1 :
名無しさん?:
2 :
S.neet ◆x/ANEEETdA :2007/02/10(土) 07:40:08 ID:5wpfG3wg
良くわかんねーぜベイビー!!
3 :
名無しさん?:2007/02/11(日) 00:11:38 ID:???
4 :
名無しさん?:2007/02/11(日) 17:54:31 ID:???
5 :
名無しさん?:2007/02/13(火) 00:16:43 ID:???
新学期まであとどれくらいの期限があるのか、私は正確には把握していなかった。有意義なこ
とを何一つするわけでもなく、ただただ怠惰な時間を無意味にやり過ごしていた。そのような繰
り返しの中で、それは確実に近付いてきているはずだったが、私には全く実感がなかった。い
や、実感したくなかったのだろうか。
6 :
名無しさん?:2007/02/13(火) 00:33:39 ID:???
新しい担任に会いに行ったその数日後、私の家に新しい学校の制服が届けられた。誰が持っ
てきたのかは知らないが、いつの間にか居間の隅に、厚紙の箱に入った状態で置かれていた
のだ。私はその箱に一瞥を投げ、強烈に実感を促そうとするかのような誰かの意図をその箱か
ら感じたような気がして、すぐに目を逸らして部屋に戻った。
7 :
名無しさん?:2007/02/13(火) 00:38:01 ID:???
この一連のスレに関わってくれた全ての人達に感謝を
8 :
名無しさん?:2007/02/13(火) 20:34:37 ID:???
9 :
名無しさん?:2007/02/14(水) 00:07:46 ID:???
さらに数日が過ぎる。確実に時間が流れたことと、新しい制服が誰かの手によって例の紙箱か
ら取り出されて包装を解かれ、ハンガーに吊るされていたことだけが、その日が近付いてきて
いる事実を私に知らしめたのだ。
10 :
名無しさん?:2007/02/14(水) 00:26:58 ID:???
私が抱いていたその感情を明確に表現できる言葉を、私は持ち合わせていなかった。だからこ
そ日々その苛立ちのようなものは募り、淀み、鬱積していった。己が望んだ末の結果ではなか
ったのか? しかし、こういうことになると分かっていたならば、結局望まなかったのではないの
か?
11 :
名無しさん?:2007/02/14(水) 23:22:19 ID:???
そんなとき私は、自分自身が何も変わっていないことに気付いて少し愕然とし、そしてこれか
らもずっと同じようなことを繰り返していくのだろう、と未来のことを想像して途方に暮れる。新
しい環境は私に変化を与えてくれず……、と言うよりもむしろ、新しい環境が差し延べてくれる
変化のためのチャンスを、多分私は掴むことができないのだ。
12 :
名無しさん?:2007/02/14(水) 23:52:02 ID:???
三年間。また新たに三年間。その間だけ無事にやり過ごせれば、とかつての私は考えていた。
だが、その先に何があるというのか。私を取り巻く環境は変わるかもしれない。周囲だって、い
つまでも私に関わっているわけにもいかないのだから。しかし私は繰り返すだろう。どれだけ
状況が変わっても、私という人間の本質はきっと変化しないに違いない。
13 :
名無しさん?:2007/02/15(木) 23:43:23 ID:???
こうしてあまりモチベーションの上がらない新しい生活をまさに目前に控えても、私はまだ同じ
思考パターンから抜け出せないでいる。……地球から遠ざかっていく人工衛星。以前私は自
分をそう例えたが、これでは全く逆ではないか。いや、最初から異なる惑星を周回していたの
だろうか。
14 :
名無しさん?:2007/02/16(金) 00:09:59 ID:???
ある朝、母親が私の部屋にやって来て、明日から新しい学校生活が始まるのだ、と告げた。そ
して居間に吊るされていた制服を、ハンガーごと私に差し出した。少し開いた私の部屋のドア越
しに突き出された母親の手からそれを受け取り、私は不意の通達にまた戸惑って動けなかった
のだった。
15 :
名無しさん?:2007/02/16(金) 23:59:52 ID:???
何故直前になってから言うのだろうか。もちろん、知ろうともしなかった私にも落ち度はあるの
だろうが、それにしてももう少し何とかならなかったのか。母親が部屋の前から去ってしばらく
したあと、私はドアを閉めて制服をベッドの上に放り投げ、その隣に身体を投げ出して倒れ込
んだ。
16 :
名無しさん?:2007/02/17(土) 00:25:37 ID:???
思い付く策は何もなかった。いや、例え私がどんなことを事前に企てたとしても、それは明日
起こることに対しては無力でしかなかっただろう。ましてや、私の企てによって、その差し迫っ
た期限を延長できたはずもないのだ。
17 :
名無しさん?:2007/02/17(土) 01:33:28 ID:???
18 :
名無しさん?:2007/02/18(日) 00:04:39 ID:???
そんなことを考えている間にも時間は流れ、太陽は子午線を通過して次第に傾きながら色彩
を変えて、やがて私の部屋にもその赤色を帯びた光が差し込むようになった。一日の終わり
を生ける者に否応なく知らしめる夕日の輝きは、私の憂鬱さを一層増大させた。
19 :
名無しさん?:2007/02/18(日) 00:29:44 ID:???
太陽が沈み、辺りは暗くなる。日光の温かみさえ消えてしまった部屋には、私と私の憂鬱さだ
けが残されて、私はまた途方に暮れる。自分できっかけを作ってしまった以上、その日を迎え
てしまうのは仕方のないことだったが、このように前日に通達されたくはなかった。
20 :
名無しさん?:2007/02/19(月) 00:34:43 ID:???
母親がまた私の部屋のドアを叩く。叩きながら、ちょっと来なさい、とくぐもった声で言う。私は
身体をベッドから引き剥がすようにして起き上がり、足を引き摺るようにして歩き、重い鉄の扉
でも開くようにして部屋のドアを開ける。ちょっと来なさい、と母親はもう一度言った。
21 :
名無しさん?:2007/02/19(月) 01:05:10 ID:???
母親の後について居間まで行くと、そこに父親が座っていた。座りなさい、と父親が言う。私
はうんざりしながらも、多分これも逃れられる類のことではないのだろう、と一種の諦観みた
いなものを感じて、仕方なく父親の対面に座った。
22 :
名無しさん?:2007/02/19(月) 15:02:53 ID:???
23 :
名無しさん?:2007/02/19(月) 23:35:39 ID:???
母親は、私が座ったのを確認してから居間を出て行った。私を呼びつけたにも関わらず、父
親はすぐに話を始めようとはせず、ただ腕組みをしてどこかの空間をじっと凝視していた。居
心地が悪い。そう思ったが、きっと父親も同じ気持ちだったのだろう。
24 :
名無しさん?:2007/02/19(月) 23:54:53 ID:???
一向に話を始めない、始められない父親と、ことの成り行きを見守ることしかできない私との
間に、母親が台所で立てている洗い物の音が小さく聞こえていた。どうしてここに、母親も同
席しなかったのだろう? そもそも父親は、私に一体何を話そうというのか。
25 :
名無しさん?:2007/02/20(火) 23:59:29 ID:???
台所から聞こえていた音が止んだ。しかし母親が居間に来ることはなく、ただ父親と私だけ
が、互いに目も合わせようとせずに、重苦しい空気の中に沈んでいた。私はともかくとして、
父親が黙っていた、すぐに話を始められなかったのは、考えてみれば仕方のないことなの
かもしれなかった。
26 :
名無しさん?:2007/02/21(水) 00:24:10 ID:???
父親の立場から見た場合、今回のこの一連の出来事というのは、一体どれ程の事件として
捉えられたのだろう。一体どれ程のことのあらましを把握しているのだろう。はっきり言ってし
まうと、今回のことに関しての父親の存在感は、私から見れば皆無に近かったのだ。
27 :
名無しさん?:2007/02/21(水) 01:19:01 ID:???
28 :
名無しさん?:2007/02/21(水) 19:30:43 ID:???
29 :
名無しさん?:2007/02/21(水) 19:31:15 ID:???
30 :
名無しさん?:2007/02/21(水) 19:31:48 ID:???
31 :
名無しさん?:2007/02/21(水) 23:25:44 ID:???
その父親が、新しい学校生活の始まる前の晩に、娘を呼びつけて何かを話そうとしている。
母親に頼まれたのか、それともここで何かを言っておく必要がある、と自分で思ったのだろう
か。余程の説教をしなければならない、父親はそんなプレッシャーを感じていたのかもしれな
かった。
32 :
名無しさん?:2007/02/21(水) 23:47:33 ID:???
そういうわけで、私は父親がより効果的で重みのある言葉を選び出すまで、じっと待たされる
ことになった。父親は身動きひとつせずに自身の思考の中に深く沈み、私はただひたすら、
早く時間が流れてしまうことを祈っていた。
33 :
名無しさん?:2007/02/22(木) 23:42:13 ID:???
かなり長い時間が経過したのち、父親は顔をゆっくりともたげて私の方を向いた。私は彼の視
線を受けているのを感じながらも、動揺を押し隠してそのままの姿勢を保ち続けた。目を合わ
せようとしない私に向かって、父親が喋り出す。なあいいか、と彼はまずそう言った。
34 :
名無しさん?:2007/02/23(金) 00:10:04 ID:???
もちろん私は何も答えなかった。当然父親も、私が何も答えないことは把握しているはずだっ
た。なあいいか。そこから私の態度に関わらず、父親が必死に組み立てた彼なりの説教やら
教訓話やらが展開されるはずだった。が、それから言葉を繋げず、父親は再び黙ってしまっ
たのだ。
35 :
名無しさん?:2007/02/23(金) 23:57:34 ID:???
36 :
名無しさん?:2007/02/24(土) 00:15:13 ID:???
話し出す寸前で論理の穴にでも気付いたのだろうか。あるいは単に怖気付いただけなのか。
どちらにしても、そのどちらでもないにしても、私は彼が気を取り直して新しい説法を説くのを
さらに待たなければならなかった。
37 :
名無しさん?:2007/02/24(土) 00:32:25 ID:???
必然的に時間が延長されることに対して、私が憂いを抱いたのとほとんど同時に、人生は、と
父親が言った。人生は……。予想外に早い彼の立ち直りに驚きはしたものの、人生などという、
極端に誇大した掴みどころのない言葉を新たな切り口にしようとした彼の姿勢に、私は少なか
らず幻滅し、この後に続くであろう安直な父親の言葉を想像してうんざりした。
38 :
名無しさん?:2007/02/24(土) 08:09:51 ID:???
39 :
名無しさん?:2007/02/25(日) 00:56:25 ID:???
いろいろなことがある、と彼は言う。人生には、いろいろなことがある。お前もこれまでいろいろ
なものを見てきたかもしれないが、生きていけばこれから先も、もっと多様な場面を見ていくこ
とになる。私は、いつの間にか父親が、真っ直ぐ私を見据えていることに気が付いた。
40 :
名無しさん?:2007/02/25(日) 01:27:31 ID:???
確かに、Sさんが亡くなってしまったことは、お前にとって相当なショックだったのは私にも分
かる。私だってこれまで生きてきて、何度か同じような経験をしてきたんだから。親しい人を
亡くして生まれた隙間というものは、周りの人間が何を言ったってどうにもならないことも、
経験的に知っているつもりだ。
41 :
名無しさん?:2007/02/25(日) 23:37:27 ID:???
隙間を埋めるのには時間がかかる。数年で埋まることもあるし、何十年もかかることもあるだ
ろう。人によって違うかもしれないが。だけどな、私達は生きていかなくちゃいけない。生活をし
ていかなくちゃいけないんだ。分かるだろう?
42 :
名無しさん?:2007/02/25(日) 23:55:56 ID:???
生きていく、生活をしていく、っていうことは、いろんなことをきちんとこなしていかなくちゃなら
ない、ってことだ。いろんな、自分でやらなければならないことを、一日一日その都度ちゃん
と、手を抜かずにやり遂げていかないといけない、ってことだ。分かるか?
43 :
名無しさん?:2007/02/26(月) 02:14:07 ID:???
44 :
名無しさん?:2007/02/26(月) 23:46:12 ID:???
生きていればいろんなことがある。お前だけじゃない。多かれ少なかれ、皆同じような悩みや
ら悲しみやらを抱えて、それでもちゃんと生活しているんだ。そうだろう? お前もそうして生き
ていかなくちゃならない。お前がどんなに深い傷を抱えていたとしても、それは生きていくこと
を疎かにしていい理由にはならないんだ。
45 :
名無しさん?:2007/02/27(火) 00:01:15 ID:???
そこまで喋ると、父親はまた少し黙った。その沈黙の中で、私は彼の今の言葉を反芻してい
た。つまるところ、父親が言いたいのは、「甘ったれずにきちんと学校を出ろ」ということなのか。
……甘ったれる? うん、確かに客観的に見ればそう言えなくもない。しかし、父親はどこまで
のことを把握した上で、「甘ったれている」と断じたのだろう。
46 :
名無しさん?:2007/02/28(水) 00:30:55 ID:???
皆それぞれ、問題を抱えながらも生活している、と父親はもう一度言った。だけど皆が皆、そ
の問題をたった一人で抱えなければいけない訳じゃない。家族がいる、友達もいる。持ちつ持
たれつというか、そうやって互いに支え合って生きていくのが人間だと思わないか?
47 :
名無しさん?:2007/02/28(水) 00:53:44 ID:???
私に話し辛いのならお母さんに話せばいい。お母さんにも話し難かったら友達に相談すれば
いい。とにかく、何でも一人で抱え込もうとしないでいいんだ。そうだろう? そしてお前は、お
前のやらなければならないことをやらなければいけない。生活していくためにな。
48 :
名無しさん?:2007/02/28(水) 21:08:14 ID:???
49 :
名無しさん?:2007/03/01(木) 00:01:38 ID:???
友達にも相談できない場合は、というより、相談すべき友達さえいない場合はどうしたらいい
のか。完全な説法者ではない父親には、そこまで思慮が至らなかったのか。懸念を抱く私を
よそに、父親は次に続く文句を頭の中で組み立てていたらしく、言葉を続ける。
50 :
名無しさん?:2007/03/01(木) 00:22:38 ID:???
なあ、人生というのは確かにいろんなことがあるが、苦痛だけで満たされているわけじゃ決して
ないだろう? 今回のことは不幸な出来事だった。だが、それに囚われ過ぎても、お前の可能
性を縮めてしまうことにしかならないんじゃないのか?
51 :
名無しさん?:2007/03/02(金) 00:42:44 ID:???
お前はまだ生きていかなければならない。死んだ人間に哀悼の意を表するのは、誰だって
当たり前のことだ。親しかったのなら尚更だろう。だがな、それだけじゃ生きてはいけない。生
活を維持していくことなんかできない。いいか、私は決して友達のことを忘れろ、と言っている
わけじゃないんだ。
52 :
名無しさん?:2007/03/02(金) 01:11:28 ID:???
なあ、自分の身も支えられないのに他人の不幸を哀れむ、なんて行為は、最も身勝手なこと
だと思わないか? まず自分のやらなければならないことをやった上で、初めてそういうこと
ができるようになるんだ、と私としては思うんだが。
53 :
名無しさん?:2007/03/03(土) 00:10:39 ID:???
まあとにかく、最低限やらなければならないことは、誰だってやらなければいけないんだ。仮
に大事な友達を失ったって、他の深い理由があったとしても、生活することを免除されるわけ
じゃないんだからな。……それはそうかもしれない、と私も思った。
54 :
名無しさん?:2007/03/03(土) 00:27:11 ID:???
お前、今やりたいことはないのか? 出し抜けに父親はそんなことを聞いてきた。遠い将来的
な目標じゃなくても、例えば新しい学校に入ったらやってみたいことだとか、そういうものはな
いのか? 彼は今度は何を言い出すつもりなのだろう。
55 :
名無しさん?:2007/03/04(日) 00:10:08 ID:???
私は答えなかった。今やりたいこと? 意味の分からない父親の説教から逃れて早く部屋に
帰りたい……、などという冗談はさておき、私に今やりたいことがあるのかどうか、父親は私に
面と向かって聞かなければ分からないのだろうか?
56 :
名無しさん?:2007/03/04(日) 00:34:02 ID:???
まあ分からないから聞いているのだろう。いやしかし、もしかすると彼は、私の中に弱々しい
希望などがあると勝手に解釈して、それを助長するために敢えて質問をしたのかもしれない。
無駄なことだった。今やりたいこと。強いて言うならば私のそれは、「何もしたくない」だったの
だから。
57 :
名無しさん?:2007/03/04(日) 00:59:13 ID:???
58 :
名無しさん?:2007/03/04(日) 23:28:47 ID:???
何もしたくない、と父親に向かって言ったら、彼はどんな顔をするだろう? 自分の辿ってきた
道をなぞらえながら私を説き伏せようとし、ときには語気を荒げながら、私の中から意欲の欠
片だけでも見つけ出そうと躍起になるのだろうか。無駄なことだとは露ほども思わずに。
59 :
名無しさん?:2007/03/04(日) 23:52:59 ID:???
そうか、と父親は言った。彼は私の沈黙していた訳を取り違えて解釈したらしかった。今、や
りたいことが見付からないのは仕方がない。まだ落ち着いた状態でもないんだしな。やらな
ければならないことをやっていくうちに、きっとやりたいことも見付かるだろう。
60 :
名無しさん?:2007/03/05(月) 23:38:07 ID:???
そうだろうか? それは例えば、信じていればきっといつか願いが叶う、というようなレベルの、
無根拠で無責任な、言わば迷信に近いものなのではないのか。だからくれぐれも、と父親は
言う。軽率な真似だけはするんじゃないぞ。
61 :
名無しさん?:2007/03/06(火) 00:05:50 ID:???
父親の話はそれで概ね終わりらしかった。父親が黙ってしまった後、それ以上彼が何か喋ろ
うとしないのを十分な猶予を置いて確認し、私はのそのそと立ち上がって自室に戻ったのだっ
た。私は例のごとく、ベッドに倒れ込んで今の出来事の反芻を始める。軽率な真似? どうい
う意味なのだろう?
62 :
名無しさん?:2007/03/06(火) 00:41:29 ID:???
63 :
名無しさん?:2007/03/06(火) 23:23:17 ID:???
軽率な真似とは? ……例えば自殺とか? 彼らはそういう可能性を憂慮しているのだろう
か。無用な心配だ。私は「何もしたくない」のだから、死にたいとは思わない。死に至るための
積極的行動自体を、取ろうとは思わないのだ。
64 :
名無しさん?:2007/03/06(火) 23:50:09 ID:???
もっともそれは、ただ単純に死ぬのが怖いという、誰しもが持つ分かり易い理由が根底に存在
しているからだけ、なのかもしれない。あるいはまだ、心のどこかで奇跡的転機を望んでいるが
故に、無味乾燥な生に執着しているのかもしれない。可能性はいくらでもある。
65 :
名無しさん?:2007/03/07(水) 23:16:02 ID:???
しかし、正確なところは誰にも判断できない。無数にある可能性の中で、一番表層で目立つ
ものだけが、それがもっとも有力であるようだ、という見地に基いて各々に推されるのだろう。
本当はもっと高尚な理由によるものなのかもしれないし、陳腐で下劣な口実によるものなの
かもしれないのだ。正確な動機は私にも分からない。
66 :
名無しさん?:2007/03/07(水) 23:40:01 ID:???
私にも分からないものが、他の人間に理解できるはずもない。だから彼らは、私への接し方に
戸惑っていたのか。腫れ物を扱うように、下手な刺激を極力しないように、と。いや、そうだとす
るならば彼らは皆、私が自殺をするとでも考えていたということなのか?
67 :
名無しさん?:2007/03/08(木) 05:35:26 ID:???
68 :
名無しさん?:2007/03/08(木) 21:53:05 ID:???
母親は、本気でそう考えていたとしてもおかしくはない。父親は、そんなことを本気で考えるよ
うなタイプではなさそうな気がする。まさかとは思うけれど、一応念のために、という意味で、
軽率な行動をするな、と警告をしたのだろうか。
69 :
名無しさん?:2007/03/08(木) 22:13:07 ID:???
いずれにしても、彼らの不安は的中することはないはずだ。心底からだろうが、念のためだろ
うが、私にとってそれは余計なお世話でしかなかった。いや、不安を抱くのは彼らの勝手だ。
それを遠回しな表現で、私にそれとなく気付かせようとしてくるのはむしろ迷惑だった。
70 :
名無しさん?:2007/03/10(土) 00:41:50 ID:???
もっとストレートに進言すればよかったのではないのか。自殺だけはするな、とか、もっと単
刀直入に、死ぬな、など、探りを入れながら忠告をするのではなく、本質そのものを率直に
表現すればよかったのではないのか。
71 :
名無しさん?:2007/03/10(土) 00:55:42 ID:???
……分からなかった。私が他人の言動に注文を付けられる立場にないことは明確だったし、
大体父親にしろ誰かにしろが率直に進言してきたとして、私がそれを素直に受け取れるとも
思えない。自分でも思う。何かしら難癖を付けるのだ。彼らもそれを理解していたのではない
のだろうか。
72 :
名無しさん?:2007/03/10(土) 01:01:37 ID:???
73 :
名無しさん?:2007/03/11(日) 00:43:36 ID:???
むしろ理解しているからこそ、歪曲した表現を使った。そうなのだろうか? 理解しているから
こそ、敢えて直接的表現を用いなかった。そうだったとしたら? 私に接してきた人々は皆、
そう考えて核心をわざと外したのだろうか? 何のために?
74 :
名無しさん?:2007/03/11(日) 01:15:31 ID:???
そうすることで、私の何か一部分にはたらきかけようとした? そんなものがまだ私の中に
存在しているとでも? それとも生殺しのつもりだったのか? そうして極限まで追い込めば、
否応なしに彼らのやり方に私が従うはずだとでも考えていたのか?
75 :
名無しさん?:2007/03/11(日) 23:46:01 ID:???
可能性は尽きなかった。しかし、可能性はどこまでも可能性でしかなかった。彼らの真意を
確かめるのならば、直接問い質す以外に方法はないだろう。そして私は直接問い質す、とい
うようなこともせずに、結局自分の中に湧いてきた邪推に囚われながら生きていくのだ、きっ
と。
76 :
名無しさん?:2007/03/12(月) 00:10:39 ID:???
この世界は随分と生き難い。私のような人間に限らず、比較的善良なタイプだと思われる母
親や父親、元副担任、遠い昔に私に忠告をくれた元クラスメイト。その他私の記憶の中で忘
れられつつある、これまで出会った幾多の人々。彼らが私の問題を理解できないのと同じよ
うに、彼らにも私に理解できないような問題を抱えながら生きているのだ、多分。
77 :
名無しさん?:2007/03/12(月) 20:09:40 ID:???
78 :
名無しさん?:2007/03/13(火) 00:28:55 ID:???
Sのことを思った。Sもまたそうだった。そんな話を元クラスメートから聞いた。Sは問題を抱え
たまま死んだ。片や私は問題を抱えたまままだ生きている。恐らく死ぬまで続くのだろう。環
境や自意識が改善されない限りは。
79 :
名無しさん?:2007/03/13(火) 01:01:16 ID:???
自らの手で改善を促すことは絶望的だった。自分でも信じられないくらいの意欲で、行動を
起こそうとしたことが過去に確かにあったはずだったが、今の私には、ただ気の迷いでそう
しようとした、と言う以外にその行動を説明することができなかった。
80 :
名無しさん?:2007/03/13(火) 23:13:06 ID:???
気の迷い……。無根拠に自分の力量を過大評価し、全てのものごとが好転するのだ、と感
じていた。世界と私はよりよい関係で共存できる、と予感し、その様を思い描くことさえでき
た。……あれは一体何だったのだろう?
81 :
名無しさん?:2007/03/13(火) 23:29:47 ID:???
気の迷い、それ以外の的確な言葉が見付からない。夢や幻の類を見ていた、それは確かな
のだ。原因や理由などは不明だったが、確かに私はそれを感じ、そしてそれは成就されるこ
ともないままで、私の元を離れていったのだった。
82 :
名無しさん?:2007/03/14(水) 22:30:51 ID:???
過去の記憶、私の空想、それにまだ見てもいない明日からの生活。そんな情景が脈絡もな
く目まぐるしく私の中に浮かんでは消えた。それは次第に私の思考も追いつけないような速
度になり、私は何も考えられず、ただその早送りのようなイメージを眺めていた。
83 :
名無しさん?:2007/03/14(水) 22:43:13 ID:???
学校の教室。誰かの悲しそうな顔。アスファルトから立ち上る陽炎。数人の男女のシルエット。
灰色の空……。そこから先はもう何が何なのか、識別することもできなかった。ただイメージ
が流れ、分かるのは、それらがどこかに向かって流れている、ということだけだった。
84 :
名無しさん?:2007/03/16(金) 00:01:56 ID:???
その流れに合わせるように、私の身体がゆっくりと傾き始めたような気がした。背中にベッドの
感触を残しながら、まるで重力の方向が変わったかのように、私の身体は回転を始めた。身
体のどこを中心にして、どの方向に回っているのかは分からなかった。
85 :
名無しさん?:2007/03/16(金) 00:20:51 ID:???
それは完全な回転ではなく、身体の一部分だけが無限に落下していくような、……なんとい
うか、とにかくとても不快な感覚だった。私は身体を動かしてその不快な感覚を振り払おうと
したが、筋肉の動かし方を忘れてしまったように身体はいうことを聞かず、さらに苛立ちが募
るだけだった。
86 :
名無しさん?:2007/03/16(金) 02:28:39 ID:???
87 :
名無しさん?:2007/03/17(土) 01:19:36 ID:???
指先が冷たい。いや、そんな気がしただけなのかもしれない。体がさらに傾く。イメージが流
れ続ける。顔をしかめようとするが、筋肉がうまく動かない。全身が石になったみたいだ。意
識の中で誰かが何かを言ったような気がしたが、私には詳しく聞き取ることができなかった。
88 :
名無しさん?:2007/03/17(土) 01:35:01 ID:???
悶々とし続け、寝返りも打てず、理不尽な回転とイメージの氾濫に身を委ねるしかない中で、
私はそれが人の声などではなく、ただの音であることを知る。それがその夜の私の最後の記
憶で、回転、イメージの羅列、音の真意に達する前に、意識がなくなってしまったのだった。
89 :
名無しさん?:2007/03/17(土) 22:43:54 ID:???
しばらくの空白の後、再び私が自意識を取り戻したとき、目を開けるよりもまず先に、今日や
らなければならないスケジュールが瞬時に思い出された。部屋が明るくなっているのは、目
を閉じたままでも分かった。身体と気分が重い。最悪の目覚めだった。
90 :
名無しさん?:2007/03/17(土) 22:56:22 ID:???
そのまま寝返りを打つ。どういうわけか、左腕が痺れていた。指先がうまく動かないことも、
私の気分を低下させた。身を縮め、毛布を首まで引っ張り上げ、浅いため息をついた。起き
上がれない。まるで憂鬱そのものが、私の身体の上に重くのしかかっているみたいだ。
91 :
名無しさん?:2007/03/18(日) 21:58:59 ID:???
新しい生活、と私は思った。それはもはや私にとって、疎ましさの象徴でしかなかった。どう
してこうなったのだろう。答えの分かり切った問いをまた繰り返す。そしてまた寝返りを打つ。
このまま太陽が沈んでくれたらいいのに。
92 :
名無しさん?:2007/03/18(日) 22:12:29 ID:???
束の間だけそのままでいられたが、案の定、部屋の外から母親の声が聞こえてきた。早く起
きなさい、そういう趣旨の声だった。毛布に包まったままその声を二回やり過ごし、苛立ちを
帯びてきた母親の三回目の呼びかけに応じて、私はようやく毛布を払いのけた。
93 :
名無しさん?:2007/03/19(月) 13:37:54 ID:???
94 :
名無しさん?:2007/03/19(月) 21:11:54 ID:???
毛布を払いのけてからふと思い出した。新しい制服のことだ。昨日ベッドの上に投げやって
いたはずだったが、見当たらなかった。起き上がって周囲を見渡すと、それはベッドの左手
側に崩れるようにして落ちていた。寝ている間に落ちてしまったらしい。
95 :
名無しさん?:2007/03/19(月) 21:25:56 ID:???
私はしばらくその状態のままの制服を見つめた。やはり、と思う。やはり着なければいけない
のだろうか。いや、何をいまさら言っているのか。着ずに済む方法でもあるというのか。私は
制服を拾い上げた。私はもうこれを着なければいけないのだ。
96 :
名無しさん?:2007/03/20(火) 00:39:58 ID:???
97 :
名無しさん?:2007/03/20(火) 23:31:21 ID:???
ざっと見てみたところ、致命的なほどの皺は刻まれていないようだった。袖を通した瞬間に、
新しい衣類につきものの、あの独特の匂いが拡散していった。それは決して心地よいもので
はなく、むしろ着替えようとしている私の手の動きを鈍らせるような……、私にとってはそうい
う匂いだった。
98 :
名無しさん?:2007/03/20(火) 23:54:36 ID:???
箪笥の引き出しから靴下を取り出して履き、どうやら着替えは終了した。が、すぐに部屋を
出るのは躊躇われた。母親や父親に見られたくない、と思ったからだった。きっと彼らは私
の気も知らずに、嬉しそうな顔をして私を迎えるだろう。いや、そういう表情を表にしなくとも、
無責任で安直な感情に流されてしまうに違いないのだ。
99 :
名無しさん?:2007/03/21(水) 23:33:56 ID:???
彼らが嬉しそうな顔を向ける前から、こちらが物凄い仏頂面をして見せればいいのではない
か。私が努めて不機嫌な様を露骨にすれば、彼らの表情はおろか、私の神経を逆なでする
ような彼らの台詞まで抑制できるかもしれない。
しかし、私が「努めて」そうするのはもう無意味だった。父親と母親は、感情を表しても表さな
くても私の姿を見れば喜びを感じるに違いないし、私は彼らが喜ぼうが喜ぶまいが、気を滅
入らせるに違いないのだから。
私は新しい制服を着て、父親と母親の前に姿を現さなければならないし、さらにそれから新
しい学校に登校しなければならないし、今後も通学し続けなければならないのだ。もう訂正
も辞退もできない。私の意志が介入する余地さえない。純然たる約束事。周囲の人々はす
でにそういう認識でいるのだ。
だから、私がこうして部屋を出ることにいちいち抵抗を感じることですら、もはや意味がない
ことだと言うしかない。私がどんなに拒んでも、あらゆる約束事に基づいてはたらく見えない
強い力が私の背中を強く押し、部屋を出ることを強く促す。つまり私は、その朝そうやって自
分の部屋を出るしかなかったのだ。
結果的に父親も母親も、取り立てて何かを言って来はしなかった。好奇の視線も送ってこな
かった。父親は新聞に注いだ目をちらりとこちらに向けただけで、またすぐ紙面を眺める作業
に戻り、私を見ないようにしながら、おはよう、と言った。母親は、急ぎなさい、遅れるわよ、と
台所から言っただけだった。
用意されていた朝食に箸を付けたが、やはり半分以上を残して私は食事を終えた。そのこ
とについても、彼らは全く何も言わなかった。きっと彼らは、私に気を使って無関心を装って
いるつもりなのだろう。私はその場に居辛くなって、自分の部屋に引き上げた。
ベッドに腰掛けて、数十分後確実に起こるはずのことについて考えた。私が改めて部屋を出
て玄関に向かう。彼らは玄関先まで付いて来るか、あるいは顔だけ出して私を見送ろうとする
かもしれない。そこでまた、彼らなりの気の利いた言葉を私に投げかけてくるかもしれない。
もしくは、先程みたいにあくまで無関心を貫こうとするだろうか? 極自然な一言、そう、この
場合は「いってらっしゃい」と、出かける者にかける挨拶ただ一言に留めようとするだろうか?
彼らがどうするつもりなのかに関わりなく、いずれにしても私の気が滅入ることは間違いなか
った。
それは確実に近付いてくる。こうしている間にも、そのときは確実に近付いてきている。時計
の針がその時刻を指し示したならば、私は立ち上がり、部屋のドアを開けるだろう。私の足
は玄関先まで私を連れて行き、私の背中は彼らの視線を浴び、私の耳は、場合によっては、
彼らの言葉を聞くことになるかもしれない。
家を出た後も、同じようなことが続いていく。例えばバスの到着。校門をくぐる瞬間。新しい
教室に入るときの喧騒。新しい担任教師の第一声。……うんざりした。ずうっと続いていくの
だ。私は立ち上がった。もう行こう、そう思った。
待っていてもそのときは来るが、来るまでこうしてじっとしていても、憂鬱を感じる時間が長く
なるだけだ。早いうちに済ませておくのがいい。例え同じようなことが際限なく次々に押し寄せ
て来るとしても、その合間合間に辛うじて息をつく余裕くらいは確保できるだろう。
玄関先で靴を履いていると、スリッパ履きのペタペタという足音が背後から聞こえてきた。が、
私が対応を考え始める前に足音が止まる。靴を履くのにてこずっている振りをしながら、背
後の動きに神経を集中させたが、背後の人物(多分母親だ)は全く動かなかった。
それ以上待っているわけにもいかず、私は立ち上がった。玄関のドアに手を伸ばすと、彼女
が一言、「いってらっしゃい」と言った。私は何か答えるべきかどうか迷ったが、そのままドア
を押し開けて、後ろを振り返りもせずに家を出たのだった。
背後に立っていたのは確かに母親だった。彼女が「いってらっしゃい」と言った。私のすぐ後
ろではなく、少し離れた位置だったみたいだ。父親はその様子を覗かなかったのだろうか?
