttp://toshifujiwara.blogspot.com/ 葛生と藤原はギタイ評価をめぐって若干対立関係にあった気がするが、
性格の悪さは二人とも似たようなもんだった気がする。
藤原の『Independence: around the film Kedma a film by Amos Gitai』はDVD化しないのかな。
ブログと藤原HPにある映画レヴューなどをざっと読み返してきたけど、
言葉に対する姿勢からすると、葛生よりは数段真っ当ではあるな。必ずしも驚きはないけど。
葛生は蓮實信者として形容詞ぶつけてればOK、みたいな甘え方ばかりで、
「あなたのお友達サークル以外には、そんな言葉が通用しません」と言いたくなって困る。
地方のツタヤですら見かけたことがあったんで、
フィリベール作品は最近レンタルしやすくなってるみたい ってことで薦めた
ここのスレ住人の関心と合うかわからないが、廣瀬純の近刊予告が出てた本が先ごろ刊行されたようだ
闘争のアサンブレア
廣瀬純×コレクティボ・シトゥアシオネス:著
四六判(タテ188ミリ×ヨコ130ミリ)、並製カバー装240頁、本体価格2200円、ISBN:978-4-901477-45-1
政治経済運動の新たなる水平的・自律的集団性(アサンブレア)の構築へ。
21世紀の始まりとともに、ネオリベラリズムに抗して立ち上がったアルゼンチンの
失業労働者や職場占拠労働者、都市中産階級たちの様々な実践と挑戦を紹介。
《生活=闘いのための作業仮説》をめぐる、熱き対話集。
「アサンブレアの試みにおいて興味深いことのひとつは、
この運動が自分たちで互いに呼びかけ合うことによって出現したという
事実にあるということ、政党によるリーダーシップも、労組によるリーダーシップもなしに
生れてきたということです」(廣瀬純)。
ttp://urag.exblog.jp/8032866/
アンチ・スペクタクルに興味持ったか
酒にも興味持つといいよ
950 :ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:2009/03/16(月) 18:06:57
哲学板で相手にされないんですね
951 :ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:2009/03/16(月) 20:00:17
黒瀬って奴のインチキ臭さがすごいんだが
虚勢はって美術評論家とか言ってるが、何も実力ないだろこいつ。
東に米搗きバッタみたいにくっついててウザかった。売名の場と化してるよなGEISAIは。終わっとる
ところで、直島・犬島を再訪した今回の
思わぬ出会いのひとつは、『Review House』の編集にかかわって
おり『思想地図』にもアニメ論を発表した若い美術家の黒瀬陽平
が、磯崎新に紹介してもらいたいといって、
わざわざ東京(というか取手)から夜行バスで駆けつけてくれたことだった。
実のところ、私は彼が3年程前に大阪湾岸CASOでやった展示(岡崎乾二郎がカナダ大使館でやった
バンフ・レジデンス報告展の展示にアニメのフィギュアを加えたようなもので、
岡崎乾二郎と椹木野衣を結びつけるという彼の現在のテーマのひとつを先取りしていたのかもしれない)
を見ているのだが、最近は批評家として目覚しい活躍を開始している。
953 :ФゝФ〕Иαηα∫н!∫αη:2009/03/16(月) 20:40:50
<磯崎新に紹介してもらいたい
こういう人定期的に出てくるね。アーティストとしても知られてない。
学問的に研究した実績もない。じゃあ何?
