エロくない作品はこのスレに6

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252名無しさん@ピンキー:2006/09/24(日) 00:42:36 ID:rCMNbDSN
挙げる
253名無しさん@ピンキー:2006/09/24(日) 06:38:50 ID:v5uVX3o/
今書いているのがエロくならなければこちら借りるかもしれません。
254名無しさん@ピンキー:2006/09/24(日) 21:13:07 ID:NCBwBppf
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255名無しさん@ピンキー:2006/09/24(日) 23:00:35 ID:6yxmzQTg
>>253
wktk
256名無しさん@ピンキー:2006/09/28(木) 21:53:27 ID:RCJiJeFU
間が空いてしまいましたが、火と鉄…の続き投下させてもらいます。
なんとか今年中に終わらせたいなあw
257火と鉄とアドリア海の風・第十七回1/14:2006/09/28(木) 21:54:54 ID:RCJiJeFU

1.
九月の南イタリアは、暑い。
空は目が痛くなるほどの青空。太陽は遮る物もなく、ひたすら照りつける。
街道は土埃が巻上がり、刈り取りが終わった畑は乾ききってひび割れている。
そんな風土はそこに住む人たちに独特の容貌を与えた。もちろんモンテヴェルデ人も例外ではない。
ノルマン由来の青白い肌はいつか赤銅色に焼け、金色の髪は褐色に変わった。
幼い頃から強い日射しに曝され、自然と色が抜けた赤毛や栗毛は美人の証でもある。
(それゆえヒルデガルトのような生来の金髪碧眼が珍重されるのだが)
しかし、今焼かれるのは乙女の髪ではなく、鉄だ。
黙々とトルコ軍を待ち受ける、甲冑姿の兵士たちである。

やがて陽炎の立ちのぼる平原の向こうに騎馬の影が現れた。
その数は一つから二つ、やがて数十へと膨らみ、城門へと向かってくる。
「コンスタンティノ殿、戻られました!」
物見の声がアルフレドの耳にも届き、彼は目の前の紙片から視線を上げた。
アルは四つの軍団からなるモンテヴェルデ軍の一軍団長として、城壁の南側を担当していた。
ここ数日、彼は城門のすぐ脇にある教会で兵士と起居を共にしている。
その教会は十一世紀にオリーブ圧搾業者の寄進によって建てられた、町でも由緒あるものだ。
いつもなら僧侶が瞑想や散歩に用いる中庭とそれに面した回廊が、アルの本営だった。
そこは明るく、町の喧噪からも遮られ、中庭に植えられた植物が僅かなりと心を慰めてくれる。
また教会の鐘楼は城壁をしのぐ高さがあって見張りも置けるなど、何かと都合がよかった。

兵士の報告を聞いて程なくして、表通りの方から人の声や馬のいななきが聞こえてきた。
閂を抜く音、扉の開く音が木霊し、大理石の床を叩く甲高い足音が近づいてくる。
アルが出迎えに立つ暇もなく、甲冑姿のコンスタンティノが回廊に入ってきた。
彼は今ではアルの副将である。
「成果は?」
「北へ延びる街道で、トルコの騎兵とやり合ってきた。三十騎ほどだ。
確認した敵の死骸は十三。こっちは二人やられて、一人怪我をした」
「あなた自身は?」
「二人斬った」
アルの期待を込めた目に、コンスタンティノは誇るでもなくそう付け加えた。
傍らの小姓に脱いだ兜を渡すと、断りもせずアルの隣に腰掛ける。
その髪は汗で額に張り付き、顔は泥と血で汚れていた。
戦場から帰還したままの殺気に、アルはかけようとした言葉を飲み込む。

コンスタンティノは荒っぽくワインを杯に注ぐと、一気に飲み干した。
口を手で拭い、ため息を一つ吐く。
「……馬鹿どもが『追撃する』と言って聞かなかったが、なだめすかして引き上げた……。
それでいいんだったよな?」
「ええ、偵察や略奪を妨害してくれれば……それで敵の様子は?」
アルも改めて隣に腰掛けると、机に地図を広げた。
そこには新しい筆跡で、モンテヴェルデ軍の布陣と、トルコ軍の位置が描き加えられている。
トルコの上陸地点は町からほぼ馬で一日の距離。
町の近くは守りが固く、遠浅で上陸には適しないことを、先日の経験からトルコ側も学んでいた。
「宿営地から大砲を運び出そうとしているようだった。かなりの数の牛馬が集められていたぞ」
「トルコのあれは重いですからな。配置につく前に地盤を確かめ、陣地を築き、弾薬を集積する……
本格的な合戦になるのは、あと一週間から十日後といったところでしょうか」
コンスタンティノが振り返る。
いつの間にか、後ろにフランチェスコが立っていた。

258火と鉄とアドリア海の風・第十七回2/14:2006/09/28(木) 21:55:20 ID:RCJiJeFU

「このまま敵の斥候を妨害していただきたい。こちらには地の利があるのだから、出来るでしょう?」
天気の話でもするような様子からは建築総監としての威厳は微塵も窺えない。
「地の利『しか』無いがな。数も精強さも向こうが上だ。言われなくても決戦など出来んよ」
皮肉めいた笑いを上げながら、コンスタンティノは杯を再び持ち上げた。
『決戦』論はモンテヴェルデの貴族や騎士層を中心にいまだ根強かった。
アルやフランチェスコは予定通り持久戦の方針を貫くべきと主張し、評議会は紛糾した。
だが最終的にはヒルデガルトが持久戦を支持し、方針は決まった。
すなわち、町に立て籠もり同盟国の救援を待つ、と。
しかしオートラント奪回が優先される今、モンテヴェルデのような小国に救いが届くのか……。
誰にも確言は出来なかった。

「このまま奴らの偵察が失敗して……出来れば稜堡に気づかないでくれればいいのだが」
稜堡の詳細や、町周辺の地勢を知らずに大砲を据え付ければ、それだけ砲撃の威力は削がれる。
例えば平坦ではない地形や緩い地盤は、砲の命中率に大きく影響するものだ。
トルコ人が不利に気づいて砲の再配置を決めれば、それだけで一週間は砲撃不能になる。
斥候同士の小競り合いが籠城戦の成否を決定するかもしれないことは双方が理解している。
その戦いは、小規模だが常に凄惨だった。

だが、フランチェスコの楽観を歴戦の傭兵は軽く笑い飛ばした。
「あんなデカイものに気づかない方がどうかしている。トルコ人は盲だとでも思ってるのか。
戦は本で読んだとおりにはいかんぞ」
コンスタンティノは空になった杯を振って見せる。
「それはウルビーノ公によく言われましたよ。一四七八年です」
フランチェスコは懐かしい思い出でも語るように呟きながら腰を下ろした。
「……お前さんもポッジボンシに居たのか」
「ええ。技師としてね。あなたの『凶暴騎士団』の噂はよく耳にしたものだ」
コンスタンティノは意外そうな目を向けるコンスタンティノに、フランチェスコは含み笑いを漏らす。
その顔は、「噂」が決して良い物ばかりではなかったことを表していた。

「ふん……で、こっちがスカラムッチャ(小競り合い)の間に、あんたらはお勉強かい」
傭兵隊長の視線は、机の上に散らばった紙片へと向けられていた。
建物や柱、歯車装置、裸体や動物の図。その横にはびっしりと手書きの字が書き込まれている。
「なかなかマエストロがご自分の『建築論』をまとめる時間がないからね……。
時間が空いた時に少しでもお手伝いしておこうかと思って。ついでに写しも作ってるんだ。
マエストロが滞在した証を僅かでも残したいし、戦のためだけに働いて頂くのはもったいないからね」
「ほう、こいつァお前の手か。なかなか器用に描くじゃねえか。絵心あるぜ」
コンスタンティノが取り上げた紙片を見ながらそう言うと、恥ずかしそうにアルは頭をかく。
その仕草に、コンスタンティノはまた鼻を鳴らした。

259火と鉄とアドリア海の風・第十七回3/14:2006/09/28(木) 21:55:42 ID:RCJiJeFU

「――ま、兵士の手前、将軍がぶるってないところを見せるのもいいかもな」
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
そう答えながらアルはコンスタンティノの杯に酒を注ぐ。
すると突然、コンスタンティノの鉄の手がアルの手を掴んだ。
「……アル、やっぱりお前今日はもう部屋に戻って休め」
声は低く、目は伏せている。
「手が震えてるぞ」
さらに強く握ってくる手を、アルは強引に振り解く。
彼の柔らかい手にコンスタンティノの鎖帷子が赤い跡を残していた。

「何、恥じることはない。私だって怖い。それにあなたが責任を負うのは……」
「慰めはやめてください!」
フランチェスコの言葉を、アルは激しく遮った。
周りの幕僚が何事かと立ち止まる。その視線をコンスタンティノは素早く察した。
「……さ、もう仕事は終わりです『閣下』。後は我々に任せてお休み下さい」
自ら立ち上がりながら、アルを出口へと促す。アルも逆らおうとはしなかった。

だが、二人の歩みは聖堂を出ようとしたところですれ違った伝令兵に遮られた。
「アルフレドさま。至急五指城の方へお越し下さい」
馬を飛ばして来たのか、兵の息は荒い。
アルが答える前にコンスタンティノが尋ねた。
「何か重大事か」
叱責されることを予感したのか、兵士は軽く頭を下げた。
薄暗い聖堂に、彼の息づかいだけがしばし響く。
「……大公陛下が、意識を取り戻されました」「陛下が?」
アルの驚きにつられて、中庭の幕僚や僧侶たちが聖堂を覗き込んだ。
コンスタンティノが睨みつけると、野次馬はたちまち顔を引っ込める。
だがアルの声は建物に木霊し、残響はいつまでも止まなかった。
「殿下とお話がしたいと仰っておられます。摂政殿下もお待ちです。お早く」
同時に見つめ合うアルフレドとコンスタンティノ。
傭兵隊長が小さく頷き、アルは伝令について教会を出た。


260火と鉄とアドリア海の風・第十七回 4/14:2006/09/28(木) 21:56:01 ID:RCJiJeFU

2.
アルフレドが通されたのは謁見用の広間ではなく、大公の寝室だった。
この部屋に入ったことは、帰国以来一度もない。
ヒルデガルトと共に入った時、真っ先に感じられたのは染みついた薬の匂いだった。
閉め切った部屋のむせるような湿気と暑さの中、大公は長椅子に横たわっている。
重ねた枕に上体を預ける様子は、つい先ほどまで死人同然だったことを窺わせた。
「下がっていてくれるか……三人だけで、話がしたい」
傍らの医者が素早く退出する。部屋の扉を再び閉めると、重苦しい空気が戻ってきた。
それは決して部屋の悪臭や湿気のせいだけではない。
自分を無感動に見据える大公と背後からのヒルダの視線に、アルは動くことが出来なかった。

「陛下」
「こうしてお前と話をするのも、ずいぶん久しぶりだな。いつ以来だ?
お前が身分を偽って槍試合に出た時以来……いや、それより前だな。お前が城に帰った日以来か」
快癒の祝いを口にするより先に、大公はそう言って一人で頷いた。
反射的に跪き、臣下としてふさわしい礼儀を示そうとするアルに、大公は言葉を続けた。
「わずかな間にずいぶんと偉くなったものだ。今では……その紋章を身につけているのか?」
そう言いながら大公の指さすのは、アルの羽織る外套の肩口だった。
そこには大公家の紋章が小さく描き加えられた「オプレント」の紋章が描かれている。
通常、近親者にしか許されない紋章の付与。それは大公が不在の間に決まったことだった。

