夏休みが明けた9月1日土曜日。
今日からは全国の小中高校で一斉に二学期が始まる。
そうなると、当然中には憂鬱な気分で学校へ向かう人間もいる。
夏休みが永遠に続くわけではないとわかっていても、学生の本分が勉強であるとわかっていても、
夏休みという超大型連休が終わった次の日に学校へは行きたくないものだ。
哲明もそのクチだった。
哲明は成績や学校での生活に不満があるわけではない。それでもやはり二学期初日は気乗りしないものだ。
今日は半日で学校が終わること、土曜日であるため明日の日曜日が休みになっているのが少しの救いだった。
そんな兄とは対照的に、明菜の気はかなり充実していた。
今日の食事当番が哲明だったため、朝から哲明のエプロン姿を見られて嬉しかったり、
哲明の作ったスクランブルエッグの塩加減が彼女の好みに合っていたというのも上機嫌の理由に入る。
しかし最大の理由は、明菜の体の中で闘争心が燃えさかっているからだった。
普段から明菜は姉とよく口論になるように、割と好戦的な性格をしている。
もちろん誰かれかまわず喧嘩を売るような馬鹿な真似はしない。
事が愛しの哲明に絡んでくるときになってようやく火がつくのだ。
現在明菜の心に火がついているということは、彼女の周囲で哲明に絡む非常事態が発生している、ということだ。
非常事態。それは哲明の姉妹にとっては哲明を奪われる可能性を孕む事態のことを指す。
時に大胆なことをしてでも哲明の身は守らなければならない。
そう考える姉妹にとって、今の状況では羞恥心など邪魔なものでしかない。
二学期初日から腕を組んで登校することを恥じている場合ではないのだ。
「おはよー、明菜ちゃん」
「今日も二人とも仲いいな」
「夏休みの間に一線を越えたりしちゃった?」
などと、知り合いから声をかけられても恥ずかしがってはいけないのだ。
だがそれは現状が非常事態であると知っている明菜にとってのみ適用されるものであるため、
現状に何の問題点も見いだせない哲明には関係がない。
だから今の哲明は、左腕をがっしりと掴んでくる妹に困惑していた。
「なあ、明菜。朝からどうしたんだ?」
「どうもしてないけど。ただ腕を組みたいだけ」
「そういうのはやめてくれって前頼んだら、いいって言ってくれたじゃないか」
「条件付きでね。非常事態のみ、その約束は無効になる」
「じゃあ……今が非常事態?」
「そうよ」
哲明は周囲を見回した。
同じ高校に通う生徒達が一人、あるいは数人で固まりながら歩いていく。
一学期と何ら変わりない光景だ。
「今のどこが非常事態? むしろ明菜と、後ろから尾行してくるリカ姉の方が異常なんだけど」
兄の呑気な声を聞き、明菜は嘆息した。
「テツ兄、昨日変なメールが届かなかった?」
「ああ、俺が朝倉さんと付き合いだした、とかいうメールが」
「それ、嘘でしょ?」
「当たり前だろ。俺が朝倉さんみたいな人気者と付き合えるわけがない」
「それなのに、嘘のメールが出回っている。これについてどう思う? 異常だと思わない?」
「どうせ誰かの送ったいたずらだろ。俺からメールが送られてきた、とか言ってるけど俺は送ってないし」
「……本気でそう思ってるわけ? 悪意のある人がやった、とか考えないの?」
「そこまで深く考えるほどのもんじゃないだろ」
「……ま、いいか。そう思ってるならそれで。その方が下手に動かないでもらえるから」
明菜は振り返った。後ろからはスーツを着た女性ががついてきている。
哲明の姉であり哲明と明菜のクラスの担任でもある、リカだった。
リカと肩を並べて一緒に歩いている人の姿はない。
学生の通学路を利用する先生があまりいない以上、それは普通の光景だ。
むしろ普通でないのはリカの方かもしれない。
血のつながった弟と妹を尾行しているのだから。
「さっきから何でリカ姉もついてきてるんだよ」
「用心のため。後ろからやってくる猫を事前に防ぐにはああするのが一番なの」
「お前が腕を組んでてリカ姉が尾行しているのは、猫除けのためなのか?」
「ええ、そうよ。しかも狡猾な、ね」
「どんな猫だよ、それ」
猫パンチをヒットアンドアウェイで放ってくるような猫なのだろうか。
「いくよ、テツ兄。あんまりゆっくりしてると遅刻する」
「はいはい」
哲明と明菜、それとリカは他の登校中の生徒に混じって、高校の正門へと入っていった。
哲明と明菜が校内に入ったとき、異変が始まった。
周囲の人々が、その視線を二人に注いでいるのだ。
それは双子の兄妹で腕を組んでいることに対する奇異の視線なのかもしれない。
が、今日ばかりはそれは外れだろう。
「あの男の方?」
「そう、2-Aの哲明君。朝倉さんと付き合ってるんだって」
「しかも妹とも一緒かよ……」
ひそひそと聞こえてくる声が語っているように、例の嘘メールの噂のせいで哲明の名が知れ渡っているのだ。
弁解しようにも、どう弁解すればいいのかわからない。
嘘だ、事実無根だ、と言うのは簡単だ。しかしそれを信じてくれるか、というと話は別だ。
大抵の人間は噂などどうでもいいと思っているため、それが事実かどうかなど気にしないのだ。
結局のところ、噂が沈静化して人の興味が失せていくのを待つのが良策なのだ。
「なんかやけに視線が痛いな……」
「そりゃそうよ、朝倉直美なんて人気者を射止めた人間がいたら誰だって見てみたいもん。
私だってその相手がテツ兄じゃなきゃ面白がってたよ」
それは哲明も同じだった。
同級生の恋愛沙汰、しかも人気者の朝倉直美の恋人。
相手の男にしばらく興味を抱くのは当然だろう。
哲明と明菜が教室の前にたどり着いたとき。
廊下にいたクラスメイトたちが一斉に教室へと避難していった。
哲明、もしくは明菜が恐れられているわけではない。
おそらくは2人が教室にやってくるのを待っていたのだ。
「ふん、やっぱりそうくるわけね……上等だわ」
「ああ、絶対なんか言われる……入りたくねえ」
「入らないわけにはいかないでしょ。ほら、いくよ」
明菜は哲明と腕を組んだまま、教室のドアを開けた。
途端に歓声が起こった。クラスメイト達のあげる喝采の声だった。
「おめでとう、哲明君!」
「いつから付き合いだしたの? もしかして夏休みの前から?」
「初体験、おめでとう」
「鉄は熱いうちに打て……」
「出るテツは打たなきゃな……」
しかし、歓声は急に静かになった。
歓声を聞いて明菜の顔が怒りの形相になったのだ。
尖った眼差しがクラスメイトを射貫く。