多分覗いてはいないな、と思った。きっと姿を隠して聞き耳を立てていたのだろう。
家を出てからも、私は用心のために後ろを振り向かなかった。不用意に振り向いて、私を追
って出てきて後姿を見守っている彼らと目が合ったりしたら……。そこまではいかなくとも、
何気ない風を装って背後の様子を確認しようとしたその視界の隅にでも、彼らの姿を見つけ
てしまったならば、私の心はもっと乱されるに違いなかったのだから。
家の前の道を抜け、大通りに入ってバス停まで歩く道すがらも、私は背後を振り向かなかっ
た。どちらにしても、彼らがバス停まで私を監視するわけもないのだから、あまり意味のあっ
た行動ではなかったのだが、それでも私は時刻表を確認した後も、辿ってきた道を振り向か
ずにいたのだ。
大体時刻表を確認するという行為さえも、意味のある行為ではなかった。私は時計を持って
いなかったのだ。それに、もう何度も通ったはずだった、私の家とこのバス停とを結ぶ道程を
徒歩で要する時間、それすらも把握していなかった。バスがいつ来るのか。時刻表を確認し
たところで、今現在の正確な時間すらも分からないのなら、全く意味はなかったのだ。
苛立ちが募る。意味があるとかないとか、そもそもそんなことはもうどうでもいいのだ。意味
があったら何だ? 意味がなかったら今更どんな影響が生じるというのだ? もう詮索する
のはやめて、ただただ今日という日を無難に過ごすことだけ考えればいい。
私がバス停に到着してから、それ程間を置かずにバスがやって来た。窓から見える車内は、
すでに六割程の座席が埋まっており、その乗客の半分くらいが様々な制服を着た学生達だ
った。乗降口が開く。誰も降りる客はいない。ここから乗る乗客も私一人のようだった。
先日母親と乗ったときに座った席が埋まっていたので、そのひとつ後ろの席に腰を下ろした。
バスのエンジン音に混じって、時折他の学生達の話し声が私の耳に届いたが、彼らが何につ
いて喋っているのかは判別できなかった。乗降口が閉まる。バスが動き出した。
バスは思いのほかゆっくりとしたペースで進んだ。というのは、元来交通量の増える時間帯
であったために、バスは車列の隙間に潜り込むように移動を繰り返し、先々の新たなバス停
から新たな乗客を拾いながら進んでいったためだった。
バスが進むにつれ、座席は徐々に埋まっていった。もちろん、私の隣の席にもどこからか乗
ってきた小さな老婆が腰を下ろしていた。窓の外を漠然と眺めているだけの私にも、車内が
込み合うことによって生じるある種の圧迫感が感じられるようだった。
窓の外の景色が流れる。無数の建物の間から、ちらちらと太陽が顔を覗かせて私の目を射
た。陽の光と窓の外の景色、どちらも私の味方になるつもりはないようだったが、敢えて敵側
に回る意図もないみたいだった。車内の喧騒を無視して、私は窓の外を眺め続ける。
それにしても、想定した以上に長い時間だった。いくら朝方の幹線道路が混雑しているとは
いえ、ここまで時間を要するものなのか。そう考えている矢先に、車内アナウンスで私の降
りるべきバス停の名が告げられた。景色も見覚えのあるものに変わった気ようながする。
バスが減速を始める。遮蔽物が途切れて学校の校舎が見えるようになる。太陽の位置と車
内の混雑を除けば、それは先日母親と来たときと寸分違わぬ光景だった。バスは校門の前
のバス停に正確に停車する。私が腰を上げると、隣の老婆は黙ったまま席を立って、私が
通れるようにスペースを空けてくれた。
分かるか分からないかくらいに老婆に向かって小さく会釈をし、前方にある降車口へ歩く。
私の前にも後ろにも、私と同じ制服を着た生徒達が数人ずつ、列を成して降りる順番を待
っている。私は運賃箱にあらかじめ用意していた小銭を放り込んだが、私の前にいた生徒
達は皆、定期券を運転手に見せただけだった。
私を含めて七、八人の生徒がそこで降りたわけだったが、誰もが誰とも話そうとはしなかっ
た。皆が私と同じ境遇だったのかもしれない。ただ赤の他人同士が、たまたま同じ目的地に
降り立っただけなのかもしれない。私とその集団は、さらに校門をくぐって来る生徒達を含み
ながら、無言のまま校舎に向かって歩いていった。
生徒用玄関に入った。そこは新しい生徒達でごったがえしていた。正面の掲示板に人だか
りができている。校舎に上がった新入生達は、吸い込まれるようにしてその人ごみに向かう。
私も流れに押されるようにしてその前に立つ。掲示されていたのは、新しいクラスごとの名
簿だった。
ここで自分のクラスを確認して、各々の教室に移動しろ、ということらしかった。際限のない
騒音の中で、私は自分の名前を探す。……三組の二十七番。それが私の出席番号だった。
群集をかき分けるようにしてその場を離れ、私が向かうべき教室を探す。
よく見ると、クラス名簿を掲示してある横に張り紙があり、それぞれのクラス番号と矢印が
書かれていた。つまり、掲示板に向かって右手の方向に一組から四組までの教室があり、
左手側に五組から八組までの教室があるらしかった。この学校、一学年は八クラスしかな
いのだ、ということを今更ながら知った。
三組の教室に向かい、入る。外と同じくらい騒がしい室内で、私は自分に与えられた新しい
机を見つけ出し、着席する。教室内の情景は見たことがあった。記憶が呼び起こされる。根
本的な部分はどこも同じなのだ、と思う。
多分同じ出身校の者同士で集まっているグループが数個、教室内に点在した。あと近くの
席同士で、恐る恐る他人とコミュニケーションを図っていると思われる接触が数箇所あった。
それから私のように、ただ席に座って漠然と黒板を見つめるような者が何人か。それは去年
別の場所で見た光景と、あまり違わなかったのだった。
結局繰り返しだということは把握しているつもりだった。しかし、これからも同じような場面を
見続けなければならないことに、一体何の意味があるというのだろう? 私はうんざりした。
後悔した。だが、ときすでに遅かった。
教室内は混沌とした状態だった。グループの吸収合併がそこここで起こっているようだった
が、孤立した者を敢えて引き入れようとするグループはないみたいだった。よく分からない
者から唐突に声をかけられはしないか、かけられた場合私は何と答えればいいのか。そう
やって身構えていた私は、何だかとても馬鹿みたいだ。
ざわめきが一瞬だけ少し大きくなり、集まっていた生徒達が一斉に自分の席へと移動し始
める。椅子や机ががたがたと音を立てる。しかしすぐに教室の雑音は潮が引いていくよう
に消え、そしてそれと同時に一人の教師が教壇へ上がった。見たことのない中年の男性
教師だった。
彼は教室をぐるりと見渡した。空いている席がないか確かめたのだろうか。はい、それでは、
と彼は言った。体育館に移動しますので、廊下に整列して下さい。たちまちまた教室内に擬
音が溢れ、生徒達が移動を再開する。私も流されるようにして教室を出る。
廊下に出た集団は特に混乱することもなく、教師もたった一度だけ、背の順に並べ、と言っ
たのみで、しかる間の後に、誰もが無言ではなかったにせよ、男女各一列ずつに整列した。
私もいつの間にか適所に配されていた。
廊下の前方と後方でも、他のクラスが同じように整列を始めたり、あるいは整列を終えても
う歩き出したりしていた。私たちの整列を見守っていた教師も、私達が完了したことを見て
取ると、出発の号令を大きな声で発し、歩き出した。鼠の群れのようにして、私達はそのあ
とに続く。
体育館は、前の学校のものよりも心持ち狭いような気がしたが、記憶のそれと、今見ている
光景とを正確に比較することはできなかった。中ではもう先に来ていた何クラスかが改めて
整列し直したり、既に床に腰を下ろしていたりしていた。
私達の列を引っ張ってきた教師は、所定の位置まで来ると振り返り、私達に整列を促した。
前へ倣え、というやつだ。それが終わると私達に着座を指示し、それから右手の方にいる
教師達の群れに合流し、並べてあったパイプ椅子に腰掛けた。
それから数クラスが体育館に入ってきて、同じようにもう一度整列し直して着座する、とい
うプロセスを何度か繰り返した。ようやく全クラスが揃ったようで、多分学年主任か何かだ
ろう、初老の男性教師が壇上に上がり、用意されていたマイクに向かって言葉を発した。
ええ、それでは……。
入学説明会を始めたいと思います。それだけ言うと、彼は黙った。と、列の前方からプリン
トの束が回されてきた。列の一番前で、数人の教師が手分けして同じものを配布している
のが見えた。自分の分を取って残りを後ろに回す。もう内容を見なくても分かった。先日見
せられたのと同じものだ、と。
全生徒にプリントが行き渡ると、壇上の教師は再び喋り始めた。とはいっても、生徒達にそ
れを読ませながら、書かれてある内容をその教師が音読し、重要な部分だけ彼自身の言
葉で補足する、というやり方だった。それで効果があるのかどうか、甚だ疑問だった。
生徒達は一様にプリントを眺めている風でもあったが、彼の言葉に熱心に耳を傾けている
ような生徒は、少なくとも私から見える範囲には存在しないようだった。しかし、これはこれ
でいいのだろう、と思う。元々私が提言するような問題ではないのだ。
私達が資料に目を落とし、その間壇上の教師がマイクに向かって喋る、という流れがしば
らく続いた。時間にして一時間かそこらだろうか。最後のページまできっちりと読み上げた
あと、それから更に資料に書いてない話を数十分語り、彼はようやく壇上を降りたのだった。
そのあと再びプリントが配られた。今度のは、授業で使う教科書がどうとか、入学してすぐ
に行われる健康診断のスケジュールだとか、つまり、さっき学年主任が大層な時間をかけ
て読み上げた資料よりもずっと即実的な内容だった。
さらにそれを別の教師が読み上げる。私達生徒は紙面上を目で追いかける。今度は十数
分でそのやり取りが終わったわけだったが、果たしてこんなやり方で伝えるべきことが伝わ
るのだろうか。むしろ非効率的なのではないのか。
プリントを配るまではいい。そのあとわざわざ自分達で音読してみせなくても、各自で熟読
するように、と一言言えば済む話ではないのか。何故皆で寄り集まって、文章を読む、目で
追うだけの会合を開かなければならないのか。私の関心はそのことのみに囚われて、プリ
ントに書かれた内容はあまり頭に入っていなかった。
一同起立の号令がかかる。私達は立ち上がった。前方に向けて一礼し、回れ右をし、出入
り口に近い一組から退場になった。ぞろぞろと列をなし、体育館を出ていく。二組がそのあ
とに続き、それから私達のクラスが進み出す。私達の後にもきっと同じように、行列が続く
ことになるのだろう。
教室まで戻る最中は、行くときよりも少し騒がしかった。引率の教師が付いてきていないこ
とも原因のひとつだろうが、それよりも、今日同じクラスに放り込まれた者同士が、早くも恐
る恐るながら知らない者達とコミュニケーションを図ろうとしていることが、私にとっては驚き
だった。
そうやって彼らは無難な話題を選びながら、何とか気軽に朝の挨拶でも交わせるような
間柄になって……、そしてゆくゆくは各々派閥に組み込まれ、陰で罵り合ったりいがみ合
ったりするのだろうな、と思う。去年私が見たようなことがまた繰り返されるのだ、多分。
それにしても、最初は皆こんな風にして、いかにも借りてきた猫みたいに大人しく、無難な
やり取りを堅持しているというのに、一体何が彼らのその慎重さを奪い、躊躇いを失くさせ
て、他人を斬り付けるような言動を取らせるようになるのだろう?
去年の私は同じ時期に、どういう理念で行動していたのか。もう記憶に靄がかかったよう
になっていて、全く思い出せなかった。その代わりに、全く今更なことではあるが、私は周
囲の生徒達よりもひとつ年上なのだ、というどうでもいいようなことを改めて思い出した。
集団は教室に戻った。教師がいないこともあって、室内は一気に騒がしくなった。彼らが
何を喋っているのか、あまりにも周囲が騒々し過ぎて個々の判別ができない。いずれに
しても、彼らは遅かれ早かれ私の想像通りに行動して、それぞれの派閥に収まるだろう
ことは間違いなかった。
では、私は? 私という個体はこの集団の中で、一体どんな行動を取り、どんな位置に落
ち着くことになるのか? まず私は、彼らのように積極的に他人と打ち解けることはできな
い、というより、しようとしないだろう。結果、他人から話しかけてくるのを待つことになるが、
折角近付いてきてくれた者を、邪険に撥ねつける可能性が高いと思われる。
次第に近付こうとする者はいなくなり、私はまたかつてのようなポジションに身を置くことに
なる。それは仕方がない、と私は諦めるかもしれない。そもそも彼らと私とは年齢も違うわ
けだし、前回途中放棄はしたけれど、そんな境遇は体験済みでもあった。永遠に続くわけ
でもない。ただ前回より力を尽くして耐え凌げばいい話なのだ。
しかし前回は気にならなかったものの、今回は最初からこんなところが目に付くとは、かな
り難儀な道を辿ることになりそうだった。まあそれも仕方がない。私は周囲の者よりも一歳
年上であり、いわばペナルティを負っているわけで……。そこまで考えていたら、先程の教
師が教室に戻ってきた。
しばしの間ののち、教室は静かになる。教師は教壇に立ち、咳払いをひとつして、ええ、と
話し始める。ええ、先程説明があったように、まず明日が入学式です。明日は八時半まで
に登校すること。それから教科書のことですが、今日か、今日のこれが終わったあとか、
明日の入学式が終わったあとに、指定の店で忘れずに購入しておくように。いいですね?
生徒達は神妙な顔を作って黙っていた。何か質問はないですか? と彼が言った後も、誰
も発言しなかった。教師は教室内を見回した。私達に猶予を与えて、それでも誰も質問をし
ようとしないのを確かめてから彼は、それでは解散です、気をつけて帰ってください、と言っ
た。
教師が出て行った後、室内は極端に騒がしくなった。喧騒の中で私は、教科書のことにつ
いて考えていた。この後販売があるというが、今日私はお金を持ってきていない。場所もど
こだかはっきりと分からない。まあ、明日改めて購入しにいけばいいだけの話なのだが。
私は教室を出た。別に何もしていないのに、物凄く疲れを感じていた。殆どの教室で解散
宣言があったらしく、校舎内は喧々囂々たる状況で、朝登校したときよりも酷い騒がしさだ
った。私は溢れる人ごみを避けながら出口に向かった。
明日からのことを思うとうんざりした。結局、余計なペナルティを背負い込むことになっただ
けなのではないか。前の学校でもう少し要領よくやっていた方が、まだましだったのではな
いのか。……考えるだけ無駄だった。そんなことができていれば、今私はこんなところには
いないのだ。
早く家に帰りたかった。家に帰って自分の部屋のベッドに倒れ込みたかった。私が感じてい
るのは精神的な疲れだけだと思っていたが、どういうわけか身体も休息を求めていた。帰り
のバスを待つ間、欠伸が何度も出たのだ。実際、私は眠気を感じていた。
やがてバスが来て、私とその他の生徒達が乗り込む。午後の中途半端な時間帯では乗
客もほぼ皆無で、学校前から乗り込んだ生徒全員が座席につくことができた。瞼が重い。
バスに揺られながらうとうとして、夢と現の間を行き来しているうちに、いつの間にか降りる
べきバス停の直前までバスは進んでいた。
直前で我に返り、乗り過ごさずには済んだ。バスは私の降りるべきバス停に停車し、私は
吐き出されるようにバスを降りた。私の他は誰も降りず、またそこから新たに乗り込む乗客
もおらず、私を降ろしただけで乗降口を閉じたバスは再びゆっくりと動き出し、そのまま走
り去っていった。
早足で家までの道を歩いた。早く帰りたい。早く帰って自分のベッドに身を横たえたい。私
の頭にはそのことしか存在しなかった。だから自宅の玄関に手をかけたときも、安堵を感
じたことだけが記憶に残り、どうしてこの時間帯に玄関の鍵が開いているのか、そこまで
考慮する余裕がなかったのだった。
靴を脱ぐのももどかしく、家に上がるなり自分の部屋に直行する。ドアを閉めて荷物を放り
出し、ベッドに倒れ込んだ。安堵を感じるのもそこそこに、部屋の外から足音が聞こえる。
それは私の部屋の前までやってきて、無遠慮にドアを叩いて言った。もう帰ってきたの?
私が答えないでいると、ドアを乱打する音は激しくなった。聞いてるの? ちょっと出てきな
さい。私は起き上がり、今日渡されたプリントを掴んでドアに歩み寄る。そして開けると同時
にそれを突き出してやった。ドアの向こうにいたのは母親だった。彼女は私が突き出した腕
をしげしげと見詰め、そこに握られているものをおずおずと受け取った。
不意を衝かれた母親が何も喋れないうちに、私は素早くドアを閉めた。ベッドまで戻り、倒れ
込む。部屋の外の母親は、多分プリントに目を通していたのだろう、立ち去る様子もなくしば
らくドアの前で黙っていたが、再び忙しなくドアを叩き始めた。ねえ、明日お金を持っていか
ないといけないの? ちょっと開けなさい。聞いてるの? ねえ?
私は無視を努めた。いけないもなにも、それに書いてある通りで、私がそれ以上何か言う
必要はないはずだった。母親と喋りたくなかった。それどころではなかったのだ。そんなに
不安なら、そうだ、あの元副担任にでも連絡を取って相談でもすればいいではないか。
やがて母親は諦めたのか、部屋のドアを叩くのをやめた。静かになった部屋の中で、ベッ
ドに横になったままで、私はまた嫌な気分になった。そうだ、とドア越しにでも一言言えば
済むことではなかったのか。気が立っていたにしても、それ程難しい選択でもなかったは
ずだった。何故私はわざわざ、お互いに後味の悪さを残すようなことをしたのだろう。
考えても答えの出るような問題ではなかった。私はそれ以上考えないようには努めたが、
後味の悪さは消してしまうことができなかった。いつもこうして不快感を覚え、蓄積させて
いってある日突然、……どうなるのだろう? いい結果を生まないことは確かだが。
そういう訳で、明日は今日よりも更に気の滅入る日になりそうだった。新しい環境、入学式、
教科書購入の義務と無辜な母親を邪険にあしらってしまったこと。それでもきっとまだそれ
は過程の段階でしかなく……、とにかく何と言うか、私は明日を無難にやり過ごすしかない。
なかなか眠りに着けなかったと記憶しているが、夢は見なかったと思う。途中真夜中に目
が覚めて、台所で水を口にした以外は特に何もない夜で、両親の深夜の密談にも遭遇し
なかった。再び睡眠とも呼べない境地に戻り、然るべき時間の経過の後に、私は絶望的な
朝を迎えたのだった。
朝、目を開ける前から既に私の意識は覚醒していて、即座に今日がどういう日なのかを思
い出し、これ以上ないくらいの倦怠感に苛まれていた。閉じたままの瞼を通して朝の日の
光が感じられたが、それは私にとっては嫌味で疎ましいだけだった。
渾身の力を込めて上体を起こす。まだ目は閉じたままだ。今日、何とか乗り切れば……、
と思う。もちろん、今日だけ乗り切れたとしても、またその次の日の朝に同じような葛藤が
繰り返されることくらい見当が付いたが、今はそんな遠い未来のことを考えている場合で
はないのだ。
立ち上がり、部屋を出た。用意されていた朝食を半分だけ摂り、再び部屋に戻って用意を
整えた。昨日懸念した教科書代は、朝食を摂ったテーブルの上に封筒に入れて置いてあ
った。中身を直接確認したわけではないが、それが教科書代として置いてあることは何と
なく理解できた。
細かい身支度を整え、再び部屋を出る。玄関まで向かう途中、居間のテーブルに置いてあ
る封筒を回収し、鞄に入れた。居間で新聞を広げていた父親は、別に私に関心を払おうとは
しなかったし、台所にいる母親も私を振り向きはしなかった。
玄関で靴を履き、家を出た。昨日と同じ道を早足で歩き、バス停に到着した。それから少し
後にやって来たバスに乗った。昨日よりもバスの乗車率は高いようだったが、私は昨日と
同じ座席に着くことができた。多分、これから毎日私はここに座ることになるのだろう。
バスは相変わらず、ところどころで新しい乗客を拾いながら進んだ。私が乗ったバス停か
ら三つ目か四つ目のバス停で、私の隣の席に座ってきた者があった。それは私と同じ制
服を着た女子学生で、私との間を開けて遠慮がちに座り、私は気付かない風を装って考
え事をしている振りをした。
バスはそのまま断片的に見覚えのある風景の中を私達の学校の前まで進み、定位置に
停まった。乗車口が開き、すかさず私と同じ制服の生徒達が立ち上がってそれに向かっ
て列を成した。隣に座っていた女生徒が立ち上がってから、私も彼らの後に続いてバス
を降りた。
学校の様子は昨日と大して変わりなかった。通用口を抜け、教室に入っても、展開されて
いる状況は昨日と殆ど同じだった。いや、むしろ昨日の続きが行われているだけなのかも
しれない。そんな中で、私はやはり昨日と同じように、気を張って黒板の辺りを睨みつけて
いたのだった。
私が着席してからそれ程間を置かずに、このクラスの担任教師が教室に入ってきた。先
日母親と一緒に面会したあの女性教師だった。これもまた昨日と同じように、まるで蜘蛛
の子を散らすようにして生徒達は自分の席に戻り、教室内はすぐに静かになり、教壇に
立ったその女性教師は咳払いをひとつしてから、皆さんお早うございます、と言った。
生徒達は同じ文句を低い声で復唱した。教師は教室の隅々まで視線を巡らし、多分用意さ
れた席が全部埋まっていることでも確認したのだろう、それから手元の出席簿を眺め、もう
一度教室全体を見渡し、それでは出席を取ります、と言った。
生徒達の名前が順次呼ばれ、呼ばれた生徒が返事をしていく。目視してみて欠けた席が
見当たらないのならば、わざわざ点呼していく必要もないだろうに。そう思ったが、教壇で
点呼を続けるこの教師は、自分が名前を呼び、生徒に返事をさせる、そのことこそが重要
なことだ、とでも考えているのだろう。
私の名前が呼ばれる番になっても、私は極普通に返答ができたと思う。少なくとも自分で
はそう思った。難しいことではない。ただ、はい、と返事をするだけだ。私の声は裏返った
り掠れたり震えたりはしなかった。自分ではそう思う。思いたい? どちらにしても、私が発
した返事について特に問題は起きなかったのだった。
実際に、私の次に控えていた者を呼ぶときは、特に教師には何の起伏もなかった。○○と
名前を呼ぶ。該当の生徒が、はい、と答える。私の名を呼ぶ前と後とでは、担任教師の態
度に見て取れるような差異は存在しなかったと思う。
私は何を怯えているのだろう。点呼に対する返答の声で、その声の張り方によって、担任や
他の生徒達に私の不利益な部分が悟られるはずはまずないわけであって、何故にそうして
緊張し、発した返事にも気を揉まなければならないのか。私はいらぬ気を使いすぎているの
だろうか。
点呼は淡々と進み、やがて終了した。それから新しい担任は室内を見回しながら軽く自己
紹介をして、今日の入学式についての説明を始めた。十時に開式、合図があったら一組か
ら順次入場。着席する位置はこの後の入場練習のときに指示される。
来賓の挨拶のときの起立、礼、着席。指示があるまでは起立したらそのままでいること。新
入生代表挨拶、このときも起立し、代表と一緒に礼をすること。校歌斉唱、これもまたあと
で練習があるらしい、などなどだ。
主要な説明が終わってしまうと、私達は廊下に整列させられた。昨日とは違い、今回は名
簿に記された順番に従って並んだ。集団は随分と打ち解けたような雰囲気になっていて、
まだまだ遠慮がちではあったが、昨日よりも気軽な言葉が飛び交うようになっていた。
そのまましばらく待たされる。その間の私語も、担任からあまり熱心には注意されなかった。
やがて前方の他のクラスの列が動き出し、私達もそれに連なって動き出した。体育館まで
の廊下の途中で行進は停止し、またしばらく待たされた。また周囲が騒がしくなった。
そうやって一組から八組までの全生徒が廊下に並んでしまうと、静かにしろ、という教師達
の声がひとしきり飛び交い、群集は再び静けさを取り戻した。担任が私達に向かって言う。
いいですか、一年三組、という声がかかったら、二組の後に続いて入場します。
男子は向かって右側、女子は左側の椅子に座ります。椅子は十人ずつ、一列埋まったらそ
の次の列に十人、いいですか? 十人揃ったら十人一斉に着席です。揃うまではちゃんと
起立したままです。いいですね? 前から詰めるんですよ。
体育館の中からスピーカーを通した声ようなが聞こえてきたが、何を言っているのかはは
っきりとは分からなかった。それを合図にして列が動き出す。先頭の方が体育館に入って
いき、私達はぞろぞろとそれに連なって前進する。
一年二組、というアナウンスが聞こえた。声は組数を読み上げているらしかった。集団は規
則正しく体育館に飲み込まれていく。二組が完全に入り切ってしまう。声、一年三組。私達
の列の先頭が体育館の入り口に立つ。入り、続いていく。
整然と並べられたパイプ椅子が目に付いた。集団が通過していく道順を境界にして前と後
ろに、さらに前方のそれは中央から左右に分かたれ、その間を体育館の真ん中で直角に
曲がった列が進んでいく。足音、椅子のきしむ音だけが音として存在する広い空間に気圧
されたのか、誰も喋る者はいなかった。
私達のクラスも定位置で向きを変え、前方の椅子の群れに向かって進んでいった。男子は
右へ、女子は左へ。詰めて、前を向く。十人揃った列はお互いの顔を遠慮がちに眺め回し、
座っていいという条件が整ったことを確認してから、一斉に腰を下ろした。
背後の行列は私達に続き、同じ行動を繰り返す。ただ足音と椅子のきしむ音。延々と繰り
返され、やがて静かになる。パイプ椅子に腰掛けた新入生全員と、それを壁際で見守る
教師達。その教師の群れから一人が、体育館の右前方に据えられたマイクに向かって歩
いていった。
彼は私達の入場が静かに行われたことを褒め、本番でも同じようにするよう私達に通達し
た。続いてそのまま起立やら礼やら着席やらの練習が行われ、私達は彼の号令に従って、
立ったりお辞儀をしたり座ったりを幾度か繰り返した。
彼の、あるいは他の誰かの満足がいくまでその練習が繰り返された後、前方からまたプリ
ントが配布されてきた。それは文面から察するに、校歌の歌詞が記されたものらしかった。
次はこの練習だ、ということなのだろう。
マイクの前に立った教師が、続いて校歌の練習をします、と言った。歌の入ったテープを
流します。最初は歌詞を見ながら聞いて下さい。二回目以降は、合わせられるならテー
プに合わせて歌ってみて下さい。……果たして私達にどうしろというのだろう。
スピーカーからテープに録音したらしい校歌の伴奏が流れてくる。私達は配られた歌詞を
食い入るように見つめる。他にどうしようもなかったからだ。と、伴奏に合わせて歌う声が、
同じスピーカーから聞こえてきた。テープは合唱部か何かがこの練習のために録音した
ものらしかった。
当たり前だが、誰もその歌声に合わせて歌うことなどできなかった。誰も歌わないままテ
ープは終わった。しばらく間があって、再び同じ伴奏が始まる。分かってきたら歌ってみ
て下さい、とその教師がもう一度言った。誰もその期待に応えられそうもなかった。
結局、テープの伴奏は四回流されたわけだったが、四回目になっても誰も歌えなかった。
最初から歌えるようになるとは考えていなかったのか、あるいは規定の回数テープを流せ
ばよかっただけなのか、校歌の練習はそれでそのまま終了した。
それから式典に臨むにあたっての注意事項(朝方担任の教師から言われたことの繰り
返しだった)がなされ、練習は終わりということになった。入ってきた順とは逆に、今度は
八組から退場を始め、私達はまた長い列になって教室まで戻ったのだった。
教室に戻ると、一緒に戻ってきた担任が何かを配り始めた。手元に回ってくる。紙で作った
造花だった。裏に安全ピンが付けてあり、どうやらこれを身に付けなければならないようだ
った。左胸に付けてください、と担任が言った。皆はその言葉に従った。
この造花は上級生が作ってくれたんです、と担任は言うが、誰も特別な反応を見せなか
った。別に私達に何も期待してはいなかったのか、彼女は続けて、それでは四十五分に
なったら廊下に整列です、と言った。トイレ等済ませておくようにお願いします。
担任が出て行き、再び教室内は騒然とした。期待や不安、そういったものがないまぜに
なって気分が高揚し、誰もがお喋りになっているのだろう。それは多分、記憶はかすれ
てはいるが、私も経験してきたことだった。いや、そうだっただろうか?