ただビッグネームと絡みたいだけw はよ消えろwww
863 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/16(月) 21:45:10
最近そういうのでは
もう苛立たなくなったな
金に走ったやつは
その分失うものも多いさ
そういう奴をみてイライラする暇あるなら
やることやれよって感じ☆
864 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/16(月) 21:51:23
改行と☆が苛つく
酒飲めばいいのに…
>>866 あきらかに飲みたさげじゃね
怨み節とも取れるし
『新・映画理論集成』二巻と『アンチ・スペクタクル』は
目を通してるかどうかはともかくとして、古谷の関心領域なら既に持ってるものだとばかり思っていたが…。
しかもまた高いとか文句ばかり言ってんのな。
まああの厚さで5,250円は割高感はないわけではないが、
映画/舞台/美術の翻訳書籍ってそんなのばかりだろJK。
学生みたいな奴だな。
制度的枠組みに戻ってきたんだから許してあげようぜ
>>867 酒に限らず、どうも古谷の言葉って恨み言や当てつけを思わせるんだよな。
3/6エントリーのある映画作家についての
>それについてどう言えばよいのか。何をどう言っても、罠にはまってしまうように思われる。
にしても、「罠」ってのが人から押し付けられたもの、みたいなニュアンス感じちゃうんだよ。
現状の言説と必ずしも隔たっていない自分の思考や言葉の欠陥のことを罠と言ってるのなら、
自分にとっての壁であり、他人事じゃないはずなのに、
押しのけるべき他人事みたいに言ってるように読めてしまう。
この人ってもしかして、自分にとっての問題設定も切実さも何にもなくて、
「気に入らないやつ、むかつく。批判、むかつく」みたいなのばっかりなの? みたいに思えてきちゃう。
あと、アンチスペクタクルなら割と図書館に入ってると思うよ。
こういうときに図書館使うなり、スキャナーをコピー機代わりに使うとかすればいいのに。
金の使い方おかしいだろこの人。
フライパンを100円で買ってこいよwと言いたいよな
酒だけじゃなく食い物を何とかしないと
そうそうw フライパンとか調理具をね。なんかいろいろバランスおかしいよなあ。
時間投資の効率もおかしなことばかりしてるし、41歳とはとても思えない蓄積の無さだし。
古谷が一定目立つってのは、単純に30歳をこえてなお本業なしで手広く手をつけている人が、
労働形態上そんなにいないからってのがあるわけで、競争にならないのはそのためなんだよ。
まあ表象とか駒場には負けると思ってるのか、妙な意識を持っていそうだが。
古谷はその非効率的でボロボロなのを「過剰」としてナルシスティックに肯定してるんだろうが、
異様な効率的学習の道を歩んだ岡崎をたまには思い出してあげてくださいとw
岡崎なんて学歴は高くなかったもんな
岡崎はまさしく意志と自己訓練の人だからね。
なんとなくああなるってことはありえないと思う。
よく日本の土壌からこんな人が出てきたなと驚くよ。
その姿勢こそが最も啓発させられるし、作家なら岡崎のこの側面にまず驚くべきだと思う。
やっぱり
>>619の指摘が鋭いんだろうな。
古谷って作家でもなく、批評家でもなく、隙間のものすごく楽ちんなポジションをとろうとしてる。
そのくせ他人の作品の面白いところや可能性を引き出したり、
限界を追い詰めて悩んだりしないで、曖昧なところで終わる。
去年だったか一昨年だったか、星野と京都で公開対談をやって
中上についてはまだ語られていないことがたくさんある、既存の批評だけでは足りない、
といったようなことを言ったらしいけど、じゃあ古谷がするかっていうと、しないわけでしょう。
そういうところに「批評家がやれよ、俺批評家じゃないねえし」みたいな棚上げを感じる。
彼の作品評が「作家にとっては代弁者のように好まれている」
っていう指摘が前にあったけれど、作家にとっては刺激や歩みの目安になるそれこそ「何か」
こそを求めてるもんでしょう。その際、理論的な言語じゃないやり方の方が効くってのはある。
しかし変に同化されて語られても、作家にとって本当に助けになんてなるのか、大いに疑問だ。
古谷自身の自己実現や癒しにばかりなってるように思うのだが…。
そこは876が古谷を好む作家じゃないからわからないのかも
俺も分からんがw
うーん、たしかにそうかもねw
ただ、なんていうかなー、たぶんああいう作品評でもとにかく古谷に好感持っちゃうってのは、
人間古谷に感情移入しちゃった、って流れか、
何か声をかけたくなる友達みたいな印象になっちゃった、って流れだと思う。
つまりさ、作家として古谷の言葉を求めてるほどの人っていないんじゃないかなあ、という気がね…。
