【樫村保坂と岡崎の間で】古谷利裕の偽日記4【試行錯誤】
スレタイはこれでいいと思ったけど、文字数オーバーしたのでこうなった。
さて、前スレで語られた諸論点は以下のとおり:
(906-969)
・岡崎作品の作品とタイトルの関係
・岡崎絵画作品の二枚組について
・古谷は絵画メディウムへの収斂、さらにはその画面の単一表象への収斂の傾向があるのでは
・石岡をたたき台にしつつ、技術や身体などに関する岡崎理論の基本軸を追加し、
古谷の岡崎理論の還元的な特徴を回避しつつ、ちょっとまとめてみようじゃないか
・林や斉藤の岡崎論についても考えてみようじゃないか
5 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/29(月) 01:08:52
(873-903)
・作品、芸術の自律性についての古谷と岡崎の違い
・2002年12月の多摩美岡崎展シンポジウム〜アンチノミー展について
・古谷は藤枝的な日本の抽象画のドメスティックな特殊圏域に居直りつつあるのでは
・そのため映画について語るときと古谷が自作について語るときで分裂している(809-831, 839-866)
(864-874)
・岡崎理論と岡崎作品の差にこだわる古谷
・古谷における経験と反理論について
(786, 794-808)
・政治的主題と岡崎、古谷
(740-790)
・平倉、黒瀬、レヴュー・ハウスとか
(734-739)
・武の『アキレスと亀』
これより以前は錯綜してるので箇条書き要約できなかった
前スレ、十日間で600レス近く一気に伸びて、スレ消費してしまってるな
何がきっかけで爆発したんだろう
>>10 たぶん以下の流れがきっかけ
279 名前:わたしはダリ?名無しさん?[sage] 投稿日:2008/08/26(火) 21:52:12
初期のスレは凄かったな
324 名前:わたしはダリ?名無しさん?[sage] 投稿日:2008/09/19(金) 11:52:17
たぶん、279が言う初期のスレだけど、
そこでさんざんっぱら論じてた俺が来ましたよ。マジ久しぶりに古谷スレログなんか読んだ。
その頃の常駐住人として言うとさ、古谷本人がいるって印象は全然なかったよ。
古谷だったらここいらでムキになるだろ、という言い回し一杯あったと思うし。
古谷自身が2chでよく書くっていうのは、怪談スレなんかを言及してた日記もあったように、
割とたわいもないスレなどであって、あんまり議論系のところは行かないんじゃないかね。
俺自身、議論・情報交換目的でスレで話すのと、
怪談やネタ、フォークロアじみた応酬を覗くのとでは、思い切り乖離してて、
片方がオフになったりオンになったり両方オフになったりを定期的に繰り返してる。
あ、典型的ワープア生活ってのは同意w
327 名前:わたしはダリ?名無しさん?[sage] 投稿日:2008/09/20(土) 08:07:51
ものぐさな人間として言わせてもらうと、
最近の古谷の作品読解や議論で、これはと光るものって何かあった?
どうもこの人は、レヴューアーとして逃げるような振る舞いが多いから、
端的に言うと勉強にならないし、「いいところ探し」で終始し、
作品の限界もつつかず、かといって論者として作品をさらに引き伸ばして模索するわけでもなく、
という中途半端なことになってるから、あんまりチェックしなくなってるんだが。
本が出たそうだが、古谷の日記的文章のために本を買おうという気にはちょっとならないでいるが、
一応買っておいたほうがいいような本なんですかね。
雲の理論ってどうよ
はてなを読んでいるのだけれど、
この人にとっては、絵画はそれほど切実ではないのかもしれないと思った。
8ミリ映画を撮った経験の方が重要なのではないかと。
>>14 さすがにその想定はちょっとひどいでしょ
というか日記から古谷を見すぎじゃない
>>15 でも思考が伸び伸びとしているのは物語的なイメージについて描いているときなのだと思う。
>>16 だから日記やレビューでそうだとしても、それとは別の次元で何十年も制作をやってるわけで、それを無視して「映画」の人みたいに言うのはあまりに雑でしょ
(BTの座談会でも食えもしないのにずっと絵画をやってきて結局自分は「画家」だと思う、みたいな発言があったし)
前スレで言われてたように、古谷の中で実作と観る/読む/レビュー的な思考が切り離されてるところがあって、
日記においてレビュー的な思考が制作から逃げとして機能してる部分があるってのが大体のところなんじゃない
>>17 絵画について文章を書くときにはそこが地続きになっていると思う。
彼の文章では絵画論が一番良くない、というか、日記の風景描写に近い。
補足すると、彼の絵画に文章以上の力があると思うのならばそこを指摘して欲しい。
個人的には古谷は画家という肩書きで映画や小説のレビューを書く人として重要なのだと思う。
逆に古谷にとって絵画が切実でないとどうして古谷自身でもないあなたが簡単に言えるのか教えてほしい
(そのこととあなたが絵画よりもレビューの方を評価するのは別のことでしょ)
日記のような仕方で切実だと思うよ
しかし作品としてちゃんと捉えているのか、大いに疑問がある
自らの生から作品を切り離しているようにはみえないということ
これは学生が画家となれるか否かを分かつかなり一般的な基準です
23 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/29(月) 03:29:15
だらだら制作しすぎってこと?
24 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/29(月) 03:30:50
ごめん23は22読んでなかった
切実さを本人以外に語り得ないとするような内面についての基準は、
基本的に批評を拒むタイプの思考だと思う。
それではせっかく古谷自身が選び取っている立場が台無しになる。
2008-06-12の
>日本では、「理屈を言う美術家」はそれだけで嫌われる。
>作家は寡黙に、あるいは素朴に、ただ作品のみを提出することが好まれる(批評家なり、キュレーターなり、コレクターなりが、勝手に言葉を付与できるから)。
>この四人は、それぞれ異なるスタンスではあるが、そのような風潮(空気)に抗している。
制作スタイルが今のまま固まってしまっているなら期待できないということです
27 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/29(月) 03:35:09
だったら最初からそう言えばいいわけで
切実さって言葉を出したのは
>>14だし
何に噛みつくのかよくわからない
あなたそんなに絵画好きじゃないんじゃないの?
もし好きなら古谷の制作態度に切実さの欠如を見てもおかしくない
古谷自身が北野武の映画をきっぱりと否定する、ああいう厳しさで古谷のドローイングを見てみるといいよ
天職と実際の職が食い違う事自体は、なんら不幸ではないわけで、
画家としては芽が出なかった人が、文章で開花するのは、それはそれで幸福なんだと思う。
実際問題、古谷さんに関心を持つ人の大半は、普段絵画を見ない人でしょう
これは古谷理論的には世俗の事情にすぎないとはいえ、かなり重要です
>>13 雲と言われると、つい岡崎が浮かんでしまうが、古谷は古谷なりに違うこと言ってるのかな。
黒瀬って単に東系のアニメ論者ってしか思ってなかったんだけど
そうでもないの?
てか黒瀬のらきすた論っておもしろい?
>>33 割と岡崎影響の濃い人。ただし、批評として扱う対象をアニメなどの絵の構成に持っていってる感じ。
一応、出自は京都造形の油彩。前スレはまだdat落ちしてないから、該当箇所を読めばいい。
古谷は、保坂がほめるような、毎日日記を持続することに縛られず、
記事を整理し、論点をじっくり追い詰めて、HPに論を中心としたものを年に4,5本、
レヴューを中心にしたものを年10本、を乗っけるぐらいでもいいと思う。
日記でやりすぎるがゆえに、持続的に何かを読むとか、英語で少しずつ読むといった、
ある程度のタイムスパンを必要とするものを自分に課す、ということから目をそむけ、
次第次第に一過的で単発で書きやすいものに流れていってる。
前スレで指摘されたエッセイつらつらスタイルの難点とは、
日記「文体」や「〜と思う」いった語尾など、わかりやすい側面だけではなく、
彼の思考、歩みに持続性が乏しかったり、成長速度の遅さでもあったのでは。
書籍版の、書き足した部分と思われる箇所は、
分量や内容の比で言ってもそれなりに硬質に書けてて、これでいけばいいじゃないかと思わせられた。
でも旅行するだけでぐったりしてしまうぐらい、
自分の生活空間を動かせない人だから、このやり方は変えられないのでは?
変えなければならないのは文章じゃなくて絵描きとしてのスタイルかもしれない
それこそもっと無理かな
結婚とかすればいいのかもね
パーソナルスペースに他者を入れられるかどうかはわからないが
インドア生活であっても、古谷は触れてない領域の思考ってあると思うよ。
藤枝以降の美術批評の言説の呪縛から抜けることと、
岡崎との取っ組み合いぐらいしかしてないのではないかと思う。
そのまま、映画と小説の作品評にいってる感じ。
ただ、80年代以来の蓮実などをはじめとする作品への切り込みは蓄積してるから、
相対的に、冴えた目をもってるとみなされることにはなるが・・。
この日記での2005年の山田正亮展への、藤枝言及のあたりを見てると、
やっぱり藤枝言説への抵抗を彼なりにやってはいるんだろうね。
ttp://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20050807
前スレと同じ思考じゃん
「岡崎理論」への否認とも似ている
>かつて藤枝晃雄が、山田正亮の作品は演繹的に展開する、というようなことを書いていたのだが、この展覧会で見えてくるのはそのような「作品の展開のあり様」であって「作品」ではないのではないか。
>この展示を観ると、形式的な展開の手順や、それを行う画家の執拗さ、個々の作品の「展開」のなかでの位置づけ、といったものを明確に「理解」出来るのだが、
>それを理解することと、作品を観ることとの齟齬が、どんどんと広がってくるように思われる。
古谷は作品を歴史から切り離したくて仕方ないのだと思う
>ただ、80年代以来の蓮実などをはじめとする作品への切り込みは蓄積してるから、
ここについても、日記では80年代への呪詛が目立つことが気になる。
>>39 藤枝の言説は、「作品の展開のあり様」をとらえているのであって「作品」をとらえていない、
府中美の展示は藤枝言説のような作家-作品観に拘束されていて、
作品の経験が予定調和的に狭められてしまっている
そうではなく、作品を見ることにより即することはできないだろうか、という感じに読んだんだけど・・・。
要するに、作品を生成している原理 と 作品の実際の組成 の齟齬を見たいって話だね。
その意味では、岡崎作品/岡崎理論 というかたちで迫る古谷の構図ともたしかに似ている。
ただ、岡崎理論は、作品を超越的に生成するようなものではかったと思うし、
そこで岡崎理論への古谷のスタンスとは一緒にはできないかと。
>>41 個々の作品だけが「内的自律性」をもつ、作品展開などは外的なものにすぎない
これじゃ駄目駄目じゃん
藤枝批判じゃなくて、個々の作品をより大きな文脈で語る事への拒絶だ
歴史性と作品の関係って 割と微妙な問題なんだよ。
岡崎にしたって、ある種、歴史性、表象に降り積もる読解の集積の歴史性みたいなものを、
自作の段階においては捨象する傾向にあると思う。
彼のよく用いる漫画的な絵は、彼の文字とイメージとのアナロジーに立脚してのものでもあるけど、
同時に、その文字は脱歴史化されているような側面がある。
岡崎の言う歴史についての考察から、実は、岡崎の描画の選択は一意的に演繹されない。
むしろ、逆に、別の具象的なスタイルもありえるんだろうと思う。
ひょっとしたら、という留保をつけていうと、黒瀬が悩んでるのはそのへんだと思うよ。
そして、自律性を考えると、単に歴史に立脚するわけにもいかなくなるしね。
脱歴史とも、超歴史とも、そう確定できる場所は岡崎は素朴には肯定しない、
しかし、この圏域をどう処理するかは彼もいろいろ苦境に陥ってる気がする。
古谷のケースは、岡崎におけるその方面の議論の停滞を、より縮小的に再演してる感じ。
岡崎だったら、外的な文脈を読みかえるとかなんとか言うはず
「ひっそりと待つ」のはいいんだけど、そのときに古谷は内部を防衛する発想しかなさげ
>>42 そう。古谷の「藤枝言説への抵抗を彼なりに」といっても、すでに抵抗のレベルの議論水準が低い。
「藤枝以降の美術批評の言説の呪縛から抜け」ることで必死、といったのは、
レベルが低いところでやってるって意味でね。
結局、固有性の場を設定して、そこは豊かだ、記述不可能だ、
ゆえにあらゆる包括(ex.大きな文脈で語る事)から逃れさる、と言ってるだけだと思う。
これは前スレで言われたように、二分法をつねに見出し、逃げているだけという構図にすっぽり収まる。
>>45 >外的な文脈を読みかえるとか
そうだね、岡崎ならそういう感じで再投入して、単に否認するのとは違う巻き込ませ方をするね。
古谷にそういうプロセスが無いというのは言い得てると思う。
エミリー・ウングワレーについて言ってることがすごく微妙だと思う
かなり最低なプリミティヴィスム読解になってる
メディウムそのもののもつ形式性や物質性にだって歴史性はある
「歴史」を言説による「からごころ」ぐらいに考えているのではないか
技術や身体だって歴史の中にある
>もし、この画家に、ある種の西洋絵画による抑圧(刻印)があり得るとしたら、モダニズムの形式とか教養とかではなく、アクリル絵具とキャンバスというメディウムのそのものもつ形式性であり、物質性なのだと思う。
>>48 >メディウムそのもののもつ形式性や物質性にだって歴史性はある
>技術や身体だって歴史の中にある
そう、ここが難しく、非常に大事な問題だと思う。
樫村的脳論への系統が前スレで危険視されたのは、
おそらくこの面を無視することになる議論に、古谷が陥ってるってことだよね。
>その姿を見て、ぼくも動かされるものがあった。
古谷は野球が好きなのか?野球の話ができるなら月給取りもできるはずだけどな
因みに出世欲があるならゴルフと飲酒は必須。ゴルフの話だけではなく実技ができたら最強。
最低賃金職場に適当に居られればいいならゴルフできなくていいけどスポーツ新聞を真面目に読まないといけない
最低賃金職場といえばふた昔前はプロレスの知識を要求されたけど最近は要らないらしい
競馬競輪パチンコも下火かも。クソども不景気wだからなあ
樫村はアルチュセールやフーコーの人だから、
いくら素朴な脳言説に陥っているようにみえても、
イデオロギーの呼びかけや言説の問題を無視してはいないはず
樫村のトンデモ説を保坂的な文芸趣味とつなぐから最悪なんだろう
>モダニズムの形式とか教養とかではなく、アクリル絵具とキャンバスというメディウムのそのものもつ形式性であり、物質性
これって、素材決定論だな。メディウム・スペシフィックを
読解(それ自体歴史性の刻印を不可避に受ける)から見出されたものとしているんじゃなくて、
超歴史的に、素材に内属するものとし、それが決定するというのと同じ。
ここは、メディウムに関する扱いにおいて、岡崎よりはるかに後退してると思う。
>>53 そこに、いや、読解による見出しや事後性がある、と切り込んでるのが岡崎の冴えてるところなのにね。
古谷は、岡崎がどういう議論の系譜に対して何を切り込んでるのかうまく理解できてない。
>>54 グリーンバーグの理論はともかく個々の批評はあまりドグマっぽくないと言われているから、
そのひそみにならっているとみる
藤枝の作品分析は好きみたいだし、
罵倒をスルーすればまだまだ使えるし、
モダニズムをまだまだ続けられると思っているのでは
>>55 >グリーンバーグの理論はともかく個々の批評はあまりドグマっぽくないと言われている
ああ、なるほどね。そういうのは、いろいろ納得できるな。
蓮実はドグマティズム言説以外にも、個々の着目もあって、
その個々の着目の基礎部分はドグマに回収されないところがあるんだよ。
しかしながら、その基礎部分のもつ前提や二分法などはかなり問題含みで、
俺からすると、保坂もまた暗にこれを共有してるように感じるから、
「蓮実の基礎命題の延命」と突いてたんだけどね。
古谷は、そういう、基礎部分を温存したたまに、個々の作品に「ヴィヴィッド」に、
うまく立ち回ればなんとかなるって思ってる節がすごくある。
>>43 旧来の歴史主義が駄目なのは歴史家が一番よく知っていると思うのd
>>56 そういう人って、実際にはドグマで客を釣ってるんだよな
その意味では、
>>19の言うような「映画や小説のレビューを書」いてる
ものの方が冴えてる、比重が高いというのも俺には同意できないでいる。
古谷の絵画作品レヴュー、自分の制作姿勢、映画・小説レヴューともに、
構図だけを抽出すれば同じような停滞が、駄目になってる面がある。
>>58 俺からすると、蓮実派の大半は、ドグマ的蓮実言説、挑発言説を片方で揶揄し、
いかにも「蓮実なんて総括しましたよ」と言わんばかりの振る舞いをしながら、
同時に明文化されない蓮実の基礎命題はきっちり温存してるんだよ。
旧カイエ・ジャポン派にせよ、古谷にせよ、その範囲ですっぽり収まる。
相対的には古谷は蓮実揶揄をあまりしないとか、その程度の差でしかない。
>>62 flower wildの連中もそうだけど、細川晋、松浦寿輝、四方田、加藤幹郎もある程度基礎命題は共有してる。
画面=過剰=内的自律性が、プロットに対して屹立し、
そこに官能を覚え、それを書き留める=批評 とするのはまさに蓮実。
長谷正人なんかも露骨にそうなってる。
ジャンル論の形成という意味では、加藤は蓮実の延長、
ジャンル論を裏返して扱うのが四方田のメロドラマ内逸脱論。
まあ、flower wildに参加してる葛生とかになると、
記述や論理の局面そのものすら無くなってるので、言及する価値もない。
阿部、中原、青山もほぼこの構図にすっぽり。
阿部と青山はメタ視点を投入して云々、と東浩紀レベルのメタ/オブジェクトの扱いを持ち込んでるが、
その程度じゃ意味無い。結局、蓮実命題の批評的書き換えにはほとんどなってないと思う。
彼ら三人が揶揄しながらも蓮実に対する帰依心境みたいなのを露骨にするとき、依存が本当によく見えるね。
たまーに、古谷もそれに近いことをしてるが。
映画を撮れない人ならではの作品信仰ってあるんじゃないの
もともとは集団製作の商品だったものを無理矢理作品として語るのが、
物語映画の批評だし
実験映画や個人映画をそのへんの人って一顧だにしないっしょ
ちなみに青山はわざと言ってるw
わざとって、「あえてベタ」とか言う社会学者とあまり違わない気がするけどなw
結局、オルタナティブなパースは引かずに、揶揄してるみたいなもんなんだから。
いやいや、そんなアイロニーではないです
青山の批評は作家の書き方ではないから
それとこのスレでオルタナティブな映画批評を語るのはスレ違いでしょう
蓮實については「映画」と「映像」の区別がくだらないよ
根本問題は作家と批評家の違いじゃないの
映画批評の場合は非創作者が妙に作品を神秘化する
絵画批評の場合は創作者が自分の作品を神秘化する
73 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/29(月) 17:28:43
蓮實は
カメラの映像には否定がない
と云ってる
でも肯定だってないでしょう
ただ太陽光が
地球に届いている
そのことだけを
カメラは確認します
去年じゃね
セラミックの作品は重そうだよな
運送業者泣かせだな
あの彫刻作品、たしか高温の釜で固めるらしいな。
セラミック以外にいろいろ混ぜて作った素材だったか。
スチロールの粒を混ぜて焼結してくれって運送屋から頼むようだな
一見、さわれば変形しそうな風合いなのに、超硬い・超重いという
あ、2002年の岡崎軽井沢展に行ったときのアーティストトークのメモがPCのなかから出てきた。
当時の俺のまとめだから、要約と俺の関心による変形が入ってそうで怖いが、
関心ある人とかいるのかね。需要あるなら抜粋を載せるよ。
続きを載せるかは保留するとして、彫刻に関する発言と素材に関する発言だけ選んでみた。
これはまあスレの流れ的にも資料として面白いのかな。
【彫刻】
・質問「ハトロン紙でつくられた、昔の立体作品シリーズはどういう経緯によるのか?」
→あかさかみつけの実物大「模型」をつくっている過程で、
自分の中でゲシュタルトが強化されていった。
そこで、強化されてゆくゲシュタルトを崩そうと、
「空気遠近法的にハトロン紙を梱包させる。像がぼけていった」
(自分でも馬鹿だから言いたくないんだけどと岡崎)。
→84年での厚紙を引き裂いてつくったあかさかみつけ
cf.79服の型紙から拾った線をドローイングと布に展開、
81-2年のあかさかみつけ展開(壁の上の線ドローイングに、
壁にあかたさみつけreliefを設置、床にあかさかみつけconstruction
→1A壁面・1B壁上・2a床面・2b床上の設置物が相互に交感する、
色彩・形態・素材感+観客の歩行による視界の移動・対象の見えの不安定感(形態がたえず変化する))
【絵画作品の筆触について】
・なぜパレットナイフのタッチなのか?
メディウムは自分で調整してつくっている
(「世の中には画材屋があり、カンバスも売っている。
こうしたことはよく考えると非常に拘束的に働く奇妙なもの」)、
そのときにかき混ぜるのに使っているのがナイフだから。
手でかき混ぜてたら手で描いたんではないでしょうか。
それに、筆だと自分の作為によるコントロールが効いてしまう。それは避けたい。
ただし、ナイフに見えるところであっても筆を使っている部分はあります。
タッチの再現するときにはそうはうまくいかないので実は筆だったりする。
もっとほしいっす
特定される気もするけど
スレ住人から特定はされないが、高確率で岡崎には個展に来たあの人かとばれるだろうな。
発言抜粋ってよりは、メモ・要約比が高くて、
>1A壁面・1B壁上・2a床面・2b床上
とかになると完全に俺が整理して符丁振ってる。
ゲシュタルトと言ってたのは、岡崎自身だったと思う。そのへんの用語はあまりいじってない。
じゃあ、あんまりスレ埋めない程度にちょびちょびと抜粋しますか。
ちなみに、松浦・岡崎の対談があって、その後で聴衆を連れながら作品の前で質問に答えたり
自分で作品について軽くおしゃべりしてた。メモではその二つを区別しないでまとめた。
トークの前になぜか弁当食ってるセゾン美術館館長(たしか旧西武美術館館長)・岡崎・松浦の机に入りこんで、
いろいろ話を聞いたので(初対面なのにこの図々しさは何だ)、そのときに聞いたのもいくつか混ざってるな・・。
前スレ終盤で語られたタイトル関連:
(山内氏というのは、軽井沢に引っ越してきて抽象描いてた人だったかな? フルネーム忘れた。
アーティストトークの場にいて質問していた。30代ぐらいの若い人って印象だったが、
岡崎とは知人のようだった。)
【作品タイトル】
・タイトルは、作品を登録・陳列する以上、なくすことはできない。
タイトルと作品の関係は、ふたつの紋切り型を併置させることにある。両者の内部関係上の一致。
かつては接続詞だけのタイトル、電話番号、地名などを用いていたが、試行錯誤の結果、現在のタイトルに。
→山内@「地名を選んだのは翻訳不可能な固有名だからでは?」
A「ユーロパリア展のときは翻訳せざるをえない。そのときはどうしたのか?」
→岡崎@「その点はある。ただし、電話番号となると、番号を知る人にとっては、
たとえばそれが恋人の番号ならばまた別のことになるでしょうね。
あと、当時のもの派みたいな「精神と○○」といったようなタイトルが カッコいいという風潮は嫌だった。
もっとカッコいいタイトルをつけてくださいよと当時言われました。
あかさかみつけに関しては、けっこう理由は幼稚で、
両親が新興宗教に入信していて毎週私を連れて教会にいく。
その途中乗り換えをする駅が赤坂見附だったんですね。
実在しない駅というイメージがあるわけ。
ただし、これも一旦考えると「みつけ」というのはまさに
美術上の制度ともいえるわけですが」
A「翻訳可能性によってヴェリエーションをつけるというのは、一度考えたんですが、これは失敗しましたね。
Finding Red…、Akasakamitsukeというふうにヴァリエーションを作ることは失敗。
ユーロパリアの時には……これは言っちゃうとバカみたいだから言いたくないんですが、
観光用のフランス語会話100選みたいな本を一度パソコンに入れちゃって、
そのコラージュをああでもないこうでもないと組み合わせて意味不明なタイトルをつけたわけ」
【イメージの場所】
・ベルグソン『物質と記憶』のはじめにでてくるイメージのあり方。
来ていないエレベーターの入り口に進もうとした彼女をつかんで
止めた男の姿がでてくるが、振り返るとその男はいない。
ベルグソン曰く「そのイメージが迷信であるとか実際は存在しないとかが重要なのではない。
ここで重要なのは彼女が見てイメージによって死なずにすんだということである」。
ここではイメージは主体の行動を要請するものとして出現している。
この点が興味深い。人は自己矛盾に陥らないように行動を促す他者の声を必要しているということです。
主体の内部的要請として。しかし当人のコントロールをうけずに見させられるイメージがある。
そういうイメージの獲得の仕方はないものか。
注 このエピソードは岡崎「ドアはいつも開いている」(談話)、『現代思想』2003年6月臨時増刊号「総特集=ハリウッド映画」でも言及
仮のものの群。一時的にしか仮にしか視覚がありえない。
イデアというよりはイメージの連関であって、それは行動を変更する規制として働く。
そう、たしかにタイトルを作っているときに自分でそうしていたこともありました、
「これでなくてはならない」というふうに。
タイトルは必ずしも派生的なものではなく他者の声の機能もあるのだろう。
長々と占拠するのもアレなんで、このぐらいで一旦打ち切り。
日本で映画評論家とか映画ライターとか称してる連中には、日本の映画会社が配給する
映画をタダで試写室で観せてもらって、ちまちました感想文書いてるだけのが多すぎる。
評論家といいながら、映画観ただけの印象批評ばかり垂れ流して、自分で資料を調べ
ようともしないし、過去の関連作品を探して観ようともしない、作り手に直接会って質問
しようともしない、撮影や編集の現場は経験したこともない、カメラの仕組みも知らな
い、シナリオやコンテも勉強したことがない、映画は観るが、歴史や政治や経済のこ
とはこれっぽちも知らない安楽椅子ライターが山ほどいる。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20080920
たぶん岡崎はこのスレ見てますよw
気になるのは新興宗教云々のところか
そこ一歩間違うと誹謗中傷にならないか?
