俺「三橋が俺にもっと輝けと囁いている…」

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273つぎき(めばえ)
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何度となく読み返し確認する。間違いなく自分の筆跡だった。だとすれば、これを書いたのは過去の自分で、これはだれにあてられているのか。
自分にか、あの人にか、もちろんどちらにと確定はできない。二人ともにまとめてというのが正しいのだろう。キーホルダーを取り返すのはどちらがという明確な決めごとがあったわけでないのだから。
しかし本当にそうなのだろうか。そう記憶しているのは、はたして事実なのか。
なぜならば自分はこの紙のことを、まさに文面に命じられた通りに忘れていた。書かれた内容もここに封印したことも、ペンを握ったという事実さえも自分の頭は記憶していなかった。
そんなあからさまな誤謬を抱えた記憶が頼りになるのだろうか。なにか思い違いをしていたのではないかとひどく恐ろしくなる。
忘れないようにと何度となく縁をたどり、形を感触を確かめてきたものはなんなのだ。思い返すたびに単調な色彩に上塗りされていった地の色は、いったいどのようなものだったのだろうか。
まぼろしのように突如として噴出した紙片を掴んで呆然と立ちつくす。金属の質感だけが手の中で実存を保っていた。
「忘れろ」 誰が、なにを、どうして、これを書いた自分は何を思い、感じ、考え、願っていたのだろうか。なにを伝えたかったのだろう。未来にか、過去にか、今の自分にか。
折り目ででこぼこになった紙には染みこんだ顔料のほかになにもない。見慣れた字形は今とすこしも変わらない、自分は少しも変わっていない。ただ、忘れた。
突然、部屋全体がガタリと揺れる。その弾みで冷や汗でぬかるんでいた拳から魚がすぽっと飛び出した。中空を横切り壁に衝突して、上段の床をカラカラ滑っていく。
勢いのついた魚は和式便器の縁を乗り越え、漏斗状になった急斜面を落下していく。そして小さな黒い穴の中に消え失せた。
真空式便器は吸引音をけたたましく鳴らし、最後に縁から青い水を垂れ流しくれた。
ドアの向こうでは足音が隊列を作り動いていく。すでに魚の感触は肌から消えつつあり、尾びれをスチールに引っかけた音だけが耳の中に残っていた。
便器の中に手を突き入れる。穴の中へと腕を伸ばす。
車両を割ってでも取り返したかったが、穴はとても小さく強固で指の三本も通さない。縁につっかえる関節を無理にねじ込もうと試みる。
金隠しの縁を掴む左手の甲に血管が浮かんだ。「ムリだ、こんなのムリだ」腰が持ち上がって赤外線センサーが反応する。
向こう側から吸引され、押しも引きもできなくなった指と穴の隙間に青い洗浄水が流れ込む。「ムリだ」何度も汚物を便器から引きはがしてきた循環水が肌を溶かしていく。
しかし指は真空に届かない。指を引き抜いた。
「なんでだよォッ!!」怒気が腹をついて出た。段差を蹴りつけるとスニーカーは衝撃を吸収しきれず、足の指がびぃんと痺れた。
二度、三度と蹴りつける。「クソっ!」ガンガンと車両の外殻全体を揺るがすような音が鳴った。「クソッ!!」
どうかしましたか?なにやってるんですか?!扉の向こうから誰かが呼びかけている。肘で開閉のロックを外した。
自動扉のような滑らかさで引き戸が開き、その向こうには硬い表情の女性販売がドアをノックする姿勢で立っていた。
「お客様、どうかいたしましたか?お待ちの方がいらっしゃるんですが……」彼女の後ろには内股気味に足踏みをしている小学生がおり、こわごわとした表情の顔だけをのぞかせていた。
「待って!ここは使わないでくれ!トイレの中に大事なものを落としてしまって、なんとか、なりませんか?なんとかなりませんか?」「大事なものですか?」
販売員は泣きっ面を見ると、首をかしげて独り言のように呟いた。「結婚指輪のような」その一言で連想したのは昨日久しぶりに再会した友人とその同棲相手のことだった。
彼のプロポーズはうまくいったんだろうか、メールの結果報告も来ないが便りがないのは吉兆か。酔いつぶれて延期したのか、それとも二人して温かい布団にくるまっているんだろうか。
ふと自分の疲れを自覚してしまうとなんだか面倒くさくなってきてしまう。「そうです。……でも、待たせるのはよくないか。どうぞ」
販売員が対処を約束したので指定券を見せ席に戻った。目が痛むので腕で擦ったら、消毒液と残留毒素が浸みて逆に痛みが増してしまった。
かさりとしたパルプの感触を歪んだ眼球で確かめる。これだけが手元に残った。拳でまぶたを拭おうとした表紙に紙が水を吸い込んだ。
握りこんでくしゃくしゃになった紙を手の上に広げてみる。水で滲んだ文字の形がさっきまでと違っている。「忘れない、ってなんだ」