いろんな意味で隙間手法なんだと俺は思ってる。
編集と作家の間の隙間、若年層と批評の言葉の間の隙間、
雑誌の言説と作家という肩書きの間の隙間、映画批評にとっての他ジャンルという隙間…。
論立ての手法は流用と転用ばかりなんだが、隙間を見つけるのはうまい。
意地悪く読むと、舞台に向かったのもその一環に見えるからね。
美術・映画・舞台は、(文芸と比較すると)大学側母集団も翻訳書総数もかなり乏しいから、
隙間みたいな余地がたくさんあるはずでさ。
文芸でも翻訳文学を徹底的に避けてるよね
小谷野が何かの新書で書いた説は俺は良いと思うんだけどなあ。
「柄谷が英文学を語らなかったように、
そして柄谷が「海外文学者の悲哀」といったエッセイを昔書いたように
(内容は、背景の歴史性を含めてはたして他国の人間が海外文学を理解できるのだろうかというジレンマ)、
文芸批評家はその頃から海外作品を語らない傾向が生まれてしまった。
だけど、ジョージ・スタイナーだって露文学を英訳で読んでるし、
批評家が海外文学を語らないのはおかしい。むしろ穴場と目指してどんどん批評家が語る手もある」と。
いいと思うんだけどね、ある意味隙間だと思うよ。
あと、残雪の訳者だってそうだと思うけど、研究者や訳者って別に邪魔しないし歓迎するもんだよ。
決して敵対関係にはならないはずなんだけどなあ。
院生体質の人はやたらを重箱をつつくけどね
>>878で言った国内隙間って話と、
>>873で言った「表象とか駒場には負けると思ってるのか、妙な意識を持っていそう」って話からつなげると、
まあ、古谷は「おまえ原文読めないんだろプギャー」的罵倒を忌避したくて
海外文学を触れないのかもしれないけど、そんなもんが跋扈するのは2chぐらいだし、
いいじゃん翻訳でも、って思うけどなあ。
それとも実証主義的に、伝記研究的なことに沿うのが嫌ってことかな?とふと考えてみても、
どう考えても古谷は国内作品を読むときにもこの手のことは興味持ってないんだから、同じはずだしさw
ピカソ論のときも引用したくないとか書いてたような気がする
注がいやなんだろうね
>>882 黒瀬はまだ批評家と呼ばれたり「それって批評家としてどうなの?」とか言われることに
普通にプレッシャーを感じるタイプな気がするけどな。
現時点で業績がしっかりしてないのは、年齢もあるし、俺はそんなに気にしてない。
ただし、とはいえ、現時点で特に批評家単体としてどうとも意識しないが…
>>884 勉強したくないからなのか、文体としての持続感優先ゆえになのか、
いまいちその理由がごちゃごちゃしてる気がする。
黒瀬はGEISAIで株を上げたように思う。
海外文学をあっさり読み続けるスタイルって意味では、
中原はそういう良さがあるわけで、彼のように貪欲に読めばいいじゃなーい、と俺は素朴に思う。
ああいうのって何気にいいことだと思うし、青山や阿部もそういう面あるよね。
たとえば最近古井由吉が漱石の漢詩を読む本を出したらしいけど、
古井好きである古谷としては、是非とも読んで何か書いてみたり、
ふと文選や唐詩選なども読んでしまうような放埓さで突き進んでもらいたいw
俺まだ古井の本読んでないから内容知らんけどさ。
古井は読んでも漱石を読まないみたいな歪みを感じる
>>890 たしかにありそうw
そういう肝心なガッツやタフネスが欠けてるからな……。妙に臆病だし。
いきなりラテンアメリカ文学に目覚めるとか、そんなのも面白いと思うんだけどね。
むしろ古谷にとって「わがことのように出会った!」となる可能性だってあるんだから。
>研究者や訳者って別に邪魔しないし歓迎するもんだよ。
でいうと、何だかんだ言って訳者とか海外研究者ってのは
日本のものとクロスしてほしいなあ、とか、思いもよらない読み方してほしいなあ、とか思ってるもんだよ。
そういうことがあると、訳した甲斐があったって思うものだしね。
訳者・研究者と日本の作家の間には隙間があり、市場的にも認知的にも溝があるわけだから、
ここを面白くつなぐと、絶対面白い展開になるんだがな。
平岡篤頼が第三の新人〜内向の世代あたりや若手作家と一緒に
同人誌「白猫」までやってたのはたぶんそういうモチベーションだったんだろうと思う。
>>890 思い返してみると、ある種、作品の個々のフレームには妙に強固にこだわってるよね
自分の経験に対してはフレームは排除したがるが、
他人の作品にはフレームあるいはオブジェクトの措定をまずおこなう、という手つきがある。
ダンス評にしてもそういうところがあるし、
オブジェクトの範囲が他の系譜や作品群に広がっていくような動きを押し込めてるような・・。
でもシネフィルイヤミ君みたいな性格の研究者や訳者はそうでもないんじゃない?