映画秘宝系か
古谷は好きじゃなさそう
その町山の記事はいいね。たしかにそういう傾向はある。
といっても、映画ライターに特に顕著だと思う。
映画批評はそもそも媒体含めて記事が存在しなくなってる。
批評の側は、アジテーション一直線になるか、学術論文かでバキっと分かれてて、
前者は紹介作業はするが町山の言うことが該当し、後者は紹介作業はしない。
スレ違いっぽいけどマジレスしておいた。
町山の指摘には古谷もある程度該当すると言っていい。
>>88 削れば良かったかな。でも、母親は発明家なわけで、
新興宗教といっても発明みたいな世界なんだろう、と勝手にそういう印象で見てて、
たとえば創価みたいな目で見てなかった。
flowerwildの人たちは蓮實派の学者だろ?
一応どっちでもないんじゃないの?
真面目な文章だけど読者がいなそうな雰囲気ではあるが
公の場で自分で発言したんなら問題ないんじゃないの?
>>92 そう言われると削ればよかったという後悔が沸くから怖いな。
NGO発明と建築のともの会 みたいなイメージを勝手に作って、そういう目で見てたんだけどw
新興宗教って言ってもいろいろだし、そんなもんじゃないかなと。
岡崎が小規模自立活動やシェーカー、民芸運動に鋭い視点を持ってるのは、
建築家の父親と発明家の母親を見て育ったというのが多分にあるだろうなあ、と思う。
もちろん、同時にこれは美術史上、大きな問題でもあるんだけど。
>>93 flowerwildの執筆者に拠るね。
「映画のテクネー」なんかは、ああいうのはまあまあいいと思うし。資料的にも。
でもレヴューも多いのかな。割と蓮実的方向。
平倉もかつてゴダールのポンピドゥー展について一本寄稿している。
まあ、町山が求める路線には踏み出してない。
Review Houseとflowerwildは狙い所が似ている
>>97 蓮實レトリックは仕方ないにしても、
あと一・二歩で脆弱な学者を脱するんじゃないかと思った
安楽椅子批評も存在していた方がいいと思うけどね
>>99 しっかりflowerwildを通読していないので、偉そうなことは言えないけど、
今ある批評の動きの中では真面目な方だとは思うよ。
>>63では悪く言っちゃったけど、
いまある動きの中でどこに期待するかっていったら、あのレスで挙げた中じゃflowerwildが一番かな。
あとは、赤坂大輔のような、勉強しまくってる人が、うまく理論に絡んでさらに輩出されてくると違うかも。
町山の批評ってあんまり読まないんだけど
(ウェイン町山の筆名だった時代は、シネフィルとはまた違った意味で映画オタクみたいで辟易したが)、
この数年の彼のいいところってそうだなあ・・・人文領域で例えるならば、
酒井隆史とか高祖岩三郎みたいな、こういう政治的な空間や主題のリアリティあるんだぜ、
っていうのを志向してる点かしら。
こういう映画批評の人で、ある程度勉強してる人って日本じゃあまりいないので、
そういう領域への応援として読む限りは、
>>87の記事みたいなことが言われるのは、いいことだと思う。
リティ・パニュの映画が山形で上映されて、なぜか海賊版字幕でニコニコにもあるけど、
なんら映画批評側で論じられていないような状態は何なのよ、とか思わないでもないし。
酒井隆史っぽいのは町山じゃなくて、『イメージの帝国/映画の終わり』の吉本光宏
研究者の中ではたしかに吉本の方が近いね。
町山はライターのレベルで、その機動力を生かしてやってるって感じかな。
はしゃいでる映画オタクって面もあるので、そこはかなり微妙なんだけど。
編集の権力はすごいからな
実力があるけど不遇な人は、ようは編集受けしない
ちょっと前まで過疎スレだったのになんでこんなに伸びてんの?
ブロガーとしてのフルヤンが好きだった人は、
本が出てからテンション下がってた
そこでにわかにフルヤン再検討の機運が高まる
ユリイカ 2008年10月臨時増刊号 総特集=フルヤンの再検討(ムック)
なんてのが出ないから2ちゃんで
09-27のアートマーケット分析はなんか色々とかゆい
そういう無防備なフルヤンがみんな好きなんでしょ
好きだけじゃあ駄目なんだ
パソコン環境の無防備さは萌え要素だな
このドローイングはちょっと……
116 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/09/30(火) 05:54:22
09-28とか、なに言ってんだかわかんなくなってきたぞ。
ってゆーか、いきあたりばったりで自分のポリシー公開みたいなこと書くなっつーんだ、フルヤン。
古谷的には下手な画家っつう位置づけのセザンヌはどうなるの?とか聞きたい、マジで。
こういう素朴さは論じても詮無いことなのかもしれないけど、なんか意味不明の悪意を感じるんだよ。
前日のエントリーと部分的には逆のことを言ってるよねえ
古谷作品はまだまだ個別に云々出来るような代物ではないと思うんだけども
『アキレスと亀』じゃまずいみたいな感じになってるのかも
藤澤の方が一点一点が自律している
古谷のドローイングは作品展開の中で考えないと評価しにくい
数点並べてはじめて意図がわかってくるから
>>114 このドローイングはなぁ・・・微妙。
何やりたいのか察しはつくんだ。フォルムを縁取る輪郭線のようであり、
しかし破線状に途切れ途切れになっている線を引くことで、
観者の媒介により、図となってフォルムが浮き上がってくるように見えながら、
しかしそのフォルムの出現や輪郭範囲は不確定になり・・・・といった。
だが、写真で見ているとはいえ、そういう作用まで至ってない気がする。
これは線の調子が似たようなものになっていることに原因があるのか、
はたまた色彩がモノトーンになっていることに原因があるのか。
よほど近くでじっくり線のノイジーなザワつきを凝視しないと、絵にフォルムによる凹凸感が発生する感じにならないのではないか。
まあでも、岡崎作品を写真でしか見てない人も、似たような誤解されているかもしれないな。
比べちゃ、岡崎がかわいそうだけど。
>>120 そうだね、藤澤の方がフォルム・線・ブラッシングの語彙が多く使ってあるし、
画布上の配置にしても濃度分布差みたいなものが展開されていて、
古谷の目指してるような効果に近いものを立ち上げやすく土台が出来てる感じだね。
まあ、古谷は語彙を少なくして達成したいのかもしれないが、
いや、それは彼のスタンスともずれるよなあ。複雑性を求めているようだし。
一時なんか岡崎言説からフェノメナルな重ね合わせしか読み取れてないんちゃうかって感じですらあったし。
何でこの時期のドローイングは、ここまで手法の語彙を減らしてたんだろう。
「自分は描いててこれで満足できたから」とかじゃ悲しいな。
こう見ていくと、古谷が「作品の内的固有性」「見ることは語りえない過剰さが」という立場にたっているのは、
「自分がそう見えているんだから、いいんだってこれは!」という居直りを、無自覚のうちに根拠づけてしまっているのでは。
原理的には見る人によって別々の見方は生じるという原則は残るけれど、
やっぱり他方で、作品によるコントロールもあるんだから、製作の段階でケリをつけなきゃいけない面もあるわけで、
そこを「読み手」になることで、自分に甘〜〜くなってるんじゃないかな。
岡崎って、作品が認められた後で文章を書き始めたんだよね
そこをみんな忘れがち
>>123 古谷の絵画は自然がモチーフだから、岡崎エピゴーネンとはいえないと思いますよ
むしろ松浦寿夫に近い
128 :
127:2008/09/30(火) 10:07:44
>>129 たぶんその作品は、岡崎の奥さんに「どこかで見た絵ねえ」って嫌味言われたやつでしょ
>>125 一応、文章を発表し出したのは1981年だから、それほど大きな年数の隔たりは無いぞ。
絵画・立体を初期から同時にやってたと思うが、最初期はせいぜい1979-1980年ぐらい。
>>131 じゃあ、「岡崎模倣」ってのは、
>>129のリンク先の作品のみ限定ってことで。
何も近年の作品をそれだけと言い切ることもないし。
>>130 だよ
このスレなんだかんだ言って書き物から入った奴ばかりだと思うけどさ
>>133 どこが岡崎模倣なのさ?
ごく初期の絵画だけがそれっぽいかな
>>130 82年には第12回パリ・ビエンナーレに出品してるぐらいだから、
80年前後にはすでにある程度認められていたと思うね。
古谷の色彩の使用法は岡崎の真逆
むしろ岡崎に異議があると思う
>>129は二枚組とかも試してるみたいだけど、上手くいってないな
色の扱いも岡崎とは違って貧しい
>>135 >画布と筆触の分離感
>色彩の選択
あとはブラッシングじゃなくて、筆触の輪郭をある程度強調し、線を用いない方向性。
ごく初期の絵画って、まさか岡崎初期? 岡崎初期とはかえって遠くない?
>
>>129のリンク先の作品のみ限定
って断ったはずなんだが。
古谷は書き物が認められたからねえ
>>123の人物画を見るに、線のバリエーションに乏しくて、
それが組立のモチーフを貧しくしている
>>138 色の扱いが岡崎より貧しいのは全く同感だけど、
過去の古谷作品より豊富にはなってるぐらいの比較で考えたんだ。
>>139 そもそも全然似てないと思うのでむしろあなたの意見を知りたいが、
あえて言うなら90年代前半の岡崎絵画かなと
>>142 古谷は同系統の色だけでやりくりしている
これは技巧がないと破綻するから危険なのに
>>140 カタログでわかる範囲では、1981年にハラ・アニュアルが
一定以上の知名度のある国内展出品の最初の出品。
破綻するってのは間違いだな
創造的破綻すら生じず、作品として自律すらしない
>>144 古谷も色感がないのを自覚してるのか
色数が多ければいいってもんじゃないみたいなことを
ブログで書いてたね
古谷の絵画は連作として並べないと場が保たない
テーマ&バリエーションという作りだ
>>147 デッサン力によほど自信がないと、こういうのはひたすらつまらなくなってしまうんだが
文章執筆する時間を全部絵描きに費やすぐらいでないと
>>144 それはたしかに思います。
>>137 そこは同感なので、岡崎模倣といっても、別に、同じレベルだとか、
古谷に岡崎を還元しようとは思ってないよ。岡崎の方がはるかにいいと思う。
むしろ、岡崎がいかにうまいかを再確認させられた。
>>143 じっくり岡崎をカタログで見返してたら、筆触の選択があまりにも差があるのを痛感した。
うーん、厚みを与えながらあんまりモコっと膨れ上がっていない岡崎のマチエルとは随分違うな・・・。
さらに昔の古谷作品に比べて、っていうほどの程度の問題なんで、
実際に岡崎と比較すると差が際立つね。
>>149 両刀は難しいのかな
岡崎の場合は実作と理論的文章の二輪で駆動してる感じだけど
フルヤンの場合は書くものと作品が分離してしまっているから
2001年のカナダ大使館ギャラリーの岡崎作品について
岡崎に絵画マニア見出してるより古谷自身が修練すべきだ
>>152 古谷は岡崎がナイーブに絵を描き出す気配を見せると喜ぶよね
>>151 古谷は線描によるマチエールの書きわけが全然駄目じゃない?
人物画ですぐわかるとおもうけど。
ならば線の貧しさが問題にならないタイプの作品を生み出すといいんだが、
そうはなっていない。トレーニングが少ないのでは。
他方、文章は日記スタイルでそれなりに文体もうまれた。
ひたすら「マニア」であることの歓びにだらしないまでに淫している作品
って言い方は、岡崎じゃなくて自分の欠点を自覚しているんだなあと思ったよw
>>154 >他方、文章は日記スタイルでそれなりに文体もうまれた。
でも、あんなの、ダラダラ書きながら論理的なリズムを与えると、割と容易に完成すると思う…
本当に「それなり」だよ。
>線描によるマチエールの書きわけが全然駄目
ああ、言われてみればそのとおりだ
>>154 そうだね
言われてみるとどれもフラットな線だよなあ
線が駄目ならタッチか
ただタッチの作品も発展性があるかどうか
ほかにも、リンチについてたんに「どろどろ」にしかならないってのも、
かなり痛烈だなあと思わざるを得ないw
ある絵画を批判するときの物言いには一貫性がある。
けっこう自分を分かってるんじゃないのか
ちょっと晩年のデ・クーニングみたいな感じなのかな
まだ老化するには早いだろ
>>156 単著が出せるんだから十分じゃない?
画家としての活動と比べたら。
なるほどなあ、無意識に自己のことを言ってるものとして、そこまで読むこともできるか。
たしかに一々辻褄合うわww
>>160 編集者の引き立てのお陰では?
松浦寿夫でさえまだ単著出てないのに
>>160 そりゃそうだけど、文章は文章で、別に文章の内的自律性なるものに向かってるわけでもないから、
批評とエッセイのちゃんぽんでしかなく、その意味で、古谷の立場と微妙にズレてる・・w
たしかに寿夫より先に出るとか、ありえねーな
>>162 引き立てられるのはマーケットでの成功だからそれはそれでいいと思うよ
フルヤンは現代の植草甚一だと思ってる
偉大なるアマチュアリズムという意味で
文章に注を使わない路線では一貫してるよ
なんちゃって実証主義みたいなものを書かせてしまう罠から自由でカッコイイ
注使う→使うだけの文献量に言及する→実証主義的に・・ みたいな話か
>>168 それは逆。批評空間以後は、注なしでものを書くときに覚悟が必要になった。
エミリー・ウングワレーの方が古谷よりインテリジェントだと思うんだが……
>>170 面白い指摘なので詳しく言ってもらえると助かる
>>172 岡崎乾二郎のインパクトは、
学者ほどではないにせよ注をちゃんと付けていたこともあったと思う。
横尾忠則に油絵具の使い方を教え諭しているところが最もスリリング
>>173 岡崎の注には、出典言及以上に、そこで書かれている論旨の圧縮と進行に目を奪われていた。
研究者のやり方と比べると異質な注の使用法だと思うよ。
でもたしかに、勉強量は抜き出てるインパクトは与えるね。
このへんなのかなあ
>ぼくだって、「セザンヌを見た」というトラウマ的な経験さえなければ、何と言うか、現在のアート界の世界水準を見据えて、そこでの自分の立ち位置を考えた、戦略的な作品展開をすることも出来たかもしれない(それで成功出来るかどうかは、当然、全く別の話だが)。
>でも、セザンヌを見てしまった以上、自分の短い人生と限られた能力のなかでは、そんなことをやっている余裕などないのだ。
>>176 時間が無いと言うわりには文章ばっかり書いてるような・・・
映画や小説ばかりに時間を回してるような・・・
精神安定剤代わりに文章書いてるのかと思えてるくるなw
09-27のアートマーケットの話なんて、誰に向けて書いてるのかわけわかんない
高校生〜大学生ぐらいしか「ほう、そうなのか」と思わないだろう
あんな単純なことをわざわざ書くということは 書くこと自体が目的になってるのか
>>179 なのに「野生」イメージで見ているのが気になってならない
>>180 目的化はしてると思う
最近は原稿の仕事が多いからそのぶんおざなりな文章になってる気が
>>181 古谷がなりたいものなんでしょう
この人、素朴なドゥルージアン上がりだから、そう考えると腑に落ちる
>>180 一貫性はあるよ
>自分の立ち位置を考えた、戦略的な作品展開
が嫌いだから俺はモダニズムの自律で行くと
>>183 一応煽っておくと、ドゥルーズの素朴さなめんな
>>182 日記の枠でやりながらも、その枠を限界までこじ開けるんだ、という勢いは無くなってきてると思う。
おっしゃるように、原稿仕事ができてきたからかもね
普通のプロの物書きのHPのブログに少しずつ近づいてきてるのか
むしろちゃんとプロの物書きとして脱皮する方が可能性あるよ
>>186 そうだよね
プロのブログって軽い身辺雑記か仕事の予告しか書いてない
>>180 一貫してないとは言わないが
なぜ決意表明のごときものを機会にかこつけて何度も書かなければならないのかという点が…
190 :
189:2008/09/30(火) 11:46:10
>>185 ドゥルーズ本人ではなく、松浦や蓮実などといったドゥルージアンから影響を受けてた古谷の過去を言ってたんだ。
ドゥルーズ自身のnaivite、愚直さ、無媒介性はすさまじいものだから、ちょっと別レベル。
国内のドゥルージアンって、素朴疎外論みたいに自然を憧憬していた側面があると思ってね。
シネフィルにこういうタイプの人がすごく多い。
そもそもモダニズムの自律ってそんなものじゃないけどね
その代表であるボードレール的なものをマネに代表させて相対化しているのかも
そうか……触覚と描く行為の身体性を結びつけてしまうわけか
663 :わたしはダリ?名無しさん?:2005/04/11(月) 20:05:23
食生活が駄目そう。四十代でガクッとくるね。
664 :わたしはダリ?名無しさん?:2005/04/11(月) 21:35:34
ほんと大丈夫なのか?
665 :わたしはダリ?名無しさん?:2005/04/11(月) 21:38:28
カップ麺とか好きそうなイメージがある。
666 :わたしはダリ?名無しさん?:2005/04/11(月) 21:38:51
嫁もらうのが一番なんだろうけど、そういうの無理っぽい。
667 :わたしはダリ?名無しさん?:2005/04/12(火) 01:44:12
そうか?
よく若い女の絵について評を書いてるじゃないか?
668 :わたしはダリ?名無しさん?:2005/04/12(火) 01:46:39
もちろん友達はいるだろうけど、
日記から見られる生活の硬直っぷりからいって、
他者が生活に入り込むとキャパを超えそうな気がする。
669 :わたしはダリ?名無しさん?:2005/04/12(火) 02:04:45
そういえば、女がらみではないけど、なんかいいことあったらしいな。
やっぱり、持続って力だな。
670 :わたしはダリ?名無しさん?:2005/04/12(火) 02:22:26
コレクターがついたとか?
しかしこいつは日記でぺらぺらなんでもしゃべるから、
一定以上の信用が置けないのが問題だ。
>>196 そういやそのスレ位のときにふるやんのアセクシャルさが話題になったこともあったね
あえて隠してるようにも見えないし、やっぱ肉体的に精力乏しいのかな
>>197 822 :わたしはダリ?名無しさん?:2005/06/04(土) 12:05:40
アセクシャルのはしりでしょう。
画風にも現れています。
関係性に興味が薄い。
これか。結構みんな鋭く見てるよね。
ほんとかどうかわからんが。
恋愛話はダミーなのかな。
さすがに童貞ではないんだろうけど性的な気配が希薄
つくづくネカフェに目覚めているのが危険だな
かつてのドヤ街の大衆食堂のごとく、フリードリンクと安飯が体をむしばむ
>>201 100均より安い業務用レトルトカレーとか、
怪しい米のピラフとかそんなの
でも場所提供という付加価値で、ちょっと得した気になるという罠が待っている
触覚を触覚で統制しないと駄目なんじゃね
業務用安カレーか。
昔居た最低賃金職場は残業をやる工員だけ17時に変なカレーライスのご褒美を
頂ける慣わしがあってみんななんとなく食ってたんだけどこんなものが食えるかって
怒っていつも食わない身体障がい者のオヤジが一人居た。
いや、こういう業務用ではないかも知れないw
スレ民のワープアぶりに涙
金持ちだけどカップめん食ってるやつもいる
業務用レトルトは、ボンカレーよりは旨い
高めのレトルトには負けるけど
誰もフルヤンの食生活を笑えねーw
>一日中原稿書いていて、さらにまた日記を書くって、いったいなにやってんだ自分、と思う。
画家として脱皮したいなら偽日記の更新頻度を減らすのも手だと思う
あとは小金を手にしたらPC買い換えるとか
そしてネカフェはよせ
そういう本音が言えたのは、相手の顔が見えなかったからなんだろうな
風呂屋のペンキ絵って比喩に溺れすぎ
古谷はこのままだと風呂屋未満だろ
その頃はいろいろ面白いな
でも基本は一緒だったりするのだった。
>最近の、ぼくの『美術』に対する関心の薄さは、自分でも困ってしまうほど。
>ともすれば、美術なんて、セザンヌとマティス、あとせいぜいゴッホの一部の作品(+自分の作品)だけあれば、もう他に何もいらないじゃん、なんていう『セザンヌ=マティス原理主義』に陥ってしまいがちだったり。
>しかし、世界というのは本来多様なものであって、原理主義とか、純粋へと向かおうとする欲望とかは、基本的に絶対に間違っているのだった。
初期の日記と何も変わってねーのな
こういった浅はかな直観に忠実なんだろう
>(しかし、ぼくは、複数のパネルやイメージを同時に並べる、といった安易な複数性には違和感を感じる。あくまで、一枚の絵画が、そのままそれとして複数であってほしいのだ。)
>東京都現代美術館へ『シュポール/シュルファスの時代-ニース〜パリ 絵画の革命
1966〜1976』を観にゆく。まだまだやっていると思ってたら、明日までだったので、
慌てて出かけた。(『低温火傷』はもう終わっていたけど、それはどうでもいいや。)
>MOTに行くのは滅茶苦茶久しぶり。一応、美術家のくせに、美術に対してこんな
不勉強でいいのか、とも思うが、面白そうな展覧会をやらないのだから仕方がない。
まあ、ぼく自身が、ここ2年くらいごくごく限られたものを除いて、美術作品を観ること
を意図的に避けていた、ということも大きいのだけど。
こっちの方もかわいいぞw
>作品を観ながら、今、ぼくがつくっている作品のあり方や考え方なんかが、かなりシュポール/シュルファスの感じに近づきつつあるかも、という危機感をちょっとだけ感じた。
>このままやっていくと、結局こうなっちゃうしかないのかも、というヤバい感じ。行き止まりがもう見えてるのかも。いや、でも何か別の道がまだあるはずなんだ。これが答えじゃない。
>しかし、カタログ、3500円ちかくするのは高すぎる。買っちゃったけど。
>外へ出ると、雨。傘もっててよかった。駅まで遠いし。雨の木場公園を、ぶらぶらと歩く。
金無いのにカタログ買っちゃうところもかわいいw
00年代を通じて全然変わっていないってのは色々アレだな……
今後もこんなか
>今日、すごくいい絵が五分くらいでさらっと描けてしまった。上手いね、自分、と、自分で自分に感心してしまった。
>いままで四十年生きてきて、もっともマティスにちかづけた五分間だった。これがたった一度だけのことではありませんように。(たんにマティスの真似じゃん、とか言うな!)