担任はすぐに戻ってきた。すぐに、とはいっても、私が感じた時間の経過だったから、実
際にはどのくらい間があったのかは分からない。とにかく、戻ってきた担任は私達に廊下
に整列するように指示を出し、私を含む群集はそれに従ってぞろぞろと廊下に列を作った
のだ。
定刻までの時間待ち。まるでもぐら叩きみたいに、ひそひそと声を殺して会話しようとする
生徒を、教師達が逐一見付けてはそれを制止する作業が続く。やがて列が前進を始め、
先頭は体育館の入り口に控えた。さすがに緊張が満遍なく広まったのか、生徒間の目立
つような言葉のやり取りはなくなってしまっていた。
体育館の中から、マイクを通した声が聞こえてくる。新入生入場における口上を述べてい
るらしかったが、音声が不明瞭で何を言っているのかまでは正確に分からなかった。一際
強い口調の号令をきっかけに列が動き出す。入場が始まったようだった。
事前の練習と殆ど同じに生徒達は動いた。会場の中は先程とは違い、来賓の席や、新入
生の父兄用の席がほぼ埋まり、彼らはあまり遠慮していないような視線を私達に注ぎ、そ
して誰もが無言で、そんな状況で作り出されている得体の知れない重苦しい雰囲気に、私
は息が苦しくなるような気がした。
開式。開式の言葉。次に国歌斉唱。その後に校長の挨拶。式順に従って滞りなく進んで
いく。来賓挨拶、これは何人分かあった。続いて新入生代表挨拶。それに応えるかたち
で、生徒会長による在校生代表歓迎の言葉。その間私達は、立ったり座ったりをひたす
ら繰り返した。
校歌斉唱、と司会役の教師が言うと、背後の二階のギャラリーに控えていたブラスバン
ドと合唱隊がごとごとと重いものを動かすような音を立てながら演奏の準備を始めた。
その存在に今気が付いた生徒も、私だけではなかったようだった。
新入生起立、と号令がかかり、新入生達はそれを振り返って珍しそうに観察するのを止
めた。一呼吸の間の後、さっきスピーカーから流されたものよりももっと尊大な感じで校
歌の伴奏が流れ出し、私達は少なからず威圧された。
合唱隊が歌い出す。いくら数回練習させられたとはいえ、彼らの朗々たる歌声に合わせ
られる新入生は皆無だった。それでも一応は歌詞を書いた紙を熱心に見つめたり、ある
いは見つめている振りをしたり、ただ俯くだけだったり、きょろきょろと周囲の様子を伺っ
てみたり、誰も歌わない、歌えないのは同じだったが、各々いろいろな反応を示した。
合唱隊はそのまま歌詞の三番まで歌い上げ、やがて演奏も止まった。また背後からごと
ごとという音が聞こえたが、今度は誰も振り返らなかった。見る必要もない。ただ役目を終
えた彼らが着席しているだけなのだ。号令がかかり、私達も着席する。
閉会の言葉。これでどうやら終わりらしかった。新入生退場。リハーサル通りに退場してい
く。私達のクラスも動き出す。どちらでもいいことなのだけれど、退場の際に保護者の集っ
た席をちらりと見たが、私の母や父がそこにいるのかどうかは判別できなかった。
廊下は一際騒がしかった。窮屈な空気からの開放感がそうさせたのかも知れない。がや
がや騒ぎながらも、皆自分達に与えられた教室に向かって進み、そこに入っていった。私
は自分の席に着いた。彼らは気ままに振舞っていた。
その後、集合写真を撮るとかでまた廊下に整列させられて、クラス単位で順番待ちをし、
体育館の壇上の前に並ばせられて写真を撮られた。体育館の中は撮影用に並べられた
パイプ椅子以外は全て片付けられており、もちろん来賓客も父兄達も全員帰った後だっ
た。
撮影が終わったクラスから教室に戻り、また待たされるのかと思ったら、担任も一緒に教
室まで戻ってきていた。彼女は私達に着席を促して、明日のスケジュールやら教科書購
入やらの注意事項をもう一度手短に述べた後、それでは気をつけて帰ってください、と言
った。ようやく本日の全日程終了、というわけらしかった。
校舎を出て、その足で教科書を購入するための場所に向かう。とはいえ、そこまでさほど
距離があるわけでもなく、校門の前の大きな道を、私が帰りに乗るバスの進行方向とは
逆向きに四、五分歩くだけで、目的の場所に辿りついた。あちこちでいくらでも見かけるよ
うな、比較的ありふれた系列の本屋だった。
中に入ると、すでに私と同じ制服を着た生徒達が多数いて、彼らの群がるところに特設コ
ーナーのようにして、大量の紙袋を並べてあるエリアがあった。店員が二人がかりで次々
に来る生徒達に紙袋を渡し、代金を受け取っている。
彼らに混じって紙袋を受け取る。今朝方持ってきた封筒からお金を出し、渡す。お釣りを
返され、そのままそれを封筒に戻し、封筒を制服のポケットに突っ込む。思っていた以上
に紙袋は重かった。引き摺るようにして店を出る。
そのままバス停まで戻る。すでに何人かの生徒が同じ紙袋を抱えてバスの到着を待って
いた。皆無言で、ある者はベンチの隅っこに控えめに腰かけ、ある者は私と同じように棒立
ちのまま、傍らを校門から新たに吐き出されてくる生徒が通り抜けて行き、私はただ、早く
家に帰りたかった。
明日からまた、あまり建設的ではない日々が始まるのだ、と思う。多分そうなる。私が望
もうが望むまいが、過去の経路を忠実に辿るようにして、また同じことが多々繰り返され
るはずだ。そしてその度に、かつての似たような事例の記憶が思い起こされて、ただでさ
え快くない現実に、さらなる辛酸を加味することになるのだろう。
バス停は平和だったが、バスの車内も平和だった。学校の前から私の家の方向へ、昨日
と同じく乗客の少ないバスが走り始める。悠長な速度で走るバスと、車窓から見える景色
に、私は疎外感を覚えた。教科書の入った紙袋がやたらと重く感じた。
その入学式の翌日から、早速新しい環境での生活が始まったわけだった。とはいっても、
最初の数日間は健康診断だの、スポーツテストだの、また新入生を集めてのオリエンテ
ーリングだの、といった具合に、だいぶ時間が経過した後にまともな授業が始まったよう
な気がする。
その健康診断が行われた折に、私は初めて新しいクラスメイトと言葉を交わすことにな
った。何の検査だったか忘れたが、それが終わって教室に帰る最中に、ほぼ同時に検
査を終わらせて私の後ろを歩いていたその生徒が、この次は何でしたっけ? と私に向
かって聞いてきたのだ。
そこには私と彼女しかいなかったから、私に向けて言った言葉に間違いなかった。急に
声をかけられたのに驚いたことと、彼女の質問の答を私も知らなかったこと、この場合
どんな言葉を返せばいいのか分からなかったことが災いして、私は酷く狼狽してしまっ
た。
さあ? と私は言った。できるだけそうならないように気を使ったつもりだったが、私のそ
の台詞は恐ろしいほどに素っ気なく響いたような気がした。私は思わず振り向いて、視
界の隅で彼女の表情を観察した。気付いていないのか、気にしていないのか、そういう
ポーズをとっているだけに過ぎないのか、私には判別できなかった。
私達はそのまま教室に入り、私は自分の席に座り、彼女は教室内に点在する群集のど
こかに消えてしまった。先程のやり取りの内容を反芻し、いろいろな可能性について考
えてみたが、結局私はああするしかなかったのだ、と無理矢理に結論付けて、もうそれ
以上考えないことにした。というか、もはや考えてもどうにもならないのだった。
入学後数日の間に私に話しかけてきたのは、その彼女一人だけだったが、これはまあ仕
方ないことなのかもしれない。黙って座っていただけの私は、周囲から見れば確かに近
寄り難いクラスメイトだったと思う。きっと彼女も私以外の者に向かって話しかけたつもり
が、うっかり間違って私に声をかけてしまったのだろう。
数日後、授業が始まった。とはいっても、一番最初の授業は教科毎の担当教師が自己
紹介をしたり、概要をかいつまんで説明したり、一人一人点呼して生徒の顔と名前を覚
えようとしたり、まだ非日常的な内容だったのだが、全教科とも二度目以降の授業は普
通に行われるようになった。
例え学校が違っても、行われる授業の内容というのはあまり変わらないものなのだ、と
いうのが私の率直な感想だった。いや、そればかりではない。例えば休み時間、以前違
う場所で見た光景とほとんど同じだった。どこにいっても結局同じなのかもしれない。
生徒達にはまだ初々しさが残ってはいるが、日を重ねるごとにまた以前と同じように、
グループの形成、整形、再編成などが徐々に行われていくのだろう。そしてクラスで何
番目のグループか、グループ内で何番目か、という順位に基づく秩序が組み立てられ
て、またとても面倒なことになっていくのだ、多分。
私としてはもうそんなものに加わることはおろか、勝手に繰り広げられる光景すら見た
くもなかった。だから、通常の授業が開始されても、その休み時間などはただ漠然と教
科書を眺めてみたり、あるいは机に突っ伏して居眠りしたり、周囲に近寄り難い雰囲気
を醸し出しながら時間を経過させるあらゆる方法を駆使して過ごしたのだった。
もはや周囲の者と協調して生活していくことは絶望的だった。そのやり方も忘れてしま
っていた。ごく普通の高校生が送る学校生活、今さらそんなもの望む資格もないような
気がした。おまけに私は、他のクラスメイト達よりも一歳年上なのだ。
授業で読む教科書のページが徐々に進んでいく以外、特に変化のない日々が続いた。
私は毎日苦悶しながらベッドから起き出して顔を洗い、制服に着替えて朝食を半分だけ
食べ、毎日同じバスの同じ座席に座って登校した。各教師が喋ったり黒板に文字を書い
たりするのをただ眺め、いつも放課後すぐにやって来るバスに乗って下校した。
ほとんど意味のない繰り返しではあったが、他にどうする当てもなかった。また現状を
放棄するのはさほど難しいことではなさそうだったが、その後のことを考えると、安直に
放棄してしまうのは躊躇われた。今よりもっと面倒なことになる可能性もあったからだ
った。
今はとにかく三年間、真っ当なかたち、つまり卒業という正当な手順を踏んで、ここから
抜け出せるようになることをじっと待つしかない。現時点で誰からも非難を受けずにやり
過ごす方法は、恐らくこれ以外にはなかった。
その後は? 仮に三年という期間が無事に経過したとして、それから私はどうすればい
いのだ? 切羽詰ったところにある問題はまだ現実味があり、懸命に取り組めるかもし
れないが、その後のことになると、例えそれが深刻な問題であっても、それは言わば遠
い過去に成されたいたずらに恐怖を煽るだけの不吉な予言でしかなく、対策など講じら
れようはずもないのだった。
その後のことはいつも私を不安にさせたが、今から対策を立ててどうにかできる問題で
もなかった。とにかく三年間を終わらせることだ。その後のことは、現在を無事に終わら
せた三年後の私に任せればいい。私はそう考えていた。
通常の授業が始まって一月程経ったある日の昼休みに、もう何度目かの国語の教科書
を読み返す作業をしていた私に話しかけてきた者があった。ねえ、とその生徒は言い、私
は初め自分にかけられた声だとは気付かずにいて、肩を叩かれて驚き、その人物をまじ
まじと見やったのだ。
健康診断の折に、私に筋違いな質問をしてきたあの女生徒だった。予想していなかった
外部からのアプローチに動揺してしまったのか、私は呆けたようにその顔を見ることしか
できなかった。何の用だ? 言いたかったが、言えなかった。
何してんの? と彼女が言った。私は黙って机の上の教科書を示した。彼女は教科書を
ちらりと見て、表情を変えずにまた私の顔を眺めた。おもしろい? 私は答えなかった。
さらに彼女が言う。ねえあなた、皆より一つ年上なんだよね?
彼女はいかにも人懐っこそうな顔をしてみせた。私は彼女の意図が掴めなかったことと、
どうして年上だと知っているのか、ということにいささか腹が立ち、内心の動揺を押し隠
すように、ぶっきらぼうに言った。そうだけど、それが?
私もだよ、と彼女は言った。教室内の喧騒が一際大きく聞こえた。誰がどんな状況で、
どういう意図の下に発した声なのか。それに今の彼女の発言。私と彼女は得体の知れ
ない喚声を背後にしながら、ただ黙ってお互いの表情を読み合っていた。
私は耐え切れなくなり、手にしていた教科書に戻ろうとした。ねえ、前はどこにいたの?
と彼女が言った。私は彼女の方を見ないまま、以前在籍していた学校の名前を言った。
へえ、と彼女が言う。私が言った学校の名前は、彼女に特別な感慨を与えなかったよ
うだ。
教科書の文章を目で追いながらも、私はまた彼女から声がかかるのを警戒して、背後に
気を配っていた。彼女はなかなか次の言葉を喋らず、私は同じ文章を何度も頭から読み
直すはめになった。しばらくしてふと振り返ってみると、すでに彼女は立ち去ってしまった
後だった。
私ははぐらかされたような気分になり、意図が読めないことへの不安と怒りが増徴し、
教科書を机の中にしまうと席を立って教室の外へと向かった。教室内には多数のグル
ープが存在したが、目に映る範囲内には彼女の姿はなかった。一体何なのだ、と私は
思った。
彼女の接触は結局それだけだった。以降、休み時間に何気なく教室内を見渡してみて
も、彼女はどこにもいないようだった。意図が分からないのは気分が悪かったが、それ
以上私からどうにかしようとは思わず、私はまた一人で時間を潰す作業を続けたのだ。
彼女は休み時間の間、教室にいないことが多かった。別に意識して観察をしていたわけ
ではなく、個人的な作業の最中にふと顔を上げて周囲に目をやったりすると、たまに視
界の隅に彼女の姿を発見することがあった、というだけのことだった。
まれに教室内で見かける彼女は、いつも誰かと話をしていたように思う。騒音に阻害さ
れて何を喋っているのか私に分かるはずもなかったが、彼女もその話相手も気軽に冗
談を言い合っているような雰囲気で、そんな人当たりのいい彼女がどうしていつもその
他のクラスメイトと談笑していないのか、それに何故私にあんな話をしてきたのか、そ
の度に疑問に思うのだった。
単純に考えて、皆より一歳年上だという共通項を持った者同士だとして私に興味を持ち、
話しかけてみたけれども、私の方が素っ気無い態度を取ってしまったため、親しく口を
利く相手としては不適当だ、と彼女は判断したのかもしれない。彼女がどうやって、私と
同年代であることを知ったのかは、分からないままだったが。
それほど日数が経たない内に、私は手持ちの教科書を読み直す作業が苦痛になってき
た。飽きるほど読み返したわけでもなく、ただ国語の教科書だけはまだ三回くらいは読み
返すこともできたのだが、その他の本は一回、あるいは完読に至るまで耐えられないこ
とが多く、休み時間を持て余すようになってしまった。
が、解決方法は容易に見付かった。学校の図書室に行けばいいのだ。貸し出しのシス
テムが面倒なら、休み時間の度に通ってもいい。多少手間がかかっても、教室の自分
の机に突っ伏しているよりはましだった。一応私も生徒である以上、図書室を利用でき
ないわけでもないだろう。
早速、次の休み時間に図書室を訪ねてみた。ざわつく廊下とは対照的に、図書室の中
はまるで人気がなかった。別に構わない。本を借りに来たわけではないのだから。私は
そのままつかつかと奥に進み、手近な書架に取り付いて並んだ背表紙を眺め始めた。
はっきり言って、あまり意欲をそそるようなタイトルはあまり見当たらなかった。もしかし
たらこの学校の図書館は、私の手持ち無沙汰を助けてはくれないのかもしれない。何
もめぼしい物が見付からなければ、何か別の手段を講じる必要がある。
もし私が熱心な読書家だったなら、こんなことで悩むこともなかっただろう。自分の部屋
の蔵書から毎日適当に一冊ずつ選んで持ってくればいい。しかし、現実の私の部屋に
は書架代わりの小さな棚があるだけで、埃をかぶったままそこに入れられているそれら
の本では実用に耐えられそうもなかった。
書架と書架のの間を移動したとき、正面にあった非常口が、きい、と音をたてて開いた。
入ってきた私のクラスメイト(例の彼女だった)と私は、しっかり目を合わせてしまった。
彼女は私が見ている前で、少し決まりが悪そうに苦笑いして、後ろを向いて非常口を閉
め、鍵をかけ直した。それから振り向いて言った。ん……、何してんの?
そういう自分こそこんなところで何をしているのだ? と思ったが、敢えて口には出さな
かった。その代わりに、本を探してる、と簡潔に答えた。ん? 何の本? と彼女がさら
に聞いた。私は、自分と相手が日常的で一般的な内容の会話を始めていることにいさ
さか驚き、そして戸惑ってしまった。
その戸惑いの上に、相手の質問に答えなければならない、という強迫に近い観念が圧
し掛かり、私は気を取り乱しそうになる。会話というのはこんなにも難しいものだったの
か? まるでいろいろなものが頭の中を忙しく駆け巡っているようだ。
いや別に、何の本ってわけでもないんだけど……、と私は答えたのだったが、私が探し
ているのは特に明確な選択基準があったわけでもなく、その検索対象が極めて曖昧だ、
という事実を、いかに正確に彼女に伝えればいいのか分からず、結局答弁からして曖
昧になってしまった。
彼女は訝しんだ。私にはそう見えた。いや、だから、あの……。取り繕おうとしたのだろう、
私の口からさらに無意味な言葉が出てきた。何にもならなかった。今なら分かる。簡潔
にこう言えばよかった。何か読む本、と。
彼女は好奇の眼差しで私を見ていた。少なくとも私にはそう受け取れた。ふうん、と彼女
が言う。まあいいけど、私が何をしていたかについては聞かないの? 私は黙って頷い
た。彼女は口元を緩め、少し笑ってみせた。
以降、彼女は勝手に喋って話を進め、私は曖昧で一辺倒な受け答えを続けた。一体彼
女の何に触れてしまったのか私が分かるはずもないのだが、彼女は一方的に盛り上が
り、打ち解けてきて、気が付いたら一緒に廊下を歩いていた。そしてそのまま玄関を抜
けて、私達は学校の外に出てしまっていたのだった。
私は勢いに飲まれて断りもできなかった自分を責めていた。理由も告げずに途中下校し
た事実に苛まれていた。今後への影響も心配だった。そういった不安材料が重なって、
彼女が一体何をするつもりなのか、そんなこと考える余裕さえなかった。
私達は、登校時に私を降ろしたバスが走り去っていく方向に向かって歩いた。四、五分
歩いて次のバス停に着き、そこで次のバスを待った。その間も彼女は、間欠的にいろい
ろなことについて喋っていたようだったが、私は適当な相槌を打つのが精一杯だった。
バスの終点、すなわち街の一番賑やかな場所に私達は降り立った。それから私は彼女
に連れられるままに、雑貨屋でやけに細々したものを物色したり、ブティックでとても買
えそうもないような服を品定めしたり、ファーストフードのアイスクリームを食べたりと、
つまりはまあ下らないことをして過ごしたのだった。
やけに彼女は上機嫌そうだった。私は唐突で強引なその彼女の引率を迷惑に思いな
がらも、彼女の気分に水を差さないように、精一杯彼女に合わせようと努力した。合わ
せようとするのではなく、この状況を自然と楽しめるようになるのならば、私はもう少し
楽になれるのかもしれない。ふとそんなことを考えたりした。
ひとしきり彼女について回った後、これからどうしようか? と彼女が言った。私達は人
通りの多いアーケード街を並んで歩きながら、彼女は私が答えるのを待ち、私は今の
彼女の質問が雑踏にかき消されて聞こえなかった振りをして黙っていた。
ねえ、と彼女が言った。答えるよう促したのかと思ったが、そうではなかった。今からあ
なたの家に行ってもいい? 私は思わず立ち止まる。え? と聞き返す。もう用は済ん
だのではないのか。後はそれぞれの家に帰ればいいだけではないのか。ねえいいえし
ょ? え、あ……、うん。結局私は断りきれなかった。
そうして私達は帰りのバスに乗り、学校の前を素通りして、私の家の近くまで戻ってき
た。放課後にはまだ時間があったので、同校の生徒達と鉢合わせにならなくて済んだ
ようだ。バスの車中でも降りた後も、彼女は辺りの風景を物珍しそうに眺め回していた。
今度は私が彼女を案内して歩くことになった。バスに乗っているときから彼女の口数は
次第に減ってきて、私の家に向かって歩いているときにはほとんど無言になってしまっ
ていた。家に到着する。鍵がかかっている。まだ母親は帰ってきていないようだ。
私は鍵を開け、彼女を玄関先に通した。おじゃまします、と彼女は言う。そのまま自室
に行こうとする私に少し遅れて彼女はついてきた。何でこんな状況になったのだろう?
避けられなかったのだろうか? 避けられなかったのだろうな、と思う。何となくそう思
ったのだ。
彼女は部屋に通されると、座っていい? と確認をとってから私のベッドに腰を降ろし
た。そして部屋の内部をきょろきょろと見渡した。ふうん、と彼女が声を漏らしたような
気がした。私は自分の椅子に座った。唐突に思い出した。前にも似たような光景がこ
こにあったことを。
何だか随分質素な部屋だね、と彼女が言った。どう答えればいいのか分からなかった。
勢いに押し切られ、強引に付き合わされて、今彼女は私の部屋にまで上がり込んでい
る。……いや、他人のことは言えまい。昔は私も周囲に対してこんなやり方をしていた
のだ。
ねえ知ってる? 今度の新入生の中に、私達と同じ年代の人は私達含めて三人いるら
しいよ。あと一人は男子だってさ。確かええと、六組か七組だったかな? そういうのっ
て全員違うクラスに振り分けるのかと思ってたけど、私達同じクラスだし、基準がよく分
かんないよね。彼女は何故か嬉しそうにそう言った。
私は我慢できず、教室で彼女から話しかけられたときから抱いていた疑問を口に出し
た。どうして同年代だと知ってるの? 彼女は得意げににこっと笑う。私と同じ匂いがし
たんだ。匂いっていうか、何となく同じ感じがしたんだよね。何か暗い過去っていうの?
そんなものを背負ってそうな感じ。
へえ、と私は努めて気のなさそうな返事をしたが、内心は酷く動揺していた。違うの?
と彼女が追い討ちをかけるように言う。私の口は何かを言おうともごもご動きかけた。
しかしすんでのところで方針を転換し、別の言葉を口にする。あなたはどうなの?
ん? 私? と言って彼女はしばらく黙り込んだ。窓の外の太陽の位置で、もう放課後
に近い時間なのだということを悟る。私と彼女がいなくなったことについて、学校では何
か騒ぎが起きたのだろうか。いや、特に問題もなく一日が終わったに違いない。
私はね、前の学校でちょっと酷い問題を起こしたから、自主退学、かたちだけだけど一
応そういうことにされて、まあ実質的には退学処分と同じようなものだったんだけどね、
そういう意味では暗い過去っていうの? そう呼べるかもしれないね、うん。
彼女は微笑んだ。私は少し落胆した。誰かにその話をしたかっただけか。そのために
私に近付いたのか。……落胆? ああ、確かに私は、彼女の強引な手法にもかかわ
らず、それを多少なりとも迷惑だと思いながらも、彼女が私を連れ出したときから、何
かしら彼女に期待していたのだろうと思う。
分かりやすく言えば、彼女は私に改革をもたらすきっかけのひとつになってくれるかも
しれない、という妄想にも近い願望を持っていたのだ。そんなもの、今までことごとく実
現した例はないのに、私は未だに他動的な奇跡を待ち望んでいるというのか。
彼女の目的が実に凡庸だったことと、自身がまだ馬鹿げた望みを捨て切れていないこ
とが、私の落胆の主な構成物だった。落胆の度合いが少しだけだったのは、こういった
ことに私が慣れてきているのか、あるいはもう諦めているからかもしれない。
私が望むと望まざるとに関わらず、この場を収めるためには仕方がなかった。どんな
問題だったの? と私は彼女に向かって聞いた。水を向ければ話すだろう。話させれ
ば、言いたいだけ言わせれば、彼女の気は済むだろう。そうすればお互いが相手に求
めた役目も終わる。
仮に馬鹿げた望みを捨て切れたとして、その先に健全な生活があるというのだろうか?
多分に、悩みの種はひとつ減る。しかしまた、新たな問題が生まれてくるだけではない
のか。抱える問題の総量は変化しないだろう。私は一生このままなのではないのか。
うん、まあ、早い話が痴情のもつれっていうか、いや、そんなに生々しいわけじゃない
んだけど、うん。いや、どうなんだろう。何て言うか……。そこで彼女は一旦言葉を切
った。彼女のこの曖昧な答弁は、単に私の興味を引くための手法なのだと思っていた。
話をもったいぶることによって、私の方から更なる催促を引き出そうとしているのだろ
う。そして、じゃあ話してあげるけど、などとさも恩着せがましい態度で、私に向かって
嬉々として語り始めるつもりに違いない。そう考えて、少しうんざりした。
ところが私の予想を裏切って、彼女はいきなり話し始めた。順を追って話すと、まず去
年の一学期にね、たまたま席が近くだったある子と親しくなったの。その子は同じ中学
から来た彼氏が同じクラスにいて、つまり私とその子とその彼氏が、一緒のクラスにい
たわけ。
私とその子は仲良くなって一緒に行動したりするようになったんだけど、いつのころか
らか、その彼氏もそこに合流するようになったの。まあ別に変な人じゃなかったし、結
構おもしろい人だったから、私はその子の彼氏とも抵抗なく友達になった。
それであるとき、私達が三人で街に遊びにいった帰りにその子の家に寄って、他愛も
ないことをいろいろと話したりしてたわけ。で、夕方近くになってそろそろ帰ろうってこ
とになって、私とその彼氏は、その子に見送られて家を出たの。
また私達は下らない話をしながら途中まで歩いた。そして別れ道に差し掛かって、じゃ
あね、なんて言って帰ろうとしたら、彼氏が、ちょっと待って、って私を呼び止めた。ね
え俺ん家寄って行かない? 別に変な思惑がありそうだとか、そのときは思わなかっ
た。
でも私はもう家に帰るつもりだったし、また人の家に行くのがちょっと面倒だったから、
んー、また今度ね、って言って断った。そっか、それじゃね、って彼氏もあっさり引き下
がった。私達は路上でそのまま別れて家に帰ったの。……後々考えてみると、これが
ターニングポイントだったのかもしれないね。
それからしばらくしてやっと気付いたんだけど、三人の間の空気が何かおかしいのよ
ね。彼氏の方は特に変わっていないように思えたんだけど、その女の子が何かぎす
ぎすしてるっていうか、微妙に私達に突っかかってくるっていうか。
私とその彼氏は、彼女が不機嫌そうな態度を取る度に知らん顔で受け流したり、でき
るだけ穏やかにたしなめたり、おどけて馬鹿なことをして雰囲気を変えてみようとした
り……。でもその子には効果がなかった。私も、多分彼氏の方もその原因が分から
なくて困ってた。
それで、またその子が不機嫌な様子だったときに、私がふざけてその子の彼氏に抱
き付いたのよね。何か怖いよー、って。そしたらその子、一瞬物凄く怖い顔をして、冷
たい声で、何やってんのよ、って言った。そこでやっと私は、ああそういうことか、って
気付いたわけ。
要するに、その子は私と彼氏のことを誤解してたのね。うーん、誤解っていうか、そも
そも私は全然そんなつもりはなかったわけだし、彼氏の態度も別に普通に思えてた
んだけど、とにかくその子の彼氏と必要以上に親し気にしたらいけないな、と思ってそ
うすることにしたの。
私としてはそう努めたつもりだったんだけど、その子の機嫌は悪くなっていく一方だっ
た。もしかして、私が考えたこと以外の原因が別にあって、それでイライラしてるのか
もしれない。一度問い質してはっきりさせた方がいいのかな、なんて思ってた矢先に、
その子の彼氏から呼び出された。ちょっと話があるんだけど、って。
昼休みだったかな。で、場所が裏庭。変な話、これまたある意味さらに誤解を招くよう
な状況じゃない? でも私は、ただただ現状の改善のきっかけになるかもしれない、と
いう一心で彼の話を聞きに行った。そしたら先に来ていたその彼氏が、私が近付いて
口を開く前にいきなり言うのよ。俺達別れようと思うんだ、って。
私は思わず、は? って言った。彼氏は真剣な顔をしてて、私の間の抜けた台詞が
物凄く場違いみたいに思えた。慌てて根掘り葉掘り聞いた。どういうことなの? 喧
嘩でもしたの? 彼女にはもう言ったの? どうするつもりなの?
彼は私の質問に答えずに、ただ黙って下を向いていた。つられて私も黙った。もう嫌
になったんだよね、と彼氏が言った。いつも言われるんだ、俺と君の間の事。だんだ
ん酷くなってる。正直言って、もう聞いてられないんだ。
別に何もないじゃない、って私は言った。そりゃ確かに私は、あなたと私、彼女と私、
っていう間柄でしかあなた達を知らないけど、二人の間でどんなやり取りがあってい
るのか私が知る由もないけど、少なくとも私とあなたは、彼女の誤解を招くような受け
答えを今まででしたことがある?
うん、と彼は小さく言った。そうなんだ。そうなんだけど、納得してくれないんだ。どん
なに説得してもまともに聞いてくれない。こんな状態を続けるよりは、別れた方がお
互いのためだと思うんだよ。
私はそういうことに関してはまったく知識がなかったから、彼に的確なアドバイスなん
てしてやれなかった。まして無責任に、止めとけ、とも言えなかった。ただ、お互いに
よく話し合って結論を出すべきだと思うけど……、というありきたりな解答を推しただ
けだった。
心配だったけど私が首を突っ込める問題じゃないし、彼女達に任せておくしかなかっ
た。その間三人が集まるなんてことは一度もなし。それで、それからしばらく経ったあ
る日、今度は彼女の方に呼び出された。放課後の地学室の前の廊下だった。
私が着いたとき、彼女はまだ来てなくて、仕方ないから窓の外を眺めながら呼び出
しを告げたときの彼女の真剣な表情なんかを思い出してたら、すぐに彼女がやって
来た。で、また私が何か言おうとする前に、先に彼女が口火を切った。あんたなんか
もう絶交だから、って。
私はまた、は? って気分になったんだけど、彼女の雰囲気に圧されて言葉が出な
かった。そして彼女はその一言だけ言うと、もう後ろを向いて去っていこうとする。私
は慌てて呼び止めた。ちょっと何それ? どういうことなの?
彼女は立ち止まって振り返り、何かを言おうと口を開きかけたけど、結局何も言わ
ずにまた後ろを向いた。そしてそのままつかつかと歩いていってしまった。私がど
んなに呼び止めようとしても、彼女は立ち止まろうとしなかった。振り向こうともし
なかった。
最初はあっけにとられていたけれど、段々腹が立ってきた。何なの? その一方的
な宣告は。そこに至った経緯の説明もないの? 言いたいことだけ言って、私の言
葉には聞く耳持たないなんて、そんな不公平がまかり通るとでも思ってるの?
正直に言うと、彼女とのこじれた関係を修復しようとはもう思っていなかった。絶交な
ら絶交で構わない。けど、私にも言わせて、って。そういう通達の仕方は卑怯だ、っ
て。私の主張を彼女にも叩きつけてやるまでは気が済まない、と思ってた。
彼女は私を避けていた。まあ絶交宣言した後だったし、彼女もよっぽど固い決意の
元に絶交したんだろうから、当たり前といえば当たり前なんだけど。それで私は、彼
女を積極的に捕まえようとするよりも、彼女が私から逃げられない機会が来るのを
待つことにした。
丁度そのとき、二者面談っていうの? 進路についてだとか、成績についてだとか、
担任の先生とマンツーマンでやらされる面談があるじゃない。あれが放課後一日に
四、五人ずつ行われていたのよね。彼女と私は同じ日にスケジュールが組まれて
いた。出席番号が続きだったから、当たり前といえば当たり前だけど。
多分もう、ここしかチャンスはなかった。その日の三人目が彼女で、私はその次だ
った。面談が終わった生徒が次の生徒を呼びに来る、っていう方式だったから、彼
女は嫌でも私に接触しなければならない。そこを捕まえよう、と思った。ちょっと
フェアじゃないかもしれないけど。
順番を待つ生徒は教室で待機しているんだけど、私は彼女の順番が来て教室を出
て行ってから、頃合を見計らって途中の廊下に移動した。面談を終わらせた彼女が
教室まで戻るところを不意に捕まえる、そんな計画だった。
うん、まあ計画自体はうまくいった。教室にいるはずの私に、ぼそっと用件を伝える
だけで役目が終わる、と考えていた彼女の意表を突いたわけだから。彼女はこわ
ばった顔をした。でも逃げ場はなかった。私に用件を伝えなければならなかったか
ら。
ああいうことを言った理由を説明してくれない? 私は彼女の顔を凝視していたん
だけど、彼女は目を合わそうとしなかった。そうしてしばらく黙った後、私の質問と
は全く関係のないことを言った。先生が、次の人に職員室まで来るようにって。
そんなことどうでもいいよ、と私はちょっときつい口調で言う。ねえ、ちゃんと説明し
てよ。いきなり一方的にあんなこと言われて納得できるわけないでしょ? 心当た
りさえないのに、ちょっと身勝手すぎるんじゃない?
彼女はまた関係のないことを言った。先生が呼んでる。そしてそのまま私の横をす
り抜けて、教室の方へと戻ろうとした。私は彼女の腕を捕まえた。どういうことなの
か説明してって言ってるでしょ。ちゃんと答えてよ、ねえ。
彼女は私の手を振り解こうともがいた。もがいたけど、口を開こうとはしなかった。
私が一人だけわめきながら彼女の手を捕まえて、彼女は無言のまま、私の顔を見
ようともせずに掴まれた腕を振り回した。
そんなさなかに、彼女が小さい声で何か言った。私は思わず、何? と聞き返した。
すかさず彼女は私の手を振り解いて、じっと私を睨みつけて、そして言った。私の
彼氏を寝取ったくせに……。私はまた、はぁ? って思った。
いくらなんでも話が飛躍し過ぎだって。どこでどう間違えたらそんな話になるのか、
ともかく私は彼女を再度捕まえようとした。触らないで、と彼女が叫ぶ。ちょっと落
ち着いて、落ち着いて、って、私はそればっかり繰り返しながら、そしたら彼女が…
…、うん、私に向かってちょっと酷過ぎる罵声を浴びせたのよね。
私はいっぺんに逆上した。自分で相手に、落ち着け、なんて言いながら、我慢でき
なかった。考えるよりも早く手が動いた。ピシッて派手な音がして、私の右手が彼
女の頬に平手打ちを食らわせていた。ああ、あんなことしなきゃよかったのに。
彼女はとても驚いた顔をしていた。私も驚いてた。彼女の驚愕の表情は、みるみ
るうちに怒りへと変わった。私は硬直したまま、弁解もできなくて、ただ彼女が恐
ろしい表情で私を睨みつけて、そして背中を向けて去っていくのを見ていることし
かできなかった。
仕方なくそのまま面談を受けに行ったけど、内容はほとんど頭に入ってこなかっ
た。どうやってもう一度彼女と話をするか、そればっかりを考えていた。引っ叩い
てしまった以上、こっちから強気で攻めていくことはもうできない。まず謝って、そ
れからどうしよう? 面談が終わって家に帰ってからも、ずっとそのことを考え続
けていた。
彼女は翌日学校を休んだ。仕方ないことかもしれない、と思った。少し有難くもあ
った。少しでも早いうちに手を打つべきだったけど、昨日の今日ですぐに行動を起
こす元気がちょっとなかったから。
とりあえず明日以降、彼女と顔を合わせることがあったらまず謝ってしまおう。そ
の後は、状況を見ながら注意深く進めていくしかない。一日中考えて出した私の
結論がそれだった。
そしたらその放課後、担任の先生に呼び出された。ホームルームが終わってすぐ
に先生が私の席にやってきて、ちょっといいか? って言った。そして私を連れ、二
者面談を待ってる生徒達に、ちょっと待っててくれ、と言い残して教室を出た。
私には呼び出された理由がはっきりとは分からなかったけど、黙って先生に従っ
た。そして昨日面談を受けた部屋に連れて行かれて、私と先生は昨日と同じ位置
に向き合って座った。昨日よりも居心地が悪かった。
先生は彼女の名前を出した。お前と仲良かったよな? 思わぬ質問にちょっと驚
きながらも私は、はい、と答える。何か変わったことでもあったのか? 何で先生
がそんなこと知ってるんだろう? 私は何て答えればいいのか分からずに黙って
いた。
先生はしばらく私の顔を眺め、それから静かな声でこう言った。あいつ昨日、手首
を切ったらしいんだ。私は驚いた顔で先生を見た。いや、命に別状はないというか、
そんなに深く切ったわけじゃないみたいなんだが。
傷自体は大したことないらしいんだが、傷よりも精神的なストレスの方が大変みた
いでな。最近何か変わったこととか、気付いたこととか、ないか? ……今思えば、
この段階で先生に全部話しておいたなら、その後面倒なことにならなくてすんだの
かもしれないね。
でも私は、何か頭の中がいろんなことで一杯になってしまって、正常な判断がで
きなくなってしまって、そりゃあ心当たりもいろいろあったんだけど、それを正直に
喋ってしまっていいのか分からなくなった。偏ったことを言ってしまったら、当事者
の誰かが傷つくことになるかもしれない。もちろん、私も含めて、だけど。
どうしたらいいのか悩んだ。でも答えは見つからなかった。だから、誰にとっても一
番無難な返事をしておいた。いえ、別に……って。その間先生は、ずっと私の顔を
見つめていた。そして、そうか、と言ったきり黙ってしまった。
今でもときどき考えるんだけど、分からない。上手く説明できたらもう少しましな結
末になっていたかもしれない、って思う反面、言わなかったからこそ被害はこの程
度で済んだんだ、って思うこともある。ああそう、どっちにしたって当事者は私だけ
じゃないし、私がどうしようと迎える結末は同じだったのかもしれない、って言い訳
みたいなことも考えたね。
それから先生は、教室に残ってる面談待ちの生徒達に言伝をした。今日の面談は
中止するから帰るように、って。私は言われるままに教室に戻って、先生の言葉を
皆に伝えた。ぞろぞろ教室を出て行く彼らの後姿を見ながら私は、どうしたらいい
んだろう、と考えてた。
彼女の元に行ってみようか? いや、今は多分冷静な話し合いなんかできない。
下手に刺激しない方がいいし、私自身も彼女を刺激せずに会話ができるとも思
えない。とにかく彼女と接触するなら、日を置いた方が懸命だろう。
そうだ、彼はこのことを知っているのだろうか? 彼を探して一緒に今後のことを
考えようか? でもまだ彼が校内に残っているとは限らない。ああ、どうしよう。
先生のところに戻って、こちらの心当たりを話す代わりに、もっと詳しい話を聞い
てこようか……?
