復活・エヴァ本議論スレッド

このエントリーをはてなブックマークに追加
133名無しが氏んでも代わりはいるもの
東のエヴァ論、今読むと陳腐だな。
村上のヒュウガウィルスより使徒が良いとは思うけど、
物語作家として庵野が優れてるとは、やっぱ今になると思えない。
エヴァ的な謎解き、あとトラウマ持ちの人物達の物語はあの後
いっぱい出来たけど、物語として影響を与えたというより
「だらしなくした」という感じがする。

高橋と蓮実の対談はオレも読んだんだけど、小説や映画が
同時代的な記号にならない、という話はエヴァの場合ちょっと
あるかもしれないけど、でもちょっと誉めすぎって今は感じる。
同時代の事件というより、コギャルとかオウムのトレンドに
マッチしただけで、そのブームが去った今となっては何だありゃ、って
感じだし。
浩紀たんのエヴァ贔屓は、
「柄谷の推薦を貰ったにもかかわらず、コロンビアに落ちた」
自分自身を納得させるための物語だからね。
「日本で学ぶことはもうないと思ったけど、
日本にもエヴァがある」
みたいな。
でも、キャラ分析なんかを否定して、作品そのものを批評している分、
他の物よりは数倍マシだと思うよ。
でも、あの頃はエヴァをポストモダン的とか、ゴダールとかと比較して特別視してた
けど、ヲタク業界を深く知った今では、もっと別の批評の仕方をするだろうね。
多くの伏線を回収しないままにして、作品がいかようにも解釈出来るって言うのだって、
日本のアニメや漫画には良くある話じゃん。
これって全部撮影が終わってから公開する映画と違って、日本アニメは視聴者や
スポンサーの反応を見ながらストーリーを考えるから、先に考えられるだけの
伏線やキャラを出しておいて、反応の良いものだけを残していくからそうなるだけの話で
あって。
つまり、エヴァがポストモダン的だとすれば、それは資本主義がポストモダン的だからで。
そういう意味では、バブル期の広告文化と同じだよね。
だから「動物化するポストモダン」でも、浅田彰が10年以上前に言ったことと
同じことが書いてあるし。
宮台なんかは「あの頃には認識としてしかなかったポストモダンが、
今は日常的な現実となった」
みたいなことを得意げに話してて、これは資本主義の最前線にあった広告文化的
な物が、日常的なレベルにまできたってことで、状況を追うことを目的とした、
社学の宮台がこういう事いうのは良いんだけど、自分のプロフィールに
「思想家」と書く浩紀たんがこれじゃあ、困ると思うんだけどなあ。
東浩紀はエヴァそのものを取り上げたことは一度としてない。
これは多くの評論家、批評家が誤解している点で、東のエヴァ評を
良く読めば、もっぱら物語構成における脱構築を気取って論じて
いるに過ぎないことが明確だ。
東が「ユリイカ」96年8月号に寄稿した論文では,エヴァ論として
早期に属するにもかかわらず、予想される批判に対する予防線を
かなり強固に張り巡らせている。
本人も認めているように東は80年代中期からのアニメ、ポップカルチャー
に対して距離をおいていた。
だからこそ、今さらの宮崎駿や押井守と庵野秀明を同一線上で論じる
ことから始めねばならなかった。
これは庵野と東の直接対談でも明確に打ち出されており、TVの
最終二話を評価しつつ、劇場版でのラストには困惑を隠していない。
要は東のエヴァ論は、あくまでもアニメの枠組み内における型式の
問題であり、その思想性、哲学性では断じてない。
上野俊哉が「建築文化」誌上に展開した東批判は、この点から
「世代論の罠にはまった、ずさんなアニメ論」としているが、これは
全く正しい。
その証拠に、何度も機会があったにもかかわらず、当の東本人からの
反論は現在に至るも行われていないのだ。
つーか、ココの住人で一冊書いてみたらどうよ?>エヴァ本
いかにも「俺は面白いものかけるぞ」と自身満々なレスが一杯あるみたいだし。
ばろむわん氏のようにスレ一本使ってみるのも良いかも。
138137:02/04/06 20:46 ID:???
×「俺は面白いものかけるぞ」と自身満々なレス
○「俺は面白いものかけるぞ」という雰囲気を匂わす自身満々なレス
139雑魚:02/04/06 23:32 ID:???
>137,138
センセ、センセ。とりあえずご自分でお書きにならないと
煽りと間違われますよ。
>最終二話を評価しつつ、劇場版でのラストには困惑を隠していない。