小さな悲鳴が起こり、視線が次々と哲明から離れていく。
「あ……あははは……」
「あー……なあ、宿題やってきたか?」
「見てみてこれ、部活焼け。もー最悪だよねー」
入り口に立ったままだった哲明と明菜はようやく自分達の席へ向かった。
哲明の席は廊下側の一番後ろ。明菜の席は哲明の前。
そして、哲明の左には黒髪を垂らしている女の子が座っていた。
彼女の顔には、もはや武器にすらなりうる威力を持った小悪魔的な笑顔が貼り付いている。
校内に広がる噂話の渦中の人、朝倉直美だ。
「おはよう! テツ君!」
「おはよ、朝倉さん」
「明菜ちゃんも、おはよう」
「……ええ、バッドモーニング」
明菜はそれだけ言うと机の上に両腕を置いた。そして腕を枕にして眠りについた。
「明菜ちゃん、なんか不機嫌みたいだね。なにかあったの、テツ君」
「朝倉さんも知ってるよね、あのメールの話。あれを聞いて明菜が不機嫌になっちゃってさ」
「へー。テツ君、愛されてるねえ。――私も愛しちゃおっかな」
「ん……今なんか変なこと言わなかった?」
「んーん、なんでもないよ。空耳空耳、あはははっ」
ぱたぱたと手を振っておどけてみせる朝倉直美。顔色は変わらない。
2-AのHR前の朝の時間で哲明と朝倉直美が会話をするのは珍しくない。
クラスメイトも、哲明の前の席に座る明菜も、2人の会話に耳を傾けていた。
それはクラス担任であるリカが教室のドアを開けて教壇に立つまで続いた。
帰りのHR終了後、リカは誰もいない教室にいた。
教師が放課後に一人で教室の中に残っているということは、生徒絡みの用件があるということに他ならない。
そしてその通り、リカは一人の生徒を待っていた。
リカの場合、放課後に教室に呼び出す相手は自身の弟の哲明であることが多い――というより全部だ。
しかし、今日呼び出した相手は哲明ではない。
リカは今日、弟に近づこうとする一人の女子生徒に呼び出しをかけた。
誰にも知られない、当事者間でしか知り得ない連絡方法で。
教室のドアが開いた。
リカがドアの方を振り向くと、呼び出した相手が不思議そうな顔をして立っていた。
「あ、あれれ? 先生?」
「来たか、朝倉直美」
「え、この手紙って、先生? やけに綺麗な字だったからどんな男の子かなー、と思って来てみたら、先生?」
朝倉直美が右手でつまんでいるのは白い便箋。ハートのシールで封をしてある。
「そうだ。呼び出したのは私だ」
「なんで先生が? 私、夏休みの間に変なことはしてませんよ」
「白々しい……では聞こう。私の弟、哲明が朝倉の家に行っただろう、30日に」
「はい。その日までずっと遊びまくってたから、宿題が終わりそうになかったんですよ」
「それについてはいい。学生ならばよくやることだ。私だって高校時代には同じことをした。
私が問題視しているのは、その日に哲明の携帯電話を奪い、いたずらメールを送ったということだ。
学園内の一部を混乱に陥れる危険があるので、即刻撤回してもらいたい」
「……ああ、私と哲明君が付き合っている、ってやつですね。あれ、本当ですよ」
「…………何?」
朝倉直美は教室内に入り、校庭側の窓を開け放った。
さっきまで閉めきられていて滞っていた教室の空気が凪ぐ。
窓の手すりを掴みながら、独り言のように校庭へ向けて言葉を続ける。
「30日、テツ君が私の家に来たとき、告白したんです」
「……ほう」
「私、もちろんオッケーしました。だって、私の想いはテツ君に伝わっていたんです。
毎晩寝る前にテツ君を想って、結局眠れなくなった日もありましたけど、全部報われたんです」
「くだらない冗談だ」
「その後で、2人一緒にベッドの中で……あ、先生にこんなこと言っちゃまずいんだっけ」
「弟はそんなことは言っていなかった。私を騙したいなら、弟と裏を合わせておくべきだったな」
「だからあ、本当ですってば。本当だからこそ、テツ君があのメールを友達に送ったんです、よ」
「だが、お前の家には弟の携帯電話があった。しかも31日の朝まで。いたずらメールを送ることはできた」
「証拠はあるんですか?」
「無い。メールの送信履歴を消したりごまかしたりすることはいくらでもできるからな。
だから、こうやって直接注意をしている、というわけだ」
「なーるほど。……でも、先生」
朝倉直美は、窓にもたれるようにして、リカの方を振り向いた。
「テツ君が送った、っていう証拠はあるんですよ?」
朝倉直美はリカの近くへ寄ると、スカートのポケットから携帯電話を取り出した。
ポチポチ、と何度か操作して、携帯電話を教師に渡す。
「見てください、そのメール。メールアドレスの欄、テツ君の名前になってるでしょ?」
「『さっき友達に俺たちが付き合っているというメールを送ったから。ごめん、黙ってられなかった。』、ね。
くだらない。朝倉が弟の携帯電話を持っていたのなら、こんなメールを送るぐらい簡単だ」
「それ、私がテツ君に携帯電話を返したあとで送られてますよ?」
「……な?」
メールの送信時間は、8月31日の午前9時。
この時間には、哲明、明菜、リカの3人は朝食を終えていた。
顔をしかめて携帯電話を見つめるリカの頭部を見下ろしながら、朝倉直美が言葉を続ける。
「私が携帯電話を返しに行ったのが――何時だっけ。まあ、8時までには返してましたから」
「……いや。この携帯電話のアドレス帳に細工をすれば、これぐらいはできる」
「まだ信じないんですか? じゃあ、『テツ君』って名前で登録してあるアドレス帳、見ていいですよ」
リカは手探りで朝倉直美の携帯電話を操作した。
その手は、軽く震えていた。
もしかして、いや、まさか。という哲明への信頼と疑念が交錯する。
『テツ君』という名前で登録してあるデータのメールアドレスが弟のものと同じだった場合、
このメールは哲明が送った、ということになる。
リカはアドレス帳の『テツ君』のところにカーソルを合わせ、決定ボタンを押した。
ディスプレイに表示された内容を見て、リカの顔は青ざめた。
表示されていたメールアドレスが、脳の深い部分に刻み込んでいるものと同じだったから。
「馬鹿な、これは……テツの……」
「ね? このメールは、テツ君が送ったものなんですって」
「そん、な…………テ、ツ……」
リカはその場に膝をつきそうになったが、朝倉直美への対抗心でどうにか耐えて机に手をついた。
だが、足が震えているのは隠せない。
嘘だろう、テツ。私と明菜じゃ駄目なのか?朝倉直美の方がいいのか?