>展覧会のオープニングで、十年くらいは会っていなかったんじゃないかという大学時代の友人と会う。人は、年齢によって見かけはかわっても、「喋り方」は全然かわらないものなのだなあ、とつくづく感じた。
>その友人と、いま何やってるの?、みたいな話になって、友人は、片手間につくったもの(右手を骨折したので左手でつくったようなもの、という言い方をした)が予想外に売れたので、半年くらいは何もしなくてもいいんだ、と言っていた。
>で、その後の話の流れで、その「左手でつくったようなもの」が、「初音ミク」のことだと分かって驚いたのだった。(その道で相当成功しているということは、前から間接的に聞いてはいたけど。)
>最近つくづく思うのは、ぼくにとって絵画とは、要するにセザンヌとマティスのことなのだ。
>時によって、マティスより断然セザンヌだな、と思ったり、でもセザンヌだけだとあまりに貧し過ぎて、絵画の悦びはマティスにこそあると思ったりするのだけど、でもセザンヌとマティスであることはほとんど揺らがない。
>で、セザンヌはティツィアーノやヴェロネーゼのようなヴェネツィア派に繋がり、マティスはピエロ・デラ・フランチェスカのようなフィレンツェ派(?)につながっているのではないだろうか。
主体のフレームの可塑性を知ることで一度「私」を相対化した後で、そのような複数であり得る「私」を可能にしている複数の技術体系のなかから、ある一つの体系を主体的に選択し、その技術をしっかりと習得してゆくという過程が、これにつづいて必要になる。
つまり、主体を相対化することで初めて、自らが責任を負うべき一つの技術体系=主体を、自分自身の判断(=賭け)によって選択することが出来るのだというわけだ。
そしてこの二つめの段階は、ほとんど職人の修行と同じであり、長い時間と、退屈であることが避けられない持続的な努力を必要とする。
岡崎氏の主張が面白いのは、一つ目の段階と二つ目の段階を両立させ、順番をつけているところにあろう。
多くの人においては、一つめの段階と二つめの段階のどちらか一方がより重要なものとして強調される。職人的な技術など、安定した社会構造や階級に依存したものでしかなく、もうそんなの古くさい。
それよりセンスの良さが必要だ。センスこそが固定した階級をうち破り、自由をもたらすのだ。
とか、いや違う、センスなどというものは結局は消費社会の流行に依存したもので、真に批判的なもの足り得ない。そうではなく持続的な勉強、鍛錬、そして思考こそが、普遍へと至る道なのだ、とか。
しかし岡崎氏は、「芸術家」であろうとするのならどちらか一方だけを強調するのではダメだと言っているように思う。まず最低限、自分を相対化し、様々な条件にフレキシブルの対応できるセンスが必要だが、しかしそれだけでは真に「見るべき価値のあるもの」はつくれない。
それには高度な職人的技術の習得が不可欠である。しかしその技術は、一度あらゆる技術、主体のあらゆる可能性が相対化された後で、あくまで自らの選択で、それに責任を負うべきものとして選ばれたものでなければならない。
木の棒を筆に変えたりジェッソを油に変えたりしてるじゃんw
枝で描くというのは岡崎が筆のタッチを嫌うのとつながるね
古谷の場合は散歩とか自然の風景が好きだからだと思う
セザンヌとマティスで美術史が終わりかあ
だから美術について書くものが面白くないんだな
美術史
セザンヌ→マティス→フルヤン
だからね。
なんでマティスがそんなに好きなんだろ。
ピカソよりはマティスみたいな感じでは
癒されるのかな
結果的に古谷の絵って、
身体感覚を拡張させたシュポール/シュルファスじゃね?
それとバイオモルフィズム
有機的抽象から自由なマティスには到達できんだろ
それより、実際にはミニマリズムから学ぶこともあるんじゃないかと思うね
絵画じゃないから嫌いってのが真相だろうけど
ふるやんが41歳って信じられない
10歳ぐらい若いよな
でも生活習慣の頑固さは年相応だと思う
へんな擬音がなくなって寂しい
使えない若さだな
ビートたけしみたいな叩き上げみたいな偉いオヤジに好かれる確率は低そうだ
ていうか古谷自身が叩き上げ
古谷は叩き上げじゃない
叩き上げっつーのは下士官歴が長くて四十過ぎてから少尉になった軍人みたいなのを言う
叩き上げなら親父から富士山描けなんて言われないだろ
んーでもそういうミリタリーな比喩自体がどうなんだろ
たけしも違うし、語源厨になりかねんよ
そうだね
自分のブログで新内閣の批判をやってクソして寝ます
ブログ→兵卒
著作→士官
なら平気じゃね
古谷は風呂場の富士山絵を馬鹿にし過ぎ
古谷の絵画論は70年代の藤枝と言ってることが同じ
川俣正と石田英敬の弟子筋かな?
かんじんの荒川と川俣の説明文を読む限り、そんなたいしたことなかった
●朝早く起きて、六時過ぎから、午前中いっぱい、たっぷりと制作する。
昼過ぎに、近所のツタヤに借りていたDVDを返しに行き、そのまま散歩する。
今日はとても日差しが強くて暑いけど、蒸し蒸しした感じはなく、風が吹くと涼しい。
散歩に疲れると、冷房の効いた電車に乗って画材屋まで。その後、本屋で立ち読み。
(欲しい本があったけど、画材を買ってしまったので我慢する。)帰って、一時間くらい
昼寝して、夕方は、喫茶店でホットココアを飲みつつ、原稿のゲラのチェックをしたり、
本を読んだりする。もし、毎日このようにして過ごす事が可能ならば、六十歳くらいに
なる頃には、ぼくだってかなり大した画家になれる(あるいは、相当気が狂った画家に
なれる)のではないかと思うのだが、実際には難しい。つくづく、セザンヌの(才能という
よりむしろ)「親の経済力」をうらやましく思う。
ひでえw
そういや息子が二浪して早慶レベル大学受かったけど金がないから一年しか
通わせれなかったとか言ってる親父がいた
銀行から金借りようとしたら断られたって
そんで浪人時代からバイトしてたガソリンスタンドに就職したって言うから
それなら危険物取扱者の免許を取ったほうがいいってアドバイスしてみたら
その免許は俺も持ってるって親父が言うので工業系ワープアの85パーセントは危険物取扱者免状乙種四類を
持ってることがわかった
206の続きだけど暇だから書いてみました
古谷自身は三浪で造形大だろ?
しかも実家が神奈川なのに一人暮らし
セザンヌほどじゃないけど小金あるだろ
>>255 親の持ってる小金をあてにしてるから年収180万円で満足していますなんてたとえ思っても普通はいわねーべ
俺だって言わねえよw
>>256 よくわかったね
>>248 このブログ、真面目になると全然冴えないけど
皮肉エントリーは面白い
古谷と永瀬の視野の狭さがよくわかる
古谷は貧乏とはいえ原稿料で食えてるんだからいいんじゃないか
ただ60歳まで体にガタが来ないと思っている楽天性はどうかと思うが
262 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/02(木) 16:24:12
古谷さんは、現代美術で唯一の評論家の市原研太郎さんについて書かないのは
なんでだろ?
263 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/02(木) 17:15:41
唯一とはいえないんでは
どっちかっていうと市原はジャーナリストでしょ〜
早稲田大学で演劇関連トークイベント開催
予約不要、入場無料と言うにはかなり豪華な演劇関連トークイベント、
『国際研究集会・60年代演劇再考』が今月中旬早稲田大学で行われます。
19:00〜20:15
パネルディスカッション 「現在から見た60年代演劇」
平田オリザ(劇作家・演出家)
宮沢章夫(劇作家・演出家・小説家)
岡田利規(演劇作家・小説家)
[司会] 松井憲太郎
267 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/02(木) 18:55:40
>>262 書いてるよ。前の日記だけど。
松井みどりと市原を同じようなものだと思ってるみたいね。
268 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/02(木) 19:04:39
輸入屋に興味ないんだと思う。輸入屋も輸入屋で必要な存在ではあるんだけどね
そのせいで勝手に思いこみで現代美術を非難してるんだよね
絵画がマイナーとかさ
まるで上田高弘
271 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/02(木) 20:46:02
わたひはひとりの
たひゃである
ランボーだがの
私と私の間にある
空間
差異
なんとよんでもええが
ないやつにはないもの
なんじゃし
それでしあわせにくらしているのなら
ええじゃないか
のぉ
ttp://blog.goo.ne.jp/superflat/e/45cfbbc9d2469199b3eac588b27b27ae >こういう人たちは実は呆けるのが意外に早い。
>というのも、思考や記憶のパターンがいつも同じだからだ。
>一見、頭を使っているように見えるが、古谷利裕もあたしかも
>共に興味関心の領域が異常に狭く、ずっと同じような話ばかりしている。
>好奇心を無くした老人のように、もはや脳の限られた領域しか使っていないのである。
これは皮肉文としてかかれたんだろうけど、その通りだな。
>>224のソースではその前に
>主体のフレームが技術のその都度の組み替えによって動いてゆくという感覚は、
>まるで自分の人格が拡張してゆくような興奮を生じさせ、
>そのゲームに人をのめり込ませるだろう。
>(…)批評家だったら、このくらい柔軟でミーハーであってほしいと岡崎氏は言うのだが、まったくその通りだと思う
とあるのだが、世の批評家を叩いているらしい古谷は、そんなことより自分に言い聞かせろと言いたくなる。
個室ビデオ店放火殺人だってよ
お泊りのときはなるたけ出入り口の近くに陣取ったほうがよさそうだ
なあ古谷君
275 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/03(金) 01:23:43
276 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/03(金) 01:38:16
277 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/03(金) 01:48:11
枡野浩一と大槻ケンヂの違いがわからん
村上隆にやたらと詳しいとこ見ると村上の弟子筋かな
>>277 クオリア批判に関しては、斉藤環の『アーティストは境界線上で踊る』
に入ってた斉藤・岡崎対談での岡崎の批判の方が鮮烈だった。
NT-Xのような、漠然と神秘主義だのオカルトだのという批判じゃ弱いと思う。
>>273 なるほど。というかNT-XよりあなたのNT-Xのテキストの読み方の方が面白いよ。
ただ、物質と素材という言い方だとmaterialityで一緒になっちゃう気もするので、
古谷は物質と記号の区別ができてない、という言い方でいいかと。
たしかにNT-Xのデリダ読解はどうかと思うが、とりあえず
古谷がデリダをろくに読めてない、読んでるかも怪しい、というNT-Xの指摘は正しいと思った。
フォネー/エクリチュールを物質/記号とみなすのはほとんど馬鹿で、
結局は現前と再現前で分けているんだから(ゆえに音声的エクリチュールというのもデリダは言う)、
フォネー=物質的支持体=それが根拠付ける、とする古谷は、
結局素朴なただもの(唯物)論に陥ってるのと同じじゃないかな。
>>211 >偽日記の更新頻度を減らすのも手だ
そうだね。原稿書きとして身を立てていく意味でも、日記に本腰を入れすぎるのはまずい。
>>186の線で、
>>187の言う方向性に進む方が、というのもにも一理ある。
>>35で言ったように、日記を目的化することなく、
文章で論を立てるなり、画家としてトレーニングにふけるなり、時間をうまく使った方がいい。
>>220 時間投資先とその投資効率を変えないと、たぶんこのままだろうね。
>>213 >風呂屋のペンキ絵って比喩に溺れすぎ
そういう描線やストロークの比喩的な言い方ですましちゃうと、
岡崎がサイトや絵本で使うような具象描画を「漫画絵もどき」とか済ますような、
小賢しい指摘に陥っちゃうんじゃないかな。
あるときは素朴な素材固有性決定論に陥り、あるときは外在的な記号(=形態)分類コードに陥り、と
どっちもろくなものじゃない。
>>194-
>>195>>203 視覚に対する触覚の優位性、というありきたりな触覚中心主義になってるなあ。
結局、(身体に対する)生々しい現前性という、対立にあまりに素朴に依存している。
ここで言われてる触覚は、対視覚優位性を与えられているけれど、同時に
視覚の延長にあって、素材の視覚的抵抗値を一望視不能な触覚として例えてるだけにも見える。
最後の段落で視覚/触覚の相互均衡を目指すとしているけれど、
それって両方に漠然と引きずられるだけじゃないのかな。
>>215の言う素朴な直観主義に陥ってるのも、この思考-経験のサイクルの結果だ。
保坂もこういうサイクルに対してやたら素朴で弱いんだから、
保坂が古谷を漠然と好んでるのは
>>218>>221を読み物として読んで、
感情移入してるからであり、それだけなんじゃないの、と穿ってみたくなる。
273だけど、素材と物質性と書いたのは、
画家がものを考えるとき、素材(マチエール)の比喩がしばしば罠になるからなんだよね。
マチエール感さえ出せば物質性が露呈する、みたいな短絡的な発想から抜けるのが大変。
最近だとヴィヴィッドマテリアルとかね
多くの身体論がしょうもないのも同じ理由
ここですね
>しかしぼくは既に子供ではない。日々、大量の視覚的な情報を受容しながら活きている訳だし、過去の偉大な美術史上の作品にもたくさん触れてきたし、いわゆる「絵の描き方」の教育も受けた。
>だからぼくの作品には、触覚的な要素とは別に、視覚的な要素も当然大きく入り込んでくるのだ。
NT-Xは荒川論で愛犬チャーリィを出すべき
フルヤンも石膏デッサンとかやったのかな
それにしてはクロッキーが上手くない
三浪なので受験デッサンがヘタだったということになる。
当時から映画鑑賞が好きだったのでは?
ようするに、25年ぐらい今のような暮らしを続けている
>>9 会田以外は嬉しそうな顔してるんだよな
ネタでやってる会田だけ冷めた顔してる
会田のアイロニーは根深い
椹木野衣がものすごく好きそうだ
浅田と岡崎を茶化したアレにぜひコメントしてもらいたいぐらい
>>291 アイロニーというよりニヒリズムじゃない?
>>293 かもしれないけど、会田が体力まかせだったことがだんだん分かってきた
反射神経に頼りすぎているので最近は面白くない
>>295 アクリル絵具をそのまま使ってるんだよな
古谷もそのタイトルとそう遠からぬ事を考えていると思う
この絵は浅田彰が買うべき
そうしたら賞賛する
>>296 やっぱり構図が全然甘いね
本物に比べると
わざとぐずぐすにしてるんだろうけど
>>283 なるほど、その差は重要で、しかも語句が一緒になりやすい微妙なところだね。
岡崎を引き合いに出して申し訳ないけど、岡崎が優れてるのは、その差の扱いなのにね。
会田の可能性があんまりない、ってのはもう論じる気もしなくなるぐらいに結構明白だよね。
>>302 自分でもそれがわかってるから他人の庭を荒らしはじめたんだろう
>>302 ただ、古谷がそれにあぐらをかくための口実になりそう
NT-Xも世代論に逃げたり半端なところがあるから、
古谷は脅威に思わず自分の世界に閉じたままなのではないか
>>303 椹木野衣が微妙な立場になるってのはわかってたのかな?
そこが一番知りたい
>>304 >古谷がそれにあぐらをかくための口実
あるね、それ。
古谷は自分の思考停止・停滞を棚上げするための対象を語ることにはまってる。
>>272みたいに「お前がゆーな」と言いたくなるような対比ばっかり。
そんな対象を語ることに溺れなくとも(しかもその語り方がはらむ論法を追い込むんじゃなくて
場当たり的に使うだけだし、そこで藤枝色や美術史への語り方の蓄積の浅さがいきなり露呈する)、
切磋琢磨するべきことはたくさんあるのに。
ようするに長文のマティス論に取り組むといいんだよ
とりあえず今度出るピカソ論でお手並み拝見
ピカソ論だと駄目だと思うね
あらかじめこういう論拠が用意されているから
>絵がうまいということは、おそらく、足が速いとか地肩が強いとかいうのと同じくらいに普遍的なもので(おそらくそれは、空間把握力と色感、およびその変換能力だろう)、
>アフリカに生まれるのとヨーロッパに生まれるのとの違いや、十八世紀に生まれるのと二十一世紀に生まれるのとの違いで、その「絵がうまい奴」が身につける様式や技術の体系はことなるだろうが(あるいは「うまさ」に対する社会的-象徴的な位置付けはことなるだろうが)、
>その「うまさ」を支えている実質には基本的な違いはないはずだ。
Das Manのおしゃべりを一刀両断する貴族ってやつね
>>309 スポーツであれば、身体能力が純粋現前するみたいなのは阿呆だよな。
なんでこうも懐疑なきプラトニストなのか。プラトニックに信じざるを得ないのはいい、
しかしその実在観を単に素朴な論法で出してもいいというのは無警戒かつ甘えだよ。
その一文の末尾に「そうした"うまさの王国"とでもいうべきものを信じざるを得ないと同時に
それは「私」がそう信じるところにしか無いのではないかという不安がある。
この狭間で戦わなくてはならない。したがって、うまさとは、いかにして見出され考えられるのか」
とか付けるなら、まだ許せるんだけどなあ。
>>312 マティスならそういうごまかしはきかないと思うんだ
現代アートを馬鹿にしすぎているんじゃないかなあ
まだ中年なのに
>美術史によって保証されるメジャーな(最先端の)「形式」というものがあり得なくなり、形式が作家の(作家としての)「存在」を支えられなくなり、
>形式は常に相対的で任意なものとなったため、「現代アート」の権威づけはいまや、ただその「値段」のみによって保証されると言ってもよい。
>>310 ほう、過去の古谷アーカイブについての言及か、と思ったら、新しいエントリーだったのか…
たしかにスレへの怒りに満ちてるように読めるから困るな。
えーと、まず、「自分の気分の代弁」に引用を使うな。
そうではなくテキスト/読み手である自分という関係の中で戦え。同化して逃げ込んでどうするんだ。
ま、前スレ終盤で総合スレ化が語られたんだし、古谷について話しても
出てくる指摘がダブってきたし、将来性や古谷の行動慣習についてもある程度まとまってきたんだから、
別のことを話したいってのはあるな。スレが止まりがちになってもいいじゃないの。
古谷に文字数をあんまり割いても意味が無いという気が…。
古谷さんは自分のことがわかっているよ
>いくらマニアックな捻りや屈折に満ちていたとしても、どんなに複雑な細部の絡み合いが組織されていたとしても、
>それらを受け止めて可能にする基底的な場が前提として事前にあって、それが全く疑問に感じられていないとしたら、それが全く揺るがないとしたら、その作品は退屈以外の何物でもない。
>絵を描く前には一枚のキャンバスがあるのだが、それが既にあるもの、一つの拡がりと限定をもった平面であることが何の疑いも揺れもなく前提とされて絵の具が置かれ、また、その前提が保持されたまま描き終えられるとしたら、
>そこに組織された絵の具の配置がいかに複雑なものであっても、そこに施された技術がいかに驚嘆すべきものであっても、それは「見る」に値しない。
>ひとつのフレームが事前に存在し、そのフレームの内部で何かを構築するのではなくて、作品の生成とはフレームそれ事態の生成であり、
>あるいはフレームが揺らぐという出来事のことであるはずなのだ。(フレームが揺らぐということが、イメージが立ち上がるということでもある。)
>逆に言えば、事前にあるキャンバスとは全くことなったフレーム(イメージ)が出現しているなら、そこに施される行為は、単純で、オーソドックスで、当たり前で、あっけなく、たいした技術も必要としない事、でも充分に「見るに値する」ものになるはずだ。
NT-Xへの怒りだろうね
あと黒沢清と保坂和志に感情移入しすぎ
2003年11月15日のエントリーでは、
東や北田の「切断」ではなく樫村(晴香と愛子両方)の「連続性」を持ってきているのに、
ご本人の現代美術認識は思いっきり切断説に振り切れている。
>>318 >NT-Xへの怒りだろうね
なるほど。って、いや、タイミング的に彼が古谷を怒らせるとは思えないって。
一応彼のブログ見てきたけれど、1ヶ月以上前のこのエントリー
ttp://blog.goo.ne.jp/superflat/e/fd228ec085e416593ba27c28612e39cb まで遡らないと古谷批判の記事もないじゃないの。
やっぱこのスレ対象なんじゃないかな。前スレでは古谷の絵について
ある程度じっくり語る流れにならなかったから、今回それができたのは
俺なんかには教えられるところが大きかった。気づかなかった点とかいくつもあったし。
なんだかんだ言ってもいわゆる2chのアンチスレよりも、古谷への心配と忠言の多いスレだと思うんだけどな。
当人が怒るのはまあ、しょうがないんだが。
>>319 そのエントリーに関してはNT-Xは正しいと思うね
加藤泉の絵の方が見るに値するもの
古谷って、
>>212-230やスレの各所でも言われてるけど、美術史に関する見解がかなり緩いよね。
ペインターだからそれもいいかとも思うが、だったら美術批評の対象はかなり絞った方がいい。
>>307の言うようにマティス論に全力で取り組んだ方がいいし。
文章で身を立てるように示唆する
>>187の意見もあるし、
たしかにその方向は軌道に乗ってきてもいるだろう。
しかし彼は美術作品について語ると、自分の感慨や自己言及が増えるように思う。
これは俺の印象だけど、美術評をすると批評として耐えるのでもなく画家の立場に何となく逃げ、
画家としての立場を前面に出すと内的固有性にべったり頼る言葉を(画家発言として)使ってしまう
(
>>224の日の日記で言うと、「職人芸」などではなく、各領域の語法を十全に身に付けた上で、
書き換えとしてやらなければならず、そこで戦わなくてはならないのに)。
その意味でも、映画論や小説論の方が、内的固有性・自律性へのもたれかかりが少ないというのもあり、
この二領域それぞれの停滞もあって、古谷はちょっと読めるのが際立ってしまう。
岡崎理論の不幸な還元もあるが、その理論に相当するものが今まだない映画・小説では
この芸風でもある程度つなぎになるし、彼のような存在も必要だろう。
この人を物書きとしての将来性で言うと、「画家」であることに無茶苦茶寄りかかった書き手、
不勉強にすぐ陥ってしまい、その結果光るのはレヴューばかり、ということになってしまうんじゃないか。
物書きの将来性を考えようにも、かなり不勉強で、別領域のものをあまり読まないし、
読んでもすぐ自分の「画家の身体」を基底に置いて、むしろ
「主体のフレームの可塑性」からすぐ目をそむけてしまいがちだし・・・。
訂正
古谷はちょっと読めるのが →古谷の文章が相対的に読み甲斐があるというのが
形態やその操作、変形を作品を通して見る、古谷の指摘は、
彼の画家・美術家としての日々の蓄積が利いてるのか、あまり人が指摘しない興味深いものになることが多いんだ。
それだけじゃまずいんだけど、小説・映画ではそういう議論をやるのが全然なくなってきてるから、
古谷みたいな人はいてもいいと思う。
ただ・・・・画家・美術家として生きたいはずの古谷にとってこれは不幸だろうね。
>>321 東・北田の代案が黒沢清と保坂だから、
小説家と映画監督の作家性に信頼を置いているんだと思う
やっぱり本音ではからごころが嫌いなんだよ
ぶっちゃけ旧偽日記サイトは「現代アート」だと思う。
ある種アウトサイダー的なサイトデザインも相まって、
時々繰り出される知的な発言が素晴らしかった。
ただこのスレ少し前はちょっと広めの視野から古谷の位置を批判検討する感じだったけど
いまアラ探しが目的化しちゃってない?