大公の質問にどう答えるべきか、アルが考えているうちに彼は納得したように頷いて見せた。
アルには汗を拭うことすら出来ない。手足を沈黙の鎖が縛っていた。
傍らに立つヒルダが、まるで法廷の警吏のように思える。
言われるまま城に赴き、大公の言葉を待つ。これが裁きでなく何なのか。

「……もうしわけ……」
「ん? 何故だ、何故謝る? お前のしたことはここにいるヒルダと評議会の決定なのだろう。
ならば謝ることはない。私も領主として、一軍の大将をずっと跪かせているほど無礼ではない。
立て。そしてこちらに来てくれ。普通に言葉を発しているようで、これでも随分な苦労なのだ」
言われるままにアルは立ち上がり、大公の枕元に近寄る。
大公の指がアルに顔を寄せるよう告げる。アルは素直にそれに従った。
「国を追放されている間、何があったのか――いや、言わずともよい。
随分人も殺めたし、盗みもしたし、女も知ったのだろう。お前の体は……そう、ひどく『臭う』」
とっさにアルは自分の体を見回していた。
無意識のうちに袖口を鼻に近づけるとたんに大公が顔を崩した。

「はは……いや、すまない。からかったつもりはないのだが。
何にしろ、大事なのはお前が何をしてきたかではない。何者であるか、という点だ」
一瞬、マッシミリアーノの視線がヒルダの方へと向けられたように見えた。
ヒルダの顔は、明らかに青ざめている。
それに気づいて、あえてヒルダに話しかけたかのようでもあった。
不意の沈黙の後、マッシミリアーノは再びアルに向き直った。
「お前は今や大兵を率い、かなりの臣下の支持もある……ジャンカルロの助けもあろう。
教皇猊下や大国の後ろ盾があり、正統性も申し分ない。
モンテヴェルデ公爵を継ぐことが出来よう――欲するままに」
アルはマッシミリアーノの口調から、怒りか何かが含まれていないか探ろうとした。
だが言葉は静かで、大公は唇を動かすことすら大儀だとでも言うように力無く身を横たえている。
「その代わり、失った物は多かろう。人や、財産や……そうだな、領土。違うか?
フェッランテやフェデリーコ卿、教皇庁がただで手を貸すほど善人とは思えんからな。
思えば、我が治世もどれだけ僅かな代価で相手の譲歩を得るか、それに腐心してきただけだった」
小さく息が漏れた。
「……今なら、お前にも分かると思う」

261火と鉄とアドリア海の風・第十七回 5/14:2006/09/28(木) 21:56:22 ID:RCJiJeFU

「どこで、そのことを知られたのですか? その、私がナポリ王やウルビーノ公と……」
アルが驚いて問い返すと、マッシミリアーノは初めて呆れたような顔を見せた。
「どこで、だと!」
鋭い叱責の声に身をすくめたのはヒルダだった。
マッシミリアーノがこんな顔をするのも、こんな声を出すのも、彼女には覚えがない。
大公の養女になって以来、ヒルダはマッシミリアーノの溺愛の対象であり続けた。
もちろんヒルダを養女にしたのは大公位を盤石にするため。それは誰の目にも明らかだった。
だからヒルダは公私を問わず彼を父とみなさなかった。
実の父母への想い、そして血の繋がらない男が大公家を乗っ取る事への反発。
ヒルダが時に露骨にそれを表にしても、マッシミリアーノは決して怒らず、諫めもしなかった。
形の上だけの愛情はあっても、彼は決してヒルダに感情を露わにしなかったのだ。
だが、今マッシミリアーノはアルフレドに感情を見せている。

ヒルダのとまどいをよそに、マッシミリアーノはアルの頬に手を当てる。
「いくつかの事実を指摘すれば足りよう。お前が追放者であり、無一文であること。
我が国が貧しい小国であること。ところがお前は軍を率い、多くの同盟国を連れて戻ったこと。
それが指すところは……分かるだろう。最も単純な可能性を受け入れば答えは自ずと定まる。
オッカムのグリエルモ(ウィリアム)も言ったようにな」
「確かに。もうしわけ……」
マッシミリアーノは笑ったようだった――だが、部屋の薄暗さが全てを隠した。
「なに、謝ることはないのだ。お前の軍団がなければこの国は守れぬ。
君主として礼を言うぞ。その支払いをその『君主』という肩書きで支払うことになるだろうが」
今度は明らかだった。
マッシミリアーノは二人にもはっきり見える笑みを浮かべた。
全て罠と知りつつ、足を踏み入れる余裕の笑みだった。

「陛下……弁解と思われるでしょうが……」
だが、大公はアルに釈明を許さなかった。
手で押しとどめながら、体を眠りやすいよう傾ける。
「統治者にはいかなる弁解も不要だ。私の死後は誰に愚痴を零したり弁解したりしようというのか。
とにかく、次の公爵の顔を見たかったのだ。それだけだ。さあ、出ていってくれ。鎧戸を閉めてな」
そう言うと、マッシミリアーノはアルに背を向けた。
力を使い果たしたように、大公はそのまま深い眠りにつく。まるで彫像のようだ。
僅かな呼吸音がなければ、本当に死んだとしか思えなかっただろう。
アルはもう何も言わなかった。
命じられるまま鎧戸を閉め、ヒルダと共に部屋を出る。
部屋の扉を閉めるとき、何故かアルは初めて人を殺した時のことを思い出していた。
暗がりの奥に、マッシミリアーノの影が見える。
(僕はいま、彼を殺すのだ)
そんな言葉が脳裏をよぎり、消えた。

「うまく認めてもらったわね」
嘲笑混じりの声は、背後から飛んできた。
「一人前の跡取り、といったところかしら。『公爵』さま」
「君も変わったね、ヒルダ」
「私が?」
向かい合ったアルとヒルダ以外、誰もいない。
ようやく山の向こうに消えていく太陽が、窓から橙色の光線を二人に公平に投げかけていた。
そのまぶしさに、ヒルダはかすかに目を細める。
相手の表情が読みとりにくい。だが、アルはいつものアルのようにしか見えない。
だからこそ、ヒルダには意外な言葉だった。
「そんな思わせぶりな、人の心を逆なでするような言葉は使わない。僕の知っているヒルダは」

262火と鉄とアドリア海の風・第十七回 6/14:2006/09/28(木) 21:57:01 ID:RCJiJeFU

「私の知っているアルも、もういないわ」
二人はその間に二、三歩の距離を残して立っている。
「結局、あなたがしたかったことは、自分たちの血筋を残すことだったのね。
だからこそ、陛下はあなたのしたことを許した……きっと今頃、いい夢をご覧になっているでしょう」
「……じゃあ、君のしたいことは何なの? 君の家が公爵を継ぐこと?」
「それ、は……」
かすかにヒルダの体が揺れる。
ヒルダはその瞬間まで忘れていた夢を思い出していた。
――マッシミリアーノもいつかは死ぬ。
自分の体には正統の血が流れ、アルフレドには前大公の血が流れている。
二人は若く、どちらが公爵を継いでもおかしくない。
ならば、モンテヴェルデは若い女公爵とその夫の治める国となって――

(馬鹿ね、私)
まだ物を知らなかった少女の夢だ。
何も知らないから夢想に浸り、それが実現するかのように思うことが出来ただけ。
成長したのはアルフレドだけではない。彼がただの若者から将軍となったようにヒルダも……。
「私は、モンテヴェルデ公の摂政。領民を守り、臣下の封土を保ち、国を残すこと。
それが私のなすべきことよ。聞かなくても分かるでしょう?」
そう言って、ヒルダは僅かに胸を張った。
「……本当に?」
「ええ、そうよ。いいこと、大人になったのが自分だけだと思わないことね。
それにもう、アルに守ってもらわなくたって、私は立派にやっていけるの。
あなたの忠誠は、あなたが捧げるべき女性に捧げたらどうかしら――アルフレド」
突き放すように言うと、ヒルダはアルに背を向けた。
一瞬彼女の髪が光を弾き、アルの目をくらませる。
次に目を凝らしたときには、もうヒルダの姿は消えてしまっていた。

「困ったものだな、姫さまも」
柱の影から姿を現したのは、ジャンカルロだった。
彼もまた一部将としてアルより先に大公に謁見していたのだが、それをアルが知る由もない。
「……立ち聞きとは、趣味が悪い」
「おや、とっくに気づいておられたのでは? だからわざと……いや、まあそれはよろしい」
「閣下には願わしい状況でしょう。それとも僕と摂政殿下が仲良くするのを望んでおられる?」
「若者の語らいに口を挟むほど、野暮ではありませんのでな」
ジャンカルロが話をはぐらかしているのはアルも気づいたが、何も言わなかった。
「姫さまは大局を見失っておられるようにも思えるな。
領民を保護するのも大事だが、部分を助けて全体を殺しては何にもならぬ。
おそらくフェラーラのジロラモが吹き込んでいることなのだろうが。
ここのところ奴をまるで参謀のように連れ歩いておられる。つい先日も……」
「いや、もしヒルダの言うとおりにしたら、聖職者は黙っていなかったでしょう」

263火と鉄とアドリア海の風・第十七回 7/14:2006/09/28(木) 21:57:16 ID:RCJiJeFU

モンテヴェルデには今無数の難民が押し寄せていた。
その多くは周辺の村々からトルコを恐れて逃げ出した農民だった。
町が安全か、それとも故郷を捨て流民となるのが安全なのか、それは誰にも分からない。
だが現実にトルコ軍は村々を襲い、食料を奪い、住民を殺戮している。
遠い将来など考える余裕すらない。
目の前の災いから逃れるために、農民は持てるだけの財産を持って町に逃げ込んだのだ。
アルやジャンカルロはこれを幸いと、難民たちの財産に重税を課した。
食料は分配するため全て取り上げ、持ち込んだ財産にふさわしい税を取り立てる。
無用な人口を抱えて籠城する不利を減らすためには仕方のないことだった。
ところが、これに強硬に反対したのがヒルダだった。
彼女は代案として聖職者に税を課すことを提案した。
教会は領主たちとはまた別に「十分の一税」などの税を農民から取り立てている。
聖職者に軍役の義務はない。だから代わりに財産の一部を差し出させようというのだ。
提案者はヒルダだったが、考えたのはジロラモに間違いなかった。
彼は日頃から「聖戦を前にのうのうと特権を維持する教会上層部」を非難していたのだ。
だが、アルフレドたちは教会を敵に回すことを恐れ、この案に反対した。
結局、「聖職者が難民の保護に努める」という約束を取り付け、何とかヒルダを納得させたのだった。

「……殿下の説得のおかげで、あれが評議会の議題に上がることもなく、助かりました」
ジャンカルロは大げさな身振りで感謝を示した。
評議会にも多くの聖職者が世俗領主の肩書きで参加している。
自分たちへの課税が提案されただけでも、その場が紛糾したであろうことは目に見えていた。
「おかげで、僕はジロラモの恨みも買ってしまったようだけれどね」
アルの口振りは身に迫る危険など全く気にも留めていない。
「これは、剛胆でいらっしゃる。しかし気をつけた方がよろしい。何しろ前例がありますからな」
脅かすように、ジャンカルロは急に声をひそめた。言われた少年は苦笑する。
そんな物言いに、アルはもう慣れすぎていた。
彼から何か利を得ようとすり寄って来る貴族や聖職者、御注進屋におべっか使い。
その内容がたわいもない誹謗や噂話であっても、彼らはさも重大そうに声をひそめる。