こりゃ知らなかったわ。あれってまんまポストモダンだから、浩紀たん大喜びだと
思ったのになあ。
浩紀たんの批評が形式だけに向けられているというのは、同意。

映画のラストって、監督から野火や浩紀たんへの返事に見えるんだけど。


今までポストモダン的な作品しか作れなかった監督が(これはつまり、売れ線を狙っ
て、作家性とかテーマやストーリーが駄目駄目だって事(笑))が、貞本なんかのア
ドバイスを受けながら、エディプスコンプレックスの克服という、モダニズム的な作
品を作ろうとして、
結局市場のポストモダン的な動きに負けて破綻したのがのが、テレビ版で、
あれを「意味にとらわれた生き方から、目の前に敵がいるから戦うと言った、現実に向
かった生へ」って捉えたのが別冊宝島に載った野火のエヴァ論であったけど(これって
柄谷のマクベス論と同じだよね)、野火が柄谷シンパかどうか知らないけど、バブル経
済と広告文化によって、こういう考えが刷り込まれたという可能性はあるわけで、そう
いった批評を見て、「あ、エヴァってポストモダンだったんだ」てな感じで付け焼き刃
のポストモダン思想をバックボーンにして失敗したのが、EOEだというのが俺の考え。
あの頃の浩紀たんて、柄谷シンパだったから、大喜びじゃなかったの。
むしろ、野火や浩紀たんに足りなかったのって、エヴァが監督の才能の産物でなくっ
て、東京12チャンネルの夕方という、市場の原理から遠く離れた場所に、バブル経済
の影響が遅れてやってきただけという、時代的な感覚なんじゃないの。
つまり、ポストモダン思想がバブル期にあれほど受容された文脈を分析するという、浅
田や柄谷がやった、ポストモダンに対するポストモダン的分析。

だからこそ、今「動物化するポストモダン」で、そういった分析をしているんだと思う
けど。
もっとも目次にコジェーブのスノビズム論が出ているのを見て、「柄谷や浅田が15年
前にやったことを今更やってるよ」と萎えてしまって、結局読まなかった俺には何とも
言えないんだけど。
>>136