まあ、そこはおそらく蓮実のサスペンス論経由の発想の難点なんだろうな。
作品を吊り支えるシステムをまず措定する、という挙措をすぐとってしまうんだろう。
蓮実のジャンル論(=サスペンス形式の全体化)は、そういう手つきだったし、
ゆえにまず全体性を確保するという振る舞いだった。
>>894 ようするに歴史拒否。近代美術もセザンヌとマティスだけ非歴史化して褒める。
批評空間webではもっとシャープな印象だったけども。
蓮實ってジャンル論となじまない人だと思ってたよ
>>895 文学畑にはシネフィル的嫌味屋はそんなに多くねえと思うし、そこまで荒んでないと思うがw
映画が荒んでるのはあれはやはりかなり異質なことだからね。
少なくともちょっとマイナーな言語ならまず大丈夫でしょ。
イタリア語とかドイツ語とか、ロシア語とか、ラテンアメリカとか・・
>>899 蓮実のジャンル論はすべてをサスペンスにする手法だよ。
批評空間第3期の、どっかにあったロメール『グレースと公爵』評を見てみるといい。
あの作品すらをメロドラマ=サスペンスに仕立て上げてしまうという、とんでもないことになってる。
蓮実にあってはメロドラマ=サスペンス形式というのは、
過剰のための予期の包囲と、その上での過剰との接触の前準備になるから、
構造に対する外部=過剰 という枠組みと連結してるんだ。
ノワール論とか、他のは知らないけれど蓮実は基本的にサスペンス形式の全面化の人。
>>900 まあ俺はそもそも院に進めなかったんだけど、なんで映画はそんなに悲惨なの?
加藤幹郎がメロドラマにしちゃうのと一緒なのか
>>897 歴史へと滲み出す作品、って感じに読解姿勢が広がればもっと面白いのにね。
別に実証主義的な歴史でなくてもいいんだし。
浅田彰の添削があったんだろう
>903
加藤、四方田はまさに、その意味において蓮実圏域から出ていない人だと言い切れると思う。
蓮実にとってメロドラマとサスペンスがほぼ同値であり、
ショット見出しと不可分の形式だった ってことが議論されていないので、
そこまで認識が追いついていないのが現状。
>>902 知らんw 俺も院に進んでないけどさ。
なんで映画の言葉はここまでだめになったんだろうね……。
ざっと考えてこの言語停滞はおおまかにはもう20年以上続いてるだろう。
今後もへっちゃらで続く目算が高いというふうに絶望している。
千年一日という言葉が浮かぶ。
だからいかにして蓮実を解体するかばかり考えてしまうな。
このままだとマジであと20年は暗に陽に生き延びそうで困る。
あと、映画研究で留学した連中は相対的には面白いやつが多い。
木下千花は、吉田喜重論を見た限りまあまあだった。
でもまだ、俺としてはコレというほどの衝撃が無いな。悲しいことに。
経験の組織化と全体性やユニットがいかにありうるのか。
おそらく、これが蓮実を相対化しつつ、その問題系を解体しながら継承する論点になると思うんだが…。
岡崎まで出てきたんだからあともう一歩というところまで言説は来てるはずなんだが、
「あと一歩」が出るまでにもうしばらく時間がかかりそうだな。
えっらそうに
でも、岡崎がエイゼンシュテインや村山和義、シュルレアリスム、現代詩を語る論旨は、
ほぼこの意味での蓮実問題への打開線として直結してるよ。
岡崎はある程度自覚してるのは間違いないと思うんだけどな。
たしかに岡崎と蓮實は相性悪そう
俺はうまく蓮実の背面を衝いてるように思ってる。
古谷がそこに気づいていればもっと彼は面白くなれたのに。
にまいぐみ嫌いだったから仕方ない
>ぼくが感じているリアリティと、映画の間にある大きな溝
これも単にシネフィルが嫌いってことでしょう
映画芸術常連だから色々言われているのかも
でも、俺も古谷みたいな溝は感じてるけどね。
シネフィルの映画評見ても「自分にとって見なきゃいけない映画」と感じることがほとんど無くて困るもの。
前スレでも「補助線になる批評家、今いなくて大変」って言ったけどさ。
んで、人と話してたらなぜか「あなたはよく蓮実を理解してるディープなシネフィルですね」とか言われたり、
逆にお前それ蓮実論法だろうと突っ込みたくなるような人から
「シネフィルなんて今時いないよ、そんなこと言ってるの君だけだってw」とか言われたり。
いろいろと愕然としたりやきもきしたりね。へこむへこむw
割と映画言説への距離感でいったら俺も古谷へのシンパシーはないこともない。
俺自身蓮実からの距離をいいながらも、蓮実に(蓮実を鋭利にまとめるというかたちであれ)引きずられているように、