264火と鉄とアドリア海の風・第十七回 8/14:2006/09/28(木) 21:57:38 ID:RCJiJeFU

「ジロラモが暗殺者でも雇いましたか、『山の老人』でもあるまいに」
「やま……何のことです」
「ヴェネツィア商人マルコ・ポーロが伝えたところによると、ムスリムの中には暗殺を生業とする……
いえ、それはどうでも良いこと。『前例』とは何でしょう?」
まだ不思議そうな顔のジャンカルロだったが、アルは話を元に戻す。
些末な講釈をしてしまうほど、ジャンカルロに親しみなど感じてはならない。心の中でそう戒める。
「……殿下のお母上を殺した罪、ですよ」
「母?」
今度はアルが戸惑う番だった。
「母」ほど、アルにとって馴染みのない言葉はない。
「木の股からお前は生まれた」と言われれば信じてしまうほどに、彼には関わりのないものだ。

「母は苦悩の末、病で死んだ。検死は厳格を極め、疑いを差し挟む余地は無かったと聞きます」
「それは前のお后さまの事でしょう。私が申し上げているのは殿下の『ご生母さま』のことです」
アルの体が震えた。
「その人が亡くなったのは、誰のせいでもない。その原因は……」
男子を生んだ妾が、子のない正妻を追い落とす――
その恐怖ゆえに后は発狂し、アルの母をいびり殺した。
アルフレドは、自らの誕生によって二人の母を失ったのだ。
「……僕にある」

だがジャンカルロは首を振った。
「確かに筋は通っている。跡継ぎを巡るご婦人同士の確執。よく聞く話だ。
しかし、事実は――もちろん僅かな者しか知りませんが――違う。
あなたと母上が亡き者になって喜ぶ者は、お后さま以外にもおられた。お分かりでしょう」
彼の言いたいことは、アルにもとっくに分かっていた。
アルの肩を、ジャンカルロはしっかりと抱いている。ジャンカルロの息が首筋にかかった。
「殿下が生まれたために、自分の娘が継承権を失うことを恐れた人間がいたわけです。
お后さまの妹君とその夫。つまり……ヒルデガルトさまのご両親が」
ジャンカルロの顔にはためらいも苦痛もない。
殺人の告発をしているというのに、彼は微笑んですらいた。
「彼らが、ご生母さまの仇です」


265火と鉄とアドリア海の風・第十七回 9/14:2006/09/28(木) 21:58:07 ID:RCJiJeFU

3.
窓から聞こえる町の喧噪がひときわ高くなったのは、夜明け直後からだった。
同時に、日曜日でもないというのに街々からミサの祈りが挙がる。
遂にその日が来た。
今この瞬間、千人の男たちが剣を握り、兜を被り、城壁に向かおうとしている。

ルカもまた、五指城の部屋で一人支度を始めていた。
腕と首回りに鎖を編み込んだ服を身につけ、歩きやすいよう革靴を履く。
それから太腿とすねを守る足鎧をはめ、腰回りを守る鎖帷子を巻き付ける。
次に身につけるのは袖のない革の上着と胸甲。背中を守る鎧までは金が足りなかった。
それでも城の兵士だった頃に比べれば随分「安全」になった、とルカは思う。
頭巾と皿形の兜を被る。弓を引く邪魔になるから手甲はない。代わりに鋲を打った革手袋をはめる。
最後に腰のベルトの左右に剣と矢筒を結びつけ、弓を手に取った。

一晩の間に冷え切った鉄が、ルカの体に重くまとわりつく。
しばらく腕を振り回したり、部屋を歩き回ったりしてみる。特に違和感はなかった。
ふう、と息を吐きつつ窓辺に座る。弓の具合を確かめるためだ。
傷みはない。弦も張り直したばかり。弓を背負うと、次に剣を抜き放つ。
「……こいつを使う状況にはなりたくないね」
光に刃を曝しながら独り言ちた時、不意に扉を叩く音がした。

「……そうやって、いつも怯えているのかしら?」
抜き身を構えたまま自分を歓迎したルカに、ステラは呆れたように言った。
当の本人は口の中でぶつぶつと不満を漏らしながら、剣を鞘に収めている。
ステラの顔を見ようともしない。
――もう、まったく……。
ため息を吐いて、ステラはそっと机に手をついた。
汚れた杯に触れてしまい、慌てて手を引っ込める。
「……何しに来たんだ。こんな時に」
ようやく悪態をつき終わったのか、ルカはステラの方に振り向く。
「悪いがもうすぐ持ち場につかなきゃならないんでな。行けねえぜ。ヒルダさまがお呼びでもな」
ルカの隊はアルフレドの軍団に属する。その持ち場は町の南側。城から最も遠い場所だ。
だがルカの口振りには、距離や時間の心配よりも、ヒルダの召還に対する露骨な嫌悪があった。

「ヒルダさまがこんな大事な日にそんな馬鹿なこと仰るわけないでしょう」
「そうかい。あんたが来るもんだから、俺はまたアルフレドのことで癇癪でも起こしたのかと」
話が長引くと思ったのか、ルカは兜を脱いで机に放り投げた。
重々しい音がして、ステラは思わず首をすくめる。
「冷たい言い方ね。仮にもかつては城の……」
ルカが鼻を鳴らした。
その不機嫌な音色は、ステラに言葉を失わせるには十分だ。

「ルカは……」
「何だ」
言い淀むステラに、ルカはぶっきらぼうに答えた。
彼女の視線を避けるように、抜いた短剣を手持ちぶさたに弄くっている。
「ルカは、随分私に不満がありそうね」「……不満だって?」
突然ルカがステラの方に歩み寄った。手には短剣が握られている。
その迷いのない足取りに、ステラは後ずさる。
無言で迫る武装した男。その唐突さは十四の少女を怯えさせるには十分だった。
ステラを壁際に追いつめるようにルカは壁に手をつく。彼女の頬を、短剣の切っ先がかすめた。

266火と鉄とアドリア海の風・第十七回 10/14:2006/09/28(木) 21:58:27 ID:RCJiJeFU

「俺を金で操ろうとしたこと、俺を馬鹿にしたこと、確かに不満だらけさ。分かるか、このガキ」
「が、ガキって……」
反論する間も与えず、ルカは顔をぐいっとステラに近づけた。
「……だが、一番気にくわねえのは、お前が本当はヒルダさまを慕っちゃいないってことだ」
「え、ち、違っ……」
「違う? じゃあ何であんな糞坊主の言うことをはいはいと聞いてるんだ。
誰のせいで、誰のお陰でアルを裏切るはめになったと思ってるんだ!」
そのまま、さらに顔を近づける。ルカの額が、ステラの額に触れた。

「……あなたには悪いことをしたと思ってる。共犯者にしてしまって――」
「ふざけるな」
ルカの口調に、怒気がこもった。
「『悪いことをした』? お前が何をした。お前は何もしてない。
まさか、それで情けをかけてるつもりか? 違うね。情けをかけてるのは俺の方だ。
お前の命と引き替えにされたところで、奴の脅しに従う必要なんてないんだからな。
なのになんで……くそッ、自分の甘さに涙が出る」
ルカが体を離す。軽い擦過音と共に、短剣は鞘に収まっていた。
それまでステラを包んでいた、殺気のこもった圧力が消える。
だというのに、ステラはまるで縫いつけられたように壁から離れられなかった。

「……待って」
「時間だ。今晩まで生きてたら用事とやらを聞いてやるよ」
扉に手をかけるルカをステラが引き留める。
ベルトを片手で握り、もう一方の手をルカの拳にねじり込んだ。
眉をひそめつつルカは手を開く。そこに握らされていたのは小さな布だった。
燃える剣を手にした有翼人が刺繍されている。戦士の守護天使ミカエルだ。
刺繍したてだというのに既に糸はほつれ、間隔は不揃い。せっかくの天使も胴長短足に見える。
お世辞にもうまいとは言えない。
「……くれるってか」
こくり。
それ以上の言葉を待っても、ステラは何も言わなかった。
ただうつむいたまま、ルカの不躾な目に自分を曝している。
「こんなもん持ってても矢玉は避けてくれない」
こくり。無言で頷くステラ。
「…………感謝はしねえぞ」
こくり。
三度同じことが繰り返され、ルカは刺繍を鎧の隙間に捻り込んだ。

貴婦人が騎士に肌身の品を託すとき、騎士はそれを信頼の証とし戦場に赴く。
彼は婦人の名誉を汚さぬよう、正々堂々と危険に身をさらし、自らの勇気と技量のみで敵と渡り合う。
そして味方には献身を、敵には慈悲を――
だが昨今の戦場は、もはやそのような浪漫を許さぬ場となっていた。
そこを支配するのは火と鉄。
硝石と砲車と計算尺が勝利と敗北、生と死を司るのだ。


267火と鉄とアドリア海の風・第十七回 11/14:2006/09/28(木) 21:58:47 ID:RCJiJeFU

4.
やがて、日は昇りきった。
二つの軍勢が沈黙の内に対峙する。
モンテヴェルデ兵は城壁に、塔の頂上に、そして稜堡に鈴なりになっている。
防衛の準備は整った。
町を取りまく空堀の底には杭や落とし穴が設けられた。
また、残土を盛り上げて作った土手が堀の内周に沿って築かれていた。
その背後に、槍兵や下馬した騎士が控え、トルコ兵を迎え撃つ。
無数の杭や柵が埋め込まれたその姿から、兵士や市民はこの土手を「睫毛」と呼んでいた。
城壁の上には石弓手や銃兵、さらに大小の投石機や火器が並んでいる。
防衛の要はフランチェスコの造った稜堡だった。
地下一階、地上三階のこの建物は、町の南に一つ、西に二つ、北に一つある。
それぞれが十門ほどの真新しい大砲を中に備える。どれも工房で作られたばかりの新型だ。

稜堡は、城壁を守る四つの軍団の本陣でもあった。
北稜堡は大公直参の軍団が守備についている。
西側の二つのうち、北寄りの稜堡はディオメデウスとナポリ人が、南寄りはジャンカルロが守っている。
アルフレドもまた、南側の「聖セバスティアノ稜堡」にいた。
彼のいる屋上は広く、百人の男が座れるほどだ。
今そこには小さな砲が配置され、砲手が作業を続けている。
装填中に砲手を援護するため、十人ほどの石弓手や弓兵も配置されている。
さまざまな兵種が互いの欠点を補い合うことで、初めて防衛戦は成功する。
けれども、外国兵を除けば、モンテヴェルデ軍の質はそんなことが出来るほど高くない。
アルはそれを補うため、稜堡を建てさせ、火砲を買い込み、さまざまな手を打ってきた。
だが長大な城壁の防衛は、結局一人一人の兵士の肉体と気力に掛かっている。
ジャンカルロやコンスタンティノがいかに名将であろうと、全てに目を配ることなど出来ない。
最後に期待できるのは民兵の郷土愛、そして傭兵たちの経験。それだけだった。