でも結局、私はどの措置も取らないでそのまま家に帰った。いろんなことが頭の
中でぐるぐる回ってて、話を整理するにもどこから手を付ければいいのか分から
なかったし、何かするにしてもやっぱり、どうするのが正しい行動なのか、判断す
ることもできなかったから。
家に帰っても落ち着かなかった。一種の興奮状態っていうの? 前の日の彼女
の表情とか、先生に教えられた瞬間とか、そんなのがずうっと繰り返し繰り返し
思い出されて、その日はなかなか寝付けなかった。
次の日学校に行くと、もう噂になっていた。私が教室に入るとお節介な子達が私
に近寄ってきて、昨日先生から聞いた同じことを大袈裟な口調で喋り始めた。私
は、ああ、とか、うん、とか言ってその子達をあしらった。私のつれない様子を見
てその子達は勝手に何か勘違いしたらしく、慰めみたいな言葉もかけてくれたり
した。
で、一時限目から自習になって、今度は彼氏の方が先生と一緒に教室を出て行
った。先生達が完全に行ってしまうと、すぐに教室の中は騒がしくなって、私はま
た物見高い子達に囲まれて質問攻めにあった。
彼女達は、ときどき私でも驚くような内容を口走ったりして、多分その子達の憶測
がほとんどなんだろうけど、そういう突拍子もない質問には、私はよく知らない振
りをして曖昧に答え続けた。そうしているうちに、いつの間にか一時限目は終わっ
てしまっていた。
休み時間になって、彼が教室に帰ってきた。彼を捕まえて話をした方がいいのか、
私は少し迷ったんだけど、彼に近付こうとする前にまた先生が教室に戻ってきて、
入り口から顔だけ突っ込んで、大声で私の名前を呼んだ。ちょっとこい、って。
結局彼とは話す暇もなかった。彼が自分の席に着くのと入れ替わりに、今度は私
が席を立って先生の元に進んだ。その間ずっと彼は俯いたままで、私のことを見
ようともしなかった。
私と先生は、昨日と同じ部屋の同じ位置に向かい合って座った。聞いたんだが、
と先生が話し始める。お前達、喧嘩してたんだってな? それはまあ本当なんだ
けど、私は昨日の段階で、何もない、って言った手前、答えられずに黙っていた。
さっき○○からも話を聞いたんだが……。お前達、あいつを取り合っていたとい
うか、つまりその、まああまり健全な話じゃないけども……。何か酷い顛末があ
ったらしいじゃないか。その辺どうなんだ?
どうなんだ、なんて言われても、元々何もなかったわけなんだし。というか、どう
してそんな話になっているのか、そこからして既にもうとんでもない誤解なんだ
けど、とにかく彼女達が何を喋ったのかを聞いてみないことには、って思ってし
まって、私は先生の問いかけには答えなかった。
答えなかった、というより、答えられなかった、の方が的確かもしれない。とにかく
私は、迂闊なことを口走ってしまって、当事者の誰かが一方的に不利な立場にな
ることだけは避けようと思ったの。重ねて言うけど、もちろん私も含めて、ね。
だから、彼が彼女と別れようかと思う、と言ったことも、彼女が私に寝取ったくせ
に、と言ったことも、追求されない限りは喋らないつもりだった。だって、確かに
それは事実だけど、部外者が耳にしたらとんでもない誤解を招く恐れだってあ
るわけじゃない?
でもまあ、既にこの段階でとんでもない誤解が発生していたわけだけど、私がそ
の事実を喋ってしまったら、事態はもっと混乱してしまうかもしれない。一体誰が
嘘吐きで、誰が本当のことを言っているのか? って。
私が黙っているのを見て先生は、あまりこういう話はしたくないんだが、と前置き
して話し始めた。あいつら付き合っていたらしいな、どんな交際だったかまでは
知らんが。それであいつらは、お前がその間に割って入ってきたと言うんだな。
つまりはまあ……。先生はそこで言葉を切って、しばらくの間顔をしかめてみせ
た。
あいつが言うには、何か健全じゃないやり取りがあったらしいんだが……。私は
まだ黙っていた。先生はじっと私の顔を見つめていたけど、やがて、仕方ないな、
とでも言いたげな様子でため息をひとつついた。あいつは、自分の交際相手を
寝取られた、と言っているんだよ。
ああ、やっぱり先生はそこまで知っていたのか、と思った。多分昨日私と話した
後、彼女のところに行って話を聞いてきたんだろう。それで今日になって、改め
て私を呼び出した、というわけか。ああそうだ、私の前に呼ばれた彼は、一体何
て答えたんだろう? というか、彼女がそう言っていたことまで聞かされたんだ
ろうか?
いろいろなことが浮かんだけど、私はとにかく、彼女の言い分を否定しなきゃい
けないと思った。だって本当にそんなことなかったんだから。私は先生の目を見
つめ返しながら、できるだけ静かな声を出して言った。そんなことはありません、
って。
私なりに最善を尽くした返答だったと思う。目を逸らさずに言えたし、声にも感情
はこもらなかった。先生の表情が明らかに変化したのも分かった。変な噂を完
全に打破するためにも、更なる言葉を続けて完全に先生を納得させるべきだ、
と思った。……でも私は、その更なる言葉を続けられなかった。
私がどうして言えなかったのかは、今なら何となく分かるような気がする。つまり
は、私はそのときまではまだ、当事者の誰かを嘘吐きにしたくなかったんだと思
う。私達の間に致命的な亀裂が走ってしまったのは事実だった。でも、まだ修復
は可能だと、そのときまではそう考えていたんだと思う。
だから部外者、先生とかには全部話すつもりはなかった。ただ問題が大袈裟に
なるだけだから。むしろ本当に解決を望むのなら、先生は私達一人一人と面談
を開くよりも、私達当事者だけで話をさせてほしい。私達三人で結論を出して、
何でもない、ただの誤解だったんだってその後説明するから、って。
でも私はそのとき、そこまで考えがまとまっていたわけじゃなかったから、それ以
上は喋れなかった。どれくらいかわからないけど、先生はその間じっと私の目を
見つめて、それから急にふっと目を逸らして、そうか、と一言だけ言った。
重苦しい沈黙の中で、私はまとまらない考えを何とか整理しようと躍起になって
いた。その作業が終わらないうちに、先生はまた私の目を睨みつけながら、追
い討ちをかけるようにして言った。あいつの交際相手も同じことを言っているんだ
がな。
私は先生の言った言葉を、何度か頭の中で反芻した。同じことを言っている?
どういうこと? よく分からない。彼が彼女と同じこと、を言っている? 私が
彼を誘惑したと? 彼女の妄言はまだ分からなくもないけど、どうして彼まで
が同じことを言うの?
混乱した。先生が真っ直ぐに私の目を睨みながら言った以上、彼が彼女と同じこ
とを言ったのは多分間違いなかった。それは分かるんだけど、どうして彼がそん
なことを言ったのか、それが分からなかった。
どうなんだ? と先生が言った。その追い討ちの一言で、私は頭に血が上った。
違います! って、かなり強い口調で否定した。そのときの私、先生を睨み返
すような目だったと思う。先生はたじろいで、でもすぐに表情を戻して、じゃあど
ういうことなのか説明してくれ、って言った。
そう言われて私は硬直した。説明しろ、って? 口調から先生は、既に私が一
番の原因だと思い込んで、疑ってないようだった。彼らの妄言なんか、簡単に
覆すだけの自信もあった。だって私、本当に何もしてない、今まで言った通り
のことしかしてないんだもの。
でもそれを言ってしまえば、原因は私じゃなく彼女や彼になってしまう。彼女達
の妄言を安易に信じた先生だって責任は免れない。信じられないかもしれない
けど、私はできることならそれを避けたかった。私の疑いが晴れる代わりに、新
しく誰かが追求される場面が出てくるのが嫌だった。
だってそうじゃない? もともと当事者だけで集まって、よく話をして全員が納得
できるだけの結論を出して、それを先生とかに説明すれば済む問題じゃない?
誤解でした、って。ね? 誰も傷付かないじゃない? 私はそれが一番円満な
結末だと信じ切っていた。うん、我ながら馬鹿だったなって思う。
そもそもどうして彼女達が、私が原因だというような証言をしたのかを考えなけ
ればならなかった。まして彼女と彼は、どうやったか知らないけど、見事に口裏
を合わせていた。分が悪いのは明らかに私。先生もそう思っていたはずだった。
あいつらが言ったようなことがあったんじゃないのか? と気色ばんだように先
生が言った。その一言で、私は何かが切れたような感じになって、もうどうでも
よくなった。ああもう、あんた達の好きなようにすればいいじゃない、ってそう思
った。
多分、彼女は自分の妄言を信じ込んでしまって、更に説得力を増すために自分
の手首を命の別状がない程度に切った。彼は……、何だろう、恐らく自分の軽率
な行動を隠すために? 彼女の妄言と同じ証言をした。先生は頭から私の証言
を聞く気がない。先生のその一言で、そんなことがいっぺんに分かったような気
がした。
何ていうか、もう彼女達の立場を考慮して黙秘を続けたり、彼女達の言い分を
整然と否定してまで、自分のために奔走する必要すら感じなくなってきた。あり
もしない事実で友達だった者を被告に吊るし上げるとか、自分の保身の為に虚
偽の証言に同調したりだとか、そんなことするような連中に付き合う必要なんか
ないだろ、ってね。
もう彼女や彼の妄言を積極的に否定しようとはしない。先生の尋問にも一言も答
えない。あなた達が望む好き勝手な事実を作り上げればいいじゃない。それで無
理矢理自分自身を、周囲の人々をも納得させたらいい。怒りのボルテージも上が
ってきて、私は本気でそう思った。
もういいです、と私は先生に言った。先生は意味が分からず、はあ? という顔
をして私を見ていた。私は構わず立ち上がって、先生に背を向けて部屋から出
て行こうとした。ちょっと待て、と慌てて先生が言った。私は一瞬迷ったけど、決
心して立ち止まらずに、振り向きもしないで出口に向かった。背後で先生がや
たらと叫んでいた。
まだ午前中だったけど、もうその後の授業に出るのが嫌で、保健室にでも行こう
と思ったら鍵が閉まってて誰もいないみたいだったから、そのまま家に帰った。
物凄く腹が立っていた。もうどうでもいいや、勝手にやればいいじゃん、みたいな
感じかな? 馬鹿みたいだけどね。
それで次の日、よっぽど休もうかなあって思ったんだけど、逃げたと思われて
も癪だし、むしろ堂々と、厚かましいくらいに顔を見せてやった方がいい、って
判断して、いつも通りに家を出て、いつも通りに登校した。
そしたら、もう彼女が登校してきてた。何て言うか、あれは凄かったよ。私が教室
に入ると、そこから沈黙が教室中に広がっていったんだよね、ぶわあっと。あの
ほら、よく言うじゃない? 今幽霊が通った、みたいな感じで。ほとんどの子が私
から目を逸らして、さっきより幾らか小さな声で、またすぐに喋り始めるんだよね。
それで、隅っこに何人か固まって、今入ってきた私の方をちらちら見ながら、何
かひそひそ話してるんだよね。中心に彼女がいたのはすぐに分かった。あと彼
の席にも男子が三人くらい集まってて、やっぱり何か小さい声で話してた。
あとは小規模なグループがあっちこっちに。一人で席に付いてる子達もいたけ
ど、全員が全員、あからさまに私の方を見ようとしなかった。そのくせこれ見よ
がしにひそひそ、ひそひそ……。クラス中に知れ渡ったんだってことはすぐに
分かった。
いや本当に、こういう場合って一体どうしたらいいんだろうね? 教室の全員に
向かって大声で潔白を証言しても、どうせ誰も信じないだろうし、彼女や彼を捕
まえて話をしようとしても、また彼女達はそれを変な方に利用するかもしれない
し、ああもう、何でこんなことになったんだろう。
朝のホームルームの後、また先生に呼ばれた。また同じようなことを繰り返し
追求されたけれど、今度は彼女の両親が学校に抗議の電話をかけてきた、と
いうのが追加されていた。だからなのか、先生は語気が荒くてとても苛立って
いるみたいだった。
でも私はもう、先生達の追及に答えるつもりはなかったから、ずっと黙ってい
た。その私の態度に先生はますます苛立ちを募らせ、声を大きくしたり、机を
叩いてみせたりした。それでも私が頑なに喋ろうとしないのを見て、まるで根
競べみたいにして先生も黙り込んだ。その間はずいぶん長かったような気が
した。
私は平気な顔をして、先生の次の出方を待っていただけだった。沈黙を破って
先生が喋ったあと、私は何て言い返してやろうか、いや、それともさらに黙りこ
くって、全く相手にしない方がいいだろうか。私はむしろ、わくわくしていたのか
もしれない。
なあ、とため息混じりに先生が言った。さっきとは随分声の調子を変えて喋り出
した。お前達が卒業して、社会に出ていったあとは、確かにこういったどろどろし
た、そう、テレビみたいな愛憎劇というのも、まああり得るかもしれないけどな…
…。先生の話は、私には読めなかった。
私の関心を引きたかったのか、危機感を煽りたかったのか、先生は十分に間
を置いて話し出す。高校生、それも高校一年生がやることじゃないんじゃない
のか?どうやら彼女が言ったそのままの話が、しかもかなり露骨な表現をもっ
てして広まっているのは間違いなさそうだった。
やれやれ、と私は思った。どうしてみんな、根拠もないのに彼女の妄言を信じ
るんだろう? それに彼だ。何故彼は否定しなかったのだろう? 自分も被害
者だと言いたいのか? いやそもそも、自分も被害者です、なんて主張が通
るのだろうか?
……でも、通ったんだろうな、と思う。じゃなきゃ私ばっかりが責められる理由
が分かんない。何にしても、彼女と彼はそうやって、先生達はそれを認めてい
るわけで、私はもう、弁解する気もなくなってしまったわけで、早く目の前の先
生に喋りたいだけ喋らせて、早く終わりにしてほしかった。
だけど先生は、そのあとずっと黙ったままだった。何も言わない私に腹立って
いたのかもしれない。それとも、沈黙の圧力で私に自白を強要しようとしていた
のかも。正しくは分からないけど、しばらくしてチャイムが鳴った。私ははっとし
て、いきなり現実に連れ戻されたような感覚っていうの? かなり長い間こうし
ていたんだなあ、ってそんなどうでもいいことをぼーっと考えた。
長い沈黙を破って、教室に帰れ、と先生が言った。そっちの都合で呼び出しとい
て、全く勝手だなぁ、と思いながらも、私は素直に席を立って出口に向かいかけ
た。背後から先生が声をかけてきた。お前、そういうことをしておいてそんな態度
をとるのか? 恥ずかしくないのか?
一瞬迷ったけど、私はつい振り向いてしまった。そのまま何かを言い返しそう
になる衝動を懸命に抑えた。彼らには一言も弁解などしたくなかったから。代
わりに先生の目をじっと見ながら、極上の笑みでも浮かべてやろうか、と思っ
たけど、顔の筋肉が上手く動いてくれなくて、無表情で先生を見つめただけで
また後ろを向き、結局何もせずに部屋を出た。
その日は前みたいに途中で帰らずに、ちゃんと残りの授業を受けた。そりゃま
あ、周囲の態度や雰囲気は相変わらずだったけど。それでやっと放課後にな
って、家に帰ってしばらくした頃、夜八時くらいだったかな。先生が私の家にや
って来たのよね。
誰かが訪ねて来て、玄関先で、多分うちの母かなんかと立ち話でもしているみ
たいな様子が、自分の部屋にいた私にも伝わってきた。私は近所の人だと思っ
て別に気にも留めなかったんだけど、じきに客間の方から、何か言ってるらし
いけど聞き取れない話し声が聞こえてきた。どうやらその客は家の中に上がり
込んで話し始めたようだった。
一時間くらい、ずっとぼそぼそした話し声が聞こえてきた。何か話しているの
は分かるんだけど、何を喋ってるのかは分からない状況がずっと続いて、私
はいらいらしていた。早く帰ればいいのに、と思ってた。
やがてその客が玄関に移動して、またそこで聞き取れない声で私の両親と
言葉を交わした。そして全く声がしなくなったことで、ようやく客が帰っていっ
たのを知った。と、すぐさま母が私の部屋のドアを開けて顔を出し、ちょっと
来なさい、と少し慌てた様子で言った。
まあ……、そういうわけで、その話が私の両親の耳にも入ってしまったのね。
今先生が来られて……、って母が話し出したときには、ああもう余計面倒な
ことになったなあ、くらいにしか思わなかったんだけど、母は今にも泣き出し
そうな顔してたし、父の方はもの凄く怒った顔して黙り込んでたし、何だか雲
行きが怪しいというか、だんだんいやな感じがしてきた。
それで母が、これこれこういうことがあったと先生が仰ったけど本当なの?
って、まるで飛びかかるようにして聞いてきた。どうなの? 本当なの? と
繰り返す母を見ながら、ついに両親までもがこんな馬鹿な話を信じてしまっ
たのか、と私はちょっと悲しくなった。
私は今までと同じように、ずっと黙っていた。勢い込んで私を問い質すのに疲
れてか、もしくは反応が返ってこないと理解したからなのか、母は喋るのを止
めて、少し潤んだ目で私を見ていた。私は両親に対しても黙秘を貫こうと決め
ていたわけじゃなくて、ただ、いろんなことに迷っていただけだった。
どうして何も言わないの? と母がまた言った。私はその問いかけに相応しい
答えを、頭の中で懸命に探したけれど見つからず、結局口も動かなかった。
母はそれで本当に諦めたのか、もう何も言おうとせず、私と父は最初から何も
喋らなかった。
多分私には、やらなければいけないことがあったと思う。今なら分かるけど、
それは両親が本当にその下らない作り話を信じてしまったのかを確かめるこ
とであり、ことの経緯を私の主観に囚われずに両親に詳しく説明することであ
り、そして私の身の潔白を証明し、信じてもらうことだった。
でもまあ、そのとき実際はそんなことを考えられる余裕なんかなかった。何
か言わなきゃ、何かしなきゃ、という気持ちはあっても、じゃあ何を言ったら
いいのか、何をしてみせたら事態がまるく収まるのか、思いつくことさえ全然
できないし。ね、そういうもんじゃない?
私達三人は、随分長い間黙りこくっていた。とてつもなく長い時間だったよう
な気もするけど、実際は数十分くらいでしかなかったのかもしれない。母が
相変わらず悲しそうな顔をしたままで、分かるか分からないかくらいの小さ
なため息をひとつ吐いた。
それが合図か何かでもあったかのように、突然父が喋った。本当なのか?
と。黙っていた時間が長過ぎて、私は一瞬何のことなのか分からなかったけ
ど、すぐに思い出して父の顔を見た。小さい頃、私を叱るときによくこんな顔
をしていたなあ、というどうでもいいことが頭に浮かんだ。正直に言いなさい、
先生が言ったのは本当のことなのか?
私は首を振った。そして父の顔を見つめ続けた。父は正面から私を見つめ返
してきたけど、私は目を逸らさなかった。だって、やましいことは何もしてない
んだもの。やがて父がふっと目を逸らし、そうか、分かった、とだけ言った。
父も母もそれ以上何も言おうとしなかったので、私は立ち上がって自分の部
屋に戻った。両親はどう判断しただろう、と少し考えかけたけれど、面倒くさく
なってやめた。今さら考えても、それはもう私がどうこうできることじゃなくなっ
てしまっているんだから。
翌日、学校に行ったらクラスの反応は相変わらずだったけど、朝のホームル
ームに、担任の先生じゃなくて教頭先生が来た。先生は用事で少し遅れます、
って簡単に説明してそれで終わりだった。クラス中の誰もが、そのことについ
て特に疑問に思ってなかったみたいだった。
それでいつも通りに授業が始まって、でも、担任の先生の科目だけ自習にな
って、その時間は普段私のクラスで授業をしたこともないような先生が監督
に来た。あれは多分、一番暇な先生が任されて来た、って感じだったと思う。
そのまま昼休みになって、午後の授業も終わって、帰りのホームルームの
時間になってやっと先生は現れた。連絡事項を手短に全員に向かって話し
て、最後に例の当事者、つまり私達三人に、この後残るように言った。さす
がにざわつきはしなかったけど、無数の視線が教室中を飛び交ったのが分
かった。
ホームルームが終わって部外者達が席を立ち始めて騒がしくなると、先生
は私のところに来て、付いて来るように言った。今さら何を話すことがあるん
だろう? そう思ったけど、早くも歩き始めて教室を出ようとした先生がふと
振り返り、まだ私が立ち上がってもいないのを見て取ると、苛立った様子で、
さっさとしろ、とだけ言ってまた歩き始めてしまった。
こういう行動をとられると、言われた側としてはもう大人しく従うしかなくなっ
てしまう。私も仕方なく先生に付いて歩いた。行き先はやっぱり前回の相談
室だった。そして以前と同じ位置に、先生と私は腰を降ろした。
席に着くなり、何故やってないならやってないって言わないんだ? と先生
が言った。これは私の予想を超えた第一声だった。先日までは、非がある
のは私だと信じて疑わなかった――言い方を変えれば、私だと頭から決め
付けていた――のに、どうしてここにきて先生は態度を変えたのだろう?
私のことを理解しようとしてくれている、って感覚は全然なかった。今までの
先生の態度もそうだったし、先生の持っていた結論を完全に転換させてしま
うような出来事も、今までひとつとしてなかったはずだから。
先生の態度の変化を訝しく思いながらも、私はやっぱり口を開かなかった。
もちろん自分の中に腹立たしい気持ちもあったと思うけれど、それ以上に気
持ちが悪かった。先生は何かとんでもない策略をもって、私を陥れようとし
ているんじゃないか? って。
どうして何も喋ろうとしない? 前回もそうだったな。どうして自分の口で言
わないんだ? ……怒っているのか? 確かに私にも決め付けていたよう
なところがあったと思う。それは悪かった、謝る。
なあ、お前らの間で何があったのか、詳しく話してくれないか? 私は担任
として、お前達の言い分をそれぞれ聞いて、正しいところは正しいと認めな
きゃいかんし、間違っている部分は間違いとしてそれを正さなくちゃいかん。
な、そうだろ?
お前、何も言わずに黙ってたらあれだ、自分にとって決して良い状況になら
ないことくらい分かるだろ? 現にお前が何も言わないから、危うく誤解され
そうになったじゃないか。それに、当事者として説明する義務もある、とは思
わないか? なあ、何があったのか、最初から全部話してくれないか?
先生はそれだけ言うと黙り込み、私の顔を見ながら、私が話し出すのをじっ
と待った。先生はそうやって説得しようとしたんだけど、もちろん私の気は変
わらなかった。私は、喋るつもりはなかった。
私にとってはそうでもなかったけど、先生にとってはその時間が物凄く長か
ったんじゃないかな。いらいらしている様子が見て取れる程だったけれど、
私は気付かない振りで知らん顔をしてた。
でも、私は別に、そうやって先生を困らせて喜んでたわけじゃない。一応誤
解のないように言っておくけどね。子供みたいな嫌がらせして仕返ししてや
ろう、なんて考えて、一切喋らなかったわけじゃないのよ。
結果的に、というか、客観的に見たら、まあささやかな復讐みたいになっちゃ
うかもしれないけど。いや、復讐の時点ですでにあれだよね。でもそうじゃな
くて、何ていうか、……本当に、本当にもう、ただ先生達と例のことについて
話したくなかっただけなの。
分かるかな? 面倒くさい。嫌いだ。早く帰りたい。あと、何だろう? 諦めみ
たいなの? そんな感情が沢山集まって複雑にこんがらがって、私にもよく
分からない状態になってたんだよね。先生達に対して抱いたネガティブな感
情、その集合体の……。うん、だめだ。上手く説明できないな。
まあとにかく、単純に復讐とかじゃなくて、っていっても、そういう側面もあっ
たことは確かだけど、私が喋らなかったのはそれだけの理由からじゃない、
ってこと。誤解されるとちょっと心外だからね、一応。
それで話は戻るけど、先生がずーっと私の話を待っていたとこから。結局私
は、最後まで口を開かなかった。仕方なく先生が、もう遅いから今日は帰り
なさい、って言って終った。部屋を出ると、確かにもう薄暗くなってて、近くの
教室を覗いて時計を見てみたら、すでに七時近かった。
それで真っ直ぐ家に帰った。そうしたら、普段もう帰ってきて家にいるはずの
両親の姿がなかった。玄関の鍵はかかってないのに家の中が真っ暗でしん
としてて、滅多に見ないそんな風景に、嫌な感じを少しだけ後押しされたよう
な気がした。
台所のテーブルに一人分の夕食が用意してあって、多分これを食べろ、っ
てことなんだろうけど、何だかいろいろ疲れてて食べる気にはならなかった。
だからシャワーだけ浴びて、着替えてそのままベッドに倒れ込んだ。
私はそのまま眠ってしまったみたいで、気が付いたら朝の五時過ぎだった。
思っていた以上に眠り込んでしまったことに自分で驚いて、寝転がったまま
しばらくぼんやりしてしまった。
ぼんやりしながら、私はいろんなことを思い出したり考えたりした。そうして
いるうちに、私の中の嫌な気持ちがどんどん膨れ上がっていくみたいだっ
た。ある一点を超えたとき、私は唐突に思いついた。そうだ、ここからずっと
遠いところに行こう、って。
誰にも理由を話さないままで、誰にも見付からないうちに、誰の手にも届
かない、平和で静かな場所に行こう。部屋を引っ掻き回せば、旅費くらい
なんとでもなる。そうだ。タイミング的にも申し分ない。荷物は少なくたって
いい。偶然にもこんな朝早くに目覚めたのは、きっとそのためなんだ。
……ねえもう、いくら寝ぼけていたとしても、ちょっとメルヘン過ぎるよね。で
も私は、そうやって今まさにベッドを飛び出して、小さな荷物をまとめて、こ
っそり家から抜け出す自分を想像した。嫌な気持ちは吹っ飛んだ。次から
次に新しい、気持ちが浮き立つような妄想が生まれてきて、私はベッドの中
でそれを楽しんでた。
まだ誰も歩いてない駅までの道とか、ほとんど人気のない駅の構内とか、
示された路線図の中から一番遠い終着駅を選んで、そこまでの切符を買っ
て電車を待つまでの時間だとか。束の間だったけど、私は嫌な記憶を忘れ
ることはできた。
だけどやっぱり、夢は夢だった。所詮寝ぼけた頭で見た、まどろみみたい
なものでしかなかった。夢はすぐに醒めて、シビアな現実に引き戻される。
引き戻された切欠は、彼女のことだった。彼女のことを思い出して気付い
た。私は彼女と同じような手段を選ぶつもりなのだろうか、と。
つまり、周囲を騒がせることで解決しようという……、いや、解決じゃなくて、
解決そのものから逃げるような行為というか。要するに、仮に私が想像した
みたいに失踪したとすると、失踪自体がメインの問題に取り上げられてしま
って、私が抱えていた問題の存在はある程度見えなくなってしまうんじゃな
いかな、周囲の人達にとっては。
多分、多分だけど、彼女が手首を切った、っていうのは、そういう種類の行
動だったんじゃないかな、と思う。切ったこと自体が重要視されてしまって、
命に別状はなかった、ってことはあまり問題視されてないし。はっきり言っ
て私には、彼女は命に関わらない程度に切った、としか思えない。
結果的にそうなったんじゃない。彼女は、きちんと計算した上で切ったんだ。
そして周囲の私達は、見事に彼女の考えたように振り回され続けていた。
……ああそうか。私が黙秘を続けていることは、彼女にとって計算外のこと
だったのかもしれない。
私が下手に騒ぎ立てた方が、彼女にとっては好都合だったのかもしれな
い。自殺未遂までやってみせるような計画なんだから、その時点での、た
だ周囲が混乱しただけの状況を狙ってやったとは考え難い。まだ何かあ
ったんだ。まず間違いないと思う。というか、私が彼女なら、そこまで準備
すると思う。
とにかく、そうやって私が黙っていたことにも何か意義があったかもしれな
いのはそうなんだけど、考え方を変えると、黙る、って行為も、物事から逃
げるような行動に当たるんだろうな、と思う。私も彼女と同じ轍を踏んだ以
上、あんまり偉そうに言えないんだろうけど。
その朝、私は寝ぼけながら失踪を考えたわけだけれど、結局いつものよう
に起きて登校した。彼女と同じにはなりたくない、っていう理由以外にも、非
現実的な妄想だったし、問題がこじれてさらに関係のないところにまで迷惑
がかかるのが嫌だったから、というのがあった。
まあ案の定、クラス中でひそひそ、ひそひそ。時折、私にも聞こえるような
声で当てつけみたいなことを言ってみたり、酷いもんだった。私が何か不
利益になるようなことをして、それで被害者が私に向かって言うならまだい
いけど、言ってるのは完全に部外者じゃない? しかも私は噂されている
ようなことはしてないのに。
それで、朝のホームルームのときに分かったんだけど、その日は彼女と
彼が揃って欠席していた。ああ、そういうことなら当てつけも飛んで当たり
前かな、って思った。クラス中が、何であんたがのこのこ顔出してくるのよ、
って雰囲気だったんだ、多分。
そんな状況が一日中続いた。ある休み時間、今までとはちょっと比べ物に
ならないくらいの当てこすりが飛んできた。……今思い出すだけでも腹が
立つ。私はそいつのところに行って頬を引っ叩いてやりたい衝動に駆られ
たんだけど、辛うじて堪えた。
だってそんなことしたら、こっちが余計不利になるだけじゃない? そうして
しまった場合、その事実が誰の耳に入ってどう利用されるか分かったもん
じゃないし、前例もある訳だし。……まあ、今ならそんな論理的な意見も言
えるんだけど、そのときはただ、本当のところを言うと、そうする勇気がな
かっただけなのかもしれない。
だけど、そんなことやらなくて結果的に正解だった、と思う。私はまた放課
後に担任の先生に呼び出されて、そしてもう何度目かの面談室で告げら
れた。一週間の停学、って。前置きも何もなしだった。ただ、明日からの一
週間、停学という処分に従うように言われただけだった。
用件は終わったはずだったのに、私も先生も席を立とうとしなかった。私
は単純に、何ていうかショックを、想像もしなかった展開に軽いショックを
覚えて、ちょっとすぐ立ち上がれる状態じゃなかっただけだったけれど、
先生がすぐに部屋を出て行こうとしなかったのは解せなかった。
しばらく私達はそのまま動かなかったけど、じきに先生が立ち上がりなが
ら言った。まあその、気をつけて帰るように、って。まるで言い訳みたいな
台詞だった。そう言って先生は面談室を出て行った。
後に残された私は、停学という言葉を繰り返し頭の中で考えていた。ああ、
そういうことならば、彼女達やクラスメイトの顔を見なくても済むんだな。最
初はそんな程度の感覚でしかなかった、と思う。
帰り道、その停学という言葉が、私の中でだんだんと重くなっていった。つ
まりはまあ、私は否定も肯定もしなかったんだけど、先生達の結論として
は、私の方に非を認めたんだな。何だか実刑判決を受けた被告の気分っ
ていうか、その、もうどうにも覆せないような事実として認定されたことに対
して、言葉では言い表せないような、ある意味恐怖を感じた。
だって怖くない? 誰も疑わないんだよ? 私が彼女に酷いことをした、っ
て皆思ってて、実は彼女の狂言だった、って誰も思いつきもしないんだよ?
