【歴史】 「もう『邪馬台国は九州にあった』説は無理…」 邪馬台国論争、決着近し…奈良・纒向遺跡の大型建物跡発見で★3
>>1 えーでも邪馬台国は韓国にあった説はあと大丈夫だよ?
日本人たちのほうが歪曲やめるべきだと思うよ?
202 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:26:58 ID:Fa3yTr+z0
金印で親魏倭王っていう注文が来たけど
草書体でいいのか?
印章屋
203 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:27:37 ID:ndjlXYWt0
>>184 現時点でいえるのは、畿内勢力はかなり大きく、
九州勢力を上回っていたということくらいだろ。
現時点で、邪馬台国=畿内勢力なんて言えないだろうに。
大きい方が邪馬台国と確定されるわけじゃないんだぜ。
204 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:28:40 ID:QBQyZZic0
鋼鉄ジーグの力で全滅だ!
ちゃんと記述を重視して、邪馬台国=ムー大陸説
>>27 倭は私か我かじゃないか
自分のことを「わ」と呼ぶ人達と言う意味で倭人
今でもわたくし、わたし、わし、われわれ、って言うし
207 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:31:29 ID:oyEWWSZOO
>>202 ひらがなでおねがいします。
難しいと読めません
神武東遷伝説と近畿の祭祀が突然九州型に変化した事を
どう説明すれば
邪馬台国近畿説を支持出来るんだ。
まともな思考回路を持つなら九州説が普通だ。
近畿が繁栄していた事を否定しているんじゃないぞ。
210 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:33:26 ID:ndjlXYWt0
>>207 うん。
たとえ年代が3世紀だとしても、
畿内勢力はかなり大きいだろ。
でも、それが邪馬台国かどうかは別の話じゃないか?
211 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:33:33 ID:mYeMdJv7O
212 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:35:55 ID:MyV9nR060
吉野ヶ里遺跡の建物は、敷地にバラバラに建てたれている。
一方、マキムクはきちっと並んで建てらてれいる。
この差は大きいんだよね、3世紀の建物として考えると。
邪馬台国は、どう考えてもマキムクなんだな。
213 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:36:04 ID:V4H/S2AjO
掘れば掘るほど邪馬台国から遠ざかる畿内、残念な結果が見えているだけに発掘は中止した方が吉
>>199 >大化の改心で二つの国があるというような状況はないだろ。
だから無いって言ってるんだよ。
分断工作だと。
唐の時代の書物でさえ、日本を分断するような政治工作を
行ってるってこと。今も地方分権で九州や沖縄を分断しようとしてる
みたいだけどもw 相変わらず政治手法が幼稚。日本は民主主義国家として
一般大衆レベルでもその手の政治手法を見透かしてるのに中国は唐や三国志時代と
なんら変わらないって事ね。
216 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:37:31 ID:YX+UMIsEO
217 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:38:48 ID:mYeMdJv7O
218 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:38:55 ID:ndjlXYWt0
>>214 >分断工作だと。
陰謀論なのかよw
当時、日本に住んでいる人に全く影響力のない工作じゃないかw
219 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:39:51 ID:QPjiDpr00
>>210 つまり、小さい九州勢力が魏から金印をもらった後、
ヤマト朝廷に滅ぼされたと、そういう面倒くさい歴史観なわけだね?
>>209 魏志にある邪馬台国は神武が東遷した後の崇神天皇時代
ごろの大和と考えればつじつまが合うだろ
邪馬台国=大和というのがまず立証されてない
邪馬台をやまとと読むって説があるくらいか
最終的に勝ち上がったのは大和だから、最大勢力=大和なのは間違いないんだろうけど
222 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:41:54 ID:uivnXseyO
>>214 分断工作なわけないだろ・・・妄想しすぎ
おそらくは日本側の説明に不備があって唐側にうまく伝わらなかったんだろ・・・
あるいはたまにしか朝貢に訪れない日本側への不審、などの経緯があったと
223 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:42:54 ID:V4H/S2AjO
纒向遺跡での大型建物跡を発見しても邪馬台国に繋がる物が、今後出てくる可能性は低い、ゴットハンドで乗り切るしかないなW
倭国は男王が治めていたが、その後何十年にも及ぶ倭国大乱があって
中国近畿地方は大混乱、卑弥呼をかついでなんとか大乱が治まったんだよな
そう考えると欠史八代まで関係してくる訳だが、なんかすごいな
225 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:47:01 ID:T3hq7k0XO
「みんなの心の中にある」でいいのではないでしょうか?