――かたやトルコ軍の陣は広く、厚い。
塹壕と馬防柵を張り巡らせた攻城砲陣地と、歩兵方陣が町を囲んでいる。
歩兵の隊列の中には車輪つきの盾や、破城槌が見える。
さらに、幾つもの投石機と攻城櫓が、まるで巨人のように兵士たちを見下ろす。
陣地の背後には白装束のイェニチェリ軍が切り札として控えていた。
あちらこちらで歯車のかみ合う音、誰かを叱咤する号令が響いている。
投石機は巻き上げられ、砲弾が大砲に収まっていく。
そうやって小さな人間の力が、巨大な戦争機械に力を蓄えるのだ。
城壁からほぼ二ミリア(三・六キロ)ほど離れたところに大きな天幕が建っていた。
幾筋もの旗が翻り、騎兵に守られたそれが、大将アクメトの本陣だった。
彼の視界には、モンテヴェルデ市の城壁と、それを取りまく彼の軍団が収まっている。
背後に太陽を背負ったキリスト教徒たちが、時折白刃や鎧を閃かせる様子も見える。
しかし、彼に何の不安もなかった。
コンスタンティノープル陥落に立ち会った日の記憶が、まざまざと蘇る。
あの日のスルタンのように、彼は鎧もつけず、青い衣装に刀を佩いただけの姿で町を見上げていた。

268火と鉄とアドリア海の風・第十七回 12/14:2006/09/28(木) 21:59:13 ID:RCJiJeFU

「パシャ、少しよろしいですか」
「……砲術長か。作業が遅れているようだな」
背後から近づいた砲術長に、アクメトは冷ややかな声を浴びせた。
開口一番の叱責に砲術長はわずかに顔をしかめる。
彼に対する不満は、一つや二つではない。だが、ここで争っても仕方のないことだ。
「地盤が緩いせいです。このあたりはどこを掘っても海水がにじみ出てくる。
敵もそれと分かって我々が砲を据え付けるのを放置した。狡賢い奴らです」
「わざわざキリスト教徒を称えるために来たわけではあるまいな?」
露天に設けられた軍議用の卓に砲術長を導きつつ、アクメトはまず自分から腰を下ろした。
手で席を勧めるアクメトに目配せしながら、砲術長はその隣に座る。
本陣のある丘からは、南と西側の攻城砲陣地の様子は特にはっきりと分かる。
砲手たちはまだ必死の装填作業を続けていた。
「砲が密集しすぎなのです。一本の進入路に対して余りに多くの砲と馬車を通さねばならなかった。
おかげで道は泥沼のようになってしまった。弾薬の集積も終わっていないのに……」
砲術長の用事が陳情だと気づき、アクメトはその声を手で遮る。
「戦の焦点は南と西だ。だから砲を集めた。北から攻めても突撃正面が狭すぎるし、五指城もある。
城が乗っている岩盤はお前の砲でも打ち砕けまい?」
アクメトの言うとおり、モンテヴェルデ市の北側は五指城が見下ろしている。
突撃する兵は良いように撃ち下ろされるし、密集して敵の砲火を浴びれば大損害を被る。
その点、町の南側は平地で、軍や大砲の展開もたやすく見えた。少なくとも陣地を作り出すまでは。

「弾は撃つたびに後方に取りに行けばいい。とにかく早く砲撃を始めるのだ。
一度砲撃を浴びせてやれば、それでキリスト教徒の士気は挫けるだろう」
砲術長はアクメトに聞こえないよう小さく舌打ちをした。
アクメトはコンスタンティノープルの陥落を見ているせいか、どうも巨砲の威力を過信している。
だがあれから約三十年。キリスト教徒とて三十年を無為に過ごすほど馬鹿ではあるまいに。
「ですが、反撃の砲火が飛んできたとき、今の状態では素早く砲を下げることも出来ません!」
「どんな武器があるというのだ? 我らの大砲より遠くに飛ぶ武器など聞いたことがない。
いや、万が一あったとしても、そんな巨大なものを城壁の上に据え付けたりは出来ようか?」
攻城戦では一般に包囲側の方が有利である。
費用に目を瞑りさえすれば、投石機だろうが大砲だろうが、幾らでも巨大な物を投入できるからだ。
一方籠城側はどうしても城壁や塔に飛び道具の大きさを制限されてしまう。
確かにモンテヴェルデの投石機も大砲も、トルコに比べればおもちゃのように小さいものだった。
「城壁のどこかを崩せばあとは歩兵の仕事だ。貴官の心配するほどのことはない」
そう言うとアクメトは軽く首を振った。それを見た衛兵が、砲術長へと近づいてくる。
どうやら面会は終わりらしい。しぶしぶ彼は立ち上がる。
確かに彼の配下にある巨砲ほど遠くまで届く武器はキリスト教世界には存在しない。
しかし、どれほど巨大な大砲も、最大射程から撃ったのでは威力に乏しいのだ。
経験上、最大射程の三分の一程度まで近寄らなければ、砲撃が「散って」しまい大した効果はない。
砲術長は巨砲も軽砲もほぼ同じ距離――壁から半マイル(五百メートル強)――に配置させた。
(この距離なら、あるいはキリスト教徒の大砲も……いや、まさか……)
砲術長は恐ろしい想像を振り払うと、部下たちを督戦するために丘を下っていった。

269火と鉄とアドリア海の風・第十七回 13/14:2006/09/28(木) 21:59:29 ID:RCJiJeFU

「……アル。心配事か」
すぐ背後にいたコンスタンティノが肩を小突き、アルフレドは我に返った。
「どうした、寝不足みたいな顔をして。そんなに遅くまで名残を惜しんだのか、昨日の夜は?」
「え……ばっ、変なことを!」
周囲には聞き取れないような声で、アルはコンスタンティノを叱る。
とはいえその指摘もあながち間違ってはいなかった。
「なに、恥ずかしがることはない。『明日は最期』という晩は、そういうことがよく起こる。
俺も昨日はじっくり念入りにかわいがってやった」
「……ニーナを?」
「験かつぎさ。あれを抱いておけば、俺は死なない。こいつは一度も外れたことが無いんだ」
そう言って片目をつぶり、笑って見せた。
どうやらアルの気持ちをほぐすための冗談だったらしい。
だが、アルは少し顔をゆがめただけで、すぐトルコ軍の方に目を向けた。
いつもとは少し違う反応に、コンスタンティノも戸惑う。
「……どうした、大公に呼び出されて以来おかしいぞ。何か変なことでも言われたか。
それともまた姫さまと喧嘩でもしたか」
「いや、何でもない。ごめん、集中する」
そう言うと、アルは自分で顔を一つ叩いた。

アルフレドの頭を占めていたのは、ジャンカルロに吹き込まれた言葉だった。
あれを、アルは無批判に信用しているわけではなかった。
ヒルダの両親が自分と生みの母の命を狙った。確かに不自然ではない。
兄弟姉妹で玉座を巡る争いがあるのはムスリムのハーレムに限らないのだから。
しかし、証拠は何もない。
母が死んだ原因すらアルフレドは知らない。病死か、傷を負って死んだのか、それとも毒殺なのか。
犯人を推理するすべすらないなら、ヒルダの父母を疑うなど馬鹿げている。
ジャンカルロも今はアルに協力しているが、それはトルコ軍を退けるまでの話だ。
その後は再び大公の座を巡って争う運命にある。
ならば彼が、アルとヒルダの仲を裂こうと今から策を弄したとして何の不思議があろう?
(でも)
一つ、たった一つだけアルの心には晴れない疑念がある。それが、棘のように胸に刺さって抜けない。
(幼い僕に、母を殺した犯人を教えたのはヒルダではなかったか――)
アルの家族と言えるのはヒルダだけだった。ヒルダだけが彼の面倒を見、話し相手にもなってくれた。
生母を殺した犯人を教えてくれたとすれば、ヒルダしかいない。しかし……。

幕僚たちを左右に控えさせ、アクメトは自軍を見下ろしていた。
今、陣地の一角で彼が待ち望んでいた旗が掲げられた。最後の砲の装填が終わったのだ。
すでに他の兵士たちは炎天下何時間も号令を待っている。疲労と苛立ちは既に限界だった。
「パシャ、ご命令を」
脇に控えていた砲術長が絞り出すように言った。
一万の兵が、アクメトの指示を待っている。それを思うと彼は言いようのない興奮を覚えるのだった。
――俺も、結局あの人と同じだ。
自分もスルタンもこの興奮に取り付かれてしまったのだ。指一つで数千の命を奪う興奮に。
「攻城砲を放て。歩兵隊は砲撃後、号令と共に前進せよ」
逸る心を押さえつけるように、アクメトは押し殺した声で命じた。

270火と鉄とアドリア海の風・第十七回 14/14:2006/09/28(木) 21:59:47 ID:RCJiJeFU

両軍の間に静寂が走った。次に、雷鳴。
「撃ったァ!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間、建物を揺さぶる巨大な空気の波が押し寄せ、アルはわずかによろめいた。
トルコ軍の陣地からまき上がる砲煙が視界いっぱいに広がる。
つかの間、逃げるべきかためらったが、そんな暇はなかった。

「……白煙、命中!」「お見事!」
砲術長の周囲で、そんな声が挙がる。
五門の巨砲のうち、四門が確実に命中した。軽砲の命中弾は数え切れない。
そんな声をむっつりと聞き逃す砲術長に、アクメトも微笑みかけた。
だが、砲術長の表情は変わらない。
確かに命中した。それも自分が狙ったとおり「あの」建物に、だ。
だが、あの真新しい建物がもし「アレ」だとしたら……。

「……弾き返した!?」
兵士の歓声に、目を瞑っていたアルは初めて我に返った。
確かに自分の建っていた稜堡に敵の砲弾は命中した。その音は聞こえたし、振動も感じた。
まるで建物ごとひっくり返るかと思うほどの衝撃。だが、自分はまだ生きている。
いやそれどころか、稜堡はびくともしない。
歓声は、後ろにそびえる城壁の兵士たちのものだった。
「砲手ども……撃ち返せぇっ!」
呆然とするアルの代わりに、コンスタンティノの叫び声が高く響いた。

――あれを造った奴は天才か、悪魔だ
砲術長は憎々しげにそれを見つめていた。
敵の稜堡は確かに数十発の命中弾を浴びた。それなのに、僅かに表面の壁が砕けているだけだ。
トルコ最大の砲弾を食らったというのに――!
巨砲の再装填が終わるのは二時間後。だがその間にあの程度の損害など修復してしまえる。
(とにかく、次の砲弾を運ばせて……いや、火縄銃隊に妨害射撃を……)
そんなことを考えていた砲術長の目に、「稜堡」が赤い火を噴き出すのが見えた。

「至近弾! 角度修正、黒一つ下げ!」
「黒一つ下げ! 次は外すな!」
稜堡内の砲撃室で、フランチェスコは叫ぶ。
撃ち終わった薬室が砲から取り外され、新しい薬室がはめ込まれる。
たった一度の射撃で、もう誰も彼も煤まみれだった。
だが、汚れた顔の中で目だけがらんらんと輝き、皆がむしゃらに働いている。
とにかく、一つでも多くの砲を潰さなくてはならない。
「角度下げろ! 早く! ぐずぐずするな!」
砲手たちは無我夢中で大砲に取り付く。
フランチェスコは身の危険も忘れ、必死に働き続けた。

「アクメト・パシャ、砲を後退させる許可を! 敵に狙われています!」
「なんだと! まぐれ当たりではないのか!?」
砲術長は青ざめていた。
敵の砲術師の練度は想像以上に高い。
最初の砲撃はかろうじて土嚢が受け止めたものの、次は確実に……
だが、アクメトの号令が出る前に、稜堡が再び火を吹いた。

271火と鉄とアドリア海の風・第十七回 14/14+1:2006/09/28(木) 22:00:13 ID:RCJiJeFU

兵士たちの目の前で、トルコの巨砲に砲弾が命中し、ばらばらになって吹き飛んだ。
「命中!」「当たったァ!!」
一斉に歓声が上がる。誰もが一斉に武器を掲げ、足を踏みならして叫んでいる。
「次は隣のヤツだ、やっちまえ!」