先生達も、クラス中の生徒も、皆そう考えている。いや、最初からそう考え
てて、私が黙っていたことも、やましいところがあるからだ、って、その思い
込みを決定付ける材料にしかならなかったんだ。
そういう意味では、たとえたった一週間でも、たった一週間で皆がそのことを
忘れるはずがないとしても、顔を合わせなくていいのは有難かった。一週間
という時間の中で、皆がどんなことを考えるのかは知らないけれど、多分私
にだって、考える時間というものが必要だったんだと思う。
とりあえず、今現在で持っている情報を駆使して、私の周囲を含めた現状
を把握しておく必要があった。一週間。うまくいけば、何か上手な方法を思
いつくかもしれない。当面はそれでいい。一週間後、また学校に行かなけ
ればならなくなったとき、そのときまでにはきっと何か考えが浮かぶだろう。
そんな気持ちで、停学の一週間に臨んだ。でも、まるで現実から夢の中へ
逃げ出したい欲求があるみたいに、その一週間というもの、私はこんこんと
眠り続けた。ただ単に心身共に疲れていたのか。その疲労を癒すための眠
りだったのか。とにかく難しい理由は抜きにしても、私はその一週間の間を
ただひたすら、身体が求めるままに眠りを貪った。
その間の夢はほとんど覚えていない。ただ鮮明に記憶されているのは、あ
のとき、彼女の頬を引っ叩いたときの思い出。現実にあったその出来事そ
のままの情景で、そのとき私が抱いた感覚までが夢の中で忠実に再現さ
れていて、目が覚めるまでそれが現実なのか夢なのか区別できなかった。
他にも無数のシーンと罵詈雑言。現実に放り込まれるようにして目が醒め
て、今の生々しい記憶が夢だったのか現実だったのかを考えるとき、果た
して夢だったからよかったのか、現実で言われる方がまだリアリティがあ
る分だけましだったのか、真剣に迷うことが多々あった。
本当にそう言われたのか、自分の妄想の中で自分が自分に言った言葉な
のか、正確にはどっちなのかという問題は、私にとってはとても重要なこと
のように思えたけれど、疲れてへとへとになった頭では、正常な思考なん
かできそうもなかった。
そうやって一週間が終わった。最後の日は、夕方から夜になるにつれてど
んどん憂鬱になっていった。まだ何も整理できてないのに、また彼らと顔
を合わせなくちゃいけないのか。行きたくないな、って思った。
気を張ってたときは何とか凌いでこれたけど、一度緩んでしまって弱気にと
りつかれている今の状態のままだったら、多分今よりも酷いことになりそう
だった。できれば、もう彼らとは係わり合いになりたくない。
そう考えていたら、夜、仕事から帰ってきた父が私の部屋に来て言った。
行きたくないのなら、無理して行かなくてもいいぞ。突然こう言われて、私
はかなり動揺した。そりゃあ、行かなくてもいいんならそれに越したことは
ないけど、そのあとのこと一体どうするのよ?
何だったら違う学校に行ってもいい。お前が自分で決めなさい。静かな声
でさらにこう言われて、私は何だか分からないうちに頷いてしまった。父は
それだけ言うと背中を向けて、部屋を出て行ってしまった。
それで結局、私は父のその言葉に従うことになる。悶々としながらもいつ
の間にか浅い眠りに捕まって、気が付いたときはもう朝で、絶望的な憂鬱
に囚われて身じろぎもできなかった。そのときに昨夜の父の言葉を思い出
した。行きたくないのなら、無理して行かなくていい。
他に最適な解決も何もなかった。いろいろと疲弊していた私は、父のその
言葉を拠り所にすることにした。言い換えれば、その言葉に甘えた、とい
うことになる。私なりに意を決して起き上がり、歩いて、母にそのことを告
げた。今日は休む、って。
母は特に驚きもしなかった。朝食を作る手をちょっとの間休めて私を見て、
そう、分かった、と言っただけだった。私は何故か何となく物足りなさを感じ
ながらも、すんなりと許可が下りたことに安堵して自分の部屋に戻った。
特にすることもなくてぼーっとしていたら、頭の中にある情景が、いわゆる
白昼夢みたいに浮かんできた。内容はまさに今、学校の教室で繰り広げ
られているはずの光景だった。罵りとか、誹りとか、私がいない今現在と、
もし私が出席していたら、酷いあからさまな陰口なんかが飛び交っている、
という、もうひとつの今現在の光景だった。
私は考えないようにしようとした。でも、日常のふとした瞬間に、例えば本を
読んでいたならページをめくった瞬間だとか、テレビを見ていて関連性もな
いような場面が映されたときだとか、急に学校のことが頭を過ぎった。
何でこんなことを思い浮かべてしまうんだろう? これじゃ、欠席してまで
彼らを遠ざけようとした意味がないじゃないか。そうやって自分に言い聞か
せて想像をストップさせるようなことが、一日に何度も何度も繰り返された。
そしてさらに、同じプロセスを何度も何度も繰り返す日々が、それからしば
らく続いた。忌まわしい想像を必死に打ち消し続ける中で、このままじゃよ
くないな、と考えるようになった。何かをした方がいい。健全な何かを。
じゃあ、差し当たって何をするのが妥当だろう? もっと有益な、自分の血
肉になるようなことがいい。熱中できて、変な想像が出てこれないくらいの
忙しさがあるともっといい。私はその何かについて考え続けた。時間だけは
たっぷりあったから。
何日かが経過して、その何かの概要が固まり始める頃、私はその前にや
っておかなければいけないことにふと気が付いた。新しい境遇に移る前に、
今までの環境にけじめをつけなければならない。はっきりと自分の意思を
伝えなければいけない。
正直言って、もう学校には戻る気はなかった。誤解しないでほしいんだけど、
私がそう結論付けたのは決して感情的な、精神的な負担のことを考えてそ
の答えを出したわけじゃなくて、むしろその精神的なダメージを計算した上
での、純粋な損得勘定で、学校を辞めることに決めたの。
521 :
名無しさん?:2007/09/21(金) 16:28:49 ID:WYDAj789
まあそれはともかく、私は、父がいつもより早く帰宅して三人揃って夕食を
食べるタイミングを狙って、退学の意思を両親に伝えた。父も母も驚かず、
内心驚きながらもそれを押し隠していたのかもしれないけど、そうか、分か
った、と父が言った。母は黙っていた。
これからどうするつもりなのか、という質問には、今からじっくり考える、と
だけ答えておいた。まだ完全に固めてしまったわけじゃなかったし、覚悟
というか、それを実行するんだ、という決意みたいなものもまだ十分じゃな
い。とても他人に話せる状態じゃなかった。
そういうわけで、私の退学は決定的なものになった。上手く言えない、わだ
かまりみたいなものは残ってたけど、それでもまだ自分で選んだ道の方が
得るものは多いはずなんだ。これから得るものに比べたら、学校を去るこ
とで損なわれることなんか、全然大した問題じゃないんだ、って思った。
それから数日の間に、父か母が私の代わりに退学届けを学校に提出した
んだと思う。正式に受理された証拠に、昼間私の家に担任だった先生から
電話がかかってきた。私は何の気なしに受話器を持ち上げて、はい、って
言ったら、先生の声が聞こえてきたんだ。もしもし、元気か? って。
突然の、しかも予想もしていなかった相手からの電話に私は驚いて、物
凄く小さな声で、はい、って言ったっきり、声が出せなくなってしまった。
どうしよう、何の用なんだろう。言いようもない不安感が、後ろから足早に
追いかけてくるみたいに、私の中で徐々に大きくなっていった。
でも、ある意味ではそれは先生も一緒だったのかもしれない。もしもし、元
気か? と言った後、先生も受話器の向こう側で黙った。先生の声の代わ
りに職員室の中の喧騒が、電話線を通じて小さな音で私の耳に届いてい
た。
沈黙の中で、私の感情が揺れる。どうしたらいいんだろう? 何故電話なん
か今さらかけてきたんだ? 職員室で、誰かの一際大きな声が上がった。
私の頭の中に、いつか見たその職員室の情景が浮かぶ。答えるべきなの
か? 先生と会話しなければいけないのか? そもそも先生の目的は何な
んだ?
咳払いが聞こえた。先生が発したらしかった。今回は、と先生が言う。今回
は非常に残念な結末を迎えることになったな。それだけ言って、また先生
は黙った。私はなんと答えていいのか、いや、それ以前に、言葉を返す必
要があるのかどうか分からずに、ただ先生と同じようにして黙っていた。
こうなってしまった以上、今さら何を言っても届かないだろうけどな、と先生
が言う。頭の中で注意深く言葉を選び、発言する直前にもひとつひとつチ
ェックを入れるように区切りながら、さらに先生は言った。私はな、こんな事
態になるのを、本当に、事前に、回避したかったんだ。
私は黙って聞いていた。先生の言葉を信じる、信じないとか、心にもないこ
とを言っている証拠を必死に探したりだとか、全くそんなこともせずに、ただ
黙って聞いていた。先生はまた言葉を切り、受話器からは雑音だけが聞こ
えた。
その間、いろんなことを考えたような気もするし、何も考えなかったような気
もする。とにかく、かなり時間が流れたことだけは覚えているような気がす
る。最後は先生が喋った。いや、最後まで先生が喋った、って言うべきかな。
そう、最後も先生が喋った。次のところでは、元気にしっかりやっていってく
れ。力になれずに済まなかった……。根拠はなかったけれど、私にはこの
台詞は先生の本心のように思えた。当事者同士の間に立ちながら、先生も
相当な負担を被ったのではないのか。真面目に考えてくれようとしたのでは
ないのか。
じゃあな、という言葉と共に受話器を置く音がした。発信音しか鳴らなくな
った受話器を持ったまま、どうして私は起きたことをありのまま説明しな
かったんだろう、と思った。倒錯したさまざまな思考が溢れて、とりとめの
ない感情に包まれ、私は指一本すら動かせなかった。
多分、それは後悔だったんだと思う。もっとよく考えて行動すれば、自分の
取ることになる行動と他人とのバランスを注意深く見定めることができれば、
私と私の周辺の人達は、もっとまともな結果を迎えられたかもしれないんだ。
どうして私は……。そのフレーズが、頭の中で何度も何度も繰り返された。
悔やんだ。悔やんだけど、悔やんだまま、そのまま一歩も前進できないよ
うなら、全く意味がない。そうじゃない? 後悔した意味すらなくなってしま
う。とりあえず、考え事とかは後回しにして、私は行動を起こすことを最優
先した。次のことを始めてからでも、考えることはできるから、ね。
それでその次の日にやったのが、コンビニに行って求人雑誌を買ってくる
ことだった。動かなきゃ、と思ったけど、正確には何をしたらいいのかまで
は固まらなかった。だから、何をしたらいいかが明確になるまで、どこかで
働いてみるのもいい、って思ったの。時間はあったし、何をするでもなく家
に閉じこもっているよりはずっとましだと思えたから。
外に出さえすれば、別に何でもよかったんだと思う。雑誌をぱらぱらめくっ
て、よさそうなところに電話して、面接の日取りを決めてもらって、履歴書
を書いて持って行った。家からバスで二十分くらいの、小さなスーパーマ
ーケットだった。
やっぱりというか、当たり前なんだろうけど、面接の担当者は、私の履歴書
の「退学」っていうところと、それがつい最近であるところに反応した。どうし
て学校辞めたの? 私は少し考えて、簡単に説明した。友達と揉めて、大
袈裟な問題になってしまって、元の学校生活を送れなくなったので辞めま
した。
自分から聞いてきたのに、ふうん、と彼はあまり気乗りのしない声で相槌
を打った。そしてすぐに次の質問に移ったので、そのことに関して聞かれ
たのはそれっきりだった。いい印象を与えなかったのかもしれない。
結果は後日電話でお知らせします、とその人に言われ、私は彼に頭を下
げてその場を後にした。だめかなあ、と思った。問題を起こした、っていっ
ても私が起こしたわけじゃないんだけど、そんな人間は雇いたがらないの
が普通だろうし。
そんなことを考えながら連絡を待っていたら、二、三日後に電話がかかっ
てきた。採用が決まったので、そちらの都合のいい日から来てほしいので
すが。私はいい意味で期待が裏切られたことに驚いて、慌てて、明日から
でも大丈夫です、って答えた。
私の勢い込んだ返答に、面接担当の人はちょっと面食らったみたいにし
て、明日からですか? と聞き返した。明日からじゃまずいですか? い
や、そんなことなありませんけど……。では分かりました。明日の朝九時
に当店まで来て下さい。そういうやり取りで、私のバイト先が決まったわけ。
私は働き始めた。最初は研修という名目で一週間、お客さんの少ない時
間帯に三時間だけやって。それが終わったら週三日でシフトを組まれて、
完全に慣れてきたら週に四日や五日くらい出るようになって。
同じバイトやパートの人達とも、徐々に打ち解け始めた。中でも私とよくシ
フトが同じになる人がいて、二十代前半の女の人だったんだけど、姉妹
のいない私にとっては頼りになる姉みたいな人で、気も合ったし、次第に
冗談を言い合えるような間柄になった。
それであるとき、ふとしたことから話の流れが学校のことになった。何でそ
んな話題になったのかは覚えてないけど、それからの展開に自分がちょっ
と身構えてしまったのだけははっきり覚えてる。私学校辞めちゃったんだ
よね、と少しおどけるようにしてその人が言った。何て答えたらいいのか、
私は曖昧な笑い顔を作るだけだった。
そういえば学校は行かなかったの? とその人は、私が心配したずばりそ
のままの質問をぶつけてきた。十五、六歳くらいよね? 最初から高校に
は行かなかったの? 私は動揺を作り笑いで隠しながら、行ってたけど私
も辞めちゃったんです、と答えた。
彼女は、ふうん、って言ったきり黙ってしまった。聞いてはいけないことを
聞いてしまった、なんて考えてるんだろうか? 全く気にしてないといえば
嘘になるけど、私にとってはその過去そのものよりも、こうやってあるとき
突然表に出てきたときに、周囲の人達がことごとく無言になってしまうこと
の方が辛かった。
それを簡潔な言葉で正しく伝える術を知らないから、結局また私のことに
ついて誤解されることになるんだ。別にそれほど気にしてはいないし、い
ってみれば犬にでも噛まれたみたいな、そういうちょっとしたアンラッキー
が重なってしまっただけだって。……そんなこと言って、相手が安心でき
るわけないでしょう?
私が何も言えずに黙っていると、彼女は独り言でも呟くように言った。行っ
てればよかったのにね……。それは多分私に言ったと同時に、彼女が自
分自身にも言った言葉であるような気がした。
そりゃまあ、続けられればそれに越したことはないんだろうけど、私の場
合、何て言うか、完全に自分の都合だけで辞めたわけじゃないからね。
不可抗力っていうか、そういうところもあったわけで、私だって辞めずに済
むんならそっちの方がよかった、って思うよ。
彼女にそう言った方がいいのか迷った。でも、きっと上手く説明できない、
っていう確証があった。だから結局黙ってた。彼女もそれ以上何も言おう
とはせず、その話はそこで中途半端に終わってしまった。
そのあとは別に普通に、その話を引っ張るわけでもなく関係が続いたけれ
ど、私の中では彼女が言った言葉が、喉に刺さった魚の骨のようにいつま
でも引っかかっていた。多分彼女は、高校に行かなかったことを後悔して
いるんだ、って思った。
どうしてそう思うようになったのか、どうして行かなかったことを後悔するよ
うになったのか、そこら辺を詳しく聞いてみたい気もしたけど、もう終わって
しまったあまり愉快ではない話題を蒸し返すのも何だし、大体彼女はそれ
を誰かに話したがっているみたいには見えなかったから、その後私から敢
えて聞こうとはしなかった。
彼女の身に何があったにせよ、どういう意思でそれを選んで、その結果何
が得られて、彼女がどんなことを考えたにしても、結局彼女は後悔してい
るわけで。どうして行かなかったら後悔することになるのか、私が身を持っ
て確かめたとしても、それはやっぱり彼女と同じ結論に行き着くだけじゃな
いだろうか?
表ではいたって普通に時間は流れていったけど、そのことはいつまでも私
の心に引っかかったままだった。このまま行くと彼女と同じ道を辿る。彼女
は後悔していて、私に遠回しな忠告をした……んだ多分。 後悔? どん
な後悔? いや、その外観は何となく分かるような気がする。でもそれは、
一体私のどこから出てくるというのだろう?
彼女は学校に行かなかった。そして私は学校を辞めた。彼女は後悔し、
まず間違いなく私も後悔することになる。何度考えても同じで、考える度
に確信が増していった。増していったけど、本質は掴めなかった。ただ分
かるような気がするのは、恐らく生涯を通じて抱き続けることになるだろう
という、そんな漠然とした気配だけだった。
私は追い詰められていった。その何か、何だろう。後悔になる前に何とか
手を打たなくちゃ、っていう焦りなんだろうか。とにかくそういうものに、まる
で毎日脅迫されてるみたいにして、どんどんどんどん追い込まれていった。
ふとしたときに、自分でも分からないうちにそうなっていたのかもしれない。
あるとき、休憩中だったかな。彼女に声をかけられて、ねえ最近塞ぎ込ん
でるみたいだけど、何かあったの? と言われた。私はぎくっとして、彼女
の顔も見れなかった。
ん、悩み事? お姉さんに相談してみなさいよ、とおどけた調子で彼女は
言った。聞いてみようか? と私は一瞬小さく思った。そうだ、これはチャン
スかもしれない。聞いてみればいい。一体彼女が何と答えるのかを。
それは一気に膨れ上がって、まるで爆発したときの炎みたいに一気に私
の隅々までを支配してしまった。私と同じようなことを抱えていたはずの
彼女が、もうすでにその問題についての答えを出していることに対しての、
妬みみたいなのがあったのかもしれない。
少し間を置いて、聞いてもらえますか? と私は言った。うん、何でも言っ
てみて、と彼女は言った。意地の悪い感情が、私の中でにやりと笑ったよ
うな気がして、私は少し驚いた。やっぱり、そういう筋の通らない妬みがあ
ったんだろうね。別に彼女のせいでもないのに。
私の頭の中で、彼女にぶつけるべき質問がいくつも渦巻いた。高校に行か
ずにずっとここで働いてるんですか? 高校に行かなかったことで損したと
思うことは何ですか? 中学の同級生に負い目は感じませんか? どうし
て私の話を聞く気になったんですか? ……中でも一番意地悪な質問を、
私は選んだ。先輩はどうして高校に行かなかったんですか?
彼女は予想もしてなかったはずだ。そんなところからの質問を不意に受け
て、彼女はきょとんとした顔をした、ように見えた。そんな質問を受けた人
の気持ちはよく分かった。私も同じようなことを彼女の口からぶつけられた
からだ。
報復という意味合いもあったのかもしれない。私は特に意識していたわけ
じゃないけれど、同じようなことを同じように急にぶつけるのは、やっぱり
単なる仕返しでしかない、という見方もできてしまうから。彼女にその質問
をぶつけてしまった直後、私は自分の性質の悪さに少しげんなりした。
でももう後には引けなかった。企みを抱えて彼女に質問を投げかけたけ
れど、投げかけてしまった言葉は当然、もう取り消せなかった。全面的な
後悔に発展してしまう前に、勢いが良心を飲み込んで揉み潰してしまっ
た。もういいや、どさくさに紛れてとことんまでやってしまえ。
私の決心をよそに、彼女は黙り込んだまま何かを真剣に考えているよう
だった。まず投げられた質問の意味を注意深く反芻して、それに対する
答えをまじめに考えながらも、どうして私がこんなことを聞かれなければ
ならないの? なんて憤りを覚えつつ……。彼女の頭の中では大体こう
だったんじゃないかな。だって私がそうだったから。
そうね、何て言ったらいいかな。彼女は考え込んだ表情のまま、独り言を
呟くように喋った。別に特別な理由があったわけじゃないんだよね。家が
貧しかったわけでもないし、重い病気を抱えていたわけでもないし、いじめ
たり、いじめられたりしてたわけでもないし……。
もちろん、どこの高校にも入れないほど頭が悪かったとか、そういうのでも
ないよ、と彼女は私を見ながら笑って言った。そしてすぐにまた真剣な表
情に戻って、私の頭の上の事務所の壁を見上げた。強いて言えば、面倒
だったから、なのかな、多分。
面倒だった? と私は思わず聞き返した。うん、面倒だったという理由が
一番しっくりくると思う。そりゃあ、勉強することに疑問を感じ始めたとか、
学校で学べないことを社会に出て身を持って学んだ方がましだとか、そ
れらしい理由はいくらでも付けられるけどね。
私もそのときはいろいろ理由付けて、むしろ学校に行かない選択をした自
分の方が他の人達より優れてる、なんて考えたりもした。馬鹿みたいだけ
ど、そのときは結構まじめにそんなこと思ってたんだよ。
確かに、進学を捨てて社会に揉まれて得られることっていうのは確かにあ
るんだけれど、逆に言えば、学校に入らなければ得られないことだってあ
る、と思うんだよね。分かる? 学校に行かないで得られるものと、学校に
行って得られるものは、絶対的に違うんだ。分かる?
私は彼女の言葉を反芻したけど、いまいち彼女が何を言いたいのかが分
からなかった。分かる? という問いかけの返答に首を振ると、彼女は小
さくため息をついて、うーん、と唸りながら頭を掻いた。いや、私にも正確
には分からないんだけどさ。
要するに、高校に行かずに社会に出て、相応にいろいろな面で鍛えられ
るかもしれないけど、そんな経験を持ってしても、実際に高校に通った、
っていう経験は得られないわけ。その社会で学んだことは、通った、通っ
た上で何かしら学んだ、っていう事実の代わりにはならないわけ。
逆に当然、高校に行かずに身を持って学んだことは、学校を出た後に学
ぶことの代わりにはならないんだ。何ていうか、つまりね、同じ学ぶってい
うことでもさ、いや、学ぶっていう行為は同じかもしれないけどね。それを
考えるときに、そこでしか経験できないこと、っていう視点が加わったら、
一概に優劣を決めてしまうわけにはいかないと思うんだ。
彼女の口調には熱がこもっていたけれど、私には彼女の言いたいことが
今ひとつはっきりと分からなかった。それが彼女にも伝わったのか、彼女
は開きかけた口をつぐみ、突然話を中断して、じっと私の顔を見た。
分かり難い? 私は正直に、はい、って答えた。彼女は苦笑した。ごめん
ね。話、っていうか説明が下手なのよね。だからつまりさ、学校は行っと
いた方がいいよ、いや、行っとくべきだよ、って話。勉強とか進学とか、そ
ういうことを抜きにしても、ね。
私達はまた黙り込んだ。彼女に何か言った方がいいとは思ったけど、何を
言うべきなのか全く分からなかった。ただ何か、小さな苛立ちみたいなもの
を感じながら、私は次の展開を待って黙っていた。
周りの大人はいろいろ口やかましく言うかもしれないけどさ、と彼女がまた
話し出した。まあ私もその一人なんだけどね。行かずに後悔するよりは、
行って後悔した方がいいんじゃない? 例え後悔したとしても、行ったこと、
行ってそこで経験したことは残るわけだし。
いやあの、と私はつい口に出してしまった。ん? どうしたの? とでも言
いたげな表情で彼女が私を見る。私は自身が抱いた苛立ちのようなもの
の正体が分かったような気がした。要するに、彼女は誤解していたんだ。
私が説明を疎かにしたという原因もあったと思う。そして彼女にも……。
いずれにしても、誤解は解いておくべきだった。
先輩はちょっと誤解してるみたいですけど、と私は言った。彼女の表情が
こわばる。彼女の助言、今までよかれと思って、私のためを思って言って
くれた助言の数々。あるいはそれらを根底から否定してしまうことになるか
もしれない。だけど、誤解したまま筋違いの助言を授け、悦に入っているよ
りは、彼女にとってもましなはずだ。私は何度もそう言い聞かせた。
私は別に、この先何があっても学校にだけは行きたくないとか、学校に行
くくらいなら働き続けた方がましだとか、そこまで学校に通うことに対して、
拒絶反応を示してるわけじゃないですよ? 彼女は黙って私の話を聞いて
いた。
学校でしか学べない、というか、学校でしか見られない、経験できないこと
があるというのは、ある程度は分かってるつもりです。私もそう思います。
ただ、私はそういうものを完全に拒絶してるわけじゃなくて、そうした方がい
いのかどうか、いや、それはした方がいいに決まってる、そこまでは理解し
てるんです。分かってるんです。自分では分かってるつもりなんです。
ただ、自分ではそう分かっていながらも、何ていうか、ある種のきっかけみ
たいなもの、多分自分の中では作り出せないきっかけみたいなものを求
めてしまって、つまり、頭ではそうするべきなことは分かっていても、それ
を実行に移すだけの気力がないんです。気力っていうか、やる気っていう
か、そういうものが出せないんです。
元いた学校で起きてしまった問題が影響しているかもしれない、というのは
認めますけど、それが理由の全てじゃないんです。そのせいで全部がだめ
になったとか、そんなんじゃないんです。ただやる気が起きないだけなんで
す。
例えば、どうしてもやってやるんだ、とか、全力で挑んでやろう、とか、決
心することができなくなっただけ。全力を出すっていうことがどんなことだ
ったのか、分からなくなっただけなんです。学校という場所に心底嫌気が
さした、とかいうわけじゃない、と思います。確証はないけど、きっとそんな
ことじゃないんです。
私はそこまで勢いに乗って喋って、また小さく後悔して、つまり今自分が
言ったことはどこまで本当なんだろう、ってことを考えて、口ごもってしま
った。彼女はただ、私の言ったことの真意を確かめているような顔をして、
じっと黙って考え込んでいた。
やる気が出ない、っていうのは、まあ概ねその通りではあったんだけど、
果たしてそれが全部なんだろうか? それだけが理由だったんだろうか?
いや、もちろんあの出来事もいくらかは影響しているとは思うけど、本当に
それらだけが原因なんだろうか?
じっと見つめる彼女から目を逸らして、私は自分が今言ったことを反芻しな
がら、他の可能性について考えていた。けど、可能性は掴めるようで掴め
ない。そこにある、そこにそれらしいものが存在するのは分かるけれど、そ
れを的確に表現するだけの言葉が、私には絶対的に足りなかった。
多分私は、真剣に考えていなかったと思う。というより、真剣に考えたとこ
ろで結果は同じだ、ということを、何となく分かっていたのかもしれない。そ
れでも私は考えてる真似をした。気力がない、面倒くさい、その他もろもろ
……。ああそうか、と思った。私は考えることすら面倒くさがっていたんだ、
って。
だから、言い方を変えれば、私のことは全部、面倒くさい、で説明できてし
まうんじゃないか? 彼女と同じだ。いや、彼女はその一言で簡単に済ま
せてしまったけれど、今の私と同じような、もしかしたら私の想像もつかな
いような「面倒くさい」事情を抱えていたのかもしれないんだ。
私の考えが広がり過ぎて、もう収拾の余地がなくなってしまったときに、彼
女が口を開く。……私の場合はもう終わってしまったことだけど、あなたの
場合はまだ十分やり直せるじゃない? 可能性、というか、選択肢としてし
っかり存在してるんだよ? その、学校に戻る、っていう選択肢が。
せっかく存在するそれを、気力がない、なんて理由で蹴ったりしたら、きっ
と物凄く後で後悔するよ? 私と同じになっちゃうよ? 将来学校のことに
ついて人から聞かれたり、思い出したりしたときに、苦い記憶しか出てこな
くなるよ? それでもいいの?
ねえ、私と同じ失敗をあなたが繰り返す必要は全くない、って思わない?
そうでなきゃ、私の後悔は何の……、そこで彼女は急に黙り込んだ。私は
何が起きたのかよく分からなくて、思わず彼女の方を見た。ごめん、そうい
うつもりじゃなかったんだけど、としばらく経ってから彼女が言った。
私の頭の中はクエスチョンマークだらけで、どうして彼女が喋ることを止め
てしまったのか、そのときは見当もつかなかった。私はただ、お説教に近い
ような内容をさっきまで熱を込めて喋っていた彼女と、急に空気が抜けてし
まったかのように小さな声で謝ってきた彼女とのギャップに驚くだけだった。
どうしたんですか? と私は彼女に聞いた。聞かずにはいられなかった。
ん、いや……、と彼女は要領を得ない返事をした。どこか具合でも悪いん
ですか? そういうわけじゃないことは何となく分かったけど、私は敢えて
そう言った。そうじゃないけど、と彼女が答えた。
こういうことってさ、もうすでに大勢から同じように言われてるんじゃない
の? これからどうするんだ、とか、学校に戻れ、とかさ。その上に私が
また同じこと言ったら、あなたも面白くないでしょ? 配慮が足りなかった
よね。ごめん。
彼女が私と同じような年齢のとき、今彼女自身が言ったようなことをしつこ
く周りから言われ続けたんだな、ってことは分かった。でも、多分、私のケ
ースが特別だったんだ。問題が複雑になり過ぎて、私は完全な悪者では
なく、どっちかというと被害者、……に見られてもおかしくないというか、そ
う思ってる人も結構いたような気がするから。
微妙に状況が違うんです、と言いそうになったけど、そうすると私と彼女と
どう違うのか、つまりは私のケースを彼女に事細かに説明しなくちゃいけ
ない。それは嫌だった。あまり思い出したくもないし、簡潔に上手く説明で
きるとも思えなかったし、何より彼女にそれを話すことは、何か単なる愚痴
というか、彼女にそれを愚痴だと認識されてしまうのが怖かった。
いえ、いいんです。気にしないで下さい。結局私はそうとしか言えなかっ
た。でも、彼女が私のことを思ってくれていて、その上での進言だったこ
とは分かっているつもりだったから、そのあとに、ありがとうございました、
って続けて言った。
彼女はちょっと驚いたような顔をして、それから少し照れ笑いを浮かべて、
ううん、こっちこそありがとね、と言った。本音だったんだな、と私は思った。
彼女に何かしてあげたい、って思ったけど、それはきっとしばらくは自分か
ら何とかできそうなことにも思えず、私が黙っている間にこの話はこれで
終わってしまった。
終わってしまった、っていうのはつまり、休憩室の電話が鳴って、それを取
った彼女が二言三言返事をしてすぐに切って、ちょっと行ってくるね、って
言って部屋を出て行って。その出て行く直前に振り向いて、本当に気にし
ないでね、ありがとう、って言って。そういう風にして終わってしまったの。
でも彼女は私と次に顔を合わせたときにも、さっきのことを全然出さないよ
うにしてて、全くいつものように振舞ってた。そんな彼女の態度が、彼女が
本音を言ってくれたんだな、って確信をますます増幅させて、馬鹿みたい
だけど、私は彼女のことがもっと好きになった。
その次の日になっても彼女の態度は変わらず、また新たに進言を追加し
ようともせず、昨日自分が言ったことにフォローを入れるわけでもなく、完
全に切り替えて、というか割り切って? まあとにかく、私は気が楽だった
どころではなくって、逆に申し訳ないような気分になりつつも、彼女に合わ
せて日常の私を心がけて生活していた。
さっき、彼女に何かをしてあげたい、って言ったけど、もう大体分かってる
かもしれないけど、それっていうのは要するに、彼女の言葉に従ってもう
一度学校に行くこと、なんだよね。そうすれば彼女も喜ぶことも知ってた。
それに勝る恩返しはないでしょ? そうしなければならないのも自分でも分
かってた。
でも、そんなにうまいこといかないのが普通なんじゃないかな? そりゃ
私だっていつもの生活を続けながら、彼女に学校に戻ることを報告する
シーンを何度となく想像したけど、実際にその場面に自分が登場する、
っていうか、登場できるとは思えないような気がしたし。
本当にそうなったらどんなに彼女が喜んでくれるか、なんて、手に取るみ
たいに細かく思い浮かべることができた。だって彼女は本気だったからね。
ただ、そんな相手に向かって決意を述べるならば、こっちも中途半端な態
度で、冗談めかして言う、なんてことは絶対にできないんだ。
だから例えば、近々学校に戻ることになるかもしれないです、なんて私が
言ったとしても、戻ります、って言う断言じゃなくて、戻るかも、っていう可
能性の示唆でしかないわけでしょ? 戻るかもしれないけど、だめかもし
れないよ、って言ってるに過ぎないわけでしょ? そんな言葉でごまかし
ても何にもならないわけだし。
要するに、私はその時点では、そういう可能性の示唆しか口にできなか
った。もちろん、実際に言ったわけじゃなくて、どうしても言わなければな
らないなら、そんなことしか言えなかっただろう、っていう話ね。そのとき
もそういうことに気付いていたから、中途半端で無責任なことは言えなか
ったの。
それから同じ話題が私達の間に上がることはなかった。けども、私は今ま
で以上に彼女に対して親しみを感じていた。感じていたけど、それを上手く
表現することもできなかった。もし言葉や態度でそれらしいものを表せたと
しても、結局やっぱり、いつも同じ結論になってしまったから、二度とそんな
方向に話が進まないように、気を張っていたんだと思う。
彼女もきっとそうだった。私と同じだったと思う。親しみうんぬんは別として
も、いつもみたいに振舞いながらも、その話がまた出てきてしまうことを必
死に回避しようとしていたんじゃないかな。ただ、彼女がこの話題を避けよ
うとしていたのは、彼女自身のためじゃなくて、私に気を使っているから、
であって、私にもそれが分かったから、一層気苦しかった。
要するに悪循環だった。私は彼女に何もしてあげられない。彼女は気遣
ってくれる。私にもそれが分かる。でもそれに応えてあげられない。彼女
の心配りに申し訳なさ過ぎて自己嫌悪になる。でも彼女の態度は変わら
ない。何もできない……。大体こんな感じ。
でもね、何ていうか、そうしたいと強く思ったり、絶対にそうしなければならな
くなったりしたときって、何かしらの物凄く小さなきっかけみたいなものが、
それこそ否応なしにいきなり目の前に現れるのかもしれない。いやむしろ、
私達の行動する原因っていうのが実はそんなものによって常に起こされて
いるにもかかわらず、小さ過ぎて普段は見落としているだけなのかも。
何が言いたいかっていうと、私にもそんな小さなきっかけがいきなりやっ
て来たんだ、ってこと。そのときはそれがきっかけだなんて思いもしなか
ったし、どうしてそれがきっかけになり得たのかも分からなかった。とにか
くいきなり来たのそれは。
本当に小さくて、些細なことで、というより、普段見慣れてる光景のひとつ
にしか過ぎなくて、目の当たりにしたとき何故そんなことを自分が感じた
のか、今でもよく分からない。……説明が難しいな。まあ、聞いてみたら
私の感じたことまではいかなくても、何でこんなことで? っていうところ
は理解してもらえるかもしれない。
ええと、本当になんでもない話なんだけど、いつも決まった時間帯に買い
物に来るお客さんがいたんだよね。四十歳くらいのおじさんで、いつも大
体夜の七時半頃に買い物に来るの。ほとんど毎日、しかも同じ時間に来
るお客さんっていうのは、やっぱり店側の人間から見ても記憶に残り易い
んだ。
そのおじさんはそれだけじゃなくて、いつも同じものを買っていったの。何
だったっけあれ、カップラーメンなんだけど、売れ筋の奴じゃなくて、ちょ
っとマイナーな商品。そういう人だったから、何度か顔見るうちに覚えちゃ
ったのよね、その人のこと。
それで、最初のころは私もいろいろ覚えなきゃいけないこととかもあって、
大して気にも留めずにいて、ああ今日も来たんだな、とか、もうそんな時
間なのか、とか、まるで時計代わりみたいだけど、そのくらいにしか思わ
なかったんだ。
それから仕事の内容とかも徐々に手順とか、やり方が身に付いてきて、
まあ余裕が出来てきて、よく来るお客さんの顔だとか、どの人がいつもど
ういうものを買っていくんだとか、そういうことも大体覚えられるようになっ
ていったの。
で、そんなことも大体自然と覚えていったんだけど、つまり、誰が大体ど
ういう買い物をしていくか、なんてことが自然と頭に入っていったのね。そ
れで、大抵の人は日によって買い物リストの内容の細々した部分が違う
んだけど、そのおじさんはほとんど毎日、買っていくのがそのカップラー
メンって決まってて、しかもそれ一個だけだったのよ。
いつも全く同じやつよ。それで店に入ってきて、最短距離で移動してその
カップラーメンを持ってレジまで来て、お金払って、ああそういえばいつも
百円玉二枚出してたっけ。それで袋に入ったラーメン持って、すぐにさー
って出ていっちゃうの。
最初はそりゃ変わった客だなあって思ったけど、こっちも忙しかったから
ね。さっきも言ったけど、また来たんだ、くらいにしか思わなかった、最初
はね。で、慣れてきたら段々お客さんを見る余裕っていうのか、今日はこ
れ買うんだ、とか、いつもの買わないんだ、とか、まあ少しいやらしい話じ
ゃあるんだけど、そういうことも考えられるようになったんだよね。
他人の生活を垣間見るような? いや、別に見たくて見てるんじゃないん
だけど、ある程度否応無しにっていうか、見せられてるみたいな感じで、
かな? 他人の家庭の今日の夕食の献立とか、別に知りたくもないじゃ
ない? でもレジで対応してたらある程度知ることになるじゃない?