古谷のアラ探しするよりはちゃんと総合スレ作ってそこで岡崎なり何なり色々話した方がもっと生産的だと思うんだ
色々話したいけどヌルくなるのが嫌だからとりあえず叩き台として古谷の名前出すってはやっぱちょっと失礼な気がするんだけど、どうでしょうか
樫村保坂と岡崎の間で試行錯誤している様子を、
細かく検討するのは別に悪くないんじゃないの
樫村とか無批判に持ち上げられすぎてると思うし
>>324 でも、スレですでに言われているように(
>>35>>156>>186-188>>211>>282)、
原稿書いていく路線からすると、日記本腰は減らした方がいいよ。
日記に固執することもないと思う。2000年〜2004,5年ぐらいまである種光っていたかもしれないけど。
こういうこともできるんだ、っていう感じで。
>>325 >ちゃんと総合スレ作ってそこで岡崎なり何なり色々話した方がもっと生産的だと思う
>とりあえず叩き台として古谷の名前出すってはやっぱちょっと失礼な気が
たしかにね。批判検討が縮小再生産になってきてるというのもそうかもしれない。
厄介な話題になったあたりで古谷突っ込みに移行するパターンが出てきてるし、
総合スレ路線としてはかえってまずいことになるよね。
総合スレ立てか…… やっぱりこれしかないのかな。過疎スレッド覚悟でやるしかないか。
>>327 >厄介な話題
たとえば?
もう一度そこからやり直そうよ
総合スレは反対だな
ここを活用すればいい
新ネタを投入すれば良いだけのこと
329 :
325:2008/10/03(金) 18:52:23
具体的には岡崎の話になりそうだけどね
>>323 社会学的な反映論に一歩距離を置くという意味では
東・北田に抵抗するのはよくわかるけど、
保坂だとまずい気がするな。黒沢は正直、90年代以降育ったシネフィル、映画批評サイドにとって、
批判するとしても可能性を継承するとしても、どこからやればいいのか難しくなってて、
素朴に「好き〜〜」って感じが出やすいと思うよ。
率直に言うと、俺も古谷みたいな意味で黒沢大好きでね。
古谷のような褒め方・・・・いや、あのままの語り方で満足してもいいのか、というのは抵抗あるし、
むしろ別の作家に重点をかけて論じたいタイプなんだけど、
古谷の黒沢評を読んでると、こう、細目になって感慨深くなってしまうw
だけど、好きだからこそ、漫然と語ってるのはどうかと思うなあ。
(注 黒沢に比べて保坂の扱いが俺の中で酷いのは、単に保坂にあまり触れてないから)
>>328 >厄介な問題
岡崎理論をどう整理するかとか、岡崎用語を使わないで(石岡はそうなってる)うまく抽出するとか、
古谷という対比対象を経ずに、どう岡崎作品を語るかとか・・・・
もっともっと潜在的にはあるかもしれないけど、すぐに思いつくのはこれかな。
岡崎スレって意外にもこの板にないんだな
334 :
石岡:2008/10/03(金) 18:59:35
>>333 まあ、5,6年前にあった岡崎スレは俺が立てて、
論点展開されることもなく120レスぐらいで落ちたんだが。
あのスレの
>>1発言とか読み返すと、恥ずかしさで泣きたくなるw
>>334 あれは、あの時点では十分大したことをしたのであり、
まずもって、岡崎理論と岡崎作品・活動履歴をつなげながら見せたということで、いいものだったと思うよ。
だから石岡への反感とかは無い。
ただ、別のやり方も今となってはやりようがあるということで。
昔のBゼミスレとか酷かったから、岡崎スレが機能するかどうかは疑問かな
この4年ほど読み返してない『絵画の準備を!』再読のチャンスと、
デリダ再読をやらせてほしいなあ。準備が要るわ俺は。
古谷永瀬におけるモダニズムのフェティッシュ化は、
『絵画の準備を!』の現代アート批判の誤読だと思うぜ
>>336 つまり岡崎が日頃語る問題系を全部禁じ手にするってこと?
それだと日本戦後美術史の系譜から語るのが早道かもしれない
>>341 いや、左手性とかになると、カント語彙でありながらカント論としてやってるのか曖昧であったり、
そういったターミノロジーの範囲が曖昧な、岡崎「用語」をそのまま使ってるように見えたわけね。
また、岡崎は言ってる言葉違ってるけど、同じような構造で語っていたりもしているので、
ある程度語彙や論法をシェイプしたほうがいいと思ったんだ。
美術史から行くと、今度は俺が手におえないな・・
石岡の解説を岡崎理論のコピーとか言う事自体クリシェじゃね
あと、斉藤環のインタビューまとめはそんなに悪くない
どうなんだろう、
>>326の言うように樫村検討の余地もあるだろうけど、
総合スレ的、あるいは岡崎整理的には、ここじゃない方がはかどるのかな。
メンバーはたぶんいまスレにいる人ぐらいでいいと思うんだけど。
BBSでやったらかなり停滞する可能性があるし、wikiにいたっては停滞確実だし、
かといってmixiの閲覧不能クローズドコミュ作ってやるのもちょっとどうかと思うし…
何気にいいやり方がないな。ぶっちゃけ、チャットでやった方がはかどるかもしれんから困る。
>>343 美術史、マティスとセザンヌとクレーの問題系、とかはありだと思うけど、
日本戦後美術史の問題系を俺が理解できてないんだよね。
ちなみに転載してない軽井沢トークでは、クレーと熊谷、マティスへのこだわりを岡崎自身が言ってたりする。
嫌ですかw
ええw
そもそも古谷スレで「古谷の話はやめようよ」ってのはどうかと……
ただ、2chスレってのは、流れや話題推移に滅法弱かったりするし、
単発的な言い方が増えるし、したがって、
準備をしてまとめて、テキストに沿いながらという手があまり出なくなってしまうんだよね。
別のスペースも付随的にあった方が意外に面白い刺激があるんじゃないかとも思うけども・・・
そっちの方がある程度じっくりと、ゆっくりやれるかもしれないし
次スレから岡崎、古谷、石岡あたりの名前を並列化させるとかでいいんじゃない?
>>350 そうなるんだよなあ…
でも、古谷の話をしても、前スレの一時のように、暗澹かつ後ろ向きになってきてて、
しかも実際に裏づけとりながらそうなってきているし、
悪しき意味で「編集者」的でもあるでしょう。
ここにリンク繋留したスペースでもいいから(スレのゲート機能は残すという意味で)、
ちょっと場所をズラした方がいいんじゃないかとも思うんだよね。
ここの人って、各人、結構帰属しているというか、生きてる議論の蓄積が違うし、
別の場所での方がその人の面白さがすごく出てきて刺激になるんじゃないかと。
2chのスレでこんな提案するのはじめてだなw
>>352 あんまりクロニカルな歴史記述に沿わない方がいいような気も・・
その千葉の分類がどうなってるのかは興味ないことはないけど
356 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/03(金) 19:38:22
女w
2chスレのいいところって、他のSNSのように名前、経歴みたいなのが引っ張られずに
やり逃げとして放言できることなんだよね。
そのため、ちょっと言ってみた、という議論もしやすい。
他のスペースの提案に抵抗が出ちゃうのもそのためだろう。
あと、流れがどうしても弱くなるから、発言が出にくくなるとかね。BBS、mixiはそうなってる。
その二つを折衷すると、メッセソフト使ったチャットが一番で、それにログ編集もやれば
さしずめ古谷の最良の日記のような軽く、かつある程度持続的に、って妙味が出るんだけど…。
捨てアド、捨てアカみたいなの使ってなんとかできないかな。
椹木の本でも岡崎は慎重にスルーされているから千葉ぐらいしかいないよ
それ、俺のBBSなんだが
お前白いろかよw
活動再開しろ
αは止まってしまってねえ
最近、あの議論の継続はストップ中
まあ、でも、メッセでやるとチャット部屋とは違うと思うがね。
そのBBSは、チャット部屋チャット→ログ保管→ログ編集して議論別に整理→さらに再検討
みたいな一環での4つめの領域。一つ目の進行を変えちゃえば、局面は変わるよ、たぶん。
筑波の院生だったんだろ?
ちゃんとしろよ
たんにここで色々な話をすればいいし、
白いろは評論家になるべき
連投規制くらった・・・
お、規制解除? まあ、院は行ってないよ俺。
次またアクセス規制食らうかもしれないから、ちょっとひっそりして本でも読む。
>>365 αの頃でも言ってたけど、プロになるモチベーションすごく低いよ。
食えるわけでもないし、刺激があるかも怪しいのに、意欲ない。
総合スレ化をめざしてその1
http://www.artstudium.org/infomation/2008/09/1011.htm 批評(創造)の現在シリーズ+シンポジウム
■日時/講師
第1回…………
10月21日(火)18:30−21:30
講師=伊藤亜紗/上崎千/柳澤田実
第2回…………
11月4日(火)18:30−21:30
講師=池田剛介/黒瀬陽平/沢山遼
第3回…………
11月18日(火)18:30−21:30
講師=千葉雅也/平倉圭/福嶋亮大
第4回…………
11月30日(日)17:00−20:00
講師=福永信/松井茂/水無田気流
■会場:四谷アート・ステュディウム講義室
>>369 ふらふらとね。
古谷のワープア生活には共感してしまう
俺がいじられるのは、それこそスレ違いで不毛だからやめようよw
>>371 そこのBBS情報をまとめてスレ民に供してくれ
それだけで話が進む
>>372 ぶっちゃけ、当時の思いつきもあって、今総合的に整理するのは難しく、
書き手・発言者としての応答責任を放棄したくなる。
当時時点ではかなり面白いことを言えたつもりだったんだけどね。
でもいろいろやばいんじゃないかな、あの語り方、指摘の仕方では。
岡崎書誌は軽井沢パンフを転載しただけだし、いま岡崎HPにアップデートされたのがあるじゃないの。
パンフ品切れで参考文献一覧が有用なぐらいでしょ。
>>374 ちょっと待って、そのリンクはどういう意味でw?
古谷が不甲斐ないってことかな。それはもう確認済みだしいいじゃないの
>>378 逆逆
岡崎周辺をぬるいと断言できる知性の持ち主がどうしちゃったのと
>>380 周辺への言及を知ってるってことはあなたは過去ログまでは読んでるっぽいね。
周辺に関してはいまでもぬるいと思ってる。前スレでもそういう話したわけだし。
当時のmoduleの、というかデイリー・レコメンタリーの
受講生たちの岡崎理論へのもたれかかりは冗談じゃねえよと思って見てた。
もちろん、現在アート・ステュディウムやartitocが何らかの成果を出している可能性はあるので、
それ次第では評価を覆しても全然いいんだけど。
(どうでもいい余談を言うと、当時スタッフ連中の中でも妙にαは読まれているらしくって、
デイリー・レコメンタリーでの論点が「記述」について触れ始めたりと、
こちらが影響を与えていたかのような不思議な関係もあった。
notationというのを何らかのかたちで考えられないか、と言ってたのが、
後日『芸術の設計』になって返ってきたみたいで、当時のαでの議論射程とは違うものだったけど、
ある意味でフロイトの「不気味なもの」を感じさせる、あのサイトの当事者としては
不思議な感触を味わったなあ・・・)
デリダを接合しながら、岡崎においてまだ足踏みしている論点をいかに展開するか
という過酷きわまりのない課題はストップ中。
ぬるくなっちゃったかもしれないね
最近、大幅な議論の進行はないよ
白いろさんの個人的な事情はいいんだけどさ、
岡崎周辺に対する妙な憎しみは心底謎なのですよ
>>384 妙でもないんじゃない?
そういう感想の人多いと思うけど
憎しみというほどのものはないんだけど…。
前スレあたりで林さんの話が出てたじゃない?
ああいう英米の議論と接合しながら、岡崎が何を導入したのかを明確にする作業もなく、
なんとなく岡崎論法にはまって、それで事たれり、みたいなのがどうかと思ったんだよ。
つまることろ、知人の受講生がそういう姿勢を露骨にしていたのが嫌でしょうがなかっただけかもしれないけど。
これでデビューできるぜー、岡崎さんすごおい みたいなノリすげえあってね・・・・
あ、いや、しっかり読んでないけど(じっくり読むとものすごく格闘せざるを得なくなるからなんとなく積んでる)
『芸術の設計』は面白い本だと思うよ。
別にスタッフをまとめて馬鹿にしてるわけでも・・・
そもそも受講生って誰のことかわからんよ
石岡と中井のぬるさとかならちゃんと言うべき
いや、その二人以外だよ。当時のデイリーレコメンのその二人以外とかね。
レコメン最後の井土本書評は面白かったけど。
知人はレコメンに寄稿してなかったから、名を出すのははばかれる。
俺が当時苛々してたのは、知人から仄聞するかぎりでの岡崎ゼミの雰囲気や、
デイリーレコメンの執筆者の長期展望の不在とか、レヴューでごまかす手つきとか、そんな感じ。
だから、デイリーレコメン評価とかはまだしも対象になるけど、
紙面やwebにも載ってない、非公式の情報や伝聞などから構成されてる苛立ちなんで、
空を撃ってるに過ぎないと言えば、そう言えるかもしれないし、
特に突付いても面白い話にはならないと思うよ。
実際には、違っていた、とか、彼らの思惑(特にスタッフ層)は
別にあったのだがうまくいかなかった、というだけかもしれないしね。
あんまり引きずるべき話題じゃないんじゃないかな。
ただ、岡崎周辺とは別の岡崎の遺産相続、書き換えの仕方をやってみようという議論のときに、
ここでの古谷言及みたいなかたちでは触れられたってぐらいでね
そもそもの「岡崎作品が岡崎理論に回収されてしまうことの危険について」って設定自体が古谷経由だと思うんだ
岡崎周辺の人間関係の話なわけ?
友達がウザイから?
そんな卑小な動機で終わっちゃ駄目じゃないかなあ
それだと古谷の卑小さと似た結果に終わるよ
ぬるくない人もいるならそれで十分じゃないか?
>>391 いや、批評空間や浅田の悪癖としての長期性の無さをどう超えるか、とか
出来レース的なお祭り・イベントではない手法でどうやれるのか、とか
そういう議論も当時連動していたから、
その一環での「展覧会とその勉強」でスパン作るゼミ方針はどうなんだろうか、という意味もあったんだよ。
だから単に属人的にウザいとかではない。
動機としては、岡崎から何を成果として抽出し、また、議論を継承して乗り越えることにあった、というのと、
もう一つは言説空間の別のあり方がないものか、というのがあった。
「岡崎作品が岡崎理論に回収されてしまうことの危険について」ってのは、
そんなに俺は考えてないな。むしろある程度一致すると思う。
ただその一致を語るのはかなり迂遠な議論をした方がよさそうだけど。
>>392 そうなると学者か美術館員しかないじゃん
>>393 四谷が人を雇用し始めているのは、長期性の方向性を感じさせるけどね。
まあ、何をやれば給与が出るのか、という下部構造の問題が実に露骨に出やすいんだけど、
学者・学芸員とは別にオルタナティブな場所でやるときに、
当初のゼミ〜module〜ギャラリーオブジェクティブコレラティブの連関のような
イベント軸を強めるのもどうかと思ったんだよ。もうちょっと持続的に地味にやれないものかと。
こういう話はまあ難しいよね。そんなに手があるわけでもないし。
白いろの「〜の超克」への衝動の出所はちょっとわからんが、
たとえば樫村は岡崎を即自的に超えている!という直観は正しいんだろうか
ただ、持続性ということで言うと、古谷だって持続的だといえば持続的なわけでね。
俺が当初から日記・エッセイ・つらつらに流れすぎだと言ってるのは、そういう意味であって、
やり方次第じゃないの、と思うんだが。αだって、短期間で論点開いて粘っただけなんだし。
iconさんもここにいそうだなw
平倉だけじゃなくて黒瀬とかも来るのか
>>395 超克っていうかね、うーん、岡崎は結構論じてないというか、故意に削ってる論点あると思うよ。
たとえば、
>>224のソースで触れられている岡崎発言にしても、
可塑性とそこでの相対化、その上での選択による主体化と
選択のもとでの技法の訓練、という二局面が語られているわけだけれど
(どこまで岡崎でどこから古谷の考えなのか曖昧だから困るんだが)、
その訓練というときに、この場合は美術史上の何の問題系を何として見出し、選択し、
読み替えるか、というのも外せないわけだよね。
だから、その選択のもとでの訓練を「職人芸」と言ってしまう古谷には問題があって、
むしろ職人芸ではないものへの組み換えが不可避になる。
まあ、これを言い出すと、座談会で言うと岡崎自身のその見出し・選択を語らざるを得なくなるし、
そうすると発言量の節約の意味からも微妙になるから外したんだろうけどね。
この読み替え、組み換えは、デリダで言うならば翻訳の問題になるはずなんだけど、
翻訳不可能性なののの翻訳可能性、といったような局面を、岡崎はそれとして語らない。
これは、技法から語る際には下手に言うと誤解されるだけだし、
技法でものを動かしてるといずれ気づくだろうという考えで外しているのかもしれないが。
岡崎が手を出すのを避けている不可能性の問題を、どう語るのか、
その点でもう一度デリダの固有性の問題や自伝-記述の不可分性(一種の自律性っぽくはある)などを
どう突付くのか・・・また、そこから歴史や引用の問題をどう処理するのか・・・
このへんは困難な問題で、岡崎もやり切れてないと思うよ。
>>395 樫村について言うと、前スレでもちらほら言ってたように、
俺は樫村をよく読んでないからコメントできない。
いやほんと、樫村をぎっちりまとめるのを平行して誰かやってほしいぐらいでね。
あんまりにも読みづらいんで、なんとなく積んだまま。
>>399 海外文献のソースを示さないで岡崎理論化してる論点ってありそうだな
>>401 樫村は文体も変だし電波すぎて読む気しないわ
あれに真面目に取り組んでる古谷は凄い
>>402 岡崎は割と海外文献を注に出さないで、しかし一定消化しながら考えているからね。
そういう空白を埋める作業を誰かやった方がいい、というのはあるね。
俺はグリンバーグ→オクトーバー派の動きをしっかり追ってないので、正直よくわからないところがあって、
デリダから見ちゃうんだが。
>>403 論述の進行方法も変だし、どういう議論の系譜なのか明確じゃないし、
妙に詩的というかエッセイ的修辞に頼るし(これを古谷は好きなんだろうが)、
すごく読みにくいよね。
>>404 >そういう空白を埋める作業を誰かやった方がいい、というのはあるね。
それはいえてるね。
オクトーバー派周辺もあるかもしれんが、ジョルジョーネ、ティッツィアーノの作品分析のあたりもクサイと思ってる。
翻訳可能性でまとめちゃうのは問題じゃね
>>406 >ジョルジョーネ、ティッツィアーノの作品分析のあたり
あれはもう、まさに「美術史上の問題系」の「岡崎自身のその見出し・選択」なんだから、
それはそれでいいと思うと同時に、彼の読みそのものなんだろうと思うよ。
そういう美術史観は大事だけど、岡崎が何を捨てているのか、っていう議論もありうるだろうね。
αでは、クレーとベーコンをどう読解するか、ってかたちで、
岡崎とは別の視角をとれないものか、という問いが噴出していた。
樫村晴香は浅田彰や市田良彦の先輩格だったんじゃないの
>>407 岡崎には、柄谷的なある種の一般性の地平でスパっと切ってまとめているという感もある。
そこが、翻訳可能性だけで切ってるような印象にもつながるんだけどね。
ただ、不可能性を扱うのは難しいし、しかも技法論だとか記述論でやるのは
いまのところどうやればいいのか、俺もおぼろげにしか見えてこないな。
とりあえず、翻訳不可能性をそれとして、指差せるように対象を語れたりはしないだろうし、
付随してくる、というような言い方になる気もする。
>>408 >岡崎とは別の視角をとれないものか、という問い
kwsk
というか、別の視角なんていくらでも出ると思うんだが、
出た視角をどういう方向でアウトプットしていくのさ?
そっちが大事だと思う
技法の訓練の問題は、まさに『芸術の設計』のテーマなので、
まずは読むべきではないかな
>>410 あなたの問題意識がよくわからないのさ
つまり、
>その点でもう一度デリダの固有性の問題や自伝-記述の不可分性(一種の自律性っぽくはある)などを
どう突付くのか・・・また、そこから歴史や引用の問題をどう処理するのか・・・
これをやらなければならない理由がマジでわからん
>>411 いやあ、ベーコンを、岡崎的な構造論で語ることってできるのかな、
みたいな感覚だったんだけどね、当時は。かといってドゥルーズからいくのも当時戸惑ってて。
岡崎のあとで、いかにして「人物画」やモデル固有性みたいなものをどう再処理するか、
っていうことに関心があったんだよ。だけど、これも設計的にどう語れるのか俺もよくわからない。
加藤泉にしたって、この文脈で是々非々に論じた方が面白いんじゃないかとは思う。
俺はあんまり加藤の作品にピンとこないのだが。
>>412 それは、歴史性の問題に関わるからだ、という感じ。
岡崎の理論だと、歴史性がつねに事後的なデータ、データ化の局面になってる気がしてね。
そうじゃないアプローチに関心があったんだよ。
ちなみに、当時αでそれとなく議論されていたのは、ハイナー・ミュラーをどう考えるか、とか、
ドゥルーズ〜宇野的なアルトー論以外のかたちでアルトーをどう読むか、とか
ストローブ&ユイレとフォーサイスをどうつなげながら見るか、とかだった。
>>413 >岡崎的な構造論
色々初耳過ぎて……
構造論で何を指すのか知りたいんだが、
構造が前に出るから歴史性(物語性といいたいの?)が弱まると考えているのかい
それと、四谷の人たちとその後接触したりはしたの?
今や筑波大と言えば「筑波批評社」という有様ですが……
αの頃から5年も経ってるんだから何か進んだでしょう?