アクメトと砲術長が見守る中で、トルコ軍の砲撃陣地に砲弾が次々と降り注ぐ。
砲を後退させろという命令も間に合わず、砲手は我先に逃げ出している。
運ぶ人間の居なくなった砲に、モンテヴェルデ軍の狙いすました一弾が命中する。
逃げ遅れた兵が砲弾の破片になぎ倒され、整列した歩兵方陣がたじろいだ。
「……歩兵隊、突撃! 投石機と攻城機械は後ろに下げろ!」
「パシャ……?」
伝令が聞き間違いかと首を傾げる。
だが、振り返ったアクメトの顔は怒りで赤を通り越し、真っ青になっていた。
「これで投石機まで失われてみろ! どうやって壁を壊すのだ! お前が爆薬を抱えていくか?」
怒気に押された伝令は、慌てて馬に飛び乗り本陣を飛び出した。
「パシャ、援護無しに歩兵を突出させては……」
「兵が怯えている。今攻撃を取り消したら総崩れになる! そんなことも分からんのか馬鹿者が!
イェニチェリにも伝令だ! 一歩でも後退する者があれば、容赦なく斬れ!」

死の命令がトルコ軍の陣地を駆けめぐり、軍楽隊が一斉に甲高い調べを奏でる。
歩兵隊は一斉に陣地を飛び出す。
剣を振りかざし、アラーの名を唱えながら、城壁目がけて数千の男たちが走り出した。


(続く)
272名無しさん@ピンキー:2006/09/29(金) 02:28:51 ID:2J92XH0g
GJです!!
273名無しさん@ピンキー:2006/10/01(日) 12:44:41 ID:N3weQWrF
GJ!!
とうとう終わりが見えてきたということでしょうか

しかしステラって14歳の設定だったのか...
274火と鉄とアドリア海の風・第十八回 0/13:2006/10/10(火) 20:20:55 ID:Hn/YAhk+
すいません、質問です。
火と鉄……の第十八回を投下したいのですが、13レスの長さがあります。
おそらくスレ容量的にはぎりぎりだと思うのですが、投下してよろしいでしょうか?
(ちなみに現在421KBですね)


>>273
ステラは14です……でも今読み直したら一度も明言してなかった……
一応、第一話で「アルフレド十六歳、ヒルデガルトはアルより一つ年上」
第三話で「ステラはヒルダより三歳年下で〜」
と書いたんですけど、これでステラ=十四歳がインプットされてるわけないですよね。
ミスです、すいません。
275名無しさん@ピンキー:2006/10/10(火) 20:54:21 ID:06yjBGcs
>>274
続き読みたいです。512KB越えるなら、次スレ立ててはどうでしょうか?
276火と鉄とアドリア海の風・第十八回 1/13:2006/10/10(火) 23:58:49 ID:Hn/YAhk+
多分行けると思うのでこのまま投下します。途中で切れたら、新スレ立てます。

********



1.
その日、突撃は三度繰り返され、三度とも撃退された。
夕暮れを迎えたとき、堀には百を超えるトルコ兵の死体が横たわっていた。
それだけの犠牲を払っても、トルコ軍は「睫毛」を抜くことすら出来なかった。
モンテヴェルデ軍の損害はごく僅かで、城壁の損傷も小さい。
兵士たちは疲れ切っていたが、圧倒的な大軍に対する勝利とあって、士気は上がっていた。

ヒルデガルトは城壁へと馬を進めていた。
僅かな護衛と、決して側から離したことのないステラを連れての視察だった。
勝利。
今日一日城の礼拝堂で祈りを捧げていたヒルダにとって、それは僥倖だった。
トルコ兵が乱入する瞬間を恐怖とともに待ち受けた今日が、やっと終わろうとしている。
文字通り「あるとは思っていなかった明日」が繋がったことに、ヒルダは改めて感謝した。
だが、馬から見下ろす町の人々にそんな喜びは感じられない。
「……どうしたんでしょう、姫さま」
ヒルダの隣を馬で進むステラが訝しげに尋ねた。
確かに、城壁から宿舎へと引き上げる兵士の顔に比べて、女や子供の表情は固い。
その原因にヒルダは気づいていた。
「空腹なのよ。見てご覧なさい、あの粥の薄いこと」
声をひそめるヒルダの指摘で、ステラは初めて人々の手にした椀が「食事」だと気づいた。
まるで水のような麦粥に、カビが生えたパン。
教会の前で僧侶から無造作に渡されるそれを、無言で受け取る人々。
何かの間違いではないか、という目で見返すが、すぐ抗議など無意味と悟って去っていく。
「これが『教会の施し』の正体よ」
「でも……戦士が空腹では戦争など出来ません」
「そうね。でも彼らの持っていた食料まで取り上げるのはやりすぎじゃなくって?」
ステラは答えなかった。
女主人の非難がアルフレドに向けられているのを察して、議論を打ち切ったのだ。
不意に、ルカは今何を食べているのだろうと思ったが、すぐ我に返った。
城壁の登り口に到着したのだ。

町の西南、聖マルコ稜堡へと続く傾斜路。
そこに待っていたのはジャンカルロとフェラーラのジロラモだった。
「申し訳ありませんが、馬を下りて頂きます」
まだ甲冑姿のジャンカルロに言われ、ヒルダ一行は馬を下りた。
傾斜路は馬車一台が通れるぐらい広い。
これは稜堡に大砲を引っ張り上げるためにわざわざ造られたものだった。
ジャンカルロに先導されながら、ヒルダは坂道になったそれを登る。
坂の途中には、所々に小さな出っ張りが付けられている。
ここに砲車の車輪を引っかけて、人夫たちが一息つくのだ。

277火と鉄とアドリア海の風・第十八回 1/13:2006/10/10(火) 23:59:18 ID:Hn/YAhk+

城壁の中ほどで傾斜路は平らになり、城壁を貫く通路へと繋がっていた。
城壁を穿ちアーチで補強した通路を抜けると、そこはもう稜堡の中だった。
半球状の部屋は薄暗い。僅かに開いた砲門から、かすかに夕日が射し込んでいる。
「……臭いでしょうが、我慢していただきたい」
なぜかジャンカルロは笑いながら言った。確かに焦げたような匂いがヒルダの鼻をつく。
嗅いだことはなかったが、それが火薬の匂いだと彼女は直感的に理解した。
天井に開けられた換気口は、使い込んだかまどのように煤で真っ黒になっていた。
「トルコ人をお目にかけましょう、こちらから屋上に上がれます」
ジロラモが指し示す部屋の隅には狭い螺旋階段が設けられていた。
ヒルダたちは一列になりながらそこを登る。
「屋上へは、ここからしか上がれないのですか?」
「その通り」
ステラの問いに、ジャンカルロが答えた。
「敵が稜堡を占拠しても、すぐには城壁の内部に侵入できぬように、だ。
大砲のある部屋は内側から閂がかけられるし、先ほど通った通路にも落とし扉がある」
「それでは、命令を伝えたりするのに不便でしょう」
ヒルダが口を挟むと、ジャンカルロは無言で首を振った。
「この階段の反対側の隅に、稜堡を貫く『井戸』があります。
それを使えば各部屋が声をかけあうことも、釣瓶で物をやりとりすることも出来ます。
危険な火薬などは地下に蓄えてあり、『井戸』を使って各部屋に分配するのです」
ジャンカルロが説明している間に、一行は屋上へとたどり着いた。

屋上に出たとたん風にあおられ、ヒルダの服が翻る。
白いふくらはぎが寸時露わになった。
武装した集団の中にあって、色味にあふれた女の衣装は例え質素でも艶やかだ。
そこに現れた女性が何者か、兵士たちはすぐ気づいた。
屋上にいた者は目礼し、離れたところから見ていた男たちは何事かを噂し合う。
「殿下、風が寒いでしょう。これをどうぞ」
「ありがとう」
ジャンカルロは自分の外套を脱ぐと、ヒルダの体を兵士の目から隠した。
その意味に気づいた護衛の一人が、ステラにも同じことをする。
外套の前を両手でしっかり閉じ、ヒルダは稜堡の先端に立った。
足下の方では、数人の男が槍や弓を手に「睫毛」の内側を巡回している。
「睫毛」の外に広がる堀の底に、白い人影が散らばっていた。
「あれは、トルコ人の死体?」
「ええ、異教徒どもです」
生き生きと答えたのはジロラモだった。黒い頭巾の奥に笑みが浮かんでいる。
「今日、ジャンカルロ殿の軍団だけでトルコの攻城砲を四つ、投石機を五つも破壊された。
討ち取った敵の数はざっと三十人。神のご加護により、こちらの被害は極めて……」
「そう浮き足だってもらっては困るな、ジロラモ殿」
一歩下がったところに立っていたジャンカルロはぼそりと呟いた。
抗議の声を上げようとするジロラモを遮るようにして、ヒルダが尋ねた。
「何か問題があるのですか?」
当然だ、というようにジャンカルロは肩をすくめる。
「今日だけで私の軍団に割り当てられた火薬の四割以上を使ってしまいました。
パッサヴォランテ砲の弾は一門当たり三発しかありません。
射石砲と手銃用の火薬は残り七百五十リブラ、備蓄のほぼ半分です。
弾丸は新たに作れるし、フランチェスコ殿は火薬の代用品も準備出来るそうです。
しかし明日からは兵士どもに『武器を節約して戦え』と命じなくてはならんでしょう。
実際……何日持ちこたえられることやら」
ジャンカルロの軍団は聖マルコ稜堡を核に、ほぼ一キロの長さの城壁を担当している。
その下には騎士三十五人を含む二百人以上の兵がいる。
新型のパッサヴォランテ八門以外に弓八十張、石弓二十丁、投石機三器などを持つ。
だが火器の弾薬だけでなく、矢や投石用の石も足りない。

278火と鉄とアドリア海の風・第十八回 3/13:2006/10/10(火) 23:59:38 ID:Hn/YAhk+

「卿、まさか降伏を……」
「幸い」
ヒルダの弱々しい声を、ジャンカルロは大声でうち消した。
「トルコ人は我々の大砲の威力を十分認めた。
ご覧なさい。やつら、投石機も大砲もあんなに遠くに待避させている。
あそこからではろくに当たらないし、威力もさっぱりでしょう。
人足を集めているところを見ると、塹壕を掘りながら徐々に接近するつもりですな。
まあ城壁に辿り着くのに二週間といったところか」
ジャンカルロが指揮杖で指し示すのを見て、ヒルダはほっと安堵の息をもらした。
寄り添うステラも、そっとヒルダの手を握る。

「ふん! そもそも火薬だの何だの、いかがわしいものを頼っているのが間違いなのだ!」
遠巻きにヒルダたちのやりとりを聞いていた兵士がぎょっとした顔を向けた。
とくに砲手の顔に怒りの色が浮かんだのも当然だった。
「ジロラモ殿、それは言葉が過ぎましょう。フランチェスコ殿は良きキリスト者ですぞ」
ジャンカルロがとがめても、ジロラモの声は止まなかった。
「では卿はなぜ火薬が弾け、炎と風を生むのかご存じか?
聖書にはあのような怪しげな物は記述されておりませんぞ。
何故ならそもそも火薬は魔術によって生み出されたものに他ならぬから……」
「もちろん私はなぜ火薬が爆発するのかは知らない。
だが火薬を発明したのはドイツの修道僧です。あるいはキタイ(中国)とも聞くが。
とにかく、自然の物質の調合で生まれたのは間違いない。あれも神の知恵です」
「火薬が敵を倒すのではない、良き意志を持ったキリスト者が異教徒を倒すのだ!」
ジロラモが叫ぶと、血のように赤い口が露わになった。
「よろしいか、良きキリスト教徒はたとえ武器が無くとも戦うのだ。
剣が折れれば束を握って戦い、それも無くなれば拳で戦うものなのだ……。
腕を切り落とされれば足で蹴り、足もなくなれば噛みつけばよい!
男も女も、子供も老人も、全てがその気概で戦えば、決して負けはせぬ!」
「……では、その戦いの果てに、何が残るのでしょうな?」
ジャンカルロは冷ややかに言った。
ジロラモはかっと目を見開いた。口の端に泡を浮かべ、噛みつくように叫ぶ。
「神だ! 神が残る!」