227 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:48:19 ID:PzNB0wcy0
あと103年まてばドラえもんが誕生するから全てが分かる
228 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:51:02 ID:5w8OYxG00
103年後の未来から現在にドラえもんが来てない不思議
のび太がかくまっているのか
>>218 >>222 歴史が前の書物には、倭=邪馬台国として、奴国とは全く別に
捉えられてるのに朝貢がなくなったからなのか、
『倭国は古の倭奴国なり』なんて暴論が突然出てくる段階で
非常に陰謀的だよ。魏志倭人伝すら否定的に見る人たちが
この解釈を積極的に受け入れる理由なんて全くない。
230 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:57:35 ID:C8W1fqyZ0
>>214 分断工作といえば、蘇我・物部の崇仏・廃仏論争の裏には
百済・新羅の工作があったといわれてるね。
231 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 15:58:22 ID:sPVt0t8/O
九州説は神話の解釈ばっかりだな。考古学的証拠が沢山ある大和説に対していかにも弱いなあ。
232 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:01:43 ID:Fa3yTr+z0
2大国が存在し、たいした戦いもなく政権が入れ替わるためには
2大国が親密な関係にあるか、一方が戦えないほどに国力が衰えている場合
に限られる。
大化の改新が645年、九州年号はまだ続いている。
そのあと年号が途切れるのは公式には使う必要が無いからだろう。
おそらく、九州勢力からの脱却を目指して、独自の国家を作ろうとして
年号を制定したが、一般的には九州年号が使われていたため
公式文書からは大和年号はしばしば途切れてしまう。
それが変わったのが白村江の戦いの663年
このとき筑紫の君が捕まってしまう。事実上の王が捕まってしまったわけで
致命的といっても足りないくらいの大敗北である。
このとき独自の年号を制定しようとさえしていた大和勢力が動いたのは
想像に難くない。九州勢力が大和に応援を求めたのか
それともその隙に乗じて九州勢力を潰したのかはわからない。
何はともあれ、天智天武を経て、文武の時代に大宝が制定される。
それからはもう年号が途切れることもなく、今に至っている。
天智天武の時代は勢力争いがいろいろと複雑だった時代。
九州王朝も含めた何かがあったように思えてならない。
233 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:02:35 ID:/3BDiDZ20
歩き、牛、馬時代に方向を誤るのは、死に直結するけど・・・
数は昔の書では誇大表示するから信用ならないが、方向はあの時代に誤るとは思えないが。
書での旅行記wでは、どっち方向に行っていたのか、その時期の季節はいつと表記されているのか・・・
都合がいいのは書の通り、悪いのは書が間違いっていっている両説の人に見られるのはやだな〜
234 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:03:59 ID:mYeMdJv7O
>>220 三韓討伐が391年頃。
日本書紀で、神功皇后52年に百済から献上されたとの記述がある七支刀が、泰和7年(369年)との年紀入り。
神功皇后は第14代仲哀天皇の后。仲哀天皇の治世は9年。第13代成務天皇が60年。第12代景行天皇も60年。
神功(四世紀後半)+仲哀+成務で120年。
ちなみに第11代垂仁天皇は治世99年(笑)
まぁ99年の真偽はともかくとして、第10代崇神天皇に行き着くときには三世紀はすでに遡り終えている計算になる・・・
235 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:04:02 ID:AN1jNySf0
天皇が出現する神武東征前までの出来事は、
北九州から畿内までの当時の日本=倭を納めていた出雲の衰退と、
その後の実権を握ろうとする畿内・北九州勢の覇権争いを描いたモノ。
倭の実権は、畿内勢力が大国主命を取り込み、改革の名の下に組織を変更しようとしたことから始まり、
その後、それに対抗して北九州勢が大国主命の息子を取り込んで、北九州勢が勝利し、
卑弥呼の孫を派遣することで出雲を手中に収め、倭の実権を握る。
北九州勢の女王・卑弥呼の死後、再び、畿内勢と北九州勢で倭の覇権の綱引きが始まる。
しかし畿内勢が出雲を蔑ろにしたのが原因で、肝心の出雲のカムヤマトイワレヒコが北九州側になり、
近畿勢は逆賊とされて討伐され、再び近畿勢が勢力をぶり返さないよう、
神武天皇となった出雲のカムヤマトイワレヒコが畿内に留まった。
そして神武天皇の死後、今度は、出雲の血を引く神武以後の畿内勢と、邪馬台国の血を引く北九州勢の覇権争いとなり、
最終的には出雲の血を引く畿内勢が勝利し、倭の国の実権を握り、倭から日本へと変化する。
つまり、北九州から畿内までの古代日本では、出雲が京都の役割を果たしていて、
出雲からの正統性が、倭の国の実権を握るためには重要であった。
北九州勢も、畿内勢も、出雲よりの正統性を錦の御旗として、倭の覇権を争っていたんだよ。
236 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:04:25 ID:QPjiDpr00
>>233 だったら、沖縄説でいいんじゃないの?