あと、カルスタの親玉のジジェクなんかも、マトリックスを論じて
浩紀たんや野火なんかに近い分析してるけど、ああいった物について
上野はどう論じてるの。
良く知らないんだけどさ、上野もカルスタで、ジジェクシンパじゃないの?
柄谷なんかは、カルスタなんか下らないって言ってるけど、
下らない批評をやって、「論理の世界は下らない、だから政治運動をして、
現実と関わる」(確かジジェクは精神分析や弁証法の価値は、自身の無力を示すことに
あるって言ってたよね)という、その身振りそのものに意味があるから(これはその通り
なんだけど)良いって事なの?
>>137-139
少々考えてはいるのですが。
ネタ仕込みの最中でして。
切り口を何所に求めるかとか。
今までは時期も良くないとか。
でも、5月中には何かひとつ。
協力してもらえれば。
144アゲアシ取り:02/04/09 19:51 ID:???
○「俺は面白いものかけるぞ」という雰囲気を匂わす自身満々なレス
◎「俺は面白いものかけるぞ」という雰囲気を匂わす自信満々なレス
145某転調:02/04/10 19:08 ID:???
『謎解明スレ』が落ちてからシリアス路線のマジスレないですねぇ。
『エヴァの疑問は』スレは解釈の違いに終始してるし。
自分では立てる力もなし、誰かしてくれるとウレスイ…
まだ、このスレ生きてたんだ。
また改めてレスします。
カルスタねぇ…
正直、皆目わからんのよ。
上野の「カルチュラル・スタディーズ入門」はそこそこ売れたそうで、
斜め読みしてみたが、一体何を言いたいのかサッパリ。
あれならオタキング岡田の「東大オタク講座」(だったか?本のタイトル)で
「ブレードランナー」なんかを取り上げていた内容の方が、数段まし。
そもそも、ポップ・サブカルチャーを括れるアカデミックな共通項など
存在するのか? それ自体、実存主義、構造主義以降、思想哲学界の停滞を
表す、アカデミズムの敗北ではないのか?
その伝でいけば上野の「ディアボラスの思考」なんぞ涙が出る。
なにが悲しゅうて、今頃クレオールの地政学的展開を論じる必要があるのかと、
マジで小一時間問い詰めたくなる。
さらには「紅のメタルスーツ」「人工自然論/サイボーグ政治学に向けて」は
支点をポップカルチャーに置きつつ、アカデミックな展開を図ろうとして、
ものの見事に自爆していた。
しかし、ジジェクが「マトリックス」を論じていたとは知らなかった。
不思議はないと思うが。実際にゴダールなんかも取り上げていたはずだし。
ただ、ポストモダンという文脈にこだわるなら、ポストバブル、ポストモダン、
ポスト構造主義の流れを無視するわけにはいかない。
これを詳細に述べる余裕も能力もないが暴論、極論をあえて冒せば
<主体/客体>と<自我/他者>問題に帰結すると思う。
この視点からエヴァを論じた物は少ないと思うので、いつかはやってみたい。
>「柄谷や浅田が15年前にやったことを今更やってるよ」
これは、全くその通りだと思う。
柄谷行人といえば、まあトランスクリティークだろうが、彼のチャップリン
に対する記述は買えるにしてもゴダール、パゾリーニ辺りになると途端に
凡庸な表現しか出来なくなるのには萎えた。
しかし、野火ノビタのエヴァ論は少し違うように思える。
R.D.レインを引用しつつ、ひたすらラカン的な精神分析論を展開する。
もっとも、のちに香山リカや斉藤環らの「本職」に分裂症ではなく境界例、
ないし「境界性人格障害」である、と指摘されたのは重要な点だ。
レイン共々、このあたりにポストモダン的解釈のヒントが潜んでいるように思える。
また野火自身も「エヴァに理解などありえない。ただ、共感できるだけ」と
STUDIO VOICE 誌上で発言しているのは、前述の<自我/他者>問題を
意識しての発言のようにも取れる。
なんか脱線しまくりのようなので、上野俊哉とエヴァの絡みでひとつ。
エヴァ放送以前のNTT出版「Inter Communication No.4」に上野が
晩年のJ.C.リリーにインタビューした記事が載っている。
T.リアリーと並んでドラッグカルチャーの2大伝道師の一人、リリーと上野では最初から
勝負になるはずもなく、なんら面白味のない内容であった。
ただ、指摘されているようにエヴァのエントリープラグはリリーの考案した「隔離漕」
Isolation Tank = IT に酷似している。

映画『アルタードステーツ/未知への挑戦』と『イルカの日』ではリリー自身が
主人公のモデルであることも知られている。
ここから、ひとつの疑問が湧く。
エントリプラグ内のLCLは、果たしてエヴァとのシンクロを行い、パイロットを保護
するためだけのものか?
リリーはITに入るときには必ずリゼルギン酸誘導体、すなわち幻覚剤LSD25を服用して
超次元の存在と接触していたという。
LCLには、こうした作用があるのではないか?
また、なぜガイナは公式にLCLは何の略語である、とコメントしないのだろうか?
>>137-139