それで、問題のいつものおじさんのことよ。その人がいつもみたいに店内
に入ってきて、ああまたいつものカップラーメンね、って思ったらやっぱり
そうで、百円玉二枚だな、って思ったらそのまんまで、その百円玉二枚を
受け取ったときにね、私は何だか、いきなり泣き出しそうな気持ちになった
んだ。
理解できない? 私だって突然そんな気持ちに陥ってしまって、もうどうし
たらいいか分からない状態だった。えっ、何なのこれ? って。ただのお
客さんじゃない? 確かにちょっと一般的じゃない買い物の仕方をしてる
けど、そんなのその人の勝手じゃない? 何で私が泣きそうにならなきゃ
いけないの?
同時に、っていうかその、何なの? って気持ちと同じくらいに、何でいつ
も決まった時間なの? とか、 何でいつも同じカップ麺なの? 何で百
円玉二枚なの? 入店前から予め用意してるの? 何で人目を避けるみ
たいにすーっと入ってきてすぐ帰るの? そんな疑問が、疑問っていうか
不満に近いのかな。不満が一気に膨れ上がったような気がする。
どっちかっていうと、怒りを伴ったような感覚で……、うん、いや、分から
ないな。怒るって、そんな義理もないのにね。ああ、あれかもしれない。
自分の子供に母親が泣きながら、何であんたはそんな子なのよ、って訴
えるような感覚? ……ううん、違うかなあ。
言っとくけど、決してその人の冴えない人生に同情したわけじゃないから。
何ていうか、うん、同情じゃないんだと思う。絶対同情じゃない。ただ、ある
種のやるせなさっていうか、切なさっていうか、それを覆い隠すための怒り
だった、とか……。ごめん、今でもよく分からない。
とにかく、突然泣き出しそうになったのは事実なんだよね。そのときの感
覚で一番よく覚えてるのが、何でこの人は毎日毎日同じカップ麺を買っ
ていかなくちゃならないの? 何でこの人がこんな生活を送らなきゃなら
ないの? ってことだった。そしてそう思ったら、ものすごく背筋が寒くな
った。
もう一回言うけど、決して同情したとか哀れんだとか、そういうつもりは一
切なかったんだ。私だって自分がそんなに偉ぶれる人間じゃないことくら
いは分かってるつもりだし。ただ単純に、そのおじさんの生活リズムの一
部を垣間見てしまって、疑問と憤りと、それらに凄くショックを受けた、の
かな。
私はとにかく心を落ち着かせようと深呼吸した。突然こんな心理状態にな
ってしまって、酷く混乱していたのかもしれない。まだあと少しバイトの時
間も残ってたし、このままじゃ仕事にも差し支えるし。幸いにもそのおじさ
んが帰ってしまった後のしばらくは、私のレジに次のお客さんが来ること
がなかったから、私はレジに手を付いて目を瞑ってうなだれていた。
そうしてたら、どうしたの? 気分でも悪いの? って先輩に声をかけられ
た。私は顔を上げて彼女を見たけど、今の自分の状況をどう説明したらい
いのか、何を言ったら正確に彼女に理解してもらえるのかさっぱり分から
ず、ただ曖昧な表情を彼女に向けるのが精一杯だった。
気分悪いんならもうあがっていいよ。店長には私から言っとくから。私が
黙っていたら、彼女は誤解したのか、そう言ってくれた。私は迷った。今
日はちょっともう無理かもしれない。彼女の言葉に甘えてしまおうか?
いや、でも……。そうしているうちに、焦れた彼女が私の背中を押す。は
い、もう着替えてきなさいよ。私がレジやるから。
先輩は私の肩を支えながら、私をバックヤードまで連れていった。結局
自分が先輩の好意に乗っかってしまったのが情けなくて、すみません、
すみません、って何度も繰り返した。彼女は、いいからいいから、と聞き
流しながら私を事務椅子に座らせて、それじゃ気をつけて帰ってね、お
大事に、って言い残してレジに戻っていった。
私はバックヤードに一人残されたまま呆然としていた。壁に貼ってあるシ
フト表をぼーっと眺めながら、さっきのことを思い出していた。情けない自
分がさっきのおじさんと重なるような気がして、また寒気がした。このまま
いけば私はあの人みたいになってしまうかもしれない。いや、必ずああな
ってしまうんだ。
嫌だ、嫌だ、って頭の中でずっと繰り返してたけど、まるでなんだか自分
が深い井戸の底で弱々しく叫んでいるような感覚だった。嫌だ、って言っ
ても破滅はゆっくり確実に近付いてくる。それは知ってる。でも大声を上
げられない。上げる力が残ってないのか、最初からそんな力持ってなか
ったのか、それすらも自分でも分からない。
思えば、この前先輩と話したとき、救出の手が差し伸べられていたんだろ
う。どうして私はその手を掴もうとしなかった。途中で落ちるのが怖かった
のか。最後まで手を掴み続ける自信がなかったのか。分からない。分か
らないけど、私がその手を掴み損ねたことだけがはっきりした事実だ。
掴み損なった手。もう二度と差し伸べられることはないだろう。仮にあった
としても、そのときはもう私はその存在にすら気付かないかもしれない。
あのおじさんみたいになるのと同じように、これは確信だった。嫌だ、嫌だ。
繰り返した。そしてある結論に達した。いや、覚悟を決めた、って言うべき
か。どっちにしても、これしかなかった。
自分で昇るしかない。次の救助の手を待っていたんじゃ遅過ぎる。他動
的な救助を待っているうちに、私はあの人みたいになってしまうだろう。そ
れに、そうだ、その手を最後まで握り締め続けるのと、自分の手足を使っ
て上へ昇ろうとするのと、本質的には大した違いはないはずなんだ。目指
す方向は一緒なんだから。
私はバックヤードの椅子に座りながら、今浮かんだ自分の考えに全面的
な賛同を送った。そうだ、それでいいんだ。概ね間違ってないし、もし失敗
したらそのときは、またその経験を糧にすればいい。そして次を考えれば
いい。一度チャンスを見逃したんだ。もしだめだったとしても、それほど状
況は変わらないんだ。そうしながら先輩が戻ってくるのを待っていた。
自分では随分考えていたつもりだったけど、彼女が戻ってくるまで待ち長
かったような気がする。何度も頭の中に書いた原稿を読み直し、想像の
中で表情や口調のチェックをして、一連の流れを確かめた後に時計を見
るんだけど、実はまだ五分も経っていないような、そんなことを幾度も幾
度も繰り返したの。
それでやっと閉店時間が来て、他のバイトやパートの人達が引き上げて
きて、あらまだいたの? 大丈夫? 早く帰んなさいよ? なんて言葉を
かけられて、そして一番最後に先輩が戻ってきた。これはいつものことで、
私もそれを知っていて当てにしたんだ。
彼女は私に駆け寄ってきて、みんなが言ったのと同じような言葉を、みん
なより少し熱が篭った口調で私に言った。私はそれには応えずに、話した
いことがあるんですけど、と小さな声で言った。彼女は一瞬きょとんとした
顔をして、でもすぐに表情を引き締めて、話なら明日聞いてあげるから、
とにかく今日は帰りなさい、と言った。
今日じゃないとだめなんです、私はそう言い返した。彼女は私をじっと見
て、私も彼女をじっと見た。分かった、としばらくして彼女が小さい声で言
った。彼女が次の言葉を喋る前に、私は言った。裏の搬入口の前で待っ
てます。一瞬間があったあと、彼女はもう一度繰り返した。分かった、っ
て。
私はすぐに店を出た。そして真っ直ぐ裏手に向かった。これじゃまるで告
白みたいじゃないか。自然に頬が緩んだ。告白は告白だけど、そんな甘
ったるいもんじゃないんだぞ、そんなことよりももっと重要なことなんだぞ。
そっちはそっちで苦労するのかもしれないけど、私は自分を叱咤して何と
か気を取り直した。
想定その一、彼女に最初から最後まで全部話す。かなり長い話になるけ
ど、理解してもらうには一番いい方法かな。想定その二、経緯は端折って
決意だけを伝える。喋る量は最低限で済むけど、少し一方的になってしま
うかも。想定その三、決意だけ最初に伝えて、彼女の質問に答えられる範
囲で答える。お互いに無難だろうけど、他動的過ぎじゃないだろうか。
私は店の裏手の真っ暗な場所に突っ立って、そんなことを考えていた。
とにかく、もう引き返せないところまで来てしまったんだ。呼び出しておい
て今さら取り消せないんだ。どういう方法を取ろうと、話す以外もう選択
肢はないんだから。
彼女は私が思ったよりも早くやって来た。少し息が上がって、頬が上気し
ているようにも見えた。そんな彼女を見て、私は若干気後れする。話って
何? 彼女の表情は真剣そのもので、これから私がする話の重大さを全
く疑っていないみたいだった。
もし、この話の重要性が私の中だけにしか存在しないものだったとしたら、
つまり、私は真剣に話したつもりでも、彼女にとっては取るに足らない全く
つまらないものでしかなかったとしたら……。はあ? ああそう、勝手にや
ってて。そんな下らないことでいちいち呼び出さないで。
そんな風にして拒絶されてしまったらどうしよう。私は言い訳もできずにた
だ立ち尽くして、憤慨して去っていく彼女の後姿を見送ることしかできなく
なるだろう。また背筋が寒くなった。いや、彼女はきっと聞いてくれる。そう
じゃないなら、最初から私の呼び出しにも応じなかったはずなんだから。
大丈夫? と彼女が言った。私は我に帰って、何か言おうと口をぱくぱく
動かした。大丈夫です、あの、別に具合が悪いんじゃないんです。何とか
出てきた言葉がそれで、彼女は少し眉をひそめて、私は完全に混乱して
しまって、とにかくまあ酷い幕開けになってしまったわけ。
あの、あの、と私はうわ言みたいに喋り続けた。私は、具合が悪いわけじ
ゃないんです、と言った。その理由を彼女に説明しなくちゃいけない。あの
お客さんの話をしないといけない。あのおじさんがこうして、私がああなっ
て、それで私は……。こんな説明であの感覚が伝わるんだろうか?
彼女は私が本題に入るのを相当辛抱強く待っていた。私は、あの、あの、
を際限なく繰り返して、そしてとうとうそれも言えなくなってしまって黙り込
んだ。ああ情けない。こんなみっともない姿を見せるために来てもらった
んじゃないのに。私が絶望のどん底に落ちてしまったとき、彼女が静か
にその両手を私の両肩に乗せた。
私の肩にかかった彼女の両手から力が伝わってくる気がした。正確に言
うなら、彼女の両手に込められた力が、私の中の何らかのものに作用し
て、私を正直に喋らせよう,、それを聞いてあげよう、とするような? 嫌味
な意味じゃなくてね。そういう彼女の誠意というか、覚悟というか、そんな
ものを見せつけられたような気がしたんだ。
彼女は言った。そうやって手を肩に乗せながら。低い声だった。低くてと
ても落ち着いた声だった。よく言うじゃない? ある種の人の声には特別
な波長が存在して、聞く人を凄く落ち着かせる、って。彼女はこう言った
んだ。落ち着いて、一番重要なことを思い出して、それをゆっくり、時間
をかけて喋りなさい、って。ゆっくり諭すようにそう言ったんだ。
そして彼女は私を正面から見つめた。私は目を逸らすこともできなくて、
でも彼女の表情は全然変化もしなくて、私は何だか涙が溢れそうに、そ
う、丁度あのおじさんに対して衝動的な感情が突然起こったときみたい
な感覚に遭遇して、制御できなくなってしまって。気が付いたら彼女の胸
の中にいた。彼女は私を包み込むようにして私を抱擁していたの。
私は泣いてしまった。今まで積もり積もっていた感情が一気に開放され
たように、今までずっと我慢してきたこと、それを必死で支えてきたその
拠り所を突然取り除かれたみたいに。それこそ恥も外見もなく、子供み
たいに泣いてしまった。その間彼女はずっと黙って、ずっと私の身体を
支えていた。
……馬鹿みたいだけど、実際にそうなっちゃったんだから仕方ないよね。
何ていうか、あとで振り返ってみれば物凄く馬鹿みたいに思えるかもしれ
ないけど、私もそう思うんだけど、そういう場にいて自分が直接の当事者
だったとしたら、やっぱり誰でもそうなっちゃうんじゃないかな。
まあそれはそれとして、私はそうやって彼女に泣き付いたのね。それで、
かなり長い間私達はそうしてて、段々自分の気持ちが落ち着いてくるに
従って、私は猛烈に恥ずかしくなってきたの。ここまでやってみせなくて
もいいんじゃないか? って。こんなことまでして彼女はさらに迷惑して
るんじゃないか? って。
少しは落ち着いた? と彼女が聞いた。私が顔を伏せたまま頷くと、彼女
はゆっくりと身体を離した。彼女の胸に私の涙がシミになって広がってい
た。ごめんなさい、と私はあわてて謝ったけど、彼女は笑いながら首を振
って、気にしないでいいのよ、と言った。
そんなことより、と彼女が言う。一番重要なこと、思い出した? ああそう
だった、と私は思う。まだ済んでなかったんだ。彼女の問いかけに私は小
さく頷いた。じゃあ、それを今から話せる? 彼女が続けて聞く。私は小さ
な声で、今度はちゃんと声に出して答えた。はい、と。
もう今さら言葉を選ぶ必要もない。ただそれだけを言えばいい。辿った経
緯だとか、その理由だとか、多分もうわざわざ話さなくてもいいんだ。私
は自分の口調に熱っぽいものが入らないように気を付けながら、それだ
けを彼女に伝えた。私、学校に戻ることにしました。
えっ? と彼女は聞き返して、今の私の台詞を反芻でもするかのように
黙り、私の顔をじっと見た。私は目を逸らさなかった。下手に言葉を付け
足すよりも、こうした方がきっとより上手く伝わると思った。本当に? と
彼女。私は簡潔に、はい、とだけ答える。彼女は一度だけ大きく頷いて、
よかった、と静かな声で言った。本当に、よかった……。
彼女としてはもう少し詳しく話を聞きたいのかもしれなかったけど、私が
あんな風に取り乱してしまった後だったわけで、それ以上何も聞こうとせ
ず、代わりに黙ったまま何度か小さく頷いてみせた。私は彼女のそうい
った気遣いが嬉しかった。
うん、それじゃ、今日は帰ろう。彼女が言った。もう遅いしね。確かに随分
時間が立っているような気がした。そうですね、と私も彼女の意見に同意
した。彼女が先に歩き出し、私がその後に付いて行こうとすると、あっそう
だ、と突然彼女が振り向いた。ねえ、顔洗った方がいいんじゃない? 家
の人が変な心配するかもよ? そう言って小さく笑った。
店の裏手にある水撒き用の水道で顔を洗った。水は冷たくて、泣き腫らし
た目に心地よかった。彼女がハンカチを差し出す。ありがとうございます、
そう言って受け取った。彼女の普段の親切にけじめをつけるつもりだった
のに、またこうやっていろいろと気を使わせてしまったんだなあ、と改めて
思った。
車で送るよ、と言う彼女の申し出を丁寧に断って、私は帰途に着いた。
彼女の車が走り出すその刹那に、彼女の私を見る目が何かを語りか
けているような気がした。私もその目を見詰め返しながら、まだうまくま
とまらないながらも自分の中に存在するそれを、彼女の目を通して伝
えようとした。うまく伝わったのならいいけれど……。
気をつけてね、また明日。そう言い残して彼女は車を出した。私は左折し
て見えなくなるまで、そのテールランプを眺めていた。彼女はどうしてこ
こまでしてくれるんだろう? 優し過ぎて逆に悔しくなって、涙が出てきそ
うになる。私も彼女の年齢になったとき、彼女みたいになれるだろうか?
多分彼女は明日も、今までと同じようにして、昨夜のことに触れたりしな
いで、私に接してくるはずなんだ。どうしてそうできるんだろう? 生まれ
つきそういう人なんだろうか? それとも何か、私の想像も及ばないよう
な出来事を経験したために、そんな人になったんだろうか?
完全に見えなくなった後、私も帰ろう、と声に出して言ってみた。泣いたせ
いなのか、自分の声とは随分違ったように聞こえた。それでもいいんだ、
と突然脈絡もなく思う。多分こういうことだって、人が変化するってことに
分類されてもいいはずなんだから。
翌日以降の彼女は、やっぱりいつもと変わりがなかった。彼女を見習っ
て、私も普段通りの自分に努めた。いつもと変わらないやり取りなのに、
心の奥の方では親密に繋がっているような気がして、それが単純に嬉し
くて、普段の仕事にもつい力が入ってしまった。これはいい傾向なんだ、
何かある度に私はそう強く思った。
でも、それだけじゃだめなんだ。そこで満足してしまったら、彼女との約
束は果たせない。ああそうそう、その夜車で帰っていく彼女と目を合わ
せたときに感じたのって、多分約束なんだと思うんだ。一方的に私がそ
う思っているだけかもしれないけど、きっと約束で合っているんだと思う。
……思いたいだけかもしれないけどね。
でもね、そう考えていた方がこれから私がやっていくことの正当な理由
にもなるだろうし、そのための原動力にもなるんだ。そう思っててもいい
じゃない。どっちみち全部無事に終わったら、彼女に今度は詳しく話さ
なくちゃいけないんだし。私はそれでいいと思う。きちんと果たされさえ
すれば、だけど。
だからそのためにも、と思って、私はその一件以来、何とか彼女に正式な
報告ができるようにとあっちこっちを奔走した。それこそもう、思い付く限り
のところには行ってみたし、馬鹿の一つ覚えみたいに会う人会う人に同じ
質問を繰り返したりもした。中退した人間が学校に戻るにはどうしたらいい
んですか? って。
でも、みんなやっぱり知らないんだ。まあ、私のケースが異常なんであ
って、普通に暮らしてる人達にとっては、そういう知識って、つまりどうし
たら学校に戻れるか、なんてことは、必要じゃないのね。必要じゃない
から、知っておく必要もないわけ。多分そんな感じなんだ。
経過は彼女にはいちいち報告しなかった。細々報告するよりは、決めてし
まって結果だけを言えばいいと思ったから。むしろその方がいいような気
がした。今日誰それに会って、こうこう質問をしてみたけど、今日もだめで
した、って言い続けても、何か言い訳を毎日してるみたいじゃない?
彼女は相変わらずで、いつもどおりのやり取りはあっても、そういえばあ
の件はどうなったの? なんて不意に彼女の方から話題をそれに持って
いくことは一切なかった。聞きたがってるのは確かだと思うけど、本当に
聞きたいのは経過じゃなくて結果なんだ。私は彼女がそう考えているんだ
と信じていた。
私なりに精一杯、それこそ思いつく限りの手を尽くしたつもりだったんだけ
ど、彼女に報告はできそうもなくて、途方に暮れていたときだった。バイト
が終わって家でご飯を食べているときに私の母が、最近あっちこっち出か
けてるみたいだけど、何かあったの? って聞いてきたんだ。
私は最初生返事であしらおうとしたんだけど、ふと、ここで母に、学校に戻
るために奔走しているんだ、って言ったら、母は一体どんなリアクションを
取るんだろう? って思った。思い付いた瞬間から、母のたじろぐ姿をどう
しても見てみたくなった。
鬱憤が貯まってたのかもしれない。全然うまくいかなくて、でも先輩とは
毎日会うわけで、彼女は口にこそしないけど、やっぱり私にとっては、報
告できないという負い目がかなり悪い方に影響していたと思うし。やつあ
たりみたいでいやらしいとは思うけど、とにかく私は母に、学校に戻るつ
もりであることを話したんだ。
学校に戻ろうと思ってるんだけど、なかなかうまくいかなくって、と私は言
った。母は目を見開いて、私の顔を睨みつけるようにして見て、ええっ?
と派手に驚いてみせた。何もそこまで驚かなくてもいいじゃない。こんな
だから、あんまり親に自分のやってることを話したくなくなるんだよね。
学校って、高校? 母の質問に、他に何があるんだ、と思いながら私は
無言で頷いた。母はじっと私を見て何事か考えたのちに、どこにするか
決めたの? と聞いた。うまくいってないんだから、決まってるはずもな
いのに。私はまた無言で首を振った。
本気なの? とまた母が念を押すように聞く。私は頷く。多分本当にそう
思っているのかどうか確かめようとしたんだろう、母は私を無遠慮に眺め
回した。それから一息ついて言った。ひとつ心当たりがあるけど、……ど
うする?
私は最初意味が分からなくて、眉をしかめて母を見ていた。いや、だから、
と母は言う。お母さんの知り合いに高校の先生がいるのよ。その人の学校
では、そうやって途中で諦めかけていた生徒達を、毎年何人か受け入れ
てるらしいの。詳しいことは知らないけど、何ならその人の話を聞いてみた
らどう?
母の言ってる意味が分かったとたん、私は酷く動揺した。つまりは、自分
の手でどうにもできない問題が、他人の手によって一気に解決してしまう
かもしれない、という事実。確かに乗っかってしまえば楽なのは明確だ。
でもそれでいいんだろうか? 今までの私の苦労は?
胃の辺りが痛くなった。どうしたらいいのか途方に暮れた。私はどうしたら
いい? 自分のやり方がうまくいかないからといって、言ってみれば、安
直な選択をしてしまってもいいのだろうか? 後悔したりしないか? 他人
の手を借りずに自分の力でやってこそ、価値が出てくるんじゃないのか?
どうする? と母がまた同じ言葉を繰り返した。どうする? と私は自分に
問いかける。どうする、ったって……。簡単に答えが出せるわけないじゃ
ない。現時点で一番妥当なのは、考えさせて、とか何とか言って返事を
保留することだ。そのとき私もそれが一番妥当だと思ったし、実際に、考
えさせて、と言いそうになった。
でもさ、再入学したら終わりじゃないもの。再入学したら、次は必ず卒業
まで持っていかなくちゃいけない。彼女も言ってた高校生活っていうのを、
今度はきちんと全うしなければならない。入るためだけに入るんじゃない。
彼女に欠けていて、今でもずっとそれを後悔していること。私はそうなる
のを回避するためにこそ再入学を望んでいるはずだろう?
苦労なり負担なり、それは再入学まで辿り付くためにどれだけ私が尽くし
たしたとしても、そうしたからといってその再入学したあとに科される新し
い負担が、それに応じて軽減されるわけじゃないんだよね。分かる? そ
れはそれ、これはこれ、でしょ? 苦労の果てに、やった、再入学できた、
って、これで終わりじゃないんだよね。
うん、分かってる。いろんなものの見方があるとは思うけど、もちろん私
の選択を批判する人もいるだろうけど、私はこう結論付けた。今の自分
自身の苦労も決して無意味なものじゃないだろうけど、苦労の優先順位
はもっと別のところにある、って。今私が味わわなければならない苦役
は、もっと先の場所にあるものなんだ、って。
私は母の提案に頷いた。そりゃあいろんなものの見方もあるかもしれない
けど、私は最終的にそれを選んだ。頷いた瞬間から、それでよかったんだ
ろうか、とか、それが正しい選択だったのか、とか、思い返すことは多かっ
た。でも、他にどうしようがあると思う? 世間知らずで無防備な私が、独
力でどこまで行けたと思う?
頷いた瞬間から、ものごとは全部自動的に進んでいった。母が話をつけ
て、面会の機会を作って、実際にその人と会って話をして。自分が学校
に戻る、ということが、私自身のことでありながら私も少しうろたえるほど
に、そうやってどんどん現実味を帯びていった。
反面、私の感じた疑問、本当にそれでいいの? って、その疑問は、まる
で春を間近に控えた残雪みたいにみるみる小さくなっていって、でも、溺
れかけている人が助けを求める声を必死にあげ続けるように、何度も何
度も私の胸の中に響いては、私の心を小さく噛んだ。
いろいろやっているうちに、新しい学校に通うだけの準備はいつの間にか
全部終わってしまっていた。当面の問題は片付いたにしても、次は最も
大事な用事が控えていた。先輩との約束だった。
準備に追われる時間が終わって、改めて約束のことを考えたら、押さえ
つけていた疑問がまた膨らんできたような気がした。先輩には何て言え
ばいいんだろう? 何て説明すればいいんだろう。もし、本当にそれでい
いの?なんて彼女の口から聞かれでもしたら、私は何て答えればいい?
引っかかっていることを正直に話せばいいんだろうか? 自分でも本当に
それでいいのか分かりません、って? でもそれって、また他人に何とか
してもらおう、みたいな意図があることにならないか? 同情を強要して、
そんなことないよ、なんて言葉を言われたいだけじゃないのか?
準備が終わってしばらくしても、私はまだ彼女に報告ができないでいた。
どう言えばいいのか分からなかったのもそうだけど、私が言われたくな
いことを彼女に敢えて言ってほしくなかった、というのも大きかったと思
う。それに、……いや、うん、変な慰めみたいなことも、やっぱり彼女の
口から聞きたくはなかったんだと思う。
当然のように彼女は、自分からはそのことについて何も言おうとはしな
かったけど、恐らく私が意識していたせいで、顔を合わせるのがもっと
苦痛になってきていた。何をやっているんだ、と自分でも思った。彼女
は私を応援してくれているわけで、そのためにかなり言いたいことも我
慢してるはずなのに。
でも、彼女が我慢している台詞が私の最も恐れるものだったとしたら、つ
まり彼女から、本当にそれでいいの? と実際に聞かれたら、本当にどう
すればいいんだろう? 私は引きつった笑いを浮かべながら、ただ黙って
いるしかなす術がない。それは分かる。はっきり見える。
彼女はそう言いたいんだけど、逆にそんな私の心情まで把握して考慮し
た上で、私に気を使って敢えて何も言わなかったとしても、それはそれで
私の中には新しいわだかまりが作られることになるだろう。それも分かっ
た。情景も見えるような気がした。
そのときの私の感覚、ちょっとでも分かってもらえるかな? ね、本当に
正しい方法なんてなかったんだ。安易に選び過ぎたのが原因というのも
分かってたけど、もう決まってしまったことも今さら動かしようがなかった
んだ。
ただ報告だけを引き伸ばしにして、表面上はそのまま変わらない生活が
続いた。結局こうしてうやむやなまま時間が過ぎて、フェードアウトするよ
うに消えていくんだろうか。関わりは消えてしまっても、苦い記憶は残る
んだろうな。……そんなことを考えていたら母が、また母なんだけど、バ
イトはいつまで続けるつもりなの、って聞いてきたんだ。
あなたもそろそろ学校に行き始めるわけでしょう? と母は言った。けじ
めをつけて、気持ちを切り替えた方がいいんじゃないの? その日は遅
番で、いつもより遅い朝食をとっていたときだったと思う。……けじめ?
何だか彼女との約束のことを、全く関係のない第三者に指摘されたよう
な気がして、私は少し逆上気味になってしまった。
けじめってどういうことよ? と私はかなりきつい口調で言った。母はうろ
たえて、いや、だから、としどろもどろに答える。そろそろ学業に集中した
方がいいんじゃないかなって。余計なお世話よ! 私はそう怒鳴りそうに
なるのを辛うじて堪えた。
バイトは続ける。学校に行き出したあとも続けるかもしれない。感情を押
し殺して、私は母にそれだけ言った。そして母の反応を目にする前にそ
の場から逃れて、自分の部屋に戻って深い溜息をついて、どうして母に
八つ当たりしてるんだろう、って激しく後悔した。
いろいろイライラする原因はあるんだけど、そもそも私が優柔不断なの
がいけないんだ。約束にプレッシャーを感じて、よく考えずにあとで後悔
するような選択をしたくせに、引け目を感じてその約束さえ果たそうとして
いない。あまつさえ、関係のない母親にまで不快な思いをさせる……。
こういうことを考えてるときって、周りの全てが自分を責めてるような気持
ちになるじゃない? 物凄く気が滅入るよね。何だか底なし沼でのた打ち
回ってるような感覚。だんだん腹が立ってきて、自分のことを棚にあげて
も尚、何でここまで苦しまなくちゃいけないのよ、って怒りすら覚えるよう
な、理不尽な感覚よ。
ああもう分かった! と自棄気味に私は思った。今日言いますよ、それで
いいでしょう? 今日バイトの終わりにでも彼女を捕まえて、全部話します
よ。もう全部、約束したときは本気だったけど、実際は安直な方法に流さ
れたことまで全部話しますよ。それでいいんでしょう? もちろん、彼女を
責めるようなことなんか話しませんよ。それでいいんでしょう?
誰に対して腹を立てているのか分からなかった。だから余計に腹が立っ
た。どたどたとわざと足音を立てて、思い切り力を込めて玄関のドアを閉
めて、それでいいんでしょう? それでいいんでしょう? って、何回も頭
の中で繰り返しながらバイト先に向かった。馬鹿みたい。
でも馬鹿だったのよ。バイト先に着いて普段の仕事をしているうちに、だ
んだん冷静さを、というより、我に返ってっていうか、気持ちだけが先走
って空転してた自分がどうしようもない愚か者に思えて、まあ実際そうな
んだけど、あれだけ言う言うって思ってた感情が、バイトの終わりが近付
いていくにつれて、どんどん弱気になっていったの。
馬鹿みたい。本当、何やってんだろう。情けなくて不甲斐なさ過ぎる自分
にまた腹が立った。ちょっとこれまでにないくらい、猛烈に頭に血が上っ
た。だから私は、敢えてこんな気持ちのままで彼女に話そうと思った。い
や、こんな気持ちのままだからこそ話さなければいけない、そう思った。
終わり間際に彼女を捕まえて、話があることを伝えた。彼女は即答で了
承した。何の話かは分かっているはずだけど、まさか私の懺悔を聞かさ
れることになるとは考えてもいないだろう。後ろめたさがそうさせたのか、
私は極力彼女から遠い場所で仕事をしている振りをして、そのときにな
るのをじっと待っていた。
彼女が満面の笑みを浮かべる。でもすぐそのあと、私はそれを壊してしま
うことになる。何度考えても同じで、それを回避する方法は、多分もうな
かった。どれだけ丁寧に言葉を選んで話したとしても、事実を歪めること
はできないからだった。
安易に約束なんかするんじゃなかった。今さらそんなことを言っても遅
い。でもああして多少無理な約束でもしなかったなら、もっと酷いことに
なっていたのかもしれない。いや、一番酷いのは、これから彼女の期待
を打ち壊さなければならない現実が、私のすぐ目の前に控えていること
じゃないのか。……何を今さら。ああ……、私何やってるんだろう?