何か不満でも?
倭国は九州から朝鮮半島にまたがる国。
北九州だけではない。百済・新羅も領地。
九州説にしても、神武の東征は、なにわにたどり着くまで、途中8年とか7年とか1年とか計16年も道草食ってるんだよ。
これは何なんだろ。
九州節なんて最初から根拠なかったじゃんw
240 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:13:53 ID:Atbn0bcWO
皇統譜と年代が間違いないって仮定で考えると、制作者の意図に釣られるだけだと思う。
>>238 それって継体天皇のナニワ入りに酷似してない?
241 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:14:52 ID:gB3mHLuf0
万世一系の九州256王朝
242 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:15:07 ID:V4H/S2AjO
北九州て言い方は誤解を招く、北部九州もしくは九州北部だ
そもそも邪馬台国=大国&大和朝廷ということ自体が
実は根拠の薄いロマンチックな想像でしかない。
同時代の凄い遺跡が見つかったことと
そこが邪馬台国であるということは
それだけじゃ何の証拠にもならない。
244 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:21:25 ID:Atbn0bcWO
神武東征って、藤原不比等が九州地方の豪族に向かってのプロパガンダじゃないのかなあ。
記述にある規模の国家ならば北九州じゃ小さすぎるな。
九州自体国があったんだろうけど邪馬台国が従えてる属国の一つだった
可能性高いと思うぞ。
>>235 >北九州勢も、畿内勢も、出雲よりの正統性を錦の御旗として、
>倭の覇権を争っていたんだよ。
個人的にこの考え方は支持したい。
だから北九州勢力が三輪王朝=邪馬台国から実権を握ることへの
後ろめたさを誤魔化す為に神武神話を作り上げた。
その上で出雲勢力=辰韓系
北九州系=倭族=馬韓系
神武神話を作り上げる必要性があった、北九州系の河内王朝が
新羅を攻めるのには道理がある。
247 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:27:11 ID:UKxf4aZJO
>>238 仲間集めとコネ作り、根回し
お土産無しで大和に乗り込んでも相手にされんでしょ
規模については、相手が調べようがない場合
大げさに言っていると思う方が普通じゃないのかね。
超大国に取り入ろうとしているのだから。
またそういうことを
250 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:29:47 ID:TkvfP43YO
卑弥呼の時代より400年くらい前に、秦の学者の徐福が
始皇帝の命令で日本に探検に来たが、帰国せずに王になったという伝説がある
251 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:31:28 ID:ogcXXGxX0
南部奈良県が邪馬台国発祥!