古谷もうまく出て行けないで引きずられている面がかなりあるんじゃないかな。
『叫』をまさにサスペンスとして読むほどに引きずられてるとは思ってなかったが。
つまりさ、
>>912の引用部は、古谷自身やきもきしながらもうまく脱し切れていない自己像を含めた、
やや同属嫌悪的なものはあると思うよ。ま、実際に、
映画批評の言葉に刺激を受けるケースが減ってきてるんだろうな。それは俺もそうだし。
じゃあアンチスペクタクルはいいんじゃないの
別にアンチスペクタクルを駄目だと言ったことはないけど。
古谷の言う切迫性としてのリアリティがどこに向かうのかはちょっと面白そうだね。
ブログをリアリティで検索すると、へえ、という記事が目に付くな。
>>912の引用部を前後踏まえて読むと、
うーん、たぶん、ある種の段取りみたいに見えて、
こんなのがなくても映画になるんじゃないの、という気持ちが強くなってるんじゃないかな。
もっと、直に、リアリティをつかむようなものがあるのでは、っていう悩みに見える。
3/8のこのへん見ると、特にそういう感じだね
>その映像には、撮影した団地の実際の風景や音声、そこに住む人たちの、
>撮影したその時の姿が映っているわけで、まさにそのリアリティこそがこの映画を支えていて、
>実在する(そこにある)現実の映像がその姿のままで、その固有の場所から切り離されて
>(そこにはない)フィクションとしてモンタージュされている。
ジャンル論からは意識的に遠ざかってるんだろうとは思う。
ただ、ジャンル論の身振りがどこから入るかなんだけど、
反復する形象が出てきて、それが何かの連鎖をする際は、
一定のジャンル論じみた挙措を持ち込んでる気がする。去年ぐらいの映画評で言うとだけど。
古谷の幅を拡げるのにいいんじゃないのか?という意味さ
>>918 その主旨なら大賛成。
ところで、リアリティを検索してるとちょっと面白い。
古谷にとっては、福永・中原・阿部の対比もリアリティの問題なんだね。他にも、
>「幽霊好き系」の作品のリアリティとは、大雑把に言ってしまえば、
>「私の脳(私の身体)のメカニズム」という「現実」が露呈されてしまう、ということなのではないかと思う。
ttp://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20081117 >昨日触れた磯崎さんの小説「世紀の発見」がリアルなのは、
>「記憶について書いている」のではなくて「(作品の外に存在する)記憶によって書かされている」、
>あるいは、「家族について書いている」のではなくて
>「(作品の外に存在する)家族によって書かされている」からで、
>これはおそらく作品にとって最も重要な何かで、
ttp://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20081008 こうしてみると、コウガイビル日記、夢日記的「白い犬」、鏡像の関心は全部リアリティでつながってて、
どうやら最小単位をああいう装置にしているみたいだ。
どうやらリヴェットの『セリーヌとジュリーは舟でゆく』もその線で読んでるようだし。
これはうまくやればかなり面白く展開するんじゃないかな。
書かされるってのはあまりよい理論じゃなくね?
いや、外的な圧力という意味での「書かされている」じゃなくて、
おのれの分身によって書かされているという路線で見ると面白くなるかもしれない。
家族によって書かされている、も実際には、
その人の中の家族像によって書かされているのかもしれないし(その小説読んでないから知らんが)。
つまり能動と受動が分身的に分裂して自己触発してる切迫性みたいなものを据えてるんじゃないかな。
その意味で、ショットやアクションのリテラルな構築や画面要素を見ていくのではない、
別のアプローチが映画にもできるんじゃないか、っていう祈願にも見える。
このリアリティの探求の発想や感度は、蓮実からは直通では出てこないものだし、
岡崎の思考とはやっぱり古谷はかなり資質も違うんだろうから、
この路線をあと1,2歩展開できれば古谷はかなり面白くなるんじゃないかな。
たぶんこの道で行けば蓮実圏域からある程度脱却できると思う。
認知科学路線かねえ
例の彼が喜びそうな気がする
違うと思う。俺はメルロ-ラカン-ドゥルーズ問題につながると思うし、
『シネマ』だって鏡イメージとか出てくるものだからね。
自己触発と分身って問題はいけるんじゃないかな。
もうこのスレも終わったな
『ミリオンダラー・ベイビー』?
