★問答無用でレス代行★ 116ダルマンコさん顔真っ赤

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465Classical名無しさん
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奈良纒向(まきむく)遺跡での大型建物跡が見付かったからと、関西御用学者が
無理やり邪馬台国や卑弥呼を無理にでっちあげようとしているのが痛い。
墳墓なども鑑定するが、仮に同時期だったとしてもそれが邪馬台国の証拠とは
言い切れないだろ。周辺地域の出土品内容など合わない。
ひとつの集落国家の存在ではあるだろうが。

魏志倭人伝の記載で、半島からの日数などから近畿だろうと言うが、九州から先の
日程などが不明瞭。それに当時は今と陸路などを進む速度も違ったし、ル−トも
複数あったはず。日数などから見て北部九州にあったのはほぼ間違い無いよ。
ちなみに北九州と言ってるが、当時は小倉や八幡などは漁村があるかないかの
時代だから間違えないように。九州にあった邪馬台国がその後勢力拡大で移動、関西含む
他地域を勢力下に置いた可能性は否定しない。

466Classical名無しさん:09/11/12 17:40 ID:qpwxPk5Q
続き

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ちなみに九州北部は卑弥呼以前から古代王朝国家が存在し、金印始め大陸との交易
や交流があった日本最古の文化先進地域だった事も事実だ。卑弥呼邪馬台国
の時代の宝物や、鉄や鏡なども周辺で数多く出土している。

吉野ヶ里の大規模遺跡なども本物だ。九州国立博物館では金印と別に邪馬台国探訪の催しもあってたよ。
時代は下るが、先日広大な大宰府政庁跡の隣で、正倉院を上回る規模の
大規模倉庫跡とその定礎の敷石が見つかった。