252 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:31:56 ID:AN1jNySf0
結局、実権を握り日本を構築した畿内勢は、
出雲よりの正統性と、北九州からの正統性の、
どちらも主張する必要があった。
だから、出雲も邪馬台国も「神」として表現し、
初代・神武天皇は、出雲の神の家系であり、北九州の卑弥呼=神・アマテラスの家系でもあり、
天皇は神から賜ったものだから、日本の統治者としてふさわしい・・としたんだよ。
253 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:31:58 ID:Atbn0bcWO
元々邪馬台国は巻向にあって、雄略天皇の代で血統が途切れた、
そこで大乱が起きて、継体天皇が迎えられた。
とか
>>246>>235 の考え方もわかりやすい。
地面掘り返してロマンス胸に妄想膨らませるような似非学者が
いくら地面掘り返しても大した事はわからんだろ。
いい加減、もっと科学調査中心にすりゃいいのに。
未だにロマンス優先だからな。
255 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:33:59 ID:qhHQi4koO
ドラえもんを作ることをオススメする。
タイムマシーン使えるし、いろんな道具で本当のことが、いっぱいわかる
>>253 継体天皇は三輪王朝系の天皇なんじゃないかな。
河内王朝系(北九州系)と三輪王朝系(出雲系)の対立を
収めるために実権を握っていた河内王朝系が担いだ形。
257 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:36:34 ID:mYeMdJv7O
>>234 間違えてしまった。七支刀、年紀は泰和4年だった。献上年は西暦372年。神功皇后摂政52年条。
三国志の時代だから文明的には大陸はかなり進んでたんだよな。
強度の高い船もあったしな。
倭の国にもそれなりに文明が入って来てただろうに、俺らが思ってる以上に
日本も国としてのちゃんと体裁があった国家が支配してたんだろうな。
小領主とかそんなレベルで大陸に使者送るとか有り得ないと思われ。
259 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:38:43 ID:OQT5ZRw80
日本は近畿に天皇がいたときだけ、繁栄していた。今はもうダメポ(;;)
日本は近畿に天皇がいたときだけ、繁栄していた。今はもうダメポ(;;)
日本は近畿に天皇がいたときだけ、繁栄していた。今はもうダメポ(;;)
日本は近畿に天皇がいたときだけ、繁栄していた。今はもうダメポ(;;)
日本は近畿に天皇がいたときだけ、繁栄していた。今はもうダメポ(;;)
日本は近畿に天皇がいたときだけ、繁栄していた。今はもうダメポ(;;)
日本は近畿に天皇がいたときだけ、繁栄していた。今はもうダメポ(;;)
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日本は近畿に天皇がいたときだけ、繁栄していた。今はもうダメポ(;;)
日本は近畿に天皇がいたときだけ、繁栄していた。今はもうダメポ(;;)
日本は近畿に天皇がいたときだけ、繁栄していた。今はもうダメポ(;;)
日本は近畿に天皇がいたときだけ、繁栄していた。今はもうダメポ(;;)
邪馬台国、
鏡を貰っても、無事に持ち帰れたか分からない。百余国あった国の、ほんの小さな国だったかも知れない。
すべてはホンのわずかな、本当かどうかも分からない記述を元に、邪馬台国はこういう国だったという妄想を元にあーだこーだやってるだけなんだよな。学者って。
アホみたい。
どこかから日本版死海文書みたいの出土すれば解決。
262 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:40:22 ID:V4H/S2AjO
纒向遺跡での大型建物跡の発見はよしとしよう、しかし邪馬台国である物証は一切発掘されていない、台与の墓を卑弥呼とすり替える事はやめていただきたい
ゴッドハンドふたたびは避けられないかもしれん
もうどっちか国民投票で決めちゃえよ
265 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:42:18 ID:sUgKaZpFP
>>221 「邪馬台」とか「邪馬臺」とか「邪馬壱」とか色々な文字で表されているが
邪馬台国の「台」の字は下のような文字の当て字(漢字コードに無い)。
━━╋━━
━┻━
┏━━━━━┓
━━━━
┏━━┓
┣━━┫
━┻━━┻━
「タイ」ではなく「ト」の読みだと思われる。
当時日本にはまだ文字がないから「やまと」や「ひみこ」をどんな文字で
表すかは日本人には分からない。相手側の中国人が適当な(卑しい)
文字を当てただけで、文字そのものに意味はない。発音が重要。
ここ読んでて思った。
ごちゃごちゃ妄想ならべてないで、さっさと古墳発掘させろ宮内庁
でも古墳発掘とか言い出すと
他人の墓を云々とか言い出しちゃうウヨクな方々から
猛反発されてブサヨ扱いされちゃうんだよなぁ。
267 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:45:32 ID:MyV9nR060
>>257 七支刀のことなんですが、
九州のみやま市にある高野の宮には、
七支刀を手にした古代の武人像が安置されているそいです。
石上神宮に七支刀があることが公になる前から
この神像はあるそうですが、これは一体、なんでしょう?