リカの自問に答えるものは、彼女の心の中にはいない。
ただ、確認した現実を受け入れるしかない。――テツが、朝倉直美を選んだ。
リカの手の中で携帯電話が振動した。画面には、メールの着信を報せる文字。
「見ていいですよ、先生。そのメール」
うわついた心地で、リカはメールを開いた。――そして、さらに希望が薄まった。
「先生、なんて書いてありました?」
「……あ……て、つ……嘘、だ……」
「ふん。――あーあ、あっけないの。悪いですけど、携帯返してもらいますね。……それじゃ先生、ご機嫌よう。
ご無事でしたら、また月曜日会いましょうね」
朝倉直美が教室を後にして、一人になっても、リカは体の震えを抑えられなかった。
たった今突きつけられた決定的な証拠。
先ほどのメールの本文には、朝倉直美への想いが何行にも渡って綴られていた。
文章の全てが、哲明に言われたかった言葉ばかりだった。
その言葉は、リカではなく朝倉直美に向けて送られていたのだ。
メールの送信者の欄には――『テツ君』と表示されていた。
第3回は終わり。次回へ続きます。
なんかややこしい展開になってますが、あと2・3回で終わります。
>>881 グッジョブ!
朝倉直美…恐ろしい子!
だが逆に朝倉は死亡フラグ立てたということに…ウヘッヘッ
凄く新鮮だなw
キモ姉から見ると間女の方も策士として優秀なのは
素ン晴らしいGJありがとう!
朝倉さん今んとこ優勢だけどこのままだとやりすぎちゃって
どうやってメール送ったとかがばれたときに逆に殺られそうな希ガス…
それにしてもどうやって送ったんだろ…?
なぁ、キモ姉でもキモ妹でもなくてキモ娘(キムスメ?)のSS
「重度のファザコン、父親に近づく女をことごとく〜」ってのを書き始めてしまったんだが
よく考えたらってかよく考えなくてもここはスレ違いだよな、、、?
どっかいいスレないかな?
嫉妬スレで良いんじゃね
嫉妬スレか、ありがとう
上の方でキモムスメスレとかキモカゾクスレとかいってるの見つけたらもしかしたらあるのかなぁと思ったんだ
スレ汚しスマソ
メールの時間差送信は送信予約で可能だ
問題は、この姉妹がいると言うことが解っていて
策略をめぐらせる朝倉さんの勝算やいかにってとこだw
実に楽しみな戦いになるなw
続きが楽しみだわ
修羅場!修羅場!!!!
>>881 頭脳が良いという割りには、その携帯の手段は稚拙っぽくないか?
リカ姉も普通騙されるかなあ。
>>891愛する弟の事となると冷静さを欠いてしまう姉って素晴らしい!
893 :
689:2007/08/13(月) 00:36:36 ID:KJJxSEZ2
689もとい、完結できな(ry です。
中国への急な出張で遅くなってしまいました。
三日以内になんとかする(予定な)んでお待ちをー
>>893 おぉ!
チャイニーズシーフキャットとの出会いはあった??
ともあれ待っておりまする
>>891 そんな携帯の時間差送信という稚拙な手段を今まで知らなかった俺が通りますよ、と。
第4回を投下します。
「そんなの、タイマーメールでできるじゃん」
リカが失意のままに家に帰って妹に事情を説明したら、開口一番にそう言われた。
リカが朝倉直美と教室での会話をしているうちに、明菜は哲明と一緒に帰宅していた。
それは朝倉直美と哲明が同時に帰るのを妨害するための行為だった。
哲明と明菜が帰っている間に、リカが朝倉直美へ哲明に近づくなと警告をする。そういう段取りだった。
明菜はすぐにでも朝倉直美をどうにかしたかったのだが、教師であるリカの提案でとりあえず警告だけしよう、
ということが昨日の姉妹会議で決定していたのだ。
「タイマーメール? なんだそれは?」
「はあ……リカ姉、それでも教師? 本ばっかり読んでるからそんなことにも気づけなくなっちゃうのよ。
今時のケイタイなら、時間指定でメールを送れるのよ」
「そうなのか? それは一体どうやって……」
「細かいところはわかんないだろうから説明しないけど、ウチの姉兄妹が加入している電話会社だったら、
ケイタイで使える――パソコンで言うところのインターネット、それのサービスで設定できるの」
「な、なるほど……今時はそんな便利なサービスがあるのか」
「ねえ、正直に答えてよ? 本気で、気づいてなかったわけ?」
「……すまん」
リカは深く頭を下げた。
対して明菜は呆れた様子で嘆息した。うつむき、眉間を指でつまみながら言葉を続ける。
「リカ姉、パソコンの起動の仕方は?」
「馬鹿にするな。電源スイッチを押せばいいだけだろう。それぐらいわかる」
「じゃあ、電源を落とすときは?」
「また電源スイッチを押すのだろう?」
リカはよどみなく答えを返した。自分の答えに完璧な自信を持っている。
明菜はまた嘆息して、肩を大きく落とした。
「……DVDの録画の仕方は?」
「あの……なんとかボタンを押して、新聞の番組欄の下に書いてある番号を入れて、送信する」
「ハードディスクってわかる?」
「ビデオデッキの中に入っているビデオテープみたいなもの、とテツから聞いた」
「じゃあ、ハードディスク以外に保存するとき、どうしたらいい?」
「そのときは諦めろ、俺か明菜に聞け、とテツに言われた」
「あああああ……」
明菜は、馬鹿アホガリ姉、と言いたい気持ちを抑えて頭を両手で抱えた。
今の会話でわかるとおり、リカはデジタル関係に弱いのだった。
アナログなもの、たとえばビデオテープや自動車のエンジン構造などは理解できる。
だが、CDのような薄いものになぜ音楽が保存できるのか、と問われると見当もつかなくなる。
そういうものなのだ、と説明してもどうしても理解できない。
そして、デジタルの塊である携帯電話についてもそれは同じだった。
電話の仕方、メールの送り方は知っているが、壁紙の設定方法や着信音の変更の仕方はわからない。
デジタル関係に人並みの理解力を示している哲明と明菜がいるからこそ、リカはどうにか携帯電話を使えている。
そのリカにとって、朝倉直美のやってのけたことは魔術にしか思えなかった。
あのメールを哲明が送ったということを、欠片も疑わなかったのだ。
明菜はかぶりを振ってから、ようやく顔を上げた。
「やっぱり私が朝倉に言うことにしとけばよかったわ。まさかそんな簡単な策に引っかかるなんて……」
「重ね重ね、すまん」
「まあいいわ。朝倉が嫌がらせや遊びじゃなくて、本気でテツ兄を奪おうとしてる、ってこともわかったし」
「うむ」
「それで他には? 朝倉が携帯電話を返した後、テツ兄のアドレスでメールを送った以外に、何かやってた?」