「あ……あれは何?」
二人のやりとりを遮るように、ステラが堀の向こうを指さした。
その言葉に、言い争っていた二人も、ヒルダも振り返った。
堀の向こうに十ほどの人影が見え、それがゆっくりと堀へと近づいてくる。
トルコ人だった。小さな梯子を担ぎ、それを使って堀の中へと降りていく。
底に降り立つと、彼らは二人一組になって、散らばる死体を担ぎ始めた。
「卿、偵察でしょうか……でも、それにしては様子がおかしいわ」
ヒルダの問いに、ジャンカルロは首を振った。
「死体を埋葬するのでしょう。
ムスリムの教えでは、死者はその日のうちに葬らねばならないと決まっているから。
いや、戦場では普通ですよ。死体を放置すれば二・三日で蛆がわき、疫病の元になる。
キリスト教徒同士の戦争でも、そうするものです」
だから攻撃してはならない、ジャンカルロの説明には言外にそんな含みがあった。

279火と鉄とアドリア海の風・第十八回 4/13:2006/10/11(水) 00:00:02 ID:VRrq2k8i

「……異教徒の教えなど尊重してやる必要はあるまい?」
ジロラモの言葉に、一同は再び振り返った。
そこには、兵士から奪ったものか、弓を構えたジロラモが立っていた。
「ジロラモ殿、待ちなさい。まさか……!」
しかしヒルダが声をかけるより、ジロラモの動く方が早い。
稜堡の縁から身を乗り出すと、止める暇も与えず、ジロラモは矢を放った。

「……なんてことを!」
トルコ人の背に矢が突き刺さるのと、ヒルダの叫びは同時だった。
突然の攻撃に、働いていたトルコ人が一斉に逃げ散る。
鋸壁に足をかけてよじ登ると、ジロラモは叫んだ。
「聞け、トルコ人ども! 貴様らに埋葬など許さぬ!
どうせ貴様らが教えを守ろうが守るまいが、行く先は地獄なのだからな!」

「――パシャ、モンテヴェルデから書状が参りました」
夜、自分の天幕で体を休めていたアクメトのところに、侍従長が姿を現した。
アクメトは杯を手にしたまま、もう一方の手で入るよう命じる。
柔らかな敷布に身を横たえる主人に、侍従長はそっと書状を手渡した。
横になったまま、アクメトは蝋で封をした羊皮紙を開く。
「……ふん」
「何が書いてありましたか」
アクメトが鼻で笑ったのを見て、侍従長は好奇心を刺激されたようだった。
家臣の疑問にはすぐには答えず、アクメトは傍らの奴隷女に空の杯を突き出した。
「今日の夕方、死体を回収しに行った兵が矢で射られた話は聞いていよう?」
注がれる赤い液体を見ながら、アクメトは言った。
「モンテヴェルデの姫が直々に謝罪してきた。
興奮した兵が誤って撃っただけで、今後はこのようなことが無いようにする。
今後の埋葬作業を妨げるつもりはない――だそうだ」
「滑稽ですな」
侍従長はそう呟いて、少し笑った。
アクメトも、それにつられるように声を出して笑った。

ひとしきり二人で笑いあった後、アクメトは声を絞って言った。
「今日は手酷い打撃を被った……火砲の多くが失われ、兵の命も……」
「まだ我々の船には多くの兵と武器が積まれています。
砲術長も船から陸へ大砲を下ろすよう手配したようですし、ご懸念には及びますまい」
侍従長は主人の憂鬱をはらそうと、ことさら明るく言った。
手持ちの砲の過半数を失った砲術長には、海軍の砲を配下に置くよう命じていた。
だが、それが船から下ろされ、陣地に据え付けられるまでは長い日数がかかるだろう。
「ふふふ」
だが、思いがけずアクメトが笑ったので、侍従長は首を傾げた。
「心配などしておらんよ。それどころか、良い知らせだよ、これは」
さらに首を傾げる家臣に、アクメトは杯を掲げて見せた。
「戦争だというのに、奴らは謝罪し我々の信仰を尊重すると言う。
つまり恐れているのだ……我々が本気になるのを、な。
あるいは、モンテヴェルデの内情は想像より悪いのかもしれんな」
侍従長は得心がいったように頷いた。
「……少し揺さぶってみるか。返事を書こう、書記を呼んでくれ」
一気に酒を飲み干すと、アクメトは不敵な笑いを浮かべた。


280火と鉄とアドリア海の風・第十八回 5/13:2006/10/11(水) 00:00:20 ID:VRrq2k8i

2.
それから三日経ったが、状況は変わらなかった。
多くの大砲を失い、モンテヴェルデの反撃を恐れるトルコは白兵戦を仕掛ける。
一方弾薬の不足に苦しむモンテヴェルデは、決定的な打撃を与えることが出来ない。
トルコは稜堡と城壁の前に死体の山を築いている。
一方、モンテヴェルデは城壁へと伸びるトルコの塹壕を食い止められない。
こうして、どちらも決め手を欠いたままひたすら末端の兵士の犠牲を積み重ねていった。

各稜堡に向かって平均三本の塹壕が掘り進められている。
トルコ軍の攻撃は全戦線に渡っているが、それは反撃を分散させるのが目的だった。
生き残りの僅かな火器に援護されたトルコ歩兵はひたすら城壁へと押し寄せる。
盾をかざしただけで、矢玉の雨の中を進む彼らは毎日十人単位で倒れていく。
この三日の内に数カ所で「睫毛」が突破され、城壁に梯子がかけられることもあった。
しかし僅か数カ所の突破では兵力の優位は決定的ではなく、トルコ軍は撃退されていた。

一方、モンテヴェルデにとっては兵と武器の不足が深刻になっていた。
塹壕を潰すために兵力を集中しようにも、城壁を守るのに精一杯なのだ。
予備として残された騎兵も敵の突破点を塞ぐために投入せざるを得ない。
火薬の不足は相対的に弓と投石機の重要性を増大させたが、どちらも威力で劣る。
トルコの掘削隊は塹壕の両脇に土を盛り、盾を並べつつ接近してくる。
その要所要所に配置された銃兵や弓手は、多くのモンテヴェルデ兵を倒している。
巧みな防備と反撃のせいで、トルコの塹壕は日に日に長さを増していった。
何よりモンテヴェルデにとって痛いのは、交代の兵がいないことだった。
トルコは兵の多さを頼みに、夜も砲撃を続け、少数による夜襲を繰り返している。
その度にモンテヴェルデ兵は持ち場に着かねばならず、いたずらに消耗していく。

さらに三日がたち、攻防七日目を迎えたとき、新たな脅威が加わった。
稜堡の地下倉庫で弾薬運びをしていた兵が、奇妙な音を聞きつけたのだ。
それは、トルコ軍が城壁の下へトンネルを掘り進める音だった。
フランチェスコはそれを予測していた。
早速頑強な男が市民から選抜され、彼の指揮の下、対抗用の坑道が掘られた。
そうしてトルコ兵を追い払って爆薬で坑道を塞ぐことで、事なきを得た。
だがその日以来、戦闘は地上のみでなく、地下でも繰り広げられることになったのだ。

――こうして攻防十日目を迎えても、モンテヴェルデはまだ陥落していなかった。

夕闇は、いつしかモンテヴェルデ兵にとって福音となっていた。
朝から夕方まで続く波のようなトルコの攻撃も、夕方一旦収まる。
兵、特に砲手の目が闇に慣れるまで、トルコは無理な攻撃をしようとはしなかった。
一時間も経てば新たな砲撃と夜襲が始まるのだが、一時の平穏には違いない。
最後のトルコ兵が闇に消えるのを確かめ、モンテヴェルデの男たちは崩れ落ちる。
ほとんどの兵士は疲労の限界を超え、動くことも出来なかった。
うずくまる兵士を縫うように、食料係がパンや干し肉を配って歩く。
それが今日初めての食事という者もいた。
ルカも、そんな朝から戦い続けた一人だった。

281火と鉄とアドリア海の風・第十八回 6/13:2006/10/11(水) 00:00:44 ID:Hn/YAhk+

「お前、怪我したのか?」
無感動にパンを齧っていたルカに声をかけたのはコンスタンティノだった。
頭を上げることすら億劫だ、といったようにルカは目だけを声の方に向けた。
ルカと違って、コンスタンティノは重い板金製の鎧を身にまとっている。
だというのに、彼はまるで疲労を感じていないかのように、軽やかに腰を下ろした。
コンスタンティノの視線は、ルカの腕に巻き付けられた包帯状のものに向いている。
そこには大天使ミカエルの刺繍が施してあった。
「……怪我じゃない、単なるおまじないさ」
「そりゃ結構だ……飲むか?」
コンスタンティノが掲げる水袋を見て、ルカは無言で頷く。
昼頃に自分の水袋が空っぽになって以来、ルカは一口の水も口にしていない。
放り投げられた袋を宙で受け取ると、ためらうことなく口をつける。
「……! こりゃ、酒じゃないか!」
「おや、お前酒は苦手か?」
意地悪そうに微笑むコンスタンティノに、ルカは抗議の目を向けた。
もちろんルカが飲めないわけではない。
どちらかと言えば、酒が自由に手に入る隊長格への抗議だった。

「ところで……アルは生きてるかい」
かさかさの喉に引っかかるパンを酒で洗い流し、ルカはようやく一息つく。
疲れ切った足を延ばすと、もう一口酒を含む。その時初めて味が感じられた。
「死んでもらっちゃまずいからな。俺はずっとお守りさ。
かといって安全なところに引っ込んでる訳にもいかん。見極めが難しい」
兵士たちは将軍の臆病をすぐ見抜く。
どれだけ公平であろうと努めても、下級兵士の不満は消えたりはしない。
だがその中でも、将軍が自分の命を惜しんでいると思われるのは最悪だった。
「あんたも大変だね。アルの顔を立て、兵士の顔色を伺い……。
『雇い主』の期待にも応えなきゃなんない」
「ああ、せめて『凶暴騎士団』の十人でもいてくれれば違うんだがな」
『凶暴騎士団』の半分にあたる一個コンパニアはアルの直率となっていた。
残る半分のうち、五十騎ほどがナポリ軍団に、残りが北の未完の稜堡に配置されている。
今のコンスタンティノは一人の部下も連れていなかった。

「知ってるか。アルフレドの奴、兵と同じ物食って女の所にも帰らず、なんだ」
ルカが顔を上げると、コンスタンティノは笑っていた。
「俺が『兵の模範となれ』って言ってやったら糞真面目に守ってやがる。
いい加減、乳離れする年齢だろうにな」
「……あんまりアルを甘く見ない方がいいぜ」
不意に釘を刺され、コンスタンティノは驚いてルカに目をやった。
ルカは白けた目のままちびちびと酒を口に運んでいる。
「あいつは、あんたを盲信するほど馬鹿じゃない」
「ほう。俺について何か言ってたかい」
おどけた調子でコンスタンティノが聞く。
腰を落ち着ける気になったのか、剣を外すと床に放り投げる。
ぶつかった鞘が、騒々しい音を立てて転がった。