やがて時間になり、皆がバックヤードに戻り始めた。彼女はまたいつも
のように他の人達よりも少し遅れて戻るだろうから、私も皆の後に続い
て戻った。バックヤードの中で世間話をしたり、お茶を飲んだりしている
同僚達の隙間をすり抜けて、急いで自分のロッカーまで歩いた。
誰の顔も見たくなかった。誰とも話したくなかった。早くここから出て店
の裏手に行き、彼女が来るまでの間を一人で過ごしたかった。もう帰る
の? と目ざとい一人が私に声をかける。ええ、ちょっと用事があります
から……。私は着替えながら、その人の方を見ないで答えた。
お疲れ様でした、と挨拶をしながら店を出た。急いだおかげで、彼女が戻
ってくる前に外に出ることができた。こういうところ、つまり皆がまだ残って
いるバックヤードで彼女と一緒にいたくなかった。暗がりで二人きりで対
峙していた方がまだましだと思った。重要な話をしなければいけないのを
差し引いても。
外に出て、この前と同じ場所に移動して、もう一度伝えるべき話の内容を
思い返してみた。とはいっても、まず新しい学校が見つかったことを報告
して、それから間髪入れずに、他人の手を頼ってしまった、ということを言
わなければならないことが決まっているだけで、どういう話し方で彼女に
伝えるのかは全く考えていなかった。
まあ仕方ない、と私は開き直りに近いような感覚でそう思った。事前に用
意した原稿があろうとなかろうと、もう彼女を呼び出してしまった時点で、
私は彼女に精一杯の説明をしなければいけない。結果、饒舌に喋って自
分に都合のいい事実を作り上げることになろうと、口篭って逆に彼女の
心配に拍車をかけてしまうことになろうと、もう後へは引けないのだ。
この前よりも随分待ったような気がした。私がそう感じただけなのか、も
しくは最後に考える時間を与えるつもりで彼女がわざと時間を置いたの
か、まあどっちでもいいことなんだけど、とにかく恐ろしく長く感じた。もち
ろんその間に上手い言葉など思い付くはずもなく、何も変わらないまま
で、私は向こうからやってくる彼女の姿を見付けたのだった。
目の前まで来たのに、彼女は口を開こうとしなかった。ただ私の目をじっ
と見て、私が喋り出すのを待っていただけだった。私は思わず目を逸ら
した。例えば何か、どうしたの? とか、何の話? とか……。いや、そん
なことまで彼女に期待するのは、やっぱり筋違いなのかもしれない。
何なんだろう? もしかして私が話すことになる内容を、もうすでに掴ん
でしまっているのだろうか? これは彼女なりの、不甲斐ない決断をした
私に対する無言の抗議なんだろうか? そんなはずはない。知り得る機
会なんて彼女にはなかっただろう? 今はそんなことを考えるよりも、そ
うだ、伝えるべきことを優先して考えるべきじゃないのか?
私は喋れずに、どんどん時間だけが流れていくような気がして、その流れ
ていった時間の分だけ、これから私が話すことになる議題の正当性が、
その時間と同じようにどんどん失われていくような、それがさらに私の行
動理由を奪っていって、このままではまずい、とは思うんだけれど、私は
一向に口を開けそうにもなかった。
気まずい空気が辺りを覆って、私の気を重くした。早く言え、早く言え、っ
てずっと声が聞こえてくるような気がした。呼び出して、対面して、すぐに
報告をしないということは、何か言い辛いような事実を隠しているからな
んだ、って、もういい加減彼女もそう思っているんじゃないだろうか。
だとしたら、私の報告によって彼女が無邪気に喜んで、すぐに私の次の
言葉に打ち壊される、という事態はとりあえずは避けられたのではない
か? でもそれは希望的な推測に過ぎなくて、確証は何ひとつない。た
だはっきりしていることは、このまま無言で時間の経過を見過ごしていく
のは、私と彼女にとって不利益にしかならないだろう、ということだった。
私、もう一度学校に通うことになりました。彼女の目が少し動いた。私を
受け入れてくれる学校が見付かったんです。彼女は黙ったまま頷いた。
私は気圧されそうになった。潰されそうになった。やっぱり彼女は知って
いるんだ。言葉が次げなくなる。甘過ぎた。彼女の期待を壊してしまう?
思い上がりも甚だしかった。
彼女はずっと無言だった。私がそこで話を終わらせようとする可能性を
完全に奪ってしまうために、敢えて無言を貫いているようにも思われた。
もちろん私は最後まで話すつもりではあったけど、何から説明していけ
ばいいのかが分からずに、彼女の無言と視線とにいわれのない非難を
受けているような気持ちになって、とても居心地が悪かった。
彼女はこの気まずい雰囲気の中にあっても、自分からそれをどうにかす
る気は全くないようだった。ただ感情の篭らない表情で私をじっと見て、私
の出方を静かに待っているだけだった。私の口からその言葉を引き出す
ための手段だったのかもしれないし、もう私の進展に一切の興味を失って
しまっただけなのかもしれない。
何て言ったらいいのか分からないんですけど、と私は言った。自分でも分
かるくらいに声が震えていた。正直に言って、完全に私の本意ではないん
です。自分の意志を貫いて、自分だけの力で勝ち取った結果ではないん
です。言ってて思った。こんな弁解で、彼女に一体どれだけ理解してもら
えるんだろう?
何度も言葉に躓きながら、私は自分の気持ちをより正しく彼女に伝えよう
と努力した。あちこち出かけていって懸命に探し回ったこと。結局何も、手
がかりさえ見付けられずに手詰まりになりかけたこと。彼女は黙って聞い
ていた。
そうしているうちに、母がその話を持ちかけてきたこと。どうしたらいいか
迷って、真剣に考えたこと。途切れ途切れに話せば話すほど、本当に伝
えるべきことの上に、違うものを貼り重ねていってしまっているような気が
した。
迷いながらも母の提案を受け入れて、すでに話を固めてしまったこと。今
でもそれでよかったのか、自分の力で手に入れるべきだったのか、先輩
は私にどっちの道を取ってほしかったのか、いろんなことが分からずに、
まだ迷っていること。
そこまで喋って、私は黙った。大まかな流れは伝えたつもりだったけど、
まだ補足しておかなければならない部分が残っているような気もしたし、
もう十分に、余計なことまで喋り過ぎたような気もした。もちろん、本当は
どっちなのか、なんて、私に分かるはずもなかった。
しばらくして彼女が、うーん、と呻くような声を出した。いよいよ彼女が話
すんだ、と思った。慰められるのか批判されるのか、認められるのか否
定されるのか。結果がどうであっても、私としては早く誰かに決めてほし
かったんだと思う。それでいいんだ、とか、それは間違いだ、とか、その
役割を彼女に求めたんだ。
でも彼女は、明確に否定も肯定もしなかった。ずっと黙ったままだった彼
女は、静かに突然こんなことを私に聞いてきたんだ。あなたはあれなの?
歩く道も自分で作らないと気が済まないタイプなの? って。
意味が分からなくて、はい? って私は聞き返した。いや、だから、と彼女
は言った。目的まで辿り付くために歩く道、その道そのものまで自分で作
り出さないと気が済まないの? 他人に用意された道は歩くことができな
い、っていうのかな?
ねえ、本来の目的は道を辿ってその先にあるものを会得することでしょ
う? そこまで行くための道を自分で作ることじゃないよね。もう作られ
た道があるんなら、それをわざわざ迂回していく必要もないんじゃない?
重要なのは、多分そういうことじゃないと思うよ。
分かる? あなたは自分の力で、っていうところに重点を置いていたみ
たいだけど、そんなことしなくてもいいのよ。用意された道に甘んじて乗
っかれ、って言ってるわけじゃないよ。何か学ぼうとするなら、その用意
された道の上に乗っかってからでも、学ぶ気があるなら学べるって、そ
う言いたいの。
そう彼女から言われて、私は少しの間考え込んだ。たった今彼女が喋
った話と、以前同じ場所で聞いたことを思い返して比較した。……思わ
ず顔が赤くなるのを感じた。どうしてこんな勘違いをしてしまったんだろ
う。彼女は最初から一言も、自分の力であれこれしろ、なんて言ってな
かったんだった。
気負い過ぎて、私の理想が彼女の理想でもあるって、いつの間にか勝
手に思い込んじゃったんだろうか。それとも、自分の取る行動に彼女と
いう第三者が、全面的に賛同してくれているって思うことで、行動する
根拠を得ようとしたのか。いずれにしても、彼女にとってはとんでもなく
迷惑な話だった。
あの……、と私は言った。言ったはいいけど、そのあとにどう言葉を続け
ればいいのか見当もつかず、ただ、あの、あの、って、極度の上がり症の
子供みたいに同じ言葉を喋り続けた。
彼女にはその意味が分からないらしく、ぽかんと私を見詰めていた。ど
うにか収拾をつけないといけない。あの、あの……。ごめんなさい、と私
は言った。ますます意味が分からないらしく、彼女は途方に暮れた顔を
していた。
私が勝手に、何て言うかその、自分の力で達成しなければいけないとか、
先輩もそう思ってるんだ、とか、それを望んでいるんだ、とか、私が勝手
に思い込んでただけなんです。そうしなければいけないっていう理由を、
それが先輩の意思だということにして、何て言うか要するに、……そうや
って自分の気力を後押ししようとしていたんです。
彼女の表情は変わらなかった。何を言ってるの? という顔色のままで、
しばらく私を見ていた。私がさらなる説明を付け加えようと一生懸命言葉
を選んでいたら、彼女はいきなり笑い出した。今までの経緯を考えると場
違いとも思えるような、朗らかで快活な笑い声だった。
そうかそうか、ごめんね。そんなつもりはなかったんだけどね。彼女が言
った。私としては別に、自分の力でとか、そんなことをあなたに強要する
つもりはなかったんだけど、説明が足りなかったよね、ごめん。そこはあ
なたは気に病む必要はないのよ。私がちゃんと言っていればよかったね。
もちろん、あなたがそういう風に捉えて行動して、それがうまい具合にプ
ラスになるような結果を生んだとするなら、言ってみれば、あなたがそれ
を上手に利用したのならば、それは私や他の誰かが咎めるようなことじ
ゃなくなるでしょう? だって、あなたの状況は確実に前進するわけだか
ら。
ときどきこんなすれ違いみたいなのは起きるよね。私は私の意志をもっと
細かく伝えるべきだった。うん、当然自分の力量以上のことが、自分の思
ったように正しく伝わらないとしても、少なくともそれに近付ける努力をする
べきだったよね。私の怠慢だな。ごめんね。
何で私なんかの不始末を、また自分で被ろうとするのだろう。ここまでさ
れて、私は一体どうすればいいんだろう。また彼女にフォローしてもらっ
ただけで、恩を返すとか、彼女を喜ばせるとか、とても小さい次元でもの
ごとを考えていた自分が、たまらなく情けなかった。
ねえ、自分の意思を他人に伝えることって、なかなか難しいよね。黙っ
てたって分かってもらえる、なんてことはそうそうないし。逆に、ちゃん
と伝えたつもりでも誤解されることだってあるし。……全くその通りだ、
と私も強く思った。
彼女の言うように、気持ちを伝えることは確かに難しい。誤解されることだ
って、これまでにもあったと思う。けれど、それが目的で彼女を呼びつけ
たんだから、私はそれを最後までやらなければいけない。彼女のために
も、私自身のためにも。それに、もう多分チャンスもない。
私は先輩からああいう風に言ってもらって本当に嬉しかったんです。嬉
しくって、なんとかその先輩の気持ちに、心使いに報いようと思って、私
なりにやってはみたんですけど、自分で思うような結果が出せなくって。
でも今日また先輩に、重点を置くところが違う、って、私がやらなきゃい
けなかったのは学校に通って学ぶことだ、って言われて、ああそうだっ
たな、って……。あ、ごめんなさい。何言ってるのか自分でもよく分から
ないけど、要するに私が言いたいのは、私は先輩に感謝してる、ものす
ごく感謝してる、ってことなんです。それを伝えたかったんです。
私が言い終わると、彼女は何度か小さく頷いて、そっか、と呟いた。気持
ちを伝えるのは難しい、と彼女も言った。私もそう思った。だけど彼女の
表情を見ていると、私の試みは少なくとも無駄ではなかったことが分か
って、それが私には嬉しかった。ありがとね、と彼女が言った。
私も、ありがとうございます、って言おうとしたけど、言わなかった。もう
あえて言う必要もないように思えた。だって、私が伝えるべきことはすで
に伝えてしまっていたんだから。ありがとね、という彼女の言葉に、私は
思い切り大きく頷いて、そのあとは何も言わなかった。
多分それでよかったんだと思う。必要最低限のことを喋ってしまったあと
に、さらに何か言葉を付け足してしまったら、それはきっと蛇足でしかな
いんだ、と思ったから。そうじゃない? 余計なことを言って、直前に言っ
たことの現実味が失われてしまうことだってあるわけじゃない?
まあ、そのときはそこまで綿密に考えてたわけじゃないけど、つまり、そ
れは余計なことだ、って思ったわけじゃないけど、ただ漠然と、もう喋ら
なくてもいいんだ、って、直感的に思っただけで、実際には彼女と私との
意思の疎通がはかれたことに舞い上がってしまっていて、それ以上考
えることができなかっただけなのかもしれない。
とにかく、そうして彼女と私との最後の対面が終わって、私はこうやって
無事もう一度高校に通い出すことになって、彼女はこの出来事に触発
されたのかは分からないけど、私とほとんど同じ時期にスーパーのバイ
トを辞めて、今は派遣社員になってどこかの工場で働いているみたい。
今でもときどき連絡を取るけど、ほとんどが私の状況報告で終わってし
まって、彼女は滅多に自分の現状を話そうとはしないの。私の愚痴のよ
うな報告を、うんうん、って否定もせずに聞いてくれて、ほんのちょっとの
アドバイスを二言三言告げただけで、じゃあがんばってね、って、いつも
そんな感じで終わるんだ。
どんなに力んでみせても、永遠に彼女には追いつけないんじゃないか、
と思うことがある。でもそういうものかもしれない。彼女だって前進してい
るんだから。私は差を開けられないように、必死に辛うじてついていくの
が、今のところの精一杯かも。
大体こんなところかな。これが私がもう一度学校に来ることになった顛
末の詳細だね。まあ、だから何だ、って訳でもないけど。とにかく、私は
幸運な方だったのかもしれないね。酷い仕打ちも受けたけど、他方では
彼女という人間に支えてもらえたわけだから。
彼女に会えたのは幸運だった。とは言っても、彼女が全てを救ってくれ
たわけじゃない。あくまで機会を提供してくれただけで、私はそれに乗っ
かった。運良く乗っかれた。そして道が変わった。あとは完全に私次第、
そう思ってる。
……もう何度目になるだろう? そうやって彼女(私を連れまわした挙句
に唐突に身の上話を始めた、同い年の新しいクラスメイトの彼女だ)は言
葉を締めくくり、長い話を終えた。何度か経験した長い話の直後の沈黙
の中で、私はこれまでにないくらいに腹を立てていた。
何様のつもりだ? 何がしたいのだ? 何故こんな話を私に聞かせた?
私を諭そうとでもするつもりか? 自尊心を満たしたかっただけなのか?
それとも、浅ましい優越感に浸りたいだけのか? ……それならそれで
もいい。何故わざわざ私を相手に選んで話したのだ?
私達はずっと黙っていた。彼女はどういうつもりなのか知らないが、私は
ただ単にタイミングを計っていただけだった。何故私に話した? それを
一番効果的に彼女にぶつけられる、まさにその瞬間を狙っていただけだ
った。
まあ、生きてれば誰だって何かしら背負ってしまうもんじゃない? これ
までの口調からがらりと様子を変えて、むしろ無理しておどけたような感
じで彼女が言う。私だけじゃないと思うよ。みんなそれぞれある中で、た
またま私は運が良かったってだけなんだろうし。……フォローしたつもり
なのだろうが、それは恐らく逆効果だった。
怒りで手が震えた。自分でもちょっとびっくりするくらいの反応だった。私
は運が良かったけど(それは私にとってとても引っかかる言い方に聞こ
えた)、あなたは必ずしもそうだったわけじゃないでしょう? でも誰だっ
て多かれ少なかれ云々、きっと時期が来れば云々、あなたもきっと云々
……。そう言いたいのだろう。あからさま過ぎるのだ。
私に話しかけたり、連れ回したり、長い打ち明け話をしたり、しかし結局
そのどれもが、彼女自身の軽薄な何かを満たすための手段でしかなか
ったことに、私はとてもがっかりした。もしできるのならば、今すぐ彼女の
首根っこを掴んで、生意気な猫にそうするように私の部屋から放り出し
てやりたかった。
だけど、私は何もしなかった。言うなれば、彼女が自分の話で私を感化し
て露骨な影響を与えようとするのと同じように、私が身を持って彼女のま
だはっきりとは定まらない主張にいささか暴力的な方法を用いて反撃しよ
うとするのは、とてつもなく道理に反し、かつ、とても現実的論理的手段で
はないように思えたからだった。
お互いに悶々とした状況の中で、迂闊に身動きすらできない私達を冷
笑するかのように、ただ時間が過ぎていった。長い話をした。自分の口
から発した物語の余韻に、自ら浸ってしまうこともあるだろう。だが、無
駄に長過ぎた。言え、と私は思った。どうして私を相手に選んでこんな
話をしたのか、その理由を自分の口から言ってみればいい、と。
でも彼女は喋らなかった。喋れなかったのだ、などと彼女の心情を配慮
するような弁解は一切浮かんでこなかった。喋りたい部分だけ喋ってそ
れで終わり、なんていうのはもう私には通じない。前例だってあった。そ
んなことをもう許すわけにはいかない。
まあそういうことがあったって、誰かに聞いてほしかったのかもしれない
ね。そう彼女は言って、場を締めくくろうとした。他にも取り繕うような言
葉を並べたようだったけれど、もう私の耳には届いてはいなかった。気
が付くと、彼女は別れの挨拶を述べて立ち上がるところだった。待って、
と私は自分でも驚く程の大きな声を出した。彼女はゆっくり振り返った。
どうして私にそんな話をしたの? 彼女は私の質問の意味が分からな
いらしく、きょとんとした顔で私を見た。あるいは意図的にとぼけた振り
をしたのかもしれない。誰かに聞いてほしかった、ってさっき言ったでし
ょ? どうしてその誰かが、私だったの?
彼女は一瞬だけ、そう、ほんの一瞬だけ私から目を逸らした。でもすぐ
にまた私を見つめ直して、微笑さえ浮かべてゆっくり首を振った。別に
他意があったわけじゃないよ。ただ、同じような境遇の、同い年のあな
たにこの話をしたら、一体どんな顔をするだろう? って興味があった
だけだよ。
多分私はこのとき、彼女を睨み付けていたと思う。つまり、と彼女は言っ
た。この話を聞いた後のあなたの表情が、この出来事に関しての一番
正当な評価を私にくれるんじゃないかな、って、そう思っただけ。……今
度は私の方が目を逸らしてしまった。正確には表現できない、複雑な感
情が私の中で膨らんできたためだった。
それは嘘でしょ? と私は言った。嘘? と彼女。嘘ってどういうこと?
私は少し口篭った後、思い切って言う。正当な評価なんて言うけれど、
本当はあれなんでしょ。本心ではあなたは……。しかし結局言いよどん
だ。例えそれが図星であったとしても、それを言ったところでどうなるも
のでもない、と思ったからだった。
何? と彼女が先を促す。いや、と私は言って、軌道修正のために思
案する。彼女は怪訝な表情で私を見る。そんなことより、と私は言った。
私の表情が正当な評価って言ってたけど、本当にそれが正当な評価
だったと思うわけ?
私の問いかけに、彼女は大きく頷いた。もちろん、と彼女は言った。修
正は無事に果たされたらしい。私はそのことに安堵しながら、挑発的な
目で彼女を見た。修正先の軌道に彼女を確実に乗せるためと、この後
彼女が何を喋るのか興味があったからだった。
私だって、自分の話がありふれた美談だとは思ってない。というか、美
談ですらないよ。だってそうでしょ? 客観的に見れば確かに、一応の
収束に落ち着いたように見えるかもしれないけど、私の問題、っていう
のは未解決のままだしね。
それに、話としてはそれで終わりなんだけど、その話の主要人物である
私は、当たり前のことだけど、話が終わった後だってちゃんと生きてい
かなくちゃいけない。分かる? 何て言ったらいいかな? つまり、漫画
とか小説とかのラストシーンだよ。物語の中ではそれ以降はないけど、
現実に生きている私は、そこで終わらないんだ、って。
で、今あなたが言った正統な評価、についてなんだけど、やっぱりあな
たが下した判断は間違ってないと思うよ。ひいき目に見ても、同情とか
寄せる顔じゃなかったよね。それが当たり前で、私の問題は終わってな
いんだ、って自分でも再認識できた。自分でもよく分からないけど、そ
う言ってほしくて、こんな話をあなたに向けたのかもしれない。
私はいらいらして言った。そんなのあなた一人で処理すればいいじゃな
い。何で私を巻き込む必要があるのよ? 一人で勝手にやって。わざわ
ざ私を巻き込まないで。私の剣幕に驚いたのか、彼女は引きつった顔を
した。が、すぐに笑顔を作って言う。……一人で処理できるんだったら、
そもそも初めから問題なんか抱えていなかったよ。
話し相手にあなたを選んだのは、確かに私のエゴだよね。その点は謝る。
一方的過ぎた。配慮してなかったよね、ごめん。考えてみれば、同じ歳の
あなたに対して、ある意味甘えていたのかもしれないな。私は話したかっ
た。でも理解してくれそうな人は周りにいなかった。それで、否応なしにあ
なたを巻き込んだんだ。
私としては、普通に生きてればなかなか遭遇し得ない酷い場面をいろい
ろ見てきたつもりだったんだけど、決してそういうわけでもないんだよね。
私が見たものごとはほんの一例でしかなくて、もっと酷い場面に遭遇し
た人だって、きっといるはずなんだよね。
あなたも多分そうなんだろう。いや、多分みんなそうなんだ。ああ、いや、
あなたもきっとそうなんだから、ってそういうことでこんな話をしたわけ
じゃないのよ。……弁解にしか聞こえないかな? でも、これだけは本
当よ。私はあなたと、いわゆる傷の舐め合いをしたかったわけじゃない。
ただ単純に理解してほしかった。ん、もうちょっと踏み込んで、私の抱え
た問題を、細かいところまで把握してもらった上で、なじるなり同調する
なり、何らかの反応を示してほしかったんだと思う。うん、結局理解だね。
理解してほしかったんだ。どういう批評をもらうことになるにしても、私の
身にこんなことがあったんだよ、って誰かに知ってほしかったんだ。
そういう話をするのって、確かに相手に余計な負担を被らせることにもな
りかねないけど、やっぱり一般的には迷惑なのかな? もし迷惑だって
いうのなら、やっぱり私はあなたに甘えていたってことになる。でも、でも
ね、私は……。
ちょっと待って、と私は彼女の台詞を遮った。そんなことどうでもいい。
あなたがその話をしたかった理由とか、その正当性とか、そんなことは
聞いてない。……ここまで言って、私はすでに後悔していた。そして、こ
の先を続けるべきなのかどうか、少しの間迷った。馬鹿みたいだ、と思
う。まるで子供の喧嘩だ。
正当な評価、と彼女は言った。ならば私の発言も、彼女が求めたもの
の範疇に含まれるのではないのか? 言え。言えばいい。それを彼女
も望んでいる。小さく深呼吸した。彼女を見据えた。あなた、相手が私
だから話したんでしょ? ……彼女には意味が分からないようだった。
その様を見て、私のそれは確信に変わった。過去のことが頭を過ぎった。
同じような場面の中で、私は幾度か長い話をされてきた。皆同じだったの
だ。彼女は、彼女達は、私が相手だから、私に向かってそんな話をしてき
たのだ。
私に話したとしても、私がその話に対して何か意見を言ったり、質問を
したり、そういうことをしないと思ったから、つまり何も言い返さないと踏
んだから、そんな話をしたんでしょ? 言ってみれば、私は安全だった
わけだ。……私の剣幕に、彼女はあっけに取られていた。
生憎だけど、もう私は他人のそんな長い話を、半ば無理矢理聞かされ
て黙ってられるほど辛抱強くはないから。そうやって一方的に話すだけ
話して済ませられる、って思われるのも、私がただ無害で無抵抗な人
間だ、って見られるのも、もう黙ったまま受け入れたりしないわ。
あなた達はいつも、そうやって私のことなんか考えもせずに自分達のし
たいようにするだけで、私がどう思ってるかなんて省みようとすらしない
じゃない。いつも一方的で遠慮も知らないくせに、それが私のためにな
るんだ、とか、私のためを思って助言しているんだ、とか、そんな無責任
でずうずうしいことを考えているんでしょ?
彼女の顔が歪んでいた。私は嫌な気分になる。ここまで言わなければ
ならなかったのか? もっと上手い伝え方があったのではないのか?
感情に任せて叫んでしまったら、彼女の言ったことにだってもうとやか
くは言えはしないのではないか? 無遠慮という点で、無責任という点
で、すでに私は彼女と同じになってしまったのだから。
同じ。ああそうだ、私と彼女は同じだった。引きつった顔。そんな表情を
浮かべるとき、その人は今どんな心情なのか、私には痛いほどよく理
解できた。もしも、もしもだが、仮に何らかの拍子でSが私に向かって長
い話をする機会があったとするのならば、きっとそのときは、私は今の
彼女と全く同じ顔をしただろう……。
私が我に返ったとき、彼女の表情は幾分変化していた。大丈夫? と彼
女が言う。私は意味が分からなくて少し動揺する。……そうだった。つい
さっき、私の言葉に手酷く刺されたはずなのに、彼女は不意に塞ぎ込ん
でしまった私を心配していたらしい。
彼女の問いには答えずに、私はさらに拡大した嫌な気分に気を滅入ら
せて、彼女の方も見ないでうなだれていた。そして、嫌な気分の正体と
は純粋な後悔なのだ、ということを今さらながらに知る。全く役に立たな
い、教訓にさえなりはしない、いや、似通ったようなものごとを、私が単
純に教訓としてさえ生かし切れていない、ということが問題なのだろうか。
どうしたの? と彼女が言う。いや、と私は辛うじて応えるも、その後の
言葉が続かなかった。一体何と説明すればいいのだ? あなたの主張
に反論したら、私も同じ穴のむじなになった。……馬鹿げていた。彼女
が理解してくれるはずもない。
私と彼女の立場は逆転してしまっていた。私が辛辣な言葉で彼女を追
い込んだはずが、彼女の理不尽な気遣いという、私には対抗できそうも
ない武器で、今度は私が追い込まれる側になってしまっていた。
目的が分からなかった。何故、自分に向かって酷い言葉を吐いた人間
を気遣おうとするのか。人が行動するとき、そこには必ず目的が存在す
るはずで、私は彼女のそれを的確に見抜く必要があった。でないと、これ
からいいように利用されるだけになってしまう。
ねえ大丈夫? とまたさらに彼女が言う。そういう台詞は、本当に私を気
遣うのなら、むしろ逆効果でしかないのに。あるいはそういう方法を貫く
つもりなのか。いけない、と思う。反撃しなければ、と強く思う。
大丈夫、と私は言った。声に動揺が多大な影響を与えていたことくらい
私にも分かった。大丈夫、何でもない。そう言って私は、彼女に悟られ
ぬように静かに深呼吸をして、気持ちを落ち着けようとした。
大丈夫、と私はまた言った。同じ台詞を繰り返してしまったことに、若
干の不安を覚える。これではあれだ、本当は怒っているのに、怒って
ない、怒ってない、と繰り返すのと変わらないじゃないか。繰り返すた
びに、言葉は真実味を失っていくのだ。
一体どうしたの? と彼女は言った。一体どう説明すればいい? と私
は思った。どこから話せばいいのだ? 私の生い立ちから説明しなけ
ればならないのか? 私がさっき塞ぎ込んだ理由を説明するためにわ
ざわざ? 相当長い話になるが、そのあとでもきっと、彼女の理解を得
られる可能性は、恐らく万に一つもないと思う。
どうしてなんだろう? 私はいつも自分の本心を、その瞬間は完全に伝
えたつもりでいるのに、毎回それは微妙に外れた言葉にしかならないの
だ。そのこれまでの苦い経験は私を臆病にさせ、真実味を失うと分かっ
ていながらも、私はまた同じ言葉を呟くしかなかった。大丈夫、と。
もちろん、それを彼女がそのまま鵜呑みにしてしまうわけがなかった。
しかし、彼女の手持ちの言葉がもう尽きてしまったのだろうか、彼女は
喋らずに、喋れずに? とにかくただ私の方を見ているだけで、私もも
う何を言ったらいいのか分からず、自分達が造ってしまった非情な部
屋の中に閉じ込められて、無為に時間だけが流れていったのだった。
どうしていつもこうなるんだろう? ……多分何も変わってないからだ。
変わったのは、私が在籍している学校の名前と、制服くらいのものだ。
いや、そんなことはどうでもいい。毎回こうなるのが嫌なら、何か対策
を講じなければならない。何を? 具体的にどうすればいい?
例えば、彼女達と同じように、私も私の身に起こった出来事を、長い話
として誰かに話す。今まではずっと聞き手だったんだ。私が語り手にな
っても罰は下るまい。そう、たった今私に自分の話を聞かせた彼女。そ
の彼女に今から私の話を聞かせたら、それこそ彼女は一体どんな表
情をするだろう?