「ああ。私が朝倉と会話しているとき、テツのアドレスでメールが送られてきた」
「なにそれ? どんな状況で?」
「私が朝倉の携帯電話を手に持っているとき、メールが着信したんだ。メールの本文はテツからのラブレターだった」
「え……? いや、テツ兄が朝倉にそんなメールは送らないだろうけど。どういうことよ、それ。おかしいじゃない」
明菜は顎に手を当て、考え込むそぶりを見せた。
なにがおかしいのかわからない姉は妹の様子に首を傾けた。
「なにがおかしいんだ? そのタイマーメールとやらでできるんじゃないのか?」
「タイマーメールはね、リカ姉がケイタイを持っているジャストのタイミングで送信するような設定はできないの。
あらかじめ時間指定しないとメールは送信されない。
朝倉が、リカ姉に呼び出されることを31日のうちに読んでたとは思えない」
「いや、あの朝倉だぞ? もしかしたらということも……」
「私はそうは思わない。あの手の女は無駄なことはしない。そんないちかばちかの賭はしないはず。
朝倉は超人じゃない。ただの泥棒猫よ」
「では、タイマー以外の方法であのメールを送ったということか?」
「そうに違いないわ。もしかしたら朝倉が今日リカ姉に呼び出されるのを読んでいた、とも考えられるけど。
それでもリカ姉がケイタイを持っているときに着信させるなんて芸当は不可能よ。
テツ兄が朝倉にラブメールを送るなんて、それ以上にありえないけど」
「あ……それについてなんだが、明菜……」
リカが言いにくそうな様子で口を挟んだ。
「なに?」
「もしかして、テツが朝倉を選んだということは……」
「ありえない」
「しかし、朝倉はあの年にしてはしっかりしているし、外見や素行に問題はない。テツがそれに騙されて告白したりとか」
「……殴られたいわけ、あんた?」
落胆の色に染まった姉の顔を両手で掴み、明菜は正面から向き合った。
「テツ兄はそんなに馬鹿じゃない。朝倉の本性に気づいてる」
「しかし、それは」
「もちろん私の希望みたいなもんだけど。それでも、あんたみたいに諦めるよりはマシよ」
「私は! ……私は、諦めたりなど……」
「誓ったでしょ? テツ兄は私たちで守るって。そしてテツ兄を絶対にものにするって。
もし、テツ兄が朝倉を選んだとしても」
「選んだと、しても?」
「奪っちゃえばいいのよ、朝倉から、テツ兄を。そのためなら――不本意だけど、朝倉を傷つけることもいとわない。
テツ兄が悲しむことはしたくないけど、テツ兄を奪われたままでいるよりはずっといい。
昔、同じ台詞をリカ姉から言われたんだけど、もう覚えてない?」
「いや。もちろん、覚えている。そうだったな――しばらく忘れていたよ。
今の甘い生活に溺れて、私はそんな物騒なことを思い出したりもしなくなっていた」
「でも、思い出したでしょ。今、はっきりと」
「ああ。――テツは私たちが守る。テツは私たちとずっと一緒に暮らす。他の誰にも渡さない」
「――たとえ、どんなことをしてでもね」
リカの言葉は2人の目的。明菜の言葉は決意の深さ。
2人の目的も、決意も、ずっと昔から変わらない。
姉妹が誤って哲明を傷つけてしまったときに、はっきりと心に刻みつけていたはずだった。
「どうして忘れてたかな、こんな大事なこと」
「おそらくは、テツのせいだろう。テツを見ていると、どうしてもぬるま湯に浸かっていたくなる。
今のまま、何もしないままでもテツが待っていてくれると思いこんでしまう」
「そんなこと、ありはしないんだけどね。テツ兄だって檻の中にいるわけじゃないんだから、誰かと出会う。
そして、私たち2人以外の誰かと親密になるかもしれない」
「本当は檻の中に入れたいんだけどな、私は」
「それは同感。ま、テツ兄はそれを望まないだろうからやらないけどね」
「難儀なことだな。愛する人を持つというのは」
「難しいから、楽しいんじゃん。その方がやりがいがあるってもんよ」
「そうだな……明菜にはその調子で難しいテストにも挑んで欲しいところだ」
「お断り。テツ兄以外のことでエネルギーと頭を使うなんてごめんよ」
「だからスポンジ頭なんだ、お前は……ん?」
耳障りな振動音。リカは一度体を震わせてから、携帯電話を取り出した。
「なに、どうかした?」
「メールが届いている……しかも、テツから」
明菜はリカが持っている携帯電話の画面を覗き込んだ。
送信者名は哲明。リカの携帯電話のアドレス帳には哲明のメールアドレスももちろん登録されている。
メールアドレスが間違っていることはない。携帯電話を誰かにいじらせたこともない。
メールの本文には、哲明が書いたらしい文章が綴られていた。
その文章もなかなかに忌々しいものではあった。
だが、たった今送られてきたメールにはさらに不愉快なものがくっついてきていた。
携帯電話で撮ったらしき朝倉直美の写真と、『俺の彼女です』というタイトル。
「……やっぱり問答無用でヤってやろうか、朝倉のやつ。
テツ兄がこんな馬鹿なメールを送るはずがない。嫌がらせのつもりかしら」
「うむ。文章だけならともかく、画像はな……タイトルもありえない。やはりこのメールは朝倉が送ったということだな」
「問題は、どうやって送っているか、ね。メルアドはテツ兄のやつだし。
タイマーメールじゃ画像は一緒に送れないように、電話会社の設定でなってるし」
「もしや、テツの携帯電話にハックとかクラッカとかいうのをしているとか」
「それを言うならハッキング。でも、PCじゃあるまいし経由して送るなんて……できるのかしら?」
「私は知らないぞ」
「最初から聞いてないし期待もしてないわよ」
2人の会話はそこで途絶えた。
こうなっては明菜にもお手上げだった。
明菜の知識は携帯電話のネットワークの深淵まではカバーしていない。
朝倉が送っていることは間違いない。だが、送信方法がわからない。
「どんなトリック使ってやがんのよ、あの女……」
明菜がつぶやいたその時、部屋のドアがノックされた。
2人が会話しているのはリカの部屋。姉妹は同じ部屋にいる。
ということは、姉妹以外の人間がノックをしているということだ。
この家にいる人間は、姉妹の他には一人しかいない。
「テツ兄?」
「あ、明菜か? ちょっと俺の部屋に来てくれないか?」
「いいけど……なんで? あ、もしかして……とうとう」
明菜は期待に顔をほころばせた。だが、すぐに表情は曇ることになる。
「携帯が見あたらないんだ。ちょっと探すの手伝ってくれ」