偉そうに聞こえたのならすみませんでした。
そう聞こえないように、口調を変えます。

浩紀たんがエヴァの形式にしか興味がないように見えることについてですが、これ
はエヴァが意識と現実の齟齬や、それ故に起こる他者とのコミュニケーション不全の問
題について語った物だという読み方からすれば、仕方のないことなのです。言語や、そ
れによって構成された意識という物は、そこからはみ出る物を排除することによって構
成されているわけですが、そこを批判するために、「言語や意識といったものは、構造
化されない物を排除することによって成り立っている(だから現実に向かわなければな
らない)」と語っても、「現実」という語は言葉に過ぎないわけで現実そのものではな
い。じゃあどうするかというと、「現実」という言葉をポジティブに語らずに、論理が
論理的であるために非論理的な物を排除する様や、結局それが不完全に終わって自壊し
ていく様を見せていくことが必要となります。だいぶはしょってありますが、これが
「内政と遡行」までの柄谷や、デリダの戦略であり、浩紀たんのエヴァ論もこの文脈で
考えられるわけです。
浩紀たんはテレビ版を見て、コミュニケーションの齟齬の問題
が、それに相応しい、脱-構築的な形式を持って描かれているからこそ、エヴァを評価
したわけです。かつて、スガ秀美が筒井康隆の「朝のガスパール」をぼろくそに叩きま
したが、「朝のガスパール」は、本来形式上の問題である、メタ−オブジェクトのレベ
ルの崩壊を単なるストーリー上の問題として扱った、似非現代思想的な物だったから、
批判されたのです。意識の世界、現実の世界という物は、文体上の問題として扱わなけ
ればならず、ストーリー上だけで語っても、それはスガのいうように、「童話で、洞窟
にはいると別世界に通じるという物があるが、あれと同じ」で、意味がないのです。
だから上野の批判は全く的はずれだと言えると思いますし、その意味では浩紀たんの物
は、唯一まともなエヴァ論であると言えるかも知れません。浩紀たんは、マクベス的で
あるという理由からよりも、カフカ的であるという点から評価したんだと思いますね。
だから、ストーリー上で登場人物に、「夢から現実へ向かわなければならない」と、声
高にしゃべらせることで満足し、形式的に破綻しなかった映画版にはとまどってしまっ
たのです。形式的な破綻を撮り下ろし作品で作れれば、それはゴダール的な天才を庵野
秀明が持っていたということになりますが、残念ながらそうではなかった。EOEは、カ
フカでなく、マクベスだったわけです。
エヴァが形式的に破綻した理由は、日本のテレビアニメに良くある、「4クールで終わ
るはずだった作品が、2クールで終わった事による作品の不備」に近い、作品の外部に
存在する政治的・経済的な事情にあるのだと思います。だからこそ、浩紀たんは社会分析に
向かったんだと思います。

結局のところ、デリダがド・マン派を批判したように、「それ自体が脱-構築的
である資本主義が高度に発達した世界では、脱-構築は大きなインパクトを持ち得ない
(だからテクストの形式分析からコンテクストの政治学に向かわなければならない)」
わけです。

私自身は、エヴァは中途半端にポストモダン的であり、こんなことなら単純にオ
イディプスコンプレックスを克服する、モダニズム的作品であった方がよかったと思い
ます。だからエヴァのポストモダン的な部分はあまり好きではないのですが、本田透の
ような人が、直球のモダニズムを使ってエヴァを批判しているのを見ると、庇いたくな
ってしまう(なんでこんな物庇わなくちゃいけないんだと鬱になりますが(笑))。
つーか、日アススレの前スレを見ると、大澤真幸を読んでいるような本田信者がいるわ
けですが、本当に読んでいるのかと小一時間(以下略)。
私は「行為の代数学」は読んだことないんですが、柄谷との対談を見る限り、大澤とい
う人は柄谷の他者論をより数学的な方向から追究しているわけで、アスカが他者である
というのなら、そこからカップリングは導き出せないはずですし、オイディプスコンプ
レックス自体が無効になるはずでしょう。
勿論本田透に対しては、他者論から批判していくのが最も有効なわけで、ユングを使っ
て批判することが愚の骨頂であることは、いうまでもありません。
>>147

>それ自体、実存主義、構造主義以降、思想哲学界の停滞を
>表す、アカデミズムの敗北ではないのか?