そうだ、そして全部話した後、改めてぶつけてやればいい。……永遠の
命題。私とSとは本当に友達だったのか? その妄想は私を高揚させた。
絶対に、誰にも答えられはしないだろう。
私は結局話さなかった。自分の中でもまだうまく整理できていないし、言
ったところでどうなるものでもない、という諦めもあった。だが、彼女が私
に求めたのと同じように、もしかしたら、という淡い期待も存在しなかった
わけではないと思う。……自分でもよく分からないが、とにかく私は話さ
なかった。
ごめんね、と彼女が言った。私は彼女を見た。変な話聞かせちゃったね。
いや、と私は目を逸らしながら言う。そして思った。私が彼女に向かっ
て浴びせた酷い言葉について、私も彼女に謝るべきではないか? 何と
言えばいい? 言葉が浮かんでこない。躊躇っているうちに、私はまた
機会を逃した。
本当にごめんね、と言って彼女は立ち上がった。それを見て私は焦りを
覚える。帰ってしまう、リセットされる、次の保障はない。あ、と私は言葉
にもならない声を上げた。帰るの? 思わず口をついて出た。彼女は頷
いた。もうそろそろ帰らなくちゃ。
待って、とは言えなかった。が、彼女は私の言葉を待っているかのよう
に、立ち上がったまま動こうとしなかった。多分猶予を与えていたのだ。
あるいは、もしかしたら、私の話を聞くつもりでいたのかもしれない。正
確なところは分からないが。
何か言わなければ、と思う。彼女のことは嫌いではなかった。いや、これ
まで長い話を私に向けて語った人達のことを、私は嫌ってはいなかった。
むしろ好意を抱いていた、と言ってもいい。一方的に語られて、私が冷静
に語り返すことができなかったからこそ、毎回理不尽な怒りを感じて、逆
恨みに近い感情を持っていただけのかもしれない。
結局私は何も言えなかった。謝罪も、彼女を引き止めることもできなか
った。私の部屋のドアまで彼女が歩き、振り返って、じゃあまた明日、と
別れの挨拶をしたときにも、私は、うう、と明確な意味すら持たない声を
辛うじて発しただけだった。
ドアが閉まる。すぐに立ち上がってそのドアを開け、彼女を呼び止めるこ
とも、私にはできたかもしれない。部屋に連れ戻し、あるいは捕まえたそ
の場で何か言うこともできたかもしれない。だが私は、椅子から立ち上が
りもせずに、立ち上がれなかった、とういう言い訳も状況によっては有効
かもしれないが……。私はそのまま彼女を帰してしまったのだ。
こういうのはいつものことだった。いつものことだったが、やはり何度経
験しても気が滅入った。後悔。もっとうまくできていれば、それだけの力
量が私にあったのなら、彼女を傷付けることも、私が落ち込んでしまうこ
とも回避できたのだ。
一生涯、私はこういう人間であり続けるのだろう、と思う。関わってくる全
ての人間に対して、私にその意思がないにしても、その人の心を切り刻
んで、もう二度と関わるまい、と思わすまでに傷付けるのだ。私としては
それは、臆病から来るほんのの小さな誤解でしかないつもりなのに、い
つも気が付いたら決定的なほどに溝を深くしてしまっている。
繰り返されただけだった。一生続くことなら、たった今それが定例通りに
成されただけであって、仮に今回だけ、奇跡的に破滅を回避できたと仮
定したとしても、それが一体何だというのだ? 私という人間の本質は変
わりはしない。未来永劫、恐らくはずっとずっとずっと続いていくのだから。
繰り返すたびに重くなる。今までの積み重ねが、その都度リフレインされ
るからだった。今日のことだって、きっと次回の重荷になる。次回のこと
は、間違いなく次の次に影響を及ぼす。そうして積み重ねていって……、
いつか私は果てるかもしれない。
私はおかしいのだろうか。身体の、もしくは思考回路のどこかに欠落が
あって、周囲の人々が何気なくやり過ごしていることにいちいち躓いてい
るのだろうか。そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。
ただその翌日、私は酷いことを言ってしまったために彼女の顔をまともに
見れなかったのだが、彼女自身はまるで全く意に介していないように私に
話しかけてきた。私は戸惑い、わけが分からなくて混乱した。昨日彼女と
会って話をしたことさえ、あやふやになってしまうような気すらした。
彼女の話に出てきた、先輩の真似をしているのだろうか? そうかもしれ
ない。相当な影響を受けたのだろうな、と思う。いや待て、そのことを知っ
ているということは、やっぱり私は彼女の話を聞いたのだ。
彼女に話しかけられて、私もぎこちなく反応を返したりしていると、結局
昨日の話は何だったんだろう、と思う。彼女は何がしたかったのか、そし
て、どういうつもりでまた私に話しかけたりするのか。私に何を望んでい
るのか。こんな彼女に、私はどう反応するのが一番自然なのだろうか。
彼女が自分の過去の話を再び持ち出してくることもなく、私もあえて自
分から話題に上げることもしなかった。ただ、彼女が話しかけて私が不
器用に返事をする、そんなやり取りが、それから数日の間続いた。
日を重ねれば、彼女は一辺倒な受け答えしかできない私に飽きて、違う
捌け口を見つけようとする、と考えていたが、一向にその兆しは見られな
かった。彼女はいつも私のところに来て、どうでもいいような話をして……、
ますますわけが分からない。
私は一人で悶々と、彼女が私に近付いてくる理由や、彼女から見た場
合の私という人間の利用価値などを想像し続けた。当たり前だが推察
のみに留まるだけで、確証を得ようとするのなら、再び彼女に向かって
問い質してみる以外に方法はなさそうだが、多分私はもうそうしないだ
ろう。
怖かった、というのもあるかもしれない。何が怖い? 彼女の反応? 前
回は私が伝えきってしまう前にうやむやになった。次そうしたときは、彼
女は語気を荒げて反撃してくるかもしれない。全身全霊を上げて拒絶を
試みるかもしれない。そうなったらもう、私は本当にどうしようもなくなる。
何も考えられなくなる。
それともうひとつ、私自身のことだった。これまでの経験上、私が誰か
に何かを話すとき、極端に感情的になって、相手を傷付けてしまうかも
しれないことに注意を払わなくなる傾向がある、と思う。そのとき、もしそ
うなったとき、彼女は酷く傷付くだろうし、私はとてもとても嫌な気分に苛
まれるのだ。
しかし、怖かった、それが本当の理由か? ともし誰かに問われたなら、
やはり私には答えられなかっただろう。自分で理解できる問題なら、最初
からこんなことにはならなかったのだ。それは確かだった。全くその通り
だった。
が、すでに無数もあって、今も増え続けているような「理由」の数々に対
して、私がひとつひとつイエスかノーかで答えていけるわけがないのだ。
「理由」は多分すでに膨大な数があったし、そのひとつ取っても、そうか
もしれない、そうではないかもしれない、曖昧な結論しか私は付けられ
なかったのだから。
もがいているうちにも問題は増え続ける。恐らく、生きている間は誰しも
がずっとそうなのだろう。進展のない日々の中で、唐突にそれはやって
きた。とはいっても、何か特別なことが起こったわけでもない。十分に可
能性のあった事柄が、出し抜けに私の身に降りかかってきただけのこと
だった。
簡単に言うと、私と彼女とが同じ役目を負わされたという、それだけのこ
とだ。何だったか、ある日ちょっと変わった種類の提出物が配布されて、
私と彼女とがその回収係に指名されたのだ。それだけなら何でもない。
ただ担任が任命する際のやり取りが、私に違和感を感じさせたのだ。
最初担任は、彼女の名前を挙げて指名した。内心はどう思っていたか
分からないが、彼女は快く受諾した。それからさらに、じゃあもう一人、と
担任は教室内を見渡した。今思えば実に白々しい行為なのだが、とにか
く担任は二、三度教室中に視線を投げて、それから私の顔を見た。いい
かな? と担任が言う。断れるわけがなかった。
どこかで聞いたような話だ、と思った。そしてすぐに思い出した。つまり、
担任はこう考えたのだ。未だ周囲に馴染めず浮いている私を、唯一親し
そうな彼女と一緒に他のクラスメイトと関わらせることで、他の生徒達と
打ち解けられるような機会を与えよう、と。
憤りを押し隠して、私は言われたことに従った。だって他にどうしようもな
かったのだ。他人と関わるのは嫌です、と断ったとしても、何故? と返
されれば、もう私は反論できない。何故なのか私にも分からないのだか
ら。
与えられた責務は、ほとんど彼女が遂行した。私は彼女に付いて回った
だけだ。彼女が私を連れて他のクラスメイトの前に立ったとき、誰もがち
らっと私に一瞥を投げて、それから彼女に向き直って、要求された提出
物を彼女に渡すのだ。彼らにそんな意図はなかったのかもしれない。た
だ、私がそう感じただけなのかもしれない。
そんな態度を取られるたびに、私の憤りは大きく煽られた。彼女の友達
だから、彼女が親しく声をかける(かけてやってる?)ような対象だから、
あえて露骨な嫌悪感を表さないように……。それはそれで屈辱的な部分
もあったかもしれないが、私の関心は、誰もが彼女と私とを友達だと見て
いる、彼女と私が友達同士である、と認識されているところに注がれた。
そう見られているんだ、ということに驚いた。私はそれまで一度も彼女の
ことを友達だと思ったことはなかったからだ。だが、担任の策略と、クラ
スメイトの反応とによって、ようやく私は理解した。そういうわけで、いつの
間にか私と彼女とは、傍から見れば友達、という間柄になってしまってい
たのだった。
そのことに気付いたとき、私は酷く戸惑った。確かに彼女は、どう思って
いるのか分からなかったが、私に近寄り話しかけてくれた。そこだけ見
れば、親しく付き合っているように見えたかもしれない。何というか……、
私はどうすればいいのだ?
積極的に彼女との親睦を深めるつもりはなかった。だからといって、露骨
に彼女を遠ざけようともしなかった。そんな相手を皆から友達という呼び
名で認識されてしまった。間違っているんだ、と言いたくても、私を含め
て皆が皆間違っていた。まず誰の間違いから指摘していけばいいのか、
それが分からなかった。
私達のような友人関係も、存在し得るのだろうか? 私の乏しい知識で
は判断できない。いや、存在するから皆からそう呼ばれるのだろう。でも、
しかし、やっぱり間違っている気がする。彼女にも悪いような気がする。
と言っても、改めてまた彼女に辛辣な言葉を投げかけるのは躊躇われた。
私は結局どうしたいのか、彼女に再び問いかけたあと、私は一体どうする
べきなのか、まだ定まってもいなかったのだから。
他人が聞いたら笑うだろうか。理解に苦しむかもしれない。どうして私は、
こんな誰も躓かないようなところでわざわざ躓いたり、誰も省みないよう
な細かいことにいちいち悩んだりしているのだ。私の身体のどこかに、も
しくは私の思考回路のどこかに、何か致命的な欠落でも存在するのか。
……あるいはそうなのかもしれない。
彼女は相変わらず私に話しかけ、周囲は私達が「友達」だということに疑
いを持つ様子もなく、私はわだかまりを抱えたまま、それぞれが日々を
過ごしていった。こういうものなのかもしれない、と私は思う。誰だってき
っと問題は抱えている。しかし、それが本当に解決されることなどないの
だ、と。
生きている限り、多分問題は無限に生じてくるのだ。私の場合で言えば、
復学のことを片付けたあとに彼女についての新しい問題を抱え込んでし
まったように。これからもきっと、何かひとつ片付けたときはその次の問
題が、片付けられなかったとしてもそれに関連したまた新たな問題が…
…。いや、片付けたかどうかは関係ないのか。そうなのかもしれない。
万人に、問題が無限に訪れるというのなら、何故皆その事実を前にして
平気でいられるのだろう? 特に彼女の立ち振る舞い。何故あんなこと
を経験しながら、まだ他人にそんなに期待することができるんだろう?
私に欠落の代償を求めても何もないのに。
単純に、鈍感なのかもしれない。というよりも……、そうだ、見なくていい
こと、知らなくていいことは、本来私達には見えないような仕組みになっ
ているのだ。だから私の気持ちを誰も理解できないし、私も皆の考え方
が分からないのかもしれない。
何が間違いだったのだろう。先天的な欠陥なのか、それとも私のこれまで
の生活の中で、ある瞬間から突然こうなってしまったのか。省みるに、Sの
死はただのきっかけでしかない。私はそう思うのだが、周囲は何と言うだ
ろう? やはり、私が変わったのはSのせいなのだろうか?
……こんな話をしたら、彼女は一体どんな顔をするだろう? 私の抱え
た問題の一番最初、幼年期の私とSの出会いから話し始めるのだ。成長
するにつれて離れていったことや、気付いたときにはもう遅過ぎたこと。
間違いなく、今まで聞いてきた誰の話よりも、確実に長くなるはずだった。
902 :
名無しさん?:2008/03/07(金) 10:13:02 ID:m74WyEdi
良くわかんねーぜベイビー!!
いいアイデアかもしれない。より深く、より濃密に彼女の心に浸透させ
るには、まず何と言って話し始めたらいいだろう? 去年、私の友達
が死んだの。……インパクトはあるが、根本的な部分が欠落している。
去年の夏、私の幼馴染が死んだの。……悪くはないが、少し薄いよう
な気もする。
大体、Sのことを何と表現すればいいのかさえ分かっていないのだ。友
達、幼馴染、他の表現はあるだろうか? 幼い頃から親交があって、で
も徐々にそれも失われていって、最後に会ったときは全くの他人だった。
……最初の一言で言うには長すぎる。
去年の夏、私の友達が死んだの。友達、と言っても幼い頃から親交が
あって、でも徐々にそれも……、と続けるなら無理はないかもしれない。
いやむしろ、いきなりSと言えばいいのではないか。去年の夏、Sが死ん
だの。Sっていうのは幼い頃から……。そう繋げれば、あるいは私も饒舌
に喋れるかもしれない。
だが、自分がそんなことを彼女に喋らないのはよく分かっていた。言わ
ば、絶対安全なところで、どだい無理なこと、あり得もしないことを妄想
して楽しんでいた、と言ってもいい。私はそれを彼女に喋ろうなんて、微
塵も考えてはいなかった。
そうしなくて正解だったのかもしれない。仮に喋ったとしたら、どんな厄
災が待ち受けていたか知れない。余計なことは言わなくていいし、これ
以上余計な重荷を背負う必要もないのだ。私は自分にそう言い聞かせ
た。
それが正しいことなのか、間違ったことなのか、多分もっと時間がたた
なければ分からない部類のことなのだろう。今の私は、それで正しい、
と思って彼女に何も言わなかったわけだったが、もちろんこのあとその
判断がどう響いてくるのかなんて、絶対に誰にも分かりっこないのだ。
時間は流れて、いくつかの校内行事が行われ、そんなときも私は彼女と
一緒だった。それでいいのかもしれない、いつからか私はそう思い始め
た。もう、彼女との関係に疑問を抱えて、それをを明確にして周囲に知ら
しめなければならない、などとは思わなくなっていた。多分、そうしなくて
も全く困らなかったからだ。
自分で望んだわけでもないが、いつも近くにいる存在というのが当たり
前になってしまうと、あえてそれを取り除く必要もなくなって、そうなると
周囲の認識と私の感覚とも別に整合性を欠いたことではなくなってしま
い……、要するに、私は慣れたのだ。
彼女が近付いてくることにも、彼女が話しかけてくることにも、そしてその
一連のやり取りを周囲の人々が「友人関係」だと認識することにも。最初
は確かに違和感があった。でも、それももうなくなった。こういった友情の
育み方を私は今まで知らなかったが、だから最初戸惑っていたわけだが、
大多数の者がそれを「友情」と呼ぶのなら、私達の関係もきっとそうなの
だろう。
私は確かに慣れた。でも、それが私の可能性を広げる第一歩になり得
たのか、それともまた妥協という道を辿ったにも拘らず何も思わなくなっ
てしまっただけのか、正確にはどちらなのか分からなかった。
分からなかったが、特に支障はなかった、多分。今さら私の考え方がど
うであろうと、認識されてしまった事実は変わりようがないし、さらにいえ
ば、自分でも驚くべきことなのだが、私は彼女と一緒にいることが結構気
に入りだしていたのだ。この点だけを評価するならば、私の可能性が広
がった、と言っても間違いではないのかもしれない。
しかし、一緒にいることに慣れただけであって、一般的に言われるような
友達らしいことは、彼女に対して私には何一つできずにいた。彼女が何
か言っても曖昧な相槌を打つだけ。決して自分から何かしようとはしなか
った。そこだけに着目するなら、確かに私は安直な選択をして相手に甘
えていただけなのかもしれない。
そんなことを内心考えていても、彼女の態度は変わらなかった。その彼
女の態度に安堵を覚え、そしてそんな自分に疑問を抱いた。が、全く持っ
て彼女の態度は変わらなかった。当たり前と言えば当たり前だ。私の葛
藤が存在するところと、彼女が様々な決定をするために持っている場所
は、恐ろしく遠い位置にある星と星のように、全く異なった世界だったから
だ。
どこから来たのかは分からないが、私はその友好的接触をいつの間に
か受け入れていた。相手の目的がはっきり分からないとはいえ、その友
好的な交流は、数ある不安定要素を考慮した上でも、楽しかった、とさえ
言える。
得体の知れない別の目的を抱いているかもしれない可能性を危惧して、
早く自分の世界に帰ってほしい、と思うと同時に、もっと積極的な、例え
ば今度は私が彼女の世界を訪れたりだとか、そんなさらなる関係の発
展を望んでいた。相反する、そんな二つの思考が私の中に同時に存在
していて、葛藤とはつまりはそういうことだった。
葛藤はもちろん私の中に存在した。だが、重要なのはそんなことではな
かった。広いこの世界に、人間は幾多もいる。私と同じような問題を抱え
て生きている人達も、それほど多くないにしても、確かに存在するはずだ。
……しかし、そんなことではない。そんなことはどうでもよかったのだ。
私の持つ葛藤について、相反する事柄について、信じてもらえないだろ
うとは思うが、私はそのどちらについても、本気でそう考えていた。ただ、
いつも両方を均等に持ち続けたわけではなかった。片方に傾倒したとき
はもう片方を忘れ、もう片方が現れてきたときにはその反対のことを忘
れた。そんな具合だった。だから困っているのだ。
どちらにも傾いていないときには、一方に偏らずに考えることができた。
が、両方の考え方を平等に批判するだけで終わってしまった。揚げ足
取りはできるが、両方をうまくまとめた新しい考え方、というのを作り出
せなかった。だからずっと答えを出せずにいたのだ。……恐らくそれが、
私の抱える問題の最も重要な箇所だと思う。
彼女に全部話したら、一体何と言うだろう? どんな顔をするだろうか?
長い話の間中ずっと真剣な顔をして聞き入り、そして私の話が終わった
ら熱のこもった口調で論じるかもしれない。それは違う、と。そんな考え
方は間違ってる、と。
彼女なら言いそうだ、と思った。きっと、これまで私に話をした誰よりも攻
撃的に、不恰好だけど自信に満ちた自論をもって私を否定するだろう。
何でそう考えるの? 何でそういうふうにしか考えられないの? そんな
ことを恐ろしく激情に駆られた顔で言うのだ。多分そんな感じだろう。
私は何度もそのシーンを想像した。そしてその度にほくそ笑んだ。現実
に彼女を目の前にして笑ってしまうこともあった。当然彼女には意味が
分からなかったらしいが、その場は何とか取り繕うことができた。それを
彼女は別の意味で、つまり、ようやく表れてきた私の親愛の印だ、と誤解
してしまったのかもしれない。
それが直接のきっかけだったのかどうかは分からない。いつの間にかそ
うなっていたのを、そのときにふと気付いただけなのかもしれない。、彼女
はもっと私と打ち解けようと、……悪く言えば彼女の言動にある種の図々
しさが感じられるようになったのだ。
私は最初戸惑い、そして少々腹を立て、いかにして彼女に自制を要求し
ようか、と考えたが、結局何もしなかった。確かに腹は立ったが、それは
きっと純粋に私個人の問題であって、お互いがお互いのことをきちんと把
握して距離を近付けているならば、それは別に不快でも不愉快なことで
もない。むしろそうなるのが自然なのだ、とすら思う。
それに私は、一概に彼女の言動を批判する資格を持っていなかった。か
つては私も一方的にずかずかと他人の領域に入り込んで、意図もしてな
いのにその人の心を傷付けたことがあったからだ。因果応報とはよく言っ
たものだ。以前私と関わった彼女達はきっとこんな感覚だったのだろう。
彼女は私と同じ轍を踏んでいるだけなのか、それとも私と同じような経
緯を辿りながらも、あえて私に対してそんな態度で臨んでくるのか、何
もしようとしない私には分かるはずもなかった。
しかし、彼女の本意がどうであれ、彼女のその態度に私が対等な反応
を示すことができれば、誰も何も、もちろん私にだって、一切の反論の
余地はないのだ。しかし仮にそうだったなら、私の抱えた問題など……。
いつもの台詞。初めから存在しなかったか、今よりももっと軽度で済ん
でいたに違いない。……苛立つ。原因は果たして何だったか? 問題
だ。それがなければ? ……いや、もういい。知れたことだった。
私が何を考えているのか知る由もない彼女は、かなりのハイペースで
さらに私に接近しようとしてきた。私は何故彼女がそうするのか、いや、
何故そうできるのかを考える。
彼女と私。似ていなくもないような問題によって以前通った学校を辞め、
今年から新しい学校に入ることになった。ここまでは同じだ。しかし、彼
女と私とは絶対的に違う部分があった。
彼女が語った話によると、彼女は問題の当事者だった友人を捕まえ
て問い質したらしい。それから、その後アドバイスをくれたバイト先の
先輩と深く話し合ったという。方や私は、いつも誰かが喋り終わるの
を黙って待っていただけだ。
彼女は話していた。私に長い話をする前に、問題が進行中のときから誰
かと話をしていた。現実には彼女がどの程度まで、相手に対して本音を
吐露したのかは分からない。しかし、言うと言わないとでは絶対的な開
きがあるようにも思う。
それは彼女の日頃の態度からも察することができるように、自ら言葉に
して誰かに伝えることができたなら、問題は解決とまではいかなくとも、
いくらかは軽減できるかもしれないのではないだろうか。そうかもしれな
い。だが、すでに遅過ぎた。
私は誰に話をすればいい? いろいろと助言をくれた、かつてのクラス
メイトとも、精一杯私を何とかしようと奔走してくれた元副担任とも、今
さらもう連絡は取れないだろう。そして問題の当事者、Sはもういない。
……馬鹿げた考えだが、思ってしまう。Sはそのためにいなくなったん
ではないだろうか?
物凄く手の込んだ報復。結果的に見ればそうかもしれない。実際そう
なっているようでもある。どちらにしてももうSがいないことと、それによ
って私がとても迷惑しているのは、紛れもない事実だった。
では、私がもう少し問題を、解決までとはいかなくても、せめて軽減さ
せるためにはどうすればいいのか。……簡単なことだ。単に、喋れば
いい。簡単なことだが、難しかった。だから問題が……、いやそれはも
ういい。とにかく、私の身に起きたここ数年の出来事を、場合によって
は私の生い立ちから、誰かに話せればきっと何かが変わるだろう。
その相手として最も相応しいのは、新しい「友達」である彼女だった。
私は自分が一度話し始めることができたなら、ところどころ躓きながら
も最後まで語ることができるはずだ、という予感もあったし、彼女も最
後まで黙って聞いてくれて、話し終わった後に彼女なりのアドバイスを
くれるだろう、ということも分かっていた。
だが、私は話せなかった。まるで私の行動や思考を司る器官が、それ
を抑制するブレーキやリミッターなどをしっかりと内包しているかのよう
に。完全に取り除くとまではいかなくとも、そのいささかありがた迷惑な
機能をいくらかでも弱めてやる必要がある、と私は思った。
そのためにはどうすればいいか? 私は薄々気付いていた。誰かにも
言われたような気がする。……そうだ、元副担任。最後に聞いた言葉だ
った。あなたのお友達のお墓を訪ねなさい。確かにそう言った。そして今、
そうするのが多分最善の策なのだろうな、と私も思う。私にも何故なのか
正確には分からないが。
Sの墓を訪ねる。無論それだけで何もかもが上手くいくとは微塵も考えて
いなかった。さらに幾多の面倒を乗り越えてSの墓に辿り着いたとしても、
その墓石に向かって自分が何か言葉をかけることができるとも思ってい
なかった。では何のためにそこに行って、私は何を得ようというのか。
あるいは私がSの葬儀に不参列して、Sの死に顔をきちんと確認しなか
ったからかもしれない。Sの死を私がきちんと身を持って把握していた
なら、もう少しまともな……。きりがない。とにかくだ。
どこにあるのかも分からないSの墓を、私は探そうと思う。探して、その
墓石に対峙して、何をするのかは正確には定まっていないけれど、と
にかく探し当てて、変わってしまったSを、あるいはSだった物質を目の
当たりにして、それをきっかけにいい加減転換を図らなくてはならない。
当てはなかったし、仮にそれを見付けたとしても、そこからの私の転換が
補償されているわけではなかった。また空回りに終わるかもしれない。ま
た何らかの悪影響を生み出すかもしれない。もしくは全く何も生み出さな
い、学び取れないかもしれない。後悔だけが残るのかもしれない。
明確な理由などなかった。私がSの墓を見付け出さなくてはならない訳
さえ明確ではなかった。ただふと思い付いて、そうすることによって何か
しらの奇跡にでも遭遇できるかもしれない。でも、できなくてもいいのだ。
もう失うようなものは何もないのだから。傷口は開くかもしれないが、今
さらそれが何だというのか。
プラスにしろマイナスにしろ、多分マイナスの要素の方が俄然強いのだ
ろうが、Sの墓を見付け出そうとすることは、私には名案に思われた。そ
れでいいのだ、と思った。ポジティブな、そしてネガティブな後付けの理
由はいくらでも湧いて出た。どっちでもいい、と思う。傷口が開くか癒え
るかは、その場に立ってみてから判断すればいいのだ。
Sの墓。Sの骨が、凄惨な事故で酷いことになったその遺骨が納められた
場所。もし私がその前に立ったとき、私に余裕があるのならぜひ言って
やりたいことがある。まずは手を合わせて目を瞑り、形式にのっとった作
法で再開の挨拶を。それから目を開けて、可能性は薄いだろうが実際に
声に出して、もしくは心の中で大声を張り上げて、私はSに向かって言う。
声に出すか出さないかは、さしたる問題ではない。多分初めから意味な
どないのだから。どっちでもいいのだ。とにかく、私は言う。私にも非はあ
った。確かにあった。あり過ぎた。でも、結局は双方の問題だろう。私にも
落ち度はあったけれど、それは貴女にもあったのだ。
ある時期から私は喋ることを止めてしまったが、貴女だって生きることそ
のものを止めてしまったじゃないか。おかげで機会は永遠に失われた。問
題は宙吊りのまま、私は不安定な状態のまま、貴女だけが節度のない非
情な方法でいち早くエスケープしてしまった。私が腹を立てるのも当然だ
ろう?
……それはまあいい。もう決まってしまったことだ。私にも貴女にも、もう
どうすることもできない。それはもういい。重要視するべきところはそこで
はない。要は、私の方からはもうどうすることもできないのに、記憶とか、
思い出とか、そんなかたちで未だに私に干渉してくるのを、もういい加減
に止めてほしいのだ。
貴女はただの死人じゃないか。死人だからといって、そんなやり方がいつ
までも許されるわけがないのだ。過去私は何度か、いや、何度も貴女との
決別を決意して、そしてそれと同じ数だけ破れてきた。そんな繰り返しも、
もう終わりにしたい。いや、もう終わりなのだ、と。
Sの墓を見つけ出し、その前に立ったなら、今度こそできそうな気がする。
だが、私はSの墓がどこにあるのか知らない。いなくなったSの家族と一緒
に、どこか遠い街に行ってしまったのかもしれない。それでも、と私は思う。
それでも私は、Sと本当に再会しなければならない。そして、本当に決別し
なければならない。
そう強く思った日の放課後、私は新しい「友達」である彼女の誘いを断り、
学校近くの書店に行って地図を探した。大して時間もかからずに、目的
の物を見つけ出した。種類も多くなかったし、私の求めている情報もきち
んと記載してあった。地方新聞社の発行した県全域詳細地図。三千五
百円という価格だったが、ともかく私はそれを手に入れた。
これを見ながら、私は休日の度にあちこちを歩き回るだろう。地図に記さ
れた墓地の場所を、しらみつぶしに訪ね歩くだろう。まずは手近なところ
から、そしてそれが終わってしまったなら、もう少し遠い場所を探して歩
く。そうやっていれば、いつかSの墓に辿り着くことになる。
自分の部屋で、地図をぱらぱらとめくって、私は軽く眩暈がした。これだ
けの数を探して歩けるのだろうか? まして、この地図にSの墓の場所が
載っているとは限らないのだ。私はまた不毛なことに必死になろうとして
いるのではないのか? 砂漠に砂を運ぶような徒労に終わるのではない
のか?
しかし、もう他に方法もなかった。私がSとの再開を求める以上、それがま
るで雲を掴むような話であっても、そうせざるを得ないのだろう。今、その
意味を考えるな、そう言い聞かせた。そこに行けば、Sの墓の前に立てば、
多分分かる。複雑なパズルの破片があるべき位置にぴったり収まるよう
に。
放課後、彼女の誘いを断ることが多くなった。彼女は毎回、努めてあっさ
りと諦めてくれはするのだが、私が急につれなくなってしまったことに対
して大分鬱憤が溜まっているようでもあった。私は申し訳ない気がして、
断る際の声が小さくなる。申し訳ないけれど、そうするしかなかったのだ。
そうして彼女の誘いをちょくちょく断り、私が歩いていける範囲の目的地
はある程度踏破した。もちろんそのどこにもSの墓などなかった。本当に
これが正しい方法なのか? 私は焦った。イライラした。でも、まだ墓地
は無数にある。たった数箇所見て回ったくらいで問題が片付くわけがな
い。
私はそう自分に言い聞かせることで、常に危機を凌いでいたのだが、何
故か彼女の方が先にくたびれてしまった。私がまた彼女の誘いを小さな
声で断ったとき、彼女は背中を向けて去ろうとする私を捕まえて言った。
いつもいつもあなたが言ってる「用事」って、一体何なの?
私は答えられなかった。説明するには、順を追って全部話さなければな
らない。それはまだ私の頭の中でうまくまとまっていなかったし、彼女を
含めた他人に話すべきことなのかどうか、という迷いもあった。彼女に捕
まれた腕の痛みを感じながら、私は曖昧な顔をして彼女を見る。
落ち着いたら、問題が解決したら、きっと話すから。私は彼女にそう言っ
た。無遠慮で無作法で理不尽かもしれないけど、私はまだ理由を話すこ
とができないの。私の抱えているこの問題の糸口を掴んだなら、きっと理
由を全部話すから。自分でも驚くくらい真面目に、彼女に向かってそう言
った。
少し間が空いたあと、分かった、と彼女が言う。私を掴んだ手を離す。あ
なたの抱えているその問題が、早く解決されるといいね。無理に作ったよ
うな笑顔をひとつ浮かべて彼女は言った。私は小さく頷いた。彼女は頷き
返し、くるりと私に背を向けて歩き去っていった。
こんなことがあってから、私は前よりも頻繁にあちこちをうろつき回るこ
とになった。別に彼女と約束したから、と少々無理して結論を急いでい
るつもりはないのだが、しかし全く影響を受けてないかというと、そういう
わけでもなさそうだった。……とにかく、と私は思う。
今は言わばまだ過渡期にしか過ぎないのだ。運良く辿り着ければそれで
終わり、というわけではないのだ。これが片付いたなら、彼女に長い話を
しなくてはいけない。場合によっては彼女以外の人間にも、それを話さな
ければならなくなるかもしれない。
私はいつも、今までの出来事を思い返しながら歩いた。イメージの断片。
今度はそれを、一貫性のあるストーリーに組み上げなくてはならない。
Sのこと、私のこと。相当時間がかかるような気がした。でも、さすがに私
が目的地に辿り着く頃までには、恐らくまとまっているだろう。
多分時間はたっぷりある。私が考えることを疎かにしなければ、きっとそ
のときまでには結論は出るだろう。そして彼女に全部話そう。彼女に話し
たあと、また新しい何らかの必要にかられたときは、そうなったらそのあ
とにゆっくり考えればいい。
思い付く限りではこれが最善の方法。しかし言い方を変えれば、もう私は
こうでもするしかなかったのだ。また同じような挫折を重ねる可能性は、
はっきりいって濃厚だった。自分でも何となく分かっていた。いつものこと
ながら、私は起こり得ない奇跡を渇望し過ぎている、と。
それでも私は歩いた。どうして歩き続けたのか、私にもよく分からない。
未だにどこかで奇跡を信じているのか、それとも、少しでも奇跡に近付こ
うと努力した、という証拠だけが必要だったのか……。分からない。でも、
誰しもが大概そんなものなのではないのか? 私のささやかな葛藤とは
全く無関係に、時間は流れた。そしてまた、夏が来る。
私は歩く。いろんなことを考えながら、思い出しながら。そして額の汗を
拭い、遠くで儚く揺らぐ陽炎を見付けて思わず立ち止まり、またこの季
節が来たことを再度実感する。風も吹かない酷暑の中で、幾多の蝉達
の悲壮な鳴き声を聞かされながら、私は急かされるようにして再び歩き
出す。
陽の光は変わらない。あのときと同じ、幾多の「あのとき」と同じ夏の陽
だ。地上にある存在全てを憎んでいるかのように睨め付け、強い熱を
送り、私の心身を焼いた。……私の住んでいる市街地から少し外れた、
山林と田畑と背の高い草に囲まれた、恐ろしく孤独な田舎道の上だっ
た。
至るところが傷み、取って付けたような補修で余計にでこぼこになってし
まっているような、悲惨な田舎道。アスファルトも大概色あせて白っぽく
なっているにもかかわらず、道は太陽から吸収した熱を律儀に空へと送
り返している。
そんな道の果てに、ようやく辿り着いた山の中腹にある墓地で、私はたっ
ぷり四十分もかけて、全部の墓石に刻まれた死者達の名前を調べていっ
た。またSの名前はなかった。疲労感と、ほんの少しの安堵感の間で私は
戸惑い、最後に調べた墓の前で立ち竦んだ。
強い日差しによる熱気と、蝉達のけたたましい鳴き声が相乗して空気を
震わせる以外、動くものは何もなかった。さながら異世界のような風景
に、私は少し呆然とする。自分は今何をやっているのか、何をしにこん
なところまできたのか、ふとした拍子にすっかり忘れてしまいそうになる。
私は大きく息を吐き、バッグの中からペットボトルを取り出して、すっか
り生ぬるくなった烏龍茶を一口飲んだ。大丈夫だ、と私は心の中で言
った。大丈夫、そう言いながら立ち上がった。いつの間にか座り込んで
しまっていたのだ。大丈夫、大丈夫。何でもない、ちょっと歩き疲れただ
けだ……。
一体私は、どれほどの道を歩くことになるのだろう? 分からない。それ
は次の墓地を訪れたら唐突に終わってしまうのかもしれないし、永遠と
も思えるほどの間中、ずっと続くのかもしれないのだ。……そう、まるで
人生のように。
そんなことを考えて、私は少し笑ってしまう。人生のように? じゃあ唐突
に終わってしまったのがSで、永遠に続くのが私なのか? 立ち並んだ墓
石を見やる。心の奥底から否定的な意見が出て来そうになったが、何か
がそれを抑制した。私は深呼吸をひとつして、来た道をまた歩き出す。
夏の午後。酷暑。そして、蝉の声。私の歩いていく道の彼方に、とても大
きな入道雲が見えた。Sは唐突に終わってしまったのではない。恐らく自
らの意思で、恐ろしく手の込んだ自殺を敢行したのだ。私はいまだにそう
思っていた。
今度こそ完全に、別れを告げようと思う。安っぽい、儀式めいた遊びなど
ではなく、完璧に、完膚なきまでに私の中のSを殺してしまおうと思う。客
観的で絶対に揺るがない証拠、墓石に刻まれたその名前を見つけ出せ
れば、きっと私はそうできるはずだ。
私を、私を含む地上の全てを照らし出す陽の光が若干変化した。太陽自
身が分かるか分からないかほどの赤みを帯びてきて、周囲の風景の色彩
も少しずつその変化に同調し、長い夏の陽はようやく、地平に戻る準備を
始めたようだった。様変わりを始めた不細工ででこぼこの道を、私は家に
向かって歩いていった……。
去年の夏、私とSは16歳だった。今年の夏、私は17歳で、Sは16歳のまま
だ。私は日がな照りつける日差しの中を、Sのいなくなってしまった決定的
な証を求めて歩き、Sは焼かれ、小さな容器に収められて、今も光の届か
ない冷たい土の中にいる。
完
最後まで読んでくれた人、保守をしてくれた人、次スレを立ててくれた人、
それから荒らしに見舞われた際に人知れず保全に努めてくれた人、そん
な人達全てに感謝を。途中で重要なヒントをくれた私の親友にも。
この最後の文章まで見てくれた人達へ。本来はもっと早く終わらせる
予定だったのが、完結までに倍以上の時間を要してしまったことをお
詫びしたい。申し開きをすると共に、再度の感謝の意を表明する。あ
りがとう。