「またあ? ……あ、でも、もしかして。――わかった、すぐに行くよ、テツ兄」
「ああ」
携帯電話が見あたらない、と哲明は言っていた。
しかし、ついさっき哲明のメールアドレスでメールが送られてきた。
哲明以外の人間がメールを送った、ということは100パーセントの確率で確定した。
そして。
「もし今、テツの携帯電話が見つからなければ、それを朝倉が持っているかもしれない、ということだな」
「そうよ。それなら、さっきのメールだって送れるわ」
姉妹は部屋を飛び出して、哲明の待つ部屋へ向かった。
部屋の中は哲明の机以外、今朝明菜が見た光景のままだった。
「テツ兄、最後にケイタイを見たのはいつだった?」
「たしか学校だったかな。メールが届いてないか見て、それから……どうしたか覚えてないんだ」
「ふうん。ちょっと電話でもかけてみましょうか。知らない人が出るかもしれないし、ね」
明菜は自分の携帯電話を使って、哲明の番号に電話をかけた。
呼び出し音が携帯電話の受話器から聞こえてくる。着信音も、振動音も聞こえてこない。
いつまで経っても電話の相手は出ようとしない。
明菜は笑みを浮かべたまま、うんうん、とうなずいた。
「ふふん。出られるわけがないわよねえ。これはもう、確定かしら?」
明菜は通話終了のボタンを押して、携帯電話を折りたたんだ。
「リカ姉、決まりよ。テツ兄のケイタイは今――」
そして、決定的な一言を言おうとした。だが。
「あ、あった!」
突然の兄の言葉に遮られた。見ると、哲明が学生かばんの中から携帯電話を取りだしていた。
「あ、電源が切れてる。どうりでなんの音もしないわけだ」
「え〜〜、何よそれえ。もう、どうなってるわけよ!」
明菜がうめくのも無理はない。哲明の携帯電話は朝倉直美の手にある、とほぼ確信していたのだ。
だが、携帯電話は哲明の手の中にある。
明菜は八つ当たり気味に二段ベッドの下にある、哲明用のベッドへ身を投げた。
「だー、もう! わっけわかんないわよ、あいつ魔術師か何か? テツ兄、どういうこと!?」
「どういうことも何も……なんで明菜が怒ってるんだよ」
「テツ兄にはわかんないよ、ふん!」
明菜は完全にすねてしまった。哲明のにおいが染みこんでいる枕に顔を埋める。
哲明は妹の様子に首をひねるばかり。
そして、リカはというと――薄く笑っていた。
「明菜、さっきの電話で、コール音がしていたな?」
「うー、あー……うん」
「しかし、テツの携帯電話の電源は切れていた。
それなら普通、コール音は鳴らない。代わりに録音を促すメッセージが流れたりするはずだ。
これから、何がわかる?」
「えーっと……まあ、そういうこともあるんじゃないの? 電話会社の機械が故障してるとか」
「そうではない。そういうことではなく――さっき、明菜の電話はテツの番号に繋がっていた、ということだ」
「は? ……頭いかれてんの? だって、テツ兄のケイタイはここにあるじゃん!」
「お前はデジタルには強い。だが、物事を整理して考えるのは全然駄目だな。
だから私の担当する国語で赤点ギリギリの点数しか取れないんだ。頭を使え、頭を」
「あんたに言われたくないわよ! このアナログ即物女!」
再び枕に顔を埋めた妹から目を逸らし、リカは哲明と向き合った。
「テツ。昨日変なメールが届かなかったか?」
「あー、あれ。俺が朝倉さんと付き合いだしたってメールについて、友達に聞かれたよ。
変だよな、俺そんなメール送ってないのに。なんで俺に聞いてくるんだろ」
「なるほど……ありがとう、よくわかった」
リカは哲明からも視線を外すと、天井を見つめた。脳内に思考を巡らせる。
リカはデジタルに弱い。だがそれは、デジタルの過程を理解できていないからだ。
過程さえ頭の中で理解できていれば、リカの脳は常人以上に機能する。
今、リカの脳内では朝倉直美のしてきたことが全てインプットされている。
朝倉直美がどうやってメールを送ったのか、これからどう動くかが、組み合わされていく。
「テツの携帯電話はここにある……電話は繋がっていた。
いたずらメールが送られたのはテツに携帯電話を返した後の時間……タイマーで送ることは可能。
昨日明菜に送られてきたメール……送ってきたのは友人……内容はいたずらメールについての話。
いたずらメールそのものは明菜には送られていない……それはわざと。
ばれることを恐れているわけではない……こんなことをすれば必ずばれる。
その上で朝倉がもし、『アレ』をしていたならば、タイマーであのメールといたずらメールを送る。
そうすれば、テツ宛に友人からのメールが送られてくる。
だがこれは、長くもつ策ではない……期間が限られている。
私ならば、いや誰でもその前に動く……ばれる前に、必ずテツに接触してくる。
それなら、あえてこちらから動いてやれば、逆転のチャンスが生まれる。
ふふっ、はははっ。わかったぞ、明菜!」
リカの顔がベッドに横になる明菜へと向いた。
明菜は、姉の顔を珍獣を見るような目つきで眺めていた。
「ンな長い独り言ぶつぶつ言ってると、気持ち悪いんだけど。……何がわかったのよ」
「どうやってあのメールを送ったか。そして、これからどう動くかも、な」
「え……マジ? なんで? あと、これからどうすればいいの?」
「まあ焦るな、物事には順序というものがある。詳細は作戦と同時に話してやる。その前に……テツ」
ゲームでもやろうとしていたのか、哲明はテレビの前にいた。
ゲーム機のコントローラーを右手に持ったまま、電源を入れようと身を乗り出している。
「ん、何?」
「明日は何か用事が入っているか?」
「あいにく予定なし。あ、暇なら3人でプールにでも……」
「それは来週に持ち越ししよう。それより明日暇ならば、デートをしろ。――朝倉直美と」
部屋を沈黙が支配した。
このときの明菜の顔は、姉への何を言い出すんだという思いと、脳内の哲明と朝倉直美が腕を組んだり
同じグラスに入ったジュースを飲んだりキスしたりしている想像のせいで、奇妙に歪んでいた。
哲明は身を乗り出した不自然な姿勢に耐えられなくなったのか、その場に座り込んだ。
明日は9月2日、日曜日だ。
天気予報では、明日のこの地域は晴れのち曇り、ところにより雨だと言っていた。
デートするには微妙だが、悪い日和でもない。
リカは明日、無理矢理にでも哲明と朝倉直美をデートさせようと考えている。
――明日朝倉直美を罠にはめなければ後日、実力行使しなければいけなくなるからだ。
第4回はこれで終了。そして次回へ……。
リアルタイムGJ
GJ!!!!!