>>264 まあ、現状だと
所詮ある仮定を前提としたうえで
状況証拠として使えるかもしれないような
ものが発掘できるだけだからな。
学会でも多数派とか、どちらが主流とか
多数決の論理でしかない。
>>266 皇族で考古学者の人が発掘しようとしたけど許可が下りず
「なんで先祖の墓調べちゃいかんのだ」と憤ったって話があったような
270 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:46:11 ID:Atbn0bcWO
>>256 福井の三国から迎えた、五王応神天皇5世の孫って事になってるけど、
百済よりで新羅よりの磐井の乱制圧してるから、九州とは対立関係、
新羅が強かった時には、九州地方の豪族にかなり気をまわさないといけない時期に
藤原不比等が皇統譜や神話の形成に関わってるから、かなり政治的な作為が入ってると思う。
271 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:46:21 ID:mYeMdJv7O
>>253 第26代継体天皇(男大迹尊)の前の天皇は第25代武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)。
272 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:46:40 ID:AN1jNySf0
なぜ、実権を握り日本を構築した畿内勢は、
出雲よりの正統性と、北九州からの正統性の、
どちらも主張する必要があった・・・のかは、
神武以降の欠史八代に、そうとうの混乱があったから・・なんだろうね。
273 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:47:22 ID:CMu6vwpo0
発掘しちゃうと封印された怪獣が出てきちゃうとかかな?
275 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:49:09 ID:mYeMdJv7O
276 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:50:21 ID:Atbn0bcWO
>>271 ごめんありがとう、取り違えしてた、
女性不信は武烈天皇だった。
近親相姦とごっちゃになってた(礼
>>141 でも、倭人伝の記述にズバリ合う遺物は、畿内からは出ないよなあ。
ホントは長野なにに。
大和王朝って4世紀頃からその存在が確認されてるみたいだけど
大和王朝は九州、畿内、中部辺りまでを支配していた。
その全身は各地の小さい国が争いごとを回避するのに連合国家を作り
統治するのに代表として王を置いた。
倭国の連合国家で権力を握ってたのが邪馬台国だった可能性高く
邪馬台国が滅んだのは内紛で違う国が権力を握ったとする説が正しいと思われ。
倭国=本州を支配する連合国家=中心が邪馬台国だったんじゃね?
280 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 16:58:26 ID:V4H/S2AjO
>>277 畿内が邪馬台国でないから出るわけがない
281 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 17:00:59 ID:0Gi1nIv30
纒向は3世紀の遺跡ではないんでしょう。
邪馬台国とは関係ないでしょう。
この専門家というやからがとんでもないやつらで
ためにする議論を科学的などと言ってはばからないwwww
また変るよ
283 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 17:05:55 ID:Atbn0bcWO
>>279 応神天皇がその辺りで倭の五王の記述あって
武烈天皇で嫡子が切れて、継体天皇。
>>282 巻向の遺跡は三世紀から四世紀にかけてと推定されてる。
>>1 >>邪馬台国機内説
って飛行機の中にでもあったのか?
古代中国人が方向音痴なら畿内説
距離感覚音痴なら九州説でいいんじゃね?
286 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 17:09:26 ID:EgNyMLOS0
墓を暴くのではなく
古墳を学術調査したいんだ!
それを政治利用とするやつが悪いんだ!
畿内説ってはっきりしてるけど
九州説は九州のどっかというあまりにも漠然としてるのがちょっといただけない
九州の中でもみんなばらばら好き放題だからな
それを纏めて九州説というのはおかしい
288 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 17:13:00 ID:AN1jNySf0
>>279 >大和王朝って4世紀頃からその存在が確認されてるみたいだけど
>大和王朝は九州、畿内、中部辺りまでを支配していた。
>その全身は各地の小さい国が争いごとを回避するのに連合国家を作り
>統治するのに代表として王を置いた。
それが葦原中津国であり、王を置いたのが出雲。
そして、その衰退とともに、北九州勢と畿内勢で覇権争いを繰り広げる倭国争乱になり、
出雲を手中にして葦原中津国の実権を握ったのが、
北九州勢の邪馬台国であり、卑弥呼。
>倭国の連合国家で権力を握ってたのが邪馬台国だった可能性高く
>邪馬台国が滅んだのは内紛で違う国が権力を握ったとする説が正しいと思われ。
邪馬台国が滅んだのは、出雲を手中にしたときにニニギを派遣して一大卒とし、
この邪馬台国出身の出雲系の一大卒勢と、邪馬台国本国勢の間の覇権争いの結果。
そもそもさ九州にあったとしてどこに奴国や投馬国があったのか?