416 :
有賀:2008/10/03(金) 22:02:08
>>381 白色さんのチャットは今日初めて知ったが、381でのデイリーに対する意見は参考にする。
当事者のひとりとして、ご意見、どうもありがとう。
「もたれかかり」云々はともかく、「不勉強」についての指摘は私へのものとして、それなりに自覚しているw
ただ、ここで長々と弁明したり議論したりしている時間はない。
一つだけ言いたいが、「これでデビューできる」などと思ったことは一度もないし、私の知る限り「岡崎周辺」とはそんな甘ったれたものではない。
アート・ステュディウムには注目すべきw
414はダンス批評をやればよかったんだよ
いずれも演劇の人だし
前スレで言ったように、岡崎の言う右手/左手/不在の場所っていうのは、
モロ、構造主義の翻案になってるんだよ。柄谷で言うと、構造とゼロ記号(構造を確保する不在の場所)であり、
ラカンで言うならシニフィアンの総体と父の名にほぼ相当する。
あんだけ鋭利に構造主義を導入できて、しかもエクリチュールの諸局面を持ち込めているのは、
世界的にも稀なケースだと思うが。
岡崎のすごいところは、そうした見出し方を、経験的な感度と超強力に絡んで成立させてて、
しかも容易に同定可能な項から語らないところって感じ。
αの頃から、岡崎のすごさは言語論の導入の仕方にある、とか言ってる。
これと歴史性を対比させるというのは、構造論のもつ超越論性を別のかたちで突付きたいからでね。
形式を超越的に見出すことは構造論からはできるんだが、
そのときにその見出すことの媒介性が、あるレベルで消えてしまう。
そこをどう処理するかってあたりかなあ。俺も最近不勉強で答えきれないんだが。
筑波には全然タッチしてないし、住んでもいないから知らんよ。四谷連中との接触もない。
α以後という意味では、俺はヘーゲル/マルクス、ハイデガー、デリダのラインを
じっくり読む方向で数年行こうとしてる。ただ、まだ議論の成果は出てないな。
できれば、デリダとハイデガーが交差するようなベンヤミン論のような射程で練り上げていきたいんだが。
白色は四谷に近付けなかったチキンw
左手右手は『プロレゴーメナ』で出た超越論的感性論の問題だよ
>>418 単刀直入に言うと、「処理」がマジックワードになってると思う。
そういう思考法自体の方向転換が必要ではないか。
議論を白紙還元したいのか、超克したいのか。
それともいわゆる脱構築をしたいのか。
>>416 有賀さんか。あなたのブログ、興味深かったので印刷して読もうとしてるよ。
じっくりと持続的にやってるようで、啓発させられるものがあった。
>一つだけ言いたいが、「これでデビューできる」などと思ったことは一度もないし、
>私の知る限り「岡崎周辺」とはそんな甘ったれたものではない。
うん、その側面もあったとは思ったんだけどね…
岡田と奥定の話を聞いてて、その匂いがやたら強くて俺は当時すごく絶望してたんだよ。
もちろん、主導陣、スタッフの思惑が違ったものなのでは、と当時から漠然とは思っていたんだが・・
まあ、このスレで断定的に語ることではなかったかもね。ネガティブ・キャンペーンになってしまうし。
まあ、不勉強にかけては俺も人のこといえないんで、
持続的に勉強しながら課題設定してがんばってる人は、悪く言うつもりもないんだ。
憶測に基づく岡崎周辺へのコメントはよした方がいいと思うんだよな
じゃないとBゼミスレのような怨嗟に満ちた空間になってしまう
>>422 実際に訪れていないんだから、そういう話はやめなよ
古谷理論はだいたい出揃ったとみていいのかな
古谷さんをどう処理したらいいのか
>>421 処理といっても、対峙とか格闘だとか考察するとか そんな程度の意味だよ。
だから特に、これといって深い意味はない。強いて言えば比喩的にごまかしていて、
どういう議論にするのか見えないってのがまずいと思うけど。
「いわゆる脱構築」の意味がよくわからないけど、デリダだと脱構築=書き換えによる遺産相続でしょう。
その意味でなら、俺は岡崎を脱構築したいんだけど。翻訳と言ってるのと変わんないけどね。
>>368 これ誰かレポ頼む
岡崎と古谷だけだと場が閉じるぜ
>>428 その方向が見えない限り、岡崎理論の要約からやり直してもいいのではないか。
>>368 うわ、昔の知り合いがいっぱいいそう。会いたくねえ。
改めて四谷の講師陣、ゲスト講師たちを見てると、感嘆する。すごいラインナップだ
>>433 そうやって会わないのもアレじゃね
上崎千って古谷がボロクソに言ってた人か
前スレで出た連中が勢揃いみたいな感じか
平倉は何話すんだろう
古谷は何か辛いことがあると、樫村の言葉を呪文のように引用するんだと思う
>>438 マジレスすると、September 10, 2008とあるから逆かも
なにげに福嶋とか柳澤とかも入ってる
ディスポジション、Review House、思想地図が集まるのか
古谷が入ってないとはこれいかに
そういやそうだったw
ジュンク堂新宿店は大忙しだな
フルヤンはこっちが注目
もう満員みたいだけど
「小説、世界の奏でる音楽」刊行記念トークショー(その2)
保坂和志×樫村静香×古谷利裕
会場:青山ブックセンター本店内 カルチャーサロン青山
日時:2008年10月25日(土)18:00〜20:00
岡崎の二枚組についてのこの理解は正しいの?
『世界へと滲み出す脳』167ページ
(1)まず一見美しい色彩が自由な筆致で散っているように見えるが、
(2)しかしよく見ると左右の画面の同じ位置に同じ形態が異なる色によって周到に配置されているのに気づき、
(3)さらに、全ての形態が対応しているのではなく、左右に差異があることも確認できる。
(4)左右の同じ位置に同じ形態があることでフレームの存在が一応安定するが、同一の形態が異なる場所にも散っていることから、むしろフレームの同一性よりも、筆致-形態の同一性の方が強く感じられもし、フレームの感覚が揺らぐ。
(5)さらに同一の筆致-形態が異なる縮尺でも反復されていることから、スケール感さえ揺らいでくる。
(6)このような同一の筆致-形態(サイズがかわったり、反転したりもする)の繰り返しが確認されることによって、当初、画家の身体による一回的な(その場限りの固有性が刻まれた)運動の結果として筆触だと思われたものが、
実は複製され反復されたものだということが理解され、痕跡の一回性が複数化してシミュラクルとなり、運動がその主体(画家)から切り離され、経験が非人称化されるかのように感じられる。
(7)とはいえ、その一つ一つの筆触は、異なる色彩、異なる透明度、異なるテクスチャーをもった、ユニークで魅力的なものでもあり、機械的なコピーではないとも感じられる。
(8)さらに、その色感、テクスチャー、形態の表情などは、反復的、複製的なものではっても匿名的なものではなく、岡崎乾二郎という作家の個性を感じさせるものではある。
古谷はキャンバスという「物理的な存在としての平面」を問い直していないっぽい
だからこそ、「二枚一組という形式は、充分に成功はしていないように思われる。」
と書ける。
もともと古谷はマルチプルを嫌っているが、岡崎はその問題を絵画に取り入れようとしている。
単純にその違いが現れていると思いました。
でもこういうまとめだと「岡崎理論で岡崎作品を云々」というのなら、別の説明が必要なのかもしれないが、私にはわからない。
>(8)さらに、その色感、テクスチャー、形態の表情などは、反復的、複製的なものではっても匿名的なものではなく、岡崎乾二郎という作家の個性を感じさせるものではある。
この部分は岡崎の罠にはまってる
450 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/04(土) 08:14:11
このスレ、文体とかで読む人が読んだら誰が書いてるかばれそうな感じだね。
実際狭い内輪スレだしw
>>453 古谷は固有名を見出したくて仕方ないが
岡崎はそういうのを作ってるだけだと
この点で見ると古谷も斉藤環もいっしょなんだな 顔探し
>>456 固有名としての作家性を見出せば安心できるから
匿名/固有名 という対立がそもそも間違ってるんじゃないかな
そもそも名の話をするならタイトルにふれないのはおかしい
固有名ってのは還元不可能で、匿名ってのは還元可能
だということだよね、この場合。交換不可能・可能だとも言い換えられる。
ここで固有名かつ一般名といった両義性が分割されてしまう。
この場合、古谷は1.交換関係・反復を通しながらも 2.筆触は固有のものをもつため 3.交換不可能
としているけれど、古谷は筆触に傾きながら交換不可能性を見出す理路を固持している。
単に、岡崎は固有名かつ匿名的な形態組織をしている、でいいと思うし、
固有名の在り処を筆触に見出さなくてもいいのではないか。
なぜなら、そんな形態組織をはりめぐらしている作家という時点で特異なのだから。
そう転んでも固有名が発されてしまうかもしれないし、それは不可避なのかもしれない。
そのとき、「〜〜は固有名だ!」などと言って論の終着点を立てるのではなく、
むしろ岡崎の形態組織を逆手にとって、システマティックにどんどん貧しく読んでみることもできるかもしれない。
そのような議論をこじ開けることで、議論を展開できるかもしれないが、
古谷は妙に祖述的で、何を目指してるのかわからない。「〜〜は固有名だ!」オチだけだなと。
まとまりのない話になったが、そんなことを思った
>>460 名というのは文字性のみの問題じゃないから、それが必須だということは無いと思うよ
とはいえ、タイトル=名付け という作業が作品に入り込む、という
意味では、古谷のその論点の欠落はいかがなものかという意見には賛成だが
>>445 で言われているような、
>筆触はここで、一つの固定した画面上に位置づけられるのではない。
>筆触が示す色彩は、その都度一つの仮想上の面を暗示するが、他の色彩と連合することで直ちに異なる平面を生起させる。
古谷のまとめだとキャンバスの平面は固定されていて、その上で筆触が乱舞するみたいになってね
>>463 でも古谷も一応フレームフレーム言ってるじゃない
>>464 フレームがどこに行き着くのかまったく言ってないような
>>463 むしろ岡崎の作品の知覚経験プロセスは、
絵のフレームそのものに一致しない、連続的に生起される平面が
見者にとって時間軸上に展開していくものではないかと
あみだくじを平面から奥に向かって展開させて(比喩の便宜的に言うと奥)、
しかもそのあみだくじは層のループや循環をともない、また点と点でジャンプする
そんなイメージだな
その循環的なプロセスが作品を支えていて、また、循環の開始点も特定しがたい
作品としてかたちになってるのは、事後的に見出される、ぶつ切りにされた年輪
素材的な作品は、そういう位置にまで持っていかれているんだと思う
古谷は同定的に画面への帰着に傾きすぎ
たとえば古谷の有機的グリッドのドローイング。たしかにフレームは固定されていないけど、あまりにも空間の決定がルース過ぎるので、これを視覚的豊かさと言われても困る。
>>466 いいじゃん。その指摘は石岡解説の先に進むヒントになりそうだ
>>468 岡崎を比喩的に簡単に言うと、
立体的な循環あみだくじ って言えるかと思ってね
ネットワーク論やシステム論からだと、どんな類比ができるのかと思うが
こういう議論がされてるのみたことない
>>469 ただ、あみだくじのままだと、モンドリアン後期やポロックにもあてはまるよね
>>470 それら作品をよく知らないので、いくつか紹介してくれると、比喩をもうちょっとうまく変えれるかも
筆触が仮想的な平面を暗示するというのは、あかさかみつけ以来岡崎の得意技
立体作品のアイディアが入るのが古谷は嫌なのかもね
なぜって偽日記で彫刻にふれたエントリーがほとんどないし
>>471 モンドリアンはNew York City
ポロックはドリップ絵画のほぼすべて
ここのスレ恣意性のオンパレードだなw
まるでオカルトみたいだよ。今時絵画にこんなフェティッシュな蘊蓄を当てはめようとして、
それで納得する受容者もいないだろう。
>フェティッシュな蘊蓄
たかがモンドリアンで……
>>473 たぶん、循環プロセスの設計の仕方が違うのと、
プロセスに対するいわば入口(ファサード)としての筆触上の作品平面のケリのつけ方が違う
ポロックは見方によってはなるほどある種のプロセスは走るだろう
しかし循環を形成する単位の扱いで反復可能性の局面が弱く、プロセス展開が違う
筆触上の作品平面へのケリのつけ方ができてない(といっていいのかな)
モンドリアンはたとえばこの作品を見ると
ttp://www.artchive.com/artchive/m/mondrian/mondrian_nyc.jpg 赤・黄・青のレイヤーへと、焦点深度の切り替わりのように動き出すが
この三層で完結しているようにも見える
思い切り筆触や描画法を変えると、熊谷の絵になるかもしれないね
熊谷はそういうレイヤー空間がある
これも循環とまではいかないし、循環プロセスを準備すると同時に
その貯蔵場でもあるような筆触要素の群れが無い
そのため、プロセスの展開の仕方に違いがあり、ポロックと同様に
プロセスに対する筆触上の作品平面へのケリのつけ方が岡崎と大いに異なる
たしかに樫村晴香のオカルトぶりは異常
岡崎の循環プロセスは、それを喚起させる筆触群というソースはもつけれども
同時に、プロセスの底が無い。哲学的に言い換えると
基底・基体のような根拠付けのレベルを作品内で消すような方向になってる
むしろ循環プロセスが、作品をいわば支える底に近いものになってる
とはいえ、このような設計が、技法や筆触や作用のファサードとしての実際の素材表面を
ないがしろにするかというとそうではなく、プロセスの設計のために重要になり不可分
(古谷の性格だとここを対立的に扱う傾向になるだろう)
無底を一旦支える知覚上の循環プロセスと
そのプロセスにとって見者にとってファサードになるとともに
同定的な(写真撮影されたような)作品画像は事後的な形象でしかなくなる
プロセスの扱いと作品平面のケリのつけかたの兼ね合いが、たぶん岡崎の特異なところ
恣意か。恣意は規定的判断上の必然性と対になるけど、
恣意と必然の対立が対立でなくなる局面もあるからね
不可能性ゆえの可能性、なんてほとんどそんなものだ。無理をやれと言うに等しくなる
岡崎は恣意性について一時よく議論していて、
恋愛というのは選択可能な対象から、「にもかかわらず」、誰か一人を好きになることだと言い、
恣意的なのだが必然性が伴うような局面をこうたとえていた
恣意性というのは扱いが難しいね
ここはモダニズムのハーコア熟読系の集うスレです。
時が止まっている訳ですが、それでいいのです。
テキストはアナクロニカルなものだからね
474=480がんばれw
474だが、俺480欠いてないぞw
たまたまROMってたんだが、正直狭い内輪という感じはした。まあオマイラはそれでいいんだろうけどな。
>>482 お前ががんばれよ。欲求不満がなきゃ2chごときでこんな長文ごっこやらないんだからさ?
>>477 でも精神分析を神経生理学的に基礎づけようって動きはあるみたいだね
神経精神分析学っつってノーベル医学・生理学賞のカンデルとか、「脳の中の幽霊」のラマチャンドランとか、
「感じる脳」のダマシオとか結構な人たちが参加してるみたい
多分局所的、機能的な神経回路メカニズムはある程度分かってきて
次にそれらが全体の精神構造の中でどんな風に結びついてるかって考えるときに参照項になれるのが精神分析位しかないんだろう
ある意味で樫村はその動きを先取りしていたと言えなくもない
ただ樫村やラカンを読んでその理論を自己防衛的に使う位なら
まず神経生理学や臨床心理学をしっかり勉強した方がいいと思うが
>>484 前スレでも言われていたけど、英語の絵画論の方がいいんじゃなかろうか
モダニズムが事実上グリーンバーグのまんまだし
>>485 ああごめん、古谷が、という意味ではなくて、ラカンを読んで自己防衛的に使う人が多いから
そういう人たちをさしてた
>>484 樫村は哲学者なのだから、本当はそのへんの議論に関わりすぎても駄目なんだけれどね
>>476 モンドリアンを三層で完結と読むのはどうなんだろう
もっと多くの層が出てくるんだぜ
ちょうど岡崎のレリーフのようだ
やっぱり転移と想像的同化に依存してはだめで、自室や喫茶店に戦術的撤退するべき
>>488 たしかにそうだね
筆触群に寄りかかりすぎた読みになっていた
岡崎の彫刻やレリーフを考えると、筆触群がキモだとみなすのはやばいな
モンドリアンが三層で収まらないというのはその通りなんだけど
層として見えてくる展開と入り口部分の設計はやっぱりちょっと違う
ただ、岡崎の作品をモンドリアンからカロやジャッドまでの展開の
平面としての一致として安定させないための
(モンドリアンらをグリーンバーグドグマから奪還するための)
見せ方や展開の再構築という面はたしかにあり
そこで見切ってみるのはありかもしれない
絵画の準備を1章を読み直してたら、映像論にも接合できそうな話になってて
やっぱり岡崎の言説から別の作品領域もありえるのでは、とふと思った
岡崎のレリーフ作品は不思議だなあ
絵画作品読解の延長でも回収できない
かといって、ヴォリューム操作やミメーシスに関する彫刻の岡崎理論とも直接の接点がない
見てると楽しくなってくるけど、どうも進行してるプロセスは絵画の場合とは若干違うようだ
そう?古谷が立体作品と切断しちゃう程には、
岡崎の絵画はレリーフと無縁じゃないと思うよ
>>493 切断、分断があるとは思ってないけどね
しかし、古谷の軽井沢展評のように「彫刻と絵画のフォルムをつなぐもの」と扱うのも微妙だ
HPのレリーフコーナーを見ると、軽井沢パンフに載ってなかったものもあって
1/6, 2/6, 3/6, 6/6はパンフで使った写真を再利用してるけど
4/6, 5/6は新たに撮りなおしたようだ。カメラ位置の異なる写真が置いてあって、
カロにこだわる岡崎のアプローチが出てるのかなと思わせる
>>494 面白そうだね
4章にある「絵画 喪の作業」ってどんな議論になっているのかドキドキするな
>>495 フリード主義者の古谷さんにとって、
彫刻と絵画以外は全部一緒くたなのではないかな
「3時15分」はレリーフの表面素材が筆触みたいになってるからね
古谷がそこを筆触と同じように見すぎ。
しかも、視点で見えてくるものが変わってくる(変わり方は絵画表面ともまた違う・・と思う)のを視野に入れてない。
フォルムが畳み込めるようになってるところとか。
斉藤は「3時15分」がどうも好きなようでカバー裏や紙面の図版に入れてるけど、論じてはいないね。
あの本はアウトサイダーアートばかり追ってる本なんだから、
「3時15分」をアウトサイダーアートの貧相さみたいなものの延長で見ちゃったんじゃないかな
美術手帖の2008年8月号にはカロの早わかりが載ってるよ
74、75ページ
南天使でもうすぐ岡崎の個展あるぞ
タイトル思いっきり重要だろ
なんで?
>>504 本筋から外れたどうでも指摘だけど:
いかにもペインタリーなペインティングが失調している気配はあるかもしれないが
古谷の言う「絵画は終わった」なんて風潮が世界的に本当にあるのかは疑問なんだが、
>「あえて」するアイロニカルな
この口調は、浅田-批評空間の語法に依存しすぎ。
宮台の言うネタ/ベタ/メタも批評空間の用語法の延長なんだけど、
ここでいうアイロニーはシニシズムと何も変わらない言葉に見える。
先日、スガ秀実スレでも言われていたがアイロニーというのは
そんな「地と図の反転」みたいに主張がマジ/遊び にくるくる回転するようなものじゃない。
こういう箇所見ると、ほんと古谷って批評空間鵜呑みキッズなんだなあ、とうんざりする。
そして、アイロニーは差延に近しい面があるということに気づいてないあたり、
やっぱりデリダを全くと言っていいほど読まずに知ったかぶってるんだろうなと思う。
>>506 絵画は終わったというのはミニマリズム以後やることないみたいなことなのかね
このスレ窮屈すぎる
>>507 それこそ古谷が漠然と書いててわかんないよね。
抽象表現主義のあと、ミニマリズムが登場して以来、
「アート・シーン」の様式変化史では絵画はもう可能性がないかのような風潮にある、ぐらいなのかね。
あるいは、ニューペインティング以降ってことなのか。
それとも単に話題や雑誌特集が乏しいってことか。
いずれにせよ、対象になってる言説空間が不鮮明だから、
どーせ古谷の「気分」の「ポリシー公開」を、無警戒にやってるだけなんじゃないか、
と思われてもしょうがないような。
>>504-505 >吉川民仁
個人的に趣味としては好きな絵だけど、
透明感のある筆触を使った、筆触量を減らした、中村一美路線という気も。。
筆触を乗せていくことと、キャンバスのフレームの帳尻のつけ方が、中村を想起させる。
でも、展示やってたら見に行きたくなる作品だな。
ペインティングだけが美術じゃないというのは俺も言いたい
>>466の論旨だって、ペインティングや彫刻だけに言えることじゃないよね
岡崎の言ってることって、あれ、これって別のジャンルでも見出せない?
というのがちらほらあるわけだし
古谷が美術でペインティング至上主義になってるからって、それに沿う必要ない
>>510 余白の取り方とか筆触が少し岡崎を思わせるんだけど
>>466で言われてる平面の作り方が
違うから比較すると面白いかも
岡崎とトゥオンブリの中間みたいに見えるんだが
>>512 巧いし、比較し甲斐がある作家ではあるよね。
岡崎とトゥオンブリの中間というのは言いえて妙かも。
>>509 そこはNT-Xあたりも言ってたけど、
とっくにアートシーンは一周しています。
今ではアイロニーの絵画の時代も終わって、
批評言説全般が退潮して、素朴にペインターが回帰している。
>しかしここで「復権」されている絵画とは、批評的言説をあらかじめ先取りしているような(つまり、はじめから「言い訳」しかないような)、あるいは美術史をシミュレーションしているような、「あえて」するアイロニカルな絵画でしかない。
古谷の状況認識は10年古い。
というか、こういう考え方は00年代の美術業界の主流。
>しかし、そんな「美術界」の傾向(動向)とは無関係に、人はたんに絵を描くのだし、人はたんに絵を観ることを喜びと感じる。
>そして、そのような単純な事実のみを根拠として自らを画家として鍛えあげようとする人も、現に存在する。
批評ウゼーってやつね。
そしてキュレイターもこういう形で画家を売り出している。
だからクラウス派なんかものすごく評判が悪い。
>芸術ゲームで「勝ち」を納めることのみに興味がある人とは異なり、そしてまた、絵画原理主義者の妙に抑圧的で硬直化した態度とも異なり、
>絵画が人の感覚に「何」を与え得るのかということを(余計な事に捕われることなく)真摯にかつ柔軟に追求する人こそが、画家であろう。
古谷がすっかり「芸術ゲーム」の同調圧力に嫌気がさしているように、
美術界でも、批評は閉塞したという認識から、
伸び伸びと内発的に「感覚の歓び」を追求するべきだという考えが、
ギャラリストやコレクターには根強くあります。
つまり、古谷は期せずして、
今現在の美術界では他者に同調圧力を掛ける側にいるわけです。
5,6年前くらいかな
素朴絵画の信仰と中沢新一の復活が象徴してる氣がする
中沢新一はちょっと違うんじゃないかな
美術界だと港千尋の路線に入れることができる
やっぱりいつもの調子だねえ
>なぜなら、「芸術」とは、第一、第二段階に関わることで、第三段階になるとそれは、意識とか言語とか物語とか文化とか社会とか国家とかの問題になってしまうからだ。
ワイルドライフというかワイルドアートなんだね
そうだと思うよ。そして本人が思っている以上に仲間が多い。
だいたい、自分を含めた周囲の画家たちが美術史と無縁だと思いこむのは失礼すぎる。
×美術史
○現代アートの歴史
ラウシェンバーグとか?
>>525 古谷はラウシェンバーグと関係ないんじゃね?フランケンサーラーの方が好きとか言ってたよ
俺たちは真剣だから浮ついた外来の「アート」とは違う
>>521-523 孤高のポジションと見せながら、実はそうでもない、という
最悪な振る舞い方になってる気がするね。
前スレでの小山ギャラリー系の画家の流れともつながるんじゃないの。
しかも、この吉川作品評にしたって、ほとんど作品分析になってないでしょ。
内的自律性の「礼賛」「称揚」に近い。
こういう振る舞いこそが、何より政治的なんだってことが全くわかってない。
>>529 いまや文芸誌・映画批評誌で有数の批評家だしね
すでに彼の言葉には権威と責任が発生している
古谷の主体と言説の構造――
このような自分を力づける言説を、日記というかたちではあれ、書き
(分析になってない、気分だ、状況把握が間違っている、とたとえ批判されても「日記だから」で同時に逃げられる)、
その言説によって超歴史的な絵画的・内的自律性が吊り支えられ、
他の諸派に対する優位性を暗黙に確保し、
作家を自己の投影対象として賞賛する――
これがすでに政治的言説のゲームでなくて何だと言うのか。
各領域がそれぞれ自らの内的固有性を打ちたてる言説をおこない、
エコノミーとして編成されているののが、現在の政治と言説の関係そのもので、
古谷は現在よくある政治をまさにやっているんじゃないかな。
フラジャイルな日記というかたちでそれが出てきて、
しかし逆説的に読者を同調させることに成功する。
いかにも今の政治のあり方だと思うんだけどなあ。
ここにきて、日記とは政治言説の作動に好都合なものになってしまう。
>>530 彼はそれぞれの領域における少数派で部外者のような立場、と自己イメージしてるから、
いつまでも逃げられると、たぶん思ってる。
逆なんだよなあ。それこそが権威性が供給される言説構造なんじゃないかな。
まあ、報酬とか知名度の巨大さとなって明確に出てこないだろうが、
小文字の政治というか、その範囲では、当人の意識とは逆の位置にいると思うよ。
影響力の大小にかかわらず、そういうものになってしまってると思う。
つうか古谷の圧力こええだろ
インスタレーション作品はぜんぶ見るに値しない、とか、思いっきり権威の言葉
真摯にかつ柔軟に取り組んでる若手作家がカワイソス
>>531 私小説が持っている政治性みたいなもんかな
>>534 でも美術批評ではそんなに影響力ないんじゃない?