今回は姉妹二人の朝倉女史の奸計に対する推理考察が素晴らしい!
特に今まで散々マロ姉、マカ姉とバカにされてきたリカ姉が別人のようだ…
次回の展開にwktkせずにはいられないっ!
やべー・・・俺どうやってメールを送ったのかわかんねーよ
お前らわかる?
GJ!!!!!
これは携帯が2つって事なのかな?
SIMカードかな、とか思ってみる
隠れ弱気っ子のリカ姉いいなぁ・・・
携帯のトリックはメ欄かな?
昔ホームアローン観たとき電波回線ジャックってのがあったけどそんな感じじゃね?
アセリアのキモウトが成長して美化されたんだが
策略を感じてしまう
策略おもしれえw
結託したキモ姉妹の逆転も楽しみだ
携帯の機種と色が同じものをもう一つ用意して、テツの携帯だと偽ってテツに返せばいいんじゃね?
そしたら番号とかアドの件は解決するし。テツの携帯に繋がったのも頷ける。
後はばれないように、少しいじくればいいだけだろ。
なんか推理物っぽくて新鮮だなw
続きをwktkしつつ待ってます。
キモウトssを投下しようと思う。
…どうやって題名入れるんだ?
少し前にFOMAカードのフォーマットミスとかコピーの件が話題になっていなかったか?
>>918 ありがとう。
じゃあ、駄文を投下してみる。暇だったら読んでくれたらうれしい。
920 :
桜の網:2007/08/13(月) 19:58:37 ID:+3xLz44g
感情が行動に起因するものだというものは知っていたけれど、
行動によって感情が知らされるなんてことは僕の十八年の短い人生の中では一度もなかった。
十八歳、成人までもう少しであり、ある程度の解禁をむかえる夏。
悠太はこの人間を焼き殺そうとしている太陽の下で―――凍りついていた。
目の前には日傘。淡い水色の中に白いバラのような刺繍が見える。
柄のところは木製で、上等な樹から作られているのだろう、木の色は鈍いながらもしっかりとしていて、とても高価に煌く。
ニス等を塗って光らせているようなものではないと素人にもわかって、
悠太はもしかしたら、太陽の光を和らげているのは、高級さも輪をかけているのかもしれないと思った。
傘の下にはフリルのドレス。白を基調としたシルクは太陽の下にあるのが不自然なはずなのに、なぜかそこにあるのが必然であるかのように輝いていた。
ヨーロッパのお姫様。
この形容が正解で、もしここにいる人間がそうだとしたら、驚きこそするけれど何とか力になってあげようと悠太は思う。
質問には喜んで答えるし手助けもしよう。道案内だって惜しまない。なんなら大して力が強いわけではないけれど、護衛だってしてもいい。
でも、今彼に向かってにっこりと微笑んで、先月骨折したばかりの右手をギブスの上から思い切り右足で蹴りつける彼女は―――妹だ。
「兄さん、今日はどちらへいかれるのですか」
睥睨。少女は射殺すように見る。だが悠太は、返事をすることができなかった。
彼女がドレスのことなど気にもせずに放った回し蹴りで呻いていたから。
この炎天下にドレスという不釣合いな格好に輪をかけて恐ろしい行動をする実の妹。
「桜」
せめて名前だけでも呟いて、桜の質問に答える意志があることを示さなければならない。
悠太はあまりの痛さにコンクリートのど真ん中で蹲っていたけど必死で答えた。
「兄さん、私にはわかりません」
くるくると回される日傘。それは桜の機嫌がいいときに出る癖で、決まって兄に関すること。
事実、機嫌がいいのだろう。
このような奇行、常軌を逸してはいる。だが、悠太はわかっていた。
これが悠太のことを心配して起こることだということを。少しばかり兄思いが過ぎるが。
「なぜ、外に出て行かれるのです。この暑苦しい太陽の下へ。屋敷にいればいいではないですか。
もし足りないものがあればすぐに用意しますのに。まあ確かに、たまには外に出たいという気持ちもわかりますが」
921 :
桜の網:2007/08/13(月) 19:59:22 ID:+3xLz44g
悠太は桜を見る。
美人だと思う。綺麗なロングの黒髪に、透き通るような白い肌。
髪は腰元まであり、風がそよそよと彼女の髪を揺らす。ここだけ見ればとても愛らしいことは間違いない。
ドレスではなくて着物を着ていれば、大和撫子と表現してもいいだろう。
下世話なことではあって、兄としてみてはいけないことだけれど桜は胸だって豊かだ。ドレスいっぱいに開いた胸元は健康的な色気を放つ。
これが肉親でなければ悠太とて、ずっと側にいてもいいのだが。いかんせん妹ではいささかムードがない。
「夏休みも、もう終わりなんだ。たまには遊びにいかせてよ」
そう、悠太は高校三年生の夏休みの八月半ばまで屋敷から一歩も外に出ていなかった。
外に行こうとすると、どこからともなく、桜はもちろん、使用人、執事、ガードマンが屋敷に連れ戻した。
その後は、桜によるお仕置きである。悠太はこれが嫌でたまらない。
「兄さん、何も私は遊びに行くな。なんてこと言ってはいないのですよ。ただ、私に無断で行くというのが気に入らないだけで」
「言ったじゃないか、白石さんの家に行くって」
「許す、とは言っていませんよ。それにしても、白石、あのご老人ですか。確かにあの方は、とても穏やかな人ではありますが…」
桜の目が険しくなる。もともと釣り目気味の目が更に鋭く、美人がこういう顔をすると、その筋の人にはたまらないものがあるだろうなと悠太は思った。
「あの女もいるのでしょう?」
「あの女?ああ、亜美のことか」
刹那、桜が悠太の腕に足を置く。まだ蹲ったままだった悠太の格好からすれば、
なんだか女王様にしつけられているみたいに思え、実際、桜が足に力を入れればまた激痛が悠太を襲うだろう。
「その名前は兄さんが口にしてはいけませんよ。口が穢れてしまいます」
「穢れるって…、そんなに邪険にしたらだめだよ。同じ、妹だろ」
ごりっ
「あああああああ」