当時の2万戸や5万戸はかなり大きな規模の国だと思われるが。
290 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 17:16:54 ID:58GQcUG20
漢の時代、弁韓の鉄、漢の文物の輸入を一手に引き受けていたのは、
北九州、玄界灘の諸国。瀬戸内、畿内は、淡路島などの前進基地に抑えられて、
鉄のコントロールを受けていた。
それが、2世紀末から倭国大乱。3世紀にはそれが収まり、畿内・瀬戸内連合王国が
直接、鉄、文物を大陸から手に入れるようになる。
同時に、巨大墳墓、前方後円墳が畿内を中心に、大きさが同心円を描くように作られ、
同じく、濃尾平野の前方後方墳を作っていた勢力が組み込まれる。
その北九州勢が急速に力を失った3世紀。邪馬台国が九州の巨大王権。ってのは、ちと、ね。
291 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 17:18:52 ID:z4VPEAHz0
江戸時代には統一国家が出来上がり、国学がうまれました。
つまり、一国家としての共通の歴史をつくろうという考えができたのです。
皇国史観はこうして誕生し、天皇を中心とする中央集権国家である大日本帝国がこれを一層強化したのです。
歴史は国が絡むとタブーとされる事柄は必ず排除され事実が歪曲されるものです。
これは万国共通で、歴史とはそういうものである。
九州説がなぜ否定されるか、それは朝鮮の関わりを出来るだけ排除したい、この国は始めから日本人が建てた国であるという願望がそうさせるのかもしれない
292 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 17:20:32 ID:pDIXfTp40
吉野ヶ里が衰退していくのも邪馬台国以前だからなぁ。
293 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 17:21:52 ID:jARxHDKgO
>>267 堤古墳群もみやま市だっけ?
あれはどうなったんだろ?
卑弥呼の墓説が脚下されたのならどういう経緯で脚下されたのか知ってる人いる?
瀬高町あたりは個人的に可能性あると思うんだけど。
付近に金山あるし、
トンカラリンとかも近くといえば近くだし。
>>291 九州説だと一々説明がつかない事が多すぎるから違うんじゃね?と
言ってる。
ちなみに邪馬台国=大和王朝じゃないし隣の大国や半島が高度の文明
あるのに何故日本は征服されなかったのか考えれば日本には邪馬台国以前に
国家が成立してて国家の始祖が邪馬台国じゃないぐらい解るだろ。
295 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 17:27:40 ID:XiHZKD7xO
九州にあった奴国にも
「売国奴」はいたのかな
296 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 17:29:26 ID:58GQcUG20
>>289 そして、邪馬台国7万戸。1戸に5-6人。30-40万人。
九州に邪馬台国があり、更に南に同規模の敵対国がある。
九州だけで100万人以上。
それは、無理。奈良時代で500万人。
畿内説だって、7万戸となれば、畿内・瀬戸内連合全てをあわせて。って感じなのに。ね。
>>291 朝鮮半島は気にしなくっていいの。楠を輸入しなくちゃいけないような気候で、米作るのは大変。
江南から、日本の九州などと同時期に移住民が入ったのだろうけれども、
朝鮮では米食い民族が版図を広げるのが難しかった。だから、その後、日本の支配下に落ちてゆく。
297 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 17:29:39 ID:y3u+mZSp0
台(タイ)は音読みか訓読みか
298 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 17:30:10 ID:AN1jNySf0
>>290 そうでもないよ。
漢の時代、弁韓の鉄、漢の文物の輸入を一手に引き受けていたのは、
北九州、玄界灘の諸国。瀬戸内、畿内は、淡路島などの前進基地に抑えられて、
鉄のコントロールを受けていた。
だからこそ、倭国大乱で北九州の邪馬台国が、畿内勢を抑えて出雲から権力を譲り受けた。
そのときに邪馬台国は、畿内・瀬戸連合国を抑えるために、本州に一大卒を置いている。
北九州勢が急速に力を失ったのは、北九州の邪馬台国と、この本州に置いた一大卒との力関係が逆転したため。
と考えれば、筋が通る。
つまり、倭国大乱は、邪馬台国と近畿勢の覇権争いで、
神武東征は、邪馬台国と一大卒対近畿勢の覇権争い。
その後は、邪馬台国と、一大卒との間の覇権争い。
ヤマトはトヤマにあったんだけどな
300 :
名無しさん@十周年:2009/11/12(木) 17:30:13 ID:jARxHDKgO
土蜘蛛の女王って卑弥呼でぉk?