282火と鉄とアドリア海の風・第十八回 7/13:2006/10/11(水) 00:01:08 ID:Hn/YAhk+

「あんたがこの仕事を受けた理由。『復讐』なんだろ」
それだけ言って、ルカは黙った。
コンスタンティノは、さらに言葉を促すようにルカの顔を覗き込む。
だが、沈黙は続いた。
「……なんだ、お前分かって言ってるわけじゃないのか」
「アルがそう言ってたってだけさ。それ以上は教えてくれなかったけど」
すねたように顔を背ける。
だが、不必要な話をしないのはアルフレドの美点だとルカは密かに思っていた。
少なくとも根も葉もない噂をまき散らす貴族どもよりはずっといい。

「なるほど。では教えてやろう、『復讐』の意味を」
「……いいのか? 何だか知らないが、そんな大事な話俺に漏らして」
かまわない、とコンスタンティノは頷いた。
「どうせ俺たちはこの町に閉じこめられた鼠さ。今更あがいたって始まらない。
生き残れたら、また違ってくるだろうが」
自虐的な笑みを浮かべると、コンスタンティノはルカの水袋をひったくった。
酒でのどを潤すと、一つ咳をする。

「大公ジスモンド二世の時、この国に内乱があったことはお前も知ってるだろう」
「あ……ああ、俺の爺さんがまだ子供だった頃の話だな」
突然の話にとまどうルカをよそに、コンスタンティノは淡々と話し続けた。
「大公の課税に反対したいくつかの都市と地方領主が同盟して、反旗を翻した。
税の撤廃と都市の自治を要求して、大公の代官を追放したんだ。
もちろん大公も黙ってはいなかった。ジスモンドは武力で反乱を鎮圧する構えを見せた。
反乱者たちも、自分たちに賛成する騎士や貴族と共に連合軍を結成した……」
ごくり。コンスタンティノが酒を飲み干す音がした。
「……だが、結局大公の方が何枚も上手だった。
都市連合についた貴族を、さまざまな利権の約束と引き替えに寝返らせたんだ。
結局反乱者は全て殺されるか逮捕され、最後まで協力した貴族たちも同様の目にあった。
領地を没収されたり、一家皆殺しにされた家もあった。デ・ウルニ家――俺の一族も」
そこでコンスタンティノはにやりと笑って見せた。
「……反乱軍についたのは俺のひい爺さんさ。最後まで反乱側の騎士として戦ったそうだ」
「じゃあ……なんであんたの家は処刑されずに済んだんだ。おかしいじゃないか」
反乱側の首領格の家系が生き延びている――
それどころか、コンスタンティノの代まで公国の騎士だったなんて有り得ない。
口には出さずとも、ルカの疑問は明白だった。

「俺のひい爺さんは、密かに大公側に内通してたんだ。つまり、はなから寝返ってたのさ」
「え、じゃあ……」
ルカが尋ねる隙も与えず、コンスタンティノは続けた。
「だが、俺の一族はそれ以来、裏切り者の汚名を受け続けることになった。
大公の一族は反乱の代償がいかに高くつくか、その見せしめに俺たちを使ったんだ。
寝返りの見返りに受け取ったのは領地没収と、反逆者の烙印さ。
俺の祖父も、父親もそんな罵声を浴びて生きてきた。
だが、俺はそんなのは嫌だった。だから、俺は国を捨てて傭兵になった。
そこでは裏切り者、反逆者は称賛の対象だった。
なにしろ馬鹿な雇い主を裏切るのも『優れた傭兵』の資質だからな」

283火と鉄とアドリア海の風・第十八回 1/13:2006/10/11(水) 00:02:23 ID:Hn/YAhk+

語り終わると、コンスタンティノは立ち上がった。
ルカは彼の顔を見ようともせず、じっと足元に視線を落としている。
「じゃあ、あんたは大公や姫さまをぶっ殺しに来たってのかい」
「まさか。そんなことしたって一文の得にもならない」
もうそこには告白者の影はなく、いつもの皮相な傭兵がいた。
「この国が滅茶苦茶になるのを楽しみにしているのさ。それを見物に来たんだ。
お前も聞いているだろう。トルコの大将が降伏勧告を送ってきた話……。
『俺たち全員がムスリムに改宗すれば、殺さず許す』ってな」
立ち上がり、コンスタンティノはルカに背を向けた。
「アルフレドやヒルダ嬢ちゃんはどうするんだろうなぁ」

「……あんたの思い通りにはさせねえよ」
「なんだと?」
ルカの言葉に、コンスタンティノは振り返った。
少年の目は暗い。だが拳は決意を表すように、固く握られていた。
「ここは俺の生まれた町だ。いいか? 俺たちが生まれた町だ」
「フムン」
突然生気を吹き込まれたように、コンスタンティノの顔が輝く。
「いいぞ、ますます楽しくなってきた。いい舞台には、いい道化役も必要だ!」
眉毛を何度か持ち上げて見せてから、彼は歯をむき出しにして笑った。




284火と鉄とアドリア海の風・第十八回 9/13:2006/10/11(水) 00:02:52 ID:Hn/YAhk+

3.
「姫さま、ようこそいらっしゃいました」
教会から姿を現した女を見たとたん、ヒルデガルトは何故か親しみを感じていた。
すり切れた上着、洗いざらしのスカート。それでいて肉感的な体。
農民にしては血色がよく、修道女にしては服装も身のこなしも俗っぽい。
だが、その正体に思い至るより先に、女の挨拶に思考はかき乱された。
「姫さまから賜った品々のおかげで、みな励まされております」
女の挨拶に頷きながら、ヒルダは教会の前階段を上る。
もちろんステラも傍らに連れている。
外からでも分かるほどの人の熱気に、ヒルダはもう一度新鮮な空気を吸い込む。
今日は傷病兵を収容している教会の視察に訪れたのだった。
古来高貴な血には癒しの力が宿るとされ、とくに素朴な農村では根強く信じられている。
「王の奇跡」の力を俗界統治の根拠とする聖職者や学者もいる。
だが今回の視察には、単純に兵の士気を高めるという意図もあった。

「ところであなた、修道女には見えないけれど……」
階段を上がったところでヒルダが問うと、女は恥ずかしそうに笑った。
「ええ、違います。けれど負傷者の手当は慣れておりますので、お手伝いをして……
もちろん手当だけではありませんが……つまり、そういう仕事なのです」
それ以上問うな、といったように女は微笑んだ。
うぶなヒルダでも、すでに彼女の正体は分かっていた。
修道女でもないのに、治療に通じているとすれば、それは軍隊の女しか有り得ない。
そして、軍隊に付き従う女といえばほぼ例外なく一つの商売しかしていないものだ。
「あなたの名前は?」
「卑しい私のような者の名など、姫さまにお聞かせする価値もありません。
ですが周囲の者からはニンナ・ナンナ、あるいはニーナと呼ばれております」
「そう。今日はよろしくね、ニーナ」
ヒルダの答えにほっとしたように、ニーナは教会の扉をくぐった。

教会の中は、異様な空気に包まれていた。
人が吐き出す息の匂い。体から発する垢と汗の匂い。
傷口から染み出す血と体液の匂い。腐った肉の匂い。そして死臭。
だが、そんな中にあってもヒルダは気丈に振る舞い続けた。
傷病兵に声をかけ、訴えに耳を傾けた。
死に行く者に感謝と祝福を与え、その傷口や病巣に触れた。
癒しの奇跡などヒルダは信じていない。
だがそれでも何かの慰めになると信じて、ヒルダは一人一人声をかけ続けた。

ニーナによれば、すでに百人以上が傷つき、倒れたという。
死者の魂を慰めるために、教会の奥には新たな祭壇が設けられていた。
もちろんヒルダもそこで祈った――死者が全て主の隣に引き上げられますように、と。
ジロラモに言わせれば、これは教皇が認めた聖戦。だから戦死者は皆天国に行く。
いや、もし今日にも城門が破られ市民が皆殺しになっても魂は救われるのだと彼は言う。
ヒルダはジロラモが常に弱き者の立場から発言することに共感してきた。
彼の教団には多くの信徒がおり、互いに助け合ってこの戦争を乗り切っている。
その姿にヒルダは希望すら感じていた。
だが――
戦友を埋葬しようとしたトルコ兵を射殺したジロラモ。
死を称揚し、死を恐怖と思わないジロラモ。
果たしてそんな彼の言葉を信じて良いのだろうか――?
祭壇に向かうヒルダは、いつしかそんな思考の迷宮に潜り込んでいた。

285火と鉄とアドリア海の風・第十八回 10/13:2006/10/11(水) 00:03:12 ID:Hn/YAhk+

その時、物音がしてヒルダは我に返った。
音のした方を見ると、少女が一人、驚き立ちすくんでいた。
「ごめんなさい。お祈りの邪魔をしてしまって……」
どうやら暗がりと普段に増して質素な姿のために、ヒルダの正体に気づかなかったらしい。
少女はもじもじと謝罪の言葉を述べながら、手に持った新しい蝋燭を祭壇に供え始めた。
燃え尽きた蝋燭を交換し終えると、少女はまた頭を下げた。
「本当にごめんなさい。あんまり真剣にお祈りしているものだから……
私、あなたがそこにいるとは気づかなかったの」
見れば、彼女はヒルダとほぼ変わらない年格好だ。
だが少女のイタリア語には、少し聞き慣れない訛があった。
「あなたは、この教会の人?」
ヒルダが尋ねると、少女は僅かに首を傾げた。
「そうとも言えるし、違うとも言えるわ。私はここの小間使いをしているの。
でも普段は……」
その時ヒルダは、少女が髪を綺麗に結い上げ、白い頭巾で隠しているのに気づいた。
未婚の女性は髪を頭巾で覆い隠したりはしない。
「――結婚してるの?」
「ええ……そうね、そうとも言えるし、違うとも言える」
少女の謎めいた言い方に、今度はヒルダが首を傾げた。

「ねえ、よければ少しお話しない?」
「私と?」
少女は不思議そうに尋ねた。ヒルダは頷く。
「色々教えて欲しいの。この教会のこととか、怪我人のこと、それに、あなたのことも」
「私の、こと……?」
自分に興味を持つ人間がいるなど信じられない。
彼女の言葉にはそんな響きがあった。
「駄目かしら?」
ヒルダは少し甘えた声を出し――そして自分がまだそんな声を出せることに驚いた。
暗がりの中で、少女が少し逡巡する気配がした。
だが、すぐにそれはきっぱりとした言葉になって表れた。
「ええ、いいわ」

二人の少女はそろって教会の中庭へ出た。
柱廊に囲まれた庭では、ひとりの修道女が薬草を摘んでいる。
差し込む日射しと、鳥の声。
そのさえずりが砲撃の爆音に遮られることさえなければ、戦争中とは思えぬ静けさだった。
二人は修道女の邪魔にならないよう、少し日陰になった廊下の隅に腰を下ろした。
「……あなたの旦那さまは、何してらっしゃるの?」
ヒルデガルトの問いに、少女ははにかみながら視線を城壁のある方へ向けた。
理解したヒルダは、小さく頷く。
今この町にいる男で、体の動く者は全て戦っている。彼女の夫も例外ではないのだろう。