黒沢清じゃなくてイーストウッドだったんだな
「偉大」だと言ってほしいらしい。
誰か言ってやれよ。
この前行ってた試写は『グラン・トリノ』だったのか
社会的承認なんか糞食らえという意志を、公共料金滞納で示しているわけか
はてなスターがつく記事の傾向がいまいちよくわからん
ひねりのきいた貧乏ネタかな
露悪は確実に受けてるんだな
石岡ブログも貧乏話を期待したい。
貧乏なんだ?
成果主義に汚染てw
結果として何かを為さなかったとしても、偉大なぼくの存在に乾杯。
調理器具を買ったり光熱費を払うのも汚染なんだろうか
成果を誉められたくない奴っているのか?
古谷自身の絵とか、資本主義に汚染されたくないでそ
そんな美術界に褒められるぐらいなら孤立
カッコいいね
人気ある訳だ
古谷:「仕方ねえな、下水道と電気の滞納分も払ってやるか」
古谷とイーストウッドじゃ溝だらけだぞ。
誰が頼んだんだよ?
つーか断れよ。
シネフィル好みだから超余裕
むしろ人一倍「成果を称賛」されたい自分への戒めなんだろ
いやあ、古谷とイーストウッドは相性悪いだろう
これは依頼者に難あり、断らない古谷も困りもの
ペキンパーとかよりは相性いいでしょう
ペキンパーよりは相性いいだろうけど…
いやそもそもペキンパー評を古谷が依頼されるシチュ浮かばないよ
しかし「イートウッドとは相性悪いから」で仕事断ってたらやっていけんだろうな
古谷の心中もそうなんかな
どっからペキンパーってw
石岡なら超余裕そう
観たことないからDVD観まくってんだしな
日曜洋画劇場でやるダーティーハリーしか観たことないはず
さて、そろそろ次スレ相談の季節ですよ
酒とか入れたいけど誰かが怒りそう
スレ終わりのこのダラダラ感が好きだw
次のスレタイは?
>>950 観たことあっても持ってないなら観直すんじゃないか
【酒の量】古谷利裕の偽日記14【甘いもの】
とか無難にかわいいと思うんだが
イーストウッドの監督作は結構多いからね
30作ぐらいあるんじゃないかっていうw
見落としてる作品が多いんだろうし、ミリオンダラ・ベイビーは所見とみた
古谷も「そういえばイーストウッドあまり見てないな。これをきっかけに見よう」と引き受けたはいいが、
やべぇ合わねえ…と悩んでる最中ではないかと
ドン・シーゲルとか古谷世代ならテレビで見たはず
スレタイで力むと大体スレ進行がコケるからな
適当に脱力系スレタイがいいと思う
【バイクが】古谷利裕の偽日記14【ブーン】
だいたい「許されざる者」以降なんだよな批評されんのは
初期もいいんだがな
なんだっけ?危険な情事の元ネタ。あれいいじゃん
>>958 正確には思い出せないが、蓮実がイーストウッド連呼しはじめるのも「許されざるもの」ぐらいからだね
あのあたりからイーストウッドの株が国内で急上昇して神になるという流れがある
国内言説上、イーストウッドという名はなぜ必要とされたのか、ってのは突っ込めるんじゃないかな
キアロスタミ、ソクーロフの紹介などと同時期のもので、
それ以前に蓮実らが作った軸を挿げ替えるようにして、持ち込まれた流れって気がするんだが
>>959 見てないけど、「恐怖のメロディ」のこと?
蓮實は欧米シネフィルコミュニティの空気読んだだけじゃないかな
>>961 それそれ。ラジオDJ文化とか、今見るとのどかで楽しい
>>962 うん、欧米の注目動向に沿ってるから別に国内のみの現象じゃないけどね
俺の偏見かもしれないけど、季刊リュミエールの頃とどこかで切断がある気がして
たけし批評の乗っかり方と一緒だな
古谷利裕が、たけしとイーストウッドを斬る!っていう
>>966 欧米お友達批評家、欧米シネフィルコミュニティをめっさ横目で見てるよな、蓮実は
たまに言う欧米批評家への嫌味は自意識がもたらしたものに見える
>>3-4のリンク集は特に改訂はいらないよな?