悠太の叫びが木霊する。桜の足が悠太の腕を踏みつけていた。
「同じ?あははははははははははは。兄さん、何言っているんですか。同じなんかじゃないですよ。だって、私は人間で、あの子は猫でしょう?」
悠太はやめて、やめてと叫ぶ。おそらく桜が喋っている声は聞こえていないのだろう。
ただ自分の腕を桜の足からはずそうと必死にもがく。
桜は、喋りながらもしっかりと悠太を見ていた。自分に懇願する兄の姿を。
高校生にしては幼い顔の兄。女性的とも言える彼の顔は、学校でも人気があるようだ。
事実、屋敷にも何回か女からの電話が何回かかかってきていた。
もちろん、ソレは処分したけれど人気がある、ということに関しては桜も納得してしまう。
顔は整っていて、かっこよくもある。が、美形と表現は適切ではないだろう。
ただ、庇護欲はそそるものがある。なんだか守ってあげたくなる小動物特有の目。
加えて今の表情。前述とは矛盾するが、いじめてみたくもなる。なんだか、泣く姿が見たくて。
桜からすれば、このギャップが麻薬であった。
兄という自分よりも年上の男が、そして肉親が私に哀願するこの姿。
なんともそそるではないか。
「私の側を離れる時は、私が納得できる理由、離れているおおよその時間、そしてそれに伴う代償が必要だと教えたでしょう。
加えて、GPSと発信機、盗聴器をいつもの二倍はつけないといけませんのに。なぜ兄さんは守ってくださらないのですか」
きっと、兄はあまりの痛さに聞いていないのだろう。でもそれがいい。
まだ完全に感知していないのに病院の院長に金を渡して、退院させたかいはある。
西園寺財閥、なんて忌々しいこと意外に思うことなど何もなかったけれど、多少は役に立つものだ。それに関しては感謝してもいいだろう。
桜は屋敷に連れ戻すためにガードマンに命じて車にあまりの苦痛に気絶した悠太を押し込むと、意気揚々と車に乗り込んだ。
922 :
桜の網:2007/08/13(月) 20:00:30 ID:+3xLz44g
暗い地下室。わずかな光はぼんやりと壁を写している。窓はない。喚起のための小さな穴のようなものはあるが、
そこから風を感じることはなかった。ゆえに臭いはこもっている。すえた臭い。
「脱いでください」
桜は、悠太に命令した。悠太は言われたとおり脱ぎ、トランクス一枚になった。
「いい眺めですね、兄さん」
桜の格好はドレスではない。ゴスロリ、というのだろう。黒と白をベースにした人形に着せるような服をまとった桜。
豊満な体の彼女が着ると、なんだかエロティックに見えないこともない。なんだかここだけ異空間みたいだなと悠太は思った。
「すいません、兄さん。このようなことしたくはないのですが、掟ですから」
「わかっているよ。早くしよう」
桜は鞭を取り出した。だらんとした鞭が地面につく。結構な長さだ。おそらく悠太の身長ぐらいはある。
そして桜は鞭を思い切り悠太に向けて振るった。
ビチィ
「―――痛っ」
男にしては白い肌に、赤々としたものが点々とつく。すでにいくつもの赤点がついているのは、悠太が以前にお仕置きされた時のものだ。
悠太が外出するというのは、正確に言えば別段変わったことではない。
華の高校生。外出などやってしかるべきだ。桜も、兄が出かけるというのを推奨こそしないものの止めたりしたことは夏休み前まではしたことがなかった。
ある日、桜は悠太が出かけるというので、どこに行くか尋ねた。すると兄は街に買い物に行くらしい。桜は自分も同伴していいか訪ねた。悠太はにこやかに了承した。
暑い空の下。二人は街までやってきた。悠太は新たな夏物の服が欲しいといっているので、まず衣服を買いに行った。
店は主にカジュアルな服が多く、悠太には似合いそうなものが数多くあった。女性用の服もある。
桜は、ここで兄の服を見立ててあげたり、見てもらったりしようと決めて、先に自分用の服を買いに女性用の服を選びに行った。
しばらくして服を二、三着もって悠太のもとに帰ってくると彼は一人ではなかった。
「あれ、悠太。この子、誰」
「ああ、妹だよ」
「妹?亜美ちゃんじゃなくて?」
「うん。まあ、ちょっとね」
女は悠太の腕を取り、絡めている。悠太は困ったようにしているが、女は決して離そうとはしなかった。
桜は、自分の心から沸き起こる黒いものに気づいたが、兄の手前、平静を保った。
なぜこの化粧の濃い女は、兄さんの腕を取っているのだろう。女との距離は二、三メートル離れているのにここまでくさい香水の臭いが届く。
「兄さん、彼女、なんですか」
「いや、違うよ」
笑いながら悠太が言う。女はそれを聞いて甘ったるい声で、ひどいなあ悠太は、などといっていた。
それから女は用事があるとかで帰った。塩でも撒きたかった。
もう桜は洋服を悠太に見立ててもらうどころではない。ただ、不快感だけが付きまとっていた。
店を出て、今度は喫茶店に入る。
なんとなく桜は悠太に話しかけることが出来なかった。しかし悠太はそれに気づいていないようで、満面の表情で桜に微笑む。
そして、桜が悠太に話しかけようと口を開きかけた時、さらに不快な出来事は起こった。
923 :
桜の網:2007/08/13(月) 20:01:07 ID:+3xLz44g
「あれ、悠太君?」
「あー、本当だー」
「え、あー、悠太ぁ」
今度は女の三人組だった。おそらく悠太の友人なのであろう。甲高い声が店内を包む。
悠太は少し桜に申し訳なさそうに、けれど友人に向かって話しかけていた。
これだけでは、止まらなかった。悠太は驚くほど友達が多い。それも女が。
街に出れば女友達と会うし、家にだって電話をかけてくる。
だから桜は、悠太の交友関係を絞ることにした。というより、夏休みに入ってあまり外に出られないようにした。
理由は、西園寺家次期当主の仕事が山ほどあるということにして。
これは、半分本当でもう半分は嘘だ。