「本当を言うと、夫じゃないの」
「え?」
僅かな沈黙の後、少女は告白するように言った。
「私たち、とても結婚できるような身分じゃないの。
でもね、私にとって彼は全て。彼がいなければ私は生きていなかった……。
だから、彼が私を拒絶する日まで――もしそんな日が来れば、だけど――
私、彼のそばにいようと思うの」
少女は熱っぽく語って、次の瞬間視線を落とした。
そっと自分の髪と頭巾に手を当てる。
「これは、その誓いの代わり。神さまの前で誓う代わり」
286火と鉄とアドリア海の風・第十八回 11/13:2006/10/11(水) 00:04:15 ID:VRrq2k8i

ヒルダは言葉を接げなかった。
きっと、この少女の想い人は貴族か聖職者なのだ。
そうでなければ結婚できない「身分」とは言わないはずだった。
おそらく彼女は一生日陰の身として生きていくのだろう。
ヒルダはそんな女性たちについて多くを知らない。
領主に献上された農民の娘か、没落貴族の娘が転じた高級娼婦か。
高級娼婦ならば、まだ寵愛を受けて宮廷で力を持つ可能性もある。
しかし目の前にいる少女は、決して教養と才に秀でた高級娼婦には見えなかった。

だがこの少女の明るさは何だろう。
神の祝福を受けない、決して大っぴらに語れる間柄ではないというのに。
「……彼のこと、すごく大事に思っているのね」
ヒルダはぼんやりとではあるが、最初少女に感じた印象の源を悟っていた。
まるで修道女のような、純粋で強い献身の意識。
少女の男への想いは、修道女が神に、家臣が君主に捧げるそれに似ている、と。
「彼は多くの人に守られている……でも孤独なの。
彼を守る人たちはね、彼から何かを得ようとしてそうしている。
誰も彼を心から尊敬したり、忠義を誓ったりしているわけじゃないの」
私の言うこと分かる? と少女はヒルダに首を傾げて見せた。
ヒルダも目で同意を表す。
「だから、せめて私だけはあの人に見返りなんて求めないようにするわ。
最後まで彼を信じて、彼の慰めになって――だって、彼に救われた命だもの」
「……彼に捧げても、惜しくない」
ヒルダが先回りした言葉に、少女はええ、と答えた。
「この戦争が終わったら、私、彼に正式に申し込むわ。
『あなたの家来にしてください。主従の誓いを立てさせてください』って。
そうやって私が死ぬか、彼が死ぬまでそばにいること。それが私の願いなの」

ヒルダは、少したじろいだ。
少女の思いの強さに、ではない。「戦争が終わったら」という言葉に、だ。
戦争が終わることを少女は信じている。
その時に自分と自分の想い人が生きていることを、何の疑いもなく信じている。
ヒルダには、信じることが出来ない。
「ねえ、あなたの想っている殿方って、立派な方なのね?」
ヒルダの興味は、少女からその男に移っていた。
こんな幼い娘にこれほど信頼され、尊敬される男なら、よほど名の通った騎士なのだろう。
あるいは何もかも逆立ちしたこの世の中、果てしなく卑しい身分なのかもしれないが。
ヒルダの質問に、少女はまるで自分が褒められたかのように頬を染めた。
体をもじもじさせながら、言いにくそうに声をひそめる。
「……私みたいな女があの方を知ってるなんて、信じてくれないかもしれないけど」
そう言うと、少女はヒルダの耳にそっと口を近づけた。ヒルダも顔を寄せる。

「……彼、『片耳将軍さま』なの」

その時、北の方からけたたましい鐘の音が鳴り響いた。


287火と鉄とアドリア海の風・第十八回 12/13:2006/10/11(水) 00:05:19 ID:VRrq2k8i

4.
「あなた、怪我をしたの?」
ヒルダが祭壇で祈りを捧げている頃、ステラは暇を持て余していた。
しょうこと無しに怪我人たちの間を歩き回っていたのだが、そこにルカがいたのだ。

殺菌という概念もない時代、僅かな負傷でも死に繋がる。
怪我をすれば、たちまち運命は神の手に委ねられる。それは誰もが承知していた。
だから、ルカが一見傷一つないように見えても、何の保証にもならなかった。
実際、ルカの顔は泥と汗に黒ずみ、そこかしこに血の跳ねた跡がある。
無数のひっかき傷の残る鎧に、壊れた兜。
痩けた頬に落ちくぼんだ眼窩もステラの第一印象を悪い物にした。

「怪我した戦友を連れてきただけだ」
「……そう」
ぶっきらぼうに答え、ルカはステラのそばを通り過ぎようとする。
「……良かった」
だが、ステラがそう呟いたとたん、ルカははたと立ち止まった。
振り返る動きに合わせて腰の剣が鳴る。
「あいつはいい奴だった。俺を庇おうとして矢に射られたんだ。
脇の血管が傷つけられて――たぶん助からない」
「あの、私は」
言い直そうとするステラの言葉を、ルカは聞こうともしなかった。
まっすぐに教会の玄関へと歩いていく。
出口のところで、修道女が差し出した水の杯を一気に飲み干す。
光の中へ消えていくルカを、ステラは必死に追った。

ルカが前階段を下りかけたところで、ステラが追いついた。
すでに階段の前には、ルカと一緒に負傷者を運んできた兵士の一団が待っていた。
「ルカ! 私が言いたかったのはね……」
「お前には、謝らなきゃならないことがある」
不意に振り返ると、ルカは頭を下げた。
「お前にもらったお守り、そいつの包帯にしちまった」
288火と鉄とアドリア海の風・第十八回 13/13:2006/10/11(水) 00:05:40 ID:VRrq2k8i

その時、突然北の方から鐘の音が鳴り響いた。
まるで鉄の籠を石畳に転がしたようなけたたましい音に、兵士たちは一斉に顔を上げる。
教会からは修道女や軽傷者が姿を見せた。
もちろんステラも、じっと鐘の音のする方を見守っている。
何か急を告げること――何かよくないことが起こっているのは明らかだった。

やがて、北から一騎、男が教会の方へ走ってくるのが見えた。
教会の前に兵士がたむろしているのを見ると、慌てて手綱を引く。
「お前ら、急いで北の門へ――聖アンナ門の守備に向かえ!」
「おいおい、俺たちはアルフレド殿下の兵だ。持ち場は南だぜ」
兵士の一人がうさんくさそうな顔で言い返す。
騎馬の兵は上がった息を整えながら、何度か首を振った。
「稜堡が、聖アンナ稜堡が敵の手に落ちた! 誰かが内側から門を開けやがった!」
それを聞いたのは兵士だけではなかった。
修道女や負傷者の耳にも、その言葉ははっきりと届いた。
――誰かが内側から門を開けた――
「どういうことだ、密偵が潜り込んだのか、それとも内通者か?」
「詳しくはわからん。だが突然門が開いて、トルコ兵が……
『凶暴騎士団』が守っていたはずなんだが……とにかく、行け、行け!」
それだけ言うと男は馬に拍車を入れ、南の方へと去っていった。

北の方からは相変わらず鐘が鳴り響いている。
「ルカ!」
仲間の呼ぶ声に、ルカは我に返った。
とにかく行かなければ。
「――コンスタンティノ、あいつ、まさか……」
裏切り者の一族。
この町を滅茶苦茶にする。
そんな言葉がルカの脳裏をよぎった。


(続く)
289名無しさん@ピンキー:2006/10/11(水) 21:44:47 ID:0cfrUO47
>>火と鉄…
あんまし上手に感想を書けないので箇条書きで失礼

ジロラモの狂信者っぷりがすごい
ヒルダとラコニカの出会いktkr
ステラとルカの今後がとても気になる
コンスタンティノかっこいいな

まとめ
続きをwktkで待ってます
290名無しさん@ピンキー:2006/10/11(水) 23:35:42 ID:xI4dLQH0
gj!!段々ペースアップしてきましたなwww

昔この作品は14世紀の実際の事件を元にしてるとか書かれていたように思いますが、(完結した後でもいいので)詳細を教えてくだされば幸いです
291名無しさん@ピンキー:2006/10/12(木) 03:41:16 ID:sZV6gEzH
そろそろ次スレか。
次に投下する人が立てるって形が即死回避的にもいいかな?
292名無しさん@ピンキー:2006/10/19(木) 22:11:06 ID:/eaMSn3t
微妙なところだな。
480KBを超えてから次スレに移転したほうがいいんだけど、480KBまであと30KBほどある。
293名無しさん@ピンキー:2006/10/19(木) 22:45:48 ID:jZDGEySf
>>288
GJ!実際の事件を元にしてあるって本当ですか?詳しく知りたいです。
最後に少しだけ解説入れてもらえたら、嬉しいです。
29448:2006/10/25(水) 22:19:15 ID:bjOEt11I
こんばんは、とってもお久しぶりの48です。
30KBほどの短編を一つ書き上げたんですが、新スレを立てたほうがいいでしょうか?
次の職人さんの投下まで待って、このスレの残容量の埋めに使ってもいいんですが。
295名無しさん@ピンキー:2006/10/26(木) 09:43:20 ID:wrhb+SN4
なかなか投下のないスレですし、新スレを立てても良いのではないかと思うのですが…
296名無しさん@ピンキー:2006/10/26(木) 17:00:36 ID:xSmjcJAS
同感。埋めは無理にしなくてもいいことだし、
新スレの景気付けだと思ってやっちまおうよ。
29748:2006/10/26(木) 22:28:42 ID:kxPL1QWo
立てられませんでした。どなたかお願いします。
よろしければ下のテンプレをお使いください。



エロくない作品はこのスレに7


・萌え主体でエロシーンが無い
・エロシーンはあるけどそれは本題じゃ無い
こんな作品はここによろしく。

過去スレはこちら
エロくない作品はこのスレに
http://www2.bbspink.com/eroparo/kako/1062/10624/1062491837.html
エロくない作品はこのスレに 1+
http://www2.bbspink.com/eroparo/kako/1064/10645/1064501857.html
エロくない作品はこのスレに2
http://pie.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1073364639/
エロくない作品はこのスレに3
http://idol.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1089502253/
エロくない作品はこのスレに4
http://idol.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1104414812/
エロくない作品はこのスレに4 (+)
http://sakura03.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1105002475/
エロくない作品はこのスレに5
http://sakura03.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1128600243/
エロくない作品はこのスレに6
http://sakura03.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1140876291/

過去作品はこちら
2chエロパロ板SS保管庫
http://sslibrary.arings2.com/
298名無しさん@ピンキー:2006/10/27(金) 00:35:19 ID:I3HvbteW
>297
では立てます。
299名無しさん@ピンキー:2006/10/27(金) 00:36:57 ID:I3HvbteW
エロくない作品はこのスレに7
http://sakura03.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1161876969/

立てました。48さん投下お待ちしてます。
30048:2006/10/27(金) 12:39:48 ID:GBZpu/4i
>299
 ありがとうございます。次スレに落としてきました。
さて、なぜこのような短編を書いたか、ということを説明させていただきます。
 今ちまちまと書き進めている長編は、出奔したゴドウィン3曹が家族のもとに
帰るまでの物語なのですが、話の流れ上、なぜ彼女が家族を置いて海兵隊
に入隊したのかを本編中で説明する機会がないのですね。
そこで、このような短編で、その動機を読者に説明しよう、と思い立った次第です。
 実は、話の大まかな流れは、人づてに聞いた実話と称する話を元にしています。
もっとも酒の合間の話なので、信憑性はほぼ皆無なんですけどね。
301名無しさん@ピンキー
hoshu