前川修ブログ/HP、堀HP、藤原、葛生などが挙げられたが・・・
前川ブログだけ足すのはどうだろう?
佐藤守弘の次くらいに置いておくか
ところで、実は前川-写真研究会-pg-元カイエ派というラインに
橋本一径がいて、結構接点があったりするという・・
接点がない方が珍しいのではなかろうか
話がいきなり飛ぶが、こんな記事見つけた
画廊パレルゴン・・・・ なんかすげえ久しぶりに耳にしたよ
ttp://genbaken.com/genbaken/minutes0807special_02.html 岡崎が批評空間10号の座談で、彼にしては珍しく世代的・時代的な発言をしていて、
「現代芸術はもう終わりという恐慌的な状態が70年代末にあった」(p.38)と言ってるが、
藤井が宇佐美を引きながら言う「どんなことも、もうやりつくされた感じが学生たちはしていた。
それでもなお作るとは、どういうことなのか? 70年代後半は、そんな気分が覆っていた」
と呼応するような気分だったのかな
古谷の観測だとこのあたりの断層があまり見えないんだよね
偽日記初期に古谷が美術を嫌いになってたのは、売り込みに失敗したとか?
その頃はいまの「『映画』に興味なくなってきた(いま興味あるのはリアリティ)」の
前段階バージョンみたいなもんじゃない?
「『美術』に興味なくなってきた(いま興味あるのは文芸、映画の生々しさ)」みたいな
ある意味で似たようなことをしてるわけだが
評論50枚でいくらぐらいもらえるんだろう?
977 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/17(火) 19:13:20
古谷氏は気分屋だな
作家であるぶんには
構わないが
気分屋な評論家ほど
はた迷惑なものはない
なんてねハート
組立ってこういうのを狙ってるんだろうな
84年のテキストに入ってる岡崎・松浦・藤井・酒井の対談(pp.13-14)での岡崎発言も
芯は一緒だけど、90年代の発言に比べれば結構素朴な口調だな
93年の批評空間10号までの約10年間でああも成長したのか・・・・
古谷ってなんだか29歳時点の岡崎をやってるみたいだ
いつになったら成長するんだろう
初期岡崎は333からトビウツレおすすめ
トビウツレいいよね
あれと、「ネオ・プラトニズムの方へ?!」と「手のひらの雲(作家訪問)」が好きだった
20代後半時点からコンセプト持ってるんだよな岡崎
古谷は29歳時点の岡崎やってると書いたが、
座談の3節での酒井に対する切り返し方の後の流れを見ても、やはりセンスが頭一つ抜けてるな・・
だいたい古谷が樫村の楳図論だけ持ち出すのは不自然
さて、次スレ頼みますよ
スレタイはどうするかね
【酒の量】古谷利裕の偽日記14【甘いもの】
【バイクが】古谷利裕の偽日記14【ブーン】
【偉大な】古谷利裕の偽日記14【存在】
【ゲラ直し】古谷利裕の偽日記14【青ボールペン】
なぜ3/16エントリははてスタが6個に増殖しとるのか
>【ゲラ直し】古谷利裕の偽日記14【青ボールペン】
コレくらいがいいと思う。
じゃあ無難にそれでいくか
貧乏ネタのはてスタを励みにしてそう
次スレ乙
>>982 ああ、アンチ岡崎として樫村の楳図論持ってきてるってことか
その嫌疑は濃厚だな
古谷ってそういう陰湿さがやけに強いし
>>990 制作者なのに樫村のへんな思弁「だけ」持ち上げるのは不思議だと思ってた
せめて比べるとか
不正確な記憶かもしれないが、
岡崎の楳図論は古谷はほとんど黙殺して無視してたよね
あの、読んでいて何がしかを思ったのに違いないのにわざと触れない姿勢は気持ち悪いわ
993 :
わたしはダリ?名無しさん?:2009/03/17(火) 20:21:23
社会経験がないひとは
総じて気分屋だよね
二枚組、三枚組と矛盾しない理論だから生理的拒否かも