次期当主、になるのはたぶん桜本人だろう。生まれた時から西園寺の一人娘として育てられた彼女は、
この間まで西園寺の息子ということを知らなかった悠太よりもはるかに内情に精通しているし、大きな声では言えないが父親は、悠太を疎んでいる。
となれば、当主は決まったようなものだ。
実は悠太は、このことを見抜いていた。
最近までここにいなかった自分が当主になどなるわけがないと悟っていた。
だが、桜に対し負い目はある。いくら、自分が西園寺の息子であるということを知らなかったとはいえ、
この屋敷に一人で十年間以上も桜を置いていたのだ。自分に何も非がないなどとはいえない。
悠太は極力、桜の仕事を手伝った。それは西園寺財閥というものの姿と大きさを理解するものから、中小企業などの仕事に関連したものなどさまざまだった。
悠太は、今までこのようなことを一人でやっていたのかと桜に問うと、桜はあいまいに頷いた。
このように、負い目を感じていた悠太であるから、桜が細工をするのも簡単なものだった。
その際たるものが、お仕置き。
先に言ってしまえば、そのようなものは西園寺家にはない。
というのも、桜が勝手に作り出したものなのだ。
悠太は幼い時からこの屋敷で育ったわけではない。だから、この西園寺という家のことを良く知らなかったのだ。
桜がこの家のことを教えると、そうなのかと信じたし、しきたりや掟があれば黙って従った。悠太は常識も良識もあったが、人を疑うことには疎かった。
続いて、外出の許可制。電話の録音。どんどんエスカレートしていく。
そして、最後には簡単には悠太は桜の側を離れることが出来ないようにした。その時には悠太が外に出られるのは、桜の目を盗んだときだけになっていた。
ビチィ、ビチィ
暗い部屋に音だけが木霊する。
桜はお仕置きの時間、とても幸福感に包まれる。鞭が赤い螺旋を刻む時、兄が自分だけの物になったかのような錯覚に陥るからだ。
マーキング。
桜がつけた傷。桜によってつけられた跡。それが兄を縛る。桜の愛情が兄を縛っている。
ああ、兄さん。兄さん。誰にも、誰にも渡さない。
桜は、半日ほど兄を嬲った後、眠ってしまった兄を見て、幸せそうに赤く腫れた肌に舌を這わせた。
悠太に意識はないのに、桜は堪えきれずに悠太のトランクスを脱がした。
924 :
桜の網:
西園寺桜。
高校一年になったばかりの彼女には、人より少しばかりの不遇な環境があった。
まず桜は父親を知らなかった。もちろん、いないわけではない。
しかし、西園寺財閥という大手企業から中小企業、分野は農業などの第一次産業からサービス業まで携わっている会社の社長をしている父親は、
娘が生まれたというのに一度も会いに行くことはなかった。
桜が生まれ、現在の十六歳になるまで一度も対面したことがない。
だからもし、桜が父親と会うことがあっても、桜自身が気づけないであろうことは想像に難くないだろう。
母親もそんな父親に対し、諦観の念が強かったので彼に対して何か言うことはなく、自分ひとりで育てていこうと決めていた。
母は父親の気まぐれで抱かれた女の一人であり、彼女はそれを知っていたというのもこの気持ちの起因するところではある。
ただ、母親が桜を捨てなかったのは、彼女の少しばかりの夫に対する抵抗であった。桜の父が母親と結婚したのは惰性だった。
そんな母であったから、彼女は桜には愛情をたっぷりと注いだ。
起床から就寝まで常に桜の側にいることはもちろん、欲しいもの望むもの、そして時には躾も心を鬼にしてやったように思う。
だが、桜が四歳の時、母は死んだ。突然の心不全だった。
桜は親戚の顔も見たことがなかったから、それから独りになった。
これは桜にとって相当、堪えた。まだ愛情を渇望する時期であった桜は、甘い蜜をもらってからそれを理不尽に取り上げられたのだった。
財閥の一人娘、というのに齟齬があると気づいたのは小学六年生の時。リムジンという趣味の悪い黒光りする車の中、執事が言った一言が発端だった。
「もうすぐ、中学生ですね。早いものです。桜様は将来なりたい職業などがおありなのですか」
執事の長谷川がいった言葉に桜は始め、何も答えなかった。
どうせ、会社を継げといわれるに決まっている。
女という性別であったことが、会社に反映される世の中ではもうない。
一昔前であったなら、有望な企業などに花嫁などとして忌々しく送りつけられているだろうが、今は違い女社長という立場は珍しくなどはない。
だから、当然後継者となると思っていたから、何気なく長谷川に言った。
「私には、決まった道筋しか用意されていないのでしょうに。どうせ将来は会社を継ぐことになるでしょう」
「それは…なぜです。別に決まってはいないでしょう。後継の心配はないのですから」
長谷川は、雇われただけのただの人間だったが、とても甲斐甲斐しく桜を育てたといってもいいかもしれない。
小学六年生というこのときまで、桜の信用できる人間は、長谷川だけであったし、また長谷川自身、桜を娘のように思っていた。
だからではある。後継の心配はないという失言をしてしまったのは。
「後継の心配がない…とは、どういうこと」
長谷川は桜の質問に答えることが出来なかった。桜に対してくれぐれも、他に兄妹がいないことを知らせてはいけないといわれていたからだ。
桜の顔は驚きに染まっていた。
ぼんやりと景色を眺めていた状況とは打って変わって、重い空気が車内に立ち込める。
桜が、変わったのは長谷川から「後継の心配はない」と聞いた後からだった。
屋敷の使用人の誰に聞いても、意味がわからない、知らない、聞いたことはないと言う。
長谷川ではない執事に父親に連絡を取らせ、事の真偽を確かめようともしたが、父親には繋がりもしなかった。
そして、桜は執事などを通しても事実が更に隠蔽されることに気づく。
小学生としてここまで生きてきたが、これほど自分が馬鹿だということを恥じたことはなかった。