どちらかといえば文芸評論家
>>536 日本では美術批評が死んでいるし、思想界との結びつきなどは文芸評論の方が強いです。
樫村晴香も病者の光学を濫用してなんでも叩きまくってるし
>>535 キュレーターには、政治的代表のメカニズムが出てくる、
と指摘したのは岡崎だったけれど、
実務としての影響力や美術業界への影響力は措くと、
古谷が語る作品のあり方と「私」は、
いわばキュレーションの代表の構図と似ていて、
つねに「古谷の「私」」および
ペインタリーな内的自律性を保障する仕組みになってるんじゃないかな。
「私」に立脚することは、自己の固有性を盾にとるってことなんだから、
それは大文字のイズムを拒否すると同時に(だから批評の拒否、反理論になる)、
同時に分析や記述も削られていく傾向にあるとき、
「私」の主体化〜固有性〜固有なるものの言説配置 として
それ自体、政治言説ゲームとして振舞われてしまう。
いかにも日本的でシニカルな政治言説だと思うんだけどね。
古谷はからごころ拒否だろ、と言ってる人がいたけど、的確だと思う。
文芸作家としては正しい処世術だと思うよ
古谷にかぎらず、こういった表面的にはシニカルには見えないかたちで
「私」の固有性とその生理的下部構造を強化させて、理論や分析を捨ててしまう傾向は、
実はシニシズムの現われなんじゃないだろうか。
その点で、ネットでの言説がはらむ政治性が古谷にもあると思うし、
そういった記事ばかり書くのって、むしろネットじゃマジョリティなんじゃないかな。
80-90年代にあって身軽で軽やかとみなされがちだったエッセイスタイルとは、
容易にご都合主義的な場当たり性をもち、見た目とは違って、
それが主体のエコノミーと固有性の強化を持ち込んでしまう。
ジャンルとしては小林秀雄のような「感想」でしょう。
でも小林はかなり調べた上で素朴を装っていたことを忘れてはいけない。
>>540 分析、議論に力を入れて、固有性・自律性に逃げ込まなきゃ、
文筆活動方向の積極化としてうなづけるんだけどね。
>542
>>170>>173が言ったような、注や典拠を挙げながら、
その読みに位置ずらしを遂行するというアプローチをしないのなら、
いかにしてエッセイの可能性と限界に迫るか、ってのが大事になるだろうね。
ベンヤミンか
>>544 文学史にも映画史にも疎いから、エッセイとしての強度を上げる方向に行くと思う。
たとえばこういうの、チェーホフに失礼すぎる。
でも自分のことだから仕方ないんだろうw
>例えば自分のことを考えれば、チェーホフの戯曲は好きで読むけど、じゃあ、それを上演している舞台を観に行こうという気になるかといえば、ならないと思う。チェーホフの戯曲を、現代の日本の俳優が演じているのを観ようとは思えない。
>つまり、そこにチェーホフの面白さがあらわれるとはあまり思えないのだ。
この後は現代の「解釈共同体」と「チェーホフ(本人)の問題」を対比させてしまうんだが、
戯曲を書く人は、
古谷が絵画に願っているようなかたちで「待つ」ことがないとでも思ってるんだろうか?
>>545 ベンヤミンは超インテリだし注もつけまくりなんですが……
チェーホフがいいと言ってるのも保坂だろ
>>547 そうだけど、エッセイ的な作品もあるじゃないですか
中沢が依拠してるようなやつ
>>549 なる。日本語におけるエッセイって意味ね。
ちなみにベンヤミンの書き物は全部が「エッセイ」。
日本語だとわざわざ「試論」と書いてカッコつけないといけない類の文章。
『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』や『ドイツ悲劇の根源』
などの、ドイツ観念論との根深い関係にあり、充実した議論をおこなったベンヤミン、
言語と普遍性との関係においてハイデガーと(より早く)並行性があったと見られるベンヤミン、
などを思い切り無視したエッセイスト・ベンヤミンというのは、
「80年代のモード」であって、蓮実の言説や、ゴダールへのエッセイスト的称揚と並ぶ、
かなり手落ちがある言説空間だと思うね。
岡崎が主体化と技法の論点を切りこんでるのは、こうした言説への対抗的書き換えだと思う。
70年代のモードね。このへんお忘れなく。
晶文社だし、植草甚一の路線。この人は驚嘆すべきだと思うけどね。
物書きとしては植草甚一みたいなのが一番儲かりそうだ
>>552 70年代かぁ。なるほどね。でも、ニューアカの「趣味」的で修辞的なところといい、
80年代は意外にその意味でのベンヤミン熱狂があったと思う。つまり連続性があるんじゃないかな。
ただ、そこで晶文社の路線、というのは面白いね。
ソンタグの『写真論』も晶文社で、エッセイスト・ベンヤミンの路線でしょう。
正直みんな悪い意味で過大評価しすぎ
文芸界隈でもサブカル論壇系でも古谷なんて全然知名度なんてないよ
本も未だ一刷だし
>>555 いや、影響力は、実際そんなにないと思うけどさw
古谷に現れている言説と主体の構造は、いかにも典型的だと思うよ。
「反解釈」とかもそうじゃない
>>555 仲俣とか編集者とか一部の文芸関係者の評価はめちゃ高い
>>557 そうそう>反解釈 反解釈では映画も語られているし、
ゴダールに関する言説配置がこの圏域にかなりあって停滞してるんじゃないかとも思う。
古谷は90年代になって政治的ゴダールがライトアップされるようになった、と言うけれども、
ポストコロニアルな問題系の隆盛を反映しただけであって、
実は大した書き換えにもなってないのではないかな。
>>558 古谷は美術界におけるキュレーターの権力を嫌悪しているけれど、
文芸業界における編集者の権力に愛されている事実をどう考えているのだろう。
政治的ゴダールについては一貫して語られているよ
ポストコロニアルだってもともとは1950-60年代のファノン由来でしょう。
>>561 自分のことは括弧に括る これ最強
基本的にこの調子だろうと思うよ
いや、文芸キュレーター(編集者)に好まれている、というだけでなく、
古谷の言説がキュレーションと親和性があるってことを言いたかったんだけどねはじめは。
こういう代表効果からは逃れがたいんだから、
記述や議論、論理構成において抵抗するしかないと思うんだけど。
スレの勢いが83.8となってるが美術鑑賞板でダントツではw
>>564 つまり
保坂和志×樫村晴香×古谷利裕
これ最強でしょう。
もともと編集的な保坂が世捨て人をプロデュース。
>>562 そうだね、ファノンとサルトルの時点ですでにあるよね。
岡真理のような出来事-証言論にしても、もとを辿ると30年代ブランショの言語論だったりもする。
古谷の言う90年代のゴダール関係言説の変更ってのは、
あくまでドメスティックなものなので、あなたの言うように、
議論の系譜でいうとそんな際立ったモード変更ではない、というのはたしかに。
>>565 そんなの見る手段あったのw? 知らなかった・・
>>565 それどころか文学板の全スレをも上回るw
>>568 「人大杉」を避けるために専用ブラウザを入れる人は多い。そのなかには勢いが数値として出るものもある。
>>571 そっか、俺はJane使ってるから知らなかったよ。教えてくれてありがと。
ほかの美術ブロガーと比べると、なんだかんだいってキャラ立ちしているよ
>>572 Janeなら見えるだろ
IDが赤いかどうかうるさいやつはたいていJane使い。
あ、よく見ると、Janeにもこの機能あるじゃん。
哲学板・文芸板と比較してもダントツだな。なにこれw
ゼロアカね
これも編集者が仕掛けるんだよね
>>576 ああ、そっか。透明あぼん処理かけてるスレは勢いランキングに出てこないから、気づかなかった
東スレもあぼーんかいな
>>368 をみると四谷にもそっち筋の人がくるみたいですよ
>>577 いや、ブログ論壇スレはゼロアカとは別で、議論系ブログ紹介が新書で出たってスレ
その本で哲学板コテハンが紹介されたので、対立コテハンが疑問を言いはじめ、
ちょっとした祭りになってる。
まあ、ゼロアカも似たようなモチベーションで動いてる領域だけどね。
ゼロアカの元ネタは、たぶんGEISAIなんだろうけど。
ガキを小突いて「あなたもデビュー!」でイベント化。
>>580 見てないもん。俺のあぼん仕様のランキングではドゥルーズスレがトップという光景
四谷のあの講師陣は東界隈、ゼロアカ界隈、思想地図界隈の連中もいるね。
実力がありそうなのに世に出ていない人は、編集やキュレーターに愛されていないということ
まあ、勢いのことは放っておこう
古谷の美術動向の扱いの酷さももうテンプレと化しつつある
キュレーションの権力は不可避だが、議論水準で抵抗するしかないだろう
古谷について話すと、盛り上がるのはいいが、
やはり議論としては着地点の見え透いたものになっちゃうね
モダニズムのハードコア熟読系の人が誰も表に出ていないのは、たぶんそういう事情
>>581 旬な若者をいち早く起用するのはBゼミ時代からの伝統
元は岡崎もそんな若者の一人だった
>>582>>584 「現状に即している」「広範な」、社会学的でもあったりする議論は、
編集者には人気あるだろうしね。
モダニズムのハードコア熟読系の人々が、それなりに停滞しているというのもあるけど。
四谷の層はまた違ったことを考えているんだろうから、そこに期待したいところではある。
>>583 ただ、彼は『アキレスと亀』に怒りを表明していたけど、
彼がみせる偏見も似たような効果を及ぼしつつあると思う。
仲俣とか栗原とか風の旅人とか、ああいう人種の偏見に熱く訴えるものを持っているから。
>>587 たしかに風の旅人の編集長のブログで、
杉本をめぐって浅田・岡崎が介入した構図は、
古谷の固定観念と古谷支持層の固定観念の連動が見えやすくはある局面だったね
>>586 >「現状に即している」「広範な」、社会学的でもあったりする議論
じゃないんだけどね。偽日記は。
>>589 古谷は岡崎の言説が大嫌いなんじゃないかと思う
>>585>>588 きっかけとしてそういうかたちになるってのも、まあいいんじゃない。
よい成果、結果が出せれば、という意味では。
>>588 若い人にチャンスが与えられるのはいいことだと思うよ
>>592 大嫌いとまでいかなくても、主体化の燃料になるもの、
元気付けてくれるもの(反理論的でスポーツ・身体技法を重視するように見える言説とか)
以外を思い切りオミットしてるというのは、かなりあるだろうね
古谷の発想は前田・甲野組に近いよね
フランス現代思想の連中の身体論って全部こんなオチになる
樫村もそうだ。
>>590 たしかにそうだけど、手軽にそういった議論の風潮に対して
抵抗的になれる気分を促進しつつ、かつ、レベルがさほど変わらない相補的なもの、
ということに古谷はなってきているんじゃないだろうか
フルヤンが茂木健一郎を擁護するのもその流れ
>>599 それ本当に?
荒川修作が好きになってしまうのはわかるんだけど、
これって作品経験じゃなくて樫村経由だよなあ
古谷が岡崎理論に変な防衛を働かせるのはそんな理由かもしれない。
>>596 デリダ経由でメルロポンティを新たに組み替えて、
そこに岡崎的な技法論のレベルを改定しつつ持ち込む、
というラディカルなことをやれば違う局面もあるんじゃないかな、と漠然と思うけど、
仏文・仏哲の大筋の傾向は、そういう議論につながりにくい慣習がある。
前田の素朴さって、ある意味で古谷とかなり親和的ではあるんだろう。
ここで興味深いのは、初期から岡崎がドゥルージアンにすごく距離をとってることなんだけど…
また別のドゥルーズの蘇生ってできないのかな、と思ったりする。
>>600 俺は古谷的樫村の論脈知らないから、あんまり自信ないけど、
生態的なところから議論するがゆえに、岡崎の議論における文字性、エクリチュール性よりも
「広範」で開かれている、って古谷は思ってるんじゃないかな。
しかし逆に素朴化してるだけに見える。
>>601 また石岡か。彼はたしかドゥルージアン。
>>603 でも、石岡の修士論文はフーコー論だよ。
601の前半で言ったのは、あんまり国内では該当例が無い気がする。
河本英夫のメルロポンティ研究者での人気や、
十川幸司の河本への接近はあるけど、はたしてつながるのかよくわかんない。
他方でドゥルーズの蘇生で、技法論を絡めるって、どうやってつながるのか想像しにくい。
>>604 樫村は拾い読みしようにも、読みにくいんだよ!!
怠惰ゆえに俺が読みきれてないってのもあるけどさ。
>>605 今度四谷に来るディスポジション組が新しいドゥルージアンなのでは
石岡や平倉だってそこに入れて良いと思うよ
プリントアウトしないと無理だな
>>606 『資本主義』だけよめ
これはたしか原著が上野俊哉・田崎英明との共著だし、
比較的辞書的だから、かえって樫村の狂気がわかる
>>607 でも、シモンドンとか意味の論理学とか差異と反復とか、
そのへんのドゥルーズの論脈にタッチしてなさそうで、
なんか芸術論のドゥルーズに寄りすぎな気もする。
ガタリ論の成果が明確に出てないってのも、さらにそういう芸術論化を促進している気も…
>>609 じゃあ、まずはそれだけでも読んでみようかな
>>612 平倉や石岡のことを言ったつもりだったんだけど、違ったかな
>>613 芸術論だと哲学問題が抜けるというのはややアンフェアでは
二人とも色々読んでるだろ
もう少し具体的に言うと、平倉のドゥルーズ論ではヒュームの話がヒントになっているし、
石岡の装飾論はまんまドゥルーズだと思う。
ようするに美的なものに閉じこもるなと言いたいのだろうけど、
それは別の偏見ではないかな
ドゥルーズ界隈ではシモンドンがマジックワードになってるのではないか
>>615 美的なものにとじこもるな、って意味じゃなかったんだけど、
たしかに偏見だったかもしれない。反省する。
>>617 まあ彼らもモダニズムのハードコア熟読系だろうから、停滞の責任はあるだろうねw
しかしそれは俺やあんたも同様なのさ
今後の課題の大きさを確認させられる話だった
デリダ経由でメルロ=ポンティってのは、
ナンシーの触覚論とか読み直せば良いんじゃないの?
厳密にはドゥルージアンにそういう問題がないこと自体が悪いとは言えないだろう。
たしかナンシーは河原温について書いてる
>>621 たしかにデリダ『触覚、』からになるだろうけど、
あの本での議論の系譜の錯綜は、なかなか組み替えるのが大変だよね…。
大事な本ではあるんだけど。眼差しの議論ともかなりつながってるし。
>>599 いくらなんでもインタビュアーとして評価してるだけでしょう
書名が『世界へと滲み出す脳』で装幀があのドローイングだから、色々と脳みそっぽい。
ちょっと本屋で手に取るのはためらわれた。
文芸評論集が確実に本になると思うんだが……
>>623 斎藤環と茂木の往復書簡(往復してないけどw)に関して茂木擁護してなかったっけ
敵の敵は味方だろ常考
あたかも前提であるかのように語られるモダニズムのハードコア熟読系とは誰なのか知りたい
フルヤン
劇評でフリード持ち出すほどアレとは思わなかった
>>628 前スレで出てきたまとめで、悪い意味では
英語圏のものを読まない、その議論に関与的に抵抗しないまま、
岡崎理論べったりになってる状態の人。前スレでは永野・古谷がその意味で言われた。
今のスレでは古谷は、絵画固有性に退却し、
グリンバーグ・藤枝に反動化している人、というぐらいの扱われ方。
もうちょっと広く、
>>618-619の言う意味で言うと、
諸芸術に関わる議論の、岡崎以降の議論の成果を出せないでやや低調気味の
俺たち、みたいな意味。四谷スタッフも含めて、じっくり思考して頑張るしかないっすね、みたいな感じ。
・・・とまとめていいんだろうか
632 :
630:2008/10/05(日) 16:24:18
岡崎理論べったりになってる、とも言い切れないか。
古谷・永野にいたっては、岡崎理論のなかに見落としている言説が多くてやばい、
という意味合いも込められている。
634 :
630:2008/10/05(日) 16:26:11
>>629 その側面を絡めて言うと、「モダニズムのハードコア」しか読んでない、
しかもやばい方向で受容していて、偏狭さが増している古谷、
という意味もあるね。
635 :
630:2008/10/05(日) 16:26:57
>>633 ああ、永瀬か。あんまり読んでないからか、つい間違えた。
近藤「學」でした
林道郎の有力な弟子筋
>>636-637 近藤かあ。この人の存在忘れてた。
最強ってのは、勉強してて今後興味深い、って意味でなのかな?
それとも、勉強してはいるが、しかしグリンバーグ的圏域にとどまりすぎている、って意味かな。
たしかデイリー・レコメンンタリーが活発だった時期、
マティス展のレビュー寄稿者に対して助言もしていたらしく、当時四谷とつながりあったみたいだね。
>>638 こんな人までいるのか。よく知ってるなあ。
四谷初期メンバーはムサビ院生とつながりがあるから、人脈的にこの人もそこつながりなのかな。
まあ、必ずしも悪い意味じゃなくて、グリンバーグ・グリンバーグ以降の系譜で
議論をしている国内層、って意味もあって言ってるよね。
そこで
>>630の後半部のニュアンスも出てくるのかな。
単純に考えて熟読系に書く場を作ってやればいいんじゃない?
批評空間が続いていればな
日本の論壇には芸術の場所がないのさ
>>644 なきゃ作ればいいじゃん
大学の紀要だけじゃ寂しいだろ
>>645 稟議が通らないw やっぱ天下国家を論じないと
日本のエスタブリッシュメントは芸術を教養に含めていないんだよ
古谷ってだらしないのが好きだよね
流れ豚切るけど、
岡崎監修「美術手帖」2008年8月号の
STUDY3: Image LESSON2 色彩によってテキストを模倣(ミメーシス)する!
が手強い。これをうまく消化できれば、岡崎の絵画/タイトル関係も論じやすそうなんだが…
前からその号については言及されているよ
誰もフォローしないだけで
古谷が岡崎嫌いなのかな?と思ったのはその特集に触れていないから
いや、STUDY2スカルプチャーとかは割とすっきり把握できたし、
前スレではSTUDY1色彩も触れられていたけど、
STUDY3: Image LESSON2とLESSON3は、難しいよ。
かなりイメージの関係の過程を端折りながら書いてるし。
STUDY3: Image LESSON2はpp.58-59、
LESSON3はpp.60-65。
まずSTUDY3: Image LESSON2では
3つ色面構成を用意して、
選出した3テキストをそれらに当てはめ、
よりテキストに合うように色を変化させていく。
ただ、この選出されたテキストはすでに曲者で、
どうやら二者関係のついてのあり方の3パターンを選んでる。
そして、その関係性をテキストが喚起するイメージの文法とみなし、
色面構成での色彩の文法とを一致させる、ということになっている。
ここで、微調整されて構成されている色面構成のあり方が、
どういう3パターン差となってるのかいまひとつつかめない。
次に、3テキストの二者間関係がいまひとつ明確に把握できない。
したがって、どのような対応関係なのかちょっとわからないでいる。
そういうときは原文をうp
文章だけ見せても色面構成の写真がないと対応関係わかんないだろう
仕方ないなあ、該当箇所だけスキャンzipをupするよ
ちなみに古谷は『芸術の設計』もガン無視
四谷の連中はウザイみたいな言説をこれから発するとみたね
そもそも、そんなに岡崎理論に親和的じゃないってのもあって、
漠然と距離とってるんだろうね。
>>661 ただ、古谷の岡崎への疑問点って、
もっぱらその種の技法問題だと思うんだよ
二枚組の必然性とかさ
>>662 そこは、割と入り組んでて、
岡崎の語る技法論 と 技法論が結果的に強化してしまう形式性みたいなもの と
岡崎が作品で行使する技法やその位置づけ と
が複合的にあってね。
『芸術の設計』だと前二者が特に出てくる。
古谷の岡崎作品への妙な葛藤は後者に特に出てくる。
さらに言うと、古谷は技法的に作品を可塑化させる・・という語り方を嫌う傾向すらある。
そのため、「作品」のもつ振幅みたいなものが、
岡崎の、たとえばヴォリューム論、彫刻論でいうと組成に関する視点とかと比べると、
古谷が語る場合、結構狭いという印象がある。
>>664 つまりは彫刻が好きじゃないんだと思うね
彼は空間恐怖っぽいし
>>664 >技法論が結果的に強化してしまう形式性みたいなもの
これよくわからん
形式性は駄目なの?
>岡崎の、たとえばヴォリューム論、彫刻論でいうと組成に関する視点とかと比べると、
で言うとさ、吉川民仁の絵画作品、ドローイングなどがスレで触れられたじゃない?
そのときに古谷日記の吉川言及)の記事が出たけど(
>>504)、
ここで古谷は吉田哲也の彫刻・立体について書いてる。
立体を構成してるトタン板がたわんでる→だらしなくもユーモラス・開放感
小さく、はかなく、縮んでゆくような傾向→ヤバい
こんなことしか言ってない。俺は吉田作品を見たことないから
あまり大したことは言えないけど、これはほとんど馬鹿丸出しだろう?
素材表面の表情→感情 への反映論 と
サイズの問題を心理に置き換え
そんなふうにしか見れてないわけだよ。
>>665 こんな指摘で、ちょっと返答になっただろうか
>>666 『芸術の設計』はよく読んでないんだけど、
ところどころ引っかかるものを感じた。
アプリオリに形式があって、つねにすでに文字-デジタルな-分節化された潜在性が見出せる
というp.4の惹句の時点で、おい、ちょっと待てよ、とか思ってね。
媒介性がいきなり消し飛んでて、超越的に技術形式が存在してるみたいな印象を受けた。
しかし、技法論の提示、習得ということで言うと、こういう切り口から攻めた方がやりやすいのは事実。
>>667 「だらしなさ」ってのは古谷にとって、蓮實にとっての「慎ましさ」と同じ機能を持つとみたね
>>668 さすがに斜め読みで懸念を表明しちゃ駄目だろ
>>669 ほとんど弁証法の成れの果てだなw
だらしなさの対立項をズラすようでありながら、実は相補的な一対になってて、
からごころ批判みたいに、そういうものに寄り添ってれば逃げれるとでも思ってるんだろう。
古谷は「感覚」のレベルでそういう硬直がある
基本的に彫刻が理解できないのと違う?
>>670 でも、岡崎が執筆した『芸術の設計』序文でもそんな話じゃない?(pp.26-27)
あらかじめデジタル化、分節化された技術であり、コンピュータのプログラムも同じだと。
いかに要素→連続体 への組み立てプロセスが必須であるとはいえ(pp.24-25)、
記号の同一性、反復可能性の確保が必要になるからといって、
「あらかじめ分節化されている」はちょっと違うんじゃないかと思うんだが。
>>673 コンピュータのデータがそうなってなかったらヤバイだろ
コンピュータと同じだ、というアナロジー自体に飛躍があるんじゃないの、って話だよ。
なんでコンピュータが問題だとかいう話になるんだ。
やっぱ斜め読みでしょ
最後はちゃんとデジタルでは規定できない問題が現れるんだぜ
基本的に岡崎の文章は、順を追っていかないとあまり意味がない。
最終的にはカオティックな状態になるとしても、
はじめからどろどろしてるわけではないよ
最後ってp.63のこと?
>>675 それは俺も思った
あの本読むとコンピューター万歳に見える
とばし読みかよw
とりあえず万歳ではあるでしょ
岡崎はメディアアートも色々やってるわけだし
>>676はデジタル=コンピュータって考えちゃってるんじゃないの。
分節化された単位という意味でデジタルって言われてるんだから、
これは文字の原理そのものであって、メタレベルの超越的形式としてのオブジェクト指向とは同じものじゃないよ。
むしろ、「複数の生産過程」としてあって、領域を統合するメタレベルの形式がない、と言ってるだけで、
その複数の生産過程において、「あらかじめ分節化」はそのまんま維持されてるように見えるんだが。
なるほど、p.60では生産過程を記述することがノーテーションの成立条件であり、
したがって、事物とその生産過程(彫刻論で言うなら組成)が結局は源泉になる、と言われるが(p.62)、
源泉である事物 と 事後的に見れば予め分節化 の間の議論が展開されているわけでもないじゃない。
これじゃあまずいんじゃないの。
>>681 じゃあ、とばし読みじゃない議論を展開してね。
どうまずいのかマジでわからん
そもそも形式性になんらかの桎梏をみるという思考なのか、
いわゆる質料-形相図式に近いと批判したいのか。
いや、たとえばLESSON3でプロセスにやけにこだわる岡崎が、
源泉である事物からの分節化までのプロセスが、すぽんと抜けてることが問題だと言ってるんだよ。
分節化って、
>>224のソースでの議論で言うと、
見出された技法の組み換え、再分節化のごときものが必要になるわけで(
>>321)、
LESSON3での寺田寅彦のエピソードで言うなら、
「そんなプロセス抜きの目的志向だったら、山を登る必要もない」わけで、
制作なんかするか? とか思うんだが。
斉藤環との対談でも岡崎は言うように、「わからない」感触こそを彼は求めているだろう。
制作プロセスでそれに該当するとしたら、分節化の過程で悩んだり、わかんなくなることだろうと思うんだが。
分節化ってのは、そんな客観的形式みたいなものというより、
無理やりな面があるはずなんだけど、その面が消えてるよ。
たぶん白色さんだと思うんだけど、岡崎にはデリダ的な脱構築の契機が欠けているといいたいのかな?
