873 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :
投稿規制中で〜すw
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1275992988/252-264 余談----“涅槃に入る”について
これについては、視点の角度によって幾つかの異なったアプローチがあるといえるでしょう。
私は“ニルヴァーナ意識境”といっていますが、ゴータマはセブンのご指摘の通り、「菩提樹下の
成道から〜」(
>>252) 確かに常にニルヴァーナ意識にありました。
けれども、一般的には「入滅」(文字通り“涅槃/ニルヴァーナ”に入ること)と呼ばれている状態、
つまり、肉体上の死を以って完全なる涅槃入りと見なす方向性があります。何故ならば、どうしても
生存中は肉体を維持する上での最低限の物質的な制約を受けるからです(神通を発揮してその
制約すらも跳ね除けることも可能ではあるが・・・)。この肉体からの解放を以って、「無余涅槃」(肉
体もない完全なる涅槃)と呼んでいるわけです(対する生存中は「有余涅槃」という)。
874 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :10/06/16 11:28 ID:j/be/aCI
もう一つは、ゴータマは菩提樹下の成道に至る以前から、本当は、実はニルヴァーナに在ったの
であり、“生誕-苦の感受-苦行-成道-伝道-入滅”といったゴータマの人生のすべては、我々に解
脱へ至るためのプロセスを示すための実演(演技)だったのだ、という見方がある。
こういうのは原始仏教的には通常、かなりご法度な論理展開として認められてはいませんが、密
教的(というか大乗)にはごく当たり前のように用いられていたりします。
一在家さんは大乗の下地も強いようなので、このような『「現世で涅槃入りした」というのが方便で、
法華経でも長部経典でも「宇宙劫のかなたから涅槃に入っていた」という 点で文献上で一致してお
ります。』(
>>264)といった言い方も全く抵抗なしにされるのでしょう。
875 :
宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk :10/06/16 11:30 ID:j/be/aCI
秘教的には、ニルヴァーナの至福に浸っている状態を「ダルマナカーヤ」(法身)、教化の為に様々
な姿を摂って活動する解脱者は「ニルマーナカーヤ」(応身体)などと呼ばれます。ニルマーナカー
ヤは便宜上、“ニルヴァーナには入らず”という表現がされることもあります。尚、ゴータマの涅槃に
ついては、神智学的には独特の見解を持ちますが、ここでは扱いません。
密教(金剛乗)でも三身仏の応身がゴータマであると見なされています。これは、“ゴータマは我々
に教え導くために出現して下さった在りがたい存在である”、という尊崇と畏敬の念に、更にホトケに
ついての心情的な神格化がこれに加味されてできていった教義でしょう。