結局カルスタで語れるものとは、適用するモデルの論理的整合性に過ぎないと思いま
す。
かつてクリシンが蓮實=草野進を批判して、「構造主義というものは、最初に整合性のある関係性のモデルがあるわけだから、野球でも映画でも、なんでも語れてしまう」みたいなことを言ってましたが、柄谷のカルスタ批判もそんな感じだったと思います。

ジャンケンにおける、三すくみの関係は論理的整合性を持っているが、現実的には石を
砕くハサミがあり得るし、紙を突き破る石があり得るし、ハサミで切れない紙があり得
るのです。

レヴィ=ストロースの親族構造(交差いとこが優先権を持つという奴)が、実際に成立
することは少ないという批判に対して、ドゥルーズが「親族構造が機能しなければ、女
性の循環が滞ることになるが、部族社会はそれを割礼や拷問や祝祭で補うことになる。
そうすることで部族の団結を強めるわけで、親族構造とは、それがうまく機能しないこ
とに価値があるのだ」と、弁護しましたが、構造主義も精神分析も本来の価値はここに
あると思うんですね。ジジェクが精神分析や弁証法の理論を再構築してるのも、それが
現実には上手く機能しないことを露わにするためらしいし。

整合性のあるモデルに個々の要素をぶち込んで上手くいったところで、それはそのモデ
ルに整合性があるということしか、意味をしないわけです。
だからカルスタそのものには価値がない。

で、エヴァが扱っている問題の一つにそれがあると、浩紀たんなら答えるでしょうね。
>>148

>しかし、ジジェクが「マトリックス」を論じていたとは知らなかった


ジジェクのマトリックス論ですが、ここにあります。
ttp://nakayama.org/polylogos/chronique/210.html
ttp://nakayama.org/polylogos/chronique/210.html

浩紀たんのエヴァ論に近いですし、ラカンの理論をそのままマトリックスやトゥルーマ
ンショーに当てはめただけという、カルスタらしい、作品論としてだけなら下らない物
なのですが、ジジェクの特異性はラカンのリアルな物(つまりはルーチンワーク的な日
常の根拠となる物であると同時に、それが破綻したところに存在する物)を、現実の政
治的事件に絡めて論じているところだと思います。そして、それがボードリヤール的な
ポストモダン(浅田や柄谷が分析した和製ポストモダニズムと同様、それは所詮、冷戦
構造の産物に過ぎないのです)の批判に通じている
点であるといえるわけで、まだ和製ポストモダニズムに対して本質的な批判をしていな
い浩紀たんよりは、遙かに先を進んでいると言えるわけです。んで、こないだのテロで
冷戦的なその実一極構造でしかなかった二極構造は完全に終わってしまったわけで、ポ
ストモダニズムを支えていた政治的無風状態も終わってしまったと言えるので、さっさ
と今やってるポストモダニズム分析を終わらせないと、拙いと思います。批判しように
も、現実問題として、近いうちに吹き飛んでしまうわけですから。
>>148

><主体/客体>と<自我/他者>問題に帰結すると思う。

それを野火はあくまでもストーリーやテーマの問題として扱い、浩紀たんは形式
上の問題として扱ったわけですが、エヴァの最大の問題がこれだということに、気付い
ている人はほとんどいないんですよねえ。
勿論、庵野がそういう作品を作った理由を、外的な要因から分析していく、ポストモダ
ン文化自体に対するポストモダン的分析が必須だと思いますが。

この問題に関する考察は、ウェブで考察している人にもほとんどいないし、プロの書き
手でもグノーシス主義やら、ユング的なタイプ分けとか、そんなのばっか。