分節化が無理矢理進行する側面について序文でフォローするのは無理じゃね?
そもそも俺は美術手帖が『芸術の設計』の補遺だと思ってたんだが
だから読みが転倒してるのではないか
>>686 脱構築っていうか、翻訳的な往復過程が、妙に消されてるって思う。
まあ、脱構築といってもいいんだけど、この言葉、誤解多いからね。
>>687 でも、そここそがキモじゃない?
>>668で言ったように
「技法論の提示、習得ということで言うと、こういう切り口から攻めた方がやりやすい」
のはたしかだとしても、そんな「とりあえず」の話なんかある意味でどうでもいいわけであってさ、
「段階論的にごまかされた」って感じだよ。
キモをはずしたら、単にわかりよい図式に終わるよ。
『芸術の設計』は作品を作るためのハウツー本でしょ
論旨が目的化してる理由では?
>>688 どういう点で、何をどのような議論で補遺してるんでしょう?
>>691 俺には、その言葉は、技法論はハウツー本に堕していい、
技法論の射程なんてそんなもんだ、って矮小化に聞こえるね。
>>690 ぶっちゃけあんたの翻訳論って思い入れだけで全貌が見えないのさ
論文に展開してくれ
あと、白色って創作する人なの?
この種の議論は創作と理論の両面から検証しないと駄目でしょ
もちろん批評の文章だって創作だよ?
>>693 ないものねだりじゃね?
たとえばハイデガーのGestellみたいな文明論的射程がほしいわけ?
>>694 面倒くさいなあ。デリダ読めとしか言いようがない。
>>693 その程度の本しか作れなかったってことでしょ
廣瀬の弟子なんだっけ?
ならシモンドンのtransductionあたりを導入して岡崎を叩くといいよ
>>696 このスレの話は、岡崎理論に満足するための議論のためだったの?
>>695 え、何、このスレは誰もが、フォロワーになりきるための話なの?
意見交換だって制作的な構成性が入るのは、フォロワーを目的化しない限り避けられなくない?
>>701 なんで制作=フォロワーになるのよ
安楽椅子技法論者になりたいなら仕方ないけど、
翻訳にこだわる以上、文章の技法論に関心があるんだろう?
それと、
>>697みたいな逃げじゃだめだろ
デリダの翻訳論の「どの」相が技法論に対してクリティカルなの?
ってことをここに書かないと、
デリダカードを出すことで議論を行っているようにしかみえない。
岡崎理論に不満を表明しないとフォロワーになるという強迫観念はまるで古谷じゃね?
どうもあなたは岡崎界隈に「取り込まれるとヤバイ」みたいな発想に縛られているとみた
冷静さをかくというか
ここで解決は出ないだろうから、色々と「処理」したあと、完膚無き岡崎批判を論考にまとめるといいよ。
線と色彩、画布へ滲み込む絵具/ヘレン・フランケンサーラーをめぐって
二〇〇五年の一〇月に、府中市美術館の「ホイットニー美術館コレクションに見るアメリカの素顔」という展覧会で「アーデン」(一九六一年)という作品を観て以来、ずっとフランケンサーラーのことが気になっている。
とにかく、この「アーデン」という作品の前に立つと、からだじゅうの様々な感覚が、ざわざわと波だちはじめるのだった。
ぼくはそれを「目」によって見ているのだが、目から入った感覚が、体中の様々な感覚と直接結びついて、波立ち、動き出す。
目が見ているのは、キャンバスに滲み込む絵の具のつくり出す、色彩の多様なニュアンス(と、その揺れ)であり、色彩そのものが発するリズムや響きであり、絵具の流れがかたちづくる形態や「動き」の感覚であり、
そして物質としての絵具が物質としてのキャンバスにしみ込んでゆく感触の様々なニュアンスであるのだが、それら全てが同時に、あるいは、次々と切り替わりつつ断続的に感覚にもたらされることで、からだの芯を掴まれ、ぐらぐらと揺すられるような感じになる。
(しかし図版で観る限り、彼女の良い仕事はほとんど五〇年代から六〇年代始めに限られている。ここでフランケンサーラーの作品と言うとき、それは彼女のその時期の作品を意味する。)
ヘレン・フランケンサーラーは、下地をつくっていない生の綿布に絵具を滲み混ませて描く技法を発明した、抽象表現主義の代表的な女性画家で、
この技法は、抽象表現主義の「感性」を代表すると言ってもいいものだと言える。
実際、五三年に彼女のアトリエを訪れたモーリス・ルイスとケネス・ノーランドは、そこでほとんど啓示といってよいような衝撃を受けたと語っている。
しかしフランケンサーラーは、ポロックやニューマン、ロスコのように、一目でそれと分かる確固としたスタイルを確立したわけではないし、
彼女から啓示を受け、ほとんど同様の手法を使って作品をつくったモーリス・ルイスほどは、形式的に厳密ではない。
紋切り型を恐れずにあえて繰り返すが、彼女は「感性」として突出しているのだ。ルイスは、「フランケンサーラーは、ポロックと私にとっての可能性の懸橋であった」と語っている。
当時、ポロックの仕事は圧倒的に突出していたが、その仕事の進み行きはあまりにも独自のものであり、つまりポロック自身の特徴と密接に結びつくものだった。
ポロックは明らかに、色彩の感覚において劣っていて、その自らの欠点を克服する彼ならではの道筋のなかで、あの独自の作品を生み出していった。
それは、絵画を理解する者が観れば誰にでも、他に例をみないほどにユニークで、かつ間違いなく強い力をもった作品だと分かるもので、当時の先鋭的な画家なら誰でも、自身の感覚を揺さぶられ、何かしらの影響を受けざるを得ないようなものだった。
しかし同時に、それはあまりにもポロック自身と結びついたものでもあり、圧倒的な貧しさとともにあるものでもあった。そこには色彩がほとんど存在しないのだから。
(中略)
モーリス・ルイスが、絵具を画布に滲み込ませる時、そこで要請されているのは、画布と絵具という二層が一体となって、画布=絵具となることで、色彩の非物質的なあらわれを実現させることであった。
しかしフランケンサーラーにおいて重要なのはそのことではない。重要なのは、絵具が布に滲み込むという物質的な作用の感触であり、それによって生まれる独自の触感であろう。
それは純粋な色彩(視覚)の作用ではなく、どこまでが触覚的でどこまでが視覚的なものなのか、もはや区別がつかなくなるような不純な色彩の経験であろう。
そして、画家の手(技術)が作品を構築するというより、絵具と画布との物質的な関係に、その作品の重要な部分を任せてしまう、という感覚だと思われる。
フランケンサーラーは、きわめて無防備に、世界の感触へと身を預けてしまうことが出来るのだ。
再び「アーデン」に戻ろう。フランケンサーラーの作品の多くは、それでも造形的な要素が多分にあり、抽象化されているとはいえ、明らかに風景が描かれているという感触がある。
造形的というのはつまり、フレームとの関係によって、ある色彩や形態が配置されている余地が幾分かは残されているということだ。
しかし「アーデン」はそうではない。ここには風景を想起させるような空間は成立していないし、
フレームとの関係で生まれる、造形的なリズム感や視覚的なバランスが考慮されているとも思えない。
実際に画面に筆を入れる前に、手近にある紙に試し描きをしたその痕跡がそのまま巨大化して目の前にあるかのように、
ただ、ずるずるっと引き摺られた、緑やオレンジや焦げ茶色の絵具の塊が、ウンチのような形でそこにあり、その塊のエッジからは、絵具が画布に滲みこんでできたシミがひろがっている。
画面全体がひとつの連続性をもった空間として成立していないから、まず最初に、個々の絵具(色彩)の塊とその染みこみの感触こそが、目にはいってくる。
しかしその絵具の塊が、ずるずるっと引き摺られる時の動きの感じは決して単調ではなく、
一つ一つのウンチの塊は全て異なる種類の動きの感覚を観る者に想起させる(そしてその色彩もまた、それぞれに非常に微妙で多用な異なるニュアンスを含む)。
この、質の異なる動きの感覚が、観る者の身体をざわざわさせるのだ。
そしてその動きの感覚は、フレームとの関係によって配置されているのではないから、
観る者がそこに距離を設定し、パースペクティブを打立てるより先に(つまり、身構えるよりも先に)、じかに、そのざわざわが懐にすっと入り込んでしまうのを感じざるを得ない。
そして、複数の異なる動きの感覚が、無媒介に重ねられていることで、観る者の身体の内でも、複数の感覚が響き合って干渉し合い、より複雑なざわざわが生成される。
>>702-703 >なんで制作=フォロワーになるのよ
一文目からして意味不明なんだけど。安楽椅子技法論者ってどういう意味?
「安楽椅子」だなんて、現場にいる/いない という二分法なんか
物事を考えるのに簡単に使えるものなの。
そういう比喩を平気で使っておいて、
すでに大した意味もないって言ってる「処理」でもって
皮肉ってくるなんて、どういうキレ方してるんだよ。
>デリダの翻訳論の「どの」相が技法論に対してクリティカルなの?
これはもう、デリダの脱構築というのは、彼自身、後期には
遺産相続としての書き換えと等置してるんだから、
「脱構築を全部総括しろ」と言ってるのに相当しちゃうよ。
で、全部を言うことはできないから、翻訳不可能性ゆえの翻訳可能性、
翻訳・記述行為にとって不可避な、対象と記述者の固有性(自伝とかニーチェ論では言われる)
との相互浸透という局面になる、というのは先日言ったよ。不可能性の局面が岡崎では消えているとも。
>岡崎理論に不満を表明しないとフォロワーになるという強迫観念はまるで古谷じゃね?
そりゃあ、この本には、これこれという欠落があるのでは、
ここはむしろ考えるのが大事になるのでは、と言ったら、
「その本はそうして書かれた」といった、まるで「著者の代弁」みたいな言葉ばかりが出てきて、
俺に対して編集者然と振舞って自分の思考は書かないスタンスできたら、
岡崎理論で満足するという目的が優先されてるように見えちゃうよ。
取り込まれるとヤバイってよりも、こういうふうに指摘することもできるんじゃないか、て話だったんだけど。
まさか、疑問を表明しちゃいけないの?
「完膚無き岡崎批判」とまで言ってしまう言い方に、
それこそ「「取り込まれるとヤバイ」みたいな発想」を感じるよ
議論の継続、接続って、「完膚なき批判」としてしか出ないとでも思ってるのかと。
>翻訳不可能性ゆえの翻訳可能性
これは岡崎の基本テーマじゃね
ウンチか……
>>713 なんで?
>不可能性の局面が岡崎では消えている
というのも、ちょっとあなたのイディオムが強すぎる
もう少し説明が必要だろう。
よくわからないのは、デリダの場合、不可能性は「必然性」と対で使われることが多いから。
デリダではなく白いろさんの問題意識が強く投影されているように思える。
もう少し「自伝」に取り組めということなのだろうか。
>>715 俺は白色さんじゃないよ
岡崎の論理には飛躍があると言ったつもり
批評・創造の切れ味は、見通しのきかぬ任意の点にあえて立ち止り、
なおその地点が含まれるはずの時空の全体を見通し(構築し)、ある
いは見通した上でそこに道を開く、つまりは現在という時空を切り裂く
鮮やかさにこそ示される。偏見と誹られようと、批評家(創作家と同様
に)はこうしたリスクを引き受け率先して、その偏向を代行する。なぜ
ならば批評はいつも、こうした突発性としてしか遂行されえない、一つ
の事件であるからである。
それとも思考に否定性が乏しいという話かな?
アドルノ的なモメント。
>>717 飛躍はあるね。
古谷が濫用している「見るに足る」とか「信じるに足る」といったテーマにまつわるあたり。
まあこのスレはgdgdだから批評的ではないね
古谷がフランケンサーラーをヒントにしているのはよくわかった
そういや「グラッソ物語」は自伝のテーマだな
デリダっぽくないのは別に欠点ではないような気もする
デリダは造形芸術と接点があまりないから
ここはかわいい
>ちょっと調べたらフランケンサーラーは1928年生まれで、50年代に最も良い仕事をしたとすると、それはほぼ二十代ということなのだった。(出世作であり代表作でもある「山々と海」は52年に描かれた。24歳でこんだけの絵が描けてしまうのか。)
>いい家の娘で、美人で、若いうちから大活躍で、しかも、抽象表現主義の他の作家が自殺したりして死に絶えたあとも、一人長生きしてまだ生きてる、って、この人の人生あまりに順調過ぎて、だんだん腹が立ってきた。
>>724 しかしこれを開き直りと言ってしまうと、批評家は全滅じゃね?
モダニズムのハードコア熟読系の世代が批評家になっていないのは、
突発性を恐れすぎているからだと思うんだよな
その意味では東チルドレンはうかつだけど正しいと思う
>>726 活字媒体でもこういうノリが出れば権威性は弱まるのに
>>725 でも突発的な事件でありさえすればいいとも読めるから
表現が大げさだし
>>636 たとえばこの論文。
異常に手堅くめったなことでは文句が言えないけれど、突発性も事件性もない。
>>729 さすがにそれは揚げ足取りの部類に属する
レトリックが嫌いな人?
>>731 上手いレトリックならむしろ好きだけどさ
突発性が認められるならスーパーフラットと何が違うのと思ってしまう
>>732 えー
岡崎のその文章は前置きが重要なんじゃね
全体の見通しと道を切り開くこと
それは個別に判断しろよ
そもそもスーパーフラットってアプリオリに悪いと言える?
古谷のような文章も書くのは難しいよ
俺あそこまでキャラ立ちしてないから羨ましいし
永瀬の方が明らかに知的なのに表に出ない理由とか、
俺たちがここでくすぶってる理由は明白だろう
結局そこだよな
スーパーフラットは悪の枢軸
ずるずるっとかウンチとかシミとか、最大限に褒めてるって事だよね
犬がうれしい時みたいな
やっぱりはてなに移ってから「言葉」が安定してしまった
古谷利裕という内実(古谷の技術、古谷の経験、古谷の身体)はあのサイトによって支えられていたんだなーと思う
移る前は、RSSで更新チェックもしやすいし、個々の文章へのリンクも張りやすいから
移ってくれと思ってたけど、俺もそう思うわ。
>>740-
>>741 なるほど。webサイトの形式が文体も決めるのか。
面白い視点だと思った。
旧HPもはてなアンテナにリンクされていたけれど、
はてなに移ってからは、よりその円滑さが増したし、
旧日記の、下の記事からから圧迫されるように集積していく、
ほとんど支持体のごとき機能とかw、
あとは文字と余白の割合にによる圧迫感とかね。
そういう諸要素が、緊張を維持していたというのもあると思う。
ただ、同時に原稿書きが増えてきたとか、
古谷なりの自分のポジションができてきたから、
あんまり詰めた議論が一気に出なくなった、というのも関係してると思うけどね。
>ただ、同時に原稿書きが増えてきたとか、
古谷なりの自分のポジションができてきたから、
それはあるよね。
俺は99年から00年あたりの初期の日記が好きだな。
いまからしたら全然未熟なんだけど面白い。
>>744 俺なんかは、2002-3年あたりが結構好き。
重力に掲載された湯本の論文についての記述とか、
この前初めて読んで、へえ、意外にいいじゃないの、とか思った
そういや湯本って何者なの?
ググっても重力関連しかヒットしないんだけど
>>746 うーん、重力に参加してた大澤信亮にしても、
HPがあるから少々プロフィールがわかるとはいえ、
ある意味「何者なんだろう」って感じじゃないですか。
むしろ、経歴が判明する方が珍しいって考えた方がいいんじゃないですか。
実名で批評を書いたのなら、人によっては研究論文のキャリアなどもわかりますし、
著書なども判明しますけど、筆名で批評を書いていたのならまず判明しないですからね。
検索機やキャリアの目録が存在する環境のために、
ひっかかからないとかえって珍しく思えてしまうものですが、
結構そういう人って多いんじゃないんでしょうか。
10-05のエントリーも、
言語とそれ以外の感覚をきれいに分けすぎてしまっているような気がする
樫村理論にはまりこむにつれて、
脳-身体-感覚と絵画を直結させてしまう傾向が強まってきた。
初期の日記をみると、J-Popの趣味が丸わかりで楽しい
ブリグリとか椎名林檎とか川本真琴とか……
古谷があと十歳若かったら、おそらくパフューム好きでニコ厨だったと思う
>>751 カラーフィールド好きなら注目するんじゃね?
今モーリス・ルイス展もやってるし
何かグリーンバーグと違うことが言えるのかどうかわからんが
感覚に集中するようになってから、印象批評に退却した感がある
批評空間が続いていれば変わったのかね
メジャーデビューもかなり早くなっただろうし
>>752 フランケンサーラー、普段見る機会がないよな
川村でやってくれないかな
保坂和志ってどうなんだろうねえ
正直まったく読む気がしないわ
読むなら何がいいの?
>>753 その印象批評的記述なんだけど、
スレで引用されてるフランケンサーラーについての古谷文章を読んでると、
小説みたいに古谷は書きたくてしょうがないんだろうね。
エッセイと小説の合いの子がたぶん目指されている。
論理や分析を入れるとからごころになるから、
小説的に話者=古谷を立てて、光景を現前化させる、それが最も生々しいことなのだと。
>>704=冒頭部:小説的記法
>>705=画家プロフィール紹介
>>706=素材操作についてルイスと対比的説明。しかし言葉が「物質」などの比喩に転がっていく
>>707=分析的になるのかな、と思いきや、「感触」の語句の使い方に見られるように
たちまちにして話者の印象の描写に転がっていく
>>708=複数性でオチ。兼、小説的描写と分析の合いの子
おそらく、こうした記述こそが、作品の経験を読者に追体験させる
(その意味で小説の描写と同じ路線)、これこそが作品を語るに相応しいんだ、って思ってるんだろうね。
しかし、論立ては極度に停滞し、物質的、複数的、というオチは決して揺らがない。
>>760 蓮実の映画の語り方が小説に似てくるってのと同じなんじゃないか
光景の再現がエッセイ(映画評)内の描写になり、
それが映画を演奏することであり、啓蒙だとみなされる
蓮実が同時に理論、議論を非常に停滞させ、
後退させたとすら側面があるのと同じぬかるみに
古谷は飛び込んでいってる
元々小説家志望でしょ
サイトに自作の小説があったよな
>>762 「小説として駄目」というのと「論理・分析として駄目」の二つで
突付いたほうが逃げ場がなくなるんじゃないかと思ってね
組立ペーパー持ってるけど、
そこに上がってない部分では美術史の話とかゴーキーとの比較をやってる
けっこう長い
>>763 保坂も古谷的な批評にゴーサイン出してるんだよね
批評は再創造だあって言ってて
保坂の意見を無視して2ちゃんねるの意見を採用することはまずありえないだろ
とはいえあんたらも「論文」は面白くないと思ってるんじゃないの?
アンフォルムの訳者の加治屋とか近藤とか
>>765 保坂は浅田とか柄谷・すがのような路線を嫌悪してるからね
>>766 大学的な論文も面白くないし小説的批評も駄目ということ
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1160185778/701-800 Re: 事実と言論の剥離
保坂和志 2005/12/22(Thu) 00:21 No.862
ていうか、浅田彰は自分の文章に対する批判をいちいちチェックしてるん
だろうか。「ああいうタイプは自分を批判する人間を潰そうとする」と、
ある人が言っていたのを思い出しました。
岡崎乾二郎までそれに参加したのも驚き。
それにしても、浅田彰は有名な人にしか興味がないみたいで、つまり、作
品個々でなく、状況の方に関心があるということなんだろうなと思いました。
------------------------------------------------------------
Re: 事実と言論の剥離
浅田彰 2005/12/22(Thu) 01:15 No.865
私(浅田彰)は「自分の文章に対する批判をいちいちチェックしている」わけ
ではありません――そもそも物理的に無理ですから。ただ、たまたまぶらっと
立ち寄った「風の旅人」さんのブログで、私の発言が「許せない」と言われて
いたので、さすがに気になっただけです。また、肯定することと否定すること
がひとつであるようなレトリカルな書き方が通用するのか、むしろ余計なニュ
アンスは捨ててダメなものはダメとはっきり書かなければ通じないのか、とい
う問題も、それなりに重要な問題だと思ったので、少し対話を試みました。結
局、通用しようがしまいが、ニュアンスを犠牲にせずに書くしかないという、
私のもともとの態度を変更するにはいたりませんでしたが、意味のない対話だっ
たとは思いませんし、「途中から後悔」することなどあろうはずもありません。
>>744-745を見て、
99-00年、02-03年、現在をぱらぱら読んでみた。
批評シーンの動きと連動して古谷も変化してったんだなと思った。
素朴→精神分析と岡崎へ→いま
みたいなかんじ
批評空間→なくなった→なくなったことすら回顧されるいま
とかと、表面的には見えにくいけど、意外に呼応しまくってる気が
保坂さんの指摘については、主観的にはむしろ逆だと思っていて、たとえば「批
評空間」の編集委員だった頃の私は「自分を批判する人間を伸ばそうとする」こ
とだけを考えていました――いくつかの例をみるかぎり、それはたいてい失敗し
たようで、それならいっそのこと自分ができるだけ書かないようにして若い世代
に場所を空けようと思うようになったのですが。また、私は一貫して人間ではな
く作品に興味をもってきましたし、現在もそうです。たとえば杉本博司のことを
個人的に知らないわけではないにせよ、付き合いと言えるほどのものはない。た
だ、彼が有名になるずっと前、ほとんど無名のアーティストとしてデビューした
頃から、これは不毛な完全主義から生み出された作品だがそれとしてはなかなか
すごいものだと思っていた。たしかに杉本博司論ではそのような彼の作品をいわ
ば真の意味でのポストモダニズムの代表例として扱っていますが、作品なしの状
況論というわけではありません。あるいは、岡崎乾二郎はけっして「有名な人」
とは言えないだろうけれど、先日の南天子画廊の展覧会で発表されたペインティ
ングなどは、題名に「ウーティス(nobody)」が引用されている通り、画家の
署名を必要としないほどの完成度に達した作品だと思ったし、そのようなもの
として評価しています。また他方、保坂さんはとても有名な作家だと思うので
すが、残念ながら作品にまったく興味がもてないということは告白しておくべ
きでしょう。
>>768 じゃあ全滅じゃん
平倉も実際には小説的じゃね?
>>772 争点は、どのような小説がいいのか、という是々非々になるかも
今の古谷は絵画を歴史や言語から徹底的に切り離している。
実はモダニズムですらなくて、ポスト印象派を受け入れた後の日本の洋画壇のようだ
つまり美大油絵科の人
>>773 学問は絶対に必要だと思うけどなあ
そういや古谷の藤田嗣二論ってどんな?
>>774 すげえプラトニックな世界に陥ってるよね
>>775 いや、何らかの光景の提出をしたがる人はいるんではないか、ぐらいの意味で。
だから学問との融合性が高い人もいるだろうと思う。
あと、そんなに平倉は古谷の小説性と似てるのかな、とちょっと疑問に思った
>>777 その称号は小林康夫に贈りたい
平倉のどの論文に特に感じた?
読んでみると俺も実際に、これはたしかに・・と思うかもしれんけど
>>778 評判の良いドゥルーズ論も、よく読むとわかるよ
>>779 小林康夫は美術手帖の評論賞取ってるから
>>780 ほんとだ。138ページあたり読んでたら、そう言われるのもしょうがないと思った。
岡崎は小説を免れている・・・のだろうか?
ちょっと違う毛色にも見えるんだけど
>>779 識別不可能性の大地だっけ
思想に載ったやつ
小説を逃れると読者が付かない
美術系の論文が広まらないのはそのため
>>784 書評というのもあるが、真理よりも説得を重視した文章。
>>786 あらゆる論点が最終的に全部大地に吸収されちゃうんだもん
古谷がフレームフレーム言ってるのと同じ
>>787 小説家どころじゃないって意味ではすばらしいのかもしれぬ・・
もちろん、いくら平倉が小説風とは言っても、こういう風に茶化す人ではなかろう。
>しかしあまりに細か過ぎる資料は、実証主義的な研究者みたいな能力が皆無なぼくに、なんちゃって実証主義みたいなものを書かせてしまう罠にも成り得るなあとも思ったのだった。
フルヤンは批評空間の桎梏から自由になって伸び伸びしているのかも。
林道郎とか松岡新一郎はそんなことないね
岡崎は幽霊とか信じてそう
ある意味高橋洋と近い
>>795 まっさかあ。
でも、不可視性が大好きだね岡崎は。
>>797 岡崎の不可視好みは、ウメズ傾倒よりも水木傾倒に現れてるとおもう
河童の三平をあんなに好んでるとは意外だった
フルヤンは岡崎の楳図論を使わないんだよな。樫村の楳図論はしょっちゅう引用するけど。
結局のところ、たまたまある時期に岡崎に興味を持っただけなのかもしれない。
>>798 絵本とかみると不思議じゃないと思う。妖怪大好きでしょ
>>801 浅田彰との交流の記念碑
今後は遠ざかる一方だろうな
>>800 妖怪って言うか、どこにもない架空の空間、彼岸
みたいなトポスにすごく興味がある人なんだと思うよ
河童の三平についての話はそんなかんじだった
そこからみると、「れろれろくん」はくっきりつながってるんだとおもう
>>804 古谷のようなあんな反理論的小説志願者が批評空間を好むというのも
よく考えるとへんな話だとおもう バックナンバーとかそんなにもってなさそう
>>803 火星に水があるのは希望とか言ってたな
火星人がいる証拠だって
>>805 荒川修作に興味を持ったのは絶対に樫村経由だろ
日頃の趣味から言えば一番拒絶しそうなタイプの作家なのに
つまり80年代のニューアカかぶれだった
>>806 さすがに冗談で、架空の場所のアナロジーとして火星とか言ってたんだと思うけど
そういう発想をできる時点で、すでに小説家どころではない世界に達しているとはおもうw
論理的には理解できるけど、この例はおもいつかんかったわ、というのがよくある
>>805 若い頃ってみんな批評にかぶれるんだよ
昔だったら亀井勝一郎とか
>>807 そうだろうね 浅田はたしか荒川をあんまり高く買ってないもの
かといって現代思想荒川特集の多くの記事のように
身体論やアフォーダンス系統の議論は全く古谷興味なさそうだし
結局、あの号で樫村が古谷の琴線に強烈に触れたのがひとつのきっかけなのでは とおもう
>>808 冗談でもないみたいだったけど・・・
本気の妄想家だと思う
>>809 若いころっていっても、99年の時点で古谷は32才じゃないの
その割には、初期偽日記に批評空間直系ってにおいがあんまりないよ
20代古谷はどういう感じだったのか、正直イメージができないでいる
>>810 いやいや、そういうあなたの見方がすでに思想系の発想
もともと荒川はコンセプチュアルアートとして受け取られていた
それからランドアートに動いていったのだから、古谷が嫌いなシアトリカリティの人
>>811 絵画の準備をで言ってたんだっけ?
あれ? 何か文脈間違えたかな
>>813 六本木Waveが閉館するときの日記とか見ると、
ミニシアター通いに熱心だったはず
浅田は読んでるだろ
橋本治ファンなのは確実
>>814 うん、そうなんだけどね
意味のメカニズムとかでしょ
初期荒川って加藤光於とかにちょっとちかいよね
でも現代思想のあの号は養老特集みたいなものだから
ランドアートと身体みたいな記事が多かったんだし
なぜに古谷がこれを手にとったんだろ、という時点で首をかしげる
>>813 画廊で一生懸命発表してたんじゃないの?
結局批評ってはしかのようなものなわけ?w
>>817 いま抜粋読んだ
たしかにこれは・・・
いやあ、いいなあ、こういうことを言っちゃうってのも逆にすごいわwww
普通いえないよ
たしかに妄想家気質はかなりのもんだね
>>821 多くはそう
ゼロアカは今はしか患者を一杯集めて商売してる
はしかが治った後でも続けられるやつが本物
実際東浩紀はもう当初のモチベーション無いよ
はしかが妄想家にまでいたれば突き抜けた感はあるね
>>824 左翼運動についての保守の総括みたいだなw
でも実際問題、樫村の優雅さって浅田の比じゃないだろ
古谷がああいう大ブルジョワに憧れてはいけないと思うんだが
>>827 99年の古谷日記も『天使が通る』の浅田の文章を
「美しい文章」といって引用してるぐらいだしね
樫村には浅田の美文修辞路線にたしかに近いものがあるし
古谷が樫村にその路線で魅了されたというのは すげえありそう
あこれちゃいかんには同意
訂正 あごれちゃいかん
古谷の実際の体質は西荻窪文化人なんじゃないかね
訂正 あこがれちゃいかん
なんだろうこのはしかのようにつづく脱字は
>>829 職なしがフランスで悠々と主夫やってるんだぜ?
>>826 それでいいのかw みたいな意味ではよくわかるつっこみだ
>>799 ふるやんはどっちも好きだと前置きして多様な気がしたが、宇宙人よりも幽霊の方が好きだとちょっと前の日記で書いていた
そして宇宙人系の代表に梅図を上げていた
水木の流れでいうと、そのころやってたアニメ版墓場鬼太郎についての感想が知りたかった。
ゼロ年代とかどうでも良いようなのじゃなく。
ものすごく貶しそうな気もするがそれはそれで良いし。
ならやっぱり俺は学者に期待かな
学者やってない+日本国内の学者人脈の交遊ない
ってのが、さらに寡作になりやすい環境になってるとおもう
雑誌やってない+対談しない+司会者的なこといわない浅田が無職になってるような感じ
>>836 たぶん、古谷的には幽霊と妖怪じゃかなり別なんじゃない?
外傷の回帰=幽霊ってしているみたいだし
奥さんの人脈が生かせそうな気がするのだが、あれは傍流なん?
>>841 樫村の人脈は誰にもわからない とだけコメントしておこう
ほんと、日本人の交遊人脈、どんだけいるんだろうね
>>836 古谷のアニメ感想って、一番投げやりな分、可能性が残ってる気もするなw
ただ古谷のアニメ論だと、アート系とオタク系とか、かなり世俗的な分類に忠実だから粗すぎるかも
>>812 もういちど火星話抜粋読んで思ったんだけどさ
共産主義にかんする言説と似てるわ。皮肉でなくね。
別の生命がいるだろうという希望、て感じでアナロジーを感じた。
岡崎の妄想家気質と柄谷好きって、意外にリンクしてるんじゃないかな
ロジックのセンスが似てるのかもしれない
ソ連時代のロシア文学でもSFが独特に盛んだったりしたし
革命以前には悪魔学と文学がすごく絡んだらしいし
未来・新たな社会・希望 あたりのトポスと親和性があるんだとおもう
それが、火星というかたちで岡崎の場合でてるというか
ともかく、なかなか面白い記事だなあこれ
>>843 素材固有性への配慮が抜ければ抜けるほど、荒っぽくおもしろい指摘をするってのはあるね
古谷はSF的想像力と親和性が低そう
それでもUFO話でなんか書いて欲しい
>>849 でも中原昌也的なユーモアになりそう
フリクリが男の子の〜とか、ああいうのがまさにそれ
>>844 『言葉の外へ』巻末の保坂樫村対談では
イスラムの話なんかしてて、一体こいつはどこに生きてるんだろう
というのが妙な魅力があったが
意外に世界中に変な人脈もってるのかもね
>>848 なるほどね
柄谷も占いとか気功とか予言とか好きだもんな
共産主義ってのは報われないから観念的になるんだわ
男の子・女の子 ってのは、精神分析経由でアニメ読んでるから
どうしても出てきちゃってるのかなあ
映画におけるジャンル論の代替物みたいに
>>853 俺なんかはそういう岡崎・柄谷のオカルティックなセンスが嫌いになれないので
あんまり悪くいう気がしないんだよね
ああいうセンスもいいじゃないの、とおもう
それが思考と絡むってのが好きでね
岡崎のバックミンスター・フラー好きとか
シェーカー教徒にかんする言及もこれ系統だよね
バックミンスター・フラーは楳図と一緒で超合理主義って印象だわ
>>854 象徴界と想像界とか、自閉症と神経症とか、
ああいう分類を絵画論でこそやって欲しいw
>>856 悟性を目指すが、悟性には達しきれない理性
と斉藤との対談では言ってて、
岡崎も自分のことよくわかってんなあ、と思ったものだ
>>856 超合理主義的完全自律型生態システムor生命体 みたいな感じだよね
>>858 昨日誰かが言ってた飛躍ってのはそういうことだよ
カントの視霊者の夢だな
>>857 たしかに絵画表面をそこまでざっくりやる方向に転進したら すごいことになりそうだ
結局古谷以降の批評家・学者はどうなるのかねえ
じゃあ俺が十年後に
しかし論文貼っても話題が続かんな
結局勉強家は無駄って結論か
だな
フルヤンは勝ち組
それにしてもフルヤンの文芸誌での愛されぶりは異常
だってかわいいんだもん
>>870 文壇公家の浅田にお墨付きもらうと最強なんだよ
岡崎も浅田経由でブレイクしたようなもんだし
浅田に好かれそうもない俺は絶望的だな
>>874 シネフィルじゃねえしw
自力で頑張るしかw
そうかw
あとは福田和也くらいかな引き立て能力持ってるのはw
いらねー
ぶっちゃけ批評家になる意味ないな
学者になるか
そうだな学者になったほうがいいかもな
職業物書きは柄谷みたいに突然賞味期限切れるから
だから東浩紀の世代に批評家がいないのかね
>>879 最近の若者は小賢しいからリスク避けてる
>>880 もしかして古谷より年上?
リスクもなにも、恣意的な親分に振り回されそうじゃん
>リスクもなにも、恣意的な親分に振り回されそうじゃん
学者がってこと?
給料もらって研究するならそういう人間関係は避けられんわな
いや、誰かに引き立てられる場合の話
引き立てられたら
>>769みたいになるかもね
>岡崎乾二郎までそれに参加したのも驚き。
さすがにそれは違うんじゃないの
保坂が驚いてみせる身振りが異様に政治的なだけで
まるで小賢しいと駄目みたいじゃん
俺もあんたもリスク避けてる点では「最近の若者」と一緒ではないかと思うんだが
あと、リスクに見合うだけのリターンがあるかという問題が……
>>887 だからリターンを気にしてる時点で小賢しいんだって
では、リターンを省みないハイリスクの振る舞いをこのスレでおこなってください
フルヤンだってそれに見合ったリターンがもらえたかと思うとかなり怪しいだろ
批評空間が続いてたらそうなったんだろうが、それから10年近くデビューが遅れたわけだから
891 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/07(火) 18:37:21
良識かなぁ
>>890 でも好きな道で食っていけてるわけだし相当なリターンでは
認められるようになって文章が明るくなった
編集者には好かれているみたいで結構だが、
簡単に保坂閥に組み込まれそうで、見ていて歯がゆいな。
このスレって常駐してる2,3人だけでまわってそう
一回止まると徹底してスレつかないしw
×スレ→ ○レス
ジュンク堂の保坂コーナーに組み込まれていたよ
>>894 むしろ止まるので安心なんだがw
仕事やってるんだろ
同調圧力のプレッシャーが心底怖いんだろ
これはフルヤンの病。そして樫村に癒されたのだろう。
901 :
石屋:2008/10/08(水) 00:13:01
"泥船"ってことか、保坂閥もおいらも。ウレシー--
ふるさとや臍の緒に泣くとしのくれ
象徴的なものを嫌いすぎ
でも古谷は言葉で食ってるんだよな
903 :
石屋:2008/10/08(水) 00:36:22
むしろ赤字だよ、書けば書くほど。そこが評価されてる。
904 :
石屋:2008/10/08(水) 00:58:02
>>904 ほとんど無かったよ
デヴィット・リンチ、黒沢清、吉田喜重、ダ・ヴィンチ、マティス、横尾忠則…。
著者に「何か」を与えた作品たち。イメージの荒野をさまよう巡礼者のごとく、
ジャンルの境界線を越えて思考する。
栗拾いが忙しいな
今さぼってると冬に飢えるからな
907 :
石屋:2008/10/08(水) 01:47:48
今は、映画や小説や絵といったイメージを彷徨するのでなく、碇を降ろすときだと思う。
散歩もフルヤさんにはイメージになってしまっている。
これだけは、上にあげたようなイメージを全部捨てでも譲れないというのが、ここでの碇。
猫でも、恋人でも、妻でも、病気でも、宗教体験?、、なんでもいいのだけれど、語れないものを持たないと、、、
表象のレベルでなく、体感のレベルで。イメージを語るのはその後だよ。
メディアをつまずきの石にしてはダメだよ〜
でないと、カネの問題でなく、無意識からの汲み上げがどんどん少なくなってしまう。
表現者としてヤバイ、、
が、意識して行えることではないので、言ってもせんないか〜
(吐息)
908 :
わたしはダリ?名無しさん?:2008/10/08(水) 03:54:17
風邪の旅人ラインのクソっぷりは異状
風の旅人 第34号(10/1発行)。テーマは、「時と揺」。
新しい段階に発展していく時や、新しい事態に備えたりする時、自然は微妙に揺らいでい
る。状況に応じて必要なものを選び取っていく自由を確保するためには、揺れ幅が必要に
なるのだろう。微妙な揺らぎによって全体がうまく調整され、結果的に強い力となるのは、自
然の摂理のようだ。昆虫の触角は常に揺れ動いているし、力強く空をきる鳥の翼は、一枚
ずつの羽が微妙に揺らいでいる。子供を固定した価値観に縛り付けてしまうと激しく苛立つ
のは、もしかしたら生物の本能によって、生きていくうえで大切なものが損なわれる危機を
察知するのかもしれない。
武満徹のエセーみたいだね
風の旅人は才気を無くした物書きのセーフティーネットということでいいんじゃないですか?
風の旅人なんて買う人いるのかなといつも思う
ああいうのが好きな人もいるんだよ
俺の知り合いが買ってたよ
歯医者の待合室においてあった。
たしかに歯医者が好きそうだな
今後に期待できる書き手っている?
平倉圭かな
学者系の人に展評やらせてみるといいんだよ
そうすりゃ相互乗り入れが起きる
展評は業績にならないから嫌だってさ
それ言ったら翻訳も駄目になる
>>921 平倉の書き物はすべて、厳密には批評だろう。論文というのは近藤學のようなものを指す。
注がつくだけで嫌われる風潮があるから仕方ないのかも。
>>922 そうだね
でも本人は学問だと思ってるんだろ
>>923 そうやって馬鹿にするのは良くない
いわゆる表象系の批評はもっと増えるべき
文芸誌だと、古谷より重い文章は文学論しか載らないだろう。
欧米なら、現代美術の論文は多かれ少なかれ批評に近づく。
>>924 別に馬鹿にしてない
ところで表象系の批評って何を方法論にしてんの?
非常に曖昧な概念だと思うが
>>926 にしても学問じゃないってのはいいすぎ
そもそもアメリカだと完全に制度化されているんじゃね
批評理論とかなんとか
>>927 でも学問ごっこみたいな感じはするよ
論文らしい体斉をとってはいるが
表象って学問としてまだ整ってないだろ
>>928 だから北米の批評理論って言ってるじゃん
表象の誰が学問ごっこっぽいか言わないと駄目だろ
あそこ意外とガチガチな実証系が多そうだし
漠然としたイメージとして半端なのは事実だと思うけどね
古くはバルトの時代に遡るのだろうから、なんだかんだ言っても数十年の蓄積があるだろう。
ベンヤミンも入れて良いなら80年以上の歴史があることになる
哲学でも同じ事は言われていて、ポスト構造主義関係は、
分析哲学や現象学からみると学問ごっこらしいけど、
なんだかんだ言って生き延びている
表象系で北米の批評理論やってるのって誰?
教師だと内野儀とかかね
石岡あたりも入れて良いんじゃないか
>>933 あれに振り回されること自体が微妙
ラカンの数式は「マテーム」だからどっちみち数学関係ないし
学芸員が書く論文だってよく見ると学問ごっこぽい
この分野は疑い出すと全滅になるよ
内野は演劇の人でしょ
でも内野は批評理論だろう
スガの雑誌にも顔出してるし
田中純も批評理論じゃね
>>940 批評理論というか建築論とヴァールブルグ論でしょ
グリーンバーグ自体が現場の批評家だからな
それを学問にすることに無理がある
>>943 そうやって細分化していったら誰もいなくなるだろう
田中純はオクトーバー派を参照しているし
批評家の研究って普通に成り立つじゃん
ベンヤミンとかバルトがまさにそう
>>946 そういう研究が面白かったためしが無い
直接バルトやベンヤミン読んだほうがマシ
>>947 つまりそういう分野はイラネと言いたいのね
たぶん多くの人がそう考えてるから表象系の連中が批評に降りてこないんだろう
古谷も一度、表象の人の黒沢清論をこき下ろしていたね
>>948 表象のシンポジウムで浅田も批判してたっけ
>>947 メニングハウスとかベルマンとかいるじゃん
>>949 浅田は田中純と仲が悪いんじゃなかったっけ?
浅田の評価ってほとんど情実だからよくわからん
>>948 御園生批判のことか。でも彼女って研究者じゃないから、表象扱いにするのもどうかと。
映画美学校の学生、という感じ。
どっちにしても、漠然と「表象」のイメージ追って叩いても、意味ないんじゃね?
石油やガスなどを探してる人が「このあたりには鉱脈がない」とか言うのと同じノリで言ってても・・
今回の単著をきっかけにして(業績として)、専門学校とかの非常勤などになれないかな〜
対人恐怖ってほんとうかな〜 人見知りなだけでは?
次の単著を持ち出しでなく出すには、身内以外で、500部売れるかどうかが勝負だとおもう。
(この手の本の初刷が1000以上ってことはまずない。今回、値段からすると、
初刷300か500じゃないかな。小説でも初刷3000っていうのは、冒険なんだよ)
>>955 300ってそんなに少ないのか
それなら図書館が買ってくれてもありがたいくらいだな
>>953 あんたが学問によっぽど厳格なイメージでも持っているのでない限り、
俺たちと比べりゃ御園生は研究者だろ
>>955 持ち出しってことはないと思うよ
それと文芸批評での単著が予定されているとみたね
蓮実の「フーコー・ドゥルーズ・デリダ」はひどかった
偽日記の読者だけでも数千人はいそうだが
>>959 読者は買わなかったんじゃないか
熱心なファンはあの時点で微妙に冷めたはず
このスレが過疎ったのはそのためだと思う
フルヤンを批判するのは、樫村を批判するのと似た不毛性がつきまとう
平倉が批評やレビューから距離を置くのは、俺たちにウダウダ言われたくないからだと思う。
加治屋みたいな人が何か書くと良いよ
小西信之も批評を書かないまま教師に落ち着いた
でも書かないだろ……
大学教師になるとたいていの人は物書きから撤退する。
ってもう次スレかよw
加治屋はオクトーバー系の言説氏を七十年代まで追ってるくらいだよ。
アトミックサンシャインなんぞに関わっているし、歴史観や持論が不透明。
近藤もそうだが、結局林の亜流という気がする。あそこらへんの時代は、
手つけた者がちってとこあるし。
>>965 四方田みたいに書きまくるやつもいるけどな
林(道郎ね)のフォロワーという自覚も(鍛冶屋、近藤)あるだろうね。
その上で同じ時間・空間軸のレファレンスを緻密に強化している感じがする。
彼ら独自の歴史観というと、あまりそういう印象でもないな。レファレンスによって美術史を
「埋め立て」られても、どうだろうね。
じゃあ石岡ってどうなの?
古谷批判ktkr
http://d.hatena.ne.jp/eyck/20081008 >そこでは、その幻想の体系こそがある種の経済圏を形成していることが無視されるが、そのこと自体はさして問題ではない。
>個別の価値が、あらゆる関係性から切り離され、スタンドアローンで存在しうるという、ほとんど金本位制のような反動として思考を停止させてしまうことが警戒される。金に価値があるのはなぜか?それは金に価値があるからだ。
>こういう態度に、「芸術家は自らの信ずる価値を共同化しない」という“美しい”表明は似ていってしまう。価値を共同化しないという価値の共同化。
石岡も一応は近藤加治屋の周辺のはず
なんせ今は、フルヤンの広告塔の○○○の運○が悪い。
無意味な伏せ字
>>970 その文章ってやっぱ上田の影響が強いのかな
前に誰かが言ってたけど古谷や永瀬や上田や+αで一度突っ込んだ話をして(もうプライベートでしてるのかも知れないけど)
「組立」のフリーペーパーにでも載せてほしい(それなら別にフリーじゃなくてもいい)
何かを無理やり解決する必要はないし、あまりそこに体力使い過ぎるのも良くないとは思うけど、
それぞれの対立点や共通点がある程度明確になって面白いんじゃないか
永瀬の文章は読みやすいんだけど、いかんせん教養がない
フルヤンスタイルなら知識の多寡は問われないのだけれども
フルヤンスタイルはずるい
>>975 総括というより対立点や共通点がある程度みえてると、
各自がそれぞれの活動に戻ったとき、色々考えることが増えると思うんだよね
(読者にとってもそうだと思う)
まああまり対立点や共通点をはっきりさせようとすると単純な図式になっちゃう恐れもあるけど
もうすでにはっきりしてると思うんだ
どなたか次スレ頼みます
テンプレはいっしょで良いと思う
はっきりしてるかもしんないけど、それをお互いが直接お互いに言うってのはやっぱ活字やブログで不特定の人に言うこととは違うと思うよ
作品に力がない以上、このグループは批評家としてやってく方が得だと思うんだよな
別にそれでもいいと思うし
>>979 フルヤンと永瀬の違いが少しわかってきた
永瀬はフェルメールで寓意がどうでもいいとか言っちゃうのが駄目
絶対に岡崎を倒せない
逃げのレトリックか
美術史を学ぶと作品が駄目になるという偏見は、日本の美大の宿痾なんだよ
前にも提案したんだがスレタイで岡崎と古谷(と他誰か、石岡とか平倉とか)の名前を並列化しない?
岡崎スレもないらしいし
並列化は反対
従来通り1に列挙でいいよ
一応古谷スレの歴史ってのがあるしな
>>989 美術史好きの学生も時々いるじゃん
中にはマニアックなのもいる
>>991 制作者の現実をみると残念ながらそうはなっていない
組立グループの連中も無意識に日本の美大文脈に縛られている
古谷以外の話題は結局長続きしないしな
平倉とか石岡とか、スレ民があまり読んでないだろうし
>>992 造形大学閥みたいな?
確かに芸大スタイルみたいのはあるな
>>994 美術史を学ぶと、自分が所属している文脈を相対化できるメリットがあるのに、その点で古谷周辺の人は駄目でしょう
でも岡崎の美術史も偏ってるよね
>美大文脈
なるほど、たしかに批評精神のないジジイは威張ってるよね〜
啓蒙は嫌いだって感じで目の敵にするし
ただ彼らの生命力って凄いだよな〜
>>996 それを是正できるのは批評的な美術史でしょう
古谷も永瀬も駄目すぎ
>>997 現実問題、日展系作家が多いから、
彼らの非歴史性と近代絵画史の一部が馴染んでしまった
古谷の好きなゴッホ、セザンヌ、マティスって、まさにそいつらの聖典
スレ立て失敗しました
こんな感じでよろしくお願いします
たぶん揉めないはず
1の内容は踏襲で過去スレにこのスレを含める
【文芸誌】古谷利裕の偽日記5【常連】
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。